太平記(国民文庫)
太平記巻第二十七

○天下妖怪(えうくわいの)事(こと)付(つけたり)清水寺(きよみづでら)炎上(えんしやうの)事(こと) S2701
貞和(ぢやうわ)五年正月の比(ころ)より、犯星客星(ぼんしやうきやくしやう)無隙現じければ旁(かたがた)其(その)慎(つつしみ)不軽。王位の愁(うれへ)天下の変、兵乱疫癘(えきれい)有べしと、陰陽寮(おんやうれう)頻(しきり)に密奏す。是をこそ如何と驚(おどろく)処に、同(おなじく)二月二十六日(にじふろくにちの)夜半許に将軍塚(しやうぐんづか)夥(おびたた)しく鳴動(めいどう)して、虚空(こくう)に兵馬の馳過(はせすぐ)る音半時許(はんじばかり)しければ、京中(きやうぢゆう)の貴賎不思議(ふしぎ)の思をなし、何事のあらんずらんと魂を冷(ひや)す処に、明る二十七日(にじふしちにち)午(うまの)刻(こく)に、清水坂(きよみづさか)より俄(にはか)に失火出来て、清水寺(きよみづでら)の本堂・阿弥陀堂・楼門・舞台(ぶたい)・鎮守まで一宇(いちう)も不残炎滅す。火災は尋常(よのつね)の事なれ共(ども)、風不吹大なる炎遥(はるか)に飛去て、厳重(げんぢゆう)の御祈祷所一時に焼失する事非直事。凡(およそ)天下の大変ある時は、霊仏霊社の回禄(くわいろく)定れる表事(へうじ)也(なり)。又同六月三日八幡(やはた)の御殿、辰刻(たつのこく)より酉(とりの)時(とき)まで鳴動す。神鏑(しんてき)声を添(そへ)て、王城を差て鳴て行(ゆく)。又同六月十日より太白(たいはく)・辰星(しんせい)・歳星(さいせい)の三星合て打続きしかば、不経月日大乱出来(しゆつらい)して、天子失位、大臣受災、子殺父、臣殺君、飢饉疫癘(えきれい)兵革(ひやうかく)相続(あひつづき)、餓■(がへう)満巷べしと天文博士(てんもんのはかせ)注説(ちゆうせつ)す。又潤(うるふ)六月五日戌(いぬの)刻(こく)に、巽方(たつみのかた)と乾(いぬゐの)方(かた)より、電光(いなびかり)耀(かかや)き出て、両方の光寄合て如戦して、砕(くだ)け散ては寄合て、風の猛火(みやうくわ)を吹上(ふきあぐ)るが如く、余光天地に満て光る中に、異類異形(いるゐいぎやう)の者見へて、乾(いぬゐ)の光退き行、巽(たつみ)の光進み行て互の光消失ぬ。此夭怪(えうくわい)、如何様(いかさま)天下穏(おだやか)ならじと申合にけり。
○田楽(でんがくの)事(こと)付(つけたり)長講見物(けんぶつの)事(こと) S2702
今年多(おほく)の不思議(ふしぎ)打続(うちつづく)中に、洛中(らくちゆう)に田楽(でんがく)を翫(もてあそ)ぶ事法に過たり。大樹(たいじゆ)是を被興事又無類。されば万人手足を空(そら)にして朝夕是が為に婬費(いんぴ)す。関東(くわんとう)亡びんとて、高時禅門好み翫(もてあそび)しが、先代一流(ひとながれ)断滅しぬ。よからぬ事なりとぞ申ける。同年六月十一日抖薮(とそう)の沙門(しやもん)有りけるが、四条(しでうの)橋を渡さんとて、新座本座の田楽(でんがく)を合せ老若(らうにやく)に分て能(のう)くらべをぞせさせける。四条川原(しでうがはら)に桟敷(さじき)を打つ。希代(きたい)の見物なるべしとて貴賎の男女挙(こぞ)る事不斜(なのめならず)、公家には摂禄(せつろく)大臣家、門跡は当座主(ざす)梶井(かぢゐ)二品(にほん)法親王(ほふしんわう)、武家は大樹(たいじゆ)是を被興しかば、其(その)以下の人々は不及申、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)諸家(しよけ)の侍、神社寺堂の神官僧侶に至る迄、我不劣桟敷(さじき)を打(うつ)。五六八九寸(ごろくはちくすん)の安(あん)の郡(こほり)などら鐫貫(ゑりぬい)て、囲(わたり)八十三間(はちじふさんげん)に三重(さんぢゆう)四重(しぢゆう)に組上(くみあげ)、物も夥(おびたた)しく要(よこた)へたり。已(すでに)時刻に成しかば、軽軒香車(けいかんかうしや)地を争ひ、軽裘肥馬(けいきうひば)繋(つなぐ)に所なし。幔幕(まんまく)風に飛揚して、薫香天に散満す。新本の老若(らうにやく)、東西に幄(かりや)を打て、両方に橋懸りを懸たりける。楽屋(がくや)の幕には纐纈(かうけつ)を張(はり)、天蓋(てんがい)の幕は金襴なれば、片々(へんぺん)と風に散満して、炎を揚(あぐ)るに不異。舞台に曲■縄床(きよくろくじようしやう)を立双べ、紅緑(こうりよく)の氈(せん)を展布(のべしい)て、豹虎(へうとら)の皮を懸(かけ)たれば、見(みる)に眼を照(てらさ)れて、心も空に成(なり)ぬるに、律雅調(しらべ)冷(すさまし)く、颯声(さつせい)耳を清(すます)処に、両方の楽屋より中門(ちゆうもんの)口(くち)の鼓を鳴し音取(ねとりの)笛を吹立たれば、匂ひ薫蘭(くんらん)を凝(こら)し、粧(よそほ)ひ紅粉(こうふん)を尽したる美麗の童(わらは)八人(はちにん)、一様(いちやう)に金襴の水干(すいかん)を著(ちやく)して、東の楽屋より練(ねり)出たれば、白く清らかなる法師八人(はちにん)、薄化粧(うすげしやう)の金黒(かねくろ)にて、色々の花鳥を織尽(おりつく)し、染狂(そめくるはし)たる水干(すいかん)に、銀の乱紋(らんもん)打たる下濃(すそご)の袴に下結(したくくり)して拍子を打(うち)、あやい笠を傾(かたぶ)け、西の楽屋よりきらめき渡て出たるは、誠(まこと)に由々敷(ゆゆしく)ぞ見へたりける。一(いち)の簓(ささら)は本座の阿古(あこ)、乱(らん)拍子は新座の彦夜叉、刀玉(かたなたま)は道一、各神変(じんべん)の堪能(かんのう)なれば見物耳目(じぼく)を驚(おどろか)す。角(かく)て立合終りしかば、日吉(ひよし)山王の示現(じげん)利生の新たなる猿楽を、肝に染(そみ)てぞし出したる。斯(かか)る処に新座の楽屋八九歳の小童(わらは)に猿の面をきせ、御幣を差上て、赤地の金襴の打懸に虎(とらの)皮(かは)の連貫(つらぬき)を蹴(ふみ)開き、小拍子に懸て、紅緑(こうりよく)のそり橋を斜(なのめ)に踏(ふむ)で出たりけるが高欄(かうらん)に飛上り、左へ回(まはり)右へ曲(めぐ)り、抛(はね)返(かへり)ては上りたる在様(ありさま)、誠(まこと)に此(この)世の者とは不見、忽(たちまち)に山王神託(しんたく)して、此奇瑞(きずゐ)を被示かと、感興身にぞ余(あま)りける。されば百(ひやく)余間(よけん)の桟敷共怺兼(こらへかね)て座にも不蹈、「あら面白や難堪や。」と、喚(をめき)叫びける間、感声(かんせい)席(せき)に余(あま)りつゝ、且(しばし)は閑(しづま)りもやらず。浩(かかる)処に、将軍の御桟敷の辺より、厳(いつく)しき女房の練貫(ねりぬき)の妻高く取けるが、扇を以て幕を揚(あぐ)るとぞ見へし。大物(だいもつ)の五六(ごろく)にて打付たる桟敷傾(かたぶき)立て、あれや/\と云(いふ)程こそあれ、上下二百四十九間、共に将碁倒(しやうぎたふし)をするが如く、一度(いちど)に同(どう)とぞ倒(たふれ)ける。若干(そくばく)の大物(だいもつ)共(ども)落重りける間、被打殺者其数不知(しらず)。斯(かか)る紛れに物取(ものとり)共(ども)、人の太刀々(たちかたな)を奪て逃(にぐ)るもあり、見付て切て留るもあり。或(あるひ)は腰膝を被打折、手足を打切られ、或(あるひ)は己と抜たる太刀長刀に、此彼(ここかしこ)を突貫(つきつらぬか)れて血にまみれ、或(あるひ)は涌(わか)せる茶の湯に身を焼き、喚(をめ)き叫ぶ。只衆合叫喚(しゆうがふけうくわん)の罪人も角(かく)やとぞ見へたりける。田楽(でんがく)は鬼の面を著ながら、装束を取て逃る盜人を、赤きしもとを打振て追て走る。人の中間若党(わかたう)は、主の女房を舁負(かいおう)て逃(にぐ)る者を、打物(うちもの)の鞘をはづして追懸(おつかく)る。返し合(あはせ)て切合(きりあふ)処もあり。被切朱(あけ)に成(なる)者もあり。脩羅(しゆら)の闘諍(とうじやう)、獄率(ごくそつ)の呵責(かしやく)、眼の前に有が如し。梶井(かぢゐの)宮(みや)も御腰(おんこし)を打損(そん)ぜさせ給ひたりと聞へしかば、一首(いつしゆ)の狂歌を四条川原(しでうがはら)に立たり。釘付にしたる桟敷の倒(たふる)るは梶井(かぢゐの)宮(みや)の不覚なりけり又二条(にでうの)関白殿(くわんばくどの)も御覧じ給ひたりと申ければ、田楽(でんがく)の将碁倒(たふし)の桟敷には王許(ばかり)こそ登(あが)らざりけれ是非直事。如何様天狗(てんぐ)の所行にこそ有らんと思合せて、後(のち)能々(よくよく)聞けば山門西塔(さいたふ)院(ゐん)釈迦堂の長講(ちやうかう)、所用有て下りける道に、山伏(やまぶし)一人行合て、「只今(ただいま)四条(しでう)河原(かはら)に希代(きたい)の見物の候。御覧候へかし。」と申ければ、長講、「日已(すで)に日中に成候。又用意(ようい)の桟敷なんど候はで、只今(ただいま)より其座に臨(のぞみ)候(さうらふ)共(とも)、中へ如何(いか)が入(いり)候べき。」と申せば、山伏(やまぶし)、「中へ安く入奉べき様候。只我(わが)迹(あと)に付き被歩候へ。」とぞ申ける。長講、げにも聞(きこゆ)る如くならば希代の見物なるべし。