太平記(国民文庫)
太平記巻第三十六

○仁木京兆(につきけいてう)参南方事(こと)付(つけたり)大神宮御託宣(ごたくせんの)事(こと) S3601
都には去年の天災(てんさい)・旱魃(かんばつ)・飢饉(ききん)・疫癘(えきれい)、都鄙(とひ)の間に発(おこつ)て、尸骸(しがい)路径(ろけい)に充満(じゆうまん)せし事、只事にあらず、何様改元(かいげん)有(ある)べしとて、延文(えんぶん)六年三月晦日に、康安(かうあん)に改(あらため)られける。其(その)夜四条(しでう)富小路(とみのこうぢ)より火出て、四方(しはう)八十六町まで焼(やけ)失す。改元(かいげん)の始(はじめ)に、洛中(らくちゆう)加様(かやう)に焼(やけ)ぬる事、先(まづ)不吉(ふきつ)の表示(へうじ)也(なり)。此(この)年号不可然と被申人多かりけれ共(ども)、武家既(すで)に宣下を承(うけたまはり)て国々へ施行(しかう)しぬるを、いつしか又改元(かいげん)有(あら)ん条無其例とて、終(つひ)に此(この)年号をぞ被用ける。去(さる)程(ほど)に仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)は、三年が間大敵に取(とり)巻(まか)れて、伊勢の長野の城(じやう)に篭(こも)りたれば、知行の地もなく、兵粮(ひやうらう)乏(とぼし)くなるに付て、憑(たのみ)切たる一族(いちぞく)郎従漸々(ぜんぜん)に落(おち)失(うせ)て、僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)に成(なり)にけり。土岐右馬(うまの)頭(かみ)氏光・外山(とやま)・今峯(いまみね)、兄弟三人(さんにん)、始(はじめ)は仁木に属(しよく)して城に篭(こも)りたりけるが、弟の外山・今峯は、忽(たちまち)に翻(ひるがへつ)て寄手(よせて)に加(くはは)り、兄の右馬(うまの)頭(かみ)は、猶(なほ)城(じやう)に留て仁木が方にぞ居たりける。連枝(れんし)の間なれば、外山・今峯、何(いか)にもして右馬(うまの)頭(かみ)を助(たすけ)ばやと思(おもひ)て、潜(ひそか)に人を遣(つかは)し、「城のさのみ弱り候はぬ先に、急ぎ御降参候へ。将軍の御意も無子細候へば、御本領なども相違有(ある)まじきにて候。」と、申遣(まうしつかは)したりければ、右馬(うまの)頭(かみ)使に向て、兔角(とかく)の返事をばせで、其(その)文を引返(ひつかへし)て、一首(いつしゆ)の歌を書(かき)てぞ返しける。連(つらな)りし枝の木葉(このは)の散々(ちりぢり)にさそふ嵐の音さへぞうき外山・今峯此(この)返事を見て、是(これ)程(ほど)に思(おもひ)切たる人なれば、語(かたら)ふ共甲斐(かひ)あるまじ。げにも連枝の兄弟散々(ちりぢり)に成て後、憂世(うきよ)を秋の霜の下に朽(くち)なん名こそ悲(かなし)けれと、泪(なみだ)ぐみけるぞ哀なる。日に随て勢の落(おち)行(ゆく)気色を見て、我(わが)力にては遂(つひ)に可叶とも不思けるにや、義長(よしなが)潜(ひそか)に吉野殿(よしのどの)へ使者を進じて、御方に可参由をぞ申入(まうしいれ)たりける。伝奏(てんそう)吉田(よしだの)中納言(ちゆうなごん)宗房(むねふさ)卿(きやう)、参内して事の由を被奏聞けるに、諸卿異儀多しといへ共、義長(よしなが)御方(みかた)に参りなば、伊賀・伊勢両国、官軍(くわんぐん)に属(しよく)するのみならず、伊勢の国司顕能(あきよし)卿(きやう)の城(じやう)も、心安(こころやす)く成(なり)ぬべしとて、則(すなはち)勅免の綸旨をぞ被成ける。是(これ)を承(うけたまはり)て、武者所(むしやどころ)に候(さうらひ)ける者共(ものども)が囁(ささや)き申けるは、「近年源氏の氏族の中に、御方(みかた)に参ずる人々を見るに、何(いづ)れも以詐君を欺(あざむき)申さずと云(いふ)者なし。先(まづ)錦小路慧源(にしきのこうぢゑげん)禅門は、相伝譜代の家人師直・師泰等(もろやすら)が害を遁(のがれ)ん為に、御方に参りしか共、当方の力を仮(かつ)て、会稽(くわいけい)の恥を雪(すすぎ)たりし後、一日も更(さら)に天恩を重(おも)しとせず、其譴(そのせめ)身に留て遂(つひ)に毒害せられにき。其(その)後又宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)、御方に可参由を申て、君臣御合体(ごがつてい)の由なりしも、何(いつし)か天下を君の御成敗に任(まか)せたりし堅約(けんやく)忽(たちまち)に破(やぶれ)て、義詮江州(がうしう)を差(さし)て落(おち)たりしは、其偽(そのいつはり)の果(はたす)所に非(あら)ずや。又右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)・石堂刑部卿頼房・山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏等(ときうぢら)が、御方の由なるも、都(すべ)て実(まこと)共(とも)不覚(おぼえず)。推量するに、只勅命を借(かつ)て私の本意を達せば、君をば御位に即進(つけまゐら)する共、天下をば我侭(わがまま)にすべき者をと、心中に挟(さしはさむ)者也(なり)。今又仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)、大敵に囲(かこま)れたるが難堪さに、御方に参(さんずる)由を申(まうす)を、諸卿許容し給(たまふ)こそ心得(こころえ)ね。彼が平生(へいぜい)の振舞(ふるまひ)悪(あく)として不造云(いふ)事なし。聊(いささか)も心に逆ふ時は、無咎人を殺(ころし)て誤(あやま)れりとも不思、気に合(あふ)時(とき)は、無忠賞を与(あたへ)て忽(たちまち)に是(これ)を取返す。先(まづ)多年の芳恩を忘(わすれ)て、義詮朝臣(よしあきらあつそん)を背(そむ)く程の者なれば、君の御為に深く忠義を可存や。七箇国(しちかこく)の管領を、尚(なほ)あきたらず思(おもひ)し程の心なれば、此方の五箇国(ごかこく)・三箇国(さんかこく)の恩賞を、不足なしと可思や。若(もし)又彼(かれ)が如所存恩賞を被行、日本(につぽん)六十六(ろくじふろく)箇国(かこく)に一所も残(のこる)処不可有。多年旧功(きうこう)の官軍共(くわんぐんども)、何(いづ)れの所にか身を可置。倩(つらつら)是(これ)を思(おもふ)に、非忠臣非智臣、仏神に被捨進(まゐら)せ、人望に背(そむい)て自滅せんとする悪人を、御方に被成たらば、豈(あに)聖運の助ならんや。只虎を養て自(みづから)患(うれひ)を招く風情(ふぜい)なるべき者を。」と申ければ、又傍(かたはら)に仁木を引(ひく)者やと覚(おぼ)しくて申けるは、「此(この)人悪(わろ)き事はさる事なれ共(ども)、又直人(ただびと)とは不覚(おぼえず)。鎌倉(かまくら)にては鶴岡(つるがをか)の八幡宮にて、児(ちご)を切(きり)殺して神殿に血を淋(そそ)き、八幡(やはた)にては、駒方(こまがた)の神人(じんにん)を殺害(せつがい)して若干(そくばく)の神訴(しんそ)を負(お)ふ。尋常(よのつね)の人にて是(これ)程の悪行をしたらんに、暫(しばら)くも安穏(あんをん)なる事や候べき。仙輿(せんよ)国王の五百人(ごひやくにん)を殺し、斑足(はんぞく)太子(たいし)の一千(いつせん)の王を害せしも、皆権者(ごんじや)の所変(しよへん)とこそ承(うけたまは)れ。是(これ)も只(ただ)人を贔屓(ひいき)して申(まうす)に非(あら)ず。人の語り伝へし事の耳に留(とどまり)て候間申(まうす)にて候也(なり)。近年此(この)人伊勢(いせの)国(くに)を管領して、在国(ざいこく)したりしに、前々更(さら)に公家武家手を不指神三郡(かみさんぐん)に打入て、大神宮の御領(ごりやう)を押領(あふりやう)す。依之(これによつて)祭主(さいしゆ)・神官等(じんぐわんら)京都に上て、公家に奏聞し武家に触訴(ふれうつた)ふ。開闢(かいびやく)以来未(いまだ)斯(かか)る不思議(ふしぎ)やあるとて、厳密(げんみつ)の綸旨(りんし)御教書(みげうしよ)を被成しか共、義長(よしなが)曾(かつて)不承引。剰(あまつさへ)我を訴訟(そしよう)しつるが悪(にく)きとて、五十鈴川をせいて魚を捕(と)り、神路山(かみぢやま)に入て鷹を仕(つか)ふ。悪行日来(ひごろ)に重畳(ぢゆうでふ)せり。よしやさらば神罰に任(まかせ)て亡(ほろび)んを待(まて)とて、五百(ごひやく)余人(よにん)の神官等(じんぐわんら)榊の朶(えだ)に木綿(しで)を懸(かけ)、様々の奉幣(ほうへい)を捧(ささげ)て、只義長(よしなが)を七(しち)箇日(かにち)の内に蹴殺させ給へと、異口同音(いくどうおん)にぞ呪咀(じゆそ)しける。七日に当りける日、十歳許(ばかり)なる童部(わらんべ)一人、俄(にはか)に物に狂(くるう)て、「我に大神宮乗居(のりゐ)させ給へり。」