太平記(国民文庫)


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『太平記 全』(国民文庫刊行会) (流布版本) 翻刻

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2001.06.07 荒山

太平記 目録(国民文庫)

太平記 序

巻第一
後醍醐天皇御治世事付武家繁昌事
関所停止事
立后事付三位殿御局事
儲王御事
中宮御産御祈事付俊基偽篭居事
無礼講事付玄慧文談事
頼員回忠事
資朝俊基関東下向事付御告文事

巻第二
南都北嶺行幸事
僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事
三人僧徒関東下向事
俊基朝臣再関東下向事
長崎新左衛門尉意見事付阿新殿事
俊基被誅事並助光事
天下怪異事
師賢登山事付唐崎浜合戦事
持明院殿御幸六波羅事
主上臨幸依非実事山門変儀事付紀信事

巻第三
主上御夢事付楠事
笠置軍事付陶山小見山夜討事
主上御没落笠置事
赤坂城軍事
桜山四郎入道自害事

巻第四
笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事
八歳宮御歌事
一宮並妙法院二品親王御事
俊明極参内事
中宮御歎事
先帝遷幸事
備後三郎高徳事付呉越軍事

巻第五
持明院殿御即位事
宣房卿二君奉公事
中堂新常燈消事
相摸入道弄田楽並闘犬事
時政参篭榎島事
大塔宮熊野落事

巻第六
民部卿三位局御夢想事
楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事
正成天王寺未来記披見事
赤松入道円心賜大塔宮令旨事
関東大勢上洛事
赤坂合戦事付人見本間抜懸事

巻第七
吉野城軍事
千剣破城軍事
新田義貞賜綸旨事
赤松蜂起事
河野謀叛事
先帝船上臨幸事
船上合戦事

巻第八
摩耶合戦事付酒部瀬河合戦事
三月十二日合戦事
持明院殿行幸六波羅事
禁裡仙洞御修法事付山崎合戦事
山徒寄京都事
四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事
主上自令修金輪法給事付千種殿京合戦事
谷堂炎上事

巻第九
足利殿御上洛事
山崎攻事付久我畷合戦事
足利殿打越大江山事
足利殿着御篠村則国人馳参事
高氏被篭願書於篠村八幡宮事
六波羅攻事
主上々皇御沈落事
越後守仲時已下自害事
主上々皇為五宮被囚給事付資名卿出家事
千葉屋城寄手敗北事

巻第十
千寿王殿被落大蔵谷事
新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事
三浦大多和合戦意見事
鎌倉合戦事
赤橋相摸守自害事付本間自害事
稲村崎成干潟事
鎌倉兵火事付長崎父子武勇事
大仏貞直並金沢貞将討死事
信忍自害事
塩田父子自害事
塩飽入道自害事
安東入道自害事付漢王陵事
亀寿殿令落信濃事付左近大夫偽落奥州事
長崎高重期合戦事
高時並一門以下於東勝寺自害事

巻第十一
五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事
諸将被進早馬於船上事
書写山行幸事付新田注進事
正成参兵庫事付還幸事
筑紫合戦事
長門探題降参事
越前牛原地頭自害事
越中守護自害事付怨霊事
金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事

巻第十二
公家一統政道事
大内裏造営事付聖廟御事
安鎮国家法事付諸大将恩賞事
千種殿並文観僧正奢侈事付解脱上人事
広有射怪鳥事
神泉苑事
兵部卿親王流刑事付驪姫事

巻第十三
竜馬進奏事
藤房卿遁世事
北山殿謀叛事
中前代蜂起事
兵部卿宮薨御事付干将莫耶事
足利殿東国下向事付時行滅亡事

巻第十四
新田足利確執奏状事
節度使下向事
矢矧鷺坂手超河原闘事
箱根竹下合戦事
官軍引退箱根事
諸国朝敵蜂起事
将軍御進発大渡山崎等合戦事
主上都落事付勅使河原自害事
長年帰洛事付内裏炎上事
将軍入洛事付親光討死事
坂本御皇居並御願書事

巻第十五
園城寺戒壇事
奥州勢著坂本事
三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事
建武二年正月十六日合戦事
正月二十七日合戦事
将軍都落事付薬師丸帰京事
大樹摂津国豊島河原合戦事
主上自山門還幸事
賀茂神主改補事

巻第十六
将軍筑紫御開事
小弐与菊池合戦事付宗応蔵主事
多々良浜合戦事付高駿河守引例事
西国蜂起官軍進発事
新田左中将被責赤松事
児島三郎熊山挙旗事付船坂合戦事
将軍自筑紫御上洛事付瑞夢事
備中福山合戦事
新田殿被引兵庫事
正成下向兵庫事
兵庫海陸寄手事
本間孫四郎遠矢事
経島合戦事
正成兄弟討死事
新田殿湊河合戦事
小山田太郎高家刈青麦事
聖主又臨幸山門事
持明院本院潜幸東寺事
日本朝敵事
正成首送故郷事

巻第十七
山攻事付日吉神託事
京都両度軍事
山門牒送南都事
(隆資卿自八幡被寄事)
義貞軍事付長年討死事
江州軍事
自山門還幸事
立儲君被著于義貞事付鬼切被進日吉事
義貞北国落事
還幸供奉人々被禁殺事
北国下向勢凍死事
瓜生判官心替事付義鑑房蔵義治事
十六騎勢入金崎事
金崎船遊事付白魚入船事
金崎城攻事付野中八郎事

巻第十八
先帝潜幸芳野事
高野与根来不和事
瓜生挙旗事
越前府軍並金崎後攻事
瓜生判官老母事付程嬰杵臼事
金崎城落事
春宮還御事付一宮御息所事
比叡山開闢事

巻第十九
光厳院殿重祚御事
本朝将軍補任兄弟無其例事
新田義貞落越前府城事
金崎東宮並将軍宮御隠事
諸国宮方蜂起事
相摸次郎時行勅免事
奥州国司顕家卿並新田徳寿丸上洛事
追奥勢跡道々合戦事
青野原軍事付嚢沙背水事

巻第二十
黒丸城初度軍事付足羽度々軍事
越後勢越々前事
宸筆勅書被下於義貞事
義貞牒山門同返牒事
八幡炎上事
義貞重黒丸合戦事付平泉寺調伏法事
義貞夢想事付諸葛孔明事
義貞馬属強事
義貞自害事
義助重集敗軍事
義貞首懸獄門事付勾当内侍事
奥州下向勢逢難風事
結城入道堕地獄事

巻第二十一
天下時勢粧事
佐渡判官入道流刑事
法勝寺塔炎上事
先帝崩御事
南帝受禅事
任遺勅被成綸旨事付義助攻落黒丸城事
塩冶判官讒死事

巻第二十二
畑六郎左衛門事
義助被参芳野事並隆資卿物語事
佐々木信胤成宮方事
義助予州下向事
義助朝臣病死事付鞆軍事
大館左馬助討死事付篠塚勇力事

巻第二十三
大森彦七事
就直義病悩上皇御願書事
土岐頼遠参合御幸致狼籍事付雲客下車事

巻第二十四
朝儀年中行事事
天竜寺建立事
依山門嗷訴公卿僉議事
天竜寺供養事付大仏供養事
三宅荻野謀叛事付壬生地蔵事

巻第二十五
持明院殿御即位事付仙洞妖怪事
宮方怨霊会六本杉事付医師評定事
藤井寺合戦事
自伊勢進宝剣事付黄梁夢事
住吉合戦事

巻第二十六
正行参吉野事
四条縄手合戦事付上山討死事
楠正行最後事
芳野炎上事
賀名生皇居事
執事兄弟奢侈事
上杉畠山讒高家事付廉頗藺相如事
妙吉侍者事付秦始皇帝事
直冬西国下向事

巻第二十七
天下妖怪事付清水寺炎上事
田楽事付長講見物事
雲景未来記事
左兵衛督欲誅師直事
御所囲事
右兵衛佐直冬鎮西没落事
左馬頭義詮上洛事
直義朝臣隠遁事付玄慧法印末期事
上杉畠山流罪死刑事
大嘗会事

巻第二十八
義詮朝臣御政務事
太宰少弐奉聟直冬事
三角入道謀叛事
直冬朝臣蜂起事付将軍御進発事
錦小路殿落南方事
自持明院殿被成院宣事
慧源禅巷南方合体事付漢楚合戦事

巻第二十九
宮方京攻事
将軍上洛事付阿保秋山河原軍事
将軍親子御退失事付井原石窟事
越後守自石見引返事
光明寺合戦事付師直怪異事
小清水合戦事付瑞夢事
松岡城周章事
師直師泰出家事付薬師寺遁世事
師冬自害事付諏方五郎事
師直以下被誅事付仁義血気勇者事

巻第三十
将軍御兄弟和睦事付天狗勢汰事
高倉殿京都退去事付殷紂王事
直義追罰宣旨御使事付鴨社鳴動事
薩多山合戦事
慧源禅門逝去事
吉野殿与相公羽林御和睦事付住吉松折事
相公江州落事
持明院殿吉野遷幸事付梶井宮事

巻第三十一
新田起義兵事
武蔵野合戦事
鎌倉合戦事
笛吹峠軍事
八幡合戦事付官軍夜討事
南帝八幡御退失事

巻第三十二
茨宮御位事
無剣璽御即位無例事
山名右衛門左為敵事付武蔵将監自害事
主上義詮没落事付佐々木秀綱討死事
山名伊豆守時氏京落事
直冬与吉野殿合体事付天竺震旦物語事
直冬上洛事付鬼丸鬼切事
神南合戦事

巻第三十三
京軍事
八幡御託宣事
三上皇自芳野御出事
飢人投身事
公家武家栄枯易地事
将軍御逝去事
新待賢門院並梶井宮御隠事
崇徳院御事
菊池合戦事
新田左兵衛佐義興自害事

巻第三十四
宰相中将殿賜将軍宣旨事
畠山道誓上洛事
和田楠軍評定事付諸卿分散事
新将軍南方進発事付軍勢狼籍事
紀州竜門山軍事
二度紀伊国軍事付住吉楠折事
銀嵩軍事付曹娥精衛事
竜泉寺軍事
平石城軍事付和田夜討事
吉野御廟神霊事付諸国軍勢還京都事

巻第三十五
新将軍帰洛事付擬討仁木義長事
京勢重南方発向事付仁木没落事
南方蜂起事付畠山関東下向事
北野通夜物語事付青砥左衛門事
尾張小河東池田事

巻第三十六
仁木京兆参南方事付大神宮御託宣事
大地震並夏雪事
天王寺造営事付京都御祈祷事
山名伊豆守落美作城事付菊池軍事
秀詮兄弟討死事
清氏叛逆事付相摸守子息元服事
頓宮心替事付畠山道誓事

巻第三十七
清氏正儀寄京事
新将軍京落事
南方官軍落都事
持明院新帝自江州還幸事付相州渡四国事
可立大将事付漢楚立義帝事
尾張左衛門佐遁世事
身子声聞一角仙人志賀寺上人事
畠山入道々誓謀叛事付楊国忠事

巻第三十八
彗星客星事付湖水乾事
諸国宮方蜂起事付越中軍事
九州探題下向事付李将軍陣中禁女事
菊池大友軍事
畠山兄弟修禅寺城楯篭事付遊佐入道事
細川相摸守討死事付西長尾軍事
和田楠与箕浦次郎左衛門軍事
太元軍事

巻第三十九
大内介降参事
山名京兆被参御方事
仁木京兆降参事
芳賀兵衛入道軍事
神木入洛事付洛中変異事
諸大名讒道朝事付道誉大原野花会事
神木御帰座事
高麗人来朝事
自太元攻日本事
神功皇后攻新羅給事
光厳院禅定法皇行脚御事
法皇御葬礼事

巻第四十
中殿御会事
左馬頭基氏逝去事
南禅寺与三井寺確執事
最勝講之時及闘諍事
将軍薨逝事
細河右馬頭自西国上洛事

目録 終



太平記巻第一

蒙窃採古今之変化、察安危之来由、覆而無外天之徳也。明君体之保国家。載而無棄地之道也。良臣則之守社稷。若夫其徳欠則雖有位不持。所謂夏桀走南巣、殷紂敗牧野。其道違則雖有威不久。曾聴趙高刑咸陽、禄山亡鳳翔。是以前聖慎而得垂法於将来也。後昆顧而不取誡於既往乎。
○後醍醐天皇(ごだいごのてんわう)御治世(ごぢせいの)事付(つけたり)武家(ぶけ)繁昌(はんじやうの)事 S0101
爰(ここ)に本朝人皇(にんわう)の始(はじめ)、神武天皇(てんわう)より九十五代の帝(みかど)、後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に当(あたつ)て、武臣(ぶしん)相摸守(さがみのかみ)平(たひらの)高時と云(いふ)者あり。此(この)時上(かみ)乖君之徳、下(しも)失臣之礼。従之四海大(おほき)に乱(みだれ)て、一日も未安(いまだやすからず)。狼煙(らうえん)翳天、鯢波(げいは)動地、至今四十余年。一人(いちにんとして)而不得富春秋。万民無所措手足。倩尋其濫觴者、匪啻禍一朝一夕之故。元暦(げんりやく)年中に鎌倉の右大将(うだいしやう)頼朝卿(よりとものきやう)、追討平家而有其功之時、後白河(ごしらかはの)院(ゐん)叡感之余(あまり)に、被補六十六箇国之総追補使。従是武家始(はじめ)て諸国に守護(しゆご)を立(たて)、庄園に地頭(ぢとう)を置(おく)。彼(かの)頼朝の長男左衛門督(さゑもんのかみ)頼家(よりいへ)、次男右大臣実朝公(さねともこう)、相続(あひつい)で皆征夷将軍の武将に備(そなは)る。是(これ)を号三代将軍。然(しかる)を頼家(よりいへの)卿は為実朝討れ、実朝は頼家(よりいへ)の子為悪禅師公暁討れて、父子(ふし)三代僅(わづか)に四十二年にして而尽(つき)ぬ。其後(そののち)頼朝卿の舅(しうと)、遠江守(とほたふみのかみ)平(たひらの)時政(ときまさの)子息、前陸奥守(さきのむつのかみ)義時、自然に執天下権柄勢漸(やうやく)欲覆四海。此(この)時の大上天皇(だじやうてんわう)は、後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)也。武威振下、朝憲(てうけん)廃上事歎思召(なげきおぼしめし)て、義時を亡さんとし給(たまひ)しに、承久の乱出来(いできたつ)て、天下暫(しばらく)も静(しづか)ならず。遂に旌旗(せいき)日に掠(かすめ)て、宇治・勢多にして相戦ふ。其戦(そのたたかひ)未終一日、官軍忽(たちまち)に敗北せしかば、後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)は隠岐国(おきのくに)へ遷(うつ)されさせ給(たまひ)て、義時弥(いよいよ)八荒(はつくわう)を掌(たなごころ)に握る。其(それ)より後(のち)武蔵守(むさしのかみ)泰時(やすとき)・修理亮(しゆりのすけ)時氏(ときうぢ)・武蔵守(むさしのかみ)経時(つねとき)・相摸守(さがみのかみ)時頼・左馬権頭(さまのごんのかみ)時宗・相摸守(さがみのかみ)貞時、相続(あひつい)で七代、政(まつりごと)武家より出で、徳窮民を撫(ぶ)するに足(たれ)り、威万人(まんにん)の上に被(かうむる)といへ共(ども)、位(くらゐ)四品(しほん)の際(あひだ)を不越、謙(けん)に居て仁恩(じんおん)を施し、己(おのれ)を責(せめ)て礼義を正(ただ)す。是(ここ)を以て高しと云(いへ)ども危(あやふ)からず、盈(みて)りと云(いへ)ども溢れず。承久より以来(このかた)、儲王摂家(ちよわうせつけ)の間(あひだ)に、理世安民(りせいあんみん)の器(き)に相当(あひあた)り給へる貴族を一人、鎌倉へ申下奉(まをしくだしたてまつつ)て、征夷将軍と仰(あふい)で、武臣皆拝趨(はいすう)の礼を事とす。同(おなじき)三年に、始(はじめ)て洛中に両人の一族を居(すゑ)て、両六波羅(ろくはら)と号して、西国(さいこく)の沙汰を執行(とりおこなは)せ、京都の警衛に備(そなへ)らる。又永仁(えいにん)元年より、鎮西(ちんぜい)に一人の探題(たんだい)を下(くだ)し、九州の成敗(せいばい)を司(つかさどら)しめ、異賊襲来の守(まもり)を堅(かたう)す。されば一天下、普(あまねく)彼下知(かのげぢ)に不随と云(いふ)処もなく、四海の外(ほか)も、均(ひとし)く其(その)権勢に服せずと云(いふ)者は無(なか)りけり。朝陽(てうやう)不犯ども、残星(ざんせい)光(ひかり)を奪(うばは)る、習(ならひ)なれば、必(かならず)しも、武家より公家(くげ)を蔑(ないがしろに)し奉(たてまつる)としもは無(なけ)れども、所(ところ)には地頭(ぢとう)強(つよう)して、領家(りやうけ)は弱(よわく)、国には守護(しゆご)重(おもう)して、国司(こくし)は軽(かろし)。此(この)故に朝廷は年々(としどし)に衰(おとろへ)、武家は日々(ひび)に盛(さかん)也。因茲代々(だいだい)の聖主、遠くは承久の宸襟(しんきん)を休(やす)めんが為、近くは朝議の陵廃(りようはい)を歎き思食(おぼしめし)て、東夷(とうい)を亡さばやと、常に叡慮を回(めぐら)されしかども、或(あるひ)は勢(いきほひ)微(び)にして不叶、或は時未到(いまだいたらず)して、黙止(もくしし)給ひける処に、時政九代(くだい)の後胤(こういん)、前(さきの)相摸守(さがみのかみ)平(たひらの)高時入道崇鑒(たかときにふだうそうかん)が代(よ)に至(いたつ)て、天地命(めい)を革(あらた)むべき危機云(ここに)顕(あらは)れたり。倩(つらつら)古(いにしへ)を引(ひい)て今を視(みる)に、行跡(かうせき)甚(はなはだ)軽(かろく)して人の嘲(あざけり)を不顧、政道不正して民の弊(つひえ)を不思、唯(ただ)日夜に逸遊(いついう)を事として、前烈(ぜんれつ)を地下(ちか)に羞(はづか)しめ、朝暮(てうぼ)に奇物(きもつ)を翫(もてあそび)て、傾廃(けいはい)を生前(しやうぜん)に致さんとす。衛(ゑい)の懿公(いこう)が鶴を乗(の)せし楽(たのしみ)早(はや)尽き、秦(しん)の李斯(りし)が犬を牽(ひき)し恨(うらみ)今に来(きたり)なんとす。見(みる)人眉を顰(ひそ)め、聴(きく)人唇(くちびる)を翻(ひるがへ)す。此(この)時の帝(みかど)後醍醐(ごだいごの)天王と申せしは、後宇多院(ごうだのゐん)の第二(だいに)の皇子(わうじ)、談天門院(だつてんもんゐん)の御腹(おんはら)にて御座(おは)せしを、相摸守(さがみのかみ)が計(はからひ)として、御年三十一の時、御位(おんくらゐ)に即(つけ)奉る。御在位(ございゐ)之間(あひだ)、内(うち)には三綱(さんかう)五常(ごじやう)の儀を正(ただしう)して、周公孔子の道に順(したがひ)、外(ほか)には万機百司(ばんきはくし)の政(まつりごと)不怠給、延喜天暦(えんぎてんりやく)の跡(あと)を追(おは)れしかば、四海風(ふう)を望(のぞん)で悦び、万民(ばんみん)徳に帰(き)して楽(たのし)む。凡(およそ)諸道の廃(すたれ)たるを興し、一事(いちじ)の善(ぜん)をも被賞しかば、寺社禅律(じしやぜんりつ)の繁昌(はんじやう)、爰(ここ)に時を得、顕密儒道(けんみつじゆだう)の碩才(せきさい)も、皆望(のぞみ)を達せり。誠に天に受(うけ)たる聖主、地に奉ぜる明君也と、其(その)徳を称じ、其化(そのくわ)に誇らぬ者は無(なか)りけり。
○関所(せきところ)停止(ちやうじの)事 S0102
夫(それ)四境(しきやう)七道の関所(せきところ)は、国(くに)の大禁(たいきん)を知(しら)しめ、時の非常を誡(いましめ)んが為也。然(しかる)に今壟断(ろうだん)の利に依(よつ)て、商売(しやうばい)往来(わうらい)の弊(つひえ)、年貢(ねんぐ)運送の煩(わづらひ)ありとて、大津(おほつ)・葛葉(くずは)の外(ほか)は、悉(ことごと)く所々の新関(しんせき)を止(やめ)らる。又元亨(げんかう)元年の夏、大旱(たいかん)地を枯(からし)て、田服(てんぶく)の外(ほか)百里(ひやくり)の間(あひだ)、空(むなし)く赤土(せきど)のみ有(あつ)て、青苗(せいべう)無し。餓■(がへう)野(や)に満(みち)て、飢人(きにん)地に倒る。此(この)年銭(ぜに)三百を以て、粟(あは)一斗を買(かふ)。君遥(はるか)に天下の飢饉を聞召(きこしめし)て、朕不徳あらば、天予(われ)一人(いちじん)を罪(つみ)すべし。黎民(れいみん)何の咎(とが)有(あり)てか、此災(このわざはひ)に逢(あへ)ると、自(みづから)帝徳(ていとく)の天に背ける事を歎き思召(おぼしめし)て、朝餉(あさがれひ)の供御(ぐご)を止(やめ)られて、飢人窮民(きにんきゆうみん)の施行(せぎやう)に引(ひか)れけるこそ難有けれ。是(これ)も猶万民(ばんみん)の飢(うゑ)を助くべきに非ずとて、検非違使(けびゐし)の別当に仰(おほせ)て、当時富祐(ふいう)の輩(ともがら)が、利倍(りばい)の為に畜積(たくはへつめ)る米穀(べいこく)を点検(てんけん)して、二条町(にでうまち)に仮屋(かりや)を建(たて)られ、検使(けんし)自(みづから)断(ことわつ)て、直(あたひ)を定(さだめ)て売(うら)せらる。されば商買(しやうばい)共(とも)に利を得て、人皆九年(きうねん)の畜(たくはへ)有(ある)が如し。訴訟の人出来(しゆつたい)の時、若(もし)下情(しものじやう)上(かみ)に達(たつ)せざる事もやあらんとて、記録所(きろくところ)へ出御(しゆつぎよ)成(なつ)て、直(ぢき)に訴(うつたへ)を聞召明(きこしめしあきら)め、理非(りひ)を決断(けつだん)せられしかば、虞■(ぐぜい)の訴(うつたへ)忽(たちまち)に停(とどまつ)て、刑鞭(けいべん)も朽(くち)はて、諌鼓(かんこ)も撃(うつ)人無(なか)りけり。誠に理世安民(りせいあんみん)の政(まつりごと)、若(もし)機巧(きかう)に付(つい)て是(これ)を見(みれ)ば、命世(めいせい)亜聖(あせい)の才とも称じつべし。惟(ただ)恨(うらむ)らくは斉桓(せいかん)覇(は)を行(おこなひ)、楚人(そひと)弓を遺(わすれ)しに、叡慮少(すこし)き似たる事を。是(これ)則(すなはち)所以草創雖合一天守文不越三載也。
○立后(りつこうの)事付三位殿御局(さんみどのおんつぼねの)事 S0103
文保(ぶんぼう)二年八月三日、後西園寺大政大臣(のちのさいをんじのだいじやうだいじん)実兼公(さねかぬこう)の御女(おんむすめ)、后妃(こうひ)の位(くらゐ)に備(そなはつ)て、弘徽殿(こうきでん)に入(いら)せ給ふ。此家(このいへ)に女御(にようご)を立(たて)られたる事已(すで)に五代、是(これ)も承久以後、相摸守代々(だいだい)西園寺の家を尊崇(そんそう)せしかば、一家の繁昌恰(あたかも)天下の耳目(じぼく)を驚(おどろか)せり。君も関東の聞へ可然と思食(おぼしめし)て、取分(とりわけ)立后(りつこう)の御沙汰も有(あり)けるにや。御齢(おんよはひ)已に二八(じはち)にして、金鶏障(きんけいしやう)の下(もと)に傅(かしづか)れて、玉楼殿(ぎよくろうでん)の内に入給(いりたま)へば、夭桃(えうたう)の春を傷(いため)る粧(よそほ)ひ、垂柳(すゐりう)の風を含(ふくめ)る御形(おんかたち)、毛■(まうしやう)・西施(せいし)も面(おもて)を恥(はぢ)、絳樹(がうじゆ)・青琴(せいきん)も鏡を掩(おほ)ふ程なれば、君の御覚(おんおぼえ)も定(さだめ)て類(たぐひ)あらじと覚へしに、君恩(くんおん)葉(は)よりも薄かりしかば、一生(いつしやう)空(むなし)く玉顔(ぎよくがん)に近(ちかづ)かせ給はず。深宮(しんきゆう)の中(うち)に向(むかつ)て、春の日の暮難(くれかた)き事を歎き、秋の夜(よ)の長恨(ながきうらみ)に沈ませ給ふ。金屋(きんをく)に人無(なう)して、皎々(かうかう)たる残燈(のこんのともしび)の壁(かべ)に背ける影、薫篭(くんろう)に香(か)消(きえ)て、蕭々(せうせう)たる暗雨(よるのあめ)の窓を打声(うつこゑ)、物毎(ごと)に皆御泪(おんなみだ)を添(そふ)る媒(なかだち)と成れり。「人生勿作婦人身、百年苦楽因他人。」と、白楽天が書(かき)たりしも、理(ことわり)也と覚(おぼえ)たり。其比(そのころ)安野(あのの)中将(ちゆうじやう)公廉(きんかど)の女(むすめ)に、三位殿(さんみどの)の局(つぼね)と申(まうし)ける女房(にようばう)、中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)に候(さぶらは)れけるを、君(きみ)一度(ひとたび)御覧(ごらん)ぜられて、他に異(こと)なる御覚(おんおぼえ)あり。三千の寵愛(ちようあい)一身(いつしん)に在(あり)しかば、六宮(りくきゆう)の粉黛(ふんたい)は、顔色無(がんしよくなき)が如(ごとく)也。都(すべ)て三夫人(さんふじん)・九嬪(きうひん)・二十七(の)世婦(せいふ)・八十一(の)女御(にようご)・曁(および)後宮(こうきゆう)の美人・楽府(がふ)の妓女(ぎぢよ)と云へども、天子顧眄(こめん)の御心を付(つけ)られず。只殊艶尤態(しゆえんいうたい)の独(ひとり)能(よく)是(ぜ)を致(いたす)のみに非(あら)ず、蓋(けだ)し善巧便佞(ぜんかうべんねい)叡旨(えいし)に先(さきだつ)て、奇(き)を争(あらそひ)しかば、花(はな)の下(もと)の春の遊(あそび)、月の前(まへ)の秋の宴(えんにも)、駕(が)すれば輦(てぐるま)を共にし、幸(みゆき)すれば席(せき)を専(ほしいまま)にし給ふ。是(これ)より君王(くんわう)朝政(あさまつりごと)をし給はず。忽(たちまち)に准后(じゆごう)の宣旨(せんじ)を下(くだ)されしかば、人(ひと)皆(みな)皇后元妃(げんひ)の思(おもひ)をなせり。驚(おどろき)見る、光彩(くわうさい)の始(はじめ)て門戸(もんこ)に生(な)ることを。此(この)時天の人、男(なん)を生(う)む事を軽(かろん)じて、女(ぢよ)を生む事を重(おもん)ぜり。されば御前(おんまへ)の評定(ひやうぢやう)、雑訴(ざつそ)の御沙汰までも、准后(じゆごう)の御口入(ごこうじゆ)とだに云(いひ)てげれば、上卿(しやうきやう)も忠なきに賞(しやう)を与(あたへ)、奉行(ぶぎやう)も理(り)有(ある)を非(ひ)とせり。関雎(くわんしよ)は楽而(たのしんで)不淫、哀而(かなしんで)不傷。詩人採(とつ)て后妃(こうひ)の徳とす。奈何(いかん)かせん、傾城傾国(けいせいけいこく)の乱(らん)今に有(あり)ぬと覚(おぼえ)て、浅増(あさまし)かりし事共(ども)也。
○儲王(ちよわうの)御事(おんこと) S0104
螽斯(しゆうし)の化(くわ)行(おこなは)れて、皇后元妃(げんひ)の外(ほか)、君恩に誇る官女(くわんぢよ)、甚(はなはだ)多かりければ、宮々(みやみや)次第に御誕生(ごたんじやう)有(あつ)て、十六人までぞ御座(おはしま)しける。中(なか)にも第一(だいいちの)宮尊良親王(そんりやうしんわう)は、御子左(みこひだりの)大納言為世(ためよの)卿(きやうの)女(むすめ)、贈従三位(ぞうじゆざんみ)為子(ためこ)の御腹(おんはら)にて御坐(おはせ)しを、吉田(よしだの)内大臣定房公(さだふさこう)養君(やうくん)にし奉(たてまつり)しかば、志学(しがく)の歳(とし)の始(はじめ)より、六義(りくぎ)の道(みち)に長じさせ給へり。されば富緒河(とみのをがは)の清き流(ながれ)を汲(くみ)、浅香山(あさかやま)の故(ふる)き跡を蹈(ふん)で、嘯風弄月(せうふうろうげつ)に御心(こころ)を傷(いたまし)め給ふ。第二(だいにの)宮も同御腹(おなじきおんはら)にてぞ御坐(おはしま)しける。総角(あげまき)の御時(おんとき)より妙法院の門跡(もんぜき)に御入室(ごにふしつ)有(あつ)て、釈氏(しやくし)の教(をしへ)を受(うけ)させ給ふ。是(これ)も瑜伽三密(ゆがさんみつ)の間(あひだ)には、歌道(かだう)数奇(すき)の御翫(おんもてあそび)有(あり)しかば、高祖大師(かうそだいし)の旧業(きうげふ)にも不恥、慈鎮和尚(じちんくわしやう)の風雅にも越(こえ)たり。第三(だいさんの)宮は民部卿(みんぶきやう)三位殿(さんみどの)の御腹(おんはら)也。御幼稚(ごえうち)の時より、利根聡明(りこんそうめい)に御坐(おは)せしかば、君(きみ)御位(おんくらゐ)をば此宮(このみや)に社(こそ)と思食(おぼしめ)したりしかども、御治世(ごぢせい)は大覚寺殿(だいかくじどの)と持明院殿(ぢみやうゐんどの)と、代々(かはるがはる)持(もた)せ給(たまふ)べしと、後嵯峨院(ごさがのゐん)の御時(おんとき)より被定しかば、今度(こんど)の春宮(とうぐう)をば持明院殿(ぢみやうゐんどのの)御方(おんかた)に立進(たてまゐら)せらる。天下(てんか)の事(こと)小大(なに)となく、関東の計(はからひ)として、叡慮にも任(まかせ)られざりしかば、御元服(げんぶく)の義を改(あらため)られ、梨本(なしもと)の門跡(もんぜき)に御入室(ごにふしつ)有(あつ)て、承鎮親王(じようちんしんわう)の御門弟(もんてい)と成(なら)せ給ひて、一(いつ)を聞(きい)て十(じふ)を悟(さと)る御器量(きりやう)、世に又類(たぐひ)も無(なか)りしかば、一実円頓(いちじつゑんどん)の花匂(はなのにほひ)を、荊渓(けいけい)の風に薫(くん)じ、三諦即是(さんたいそくぜ)の月の光を、玉泉(ぎよくせん)の流(ながれ)に浸(ひた)せり。されば消(きえ)なんとする法燈(ほつとう)を挑(かか)げ、絶(たえ)なんとする恵命(ゑみやう)を継(つが)んこと、只此門主(このもんしゆ)の御時(おんとき)なるべしと、一山(いつさん)掌(たなごころ)を合(あは)せて悦(よろこび)、九院(きうゐん)首(かうべ)を傾(かたぶけ)て仰(あふぎ)奉る。第四の宮も同(おなじき)御腹にてぞをはしける。是(これ)は聖護院二品親王(しやうごゐんにほんしんわう)の御附弟(ふてい)にてをはせしかば、法水(ほつすゐ)を三井(みゐ)の流(ながれ)に汲(くみ)、記■(きべつ)を慈尊(じそん)の暁(あかつき)に期(ご)し給ふ。此外(このほか)儲君(ちよくん)儲王の選(えらび)、竹苑椒庭(ちくゑんせうてい)の備(そなへ)、誠に王業(わうげふ)再興の運(うん)、福祚(ふくそ)長久(ちやうきうの)基(もとゐ)、時を得たりとぞ見へたりける。
○中宮御産(ちゆうぐうごさん)御祈(おんいのり)之事付俊基(としもと)偽(いつはつて)篭居(ろうきよの)事 S0105
元亨(げんかう)二年の春の比(ころ)より、中宮懐姙(くわいにん)の御祈(おんいのり)とて、諸寺(しよじ)・諸山(しよさん)の貴僧・高僧に仰(おほせ)て様々(さまざま)の大法(だいほふ)・秘法を行はせらる。中にも法勝寺(ほつしようじ)の円観上人(ゑんくわんしやうにん)、小野文観僧正(をののもんくわんそうじやう)二人は、別勅(べつちよく)を承(うけ)て、金闕(きんけつ)に壇を構(かまへ)、玉体(ぎよくたい)に近(ちかづ)き奉(たてまつつ)て、肝胆(かんたん)を砕(くだい)てぞ祈られける。仏眼(ぶつげん)、金輪(こんりん)、五壇(ごだん)の法・一宿(いつしゆく)五反孔雀経(ごへんくじやくきやう)・七仏薬師熾盛光(しちぶつやくししじやうくわう)・烏蒭沙摩(うすさま)、変成男子(へんじやうなんし)の法・五大虚空蔵(こくうざう)・六観音・六字訶臨(ろくじかりん)、訶利帝母(かりていも)・八字文殊(はちじもんじゆ)、普賢延命(ふげんえんみやう)、金剛童子(こんがうどうじ)の法、護摩(ごまの)煙は内苑(だいゑん)に満(みち)、振鈴(しんれい)の声(おと)は掖殿(えきでん)に響(ひびき)て、何(いか)なる悪魔怨霊(をんりやう)なりとも、障碍(しやうげ)を難成とぞ見へたりける。加様(かやう)に功を積(つみ)、日を重(かさね)て、御祈(おんいのり)の精誠(せいぜい)を尽(つく)されけれども、三年まで曾(かつ)て御産(ごさん)の御事(おんこと)は無(なか)りけり。後(のち)に子細(しさい)を尋(たづぬ)れば、関東調伏(てうぶく)の為に、事を中宮の御産(ごさん)に寄(よせ)て、加様(かやう)に秘法を修(しゆ)せられけると也。是(これ)程の重事(ちようじ)を思食立(おぼしめしたつ)事なれば、諸臣の異見をも窺(うかが)ひ度(たく)思召(おぼしめし)けれども、事多聞(たぶん)に及ばゝ、武家に漏れ聞(きこゆ)る事や有(あら)んと、憚(はばか)り思召(おぼしめさ)れける間(あひだ)、深慮智化(しんりよちくわ)の老臣、近侍(きんじ)の人々にも仰合(おほせあはせ)らるゝ事もなし。只日野(ひのの)中納言資朝(すけとも)・蔵人(くらうど)右少弁俊基(としもと)・四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・尹(ゐんの)大納言師賢(もろかた)・平(へい)宰相(さいしやう)成輔計(なりすけばかり)に、潛(ひそか)に仰合(おほせあはせ)られて、さりぬべき兵(つはもの)を召(めされ)けるに、錦織(にしこり)の判官代(はんぐわんだい)、足助(あすけの)次郎重成(しげなり)、南都北嶺(なんとほくれい)の衆徒(しゆと)、少々勅定(ちよくぢやう)に応じてげり。彼(かの)俊基は累葉(るゐえふ)の儒業を継(つい)で、才学(さいかく)優長成(なり)しかば、顕職(けんしよく)に召仕(めしつかは)れて、官蘭台(らんたい)に至り、職(しよく)々事(しきじ)を司(つかさど)れり。然る間出仕(しゆつし)事繁(ことしげう)して、籌策(ちうさく)に隙(ひま)無(なか)りければ、何(いか)にもして暫(しばらく)篭居して、謀叛(むほん)の計畧を回(めぐら)さんと思(おもひ)ける処に、山門横川(よかは)の衆徒(しゆと)、款状(くわじやう)を捧(ささげ)て、禁庭に訴(うつたふ)る事あり。俊基彼(かの)奏状を披(ひらい)て読申(よみまうさ)れけるが、読誤(よみあやま)りたる体(てい)にて、楞厳院(れうごんゐん)を慢厳院(まんごんゐん)とぞ読(よみ)たりける。座中の諸卿(しよきやう)是(これ)を聞(きい)て目を合(あはせ)て、「相(さう)の字をば、篇(へん)に付(つけ)ても作(つくり)に付(つけ)ても、もくとこそ読(よむ)べかりける。」と、掌(たなごころ)を拍(うつ)てぞ笑はれける。俊基大(おほき)に恥(はぢ)たる気色(きしよく)にて、面(おもて)を赤(あかめ)て退出す。夫(それ)より恥辱に逢(あひ)て、篭居すと披露(ひろう)して、半年計(ばかり)出仕を止(やめ)、山臥(やまぶし)の形に身を易(かへ)て、大和(やまと)・河内(かはち)に行(ゆい)て、城郭(じやうくわく)に成(なり)ぬべき処々を見置(みおきて)、東国(とうごく)・西国(さいこく)に下(くだつ)て、国の風俗、人(ひと)の分限(ぶんげん)をぞ窺(うかがひ)見られける。
○無礼講(ぶれいかうの)事付玄恵(げんゑ)文談(ぶんだんの)事 S0106
爰(ここ)に美濃国(みののくにの)住人、土岐伯耆(ときはうきの)十郎頼貞(よりさだ)・多治見(たぢみ)四郎次郎国長(くになが)と云(いふ)者あり。共に清和源氏(せいわげんじ)の後胤(こういん)として、武勇の聞へありければ、資朝卿様々(さまざま)の縁(えん)を尋(たづね)て、眤(むつ)び近(ちかづ)かれ、朋友の交(まじはり)已(すで)に浅からざりけれども、是(これ)程の一大事を無左右知(しら)せん事、如何(いかん)か有(ある)べからんと思はれければ、猶も能々(よくよく)其(その)心を窺(うかがひ)見ん為に、無礼講(ぶれいかう)と云(いふ)事をぞ始(はじめ)られける。其(その)人数(にんじゆ)には、尹(ゐんの)大納言師賢(もろたか)・四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・蔵人(くらうど)右少弁俊基(としもと)・伊達(だての)三位房(さんみばう)游雅(いうが)・聖護院庁(しやうごゐんちやう)の法眼(ほふげん)玄基(げんき)・足助(あすけの)次郎重成(しげなり)・多治見(たぢみ)四郎次郎国長(くになが)等也。其交会遊宴(そのかうぐわいいうえん)の体(てい)、見聞耳目(けんもんじぼく)を驚(おどろか)せり。献盃(けんはい)の次第、上下を云はず、男(をのこ)は烏帽子(ゑぼし)を脱(ぬい)で髻(もとどり)を放ち、法師は衣(ころも)を不着して白衣(びやくえ)になり、年十七八なる女(をんな)の、盻形(みめかたち)優(いう)に、膚(はだへ)殊に清らかなるをに十余人(じふよにん)、褊(すずし)の単(ひと)へ計(ばかり)を着せて、酌(しやく)を取(とら)せければ、雪の膚(はだへ)すき通(とほり)て、大液(たいえき)の芙蓉(ふよう)新(あらた)に水を出(いで)たるに異(こと)ならず。山海(さんかい)の珍物(ちんぶつ)を尽(つく)し、旨酒(ししゆ)泉(いづみ)の如くに湛(たたへ)て、遊戯舞(あそびたはぶれまひ)歌ふ。其間(そのあひだ)には只東夷(とうい)を可亡企(くはだて)の外(ほか)は他事(たじ)なし。其(その)事と無く、常に会交(くわいがう)せば、人の思咎(おもひとが)むる事もや有(あら)んとて、事を文談(ぶんだん)に寄(よせ)んが為に、其比(そのころ)才覚無双(さいかくぶさう)の聞へありける玄恵法印(げんゑほふいん)と云(いふ)文者(ぶんじや)を請(しやう)じて、昌黎文集(しやうれいぶんじふ)の談義(だんぎ)をぞ行(おこなは)せける。彼(かの)法印謀叛(むほん)の企(くはだて)とは夢にも不知、会合の日毎(ひごと)に、其(その)席に臨(のぞん)で玄(げん)を談じ理(り)を折(ひらく)。彼文集(かのぶんじふ)の中に、「昌黎赴潮州」と云(いふ)長篇有り。此処(このところ)に至(いたつ)て、談義を聞(きく)人々、「是(これ)皆不吉(ふきつ)の書(しよ)なりけり。呉子(ごし)・孫子・六韜(りくたう)・三略(さんりやく)なんど社(こそ)、可然当用(たうよう)の文(ぶん)なれ。」とて、昌黎文集の談義を止(やめ)てげり。此韓昌黎(このかんしやうれい)と申(まうす)は、晩唐(ばんたう)の季(すゑ)に出(いで)て、文才(ぶんさい)優長(いうちやう)の人なりけり。詩は杜子美(としみ)・李太白(りたいはく)に肩を双(なら)べ、文章は漢・魏(ぎ)・晋(しん)・宋の間(あひだ)に傑出せり。昌黎が猶子(いうし)韓湘(かんしやう)と云(いふ)者あり。是(これ)は文字をも嗜(たしなま)ず、詩篇にも携(たづさは)らず、只道士(たうじ)の術(じゆつ)を学(まなん)で、無為(ぶゐ)を業(げふ)とし、無事を事(こと)とす。或時(あるとき)昌黎韓湘に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「汝(なんぢ)天地の中(うち)に化生(くわせい)して、仁義の外(ほか)に逍遥(せうえう)す。是(これ)君子の恥(はづる)処、小人の専(もつぱら)とする処也。我(われ)常に汝が為に是(これ)を悲(かなし)むこと切(せつ)也。と教訓しければ、韓湘大(おほき)にあざ笑(わらう)て、「仁義は大道(たいだう)の廃(すたれ)たる処に出(いで)、学教(がつけう)は大偽(たいぎ)の起(おこる)時に盛(さかん)也。吾(われ)無為(ぶゐ)の境(さかひ)に優遊(いういう)して、是非(ぜひ)の外(ほか)に自得(じとく)す。されば真宰(しんさい)の臂(ひぢ)を掣(さい)て、壷中(こちゆう)に天地を蔵(かく)し、造化(ざうくわ)の工(たくみ)を奪(うばう)て、橘裡(きつり)に山川(さんせん)を峙(そばだ)つ。却(かへつ)て悲(かなしむ)らくは、公(こう)の只古人(こじん)の糟粕(さうはく)を甘(あまなつ)て、空(むなし)く一生(いつしやう)を区々(くく)の中(うち)に誤る事を。」と答(こたへ)ければ、昌黎重(かさねて)曰(いはく)、「汝が所言我(われ)未信(いまだしんぜず)、今則(すなはち)造化(ざうくわ)の工(たくみ)を奪(うばふ)事を得てんや。」と問(とふ)に、韓湘答(こたふる)事無(なく)して、前(まへ)に置(おい)たる瑠璃(るり)の盆を打覆(うちうつぶせ)て、軈(やが)て又引仰向(ひきあふの)けたるを見れば、忽(たちまち)に碧玉(へきぎよく)の牡丹(ぼたん)の花(はな)の嬋娟(せんげん)たる一枝(いつし)あり。昌黎(しやうれい)驚(おどろい)て是(これ)を見(みる)に、花(はなの)中に金字(きんじ)に書(かけ)る一聯(いちれん)の句有り。「雲横秦嶺家何在、雪擁藍関馬不前。云云。」昌黎不思儀の思(おもひ)を成して、是(これ)を読(よう)で一唱(いつしやう)三嘆(さんたん)するに、句の優美遠長(ゑんちやう)なる体製(ていせい)のみ有(あつ)て、其(その)趣向落着(らくぢやく)の所を難知。手に採(とつ)て是(これ)を見んとすれば、忽然(こつぜん)として消失(きえうせ)ぬ。是(これ)よりしてこそ、韓湘(かんしやうは)仙術(せんじゆつ)の道を得たりとは、天下の人に知られけれ。其後(そののち)昌黎仏法(ぶつぽふ)を破(やぶつ)て、儒教(じゆけう)を貴(たつとむ)べき由(よし)、奏状(そうじやう)を奉(たてまつり)ける咎(とが)に依(よつ)て、潮州(てうじう)へ流さる。日暮(くれ)馬泥(なづん)で前途(ぜんと)程(ほど)遠し。遥(はるか)に故郷(こきやう)の方(かた)を顧(かへりみれ)ば、秦嶺に雲横(よこたはつ)て、来(き)つらん方も不覚。悼(いたん)で万仞(ばんじん)の嶮(けはしき)に登らんとすれば、藍関に雪満(みち)て行(ゆく)べき末(すゑ)の路も無し。進退歩(ほ)を失(うしなう)て、頭(かうべ)を回(めぐら)す処に、何(いづく)より来(きた)れるともなく、韓湘悖然(ぼつぜん)として傍(かたはら)にあり。昌黎悦(よろこん)で馬より下(おり)、韓湘が袖を引(ひい)て、泪(なみだ)の中(うち)に申(まうし)けるは、「先年碧玉(へきぎよく)の花(はな)の中に見へたりし一聯(いちれん)の句は、汝我(われ)に予(あらかじめ)左遷(させん)の愁(うれへ)を告知(つげしら)せるなり。今又汝爰(ここ)に来れり。料(はか)り知(しん)ぬ、我(われ)遂(つひ)に謫居(だつきよ)に愁死(しうし)して、帰(かへる)事を得じと。再会期(ご)無(なく)して、遠別(ゑんべつ)今にあり。豈(あに)悲(かなしみ)に堪(たへ)んや。」とて、前(さき)の一聯(いちれん)に句(く)を続(つい)で、八句一首(いつしゆ)と成して、韓湘に与ふ。一封朝奏九重天。夕貶潮陽路八千。欲為聖明除弊事。豈将衰朽惜残年。雲横秦嶺家何在。雪擁藍関馬不前。知汝遠来須有意。好収吾骨瘴江辺。韓湘此(この)詩を袖に入(いれ)て、泣々(なくなく)東西(とうざい)に別(わかれ)にけり。誠(まことなる)哉(かな)、「痴人(ちにんの)面前(めんぜん)に不説夢」云(いふ)事を。此(この)談義を聞(きき)ける人々の忌思(いみおもひ)けるこそ愚(おろか)なれ。
○頼員(よりかず)回忠(かへりちゆうの)事 S0107
謀反人(むほんにん)の与党(よたう)、土岐(とき)左近蔵人(さこんくらうど)頼員(よりかず)は、六波羅(ろくはら)の奉行(ぶぎやう)斉藤太郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)利行(としゆき)が女(むすめ)と嫁(か)して、最愛(さいあい)したりけるが、世中(よのなか)已に乱(みだれ)て、合戦出来(いできた)りなば、千に一(ひとつ)も討死せずと云(いふ)事有(ある)まじと思(おもひ)ける間、兼(かね)て余波(なごり)や惜(をし)かりけん、或夜(あるよ)の寝覚(ねざめ)の物語に、「一樹(いちじゆ)の陰(かげ)に宿(やど)り、同流(おなじながれ)を汲(くむ)も、皆是(これ)多生(たしやう)の縁(えん)不浅、況(いはん)や相馴奉(あひなれたてまつつ)て已(すでに)三年(みとせ)に余(あま)れり。等閑(なほざり)ならぬ志(こころざし)の程をば、気色(けしき)に付け、折に触(ふれ)ても思(おもひ)知り給ふらん。去(さ)ても定(さだめ)なきは人間の習(ならひ)、相逢中(あひあふなか)の契(ちぎり)なれば、今若(もし)我(わが)身はかなく成(なり)ぬと聞(きき)給ふ事有(あら)ば、無(なか)らん跡(あと)までも貞女の心を失はで、我後世(わがごせ)を問(とひ)給へ。人間(にんげん)に帰らば、再び夫婦の契(ちぎり)を結び、浄土(じやうど)に生(うま)れば、同蓮(おなじはちす)の台(うてな)に半座(はんざ)を分(わけ)て待(まつ)べし。」と、其(その)事と無くかきくどき、泪(なみだ)を流(ながし)てぞ申(まうし)ける。女つく/゛\と聞(きい)て、「怪(あやし)や何事(なにごと)の侍(はんべる)ぞや。明日(あす)までの契(ちぎり)の程も知らぬ世に、後世(ごせ)までの荒増(あらまし)は、忘(わすれ)んとての情(なさけ)にてこそ侍(はんべ)らめ。さらでは、かゝるべしとも覚(おぼえ)ず。」と、泣恨(なきうらみ)て問(とひ)ければ、男(をとこ)は心(こころ)浅(あさう)して、「さればよ、我(われ)不慮(ふりよ)の勅命を蒙(かうむつ)て、君に憑(たのま)れ奉る間、辞するに道無(なく)して、御謀反(ごむほん)に与(くみ)しぬる間、千に一(ひとつ)も命(いのち)の生(いき)んずる事難(かた)し。無端存(ぞんず)る程に、近づく別(わかれ)の悲(かなし)さに、兼(かねて)加様(かやう)に申(まうす)也。此(この)事穴(あな)賢(かしこ)人に知(しら)させ給ふな。」と、能々(よくよく)口をぞ堅めける。彼女性(かのによしやう)心の賢き者也ければ、夙(つと)にをきて、つく/゛\と此(この)事を思ふに、君の御謀叛(ごむほん)事(こと)ならずば、憑(たのみ)たる男(をとこ)忽(たちまち)に誅せらるべし。若(もし)又武家亡(ほろび)なば、我(わが)親類誰かは一人も残るべき。さらば是(これ)を父利行(としゆき)に語(かたつ)て、左近蔵人(さこんくらうど)を回忠(かへりちゆう)の者に成し、是(これ)をも助け、親類をも扶(たす)けばやと思(おもう)て、急ぎ父が許(もと)に行(ゆき)、忍(しのび)やかに此(この)事を有(あり)の侭(まま)にぞ語りける。斉藤大(おほき)に驚き、軈(やが)て左近蔵人を呼寄(よびよ)せ、「卦(かか)る不思議を承(うけたまは)る、誠にて候やらん。今の世に加様(かやう)の事、思企(おもひくはだて)給はんは、偏(ひとへ)に石(いし)を抱(いだい)て淵(ふち)に入(い)る者にて候べし。若(もし)他人の口より漏(もれ)なば、我等に至(いたる)まで皆誅せらるべきにて候へば、利行急(いそぎ)御辺(ごへん)の告知(つげしら)せたる由を、六波羅殿(ろくはらどの)に申(まうし)て、共に其咎(そのとが)を遁(のがれ)んと思ふは、何(いかん)か計(はからひ)給ふぞ。」と、問(とひ)ければ、是(これ)程の一大事を、女性(によしやう)に知らする程の心にて、なじかは仰天(ぎやうてん)せざるべき、「此(この)事は同名(どうみやう)頼貞(よりさだ)・多治見(たぢみ)四郎二郎が勧(すすめ)に依(よつ)て、同意仕(つかまつり)て候。只兎(と)も角(かく)も、身の咎(とが)を助(たすか)る様(やう)に御計(はからひ)候へ。」とぞ申(まうし)ける。夜(よ)未明(いまだあけざる)に、斉藤急ぎ六波羅(ろくはら)へ参(さんじ)て、事の子細(しさい)を委(くはし)く告げ申(まうし)ければ、則(すなはち)時(とき)をかへず鎌倉へ早馬(はやむま)を立て、京中(きやうぢゆう)・洛外(らくぐわい)の武士(ぶし)どもを六波羅(ろくはら)へ召集(めしあつめ)て、先(まづ)着到(ちやくたう)をぞ付(つけ)られける。其比(そのころ)摂津国(つのくに)葛葉(くずは)と云(いふ)処に、地下人(ぢげにん)代官(だいくわん)を背(そむき)て合戦(かつせん)に及(およぶ)事あり。彼本所(かのほんじよ)の雑掌(ざつしやう)を、六波羅(ろくはら)の沙汰(さた)として、庄家(しやうけ)にしすへん為に、四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)、並(ならびに)在京人(ざいきやうにん)を催さるゝ由を被披露。是(これ)は謀叛の輩(ともがら)を落さじが為の謀(はかりごと)也。土岐(とき)も多治見も、吾(わが)身の上とは思(おもひ)も寄らず、明日(みやうにち)は葛葉へ向ふべき用意して、皆己(おのれ)が宿所(しゆくしよ)にぞ居たりける。去程(さるほど)に、明(あく)れば元徳(げんとく)元年九月十九日の卯刻(うのこく)に、軍勢雲霞(うんか)の如(ごとく)に六波羅(ろくはら)へ馳(はせ)参る。小串(こぐし)三郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)範行(のりゆき)・山本九郎時綱(ときつな)、御紋(ごもん)の旗を給(たまはり)て、打手(うつて)の大将を承(うけたまはつ)て、六条河原(かはら)へ打出(ぶちいで)、三千余騎を二手(ふたて)に分(わけ)て、多治見が宿所(しゆくしよ)錦小路高倉(にしきのこうぢたかくら)、土岐(とき)十郎が宿所、三条堀河(ほりかわ)へ寄(よせ)けるが、時綱かくては如何様(いかさま)大事(だいじ)の敵(てき)を打漏(うちもらし)ぬと思(おもひ)けるにや、大勢(おほぜい)をば態(わざ)と三条河原(かはら)に留(とどめ)て、時綱只一騎、中間(ちゆうげん)二人に長刀(なぎなた)持(もた)せて、忍(しのび)やかに土岐が宿所へ馳(はせ)て行き、門前(もんぜん)に馬をば乗捨(のりすて)て、小門(こもん)より内へつと入(いつ)て、中門(ちゆうもん)の方(かた)を見れば、宿直(とのゐ)しける者よと覚(おぼえ)て、物具(もののぐ)・太刀(たち)・々(かたな)、枕に取散(とりちら)し、高鼾(たかいびき)かきて寝入(ねいり)たり。廐(むやま)の後(うしろ)を回(まはつ)て、何(いづく)にか匿地(くけち)の有(ある)と見れば、後(うしろ)は皆築地(ついぢ)にて、門(もん)より外(ほか)は路も無し。さては心安(こころやす)しと思(おもう)て、客殿(きやくでん)の奥なる二間(ふたま)を颯(さつ)と引(ひき)あけたれば、土岐十郎只今起(おき)あがりたりと覚(おぼえ)て、鬢髪(びんのかみ)を撫揚(なであげ)て結(ゆひ)けるが、山本九郎を屹(きつ)と見て、「心得(こころえ)たり。」と云侭(いふまま)に、立(たて)たる大刀(たち)を取(とり)、傍(そば)なる障子(しやうじ)を一間(ひとま)蹈破(ふみやぶ)り、六間(むま)の客殿(きやくでん)へ跳出(をどりいで)、天井(てんじやう)に大刀(たち)を打付(うちつけ)じと、払切(はらひぎり)にぞ切(きつ)たりける。時綱は態(わざと)敵を広庭(ひろには)へ帯出(おびきいだ)し、透間(すきま)も有らば生虜(いけどら)んと志(こころざし)て、打払(うちはらひ)ては退(しりぞき)、打流(うちなが)しては飛(とび)のき、人交(ひとまぜ)もせず戦(たたかう)て、後(うしろ)を屹(きつ)と見たれば、後陣(ごぢん)の大勢(おほぜい)二千余騎、二(に)の関(きど)よりこみ入(いつ)て、同音(どうおん)に時(とき)を作る。土岐十郎久(ひさし)く戦(たたかう)ては、中々(なかなか)生捕(いけどら)れんとや思(おもひ)けん、本(もと)の寝所(ねどころ)へ走帰(はしりかへつ)て、腹(はら)十文字(もんじ)にかき切(きつ)て、北枕(きたまくら)にこそ臥(ふし)たりけれ。中間(なかのま)に寝たりける若党(わかたう)どもゝ、思々(おもひおもひ)に討死(うちじに)して、遁(のが)るゝ者一人も無(なか)りけり。首(くび)を取(とつ)て鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て、山本九郎は是(これ)より六波羅(ろくはら)へ馳参(はせまゐ)る。多治見が宿所へは、小串(こぐし)三郎左衛門範行(のりゆき)を先(さき)として、三千余騎にて推寄(おしよせ)たり。多治見は終夜(よもすがら)の酒に飲酔(のみゑひ)て、前後(ぜんご)も不知臥(ふし)たりけるが、時(とき)の声に驚(おどろい)て、是(これ)は何事ぞと周障(あわて)騒ぐ。傍(そば)に臥(ふし)たる遊君(いうくん)、物馴(ものなれ)たる女(をんな)也ければ、枕なる鎧(よろひ)取(とつ)て打着(うちき)せ、上帯(うはおび)強く縮(しめ)させて、猶寝入(ねいり)たる者どもをぞ起しける。小笠原孫六(をがさはらまごろく)、傾城(けいせい)に驚(おどろか)されて、太刀計(ばかり)を取(とつ)て、中門(ちゆうもん)に走出(はしりい)で、目を磨々(すりすり)四方(しはう)を岐(きつ)と見ければ、車の輪(わ)の旗一流(ひとながれ)、築地(ついぢ)の上(うへ)より見へたり。孫六内へ入(いつ)て、「六波羅(ろくはら)より打手(うつて)の向(むかう)て候(さふらひ)ける。此間(このあひだ)の御謀反(ごむほん)早(はや)顕(あらはれ)たりと覚(おぼえ)候。早(はや)面々(めんめん)太刀の目貫(めぬき)の堪(こら)ゑん程は切合(きりあう)て、腹を切れ。」と呼(よばはつ)て、腹巻(はらまき)取(とつ)て肩になげかけ、廾四差(さい)たる胡■(えびら)と、繁藤(しげどう)の弓とを提(ひつさげ)て、門(もん)の上なる櫓(やぐら)へ走上(はしりあが)り、中差(なかざし)取(とつ)て打番(うちつが)ひ、狭間(さま)の板(いた)八文字(もんじ)に排(ひらい)て、「あらこと/゛\しの大勢(おほぜい)や。我等が手柄のほどこそ顕(あらはれ)たれ。抑(そもそも)討手(うつて)の大将は誰(たれ)と申(まうす)人の向(むかは)れて候やらん。近付(ちかづい)て箭(や)一(ひとつ)請(うけ)て御覧候へ。」と云侭(いふまま)に、十二束三伏(じふにそくみつぶせ)、忘るゝ計(ばかり)引(ひき)しぼりて、切(きつ)て放つ。真前(まつさき)に進(すすん)だる狩野下野前司(かののしもづけのぜんじ)が若党に、衣摺(きぬずりの)助房(すけふさ)が胄(かぶと)のまつかう、鉢付(はちつけ)の板(いた)まで、矢先(やさき)白く射通(いとほ)して、馬より倒(さかさま)に射落(いおと)す。是(これ)を始(はじめ)として、鎧(よろひ)の袖・草摺(くさずり)・胄鉢(かぶとのはち)とも不言、指詰(さしつめ)て思様(おもふさま)に射けるに、面(おもて)に立(たつ)たる兵(つはもの)廾四人、矢の下(した)に射て落す。今一筋(ひとすぢ)胡■(えびら)に残(のこり)たる矢を抜(ぬい)て、胡■(えびら)をば櫓の下(した)へからりと投落(なげおと)し、「此(この)矢一(ひとつ)をば冥途(めいど)の旅の用心に持(もつ)べし。」と云(いつ)て腰にさし、「日本一(につぽんいち)の剛者(がうのもの)、謀叛に与(くみ)し自害(じがい)する有様見置(おい)て人に語れ。」と高声(かうじやう)に呼(よばはつ)て、太刀の鋒(きつさき)を口に呀(くはへ)て、櫓より倒(さかさま)に飛落(とびおち)て、貫(つらぬかれ)てこそ死(し)にけれ。此間(このあひだ)に多治見を始(はじめ)として、一族若党廾余人物具(もののぐ)ひし/\と堅め、大庭(おほには)に跳出(をどりい)で、門(もん)の関(くわん)の木(き)差(さし)て待懸(まちかけ)たり。寄手(よせて)雲霞(うんか)の如しと云へども、思切(おもひきつ)たる者どもが、死狂(しにぐるひ)をせんと引篭(ひつこもつ)たるがこはさに、内へ切(きつ)て入(いら)んとする者も無(なか)りける処に、伊藤彦次郎(ひこじらう)父子兄弟(ふしきやうだい)四人(よつたり)、門の扉(とびら)の少し破(やぶれ)たる処より、這(はう)て内へぞ入(いり)たりける。志の程は武(たけ)けれども、待請(まちうけ)たる敵(てき)の中へ、這(はう)て入(いつ)たる事なれば、敵に打違(うちちがふ)るまでも無(なく)て、皆門(もん)の脇(わき)にて討(うた)れにけり。寄手(よせて)是(これ)を見て、弥(いよいよ)近(ちかづ)く者も無(なか)りける間(あひだ)、内より門(もん)の扉(とびら)を推開(おしひらい)て、「討手(うつて)を承(うけたまは)るほどの人達の、きたなうも見へられ候者哉(かな)。早(はや)是(これ)へ御入(いり)候へ。我等(われら)が頭共(くびども)引出物(ひきでもの)に進(まゐら)せん。」と、恥(はぢ)しめてこそ立(たち)たりけれ。寄手共(よせてども)敵にあくまで欺(あざむか)れて、先陣(せんぢん)五百余人(ごひやくよにん)馬を乗放(のりはな)して、歩立(かちだち)に成(なり)、喚(をめい)て庭へこみ入(いる)。楯篭(たてこも)る所の兵(つはもの)ども、とても遁(のがれ)じと思切(おもひきつ)たる事なれば、何(いづく)へか一足(ひとあし)も引(ひく)べき。二十余人(にじふよにん)の者ども、大勢(おほぜい)の中へ乱入(みだれいつ)て、面(おもて)もふらず切(きつ)て廻(まは)る。先駈(さきがけ)の寄手(よせて)五百余人(ごひやくよにん)、散々(さんざん)に切立(きりたて)られて、門(もん)より外(ほか)へ颯(さつ)と引く。されども寄手は大勢(おほぜい)なれば、先陣引けば二陣喚(をめい)て懸入(かけいる)。々々(かけいれ)ば追出(おひいだし)、々々(おひいだ)せば懸入(かけい)り、辰刻(たつのこく)の始(はじめ)より午刻(うまのこく)の終(をはり)まで、火出(いづ)る程こそ戦(たたかひ)けれ。加様(かやう)に大手(おほて)の軍(いくさ)強(つよ)ければ、佐々木判官(はうぐわん)が手者(てのもの)千余人、後(うしろ)へ廻(まはつ)て錦小路(にしきのこうぢ)より、在家(ざいけ)を打破(うちやぶつ)て乱入(みだれい)る。多治見今は是(これ)までとや思(おもひ)けん、中門(ちゆうもん)に並居(なみゐ)て、二十二人の者ども、互に差違(さしちがへ)々々、算(さん)を散(ちら)せる如く臥(ふし)たりける。追手(おふて)の寄手共(よせてども)が、門(もん)を破(やぶ)りける其間(そのあひだ)に、搦手(からめで)の勢共(せいども)乱入(みだれい)り、首(くび)を取(とつ)て六波羅(ろくはら)へ馳(はせ)帰る。二時計(ふたときばかり)の合戦に、手負死人(ておひしにん)を数(かぞふ)るに、二百七十三人也。
○資朝俊基(すけともとしもと)関東下向(げかうの)事付御告文(ごかうぶんの)事 S0108
土岐(とき)・多治見(たぢみ)討(うた)れて後(のち)、君の御謀叛(ごむほん)次第に隠(かく)れ無(なか)りければ、東使(とうし)長崎四郎左衛門泰光(やすみつ)、南条(なんでうの)次郎左衛門宗直(むねなほ)二人(ににん)上洛(しやうらく)して、五月十日資朝・俊基両人(りやうにん)を召取(めしとり)奉る。土岐が討(うた)れし時、生虜(いけどり)の者一人も無(なか)りしかば、白状(はくじやう)はよも有らじ、さりとも我等が事は顕(あらは)れじと、無墓憑(たのみ)に油断して、曾(かつ)て其(その)用意も無(なか)りければ、妻子(さいし)東西(とうざい)に逃迷(にげまよ)ひて、身を隠さんとするに処なく、財宝(ざいはう)は大路(おほち)に引散(ひきちら)されて、馬蹄(ばてい)の塵(ちり)と成(なり)にけり。彼(かの)資朝卿(すけとものきやう)は日野(ひの)の一門にて、職(しよく)大理(だいり)を経(へ)、官(くわんは)中納言に至りしかば、君の御覚(おんおぼ)へも他に異(ことに)して、家の繁昌時(とき)を得たりき。俊基朝臣(あそん)は身(み)儒雅(じゆが)の下(もと)より出(い)で、望(のぞみ)勲業(くんげふ)の上(うへ)に達(たつ)せしかば、同官(どうくわん)も肥馬(ひば)の塵を望み、長者(ちやうじや)も残盃(ざんばい)の冷(れい)に随ふ。宜(むべなる)哉(かな)「不義而富且貴、於我如浮雲。」と云へる事。是(これ)孔子の善言(ぜんげん)、魯論(ろろん)に記(き)する処なれば、なじかは違(たがふ)べき。夢の中に楽(たのしみ)尽(つき)て、眼前(がんぜん)の悲(かなしみ)云(ここ)に来れり。彼(かれ)を見是(これ)を聞(きき)ける人毎(ごと)に、盛者必衰(しやうじやひつすゐ)の理(り)を知らでも、袖をしぼりゑず。同(おなじき)二十七日、東使(とうし)両人(りやうにん)、資朝・俊基を具足(ぐそく)し奉(たてまつつ)て、鎌倉へ下着(げちやく)す。此(この)人々は殊更謀叛(むほん)の張本(ちやうほん)なれば、軈(やが)て誅せられぬと覚(おぼえ)しかども、倶(とも)に朝廷の近臣として、才覚(さいかく)優長の人たりしかば、世の譏(そし)り君の御憤(いきどほり)を憚(はばかつ)て、嗷問(がうもん)の沙汰にも不及、只尋常(よのつね)の放召人(はなしめしうど)の如(ごとく)にて、侍所(さぶらひどころ)にぞ預置(あづけおか)れける。七月七日、今夜(こんや)は牽牛(けんぎう)・織女(しよくぢよ)の二星(じせい)、烏鵲橋(うじやくのはし)を渡して、一年の懐抱(くわいばう)を解(とく)夜(よ)なれば、宮人(きゆうじん)の風俗(ならはし)、竹竿(ちくかん)に願糸(ねがひのいと)を懸(か)け、庭前(ていぜん)に嘉菓(かくわ)を列(つらね)て、乞巧奠(きつかうでん)を修(しゆす)る夜(よ)なれ共(ども)、世上(せじやう)騒(さわが)しき時節(をりふし)なれば、詩歌(しいか)を奉る騒人(さうじん)も無く、絃管(げんくわん)を調(しらぶ)る伶倫(れいりん)もなし。適(たまたま)上臥(うへぶし)したる月卿雲客(げつけいうんかく)も、何(なに)と無く世中(よのなか)の乱(みだれ)、又誰身上(たがみのうへ)にか来(きたら)んずらんと、魂(たましひ)を消し肝(きも)を冷(ひや)す時分(をりふし)なれば、皆眉を顰(ひそ)め面(おもて)を低(たれ)てぞ候(さふらひ)ける。夜痛(いたく)深(ふけ)て、「誰か候。」と召(めさ)れければ、「吉田(よしだの)中納言冬房(ふゆふさ)候。」とて御前(おんまへ)に候(こう)す。主上席(せき)を近(ちかづけ)て仰(おほせ)有(あり)けるは、「資朝・俊基が囚(とらは)れし後(のち)、東風(とうふう)猶未静(いまだしづかならず)、中夏(ちゆうか)常に危(あやふき)を蹈(ふ)む。此(この)上に又何(いか)なる沙汰をか致(いたさ)んずらんと、叡慮更に不穏。如何(いかん)して先(まづ)東夷(とうい)を定(しづむ)べき謀(はかりごと)有(あら)ん。」と、勅問(ちよくもん)有(あり)ければ、冬房謹(つつしん)で申(まうし)けるは、「資朝・俊基が白状(はくじやう)有りとも承(うけたまはり)候はねば、武臣此(この)上の沙汰には及ばじと存(ぞんじ)候へども、近日(このごろ)東夷(とうい)の行事(ふるまひ)、楚忽(そこつ)の義(ぎ)多(おほく)候へば、御油断(ごゆだん)有(ある)まじきにて候。先(まづ)告文(かうぶん)一紙(いつし)を下(くだ)されて、相摸入道(さがみにふだう)が忿(いかり)を静め候(さふらは)ばや。」と申されければ、主上げにもとや思食(おぼしめさ)れけん、「さらば軈(やが)て冬房書(かけ)。」と仰(おほせ)有(あり)ければ、則(すなはち)御前(おんまへ)にして草案(さうあん)をして、是(これ)を奏覧(そうらん)す。君且(しばらく)叡覧有(あつ)て、御泪(おんなみだ)の告文(かうぶん)にはら/\とかゝりけるを、御袖にて押拭(おしのご)はせ給へば、御前(おんまへ)に候(さふらひ)ける老臣、皆悲啼(ひてい)を含まぬは無(なか)りけり。頓(やが)て万里小路(までのこうぢ)大納言宣房卿(のぶふさのきやう)を勅使として、此告文(このかうぶん)を関東へ下さる。相摸入道、秋田城介(あいたのじやうのすけ)を以て告文(かうぶん)を請取(うけとつ)て、則(すなはち)披見(ひけん)せんとしけるを、二階堂(にかいだうの)出羽(ではの)入道々蘊(だううん)、堅く諌めて申(まうし)けるは、「天子武臣に対して直(ぢき)に告文(かうぶん)を被下たる事、異国にも我(わが)朝にも未(いまだ)其(その)例を承(うけたまはら)ず。然(しかる)を等閑(なほざり)に披見せられん事、冥見(みやうけん)に付(つい)て其恐(そのおそれ)あり。只文箱(ふんばこ)を啓(ひらか)ずして、勅使に返進(かへしまゐら)せらるべきか。」と、再往(さいわう)申(まうし)けるを、相摸入道、「何(なに)か苦しかるべき。」とて、斉藤太郎左衛門利行(としゆき)に読進(よみまゐら)せさせられけるに、「叡心不偽処任天照覧。」被遊たる処を読(よみ)ける時に、利行俄(にはか)に眩(めくるめき)衄(はなぢ)たりければ、読(よみ)はてずして退出(たいしゆつ)す。其(その)日より喉下(のどのした)に悪瘡(あくさう)出(いで)て、七日(なぬか)が中(うち)に血を吐(はい)て死(し)にけり。時(とき)澆季(げうき)に及(およん)で、道(みち)塗炭(どたん)に落(おち)ぬと云(いへ)ども、君臣(くんしん)上下の礼違(たがふ)則(とき)は、さすが仏神(ぶつじん)の罰も有(あり)けりと、是(これ)を聞(きき)ける人毎(ごと)に、懼恐(おぢおそれ)ぬは無(なか)りけり。「何様(なにさま)資朝・俊基の隠謀(いんぼう)、叡慮より出(いで)し事なれば、縦(たとひ)告文(かうぶん)を下されたりと云(いへ)ども、其(それ)に依るべからず。主上をば遠国(をんごく)へ遷(うつ)し奉(たてまつる)べし。」と、初(はじめ)は評定(ひやうぢやう)一決(いつけつ)してけれども、勅使宣房卿(のぶふさのきやう)の被申趣(おもむき)げにもと覚(おぼゆ)る上、告文(かうぶん)読(よみ)たりし利行、俄に血を吐(はい)て死(しに)たりけるに、諸人(しよにん)皆舌を巻き、口を閉づ。相摸入道(さがみにふだう)も、さすが天慮其憚(そのはばかり)有りけるにや、「御治世(ごぢせい)の御事(おんこと)は朝議(てうぎ)に任(まか)せ奉る上は、武家綺(いろ)ひ申(まうす)べきに非(あら)ず。」と、勅答を申(まうし)て、告文(かうぶん)を返進(へんしん)せらる。宣房卿(のぶふさのきやう)則(すなはち)帰洛(きらく)して、此(この)由を奏し申(まうさ)れけるにこそ、宸襟(しんきん)始(はじめ)て解(とけ)て、群臣(ぐんしん)色をば直(なほ)されけれ。去程(さるほど)に俊基朝臣は罪の疑(うたがは)しきを軽(かろん)じて赦免(しやめん)せられ、資朝卿(すけとものきやう)は死罪(しざい)一等を宥(なだ)められて、佐渡国(さどのくに)へぞ流されける。