さらば行て見ばやと思ければ、山伏(やまぶし)の迹に付て三足許(みあしばかり)歩(あゆ)むと思たれば、不覚四条(しでう)河原(かはら)に行至りぬ。早(はや)中門(ちゆうもんの)口(くち)打(うつ)程(ほど)に成ぬれば、鼠戸(ねづみと)の口も塞(ふさが)りて可入方もなし。「如何して内へは入候べき。」とわぶれば、山伏(やまぶし)、「我(わが)手に付(つか)せ給へ。飛越て内へ入候はん。」と申(まうす)間、実(まことし)からずと乍思、手に取付たれば、山伏(やまぶし)、長講を小脇に挟(はさん)で三重(さんぢゆう)に構(かまへ)たる桟敷を軽々(かろがろ)と飛越て、将軍の御桟敷の中にぞ入にける。長講座席(ざせき)座中の人々を見るに、皆仁木(につき)・細河(ほそかは)・高(かう)・上杉の人々ならでは交(まじは)りたる人も無ければ、「如何(いかで)か此(この)座には居候べき。」と、蹲踞(そんこ)したる体を見て、彼(かの)山伏(やまぶし)忍やかに、「苦かるまじきぞ。只それにて見物し給へ。」と申(まうす)間、長講は様(やう)ぞあるらんと思て、山伏(やまぶし)と双(ならん)で将軍の対座(たいざ)に居たれば、種々の献盃(こんぱい)、様々の美物(びぶつ)、盃の始まるごとに、将軍殊に此山伏(やまぶし)と長講とに色代(しきたい)有て、替る替る始(はじめ)給ふ処に、新座の閑屋(かくや)、猿の面を著て御幣を差挙(さしあげ)、橋の高欄を一飛(ひととび)々(とび)ては拍子を蹈み、蹈(ふみ)ては五幣を打振て、誠(まこと)に軽げに跳(をどり)出たり。上下の桟敷見物衆是を見て、座席にもたまらず、「面白や難堪や、我死ぬるや、是(これ)助けよ。」と、喚(をめ)き叫て感ずる声、半時許(はんじばかり)ぞのゝめきける。此時彼山伏(やまぶし)、長講が耳にさゝやきけるは、「余に人の物狂はしげに見ゆるが憎きに、肝つぶさせて興(きよう)を醒(さま)させんずるぞ。騒ぎ給ふな。」と云て、座より立て或桟敷の柱をえいや/\と推(おす)と見へけるが、二百(にひやく)余間の桟敷、皆天狗倒(てんぐたふし)に逢てげり。よそよりは辻風の吹(ふく)とぞ見へける。誠(まこと)に今度桟敷の儀、神明御眸(おんまなじり)を被廻けるにや、彼(かの)桟敷崩(くづれ)て人多く死ける事は六月十一日也(なり)。其(その)次の日、終日(しゆうじつ)終夜(しゆうや)大雨降車軸、洪水流盤石、昨日の河原(かはら)の死人汚穢(わゑ)不浄を洗流し、十四日の祇園神幸(しんかう)の路をば清めける。天竜八部(てんりゆうはちぶ)悉(ことごとく)霊神(れいしん)の威(ゐ)を助(たすけ)て、清浄の法雨を潅(そそ)きける。難有かりし様(ためし)也(なり)。
○雲景(うんけい)未来記(みらいきの)事(こと) S2703
又此比(このころ)天下第一(だいいち)の不思議(ふしぎ)あり。出羽(ではの)国(くに)羽黒(はぐろ)と云所に一人の山伏(やまぶし)あり。名をば雲景とぞ申ける。希代(きたい)の目に逢(あう)たりとて、熊野(くまの)の牛王(ごわう)の裏に告文(かうぶん)を書て出したる未来記あり。雲景諸国一見悉(ことごとく)有て、過にし春(はる)の比(ころ)より思立て都に上り、今熊野(いまぐまの)に居住して、華洛の名迹(めいせき)を巡礼する程(ほど)に、貞和(ぢやうわ)五年二十日の事なる天竜寺(てんりゆうじ)一見の為に西郊(にしのをか)にぞ赴(おもむき)ける。官(くわん)の庁(ちやう)の辺より年六十許(ばかり)なる山伏(やまぶし)一人行連(ゆきつれ)たり。彼(かの)雲景に、「御身(おんみ)は何(いづ)くへ御座(ござ)ある人ぞ。」と問ければ、「是は諸国一見の者にて候が、公家武家の崇敬(そうきやう)あつて建立(こんりふ)ある大伽藍(だいがらん)にて候なれば、一見仕(つかまつり)候(さうらは)ばやと存じて、天竜寺(てんりゆうじ)へ参(まゐり)候也(なり)。」とぞ語(かたり)ける。「天竜寺(てんりゆうじ)もさる事なれ共(ども)、我等(われら)が住む山こそ日本(につぽん)無双(ぶさう)の霊地(れいち)にて侍れ。いざ見せ奉らん。」とてさそひ行程(ほど)に、愛宕山(あたごやま)とかや聞ゆる高峯(たかね)に至(いたり)ぬ。誠(まこと)に仏閣(ぶつかく)奇麗(きれい)にして、玉を敷き金を鏤(ちりば)めたり。信心肝(きも)に銘(めい)じ身の毛竪(よだ)ち貴く思ければ、角(かく)てもあらまほしく思(おもふ)処に、此山伏(やまぶし)雲景が袖を磬(ひかへ)て、是まで参り給たる思出に秘所(ひしよ)共(ども)を見せ奉らんとて、本堂の後(うしろ)、座主(ざす)の坊と覚しき所へ行(ゆき)たれば、是又殊勝(しゆしよう)の霊地(れいち)なり。爰(ここ)に至て見れば人多く坐し給へり。或(あるひ)は衣冠(いくわん)正しく金(かねの)笏(しやく)を持給へる人もあり。或(あるひ)は貴僧高僧の形にて香染(かうぞめ)の衣(ころも)著たる人もあり。雲景恐しながら広庇(ひろびさし)にくゞまり居たるに、御坐を二帖(にでふ)布(しき)たるに、大なる金の鵄(とび)翅(つばさ)を刷(つくろ)ひて著座(ちやくざ)したり。右の傍(わき)には長(たけ)八尺(はつしやく)許(ばかり)なる男の、大弓大矢を横(よこた)へたるが畏てぞ候(さふらひ)ける。左の一(いちの)座(ざ)には袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)に日月星辰(じつげつせいしん)を鮮(あざや)かに織たるを著給へる人、金の笏(しやく)を持て並居(なみゐ)玉ふ。座敷の体(てい)余(あまり)に怖(おそろ)しく不思議(ふしぎ)にて、引導(いんだう)の山伏(やまぶし)に、「如何(いか)なる御座敷(おんざしき)候ぞ。」と問へば、山伏(やまぶし)答へけるは、「上座なる金の鵄(とび)こそ崇徳院(しゆとくゐん)にて渡(わたら)せ給へ。其(その)傍(そば)なる大男こそ為義(ためよし)入道(にふだう)の八男八郎(はちらうの)冠者(くわじや)為朝(ためとも)よ。左の座こそ代々(だいだい)の帝王、淡路(あはぢ)の廃帝(はいたい)・井上皇后(ゐかみのくわうぐう)・後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)・後醍醐(ごだいごの)院(ゐん)、次第の登位(とうゐ)を逐(おつ)て悪魔王の棟梁(とうりやう)と成給ふ、止事(やんごと)なき賢帝(けんてい)達よ。其(その)坐の次なる僧綱(そうがう)達こそ、玄肪(げんばう)・真済(しんさい)・寛朝(くわんてう)・慈慧(じゑ)・頼豪(らいがう)・仁海(にんかい)・尊雲(そんうん)等(ら)の高僧達、同(おなじく)大魔王と成て爰(ここ)に集り、天下を乱候べき評定(ひやうぢやう)にて有。」とぞ語りける。雲景恐怖しながら不思議(ふしぎ)の事哉と思つゝ畏居(かしこまりゐ)たれば、一座の宿老(しゆくらうの)山伏(やまぶし)、「是は何(いづ)くより来給ふ人ぞ。」と問ければ、引導(いんだう)の山伏(やまぶし)しか/゛\と申ける。其時此老僧会尺(ゑしやく)して、「さらば此(この)間京中(きやうぢゆう)の事共(ことども)をば皆見聞給ふらん。何事か侍(はんべ)る。」と問ければ、雲景、「殊なる事も候はず。此比(このころ)は只(ただ)四条(しでう)河原(かはら)の桟敷の崩(くづれ)て人多く被打殺候事、昔も今も浩(かか)る事候はず、只天狗(てんぐ)の態(わざ)とこそ申候へ。其外には将軍御兄弟(ごきやうだい)、此比(このころ)執事の故(ゆゑ)に御中(おんなか)不快(ふくわい)と候。是(これ)若(もし)天下の大儀に成候はんずるやらんと貴賎(きせん)申候。」とぞ答(こたへ)ける。其(その)時(とき)此(この)山伏(やまぶし)申けるは、「さる事も有らん、桟敷の顛倒(てんだう)は惣(そう)じて天狗(てんぐ)の態許(わざばかり)にも非(あら)ず。故をいかにと云(いふ)に当関白殿(くわんばくどの)は忝(かたじけなく)も天津児屋根尊(あまつこやねのみこと)の御末、天子輔佐(ふさ)の臣として無止事上臈にて渡らせ給ふ。梶井(かぢゐの)宮(みや)と申は、今上皇帝(きんじやうくわうてい)の御連枝(ごれんし)にて、三塔(さんたふ)の貫主(くわんじゆ)、国家護持(ごぢ)の棟梁(とうりやう)、円宗顕密(ゑんしゆうけんみつ)の主(あるじ)にて御坐(おはしま)す。将軍と申すは弓矢の長者にて海内衛護(かいだいのゑご)の人也(なり)。而(しか)るに此(この)桟敷と申は、橋の勧進(くわんじん)に桑門(さうもん)の捨人が興行(こうぎやう)する処也(なり)。見物の者と云は洛中(らくちゆう)の地下人(ぢげにん)、商買(しやうばい)の輩(ともがら)共(ども)也(なり)。其に日本(につぽん)一州を治(をさ)め給ふ貴人達交(まじは)り雑居(ざつきよ)し給へば、正八幡(しやうはちまん)大菩薩(だいぼさつ)・春日(かすが)大明神(だいみやうじん)・山王権現の忿(いかり)を含ませ給ふに依て、此(この)地を頂(いただ)き給ふ堅牢地神(けんらうぢじん)驚給ふ間、其(その)勢(いきほひ)に応(おう)じて皆崩(くづれ)たる也(なり)。此(この)僧も其(その)比(ころ)京に罷(まかり)出しか共、村雲(むらくも)の僧に可申事有て立寄しに、時刻遷(うつ)りて不見。」とぞ申ける。雲景、「さて今村雲の僧と申て行徳権勢(けんせい)世に聞へ候は、如何なる人にて候ぞ。