太平記
太平記巻第三十六
○仁木京兆参南方事付大神宮御託宣事 S3601
都には去年の天災・旱魃・飢饉・疫癘、都鄙の間に発て、尸骸路径に充満せし事、只事にあらず、何様改元有べしとて、延文六年三月晦日に、康安に改られける。其夜四条富小路より火出て、四方八十六町まで焼失す。改元の始に、洛中加様に焼ぬる事、先不吉の表示也。此年号不可然と被申人多かりけれ共、武家既に宣下を承て国々へ施行しぬるを、いつしか又改元有ん条無其例とて、終に此年号をぞ被用ける。去程に仁木右京大夫義長は、三年が間大敵に取巻れて、伊勢の長野の城に篭りたれば、知行の地もなく、兵粮乏くなるに付て、憑切たる一族郎従漸々に落失て、僅に三百余騎に成にけり。土岐右馬頭氏光・外山・今峯、兄弟三人、始は仁木に属して城に篭りたりけるが、弟の外山・今峯は、忽に翻て寄手に加り、兄の右馬頭は、猶城に留て仁木が方にぞ居たりける。連枝の間なれば、外山・今峯、何にもして右馬頭を助ばやと思て、潜に人を遣し、「城のさのみ弱り候はぬ先に、急ぎ御降参候へ。将軍の御意も無子細候へば、御本領なども相違有まじきにて候。」と、申遣したりければ、右馬頭使に向て、兔角の返事をばせで、其文を引返て、一首の歌を書てぞ返しける。連りし枝の木葉の散々にさそふ嵐の音さへぞうき外山・今峯此返事を見て、是程に思切たる人なれば、語ふ共甲斐あるまじ。げにも連枝の兄弟散々に成て後、憂世を秋の霜の下に朽なん名こそ悲けれと、泪ぐみけるぞ哀なる。日に随て勢の落行気色を見て、我力にては遂に可叶とも不思けるにや、義長潜に吉野殿へ使者を進じて、御方に可参由をぞ申入たりける。伝奏吉田中納言宗房卿、参内して事の由を被奏聞けるに、諸卿異儀多しといへ共、義長御方に参りなば、伊賀・伊勢両国、官軍に属するのみならず、伊勢の国司顕能卿の城も、心安く成ぬべしとて、則勅免の綸旨をぞ被成ける。是を承て、武者所に候ける者共が囁き申けるは、「近年源氏の氏族の中に、御方に参ずる人々を見るに、何れも以詐君を欺申さずと云者なし。先錦小路慧源禅門は、相伝譜代の家人師直・師泰等が害を遁ん為に、御方に参りしか共、当方の力を仮て、会稽の恥を雪たりし後、一日も更に天恩を重しとせず、其譴身に留て遂に毒害せられにき。其後又宰相中将義詮朝臣、御方に可参由を申て、君臣御合体の由なりしも、何か天下を君の御成敗に任せたりし堅約忽に破て、義詮江州を差て落たりしは、其偽の果所に非ずや。又右兵衛佐直冬・石堂刑部卿頼房・山名伊豆守時氏等が、御方の由なるも、都て実共不覚。推量するに、只勅命を借て私の本意を達せば、君をば御位に即進する共、天下をば我侭にすべき者をと、心中に挟者也。今又仁木右京大夫義長、大敵に囲れたるが難堪さに、御方に参由を申を、諸卿許容し給こそ心得ね。彼が平生の振舞悪として不造云事なし。聊も心に逆ふ時は、無咎人を殺て誤れりとも不思、気に合時は、無忠賞を与て忽に是を取返す。先多年の芳恩を忘て、義詮朝臣を背く程の者なれば、君の御為に深く忠義を可存や。七箇国の管領を、尚あきたらず思し程の心なれば、此方の五箇国・三箇国の恩賞を、不足なしと可思や。若又彼が如所存恩賞を被行、日本六十六箇国に一所も残処不可有。多年旧功の官軍共、何れの所にか身を可置。倩是を思に、非忠臣非智臣、仏神に被捨進せ、人望に背て自滅せんとする悪人を、御方に被成たらば、豈聖運の助ならんや。只虎を養て自患を招く風情なるべき者を。」と申ければ、又傍に仁木を引者やと覚しくて申けるは、「此人悪き事はさる事なれ共、又直人とは不覚。鎌倉にては鶴岡の八幡宮にて、児を切殺して神殿に血を淋き、八幡にては、駒方の神人を殺害して若干の神訴を負ふ。尋常の人にて是程の悪行をしたらんに、暫くも安穏なる事や候べき。仙輿国王の五百人を殺し、斑足太子の一千の王を害せしも、皆権者の所変とこそ承れ。是も只人を贔屓して申に非ず。人の語り伝へし事の耳に留て候間申にて候也。近年此人伊勢国を管領して、在国したりしに、前々更に公家武家手を不指神三郡に打入て、大神宮の御領を押領す。依之祭主・神官等京都に上て、公家に奏聞し武家に触訴ふ。開闢以来未斯る不思議やあるとて、厳密の綸旨御教書を被成しか共、義長曾不承引。剰我を訴訟しつるが悪きとて、五十鈴川をせいて魚を捕り、神路山に入て鷹を仕ふ。悪行日来に重畳せり。よしやさらば神罰に任て亡んを待とて、五百余人の神官等榊の朶に木綿を懸、様々の奉幣を捧て、只義長を七箇日の内に蹴殺させ給へと、異口同音にぞ呪咀しける。