とて、託宣(たくせん)しけるは、「我本学覚如(ほんがくしんによ)の都を出て、和光同塵の跡(あと)を垂(たれ)しより以来(このかた)、本高跡下(ほんかうしやくげ)の秋の月不照云(いふ)処もなく、化属結縁(けぞくけちえん)の春(はる)の華不薫云(いふ)袖もなし。去(され)ば方便の門には罪有(ある)をも不嫌、利物(りもつ)の所には愚(おろか)なるをも不捨。抑(そもそも)義長(よしなが)が悪行を汝等(なんぢら)天に訴(うつたへ)て呪咀する事こそ心得(こころえ)ね。彼が三生の前に義長(ぎちやう)法師と云(いひ)し時、五部(ごぶ)の大乗経を書て此(この)国(くに)に納(をさ)めたりき。其(その)善根今生に答(こたへ)て当国を知行する事を得たり。加様(かやう)の宿善ならずは彼(かれ)豈(あに)一日も安穏(あんをん)なる事を得んや。嗚呼(ああ)あたら善根や。若(もし)無上菩提の心に趣て、此(この)経を書(かき)たらましかば、速(すみやか)に離生死至仏果菩提なまし。只(ただ)名聞利養(みやうもんりやう)の為に、修せし処の善根なれば、今身は武名の家に生(うま)れて、諸国を管領し、眷属(けんぞく)多くたなびくといへ共、悪行心に染(そみ)て、乱を好み人を悩(なやま)す。哀なる哉、過去の善根此(この)世に答(こたへ)て、今生の悪業(あくごふ)又未来に酬(むく)はん事を。」とかきくどきて泣(なき)けるが、暫(しばらく)寝入たる体にて物付(ものつき)は則(すなはち)覚(さめ)にけり。加様(かやう)の事を以て思(おもふ)時(とき)は、義長(よしなが)も故ある人とこそ覚へ候へ。」と申ければ、初(はじめ)譏(そしり)つる者共(ものども)、「其(そ)れは不知、於悪行は天下第一(だいいち)の僻者(くせもの)ぞ。」と終夜(よもすがら)語て、明(あく)れば朝(てう)よりぞ退(しりぞき)てける。
○大地震並(ならびに)夏雪(なつゆきの)事(こと) S3602
同年の六月十八日の巳(みの)刻(こく)より同(おなじき)十月に至るまで、大地をびたゝ敷(しく)動(うごい)て、日々夜々に止(やむ)時(とき)なし。山は崩(くづれ)て谷を埋(うづ)み、海は傾(かたむい)て陸(くが)地に成(なり)しかば、神社仏閣倒(たふ)れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知(しらず)。都(すべ)て山川・江河・林野・村落(そんらく)此(この)災に不合云(いふ)所なし。中にも阿波(あは)の雪(ゆき)の湊(みなと)と云(いふ)浦(うら)には、俄(にはか)に太山の如(ごとく)なる潮(うしほ)漲(みなぎり)来て、在家一千七百(いつせんしちひやく)余宇(よう)、悉(ことごと)く引塩(ひきしほ)に連(つれ)て海底に沈(しづみ)しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑(もくづ)と成(なり)にけり。是(これ)をこそ希代(きたい)の不思議(ふしぎ)と見る処に、同六月二十二日、俄(にはか)に天掻曇(かきくもり)雪降(ふつ)て、氷寒(ひようかん)の甚き事冬至の前後の如し。酒を飲(のみ)て身を暖め火を焼(たき)炉(ゐるり)を囲む人は、自(みづから)寒を防(ふせ)ぐ便りもあり、山路(さんろ)の樵夫(せうふ)、野径(やけい)の旅人(りよじん)、牧馬(ぼくば)、林鹿(りんろく)悉(ことごとく)氷に被閉雪に臥(ふし)て、凍(こご)へ死(しす)る者数を不知(しらず)。七月二十四日には、摂津国(つのくに)難波(なんばの)浦(うら)の澳(おき)数百町、半時許(ばかり)乾(ひ)あがりて、無量の魚共沙(すな)の上に吻(いきづき)ける程に、傍(あたり)の浦の海人共、網を巻(まき)釣(つり)を捨(すて)て、我劣(おとら)じと拾(ひろひ)ける処に、又俄(にはか)に如大山なる潮(うしほ)満(みち)来て、漫々(まんまん)たる海に成(なり)にければ、数百人(すひやくにん)の海人(あま)共(ども)、独(ひとり)も生きて帰(かへる)は無りけり。又阿波(あはの)鳴戸(なると)俄(にはかに)潮(うしほ)去て陸(くが)と成る。高く峙(そばたち)たる岩の上に、筒のまはり二十尋(にじふひろ)許(ばかり)なる大皷(たいこ)の、銀のびやうを打て、面には巴(ともゑ)をかき、台には八竜を拏(ひこづら)はせたるが顕(あらはれ)出たり。暫(しばし)は見(みる)人是(これ)を懼(おぢ)て不近付。三四日を経(へ)て後、近き傍(あたり)の浦人共数百人(すひやくにん)集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張(はつ)たりける。尋常(よのつね)の撥(ばち)にて打たば鳴(なら)じとて、大なる鐘木(しゆもく)を拵(こしらへ)て、大鐘(おほがね)を撞(つく)様につきたりける。此(この)大皷(たいこ)天に響き地を動(うごか)して、三時許(ばかり)ぞ鳴(なつ)たりける。山崩(くづれ)て谷に答へ、潮(うしほ)涌(わい)て天に漲(みなぎ)りければ、数百人(すひやくにん)の浦人共、只今(ただいま)大地の底へ引(ひき)入(いれ)らるゝ心地して、肝魂(きもたましひ)も身に不副、倒るゝ共なく走(はしる)共(とも)なく四角(しかく)八方(はつぱう)へぞ逃(にげ)散(ちり)ける。其(その)後よりは弥(いよいよ)近付(ちかづく)人無(なか)りければ、天にや上りけん、又海中へや入(いり)けん、潮(うしほ)は如元満(みち)て、大皷(たいこ)は不見成(なり)にけり。又八月二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈(はげし)く吹て、虚空(こくう)暫(しばらく)掻(かき)くれて見へけるが、難波浦の澳(おき)より、大龍二(ふたつ)浮出て、天王寺(てんわうじ)の金堂(こんだう)の中へ入ると見(みえ)けるが、雲の中に鏑矢(かぶらや)鳴(なり)響(ひびき)て、戈(ほこ)の光四方(しはう)にひらめきて、大龍と四天と戦ふ体(てい)にぞ見へたりける。二(ふたつ)の竜去る時、又大地震(おびたたし)く動(うごい)て、金堂(こんだう)微塵(みぢん)に砕(くだけ)にけり。され共四天は少しも損(そん)ぜさせ給はず。是(これ)は何様(いかさま)聖徳太子(しやうとくたいし)御安置(ごあんぢ)の仏舎利(ぶつしやり)、此(この)堂(だう)に御坐(おはしませ)ば、竜王是(これ)を取(とり)奉らんとするを、仏法護持の四天王(してんわう)、惜(をし)ませ給(たまひ)けるかと覚へたり。洛中(らくちゆう)辺土(へんど)には、傾(かたぶか)ぬ塔の九輪(くりん)もなく、熊野参詣の道には、地の裂(さけ)ぬ所も無(なか)りけり。旧記の載(のす)る所、開闢(かいびやく)以来(よりこのかた)斯(かか)る不思議(ふしぎ)なければ、此(この)上に又何(いか)様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐(おぢおそ)れぬ人は更(さら)になし。
○天王寺(てんわうじ)造営(ざうえいの)事(こと)付(つけたり)京都御祈祷(ごきたうの)事(こと) S3603
南方には此(この)大地震に、諸国七道の大伽藍共の破たる体(てい)を聞(きく)に、天王寺(てんわうじ)の金堂(こんだう)程崩れたる堂舎はなく、紀州の山々程裂(さけ)たる地もなければ、是(これ)外の表事(へうじ)には非(あら)じと御慎(おんつつしみ)有て、様々の御祈(おんいのり)共(ども)を始(はじめ)らる。則(すなはち)般若寺(はんにやじ)円海(ゑんかい)上人勅(ちよく)を承(うけたまはり)て、天王寺(てんわうじ)の金堂(こんだう)を作られけるに、希代(きたい)の奇特(きどく)共(ども)多かりけり。先(まづ)大廈(たいか)高堂の構(かまへ)なれば、安芸・周防・紀伊(きいの)国(くに)の杣山(そまやま)より、大木(たいぼく)を取(とら)んずる事、一二年の間には難道行覚へけるに、二人(ににん)して抱(いだ)き廻(まは)す程なる桧木(ひのき)の柱、六七丈なるかぶき三百本、何(いづ)くより来る共不知、難波の浦に流(ながれ)寄(より)て、塩の干潟(ひがた)にぞ留(とどま)りける。暫(しばら)くは主ある材木にてぞ在(ある)らんと、尋(たづね)くる人を待(また)れけれ共求(もとめ)くる人も無(なか)りければ、さては天竜八部(てんりゆうはちぶ)の人力を助(たすけ)給(たまふ)にてぞ有(ある)らんとて、虹(こう)の梁(うつばり)・鳳(ほう)の甍(いらか)、品々(しなじな)に是(これ)をぞ用ひける。又柱立已(すで)に訖(をはり)、棟木(むなぎ)を揚(あげ)んとしけるに、■巻(くるまき)の縄に信濃皮(しなのかは)むき千束(せんぞく)入(いる)べしと、番匠(ばんじやう)麁色(そしき)を出せり。輙(たやす)く可尋出物ならねば、上人信濃(しなのの)国(くに)へ下て便宜の人に勧進(くわんじん)せんと企(くはたて)給(たまひ)ける処に、難波堀江の汀(みぎは)に死蛇(しじや)の如くなる物流(ながれ)寄(より)たり。