京童部(わらんべ)は一向天狗(てんぐ)にて御坐(おはしま)すと申候は、如何様(いかやう)の事にて候哉らん。」と問(とひ)ければ、此(この)僧の曰(いはく)、「其はさる事候。彼(かの)僧は殊にさかしき人にて候間、天狗(てんぐ)の中より撰(えら)び出して乱世の媒(なかだち)の為に遣(つかは)したる也(なり)。世中(よのなか)乱れば本の住所(すみところ)へ可帰也(なり)。さてこそ所多きに村雲(むらくも)と云(いふ)所に住(ぢゆう)するなれ。雲は天狗(てんぐ)の乗物なるに依ての故(ゆゑ)也(なり)。加様(かやう)の事努々(ゆめゆめ)人に不可知給。初て此(この)所へ尋来給へば、委細(ゐさい)の物語を申也(なり)。」とぞ語ける。雲景、不思議(ふしぎ)の事をも見聞(みきく)者哉と思て天下の重事(ちようじ)、未来の安否(あんぴ)を聞(きか)ばやと思て、「さて将軍御兄弟(ごきやうだい)執事(しつじ)の間の不和(ふくわ)は、何(いづ)れか道理にて始終(しじゆう)通(とほ)り候べき。」と問へば、「三条殿(さんでうどの)と執事(しつじ)の不快(ふくわい)は一両月を不可過、大なる珍事(ちんじ)なるべし。理非の事は是非を難弁。此(この)人々身の難(なん)に逢ひ不肖(ふせう)なる時は、哀(あはれ)世を持たん時は政道をも能(よく)行(おこな)はんずる者をと思しか共、富貴(ふつき)充満(じゆうまん)の後は古への有増(あらまし)一事(いちじ)も不通。上(かみ)暗く下(しも)諛(へつらう)て諸事に親疎(しんそ)あれば、神明三宝の冥鑒(みやうかん)にも背(そむ)き、天下貴賎(きせん)の人望(じんばう)にも違(たがう)て、我(わが)非(ひ)をば知(しら)ず、人を謗(そし)り合ふ心あり。只師子(しし)の虫の師子の肉を食(くらふ)が如し。適(たまたま)仁政(じんせい)と思事もさもあらず、只人の煩(わづら)ひ歎(なげき)のみ也(なり)。夫(それ)仁(じん)とは施慧四海(しかい)、深く憐民云仁。夫(それ)政道と云は治国憐人、善悪親疎(しんそ)を不分撫育(ぶいく)するを申也(なり)。而るに近日の儀、聊(いささか)も善政を不聞欲心(よくしん)熾盛(しじやう)にして君臣父子の道をも不弁、只人の財(たから)を我有(がう)にせんと許(ばかり)の心なれば不矯飾無云事。仏神能(よく)知見(ちけんし)御座(おはしま)さねば、我が企(くはたつ)る処も不成、依果報浅深、聊(いささか)取世持国者有といへ共、真実の儀に非(あら)ず。されば一人として治世運(うん)長久に不持也(なり)。君を軽(かろ)んじ仏神をだにも恐るゝ処なき末世なれば曾(かつて)其(その)外の政道何事か可有。然間(しかるあひだ)悪逆の道こそ替れ。猜(そね)みもどき合ふ輩(ともがら)、何(いづ)れも無差別亡(ほろ)びん事無疑。喩(たと)へば山賊と海賊と寄合て、互に犯科(ぼんくわ)の得失を指合(さしあふ)が如し。されば近年武家の世を執事(とること)頼朝(よりとも)卿(きやう)より以来(このかた)、高時に到るまで已(すで)に十一代、蛮夷(ばんい)の賎(いや)しき身を以て世の主たる事必(かならず)本儀にはあらね共、世澆季(げうき)に及ぶ験(しるし)に無力。時(ときと)与事只一世の道理に非(あら)ず。臣殺君子殺父、力を以て可争時到る故(ゆゑ)に下剋上(げこくじやう)の一端(いつたん)にあり。高貴清花(かうきせいぐわ)も君主一人(いちのひと)も共に力を不得、下輩下賎(げはいげせん)の士四海(しかい)を呑む。依之(これによつて)天下武家と成也(なり)。是(これ)必(かならず)誰為(たれがわざ)にも非(あら)ず、時代機根(きこん)相萌(あひきざし)て因果業報(いんぐわごふはう)の時到(いた)る故(ゆゑ)也(なり)。君を遠島(ゑんたう)へ配(はい)し奉り悪を天下に行(おこなひ)し義時を、浅猿(あさまし)と云しか共、宿因(しゆくいん)のある程は子孫無窮(ぶきゆう)に光栄せり。是又涯分(がいぶん)の政道を行ひ、己(おのれ)を責(せめ)て徳を施(ほどこ)しゝかば、国豊(ゆたか)に民不苦。されども宿報漸(やうや)く傾(かたぶ)く時、天心に背(そむ)き仏神捨給ふ時を得て、先朝(せんてう)高時を追伐(つゐばつ)せらる。是(これ)必(かならず)しも後醍醐(ごだいごの)院(ゐん)の聖徳の到(いた)りに非(あら)ず、自滅(じめつ)の時到る也(なり)。世も上代、仁徳(じんとく)も今の君主に勝(まさ)り給し後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)の御時(おんとき)は、上(かみ)の威も強く下(しも)の勢も弱(よわかり)しかども下(しも)勝ち上(かみ)負ぬ。今末世濁乱(ぢよくらん)の時分なれ共(ども)、不得下勝不上負事は不依貴賎運の興廃(こうはい)なるべし。是(これを)以(もつて)可心得(こころえ)給。」と語りければ、雲景重(かさね)て申さく、「先代尽(つき)て亡(ほろび)しかば、など先朝久(ひさしく)御代をば治御座(をさめおはしまし)候はぬ。」と問ければ、「其(それ)又有子細事に候。先朝随分賢王(けんわう)の行をせんとし給しか共、真実仁徳撫育(じんとくぶいく)の叡慮(えいりよ)は総じてなし。継絶興廃神明仏陀を御帰依(きえ)有(ある)様に見へしか共、■慢(けうまん)のみ有て実儀(じつぎ)不御座。され共其(それ)程の賢王(けんわう)も末代には有まじければ何事にもよき真似(まね)をばすべし。是を以て暫(しばらく)なれ共加様(かやう)の所を以て其(その)御器用(ごきよう)に当り、運の傾(かたぶ)く高時、消方(きえがた)の灯(とぼしびの)前の扇と成(なら)せ給ひて亡(ほろぼ)し給ひぬ。其理に答(むくう)て累代(るゐだい)繁栄四海(しかい)に満ぜし先代をば亡し給ひしか共、誠(まことに)尭舜(げうしゆん)の功(こう)、聖明(せいめい)の徳御坐(おはせ)ねば、高時に劣(おと)る足利(あしかが)に世をば奪(うばは)れさせ給ぬ。今持明院殿(ぢみやうゐんどの)は中々執権開運武家に順(したがは)せ給て、偏に幼児(えうじ)の乳母(めのと)を憑(たのむ)が如く、奴(やつこ)と等(ひと)しく成て御座(おはします)程(ほど)に、依仁道善悪還(かへつ)て如形安全(あんせん)に御坐(おはします)者也(なり)。是も御本意には有(あら)ね共、理をも欲(よく)心をも打捨て御座(おはしま)さば、末代邪悪(じやあく)の時中々御運を開(ひらか)せ給ふべき者也(なり)とても王法は平家の末より本朝(ほんてう)には尽(つき)はてゝ、武運ならでは立(たつ)まじかりしを御了知(ごれうち)も無(なく)て、仁徳(じんとく)聖化(せいくわ)は昔に不及して国を執(と)らん御欲心許(よくしんばかり)を先とし、本(もと)に代を復(ふく)すべしとて、末世の機分(きぶん)戎夷(じゆうい)の掌(たなごころ)に可堕御悟(おんさとり)無(なか)りしかば、御鳥羽(ごとばの)院(ゐん)の御謀叛(ごむほん)徒(いたづら)に成て、公家の威勢(ゐせい)其時より塗炭(とたん)に落(おと)し也(なり)。されば其(その)宸襟(しんきん)を為休先朝(せんてう)高時を失給しか共、尚(なほ)公家(くげの)代をば執(とら)せ給はぬ者也(なり)。さても三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を本朝(ほんてう)の宝として神代(じんだい)より伝る璽(しるし)、国を理(をさめ)守(まもる)も此神器(じんぎ)也(なり)。是は以伝為詮。然(しかる)に今の王者此(この)明器を伝(つたふ)る事無て位を践御座(ふみおはします)事、誠(まこと)に王位共難申。然共(しかれども)さすが三箇(さんか)の重事(ちようじ)を執行(とりおこな)はせ給へば、天照太神(あまてらすおほんがみ)も守らせ給(たまふ)覧(らん)と憑敷(たのもしき)処もある也(なり)。此(この)明器(めいき)我(わが)朝(てう)の宝として、神代の始より人皇(にんわう)の今に到るまで取(とり)伝(つたへ)御座(おはします)事、誠(まこと)に小国也(なり)といへ共、三国に超過(てうくわ)せる吾(わが)朝(てう)神国の不思議(ふしぎ)は是也(なり)。されば此神器(じんぎ)無(なか)らん代は月入て後の残夜(ざんや)の如し。末代のしるし王法を神道(しんたう)棄(すて)給ふ事と知べし。此(この)重器(ちようき)は平家滅亡の時、安徳(あんとく)天皇(てんわう)西海に渡(わたし)奉(たてまつり)て海底に沈(しづめ)られし時、神璽(しんじ)内侍所(ないしどころ)をば取(とり)返し奉しか共宝剣は遂(つひ)に沈(しづみ)失(うせ)ぬ。されば王法悪王ながら安徳(あんとく)天王(てんわう)の御時(おんとき)までにて失はてぬる証(しよう)は是也(なり)。其(その)故は後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)の始て三種(さんじゆ)の重器(ちようき)無(なく)して元暦(げんりやく)に践祚(せんそ)有しに、其(その)末流(まつりうの)皇統(くわうとう)継体(けいたい)として、今に御相承(しやうじようの)佳模(かも)とは申せ共、今思へば彼(かの)元暦(げんりやく)よりこそ正しく本朝に武家を被始置、則海内蔑君王奉る事は出来にけれ。されば武運王道(わうだう)に勝し表示(へうじ)には、宝剣は其(その)時(とき)までにて失にき。