太平記(国民文庫)
太平記巻第十六

○将軍筑紫御開事 S1601
建武三年二月八日、尊氏卿兵庫を落給ひし迄は、相順ふ兵僅七千余騎有しか共、備前の児嶋に著給ける時、京都より討手馳下らば、三石辺にて支よとて、尾張左衛門佐氏頼を、田井・飽浦・松田・内藤に付て留られ、細川卿律師定禅・同刑部大輔義敦をば、東国の事無心元とて返さる。其外の勢共は、各暇申て己が国々に留りける間、今は高・上杉・仁木・畠山・吉良・石塔の人々、武蔵・相摸勢の外は相順兵も無りけり。筑前国多々良浜の湊に著給ひける日は、其勢僅に五百人にも足ず、矢種は皆打出・瀬川の合戦に射尽し、馬・物具は悉兵庫西宮の渡海に脱捨ぬ。気疲れ勢尽ぬれば、轍魚の泥に吻き、窮鳥の懐に入ん風情して、知ぬ里に宿を問ひ、狎れぬ人に身を寄れば、朝の食飢渇して夜の寝醒蒼々たり。何の日か誰と云ん敵の手に懸てか、魂浮れ、骨空して、天涯望郷の鬼と成んずらんと、明日の命をも憑れねば味気無思はぬ人も無りけり。斯処に、宗像大宮司使者を進て、「御座の辺は余りに分内狭て、軍勢の宿なんども候はねば、恐ながら此弊屋へ御入有て、暫此間の御窮屈を息られ、国々へ御教書を成れて、勢を召れ候べし。」と申ければ、将軍軈て宗像が館へ入せ給ふ。次日小弐入道妙恵が方へ、南遠江守宗継・豊田弥三郎光顕を両使として、恃べき由を宣遣されければ、小弐入道子細に及ばず、軈嫡子の太郎頼尚に、若武者三百騎差添て、将軍へぞ進せける。
○小弐与菊池合戦事付宗応蔵主事 S1602
菊池掃部助武俊は、元来宮方にて肥後国に有けるが、小弐が将軍方へ参由を聞て道にて討散んと、其勢三千余騎にて水木の渡へぞ馳向ける。小弐太郎は、夢にも此を知ずして、小船七艘に込乗て、我身は先向の岸に付く。畦篭豊前守以下は未越、叩へて船の指し戻す間を相待ける処に、菊池が兵三千余騎、三方より推寄て、河中へ追ばめんとす。畦篭が兵百五十騎、とても遁れぬ所也と、一途に思定て、菊池が大勢の中へ懸入て、一人も不残討死す。小弐太郎は川向より、此を見けれ共、大河を中に障て、舟ならでは渡べき便も無ければ、徒に恃切たる一族若党共を敵に取篭させける心中、遣方無して無念なる。遂に船共近辺に見へざりければ、忿を推て将軍へぞ参ける。菊池は手合の合戦に討勝て、門出吉と悦で、頓て其勢を率、小弐入道妙恵が楯篭たる内山の城へぞ推寄ける。小弐宗徒の兵をば皆頼尚に付て、其勢過半水木の渡にて討れぬ。城に残勢僅に三百人にも足ざりければ、菊池が大勢に可叶とも覚へず。されども城の要害緊しかりければ、切岸の下に敵を直下して、防戦事数日に及べり。菊池荒手を入替々々夜昼十方より責けれ共、城中の兵一人も討れず、矢種も未尽りければ、いかに責るとも不落物をと思ける処に、小弐が一族等俄に心替して攻の城に引挙、中黒の旗を揚て、「我等聊所存候間宮方へ参候也。御同心候べしや。」と、妙恵が方へ云遣しければ、一言の返答にも及ばず、「苟も存て義無んよりは、死して名を残さんには不如。」と云て、持仏堂へ走入、腹掻斬て臥にけり。郎等百余人も、堂の大床に並居て、同音に声を出し、一度に腹をぞ切たりける。其声天に響て、悲想悲々想天迄も聞へやすらんと夥し。小弐が最末の子に、宗応蔵主と云僧、蔀遣戸を蹈破て薪とし、父が死骸を葬して、「万里碧天風高月明、為問慧公行脚事、蹈翻白刃転身行、下火云、猛火重焼一段清」と、閑に下火の仏事をして、其炎の中へ飛入て同く死にぞ赴ける。
○多々良浜合戦事付高駿河守引例事 S1603
小弐が城已に責落されて、一族若党百六十五人、一所にて討れければ、菊池弥大勢に成て、頓て多々良浜へぞ寄懸ける。将軍は香椎宮に取挙て、遥に菊池が勢を見給ふに、四五万騎も有らんと覚敷く、御方は纔に三百騎には過ず。而も半は馬にも乗ず鎧をも著ず、「此兵を以て彼大敵に合ん事、■蜉動大樹、蟷螂遮流車不異。憖なる軍して、云甲斐なき敵に合んよりは腹を切ん。」と、将軍は被仰けるを、左馬頭直義堅く諌申れけるは、「合戦の勝負は、必も大勢小勢に依べからず。異国に漢高祖■陽の囲を出時は、才に二十八騎に成しかども、遂に項羽が百万騎に討勝て天下を保り。吾朝の近比は、右大将頼朝卿土肥の杉山の合戦に討負て臥木の中に隠し時は、僅に七騎に成て候しか共、終に平氏の一類を亡して累葉久武将の位を続候はずや。二十八騎を以て百万騎の囲を出、七騎を以て伏木の下に隠れし機分、全く臆病にて命を捨兼しには非ず、只天運の保べき処を恃し者也。今敵の勢誠に雲霞の如しといへども、御方の三百余騎は今迄著纏て、我等が前途を見はてんと思へる一人当千の勇士なれば、一人も敵に後を見せ候はじ。此三百騎志を同する程ならば、などか敵を追払はで候べき。御自害の事曾て有べからず。先直義馳向て一軍仕て見候はん。」と申捨て、左馬頭香椎宮を打立給へば、相順人々には、仁木四郎次郎義長・細川陸奥守顕氏・高豊前守師重・大高伊予守重成・南遠江守宗継・上杉伊豆守重能・畠山阿波守国清を始として、大伴・嶋津・曾我・白石・八木岡・相庭を宗徒の兵として、都合其勢二百五十騎、三万余騎の敵に懸合せんと志して、命を塵芥に思ける心の程こそ艷けれ。直義已旌の手を下し、社壇の前を打過給ひける時、烏一番杉の葉を一枝噛て甲の上へぞ落しける。左馬頭馬より下て、是は香椎宮の擁護し給ふ瑞相也と敬礼して、射向の袖に差れける。敵御方相近付て、時の音を挙んとしける時、大高伊予守重成は、「将軍の御陣の余りに無勢に候へば帰参候はん。」とて引返しけり。直義此を見て、「始よりこそ留るべきに、敵を見て引返すは臆病の至也。あはれ大高が五尺六寸を五尺切てすて、剃刀にせよかし。」と欺れける。去程に菊池五千余騎を率し、浜の西より相近付て、先矢合の流鏑をぞ射たりける。左馬頭の陣よりは矢の一筋をも射ず、鳴を閑めて、透間あらば切懸んと伺見給ひけるに、誰が射とも不知白羽の流鏑矢敵の上を鳴響て、落所も見へず。左馬頭の兵共、是は只事に非と憑敷思、勇を不成と云者なし。両陣相挑で、未兵刃を交へざる処に、菊池が兵黄河原毛なる馬に、火威の鎧著たる武者只一騎、御方の勢に三町余り先立て、抜懸にぞしたりける。爰に曾我左衛門・白石彦太郎・八木岡五郎、三人共に馬・物具無て、真前に進だりけるが、見之、白石立向て馬より引落さんと、手もと近く寄副ければ、敵太刀を捨て、腰刀を抜んと、一反り反りけるが、真倒に成て落にけり。白石此を起も立ず、推へて首をば掻てけり。馬をば曾我走寄て打乗り、鎧をば八木岡剥取て著たりけり。白石が高名に、二人得利、軈三人共に敵の中へ打入れば、仁木・細川以下、「御方討すな、連や。」とて、大勢の中へ懸入て乱合てぞ闘ける。仁木越後守は、近付敵五騎切て落し、六騎に手負せて、猶敵の中に乍有、仰たる太刀を蹈直しては切合ひ、命を限とぞ見たりける。されば百五十騎、参然として堅を破れば、菊池が勢誠に百倍せりといへども、才の小勢に懸立られて、一陣の軍兵三千余騎、多々良浜の遠干潟を、二十余町までぞ引退ける。搦手に回りける松浦・神田の者共、将軍の御勢の僅に三百余騎にも足ざりけるを二三万騎に見なし、礒打浪の音をも敵の時の声に聞なしければ、俄に叶はじと思ふ心付て、一軍をもせず旌を捲と甲を脱で降人に出にけり。菊池此を見て弥難儀に思ひ、「大勢の懸らぬ先に。」と急肥後国へ引返す。将軍則一色太郎入道々献・仁木四郎次郎義長を差遣し菊池が城を責させらるるに、一日も堪得ず深山の奥へ逃篭る。是より軈同国八代の城を責て内河彦三郎を追落す也。此のみならず、阿蘇大宮司八郎惟直は、先日多々良浜の合戦に深手負たりけるが、肥前国小杵山にて自害しぬ。其弟九郎は、知ぬ里に行迷て、卑き田夫に生擒れぬ。秋月備前守は、大宰府迄落たりけるが、一族二十余人一所にて討れにけり。是等は皆一方の大将共なり。又九州の強敵ともなりぬべき者也しが、天運時至ざれば加様に皆滅されにけり。