太平記(国民文庫)
太平記巻第三十一

○新田起義兵事(こと) S3101
吉野殿(よしのどの)武家に御合体(ごがつてい)有(あり)つる程こそ、都鄙(とひ)暫(しばら)く静(しづか)也(なり)つれ。御合体(ごがつてい)忽(たちまち)に破(やぶれ)て、合戦に及(および)し後、畿内(きない)・洛中(らくちゆう)は僅(わずか)に王化に随(したがふ)といへ共、四夷八蛮(しいはちばん)は猶(なほ)武威に属(しよく)する者多かりけり。依之(これによつて)諸国七道の兵彼(かれ)を討ち是(これ)を従へんと互(たがひ)に威を立(たつ)る間、合戦の止(やむ)時(とき)もなし。已(すでに)闘諍堅固(とうじやうけんご)に成(なり)ぬれば、是(これ)ならずとも静(しづか)なるまじき理(ことわり)也(なり)。元弘建武の後より、天下久(ひさし)く乱(みだれ)て、一日も未(いまだ)不治。心あるも心無(こころなき)も、如何なる山の奥もがなと、身の穏家(かくれが)を求(もとめ)ぬ方もなけれど、何(いづ)くも同じ憂世(うきよ)なれば、厳子陵(げんしりよう)が釣台(てうだい)も脚(あし)を伸(のぶ)るに水冷(すさまじ)く、鄭大尉(ていたいゐ)が幽栖(いうせい)も薪(たきぎ)を担(にな)ふに山嶮(けは)し。如何なる一業所感(いちごふしよかん)にか、斯(かか)る乱世に生(うま)れ逢(あう)て、或(あるひ)は餓鬼道(がきだう)の苦を乍生受(うけ)、或(あるひ)は脩羅道(しゆらだう)の奴(やつこ)と不死前(さき)に成(なり)ぬらんと、歎かぬ人は無(なか)りけり。此(この)時(とき)、故新田左中将(さちゆうじやう)義貞の次男左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)・三男(さんなん)少将(せうしやう)義宗(よしむね)・従父兄弟(いとこ)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治(よしはる)三人(さんにん)、武蔵・上野・信濃・越後の間に、在所(ざいしよ)を定めず身を蔵(かくし)て、時を得ば義兵(ぎへい)を起さんと企(くはた)て居たりける処へ、吉野殿(よしのどの)未(いまだ)住吉(すみよし)に御坐有(あり)し時、由良(ゆら)新左衛入道信阿(しんあ)を勅使(ちよくし)にて、「南方と義詮と御合体(ごがつてい)の事は暫時(ざんじ)の智謀也(なり)と聞ゆる処也(なり)。仍(すなはち)節(せつ)に迷ひ時を過すべからず。早(はやく)義兵を起(おこし)て、将軍を追討(つゐたう)し、宸襟(しんきん)を休め奉るべし。」とぞ被仰下ける。信阿急ぎ東国へ下て、三人(さんにん)の人々に逢(あう)て事の子細を相触(あひふれ)ける間、さらば軈(やが)て勢(せい)を相催(あひもよほ)せとて、廻文(くわいぶん)を以て東(とう)八箇国(はちかこく)を触廻(ふれまは)るに、同心の族(やから)八百人(はつぴやくにん)に及べり。中にも石堂(いしたう)四郎入道は、近年高倉殿(たかくらどの)に属(しよく)して、薩■山(さつたやま)の合戦に打負(うちまけ)て、無甲斐命計(ばかり)を被助、鎌倉(かまくら)に有(あり)けるが、大将に憑(たのみ)たる高倉禅門は毒害せられぬ。我とは事を不起得。哀(あはれ)謀反(むほん)を起す人のあれかし、与力(よりき)せんと思ひける処に、新田兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)・同少将の許(もと)より内状を通(つう)じて、事の由(よし)を知(しら)せたりければ、流れに棹(さをさす)と悦(よろこび)て、軈(やが)て同心してけり。又三浦(みうらの)介(すけ)・葦名(あしなの)判官(はうぐわん)・二階堂(にかいだう)下野(しもつけの)二郎・小俣(をまた)宮内少輔(せう)も高倉殿(たかくらどの)方(がた)にて、薩■山(さつたやま)の合戦に打負(うちまけ)しかば、降人に成て命をば継たれども、人の見る処、世の聞(きく)処、口惜(くちをし)き者哉、哀(あはれ)謀反を起さばやと思(おもひ)ける処に、新田武蔵守(むさしのかみ)・同左衛門(さゑもんの)佐(すけ)の方より、憑(たの)み思ふよしを申たりければ、願ふ処の幸(さいはひ)哉と悦(よろこび)て、則(すなはち)与力(よりき)して、此(この)人々密(ひそか)に扇谷(あふぎのやつ)に寄合て評定(ひやうぢやう)しけるは、「新田の人々旗を挙(あげ)て上野(かうづけの)国(くに)に起り、武蔵国へ打越ると聞へば、将軍は定(さだめ)て鎌倉(かまくら)にてはよも待(まち)給はじ、関戸(せきと)・入間河(いるまがは)の辺に出合てぞ防ぎ給はんずらん。我等(われら)五六人が勢何(な)にと無(なく)とも、三千騎(さんぜんぎ)はあらんずらん。将軍戦場に打出給はんずる時、態(わざ)と馬廻(うままは)りに扣(ひかへ)て、合戦已(すで)に半ばならんずる最中(さいちゆう)、将軍を真中(まんなか)に取篭(とりこめ)奉り、一人も不残打取(うちとつ)て後に御陣へは参(まゐり)候べし。」と、新田の人々の方へ相図(あひづ)を堅く定(さだめ)て、石堂入道・三浦介・小俣(をまた)・葦名は、はたらかで鎌倉(かまくら)にこそ居たりけれ。諸方の相図(あひづ)事定りければ、新田武蔵守(むさしのかみ)義宗・左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義治(よしはる)、閏(うるふ)二月八日、先(まづ)手勢八百(はつぴやく)余騎(よき)にて、西上野に打出らる。是(これ)を聞て国々より馳参(はせまゐり)ける当家他門の人々、先(まづ)一族(いちぞく)には、江田(えだ)・大館(おほたち)・堀口・篠塚(しのづか)・羽河(はねかは)・岩松(いはまつ)・田中・青竜寺(しやうりゆうじ)・小幡(をはた)・大井田(おほゐた)・一井(いちのゐ)・世良田(せらた)・篭沢(こもりざは)、外様(とざま)には宇都宮(うつのみや)三河(みかはの)三郎・天野(あまの)民部大輔(たいふ)政貞・三浦近江守・南木(なんぼく)十郎・西木(さいぼく)七郎(しちらう)・酒勾(さかわ)左衛門・小畑左衛門・中金(なかかね)・松田・河村(かはむら)・大森・葛山(かつらやま)・勝代(かつしろ)・蓮沼(はすぬま)・小磯(こいそ)・大磯・酒間(さかま)・山下(やまもと)・鎌倉(かまくら)・玉縄(たまなは)・梶原(かぢはら)・四宮(しのみや)・三宮(さんのみや)・南西(なんさい)・高田・中村、児玉党(こだまたう)には浅羽(あさば)・四方田(よもだ)・庄(しやう)・桜井・若児玉(わかこだま)、丹(たん)の党には安保(あふ)信濃(しなのの)守(かみ)・子息修理(しゆりの)亮(すけ)・舎弟(しやてい)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・加治(かぢ)豊後(ぶんごの)守(かみ)・同丹内左衛門(たんないさゑもん)・勅使河原(てしがはらの)丹七郎(たんしちらう)・西党(さいたう)・東党(とうたう)・熊谷(くまがや)・太田・平山・私市(きさいち)・村山・横山・猪俣(ゐのまた)党、都合其(その)勢十万(じふまん)余騎(よき)、所々に火を懸(かけ)て、武蔵(むさしの)国(くに)へ打越る。依之(これによつて)武蔵・上野より早馬を打て鎌倉(かまくら)へ急を告(つぐ)る事、櫛の歯を引(ひく)が如し。「さて敵の勢(せい)は何程(いかほど)有(ある)ぞ。」と問へば、使者ども皆、「二十万騎(にじふまんぎ)には劣(おとり)候はじ。」とぞ答(こたへ)ける。仁木・細川の人々是(これ)を聞て、「さてはゆゝしき大事(だいじ)ごさんなれ。鎌倉中(かまくらぢゆう)の勢、千騎(せんぎ)にまさらじと覚(おぼゆる)也(なり)。国々の軍勢(ぐんぜい)は縦(たとひ)参る共、今の用には難立。千騎(せんぎ)に足らぬ御勢(おんせい)を以て、敵の二十万騎(にじふまんぎ)を防(ふせが)ん事は、可叶共覚(おぼえ)候はず。只先(まづ)安房(あは)・上総(かづさ)へ開(ひらか)せ給て、御勢(おんせい)を付(つけ)て御合戦こそ候はめ。」と被申けるを、将軍つく/゛\と聞(きき)給て、「軍の習(ならひ)、落(おち)て後(のち)利ある事千に一の事也(なり)。勢を催(もよほ)さん為に、安房・上総へ落(おち)なば、武蔵・相摸・上野・下野の者共(ものども)は、縦(たとひ)尊氏に志有(あり)共(とも)、敵に隔(へだて)られて御方(みかた)に成(なる)事あるべからず。又尊氏鎌倉(かまくら)を落(おち)たりと聞かば、諸国に敵に成(なる)者多かるべし。今度に於ては、縦(たとひ)少勢なりとも、鎌倉(かまくら)を打出て敵を道に待て、戦を決せんには如(しか)じ。」とて、十六日(じふろくにち)の早旦に、将軍僅(わづか)に五百(ごひやく)余騎(よき)の勢を率(そつ)し、敵の行合(ゆきあは)んずる所までと、武蔵(むさしの)国(くに)へ下り給ふ。鎌倉(かまくら)より追著(おつつき)奉る人々には、畠山上野(かうづけ)・子息伊豆(いづの)守(かみ)・畠山左京(さきやうの)大夫(たいふ)・舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)・舎弟(しやてい)大夫(たいふの)将監(しやうげん)・其(その)次式部(しきぶの)大夫(たいふ)・仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)・三男(さんなん)修理(しゆりの)亮(すけ)・岩松(いはまつ)式部(しきぶの)大夫(たいふ)・大島讃岐守(さぬきのかみ)・石堂左馬(さまの)頭(かみ)・今河五郎入道・同式部(しきぶの)大夫(たいふ)・田中三郎・大高(だいかう)伊予(いよの)守(かみ)・同土佐(とさの)修理(しゆりの)亮(すけ)・太平(おほひら)安芸(あきの)守(かみ)・同出羽(ではの)守(かみ)・宇津木平三・宍戸(ししど)安芸(あきの)守(かみ)・山城(やましろの)判官(はうぐわん)・曾我兵庫(ひやうごの)助(すけ)・梶原弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)・二階堂(にかいだう)丹後(たんごの)守(かみ)・同三郎左衛門(さぶらうざゑもん)・饗庭命鶴(あいばみやうづる)・和田筑前(ちくぜんの)守(かみ)・長井(ながゐ)大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)・同備前(びぜんの)守(かみ)・同治部(ぢぶの)少輔(せう)・子息右近(うこんの)将監(しやうげん)等(ら)也(なり)。