太平記(国民文庫)
太平記巻第二
○南都北嶺(なんとほくれい)行幸(ぎやうがうの)事(こと) S0201
元徳(げんとく)二年二月四日、行事(ぎやうじ)の弁別当(べんのべつたう)、万里小路(までのこうぢ)中納言(ちゆうなごん)藤房卿(ふぢふさのきやう)を召(めさ)れて、「来月八日東大寺興福寺(こうふくじ)行幸(ぎやうがう)有(ある)べし、早(はやく)供奉(ぐぶ)の輩(ともがら)に触仰(ふれおほ)すべし。」と仰出(おほせいだ)されければ、藤房(ふぢふさ)古(ふるき)を尋(たづね)、例(れい)を考(かんがへ)て、供奉(ぐぶ)の行装(かうさう)、路次(ろし)の行列(かうれつ)を定(さだめ)らる。佐々木(ささきの)備中守(びつちゆうのかみ)廷尉(ていゐ)に成(なつ)て橋を渡(わた)し、四十八箇所(しじふはちかしよの)篝(かがり)、甲胄(かつちう)を帯(たい)し、辻(つじ)々を堅(かた)む。三公(さんこう)九卿(きうけい)相従(あひしたが)ひ、百司千官(はくしせんくわん)列(れつ)を引(ひく)、言語道断(ごんごだうだん)の厳儀(げんぎ)也。東大寺と申(まうす)は聖武(しやうむ)天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)、閻浮(えんぶ)第一(だいいち)の盧舎那仏(るしやなぶつ)、興福寺と申(まうす)は淡海公(たんかいこう)の御願、藤氏(とうし)尊崇(そんそう)の大伽藍(だいがらん)なれば、代々(だいだい)の聖主(せいしゆ)も、皆結縁(けちえん)の御志(おんこころざし)は御坐(おは)せども、一人(いちじん)出給(いでたまふ)事(こと)容易(たやす)からざれば、多年臨幸の儀(ぎ)もなし。此御代(このみよ)に至(いたつ)て、絶(たえ)たるを継(つぎ)、廃(すたれ)たるを興(おこ)して、鳳輦(ほうれん)を廻(めぐら)し給(たまひ)しかば、衆徒(しゆと)歓喜(くわんぎ)の掌(たなごころ)を合(あは)せ、霊仏(れいぶつ)威徳(ゐとく)の光をそふ。されば春日山(かすがやま)の嵐の音も、今日(けふ)よりは万歳(ばんぜい)を呼(よば)ふかと怪(あやし)まれ、北の藤波(ふじなみ)千代(ちよ)かけて、花(はな)咲(さく)春の陰(かげ)深し。又同(おなじき)月二十七日に、比叡山(ひえいさん)に行幸(ぎやうがう)成(なつ)て、大講堂(だいかうだう)供養(くやう)あり。彼(かの)堂と申(まうす)は、深草天皇(ふかくさのてんわう)の御願(ごぐわん)、大日遍照(だいにちへんぜう)の尊像(そんざう)也。中比(なかごろ)造営(ざうえい)の後(のち)、未(いまだ)供養を遂(とげ)ずして、星霜(せいざう)已(すでに)積(つも)りければ、甍(いらか)破(やぶれ)ては霧(きり)不断(ふだん)の香(かう)を焼(たき)、扉(とぼそ)落(おち)ては月常住(じやうぢゆ)の燈(ともしび)を挑(かか)ぐ。されば満山(まんさん)歎(なげい)て年を経(ふ)る処に、忽(たちまち)に修造(しゆざう)の大功を遂(とげ)られ、速(すみやか)に供養の儀式を調(ととの)へ給(たまひ)しかば、一山(いつさん)眉(まゆ)を開(ひら)き、九院(きうゐん)首(かうべ)を傾(かたぶ)けり。御導師(おんだうし)は妙法院(めうほふゐんの)尊澄(そんちよう)法親王(ほふしんわう)、咒願(じゆぐわん)は時の座主(ざす)大塔(おほたふの)尊雲(そんうん)法親王(ほふしんわう)にてぞ御座(おは)しける。称揚讚仏(しようやうさんぶつ)の砌(みぎり)には、鷲峯(じゆほう)の花(はな)薫(にほひ)を譲り、歌唄頌徳(かばいじゆとく)の所には、魚山(ぎよさん)の嵐(あらし)響(ひびき)を添(そふ)。伶倫(れいりん)遏雲(あつうん)の曲を奏し、舞童(ぶどう)回雪(くわいせつ)の袖を翻(ひるがへ)せば、百獣も率舞(そつしまひ)、鳳鳥(ほうてう)も来儀(らいぎ)する計(ばかり)也。住吉の神主(かんぬし)、津守(つもり)の国夏(くになつ)大皷(たいこ)の役(やく)にて登山(とうさん)したりけるが、宿坊(しゆくばう)の柱に一首(いつしゆ)の歌をぞ書付(かきつけ)たる。契(ちぎり)あれば此山(このやま)もみつ阿耨多羅(あのくたら)三藐三菩提(さんみやくさんぼだい)の種(たね)や植剣(うゑけん)是(これ)は伝教大師(でんげうたいし)当山(たうざん)草創(さうさう)の古(いにしへ)、「我(わが)立(たつ)杣(そま)に冥加(みやうが)あらせ給へ。」と、三藐三菩提(さんみやくさんぼだい)の仏達(ほとけたち)に祈給(いのりたまひ)し故事(こじ)を思(おもう)て、読(よめ)る歌なるべし。抑(そもそも)元亨(げんかう)以後、主(しゆ)愁(うれへ)臣(しん)辱(はづかしめ)られて、天下更(さらに)安(やすき)時なし。折節(をりふし)こそ多かるに、今南都北嶺(なんとほくれい)の行幸、叡願(えいぐわん)何事(なにこと)やらんと尋(たづぬ)れば、近年(きんねん)相摸入道(さがみにふだうの)振舞、日来(ひごろ)の不儀に超過(てうくわ)せり。蛮夷(ばんい)の輩(ともがら)は、武命(ぶめい)に順(したが)ふ者なれば、召(めす)とも勅(ちよく)に応ずべからず。只山門南都の大衆(だいしゆ)を語(かたらひ)て、東夷(とうい)を征罰(せいばつ)せられん為の御謀叛(ごむほん)とぞ聞(きこ)へし。依之大塔(おほたふ)の二品(にほん)親王(しんわう)は、時の貫主(くわんじゆ)にて御坐(おは)せしか共(ども)、今は行学(かうがく)共(とも)に捨(すて)はてさせ給(たまひ)て、朝暮(てうぼ)只武勇の御嗜(たしなみ)の外(ほか)は他事なし。御好(おんこのみ)有故(あるゆゑ)にや依(より)けん、早業(はやわざ)は江都(かうと)が軽捷(けいせふ)にも超(こえ)たれば、七尺(しつせき)の屏風(びやうぶ)未(いまだ)必(かならず)しも高しともせず。打物(うちもの)は子房(しばう)が兵法(ひやうはふ)を得玉(えたま)へば、一巻(いつくわん)の秘書尽(つく)されずと云(いふ)事(こと)なし。天台座主(てんだいのざす)始(はじまつ)て、義真和尚(ぎしんくわしやう)より以来(このかた)一百余代、未(いまだ)懸(かか)る不思議の門主(もんしゆ)は御坐(おはしま)さず。後(のち)に思合(おもひあは)するにこそ、東夷征罰(とういせいばつ)の為に、御身(おんみ)を習(ならは)されける武芸の道とは知られたれ。
○僧徒(そうと)六波羅(ろくはらへ)召捕(めしとる)事(こと)付為明(ためあきら)詠歌(えいかの)事(こと) S0202
事の漏安(もれやす)きは、禍(わざはひ)を招く媒(なかだち)なれば、大塔宮(おほたふのみや)の御行事(おんふるまひ)、禁裡(きんり)に調伏(てうぶく)の法被行事共(ども)、一々に関東へ聞へてけり。相摸入道(さがみにふだう)大(おほき)に怒(いかつ)て、「いや/\此君(このきみの)御在位(ございゐ)の程は天下静まるまじ。所詮(しよせん)君をば承久(しようきう)の例(れい)に任(まかせ)て、遠国(をんごく)へ移し奉(まゐら)せ、大塔宮(おほたふのみや)を死罪(しざい)に所(しよ)し奉るべき也。先(まづ)近日(このころ)殊に竜顔(りようがん)に咫尺奉(しせきしたてまつつ)て、当家(たうけ)を調伏(てうぶく)し給ふなる、法勝寺(ほつしようじ)の円観(ゑんくわん)上人・小野(をの)の文観(もんくわん)僧正・南都の知教(ちけう)・教円(けうゑん)・浄土寺(じやうどじ)の忠円(ちゆうゑん)僧正を召取(めしとり)て、子細(しさい)を相尋(あひたづぬ)べし。」と、已(すで)に武命を含(ふくん)で、二階堂下野判官(にかいだうしもつけのはうぐわん)・長井遠江守(ながゐとほたふみのかみ)二人(ににん)、関東より上洛(しやうらく)す。両使(りやうし)已(すで)に京着(きやうちやく)せしかば、「又何(いか)なる荒き沙汰(さた)をか致さんずらん。」と、主上宸襟(しんきん)を悩(なやま)されける所に、五月十一日の暁(あかつき)、雑賀隼人佐(さいがはやとのすけ)を使にて、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・浄土寺の忠円僧正、三人(さんにん)を六波羅(ろくはら)へ召取(めしとり)奉る。此(この)中に忠円僧正は、顕宗(けんしゆう)の碩徳(せきとく)也しかば、調伏の法行(おこなう)たりと云(いふ)、其人数(そのにんじゆ)には入(い)らざりしかども、是(これ)も此(この)君に近付き奉(たてまつつ)て、山門(さんもん)の講堂(かうだう)供養(くやう)以下(いげ)の事(こと)、万(よろづ)直(ぢき)に申沙汰(まうしさた)せられしかば、衆徒(しゆと)与力(よりき)の事(こと)、此(この)僧正よも存(ぞん)ぜられぬ事は非じとて、同(おなじく)召取(めしとら)れ給(たまひ)にけり。是(これ)のみならず、智教・教円二人(ににん)も、南都より召出(めしいだ)されて、同(おなじく)六波羅(ろくはら)へ出(いで)給ふ。又二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為明(ためあきらの)卿(きやう)は、歌道(かだう)の達者(たつしや)にて、月の夜(よ)雪の朝(あした)、褒貶(はうへん)の歌合(うたあはせ)の御会(ごくわい)に召(めさ)れて、宴(えん)に侍(はんべ)る事隙(ひま)無(なか)りしかば、指(さし)たる嫌疑(けんぎ)の人にては無(なか)りしかども、叡慮の趣を尋問(たづねとは)ん為に召取(めしとら)れて、斉藤某(なにがし)に是(これ)を預(あづけ)らる。五人の僧達(そうたち)の事は、元来(もとより)関東へ召下(めしくだ)して、沙汰有(ある)べき事なれば、六波羅(ろくはら)にて尋窮(たづねきはむる)に及ばず。為明(ためあきらの)卿(きやう)の事に於ては、先(まづ)京都にて尋沙汰(たづねさた)有(あつ)て、白状(はくじやう)あらば、関東へ註進(ちゆうしん)すべしとて、検断(けんだん)に仰(おほせ)て、已(すでに)嗷問(がうもん)の沙汰に及(およば)んとす。六波羅(ろくはら)の北の坪(つぼ)に炭をゝこす事(こと)、■湯炉壇(くわくたうろだん)の如(ごとく)にして、其(その)上に青竹を破(わ)りて敷双(しきなら)べ、少(すこし)隙(ひま)をあけゝれば、猛火(みやうくわ)炎(ほのほ)を吐(はい)て、烈(れつ)々たり。朝夕雑色(でうじやくざふしき)左右(さいう)に立双(たちならん)で、両方(りやうばう)の手を引張(ひつばつ)て、其(その)上を歩(あゆま)せ奉(たてまつら)んと、支度(したく)したる有様は、只四重(しぢゆう)五逆(ごぎやく)の罪人(ざいにん)の、焦熱大焦熱(せうねつだいせうねつ)の炎(ほのほ)に身を焦(こが)し、牛頭馬頭(ごづめづ)の呵責(かしやく)に逢(あふ)らんも、角社(かくこそ)有(あ)らめと覚(おぼ)へて、見(みる)にも肝(きも)は消(きえ)ぬべし。為明(ためあきら)卿(きやう)是(これ)を見給て、「硯(すずり)や有(ある)。」と尋(たづね)られければ、白状(はくじやう)の為かとて、硯(すずり)に料紙(れうし)を取添(とりそへ)て奉りければ、白状(はくじやう)にはあらで、一首(いつしゆ)の歌をぞ書(かか)れける。
思(おもひ)きや我敷嶋(わがしきしま)の道ならで浮世の事を問(とは)るべしとは常葉駿河守(ときはするがのかみ)、此(この)歌を見て感歎(かんたん)肝(きも)に銘(めい)じければ、泪(なみだ)を流して理(り)に伏(ふく)す。東使(とうし)両人も是(これ)を読(よみ)て、諸共(もろとも)に袖を浸(ひた)しければ、為明(ためあきら)は水火(すゐくわ)の責(せめ)を遁(のが)れて、咎(とが)なき人に成(なり)にけり。詩歌(しいか)は朝廷の翫(もてあそぶ)処、弓馬(きゆうば)は武家の嗜(たしな)む道なれば、其慣(そのならはし)未(いまだ)必(かならず)しも、六義(りくぎ)数奇(すき)の道に携(たづさは)らねども、物(ものの)相感(あひかん)ずる事(こと)、皆(みな)自然なれば、此(この)歌一首(いつしゆ)の感(かん)に依(よつ)て、嗷問(がうもん)の責(せめ)を止(や)めける、東夷(とうい)の心中(こころのうち)こそやさしけれ。力をも入(いれ)ずして、天地(あめつち)を動(うごか)し、目にみへぬ鬼神(おにがみ)をも哀(あはれ)と思はせ、男女(をとこをんな)の中(なか)をも和(やはら)げ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰(なぐさむ)るは歌也と、紀貫之(きのつらゆき)が古今(こきん)の序(じよ)に書(かき)たりしも、理(ことわり)なりと覚(おぼえ)たり。
○三人(さんにんの)僧徒(そうと)関東下向(げかうの)事(こと) S0203
同年(おなじきとしの)六月八日、東使(とうし)三人(さんにん)の僧達(そうたち)を具足(ぐそく)し奉(たてまつつ)て、関東に下向す。彼(かの)忠円僧正と申(まうす)は、浄土寺慈勝(じしよう)僧正の門弟として、十題判断(じふだいはんだん)の登科(とうくわ)、一山(いつさん)無双(ぶさう)の碩学(せきがく)也。文観(もんくわん)僧正と申(まうす)は、元(もと)は播磨国(はりまのくに)法華寺(ほつけじ)の住侶(ぢゆりよ)たりしが、壮年(さうねん)の比(ころ)より醍醐寺(だいごじ)に移住(いぢゆう)して、真言(しんごん)の大阿闍梨(だいあじやり)たりしかば、東寺(とうじ)の長者(ちやうじや)、醍醐の座主(ざす)に補(ふ)せられて、四種三密(ししゆさんみつ)の棟梁(とうりやう)たり。円観上人と申(まうす)は、元(もと)は山徒(さんと)にて御坐(おはし)けるが、顕密両宗(けんみつりやうしゆう)の才(さい)、一山(いつさん)に光(ひかり)有(ある)かと疑はれ、智行兼備(ちぎやうけんび)の誉(ほま)れ、諸寺(しよじ)に人無(なき)が如し。然(しかれ)ども久(ひさしく)山門澆漓(げうり)の風(ふう)に随はゞ、情慢(じやうまん)の幢(はたほこ)高(たかう)して、遂に天魔(てんま)の掌握(しやうあく)の中(うち)に落(おち)ぬべし。不如、公請論場(くしやうろんぢやう)の声誉(せいよ)を捨(すて)て、高祖大師(かうそたいし)の旧規(きうき)に帰(かへら)んにはと、一度(ひとたび)名利(みやうり)の轡(くつばみ)を返して、永く寂寞(じやくまく)の苔(こけ)の扉(とぼそ)を閉(とぢ)給ふ。初(はじめ)の程は西塔(さいたふ)の黒谷(くろたに)と云(いふ)所に居(きよ)を卜(しめ)て、三衣(さんえ)を荷葉(かえふ)の秋(あき)の霜に重(かさ)ね、一鉢(いつばち)を松華(しようくわ)の朝(あした)の風(かぜ)に任(まかせ)給ひけるが、徳不孤必(かならず)有隣、大明(だいみやう)光(ひかり)を蔵(かくさ)ざりければ、遂に五代聖主の国師(こくし)として、三聚浄戒(さんじゆじやうかい)の太祖(たいそ)たり。かゝる有智高行(うちかうぎやう)の尊宿(そんしゆく)たりと云へども、時の横災(わうさい)をば遁(のがれ)給はぬにや、又前世(ぜんぜ)の宿業(しゆくごふ)にや依(より)けん。遠蛮(ゑんばん)の囚(とらはれ)と成(なつ)て、逆旅(げきりよ)の月にさすらひ給(たまふ)、不思議なりし事ども也。円観上人計(ばかり)こそ、宗印(そういん)・円照(ゑんせう)・道勝(だうしよう)とて、如影随形(によやうずゐぎやう)の御弟子(おんでし)三人(さんにん)、随逐(ずゐちく)して輿(こし)の前後(ぜんご)に供奉(ぐぶ)しけれ。其外(そのほか)文観僧正・忠円僧正には相随(あひしたがふ)者一人も無(なく)て、怪(あやしげ)なる店馬(てんま)に乗(の)せられて、見馴(みなれ)ぬ武士(ぶし)に打囲(うちかこま)れ、まだ夜(よ)深きに鳥が鳴(なく)東(あづま)の旅に出(いで)給ふ、心の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。鎌倉(かまくら)までも下(くだ)し着(つ)けず、道にて失ひ奉るべしなんど聞へしかば、彼(かしこ)の宿(しゆく)に着(つい)ても今や限り、此(ここ)の山に休(やす)めば是(これ)や限りと、露の命(いのち)のある程も、心は先(さき)に消(きえ)つべし。昨日(きのふ)も過(すぎ)今日(けふ)も暮(くれ)ぬと行程(ゆくほど)に、我(われ)とは急(いそ)がぬ道なれど、日数(ひかず)積(つも)れば、六月二十四日に鎌倉(かまくら)にこそ着(つき)にけれ。円観上人をば佐介(さすけ)越前守(ゑちぜんのかみ)、文観僧正をば佐介遠江守(とほたふみのかみ)、忠円僧正をば足利(あしかが)讚岐守(さぬきのかみ)にぞ預(あづけ)らる。両使帰参(きさん)して、彼(かの)僧達(そうたち)の本尊の形(かたち)、炉壇(ろだん)の様(やう)、画図(ゑづ)に写(うつし)て註進す。俗人(ぞくじん)の見知(みし)るべき事ならねば、佐々目(ささめ)の頼禅(らいぜん)僧正を請(しやう)じ奉(たてまつつ)て、是(これ)を被見せに、「子細(しさい)なき調伏(てうぶく)の法也。」と申されければ、「去(さら)ば此(この)僧達(そうたち)を嗷問(がうもん)せよ。」とて、侍所(さふらひどころ)に渡して、水火(すゐくわ)の責(せめ)をぞ致しける。文観房(もんくわんばう)暫(しばし)が程はいかに問(とは)れけれ共(ども)、落(おち)玉はざりけるが、水問(みづもん)重(かさな)りければ、身も疲(つかれ)心も弱(よわく)なりけるにや、「勅定(ちよくじやう)に依(よつ)て、調伏の法行(おこなう)たりし条子細なし。」と、白状(はくじやう)せられけり。其後(そののち)忠円房を嗷問せんとす。此(この)僧正天性(てんせい)臆病(おくびやう)の人にて、未責(いまだせめざる)先(さき)に、主上(しゆしやう)山門を御語(おんかたら)ひありし事(こと)、大塔(おほたふ)の宮(みや)の御振舞、俊基(としもと)の隠謀(いんぼう)なんど、有(あり)もあらぬ事までも、残所(のこるところ)なく白状(はくじやう)一巻(いつくわん)に載(のせ)られたり。此(この)上は何(なん)の疑(うたがひ)か有(ある)べきなれ共(ども)、同罪(どうざい)の人なれば、閣(さしおく)べきに非(あら)ず。円観上人をも明日(みやうにち)問(とひ)奉るべき評定(ひやうぢやう)ありける。其夜(そのよ)相摸入道(さがみにふだう)の夢に、比叡山の東坂本(ひがしさかもと)より、猿共(さるども)二三千群来(むらがりきたつ)て、此(この)上人を守護(しゆご)し奉る体(てい)にて、並居(なみゐ)たりと見給ふ。夢の告(つげ)只事(ただごと)ならずと思はれければ、未明(びめい)に預人(あづかりうど)の許(もと)へ使者(ししや)を遣(つかは)し、「上人嗷問(がうもん)の事暫く閣(さしおく)べし。」と被下知処に、預人遮(さへぎつ)て相摸入道(さがみにふだう)の方(かた)に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「上人嗷問の事(こと)、此暁(このあかつき)既(すでに)其(その)沙汰を致(いたし)候はん為に、上人の御方(おんかた)へ参(まゐつ)て候へば、燭(ともしび)を挑(かかげ)て観法定坐(くわんぽふぢやうざ)せられて候。其(その)御影(おんかげ)後(うしろ)の障子(しやうじ)に移(うつつ)て、不動明王(ふどうみやうわう)の貌(かたち)に見(みえ)させ給(たまひ)候つる間(あひだ)、驚き存(そんじ)て、先(まづ)事(こと)の子細(しさい)を申入(まうしいれ)ん為に、参て候也。」とぞ申(まうし)ける。夢想(むさう)と云(いひ)、示現(じげん)と云(いひ)、只人(ただひと)にあらずとて、嗷問の沙汰を止(やめ)られけり。同(おなじき)七月十三日に、三人(さんにん)の僧達(そうたち)遠流(をんる)の在所(ざいしよ)定(さだまつ)て、文観僧正をば硫黄(いわう)が嶋、忠円僧正をば越後国(ゑちごのくに)へ流さる。円観上人計(ばかり)をば遠流一等を宥(なだめ)て、結城上野(ゆふきかうづけ)入道に預(あづけ)られければ、奥州(あうしう)へ具足(ぐそく)し奉(たてまつり)、長途(ちやうど)の旅にさすらひ給(たまふ)。左遷遠流(させんをんる)と云(いは)ぬ計(ばかり)也。遠蛮(ゑんばん)の外(ほか)に遷(うつ)されさせ給へば、是(これ)も只同じ旅程(りよてい)の思(おもひ)にて、肇法師(でうほふし)が刑戮(けいりく)の中(うち)に苦(くるし)み、一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)の火羅国(くわらこく)に流されし、水宿山行(すゐしゆくさんぎやう)の悲(かなしみ)もかくやと思知(おもひしら)れたり。名取川(なとりがは)を過(すぎ)させ給(たまふ)とて上人一首(いつしゆ)の歌を読(よみ)給ふ。陸奥(みちのく)のうき名取川流来(ながれき)て沈(しづみ)やはてん瀬々(せぜ)の埋木(うもれぎ)時の天災(てんさい)をば、大権(だいごん)の聖者(しやうじや)も遁(のが)れ給はざるにや。昔天竺(てんぢく)の波羅奈国(はらないこく)に、戒定慧(かいぢやうゑ)の三学を兼備(けんび)し給へる独(ひとり)の沙門(しやもん)をはしけり。一朝(いつてう)の国師(こくし)として四海(しかい)の倚頼(いらい)たりしかば、天下の人帰依偈仰(きえかつがう)せる事(こと)、恰(あたかも)大聖世尊(だいしやうせそん)の出世成道(しゆつせじやうだう)の如(ごとく)也。或時(あるとき)其国(そのくに)の大王法会(ほふゑ)を行ふべき事有(あつ)て説戒(せつかい)の導師(だうし)に此(この)沙門(しやもん)をぞ請(しやう)ぜられける。沙門(しやもん)則(すなはち)勅命に随(したがつ)て鳳闕(ほうけつ)に参(さん)ぜらる。帝(みかど)折節(をりふし)碁(ご)を被遊ける砌(みぎり)へ、伝奏(てんそう)参(まゐつ)て、沙門(しやもん)参内(さんだい)の由を奏し申(まうし)けるを、遊(あそば)しける碁(ご)に御心(おんこころ)を入(いれ)られて、是(これ)を聞食(きこしめさ)れず、碁(ご)の手(て)に付(つい)て、「截(き)れ。」と仰(おほせ)られけるを、伝奏聞誤(ききあやま)りて、此(この)沙門(しやもん)を刎(きれ)との勅定(ちよくぢやう)ぞと心得て、禁門(きんもん)の外(ほか)に出(いだ)し、則(すなはち)沙門(しやもん)の首(くび)を刎(はね)てけり。帝(みかど)碁をあそばしはてゝ、沙門(しやもん)を御前(おんまへ)へ召(めされ)ければ、典獄(てんごく)の官(くわん)、「勅定に随(したがつ)て首(くび)を刎(はね)たり。」と申す。帝(みかど)大(おほき)に逆鱗(げきりん)ありて、「「行死(かうし)定(さだまつ)て後(のち)三奏(さんそう)す」と云へり。而(しかる)を一言(いちげん)の下(した)に誤(あやまり)を行(おこなう)て、朕(ちん)が不徳(ふとく)をかさぬ。罪大逆(たいぎやく)に同じ。」とて、則(すなはち)伝奏を召出(めしいだ)して三族の罪に行(おこなは)れけり。さて此(この)沙門(しやもん)罪なくして死刑に逢ひ給(たまひ)ぬる事只事(ただごと)にあらず、前生(ぜんじやう)の宿業(しゆくごふ)にてをはすらんと思食(おぼしめさ)れければ、帝其故(そのゆゑ)を阿羅漢(あらかん)に問(とひ)給ふ。阿羅漢(あらかん)七日が間(あひだ)、定(ぢやう)に入(いつ)て宿命通(しゆくみやうつう)を得て過現(くわげん)を見給ふに、沙門(しやもん)の前生(ぜんじやう)は耕作(かうさく)を業(げふ)とする田夫(でんぶ)也。帝の前生は水にすむ蛙(かはづ)にてぞ有(あり)ける。此(この)田夫鋤(すき)を取(とり)て春の山田(やまだ)をかへしける時、誤(あやまつ)て鋤のさきにて、蛙(かはづ)の頚をぞ切(きり)たりける。此因果(このいんぐわ)に依(よつ)て、田夫は沙門(しやもん)と生(うま)れ、蛙(かいる)は波羅奈国(はらないこく)の大王と生れ、誤(あやまつ)て又死罪(しざい)を行(おこなは)れけるこそ哀(あはれ)なれ。されば此(この)上人も、何(いか)なる修因感果(しゆいんかんくわ)の理(り)に依(よつて)か、卦(かか)る不慮(ふりよ)の罪に沈給(しづみたまひ)ぬらんと、不思議也し事共(ども)也。
○俊基朝臣(としもとあそん)再(ふたたび)関東下向(げかうの)事(こと) S0204
俊基(としもと)朝臣は、先年(せんねん)土岐(とき)十郎頼貞(よりさだ)が討(うた)れし後、召取(めしとら)れて、鎌倉(かまくら)まで下給(くだりたまひ)しかども、様々(さまざま)に陳(ちん)じ申されし趣(おもむき)、げにもとて赦免(しやめん)せられたりけるが、又今度(このたび)の白状共(はくじやうども)に、専(もつぱら)隠謀の企(くはだて)、彼(かの)朝臣にありと載(のせ)たりければ、七月十一日に又六波羅(ろくはら)へ召取(めしとら)れて関東へ送られ給ふ。再犯(さいほん)不赦法令(はふれい)の定(さだま)る所なれば、何(なに)と陳(ちんず)る共(とも)許されじ、路次(ろし)にて失(うしなは)るゝか鎌倉(かまくら)にて斬(きら)るゝか、二(ふたつ)の間(あひだ)をば離れじと、思儲(おもひまうけ)てぞ出(いで)られける。落花(らくくわ)の雪に蹈(ふみ)迷ふ、片野(かたの)の春の桜がり、紅葉(もみぢ)の錦を衣(き)て帰(かへる)、嵐の山の秋の暮、一夜(ひとよ)を明(あか)す程だにも、旅宿(たびね)となれば懶(ものうき)に、恩愛(おんあい)の契(ちぎ)り浅からぬ、我(わが)故郷(ふるさと)の妻子(さいし)をば、行末(ゆくへ)も知(しら)ず思置(おもひおき)、年久(としひさしく)も住馴(すみなれ)し、九重(ここのへ)の帝都(ていと)をば、今を限(かぎり)と顧(かへりみ)て、思はぬ旅に出(いで)玉ふ、心の中(うち)ぞ哀(あはれ)なる。憂(うき)をば留(とめ)ぬ相坂(あふさか)の、関の清水(しみづ)に袖濡(ぬれ)て、末(すゑ)は山路(やまぢ)を打出(うちで)の浜、沖を遥(はるかに)見渡せば、塩(しほ)ならぬ海にこがれ行(ゆく)、身(み)を浮舟(うきふね)の浮沈(うきしづ)み、駒も轟(とどろ)と踏鳴(ふみなら)す、勢多(せた)の長橋(ながはし)打(うち)渡り、行向(ゆきかふ)人に近江路(あふみぢ)や、世のうねの野に鳴(なく)鶴(つる)も、子を思(おもふ)かと哀(あはれ)也。時雨(しぐれ)もいたく森山(もりやま)の、木下露(このしたつゆ)に袖ぬれて、風に露(つゆ)散(ち)る篠原(しのはら)や、篠(しの)分(わく)る道を過行(すぎゆけ)ば、鏡(かがみ)の山は有(あり)とても、泪(なみだ)に曇(くもり)て見へ分(わか)ず。物を思へば夜間(よのま)にも、老蘇森(おいそのもり)の下草(したくさ)に、駒を止(とどめ)て顧(かへりみ)る、古郷(ふるさと)を雲や隔つらん。番馬(ばんば)、醒井(さめがゐ)、柏原(かしはばら)、不破(ふは)の関屋(せきや)は荒果(あれはて)て、猶(なほ)もる物は秋の雨の、いつか我身(わがみ)の尾張(をはり)なる、熱田(あつた)の八剣(やつるぎ)伏拝(ふしをが)み、塩干(しほひ)に今や鳴海潟(なるみがた)、傾(かたぶ)く月に道見へて、明(あけ)ぬ暮(くれ)ぬと行(ゆく)道の、末(すゑ)はいづくと遠江(とほたふみ)、浜名(はまな)の橋の夕塩(ゆふしほ)に、引人(ひくひと)も無き捨小船(すてをぶね)、沈みはてぬる身にしあれば、誰か哀(あはれ)と夕暮の、入逢(いりあひ)鳴(なれ)ば今はとて、池田(いけだ)の宿(しゆく)に着(つき)給ふ。元暦(げんりやく)元年(ぐわんねん)の比(ころ)かとよ、重衡(しげひらの)中将(ちゆうじやう)の、東夷(とうい)の為に囚(とらは)れて、此宿(このしゆく)に付給(つきたまひ)しに、「東路(あづまぢ)の丹生(はにふ)の小屋(こや)のいぶせきに、古郷(ふるさと)いかに恋(こひ)しかるらん。」と、長者(ちやうじや)の女(むすめ)が読(よみ)たりし、其古(そのいにしへ)の哀迄(あはれまで)も、思残(おもひのこ)さぬ泪(なみだ)也。旅館(りよくわん)の燈(ともしび)幽(かすか)にして、鶏鳴(けいめい)暁(あかつき)を催(もよほ)せば、疋馬(ひつば)風に嘶(いば)へて、天竜河を打渡り、小夜(さよ)の中山(なかやま)越行(こえゆけ)ば、白雲(はくうん)路(みち)を埋来(うづみき)て、そことも知(しら)ぬ夕暮に、家郷(かけい)の天(そら)を望(のぞみ)ても、昔(むかし)西行法師(さいぎやうほふし)が、「命(いのち)也けり。」と詠(えいじ)つゝ、二度(ふたたび)越(こえ)し跡(あと)までも、浦山敷(うらやましく)ぞ思はれける。隙(ひま)行(ゆく)駒(こま)の足はやみ、日(ひ)已(すでに)亭午(ていご)に昇(のぼ)れば、餉(かれひ)進(まゐらす)る程とて、輿(こし)を庭前(ていぜん)に舁止(かきとど)む。轅(ながえ)を叩(たたい)て警固(けいご)の武士(ぶし)を近付(ちかづ)け、宿(しゆく)の名を問(とひ)給ふに、「菊川(きくかは)と申(まうす)也。」と答へければ、承久(しようきう)の合戦の時、院宣(ゐんぜん)書(かき)たりし咎(とが)に依(よつ)て、光親(みつちかの)卿(きやう)関東へ召下(めしくだ)されしが、此宿(このしゆく)にて誅(ちゆう)せられし時、昔南陽懸菊水。汲下流而延齢。今東海道菊河。宿西岸而終命。と書(かき)たりし、遠き昔の筆の跡、今は我(わが)身の上になり。哀(あはれ)やいとゞ増(まさ)りけん、一首(いつしゆ)の歌を詠(えいじ)て、宿(やど)の柱にぞ書(かか)れける。古(いにしへ)もかゝるためしを菊川の同じ流(ながれ)に身をや沈めん大井河(おほゐがは)を過(すぎ)給へば、都にありし名を聞(きき)て、亀山殿(かめやまどの)の行幸(ぎやうがう)の、嵐の山の花盛(はなざか)り、竜頭鷁首(りようどうげきしゆ)の舟に乗り、詩歌管絃(しいかくわんげん)の宴(えん)に侍(はんべり)し事も、今は二度(ふたたび)見ぬ夜(よ)の夢と成(なり)ぬと思(おもひ)つゞけ給ふ。嶋田(しまだ)、藤枝(ふぢえだ)に懸(かか)りて、岡辺(をかべ)の真葛(まくず)裡枯(うらがれ)て、物かなしき夕暮に、宇都(うつ)の山辺を越行(こえゆけ)ば、蔦楓(つたかへで)いと茂りて道もなし。昔業平(なりひら)の中将(ちゆうじやう)の住所(すみところ)を求(もとむ)とて、東(あづま)の方(かた)に下(くだる)とて、「夢にも人に逢(あは)ぬなりけり。」と読(よみ)たりしも、かくやと思知(おもひしら)れたり。清見潟(きよみがた)を過(すぎ)給へば、都に帰る夢をさへ、通(とほ)さぬ波の関守(せきもり)に、いとゞ涙を催(もよほ)され、向(むかひ)はいづこ三穂(みほ)が崎・奥津(おきつ)・神原(かんばら)打過(うちすぎ)て、富士の高峯(たかね)を見給へば、雪の中より立(たつ)煙(けぶり)、上(うへ)なき思(おもひ)に比(くら)べつゝ、明(あく)る霞に松見へて、浮嶋が原を過行(すぎゆけ)ば、塩干(しほひ)や浅き船浮(うき)て、をり立(たつ)田子(たご)の自(みづから)も、浮世を遶(めぐ)る車返(くるまがへ)し、竹の下道(したみち)行(ゆき)なやむ、足柄山(あしがらやま)の巓(たうげ)より、大磯小磯(おほいそこいそを)直下(みおろし)て、袖にも波はこゆるぎの、急(いそぐ)としもはなけれども、日数(ひかず)つもれば、七月二十六日の暮(くれ)程に、鎌倉(かまくら)にこそ着玉(つきたまひ)けれ。其(その)日軈(やが)て、南条(なんでう)左衛門高直(たかなほ)請取奉(うけとりたてまつつ)て、諏防(すは)左衛門に預(あづけ)らる。一間(ひとま)なる処に蜘手(くもで)きびしく結(ゆう)て、押篭(おしこめ)奉る有様、只地獄(ぢごく)の罪人(ざいにん)の十王(じふわふ)の庁(ちやう)に渡されて、頚械(くびかせ)手械(てかせ)を入(いれ)られ、罪の軽重(きやうぢゆう)を糺(ただ)すらんも、右(かく)やと思知(おもひしら)れたり。
○長崎新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)意見(いけんの)事(こと)付阿新殿(くまわかどのの)事(こと) S0205
当今(たうぎん)御謀反(ごむほん)の事露顕(ろけん)の後(のち)御位(おんくらゐ)は軈(やが)て持明院殿(ぢみやうゐんどの)へぞ進(まゐ)らんずらんと、近習(きんじふ)の人々青女房(あをにようばう)に至(いたる)まで悦(よろこび)あへる処(ところ)に、土岐(とき)が討れし後(のち)も曾(かつ)て其(その)沙汰もなし。今又俊基(としもと)召下(めしくだ)されぬれ共(ども)、御位(おんくらゐ)の事に付(つけ)ては何(いか)なる沙汰あり共(とも)聞(きこえ)ざりければ、持明院殿(ぢみやうゐんどの)方(かた)の人々案(あん)に相違して五噫(ごい)を謳(うたふ)者のみ多かりけり。さればとかく申進(まうしすすむ)る人のありけるにや、持明院殿(ぢみやうゐんどの)より内々(ないない)関東へ御使(つかひ)を下され、「当今(たうぎん)御謀反(ごむほん)の企(くはだて)近日(きんじつ)事(こと)已(すで)に急(きふ)なり。武家速(すみやか)に糾明(きうめい)の沙汰なくば天下の乱(らん)近(ちかき)に有(ある)べし。」と仰(おほせ)られたりければ、相摸入道(さがみにふだう)、「げにも。」と驚(おどろい)て、宗徒(むねと)の一門(いちもん)・並(ならびに)頭人(とうにん)・評定衆(ひやうぢやうしゆ)を集(あつめ)て、「此(この)事(こと)如何(いかん)有(ある)べき。」と各(おのおの)所存(しよぞん)を問(とは)る。然(しかれ)ども或(あるひ)は他に譲(ゆづり)て口を閉(とぢ)、或(あるひ)は己(おのれ)を顧(かへりみ)て言(ことば)を出(いだ)さゞる処(ところ)に、執事(しつじ)長崎入道が子息(しそく)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)高資(たかすけ)進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「先年(せんねん)土岐十郎が討(うた)れし時、当今(たうぎん)の御位(おんくらゐ)を改(あらため)申さるべかりしを、朝憲(てうけん)に憚(はばかつ)て御沙汰(ごさた)緩(ゆる)かりしに依(よつ)て此(この)事(こと)猶(なほ)未休(いまだやまず)。乱(らん)を撥(はらう)て治(ち)を致(いたす)は武の一徳也。速(すみやか)に当今を遠国(をんごく)に遷(うつ)し進(まゐら)せ、大塔宮(おほたふのみや)を不返(ふへん)の遠流(をんる)に所(しよ)し奉り、俊基(としもと)・資朝以下(すけともいげ)の乱臣を、一々に誅せらるゝより外(ほか)は、別儀(べちぎ)あるべしとも存(ぞんじ)候はず。」と、憚る処なく申(まうし)けるを、二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道道蘊(だううん)暫(しばらく)思案(しあん)して申(まうし)けるは、「此儀(このぎ)尤(もつとも)然(しか)るべく聞へ候へ共(ども)、退(しりぞい)て愚案(ぐあん)を廻(めぐら)すに、武家権(けん)を執(とつ)て已(すで)に百六十余年、威四海(しかい)に及(および)、運累葉(るゐえふ)を耀(かかやか)すこと更に他事(たじ)なし。唯(ただ)上(かみ)一人(いちじん)を仰奉(あふぎたてまつつ)て、忠貞(ちゆうてい)に私(わたくし)なく、下(しもは)百姓(はくせい)を撫(なで)て仁政(じんせい)に施(ほどこし)ある故(ゆゑ)也。然(しかる)に今(いま)君(きみ)の寵臣(ちようしん)一両人召置(めしおか)れ、御帰衣(ごきえ)の高僧両三人(さんにん)流罪(るざい)に処(しよ)せらるゝ事も、武臣(ぶしん)悪行(あくぎやう)の専一(せんいち)と云(いひ)つべし。此上(このうへ)に又主上を遠所(ゑんしよ)へ遷(うつ)し進(まゐら)せ、天台(てんだいの)座主(ざす)を流罪に行(おこなは)れん事(こと)、天道奢(おごり)を悪(にく)むのみならず、山門争(いかで)か憤(いきどほり)を含まざるべき。神怒(いかり)人背(そむ)かば、武運の危(あやふき)に近(ちかか)るべし。「君雖不君、不可臣以不臣」と云へり。御謀反(ごむほん)の事君(きみ)縦(たとひ)思食立(おぼしめしたつ)とも、武威盛(さかん)ならん程は与(くみ)し申(まうす)者有(ある)べからず。是(これ)に付(つけ)ても武家弥(いよい)よ慎(つつしん)で勅命に応ぜば、君もなどか思食直(おぼしめしなほ)す事無(なか)らん。かくてぞ国家の泰平(たいへい)、武運の長久にて候はんと存(ぞんず)るは、面々(めんめん)如何(いかん)思食(おぼしめし)候。」と申(まうし)けるを、長崎新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)又自余(じよ)の意見をも不待、以(もつて)の外(ほか)に気色(きしよく)を損じて、重(かさね)て申(まうし)けるは、「文武(ぶんぶの)揆(おもむき)一(ひとつ)也と云へ共(ども)、用捨(ようしや)時(とき)異(ことな)るべし。静(しづか)なる世には文を以て弥(いよいよ)治(をさ)め、乱(みだれ)たる時には武を以(もつて)急に静む。故(ゆゑに)戦国の時には孔盂不足用、太平の世には干戈(かんくわ)似無用。事已(すで)に急に当(あた)りたり。武を以て治むべき也。異朝(いてう)には文王・武王、臣として、無道(ぶだう)の君を討(うち)し例(れい)あり。吾朝(わがてう)には義時(よしとき)・泰時(やすとき)、下(しも)として不善(ふぜん)の主(しゆ)を流す例あり。世みな是(これ)を以て当(あた)れりとす。されば古典(こてん)にも、「君視臣如土芥則臣視君如冦讎。」と云へり。事(こと)停滞(ていたい)して武家追罰(つゐばつ)の宣旨(せんじ)を下されなば、後悔(こうくわい)すとも益(えき)有(ある)べからず。只(ただ)速(すみやか)に君を遠国(をんごく)に遷(うつ)し進(まゐら)せ、大塔(おほたふ)の宮(みや)を硫黄(いわう)が嶋へ流(ながし)奉り、隠謀(いんぼう)の逆臣(げきしん)、資朝(すけとも)・俊基(としもと)を誅せらるゝより外(ほか)の事有(ある)べからず。武家の安泰(あんたい)万世(ばんせい)に及(およぶ)べしとこそ存(ぞんじ)候へ。」と、居長高(ゐだけだか)に成(なつ)て申(まうし)ける間、当座(たうざ)の頭人(とうにん)・評定衆(ひやうぢやうしゆ)、権勢(けんせい)にや阿(おもねり)けん、又愚案(ぐあん)にや落(おち)けん、皆此義(このぎ)に同(どう)じければ、道蘊(だううん)再往(さいわう)の忠言に及ばず眉(まゆ)を顰(ひそめ)て退出(たいしゆつ)す。さる程に、「君の御謀反(ごむほん)を申勧(まうしすすめ)けるは、源(げん)中納言(ぢゆうなごん)具行(ともゆき)・右少弁(うせうべん)俊基(としもと)・日野(ひのの)中納言資朝(すけとも)也、各(おのおの)死罪(しざい)に行(おこなは)るべし。」と評定(ひやうぢやう)一途(いちづ)に定(さだまつ)て、「先(まづ)去年(きよねん)より佐渡国(さどのくに)へ流されてをはする資朝卿(すけとものきやう)を斬奉(きりたてまつる)べし。」と、其(その)国(くに)の守護(しゆご)本間山城(ほんまやましろ)入道に被下知。此(この)事(こと)京都に聞へければ、此(この)資朝(すけとも)の子息(しそく)国光(くにみつ)の中納言、其比(そのころ)は阿新殿(くまわかどの)とて歳(とし)十三にてをはしけ〔る〕が、父の卿(きやう)召人(めしうど)に成玉(なりたまひ)しより、仁和寺辺(にんわじへん)に隠(かくれ)て居(ゐ)られけるが、父誅(ちゆう)せられ給(たまふ)べき由(よし)を聞(きい)て、「今は何事にか命(いのち)を惜(をし)むべき。父と共に斬(きら)れて冥途(めいど)の旅の伴(とも)をもし、又最後(さいご)の御(おん)有様をも見奉るべし。」とて母に御暇(おんいとま)をぞ乞(こは)れける。母御(ははご)頻(しきり)に諌(いさめ)て、「佐渡とやらんは、人も通(かよ)はぬ怖(おそろ)しき嶋とこそ聞(きこゆ)れ。日数(ひかず)を経(ふ)る道なればいかんとしてか下(くだる)べき。其上(そのうへ)汝(なんぢ)にさへ離(はなれ)ては、一日片時(へんし)も命(いのち)存(ながらふ)べしとも覚(おぼ)へず。」と、泣悲(なきかなしみ)て止(とめ)ければ、「よしや伴(ともな)ひ行(ゆく)人(ひと)なくば、何(いか)なる淵瀬(ふちせ)にも身を投(なげ)て死(し)なん。」と申(まうし)ける間、母痛(いたく)止(とめ)ば、又目(め)の前(まへ)に憂別(うきわかれ)も有(あり)ぬべしと思侘(おもひわび)て、力なく今迄只(ただ)一人付副(つきそひ)たる中間(ちゆうげん)を相(あひ)そへられて、遥々(はるばる)と佐渡(さどの)国(くに)へぞ下(くだし)ける。路(みち)遠けれども乗(のる)べき馬(むま)もなければ、はきも習(ならは)ぬ草鞋(わらぢ)に、菅(すげ)の小笠(をがさ)を傾(かたぶけ)て、露(つゆ)分(わけ)わくる越路(こしぢ)の旅(たび)、思(おもひ)やるこそ哀(あはれ)なれ。都を出(いで)て十三日と申(まうす)に、越前の敦賀(つるが)の津(つ)に着(つき)にけり。是(これ)より商人船(あきんどぶね)に乗(のり)て、程なく佐渡(さどの)国(くに)へぞ着(つき)にける。人して右(かう)と云(いふ)べき便(たより)もなければ、自(みづから)本間が館(たち)に致(いたつ)て中門(ちゆうもん)の前(まへ)にぞ立(たつ)たりける。境節(をりふし)僧の有(あり)けるが立出(たちいで)て、「此(この)内への御用(ごよう)にて御立(おんたち)候か。又何(いか)なる用にて候ぞ。」と問(とひ)ければ、阿新殿(くまわかどの)、「是(これ)は日野(ひのの)中納言の一子(いつし)にて候が、近来(このごろ)切られさせ給(たまふ)べしと承(うけたまはつ)て、其(その)最後の様(やう)をも見候はんために都より遥々(はるばる)と尋下(たづねくだり)て候。」と云(いひ)もあへず、泪(なみだ)をはら/\と流しければ、此(この)僧心(こころ)有(あり)ける人也ければ、急(いそ)ぎ此由(このよし)を本間に語るに、本間も岩木(いはき)ならねば、さすが哀(あはれ)にや思(おもひ)けん、軈(やが)て此(この)僧を以(もつて)持仏堂(ぢぶつだう)へいざなひ入(いれ)て、蹈皮行纒(たびはばき)解(ぬが)せ足洗(あらう)て、疎(おろそか)ならぬ体(てい)にてぞ置(おき)たりける。阿新殿(くまわかどの)是(これ)をうれしと思(おもふ)に付(つけ)ても、同(おなじく)は父の卿(きやう)を疾(とく)見奉(たてまつら)ばやと云(いひ)けれ共(ども)、今日明日(けふあす)斬らるべき人に是(これ)を見せては、中々(なかなか)よみ路(ぢ)の障(さはり)とも成(なり)ぬべし。又関東(くわんとう)の聞(きこ)へもいかゞ有らんずらんとて、父子(ふし)の対面(たいめん)を許さず、四五町隔(へだたつ)たる処(ところ)に置(おき)たれば、父の卿(きやう)は是(これ)を聞(きき)て、行末(ゆくへ)も知(しら)ぬ都にいかゞ有らんと、思(おもひ)やるよりも尚(なほ)悲し。子は其方(そなた)を見遣(やり)て、浪路(なみぢ)遥(はるか)に隔(へだ)たりし鄙(ひな)のすまゐを想像(おもひやつ)て、心苦(くるし)く思(おもひ)つる泪(なみだ)は更に数(かず)ならずと、袂(たもと)の乾(かわ)くひまもなし。是(これ)こそ中納言のをはします楼(ろう)の中(うち)よとて見やれば、竹の一村(ひとむら)茂(しげ)りたる処に、堀(ほり)ほり廻(まは)し屏(へい)塗(ぬつ)て、行通(ゆきか)ふ人も稀(まれ)也。情(なさけ)なの本間が心や。父は禁篭(きんろう)せられ子は未(いまだ)稚(をさ)なし。縦(たと)ひ一所(いつしよ)に置(おき)たりとも、何程(なにほど)の怖畏(ふゐ)か有(ある)べきに、対面(たいめん)をだに許さで、まだ同(おなじ)世の中(なか)ながら生(しやう)を隔(へだて)たる如(ごとく)にて、なからん後(のち)の苔の下(した)、思寝(おもひね)に見ん夢ならでは、相看(あひみ)ん事も有(あり)がたしと、互に悲(かなし)む恩愛(おんあい)の、父子(ふし)の道こそ哀(あはれ)なれ。五月二十九日の暮程(くれほど)に、資朝卿(すけとものきやう)を篭(ろう)より出(いだ)し奉(たてまつつ)て、「遥(はるか)に御湯(おんゆ)も召(めさ)れ候はぬに、御行水(おんぎやうずゐ)候へ。」と申せば、早(はや)斬らるべき時に成(なり)けりと思給(おもひたまひ)て、「嗚呼(ああ)うたてしき事かな、我(わが)最後の様(やう)を見ん為に、遥々(はるばる)と尋下(たづねくだつ)たる少者(をさなきもの)を一目(ひとめ)も見ずして、終(はて)ぬる事よ。」と計(ばか)り宣(のたまひ)て、其後(そののち)は曾(かつ)て諸事(しよじ)に付(つけ)て言(ことば)をも出(いだし)給はず。今朝(けさ)迄は気色(きしよく)しほれて、常には泪(なみだ)を押拭(おしのご)ひ給(たまひ)けるが、人間(にんげん)の事に於ては頭燃(づねん)を払ふ如(ごとく)に成(なり)ぬと覚(さとつ)て、只綿密(めんみつ)の工夫(くふう)の外(ほか)は、余念(よねん)有りとも見へ給はず。夜(よ)に入れば輿(こし)さし寄(よせ)て乗(の)せ奉り、爰(ここ)より十町許(ちやうばかり)ある河原(かはら)へ出(いだ)し奉り、輿舁居(かきすゑ)たれば、少(すこし)も臆(おく)したる気色(けしき)もなく、敷皮(しきかは)の上に居直(ゐなほつ)て、辞世(じせい)の頌(じゆ)を書(かき)給ふ。五蘊仮成形。四大今帰空。将首当白刃。截断一陣風。年号月日(ねんがうつきひ)の下(した)に名字(みやうじ)を書付(かきつけ)て、筆を閣(さしお)き給へば、切手(きりて)後(うしろ)へ回(まは)るとぞ見へし、御首(おんくび)は敷皮(しきかは)の上に落(おち)て質(むくろ)は尚(なほ)坐(ざ)せるが如し。此程(このほど)常(つね)に法談(ほふだん)なんどし給ひける僧来(きたつ)て、葬礼(さうれい)如形取営(とりいとな)み、空(むなし)き骨(こつ)を拾(ひろう)て阿新に奉りければ、阿新是(これ)を一目(ひとめ)見て、取手(とるて)も撓(たゆく)倒伏(たふれふし)、「今生(こんじやう)の対面遂に叶(かなは)ずして、替(かは)れる白骨(はつこつ)を見る事よ。」と泣悲(なきかなしむ)も理(ことわり)也。阿新未(いまだ)幼稚(えうち)なれ共(ども)、けなげなる所存(しよぞん)有(あり)ければ、父の遺骨(ゆゐこつ)をば只一人召仕(めしつかひ)ける中間(ちゆうげん)に持(もた)せて、「先(まづ)我よりさきに高野山(かうやさん)に参(まゐり)て奥の院とかやに収(をさめ)よ。」とて都へ帰(かへ)し上(のぼ)せ、我身(わがみ)は労(いたは)る事有る由にて尚(なほ)本間が館(たち)にぞ留(とどま)りける。是(これ)は本間が情(なさけ)なく、父を今生(こんじやう)にて我(われ)に見せざりつる鬱憤(うつぷん)を散(さん)ぜんと思ふ故(ゆゑ)也。角(かく)て四五日経(へ)ける程に、阿新昼(ひる)は病(やむ)由(よし)にて終日(ひねもす)に臥(ふ)し、夜(よる)は忍(しのび)やかにぬけ出(いで)て、本間が寝処(ねところ)なんど細々(こまごま)に伺(うかがう)て、隙(ひま)あらば彼(かの)入道父子(ふし)が間(あひだ)に一人さし殺して、腹切らんずる物をと思定(おもひさだめ)てぞねらいける。或夜(あるよ)雨風(あめかぜ)烈(はげ)しく吹(ふい)て、番(とのゐ)する郎等共(らうどうども)も皆遠侍(とほさぶらひ)に臥(ふし)たりければ、今こそ待処(まつところ)の幸(さいはひ)よと思(おもう)て、本間が寝処(ねところ)の方(かた)を忍(しのび)て伺(うかがう)に、本間が運やつよかりけん、今夜(こんや)は常の寝処を替(かへ)て、何(いづ)くに有(あり)とも見へず。又二間(ふたま)なる処に燈(とぼしび)の影の見へけるを、是(これ)は若(もし)本間入道が子息(しそく)にてや有(ある)らん。其(それ)なりとも討(うつ)て恨(うらみ)を散(さん)ぜんと、ぬけ入(いつ)て是(これ)を見るに、其(それ)さへ爰(ここ)には無(なく)して、中納言殿(どの)を斬奉(きりたてまつり)し本間(ほんま)三郎と云(いふ)者ぞ只一人臥(ふし)たりける。よしや是(これ)も時に取(とつ)ては親の敵(かたき)也。山城(やましろ)入道に劣(おと)るまじと思(おもう)て走りかゝらんとするに、我は元来(もとより)太刀(たち)も刀(かたな)も持(もた)ず、只(ただ)人(ひと)の太刀を我物(わがもの)と憑(たのみ)たるに、燈(ともしび)殊に明(あきらか)なれば、立寄(たちよら)ば軈(やが)て驚合(おどろきあ)ふ事もや有(あら)んずらんと危(あやぶん)で、左右(さう)なく寄(より)ゑず。何(いか)がせんと案じ煩(わづらう)て立(たち)たるに、折節(をりふし)夏なれば灯(ともしび)の影を見て、蛾(が)と云(いふ)虫のあまた明障子(あかりしやうじ)に取付(とりつき)たるを、すはや究竟(くつきやう)の事こそ有れと思(おもう)て障子(しやうじ)を少(すこし)引(ひき)あけたれば、此(この)虫あまた内(うち)へ入(いつ)て軈(やが)て灯(ともしび)を打(うち)けしぬ。今は右(かう)とうれしくて、本間三郎が枕に立寄(たちよつ)て探(さぐ)るに、太刀も刀(かたな)も枕に有(あつ)て、主(ぬし)はいたく寝入(ねいり)たり。先(まづ)刀を取(とつ)て腰にさし、太刀を抜(ぬい)て心(むな)もとに指当(さしあて)て、寝(ね)たる者を殺(ころす)は死人(しにん)に同(おな)じければ、驚(おどろか)さんと思(おもつ)て、先(まづ)足にて枕をはたとぞ蹴(け)たりける。けられて驚く処を、一(いち)の太刀に臍(ほぞ)の上(うへ)を畳(たたみ)までつとつきとをし、返(かへ)す太刀に喉(のど)ぶゑ指切(さしきつ)て、心閑(しづか)に後(うしろ)の竹原(ささはら)の中(なか)へぞかくれける。本間三郎が一の太刀に胸を通(とほ)されてあつと云(いふ)声に、番衆(ばんしゆ)ども驚騒(おどろきさわい)で、火を燃(とぼ)して是(これ)を見るに、血の付(つき)たるちいさき足跡(あしあと)あり。「さては阿新殿(くまわかどの)のしわざ也。堀の水深ければ、木戸(きど)より外(ほか)へはよも出(いで)じ。さがし出(いだつ)て打殺(うちころ)せ。」とて、手々(てにてに)松明(たいまつ)をとぼし、木の下、草の陰(かげ)まで残処(のこるところ)無(なく)ぞさがしける。阿新は竹原(ささはら)の中に隠れながら、今は何(いづ)くへか遁(のが)るべき。人手(ひとで)に懸(かか)らんよりは、自害(じがい)をせばやと思はれけるが、悪(にく)しと思(おもふ)親の敵(かたき)をば討(うつ)つ、今は何(いかに)もして命(いのち)を全(まつたう)して、君の御用(ごよう)にも立(たち)、父の素意(そい)をも達したらんこそ忠臣孝子の儀にてもあらんずれ、若(もし)やと一(ひと)まど落(おち)て見ばやと思返(おもひかへ)して、堀を飛越(とびこえ)んとしけるが、口(くち)二丈深さ一丈に余(あま)りたる堀なれば、越(こゆ)べき様(やう)も無(なか)りけり。さらば是(これ)を橋にして渡(はたら)んよと思(おもつ)て、堀の上に末(すゑ)なびきたる呉竹(くれたけ)の梢(こずゑ)へさら/\と登(のぼり)たれば、竹の末(すゑ)堀の向(むかひ)へなびき伏(ふし)て、やす/\と堀をば越(こえ)てげり。夜(よ)は未(いまだ)深(ふか)し、湊(みなと)の方(かた)へ行(ゆい)て、舟に乗(のつ)てこそ陸(くが)へは着(つか)めと思(おもう)て、たどるたどる浦の方(かた)へ行程(ゆくほど)に、夜(よ)もはや次第に明離(あけはなれ)て忍(しのぶ)べき道もなければ、身を隠(かく)さんとて日(ひ)を暮(くら)し、麻(あさ)や蓬(よもぎ)の生茂(おひしげり)たる中(なか)に隠れ居たれば、追手共(おひてども)と覚(おぼ)しき者共(ものども)百四五十騎馳散(はせちつ)て、「若(もし)十二三計(ばかり)なる児(ちご)や通りつる。」と、道に行合人毎(ゆきあふひとごと)に問音(とふおと)してぞ過行(すぎゆき)ける。阿新其(その)日は麻の中(なか)にて日を暮(くら)し、夜(よる)になれば湊(みなと)へと心ざして、そことも知(しら)ず行(ゆく)程に、孝行の志(こころざし)を感じて、仏神(ぶつじん)擁護(おうご)の眸(まなじり)をや回(めぐ)らされけん、年(とし)老(おい)たる山臥(やまぶし)一人行合(ゆきあひ)たり。此児(このちご)の有様を見て痛(いたは)しくや思(おもひ)けん、「是(これ)は何(いづ)くより何(いづく)をさして御渡(おんわた)り候ぞ。」と問(とひ)ければ、阿新事の様(やう)をありの侭(まま)にぞ語りける。山臥(やまぶし)是(これ)を聞(きい)て、我(われ)此(この)人を助けずば、只今の程にかはゆき目を見るべしと思(おもひ)ければ、「御心(おんこころ)安く思食(おぼしめさ)れ候へ。湊(みなと)に商人舟共(あきんどぶねども)多(おほく)候へば、乗(の)せ奉(たてまつつ)て越後・越中の方(かた)まで送付(おくりつけ)まいらすべし。」と云(いひ)て、足たゆめば、此児(このちご)を肩に乗(の)せ背(せなか)に負(おう)て、程なく湊にぞ行着(ゆきつき)ける。夜明(よあけ)て便船(びんせん)やあると尋(たづね)けるに、折節(をりふし)湊の内(うち)に舟一艘(いつさう)も無(なか)りけり。如何(いかん)せんと求(もとむ)る処に、遥(はるか)の澳(おき)に乗(のり)うかべたる大船(たいせん)、順風(じゆんぷう)に成(なり)ぬと見て檣(ほばしら)を立(たて)篷(とま)をまく。山臥手を上(あげ)て、「其(その)船是(これ)へ寄(よせ)てたび給へ、便船申さん。」と呼(よばは)りけれ共(ども)、曾(かつ)て耳にも聞入(ききいれ)ず、舟人(ふなうど)声を帆(ほ)に上(あげ)て湊の外(ほか)に漕出(こぎいだ)す。山臥大(おほき)に腹を立(た)て柿(かき)の衣(ころも)の露(つゆ)を結(むすん)で肩にかけ、澳(おき)行(ゆく)舟に立向(たちむかつ)て、いらたか誦珠(じゆず)をさら/\と押揉(おしもみ)て、「一持秘密咒(いちぢひみつじゆ)、生々而加護(しやうしやうにかご)、奉仕修行者(ぶじしゆぎやうじや)、猶如薄伽梵(いうによばがぼん)と云へり。況(いはんや)多年(たねん)の勤行(ごんぎやう)に於てをや。明王(みやうわう)の本誓(ほんせい)あやまらずば、権現(ごんげん)金剛童子(こんがうどうじ)・天竜夜叉(てんりゆうやしや)・八大龍王(はちだいりゆうわう)、其(その)船此方(こなた)へ漕返(こぎもどし)てたばせ給へ。」と、跳上(をどりあがり)々々肝胆(かんたん)を砕(くだい)てぞ祈りける。行者(ぎやうじや)の祈り神(しん)に通(つう)じて、明王(みやうわう)擁護(おうご)やしたまひけん、澳(おき)の方(かた)より俄(にはか)に悪風(あくふう)吹来(ふききたつ)て、此(この)舟忽(たちまちに)覆(くつかへ)らんとしける間(あひだ)、舟人共(ふなうどども)あはてゝ、「山臥の御房(ごばう)、先(まづ)我等を御助(おんたす)け候へ。」と手を合(あはせ)膝(ひざ)をかゞめ、手々(てにて)に舟を漕(こぎ)もどす。汀(みぎは)近く成(なり)ければ、船頭(せんどう)舟より飛下(とびおり)て、児(ちご)を肩にのせ、山臥の手を引(ひい)て、屋形(やかた)の内(うち)に入(いり)たれば、風は又元(もと)の如(ごとく)に直(なほ)りて、舟は湊を出(いで)にけり。其後(そののち)追手共(おひてども)百四五十騎馳来(はせきた)り、遠浅(とほあさ)に馬を叩(ひかへ)て、「あの舟止(とま)れ。」と招共(まねけども)、舟人(ふなうど)是(これ)を見ぬ由にて、順風(じゆんぷう)に帆を揚(あげ)たれば、舟は其日(そのひ)の暮程(くれほど)に、越後の府(こう)にぞ着(つき)にける。阿新山臥に助(たすけ)られて、鰐口(わにのくち)の死を遁(のがれ)しも、明王加護(かご)の御誓(おんちかひ)掲焉(けつえん)なりける験(しるし)也。
○俊基(としもと)被誅事並(ならびに)助光(すけみつが)事(こと) S0206
俊基(としもと)朝臣(あそん)は殊更(ことさら)謀叛(むほん)の張本(ちやうほん)なれば、遠国(をんごく)に流すまでも有(ある)べからず、近日(きんじつ)に鎌倉中(かまくらぢゆう)にて斬(きり)奉るべしとぞ被定たる。此(この)人多年の所願(しよぐわん)有(あつ)て、法華経(ほけきやう)を六百部自(みづか)ら読誦(どくじゆ)し奉るが、今二百部残りけるを、六百部に満(みつ)る程の命(いのち)を被相待候て、其後(そののち)兎(と)も角(かく)も被成候へと、頻(しきり)に所望(しよまう)有(あり)ければ、げにも其(それ)程の大願(だいぐわん)を果(はた)させ奉らざらんも罪也とて、今二百部の終(をふ)る程(ほど)僅(わづか)の日数(ひかず)を待暮(まちくら)す、命の程こそ哀(あはれ)なれ。此(この)朝臣の多年(たねん)召仕(めしつかひ)ける青侍(あをさぶらひ)に後藤左衛門(さゑもんの)尉(じよう)助光(すけみつ)と云(いふ)者あり。主(しゆう)の俊基(としもと)召取(めしと)られ給(たまひ)し後(のち)、北方(きたのかた)に付進(つきまゐら)せ嵯峨(さが)の奥に忍(しのび)て候(さふらひ)けるが、俊基(としもと)関東へ被召下給ふ由を聞給(ききたまひ)て、北方(きたのかた)は堪(たへ)ぬ思(おもひ)に伏沈(ふししづみ)て歎悲給(なげきかなしみたまひ)けるを見奉(たてまつる)に、不堪悲して、北(きた)の方(かた)の御文(おんふみ)を給(たまはつ)て、助光忍(しのび)て鎌倉(かまくら)へぞ下(くだり)ける。今日明日(けふあす)の程と聞へしかば、今は早(はや)斬(きら)れもやし給ひつらんと、行逢(ゆきあふ)人に事の由を問々(とひとひ)、程なく鎌倉(かまくら)にこそ着(つき)にけれ。右少弁(うせうべん)俊基(としもと)のをはする傍(あたり)に宿(やど)を借(かり)て、何(いか)なる便(たより)もがな、事の子細(しさい)を申入(まうしいれ)んと伺(うかがひ)けれども、不叶して日を過(すご)しける処に、今日(けふ)こそ京都よりの召人(めしうど)は斬(きら)れ給(たまふ)べきなれ、あな哀れや、なんど沙汰しければ、助光こは如何(いか)がせんと肝(きも)を消し、此彼(ここかしこ)に立(たち)て見聞(けんもん)しければ、俊基(としもと)已(すで)に張輿(はりごし)に乗(の)せられて粧坂(けはひざか)へ出(いで)給ふ。爰(ここ)にて工藤(くどう)二郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)請取(うけとり)て、葛原岡(くずはらがをか)に大幕(おほまく)引(ひい)て、敷皮(しきかは)の上に坐(ざ)し給へり。是(これ)を見ける助光が心中(こころのうち)譬(たとへ)て云(いは)ん方(かた)もなし。目くれ足もなへて、絶入(たえい)る計(ばかり)に有(あり)けれども、泣々(なくなく)工藤殿(どの)が前(まへ)に進出(すすみいで)て、「是(これ)は右少弁殿(どの)の伺候(しこう)の者にて候が、最後(さいご)の様(やう)見奉(たてまつり)候はん為に遥々(はるばる)と参(まゐり)候。可然は御免(ごめん)を蒙(かうぶつ)て御前(おんまへ)に参り、北方(きたのかた)の御文(おんふみ)をも見参(けんざん)に入(いれ)候はん。」と申(まうし)もあへず、泪(なみだ)をはら/\と流(ながし)ければ、工藤も見るに哀(あはれ)を催(もよほ)されて、不覚(ふかく)の泪(なみだ)せきあへず。「子細候まじ、早(はや)幕の内(うち)へ御参(おんまゐり)候へ。」とぞ許しける。助光幕の内に入(いつ)て御前(おんまへ)に跪(ひざまづ)く。俊基(としもと)は助光を打見て、「いかにや。」と計(ばかり)宣(のたまひ)て、軈(やが)て泪に咽(むせ)び給ふ。助光も、「北方(きたのかた)の御文(おんふみ)にて候。」とて、御前(おんまへ)に差置(さしおき)たる計(ばかり)にて、是(これ)も涙にくれて、顔をも持(もち)あげず泣(なき)居たり。良(やや)暫(しばら)く有(あつ)て、俊基(としもと)涙を押拭(おしのご)ひ、文を見給へば、「消懸(きえかか)る露の身の置所(おきどころ)なきに付(つけ)ても、何(いか)なる暮(くれ)にか、無世(なきよ)の別(わかれ)と承(うけたまは)り候はんずらんと、心を摧(くだ)く涙の程、御推量(おしはか)りも尚(なほ)浅くなん。」と、詞(ことば)に余(あまり)て思(おもひ)の色深く、黒(くろ)み過(すぐ)るまで書(かか)れたり。俊基(としもと)いとゞ涙にくれて、読(よみ)かね給へる気色(けしき)、見人(みるひと)袖をぬらさぬは無(なか)りけり。「硯(すずり)やある。」と宣(のたま)へば、矢立(やたて)を御前(おんまへ)に指置(さしおけ)ば、硯の中(なか)なる小刀(こがたな)にて鬢(びん)の髪(かみ)を少し押切(おしきつ)て、北方(きたのかた)の文に巻(まき)そへ、引返(ひきかへ)し一筆(ひとふで)書(かい)て助光が手に渡し給へば、助光懐(ふところ)に入(いれ)て泣沈(なきしづみ)たる有様、理(ことわ)りにも過(すぎ)て哀(あはれ)也。工藤左衛門幕(まく)の内に入(いつ)て、「余(あま)りに時の移り候。」と勧(すすむ)れば、俊基(としもと)畳紙(たたうがみ)を取出(とりいだ)し、頚(くび)の回(まは)り押拭(おしのご)ひ、其(その)紙を推開(おしひらい)て、辞世(じせい)の頌(じゆ)を書(かき)給ふ。古来一句。無死無生。万里雲尽。長江水清。筆を閣(さしおい)て、鬢(びん)の髪(かみ)を摩(なで)給ふ程こそあれ、太刀(たち)かげ後(うしろ)に光れば、頚は前(まへ)に落(おち)けるを、自(みづか)ら抱(かかへ)て伏(ふし)給ふ。是(これ)を見奉る助光が心の中(うち)、謦(たとへ)て云(いは)ん方(かた)もなし。さて泣々(なくなく)死骸(しがい)を葬(さう)し奉り、空(むなし)き遺骨(ゆゐこつ)を頚に懸(かけ)、形見(かたみ)の御文(おんふみ)身に副(そへ)て、泣々(なくなく)京(きやう)へぞ上(のぼ)りける。北方(きたのかた)は助光を待付(まちつけ)て、弁殿(べんどの)の行末(ゆくへ)を聞(きか)ん事の喜(うれ)しさに、人目(ひとめ)も憚(はばから)ず、簾(みす)より外(ほか)に出迎(いでむか)ひ、「いかにや弁殿(どの)は、何比(いつごろ)に御上(おんのぼり)可有との御返事(おんへんじ)ぞ。」と問(とひ)給へば、助光はら/\と泪(なみだ)をこぼして、「はや斬(きら)れさせ給(たまひ)て候。是(これ)こそ今はのきはの御返事(おんへんじ)にて候へ。」とて、鬢(びん)の髪(かみ)と消息(せうそく)とを差(さし)あげて声も惜(をし)まず泣(なき)ければ、北方(きたのかた)は形見(かたみ)の文(ふみ)と白骨(はつこつ)を見給(たまひ)て、内へも入給(いりたまは)ず、縁(えん)に倒伏(たふれふ)し、消入給(きえいりたまひ)ぬと驚く程に見へ給ふ。理(ことわり)なる哉(かな)、一樹(いちじゆ)の陰(かげ)に宿(やど)り一河(いちが)の流(ながれ)を汲む程も、知(しら)れず知らぬ人にだに、別れとなれば名残(なごり)を惜(をしむ)習(ならひ)なるに、況(いはん)や連理(れんり)の契(ちぎり)不浅して、十年余(ととせあま)りに成(なり)ぬるに夢より外(ほか)は又も相(あひ)見ぬ、此世(このよ)の外(ほか)の別(わかれ)と聞(きい)て、絶(たえ)入り悲(かなし)み玉ふぞ理(ことわ)りなる。四十九日と申(まうす)に形(かた)の如(ごとく)の仏事(ぶつじ)営(いとなみ)て、北(きた)の方(かた)様(さま)をかへ、こき墨染(すみぞめ)に身をやつし、柴の扉(とぼそ)の明(あけ)くれは、亡夫(ばうふ)の菩提(ぼだい)をぞ訪(とぶら)ひ玉(たまひ)ける。助光も髻(もとどり)切(きり)て、永く高野山(かうやさん)に閉篭(とぢこもつ)て、偏(ひとへ)に亡君(ばうくん)の後生菩提(ごしやうぼだい)をぞ訪奉(とぶらひたてまつり)ける。夫婦の契(ちぎり)、君臣の儀、無跡(なきあと)迄も留(とどまり)て哀(あはれ)なりし事共(ども)也。
○天下(てんか)怪異(けいの)事(こと) S0207
嘉暦(かりやく)二年の春の比(ころ)南都大乗院(だいじようゐん)禅師房(ぜんじばう)と六方(ろくばう)の大衆(だいしゆ)と、確執(かくしつ)の事有(あつ)て合戦(かつせん)に及ぶ。金堂(こんだう)、講堂(かうだう)、南円(なんゑん)堂(だう)、西金(さいこん)堂(だう)、忽(たちまち)に兵火(ひやうくわ)の余煙(よえん)に焼失(せうしつ)す。又元弘(げんこう)元年、山門東塔(さんもんとうだふ)の北谷(きたたに)より兵火出来(いでき)て、四王院(しわうゐん)、延命(えんめい)院(ゐん)、大講堂(だいかうだう)、法華(ほつけ)堂、常行(じやうぎやう)堂(だう)、一時(じ)に灰燼(くわいじん)と成(なり)ぬ。是等(これら)をこそ、天下の災難(さいなん)を兼(かね)て知(しら)する処の前相(ぜんさう)かと人皆魂(たましひ)を冷(ひや)しけるに、同(おなじき)年の七月三日大地震(ぢしん)有(あつ)て、紀伊(きの)国(くに)千里浜(せんりばま)の遠干潟(とほひがた)、俄に陸地(りくち)になる事二十余町也。又同(おなじき)七日の酉(とり)の刻(こく)に地震有(あつ)て、富士の絶頂(ぜつちやう)崩(くづ)るゝ事数(す)百丈(ひやくぢやう)也と。卜部(うらべ)の宿祢(すくね)、大亀(だいき)を焼(やい)て占(うらな)ひ、陰陽(おんやう)の博士(はかせ)、占文(せんもん)を啓(ひらい)て見(みる)に、「国王位(くらゐ)を易(かへ)、大臣遭災。」とあり。「勘文(かんぶん)の表(おもて)不穏、尤(もつとも)御慎(おんつつしみ)可有。」と密奏(みつそう)す。寺々(てらでら)の火災所々(しよしよ)の地震只事(ただごと)に非ず。今や不思義出来(いでくる)と人々心を驚(おどろか)しける処に、果して其年(そのとし)の八月二十二日、東使(とうし)両人三千余騎にて上洛(しやうらく)すと聞へしかば、何事(なにこと)とは知(しら)ず京(みやこ)に又何(いか)なる事や有(あら)んずらんと、近国(きんごく)の軍勢(ぐんぜい)我(われ)も我(われ)もと馳集(はせあつま)る。京中(きやうぢゆう)何(なに)となく、以外(もつてのほか)に騒動(さうどう)す。両使(りやうし)已(すで)に京着(きやうちやく)して未(いまだ)文箱(ふばこ)をも開(ひらか)ぬ先(さき)に、何(なに)とかして聞へけん。「今度(このたび)東使(とうし)の上洛(しやうらく)は主上(しゆしやう)を遠国(をんごく)へ遷進(うつしまゐら)せ、大塔宮(おほたふのみや)を死罪(しざい)に行奉(おこなひたてまつら)ん為也。」と、山門に披露(ひろう)有(あり)ければ、八月二十四日の夜(よ)に入(いつ)て、大塔宮(おほたふのみや)より潛(ひそか)に御使(おんつかひ)を以て主上へ申させ玉ひけるは、「今度(こんど)東使上洛の事内々承(うけたまはり)候へば、皇居(くわうきよ)を遠国(をんごく)へ遷(うつし)奉り、尊雲(そんうん)を死罪に行(おこなは)ん為にて候なる。今夜(こんや)急(いそ)ぎ南都(なんと)の方(かた)へ御忍(おんしの)び候べし。城郭未調(いまだととのはず)、官軍(くわんぐん)馳参(はせさん)ぜざる先(さき)に、凶徒(きようと)若(もし)皇居(くわうきよ)に寄来(よせきたら)ば、御方(みかた)防戦(ふせぎたたかふ)に利(り)を失(うしな)ひ候はんか。且(かつう)は京都の敵(てき)を遮(さへぎ)り止(とめ)んが為、又は衆徒(しゆと)の心を見んが為に、近臣(きんしん)を一人、天子の号(がう)を許(ゆるさ)れて山門へ被上せ、臨幸(りんかう)の由を披露(ひろう)候はゞ、敵軍(てきぐん)定(さだめ)て叡山(えいさん)に向(むかつ)て合戦(かつせん)を致し候はん歟(か)。去程(さるほど)ならば衆徒(しゆと)吾山(わがやま)を思故(おもふゆゑ)に、防戦(ふせぎたたかふ)に身命(しんみやう)を軽(かろん)じ候べし。凶徒(きようと)力(ちから)疲(つか)れ合戦数日(すじつ)に及ばゞ、伊賀・伊勢・大和(やまと)・河内(かはち)の官軍(くわんぐん)を以て却(かへつ)て京都を被攻んに、凶徒の誅戮(ちゆうりく)踵(くびす)を回(めぐら)すべからず。国家の安危(あんき)只(ただ)此(この)一挙(きよ)に可有候也。」と被申たりける間、主上(しゆしやう)只(ただ)あきれさせ玉へる計(ばかり)にて何(なに)の御沙汰(ごさた)にも及(および)玉はず。尹(ゐんの)大納言(だいなごん)師賢(もろかた)・万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさ)・同(おなじき)舎弟(しやてい)季房(すゑふさ)三四人(さんしにん)上臥(うへふし)したるを御前(おんまへ)に召(めさ)れて、「此(この)事(こと)如何(いかん)可有。」と被仰出ければ、藤房(ふぢふさの)卿(きやう)進(すすん)で被申けるは、「逆臣(ぎやくしん)君を犯(をか)し奉らんとする時、暫(しばらく)其難(そのなん)を避(さけ)て還(かへつ)て国家を保(たもつ)は、前蹤(ぜんじよう)皆佳例(かれい)にて候。所謂(いはゆる)重耳(ちようじ)は■(てき)に奔(はし)り、大王(だいわう)■(ひん)に行く。共に王業(わうげふ)をなして子孫無窮(しそんぶきゆう)に光(ひかり)を栄(かかやか)し候き。兔角(とかく)の御思案(ごしあん)に及(および)候はゞ、夜(よ)も深候(ふけさふらひ)なん。早(はや)御忍(おんしのび)候へ。」とて、御車(おんくるま)を差寄(さしよせ)、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を乗(のせ)奉り、下簾(したすだれ)より出絹(だしぎぬを)出(いだ)して女房車(にようばうぐるま)の体(てい)に見せ、主上を扶乗進(たすけのせまゐらせ)て、陽明門(やうめいもん)より成(なし)奉る。御門(ごもん)守護(しゆご)の武士共(ぶしども)御車(おんくるま)を押(おさ)へて、「誰にて御渡(おんわた)り候ぞ。」と問申(とひまうし)ければ、藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)御車(おんくるま)に随(したがつ)て供奉(ぐぶ)したりけるが、「是(これ)は中宮(ちゆうぐう)の夜(よ)に紛(まぎれ)て北山殿(きたやまどの)へ行啓(ぎやうけい)ならせ給ふぞ。」と宣(のたまひ)たりければ、「さては子細(しさい)候はじ。」とて御車(おんくるま)をぞ通(とほ)しける。兼(かね)て用意(ようい)やしたりけん、源(げん)中納言(ちゆうなごん)具行(ともゆき)・按察(あぜち)大納言公敏(きんとし)・六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)、三条河原(さんでうがはら)にて追付(おつつき)奉る。此(ここ)より御車(おんくるま)をば被止、怪(あやし)げなる張輿(はりごし)に召替(めしかへ)させ進(まゐら)せたれども、俄(にはか)の事にて駕輿丁(かよちやう)も無(なか)りければ、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)重康(しげやす)・楽人(がくにん)豊原兼秋(とよはらのかねあき)・随身(ずゐじん)秦久武(はだのひさたけ)なんどぞ御輿(おんこし)をば舁(かき)奉りける。供奉の諸卿(しよきやう)皆衣冠(いくわん)を解(ぬい)で折烏帽子(をりゑぼし)に直垂(ひたたれ)を着(ちやく)し、七大寺詣(まうで)する京家(きやうけ)の青侍(あをさぶらひ)なんどの、女性(によしやう)を具足(ぐそく)したる体(てい)に見せて、御輿(おんこし)の前後(ぜんご)にぞ供奉したりける。古津(こづの)石地蔵(いしぢざう)を過(すぎ)させ玉ひける時、夜(よ)は早(はや)若々(ほのぼの)と明(あけ)にけり。此(ここ)にて朝餉(あさがれひ)の供御(ぐご)を進め申(まうし)て、先づ南都(なんと)の東南院(とうなんゐん)へ入(いら)せ玉ふ。彼僧正(かのそうじやう)元(もと)より弐(ふたごこ)ろなき忠義を存(そん)ぜしかば、先づ臨幸(りんかう)なりたるをば披露(ひろう)せで衆徒(しゆと)の心を伺聞(うかがひきく)に、西室(にしむろの)顕実(けんじつ)僧正は関東(くわんとう)の一族にて、権勢(けんせい)の門主(もんじゆ)たる間、皆其(その)威にや恐れたりけん、与力(よりき)する衆徒(しゆと)も無(なか)りけり。かくては南都の皇居(くわうきよ)叶(かなふ)まじとて、翌日(よくじつ)二十六日、和束(わつか)の鷲峯山(じゆぶうせん)へ入(いら)せ玉ふ。此(ここ)は又余(あま)りに山深く里(さと)遠(とほう)して、何事(なにこと)の計畧も叶(かなふ)まじき処なれば、要害(えうがい)に御陣(ごぢん)を召(めさ)るべしとて、同(おなじき)二十七日潛幸(せんかう)の儀式を引(ひき)つくろひ、南都の衆徒(しゆと)少々(せうせう)召具(めしぐ)せられて、笠置(かさぎ)の石室(いはや)へ臨幸(りんかう)なる。
○師賢(もろかた)登山(とうさんの)事(こと)付唐崎浜(からさきはま)合戦(かつせんの)事(こと) S0208
尹(ゐんの)大納言師賢(もろかたの)卿(きやう)は、主上の内裏(だいり)を御出有(ぎよしゆつあり)し夜(よ)、三条河原(さんでうがはら)迄被供奉たりしを、大塔宮(おほたふのみや)より様々(さまざま)被仰つる子細(しさい)あれば、臨幸(りんかうの)由(よし)にて山門へ登り、衆徒(しゆと)の心をも伺ひ、又勢(せい)をも付(つけ)て合戦を致せと被仰ければ、師賢(もろかた)法勝寺(ほつしやうじ)の前より、袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)を着(ちやくし)て、腰輿(えうよ)に乗替(のりかへ)て山門の西塔院(さいたふゐん)へ登(のぼり)玉ふ。四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為明(ためあきら)・中院(なかのゐんの)左中将(さちゆうじやう)貞平(さだひら)、皆衣冠(いくわん)正(ただしう)して、供奉(ぐぶ)の体(てい)に相順(あひしたが)ふ。事の儀式誠敷(まことしく)ぞ見へたりける。西塔(さいたふ)の釈迦堂(しやかだう)を皇居(くわうきよ)と被成、主上山門を御憑(おんたのみ)有(あつ)て臨幸(りんかう)成(なり)たる由(よし)披露(ひろう)有(あり)ければ、山上(さんじやう)・坂本は申(まうす)に及ばず、大津(おほつ)・松本(まつもと)・戸津(とづ)・比叡辻(ひえつじ)・仰木(あふぎ)・絹河(きぬがは)・和仁(わに)・堅田(かただ)の者迄も、我前(われさき)にと馳参(はせまゐる)。其勢(そのせい)東西両塔(とうざいりやうたふ)に充満して、雲霞(うんか)の如(ごとく)にぞ見へたりける。懸(かか)りけれども、六波羅(ろくはら)には未(いまだ)曾(かつて)是(これ)を知らず。夜(よ)明(あけ)ければ東使両人(とうしりやうにん)内裏(だいり)へ参(さんじ)て、先づ行幸(ぎやうがう)を六波羅(ろくはら)へ成奉(なしたてまつら)んとて打立(うちたち)ける処に、浄林房(じやうりんばうの)阿闍梨(あじやり)豪誉(がうよ)が許(もと)より、六波羅(ろくはら)へ使者(ししや)を立(た)て、「今夜(こんや)の寅(とら)の刻(こく)に、主上山門を御憑(おんたのみ)有(あつ)て臨幸成りたる間、三千の衆徒(しゆと)悉(ことごと)く馳(はせ)参り候。近江(あふみ)・越前(ゑちぜん)の御勢(おんせい)を待(まち)て、明日(みやうにち)は六波羅(ろくはら)へ被寄べき由評定(ひやうじやう)あり。事の大(おほき)に成り候はぬ先(さき)に、急ぎ東坂本(ひがしさかもと)へ御勢(おんせい)を被向候へ。豪誉後攻仕(ごづめつかまつり)て、主上をば取(とり)奉るべし。」とぞ申(まうし)たりける。両六波羅(りやうろくはら)大(おほき)に驚(おどろい)て先(まづ)内裡(だいり)へ参(さんじ)て見奉るに、主上は御坐無(ござなく)て、只局町(つぼねまちの)女房達(にようばうたち)此彼(ここかしこ)にさしつどひて、鳴(なく)声のみぞしたりける。「さては山門へ落(おち)させ玉(たまひ)たる事子細(しさい)なし。勢(せい)つかぬ前(さき)に山門を攻(せめ)よ。」とて、四十八箇所(しじふはつかしよ)の篝(かがり)に畿内(きない)五箇国(ごかこく)の勢(せい)を差添(さしそへ)て、五千余騎追手(おふて)の寄手(よせて)として、赤山(せきさん)の麓(ふもと)、下松(さがりまつ)の辺(へん)へ指向(さしむけ)らる。搦手(からめて)へは佐々木(ささきの)三郎判官(はんぐわん)時信(ときのぶ)・海東左近将監(かいとうさこんのしやうげん)・長井丹後(たんごの)守(かみ)宗衡(むねひら)・筑後(ちくごの)前司(ぜんじ)貞知(さだとも)・波多野(はだの)上野前司(かうづけのぜんじ)宣道(のぶみち)・常陸前司(ひたちのぜんじ)時朝(ときとも)に、美濃(みの)・尾張(をはり)・丹波(たんば)・但馬(たじま)の勢(せい)をさしそへて七千余騎、大津、松本を経(へ)て、唐崎(からさき)の松の辺(へん)まで寄懸(よせかけ)たり。坂本には兼(かね)てより相図(あひづ)を指(さし)たる事なれば、妙法院(めうほふゐん)・大塔宮(おほたふのみや)両門主(もんじゆ)、宵(よひ)より八王子(はちわうじ)へ御上(おんあがり)あ(つ)て、御旗(おんはた)を被揚たるに、御門徒(ごもんと)の護正院(ごしやうゐん)の僧都(そうづ)祐全(いうぜん)・妙光坊(めうくわうばう)の阿闍梨(あじやり)玄尊(げんそん)を始(はじめ)として、三百騎五百騎此彼(ここかしこ)より馳(はせ)参りける程に、一夜(いちや)の間(あひだ)に御勢(おんせい)六千余騎に成(なり)にけり。天台座主(てんだいのざす)を始(はじめ)て解脱同相(げだつどうさう)の御衣(おんころも)を脱給(ぬぎたまひ)て、堅甲利兵(けんかふりへい)の御貌(おんかたち)に替(かは)る。垂跡和光(すゐじやくわくわう)の砌(みぎ)り忽(たちまち)に変(へんじ)て、勇士守禦(しゆぎよ)の場(ば)と成(なり)ぬれば、神慮(しんりよ)も何(いか)が有(あ)らんと計(はか)り難(かたく)ぞ覚(おぼえ)たる。去程(さるほど)に、六波羅(ろくはら)勢(ぜい)已(すで)に戸津(とづ)の宿辺(しゆくのへん)まで寄(よせ)たりと坂本の内(うち)騒動(さうだう)しければ、南岸(なんがんの)円宗院(ゑんしゆうゐん)・中坊(なかのばうの)勝行房(しようぎやうばう)・早雄(はやりを)の同宿共(どうしゆくども)、取(とる)物も取(とり)あへず唐崎(からさき)の浜へ出合(いであひ)げる。其(その)勢皆かち立(だち)にて而(しか)も三百人には過(すぎ)ざりけり。海東(かいとう)是(これ)を見て、「敵(てき)は小勢也(こぜいなり)けるぞ、後陣(ごぢん)の勢(せい)の重(かさ)ならぬ前(さき)に懸散(かけちら)さでは叶(かなふ)まじ。つゞけや者共(ものども)。」と云侭(いふまま)に、三尺四寸の太刀(たち)を抜(ぬい)て、鎧(よろひ)の射向(いむけ)の袖をさしかざし、敵のうず巻(まい)て扣(ひか)へたる真中(まんなか)へ懸入(かけいり)、敵三人(さんにん)切(きり)ふせ、波打際(なみうちぎは)に扣(ひか)へて続(つづ)く御方(みかた)をぞ待(まち)たりける。岡本房(をかもとばう)の幡磨(はりまの)竪者(りつしや)快実(くわいじつ)遥(はるか)に是(これ)を見て、前(まへ)につき双(ならべ)たる持楯(もちだて)一帖(でふ)岸破(かつぱ)と蹈倒(ふみたふ)し、に尺八寸の小長刀(こなぎなた)水車(みづぐるま)に回(まは)して躍(をど)り懸(かか)る。海東(かいとう)是(これ)を弓手(ゆんで)にうけ、胄(かぶと)の鉢(はち)を真二(まつぷたつ)に打破(うちわら)んと、隻手打(かたてうち)に打(うち)けるが、打外(うちはづ)して、袖の冠板(かふりいた)より菱縫(ひしぬひ)の板まで、片筋(かたすぢ)かいに懸(かけ)ず切(きつ)て落(おと)す。二(に)の太刀(たち)を余(あま)りに強く切(きら)んとて弓手(ゆんで)の鐙(あぶみ)を踏(ふみ)をり、已(すで)に馬より落(おち)んとしけるが、乗直(のりなほ)りける処を、快実(くわいじつ)長刀(なぎなた)の柄(え)を取延(とりのべ)、内甲(うちかぶと)へ鋒(きつさ)き上(あがり)に、二(ふた)つ三(み)つすき間(ま)もなく入(いれ)たりけるに、海東あやまたず喉(のど)ぶゑを突(つか)れて馬より真倒(まつさかさま)に落(おち)にけり。快実軈(やが)て海東が上巻(あげまき)に乗懸(のりかか)り、鬢(びん)の髪(かみ)を掴(つかん)で引懸(ひきかけ)て、頚かき切(きつ)て長刀に貫(つらぬ)き、武家の太将一人討取(うちと)りたり、物始(ものはじめ)よし、と悦(こころう)で、あざ笑(わらう)てぞ立(たつ)たりける。爰(ここ)に何者とは知(しら)ず見物衆(けんぶつしゆ)の中(なか)より、年十五六計(ばかり)なる小児(こちご)の髪(かみ)唐輪(からわ)に上(あげ)たるが、麹塵(きぢん)の筒丸(どうまろ)に、大口(おほくち)のそば高く取り、金作(こがねづくり)の小太刀(こだち)を抜(ぬい)て快実に走懸(はしりかか)り、甲(かぶと)の鉢をしたゝかに三打四打(みうちようち)ぞ打(うち)たりける。快実屹(きつ)と振帰(ふりかへつ)て是(これ)を見るに、齢(よはひ)二八計(じはちばかり)なる小児(こちご)の、大眉(おほまゆ)に鉄漿黒(かねくろ)也。是程(これほど)の小児(こちご)を討留(うちとめ)たらんは、法師(ほつし)の身に取(とつ)ては情無(なさけな)し。打(う)たじとすれば、走懸(はしりかかり)々々(はしりかかり)手繁(てしげ)く切回(きりまは)りける間、よし/\さらば長刀(なぎなた)の柄(え)にて太刀を打落(うちおとし)て、組止(くみとど)めんとしける処を、比叡辻(へいつぢ)の者共(ものども)が田(た)の畔(くろ)に立渡(たちわたつ)て射ける横矢(よこや)に、此児(このちご)胸板(むないた)をつと被射抜て、矢庭(やには)に伏(ふし)て死(し)にけり。後(のち)に誰(たれ)ぞと尋(たづぬ)れば、海東が嫡子(ちやくし)幸若丸(かうわかまろ)と云(いひ)ける小児、父が留置(とどめおき)けるに依(よつ)て軍(いくさ)の伴(とも)をばせざりけるが、猶も覚束(おぼつか)なくや思(おもひ)けん、見物衆(けんぶつしゆ)に紛(まぎれ)て跡に付(つい)て来(きたり)ける也。幸若稚(をさな)しと云へ共(ども)武士(ぶし)の家に生(うまれ)たる故(ゆゑ)にや、父が討(うた)れけるを見て、同(おなじ)く戦場(せんぢやう)に打死(うちじに)して名を残(のこし)けるこそ哀(あはれ)なれ。海東が郎等(らうとう)是(これ)を見て、「二人(ににん)の主(しゆう)を目の前(まへ)に討(うた)せ、剰(あまつさ)へ頚を敵(てき)に取(とら)せて、生(いき)て帰る者や可有。」とて、三十六騎の者共(ものども)轡(くつばみ)を双(ならべ)て懸入(かけいり)、主(しゆう)の死骸(しがい)を枕にして討死(うちじに)せんと相争(あひあらそ)ふ。快実是(これ)を見てから/\と打笑(うちわらう)て、「心得(こころえ)ぬ物(もの)哉(かな)。御辺達(ごへんたち)は敵(てき)の首(くび)をこそ取らんずるに、御方(みかた)の首(くび)をほしがるは武家(ぶけ)自滅(じめつ)の瑞相(ずゐさう)顕(あらは)れたり。ほしからば、すは取らせん。」と云侭(いふまま)に、持(もち)たる海東が首(くび)を敵(てき)の中(なか)へがはと投懸(なげかけ)、坂本様(さかもとやう)の拝(をが)み切(きり)、八方を払(はらう)て火を散(ちら)す。三十六騎の者共(ものども)、快実一人に被切立て、馬の足をぞ立(たて)かねたる。佐々木(ささきの)三郎判官時信後(うしろ)に引(ひか)へて、「御方(みかた)討(うた)すな、つゞけや。」と下知(げぢ)しければ、伊庭(いば)・目賀多(めかだ)・木村・馬淵(まぶち)、三百余騎呼(をめい)て懸(かか)る。快実既(すで)に討(うた)れぬと見へける処に、桂林房(けいりんばう)の悪讚岐(あくさぬき)・中房(なかのばう)の小相摸(こさがみ)・勝行房(しようぎやうばう)の侍従(じじゆう)竪者(りつしや)定快(ぢやうくわい)・金蓮房(こんれんばう)の伯耆(はうき)直源(ぢきげん)、四人左右より渡合(わたりあう)て、鋒(きつさき)を指合(さしあはせ)て切(きつ)て回(まは)る。讚岐と直源と同じ処にて打(うた)れにければ、後陣(ごぢん)の衆徒(しゆと)五十(ごじふ)余人(よにん)連(つれ)て又討(うつ)て懸(かか)る。唐崎(からさき)の浜と申(まうす)は東は湖(みづうみ)にて、其汀(そのみぎは)崩(くづれ)たり。西は深田(ふけた)にて馬の足も立(たた)ず、平沙(へいさ)渺々(べうべう)として道せばし。後(うしろ)へ取(とり)まはさんとするも叶(かなは)ず、中(なか)に取篭(とりこめ)んとするも叶ず。されば衆徒(しゆと)も寄手(よせて)も互に面(おもて)に立(たつ)たる者計(ばかり)戦(たたかう)て、後陣の勢(せい)はいたづらに見物(けんぶつ)してぞ磬(ひか)へたる。已(すで)に唐崎(からさき)に軍(いくさ)始(はじま)りたりと聞へければ、御門徒(ごもんと)の勢(せい)三千余騎、白井(しろゐ)の前(まへ)を今路(いまみち)へ向ふ。本院(ほんゐん)の衆徒(しゆと)七千余人(よにん)、三宮(さんのみや)林(はやし)を下降(おりくだ)る。和仁(わに)・堅田(かただ)の者共(ものども)は、小舟(こぶね)三百余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て、敵(てき)の後(うしろ)を遮(さへぎら)んと、大津をさして漕回(こぎまは)す。六波羅勢(ろくはらぜい)是(これ)を見て、叶はじとや思(おもひ)けん、志賀の炎魔堂(えんまだう)の前(まへ)を横切(よこきり)に、今路に懸(かかつ)て引帰(ひきかへ)す。衆徒(しゆと)は案内者(あんないしや)なれば、此彼(ここかしこ)の逼々(つまりつまり)に落合(おちあう)て散々(さんざん)に射る。武士(ぶし)は皆無案内(ぶあんない)なれば、堀峪(ほりがけ)とも云(いは)ず馬を馳倒(はせたふ)して引(ひき)かねける間(あひだ)、後陣(ごじん)に引(ひき)ける海東(かいとう)が若党(わかたう)八騎・波多野(はたの)が郎等(らうとう)十三騎・真野(まのの)入道父子(ふし)二人(ににん)・平井(ひらゐ)九郎主従(しゆうじゆう)二騎谷底(たにそこ)にして討(うた)れにけり。佐々木(ささきの)判官も馬を射させて乗(のり)がへを待程(まつほど)に、大敵(たいてき)左右(さいう)より取巻(とりまい)て既(すで)に討(うた)れぬとみへけるを、名を惜(をし)み命(いのち)を軽(かろ)んずる若党共(わかたうども)、帰合(かへしあはせ)々々所々(しよしよ)にて討死(うちじに)しける其間(そのあひだ)に、万死(ばんし)を出(いで)て一生(いつしやう)に合(あ)ひ、白昼(はくちう)に京(きやう)へ引帰(ひきかへ)す。此比(このころ)迄は天下久(ひさしく)静(しづか)にして、軍(いくさ)と云(いふ)事(こと)は敢(あへ)て耳にも触(ふれ)ざりしに、俄(にわか)なる不思議出来(いでき)ぬれば、人皆あはて騒(さわい)で、天地(てんち)も只今打返(うちかへ)す様(やう)に、沙汰せぬ処も無(なか)りけり。
○持明院殿(ぢみやうゐんどの)御幸六波羅(ろくはらにごかうの)事(こと) S0209
世上(せじやう)乱(みだれ)たる時節(をりふし)なれば、野心(やしん)の者共(ものども)の取進(とりまゐら)する事もやとて、昨日(きのふ)二十七日の巳刻(みのこく)に、持明院本院(ぢみやうゐんほんゐん)・春宮(とうぐう)両御所(りやうごしよ)、六条(ろくでう)殿(どの)より、六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)へ御幸(ごかう)なる。供奉(ぐぶ)の人人には、今出川(いまでがはの)前右大臣(さきのうだいじん)兼季公(かねすゑこう)・三条(さんでうの)大納言通顕(みちあき)・西園寺(さいをんじの)大納言公宗(きんむね)・日野(ひのの)前(さきの)中納言資名(すけな)・防城(ばうじやうの)宰相(さいしやう)経顕(つねあき)・日野(ひのの)宰相資明(すけあきら)、皆衣冠(いくわん)にて御車(おんくるま)の前後(ぜんご)に相順(あひしたが)ふ。其外(そのほか)の北面(ほくめん)・諸司(しよし)・格勤(かくご)は、大略(たいりやく)狩衣(かりぎぬ)の下(した)に腹巻(はらまき)を着映(きかかやか)したるもあり。洛中(らくちゆう)須臾(しゆゆ)に反化(へんくわ)して、六軍(りくぐん)翠花(すゐくわ)を警固(けいご)し奉る。見聞耳目(けんもんじぼく)を驚かせり。
○主上(しゆしやう)臨幸(りんかう)依非実事山門変儀(へんぎの)事(こと)付紀信(きしんが)事(こと) S0210
山門の大衆(だいしゆ)唐崎の合戦に打勝(うちかつ)て、事始(ことはじめ)よしと喜合(よろこびあへ)る事斜(なのめ)ならず。爰(ここ)に西塔(さいたふ)を皇居(くわうきよ)に被定る条、本院面目無(めんぼくなき)に似(にた)り。寿永(じゆえい)の古(いにし)へ、後白川院(ごしらかはのゐん)山門を御憑有(おんたのみあり)し時も、先(まづ)横川(よかは)へ御登山(ごとうざん)有(あり)しか共(ども)、軈(やが)て東塔(とうたふ)の南谷(みなみたに)、円融坊(ゑんゆうばう)へこそ御移(おんうつり)有(あり)しか。且(かつう)は先蹤(ぜんじよう)也、且(かつう)は吉例(きちれい)也。早く臨幸(りんかう)を本院へ可成奉と、西塔院(さいたふゐん)へ触(ふれ)送る。西塔(さいたふ)の衆徒(しゆと)理(り)にをれて、仙蹕(せんびつ)を促(うながさ)ん為に皇居(くわうきよ)に参列(さんれつ)す。折節(をりふし)深山(みやま)をろし烈(はげしう)して、御簾(ぎよれん)を吹上(ふきあげ)たるより、竜顔(りようがん)を拝(はい)し奉(たてまつり)たれば、主上にてはをわしまさず、尹(ゐんの)大納言師賢(もろかた)の、天子(てんし)の袞衣(こんえ)を着(ちやく)し給へるにてぞ有(あり)ける。大衆(だいしゆ)是(これ)を見て、「こは何(いか)なる天狗(てんぐ)の所行(しよぎやう)ぞや。」と興(きよう)をさます。其後よりは、参る大衆(だいしゆ)一人もなし。角(かく)ては山門何(いか)なる野心(やしん)をか存(そん)ぜんずらんと学(おぼ)へければ、其夜(そのよ)の夜半計(やはんばかり)に、尹(ゐんの)大納言師賢(もろかた)・四条(しでうの)中納言隆資(たかすけ)・二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為明(ためあきら)、忍(しのん)で山門を落(おち)て笠置(かさぎ)の石室(いはや)へ被参る。去程(さるほど)に上林房阿闍梨(じやうりんばうあじやり)豪誉(がうよ)は、元来(もとより)武家へ心を寄(よせ)しかば、大塔宮(おほたふのみや)の執事(しつじ)、安居院(あぐゐ)の中納言法印(ほふいん)澄俊(ちようしゆん)を生捕(いけどり)て六波羅(ろくはら)へ是(これ)を出(いだ)す。護正院僧都(ごしやうゐんそうづ)猷全(いうぜん)は、御門徒(ごもんと)の中(なか)の大名(だいみやう)にて八王子(はちわうじ)の一の木戸(きど)を堅(かため)たりしかば、角(かく)ては叶(かなは)じとや思(おもひ)けん、同宿(どうじゆく)手(て)の者引(ひき)つれて、六波羅(ろくはら)へ降参(かうさん)す。是(これ)を始(はじめ)として、独(ひと)り落(おち)二人(ふたり)落(おち)、々行(おちゆき)ける間、今は光林房(くわうりんばうの)律師(りつし)源存(げんそん)・妙光房(めうくわうばう)の小相摸(こさがみ)・中坊(なかのばう)の悪律師(あくりつし)、三四人(さんしにん)より外(ほか)は落止(おちとどま)る衆徒(しゆと)も無(なか)りけり。妙法院(めうほふゐん)と大塔宮(おほたふのみや)とは、其夜(そのよ)迄尚(なほ)八王子に御坐(ござ)ありけるが、角(かく)ては悪(あしか)りぬべしと、一(ひと)まども落延(おちのび)て、君の御行末(おんゆくへ)をも承(うけたまは)らばやと思召(おぼしめさ)れければ、二十九日の夜半計(やはんばかり)に、八王子に篝火(かがりび)をあまた所(ところ)に焼(たい)て、未(いまだ)大勢(おほぜい)篭(こもり)たる由を見せ、戸津浜(とづのはま)より小舟(をぶね)に召(めさ)れ、落止(おちとま)る所の衆徒(しゆと)三百人計(ばかり)を被召具て、先(まづ)石山(いしやま)へ落(おち)させ給ふ。此(ここ)にて両門主(もんじゆ)一所(いつしよ)へ落(おち)させ給はん事は、計略(けいりやく)遠(とほ)からぬに似たる上(うへ)、妙法院(めうほふゐん)は御行歩(おんぎやうぶ)もかひ/゛\しからねば、只暫(しばらく)此辺(このへん)に御座(ござ)有(ある)べしとて、石山(いしやま)より二人(ににん)引別(ひきわかれ)させ給(たまひ)て、妙法院(めうほふゐん)は笠置(かさぎ)へ超(こえ)させ給へば、大塔宮(おほたふのみや)は十津河(とつがわ)の奥へと志(こころざし)て、先(まづ)南都(なんと)の方(かた)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。さしもやごとなき一山(いつさん)の貫首(くわんじゆ)の位(くらゐ)を捨(すて)て、未(いまだ)習(ならは)せ給はぬ万里漂泊(ばんりへうはく)の旅(たび)に浮(うか)れさせ給へば、医王山王(いわうさんわう)の結縁(けちえん)も是(これ)や限りと名残惜(なごりをし)く、竹園連枝(ちくゑんれんし)の再会(さいくわい)も今は何(いつ)をか可期と、御心細(おんこころぼそく)被思召ければ、互に隔(へだ)たる御影(おんかげ)の隠るゝまでに顧(かへりみ)て、泣々(なくなく)東西(とうざい)へ別(わかれ)させ給ふ、御心(おんこころ)の中(うち)こそ悲(かなし)けれ。抑(そもそも)今度(こんど)主上(しゆしやう)、誠(まこと)に山門へ臨幸不成に依(よつ)て、衆徒(しゆと)の意(こころ)忽(たちまち)に変(へん)ずること、一旦(いつたん)事(こと)ならずと云へ共(ども)、倩(つらつら)事(こと)の様(やう)を案(あんず)るに、是(これ)叡智(えいち)の不浅る処に出(いで)たり。昔強秦(きやうしん)亡(ほろび)て後、楚(そ)の項羽(かうう)と漢(かんの)高祖(かうそ)と国を争(あらそふ)事(こと)八箇年(はちかねん)、軍(いくさ)を挑(いどむ)事(こと)七十余箇度也。其戦(そのたたかひ)の度毎(たびごと)に、項羽(かうう)常に勝(かつ)に乗(のつ)て、高祖(かうそ)甚(はなはだ)苦(くるし)める事多し。或時(あるとき)高祖(かうそ)■陽城(けいやうじやう)に篭(こも)る。項羽(かうう)兵(つはもの)を以て城(じやう)を囲(かこむ)事(こと)数百重(すひやくへ)也。日を経(へ)て城中(じやうちゆう)に粮(かて)尽(つき)て兵(つはもの)疲れければ、高祖(かうそ)戦(たたかは)んとするに力なく、遁(のがれ)んとするに道なし。此(ここ)に高祖(かうそ)の臣(しん)に紀信(きしん)と云(いひ)ける兵(つはもの)、高祖(かうそ)に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「項羽(かうう)今城(じやう)を囲(かこみ)ぬる事数百重(すひやくへ)、漢已(すで)に食(かて)尽(つき)て士卒(しそつ)又疲(つかれ)たり。若(もし)兵(つはもの)を出(いだ)して戦はゞ、漢必(かならず)楚の為に擒(とりこ)とならん。只敵(てき)を欺(あざむい)て潛(ひそか)に城(じやう)を逃出(のがれいで)んにはしかじ。願(ねがは)くは臣今漢王(かんわう)の諱(いみな)を犯(をか)して楚の陣に降(かう)せん。楚此(ここ)に囲(かこみ)を解(とい)て臣を得ば、漢王(かんわう)速(すみやか)に城(じやう)を出(いで)て重(かさね)て大軍(たいぐん)を起し、却(かへつ)て楚を亡(ほろぼ)し給へ。」と申(まうし)ければ、紀信が忽(たちまち)に楚に降(くだつ)て殺(ころさ)れん事悲しけれ共(ども)、高祖(かうそ)社稷(しやしよく)の為に身を軽(かる)くすべきに非ざれば、力無く涙ををさへ、別(わかれ)を慕(したひ)ながら紀信が謀(はかりごと)に随(したがひ)給ふ。紀信大(おほき)に悦(よろこう)で、自(みづから)漢王の御衣(ぎよい)を着(ちやく)し、黄屋(くわうをく)の車(くるま)に乗り、左纛(さたう)をつけて、「高祖(かうその)罪(つみ)を謝(しや)して、楚の大王(だいわう)に降(かう)す。」と呼(よばはり)て、城(じやう)の東門(とうもん)より出(いで)たりけり。楚の兵(つはもの)是(これ)を聞(きい)て、四面(しめん)の囲(かこみ)を解(とい)て一所(いつしよ)に集(あつま)る。軍勢(ぐんぜい)皆万歳(ばんぜい)を唱(となふ)。此間(このあひだ)に高祖(かうそ)三十余騎を従(したが)へて、城(じやう)の西門(さいもん)より出(いで)て成皐(せいかう)へぞ落給(おちたまひ)ける。夜(よ)明(あけ)て後(のち)楚(そ)に降(くだ)る漢王を見れば、高祖(かうそ)には非ず。其臣(そのしん)に紀信(きしん)と云(いふ)者なりけり。項羽(かうう)大(おほき)に忿(いかつ)て、遂(つひ)に紀信を指(さし)殺す。高祖(かうそ)頓(やが)て成皐の兵(つはもの)を率(そつ)して、却(かへつ)て項羽(かうう)を攻む。項羽(かうう)が勢(いきほひ)尽(つき)て後遂に烏江(をうかう)にして討(うた)れしかば、高祖(かうそ)長く漢の王業(わうげふ)を起して天下の主(あるじ)と成(なり)にけり。今主上(しゆしやう)も懸(かかり)し佳例(かれい)を思召(おぼしめし)、師賢(もろかた)も加様(かやう)の忠節(ちゆうせつ)を被存けるにや。彼(かれ)は敵(てき)の囲(かこみ)を解(とか)せん為に偽(いつは)り、是(これ)は敵(てき)の兵(つはもの)を遮(さへぎ)らん為に謀(はか)れり。和漢(わかん)時(とき)異(ことな)れども、君臣(くんしん)体(てい)を合(あはせ)たる、誠(まこと)に千載(せんざい)一遇(ぐう)の忠貞(ちゆうてい)、頃刻変化(きやうこくへんくわ)の智謀(ちぼう)也。


太平記(国民文庫)