七日に当りける日、十歳許なる童部一人、俄に物に狂て、「我に大神宮乗居させ給へり。」とて、託宣しけるは、「我本学覚如の都を出て、和光同塵の跡を垂しより以来、本高跡下の秋の月不照云処もなく、化属結縁の春の華不薫云袖もなし。去ば方便の門には罪有をも不嫌、利物の所には愚なるをも不捨。抑義長が悪行を汝等天に訴て呪咀する事こそ心得ね。彼が三生の前に義長法師と云し時、五部の大乗経を書て此国に納めたりき。其善根今生に答て当国を知行する事を得たり。加様の宿善ならずは彼豈一日も安穏なる事を得んや。嗚呼あたら善根や。若無上菩提の心に趣て、此経を書たらましかば、速に離生死至仏果菩提なまし。只名聞利養の為に、修せし処の善根なれば、今身は武名の家に生れて、諸国を管領し、眷属多くたなびくといへ共、悪行心に染て、乱を好み人を悩す。哀なる哉、過去の善根此世に答て、今生の悪業又未来に酬はん事を。」とかきくどきて泣けるが、暫寝入たる体にて物付は則覚にけり。加様の事を以て思時は、義長も故ある人とこそ覚へ候へ。」と申ければ、初譏つる者共、「其れは不知、於悪行は天下第一の僻者ぞ。」と終夜語て、明れば朝よりぞ退てける。
○大地震並夏雪事 S3602
同年の六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万と云数を不知。都て山川・江河・林野・村落此災に不合云所なし。中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。是をこそ希代の不思議と見る処に、同六月二十二日、俄に天掻曇雪降て、氷寒の甚き事冬至の前後の如し。酒を飲て身を暖め火を焼炉を囲む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路の樵夫、野径の旅人、牧馬、林鹿悉氷に被閉雪に臥て、凍へ死る者数を不知。七月二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を経て後、近き傍の浦人共数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。又八月二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈く吹て、虚空暫掻くれて見へけるが、難波浦の澳より、大龍二浮出て、天王寺の金堂の中へ入ると見けるが、雲の中に鏑矢鳴響て、戈の光四方にひらめきて、大龍と四天と戦ふ体にぞ見へたりける。二の竜去る時、又大地震く動て、金堂微塵に砕にけり。され共四天は少しも損ぜさせ給はず。是は何様聖徳太子御安置の仏舎利、此堂に御坐ば、竜王是を取奉らんとするを、仏法護持の四天王、惜ませ給けるかと覚へたり。洛中辺土には、傾ぬ塔の九輪もなく、熊野参詣の道には、地の裂ぬ所も無りけり。旧記の載る所、開闢以来斯る不思議なければ、此上に又何様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐れぬ人は更になし。
○天王寺造営事付京都御祈祷事 S3603
南方には此大地震に、諸国七道の大伽藍共の破たる体を聞に、天王寺の金堂程崩れたる堂舎はなく、紀州の山々程裂たる地もなければ、是外の表事には非じと御慎有て、様々の御祈共を始らる。則般若寺円海上人勅を承て、天王寺の金堂を作られけるに、希代の奇特共多かりけり。先大廈高堂の構なれば、安芸・周防・紀伊国の杣山より、大木を取んずる事、一二年の間には難道行覚へけるに、二人して抱き廻す程なる桧木の柱、六七丈なるかぶき三百本、何くより来る共不知、難波の浦に流寄て、塩の干潟にぞ留りける。暫くは主ある材木にてぞ在らんと、尋くる人を待れけれ共求くる人も無りければ、さては天竜八部の人力を助給にてぞ有らんとて、虹の梁・鳳の甍、品々に是をぞ用ひける。又柱立已に訖、棟木を揚んとしけるに、■巻の縄に信濃皮むき千束入べしと、番匠麁色を出せり。輙く可尋出物ならねば、上人信濃国へ下て便宜の人に勧進せんと企給ける処に、難波堀江の汀に死蛇の如くなる物流寄たり。何やらんと近付見れば、信濃皮むきにて打たる大綱、太さ二尺長さ三十丈なるが十六筋まで、水泡に連てぞ寄たりける。上人不斜悦て、軈てくるまきの綱に用ひらる。