元より隠謀有(あり)しかば、石堂入道・三浦(みうらの)介(すけ)・小俣(をまた)少輔(せう)次郎・葦名(あしな)判官(はうぐわん)・二階堂(にかいだう)下野(しもつけの)次郎、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)は、他勢を不交、将軍の御馬(おんむま)の前後に透間(すきま)もなくぞ打たりける。久米河(くめがは)に一日逗留(とうりう)し給へば、河越(かはごえ)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・同上野(かうづけの)守(かみ)・同唐戸(からと)十郎左衛門・江戸遠江守(とほたふみのかみ)・同下野(しもつけの)守(かみ)・同修理(しゆりの)亮(すけ)・高坂(かうさか)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)・同下野(しもつけの)守(かみ)・同下総(しもふさの)守(かみ)・同掃部(かもんの)助(すけ)・豊島(としま)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)・同兵庫(ひやうごの)助(すけ)・土屋(つちや)備前(びぜんの)守(かみ)・同修理(しゆりの)亮(すけ)・同出雲(いづもの)守(かみ)・同肥後(ひごの)守(かみ)・土肥(とひ)次郎兵衛入道(ひやうゑにふだう)・子息掃部助(かもんのすけ)・舎弟(しやてい)甲斐(かひの)守(かみ)・同三郎左衛門(さぶらうざゑもん)・二宮(にのみや)但馬(たぢまの)守(かみ)・同伊豆(いづの)守(かみ)・同近江(あふみの)守(かみ)・同河内(かはちの)守(かみ)・曾我(そが)周防(すはうの)守(かみ)・同三河(みかはの)守(かみ)・同上野(かうづけの)守(かみ)・子息兵庫(ひやうごの)助(すけ)・渋谷木工左衛門(もくざゑもん)・同石見(いはみの)守(かみ)・海老名(えびな)四郎左衛門(しらうざゑもん)・子息信濃(しなのの)守(かみ)・舎弟(しやてい)修理(しゆりの)亮(すけ)・小早河(こばやかは)刑部(ぎやうぶの)大夫(たいふ)・同勘解由左衛門(かげゆざゑもん)・豊田(とよた)因幡(いなばの)守(かみ)・狩野介(かののすけ)・那須(なす)遠江守(とほたふみのかみ)・本間(ほんま)四郎左衛門(しらうざゑもん)・鹿島(かしま)越前守(ゑちぜんのかみ)・島田備前(びぜんの)守(かみ)・浄法寺(じやうほふじ)左近(さこんの)大夫(たいふ)・白塩(しらしほ)下総(しもふさの)守(かみ)・高山越前守(ゑちぜんのかみ)・小林右馬助(うまのすけ)・瓦葺(かはらふき)出雲(いづもの)守(かみ)・見田(みた)常陸(ひたちの)守(かみ)・古尾谷(ふるをや)民部(みんぶの)大輔(たいふ)・長峯(ながみね)石見(いはみの)守(かみ)・都合其(その)勢八万(はちまん)余騎(よき)、将軍の陣へ馳(はせ)参る。已(すで)に明日矢合(やあはせ)と定められたりける夜、石堂四郎入道、三浦(みうらの)介(すけ)を呼(よび)のけて宣ひけるは、「合戦已(すで)に明日と定められたり。此(この)間相謀(あひはかり)つる事を、子息にて候右馬(うまの)頭(かみ)に、曾(かつ)て知(しら)せ候はぬ間、此(この)者一定(いちぢやう)一人残(のこり)止(とどまつ)て、将軍に討(うた)れ進(まゐら)せつと覚(おぼえ)候。一家(いつけ)の中を引分て、義卒(ぎそつ)に与(くみ)し、老年の頭(かうべ)に胄(かぶと)を戴(いただ)くも、若(もし)望み達せば、後栄(こうえい)を子孫に残さんと存ずる故(ゆゑ)也(なり)。されば此(この)事を告(つげ)知(しら)せて、心得(こころえ)させばやと存ずるは如何(いか)が候べき。」と問(とひ)給ひければ、三浦、「げにも是(これ)程の事を告進(つげまゐら)せられざらんは、可有後悔覚(おぼえ)候。急(いそぎ)知(しら)せ進(まゐ)らせ給へ。」と申ける間、石堂禅門、子息右馬(うまの)頭(かみ)を呼(よび)て、「我薩■山(さつたやま)の合戦に打負(うちまけ)て、今降人(かうにん)の如くなれば、仁木・細川等に押(おし)すへられて、人数ならぬ有様御辺も定(さだめ)て遺恨(ゐこん)にぞ思(おもふ)らん。明日の合戦に、三浦(みうらの)介(すけ)・葦名(あしな)判官(はうぐわん)・二階堂(にかいだう)の人々と引合て、合戦の最中(さいちゆう)将軍(しやうぐん)を討(うち)奉り、家運(かうん)を一戦(いつせん)の間に開(ひら)かんと思(おもふ)也(なり)。相構(あひかまへ)て其旨(そのむね)を心得(こころえ)て、我(わが)旗の趣(おもむく)に可被順。」と云(いは)れければ、右馬(うまの)頭(かみ)大に気色(きしよく)を損(そん)じて、「弓矢の道弐(ふたごこ)ろあるを以て恥とす。人の事は不知、於某は将軍に深く憑(たのま)れ進(まゐら)せたる身にて候へば、後矢(うしろや)射て名を後代(こうだい)に失はんとは、えこそ申(まうす)まじけれ。兄弟父子の合戦古(いにしへ)より今に至(いたる)まで無き事にて候はず。何様三浦(みうらの)介(すけ)・葦名判官、隠謀(いんぼう)の事を将軍に告(つげ)申さずは大なる不忠なるべし。父子(ふしの)恩義已(すで)に絶(たえ)候(さうらひ)ぬる上は、今生(こんじやう)の見参(げんざん)は是(これ)を限りと思召(おぼしめし)候へ。」と、顔を赤め腹を立て、将軍の御陣へぞ被参ける。父の禅門大に興(きよう)を醒(さま)して、急ぎ三浦が許(もと)に行(ゆき)て、「父の子を思ふ如く、子は父を思はぬ者にて候(さうらひ)けり。此(この)事右馬(うまの)頭(かみ)に不知、敵の中に残(のこり)て討(うた)れもやせんずらんと思ふ悲(かなし)さに、告知(つげしら)せて候へば、以外(もつてのほか)に気色(きしよく)を損じて、此(この)事将軍に告(つげ)申さでは叶(かなふ)まじきとて、帰(かへり)候(さうらひ)つるは如何(いかに)。此(この)者が気色、よも告(つげ)申さぬ事は候はじ、如何様(いかさま)軈(やが)て討手を向(むけ)られんと覚(おぼえ)候。いざゝせ給へ。今夜(こんや)我等(われら)が勢(せい)を引分(ひきわけ)て、関戸(せきと)より武蔵野へ回(まはつ)て、新田の人々と一になり、明日の合戦を致(いたし)候はん。」と宣ひければ、多日(たじつ)の謀(はかりこと)忽(たちまち)に顕(あらは)れて、却(かへつ)て身の禍(わざはひ)に成(なり)ぬと恐怖(きようふ)して、三浦・葦名・二階堂(にかいだう)手勢(てぜい)三千(さんぜん)余騎(よき)を引分(ひきわけ)、寄手(よせて)の勢(せい)に加(くはは)らんと関戸を廻(まはつ)て落行(おちてゆく)。是(これ)ぞはや将軍の御運尽(つき)ざる所なれ。
○武蔵野合戦(かつせんの)事(こと) S3102
三浦が相図(あひづ)相違したるをば、新田武蔵守(むさしのかみ)夢にも不知、時刻よく成(なり)ぬと急ぎ、明れば閏(うるふ)二月二十日の辰(たつの)刻(こく)に、武蔵野の小手差原(こてさしはら)へ打臨(うちのぞ)み給ふ。一方の大将には、新田武蔵守(むさしのかみ)義宗五万(ごまん)余騎(よき)、白旗(しらはた)・中黒(なかぐろ)・頭黒(かしらくろ)、打輪(うちわ)の旗は児玉党、坂東(ばんどうの)八平氏(はちへいじ)・赤印(あかじるし)一揆(いつき)を五手(いつて)に引分て、五所(いつところ)に陣をぞ取たりける。一方には新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)を大将にて、其(その)勢都合二万(にまん)余騎(よき)、かたばみ・鷹の羽・一文字(いちもんじ)・十五夜の月弓(つきゆみ)一揆(いつき)、引ては一(ひと)りも帰(かへら)じと是(これ)も五手に一揆(いつき)して四方(しはう)六里に引(ひか)へたり。一方には脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治(よしはる)を大将にて、二万(にまん)余騎(よき)、大旗・小旗・下濃(すそご)の旗、鍬形(くはがた)一揆(いつき)・母衣(ほろ)一揆(いつき)、是(これ)も五箇所(ごかしよ)に陣を張り、射手(いて)をば左右に進ませて懸手(かけて)は後(うしろ)に■控(ひか)へたり。敵小手差原(こてさしばら)にありと聞(きこ)へければ、将軍十万(じふまん)余騎(よき)を五手に分て、中道(なかみち)よりぞ寄(よせ)られける。先陣は平一揆(たひらいつき)三万(さんまん)余騎(よき)、小手(こて)の袋・四幅袴(よのはかま)・笠符(かさじるし)に至るまで一色(いつしき)に皆赤かりければ、殊更耀(かかやい)てぞ見へたりける。二陣には白旗一揆(しらはたいつき)二万(にまん)余騎(よき)、白葦毛(しろあしげ)・白瓦毛(しろかはらけ)・白佐馬(しろさめ)・■毛(つきげ)なる馬に乗て、練貫(ねりぬき)の笠符に白旌(しらはた)を差(さし)たりけるが、敵にも白旌有(あり)と聞て俄(にはか)に短(みじか)くぞ切たりける。三陣には花一揆(はないつき)、命鶴(みやうづる)を大将として六千(ろくせん)余騎(よき)、萌黄(もよぎ)・火威(ひをどし)・紫糸(むらさきいと)・卯(う)の花の妻取(つまどつ)たる鎧に薄紅(うすくれなゐ)の笠符をつけ、梅花一枝(ひとえだ)折て甲(かぶと)の真甲(まつかふ)に差たれば、四方(よも)の嵐の吹(ふく)度(たび)に鎧の袖や匂ふらん。四陣は御所一揆(いつき)とて三万(さんまん)余騎(よき)、二引両(ふたつひきりやう)の旌(はた)の下(もと)に将軍を守護(しゆご)し奉て、御内(みうち)の長者・国大名、閑(しづか)に馬を引(ひか)へたり。五陣は仁木左京大夫頼章(よりあきら)・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)・三男(さんなん)修理(しゆりの)亮(すけ)義氏、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、笠符をも不著、旌をも不差、遥(はるか)の外(よそ)に引のけて、馬より下(おり)てぞ居たりける。