太平記巻第三
○主上(しゆしやう)御夢(おんゆめの)事(こと)付楠(くすのきが)事(こと) S0301
元弘(げんこう)元年八月二十七日、主上笠置(かさぎ)へ臨幸成(なつ)て本堂を皇居(くわうきよ)となさる。始(はじめ)一両日(いちりやうにち)の程は武威に恐れて、参り任(つかふ)る人独(ひとり)も無(なか)りけるが、叡山(えいざん)東坂本(ひがしさかもと)の合戦(かつせん)に、六波羅勢(ろくはらぜい)打負(うちまけ)ぬと聞へければ、当寺(たうじ)の衆徒(しゆと)を始(はじめ)て、近国の兵共(つはものども)此彼(ここかしこ)より馳参(はせまゐ)る。されども未(いまだ)名ある武士(ぶし)、手勢(てぜい)百騎とも二百騎とも、打(うた)せたる大名は一人(いちにん)も不参。此勢許(このせいばかり)にては、皇居(くわうきよ)の警固(けいご)如何(いかん)有(ある)べからんと、主上思食煩(おぼしめしわづら)はせ給(たまひ)て、少し御(おん)まどろみ有(あり)ける御夢(おんゆめ)に、所(ところ)は紫宸殿(ししんでん)の庭前(ていぜん)と覚へたる地に、大(おほき)なる常盤木(ときはぎ)あり。緑の陰(かげ)茂(しげり)て、南へ指(さし)たる枝(えだ)殊に栄へ蔓(はびこ)れり。其下(そのした)に三公百官位(くらゐ)に依(よつ)て列坐(れつざ)す。南へ向(むき)たる上座(しやうざ)に御坐(ござ)の畳を高く敷(しき)、未(いまだ)坐(ざ)したる人はなし。主上御夢心地(おんゆめここち)に、「誰を設(まう)けん為の座席やらん。」と怪(あや)しく思食(おぼしめし)て、立(たた)せ給ひたる処に、鬟(びんづら)結(ゆう)たる童子(どうじ)二人(ににん)忽然(こつぜん)として来(きたつ)て、主上の御前(おんまへ)に跪(ひざまづ)き、涙を袖に掛(かけ)て、「一天下の間(あひだ)に、暫(しばらく)も御身(おんみ)を可被隠所なし。但しあの樹の陰(かげ)に南へ向へる座席あり。是(これ)御為(おんため)に設(まうけ)たる玉■(ぎよくい)にて候へば、暫く此(これ)に御座(ござ)候へ。」と申(まうし)て、童子は遥(はるか)の天に上(あが)り去(さん)ぬと御覧(ごらん)じて、御夢(おんゆめ)はやがて覚(さめ)にけり。主上是(これ)は天の朕(ちん)に告(つげたまへ)る所(ところ)の夢也と思食(おぼしめし)て、文字(もんじ)に付(つけ)て御料簡(ごれうけん)あるに、木(き)に南(みなみ)と書(かき)たるは楠(くすのき)と云(いふ)字也。其陰(そのかげ)に南に向ふて坐(ざ)せよと、二人(ににん)の童子(どうじ)の教へつるは、朕再び南面(なんめん)の徳を治(をさめ)て、天下の士(し)を朝(てう)せしめんずる処(ところ)を、日光月光(につくわうぐわつくわう)の被示けるよと、自(みづか)ら御夢(おんゆめ)を被合て、憑敷(たのもしく)こそ被思食けれ。夜(よ)明(あけ)ければ当寺(たうじ)の衆徒(しゆと)、成就房(じやうじゆばうの)律師(りつし)を被召、「若(もし)此辺(このへん)に楠と被云武士(ぶし)や有(ある)。」と、御尋(おんたづね)有(あり)ければ、「近き傍(あた)りに、左様(さやう)の名字(みやうじ)付(つき)たる者ありとも、未(いまだ)承(うけたまはり)及(およばず)候。河内国(かはちのくに)金剛山(こんがうせん)の西にこそ、楠多門兵衛(たもんひやうゑ)正成(まさしげ)とて、弓矢取(とつ)て名を得たる者は候なれ。是(これ)は敏達天王(びたつてんわう)四代の孫(そん)、井手左大臣(ゐでのさだいじん)橘諸兄公(たちばなのもろえこう)の後胤(こういん)たりと云へども、民間(みんかん)に下(くだつ)て年久し。其母(そのはは)若かりし時、志貴(しぎ)の毘沙門(びしやもん)に百日詣(まうで)て、夢想(むさう)を感じて設(まうけ)たる子にて候とて、稚名(をさなな)を多門(たもん)とは申(まうし)候也。」とぞ答へ申(まうし)ける。主上、さては今夜(こんや)の夢の告(つげ)是(これ)也と思食(おぼしめし)て、「頓(やが)て是(これ)を召せ。」と被仰下ければ、藤房卿(ふぢふさのきやう)勅(ちよく)を奉(うけたまはつ)て、急ぎ楠正成をぞ被召ける。勅使宣旨(せんじ)を帯(たい)して、楠が館(たち)へ行向(ゆきむかつ)て、事の子細(しさい)を演(のべ)られければ、正成弓矢取る身の面目(めんぼく)、何事(なにこと)か是(これ)に過(すぎ)んと思(おもひ)ければ、是非(ぜひ)の思案にも不及、先(まづ)忍(しのび)て笠置(かさぎ)へぞ参(さんじ)ける。主上万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさの)卿(きやう)を以て被仰けるは、「東夷征罰(とういせいばつ)の事(こと)、正成(まさしげ)を被憑思食子細(しさい)有(あつ)て、勅使を被立処に、時刻を不移馳参(はせまゐ)る条(でう)、叡感(えいかん)不浅処也。抑(そもそも)天下草創(さうさう)の事(こと)、如何(いか)なる謀(はかりごと)を廻(めぐら)してか、勝(かつ)事(こと)を一時(いちじ)に決して太平(たいへい)を四海(しかい)に可被致、所存(しよぞん)を不残可申。」と勅定(ちよくぢやう)有(あり)ければ、正成畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「東夷近日(きんじつ)の大逆(だいぎやく)、只(ただ)天(てん)の譴(せめ)を招(まねき)候上(うへ)は、衰乱の弊(つひ)へに乗(のつ)て天誅(てんちゆう)を被致に、何(なん)の子細か候べき。但(ただし)天下草創(さうさう)の功(こう)は、武略と智謀(ちぼう)とに二(ふたつ)にて候。若(もし)勢(せい)を合(あはせ)て戦はゞ、六十余州の兵(つはもの)を集(あつめ)て武蔵相摸(むさしさがみ)の両国(りやうこく)に対(たい)すとも、勝(かつ)事(こと)を得がたし。若(もし)謀(はかりごと)を以て争はゞ、東夷の武力(ぶりき)只利(り)を摧(くだ)き、堅(かたき)を破る内(うち)を不出。是(これ)欺(あざむ)くに安(やすう)して、怖(おそ)るゝに足(たら)ぬ所也。合戦(かつせん)の習(ならひ)にて候へば、一旦(いつたん)の勝負(しようぶ)をば必(かならず)しも不可被御覧。正成一人(いちにん)未だ生(いき)て有(あり)と被聞召候はゞ、聖運(せいうん)遂に可被開と被思食候へ。」と、頼(たのも)しげに申(まうし)て、正成は河内(かはち)へ帰(かへり)にけり。
○笠置(かさぎ)軍(いくさの)事(こと)付陶山(すやま)小見山(こみやま)夜討(ようちの)事(こと) S0302
去程(さるほど)に主上笠置(かさぎ)に御坐(ござ)有(あつ)て、近国(きんごく)の官軍(くわんぐん)付随(つきしたがひ)奉る由(よし)、京都へ聞へければ、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)又力を得て、六波羅(ろくはら)へ寄(よす)る事もや有(あら)んずらんとて、佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)時信(ときのぶ)に、近江(あふみ)一国(いつこく)の勢(せい)を相副(あひそへ)て大津(おほつ)へ被向。是(これ)も猶(なほ)小勢(こぜい)にて叶(かな)ふまじき由を申(まうし)ければ、重(かさね)て丹波国(たんばのくに)の住人(ぢゆうにん)、久下(くげ)・長沢の一族等(いちぞくら)を差副(さしそへ)て八百余騎(よき)、大津東西(とうざい)の宿(しゆく)に陣を取る。九月一日六波羅(ろくはら)の両■断(りやうけんだん)、糟谷(かすやの)三郎宗秋(むねあき)・隅田(すだの)次郎左衛門(じらうざゑもん)、五百余騎(よき)にて宇治の平等院(びやうどういん)へ打出(うちい)で、軍勢(ぐんぜい)の着到(ちやくたう)を着(つく)るに、催促(さいそく)をも不待、諸国の軍勢夜昼(よるひる)引(ひき)も不切馳集(はせあつまつ)て十万余騎(よき)に及べり。既(すで)に明日二日(みやうにちふつか)巳刻(みのこく)に押寄(おしよせ)て、矢合(やあはせ)可有と定(さだ)めたりける其前(そのさき)の日(ひ)、高橋(の)又四郎抜懸(ぬけがけ)して、独り高名(かうみやう)に備(そな)へんとや思(おもひ)けん、纔(わづか)に一族の勢三百(さんびやく)余騎(よき)を率(そつ)して、笠置(かさぎ)の麓へぞ寄(よせ)たりける。城(しろ)に篭(こも)る所の官軍(くわんぐん)は、さまで大勢(おほぜい)ならずと云へども、勇気未怠(いまだたゆまず)、天下の機(き)を呑(のん)で、回天(くわいてん)の力(ちから)を出(いだ)さんと思へる者共(ものども)なれば、纔(わづか)の小勢(こぜい)を見て、なじかは打(うつ)て懸(かか)らざらん。其(その)勢三千余騎(よき)、木津河(きづがは)の辺(へん)にをり合(あう)て、高橋が勢を取篭(とりこめ)て、一人も余(あま)さじと責(せめ)戦ふ。高橋始(はじめ)の勢(いきほ)ひにも似ず、敵の大勢(おほぜい)を見て、一返(ひとかへし)も不返捨鞭(すてむち)を打(うつ)て引(ひき)ける間、木津河の逆巻水(さかまくみづ)に被追浸、被討者其数(そのかず)若干(そくばく)也。僅(わづか)に命許(ばかり)を扶(たすか)る者も、馬(むま)物具(もののぐ)を捨(すて)て赤裸(あかはだか)になり、白昼(はくちう)に京都へ逃上(にげのぼ)る。見苦しかりし有様也。是(これ)を悪(にく)しと思ふ者やしたりけん。平等院の橋爪(はしづめ)に、一首(いつしゆ)の歌を書(かい)てぞたてたりける。木津川(きづかは)の瀬々(せぜ)の岩浪早ければ懸(かけ)て程なく落(おつ)る高橋高橋が抜懸(ぬけがけ)を聞(きい)て、引(ひか)ば入替(いりかはつ)て高名(かうみやう)せんと、跡(あと)に続(つづ)きたる小早河(こばやがは)も、一度(いちど)に皆被追立一返(ひとかへし)も不返、宇治(うぢ)まで引(ひい)たりと聞へければ、又札(ふだ)を立副(たてそへ)て、懸(かけ)も得ぬ高橋落(おち)て行(ゆく)水に憂名(うきな)を流す小早河(こばやがは)哉(かな)昨日(きのふ)の合戦に、官軍(くわんぐん)打勝(うちかち)ぬと聞へしかば、国々の勢馳(はせ)参りて、難儀(なんぎ)なる事もこそあれ、時日(ときひ)を不可移とて、両検断(りやうけんだん)宇治にて四方(しはう)の手分(てわけ)を定(さだめ)て、九月二日笠置(かさぎ)の城(しろ)へ発向(はつかう)す。南の手(て)には五畿内(きない)五箇国(ごかこく)の兵(つはもの)を被向。其勢(そのせい)七千六百余騎(よき)、光明山(くわうみやうせん)の後(うしろ)を廻(まはつ)て搦手(からめて)に向(むかふ)。東の手には、東海道十五箇国(じふごかこく)の内(うち)、伊賀・伊勢(いせ)・尾張(をはり)・三河・遠江(とほたふみ)の兵(つはもの)を被向。其(その)勢二万五千余騎(よき)、伊賀路(いがぢ)を経(へ)て金剛山越(こんがうせんごえ)に向ふ。北の手には、山陰道(せんいんだう)八箇国(はちかこく)の兵共(つはものども)一万二千余騎(よき)、梨間(なしま)の宿(しゆく)のはづれより、市野辺山(いちのべやま)の麓を回(まはつ)て、追手(おふて)へ向ふ。西の手には、山陽道(せんやうだう)八箇国(はちかこく)の兵(つはもの)を被向。其(その)勢三万二千余騎(よき)、木津河(きづがは)を上(のぼ)りに、岸の上なる岨道(そばみち)を二手(ふたて)に分(わけ)て推寄(おしよす)る。追手(おふて)搦手(からめて)、都合(つがふ)七万五千余騎(よき)、笠置(かさぎ)の山の四方(しはう)二三里が間(あひだ)は、尺地(せきち)も不残充満(じゆうまん)したり。明(あく)れば九月三日の卯刻(うのこく)に、東西南北(とうざいなんぼく)の寄手(よせて)、相近(あひちかづい)て時(とき)を作る。其(その)声百千の雷(いかづち)の鳴落(なりおつる)が如(ごとく)にして天地(てんち)も動く許(ばかり)也。時の声三度(さんど)揚(あげ)て、矢合(やあはせ)の流鏑(かぶら)を射懸(いかけ)たれども、城(しろ)の中(うち)静(しづま)り還(かへつ)て時の声をも不合、当(たう)の矢をも射ざりけり。彼(かの)笠置(かさぎ)の城(しろ)と申(まうす)は、山高(たかう)して一片(いつぺん)の白雲(はくうん)峯を埋(うづ)み、谷深(ふかう)して万仞(ばんじん)の青岩(せいがん)路を遮(さへぎ)る。攀折(つづらをり)なる道を廻(まはつ)て揚(あが)る事十八町、岩を切(きつ)て堀とし石を畳(たたう)で屏(へい)とせり。されば縦(たと)ひ防(ふせ)ぎ戦ふ者無(なく)とも、輒(たやす)く登る事を得難し。されども城中(じやうちゆう)鳴(なり)を静めて、人ありとも見へざりければ、敵(てき)はや落(おち)たりと心得て、四方(しはう)の寄手(よせて)七万五千余騎(よき)、堀がけとも不謂、葛(くず)のかづらに取付(とりつい)て、岩の上を伝(つたう)て、一(いち)の木戸口(きどぐち)の辺(へん)、二王堂(にわうだう)の前までぞ寄(よせ)たりける。此(ここ)にて一息(ひといき)休めて城(しろ)の中(うち)を屹(きつ)と向上(みあげ)ければ、錦(にしき)の御旗(おんはた)に日月(じつげつ)を金銀(きんぎん)にて打(うつ)て着(つけ)たるが、白日(はくじつ)に耀(かかやい)て光り渡りたる其陰(そのかげ)に、透間(すきま)もなく鎧(よろ)ふたる武者(むしや)三千余人(よにん)、甲(かぶと)の星を耀(かかやか)し、鎧(よろひ)の袖を連(つらね)て、雲霞(うんか)の如くに並居(なみゐ)たり。其外(そのほか)櫓(やぐら)の上(うへ)、さまの陰(かげ)には、射手(いて)と覚(おぼ)しき者共(ものども)、弓の弦(つる)くひしめし、矢束(やたばね)解(とい)て押甘(おしくつろげ)、中差(なかざし)に鼻油(はなあぶら)引(ひい)て待懸(まちかけ)たり。其勢(そのいきほひ)決然(けつぜん)として、敢(あへ)て可攻様(やう)ぞなき。寄手(よせて)一万余騎(よき)是(これ)を見て、前(すす)まんとするも不叶、引(ひか)んとするも不協して、心ならず支(ささへ)たり。良(やや)暫有(しばらくあり)て、木戸の上なる櫓より、矢間(さま)の板を排(おしひらい)て名乗(なのり)けるは、「参河国(みかはくにの)住人(ぢゆうにん)足助(あすけの)次郎重範(しげのり)、忝(かたじけな)くも一天(いつてん)の君にたのまれ進(まゐ)らせて、此(この)城の一の木戸を堅(かた)めたり。前陣(ぜんぢん)に進んだる旗は、美濃(みの)・尾張(をはり)の人々の旗と見るは僻目(ひがめ)か。十善(じふぜん)の君の御座(おはしま)す城(しろ)なれば、六波羅(ろくはら)殿(どの)や御向(おんむか)ひ有(あ)らんずらんと心得て、御儲(おんまうけ)の為に、大和鍛冶(やまとかぢ)のきたうて打(うち)たる鏃(やじり)を少々(せうせう)用意(ようい)仕(つかまつり)て候。一筋(ひとすぢ)受(うけ)て御覧(ごらん)じ候へ。」と云侭(いふまま)に、三人(さんにん)張(ばり)の弓に十三束三伏(じふさんぞくみつぶせ)篦(の)かづきの上まで引(ひき)かけ、暫(しばらく)堅(かた)めて丁(ちやう)と放つ。其(その)矢遥(はるか)なる谷を阻(へだて)て、二町(にちやう)余(あまり)が外(ほか)に扣(ひか)へたる荒尾九郎が鎧(よろひ)の千檀(せんだん)の板(いた)を、右の小脇(こわき)まで篦深(のぶか)にぐさと射込む。一箭(ひとや)なりといへども究竟(くつきやう)の矢坪(やつぼ)なれば、荒尾馬より倒(さかさま)に落(おち)て起(おき)も直(なほ)らで死(しし)けり。舎弟(しやてい)の弥五郎(やごらう)是(これ)を敵に見せじと、矢面(やおもて)に立隠(たちかく)して、楯(たて)のはづれより進出(すすみいで)て云(いひ)けるは、「足助(あすけ)殿(どの)の御弓勢(ごゆんぜい)、日来(ひごろ)承候(うけたまはりさふらひ)し程は無(なか)りけり。此(ここ)を遊ばし候へ。御矢(おんや)一筋受(うけ)て物(もの)の具(ぐ)の実(さね)の程試(こころみ)候はん。」と欺(あざむい)て、弦走(つるばしり)を敲(たたい)てぞ立(たち)たりける。足助是(これ)を聞(きい)て、「此(この)者の云様(いひやう)は、如何様(いかさま)鎧の下(した)に、腹巻(はらまき)か鎖(くさり)歟(か)を重(かさね)て着たれば社(こそ)、前(さき)の矢を見ながら此(ここ)を射よとは敲(たた)くらん。若(もし)鎧の上を射ば、篦(の)摧(くだ)け鏃(やじり)折(をれ)て通らぬ事もこそあれ。甲(かぶと)の真向(まつかう)を射たらんに、などか砕(くだけ)て通らざらん。」と思案して、「胡■(えびら)より金磁頭(かなじんどう)を一(ひと)つ抜出(ぬきいだ)し、鼻油(はなあぶら)引(ひい)て、「さらば一矢(ひとや)仕り候はん。受(うけ)て御覧(ごらん)候へ。」と云侭(いふまま)に、且(しばら)く鎧の高紐(たかひも)をはづして、十三束三伏(じふさんぞくみつぶせ)、前(さき)よりも尚引(ひき)しぼりて、手答(てごた)へ高くはたと射る。思ふ矢坪(やつぼ)を不違、荒尾弥五郎が甲(かぶと)の真向(まつかう)、金物(かなもの)の上(うへ)二寸計(ばかり)射砕(いくだい)て、眉間(みけん)の真中(まんなか)をくつまき責(せめ)て、ぐさと射篭(いこう)だりければ、二言(にごん)とも不云、兄弟(きやうだい)同枕(おなじまくら)に倒重(たふれかさなつ)て死(しし)にけり。是(これ)を軍(いくさ)の始(はじめ)として、追手(おふて)搦手(からめて)城(じやう)の内、をめき叫(さけん)で責(せめ)戦ふ。箭叫(やさけび)の音時(とき)の声且(しばし)も休(やむ)時なければ、大山(たいさん)も崩(くづれ)て海に入り、坤軸(こんぢく)も折(をれ)て忽(たちまち)地に沈(しづ)む歟(か)とぞ覚へし。晩景(ばんげい)に成(なり)ければ、寄手(よせて)弥(いよいよ)重(かさなつ)て持楯(もちたて)をつきよせつきよせ、木戸口(きどぐち)の辺(へん)まで攻(せめ)たりける処に、爰(ここ)に南都の般若寺(はんにやじ)より巻数(くわんじゆ)持(もち)て参りたりける使(つかひ)、本性房(ほんじやうばう)と云(いふ)大力(だいりき)の律僧(りつそう)の有(あり)けるが、褊衫(へんさん)の袖を結(むすん)で引違(ひきちが)へ、尋常(よのつね)の人の百人しても動(うごか)し難き大磐石(だいばんじやく)を、軽々(かるがる)と脇に挟(はさ)み、鞠(まり)の勢(せい)に引欠々々(ひつかけひつかけ)、二三十つゞけ打(うち)にぞ投(なげ)たりける。数万(すまん)の寄手(よせて)、楯(たて)の板(いた)を微塵(みぢん)に打砕(うちくだ)かるゝのみに非(あら)ず、少(すこし)も此(この)石に当る者、尻居(しりゐ)に被打居ければ、東西(とうざい)の坂に人頽(ひとなだれ)を築(つい)て、馬人弥(いや)が上(うへ)に落重(おちかさな)る。さしも深き谷二(ふたつ)、死人(しにん)にてこそうめたりけれ。されば軍(いくさ)散じて後(のち)までも木津河(きづがは)の流(ながれ)血に成(なつ)て、紅葉(もみぢ)の陰(かげ)を行(ゆく)水の紅(くれなゐ)深きに不異。是(これ)より後(のち)は、寄手(よせて)雲霞(うんか)の如しといへども、城(しろ)を攻(せめ)んと云(いふ)者一人もなし。只(ただ)城の四方(しはう)を囲(かこ)めて遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。かくて日数(ひかず)を経(へ)ける処に、同(おなじき)月十一日、河内の国より早馬(はやむま)を立(たて)て、「楠兵衛(ひやうゑ)正成(まさしげ)と云(いふ)者、御所方(ごしよがた)に成(なつ)て旗を挙(あぐ)る間、近辺の者共(ものども)、志あるは同心(どうしん)し、志なきは東西(とうざい)に逃隠(にげかく)る。則(すなはち)国中(こくぢゆう)の民屋(みんをく)を追捕(ついふ)して、兵粮(ひやうらう)の為に運取(はこびとり)、己(おのれ)が館(たち)の上なる赤坂山(あかさかやま)に城郭(じやうくわく)を構へ、其勢(そのせい)五百騎にて楯篭(たてこも)り候。御退治(ごたいぢ)延引(えんいん)せば、事(こと)御難儀(おんなんぎ)に及候(およびさふらひ)なん。急ぎ御勢(おんせい)を可被向。」とぞ告申(つげまうし)ける。是(これ)をこそ珍事(ちんじ)なりと騒ぐ処に、又同(おなじき)十三日の晩景に、備後(びんご)の国より早馬(はやむま)到来(たうらい)して、「桜山(さくらやま)四郎入道、同(おなじき)一族等(ら)御所方(ごしよがた)に参(まゐつ)て旗を揚(あげ)、当国の一宮(いちのみや)を城郭として楯篭(たてこも)る間、近国の逆徒等(げきとら)少々(せうせう)馳加(はせくははつ)て、其勢(そのせい)既(すでに)七百余騎(よき)、国中(こくぢゆう)を打靡(うちなびけ)、剰(あまつさへ)他国へ打越(うちこえ)んと企(くはだ)て候。夜(よ)を日(ひ)に継(つい)で討手(うつて)を不被下候はゞ、御大事(おんだいじ)出来(いでき)ぬと覚(おぼえ)候。御油断(ごゆだん)不可有。」とぞ告(つげ)たりける。前(まへ)には笠置(かさぎ)の城強(つよう)して、国々の大勢(おほぜい)日夜(にちや)責(せむ)れども未落(いまだおちず)、後(うしろ)には又楠・桜山の逆徒大(おほき)に起(おこつ)て、使者(ししや)日々(ひび)に急(きふ)を告(つぐ)。南蛮西戎(なんばんせいじゆう)は已(すで)に乱(みだれ)ぬ。東夷北狄(とういほくてき)も又如何(いかが)あらんずらんと、六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)駿河(するがの)守(かみ)、安き心も無(なか)りければ、日々(ひび)に早馬(はやむま)を打(うた)せて東国勢をぞ被乞ける。相摸入道(さがみにふだう)大(おほき)に驚(おどろい)て、「さらばやがて討手を差上(さしのぼ)せよ。」とて、一門他家(たけ)宗徒(むねと)の人々六十三人(ろくじふさんにん)迄ぞ被催ける。大将軍には大仏(おさらぎ)陸奥守(むつのかみ)貞直・同遠江守(とほたふみのかみ)・普恩寺(ふおんじ)相摸守(さがみのかみ)・塩田越前守(ゑちぜんのかみ)・桜田参河(みかはの)守(かみ)・赤橋尾張(をはりの)守(かみ)・江馬(えま)越前守(ゑちぜんのかみ)・糸田左馬頭(さまのかみ)・印具兵庫助(いぐひやうごのすけ)・佐介上総介(さかいかづさのかみ)・名越右馬助(なごやうまのすけ)・金沢(かなざは)右馬助(うまのすけ)・遠江(とほたふみの)左近(さこんの)大夫将監(たいふしやうげん)治時(はるとき)・足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)、侍大将(さぶらひたいしやう)には、長崎四郎左衛門尉(さゑもんのじよう)、相従(あひしたが)ふ侍(さぶらひ)には、三浦介(みうらのすけ)入道・武田甲斐(かひの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・椎名(しひな)孫八入道・結城上野(ゆふきかうづけの)入道・小山出羽(をやまではの)入道・氏家美作(うぢへみまさかの)守(かみ)・佐竹上総(かづさの)入道・長沼(ながぬま)四郎左衛門入道・土屋安芸権守(つちやあきのごんのかみ)・那須加賀(かがの)権(ごんの)守(かみ)・梶原(かぢはら)上野(かうづけの)太郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・岩城(いはき)次郎入道・佐野(さのの)安房(あはの)弥太郎(やたらう)・木村次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・相馬(さうま)右衛門次郎・南部(なんぶ)三郎次郎・毛利丹後(たんごの)前司(ぜんじ)、那波(なば)左近(さこんの)太夫将監(たいふしやうげん)・一宮善(いぐせ)民部(みんぶの)太夫(たいふ)・土肥(とひ)佐渡(さどの)前司・宇都宮(うつのみや)安芸(あきの)前司・同肥後(ひごの)権守(ごんのかみ)・葛西(かさいの)三郎兵衛(さぶらうひやうゑの)尉(じよう)・寒河(さんがうの)弥四郎・上野(かうづけの)七郎三郎・大内(おほち)山城(やましろの)前司・長井治部(ぢぶの)少輔(せう)・同備前(びぜんの)太郎・同因幡(いなば)民部(みんぶの)大輔(たいふ)入道・筑後(ちくごの)前司・下総(しもつさの)入道・山城(やましろ)左衛門(さゑもんの)大夫・宇都宮(うつのみや)美濃(みのの)入道・岩崎弾正左衛門尉(だんしやうさゑもんのじよう)・高久(かうく)同孫三郎・同彦三郎・伊達(だての)入道・田村形部大輔(ぎやうぶのたいふ)入道・入江蒲原(いりえかんばら)の一族・横山猪俣(ゐのまた)の両党、此外(このほか)、武蔵(むさし)・相摸(さがみ)・伊豆(いづ)・駿河(するが)・上野(かうづけ)、五箇国(ごかこく)の軍勢(ぐんぜい)、都合(つごふ)二十万七千六百余騎(よき)、九月二十日鎌倉(かまくら)を立(たつ)て、同晦日(おなじきつごもり)、前陣(ぜんぢん)已(すで)に美濃・尾張(をはり)両国に着(つけ)ば、後陣(ごぢん)は猶未(いまだ)高志(たかし)・二村(ふたむら)の峠(たうげ)に支へたり。爰(ここ)に備中(びつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)陶山藤三義高(すやまとうざうよしたか)・小見山(こみやま)次郎某(なにがし)、六波羅(ろくはら)の催促(さいそく)に随(したがつ)て、笠置(かさぎ)の城の寄手(よせて)に加(くははつ)て、河向(かはむかひ)に陣を取(とつ)て居たりけるが、東国の大勢(おほぜい)既(すで)に近江に着(つき)ぬと聞へければ、一族若党共(わかたうども)を集(あつめ)て申(まうし)けるは、「御辺達(ごへんたち)如何(いか)が思(おもふ)ぞや、此間(このあひだ)数日(すじつ)の合戦(かつせん)に、石に被打、遠矢(とほや)に当(あたつ)て死(し)ぬる者、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知。是(これ)皆差(さし)て為出(しいだ)したる事も無(なう)て死(しし)ぬれば、骸骨(がいこつ)未だ乾(かわ)かざるに、名は先立(さきだち)て消去(きえさり)ぬ。同(おなじ)く死(し)ぬる命(いのち)を、人目(ひとめ)に余(あま)る程の軍(いくさ)一度(いちど)して死(しし)たらば、名誉(めいよ)は千載(せんざい)に留(とどまつ)て、恩賞は子孫の家に栄(さかえ)ん。倩(つらつら)平家の乱(らん)より以来(このかた)、大剛(だいがう)の者とて名を古今(ここん)に揚(あげ)たる者共(ものども)を案ずるに、何(いづ)れも其(それ)程の高名(かうみやう)とは不覚(おぼえず)。先(まづ)熊谷(くまがへ)・平山(ひらやま)が一谷(いちのたに)の先懸(さきがけ)は、後陣(ごぢん)の大勢(おほぜい)を憑(たのみ)し故(ゆゑ)也。梶原平三(かぢはらへいざう)が二度(にど)の懸(かけ)は、源太(げんた)を助(たすけ)ん為なり。佐々木(ささきの)三郎が藤戸(ふぢと)を渡しゝは、案内者(あんないじや)のわざ、同(おなじく)四郎高綱(たかつな)が宇治川の先陣は、いけずき故(ゆゑ)也。此等(これら)をだに今の世迄(よまで)語伝(かたりつたへ)て、名を天下の人口(じんこう)に残すぞかし。何(いか)に況(いはん)や日本国(につほんごく)の武士共(ぶしども)が集(あつまつ)て、数日(すじつ)攻(せむ)れども落(おと)し得ぬ此城(このしろ)を、我等が勢許(せいばかり)にて攻落(せめおと)したらんは、名は古今(ここん)の間(あひだ)に双(ならび)なく、忠は万人(ばんにん)の上(うへ)に可立。いざや殿原(とのばら)、今夜(こよひ)の雨風(あめかぜ)の紛(まぎ)れに、城中(じやうちゆう)へ忍入(しのびいつ)て、一夜討(ひとようち)して天下の人に目を覚(さま)させん。」と云(いひ)ければ、五十(ごじふ)余人(よにん)の一族(いちぞく)若党(わかたう)、「最(もつとも)可然。」とぞ同(どう)じける。是(これ)皆千に一(ひとつ)も生(いき)て帰る者あらじと思切(おもひきつ)たる事なれば、兼(かね)ての死(し)に出立(でだち)に、皆曼陀羅(まんだら)を書(かい)てぞ付(つけ)たりける。差縄(さしなは)の十丈(じふぢやう)許(ばかり)長きを二筋(ふたすぢ)、一尺計(ばかり)置(おい)ては結合(むすびあはせ)々々して、其端(そのはし)に熊手(くまで)を結着(ゆひつけ)て持(もた)せたり。是(これ)は岩石(がんせき)などの被登ざらん所をば、木の枝(えだ)岩の廉(かど)に打懸(うちかけ)て、登らん為の支度(したく)也。其夜(そのよ)は九月晦日(つごもり)の事なれば、目指(めざす)とも不知暗き夜(よ)に、雨風(あめかぜ)烈(はげし)く吹(ふい)て面(おもて)を可向様(やう)も無(なか)りけるに、五十(ごじふ)余人(よにん)の者ども、太刀(たち)を背(せなか)に負(おひ)、刀(かたな)を後(うしろ)に差(さい)て、城(しろ)の北に当(あたり)たる石壁(せきへき)の数百丈(すひやくぢやう)聳(そびえ)て、鳥も翔(かけ)り難(がた)き所よりぞ登りける。二町(にちやう)許(ばかり)は兎角(とかう)して登りつ、其(その)上に一段高き所あり。屏風(びやうぶ)を立(たて)たる如くなる岩石(がんぜき)重(かさなり)て、古松(こしよう)枝(えだ)を垂(たれ)、蒼苔(さうたい)路滑(なめらか)なり。此(ここ)に至(いたり)て人(ひと)皆(みな)如何(いか)んともすべき様(やう)なくして、遥(はるか)に向上(みあげ)て立(たつ)たりける処に、陶山藤三(すやまとうざう)、岩の上をさら/\と走上(はしりのぼつ)て、件(くだん)の差縄を上(うへ)なる木の枝(えだ)に打懸(うちかけ)て、岩の上よりをろしたるに、跡(あと)なる兵共(つはものども)各(おのおの)是(これ)に取付(とりつい)て、第一(だいいち)の難所(なんじよ)をば安々(やすやす)と皆上(のぼ)りてげり。其(それ)より上にはさまでの嶮岨(けんそ)無(なか)りければ、或(あるひ)は葛(くず)の根に取付(とりつき)、或(あるひ)は苔(こけ)の上を爪立(つまだて)て、二時計(ふたときばかり)に辛苦(しんく)して、屏際(へいのきは)まで着(つい)てけり。此(ここ)にて一息(ひといき)休(やすめ)て、各(おのおの)屏を上(のぼ)り超(こえ)、夜廻(よまは)りの通りける迹(あと)に付(つい)て、先(まづ)城(しろ)の中(うち)の案内をぞ見たりける。追手(おふて)の木戸(きど)・西の坂口(さかくち)をば、伊賀・伊勢の兵(つはもの)千余騎(よき)にて堅(かた)めたり。搦手(からめて)に対する東の出屏(だしべい)の口(くち)をば、大和(やまと)・河内(かはち)の勢(せい)五百余騎(よき)にて堅(かため)たり。南の坂、二王堂(にわうだう)の前をば、和泉(いづみ)・紀伊国(きのくに)の勢七百余騎(よき)にて堅(かため)たり。北の口一方(いつぱう)は嶮(けはし)きを被憑けるにや、警固(けいご)の兵(つはもの)をば一人(いちにん)も不被置、只云甲斐(いひかひ)なげなる下部共(しもべども)二三人(にさんにん)、櫓(やぐら)の下(した)に薦(こも)を張(はり)、篝(かがり)を焼(たい)て眠居(ねむりゐ)たり。陶山(すやま)・小見山(こみやま)城(しろ)を廻(まはり)、四方(しはう)の陣をば早見澄(みすま)しつ。皇居(くわうきよ)は何(いづ)くやらんと伺(うかがう)て、本堂(ほんだう)の方(かた)へ行処(ゆくところ)に、或役所(あるやくしよ)の者是(これ)を聞付(ききつけ)て、「夜中(やちゆう)に大勢(おほぜい)の足音して、潛(ひそか)に通(とほる)は怪(あやし)き物哉(かな)、誰人(たれびと)ぞ。」と問(とひ)ければ、陶山吉次(すやまのよしつぐ)取(とり)も敢(あへ)ず、「是(これ)は大和勢(やまとぜい)にて候が、今夜(こよひ)余(あまり)に雨風烈(はげ)しくして、物騒(ものさわ)が〔し〕く候間(あひだ)、夜討(ようち)や忍入(しのびいり)候はんずらんと存候(ぞんじさふらひ)て、夜廻仕(よまはりつかまつり)候也。」と答(こたへ)ければ、「げに。」と云音(いふおと)して、又問(とふ)事(こと)も無(なか)りけり。是(これ)より後(のち)は中々(なかなか)忍(しのび)たる体(てい)も無(なく)して、「面々(めんめん)の御陣(ごぢん)に、御用心(ごようじん)候へ。」と高らかに呼(よば)は(つ)て、閑々(しづしづ)と本堂へ上(あがり)て見れば、是(ここ)ぞ皇居(くわうきよ)と覚(おぼえ)て、蝋燭(らふそく)数多所(あまたところ)に被燃て、振鈴(しんれい)の声幽(かすか)也。衣冠(いくわん)正(ただし)くしたる人、三四人(さんしにん)大床(おほゆか)に伺候(しこう)して、警固(けいご)の武士(ぶし)に、「誰か候。」と被尋ければ、「其(その)国(くに)の某々(なにがしそれがし)。」と名乗(なのつ)て廻廊(くわいらう)にしかと並居(なみゐ)たり。陶山(すやま)皇居(くわうきよ)の様(やう)まで見澄(みすま)して、今はかうと思(おもひ)ければ、鎮守(ちんじゆ)の前にて一礼(いちらい)を致し、本堂の上(うへ)なる峯(みね)へ上(のぼつ)て、人もなき坊(ばう)の有(あり)けるに火を懸(かけ)て同音(どうおん)に時の声を挙ぐ。四方(しはう)の寄手(よせて)是(これ)を聞(きき)、「すはや城中(じやうちゆう)に返忠(かへりちゆう)の者出来(いでき)て、火を懸(かけ)たるは。時の声を合(あは)せよや。」とて追手(おふて)搦手(からめて)七万余騎(よき)、声々(こゑごゑ)に時を合(あはせ)て喚(をめ)き叫ぶ。其(その)声天地を響(ひび)かして、如何なる須弥(しゆみ)の八万由旬(はちまんゆじゆん)なりとも崩(くづれ)ぬべくぞ聞へける。陶山(すやま)が五十(ごじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、城(しろ)の案内(あんない)は只今委(くはし)く見置(みおき)たり。此役所(ここのやくしよ)に火を懸(かけ)ては彼(かし)こに時の声をあげ、彼(かし)こに時を作(つくつ)ては此櫓(ここのやぐら)に火を懸(かけ)、四角(しかく)八方に走り廻(まはつ)て、其勢(そのせい)城中(じやうちゆう)に充満(みちみち)たる様(やう)に聞へければ、陣々堅(かた)めたる官軍共(くわんぐんども)、城内(しろのうち)に敵(てき)の大勢(おほぜい)攻入(せめいり)たりと心得て、物(もの)の具(ぐ)を脱捨(ぬぎすて)弓矢をかなぐり棄(すて)て、がけ堀とも不謂、倒(たふ)れ転(まろ)びてぞ落行(おちゆき)ける。錦織判官代(にしこりのはんぐわんだい)是(これ)を見て、「膩(きたな)き人々の振舞(ふるまひ)哉(かな)。十善(じふぜん)の君に被憑進(まゐら)せて、武家(ぶけ)を敵(てき)に受(うく)る程の者共(ものども)が、敵大勢(おほぜい)なればとて、戦(たたか)はで逃(にぐ)る様(やう)やある、いつの為に可惜命(いのち)ぞ。」とて、向ふ敵に走懸(はしりかかり)々々(はしりかかり)、大(おほ)はだぬぎに成(なつ)て戦ひけるが、矢種(やだね)を射尽(つく)し、太刀(たち)を打折(うちをり)ければ、父子(ふし)二人(ににん)並(ならびに)郎等十三人(じふさんにん)、各(おのおの)腹かき切(きつ)て同枕(おなじまくら)に伏(ふし)て死(しに)にけり。
○主上(しゆしやう)御没落笠置事 S0303
去程(さるほど)に類火(るゐくわ)東西(とうざい)より被吹て、余煙(よえん)皇居(くわうきよ)に懸(かか)りければ、主上を始進(はじめまゐら)せて、宮々(みやみや)・卿相(けいしやう)・雲客(うんかく)、皆歩跣(かちはだし)なる体(てい)にて、何(いづ)くを指(さす)ともなく足に任(まかせ)て落行(おちゆき)給ふ。此(この)人々、始(はじめ)一二町(いちにちやう)が程こそ、主上を扶進(たすけまゐら)せて、前後(ぜんご)に御伴(おんとも)をも被申たりけれ。雨風烈(はげ)しく道闇(くらう)して、敵の時(とき)の声此彼(ここかしこ)に聞へければ、次第〔に〕別々(べちべち)に成(なつ)て、後(のち)には只藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)より外(ほか)は、主上の御手(おんて)を引進(ひきまゐら)する人もなし。悉(かたじけなく)も十善(じふぜん)の天子、玉体(ぎよくたい)を田夫野人(でんぷやじん)の形(かたち)に替(かへ)させ給(たまひ)て、そことも不知迷ひ出(いで)させ玉(たまひ)ける、御有様(おんありさま)こそ浅猿(あさまし)けれ。如何(いか)にもして、夜(よ)の内(うち)に赤坂城(あかさかのしろ)へと御心(おんこころ)許(ばかり)を被尽けれども、仮(かり)にも未(いまだ)習はせ玉(たま)はぬ御歩行(ごほかう)なれば、夢路(ゆめぢ)をたどる御心地(おんここち)して、一足(ひとあし)には休み、二足(ふたあし)には立止(たちとどま)り、昼は道の傍(そば)なる青塚(おをつか)の陰(かげ)に御身(おんみ)を隠(かく)させ玉(たまひ)て、寒草(かんさう)の疎(おろそ)かなるを御座(ござ)の茵(しとね)とし、夜(よる)は人も通はぬ野原(のばら)の露に分迷(わけまよ)はせ玉(たまひ)て、羅穀(らこく)の御袖(おんそで)をほしあへず。兎角(とかう)して夜昼(よるひる)三日に、山城(やましろ)の多賀郡(たかのこほり)なる有王山(ありわうやま)の麓まで落(おち)させ玉(たまひ)てけり。藤房(ふぢふさ)も季房(すゑふさ)も、三日まで口中(くぢゆう)の食(じき)を断(たち)ければ、足たゆみ身疲れて、今は如何なる目に逢(あふ)とも逃(にげ)ぬべき心地(ここち)せざりければ、為(せ)ん方無(なう)て、幽谷(いうこく)の岩を枕にて、君臣兄弟(くんしんきやうだい)諸共(もろとも)に、うつゝの夢に伏(ふし)玉ふ。梢(こずゑ)を払ふ松の風を、雨の降(ふる)かと聞食(きこしめし)て、木陰(きのかげ)に立寄(たちよら)せ玉(たまひ)たれば、下露(したつゆ)のはら/\と御袖(おんそで)に懸(かか)りけるを、主上被御覧て、さして行(ゆく)笠置(かさぎ)の山を出(いで)しよりあめが下(した)には隠家(かくれが)もなし藤房(ふぢふさの)卿(きやう)泪(なみだ)を押(おさ)へて、いかにせん憑(たの)む陰(かげ)とて立(たち)よれば猶(なほ)袖ぬらす松の下露山城(やましろの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、深須(みすの)入道・松井蔵人(くらんど)二人(ににん)は、此辺(このへん)の案内者(あんないしや)なりければ、山々(やまやま)峯々(みねみね)無残所捜(さが)しける間、皇居(くわうきよ)隠(かくれ)なく被尋出させ給ふ。主上誠(まこと)に怖(おそろ)しげなる御気色(おんけしき)にて、「汝等(なんぢら)心ある者ならば、天恩を戴(いただい)て私の栄花(えいぐわ)を期(ご)せよ。」と被仰ければ、さしもの深須(みすの)入道俄(にはか)に心変(へん)じて、哀(あはれ)此(この)君を隠奉(かくしたてまつつ)て、義兵(ぎへい)を揚(あげ)ばやと思(おもひ)けれども、迹(あと)につゞける松井が所存(しよぞん)難知かりける間、事(こと)の漏易(もれやす)くして、道の成難(なりがた)からん事を量(はかつ)て、黙止(もだし)けるこそうたてけれ。俄(にはか)の事にて網代輿(あじろのこし)だに無(なか)りければ、張輿(はりごし)の怪(あやし)げなるに扶乗進(たすけのせまゐら)せて、先(まづ)南都の内山(うちやま)へ入(いれ)奉る。其体(そのてい)只殷湯(いんのたう)夏台(かだい)に囚(とらは)れ、越王(ゑつわう)会稽(くわいけい)に降(かう)せし昔の夢に不異。是(これ)を聞(きき)是を見る人ごとに、袖をぬらさずと云(いふ)事(こと)無(なか)りけり。此(この)時此彼(ここかしこ)にて、被生捕給(たまひ)ける人々には、先(まづ)一宮(いちのみや)中務卿親王(なかつかさのきやうしんわう)・第二(だいにの)宮妙法院(めうほふゐん)尊澄(そんちよう)法親王(ほふしんわう)・峰僧正(みねのそうじやう)春雅(しゆんが)・東南院僧正聖尋(しやうじん)・万里小路(までのこうぢ)大納言宣房(のぶふさ)・花山(くわざんの)院(ゐん)大納言師賢(もろかた)・按察(あぜち)大納言公敏(きんとし)・源(げん)中納言(ぢゆうなごん)具行(ともゆき)・侍従(じじゆう)中納言公明(きんあきら)・別当左衛門督(べつたうさゑもんのかみ)実世(さねよ)・中納言藤房(ふぢふさ)・宰相(さいしやう)季房(すゑふさ)・平宰相(へいさいしやう)成輔(なりすけ)・左衛門(さゑもんの)督為明(ためあきら)・左中将(さちゆうじやう)行房(ゆきふさ)・左少将忠顕(ただあき)・源(みなもとの)少将能定(よしさだ)・四条(しでうの)少将隆兼(たかかぬ)・妙法院(めうほふゐんの)執事(しつじ)澄俊(ちようしゆん)法印、北面(ほくめん)・諸家(しよけの)侍共(さぶらひども)には、左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)氏信(うぢのぶ)・右兵衛(うひやうゑの)大夫(たいふ)有清(ありきよ)・対馬(つしまの)兵衛重定(しげさだ)・大夫将監(たいふしやうげん)兼秋(かねあき)・左近(さこんの)将監宗秋(むねあき)・雅楽(うた)兵衛尉(ひやうゑのじよう)則秋(のりあき)・大学助(だいがくのすけ)長明(ながあきら)・足助(あすけの)次郎重範(しげのり)・宮内丞(くないのじよう)能行(よしゆき)・大河原(おほかはら)源七左衛門(げんしちざゑもんの)尉(じよう)有重(ありしげ)、奈良(なら)法師に、俊増(しゆんぞう)・教密(けうみつ)・行海(ぎやうかい)・志賀良木(しがらきの)治部房(ぢぶばう)円実(ゑんじつ)・近藤三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)宗光(むねみつ)・国村(くにむら)三郎入道定法(ぢやうほふ)・源(げん)左衛門入道慈願(じぐわん)・奥(おくの)入道如円(じよゑん)・六郎兵衛入道浄円(じやうゑん)、山徒(さんと)には勝行房(しようぎやうばう)定快(ぢやうくわい)・習禅房(しふぜんばう)浄運(じやううん)・乗実房(じようじつばう)実尊(じつそん)、都合(つがふ)六十一人、其所従眷属共(そのしよじゆうけんぞくども)に至(いたる)までは計(かぞふ)るに不遑。或(あるひ)は篭輿(かごこし)に被召、或(あるひは)伝馬(てんま)に被乗て、白昼(はくちう)に京都へ入(いり)給ひければ、其方様(そのかたさま)歟(か)と覚(おぼえ)たる男女(なんによ)街(ちまた)に立並(たちならび)て、人目(ひとめ)をも不憚泣(なき)悲む、浅増(あさまし)かりし分野(ありさま)也。十月二日六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)、常葉(ときは)駿河守(するがのかみ)範貞(のりさだ)、三千余騎(よき)にて路(みち)を警固仕(つかまつり)て、主上を宇治の平等院(びやうどうゐん)へ成し奉る。其日(そのひ)関東の両大将京(きやう)へは不入して、すぐに宇治へ参向(まゐりむかう)て、竜顔(りようがん)に謁(えつし)奉り、先(まづ)三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を渡し給(たまはつ)て、持明院新帝(ぢみやうゐんしんていへ)可進由を奏聞(そうもん)す。主上藤房(ふぢふさ)を以て被仰出けるは、「三種(さんじゆの)神器は、自古継体君(けいたいのきみ)、位(くらゐ)を天に受(うけ)させ給ふ時、自(みづか)ら是(これ)を授(さづけ)る者也。四海(しかい)に威を振ふ逆臣(げきしん)有(あつ)て、暫(しばらく)天下を掌(たなごころ)に握る者ありと云共(いへども)、未(いまだ)此三種(このさんじゆ)の重器(ちようき)を、自(みづから)専(ほしいままに)して新帝(しんてい)に渡し奉る例を不聞。其(その)上内侍所(ないしどころ)をば、笠置(かさぎ)の本堂に捨置(すておき)奉りしかば、定(さだめ)て戦場の灰塵(くわいぢん)にこそ落(おち)させ給ひぬらめ。神璽(しいし)は山中(さんちゆう)に迷(まよひ)し時(とき)木(き)の枝(えだ)に懸置(かけおき)しかば、遂にはよも吾国(わがくに)の守(まもり)と成(なら)せ給はぬ事あらじ。宝剣(はうけん)は、武家の輩(ともがら)若(もし)天罰を顧(かへりみ)ずして、玉体(ぎよくたい)に近付(ちかづき)奉る事あらば、自(みづから)其刃(そのやいば)の上(うへ)に伏(ふ)させ給はんずる為に、暫(しばらく)も御身(おんみ)を放(はな)たる事あるまじき也。」と被仰ければ、東使両人(とうしりやうにん)も、六波羅(ろくはら)も言(こと)ば無(なく)して退出す。翌日(よくじつ)竜駕(りようが)を廻(めぐら)して六波羅(ろくはら)へ成進(なしまゐ)らせんとしけるを、前々(さきざき)臨幸の儀式ならでは還幸(くわんかう)成(なる)まじき由を、強(しひ)て被仰出ける間、無力鳳輦(ほうれん)を用意(ようい)し、袞衣(こんい)を調進(てうしん)しける間(あひだ)、三日迄(まで)平等院(びやうどうゐん)に御逗留(ごとうりう)有(あつ)てぞ、六波羅(ろくはら)へは入給(いらせたまひ)ける。日来(ひごろ)の行幸(ぎやうがう)に事替(ことかはつ)て、鳳輦(ほうれん)は数万(すまん)の武士(ぶし)に被打囲、月卿雲客(げつけいうんかく)は怪(あやし)げなる篭(かご)・輿(こし)・伝馬(てんま)に被扶乗て、七条を東(ひんがし)へ河原(かはら)を上(のぼ)りに、六波羅(ろくはら)へと急(いそ)がせ給へば、見る人(ひと)涙(なみだ)を流し、聞人(きくひと)心を傷(いたま)しむ。悲(かなしい)乎(かな)昨日(きのふ)は紫宸北極(ししんほつきよく)の高(たかき)に坐(ざ)して、百司(ひやくし)礼儀(れいぎ)の妝(よそほひ)を刷(つくろ)ひしに、今は白屋(はくをく)東夷(とうい)の卑(いやし)きに下(くだ)らせ給(たまひ)て、万卒(ばんそつ)守禦(しゆぎよ)の密(きび)しきに御心(おんこころ)を被悩。時(とき)移(うつり)事(こと)去(さり)楽(たのしみ)尽(つき)て悲(かなしみ)来(きた)る。天上(てんじやう)の五衰(ごすゐ)人間(にんげん)の一炊(いつすゐ)、唯(ただ)夢かとのみぞ覚(おぼえ)たる。遠からぬ雲の上の御住居(おんすまゐ)、いつしか思食出(おぼしめしいだ)す御事(おんこと)多き時節(をりふし)、時雨(しぐれ)の音(おと)の一通(ひととほり)、軒端(のきば)の月に過(すぎ)けるを聞食(きこしめし)て、住狎(すみなれ)ぬ板屋(いたや)の軒の村時雨(むらしぐれ)音を聞(きく)にも袖はぬれけり四五日有(あり)て、中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)より御琵琶(おんびは)を被進けるに、御文(おんふみ)あり。御覧(ごらん)ずれば、思(おもひ)やれ塵(ちり)のみつもる四(よつ)の絃(を)に払ひもあへずかゝる泪(なみだ)を引返(ひきかへ)して、御返事(おんかへりごと)有(あり)けるに、涙ゆへ半(なかば)の月(つき)は陰(かく)るとも共(とも)に見し夜(よ)の影(かげ)は忘れじ同(おなじき)八日両検断(りやうけんだん)、高橋刑部(ぎやうぶ)左衛門・糟谷(かすや)三郎宗秋(むねあき)、六波羅(ろくはら)に参(さんじ)て、今度(こんど)被生虜給(たまひ)し人々を一人(いちにん)づゝ大名(だいみやう)に被預。一宮(いちのみや)中務卿(なかつかさのきやう)親王(しんわう)をば佐々木(ささきの)判官(はんぐわん)時信(ときのぶ)、妙法院(めうほうゐん)二品(にほん)親王(しんわう)をば長井左近(さこんの)大夫将監(たいふしやうげん)高広(たかひろ)、源中納言(げんぢゆうなごん)具行(ともゆき)をば筑後前司(ちくごのぜんじ)貞知(さだとも)、東南院(とうなんゐん)僧正をば常陸(ひたちの)前司時朝(ときとも)、万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさ)・六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)二人(ににん)をば、主上に近侍(きんじ)し奉るべしとて、放召人(はなちめしうど)の如くにて六波羅(ろくはら)にぞ留(と)め置(おか)れける。同(おなじき)九日三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を、持明院(ぢみやうゐん)の新帝(しんてい)の御方(おんかた)へ被渡。堀河(ほりかは)大納言具親(ともちか)・日野(ひのの)中納言資名(すけな)、是(これ)を請取(うけとり)て長講堂(ちやうがうだう)へ送(おくり)奉る。其御警固(そのおんけいご)には長井弾正蔵人(だんじやうくらんど)・水谷(みづたに)兵衛蔵人・但馬民部大夫(たじまみんぶのたいふ)・佐々木(ささきの)隠岐(おきの)判官清高(きよたか)をぞ被置ける。同(おなじき)十三日に、新帝(しんてい)登極(とうきよく)の由にて、長講堂より内裏(だいり)へ入(いら)せ給ふ。供奉(ぐぶ)の諸卿、花(はな)を折(をつ)て行妝(かうさう)を引刷(ひきつくろ)ひ、随兵(ずゐびやう)の武士(ぶし)、甲冑(かつちう)を帯(たい)して非常を誡(いまし)む。いつしか前帝(ぜんてい)奉公の方様(かたさま)には、咎(とが)有(ある)も咎無(なき)も、如何なる憂目(うきめ)をか見んずらんと、事に触(ふれ)て身を危(あやぶ)み心を砕(くだ)けば、当今拝趨(たうぎんはいすう)の人々は、有忠も無忠も、今に栄花(えいぐわ)を開(ひら)きぬと、目を悦(よろこ)ばしめ耳をこやす。子(み)結(むすん)で陰(かげ)を成し、花(はな)落(おち)て枝(えだ)を辞(じ)す。窮達(きゆうたつ)時を替(かへ)栄辱(えいじよく)道を分つ。今に始めぬ憂世(うきよ)なれども、殊更(ことさら)夢と幻(うつつ)とを分兼(わけかね)たりしは此時(このとき)也。
○赤坂城(あかさかのしろ)軍(いくさの)事(こと) S0304
遥々(はるばる)と東国(とうごく)より上(のぼ)りたる大勢共(おほぜいども)、未(いまだ)近江国(あふみのくに)へも入(いら)ざる前(さき)に、笠置(かさぎ)の城(しろ)已(すで)に落(おち)ければ、無念(むねん)の事に思(おもう)て、一人(いちにん)も京都へは不入。或(あるひ)は伊賀・伊勢の山を経(へ)、或(あるひ)は宇治(うぢ)・醍醐(だいご)の道を要(よこぎつ)て、楠(くすのき)兵衛(ひようゑ)正成(まさしげ)が楯篭(たてこもり)たる赤坂の城へぞ向ひける。石河々原(いしかはかはら)を打過(うちすぎ)、城の有様(ありさま)を見遣(みや)れば、俄(にはか)に誘(こしら)へたりと覚(おぼえ)てはか/゛\しく堀をもほらず、僅(わづか)に屏(へい)一重(ひとへ)塗(ぬつ)て、方(はう)一二町(いちにちやう)には過(すぎ)じと覚(おぼえ)たる其内(そのうち)に、櫓(やぐら)二三十が程掻双(かきなら)べたり。是(これ)を見(み)る人毎(ひとごと)に、あな哀(あはれ)の敵(てき)の有様(ありさま)や、此城(このしろ)我等(われら)が片手に載(のせ)て、投(なぐ)るとも投(なげ)つべし。あはれせめて如何なる不思議にも、楠が一日こらへよかし、分捕高名(ぶんどりかうみやう)して恩賞に預(あづか)らんと、思はぬ者こそ無(なか)りけれ。されば寄手(よせて)三十万騎(さんじふまんぎ)の勢共(せいども)、打寄(うちよ)ると均(ひとし)く、馬(むま)を蹈放々々(ふみはなちふみはなち)、堀の中(なか)に飛入(とびいり)、櫓(やぐら)の下(した)に立双(たちならん)で、我前(われさき)に打入(うちいら)んとぞ諍(あらそ)ひける。正成は元来(もとより)策(はかりごと)を帷幄(ゐあく)の中(うち)に運(めぐら)し、勝事(かつこと)を千里の外(ほか)に決せんと、陳平(ちんべい)・張良(ちやうりやう)が肺肝(はいかん)の間(あひだ)より流出(るしゆつ)せるが如(ごとき)の者なりければ、究竟(くつきやう)の射手(いて)を二百余人(よにん)城中(じやうちゆう)に篭(こめ)て、舎弟の七郎と、和田五郎正遠(まさとほ)とに、三百(さんびやく)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、よその山にぞ置(おき)たりける。寄手(よせて)は是(これ)を思(おもひ)もよらず、心を一片(いつぺん)に取(とり)て、只一揉(ひともみ)に揉落(もみおと)さんと、同時(どうじ)に皆四方(しはう)の切岸(きりぎし)の下(した)に着(つい)たりける処を、櫓(やぐら)の上、さまの陰(かげ)より、指(さし)つめ引(ひき)つめ、鏃(やじり)を支(ささへ)て射ける間、時の程に死人手負(しにんておひ)千余人(よにん)に及べり。東国の勢共(せいども)案(あん)に相違して、「いや/\此城(このしろ)の為体(ていたらく)、一日二日には落(おつ)まじかりけるぞ、暫(しばらく)陣々を取(とつ)て役所(やくしよ)を構(かま)へ、手分(てわけ)をして合戦を致せ。」とて攻口(せめぐち)を少し引退(ひきしりぞ)き、馬(むま)の鞍(くら)を下(おろ)し、物(もの)の具(ぐ)を脱(ぬい)で、皆帷幕(ゐばく)の中(うち)にぞ休居(やすみゐ)たりける。楠(くすのき)七郎・和田五郎、遥(はるか)の山より直下(みおろ)して、時刻(じこく)よしと思(おもひ)ければ、三百(さんびやく)余騎(よき)を二手(ふたて)に分け、東西(とうざい)の山の木陰(こかげ)より、菊水(きくすゐ)の旗二流(ふたながれ)松の嵐に吹靡(ふきなび)かせ、閑(しづか)に馬(むま)を歩(あゆ)ませ、煙嵐(えんらん)を捲(まい)て押寄(おしよせ)たり。東国の勢(せい)是(これ)を見て、敵(てき)か御方(みかた)かとためらひ怪(あやし)む処に、三百(さんびやく)余騎(よき)の勢共(せいども)、両方(りやうばう)より時(とき)を咄(どつ)と作(つくつ)て、雲霞(うんか)の如くに靉(たなび)ひたる三十万騎(さんじふまんぎ)が中(なか)へ、魚鱗懸(ぎよりんがかり)に懸入(かけいり)、東西南北へ破(はつ)て通り、四方(しはう)八面(はちめん)を切(きつ)て廻(まは)るに、寄手(よせて)の大勢(おほぜい)あきれて陣を成(なし)かねたり。城中(じやうちゆう)より三(みつ)の木戸(きど)を同時(どうじ)に颯(さつ)と排(ひらい)て、二百余騎(よき)鋒(きつさき)を双(ならべ)て打(うつ)て出(いで)、手崎(てさき)をまわして散々(さんざん)に射る。寄手(よせて)さしもの大勢(おほぜい)なれども僅(わづか)の敵に驚騒(おどろきさわい)で、或(あるひ)は維(つな)げる馬に乗(のつ)てあをれども進まず。或(あるひ)は弛(はづ)せる弓に矢をはげて射(い)んとすれども不被射。物具(もののぐ)一領(りやう)に二三人(にさんにん)取付(とりつき)、「我がよ人のよ。」と引遇(ひきあひ)ける其間(そのあひだ)に、主(しゆ)被打ども従者(じゆうさ)は不知、親被打共子も不助、蜘(くも)の子(こ)を散(ちら)すが如く、石川々原(いしかはかはら)へ引退(ひきしりぞ)く。其(その)道五十町が間(あひだ)、馬(むま)・物具(もののぐ)を捨(すて)たる事足の踏所(ふみどころ)もなかりければ、東条一郡(とうでういちぐん)の者共(ものども)は、俄(にはか)に徳(とく)付(つい)てぞ見(みえ)たりける。指(さし)もの東国勢(とうごくぜい)思(おもひ)の外(ほか)にし損(そん)じて、初度(しよど)の合戦(かつせん)に負(まけ)ければ、楠が武畧(ぶりやく)侮(あなど)りにくしとや思(おもひ)けん。吐田(はんだ)・楢原辺(ならばらへん)に各(おのおの)打寄(うちよせ)たれども、軈(やが)て又推寄(おしよせ)んとは不擬。此(ここ)に暫(しばらく)引(ひか)へて、畿内(きない)の案内者(あんないしや)を先(さき)に立(たて)て、後攻(ごづめ)のなき様(やう)に山を苅廻(かりまはり)、家を焼払(やきはらう)て、心易(やす)く城(しろ)を責(せむ)べきなんど評定(ひやうぢやう)ありけるを、本間(ほんま)・渋谷(しぶや)の者共(ものども)の中(なか)に、親被打子被討たる者多かりければ、「命(いのち)生(いき)ては何(なに)かせん、よしや我等が勢許(せいばかり)なりとも、馳向(はせむかう)て打死(うちじに)せん。」と、憤(いきどほ)りける間、諸人(しよにん)皆是(これ)に被励て、我(われ)も我(われ)もと馳向(はせむかひ)けり。彼(かの)赤坂の城(しろ)と申(まうす)は、東(ひがし)一方(いつぱう)こそ山田(やまだ)の畔(くろ)重々(ぢゆうぢゆう)に高(たかく)して、少し難所(なんじよ)の様(やう)なれ、三方(さんぱう)は皆平地(ひらち)に続(つづ)きたるを、堀一重(ひとへ)に屏(へい)一重塗(ぬつ)たれば、如何なる鬼神(きじん)が篭りたり共(とも)、何程(なにほど)の事か可有と寄手(よせて)皆是(これ)を侮(あなど)り、又寄(よす)ると均(ひとし)く、堀の中(なか)、切岸(きりぎし)の下(した)まで攻付(せめつい)て、逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけて打(うつ)て入(いら)んとしけれども、城中(じやうちゆう)には音(おと)もせず、是(これ)は如何様(いかさま)昨日(きのふ)の如く、手負(ておひ)を多く射出(いいだし)て漂(ただよ)ふ処へ、後攻(ごづめ)の勢(せい)を出(いだ)して、揉合(もみあは)せんずるよと心得て、寄手(よせて)十万余騎(よき)を分(わけ)て、後(うしろ)の山へ指向(さしむけ)て、残る二十万騎(にじふまんぎ)稲麻竹葦(たうまちくゐ)の如く城を取巻(とりまい)てぞ責(せめ)たりける。卦(かかり)けれども城(しろ)の中(うち)よりは、矢の一筋をも不射出更(さらに)人有(あり)とも見へざりければ、寄手(よせて)弥(いよいよ)気に乗(のつ)て、四方(しはう)の屏(へい)に手を懸(かけ)、同時(どうじ)に上越(のぼりこえ)んとしける処を、本(もと)より屏(へい)を二重(ふたへ)に塗(ぬつ)て、外(そと)の屏をば切(きつ)て落す様(やう)に拵(こしらへ)たりければ、城(しろ)の中(うち)より、四方(しはう)の屏(へい)の鈎縄(つりなは)を一度(いちど)に切(きつ)て落したりける間、屏に取付(とりつき)たる寄手(よせて)千余人(よにん)、厭(おし)に被打たる様(やう)にて、目許(めばかり)はたらく処を、大木(たいぼく)・大石(たいせき)を抛懸々々(なげかけなげかけ)打(うち)ける間、寄手(よせて)又今日(けふ)の軍(いくさ)にも七百余人(よにん)被討けり。東国の勢共(せいども)、両日(りやうじつ)の合戦に手(て)ごりをして、今は城(しろ)を攻(せめ)んとする者一人(いちにん)もなし。只其近辺(そのきんぺん)に陣々を取(とつ)て、遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。四五日が程は加様(かやう)にて有(あり)けるが、余(あまり)に暗然(あんぜん)として守り居たるも云甲斐(いひがひ)なし。方(はう)四町(しちやう)にだに足(たら)ぬ平城(ひらじやう)に、敵(てき)四五百人篭(こもり)たるを、東(とう)八箇国(はちかこく)の勢共(せいども)が責(せめ)かねて、遠責(とほぜめ)したる事の浅猿(あさまし)さよなんど、後(のち)までも人に被笑事こそ口惜(くちをし)けれ。前々(さきざき)は早(はや)りのまゝ楯をも不衝、責具足(せめぐそく)をも支度(したく)せで責(せむ)ればこそ、そゞろに人をば損じつれ。今度(このたび)は質(てだ)てを替(かへ)て可責とて、面々(めんめん)に持楯(もちたて)をはがせ、其面(そのおもて)にいため皮(がは)を当(あて)て、輒(たやす)く被打破ぬ様(やう)に拵(こしらへ)て、かづきつれてぞ責(せめ)たりける。切岸(きりぎし)の高さ堀(ほり)の深さ幾程(いくほど)もなければ、走懸(はしりかかつ)て屏(へい)に着(つか)ん事は、最(いと)安(やす)く覚(おぼえ)けれ共、是(これ)も又釣屏(つりべい)にてやあらんと危(あやぶ)みて無左右屏には不着、皆堀の中(なか)にをり漬(ひたつ)て、熊手(くまで)を懸(かけ)て屏を引(ひき)ける間、既(すで)に被引破ぬべう見へける処に、城(しろ)の内(うち)より柄(え)の一二丈長き杓(ひしやく)に、熱湯(ねつたう)の湧翻(わきかへ)りたるを酌(くん)で懸(かけ)たりける間、甲(かぶと)の天返(てへん)綿噛(わたがみ)のはづれより、熱湯(あつきゆ)身に徹(とほつ)て焼爛(やけただれ)ければ、寄手(よせて)こらへかねて、楯も熊手(くまで)も打捨(すて)て、ばつと引(ひき)ける見苦しさ、矢庭(やには)に死(しす)るまでこそ無(なけ)れども、或(あるひ)は手足(てあし)を被焼て立(たち)も不揚、或(あるひ)は五体(ごたい)を損(そん)じて病(や)み臥(ふ)す者、二三百人(にさんびやくにん)に及べり。寄手(よせて)質(てだて)を替(かへ)て責(せむ)れば、城(しろ)の中(うち)工(たくみ)を替(かへ)て防ぎける間、今は兔(と)も角(かく)も可為様(やう)なくして、只食責(じぎぜめ)にすべしとぞ被議ける。かゝりし後(のち)は混(ひたす)ら軍(いくさ)をやめて、己(おのれ)が陣々に櫓(やぐら)をかき、逆木(さかもぎ)を引(ひい)て遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。是(これ)にこそ中々(なかなか)城中(じやうちゆう)の兵(つはもの)は、慰(なぐさむ)方もなく機(き)も疲れぬる心地しけれ。楠此城(このしろ)を構(かま)へたる事暫時(ざんじ)の事なりければ、はか/゛\しく兵粮(ひやうろう)なんど用意(ようい)もせざれば、合戦始(はじまつ)て城を被囲たる事(こと)、僅(わづか)に二十日(はつか)余(あま)りに、城中(じやうちゆう)兵粮尽(つき)て、今四五日の食(かて)を残せり。懸(かかり)ければ、正成(まさしげ)諸卒(しよそつ)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「此間(このあひだ)数箇度(すかど)の合戦に打勝(かつ)て、敵を亡(ほろぼ)す事数を不知といへども、敵大勢(おほぜい)なれば敢(あへ)て物(もの)の数ともせず、城中既(すでに)食(かて)尽(つき)て助(たすけ)の兵(つはもの)なし。元来(もとより)天下(てんか)の士卒(じそつ)に先立(さきだつ)て、草創(さうさう)の功(こう)を志(こころざし)とする上は、節(せつ)に当り義に臨(のぞん)では、命(いのち)を可惜に非(あら)ず。雖然事(こと)に臨(のぞん)で恐れ、謀(はかりごと)を好(このん)で成すは勇士(ゆうし)のする所(ところ)也。されば暫(しばらく)此城(このしろ)を落(おち)て、正成自害(じがい)したる体(てい)を敵に知(しら)せんと思ふ也。其故(そのゆゑ)は正成自害(じがい)したりと見及(みおよ)ばゞ、東国勢(とうごくぜい)定(さだめ)て悦(よろこび)を成(なし)て可下向。下(くだ)らば正成打(うつ)て出(いで)、又上(のぼ)らば深山(みやま)に引入(ひきいり)、四五度が程東国勢を悩(なやま)したらんに、などか退屈(たいくつ)せざらん。是(これ)身を全(まつたう)して敵を亡(ほろぼ)す計畧也。面々(めんめん)如何(いかん)計(はから)ひ給(たまふ)。」と云(いひ)ければ、諸人(しよにん)皆、「可然。」とぞ同(どう)じける。「さらば。」とて城中(じやうちゆう)に大(おほき)なる穴を二丈許(ばかり)掘(ほり)て、此間(このあひだ)堀の中(なか)に多く討(うた)れて臥(ふし)たる死人(しびと)を二三十人穴の中(なか)に取入(とりいれ)て、其(その)上に炭(すみ)・薪(たきぎ)を積(つん)で雨風(あめかぜ)の吹洒(ふきそそ)ぐ夜(よ)をぞ待(まち)たりける。正成が運や天命に叶(かなひ)けん、吹(ふく)風俄(にはか)に沙(いさご)を挙(あげ)て降(ふる)雨更に篠(しの)を衝(つく)が如し。夜色(やしよく)窈溟(えうめい)として氈城(せんぜい)皆帷幕(ゐばく)を低(た)る。是(これ)ぞ待所(まつところ)の夜(よ)なりければ、城中(じやうちゆう)に人を一人残し留(とどめ)て、「我等落延(おちのび)ん事四五町にも成(なり)ぬらんと思はんずる時、城(しろ)に火を懸(かけ)よ。」と云置(いひおい)て、皆物(もの)の具(ぐ)を脱ぎ、寄手(よせて)に紛(まぎれ)て五人三人(さんにん)別々(べちべち)になり、敵(てき)の役所(やくしよ)の前(まへ)軍勢の枕の上(うへ)を越(こえ)て閑々(しづしづ)と落(おち)けり。正成長崎が厩(むまや)の前(まへ)を通りける時、敵是(これ)を見つけて、「何者なれば御(おん)役所の前を、案内も申さで忍(しのび)やかに通るぞ。」と咎(とが)めれけば、正成、「是(これ)は大将の御内(みうち)の者にて候が、道を踏違(ふみたが)へて候ひける。」と云捨(いひすて)て、足早(あしばや)にぞ通りける。咎めつる者、「さればこそ怪(あやし)き者なれ、如何様(いかさま)馬盜人(むまぬすびと)と覚(おぼゆ)るぞ。只射殺(いころ)せ。」とて、近々(ちかぢか)と走寄(はしりよつ)て真直中(まつただなか)をぞ射たりける。其(その)矢正成が臂(ひぢ)の懸(かか)りに答(こたへ)て、したゝかに立(たち)ぬと覚へけるが、す膚(はだ)なる身に少(すこし)も不立して、筈(はず)を返して飛翻(とびかへ)る。後(のち)に其矢(そのや)の痕(あと)を見れば、正成が年来(としごろ)信じて奉読観音経(くわんおんきやう)を入(いれ)たりける膚(はだ)の守(まもり)に矢当(あたつ)て、一心称名(いつしんしようみやう)の二句の偈(げ)に、矢崎(やさき)留(とどま)りけるこそ不思議なれ。正成必死(ひつし)の鏃(やじり)に死を遁(のが)れ、二十余町落延(おちのび)て跡(あと)を顧(かへりみ)ければ、約束に不違、早城(はやしろ)の役所共(ども)に火を懸(かけ)たり。寄手(よせて)の軍勢火に驚(おどろい)て、「すはや城(しろ)は落(おち)けるぞ。」とて勝時(かつどき)を作(つくつ)て、「あますな漏(もら)すな。」と騒動(さうどう)す。焼静(やけしづ)まりて後(のち)城中(じやうちゆう)をみれば、大(おほき)なる穴の中(なか)に炭を積(つん)で、焼死(やけしし)たる死骸(しがい)多し。皆是(これ)を見て、「あな哀(あはれ)や、正成はや自害(じがい)をしてけり。敵(てき)ながらも弓矢(ゆみや)取(とつ)て尋常に死(しし)たる者哉(かな)。」と誉(ほめ)ぬ人こそ無(なか)りけれ。
○桜山(さくらやま)自害(じがいの)事(こと) S0305
去程(さるほど)に桜山(さくらやま)四郎入道(にふだう)は、備後国(びんごのくに)半国許(はんこくばかり)打順(うちしたが)へて、備中(びつちゆう)へや越(こえ)まし、安芸(あき)をや退治(たいぢ)せましと案じける処に、笠置城(かさぎのしろ)も落(おち)させ給ひ、楠(くすのき)も自害したりと聞へければ、一旦(いつたん)の付勢(つきぜい)は皆落失(おちうせ)ぬ。今は身を離(はなれ)ぬ一族、年来(としごろ)の若党(わかたう)二十余人(にじふよにん)ぞ残りける。此比(このごろ)こそあれ、其昔(そのむかし)は武家(ぶけ)権(けん)を執(とつ)て、四海(しかい)九州の内(うち)尺地(せきち)も不残ければ、親(したし)き者も隠し得(え)ず、疎(うとき)はまして不被憑、人手(ひとで)に懸(かか)りて尸(かばね)を曝(さら)さんよりはとて、当国(たうごく)の一宮(いちのみや)へ参り、八歳(はつさい)に成(なり)ける最愛(さいあい)の子と、二十七に成(なり)ける年来(としごろ)の女房とを刺殺(さしころし)て、社壇(しやだん)に火をかけ、己(おのれ)が身も腹掻切(かききつ)て、一族(いちぞく)若党(わかたう)二十三人(にじふさんにん)皆(みな)灰燼(ぐわいじん)と成(なつ)て失(うせ)にけり。抑(そもそも)所(ところ)こそ多かるに、態(わざと)社壇に火を懸(かけ)焼死(やけしし)ける桜山が所存(しよぞん)を如何(いか)にと尋(たづぬ)るに、此(この)入道当社(たうしや)に首(かうべ)を傾(かたぶけ)て、年(とし)久(ひさし)かりけるが、社頭(しやとう)の余(あま)りに破損(はそん)したる事を歎(なげき)て、造営し奉(たてまつ)らんと云(いふ)大願(たいぐわん)を発(おこ)しけるが、事(こと)大営(たいえい)なれば、志(こころざし)のみ有(あり)て力(ちから)なし。今度(こんど)の謀叛(むほん)に与力(よりき)しけるも、専(もつぱら)此大願(このたいぐわん)を遂(とげ)んが為なりけり。されども神(しんは)非礼(ひれい)を享(うけ)給はざりけるにや、所願(しよぐわん)空(むなしく)して打死(うちじに)せんとしけるが、我等此社(このやしろ)を焼払(やきはらひ)たらば、公家(くげ)武家共(とも)に止(や)む事(こと)を不得して如何様(いかさま)造営の沙汰可有。其(その)身は縦(たと)ひ奈落(ならく)の底に堕在(だざい)すとも、此願(このぐわん)をだに成就(じやうじゆ)しなば悲(かなし)むべきに非(あら)ずと、勇猛(ゆうまう)の心を発(おこし)て、社頭(しやとう)にては焼死(やけしし)にける也。倩(つらつら)垂迹和光(すゐじやくわくわう)の悲願(ひぐわん)を思へば、順逆(じゆんぎやく)の二縁(にえん)、何(いづ)れも済度利生(さいどりしやう)の方便(はうべん)なれば、今生(こんじやう)の逆罪(ぎやくざい)を翻(ひるがへ)して当来(たうらい)の値遇(ちぐう)とや成らんと、是(これ)もたのみは不浅ぞ覚へける。


太平記(国民文庫)