是第一の奇特也とて、所用の後は、此綱を宝蔵にぞ収め給ひける。又三百余人有ける番匠の中に、肉食を止め酒を飲ぬ番匠あまたあり。上人怪く思給ひて是がする業を見給に、一人のする業、余の番匠十人にも過たり。さればこそ直人にては無りけれと、弥怪く覚して、日暮て帰るを見送り給へば、何くへ行共不見、かき消す様に失にけり。其数二十八人有つるは、何様千手観音の御眷属、二十八部衆にてぞ御坐すらんと、皆人信仰の手を合す。されば造営日あらずして奇麗金銀を鏤たり。霊仏の威光、上人の陰徳、函蓋共に相応して、奇特なりし事共也。都には東寺の金堂一尺二寸南へのきて、高祖弘法大師南天へ飛去せ給ぬと、寺僧の夢に見ければ、洛中の御慎たるべしとて、青蓮院の尊道法親王に被仰、伴僧二十口八月十三日より内裏に伺候して、大熾盛光の法を行る。聖護院覚誉親王は、二間に御参有て、九月八日より一七日、尊星王の法をぞ修せられける。是のみならず、近年絶て無りつる最勝講を行る。初日は問者叡山の尋源・東大寺の深慧、講師には、興福寺の盛深・同寺の範忠、第二日の問者は、東大寺の経弁・同良懐、講師は興福寺の実遍・山門の慈俊、第三日の問者は、興福寺の円守・山門の円俊、講師は、三井寺の経深・興福寺の覚成、第四日の問者は、興福寺の孝憲・同寺の覚家、講師は、叡山の良憲・三井寺の房深、結日の問者は、東大寺の義実・興福寺教快講師は、山門良寿・興福寺実縁、証義は、大乗院の前大僧正孝学・尊勝院の慈能僧正にてぞ御坐ける。講問朝夕に坐を替て、学海に玉を拾へる論談を決択して詞の林に花開く。富楼那の弁舌、文殊の智恵も、角やと覚る許也。
○山名伊豆守落美作城事付菊池軍事 S3604
斯る処に、七月十二日山名伊豆守時氏・嫡子右衛門佐師義・次男中務大輔、出雲・伯耆・因播、三箇国の勢三千余騎を卒して美作へ発向す。当国の守護赤松筑前入道世貞、播州に在て未戦前に、広戸掃部助が、名木杣二箇処城、飯田の一族が篭たる篠向の城、菅家の一族の大見丈の城、有元民部大夫入道が菩提寺の城、小原孫次郎入道が小原の城、大野の一族が篭りたる大野城、六箇所の城は、一矢をも不射降参す。林野・妙見二の城は、二十日余り怺たりけるが、山名に兔角すかされて、遂には是も敵になる。今は倉懸の城一残て、佐用美濃守貞久・有元和泉守佐久、僅に三百余騎にて楯篭りたりけるを、山名伊豆守時氏・子息中務少輔三千余騎にて押寄せ、城の四方の山々峯々二十三箇所に陣を取て、鹿垣を二重三重に結ひ廻し、逆木しげく引懸て、矢懸り近くぞ攻たりける。播磨と美作との堺には、竹山・千草・吉野・石堂が峯、四箇所の城を構て、赤松律師則祐、百騎づゝの勢を篭たりける。山名が執事小林民部丞重長、二千余騎にて星祭の岳へ打上り、城を目の下に直下して、透間もあらば打蒐らんと、馬の腹帯を堅めて引へたり。赤松筑前入道世貞・舎弟律師則祐・其弟弾正少弼氏範・大夫判官光範・宮内少輔師範・掃部助直頼・筑前五郎顕範・佐用・上月・真島・杉原の一族相集て二千余騎、高倉山の麓に陣を取て、敵倉懸の城を攻ば弊に乗て後攻をせんと企つと聞へければ、山名右衛門佐師義、勝れたる兵八百余騎を卒して、敵の近付ん所へ懸合せんと、浮勢に成て引へたり。赤松は右衛門佐小勢也と聞て、先此敵を打散さんと打立ける処に、阿保肥前入道信禅、俄に敵に成て但馬国へ馳越、長九郎左衛門と引合て播磨へ打て入んと企ける間、赤松、「さらば東方に城郭を構へ、路々に警固の兵を置け。」とて、法花山に城を構へ、大山越の道を切塞で、五箇所へ勢をぞ差向ける。依之進んで山名に戦んとするも勢少く、退て但馬へ向はんとするも不叶。進退歩を失て前後の敵に迷惑す。さらば中国の大将細河右馬頭頼旨、讃岐国の守護を相論して、四国にをはするに触送て其勢を呼越し、備前・備中・備後、当国四箇国の勢を以て、倉懸の城の後攻をせよとて、事の子細を牒送するに、右馬頭大に驚て、九月十日備前へ押渡て後陣の勢を待けるに、相順ふ四箇国の兵共、己が国々の私戦を捨かねて、大将に不属。備前・備中・備後三箇国の勢は、皆野心を含める者共なれば、非可憑とて、大将唐河に陣を取り、徒に月日をぞ被送ける。去程に倉懸の城には人多して兵粮少かりければ、戦ふ度に軍利有といへ共、後攻の憑もなく、食尽矢種尽ければ、無力十一月四日遂に城を落にけり。是より山名山陰道四箇国を合せて勢弥近国に振のみに非ず、諸国の聞へをびたゝしかりければ、世中如何あらんと危く思はぬ人も無りけり。