仍(すなはち)武威昌(さかん)に立て国家を奪(うばふ)也(なり)。然共(しかれども)其(その)尽(つき)し後百(ひやく)余年(よねん)は武家雅意(がい)に任(まかせ)て天下を司(つかさど)ると云共、王位も文道も相残る故(ゆゑ)に、関東(くわんとう)如形政道をも理(をさ)め君王をも崇(あが)め奉る体にて、諸国に総追捕使(そうつゐぶし)をば置たれども、諸司(しよし)要脚(えうきやく)の公事(くじ)正税(しやうぜい)、仏神の本主(ほんしゆ)、相伝(さうでん)の領(りやう)には手を不懸目出(めでた)かりしに、時代純機(じゆんき)宿報の感果(かんくわ)ある事なれば、後醍醐(ごだいごの)院(ゐん)武家を亡(ほろぼ)し給ふに依て、弥(いよいよ)王道衰(おとろへ)て公家、悉(ことごとく)廃(すた)れたり。此(この)時(とき)を得て三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)徒(いたづら)に微運(びうん)の君に随て空(むなし)く辺鄙外土(へんぴぐわいと)に交(まじは)り給ふ。是神明吾朝(わがてう)を棄(すて)給ひ、王威無残所尽し証拠(しようご)也(なり)。是(これ)元暦(げんりやく)の安徳(あんとく)天皇(てんわう)の御時(おんとき)に相同じ。国を受(うけ)給ふ主に随(したがひ)給はぬは、国を不守験(しるし)也(なり)。されば神道王法共になき代なれば、上(かみ)廃(すた)れ下驕(おごつ)て是非を弁(わきまふ)る事なし。然れば師直(もろなほ)・師泰(もろやす)が安否、将軍兄弟の通塞(つうそく)も難弁。」とぞ語ける。雲景重て申けるは、「さては早(はや)乱悪の世にて下(しも)上(かみ)に逆(さか)ひ、師直(もろなほ)・師泰我侭(わがまま)にしすまして天下を持(たも)つべき歟(か)。」と問へば、「いやさは不可有。如何(いかに)末世濁乱(まつせぢよくらん)の義にて、下(しも)先(まづ)勝(かつ)て上を可犯。され共又上(かみ)を犯(をかす)咎(とが)難遁ければ、下又其(その)咎(とが)に可伏。其故は、将軍兄弟も可奉敬一人(いちじんの)君主を軽(かろん)じ給へば、執事(しつじ)其(その)外家人等(けにんら)も又武将を軽(かろん)じ候。是(これ)因果の道理也(なり)。されば地口天心を呑(のむ)と云変(へん)あれば、何(いか)にも下刻上(げこくじやう)の謂(いはれ)にて師直(もろなほ)先(まづ)可勝。自是天下大に乱(みだれ)て父子兄弟怨讎(をんしう)を結び、政道聊(いささか)も有まじければ、世上も無左右難静。」とぞ申ける。雲景、「今加様に世間の事鑒(かがみ)を懸て宣(のたま)ひつる人は誰(たそ)。」と尋(たづぬ)れば、「彼(かの)老僧こそ、世に人の持あつかう愛宕山(あたごやま)の太郎坊にて御座(おはします)。」と答へける。尚(なほ)も天下の安危(あんき)国(くに)の治乱(ちらん)を問(とは)んとする処に、俄(にはか)に猛火(みやうくわ)燃(もえ)来(きたり)て、座中の客七顛(しちてん)八倒(ばつたう)する程(ほど)に、門外へ走(はしり)出ると思たれば、夢の覚(さめ)たる心地して、大内(たいだい)の旧迹(きうせき)大庭(には)の椋(むく)の木の本に、朦々(もうもう)としてぞ立たりける。四方(しはう)を見廻したれば、日已(すで)に西の山(やまの)端(は)に残て、京へ出る人多ければ、其に伴(ともな)ひて我(わが)宿坊にたどり来て、心閑(こころしづか)に彼(かの)不思議(ふしぎ)を案ずるに、無疑天狗道に行(ゆき)にけり。是は只非可打棄、且(かつう)は末代の物語、且(かつう)は当世の用心(ようじん)にもなれかしと思しかば、我(わが)身の刑(けい)を不顧、委細に書載(かきのせ)、熊野(くまの)の牛王(ごわう)の裏に告文(かうぶん)を書(かき)添(そへ)、貞和(ぢやうわ)五年潤(うるふ)六月三日と書付て、伝奏(てんそう)に付て進奏す。誠(まこと)に怪異(けい)の事共(ことども)也(なり)。
○左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)欲誅師直事(こと) S2704
斯(かか)りし処に、師直・師泰等(もろやすら)誅罰(ちゆうばつ)の事、上杉・畠山が讒尚(なほ)深く、妙吉侍者荐(しきり)に被申ければ、将軍に知(しら)せ奉らで、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)窃(ひそか)に上杉・畠山・大高(だいかう)伊予(いよの)守(かみ)・粟飯原(あいはら)下総(しもふさの)守(かみ)・斉藤五郎左衛門(ごらうざゑもん)入道五六人に評定(ひやうぢやう)有て、内内(ないない)師直兄弟を可被誅(ちゆうせらるべき)謀をぞ被議ける。大高伊予(いよの)守(かみ)は大力也(なり)。宍戸(ししど)安芸(あきの)守(かみ)は物馴(ものなれ)たる剛(かう)の者なればとて、彼等二人(ににん)を組(くみ)手に定め若(も)し手に余る事あらば、討洩(うちもら)さぬ様に用心(ようじん)せよとて、器用(きよう)の者共(ものども)百(ひやく)余人(よにん)に物具(もののぐ)せさせて窃に是を隠(かくし)置(おき)、師直をぞ被召(めされ)ける。師直は夢にも可思寄事ならねば、若党(わかたう)中間は皆遠侍(とほさぶらひ)大庭に並居(なみゐ)て、中門の唐垣(からがき)をかけへだてられ、師直只一人六間(むま)の客殿に座(ざ)したり。師直が今の命は風待(まつ)程の露よりも危(あやふ)しと見へける処に、殊更此(この)事勝(すぐれ)て申沙汰(まをしさた)したりける粟飯原(あいはら)下総(しもふさの)守(かみ)清胤(きよたね)、俄(にはか)に心替(こころがは)りして告(つげ)知(しら)せばやと思ひければ、些(ちと)色代する様にして、吃(きつ)と目くはせをしたりければ、師直心早(こころはやき)者なりければ、軈(やが)て心得(こころえ)て、かりそめに罷(まかり)出る体にて、門前より馬に打(うち)乗(のり)、己(おの)が宿所にぞ帰(かへり)ける。其(その)夜軈(やがて)粟飯原(あいはら)・斉藤二人(ににん)、執事の屋形に来て、「此間三条殿(さんでうどの)の御企(おんくはたて)、上杉・畠山の人々の隠謀(いんぼう)、兔(と)こそ候(さうらひ)つれ角(かく)こそ候(さうらひ)つれ。」と語りければ、執事様々の引出物(ひきでもの)して、「猶も殿中(でんちゆうの)様の事は内々告(つげ)承(うけたまはり)候へ。」とて斉藤・粟飯原を帰しけり。師直是より用心(ようじん)密(きびし)くして、一族(いちぞく)若党(わかたう)数万人(すまんにん)、近辺の在家に宿(やど)し置き、出仕を止め虚病(きよびやう)してぞ居たりける。去年の春より越後(ゑちごの)守(かみ)師泰は、楠(くすのき)退治(たいぢ)の為に河内(かはちの)国(くに)に下て、石川々原に向城(むかひじやう)を構(かまへ)て居たりけるを、師直使を遣(つかはし)て事の由(よし)を告たりければ、畠山左京(さきやうの)大夫(だいぶ)清国紀伊(きいの)国(くに)の守護(しゆご)にて坐(おは)しけるを呼(よび)奉(たてまつり)て、石川(いしかはの)城(じやう)をふまへさせて、越後(ゑちごの)守(かみ)は急ぎ京都へぞ帰(かへり)上(のぼり)ける。左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)は師泰が大勢にて上洛(しやうらく)する由聞給て、此者が心をとらでは叶(かなふ)まじ。すかさばやと被思ければ、飯尾(いのを)修理(しゆりの)進入道を使にて、「武蔵守(むさしのかみ)が行事(ぎやうじ)、万(よろづ)短才庸愚(ようぐ)の事ある間、暫く世務の綺(いろひ)を止る処也(なり)。自今後は越後守を以て、管領に居(すゑ)せしむる者也(なり)。政所(まんどころ)以下の沙汰、毎事(まいじ)慇懃(いんぎん)に沙汰せらるべし。」とぞ委補(ゐふ)せられける。師泰此(この)使に対して、「仰(おほせ)畏て候へ共、枝を切て後根を断(たた)んとの御意にてぞ候覧(らん)。何様罷(まかり)上(のぼり)候(さふらひ)て、御返事(おんへんじ)をば申入(まうしいれ)候べし。」と、事の外なる返事申て、軈(やが)て其(その)日(ひ)石河の陣をぞ打出ける。甲胄(かつちう)を鎧(よろ)ひたる兵三千(さんぜん)余騎(よき)にて打立て、持楯(もちたて)・一枚楯、人夫七千(しちせん)余人(よにん)に持せて混(ひたすら)合戦の体に出立(いでたち)て、態(わざと)白昼に京へ入る。目を驚(おどろか)す有様也(なり)。師泰執事の宿所に著て、三条殿(さんでうどの)と合戦の企(くはたて)有(あり)と聞へければ、八月十一日の宵(よひ)に、赤松入道円心と子息律師(りつし)則祐(そくいう)、弾正少弼(だんじやうのせうひつ)氏範(うぢのり)、七百(しちひやく)余騎(よき)にて武蔵守(むさしのかみ)の屋形へ行(ゆき)向(むかふ)。師直急ぎ対面有て、「三条殿(さんでうどの)無謂師直が一家(いつけ)を亡(ほろぼ)さんとの御意、事已(すで)に喉(のんど)に迫(せまり)候間、将軍へ内々事の由を歎(なげき)申て候へば、武衛(ぶゑい)左様の企に及(およぶ)条(でう)、事の体不隠便、速(すみやか)に其(その)儀を留て讒者(ざんしや)の罪を緩(ゆる)くすべからず。