爾より後は九国・二嶋、悉将軍に付順奉ずと云者なし。此全く菊池が不覚にも非ず、又直義朝臣の謀にも依らず、啻将軍天下の主と成給ふべき過去の善因催して、霊神擁護の威を加へ給しかば、不慮に勝ことを得て一時に靡き順けり。今まで大敵なりし松浦・神田の者共、将軍の小勢を大勢也と見て、降人に参たりと其聞有ければ、将軍高・上杉の人々に向て宣けるは、「言の下に骨を消し、笑の中に刀を砺は此比の人の心也。されば小弐が一族共は多年の恩顧なりしか共、正く小弐を討つるも遠からぬ様ぞかし。此を見るにも松浦・神田何なる野心を挿でか、一軍もせず降人には出たるらん。信心真と有時は感応不思議を顕事あり。今御方の小勢を大勢と見し事、不審無に非ず。相構て面々心赦し有べからず。」と仰ければ、遥の末坐に候ける高駿河守進出て申けるは、「誠に人の心の測り難事は、天よりも高地よりも厚と申せども、加様の大儀に於ては、余に人の心を御不審有ては、争か早速の大功を成候べき。就中御勢の多見へて候ける事、例無にも有べからず。其故は昔唐朝に、玄宗皇帝の左将軍に哥舒翰、与逆臣安禄山兵崔乾祐、潼関にて戦けるに、黄なる旗を差たる兵十万余騎、忽然として官軍の陣に出来れり。崔乾祐此を見て敵大勢なりと思ひ、兵を引て四方に逃散る。其喜に勅使宗廟に詣けるに、石人とて、石にて作双て廟に置たる人形共両足泥に触れ、五体に矢立り。さてこそ黄旗の兵十万余騎は、宗廟の神官軍に化して、逆徒を退け給たりけりと、人皆疑を散じけり。吾朝には天武天皇与大友王子天下を争はせ給ける時、備中国二万郷と云所にて、両方の兵戦を決せんとす。于時天武天皇の御勢は僅に三百余騎、大友王子の御勢は、一万余騎也。勢の多少更闘ふべくも無りける処に、何より来れる共知ぬ爽かなる兵二万余騎、天皇の御方に出来て、大友王子の御勢を十方へ懸散す。此よりして其所を二万里と名付らる。君が代は二万の里人数副て絶ず備る御貢物哉と周防の内侍が読たりしも、此心にて候也。」と、和漢両朝の例を引て、武運の天に叶へる由を申ければ、将軍を始まいらせて、当座の人々も、皆歓喜の笑をぞ含れける。
○西国蜂起官軍進発事 S1604
去程に、将軍筑紫へ没落し給し刻、四国・西国の朝敵共、機を損じ度を失て、或は山林に隠れ或は所縁を尋て、新田殿の御教書を給らぬ人は無りけり。此時若義貞早速に被下向たらましかば、一人も降参せぬ者は有まじかりしを、其比天下第一の美人と聞へし、勾当の内侍を内裏より給たりけるに、暫が程も別を悲て、三月の末迄西国下向の事被延引けるこそ、誠に傾城傾国の験なれ。依之丹波国には、久下・長沢・荻野・波々伯部の者共、仁木左京大夫頼章を大将として、高山寺の城に楯篭り、播磨国には、赤松入道円心白旗が峯を城郭に構て、射手の下向を支んとす。美作には、菅家・江見・弘戸の者共、奈義能山・菩提寺の城を拵へて、国中を掠め領す。備前には、田井・飽浦・内藤・頓宮・松田・福林寺の者共、石橋左衛門佐を大将として、甲斐河・三石二箇処の城を構て船路・陸地を支んとす。備中には、庄・真壁・陶山・成合・新見・多地部の者共、勢山を切塞で、鳥も翔らぬ様に構へたり。是より西、備後・安芸・周防・長門は申に不及、四国・九州も悉著では叶まじかりければ、将軍方に無志も皆順ひ不靡云事なし。処々の城郭、国々の蜂起、震く京都へ聞ければ、先東国を敵に成ては叶まじとて、北畠源中納言顕家卿を、鎮守府の将軍になして、奥州へ下さる。新田左中将義貞には、十六箇国の管領を被許、尊氏追討の宣旨をぞ被成ける。義貞綸命を蒙て、已に西国へ立んとし給ける刻、瘧病の心地煩しかりければ、先江田兵部大輔行義・大館左馬助氏明二人を播磨国へ被差下。其勢二千余騎、三月四日京を立て、同六日書写坂本に著にけり。赤松入道是を聞て、敵に足をためさせては叶まじとて、備前・播磨両国の勢を合て書写坂本へ押寄ける間、江田・大館、室山に出向て相戦ふ。赤松軍利無して、官軍勝に乗しかば、江田・大館勢を得て、西国の退治輒かるべき由、頻に羽書を飛せて京都へ注進す。
○新田左中将被責赤松事 S1605
去程に、左中将義貞の病気能成てければ、五万余騎の勢を率して、西国へ下り給ふ。後陣の勢を待調へん為に、播磨国賀古河に四五日逗留有ける程に、宇都宮治部大輔公綱・紀伊常陸守・菊池次郎武季三千余騎にて下著す。其外摂津国・播磨・丹波・丹後の勢共、思々に馳参じける間、無程六万余騎に成にけり。「さらば軈て赤松が城へ寄て可責。」とて、斑鳩の宿迄打寄せ給たりける時、赤松入道円心、小寺藤兵衛尉を以て、新田殿へ被申けるは、「円心不肖の身を以て、元弘の初大敵に当り、逆徒を責却候し事、恐は第一の忠節とこそ存候しに、恩賞の地、降参不儀の者よりも猶賎く候し間、一旦の恨に依て多日の大功を捨候き。乍去兵部卿親王の御恩、生々世々難忘存候へば、全く御敵に属し候事、本意とは不存候。所詮当国の守護職をだに、綸旨に御辞状を副て下し給り候はゞ、如元御方に参て、忠節を可致にて候。」と申たりければ、義貞是を聞給て、「此事ならば子細あらじ。」と被仰て、頓て京都へ飛脚を立、守護職補任の綸旨をぞ申成れける。其使節往反の間、已に十余日を過ける間に、円心城を拵すまして、「当国の守護・国司をば、将軍より給て候間、手の裏を返す様なる綸旨をば、何かは仕候べき。」と、嘲哢してこそ返されけれ。新田左中将是を聞給て、「王事毋脆事、縦恨を以て朝敵の身になる共、戴天欺天命哉。其儀ならば爰にて数月を送る共、彼が城を責落さでは通るまじ。」とて、六万余騎の勢を以て、白旗の城を百重千重に取囲て、夜昼五十余日、息をも不継責たりける。斯りけれ共、此城四方皆嶮岨にして、人の上るべき様もなく、水も兵粮も卓散なる上、播磨・美作に名を得たる射手共、八百余人迄篭りたりける間、責けれども/\只寄手々負討るゝ許にて、城中恙なかりけり。脇屋右衛門佐是を見給て、左中将に向て被申けるは、「先年正成が篭りたりし金剛山の城を、日本国の勢共が責兼て、結句天下を覆されし事は、先代の後悔にて候はずや。僅の小城一に取懸りて、そゞろに日数を送り候はゞ、御方の軍勢は皆兵粮に疲、敵陣の城には弥強り候はんか。其上尊氏已に筑紫九箇国を平て、上洛する由聞候へば、彼が近付ぬ前に備前・備中を退治して、安芸・周防・長門の勢を被著候はでは、ゆゝしき大事に及候ぬとこそ覚候へ。乍去今迄責懸たる城を落さで引は、天下の哢共成べく候へば、御勢を少々被残、自余の勢を船坂へ差向られ、先山陽道の路を開て中国の勢を著け、推て筑紫へ御下候へかし。」と被申ければ、左中将、「此儀尤宜覚候。」とて、頓て宇都宮と菊池が勢を差副、伊東大和守・頓宮六郎を案内者として、二万余騎舟坂山へぞ向られける。彼山と申は、山陽道第一の難処也。両方は嶺峨々として、中に一の細道あり。谷深石滑にして、路羊腸を践で上る事二十余町、雲霧窈溟たり。若一夫怒臨関、万侶難得透。況岩石を穿て細橋を渡しゝ大木を倒して逆木に引たれば、何なる百万騎の勢にても、責破るべしとはみへざりけり。去ば指も勇める菊池・宇都宮が勢も、麓に磬へて不進得。案内者に憑れたる伊東・頓宮の者共も、山をのみ向上て徒に日をぞ送ける。
○児嶋三郎熊山挙旗事付船坂合戦事 S1606