又筑紫には去ぬる七月初に、征西将軍宮、新田の一族二千余騎、菊池肥後守武光三千余騎、博多に打て出て香椎に陣を取と聞へしかば、勢の著ぬさきに追落せとて、大伴刑部太輔七千余騎・太宰小弐五千余騎・宗像大宮司八百余騎・紀井常陸前司三百余騎、都合二万五千余騎の勢、一手に成て大手へ向ふ。上松浦・下松浦の一党、両勢の兵三千余騎は、飯守山に打上て敵の後へぞ廻りける。寄手は目に余る程の大勢にて、而も敵を取巻たり。宮方は対揚までもなき小勢にて、而も平場を陣に取たりけれ共、菊池が気分元来大敵を拉心ね也ければ敢て事ともせざりけり。両陣の間僅に二十余町を阻たれば、数日互に馬の腹帯を堅め、鎧の高紐を弛さで、懸りてや責る、待てや闘ふと、隙を伺ひ気をためらいて、徒に両月をぞ送りける。菊池が家の子城越前守は、謀ある者なりければ、山臥・禅僧・遁世者なんどを、忍々に松浦が陣へ遣して、其陣の人々の中に、「たれがしは御方へ内通の事あり、何がしは後矢射て降参すべき由を申候ぞ。野心の者共に心を置で、犬死し給ふな。」なんど、様々にぞ申遣しける。是を聞て去事や可有と乍思、今時の人の心、又あるまじき事にてもなしと、互に心置合て危ぶまぬ人も無りけり。其後少し程経て、八月六日の暁、城越前守千余騎の勢にて飯守山に押寄、楯の板を敲て時をどつと作る。松浦党元来大勢也。城よかりければ、此敵に可被落様は無りけるを、城中に敵の内通の者多しと、敵の謀て告たりしを誠と心得て、「御方に討るな、目を賦れ。」と云程こそ有けれ、我先にと落ける間、寄手勝に乗て追懸々々是を討。夜明たりせば一人も助るべしとは不見けり。乍敵手痛からんずると思つる松浦党をば、城越前守が謀にて輙く責落しぬ。小弐・大友を打散さん事は指掌よりも可輙とて、菊池、宮の御勢と一手に成て五千余騎、明る七日午刻に香椎の陣へ押寄る。松浦党昨日搦手の軍に打負ぬと聞しより、哀引ばやと思小弐・大友が勢共なれば、何かは一積も積るべき。鞭に鐙を合せて我先にと落て行。道も不去得脱捨たる物具弓矢に目を懸ずは、一日路余り追れつる大手二万余騎は、半も生て本国へ可帰とは不見けり。
○秀詮兄弟討死事 S3605
又同年の九月二十八日、摂津国に不慮の事出来て、京勢若干討れにけり。事の起を尋ぬれば、当国の守護職をば、故赤松信濃守範資、無二の忠戦に依て将軍より給りたりしを、範資死去後、嫡子大夫判官光範相続して是を拝領す。而るを去年宰相中将義詮朝臣、五畿七道の勢を卒して、南方を被責時、光範が軍用の沙汰、毎年不足也と、将軍近習の輩共つぶやきけるを、佐々木佐渡判官入道々誉、能次でとや思けん、南方の軍散じて後、光範差たる咎もなきに、摂津国の守護職を可被召放由を申て、則我恩賞にぞ申給りける。光範は今度の軍用と云、合戦と云、忠烈人に超たりと思ければ、定て抜群の恩賞をぞ給らんずらんと思ける処に、夫こそ無らめ、結句二代の忠功を被処無に、多年管領の守護職を被改替ければ、含憤残恨といへ共、上裁なれば不及力、謹で訴詔をし居たりける。和田・楠是を聞て、能き時分也と思ければ、五百余騎を卒して、渡辺の橋を打渡り、天神の森に陣を取る。佐渡判官入道々誉が嫡孫、近江判官秀詮・舎弟次郎左衛門、兼て在国したりければ、千余騎にて馳向ひ、神崎の橋を阻て防戦んと議しけるを、守護代吉田肥前房厳覚、「何条さる事や候べき。近年赤松大夫判官、当国の守護にて乍有、動れば和田・楠等に境内を犯奪れんとする事、未練の至也とて、申給らせ給ひける守護職にて候に、敵の国を退治するまでこそ無らめ、当国に打越たる敵を、一人も生て返したらんは、赤松に被笑のみに非ず、京都の聞へも不可然。厳覚命を軽ずる程ならば、一族他門の兵共、誰か見放つ者候べき。恩賞ほしくはつゞけや人々。」と、広言吐て、厳覚真前に神崎の橋を打渡れば、後陣の勢一千余騎も、続て河を越したりける。爰にて敵の分際を問ふに、「楠は未河を不越、和田が勢許僅に五百騎にも不足見へて候。」と牛飼童部共の語りければ、吉田肥前から/\と笑て、「哀甘身や、敵の種をば此にて尽さすべし。同は楠をも河を越させて打殺せ。」とて、最閑に馬を飼てのさ/\としてぞ居たりける。和田・楠是を見澄して、河より西へ下部を四五人遣して、「南方の御敵は西より被寄候ぞ。神崎の橋爪を支させ給へ。」とぞ呼はらせける。佐々木判官是を聞て、「敵さては差違て迹より寄けり。取て返して戦へ。」