是(これ)は両方大勢の合戦なれば、十度(じふど)二十度(にじふど)懸合々々戦(たたかは)んに、敵も御方も気を屈(くつ)し、力疲れぬ事不可有。其(その)時(とき)荒手(あらて)に代(かは)りて、敵の大将の引(ひか)へたらんずる所を見澄(みすま)して、夜討せんが為也(なり)けり。去(さる)程(ほど)に新田・足利両家(りやうけ)の軍勢(ぐんぜい)二十万騎(にじふまんぎ)、小手差原に打臨(うちのぞん)で、敵三声(みこゑ)時(とき)を作れば御方(みかた)も三度(さんど)時(とき)の声を合(あは)す。上は三十三天(さんじふさんてん)までも響き、下は金輪際迄(こんりんざいまで)も聞ゆらんと震(おびたた)し。先(まづ)一番に新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)が二万(にまん)余騎(よき)と、平一揆(たひらいつき)が三万(さんまん)余騎(よき)と懸合(かけあはせ)て、追(おつ)つ返(かへし)つ合(あう)つ分(わか)れつ、半時計(はんじばかり)相戦て、左右へ颯(さつ)と引除(ひきのき)たれば、両方に討(うた)るゝ兵八百(はつぴやく)余人(よにん)、疵(きず)を被(かうむ)る者は未(いまだ)計(かぞふ)るに不遑。二番に脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)が二万(にまん)余騎(よき)と、白旗一揆(しらはたいつき)が二万七千(にまんしちせん)余騎(よき)と、東西より相懸(あひがか)りに懸て、一所に颯(さつ)と入乱(いりみだ)れ、火を散(ちら)して戦ふに、汗馬(かんば)の馳違(はせちがふ)音、太刀の鐔音(つばおと)、天に光り地に響(ひび)く。或(あるひ)は引組(ひつくん)で頚(くび)を取(とる)もあり被取もあり、或(あるひ)は弓手妻手(ゆんでめて)に相付て、切て落すもあり被落もあり。血は馬蹄(ばてい)に被蹴懸紅葉(もみぢ)に酒(そそ)く雨の如く、尸(かばね)は野径(やけい)に横(よこたはつ)て尺寸(せきすん)の地も不余さ。追靡(おひなび)け懸立(かけたて)られ、七八度(しちはちど)が程戦て東西へ颯(さつ)と別れたれば、敵御方(みかた)に討るゝ者又五百人(ごひやくにん)に及べり。三番に饗庭(あいば)の命鶴(みやうづる)生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)、容貌(ようばう)当代無双(ぶさう)の児(ちご)なるが、今日花一揆(はないつき)の大将なれば、殊更(ことさら)花を折て出立(いでたち)、花一揆(はないつき)六千(ろくせん)余騎(よき)が真前(まつさき)に懸出たり。新田武蔵守(むさしのかみ)是(これ)を見て、「花一揆(はないつき)を散(ちら)さん為に児玉党を向はせ、打輪(うちわ)の旗は風を含(ふく)める物也(なり)。」とて、児玉党七千(しちせん)余騎(よき)を差向(さしむけ)らる。花一揆(はないつき)皆若武者(わかむしや)なれば思慮もなく敵に懸りて、一戦(ひとたたかひ)々(たたかふ)とぞ見(み)へし。児玉党七千(しちせん)余騎(よき)に被揉立、一返(ひとかへし)も返(かへ)さずはつと引(ひく)。自余(じよ)の一揆(いつき)は、かくる時は一手(ひとて)に成(なつ)て懸り、引(ひく)時(とき)は左右へ颯と別れて、荒手(あらて)を入替(いれかへ)さすればこそ、後陣(ごぢん)は騒(さわ)がで懸違(かけちがひ)たれ。是(これ)其軍立(そのいくさだち)無甲斐、将軍の後(うしろ)に引(ひか)へておはする陣の中へ、こぼれ落て引(ひく)間(あひだ)、荒手(あらて)は是(これ)に被蹴立不進得、敵は気に乗て勝時(かちどき)を作懸々々(つくりかけつくりかけ)、責付(せめつけ)て追懸(かく)る。角(かく)ては叶(かなふ)まじ、些(すこし)引退(ひきしりぞい)て一度(いちど)に返せと云(いふ)程こそ有(あり)けれ、将軍の十万(じふまん)余騎(よき)、混引(ひたひき)に引立て、曾(かつ)て後(うしろ)を不顧。新田武蔵(むさしの)守(かみ)義宗、旗より先に進(すすん)で、「天下の為には朝敵(てうてき)也(なり)。我為(わがため)には親の敵也(なり)。只今(ただいま)尊氏(たかうぢが)頚を取て、軍門に不曝、何(いつ)の時をか可期。」とて、自余(じよ)の敵共(てきども)の南北へ分れて引(ひく)をば少(すこし)も目に懸(かけ)ず、只二引両(ふたつびきりやう)の大旗の引くに付て、何(いづ)くまでもと追蒐(おつかけ)給ふ。引(ひく)も策(むち)を挙げ、追(おふ)も逸足(いちあし)を出せば、小手差原より石浜(いしはま)まで坂東道(ばんどうみち)已(すでに)四十六里を片時(へんし)が間(ま)にぞ追付たる。将軍石浜を打渡(わたり)給ひける時は、已(すで)に腹を切(きら)んとて、鎧(よろひ)の上帯(うはおび)切て投捨(なげす)て高紐(たかひぼ)を放(はな)さんとし給ひけるを、近習(きんじふ)の侍共(さぶらひども)二十(にじふ)余騎(よき)返(かへし)合(あはせ)て、追蒐(おつかく)る敵の河中まで渡懸(わたしかけ)たると、引組々々(ひつくみひつくみ)討死しける其(その)間に、将軍急(きふ)を遁(のが)れて向の岸にかけ上り給ふ。落行(おちゆく)敵は三万(さんまん)余騎(よき)、追懸る敵は五百(ごひやく)余騎(よき)、河の向の岸高(たかく)して、屏風(びやうぶ)を立(たて)たるが如くなるに、数万騎の敵返合(かへしあは)せて、此(ここ)を先途(せんど)と支(ささへ)たり。日已(すで)に酉(とり)のさがりに成て河の淵瀬も不見分、新田武蔵守(むさしのかみ)義宗続(つづ)ひて渡すに不及、迹(あと)より続く御方(みかた)はなし。安からぬ者哉と牙(きば)を嚼(かみ)て本陣へと引返さる。又将軍の御運(うん)のつよき所なり。新田兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)と脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)とは一所に成て、白旗一揆(しらはたいつき)が二三万騎(にさんまんぎ)北に分れて引(ひき)けるを、是(これ)ぞ将軍にておはすらん。何(いづ)くまでも追攻(おつつめ)て討(うた)んとて、五十(ごじふ)余町(よちやう)迄(まで)追懸て行(ゆく)処に、降参の者共(ものども)が馬より下(おり)、各(おのおの)対面して色代(しきたい)しける程に、是(これ)に会尺(ゑしやくせ)んと、所々にて馬を控(ひか)へ会尺(ゑしやく)し給ひける間、軍勢(ぐんぜい)は皆北(にぐる)を追て東西へ隔(へだた)りぬ。義興と義治(よしはる)と僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)に成てぞをおはしける。仁木左京大夫頼章・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)は、元来(ぐわんらい)加様(かやう)の所を伺(うかがう)て未(いまだ)一戦(いつせん)もせず、馬を休めて葦原の中に隠れて居られたりけるが、是(これ)を見て、「末々(すゑずゑ)の源氏、国々のつき勢をば、何千騎討ても何(なに)かせん。あはれ幸(さいはひ)や、天の与へたる所哉(かな)。」と悦(よろこび)て、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、只一手(ひとて)に成て押寄たり。敵小勢なれば、定(さだめ)て鶴翼(かくよく)に開(ひらい)て、取篭(とりこめ)んずらんと推量して、義興・義治(よしはる)魚鱗(ぎよりん)に連(つらなつ)て、轡(くつばみ)をならべて、敵の中を破(わら)んと見繕(みつくろ)ふ処に、仁木越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)是(これ)を屹(きつ)と見て、「敵の馬の立様(たてやう)・軍立(いくさだち)、尋常(よのつね)の葉武者に非(あら)ず。小勢なればとて、侮(あなど)りて中を破(わ)らるな。一所に馬を打寄て、敵懸(かか)る共懸合(かけあは)すな。前後に常に目を賦(くばつ)て、大将と覚(おぼ)しき敵あらば組(くん)で落て首をとれ。葉武者かゝらば射落せ。敵に力を尽(つく)させて御方(みかた)少(すこし)も不漂、無勢(ぶせい)に多勢不勝や。」と、委細(ゐさい)に手立(てだて)を成敗(せいばい)して一処に勢をぞ囲(かこみ)たる。案に不違義興・義治(よしはる)、目の前に引(ひか)へて欺(あざむ)く敵に怺(こら)へ兼(かね)て、三百(さんびやく)余騎(よき)を一手(ひとて)になし、敵の真中(まんなか)を懸破(かけわり)て、蜘手(くもで)十文字(じふもんじ)に懸立(かけたて)んと喚(をめい)て懸りけれ共(ども)、仁木越後(ゑちごの)守(かみ)些(すこし)も不轟。「真中(まんなか)を破(わ)らるな。敵に気を尽(つく)させよ。」と下知して、弥(いよいよ)馬を立寄(たちよせ)、透間(すきま)もなく引(ひか)へたれば、面(おもて)にある兵計(ばかり)互(たがひ)に討(うた)れて颯(さつ)と引(ひき)けれ共(ども)、追ても更に不懸、裏へ通(とほ)りて戦へども、面は些(すこし)も不騒、東へ廻(まは)れ共西は閑(しづか)なり。北へ廻れ共南は曾(かつて)不轟。懸寄(かけよす)れば打違(うちちがひ)、組(くん)で落れば落重(おちかさな)る。千度百度(ちたびももたび)懸(かく)れ共(ども)、強陣(がうぢん)勢堅くして大将退(しりぞ)く事無(なけ)れば、義興・義治(よしはる)気疲れて東を差(さし)て落て行(ゆく)。二十(にじふ)余町(よちやう)落延(おちのび)て、誰々(たれたれ)討(うた)れたると計(はか)るに、三百(さんびやく)余騎(よき)有(あり)つる兵共(つはものども)、百(ひやく)余騎(よき)討(うた)れて二百(にひやく)余騎(よき)ぞ残りける。義興甲(かぶと)の錣(しころ)・袖の三(さん)の板切落されて、小手の余(あま)り・臑当(すねあて)のはづれに、薄手(うすで)三所負(お)ひたり。