太平記巻第四
○笠置(かさぎの)囚人(とらはれびと)死罪(しざい)流刑(るけいの)事(こと)付藤房(ふぢふさ)卿(きやうの)事(こと) S0401
笠置(かさぎの)城(しろ)被攻落刻、被召捕給(たまひ)し人々(ひとびと)の事(こと)、去年(きよねん)は歳末(さいまつ)の計会(けいくわい)に依(よつ)て、暫く被閣ぬ。新玉(あらたま)の年(とし)立回(たちかへぬ)れば、公家(くげ)の朝拝(てうはい)武家(ぶけ)の沙汰(さた)始(はじま)りて後(のち)、東使(とうし)工藤(くどう)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・二階堂(にかいだう)信濃(しなのの)入道行珍(ぎやうちん)二人(ににん)上洛(しやうらく)して、可行死罪人々、可処流刑国々、関東(くわんとう)評定(ひやうぢやう)の趣(おもむき)、六波羅(ろくはら)にして被定。山門(さんもん)・南都(なんと)の諸門跡(しよもんぜき)、月卿(げつけい)・雲客(うんかく)・諸衛(しよゑ)の司等(つかさとう)に至(いたる)迄、依罪軽重、禁獄(きんごく)流罪(るざい)に処(しよ)すれ共(ども)、足助(あすけの)次郎重範(しげのり)をば六条河原(ろくでうかはら)に引出(ひきいだ)し、首(くび)を可刎と被定。万里小路(までのこうぢ)大納言宣房卿(のぶふさきやう)は、子息(しそく)藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)の罪科(ざいくわ)に依(よつ)て、武家に被召捕、是(これ)も如召人にてぞ座(おは)しける。齢(よはひ)已(すで)に七旬(しちじゆん)に傾(かたぶい)て、万乗(ばんじよう)の聖主は遠嶋(ゑんたう)に被遷させ給ふべしと聞ゆ。二人(ににん)の賢息(けんそく)は、死罪にぞ行はれんずらんと覚へて、我身(わがみ)さへ又楚(そ)の囚人(とらはれびと)と成(なり)給へば、只今まで命(いのち)存(ながらへ)て、浩(かか)る憂(うき)事(こと)をのみ見聞(みきく)事(こと)の悲しければと、一方(ひとかた)ならぬ思ひに、一首(いつしゆ)の歌をぞ被詠ける。長かれと何(なに)思ひけん世中(よのなか)の憂(うき)を見するは命(いのち)なりけり罪科(ざいくわ)有(ある)もあらざるも、先朝拝趨(せんてうはいすう)の月卿・雲客、或(あるひ)は被停出仕、尋桃源迹、或被解官職、懐首陽愁、運の通塞(つうそく)、時の否泰(ひたい)、為夢為幻、時(とき)遷(うつ)り事去(さつ)て哀楽(あいらく)互に相替(あひかは)る。憂(うき)を習(ならひ)の世の中(なか)に、楽(たのし)んでも何かせん、歎(なげい)ても由無(よしなか)るべし。源(げん)中納言(ぢゆうなごん)具行(ともゆきの)卿(きやう)をば、佐々木(ささきの)佐渡判官(さどのはんぐわん)入道道誉(だうよ)、路次(ろし)を警固仕(つかまつり)て鎌倉(かまくら)へ下(くだ)し奉る。道にて可被失由(よし)、兼(かね)て告申(つげまうす)人や有(あり)けん、会坂(あふさか)の関(せき)を越(こえ)給ふとて、帰るべき時しなければ是(これ)や此(この)行(ゆく)を限りの会坂の関勢多(せた)の橋(はし)を渡るとて、けふのみと思(おもふ)我身(わがみ)の夢の世を渡る物(もの)かはせたの長橋(ながはし)此卿(このきやう)をば道にて可奉失と、兼(かね)て定(さだめ)し事なれば、近江(あふみ)の柏原(かしはばら)にて切(きり)奉るべき由(よし)、探使(たんし)襲来(しふらい)していらでければ、道誉、中納言殿(どの)の御前(おんまへ)に参り、「何(いか)なる先世(ぜんせ)の宿習(しゆくしふ)によりてか、多(おほく)の人の中(なか)に入道預進(あづかりまゐら)せて、今更(いまさら)加様(かやう)に申(まうし)候へば、且(かつう)は情(なさけ)を不知に相似(あひに)て候へ共(ども)、卦(かか)る身には無力次第にて候。今までは随分(ずゐぶん)天下(てんか)の赦(ゆるし)を待(まち)て、日数(ひかず)を過(すご)し候(さふらひ)つれ共(ども)、関東(くわんとう)より可失進由(よし)、堅く被仰候へば、何事(なにこと)も先世(ぜんせ)のなす所と、思召慰(おぼしめしなぐさ)ませ給(たまひ)候へ。」と申(まうし)もあへず袖を顔に押当(おしあて)しかば、中納言殿(どの)も不覚(ふかく)の泪(なみだ)すゝみけるを、推拭(おしのご)はせ給ひて、「誠(まこと)に其(その)事(こと)に候。此間(このあひだ)の儀をば後世(ごせ)までも難忘こそ候へ。命(いのち)の際(きは)の事は、万乗の君(きみ)既(すで)に外土遠嶋(ぐわいどゑんたう)に御遷幸(ごせんかう)の由聞へ候上(うへ)は、其以下(そのいげ)の事どもは、中々(なかなか)不及力。殊更此(この)程の情(なさけ)の色、誠(まことに)存命(ぞんめい)すとも難謝こそ候へ。」と計(ばかり)にて、其後(そののち)は言(もの)をも被仰ず、硯(すずり)と紙とを取寄(とりよせ)て、御文(おんふみ)細々(こまごま)とあそばして、「便(たより)に付(つけ)て相知(あひし)れる方(かた)へ、遣(やり)て給はれ。」とぞ被仰ける。角(かく)て日(ひ)已(すで)に暮(くれ)ければ、御輿(おんこし)指寄(さしよせ)て乗(の)せ奉り、海道(かいだう)より西なる山際(やまぎは)に、松の一村(ひとむら)ある下(もと)に、御輿(おんこし)を舁居(かきすゑ)たれば、敷皮(しきがは)の上に居直(ゐなほら)せ給ひて、又硯を取寄せ、閑々(しづしづ)と辞世(じせい)の頌(じゆ)をぞ被書ける。逍遥生死。四十二年。山河一革。天地洞然。六月十九日某(それがし)と書(かい)て、筆を抛(なげうつ)て手を叉(あざへ)、座(ざ)をなをし給ふとぞ見へし。田児(たごの)六郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)、後(うしろ)へ廻(まは)るかと思へば、御首(くび)は前にぞ落(おち)にける。哀(あはれ)と云(いふ)も疎(おろか)なり。入道泣々(なくなく)其遺骸(そのゆゐがい)を煙(けぶり)となし、様々(さまざま)の作善(さぜん)を致してぞ菩提(ぼだい)を奉祈ける。糸惜(いとをしき)哉(かな)、此卿(このきやう)は先帝(せんてい)帥宮(そつのみや)と申(まうし)奉りし比(ころ)より近侍(きんじ)して、朝夕(てうせきの)拝礼(はいれい)不怠、昼夜(ちうや)の勤厚(きんこう)異于他。されば次第に昇進(しようじん)も不滞、君(きみ)の恩寵(おんちよう)も深かりき。今かく失給(うせたまひ)ぬと叡聞(えいぶん)に達せば、いかばかり哀(あはれ)にも思食(おぼしめさ)れんずらんと覚へたり。同(おなじき)二十一日殿法印(とののほふいん)良忠(りやうちゆう)をば大炊御門油小路(おほゐのみかどあぶらのこうぢ)の篝(かがり)、小串(こぐし)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)秀信(ひでのぶ)召捕(めしとり)て六波羅(ろくはら)へ出(いだ)したりしかば、越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)、斉藤十郎兵衛を使にて被申けるは、「此比(このごろ)一天(いつてん)の君だにも叶はせ給はぬ御謀叛(ごむほん)を、御身(おんみ)なんど思立(おもひたち)給はん事(こと)、且(かつう)は無止、且(かつう)は楚忽(そこつ)にこそ覚(おぼえ)て候へ。先帝(せんていを)奪ひ進(まゐら)せん為に、当所(たうしよ)の絵図(ゑづ)なんどまで持廻(もちまは)られ候(さふらひ)ける条、武敵(ぶてき)の至(いた)り重科(ぢゆうくわ)無双、隠謀の企(くはだて)罪責(ざいせき)有余。計(はかりごと)の次第一々に被述候へ。具(つぶさ)に関東(くわんとう)へ可注進。」とぞ宣(のたまひ)ける。法印(ほふいん)返事(へんじ)せられけるは、「普天(ふてん)の下(した)無非王土、率土(そつとの)人無非王民。誰か先帝の宸襟(しんきん)を歎き奉らざらん。人たる者是(これ)を喜(よろこぶ)べきや。叡慮(えいりよ)に代(かはつ)て玉体を奪(うばひ)奉らんと企(くはだつる)事(こと)、なじかは可無止。為誅無道、隠謀を企(くはだつる)事(こと)更(さら)に非楚忽儀。始(はじめ)より叡慮の趣を存知(ぞんぢし)、笠置(かさぎ)の皇居(くわうきよ)へ参内(さんだい)せし条無子細。而(しか)るを白地(あからさま)に出京(しゆつきやう)の蹤(あと)に、城郭無固、官軍(くわんぐん)敗北(はいぼく)の間(あひだ)、無力本意を失へり。其間(そのあひだ)に具行卿(ともゆききやう)相談して、綸旨(りんし)を申下(まうしくだし)、諸国の兵(つはもの)に賦(くばり)し条勿論(もちろん)なり。有程(あるほど)の事は此等(これら)なり。」とぞ返答せられける。依之(これによつて)六波羅(ろくはら)の評定(ひやうぢやう)様々(さまざま)なりけるを、二階堂(にかいだう)信濃(しなのの)入道進(すすん)で申(まうし)けるは、「彼罪責(かのざいせき)勿論の上(うへ)は、無是非可被誅けれども、与党(よたう)の人なんど尚尋(たづね)沙汰有(あつ)て重(かさね)て関東(くわんとう)へ可被申かとこそ存(ぞんじ)候へ。」と申(まうし)ければ、長井右馬助(ながゐうまのすけ)、「此義(このぎ)尤(もつとも)可然候。是(これ)程の大事(だいじ)をば関東(くわんとう)へ被申てこそ。」と申(まうし)ければ、面々(めんめん)の意見一同(いちどう)せしかば、法印(ほふいん)をば五条京極(きやうごく)の篝(かがり)、加賀(かがの)前司(ぜんじ)に預(あづけ)られて禁篭(きんろう)し、重(かさね)て関東(くわんとう)へぞ被注進ける。平宰相(へいさいしやう)成輔(なりすけ)をば、河越(かはごえ)参河(みかはの)入道円重(ゑんぢゆう)具足(ぐそく)し奉(たてまつり)て、是(これ)も鎌倉(かまくら)へと聞へしが、鎌倉(かまくら)迄も下(くだ)し着(つけ)奉らで相摸(さがみ)の早河尻(はやかはじり)にて奉失。侍従(じじゆう)中納言公明(きんあきらの)卿(きやう)・別当(べつたう)実世(さねよ)卿(きやう)二人(ににん)をば、赦免(しやめん)の由(よし)にて有(あり)しかども、猶も心ゆるしや無(なか)りけん、波多野(はだの)上野介(かうづけのかみ)宣通(のぶみち)・佐々木(ささきの)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)に被預て、猶(なほ)も本(もと)の宿所(しゆくしよ)へは不帰給。尹(ゐんの)大納言師賢(もろかたの)卿(きやう)をば下総(しもつさの)国(くに)へ流して、千葉介(ちばのすけ)に被預。此人(このひと)志学(しがく)の年(とし)の昔より、和漢の才(さい)を事として、栄辱(えいじよく)の中(うち)に心を止(と)め不給しかば、今遠流(をんる)の刑に逢へる事(こと)、露計(つゆばかり)も心に懸(かけ)て思はれず。盛唐(せいたうの)詩人杜少陵(とせうりようが)、天宝(てんばう)の末の乱に逢(あう)て、「路経■■(えんよ)双蓬鬢、天落滄浪一釣舟」と天涯(てんがい)の恨(うらみ)を吟(ぎん)じ尽(つく)し、吾朝(わがてう)の歌仙小野篁(をののたかむら)は隠岐(おきの)国(くに)へ被流て、「海原(わたのはら)八十嶋(やそしま)かけて漕出(こぎいで)ぬ」と釣(つり)する海士(あま)に言伝(ことづて)て、旅泊(りよはく)の思(おもひ)を詠ぜらる。是(これ)皆時(とき)の難易(なんい)を知(しり)て可歎を不歎、運の窮達(きゆうたつ)を見て有悲を不悲。況乎(いはんや)「主(しゆ)憂(うれふ)る則(ときんば)臣辱(はづかしめら)る。主辱(はづかしめら)るゝ則(ときんば)臣死(しす)」といへり。縦(たとひ)骨を醢(ししびしほ)にせられ、身を車ざきにせらる共(とも)、可傷道に非(あら)ずとて、少しも不悲給。只依時触興に、諷詠(ふうえい)等閑(なほざり)に日を渡る。今は憂世(うきよ)の望(のぞみ)絶(たえ)ぬれば、有出家志由頻(しきり)に被申けるを、相摸(さがみ)入道(にふだう)子細(しさい)候はじと被許ければ、年(とし)未満強仕、翠(みどり)の髪を剃(そり)落し、桑門人(よすてびと)と成給(なりたまひ)しが、無幾程元弘(げんこう)の乱出来(いでき)し始(はじめ)俄に病に被侵、円寂(ゑんじやく)し給ひけるとかや。東宮大進(とうぐうのだいしん)季房(すゑふさ)をば常陸(ひたちの)国(くに)へ流して、長沼駿河(ながぬまするがの)守(かみ)に預(あづ)けらる。中納言藤房(ふぢふさ)をば同国(おなじくに)に流して、小田民部大輔(をだみんぶのたいふ)にぞ被預ける。左遷遠流(させんゑんる)の悲(かなしみ)は何(いづ)れも劣らぬ涙なれども、殊に此(この)卿(きやう)の心中(こころのうち)推量(おしはか)るも猶哀(あはれ)也(なり)。近来(このごろ)中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)に左衛門佐局(さゑものすけのつぼね)とて容色(ようしよく)世に勝(すぐ)れたる女房(にようばう)御座(おはしま)しけり。去(さんぬる)元享(げんかう)の秋の比(ころ)かとよ、主上北山殿(きたやまどの)に行幸(ぎやうがう)成(なつ)て、御賀(おんが)の舞(まひ)の有(あり)ける時、堂下(だうか)の立部(りふはう)袖を翻(ひるがへ)し、梨園(りゑん)の弟子(ていし)曲(きよく)を奏せしむ。繁絃急管(はんげんきふくわん)何(いづ)れも金玉(きんぎよく)の声(こゑ)玲瓏(れいろう)たり。此女房(このにようばう)琵琶(びは)の役(やく)に被召、青海波(せいがいは)を弾(だん)ぜしに、間関(かんくわん)たる鴬(うぐひす)の語(かたり)は花下(はなのもと)に滑(なめらかに)、幽咽(いうえつ)せる泉(いづみ)の流(ながれ)は氷の底(そこ)に難(なや)めり。適怨清和(てきゑんせいくわ)節(せつ)に随(したがつ)て移る。四絃(しげん)一声(いつせい)如裂帛。撥(はらつ)ては復(また)挑(かかぐ)、一曲(いつきよく)の清音(せいいん)梁上(りやうじやう)に燕(つばめ)飛(とび)、水中(すゐちゆう)に魚(うを)跳許(をどるばかり)也(なり)。中納言ほのかに是(これ)を見給(みたまひ)しより、人不知思初(おもひそめ)ける心の色、日に副(そひ)て深くのみ成行(なりゆけ)共(ども)、可云知便(たより)も無ければ、心に篭(こめ)て歎明(なげきあか)し思暮(おもひくら)して、三年(みとせ)を過給(すごしたまひ)けるこそ久しけれ。何(いか)なる人目(ひとめ)の紛(まぎ)れにや、露のかごとを結ばれけん、一夜(ひとよ)の夢の幻(うつつ)、さだかならぬ枕をかはし給(たまひ)にけり。其次(そのつぎ)の夜(よ)の事ぞかし、主上俄(にはか)に笠置(かさぎ)へ落(おち)させ給ひければ、藤房(ふぢふさ)衣冠(いくわん)を脱(ぬ)ぎ、戎衣(じゆうい)に成(なつ)て供奉(ぐぶ)せんとし給ひけるが、此女房(このにようばう)に廻(めぐ)り逢(あは)ん末の契(ちぎり)も難知、一夜(いちや)の夢の面影(おもかげ)も名残(なごり)有(あり)て、今一度(ひとたび)見もし見へばやと被思ければ、彼(かの)女房の住給(すみたまひ)ける西の対(たい)へ行(ゆき)て見給ふに、時しもこそあれ、今朝(けさ)中宮(ちゆうぐう)の召(めし)有(あつ)て北山殿(きたやまどの)へ参り給(たまひ)ぬと申(まうし)ければ、中納言鬢(びん)の髪(かみ)を少し切(きつ)て、歌を書副(かきそへ)てぞ被置ける。黒髪(くろかみ)の乱(みだれ)ん世まで存(ながら)へば是(これ)を今はの形見(かたみ)とも見よ此(この)女房立帰(たちかへ)り、形見の髪と歌とを見て、読(よみ)ては泣(なき)、々(なき)ては読み、千度百廻(ちたびももたび)巻(まき)返せ共(ども)、心乱(みだれ)てせん方もなし。懸(かか)る涙に文字(もじ)消(きえ)て、いとゞ思(おもひ)に絶兼(たへかね)たり。せめて其(その)人の在所(いますところ)をだに知(しり)たらば、虎(とら)伏(ふす)野辺(のべ)鯨(くぢら)の寄(よる)浦なり共(とも)、あこがれぬべき心地(ここち)しけれ共(ども)、其行末(そのゆくすゑ)何(いづ)く共(とも)不聞定、又逢(あは)ん世の憑(たのみ)もいさや知らねば、余(あま)りの思(おもひ)に堪(たへ)かねて、書置(かきおき)し君が玉章(たまづさ)身に副(そへ)て後(のち)の世までの形(かた)みとやせん先(さき)の歌に一首(いつしゆ)書副(かきそへ)て、形見の髪を袖に入(いれ)、大井河(おほゐがは)の深き淵に身を投(なげ)けるこそ哀(あはれ)なれ。「為君一日恩、誤妾百年身」とも、加様(かやう)の事をや申(まうす)べき。按察(あぜちの)大納言公敏(きんとしの)卿(きやう)は上総(かづさの)国(くに)、東南院(とうなんゐんの)僧正(そうじやう)聖尋(しやうじん)は下総(しもつさの)国(くに)、峯僧正(みねのそうじやう)俊雅(しゆんが)は対馬(つしまの)国(くに)と聞へしが、俄に其(その)議を改(あらため)て、長門(ながとの)国(くに)へ流され給ふ。第四(だいし)の宮(みや)は但馬(たじまの)国(くに)へ流奉(ながしたてまつり)て、其(その)国(くに)の守護(しゆご)大田判官(おほたのはんぐわん)に預(あづけ)らる。
○八歳宮(はつさいのみや)御歌(おんうたの)事(こと)S0402
第九宮(だいくのみや)は、未(いまだ)御幼稚(ごえうち)に御坐(おはしませ)ばとて、中御門(なかのみかど)中納言宣明(のぶあきら)卿(きやう)に被預、都の内にぞ御坐有(ござあり)ける。此(この)宮(みや)今年(こんねん)は八歳(はつさい)に成(なら)せ給(たまひ)けるが、常の人よりも御心様(おんこころざま)さか/\しく御座(おはしまし)ければ、常は、「主上已(すで)に人も通(かよ)はぬ隠岐(おきの)国(くに)とやらんに被流させ給ふ上(うへ)は、我(われ)独(ひとり)都の内に止(とどま)りても何(なに)かせん。哀(あはれ)我をも君の御座(ござ)あるなる国のあたりへ流し遣(つかは)せかし。せめては外所(よそ)ながらも、御行末(おんゆくすゑ)を承(うけたま)はらん。」と書(かき)くどき打(うち)しほれて、御涙(おんなみだ)更(さら)にせきあへず。「さても君の被押篭御座(ござ)ある白河(しらかは)は、京(みやこ)近き所と聞くに、宣明(のぶあきら)はなど我を具足(ぐそく)して御所(ごしよ)へは参(まゐ)らぬぞ。」と仰有(おほせあり)ければ、宣明卿涙を押(おさ)へて、「皇居(くわうきよ)程近(ほどちか)き所にてだに候はゞ、御伴(おんとも)仕(おんともつかまつり)て参(さん)ぜん事子細(しさい)有(ある)まじく候が、白河(しらかは)と申(まうし)候は都より数百里(すひやくり)を経(へ)て下(くだ)る道にて候。されば能因法師(のういんほつし)が都をば霞(かすみ)と共に出(いで)しかど秋風ぞ吹(ふく)白川(しらかは)の関(せき)と読(よみ)て候(さふらひ)し歌にて、道の遠き程、人を通(とほ)さぬ関ありとは思召知(おぼしめししら)せ給へ。」と被申ければ、宮御泪(おんなみだ)を押(おさ)へさせ給(たまひ)て、暫(しばし)は被仰出事もなし。良(やや)有(あり)て、「さては宣明(のぶあきら)我(われ)を具足(ぐそく)して参(まゐ)らじと思へる故(ゆゑ)に、加様(かやう)に申(まうす)者也(なり)。白川(しらかはの)関読(よみ)とたりしは、全く洛陽(らくやう)渭水(ゐすゐ)の白河には非(あら)ず、此(この)関奥州の名所(めいしよ)也(なり)。近来(このごろ)津守国夏(つもりくになつ)が、是(これ)を本歌(ほんか)にて読(よみ)たりし歌に、東路(あづまぢ)の関迄ゆかぬ白川(しらかは)も日数(ひかず)経(へ)ぬれば秋風ぞ吹(ふく)又最勝寺(さいしようじ)の懸(かかり)の桜枯(かれ)たりしを、植(うゑ)かゆるとて、藤原雅経朝臣(ふぢはらのまさつねあつそん)、馴々(なれなれ)て見しは名残(なごり)の春ぞともなど白川の花(はな)の下陰(したかげ)是(これ)皆(みな)名(な)は同(おなじう)して、所(ところ)は替(かは)れる証歌(しようか)也(なり)。よしや今は心に篭(こめ)て云出(いひいだ)さじ。」と、宣明(のぶあきら)を被恨仰、其後(そののち)よりは書絶(かきたえ)恋しとだに不被仰、万(よろ)づ物憂(ものうき)御気色(おんきしよく)にて、中門(ちゆうもん)に立(たた)せ給へる折節(をりふし)、遠寺(ゑんじ)の晩鐘(ばんしよう)幽(かすか)に聞へければ、つく/゛\と思暮(おもひくら)して入逢(いりあひ)の鐘を聞(きく)にも君ぞ恋しき情(こころ)動于中言(ことば)呈於外、御歌(おんうた)のをさ/\しさ哀れに聞へしかば、其比(そのころ)京中(きやうぢゆう)の僧俗男女(なんによ)、是(これ)を畳紙(たたうがみ)・扇(あふぎ)に書付(かきつけ)て、「是(これ)こそ八歳(はつさい)の宮(みや)の御歌(おんうた)よ。」とて、翫(もてあそ)ばぬ人は無(なか)りけり。
○一宮(いちのみや)並(ならびに)妙法院(めうほふゐん)二品親王(にほんしんわうの)御事(おんこと) S0403
三月八日一宮(いちのみや)中務卿(なかつかさのきやう)親王(しんわう)をば、佐々木(ささきの)大夫判官(たいふはんぐわん)時信(ときのぶ)を路次(ろし)の御警固(おんけいご)にて、土佐(とさ)の畑(はた)へ流し奉る。今までは縦(たとひ)秋刑(しうけい)の下(もと)に死(しし)て、竜門原上(りようもんげんじやう)の苔に埋(うづま)る共(とも)、都のあたりにて、兎(と)も角(かく)もせめて成らばやと、仰天伏地御祈念(ごきねん)有(あり)けれ共(ども)、昨日(きのふ)既(すでに)先帝(せんてい)をも流し奉りぬと、警固(けいご)の武士共(ぶしども)申合(まうしあ)ひけるを聞召(きこしめし)て、御祈念(ごきねん)の御憑(おんたのみ)もなく、最(いと)心細く思召(おぼしめし)ける処(ところ)に、武士共(もののふども)数多(あまた)参りて、中門(ちゆうもん)に御輿(おんこし)を差寄(さしよ)せたれば、押(おさ)へかねたる御泪(おんなみだ)の中(うち)に、せき留(とむ)る柵(しがらみ)ぞなき泪河(なみだがは)いかに流るゝ浮身(うきみ)なるらん同(おなじき)日、妙法院(めうほふゐん)二品(にほん)親王(しんわう)をも、長井(ながゐ)左近(さこんの)大夫将監(たいふしやうげん)高広(たかひろ)を御警固(おんけいご)にて讚岐(さぬきの)国(くに)へ流し奉る。昨日(きのふ)は主上御遷幸(ごせんかう)の由を承(うけたまは)り、今日(けふ)は一宮(いちのみや)被流させ給(たまひ)ぬと聞召(きこしめし)、御心(おんこころ)を傷(いた)ましめ給(たまひ)けり。憂名(うきな)も替らぬ同じ道に、而(しか)も別(わかれ)て赴(おもむ)き給(たまふ)、御心(おんこころ)の中(うち)こそ悲(かなし)けれ。初(はじめ)の程こそ別々(べちべち)にて御下(おんくだり)有(あり)けるが、十一日の暮程(くれほど)には、一宮(いちのみや)も妙法院(めいほふゐん)も諸共(もろとも)に兵庫(ひやうご)に着(つか)せ給(たまひ)たりければ、一宮(いちのみや)は是(これ)より御舟(おんふね)にめして、土佐(とさ)の畑(はた)へ可有御下由聞へければ、御文(おんふみ)を参(まゐら)せ玉(たまひ)けるに、今までは同じ宿(やど)りを尋(たづね)来て跡(あと)無(な)き波と聞(きく)ぞ悲(かなし)き一宮(いちのみや)御返事(おんへんじ)、明日(あす)よりは迹(あと)無(な)き波に迷共(まよふとも)通(かよ)ふ心よしるべ共(とも)なれ配所(はいしよ)は共に四国(しこく)と聞(きこ)ゆれば、せめては同(おなじ)国にてもあれかし。事問(こととふ)風の便(たより)にも、憂(うき)を慰(なぐさ)む一節(ひとふし)とも念じ思召(おぼしめし)けるも叶はで、一宮(いちのみや)はたゆたふ波に漕(こが)れ行(ゆく)、身を浮(うき)舟に任(まか)せつゝ、土佐(とさ)の畑(はた)へ赴かせ給へば、有井(ありゐ)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)が館(たち)の傍(かたはら)に、一室(いつしつ)を構(かまへ)て置(おき)奉る。彼畑(かのはた)と申(まうす)は、南は山の傍(そば)にて高く、北は海辺(かいへん)にて下(さが)れり、松の下露(したつゆ)扉(とぼそ)に懸(かか)りて、いとゞ御袖(おんそで)の泪(なみだ)を添(そへ)、磯(いそ)打(うつ)波の音御枕(おんまくら)の下(した)に聞へて、是(これ)のみ通ふ故郷(ふるさと)の、夢路(ゆめぢ)も遠く成(なり)にけり。妙法院(めうほふゐん)は是(これ)より引別(ひきわか)れて、備前(びぜんの)国(くに)迄は陸地(くがぢ)を経て、児嶋(こじま)の吹上(ふきあげ)より船に召(めし)て、讚岐(さぬき)の詫間(たくま)に着(つか)せ給ふ。是(これ)も海辺(かいへん)近き処なれば、毒霧(どくむ)御身(おんみ)を侵(をか)して瘴海(しやうかい)の気冷(すさま)じく、漁歌牧笛(ぎよかぼくてき)の夕べの声、嶺雲海月(れいうんかいげつ)の秋の色、総(すべ)て触耳遮眼事の、哀(あはれ)を催(もよほ)し、御涙(おんなみだ)を添(そふ)る媒(なかだち)とならずと云(いふ)事(こと)なし。先皇(せんくわう)をば任承久例に、隠岐(おきの)国(くに)へ流し可進に定まりけり。臣として君を無奉(ないがしろにしたてまつ)る事(こと)、関東(くわんとう)もさすが恐(おそれ)有(あり)とや思(おもひ)けん、此為(このため)に後伏見(ごふしみの)院(ゐん)の第一(だいいち)の御子(みこ)を御位(おんくらゐ)に即(つけ)奉りて、先帝(せんてい)御遷幸(ごせんかう)の宣旨(せんじ)を可被成とぞ計(はから)ひ申(まうし)ける。於天下事に、今は重祚(ちようそ)の御望(おんのぞみ)可有にも非ざれば、遷幸以前(いぜん)に先帝(せんたい)をば法皇(ほふわう)に可奉成とて、香染(かうぞめ)の御衣(おんころも)を武家より調進(てうしん)したりけれ共(ども)、御法体(ごほつたい)の御事(おんこと)は、暫く有(ある)まじき由を被仰て、袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)をも脱(ぬが)せ給はず。毎朝(まいてう)の御行水(おんぎやうずゐ)をめされ、仮(かり)の皇居(くわうきよ)を浄(きよ)めて、石灰(せきくわい)の壇(だん)に準(なぞら)へて、太神宮(たいじんぐう)の御拝(ごはい)有(あり)ければ、天に二(ふたつ)の日(ひ)無(なけ)れども、国に二(ふたり)の王(わう)御座(おはします)心地(ここち)して、武家も持(もち)あつかひてぞ覚へける。是(これ)も叡慮に憑思食(たのみおぼしめす)事(こと)有(あり)ける故(ゆゑ)也(なり)。
○俊明極(しゆんみんき)参内(さんだいの)事(こと) S0404
去元享(さんぬるげんかう)元年の春(はる)の比(ころ)、元朝(げんてう)より俊明極(しゆんみんき)とて、得智(とくち)の禅師(ぜんじ)来朝(らいてう)せり。天子(てんし)直(ぢき)に異朝(いてう)の僧に御相看(ごしやうかん)の事は、前々(さきざき)更(さら)に無(なか)りしか共(ども)、此君(このきみ)禅(ぜん)の宗旨(しゆうし)に傾(かたぶ)かせ給(たまひ)て、諸方(しよはう)参得(さんとく)の御志(おんこころざし)をはせしかば、御法談(ごほふだん)の為に此(この)禅師を禁中(きんちゆう)へぞ被召ける。事の儀式余(あまり)に微々(びび)ならんは、吾朝(わがてう)の可恥とて、三公公卿(くぎやう)も出仕(しゆつし)の妝(よそほ)ひを刷(つくろ)ひ、蘭台金馬(らんだいきんめ)も守禦(しゆぎよ)の備(そなへ)を厳(きびし)くせり。夜半(やはん)に蝋燭(ろつそく)を伝(たて)て禅師被参内。主上紫宸殿(ししんでん)に出御(しゆつぎよ)成(なつ)て、玉坐(ぎよくざ)に席を薦(すす)め給ふ。禅師三拝礼(さんはいらい)訖(をはつ)て、香(かう)を拈(ねん)じて万歳(ばんぜい)を祝(しゆく)す。時に勅問(ちよくもん)有(あつ)て曰(いはく)、「桟山航海得々(とくとくとして)来(きたる)。和尚(をしやう)以何度生(どしやう)せん。」禅師答(こたへて)云(いはく)、「以仏法緊要処度生(どしやうせ)ん。」重(かさね)て、曰(いはく)、「正当(しやうたう)恁麼時(いんものとき)奈何(いかん)。」答(こたへて)曰(いはく)、「天上(てんじやう)に有星、皆拱北。人間無水不朝東。」御法談(ごほふだん)畢(をはつ)て、禅師拝揖(はいいふ)して被退出。翌日(よくじつ)別当実世卿(さねよのきやう)を勅使にて禅師号を被下る。時に禅師向勅使、「此(この)君雖有亢竜悔、二度(ふたたび)帝位(ていゐ)を践(ふま)せ給(たまふ)べき御相(ごさう)有(あり)。」とぞ被申ける。今君為武臣囚(とらはれ)て亢竜(かうりよう)の悔(くい)に合(あは)せ給ひけれ共(ども)、彼(かの)禅師の相(さう)し申(まうし)たりし事なれば、二度(ふたたび)九五(きうご)の帝位を践(ふま)せ給はん事(こと)、無疑思食(おぼしめす)に依(よつ)て、法体(ほつたい)の御事(おんこと)は暫く有(ある)まじき由を、強(しひ)て被仰出けり。
○中宮(ちゆうぐう)御歎(おんなげきの)事(こと) S0405
三月七日、已(すで)に先帝(せんてい)隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給ふと聞へければ、中宮夜(よ)に紛れて、六波羅(ろくはら)の御所(ごしよ)へ行啓(ぎやうけい)成(なら)せ給(たまひ)、中門(ちゆうもん)に御車(おんくるま)を差寄(さしよせ)たれば、主上出御(しゆつぎよ)有(あり)て、御車(おんくるま)の簾(すだれ)を被掲(かかげらる)。君は中宮を都に止置(とめおき)奉りて、旅泊(りよはく)の波長汀(ちやうてい)の月に彷徨(さすらひ)給はんずる行末(ゆくすゑ)の事を思召(おぼしめ)し連(つら)ね、中宮は又主上を遥々(はるばる)と遠外(ゑんぐわい)に想像(おもひやり)奉りて、何(なに)の憑(たのみ)の有世(あるよ)共(とも)なく、明(あけ)ぬ長夜(ちやうや)の心迷ひの心地(ここち)し、長襟(ながきものおもひ)にならんと、共に語り尽(つく)させ給はゞ、秋の夜(よ)の千夜(ちよ)を一夜(ひとよ)に準(なぞらふ)共(とも)、猶詞(ことば)残(のこり)て明(あけ)ぬべければ、御心(おんこころ)の中(うち)の憂(う)き程は其言(そのこと)の葉(は)も及ばねば、中々(なかなか)云出(いひいだ)させ給ふ一節(ひとふし)もなし。只御泪(おんなみだ)にのみかきくれて、強顔(つれなく)見へし晨明(ありあけ)も、傾(かたぶ)く迄に成(なり)にけり。夜(よ)已(すで)に明(あけ)なんとしければ、中宮御車(おんくるま)を廻(めぐ)らして還御(くわんぎよ)成(なり)けるが、御泪(おんなみだ)の中(うち)に、此上(このうへ)の思(おもひ)はあらじつれなさの命(いのち)よさればいつを限りぞと許(ばかり)聞へて、臥沈(ふししづ)ませ給(たまひ)ながら、帰車(かへるくるま)の別路(わかれぢ)に、廻(めぐ)り逢世(あふよ)の憑(たのみ)なき、御心(おんこころ)の中(うち)こそ悲しけれ。
○先帝(せんてい)遷幸(せんかうの)事(こと) S0406
明(あく)れば三月七日、千葉介(ちばのすけ)貞胤(さだたね)、小山(をやまの)五郎左衛門、佐々木(ささきの)佐渡判官(さどのはうぐわん)入道々誉(だうよ)五百(ごひやく)余騎(よき)にて、路次(ろし)を警固仕(けいごつかまつり)て先帝(せんてい)を隠岐(おきの)国(くに)へ遷(うつ)し奉る。供奉(ぐぶ)の人とては、一条頭大夫(とうだいぶ)行房(ゆきふさ)、六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)、御仮借(おんかいしやく)は三位殿(さんみどの)御局許(おんつぼねばかり)也(なり)。其外(そのほか)は皆甲冑(かつちう)を鎧(よろひ)て、弓箭(きゆうせん)帯(たい)せる武士共(ぶしども)、前後左右(ぜんごさいう)に打囲(うちかこみ)奉りて、七条を西へ、東洞院(ひがしのとうゐん)を下(しも)へ御車(おんくるま)を輾(きし)れば、京中(きやうぢゆう)貴賎男女(きせんなんによ)小路(こうぢ)に立双(たちならび)て、「正(まさ)しき一天(いつてん)の主(あるじ)を、下(しも)として流し奉る事の浅猿(あさまし)さよ。武家の運命(うんめい)今に尽(つき)なん。」と所憚なく云(いふ)声巷(ちまた)に満(みち)て、只赤子(あかご)の母を慕如(したふがごと)く泣悲(なきかなし)みければ、聞(きく)に哀(あはれ)を催(もよほ)して、警固の武士(ぶし)も諸共(もろとも)に、皆鎧(よろひ)の袖をぞぬらしける。桜井(さくらゐ)の宿(しゆく)を過(すぎ)させ給(たまひ)ける時、八幡(やはた)を伏拝(ふしをがみ)御輿(おんこし)を舁居(かきすゑ)させて、二度(ふたたび)帝都(ていと)還幸(くわんかう)の事をぞ御祈念(ごきねん)有(あり)ける。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と申(まうす)は、応神天皇(てんわう)の応化(おうげ)百王鎮護(ちんご)の御誓(おんちか)ひ新(あらた)なれば、天子行在(あんざい)の外(ほか)までも、定(さだめ)て擁護(おうご)の御眸(おんまなじり)をぞ廻(めぐら)さる覧(らん)と、憑敷(たのもしく)こそ思召(おぼしめし)けれ。湊川(みなとがは)を過(すぎ)させ給(たまふ)時、福原(ふくはら)の京(きやう)を被御覧ても、平相国清盛(へいしやうこくきよもり)が四海(しかい)を掌(たなごころ)に握(にぎつ)て、平安城(へいあんじやう)を此卑湿(このひしつ)の地に遷(うつ)したりしかば、無幾程亡(ほろび)しも、偏(ひとへ)に上(かみ)を犯さんとせし侈(おごり)の末(すゑ)、果(はた)して天の為に被罰ぞかしと、思食(おぼしめし)慰む端(はし)となりにけり。印南野(いなの)を末に御覧(ごらん)じて、須磨(すま)の浦を過(すぎ)させ給へば、昔源氏(げんじの)大将(だいしやう)の、朧月夜(おぼろづきよ)に名を立(たて)て此(この)浦に流され、三年(みとせ)の秋を送りしに、波只(ただ)此(ここ)もとに立(たち)し心地(ここち)して、涙落(おつる)共(とも)覚(おぼえ)ぬに、枕は浮許(うくばかり)に成(なり)にけりと、旅寝(たびね)の秋を悲(かなし)みしも、理(ことわり)なりと被思召。明石(あかし)の浦の朝霧に遠く成行(なりゆく)淡路嶋(あはぢしま)、寄来(よせく)る浪も高砂(たかさご)の、尾上(をのへ)の松に吹(ふく)嵐、迹(あと)に幾重(いくへ)の山川(やまかは)を、杉坂(すぎさか)越(こえ)て美作(みまさか)や、久米(くめ)の佐羅山(さらやま)さら/\に、今は有(ある)べき時ならぬに、雲間(くもま)の山に雪見へて、遥(はるか)に遠き峯あり。御警固(おんけいご)の武士(ぶし)を召(めし)て、山の名を御尋(おんたづね)あるに、「是(これ)は伯耆(はうき)の大山(だいせん)と申(まうす)山にて候。」と申(まうし)ければ、暫く御輿(おんこし)を被止、内証甚深(ないしようじんしん)の法施(ほつせ)を奉らせ給ふ。或時(あるとき)は鶏唱(けいしやうに)抹過茅店月、或時(あるとき)は馬蹄(ばていに)踏破板橋霜、行路(かうろ)に日を窮(きは)めければ、都を御出(おんいで)有(あつ)て、十三日と申(まうす)に、出雲(いづも)の見尾(みを)の湊(みなと)に着(つか)せ給ふ。爰(ここ)にて御船(おんふね)を艤(ふなよそひ)して、渡海(とかい)の順風(じゆんぷう)をぞ待(また)れける。
○備後(びんご)三郎高徳(たかのりが)事(こと)付呉越(ごゑつ)軍(いくさの)事(こと) S0407
其比(そのころ)備前(びぜんの)国(くに)に、児嶋(こじま)備後(びんご)三郎高徳(たかのり)と云(いふ)者あり。主上笠置(かさぎ)に御座有(ござあり)し時、御方(みかた)に参(さん)じて揚義兵しが、事未(いまだ)成(ならざる)先(さき)に、笠置(かさぎ)も被落、楠も自害したりと聞へしかば、力を失(うしなう)て黙止(もだし)けるが、主上隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給(たまふ)と聞(きい)て、無弐一族共(いちぞくども)を集めて評定(ひやうぢやう)しけるは、「志士(しじ)仁(じん)人(じんは)無求生以(もつて)害仁、有殺身為仁。」といへり。されば昔衛(ゑい)の懿公(いこう)が北狄(ほくてき)の為に被殺て有(あり)しを見て、其(その)臣に弘演(こうえん)と云(いひ)し者、是(これ)を見るに不忍、自(みづから)腹を掻切(かききつ)て、懿公(いこう)が肝を己(おのれ)が胸の中(うち)に収め、先君(せんくん)の恩を死後(しご)に報(はうじ)て失(うせ)たりき。「見義不為無勇。」いざや臨幸(りんかう)の路次(ろし)に参り会(あひ)、君を奪取奉(うばひとりたてまつり)て大軍を起し、縦(たと)ひ尸(かばね)を戦場に曝(さら)す共(とも)、名を子孫に伝へん。」と申(まうし)ければ、心ある一族共(いちぞくども)皆此義(このぎ)に同(どう)ず。「さらば路次の難所(なんじよ)に相待(あひまち)て、其隙(そのひま)を可伺。」とて、備前と播磨(はりま)との境(さかひ)なる、舟坂山(ふなさかやま)の嶺(みね)に隠れ臥(ふし)、今や/\とぞ待(まち)たりける。臨幸余(あま)りに遅(おそ)かりければ、人を走らかして是(これ)を見するに、警固(けいご)の武士(ぶし)、山陽道(せんやうだう)を不経、播磨(はりま)の今宿(いまじゆく)より山陰道(せんいんだう)にかゝり、遷幸(せんかう)を成(なし)奉りける間、高徳(たかのり)が支度(したく)相違してけり。さらば美作(みまさか)の杉坂(すぎさか)こそ究竟(くつきやう)の深山(みやま)なれ。此(ここ)にて待奉(まちたてまつら)んとて、三石(みついし)の山より直違(すぢかひ)に、道もなき山の雲を凌(しの)ぎて杉坂へ着(つい)たりければ、主上早(は)や院庄(ゐんのしやう)へ入(いら)せ給(たまひ)ぬと申(まうし)ける間(あひだ)、無力此(これ)より散々(ちりぢり)に成(なり)にけるが、せめても此所存(このしよぞん)を上聞(しやうぶん)に達せばやと思(おもひ)ける間、微服潛行(びふくせんかう)して時分(じぶん)を伺ひけれ共(ども)、可然隙(ひま)も無(なか)りければ、君の御坐(ござ)ある御宿(おんやど)の庭に、大(おほき)なる桜木(さくらぎ)有(あり)けるを押削(おしけづり)て、大文字(おほもじ)に一句の詩(し)をぞ書付(かきつけ)たりける。天莫空勾践(こうせん)。時非無范蠡。御警固(おんけいご)の武士共(ぶしども)、朝(あした)に是(これ)を見付(みつけ)て、「何事(なにこと)を何(いか)なる者が書(かき)たるやらん。」とて、読(よみ)かねて、則(すなはち)上聞(しやうぶん)に達してけり。主上は軈(やが)て詩の心を御覚(さと)り有(あり)て、竜顔(りようがん)殊に御快(おんこころよ)く笑(ゑま)せ給へども、武士共(ぶしども)は敢て其来歴(そのらいれき)を不知、思咎(おもひとがむ)る事も無(なか)りけり。抑(そもそも)此(この)詩の心は、昔異朝(いてう)に呉越(ごゑつ)とてならべる二(ふたつ)の国あり。此両国(このりやうごく)の諸侯(しよこう)皆王道(わうだう)を不行、覇業(はげふ)を務(つとめ)としける間、呉は越を伐(うつ)て取(とら)んとし、越は呉を亡(ほろぼ)して合(あは)せんとす。如此相争(あひあらそふ)事(こと)及累年。呉越互に勝負(しようぶ)を易(か)へしかば、親の敵(てき)となり、子の讎(あだ)と成(なつ)て共に天を戴(いただ)く事を恥(はづ)。周(しう)の季(すゑ)の世に当(あたつ)て、呉国(ごこく)の主(あるじ)をば呉王(ごわう)夫差(ふさ)と云(いひ)、越国(ゑつのくに)の主(あるじ)をば越王(ゑつわう)勾践(こうせん)とぞ申(まうし)ける。或時(あるとき)此(この)越王(ゑつわう)范蠡と云(いふ)大臣を召(めし)て宣(のたま)ひけるは、「呉は是(これ)父祖(ふそ)の敵(てき)也(なり)。我(われ)是(これ)を不討、徒(いたづら)に送年事(こと)、嘲(あざけり)を天下の人に取(とる)のみに非(あら)ず。兼(かね)ては父祖(ふそ)の尸(かばね)を九泉(きうせん)の苔(こけ)の下(した)に羞(はづか)しむる恨(うらみ)あり。然れば我(われ)今(いま)国の兵(つはもの)を召集(めしあつめ)て、自(みづか)ら呉国へ打超(うちこえ)、呉王夫差を亡(ほろぼ)して父祖(ふそ)の恨(うらみ)を散(さん)ぜんと思(おもふ)也(なり)。汝(なんぢ)は暫く留此国可守社稷。」と宣ひければ、范蠡諌(いさ)め申(まうし)けるは、「臣窃(ひそか)に事の子細(しさい)を計(はか)るに、今越の力を以て呉を亡(ほろぼ)さん事は頗(すこぶる)以(もつて)可難る。其故(そのゆゑ)は先(まづ)両国の兵(つはもの)を数(かぞ)ふるに呉は二十万騎(にじふまんぎ)越は纔(わづか)に十万騎(じふまんぎ)也(なり)。誠(まこと)に以小を、大(だい)に不敵、是(これ)呉を難亡其一(そのひとつ)也(なり)。次には以時計(はか)るに、春夏(はるなつ)は陽(やう)の時にて忠賞(ちゆうしやう)を行ひ秋冬(あきふゆ)は陰(いん)の時にて刑罰を専(もつぱら)にす。時(とき)今(いま)春(はる)の始(はじめ)也(なり)。是(これ)征伐(せいばつ)を可致時に非(あら)ず。是(これ)呉を難滅其二(そのふたつ)也(なり)。次に賢人(けんじんの)所帰則(すなはち)其(その)国(くに)強(つよし)、臣聞(きく)呉王夫差の臣下(しんか)に伍子胥(ごししよ)と云(いふ)者あり。智(ち)深(ふかう)して人をなつけ、慮(おもんばかり)遠くして主(しゆ)を諌(いさ)む。渠儂(かれ)呉国に有(あら)ん程は呉を亡(ほろぼ)す事可難。是(これ)其三(そのみつ)也(なり)。麒麟(きりん)は角(つの)に肉有(あつ)て猛(たけ)き形(かたち)を不顕、潛竜(せんりよう)は三冬(さんとう)に蟄(ちつ)して一陽来復(いちやうらうふく)の天を待(まつ)。君(きみ)呉越(ごゑつ)を合(あはせ)られ、中国(ちゆうごく)に臨(のぞん)で南面にして孤称(こしよう)せんとならば、且(しばら)く伏兵隠武、待時給ふべし。」と申(まうし)ければ、其(その)時越王(ゑつわう)大(おほき)に忿(いかつ)て宣(のたまひ)けるは、「礼記(らいき)に、父の讎(あた)には共に不戴天いへり、我已(すで)に及壮年まで呉を不亡、共に戴日月光事人の羞(はづかし)むる所(ところ)に非(あらず)や。是(これ)を以(もつて)兵(つはもの)を集(あつむ)る処に、汝三(みつ)の不可(ふか)を挙(あげ)て我を留(とどむ)る事(こと)、其義(そのぎ)一も道に不協。先(まづ)兵(つはもの)の多少(たせう)を数(かぞ)へて可致戦ば、越は誠(まこと)に呉に難対。而(しか)れ共(ども)軍(いくさ)の勝負(しようぶ)必(かならず)しも不依勢多少、只(ただ)依時運。又は依将謀。されば呉と越と戦ふ事及度々雌雄互に易(かは)れり。是(これ)汝(なんぢ)が皆知処(しるところ)也(なり)。今更(さら)に何(なん)ぞ越の小勢(こぜい)を以て戦呉大敵事不協我を可諌や。汝が武略(ぶりやく)の不足処の其一(そのひとつ)也(なり)。次(つぎ)に以時軍(いくさ)の勝負を計(はか)らば天下の人皆時(とき)を知れり。誰か軍(いくさ)に不勝。若(もし)春夏は陽(やう)の時にて罰(ばつ)を不行と云はゞ、殷(いん)の湯王(たうわう)の桀(けつ)を討(うち)しも春也(なり)。周(しう)の武王の紂(ちう)を討(うち)しも春也(なり)。されば、「天の時は不如地利に、地(ちの)利は〔不〕如人和に」といへり。而(しか)るに汝今可行征罰時に非(あら)ずと我を諌(いさ)むる、是(これ)汝が知慮(ちりよ)の浅き処の二(ふたつ)也(なり)。次に呉国に伍子胥(ごししよ)が有(あら)ん程は、呉を亡(ほろぼ)す事不可叶と云はゞ、我(われ)遂に父祖の敵(てき)を討(うつ)て恨(うらみ)を泉下(せんか)に報ぜん事有(ある)べからず。只徒(いたづら)に伍子胥(ごししよ)が死せん事を待たば死生(しせい)有命又は老少(らうせう)前後(ぜんご)す。伍子胥(ごししよ)と我と何(いづ)れをか先(さき)としる。此理(このり)を不弁我(われ)征罰を可止や。此(これ)汝が愚(ぐ)の三(みつ)也(なり)。抑(そもそも)我(われ)多日(たじつ)に及(およん)で兵(つはもの)を召(めす)事(こと)呉国(ごこく)へも定(さだめ)て聞へぬらん。事遅怠(ちたい)して却(かへつ)て呉王に被寄なば悔(くゆ)とも不可有益。「先則(さきんずるときは)制人後則(おくるるときは)被人制」といへり。事已(すで)に決(けつ)せり且(しばらく)も不可止。」とて、越王(ゑつわう)十一年二月上旬に、勾践(こうせん)自(みづか)ら十万余騎(よき)の兵(つはもの)を率(そつ)して呉国へぞ被寄ける。呉王夫差(ふさ)是(これ)を聞(きい)て、「小敵をば不可欺。」とて、自ら二十万騎(にじふまんぎの)勢を率(そつ)して、呉と越との境(さかひ)夫枡県(ふせうけん)と云(いふ)所に馳向(はせむか)ひ、後(うしろ)に会稽山(くわいけいざん)を当(あ)て、前に大河(たいが)を隔(へだて)て陣を取る。態(わざ)と敵を計(はから)ん為に三万余騎(よき)を出(いだ)して、十七万騎(じふしちまんぎ)をば陣の後(うしろ)の山陰(やまかげ)に深く隠(かく)してぞ置(おい)たりける。去程(さるほど)に越王(ゑつわう)夫枡県(ふせうけん)に打臨(うちのぞん)で、呉の兵(つはもの)を見給へば、其(その)勢僅(はつか)に二三万騎(にさんまんぎ)には過(すぎ)じと覚へて所々(しよしよ)に磬(ひか)へたり。越王(ゑつわう)是(これ)を見て、思(おもふ)に不似小勢なりけりと蔑(あなどつ)て、十万騎(じふまんぎ)の兵同時(どうじ)に馬を河水(かすゐ)に打入(うちいれ)させ、馬筏(むまいかだ)を組(くん)で打渡(うちわた)す。比(ころ)は二月上旬の事なれば、余寒(よかん)猶(なほ)烈(はげし)くして、河水(かすゐ)氷(こほり)に連(つらな)れり。兵(つはもの)手(て)凍(こごつ)て弓を控(ひく)に不叶。馬は雪に泥(なづん)で懸引(かけひき)も不自在。され共(ども)越王(ゑつわう)責鼓(せめつづみ)を打(うつ)て進まれける間、越の兵我先(われさき)にと双轡懸入(かけい)る。呉国の兵は兼(かね)てより敵(てき)を難所(なんじよ)にをびき入(いれ)て、取篭(とりこめ)て討(うた)んと議(ぎ)したる事なれば、態(わざ)と一軍(ひといくさ)もせで夫椒県(ふせうけん)の陣を引退(ひきしりぞい)て会稽山(くわいけいざん)へ引篭(ひきこも)る。越の兵勝(かつ)に乗(のつ)て北(にぐ)るを追(おふ)事(こと)三十(さんじふ)余里(より)、四隊(したい)の陣(ぢん)を一陣に合(あは)せて、左右(さいう)を不顧、馬の息も切るゝ程、思々(おもひおもひ)にぞ追(おう)たりける。日已(すで)に暮(くれ)なんとする時に、呉(の)兵二十万騎(にじふまんぎ)思ふ図(づ)に敵を難所(なんじよ)へをびき入(いれ)て、四方(しはう)の山より打出(うちいで)て、越王(ゑつわう)勾践(こうせん)を中(なか)に取篭(とりこめ)、一人も不漏と責(せめ)戦ふ。越の兵は今朝(こんてう)の軍(いくさ)に遠懸(とほがけ)をして人馬(じんば)共に疲れたる上(うへ)無勢(ぶせい)なりければ、呉の大勢(おほぜい)に被囲、一所(いつしよ)に打寄(うちより)て磬(ひか)へたり。進(すすん)で前(さき)なる敵(てき)に蒐(かか)らんとすれば、敵は嶮岨(けんそ)に支(ささ)へて、鏃(やじり)を調(そろ)へて待懸(まちかけ)たり。引返(ひつかへし)て後(うしろ)なる敵を払はんとすれば、敵は大勢にて越(ゑつの)兵(つはもの)疲(つか)れたり。進退(しんだい)此(ここ)に谷(きはまつ)て敗亡(はいばう)已(すで)に極(きはま)れり。され共(ども)越王(ゑつわう)勾践(こうせん)は破堅摧利事(こと)、項王(かうわう)が勢(いきほひ)を呑(のみ)、樊■勇(はんくわいがゆう)にも過(すぎ)たりければ、大勢の中へ懸入(かけいり)、十文字(じふもんじ)に懸破(かけやぶり)、巴(は)の字に追廻(おひめぐ)らす。一所(いつしよ)に合(あう)て三処に別れ、四方(しはう)を払(はらう)て八面(はちめん)に当(あた)る。頃刻(きやうこく)に変化して雖百度戦、越王(ゑつわう)遂に打負(うちまけ)て、七万余騎(よき)討(うた)れにけり。勾践(こうせん)こらへ兼(かね)て会稽山(くわいけいざん)に打上(うちあが)り、越の兵を数(かぞふ)るに打残されたる兵僅(わづか)に三万余騎(よき)也(なり)。其(それ)も半(なか)ば手を負(おう)て悉(ことごとく)箭(や)尽(つき)て鋒(ほこさき)折(をれ)たり。勝負(しようぶ)を呉越に伺(うかがう)て、未だ何方(いづかた)へも不着つる隣国(りんごく)の諸侯(しよこう)、多く呉王の方に馳加(はせくは)はりければ、呉の兵弥(いよいよ)重(かさなつ)て三十万騎(さんじふまんぎ)、会稽山(くわいけいざん)の四面(しめん)を囲(かこむ)事(こと)如稲麻竹葦也(なり)。越王(ゑつわう)帷幕(ゐばく)の内に入り、兵を集めて宣(のたま)ひけるは、「我(われ)運命已(すで)に尽(つき)て今此囲(このかこみ)に逢へり。是(これ)全く非戦咎、天亡我。然れば我(われ)明日(みやうにち)士(し)と共に敵の囲(かこみ)を出(いで)て呉王の陣に懸入(かけい)り、尸(かばね)を軍門に曝(さら)し、恨(うらみ)を再生(さいしやう)に可報。」とて越の重器(ちようき)を積(つん)で、悉(ことごとく)焼捨(やきすて)んとし給ふ。又王■与(わうせきよ)とて、今年(こんねん)八歳(はつさい)に成(なり)給ふ最愛(さいあい)の太子(たいし)、越王(ゑつわう)に随(したがつ)て、同(おなじ)く此(この)陣に座(おはし)けるを呼出(よびいだ)し奉(たてまつつ)て、「汝未(いまだ)幼稚なれば、吾(わが)死(し)に殿(おく)れて、敵に捕(とら)れ、憂目(うきめ)を見ん事も可心憂。若(もし)又我(われ)為敵虜(とらは)れて、我(われ)汝(なんぢ)より先立(さきたた)ば、生前(しやうぜん)の思(おもひ)難忍。不如汝を先立(さきたて)て心安く思切(おもひき)り、明日の軍(いくさ)に討死(うちじに)して、九泉(きうせん)の苔(こけ)の下(した)、三途(さんづ)の露の底迄(そこまで)も、父子(ふし)の恩愛(おんあい)を不捨と思ふ也(なり)。」とて、左の袖に拭涙、右の手に提剣太子の自害を勧(すす)め給ふ時に、越王(ゑつわう)の左将軍(さしやうぐん)に、大夫(たいふ)種(しよう)と云(いふ)臣あり。越王(ゑつわう)の御前(おんまへ)に進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「生(しやう)を全(まつた)くして命(いのち)を待(まつ)事(こと)は遠くして難(かた)く、死を軽(かろ)くして節(せつ)に随ふ事は近くして安(やす)し。君暫く越の重器を焼捨(やきすて)、太子を殺す事を止(や)め給へ。臣雖不敏、欺呉王君王(くんわう)の死を救(すく)ひ、本国(ほんごく)に帰(かへつ)て再び大軍を起(おこ)し、此(この)恥を濯(すすが)んと思ふ。今此(この)山を囲(かこ)んで一陣を張(はら)しむる呉の上(じよう)将軍太宰(たいさい)■(ひ)は臣が古(いにしへ)の朋友也(なり)。久(ひさし)く相馴(あひなれ)て彼(かれ)が心を察せしに、是(これ)誠(まこと)に血気の勇者なりと云へ共(ども)、飽(あく)まで其(その)心に欲有(あつ)て、後(のち)の禍(わざはひ)を不顧。又彼(かの)呉王夫差の行迹(かうせき)を語るを聞(きき)しかば、智浅(あさう)して謀(はかりごと)短く、色に婬(いん)して道に暗し。君臣(くんしん)共に何(いづ)れも欺くに安(やす)き所(ところ)也(なり)。抑(そもそも)今越の戦無利、為呉被囲ぬる事も、君范蠡(はんれい)が諌めを用ひ不給故(ゆゑ)に非(あら)ずや。願(ねがはく)は君王(くんわう)臣が尺寸(せきすん)の謀(はかりごと)を被許、敗軍(はいぐん)数万(すまん)の死を救ひ給へ。」と諌申(いさめまうし)ければ、越王(ゑつわう)理(り)に折(をれ)て、「「敗軍の将(しやう)は再び不謀」と云へり。自今後(のち)の事は然(しかしながら)大夫(たいふ)種(しよう)に可任。」と宣(のたまひ)て、重器を被焼事を止(やめ)、太子の自害(じがい)をも被止けり。大夫(たいふ)種(しよう)則(すなはち)君の命(めい)を請(うけ)て、冑(かぶと)を脱(ぬ)ぎ旗を巻(まい)て、会稽山(くわいけいざん)より馳下(はせくだ)り、「越王(ゑつわう)勢(いきほ)ひ尽(つき)て、呉の軍門(ぐんもん)に降(くだ)る。」と呼(よばは)りければ、呉の兵三十万騎(さんじふまんぎ)、勝時(かちどき)を作(つくつ)て皆万歳(ばんぜい)を唱(とな)ふ。大夫(たいふ)種(しよう)は則(すなはち)呉の轅門(ゑんもん)に入(いつ)て、「君王の倍臣(ばいしん)、越(ゑつの)勾践(こうせん)の従者(じゆうしや)、小臣種(しよう)慎(つつしん)で呉の上(じやう)将軍の下執事(かしつじ)に属(しよく)す。」と云(いつ)て、膝行頓首(しつかうとんしゆ)して、太宰(たいさい)■(ひ)が前(まへ)に平伏(へいふく)す。太宰(たいさい)■(ひ)床(ゆか)の上に坐(ざ)し、帷幕(ゐばく)を揚(あげ)させて大夫(たいふ)種(しよう)に謁す。大夫(たいふ)種(しよう)敢(あへ)て平視せず。低面流涙申(まうし)けるは、「寡君(くわくん)勾践(こうせん)運極(きは)まり、勢(いきほひ)尽(つき)て呉の兵に囲(かこま)れぬ。仍(よつて)今(いま)小臣種(しよう)をして、越王(ゑつわう)長く呉王の臣と成(なり)、一畝(いつぽ)の民と成(なら)ん事を請(こは)しむ。願(ねがはく)は先日(せんじつ)の罪を被赦今日(こんにち)の死を助け給へ。将軍若(もし)勾践(こうせん)の死を救ひ給はゞ、越の国を献呉王成湯沐地、其(その)重器を将軍に奉り、美人西施(せいし)を洒掃(せいさう)の妾(せふ)たらしめ、一日(いちにち)の歓娯(くわんご)に可備。若(もし)夫(それ)請(こふ)、所望不叶遂に勾践(こうせん)を罪(つみ)せんとならば、越の重器を焼棄(やきすてて)、士卒(しそつ)の心を一(ひとつ)にして、呉王の堅陣(けんぢん)に懸入(かけいり)、軍門に尸(かばね)を可止。臣平生(へいぜい)将軍と交(まじはり)を結ぶ事膠漆(かうしつ)よりも堅し。生前(しやうぜん)の芳恩(はうおん)只此(この)事(こと)にあり。将軍早く此(この)事(こと)を呉王に奏(そう)して、臣が胸中(きようちゆう)の安否(あんぴ)を存命(ぞんめい)の裏(うち)に知(しら)しめ給へ。」と一度(ひとたび)は忿(いか)り一度(ひとたび)は歎き、言(ことば)を尽(つく)して申(まうし)ければ、太宰(たいさい)■(ひ)顔色(がんしよく)誠(まこと)に解(とけ)て、「事以(もつて)不難、我必(かならず)越王(ゑつわう)の罪をば可申宥。」とて軈(やが)て呉王の陣へぞ参りける。太宰(たいさい)■(ひ)即(すなはち)呉王の玉座(ぎよくざ)に近付(ちかづ)き、事の子細(しさい)を奏(そう)しければ、呉王大(おほき)に忿(いかつ)て、「抑(そもそも)呉と越と国を争ひ、兵を挙(あぐ)る事今日(こんにち)のみに非(あら)ず。然るに勾践(こうせん)運窮(きはまつ)て呉の擒(とりこ)となれり。是(これ)天の予(われ)に与へたるに非(あらず)や。汝(なんぢ)是(これ)を乍知勾践(こうせん)が命(いのち)を助けんと請ふ。敢(あへ)て非忠烈之臣。」宣(のたま)ひければ、太宰(たいさい)■(ひ)重(かさね)て申(まうし)けるは、「臣雖不肖、苛(いやしく)も将軍の号(がう)を被許、越の兵と戦(たたかひ)を致す日、廻謀大敵を破り、軽命勝(かつ)事(こと)を快(こころよ)くせり。是(これ)偏(ひとへ)に臣が丹心(たんしん)の功と云(いひ)つべし。為君王の、天下の太平を謀(はか)らんに、豈(あに)一日も尽忠不傾心や。倩(つらつら)計事是非、越王(ゑつわう)戦に負(まけ)て勢(いきほひ)尽(つき)ぬといへ共(ども)、残処(のこるところ)の兵(つはもの)猶(なほ)三万余騎(よき)、皆逞兵鉄騎(ていへいてつき)の勇士也(なり)。呉の兵雖多昨日の軍(いくさ)に功有(あつ)て、自今後(のち)は身を全(まつたう)して賞を貪(むさぼら)ん事を思ふべし。越の兵は小勢(こぜい)なりといへ共(ども)志(こころざし)を一(ひとつ)にして、而(しか)も遁(のが)れぬ所を知れり。「窮鼠(きゆうそ)却(かへつて)噛猫、闘雀(とうじやく)不恐人」といへり。呉越重(かさね)て戦(たたか)はゞ、呉は必(かならず)危(あやふき)に可近る。不如先(まづ)越王(ゑつわう)の命を助け、一畝(いつぽ)の地(ち)を与(あたへ)て呉の下臣(かしん)と成さんには。然(しか)らば君王呉越(ごゑつ)両国(りやうこく)を合(あは)するのみに非(あら)ず。斉(せい)・楚(そ)・秦(しん)・趙(てう)も悉く不朝云(いふ)事(こと)有(ある)べからず。是(これ)根を深くし蔕(ほぞ)を固(かたう)する道也(なり)。」と、理を尽(つくし)て申(まうし)ければ、呉王即(すなはち)欲(よく)に耽(ふけ)る心を逞(たくましう)して、「さらば早(はや)会稽山(くわいけいざん)の囲(かこみ)を解(とい)て勾践(こうせん)を可助。」宣ひける。太宰(たいさい)■(ひ)帰(かへつ)て大夫(たいふ)種(しゆう)に此由(このよし)を語(かた)りければ、大夫(たいふ)種(しよう)大(おほき)に悦(よろこう)で、会稽山(くわいけいざん)に馳(はせ)帰り、越王(ゑつわう)に此旨(このむね)を申せば、士卒皆(みな)色(いろ)を直(なほ)して、「出万死逢一生(いつしやう)、偏(ひとへ)に大夫(たいふ)種(しよう)が智謀(ちぼう)に懸(かか)れり。」と、喜ばぬ人も無(なか)りけり。越王(ゑつわう)已(すで)に降旗(かうき)を被建ければ、会稽(くわいけい)の囲(かこみ)を解(とい)て、呉の兵(つはもの)は呉に帰り、越の兵は越に帰る。勾践(こうせん)即(すなはち)太子王■与(わうせきよ)をば、大夫(たいふ)種(しよう)に付(つけ)て本国へ帰し遣(つかは)し、我(わが)身は白馬素車(はくばそしや)に乗(のつ)て越の璽綬(じじう)を頚に懸(かけ)、自(みづか)ら呉の下臣(かしん)と称して呉の軍門に降(くだ)り給ふ。斯(かか)りけれ共(ども)、呉王猶(なほ)心ゆるしや無(なか)りけん、「君子(くんし)は不近刑人」とて、勾践(こうせん)に面(おもて)を不見給、剰(あまつさへ)勾践(こうせん)を典獄(てんごく)の官(くわん)に被下、日に行事一駅(えき)駆(く)して、呉の姑蘇城(こそじやう)へ入(いり)給ふ。其(その)有様を見る人、涙の懸(かか)らぬ袖はなし。経日姑蘇城に着(つき)給へば、即(すなはち)手械(てかせ)足械(あしかせ)を入(いれ)て、土(つち)の楼(ろう)にぞ入(いれ)奉りける。夜(よ)明(あけ)日(ひ)暮(くる)れ共(ども)、月日(つきひ)の光をも見給はねば、一生(いつしやう)溟暗(めいあん)の中(うち)に向(むかつ)て、歳月(としつき)の遷易(うつりかはる)をも知(しり)給はねば、泪(なみだ)の浮ぶ床(とこ)の上(うへ)、さこそは露も深かりけめ。去(さる)程に范蠡(はんれい)越の国に在(あつ)て此(この)事(こと)を聞(きく)に、恨(うらみ)骨髄(こつずゐ)に徹(とほつ)て難忍。哀(あはれ)何(いか)なる事をもして越王(ゑつわう)の命を助け、本国に帰り給へかし。諸共(もろとも)に謀(はかりごと)を廻(めぐ)らして、会稽山(くわいけいざん)の恥を雪(きよ)めんと、肺肝(はいかん)を砕(くだい)て思(おもひ)ければ、疲身替形、簀(あじか)に魚(うを)を入(いれ)て自ら是(これ)を荷(にな)ひ、魚(うを)を売(うる)商人(あきんど)の真似(まね)をして、呉国へぞ行(ゆき)たりける。姑蘇城の辺(ほとり)にやすらひて、勾践(こうせん)のをはする処を問(とひ)ければ、或人(あるひと)委(くはし)く教へ知(しら)せけり。范蠡嬉しく思(おもひ)て、彼獄(かのごく)の辺(ほとり)に行(ゆき)たりけれ共(ども)、禁門(きんもん)警固(けいご)隙(ひま)無(なか)りければ、一行(いちがう)の書(しよ)を魚(うを)の腹の中に収(をさめ)て、獄(ごく)の中へぞ擲入(なげいれ)ける。勾践(こうせん)奇(あやし)く覚(おぼ)して、魚の腹を開(ひらい)て見給へば、西伯囚■里。重耳走■。皆以為王覇。莫死許敵。とぞ書(かき)たりける。筆の勢(いきほひ)文章の体(てい)、まがふべくもなき范蠡(はんれい)が業(しわ)ざ也(なり)。と見給ひければ、彼(か)れ未だ憂世(うきよ)に存(ながら)へて、為我肺肝(はいかん)を尽(つく)しけりと、其(その)志の程哀(あはれ)にも又憑(たの)もしくも覚へけるにこそ、一日片時(へんし)も生(い)けるを憂(う)しとかこたれし我(わが)身ながらの命(いのち)も、却(かへつ)て惜(をし)くは思はれけれ。斯(かか)りける処に、呉王夫差(ふさ)俄に石淋(せきりん)と云(いふ)病(やまひ)を受(うけ)て、身心(しんしん)鎮(とこしなへ)に悩乱(なうらん)し、巫覡(ぶげき)祈れ共(ども)無験、医師(いし)治(ぢ)すれ共(ども)不痊、露命(ろめい)已(すで)に危(あやふ)く見(み)へ給(たまひ)ける処に、侘国(たこく)より名医(めいい)来(きたつ)て申(まうし)けるは、「御病(おんやまひ)実(まこと)に雖重医師の術(じゆつ)及(およぶ)まじきに非(あら)ず。石淋(せきりん)の味(あぢはひ)を甞(なめ)て、五味(ごみ)の様(やう)を知(しら)する人あらば、輒(たやす)く可奉療治。」とぞ申(まうし)ける。「さらば誰か此(この)石淋を甞(なめ)て其味(そのあぢはひ)をしらすべき」と問(とふ)に、左右(さいう)の近臣(きんしん)相顧(あひかへりみ)て、是(これ)を甞(なむ)る人更(さら)になし。勾践(こうせん)是(これ)を伝聞(つたへきい)て泪(なみだ)を押へて宣(のたまは)く、「我(われ)会稽(くわいけい)の囲(かこみ)に逢(あひ)し時已(すで)に被罰べかりしを、今に命(いのち)助置(たすけおか)れて天下の赦(ゆるし)を待(まつ)事(こと)、偏(ひとへ)に君王(くんわう)慈慧(じけい)の厚恩(こうおん)也(なり)。我(われ)今是(これ)を以て不報其恩何(いつ)の日をか期(ご)せん。」とて潛(ひそか)に石淋を取(とり)て是(これ)を甞(なめ)て其味(そのあぢはひ)を医師に被知。医師味(あぢはひ)を聞(きい)て加療治、呉王の病(やまひ)忽(たちまち)に平癒(へいゆつ)してげり。呉王大(おほき)に悦(よろこう)で、「人有心助我死、我(われ)何(なん)ぞ是(これ)を謝(しや)する心無(なか)らんや。」とて、越王(ゑつわう)を自楼出(いだ)し奉るのみに非(あら)ず。剰(あまつさへ)越の国を返し与へて、「本国へ返(かへ)り去(さる)べし。」とぞ被宣下ける。爰(ここ)に呉王の臣伍子胥(ごししよ)と申(まうす)者、呉王を諌(いさめ)て申(まうし)けるは、「「天(てんの)与(あたふるを)不取却(かへつ)て得其咎」云へり。此(この)時越の地を不取勾践(こうせん)を返し被遣事(こと)、千里(せんり)の野辺(のべ)に虎を放つが如し。禍(わざはひ)可在近。」申(まうし)けれ共(ども)呉王是(これ)を不聞給、遂に勾践(こうせん)を本国へぞ被返ける。越王(ゑつわう)已(すで)に車(くるま)の轅(ながえ)を廻(めぐら)して、越の国へ帰り給ふ処に、蛙(かはづ)其(その)数を不知車(くるまの)前(さき)に飛来(とびきたる)。勾践(こうせん)是(これ)を見給(たまひ)て、是(これ)は勇士を得て素懐(そくわい)を可達瑞相(ずゐさう)也(なり)。とて、車より下(おり)て是(これ)を拝(はい)し給ふ。角(かく)て越の国へ帰(かへつ)て住来(すみこし)故宮(こきゆう)を見給へば、いつしか三年(みとせ)に荒(あれ)はて、梟(ふくろふ)鳴松桂枝狐(きつね)蔵蘭菊叢、無払人閑庭(かんてい)に落葉(らくえふ)満(みち)て簫々(せうせう)たり。越王(ゑつわう)免死帰給(かへりたまひ)ぬと聞へしかば、范蠡(はんれい)王子(わうじ)王■与(わうせきよ)を宮中(きゆうちゆう)へ入(いれ)奉りぬ。越王(ゑつわう)の后(きさき)に西施(せいし)と云(いふ)美人座(おはし)けり。容色(ようしよく)勝世嬋娟(せんげん)無類しかば、越王(ゑつわう)殊に寵愛(ちようあい)甚しくして暫くも側(そば)を放れ給はざりき。越王(ゑつわう)捕呉給ひし程は為遁其難側身隠居し給(たまひ)たりしが、越王(ゑつわう)帰(かへり)給ふ由を聞(きき)給ひて則(すなはち)後宮(こうきゆう)に帰り参り玉(たま)ふ。年の三年(みとせ)を待(まち)わびて堪(たへ)ぬ思(おもひ)に沈玉(しづみたまひ)ける歎(なげき)の程も呈(あらは)れて、鬢(びん)疎(おろそ)かに膚(はだへ)消(きえ)たる御形(おんかたち)最(いと)わりなくらうたけて、梨花(りくわ)一枝(いつし)春(はるの)雨(あめ)に綻(ほころ)び、喩(たと)へん方も無(なか)りけり。公卿(こうけい)・大夫(たいふ)・文武百司(ぶんぶはくし)、此彼(ここかしこ)より馳(はせ)集りける間(あひだ)、軽軒(けいけん)馳紫陌塵冠珮(ぐわんぱい)鎗丹■月、堂上(だうじやう)堂下(だうか)如再開花。斯(かか)りける処に自呉国使者(ししや)来れり。越王(ゑつわう)驚(おどろい)て以范蠡事の子細(しさい)を問(とひ)給ふに、使者答曰(こたへていはく)、「我君(わがきみ)呉王大王(だいわう)好婬重色尋美人玉(たま)ふ事天下に普(あまね)し。而(しか)れ共(ども)未だ如西施不見顔色。越王(ゑつわう)出会稽山(くわいけいざん)囲時有一言約。早く彼(かの)西施を呉の後宮(こうきゆう)へ奉傅入、備后妃位。」使(つかひ)也(なり)。越王(ゑつわう)聞之玉(たまひ)て、「我(われ)呉王夫差が陣に降(くだつ)て、忘恥甞石淋助命事(こと)、全(まつたく)保国身を栄(さか)やかさんとには非(あら)ず、只西施(せいし)に為結偕老契なりき。生前(しやうぜん)に一度(ひとたび)別(わかれ)て死して後(のち)期再会、保万乗国何(なに)かせん。されば縦(たと)ひ呉越の会盟(くわいめい)破れて二度(ふたたび)我(われ)為呉成擒共(とも)、西施を送他国事は不可有。」とぞ宣ひける。范蠡(はんれい)流涙申(まうし)けるは、「誠(まこと)に君展転(てんてん)の思(おもひ)を計(はか)るに、臣非不悲云へ共(ども)、若(もし)今西施を惜(をしみ)給はゞ、呉越の軍(いくさ)再び破(やぶれ)て呉王又可発兵。去程(さるほど)ならば、越(ゑつの)国(くに)を呉に被合のみに非(あら)ず、西施をも可奪、社稷(しやしよく)をも可被傾。臣倩(つらつら)計(はか)るに、呉王好婬迷色事甚し。西施呉の後宮(こうきゆう)に入(いり)給ふ程ならば、呉王是(これ)に迷(まよひ)て失政事非所疑。国(くに)費(つひ)へ民背(そむか)ん時に及(およん)で、起兵被攻呉勝(かつ)事(こと)を立処(たちどころ)に可得つ。是(これ)子孫万歳(しそんばんぜい)に及(およん)で、夫人(ふじん)連理(れんり)の御契(おんちぎり)可久道となるべし。」と、一度(ひとたび)は泣(なき)一度(ひとたび)は諌(いさめ)て尽理申(まうし)ければ、越王(ゑつわう)折理西施を呉国へぞ被送ける。西施は小鹿(をじか)の角(つの)のつかの間(ま)も、別れて可有物かはと、思ふ中をさけられて、未だ幼(いとけ)なき太子王■与(わうせきよ)をも不云知思置(おもひおき)、ならはぬ旅に出(いで)玉へば、別(わかれ)を慕(したふ)泪(なみだ)さへ暫(しば)しが程も止(とどま)らで、袂(たもと)の乾(かわ)く隙(ひま)もなし。越王(ゑつわう)は又是(これ)や限(かぎり)の別(わかれ)なる覧(らん)と堪(たへ)ぬ思(おもひ)に臥沈(ふししづみ)て、其方(そなた)の空を遥々(はるばる)と詠(なが)めやり玉へば、遅々(ちち)たる暮山(ぼざん)の雲いとゞ泪(なみだ)の雨となり、虚(むな)しき床(ゆか)に独(ひとり)ねて、夢にも責(せめ)て逢見(あひみ)ばやと欹枕臥(ふし)玉へば、無添甲斐化に、無為方歎玉(なげきたま)ふもげに理(ことわ)りなり。彼(かの)西施(せいし)と申(まうす)は天下第一(だいいち)の美人也(なり)。妝(よそほひ)成(なつ)て一度(ひとたび)笑(ゑめ)ば百(もも)の媚(こび)君(きみ)が眼(まなこ)を迷(まよは)して、漸(やうやく)池上(ちじやう)に無花歟(か)と疑ふ。艷(えん)閉(とぢ)て僅(わづか)に見れば千態(ちぢのすがた)人の心を蕩(とらか)して忽(たちまち)に雲間(くもま)に失月歟(か)と奇(あや)しまる。されば一度(ひとたび)入宮中君王(くんわう)の傍(かたはら)に侍(はんべり)しより、呉王の御心(おんこころ)浮(うか)れて、夜(よる)は終夜(よもすが)ら婬楽(いんらく)をのみ嗜(たしなん)で、世の政(まつりごと)をも不聞、昼(ひる)は尽日(ひねもすに)遊宴(いうえん)をのみ事として、国の危(あやふき)をも不顧。金殿(きんでん)挿雲、四辺(しへん)三百里が間(あひだ)、山河(さんか)を枕の下に直下(みおろし)ても、西施の宴(えん)せし夢の中(うち)に興(きよう)を催さん為なりき。輦路(れんろ)に無花春(はるの)日は、麝臍(じやせい)を埋(うづみ)て履(くつ)を熏(にほは)し、行宮(あんきゆう)に無月夏の夜(よ)は、蛍火(けいくわ)を集(あつめ)て燭(とぼしび)に易(か)ふ。婬乱重日更(さらに)無止時しかば、上(かみ)荒(すさみ)下(しも)廃(すた)るれ共(ども)、佞臣(ねいしん)は阿(おもねつ)て諌(いさめ)せず。呉王(ごわう)万事酔(ゑひて)如忘。伍子胥(ごししよ)見之呉王を諌(いさめ)て申(まうし)けるは、「君不見殷(いんの)紂王(ちうわう)妲妃(だつき)に迷(まよひ)て世を乱り、周(しう)の幽王(いうわう)褒■(はうじ)を愛して国を傾(かたぶけし)事(こと)を。君今西施(せいし)を婬(いん)し給へる事過之。国の傾敗(けいはい)非遠に。願(ねがはく)は君止之給へ。」と侵言顔諌申(いさめまうし)けれ共(ども)、呉王敢(あへ)て不聞給。或時(あるとき)又呉王西施に為宴、召群臣南殿(なんでん)の花(はな)に酔(ゑひ)を勧(すす)め給(たまひ)ける処に、伍子胥(ごししよ)威儀を正(ただ)しくして参(まゐり)たりけるが、さしも敷玉鏤金瑶階(えうかい)を登るとて、其裾(そのもすそ)を高くかゝげたる事恰(あたかも)如渉水時。其怪(そのあやし)き故を問(とふ)に、伍子胥(ごししよ)答申(こたへてまうし)けるは、「此(この)姑蘇台(こそだい)越王(ゑつわう)の為に被亡、草深く露滋(しげ)き地とならん事非遠。臣若(もし)其(それ)迄命(いのち)あらば、住(すみ)こし昔の迹(あと)とて尋見(たづねみ)ん時、さこそは袖より余(あま)る荊棘(けいぎよく)の露も、■々(じやうじやう)として深からんずらめと、行末(ゆくすゑ)の秋を思ふ故(ゆゑ)に身を習はして裙(もすそ)をば揚(あぐ)る也(なり)。」とぞ申(まうし)ける。忠臣諌(いさめ)を納(いる)れ共(ども)、呉王曾(かつ)て不用給しかば、余(あまり)に諌(いさめ)かねて、よしや身を殺して危(あやふ)きを助けんとや思(おもひ)けん、伍子胥(ごししよ)又或時(あるとき)、只今新(あらた)に砥(と)より出(いで)たる青蛇(せいじや)の剣(けん)を持(もち)て参りたり。抜(ぬい)て呉王の御前(おんまへ)に拉(とりひしい)で申(まうし)けるは、「臣此剣(このけん)を磨(とぐ)事(こと)、退邪払敵為(ため)也(なり)。倩(つらつら)国の傾(かたぶか)んとする其基(そのもとゐ)を尋(たづ)ぬれば、皆西施より出(いで)たり。是(これ)に過(すぎ)たる敵(てき)不可有。願(ねがはく)は刎西施首、社稷(しやしよく)の危(あやふき)を助けん。」と云(いひ)て、牙(きば)を噛(かみ)て立(たつ)たりければ、忠言(ちゆうげん)逆耳時(とき)君不犯非云(いふ)事(こと)なければ、呉王大(おほき)に忿(いかつ)て伍子胥(ごししよ)を誅(ちゆう)せんとす。伍子胥(ごししよ)敢(あへ)て是(これ)を不悲。「争(あらそ)い諌(いさ)めて死節是(これ)臣下(しんか)の則(のり)也(なり)。我(われ)正(まさ)に越の兵(つはもの)の手に死なんよりは、寧(むしろ)君王(くんわう)の手に死(しなん)事(こと)恨(うらみ)の中の悦(よろこび)也(なり)。但(ただ)し君王臣が忠諌(ちゆうかん)を忿(いかつ)て吾(われ)に賜死事(こと)、是(これ)天已(すで)に棄君也(なり)。君越王(ゑつわう)の為に滅(ほろぼさ)れて、刑戮(けいりく)の罪に伏(ふくせ)ん事(こと)、三年(みとせ)を不可過。願(ねがはく)は臣が穿両眼呉の東門(とうもん)に掛(かけ)られて、其後(そののち)首(くび)を刎(はね)給へ。一双(いつさう)の眼(まなこ)未枯前(いまだかれざるさき)に、君勾践(こうせん)に被亡て死刑に赴(おもむ)き給はんを見て、一笑(いつせう)を快(こころよ)くせん。」と申(まうし)ければ、呉王弥(いよいよ)忿(いかつ)て即(すなはち)伍子胥(ごししよ)を被誅、穿其両眼呉の東門(とうもんの)幢(はたほこの)上(うへ)にぞ被掛ける。斯(かか)りし後(のち)は君悪(あく)を積(つめ)ども臣敢(あへ)て不献諌、只群臣(ぐんしん)口(くち)を噤(つぐ)み万人(ばんにん)目を以(もつ)てす。范蠡(はんれい)聞之、「時已(すで)に到りぬ。」と悦(よろこう)で、自(みづから)二十万騎(にじふまんぎ)の兵を率(そつ)して、呉国へぞ押寄(おしよせ)ける。呉王夫差(ふさ)は折節(をりふし)晋国(しんのくに)呉を叛(そむく)と聞(きい)て、晋国へ被向たる隙(ひま)なりければ、防ぐ兵(つはもの)一人(いちにん)もなし。范蠡(はんれい)先(まづ)西施を取返(とりかへ)して越王(ゑつわう)の宮(きゆう)へ帰(かへ)し入(いれ)奉り、姑蘇台(こそだい)を焼掃(やきはら)ふ。斉(せい)・楚(そ)の両国(りやうごく)も越王(ゑつわう)に志(こころざし)を通(つう)ぜしかば、三十万騎(さんじふまんぎ)を出(いだ)して范蠡(はんれい)に戮力。呉王聞之先(まづ)晋国の戦(たたかひ)を閣(さしおい)て、呉国へ引返(ひつかへ)し、越に戦(たたかひ)を挑(いどまん)とすれば、前(まへ)には呉(ご)・越(ゑつ)・斉(せい)・楚(そ)の兵(つはもの)如雲霞の、待懸(まちかけ)たり。後(うしろ)には又晋国の強敵(がうてき)乗勝追懸(おつかけ)たり。呉王大敵に前後(ぜんご)を裹(つつま)れて可遁方(かた)も無(なか)りければ、軽死戦ふ事三日三夜、范蠡荒手(あらて)を入替(いれかへ)て不継息攻(せめ)ける間、呉の兵三万余人(よにん)討(うた)れて僅(わづか)に百騎に成(なり)にけり。呉王自(みづから)相当(あひあた)る事三十二箇度(さんじふにかど)、夜半(やはん)に解囲六十七騎を随へ、姑蘇山(こそざん)に取上(とりのぼ)り、越王(ゑつわう)に使者(ししや)を立(たて)て曰(いはく)、「君王(くんわう)昔会稽山(くわいけいざん)に苦(くるしみ)し時臣(しん)夫差(ふさ)是(これ)を助(たすけ)たり。願(ねがはく)は吾(われ)今より後(のち)越の下臣(かしん)と成(なつ)て、君王の玉趾(ぎよくし)を戴(いただか)ん。君若(もし)会稽(くわいけい)の恩を不忘、臣が今日(こんにち)の死を救ひ給へ。」と言(ことば)を卑(いやしう)し厚礼降(かう)せん事をぞ被請ける。越王(ゑつわう)聞之古(いにしへ)の我が思ひに、今人(こんじん)の悲(かなし)みさこそと哀(あはれ)に思知給(おもひしりたまひ)ければ、呉王を殺に不忍、救其死思(おもひ)給へり。范蠡(はんれい)聞之、越王(ゑつわう)の御前(おんまへ)に参(まゐり)て犯面申(まうし)けるは、「伐柯其則(そののり)不遠。会稽(くわいけい)の古(いにしへ)は天越(ゑつ)を呉(ご)に与へたり。而(しかる)を呉王取(とる)事(こと)無(なう)して忽(たちまち)に此害(このがい)に逢(あへ)り。今却(かへつ)て天越(ゑつ)に呉を与へたり。無取事越又如此の害に逢(あふ)べし。君臣共(とも)に肺肝(はいかん)を砕(くだい)て呉を謀(はか)る事二十一年、一朝(いつてう)にして棄(すて)ん事豈(あに)不悲乎(や)。君行非時(ときに)不顧臣の忠(ちゆう)也(なり)。」と云(いひ)て、呉王の使者未(いまだ)帰(かへらざる)前(さき)に、范蠡自(みづから)攻鼓(せめつづみ)を打(うつ)て兵を勧(すす)め、遂に呉王を生捕(いけどつ)て軍門の前に引出(ひきいだ)す。呉王已(すで)に被面縛、呉の東門(とうもん)を過(すぎ)給ふに、忠臣伍子胥(ごししよ)が諌(いさめ)に依(よつ)て、被刎首時、幢(はたほこ)の上(うへ)に掛(かけ)たりし一双(いつさう)の眼(まなこ)、三年(みとせ)まで未枯(いまだかれず)して有(あり)けるが、其眸(そのまなじり)明(あきらか)に開(ひら)け、相見(あひみ)て笑(わら)へる気色(きしよく)なりければ、呉王是(これ)に面(おもて)を見(みゆる)事(こと)さすが恥かしくや被思けん、袖を顔に押当(おしあて)て低首過(すぎ)給ふ。数万(すまん)の兵見之涙を流さぬは無(なか)りけり。即(すなはち)呉王を典獄(てんごく)の官(くわん)に下(くだ)され、会稽山(くわいけいざん)の麓にて遂に首(くび)を刎(はね)奉る。古来(こらい)より俗(ぞく)の諺(ことわざに)曰(いはく)、「会稽(くわいけい)の恥を雪(きよ)むる。」とは此(この)事(こと)を云(いふ)なるべし。自是越王(ゑつわう)呉を合(あは)するのみに非(あら)ず、晉(しん)・楚(そ)・斉(せい)・秦(しん)を平(たひら)げ、覇者(はしや)の盟主(めいしゆ)と成(なり)しかば、其功(そのこう)を賞(しやう)して范蠡(はんれい)を万戸侯(ばんここう)に封(ほう)ぜんとし給ひしか共(ども)、范蠡(はんれい)曾(かつ)て不受其禄(そのろくを)、「大名(たいめい)の下(もと)には久(ひさし)く不可居る、功成(なり)名遂(とげて)而身退(しりぞく)は天の道也(なり)。」とて、遂(つひ)に姓名を替(か)へ陶朱公(たうしゆこう)と呼(よばは)れて、五湖(ごこ)と云(いふ)所(ところ)に身を隠し、世を遁(のがれ)てぞ居たりける。釣(つり)して芦花(ろくわ)の岸に宿(しゆく)すれば、半蓑(はんさ)に雪を止(とど)め、歌(うたうたう)て楓葉(ふうえふ)の陰(かげ)を過(すぐ)れば、孤舟(こしう)に秋を戴(のせ)たり。一蓬(いつぽう)の月(つきは)万頃(ばんきやう)の天、紅塵(こうぢん)の外(ほか)に遊(あそん)で、白頭(はくとう)の翁(おきな)と成(なり)にけり。高徳(たかのり)此(この)事(こと)を思准(おもひなぞ)らへて、一句の詩に千般(せんぱん)の思(おもひ)を述べ、窃(ひそか)に叡聞(えいぶん)にぞ達(たつし)ける。去程(さるほど)に先帝(せんてい)は、出雲(いづも)の三尾(みを)の湊(みなと)に十(じふ)余日(よにち)御逗留(ごとうりう)有(あつ)て、順風(じゆんぷう)に成(なり)にければ、舟人(ふなうど)纜(ともづな)を解(とい)て御艤(ふなよそひ)して、兵船(ひやうせん)三百(さんびやく)余艘(よさう)、前後左右に漕並(こぎなら)べて、万里(ばんり)の雲に沿(さかのぼる)。時に滄海(さうかい)沈々(ちんちん)として日没西北浪、雲山(うんざん)迢々(でうでう)として月出東南天、漁舟(ぎよしう)の帰る程見へて、一灯(とう)柳岸(りうがん)に幽(かすか)也(なり)。暮(くる)れば芦岸(ろがん)の煙(けぶり)に繋船、明(あく)れば松江(すんがう)の風に揚帆、浪路(なみぢ)に日数(ひかず)を重(かさ)ぬれば、都を御出(おんいで)有(あつ)て後(のち)二十六日と申(まうす)に、御舟(おんふね)隠岐(おき)の国に着(つき)にけり。佐々木(ささきの)隠岐(おきの)判官(はんぐわん)貞清(さだきよ)、府(こふ)の嶋(しま)と云(いふ)所に、黒木(くろき)の御所(ごしよ)を作(つくり)て皇居(くわうきよ)とす。玉■(ぎよくい)に咫尺(しせき)して被召仕ける人とては、六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)、頭大夫(とうのたいふ)行房(ゆきふさ)、女房(にようばう)には三位殿(さんみどの)の御局許(おんつぼねばかり)也(なり)。昔の玉楼金殿(ぎよくろうきんでん)に引替(ひきかへ)て、憂(うき)節(ふし)茂(しげ)き竹椽(たけたるき)、涙(なみだ)隙(ひま)なき松の墻(かき)、一夜(ひとよ)を隔(へだつ)る程も可堪忍御心地(おんここち)ならず。■人(けいじん)暁(あかつき)を唱(となへ)し声、警固(けいご)の武士(ぶし)の番(とのゐ)を催(もよほ)す声許(ばか)り、御枕(おんまくら)の上(うへ)に近ければ、夜(よん)のをとゞに入(いら)せ給(たまひ)ても、露まどろませ給はず。萩戸(はぎのと)の明(あく)るを待(まち)し朝政(あさまつりごと)なけれ共(ども)、巫山(ぶざん)の雲雨(うんう)御夢(おんゆめ)に入(いる)時も、誠(まこと)に暁(あかつき)ごとの御勤(おんつとめ)、北辰(ほくしん)の御拝(ごはい)も懈(おこた)らず、今年何(いか)なる年(とし)なれば、百官無罪愁(うれへ)の涙(なんだ)を滴配所月、一人(いちじん)易位宸襟(しんきん)を悩他郷風給(たまふ)らん。天地開闢(てんちかいびやく)より以来(このかた)斯(かか)る不思議(ふしぎ)を不聞。されば掛天日月も、為誰明(あきらか)なる事を不恥。無心草木も悲之花(はな)開(さく)事(こと)を忘(わすれ)つべし。


太平記(国民文庫)

