太平記(国民文庫)


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使用テキスト 
『太平記 全』(国民文庫刊行会) (流布版本) 翻刻

1. 漢字表記や読みを一部改めました。
2.JISに無い漢字は別の字に置き換えるか、■で表示しました。
3.各章段の頭には原本に○が有りますが、末尾に原本に無い番号を振りました。S+巻数(2桁)+章段(2桁)
4.漢文の返り点や一、二点等を省略しました。
5.巻頭目録は有りません。

2001.06.07 荒山


太平記巻第一

蒙窃採古今之変化、察安危之来由、覆而無外天之徳也。明君体之保国家。載而無棄地之道也。良臣則之守社稷。若夫其徳欠則雖有位不持。所謂夏桀走南巣、殷紂敗牧野。其道違則雖有威不久。曾聴趙高刑咸陽、禄山亡鳳翔。是以前聖慎而得垂法於将来也。後昆顧而不取誡於既往乎。
○後醍醐天皇(ごだいごのてんわう)御治世(ごぢせいの)事付(つけたり)武家(ぶけ)繁昌(はんじやうの)事 S0101
爰(ここ)に本朝人皇(にんわう)の始(はじめ)、神武天皇(てんわう)より九十五代の帝(みかど)、後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に当(あたつ)て、武臣(ぶしん)相摸守(さがみのかみ)平(たひらの)高時と云(いふ)者あり。此(この)時上(かみ)乖君之徳、下(しも)失臣之礼。従之四海大(おほき)に乱(みだれ)て、一日も未安(いまだやすからず)。狼煙(らうえん)翳天、鯢波(げいは)動地、至今四十余年。一人(いちにんとして)而不得富春秋。万民無所措手足。倩尋其濫觴者、匪啻禍一朝一夕之故。元暦(げんりやく)年中に鎌倉の右大将(うだいしやう)頼朝卿(よりとものきやう)、追討平家而有其功之時、後白河(ごしらかはの)院(ゐん)叡感之余(あまり)に、被補六十六箇国之総追補使。従是武家始(はじめ)て諸国に守護(しゆご)を立(たて)、庄園に地頭(ぢとう)を置(おく)。彼(かの)頼朝の長男左衛門督(さゑもんのかみ)頼家(よりいへ)、次男右大臣実朝公(さねともこう)、相続(あひつい)で皆征夷将軍の武将に備(そなは)る。是(これ)を号三代将軍。然(しかる)を頼家(よりいへの)卿は為実朝討れ、実朝は頼家(よりいへ)の子為悪禅師公暁討れて、父子(ふし)三代僅(わづか)に四十二年にして而尽(つき)ぬ。其後(そののち)頼朝卿の舅(しうと)、遠江守(とほたふみのかみ)平(たひらの)時政(ときまさの)子息、前陸奥守(さきのむつのかみ)義時、自然に執天下権柄勢漸(やうやく)欲覆四海。此(この)時の大上天皇(だじやうてんわう)は、後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)也。武威振下、朝憲(てうけん)廃上事歎思召(なげきおぼしめし)て、義時を亡さんとし給(たまひ)しに、承久の乱出来(いできたつ)て、天下暫(しばらく)も静(しづか)ならず。遂に旌旗(せいき)日に掠(かすめ)て、宇治・勢多にして相戦ふ。其戦(そのたたかひ)未終一日、官軍忽(たちまち)に敗北せしかば、後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)は隠岐国(おきのくに)へ遷(うつ)されさせ給(たまひ)て、義時弥(いよいよ)八荒(はつくわう)を掌(たなごころ)に握る。其(それ)より後(のち)武蔵守(むさしのかみ)泰時(やすとき)・修理亮(しゆりのすけ)時氏(ときうぢ)・武蔵守(むさしのかみ)経時(つねとき)・相摸守(さがみのかみ)時頼・左馬権頭(さまのごんのかみ)時宗・相摸守(さがみのかみ)貞時、相続(あひつい)で七代、政(まつりごと)武家より出で、徳窮民を撫(ぶ)するに足(たれ)り、威万人(まんにん)の上に被(かうむる)といへ共(ども)、位(くらゐ)四品(しほん)の際(あひだ)を不越、謙(けん)に居て仁恩(じんおん)を施し、己(おのれ)を責(せめ)て礼義を正(ただ)す。是(ここ)を以て高しと云(いへ)ども危(あやふ)からず、盈(みて)りと云(いへ)ども溢れず。承久より以来(このかた)、儲王摂家(ちよわうせつけ)の間(あひだ)に、理世安民(りせいあんみん)の器(き)に相当(あひあた)り給へる貴族を一人、鎌倉へ申下奉(まをしくだしたてまつつ)て、征夷将軍と仰(あふい)で、武臣皆拝趨(はいすう)の礼を事とす。同(おなじき)三年に、始(はじめ)て洛中に両人の一族を居(すゑ)て、両六波羅(ろくはら)と号して、西国(さいこく)の沙汰を執行(とりおこなは)せ、京都の警衛に備(そなへ)らる。又永仁(えいにん)元年より、鎮西(ちんぜい)に一人の探題(たんだい)を下(くだ)し、九州の成敗(せいばい)を司(つかさどら)しめ、異賊襲来の守(まもり)を堅(かたう)す。されば一天下、普(あまねく)彼下知(かのげぢ)に不随と云(いふ)処もなく、四海の外(ほか)も、均(ひとし)く其(その)権勢に服せずと云(いふ)者は無(なか)りけり。朝陽(てうやう)不犯ども、残星(ざんせい)光(ひかり)を奪(うばは)る、習(ならひ)なれば、必(かならず)しも、武家より公家(くげ)を蔑(ないがしろに)し奉(たてまつる)としもは無(なけ)れども、所(ところ)には地頭(ぢとう)強(つよう)して、領家(りやうけ)は弱(よわく)、国には守護(しゆご)重(おもう)して、国司(こくし)は軽(かろし)。此(この)故に朝廷は年々(としどし)に衰(おとろへ)、武家は日々(ひび)に盛(さかん)也。因茲代々(だいだい)の聖主、遠くは承久の宸襟(しんきん)を休(やす)めんが為、近くは朝議の陵廃(りようはい)を歎き思食(おぼしめし)て、東夷(とうい)を亡さばやと、常に叡慮を回(めぐら)されしかども、或(あるひ)は勢(いきほひ)微(び)にして不叶、或は時未到(いまだいたらず)して、黙止(もくしし)給ひける処に、時政九代(くだい)の後胤(こういん)、前(さきの)相摸守(さがみのかみ)平(たひらの)高時入道崇鑒(たかときにふだうそうかん)が代(よ)に至(いたつ)て、天地命(めい)を革(あらた)むべき危機云(ここに)顕(あらは)れたり。倩(つらつら)古(いにしへ)を引(ひい)て今を視(みる)に、行跡(かうせき)甚(はなはだ)軽(かろく)して人の嘲(あざけり)を不顧、政道不正して民の弊(つひえ)を不思、唯(ただ)日夜に逸遊(いついう)を事として、前烈(ぜんれつ)を地下(ちか)に羞(はづか)しめ、朝暮(てうぼ)に奇物(きもつ)を翫(もてあそび)て、傾廃(けいはい)を生前(しやうぜん)に致さんとす。衛(ゑい)の懿公(いこう)が鶴を乗(の)せし楽(たのしみ)早(はや)尽き、秦(しん)の李斯(りし)が犬を牽(ひき)し恨(うらみ)今に来(きたり)なんとす。見(みる)人眉を顰(ひそ)め、聴(きく)人唇(くちびる)を翻(ひるがへ)す。