太平記(国民文庫)
太平記巻第二十二

○畑六郎左衛門事 S2201
去程に京都の討手大勢にて攻下しかば、杣山の城も被落、越前・加賀・能登・越中・若狭五箇国の間に、宮方の城一所も無りけるに、畑六郎左衛門時能、僅に二十七人篭りたりける鷹巣の城計ぞ相残りたりける。一井兵部少輔氏政は、去年杣山の城より平泉寺へ越て、衆徒を語ひ、挙旗と被議けるが、国中宮方弱して、与力する衆徒も無りければ、是も同く鷹巣城へぞ引篭りける。時能が勇力、氏政が機分、小勢なりとて閣きなば、何様天下の大事に可成とて、足利尾張守高経・高上野介師重、両大将として、北陸道七箇国の勢七千余騎を率して、鷹巣城の四辺を千百重に被囲、三十余箇所の向ひ城をぞ取たりける。彼畑六郎左衛門と申は、武蔵国の住人にて有けるが、歳十六の時より好相撲取けるが、坂東八箇国に更に勝者無りけり、腕の力筋太して股の村肉厚ければ、彼薩摩の氏長も角やと覚て夥し。其後信濃国に移住して、生涯山野江海猟漁を業として、年久く有しかば、馬に乗て悪所岩石を落す事、恰も神変を得るが如し。唯造父が御を取て千里に不疲しも、是には不過とぞ覚へたる。水練は又憑夷が道を得たれば、驪龍頷下の珠をも自可奪。弓は養由が迹を追しかば、弦を鳴して遥なる樹頭の栖猿をも落しつべし。謀巧にして人を眤、気健にして心不撓しかば、戦場に臨むごとに敵を靡け堅に当る事、樊■・周勃が不得道をも得たり。されば物は以類聚る習ひなれば、彼が甥に所大夫房快舜とて、少しも不劣悪僧あり。又中間に悪八郎とて、欠脣なる大力あり。又犬獅子と名を付たる不思議の犬一疋有けり。此三人の者共、闇にだになれば、或帽子甲に鎖を著て、足軽に出立時もあり。或は大鎧に七物持時もあり。様々質を替て敵の向城に忍入。先件の犬を先立て城の用心の様を伺ふに、敵の用心密て難伺隙時は、此犬一吠々走出、敵の寝入、夜廻も止時は、走出て主に向て尾を振て告ける間、三人共に此犬を案内者にて、屏をのり越、城の中へ打入て、叫喚で縦横無碍に切て廻りける間、数千の敵軍驚騒で、城を被落ぬは無りけり。「夫犬は以守禦養人。」といへり。誠に無心禽獣も、報恩酬徳の心有にや、斯る事は先言にも聞ける事あり。昔周の世衰へんとせし時、戎国乱て王化に不随、兵を遣して是を雖責、官軍戦に無利、討るゝ者三十万人、地を被奪事七千余里、国危く士辱しめられて、諸侯皆彼に降事を乞。爰に周王是を愁て■を安じ給はず。時節御前に犬の候けるに魚肉を与、「汝若有心、戎国に下て、窃に戎王を喰殺して、世の乱を静めよ。然らば汝に三千の宮女を一人下て夫婦となし、戎国の王たら[し]めん。」と戯て被仰たりけるを、此狗勅命を聞て、立て三声吠けるが、則万里の路を過て戎国に下て、偸に戎王の寐所へ忍入て、忽に戎王を喰殺し、其頚を咆へて、周王の御前へぞ進ける。等閑に戯れて勅定ありし事なれ共、綸言難改とて、后宮を一人此狗に被下て、為夫婦、戎国を其賞にぞ被行ける。后三千の列に勝れ、一人の寵厚かりし其恩情を棄て、勅命なれば無力、彼犬に伴て泣々戎国に下て、年久住給しかば、一人の男子を生り。其形頭は犬にして身は人に不替。子孫相続て戎国を保ちける間、依之彼国を犬戎国とぞ申ける。以彼思之、此犬獅子が行をも珍しからずとぞ申ける。されば此犬城中に忍入て機嫌を計ける間、三十七箇所に城を拵へ分て、逆木を引屏を塗ぬる向城共、毎夜一二被打落、物具を捨て馬を失ひ恥をかく事多ければ、敵の強きをば不顧、御方に笑れん事を恥て、偸に兵粮を入、忍々酒肴を送て、可然は我城を夜討になせそと、畑を語はぬ者ぞ無りける。爰に寄手の中に、上木九郎家光と云けるは、元は新田左中将の侍也けるが、心を翻して敵となり、責口に候けるが、数百石の兵粮を通して畑に内通すと云聞へ有しかば、何なる者か為けん、大将尾張守高経の陣の前に、「畑を討んと思はゞ、先上木を伐。」