太平記巻第五
○持明院殿(ぢみやうゐんどの)御即位(ごそくゐの)事(こと) S0501
元弘(げんこう)二年三月二十二日に、後伏見院(ごふしみのゐんの)第一(だいいちの)御子(おんこ)、御年(おんとし)十九にして、天子(てんし)の位(くらゐ)に即(つか)せ給ふ。御母(おんはは)は竹内(たけのうちの)左大臣公衡(きんひら)の御娘(むすめ)、後(のち)には広義門院(くわうぎもんゐん)と申(まうせ)し御事(おこと)也(なり)。同(おなじき)年十月二十八日に、河原(かはら)の御禊(おんはらひ)あ(つ)て、十一月十三日に大嘗会(だいじやうゑ)を被遂行。関白は鷹司(たかづかさ)の左大臣冬教(ふゆのり)公(こう)、別当は日野(ひの)中納言資名(すけなの)卿(きやう)にてぞをはしける。いつしか当今奉公(たうぎんほうこう)の人々は、皆一時に望(のぞみ)を達して門前(もんぜん)市(いち)を成(な)し、堂上(だうじやう)花(はな)の如し。中にも梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)は、天台座主(てんだいのざす)に成(なら)せ給(たまひ)て、大塔(おほたふ)・梨本(なしもと)の両門迹を合(あは)せて、御管領(ごくわんりやう)有(あり)しかば、御門徒(ごもんと)の大衆(だいしゆ)群集(くんじゆ)して、御拝堂(ごはいだう)の儀式(ぎしき)厳重(げんちよう)也(なり)。加之(しかのみならず)御室(おむろ)の二品(にほん)親王(しんわう)法守(ほふしゆ)、仁和寺(にんわじ)の御門迹(ごもんぜき)に御移(おんうつり)有(あつ)て、東寺一流(とうじいちりう)の法水(ほつすゐ)を湛(たた)へて、北極(ほつきよく)万歳(ばんぜい)の聖運(せいうん)を祈り給ふ。是(これ)皆後伏見(ごふしみの)院(ゐん)の御子(おんこ)、今上(きんじやう)皇帝の御連枝(ごれんし)也(なり)。
○宣房(のぶふさの)卿(きやう)二君(じくん)奉公(ほうこうの)事(こと) S0502
万里小路(までのこうぢ)大納言宣房卿(のぶふさのきやう)は、元来(もとより)前朝旧労(ぜんてうきうらう)の寵臣(ちようしん)にてをはせし上(うへ)、子息藤房(ふぢふさ)・季房(すゑふさ)二人(ににん)笠置(かさぎ)の城にて被生捕て、被処遠流しかば、父の卿(きやう)も罪科(ざいくわ)深き人にて有(ある)べかりしを、賢才(けんさい)の聞へ有(あり)とて、関東(くわんとう)以別儀其罪を宥(なだ)め、当今(たうぎん)に可被召仕之(めしつかはるべきの)由(よし)奏し申す。依之(これによつて)日野(ひのの)中納言資明(すけあきらの)卿(きやう)を勅使(ちよくし)にて、此旨(このむね)を被仰下ければ、宣房(のぶふさの)卿(きやう)勅使に対して被申けるは、「臣雖不肖之身、以多年奉公之労蒙君恩寵、官禄(くわんろく)共に進(すすみ)、剰(あまつさへ)汚政道輔佐之名。「事君之礼、値其有罪、犯厳顔、以道諌諍、三諌不納奉身以退、有匡正之忠無阿順之従、是良臣之節也(なり)。若見可諌而不諌、謂之尸位。見可退而不退、謂之懐寵。々々尸位国之奸人也(なり)。」と云(いへ)り。君(きみ)今不義の行(おこなひ)をはして、為武臣被辱給へり。是(これ)臣が予(あらかじめ)依不知処雖不献諌言世人豈(あに)其(その)無罪許(ゆるさん)哉(や)。就中(このなかに)長子(ちやうし)二人(ににん)被処遠流之罪。我(われ)已(すでに)七旬(しちじゆん)の齢(よはひ)に傾(かたぶ)けり。後栄為誰にか期(ご)せん。前非(ぜんぴ)何(なんぞ)又恥(はぢ)ざらんや。二君(じくん)の朝(てう)に仕(つかへ)て辱(はぢ)を衰老(すゐらう)の後(のち)に抱(いだ)かんよりは、伯夷(はくい)が行(かう)を学(まなび)て飢(うゑ)を首陽(しゆやう)の下(もと)に忍ばんには不如。」と、涙を流(ながし)て宣ひければ、資明(すけあきらの)卿(きやう)感涙を押(おさ)へ兼(かね)て暫(しばし)は言(もの)をも宣(のたま)はず。良有(ややあつ)て宣ひけるは、「「忠臣不必択主、見仕而可治而已(のみ)也(なり)。」といへり。去(され)ば百里奚(はくりけい)は二(ふたたび)仕秦穆公永(ながく)令致覇業、管夷吾(くわんいごは)翻(かへつて)佐斉桓公、九(ここのたび)令朝諸侯。主(しゆ)無以道射鉤之罪、世不皆奈鬻皮之恥といへり。就中武家(ぶけ)如此許容の上は、賢息(けんそく)二人(ににん)の流罪(るざいをも)争(いかでか)無赦免御沙汰乎(や)、夫(それ)伯夷(はくい)・叔斉(しゆくせいは)飢(うゑ)て何(なに)の益(えき)か有(あり)し。許由(きよいう)・巣父(さうふ)遁(のがれ)て不足用。抑(そもそも)隠身永(ながく)断来葉之一跡、与仕朝遠(とほく)耀前祖之無窮、是非得失(ぜひとくしつ)有何処乎(や)。与鳥獣同群孔子(こうしの)所不執也(なりと)。」資明(すけあきらの)卿(きやう)理(り)を尽(つく)して被責ければ。宣房卿(のぶふさのきやう)顔色(がんしよく)誠(まこと)に屈伏(くつふく)して、「「以罪棄生、則違古賢夕改之勧、忍垢苟全則犯詩人胡顔之譏」と、魏(ぎ)の曹子建(さうしけん)が詩を献(けん)ぜし表(へう)に書(かき)たりしも、理(ことわり)とこそ存ずれ。」とて、遂に参仕(さんじ)の勅答をぞ被申ける。
○中堂(ちゆうだう)新常灯(しんじやうとう)消(きゆる)事(こと) S0503
其比(そのころ)都鄙(とひ)の間(あひだ)に、希代(きたい)の不思議共(ふしぎども)多かりけり。山門の根本中堂(こんぽんちゆうだう)の内陣(ないぢん)へ山鳩(やまばと)一番(ひとつがひ)飛来(とびきたつ)て、新常灯(しんじやうとう)の油錠(あぶらつき)の中に飛入(とびいつ)て、ふためきける間、灯明(とうみやう)忽(たちまち)に消(きえ)にけり。此(この)山鳩、堂中(だうちゆう)の闇(くら)さに行方(ゆきかた)に迷ふて、仏壇(ぶつだん)の上に翅(つばさ)を低(たれ)て居たりける処に、承塵(なげし)の方(かた)より、其(その)色朱(しゆ)を指(さし)たる如くなる鼠狼(いたち)一つ走り出で、此(この)鳩を二(ふた)つながら食殺(くひころし)てぞ失(うせ)にけり。抑(そもそも)此(この)常灯と申(まうす)は、先帝(せんてい)山門へ臨幸(りんかう)成(なり)たりし時、古(いにしへ)桓武(くわんむ)皇帝の自(みづか)ら挑(かかげ)させ給(たまひ)し常燈に準(なぞら)へて、御手(おんて)づから百二十筋(ひやくにじふすぢ)の燈心(とうしん)を束(つか)ね、銀の御錠(おんあぶらつき)に油を入(いれ)て、自(みづから)掻立(かきたて)させ給(たまひ)し燈明(とうみやう)也(なり)。是(これ)偏(ひとへ)に皇統の無窮(ぶきゆう)を耀(かかやか)さん為の御願(ごぐわん)、兼(かね)ては六趣(ろくしゆ)の群類(ぐんるゐ)の暝闇(みやうあん)を照(てら)す、慧光法燈(ゑくわうほふとう)の明(あきらか)なるに、思食準(おぼしめしなぞら)へて被始置し常燈なれば、未来永劫(えいごふ)に至(いたる)迄消(きゆ)る事なかるべきに、鴿鳩(やまばと)の飛来(とびきたり)て打消(うちけし)けるこそ不思議(ふしぎ)なれ。其(それ)を玄獺(いたち)の食殺(くひころ)しけるも不思議(ふしぎ)也(なり)。
○相摸(さがみ)入道弄田楽(でんがくをもてあそぶ)並(ならびに)闘犬(とうけんの)事(こと) S0504
又其比(そのころ)洛中(らくちゆう)に田楽(でんがく)を弄(もてあそぶ)事(こと)昌(さかん)にして、貴賎挙(こぞつ)て是(これ)に着(ぢやく)せり。相摸(さがみ)入道此(この)事(こと)を聞及(ききおよ)び、新座(しんざ)・本座(ほんざ)の田楽(でんがく)を呼下(よびくだ)して、日夜朝暮(にちやてうぼ)に弄(もてあそぶ)事(こと)無他事。入興(じゆきよう)の余(あまり)に、宗(むね)との大名達に田楽法師(でんがくぼふし)を一人づゝ預(あづけ)て装束(しやうぞく)を飾(かざ)らせける間、是(これ)は誰がし殿(どの)の田楽(でんがく)、彼(かれは)何がし殿(どの)の田楽(でんがく)なんど云(いひ)て、金銀珠玉(きんぎんしゆぎよく)を逞(たくましく)し綾羅錦繍(りようらきんしう)を妝(かざ)れり。宴に臨(のぞん)で一曲(いつきよく)を奏(そう)すれば、相摸(さがみ)入道(にふだう)を始(はじめ)として一族(いちぞくの)大名我(われ)劣らじと直垂(ひたたれ)・大口(おほくち)を解(ぬい)で抛出(なげいだ)す。是(これ)を集(あつめ)て積(つむ)に山の如し。其弊(そのつひ)へ幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知。或夜(あるよ)一献(いつこん)の有(あり)けるに、相摸(さがみ)入道(にふだう)数盃(すはい)を傾(かたむ)け、酔(ゑひ)に和(くわ)して立(たち)て舞(まふ)事(こと)良(やや)久し。若輩(じやくはい)の興(きよう)を勧(すすむ)る舞にてもなし。又狂者(きやうしや)の言(ことば)を巧(たくみ)にする戯(たはむれ)にも非(あら)ず。四十有余(しじふいうよ)の古(ふる)入道、酔狂(すゐきやう)の余(あまり)に舞ふ舞なれば、風情(ふぜい)可有共(とも)覚(おぼえ)ざりける処に、何(いづ)くより来(きたる)とも知(しら)ぬ、新坐(しんざ)・本座(ほんざ)の田楽共(でんがくども)十(じふ)余人(よにん)、忽然(こつぜん)として坐席(ざせき)に列(つらなつ)てぞ舞歌(まひうた)ひける。其(その)興(きよう)甚(はなはだ)尋常(よのつね)に越(こえ)たり。暫有(しばらくあつ)て拍子(ひやうし)を替(かへ)て歌ふ声を聞けば、「天王寺(てんわうじ)のやようれぼしを見ばや。」とぞ拍子(はやし)ける。或官女(あるくわんぢよ)此(この)声を聞(きい)て、余(あまり)の面白さに障子(しやうじ)の隙(ひま)より是(これ)を見るに、新坐・本座の田楽共(でんがくども)と見へつる者一人も人(ひと)にては無(なか)りけり。或(あるひは)觜(くちばし)勾(かがまつ)て鵄(とび)の如くなるもあり、或(あるひ)は身に翅(つばさ)在(あつ)て其(その)形(かたち)山伏(やまぶし)の如くなるもあり。異類異形(いるゐいぎやう)の媚者(ばけもの)共が姿を人に変(へん)じたるにてぞ有(あり)ける。官女是(これ)を見て余(あま)りに不思議(ふしぎ)に覚(おぼえ)ければ、人を走(はし)らかして城入道(じやうのにふだう)にぞ告(つげ)たりける。入道取物(とるもの)も取敢(とりあへ)ず、太刀を執(とつ)て其酒宴(そのしゆえん)の席に臨む。中門(ちゆうもん)を荒らかに歩(あゆみ)ける跫(あしおと)を聞(きい)て、化物(ばけもの)は掻消様(かきけすやう)に失(う)せ、相摸(さがみ)入道(にふだう)は前後(ぜんご)も不知酔伏(ゑひふし)たり。燈(とぼしび)を挑(かかげ)させて遊宴の座席を見るに、誠(まこと)に天狗(てんぐ)の集(あつま)りけるよと覚(おぼえ)て、踏汚(ふみけが)したる畳(たたみ)の上(うへ)に禽獣(きんじう)の足迹(あしあと)多し。城(じやうの)入道、暫く虚空(こくう)を睨(にらん)で立(たち)たれ共、敢て眼(まなこ)に遮(さへぎ)る者もなし。良(やや)久(ひさしう)して、相摸(さがみ)入道(にふだう)驚覚(おどろきさめ)て起(おき)たれ共(ども)、惘然(ばうぜん)として更に所知なし。後日(ごじつ)に南家(なんけ)の儒者(じゆしや)刑部少輔(ぎやうぶのせう)仲範(なかのり)、此(この)事(こと)を伝聞(つたへきい)て、「天下将(まさに)乱(れんとする)時、妖霊星(えうれいぼし)と云(いふ)悪星(あくしやう)下(くだつ)て災(わざはひ)を成すといへり。而(しか)も天王寺(てんわうじ)は是(これ)仏法最初の霊地(れいち)にて、聖徳太子(しやうとくたいし)自(みづから)日本(につぽん)一州の未来記(みらいき)を留(とどめ)給へり。されば彼媚者(かのばけもの)が天王寺(てんわうじ)の妖霊星と歌ひけるこそ怪(あや)しけれ。如何様(いかさま)天王寺(てんわうじ)辺(へん)より天下の動乱(どうらん)出来(いでき)て、国家敗亡(はいばう)しぬと覚ゆ。哀(あはれ)国主(こくしゆ)徳を治(をさ)め、武家仁(じん)を施(ほどこ)して消妖謀(はかりごと)を被致よかし。」と云(いひ)けるが、果して思知(おもひしら)るゝ世に成(なり)にけり。彼(かの)仲範実(まこと)に未然(みぜん)の凶(きよう)を鑒(かんがみ)ける博覧の程こそ難有けれ。相摸(さがみ)入道(にふだう)懸(かか)る妖怪(えうくわい)にも不驚、益々(ますます)奇物(きぶつ)を愛する事止(やむ)時なし。或(ある)時庭前(ていぜん)に犬共集(あつまり)て、噛合(かみあ)ひけるを見て、此(この)禅門面白き事に思(おもひ)て、是(これ)を愛する事骨髄(こつずゐ)に入れり。則(すなはち)諸国へ相触(あひふれ)て、或(あるひ)は正税(しやうぜい)・官物(くわんもつ)に募(つの)りて犬を尋(たづね)、或(あるひ)は権門高家(けんもんかうけ)に仰(おほせ)て是(これ)を求(もとめ)ける間、国々の守護(しゆご)国司(こくし)、所々(しよしよ)の一族(いちぞく)大名(だいみやう)、十疋(じつびき)二十疋(にじつびき)飼立(かひたて)て、鎌倉(かまくら)へ引進(ひきまゐら)す。是(これ)を飼(かふ)に魚鳥(ぎよてう)を以てし、是(これ)を維(つな)ぐに金銀を鏤(ちりば)む。其弊(そのつひえ)甚(はなはだ)多し。輿(こし)にのせて路次(ろし)を過(すぐ)る日(ひ)は、道を急ぐ行人(かうじん)も馬(むま)より下(おり)て是(これ)に跪(ひざまづ)き、農(のう)を勤(つとむ)る里民(りみん)も、夫(ぶ)に被取て是(これ)を舁(かき)、如此賞翫(しやうぐわん)不軽ければ、肉に飽き錦を着たる奇犬(きけん)、鎌倉中(かまくらぢゆう)に充満(じゆうまん)して四五千疋(しごせんびき)に及べり。月に十二度(じふにど)犬合(いぬあは)せの日とて被定しかば、一族(いちぞく)大名御内外様(みうちとざま)の人々、或(あるひ)は堂上(だうじやう)に坐(ざ)を列ね、或(あるひは)庭前(ていぜん)に膝を屈(くつ)して見物(けんぶつ)す。于時両陣の犬共を、一二百疋(いちにひやつぴき)充(づつ)放(はな)し合せたりければ、入り違ひ追合(おひあう)て、上に成(なり)下に成(なり)、噛合(かみあふ)声天を響(ひびか)し地を動(うごか)す。心なき人は是(これ)を見て、あら面白や、只戦(たたかひ)に雌雄(しゆう)を決するに不異と思ひ、智ある人は是(これ)を聞(きい)て、あな忌々(いまいま)しや、偏(ひとへ)に郊原(かうげん)に尸(かばね)を争ふに似たりと悲(かなし)めり。見聞(けんもん)の准(なぞら)ふる処、耳目(じぼく)雖異、其前相(そのぜんさう)皆闘諍死亡(とうじやうしばう)の中に存(あつ)て、浅猿(あさま)しかりし挙動(ふるまひ)なり。
○時政(ときまさ)参篭榎嶋事 S0505
時已(すで)に澆季(げうき)に及(およん)で、武家天下の権を執(と)る事(こと)、源平両家の間に落(おち)て度々(どど)に及べり。然(しかれ)ども天道(てんだうは)必(かならず)盈(みてる)を虧(かく)故(ゆゑ)に、或(あるひ)は一代にして滅び、或(あるひ)は一世をも不待して失(うせ)ぬ。今相摸(さがみ)入道(にふだう)の一家、天下を保つ事已(すで)に九代に及ぶ。此(この)事(こと)有故。昔鎌倉(かまくら)草創(さうさう)の始(はじめ)、北条(ほうでうの)四郎時政(ときまさ)榎嶋(えのしま)に参篭(さんろう)して、子孫(しそん)の繁昌を祈(いのり)けり。三七日に当りける夜(よ)、赤き袴に柳裏(やなぎうら)の衣(きぬ)着たる女房の、端厳美麗(たんごんびれい)なるが、忽然として時政が前(まへ)に来(きたつ)て告(つげ)て曰(いはく)、「汝(なんぢ)が前生(ぜんじやう)は箱根法師(はこねぼふし)也(なり)。六十六(ろくじふろく)部(ぶ)の法華経(ほけきやう)を書冩(しよしや)して、六十六(ろくじふろく)箇国(かこく)の霊地(れいち)に奉納(ほうなふ)したりし善根(ぜんごん)に依(よつ)て、再び此土(このど)に生(うまる)る事を得たり。去(され)ば子孫永く日本(につぽん)の主(あるじ)と成(なつ)て、栄花(えいぐわ)に可誇。但(ただし)其挙動(そのふるまひ)違所(たがふところ)あらば、七代(しちだい)を不可過。吾(わが)所言不審(ふしん)あらば、国々に納(をさめ)し所の霊地(れいち)を見よ。」と云捨(いひすて)て帰(かへり)給ふ。其姿(そのすがた)をみければ、さしも厳(いつく)しかりつる女房、忽(たちまち)に伏長(ふしだけ)二十丈(にじふぢやう)許(ばかり)の大蛇(だいじや)と成(なつ)て、海中(かいちゆう)に入(いり)にけり。其迹(そのあと)を見(みる)に、大(おほき)なる鱗(いろこ)を三(み)つ落(おと)せり。時政所願成就(しよぐわんじやうじゆ)しぬと喜(よろこび)て、則(すなはち)彼鱗(かのいろこ)を取(とつ)て、旗の文(もん)にぞ押(おし)たりける。今の三鱗形(みついろこがた)の文(もん)是(これ)也(なり)。其後(そののち)弁才天(べんざいてん)の御示現(ごじげん)に任(まかせ)て、国々の霊地へ人を遣(つかは)して、法華経奉納の所を見せけるに、俗名(ぞくみやう)の時政(ときまさ)を法師の名(な)に替(かへ)て、奉納(ほうなふの)筒(つつ)の上に大法師(だいほつし)時政(じせい)と書(かき)たるこそ不思議(ふしぎ)なれ。されば今相摸(さがみ)入道(にふだう)七代に過(すぎ)て一天下(いちてんが)を保(たもち)けるも、江嶋(えのしま)の弁才天の御利生(ごりしやう)、又は過去の善因に感じてげる故(ゆゑ)也(なり)。今の高時(たかとき)禅門、已(すで)に七代を過(すぎ)、九代に及べり。されば可亡時刻(じこく)到来(たうらい)して、斯(かか)る不思議(ふしぎ)の振舞(ふるまひ)をもせられける歟(か)とぞ覚(おぼえ)ける。
○大塔宮(おほたふのみや)熊野落(くまのおちの)事(こと) S0506
大塔(おほたふの)二品(にほん)親王(しんわう)は、笠置(かさぎ)の城の安否(あんび)を被聞食為に、暫く南都(なんと)の般若寺(はんにやじ)に忍(しのび)て御座有(ござあり)けるが、笠置(かさぎ)の城已(すで)に落(おち)て、主上被囚させ給(たまひ)ぬと聞へしかば、虎の尾を履(ふむ)恐れ御身(おんみ)の上に迫(せまり)て、天地雖広御身(おんみ)を可被蔵所なし。日月雖明長夜(ぢやうや)に迷へる心地(ここち)して、昼は野原(のはら)の草に隠れて、露に臥(ふす)鶉(うづら)の床(とこ)に御涙(おんなみだ)を争ひ、夜(よる)は孤村(こそん)の辻に彳(たたずみ)て、人を尤(とが)むる里の犬に御心(おんこころ)を被悩、何(いづ)くとても御心(おんこころ)安(やす)かるべき所無(なか)りければ、角(かく)ても暫(しばし)はと被思食ける処に、一乗院(いちじようゐん)の候人(こうにん)按察法眼(あぜちのほふげん)好専(かうせん)、如何(いかん)して聞(きき)たりけん、五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)して、未明(びめい)に般若寺(はんにやじ)へぞ寄(よせ)たりける。折節(をりふし)宮(みや)に奉付たる人独(ひとり)も無(なか)りければ一防(ひとふせ)ぎ防(ふせぎ)て落(おち)させ可給様(やう)も無(なか)りける上、透間(すきま)もなく兵(つはもの)既(すで)に寺内(じない)に打入(うちいり)たれば、紛(まぎ)れて御出(おんいで)あるべき方(かた)もなし。さらばよし自害せんと思食(おぼしめし)て、既(すで)に推膚脱(おしはだぬが)せ給(たまひ)たりけるが、事叶(かな)はざらん期(ご)に臨(のぞん)で、腹を切らん事は最(いと)可安。若(もし)やと隠れて見ばやと思食返(おぼしめしかへ)して、仏殿(ぶつでん)の方(かた)を御覧(ごらん)ずるに、人の読懸(よみかけ)て置(おき)たる大般若(だいはんにや)の唐櫃(たうひつ)三(みつ)あり。二(ふたつ)の櫃(ひつ)は未(いまだ)開蓋を、一(ひとつ)の櫃(ひつ)は御経(きやう)を半(なか)ばすぎ取出(とりいだ)して蓋(ふた)をもせざりけり。此(この)蓋を開(あけ)たる櫃(ひつ)の中へ、御身(おんみ)を縮(しじ)めて臥(ふ)させ給ひ、其(その)上に御経を引(ひき)かづきて、隠形(おんぎやう)の呪(じゆ)を御心(おんこころ)の中(うち)に唱(となへ)てぞ坐(おは)しける。若(もし)捜(さが)し被出ば、頓(やが)て突立(つきたて)んと思召(おぼしめし)て氷の如くなる刀(かたな)を抜(ぬい)て、御腹(おんはら)に指当(さしあて)て、兵(つはもの)、「此(ここ)にこそ。」と云(いは)んずる一言(ひとこと)を待(また)せ給(たまひ)ける御心(おんこころ)の中(うち)、推量(おしはか)るも尚可浅。去程(さるほど)に兵(つはもの)仏殿(ぶつでん)に乱入(みだれいつ)て、仏壇(ぶつだん)の下天井(てんじやう)の上迄も無残所捜しけるが、余(あま)りに求(もとめ)かねて、「是体(これてい)の物こそ怪しけれ。あの大般若(だいはんにや)の櫃(ひつ)を開見(あけてみ)よ。」とて、蓋(ふた)したる櫃二(ふたつ)を開(ひらい)て、御経を取出(とりいだ)し、底を翻(ひるがへ)して見けれどもをはせず。蓋(ふた)開(あき)たる櫃は見るまでも無(なし)とて、兵(つはもの)皆寺中を出去(いでさり)ぬ。宮は不思議(ふしぎ)の御命(いのち)を続(つが)せ給ひ、夢に道行(ゆく)心地して、猶(なほ)櫃(ひつ)の中に座(おは)しけるが、若(もし)兵(つはもの)又立帰り、委(くはし)く捜(さが)す事もや有(あら)んずらんと御思案(ごしあん)有(あつ)て、頓(やが)て前(さき)に兵の捜し見たりつる櫃(ひつ)に、入替(いりかは)らせ給(たまひ)てぞ座(おは)しける。案の如く兵共(つはものども)又仏殿に立帰り、「前(さき)に蓋(ふた)の開(あき)たるを見ざりつるが無覚束。」とて、御経を皆打移(うちうつ)して見けるが、から/\と打笑(うちわらう)て、「大般若の櫃の中を能々(よくよく)捜したれば、大塔宮(おほたふのみや)はいらせ給はで、大唐(だいたう)の玄弉(げんじやう)三蔵こそ坐(おは)しけれ。」と戯(たはぶ)れければ、兵(つはもの)皆(みな)一同に笑(わらう)て門外(もんぐわい)へぞ出(いで)にける。是(これ)偏(ひとへ)に摩利支天(まりしてん)の冥応(みやうおう)、又は十六(じふろく)善神(ぜんしん)の擁護(おうご)に依る命(いのち)也(なり)。と、信心(しんじん)肝(きも)に銘じ感涙(かんるゐ)御袖(おんそで)を湿(うるほ)せり。角(かく)ては南都辺(なんとへん)の御隠家(おんかくれが)暫(しばらく)も難叶ければ、則(すなはち)般若寺を御出(おんいで)在(あり)て、熊野(くまの)の方(かた)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。御供(おんとも)の衆(しゆ)には、光林房玄尊(くわうりんばうげんそん)・赤松律師則祐(そくいう)・木寺相摸(こでらのさがみ)・岡本(をかもとの)三河房・武蔵房(むさしばう)・村上(むらかみ)彦四郎・片岡八郎・矢田(やだ)彦七・平賀(ひらがの)三郎、彼此(かれこれ)以上九人也(なり)。宮を始奉(はじめたてまつり)て、御供(おんとも)の者迄(まで)も皆柿(かき)の衣(ころも)に笈(おひ)を掛け、頭巾(とうきん)眉半(まゆなかば)に責め、其(その)中に年長(としちやう)ぜるを先達(せんだち)に作立(つくりたて)、田舎山伏(ゐなかやまぶし)の熊野参詣(くまのさんけい)する体(てい)にぞ見せたりける。此(この)君元(もと)より龍楼鳳闕(りようろうほうけつ)の内(うち)に長(ひと)とならせ給(たまひ)て、華軒香車(くわけんかうしや)の外(ほか)を出(いで)させ給はぬ御事(おんこと)なれば、御歩行(ごほかう)の長途(ちやうど)は定(さだめ)て叶(かな)はせ給はじと、御伴(おんとも)の人々兼(かね)ては心苦しく思(おもひ)けるに、案(あん)に相違(さうゐ)して、いつ習はせ給ひたる御事(おんこと)ならねども怪しげなる単皮(たび)・脚巾(はばき)・草鞋(わらぢ)を召(めし)て、少しも草臥(くたびれ)たる御気色(きしよく)もなく、社々(やしろやしろ)の奉弊(ほうへい)、宿々(やどやど)の御勤(つとめ)懈(おこた)らせ給はざりければ、路次(ろし)に行逢(ゆきあ)ひける道者(だうしや)も、勤修(ごんじゆ)を積める先達(せんだち)も見尤(みとがむ)る事も無(なか)りけり。由良湊(ゆらのみなと)を見渡せば、澳(おき)漕(こぐ)舟の梶をたへ、浦の浜ゆふ幾重(いくへ)とも、しらぬ浪路(なみぢ)に鳴千鳥(なくちどり)、紀伊(き)の路(ぢ)の遠山(とほやま)眇々(はるばる)と、藤代(ふぢしろ)の松に掛(かか)れる磯(いそ)の浪(なみ)、和歌(わか)・吹上(ふきあげ)を外(そと)に見て、月に瑩(みが)ける玉津(たまつ)島、光も今はさらでだに、長汀曲浦(ぢやうていきよくほ)の旅の路(みち)、心を砕(くだ)く習(ならひ)なるに、雨を含(ふく)める孤村(こそん)の樹(き)、夕(ゆふべ)を送る遠寺(ゑんじ)の鐘(かね)、哀(あはれ)を催(もよほ)す時しもあれ、切目(きりめ)の王子(わうじ)に着(つき)給ふ。其夜(そのよ)は叢祠(そうし)の露に御袖(おんそで)を片敷(かたしい)て、通夜(よもすがら)祈(いのり)申させ給(たまひ)けるは、南無帰命頂礼(なむきみやうちやうらい)三所権現(さんしよごんげん)・満山護法(まんさんのごほふ)・十万の眷属(けんぞく)・八万(はちまん)の金剛童子(こんがうどうじ)、垂迹和光(すゐじやくわくわう)の月明(あきら)かに分段同居(ぶんだんどうご)の闇(やみ)を照(てら)さば、逆臣(げきしん)忽(たちまち)に亡びて朝廷再(ふたたび)耀(かかや)く事を令得給へ。伝承(つたへうけたまは)る、両所権現(りやうしよごんげん)は是(これ)伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の応作(おうさ)也(なり)。我(わが)君其苗裔(そのべうえい)として朝日(てうじつ)忽(たちまち)に浮雲(ふうん)の為に被隠て冥闇(めいあん)たり。豈(あに)不傷哉(や)。玄鑒(げんかん)今似空。神(しん)若(もし)神(しん)たらば、君盍(なんぞ)為君と、五体(ごたい)を地に投(なげ)て一心に誠(まこと)を致(いたし)てぞ祈(いのり)申させ給(たまひ)ける。丹誠(たんぜい)無二(むに)の御勤(つとめ)、感応(かんおう)などかあらざらんと、神慮(しんりよ)も暗(あん)に被計たり。終夜(よもすがら)の礼拝(らいはい)に御窮屈(きゆうくつ)有(あり)ければ、御肱(おんひぢ)を曲(まげ)て枕として暫(しばらく)御目睡(まどろみ)在(あり)ける御夢(おんゆめ)に、鬟(びんづら)結(ゆう)たる童子(どうじ)一人来(きたつ)て、「熊野三山(さんざん)の間は尚(なほ)も人の心不和(ふわ)にして大儀成(なり)難し。是(これ)より十津川(とつがは)の方へ御渡候(わたりさふらひ)て時の至(いたら)んを御待(おんまち)候へかし。両所権現(ごんげん)より案内者(あんないしや)に被付進て候へば御道指南(みちしるべ)可仕候。」と申すと被御覧御夢(おんゆめ)は則(すなはち)覚(さめ)にけり。是(これ)権現の御告(つげ)也(なり)。けりと憑敷(たのもしく)被思召ければ、未明(びめい)に御悦(よろこび)の奉弊(ほうへい)を捧げ、頓(やが)て十津河(とつがは)を尋(たづね)てぞ分入(わけい)らせ給(たまひ)ける。其(その)道の程(ほど)三十(さんじふ)余里(より)が間には絶(たえ)て人里も無(なか)りければ、或(あるひ)は高峯(たかね)の雲に枕を峙(そばだて)て苔(こけ)の筵(むしろ)に袖を敷(しき)、或(あるひ)は岩漏(もる)水に渇(かつ)を忍んで朽(くち)たる橋に肝を消す。山路(さんろ)本(もと)より雨無(なう)して、空翠(くうすゐ)常(つね)に衣(ころも)を湿(うるほ)す。向上(かうじやうとみあぐ)れば万仞(ばんじん)の青壁(せいへき)刀(つるぎ)に削(けづ)り、直下(ちよくかとみおろせ)ば千丈の碧潭(へきだん)藍(あゐ)に染(そ)めり。数日(すじつ)の間(あひだ)斯(かか)る嶮難(けんなん)を経(へ)させ給へば、御身(おんみ)も草臥(くたびれ)はてゝ流るゝ汗(あせ)如水。御足(あし)は欠損(かけそん)じて草鞋(わらぢ)皆血(ち)に染(そま)れり。御伴(おんとも)の人々も皆其身(そのみ)鉄石(てつせき)にあらざれば、皆飢疲(うゑつか)れてはか/゛\敷(しく)も歩(あゆみ)得ざりけれ共、御腰(おんこし)を推(おし)御手(おんて)を挽(ひい)て、路(みち)の程(ほど)十三日に十津河へぞ着(つか)せ給ひける。宮をばとある辻堂(つじだう)の内に奉置て、御供(おんとも)の人々は在家(ざいけ)に行(ゆい)て、熊野参詣(くまのさんけい)の山伏共(やまぶしども)道に迷(まよう)て来(きた)れる由を云(いひ)ければ、在家の者共(ものども)哀(あはれみ)を垂(たれ)て、粟(あは)の飯(いひ)橡(とち)の粥(かゆ)など取出(とりいだ)して其飢(そのうゑ)を相助(あひたす)く。宮にも此等(これら)を進(まゐら)せて二三日は過(すぎ)けり。角(かく)ては始終(しじゆう)如何(いかが)可在とも覚へざりければ、光林房玄尊(げんそん)、とある在家の是(これ)ぞさもある人の家なるらんと覚(おぼ)しき所に行(ゆい)て、童部(わらんべ)の出(いで)たるに家主(あるじ)の名を問へば、「是(これ)は竹原八郎入道殿(にふだうどの)の甥に、戸野(とのの)兵衛殿(ひやうゑどの)と申(まうす)人の許(もと)にて候。」と云(いひ)ければ、さては是こそ、弓矢取(とつ)てさる者と聞及(ききおよ)ぶ者なれ、如何にもして是を憑(たの)まばやと思(おもひ)ければ、門(もん)の内へ入(いつ)て事の様(やう)を見聞(みきく)処に、内に病者(びやうしや)有(あり)と覚(おぼえ)て、「哀(あは)れ貴(たつと)からん山伏(やまぶし)の出来(いできた)れかし、祈らせ進(まゐ)らせん。」と云(いふ)声しけり。玄尊すはや究竟(くきやう)の事こそあれと思(おもひ)ければ、声を高らかに揚(あげ)て、「是(これ)は三重(さんぢゆう)の滝に七日うたれ、那智(なち)に千日篭(こもつ)て三十三所(さんじふさんしよ)の巡礼(じゆんれい)の為に、罷出(まかりいで)たる山伏共(やまぶしども)、路(みちに)蹈迷(ふみまよう)て此(この)里に出(いで)て候。一夜の宿(やど)を借(かし)一日〔の〕飢(うゑ)をも休め給へ。」と云(いひ)たりければ、内より怪(あや)しげなる下女(けぢよ)一人出合(いであ)ひ、「是(これ)こそ可然仏神(ぶつじん)の御計(おんはから)ひと覚(おぼえ)て候へ。是(これ)の主(あるじ)の女房物怪(もののけ)を病(やま)せ給ひ候。祈(いのり)てたばせ給(たまひ)てんや。」と申せば、玄尊(げんそん)、「我等は夫山伏(ぶやまぶし)にて候間叶(かな)ひ候まじ。あれに見へ候辻堂(つじだう)に、足を休(やすめ)て被居て候先達(せんだち)こそ、効験(かうげん)第一(だいいち)の人にて候へ。此様(このやう)を申さんに子細(しさい)候はじ。」と云(いひ)ければ、女大(おほき)に悦(よろこう)で、「さらば其(その)先達の御房(ごばう)、是(これ)へ入進(いれまゐら)せさせ給へ。」と云(いひ)て、喜(よろこび)あへる事無限。玄尊走帰(はしりかへつ)て此由(このよし)を申(まうし)ければ、宮を始奉(はじめたてまつり)て、御供(おんとも)の人皆彼(かれ)が館(たち)へ入(いら)せ給ふ。宮(みや)病者の伏(ふし)たる所(もと)へ御入在(おんいりあつ)て御加持(ごかぢ)あり。千手陀羅尼(せんじゆだらに)を二三反(にさんべん)高らかに被遊て、御念珠(おんねんじゆ)を押揉(おしも)ませ給(たまひ)ければ、病者自(みづから)口走(くちばしつ)て、様々(さまざま)の事を云(いひ)ける、誠(まこと)に明王(みやうわう)の縛(ばく)に被掛たる体(てい)にて、足手(あして)を縮(しじめ)て戦(わなな)き、五体(ごたい)に汗を流して、物怪(もののけ)則(すなはち)立去(たちさり)ぬれば、病者忽(たちまち)に平瘉(へいゆう)す。主(あるじ)の夫(をつと)不斜喜(よろこう)で、「我(われ)畜(たくはへ)たる物候はねば、別(べち)の御引出物(おんひきでもの)迄は叶(かなひ)候まじ。枉(まげ)て十(じふ)余日(よにち)是(これ)に御逗留(ごとうりう)候(さふらひ)て、御足(みあし)を休めさせ給へ。例の山伏(やまぶし)楚忽(そこつ)に忍(しのび)で御逃(おんにげ)候(さふらひ)ぬと存(ぞんじ)候へば、恐(おそれ)ながら是(これ)を御質(ごしち)に玉(たまは)らん。」とて、面々の笈共(おひども)を取合(とりあはせ)て皆内にぞ置(おき)たりける。御供の人々、上(うへ)には其気色(そのきしよく)を不顕といへ共、下(した)には皆悦(よろこび)思へる事無限。角(かく)て十(じふ)余日(よにち)を過(すご)させ給(たまひ)けるに、或夜(あるよ)家主(あるじ)の兵衛(ひやうゑの)尉(じよう)、客殿(きやくでん)に出て薪(たきび)などせさせ、四方山(よもやま)の物語共(ものがたりども)しける次(ついで)に申(まうし)けるは、「旁(かたがた)は定(さだめ)て聞(きき)及ばせ給(たまひ)たる事も候覧(らん)。誠(まこと)やらん、大塔宮(おほたふのみや)、京都を落(おち)させ給(たまひ)て、熊野(くまの)の方へ趣(おもむか)せ給候(たまひさふらひ)けんなる。三山の別当定遍僧都(ぢやうべんそうづ)は無二(むにの)武家方(ぶけかた)にて候へば、熊野辺(くまのへん)に御忍(おんしのび)あらん事は難成覚(おぼえ)候。哀(あはれ)此(この)里へ御入(おんいり)候へかし。所(ところ)こそ分内(ぶんない)は狭(せば)く候へ共(ども)、四方(しはう)皆嶮岨(けんそ)にて十里(じふり)二十里(にじふり)が中(うち)へは鳥も翔(かけ)り難き所にて候。其上(そのうへ)人の心不偽、弓矢を取(とる)事(こと)世に超(こえ)たり。されば平家の嫡孫(ちやくそん)惟盛(これもり)と申(まうし)ける人も、我等(われら)が先祖(せんぞ)を憑(たのみ)て此(この)所に隠れ、遂に源氏(げんじ)の世に無恙候(さふらひ)けるとこそ承(うけたまはり)候へ。」と語(かたり)ければ、宮誠(まこと)に嬉(うれ)しげに思食(おぼしめし)たる御気色(おんきしよく)顕(あらは)れて、「若(もし)大塔宮(おほたふのみや)なんどの、此(この)所へ御憑(おんたのみ)あ(つ)て入(いら)せ給ひたらば、被憑させ給はんずるか。」と問(とは)せ給へば、戸野(とのの)兵衛、「申(まうす)にや及び候。身不肖(ふせう)に候へ共(ども)、某(それがし)一人だに斯(かか)る事ぞと申さば、鹿瀬(ししがせ)・蕪坂(かぶらさか)・湯浅(ゆあさ)・阿瀬川(あぜがは)・小原(をばら)・芋瀬(いもせ)・中津川(なかつがは)・吉野(よしの)十八郷(じふはちがう)の者迄も、手刺(てさす)者候まじきにて候。」とぞ申(まうし)ける。其(その)時宮(みや)、木寺相摸(こでらのさがみ)にきと御目合有(めくはせあり)ければ、相摸此(さがみこの)兵衛が側(そば)に居寄(ゐより)て、「今は何をか隠し可申、あの先達(せんだち)の御房(ごばう)こそ、大塔宮(おほたふのみや)にて御坐(ござ)あれ。」と云(いひ)ければ、此(この)兵衛尚(なほ)も不審気(ふしんげ)にて、彼此(かれこれ)の顔をつく/゛\と守(まぼ)りけるに、片岡八郎・矢田(やだ)彦七、「あら熱(あつ)や。」とて、頭巾(ときん)を脱(ぬい)で側(そば)に指置(さしお)く。実(まこと)の山伏(やまぶし)ならねば、さかやきの迹(あと)隠(かくれ)なし。兵衛是(これ)を見て、「げにも山伏(やまぶし)にては御座(おは)せざりけり。賢(かしこく)ぞ此(この)事(こと)申出(まうしいで)たりける。あな浅猿(あさまし)、此(この)程の振舞(ふるまひ)さこそ尾篭(びろう)に思召候(おぼしめしさふらひ)つらん。」と以外(もつてのほか)に驚(おどろい)て、首(かうべ)を地(ち)に着(つけ)手を束(つか)ね、畳より下(した)に蹲踞(そんこ)せり。俄に黒木(くろぎ)の御所(ごしよ)を作(つくり)て宮(みや)を守護(しゆご)し奉り、四方(しはう)の山々に関(せき)を居(すゑ)、路(みち)を切塞(きりふさい)で、用心(ようじん)密(きび)しくぞ見へたりける。是(これ)も猶(なほ)大儀の計畧難叶とて、叔父(をぢ)竹原八郎入道に此由(このよし)を語(かたり)ければ、入道頓(やが)て戸野(との)が語(かたらひ)に随(したがつ)て、我館(わがたち)へ宮を入進(いれまゐ)らせ、無二の気色に見へければ、御心(おんこころ)安く思召(おぼしめし)て、此(ここ)に半年許(はんねんばかり)御座有(ござあり)ける程に、人に被見知じと被思食ける御支度(したく)に、御還俗(ごげんぞく)の体(てい)に成(なら)せ給(たまひ)ければ、竹原八郎入道が息女(そくぢよ)を、夜(よ)るのをとゞへ被召て御覚(おんおぼえ)異他なり。さてこそ家主(あるじ)の入道も弥(いよいよ)志(こころ)を傾(かたむ)け、近辺(きんぺん)の郷民共(がうみんども)も次第に帰伏申(きふくまうし)たる由にて、却(かへつ)て武家をば褊(さみ)しけり。去程(さるほど)に熊野の別当定遍(ぢやうべん)此(この)事(こと)を聞(きい)て、十津河(とつがは)へ寄(よ)せんずる事は、縦(たとひ)十万騎(じふまんぎ)の勢(せい)ありとも不可叶。只其辺(そのへん)の郷民共(がうみんども)の欲心(よくしん)を勧(すすめ)て、宮を他所(たしよ)へ帯(おび)き出し奉らんと相計(あひはかつ)て、道路(だうろ)の辻に札(ふだ)を書(かい)て立(たて)けるは、「大塔宮(おほたふのみや)を奉討たらん者には、非職凡下(ひしよくぼんげ)を不云、伊勢の車間庄(くるまのしやう)を恩賞に可被充行由を、関東(くわんとう)の御教書(みげうしよ)有之。其(その)上に定遍(ぢやうべん)先(まづ)三日が中(うち)に六万貫(ろくまんぐわん)を可与。御内伺候(みうちしこう)の人・御手(おんて)の人を討(うち)たらん者には五百(ごひやく)貫(くわん)、降人(かうにん)に出(いで)たらん輩(ともがら)には三百(さんびやく)貫(くわん)、何(いづ)れも其(その)日の中(うち)に必(かならず)沙汰し与(あたふ)べし。」と定(さだめ)て、奥に起請文(きしやうもん)の詞(ことば)を載(のせ)て、厳密(げんみつ)の法をぞ出(いだ)しける。夫(それ)移木(いぼく)の信(しん)は為堅約、献芹(けんきん)の賂(まひなひ)は為奪志なれば、欲心強盛(よくしんがうじやう)の八庄司共(しやうじども)此(この)札を見てければ、いつしか心変(へん)じ色替(かはつ)て、奇(あや)しき振舞共(ふるまひども)にぞ聞へける。宮「角(かく)ては此(この)所の御止住(おんすまゐ)、始終(しじゆう)悪(あし)かりなん。吉野(よしの)の方へも御出(おんいで)あらばや。」と被仰けるを、竹原(たけはら)入道、「如何なる事や候べき。」と強(しひ)て留申(とめまうし)ければ、彼(かれ)が心を破(やぶ)られん事も、さすがに叶はせ給はで、恐懼(きようく)の中(うち)に月日を送らせ給(たまひ)ける。結句(けつく)竹原入道が子共(こども)さへ、父が命(めい)を背(そむい)て、宮を討(うち)奉らんとする企(くはだて)在(あり)と聞(きこえ)しかば、宮潛(ひそか)に十津河(とつがは)も出(いで)させ給(たまひ)て、高野(かうや)の方へぞ趣(おもむ)かせ給ひける。其路(そのみち)、小原(をばら)・芋瀬(いもせ)・中津河(なかつがは)と云(いふ)敵陣の難所(なんじよ)を経(へ)て通る路なれば、中々(なかなか)敵を打憑(うちたのみ)て見ばやと被思召、先(まづ)芋瀬(いもがせ)の庄司(しやうじ)が許(もと)へ入(いら)せ給ひけり。芋瀬(いもがせ)、宮(みや)をば我館(わがたち)へ入進(いれまゐ)らせずして、側(そば)なる御堂(みだう)に置(おき)奉り、使者(ししや)を以て申(まうし)けるは、「三山(さんざんの)別当定遍(ぢやうべん)武命(ぶめい)を含(ふくん)で、隠謀与党(おんぼうよたう)の輩(ともがら)をば、関東(くわんとう)へ注進仕(ちゆうしんつかまつ)る事にて候へば、此(この)道より無左右通し進(まゐ)らせん事(こと)、後(のち)の罪科陳謝(ちんじや)するに不可有拠候、乍去宮を留進(とめまゐ)らせん事は其(その)恐(おそれ)候へば、御伴(おんとも)の人々の中(うち)に名字(みやうじ)さりぬべからんずる人を一両人賜(たまはつ)て、武家へ召渡(めしわたし)候歟(か)、不然ば御紋(ごもん)の旗を給(たまはり)て、合戦仕(かつせんつかまつつ)て候(さふらひ)つる支証(ししよう)是(これ)にて候と、武家へ可申にて候。此(この)二(ふた)つの間(あひだ)、何(いづ)れも叶(かなふ)まじきとの御意(ぎよい)にて候はゞ、無力一矢(ひとや)仕らんずるにて候。」と、誠(まこと)に又予儀(よぎ)もなげにぞ申入(まうしいれ)たりける。宮は此(この)事(こと)何(いづ)れも難議也(なり)。と思召(おぼしめし)て、敢(あへて)御返事(おんへんじ)も無(なか)りけるを、赤松律師則祐(そくいう)進み出(いで)て申(まうし)けるは、「危(あやふ)きを見て命(めい)を致すは士卒(じそつ)の守(まも)る所(ところ)に候。されば紀信(きしん)は詐(いつはつ)て敵に降(くだ)り、魏豹(ぎへう)は留(とどまつ)て城を守る。是(これ)皆主(しゆ)の命(いのち)に代(かは)りて、名を留(とど)めし者にて候はずや。兎(と)ても角(かう)ても彼(かれ)が所存解(とけ)て、御所(ごしよ)を通し可進にてだに候はゞ、則祐(そくいう)御大事(おんだいじ)に代(かはつ)て罷出(まかりいで)候はん事は、子細(しさい)有(ある)まじきにて候。」と申せば、平賀(ひらがの)三郎是を聞(きい)て、「末坐(ばつざ)の意見卒尓(そつじ)の議にて候へ共(ども)、此艱苦(このかんく)の中に付纏(つきまとひ)奉りたる人は、雖一人上の御為(おんため)には、股肱耳目(ここうじぼく)よりも難捨被思召候べし。就中芋瀬(いもせの)庄司(しやうじ)が申(まうす)所、げにも難被黙止候へば、其(その)安きに就(つけ)て御旗許(おんはたばかり)を被下候はんに、何(なに)の煩(わづらひ)か候べき。戦場(せんぢやう)に馬・物具(もののぐ)を捨(すて)、太刀・刀(かたな)を落して敵に被取事(こと)、さまでの恥ならず。只彼(かれ)が申請(まうしうく)る旨に任(まかせ)て、御旗を被下候へかし。」と申(まうし)ければ、宮げにもと思召(おぼしめし)て、月日を金銀にて打(うつ)て着(つけ)たる錦(にしき)の御旗を、芋瀬(いもがせの)庄司(しやうじ)にぞ被下ける。角(かく)て宮は遥(はるか)に行過(ゆきすぎ)させ給(たまひ)ぬ。暫有(しばらくあつ)て村上(むらかみ)彦四郎義光(よしてる)、遥(はるか)の迹(あと)にさがり、宮に追着進(おつつきまゐら)せんと急(いそぎ)けるに、芋瀬(いもがせの)庄司(しやうじ)無端道にて行合(ゆきあひ)ぬ。芋瀬(いもがせ)が下人(げにん)に持(もた)せたる旗を見れば、宮の御旗也(なり)。村上怪(あやしみ)て事の様(やう)を問(とふ)に、尓々(しかじか)の由(よし)を語る。村上、「こはそも何事(なにこと)ぞや。忝(かたじけなく)も四海(しかい)の主(あるじ)にて御坐(おはしま)す天子の御子(みこ)の、朝敵(てうてき)御追罰(ごつゐばつ)の為に、御門(おんかど)出(いで)ある路次(ろし)に参り合(あう)て、汝等程(なんぢらほど)の大凡下(だいぼんげ)の奴原(やつばら)が、左様(さやう)の事可仕様(やう)やある。」と云(いつ)て、則(すなはち)御旗を引奪(ひきうばう)て取(とり)、剰(あまつさへ)旗持(もち)たる芋瀬(いもがせ)が下人(げにん)の大(だい)の男(をとこ)を掴(つかん)で、四五丈許(ばかり)ぞ抛(なげ)たりける。其怪力(そのくわいりよく)無比類にや怖(おぢ)たりけん。芋瀬(いもがせの)庄司(しやうじ)一言(いちごん)の返事もせざりければ、村上自(みづから)御旗を肩に懸(かけ)て、無程宮に〔奉〕追着。義光(よしてる)御前(おんまへ)に跪(ひざまづい)て此様(このやう)を申(まうし)ければ、宮誠(まこと)に嬉しげに打笑(うちわら)はせ給(たまひ)て、「則祐(そくいう)が忠は孟施舎(まうししや)が義を守(まぼ)り、平賀(ひらが)が智は陳丞相(ちんしようじやう)が謀(はかりごと)を得(え)、義光が勇(ゆう)は北宮黝(ほくきゆういう)が勢(いきほひ)を凌(しの)げり。此(この)三傑を以て、我(われ)盍治天下哉(や)。」と被仰けるぞ忝(かたじけな)き。其夜(そのよ)は椎柴垣(しひしばがき)の隙(ひま)あらはなる山がつの庵(いほり)に、御枕(おんまくら)を傾(かたむ)けさせ給(たまひ)て、明(あく)れば小原(をばら)へと志(こころざし)て、薪(たきぎ)負(おう)たる山人(やまうど)の行逢(ゆきあひ)たるに、道の様(やう)を御尋(おんたづね)有(あり)けるに、心なき樵夫迄(きこりまで)も、さすが見知進(みしりまゐら)せてや在(あり)けん、薪(たきぎ)を下(おろ)し地(ち)に跪(ひざまづい)て、「是(これ)より小原(をばら)へ御(おん)通(とほ)り候はん道には、玉木(たまぎの)庄司殿(しやうじどの)とて、無弐(むに)の武家方(ぶけかた)の人をはしまし候。此(この)人を御語(かたら)ひ候はでは、いくらの大勢(おほぜい)にても其(その)前をば御(おん)通(とほ)り候(さふらひ)ぬと不覚候。恐(おそれ)ある申事(まうしごと)にて候へ共(ども)、先(ま)づ人を一二人(いちににん)御使(おんつかひ)に被遣候(さふらひ)て、彼(かの)人の所存(しよぞん)をも被聞召候へかし。」とぞ申(まうし)ける。宮つく/゛\と聞召(きこしめし)て、「芻蕘(すうぜう)の詞迄(ことばまで)も不捨」と云(いふ)は是(これ)也(なり)。げにも樵夫(きこり)が申(まうす)処さもと覚(おぼゆ)るぞ。」とて、片岡(かたをか)八郎・矢田彦七二人(ににん)を、玉置(たまぎの)庄司(しやうじ)が許(もと)へ被遣て、「此(この)道を御(おん)通(とほ)り有(ある)べし、道の警固に、木戸(きど)を開き、逆茂木(さかもぎ)を引のけさせよ。」とぞ被仰ける。玉置(たまぎの)庄司(しやうじ)御使(おんつかひ)に出合(いであつ)て、事の由を聞(きい)て、無返事(ぶへんじ)にて内へ入(いり)けるが、軈(やが)て若党(わかたう)・中間共(ちゆうげんども)に物具(もののぐ)させ、馬に鞍置(くらおき)、事の体(てい)躁(さわが)しげに見へければ、二人(ににん)の御使(おんつかひ)、「いや/\此(この)事(こと)叶ふまじかりけり。さらば急ぎ走帰(はしりかへつ)て、此(この)由を申さん。」とて、足早(あしばや)に帰れば、玉置が若党共(わかたうども)五六十人、取太刀許(とりだちばかり)にて追懸(おつかけ)たり。二人(ににん)の者立留(たちとどま)り、小松(こまつ)の二三本(にさんぼん)ありける陰(かげ)より跳出(をどりい)で、真前(まつさき)に進(すすん)だる武者(むしや)の馬の諸膝(もろひざ)薙(ない)で刎落(はねおと)させ、返(かへ)す太刀(たち)にて頚打落(うちおと)して、仰(のつ)たる太刀を押直(おしなほ)してぞ立(たつ)たりける。迹(あと)に続(つづい)て追(おひ)ける者共(ものども)も、是(これ)を見て敢(あへ)て近付(ちかづく)者一人もなし、只遠矢に射すくめけれ、片岡八郎矢二筋(ふたすぢ)被射付て、今は助(たすか)り難(がたし)と思(おもひ)ければ、「や殿(との)、矢田殿(やだどの)、我はとても手負(ておう)たれば、此(ここ)にて打死(うちじに)せんずるぞ。御辺(ごへん)は急ぎ宮の御方へ走参(はしりまゐり)て、此由(このよし)を申(まうし)て、一(ひと)まども落し進(まゐら)せよ。」と、再往(さいわう)強(しひ)て云(いひ)ければ、矢田も一所(いつしよ)にて打死(うちじに)せんと思(おもひ)けれども、げにも宮に告(つげ)申さゞらんは、却(かへつ)て不忠なるべければ、無力只今打死する傍輩(はうばい)を見捨(みすて)て帰りける心の中(うち)、被推量て哀(あはれ)也(なり)。矢田遥(はるか)に行延(ゆきのび)て跡(あと)を顧(かへりみ)れば、片岡八郎はや被討ぬと見へて、頚を太刀の鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て持(もち)たる人あり。矢田急ぎ走帰(はしりかへつ)て此(この)由を宮に申(まうし)ければ、「さては遁(のが)れぬ道に行迫(ゆきせま)りぬ。運の窮達(きゆうたつ)歎(なげ)くに無詞。」とて、御伴(おんとも)の人々に至(いたる)まで中々(なかなか)騒ぐ気色ぞ無(なか)りける。さればとて此(ここ)に可留に非(あら)ず、行(ゆか)れんずる所まで行(ゆけ)やとて、上下(じやうげ)三十(さんじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、宮を前(さき)に立進(たてまゐら)せて問々(とひとひ)山路(やまぢ)をぞ越行(こえゆき)ける。既(すで)に中津河(なかつがは)の峠(たうげ)を越(こえ)んとし給(たまひ)ける所に、向(むかう)の山の両の峯に玉置(たまぎ)が勢(せい)と覚(おぼえ)て、五六百人(ごろつぴやくにん)が程混冑(ひたかぶと)に鎧(よろう)て、楯を前に進め射手(いて)を左右へ分(わけ)て、時の声をぞ揚(あげ)たりける。宮是(これ)を御覧(ごらん)じて、玉顔(ぎよくがん)殊に儼(おごそか)に打笑(うちゑ)ませ給(たまひ)て、御手(おんて)の者共(ものども)に向(むかつ)て、「矢種(やだね)の在(あら)んずる程は防矢(ふせぎや)を射よ、心静(しづか)に自害して名を万代(ばんだい)に可貽。但(ただし)各(おのおの)相構(あひかまへ)て、吾(われ)より先(さき)に腹切(きる)事(こと)不可有。吾已(すで)に自害せば、面(おもて)の皮を剥(はぎ)耳鼻(みみはな)を切(きつ)て、誰(たれ)が首(くび)とも見へぬ様(やう)にし成(なし)て捨(すつ)べし。其(その)故は我首(わがくび)を若(もし)獄門(ごくもん)に懸(かけ)て被曝なば、天下に御方(みかた)の志を存(そん)ぜん者は力を失ひ、武家は弥(いよいよ)所恐なかるべし。「死せる孔明(こうめい)生(いけ)る仲達(ちゆうたつ)を走らしむ」と云(いふ)事(こと)あり。されば死して後(のち)までも、威を天下に残(のこ)すを以て良将(りやうしやう)とせり。今はとても遁(のが)れぬ所ぞ、相構(あひかまへ)て人々きたなびれて、敵(てき)に笑はるな。」と被仰ければ、御供(おんとも)の兵(つはもの)共、「何故(なにゆゑ)か、きたなびれ候べき。」と申(まうし)て、御前(おんまへ)に立(たつ)て、敵の大勢にて責上(せめのぼ)りける坂中(さかなか)の辺(へん)まで下(おり)向ふ。其(その)勢僅(わづか)三十二人(さんじふににん)、是(これ)皆一騎当千(いつきたうせん)の兵(つはもの)とはいへ共(ども)、敵五百(ごひやく)余騎(よき)に打合(うちあう)て、可戦様(やう)は無(なか)りけり。寄手(よせて)は楯を雌羽(めんどりば)につきしとうてかづき襄(あが)り、防ぐ兵(つはもの)は打物(うちもの)の鞘(さや)をはづして相懸(あひかか)りに近付(ちかづく)所に、北の峯より赤旗(あかはた)三流(みながれ)、松の嵐に翻(ひるがへ)して、其(その)勢六七百騎(ろくしちひやくき)が程懸出(かけいで)たり。其(その)勢次第に近付侭(ちかづくままに)、三手に分(わかつ)て時の声を揚(あげ)て、玉置(たまぎの)庄司(しやうじ)に相向ふ。真前(まつさき)に進(すすん)だる武者大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て、「紀伊国(きのくに)の住人(ぢゆうにん)野長瀬(のながせの)六郎・同(おなじき)七郎、其(その)勢三千余騎(よき)にて大塔宮(おほたふのみや)の御迎(おんむかひ)に参る所に、忝(かたじけなく)も此(この)君に対(むか)ひ進(まゐら)せて、弓を控(ひき)楯を列(つら)ぬる人は誰(たれ)ぞや。玉置庄司殿(しやうじどの)と見るは僻目(ひがめ)か、只今可滅武家の逆命(ぎやくめい)に随(したがつ)て、即時(そくじ)に運を開かせ可給親王(しんわう)に敵対申(てきたいまうし)ては、一天下(いちてんが)の間(あひだ)何(いづれ)の処にか身を置(おか)んと思ふ。天罰不遠から、是(これ)を鎮(しづめ)ん事我等(われら)が一戦(いつせん)の内にあり。余(あま)すな漏(もら)すな。」と、をめき叫(さけん)でぞ懸(かか)りける。是(これ)を見て玉置が勢五百(ごひやく)余騎(よき)、叶はじとや思(おもひ)けん、楯を捨(すて)旗を巻(まい)て、忽(たちまち)に四角八方へ逃散(にげさん)ず。其(その)後野長瀬(のながせ)兄弟、甲(かぶと)を脱ぎ弓を脇に挟(さしはさみ)て遥(はるか)に畏(かしこま)る。宮の御前(おんまへ)近く被召て、「山中(さんちゆう)の為体(ていたらく)、大儀の計略難叶かるべき間、大和(やまと)・河内(かはち)の方へ打出(うちいで)て勢(せい)を付(つけ)ん為(ために)、令進発之処に、玉置庄司(しやうじ)只今の挙動(ふるまひ)、当手(たうて)の兵万死(ばんし)の内(うち)に一生(いつしやう)をも得難(えがた)しと覚(おぼえ)つるに、不慮(ふりよ)の扶(たすけ)に逢(あふ)事(こと)天運尚(なほ)憑(たのみ)あるに似(に)たり。抑(そもそも)此(この)事(こと)何(なに)として存知(ぞんぢ)たりければ、此(この)戦場に馳合(はせあつ)て、逆徒(げきと)の大軍(たいぐん)をば靡(なびかし)ぬるぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、野長瀬畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「昨日(さくじつ)の昼程(ひるほど)に、年(とし)十四五許(ばかり)に候(さふらひ)し童(わらは)の、名をば老松(おいまつ)といへり〔と〕名乗(なのり)て、「大塔宮(おほたふのみや)明日(みやうじつ)十津河(とつがは)を御出(おんいで)有(あつ)て、小原(をばら)へ御(おん)通(とほ)りあらんずるが、一定(いちぢやう)道にて難(なん)に逢はせ給(たまひ)ぬと覚(おぼゆ)るぞ、志を存(そん)ぜん人は急ぎ御迎(むかひ)に参れ」と触廻(ふれまは)り候(さふらひ)つる間、御使(おんつかひ)ぞと心得て参(まゐつ)て候。」とぞ申(まうし)ける。宮此(この)事(こと)を御思案(ごしあん)あるに、直事(ただこと)に非(あら)ずと思食合(おぼしめしあは)せて、年来(としごろ)御身(おんみ)を放(はな)されざりし膚(はだ)の御守(おんまぼり)を御覧(ごらん)ずるに、其口(そのくち)少(すこ)し開(ひらき)たりける間、弥(いよいよ)怪(あや)しく思食(おぼしめし)て、則(すなはち)開(ひらき)被御覧ければ、北野天神(きたののてんじん)の御神体(しんたい)を金銅(こんどう)にて被鋳進たる其(その)御眷属(ごけんぞく)、老松(おいまつ)の明神(みやうじん)の御神体、遍身(へんしん)より汗(あせ)かいて、御足(あし)に土(つち)の付(つき)たるぞ不思議(ふしぎ)なる。「さては佳運(かうん)神慮(しんりよ)に叶(かな)へり、逆徒(げきと)の退治(たいぢ)何の疑(うたがひ)か可有。」とて、其(それ)より宮(みや)は、槙野(まきのの)上野房(かうづけばう)聖賢(しやうげん)が拵(こしらへ)たる、槙野(まきの)の城へ御入(おんいり)ありけるが、此(これ)も尚(なほ)分内(ぶんない)狭(せば)くて可悪ると御思案(ごしあん)ありて、吉野(よしの)の大衆(だいしゆ)を語(かたら)はせ給(たまひ)て、安善宝塔(あいぜんはうだふ)を城郭(じやうくわく)に構(かま)へ、岩切通(きりとほ)す吉野河を前に当(あて)て、三千余騎(よき)を随へて楯篭(たてごも)らせ給(たまひ)けるとぞ聞へし。


太平記(国民文庫)

太平記巻第六
○民部卿三位局(みんぶきやうさんみのつぼね)御夢想(ごむさうの)事(こと) S0601
夫(それ)年光(ねんくわう)不停如奔箭下流水、哀楽(あいらく)互(たがひに)替(かはること)似紅栄黄落樹。尓(しか)れば此世中(このよのなか)の有様(ありさま)、只(ただ)夢とやいはん幻(うつつ)とやいはん。憂喜(いうき)共に感ずれば、袂(たもと)の露を催(もよほ)す事雖不始今、去年(きよねん)九月に笠置(かさぎの)城破(やぶ)れて、先帝(せんてい)隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給(たまひ)し後(のち)は、百司(はくし)の旧臣(きうしん)悲(かなしみ)を抱(いだい)て所々(しよしよ)に篭居(ろうきよ)し、三千の宮女(きゆうぢよ)涙を流して面々(めんめん)に臥沈(ふししづみ)給ふ有様、誠(まこと)に憂(うき)世(よ)の中(なか)の習(ならひ)と云(いひ)ながら、殊更(ことさら)哀(あはれ)に聞へしは、民部(みんぶ)卿(きやう)三位殿(さんみどのの)御局(さんみどののおつぼね)にて留(とどめ)たり。其(それ)を如何にと申(まうす)に、先朝(せんてう)の御寵愛(ごちようあい)不浅上、大塔(おほたふ)の宮(みやの)御母堂(ごぼだう)にて渡(わたら)せ給(たまひ)しかば、傍(かた)への女御(にようご)・后(きさき)は、花の側(あたり)の深山木(みやまぎ)の色香(いろか)も無(なき)が如く〔也(なり)〕。而るを世間(よのなか)静(しづか)ならざりし後は、万(よろ)づ引替(ひきかへ)たる九重(ここのへ)の内の御住居(おんすまゐ)も不定、荒(あれ)のみ増(まさ)る浪(なみ)の上に、舟(ふね)流したる海士(あま)の心地(ここち)して、寄(よ)る方もなき御思(おんおもひ)の上に打添(うちそひ)て、君は西海(さいかい)の帰らぬ波に浮沈(うきしづ)み、泪(なみだ)無隙(ひまなき)御袖(おんそで)の気色(けしき)と承(うけたまは)りしかば、空(むなしく)傾思於万里之暁月、宮は又南山(なんざん)の道なき雲に踏迷(ふみまよ)はせ給(たまひ)て、狂浮(あこがれ)たる御住居(おんすまゐ)と聞ゆれど、難託書於三春之暮雁。云彼云此一方(ひとかた)ならぬ御歎(おんなげき)に、青糸(せいし)の髪疎(おろそか)にして、いつの間(ま)に老(おい)は来(き)ぬらんと被怪、紅玉(こうぎよくの)膚(はだへ)消(きえ)て、今日(けふ)を限(かぎり)の命(いのち)共(とも)がなと思召(おぼしめし)ける御悲(かなしみ)の遣方(やるかた)なさに、年来(としごろ)の御祈(いのり)の師(し)とて、御誦経(おんじゆきやう)・御撫物(おんなでもの)なんど奉りける、北野(きたの)の社僧(しやそう)の坊(ばう)に御坐(おはしま)して、一七日(ひとなぬか)参篭(さんろう)の御志(おんこころざし)ある由(よし)を被仰ければ、此折節(このをりふし)武家の聞(きこえ)も無憚には非(あら)ねども、日来(ひごろ)の御恩(ごおん)も重く、今程(いまほど)の御有様も御痛(おんいたは)しければ、無情は如何(いかが)と思(おもひ)て、拝殿(はいでん)の傍(かたはら)に僅(わづか)なる一間(ひとま)を拵(こしらへ)て、尋常(よのつね)の青女房(なまにようばう)なんどの参篭(さんろう)したる由にて置(おき)奉りけり。哀(あはれ)古(いにし)へならば、錦帳(きんちやう)に妝(よそほひ)を篭(こめ)、紗窓(しやさう)に艶(えん)を閉(とぢ)て、左右の侍女(おもとびと)其数(そのかず)を不知、当(あた)りを輝(かかやかし)て仮傅奉(いつきかしづきたてまつる)べきに、いつしか引替(ひきかへ)たる御忍(おんしのび)の物篭(ものごもり)なれば、都(みやこ)近けれ共(ども)事(こと)問(こととひ)かわす人もなし。只一夜松(ひとよのまつ)の嵐に御夢(おんゆめ)を被覚、主(あるじ)忘れぬ梅(むめ)が香(か)に、昔の春を思召出(おぼしめしいだ)すにも、昌泰(しやうたい)の年(とし)の末(すゑ)に荒人神(あらひとかみ)と成(なら)せ玉ひし、心づくしの御旅宿(おんたびね)までも、今は君の御思(おんおもひ)に擬(なぞら)へ、又は御身(おんみ)の歎(なげき)に被思召知たる、哀(あはれ)の色(いろ)の数々(かずかず)に、御念誦(おんねんじゆ)を暫(しばらく)被止て、御涙(おんなみだ)の内にかくばかり、忘(わすれ)ずは神も哀れと思(おもひ)しれ心づくしの古(いにし)への旅と遊(あそばし)て、少(すこ)し御目睡有(おんまどろみあり)ける其夜(そのよ)の御夢(おんゆめ)に、衣冠(いくわん)正(ただ)しくしたる老翁(らうをう)の、年(とし)八十有余(いうよ)なるが、左の手に梅(むめ)の花を一枝(ひとえだ)持(もち)、右の手に鳩(はと)の杖(つゑ)をつき、最(いと)苦しげなる体(てい)にて、御局(おんつぼね)の臥給(ふしたまひ)たる枕の辺(へん)に立(たち)給へり。御夢心地(おんゆめごこち)に思召(おぼしめし)けるは、篠(ささ)の小篠(をざさ)の一節(ひとふし)も、可問人も覚(おぼえ)ぬ都の外(ほか)の蓬生(よもぎふ)に、怪(あや)しや誰人(たれびと)の道蹈迷(ふみまよ)へるやすらひぞやと御尋(おんたづね)有(あり)ければ、此老翁(このらうをう)世(よ)に哀(あはれ)なる気色(きしよく)にて、云ひ出(いだ)せる詞(こと)は無(なく)て、持(もち)たる梅(むめの)花を御前(おんまへ)に指置(さしおい)て立帰(たちかへり)けり。不思議(ふしぎ)やと思召(おぼしめし)て御覧ずれば、一首(いつしゆ)の歌を短冊(たんざく)にかけり。廻(めぐ)りきて遂(つひ)にすむべき月影(つきかげ)のしばし陰(くもる)を何(なに)歎(なげ)くらん御夢(おんゆめ)覚(さめ)て歌の心を案(あん)じ給(たまふ)に、君(きみ)遂(つひ)に還幸(くわんかう)成(なり)て雲の上に住ませ可給瑞夢(ずゐむ)也(なり)。と、憑敷(たのもしく)思召(おぼしめし)けり。誠(まこと)に彼聖廟(かのせいべう)と申(まうし)奉るは、大慈大悲(だいじだいひ)の本地(ほんぢ)、天満天神(てんまんてんじん)の垂迹(すゐじやく)にて渡らせ給へば、一度(ひとたび)歩(あゆみ)を運(はこ)ぶ人、二世の悉地(しつち)を成就(じやうじゆ)し、僅(わづか)に御名(みな)を唱(となふ)る輩(ともがら)、万事(ばんじ)の所願(しよぐわん)を満足す。況乎(いはんや)千行万行(せんかうばんかう)の紅涙(こうるゐ)を滴尽(しただりつくし)て、七日七夜の丹誠(たんぜい)を致させ給へば、懇誠(こんぜい)暗(あん)に通じて感応(かんおう)忽(たちまち)に告(つげ)あり。世(よ)既(すでに)澆季(げうき)に雖及、信心誠(しんじんまこと)ある時は霊艦(れいかん)新(あらた)なりと、弥(いよいよ)憑敷(たのもしく)ぞ思食(おぼしめし)ける。
○楠(くすのき)出張天王寺(てんわうじしゆつちやうの)事付隅田(すだ)高橋並(ならびに)宇都宮(うつのみやの)事(こと) S0602
元弘二年三月五日、左近将監(さこんのしやうげん)時益(ときます)、越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)、両六波羅(りやうろくはら)に被補て、関東(くわんとう)より上洛(しやうらく)す。此(この)三四年は、常葉(ときは)駿河(するがの)守(かみ)範貞(のりさだ)一人として、両六波羅(りやうろくはら)の成敗(せいばい)を司(つかさどつ)て在(あり)しが、堅く辞(じ)し申(まうし)けるに依(よつ)てとぞ聞へし。楠兵衛正成(まさしげ)は、去年(きよねん)赤坂(あかさか)の城にて自害して、焼死(やけしし)たる真似(まね)をして落(おち)たりしを、実(まこと)と心得て、武家(ぶけ)より、其跡(そのあと)に湯浅孫六(ゆあさまごろく)入道定仏(ぢやうぶつ)を地頭(ぢとう)に居置(すゑおき)たりければ、今は河内(かはちの)国(くに)に於ては殊(こと)なる事あらじと、心安(こころやす)く思(おもひ)ける処に、同(おなじき)四月三日楠五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)して、俄に湯浅(ゆあさ)が城へ押寄(おしよせ)て、息をも不継責戦(せめたたか)ふ。城中(じやうちゆう)に兵粮(ひやうらう)の用意(ようい)乏(とぼ)しかりけるにや、湯浅が所領紀伊(きの)国(くに)の阿瀬河(あぜがは)より、人夫(にんぶ)五六百人(ごろつぴやくにん)に兵粮を持(もた)せて、夜中(やちゆう)に城へ入(いれ)んとする由(よし)を、楠風(ほのかに)聞(きい)て、兵(つはもの)を道の切所(せつしよ)へ差遣(さしつかはし)、悉(ことごとく)是(これ)を奪取(うばひとり)て其俵(そのたはら)に物具(もののぐ)を入替(いれかへ)て、馬に負(おふ)せ人夫(にんぶ)に持(もた)せて、兵(つはもの)を二三百人(にさんびやくにん)兵士(ひやうじ)の様(やう)に出立(いでたた)せて、城中へ入(いら)んとす。楠が勢是を追散(おひちら)さんとする真似(まね)をして、追(おつ)つ返(かへし)つ同士軍(どしいくさ)をぞしたりける。湯浅入道是(これ)を見て、我兵粮(わがひやうらう)入るゝ兵共(つはものども)が、楠が勢と戦ふぞと心得て、城中より打(うつ)て出(い)で、そゞろなる敵(てき)の兵共(つはものども)を城中へぞ引入(ひきいれ)ける。楠が勢共(せいども)思(おもひ)の侭に城中に入(いり)すまして、俵(たはら)の中より物具共(もののぐども)取出(とりいだ)し、ひし/\と堅めて、則(すなはち)時(とき)の声をぞ揚(あげ)たりける。城の外(ほか)の勢(せい)、同時(どうじ)に木戸(きど)を破(やぶ)り、屏(へい)を越(こえ)て責入(せめいり)ける間、湯浅入道内外(ないげ)の敵に取篭(とりこめ)られて、可戦様(やう)も無(なか)りければ、忽(たちまち)に頚を伸(のべ)て降人(かうにん)に出づ。楠其(その)勢を合(あは)せて、七百余騎(よき)にて和泉(いづみ)・河内の両国(りやうごく)を靡(なび)けて、大勢に成(なり)ければ、五月十七日(じふしちにち)に先(まづ)住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)辺(へん)へ打(うつ)て出で、渡部(わたなべ)の橋より南(みんなみ)に陣を取る。然間(しかるあひだ)和泉・河内の早馬(はやむま)敷並(しきなみ)を打(うつて)、楠已(すで)に京都へ責上(せめのぼ)る由告(つげ)ければ、洛中の騒動不斜。武士(ぶし)東西に馳散(はせち)りて貴賎(きせん)上下周章(あわつる)事(こと)窮(きはま)りなし。斯(かか)りければ両六波羅(りやうろくはら)には畿内近国(きないきんごく)の勢如雲霞の馳集(はせあつまつ)て、楠今や責上(せめのぼ)ると待(まち)けれ共(ども)、敢(あへ)て其義(そのぎ)もなければ、聞(きく)にも不似、楠小勢(こぜい)にてぞ有覧(あるらん)、此方(こなた)より押寄(おしよせ)て打散(うちちら)せとて、隅田(すだ)・高橋を両六波羅(ろくはら)の軍奉行(いくさぶぎやう)として、四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)、並(ならび)に在京人(ざいきやうにん)、畿内近国(きないきんごく)の勢を合(あは)せて、天王寺(てんわうじ)へ被指向。其(その)勢都合(つがふ)五千(ごせん)余騎(よき)、同(おなじき)二十日京都を立(たつ)て、尼崎(あまがさき)・神崎(かんざき)・柱松(はしらもと)の辺(へん)に陣を取(とり)て、遠篝(とほかがり)を焼(たい)て其夜(そのよ)を遅しと待明(まちあか)す。楠是(これ)を聞(きい)て、二千余騎(よき)を三手に分け、宗(むね)との勢をば住吉・天王寺(てんわうじ)に隠(かくし)て、僅(わづか)に三百騎(さんびやくき)許(ばかり)を渡部(わたなべ)の橋の南(みんなみ)に磬(ひかへ)させ、大篝(おほかがり)二三箇所(にさんかしよ)に焼(たか)せて相向(あひむか)へり。是(これ)は態(わざ)と敵に橋を渡させて、水の深みに追(おひ)はめ、雌雄(しゆう)を一時(いちじ)に決せんが為と也(なり)。去程(さるほど)に明(あく)れば五月二十一日に、六波羅(ろくはら)の勢五千(ごせん)余騎(よき)、所々(しよしよ)の陣を一所(いつしよ)に合(あは)せ、渡部(わたなべ)の橋まで打臨(うちのぞん)で、河向(かはむかひ)に引(ひか)へたる敵の勢を見渡せば、僅(わづか)に二三百騎(にさんびやくき)には不過、剰(あまつさへ)痩(やせ)たる馬に縄手綱(なはたづな)懸(かけ)たる体(てい)の武者共(むしやども)也(なり)。隅田(すだ)・高橋是(これ)を見て、さればこそ和泉・河内の勢の分際(ぶんざい)、さこそ有らめと思ふに合せて、はか/゛\しき敵は一人も無(なか)りけり。此奴原(このやつばら)一々に召捕(めしとつ)て六条河原(ろくでうかはら)に切懸(きりかけ)て、六波羅殿(ろくはらどの)の御感(ぎよかん)に預(あづか)らんと云侭(いふまま)に、隅田(すだ)・高橋人交(ひとまぜ)もせず橋より下(しも)を一文字(いちもんじ)にぞ渡(わたし)ける。五千(ごせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)是(これ)を見て、我先(われさき)にと馬を進めて、或(あるひ)は橋の上(うへ)を歩(あゆ)ませ或(あるひ)は河瀬(かはせ)を渡して、向(むかひ)の岸に懸驤(かけあが)る。楠(くすのきが)勢是(これ)を見て、遠矢(とほや)少々射捨(いすて)て、一戦(いつせん)もせず天王寺(てんわうじ)の方(かた)へ引退(ひきしりぞ)く。六波羅(ろくはら)の勢是(これ)を見て、勝(かつ)に乗り、人馬(じんば)の息をも不継せ、天王寺(てんわうじ)の北の在家(ざいけ)まで、揉(もみ)に揉(もう)でぞ追(おう)たりける。楠思程(おもふほど)敵の人馬を疲(つか)らかして、二千騎(にせんぎ)を三手に分(わけ)て、一手(ひとて)は天王寺(てんわうじ)の東(ひんがし)より敵を弓手(ゆんで)に請(うけ)て懸出(かけい)づ。一手(ひとて)は西門(さいもん)の石の鳥居より魚鱗懸(ぎよりんがかり)に懸出(かけい)づ。一手は住吉の松(まつの)陰より懸出(かけい)で、鶴翼(かくよく)に立(た)て開合(ひらきあは)す。六波羅(ろくはら)の勢を見合(みあは)すれば、対揚(たいやう)すべき迄(まで)もなき大勢なりけれ共(ども)、陣の張様(はりやう)しどろにて、却(かへつ)て小勢(こぜい)に囲(かこま)れぬべくぞ見へたりける。隅田・高橋是(これ)を見て、「敵後(うし)ろに大勢を陰(かく)してたばかりけるぞ。此辺(このあたり)は馬の足立(あしだち)悪(あしう)して叶はじ。広みへ敵を帯(おび)き出(いだ)し、勢(せい)の分際(ぶんざい)を見計(みはから)ふて、懸合々々(かけあはせかけあはせ)勝負を決せよ。」と、下知(げぢ)しければ、五千(ごせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、敵に後(うし)ろを被切ぬ先にと、渡部(わたなべ)の橋を指(さし)て引退(ひきしりぞ)く。楠が勢是(これ)に利(り)を得て、三方(さんばう)より勝時(かちどき)を作(つくつ)て追懸(おつか)くる。橋近く成(なり)ければ、隅田(すだ)・高橋是(これ)を見て、「敵は大勢にては無(なか)りけるぞ、此(ここ)にて不返合大河(たいが)後(うし)ろに在(あつ)て悪(あし)かりぬべし。返せや兵共(つはものども)。」と、馬の足を立直(たてなほ)し/\下知(げぢ)しけれども、大勢の引立(ひきたて)たる事なれば、一返(ひとかへし)も不返、只我先(われさき)にと橋の危(あやふき)をも不云、馳集(はせあつま)りける間、人馬共(じんばとも)に被推落て、水に溺(おぼ)るゝ者不知数、或(あるひは)淵瀬(ふちせ)をも不知渡し懸(かかつ)て死(し)ぬる者も有り、或(あるひ)は岸より馬を馳倒(はせたふし)て其侭(そのまま)被討者も有(あり)。只馬・物具(もののぐ)を脱捨(ぬぎすて)て、逃延(にげのび)んとする者は有れ共(ども)、返合(かへしあは)せて戦はんとする者は無(なか)りけり。而(しか)れば五千(ごせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、残少(のこりずく)なに被打成て這々(はふはふ)京へぞ上(のぼ)りける。其翌日(そのよくじつ)に何者(なにもの)か仕(し)たりけん、六条河原(ろくでうかはら)に高札(たかふだ)を立(た)て一首(いつしゆ)の歌をぞ書(かき)たりける。渡部(わたなべ)の水いか許(ばかり)早(はや)ければ高橋落(おち)て隅田(すだ)流るらん京童(きやうわらんべ)の僻(くせ)なれば、此落書(このらくしよ)を歌に作(つくり)て歌ひ、或(あるひ)は語伝(かたりつたへ)て笑ひける間(あひだ)、隅田(すだ)・高橋面目(めんぼく)を失ひ、且(しばらく)は出仕(しゆつし)を逗(とど)め、虚病(きよびやう)してぞ居たりける。両六波羅(りやうろくはら)是(これ)を聞(きい)て、安からぬ事に被思ければ、重(かさね)て寄(よ)せんと被議けり。其比(そのころ)京都余(あまり)に無勢(ぶせい)なりとて関東(くわんとう)より被上たる宇都宮(うつのみや)治部大輔(うつのみやぢぶのたいふ)を呼寄(よびよせ)評定(ひやうぢやう)有(あり)けるは、「合戦(かつせん)の習(なら)ひ運に依(よつ)て雌雄(しゆう)替(かは)る事古(いにし)へより無(なき)に非(あら)ず。然共(しかれども)今度(このたび)南方(なんばう)の軍(いくさ)負(まけ)ぬる事(こと)、偏(ひとへ)に将(しやう)の計(はかりごと)の拙(つたなき)に由(よ)れり。又士卒(じそつ)の臆病(おくびやう)なるが故(ゆゑ)也(なり)。天下(てんがの)嘲哢(てうろう)口を塞(ふさ)ぐに所(ところ)なし。就中に仲時(なかとき)罷上(まかりのぼり)し後(のち)、重(かさね)て御上洛(ごしやうらく)の事は、凶徒(きようと)若(もし)蜂起(ほうき)せば、御向(おんむか)ひ有(あつ)て静謐候(せいひつさふらへ)との為(ため)なり。今の如(ごとき)んば、敗軍の兵を駈集(かりあつめ)て何度(いくたび)むけて候とも、はか/゛\しき合戦しつ共不覚候。且(かつう)は天下の一大事(いちだいじ)、此時(このとき)にて候へば、御向候(むかひさふらひ)て御退治(たいぢ)候へかし。」と宣(のたま)ひければ、宇都宮(うつのみや)辞退(じたい)の気色(きしよく)無(なう)して被申けるは、「大軍(たいぐん)已(すで)に利(り)を失(うしなう)て後(のち)、小勢(こぜい)にて罷向(まかりむかひ)候はん事(こと)、如何(いかん)と存(ぞんじ)候へども、関東(くわんとう)を罷出(まかりいで)し始(はじめ)より、加様(かやう)の御大事(おんだいじ)に逢(あう)て命(いのち)を軽(かろ)くせん事を存(ぞんじ)候き。今の時分(じぶん)、必(かならず)しも合戦の勝負(しようぶ)を見所(みるところ)にては候はねば、一人にて候共(とも)、先(まづ)罷向(まかりむかう)て一合戦(ひとかつせん)仕(つかまつ)り、及難儀候はゞ、重(かさねて)御勢(おんせい)をこそ申(まうし)候はめ。」と、誠(まこと)に思定(おもひさだめ)たる体(てい)に見へてぞ帰りける。宇都宮(うつのみや)一人武命(ぶめい)を含(ふくん)で大敵に向(むか)はん事(こと)、命(いのち)を可惜に非ざりければ、態(わざ)と宿所(しゆくしよ)へも不帰、六波羅(ろくはら)より直(すぐ)に、七月十九日(じふくにちの)午刻(うまのこく)に都を出で、天王寺(てんわうじ)へぞ下(くだ)りける。東寺辺(とうじへん)までは主従(しゆじゆう)僅(わづか)に十四五騎が程とみへしが、洛中(らくちゆう)にあらゆる所(ところ)の手者共(てのものども)馳加(はせくはは)りける間、四塚(よつづか)・作道(つくりみち)にては、五百(ごひやく)余騎(よき)にぞ成(なり)にける。路次(ろし)に行逢(ゆきあふ)者をば、権門勢家(けんもんせいけ)を不云、乗馬(のりむま)を奪ひ人夫(にんぶ)を駈立(かけた)て通(とほ)りける間、行旅(かうりよ)の往反路(わうへんみち)を曲(ま)げ、閭里(りより)の民屋(みんをく)戸(とぼそ)を閉(と)づ。其夜(そのよ)は柱松(はしらもと)に陣を取(とり)て明(あく)るを待つ。其志(そのこころざし)一人も生(いき)て帰らんと思(おもふ)者は無(なか)りけり。去程(さるほど)に河内(かはちの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)和田(わだ)孫三郎此由(このよし)を聞(きい)て、楠が前(まへ)に来(きたつ)て云(いひ)けるは、「先日(せんじつ)の合戦に負腹(まけばら)を立て京より宇都宮(うつのみや)を向(むけ)候なる。今夜(こよひ)既(すで)に柱松(はしらもと)に着(つい)て候が其勢(そのせい)僅(わづか)に六七百騎(ろくしちひやくき)には過(すぎ)じと聞へ候。先(さき)に隅田(すだ)・高橋が五千(ごせん)余騎(よき)にて向(むかつ)て候(さふらひ)しをだに、我等(われら)僅(わづか)の小勢(こぜい)にて追散(おつちら)して候(さふらひ)しぞかし。其上(そのうへ)今度(このたび)は御方(みかた)勝(かつ)に乗(のつ)て大勢也(なり)。敵は機(き)を失(うしなう)て小勢也(なり)。宇都宮(うつのみや)縦(たと)ひ武勇(ぶゆう)の達人(たつじん)なりとも、何程(なにほど)の事か候べき。今夜(こよひ)逆寄(さかよせ)にして打散(うちちら)して捨候(すてさふらは)ばや。」と云(いひ)けるを、楠暫(しばらく)思案(しあん)して云(いひ)けるは、「合戦の勝負(しようぶ)必(かならず)しも大勢小勢(おほぜいこぜい)に不依、只(ただ)士卒(じそつ)の志(こころざし)を一にするとせざると也(なり)。されば「大敵を見ては欺(あざむ)き、小勢を見ては畏(おそ)れよ」と申す事是(これ)なり。先(まづ)思案(しあん)するに、先度(せんど)の軍(いくさ)に大勢打負(うちまけ)て引退(ひきしりぞ)く跡(あと)へ、宇都宮(うつのみや)一人小勢にて相向(あひむか)ふ志(こころざし)、一人も生(いき)て帰らんと思(おもふ)者よも候はじ。其上(そのうへ)宇都宮(うつのみや)は坂東一(ばんどういち)の弓矢取(ゆみやとり)也(なり)。紀清両党(きせいりやうたう)の兵(つはもの)、元来(もとより)戦場(せんぢやう)に臨(のぞん)で命を棄(すつ)る事塵芥(ぢんがい)よりも尚(なほ)軽(かる)くす。其兵(そのつはもの)七百余騎(よき)志を一(ひと)つにして戦(たたかひ)を決せば、当手(たうて)の兵(つはもの)縦(たとひ)退(しりぞ)く心なく共(とも)、大半(たいはん)は必(かならず)可被討。天下の事全(まつたく)今般(このたび)の戦(たたかひ)に不可依。行末(ゆくすゑ)遥(はるか)の合戦に、多からぬ御方(みかた)初度(しよど)の軍(いくさ)に被討なば、後日(ごにち)の戦(たたかひ)に誰か力(ちから)を可合。「良将(りやうしやう)は不戦して勝(かつ)」と申(まうす)事(こと)候へば、正成(まさしげ)に於ては、明日態(わざ)と此(この)陣を去(さつ)て引退(ひきしりぞ)き、敵に一面目(ひとめんぼく)在(あ)る様(やう)に思はせ、四五日を経て後(のち)、方々(はうばう)の峯に篝(かがり)を焼(たい)て、一蒸(ひとむし)蒸程(むすほど)ならば、坂東武者(ばんどうむしや)の習(ならひ)、無程機疲(きつかれ)て、「いや/\長居(ながゐ)しては悪(あし)かりなん。一面目(ひとめんぼく)有(ある)時去来(いざ)や引返(ひきかへ)さん。」と云(いは)ぬ者は候はじ。されば「懸(かく)るも引(ひく)も折(をり)による」とは、加様(かやう)の事を申(まうす)也(なり)。夜(よ)已(すで)に暁天(げうてん)に及べり。敵定(さだめ)て今は近付(ちかづく)らん。去来(いざ)させ給へ。」とて、楠天王寺(てんわうじ)を立(たち)ければ、和田・湯浅(ゆあさ)も諸共(もろとも)に打連(うちつれ)てぞ引(ひき)たりける。夜(よ)明(あけ)ければ、宇都宮(うつのみや)七百余騎(よき)の勢にて天王寺(てんわうじ)へ押寄(おしよ)せ、古宇都(こうづ)の在家(ざいけ)に火を懸け、時(とき)の声を揚(あげ)たれ共(ども)、敵なければ不出合。「たばかりぞすらん。此辺(このあたり)は馬の足立(あしたち)悪(あしう)して、道狭(せば)き間、懸入(かけいる)敵に中(なか)を被破な、後(うし)ろを被裹な。」と下知(げぢ)して、紀清両党(きせいりやうたう)馬の足をそろへて、天王寺(てんわうじ)の東西(とうざい)の口(くち)より懸入(かけいつ)て、二三度(にさんど)まで懸入々々(かけいりかけいり)しけれ共(ども)、敵一人も無(なく)して、焼捨(たきすて)たる篝(かがり)に燈(ともしび)残(のこり)て、夜はほの/゛\と明(あけ)にけり。宇都宮(うつのみや)不戦先(さき)に一勝(ひとかち)したる心地(ここち)して、本堂(ほんだう)の前(まへ)にて馬より下(お)り、上宮太子(じやうぐうたいし)を伏拝(ふしをが)み奉り、是(これ)偏(ひとへ)に武力(ぶりき)の非所致、只然(しかしながら)神明仏陀(しんめいぶつだ)の擁護(おうご)に懸(かか)れりと、信心(しんじん)を傾(かたむ)け歓喜(くわんぎ)の思(おもひ)を成(な)せり。頓(やが)て京都へ早馬(はやむま)を立(た)て、「天王寺(てんわうじ)の敵をば即時(そくじ)に追落(おひおと)し候(さふらひ)ぬ。」と申(まうし)たりければ、両六波羅(りやうろくはら)を始(はじめ)として、御内外様(みうちとざま)の諸軍勢(しよぐんぜい)に至(いたる)まで、宇都宮(うつのみや)が今度(このたび)の振舞(ふるまひ)抜群(ばつぐん)也(なり)。と、誉(ほめ)ぬ人も無(なか)りけり。宇都宮(うつのみや)、天王寺(てんわうじ)の敵を輒(たやす)く追散(おつちら)したる心地(ここち)にて、一面目(ひとめんぼく)は有体(あるてい)なれ共(ども)、軈(やが)て続(つづい)て敵の陣へ責入(せめい)らん事も、無勢(ぶぜい)なれば不叶、又誠(まこと)の軍(いくさ)一度(いちど)も不為して引返(ひつかへ)さん事もさすがなれば、進退(しんだい)谷(きはまつ)たる処に、四五日を経(へ)て後(のち)、和田・楠(くすのき)、和泉(いづみ)・河内(かはち)の野伏共(のぶしども)を四五千人駈集(かりあつめ)て、可然兵(つはもの)二三百騎(にさんびやくき)差副(さしそへ)、天王寺(てんわうじ)辺(へん)に遠篝火(とほかがりび)をぞ焼(たか)せける。すはや敵こそ打出(うちいで)たれと騒動(さうどう)して、深行侭(ふけゆくまま)に是(これ)を見れば、秋篠(あきしの)や外山(とやま)の里(さと)、生駒(いこま)の岳(だけ)に見ゆる火は、晴(はれ)たる夜の星よりも数(しげ)く、藻塩草(もしほぐさ)志城津(しぎづ)の浦、住吉(すみよし)・難波(なんば)の里に焼篝(たくかがり)は、漁舟(ぎよしう)に燃(とぼ)す居去火(いさりび)の、波を焼(たく)かと怪しまる。総(すべ)て大和(やまと)・河内・紀伊(きの)国(くに)にありとある所の山々浦々に、篝(かがり)を焼(たか)ぬ所は無(なか)りけり。其(その)勢幾万騎(いくまんぎ)あらんと推量してをびたゝし。如此する事両三夜に及び、次第(しだい)に相近付(あひちかづ)けば、弥(いよいよ)東西南北四維上下(しゆゐじやうげ)に充満(じゆうまん)して、闇夜(あんや)に昼(ひる)を易(かへ)たり。宇都宮(うつのみや)是(これ)を見て、敵寄来(よせきた)らば一軍(ひといくさ)して、雌雄(しゆう)を一時に決せんと志(こころざ)して、馬の鞍(くら)をも不息、鎧(よろひ)の上帯(うはおび)をも不解待懸(まちかけ)たれ共(ども)、軍(いくさ)は無(なう)して敵の取廻(とりまは)す勢(いきほ)ひに、勇気疲(つか)れ武力(ぶりき)怠(たゆん)で、哀(あは)れ引退(ひきしりぞ)かばやと思ふ心着(つき)けり。斯(かか)る処に紀清両党(きせいりやうたう)の輩(ともがら)も、「我等(われら)が僅(わづか)の小勢(こぜい)にて此(この)大敵に当(あた)らん事は、始終(しじゆう)如何(いかん)と覚(おぼえ)候。先日(せんじつ)当所(たうしよ)の敵を無事故追落(おひおと)して候(さふらひ)つるを、一面目(ひとめんぼく)にして御上洛(ごしやうらく)候へかし。」と申せば、諸人(しよにん)皆此義(このぎ)に同(どう)じ、七月二十七日(にじふしちにちの)夜半許(やはんばかり)に宇都宮(うつのみや)天王寺(てんわうじ)を引(ひきて)上洛(しやうらく)すれば、翌日(よくじつ)早旦(さうたん)に楠頓(やが)て入替(いりかは)りたり。誠(まこと)に宇都宮(うつのみや)と楠と相戦(あひたたかう)て勝負(しようぶ)を決せば、両虎二龍(りやうこじりゆう)の闘(たたかひ)として、何(いづ)れも死を共(とも)にすべし。されば互に是(これ)を思ひけるにや、一度(ひとたび)は楠引(ひい)て謀(はかりごと)を千里(せんり)の外(ほか)に運(めぐら)し、一度(ひとたび)は宇都宮(うつのみや)退(しりぞい)て名を一戦(いつせん)の後(のち)に不失。是(これ)皆智謀深く、慮(おもんばか)り遠き良将(りやうしやう)なりし故(ゆゑ)也(なり)。と、誉(ほめ)ぬ人も無(なか)りけり。去程(さるほど)に楠兵衛正成(まさしげ)は、天王寺(てんわうじ)に打出(うちいで)て、威猛(ゐまう)を雖逞、民屋(みんをく)に煩(わづら)ひをも不為して、士卒(じそつ)に礼を厚くしける間、近国(きんごく)は不及申、遐壌遠境(かじやうゑんきやう)の人牧(じんぼく)までも、是(これ)を聞伝(ききつた)へて、我(われ)も我(われ)もと馳加(はせくはは)りける程に、其勢(そのいきほ)ひ漸(やうやく)強大(きやうだい)にして、今は京都よりも、討手(うつて)を無左右被下事は難叶とぞ見へたりける。
○正成(まさしげ)天王寺(てんわうじの)未来記(みらいき)披見(ひけんの)事(こと) S0603 
元弘二年八月三日、楠兵衛正成住吉(すみよし)に参詣し、神馬(しんめ)三疋(さんびき)献之。翌日(よくじつ)天王寺(てんわうじ)に詣(まうで)て白鞍(しろくら)置(おい)たる馬、白輻輪(しらぶくりん)の太刀、鎧(よろひ)一両(いちりやう)副(そへ)て引進(ひきまゐら)す。是(これ)は大般若経(だいはんにやきやう)転読(てんどく)の御布施(おんふせ)なり。啓白(けいひやく)事終(ことをはつ)て、宿老(しゆくらう)の寺僧(じそう)巻数(くわんじゆ)を捧(ささげ)て来れり。楠則(すなはち)対面して申(まうし)けるは、「正成、不肖(ふせう)の身として、此(この)一大事(いちだいじ)を思立(おもひたち)て候事(こと)、涯分(がいぶん)を不計に似たりといへ共(ども)、勅命の不軽礼儀を存(ぞん)ずるに依(よつ)て、身命(しんみやう)の危(あやふ)きを忘(わすれ)たり。然(しかる)に両度(りやうど)の合戦聊(いささか)勝(かつ)に乗(のつ)て、諸国の兵不招馳加(はせくはは)れり。是(これ)天の時を与へ、仏神(ぶつじん)擁護(おうご)の眸(まなじり)を被回歟(か)と覚(おぼえ)候。誠やらん伝承(つたへうけたまは)れば、上宮(じようぐう)太子の当初(そのかみ)、百王治天(ちてん)の安危(あんき)を勘(かんがへ)て、日本(につぽん)一州(いつしう)の未来記(みらいき)を書置(かきおか)せ給(たまひ)て候なる。拝見若(もし)不苦候はゞ、今の時に当(あた)り候はん巻許(まきばかり)、一見仕候(つかまつりさふらは)ばや。」と云(いひ)ければ、宿老(しゆくらう)の寺僧(じそう)答(こたへ)て云(いはく)、「太子守屋(もりや)の逆臣(ぎやくしん)を討(うつ)て、始(はじめ)て此寺(このてら)を建(たて)て、仏法を被弘候(さふらひ)し後(のち)、神代(しんだい)より始(はじめ)て、持統(ぢとう)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に至(いたる)までを被記たる書(しよ)三十巻(さんじつくわん)をば、前代旧事本記(ぜんだいくじほんぎ)とて、卜部(うらべ)の宿祢(すくね)是(これ)を相伝(さうでん)して有職(いうしよく)の家を立(たて)候。其外(そのほか)に又一巻(いつくわん)の秘書(ひしよ)を被留て候。是(これ)は持統(ぢとう)天皇(てんわう)以来末世代々(まつせだいだい)の王業(わうげふ)、天下の治乱(ちらん)を被記て候。是(これ)をば輒(たやす)く人の披見(ひけん)する事は候はね共(ども)、以別儀密(ひそか)に見参(げんざん)に入(いれ)候べし。」とて、即(すなはち)秘府(ひふ)の銀鑰(ぎんやく)を開(ひらい)て、金軸(こんぢく)の書(しよ)一巻(いつくわん)を取出(とりいだ)せり。正成悦(よろこび)て則(すなはち)是(これ)を披覧(ひらん)するに、不思議(ふしぎ)の記文(きもん)一段(だん)あり。其文(そのもん)に云(いはく)、当人王九十五代。天下一(ひとたび)乱(みだれて)而主(しゆ)不安。此(この)時東魚(とうぎよ)来(きたつて)呑四海(しかい)。日没西天三百(さんびやく)七十(しちじふ)余箇日(よかにち)。西鳥(せいてう)来(きたつて)食東魚を。其後(そののち)海内(かいだい)帰一三年。如■猴(みこうのごとき)者掠天下三十(さんじふ)余年(よねん)。大凶(だいきよう)変(へんじて)帰一元。云云。正成不思議(ふしぎ)に覚へて、能々(よくよく)思案(しあん)して此文(このもん)を考(かんがふ)るに、先帝(せんてい)既(すで)に人王(にんわう)の始(はじめ)より九十五代に当(あた)り給へり。「天下一度(ひとたび)乱(みだれ)て主不安」とあるは是此(これこの)時なるべし。「東魚(とうぎよ)来(きたつ)て呑四海(しかい)」とは逆臣(ぎやくしん)相摸(さがみ)入道の一類(いちるゐ)なるべし。「西鳥(せいてう)食東魚を」とあるは関東(くわんとう)を滅(ほろぼ)す人可有。「日没西天に」とは、先帝(せんてい)隠岐(おきの)国(くに)へ被遷させ給ふ事なるべし。「三百(さんびやく)七十(しちじふ)余箇日(よかにち)」とは、明年(みやうねん)の春(はる)の比(ころ)此(この)君隠岐(おきの)国(くに)より還幸(くわんかう)成(なつ)て、再び帝位に即(つ)かせ可給事なるべしと、文(もん)の心を明(あきらか)に勘(かんがふる)に、天下の反覆(へんふく)久しからじと憑敷(たのもしく)覚(おぼえ)ければ、金作(こがねづくり)の太刀一振(ひとふり)此(この)老僧に与へて、此書(このしよ)をば本(もと)の秘府(ひふ)に納(をさめ)させけり。後(のち)に思合(おもひあは)するに、正成(まさしげ)が勘(かんが)へたる所、更(さら)に一事(いちじ)も不違。是(これ)誠(まこと)に大権聖者(だいごんのしやうじや)の末代(まつだい)を鑒(かんがみ)て記(しる)し置給(おきたまひ)し事なれ共(ども)、文質三統(ぶんしつさんとう)の礼変(れいべん)、少しも違(たが)はざりけるは、不思議(ふしぎ)なりし讖文(しんもん)也(なり)。
○赤松(あかまつ)入道円心(ゑんしん)賜大塔宮令旨事 S0604
其比(そのころ)播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)、村上(むらかみ)天皇(てんわう)第七(だいしちの)御子(みこ)具平(ぐへい)親王(しんわう)六代の苗裔(べうえい)、従三位(じゆさんみ)季房(すゑふさ)が末孫(ばつそん)に、赤松(あかまつの)次郎入道円心(ゑんしん)とて弓矢取(とつ)て無双(ぶさう)の勇士(ゆうし)有り。元来(もとより)其(その)心闊如(くわつじよ)として、人の下風(したて)に立(たた)ん事を思はざりければ、此(この)時絶(たえ)たるを継廃(つぎすたれ)たるを興(おこ)して、名を顕(あらは)し忠を抽(ぬきんで)ばやと思(おもひ)けるに、此(この)二三年大塔宮(おほたふのみや)に属纒奉(つきまとひたてまつり)て、吉野十津川(とつがは)の艱難(かんなん)を経(へ)ける円心が子息(しそく)律師(りつし)則祐(そくいう)、令旨(りやうじ)を捧(ささげ)て来れり。披覧(ひらん)するに、「不日(ふじつ)に揚義兵率軍勢、可令誅罰朝敵、於有其功者(は)、恩賞(おんしやう)宜依請」之(の)由(よし)、被戴。委細(いさいの)事書(ことがき)十七(じふしち)箇条の恩裁(おんさいを)被添たり。条々何(いづ)れも家の面目(めんぼく)、世の所望(しよまう)する事なれば、円心不斜悦(よろこう)で、先(まづ)当国佐用庄(さよのしやう)苔縄(こけなは)の山に城を構(かまへ)て、与力(よりき)の輩(ともがら)を相招(あひまね)く。其(その)威漸(やうやく)近国(きんごく)に振(ふる)ひければ、国中の兵共(つはものども)馳集(はせあつまつ)て、無程其(その)勢一千余騎(よき)に成(なり)にけり。只秦(しん)の世已(すで)に傾(かたむか)んとせし弊(つひえ)に乗(のつとつ)て、楚(そ)の陳勝(ちんしよう)が異蒼頭(さうとう)にして大沢(だいたく)に起りしに異ならず。頓(やが)て杉坂(すぎさか)・山(やま)の里(さと)二箇所(にかしよ)に関を居(すゑ)、山陽(せんやう)・山陰(せんいん)の両道(りやうだう)を差塞(さしふさ)ぐ。是より西国(さいこく)の道止(とまつ)て、国々の勢上洛(しやうらく)する事を得ざりけり。
○関東(くわんとうの)大勢(おほぜい)上洛(しやうらくの)事(こと) S0605
去程(さるほど)に畿内西国(きないさいこく)の凶徒(きようと)、日を逐(おつ)て蜂起(ほうき)する由(よし)、六波羅(ろくはら)より早馬(はやむま)を立(た)て関東(くわんとう)へ被注進。相摸(さがみ)入道大(おほき)に驚(おどろい)て、さらば討手を指遣(さしつかは)せとて、相摸守(さがみのかみ)の一族(いちぞく)、其外(そのほか)東(ひがし)八箇国(はちかこく)の中に、可然大名共(だいみやうども)を催(もよほ)し立(た)て被差上。先(まづ)一族(いちぞく)には、阿曾弾正少弼(あそのだんじやうせうひつ)・名越遠江(なごやのとほたふみの)入道・大仏(おさらぎの)前陸奥守(さきのむつのかみ)貞直(さだなほ)・同(おなじき)武蔵(むさしの)左近(さこんの)将監(しやうげん)・伊具右近(いぐのうこんの)大夫将監・陸奥右馬助(むつのうまのすけ)、外様(とざま)の人々には、千葉大介(ちばのおほすけ)・宇都宮(うつのみや)三河(みかはの)守(かみ)・小山判官(をやまのはんぐわん)・武田(たけだの)伊豆(いづの)三郎・小笠原(をがさはら)彦五郎・土岐伯耆(ときのはうき)入道・葦名判官(あしなのはんぐわん)・三浦(みうらの)若狭(わかさの)五郎・千田(せんだの)太郎・城太宰大弐(じやうのださいのだいに)入道・佐々木(ささきの)隠岐前司(おきのぜんじ)・同(おなじき)備中(びつちゆうの)守(かみ)・結城(ゆふきの)七郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・小田常陸前司(をだのひたちのぜんじ)・長崎四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・同(おなじき)九郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・長江(ながえの)弥六左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・長沼駿河(ながぬまのするがの)守(かみ)・渋谷(しぶや)遠江守(とほたふみのかみ)・河越(かはごえ)三河(みかはの)入道・工藤(くどう)次郎左衛門(じらうざゑもん)高景(たかかげ)・狩野(かのの)七郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・伊東常陸(いとうひたちの)前司・同(おなじき)大和(やまとの)入道・安藤藤内(あんどうとうない)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・宇佐美摂津(つの)前司・二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道・同下野(おなじきしもつけの)判官・同常陸介(おなじきひたちのかみ)・安保(あぶの)左衛門入道・南部(なんぶの)次郎・山城(やましろの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)、此等(これら)を始(はじめ)として、宗(むね)との大名(だいみやう)百三十二人(ひやくさんじふににん)、都合(つがふ)其(その)勢三十万七千五百(ごひやく)余騎(よき)、九月二十日鎌倉(かまくら)を立(たつ)て、十月八日先陣(せんぢん)既(すで)に京都に着(つ)けば後陣(ごぢん)は未だ足柄(あしがら)・筥根(はこね)に支(ささ)へたり。是(これ)のみならず河野(かうのの)九郎四国の勢を率(そつ)して、大船(たいせん)三百(さんびやく)余艘(よさう)にて尼崎(あまがさき)より襄(あがつ)て下京(しもきやう)に着(つく)。厚東(こうとう)入道・大内介(おほちのすけ)・安芸(あきの)熊谷(くまがえ)、周防(すはう)・長門(ながと)の勢を引具(ひきぐ)して、兵船(ひやうせん)二百余艘(よさう)にて、兵庫(ひやうご)より襄(あがつ)て西(にし)の京(きやう)に着(つく)。甲斐・信濃(しなの)の源氏七千余騎(よき)、中山道(なかせんだう)を経(へ)て東山(ひがしやま)に着(つく)。江馬(えま)越前守(ゑちぜんのかみ)・淡河右京亮(あいかはうきやうのすけ)、北陸道(ほくろくだう)七(しち)箇国(かこく)の勢を率(そつ)して、三万余騎(よき)にて東坂本(ひがしさかもと)を経て上京(かみきやう)に着(つく)。総(そう)じて諸国七道の軍勢(ぐんぜい)我(われ)も我(われ)もと馳上(はせのぼ)りける間、京白河(しらかは)の家(いへ)々に居余(ゐあま)り、醍醐(だいご)・小栗栖(をぐるす)・日野(ひの)・勧修寺(くわんしゆじ)・嵯峨・仁和寺(にんわじ)・太秦(うづまさ)の辺(へん)・西山(にしやま)・北山(きたやま)・賀茂(かも)・北野・革堂(かうだう)・河崎(かうさき)・清水(きよみづ)・六角堂の門(もん)の下(した)、鐘楼(しゆろう)の中迄(まで)も、軍勢の宿(やど)らぬ所は無(なか)りけり。日本(につぽん)雖小国是程(これほど)に人の多かりけりと始(はじめ)て驚く許(ばかり)也(なり)。去程(さるほど)に元弘三年正月晦日(つごもり)、諸国の軍勢八十万騎(はちじふまんぎ)を三手(みて)に分(わけ)て、吉野・赤坂・金剛山(こんがうせん)、三(みつ)の城へぞ被向ける。先(まづ)吉野へは二階堂出羽(ではの)入道々蘊(だううん)を太将として、態(わざ)と他の勢を交(まじ)へず、二万七千余騎(よき)にて、上道(かみみち)・下道(しもみち)・中道(なかみち)より、三手に成(なつ)て相向ふ。赤坂へは阿曾弾正少弼(あそだんじやうせうひつ)を大将として、其(その)勢八万(はちまん)余騎(よき)、先(まづ)天王寺(てんわうじ)・住吉に陣を張る。金剛山(こんがうせん)へは陸奥(むつの)右馬助(うまのすけ)、搦手(からめで)の大将として、其(その)勢二十万騎(にじふまんぎ)、奈良路(ならぢ)よりこそ被向けれ。中にも長崎悪四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)は、別して侍(さぶらひ)大将を承(うけたまはつ)て、大手(おほて)へ向ひけるが、態(わざと)己(おのれ)が勢(せい)の程を人に被知とや思(おもひ)けん。一日引(ひき)さがりてぞ向ひける。其行妝(そのかうさう)見物(けんぶつ)の目をぞ驚(おどろか)しける。先(まづ)旗差(はたさし)、其(その)次に逞しき馬に厚総(あつぶさ)懸(かけ)て、一様(いちやう)の鎧(よろひ)着(きた)る兵(つはもの)八百(はつぴやく)余騎(よき)、二町(にちやう)計(ばかり)先(さ)き立(だ)てゝ、馬を静めて打(うた)せたり。我(わが)身は其(その)次に纐纈(かうけつ)の鎧直垂(よろひひたたれ)に、精好(せいがう)の大口(おほくち)を張(はら)せ、紫下濃(むらさきすそご)の鎧に、白星(しらぼし)の五枚甲(かぶと)に八竜(はちりゆう)を金(きん)にて打(うつ)て付(つけ)たるを猪頚(ゐくび)に着成(きな)し、銀(しろがね)の瑩付(みがきつけ)の脛当(すねあて)に金作(こがねづくり)の太刀に振帯(ふりはい)て、一部黒(いちのへいぐろ)とて、五尺三寸有(あり)ける坂東(ばんどう)一の名馬に塩干潟(しほひがた)の捨小舟(すてをぶね)を金貝(かながひ)に磨(すり)たる鞍を置(おい)て、款冬(やまぶき)色の厚総(あつぶさ)懸(かけ)て、三十六(さんじふろく)差(さい)たる白磨(しらすり)の銀筈(しろがねはず)の大中黒(おほなかぐろ)の矢に、本滋藤(もとしげどう)の弓の真中(まつなか)握(にぎつ)て、小路(こうぢ)を狭(せば)しと歩(あゆ)ませたり。片小手(かたこて)に腹当(はらあて)して、諸具足(もろぐそく)したる中間(ちゆうげん)五百(ごひやく)余人(よにん)、二行(にがう)に列を引き、馬の前後(ぜんご)に随(したがつ)て、閑(しづか)に路次(ろし)をぞ歩(あゆ)みける。其後(そののち)四五町(しごちやう)引(ひき)さがりて、思々(おもひおもひ)に鎧(よろう)たる兵(つはもの)十万余騎(よき)、甲(かぶと)の星を輝(かかや)かし、鎧の袖を重(かさね)て、沓(くつ)の子(こ)を打(うち)たるが如くに道五六里が程支(ささへ)たり。其勢(そのいきほ)ひ決然(けつぜん)として天地を響(ひび)かし山川(さんせん)を動(うごか)す許(ばかり)也(なり)。此外(このほか)々様(とざま)の大名(だいみやう)五千騎(ごせんぎ)・三千騎、引分々々(ひきわけひきわけ)昼夜(ちうや)十三日迄(まで)、引(ひき)も切らでぞ向ひける。我朝(わがてう)は不及申、唐土(たうど)・天竺(てんぢく)・太元(たいげん)・南蛮(なんばん)も、未(いまだ)是程(これほど)の大軍を発(おこ)す事難有かりし事也(なり)。と思はぬ人こそ無(なか)りけれ。
○赤坂合戦(あかさかかつせんの)事(こと)付人見本間(ひとみほんま)抜懸(ぬけがけの)事(こと) S0606
去程(さるほど)に赤坂の城へ向ひける大将、阿曾弾正少弼(あそだんじやうせうひつ)、後陣(ごぢん)の勢を待調(まちそろ)へんが為に、天王寺(てんわうじ)に両日逗留(とうりう)有(あつ)て、同(おなじき)二月二日午刻(むまのこく)に、可有矢合、於抜懸之輩者(は)、可為罪科之由(よし)をぞ被触ける。爰(ここ)に武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に人見(ひとみ)四郎入道恩阿(おんあ)と云(いふ)者あり。此(この)恩阿、本間(ほんま)九郎資貞(すけさだ)に向(むかつ)て語りけるは、「御方(みかた)の軍勢雲霞(うんか)の如くなれば、敵陣を責落(せめおと)さん事疑(うたがひ)なし。但(ただし)事(こと)の様(やう)を案(あん)ずるに、関東(くわんとう)天下を治(をさめ)て権を執(と)る事已(すで)に七代に余れり。天道(てんだう)欠盈理(り)遁(のが)るゝ処なし。其上(そのうへ)臣として君を流し奉る積悪(せきあく)、豈(あに)果して其身(そのみ)を滅(ほろぼ)さゞらんや。某(それがし)不肖(ふせう)の身なりと云へ共(ども)、武恩を蒙(かうむつ)て齢(よはひ)已(すで)に七旬(しちじゆん)に余れり。今日より後(のち)差(さし)たる思出(おもひで)もなき身の、そゞろに長生(ながいき)して武運の傾(かたぶ)かんを見んも、老後(らうご)の恨(うらみ)臨終(りんじゆう)の障(さはり)共(とも)成(なり)ぬべければ、明日(みやうにち)の合戦(かつせん)に先懸(さきがけ)して、一番に討死して、其(その)名を末代(まつだい)に遺(のこ)さんと存(ぞん)ずる也(なり)。」と語りければ、本間九郎心中(しんちゆう)にはげにもと思(おもひ)ながら、「枝葉(しえふ)の事を宣(のたまふ)者哉(かな)。是(これ)程なる打囲(うちごみ)の軍(いくさ)に、そゞろなる先懸(さきがけ)して討死したりとも、差(さし)て高名(かうみやう)とも云(いは)れまじ。されば只(ただ)某(それがし)は人なみに可振舞也(なり)。」と云(いひ)ければ、人見よにも無興気(ぶきようげ)にて、本堂の方(かた)へ行(ゆき)けるを、本間怪(あやし)み思(おもひ)て、人を付(つけ)て見せければ、矢立(やたて)を取出(とりいだ)して、石の鳥居(とりゐ)に何事(なにこと)とは不知一筆(ひとふで)書付(かきつけ)て、己(おのれ)が宿(やど)へぞ帰りける。本間九郎、さればこそ此(この)者に一定(いちぢやう)明日先懸(さきがけ)せられぬと、心ゆるし無(なか)りければ、まだ宵(よひ)より打立(うちたつ)て、唯(ただ)一騎東条(とうでう)を指(さし)て向(むかひ)けり。石川々原(いしかはかはら)にて夜(よ)を明(あか)すに、朝霞(あさぎり)の晴間(はれま)より、南の方(かた)を見ければ、紺唐綾威(こんのからあやをどし)の鎧に白母衣(しろほろ)懸(かけ)て、鹿毛(かげ)なる馬に乗(のつ)たる武者(むしや)一騎、赤坂(あかさか)の城へぞ向ひける。何者(なにもの)やらんと馬打寄(うちよ)せて是(これ)を見れば、人見四郎入道なりけり。人見本間を見付(みつけ)て云(いひ)けるは、「夜部(よべ)宣(のたまひ)し事を実(まこと)と思(おもひ)なば、孫(まご)程の人に被出抜まし。」と打笑(うちわらう)てぞ、頻(しきり)に馬を早めける。本間跡(あと)に付(つい)て、「今は互に先(さき)を争ひ申(まうす)に及(およば)ず、一所(いつしよ)にて尸(かばね)を曝(さら)し、冥途(めいど)までも同道(どうだう)申さんずるぞよ。」と云(いひ)ければ、人見、「申(まうす)にや及ばん。」と返事して、跡になり先になり物語して打(うち)けるが、赤坂城の近く成(なり)ければ、二人(ににん)の者共(ものども)馬の鼻を双(ならべ)て懸驤(かけあが)り、堀の際(きは)まで打寄(うちよつ)て、鐙(あぶみ)踏張(ふんばり)弓杖(ゆんづゑ)突(つい)て、大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に、人見四郎入道恩阿(おんあ)、年(とし)積(つもつ)て七十三、相摸(さがみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)本間九郎資貞(すけさだ)、生年(しやうねん)三十七、鎌倉(かまくら)を出(いで)しより軍(いくさ)の先陣を懸(かけ)て、尸(かばね)を戦場に曝(さら)さん事を存じて相向(あひむか)へり。我(われ)と思はん人々は、出合(いであひ)て手なみの程を御覧(ごらん)ぜよ。」と声々(こゑごゑ)に呼(よばはつ)て城を睨(にらん)で引(ひか)へたり。城中(じやうちゆう)の者共(ものども)是(これ)を見て、是(これ)ぞとよ、坂東武者(ばんどうむしや)の風情(ふぜい)とは。只(ただ)是(これ)熊谷(くまがえ)・平山(ひらやま)が一谷(いちのたに)の先懸(さきがけ)を伝聞(つたへきい)て、羨敷(うらやましく)思へる者共(ものども)也(なり)。跡(あと)を見るに続く武者もなし。又さまで大名(だいみやう)とも見へず。溢(あふ)れ者の不敵武者(ふてきむしや)に跳(をど)り合(あう)て、命(いのち)失(うしなう)て何かせん。只置(おい)て事の様(やう)を見よ、とて、東西鳴(なり)を静めて返事もせず。人見腹を立(た)て、「早旦(さうたん)より向(むかつ)て名乗れ共(ども)、城より矢の一(ひとつ)をも射出(いいだ)さぬは、臆病(おくびやう)の至(いた)り歟(か)、敵を侮(あなど)る歟(か)、いで其義(そのぎ)ならば手柄(てがら)の程を見せん。」とて、馬より飛下(とびおり)て、堀の上なる細橋(ほそはし)さら/\と走渡(はしりわた)り、二人(ににん)の者共(ものども)出(だ)し屏(べい)の脇に引傍(ひつそう)て、木戸を切落(きりおと)さんとしける間、城中是(これ)に騒(さわい)で、土小間(つちざま)・櫓(やぐら)の上より、雨の降(ふる)が如くに射ける矢、二人(ににん)の者共(ものども)が鎧に、蓑毛(みのけ)の如くにぞ立(たち)たりける。本間も人見も、元(もと)より討死(うちじに)せんと思立(おもひたち)たる事なれば、何かは一足(ひとあし)も可引。命(いのち)を限(かぎり)に二人(ににん)共(とも)に一所(いつしよ)にて被討けり。是(これ)まで付従(つきしたが)ふて最後の十念(じふねん)勧(すす)めつる聖(ひじり)、二人(ににん)が首を乞得(こひえ)て、天王寺(てんわうじ)に持(もち)て帰り、本間が子息(しそく)源内(げんない)兵衛資忠(すけただ)に始(はじめ)よりの有様(ありさま)を語る。資忠(すけただ)父が首を一目見て、一言(いちごん)をも不出、只涙に咽(むせん)で居たりけるが、如何(いかが)思(おもひ)けん、鐙を肩に投懸(なげかけ)、馬に鞍置(おい)て只一人打出(うちいで)んとす。聖怪(あやし)み思(おもう)て、鎧の袖を引留(ひきとど)め、「是(これ)はそも如何(いか)なる事にて候ぞ。御親父(ごしんぶ)も此(この)合戦に先懸(さきがけ)して、只名(な)を天下の人に被知と許(ばかり)思召(おぼしめ)さば、父子(ふし)共に打連(うちつれ)てこそ向はせ給ふべけれ共、命(いのち)をば相摸殿(さがみどの)に献(たてまつ)り、恩賞(おんしやう)をば子孫(しそん)の栄花(えいぐわ)に貽(のこ)さんと思召(おぼしめし)ける故(ゆゑ)にこそ、人より先(さき)に討死をばし給(たまふ)らめ。而(しか)るに思ひ篭(こめ)給へる所もなく、又敵陣に懸入(かけいつ)て、父子共(ふしとも)に打死し給ひなば、誰か其跡(そのあと)を継(つ)ぎ誰か其(その)恩賞を可蒙。子孫無窮(ぶきゆう)に栄(さかゆ)るを以(もつ)て、父祖の孝行を呈(あらは)す道とは申(まうす)也(なり)。御悲歎(ごひたん)の余(あま)りに無是非死を共にせんと思召(おぼしめす)は理(ことわり)なれ共(ども)、暫(しばらく)止(とま)らせ給へ。」と堅く制しければ、資忠涙を押(おさ)へて無力着(き)たる鎧を脱置(ぬぎおき)たり。聖(ひじり)さては制止に拘(かかは)りぬと喜しく思て、本間が首(くび)を小袖に裹(つつ)み、葬礼の為に、側(あたり)なる野辺(のべ)へ越(こえ)ける其(その)間に、資忠(すけただ)今は可止人なければ、則(すなはち)打出(うちいで)て、先(まづ)上宮(じやうぐう)太子の御前(おんまへ)に参り、今生(こんじやう)の栄耀(えいえう)は、今日(けふ)を限りの命(いのち)なれば、祈る所に非(あら)ず、唯(ただ)大悲(だいひ)の弘誓(ぐぜい)の誠(まこと)有らば、父にて候者の討死仕候(つかまつりさふらひ)し戦場(せんぢやう)の同じ苔(こけ)の下(した)に埋(うづも)れて、九品安養(くぼんあんやう)の同台(おなじうてな)に生(むま)るゝ身と成(な)させ給へと、泣々(なくなく)祈念(きねむ)を凝(こら)して泪(なみだ)と共に立出(たちいで)けり。石の鳥居(とりゐ)を過(すぐ)るとて見れば我(わが)父と共に討死しける人見四郎入道が書付(かきつけ)たる歌あり。是(これ)ぞ誠(まこと)に後世(ごせ)までの物語に可留事よと思(おもひ)ければ、右の小指を喰切(くひきつ)て、其(その)血を以て一首(いつしゆ)を側(そば)に書添(かきそへ)て、赤坂の城へぞ向ひける。城近く成(なり)ぬる所にて馬より下(お)り、弓を脇に挟(さしはさん)で城戸(きど)を叩き、「城中の人々に可申事あり。」と呼(よばは)りけり。良(やや)暫く在(あつ)て、兵(つはもの)二人(ににん)櫓(やぐら)の小間(さま)より顔を指出(さしいだ)して、「誰人(たれびと)にて御渡(わたり)候哉(や)。」と問(とひ)ければ、「是(これ)は今朝(こんてう)此(この)城に向(むかつ)て打死(うちじに)して候(さふらひ)つる、本間九郎資貞(すけさだ)が嫡子、源内(げんない)兵衛資忠(すけただ)と申(まうす)者にて候也(なり)。人の親の子を憶(おも)ふ哀(あはれ)み、心の闇に迷(まよ)ふ習(ならひ)にて候間、共に打死(うちじに)せん事を悲(かなしみ)て、我に不知して、只一人打死(うちじに)しけるにて候。相伴(あひともな)ふ者無(なく)て、中有(ちゆうう)の途(みち)に迷ふ覧(らん)。さこそと被思遣候へば、同(おなじ)く打死仕(つかまつり)て、無迹(なきあと)まで父に孝道を尽(つく)し候(さふらは)ばやと存(ぞん)じて、只一騎相向(あひむかつ)て候也(なり)。城の大将に此由(このよし)を被申候(さふらひ)て、木戸(きど)を被開候へ。父が打死(うちじに)の所にて、同(おなじ)く命(いのち)を止(とど)めて、其望(そののぞみ)を達し候はん。」と、慇懃(いんぎん)に事を請(こ)ひ泪(なみだ)に咽(むせん)でぞ立(たつ)たりける。一の木戸を堅(かた)めたる兵(つはもの)五十(ごじふ)余人(よにん)、其志(そのこころざし)孝行にして、相向(あひむか)ふ処やさしく哀(あはれ)なるを感じて、則(すなはち)木戸を開き、逆茂木(さかもぎ)を引(ひき)のけしかば、資忠(すけただ)馬に打乗り、城中へ懸入(かけいつ)て、五十(ごじふ)余人(よにん)の敵と火を散(ちらし)てぞ切合(きりあひ)ける。遂に父が被討し其迹(そのあと)にて、太刀を口に呀(くはへ)て覆(うつぶ)しに倒(たふれ)て、貫かれてこそ失(うせ)にけれ。惜(をしい)哉(かな)、父の資貞(すけさだ)は、無双(ぶさう)の弓矢取(ゆみやとり)にて国の為に要須(えうしゆ)たり。又子息資忠(すけただ)は、ためしなき忠孝の勇士にて家の為に栄名(えいめい)あり。人見は年(とし)老(おい)齢(よはひ)傾(かたむ)きぬれ共(ども)、義を知(しり)て命(めい)を思ふ事(こと)、時と共に消息(せうそく)す。此(この)三人(さんにん)同時(どうじ)に討死(うちじに)しぬと聞へければ、知(しる)も知(しら)ぬもをしなべて、歎かぬ人は無(なか)りけり。既(すで)に先懸(さきがけ)の兵共(つはものども)、ぬけ/\に赤坂の城へ向(むかつ)て、討死する由披露(ひろう)有(あり)ければ、大将則(すなはち)天王寺(てんわうじ)を打立(うちたつ)て馳向(はせむか)ひけるが、上宮(じやうぐう)太子の御前(おんまへ)にて馬より下(お)り、石の鳥居を見給へば、左の柱に、花さかぬ老木(おいき)の桜朽(くち)ぬとも其(その)名は苔の下(した)に隠(かく)れじと一首(いつしゆ)の歌を書(かい)て、其(その)次に、「武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)人見(ひとみ)四郎恩阿(おんあ)、生年(しやうねん)七十三、正慶(しやうきやう)二年二月二日、赤坂の城へ向(むかつ)て、武恩を報ぜん為に討死仕畢(つかまつりをはん)ぬ。」とぞ書(かい)たりける。又右の柱を見れば、まてしばし子を思ふ闇に迷(まよふ)らん六(むつ)の街(ちまた)の道しるべせんと書(かい)て、「相摸(さがみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)本間九郎資貞(すけさだが)嫡子(ちやくし)、源内兵衛資忠生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)、正慶二年仲春(ちゆうしゆん)二日、父が死骸(しがい)を枕にして、同戦場(おなじせんぢやう)に命(いのち)を止(とど)め畢(をはん)ぬ。」とぞ書(かい)たりける。父子の恩義君臣の忠貞、此(この)二首の歌に顕(あらは)れて、骨は化(け)して黄壌(くわうじやう)一堆(いつたい)の下(もと)に朽(くち)ぬれど、名は留(とどまつ)て青雲(せいうん)九天の上に高し。されば今に至るまで、石碑(せきひ)の上に消残(きえのこ)れる三十一字(みそぢひともじ)を見る人、感涙(かんるゐ)を流さぬは無(なか)りけり。去程(さるほど)に阿曾弾正少弼(あそのだんじやうせうひつ)、八万(はちまん)余騎(よき)の勢を率(そつ)して、赤坂へ押寄(おしよ)せ、城の四方(しはう)二十(にじふ)余町(よちやう)、雲霞(うんか)の如くに取巻(とりまい)て、先時(まづとき)の声をぞ揚(あげ)たりける。其音(そのこゑ)山を動(うごか)し地を震(ふる)ふに、蒼涯(さうがい)も忽(たちまち)に可裂。此(この)城三方(さんぱう)は岸(きし)高(たかう)して、屏風(びやうぶ)を立(たて)たるが如し。南の方許(ばかり)こそ平地(ひらち)に継(つづ)ひて、堀を広く深く掘切(ほりきつ)て、岸の額(ひたひ)に屏(へい)を塗(ぬ)り、其(その)上に櫓(やぐら)を掻双(かきなら)べたれば、如何なる大力早態(だいりきはやわざ)なりとも、輒(たやす)く可責様(やう)ぞなき。され共(ども)寄手(よせて)大勢なれば、思侮(おもひあなどつ)て楯にはづれ矢面(やおもて)に進(すすん)で、堀の中へ走り下(おり)て、切岸(きりぎし)を襄(あが)らんとしける処を、屏(へい)の中より究竟(くきやう)の射手共(いてども)、鏃(やじり)を支(ささへ)て思様(おもふやう)に射ける間、軍(いくさ)の度毎(たびごと)に、手負死人(ておひしにん)五百人(ごひやくにん)六百人(ろつぴやくにん)、不被射出時はなかりけり。是をも不痛荒手(あらて)を入替々々(いれかへいれかへ)、十三日までぞ責(せめ)たりける。され共(ども)城中少(すこし)も不弱見へけり。爰(ここ)に播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)、吉河(きつかはの)八郎と云(いふ)者、大将の前に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「此(この)城の為体(ていたらく)、力責(ちからせめ)にし候はゞ無左右不可落候。楠此(この)一両年が間、和泉(いづみ)・河内を管領(くわんりやう)して、若干(そこばく)の兵粮(ひやうらう)を取入(とりいれ)て候なれば、兵粮も無左右尽(つき)候まじ。倩(つらつら)思案(しあん)を廻(めぐら)し候に、此(この)城三方(さんぱう)は谷深(ふかう)して地に不継、一方は平地(ひらち)にて而(しか)も山遠く隔(へだた)れり。されば何(いづ)くに水可有とも見へぬに、火矢(ひや)を射れば水弾(みづはじき)にて打消(うちけし)候。近来(このごろ)は雨の降る事も候はぬに、是程(これほど)まで水の卓散(たくさん)に候は、如何様(いかさま)南の山の奥より、地(ち)の底に樋(ひ)を伏(ふせ)て、城中へ水を懸入(かけい)るゝ歟(か)と覚(おぼえ)候。哀(あはれ)人夫(にんぶ)を集めて、山の腰を掘(ほり)きらせて、御覧候へかし。」と申(まうし)ければ、大将、「げにも。」とて、人夫を集め、城へ継(つづ)きたる山の尾を、一文字(いちもんじ)に掘切(ほりきつ)て見れば、案の如く、土(つち)の底に二丈余(あま)りの下に樋(ひ)を伏せて、側(そば)に石を畳(たた)み、上に真木(まき)の瓦(かはら)を覆(ふせ)て、水を十町(じつちよう)余(あまり)の外(ほか)よりぞ懸(かけ)たりける。此揚水(このあげみづ)を被止て後(のち)、城中に水乏(とぼしう)して、軍勢口中(くぢゆう)の渇(かつ)難忍ければ、四五日が程は、草葉(くさば)に置(お)ける朝(あした)の露を嘗め、夜気(やき)に潤(うるほ)へる地(ち)に身を当(あて)て、雨を待(まち)けれ共(ども)雨不降。寄手(よせて)是(これ)に利を得、隙(ひま)なく火矢(ひや)を射ける間、大手の櫓(やぐら)二(ふた)つをば焼落(やきおと)しぬ。城中の兵(つはもの)水を飲まで十二日に成(なり)ければ、今は精力(せいりよく)尽(つき)はてゝ、可防方便(てだて)も無(なか)りけり。死(しに)たる者は再び帰る事なし。去来(いざ)や、とても死なんずる命(いのち)を、各(おのおの)力(ちから)の未だ墜(おち)ぬ先(さき)に打出(うちい)で、敵に指違(さしちが)へ、思様(おもふやう)に打死(うちじに)せんと、城の木戸を開(ひらい)て、同時に打出(うちいで)んとしけるを、城の本人平野将監(しやうげん)入道、高櫓(たかやぐら)より走下(はしりお)り、袖をひかへて云(いひ)けるは、「暫く楚忽(そこつ)の事な仕給(したま)ふそ。今は是程(これほど)に力尽(つ)き喉(のんど)乾(かわい)て疲(つか)れぬれば、思ふ敵に相逢(あひあは)ん事有難(ありがた)し。名もなき人の中間(ちゆうげん)・下部共(しもべども)に被虜て、恥を曝(さら)さん事可心憂。倩(つらつら)事(こと)の様(やう)を案(あん)ずるに、吉野・金剛山(こんがうせん)の城、未(いまだ)相支(あひささへ)て勝負(しようぶ)を不決。西国(さいこく)の乱(らん)未だ静まらざるに、今降人(かうにん)に成(なつ)て出(いで)たらん者をば、人に見こらせじとて、討(うつ)事(こと)不可有と存ずる也(なり)。とても叶(かな)はぬ我等なれば、暫(しばらく)事(こと)を謀(はかつ)て降人に成(なり)、命を全(まつたう)して時至らん事を可待。」といへば、諸卒(しよそつ)皆此義(このぎ)に同(どう)じて、其(その)日の討死をば止(や)めてけり。去程(さるほど)に次(つぎの)日軍(いくさ)の最中(さいちゆう)に、平野入道高櫓(たかやぐら)に上(のぼつ)て、「大将の御方(おんかた)へ可申子細(しさい)候。暫く合戦を止(やめ)て、聞食(きこしめし)候へ。」と云(いひ)ければ、大将渋谷(しぶや)十郎を以て、事の様(やう)を尋(たづぬ)るに、平野木戸口(きどくち)に出合(いであつ)て、「楠和泉・河内の両国を平げて威を振(ふる)ひ候(さふらひ)し刻(きざみ)に、一旦(いつたん)の難(なん)を遁れん為に、不心御敵に属(しよく)して候(さふらひ)き。此子細(このしさい)京都に参(さん)じ候(さふらう)て、申入(まうしいれ)候はんと仕(つかまつり)候処に、已(すで)に大勢を以て被押懸申(まうし)候間(あひだ)、弓矢取身(ゆみやとるみ)の習ひにて候へば、一矢(ひとや)仕りたるにて候。其罪科(そのざいくわ)をだに可有御免にて候はゞ、頚を伸(のべ)て降人(かうにん)に可参候。若(もし)叶(かな)ふまじきとの御定(ごぢやう)にて候はゞ、無力一矢(ひとや)仕(つかまつつ)て、尸(かばね)を陣中に曝(さら)すべきにて候。此様(このやう)を具(つぶさ)に被申候へ。」と云(いひ)ければ、大将大(おほき)に喜(よろこび)て、本領安堵(ほんりやうあんど)の御教書(みげうしよ)を成(な)し、殊に功あらん者には、則(すなはち)恩賞を可申沙汰由(よし)返答して、合戦をぞ止(や)めける。城中(じやうちゆう)に篭(こも)る所の兵(つはもの)二百八十二人(にひやくはちじふににん)、明日(みやうにち)死なんずる命(いのち)をも不知、水に渇(かつ)せる難堪さに、皆降人(かうにん)に成(なつ)てぞ出(いで)たりける。長崎九郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)是(これ)を請取(うけとり)て、先(まづ)降人の法なればとて、物具(もののぐ)・太刀(たち)・刀(かたな)を奪取(うばひと)り、高手小手(たかてこて)に禁(いましめ)て六波羅(ろくはら)へぞ渡しける。降人の輩(ともがら)、如此ならば只(ただ)討死(うちじに)すべかりける者をと、後悔すれ共(ども)無甲斐。日を経(へ)て京都に着(つき)しかば、六波羅(ろくはら)に誡置(いましめおい)て、合戦の事始(ことはじめ)なれば、軍神(いくさがみ)に祭(まつり)て人に見懲(みごり)させよとて、六条河原(ろくでうかはら)に引出(ひきいだ)し、一人も不残首(くび)を刎(はね)て被懸けり。是(これ)を聞(きき)てぞ、吉野・金剛山(こんがうせん)に篭(こも)りたる兵共(つはものども)も、弥(いよいよ)獅子(しし)の歯嚼(はがみ)をして、降人(かうにん)に出(いで)んと思ふ者は無(なか)りけり。「罪を緩(ゆる)ふするは将の謀(はかりごと)也(なり)。」と云(いふ)事(こと)を知らざりける六波羅(ろくはら)の成敗(せいばい)を、皆(みな)人毎(ひとごとに)押(おし)なべて、悪(あし)かりけりと申(まうせ)しが、幾程(いくほど)も無(なう)して悉(ことごとく)亡(ほろ)びけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。情(なさけ)は人の為ならず。余(あまり)に驕(おごり)を極(きは)めつゝ、雅意(がい)に任(まかせ)て振舞へば、武運も早く尽(つき)にけり。因果(いんぐわ)の道理(だうり)を知るならば、可有心(こころあるべき)事共(ことども)也(なり)。