此(この)時の帝(みかど)後醍醐(ごだいごの)天王と申せしは、後宇多院(ごうだのゐん)の第二(だいに)の皇子(わうじ)、談天門院(だつてんもんゐん)の御腹(おんはら)にて御座(おは)せしを、相摸守(さがみのかみ)が計(はからひ)として、御年三十一の時、御位(おんくらゐ)に即(つけ)奉る。御在位(ございゐ)之間(あひだ)、内(うち)には三綱(さんかう)五常(ごじやう)の儀を正(ただしう)して、周公孔子の道に順(したがひ)、外(ほか)には万機百司(ばんきはくし)の政(まつりごと)不怠給、延喜天暦(えんぎてんりやく)の跡(あと)を追(おは)れしかば、四海風(ふう)を望(のぞん)で悦び、万民(ばんみん)徳に帰(き)して楽(たのし)む。凡(およそ)諸道の廃(すたれ)たるを興し、一事(いちじ)の善(ぜん)をも被賞しかば、寺社禅律(じしやぜんりつ)の繁昌(はんじやう)、爰(ここ)に時を得、顕密儒道(けんみつじゆだう)の碩才(せきさい)も、皆望(のぞみ)を達せり。誠に天に受(うけ)たる聖主、地に奉ぜる明君也と、其(その)徳を称じ、其化(そのくわ)に誇らぬ者は無(なか)りけり。
○関所(せきところ)停止(ちやうじの)事 S0102
夫(それ)四境(しきやう)七道の関所(せきところ)は、国(くに)の大禁(たいきん)を知(しら)しめ、時の非常を誡(いましめ)んが為也。然(しかる)に今壟断(ろうだん)の利に依(よつ)て、商売(しやうばい)往来(わうらい)の弊(つひえ)、年貢(ねんぐ)運送の煩(わづらひ)ありとて、大津(おほつ)・葛葉(くずは)の外(ほか)は、悉(ことごと)く所々の新関(しんせき)を止(やめ)らる。又元亨(げんかう)元年の夏、大旱(たいかん)地を枯(からし)て、田服(てんぶく)の外(ほか)百里(ひやくり)の間(あひだ)、空(むなし)く赤土(せきど)のみ有(あつ)て、青苗(せいべう)無し。餓■(がへう)野(や)に満(みち)て、飢人(きにん)地に倒る。此(この)年銭(ぜに)三百を以て、粟(あは)一斗を買(かふ)。君遥(はるか)に天下の飢饉を聞召(きこしめし)て、朕不徳あらば、天予(われ)一人(いちじん)を罪(つみ)すべし。黎民(れいみん)何の咎(とが)有(あり)てか、此災(このわざはひ)に逢(あへ)ると、自(みづから)帝徳(ていとく)の天に背ける事を歎き思召(おぼしめし)て、朝餉(あさがれひ)の供御(ぐご)を止(やめ)られて、飢人窮民(きにんきゆうみん)の施行(せぎやう)に引(ひか)れけるこそ難有けれ。是(これ)も猶万民(ばんみん)の飢(うゑ)を助くべきに非ずとて、検非違使(けびゐし)の別当に仰(おほせ)て、当時富祐(ふいう)の輩(ともがら)が、利倍(りばい)の為に畜積(たくはへつめ)る米穀(べいこく)を点検(てんけん)して、二条町(にでうまち)に仮屋(かりや)を建(たて)られ、検使(けんし)自(みづから)断(ことわつ)て、直(あたひ)を定(さだめ)て売(うら)せらる。されば商買(しやうばい)共(とも)に利を得て、人皆九年(きうねん)の畜(たくはへ)有(ある)が如し。訴訟の人出来(しゆつたい)の時、若(もし)下情(しものじやう)上(かみ)に達(たつ)せざる事もやあらんとて、記録所(きろくところ)へ出御(しゆつぎよ)成(なつ)て、直(ぢき)に訴(うつたへ)を聞召明(きこしめしあきら)め、理非(りひ)を決断(けつだん)せられしかば、虞■(ぐぜい)の訴(うつたへ)忽(たちまち)に停(とどまつ)て、刑鞭(けいべん)も朽(くち)はて、諌鼓(かんこ)も撃(うつ)人無(なか)りけり。誠に理世安民(りせいあんみん)の政(まつりごと)、若(もし)機巧(きかう)に付(つい)て是(これ)を見(みれ)ば、命世(めいせい)亜聖(あせい)の才とも称じつべし。惟(ただ)恨(うらむ)らくは斉桓(せいかん)覇(は)を行(おこなひ)、楚人(そひと)弓を遺(わすれ)しに、叡慮少(すこし)き似たる事を。是(これ)則(すなはち)所以草創雖合一天守文不越三載也。
○立后(りつこうの)事付三位殿御局(さんみどのおんつぼねの)事 S0103
文保(ぶんぼう)二年八月三日、後西園寺大政大臣(のちのさいをんじのだいじやうだいじん)実兼公(さねかぬこう)の御女(おんむすめ)、后妃(こうひ)の位(くらゐ)に備(そなはつ)て、弘徽殿(こうきでん)に入(いら)せ給ふ。此家(このいへ)に女御(にようご)を立(たて)られたる事已(すで)に五代、是(これ)も承久以後、相摸守代々(だいだい)西園寺の家を尊崇(そんそう)せしかば、一家の繁昌恰(あたかも)天下の耳目(じぼく)を驚(おどろか)せり。君も関東の聞へ可然と思食(おぼしめし)て、取分(とりわけ)立后(りつこう)の御沙汰も有(あり)けるにや。御齢(おんよはひ)已に二八(じはち)にして、金鶏障(きんけいしやう)の下(もと)に傅(かしづか)れて、玉楼殿(ぎよくろうでん)の内に入給(いりたま)へば、夭桃(えうたう)の春を傷(いため)る粧(よそほ)ひ、垂柳(すゐりう)の風を含(ふくめ)る御形(おんかたち)、毛■(まうしやう)・西施(せいし)も面(おもて)を恥(はぢ)、絳樹(がうじゆ)・青琴(せいきん)も鏡を掩(おほ)ふ程なれば、君の御覚(おんおぼえ)も定(さだめ)て類(たぐひ)あらじと覚へしに、君恩(くんおん)葉(は)よりも薄かりしかば、一生(いつしやう)空(むなし)く玉顔(ぎよくがん)に近(ちかづ)かせ給はず。深宮(しんきゆう)の中(うち)に向(むかつ)て、春の日の暮難(くれかた)き事を歎き、秋の夜(よ)の長恨(ながきうらみ)に沈ませ給ふ。金屋(きんをく)に人無(なう)して、皎々(かうかう)たる残燈(のこんのともしび)の壁(かべ)に背ける影、薫篭(くんろう)に香(か)消(きえ)て、蕭々(せうせう)たる暗雨(よるのあめ)の窓を打声(うつこゑ)、物毎(ごと)に皆御泪(おんなみだ)を添(そふ)る媒(なかだち)と成れり。「人生勿作婦人身、百年苦楽因他人。」と、白楽天が書(かき)たりしも、理(ことわり)也と覚(おぼえ)たり。其比(そのころ)安野(あのの)中将(ちゆうじやう)公廉(きんかど)の女(むすめ)に、三位殿(さんみどの)の局(つぼね)と申(まうし)ける女房(にようばう)、中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)に候(さぶらは)れけるを、君(きみ)一度(ひとたび)御覧(ごらん)ぜられて、他に異(こと)なる御覚(おんおぼえ)あり。三千の寵愛(ちようあい)一身(いつしん)に在(あり)しかば、六宮(りくきゆう)の粉黛(ふんたい)は、顔色無(がんしよくなき)が如(ごとく)也。都(すべ)て三夫人(さんふじん)・九嬪(きうひん)・二十七(の)世婦(せいふ)・八十一(の)女御(にようご)・曁(および)後宮(こうきゆう)の美人・楽府(がふ)の妓女(ぎぢよ)と云へども、天子顧眄(こめん)の御心を付(つけ)られず。