と云秀句を書て高札をぞ立たりける。是より大将も上木に心を被置、傍輩も是に隔心ある体に見ける間、上木口惜事に思て、二月二十七日の早旦に、己が一族二百余人、俄に物具ひし/\しと堅め、大竹をひしいで楯の面に当、かづき連てぞ責たりける。自余の寄手是を見て、「城の案内知たる上木が俄に責るは、何様可落様ぞ有らん。上木一人が高名になすな。」とて、三十余箇所の向城の兵共七千人、取物も不取敢、岩根を伝ひ、木の根に取付て、差も嶮しき鷹巣城の坂十八町を一息に責上り、切岸の下にぞ著たりける。され共城には鳴を静めて、「事の様を見よ。」とて閑り却て有けるが、已に鹿垣程近く成ける時、畑六郎・所大夫快舜・悪八郎・鶴沢源蔵人・長尾新左衛門・児玉五郎左衛門五人の者共、思々の物具に、太刀長刀の鋒を汰へ、声々に名乗て、喚て切てぞ出たりける。誠に人なしと由断して、そゞろに進み近づきたる前懸の寄手百余人、是に驚散て、互の助を得んと、一所へひし/\と寄たる処を、例の悪八郎、八九尺計なる大木を脇にはさみ、五六十しても押はたらかしがたき大磐石を、転懸たれば、其石に当る有様、輪宝の山を崩し磊石の卵を圧すに不異。斯る処に理を得て左右に激し、八方を払、破ては返し帰ては進み、散々に切廻りける間、或討れ或疵を被る者、不知其数。乍去其後は、弥寄手攻上る者も無て、只山を阻川を境て、向陣を遠く取のきたれば、中々兎角もすべき様無し。懸し程に、畑つく/゛\と思案して、此侭にては叶ふまじ、珍しき戦ひ今一度して、敵を散すか散さるゝか、二の間に天運を見んと思ければ、我城には大将一井兵部少輔に、兵十一人を著て残し留め、又我身は宗徒の者十六人を引具して、十月二十一日の夜半に、豊原の北に当たる伊地山に打上て、中黒の旌二流打立て、寄手遅しとぞ待たりける。尾張守高経是を聞て、鷹巣城より勢を分て、此へ打出たるとは不寄思、豊原・平泉寺の衆徒、宮方と引合て旌を挙たりと心得て、些も足をためさせじと、同二十二日の卯刻に、三千余騎にてぞ押寄られける。寄手初の程は敵の多少を量兼て、無左右不進けるが、小勢也けりと見て、些も無恐処、我前にとぞ進みたりける。畑六郎左衛門、敵外に引へたる程は、態あり共被知ざりけるが、敵已一二町に責寄せたりける時、金筒の上に火威の胄の敷目に拵へたるを、草摺長に著下て、同毛の五枚甲に鍬形打て緒を縮、熊野打の肪当に、大立揚の脛当を、脇楯の下まで引篭て、四尺三寸太刀に、三尺六寸の長刀茎短に拳り、一引両に三■の笠符、馬の三頭に吹懸させ、塩津黒とて五尺三寸有ける馬に、鎖の胄懸させて、不劣兵十六人、前後左右に相随へ、「畑将軍此にあり、尾張守は何くに坐すぞ。」と呼て、大勢の中へ懸入、追廻し、懸乱し、八方を払て、四維に遮りしかば、万卒忽に散じて、皆馬の足をぞ立兼たる。是を見て、尾張守高経・鹿草兵庫助旗の下に磬て、「無云甲斐者共哉。敵縦鬼神也とも、あれ程の小勢を見て引事や有べき。唯馬の足を立寄せて、魚鱗に引へて、兵を虎韜になして取篭、一人も不漏打留よや。」と、透間も無ぞ被下知ける。懸しかば三千余騎の兵共、大将の諌言に力を得て、十六騎の敵を真中にをつ取篭、余さじとこそ揉だりけれ。大敵雖難欺、畑が乗たる馬は、項羽が騅にも不劣程の駿足也しかば、鐙の鼻に充落され蹄の下にころぶをば、首を取ては馳通り、取て返しては颯と破る。相順ふ兵も、皆似るを友とする事なれば、目に当敵をば切て不落云事なし。其膚不撓目不瞬勇気に、三軍敢て当り難く見へしかば、尾張守の兵三千余騎、東西南北に散乱して、河より向へ引退く。軍散じて後、畑帷幕の内に打帰て、其兵を集るに、五騎は被討九人は痛手を負たりけり。其中に殊更憑たる大夫房快舜、七所まで痛手負たりしが、其日の暮程にぞ死にける。畑も脛当の外、小手の余り、切れぬ所ぞ無りける。