太平記(国民文庫)

太平記巻第七
○吉野城(よしののじやう)軍(いくさの)事(こと)S0701
元弘三年正月十六日、二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道道蘊(だううん)、六万余騎(よき)の勢(せい)にて大塔宮(おほたふのみや)の篭(こも)らせ給へる吉野の城へ押寄(おしよす)る。菜摘河(なつみがは)の川淀(かはよど)より、城の方を向上(みあげ)たれば、嶺には白旗(しらはた)・赤旗・錦(にしき)の旗、深山下風(みやまおろし)に吹(ふき)なびかされて、雲歟(か)花歟(か)と怪(あやし)まる。麓には数千(すせん)の官軍(くわんぐん)、冑(かぶと)の星を耀(かかや)かし鎧の袖を連(つら)ねて、錦繍(きんしう)をしける地の如し。峯(みね)高(たかう)して道細く、山嶮(けはしう)して苔滑(なめらか)なり。されば幾(いく)十万騎(じふまんぎ)の勢(せい)にて責(せむ)る共(とも)、輒(たやす)く落すべしとは見へざりけり。同(おなじき)十八日の卯刻(うのこく)より、両陣互に矢合せして、入替々々(いれかへいれかへ)責戦(せめたたかふ)。官軍(くわんぐん)は物馴(ものなれ)たる案内者(あんないしや)共(ども)なれば、斯(ここ)のつまり彼(かしこ)の難所(なんじよ)に走散(はしりちつ)て、攻合(つめあは)せ開合(ひらきあは)せ散々(さんざん)に射る。寄手(よせて)は死生不知(ししやうふち)の坂東武士(ばんどうぶし)なれば、親子(おやこ)打(うた)るれ共(ども)不顧、主従(しゆじゆう)滅(ほろぶ)れども不屑、乗越々々(のりこえのりこえ)責近(せめちか)づく。夜昼(よるひる)七日が間息(いき)をも不続相戦(あひたたかふ)に、城中(じやうちゆう)の勢三百(さんびやく)余人(よにん)打(うた)れければ、寄手(よせて)も八百(はつぴやく)余人(よにん)打(うた)れにけり。況乎(いはんや)矢に当(あた)り石に被打、生死(しやうじ)の際(あひだ)を不知者は幾(いく)千万と云(いふ)数(かず)を不知。血は草芥(さうかい)を染(そめ)、尸(かばね)は路径(ろけい)に横(よこた)はれり。され共(ども)城の体(てい)少(すこし)もよわらねば、寄手(よせて)の兵(つはもの)多くは退屈してぞ見へたりける。爰(ここ)に此(この)山の案内者(あんないしや)とて一方へ被向たりける吉野(よしの)の執行(しゆぎやう)岩菊丸(いはぎくまる)、己(おのれ)が手(て)の者を呼寄(よびよせ)て申(まうし)けるは、「東条の大将金沢(かなざは)右馬助(うまのすけ)殿(どの)は、既(すで)に赤坂(あかさか)の城を責落(せめおと)して金剛山(こんがうせん)へ被向たりと聞ゆ。当山(たうざん)の事我等(われら)案内者(あんないしや)たるに依(よつ)て、一方(いつぱう)を承(うけたまはつ)て向ひたる甲斐(かひ)もなく、責落(せめおと)さで数日(すじつ)を送る事こそ遺恨(ゐこん)なれ。倩(つらつら)事(こと)の様(やう)を按(あん)ずるに、此(この)城を大手(おほて)より責(せめ)ば、人のみ被打て落す事有難(ありがた)し。推量(すゐりやう)するに、城の後(うしろ)の山金峯山(きんぶせん)には峻(けはしき)を憑(たのん)で、敵さまで勢(せい)を置(おき)たる事あらじと覚(おぼゆ)るぞ。物馴(ものなれ)たらんずる足軽(あしがる)の兵(つはもの)を百五十人(ひやくごじふにん)すぐつて歩立(かちだち)になし、夜に紛(まぎ)れて金峯山(きんぶせん)より忍び入(いり)、愛染宝塔(あいぜんはうだふ)の上(うへ)にて、夜のほの/゛\と明(あけ)はてん時時(とき)の声を揚(あげ)よ。城の兵(つはもの)鬨音(ときのこゑ)に驚(おどろい)て度(ど)を失(うしな)はん時、大手(おほて)搦手(からめて)三方(さんぱう)より攻上(せめのぼつ)て城を追落(おひおと)し、宮を生捕(いけどり)奉るべし。」とぞ下知(げぢ)しける。さらばとて、案内知(しつ)たる兵百五十人(ひやくごじふにん)をすぐ(ッ)て、其(その)日の暮程(くれほど)より、金峯山(きんぶせん)へ廻(まはつ)て、岩を伝ひ谷を上(のぼ)るに、案の如く山の嶮(けはし)きを憑(たのみ)けるにや、唯こゝかしこの梢に旗許(ばかり)を結付置(ゆひつけおい)て可防兵一人もなし。百(ひやく)余人(よにん)の兵共(つはものども)、思(おもひ)の侭(まま)に忍入(しのびいつ)て、木の下岩(いは)の陰(かげ)に、弓箭(ゆみや)を臥(ふせ)て、冑(かぶと)を枕にして、夜の明(あく)るをぞ待(まつ)たりける。あい図(づ)の比(ころ)にも成(なり)にければ、大手(おほて)五万(ごまん)余騎(よき)、三方(さんぱう)より押寄(おしよせ)て責上(せめのぼ)る。吉野の大衆(だいしゆ)五百(ごひやく)余人(よにん)、責口(せめくち)におり合(あつ)て防(ふせぎ)戦ふ。寄手(よせて)も城の内も、互に命(いのち)を不惜、追上(おひのぼ)せ追下(おひおろ)し、火を散(ちら)してぞ戦(たたかう)たる。卦(かか)る処に金峯山(きんぶせん)より廻(まは)りたる、搦手(からめて)の兵(つはもの)百五十人(ひやくごじふにん)、愛染宝塔(あいぜんはうだふ)よりをり降(くだつ)て、在々所々(ざいざいしよしよ)に火を懸(かけ)て、時(とき)の声をぞ揚(あげ)たりける。吉野の大衆(だいしゆ)前後(ぜんご)の敵(てき)を防ぎ兼(かね)て、或(あるひ)は自(みづから)腹を掻切(かききつ)て、猛火(みやうくわ)の中へ走入(はしりいつ)て死(しす)るも有(あり)、或(あるひ)は向ふ敵に引組(ひつくん)で、指(さし)ちがへて共に死(しす)るもあり。思々(おもひおもひ)に討死をしける程に、大手(おほて)の堀一重(ひとへ)は、死人(しにん)に埋(うま)りて平地(ひらち)になる。去程(さるほど)に、搦手(からめて)の兵(つはもの)、思(おもひ)も寄(よら)ず勝手(かつて)の明神(みやうじん)の前より押寄(おしよせ)て、宮の御坐有(ござあり)ける蔵王堂(ざわうだう)へ打(うつ)て懸(かか)りける間、大塔宮(おほたふのみや)今は遁(のが)れぬ処也(なり)。と思食切(おぼしめしきつ)て、赤地(あかぢ)の錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に、火威(ひをどし)の鎧のまだ巳(み)の刻(こく)なるを、透間(すきま)もなくめされ、竜頭(たつがしら)の冑(かぶと)の緒(を)をしめ、白檀磨(びやくだんみがき)の臑当(すねあて)に、三尺五寸の小長刀(こなぎなた)を脇に挟(さしはさ)み、劣らぬ兵二十(にじふ)余人(よにん)前後左右(ぜんごさいう)に立(たて)、敵の靉(むらがつ)て引(ひか)へたる中へ走り懸(かか)り、東西を掃(はら)ひ、南北へ追廻(おひまは)し、黒煙(くろけぶり)を立(たて)て切(きつ)て廻(まは)らせ給ふに、寄手(よせて)大勢(おほぜい)也(なり)。と云へ共(ども)、纔(わづか)の小勢に被切立て、木(こ)の葉(は)の風に散(ちる)が如く、四方(しはう)の谷へ颯(さつ)とひく。敵引(ひけ)ば、宮蔵王堂(ざわうだう)の大庭(おほには)に並居(なみゐ)させ給(たまひ)て、大幕(おほまく)打揚(うちあげ)て、最後の御酒宴(ごしゆえん)あり。宮の御鎧(おんよろひ)に立所(たつところ)の矢七筋(しちすぢ)、御頬(おんほう)さき二の御(おん)うで二箇所(にかしよ)つかれさせ給(たまひ)て、血の流るゝ事滝の如し。然(しか)れ共(ども)立(たつ)たる矢をも不抜、流るゝ血をも不拭、敷皮(しきがは)の上に立(たち)ながら、大盃(おほさかづき)を三度(さんど)傾(かたぶけ)させ給へば、木寺相摸(こでらのさがみ)四尺三寸の太刀の鋒(きつさき)に、敵の頚をさし貫(つらぬい)て、宮の御前(おんまへ)に畏(かしこま)り、「戈■剣戟(くわせんけんげき)をふらす事電光(でんくわう)の如く也(なり)。磐石(ばんじやく)巌(いはほ)を飛(とば)す事春(はる)の雨に相同(あひおな)じ。然りとは云へ共(ども)、天帝(てんてい)の身には近づかで、修羅(しゆら)かれが為に破らる。」と、はやしを揚(あげ)て舞(まひ)たる有様は、漢(かん)・楚(そ)の鴻門(こうもん)に会(くわい)せし時、楚の項伯(かうはく)と項荘とが、剣(けん)を抜(ぬい)て舞(まひ)しに、樊■(はんくわい)庭に立(たち)ながら、帷幕(ゐばく)をかゝげて項王を睨(にらみ)し勢(いきほひ)も、角(かく)やと覚(おぼゆ)る許(ばかり)也(なり)。大手(おほて)の合戦事急也(なり)。と覚(おぼえ)て、敵御方(みかた)の時(とき)の声相交(あひまじは)りて聞へけるが、げにも其戦(そのたたかひ)に自ら相当(あひあた)る事多かりけりと見へて、村上(むらかみ)彦四郎(ひこしらう)義光(よしてる)鎧に立(たつ)処の矢十六(じふろく)筋、枯野(かれの)に残る冬草の、風に臥(ふし)たる如くに折懸(をりかけ)て、宮の御前(おんまへ)に参(まゐつ)て申(まうし)けるは、「大手(おほて)の一の木戸(きど)、云甲斐(いふかひ)なく責破(せめやぶ)られつる間、二の木戸に支(ささへ)て数刻(すこく)相戦ひ候つる処に、御所中(ごしよぢゆう)の御酒宴(ごしゆえん)の声、冷(すさまじ)く聞へ候(さふらひ)つるに付(つい)て参(まゐつ)て候。敵既(すで)にかさに取上(とりのぼり)て、御方(みかた)気の疲れ候(さふらひ)ぬれば、此(この)城にて功を立(たて)ん事(こと)、今は叶(かな)はじと覚へ候。未(いまだ)敵の勢を余所(よそ)へ回(まは)し候はぬ前(さき)に、一方より打破(うちやぶつ)て、一歩(ひとまど)落(おち)て可有御覧と存(ぞんじ)候。但(ただし)迹(あと)に残り留(とどまつ)て戦ふ兵(つはもの)なくば、御所(ごしよ)の落(おち)させ給ふ者也(なり)。と心得て、敵何(いづ)く迄もつゞきて追懸進(おつかけまゐら)せつと覚(おぼえ)候へば、恐(おそれ)ある事にて候へ共(ども)、めされて候錦の御鎧直垂(おんよろひひたたれ)と、御物具(おんもののぐ)とを下給(くだしたまはつ)て、御諱(おんいみな)の字(じ)を犯(をか)して敵を欺(あざむ)き、御命(おんいのち)に代り進(まゐら)せ候はん。」と申(まうし)ければ、宮(みや)、「争(いか)でかさる事あるべき、死なば一所(いつしよ)にてこそ兎(と)も角(かく)もならめ。」と仰(おほせ)られけるを、義光(よしてる)言(こと)ばを荒(あら)らかにして、「かゝる浅猿(あさまし)き御事(おんこと)や候。漢の高祖(かうそ)■陽(けいやう)に囲(かこま)れし時、紀信(きしん)高祖(かうそ)の真似(まね)をして楚を欺(あざむ)かんと乞(こひ)しをば、高祖(かうそ)是(これ)を許し給ひ候はずや。是程(これほど)に云甲斐(いふかひ)なき御所存(ごしよぞん)にて、天下の大事(だいじ)を思食立(おぼしめしたち)ける事こそうたてけれ。はや其御物具(そのおんもののぐ)を脱(ぬが)せ給ひ候へ。」と申(まうし)て、御鎧(おんよろひ)の上帯(うはおび)をとき奉れば、宮げにもとや思食(おぼしめし)けん、御物(おんもの)の具(ぐ)・鎧直垂(よろひひたたれ)まで脱替(ぬぎかへ)させ給ひて、「我(われ)若(もし)生(いき)たらば、汝(なんぢ)が後生(ごしやう)を訪(とぶらふ)べし。共に敵(てき)の手にかゝらば、冥途(めいど)までも同じ岐(ちまた)に伴(ともな)ふべし。」と被仰て、御涙(おんなみだ)を流させ給ひながら、勝手(かつて)の明神(みやうじん)の御前(おんまへ)を南へ向(むかつ)て落させ給へば、義光(よしてる)は二の木戸の高櫓(たかやぐら)に上(あが)り、遥(はるか)に見送り奉(たてまつつ)て、宮の御後影(おんうしろかげ)の幽(かすか)に隔(へだた)らせ給(たまひ)ぬるを見て、今はかうと思ひければ、櫓(やぐら)のさまの板を切落(きりおと)して、身をあらはにして、大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「天照太神(あまてらすおほみかみの)御子孫(ごしそん)、神武(じんむ)天王(てんわう)より九十五代の帝(みかど)、後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)第二(だいに)の皇子一品兵部(いつぽんひやうぶ)卿(きやう)親王(しんわう)尊仁(そんにん)、逆臣(ぎやくしん)の為に亡(ほろぼ)され、恨(うらみ)を泉下(せんか)に報(はう)ぜん為に、只今自害する有様見置(みおい)て、汝等が武運忽(たちまち)に尽(つき)て、腹をきらんずる時の手本(てほん)にせよ。」と云侭(いふまま)に、鎧を脱(ぬい)で櫓(やぐら)より下へ投落(なげおと)し、錦の鎧直垂(よろひひたたれ)の袴許(はかまばかり)に、練貫(ねりぬき)の二(ふたつ)小袖を押膚脱(おしはだぬい)で、白く清げなる膚(はだ)に刀をつき立て、左の脇より右のそば腹まで一文字に掻切(かききつ)て、腸(はらわた)掴(つかん)で櫓(やぐら)の板になげつけ、太刀(たち)を口にくわへて、うつ伏(ぶし)に成(なつ)てぞ臥(ふし)たりける。大手(おほて)・搦手(からめて)の寄手(よせて)是(これ)を見て、「すはや大塔宮(おほたふのみや)の御自害あるは。我先(われさき)に御頚(おんくび)を給(たまは)らん。」とて、四方(しはう)の囲(かこみ)を解(とい)て一所(いつしよ)に集(あつま)る。其間(そのあひだ)に宮は差違(さしちが)へて、天(てん)の河(かは)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。南より廻(まは)りける吉野の執行(しゆぎやう)が勢(せい)五百(ごひやく)余騎(よき)、多年(たねん)の案内者(あんないしや)なれば、道を要(よこぎ)りかさに廻(まは)りて、打留(うちと)め奉(たてまつら)んと取篭(とりこむ)る。村上(むらかみ)彦四郎(ひこしらう)義光(よしてる)が子息兵衛蔵人(ひやうゑくらうど)義隆(よしたか)は、父が自害しつる時、共に腹を切(きら)んと、二の木戸の櫓(やぐら)の下まで馳来(はせきた)りたりけるを、父大(おほき)に諌(いさめ)て、「父子(ふし)の義(ぎ)はさる事なれ共(ども)、且(しばら)く生(いき)て宮の御先途(ごせんど)を見はて進(まゐら)せよ。」と、庭訓(ていきん)を残しければ、力なく且(しばら)くの命(いのち)を延(のべ)て、宮の御供(おんとも)にぞ候(さふらひ)ける。落行(おちゆく)道の軍(いくさ)、事(こと)既(すで)に急にして、打死(うちじに)せずば、宮落得(おちえ)させ給はじと覚(おぼえ)ければ、義隆(よしたか)只一人蹈留(ふみとどま)りて、追(おつ)てかゝる敵の馬の諸膝(もろひざ)薙(ない)では切(きり)すへ、平頚(ひらくび)切(きつ)ては刎落(はねおと)させ、九折(つづらをり)なる細道(ほそみち)に、五百(ごひやく)余騎(よき)の敵を相受(あひうけ)て、半時許(はんじばかり)ぞ支(ささへ)たる。義隆(よしたか)、節(せつ)、石の如く也(なり)。といへ共(ども)、其(その)身金鉄(きんてつ)ならざれば、敵の取巻(とりまい)て射ける矢に、義隆既(すで)に十(じふ)余箇所(よかしよ)の疵(きず)を被(かうむり)てけり。死ぬるまでも猶敵の手にかゝらじとや思(おもひ)けん、小竹(こたけ)の一村(ひとむら)有(あり)ける中へ走入(はしりいつ)て、腹掻切(かききつ)て死にけり。村上父子(むらかみふし)が敵を防ぎ、討死(うちじに)しける其間(そのあひだ)に、宮は虎口(ここう)に死を御遁(おんのがれ)有(あつ)て、高野山(かうやさん)へぞ落(おち)させ給(たまひ)ける。出羽(ではの)入道々蘊(だううん)は、村上が宮の御学(おんまね)をして、腹を切(きつ)たりつるを真実(まんまこと)と心得て、其(その)頚を取(とつ)て京都へ上(のぼ)せ、六波羅(ろくはら)の実検(じつけん)にさらすに、ありもあらぬ者の頚也(なり)。と申(まうし)ける。獄門(ごくもん)にかくるまでもなくて、九原(きうげん)の苔に埋(うづも)れにけり。道蘊(だううん)は吉野の城を攻落(せめおと)したるは、専一(せんいち)の忠戦(ちゆうせん)なれ共(ども)、大塔宮(おほたふのみや)を打漏(うちもら)し奉りぬれば、猶(なほ)安(やす)からず思(おもひ)て、軈(やが)て高野山へ押寄(おしよせ)、大塔(だいたふ)に陣を取(とつ)て、宮の御在所(ございしよ)を尋求(たづねもとめ)けれ共(ども)、一山(いつさん)の衆徒(しゆと)皆心を合(あはせ)て宮を隠し奉りければ、数日(すじつ)の粉骨(ふんこつ)甲斐もなくて、千剣破(ちはや)の城へぞ向ひける。
○千剣破(ちはやの)城軍(いくさの)事(こと) S0702
千剣破(ちはやの)城の寄手(よせて)は、前(まへ)の勢八十万騎(はちじふまんぎ)に、又赤坂(あかさか)の勢吉野の勢馳加(はせくははつ)て、百万騎に余(あま)りければ、城の四方(しはう)二三里が間は、見物(けんぶつ)相撲(すまふ)の場(ば)の如く打囲(うちかこん)で、尺寸(せきすん)の地をも余さず充満(みちみち)たり。旌旗(せいき)の風に翻(ひるがへつ)て靡(なび)く気色(けしき)は、秋の野の尾花(をばな)が末(すゑ)よりも繁く、剣戟(けんげき)の日に映(えい)じて耀(かかやき)ける有様(ありさま)は、暁(あかつき)の霜の枯草(かれくさ)に布(しけ)るが如く也(なり)。大軍(たいぐん)の近づく処には、山勢(さんせい)是(これ)が為に動き、時(とき)の声の震(ふる)ふ中には、坤軸(こんぢく)須臾(しゆゆ)に摧(くだ)けたり。此(この)勢にも恐(おそれ)ずして、纔(わづか)に千人に足(たら)ぬ小勢(こぜい)にて、誰を憑(たの)み何(いつ)を待(まつ)共(とも)なきに、城中(じやうちゆう)にこらへて防ぎ戦(たたかひ)ける楠が心の程こそ不敵(ふてき)なれ。此(この)城東西(とうざい)は谷深く切(きれ)て人の上(のぼ)るべき様(やう)もなし。南北は金剛山(こんがうせん)につゞきて而(しか)も峯絶(たえ)たり。されども高さ二町(にちやう)許(ばかり)にて、廻(まは)り一里に足(たら)ぬ小城(こしろ)なれば、何程(なにほど)の事か有(ある)べき〔と〕、寄手(よせて)是(これ)を見侮(みあなどつ)て、初(はじめ)一両日(いちりやうにち)の程は向ひ陣をも取(とら)ず、責支度(せめしたく)をも用意(ようい)せず、我先(われさき)にと城の木戸口(きどくち)の辺(へん)までかづきつれてぞ上(あがり)たりける。城中の者共(ものども)少しもさはがず、静まり帰(かへつ)て、高櫓(たかやぐら)の上(うへ)より大石(たいせき)を投(なげ)かけ/\、楯(たて)の板を微塵(みぢん)に打砕(うちくだい)て、漂(ただよ)ふ処を差(さし)つめ/\射ける間(あひだ)、四方(しはう)の坂よりころび落(おち)、落重(おちかさなつ)て手を負(おひ)、死をいたす者、一日が中(うち)に五六千人に及べり。長崎四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)、軍奉行(いくさぶぎやう)にて有(あり)ければ、手負死人(ておひしにん)の実検(じつけん)をしけるに、執筆(しゆひつ)十二人(じふににん)、夜昼(よるひる)三日が間(あひだ)筆をも置(おか)ず注(しる)せり。さてこそ、「今より後(のち)は、大将の御許(おんゆるし)なくして、合戦したらんずる輩(ともがら)をば却(かへつ)て罪科に行(おこなは)るべし。」と触(ふれ)られければ、軍勢暫(しばらく)軍(いくさ)を止(やめ)て、先(まづ)己(おのれ)が陣々をぞ構(かま)へける。爰(ここ)に赤坂の大将金沢右馬助(かなざはうまのすけ)、大仏(おさらぎ)奥州(あうしう)に向(むかつ)て宣(のたま)ひけるは、「前日(ぜんじつ)赤坂を攻落(せめおと)しつる事(こと)、全く士卒(じそつ)の高名(かうみやう)に非(あら)ず。城中の構(かまへ)を推(お)し出(いだ)して、水を留(とめ)て候(さふらひ)しに依(よつ)て、敵程(ほど)なく降参(かうさん)仕候(つかまつりさふらひ)き。是(ここ)を以て此(この)城を見候に、是程(これほど)纔(わづか)なる山の巓(いただき)に用水(ようすゐ)有(ある)べし共覚(おぼえ)候はず。又あげ水なんどをよその山より懸(かく)べき便(たより)も候はぬに、城中に水卓散(たくさん)に有(あり)げに見ゆるは、如何様(いかさま)東の山の麓に流(ながれ)たる渓水(たにみづ)を、夜々(よるよる)汲(くむ)歟(か)と覚(おぼえ)て候。あはれ宗徒(むねと)の人々一両人に仰付(おほせつけ)られて、此(この)水を汲(くま)せぬ様に御計(おんはからひ)候へかし。」と被申ければ、両大将、「此義(このぎ)可然覚(おぼえ)候。」とて、名越(なごや)越前守(ゑちぜんのかみ)を大将として其(その)勢三千余騎(よき)を指分(さしわけ)て、水の辺(へん)に陣を取(とら)せ、城より人をり下(くだ)りぬべき道々に、逆木(さかもぎ)を引(ひい)てぞ待懸(まちかけ)ける。楠は元来(もとより)勇気智謀相兼(あひかね)たる者なりければ、此(この)城を拵(こしら)へける始(はじめ)用水の便(たより)をみるに、五所(ごしよ)の秘水(ひすゐ)とて、峯(みね)通る山伏(やまぶし)の秘(ひ)して汲(くむ)水此(この)峯に有(あつ)て、滴(しただ)る事一夜に五斛許(こくばかり)也(なり)。此(この)水いかなる旱(ひでり)にもひる事なければ、如形人の口中(こうちゆう)を濡(うるほ)さん事相違あるまじけれ共(ども)、合戦の最中(さいちゆう)は或(あるひ)は火矢(ひや)を消さん為、又喉(のんど)の乾(かわ)く事繁(しげ)ければ、此(この)水許(ばかり)にては不足(ふそく)なるべしとて、大(おほき)なる木を以て、水舟(みづふね)を二三百(にさんびやく)打(うた)せて、水を湛置(たたへおき)たり。又数百(すひやく)箇所作り双(なら)べたる役所(やくしよ)の軒に継樋(つぎどひ)を懸(かけ)て、雨ふれば、霤(あまだれ)を少しも余さず、舟にうけ入れ、舟の底に赤土(あかつち)を沈(しづ)めて、水の性(しやう)を損(そん)ぜぬ様(やう)にぞ被拵たりける。此(この)水を以て、縦(たと)ひ五六十日雨不降ともこらへつべし。其中(そのうち)に又などかは雨降(ふる)事(こと)無(なか)らんと、了簡(れうけん)しける智慮の程こそ浅からね。されば城よりは強(あながち)に此谷水(このたにみづ)を汲(くま)んともせざりけるを、水ふせぎける兵共(つはものども)、夜毎(よごと)に機(き)をつめて、今や/\と待懸(まちかけ)けるが、始(はじめ)の程こそ有(あり)けれ、後(のち)には次第々々に心懈(おこた)り、機緩(ゆるまつ)て、此(この)水をば汲(くま)ざりけるぞとて、用心(ようじん)の体(てい)少し無沙汰(ぶさた)にぞ成(なり)にける。楠是(これ)を見すまして、究竟(くきやう)の射手(いて)をそろへて二三百人(にさんびやくにん)夜に紛(まぎれ)て城よりをろし、まだ篠目(しののめ)の明けはてぬ霞隠(かすみがく)れより押寄せ、水辺(すゐへん)に攻(つめ)て居たる者共(ものども)、二十(にじふ)余人(よにん)切伏(きりふせ)て、透間(すきま)もなく切(きつ)て懸(かか)りける間、名越(なごや)越前守(ゑちぜんのかみ)こらへ兼(かね)て、本(もと)の陣へぞ引(ひか)れける。寄手(よせて)数万(すまん)の軍勢是(これ)を見て、渡り合(あは)せんとひしめけ共(ども)、谷を隔(へだ)て尾を隔(へだて)たる道なれば、輒(たやす)く馳合(はせあは)する兵(つはもの)もなし。兎角(とかく)しける其間(そのあひだ)に、捨置(すておい)たる旗・大幕(おほまく)なんど取持(とりもた)せて、楠が勢、閑(しづか)に城中へぞ引入(ひきいり)ける。其翌日(そのよくじつ)城の大手(おほて)に三本(さんぼん)唐笠(がらかさ)の紋(もん)書(かい)たる旗と、同(おなじ)き文(もん)の幕とを引(ひい)て、「是(これ)こそ皆名越(ながや)殿(どの)より給(たまはり)て候(さふらひ)つる御旗(おんはた)にて候へ、御文付(ごもんつき)て候間(あひだ)他人の為には無用に候。御中(みうち)の人々是(これ)へ御入(おんいり)候(さふらひ)て、被召候へかし。」と云(いつ)て、同音(どうおん)にどつと笑(わらひ)ければ、天下の武士共(ぶしども)是(これ)を見て、「あはれ名越(なごや)殿(どの)の不覚(ふかく)や。」と、口々に云(いは)ぬ者こそ無(なか)りけれ。名越(なごや)一家の人々此(この)事(こと)を聞(きい)て、安からぬ事に被思ければ、「当手(たうて)の軍勢共(ぐんぜいども)一人も不残、城の木戸(きど)を枕にして、討死をせよ。」とぞ被下知ける。依之(これによつて)彼(かの)手(て)の兵五千(ごせん)余人(よにん)、思切(おもひきつ)て討共(うてども)射共(いれども)用(もちひ)ず、乗越々々(のりこえのりこえ)城の逆木(さかもぎ)一重(ひとへ)引破(ひきやぶつ)て、切岸(きりぎし)の下迄ぞ攻(せめ)たりける。され共(ども)岸高(たかう)して切立(きりたつ)たれば、矢長(やたけ)に思へ共(ども)のぼり得ず、唯(ただ)徒(いたづら)に城を睨(にらみ)、忿(いかり)を押(おさ)へて息つぎ居たり。此(この)時城の中(うち)より、切岸(きりぎし)の上(うへ)に横(よこた)へて置(おい)たる大木十計(ばかり)切(きつ)て落(おと)し懸(かけ)たりける間、将碁倒(しやうぎたふし)をする如く、寄手(よせて)四五百人(しごひやくにん)圧(おし)に被討て死にけり。是(これ)にちがはんとしどろに成(なつ)て騒ぐ処を、十方の櫓(やぐら)より指落(さしおと)し、思様(おもふやう)に射ける間、五千(ごせん)余人(よにん)の兵共(つはものども)残(のこり)すくなに討(うた)れて、其(その)日の軍(いくさ)は果(はて)にけり。誠(まことに)志の程は猛(たけ)けれ共(ども)、唯(ただ)し出(いだ)したる事もなくて、若干(そくばく)討(うた)れにければ、「あはれ恥(はぢ)の上の損(そん)哉(かな)。」と、諸人(しよにん)の口遊(くちずさみ)は猶不止。尋常(よのつね)ならぬ合戦の体(てい)を見て、寄手(よせて)も侮(あなど)りにくゝや思(おもひ)けん、今は始(はじめ)の様(やう)に、勇進(いさみすすん)で攻(せめ)んとする者も無(なか)りけり。長崎(ながさき)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)此(この)有様を見て、「此(この)城を力責(ちからぜめ)にする事は、人の討(うた)るゝ計(ばかり)にて、其(その)功成難(なりがた)し。唯取巻(とりまい)て食責(じきぜめ)にせよ。」と下知(げぢ)して、軍(いくさ)を被止ければ、徒然(とぜん)に皆堪兼(たへかね)て、花の下(もと)の連歌(れんが)し共(ども)を呼下(よびくだ)し、一万句の連歌をぞ始(はじめ)たりける。其(その)初日の発句(ほつく)をば長崎九郎左衛門師宗(もろむね)、さき懸(がけ)てかつ色みせよ山桜(やまざくら)としたりけるを、脇(わき)の句、工藤(くどう)二郎右衛門(じらううゑもんの)尉(じよう)嵐や花のかたきなるらんとぞ付(つけ)たりける。誠(まこと)に両句ともに、詞(ことば)の縁(えん)巧(たくみ)にして句の体(てい)は優(いう)なれども、御方(みかた)をば花になし、敵(てき)を嵐に喩(たと)へければ、禁忌(きんき)也(なり)。ける表事(へうじ)哉(かな)と後(のち)にぞ思ひ知(しら)れける。大将の下知(げぢ)に随(したがひ)て、軍勢皆軍(いくさ)を止(やめ)ければ、慰(なぐさ)む方(かた)や無(なか)りけん、或(あるひ)は碁(ご)・双六(しごろく)を打(うつ)て日を過(すご)し、或(あるひ)は百服茶(ひやつぷくちや)・褒貶(はうへん)の歌合(うたあはせ)なんどを翫(もてあそん)で夜(よ)を明(あか)す。是(これ)にこそ城中の兵は中々(なかなか)被悩たる心地(ここち)して、心を遣方(やるかた)も無(なか)りける。少し程(ほど)経(へ)て後(のち)、正成(まさしげ)、「いでさらば、又寄手(よせて)たばかりて居眠(ゐねぶり)さまさん。」とて、芥(あくた)を以て人長(ひとだけ)に人形(にんぎやう)を二三十作(つくつ)て、甲冑(かつちう)をきせ兵杖(ひやうぢやう)を持(もた)せて、夜中(やちゆう)に城の麓に立置(たてお)き、前(まへ)に畳楯(でふだて)をつき双(なら)べ、其後(そのうし)ろにすぐりたる兵(つはもの)五百人(ごひやくにん)を交(まじ)へて、夜のほの/゛\と明(あけ)ける霞(かすみ)の下(した)より、同時に時(とき)をどつと作る。四方(しはう)の寄手(よせて)時の声を聞(きい)て、「すはや城の中(うち)より打出(うちいで)たるは、是(これ)こそ敵の運の尽(つく)る処の死狂(しにくるひ)よ。」とて我先(われさき)にとぞ攻合(せめあは)せける。城の兵兼(かね)て巧(たくみ)たる事なれば、矢軍(やいくさ)ちとする様(やう)にして大勢(おほぜい)相近(あひちか)づけて、人形許(ばかり)を木(こ)がくれに残し置(おい)て、兵(つはもの)は皆次第々々に城の上へ引上(ひきあが)る。寄手(よせて)人形を実(まこと)の兵(つはもの)ぞと心得て、是(これ)を打(うた)んと相集(あひあつま)る。正成所存(しよぞん)の如く敵をたばかり寄せて、大石(たいせき)を四五十(しごじふ)、一度(いちど)にばつと発(はな)す。一所(いつしよ)に集(あつま)りたる敵三百(さんびやく)余人(よにん)、矢庭(やには)に被討殺、半死半生の者五百(ごひやく)余人(よにん)に及(およべ)り。軍(いくさ)はてゝ是(これ)を見れば、哀(あはれ)大剛(だいがう)の者哉(かな)と覚(おぼえ)て、一足(ひとあし)も引(ひか)ざりつる兵(つはもの)、皆人にはあらで藁(わら)にて作れる人形(にんぎやう)也(なり)。是(これ)を討(うた)んと相集(あひあつまつ)て、石に打(うた)れ矢に当(あたつ)て死せるも高名(かうみやう)ならず、又是(これ)を危(あやぶみ)て進得(すすみえ)ざりつるも臆病の程顕(あらは)れて云甲斐(いふかひ)なし。唯兎(と)にも角(かく)にも万人の物笑ひとぞ成(なり)にける。是(これ)より後(のち)は弥(いよいよ)合戦を止(やめ)ける間、諸国の軍勢唯(ただ)徒(いたづら)に城を守り上(あげ)て居たる計(ばかり)にて、するわざ一(ひとつ)も無(なか)りけり。爰(ここ)に何(いか)なる者か読(よみ)たりけん、一首(いつしゆ)の古歌(こか)を翻案(ほんあん)して、大将の陣の前にぞ立(たて)たりける。余所(よそ)にのみ見てやゝみなん葛城(かづらき)のたかまの山の峯の楠軍(いくさ)も無(なく)てそゞろに向ひ居たるつれ/゛\に、諸大将の陣々に、江口(えぐち)・神崎(かんざき)の傾城共(けいせいども)を呼寄(よびよせ)て、様々(さまざま)の遊(あそび)をぞせられける。名越(なごや)遠江(とほたふみの)入道と同兵庫(おなじきひやうごの)助(すけ)とは伯叔甥(をぢをひ)にて御座(おはし)けるが、共に一方の大将にて、責口(せめくち)近く陣を取り、役所(やくしよ)を双(ならべ)てぞ御座(おはし)ける。或時(あるとき)遊君(いうくん)の前にて双六(しごろく)を打(うた)れけるが、賽(さい)の目(め)を論じて聊(いささか)の詞(ことば)の違(ちが)ひけるにや、伯叔甥(をぢをひ)二人(ににん)突違(つきちがへ)てぞ死(しな)れける。両人の郎従共(らうじゆうども)、何の意趣(いしゆ)もなきに、差違(さしちが)へ差違へ、片時(へんし)が間(あひだ)に死(しす)る者二百余人(よにん)に及べり。城の中(うち)より是(これ)を見て、「十善(じふぜん)の君(きみ)に敵をし奉る天罰(てんばつ)に依(よつ)て、自滅(じめつ)する人々の有様見よ。」とぞ咲(わらひ)ける。誠(まこと)に是(これ)直事(ただごと)に非(あら)ず。天魔波旬(てんまはじゆん)の所行(しよぎやう)歟(か)と覚(おぼえ)て、浅猿(あさまし)かりし珍事(ちんじ)也(なり)。同(おなじき)三月四日関東(くわんとう)より飛脚(ひきやく)到来して、「軍(いくさ)を止(やめ)て徒(いたづら)に日を送る事不可然。」と被下知ければ、宗(むね)との大将達評定(ひやうぢやう)有(あつ)て、御方(みかた)の向ひ陣と敵の城との際(あひだ)に、高く切立(きりたつ)たる堀に橋を渡して、城へ打(うつ)て入(いら)んとぞ巧(たく)まれける。為之京都より番匠(ばんしやう)を五百(ごひやく)余人(よにん)召下(めしくだ)し、五六八九寸の材木を集(あつめ)て、広さ一丈五尺、長さ二十丈(にじふぢやう)余(あまり)に梯(かけはし)をぞ作らせける。梯(かけはし)既(すで)に作り出(いだ)しければ、大縄(おほつな)を二三千筋(にさんぜんすぢ)付(つけ)て、車木(くるまき)を以て巻立(まきたて)て、城の切岸(きりぎし)の上へぞ倒し懸(かけ)たりける。魯般(ろはん)が雲の梯(かけはし)も角(かく)やと覚(おぼえ)て巧(たくみ)也(なり)。軈(やが)て早(はや)りおの兵共(つはものども)五六千人、橋の上を渡り、我先(われさき)にと前(すすん)だり。あはや此(この)城只今打落されぬと見へたる処に、楠兼(かね)て用意(ようい)やしたりけん、投松明(なげたいまつ)のさきに火を付(つけ)て、橋の上に薪(たきぎ)を積(つめ)るが如くに投集(なげあつめ)て、水弾(みづはじき)を以て油を滝の流るゝ様(やう)に懸(かけ)たりける間、火橋桁(はしげた)に燃付(もえつい)て、渓風(たにかぜ)炎(ほのほ)を吹布(ふきしい)たり。憖(なまじひ)に渡り懸(かか)りたる兵共(つはものども)、前(さき)へ進(すすま)んとすれば、猛火(みやうくわ)盛(さかん)に燃(もえ)て身を焦(こが)す、帰(かへら)んとすれば後陣(ごぢん)の大勢(おほぜい)前(まへ)の難儀をも不云支(ささへ)たり。そばへ飛(とび)をりんとすれば、谷(たに)深く巌(いはほ)そびへて肝(きもを)冷(ひや)し、如何(いかが)せんと身を揉(もう)で押(おし)あふ程に、橋桁(はしげた)中(なか)より燃折(もえをれ)て、谷底(たにぞこ)へどうど落(おち)ければ、数千(すせん)の兵(つはもの)同時に猛(みやうくわ)の中へ落重(おちかさなつ)て、一人も不残焼死(やけしに)にけり。其(その)有様偏(ひとへ)に八大地獄(はちだいぢごく)の罪人の刀山剣樹(たうざんけんじゆ)につらぬかれ、猛火鉄湯(みやうくわてつたう)に身を焦(こが)す覧(らん)も、角(かく)やと被思知たり。去程(さるほど)に吉野・戸津河(とつがは)・宇多(うだ)・内郡(うちのこほり)の野伏共(のぶしども)、大塔宮(おほたふのみや)の命(めい)を含(ふくん)で、相集(あひあつま)る事七千余人(よにん)、此(ここ)の峯(みね)彼(かしこ)〔の〕谷(たに)に立隠(たちかくれ)て、千剣破(ちはやの)寄手共(よせてども)の往来(わうらい)の路を差塞(さしふさ)ぐ。依之(これによつて)諸国の兵(つはもの)の兵粮(ひやうらう)忽(たちまち)に尽(つき)て、人馬(じんば)共に疲(つか)れければ、転漕(てんさう)に怺兼(こらへかね)て百騎・二百騎引(ひい)て帰る処を、案内者(あんないしや)の野伏(のぶし)共、所々のつまり/゛\に待受(まちうけ)て、討留(うちとめ)ける間、日々夜々に討(うた)るゝ者数を知(しら)ず。希有(けう)にして命計(いのちばかり)を助かる者は、馬(むま)・物具(もののぐ)を捨(すて)、衣裳(いしやう)を剥取(はぎとら)れて裸(はだか)なれば、或(あるひ)は破(やれ)たる蓑(みの)を身に纏(まとひ)て、膚計(はだへばかり)を隠(かく)し、或(あるひ)は草の葉(は)を腰に巻(まい)て、恥をあらはせる落人共(おちうどども)、毎日に引(ひき)も切らず十方へ逃散(にげち)る。前代未聞(ぜんだいみもん)の恥辱(ちじよく)也(なり)。されば日本国の武士共(ぶしども)の重代(ぢゆうだい)したる物具(もののぐ)・太刀(たち)・刀(かたな)は、皆此(この)時に至(いたつ)て失(うせ)にけり。名越(なごや)遠江(とほたふみの)入道、同(おなじき)兵庫(ひやうごの)助(すけ)二人(ににん)は、無詮口論して共に死給(しにたまひ)ぬ。其外(そのほか)の軍勢共(ぐんぜいども)、親(おや)は討(うた)るれば子は髻(もとどり)を切(きつ)てうせ、主(しゆ)疵(きず)を被(かうむ)れば、郎従(らうじゆう)助(たすけ)て引帰(ひきかへ)す間、始(はじめ)は八十万騎(はちじふまんぎ)と聞へしか共(ども)、今は纔(わづか)に十万余騎(よき)に成(なり)にけり。
○新田義貞(につたよしさだ)賜綸旨事 S0703
上野(かうづけの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)新田(につたの)小太郎義貞(よしさだ)と申(まうす)は、八幡(はちまん)太郎義家(よしいへ)十七代の後胤(こういん)、源家嫡流(げんけちやくりう)の名家(めいか)也(なり)。然共(しかれども)平氏(へいじ)世を執(とつ)て四海(しかい)皆其(その)威に服する時節(をりふし)なれば、無力関東(くわんとう)の催促(さいそく)に随(したがつ)て金剛山(こんがうせん)の搦手(からめて)にぞ被向ける。爰(ここ)に如何なる所存(しよぞん)歟(か)出来(いでき)にけん、或時(あるとき)執事(しつじ)船田(ふなだ)入道義昌(よしまさ)を近づけて宣(のたま)ひける、「古(いにしへ)より源平両家(りやうけ)朝家(てうけ)に仕へて、平氏(へいじ)世を乱(みだ)る時は、源家(げんけ)是(これ)を鎮(しづ)め、源氏上(かみ)を侵(をか)す日は平家是(これ)を治(をさ)む。義貞不肖(ふせう)也(なり)。と云へ共(ども)、当家(たうけ)の門■(もんび)として、譜代(ふだい)弓矢(ゆみや)の名を汚(けが)せり。而(しかる)に今相摸(さがみ)入道の行迹(かうせき)を見(みる)に滅亡遠(とほき)に非(あら)ず。我(われ)本国に帰(かへつ)て義兵(ぎへい)を挙(あげ)、先朝(せんてう)の宸襟(しんきん)を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙(かうむ)らでは叶(かなふ)まじ。如何(いかん)して大塔宮(おほたふのみや)の令旨(りやうじ)を給(たまはつ)て、此素懐(このそくわい)を可達。」と問給(とひたまひ)ければ、舟田入道畏(かしこまつ)て、「大塔宮(おほたふのみや)は此辺(このへん)の山中に忍(しのび)て御座(ござ)候なれば、義昌(よしまさ)方便(はうべん)を廻(めぐら)して、急(いそい)で令旨(りやうじ)を申出(まうしいだ)し候べし。」と、事安げに領掌申(りやうじやうまうし)て、己(おのれ)が役所へぞ帰(かへり)ける。其翌日(そのよくじつ)舟田(ふなだ)己(おのれ)が若党(わかたう)を三十(さんじふ)余人(よにん)、野伏(のぶし)の質(すがた)に出立(いでたた)せて、夜中に葛城峯(かづらきのみね)へ上(のぼ)せ、我身(わがみ)は落行(おちゆく)勢の真似(まね)をして、朝まだきの霞隠(かすみがくれ)に、追(おつ)つ返(かへし)つ半時計(はんじばかり)どし軍(いくさ)をぞしたりける、宇多(うだ)・内郡(うちのこほり)の野伏共(のぶしども)是(これ)を見て、御方(みかた)の野伏ぞと心得、力を合(あは)せん為に余所(よそ)の峯よりおり合(あう)て近付(ちかづき)たりける処を、舟田が勢の中に取篭(とりこめ)て、十一人まで生捕(いけどり)てげり。舟田此生捕(このいけどり)どもを解脱(ときゆる)して潛(ひそか)に申(まうし)けるは、「今汝等(なんぢら)をたばかり搦取(からめとり)たる事(こと)、全(まつたく)誅(ちゆう)せん為に非(あら)ず。新田殿(につたどの)本国へ帰(かへつ)て、御旗(はた)を挙(あげ)んとし給ふが、令旨(りやうじ)なくては叶(かなふ)まじければ、汝等に大塔宮(おほたふのみや)の御坐所(ござしよ)を尋問(たづねとは)ん為に召取(めしとり)つる也(なり)。命(いのち)惜(をし)くば案内者(あんないしや)して、此方(こなた)の使をつれて、宮の御座(ござ)あんなる所へ参れ。」と申(まうし)ければ、野伏(のぶし)ども大(おほき)に悦(よろこび)て、「其御意(そのぎよい)にて候はゞ、最(いと)安(やす)かるべき事にて候。此(この)中に一人暫(しばし)の暇(いとま)を給(たまはり)候へ、令旨(りやうじ)を申出(まうしいだし)て進(まゐら)せ候はん。」と申(まうし)て、残り十人をば留置(とめおき)、一人宮の御方(おんかた)へとてぞ参(まゐり)ける。今や/\と相待(あひまつ)処に、一日有(あつ)て令旨(りやうじ)を捧(ささげ)て来れり。開(ひらい)て是(これ)を見(みる)に、令旨(りやうじ)にはあらで、綸旨(りんし)の文章(ぶんしやう)に書(かか)れたり。其詞(そのことばに)云(いはく)、被綸言称敷化理万国者明君徳也(なり)。撥乱鎮四海(しかい)者武臣節也(なり)。頃年之際、高時法師一類、蔑如朝憲恣振逆威。積悪之至、天誅已顕焉。爰為休累年之宸襟、将起一挙之義兵。叡感尤深、抽賞何浅。早運関東(くわんとう)征罰策、可致天下静謐之功。者、綸旨如此。仍執達如件。元弘三年二月十一日左少将新田(につたの)小太郎殿(こたらうどの)綸旨(りんし)の文章(ぶんしやう)、家の眉目(びぼく)に備(そなへ)つべき綸言(りんげん)なれば、義貞不斜悦(よろこび)て、其翌日(そのあくるひ)より虚病(きよびやう)して、急ぎ本国へぞ被下ける。宗徒(むねと)の軍(いくさ)をもしつべき勢共(せいども)は兎(と)に角(かく)に事を寄(よせ)て国々へ帰(かへり)ぬ。兵粮(ひやうらう)運送(うんそう)の道絶(たえ)て、千剣破(ちはや)の寄手(よせて)以外(もつてのほか)に気を失(うしな)へる由聞へければ、又六波羅(ろくはら)より宇都宮(うつのみや)をぞ下(くだ)されける。紀清(きせい)両党千余騎(よき)寄手(よせて)に加(くは)は(ッ)て、未屈(いまだくつせざる)荒手(あらて)なれば、軈(やが)て城の堀の際(きは)まで責上(せめのぼつ)て、夜昼(よるひる)少しも不引退、十(じふ)余日(よにち)までぞ責(せめ)たりける。此(この)時にぞ、屏(へい)の際(きは)なる鹿垣(ししがき)・逆木(さかもぎ)皆被引破て、城も少し防兼(ふせぎかね)たる体(てい)にぞ見へたりける。され共(ども)紀清(きせい)両党の者とても、斑足王(はんぞくわう)の身をもからざれば天をも翔(かけ)り難(がた)し。竜伯公(りゆうはくこう)が力を不得ば山をも擘難(つんざきがた)し。余(あまり)に為方(せんかた)や無(なか)りけん、面(おもて)なる兵には軍(いくさ)をさせて後(うしろ)なる者は手々(てて)に鋤(すき)・鍬(くは)を以て、山を掘倒(ほりたふ)さんとぞ企(くはだて)ける。げにも大手(おほて)の櫓(やぐら)をば、夜昼(よるひる)三日が間に、念(ねむ)なく掘り崩(くづ)してけり。諸人(しよにん)是(これ)を見て、唯(ただ)始(はじめ)より軍(いくさ)を止(やめ)て掘(ほる)べかりける物を、と後悔して、我(われ)も我(われ)もと掘(ほり)けれ共(ども)、廻(まは)り一里に余れる大山なれば左右(さう)なく掘倒(ほりたふ)さるべしとは見へざりけり。
○赤松(あかまつ)蜂起(ほうきの)事(こと) S0704
去程(さるほど)に楠が城強くして、京都は無勢(ぶせい)也(なり)。と聞へしかば、赤松(あかまつ)二郎入道円心(ゑんしん)、播磨国(はりまのくにの)苔縄(こけなは)の城より打(うつ)て出で、山陽(せんやう)・山陰(せんおん)の両道(りやうだう)を差塞(さしふさ)ぎ、山里(やまのさと)・梨原(なしがはら)の間(あひだ)に陣をとる。爰(ここ)に備前(びぜん)・備中(びつちゆう)・備後(びんご)・安芸(あき)・周防(すはう)の勢共(せいども)、六波羅(ろくはら)の催促に依(よつ)て上洛(しやうらく)しけるが、三石(みついし)の宿(しゆく)に打集(うちあつまつ)て、山里(やまのさと)の勢を追払(おひはらう)て通(とほら)んとしけるを、赤松筑前(ちくぜんの)守(かみ)舟坂山(ふなさかやま)に支(ささへ)て、宗(むね)との敵二十(にじふ)余人(よにん)を生捕(いけどり)てけり。然共(しかれども)赤松(あかまつ)是(これ)を討(うた)せずして、情(なさけ)深(ふか)く相交(あひまじは)りける間、伊東大和(いとうやまとの)二郎其(その)恩を感じて、忽(たちまち)に武家与力(よりき)の志を変じて、官軍(くわんぐん)合体(がつてい)の思(おもひ)をなしければ、先(まづ)己(おのれ)が館(たち)の上なる三石山(みついしやま)に城郭(じやうくわく)を構(かま)へ、軈(やが)て熊山(くまやま)へ取上(とりのぼ)りて、義兵を揚(あげ)たるに、備前の守護(しゆご)加治(かぢの)源二郎左衛門(じらうざゑもん)一戦(いつせん)に利(り)を失(うしなう)て、児嶋(こじま)を指(さし)て落(おち)て行(ゆく)。是(これ)より西国(さいこく)の路弥(いよいよ)塞(ふさがつ)て、中国(ちゆうごく)の動乱(どうらん)不斜。西国より上洛(しやうらく)する勢をば、伊東(いとう)に支(ささ)へさせて、後(うしろ)は思(おもひ)も無(なか)りければ、赤松軈(やが)て高田兵庫(ひやうごの)助(すけ)が城を責落(せめおと)して、片時(へんし)も足を不休、山陰道(せんいんだう)を指(さ)して責上(せめのぼ)る。路次の軍勢馳加(はせくははつ)て、無程七千余騎(よき)に成(なり)にけり。此(この)勢にて六波羅(ろくはら)を責落(せめおと)さん事は案(あん)の内(うち)なれ共(ども)、若(もし)戦(たたか)ひ利(り)を失(うしなふ)事(こと)あらば、引退(ひきしりぞい)て、暫く人馬をも休(やすめ)ん為に、兵庫の北に当(あたつ)て、摩耶(まや)と云(いふ)山寺(やまでら)の有(あり)けるに、先(まづ)城郭を構(かまへ)て、敵を二十里(にじふり)が間に縮(つづ)めたり。
○河野(かうの)謀叛(むほんの)事(こと) S0705
六波羅(ろくはら)には、一方の打手(うつて)にはと被憑ける宇都宮(うつのみや)は千剣破(ちはや)の城へ向ひつ、西国の勢は伊東(いとう)に被支て不上得、今は四国(しこくの)勢を摩耶(まや)の城へは向(むく)べしと被評定ける処に、後(のち)の二月四日、伊予(いよの)国(くに)より早馬(はやむま)を立(たて)て、「土居(どゐの)二郎・得能(とくのうの)弥三郎、宮方(みやかた)に成(なつ)て旗をあげ、当国の勢を相付(あひつけ)て土佐(とさの)国(くに)へ打越(うちこゆ)る処に、去月十二日長門(ながと)の探題(たんだい)上野介(かうづけのすけ)時直(ときなほ)、兵船(ひやうせん)三百(さんびやく)余艘(よさう)にて当国へ推渡(おしわた)り、星岡(ほしがをか)にして合戦を致す処に、長門(ながと)・周防(すはう)の勢一戦(いつせん)に打負(うちまけ)て、死人・手負(ておひ)其数(そのかず)を不知。剰(あまつさへ)時直父子(ふし)行方(ゆきかた)を不知云云。其(それ)より後(のち)四国の勢悉(ことごとく)土居・得能に属(しよく)する間、其(その)勢已(すで)に六千余騎(よき)、宇多津(うたつ)・今張(いまばり)の湊(みなと)に舟をそろへ、只今責上(せめのぼら)んと企(くはだて)候也(なり)。御用心(ごようじん)有(ある)べし。」とぞ告(つげ)たりける。
○先帝(せんてい)船上(ふなのうへへ)臨幸(りんかうの)事(こと) S0706
畿内(きない)の軍(いくさ)未だ静(しづか)ならざるに、又四国・西国日を追(おつ)て乱(みだれ)ければ、人の心皆薄氷(はくひよう)を履(ふん)で国の危(あやふ)き事深淵(しんえん)に臨(のぞむ)が如し。抑(そもそも)今如斯天下の乱るゝ事は偏(ひとへ)に先帝(せんてい)の宸襟(しんきん)より事興(おこ)れり。若(もし)逆徒(ぎやくと)差(さし)ちがふて奪取奉(うばひとりたてまつら)んとする事もこそあれ、相構(あひかまへ)て能々(よくよく)警固仕(つかまつる)べしと、隠岐(おきの)判官が方へ被下知ければ、判官近国の地頭(ぢとう)・御家人(ごけにん)を催(もよほ)して日番(ひばん)・夜廻(よまはり)隙(ひま)もなく、宮門(きゆうもん)を閉(とぢ)て警固(けいご)し奉る。閏(うるふ)二月下旬(げじゆん)は、佐々木(ささきの)富士名(ふじなの)判官が番(ばん)にて、中門(ちゆうもん)の警固に候(さふらひ)けるが、如何(いか)が思(おもひ)けん、哀(あはれ)此(この)君を取奉(とりたてまつつ)て、謀叛(むほん)を起さばやと思(おもふ)心ぞ付(つき)にける。され共(ども)可申入便(たより)も無(なう)て、案(あん)じ煩(わづら)ひける処に、或夜(あるよ)御前(おんまへ)より官女(くわんぢよ)を以て御盃(おんさかづき)を被下たり。判官是(これ)を給(たまはつ)て、よき便(たより)也(なり)。と思(おもひ)ければ、潛(ひそか)に彼(かの)官女を以て申入(まうしいれ)けるは、「上様(うへさま)には未だ知(しろ)し召(めさ)れ候はずや、楠兵衛正成(まさしげ)金剛山(こんがうせん)に城を構(かまへ)て楯篭候(たてごもりさふらひ)し処に、東国勢百万余騎(よき)にて上洛(しやうらく)し、去(さんぬる)二月の初(はじめ)より責戦(せめたたかひ)候といへ共(ども)、城は剛(つよう)して寄手(よせて)已(すで)に引色(ひきいろ)に成(なつ)て候。又備前には伊東大和(やまとの)二郎、三石(みついし)と申(まうす)所に城を構(かまへ)て、山陽道(せんやうだう)を差塞(さしふさ)ぎ候。播磨(はりま)には赤松入道円心(ゑんしん)、宮の令旨(りやうじ)を給(たまはつ)て、摂津国(つのくに)まで責上(せめのぼ)り、兵庫(ひやうご)の摩耶(まや)と申(まうす)処に陣を取(とつ)て候。其(その)勢已(すで)に三千余騎(よき)、京を縮(しし)め地を略(りやく)して勢(いきほひ)近国に振ひ候也(なり)。四国には河野(かうの)の一族(いちぞく)に、土居(どゐの)二郎・得能(とくのうの)弥三郎、御方(みかた)に参(まゐつ)て旗を挙(あげ)候処に、長門の探題(たんだい)上野(かうづけの)介時直(ときなほ)、彼(かれ)に打負(うちまけ)て、行方(ゆきかた)を不知落行候(おちゆきさふらひ)し後(のち)、四国の勢悉く土居(どゐ)・得能(とくのう)に属(しよく)し候間、既(すで)に大船(たいせん)をそろへて、是(これ)へ御迎(おんむかひ)に参るべし共(とも)聞へ候。又先(まづ)京都を責(せむ)べし共(とも)披露(ひろう)す。御聖運(せいうん)開(ひらかる)べき時已(すで)に至(いたり)ぬとこそ覚(おぼえ)て候へ。義綱(よしつな)が当番(たうばん)の間に忍(しのび)やかに御出(おんいで)候(さふらひ)て、千波(ちぶり)の湊(みなと)より御舟(おんふね)に被召、出雲(いづも)・伯耆(はうき)の間、何(いづ)れの浦へも風に任(まかせ)て御舟(おんふね)を被寄、さりぬべからんずる武士(ぶし)を御憑(おんたのみ)候(さふらひ)て、暫(しばら)く御待(まち)候へ。義綱(よしつな)乍恐責進(せめまゐら)せん為に罷向体(まかりむかふてい)にて、軈(やが)て御方(みかた)に参(まゐり)候べし。」とぞ奏(そう)し申(まうし)ける。官女此由(このよし)を申入(まうしいれ)ければ、主上猶(なほ)も彼(かれ)偽(いつはり)てや申覧(まうすらん)と思食(おぼしめさ)れける間、義綱が志の程を能々(よくよく)伺(うかがひ)御覧ぜられん為に、彼(かの)官女を義綱にぞ被下ける。判官は面目身に余(あま)りて覚(おぼえ)ける上(うへ)、最愛(さいあい)又甚しかりければ、弥(いよいよ)忠烈(ちゆうれつ)の志を顕(あらは)しける。「さらば汝(なんぢ)先(まづ)出雲(いづもの)国(くに)へ越(こえ)て、同心(どうしん)すべき一族(いちぞく)を語(かたらひ)て御迎(おんむかひ)に参れ。」と被仰下ける程に、義綱則(すなはち)出雲へ渡(わたつ)て塩冶(えんや)判官を語(かたら)ふに、塩冶(えんや)如何(いかが)思(おもひ)けん、義綱をゐこめて置(おい)て、隠岐(おきの)国(くに)へ不帰。主上且(しばら)くは義綱を御待有(まちあり)けるが、余(あまり)に事(こと)滞(とどこほ)りければ、唯(ただ)運(うん)に任(まかせ)て御出(おんいで)有(あら)んと思食(おぼしめし)て、或夜(あるよ)の宵(よひ)の紛(まぎれ)に、三位(さんみ)殿(どの)の御局(おつぼね)の御産(ごさん)の事近付(ちかづき)たりとて、御所(ごしよ)を御出(おんいで)ある由にて、主上其御輿(そのおんこし)にめされ、六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)朝臣計(ばかり)を召具(めしぐ)して、潛(ひそか)に御所(ごしよ)をぞ御出(おんいで)有(あり)ける。此体(このてい)にては人の怪(あやし)め申(まうす)べき上(うへ)、駕輿丁(かよちやう)も無(なか)りければ、御輿(こし)をば被停て、悉(かたじけなく)も十善の天子、自(みづか)ら玉趾(ぎよくし)を草鞋(さうあい)の塵(ちり)に汚(けが)して、自(みづか)ら泥土(でいど)の地を踏(ふま)せ給(たまひ)けるこそ浅猿(あさまし)けれ。比(ころ)は三月二十三日の事なれば、月待程(まつほど)の暗き夜に、そこ共不知遠き野(の)の道を、たどりて歩(あゆま)せ給へば、今は遥(はるか)に来(き)ぬ覧(らん)と被思食たれば、迹(あと)なる山は未(いまだ)滝(たき)の響(ひびき)の風(ほのか)に聞ゆる程なり。若(もし)追懸進(おつかけまゐら)する事もやある覧(らん)と、恐(おそろ)しく思食(おぼしめし)ければ、一足(ひとあし)も前(さき)へと御心(おんこころ)許(ばかり)は進(すす)め共(ども)、いつ習(なら)はせ給(たまふ)べき道ならねば、夢路(ゆめぢ)をたどる心地(ここち)して、唯(ただ)一所(いつしよ)にのみやすらはせ給へば、こは如何(いかが)せんと思煩(おもひわづら)ひて、忠顕(ただあき)朝臣、御(おん)手を引(ひき)御腰(おんこし)を推(おし)て、今夜(こよひ)いかにもして、湊辺(みなとのへん)までと心遣(やり)給へ共(ども)、心身共(しんしんとも)に疲れ終(はて)て、野径(やけい)の露に徘徊(はいくわい)す。夜いたく深(ふけ)にければ、里遠からぬ鐘(かね)の声(こゑ)の、月に和(くわ)して聞へけるを、道しるべに尋寄(たづねより)て、忠顕(ただあき)朝臣或(ある)家の門を扣(たた)き、「千波(ちぶりの)湊へは何方(いづかた)へ行(ゆく)ぞ。」と問(とひ)ければ、内より怪(あやし)げなる男(をのこ)一人出向(いでむかひ)て、主上の御有様(おんありさま)を見進(まゐら)せけるが、心なき田夫野人(でんぶやじん)なれ共(ども)、何となく痛敷(いたはしく)や思進(おもひまゐら)せけん、「千波(ちぶりの)湊へは是(これ)より纔(わづかに)五十町(ごじつちよう)許(ばかり)候へ共(ども)、道(みち)南北へ分れて如何様(いかさま)御迷候(おんまよひさふらひ)ぬと存(ぞんじ)候へば、御(おん)道(みち)しるべ仕(つかまつり)候はん。」と申(まうし)て、主上を軽々(かるがる)と負進(おひまゐら)せ、程なく千波(ちぶりの)湊へぞ着(つき)にける。爰(ここ)にて時打(ときうつ)鼓(つづみ)の声を聞けば、夜は未だ五更(ごかう)の初(はじめ)也(なり)。此(この)道(みち)の案内者(あんないしや)仕(つかまつり)たる男(をのこ)、甲斐々々敷(かひがひしく)湊(みなとの)中(うち)を走廻(はしりまはつて)、伯耆(はうき)の国へ漕(こぎ)もどる商人舟(あきんどぶね)の有(あり)けるを、兎角(とかう)語(かたら)ひて、主上を屋形(やかた)の内に乗(の)せ進(まゐら)せ、其後(そののち)暇(いとま)申(まうし)てぞ止(とどま)りける。此男(このをのこ)誠(まこと)に唯人(ただびと)に非ざりけるにや、君(きみ)御一統(ごいつとう)の御時(おんとき)に、尤(もつとも)忠賞(ちゆうしやう)有(ある)べしと国中を被尋けるに、我こそ其(それ)にて候へと申(まうす)者遂(つひ)に無(なか)りけり。夜も已(すで)に明(あけ)ければ、舟人(ふなうど)纜(ともづな)を解(とい)て順風(じゆんぷう)に帆(ほ)を揚(あげ)、湊(みなと)の外(ほか)に漕出(こぎいだ)す。船頭(せんどう)主上の御有様を見奉(たてまつつ)て、唯人(ただびと)にては渡らせ給はじとや思ひけん、屋形(やかた)の前(まへ)に畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「加様(かやう)の時御船(おんふね)を仕(つかまつつ)て候こそ、我等が生涯の面目(めんぼく)にて候へ、何(いづ)くの浦へ寄(よせ)よと御定(ごぢやう)に随(したがひ)て、御舟(おんふね)の梶(かぢ)をば仕(つかまつり)候べし。」と申(まうし)て、実(まこと)に他事(たじ)もなげなる気色(きしよく)也(なり)。忠顕(ただあき)朝臣是(これ)を聞き給(たまひ)て、隠(かく)しては中々(なかなか)悪(あし)かりぬと思はれければ、此船頭(このせんどう)を近く呼寄(よびよせ)て、「是程(これほど)に推(お)し当(あて)られぬる上(うへ)は何をか隠(かく)すべき、屋形の中(うち)に御座(ござ)あるこそ、日本国の主(あるじ)、悉(かたじけなく)も十善(じふぜん)の君にていらせ給へ。汝等(なんぢら)も定(さだめ)て聞及(ききおよび)ぬらん、去年より隠岐(おきの)判官が館(たち)に被押篭て御座(ござ)ありつるを、忠顕(ただあき)盜出(ぬすみいだ)し進(まゐら)せたる也(なり)。出雲・伯耆(はうき)の間に、何(いづ)くにてもさりぬべからんずる泊(とまり)へ、急ぎ御舟(おんふね)を着(つけ)てをろし進(まゐら)せよ。御運(ごうん)開(ひらけ)ば、必(かならず)汝を侍(さぶらひ)に申成(まうしなし)て、所領一所(しよりやういつしよ)の主(ぬし)に成(なす)べし。」と被仰ければ、船頭(せんどう)実(まこと)に嬉しげなる気色(きしよく)にて、取梶(とりかぢ)・面梶(おもかぢ)取合(とりあは)せて、片帆(かたほ)にかけてぞ馳(はせ)たりける。今は海上(かいじやう)二三十里(にさんじふり)も過(すぎ)ぬらんと思ふ処に、同じ追風(おひかぜ)に帆(ほ)懸(かけ)たる舟十艘計(ばかり)、出雲・伯耆を指(さし)て馳来(はせきた)れり。筑紫舟(つくしぶね)か商人舟(あきんどぶね)かと見れば、さもあらで、隠岐(おきの)判官清高(きよたか)、主上を追(おひ)奉る舟にてぞ有(あり)ける。船頭是(これ)を見て、「角(かく)ては叶(かなひ)候まじ、是(これ)に御隠れ候へ。」と申(まうし)て、主上と忠顕(ただあき)朝臣とを、舟底(ふなぞこ)にやどし進(まゐら)せて、其(その)上に、あひ物とて乾(ほし)たる魚(うを)の入(いり)たる俵(たはら)を取積(とりつん)で、水手(すゐしゆ)・梶取(かんとり)其上(そのうへ)に立双(たちならん)で、櫓(ろ)をぞ押(おし)たりける。去程(さるほど)に追手(おひて)の舟一艘(いつさう)、御座舟(ござぶね)に追付(おつつい)て、屋形の中(うち)に乗移(のりうつ)り、こゝかしこ捜(さが)しけれ共(ども)、見出(みいだ)し奉らず。「さては此(この)舟には召(めさ)ざりけり。若(もし)あやしき舟や通(とほ)りつる。」と問(とひ)ければ、船頭(せんどう)、「今夜の子(ね)の刻計(こくばかり)に、千波(ちぶりの)湊を出候(いでさふらひ)つる舟にこそ、京上臈(きやうじやうらふ)かと覚(おぼ)しくて、冠(かぶり)とやらん着(き)たる人と、立烏帽子(たてゑぼし)着(き)たる人と、二人(ににん)乗(のら)せ給(たまひ)て候(さふらひ)つる。其(その)舟は今は五六里も先立候(さきだちさふらひ)ぬらん。」と申(まうし)ければ、「さては疑(うたがひ)もなき事也(なり)。早(はや)、舟をおせ。」とて、帆(ほ)を引(ひき)梶(かぢ)を直(なほ)せば、此(この)舟は軈(やが)て隔(へだたり)ぬ。今はかうと心安く覚(おぼえ)て迹(あと)の浪路(なみぢ)を顧(かへりみ)れば、又一里許(ばかり)さがりて、追手(おひて)の舟百余艘(よさう)、御坐船(ござふね)を目に懸(かけ)て、鳥の飛(とぶ)が如くに追懸(おつかけ)たり。船頭(せんどう)是(これ)を見て帆(ほ)の下に櫓(ろ)を立(たて)て、万里(ばんり)を一時(いちじ)に渡らんと声を帆に挙(あげ)て推(おし)けれ共(ども)、時節(をりふし)風たゆみ、塩(しほ)向(むかう)て御舟(おんふね)更に不進。水手(すゐしゆ)・梶取(かんどり)如何(いかが)せんと、あはて騒ぎける間、主上船底(ふなぞこ)より御出(おんいで)有(あつ)て、膚(はだ)の御護(おんまぶり)より、仏舎利(ぶつしやり)を一粒(いちりふ)取出(とりいだ)させ給(たまひ)て、御畳紙(おんたたうがみ)に乗(の)せて、波の上にぞ浮(うけ)られける。竜神(りゆうじん)是(これ)に納受(なふじゆ)やした〔り〕けん、海上(かいじやう)俄(にはか)に風替(かは)りて、御坐船(ござふね)をば東へ吹送(ふきおく)り、追手(おひて)の船をば西へ吹(ふき)もどす。さてこそ主上は虎口(ここう)の難(なん)の御遁有(のがれあり)て、御船(おんふね)は時間(ときのま)に、伯耆(はうき)の国名和湊(なわのみなと)に着(つき)にけり。六条(ろくでうの)少将忠顕朝臣(ただあきあそん)一人先(まづ)舟よりおり給(たまひ)て、「此辺(このへん)には何(いか)なる者か、弓矢取(とつ)て人に被知たる。」と問(とは)れければ、道行(ゆく)人立(たち)やすらひて、「此辺(このへん)には名和(なわの)又太郎長年(ながとし)と申(まうす)者こそ、其身(そのみ)指(さし)て名有(なある)武士(ぶし)にては候はね共(ども)、家(いへ)富(とみ)一族(いちぞく)広(ひろう)して、心がさある者にて候へ。」とぞ語りける。忠顕(ただあき)朝臣能々(よくよく)其子細(そのしさい)を尋聞(たづねきい)て、軈(やが)て勅使(ちよくし)を立(たて)て被仰けるは、「主上隠岐(おきの)判官が館(たち)を御逃(おんにげ)有(あつ)て、今此湊(このみなと)に御坐有(ござあり)。長年(ながとし)が武勇兼(かね)て上聞(しやうぶん)に達せし間、御憑(おんたのみ)あるべき由を被仰出也(なり)。憑(たの)まれ進(まゐら)せ候べしや否(いなや)、速(すみやか)に勅答可申。」とぞ被仰たりける。名和(なわの)又太郎は、折節(をりふし)一族共(いちぞくども)呼集(よびあつめ)て酒飲(のう)で居たりけるが、此(この)由を聞(きい)て案じ煩(わづらう)たる気色にて、兎(と)も角(かく)も申得(まうしえ)ざりけるを、舎弟(しやてい)小太郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)長重(ながしげ)進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「古(いにしへ)より今に至迄(いたるまで)、人の望(のぞむ)所は名と利との二(ふたつ)也(なり)。我等(われら)悉(かたじけなく)も十善(じふぜん)の君に被憑進(まゐらせ)て、尸(かばね)を軍門(ぐんもん)に曝(さら)す共(とも)名を後代(こうだい)に残(のこさ)ん事(こと)、生前(しやうぜん)の思出(おもひで)、死後の名誉たるべし。唯一筋(ひとすぢ)に思定(おもひさだめ)させ給ふより外(ほか)の儀(ぎ)有(ある)べしとも存(ぞんじ)候はず。」と申(まうし)ければ、又太郎を始(はじめ)として当座(たうざ)に候(さふらひ)ける一族共(いちぞくども)二十(にじふ)余人(よにん)、皆此儀(このぎ)に同(どう)じてけり。「されば頓(やが)て合戦の用意(ようい)候べし。定(さだめ)て追手(おひて)も迹(あと)より懸(かか)り候らん。長重(ながしげ)は主上の御迎(むかひ)に参(まゐつ)て、直(すぐ)に船上山(ふなのうへやま)へ入進(いれまゐら)せん。旁(かたがた)は頓(やが)て打立(うつたつ)て、船上(ふなのうへ)へ御参(ごさん)候べし。」と云捨(いひすて)て、鎧一縮(いつしゆく)して走り出(いで)ければ、一族(いちぞく)五人腹巻(はらまき)取(とつ)て投懸々々(なげかけなげかけ)、皆高紐(たかひぼ)しめて、共に御迎(むかひ)にぞ参じける。俄(にはか)の事にて御輿(こし)なんども無(なか)りければ、長重(ながしげ)着(き)たる鎧(よろひ)の上に荒薦(あらこも)を巻(まい)て、主上を負進(おひまゐら)せ、鳥の飛(とぶ)が如くして舟上(ふなのうへ)へ入(いれ)奉る。長年(ながとし)近辺(きんぺん)の在家(ざいけ)に人を廻(まは)し、「思立(おもひたつ)事(こと)有(あつ)て舟上(ふなのうへ)に兵粮を上(あぐ)る事あり。我倉(わがくら)の内にある所の米穀(べいこく)を、一荷(いつか)持(もつ)て運びたらん者には、銭(ぜに)を五百(ごひやく)づゝ取らすべし。」と触(ふれ)たりける間、十方より人夫(にんぷ)五六千人出来(しゆつらい)して、我(われ)劣らじと持送(もちおく)る。一日が中(うち)に兵粮五千(ごせん)余石(よこく)運びけり。其後(そののち)家中(けちゆう)の財宝(ざいはう)悉(ことごとく)人民(じんみん)百姓に与(あたへ)て、己(おのれ)が館(たち)に火をかけ、其(その)勢百五十騎にて、船上(ふなのうへ)に馳(はせ)参り、皇居(くわうきよ)を警固(けいご)仕る。長年(ながとし)が一族(いちぞく)名和(なわの)七郎と云(いひ)ける者、武勇の謀(はかりごと)有(あり)ければ、白布(しらぬの)五百(ごひやく)端(たん)有(あり)けるを旗にこしらへ、松の葉を焼(やい)て煙(けむり)にふすべ、近国(きんごく)の武士共(ぶしども)の家々の文(もん)を書(かい)て、此(ここ)の木の本(もと)、彼(かしこ)の峯にぞ立置(たておき)ける。此(この)旗共(はたども)峯の嵐に吹(ふか)れて、陣々に翻(ひるがへ)りたる様(さま)、山中(さんちゆう)に大勢(おほぜい)充満(じゆうまん)したりと見へてをびたゝし。
○船上(ふなのうへ)合戦(かつせんの)事(こと) S0707
去程(さるほど)に同(おなじき)二十九日、隠岐(おきの)判官、佐々木(ささきの)弾正(だんじやう)左衛門、其(その)勢三千余騎(よき)にて南北より押寄(おしよせ)たり。此舟上(このふなのうへ)と申(まうす)は、北は大山(だいせん)に継(つづ)き峙(そばだ)ち、三方(さんぱう)は地僻(ちさがり)に、峯に懸(かか)れる白雲(しらくも)腰(こし)を廻(めぐ)れり。俄に拵(こしら)へたる城なれば、未(いまだ)堀の一所(いつしよ)をも不掘、屏(へい)の一重(ひとへ)をも不塗、唯所々(しよしよ)に大木(たいぼく)少々切倒(きりたふ)して、逆木(さかもぎ)にひき、坊舎(ばうしや)の甍(いらか)を破(やぶつ)て、かひ楯(だて)にかける計(ばかり)也(なり)。寄手(よせて)三千余騎(よき)、坂中(さかなか)まで責上(せめのぼつ)て、城中をきつと向上(みあげ)たれば、松柏(しようはく)生茂(おひしげつ)ていと深き木陰(こかげ)に、勢の多少は知(しら)ね共(ども)、家々の旗四五百(ごひやく)流(ながれ)、雲に翻(ひるがへ)り、日に映(えい)じて見へたり。さては早(はや)、近国(きんごく)の勢共(せいども)の悉(ことごとく)馳(はせ)参りたりけり。此(この)勢許(ばかり)にては責難(せめがた)しとや思(おもひ)けん、寄手(よせて)皆心に危(あやしみ)て不進得。城中の勢共(せいども)は、敵(てき)に勢(せい)の分際(ぶんざい)を見へじと、木陰(こかげ)にぬはれ伏(ふし)て、時々(ときどき)射手(いて)を出(いだ)し、遠矢(とほや)を射させて日を暮(くら)す。卦(かか)る所に一方の寄手(よせて)なりける佐々木(ささきの)弾正(だんじやう)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)、遥(はるか)の麓にひかへて居たりけるが、何方(いづかた)より射る共(とも)しらぬ流矢(ながれや)に、右の眼(まなこ)を射ぬかれて、矢庭(やには)に伏(ふし)て死にけり。依之(これによつて)其(その)手(て)の兵(つはもの)五百(ごひやく)余騎(よき)色を失(うしなう)て軍(いくさ)をもせず。佐渡前司(さどのぜんじ)は八百(はつぴやく)余騎(よき)にて搦手(からめて)へ向(むかひ)たりけるが、俄に旗を巻(まき)、甲(かぶと)を脱(ぬい)で降参(かうさん)す。隠岐(おきの)判官は猶(なほ)加様(かやう)の事をも不知、搦手(からめて)の勢は、定(さだめ)て今は責近(せめちかづ)きぬらんと心得て、一の木戸口(きどくち)に支(ささへ)て、悪手(あらて)を入替々々(いれかへいれかへ)、時(とき)移(うつ)るまでぞ責(せめ)たりける。日已(すで)に西山(せいざん)に隠れなんとしける時、俄に天かき曇り、風吹き雨降(ふる)事(こと)車軸(しやぢく)の如く、雷(いかづち)の鳴(なる)事(こと)山を崩(くづ)すが如し。寄手(よせて)是(これ)におぢわなゝひて、斯彼(ここかしこ)の木陰(こかげ)に立寄(たちよつ)てむらがり居たる所に、名和(なわ)又太郎長年(ながとし)舎弟(しやてい)太郎左衛門長重(ながしげ)、小次郎長生(ながたか)が、射手(いて)を左右に進めて散々(さんざん)に射させ、敵(てき)の楯(たて)の端(はし)のゆるぐ所を、得たりや賢(かしこ)しと、ぬきつれて打(うつ)てかゝる。大手の寄手(よせて)千余騎(よき)、谷底(たにぞこ)へ皆まくり落されて、己(おのれ)が太刀・長刀(なぎなた)に貫(つらぬか)れて命(いのち)を墜(おと)す者其数(そのかず)を不知。隠岐(おきの)判官計(ばかり)辛(から)き命を助(たすか)りて、小舟(こぶね)一艘(いつさう)に取乗(とりのり)、本国へ逃帰(にげかへ)りけるを、国人いつしか心替(こころがはり)して、津々浦々(つつうらうら)を堅めふせぎける間、波に任(まか)せ風に随(したがひ)て、越前の敦賀(つるが)へ漂(ただよ)ひ寄(より)たりけるが、幾程も無(なく)して、六波羅(ろくはら)没落(ぼつらく)の時、江州(がうしう)番馬(ばんば)の辻堂(つじだう)にて、腹掻切(かききつ)て失(うせ)にけり。世澆季(げうき)に成(なり)ぬといへ共(ども)、天理(てんり)未(いま)だ有(あり)けるにや、余(あまり)に君を悩(なやま)し奉りける隠岐(おきの)判官が、三十(さんじふ)余日(よにち)が間に滅(ほろ)びはてゝ、首(くび)を軍門(ぐんもん)の幢(はたほこ)に懸(かけ)られけるこそ不思儀なれ。主上隠岐(おきの)国(くに)より還幸(くわんかう)成(なつ)て、船上(ふなのうへ)に御座有(ござあり)と聞へしかば、国々の兵共(つはものども)の馳(はせ)参る事引(ひき)も不切。先(まづ)一番に出雲(いづも)の守護(しゆご)塩谷(えんや)判官高貞(たかさだ)、富士名(ふじなの)判官と打連(うちつれ)、千(せん)余騎(よき)にて馳(はせ)参る。其後(そののち)浅山(あさやま)二郎八百(はつぴやく)余騎(よき)、金持(かなぢ)の一党(いつたう)三百(さんびやく)余騎(よき)、大山衆徒(だいせんのしゆと)七百余騎(よき)、都(すべ)て出雲(いづも)・伯耆・因幡(いなば)、三箇国(かこく)の間に、弓矢に携(たづさは)る程の武士共(ぶしども)の参らぬ者は無(なか)りけり。是(これ)のみならず、石見(いはみの)国(くに)には沢(さは)・三角(みすみ)の一族(いちぞく)、安芸(あきの)国(くに)に熊谷(くまがえ)・小早河(こばいかは)、美作(みまさかの)国(くに)には菅家(くわんけ)の一族(いちぞく)・江見(えみ)・方賀(はが)・渋谷(しぶや)・南三郷(みなみさんがう)、備後(びんごの)国(くに)に江田(えた)・広沢・宮(みや)・三吉(みよし)、備中に新見(にひみ)・成合(なりあひ)・那須(なす)・三村(みむら)・小坂(こさか)・河村・庄(しやう)・真壁(まかべ)、備前に今木(いまぎ)・大富(おほどみの)太郎幸範(よしのり)・和田備後(びんごの)二郎範長(のりなが)・知間(ちまの)二郎親経(ちかつね)・藤井・射越(いのこし)五郎左衛門範貞(のりさだ)・小嶋(こじま)・中吉(なかぎり)・美濃権(みののごんの)介・和気(わけの)弥次郎季経(すゑつね)・石生(おしこ)彦三郎、此外(このほか)四国九州の兵(つはもの)までも聞伝々々(ききつたへききつたへ)、我前(われさき)にと馳(はせ)参りける間、其(その)勢舟上山(ふなのうへやま)に居余(ゐあま)りて、四方(しはう)の麓二三里は、木の下・草の陰(かげ)までも、人ならずと云(いふ)所は無(なか)りけり。


太平記(国民文庫)