何(なに)やらんと近付(ちかづき)見れば、信濃皮むきにて打たる大綱(おほづな)、太(ふと)さ二尺(にしやく)長さ三十丈(さんじふぢやう)なるが十六(じふろく)筋(すぢ)まで、水(みづの)泡(あわ)に連(つらなつ)てぞ寄(より)たりける。上人不斜(なのめならず)悦(よろこび)て、軈(やが)てくるまきの綱(つな)に用ひらる。是(これ)第一(だいいち)の奇特(きどく)也(なり)とて、所用(しよよう)の後は、此(この)綱を宝蔵にぞ収(をさ)め給ひける。又三百(さんびやく)余人(よにん)有(あり)ける番匠(ばんじやう)の中に、肉食を止め酒を飲(のま)ぬ番匠あまたあり。上人怪(あやし)く思(おもひ)給ひて是(これ)がする業(わざ)を見給(たまふ)に、一人のする業(わざ)、余(よ)の番匠十人(じふにん)にも過(すぎ)たり。さればこそ直(ただ)人にては無(なか)りけれと、弥(いよいよ)怪(あやし)く覚(おぼ)して、日暮(くれ)て帰るを見送り給へば、何(いづ)くへ行(ゆく)共(とも)不見、かき消す様に失(うせ)にけり。其(その)数二十八人(にじふはちにん)有(あり)つるは、何様(いかさま)千手観音の御眷属(けんぞく)、二十八部衆にてぞ御坐(おは)すらんと、皆人信仰(しんがう)の手を合(あは)す。されば造営日あらずして奇麗(きれい)金銀を鏤(ちりばめ)たり。霊仏の威光、上人の陰徳(いんとく)、函蓋(かんかい)共(ども)に相応(さうおう)して、奇特(きどく)なりし事共(ことども)也(なり)。都には東寺の金堂(こんだう)一尺(いつしやく)二寸(にすん)南へのきて、高祖(かうそ)弘法(こうぼふ)大師(だいし)南天へ飛(とび)去(さら)せ給(たまひ)ぬと、寺僧の夢に見(みえ)ければ、洛中(らくちゆう)の御慎(おんつつしみ)たるべしとて、青蓮院(しやうれんゐん)の尊道法親王(ほふしんわう)に被仰、伴僧(ばんそう)二十口(にじつく)八月十三日(じふさんにち)より内裏に伺候(さふらひ)して、大熾盛光(だいしじやうくわう)の法を行(おこなは)る。聖護院(しやうごゐん)覚誉(かくよ)親王(しんわう)は、二間(ふたま)に御参(おんまゐり)有て、九月八日より一七日、尊星王(そんしやうわう)の法をぞ修せられける。是(これ)のみならず、近年絶(たえ)て無(なか)りつる最勝講(さいしようかう)を行(おこなは)る。初日(しよにち)は問者(もんじや)叡山(えいさん)の尋源(じんげん)・東大寺(とうだいじ)の深慧(しんゑ)、講師には、興福寺(こうぶくじ)の盛深(じやうじん)・同寺の範忠(はんちゆう)、第二日の問者は、東大寺(とうだいじ)の経弁(けいべん)・同良懐(りやうくわい)、講師は興福寺(こうぶくじ)の実遍(じつべん)・山門の慈俊(じしゆん)、第三日の問者は、興福寺(こうぶくじ)の円守・山門の円俊、講師は、三井寺(みゐでら)の経深(けいじん)・興福寺(こうぶくじ)の覚成(かくせい)、第四日の問者は、興福寺(こうぶくじ)の孝憲(けうけん)・同寺の覚家(かくげ)、講師は、叡山(えいさん)の良憲(りやうけん)・三井寺(みゐでら)の房深(ばうじん)、結日(けつにち)の問者は、東大寺(とうだいじ)の義実(ぎじつ)・興福寺(こうぶくじの)教快(けうくわい)講師は、山門(さんもんの)良寿(りやうじゆ)・興福寺(こうぶくじの)実縁(じつえん)、証義(しようぎ)は、大乗院の前(さきの)大僧正(だいそうじやう)孝学(かうがく)・尊勝院の慈能(じのう)僧正(そうじやう)にてぞ御坐(おはし)ける。講問朝夕(てうせき)に坐(ざ)を替(かへ)て、学海に玉を拾へる論談を決択(けつたく)して詞(ことば)の林に花開(さ)く。富楼那(ふるな)の弁舌(べんぜつ)、文殊(もんじゆ)の智恵も、角(かく)やと覚(おぼゆ)る許(ばかり)也(なり)。
○山名伊豆(いづの)守(かみ)落美作城事(こと)付(つけたり)菊池(きくち)軍(いくさの)事(こと) S3604
斯(かか)る処に、七月十二日山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・嫡子右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師義(もろよし)・次男中務(なかつかさの)大輔(たいふ)、出雲・伯耆・因播、三箇国(さんかこく)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して美作へ発向(はつかう)す。当国の守護(しゆご)赤松筑前入道世貞(せいてい)、播州に在て未戦(いまだたたかはざる)前(さき)に、広戸掃部(ひろとかもんの)助(すけ)が、名木(なぎ)杣二箇処(にかしよの)城(じやう)、飯田(いひだ)の一族(いちぞく)が篭(こもつ)たる篠向(ささむき)の城(じやう)、菅家(くわんけ)の一族(いちぞく)の大見丈(たいけんぢやう)の城(じやう)、有元(ありもと)民部(みんぶの)大夫入道(たいふにふだう)が菩提寺(ぼだいじ)の城(じやう)、小原(をはら)孫次郎入道が小原の城(じやう)、大野の一族(いちぞく)が篭(こも)りたる大野(おほのの)城(じやう)、六箇所(ろくかしよ)の城(じやう)は、一矢(ひとや)をも不射降参す。林野(はやしの)・妙見(めうけん)二(ふたつ)の城(じやう)は、二十日余(あま)り怺(こらへ)たりけるが、山名に兔角(とかく)すかされて、遂(つひ)には是(これ)も敵になる。今は倉懸(くらかけ)の城(じやう)一(ひとつ)残て、佐用(さよ)美濃(みのの)守(かみ)貞久・有元(ありもと)和泉(いづみの)守(かみ)佐久(すけひさ)、僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)にて楯篭(たてこも)りたりけるを、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・子息中務(なかつかさの)少輔(せう)三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄せ、城の四方(しはう)の山々峯々二十三箇所(にじふさんかしよ)に陣を取て、鹿垣(ししがき)を二重三重(ふたへみへ)に結(ゆ)ひ廻(まは)し、逆木(さかもぎ)しげく引懸(ひきかけ)て、矢懸(やがか)り近くぞ攻(せめ)たりける。播磨と美作との堺(さかひ)には、竹山・千草(ちくさ)・吉野・石堂(いしたう)が峯、四箇所(しかしよ)の城(じやう)を構(かまへ)て、赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐、百騎(ひやくき)づゝの勢を篭(こめ)たりける。山名が執事小林民部(みんぶの)丞(じよう)重長(しげなが)、二千(にせん)余騎(よき)にて星祭(ほしまつり)の岳(だけ)へ打上り、城を目の下に直下(みおろ)して、透間(すきま)もあらば打蒐(かか)らんと、馬の腹帯(はるび)を堅めて引(ひか)へたり。赤松筑前入道世貞(せいてい)・舎弟(しやてい)律師(りつし)則祐・其(その)弟弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範(うぢのり)・大夫判官(たいふのはうぐわん)光範・宮内(くないの)少輔(せう)師範・掃部(かもんの)助(すけ)直頼(なほより)・筑前(ちくぜんの)五郎顕範(あきのり)・佐用(さよ)・上月(かうづき)・真島(ましま)・杉原の一族(いちぞく)相集て二千(にせん)余騎(よき)、高倉山の麓に陣を取て、敵倉懸(くらかけ)の城(じやう)を攻(せめ)ば弊(つひえ)に乗て後攻(ごづめ)をせんと企(くはた)つと聞へければ、山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師義、勝(すぐ)れたる兵八百(はつぴやく)余騎(よき)を卒(そつ)して、敵の近付(ちかづか)ん所へ懸合(かけあは)せんと、浮勢(うきぜい)に成て引(ひか)へたり。赤松は右衛門(うゑもんの)佐(すけ)小勢也(なり)と聞て、先(まづ)此(この)敵を打散(うちちら)さんと打立(うちたち)ける処に、阿保(あふ)肥前(ひぜんの)入道(にふだう)信禅(しんぜん)、俄(にはか)に敵に成て但馬(たぢまの)国(くに)へ馳(はせ)越(こえ)、長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもん)と引合て播磨へ打て入(いら)んと企(くはたて)ける間、赤松、「さらば東(ひんがしの)方(かた)に城郭(じやうくわく)を構へ、路々に警固の兵を置け。」とて、法花(ほつけ)山に城を構へ、大山越(だいせんごえ)の道を切(きり)塞(ふさい)で、五箇所(ごかしよ)へ勢をぞ差向(さしむけ)ける。依之(これによつて)進んで山名に戦(たたかは)んとするも勢少く、退(しりぞい)て但馬へ向はんとするも不叶。進退歩(あゆみ)を失(うしなつ)て前後の敵に迷惑す。