斯りける処に、備前国の住人児嶋三郎高徳、去年の冬、細川卿律師、四国より責上し時、備前・備中数箇度の合戦に打負て、山林に身を隠し、会稽の恥を雪がんと、義貞朝臣の下向を待て居たりけるが、舟坂山を官軍の超かねたりと聞て、潛使を新田殿の方へ立て申けるは、「舟坂より御勢を可被越由承及候事実に候はゞ、彼要害輒く難被破候歟。高徳来十八日当国於熊山可挙義兵候。さる程ならば、舟坂を堅たる凶徒等、定て熊山へ寄来候はん歟。敵の勢のすきたる隙を得て御勢を二手に分たれ、一手をば舟坂へ差向て可攻勢ひを見せ、一手をば三石山の南に当て樵の通ふ路一候なる、潛に廻せて、三石の宿より西へ被出候はゞ、船坂の敵前後を被裹、定て引方を失候はんか。高徳国中に旗を挙、舟坂を先破り候はゞ、西国の軍勢御方に参ずと云者候べからず。急此相図を以て、御合戦有べく候也。」とぞ申送ける。其比播磨より西、長門の国に至まで悉く敵陣にて、案内を通づる者もなきに、高徳が使者来て、企の様を申ければ、新田殿悦給ふ事不斜。則相図の日を定て、其使をぞ被返ける。使者備前に帰て相図の様を申ければ、四月十七日の夜半許に、児嶋三郎高徳、己が館に火をかけて、僅二十五騎にてぞ打出ける。国を阻境を隔たる一族共は、事急なるに依て不及相催、近辺の親類共に事の子細を告たりければ、今木・大富・和田・射越・原・松崎の者共、取物も不取敢馳著ける間、其勢二百余騎に成にけり。兼ては夜中に熊山へ取上り、四方に篝火を焼て、大勢篭りたる勢ひを、敵にみせんと巧みたりけるが、馬よ物具よとひしめく間に、夏の夜程なく明けれども、無力相図の時刻を違じとて、熊山へこそ取上りけれ。如案三石・舟坂の勢共是を聞て、「国中に敵出来なば、ゆゝしき大事なるべし。万方を閣て、先熊山を責よ。」とて、舟坂・三石の勢三千余騎を引分て、熊山へぞ向たりける。彼熊山と申は、高さは比叡山の如にして四方に七の道あり。其路何も麓は少し嶮して峯は平なり。高徳僅の勢を七の道へ差分て、四方へ敵をぞ防ぎける。追下せば責上り、責上れば追下し、終日戦暮して態と時をぞ移しける。夜に入ける時、寄手の中に石戸彦三郎とて此山の案内者有けるが、思も寄ぬ方より抜入て、本堂の後なる峯にて鬨をぞ揚たりける。高徳四方の麓へ勢を皆分て遣ぬ。僅に十四五騎にて本堂の庭に磬たりけるが、石戸が二百騎の中へ喚て懸入り、火を散てぞ闘ひける。深山の木隠れ月暗して、敵の打太刀分明にも見へざりければ、高徳が内甲を突れて、馬より倒に落にけり。敵二騎落合て、頚を取んとしける処へ、高徳が甥松崎彦四郎・和田四郎馳合て、二人の敵を追払ひ、高徳を馬に引乗せて、本堂の縁にぞ下しける。高徳は内甲の疵痛手也ける上、馬より落ける時、胸板を強く蹈れて、目昏魂消ければ、暫絶入したりけるを、父備後守範長、枕の下に差寄て、「昔鎌倉の権五郎景政は、左の眼を射抜れ、三日三夜まで其矢を抜かで、当の矢を射たりとこそ云伝へたれ。是程の小疵一所に弱りて死ると云事や可有。其程無云甲斐心を以て此一大事をば思立けるか。」と荒らかに恥しめける間、高徳忽に生出て、「我を馬に舁乗よ、今一軍して敵を追払はん。」とぞ申ける。父大に悦で、「今は此者よも死なじ。いざや殿原、爰らに有つる敵共追散さん。」とて、今木太郎範秀・舎弟次郎範仲・中西四郎範顕・和田四郎範氏・松崎彦四郎範家主従十七騎にて、敵二百騎が中へまつしらくに懸入ける間、石戸是を小勢とは知ざりけるにや、一立合せも立合せず、南面の長坂を福岡までこそ引たりけれ。其侭両陣相支て互に軍もせざりけり。相図の日にも成ければ、脇屋右衛門佐を大将として、梨原へ打莅み、二万騎の勢を三手に分たる。一手には江田兵部大輔を大将として、二千余騎杉坂へ向らる。是は菅家・南三郷の者共が堅めたる所を追破て、美作へ入ん為也。一手には大江田式部大輔氏経を大将として、菊池・宇都宮が勢五千余騎を船坂へ差向らる。是は敵を爰に遮り留て、搦手の勢を潛に後より回さん為也。一手には伊東大和守を案内者として、頓宮六郎・畑六郎左衛門、当国の目代少納言範猷・由良新左衛門・小寺六郎・三津沢山城権守以下態小勢を勝て三百余騎向らる。其勢皆轡の七寸を紙を以て巻て、馬の舌根を結たりける。杉坂越の北、三石の南に当て、鹿の渡る道一あり。敵是を知ざりけるにや、堀切たる処もなく、逆木の一本をも引ざりけり。此道余に木茂て、枝の支へたる処をば下て馬を引く。山殊に嶮して、足もたまらぬ所をば、中々乗て懸下す、兎角して三時許に嶮岨を凌で三石の宿の西へ打出たれば、城中の者も舟坂の勢も、遥に是を顧て、思も寄ぬ方なれば、熊山の寄手共が帰たるよと心得て、更に仰天もせざりけり。三百余騎の勢共、宿の東なる夷の社の前へ打寄り、中黒の旗を差揚て東西の宿に火をかけ、鬨をぞ挙たりける。城中の兵は、大略舟坂へ差向けぬ。三石に有し勢は、皆熊山へ向ひたる時分なれば、闘はんとするに勢なく、防がんとするに便なし。舟坂へ向ひたる勢、前後の敵に取巻れて、すべき様もなかりければ、只馬・物具を捨て、城へ連たる山の上へ、はう/\逃上らんとぞ騒ぎける。是を見て、大手・搦手差合せて、「余すな漏すな。」と追懸ける間、逃方を失ける敵共此彼に行迫て自害をする者百余人、生取らるゝ者五十余人也。爰に備前国一宮の在庁、美濃権介佐重と云ける者、可引方なくして、已に腹を切らんとしけるが、屹と思返す事有て、脱たる鎧を取て著、捨たる馬に打乗て、向ふ敵の中を推分て、播磨の方へぞ通りける。舟坂より打入る大勢共、「是は何者ぞ。」と尋ければ、「是は搦手の案内者仕つる者にて候が、合戦の様を委く新田殿へ申入候也。」と答ければ、打合ふ数万の勢共、「目出候。」と感じて、道を開てぞ通しける。佐重、総大将の侍所長浜が前に跪て、「備前国の住人に、美濃権介佐重、三石の城より降人に参て候。」と申ければ、総大将より、「神妙に候。」と被仰、則著到にぞ被著ける。佐重若干の人を出抜て、其日の命を助かりける。是も暫時の智謀也。舟坂已に破れたれば、江田兵部大輔は、三千余騎にて美作国へ打入て、奈義能山・菩提寺二箇所の城を取巻給ふ。彼城もすべなき様なければ、馬・武具を捨て、城に連たる上の山へぞ逃上りける。脇屋右衛門佐義助は、五千余騎にて三石の城を責らる。大江田式部大輔は、二千余騎にて備中国へ打越、福山の城にぞ陣を被取ける。
○将軍自筑紫御上洛事付瑞夢事 S1607
多々良浜の合戦の後、筑紫九国の勢一人として将軍に不順靡云者無りけり。然共中国に敵陣充満して道を塞ぎ、東国王化に順て、御方に通ずる者少なかりければ、左右なく京都へ責上らん事は、如何有べからんと、此春の敗北にこり懼て、諸卒敢て進む義勢無りける処に、赤松入道が三男則祐律師、並に得平因播守秀光、播磨より筑紫へ馳参て申けるは、「京都より下されたる敵軍、備中・備前・播磨・美作に充満して候といへ共、是皆城々を責かねて、気疲れ粮尽たる時節にて候間、将軍こそ大勢にて御上洛候へとだに承及候はゞ、一たまりも怺じと存候。若御進発延引候て、白旗の城責落されなば、自余の城一日も怺候まじ。四箇国の要害、皆敵の城に成て候はんずる後は、何百万騎の勢にても、御上洛叶まじく候。是則趙王が秦の兵に囲れて、楚の項羽舟筏を沈め、釜甑を焼て、戦負けば、士卒一人も生て返らじとせし戦にて候はずや。天下の成功只此一挙に可有にて候者を。」と詞を残さで申ければ、将軍是を聞給て、「げにも此義さもありと覚るぞ。さらば夜を日に継で、上洛を急ぐべし。但九州を混ら打捨ては叶まじ。」とて、仁木四郎次郎義長を大将として、大友・小弐両人を留置き、四月二十六日に太宰府を打立て、同二十八日に順風に纜解て、五月一日安芸の厳嶋へ舟を寄られて、三日参篭し給ふ。其結願の日、三宝院の僧正賢俊京より下て、持明院殿より被成ける院宣をぞ奉ける。将軍是を拝覧し給て、「函蓋相応して心中の所願已に叶へり。向後の合戦に於ては、不勝云事有べからず。」とぞ悦給ける。去四月六日に、法皇は持明院殿にて崩御なりしかば、後伏見院とぞ申ける。彼崩御已前に下し院宣なり。将軍は厳島の奉弊事終て、同五日厳嶋を立給へば、伊予・讚岐・安芸・周防・長門の勢五百余艘にて馳参る。同七日備後・備中・出雲・石見・伯耆の勢六千余騎にて馳参る。其外国々の軍勢不招に集り、不責に順ひ著事、只吹風の草木を靡すに異ならず。新田左中将の勢已に備中・備前・播磨・美作に充満して、国々の城を責る由聞へければ、鞆の浦より左馬頭直義を大将にて、二十万騎を差分て、徒路を上せられ、将軍は一族四十余人、高家一党五十余人、上杉の一類三十余人、外様の大名百六十頭、兵船七千五百余艘を漕双て、海上をぞ上られける。同五日備後の鞆を立給ひける時一の不思議あり。将軍の屋形の中に少目眠給たりける夢に、南方より光明赫奕たる観世音菩薩一尊飛来りまし/\て、船の舳に立給へば、眷属の二十八部衆、各弓箭兵杖を帯して擁護し奉る体にぞ見給ける。将軍夢覚て見給へば、山鳩一つ船の屋形の上にあり。彼此偏に円通大士の擁護の威を加へて、勝軍の義を可得夢想の告也と思召ければ、杉原を三帖短冊の広さに切せて、自観世音菩薩を書せ給て、舟の帆柱毎にぞ推させられける。角て舟路の勢、已に備前の吹上に著けば、歩路の勢は、備中の草壁の庄にぞ著にける。