只殊艶尤態(しゆえんいうたい)の独(ひとり)能(よく)是(ぜ)を致(いたす)のみに非(あら)ず、蓋(けだ)し善巧便佞(ぜんかうべんねい)叡旨(えいし)に先(さきだつ)て、奇(き)を争(あらそひ)しかば、花(はな)の下(もと)の春の遊(あそび)、月の前(まへ)の秋の宴(えんにも)、駕(が)すれば輦(てぐるま)を共にし、幸(みゆき)すれば席(せき)を専(ほしいまま)にし給ふ。是(これ)より君王(くんわう)朝政(あさまつりごと)をし給はず。忽(たちまち)に准后(じゆごう)の宣旨(せんじ)を下(くだ)されしかば、人(ひと)皆(みな)皇后元妃(げんひ)の思(おもひ)をなせり。驚(おどろき)見る、光彩(くわうさい)の始(はじめ)て門戸(もんこ)に生(な)ることを。此(この)時天の人、男(なん)を生(う)む事を軽(かろん)じて、女(ぢよ)を生む事を重(おもん)ぜり。されば御前(おんまへ)の評定(ひやうぢやう)、雑訴(ざつそ)の御沙汰までも、准后(じゆごう)の御口入(ごこうじゆ)とだに云(いひ)てげれば、上卿(しやうきやう)も忠なきに賞(しやう)を与(あたへ)、奉行(ぶぎやう)も理(り)有(ある)を非(ひ)とせり。関雎(くわんしよ)は楽而(たのしんで)不淫、哀而(かなしんで)不傷。詩人採(とつ)て后妃(こうひ)の徳とす。奈何(いかん)かせん、傾城傾国(けいせいけいこく)の乱(らん)今に有(あり)ぬと覚(おぼえ)て、浅増(あさまし)かりし事共(ども)也。
○儲王(ちよわうの)御事(おんこと) S0104
螽斯(しゆうし)の化(くわ)行(おこなは)れて、皇后元妃(げんひ)の外(ほか)、君恩に誇る官女(くわんぢよ)、甚(はなはだ)多かりければ、宮々(みやみや)次第に御誕生(ごたんじやう)有(あつ)て、十六人までぞ御座(おはしま)しける。中(なか)にも第一(だいいちの)宮尊良親王(そんりやうしんわう)は、御子左(みこひだりの)大納言為世(ためよの)卿(きやうの)女(むすめ)、贈従三位(ぞうじゆざんみ)為子(ためこ)の御腹(おんはら)にて御坐(おはせ)しを、吉田(よしだの)内大臣定房公(さだふさこう)養君(やうくん)にし奉(たてまつり)しかば、志学(しがく)の歳(とし)の始(はじめ)より、六義(りくぎ)の道(みち)に長じさせ給へり。されば富緒河(とみのをがは)の清き流(ながれ)を汲(くみ)、浅香山(あさかやま)の故(ふる)き跡を蹈(ふん)で、嘯風弄月(せうふうろうげつ)に御心(こころ)を傷(いたまし)め給ふ。第二(だいにの)宮も同御腹(おなじきおんはら)にてぞ御坐(おはしま)しける。総角(あげまき)の御時(おんとき)より妙法院の門跡(もんぜき)に御入室(ごにふしつ)有(あつ)て、釈氏(しやくし)の教(をしへ)を受(うけ)させ給ふ。是(これ)も瑜伽三密(ゆがさんみつ)の間(あひだ)には、歌道(かだう)数奇(すき)の御翫(おんもてあそび)有(あり)しかば、高祖大師(かうそだいし)の旧業(きうげふ)にも不恥、慈鎮和尚(じちんくわしやう)の風雅にも越(こえ)たり。第三(だいさんの)宮は民部卿(みんぶきやう)三位殿(さんみどの)の御腹(おんはら)也。御幼稚(ごえうち)の時より、利根聡明(りこんそうめい)に御坐(おは)せしかば、君(きみ)御位(おんくらゐ)をば此宮(このみや)に社(こそ)と思食(おぼしめ)したりしかども、御治世(ごぢせい)は大覚寺殿(だいかくじどの)と持明院殿(ぢみやうゐんどの)と、代々(かはるがはる)持(もた)せ給(たまふ)べしと、後嵯峨院(ごさがのゐん)の御時(おんとき)より被定しかば、今度(こんど)の春宮(とうぐう)をば持明院殿(ぢみやうゐんどのの)御方(おんかた)に立進(たてまゐら)せらる。天下(てんか)の事(こと)小大(なに)となく、関東の計(はからひ)として、叡慮にも任(まかせ)られざりしかば、御元服(げんぶく)の義を改(あらため)られ、梨本(なしもと)の門跡(もんぜき)に御入室(ごにふしつ)有(あつ)て、承鎮親王(じようちんしんわう)の御門弟(もんてい)と成(なら)せ給ひて、一(いつ)を聞(きい)て十(じふ)を悟(さと)る御器量(きりやう)、世に又類(たぐひ)も無(なか)りしかば、一実円頓(いちじつゑんどん)の花匂(はなのにほひ)を、荊渓(けいけい)の風に薫(くん)じ、三諦即是(さんたいそくぜ)の月の光を、玉泉(ぎよくせん)の流(ながれ)に浸(ひた)せり。されば消(きえ)なんとする法燈(ほつとう)を挑(かか)げ、絶(たえ)なんとする恵命(ゑみやう)を継(つが)んこと、只此門主(このもんしゆ)の御時(おんとき)なるべしと、一山(いつさん)掌(たなごころ)を合(あは)せて悦(よろこび)、九院(きうゐん)首(かうべ)を傾(かたぶけ)て仰(あふぎ)奉る。第四の宮も同(おなじき)御腹にてぞをはしける。是(これ)は聖護院二品親王(しやうごゐんにほんしんわう)の御附弟(ふてい)にてをはせしかば、法水(ほつすゐ)を三井(みゐ)の流(ながれ)に汲(くみ)、記■(きべつ)を慈尊(じそん)の暁(あかつき)に期(ご)し給ふ。此外(このほか)儲君(ちよくん)儲王の選(えらび)、竹苑椒庭(ちくゑんせうてい)の備(そなへ)、誠に王業(わうげふ)再興の運(うん)、福祚(ふくそ)長久(ちやうきうの)基(もとゐ)、時を得たりとぞ見へたりける。
○中宮御産(ちゆうぐうごさん)御祈(おんいのり)之事付俊基(としもと)偽(いつはつて)篭居(ろうきよの)事 S0105
元亨(げんかう)二年の春の比(ころ)より、中宮懐姙(くわいにん)の御祈(おんいのり)とて、諸寺(しよじ)・諸山(しよさん)の貴僧・高僧に仰(おほせ)て様々(さまざま)の大法(だいほふ)・秘法を行はせらる。中にも法勝寺(ほつしようじ)の円観上人(ゑんくわんしやうにん)、小野文観僧正(をののもんくわんそうじやう)二人は、別勅(べつちよく)を承(うけ)て、金闕(きんけつ)に壇を構(かまへ)、玉体(ぎよくたい)に近(ちかづ)き奉(たてまつつ)て、肝胆(かんたん)を砕(くだい)てぞ祈られける。仏眼(ぶつげん)、金輪(こんりん)、五壇(ごだん)の法・一宿(いつしゆく)五反孔雀経(ごへんくじやくきやう)・七仏薬師熾盛光(しちぶつやくししじやうくわう)・烏蒭沙摩(うすさま)、変成男子(へんじやうなんし)の法・五大虚空蔵(こくうざう)・六観音・六字訶臨(ろくじかりん)、訶利帝母(かりていも)・八字文殊(はちじもんじゆ)、普賢延命(ふげんえんみやう)、金剛童子(こんがうどうじ)の法、護摩(ごまの)煙は内苑(だいゑん)に満(みち)、振鈴(しんれい)の声(おと)は掖殿(えきでん)に響(ひびき)て、何(いか)なる悪魔怨霊(をんりやう)なりとも、障碍(しやうげ)を難成とぞ見へたりける。加様(かやう)に功を積(つみ)、日を重(かさね)て、御祈(おんいのり)の精誠(せいぜい)を尽(つく)されけれども、三年まで曾(かつ)て御産(ごさん)の御事(おんこと)は無(なか)りけり。