さらば中国の大将細河右馬(うまの)頭(かみ)頼旨(よりむね)、讃岐(さぬきの)国(くに)の守護(しゆご)を相論(さうろん)して、四国(しこく)にをはするに触(ふれ)送て其(その)勢を呼(よび)越(おこ)し、備前・備中・備後、当国四箇国(しかこく)の勢を以て、倉懸(くらかけ)の城(じやう)の後攻(ごづめ)をせよとて、事の子細を牒送(てふそう)するに、右馬(うまの)頭(かみ)大に驚(おどろい)て、九月十日備前へ押渡(おしわたり)て後陣(ごぢん)の勢を待(まち)けるに、相順(あひしたが)ふ四箇国(しかこく)の兵共(つはものども)、己(おの)が国々の私戦(わたくしたたかひ)を捨(すて)かねて、大将に不属。備前・備中・備後三箇国(さんかこく)の勢(せい)は、皆野心を含(ふく)める者共(ものども)なれば、非可憑とて、大将唐河(からかは)に陣を取り、徒(いたづら)に月日をぞ被送ける。去(さる)程(ほど)に倉懸の城(じやう)には人多(おほく)して兵粮少(すくな)かりければ、戦ふ度に軍(いくさ)利(り)有(あり)といへ共、後攻(ごづめ)の憑(たのみ)もなく、食尽(つき)矢種(やだね)尽(つき)ければ、無力十一月四日遂(つひ)に城を落(おち)にけり。是(これ)より山名山陰道(せんおんだう)四箇国(しかこく)を合(あは)せて勢弥(いよいよ)近国に振(ふるふ)のみに非(あら)ず、諸国の聞へをびたゝしかりければ、世中(よのなか)如何(いかが)あらんと危(あやふ)く思はぬ人も無(なか)りけり。又筑紫には去ぬる七月(しちぐわつの)初に、征西将軍(しやうぐんの)宮(みや)、新田の一族(いちぞく)二千(にせん)余騎(よき)、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光三千(さんぜん)余騎(よき)、博多に打て出て香椎(かしひ)に陣を取(とる)と聞へしかば、勢の著(つか)ぬさきに追(おひ)落せとて、大伴(おほとも)刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)七千(しちせん)余騎(よき)・太宰(だざいの)小弐(せうに)五千(ごせん)余騎(よき)・宗像(むなかた)大宮司(だいぐうじ)八百(はつぴやく)余騎(よき)・紀井(きゐの)常陸(ひたちの)前司(ぜんじ)三百(さんびやく)余騎(よき)、都合二万五千(にまんごせん)余騎(よき)の勢、一手(ひとて)に成て大手へ向ふ。上松浦(かみまつら)・下(しも)松浦の一党、両勢の兵三千(さんぜん)余騎(よき)は、飯守(いひもり)山に打(うち)上(あがり)て敵の後(うしろ)へぞ廻(まは)りける。寄手(よせて)は目に余る程の大勢にて、而(しか)も敵を取(とり)巻(まき)たり。宮方(みやがた)は対揚(たいやう)までもなき小勢にて、而(しか)も平場(ひらば)を陣に取(とり)たりけれ共(ども)、菊池(きくち)が気分元来(もとより)大敵を拉(とりひしぐ)心(こころ)ね也(なり)ければ敢(あへ)て事ともせざりけり。両陣の間(あはひ)僅(わづか)に二十(にじふ)余町(よちやう)を阻(へだて)たれば、数日(すじつ)互(たがひ)に馬の腹帯(はるび)を堅(かた)め、鎧の高紐(ひぼ)を弛(はづ)さで、懸(かか)りてや責(せむ)る、待(まち)てや闘(たたか)ふと、隙(ひま)を伺(うかが)ひ気をためらいて、徒(いたづら)に両月をぞ送りける。菊池(きくち)が家の子城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)は、謀(はかりこと)ある者なりければ、山臥(やまぶし)・禅僧・遁世者(とんせいしや)なんどを、忍々(しのびしのび)に松浦が陣へ遣(つかは)して、其(その)陣の人々の中に、「たれがしは御方(みかた)へ内通の事あり、何(なに)がしは後矢(うしろや)射て降参すべき由を申候ぞ。野心の者共(ものども)に心を置(おか)で、犬死し給ふな。」なんど、様々(さまざま)にぞ申遣(まうしつかは)しける。是(これ)を聞て去(さる)事や可有と乍思、今時の人の心、又あるまじき事にてもなしと、互(たがひ)に心置(おき)合(あひ)て危(あや)ぶまぬ人も無(なか)りけり。其(その)後少し程経(へ)て、八月六日の暁、城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)千(せん)余騎(よき)の勢にて飯守(いひもり)山に押(おし)寄(よせ)、楯(たて)の板を敲(たたい)て時をどつと作る。松浦党元来大勢也(なり)。城よかりければ、此(この)敵に可被落様は無(なか)りけるを、城中(じやうちゆう)に敵の内通の者多しと、敵の謀(はかつ)て告(つげ)たりしを誠と心得(こころえ)て、「御方(みかた)に討(うた)るな、目を賦(くば)れ。」と云(いふ)程こそ有(あり)けれ、我先にと落(おち)ける間、寄手(よせて)勝(かつ)に乗て追懸(おつかけ)々々(おつかけ)是(これ)を討(うつ)。夜明たりせば一人も助るべしとは不見けり。乍敵手痛からんずると思(おもひ)つる松浦党をば、城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)が謀(はかりこと)にて輙(たやす)く責(せめ)落(おと)しぬ。小弐(せうに)・大友(おほとも)を打(うち)散(ちら)さん事は指掌よりも可輙とて、菊池(きくち)、宮の御勢(おんせい)と一手(ひとて)に成て五千(ごせん)余騎(よき)、明(あく)る七日午刻(むまのこく)に香椎(かしひ)の陣へ押(おし)寄(よす)る。松浦党昨日搦手(からめて)の軍に打負(うちまけ)ぬと聞(きき)しより、哀(あはれ)引(ひか)ばやと思(おもふ)小弐(せうに)・大友(おほとも)が勢共(せいども)なれば、何(なじ)かは一積(ひとたまり)も積(たま)るべき。鞭(むち)に鐙(あぶみ)を合(あは)せて我先にと落(おち)て行(ゆく)。道も不去得脱(ぬぎ)捨(すて)たる物具弓矢に目を懸(かけ)ずは、一日路(いちにちぢ)余(あま)り追(おは)れつる大手二万(にまん)余騎(よき)は、半(なかば)も生(いき)て本国へ可帰とは不見けり。
○秀詮(ひであきら)兄弟討死(うちじにの)事(こと) S3605
又同年の九月二十八日(にじふはちにち)、摂津国(つのくに)に不慮(ふりよ)の事出来て、京勢(きやうぜい)若干(そくばく)討(うた)れにけり。事の起(おこり)を尋(たづ)ぬれば、当国の守護職(しゆごしよく)をば、故赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)、無二の忠戦に依て将軍より給(たまは)りたりしを、範資死去(しきよの)後、嫡子大夫判官(たいふのはうぐわん)光範(みつのり)相続して是(これ)を拝領す。而(しか)るを去年宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)、五畿七道(ごきしちだう)の勢を卒(そつ)して、南方を被責時、光範が軍用の沙汰、毎年不足也(なり)と、将軍近習の輩(ともがら)共(ども)つぶやきけるを、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)、能次(よきつい)でとや思(おもひ)けん、南方の軍散(さん)じて後、光範差(さし)たる咎(とが)もなきに、摂津国(つのくに)の守護職(しゆごしよく)を可被召放由を申(まうし)て、則(すなはち)我(わが)恩賞にぞ申給(たまは)りける。光範は今度の軍用と云(いひ)、合戦と云(いひ)、忠烈人に超(こえ)たりと思(おもひ)ければ、定(さだめ)て抜群(ばつくん)の恩賞をぞ給(たまは)らんずらんと思(おもひ)ける処に、夫(それ)こそ無(なか)らめ、結句二代の忠功を被処無に、多年管領(くわんりやう)の守護職(しゆごしよく)を被改替ければ、含憤残恨といへ共、上裁(じやうさい)なれば不及力、謹(つつしん)で訴詔(そしよう)をし居たりける。和田・楠是(これ)を聞て、能(よ)き時分也(なり)と思(おもひ)ければ、五百(ごひやく)余騎(よき)を卒(そつ)して、渡辺の橋を打渡り、天神の森に陣を取る。佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)が嫡孫(ちやくそん)、近江(あふみの)判官(はうぐわん)秀詮(ひであきら)・舎弟(しやてい)次郎左衛門(じらうざゑもん)、兼(かね)て在国したりければ、千(せん)余騎(よき)にて馳(はせ)向ひ、神崎(かんざき)の橋を阻(へだて)て防(ふせぎ)戦(たたかは)んと議(ぎ)しけるを、守護代(しゆごだい)吉田肥前房厳覚(ひぜんばうげんかく)、「何条(なんでう)さる事や候べき。近年赤松大夫判官(たいふのはうぐわん)、当国の守護(しゆご)にて乍有、動(ややもす)れば和田・楠等(くすのきら)に境内(きやうない)を犯奪(をかしうばは)れんとする事、未練(みれん)の至(いたり)也(なり)とて、申給(たまは)らせ給ひける守護職(しゆごしよく)にて候に、敵の国を退治(たいぢ)するまでこそ無(なか)らめ、当国に打越(うちこえ)たる敵を、一人も生(いけ)て返したらんは、赤松に被笑のみに非(あら)ず、京都の聞へも不可然。