少々の小疵をば、物の数とも不思けるに、障子の板の外より、肩崎へ射篭られたりける白羽の矢一筋、何に脱けれ共、鏃更に不脱けるが、三日の間苦痛を責て、終に吠へ死にこそ失にけれ。凡此畑は悪逆無道にして、罪障を不恐のみならず、無用なるに僧法師を殺し、仏閣社壇を焼壊ち、修善の心は露許もなく、作悪業事如山重しかば、勇士智謀の其芸有しか共、遂に天の為にや被罰けん、流矢に被侵て死にけるこそ無慙なれ。君不見哉、舁控弓、天に懸る九の日を射て落し、■盪舟、無水陸地を遣しか共、或は其臣寒■に被殺、或は夏后小康に被討て皆死名を遺せり。されば開元の宰相宋開府が、幼君の為に武を黷し、其辺功を不立しも、無智慮忠臣と可謂と、思合せける許也。畑已に討れし後は、北国の宮方気を撓して、頭を差出す者も無りけり。
○義助被参芳野事并隆資卿物語事 S2202
爰に脇屋刑部卿義助は、去九月十八日、美濃の根尾の城に立篭しか共、土岐弾正少弼頼遠・刑部大夫頼康に責落されて、郎等七十三人を召具し、微服潜行して、熱田大宮司が城尾張国波津が崎へ落させ給て、十余日逗留して、敗軍の兵を集めさせ給て、伊勢伊賀を経て、吉野殿へぞ被参ける。則参内し、竜顔に奉謁しかば、君玉顔殊に麗しく照して前席、此五六年が間の北征の忠功、異他由を感じ被仰て、更に敗北の無念なる事をば不被仰出、其命無恙して今此に来る事、君臣水魚の忠徳再可露故也と、御涙を浮させ御座て被仰下。次日臨時の宣下有て一級を被加。加之当参の一族、並相順へる兵共に至るまで、或は恩賞を給、或官位を進められければ、面目人に超てぞ見へたりける。其時分殿上の上口に、諸卿被参候たりけるが、物語の次に、洞院右大将実世未左衛門督にて坐しが、被欺申けるは、「抑義助越前の合戦に打負て美濃国へ落ぬ。其国をさへ又被追落て、身の置処なき侭に、当山へ参りたるを、君御賞翫有て、官禄を進ませらる事返々も不心得。是唯治承の昔、権佐三位中将維盛が、東国の討手に下て、鳥の羽音に驚て逃上たりしを、祖父清盛入道が計ひとして、一級を進ませしに不異。」とぞ被笑ける。四条中納言隆資卿、つく/\と是を聞給ひけるが、退て被申けるは、「今度の儀、叡慮の趣く処、其理当るかとこそ存候へ。其故は、義助北国の軍に失利候し事は全彼が戦の拙きに非ず。只聖運、時未到、又勅裁の将の威を軽くせられしに依て也。高才に対して加様の事を申せば、以管窺天、听途説塗風情にて候へ共、只其の一端を申べし。昔周の未戦国の時に当て、七雄の諸侯相争ひ互に国を奪はんと謀し時、呉王闔廬、孫子と云ける勇士を大将として、敵国を伐ん事を計る。時に孫氏、呉王闔廬に向て申けるは、「夫以不教之民戦しむる事、是を棄よといへり。若敵国を伐しめんとならば、先宮中にあらゆる所の美人を集て、兵の前に立て、陣を張り戈を持しめて後、我其命を司らむ。一日の中に、三度戦の術を教へんに、命に随ふ事を得ば、敵国を滅さん事、立に得つべし。」とぞ申ける。呉王則孫子が任申請、宮中の美人三千人を南庭に出して、皆兵の前陣に立らる。時に孫氏甲胄を帯し、戈を取て、「鼓うたば進んで刃を交へよ。金をうたば退て二陣の兵に譲れ。敵ひかば急に北るを追へ。敵返さば堪て弱を凌げ。命を背かば我汝等を斬らん。」と、馬を馳てぞ習はしける。三千の美人君の命に依て戦ひを習はす戦場へ出たれども、窈窕たる婉嫋、羅綺にだもたへざる体なれば、戈をだにも擡得ざれば、まして刃を交るまでもなし。あきれたる体にて打笑ぬる計也。孫氏是を忿て、殊更呉王闔廬が最愛の美人三人を忽に斬てぞ捨たりける。是を見、自余の美人相順て、「士卒と共に懸よ。」といへば進み、「返せ。」といへば止る。聚散応変、進退当度。是全孫氏が美人の殺す事を以て兵法とはせず、只大将の命を士卒の重んずべき処を人にしらしめんが為也。