能々(よくよく)制止(せいし)を可加。若(もし)猶(なほ)不叙用して討手を遣(つかは)す事あらば、尊氏必(かならず)師直と一所に成て安否を共にすべしと被仰出候。将軍の御意如斯に候へば、今は乍恐三条殿(さんでうどの)の討手に向て矢一(ひとつ)仕(つかまつ)らんずるにて候。京都の事は内々志を通ずる人多く候へば心安(こころやすく)候。尚(なほ)も只難義に覚へ候は、左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)備後(びんご)に被坐候へば、一定(いちぢやう)中国の勢を引て被責上ぬと覚(おぼゆ)る許(ばかり)にて候。今夜急ぎ播磨へ御下(おんくだり)候(さふらひ)て、山陰・山陽(せんやう)の両道を杉坂(すぎざか)・舟坂(ふなさか)の殺所(せつしよ)にて支(ささへ)て給り候へ。」とて、一献(いつこん)を勧(すす)められけるが、「此(この)太刀は保昌(ほうじやう)より伝て代々(だいだい)身を不放守(まもり)と存(ぞんじ)候へ共、是を可進。」とて懐剣(くわいけん)と云太刀を錦(にしき)の袋より取出して、赤松にこそ引たりけれ。円心軈(やがて)領掌(りやうじやう)し、其(その)夜都を立て播磨国(はりまのくに)に馳下(はせくだり)、三千(さんぜん)余騎(よき)を二手(ふたて)に分て、備前の舟坂(ふなさか)・美作(みまさか)の杉坂、二(ふたつ)の道を差塞(さしふさぎ)、義旗(ぎき)雲竜を靡(なび)かして回天(くわいてん)の機をぞ露(あらは)しける。されば直冬(ただふゆ)大勢にて上らんと被議けるが、其(その)支度(したく)相違したりけり。
○御所囲(かこむ)事(こと) S2705
去(さる)程(ほど)に洛中(らくちゆう)には、只今(ただいま)可有合戦とて周章(あわて)立て、貞和(ぢやうわ)五年八月十二日の宵より数万騎の兵上下(かみしも)へ馳違(はせちが)ふ。馬の足音草摺(くさずり)の音、鳴休(なりやむ)隙も無りけり。先(まづ)三条殿(さんでうどの)へ参りける人々には、吉良(きら)左京(さきやうの)大夫(たいふ)満義(みつよし)・同上総(かづさの)三郎満貞(みつさだ)・石堂(いしだう)中務大輔(なかつかさのたいふ)頼房(よりふさ)・同左馬(さまの)頭(かみ)頼直(よりなほ)・石橋左衛門(さゑもんの)佐(すけ)和義(まさよし)・子息治部(ぢぶの)大輔(たいふ)宣義(のぶよし)・尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫(たいぶ)高経・子息民部(みんぶの)少輔(せう)氏経・舎弟(しやてい)左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)氏頼・荒河(あらかは)三河(みかはの)守(かみ)詮頼(のりより)・細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春・同兵部大輔(たいふ)顕氏・畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)直宗(なほむね)・上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)・同左馬(さまの)助(すけ)朝房(ともふさ)・同弾正少弼(だんじやうのせうひつ)朝貞(ともさだ)・長井(ながゐ)大膳(だいぜんの)大夫(たいぶ)広秀・和田越前守宣茂・高土佐守師秋・千秋(せんじゆ)三河(みかはの)左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)惟範(これのり)・大高伊予(いよの)守(かみ)重成(しげなり)・宍戸(ししど)安芸(あきの)守(かみ)朝重・二階堂(にかいだう)美濃(みのの)守(かみ)行通(ゆきみち)・佐々木(ささきの)豊前(ぶぜんの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)顕清(あききよ)・里見(さとみ)蔵人(くらんど)義宗・勝田(かつた)能登(のとの)守(かみ)助清・狩野下野(しもつけの)三郎・苑田美作(そのだみまさかの)守(かみ)・波多野(はだの)下野(しもつけの)守(かみ)・同因幡(いなばの)守(かみ)・禰津(ねつの)小次郎・和久(わくの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・斉藤左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)利康(としやす)・飯尾(いのを)修理(しゆりの)進入道・須賀壱岐(すがのいきの)守(かみ)清秀・秋山新蔵人朝政(ともまさ)・島津四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)、是等(これら)を宗(むね)との兵として都合其(その)勢(せい)七千(しちせん)余騎(よき)、轅門(ゑんもん)を固(かため)て扣(ひかへ)たり。執事師直の屋形へ馳加(はせくはは)る人々には、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・今川五郎入道心省(しんしやう)・同駿河(するがの)守(かみ)頼貞・吉良(きら)左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)貞経・大島讃岐守(さぬきのかみ)盛真(もりさね)・仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)・同弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)頼勝(よりかつ)・桃井(もものゐ)修理(しゆりの)亮(すけ)義盛・畠山宮内(くないの)少輔(せう)国頼・細河(ほそかは)相模(さがみの)守(かみ)清氏・土岐(とき)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼康・同明智(あけち)次郎頼兼(よりかぬ)・同新蔵人頼雄(よりたか)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)秀綱(ひでつな)・同四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)秀定(ひでさだ)・同近江(あふみの)四郎氏綱・佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官(はうぐわん)氏頼・舎弟(しやてい)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)直綱(なほつな)・同五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)定詮(さだのり)・同大原判官時親(ときちか)・千葉(ちばの)介(すけ)貞胤(さだたね)・宇都宮(うつのみやの)三河(みかはの)入道(にふだう)・武田(たけだの)伊豆(いづの)前司(ぜんじ)信氏・小笠原兵庫(ひやうごの)助(すけ)政長・逸見(へんみ)八郎(はちらう)信茂・大内(おほち)民部(みんぶの)大輔(たいふ)・結城(ゆふき)小大郎・梶原(かぢはら)河内(かはちの)守(かみ)・佐竹掃部(かもんの)助(すけ)師義(もろよし)・同和泉(いづみの)守(かみ)・三浦遠江守(とほたふみのかみ)行連(ゆきつら)・同駿河(するがの)次郎左衛門(じらうざゑもん)・大友(おほとも)豊前(ぶぜんの)太郎頼時・土肥(とひの)美濃(みのの)守(かみ)高真(たかさね)・土屋(つちや)備前(びぜんの)守(かみ)範遠(のりとほ)・安保(あふ)肥前(ひぜんの)守(かみ)忠真(ただざね)・小田伊賀(いがの)守(かみ)・田中下総(しもふさの)三郎・伴野(ともの)出羽(ではの)守(かみ)長房・木村長門(ながとの)四郎・小幡(をばた)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・曾我左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・海老名(えびな)尾張(をはりの)六郎(ろくらう)季直(すゑなほ)・大平(おほひら)出羽守義尚(よしなほ)・粟飯原(あいはら)下総(しもふさの)守(かみ)清胤・二階堂(にかいだう)山城(やましろの)三郎行元(ゆきもと)・中条(ちゆうでう)備前(びぜんの)守(かみ)秀長・伊勢勘解由左衛門(かげゆざゑもん)・設楽(しだら)五郎兵衛(ごらうびやうゑの)尉(じよう)・宇佐美三河(みかはの)三郎・清久(きよく)左衛門次郎(さゑもんじらう)・富永(とみなが)孫四郎(まごしらう)・寺尾新蔵人・厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)・富樫介(とがしのすけ)を始として、多田(ただの)院(ゐんの)御家人(ごけにん)・常陸(ひたちの)平氏・甲斐(かひの)源氏・高家(かうけ)の一族(いちぞく)は申(まうす)に不及、畿内(きない)近国の兵、芳志恩顧(はうしおんこ)の輩(ともがら)、我(われ)も我(われ)もと馳(はせ)寄(よる)間、其(その)勢(せい)無程五万(ごまん)余騎(よき)、一条大路(いちでうのおほぢ)・今出河(いまでかは)・転法輪(てんぱふりん)・柳が辻・出雲路(いづもぢ)河原(かはら)に至るまで、無透間打込(うちこみ)たる。