義治(よしはる)は太刀かけ・草摺(くさずり)の横縫(よこぬひ)、皆突切(つきき)れて威毛計(をどしげばかり)続(つづき)たるに、鍬形(くわかた)両方被切折、星も少々削(けづ)られたり。太刀は鐔本(つばもと)より打折(うちをれ)ぬ。中間(ちゆうげん)に持(もた)せたる長刀を持(もた)れけるが、峯はさゝらの子(こ)の如く被切て、刃(やいば)は鋸(のこぎり)の様にぞ折(をれ)たりける。馬は三所まで被切たりけるが、下(おり)て乗替(のりがへ)にのり給へば、倒れて軈(やが)て死にけり。両大将如此、自(みづから)戦て疵(きず)を被(かうむ)る上は其已下(そのいげ)の兵共(つはものども)痛手(いたで)を負(おひ)、切疵(きりきず)の二三箇所(にさんかしよ)負(おは)ぬ者は希(まれ)也(なり)。新田武蔵守(むさしのかみ)、将軍をば打漏しぬ。今日は日已(すで)に暮(くれ)ぬれば、勢を集(あつめ)て明日石浜へ寄(よせ)んとて小手差原へ打帰る。「兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)何(いづ)くにか引(ひか)へ給(たまひ)ぬる。」と行合ふ兵共(つはものども)に問(とひ)給へば、「兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)と脇屋殿(わきやどの)とは、一所に引(ひかへ)て御渡(おんわた)り候つるが、仁木殿に打負(うちまけ)て、東の方へ落させ給(たまひ)候つる也(なり)。」とぞ答(こたへ)ける。さて爰(ここ)に見へたる篝(かがり)は、敵歟(か)御方(みかた)かと問(とひ)給へば、「此(この)辺に御方は一騎(いつき)も候まじ。是(これ)は仁木殿兄弟の勢か、白旗一揆(しらはたいつき)の者共(ものども)が、焼(たい)たる篝(かがり)にてぞ候覧(らん)。小勢にて此(この)辺に御坐(おはしまし)候はん事は如何(いかが)と覚候へば、夜に紛(まぎれ)て急ぎ笛吹峠(うすひのたうげ)の方へ打越させ給(たまひ)候(さふらひ)て、越後・信濃(しなのの)勢を待調(まちそろ)へられ候(さふらひ)て、重(かさね)て御合戦候へかし。」と申ければ、武蔵守(むさしのかみ)暫(しばらく)思案して、「げにも此(この)義然(しかる)べし。」とて、「笛吹峠(うすひのたうげ)は何(いづ)くぞ。」と、問々(とひとひ)夜中に落給ふ。
○鎌倉(かまくら)合戦(かつせんの)事(こと) S3103
新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)・脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)二人(ににん)は、纔(わづか)に二百(にひやく)余騎(よき)に被打成、武蔵守(むさしのかみ)に離れぬ、御方(みかた)の勢共(せいども)は何地(いづち)へか引(ひき)ぬらん。浪にも不著礒にも離(はなれ)たる心地して、皆馬より下居(おりゐ)て休まれけるが、「此(この)勢にては上野(かうづけ)へも帰り得まじ。落て可行方(かた)もなし。可打死命なれば、鎌倉(かまくら)へ打入て、足利左馬(さまの)頭(かみ)に逢(あう)て、命を失はゞや。」と宣へば、諸人皆此(この)義に同(どう)じて、混(ひたす)ら討死せんと志(こころざ)し、思々(おもひおもひ)の母衣(ほろ)懸(かけ)て、鎌倉(かまくら)へとぞ趣(おもむか)れける。夜半過(すぐる)程(ほど)に関戸(せきと)を過(すぎ)給(たまひ)けるに、勢の程五六千騎も有らんと覚(おぼえ)て、西を指(さし)て下(くだ)る勢に行合給て、是(これ)は搦手(からめて)に廻る勢にてぞ有らん。さては鎌倉(かまくら)までも不行著して、関戸にてぞ、尸(かばね)をば可曝にて有(あり)けりと、面々(めんめん)に思(おもひ)定(さだめ)て一処に馬を懸寄(かけよ)せ、「是(これ)は誰殿(たれどの)の勢(せい)にて御渡(おんわたり)候ぞ。」と問(とは)れければ、「是(これ)は石堂入道・三浦(みうらの)介(すけ)、新田殿(につたどの)へ御参(おんまゐり)候也(なり)。」とぞ答(こたへ)ける。義興・義治(よしはる)手を拍(うつ)て、こはいかにと悦(よろこび)給ふ事無限。只魯陽(ろやう)が朽骨(きうこつ)二(ふた)たび連(つらなつ)て韓搆(かんこう)と戦を致(いたせ)し時、日を三舎(さんしや)に返しゝ悦(よろこび)も、是(これ)には過(すぎ)じとぞ覚(おぼえ)ける。軈(やが)て此(この)勢と打連(うちつ)れて、神奈河(かみながは)に著て鎌倉(かまくら)の様を問(とひ)給へば、「鎌倉(かまくら)には将軍の御子息(ごしそく)左馬(さまの)頭(かみ)基氏を警固(けいご)し奉て、南(みなみ)遠江守(とほたふみのかみ)、安房・上総の勢三千(さんぜん)余騎(よき)にて、けはひ坂・巨福呂(こふくろ)坂を切塞(きりふさい)で用心(ようじん)密(きびし)く見へ候(さうらひ)しが、昨日の朝(あした)敵三浦に有(あり)と聞て、打散(うちちら)さんとて向はれ候(さうらひ)しか共、虚言(そらごと)にて有(あり)けりとて、只今(ただいま)鎌倉(かまくら)へ打帰(うちかへらせ)給(たまひ)て候よ。」とぞ語りける。「さては只今(ただいま)の合戦ごさんなれ、爰(ここ)にて軍の用意(ようい)をせよ。」とて、兵粮(ひやうらう)を仕(つか)ひ馬に糟(ぬか)かはせて、三千(さんぜん)余騎(よき)二手(ふたて)に分て、鶴岳(つるがをか)へ旗指(はたさし)少々差遣(さしつかはし)て大御堂(おほみだう)の上より真下(まつくだり)にぞ押寄(おしよせ)たる。鎌倉勢(かまくらぜい)は只今(ただいま)三浦より打帰て、未(いまだ)馬の鞍をもをろさず鎧の上帯(うはおび)をも解(とか)ぬ程なれば、若宮小路(わかみやこうぢ)へ打出て、只一所に引(ひか)へたり。小俣(をまた)小輔次郎をば、今日の軍奉行と今朝より被定たりければ、手勢七十三騎ひつ勝(すぐつ)て、敵の村立(むらだつ)て引(ひか)へたる中へつと懸入(かけいり)、火を散(ちらし)て切乱(きりみだ)す。三浦・葦名(あしな)・二階堂(にかいだう)の兵共(つはものども)、案内は知たり、人馬は未疲(いまだつかれず)、此谷彼(ここのやつかしこ)の小路(こうぢ)より、どつと喚(をめい)ては懸入り、颯(さつ)と懸破(かけわつ)ては裏へ抜(ぬけ)、谷々(やつやつ)小路々々に入乱(いりみだれ)てぞ戦(たたかひ)たる。兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)義興は、浜面(はまおもて)の在家(ざいけ)のはづれにて、敵三騎切て落(おと)し、大勢の中をつと懸抜(かけぬけ)ける処にて、小手の手覆(たおほひ)を切(きり)ながさるゝ太刀にてゝ手綱(たづな)のまがりをづんと切(きら)れて、弓手(ゆんで)の片手綱(かたたづな)土にさがり馬の足に蹈(ふま)れけるを、太刀をば左の脇に挟(はさ)み、鐙(あぶみ)の鼻に落(おち)さがり、左右の手縄(たづな)を取合(とりあはせ)て結(むすば)れけるを、敵三騎能(よき)隙(ひま)哉と馳寄(はせよせ)て、胄(かぶと)の鉢(はち)と総角著(あげまきつけ)とを三打(みうち)四打(ようち)したゝかに切けれ共(ども)、義興些(すこし)も不騒、閑(しづか)に手綱(たづな)を結て鞍坪(くらつぼ)に直(なほ)り給へば、三騎の敵はつと馬を懸のけて、「あはれ大剛の武者や。」と、高声(かうじやう)に二声(ふたこゑ)三声(みこゑ)感じて御方の勢にぞ馳著(はせつき)たる。塔辻(たふのつじ)の合戦難義也(なり)と見へければ、脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)と、小俣(をまた)小輔二郎と一手(ひとて)に成て、二百(にひやく)余騎(よき)喚(をめ)ひて懸られけるに、南遠江守(とほたふみのかみ)被懸立て、旗を巻(まい)て引退くを見て、谷谷(やつやつ)に戦(たたかひ)ける兵共(つはものども)、十方へ落散(おちちり)ける間、一所に打寄(うちよる)事不叶して、百騎(ひやくき)二百騎(にひやくき)思々(おもひおもひ)に落て行(ゆく)。され共三浦・石堂が兵共(つはものども)、余に戦くたびれて、さして敵を不追ければ、南遠江守(とほたふみのかみ)は、今日の合戦に被打洩、左馬頭を具足し奉て、石浜(いしはま)を差(さし)て被落けり。新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)・脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)、二月十三日(じふさんにち)の鎌倉(かまくら)の軍に打勝てこそ、会稽(くわいけい)の恥を雪(きよむ)るのみに非(あら)ず、両大将と仰(あふ)がれて、暫(しばら)く八箇国(はちかこく)の成敗に被居けり。
○笛吹峠(うすひのたうげ)軍(いくさの)事(こと) S3104