厳覚命を軽(かろん)ずる程ならば、一族(いちぞく)他門の兵共(つはものども)、誰か見放(みはな)つ者候べき。恩賞ほしくはつゞけや人々。」と、広言(くわうげん)吐(はい)て、厳覚真前(まつさき)に神崎(かんざき)の橋を打渡れば、後陣(ごぢん)の勢一千(いつせん)余騎(よき)も、続(つづい)て河を越したりける。爰(ここ)にて敵の分際(ぶんさい)を問ふに、「楠は未(いまだ)河を不越、和田が勢許(ばかり)僅(わづか)に五百騎(ごひやくき)にも不足見へて候。」と牛飼童部(うしかひわらんべ)共(ども)の語りければ、吉田肥前(ひぜん)から/\と笑(わらう)て、「哀(あはれ)甘身(あさまし)や、敵の種(たね)をば此(ここ)にて尽(つく)さすべし。同(おなじく)は楠をも河を越させて打殺せ。」とて、最(いと)閑(しづか)に馬を飼(かう)てのさ/\としてぞ居たりける。和田・楠是(これ)を見澄(みすま)して、河より西へ下部(しもべ)を四五人(しごにん)遣(つかは)して、「南方の御敵(おんてき)は西より被寄候ぞ。神崎(かんざき)の橋爪(はしづめ)を支(ささへ)させ給へ。」とぞ呼(よば)はらせける。佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)是(これ)を聞て、「敵さては差違(さしちがう)て迹(あと)より寄(よせ)けり。取て返して戦へ。」とて両方深田(ふかだ)なる道一(ひとつ)を一面に打(うち)並(ならべ)て、本の橋爪へと馬を西頭(にしがしら)に成(な)して歩(あゆ)ませ行(ゆく)処に、楠が足軽の野伏三百人(さんびやくにん)両方の深田へ立渡て、鏃(やじり)を支(ささ)へ散々(さんざん)に射る。両方は深田にて馬の足も不立、迹(あと)より返して広みにて戦へと、先陣の勢に制(せい)せられて、後陣(ごぢん)より返さんとする処に、和田・楠・橋本・福塚(ふくづか)、五百(ごひやく)余騎(よき)抜連(ぬきつれ)て追懸(おひかけ)たり。中津河(なかつかは)の橋爪にて、白江(しらえの)源次六騎踏止(ふみとどまつ)て討死しける。是(これ)ぞ案内者(あんないしや)なれば、足立(あしだち)の善悪(ぜんあく)をも弁(わきま)へて一軍(ひといくさ)もせんずると、佐々木(ささき)が兼(かね)てより憑(たのみ)ける国人(くにうど)の中白一揆(しらいつき)五百(ごひやく)余騎(よき)、一戦(いつせん)も不戦、物具・太刀・刀を取(とり)捨(すて)て、河中へ皆飛(とび)漬(つか)る。始はさしも義勢(ぎせい)しつる吉田肥前(ひぜん)、真先(まつさき)に橋を渡て逃(にげ)けるが、続く敵を不渡とやしたりけん、橋板一間引(ひき)落(おとし)てければ、迹(あと)に渡る御方の兵三百(さんびやく)余騎(よき)は、皆水に溺(おぼれ)てぞ流れける。佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)兄弟は、橋の辺まで落(おち)延(のび)たりけるが、県(あがた)二郎が、「橋の落(おち)て候ぞ、とても叶(かなは)ぬ所也(なり)。返(かへし)て討死せさせ給へ。御共申さん。」と云(いひ)けるに恥(はぢ)しめられて、兄弟二騎引返(ひつかへし)て、矢庭(やには)に討(うた)れてけり。瓜生(うりふ)次郎左衛門(じらうざゑもん)父子兄弟三人(さんにん)も、判官の討死するを見て、一所に打寄らんとしけるが、馬の平頚(ひらくび)射られて、刎(はね)落されければ、田の畔(くろ)の上に三人(さんにん)立双(たちならん)で、敵懸らば打(うち)違(ちがへ)て死なんとしけるが、遠矢(とほや)に皆射すくめられて、一所にて皆討(うた)れにけり。半時許(ばかり)の軍に、死する京勢(きやうぜい)二百七十三人(にひやくしちじふさんにん)、此(この)内敵に討(うた)れて死する兵僅(わづか)に五六人には不過。其(その)外二百五十(にひやくごじふ)余人(よにん)は、皆河に流(ながれ)てぞ失(うせ)にける。楠父祖の仁慧(じんけい)をつぎ、有情者なりければ、或(あるひ)は野伏共(のぶしども)に生捕(いけどら)れて、被面縛たる敵をも不斬、或(あるひ)は河より被引上、無甲斐命生(いき)たる敵をも不禁置、赤裸(あかはだか)なる者には小袖を著せ、手負(ておう)たる者には薬を与へて、京へぞ返(かへし)遣(つかは)しける。身の恥は悲しけれ共(ども)、悦ばぬ者は無(なか)りけり。
○清氏叛逆(ほんぎやくの)事(こと)付(つけたり)相摸守(さがみのかみ)子息元服(げんぶくの)事(こと) S3606
此等(これら)をこそ、すはや大地震の験(しるし)に、国々の乱出来ぬるはと驚き聞(きく)処に、京都に希代(きたい)の事有て、将軍の執事細河相摸守(さがみのかみ)清氏・其(その)弟左馬(さまの)助(すけ)・猶子(いうし)仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)、三人(さんにん)共(とも)に都を落(おち)て、武家の怨敵(をんてき)と成(なり)にけり。事の根元を尋ぬれば、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)と、細河相摸守(さがみのかみ)清氏と内々怨を含(ふくむ)事有(あり)しに依て、遂(つひ)に君臣豺狼(さいらう)の心を結ぶとぞ聞(きこ)へし。先(まづ)加賀(かがの)国(くに)の守護職(しゆごしよく)は、富樫(とがしの)介(すけ)、建武の始(はじめ)より今に至るまで一度(いちど)も変ずる事無(なく)して、而(しか)も忠戦異他成敗依不暗、恩補列祖(おんぽれつそ)に復(ふく)せしを、富樫(とがしの)介(すけ)死去せし刻(きざみ)其(その)子未(いまだ)幼稚也(なり)とて、道誉(だうよ)、尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)を聟に取て、当国の守護職(しゆごしよく)を申(まうし)与(あたへ)んとす。細河相摸守(さがみのかみ)是(これ)を聞て、さる事や可有とて富樫(とがしの)介(すけ)が子を取立て、則(すなはち)守護(しゆご)安堵の御教書(みげうしよ)をぞ申成ける。依之(これによつて)道誉(だうよ)が鬱憤(うつぷん)其(その)一也(なり)。次に備前の福岡の庄は頓宮(とんぐう)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)が所領也(なり)。而(しか)るを頓宮が軍忠中絶(ちゆうぜつ)の刻(きざみ)、赤松(あかまつ)律師(りつし)是(これ)を申給る。後、頓宮、細河が手に属(しよく)して忠有しかば、細河是(これ)を贔屓(ひいき)して、安堵の御教書を申与ふ。然(しかれ)共(ども)則祐は道誉(だうよ)が聟也(なり)ければ、国を押へられ上裁を支(ささへ)られて、頓宮所領に還住(げんぢゆう)せず。是(これ)清氏が鬱憤の其(その)一也(なり)。次に摂津国(つのくに)守護職(しゆごしよく)をば道誉(だうよ)無謂申給て、嫡孫(ちやくそん)近江判官秀詮(ひであきら)に持(もた)せたりけるを、相摸守(さがみのかみ)本主(ほんしゆ)赤松大夫判官(たいふのはうぐわん)光範(みつのり)に安堵せさせんと、時々(よりより)異見を献ずる事所憚なし。依之(これによつて)道誉(だうよ)が鬱憤其(その)二也(なり)。次に今度七夕の夜は、新将軍、相摸守(さがみのかみ)が館(たち)へをはして、七百番の謌合をして可遊也(なり)と兼(かね)て被仰ければ、相摸守(さがみのかみ)誠(まこと)に興(きよう)じ思(おもひ)て、様々の珍膳(ちんぜん)を認(こしらへ)、哥読(うたよみ)共(ども)数十人(すじふにん)誘引(いういん)して、已(すで)に案内を申ける処に、道誉(だうよ)又我(わが)宿所に七所を粧(かざつ)て、七番菜(しちばんさい)を調へ、七百種の課物(かけもの)を積み、七十服の本非の茶を可呑由を申て、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)を招請(せうしやう)し奉(たてまつり)ける間、歌合はよしや後日にてもありなん、七所の飾(かざり)は珍(めづらし)き遊(あそび)なるべしとて、兼日の約束を引(ひき)違(ちがへ)、道誉(だうよ)が方へをはしければ、相摸守(さがみのかみ)が用意(ようい)徒(いたづら)に成て、数寄(すき)の人も空(むなし)く帰(かへり)にけり。是(これ)又清氏が鬱憤の其(その)二也(なり)。加様(かやう)の事共(ことども)互(たがひ)に憤(いきどほり)深く成(なり)にければ、両人の確執(かくしつ)止む事を不得。上にはさりげなき体(てい)なれども、下には悪心を挿(さしはさ)めり。されば始終(しじゆう)は如何(いかが)と被思遣たり。