後(のち)に子細(しさい)を尋(たづぬ)れば、関東調伏(てうぶく)の為に、事を中宮の御産(ごさん)に寄(よせ)て、加様(かやう)に秘法を修(しゆ)せられけると也。是(これ)程の重事(ちようじ)を思食立(おぼしめしたつ)事なれば、諸臣の異見をも窺(うかが)ひ度(たく)思召(おぼしめし)けれども、事多聞(たぶん)に及ばゝ、武家に漏れ聞(きこゆ)る事や有(あら)んと、憚(はばか)り思召(おぼしめさ)れける間(あひだ)、深慮智化(しんりよちくわ)の老臣、近侍(きんじ)の人々にも仰合(おほせあはせ)らるゝ事もなし。只日野(ひのの)中納言資朝(すけとも)・蔵人(くらうど)右少弁俊基(としもと)・四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・尹(ゐんの)大納言師賢(もろかた)・平(へい)宰相(さいしやう)成輔計(なりすけばかり)に、潛(ひそか)に仰合(おほせあはせ)られて、さりぬべき兵(つはもの)を召(めされ)けるに、錦織(にしこり)の判官代(はんぐわんだい)、足助(あすけの)次郎重成(しげなり)、南都北嶺(なんとほくれい)の衆徒(しゆと)、少々勅定(ちよくぢやう)に応じてげり。彼(かの)俊基は累葉(るゐえふ)の儒業を継(つい)で、才学(さいかく)優長成(なり)しかば、顕職(けんしよく)に召仕(めしつかは)れて、官蘭台(らんたい)に至り、職(しよく)々事(しきじ)を司(つかさど)れり。然る間出仕(しゆつし)事繁(ことしげう)して、籌策(ちうさく)に隙(ひま)無(なか)りければ、何(いか)にもして暫(しばらく)篭居して、謀叛(むほん)の計畧を回(めぐら)さんと思(おもひ)ける処に、山門横川(よかは)の衆徒(しゆと)、款状(くわじやう)を捧(ささげ)て、禁庭に訴(うつたふ)る事あり。俊基彼(かの)奏状を披(ひらい)て読申(よみまうさ)れけるが、読誤(よみあやま)りたる体(てい)にて、楞厳院(れうごんゐん)を慢厳院(まんごんゐん)とぞ読(よみ)たりける。座中の諸卿(しよきやう)是(これ)を聞(きい)て目を合(あはせ)て、「相(さう)の字をば、篇(へん)に付(つけ)ても作(つくり)に付(つけ)ても、もくとこそ読(よむ)べかりける。」と、掌(たなごころ)を拍(うつ)てぞ笑はれける。俊基大(おほき)に恥(はぢ)たる気色(きしよく)にて、面(おもて)を赤(あかめ)て退出す。夫(それ)より恥辱に逢(あひ)て、篭居すと披露(ひろう)して、半年計(ばかり)出仕を止(やめ)、山臥(やまぶし)の形に身を易(かへ)て、大和(やまと)・河内(かはち)に行(ゆい)て、城郭(じやうくわく)に成(なり)ぬべき処々を見置(みおきて)、東国(とうごく)・西国(さいこく)に下(くだつ)て、国の風俗、人(ひと)の分限(ぶんげん)をぞ窺(うかがひ)見られける。
○無礼講(ぶれいかうの)事付玄恵(げんゑ)文談(ぶんだんの)事 S0106
爰(ここ)に美濃国(みののくにの)住人、土岐伯耆(ときはうきの)十郎頼貞(よりさだ)・多治見(たぢみ)四郎次郎国長(くになが)と云(いふ)者あり。共に清和源氏(せいわげんじ)の後胤(こういん)として、武勇の聞へありければ、資朝卿様々(さまざま)の縁(えん)を尋(たづね)て、眤(むつ)び近(ちかづ)かれ、朋友の交(まじはり)已(すで)に浅からざりけれども、是(これ)程の一大事を無左右知(しら)せん事、如何(いかん)か有(ある)べからんと思はれければ、猶も能々(よくよく)其(その)心を窺(うかがひ)見ん為に、無礼講(ぶれいかう)と云(いふ)事をぞ始(はじめ)られける。其(その)人数(にんじゆ)には、尹(ゐんの)大納言師賢(もろたか)・四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・蔵人(くらうど)右少弁俊基(としもと)・伊達(だての)三位房(さんみばう)游雅(いうが)・聖護院庁(しやうごゐんちやう)の法眼(ほふげん)玄基(げんき)・足助(あすけの)次郎重成(しげなり)・多治見(たぢみ)四郎次郎国長(くになが)等也。其交会遊宴(そのかうぐわいいうえん)の体(てい)、見聞耳目(けんもんじぼく)を驚(おどろか)せり。献盃(けんはい)の次第、上下を云はず、男(をのこ)は烏帽子(ゑぼし)を脱(ぬい)で髻(もとどり)を放ち、法師は衣(ころも)を不着して白衣(びやくえ)になり、年十七八なる女(をんな)の、盻形(みめかたち)優(いう)に、膚(はだへ)殊に清らかなるをに十余人(じふよにん)、褊(すずし)の単(ひと)へ計(ばかり)を着せて、酌(しやく)を取(とら)せければ、雪の膚(はだへ)すき通(とほり)て、大液(たいえき)の芙蓉(ふよう)新(あらた)に水を出(いで)たるに異(こと)ならず。山海(さんかい)の珍物(ちんぶつ)を尽(つく)し、旨酒(ししゆ)泉(いづみ)の如くに湛(たたへ)て、遊戯舞(あそびたはぶれまひ)歌ふ。其間(そのあひだ)には只東夷(とうい)を可亡企(くはだて)の外(ほか)は他事(たじ)なし。其(その)事と無く、常に会交(くわいがう)せば、人の思咎(おもひとが)むる事もや有(あら)んとて、事を文談(ぶんだん)に寄(よせ)んが為に、其比(そのころ)才覚無双(さいかくぶさう)の聞へありける玄恵法印(げんゑほふいん)と云(いふ)文者(ぶんじや)を請(しやう)じて、昌黎文集(しやうれいぶんじふ)の談義(だんぎ)をぞ行(おこなは)せける。彼(かの)法印謀叛(むほん)の企(くはだて)とは夢にも不知、会合の日毎(ひごと)に、其(その)席に臨(のぞん)で玄(げん)を談じ理(り)を折(ひらく)。彼文集(かのぶんじふ)の中に、「昌黎赴潮州」と云(いふ)長篇有り。此処(このところ)に至(いたつ)て、談義を聞(きく)人々、「是(これ)皆不吉(ふきつ)の書(しよ)なりけり。呉子(ごし)・孫子・六韜(りくたう)・三略(さんりやく)なんど社(こそ)、可然当用(たうよう)の文(ぶん)なれ。」とて、昌黎文集の談義を止(やめ)てげり。此韓昌黎(このかんしやうれい)と申(まうす)は、晩唐(ばんたう)の季(すゑ)に出(いで)て、文才(ぶんさい)優長(いうちやう)の人なりけり。詩は杜子美(としみ)・李太白(りたいはく)に肩を双(なら)べ、文章は漢・魏(ぎ)・晋(しん)・宋の間(あひだ)に傑出せり。昌黎が猶子(いうし)韓湘(かんしやう)と云(いふ)者あり。是(これ)は文字をも嗜(たしなま)ず、詩篇にも携(たづさは)らず、只道士(たうじ)の術(じゆつ)を学(まなん)で、無為(ぶゐ)を業(げふ)とし、無事を事(こと)とす。或時(あるとき)昌黎韓湘に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「汝(なんぢ)天地の中(うち)に化生(くわせい)して、仁義の外(ほか)に逍遥(せうえう)す。