太平記巻第八
○摩耶(まや)合戦(かつせんの)事(こと)付酒部瀬河(さかべせがは)合戦(かつせんの)事(こと) S0801
先帝(せんてい)已(すで)に船上(ふなのうへ)に着御(ちやくぎよ)成(なつ)て、隠岐(おきの)判官清高(きよたか)合戦に打負(うちまけ)し後、近国(きんごく)の武士共(ぶしども)皆馳(はせ)参る由(よし)、出雲(いづも)・伯耆(はうき)の早馬(はやむま)頻並(しきなみ)に打(うつ)て、六波羅(ろくはら)へ告(つげ)たりければ、事已(すで)に珍事(ちんじ)に及びぬと聞(きく)人色(いろ)を失へり。是(これ)に付(つけ)ても、京(きやう)近き所に敵の足をためさせては叶(かなふ)まじ。先(まづ)摂津国(つのくに)摩耶(まや)の城(じやう)へ押寄(おしよせ)て、赤松(あかまつ)を可退治とて、佐々木(ささきの)判官時信(ときのぶ)・常陸前司(ひたちのぜんじ)時知(ときとも)に四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)、在京人(ざいきやうにん)並(ならびに)三井寺(みゐでら)法師三百(さんびやく)余人(よにん)を相副(あひそへ)て、以上五千(ごせん)余騎(よき)を摩耶(まや)の城(じやう)へぞ被向ける。其(その)勢閏(うるふ)二月五日京都を立(たつ)て、同(おなじき)十一日の卯刻(うのこく)に、摩耶(まや)の城の南の麓(ふもと)、求塚(もとめづか)・八幡林(やはたばやし)よりぞ寄(よせ)たりける。赤松入道是(これ)を見て、態(わざと)敵を難所(なんじよ)に帯(おび)き寄(よせ)ん為に、足軽(あしがる)の射手(いて)一二百人を麓へ下(おろ)して、遠矢(とほや)少々射させて、城(しろ)へ引上(ひきあが)りけるを、寄手(よせて)勝(かつ)に乗(のつ)て五千(ごせん)余騎(よき)、さしも嶮(けはし)き南の坂を、人馬(じんば)に息も継(つが)せず揉(もみ)に々(もう)でぞ挙(あげ)たりける。此(この)山へ上(のぼ)るに、七曲(ななまがり)とて岨(けはし)く細き路あり。此(この)所に至(いたつ)て、寄手(よせて)少し上(のぼ)りかねて支(ささ)へたりける所を、赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)・飽間(あくま)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)光泰(みつやす)二人(ににん)南の尾崎(をさき)へ下降(おりくだつ)て、矢種(やだね)を不惜散々(さんざん)に射ける間、寄手(よせて)少し射しらまかされて、互(たがひ)に人を楯に成(なし)て其陰(そのかげ)にかくれんと色めきける気色(けしき)を見て、赤松入道子息信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)・筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)・佐用(さよ)・上月(かうつき)・小寺(こでら)・頓宮(とんぐう)の一党五百(ごひやく)余人(よにん)、鋒(きつさき)を双(ならべ)て大山の崩(くづるる)が如く、二(に)の尾(を)より打(うつ)て出(いで)たりける間、寄手(よせて)跡より引立(ひきたつ)て、「返せ。」と云(いひ)けれ共(ども)、耳にも不聞入、我先(われさき)にと引(ひき)けり。其(その)道或(あるひは)深田(ふけだ)にして馬の蹄(ひづめ)膝(ひざ)を過ぎ、或(あるひは)荊棘(けいぎよく)生繁(おひしげつ)て行く前(さ)き弥(いよいよ)狭(せば)ければ、返さんとするも不叶、防がんとするも便(たよ)りなし。されば城の麓より、武庫河(むこがは)の西の縁(はた)まで道三里が間、人馬上(いや)が上(うへ)に重(かさな)り死(しし)て行人(かうじん)路(みち)を去敢(さりあへ)ず。向ふ時七千余騎(よき)と聞へし六波羅(ろくはら)の勢、僅(わづか)に千騎(せんぎ)にだにも足(た)らで引返しければ、京中(きやうぢゆう)・六波羅(ろくはら)の周章(しうしやう)不斜(なのめならず)。雖然、敵近国より起(おこつ)て、属順(つきしたが)ひたる勢(せい)さまで多しとも聞へねば、縦(たと)ひ一度(いちど)二度(にど)勝(かつ)に乗る事有(あり)とも、何程の事か可有と、敵の分限(ぶんげん)を推量(おしはかつ)て、引(ひけ)ども機をば不失。斯(かか)る所に、備前(びぜんの)国(くに)の地頭(ぢとう)・御家人(ごけにん)も大略(たいりやく)敵に成(なり)ぬと聞へければ、摩耶城(まやのじやう)へ勢(せい)重(かさ)ならぬ前(さき)に討手を下(くだ)せとて、同(おなじき)二十八日、又一万余騎(よき)の勢を被差下。赤松入動是(これ)を聞(きい)て、「勝軍(かちいくさ)の利(りは)、謀(はかりごと)不意(ふい)に出で大敵の気を凌(しのい)で、須臾(しゆゆ)に変化(へんくわ)して先(さきん)ずるには不如。」とて三千(さんぜん)余騎(よき)を率(そつ)し、摩耶(まや)の城を出(いで)て、久々智(くくち)・酒部(さかべ)に陣を取(とつ)て待(まち)かけたり。三月十日六波羅勢(ろくはらぜい)、既(すで)に瀬河(せがは)に着(つき)ぬと聞へければ、合戦は明日にてぞ有(あら)んずらんとて、赤松すこし油断(ゆだん)して、一村雨(ひとむらさめ)の過(すぎ)けるほど物具(もののぐ)の露をほさんと、僅(わづか)なる在家(ざいけ)にこみ入(いつ)て、雨の晴間(はれま)を待(まち)ける所に、尼崎(ああまがさき)より船を留(とど)めてあがりける阿波(あは)の小笠原(をがさはら)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄(おしよせ)たり。赤松纔(わづか)に五十(ごじふ)余騎(よき)にて大勢(おほぜい)の中へかけ入り、面(おもて)も不振戦ひけるが、大敵凌(しの)ぐに叶はねば、四十七騎は被討て、父子(ふし)六騎にこそ成(なり)にけれ。六騎の兵(つはもの)皆揆(しるし)をかなぐり捨(すて)て、大勢の中へ颯(さつ)と交(まじは)りて懸(かけ)まわりける間、敵是(これ)を知らでや有(あり)けん、又天運の助けにや懸(かか)りけん、何(いづ)れも無恙して、御方(みかた)の勢の小屋野(こやの)の宿(しゆく)の西に、三千(さんぜん)余騎(よき)にて引(ひか)へたる其(その)中へ馳入(はせいつ)て、虎口(ここう)に死を遁(のが)れけり。六波羅勢(ろくはらぜい)は昨日の軍(いくさ)に敵の勇鋭(ゆうえい)を見るに、小勢(こぜい)也(なり)。といへども、欺(あざむ)き難(がた)しと思(おもひ)ければ、瀬河(せがは)の宿(しゆく)に引(ひか)へて進み得ず。赤松は又敗軍(はいぐん)の士卒(じそつ)を集め、殿(おく)れたる勢を待調(まちそろへ)ん為に不懸、互(たがひ)に陣を阻(へだて)て未(いまだ)雌雄(しゆう)を決せず。丁壮(ていさう)そゞろに軍旅(ぐんりよ)につかれなば、敵に気を被奪べしとて、同(おなじき)十一日赤松三千(さんぜん)余騎(よき)にて、敵の陣へ押寄(おしよせ)て、先づ事の体(てい)を伺ひ見(みる)に、瀬河(せがは)の宿(しゆく)の東西(とうざい)に、家々の旗二三百(にさんびやく)流(ながれ)、梢の風に翻(ひるがへ)して、其(その)勢二三万騎(にさんまんぎ)も有(あら)んと見へたり。御方(みかた)を是(これ)に合(あは)せば、百にして其(その)一二をも可比とは見へねども、戦はで可勝道な〔け〕れば、偏(ひとへ)に只討死と志(こころざし)て、筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)・佐用(さよの)兵庫(ひやうごの)助(すけ)範家(のりいへ)・宇野(うのの)能登(のとの)守(かみ)国頼(くにより)・中山(なかやまの)五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)光能(みつよし)・飽間(あくま)九郎左〔衛〕門(くらうざゑもんの)尉(じよう)光泰(みつやす)、郎等(らうどう)共に七騎にて、竹の陰(かげ)より南の山へ打襄(うちあがつ)て進み出(いで)たり。敵是(これ)を見て、楯の端(はし)少し動(うごい)て、かゝるかと見ればさもあらず、色めきたる気色(けしき)に見へける間、七騎の人々馬より飛下(とびお)り、竹の一村(ひとむら)滋(しげ)りたるを木楯(こだて)に取(とつ)て、差攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)散々(さんざん)にぞ射たりける。瀬川(せがは)の宿(しゆく)の南北三十(さんじふ)余町(よちやう)に、沓(くつ)の子(こ)を打(うつ)たる様(やう)に引(ひか)へたる敵なれば、何(なに)かはゝづるべき。矢比(やころ)近き敵二十五騎、真逆(まつさかさま)に被打落ければ、矢面(やおもて)なる人を楯(たて)にして、馬を射させじと立てかねたり。平野(ひらの)伊勢(いせの)前司(ぜんじ)・佐用(さよ)・上月(かうつき)・田中・小寺(こてら)・八木(やぎ)・衣笠(きぬがさ)の若者共(わかものども)、「すはや敵は色めきたるは。」と、箙(えびら)を叩き、勝時(かつどき)を作(つくつ)て、七百(しちひやく)余騎(よき)轡(くつばみ)を双(なら)べてぞ懸(かけ)たりける。大軍の靡(なび)く僻(くせ)なれば、六波羅勢(ろくはらぜい)前陣(ぜんぢん)返(かへ)せども後陣(ごぢん)不続、行前(ゆくさき)は狭(せば)し、「閑(しづか)に引け。」といへども耳にも不聞入、子は親を捨て郎等(らうどう)は主(しゆ)を知らで、我前(われさき)にと落行(おちゆき)ける程に、其(その)勢大半(たいはん)討(うた)れて纔(わづか)に京へぞ帰りける。赤松は手負(ておひ)・生捕(いけどり)の頚三百(さんびやく)余、宿河原(しゆくのかはら)に切懸(きりかけ)させて、又摩耶(まや)の城(じやう)へ引返さんとしけるを、円心(ゑんしん)が子息(しそく)帥律師(そつのりつし)則祐(そくいう)、進み出(いで)て申(まうし)けるは、「軍(いくさ)の利(り)は勝(かつ)に乗(のつ)て北(にぐ)るを追(おふ)に不如。今度(こんど)寄手(よせて)の名字(みやうじ)を聞(きく)に、京都の勢数(かず)を尽(つく)して向(むかつ)て候なる。此(この)勢共(せいども)今四五日は、長途(ちやうど)の負軍(まけいくさ)にくたびれて、人馬(じんば)ともに物(もの)の用に不可立。臆病神(おくびやうがみ)の覚(さめ)ぬ前(さき)に続(つづ)ひて責(せむ)る物(もの)ならば、などか六波羅(ろくはら)を一戦(いつせん)の中(うち)に責落(せめおと)さでは候べき。是(これ)太公(たいこう)が兵書(ひやうしよ)に出(いで)て、子房(しばう)が心底(しんてい)に秘せし所にて候はずや。」と云(いひ)ければ、諸人(しよにん)皆此義(このぎ)に同(どう)じて、其夜(そのよ)軈(やが)て宿川原(しゆくのかはら)を立(たつ)て、路次(ろし)の在家(ざいけ)に火をかけ、其(その)光を手松(たいまつ)にして、逃(にぐ)る敵に追(おつ)すがうて責上(せめのぼ)りけり。
○三月十二日合戦(かつせんの)事(こと) S0802
六波羅(ろくはら)には斯(かか)る事とは夢にも知(しら)ず。摩耶(まや)の城(じやう)へは大勢下(くだ)しつれば、敵を責落(せめおと)さん事(こと)、日を過さじと心安く思(おもひ)ける。其左右(そのさう)を今や/\と待(まち)ける所に、寄手(よせて)打負(うちまけ)て逃上(にげのぼ)る由披露(ひろう)有(あつ)て、実説(じつせつ)は未聞。何(なに)とある事やらん、不審(ふしん)端(はし)多き所に、三月十二日申刻計(さるのこくばかり)に、淀(よど)・赤井(あかゐ)・山崎・西岡辺(にしのをかへん)三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)に火を懸(かけ)たり。「こは何事ぞ。」と問(とふ)に、「西国の勢已(すで)に三方(さんぱう)より寄(よせ)たり。」とて、京中(きやうぢゆう)上(うへ)を下(した)へ返して騒動す。両六波羅(りやうろくはら)驚ひて、地蔵堂(ぢざうだう)の鐘(かね)を鳴(なら)し洛中(らくちゆう)の勢を被集けれども、宗徒(むねと)の勢(せい)は摩耶(まや)の城より被追立、右往左往(うわうざわう)に逃隠(にげかく)れぬ。其外(そのほか)は奉行(ぶぎやう)・頭人(とうにん)なんど被云て、肥脹(こえふく)れたる者共(ものども)が馬に被舁乗て、四五百騎馳集(はせあつま)りたれ共(ども)、皆只あきれ迷へる計(ばかり)にて、差(さし)たる義勢(ぎせい)も無(なか)りけり。六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)、左近(さこんの)将監仲時(なかとき)、「事の体(てい)を見るに、何様(なにさま)坐(ゐ)ながら敵を京都にて相待(あひまた)ん事は、武略(ぶりやく)の足(たら)ざるに似〔た〕り。洛外(ぐわい)に馳向(はせむかつ)て可防。」とて両検断(けんだん)隅田(すだ)・高橋に、在京の武士(ぶし)二万余騎(よき)を相副(あひそへ)て、今在家(いまざいけ)・作道(つくりみち)・西の朱雀(しゆじやか)・西八条辺(へん)へ被差向。是(これ)は此比(このころ)南風(みなみのかぜ)に雪とけて河水(かはみづ)岸(きし)に余(あま)る時なれば、桂河(かつらがは)を阻(へだて)て戦(たたかひ)を致せとの謀(はかりごと)也(なり)。去程(さるほど)に赤松入道円心(ゑんしん)、三千(さんぜん)余騎(よき)を二(ふたつ)に分(わけ)て、久我縄手(こがなはて)・西の七条より押寄(おしよせ)たり。大手(おほて)の勢桂川(かつらがは)の西の岸に打莅(うちのぞん)で、川向(かはむかひ)なる六波羅勢(ろくはらぜい)を見渡せば、鳥羽(とば)の秋(あき)山風(やまかぜ)に、家家の旗翩翻(へんぼん)として、城南(せいなん)の離宮(りきゆう)の西(さい)門より、作道(つくりみち)・四塚(よつづか)・羅城門(らしやうもん)の東西(とうざい)、々(にし)の七条口まで支(ささ)へて、雲霞(うんか)の如(ごとく)に充満(じゆうまん)したり。されども此(この)勢(せい)は、桂川(かつらがは)を前にして防げと被下知つる其趣(そのおもむき)を守(まもつ)て、川をば誰も越(こえ)ざりけり。寄手(よせて)は又、思(おもひ)の外(ほか)敵大勢なるよと思惟(しゆゐ)して、無左右打(うつ)て懸(かか)らんともせず。只両陣互(たがひ)に川を隔(へだて)て、矢軍(やいくさ)に時をぞ移しける。中(なか)にも帥律師(そつのりつし)則祐(そくいう)、馬を踏放(ふみはなし)て歩立(かちたち)になり、矢たばね解(とい)て押(おし)くつろげ、一枚楯(いちまいだて)の陰(かげ)より、引攻々々(ひきつめひきつめ)散々(さんざん)に射けるが、「矢軍許(やいくさばかり)にては勝負(しようぶ)を決すまじかり。」と独言(ひとりごと)して、脱置(ぬぎおい)たる鎧(よろひ)を肩にかけ、胄(かぶと)の緒(を)を縮(しめ)、馬の腹帯(はるび)を堅(かた)めて、只一騎岸(きし)より下(した)に打下(うちおろ)し、手縄(たづな)かいくり渡さんとす。父の入道遥(はるか)に見て馬を打寄(うちよ)せ、面(おもて)に塞(ふさがつ)て制(せい)しけるは、「昔佐々木(ささきの)三郎が藤戸(ふぢと)を渡し、足利(あしかが)又太郎が宇治川(うぢがは)を渡(わたし)たるは、兼(かね)てみほじるしを立(たて)て、案内(あんない)を見置き、敵の無勢(ぶせい)を目に懸(かけ)て先(さき)をば懸(かけ)し者也(なり)。河上(かはかみ)の雪消(きえ)水増(まさ)りて、淵瀬(ふちせ)も見へぬ大河(たいが)を、曾(かつ)て案内も知(しら)ずして渡さば可被渡歟(か)。縦(たとひ)馬強(つよ)くして渡る事を得たりとも、あの大勢(おほぜい)の中へ只一騎懸入(かけいり)たらんは、不被討と云(いふ)事(こと)可不有。天下の安危(あんき)必(かならず)しも此(この)一戦(いつせん)に不可限。暫(しばらく)命(いのち)を全(まつたう)して君の御代(ごよ)を待(また)んと思ふ心のなきか。」と、再三(さいさん)強(しひ)て止(とめ)ければ、則祐(そくいう)馬を立直(たてなほ)し、抜(ぬい)たる太刀を収(をさめ)て申(まうし)けるは、「御方(みかた)と敵と可対揚程の勢にてだに候はゞ、我(われ)と手を不砕とも、運(うん)を合戦の勝負(しようぶ)に任(まかせ)て見候べきを、御方(みかた)は僅(わづか)に三千(さんぜん)余騎(よき)、敵は是(これ)に百倍(ひやくばい)せり。急に戦(たたかひ)を不決して、敵に無勢(ぶせい)の程を被見透なば、雖戦不可有利。されば太公(たいこう)が兵道(へいだう)の詞(ことば)に、「兵勝之術密察敵人之機、而速乗其利疾撃其不意」と云へり、是(これ)以吾困兵敗敵強陣謀(はかりごと)にて候はぬや。」と云捨(いひすて)て、駿馬(しゆんめ)に鞭を進め、漲(みなぎつ)て流るゝ瀬枕(せまくら)に、逆波(さかなみ)を立(たて)てぞ游(およ)がせける。見之飽間(あくま)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)・伊東大輔(いとうのたいふ)・川原林(かはらばやしの)二郎・木寺相摸(こでらのさがみ)・宇野(うのの)能登(のとの)守(かみ)国頼(くにより)、五騎続(つづ)ひて颯(さつ)と打入(うちいれ)たり。宇野と伊東は馬強(つよう)して、一文字に流(ながれ)を截(きつ)て渡る。木寺相摸(こでらのさがみ)は、逆巻(さかまく)水に馬を被放て、胄(かぶと)の手反許(てへんばかり)僅(わづか)に浮(うかん)で見へけるが、波の上をや游(およ)ぎけん、水底(みづのそこ)をや潛(くぐ)りけん、人より前(さき)に渡付(わたりつい)て、川の向(むかう)の流州(ながれす)に、鎧(よろひ)の水瀝(したで)てぞ立(たつ)たりける。彼等(かれら)五人(ごにん)が振舞(ふるまひ)を見て尋常(よのつね)の者ならずとや思(おもひ)けん、六波羅(ろくはら)の二万余騎(よき)、人馬(じんば)東西(とうざい)に僻易(へきえき)して敢(あへ)て懸合(かけあは)せんとする者なし。剰(あまつさへ)楯(たて)の端(はし)しどろに成(なつ)て色めき渡る所を見て、「前懸(さきがけ)の御方(みかた)打(うた)すな。続けや。」とて、信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)・筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)真前(まつさき)に進めば、佐用(さよ)・上月(かうつき)の兵(つはもの)三千(さんぜん)余騎(よき)、一度(いちど)に颯(さつ)と打入(うちいつ)て、馬筏(うまいかだ)に流(ながれ)をせきあげたれば、逆水(さかみづ)岸(きし)に余(あま)り、流(なが)れ十方に分(わかれ)て元(もと)の淵瀬(ふちせ)は、中々(なかなか)に陸地(くがぢ)を行(ゆく)がご〔と〕く也(なり)。三千(さんぜん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、向(むかう)の岸に打上(うちあが)り、死を一挙(いつきよ)の中(うち)に軽(かろく)せんと、進み勇める勢(いきほひ)を見て、六波羅勢(ろくはらぜい)叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、未(いまだ)戦(たたかはざる)前(さき)に、楯を捨て旗を引(ひい)て、作道(つくりみち)を北へ東寺(とうじ)を指(さし)て引(ひく)も有(あり)、竹田川原(たけだがはら)を上(のぼ)りに、法性寺大路(ほふしやうじおほち)へ落(おつる)もあり。其(その)道二三十町(にさんじつちよう)が間には、捨(すて)たる物具(もののぐ)地に満(みち)て、馬蹄(ばてい)の塵に埋没(まいぼつ)す。去程(さるほど)に西七条の手、高倉(たかくら)少将の子息(しそく)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)、小寺(こでら)・衣笠(きぬがさ)の兵共(つはものども)、早(はや)京中へ責入(せめいつ)たりと見へて、大宮(おほみや)・猪熊(ゐのくま)・堀川・油小路(あぶらのこうぢ)の辺(へん)、五十(ごじふ)余箇所(よかしよ)に火をかけたり。又八条、九条の間(あひだ)にも、戦(たたかひ)有(あり)と覚へて、汗馬(かんば)東西に馳違(はせちがひ)、時(とき)の声天地を響(ひびか)せり。唯(ただ)大三災(だいさんさい)一時(いちじ)に起(おこつ)て、世界(せかい)悉(ことごとく)却火(ごふくわ)の為に焼失(やけうせ)るかと疑はる。京中の合戦は、夜半許(やはんばかり)の事なれば、目ざすとも知らぬ暗き夜に、時(ときの)声此彼(ここかしこ)に聞へて、勢の多少も軍立(いくさだち)の様(やう)も見分(みわか)ざれば、何(いづ)くへ何(なに)と向(むかう)て軍(いくさ)を可為とも不覚(おぼえず)。京中の勢(せい)は、先(まづ)只六条川原(ろくでうかはら)に馳集(はせあつまつ)て、あきれたる体(てい)にて扣(ひか)へたり。
○持明院殿(ぢみやうゐんどの)行幸六波羅事 S0803
日野(ひの)中納言資名(すけな)・同(おなじき)左大弁(さだいべん)宰相資明(すけあきら)二人(ににん)同車(どうじや)して、内裏(だいり)へ参り給(たまひ)たれば、四門(しもん)徒(いたづら)に開(ひらき)、警固(けいご)の武士(ぶし)は一人もなし。主上南殿(なんでん)に出御(しゆつぎよ)成(なつ)て、「誰(たれ)か候。」と御尋(おんたづね)あれども、衛府諸司(ゑふしよし)の官、蘭台金馬(らんたいきんめ)の司(つかさ)も何地(いづち)へか行(ゆき)たりけん、勾当(こうたう)の内侍(ないし)・上童(うへわらは)二人(ににん)より外(ほか)は御前(おんまへ)に候(こう)する者無(なか)りけり。資名(すけな)・資明(すけあきら)二人(ににん)御前(おんまへ)に参じて、「官軍(くわんぐん)戦(たたか)ひ弱くして、逆徒(ぎやくと)不期洛中(らくちゆう)に襲来(おそひきたり)候。加様(かやう)にて御坐(ござ)候はゞ、賊徒(ぞくと)差違(さしちがへ)て御所(ごしよ)中へも乱入(らんにふ)仕候(つかまつりさふらひ)ぬと覚へ候。急ぎ三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を先立(さきだて)て六波羅(ろくはら)へ行幸(ぎやうがう)成(なり)候へ。」と被申ければ、主上軈(やが)て腰輿(えうよ)に被召、二条(にでう)川原(かはら)より六波羅(ろくはら)へ臨幸(りんかう)成る。其後(そののち)堀河(ほりかはの)大納言・三条(さんでうの)源(げん)大納言・鷲尾(わしのをの)中納言・坊城(ばうじやうの)宰相以下(いげ)、月卿雲客(げつけいうんかく)二十(にじふ)余人(よにん)、路次(ろし)に参着(さんちやく)して供奉(ぐぶ)し奉りけり。是(これ)を聞食及(きこしめしおよん)で、院(ゐん)・法皇(ほふわう)・東宮(とうぐう)・皇后(くわうごう)・梶井(かぢゐ)の二品親王(にほんしんわう)まで皆六波羅(ろくはら)へと御幸(ごかう)成る間、供奉(ぐぶ)の卿相雲客(けいしやううんかく)軍勢の中に交(まじはり)て警蹕(けいひつ)の声頻(しきり)也(なり)ければ、是(これ)さへ六波羅(ろくはら)の仰天(ぎやうてん)一方(ひとかた)ならず。俄に六波羅(ろくはら)の北方(きたのかた)をあけて、仙院(せんゐん)・皇居(くわうきよ)となす。事の体(てい)騒(さわが)しかりし有様也(なり)。軈(やが)て両六波羅(りやうろくはら)は七条河原(しちでうがはら)に打立(うちたつ)て、近付く敵を相待つ。此大勢(このおほぜい)を見て敵もさすがにあぐんでや思ひけん、只此彼(ここかしこ)に走散(はしりちつ)て、火を懸(かけ)時(とき)の声を作る計(ばかり)にて、同じ陣に扣(ひか)へたり。両六波羅(りやうろくはら)是(これ)を見て、「如何様(いかさま)敵は小勢(こぜい)也(なり)。と覚(おぼゆ)るぞ、向(むかつ)て追散(おつちら)せ。」とて、隅田(すだ)・高橋に三千(さんぜん)余騎(よき)を相副(あひそへ)て八条口へ被差向。河野(かうのの)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)・陶山(すやま)次郎に二千余騎(よき)をさし副(そへ)て、蓮華王院(れんげわうゐん)へ被向けり。陶山(すやま)川野(かうの)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「何ともなき取集(とりあつ)め勢(ぜい)に交(まじはつ)て軍(いくさ)をせば、憖(なまじひ)に足纏(あしまとひ)に成(なつ)て懸引(かけひき)も自在なるまじ。いざや六波羅殿(ろくはらどの)より被差副たる勢をば、八条河原(はつでうがはら)に引(ひか)へさせて時(とき)の声を挙(あ)げさせ、我等(われら)は手勢(てせい)を引勝(ひきすぐつ)て、蓮華王院(れんげわうゐん)の東より敵の中へ駈入(かけい)り、蜘手(くもで)十文字(じふもんじ)に懸破(かけやぶ)り、弓手妻手(ゆんでめて)にて相付(あひつけ)て、追物(おふもの)射(い)に射てくれ候はん。」と云(いひ)ければ、河野(かうの)、「尤(もつとも)可然。」と同(どう)じて、外様(とざま)の勢二千余騎(よき)をば、塩小路(しほのこうぢ)の道場(だうぢやう)の前へ差遣(さしつかは)し、川野(かうの)が勢三百(さんびやく)余騎(よき)、陶山(すやま)が勢百五十(ひやくごじふ)余騎(よき)は引分(ひきわけ)て、蓮華王院(れんげわうゐん)の東へぞ廻(まは)りける。合図(あひづ)の程にも成(なり)ければ、八条川原(はつでうがはら)の勢、鬨(ときの)声を揚(あげ)たるに、敵是(これ)に立合(たてあは)せんと馬を西頭(にしがしら)に立(たて)て相待(あひまつ)処に、陶山(すやま)・川野(かうの)四百余騎(よき)、思(おもひ)も寄らぬ後(うしろ)より、時(とき)を咄(どつ)と作(つくつ)て、大勢の中(なか)へ懸入(かけいり)、東西南北に懸破(かけやぶつ)て、敵を一所(いつしよ)に不打寄、追立々々(おつたておつたて)責戦(せめたたかふ)。川野(かうの)と陶山(すやま)と、一所(いつしよ)に合(あう)ては両所に分れ、両所に分(わかれ)ては又一所(いつしよ)に合(あひ)、七八度が程ぞ揉(もう)だりける。長途(ちやうど)に疲(つかれ)たる歩立(かちたち)の武者、駿馬(しゆんめ)の兵に被懸悩て、討(うた)るゝ者其数(そのかず)を不知。手負(ておひ)を捨(すて)て道を要(よこぎつ)て、散々(ちりぢり)に成(なつ)て引返(ひきかへ)す。陶山(すやま)・川野(かうの)逃(にぐ)る敵には目をも不懸、「西七条辺(へん)の合戦何(なに)と有(あ)らん、無心元。」とて、又七条川原(しちでうがはら)を直違(すぢかひ)に西へ打(うつ)て七条大宮(おほみや)に扣(ひか)へ、朱雀(しゆじやか)の方(かた)を見遣(みやり)ければ、隅田(すだ)・高橋が三千(さんぜん)余騎(よき)、高倉(たかくら)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)・小寺(こでら)・衣笠(きぬがさ)が二千余騎(よき)に被懸立て、馬の足をぞ立兼(たてかね)たる。川野(かうの)是(これ)を見て、「角(かく)ては御方(みかた)被打ぬと覚(おぼゆ)るぞ。いざや打(うつ)て懸(かか)らん。」と云(いひ)けるを、陶山(すやま)、「暫(しばし)。」と制(せい)しけり。「其故(そのゆゑ)は此(この)陣の軍(いくさ)未(いまだ)雌雄(しゆう)決(せざる)前(さき)に、力を合(あはせ)て御方(みかた)を助(たすけ)たりとも、隅田(すだ)・高橋が口の悪(にく)さは、我高名(わがかうみやう)にぞ云はんずらん。暫(しばら)く置(おい)て事の様(やう)を御覧(ごらん)ぜよ。敵縦(たと)ひ勝(かつ)に乗(のる)とも何程(なにほど)の事か可有。」とて、見物してぞ居たりける。去程(さるほど)に隅田(すだ)・高橋が大勢、小寺(こでら)・衣笠(きぬがさ)が小勢(こぜい)に被追立、返さんとすれ共(ども)不叶、朱雀(しゆじやか)を上(のぼ)りに内野(うちの)を指(さし)て引(ひく)もあり、七条を東へ向(むかつ)て逃(にぐ)るもあり、馬に離(はなれ)たる者は心ならず返合(かへしあはせ)て死(しぬる)もあり。陶山(すやま)是(これ)を見て、「余(あまり)にながめ居て、御方(みかた)の弱り為出(しいだ)したらんも由(よし)なし、いざや今は懸合(かけあは)せん。」といへば、河野(かうの)、「子細(しさい)にや及ぶ。」と云侭(いふまま)に、両勢を一手(ひとて)に成(なし)て大勢の中(なか)へ懸入(かけい)り、時移(うつ)るまでぞ戦ひたる。四武(しぶ)の衝陣(しようぢん)堅(かたき)を砕(くだい)て、百戦の勇力(ゆうりよく)変(へん)に応ぜしかば、寄手(よせて)又此(この)陣の軍(いくさ)にも打負(うちまけ)て、寺戸(てらど)を西へ引返しけり。筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)・律師則祐(りつしそくいう)兄弟は、最初(さいしよ)に桂河(かつらがは)を渡しつる時の合戦に、逃(にぐ)る敵を追立(おつたて)て、跡(あと)に続く御方(みかた)の無(なき)をも不知、只主従(しゆじゆう)六騎にて、竹田(たけだ)を上(のぼ)りに、法性寺大路(ほふしやうじのおほち)へ懸通(かけとほり)、六条河原(ろくでうかはら)へ打出(うちいで)て、六波羅(ろくはら)の館(たち)へ懸入(かけいら)んとぞ待(まつ)たりける。東寺(とうじ)より寄(よせ)つる御方(みかた)、早(はや)打負(うちまけ)て引返(ひきかへ)しけりと覚(おぼえ)て、東西(とうざい)南北に敵より外(ほか)はなし。さらば且(しばら)く敵に紛(まぎれ)てや御方(みかた)を待つと、六騎の人々皆笠符(かさじるし)をかなぐり捨(すて)て、一所(いつしよ)に扣(ひか)へたる処に、隅田(すだ)・高橋打廻(うちまはつ)て、「如何様(いかさま)赤松が勢共(せいども)、尚御方(みかた)に紛(まぎれ)て此(この)中に在(あり)と覚(おぼゆ)るぞ。河を渡しつる敵なれば、馬物具(もののぐ)のぬれぬは不可有。其(それ)を験(しる)しにして組討(くみうち)に打て。」と呼(よばは)りける間、貞範(さだのり)も則祐(そくいう)も中々(なかなか)敵に紛(まぎ)れんとせば悪(あし)かりぬべしとて、兄弟・郎等僅(わづか)六騎轡(くつばみ)を双(なら)べわつと呼(をめい)て敵二千騎(にせんぎ)が中(なか)へ懸入(かけい)り、此(ここ)に名乗(なのり)彼(かしこ)に紛(まぎれ)て相戦(あひたたかひ)けり。敵是程(これほど)に小勢(こぜい)なるべしとは可思寄事ならねば、東西南北に入乱(いりみだれ)て、同士打(どしうち)をする事数刻(すごく)也(なり)。大敵を謀(はか)るに勢(いきほ)ひ久(ひさし)からざれば、郎等(らうどう)四騎皆所々(しよしよ)にて被討ぬ。筑前(ちくぜんの)守(かみ)は被押隔ぬ。則祐(そくいう)は只一騎に成(なつ)て、七条を西へ大宮(おほみや)を下(くだ)りに落行(おちゆき)ける所に、印具(いぐの)尾張(をはりの)守(かみ)が郎従(らうじゆう)八騎追懸(おつかけ)て、「敵ながらも優(やさし)く覚へ候者(もの)哉(かな)。誰人(たれひと)にてをはするぞ。御名乗(なのり)候へ。」と云(いひ)ければ、則祐(そくいう)馬を閑(しづか)に打(うつ)て、「身(み)不肖(ふせう)に候へば、名乗申(なのりまうす)とも不可有御存知候。只頚(くび)を取(とつ)て人に被見候へ。」と云侭(いふまま)に、敵近付(ちかづけ)ば返合(かへしあはせ)、敵引(ひけ)ば馬を歩(あゆま)せ、二十(にじふ)余町(よちやう)が間、敵八騎と打連(うちつれ)て心閑(しづか)にぞ落行(おちゆき)ける。西八条の寺の前(まへ)を南へ打出(うちいで)ければ、信濃(しなのの)守(かみ)貞範(さだのり)三百(さんびやく)余騎(よき)、羅城門(らしやうもん)の前なる水の潺(せぜら)きに、馬の足を冷(ひや)して、敗軍(はいぐん)の兵を集(あつめ)んと、旗打立(うちたて)て引(ひか)へたり。則祐(そくいう)是(これ)を見付(みつけ)て、諸鐙(もろあぶみ)を合(あはせ)て馳入(はせいり)ければ、追懸(おつかけ)つる八騎の敵共(てきども)、「善き敵と見つる物を、遂(つひ)に打漏(うちもら)しぬる事の不安さよ。」と云(いふ)声(こゑ)聞へて、馬の鼻を引返(ききかへ)しける。暫(しばら)く有れば、七条河原(しちでうがはら)・西朱雀(にししゆじやか)にて被懸散たる兵共(つはものども)、此彼(ここかしこ)より馳集(はせあつまつ)て、又千(せん)余騎(よき)に成(なり)にけり。赤松其(その)兵を東西の小路(こうぢ)より進ませ、七条辺(へん)にて、又時(とき)の声を揚げ(あげ)たりければ、六波羅勢(ろくはらぜい)七千余騎(よき)、六条(ろくでうの)院(ゐん)を後(うしろ)に当(あ)て、追(おつ)つ返(かへし)つ二時許(ふたときばかり)ぞ責合(せめあひ)たる。角(かく)ては軍(いくさ)の勝負(しようぶ)いつ有(ある)べしとも覚へざりける処に、河野(かうの)と陶山(すやま)とが勢五百(ごひやく)余騎(よき)、大宮(おほみや)を下(くだ)りに打(うつ)て出(いで)、後(うしろ)を裹(つつま)んと廻(まは)りける勢に、後陣を被破て、寄手(よせて)若干(そくばく)討(うた)れにければ、赤松わづかの勢に成(なつ)て、山崎を指(さし)て引返(ひつかへ)しけり。河野(かうの)・陶山(すやま)勝(かつ)に乗(のつ)て、作道(つくりみち)の辺(へん)まで追駈(おつかけ)けるが、赤松動(ややも)すれば、取(とつ)て返さんとする勢(いきほひ)を見て、「軍(いくさ)は是(これ)までぞ、さのみ長追(ながおひ)なせそ。」とて、鳥羽殿(とばどの)の前より引返し、虜(いけどり)二十(にじふ)余人(よにん)、首(くび)七十三(しちじふさん)取(とつ)て、鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て、朱(あけ)に成(なつ)て六波羅(ろくはら)へ馳(はせ)参る。主上は御簾(ぎよれん)を捲(まか)せて叡覧(えいらん)あり。両六波羅(りやうろくはら)は敷皮(しきかは)に坐(ざ)して、是(これ)を検知(けんち)す。「両人の振舞(ふるまひ)いつもの事なれ共(ども)、殊更(ことさら)今夜(こよひ)の合戦に、旁(かたがた)手を下(くだ)し命(いのち)を捨(すて)給はずば、叶(かなふ)まじとこそ見へて候(さふらひ)つれ。」と、再三(さいさん)感じて被賞翫。其夜(そのよ)軈(やが)て臨時の宣下(せんげ)有(あつ)て、河野(かうのの)九郎をば対馬(つしまの)守(かみ)に被成て御剣(ぎよけん)を被下、陶山(すやまの)二郎をば備中(びつちゆうの)守(かみ)に被成て、寮(れう)の御馬(おんむま)を被下ければ、是(これ)を見聞(みきく)武士(ぶし)、「あはれ弓矢の面目(めんぼく)や。」と、或(あるひ)は羨(うらや)み或(あるひ)は猜(そねん)で、其(その)名天下に被知たり。軍(いくさ)散(さん)じて翌日(よくじつ)に、隅田(すだ)・高橋京中を馳廻(はせまはつ)て、此彼(ここかしこ)の堀(ほり)・溝(みぞ)に倒れ居たる手負死人(ておひしにん)の頚共(くびども)を取集(とりあつめ)て、六条川原(ろくでうかはら)に懸並(かけならべ)たるに、其数(そのかず)八百七十三(はつぴやくしちじふさん)あり。敵是(これ)まで多く被討ざれども、軍(いくさ)もせぬ六波羅勢(ろくはらぜい)ども、「我れ高名(かうみやう)したり。」と云(いは)んとて、洛中(らくちゆう)・辺土(へんど)の在家人(ざいけにん)なんどの頚(くび)仮首(かりくび)にして、様々(さまざま)の名を書付(かきつけ)て出(いだ)したりける頚共(くびども)也(なり)。其(その)中に赤松入道円心(ゑんしん)と、札(ふだ)を付(つけ)たる首(くび)五(いつつ)あり。何(いづ)れも見知(みしり)たる人無(なけ)れば、同じやうにぞ懸(かけ)たりける。京童部(きやうわらんべ)是(これ)を見て、「頚を借(かり)たる人、利子(りこ)を付(つけ)て可返。赤松入道分身(ぶんしん)して、敵の尽(つき)ぬ相(さう)なるべし。」と、口々にこそ笑ひけれ。
○禁裡仙洞(きんりせんとう)御修法(みしほの)事(こと)付山崎(やまざき)合戦(かつせんの)事(こと) S0804
此比(このころ)四海(しかい)大(おほき)に乱(みだれ)て、兵火(ひやうくわ)天を掠(かす)めり。聖主■(い)を負(おう)て、春秋無安時、武臣矛(ほこ)を建(たて)て、旌旗(せいき)無閑日。是(これ)以法威逆臣(ぎやくしん)を不鎮ば、静謐(せいひつ)其期(そのご)不可有とて、諸寺諸社(しよじしよしや)に課(おほせ)て、大法(だいほふ)秘法をぞ被修ける。梶井宮(かぢゐのみや)は、聖主(せいしゆ)の連枝(れんし)、山門(さんもん)の座主(ざす)にて御坐(おはしま)しければ、禁裏(きんり)に壇(だん)を立(たて)て、仏眼(ぶつげん)の法を行(おこなは)せ給ふ。裏辻(うらつじ)の慈什(じじふ)僧正は、仙洞(せんとう)にて薬師(やくし)の法を行はる。武家又山門・南都(なんと)・園城寺(をんじやうじ)の衆徒(しゆと)の心を取(とり)、霊鑑(れいかん)の加護(かご)を仰(あふ)がん為に、所々(しよしよ)の庄園(しやうゑん)を寄進(きしん)し、種々の神宝(しんはう)を献(たてまつつ)て、祈祷を被致しか共(ども)、公家(くげ)の政道不正、武家の積悪(せきあく)禍(わざはひ)を招(まね)きしかば、祈(いのる)共(とも)神(しん)不享非礼、語(かたら)へども人不耽利欲にや、只日(ひ)を逐(おつ)て、国々より急を告(つぐ)る事隙(ひま)無(なか)りけり。去(さる)三月十二日の合戦に赤松打負(うちまけ)て、山崎を指(さし)て落行(おちゆき)しを、頓(やが)て追懸(おつかけ)て討手をだに下(くだ)したらば、敵足をたむまじかりしを、今は何事か可有とて被油断しに依(よつ)て、敗軍(はいぐん)の兵(つはもの)此彼(ここかしこ)より馳集(はせあつまつ)て、無程大勢に成(なり)ければ、赤松、中院(なかのゐん)の中将(ちゆうじやう)貞能(さだよし)を取立(とりたて)て聖護院(しやうごゐん)の宮(みや)と号し、山崎・八幡(やはた)に陣を取(とり)、河尻(かはじり)を差塞(さしふさ)ぎ西国往反(わうへん)の道を打止(うちとど)む。依之(これによつて)洛中の商買(しやうばい)止(とどまつ)て士卒(じそつ)皆転漕(てんさう)の助(たすけ)に苦(くるし)めり。両六波羅(りやうろくはら)聞之、「赤松一人に洛中を被悩て、今士卒を苦(くるしむ)る事こそ安からね。去(さる)十二日の合戦の体(てい)を見るに、敵さまで大勢にても無(なか)りける物を、無云甲斐聞懼(ききおぢ)して敵を辺境(へんきやう)の間に閣(さしおく)こそ、武家後代(こうだい)の恥辱(ちじよく)なれ、所詮(しよせん)於今度は官軍(くわんぐん)遮(さへぎつ)て敵陣に押寄(おしよせ)、八幡(やはた)・山崎の両陣を責落(せめおと)し、賊徒(ぞくと)を河に追(おつ)はめ、其首(そのくび)を取(とつ)て六条河原(ろくでうかはら)に可曝。」と被下知ければ、四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)、並(ならびに)在京人、其(その)勢五千(ごせん)余騎(よき)、五条河原(かはら)に勢揃(せいぞろへ)して、三月十五日の卯刻(うのこく)に、山崎へとぞ向ひける。此(この)勢始(はじめ)は二手に分けたりけるを、久我縄手(こがなはて)は、路細く深田(ふかた)なれば馬の懸引(かけひき)も自在なるまじとて、八条より一手に成(なり)、桂河(かつらがは)を渡り、河嶋(かうしま)の南を経(へ)て、物集女(もずめ)・大原野(おほはらの)の前よりぞ寄(よせ)たりける。赤松是(これ)を聞(きい)て、三千(さんぜん)余騎(よき)を三手に分つ。一手には足軽(あしがる)の射手(いて)を勝(すぐつ)て五百(ごひやく)余人(よにん)小塩山(をしほやま)へ廻(まは)す。一手をば野伏(のぶし)に騎馬(きば)の兵を少々交(まじへ)て千(せん)余人(よにん)、狐河(きつねがは)の辺(へん)に引(ひか)へさす。一手をば混(ひた)すら打物(うちもの)の衆(しゆ)八百(はつぴやく)余騎(よき)を汰(そろへ)て、向日明神(むかふのみやうじん)の後(うしろ)なる松原の陰(かげ)に隠置(かくしお)く。六波羅勢(ろくはらぜい)、敵此(これ)まで可出合とは不思寄、そゞろに深入(ふかいり)して、寺戸(てらど)の在家(ざいけ)に火を懸(かけ)て、先懸(さきがけ)既(すで)に向日明神(むかふのみやうじん)の前を打過(うちすぎ)ける処に、善峯(よしみね)・岩蔵(いはくら)の上より、足軽(あしがる)の射手(いて)一枚楯(いちまいたて)手々(てんで)に提(ひつさげ)て麓にをり下(さがり)て散々(さんざん)に射る。寄手(よせて)の兵共(つはものども)是(これ)を見て、馬の鼻を双(ならべ)て懸散(かけちら)さんとすれば、山嶮(けはしう)して不上得、広(ひろ)みに帯(おび)き出して打(うた)んとすれば、敵是(これ)を心得て不懸。「よしや人々、はか/゛\しからぬ野伏共(のぶしども)に目を懸(かけ)て、骨を折(をり)ては何かせん。此(ここ)をば打捨(うちすて)て山崎へ打通(うちとほ)れ。」と議(ぎ)して、西岡(にしのをか)を南へ打過(うちすぐ)る処に、坊城(ばうじやう)左衛門五十(ごじふ)余騎(よき)にて、思(おもひ)もよらぬ向日明神(むかふのみやうじん)の小松原(こまつはら)より懸出(かけいで)て、大勢の中(なか)へ切(きつ)て入(いる)。敵を小勢(こぜい)と侮(あなどつ)て、真中(まんなか)に取篭(とりこめ)て、余さじと戦ふ処に、田中・小寺・八木(やぎ)・神沢(かんざは)此彼(ここかしこ)より百騎二百騎、思々(おもひおもひ)に懸出(かけいで)て、魚鱗(ぎよりん)に進み鶴翼(かくよく)に囲(かこま)んとす。是(これ)を見て狐河に引(ひか)へたる勢五百(ごひやく)余騎(よき)、六波羅勢(ろくはらぜい)の跡(あと)を切らんと、縄手(なはて)を伝(つた)ひ道を要(よこぎつ)て打廻(うちまは)るを見て、京勢叶はじとや思(おもひ)けん、捨鞭(すてむち)を打(うつ)て引返す。片時(へんし)の戦也(なり)ければ、京勢多く被打たる事は無けれ共(ども)、堀(ほり)・溝(みぞ)・深田(ふかた)に落入(おちいつ)て、馬物具(もののぐ)皆取所(とるところ)もなく膩(よごれ)たれば、白昼(はくちう)に京中を打通(うちとほ)るに、見物しける人毎(ごと)に、「哀(あは)れ、さりとも陶山(すやま)・河野(かうの)を被向たらば、是程(これほど)にきたなき負(まけ)はせじ物を。」と、笑はぬ人もなかりけり。去(され)ば京勢此度(このたび)打負(うちまけ)て、向はで京に被残たる河野(かうの)と陶山(すやま)が手柄(てがら)の程、いとゞ名高く成(なり)にけり。
○山徒(ざんと)寄京都事 S0805
京都に合戦始(はじま)りて、官軍(くわんぐん)動(ややも)すれば利(り)を失(うしな)ふ由(よし)、其(その)聞へ有(あり)しかば、大塔宮(おほたふのみや)より牒使(てふし)を被立て、山門の衆徒(しゆと)をぞ被語ける。依之(これによつて)三月二十六日(にじふろくにちに)一山(いつさん)の衆徒(しゆと)大講堂の庭に会合して、「夫吾山者為七社応化之霊地、作百王鎮護之藩籬。高祖(かうそ)大師占開基之始、止観窓前雖弄天真独朗之夜月、慈恵僧正為貫頂之後、忍辱衣上忽帯魔障降伏之秋霜。尓来妖■(えうげつ)見天、則振法威而攘退之。逆暴乱国、則借神力而退之。肆神号山王。須有非三非一之深理矣。山言比叡。所以仏法王法之相比焉。而今四海(しかい)方乱、一人不安。武臣積悪之余、果天将下誅。其先兆非無賢愚。共所世知也(なり)。王事毋■(もろいことなし)。釈門仮使雖為出塵之徒、此時奈何無尽報国之忠。早翻武家合体之前非宜専朝廷扶危之忠胆矣。」と僉議(せんぎ)しければ、三千(さんぜん)一同に尤々(もつとももつとも)と同(どう)じて院々谷々(ゐんゐんたにたに)へ帰り、則(すなはち)武家追討(つゐたう)の企(くはだて)の外(ほか)無他事。山門、已(すで)に来(きたる)二十八日六波羅(ろくはら)へ可寄と定(さだめ)ければ、末寺(まつじ)・末社(まつしや)の輩(ともがら)は不及申、所縁(しよえん)に随(したがつ)て近国の兵馳集(はせあつま)る事雲霞(うんか)の如く也(なり)。二十七日(にじふしちにち)大宮(おほみや)の前にて着到(ちやくたう)を付(つけ)けるに、十万六千余騎(よき)と注(ちゆう)せり。大衆(だいしゆ)の習(ならひ)、大早(おほはやり)無極所存なれば、此(この)勢京へ寄(よせ)たらんに、六波羅(ろくはら)よも一たまりもたまらじ、聞落(ききおち)にぞせんずらんと思侮(おもひあなどつ)て、八幡(やはた)・山崎の御方(みかた)にも不牒合して、二十八日の卯刻(うのこく)に、法勝寺(ほつしようじ)にて勢撰(せいぞろ)へ可有と触(ふれ)たりければ、物具(もののぐ)をもせず、兵粮(ひやうらう)をも未だつかはで、或(あるひは)今路(いまみち)より向ひ、或(あるひ)は西坂(にしざか)よりぞをり下(くだ)る。両六波羅(りやうろくはら)是(これ)を聞(きい)て、思(おもふ)に、山徒(さんと)縦(たとひ)雖大勢、騎馬の兵(つはもの)一人も不可有。此方(こなた)には馬上(ばじやう)の射手(いて)を撰(そろ)へて、三条河原(さんでうがはら)に待受(まちう)けさせて、懸開懸合(かけひらきかけあは)せ、弓手(ゆんで)・妻手(めて)に着(つけ)て追物射(おふものい)に射たらんずるに、山徒(さんと)心は雖武、歩立(かちだち)に力疲(つか)れ、重鎧(おもよろひ)に肩を被引、片時(へんし)が間(ま)に疲(つか)るべし。是(これ)以小砕大、以弱拉剛行(てだて)也(なり)。とて、七千余騎(よき)を七手に分(わけ)て、三条河原(さんでうがはら)の東西に陣を取(とつ)てぞ待懸(まちかけ)たる。大衆斯(かか)るべしとは思(おもひ)もよらず、我前(われさき)に京へ入(いつ)てよからんずる宿(やど)をも取(とり)、財宝(ざいはう)をも管領(くわんりやう)せんと志(こころざし)て、宿札共(やどふだども)を面々(めんめん)に二三十づゝ持(もた)せて、先(まづ)法勝寺(ほつしようじ)へぞ集りける。其(その)勢を見渡せば、今路(いまみち)・西坂(にしざか)・古塔下(ふるたふげ)・八瀬(やせ)・薮里(やぶさと)・下松(さがりまつ)・赤山口(せきさんぐち)に支(ささへ)て、前陣已(すで)に法勝寺・真如堂(しんによだう)に付(つけ)ば後陣(ごぢん)は未(いまだ)山上・坂本(さかもと)に充満(みちみち)たり。甲冑(かつちう)に映(えい)ぜる朝日は、電光(でんくわう)の激(げき)するに不異。旌旗(せいき)を靡(なび)かす山風は、竜蛇(りようじや)の動くに相似(あひに)たり。山上(さんじやう)と洛中(らくちゆう)との勢の多少を見合(みあは)するに、武家の勢(せい)は十にして其(その)一にも不及。「げにも此(この)勢にては輒(たやす)くこそ。」と、六波羅(ろくはら)を直下(みおろし)ける山法師(やまほふし)の心の程を思へば、大様(おほやう)ながらも理(ことわり)也(なり)。去程(さるほど)に前陣の大衆且(しばら)く法勝寺(ほつしようじ)に付(つい)て後陣の勢を待(まち)ける処へ、六波羅勢(ろくはらぜい)七千余騎(よき)三方(さんぱう)より押寄(おしよせ)て時(とき)をどつと作る。大衆時の声に驚(おどろい)て、物具太刀(もののぐたち)よ長刀(なぎなた)よとひしめいて取(とる)物も不取敢、僅(わづか)に千人許(ばかり)にて法勝寺の西門(さいもん)の前に出合(いであひ)、近付く敵に抜(ぬい)て懸(かか)る。武士(ぶし)は兼(かね)てより巧(たく)みたる事なれば、敵の懸(かか)る時は馬を引返(ひきかへし)てばつと引き、敵留(とどま)れば開合(ひらきあは)せて後(うしろ)へ懸廻(かけまは)る。如此六七度が程懸悩(かけなや)ましける間、山徒(さんと)は皆歩立(かちだち)の上(うへ)、重鎧(おもよろひ)に肩を被推て、次第に疲(つかれ)たる体(てい)にぞ見へける。武士は是(これ)に利(り)を得て、射手(いて)を撰(そろへ)て散々(さんざん)に射る。大衆是(これ)に射立(いたて)られて、平場(ひらば)の合戦叶はじとや思(おもひ)けん、又法勝寺(ほつしようじ)の中へ引篭(ひきこも)らんとしける処を、丹波(たんばの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)佐治(さちの)孫五郎と云(いひ)ける兵(つはもの)、西門の前に馬を横たへ、其比(そのころ)会(かつ)てなかりし五尺三寸の太刀を以て、敵(てき)三人(さんにん)不懸筒切(どうぎつ)て、太刀の少(すこし)仰(のつ)たるを門(もん)の扉(とびら)に当(あて)て推直(おしなほ)し、猶も敵を相待(あひまつ)て、西頭(にしがしら)に馬をぞ扣(ひかへ)たる。山徒(さんと)是(これ)を見て、其勢(そのいきほひ)にや辟易(へきえき)しけん。又法勝寺にも敵有(あり)とや思(おもひ)けん。法勝寺へ不入得、西門の前を北へ向(むかつ)て、真如堂(しんによだう)の前神楽岡(かぐらをか)の後(うしろ)を二(ふたつ)に分れて、只山上(さんじやう)へとのみ引返しける。爰(ここ)に東塔(とうだふ)の南谷(みなみだに)善智房(ぜんちばう)の同宿(どうじゆく)に豪鑒(がうかん)・豪仙(がうせん)とて、三塔(さんたふ)名誉(めいよ)の悪僧(あくそう)あり。御方(みかた)の大勢に被引立て、不心北白河(きたしらかは)を指(さし)て引(ひき)けるが、豪鑒豪仙(がうかんがうせん)を呼留(よびとめ)て、「軍(いくさ)の習(ならひ)として、勝(かつ)時もあり負(まくる)時もあり、時の運による事なれば恥(はぢ)にて不恥。雖然今日の合戦の体(てい)、山門(さんもん)の恥辱(ちじよく)天下の嘲哢(てうろう)たるべし。いざや御辺(ごへん)、相共(あひとも)に返(かへ)し合(あはせ)て打死(うちじに)し、二人(ににん)が命(いのち)を捨(すて)て三塔(さんたふ)の恥を雪(きよ)めん。」と云(いひ)ければ、豪仙、「云(いふ)にや及ぶ、尤(もつと)も庶幾(そき)する所也(なり)。」と云(いつ)て、二人(ににん)蹈留(ふみとどまつ)て法勝寺の北の門の前に立並(たちなら)び、大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「是程(これほど)に引立(ひきたつ)たる大勢の中より、只二人(ににん)返(かへ)し合(あは)するを以て三塔(さんたふ)一の剛(がう)の者とは可知。其(その)名をば定(さだ)めて聞及(ききおよび)ぬらん、東塔(とうだふ)の南谷(みなみだに)善智坊(ぜんちばう)の同宿(どうじゆく)に、豪鑒・豪仙とて一山(いつさん)に名を知られたる者共(ものども)也(なり)。我(われ)と思はん武士共(ぶしども)、よれや、打物(うちもの)して、自余(じよ)の輩(ともがら)に見物せさせん。」と云侭(いふまま)に、四尺余(あまり)の大長刀(おほなぎなた)水車(みづぐるま)に廻(まは)して、跳懸(をどりかかり)々々(をどりかかり)火を散(ちら)してぞ切(きつ)たりける。是(これ)を打取(うちと)らんと相近付(あひちかづ)ける武士共(ぶしども)、多く馬の足を被薙、冑(かぶと)の鉢を被破て被討にけり。彼等(かれら)二人(ににん)、此(ここ)に半時許(はんじばかり)支(ささ)へて戦(たたかひ)けれ共(ども)、続く大衆一人もなし。敵雨の降る如くに射ける矢に、二人(ににん)ながら十(じふ)余箇所(よかしよ)疵(きず)を蒙(かうむ)りければ、「今は所存(しよぞん)是(これ)までぞ。いざや冥途(めいど)まで同道(どうだう)せん。」と契(ちぎり)て、鎧(よろひ)脱捨(ぬぎすて)押裸脱(おしはだぬぎ)、腹十文字(じふもんじ)に掻切(かききつ)て、同じ枕にこそ伏(ふし)たりけれ。是(これ)を見る武士共(ぶしども)、「あはれ日本一(につぽんいち)の剛(がう)の者共(ものども)哉(かな)。」と、惜(をし)まぬ人も無(なか)りけり。前陣の軍(いくさ)破(やぶ)れて引返しければ、後陣(ごじん)の大勢は軍場(いくさば)をだに不見して、道より山門へ引返す。只豪鑒(がうかん)・豪仙(がうせん)二人(ににん)が振舞にこそ、山門の名をば揚(あげ)たりけれ。
○四月三日合戦(かつせんの)事(こと)付妻鹿(めが)孫三郎(まごさぶらう)勇力(ゆうりよくの)事(こと) S0806
去月(きよげつ)十二日赤松合戦無利して引退(ひきしりぞき)し後(のち)は、武家常に勝(かつ)に乗(のつ)て、敵(てき)を討(うつ)事(こと)数千人(すせんにん)也(なり)。といへども、四海(しかい)未静(いまだしづかならず)、剰(あまつさへ)山門又武家に敵(てき)して、大岳(おほだけ)に篝火(かがりび)を焼(た)き、坂本(さかもと)に勢を集めて、尚(なほ)も六波羅(ろくはら)へ可寄と聞へければ、衆徒(しゆと)の心を取らん為に、武家より大庄(たいしやう)十三箇所(じふさんかしよ)、山門へ寄進(きしん)す。其外(そのほか)宗徒(むねと)の衆徒(しゆと)に、便宜(びんぎ)の地を一二箇所(いちにかしよ)充(づつ)祈祷(きたう)の為とて恩賞を被行ける。さてこそ山門の衆議(しゆぎ)心心に成(なつ)て武家に心を寄する衆徒も多く出来(いでき)にければ、八幡(やはた)・山崎(やまざき)の官軍(くわんぐん)は、先度(せんど)京都の合戦に、或(あるひは)被討、或(あるひは)疵(きず)を蒙(かうむ)る者多かりければ、其(その)勢太半(たいはん)減じて今は僅(わづか)に、一万騎(いちまんぎ)に足(た)らざりけり。去(され)ども武家の軍立(いくさだち)、京都の形勢(ありさま)恐るゝに不足と見透(みすか)してげれば、七千余騎(よき)を二手(ふたて)に分(わけ)て、四月三日の卯刻(うのこく)に、又京都へ押寄(おしよ)せたり。其(その)一方には、殿法印(とののほふいん)良忠(りやうちゆう)・中院(なかのゐんの)定平(さだひら)を両大将として、伊東・松田・頓宮(とんぐう)・富田(とんだの)判官が一党(いつたう)、並(ならびに)真木(まき)・葛葉(くずは)の溢(あふ)れ者共(ものども)を加へて其(その)勢都合(つがふ)三千(さんぜん)余騎(よき)、伏見(ふしみ)・木幡(こばた)に火を懸(かけ)て、鳥羽(とば)・竹田(たけだ)より推寄(おしよ)する。又一方には、赤松入道円心(ゑんしん)を始(はじめ)として、宇野・柏原(かしはばら)・佐用(さよ)・真嶋(ましま)・得平(とくひら)・衣笠(きぬがさ)、菅家(くわんけ)の一党(いつたう)都合(つがふ)其(その)勢三千五百(さんぜんごひやく)余騎(よき)、河嶋(かうしま)・桂(かつら)の里に火を懸(かけ)て、西の七条よりぞ寄(よせ)たりける。両六波羅(りやうろくはら)は、度々(どど)の合戦に打勝(うちかつ)て兵皆気を挙(あげ)ける上、其(その)勢を算(かぞ)ふるに、三万騎(さんまんぎ)に余(あま)りける間、敵已(すで)に近付(ちかづき)ぬと告(つげ)けれ共(ども)、仰天(ぎやうてん)の気色(けしき)もなし。六条河原(ろくでうかはら)に勢汰(せいぞろへ)して閑(しづか)に手分(てわけ)をぞせられける。山門(さんもん)今は武家に志(こころざし)を通(つう)ずといへども、又如何なる野心(やしん)をか存(そん)ずらん。非可油断とて、佐々木(ささきの)判官時信(ときのぶ)・常陸前司(ひたちのぜんじ)時朝(ときとも)・長井縫殿(ぬひ)秀正(ひでまさ)に三千(さんぜん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、糾河原(ただすかはら)へ被向。去月(きよげつ)十二日の合戦も、其(その)方より勝(かつ)たりしかば吉例(きちれい)也(なり)。とて、河野(かうの)と陶山(すやま)とに五千騎(ごせんぎ)を相副(あひそへ)て法性寺大路(ほふしやうじおほち)へ被差向。富樫(とがし)・林(はやし)が一族(いちぞく)・島津(しまづ)・小早河(こばいかは)が両勢に、国々の兵六千余騎(よき)を相副(あひそへ)て、八条東寺辺(とうじへん)へ被指向。厚東(こうとう)加賀(かがの)守(かみ)・加治(かぢの)源太左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・隅田(すだ)・高橋・糟谷(かすや)・土屋(つちや)・小笠原(をがさはら)に七千余騎(よき)を相副(あひそへ)て、西七条口へ被向。自余(じよ)の兵千(せん)余騎(よき)をば悪手(あくて)の為に残して、未(いまだ)六波羅(ろくはら)に並居(なみゐ)たり。其(その)日の巳刻(みのこく)より、三方(さんぱう)ながら同時に軍(いくさ)始(はじまつ)て、入替々々(いれかへいれかへ)責戦(せめたたか)ふ。寄手(よせて)は騎馬の兵少(すくなく)して、歩立(かちだち)射手(いて)多ければ、小路々々(こうぢこうぢ)を塞(ふさ)ぎ、鏃(やじり)を調(そろへ)て散々(さんざん)に射る。六波羅勢(ろくはらぜい)は歩立(かちだち)は少(すくなく)して、騎馬の兵多ければ、懸違々々(かけちがひかけちがひ)敵を中(なか)に篭(こ)めんとす。孫子(そんし)が千反(せんぺん)の謀(はかりごと)、呉氏(ごし)が八陣の法、互(たがひ)に知(しり)たる道なれば、共に不被破不被囲、只命(いのち)を際(きは)の戦(たたかひ)にて更に勝負(しようぶ)も無(なか)りけり。終日(ひねもす)戦(たたかつ)て已(すで)に夕陽(せきやう)に及びける時、河野(かうの)と陶山(すやま)と一手に成(なつ)て、三百(さんびやく)余騎(よき)轡(くつばみ)を双(なら)べて懸(かけ)たりけるに、木幡(こはた)の寄手(よせて)足をもためず被懸立て、宇治路(うぢぢ)を指(さし)て引退く。陶山(すやま)・河野(かうの)、逃(にぐ)る敵をば打捨(うちすて)て、竹田(たけだ)河原(かはら)を直違(すぢかひ)に、鳥羽殿(とばどの)の北の門を打廻(うちまは)り、作道(つくりみち)へ懸出(かけいで)て、東寺の前なる寄手(よせて)を取篭(とりこ)めんとす。作道(つくりみち)十八町に充満(じゆうまん)したる寄手(よせて)是(これ)を見て、叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、羅城門(らしやうもん)の西を横切(よこぎり)に、寺戸(てらど)を指(さし)て引返す。小早河(こばいかは)は島津安芸(あきの)前司(ぜんじ)とは東寺の敵に向(むかつ)て、追(おつ)つ返(かへし)つ戦(たたかひ)けるが、己(おの)が陣の敵を河野(かうの)と陶山(すやま)とに被払て、身方(みかた)の負(まけ)をしつる事よと無念に思ひければ、「西の七条へ寄せつる敵に逢(あう)て、花やかなる一軍(ひといくさ)せん。」と云(いつ)て、西八条を上(のぼ)りに、西朱雀(にししゆじやか)へぞ出(いで)たりける。此(ここ)に赤松入道、究竟(くきやう)の兵を勝(すぐつ)て、三千(さんぜん)余騎(よき)にて引(ひか)へたりければ、無左右可破様(やう)も無(なか)りなり。されども嶋津・小早河(こばいかは)が横合(よこあひ)に懸(かか)るを見て、戦ひ疲(つか)れたる六波羅勢(ろくはらぜい)力を得て三方(さんぱう)より攻合(せめあは)せける間、赤松が勢、忽(たちまち)に開靡(ひらきなびい)て三所に引(ひか)へたり。爰(ここ)に赤松が勢の中より兵四人進み出(いで)て、数千騎(すせんぎ)引(ひか)へたる敵の中(なか)へ無是非打懸(うつてかか)りけり。其勢(そのいきほひ)決然(けつぜん)として恰(あたかも)樊噌(はんくわい)・項羽(かうう)が忿(いか)れる形(かたち)にも過(すぎ)たり。近付(ちかづく)に随(したがつ)て是(これ)を見れば長(たけ)七尺許(ばかり)なる男(をとこ)の、髭(ひげ)両方へ生(お)ひ分(わかれ)て、眥(まなじり)逆(さましま)に裂(さけ)たるが、鎖(くさり)の上(うへ)に鎧(よろひ)を重(かさね)て着(き)、大立挙(おほたてあげ)の臑当(すねあて)に膝鎧(ひざよろひ)懸(かけ)て、竜頭(たつがしら)の冑(かぶと)猪頚(ゐくび)に着成(きな)し、五尺余(あま)りの太刀を帯(は)き、八尺余のかなさい棒(ぼう)の八角(はつかく)なるを、手本(てもと)二尺許(ばかり)円(まる)めて、誠(まこと)に軽(かろ)げに提(ひつさ)げたり。数千騎(すせんぎ)扣(ひか)へたる六波羅勢(ろくはらぜい)、彼等(かれら)四人が有様を見て、未(いまだ)戦(たたかはざる)先(さき)に三方(さんぱう)へ分れて引退く。敵を招(まねい)て彼等四人、大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「備中(びつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)頓宮(とんぐう)又次郎入道・子息(しそく)孫三郎(まごさぶらう)・田中藤(とう)九郎盛兼(もりかぬ)・同舎弟(おなじきしやてい)弥九郎盛泰(もりやす)と云(いふ)者也(なり)。我等(われら)父子(ふし)兄弟、少年の昔より勅勘武敵(ちよくかんぶてき)の身と成りし間、山賊(さんぞく)を業(げふ)として一生(いつしやう)を楽(たのし)めり。然(しかる)に今幸(さいはひ)に此乱(このらん)出来(しゆつたい)して、忝(かたじけな)くも万乗(ばんじよう)の君の御方(みかた)に参(さん)ず。然(しかる)を先度(せんど)の合戦、指(さし)たる軍(いくさ)もせで御方(みかた)の負(まけ)したりし事(こと)、我等(われら)が恥(はぢ)と存(ぞん)ずる間、今日に於ては縦(たとひ)御方(みかた)負(まけ)て引(ひく)とも引(ひく)まじ、敵強くとも其(それ)にもよるまじ、敵の中(なか)を破(はつ)て通(とほ)り六波羅殿(ろくはらどの)に直(ぢき)に対面(たいめん)申さんと存ずるなり。」と、広言(くわうげん)吐(はい)て二王立(にわうだち)にぞ立(たつ)たりける。島津安芸(あきの)前司(ぜんじ)是(これ)を聞(きい)て、子息(しそく)二人(ににん)手(て)の者共(ものども)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「日比(ひごろ)聞及(ききおよび)し西国(さいこく)一の大力(だいりき)とは是(これ)なり。彼等を討たん事大勢にては叶(かなふ)まじ。御辺達(ごへんたち)は且(しばら)く外に引(ひか)へて自余(じよ)の敵に可戦。我等(われら)父子(ふし)三人(さんにん)相近付(あひちかづい)て、進(すすん)づ退(しりぞい)つ且(しばら)く悩(なやま)したらんに、などか是(これ)を討たざらん。縦(たとひ)力(ちから)こそ強くとも、身に矢の立(たた)ぬ事不可有。縦(たとひ)走る事早くとも、馬にはよも追(おつ)つかじ。多年稽古(けいこ)の犬笠懸(いぬかさがけ)、今の用に不立ばいつをか可期。いで/\不思議(ふしぎ)の一軍(ひといくさ)して人に見せん。」と云侭(いふまま)に、唯三騎打(うち)ぬけて四人の敵に相近付(あひちかづ)く。田中藤九郎是(これ)を見て、「其(その)名はいまだ知らねども、猛(たけ)くも思へる志(こころざし)かな、同(おなじく)は御辺(ごへん)を生虜(いけどつ)て、御方(みかた)に成(なし)て軍(いくさ)せさせん。」とあざ笑(わらう)て、件(くだん)の金棒(かなぼう)を打振(うちふつ)て、閑(しづか)に歩(あゆ)み近付く。島津も馬を静々(しづしづ)と歩(あゆ)ませ寄(より)て、矢比(やごろ)に成(なり)ければ、先(まづ)安芸(あきの)前司(ぜんじ)、三人張(さんにんばり)に十二束三伏(じふにそくみつぶせ)、且(しば)し堅めて丁(ちやう)と放つ。其(その)矢あやまたず、田中が石の頬前(ほうさき)を冑(かぶと)の菱縫(ひしぬひ)の板(いた)へ懸(かけ)て、篦中許(のなかばかり)射通(いとほ)したりける間、急所の痛手(いたて)に弱りて、さしもの大力(だいりき)なれども、目くれて更に進み不得。舎弟(しやていの)弥九郎走寄(はしりよ)り、其(その)矢を抜(ぬい)て打捨(うちすて)、「君の御敵(おんてき)は六波羅(ろくはら)也(なり)。兄(あに)の敵は御辺(ごへん)也(なり)。余(あま)すまじ。」と云侭(いふまま)に、兄が金棒(かなぼう)をゝつ取振(とりふつ)て懸(かか)れば、頓宮(とんぐう)父子(ふし)各五尺二寸の太刀を引側(ひきそば)めて、小躍(こをどり)して続(つづ)ひたり。嶋津元(もと)より物馴(ものなれ)たる馬上(ばじやう)の達者(たつしや)矢継早(やつぎはや)の手きゝなれば、少(すこし)も不騒、田中進(すすん)で懸(かか)れば、あいの鞭(むち)を打(うつ)て、押(おし)もぢりにはたと射(いる)。田中妻手(めて)へ廻(まはれ)ば、弓手(ゆんで)を越(こえ)て丁(ちやう)と射る。西国(さいこく)名誉(めいよ)の打物(うちもの)の上手(じやうず)と、北国(ほくこく)無双(ぶさう)の馬上の達者と、追(おつ)つ返(かへし)つ懸違(かけちが)へ、人交(ひとまぜ)もせず戦ひける。前代未聞(ぜんだいみもん)の見物(けんぶつ)也(なり)。去程(さるほど)に嶋津が矢種(やだね)も尽(つき)て、打物(うちもの)に成らんとしけるを見て、角(かく)ては叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、朱雀(しゆじやか)の地蔵堂(ぢざうだう)より北に引(ひか)へたる小早河(こばいかは)、二百騎にてをめいて懸(かか)りけるに、田中が後(うしろ)なる勢、ばつと引退(ひきしりぞき)ければ、田中兄弟、頓宮父子(はやみふし)、彼此(かれこれ)四人の鎧(よろひ)の透間(すきま)内冑(うちかぶと)に、各(おのおの)矢二三十筋(にさんじふすぢ)被射立て、太刀を逆(さかさま)につきて、皆立(たち)ずくみにぞ死(しに)たりける。見る人聞く人、後までも惜(をし)まぬ者は無(なか)りけり。美作(みまさかの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)菅家(くわんけ)の一族(いちぞく)は、三百(さんびやく)余騎(よき)にて四条(しでう)猪熊(ゐのくま)まで責入(せめいり)、武田(たけだの)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・糟谷(かすや)・高橋が一千(いつせん)余騎(よき)の勢と懸合(かけあつ)て、時移(うつ)るまで戦(たたかひ)けるが、跡(あと)なる御方(みかた)の引退きぬる体(てい)を見て、元来(もとより)引かじとや思(おもひ)けん。又向ふ敵に後(うしろ)を見せじとや恥(はぢ)たりけん。有元菅四郎佐弘(ありもとくわんしらうすけひろ)・同(おなじき)五郎佐光(すけみつ)・同(おなじき)又三郎佐吉(すけよし)兄弟三騎、近付く敵に馳双(はせなら)べ引組(ひつくん)で臥(ふ)したり。佐弘(すけひろ)は今朝の軍(いくさ)に膝口(ひざぐち)を被切て、力弱りたりけるにや、武田(たけだの)七郎に押(おさ)へられて頚(くび)を被掻、佐光(すけみつ)は武田(たけだの)二郎が頚を取る。佐吉(すけよし)は武田(たけだ)が郎等(らうとう)と差違(さしちがへ)て共に死にけり。敵二人(ににん)も共に兄弟、御方(みかた)二人(ににん)も兄弟なれば、死残(しにのこつ)ては何(なに)かせん。いざや共に勝負(しようぶ)せんとて、佐光(すけみつ)と武田(たけだの)七郎と、持(もち)たる頚を両方へ投捨(なげすて)て、又引組(ひつくん)で指違(さしちが)ふ。是(これ)を見て福光(ふくみつの)彦二郎佐長(すけなが)・殖月(うゑつきの)彦五郎重佐(しげすけ)・原田彦三郎佐秀(すけひで)・鷹取(たかとり)彦二郎種佐(たねすけ)同時に馬を引退し、むずと組(くん)ではどうど落(おち)、引組(ひつくん)では指違(さしちが)へ、二十七人(にじふしちにん)の者共(ものども)一所(いつしよ)にて皆討(うた)れければ、其(その)陣の軍(いくさ)は破(やぶれ)にけり。播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)妻鹿(めが)孫三郎(まごさぶらう)長宗(ながむね)と申すは、薩摩(さつまの)氏長(うぢなが)が末(すゑ)にて、力(ちから)人に勝(すぐ)れ器量(きりやう)世に超(こえ)たり。生年(しやうねん)十二の春(はる)の比(ころ)より好(このん)で相撲(すまふ)を取(とり)けるに、日本(につぽん)六十(ろくじふ)余州(よしう)の中には、遂に片手(かたて)にも懸(かか)る者無(なか)りけり。人は類(るゐ)を以て聚(あつま)る習ひなれば、相伴(あひともな)ふ一族(いちぞく)十七人(じふしちにん)、皆是(これ)尋常(よのつね)の人には越(こえ)たり。されば他人の手を不交して一陣に進み、六条(ろくでうの)坊門(ばうもん)大宮(おほみや)まで責入(せめいり)たりけるが、東寺(とうじ)・竹田(たけだ)より勝軍(かちいくさ)して帰りける六波羅(ろくはらの)勢三千(さんぜん)余騎(よき)に被取巻、十七人(じふしちにん)は被打て、孫三郎(まごさぶらう)一人ぞ残(のこり)たりける。「生(いき)て無甲斐命(いのち)なれども、君の御大事(おんだいじ)是(これ)に限るまじ。一人なりとも生残(いきのこつ)て、後の御用(ごよう)にこそ立(たた)め。」と独(ひと)りごとして、只一騎西朱雀(にししゆじやか)を指(さし)て引(ひき)けるを、印具(いぐ)駿河(するがの)守(かみ)の勢五十(ごじふ)余騎(よき)にて追懸(おつかけ)たり。其(その)中に、年の程二十許(はたちばかり)なる若武者(わかむしや)、只一騎馳寄(はせよ)せて、引(ひい)て帰りける妻鹿(めが)孫三郎(まごさぶらう)に組(くま)んと近付(ちかづい)て、鎧の袖に取着(とりつき)ける処を、孫三郎(まごさぶらう)是(これ)を物ともせず、長肘(ながきひぢ)を指延(さしのべ)て、鎧(よろひの)総角(あげまき)を掴(つかん)で中(ちゆう)に提(ひつさ)げ、馬の上(うへ)三町許(ばかり)ぞ行(ゆき)たりける。此(この)武者可然者のにてや有(あり)けん、「あれ討(うた)すな。」とて、五十(ごじふ)余騎(よき)の兵迹(あと)に付(つい)て追(おひ)けるを、孫三郎(まごさぶらう)尻目(しりめ)にはつたと睨(にらん)で、「敵も敵によるぞ。一騎なればとて我に近付(ちかづい)てあやまちすな。ほしがらばすは是(これ)取らせん。請取(うけと)れ。」と云(いつ)て、左の手に提(ひつさ)げたる鎧武者(よろひむしや)を、右の手〔に〕取渡(とりわた)して、ゑいと抛(なげ)たりければ、跡(あと)なる馬武者(むまむしや)六騎が上を投越(なげこ)して、深田(ふけた)の泥(どろ)の中(なか)へ見へぬ程こそ打(うち)こうだれ。是(これ)を見て、五十(ごじふ)余騎(よき)の者共(ものども)、同時に馬を引返し、逸足(いちあし)を出(いだ)してぞ逃(にげ)たりける。赤松入道は、殊更(ことさら)今日(けふ)の軍(いくさ)に、憑切(たのみきつ)たる一族(いちぞく)の兵共(つはものども)も、所々(しよしよ)にて八百(はつぴやく)余騎(よき)被打ければ、気(き)疲(つかれ)力(ちから)落(おち)はてゝ、八幡(やはた)・山崎へ又引返(ひつかへ)しけり。
○主上自(みづから)令修金輪法給(たまふ)事(こと)付千種殿(ちぐさどの)京合戦(かつせんの)事(こと) S0807
京都数箇度(すかど)の合戦に、官軍(くわんぐん)毎度(まいど)打負(うちまけ)て、八幡(やはた)・山崎(やまざき)の陣も既(すで)に小勢(こぜい)に成りぬと聞へければ、主上(しゆしやう)天下の安危(あんき)如何(いかが)有(あ)らんと宸襟(しんきん)を被悩、船上(ふなのうへ)の皇居(くわうきよ)に壇(だん)を被立、天子自(みづから)金輪(こんりん)の法を行(おこな)はせ給ふ。其(その)七(しち)箇日(かにち)に当りける夜、三光天子(さんくわうてんし)光(ひかり)を並(ならべ)て壇上に現(げん)じ給(たまひ)ければ、御願(ごぐわん)忽(たちまち)に成就(じやうじゆ)しぬと、憑敷(たのもしく)被思召ける。さらばやがて大将を差上(さしのぼ)せて赤松入道に力を合せ、六波羅(ろくはら)を可攻とて、六条(ろくでうの)少将忠顕(ただあき)朝臣を頭(とうの)中将(ちゆうじやう)に成し、山陽(さんやう)・山陰(せんおん)両道の兵の大将として、京都へ被指向。其(その)勢伯耆(はうきの)国(くに)を立(たち)しまで、僅(わづか)に千(せん)余騎(よき)と聞へしが、因幡(いなば)・伯耆(はうき)・出雲(いづも)・美作(みまさか)・但馬(たじま)・丹後(たんご)・丹波(たんば)・若狭(わかさ)の勢共(せいども)馳加(はせくは)は(ッ)て、程なく二十万七千(にじふまんしちせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。又第六の若宮(わかみや)は、元弘の乱(らん)の始(はじめ)、武家に被囚させ給(たまひ)て、但馬(たじまの)国(くに)へ被流させ給ひたりしを、其(その)国(くに)の守護(しゆご)大田三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)取立奉(とりたてたてまつつ)て、近国(きんごく)の勢を相催(あひもよほ)し、則(すなはち)丹波の篠村(しのむら)へ参会(さんくわい)す。大将頭(とうの)中将(ちゆうじやう)不斜(なのめならず)悦(よろこん)で、即(すなはち)錦(にしき)の御旗(おんはた)を立(たて)て、此(この)宮(みや)を上将軍(じやうしようぐん)と仰(あふ)ぎ奉(たてまつつ)て、軍勢催促(さいそく)の令旨(りやうじ)を被成下けり。四月二日、宮、篠村(しのむら)を御立(おんたち)有(あつ)て、西山(にしやま)の峯堂(みねのだう)を御陣に被召、相従(あひしたが)ふ軍勢二十万騎(にじふまんぎ)、谷堂(たにのだう)・葉室(はむろ)・衣笠(きぬがさ)・万石大路(まんごくおほみち)・松尾(まつのを)・桂里(かつらのさと)に居余(ゐあまつ)て、半(なかば)は野宿(のじゆく)に充満(みちみち)たり。殿(とのの)法印良忠(りやうちゆう)は、八幡(やはた)に陣を取(とる)。赤松入道円心は山崎に屯(たむろ)を張れり。彼(かの)陣と千種殿(ちぐさどの)の陣と相去(あひさる)事(こと)僅(わづか)に五十(ごじふ)余町(よちやう)が程なれば、方々(かたがた)牒(てふ)じ合(あは)せてこそ京都へは可被寄かりしを、千種頭(ちぐさのとうの)中将(ちゆうじやう)我(わが)勢の多(おほき)をや被憑けん。又独(ひとり)高名(かうみやう)にせんとや被思けん、潛(ひそか)に日を定(さだめ)て四月八日の卯刻(うのこく)に六波羅(ろくはら)へぞ被寄ける。あら不思議(ふしぎ)、今日(けふ)は仏生日(ぶつしやうび)とて心あるも心なきも潅仏(くわんぶつ)の水に心を澄(すま)し、供花焼香(くげせうかう)に経(きやう)を翻(ひるがへ)して捨悪修善(しやあくしゆぜん)を事とする習ひなるに、時日(ときひ)こそ多かるに、斎日(さいじつ)にして合戦を始(はじめ)て、天魔波旬(てんまはじゆん)の道を学ばる条難心得と人々舌(した)を翻(ひるがへ)せり。さて敵御方(みかた)の士卒源平(げんぺい)互(たがひ)に交(まじは)れり。無笠符ては同士打(どうしうち)も有(あり)ぬべしとて、白絹(しろききぬ)を一尺づゝ切(きつ)て風と云(いふ)文字を書(かい)て、鎧(よろひ)の袖にぞ付(つけ)させられける。是(これ)は孔子(こうし)の言(ことば)に、「君子(くんし)の徳は風也(なり)。小人の徳は草也(なり)。草に風を加ふる時は不偃と云(いふ)事(こと)なし。」と云(いふ)心なるべし。六波羅(ろくはら)には敵を西に待(まち)ける故(ゆゑ)に、三条(さんでう)より九条まで大宮面(おほみやおもて)に屏(へい)を塗(ぬ)り、櫓(やぐら)を掻(かい)て射手(いて)を上(あげ)て、小路々々(こうぢこうぢ)に兵を千騎(せんぎ)二千騎(にせんぎ)扣(ひか)へさせて、魚鱗(ぎよりん)に進み、鶴翼(かくよく)に囲(かこ)まん様(やう)をぞ謀(はか)りける。「寄手(よせて)の大将は誰(た)そ。」と問(とふ)に、「前帝(ぜんてい)第六の若宮(わかみや)、副(ふく)将軍は千種頭(ちぐさのとうの)中将(ちゆうじやう)忠顕(ただあき)の朝臣(あそん)。」と聞へければ、「さては軍(いくさ)の成敗(せいはい)心にくからず。源(みなもと)は同流(おなじながれ)也(なり)。といへども、「江南(かうなん)の橘(たちばな)、江北(かうほく)に被移て枳(からたち)と成(なる)」習(ならひ)也(なり)。弓馬(きゆうば)の道を守る武家の輩(ともがら)と、風月の才(さい)を事とする朝廷(てうてい)の臣と闘(たたかひ)を決(けつ)せんに、武家不勝と云(いふ)事(こと)不可有。」と、各(おのおの)勇(いさ)み進(すすん)で、七千余騎(よき)大宮面(おほみやおもて)に打寄(うちよせ)て、寄手(よせて)遅しとぞ待懸(まちかけ)たる。去程(さるほど)に忠顕(ただあき)朝臣、神祇官(じんぎくわん)の前に扣(ひか)へて勢を分(わけ)て、上は大舎人(おほどねり)より下は七条まで、小路(こうぢ)ごとに千(せん)余騎(よき)づゝ指向(さしむけ)て責(せめ)させらる。武士(ぶし)は要害を拵(こしらへ)て射打(いうち)を面(おもて)に立(たて)て、馬武者を後(うしろ)に置(おき)たれば、敵の疼(ひる)む所を見て懸出々々(かけいでかけいで)追立(おつたて)けり。官軍(くわんぐん)は二重(にぢゆう)三重(さんぢゆう)に荒手(あらて)を立(たて)たれば、一陣引けば二陣入替(いりかは)り、二陣打負(うちまく)れば三陣入替(いりかはつ)て、人馬に息を継(つが)せ、煙塵(えんぢん)天を掠(かすめ)て責(せめ)戦ふ。官軍(くわんぐん)も武士(ぶし)も諸共(もろとも)に、義に依(よつ)て命(いのち)を軽(かろん)じ、名を惜(をしみ)で死を争(あらそ)ひしかば、御方(みかた)を助(たすけ)て進むは有れども、敵に遇(あう)て退くは無(なか)りけり。角(かく)ては何(いつ)可有勝負とも見へざりける処に、但馬(たじま)・丹波の勢共(せいども)の中(なか)より、兼(かね)て京中に忍(しのび)て人を入置(いれおき)たりける間、此彼(ここかしこ)に火を懸(かけ)たり。時節(をりふし)辻風(つじかぜ)烈(はげし)く吹(ふい)て、猛煙(みやうえん)後(うしろ)に立覆(たちおほ)ひければ、一陣に支(ささ)へたる武士(ぶし)共、大宮面(おほみやおもて)を引退(ひきしりぞき)て尚(なほ)京中に扣(ひか)へたり。六波羅(ろくはら)是(これ)を聞(きい)て、弱からん方(かた)へ向けんとて用意(ようい)を残し留(とどめ)たる、佐々木(ささきの)判官時信(ときのぶ)・隅田(すだ)・高橋・南部(なんぶ)・下山(しもやま)・河野(かうの)・陶山(すやま)・富樫(とがし)・小早河等(こばいかはに)、五千(ごせん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、一条・二条(にでう)の口へ被向。此荒手(このあらて)に懸合(かけあつ)て、但馬の守護(しゆご)大田三郎左衛門被打にけり。丹波(たんばの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)荻野(おぎの)彦六と足立(あだち)三郎は、五百(ごひやく)余騎(よき)にて四条(しでう)油小路(あぶらのこうぢ)まで責入(せめいり)たりけるを、備前(びぜんの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、薬師寺(やくしじの)八郎・中吉(なかぎりの)十郎・丹(たん)・児玉(こだま)が勢共(せいども)、七百(しちひやく)余騎(よき)相支(あひささへ)て戦(たたかひ)けるが、二条(にでう)の手被破ぬと見へければ、荻野・足立も諸共(もろとも)に御方(みかた)の負(まけ)して引返す。金持(かなぢ)三郎は七百(しちひやく)余騎(よき)にて、七条東洞院(ひがしのとうゐん)まで責入(せめいり)たりけるが、深手(ふかで)を負(おう)て引(ひき)かねけるを、播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)肥塚(こいづか)が一族(いちぞく)、三百(さんびやく)余騎(よき)が中に取篭(とりこめ)て、出抜(だしぬい)て虜(いけどり)てげり。丹波(たんばの)国(くに)神池(みいけ)の衆徒(しゆと)は、八十(はちじふ)余騎(よき)にて、五条西洞院(にしのとうゐん)まで責入(せめいり)、御方(みかた)の引(ひく)をも知らで戦(たたかひ)けるを、備中(びつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、庄(しやうの)三郎・真壁(まかべの)四郎、三百(さんびやく)余騎(よき)にて取篭(とりこめ)、一人も不余打(うつ)てげり。方々(かたがた)の寄手(よせて)、或(あるひ)は被打或(あるひ)は被破て、皆桂河(かつらがは)の辺(へん)まで引(ひき)たれども、名和(なわの)小次郎と小嶋(こじま)備後(びんごの)三郎とが向ひたりける一条の寄手(よせて)は、未引(いまだひかず)、懸(かけ)つ返(かへし)つ時移(うつ)るまで戦(たたかひ)たり。防(ふせぐ)は陶山(すやま)と河野(かうの)にて、責(せむる)は名和(なわ)と小嶋(こじま)と也(なり)。小島と河野(かうの)とは一族(いちぞく)にて、名和と陶山(すやま)とは知人也(なり)。日比(ひごろ)の詞(ことば)をや恥(はぢ)たりけん、後日(ごにち)の難(なん)をや思(おもひ)けん、死(しし)ては尸(かばね)を曝(さら)すとも、逃(にげ)て名をば失(うしなは)じと、互(たがひ)に命(いのち)を不惜、をめき叫(さけん)でぞ戦ひける。大将頭(とうの)中将(ちゆうじやう)は、内野(うちの)まで被引たりけるが、一条の手尚(なほ)相支(あひささへ)て戦半(たたかひなかば)也(なり)。と聞へしかば、又神祇官(じんぎくわん)の前へ引返して、使を立(たて)て小島と名和とを被喚返けり。彼等(かれら)二人(ににん)、陶山(すやま)と河野(かうの)とに向(むかひ)て、「今日(けふ)已(すで)に日暮候(くれさふらひ)ぬ。後日(ごにち)にこそ又見参(けんざん)に入らめ。」と色代(しきだい)して、両軍ともに引分(ひきわかれ)、各(おのおの)東西へ去(さり)にけり。夕陽(せきやう)に及(およん)で軍(いくさ)散(さん)じければ、千種殿(ちぐさどの)は本陣峯(みね)の堂(だう)に帰(かへつ)て、御方(みかた)の手負打死(ておひうちじに)を被註に、七千人に余(あま)れり。其(その)内に、宗(むね)と憑(たのまれ)たる大田(おほた)・金持(かなぢ)の一族(いちぞく)以下(いげ)、数百人(すひやくにん)被打畢(をはんす)。仍(よつて)一方の侍大将とも可成者とや被思けん、小嶋(こじま)備後三郎高徳(たかのり)を呼寄(よびよせ)て、「敗軍(はいぐん)の士力(ちから)疲(つかれ)て再び難戦。都(みやこ)近き陣は悪(あし)かりぬと覚(おぼゆ)れば、少し堺(さかひ)を阻(へだて)て陣を取り、重(かさね)て近国の勢を集(あつめ)て、又京都を責(せめ)ばやと思ふは、如何(いか)に計(はから)ふぞ。」と宣(のたま)へば、小嶋三郎不聞敢、「軍(いくさ)の勝負(しようぶ)は時の運による事にて候へば、負(まく)るも必(かならず)しも不恥、只引(ひく)まじき処を引かせ、可懸所を不懸を、大将の不覚(ふかく)とは申(まうす)也(なり)。如何(いか)なれば赤松入道は、僅(わづか)に千(せん)余騎(よき)の勢を以て、三箇度(さんがど)まで京都へ責入(せめいり)、叶(かな)はねば引退(ひきしりぞい)て、遂(つひ)に八幡(やはた)・山崎の陣をば去らで候ぞ。御勢(おんせい)縦(たと)ひ過半(くわはん)被打て候共(とも)、残(のこる)所の兵尚(なほ)六波羅(ろくはら)の勢よりは多かるべし。此(この)御陣後(うしろ)は深山(みやま)にて前は大河也(なり)。敵若(もし)寄来(よせきた)らば、好む所の取手(とりで)なるべし。穴(あな)賢(かしこ)、此(この)御陣を引かんと思食(おぼしめ)す事不可然候。但(ただし)御方(みかた)の疲(つか)れたる弊(つひえ)に乗(のつ)て、敵夜討(ようち)に寄(よ)する事もや候はんずらんと存(ぞんじ)候へば、高徳(たかのり)は七条の橋爪(はしづめ)に陣を取(とつ)て相待(あひまち)候べし。御心安(おんこころやす)からんずる兵共(つはものども)を、四五百騎が程、梅津(うめつ)・法輪(ほふりん)の渡(わたし)へ差向(さしむけ)て、警固(けいご)をさせられ候へ。」と申置(まうしおい)て、則(すなはち)小嶋三郎高徳(たかのり)は、三百(さんびやく)余騎(よき)にて、七条の橋より西にぞ陣を堅めたる。千種殿(ちぐさどの)は小嶋に云恥(いひはぢ)しめられて、暫(しばし)は峯(みね)の堂(だう)におはしけるが、「敵若(もし)夜討(ようち)にや寄せんずらん。」と云(いひ)つる言(ことば)に被驚て、弥(いよいよ)臆病心(おくびやうごころ)や付(つき)給ひけん、夜半(やはん)過(すぐ)る程に、宮を御馬(おんむま)に乗(の)せ奉(たてまつつ)て、葉室(はむろ)の前を直違(すぢかひ)に、八幡(やはた)を指(さし)てぞ被落ける。備後(びんごの)三郎、かかる事とは思ひもよらず、夜深方(よふけがた)に峯の堂を見遣(みやれ)ば、星の如(ごとく)に耀(かかや)き見へつる篝火(かがりび)次第に数(かず)消(きえ)て、所々(しよしよ)に焼(たき)すさめり。是(これ)はあはれ大将の落(おち)給ひぬるやらんと怪(あやしみ)て、事の様(やう)を見ん為に、葉室大路(はむろおほち)より峯の堂へ上(のぼ)る処に、荻野(をぎの)彦六朝忠(ともただ)浄住寺(じやうぢゆうじ)の前に行合(ゆきあひ)て、「大将已(すで)に夜部(よべの)子刻(ねのこく)に落(おち)させ給(たまひ)て候間、無力我等(われら)も丹後(たんご)の方へと志(こころざし)て、罷下(まかりくだり)候也(なり)。いざゝせ給へ、打連(うちつ)れ申さん。」と云(いひ)ければ備後三郎大(おほき)に怒(いかつ)て、「かゝる臆病の人を大将と憑(たの)みけるこそ越度(をちど)なれ。さりながらも、直(ぢき)に事の様(やう)を見ざらんは後難(こうなん)も有(あり)ぬべし。早(はや)御(おん)通(とほ)り候へ。高徳(たかのり)は何様(なにさま)峯の堂へ上(のぼつ)て、宮の御跡(おんあと)を奉見て追付(おつつき)可申。」と云(いひ)て、手(て)の者兵をば麓に留(とめ)て只一人、落行(おちゆく)勢の中を押分々々(おしわけおしわけ)、峯(みね)の堂(だう)へぞ上(のぼ)りける。大将のおはしつる本堂へ入(いつ)て見れば、能(よく)遽(あわて)て被落けりと覚へて、錦(にしき)の御旗(おんはた)、鎧直垂(ひたたれ)まで被捨たり。備後三郎腹を立てゝ、「あはれ此(この)大将、如何なる堀がけへも落入(おちいつ)て死に給へかし。」と独(ひと)り言(ごと)して、しばらくは尚(なほ)堂(だう)の縁(えん)に歯嚼(はがみ)をして立(たつ)たりけるが、「今はさこそ手(て)の者共(ものども)も待(まち)かねたるらめ。」と思ひければ、錦の御旗許(おんはたばかり)を巻(まい)て、下人(げにん)に持(もた)せ、急ぎ浄住寺の前へ走(はし)り下(お)り、手(て)の者打連(うちつれ)て馬を早めければ、追分(おひわけ)の宿(しゆく)の辺(へん)にて、荻野(をぎの)彦六にぞ追付(おひつき)ける。荻野は、丹波・丹後(たんご)・出雲・伯耆へ落(おち)ける勢の、篠村(しのむら)・稗田辺(ひえだのへん)に打集(うちあつ)ま(ッ)て、三千(さんぜん)余騎(よき)有(あり)けるを相伴(あひともなひ)、路次(ろし)の野伏(のぶし)を追払(おひはらう)て、丹波国高山寺(かうせんじ)の城(じやう)にぞ楯篭(たてごも)りける。
○谷堂炎上(たにのだうえんじやうの)事(こと) S0808
千種頭(ちくさのとうの)中将(ちゆうじやう)は西山(にしやま)の陣を落(おち)給ひぬと聞へしかば、翌日(よくじつ)四月九日、京中の軍勢、谷の堂・峰の堂已下(いげ)浄住寺・松(まつ)の尾(を)・万石大路(まんごくおほち)・葉室(はむろ)・衣笠(きぬがさ)に乱入(みだれいつ)て、仏閣(ぶつかく)神殿を打破(うちやぶ)り、僧坊民屋(そうばうみんをく)を追捕(つひふ)し、財宝(ざいはう)を悉(ことごと)く運取(はこびとつ)て後(のち)、在家(ざいけ)に火を懸(かけ)たれば、時節(をりふし)魔風(まかぜ)烈(はげし)く吹(ふい)て、浄住寺・最福寺(さいふくじ)・葉室(はむろ)・衣笠(きぬがさ)・三尊院(さんそんゐん)、総(そう)じて堂舎(だうしや)三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)、在家(ざいけ)五千(ごせん)余宇(よう)、一時に灰燼(くわいじん)と成(なつ)て、仏像・神体・経論(きやうろん)・聖教(しやうげう)、忽(たちまち)に寂滅(じやくめつ)の煙(けぶり)と立上(たちのぼ)る。彼(かの)谷堂(たにのだう)と申(まうす)は八幡殿(はちまんどの)の嫡男(ちやくなん)対馬(つしまの)守(かみ)義親(よしちか)が嫡孫(ちやくそん)、延朗(えんらう)上人造立(ざうりふ)の霊地(れいち)也(なり)。此(この)上人幼稚(えうち)の昔より、武略累代(ぶりやくるゐだい)の家を離れ、偏(ひとへ)に寂寞無人(じやくまくむにん)の室(むろ)をと給(しめたまひ)し後、戒定慧(かいぢやうゑ)の三学を兼備(けんび)して、六根清浄(ろくこんしやうじやう)の功徳(くどく)を得給ひしかば、法華読誦(ほつけどくじゆ)の窓の前には、松尾(まつのを)の明神坐列(ざれつ)して耳を傾(かたぶ)け、真言秘密(しんごんひみつ)の扉(とぼそ)の中(うち)には、総角(そうかく)の護法(ごほふ)手を束(つかね)て奉仕(ぶし)し給ふ。かゝる有智高行(いうちかうぎやう)の上人(しやうにん)、草創(さうさう)せられし砌(みぎり)なれば、五百(ごひやく)余歳(よさい)の星霜(せいざう)を経(へ)て、末世澆漓(まつせげうり)の今に至るまで、智水(ちすゐ)流(ながれ)清く、法燈(ほつとう)光(ひかり)明(あきらか)也(なり)。三間四面(さんげんしめん)の輪蔵(りんざう)には、転法輪(てんほふりん)の相(さう)を表(へう)して、七千余巻(よくわん)の経論(きやうろん)を納(をさ)め奉られけり。奇樹怪石(きじゆくわいせき)の池上(ちじやう)には、都卒(とそつ)の内院(ないゐん)を移(うつ)して、四十九院(しじふくゐん)の楼閣(ろうかく)を並ぶ。十二の欄干(らんかん)珠玉(しゆぎよく)天に捧(ささ)げ、五重(ごぢゆう)の塔婆(たふば)金銀月(つき)を引く。恰(あたか)も極楽浄土(ごくらくじやうど)の七宝荘厳(しちはうしやうごん)の有様も、角(かく)やと覚(おぼゆ)る許(ばかり)也(なり)。又浄住寺と申(まうす)は、戒法(かいほふ)流布(るふ)の地、律宗(りつしゆう)作業(さごふ)の砌(みぎり)也(なり)。釈尊(しやくそん)御入滅(ごにふめつ)の刻(きざみ)、金棺(きんくわん)未(いまだ)閉(とぢざる)時、捷疾鬼(せふしつき)と云(いふ)鬼神(きじん)、潛(ひそか)に双林(さうりん)の下(もと)に近付(ちかづい)て、御牙(おんきば)を一(ひとつ)引■(ひつかい)て是(これ)を取る。四衆(ししゆ)の仏弟子(ぶつでし)驚(おどろき)見て、是(これ)を留(とど)めんとし給ひけるに、片時(へんし)が間(ま)に四万由旬(しまんゆじゆん)を飛越(とびこえ)て、須弥(しゆみ)の半(なかば)四天王(してんわう)へ逃上(にげのぼ)る。韋駄天(ゐだてん)追攻(おひつめ)奪取(うばひとり)、是(これ)を得て其(その)後漢土(かんど)の道宣律師(だうせんりつし)に被与。自尓以来(このかた)相承(さうじやう)して我朝(わがてう)に渡(わたり)しを、嵯峨(さがの)天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に始(はじめ)て此(この)寺に被奉安置。偉(おほいなる)哉(かな)大聖世尊(だいしやうせそん)滅後(めつご)二千三百(にせんさんびやく)余年(よねん)の已後(いご)、仏肉(ぶつにく)猶(なほ)留(とどまつ)て広く天下に流布(るふ)する事普(あまね)し。かゝる異瑞奇特(いずゐきどく)の大加藍(だいがらん)を無咎して被滅けるは、偏(ひとへ)に武運(ぶうん)の可尽前表(ぜんべう)哉(かな)と、人皆唇(くちびる)を翻(ひるがへし)けるが、果(はた)して幾程(いくほど)も非ざるに、六波羅(ろくはら)皆番馬(ばんば)にて亡(ほろ)び、一類(いちるゐ)悉(ことごと)く鎌倉(かまくら)にて失(う)せける事こそ不思議(ふしぎ)なれ。「積悪(せきあく)の家には必(かならず)有余殃」とは、加様(かやう)の事をぞ可申と、思はぬ人も無(なか)りけり。