○備中福山合戦事 S1608
福山に楯篭る処の官軍共、此由を聞て、「此城未拵るに不及、彼に付此に付、大敵を支へん事は、可叶共覚へず。」と申けるを、大江田式部大輔、且く思案して宣ひけるは、「合戦の習、勝負は時の運に依といへども、御方の小勢を以て、敵の大勢に闘はんに、不負云事は、千に一も有べからず。乍去国を越て足利殿の上洛を支んとて、向ひたる者が、大勢の寄ればとて、聞逃には如何すべき。よしや只一業所感の者共が、此所にて皆可死果報にてこそ有らめ。軽死重名者をこそ人とは申せ。誰々も爰にて討死して、名を子孫に残さんと被思定候へ。」と諌められければ、紀伊常陸・合田以下は、「申にや及候。」と領状して討死を一篇に思儲てければ、中々心中涼くぞ覚へける。去程に、明れば五月十五日の宵より、左馬頭直義三十万騎の勢にて、勢山を打越へ、福山の麓四五里が間、数百箇所を陣に取て、篝を焼てぞ居たりける。此勢を見ては、如何なる鬼神ともいへ、今夜落ぬ事はよも非じと覚けるに、城の篝も不焼止、猶怺たりと見へければ、夜已に明て後、先備前・備中の勢共、三千余騎にて押寄せ、浅原峠よりぞ懸たりける。是迄も城中鳴を静めて音もせず。「さればこそ落たりと覚るぞ。時の声を挙て敵の有無も知れ。」とて、三千余騎の兵共、楯の板を敲き、時を作る事三声、近付て上んとする処に、城中の東西の木戸口に、大鼓を打て時の声をぞ合せたりける。外所に磬たる寄手の大勢是を聞て、「源氏の大将の篭りたらんずる城の、小勢なればとて、聞落にはよもせじと思つるが、果して未怺たりけるぞ。侮て手合の軍し損ずな。四方を取巻て同時に責よ。」とて国々の勢一方々々を請取て、谷々峯々より攻上りける。城中の者共は、兼てより思儲たる事なれば、雲霞の勢に囲まれぬれ共少も不騒、此彼の木隠に立隠れて、矢種を不惜散々に射ける間、寄手稲麻の如に立双びたれば、浮矢は一も無りけり。敵に矢種を尽させんと、寄手は態射ざりければ、城の勢は未だ一人も不手負。大江田式部大輔是を見給て、「さのみ精力の尽ぬさきに、いざや打出て、左馬頭が陣一散し懸散さん。」とて、城中には徒立なる兵五百余人を留て、馬強なる兵千余騎引率し、木戸を開かせ、逆木を引のけて、北の尾の殊に嶮き方より喚てぞ懸出られける。一方の寄手二万余騎是に被懸落、谷底に馬を馳こみ、いやが上に重り臥臥す。式部大輔是をば打捨、「東のはなれ尾に二引両の旗の見るは、左馬頭にてぞ有らん。」とて、二万余騎磬へたる勢の中へ破て入り、時移るまでぞ闘れける。「是も左馬頭にては無りける。」とて、大勢の中を颯と懸抜て御方の勢を見給へば、五百余騎討れて纔に四百騎に成にけり。爰にて城の方を遥に観れば、敵早入替りぬと見へて櫓・掻楯に火を懸たり。式部大輔其兵を一処に集めて、「今日の合戦今は是迄ぞ、いざや一方打破て備前へ帰り、播磨・三石の勢と一にならん。」とて、板倉の橋を東へ向て落給へば、敵二千騎・三千騎、此彼に道を塞で打留んとす。四百余騎の者共も、遁ぬ処ぞと思ひ切たる事なれば、近付敵の中へ破て入り、懸散し、板倉川の辺より唐皮迄、十余度までこそ闘ひけれ。され共兵もさのみ討れず、大将も無恙りければ、虎口の難を遁て、五月十八日の早旦に、三石の宿にぞ落著ける。左馬頭直義は、福山の敵を追落して、事始よしと悦給事不斜。其日一日唐皮の宿に逗留有て、頚の実験有けるに、生捕・討死の頚千三百五十三と註せり。当国の吉備津宮に参詣の志をはしけれ共、合戦の最中なれば、触穢の憚有とて、只願書許を被篭て、翌の日唐皮を立給へば、将軍も舟を出されて、順風に帆をぞあげられける。五月十八日晩景に、脇屋右衛門佐三石より使者を以て、新田左中将の方へ立て、福山の合戦の次第、委細に註進せられければ、其使者軈て馳返て、「白旗・三石・菩提寺の城未責落ざる処に、尊氏・直義大勢にて舟路と陸路とより上ると云に、若陸の敵を支ん為に、当国にて相待ば、舟路の敵差違て帝都を侵さん事疑なし。只速に西国の合戦を打捨て、摂津国辺まで引退、水陸の敵を一処に待請、帝都を後に当て、合戦を致すべく候。急其よりも山の里辺へ出合れ候へ。美作へも此旨を申遣し候つる也。」とぞ、被仰たりける。依之五月十八日の夜半許に、官軍皆三石を打捨て、舟坂をぞ引れける。城中の勢共、是に機を得て、舟坂山に出合ひ、道を塞で散々に射る。宵の間の月、山に隠れて、前後さだかに見へぬ事なれば、親討れ子討るれども、只一足も前へこそ行延んとしける処に、菊池が若党に、原源五・源六とて、名を得たる大剛の者有りけるが、態と迹に引さがりて、御方の勢を落さんと、防矢を射たりける。矢種皆射尽ければ、打物の鞘をはづして、「傍輩共あらば返せ。」とぞ呼ける。菊池が若党共是を聞て、遥に落延たりける者共、「某此に有。」と名乗懸て返合せける間、城よりをり合せける敵共、さすがに近付得ずして、只余所の峯々に立渡て時の声をぞ作りける。其間に数万の官軍共、一人も討るゝ事なくして、大江田式部大輔、其夜の曙には山の里へ著にけり。和田備後守範長・子息三郎高徳、佐々木の一党が舟よりあがる由を聞て、是を防がん為に、西川尻に陣を取て居たりけるが、福山已に落されぬと聞へければ、三石の勢と成合んが為に、九日の夜に入て、三石へぞ馳著ける。爰にて人に尋れば、「脇屋殿は早宵に播磨へ引せ給ひて候也。」と申ける間、さては舟坂をば通り得じとて、先日搦手の廻りたりし三石の南の山路を、たどるたどる終夜越て、さごしの浦へぞ出たりける。夜未深かりければ、此侭少しの逗留もなくて打て通らば、新田殿には安く追著奉るべかりけるを、子息高徳が先の軍に負たりける疵、未愈けるが、馬に振れけるに依て、目昏く肝消して、馬にもたまらざりける間、さごしの辺に相知たる僧の有けるを尋出して、預置ける程に、時刻押遷りければ、五月の短夜明にけり。去程に此道より落人の通りけると聞て、赤松入道三百余騎を差遣して、名和辺にてぞ待せける。備後守僅に八十三騎にて、大道へと志て打ける処に、赤松が勢とある山陰に寄せ合て、「落人と見るは誰人ぞ。命惜くば弓をはづし物具脱で降人に参れ。」とぞかけたりける。備後守是を聞て、から/\と打笑ひ、「聞も習はぬ言ば哉、降人に可成は、筑紫より将軍の、様々の御教書を成してすかされし時こそ成んずれ。其をだに引さきて火にくべたりし範長が、御辺達に向て、降人にならんと、ゑこそ申まじけれ。物具ほしくばいでとらせん。」と云侭に、八十三騎の者共、三百余騎の中へ喚て懸入り、敵十二騎切て落し、二十三騎に手負せ、大勢の囲を破て、浜路を東へぞ落行ける。赤松が勢案内者なりければ、被懸散ながら、前々へ馳過て、「落人の通るぞ、打留め物具はげ。」と、近隣傍庄にぞ触たりける。依之其辺二三里が間の野伏共、二三千人出合て此の山の隠、彼の田の畷に立渡りて、散々に射ける間、備後守が若党共、主を落さんが為に、進では懸破り引下ては討死し、十八より阿弥陀が宿の辺迄、十八度まで戦て落ける間、打残されたる者、今は僅に主従六騎に成にけり。備後守或辻堂の前にて馬を引へて、若党共に向て申けるは、「あはれ一族共だに打連れたりせば、播磨の国中をば安く蹴散して通るべかりつる物を、方々の手分に向られて一族一所に不居つれば、無力範長討るべき時刻の到来しける也。