新田武蔵守(むさしのかみ)は、将軍の御運に退緩(たいくわん)して、石浜の合戦に本意を不達しかば、武蔵(むさしの)国(くに)を前になし、越後・信濃を後(うしろ)に当て、笛吹(うすひの)峠に陣を取てぞおはしける。是(これ)を聞て打よる人々には、大江田(おいた)式部(しきぶの)大輔(たいふ)・上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)・子息兵庫(ひやうごの)助(すけ)・中条(ちゆうでう)入道・子息佐渡(さどの)守(かみ)・田中修理(しゆりの)亮(すけ)・堀口近江(あふみの)守(かみ)・羽河(はねかは)越中(ゑつちゆうの)守(かみ)・荻野(をぎの)遠江守(とほたふみのかみ)・酒勾(さかわ)左衛門四郎・屋沢(やざわ)八郎(はちらう)・風間(かざま)信濃(しなのの)入道(にふだう)・舎弟(しやてい)村岡(むらをか)三郎・堀兵庫(ひやうごの)助(すけ)・蒲屋(かまや)美濃(みのの)守(かみ)・長尾右衛門(うゑもん)・舎弟(しやてい)弾正忠(だんじやうのちゆう)・仁科(にしな)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・高梨(たかなし)越前守(ゑちぜんのかみ)・大田滝口(たきぐち)・干屋(ほしや)左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)・矢倉(やくら)三郎・藤崎(ふぢさき)四郎・瓶尻(みかじり)十郎・五十嵐文四(いがらしぶんし)・同文五・高橋大五郎・同大三郎・友野十郎・繁野(しげの)八郎(はちらう)・禰津(ねづ)小二郎・舎弟(しやてい)修理(しゆりの)亮(すけ)・神家(じんけの)一族(いちぞく)三十三人(さんじふさんにん)・繁野(しげのの)一族(いちぞく)二十一人、都合其(その)勢(せい)二万(にまん)余騎(よき)、先朝第二(だいにの)宮(みや)上野(かうづけの)親王(しんわう)を大将にて、笛吹(うすひの)峠へ打出る。将軍小手差原(こてさしはら)の合戦に無事故、石浜にをはする由聞へければ、馳参(はせまゐら)れける人々には、千葉(ちばの)介(すけ)・小山(をやまの)判官(はうぐわん)・小田(をだの)少将(せうしやう)・宇都宮(うつのみや)伊予(いよの)守(かみ)・常陸大丞(ひたちのたいじやう)・佐竹右馬助(うまのすけ)・同刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)・白河権(ごんの)少輔(せう)・結城(ゆふき)判官(はうぐわん)・長沼判官・河越(かはごえ)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・高坂(かうさか)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)・江戸(えど)・戸島(としま)・古尾谷(ふるをや)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)・三田(みた)常陸(ひたちの)守(かみ)・土肥(とひの)兵衛入道(ひやうゑにふだう)・土屋(つちや)備前(びぜんの)々司・同修理(しゆりの)亮(すけ)・同出雲(いづもの)守(かみ)・下条小三郎・二宮(にのみや)近江(あふみの)守(かみ)・同河内(かはちの)守(かみ)・同但馬(たぢまの)守(かみ)・同能登(のとの)守(かみ)・曾我(そが)上野(かうづけの)守(かみ)・海老名(えびな)四郎左衛門(しらうざゑもん)・本間(ほんま)・渋谷(しぶや)・曾我三河(みかはの)守(かみ)・同周防(すはうの)守(かみ)・同但馬(たぢまの)守(かみ)・同石見(いはみの)守(かみ)・石浜(いしはま)上野(かうづけの)守(かみ)・武田(たけだの)陸奥(むつの)守(かみ)・子息安芸(あきの)守(かみ)・同薩摩(さつまの)守(かみ)・同弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・小笠原・坂西(はんぜい)・一条三郎・板垣(いたがき)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)・逸見(へんみ)美濃(みのの)守(かみ)・白州(しらす)上野(かうづけの)守(かみ)・天野(あまの)三河(みかはの)守(かみ)・同和泉(いづみの)守(かみ)・狩野介(かののすけ)・長峯(ながみね)勘解由左衛門(かげゆざゑもん)、都合其(その)勢八万(はちまん)余騎(よき)、将軍の御陣へ馳参る。鎌倉(かまくら)には、義興・義治(よしはる)七千(しちせん)余騎(よき)にて、著到(ちやくたう)を付(つく)ると聞へ、武蔵には新田義宗・上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)、二万(にまん)余騎(よき)にて引(ひか)へたりと聞ゆ。何(いづ)くへ可向と評定有(あり)けるが、先(まづ)勢(せい)の労(らう)せぬ前(さき)に、大敵に打勝(うちかち)なば、鎌倉(かまくら)の小勢は不戦共可退散、衆議一途(いちづ)に定(さだまり)て、将軍同(おなじき)二月二十五日石浜を立て、武蔵(むさしの)府(ふ)に著(つき)給へば、甲斐(かひの)源氏・武田(たけだの)陸奥(むつの)守(かみ)・同刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)・子息修理(しゆりの)亮(すけ)・武田(たけだの)上野(かうづけの)守(かみ)・同甲斐(かひの)前司(ぜんじ)・同安芸(あきの)守(かみ)・同弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・舎弟(しやてい)薩摩(さつまの)守(かみ)・小笠原近江(あふみの)守(かみ)・同三河(みかはの)守(かみ)・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)・一条四郎・板垣(いたがき)四郎・逸見(へんみ)入道・同美濃(みのの)守(かみ)・舎弟(しやてい)下野(しもつけの)守(かみ)・南部(なんぶ)常陸(ひたちの)守(かみ)・下山(しもやま)十郎左衛門、都合二千(にせん)余騎(よき)にて馳参る。同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)将軍笛吹(うすひの)峠へ押寄(おしよせ)て、敵の陣を見給へば、小松生茂(おひしげつ)て前に小河流(ながれ)たる山の南を陣に取て、峯には錦(にしき)の御旗(おんはた)を打立(うちたて)、麓には白旗・中黒・棕櫚葉(しゆろのは)・梶葉(かじのは)の文書(もんかき)たる旗共(はたども)、其(その)数満々(みちみち)たり。先(まづ)一番に荒手(あらての)案内者(あんないしや)なればとて、甲斐(かひの)源氏三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄(おしよせ)たり。新田武蔵守(むさしのかみ)と戦ふ。是(これ)も荒手(あらて)の越後勢(ゑちごぜい)、同三千(さんぜん)余騎(よき)にて相懸りに懸りて半時許(はんじばかり)戦ふに、逸見(へんみ)入道以下宗(むね)との甲斐源氏共百(ひやく)余騎(よき)討(うた)れて引退く。二番に千葉・宇都宮(うつのみや)・小山(をやま)・佐竹が勢(せい)相集(あひあつまり)て七千(しちせん)余騎(よき)、上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)が陣へ押寄(おしよせ)て入乱々々(いりみだれいりみだれ)戦ふに、信濃勢二百(にひやく)余騎(よき)討(うた)れければ、寄手(よせて)も三百(さんびやく)余騎(よき)討れて相引(あひびき)に左右へ颯(さつ)と引(ひく)。引けば両陣入替(いれかはつ)て追つ返つ、其(その)日(ひ)の午刻(むまのこく)より酉(とりの)刻(こく)の終(をはり)まで少しも休む隙(ひま)なく終日(ひねもす)戦ひ暮してけり。夫(そ)れ小勢を以て大敵に戦ふは鳥雲(てううん)の陣にしくはなし。鳥雲の陣と申(まうす)は、先(まづ)後(うしろ)に山をあて、左右に水を堺(さか)ふて敵を平野に見下(みおろ)し、我(わが)勢の程を敵に不見して、虎賁狼卒(こほんらうそつ)替る/\射手(いて)を進めて戦ふ者也(なり)。此(この)陣幸(さいはひ)に鳥雲に当れり。待て戦はゞ利あるべかりしを、武蔵守(むさしのかみ)若武者(わかむしや)なれば、毎度広(ひろ)みに懸出て、大勢に取巻(とりまか)れける間、百度(ももたび)戦ひ千度(ちたび)懸破るといへ共、敵目に余る程の大勢なれば、新田・上杉遂(つひ)に打負(うちまけ)て、笛吹(うすひの)峠へぞ引上りける。上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)が兵に、長尾弾正・根津(ねづ)小次郎とて、大力の剛(かうの)者あり。今日の合戦に打負(うちまけ)ぬる事、身一の恥辱(ちじよく)也(なり)と思(おもひ)ければ、紛(まぎ)れて敵の陣へ馳入(はせいり)、将軍を討奉らんと相謀(はかつ)て、二人(ににん)乍(なが)ら俄(にはか)に二(ふた)つ引両(びきりやう)の笠符(かさじるし)を著替(つけか)へ、人に見知(みしら)れじと長尾は乱髪(みだれがみ)を顔へ颯(さつ)と振り懸け、根津は刀を以(もつ)て己が額(ひたひ)を突切(つききり)て、血を面(おもて)に流しかけ、切て落(おと)したりつる敵の頚(くび)鋒(きつさき)に貫(つらぬ)き、とつ付(つけ)に取著(とりつけ)て、只(ただ)二騎将軍の陣へ馳入る。数万の軍勢(ぐんぜい)道に横(よこたはつ)て、「誰が手(て)の人ぞ。」と問(とひ)ければ、「是(これ)は将軍の御内(みうち)の者にて候が、新田の一族(いちぞく)に、宗(むね)との人々を組討(くみうち)に討て候間、頚実検(くびじつけん)の為に、将軍の御前(おんまへ)へ参(まゐり)候也(なり)。開(あけ)て通され候へ。」と、高らかに呼(よばはり)て、気色(きしよく)ばうて打通れば、「目出(めで)たう候。」と感ずる人のみ有て、思(おもひ)とがむる人もなし。「将軍は何(いづ)くに御座候やらん。」と問へば、或人、「あれに引(ひか)へさせ給ひて候也(なり)。」と、指差(ゆびさし)て教ふ。馬の上よりのびあがりみければ、相隔(あひへだ)たる事草鹿(くさじし)の的山計(あづちばかり)に成(なり)にける。「あはれ幸(さいはひ)や、たゞ一太刀(ひとたち)に切て落さんずる者を。」と、二人(ににん)屹(きつ)と目くはせして、中々馬を閑々(しづしづ)と歩ませける処に、猶(なほ)も将軍の御運や強かりけん、見知(みしる)人有て、「そこに紛(まぎれ)て近付(ちかづく)武者は、長尾弾正と根津小次郎とにて候は。近付てたばからるな。」と呼(よばは)りければ、将軍に近付(ちかづき)奉らせじと、武蔵・相摸の兵共(つはものども)、三百(さんびやく)余騎(よき)中を隔(へだ)て左右より颯(さつ)と馳寄る。根津と長尾と、支度(したく)相違(さうゐ)しぬと思(おもひ)ければ、鋒(きつさき)に貫(つらぬ)きたる頚を抛(なげ)て、乱髪(みだれがみ)を振揚(ふりあげ)、大勢の中を破(わつ)て通る。彼等二人(ににん)が鋒(きつさき)に廻(まは)る敵、一人として甲(かぶと)の鉢(はち)を胸板(むねいた)まで真二(まつふたつ)に破著(わりつ)けられ、腰のつがひを切て落されぬは無りけり。され共敵は大勢也(なり)。是等(これら)は只二騎なり、十方より矢衾(やぶすま)を作て散々に射ける間、叶はじとや思(おもひ)けん、「あはれ運強(つよ)き足利殿(あしかがどの)や。」