将軍是に驚かせ給ひ、三条殿(さんでうどの)へ使を以て被仰けるは、「師直・師泰過分(くわぶん)の奢侈(しやし)身に余て忽(たちまち)主従の礼を乱る。末代と乍云事常篇(じやうべん)に絶(たえ)たり。此(この)上は如何様(いかさま)其(それ)へ寄(よす)る事も可有、急(いそぎ)是へ御渡(おんわたり)候へ。一所にて安否を定めん。」と被仰ければ、左兵衛督馳(はせ)集(あつまり)たる兵共(つはものども)を召具(めしぐ)して、将軍の御所、近衛東洞院(ひがしのとうゐん)へぞ御坐(おはし)ける。此(この)事の様を見、不叶とや思けん、初(はじめ)馳集たる兵共(つはものども)、五騎十騎(じつき)落失て師直の手にぞ加りける。されば宗徒(むねと)の御一族(ごいちぞく)、近習の輩(ともがら)無弐忠を存する兵僅に千騎(せんぎ)にも不足けり。明(あく)れば八月十三日(じふさんにち)の卯(うの)刻(こく)に、武蔵守(むさしのかみ)師直・子息武蔵五郎師夏、雲霞(うんか)の兵を相卒(そつし)て、法成(はふじやう)寺河原(かはら)に打出て、二手(ふたて)にむずと押分て、将軍の御所の東北を十重二十重(とへはたへ)に囲みて、三度(さんど)時(とき)をぞ揚(あげ)たりける。越後(ゑちごの)守(かみ)師泰は七千(しちせん)余騎(よき)を引分て、西南の小路を立切(たちきり)、搦手(からめて)にこそ廻(まはり)けれ。四方(しはう)より火を懸て焼責(やきぜめ)にすべしと聞へしかば、兵火の余烟(よえん)難遁とて、其辺近(ちかき)卿相(けいしやう)雲客(うんかく)の亭(てい)、長講堂・三宝院(さんぼうゐん)へ資財雑具(ざふぐ)を運び、僧俗男女東西に逃迷(にげまよ)ふ。内裏も近ければ、軍勢(ぐんぜい)事に触(ふれ)て狼藉をも可致とて、俄(にはか)に竜駕(りようが)を被促持明院殿(ぢみやうゐんどの)へ行幸なる。摂禄(せふろく)大臣諸家(しよけ)の卿相(けいしやう)、周章騒(あわてさわい)で馳参(はせまい)る。宮中の官女上達部(かんたちめ)、徒歩(かち)にて逃(にげ)ふためけば、八座(はちざ)・七弁(しちべん)・五位・六位・大吏・外記(げき)、悉(ことごとく)階下庭上に立連(つらなる)。禁中変化(へんくわ)の有様は目も不被当事共(ことども)也(なり)。暦応以来(りやくおうよりこのかた)は天下武家に帰し、世上も少(すこし)穏(おだやか)なりしに、去年楠正行乱(らん)を起せしか共討死せしかば、弥(いよいよ)無為(ぶゐ)の世に成すと喜(よろこび)合(あふ)処に、俄(にはか)に此乱出来ぬれば、兔(と)にも角(かく)にも治まらぬ世の中と歎かぬ者こそ無かりけれ。将軍も左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、師直・師泰縦(たとひ)押寄(おしよする)と云共、防戦(ふせぎいくさ)に及(およば)ん事返(かへつ)て恥辱なるべし。兵門前に防(ふせが)ば、御腹(おんはら)召(めさ)るべしとて、小具足許(こぐそくばかり)にて閑(しづま)り返て御座(おはし)けり。師直・師泰、義勢は是までなれ共(ども)、さすが押寄(おしよす)る事はなく、徒(いたづら)に時をぞ移しける。去(さる)程(ほど)に須賀(すがの)壱岐(いきの)守(かみ)を以て師直が方へ被仰けるは、「累祖(るゐそ)義家朝臣(あそん)、天下の武将たりしより以来(このかた)、汝が累祖(るゐそ)、当家累代(るゐだい)の家僕(かぼく)として未(いまだ)曾(かつて)一日も主従の礼儀を不乱。而(しかる)に以一旦(いつたん)忿忘余身恩、穏(おだやか)に不展子細大軍を起して東西に囲を成す。是縦(たとひ)尊氏を賎(いやし)とす共天の譴(せめ)をば不可遁。心中に憤(いきどほ)る事有らば退(しりぞい)て所存を可申。但(ただし)讒者(ざんしや)の真偽(しんぎ)に事を寄(よせ)て国家を奪(うばは)んとの企(くはたて)ならば、再往(さいわう)の問答に不可及。白刃(はくじん)の前に我(わが)命(めいを)止めて忽(たちまち)に黄泉(くわうせん)の下に汝が運を可見。」と、只一言の中に若干(そくばく)の理を尽して被仰ければ、師直、「いや/\是までの仰を可承とは不存、只讒臣(ざんしん)の申処を御承引候(さふらひ)て、無故三条殿(さんでうどの)より師直が一類(いちるゐ)亡(ほろぼ)さんとの御結構(ごけつこう)にて候間、其身の不誤処を申開き、讒者の張本(ちやうぼん)を給(たまはつ)て後人の悪習をこらさん為に候。」とて、旗の手を一同に颯(さつ)と下(おろ)させ、楯を一面に進(すすめ)て両殿を囲(かこみ)奉り、御左右遅しとぞ責(せめ)たりける。将軍弥(いよいよ)腹を居兼(すゑかね)て、「累代(るゐだい)の家人(けにん)に被囲て下手人(げしにん)被乞出す例(れい)やある。よし/\天下の嘲(あざけり)に身を替(かへ)て討死せん。」とて、御小袖(おんこそで)と云(いふ)鎧(よろひ)取て被召(めされ)ければ、堂上(だうじやう)堂下(だうか)に集(あつま)りたる兵、甲(かぶと)の緒(を)をしめ色めき渡て、「あはや天下の安否よ。」と肝を冷(ひや)しける処に、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)被宥申けるは、「彼等奢侈(しやし)の梟悪(けうあく)法に過(すぐ)るに依て、一旦(いつたん)可誡沙汰由相計(あひはかる)を伝(つたへ)聞き、結句(けつく)返(かへつ)て狼藉(らうぜき)を企(くはたつ)る事、当家の瑕瑾(かきん)武略の衰微(すゐび)是に過(すぎ)たる事や候べき。然(しかしながら)此(この)禍(わざはひ)は直義を恨(うらみ)たる処也(なり)。然(しかる)を軽々敷(かろがろしく)家僕に対して防戦(ばうせん)の御手(おんて)を被下事口惜(くちをしく)候べし。彼(か)れ今讒者を差(さし)申す上は、師直が申請(こふ)るに任せ、彼等を被召出事何の痛(いたみ)候べき。若(もし)猶予(ゆよ)の御返答あらんに、師直逆威(ぎやくゐ)を振ひ忠義を忘れば、一家(いつけ)の武運此(この)時(とき)軽(かろく)して、天下の大変親(まのあた)りあるべし。」と堅(かたく)制し被申しかば、将軍も諌言違(たがふ)処なしと思給ひければ、「師直が任申請旨、自今後は左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)殿(どの)に政道綺(いろ)はせ奉る事不可有。上杉・畠山をば可被遠流。」と被許ければ、師直喜悦(きえつ)の眉を開き、囲(かこみ)を解(とい)て打帰る。次の朝軈(やがて)妙吉侍者を召取(めしとら)んと人を遣(つかは)しけるに、早(はや)先立(さきだち)て逐電(ちくてん)しければ行方も不知(しらず)。財産(ざいさん)は方々へ運び取り、浮雲(ふうん)の富貴(ふつき)忽(たちまち)に夢のごとく成にけり。
○右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)鎮西(ちんぜい)没落(ぼつらくの)事(こと) S2706
斯(かかり)し後は弥(いよいよ)師直権威(けんゐ)重く成て、三条殿(さんでうどの)方(がた)の人々は面を低(た)れ眉を顰(ひそ)む。中にも右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)は、中国の探題にて備後の鞆(とも)に御座(おはし)けるを、師直近国の地頭・御家人に相触(あひふれ)て討(うち)奉れと申遣(まうしつかは)したりければ、同九月十三日(じふさんにち)、杉原又四郎に百(ひやく)余騎(よき)にて押寄たり。俄の事なれば可防兵も少くて、直冬朝臣(ただふゆあそん)既(すで)に被誅給ひぬべかりしを、礒部(いそべ)左近(さこんの)将監(しやうげん)が若党(わかたう)散々に防(ふせぎ)けるが、何(いづ)れも究竟(くつきやう)の手足(てだれ)にて志(こころざ)す矢坪(やつぼ)を不違射ける矢に、十六騎(じふろくき)に手負(ておほ)せて、十三騎馬より倒(さかさま)に射て落(おと)したりければ、杉原少し疼(ひるん)で不懸得ければ、其間に右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)は、河尻(かはじり)肥後(ひごの)守(かみ)幸俊(なりとし)が船に乗て、肥後(ひごの)国(くに)へぞ被落ける。志ある者は小舟に乗て追付(おつつき)奉る。此(この)佐(すけ)殿(どの)は武将の嫡(ちやく)家にて、中国の探題に被下て人皆順靡(したがひなびき)奉り、富貴(ふつき)栄耀(えいえう)の門を開き、置酒好会(かうくわい)の席を舒(の)べ、楽(たのしみ)未(いまだ)央(なかばならざり)しに、夢の間に引替て、心筑紫(つくし)に落塩(おちじほ)の鳴戸(なると)を差(さし)て行(ゆく)舟は、片帆(へんぱん)は雲に泝(さかのぼ)り、烟水(えんすゐ)眼(まなこ)に范々(ばうばう)たり。万里漂泊(へうはく)の愁(うれへ)、一葉(いちえふ)扁舟(へんしう)の浮(うき)思ひ、浪馴衣(なみなれごろも)袖朽(くち)て、涙忘るゝ許(ばかり)也(なり)。一年(ひととせ)父尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、京都の軍に利無(なく)して九州へ落(おち)給(たまひ)たりしが、無幾程帰洛の喜(よろこび)に成(なり)給ひし事遠からぬ佳例(かれい)也(なり)と、人々上には勇め共、行末も如何(いか)がしらぬひの、筑紫に赴(おもむく)旅なれば、無為方ぞ見へたりける。九月十三夜、名にをふ月明(げつめい)にして、旅泊(りよはく)の思(おもひ)も切なりければ、直冬、梓弓(あづさゆみ)我こそあらめ引連(ひきつれ)て人にさへうき月を見せつると詠じ給へば、袖を濡さぬ人はなし。