とて両方深田なる道一を一面に打並て、本の橋爪へと馬を西頭に成して歩ませ行処に、楠が足軽の野伏三百人両方の深田へ立渡て、鏃を支へ散々に射る。両方は深田にて馬の足も不立、迹より返して広みにて戦へと、先陣の勢に制せられて、後陣より返さんとする処に、和田・楠・橋本・福塚、五百余騎抜連て追懸たり。中津河の橋爪にて、白江源次六騎踏止て討死しける。是ぞ案内者なれば、足立の善悪をも弁へて一軍もせんずると、佐々木が兼てより憑ける国人の中白一揆五百余騎、一戦も不戦、物具・太刀・刀を取捨て、河中へ皆飛漬る。始はさしも義勢しつる吉田肥前、真先に橋を渡て逃けるが、続く敵を不渡とやしたりけん、橋板一間引落てければ、迹に渡る御方の兵三百余騎は、皆水に溺てぞ流れける。佐々木判官兄弟は、橋の辺まで落延たりけるが、県二郎が、「橋の落て候ぞ、とても叶ぬ所也。返て討死せさせ給へ。御共申さん。」と云けるに恥しめられて、兄弟二騎引返て、矢庭に討れてけり。瓜生次郎左衛門父子兄弟三人も、判官の討死するを見て、一所に打寄らんとしけるが、馬の平頚射られて、刎落されければ、田の畔の上に三人立双で、敵懸らば打違て死なんとしけるが、遠矢に皆射すくめられて、一所にて皆討れにけり。半時許の軍に、死する京勢二百七十三人、此内敵に討れて死する兵僅に五六人には不過。其外二百五十余人は、皆河に流てぞ失にける。楠父祖の仁慧をつぎ、有情者なりければ、或は野伏共に生捕れて、被面縛たる敵をも不斬、或は河より被引上、無甲斐命生たる敵をも不禁置、赤裸なる者には小袖を著せ、手負たる者には薬を与へて、京へぞ返遣しける。身の恥は悲しけれ共、悦ばぬ者は無りけり。
○清氏叛逆事付相摸守子息元服事 S3606
此等をこそ、すはや大地震の験に、国々の乱出来ぬるはと驚き聞処に、京都に希代の事有て、将軍の執事細河相摸守清氏・其弟左馬助・猶子仁木中務少輔、三人共に都を落て、武家の怨敵と成にけり。事の根元を尋ぬれば、佐々木佐渡判官入道々誉と、細河相摸守清氏と内々怨を含事有しに依て、遂に君臣豺狼の心を結ぶとぞ聞へし。先加賀国の守護職は、富樫介、建武の始より今に至るまで一度も変ずる事無して、而も忠戦異他成敗依不暗、恩補列祖に復せしを、富樫介死去せし刻其子未幼稚也とて、道誉、尾張左衛門佐を聟に取て、当国の守護職を申与んとす。細河相摸守是を聞て、さる事や可有とて富樫介が子を取立て、則守護安堵の御教書をぞ申成ける。依之道誉が鬱憤其一也。次に備前の福岡の庄は頓宮四郎左衛門尉が所領也。而るを頓宮が軍忠中絶の刻、赤松律師是を申給る。後、頓宮、細河が手に属して忠有しかば、細河是を贔屓して、安堵の御教書を申与ふ。然共則祐は道誉が聟也ければ、国を押へられ上裁を支られて、頓宮所領に還住せず。是清氏が鬱憤の其一也。次に摂津国守護職をば道誉無謂申給て、嫡孫近江判官秀詮に持せたりけるを、相摸守本主赤松大夫判官光範に安堵せさせんと、時々異見を献ずる事所憚なし。依之道誉が鬱憤其二也。次に今度七夕の夜は、新将軍、相摸守が館へをはして、七百番の謌合をして可遊也と兼て被仰ければ、相摸守誠に興じ思て、様々の珍膳を認、哥読共数十人誘引して、已に案内を申ける処に、道誉又我宿所に七所を粧て、七番菜を調へ、七百種の課物を積み、七十服の本非の茶を可呑由を申て、宰相中将殿を招請し奉ける間、歌合はよしや後日にてもありなん、七所の飾は珍き遊なるべしとて、兼日の約束を引違、道誉が方へをはしければ、相摸守が用意徒に成て、数寄の人も空く帰にけり。是又清氏が鬱憤の其二也。加様の事共互に憤深く成にければ、両人の確執止む事を不得。上にはさりげなき体なれども、下には悪心を挿めり。されば始終は如何と被思遣たり。此相摸守は気分飽まで侈て、行迹尋常ならざりけれ共、偏に仏神を敬ふ心深かりければ、神に帰服して、子孫の冥加を祈んとや思れけん、又我子の烏帽子親に可取人なしとや思けん、九と七とに成ける二人の子を八幡にて元服せさせ、大菩薩の烏帽子々に成て、兄をば八幡六郎、弟をば八幡八郎とぞ名付ける。此事軈て天下の口遊と成ければ、将軍是を聞給て、「是は只当家の累祖伊予守頼義三人の子を八幡太郎・賀茂次郎・新羅三郎と名付しに異ず。心中にいかさま天下を奪んと思ふ企ある者也。」と所存に違てぞ思はれける。佐渡判官入道道誉是を聞て、すはや憎しと思ふ相摸守が過失は、一出来にけるはと独笑して、薮に■し居たる処に、外法成就の志一上人鎌倉より上て、判官入道の許へをはしたり。