と高らかに欺(あざむい)て、閑々(しづしづ)と本陣へぞ帰りける。夜に入(いり)ければ、両陣共に引退(ひきしりぞき)て陣々に篝(かがり)を焼(たき)たるに、将軍の御陣を見渡せば、四方(しはう)五六里に及て、銀漢(ぎんかん)高くすめる夜に、星を列(つらぬ)るが如くなり。笛吹(うすひの)峠を顧(かへりみ)れば、月に消行(きえゆく)蛍火(ほたるび)の山陰(やまかげ)に残るに不異。義宗也(これ)を見給て、「終日(ひねもす)の合戦に、兵若干(そくばく)討れぬといへ共、是(これ)程まで陣の透(すく)べしとは覚(おぼえ)ぬに、篝(かがり)の数の余(あま)りにさびしく見(みゆ)るは、如何様(いかさま)勢の落行(おちゆく)と覚(おぼゆ)るぞ。道々に関を居(すゑ)よ。」とて、栽田山(うえたやま)と信濃路(しなのぢ)に、稠(きびし)く関を居(すゑ)られたり。「夫(それ)士率将を疑ふ時は戦不利云(いふ)事あり。前には大敵勝(かつ)に乗て、後(うしろ)は御方(みかた)の国国なれば、今夜一定(いちぢやう)越後・信濃へ引返さんずらんと、我を疑はぬ軍勢(ぐんぜい)不可有。舟を沈(しづ)め糧(かて)を捨て、二度(ふたた)び帰(かへら)じと云(いふ)心を示すは良将の謀(はかりこと)なり。皆馬の鞍(くら)をゝろし鎧(よろひ)を脱(ぬい)で、引(ひく)まじき気色、人に見せよ。」とて、大将鎧を脱(ぬぎ)給へば士率悉(ことごとく)鞍をおろして馬を休む。宵(よひ)の程は皆心を取静めて居たりけるが、夜半許(ばかり)に続松(たいまつ)をびたゝしく見へて、将軍へ大勢のつゞく勢見へければ、明日の戦も叶はじとや思はれけん、上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)、篝計(かがりばかり)を焼棄(やきすて)て、信濃へ落(おち)にければ、新田武蔵守(むさしのかみ)、其(その)暁越後へ落(おち)られけり。斯(かか)りし後は、只今(ただいま)まで新田・上杉に付順(つきしたがひ)つる武蔵・上野の兵共(つはものども)も、未(いまだ)何方(いづかた)へも不著して、一合戦(ひとかつせん)の勝負を伺(うかが)ひ見つる上総・下総の者共(ものども)も、我前(さき)にと将軍へ馳参りける程に、其(その)勢無程百倍(ひやくばい)して、八十万騎(はちじふまんぎ)に成(なり)にけり。新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興・脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治(よしはる)は、六千(ろくせん)余騎(よき)にて尚(なほ)鎌倉(かまくら)にをはしけるが、将軍已(すで)に笛吹(うすひの)峠の合戦に打勝て、八箇国(はちかこく)の勢を卒(そつ)して、鎌倉(かまくら)へ寄(よせ)給ふ由(よし)聞へければ、義興も義治(よしはる)も、只此(ここ)にて討死せんと宣ひけるを、松田・河村の者共(ものども)、「某等(それがしら)が所領の内、相摸河の河上に究竟(くつきやう)の深山(みやま)候へば、只それへ先(まづ)引篭(ひきこも)らせ給て、京都の御左右をも聞召し、越後信乃(しなの)の大将達へも被牒合候(さふらひ)て、天下の機を得、諸国の兵を集(あつめ)てこそ重(かさね)て御合戦も候はめ。」と、より/\強(しひ)て申(まうし)ければ、義興・義治(よしはる)諸共(もろとも)に、三月四日鎌倉(かまくら)を引て、石堂・小俣(をまた)・二階堂(にかいだう)・葦名判官・三浦(みうらの)介(すけ)・松田・河村・酒勾(さかわ)以下、六千(ろくせん)余騎(よき)の勢を卒(そつ)して、国府津山(こふづやま)の奥にぞ篭(こも)りける。
○八幡(やはた)合戦事(こと)付(つけたり)官軍(くわんぐん)夜討(ようちの)事(こと) S3105
都には去月二十日の合戦に打負(うちまけ)て、足利宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)殿(どの)は近江(あふみの)国(くに)へ落させ給ひ、持明院の本院(ほんゐん)・新院・主上(しゆしやう)・春宮(とうぐう)は、皆捕(とら)はれさせ給て、賀名生(あなふ)に遷幸(せんかう)成(なり)ぬ。吉野の主上(しゆしやう)は猶(なほ)世を危(あやぶみ)て、八幡に御座(ござ)あり。月卿(げつけい)雲客(うんかく)は、西山・東山・吉峯(よしみね)・鞍馬の奥などに逃隠(にげかく)れてをはすれば、帝城の九禁(きうきん)いつしか虎賁猛将(こふんまうしやう)の備(そな)へもなく、朝儀(てうぎ)大礼(たいれい)の沙汰も無(なく)て、野干(やかん)の棲(すみか)と成(なり)にけり。桓武(くわんむ)の聖代此(この)四神(ししん)相応(さうおう)の地を撰(えらん)で、東山に将軍塚(しやうぐんづか)を築(つか)れ、艮(うしとら)の方に天台山を立て、百王万代(ばんだい)の宝祚(はうそ)を修(しゆ)し置(おか)れし勝地(しようち)なれば、後五百歳(ごごひやくさい)未来永々(みらいやうやう)に至るまで、荒廃(くわうはい)非(あら)じとこそ覚(おぼえ)つるに、こはそも何(いか)に成(なり)ぬる世の中ぞやと、歎かぬ人も無りけり。宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)は、近江の四十九院(しじふくゐん)に、はる/゛\とをはしけれ共(ども)、土岐・佐々木(ささき)が外は、相従ふ勢も無(なか)りしが、東国の合戦に、将軍勝(かち)給(たまひ)ぬと聞へて、後(うしろ)より勢の付(つき)奉る事如雲霞。さらば軈(やが)て京都へ寄せよとて、三月十一日四十九院(しじふくゐん)を立て、三万(さんまん)余騎(よき)先(まづ)伊祇代(いぎす)三大寺にして手を分つ。或(あるひは)漫々(まんまん)たる湖上に、山田・矢早瀬(やばせ)の渡舟(わたしぶね)の棹(さをさ)す人もあり。或(あるひ)は渺々(べうべう)たる沙頭(しやとう)に、堅田(かただ)・高島(たかしま)を経て駒に鞭(むち)うつ勢もあり。旌旗(せいき)水烟(すゐえん)に翻(ひるがへつ)て、竜蛇(りようじや)忽(たちまちに)天にあがり、甲胄(かつちう)夕陽(せきやう)に耀(かかやい)て、星斗(せいと)則(すなはち)地に列(つら)なる。中の院の宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)具忠(ともただ)卿(きやう)、千(せん)余騎(よき)にて此(この)勢を防(ふせが)ん為に、大津辺(おほつへん)に控(ひかへ)られたりけるが、敵の大勢なる体(てい)を見て、戦ふ事不叶とや思はれけん。敵の未(いまだ)不近前(さき)に八幡(やはた)へ引返さる。同(おなじき)十五日宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)京都に発向(はつかう)して、東山に陣をめさるれば、宮方(みやがた)の大将北畠(きたばたけ)右衛門(うゑもんの)督(かみ)顕能(あきよし)、都を去て淀(よど)・赤井に陣を取る。同(おなじき)十七日(じふしちにち)に宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)下京(しもぎやう)に御移(おんうつり)有て、東寺に御陣を召(めさ)るれば、顕能卿淀河(よどかは)を引て、八幡の山下(さんげ)に陣をとる。未(いまだ)戦(たたかはざる)前(さき)に宮方(みやがた)の大将陣を去(さる)事三箇度(さんがど)なれば、行末とてもさぞ有(あら)んずらめと、憑(たのみ)少なくぞ見(みえ)たりける。さは有り乍(なが)ら、八幡は究竟(くつきやう)の要害なるに、赤井の橋を引て、畿内(きない)の官軍(くわんぐん)七千(しちせん)余騎(よき)にて楯篭(たてこも)りたり。三方(さんぱう)は大河(たいか)隔(へだたつ)て橋もなく舟もなし。宇治路(うぢぢ)を後(うしろ)へ廻(まは)らば、前後皆敵陣にはさまりて、進退(しんたい)心安(こころやす)かるまじ、如何すべきと評定有て、東寺には猶(なほ)国々の勢を待(また)れける処に、細川陸奥(むつの)守(かみ)四国の勢を率(そつ)して、三千(さんぜん)余騎(よき)にて上洛(しやうらく)せらる。又赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)は、吉野殿(よしのどの)より宮を一人申(まうし)下(くだ)し進(まゐら)せて、今までは宮方(みやがた)を仕(つかまつ)る由(よし)にて有(あり)けるが、是(これ)もいかゞ思案したりけん。宮方(みやがた)を背(そむ)きて京都へ馳(はせ)来りければ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)は竜(りよう)の水を得、虎の山に靠(よりかかる)が如くに成て、勢(いきほひ)京畿(けいき)を掩(おほへ)り。同三月二十四日、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)三万(さんまん)余騎(よき)の勢を率(そつ)し、宇治路(うぢぢ)を回(まはつ)て木津河(こつがは)を打渡り、洞峠(ほらがたうげ)に陣を取(とら)んとす。是(これ)は河内・東条(とうでう)の通路(つうろ)を塞(ふさぎ)て、敵を兵粮に攻(つめ)ん為也(なり)。八幡より北へは、和田五郎・楠次郎左衛門(じらうざゑもん)とを向(むけ)られけるが、楠は今年二十三、和田は十六(じふろく)、何(いづ)れも皆若武者(わかむしや)なれば思慮なき合戦をや致さんずらんと、諸卿悉(ことごと)く危み思はれけるに、和田五郎参内して申けるは、「親類兄弟悉(ことごとく)度々(どど)の合戦に、身を捨(すて)討死仕(つかまつり)候(さうらひ)畢(をはんぬ)。今日の合戦は又公私(こうし)の一大事(いちだいじ)と存ずる事にて候上は、命を際(きは)の合戦仕て、敵の大将を一人討取(うちとり)候はずは、生(いき)て再(ふたた)び御前(おんまへ)へ帰り参る事候まじ。」と、申切て罷(まかり)出ければ、列座の諸卿・国々の兵、あはれ代々(だいだい)の勇士(ゆうし)也(なり)と、感ぜぬ人は無(なか)りけり。