是(これ)君子の恥(はづる)処、小人の専(もつぱら)とする処也。我(われ)常に汝が為に是(これ)を悲(かなし)むこと切(せつ)也。と教訓しければ、韓湘大(おほき)にあざ笑(わらう)て、「仁義は大道(たいだう)の廃(すたれ)たる処に出(いで)、学教(がつけう)は大偽(たいぎ)の起(おこる)時に盛(さかん)也。吾(われ)無為(ぶゐ)の境(さかひ)に優遊(いういう)して、是非(ぜひ)の外(ほか)に自得(じとく)す。されば真宰(しんさい)の臂(ひぢ)を掣(さい)て、壷中(こちゆう)に天地を蔵(かく)し、造化(ざうくわ)の工(たくみ)を奪(うばう)て、橘裡(きつり)に山川(さんせん)を峙(そばだ)つ。却(かへつ)て悲(かなしむ)らくは、公(こう)の只古人(こじん)の糟粕(さうはく)を甘(あまなつ)て、空(むなし)く一生(いつしやう)を区々(くく)の中(うち)に誤る事を。」と答(こたへ)ければ、昌黎重(かさねて)曰(いはく)、「汝が所言我(われ)未信(いまだしんぜず)、今則(すなはち)造化(ざうくわ)の工(たくみ)を奪(うばふ)事を得てんや。」と問(とふ)に、韓湘答(こたふる)事無(なく)して、前(まへ)に置(おい)たる瑠璃(るり)の盆を打覆(うちうつぶせ)て、軈(やが)て又引仰向(ひきあふの)けたるを見れば、忽(たちまち)に碧玉(へきぎよく)の牡丹(ぼたん)の花(はな)の嬋娟(せんげん)たる一枝(いつし)あり。昌黎(しやうれい)驚(おどろい)て是(これ)を見(みる)に、花(はなの)中に金字(きんじ)に書(かけ)る一聯(いちれん)の句有り。「雲横秦嶺家何在、雪擁藍関馬不前。云云。」昌黎不思儀の思(おもひ)を成して、是(これ)を読(よう)で一唱(いつしやう)三嘆(さんたん)するに、句の優美遠長(ゑんちやう)なる体製(ていせい)のみ有(あつ)て、其(その)趣向落着(らくぢやく)の所を難知。手に採(とつ)て是(これ)を見んとすれば、忽然(こつぜん)として消失(きえうせ)ぬ。是(これ)よりしてこそ、韓湘(かんしやうは)仙術(せんじゆつ)の道を得たりとは、天下の人に知られけれ。其後(そののち)昌黎仏法(ぶつぽふ)を破(やぶつ)て、儒教(じゆけう)を貴(たつとむ)べき由(よし)、奏状(そうじやう)を奉(たてまつり)ける咎(とが)に依(よつ)て、潮州(てうじう)へ流さる。日暮(くれ)馬泥(なづん)で前途(ぜんと)程(ほど)遠し。遥(はるか)に故郷(こきやう)の方(かた)を顧(かへりみれ)ば、秦嶺に雲横(よこたはつ)て、来(き)つらん方も不覚。悼(いたん)で万仞(ばんじん)の嶮(けはしき)に登らんとすれば、藍関に雪満(みち)て行(ゆく)べき末(すゑ)の路も無し。進退歩(ほ)を失(うしなう)て、頭(かうべ)を回(めぐら)す処に、何(いづく)より来(きた)れるともなく、韓湘悖然(ぼつぜん)として傍(かたはら)にあり。昌黎悦(よろこん)で馬より下(おり)、韓湘が袖を引(ひい)て、泪(なみだ)の中(うち)に申(まうし)けるは、「先年碧玉(へきぎよく)の花(はな)の中に見へたりし一聯(いちれん)の句は、汝我(われ)に予(あらかじめ)左遷(させん)の愁(うれへ)を告知(つげしら)せるなり。今又汝爰(ここ)に来れり。料(はか)り知(しん)ぬ、我(われ)遂(つひ)に謫居(だつきよ)に愁死(しうし)して、帰(かへる)事を得じと。再会期(ご)無(なく)して、遠別(ゑんべつ)今にあり。豈(あに)悲(かなしみ)に堪(たへ)んや。」とて、前(さき)の一聯(いちれん)に句(く)を続(つい)で、八句一首(いつしゆ)と成して、韓湘に与ふ。一封朝奏九重天。夕貶潮陽路八千。欲為聖明除弊事。豈将衰朽惜残年。雲横秦嶺家何在。雪擁藍関馬不前。知汝遠来須有意。好収吾骨瘴江辺。韓湘此(この)詩を袖に入(いれ)て、泣々(なくなく)東西(とうざい)に別(わかれ)にけり。誠(まことなる)哉(かな)、「痴人(ちにんの)面前(めんぜん)に不説夢」云(いふ)事を。此(この)談義を聞(きき)ける人々の忌思(いみおもひ)けるこそ愚(おろか)なれ。
○頼員(よりかず)回忠(かへりちゆうの)事 S0107
謀反人(むほんにん)の与党(よたう)、土岐(とき)左近蔵人(さこんくらうど)頼員(よりかず)は、六波羅(ろくはら)の奉行(ぶぎやう)斉藤太郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)利行(としゆき)が女(むすめ)と嫁(か)して、最愛(さいあい)したりけるが、世中(よのなか)已に乱(みだれ)て、合戦出来(いできた)りなば、千に一(ひとつ)も討死せずと云(いふ)事有(ある)まじと思(おもひ)ける間、兼(かね)て余波(なごり)や惜(をし)かりけん、或夜(あるよ)の寝覚(ねざめ)の物語に、「一樹(いちじゆ)の陰(かげ)に宿(やど)り、同流(おなじながれ)を汲(くむ)も、皆是(これ)多生(たしやう)の縁(えん)不浅、況(いはん)や相馴奉(あひなれたてまつつ)て已(すでに)三年(みとせ)に余(あま)れり。等閑(なほざり)ならぬ志(こころざし)の程をば、気色(けしき)に付け、折に触(ふれ)ても思(おもひ)知り給ふらん。去(さ)ても定(さだめ)なきは人間の習(ならひ)、相逢中(あひあふなか)の契(ちぎり)なれば、今若(もし)我(わが)身はかなく成(なり)ぬと聞(きき)給ふ事有(あら)ば、無(なか)らん跡(あと)までも貞女の心を失はで、我後世(わがごせ)を問(とひ)給へ。人間(にんげん)に帰らば、再び夫婦の契(ちぎり)を結び、浄土(じやうど)に生(うま)れば、同蓮(おなじはちす)の台(うてな)に半座(はんざ)を分(わけ)て待(まつ)べし。」と、其(その)事と無くかきくどき、泪(なみだ)を流(ながし)てぞ申(まうし)ける。女つく/゛\と聞(きい)て、「怪(あやし)や何事(なにごと)の侍(はんべる)ぞや。明日(あす)までの契(ちぎり)の程も知らぬ世に、後世(ごせ)までの荒増(あらまし)は、忘(わすれ)んとての情(なさけ)にてこそ侍(はんべ)らめ。さらでは、かゝるべしとも覚(おぼえ)ず。」と、泣恨(なきうらみ)て問(とひ)ければ、男(をとこ)は心(こころ)浅(あさう)して、「さればよ、我(われ)不慮(ふりよ)の勅命を蒙(かうむつ)て、君に憑(たのま)れ奉る間、辞するに道無(なく)して、御謀反(ごむほん)に与(くみ)しぬる間、千に一(ひとつ)も命(いのち)の生(いき)んずる事難(かた)し。無端存(ぞんず)る程に、近づく別(わかれ)の悲(かなし)さに、兼(かねて)加様(かやう)に申(まうす)也。此(この)事穴(あな)賢(かしこ)人に知(しら)させ給ふな。」と、能々(よくよく)口をぞ堅めける。彼女性(かのによしやう)心の賢き者也ければ、夙(つと)にをきて、つく/゛\と此(この)事を思ふに、君の御謀叛(ごむほん)事(こと)ならずば、憑(たのみ)たる男(をとこ)忽(たちまち)に誅せらるべし。