○左馬(さまの)頭(かみ)義詮(よしのり)上洛(しやうらくの)事(こと) S2707
去(さる)程(ほど)に三条殿(さんでうどの)は、師直・師泰が憤(いきどほり)猶(なほ)深きに依て、天下の政務の事不及口入。大樹は元来(ぐわんらい)政務を謙譲(けんじやう)し給へば、自関東(くわんとう)左馬(さまの)頭(かみ)義詮(よしのり)を急ぎ上洛(しやうらく)あらせて、直義(ただよし)に不相替政道を申(まうし)付(つけ)、師直諸事を可申沙汰定りにけり。此(この)左馬(さまの)頭(かみ)と申すは千寿王丸(せんじゆわうまる)と申て久(ひさし)く関東(くわんとう)に居(す)へ置(おか)れたりしが、今は器(き)にあたるべしとて、権柄(けんぺい)の為に上洛(しやうらく)あるとぞ聞へし。同十月四日左馬(さまの)頭(かみ)鎌倉(かまくら)を立て、同二十二日入洛(じゆらく)し給けり。上洛(しやうらく)の体由々敷(ゆゆしき)見物也(なり)とて、粟田口(あはたぐち)・四宮河原(しのみやがはら)辺まで桟敷を打て車を立、貴賎巷(ちまた)をぞ争ひける。師直以下の在京の大名、悉(ことごとく)勢多(せた)まで参向す。東国の大名も川越(かはこえ)・高坂(かうさか)を始として大略送りに上洛(しやうらく)す。馬具足奇麗(きれい)也(なり)しかば誠(まこと)に耳目(じぼく)を驚(おどろか)す。其(その)美(び)を尽(つく)し善を尽(つく)すも理(ことはり)哉、将軍の長男にて直義の政務に替(かは)り天下の権(けん)を執(と)らん為に上洛(しやうらく)ある事なれば、一涯(ひときわ)珍(めづ)らか也(なり)。今夜将軍の亭(てい)に著(つき)給へば、仙洞より勧修寺(くわんしゆじ)大納言(だいなごん)経顕(つねあき)卿(きやう)を勅使(ちよくし)にて、典厩(てんきう)上洛(しやうらく)の事を賀(が)し仰(おほせ)らる。同二十六日(にじふろくにち)三条(さんでうの)坊門(ばうもん)高倉(たかくら)、直義朝臣(あそん)の宿所へ被移住、頓(やが)て政務執行(しつかう)の沙汰始あり。目出(めでた)かりし事共(ことども)也(なり)。
○直義朝臣(あそん)隠遁(いんとんの)事(こと)付(つけたり)玄慧(げんゑ)法印末期(まつごの)事(こと) S2708
去(さる)程(ほど)に直義は世の交(まじはり)を止(やめ)、細川兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)顕氏の錦小路(にしきのこうぢ)堀川(ほりかは)の宿所へ被移にけり。猶も師直・師泰は、角(かく)て始終(しじゆう)御憤(おんいきどほり)を被止まじければ、身の為悪(あし)かるべしとて、偸(ひそか)に可奉失由内々議すと聞へければ、其(その)疑(うたがひ)を散ぜん為に、先(まづ)世に望(のぞみ)なく御身(おんみ)を捨はてられたる心中を知(しら)せんとにや、貞和(ぢやうわ)五年十二月八日、御歳四十二にして御髪(かみ)を落(おろ)し給ひける。未(いまだ)強仕(きやうし)の齢(よはひ)幾程も不過に、剃髪染衣(ていはつぜんえ)の姿に帰(き)し給ひし事、盛者必衰(しやうじやひつすゐ)の理(ことはり)と乍云、うたてかりける事共(ことども)也(なり)。斯(かかり)しかば天下の事綺(いろひ)し程こそあれ、今は大廈高墻(たいかかうしやう)の内に身を置き、軽羅褥茵(けいらじよくいん)の上に非可楽とて、錦小路堀河(にしきのこうぢほりかは)に幽閉閑疎(いうへいかんそ)の御住居(おんすまゐ)、垣に苔むし軒に松旧(ふり)たるが、茅茨(ばうし)煙に篭(こもつ)て夜の月朦朧(もうろう)たり。荻花(てきくわ)風に戦(そよい)で暮(くれ)の声蕭疎(せうそ)たり。時遷(うつり)事去(さり)て、人物(じんぶつ)古(ふるき)に非(あらざ)る事を感じ、蘿窓草屋(らさうさうをく)の底に座来(ざらい)して、経巻を抛(なげうたるる)隙(ひま)も無(なか)りけり。時しもあれや秋暮て、時雨がちなる冬闌(たけ)ぬ。冷然(さび)しさまさる簾(みすの)外には、香盧峯(かうろほう)の雪も浦山敷(うらやましく)、身の古(いにしへ)はあだし世の、夢かとぞ思ふ思(おもひ)きや、雪踏(ふみ)分(わけ)し小野(をの)の山、今更思ひしられつゝ、問(とふ)人もがなと思へども、世の聞耳(ききみみ)を憚(はばかつ)て事問(こととふ)人も無(なか)りしに、独清軒玄慧(どくせいけんげんゑ)法印、師直が許しを得て、時々参りつゝ、異国本朝の物語共(ものがたりども)して慰(なぐさめ)奉りけるが、老病に被犯て不参得と申ければ、薬を一包(ひとつつみ)送(おくり)給ふとて、其裹紙(つつみがみ)に、ながらへて問へとぞ思ふ君ならで今は伴(ともな)ふ人もなき世にと有しかば、法印是を見て泣々、感君一日恩。招我百年魂。扶病坐床下。披書拭泪痕。と一首(いつしゆ)の小詩に九回(きうくわい)の思(おもひ)を尽して奉る。其後無程法印身罷(みまかり)にけり。慧源禅巷(ゑげんぜんかう)哀に思て、自(みづから)此(この)詩の奥に紙を継(つい)で、六兪般若(りくゆはんにや)の真文(しんもん)を写して、彼追善(かのつゐぜん)にぞ被擬ける。
○上杉畠山流罪(るざい)死刑(しけいの)事(こと) S2709
去(さる)程(ほど)に上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)・畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)直宗をば、所領を没収(もつしゆ)し、宿所を破却(はきやく)して共に越前国へ流遣(ながしつかは)されけり。此人々さりとも死罪に被行までの事はよも非じと憑(たのま)れけるにや、暫(しばし)の別を悲(かなしみ)て、女房少(をさなき)人々まで皆伴(ともなう)て下(くだり)給へ共、馴(なれ)ぬ旅寝の床(とこ)の露、をきふし袖をや濡すらん。日来(ひごろ)より翫(もてあそ)びし事なれば、旅の思を慰めんと一面の琵琶を馬鞍(むまのくら)にかけ、旅館の月に弾(だん)じ給へば、王昭君(わうぜうくん)が胡角(こかく)一声霜後(さうごの)夢、漢宮(かんきゆう)万里月前(まへの)腸(はらわた)と、胡国の旅を悲(かなしみ)しも角(かく)やと思(おもひ)知(しら)れたり。嵐の風に関(せき)越て、紅葉をぬさと、手向(たむけ)山、暮(くれ)行(ゆく)秋の別(わかれ)まで、身にしられたる哀にて、遁れぬ罪を身の上に、今は大津の東の浦、浜の真砂(まさご)の数よりも、思へば多き歎(なげき)哉(かな)。絶(たえ)ぬ思(おもひ)を志賀(しがの)浦(うら)、渚(なぎさ)によする佐々浪(さざなみ)の、返るを見るも浦山敷(うらやましく)、七座(しちざの)神を伏拝み、身の行末を祈(いのり)ても、都に又も帰(かへる)べき、事は堅田(かただ)に引(ひく)網の、目にもたまらぬ我(わが)泪(なみだ)、今津(いまづ)・甲斐津(かひづ)を過(すぎ)行(ゆけ)ば、湖水の霧に峙(そばたち)て、波間(なみま)に見へたる小島(こじま)あり。是なんめり、都良香(とりやうきやう)が古(いにしへ)、三千(さんぜん)世界は眼(めの)前に尽(つき)ぬと詠ぜしかば、十二因縁(いんえん)は心(こころの)裡(うち)に空(むなし)と云(いふ)下(しもの)句を、弁才天の続(つぎ)給(たまひ)し竹生島(ちくぶしま)よと望(のぞみ)見て、暫(しばらく)法施(ほつせ)を奉る。焼(やか)ぬ塩津(しほづ)を過(すぎ)行(ゆけ)ば、思ひ越路(こしぢ)の秋の風、音は荒血(あらち)の山越て、浅茅(あさぢ)色付(いろづく)野を行(ゆけ)ば、末こそしらね梓弓(あづさゆみ)、敦賀(つるが)の津にも身を寄せて、袖にや浪の懸るらん。稠(きびし)く守る武士(もののふ)の、矢田野(やたの)は何(いづ)く帰(かへる)山、名をのみ聞て甲斐もなし。治承の乱に篭(こもり)けん、火打(ひうち)が城を見上(みあぐ)れば、蝸牛(くわぎう)の角(つの)の上三千界、石火の光の中一刹那(いつせつな)、哀あだなる憂世(うきよ)哉(かな)と、今更驚(おどろく)許(ばかり)也(なり)。無常の虎(とら)の身を責(せむ)る、上野(うへの)の原を過(すぎ)行(ゆけ)ば、我ゆへさはがしき、月の鼠(ねずみ)の根をかぶる、壁草(いつまでぐさ)のいつまでか、露の命の懸るべき。とても可消水の泡(あわ)の流(ながれ)留(とどま)る処とて、江守(えもり)の庄(しやう)にぞ着にける。