呉王も最愛の美人を三人まで失ひつる事は悲しけれ共、孫氏が教へたる謀誠に当れりと被思ければ、遂に孫氏を以て、多くの敵国を亡されてげり。されば周の武王、殷の紂王を伐ん為に、大将を立ん事を太公望に問給ふ。太公望答曰、「凡国有難、君避正殿、召将而詔之曰、社稷安危、一在将軍。願将軍帥師応之。将既受命、乃命大史卜。斎三日、之大廟鑽霊亀卜吉日以授斧鉞。君入廟門西面而立、将入廟門北面而立。君親操鉞持首、授将其柄曰、従此上至天者、将軍制之。復操斧持柄授将其刃曰、従此下至淵者、将軍制之。見其虚則進、見其実則止。勿以三軍為衆而軽敵。勿以受命為重而必死。勿以身貴而賎人。勿以独見而違衆。勿以弁舌為必然。士未坐勿坐。士未食勿食。寒暑必同。如此則士衆必尽死力。将已受命拝而報君曰、臣聞国不可以外治、軍不可以中禦。二心不可以事君。疑志不可以応敵。臣既受命専斧鉞之威。臣不敢将。君許之。乃辞而行。軍中之事不聞君命、皆由将出。臨敵決戦、無有二心。若如則無天於上、無地於下。無敵於前、無君於後。是故智者為之謀、勇者為之闘。気励青雲疾若馳々。兵不接刃而敵降服。戦勝於外、功立於内。吏遷士賞百姓懽悦、将無咎殃。是故風雨時節、五穀豊熟、社稷安寧也。」といへり。古より今に至るまで、将を重んずる事如此にてこそ、敵を亡し国を治る道は候事なれ。去程に此間北国の有様を伝へ承るに、大将の挙状を不帯共、士卒直に訴る事あれば、軈て勅裁を被下、僅に山中を伺ひ以祗候労を、軍用を支へらる。北国の所領共を望む人あれば、不事問被成聖断。依之大将威軽、士卒心恣にして、義助遂に百戦の利を失へり。是全戦ふ処に非ず。只上の御沙汰の違処に出たり。君忝も是を思召知るに依て、今其賞を被重者也。秦将孟明視・西乞術・白乙丙、鄭国の軍に打負て帰たりしを秦穆公素服郊迎して、「我不用百里奚・■叔言辱しめられたり。三子は何の罪かある。其専心毋懈。」と云て三人の官禄を復せしにて候はずや。」と、理を尽て宣られければ、さしも大才の実世卿、言なくしてぞ立れける。「何ぞ古の維盛を入道相国賞せしに同せん哉。」と被申しかば、実世卿言ば無して被退出けり。
○作々木信胤成宮方事 S2203
懸る処に伊予国より専使馳来て、急ぎ可然大将を一人撰て被下、御方に対して忠戦を可致之由を奏聞したりしかば、脇屋刑部卿義助朝臣を可被下公議定けり。され共下向の道、海上も陸地も皆敵陣也。如何して可下、僉議不一ける処に、備前国住人、佐々木飽浦三郎左衛門尉信胤早馬を打てて、「去月二十三日小豆島に押渡り、義兵を挙る処に、国中の忠ある輩馳加て、逆徒少々打順へ、京都運送の舟路を差塞で候也。急近日大将御下向有べし。」とぞ告たりける。諸卿是を聞て、大将進発の道開て、天運機を得たる時至りぬと、悦給事限なし。抑此信胤と申は、去建武乱の始に、細川卿律師定禅に与力して、備前備中の両国を平げ、将軍の為に忠功有しかば、武恩に飽て、恨を可含事も無りしに、依何今俄に宮方に成ぞと、事の根元を尋ぬれば、此比天下に禍をなす例の傾城故とぞ申ける。其比菊亭殿に御妻とて、見目貌無類、其品賎からで、なまめきたる女房ありけり。しかあれ共、元来心軽く思定めたる方もなければ、何となく引手数たのうき綱の、目もはづかなる其喩へも猶事過て、寄瀬何くにかと我ながら思分でぞ有渡りける。さはありながら、をぼろけにては、人の近付べきにもあらぬ宮中の深棲なるに、何がして心を懸し玉垂の、間求得たる便にか有けん、今の世に肩を双る人もなき高土佐守に通馴て、人しれず思結れたる下紐の、せきとめがたき中なれば、初の程こそ忍けれ、後は早山田に懸るひたふるに打ひたゝけて、あやにくなる里居にのみまかでければ、宮仕ひも常には疎そかなる事のみ有て、主の左のをほゐまうち公も、かく共しらせ給しかば、むつかしの人目を中の関守や、よひ/\ごとの深過るをまたず共あれかしと被許、まかで出ける時もあり。