今は可遁共覚ねば、最後の念仏心閑に唱へて腹を切らんと思ぞ。其程敵の近付かぬ様に防げ。」とて、馬より飛でをり、辻堂の中へ走入、本尊に向ひ手を合せ念仏高声に二三百返が程唱て、腹一文字に掻切て、其刀を口に加て、うつぶしに成てぞ臥たりける。其後若党四人つゞきて自害をしけるに、備後守がいとこに和田四郎範家と云ける者、暫思案しけるは、敵をば一人も滅したるこそ後までの忠なれ。追手の敵若赤松が一族子共にてや有らん。さもあらば引組で、差違へんずる物をと思て、刀を抜て逆手に拳り、甲を枕にして、自害したる体に見へてぞ臥たりける。此へ追手懸りける赤松が勢の大将には、宇弥左衛門次郎重氏とて、和田が親類なりけり。まさしきに辻堂の庭へ馳来て、自害したる敵の首をとらんとて、是をみるに袖に著たる笠符皆下黒の文也。重氏抜たる太刀を抛て、「あら浅猿や、誰やらんと思たれば、児嶋・和田・今木の人々にて有けるぞや。此人達と■疾知ならば、命に替ても助くべかりつる物を。」と悲て、泪を流して立たりける。和田四郎此声を聞て、「範家是に有。」とて、かはと起たれば、重氏肝をつぶしながら立寄て、「こはいかに。」とぞ悦ける。軈て和田四郎をば同道して助をき、備後守をば、葬礼懇に取沙汰して、遺骨を故郷へぞ送りける。さても八十三騎は討れて範家一人助りける、運命の程こそ不思議なれ。
○新田殿被引兵庫事 S1609
新田左中将義貞は、備前・美作の勢共を待調へん為に、賀古川の西なる岡に陣を取て、二日までぞ逗留し給ひける。時節五月雨の降つゞいて、河の水増りければ、「跡より敵の懸事もこそ候へ。先総大将又宗との人々許は、舟にて向へ御渡候へかし。」と諸人口々に申けれども、義貞、「さる事や有べき。渡さぬ先に敵懸りたらば、中々可引方無して、死を軽んぜんに便あり。されば韓信が水を背にして陣を張しは此なり。軍勢を渡しはてゝ、義貞後に渡る共、何の痛が可有。」とて、先馬弱なる軍勢、手負たる者共を、漸々にぞ被渡ける。去程に水一夜に落て、備前・美作の勢馳進りければ、馬筏を組で、六万余騎同時に川をぞ渡されける。是までは西国勢共馳参て、十万騎に余りたりしが、将軍兄弟上洛し給ふ由を聞て、何の間にか落失けん、五月十三日左中将兵庫に著給ける時は、其勢纔に二万騎にも不足けり。
○正成下向兵庫事 S1610
尊氏卿・直義朝臣大勢を率して上洛の間、用害の地に於て防ぎ戦はん為に、兵庫に引退ぬる由、義貞朝臣早馬を進て、内裡に奏聞ありければ、主上大に御騒有て、楠判官正成を被召て、「急兵庫へ罷下、義貞に力を合せて合戦を可致。」と被仰ければ、正成畏て奏しけるは、「尊氏卿已に筑紫九国の勢を率して上洛候なれば、定て勢は雲霞の如にぞ候覧。御方の疲れたる小勢を以て、敵機に乗たる大勢に懸合て、尋常の如くに合戦を致候はゞ、御方決定打負候ぬと覚へ候なれば、新田殿をも只京都へ召候て、如前山門へ臨幸成候べし。正成も河内へ罷下候て、畿内の勢を以て河尻を差塞、両方より京都を攻て兵粮をつからかし候程ならば、敵は次第に疲て落下、御方は日々に随て馳集候べし。其時に当て、新田殿は山門より推寄られ、正成は搦手にて攻上候はゞ、朝敵を一戦に滅す事有ぬと覚候。新田殿も定て此了簡候共、路次にて一軍もせざらんは、無下に無云甲斐人の思はんずる所を恥て、兵庫に支られたりと覚候。合戦は兎ても角ても、始終の勝こそ肝要にて候へ。能々遠慮を被廻て、公議を可被定にて候。」と申ければ、「誠に軍旅の事は兵に譲られよ。」と、諸卿僉議有けるに、重て坊門宰相清忠申されけるは、「正成が申所も其謂有といへども、征罰の為に差下されたる節度使、未戦を成ざる前に、帝都を捨て、一年の内に二度まで山門へ臨幸ならん事、且は帝位を軽ずるに似り、又は官軍の道を失処也。縦尊氏筑紫勢を率して上洛すとも、去年東八箇国を順へて上し時の勢にはよも過し。凡戦の始より敵軍敗北の時に至迄、御方小勢也といへども、毎度大敵を不責靡云事なし。是全武略の勝たる所には非ず、只聖運の天に叶へる故也。然れば只戦を帝都の外に決して、敵を斧鉞の下に滅さん事何の子細か可有なれば、只時を替へず、楠罷下るべし。」とぞ被仰出ける。正成、「此上はさのみ異儀を申に不及。」とて、五月十六日に都を立て五百余騎にて兵庫へぞ下ける。正成是を最期の合戦と思ければ、嫡子正行が今年十一歳にて供したりけるを、思ふ様有とて桜井の宿より河内へ返し遣すとて、庭訓を残しけるは、「獅子子を産で三日を経る時、数千丈の石壁より是を擲。其子、獅子の機分あれば、教へざるに中より跳返りて、死する事を得ずといへり。況や汝已に十歳に余りぬ。一言耳に留らば、我教誡に違ふ事なかれ。今度の合戦天下の安否と思ふ間、今生にて汝が顔を見ん事是を限りと思ふ也。正成已に討死すと聞なば、天下は必ず将軍の代に成ぬと心得べし。然りと云共、一旦の身命を助らん為に、多年の忠烈を失て、降人に出る事有べからず。一族若党の一人も死残てあらん程は、金剛山の辺に引篭て、敵寄来らば命を養由が矢さきに懸て、義を紀信が忠に比すべし。是を汝が第一の孝行ならんずる。」と、泣々申含めて各東西へ別にけり。昔の百里奚は、穆公晉の国を伐し時、戦の利無からん事を鑒て、其将孟明視に向て、今を限の別を悲み、今の楠判官は、敵軍都の西に近付と聞しより、国必滅ん事を愁て、其子正行を留て、無跡迄の義を進む。彼は異国の良弼、是は吾朝の忠臣、時千載を隔つといへ共、前聖後聖一揆にして、有難かりし賢佐なり。正成兵庫に著ければ、新田左中将軈て対面し給て、叡慮の趣をぞ尋問れける。正成畏て、所存の通りと勅定の様とを、委く語り申ければ、「誠に敗軍の小勢を以て、機を得たる大敵に戦はん事叶ふべきにてはなけれ共、去年関東の合戦に打負て上洛せし時、路にて猶支ざりし事、人口の嘲遁るゝ時を得ず。其こそあらめ、今度西国へ下されて、数箇所の城郭一も不落得して、結句敵の大勢なるを聞て、一支もせず京都まで遠引したらんは、余りに無云甲斐存る間、戦の勝負をば見ずして、只一戦に義を勧ばやと存る計也。」と宣ひければ、正成重て申けるは、「「衆愚之愕々たるは、不如一賢之唯々」と申候へば、道を不知人の譏をば、必しも御心に懸らるまじきにて候。只可戦所を見て進み、叶ふまじき時を知て退くをこそ良将とは申候なれ。さてこそ「暴虎憑河而死無悔之者不与」と、孔子も子路を被誡事の候。其上元弘の初には平大守の威猛を一時にくだかれ、此年の春は尊氏の逆徒を九州へ退られ候し事、聖運とは申ながら、偏に御計略の武徳に依し事にて候へば、合戦の方に於ては誰か褊し申候べき。殊更今度西国より御上洛の事、御沙汰の次第、一々に道に当てこそ存候へ。」と申ければ、義貞朝臣誠に顔色解て、通夜の物語に、数盃の興をぞ添られける。後に思合すれば、是を正成が最後なりけりと、哀なりしこと共也。
○兵庫海陸寄手事 S1611
去程に、明れば五月二十五日辰刻に、澳の霞の晴間より、幽に見へたる舟あり。いさりに帰る海人か、淡路の迫戸を渡舟歟と、海辺の眺望を詠て、塩路遥に見渡せば、取梶面梶に掻楯掻て、艫舳に旗を立たる数万の兵船順風に帆をぞ挙たりける。烟波眇々たる海の面、十四五里が程に漕連て、舷を輾り、艫舳を双たれば、海上俄に陸地に成て、帆影に見ゆる山もなし。あな震し、呉魏天下を争し赤壁の戦、大元宋朝を滅せし黄河の兵も、是には過じと目を驚かして見る処に、又須磨の上野と鹿松岡、鵯越の方より二引両・四目結・直違・左巴・倚かゝりの輪違の旗、五六百流差連て、雲霞の如に寄懸たり。海上の兵船、陸地の大勢、思しよりも震くして、聞しにも猶過たれば、官軍御方を顧て、退屈してぞ覚へける。され共義貞朝臣も正成も、大敵を見ては欺き、小敵を見ては侮ざる、世祖光武の心根を写して得たる勇者なれば、少も機を失たる気色無して、先和田の御崎の小松原に打出て、閑に手分をぞし給ひける。一方には脇屋右衛門佐義助を大将として末々の一族二十三人、其勢五千余騎経嶋にぞ磬へたる。一方には大館左馬助氏明を大将として、相順ふ一族十六人、其勢三千余騎にて、灯炉堂の南の浜に磬らる。一方には楠判官正成態佗の勢を不交して七百余騎、湊川の西の宿に磬へて、陸地の敵に相向ふ。左中将義貞は総大将にてをはすれば、諸将の命を司て、其勢二万五千余騎、和田御崎に帷幕を引せて磬へらる。去程に、海上の船共帆を下して礒近く漕寄すれば、陸地の勢も旗を進めて相近にぞ成にける。両陣互に攻寄て、先澳の舟より大鼓を鳴し、時の声を揚れば、陸地の搦手五十万騎、請取て声をぞ合せける。其声三度畢れば、官軍又五万余騎、楯の端を鳴し箙を敲て時を作る。敵御方の時の声、南は淡路絵嶋が崎・鳴戸の澳、西は播磨路須摩の浦、東は摂津国生田森、四方三百余里に響渡て、苟に天維も断て落、坤軸も傾く許なり。