当国の守護代(しゆごだい)細河(ほそかは)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)、八木光勝(やぎのみつかつ)是を請取(うけとり)て、浅猿気(あさましげ)なる柴の庵の、しばしも如何(いか)が栖(すま)れんと、見るだに物憂(ものうき)住居なるに、警固を居(す)へてぞ置れたりける。痛(いたはしき)哉(かな)都にてはさしも気高(けだか)かりし薄桧皮(うすひはだ)の屋形の、三葉四葉(みつばよつば)に作(つくり)双(ならべ)て奇麗(きれい)なるに、車馬門前に群集(くんじゆ)し賓客(ひんかく)堂上(だうじやう)に充満(じゆうまん)して、声花(はなやか)にこそ住(すみ)給(たまひ)しに、今は引替(ひきかへ)たる鄙(ひな)の長途(ちやうぢ)に、やすらふだにも悲(かなし)きに、竹の編戸(あみど)松の垣、時雨(しぐれ)も風もたまらねば、袂(たもと)の乾(かは)く隙(ひま)もなし。されば如何(いか)なる宿業(しゆくごふ)にてか斯(かか)る憂(うき)目に逢(あふ)らんと、乍我うらめしくて、あるも甲斐なき命なりけるを、猶(なほ)も師直不足にや思(おもひ)けん、後の禍(わざはひ)をも不顧、潜(ひそか)に討手を差下し、守護代(しゆごだい)八木(やぎ)の光勝(みつかつ)に云(いひ)合(あは)せ、上杉・畠山を可討とぞ下知しける。光勝元は上杉が下知に随(したがふ)者也(なり)けるが、武蔵守に被語て俄(にはか)に心変(へん)じければ、八月二十四日の夜半許(ばかり)に、伊豆(いづの)守(かみ)の配所(はいしよ)、江守の庄へ行(ゆき)て、「昨日の暮程に高(かうの)弁(べん)定信大勢にて当国の府に著(つき)て候を、何事やらんと内々相尋(たづね)て候へば、旁(かたがた)を討(うち)進(まゐら)せん為に下(くだり)て候なる。加様(かやう)にて御座(おわしまし)候(さふらひ)ては、争(いかで)か叶はせ給(たまひ)候べき。今夜急(いそぎ)夜に紛(まぎ)れて落させ給ひ、越中越後の間に立忍(しの)ばせ給(たまひ)て、将軍へ事の子細を申入(まうしいれ)させ給(たまひ)候はゞ、師直等(もろなほら)は忽(たちまちに)蒙御勘気、御身(おんみ)の罪は軽(かろく)成て、などか帰参の御事(おんこと)無(なか)るべき。警固の兵共(つはものども)にも道の程の御怖畏(ごふゐ)候まじ。只はや討手の近付(ちかづき)候はぬさきに落させ給ひ候へ。」と誠(まこと)に弐(ふたごころ)なげに申ければ、出抜(だしぬく)とは夢にも知(しり)給はず、取(とる)物も不取敢(とりあへず)、女房少(をさな)き人々まで皆引具(ひきぐ)して、上下五十三人(ごじふさんにん)、歩(かち)はだしなる有様にて加賀の方へぞ被落ける。時しもこそあれ、霑交(こさめまじり)に降(ふる)時雨(しぐれ)、面を打(うつ)が如くにて、僅に細き田面(たのも)の道、上は氷れる馬ざくり、蹈(ふめ)ば深泥(しんでい)膝にあがる。簑(みの)もなく笠も著ざれば、膚(はだへ)までぬれ徹(とほ)り、手亀(かがま)り足寒(ひ)へたるに、男は女の手を引、親は少(をさな)き子を負(おう)て、何(いづ)くを可落著処とも不知、只跡より討手や懸るらんと、怖ろしき侭(まま)に落(おち)行(ゆく)心(こころの)中こそ哀なれ。八木光勝兼て近辺に触回(ふれまは)り、「上杉・畠山の人々、流人の身として落て行事あらば、無是非皆討(うち)止(とめ)よ。」と申(まうす)間、江守・浅生水(あさふづ)・八代(やしろの)庄(しやう)・安居(あこ)・波羅蜜(はらみ)の辺に居たる溢者(あぶれもの)共(ども)、太鼓(たいこ)を鳴し鐘を撞(つき)て、「落人あり打(うち)止(とめ)よ。」と騒動(さうどう)す。上杉・畠山是に驚(おどろき)て、一足(ひとあし)も前へ落(おち)延(のび)んと倒れふためきて、足羽(あすは)の渡へ行著(ゆきつき)たれば、川の橋を引(ひき)落(おと)して、足羽・藤島(ふぢしま)の者共(ものども)、川向(かはむかふ)に楯を一面に衝双(つきなら)べたり。さらば跡へ帰て、八木をこそ憑まめと憂かりし江守へ立帰れば、又浅生水(あさふづ)の橋をはねはづして、迹にも敵充満(みちみち)たり。只つかれの鳥の犬と鷹とに責(せめ)らるらんも、角(かく)やと思ひしられたり。是までも主の先途(せんど)を見はてんと、付順(つきしたが)ひたりける若党(わかたう)十三人(じふさんにん)、主の自害を勧(すす)めん為、押膚(おしはだ)脱(ぬい)で皆一度(いちど)に腹をぞ切たりける。畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)もつゞいて腹掻(かき)切(きり)、其刀を引抜(ひきぬい)て、上杉伊豆(いづの)守(かみ)の前に投(なげ)遣(やり)、「御腰刀(おんこしがたな)は些(ちと)寸延(のび)て見へ候、是にて御自害(ごじがい)候へ。」と云(いひ)もはてず、うつぶしに成て倒れにけり。伊豆(いづの)守(かみ)其刀を手に取ながら、幾程ならぬ憂世(うきよ)の名残惜(をしみ)かねて、女房の方をつく/゛\と見て、袖を顔に押あて、只さめ/゛\と泣居たる許(ばかり)にて、坐(そぞろ)に時をぞ移されける。去(さる)程(ほど)に八木光勝が中間共に生捕(いけど)られて、被差殺けるこそうたてけれ。武士たる人は、平生の振舞はよしや兔(と)も角(かく)もあれ強(あながち)見る処に非(あら)ず。只最後の死様(しにざま)をこそ執(しつ)する事なるに、蓬(きたな)くも見へ給ひつる死場(しにば)哉と、爪弾(つまはじき)せぬ人も無りけり。女房は年此(としごろ)日来(ひごろ)のなじみ、昨日今日の情の色、いつ忘るべしとも不覚と泣(なき)悲みて其淵瀬(ふちせ)に身をも沈めんと、人目の隙(ひま)を求給ひけるを、年来知識に被憑たりける聖(ひじり)、兔角(とかく)止(とど)め教訓して、往生院(わうじやうゐん)の道場(だうじやう)にて髪剃(そり)落(おと)し奉て、無迹(なきあと)を訪(とぶらふ)外は更(さらに)他事なしとぞ聞へし。加様に万づ成ぬれば、天下の政道然(しかしながら)武家の執事の手に落て、今に乱(みだれ)ぬとぞ見へたりける。
○大嘗会(だいじやうゑの)事(こと) S2710
去(さる)程(ほど)に年内頓(やが)て大礼(たいれい)可有と、重(かさね)て評定せられけり。当年三月七日に可行と沙汰有しか共、大儀不事行。乍去さのみ延引(えんいん)如何(いかが)とて、可被果遂にぞ定(さだま)りける。夫(それ)大礼(たいれい)と申は、大内回禄(だいだいくわいろく)の後は代々(だいだい)の流例(りうれい)として、大極殿(だいごくでん)の儀式を被移て大政官の庁(ちやう)にて是を被行。内弁(ないべん)は洞院(とうゐんの)太政大臣(だいじやうだいじん)公資(きんすけ)公(こう)とぞ聞へし。即位の内弁を大相国(たいしやうこく)勤仕(きんし)の事先縦(せんしよう)邂逅(たまさか)なり、或(あるひ)は不快(ふくわい)也(なり)と僉議(せんぎ)区(まちまち)也(なり)しを、勧修寺(くわんしゆじ)大納言(だいなごん)経顕卿勧(すすん)で被申けるは、「相国(しやうこく)の内弁の先例両度也(なり)。保安(ほうあん)・久寿(きうじゆ)の両主也(なり)。保安は誠(まこと)に凶(きよう)例とも云つべし、久寿は又佳例なれば、彼先規を争(いか)でか可被嫌。其(その)上(うへ)今の相国(しやうこく)は時に当る職に達し、世に聞たる才幹(さいかん)なり。されば君主も義を訪(と)ひ政道を■(とひ)給へば、一人(いちじんの)師範其(その)身に当れり。諸家(しよけ)も礼を学(まなび)和漢の鑒(かがみ)と仰て、四海(しかい)の儀形(ぎけい)人を恥(はぢ)ず。」と被申しかば、皆閉口(へいこう)して是非の沙汰にも不及、相国内弁に定り給ひけり。外弁(げべん)は三条(さんでうの)坊門(ばうもん)源(げん)大納言(だいなごん)家信(いへのぶ)・高倉(たかくらの)宰相(さいしやう)広通(ひろみち)・冷泉(れんぜいの)宰相(さいしやう)経隆也(なり)。左の侍従(じじゆう)は花山(くわざんの)院(ゐんの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)家賢(いへかた)、右の侍従(じじゆう)は菊亭三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)公真(きんさね)也(なり)。御即位の大礼(たいれい)は四海(しかい)の経営(けいえい)にて、緇素(しそ)の壮観可比事無(なけ)れば、遠近踵(くびす)を継(つい)で群(ぐん)をなす。両院も御見物の為に御幸(ごかう)成て、外弁(げべんの)幄(かりや)の西南の門外に御車(おんくるま)を被立。天子諸卿冕服(べんふく)を著(ちやく)し諸衛(しよゑ)諸陣大儀を伏す。四神(ししんの)幡(はた)を■(つぼ)に立て、諸衛(しよゑ)鼓を陣(ぢんに)振る。紅旗(こうき)巻風画竜(ぐわりよう)揚(あが)り、玉幡(ぎよくはん)映日文鳳(ぶんほう)翔(かけ)る、秦(しんの)阿房宮(あばうきゆう)にも不異、呉の姑蘇台(こそだい)も角(かく)やと覚(おぼえ)て、末代と乍云、懸る大儀を被執行事有難(ありがた)かりし様(ためし)也(なり)。此(この)日(ひ)何(いか)なる日ぞや、貞和五年十二月二十六日(にじふろくにち)、天子登壇(とうだん)即位して数度の大礼(たいれい)事ゆへなく被行しかば、今年は目出度(めでたく)暮(くれ)にけり。