懸し程に、此土佐守に元相馴て、子共数た儲たる鎌倉の女房有ける。是は元来田舎人也ければ、物妬はしたなく心武々敷て、彼源氏の雨夜の物語に、頭中将の指をくひ切たりし有様共多かりけり。されども子共の親なれば、けしからずの有様哉とは乍思、いなと云べき方も無て、年を送ける処に、土佐守伊勢国の守護に成て下向しけるが、二人の女房を皆具足して下らんとて、元の女房をば先くだしぬ。御妻を同様にと待しか共、今日よ明日よとて少しうるさげなる気色に見へしかば、土佐守猶も思の色増て、伴行かでは叶まじきとて、三日まで逗留して、兎角云恨ける程に、さらばとて、夜半許に輿指寄せ、几帳指隠して扶乗られぬ。土佐守無限うれしくて、道に少しも不休、軈て伊勢路に趣けり。まだ夜を篭て、逢坂の関の岩かど蹈鳴し、ゆう付鳥に被送て、水の上なる粟津野の、露分行けばにほの海、流の末の河となる、勢多の橋を打渡れば、衣手の田上河の朝風に、比良の峯わたし吹来て、輿の簾を吹揚たり。出絹の中を見入たれば、年の程八十許なる古尼の、額には皺のみよりて、口には歯一もなきが、腰二重に曲てぞ乗たりける。土佐守驚て、「是は何様古狸か古狐かの化たるにてぞ有らん。鼻をふすべよ。蟇目にて射て見よ。」と申ければ、尼泣々、「是は媚者にても候はず。菊亭殿へ年来参通者にて候を、御妻の局へ被召て、「加様にて京に住わびんよりは、我が下る田舎へ行て、且くも慰めかし。」と被仰候し間、さそふ水もがなと思ふ憂身にて候へば、うれしき事に思て昨日御局へ参りて候へば、被留進せて、妻戸に輿を寄たりしに、それに乗れと仰候しかば、何心もなく乗たる許にて候ぞ。」と申ける。土佐守、「さては此女房に出抜れたる者也。彼御所に打入て、奪取ずば下るまじき者を。」とて、尼をば勢多の橋爪に打捨て、空輿を舁返して、又京へぞ上りける。元来思慮なき土佐守、菊亭殿に推寄て、四方の門を差篭て、無残所捜しける。御所中の人々、「こは何なる事ぞ。」とて、上下周章騒事無限。何に求れ共なければ、此女房の住しあたりなる局に有ける女の童を囚へて、責問ければ、「其女房は通方多かりしかば、何くとも差ては知がたし。近来は飽浦三郎左衛門とかや云者にこそ、分て志深く、人目も憚らぬ様に承候しか。」と語りければ、土佐守弥腹を居兼て、軈て飽浦が宿所へ推寄て討んと議りけるを聞て、自科依難遁、身を隠しかね、多年粉骨の忠功を棄て、宮方の旗をば挙ける也。折得ても心許すな山桜さそふ嵐に散もこそすれと歌に読たりしは、人心の花なりけりと、今更思知ても、浅猿かりし事共也。
○義助予州下向事 S2204
去程に四国の通路開ぬとて、脇屋刑部卿義助は、暦応三年四月一日勅命を蒙て、四国西国の大将を奉て、下向とぞ聞へし。年来相順ふ兵其数多しといへ共、越前美濃の合戦に打負し時、大将の行末を不知して山林に隠忍び、或は危難を遁て堺を隔てしかば、芳野へ馳来る兵五百騎にも不足けり。され共四国中国に心を通ずる官軍多く有しかば、今一日も可急とて、未明に芳野を打立て、紀伊の路に懸り被通けるに、加様の次ならでは早晩か参詣の志をも遂げ、当来値遇の縁をも可結と被思ければ、先高野山に詣て、三日逗留し、院々谷々拝み廻るに、聞しより尚貴くて、八葉の峯空にそびへ、千仏の座雲に捧げたり。無漏の扉苔閉て、三会の暁に月を期す。或は説法衆会の場もあり、或は念仏三昧の砌もあり。飛行の三鈷地に堕、験に生たる一株の松、回禄の余烟風に去て、軒を焦せる御影堂、香烟窓を出て心細く、鈴の声霧に篭て物冷し。此は昔滝口入道が住たりし菴室の迹とて尋れば、旧き板間に苔むして、荒ても漏ぬ夜の月、彼は古西行法師が結置し、柴の庵の名残とて立寄れば、払はぬ庭に花散て、蹈に迹なき朝の雪、様々の霊場所々の幽閑を見給にぞ、「遁ぬべくは角てこそあらまほしく。」