此(この)相摸守(さがみのかみ)は気分飽(あく)まで侈(おごつ)て、行迹(ぎやうせき)尋常(よのつね)ならざりけれ共(ども)、偏(ひとへ)に仏神を敬(うやま)ふ心深かりければ、神に帰服(きふく)して、子孫の冥加を祈(いのら)んとや思(おもは)れけん、又我(わが)子の烏帽子親に可取人なしとや思(おもひ)けん、九と七とに成(なり)ける二人(ににん)の子を八幡(やはた)にて元服(げんぶく)せさせ、大菩薩(だいぼさつ)の烏帽子々(えぼしご)に成(なし)て、兄をば八幡(はちまん)六郎(ろくらう)、弟をば八幡八郎(はちらう)とぞ名付(なづけ)ける。此(この)事軈(やが)て天下の口遊(くちずさみ)と成(なり)ければ、将軍是(これ)を聞(きき)給(たまひ)て、「是(これ)は只当家の累祖(るゐそ)伊予(いよの)守(かみ)頼義三人(さんにん)の子を八幡太郎・賀茂次郎・新羅(しんら)三郎と名付(なづけ)しに異(ことなら)ず。心中にいかさま天下を奪(うばは)んと思ふ企(くはたて)ある者也(なり)。」と所存に違(たがひ)てぞ思はれける。佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)道誉(だうよ)是(これ)を聞て、すはや憎(にく)しと思ふ相摸守(さがみのかみ)が過失は、一(ひとつ)出来にけるはと独(ひとり)笑(ゑみ)して、薮(やぶ)に■(めくはせ)し居たる処に、外法成就(げほふじやうじゆ)の志一(しいち)上人鎌倉(かまくら)より上て、判官入道(はうぐわんにふだう)の許(もと)へをはしたり。様々の物語して、「さても都は還(かへつ)て旅にて、万(よろ)づさこそ便(たより)なき御事(おんこと)にてこそ候らめ。誰か檀那(だんな)に成(なり)奉て、祈(いのり)なんどの事をも申入(まうしいれ)候。」と問(とは)れければ、「未(いまだ)甲斐々々敷(かひがひしき)知音(ちいん)檀那等(だんなとう)も候はで、いつしか在京難叶心地して候(さうらひ)つるに、細河相摸殿(さがみどの)よりこそ、此(この)一両日(いちりやうにち)が先に一大事(いちだいじ)の所願候。頓(とん)に成就(じやうじゆ)ある様に祈(いのつ)てたび候へとて、願書を一通封(ふう)して、供具(きようぐ)の料足(れうそく)一万疋副(そへ)て、被送て候(さうらひ)しか。」と、語り給ひければ、道誉(だうよ)、「何事の所願にてか候らん。」と、懇切(こんせつ)に被所望。生強(なましひ)に語りは出(いだ)しつ、さのみ惜(をし)まん事も難叶ければ、無力此(この)願書をぞ取寄(とりよせ)て披見(ひけん)させける。道誉(だうよ)此(この)願書を内へ持て入て、「只今(ただいま)些(ちと)急ぐ事候間外へ罷(まかり)出候。此(この)願書は閑(しづか)に披見(ひけん)候(さふらひ)て返(かへし)進(まゐらす)べし。明日是(これ)へ御渡(おんわたり)候へ。」とて、後(うしろ)の小門より出違(いでちが)ひければ、志一上人重(かさね)て云(いひ)入るゝに言(ことば)なくして、宿所へぞ帰り給ひける。道誉(だうよ)、其(その)翌日(よくじつ)此(この)願書を伊勢入道(いせのにふだう)が許(もと)へ持て行て、「是(これ)見給へ。相摸守(さがみのかみ)が隠謀の企(くはたて)有て、志一上人に付て、将軍を呪咀(しゆそ)し奉りけるぞや。自筆自判の願書、分明に候上(うへ)は、所疑にて候はず。急(いそぎ)是(これ)を持参して、潜(ひそか)に将軍に見せ進(まゐら)せられ候へ。」とて、爪弾(つまはじき)をして懐(ふところ)よりぞ取(とり)出しける。伊勢入道(いせのにふだう)不思議(ふしぎ)の事哉(かな)と思(おもひ)て、披(ひらい)て是(これ)を見るに、三箇条の所願を被載たり。敬白荼祇尼天宝前一清氏管領四海(しかい)、子孫永可誇栄花事。一宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)、忽受病患可被死去事。一左馬頭基氏失武威背人望、可被降我軍門事。右此三箇条之所願、一々令成就(じやうじゆ)者、永為此尊之檀度、可専真俗之繁昌。仍祈願状如件。康安元年九月三日相摸守清氏と書て、裏判(うらはん)にこそせられけれ。伊勢入道(いせのにふだう)此(この)願書を読(よみ)畢(をはつ)て、眉を顰(ひそ)めて大息(いき)をつぐ事良(やや)久(ひさしく)して、手迹(しゆせき)は誰共知(しら)ね共、判形共に於ては疑(うたがひ)なければ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)の見参にこそ入(いれ)んずらめと思(おもひ)けるが、是(これ)を披露(ひろう)申なば、相摸殿(さがみどの)忽(たちまち)に身を可被失。其(その)上(うへ)斯(かか)る事には、謀作(ぼうさく)謀計なんども有(ある)ぞかし。卒爾(そつじ)にはいかゞ申入(まうしいる)べきと斟酌(しんしやく)して、深く箱の底にぞ収(をさ)めける。斯(かか)る処に羽林将軍俄(にはか)に邪気(じやき)の事有て、有験(うげん)の高僧加持し奉れ共不静、頭の痛み日を追て増(まさ)る由聞へしかば、道誉(だうよ)急ぎ参て、「先日伊勢入道(いせのにふだう)の進(しん)じ候(さふらひ)し清氏が願書をば御覧ぜられ候(さうらひ)けるやらん。」と、問(とひ)奉るに、「未(いまだ)披露(ひろう)せず。」と宣ふ。「さては御労(おんいたはり)其(その)故と覚(おぼえ)候。」とて、急(いそぎ)伊勢入道(いせのにふだう)を呼(よび)寄(よせ)、件(くだん)の願書を召(めし)出して、羽林将軍に見せ奉る。其(その)後幾程無(なく)して邪気立去て、違例(ゐれい)本復(ほんぶく)し給(たまひ)ければ、「道誉(だうよ)が申(まうす)処偽(いつは)らで、清氏が呪咀疑(うたがひ)無(なか)りけり。」と、将軍是(これ)を信じ給ふ。其(その)後又心付て、八幡に清氏願書を篭(こめ)ぬる事有(ある)べからずとて、内々社務(しやむ)を召(めし)て問(とは)れければ、「去(さる)願書は封(ふう)して神馬(じんめ)と送られて候が、頓(やが)て神殿にこめて候。」と申ければ、「其(それ)取(とり)出(いだし)て奉るべし、聊(いささか)不審あり。」と仰有(あり)ければ、軈(やが)て取(とり)出し持参しけり。是(これ)を披見し給ふにも、大樹の命を奪ひ、我(われ)世を取(とら)んとの発願(ほつぐわん)也(なり)。弥(いよいよ)疑(うたがふ)所なし。凡(およそ)志一上人を上せられけるも、畠山、我奇特(きどく)の人と思ひ、同心に京・関東(くわんとう)を取(とら)んとて、其(その)祈祷の為に畠山吹挙(すゐきよ)にて上られけり。其(その)後よりは、兔(と)やして清氏を討(うた)まし、角(かく)やせましと、道誉(だうよ)一人に談合(だんかふ)有て、案じ煩(わづら)ひ給ひける処に、道誉(だうよ)俄(にはか)に病と称して為湯治湯山(ゆのやま)へ下りぬ。其(その)後四五日有て、相摸守(さがみのかみ)普請(ふしん)の為とて、天竜寺(てんりゆうじ)へ参りけるが、不例庭に入て物具したる兵共(つはものども)、三百(さんびやく)余騎(よき)召(めし)具したり。将軍是(これ)を聞(きき)給(たまひ)て、「さては道誉(だうよ)に評定(ひやうぢやう)せし事、はや清氏に聞へてけり。さらんに於(おい)ては却(かへつ)て如何様(いかさま)被寄ぬと覚(おぼゆ)るぞ。京中(きやうぢゆう)の戦は小勢にて叶(かなふ)まじ。要害(えうがい)に篭て可防。」とて九月二十一日の夜半許(ばかり)に、今熊野(いまくまの)に引(ひき)篭(こも)り、一の橋引(ひき)落(おと)して、所々掻楯(かいたて)掻(か)き車引(ひき)双(ならべ)て、逆木轅門(さかもぎゑんもん)を堅めて待(まち)懸(かけ)給へば、今川上総(かづさの)守(かみ)・宇都宮(うつのみや)参川(みかはの)入道(にふだう)以下、我(われ)も我(われ)もと馳(はせ)参る。俄(にはか)の事なれば、何事のひしめきと、聞(きき)定(さだめ)たる事はなけれ共(ども)、武士東西に馳(はせ)違(ちが)ひ、貴賎四方(しはう)に逃吟(にげさまよふ)。相摸守(さがみのかみ)は天竜寺(てんりゆうじ)にて、京中(きやうぢゆう)のひしめきを聞て、何条(なんでふ)今時(いまどき)洛中(らくちゆう)に何事の騒ぎ可有。告(つぐ)る者の誤りにてぞあらんとて、騒(さわ)ぐ気色も無(なか)りけるが、我(わが)身の上と聞(きき)定(さだめ)てければ、三百(さんびやく)余騎(よき)にて天竜寺(てんりゆうじ)より打帰り、弟の僧愈侍者を今熊野へ進(まゐら)せて、「洛中(らくちゆう)の騒動何事とも存知仕(つかまつり)候はで、急(いそぎ)馳(はせ)参て候へば、清氏が身の上にて候(さうらひ)ける。罪科(ざいくわ)何事にて候やらん。若(もし)無実の讒(ざん)に依て、死罪を行(おこなは)れ候はゞ、政道の乱(みだ)れ御敵(おんてき)の嘲(あざけり)、不可過之。暫(しばらく)御糺明(ごきうめい)の後に、罪科の実否(じつぷ)を可被定にて候はゞ、頭(かうべ)を延(のべ)て軍門に参(まゐり)候べし。」とぞ申入(まうしいれ)たりけれ共(ども)、「清氏が多日の隠謀、事已(すで)に露顕(ろけん)の上は、兔角(とかく)の沙汰に不可及。」