若(もし)又武家亡(ほろび)なば、我(わが)親類誰かは一人も残るべき。さらば是(これ)を父利行(としゆき)に語(かたつ)て、左近蔵人(さこんくらうど)を回忠(かへりちゆう)の者に成し、是(これ)をも助け、親類をも扶(たす)けばやと思(おもう)て、急ぎ父が許(もと)に行(ゆき)、忍(しのび)やかに此(この)事を有(あり)の侭(まま)にぞ語りける。斉藤大(おほき)に驚き、軈(やが)て左近蔵人を呼寄(よびよ)せ、「卦(かか)る不思議を承(うけたまは)る、誠にて候やらん。今の世に加様(かやう)の事、思企(おもひくはだて)給はんは、偏(ひとへ)に石(いし)を抱(いだい)て淵(ふち)に入(い)る者にて候べし。若(もし)他人の口より漏(もれ)なば、我等に至(いたる)まで皆誅せらるべきにて候へば、利行急(いそぎ)御辺(ごへん)の告知(つげしら)せたる由を、六波羅殿(ろくはらどの)に申(まうし)て、共に其咎(そのとが)を遁(のがれ)んと思ふは、何(いかん)か計(はからひ)給ふぞ。」と、問(とひ)ければ、是(これ)程の一大事を、女性(によしやう)に知らする程の心にて、なじかは仰天(ぎやうてん)せざるべき、「此(この)事は同名(どうみやう)頼貞(よりさだ)・多治見(たぢみ)四郎二郎が勧(すすめ)に依(よつ)て、同意仕(つかまつり)て候。只兎(と)も角(かく)も、身の咎(とが)を助(たすか)る様(やう)に御計(はからひ)候へ。」とぞ申(まうし)ける。夜(よ)未明(いまだあけざる)に、斉藤急ぎ六波羅(ろくはら)へ参(さんじ)て、事の子細(しさい)を委(くはし)く告げ申(まうし)ければ、則(すなはち)時(とき)をかへず鎌倉へ早馬(はやむま)を立て、京中(きやうぢゆう)・洛外(らくぐわい)の武士(ぶし)どもを六波羅(ろくはら)へ召集(めしあつめ)て、先(まづ)着到(ちやくたう)をぞ付(つけ)られける。其比(そのころ)摂津国(つのくに)葛葉(くずは)と云(いふ)処に、地下人(ぢげにん)代官(だいくわん)を背(そむき)て合戦(かつせん)に及(およぶ)事あり。彼本所(かのほんじよ)の雑掌(ざつしやう)を、六波羅(ろくはら)の沙汰(さた)として、庄家(しやうけ)にしすへん為に、四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)、並(ならびに)在京人(ざいきやうにん)を催さるゝ由を被披露。是(これ)は謀叛の輩(ともがら)を落さじが為の謀(はかりごと)也。土岐(とき)も多治見も、吾(わが)身の上とは思(おもひ)も寄らず、明日(みやうにち)は葛葉へ向ふべき用意して、皆己(おのれ)が宿所(しゆくしよ)にぞ居たりける。去程(さるほど)に、明(あく)れば元徳(げんとく)元年九月十九日の卯刻(うのこく)に、軍勢雲霞(うんか)の如(ごとく)に六波羅(ろくはら)へ馳(はせ)参る。小串(こぐし)三郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)範行(のりゆき)・山本九郎時綱(ときつな)、御紋(ごもん)の旗を給(たまはり)て、打手(うつて)の大将を承(うけたまはつ)て、六条河原(かはら)へ打出(ぶちいで)、三千余騎を二手(ふたて)に分(わけ)て、多治見が宿所(しゆくしよ)錦小路高倉(にしきのこうぢたかくら)、土岐(とき)十郎が宿所、三条堀河(ほりかわ)へ寄(よせ)けるが、時綱かくては如何様(いかさま)大事(だいじ)の敵(てき)を打漏(うちもらし)ぬと思(おもひ)けるにや、大勢(おほぜい)をば態(わざ)と三条河原(かはら)に留(とどめ)て、時綱只一騎、中間(ちゆうげん)二人に長刀(なぎなた)持(もた)せて、忍(しのび)やかに土岐が宿所へ馳(はせ)て行き、門前(もんぜん)に馬をば乗捨(のりすて)て、小門(こもん)より内へつと入(いつ)て、中門(ちゆうもん)の方(かた)を見れば、宿直(とのゐ)しける者よと覚(おぼえ)て、物具(もののぐ)・太刀(たち)・々(かたな)、枕に取散(とりちら)し、高鼾(たかいびき)かきて寝入(ねいり)たり。廐(むやま)の後(うしろ)を回(まはつ)て、何(いづく)にか匿地(くけち)の有(ある)と見れば、後(うしろ)は皆築地(ついぢ)にて、門(もん)より外(ほか)は路も無し。さては心安(こころやす)しと思(おもう)て、客殿(きやくでん)の奥なる二間(ふたま)を颯(さつ)と引(ひき)あけたれば、土岐十郎只今起(おき)あがりたりと覚(おぼえ)て、鬢髪(びんのかみ)を撫揚(なであげ)て結(ゆひ)けるが、山本九郎を屹(きつ)と見て、「心得(こころえ)たり。」と云侭(いふまま)に、立(たて)たる大刀(たち)を取(とり)、傍(そば)なる障子(しやうじ)を一間(ひとま)蹈破(ふみやぶ)り、六間(むま)の客殿(きやくでん)へ跳出(をどりいで)、天井(てんじやう)に大刀(たち)を打付(うちつけ)じと、払切(はらひぎり)にぞ切(きつ)たりける。時綱は態(わざと)敵を広庭(ひろには)へ帯出(おびきいだ)し、透間(すきま)も有らば生虜(いけどら)んと志(こころざし)て、打払(うちはらひ)ては退(しりぞき)、打流(うちなが)しては飛(とび)のき、人交(ひとまぜ)もせず戦(たたかう)て、後(うしろ)を屹(きつ)と見たれば、後陣(ごぢん)の大勢(おほぜい)二千余騎、二(に)の関(きど)よりこみ入(いつ)て、同音(どうおん)に時(とき)を作る。土岐十郎久(ひさし)く戦(たたかう)ては、中々(なかなか)生捕(いけどら)れんとや思(おもひ)けん、本(もと)の寝所(ねどころ)へ走帰(はしりかへつ)て、腹(はら)十文字(もんじ)にかき切(きつ)て、北枕(きたまくら)にこそ臥(ふし)たりけれ。中間(なかのま)に寝たりける若党(わかたう)どもゝ、思々(おもひおもひ)に討死(うちじに)して、遁(のが)るゝ者一人も無(なか)りけり。首(くび)を取(とつ)て鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て、山本九郎は是(これ)より六波羅(ろくはら)へ馳参(はせまゐ)る。多治見が宿所へは、小串(こぐし)三郎左衛門範行(のりゆき)を先(さき)として、三千余騎にて推寄(おしよせ)たり。多治見は終夜(よもすがら)の酒に飲酔(のみゑひ)て、前後(ぜんご)も不知臥(ふし)たりけるが、時(とき)の声に驚(おどろい)て、是(これ)は何事ぞと周障(あわて)騒ぐ。傍(そば)に臥(ふし)たる遊君(いうくん)、物馴(ものなれ)たる女(をんな)也ければ、枕なる鎧(よろひ)取(とつ)て打着(うちき)せ、上帯(うはおび)強く縮(しめ)させて、猶寝入(ねいり)たる者どもをぞ起しける。