様々の物語して、「さても都は還て旅にて、万づさこそ便なき御事にてこそ候らめ。誰か檀那に成奉て、祈なんどの事をも申入候。」と問れければ、「未甲斐々々敷知音檀那等も候はで、いつしか在京難叶心地して候つるに、細河相摸殿よりこそ、此一両日が先に一大事の所願候。頓に成就ある様に祈てたび候へとて、願書を一通封して、供具の料足一万疋副て、被送て候しか。」と、語り給ひければ、道誉、「何事の所願にてか候らん。」と、懇切に被所望。生強に語りは出しつ、さのみ惜まん事も難叶ければ、無力此願書をぞ取寄て披見させける。道誉此願書を内へ持て入て、「只今些急ぐ事候間外へ罷出候。此願書は閑に披見候て返進べし。明日是へ御渡候へ。」とて、後の小門より出違ひければ、志一上人重て云入るゝに言なくして、宿所へぞ帰り給ひける。道誉、其翌日此願書を伊勢入道が許へ持て行て、「是見給へ。相摸守が隠謀の企有て、志一上人に付て、将軍を呪咀し奉りけるぞや。自筆自判の願書、分明に候上は、所疑にて候はず。急是を持参して、潜に将軍に見せ進せられ候へ。」とて、爪弾をして懐よりぞ取出しける。伊勢入道不思議の事哉と思て、披て是を見るに、三箇条の所願を被載たり。敬白荼祇尼天宝前一清氏管領四海、子孫永可誇栄花事。一宰相中将義詮朝臣、忽受病患可被死去事。一左馬頭基氏失武威背人望、可被降我軍門事。右此三箇条之所願、一々令成就者、永為此尊之檀度、可専真俗之繁昌。仍祈願状如件。康安元年九月三日相摸守清氏と書て、裏判にこそせられけれ。伊勢入道此願書を読畢て、眉を顰めて大息をつぐ事良久して、手迹は誰共知ね共、判形共に於ては疑なければ、宰相中将殿の見参にこそ入んずらめと思けるが、是を披露申なば、相摸殿忽に身を可被失。其上斯る事には、謀作謀計なんども有ぞかし。卒爾にはいかゞ申入べきと斟酌して、深く箱の底にぞ収めける。斯る処に羽林将軍俄に邪気の事有て、有験の高僧加持し奉れ共不静、頭の痛み日を追て増る由聞へしかば、道誉急ぎ参て、「先日伊勢入道の進じ候し清氏が願書をば御覧ぜられ候けるやらん。」と、問奉るに、「未披露せず。」と宣ふ。「さては御労其故と覚候。」とて、急伊勢入道を呼寄、件の願書を召出して、羽林将軍に見せ奉る。其後幾程無して邪気立去て、違例本復し給ければ、「道誉が申処偽らで、清氏が呪咀疑無りけり。」と、将軍是を信じ給ふ。其後又心付て、八幡に清氏願書を篭ぬる事有べからずとて、内々社務を召て問れければ、「去願書は封して神馬と送られて候が、頓て神殿にこめて候。」と申ければ、「其取出て奉るべし、聊不審あり。」と仰有ければ、軈て取出し持参しけり。是を披見し給ふにも、大樹の命を奪ひ、我世を取んとの発願也。弥疑所なし。凡志一上人を上せられけるも、畠山、我奇特の人と思ひ、同心に京・関東を取んとて、其祈祷の為に畠山吹挙にて上られけり。其後よりは、兔やして清氏を討まし、角やせましと、道誉一人に談合有て、案じ煩ひ給ひける処に、道誉俄に病と称して為湯治湯山へ下りぬ。其後四五日有て、相摸守普請の為とて、天竜寺へ参りけるが、不例庭に入て物具したる兵共、三百余騎召具したり。将軍是を聞給て、「さては道誉に評定せし事、はや清氏に聞へてけり。さらんに於ては却て如何様被寄ぬと覚るぞ。京中の戦は小勢にて叶まじ。要害に篭て可防。」とて九月二十一日の夜半許に、今熊野に引篭り、一の橋引落して、所々掻楯掻き車引双て、逆木轅門を堅めて待懸給へば、今川上総守・宇都宮参川入道以下、我も我もと馳参る。俄の事なれば、何事のひしめきと、聞定たる事はなけれ共、武士東西に馳違ひ、貴賎四方に逃吟。相摸守は天竜寺にて、京中のひしめきを聞て、何条今時洛中に何事の騒ぎ可有。告る者の誤りにてぞあらんとて、騒ぐ気色も無りけるが、我身の上と聞定てければ、三百余騎にて天竜寺より打帰り、弟の僧愈侍者を今熊野へ進せて、「洛中の騒動何事とも存知仕候はで、急馳参て候へば、清氏が身の上にて候ける。罪科何事にて候やらん。若無実の讒に依て、死罪を行れ候はゞ、政道の乱れ御敵の嘲、不可過之。暫御糺明の後に、罪科の実否を可被定にて候はゞ、頭を延て軍門に参候べし。」とぞ申入たりけれ共、「清氏が多日の隠謀、事已に露顕の上は、兔角の沙汰に不可及。」とて、使僧に対面もなく一言の返事にも及給はねば、色を失て退出す。清氏此上は陳じ申に言ばなし。今は定て討手をぞ向らるらん。