とて、使僧に対面もなく一言の返事にも及(および)給はねば、色を失(うしなひ)て退出す。清氏此(この)上は陳じ申(まうす)に言(こと)ばなし。今は定(さだめ)て討手をぞ向(むけ)らるらん。一矢射て腹を切(きら)んとて、舎弟(しやてい)左馬(さまの)助(すけ)頼利(よりとし)・大夫将監(しやうげん)家氏・兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)将氏(まさうぢ)・猶子(いうし)仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)、いとこの兵部(ひやうぶの)少輔(せう)氏春、六人中門にて武具ひし/\と堅め、旗竿(はたざを)取(とり)出し、馬の腹帯(はるび)を堅めさすれば、重恩、新参の郎従共、此彼(ここかしこ)より馳(はせ)参て七百(しちひやく)余騎(よき)に成(なり)にけり。今熊野には、始(はじめ)五百(ごひやく)余騎(よき)参して、「哀(あは)れ、我討手を承(うけたまはり)て向(むかは)ばや。」と義勢しける者共(ものども)、相摸守(さがみのかみ)七百(しちひやく)余騎(よき)にて控(ひか)へたりと聞へしかば、興醒顔(きようざめがほ)に成て、此(ここ)の坊中(ばうちゆう)彼(かしこ)の在家(ざいけ)に引(ひき)入り、荒(あら)く物をも不云、只(ただ)何方(いづかた)に落場(おちば)あると、山の方をぞ守りける。相摸守(さがみのかみ)は今や討手を給(たまは)ると、甲の緒(を)を縮(しめ)二日まで待(また)れけれども、向ふ敵無(なか)りければ、洛中(らくちゆう)にて兵を集め、戦を致さんと用意(ようい)したるも、且(かつう)は狼籍(らうぜき)也(なり)。陣を去り都を落(おち)てこそ猶(なほ)陳じ申さめとて、二十三日(にじふさんにち)の早旦に、若狭を差(さ)して落(おち)て行(ゆく)。仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)・細河大夫将監(しやうげん)二人(ににん)は、京に落(おち)留(とどま)りぬ。相順(あひしたが)ふ勢次第に減(げん)じぬと見へけるに、辺土(へんど)洛外の郎等共(らうどうども)、少々路に追付(おひつき)て、「将軍の御勢(おんせい)は、僅(わづか)に五百騎(ごひやくき)に不足とこそ承(うけたまはり)候に、などや此(この)大勢にて都をば落(おち)させ給(たまひ)候やらん。」と申せば、相摸守(さがみのかみ)馬を引(ひか)へて、「元来将軍に向奉て、合戦をすべき身にてだにあらば、臆病第一(だいいち)の取集勢(とりあつめぜい)四五百騎(しごひやくき)戦(わなな)き居たるを、清氏物(もの)の数とや可思。君臣の道死すれども上に逆(さか)へざる義を思ふ故(ゆゑ)に、一(ひと)まども落(おち)てや陳じ申すと存(ぞんじ)て、無云甲斐体(てい)を人に見へつる悲(かなし)さよ。身不肖(ふせう)なれば、無罪討(うた)れ進(まゐ)らす共世の為に可惜命に非(あら)ず。只讒(ざん)人事を乱(みだつ)て、将軍天下を失はせ給はんずるを、草の陰にても見聞(みきか)ん事こそ悲しけれ。」とて、両眼に泪(なみだ)を浮べ給へば、相順ふ兵共(つはものども)、皆鎧の袖をぞぬらしける。千本を打過(うちすぎ)て、長坂へ懸る処にて、舎弟(しやてい)兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)といとこの兵部(ひやうぶの)少輔(せう)二人(ににん)を近付(ちかづけ)て、「御辺達(ごへんたち)兄弟骨肉の義依不浅、我(わが)安否を見はてんと、是(これ)まで付(つき)纏(まと)ひ給ふ志、千顆(せんくわ)万顆(まんくわ)の玉よりも重く、一入再入(ひとしほふたしほ)の紅(くれなゐ)よりも猶(なほ)深し。雖然、清氏は依佞人讒不慮の刑に沈(しづ)む上は力なし。御辺達(ごへんたち)両人は讒(ざん)を負(おひ)たる身にも非(あら)ず、又将軍の御不審(ごふしん)を蒙(かうむつ)たる事もなき者が、何と云(いふ)沙汰もなく、我(われと)共(とも)に都を落(おち)て、路径(ろけい)に尸(かばね)を曝(さら)さん事後難なきに非(あら)ず。早く此(これ)より将軍へ帰参して、清氏が所存をも申開き、父祖の跡をも失はぬ様に計(はから)ひ給へ。是(これ)我を助(たすく)る謀(はかりこと)、又身を立(たつ)る道なるべし。」と、泪を流して宣へば、両人の人々押(おさ)ふる泪に咽(むせん)で、暫(しば)しは返事にも不及。良(やや)暫(しばらく)有て、「心憂(こころうき)事をも承(うけたまはり)候者哉(かな)。縦(たとひ)是(これ)より罷(まかり)帰(かへり)て候(さうらふ)共(とも)、讒人君の傍(かたはら)に有て、憑(たのむ)影なき世に立(たち)紛(まぎ)れ候はゞ、何(い)つ迄(まで)身をか保(たもち)候べき。将軍には心を置進(おかしまゐら)せ、傍(かた)への人には指を差(ささ)れ候はん事、恥の上の不覚たるべきにて候へば、何(いづ)くまでも伴(ともな)ひ奉て、安否を見はて進(まゐら)せん事こそ本意にて候へ。」と、再三被申けれども、相摸守(さがみのかみ)、「さては弥(いよいよ)我に隠謀有(あり)けりと、世の人の思はんずる処が悲(かなし)く候へば、枉(まげ)て是(これ)より帰られ候(さふらひ)て、真実の志あらば、後日に又音信(おとづれ)も候へ。」と、強(しひ)て被申ければ、二人(ににん)の人々、「此(この)上の事は兔(と)も角(かく)も仰にこそ随(したが)ひ候はめ。」とて、泣々(なくなく)千本より打別れて、本の宿所へぞ帰(かへり)にける。京中(きやうぢゆう)には、合戦あらば在家は一宇(いちう)も不残と、上下万人劇騒(あわてさわ)ぎけるが、相摸守(さがみのかみ)無事故都を落(おち)にければ、二十四日、将軍軈(やがて)今熊野より本の館(たち)へ帰(かへり)給(たまふ)。何(いつ)しか相州(さうしう)被官(ひくわん)の者共(ものども)、宿所を替(かへ)身を隠(かくし)たる有様、昨日の楽(たのしみ)今日の夢と哀(あはれ)也(なり)。有為転変(うゐてんぺん)の世の習、今に始(はじめ)ぬ事なれ共(ども)、不思議(ふしぎ)なりし事ども也(なり)。
○頓宮(とんぐう)心替(こころがはりの)事(こと)付(つけたり)畠山道誓(だうせい/が)事(こと) S3607
若狭(わかさの)国(くに)は、相摸守(さがみのかみ)近年管領(くわんりやう)の国にて、頓宮四郎左衛門(しらうざゑもん)兼(かね)て在国したりければ、小浜(をはま)に究竟(くつきやう)の城(じやう)を構(かまへ)て、兵粮数万石積(つみ)置(おき)たり。相摸守此(ここ)に落付て、城の構へ勢の程を見(みる)に、懸合(かけあひ)の合戦をする共、又城に篭(こもつ)て戦(たたかふ)共(とも)、一年二年の内には輙(たやす)く落されじ物をとぞ思はれける。去(さる)程(ほど)に尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)氏頼、討手の大将を承(うけたまはり)て、北陸道(ほくろくだう)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、越前より椿峠(つばきたうげ)へ向ふ。仁木三郎搦手(からめて)の大将を承(うけたまはり)て、山陰道(せんおんだう)の勢二千(にせん)余騎(よき)を卒(そつ)して、丹波より逆谷(さかさまたに)へ向(むかふ)と聞へければ、相摸守(さがみのかみ)大に笑(わらう)て、「穴(あな)哀の者共(ものども)や。此等(これら)を敵に受(うけ)ては、力者(りきしや)二三人(にさんにん)に杉材棒(すぎさいぼう)突(つか)せて差(さし)向(むけ)たらんに不足あるまじ。先(まづ)敦賀に朝倉(あさくら)某が先打(さきうち)にて陣を取たるを打散(うちちら)せ。」とて、中間を八人(はちにん)差遣(さしつかは)さる。八人(はちにん)の中間共敦賀の津へ紛(まぎれ)入(いり)、浜面(はまおもて)の在家十(じふ)余箇所(よかしよ)に火を懸(かけ)て、時の声をぞ揚(あげ)たりける。朝倉が兵三百(さんびやく)余騎(よき)時(とき)の声に驚(おどろき)て、「すはや相摸守(さがみのかみ)の寄(よせ)たるは。定(さだめ)て大勢にてぞ有(ある)らん。引て後陣(ごぢん)の勢に加(くは)れ。」とて、矢の一をも不射、朝倉敦賀を引(ひき)ければ、相伴(あひともなふ)兵三百(さんびやく)余騎(よき)、馬物具を取捨(とりすて)て、越前の府へぞ逃(にげ)たりける。さればこそ思(おもひ)つる事よと、人毎(ひとごと)に云弄(いひもてあそ)ぶと沙汰せしかば、尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)大に忿(いかつ)て、軈(やが)て大勢を卒(そつ)して十月二十九日椿峠へ打向ふ。相摸守是(これ)を聞て、「今度は一人も敵と云(いふ)者を生(いけ)て遣(やる)まじければ、自身向はでは叶(かなふ)まじ。」