去(さる)程(ほど)に和田・楠・紀伊(きいの)国(くにの)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、皆荒坂山(あらさかやま)へ打向て爰(ここ)を支(ささへ)んと引(ひか)へたれば、細河(ほそかは)相摸守(さがみのかみ)清氏・同陸奥(むつの)守(かみ)顕氏・土岐大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)・舎弟(しやてい)悪五郎(あくごらう)、六千(ろくせん)余騎(よき)にて押寄(おしよせ)たり。山路(やまぢ)嶮(けは)しく、峯高く峙(そばだち)たれば、麓より皆馬を蹈放(ふみはな)ち/\、かづき連(つれ)てぞ上(のぼり)たりける。斯(かか)る軍(いくさ)に元来(ぐわんらい)馴(なれ)たる大和・河内の者共(ものども)なれば、岩の陰(かげ)、岸の上に走り渡て散々(さんざん)に射る間、面(おもて)に立つ土岐と細河(ほそかは)が兵共(つはものども)、射(い)しらまされて不進得。土岐悪五郎(あくごらう)は、其(そ)の比(ころ)天下に名を知(しら)れたる大力の早わざ、打物取て達者也(なり)ければ、卯(う)の花威(はなをどし)の鎧に鍬形(くはがた)打て、水色の笠符(かさじるし)吹流させ、五尺(ごしやく)六寸(ろくすん)の大太刀抜(ぬい)て引側(ひきそば)め、射向(いむけ)の袖を振(ふり)かざいて、遥(はるか)に遠き山路(やまぢ)を只(ただ)一息に上らんと、猪(ゐのしし)の懸(かか)る様(やう)に、莞爾(につこと)笑(わらひ)上りけるを、和田五郎あはれ敵やと打見て、突(つい)たる楯をかはと投(なげ)棄て、三尺(さんじやく)五寸(ごすん)の小長刀、茎短(くきみじか)に取て渡(わたり)合ふ。爰(ここ)に相摸守(さがみのかみ)が郎従に、関左近(さこんの)将監(しやうげん)と云ける兵、土岐が脇よりつと走(はしり)抜(ぬけ)て、和田五郎に打て蒐(かか)る。和田が中間是(これ)を見て、小松の陰(かげ)より走出て、近々と攻(つめ)寄て、十二束三伏(じふにそくみつぶせ)暫(しばらく)堅(かた)めて放つ矢、関将監(しやうげん)がゝらどうを、くさ目どほしに射抜(いぬか)れて、小膝をついてぞ臥(ふし)たりける。悪五郎(あくごらう)走(はしり)寄て引起(おこ)さんとしける処を、又和田が中間二の矢を番(つが)ふて、悪五郎(あくごらう)が脇立(わいだて)のつぼの板、くつ巻(まき)せめてぞ射こうだる。関将監(しやうげん)是(これ)を見て、今は可助く人なしと思(おもひ)けるにや、腰の刀を抜(ぬい)て腹を切(きら)んとしけるを、悪五郎(あくごらう)、「暫し自害なせそ、助けんずる。」とて、つぼ板に射立(いたて)られたる矢をば、脇立(わいだて)ながら引切て投棄(なげすて)、かゝる敵を五六人切臥(きりふせ)、関将監(しやうげん)を左の小脇(こわき)に挟(さしはさ)み、右手にて件(くだん)の太刀を打振(うちふり)々々(うちふり)、近付(ちかづ)く敵を打払て、三町(さんちやう)許(ばかり)ぞ落(おち)たりける。跡に続ひて何(いづ)くまでもと追懸(おひかけ)ける和田五郎も討遁(うちのが)しぬ。不安思ひける処に、悪五郎(あくごらう)が運や尽(つき)にけん、夕立(ゆふだち)に掘(ほれ)たる片岸(かたきし)の有(あり)けるを、ゆらりと越(こえ)けるに、岸の額(ひたひ)のかた土(つち)くわつと崩(くづ)れて、薬研(やげん)のやうなる所へ、悪五郎(あくごらう)落(おち)ければ、走(わしり)寄て長刀の柄(え)を取延(とりのべ)、二人(ににん)の敵をば討てげり。入乱れたる軍(いくさ)の最中(さいちゆう)なれば、頚(くび)を取(とる)までもなし。悪五郎(あくごらう)が引切て捨(すて)たりつる、脇立許(わいだてばかり)を取て、討たる証拠(しようご)に備(そな)へ、身に射立(いたて)ふれたる矢ども少々折懸(をりかけ)て、主上(しゆしやう)の御前(おんまへ)へ参り合戦の体(てい)を奏し申せば、「初め申つる言(こと)ばに少しも不違、大敵の一将を討取て数箇所(すかしよ)の疵(きず)を被(かうむ)りながら、無恙して帰り参る条(でう)、前代未聞(ぜんだいみもん)の高名也(なり)。」と、叡感更(さら)に不浅。悪五郎(あくごらう)討(うた)れて官軍(くわんぐん)利を得たりといへ共、寄手(よせて)目に余る程の大勢なれば、始終此(こ)の陣には難怺とて、楠次郎左衛門(じらうざゑもん)夜に入て八幡へ引返せば、翌日朝敵(てうてき)軈(やが)て入替て、荒坂山に陣を取る。然(しかれ)ども官軍(くわんぐん)も不懸、寄手(よせて)も不攻上、八幡を遠攻(とほぜめ)にして四五日を経(へ)る処に、山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏、出雲・因幡・伯耆三箇国(さんかこく)の勢(せいを)卒(そつ)して上洛(しやうらく)す。路次(ろし)の遠きに依て、荒坂山の合戦にはづれぬる事、無念に思はれける間、直(すぐ)に八幡へ推寄(おしよせ)て一軍(ひといくさ)せんとて淀より向はれけるが、法性寺(ほふしやうじ)の左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)爰(ここ)に陣を取て、淀の橋三間(さんげん)引落(ひきおと)し、西の橋爪(はしづめ)に掻楯(かいだて)掻(かい)て相待(あひまち)ける間、橋を渡る事は叶はず、さらば筏(いかだ)を作り渡せとて、淀の在家(ざいけ)を壊(こぼち)て筏を組(くみ)たれば、五月の霖(ながさめ)に水増(まさ)りて押流されぬ。数日(すじつ)有て後、淀の大明神(だいみやうじん)の前に浅瀬有(あり)と聞出して、二千(にせん)余騎(よき)を一手(ひとて)になし、流(ながれ)を截(きつ)て打渡すに、法性寺の左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)只(ただ)一騎(いつき)、馬のかけあがりに控(ひか)へて、敵三騎切て落(おと)し、のりたる太刀を押直(おしなほ)して、閑々(しづしづ)と引て返れば、山名が兵三千(さんぜん)余騎(よき)、「大将とこそ見奉るに、蓬(きたな)くも敵に後(うしろ)をば見せられ候者哉(かな)。」とて追懸(おひかけ)たり。「返すに難き事か。」とて、兵衛(ひやうゑの)督(かみ)取て返してはつと追散(おつちら)し、返し合(あはせ)ては切て落(おと)し、淀の橋爪より御山(おやま)まで、十七度(じふしちど)迄(まで)こそ返されけれ。され共馬をも切(きら)れず、我身も痛手を負(おは)ざれば、袖の菱縫(ひしぬひ)吹返しに立(たつ)処の矢少々折(をり)懸(かけ)て、御山の陣へぞ帰られける。山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)、財園院(ざいをんゐん)に陣をとれば、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)猶(なほ)守堂口(もりだうぐち)に支(ささへ)て防(ふせ)がんとす。四月二十五日、四方(しはう)の寄手(よせて)同時に牒(てふ)し合(あは)せて攻(せめ)戦ふ。顕能卿の兵、伊賀・伊勢の勢三千(さんぜん)余騎(よき)にて、園殿口(そのどのぐち)に支(ささへ)て戦ふ。和田・楠・湯浅・山本・和泉・河内の軍勢(ぐんぜい)は、佐羅科(さらしな)に支(ささへ)て戦ふ。軍未(いまだ)半(なかば)なるに、高橋の在家(ざいけ)より神火燃(もえ)出て、魔風十方に吹懸(ふきかけ)ける程に、官軍(くわんぐん)烟(けむり)に咽(むせん)で防がんとするに叶はねば、皆八幡の御山へ引上(ひきあが)る。四方(しはう)の寄手(よせて)二万(にまん)余騎(よき)、則(すなはち)洞峠(ほらがたうげ)へ打上りて、土岐・佐々木(ささき)・山名・赤松・々田・飽庭(あくは)・宮(みやの)入道(にふだう)、一勢(いつせい)々々(いつせい)数十箇所(すじつかしよ)に陣を取(とり)、鹿垣(ししがき)結(ゆう)て、八幡山(やはたやま)を五重六重(いつへむへ)にぞ取巻(とりまき)ける。細河(ほそかは)陸奥(むつの)守(かみ)・同相摸守(さがみのかみ)は、真木(まき)・葛葉(くずは)を打廻(うちまはつ)て、八幡の西の尾崎(をさき)、如法経塚(によほふきやうづか)の上に陣を取て、敵と堀一重を隔(へだて)てぞ攻(せめ)たりける。五月四日、官軍(くわんぐん)七千(しちせん)余騎(よき)が中より夜討に馴(なれ)たる兵八百人(はつぴやくにん)を勝(すぐ)りて、法性寺左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)に付(つけ)らる。左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)昼程(ひるほど)より此(この)勢を吾(わが)陣へ集(あつめ)て、笠符(かさじるし)を一様(いちやう)に著(つけ)させ、誰(た)そと問(とは)ば、進(すすむ)と名のるべしと約束して、夜已(すで)に二三更(にさんかう)の程也(なり)ければ、宿院(しゆくゐん)の後(うしろ)を廻(まはつ)て如法経塚へ押寄(おしよせ)、八百人(はつぴやくにん)の兵共(つはものども)、同音に時をどつと作る。細河(ほそかは)が兵三千(さんぜん)余人(よにん)、暗さは闇(くら)し分内(ぶんない)はなし、馬放れ人騒(さわい)で、太刀をも不抜得、弓をも不挽得ければ、手負(ておひ)、討(うた)るゝ者数を不知(しらず)。遥(はるか)なる谷底へ人なだれをつかせて追(おひ)落されければ、馬・物具(もののぐ)を捨(すて)たる事、幾千万(いくせんまん)共(とも)難知。一陣破(やぶる)れば残党全(まつた)からじと見る処に、土岐・佐々木(ささき)・山名・赤松が陣は些(すこし)も動かず、鹿垣(ししがき)密(きびし)く結(ゆう)て用心(ようじん)堅(かたく)見へたれば、夜討に可打様もなく、可打散便(たよ)りも無(なか)りけり。角(かく)ては何(いつ)までか可怺、和田・楠を河内(かはちの)国(くに)へ返(かへし)て、後攻(ごづめ)をせさせよとて、彼等両人を忍(しのび)て城より出して、河内(かはちの)国(くに)へぞ遣(つかは)されける。八幡には此後攻(このごづめ)を憑(たのみ)て今や/\と待(まち)給(たまひ)ける処に、是(これ)を我(わが)大事(だいじ)と思入れて引立(ひきたち)ける和田五郎、俄(にはか)に病出して、無幾程も死にけり。楠は父にも不似兄にも替(かは)りて、心少(すこ)し延(のび)たる者也(なり)ければ、今日よ明日よと云(いふ)許(ばかり)にて、主上(しゆしやう)の大敵に囲まれて御座(ござ)あるを、如何(いかが)はせんとも心に不懸けるこそ方見(うたて)けれ。尭(げう)の子(こ)尭(げう)の如くならず、舜(しゆん)の弟(おとと)舜に不似とは乍云、此(この)楠は正成が子也(なり)。正行が弟也(なり)。何(いつ)の程にか親に替(かは)り、兄に是(これ)まで劣るらんと、謗(そし)らぬ人も無(なか)りけり。