○本間孫四郎遠矢事 S1612
新田・足利相挑で未戦処に、本間孫四郎重氏黄瓦毛なる馬の太く逞きに、紅下濃の鎧著て、只一騎和田の御崎の波打際に馬打寄せて、澳なる舟に向て、大音声を挙て申けるは、「将軍筑紫より御上洛候へば、定て鞆・尾道の傾城共、多く被召具候覧。其為に珍しき御肴一つ推て進せ候はん。暫く御待候へ。」と云侭に、上差の流鏑矢を抜て、羽の少し広がりけるを鞍の前輪に当てかき直し、二所藤の弓の握太なるに取副、小松陰に馬を打寄て、浪の上なる鶚の、己が影にて魚を驚し、飛さがる程をぞ待たりける。敵は是を見て、「射放たらんは希代の笑哉。」と目を放たず。御方は是を見て、「射当たらんは時に取ての名誉哉。」と、機を攻てぞ守ける。遥に高飛挙りたる鶚、浪の上に落さがりて、二尺計なる魚を、主人のひれを掴で澳の方へ飛行ける処を、本間小松原の中より馬を懸出し、追様に成て、かけ鳥にぞ射たりける。態と生ながら射て落さんと、片羽がひを射切て直中をば射ざりける間、鏑は鳴響て大内介が舟の帆柱に立、みさごは魚を掴ながら、大友が舟の屋形の上へぞ落たりける。射手誰とは知ねども、敵の舟七千余艘には、舷を蹈で立双、御方の官軍五万余騎は汀に馬を磬へて、「あ射たり/\。」と感ずる声天地を響して静り得ず。将軍是を見給て、「敵我弓の程を見せんと此鳥を射つるが、此方の舟の中へ鳥の落たるは御方の吉事と覚るなり。何様射手の名字を聞ばや。」と被仰ければ、「小早河七郎舟の舳に立出て、「類少なく、見所有ても遊されつる者哉。さても御名字をば何と申候やらん承候ばや。」と問たりければ、本間弓杖にすがりて、「其身人数ならぬ者にて候へば、名乗申共誰か御存知候べき。但弓箭を取ては、坂東八箇国の兵の中には、名を知たる者も御座候らん。此矢にて名字をば御覧候へ。」と云て、三人張に十五束三伏、ゆら/\と引渡し、二引両の旗立たる舟を指して、遠矢にぞ射たりける。其矢六町余を越て、将軍の舟に双たる、佐々木筑前守が船を箆中過通り、屋形に乗たる兵の鎧の草摺に裏をかゝせてぞ立たりける。将軍此矢を取寄せ見給ふに、相摸国住人本間孫四郎重氏と、小刀のさきにて書たりける。諸人此矢を取伝へ見て、「穴懼、如何なる不運の者か此矢崎に廻て死なんずらん。」と、兼て胸をぞ冷しける。本間孫四郎扇を揚て、澳の方をさし招て、「合戦の最中にて候へば、矢一筋も惜く存候。其矢此方へ射返してたび候へ。」とぞ申けれ。将軍是を聞給て、「御方に誰か此矢射返しつべき者有。」と高武蔵守に尋給ければ、師直畏て、「本間が射て候はんずる遠矢を、同じ坪に射返候はんずる者、坂東勢の中には有べしとも存候はず。誠にて候やらん、佐々木筑前守顕信こそ、西国一の精兵にて候なれ。彼を被召仰付られ候へかし。」と申ければ、「げにも。」とて佐々木をぞ被呼ける。顕信召に随て、将軍の御前に参たり。将軍本間が矢を取出して、「此矢、本の矢坪へ射返され候へ。」と被仰ければ、顕信畏て、難叶由をぞ再三辞し申ける。将軍強て被仰ける間、辞するに無処して、己が舟に立帰り、火威の鎧に鍬形打たる甲の緒を縮、銀のつく打たる弓の反高なるを、帆柱に当てきり/\と推張、舟の舳崎に立顕て、弓の弦くひしめしたる有様、誠に射つべくぞ見へたりける。かゝる処に、如何なる推参の婆伽者にてか有けん、讚岐勢の中より、「此矢一受て弓勢の程御覧ぜよ。」と、高らかに呼はる声して、鏑をぞ一つ射たりける。胸板に弦をや打たりけん、元来小兵にてや有けん、其矢二町迄も射付ず、波の上にぞ落たりける。本間が後に磬へたる軍兵五万余騎、同音に、「あ射たりや。」と欺て、しばし笑も止ざりけり。此後は中々射てもよしなしとて、佐々木は遠矢を止てけり。
○経嶋合戦事 S1613
遠矢射損じて、敵御方に笑れ憎まれける者、恥を洗がんとや思けん。舟一艘に二百余人取乗て、経島へ差寄せ、同時に礒へ飛下て、敵の中へぞ打て懸りける。脇屋右衛門佐の兵ども、五百余騎にて中に是を取篭、弓手馬手に相付て、縄手を廻してぞ射たりける。二百余騎の者共、心は勇といへ共、射手も少く徒立なれば、馬武者に懸悩されて、遂に一人も残らず討れにければ、乗捨つる舟は、徒に岸打浪に漂へり。細河卿律師是を見給て、「つゞく者の無りつる故にこそ、若干の御方をば故なく討せつれ。いつを期すべき合戦ぞや。下場のよからんずる所へ舟を著て、馬を追下々々打て上れ。」と被下知。四国の兵共、大船七百余艘、紺部の浜より上らんとて、礒に傍てぞ上りける。兵庫嶋三箇所に磬へたる官軍五万余騎、船の敵をあげ立じと、漕行舟に随て、汀を東へ打ける間、舟路の勢は自進で懸る勢にみへ、陸の官軍は偏に逃て引様にぞ見へたりける。海と陸との両陣互に相窺て、遥の汀に著て上りければ、新田左中将と楠と、其間遠く隔て、兵庫嶋の舟著には支たる勢も無かりける。依之九国・中国の兵船六十余艘、和田の御崎に漕寄て、同時に陸へぞあがりける。
○正成兄弟討死事 S1614
楠判官正成、舎弟帯刀正季に向て申けるは、「敵前後を遮て御方は陣を隔たり。今は遁ぬ処と覚るぞ。いざや先前なる敵を一散し追捲て後ろなる敵に闘はん。」と申ければ、正季、「可然覚候。」と同じて、七百余騎を前後に立て、大勢の中へ懸入ける。左馬頭の兵共、菊水の旗を見て、よき敵也と思ければ、取篭て是を討んとしけれ共、正成・正季、東より西へ破て通り、北より南へ追靡け、よき敵とみるをば馳双て、組で落ては頭をとり、合はぬ敵と思ふをば、一太刀打て懸ちらす。正季と正成と、七度合七度分る。其心偏に左馬頭に近付、組で討んと思にあり。遂に左馬頭の五十万騎、楠が七百余騎に懸靡けられて、又須磨の上野の方へぞ引返しける。直義朝臣の乗られたりける馬、矢尻を蹄に蹈立て、右の足を引ける間、楠が勢に追攻られて、已に討れ給ぬと見へける処に、薬師寺十郎次郎只一騎、蓮池の堤にて返し合せて、馬より飛でをり、二尺五寸の小長刀の石づきを取延て、懸る敵の馬の平頚、むながひの引廻、切ては刎倒々々、七八騎が程切て落しける其間に、直義は馬を乗替て、遥々落延給けり。左馬頭楠に追立られて引退を、将軍見給て、「悪手を入替て、直義討すな。」と被下知ければ、吉良・石堂・高・上杉の人々六千余騎にて、湊河の東へ懸出て、跡を切らんとぞ取巻ける。正成・正季又取て返て此勢にかゝり、懸ては打違て死し、懸入ては組で落、三時が間に十六度迄闘ひけるに、其勢次第々々に滅びて、後は纔に七十三騎にぞ成にける。此勢にても打破て落ば落つべかりけるを、楠京を出しより、世の中の事今は是迄と思ふ所存有ければ、一足も引ず戦て、機已に疲れければ、湊河の北に当て、在家の一村有ける中へ走入て、腹を切ん為に、鎧を脱で我身を見るに、斬疵十一箇所までぞ負たりける。此外七十二人の者共も、皆五箇所・三箇所の疵を被らぬ者は無りけり。楠が一族十三人、手の者六十余人、六間の客殿に二行に双居て、念仏十返計同音に唱て、一度に腹をぞ切たりける。正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。橋本八郎正員・宇佐美河内守正安・神宮寺太郎兵衛正師・和田五郎正隆を始として、宗との一族十六人、相随兵五十余人、思々に並居て、一度に腹をぞ切たりける。菊池七郎武朝は、兄の肥前守が使にて須磨口の合戦の体を見に来りけるが、正成が腹を切る所へ行合て、をめ/\しく見捨てはいかゞ帰るべきと思けるにや、同自害をして炎の中に臥にけり。抑元弘以来、忝も此君に憑れ進せて、忠を致し功にほこる者幾千万ぞや。然共此乱又出来て後、仁を知らぬ者は朝恩を捨て敵に属し、勇なき者は苟も死を免れんとて刑戮にあひ、智なき者は時の変を弁ぜずして道に違ふ事のみ有しに、智仁勇の三徳を兼て、死を善道に守るは、古へより今に至る迄、正成程の者は未無りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失て、逆臣横に威を振ふべき、其前表のしるしなれ。