とて、城には頓宮四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)を残し置(おき)、舎弟(しやてい)右馬助(うまのすけ)共(とも)に五百(ごひやく)余騎(よき)にて追手(おふて)の敵に馳(はせ)向ふ。敵陣難所なれば、待(まち)てや戦(たたかふ)、懸(かか)りやすると思安(しあん)して、未戦決(いまだたたかひけつせざる)処に、重恩他に異(こと)なれば、是(これ)ぞ弐(ふたごころ)有(ある)まじき者と憑(たのま)れける頓宮四郎左衛門(しらうざゑもん)俄(にはか)に心替(こころがはり)して、挙旗城戸(きど)を打て寄手(よせて)の勢を後(うしろ)より城へ引(ひき)入(いれ)ける間、相摸守(さがみのかみ)に相順(あひしたがふ)兵共(つはものども)、可戦力尽(つき)はてゝ、右往左往に落(おち)て行(ゆく)。朽(くち)たる縄を以て、六馬をば紲(つなぎ)て留(とむ)るとも、只(ただ)難憑此比(このころ)の武士の心也(なり)。清氏さしもの勇士(ゆうし)なりしか共、角(かく)ては叶はじとや思(おもは)れけん、舎弟(しやてい)右馬助(うまのすけ)と只二騎打連(うちつれ)て篠峯(ささのみね)越に忍(しのん)で都へ紛(まぎれ)入(いる)。一夜(いちや)の程も洛中(らくちゆう)には難隠と思(おもは)れければ、兄弟別々に成て、相摸守(さがみのかみ)は東坂本(ひがしさかもと)へ打越(うちこ)へ、一日馬の足を休(やすめ)て天王寺(てんわうじ)へ落(おち)ければ、右馬(うまの)頭(かみ)は夜半に京中(きやうぢゆう)を打通(うちとほ)り、大渡(おほわたり)を経(へ)て、兼(かね)ての相図(あひづ)を不違天王寺(てんわうじ)へぞ落著(おちつき)ける。相摸守(さがみのかみ)軈(やがて)石堂刑部卿の許(もと)へ使者を立(たて)、「清氏已(すで)に依讒者訴、無罪死罪を行(おこなは)れんと候(さうらひ)つる間、身の置所(おきどころ)なき余に、天恩を戴(いただい)て軍門に降参仕て候。旧好(きうかう)其(その)故も候へば、混(ひたす)ら貴方(きはう)を憑(たのみ)申(まうす)にて候。兔(と)も角(かく)も可然様に御計(おんはからひ)候へ。」とぞ言遣(いひつかは)されける。石堂刑部卿急(いそぎ)使者に対面して、先(まづ)兔角(とかく)の返事に不及、「こはそも夢か現(うつつ)か。」とて、良(やや)久(ひさし)く泪(なみだ)を袖に押(おさ)へらる。軈(やがて)参内して事の子細を奏聞せられけるに、左右の大臣相議(あひぎ)して云(いはく)、「敵軍首(かうべ)を延(のべ)て帝徳に降(くだ)る。天恩何(なん)ぞ是(これ)を慧(めぐま)れざらん。早く軍門に慎仕(つつしみつか)へて、征伐の忠を専(もつぱら)にすべし。」と、恩免(おんめん)の綸旨(りんし)を下されしかば、石堂限なく悦(よろこび)て、則(すなはち)細河に対面し給ふ。互(たがひ)に言(こと)ば無(なく)して泪に咽(むせ)び給ふ。暫(しばらく)有て、「世の転変今に始(はじめ)ぬ事にて候へ共、不慮(ふりよ)の参会こそ多年の本意にて候へ。」と許(ばかり)、色代(しきだい)してぞ被帰ける。只秦の章邯(しやうかん)・趙高(てうかう)が讒(ざん)を恐れ、楚の項羽(かうう)に降(くだり)し時、面をたれ涙を流して言(こと)ばには不出ども、讒者の世を乱(みだ)る恨(うらみ)を含(ふくみ)し気色に不異。去(さる)程(ほど)に仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)は、京より伊勢へ落(おち)て、相摸守(さがみのかみ)に相順(あひしたが)ふと聞へ、兵部(ひやうぶの)少輔(せう)氏春は、京より淡路へ落(おち)て国中(こくぢゆう)の勢を相付(あひつけ)て、相摸守(さがみのかみ)に力を合(あは)せ、兵船を調(ととの)へて堺の浜へ著(つく)べしと披露あり。摂津国(つのくにの)源氏松山は、香下(かしたの)城(じやう)を拵(こしらへ)て南方に牒(てふ)し合(あはせ)、播磨路(はりまぢ)を差塞(さしふさい)で、人を不通聞へければ、一方(ひとかた)ならぬ蜂起に、京都以外に周章(しうしやう)して、すはや世の乱出来ぬと危(あやぶま)ぬ人も無(なか)りけり。宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)は畿内の蜂起を聞て、「近国は縦(たとひ)起るとも、坂東(ばんどう)静(しづか)なれば、東(とう)八箇国(はちかこく)の勢召上(めしのぼせ)て退治(たいぢ)せんに、何(なに)程の事か可有。」とて、強(あなが)ちに騒(さわ)ぐ気色も無(なか)りける処に、康安元年十一月十三日(じふさんにち)、関東(くわんとう)より飛脚到来して、「畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)、舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)御敵(おんてき)に成て、伊豆(いづの)国(くに)に楯篭(たてこも)り候間、東国の路(みち)塞(ふさがつ)て、官軍(くわんぐん)催(もよほ)しに不応。」とぞ申ける。其濫觴(そのらんしやう)何事ぞと尋(たづ)ぬれば、去々年の冬、畠山(はたけやま)入道(にふだう)南方退治(たいぢ)の大将として上洛(しやうらく)せし時、東(とう)八箇国(はちかこく)の大名・小名数を尽(つく)してぞ上りける。此(この)軍勢(ぐんぜい)長途(ちやうど)に疲れ数月(すげつ)の在陣にくたびれて、馬物具を売位(うるくらゐ)に成(なり)しかば、怺兼(こらへかね)て、畠山に暇(いとま)をも不乞抜々(ぬけぬけ)に大略本国へ下(くだり)ける。遥(はるか)に程経て、畠山関東(くわんとう)に下向して彼等(かれら)が一所懸命の所領どもを没収(もつしゆ)して、歎(なげ)け共耳にも不聞入、適(たまたま)披露する奉行あれば、大に鼻を突(つか)せ追(おひ)込(こみ)ける間、訴人(そにん)徒(いたづら)に群集(くんじゆ)して、愁(うれへ)を不懐云(いふ)者なし。暫(しばらく)は訴詔(そしよう)を経(へ)て廻(まは)りけるが、余に事興盛(こうせい)しければ、宗(むね)との者共(ものども)千(せん)余人(よにん)、神水(じんずゐ)を呑(のん)で、所詮(しよせん)畠山(はたけやま)入道(にふだう)を執権に被召(めされ)仕、毎事御成敗に随(したがふ)まじき由を左馬(さまの)頭(かみ)へぞ訴(うつたへ)申ける。下(しも)として上(かみ)を退(しりぞく)る嗷訴(がうそ)、下刻上(げこくじやう)の至(いたり)哉(かな)と、心中には憤(いきどほり)思はれけれども、此(この)者どもに背(そむか)れなば、東国は一日も無為なるまじと覚(おぼ)して、軈(やが)て畠山が許(もと)へ使を立て、「去々年上洛(しやうらく)の時、南方退治(たいぢ)の事は次に成て、専(もつぱら)仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)を討(うた)んと被謀候(さうらひ)し事、隠謀の其(その)一にて非(あらず)や。其(その)後関東(くわんとう)に下向して、差(さし)たる無罪科諸人の所帯(しよたい)を没収(もつしゆ)せられ候(さうらひ)ける事、只世を乱(みだ)して、基氏を天下の人に背(そむ)かせんとの企(くはたて)にてぞ候覧(らん)。叛逆(ほんぎやく)旁(かたがた)露顕(ろけん)の上は一日も門下に跡を不可被留。退出及遅々、速(すみやか)に討手をさし遣(つかは)すべし。」とぞ被云送ける。畠山は其比(そのころ)鎌倉(かまくら)に有(あり)けるが、此(この)上は陳じ申(まうす)とも叶(かなふ)まじとて、兄弟五人(ごにん)並(ならびに)郎従已下引具(ひきぐ)して、三百(さんびやく)余騎(よき)伊豆(いづの)国(くに)を指(さ)して落(おち)て行(ゆく)。此(この)勢小田原の宿に著(つき)たりける夜、土肥掃部(とひのかもんの)助(すけ)、「御敵(おんてき)に成て落(おつ)る者に、矢一(ひとつ)射懸(いかけ)ずと云(いふ)事や可有。」とて、主従只八騎にて小田原の宿へ押(おし)寄せ、風上(かざかみ)より火を懸(かけ)て、烟(けぶり)の下より切て入る。畠山が方に、遊佐(ゆさ)・神保(じんぼ)・斎藤・杉原、出向て散々(さんざん)に追払ふ。是(これ)程小勢なりける者をとて、時の興(きよう)にぞ笑(わらひ)合(あひ)ける。さて其(その)後は後陣(ごぢん)に防矢(ふせぎや)少々射させて、其(その)夜小田原の宿を落(おち)て、伊豆の修禅寺(しゆぜんじ)に楯篭(たてこも)る。其(その)後畠山が舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)義深(よしふか)、信濃へ越(こえ)て、諏防(すは)の祝部(はふり)と引(ひき)合て、敵に成(なる)と聞へしかば、東国・西国・東山道(とうせんだう)、一度(いちど)に何様(いかさま)起(おこ)り合(あひ)ぬと、洛中(らくちゆう)の貴賎騒(さわぎ)合(あへ)り。