○南帝八幡御退失(たいしつの)事(こと) S3106
三月十五日より軍(いくさ)始(はじまり)て、已(すで)に五十(ごじふ)余日(よにち)に及べば、城中(じやうちゆう)には早兵粮(ひやうらう)を尽(つく)し、助(たすけ)の兵を待(まつ)方(かた)もなし。角(かく)ては如何(いか)が可有と、云囁(いひささやく)程こそあれ。軈(やが)て人々の気色(けしき)替(かはつ)て、只(ただ)落支度(おちじたく)の外はする態(わざ)もなし。去(さる)程(ほど)に是(これ)ぞ宗(むね)との御用(ごよう)にも立(たち)ぬべき伊勢の矢野(やのの)下野(しもつけの)守(かみ)・熊野湯河庄司(くまののゆかはのしやうじ)、東西の陣に幕(まく)を捨(すて)て、両勢三百(さんびやく)余騎(よき)降人(かうにん)に成て出にけり。城の案内敵に知れなば、落(おつ)る共落(おち)得じ。さらば今夜主上(しゆしやう)を落(おと)し進(まゐらせ)よとて、五月十一日の夜半計(やはんばかり)に、主上(しゆしやう)をば寮(れう)の御馬(おんむま)に乗進(のせまゐら)せて、前後に兵共(つはものども)打囲(うちかこ)み、大和路(やまとぢ)へ向て落(おち)させ給へば、数万の御敵(おんてき)前(まへ)を要(よぎ)り跡(あと)に付て討留進(うちとめまゐ)らせんとす。依義軽命官軍共(くわんぐんども)、返し合せては防ぎ、打破ては落(おと)し進(まゐ)らするに、疵(きず)を被(かうむつ)て腹を切り、蹈留(ふみとどまつ)て討死する者三百人(さんびやくにん)に及べり。其(その)中に宮一人討(うた)れさせ給ひぬ。四条(しでうの)大納言(だいなごん)隆資(たかすけ)・円明院(ゑんみやうゐん)大納言(だいなごん)・三条(さんでうの)中納言(ちゆうなごん)雅賢(まさかた)卿(きやう)も討(うた)れ給ひぬ。主上(しゆしやう)は軍勢(ぐんぜい)に紛(まぎ)れさせ給はん為に、山本判官が進(まゐら)せたりける黄糸の鎧をめして、栗毛(くりげ)なる馬にめされたるを、一宮(いちのみや)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)有種(ありたね)追蒐進(おひかけまゐら)せて、「可然大将とこそ見進(まゐら)せ候。蓬(きたな)くも敵に被追立、一度(いちど)も返させ給はぬ者哉(かな)。」と呼(よば)はり懸て、弓杖(ゆんづえ)三杖(みつゑ)許(ばかり)近付(ちかづき)たりけるを、法性寺左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)屹(きつ)と顧(かへりみ)て、「悪(にく)ひ奴原(やつばら)が云様哉(かな)。いで己(おのれ)に手柄(てがら)の程を見せん。」とて、馬より飛(とん)で下(お)り、四尺(ししやく)八寸(はつすん)の太刀を以て、甲(かぶと)の鉢を破(われ)を砕けよとぞ打(うた)れたる。さしもしたゝかなる一宮(いちのみや)、尻居(しりゐ)にどうど打居(うちすゑ)られて、目くれ胆(きも)消(きえ)にければ、暫(しばら)く心を静めんと、目を塞(ふさ)ぎて居たる間に、主上(しゆしやう)遥(はるか)に落延(おちのび)させ給ひにけり。古津河(こつかは)の端(はし)を西に傍(そう)て、御馬(おんむま)を早めらるゝ処に、備前の松田・備後の宮(みや)の入道が兵共(つはものども)、二三百騎(にさんびやくき)にて取篭(とりこめ)奉る。十方より如雨降射る矢なれば、遁(のが)れ給ふべし共不見けるが、天地神明の御加護も有(あり)けるにや、御鎧の袖・草摺(くさずり)に二筋(ふたすぢ)当りける矢も、曾(かつ)て裏をぞかゝざりける。法性寺左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)、是(これ)までも尚(なほ)離れ進(まゐら)せず、只一騎(いつき)供奉(ぐぶ)したりけるが、迹(あと)より敵懸(かか)れば引返して追散(おひちら)し、敵前を遮(さへぎ)れば懸破て、主上(しゆしやう)を落(おと)し進(まゐ)らせける処に、何(いづく)より来るとも不知御方の兵百騎(ひやくき)計(ばかり)、皆中黒(なかぐろ)の笠符(かさじるし)著(つけ)て、御馬(おんむま)の前後に候(さうらひ)けるが、近付(ちかづく)敵を右往左往(うわうさわう)に追散して、かき消(けす)様に失(うせ)にければ、主上(しゆしやう)は玉体無恙して東条へ落(おち)させ給(たまひ)にけり。内侍所の櫃(ひつ)をば、初め給(たまはつ)て持(もち)たりける人が田の中に捨(すて)たりけるを、伯耆(はうきの)大郎左衛門長生(ながなり)、著たる鎧を脱捨(ぬぎすて)て、自(みづから)荷担(かたん)したりける。迹より追(おふ)敵共(てきども)、蒔(まき)捨(すつ)る様に射ける矢なれば、御櫃の蓋(ふた)に当る音、板屋を過(すぐ)る村雨(むらさめ)の如し。され共身には一筋(ひとすぢ)も不立ければ、長生(ながなり)兔角(とかく)かゝくり付(つい)て、賀名生(あなふ)の御所へぞ参りける。多くの矢共御櫃に当りつれば、内侍所も矢や立(たた)せ給ひたるらんと、浅猿(あさまし)くて御櫃を見進(まゐら)せたれば、矢の跡は十三まで有けるが、纔(わづか)に薄き桧木板(ひのきいた)を射徹(いとほ)す矢の一筋(ひとすぢ)も無(なか)りけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。今度忻(たばかり)て京都を攻(せめ)られん為に、先(まづ)住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)へ行幸成(なり)たりし時、児島(こじま)三郎入道志純(しじゆん)も召(めさ)れて参りたりけるを、「是(これ)が一大事(いちだいじ)なれば急(いそぎ)東国・北国に下て、新田(につた)義貞(よしさだ)が甥(をひ)・子共に義兵を興(おこ)させ、小山(をやま)・宇都宮(うつのみや)以下、便宜(びんぎ)の大名を語(かたら)ひて、天下の大功を即時(そくじ)に致す様に、智謀を運(めぐら)せ。」と仰(おほせ)出されければ、志純夜を日に継(つい)で関東(くわんとう)へ下(くだ)りたれば、東国の合戦早(はや)事散(さん)じて、新田義興・義治(よしはる)は河村の城(じやう)に楯篭(たてこも)り、武蔵守(むさしのかみ)義宗は越後国(ゑちごのくに)にぞ居たりける。勅使(ちよくし)東国・北国に行向(ゆきむかう)て、「君已(すで)に大敵に囲(かこま)れさせ給ひて助(たすけ)の兵、力労(つかれ)ぬ。若(もし)神竜(しんりよう)化(け)して釣者(てうしや)の為に捕(とら)はれさせ給ひなば、天下誰が為にか争(あらそ)はん。」と、依義重可軽命習(ならひ)を申ければ、小山(をやま)五郎・宇都宮(うつのみや)少将(せうしやう)入道も、「勅定(ちよくぢやう)に随(したが)ふ也(なり)。」とて、東国静謐(せいひつ)の計略を可運由約諾(やくだく)す。義興・義治(よしはる)は尚(なほ)東国に止(とどまり)て将軍と戦ひ、新田武蔵守(むさしのかみ)義宗・桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常・上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)・吉良(きら)三郎満貞(みつさだ)・石堂入道、東山(とうせん)・東海・北陸道(ほくろくだう)の勢(せい)を卒(そつ)し二手(ふたて)に成て上洛(しやうらく)し、八幡の後攻(ごづめ)を致して朝敵(てうてき)を千里の外に可退と、諸将の相図を定(さだめ)て、勅使(ちよくし)を先立(さきだち)てぞ上りける。去(さる)程(ほど)に新田武蔵守(むさしのかみ)義宗は、四月二十七日(にじふしちにち)越後の津張(つばり)より立て、七千(しちせん)余騎(よき)越中(ゑつちゆう)の放正津(はうじやうづ)に著(つ)けば、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常、三千(さんぜん)余騎(よき)にて馳(はせ)参る。都合其(その)勢一万(いちまん)余騎(よき)、九月十一日前陣(せんぢん)已(すで)に能登(のとの)国(くに)へ発向(はつかう)す。吉良(きら)三郎・石堂も、四月二十七日(にじふしちにち)に駿河(するがの)国(くに)を立て、路次(ろし)の軍勢(ぐんぜい)を駈催(かりもよほ)し、六千(ろくせん)余騎(よき)を卒(そつ)して、五月十一日に先陣已(すで)に美濃の垂井(たるゐ)・赤坂(あかさか)に著(つき)しかば、八幡に力を勠(あは)せんと遠篝(とほかがり)をぞ焼(たき)たりける。是(これ)のみならず信濃の下(しも)の宮(みや)も、神家(じんけ)・滋野(しげの)・友野・上杉・仁科(にしな)・禰津(ねづ)以下の軍勢(ぐんぜい)を召具(めしぐ)して、同日に信濃を立(たた)せ給ふ。伊予には土居(とゐ)・得能(とくのう)、兵船七百(しちひやく)余艘(よさう)に取乗て、海上より責上(せめのぼ)る。東山(とうさん)・北陸(ほくろく)・四国・九州の官軍共(くわんぐんども)、皆我(わが)国々を立(たち)しかば、路次(ろし)の遠近に依て、縦(たとひ)五日三日の遅速(ちそく)は有(ある)とも、後攻(ごづめ)の勢こそ近づきたれと、云ひ立(たつ)程ならば、八幡の寄手(よせて)は皆退散すべかりしを、今四五日不待付して、主上(しゆしやう)は八幡を落(おち)させ給ひしかば、国々の官軍(くわんぐん)も力を落(おと)しはて、皆己(おのれ)が本国へぞ引返しける。是(これ)も只天運の時不至、神慮より事起る故とは云(いひ)ながら、とすれば違ふ宮方(みやがた)の運の程こそ謀(はか)られたれ。