小笠原孫六(をがさはらまごろく)、傾城(けいせい)に驚(おどろか)されて、太刀計(ばかり)を取(とつ)て、中門(ちゆうもん)に走出(はしりい)で、目を磨々(すりすり)四方(しはう)を岐(きつ)と見ければ、車の輪(わ)の旗一流(ひとながれ)、築地(ついぢ)の上(うへ)より見へたり。孫六内へ入(いつ)て、「六波羅(ろくはら)より打手(うつて)の向(むかう)て候(さふらひ)ける。此間(このあひだ)の御謀反(ごむほん)早(はや)顕(あらはれ)たりと覚(おぼえ)候。早(はや)面々(めんめん)太刀の目貫(めぬき)の堪(こら)ゑん程は切合(きりあう)て、腹を切れ。」と呼(よばはつ)て、腹巻(はらまき)取(とつ)て肩になげかけ、廾四差(さい)たる胡■(えびら)と、繁藤(しげどう)の弓とを提(ひつさげ)て、門(もん)の上なる櫓(やぐら)へ走上(はしりあが)り、中差(なかざし)取(とつ)て打番(うちつが)ひ、狭間(さま)の板(いた)八文字(もんじ)に排(ひらい)て、「あらこと/゛\しの大勢(おほぜい)や。我等が手柄のほどこそ顕(あらはれ)たれ。抑(そもそも)討手(うつて)の大将は誰(たれ)と申(まうす)人の向(むかは)れて候やらん。近付(ちかづい)て箭(や)一(ひとつ)請(うけ)て御覧候へ。」と云侭(いふまま)に、十二束三伏(じふにそくみつぶせ)、忘るゝ計(ばかり)引(ひき)しぼりて、切(きつ)て放つ。真前(まつさき)に進(すすん)だる狩野下野前司(かののしもづけのぜんじ)が若党に、衣摺(きぬずりの)助房(すけふさ)が胄(かぶと)のまつかう、鉢付(はちつけ)の板(いた)まで、矢先(やさき)白く射通(いとほ)して、馬より倒(さかさま)に射落(いおと)す。是(これ)を始(はじめ)として、鎧(よろひ)の袖・草摺(くさずり)・胄鉢(かぶとのはち)とも不言、指詰(さしつめ)て思様(おもふさま)に射けるに、面(おもて)に立(たつ)たる兵(つはもの)廾四人、矢の下(した)に射て落す。今一筋(ひとすぢ)胡■(えびら)に残(のこり)たる矢を抜(ぬい)て、胡■(えびら)をば櫓の下(した)へからりと投落(なげおと)し、「此(この)矢一(ひとつ)をば冥途(めいど)の旅の用心に持(もつ)べし。」と云(いつ)て腰にさし、「日本一(につぽんいち)の剛者(がうのもの)、謀叛に与(くみ)し自害(じがい)する有様見置(おい)て人に語れ。」と高声(かうじやう)に呼(よばはつ)て、太刀の鋒(きつさき)を口に呀(くはへ)て、櫓より倒(さかさま)に飛落(とびおち)て、貫(つらぬかれ)てこそ死(し)にけれ。此間(このあひだ)に多治見を始(はじめ)として、一族若党廾余人物具(もののぐ)ひし/\と堅め、大庭(おほには)に跳出(をどりい)で、門(もん)の関(くわん)の木(き)差(さし)て待懸(まちかけ)たり。寄手(よせて)雲霞(うんか)の如しと云へども、思切(おもひきつ)たる者どもが、死狂(しにぐるひ)をせんと引篭(ひつこもつ)たるがこはさに、内へ切(きつ)て入(いら)んとする者も無(なか)りける処に、伊藤彦次郎(ひこじらう)父子兄弟(ふしきやうだい)四人(よつたり)、門の扉(とびら)の少し破(やぶれ)たる処より、這(はう)て内へぞ入(いり)たりける。志の程は武(たけ)けれども、待請(まちうけ)たる敵(てき)の中へ、這(はう)て入(いつ)たる事なれば、敵に打違(うちちがふ)るまでも無(なく)て、皆門(もん)の脇(わき)にて討(うた)れにけり。寄手(よせて)是(これ)を見て、弥(いよいよ)近(ちかづ)く者も無(なか)りける間(あひだ)、内より門(もん)の扉(とびら)を推開(おしひらい)て、「討手(うつて)を承(うけたまは)るほどの人達の、きたなうも見へられ候者哉(かな)。早(はや)是(これ)へ御入(いり)候へ。我等(われら)が頭共(くびども)引出物(ひきでもの)に進(まゐら)せん。」と、恥(はぢ)しめてこそ立(たち)たりけれ。寄手共(よせてども)敵にあくまで欺(あざむか)れて、先陣(せんぢん)五百余人(ごひやくよにん)馬を乗放(のりはな)して、歩立(かちだち)に成(なり)、喚(をめい)て庭へこみ入(いる)。楯篭(たてこも)る所の兵(つはもの)ども、とても遁(のがれ)じと思切(おもひきつ)たる事なれば、何(いづく)へか一足(ひとあし)も引(ひく)べき。二十余人(にじふよにん)の者ども、大勢(おほぜい)の中へ乱入(みだれいつ)て、面(おもて)もふらず切(きつ)て廻(まは)る。先駈(さきがけ)の寄手(よせて)五百余人(ごひやくよにん)、散々(さんざん)に切立(きりたて)られて、門(もん)より外(ほか)へ颯(さつ)と引く。されども寄手は大勢(おほぜい)なれば、先陣引けば二陣喚(をめい)て懸入(かけいる)。々々(かけいれ)ば追出(おひいだし)、々々(おひいだ)せば懸入(かけい)り、辰刻(たつのこく)の始(はじめ)より午刻(うまのこく)の終(をはり)まで、火出(いづ)る程こそ戦(たたかひ)けれ。加様(かやう)に大手(おほて)の軍(いくさ)強(つよ)ければ、佐々木判官(はうぐわん)が手者(てのもの)千余人、後(うしろ)へ廻(まはつ)て錦小路(にしきのこうぢ)より、在家(ざいけ)を打破(うちやぶつ)て乱入(みだれい)る。多治見今は是(これ)までとや思(おもひ)けん、中門(ちゆうもん)に並居(なみゐ)て、二十二人の者ども、互に差違(さしちがへ)々々、算(さん)を散(ちら)せる如く臥(ふし)たりける。追手(おふて)の寄手共(よせてども)が、門(もん)を破(やぶ)りける其間(そのあひだ)に、搦手(からめで)の勢共(せいども)乱入(みだれい)り、首(くび)を取(とつ)て六波羅(ろくはら)へ馳(はせ)帰る。二時計(ふたときばかり)の合戦に、手負死人(ておひしにん)を数(かぞふ)るに、二百七十三人也。
○資朝俊基(すけともとしもと)関東下向(げかうの)事付御告文(ごかうぶんの)事 S0108
土岐(とき)・多治見(たぢみ)討(うた)れて後(のち)、君の御謀叛(ごむほん)次第に隠(かく)れ無(なか)りければ、東使(とうし)長崎四郎左衛門泰光(やすみつ)、南条(なんでうの)次郎左衛門宗直(むねなほ)二人(ににん)上洛(しやうらく)して、五月十日資朝・俊基両人(りやうにん)を召取(めしとり)奉る。土岐が討(うた)れし時、生虜(いけどり)の者一人も無(なか)りしかば、白状(はくじやう)はよも有らじ、さりとも我等が事は顕(あらは)れじと、無墓憑(たのみ)に油断して、曾(かつ)て其(その)用意も無(なか)りければ、妻子(さいし)東西(とうざい)に逃迷(にげまよ)ひて、身を隠さんとするに処なく、財宝(ざいはう)は大路(おほち)に引散(ひきちら)されて、馬蹄(ばてい)の塵(ちり)と成(なり)にけり。彼(かの)資朝卿(すけとものきやう)は日野(ひの)の一門にて、職(しよく)大理(だいり)を経(へ)、官(くわんは)中納言に至りしかば、君の御覚(おんおぼ)へも他に異(ことに)して、家の繁昌時(とき)を得たりき。