と宣し、維盛卿の心中、誠と被思知たる。且くも懸る霊地に逗留して、猶も憂身の汚れを濯度思はれけれ共、軍旅に趣給ふ事なれば不協して、高野より紀伊の路に懸り、千里の浜を打過て、田辺の宿に逗留し、渡海の舟を汰へ給に、熊野の新宮別当湛誉・湯浅入道定仏・山本判官・東四郎・西四郎以下の熊野人共、馬・物具・弓矢・太刀・長刀・兵粮等に至るまで、我不劣と奉りける間、行路の資け卓散也。角て順風に成にければ、熊野人共兵船三百余艘調へ立、淡路の武島へ送奉る。此には安間・志知・小笠原の一族共、元来宮方にて城を構て居たりしかば、様々の酒肴・引出物を尽して、三百余艘の舟を汰へ、備前の小島へ送奉る。此には佐々木薩摩守信胤・梶原三郎自去年宮方に成て、島の内には又交る人もなし。されば大船数た汰へて、四月二十三日伊予国今張浦に送著奉る。大館左馬助氏明は、先帝自山門京へ御出有し時、供奉仕て有しが、如何思けん降人になり、且くは将軍に属して居たりけるが、先帝偸に楼の御所を御出有て、吉野に御座有と聞て、軈て馳参たりしかば、君御感有て伊予国の守護に被補しかば、自去年春当国に居住してあり。又四条大納言隆資子息少将有資は此国の国司にて自去々年在国せらる。土居・得能・土肥・河田・武市・日吉の者共、多年の宮方にして、讃岐の敵を支へ、西は土佐の畑を堺ふて居たりければ、大将下向に弥勢ひを得て、竜の水を得、虎の山に靠が如し。其威漸近国に振ひしかば、四国は不及申、備前・備後・安芸・周防・乃至九国の方までも、又大事出来ぬと云はぬ者こそ無りけれ。されば当国の内にも、将軍方の城僅に十余箇所有けるも、未敵も向はぬ先に皆聞落してんげれば、今は四国悉一統して、何事か可有と憑敷思あへり。
○義助朝臣病死事付鞆軍事 S2205
斯る処に、同五月四日、国府に被坐たる脇屋刑部卿義助、俄に病を受て、身心悩乱し給ひけるが、僅に七日過て、終に無墓成給にけり。相順ふ官軍共、始皇沙丘に崩じて、漢・楚機に乗事を悲み、孔明籌筆駅に死して、呉・魏便りを得し事を愁しが如く、五更に灯消て、破窓の雨に向ひ、中流に舟を失て、一瓢の浪に漂ふらんも、角やと覚へて、此事外に聞へなば、敵に気を得られつべしとて、偸に葬礼を致て、隠悲呑声いへ共、さすが隠無りしかば、四国の大将軍にて、尊氏の被置たる、細河刑部大輔頼春、此事を聞て、「時をば且くも不可失。是司馬仲達が弊に乗て蜀を亡せし謀なり。」とて、伊予・讃岐・阿波・淡路の勢七千余騎を率して、先伊予の堺なる河江城へ押寄て、土肥三郎左衛門を責らる。義助に順付たりし多年恩顧の兵共、土居・得能・合田・二宮・日吉・多田・三木・羽床・三宅・高市の者共、金谷修理大夫経氏を大将にて、兵船五百余艘にて、土肥が後攻の為に海上に推浮ぶ。是を聞て、備後の鞆・尾の道に舟汰して、土肥が城へ寄せんとしける備後・安芸・周防・長門の大船千余艘にて推出す。両陣の兵船共、渡中に帆を突て、扣舷時を作る。塩に追ひ風に随て推合々々相戦ひける。其中に大館左馬助氏明が執事、岡部出羽守が乗たる舟十七艘、備後の宮下野守兼信、左右に別て漕双べたる舟四十余艘が中へ分入て、敵の船に乗遷々々、皆引組で海中へ飛入けるこそ、いかめしかりし行迹なれ。備後・安芸・周防の舟は皆大船なれば、艫・舳に櫓を高く掻て、指下して散々に射る。伊予・土佐の舟は皆小舟なれば、逆櫓を立て縦横に相当る。両方の兵、よしや死して海底の魚腹に葬せらるゝ共、逃て天下の人口には落じ者をと、互に機を進め、一引も不引終日戦ひ暮しける処に、海上俄に風来て、宮方の舟をば悉く西を差て吹もどす。寄手の舟をば悉く伊予の地へ吹送る。夜に入て風少静まりければ、宮方の兵共、「是程に運のきかぬ時なれば、如何に思ふ共不可叶。只元の方へ漕返べき歟。」と申けるを、大将金谷修理大夫、「運を計り勝つ事を求る時こそ、身を全して功をなさんとは思へ。