一矢射て腹を切んとて、舎弟左馬助頼利・大夫将監家氏・兵部太輔将氏・猶子仁木中務少輔、いとこの兵部少輔氏春、六人中門にて武具ひし/\と堅め、旗竿取出し、馬の腹帯を堅めさすれば、重恩、新参の郎従共、此彼より馳参て七百余騎に成にけり。今熊野には、始五百余騎参して、「哀れ、我討手を承て向ばや。」と義勢しける者共、相摸守七百余騎にて控へたりと聞へしかば、興醒顔に成て、此の坊中彼の在家に引入り、荒く物をも不云、只何方に落場あると、山の方をぞ守りける。相摸守は今や討手を給ると、甲の緒を縮二日まで待れけれども、向ふ敵無りければ、洛中にて兵を集め、戦を致さんと用意したるも、且は狼籍也。陣を去り都を落てこそ猶陳じ申さめとて、二十三日の早旦に、若狭を差して落て行。仁木中務少輔・細河大夫将監二人は、京に落留りぬ。相順ふ勢次第に減じぬと見へけるに、辺土洛外の郎等共、少々路に追付て、「将軍の御勢は、僅に五百騎に不足とこそ承候に、などや此大勢にて都をば落させ給候やらん。」と申せば、相摸守馬を引へて、「元来将軍に向奉て、合戦をすべき身にてだにあらば、臆病第一の取集勢四五百騎戦き居たるを、清氏物の数とや可思。君臣の道死すれども上に逆へざる義を思ふ故に、一まども落てや陳じ申すと存て、無云甲斐体を人に見へつる悲さよ。身不肖なれば、無罪討れ進らす共世の為に可惜命に非ず。只讒人事を乱て、将軍天下を失はせ給はんずるを、草の陰にても見聞ん事こそ悲しけれ。」とて、両眼に泪を浮べ給へば、相順ふ兵共、皆鎧の袖をぞぬらしける。千本を打過て、長坂へ懸る処にて、舎弟兵部太輔といとこの兵部少輔二人を近付て、「御辺達兄弟骨肉の義依不浅、我安否を見はてんと、是まで付纏ひ給ふ志、千顆万顆の玉よりも重く、一入再入の紅よりも猶深し。雖然、清氏は依佞人讒不慮の刑に沈む上は力なし。御辺達両人は讒を負たる身にも非ず、又将軍の御不審を蒙たる事もなき者が、何と云沙汰もなく、我共に都を落て、路径に尸を曝さん事後難なきに非ず。早く此より将軍へ帰参して、清氏が所存をも申開き、父祖の跡をも失はぬ様に計ひ給へ。是我を助る謀、又身を立る道なるべし。」と、泪を流して宣へば、両人の人々押ふる泪に咽で、暫しは返事にも不及。良暫有て、「心憂事をも承候者哉。縦是より罷帰て候共、讒人君の傍に有て、憑影なき世に立紛れ候はゞ、何つ迄身をか保候べき。将軍には心を置進せ、傍への人には指を差れ候はん事、恥の上の不覚たるべきにて候へば、何くまでも伴ひ奉て、安否を見はて進せん事こそ本意にて候へ。」と、再三被申けれども、相摸守、「さては弥我に隠謀有けりと、世の人の思はんずる処が悲く候へば、枉て是より帰られ候て、真実の志あらば、後日に又音信も候へ。」と、強て被申ければ、二人の人々、「此上の事は兔も角も仰にこそ随ひ候はめ。」とて、泣々千本より打別れて、本の宿所へぞ帰にける。京中には、合戦あらば在家は一宇も不残と、上下万人劇騒ぎけるが、相摸守無事故都を落にければ、二十四日、将軍軈今熊野より本の館へ帰給。何しか相州被官の者共、宿所を替身を隠たる有様、昨日の楽今日の夢と哀也。有為転変の世の習、今に始ぬ事なれ共、不思議なりし事ども也。
○頓宮心替事付畠山道誓事 S3607
若狭国は、相摸守近年管領の国にて、頓宮四郎左衛門兼て在国したりければ、小浜に究竟の城を構て、兵粮数万石積置たり。相摸守此に落付て、城の構へ勢の程を見に、懸合の合戦をする共、又城に篭て戦共、一年二年の内には輙く落されじ物をとぞ思はれける。去程に尾張左衛門佐氏頼、討手の大将を承て、北陸道の勢三千余騎を卒して、越前より椿峠へ向ふ。仁木三郎搦手の大将を承て、山陰道の勢二千余騎を卒して、丹波より逆谷へ向と聞へければ、相摸守大に笑て、「穴哀の者共や。此等を敵に受ては、力者二三人に杉材棒突せて差向たらんに不足あるまじ。先敦賀に朝倉某が先打にて陣を取たるを打散せ。」とて、中間を八人差遣さる。八人の中間共敦賀の津へ紛入、浜面の在家十余箇所に火を懸て、時の声をぞ揚たりける。朝倉が兵三百余騎時の声に驚て、「すはや相摸守の寄たるは。定て大勢にてぞ有らん。引て後陣の勢に加れ。」とて、矢の一をも不射、朝倉敦賀を引ければ、相伴兵三百余騎、馬物具を取捨て、越前の府へぞ逃たりける。さればこそ思つる事よと、人毎に云弄ぶと沙汰せしかば、尾張左衛門佐大に忿て、軈て大勢を卒して十月二十九日椿峠へ打向ふ。相摸守是を聞て、「今度は一人も敵と云者を生て遣まじければ、自身向はでは叶まじ。」