俊基朝臣(あそん)は身(み)儒雅(じゆが)の下(もと)より出(い)で、望(のぞみ)勲業(くんげふ)の上(うへ)に達(たつ)せしかば、同官(どうくわん)も肥馬(ひば)の塵を望み、長者(ちやうじや)も残盃(ざんばい)の冷(れい)に随ふ。宜(むべなる)哉(かな)「不義而富且貴、於我如浮雲。」と云へる事。是(これ)孔子の善言(ぜんげん)、魯論(ろろん)に記(き)する処なれば、なじかは違(たがふ)べき。夢の中に楽(たのしみ)尽(つき)て、眼前(がんぜん)の悲(かなしみ)云(ここ)に来れり。彼(かれ)を見是(これ)を聞(きき)ける人毎(ごと)に、盛者必衰(しやうじやひつすゐ)の理(り)を知らでも、袖をしぼりゑず。同(おなじき)二十七日、東使(とうし)両人(りやうにん)、資朝・俊基を具足(ぐそく)し奉(たてまつつ)て、鎌倉へ下着(げちやく)す。此(この)人々は殊更謀叛(むほん)の張本(ちやうほん)なれば、軈(やが)て誅せられぬと覚(おぼえ)しかども、倶(とも)に朝廷の近臣として、才覚(さいかく)優長の人たりしかば、世の譏(そし)り君の御憤(いきどほり)を憚(はばかつ)て、嗷問(がうもん)の沙汰にも不及、只尋常(よのつね)の放召人(はなしめしうど)の如(ごとく)にて、侍所(さぶらひどころ)にぞ預置(あづけおか)れける。七月七日、今夜(こんや)は牽牛(けんぎう)・織女(しよくぢよ)の二星(じせい)、烏鵲橋(うじやくのはし)を渡して、一年の懐抱(くわいばう)を解(とく)夜(よ)なれば、宮人(きゆうじん)の風俗(ならはし)、竹竿(ちくかん)に願糸(ねがひのいと)を懸(か)け、庭前(ていぜん)に嘉菓(かくわ)を列(つらね)て、乞巧奠(きつかうでん)を修(しゆす)る夜(よ)なれ共(ども)、世上(せじやう)騒(さわが)しき時節(をりふし)なれば、詩歌(しいか)を奉る騒人(さうじん)も無く、絃管(げんくわん)を調(しらぶ)る伶倫(れいりん)もなし。適(たまたま)上臥(うへぶし)したる月卿雲客(げつけいうんかく)も、何(なに)と無く世中(よのなか)の乱(みだれ)、又誰身上(たがみのうへ)にか来(きたら)んずらんと、魂(たましひ)を消し肝(きも)を冷(ひや)す時分(をりふし)なれば、皆眉を顰(ひそ)め面(おもて)を低(たれ)てぞ候(さふらひ)ける。夜痛(いたく)深(ふけ)て、「誰か候。」と召(めさ)れければ、「吉田(よしだの)中納言冬房(ふゆふさ)候。」とて御前(おんまへ)に候(こう)す。主上席(せき)を近(ちかづけ)て仰(おほせ)有(あり)けるは、「資朝・俊基が囚(とらは)れし後(のち)、東風(とうふう)猶未静(いまだしづかならず)、中夏(ちゆうか)常に危(あやふき)を蹈(ふ)む。此(この)上に又何(いか)なる沙汰をか致(いたさ)んずらんと、叡慮更に不穏。如何(いかん)して先(まづ)東夷(とうい)を定(しづむ)べき謀(はかりごと)有(あら)ん。」と、勅問(ちよくもん)有(あり)ければ、冬房謹(つつしん)で申(まうし)けるは、「資朝・俊基が白状(はくじやう)有りとも承(うけたまはり)候はねば、武臣此(この)上の沙汰には及ばじと存(ぞんじ)候へども、近日(このごろ)東夷(とうい)の行事(ふるまひ)、楚忽(そこつ)の義(ぎ)多(おほく)候へば、御油断(ごゆだん)有(ある)まじきにて候。先(まづ)告文(かうぶん)一紙(いつし)を下(くだ)されて、相摸入道(さがみにふだう)が忿(いかり)を静め候(さふらは)ばや。」と申されければ、主上げにもとや思食(おぼしめさ)れけん、「さらば軈(やが)て冬房書(かけ)。」と仰(おほせ)有(あり)ければ、則(すなはち)御前(おんまへ)にして草案(さうあん)をして、是(これ)を奏覧(そうらん)す。君且(しばらく)叡覧有(あつ)て、御泪(おんなみだ)の告文(かうぶん)にはら/\とかゝりけるを、御袖にて押拭(おしのご)はせ給へば、御前(おんまへ)に候(さふらひ)ける老臣、皆悲啼(ひてい)を含まぬは無(なか)りけり。頓(やが)て万里小路(までのこうぢ)大納言宣房卿(のぶふさのきやう)を勅使として、此告文(このかうぶん)を関東へ下さる。相摸入道、秋田城介(あいたのじやうのすけ)を以て告文(かうぶん)を請取(うけとつ)て、則(すなはち)披見(ひけん)せんとしけるを、二階堂(にかいだうの)出羽(ではの)入道々蘊(だううん)、堅く諌めて申(まうし)けるは、「天子武臣に対して直(ぢき)に告文(かうぶん)を被下たる事、異国にも我(わが)朝にも未(いまだ)其(その)例を承(うけたまはら)ず。然(しかる)を等閑(なほざり)に披見せられん事、冥見(みやうけん)に付(つい)て其恐(そのおそれ)あり。只文箱(ふんばこ)を啓(ひらか)ずして、勅使に返進(かへしまゐら)せらるべきか。」と、再往(さいわう)申(まうし)けるを、相摸入道、「何(なに)か苦しかるべき。」とて、斉藤太郎左衛門利行(としゆき)に読進(よみまゐら)せさせられけるに、「叡心不偽処任天照覧。」被遊たる処を読(よみ)ける時に、利行俄(にはか)に眩(めくるめき)衄(はなぢ)たりければ、読(よみ)はてずして退出(たいしゆつ)す。其(その)日より喉下(のどのした)に悪瘡(あくさう)出(いで)て、七日(なぬか)が中(うち)に血を吐(はい)て死(し)にけり。時(とき)澆季(げうき)に及(およん)で、道(みち)塗炭(どたん)に落(おち)ぬと云(いへ)ども、君臣(くんしん)上下の礼違(たがふ)則(とき)は、さすが仏神(ぶつじん)の罰も有(あり)けりと、是(これ)を聞(きき)ける人毎(ごと)に、懼恐(おぢおそれ)ぬは無(なか)りけり。「何様(なにさま)資朝・俊基の隠謀(いんぼう)、叡慮より出(いで)し事なれば、縦(たとひ)告文(かうぶん)を下されたりと云(いへ)ども、其(それ)に依るべからず。主上をば遠国(をんごく)へ遷(うつ)し奉(たてまつる)べし。」と、初(はじめ)は評定(ひやうぢやう)一決(いつけつ)してけれども、勅使宣房卿(のぶふさのきやう)の被申趣(おもむき)げにもと覚(おぼゆ)る上、告文(かうぶん)読(よみ)たりし利行、俄に血を吐(はい)て死(しに)たりけるに、諸人(しよにん)皆舌を巻き、口を閉づ。相摸入道(さがみにふだう)も、さすが天慮其憚(そのはばかり)有りけるにや、「御治世(ごぢせい)の御事(おんこと)は朝議(てうぎ)に任(まか)せ奉る上は、武家綺(いろ)ひ申(まうす)べきに非(あら)ず。」と、勅答を申(まうし)て、告文(かうぶん)を返進(へんしん)せらる。宣房卿(のぶふさのきやう)則(すなはち)帰洛(きらく)して、此(この)由を奏し申(まうさ)れけるにこそ、宸襟(しんきん)始(はじめ)て解(とけ)て、群臣(ぐんしん)色をば直(なほ)されけれ。去程(さるほど)に俊基朝臣は罪の疑(うたがは)しきを軽(かろん)じて赦免(しやめん)せられ、資朝卿(すけとものきやう)は死罪(しざい)一等を宥(なだ)められて、佐渡国(さどのくに)へぞ流されける。