○新田殿湊河合戦事 S1615
楠已に討れにければ、将軍と左馬頭と一処に合て、新田左中将に打て懸り給ふ。義貞是を見て、「西の宮よりあがる敵は、旗の文を見るに末々の朝敵共なり。湊河より懸る勢は尊氏・直義と覚る。是こそ願ふ所の敵なれ。」とて西宮より取て返し、生田の森を後ろを当て四万余騎を三手に分て、敵を三方にぞ受られける。去程に両陣互に勢を振て時を作り声を合す。先一番に大館左馬助氏明・江田兵部大輔行義、三千余騎にて、仁木・細川が六万余騎に懸合て、火を散して相戦ふ。其勢互に討れて、両方へ颯と引のけば、二番に中院の中将定平・大江田・里見・鳥山五千余騎にて、高・上杉が八万騎に懸合て、半時許黒烟を立て揉合たり。其勢共戦疲れて両方へ颯と引退けば、三番に脇屋右衛門佐・宇都宮治部大輔・菊池次郎・河野・土居・得能一万騎にて、左馬頭・吉良・石堂が十万余騎に懸合せ、天を響かし地を動して責戦ふ。或は引組で落重て、頚を取もあり、取るゝもあり。或は敵と打違て、同く馬より落るもあり。両虎二龍の闘に、何れも討るゝ者多かりければ、両方東西へ引のきて、人馬の息をぞ休めける。新田左中将是を見給て、「荒手の兵已に尽て戦未決せず。是義貞が自当るべき処也。」とて、二万三千騎を左右に立て、将軍の三十万騎に懸合せ、兵刃を交へて命を鴻毛よりも軽せり。官軍の総大将と、武家の上将軍と、自戦ふ軍なれば、射落さるれども矢を抜隙なく、組で下になれ共、落合て助くる者なし。只子は親を棄て切合、朗等は主に離れて戦へば、馬の馳違ふ声、太刀の鐔音、いかなる脩羅の闘諍も、是には過じとをびたゝし。先に一軍して引しさりたる両方の勢共、今はいつをか可期なれば、四隊の陣一処に挙て、敵と敵と相交り、中黒の旗と二引両と、巴の旗と輪違と、東へ靡き西へ靡き、礒山風に翩翻して、入違ひたる許にて、何れを御方の勢とは見へ分かず。新田・足利の国の争ひ今を限りとぞ見へたりける。官軍は元来小勢なれば、命を軽じて戦といへども、遂には大敵に懸負て、残る勢纔五千余騎、生田の森の東より丹波路を差てぞ落行ける。数万の敵勝に乗て是を追事甚急なり。され共何もの習なれば、義貞朝臣、御方の軍勢を落延させん為に後陣に引さがりて、返し合せ/\戦れける程に、義貞の被乗たりける馬に矢七筋迄立ける間、小膝を折て倒けり。義貞求塚の上に下立て、乗替の馬を待給共、敢て御方是を不知けるにや、下て乗せんとする人も無りけり。敵や是を見知けん、即取篭て是を討んとしけるが、其勢に僻易して近は更不寄けれ共、十方より遠矢に射ける矢、雨雹の降よりも猶繁し。義貞は薄金と云甲に、鬼切・鬼丸とて多田満仲より伝たる源氏重代の太刀を二振帯れたりけるを、左右の手に抜持て、上る矢をば飛越、下る矢には差伏き、真中を指て射矢をば二振の太刀を相交て、十六迄ぞ切て被落ける。其有様、譬ば四天王、須弥の四方に居して同時に放つ矢を、捷疾鬼走廻て、未其矢の大海に不落著前に、四の矢を取て返らんも角やと覚許也。小山田太郎遥の山の上より是を見て、諸鐙を合て馳参て、己が馬に義貞を乗奉て、我身徒立に成て追懸る敵を防けるが、敵数たに被取篭て、遂討れにけり。其間に義貞朝臣御方の勢の中へ馳入て、虎口に害を遁給ふ。
○小山田太郎高家刈青麦事 S1616
抑官軍の中に知義軽命者雖多、事の急なるに臨で、大将の替命とする兵無りけるに、遥隔たる小山田一人馬を引返して義貞を奉乗、剰我身跡に下て打死しける其志を尋れば、僅の情に憑て百年の身を捨ける也。去年義貞西国の打手を承て、播磨に下著し給時、兵多して粮乏。若軍に法を置ずば、諸卒の狼藉不可絶とて、一粒をも刈採、民屋の一をも追捕したらんずる者をば、速可被誅之由を大札に書て、道の辻々にぞ被立ける。依之農民耕作を棄ず、商人売買を快しける処に、此高家敵陣の近隣に行て青麦を打刈せて、乗鞍に負せてぞ帰ける。時の侍所長浜六郎左衛門尉是を見、直に高家を召寄、無力法の下なれば是を誅せんとす。義貞是を聞給て、「推量するに此者、青麦に替身と思んや。此所敵陣なればと思誤けるか、然ずば兵粮に術尽て法の重を忘たるかの間也。何様彼役所を見よ。」とて、使者を遣して被点検ければ、馬・物具爽に有て食物の類は一粒も無りけり。使者帰て此由を申ければ、義貞大に恥たる気色にて、「高家が犯法事は、戦の為に罪を忘たるべし。何様士卒先じて疲たるは大将の恥也。勇士をば不可失、法をば勿乱事。」とて、田の主には小袖二重与て、高家には兵粮十石相副て色代してぞ帰されける。高家此情を感じて忠義弥染心ければ、此時大将の替命、忽に打死をばしたる也。自昔至今迄、流石に侍たる程の者は、利をも不思、威にも不恐、只依其大将捨身替命者也。今武将たる人、是を慎で不思之乎。
○聖主又臨幸山門事 S1617
官軍の総大将義貞朝臣、僅に六千余騎に打成されて帰洛せられければ、京中の貴賎上下色を損じて周章騒事限なし。官軍若戦に利を失はゞ、如前東坂本へ臨幸成べきに兼てより儀定ありければ、五月十九日主上三種の神器を先に立て、竜駕をぞ廻らされける。浅猿や、元弘の初に公家天下を一統せられて、三年を過ざるに、此乱又出来て、四海の民安からず。然ども去ぬる正月の合戦に、朝敵忽に打負て、西海の浪に漂ひしかば、是聖徳の顕るゝ処也。今はよも上を犯さんと好み、乱を起さんとする者はあらじとこそ覚へつるに、西戎忽に襲来て、一年の内に二度まで天子都を移させ給へば、今は日月も昼夜を照す事なく、君臣も上下を知ぬ世に成て、仏法・王法共に可滅時分にや成ぬらんと、人々心を迷はせり。されども此春も山門へ臨幸成て、無程朝敵を退治せられしかば、又さる事やあらんと定めなき憑みに積習して、此度は、公家にも武家にも供奉仕る者多かりけり。摂録臣は申に及ず、公卿には吉田内大臣定房・万里小路大納言宣房・竹林院大納言公重・御子左大納言為定・四条中納言隆資・坊城中納言経顕・洞院左衛門督実世・千種宰相中将忠顕・葉室中納言長光・中御門宰相宣明、殿上人には中院左中将定平・坊門左大弁清忠・四条中将隆光・園中将基隆・甘露寺左大弁藤長・岡崎右中弁範国・一条頭大夫行房、此外衛府諸司・外記・史・官人・北面・有官・無官の滝口・諸家の侍・官僧・官女・医陰両道に至まで、我も我もと供奉仕る。武家の輩には、新田左中将義貞・子息越後守義顕・脇屋右衛門佐義助・子息式部大輔義治・堀口美濃守貞満・大館左馬助義氏・江田兵部少輔行義・額田掃部助正忠・大江田式部大輔氏経・岩松兵衛蔵人義正・鳥山左京助氏頼・羽川越中守時房・桃井兵庫助顕氏・里見大膳亮義益・田中修理亮氏政・千葉介貞胤・宇都宮治部大輔公綱・同美濃将監泰藤・狩野将監貞綱・熱田大宮司昌能・河野備後守通治・得能備中守通益・武田甲斐守盛正・小笠原蔵人政道・仁科信濃守氏重・春日部治部少輔時賢・名和伯耆守長年・同太郎判官長生・今木新蔵人範家・頓宮六郎忠氏、是等を宗との侍とし、其勢都合六万余騎、鳳輦の前後に打囲て、今路越にぞ落行給ける。