只一人憑たる大将軍脇屋義助は病に被侵失給ぬる上は、今は可為方なき微運の我等が、生てあらば何許の事か可有。命を限の戦して、弓矢の義を専にする許なるべし。されば運の通塞も軍の吉凶も非可謂処。いざや今夜備後の鞆へ推寄て、其城を追落して、中国の勢著かば西国を責随へん。」とて、其夜の夜半許に、備後の鞆へ押寄する。城中時節無勢也ければ、三十余人有ける者共、且く戦て皆討死しければ、宮方の士卒是に機を挙て、大可島を攻城に拵へ、鞆の浦に充満して、武島や小豆島の御方を待処に、備後・備中・安芸・周防四箇国の将軍の勢、三千余騎にて押寄たり。宮方は大可島を後ろに当て、東西の宿へ舟を漕寄て、打てはあがり/\、荒手を入替て戦たり。将軍方は小松寺を陣に取て、浜面へ騎馬の兵を出し、懸合合揉合たり。互に戦屈して、十余日を経ける処に、伊予の土肥が城被責落。細河刑部大輔頼春は、大館左馬助氏明の被篭たる世田の城へ懸ると聞へければ、土居・得能以下の者共、同く死なば、我国にてこそ尸を曝さめとて、大可島を打棄て、伊予国に引返す。敗軍の士卒相集て、二千余騎有ける其中より、日来手柄露はし名を被知たる兵を、三百余騎勝り出して、懸合の合戦に勝負を決せんと云。是は細川刑部大輔目に余る程の大勢也と聞、「中々何ともなき取集勢を対揚して合戦をせば、臆病武者に引立られて、御方の負をする事有べし。只一騎当千の兵を勝て敵の大勢を懸破り、大将細川刑部大輔と引組で差違へんとの謀也。さらば敵の国中へ入ぬ先に打立。」とて、金谷修理大夫経氏を大将として、勝たる兵三百騎、皆一様に曼荼羅を書て母衣に懸て、兎ても生ては帰まじき軍なればとて、十死一生の日を吉日に取て、大勢の敵に向ひける心の中、樊■も周勃も未得振舞也。あはれ只勇士の義を存する志程、やさしくも哀なる事はあらじとて、是を聞ける者は、皆胄の袖をぞぬらしける。去程に細川刑部大輔七千余騎を率して、敵已に打出るなれば、心よく懸合の合戦を可致とて、千町が原へ打出て、敵の陣を見渡せば、渺々たる野原に、中黒の旗一流幽に風に飛揚して、僅に勢の程三百騎許ぞ磬へたる。細川刑部大輔是を見給て、「当国の敵是程の小勢なるべしとは思はぬに、余に無勢に見ければ、一定究竟の者共を勝て、大勢の中を懸破、頼春に近づかば、組で勝負を決せん為にてぞあるらん。然者思切たる小勢を一息に討んとせば、手に余て討れぬ事有べし。只敵破らんとせば被破て然も迹を塞げ、轡を双て懸らば、偽て引退て敵の馬の足を疲らかせ、打物に成て一騎合に懸らば、あひの鞭を打て推もぢりに射て落せ。敵疲ぬと見ば、荒手を替て取篭よ。余に近付て敵に組るな。引とも御方を見放な。敵の小勢に御方を合すれば、一騎に十騎を対しつべし。飽まで敵を悩まして、弊に乗て一揉々たらんに、などか是等を可不討。」と、委細に手段を成敗して、旗の真前に露れて、閑々とぞ進まれたる。金谷修理大夫是を見て、「すはや敵は懸ると見へたるは。」とて、些も見繕ふ処もなく、相懸りにむずと攻て、矢一射違る程こそ有けれ、皆弓矢をば■し棄、打物に成て、喚叫で真闇にぞ懸たりける。細川刑部大輔馬廻に、藤の一族五百余騎にて磬へたるが、兼ての謀也ければ、左右へ颯と分れて引へたり。此中に大将有と思も不寄、三百騎の者共是をば目にも懸ず、裏へつと懸抜、二陣の敵に打て懸る。此陣には三木・坂西・坂東の兵共相集て、七百余騎甲の錣を傾て、馬を立納め、閑まり却て磬へたりけるが、勇猛強力の兵共に懸散されて、南なる山の峯へ颯と引て上りけるが、是もはか/゛\しき敵は無りけりとて、三陣の敵に打て懸る。是には詫間・香西・橘家・小笠原の一族共、二千余騎にて引へたり。是にぞ大将は御座らんと見澄して、中を颯と懸破て、取て返し、引組では差違、落重ては頚を取らる。一足も不引戦けるに、宮方の兵三百余騎忽に蹄の下に討死して、僅十七騎にぞ成たりける。