とて、城には頓宮四郎左衛門尉を残し置、舎弟右馬助共に五百余騎にて追手の敵に馳向ふ。敵陣難所なれば、待てや戦、懸りやすると思安して、未戦決処に、重恩他に異なれば、是ぞ弐有まじき者と憑れける頓宮四郎左衛門俄に心替して、挙旗城戸を打て寄手の勢を後より城へ引入ける間、相摸守に相順兵共、可戦力尽はてゝ、右往左往に落て行。朽たる縄を以て、六馬をば紲て留るとも、只難憑此比の武士の心也。清氏さしもの勇士なりしか共、角ては叶はじとや思れけん、舎弟右馬助と只二騎打連て篠峯越に忍で都へ紛入。一夜の程も洛中には難隠と思れければ、兄弟別々に成て、相摸守は東坂本へ打越へ、一日馬の足を休て天王寺へ落ければ、右馬頭は夜半に京中を打通り、大渡を経て、兼ての相図を不違天王寺へぞ落著ける。相摸守軈石堂刑部卿の許へ使者を立、「清氏已に依讒者訴、無罪死罪を行れんと候つる間、身の置所なき余に、天恩を戴て軍門に降参仕て候。旧好其故も候へば、混ら貴方を憑申にて候。兔も角も可然様に御計候へ。」とぞ言遣されける。石堂刑部卿急使者に対面して、先兔角の返事に不及、「こはそも夢か現か。」とて、良久く泪を袖に押へらる。軈参内して事の子細を奏聞せられけるに、左右の大臣相議して云、「敵軍首を延て帝徳に降る。天恩何ぞ是を慧れざらん。早く軍門に慎仕へて、征伐の忠を専にすべし。」と、恩免の綸旨を下されしかば、石堂限なく悦て、則細河に対面し給ふ。互に言ば無して泪に咽び給ふ。暫有て、「世の転変今に始ぬ事にて候へ共、不慮の参会こそ多年の本意にて候へ。」と許、色代してぞ被帰ける。只秦の章邯・趙高が讒を恐れ、楚の項羽に降し時、面をたれ涙を流して言ばには不出ども、讒者の世を乱る恨を含し気色に不異。去程に仁木中務少輔は、京より伊勢へ落て、相摸守に相順ふと聞へ、兵部少輔氏春は、京より淡路へ落て国中の勢を相付て、相摸守に力を合せ、兵船を調へて堺の浜へ著べしと披露あり。摂津国源氏松山は、香下城を拵て南方に牒し合、播磨路を差塞で、人を不通聞へければ、一方ならぬ蜂起に、京都以外に周章して、すはや世の乱出来ぬと危ぬ人も無りけり。宰相中将殿は畿内の蜂起を聞て、「近国は縦起るとも、坂東静なれば、東八箇国の勢召上て退治せんに、何程の事か可有。」とて、強ちに騒ぐ気色も無りける処に、康安元年十一月十三日、関東より飛脚到来して、「畠山入道々誓、舎弟尾張守御敵に成て、伊豆国に楯篭り候間、東国の路塞て、官軍催しに不応。」とぞ申ける。其濫觴何事ぞと尋ぬれば、去々年の冬、畠山入道南方退治の大将として上洛せし時、東八箇国の大名・小名数を尽してぞ上りける。此軍勢長途に疲れ数月の在陣にくたびれて、馬物具を売位に成しかば、怺兼て、畠山に暇をも不乞抜々に大略本国へ下ける。遥に程経て、畠山関東に下向して彼等が一所懸命の所領どもを没収して、歎け共耳にも不聞入、適披露する奉行あれば、大に鼻を突せ追込ける間、訴人徒に群集して、愁を不懐云者なし。暫は訴詔を経て廻りけるが、余に事興盛しければ、宗との者共千余人、神水を呑で、所詮畠山入道を執権に被召仕、毎事御成敗に随まじき由を左馬頭へぞ訴申ける。下として上を退る嗷訴、下刻上の至哉と、心中には憤思はれけれども、此者どもに背れなば、東国は一日も無為なるまじと覚して、軈て畠山が許へ使を立て、「去々年上洛の時、南方退治の事は次に成て、専仁木右京大夫を討んと被謀候し事、隠謀の其一にて非や。其後関東に下向して、差たる無罪科諸人の所帯を没収せられ候ける事、只世を乱して、基氏を天下の人に背かせんとの企にてぞ候覧。叛逆旁露顕の上は一日も門下に跡を不可被留。退出及遅々、速に討手をさし遣すべし。」とぞ被云送ける。畠山は其比鎌倉に有けるが、此上は陳じ申とも叶まじとて、兄弟五人並郎従已下引具して、三百余騎伊豆国を指して落て行。此勢小田原の宿に著たりける夜、土肥掃部助、「御敵に成て落る者に、矢一射懸ずと云事や可有。」とて、主従只八騎にて小田原の宿へ押寄せ、風上より火を懸て、烟の下より切て入る。畠山が方に、遊佐・神保・斎藤・杉原、出向て散々に追払ふ。是程小勢なりける者をとて、時の興にぞ笑合ける。さて其後は後陣に防矢少々射させて、其夜小田原の宿を落て、伊豆の修禅寺に楯篭る。其後畠山が舎弟尾張守義深、信濃へ越て、諏防の祝部と引合て、敵に成と聞へしかば、東国・西国・東山道、一度に何様起り合ぬと、洛中の貴賎騒合り。