○持明院本院潛幸東寺事 S1618
持明院法皇・本院・新院・春宮に至まで、悉皆山門へ御幸成進らすべき由、太田判官全職、路次の奉行として、供奉仕たるに、本院は兼てより尊氏に院宣を被成下たりしかば、二度御治世の事やあらんずらんと思召て、北白川の辺より、俄に御不預の事有とて、御輿を法勝寺の塔前に舁居させて、態時をぞ移されける。去程に敵已に京中に入乱れぬと見て、兵火四方に盛也。全職是を見て、「さのみはいつまでか、暗然として可待申なれば、供奉の人々に急ぎ山門へ成進らすべし。」と申置て、新院・法皇・春宮許を先東坂本へぞ御幸成進せける。本院は全職が立帰る事もやあらんずらんと恐しく思召されければ、日野中納言資名、殿上人には三条中将実継計を供奉人として、急東寺へぞ成たりける。将軍不斜悦で、東寺の本堂を皇居と定めらる。久我内大臣を始として、落留給へる卿相雲客参られしかば、則皇統を立らる。是ぞはや尊氏の運を開かるべき瑞なりける。
○日本朝敵事 S1619
夫日本開闢の始を尋れば、二儀已分れ三才漸顕れて、人寿二万歳の時、伊弉諾・伊弉冊の二の尊、遂妻神夫神と成て天の下にあまくだり、一女三男を生給ふ。一女と申は天照太神、三男と申は月神・蛭子・素盞烏の尊なり。第一の御子天照太神此国の主と成て、伊勢国御裳濯川の辺、神瀬下津岩根に跡を垂れ給ふ。或時は垂迹の仏と成て、番々出世の化儀を調へ、或時は本地の神に帰て、塵々刹土の利生をなし給ふ。是則迹高本下の成道也。爰に第六天の魔王集て、此国の仏法弘らば魔障弱くして其力を失べしとて、彼応化利生を妨んとす。時に天照太神、彼が障碍を休めん為に、我三宝に近付じと云誓をぞなし給ひける。依之第六天の魔王忿りを休めて、五体より血を出し、「尽未来際に至る迄、天照太神の苗裔たらん人を以て此国の主とすべし。若王命に違ふ者有て国を乱り民を苦めば、十万八千の眷属朝にかけり夕べに来て其罰を行ひ其命を奪ふべし」と、堅誓約を書て天照太神に奉る。今の神璽の異説是也。誠に内外の宮の在様自余の社壇には事替て、錦帳に本地を顕はせる鏡をも不懸、念仏読経の声を留て僧尼の参詣を許されず。是然当社の神約を不違して、化属結縁の方便を下に秘せる者なるべし。されば天照太神より以来、継体の君九十六代、其間に朝敵と成て滅し者を数ふれば、神日本磐余予彦天皇御宇天平四年に紀伊国名草郡に二丈余の蜘蛛あり。足手長して力人に超たり。綱を張る事数里に及で、往来の人を残害す。然共官軍勅命を蒙て、鉄の網を張り、鉄湯を沸して四方より責しかば、此蜘蛛遂に殺されて、其身分々に爛れにき。又天智天皇の御宇に藤原千方と云者有て、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼と云四の鬼を使へり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立ず。風鬼は大風を吹せて、敵城を吹破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺す。隠形鬼は其形を隠して、俄敵を拉。如斯の神変、凡夫の智力を以て可防非ざれば、伊賀・伊勢の両国、是が為に妨られて王化に順ふ者なし。爰に紀朝雄と云ける者、宣旨を蒙て彼国に下、一首の歌を読て、鬼の中へぞ送ける。草も木も我大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき四の鬼此歌を見て、「さては我等悪逆無道の臣に随て、善政有徳の君を背奉りける事、天罰遁るゝ処無りけり。」とて忽に四方に去て失にければ、千方勢ひを失て軈て朝雄に討れにけり。是のみならず、朱雀院の御宇承平五年に、将門と云ける者東国に下て、相馬郡に都を立、百官を召仕て、自平親王と号す。官軍挙て是を討んとせしかども、其身皆鉄身にて、矢石にも傷られず剣戟にも痛ざりしかば、諸卿僉議有て、俄に鉄の四天を鋳奉て、比叡山に安置し、四天合行の法を行せらる、故天より白羽の矢一筋降て、将門が眉間に立ければ、遂に俵藤太秀郷に首を捕られてけり。其首獄門に懸て曝すに、三月迄色不変、眼をも不塞、常に牙を嚼て、「斬られし我五体何れの処にか有らん。此に来れ。頭続で今一軍せん。」と夜な/\呼りける間、聞人是を不恐云事なし。時に道過る人是を聞て、将門は米かみよりぞ斬られける俵藤太が謀にてと読たりければ、此頭から/\と笑ひけるが、眼忽に塞て、其尸遂に枯にけり。此外大石山丸・大山王子・大友真鳥・守屋大臣・蘇我入鹿・豊浦大臣・山田石川・左大臣長屋・右大臣豊成・伊予親王・氷上川継・橘逸勢・文屋宮田・江美押勝・井上皇后・早良太子・大友皇子・藤原仲成・天慶純友・康和義親・宇治悪左府・六条判官為義・悪右衛門督信頼・安陪貞任・宗任・清原武衡・平相国清盛・木曾冠者義仲・阿佐原八郎為頼・時政九代の後胤高時法師に至迄、朝敵と成て叡慮を悩し仁義を乱る者、皆身を刑戮の下に苦しめ、尸を獄門の前に曝さずと云事なし。去ば尊氏卿も、此春東八箇国の大勢を率して上洛し玉ひしかども、混朝敵たりしかば数箇度の合戦に打負て、九州を差て落たりしが、此度は其先非を悔て、一方の皇統を立申て、征罰を院宣に任られしかば、威勢の上に一の理出来て、大功乍に成んずらんと、人皆色代申れけり。去程に東寺已に院の御所と成しかば、四壁を城郭に構へて、上皇を警固し奉る由にて、将軍も左馬頭も、同く是に篭られける。是は敵山門より遥々と寄来らば、小路々々を遮て、縦横に合戦をせんずる便よかるべしとて、此寺を城郭にはせられけるなり。
○正成首送故郷事 S1620
湊川にて討れし楠判官が首をば、六条川原に懸られたり。去ぬる春もあらぬ首をかけたりしかば、是も又さこそ有らめと云者多かりけり。疑は人によりてぞ残りけるまさしげなるは楠が頚と、狂歌を札に書てぞ立たりける。其後尊氏卿楠が首を召れて、「朝家私日久相馴し旧好の程も不便也。迹の妻子共、今一度空しき貌をもさこそ見度思らめ。」とて、遺跡へ被送ける情の程こそ有難けれ。楠が後室・子息正行是を見て、判官今度兵庫へ立し時、様々申置し事共多かる上、今度の合戦に必ず討死すべしとて、正行を留置しかば、出しを限の別也とぞ兼てより思ひ儲たる事なれども、貌をみれば其ながら目塞り色変じて、替はてたる首をみるに、悲の心胸に満て、歎の泪せき敢ず。今年十一歳に成ける帯刀、父が頭の生たりし時にも似ぬ有様、母が歎のせん方もなげなる様を見て、流るゝ泪を袖に押へて持仏堂の方へ行けるを、母怪しく思て則妻戸の方より行て見れば、父が兵庫へ向ふとき形見に留めし菊水の刀を、右の手に抜持て、袴の腰を押さげて、自害をせんとぞし居たりける。母急走寄て、正行が小腕に取付て、泪を流して申けるは、「「栴檀は二葉より芳」といへり。汝をさなく共父が子ならば、是程の理に迷ふべしや。小心にも能々事の様を思ふてみよかし。故判官が兵庫へ向ひし時、汝を桜井の宿より返し留めし事は、全く迹を訪らはれん為に非ず、腹を切れとて残し置しにも非ず。我縦ひ運命尽て戦場に命を失ふ共、君何くにも御座有と承らば、死残りたらん一族若党共をも扶持し置き、今一度軍を起し、御敵を滅して、君を御代にも立進らせよと云置し処なり。其遺言具に聞て、我にも語し者が、何の程に忘れけるぞや。角ては父が名を失ひはて、君の御用に合進らせん事有べし共不覚。」と泣々勇め留て、抜たる刀を奪とれば、正行腹を不切得、礼盤の上より泣倒れ、母と共にぞ歎ける。其後よりは、正行、父の遺言、母の教訓心に染肝に銘じつゝ、或時は童部共を打倒し、頭を捕真似をして、「是は朝敵の頚を捕也。」と云、或時は竹馬に鞭を当て、「是は将軍を追懸奉る。」なんど云て、はかなき手ずさみに至るまでも、只此事をのみ業とせる、心の中こそ恐しけれ。