其十七騎と申は、先大将金谷経氏・河野備前守通郷・得能弾正・日吉大蔵左衛門・杉原与一・富田六郎・高市与三左衛門・土居備中守・浅海六郎等也。彼等は一騎当千の兵なれば、自敵に当る事十余箇度、陣を破る事六箇度也といへ共、未痛手をも負ず又疲れける体も無りけり。一所に馬を打寄て、馬も物具も見知ねば、大将何共知がたし。差せる事もなき国勢共に逢て、討死せんよりは、いざや打破て落んとて、十七騎の人々は、又馬の鼻を引返し、七千余騎が真中を懸破て、備後を差て引て行。いかめしかりし振舞也。
○大館左馬助討死事付篠塚勇力事 S2206
斯りしかば、大将細川頼春は、今戦ひ事散じて、御方の手負死人を注さるゝに、七百人に余れりといへ共、宗徒の敵二百余人討れにければ、人皆気を挙げ勇をなせり。「さらば軈て大館左馬助が篭たる世田の城へ寄よ。」とて、八月二十四日早旦に、世田の後ろなる山へ打上て、城を遥に直下、一万余騎を七手に分て、城の四辺に打寄り、先己が陣々をぞ構へたる。対陣已に取巻せければ、四方より攻寄せて、持楯をかづき寄せ、乱杭・逆木を引のけて、夜昼三十日迄ぞ責たりける。城の内には宗徒の軍をもしつべき兵と憑れし岡部出羽守が一族四十余人、皆日比の与にて自害しぬ。其外の勇士共は、千町が原の戦に討死しぬ。力尽食乏して可防様も無りければ、九月三日の暁、大館左馬助主従十七騎、一の木戸口へ打出て、屏に著たる敵五百余人を、遥なる麓へ追下し、一度に腹を切て、枕を双てぞ臥たりける。防矢射ける兵共是を見て、今は何をか可期とて、或は敵に引組で差違るもあり、或は己が役所に火を懸て、猛火の底に死するもあり。目も当られぬ有様也。加様に人々自害しける其中に、篠塚伊賀守一人は、大手の一二の木戸無残押開て、只一人ぞ立たりける。降人に出る歟と見ればさは無て、紺糸の胄に、鍬形打たる甲の緒を縮め、四尺三寸有ける太刀に、八尺余りの金撮棒脇に挿て、大音揚て申けるは、「外にては定て名をも聞つらん。今近付て我をしれ。畠山庄司次郎重忠に六代の孫、武蔵国に生長て、新田殿に一人当千と憑れたりし篠塚伊賀守爰にあり。討て勲功に預れ。」と呼て、百騎許磬へたる敵の中へ、些も擬議せず走り懸る。其勢事柄勇鋭たるのみならず、兼て聞し大力なれば、誰かは是を可遮止。百余騎の勢東西へ颯と引退て、中を開てぞ通しける。篠塚馬にも不乗弓矢を持ず、而も只一人なれば、「何程の事か可有。只近付事無て遠矢に射殺せ。返合せば懸悩して討。」とて、藤・橘・伴の者ども、二百余騎迹に付て追懸る。篠塚些も不騒、小歌にて閑々と落行けるを、敵、「あますな。」とて追懸れば立止て、「嗚呼御辺達、痛く近付て頚に中違すな。」とあざ笑て、件の金棒を打振れば、蜘の子を散すが如く颯とは逃げ、又村立て迹に集り、鏃を汰へて射れば、「某が胄には旁のへろ/\矢はよも立候はじ。すは此を射よ。」とて、後ろを差向てぞ休みける。されども名誉の者なれば、一人なり共若や打止ると、追懸たる敵二百余騎に、六里の道を被送て、其夜の夜半許に、今張浦にぞ著たりける。自此舟に乗て、陰の島へ落ばやと志し、「舟やある。」と見るに、敵の乗棄て水主許残れる舟数多あり。是こそ我物よと悦で、胄著ながら浪の上五町許を游ぎて、ある舟に岸破と飛乗る。水主・梶取驚て、「是は抑何者ぞ。」と咎めければ、「さな云ひそ。是は宮方の落人篠塚と云者ぞ。急此舟を出して、我を陰の島へ送。」と云て、二十余人してくり立ける碇を安々と引挙げ、四十五尋ありける檣を軽々と推立て、屋形の内に高枕して、鼾かきてぞ臥たりける。水主・梶取共是を見て、「穴夥、凡夫の態にはあらじ。」と恐怖して、則順風に帆を懸て、陰の島へ送て後、暇を請てぞ帰にける。昔も今も勇士多しといへ共、懸る事をば不聞とて、篠塚を誉ぬ者こそ無りけれ。