太平記(国民文庫)

太平記巻第九
○足利殿(あしかがどの)御上洛(ごしやうらくの)事(こと) S0901
先朝(せんてう)船上(ふなのうへ)に御坐(ござ)有(あつ)て、討手を被差上、京都を被責由(よし)、六波羅(ろくはら)の早馬(はやむま)頻(しきり)に打(うつ)て、事既(すで)に難儀に及(およぶ)由(よし)、関東(くわんとう)に聞へければ、相摸(さがみ)入道大(おほき)に驚(おどろい)て、さらば重(かさね)て大勢を指上(さしのぼ)せて半(なかば)は京都を警固(けいご)し、宗徒(むねと)は舟上(ふなのうへ)を可責と評定(ひやうぢやう)有(あつ)て、名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)を大将として、外様(とざま)の大名二十人を被催。其(その)中に足利(あしかが)治部大輔(ぢふのたいふ)高氏(たかうぢ)は、所労(しよらう)の事有(あつ)て、起居(ききよ)未(いまだ)快(こころよからざり)けるを、又上洛(しやうらく)の其数(そのかず)に入(いつ)て、催促(さいそく)度々(どど)に及べり。足利殿(あしかがどの)此(この)事(こと)に依(よつ)て、心中(しんちゆう)に被憤思けるは、「我(われ)父の喪(も)に居(ゐ)て三月を過(すぎ)ざれば、非歎(ひたん)の涙(なんだ)未(いまだ)乾(かわかず)、又病気身を侵(をか)して負薪(ふしん)の憂(うれへ)未(いまだ)休(やまざる)処に、征罰(せいばつ)の役(やく)に随へて、被相催事こそ遺恨(ゐこん)なれ。時移(うつ)り事変(へん)じて貴賎雖易位、彼(かれ)は北条四郎時政(ときまさ)が末孫(ばつそん)也(なり)。人臣に下(くだつ)て年久し。我は源家累葉(げんけるゐえふ)の族(やから)也(なり)。王氏(わうし)を出(いで)て不遠。此(この)理を知(しる)ならば、一度(いちど)は君臣の儀をも可存に、是(これ)までの沙汰(さた)に及(およぶ)事(こと)、偏(ひとへ)に身の不肖(ふせう)による故(ゆゑ)也(なり)。所詮(しよせん)重(かさね)て尚上洛(しやうらく)の催促(さいそく)を加(くはふ)る程ならば、一家(いつけ)を尽(つく)して上洛(しやうらく)し、先帝(せんてい)の御方(みかた)に参(まゐつ)て六波羅(ろくはら)を責落(せめおと)して、家の安否(あんぴ)を可定者を。」と心中(しんちゆう)に被思立けるをば、人更(さら)に知(しる)事(こと)無(なか)りけり。相摸(さがみ)入道(にふだう)は、可斯事とは不思寄、工藤(くどう)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)を使にて、「御上洛(ごしやうらく)延引不被心得。」一日の中(うちに)両度までこそ被責けれ。足利殿(あしかがどの)は反逆(はんぎやく)の企(くはだて)、已(すで)に心中(しんちゆう)に被思定てげれば、中々(なかなか)異儀(いぎ)に不及、「不日(ふじつ)に上洛(しやうらく)可仕。」とぞ被返答ける。則(すなはち)夜を日に継(つい)で被打立けるに、御一族(ごいちぞく)・郎従(らうじゆう)は不及申、女性(によしやう)幼稚(えうち)の君達(きんだち)迄も、不残皆可有上洛(しやうらく)と聞へければ、長崎入道円喜(ゑんき)怪(あやし)み思(おもひ)て、急ぎ相摸(さがみ)入道(にふだう)の方に参(まゐつ)て申(まうし)けるは、「誠(まこと)にて候哉覧(やらん)。足利殿(あしかがどの)こそ、御台(みだい)・君達(きんだち)まで皆引具(ひきぐ)し進(まゐら)せて、御上洛(ごしやうらく)候なれ。事の体(てい)怪(あやし)く存(ぞんじ)候。加様(かやう)の時は、御一門(ごいちもん)の疎(おろそ)かならぬ人にだに、御心(おんこころ)被置候べし。況乎(いはんや)源家(げんけ)の貴族として、天下の権柄(けんぺい)を捨(すて)給へる事年久しければ、思召立(おぼしめしたつ)事(こと)もや候覧(らん)。異国より吾朝(わがてう)に至(いたる)まで、世の乱(みだれ)たる時は、覇王(はわう)諸候を集(あつめ)て牲(いけにへ)を殺し血を啜(すすつ)て弐(ふたごこ)ろ無(なか)らん事を盟(ちか)ふ。今の世の起請文(きしやうもん)是(これ)也(なり)。或(あるひ)は又其(その)子を質(しち)に出(いだ)して、野心(やしん)の疑(うたがひ)を散ず。木曾殿(きそどの)の御子(おんこ)、清水冠者(しみづのくわじや)を大将殿(たいしやうどの)の方へ被出き。加様(かやう)の例を存(ぞんじ)候にも、如何様(いかさま)足利殿(あしかがどの)の御子息(ごしそく)と御台(みだい)とをば、鎌倉(かまくら)に被留申て、一紙(いつし)の起請文を書(かか)せ可被進とこそ存(ぞんじ)候へ。」と申ければ、相摸(さがみ)入道(にふだう)げにもとや被思けん。頓(やが)て使者を以て被申遣けるは、「東国(とうごく)は未だ世閑(しづか)にて、御心(おんこころ)安かるべきにて候。幼稚(えうち)の御子息(ごしそく)をば、皆鎌倉(かまくら)に留置進(とめおきまゐら)せられ候べし。次に両家(りやうけ)の体(てい)を一にして、水魚(すゐぎよ)の思(おもひ)を被成候上(うへ)、赤橋(あかはし)相州(さうしう)御縁(ごえん)に成(なり)候、彼此(かれこれ)何の不審(ふしん)か候べきなれ共(ども)、諸人(しよにん)の疑(うたがひ)を散(さん)ぜん為にて候へば、乍恐一紙(いつし)の誓言(せいごん)を被留置候はん事(こと)、公私(こうし)に付(つい)て可然こそ存(ぞんじ)候へ。」と、被仰たりければ、足利殿(あしかがどの)、欝胸(うつきよう)弥(いよいよ)深かりけれ共(ども)、憤(いきどほり)を押(おさ)へて気色(きしよく)にも不被出、「是(これ)より御返事(ごへんじ)を可申。」とて、使者をば被返てげり。其後(そののち)舎弟兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)殿(どの)を被呼進て、「此(この)事(こと)可有如何。」と意見を被訪に、且(しばら)く案(あん)じて被申けるは、「今此(この)一大事(いちだいじ)を思食立(おぼしめしたつ)事(こと)、全(まつた)く御身(おんみ)の為に非(あら)ず、只天に代(かはつ)て無道(ぶだう)を誅(ちゆう)し、君は御為(おんため)に不義を退(しりぞけ)んと也(なり)。其(その)上(うへ)誓言(せいごん)は神も不受とこそ申習(まうしなら)はして候へ。設(たと)ひ偽(いつはつ)て起請(きしやう)の詞(ことば)被載候共(とも)、仏神などか忠烈(ちゆうれつ)の志(こころざし)を守らせ給はで候べき。就中(なかんづく)御子息(ごしそく)と御台(みだい)とは、鎌倉(かまくら)に留置進(とめおきまゐら)せられん事(こと)、大儀(たいぎ)の前の少事(せうじ)にて候へば、強(あながち)に御心(おんこころ)を可被煩に非(あら)ず。公達(きんだち)未だ御幼稚(ごえうち)に候へば、自然の事もあらん時は、其(その)為に少々被残置郎従共(らうじゆうども)、何方(いづかた)へも抱拘(だきかか)へて隠し奉り候(さふらひ)なん。御台(みだい)の御事(おんこと)は、又赤橋殿(あかはしどの)とても御坐(おはしまし)候はん程は、何の御痛敷(おんいたはしき)事(こと)か候べき。「大行(たいかう)は不顧細謹」とこそ申(まうし)候へ。此等(これら)程の少事(せうじ)に可有猶予あらず。兎(と)も角(かく)も相摸(さがみ)入道(にふだう)の申さん侭(まま)に随(したがつ)て其(その)不審を令散、御上洛(ごしやうらく)候(さふらひ)て後(のち)、大儀の御計略(ごけいりやく)を可被回とこそ存(ぞんじ)候へ。」と被申ければ、足利殿(あしかがどの)此(この)道理に服(ふく)して、御子息(ごしそく)千寿王(せんじゆわう)殿(どの)と、御台(みだい)赤橋(あかはし)相州(さうしう)の御妹(おんいもうと)とをば、鎌倉(かまくら)に留置(とめおき)奉りて、一紙(いつし)の起請文(きしやうもん)を書(かい)て相摸(さがみ)入道(にふだう)の方へ被遣。相摸(さがみ)入道(にふだう)是(これ)に不審(ふしん)を散(さん)じて喜悦(きえつ)の思(おもひ)を成し、高氏(たかうぢ)を招請(せうしやう)有(あつ)て、様々(さまざま)賞翫共(しやうぐわんども)有(あり)しに、「御先祖(ごせんぞ)累代(るゐたい)の白旌(しらはた)あり、是(これ)は八幡殿(はちまんどの)より代々(だいだい)の家督(かとく)に伝(つたへ)て被執重宝(ちようはう)にて候(さふらひ)けるを、故頼朝(こよりとも)卿(きやう)の後室(こうしつ)、二位(にゐ)の禅尼(ぜんに)相伝(さうでん)して、当家(たうけ)に今まで所持(しよぢ)候也(なり)。希代(きたい)の重宝と申(まうし)ながら、於他家に、無其詮候歟(か)。是(これ)を今度の餞送(はなむけ)に進(しん)じ候也(なり)。此旌(このはた)をさゝせて、凶徒(きようと)を急ぎ御退治(ごたいぢ)候へ。」とて、錦(にしき)の袋に入(いれ)ながら、自(みづか)ら是(これ)をまいらせらる。其外(そのほか)乗替(のりがへ)の御為(おんため)にとて、飼(かう)たる馬に白鞍(しろくら)置(おい)て十疋(じつびき)、白幅輪(しろぶくりん)の鎧(よろひ)十領(じふりやう)、金作(こがねづくり)の太刀一副(ひとつそへ)て被引たりけり。足利殿(あしかがどの)御兄弟(ごきやうだい)・吉良(きら)・上杉・仁木(につき)・細川・今河・荒河(あらかは)・以下(いげ)の御一族(ごいちぞく)三十二人(さんじふににん)、高家(かうけ)の一類(いちるゐ)四十三人(しじふさんにん)、都合其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、元弘三年三月二十七日(にじふしちにち)に鎌倉(かまくら)を立(たち)、大手の大将と被定、名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)高家(たかいへ)に三日先立(さきだつ)て、四月十六日に京都に着(つき)給ふ。
○山崎攻(せめの)事(こと)付久我畷(くがなはて)合戦(かつせんの)事(こと) S0902
両六波羅(りやうろくはら)は、度々(どど)の合戦に打勝(うちかち)ければ、西国(さいこく)の敵恐(おそる)るに不足と欺(あざむ)きながら、宗徒(むねと)の勇士(ゆうし)と被憑たりける結城(ゆふき)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)は、敵に成(なつ)て山崎の勢(せい)に加(くはは)りぬ。其外(そのほか)、国々の勢共(せいども)五騎十騎、或(あるひ)は転漕(てんさう)に疲(つかれ)て国々に帰り、或(あるひ)は時の運を謀(はかつ)て敵に属(しよく)しける間、宮方(みやがた)は負(まく)れ共(ども)勢弥(いよいよ)重(かさな)り、武家は勝(かて)共(ども)兵(つはもの)日々(ひび)に減(げん)ぜり。角(かく)ては如何(いかが)可有と、世を危(あやぶ)む人多かりける処に、足利(あしかが)・名越(なごや)の両勢叉雲霞(うんか)の如く上洛(しやうらく)したりければ、いつしか人の心替(かはつ)て今は何事か可有と、色を直(なほ)して勇合(いさみあ)へり。かゝる処に、足利殿(あしかがどの)は京着(きやうちやく)の翌日(よくじつ)より、伯耆(はうき)の船上(ふなのうへ)へ潛(ひそか)に使を進(まゐら)せて、御方(みかた)に可参由を被申たりければ、君殊(こと)に叡感(えいかん)有(あつ)て、諸国の官軍(くわんぐん)を相催(あひもよほ)し朝敵(てうてき)を可御追罰(ついばつ)由の綸旨(りんし)をぞ被成下ける。両六波羅(りやうろくはら)も名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)も、足利殿(あしかがどの)にかゝる企(くはだて)有(あり)とは思(おもひ)も可寄事ならねば、日々(ひび)に参会(さんくわい)して八幡(やはた)・山崎を可被責内談評定(ないだんひやうぢやう)、一々(いちいち)に心底(しんてい)を不残被尽さけるこそはかなけれ。「大行之路能摧車、若比人心夷途。巫峡之水能覆舟、若比人心是安流也(なり)。人心好悪苦不常。」とは云(いひ)ながら、足利殿(あしかがどの)は代々(だいだい)相州(さうしう)の恩を戴き徳を荷(になつ)て、一家(いつけ)の繁昌恐(おそら)くは天下の肩(かた)を可並も無(なか)りけり。其(その)上(うへ)赤橋(あかはし)前(さきの)相摸守(さがみのかみ)の縁(えん)に成(なつ)て、公達(きんだち)数(あま)た出来給(いできたまひ)ぬれば、此(この)人よも弐(ふたごころ)はおはせじと相摸(さがみ)入道(にふだう)混(ひたすら)に被憑けるも理(ことわり)也(なり)。四月二十七日(にじふしちにち)には八幡(やはた)・山崎の合戦と、兼(かね)てより被定ければ、名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)大手の大将として七千六百(しちせんろつぴやく)余騎(よき)、鳥羽(とば)の作道(つくりみち)より被向。足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)は、搦手(からめて)の大将として五千(ごせん)余騎(よき)、西岡(にしのをか)よりぞ被向ける。八幡(やはた)・山崎の官軍(くわんぐん)是(これ)を聞(きい)て、さらば難所(なんじよ)に出合(いであつ)て不慮に戦(たたかひ)を決せしめよとて、千種(ちぐさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)忠顕(ただあき)朝臣は、五百(ごひやく)余騎(よき)にて大渡(おほわたり)の橋を打渡り、赤井河原(あかゐかはら)に被扣。結城(ゆふきの)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)親光(ちかみつ)は、三百(さんびやく)余騎(よき)にて狐河(きつねがは)の辺(へん)に向ふ。赤松入道円心(ゑんしん)は、三千(さんぜん)余騎(よき)にて淀(よど)・古河(ふるかは)・久我畷(こがなはて)の南北三箇所(さんかしよ)に陣を張(はる)。是(これ)皆強敵(がうてき)を拉(とりひしぐ)気(き)、天を廻(めぐら)し地を傾(かたむく)と云共(いふとも)、機を解(と)き勢(いきほひ)を被呑とも、今上(いまのぼり)の東国勢一万余騎(よき)に対して可戦とはみへざりけり。足利殿(あしかがどの)は、兼(かね)て内通(ないつう)の子細(しさい)有(あり)けれ共(ども)、若(もし)恃(たばかり)やし給ふ覧(らん)とて、坊門(ばうもんの)少将雅忠(まさただ)朝臣は、寺戸(てらど)と西岡(にしのをか)の野伏共(のぶしども)五六百人(ごろつぴやくにん)駆催(かりもよほ)して、岩蔵辺(いはくらへん)に被向。去程(さるほど)に搦手(からめて)の大将足利殿(あしかがどの)は、未明(びめい)に京都を立給(たちたまひ)ぬと披露有(ひろうあり)ければ、大手(おほて)の大将名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)、「さては早(はや)人に先(さき)を被懸ぬ。」と、不安思ひて、さしも深き久我畷(こがなはて)の、馬の足もたゝぬ泥土(でいど)の中へ馬を打入(うちい)れ、我先(われさき)にとぞ進みける。尾張(をはりの)守(かみ)は、元(もと)より気早(きばや)の若武者(わかむしや)なれば、今度の合戦、人の耳目(じもく)を驚(おどろか)す様(やう)にして、名を揚(あげ)んずる者をと、兼(かね)て有増(あらまし)の事なれば、其(その)日(ひ)の馬物(もの)の具(ぐ)・笠符(かさじるし)に至(いたる)まで、当(あた)りを耀(かかや)かして被出立たり。花段子(くわどんす)の濃紅(こきくれなゐ)に染(そめ)たる鎧直垂(よろひひたたれ)に、紫糸(むらさきいと)の鎧金物(よろひかなもの)重(しげ)く打(うつ)たるを、透間(すきま)もなく着下(きくだ)して、白星(しらほし)の五枚甲(ごまいかぶと)の吹返(ふきかへし)に、日光・月光の二天子を金と銀とにて堀透(ほりすか)して打(うつ)たるを猪頚(ゐくび)に着成(きな)し、当家累代(たうけるゐだいの)重宝(ちようはう)に、鬼丸(おにまる)と云(いひ)ける金作(こがねづくり)の円鞘(まるざや)の太刀に、三尺(さんじやく)六寸(ろくすん)の太刀を帯(は)き添(そへ)、たかうすべ尾(を)の矢(や)三十六(さんじふろく)指(さい)たるを、筈高(はずだか)に負成(おひなし)、黄瓦毛(きかはらげ)の馬の太く逞(たくまし)きに、三本(さんぼん)唐笠(からかさ)を金具(かながひ)に磨(すつ)たる鞍(くら)を置き、厚総(あつぶさ)の鞦(しりがい)の燃立許(もえたつばかり)なるを懸け、朝日(あさひ)の陰に耀(かかやか)して、光渡(ひかりわたつ)てみへたるが、動(ややもすれ)ば軍勢より先(さき)に進出(すすみいで)て、当(あた)りを払(はらつ)て被懸ければ、馬物具(もののぐ)の体(てい)、軍立(いくさたち)の様(やう)、今日の大手の大将は是(これ)なめりと、知(しら)ぬ敵は無(なか)りけり。されば敵も自余(じよ)の葉武者共(はむしやども)には目を不懸、此(ここ)に開(ひら)き合(あは)せ彼(かしこ)に攻合(せめあひ)て、是(これ)一人を打(うた)んとしけれども、鎧よければ裏かゝする矢もなし。打物達者(うちものたつしや)なれば、近付(ちかづく)敵を切(きつ)て落す。其勢(そのいきほ)ひ参然(さんぜん)たるに辟易(へきえき)して、官軍(くわんぐん)数万(すまん)の士卒(じそつ)、已(すで)に開(ひら)き靡(なび)きぬとぞ見へたりける。爰(ここ)に赤松の一族(いちぞく)に佐用(さよ)佐衛門三郎範家(のりいへ)とて、強弓(つよゆみ)の矢継早(やつぎばや)、野伏(のぶし)戦(いくさ)に心きゝて、卓宣(たくせん)公(こう)が秘(ひ)せし所を、我物(わがもの)に得たる兵(つはもの)あり。態(わざと)物具(もののぐ)を解(ぬい)で、歩立(かちだち)の射手(いて)に成(なり)、畔(くろ)を伝(つた)ひ、薮(やぶ)を潛(くぐつ)て、とある畔(くろ)の陰(かげ)にぬはれ臥(ふし)、大将に近付(ちかづい)て、一矢(ひとや)ねらはんとぞ待(まつ)たりける。尾張(をはりの)守(かみ)は、三方(さんぱう)の敵を追(おひ)まくり、鬼丸(おにまる)に着(つき)たる血を笠符(かさじるし)にて推拭(おしのご)ひ、扇(あふぎ)開仕(ひらきつか)ふて、思ふ事もなげに扣(ひか)へたる処を、範家(のりいへ)近々とねらひ寄(よつ)て引(ひき)つめて丁(ちやう)と射る。其(その)矢思ふ矢坪(やつぼ)を不違、尾張(をはりの)守(かみ)が冑(かぶと)の真甲(まつかふ)のはづれ、眉間(みけん)の真中(まんなか)に当(あたつ)て、脳を砕(くだき)骨(ほね)を破(やぶつ)て、頚(くび)の骨のはづれへ、矢さき白く射出(いだし)たりける間、さしもの猛将(まうしやう)なれ共(ども)、此(この)矢一隻に弱(よわつ)て、馬より真倒(まつさかさま)にどうど落(おつ)、範家(のりいへ)箙(えびら)を叩(たたい)て矢呼(やさけび)を成(な)し、「寄手(よせて)の大将名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)をば、範家が只一矢(ひとや)に射殺(いころ)したるぞ、続けや人々。」と呼(よばは)りければ、引色(ひきいろ)に成(なり)つる官軍共(くわんぐんども)、是(これ)に機を直(なほ)し、三方(さんぱう)より勝時(かつどき)を作(つくつ)て攻合(せめあは)す。尾張(をはりの)守(かみ)の郎従(らうじゆう)七千(しちせん)余騎(よき)、しどろに成(なつ)て引(ひき)けるが、或(あるひ)は大将を打(うた)せて何(いづ)くへか可帰とて、引返(ひつかへし)て討死(うちじに)するもあり。或(あるひ)は深田(ふかた)に馬を馳(はせ)こうで、叶(かな)はで自害(じがい)するもあり。されば狐河(きつねがは)の端(はた)より鳥羽(とば)の今在家(いまざいけ)まで、其(その)道五十(ごじふ)余町(よちやう)が間には、死人(しにん)尺地(せきぢ)もなく伏(ふし)にけり。
○足利殿(あしかがどの)打越大江山事 S0903
追手(おふて)の合戦は、今朝(こんてう)辰刻(たつのこく)より始ま(ッ)て、馬煙(むまけぶり)東西に靡(なび)き、時(とき)の声天地(てんち)を響(ひび)かして攻合(せめあひ)けれ共(ども)、搦手(からめて)の大将足利殿(あしかがどの)は、桂河(かつらがは)の西の端(はた)に下(お)り居て、酒盛(さかもり)してぞおはしける。角(かく)て数刻(すこく)を経(へ)て後、大手の合戦に寄手(よせて)打負(うちまけ)て、大将已(すで)に被討ぬと告(つげ)たりければ、足利殿(あしかがどの)、「さらばいざや山を越(こえ)ん。」とて、各(おのおの)馬に打乗(うちのつ)て、山崎の方を遥(はるか)の余所(よそ)に見捨(みすて)て、丹波路(たんばぢ)を西へ、篠村(しのむら)を指(さし)て馬を早められけり。爰(ここ)に備前(びぜんの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)中吉(なかぎりの)十郎と、摂津国(つのくに)の住人(ぢゆうにん)に奴可(ぬかの)四郎とは、両陣の手合(てあはせ)に依(よつ)て搦手(からめて)の勢の中に在(あり)けるが、中吉(なかぎりの)十郎大江山(おいのやま)の麓にて、道より上手(うはて)に馬を打挙(うちあげ)て、奴可四郎を呼(よび)のけて云(いひ)けるは、「心得ぬ様(やう)哉(かな)、大手の合戦は火を散(ちらし)て、今朝の辰刻(たつのこく)より始(はじま)りたれば、搦手(からめて)は芝居(しばゐ)の長酒盛(ながさかもり)にてさて休(やみ)ぬ。結句(けつく)名越(なごや)殿(どの)被討給(たまひ)ぬと聞へぬれば、丹波路(たんばぢ)を指(さ)して馬を早め給ふは、此(この)人如何様(いかさま)野心(やしん)を挿給(さしはさみたまふ)歟(か)と覚(おぼゆ)るぞ。さらんに於ては、我等何(いづ)くまでか可相従。いざや是(これ)より引返(ひつかへし)て、六波羅殿(ろくはらどの)に此(この)由を申(まうさ)ん。」と云(いひ)ければ、奴可四郎、「いしくも宣(のたま)ひたり。我(われ)も事の体(てい)怪しくは存じながら、是(これ)も又如何なる配立(はいりふ)かある覧(らん)と、兎角(とかう)案じける間に、早(はや)今日(こんにち)の合戦には迦(はづ)れぬる事こそ安からね。但(ただし)此人(このひと)敵に成給(なりたまひ)ぬと見ながら、只引返(ひつかへ)したらんは、余(あまり)に云甲斐(いふかひ)なく覚ゆれば、いざ一矢射て帰らん。」と云侭(いふまま)に、中差(なかざし)取(とつ)て打番(うちつがひ)、轟懸(とどろかけ)てかさへ打(うつ)て廻(まは)さんとしけるを、中吉(なかぎり)、「如何なる事ぞ。御辺(ごへん)は物に狂ふか。我等僅(わづか)に二三十騎にて、あの大勢に懸合(かけあひ)て、犬死(いぬじに)したらんは本意歟(か)。嗚呼(をご)の高名はせぬに不如、唯無事故引返(ひつかへし)て、後(のち)の合戦の為に命(いのち)を全(まつたう)したらんこそ、忠義を存(そんじ)たる者也(なり)けりと、後(のち)までの名も留(とど)まらんずれ。」と、再往(さいわう)制止(せいし)ければ、げにもとや思(おもひ)けん、奴可(ぬかの)四郎も中吉(なかぎり)も、大江山(おいのやま)より馬を引返(ひつかへ)して、六波羅(ろくはら)へこそ打帰(うちかへ)りけれ。彼等二人(ににん)馳参(はせさんじ)て事の由を申(まうし)ければ、両六波羅(りやうろくはら)は、楯鉾(たてほこ)とも被憑たりける名越(なごや)尾張(をはりの)守(かみ)は被討ぬ。是(これ)ぞ骨肉(こつにく)の如くなれば、さりとも弐(ふたごころ)はおはせじと、水魚(すゐぎよ)の思を被成つる足利殿(あしかがどの)さへ、敵(てき)に成給(なりたまひ)ぬれば、憑(たの)む木下(このもと)に雨のたまらぬ心地(ここち)して、心細きに就(つけ)ても、今まで着纒(つきまと)ひたる兵共(つはものども)も、又さこそはあらめと、心の被置ぬ人もなし。
○足利殿(あしかがどの)着御篠村則(すなはち)国人(くにうど)馳参(はせまゐる)事(こと) S0904
去程(さるほど)に、足利殿(あしかがどの)篠村(しのむら)に陣を取(とつ)て、近国の勢を被催けるに、当国の住人(ぢゆうにん)に久下(くげの)弥三郎時重(ときしげ)と云(いふ)者、二百五十騎にて最前(まつさき)に馳(はせ)参る。其(その)旗の文(もん)、笠符(かさじるし)に皆一番(いちばん)と云(いふ)文字(もじ)を書(かい)たりける。足利殿(あしかがどの)是(これ)を御覧(ごらん)じて、怪しく覚(おぼ)しければ、高(かうの)右衛門(うゑもんの)尉(じよう)師直(もろなほ)を被召て、「久下(くげ)の者共(ものども)が、笠璽(かさじるし)に一番と云(いふ)を書(かい)たるは、元来の家の文(もん)歟(か)、又是(これ)へ一番に参りたりと云(いふ)符(しるし)歟(か)。」と尋給(たづねたまひ)ければ、師直(もろなほ)畏(かしこまつ)て、「由緒(ゆゐしよ)ある文(もん)にて候。彼が先祖、武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)久下(くげの)二郎重光(しげみつ)、頼朝(よりとも)大将殿(たいしやうどの)、土肥(とひ)の杉山(すぎやま)にて御旗(おんはた)を被揚て候(さふらひ)ける時、一番に馳(はせ)参じて候(さふらひ)けるを、大将殿(たいしやうどの)御感(ぎよかん)候(さふらひ)て、「若(もし)我(われ)天下を持(もた)たば、一番に恩賞を可行。」と被仰て、自(みづから)一番と云(いふ)文字を書(かい)てたび候(さふらひ)けるを、頓(やがて)其(その)家の文(もん)と成(なし)て候。」と答申(こたへまうし)ければ、「さては是(これ)が最初に参りたるこそ、当家の吉例(きちれい)なれ。」とて、御賞翫(ごしやうぐわん)殊に甚しかりけり。元来高山寺(かうせんじ)に楯篭(たてごも)りたる足立(あだち)・荻野(をぎの)・小島(こじま)・和田・位田(ゐんでん)・本庄(ほんじやう)・平庄(ひらじやう)の者共(ものども)許(ばかり)こそ、今更(いまさら)人の下風(したて)に可立に非(あら)ずとて、丹波より若狭(わかさ)へ打越(うちこえ)て、北陸道(ほくろくだう)より責上(せめのぼ)らんとは企(くはだて)けれ。其外(そのほか)久下(くげ)・長沢・志宇知(しうち)・山内(やまのうち)・葦田(あしだ)・余田(よだ)・酒井(さかゐ)・波賀野(はがの)・小山(をやま)・波々伯部(はうかべ)、其外(そのほか)近国の者共(ものども)、一人も不残馳(はせ)参りける。篠村(しのむら)の勢無程集(あつまつ)て、其数(そのかず)既(すで)に二万(にまん)三千(さんぜん)余騎(よき)に成(なり)にけり。六波羅(ろくはら)には是(これ)を聞(きい)て、「さては今度の合戦天下の安否(あんぴ)たるべし。若(もし)自然に打負(うちまく)る事あらば、主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)を取奉(とりたてまつつ)て、関東(くわんとう)へ下向(げかう)し、鎌倉(かまくら)に都を立(たて)て、重(かさね)て大軍を揚(あげ)、凶徒を可追討。」と評定有(あつ)て、去る三月より北方(きたのかた)の館(たち)を御所(ごしよ)にしつらひ、院内(ゐんだい)を行幸成(なし)奉らる。梶井(かぢゐの)二品(にほん)親王(しんわう)は天台(てんだいの)座主(ざす)にて坐(ましませ)ば、縦(たとひ)転反(てんへん)すとも、御身(おんみ)に於ては何の御怖畏(ごふゐ)か可有なれ共(ども)、当今(たうぎん)の御連枝(ごれんし)にて坐(ましませ)ば、且(しばし)は玉体に近付進(ちかづきまゐら)せて、宝祚(はうそ)の長久をも祈(いのり)申さんとにや、是(これ)も同(おなじ)く六波羅(ろくはら)へ入(いら)せ給ふ。加之(しかのみならず)国母(こくぼ)・皇后(くわうぐう)・女院(にようゐん)・北政所(きたのまんどころ)・三台(さんたい)・九卿(きうけい)・槐棘(くわいきよく)・三家(さんか)の臣・文武百司(ぶんぶはくし)の官・並(ならびに)竹園(ちくゑん)門徒の大衆(だいしゆ)・北面(ほくめん)以下(いげ)諸家(しよけ)の侍(さぶらひ)・児(ちご)、女房達(にようばうたち)に至(いたる)まで我(われ)も々(われ)もと参集(まゐりあつまり)ける間、京中は忽(たちまち)にさびかへり、嵐の後(あと)の木葉(このは)の如く、己(おの)が様々(さまざま)散行(ちりゆけ)ば、白河(しらかは)はいつしか昌(さかえ)て、花一時(ひととき)の盛(さかり)を成せり。是(これ)も幾程(いくほど)の夢ならん、移り変る世の在様(ありさま)、今更被驚も理(ことわり)也(なり)。「夫(それ)天子は四海(しかい)を以て為家」といへり。其(その)上(うへ)六波羅(ろくはら)とても都近き所なれば、東洛渭川(とうらくゐせん)の行宮(あんきゆう)、さまで御心(おんこころ)を可被令傷には非ざれども、此(この)君御治天(ごちてん)の後天下遂(つひ)に不穏、剰(あまつさへ)百寮忽(たちまち)に外都(ぐわいと)の塵に交(まじは)りぬれば、是(これ)偏(ひとへ)に帝徳(ていとく)の天に背(そむ)きぬる故(ゆゑ)也(なり)。と、罪一人(いちじん)に帰(き)して主上(しゆしやう)殊に歎(なげき)被思召ければ、常は五更の天に至(いたる)まで、夜(よん)のをとゞにも入(いら)せ給はず、元老(げんらう)智化(ちくわ)の賢臣共(けんしんども)を被召て、只■舜湯武(げうしゆんたうぶ)の旧き迹(あと)をのみ御尋(おんたづね)有(たづねあつ)て、会(かつ)て怪力(くわいりよく)乱神の徒(いたづら)なる事をば不被聞食。卯月(うづき)十六日は、中(なか)の申(さる)なりしか共(ども)、日吉(ひよし)の祭礼もなければ、国津御神(くにつみかみ)も浦さびて、御贄(みにへ)の錦鱗(きんりん)徒(いたづら)に湖水(こすゐ)の浪に撥辣(はつらつ)たり。十七日(じふしちにち)は中の酉(とり)なれども、賀茂の御生所(みあれ)もなければ、一条大路(いちでうのおほぢ)人すみて、車を争ふ所もなし。銀面空(むな)しく塵(ちり)積(つもつ)て、雲珠(うんじゆ)光を失へり。「祭(まつり)は豊年にも不勝、凶年にも不減」とこそいへるに、開闢以来(かいびやくよりこのかた)無闕如両社の祭礼も、此(この)時に始(はじめ)て絶(たえ)ぬれば、神慮も如何と測(はかり)難く、恐有(おそれある)べき事共(ことども)也(なり)。さて官軍(くわんぐん)は五月七日京中に寄(よせ)て、合戦可有と被定ければ、篠村(しのむら)・八幡(やはた)・山崎の先陣の勢(せい)、宵より陣を取寄(とりよせ)て、西は梅津(うめづ)・桂(かつらの)里、南は竹田・伏見に篝(かがり)を焼(たき)、山陽(せんやう)・山陰(せんおん)の両道は已(すで)に如此。又若狭路(わかさぢ)を経(へ)て、高山寺(かうせんじ)の勢共(せいども)鞍馬路(くらまぢ)・高雄(たかを)より寄(よす)るとも聞(きこゆ)也(なり)。今は僅(わづか)に東山道許(とうせんだうばかり)こそ開(ひらき)たれども、山門猶野心(やしん)を含(ふく)める最中(さいちゆう)なれば、勢多(せた)をも指塞(さしふさ)ぎぬらん。篭(こ)の中の鳥、網代(あじろ)の魚(うを)の如くにて、可漏方もなければ、六波羅(ろくはら)の兵共(つはものども)、上(うへ)には勇める気色(きしよく)なれ共(ども)、心は下(した)に仰天(ぎやうてん)せり。彼雲南万里(かのうんなんばんり)の軍(いくさ)、「戸(へべ)に有三丁抽一丁」といへり。況(いはん)や又千葉屋(ちはや)程の小城(こじろ)一(ひとつ)を責(せめ)んとて、諸国の勢(せい)数(かず)を尽(つく)して被向たれ共(ども)、其(その)城未(いまだ)落(おちざる)先(さき)に禍(わざはひ)既(すで)に蕭牆(せうしやう)の中(うち)より出(いで)て、義旗(ぎき)忽(たちまち)に長安の西に近付(ちかづき)ぬ。防がんとするに勢(せい)少なく救はんとするに道塞(ふさが)れり。哀(あは)れ兼(かね)てよりかゝるべしとだに知(しり)たらば、京中の勢(せい)をばさのみすかすまじかりし物をと、両六波羅(りやうろくはら)を始(はじめ)として後悔すれ共(ども)甲斐ぞなき。兼々(かねがね)六波羅(ろくはら)に議(ぎ)しけるは、「今度(こんど)諸方の敵(かたき)牒合(てふじあはせ)て、大勢にて寄(よす)るなれば、平場(ひらば)の合戦許(ばかり)にては叶(かなふ)まじ。要害(えうがい)を構(かまへ)て時々(じじ)馬の足を休め、兵(つはもの)の機(き)を扶(たすけ)て、敵近付(ちかづか)ば、懸出々々(かけいでかけいで)可戦。」とて、六波羅(ろくはら)の館(たち)を中(なか)に篭(こめ)て、河原面(かはらおもて)七八町(しちはちちやう)に堀を深く掘(ほつ)て鴨川を懸入(かけいれ)たれば、昆明池(こんめいち)の春(はる)の水西日(せいじつ)を沈(しづめ)て、■淪(いんりん)たるに不異。残(のこり)三方(さんぱう)には芝築地(しばついぢ)を高く築(つい)て、櫓(やぐら)をかき双(なら)べ、逆木(さかもぎ)を重(しげ)く引(ひい)たれば、城塩州(しろえんしうの)受降城(じゆかうじやう)も角(かく)やと覚へてをびたゝし。誠(まこと)に城の構(かまへ)は、謀(はかりごと)あるに似たれ共(ども)智(ち)は長ぜるに非(あら)ず。「剣閣雖高憑之者蹶。非所以深根固蔕也(なり)。洞庭雖浚負之者北。非所以愛人治国也(なり)。」とかや。今已(すで)に天下二(ふた)つに分れて、安危(あんき)此(この)一挙に懸(かけ)たる合戦なれば、粮(かて)を捨て舟を沈(しづむ)る謀(はかりごと)をこそ致さるべきに、今日より軈(やが)て後足(うしろあし)を蹈(ふん)で纔(わづか)の小城に楯篭(たてこも)らんと、兼(かね)て心をつかはれける、武略の程こそ悲しけれ。
○高氏被篭願書於篠村八幡宮事 S0905
去程(さるほど)に、明(あく)れば五月七日の寅刻(とらのこく)に、足利(あしかが)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)高氏朝臣、二万五千(にまんごせん)余騎(よき)を率(そつ)して、篠村(しのむら)の宿(しゆく)を立(たち)給ふ。夜(よ)未だ深かりければ、閑(しづか)に馬を打(うつ)て、東西を見給ふ処に、篠村の宿の南に当(あたつ)て、陰森(いんしん)たる故柳疎槐(こりうそくわい)の下(もと)に社壇(しやだん)有(あり)と覚(おぼえ)て、焼荒(たきすさみ)たる燎(にはび)の影の風(ほのか)なるに、宜祢(きね)が袖振(ふる)鈴(すず)の音(おと)幽(かすか)に聞へて神さびたり。何(いか)なる社(やしろ)とは知(しら)ねども、戦場に赴く門出(かどで)なればとて、馬より下(おり)て甲(かぶと)を脱(ぬぎ)て、叢祠(ほこら)の前に跪(ひざまつ)き、「今日の合戦無事故、朝敵を退治する擁護(おうご)の力を加へ給へ。」と祈誓(きせい)を凝(こら)してぞ坐(おはし)ける。時に賽(かへりまうし)しける巫(かんなぎ)に、「此社(このやしろは)如何なる神を崇(あがめ)奉りたるぞ。」と問ひ給(たまひ)ければ、「是(これ)は中比(なかごろ)八幡(はちまん)を遷(うつ)し進(まゐ)らせてより以来(このかた)、篠村の新八幡(しんはちまん)と申(まうし)候也(なり)。」とぞ答申(こたへまうし)ける。足利殿(あしかがどの)、「さては当家尊崇(そんそう)の霊神にて御坐(おはしま)しけり。機感(きかん)最(もつと)も相応せり。宜(よろし)きに随(したがつ)て一紙(いつし)の願書(ぐわんじよ)を献(たてまつら)ばや。」と宣ひければ、疋壇妙玄(ひきだのめうげん)、鎧の引合(ひきあはせ)より矢立(やたて)の硯(すずり)を取出して、筆を引(ひか)へて是(これ)を書(かく)。其詞(そのことば)に曰(いはく)敬白祈願事夫以八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)者、聖代前列之宗廟、源家中興之霊神也(なり)。本地内証之月、高懸于十万(じふまん)億土之天、垂迹外融之光、明冠於七千(しちせん)余座之上。触縁雖分化、聿未享非礼之奠、垂慈雖利生、偏期宿正直之頭。偉哉為其徳矣。挙世所以尽誠也(なり)。爰承久以来、当棘累祖之家臣、平氏末裔之辺鄙、恣執四海(しかい)之権柄、横振九代之猛威。剰今遷聖主於西海之浪、困貫頂於南山之雲。悪逆之甚前代未聞。是為朝敵之最。為臣之道不致命乎。又為神敵之先。為天之理不下誅乎。高氏苟見彼積悪、未遑顧匪躬、将以魚肉菲、偏当刀俎之利、義卒勠力、張旅於西南之日、上将軍鳩嶺、下臣軍篠村。共在于瑞籬之影、同出乎擁護之懐。函蓋相応。誅戮何疑。所仰百王鎮護之神約也(なり)。懸勇於石馬之汗。所憑累代帰依之(これによつて)家運也(なり)。寄奇於金鼠之咀。神将与義戦耀霊威。徳風加草而靡敵於千里之外、神光代剣而得勝於一戦(いつせん)之中。丹精有誠、玄鑒莫誤矣。敬白元弘三年五月七日源朝臣高氏敬白とぞ読上(よみあげ)たりける。文章玉を綴(つづつ)て、詞(ことば)明かに理濃(こまやか)なれば、神も定(さだめ)て納受し御坐(おはしま)す覧(らん)と、聞(きく)人皆信(しん)を凝(こら)し、士卒悉(ことごとく)憑(たのみ)を懸奉(かけたてまつり)けり。足利殿(あしかがどの)自(みづから)筆を執(とつ)て判を居(すゑ)給ひ、上差(うはざし)の鏑(かぶら)一筋(ひとすぢ)副(そへ)て、宝殿(はうでん)に被納ければ、舎弟直義(ただよし)朝臣を始(はじめ)として、吉良(きら)・石塔(いしだふ)・仁木(につき)・細川・今河・荒川(あらかは)・高(かう)・上杉、以下相順(あひしたが)ふ人々、我(われ)も々(われ)もと上矢(うはや)一(ひとつ)づゝ献(たてまつ)りける間、其箭(そのや)社壇(しやだん)に充満(みちみち)て、塚(つか)の如くに積挙(つみあげ)たり。夜(よ)既(すで)に明(あけ)ければ前陣進(すすん)で後陣を待(まつ)。大将大江山(おいのやま)の峠を打越給(うちこえたまひ)ける時、山鳩一番(ひとつがひ)飛来(とびきたつ)て白旗(しらはた)の上に翩翻(へんぽん)す。「是(これ)八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の立翔(たちかけつ)て護(まぼ)らせ給ふ験(しるし)也(なり)。此(この)鳩の飛行(とびゆか)んずるに任(まかせ)て可向。」と、被下知ければ、旗差(はたさし)馬を早めて、鳩の迹(あと)に付(つい)て行(ゆく)程に、此(この)鳩閑(しづか)に飛(とん)で、大内(たいだい)の旧迹(きうせき)、神祇官(じんぎくわん)の前なる樗木(あふちのき)にぞ留(とま)りける。官軍(くわんぐん)此奇瑞(このきずゐ)に勇(いさん)で、内野(うちの)を指(さし)て馳向(はせむかひ)ける道すがら、敵五騎十騎旗を巻き甲(かぶと)を脱(ぬい)で降参す。足利殿(あしかがどの)篠村を出給(いでたまひ)し時は、僅(わづか)に二万(にまん)余騎(よき)有(あり)しが、右近馬場(うこんのばば)を過(すぎ)給へば、其(その)勢(せい)五万(ごまん)余騎(よき)に及べり。
○六波羅(ろくはら)攻(ぜめの)事(こと) S0906
去程(さるほど)に六波羅(ろくはら)には、六万(ろくまん)余騎(よき)を三手に分(わけ)て、一手をば神祇官(じんぎくわん)の前に引(ひか)へさせて、足利殿(あしかがどの)を防がせらる。一手をば東寺へ差向(さしむけ)て、赤松を防がせらる。一手をば伏見の上へ向(むけ)て、千種(ちくさ)殿(どの)の被寄竹田・伏見を被支。巳(み)の刻(こく)の始(はじめ)より、大手搦手(からめて)同時に軍(いくさ)始ま(ッ)て、馬煙(むまけぶり)南北に靡(なび)き時(とき)の声天地を響(ひび)かす。内野(うちの)へは陶山(すやま)と河野(かうの)とに宗徒(むねと)の勇士二万(にまん)余騎(よき)を副(そへ)て被向たれば、官軍(くわんぐん)も無左右不懸入、敵も輒(たやすく)不懸出両陣互に支(ささへ)て、只矢軍(やいくさ)に時をぞ移しける。爰(ここ)に官軍(くわんぐん)の中(なか)より、櫨匂(はじにほひ)の鎧に、薄紫の母衣(ほろ)懸(かけ)たる武者(むしや)只一騎、敵の前に馬を懸居(かけすゑ)て、高声(かうじやう)に名乗(なのり)けるは、「其(その)身人数(ひとかず)ならねば、名を知(しる)人よもあらじ。是(これ)は足利殿(あしかがどの)の御内(みうち)に、設楽(しだら)五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)と申(まうす)者也(なり)。六波羅殿(ろくはらどの)の御内(みうち)に、我と思はん人あらば、懸合(かけあひ)て手柄の程をも御覧(ごらん)ぜよ。」と云侭(いふまま)に、三尺(さんじやく)五寸(ごすん)の太刀を抜(ぬき)、甲(かぶと)の真向(まつかう)に差簪(さしかざ)し、誠(まこと)に矢所(やつぼ)少(すくな)く馬を立(たて)て引(ひか)へたり。其勢(そのいきほ)ひ一騎当千とみへたれば、敵御方(みかた)互に軍(いくさ)を止(や)めて見物す。爰(ここ)に六波羅(ろくはら)の勢(せい)の中より年の程五十(ごじふ)計(ばかり)なる老武者の、黒糸(くろいと)の鎧に、五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を)を縮(しめ)て、白栗毛(しらくりげ)の馬に青総懸(あをふさかけ)て乗(のつ)たるが、馬をしづ/゛\と歩(あゆ)ませて、高声(かうじやう)に名乗(なのり)けるは、「其(その)身雖愚蒙、多年奉行(ぶぎやう)の数(かず)に加は(ッ)て、末席(まつせき)を汚(けが)す家なれば、人は定(さだめ)て筆(ふで)とりなんど侮(あなどつ)て、あはぬ敵とぞ思ひ給ふ覧(らん)。雖然我等が先祖をいへば、利仁(としひとの)将軍の氏族(しぞく)として、武略累葉(ぶりやくるゐえふ)の家業(かげふ)也(なり)。今某(それがし)十七代の末孫(ばつそん)に、斎藤伊予(いよの)房(ばう)玄基(げんき)と云(いふ)者也(なり)。今日(けふ)の合戦敵御方(みかた)の安否(あんぴ)なれば、命(いのち)を何の為に可惜。死残(しにのこ)る人あらば、我(わが)忠戦を語(かたつ)て子孫に留(とど)むべし。」と云捨(いひすて)て、互に馬を懸合(かけあは)せ、鎧の袖と々(そで)とを引違(ひきちが)へて、むずと組(くん)でどうど落つ。設楽(しだら)は力勝(まさ)りなれば、上(うへ)に成(なつ)て斎藤が頚を掻く。斎藤は心早(はやき)者なりければ、挙様(あげさま)に設楽(しだら)を三刀(みかたな)刺(さ)す。何(いづ)れも剛(がう)の者なりければ、死して後までも、互に引組(ひつくつ)たる手を不放、共に刀を突立(つきたて)て、同じ枕にこそ臥(ふし)たりけれ。又源氏の陣より、紺(こん)の唐綾威(からあやをどし)の鎧に、鍬形(くはがた)打(うつ)たる甲(かぶと)の緒(を)を縮(し)め、¥¥¥五尺(ごしやく)余(あまり)の太刀を抜(ぬい)て肩に懸(かけ)、敵の前(まへ)半町計(ばかり)に馬を駈寄(かけよせ)て、高声(かうじやう)に名乗(なのり)けるは、「八幡(はちまん)殿(どの)より以来(このかた)、源氏代々(だいだい)の侍(さぶらひ)として、流石(さすが)に名は隠(かくれ)なけれ共(ども)、時に取(とつ)て名を被知ねば、然(しかる)べき敵に逢(あひ)難し。是(これ)は足利殿(あしかがどの)の御内(みうち)に大高(だいかうの)二郎重成(しげなり)と云(いふ)者也(なり)。先日度々(どど)の合戦に高名したりと聞ゆる陶山(すやま)備中(びつちゆうの)守(かみ)・河野対馬(つしまの)守(かみ)はおはせぬか、出合(いであひ)給へ。打物(うちもの)して人に見物せさせん。」と云侭(いふまま)に、手縄(たづな)かいくり、馬に白沫(しらあわ)嚼(かま)せて引(ひか)へたり。陶山(すやま)は東寺(とうじ)の軍(いくさ)強しとて、俄(にはか)に八条へ向ひたりければ此(この)陣にはなし。河野対馬(つしまの)守(かみ)許(ばかり)一陣に進(すすん)で有(あり)けるが、大高(たいかう)に詞(ことば)を被懸て、元来(もとより)たまらぬ懸武者(かけむしや)なれば、なじかは少しもためらうべき、「通治(みちはる)是(これ)に有(あり)。」と云侭(いふまま)に、大高(だいかう)に組(くま)んと相近付(あひちちかづ)く。是(これ)を見て河野対馬(つしまの)守(かみ)が猶子(いうし)に、七郎通遠(みちとほ)とて今年十六(じふろく)に成(なり)ける若武者(わかむしや)、父を討(うた)せじとや思(おもひ)けん、真前(まつさき)に馳塞(はせふさがつ)て、大高(たいかう)に押双(おしならべ)てむずと組(くむ)。大高・河野七郎が総角(あげまき)を掴(つかん)で中(ちゆう)に提(ひつさ)げ、「己(おの)れ程の小者(こもの)と組(くん)で勝負はすまじきぞ。」とて、差(さし)のけて鎧の笠符(かさじるし)をみるに、其文(そのもん)、傍折敷(そばをしき)に三文字を書(かい)て着(つけ)たりけり。さては是(これ)も河野が子か甥(をひ)歟(か)にてぞ有(ある)らんと打見(うちみ)て、片手打(かたてうち)の下切(さげきり)に諸膝(もろひざ)不懸切て落し、弓(ゆん)だけ三杖(みつゑ)許(ばかり)投(なげ)たりける。対馬(つしまの)守(かみ)最愛(さいあい)の猶子(いうし)を目の前に討(うた)せて、なじかは命を可惜、大高(たいかう)に組(くま)んと諸鐙(もろあぶみ)を合(あはせ)て馳懸(はせかか)る処に、河野が郎等共(らうどうども)是(これ)を見て、主(しゆ)を討(うた)せじと三百(さんびやく)余騎(よき)にてをめゐて懸る。源氏又大高を討(うた)せじと、一千(いつせん)余騎(よき)にて喚(をめい)て懸る。源平互に入乱(いりみだれ)て黒煙(くろけぶり)を立(たて)て責(せめ)戦ふ。官軍(くわんぐん)多(おほく)討(うた)れて内野(うちの)へはつと引(ひく)。源氏荒手(あらて)を入替(いれかへ)て戦ふに、六波羅勢(ろくはらぜい)若干(そくばく)討れて河原(かはら)へさつと引(ひけ)ば、平氏荒手を入替(いれかへ)て、此(ここ)を先途(せんど)と戦ふ。一条・二条(にでう)を東西へ、追(おつ)つ返(かへし)つ七八度が程ぞ揉合(もみあ)ひたる。源平両陣諸共(もろとも)に、互に命(いのち)を惜(をし)まねば、剛臆(がうおく)何(いづ)れとは見へざりけれ共(ども)、源氏は大勢なれば、平氏遂に打負(うちまけ)て、六波羅(ろくはら)を指(さし)て引退(ひきしりぞ)く。東寺へは、赤松入道円心、三千(さんぜん)余騎(よき)にて寄懸(よせかけ)たり。楼門(ろうもん)近く成(なり)ければ、信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)、鐙(あぶみ)踏張(ふんばり)左右を顧(かへりみ)て、「誰かある、あの木戸、逆木(さかもぎ)、引破(ひきやぶつ)て捨(すて)よ。」と下知(げぢ)しければ、宇野(うの)・柏原(かしはばら)・佐用(さよ)・真島(ましま)の早(はや)り雄(を)の若者共(わかものども)三百(さんびやく)余騎(よき)、馬を乗捨(のりすて)て走り寄り、城の構(かまへ)を見渡せば、西は羅城門(らしやうもん)の礎(いしずゑ)より、東は八条河原(はつでうがはら)辺(へん)まで、五六八九寸の琵琶(びは)の甲(かふ)、安郡(やすのこほり)なんどを鐫貫(ゑりぬい)て、したゝかに屏(へい)を塗(ぬり)、前には乱杭(らんぐひ)・逆木(さかもぎ)を引懸(ひつかけ)て、広さ三丈余(あまり)に堀をほり、流水(りうすゐ)をせき入たり。飛漬(とびひた)らんとすれば、水の深さの程を不知。渡らんとすれば橋を引(ひき)たり。如何(いかが)せんと案煩(あんじわずら)ひたる処に、播磨の国の住人(ぢゆうにん)妻鹿(めがの)孫三郎(まごさぶらう)長宗(ながむね)馬より飛(とん)で下(おり)、弓を差(さし)をろして、水の深さを探るに、末弭(うらはず)僅(わづか)に残りたり。さては我長(わがたけ)は立(たた)んずる物を、と思ひければ、五尺(ごしやく)三寸(さんずん)の太刀を抜(ぬい)て肩に掛(かけ)、貫脱(つらぬきぬい)で抛(なげ)すて、かつはと飛漬(とびひた)りたれば、水は胸板(むないた)の上へも不揚、跡(あと)に続(つづ)ひたる武部(たけべの)七郎是(これ)を見て、「堀は浅かりけるぞ。」とて、長(たけ)五尺(ごしやく)許(ばかり)なる小男(こをとこ)が、無是非飛入(とびいり)たれば、水は甲(かぶと)をぞ越(こえ)たりける。長宗(ながむね)きつと見返(みかへつ)て、「我総角(わがあげまき)に取着(とりつい)てあがれ。」と云(いひ)ければ、武部(たけべの)七郎、妻鹿(めが)が鎧の上帯(うはおび)を蹈(ふん)で肩に乗揚(のりあが)り、一刎(ひとはね)刎(はね)て向(むかひ)の岸にぞ着(つき)ける。妻鹿(めが)から/\と笑(わらつ)て、「御辺(ごへん)は我を橋にして渡(わたり)たるや。いで其屏(そのへい)引破(ひきやぶつ)て捨(すて)ん。」と云侭(いふまま)に、岸より上へづんど刎揚(はねあが)り、屏柱(へいばしら)の四五寸(しごすん)余(あまり)て見へたるに手を懸(かけ)、ゑいや/\と引(ひく)に一二丈掘挙(ほりあ)げて、山の如くなる揚土(あげつち)、壁(かべ)と共に崩れて、堀は平地に成(なり)にけり。是(これ)を見て、築垣(ついがき)の上に三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)掻双(かきなら)べたる櫓(やぐら)より、指攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)射ける矢、雨の降(ふる)よりも猶滋(しげ)し。長宗(ながむね)が鎧の菱縫(ひしぬひ)、甲(かぶと)の吹返(ふきかへし)に立(たつ)所の矢、少々折懸(をりかけ)て、高櫓(たかやぐら)の下へつ走入(はしりい)り、両金剛(こんがう)の前に太刀を倒(さかさま)につき、上咀(うはぐひ)して立(たち)たるは、何(いづ)れを二王、何れを孫三郎(まごさぶらう)とも分兼(わけかね)たり。東寺(とうじ)・西八条・針(はり)・唐橋(からはし)に引(ひか)へたる、六波羅(ろくはら)の兵(つはもの)一万余騎(よき)、木戸口の合戦強(つよ)しと騒(さわい)で、皆一手に成(なり)、東寺の東門(とうもん)の脇より、湿雲(しふうん)の雨を帯(おび)て、暮山(ぼざん)を出(いで)たるが如(ごとく)、ましくらに打(うつ)て出(いで)たり。妻鹿(めが)も武部(たけべ)もすはや被討ぬと見へければ、佐用(さよ)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・得平(とくひらの)源太・別所(べつしよの)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・同(おなじき)五郎左衛門(ごらうざゑもん)相懸(あひがか)りに懸(かかり)て面(おもて)も不振戦ふたり。「あれ討(うた)すな殿原(とのばら)。」とて、赤松入道円心(ゑんしん)、嫡子(ちやくし)信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)・次男筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)・三男律師(りつし)則祐(そくいう)・真島(まじま)・上月(かうづき)・菅家(くわんけ)・衣笠(きぬがさ)の兵三千(さんぜん)余騎(よき)抜連(ぬきつれ)てぞ懸りける。六波羅(ろくはら)の勢一万余騎(よき)、七縦八横(しちじゆうはちわう)に被破て、七条河原(しちでうがはら)へ被追出。一陣破(やぶれ)て残党(ざんたう)全(まつた)からざれば、六波羅(ろくはら)の勢(せい)竹田(たけだ)の合戦にも打負(うちまけ)、木幡(こはた)・伏見の軍(いくさ)にも負(まけ)て、落行(おちゆく)勢(せい)散々(ちりぢり)に、六波羅(ろくはら)の城へ逃篭(にげこも)る。勝(かつ)に乗(のつ)て逃(にぐる)を追ふ四方(しはう)の寄手(よせて)五万(ごまん)余騎(よき)、皆一所(いつしよ)に寄(よせ)て、五条の橋爪(はしづめ)より七条河原(しちでうがはら)まで、六波羅(ろくはら)を囲(かこみ)ぬる事幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数(かず)を不知。されども東一方をば態(わざと)被開たり。是(これ)は敵の心を一(ひとつ)になさで、輒(たやす)く責落(せめおと)さん為の謀(はかりごと)也(なり)。千種頭(ちぐさのとうの)中将(ちゆうじやう)忠顕(ただあき)朝臣、士卒に向(むかつ)て被下知けるは、「此(この)城尋常(よのつね)の思(おもひ)を成(なし)て延々(のびのび)に責(せめ)ば、千葉屋(ちはや)の寄手(よせて)彼(かしこ)を捨(すて)て、此後攻(ここのうしろづめ)を仕(し)つと覚(おぼゆ)るぞ。諸卒(しよそつ)心を一(ひとつ)にして一時(いちじ)が間に可責落。」と被下知ければ、出雲・伯耆(はうき)の兵共(つはものども)、雑車(ざふぐるま)二三百(にさんびやく)両取集(とりあつめ)て、轅(ながえ)と々(ながえ)とを結合(ゆひあは)せ、其(その)上(うへ)に家を壊(こぼつ)て山の如くに積挙(つみあげ)て、櫓(やぐら)の下へ指寄(さしよせ)、一方の木戸を焼破(やきやぶり)けり。爰(ここ)に梶井(かぢゐの)宮(みや)の御門徒(ごもんと)、上林房(じやうりんばう)・勝行房(しようぎやうばう)の同宿共(どうじゆくども)、混甲(ひたかぶと)にて三百(さんびやく)余人(よにん)、地蔵堂の北の門より、五条の橋爪(はしづめ)へ打(うつ)て出(いで)たりける間、坊門(ばうもんの)少将、殿(とのの)法印の兵共(つはものども)三千(さんぜん)余騎(よき)、僅(わづか)の勢(せい)にまくり立(たて)られて、河原(かはら)三町を追越(おつこさ)る。されども山徒(さんと)さすがに小勢(こぜい)なれば、長追(ながおひ)しては悪(あし)かりなんとて、又城の中へ引篭(ひきこも)る。六波羅(ろくはら)に楯篭(たてこも)る所の軍勢雖少と、其(その)数五万騎に余れり。此(この)時若(もし)志を一(ひとつ)にして、同時に懸出(かけいで)たらましかば、引立(ひきたつ)たる寄手共(よせてども)、足をためじとみへしか共(ども)、武家可亡運の極(きわ)めにや有(あり)けん、日来(ひごろ)名を顕(あらは)せし剛(がう)の者といへ共(ども)不勇、無双(ぶさうの)強弓精兵(つよゆみせいびやう)と被云者も弓を不引して、只あきれたる許(ばかり)にて、此彼(ここかしこ)に村立(むらたつ)て、落支度(おちじたく)の外(ほか)は儀勢(ぎせい)もなし。名を惜(をし)み家を重(おもん)ずる武士共(ぶしども)だにも如此。何況(いかにいはんや)主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)を始進(はじめまゐ)らせて、女院(にようゐん)・皇后(くわうごう)・北政所(きたのまんどころ)・月卿(げつけい)・雲客(うんかく)・児(ちご)・女童(をんなわらは)・女房達(にようばうたち)に至るまで、軍(いくさ)と云(いふ)事(こと)は未だ目にも見玉(たま)はぬ事なれば、時(とき)の声矢叫(やさけび)の音(おと)に懼(おぢ)をのゝかせ給ひて、「こは如何(いかが)すべき。」と、消入計(きえいるばかり)の御気色(おんきしよく)なれば、げにも理(ことわり)也(なり)。と御痛敷(おんいたはしき)様(さま)を見進(まゐ)らするに就(つけ)ても、両六波羅(りやうろくはら)弥(いよいよ)気を失(うしなつ)て、惘然(ばうぜん)の体(てい)也(なり)。今まで無弐者とみへつる兵なれども、加様(かやう)に城中の色めきたる様(さま)を見て、叶はじとや思ひけん、夜に入(いり)ければ、木戸を開(ひらき)逆木(さかもぎ)を越(こえ)て、我れ先にと落行(おちゆき)けり。義を知(しり)命を軽(かろん)じて残留(のこりとどま)る兵(つはもの)、僅(わづか)に千騎(せんぎ)にも不足見へにけり。
○主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)御沈落(ごちんらくの)事(こと) S0907
爰(ここ)に糟谷(かすや)三郎宗秋(むねあき)、六波羅殿(ろくはらどの)の前に参(まゐつ)て申(まうし)けるは、「御方(みかた)の御勢(おんぜい)次第に落(おち)て、今は千騎(せんぎ)にたらぬ程に成(なつ)て候。此(この)御勢にて大敵を防がん事は叶はじとこそ覚へ候へ。東(ひがし)一方(いつぱう)をば敵未だ取(とり)まはし候はねば、主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)を奉取て、関東(くわんとう)へ御下候(くだりさふらふ)て後(のち)、重(かさね)て大勢を以て、京都を被責候へかし。佐々木(ささきの)判官時信(ときのぶ)、勢多(せた)の橋を警固して候を被召具ば、御勢も不足(ふそく)候まじ。時信(ときのぶ)御伴(おんとも)仕る程ならば、近江(あふみの)国(くに)に於ては手差(てさす)者は候まじ。美濃(みの)・尾張(をはり)・三河・遠江(とほたふみ)には御敵(おんてき)有(あり)とも承(うけたまは)らねば、路次(ろし)は定(さだめ)て無為(ぶゐ)にぞ候はんずらん。鎌倉(かまくら)に御着候(つきさふらひ)なば、逆徒(ぎやくと)の退治(たいぢ)踵(くびす)を不可回、先(まづ)思召立(おぼしめしたち)候へかし。是程(これほど)にあさまなる平城(ひらじやう)に、主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)を篭進(こめまゐ)らせて、名将匹夫(ひつぷ)の鋒(きつさき)に名を失はせ給はん事(こと)、口惜(くちをし)かるべき事に候はずや。」と、再三強(しひ)て申(まうし)ければ、両六波羅(りやうろくはら)げにもとや被思けん、「さらば先(まづ)、女院(にようゐん)・皇后・北政所(きたのまんどころ)を始進(はじめまゐら)せて、面々(めんめん)の女性(によしやう)少(をさな)き人々を、忍びやかに落して後(のち)、心閑(しづか)に一方を打破(うちやぶつ)て落(おつ)べし。」と評定(ひやうぢやう)有(あつ)て、小串(こぐし)五郎兵衛(ごらうびやうゑの)尉(じよう)を以て、此(この)由院(ゐん)・内(だい)へ被申たりければ、国母(こくぼ)・皇后・女院(にようゐん)・北政所(きたのまんどころ)・内侍(ないし)・上童(うへわらは)・上臈(じやうらふ)女房達(にようばうたち)に至(いたる)まで、城中に篭(こも)りたるが恐(おそろし)さに、思はぬ別(わかれ)の悲しさも、後(のち)何(いか)に成行(なりゆか)んずる様(やう)をも不知。歩跣(かちはだし)にて我先(われさき)にと迷出(まよひいで)給ふ。只金谷園裡(きんこくゑんり)の春(はる)の花、一朝(いつてう)の嵐に被誘て、四方(しはう)の霞に散行(ちりゆき)し、昔の夢に不異。越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)北(きた)の方(かた)に向(むかつ)て宣ひけるは、「日来(ひごろ)の間は、縦(たとひ)思の外(ほか)に都を去(さる)事(こと)有(あり)共、何(いづ)くまでも伴(ともな)ひ申さんとこそ思ひつれ共(ども)、敵東西に満(みち)て、道を塞(ふさ)ぎぬと聞ゆれば、心安く関東(くわんとう)まで落延(おちのび)ぬとも不覚(おぼえず)。御事(おこと)は女性(にやしやう)の身なれば苦しかるまじ。松寿(まつじゆ)は未(いまだ)幼稚なれば、敵設(たとひ)見付(みつけ)たりとも誰(た)が子共(とも)よもしらじ。只今の程に、夜(よ)に紛(まぎ)れて何方(いづかた)へも忍出給(しのびいでたまひ)て、片辺土(かたへんど)の方にも身を隠し、暫(しばら)く世の静まらん程を待(まち)給ふべし。道の程事故(ことゆゑ)なく関東(くわんとう)に着(つき)なば、頓(やが)て御迎(むかひ)に人を可進す。若(もし)又我等道にて被討ぬと聞(きき)給はゞ、如何なる人にも相馴(あひなれ)て、松寿(まつじゆ)を人と成し、心付(つき)なば僧に成して、我後世(わがごせ)を問(とは)せ給へ。」と心細げに云置(いひおい)て、泪(なみだ)を流(ながし)て立(たち)給ふ。北(きた)の方(かた)、越後(ゑちごの)守(かみ)の鎧の袖を引(ひか)へて、「などや角(かく)うたてしき言葉(ことのは)に聞へ侍(はんべ)るぞや。此折節(このをりふし)少(をさな)き者なんど引具(ひきぐ)して、しらぬ傍(あたり)にやすらはゞ、誰か落人(おちうど)の其方様(そのかたさま)と思はざらん。又日比(ひごろ)より知(しつ)たる人の傍(あたり)に立宿(たちやど)らば、敵に捜し被出て、我(わが)身の恥を見(みる)のみにあらず、少(をさな)き者の命をさへ失はん事こそ悲しけれ。道にて思(おもひ)の外(ほか)の事あらば、そこにてこそ共に兎(と)も角(かく)も成(なり)はてめ。憑(たの)む陰(かげ)なき木(こ)の下(もと)に、世を秋風の露の間(ま)も、被棄置進(まゐ)らせては、ながらうべき心地(ここち)もせず。」と、泣悲(なきかなし)み給(たまひ)ければ、越後(ゑちごの)守(かみ)も心は猛(たけ)しといへども、流石(さすが)に岩木(いはき)の身ならねば、慕ふ別(わかれ)を捨兼(すてかね)て、遥(はるか)に時をぞ移されける。昔漢(かん)の高祖(かうそ)と楚(そ)の項羽(かうう)と戦ふ事七十(しちじふ)余度(よど)也(なり)。しに、項羽(かうう)遂に高祖(かうそ)に被囲て、夜(よ)明(あけ)ば討死せんとせし時に、漢の兵四面(しめん)にして皆楚歌(そか)するを聞(きい)て、項羽(かうう)則(すなはち)帳中(ちやうちゆう)に入り、其婦人(そのふじん)虞氏(ぐし)に向(むかつ)て、別(わかれ)を慕(した)ひ悲(かなし)みを含んで、自(みづから)歌(うたを)作(つくつ)て云(いはく)、力抜山兮気蓋世。時不利兮騅不逝。々々々可奈何。虞氏兮々々々奈若何。と悲歌慷慨(ひかかうがい)して、項羽(かうう)泪(なみだ)を流し給(たまひ)しかば、虞氏悲(かなし)みに堪兼(たへかね)て、則(すなはち)自(みづから)剣(けん)の上に伏(ふ)し、項羽(かうう)に先立(さきだつ)て死にけり。項羽(かうう)明(あく)る日の戦(たたかひ)に、二十八騎を伴(ともなひ)て、漢の軍(ぐん)四十万騎(しじふまんぎ)を懸破(かけやぶ)り、自(みづから)漢の将軍三人(さんにん)が首(くび)を取(とつ)て、被討残たる兵に向(むかつ)て、「我(われ)遂(つひ)に漢の高祖(かうそ)が為に被亡ぬる事戦の罪に非(あら)ず、天我を亡(ほろぼ)せり。」と、自(みづから)運を計(はかつ)て遂に烏江(をうがう)の辺(へん)にして自害したりしも、角(かく)やと被思知て泪を落さぬ武士(ぶし)はなし。南方(みなみのかた)左近(さこんの)将監(しやうげん)時益(ときます)は、行幸(ぎやうがう)の御前(おんさき)を仕(つかまつつ)て打(うち)けるが、馬に乍乗北方(きたのかた)越後(ゑちごの)守(かみ)の中門(ちゆうもんの)際(きは)まで打寄せて、「主上(しゆしやう)早(はや)寮の御馬(おんむま)に被召て候に、などや長々敷(ながながしく)打立(うちたた)せ給はぬぞ。」と云捨(いひすて)て打出(うちいで)ければ、仲時(なかとき)無力鎧の袖に取着(とりつき)たる北(きた)の方(かた)少(をさな)き人を引放(ひきはな)して、縁(えん)より馬に打乗り、北の門を東へ打出(うちいで)給へば、被捨置人々、泣々(なくなく)左右へ別(わかれ)て、東の門より迷出(まよひいで)給ふ。行々(ゆくゆく)泣悲(なきかなし)む声遥(はるか)に耳に留(とどまつ)て、離れもやらぬ悲(かなし)さに、落行(おちゆく)前(さき)の路暮(くれ)て、馬に任(まかせ)て歩(あゆま)せ行(ゆく)。是(これ)を限(かぎり)の別(わかれ)とは互に知(しら)ぬぞ哀(あはれ)なる。十四五町(じふしごちやう)打延(うちのび)て跡(あと)を顧(かへりみ)れば、早(はや)両六波羅(りやうろくはら)の館(たち)に火懸(かかり)て、一片(いつぺん)の煙(けむり)と焼揚(やきあげ)たり。五月闇(さつきやみ)の比(ころ)なれば、前後も不見暗きに、苦集滅道(くずめぢ)の辺(へん)に野伏(のぶし)充満(みちみち)て、十方より射ける矢に、左近(さこんの)将監(しやうげん)時益(ときます)は、頚(くび)の骨を被射て、馬より倒(さかさま)に落(おち)ぬ。糟谷(かすや)七郎馬より下(おり)て、其(その)矢を抜(ぬけ)ば、忽(たちまち)に息止(とどまり)にけり。敵何(いづ)くに有(あり)とも知(しら)ねば、馳合(はせあはせ)て敵を可討様(やう)もなし。又忍(しのび)て落(おつ)る道なれば、傍輩(はうばい)に知(しら)せて可返合にてもなし。只同じ枕に自害(じがい)して、後世までも主従(しゆうじゆう)の義を重(おもん)ずるより外(ほか)の事はあらじと思(おもひ)ければ、糟谷(かすや)泣々(なくなく)主(しゆう)の頚を取(とつ)て錦の直垂(ひたたれ)の袖に裹(つつ)み、道の傍(かたはら)の田の中に深く隠して則(すなはち)腹掻切(かききつ)て主の死骸(しがい)の上に重(かさなつ)て、抱着(いだきつい)てぞ伏(ふし)たりける。竜駕(りようが)遥(はるか)に四宮(しのみや)河原(かはら)を過(すぎ)させ給ふ処に、「落人(おちうど)の通るぞ、打留(うちとめ)て物具(もののぐ)剥(はげ)。」と呼(よばはる)声前後(ぜんご)に聞へて、矢を射る事雨の降(ふる)が如し。角(かく)ては行末(ゆくすゑ)とても如何(いかが)有(ある)べきとて、東宮を始進(はじめまゐ)らせて供奉(ぐぶ)の卿相雲客(けいしやううんかく)、方々(はうばう)へ落散給(おちちりたまひ)ける程に、今は僅(わづか)に日野(ひの)大納言資名(すけな)・勧修寺(くわんしゆじ)中納言経顕(つねあき)・綾小路(あやのこうぢ)中納言重資(しげすけ)・禅林寺宰相(さいしやう)有光許(ありみつばかり)ぞ竜駕の前後には被供奉ける。都を一片(いつぺん)の暁(あかつき)の雲に阻(へだて)て、思(おもひ)を万里の東(あづま)の道に傾(かたむけ)させ給へば、剣閣(けんかく)の遠き昔も被思召合、寿水の乱れたりし世も、角(かく)こそと叡襟(えいきん)を悩(なやま)し玉ひ、主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)も御涙(おんなみだ)更にせきあへず。五月(さつき)の短夜(みじかよ)明(あけ)やらで、関(せき)の此方(こなた)も闇(くら)ければ、杉の木陰(こかげ)に駒を駐(とどめ)て、暫(しばらく)やすらはせ給ふ処に、何(いづ)くより射る共(とも)知らぬ流矢(ながれや)、主上(しゆしやう)の左の御肱(おんひぢ)に立(たち)にけり。陶山(すやま)備中(びつちゆうの)守(かみ)急ぎ馬より飛下(とびおり)て、矢を抜(ぬい)て御疵(きず)を吸(すふ)に、流るゝ血(ち)雪(ゆき)の御膚(おんはだへ)を染(そめ)て、見進(まゐ)らするに目もあてられず。忝(かたじけなく)も万乗(ばんじよう)の主(あるじ)、卑(いやしき)匹夫(ひつぷ)の矢前(やさき)に被傷て、神竜(しんりよう)忽(たちまち)に釣者(てうしや)の網(あみ)にかゝれる事(こと)、浅猿(あさまし)かりし世中(よのなか)也(なり)。去程(さるほど)に篠目(しののめ)漸(やうやく)明初(あけそめ)て、朝霧(あさぎり)僅(わづか)に残れるに、北なる山を見渡せば、野伏共(のぶしども)と覚(おぼえ)て、五六百人(ごろつぴやくにん)が程、楯をつき鏃(やじり)を支(ささへ)て待懸(まちかけ)たり。是(これ)を見て面々(めんめん)度(ど)を失(うしなつ)てあきれたり。爰(ここ)に備前(びぜんの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)中吉(なかぎりの)弥八、行幸の御前(おんまへ)に候(さふらひ)けるが、敵近く馬を懸寄(かけよせ)て、「忝(かたじけなく)も一天(いつてん)の君、関東(くわんとう)へ臨幸成(りんかうなる)処に、何者なれば加様(かやう)の狼籍(らうぜき)をば仕るぞ。心ある者ならば、弓を伏せ甲(かぶと)を脱(ぬい)で、可奉通。礼儀を知(しら)ぬ奴原(やつばら)ならば、一々に召捕(めしとつ)て、頚切懸(きりかけ)て可通。」と云(いひ)ければ、野伏共(のぶしども)から/\と笑(わらう)て、「如何なる一天(いつてん)の君にても渡らせ給へ、御運(ごうん)已(すで)に尽(つき)て、落(おち)させ給はんずるを、通し進(まゐ)らせんとは申(まうす)まじ。輒(たやす)く通(とほ)り度(たく)思食(おぼしめ)さば、御伴(おんとも)の武士(ぶし)の馬物具(もののぐ)を皆捨(すて)させて、御心(おんこころ)安く落(おち)させ給へ。」と云(いひ)もはてず、同音(どうおん)に時(とき)をどつど作る。中吉(なかぎりの)弥八是(これ)を聞(きい)て、「悪(にく)ひ奴原(やつばら)が振舞(ふるまひ)哉(かな)。いでほしがる物具(もののぐ)とらせん。」と云侭(いふまま)に、若党(わかたう)六騎馬の鼻を双(なら)べて懸(かけ)たりけるに、慾心熾盛(よくしんしじやう)の野伏共(のぶしども)、六騎の兵に被懸立て、蛛(くも)の子を散(ちら)す如く、四角八方へぞ逃散(にげちり)ける。六騎の兵、六方へ分(わかれ)て、逃(にぐ)るを追(おふ)事(こと)各数(す)十町(じつちよう)也(なり)。弥八余(あまり)に長追(ながおひ)したりける程に、野伏二十(にじふ)余人(よにん)返合(かへしあはせ)て、是(これ)を中(なか)に取篭(とりこむ)る。然共(しかれども)弥八少(すこし)もひるまず、其(その)中の棟梁(とうりやう)と見へたる敵に、馳並(はせなら)べてむずと組(くみ)、馬二疋が間(あひだ)へどうど落(おち)て、四五丈許(ばかり)高き片岸(かたきし)の上より、上に成(なり)下に成(なり)ころびけるが、共に組(くみ)も放れずして深田(ふかた)の中へころび落(おち)にけり。中吉(なかぎり)下に成(なり)てければ、挙様(あげざま)に一刀(ひとかたな)さゝんとて、腰刀(こしがたな)を捜(さぐ)りけるにころぶ時抜(ぬけ)てや失(うせ)たりけん、鞘許(さやばかり)有(あつ)て刀はなし。上なる敵、中吉(なかぎり)が胸板(むないた)の上に乗懸(のつかかつ)て、鬢(びん)の髪を掴(つかん)で、頚を掻(かか)んとしける処に、中吉刀加(かたなぐは)へに、敵の小腕(こうで)を丁(ちやう)と掬(にぎ)りすくめて、「暫く聞(きき)給へ、可申事あり。御辺(ごへん)今は我をな恐(おそれ)給ふそ、刀があらばこそ、刎返(はねかへ)して勝負をもせめ。又続く御方(みかた)なければ、落重(おちかさなつ)て我を助(たすく)る人もあらじ。されば御辺(ごへん)の手に懸(かけ)て、頚を取(とつ)て被出さたりとも、曾(かつて)実検にも及(およぶ)まじ、高名(かうみやう)にも成(なる)まじ。我は六波羅殿(ろくはらどの)の御雑色(おんざふしき)に、六郎太郎と云(いふ)者にて候へば、見知(みしり)ぬ人は候まじ。無用の下部(しもべ)の頚取(とつ)て罪を作り給はんよりは、我(わが)命を助(たすけ)てたび候へ、其悦(そのよろこび)には六波羅殿(ろくはらどの)の銭を隠くして、六千貫被埋たる所を知(しつ)て候へば、手引申(てびきまうし)て御辺(ごへん)に所得(しよとく)せさせ奉(たてまつら)ん。」と云(いひ)ければ、誠とや思(おもひ)けん、抜(ぬい)たる刀を鞘(さや)にさし、下(した)なる中吉(なかぎり)を引起(ひきおこ)して、命を助(たすく)るのみならず様々(さまざま)の引出物(ひきでもの)をし、酒なんどを勧(すすめ)て、京へ連(つれ)て上(のぼ)りたれば、弥八六波羅(ろくはら)の焼跡(やけあと)へ行(ゆき)、「正(まさ)しく此(ここ)に被埋たりし物を、早(はや)人が掘(ほつ)て取(とり)たりけるぞや。徳(とく)着(つ)け奉(たてまつら)んと思(おもう)たれば、耳のびくが薄く坐(おは)しけり。」と欺(あざむい)て、空笑(そらわらひ)してこそ返しけれ。中吉が謀(はかりごと)に道開(ひら)けて、主上(しゆしやう)其(その)日は篠原(しのはら)の宿(しゆく)に着(つか)せ給ふ。此(ここ)にて怪しげなる網代輿(あじろのこし)を尋出(たづねいだし)て、歩立(かちだち)なる武者共(むしやども)俄に駕輿丁(かよちやう)の如くに成(なつ)て、御輿(おんこし)の前後をぞ仕りける。天台座主(てんだいのざす)梶井(かぢゐの)二品親王(にほんしんわう)は、是(これ)まで御供申させ給ひたりけるが、行末(ゆくすゑ)とても道の程(ほど)心安く可過共覚(おぼえ)させ給はねば、何(いづ)くにも暫(しば)し立忍(たちしの)ばゞやと思召(おぼしめし)て、「御門徒(ごもんと)に誰か候(さぶらふ)。」と御尋(おんたづね)有(たづねあり)けれ共(ども)、「去(さん)ぬる夜(よ)の路次(ろし)の合戦に、或(あるひ)は疵(きず)を蒙(かうむつ)て留(とどま)り、或(あるひ)は心替(こころがはり)して落(おち)けるにや。中納言僧都(そうづ)経超(きやうてう)、二位(にゐの)寺主(てらじ)浄勝(じやうしよう)二人(ににん)より外(ほか)は供奉(ぐぶ)仕りたる出世(しゆつせ)・坊官(ばうくわん)一人も候はず。」と申(まうし)ければ、さては殊更(ことさら)長途(ちやうど)の逆旅(げきりよ)叶ふまじとて、是(これ)より引別(ひきわかれ)て、伊勢の方へぞ赴かせ給(たまひ)ける。さらでだに山立(やまだち)多き鈴鹿(すずか)山を、飼(かひ)たる馬に白鞍(しろくら)置(おい)て被召たらんは、中々(なかなか)道の可為讎とて、御馬(おんむま)を皆宿(やど)の主(ある)じに賜(たまう)て、門主(もんじゆ)は長々(ながなが)と蹴垂(けたれ)たる長絹(ちやうけん)の御衣(おんころも)に、檳榔(びんらう)の裏無(うらなし)を被召、経超(きやうてう)僧都は、袙重(あこめがさ)ねたる黒衣(こくえ)に、水精(すゐしやう)の念珠(ねんじゆ)手に持(もつ)て、歩兼(あゆみかね)たる有様、如何なる人も是(これ)を見て、すはや是(これ)こそ落人(おちうど)よと、思はぬ者は不可有。され共(ども)山王大師(さんわうたいし)の御加護(おんかご)にや依(より)けん、道に行逢(ゆきあひ)奉る山路(やまぢ)の樵(きこり)、野径(やけい)の蘇(くさかり)、御手(おんて)を引(ひき)御腰(おんこし)を推(おし)て、鈴鹿(すずか)山を越(こし)奉る。さて伊勢の神官(しんくわん)なる人を、平(ひら)に御憑(おんたのみ)有(あつ)て御坐(おはしま)しけるに、神官(しんくわん)心有(あつ)て身の難に可遇をも不顧、兎角(とかく)隠置進(かくしおきまゐら)せければ、是(ここ)に三十(さんじふ)余日(よにち)御忍(おんしのび)有(あつ)て、京都少し静(しづま)りしかば還御成(くわんぎよなつ)て、三四年が間は、白毫院(びやくがうゐん)と云(いふ)処に、御遁世(ごとんせい)の体(てい)にてぞ御坐(ござ)有(あり)ける。
○越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)已下(いげ)自害(じがいの)事(こと) S0908
去程(さるほど)に、両六波羅(りやうろくはら)京都の合戦に打負(うちまけ)て、関東(くわんとう)へ被落由披露有(ひろうあり)ければ、安宅(あたか)・篠原(しのはら)・日夏(ひなつ)・老曾(おいそ)・愛智川(えちかは)・小野(をの)・四十九院(しじふくゐん)・摺針(すりはり)・番場(ばんば)・醒井(さめがゐ)・柏原(かしはばら)、其外(そのほか)伊吹山(いぶきやま)の麓、鈴鹿河(すずかがは)の辺(へん)の山立(やまだち)・強盜(がうだう)・溢者共(あふれものども)二三千人(にさんぜんにん)、一夜(いちや)の程に馳集(はせあつまつ)て、先帝(せんてい)第五の宮(みや)御遁世(ごとんせい)の体(てい)にて、伊吹(いぶき)の麓に忍(しのん)で御坐(ござ)有(あり)けるを、大将に取奉(とりたてまつつ)て、錦の御旗(おんはた)を差挙(さしあ)げ、東山道(とうせんだう)第一(だいいち)の難所(なんじよ)、番馬(ばんば)の宿(しゆく)の東なる、小山(こやま)の峯に取上(とりのぼ)り、岸の下(した)なる細道(ほそみち)を中(なか)に夾(はさ)みて待懸(まちかけ)たり。夜(よ)明(あけ)ければ越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)、篠原(しのはら)の宿(しゆく)を立(たつ)て、仙蹕(せんひつ)を重山(ちようざん)の深きに促(うなが)し奉る。都を出(いで)し昨日(きのふ)までは、供奉(ぐぶ)の兵二千騎(にせんぎ)に余(あま)りしかども、次第に落散(おちちり)けるにや、今は僅(わづか)に七百騎(しちひやくき)にも足(たら)ざりけり。「若(もし)跡(あと)より追懸(おつかけ)奉る事もあらば、防矢(ふせぎや)仕れ。」とて、佐々木(ささきの)判官時信(ときのぶ)をば後陣(ごぢん)に打(うた)せられ、「賊徒(ぞくと)道を塞(ふさ)ぐ事あらば、打散(うちちら)して道を開(あけ)よ。」とて、糟谷(かすや)三郎に先陣を被打せ、鸞輿(らんよ)迹(あと)に連(つらなつ)て、番馬の峠を越(こえ)んとする処に、数千(すせん)の敵道を中に夾(はさ)み、楯を一面に双(ならべ)て、矢前(やさき)をそろへて待懸(まちかけ)たり。糟谷遥(はるか)に是(これ)を見て、「思ふに当国・他国の悪党共(あくたうども)が、落人(おちうど)の物具(もののぐ)剥(は)がんとてぞ集(あつま)りたるらん。手痛(ていた)く当(あて)て捨(すつ)る程ならば、命を惜(をし)まで戦ふ程の事はよも非じ。只一懸(ひとかけ)に駈散(かけちら)して捨(すて)よ。」と云侭(いふまま)に、三十六騎の兵共(つはものども)馬の鼻を並(ならべ)てぞ掛(かけ)たりける。一陣を堅(かた)めたる野伏(のぶし)五百(ごひやく)余人(よにん)、遥(はるか)の峯へまくり揚(あげ)られて、二陣の勢(せい)に逃加(にげくはは)る。糟谷は一陣の軍(いくさ)には打勝(うちかつ)つ、今はよも手に碍(さは)る者非じと、心安く思(おもひ)て、朝霧の晴行侭(はれゆくまま)に、可越末(すゑ)の山路(やまぢ)を遥(はるか)に見渡したれば、錦の旗一流(ひとながれ)、峯の嵐に翻(ひるがへ)して、兵五六千人(ごろくせんにん)が程要害(えうがい)を前に当(あて)て待掛(まちかけ)たり。糟谷二陣の敵大勢を見て、退屈してぞ引(ひか)へたる。重(かさね)て懸破(かけやぶら)んとすれば、人馬共に疲れて、敵嶮岨(けんそ)に支(ささ)へたり。相近付(あひちかづい)て矢軍(やいくさ)をせんとすれば、矢種(やだね)皆射尽(いつく)して、敵若干(そくばく)の大勢也(なり)。兎(と)にも角(かう)にも可叶とも覚へざりければ、麓に辻堂の有(あり)けるに、皆下居(おりゐ)て、後陣の勢(せい)をぞ相待(あひまち)ける。越後(ゑちごの)守(かみ)は前陣に軍(いくさ)有(あり)と聞(きい)て、馬を早めて馳来(はせきたり)給ふ。糟谷(かすやの)三郎、越後(ゑちごの)守(かみ)に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「弓矢取(ゆみやとり)の可死処にて死せざれば恥を見(みる)と申し習はしたるは理(ことわり)にて候(さふらひ)けり。我等(われら)都にて可打死候(さうらひ)し者が、一日の命を惜(をしみ)て是(これ)まで落(おち)もて来て、今云甲斐(いふかひ)なき田夫野人(でんぶやじん)の手に懸(かかつ)て、尸(かばね)を路径(ろけい)の露に曝(さら)さん事こそ口惜(くちをしく)候へ。敵此(この)一所許(ばかり)にて候はゞ身命を捨(すて)て、打払(うちはらう)ても可通候が、推量仕るに、先(まづ)土岐が一族(いちぞく)、最初より謀叛(むほん)の張本(ちやうほん)にて候(さふらひ)しかば、折(をり)を得て、美濃(みのの)国(くに)をば通さじとぞ仕(つかまつり)候はんずらん。吉良(きら)の一族(いちぞく)も度々(どど)の召(めし)に不応して、遠江(とほたふみの)国(くに)に城郭(じやうくわく)を構(かまへ)て候と、風聞(ふうぶん)候(さふらひ)しかば、出合(いであは)ぬ事は候はじ。此等(これら)を敵に受(うけ)ては、退治(たいぢ)せん事(こと)、恐(おそら)くは万騎(ばんき)の勢(せい)にても難叶。況(いはんや)我等落人(おちうど)の身と成(なつ)て、人馬共に疲れ、矢の一双(せき)をも、はか/゛\しく射候べき力もなく成(なつ)て候へば、何(いづ)く迄か落延(おちのび)候べき。只後陣(ごぢん)の佐々木(ささき)を御待候(おんまちさふらう)て、近江(あふみの)国(くに)へ引返し、暫(しばらく)さりぬべからんずる城に楯篭(たてごもつ)て、関東(くわんとう)勢の上洛(しやうらく)し候はんずるを御待(まち)候へかし。」と申(まうし)ければ、越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)も、「此(この)義を存ずれ共(ども)、佐々木(ささき)とても今は如何なる野心(やしん)か存ずらんと、憑(たのみ)少(すくな)く覚(おぼゆ)れば、進退(しんたい)谷(きはまつ)て、面々(めんめん)の意見を訪(とひ)申さんと存ずる也(なり)。さらば何様(いかさま)此(この)堂に暫く彳(たたずみ)て、時信(ときのぶ)を待(まち)てこそ評定あらめ。」とて、五百(ごひやく)余騎(よき)の兵共(つはものども)、皆辻堂(つじだう)の庭にぞ下居(おりゐ)たる。佐々木(ささきの)判官時信は一里許(ばかり)引(ひき)さがりて、三百(さんびやく)余騎(よき)にて打(うち)けるが、如何なる天魔波旬(てんまはじゆん)の所為(しわざ)にてか有(あり)けん、「六波羅殿(ろくはらどの)は番馬の当下(たうげ)にて、野伏(のぶし)共に被取篭て一人も不残被討給(たまひ)たり。」とぞ告(つげ)たりける。時信、「今は可為様(やう)無(なか)りけり。」と愛智河(えぢかは)より引返し、降人(かうにん)に成(なつ)て京都へ上(のぼ)りにけり。越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)、暫(しばし)は時信を遅しと待給(まちたまひ)けるが、待期(まつご)過(すぎ)て時移(うつり)ければ、さては時信も早(はや)敵に成(なり)にけり。今は何(いづ)くへか引返し、何(いづ)くまでか可落なれば、爽(さわやか)に腹を切らんずる物をと、中々(なかなか)一途(いちづ)に心を取定(とりさだめ)て、気色(きしよく)涼(すずし)くぞ見へける。其(その)時軍勢共(ぐんぜいども)に向(むかつ)て宣(のたま)ひけるは、「武運(ぶうん)漸(やうやく)傾(かたむい)て、当家(たうけ)の滅亡(めつばう)近きに可在と見給ひながら、弓矢の名を重(おもん)じ、日来(ひごろ)の好(よし)みを不忘して、是(これ)まで着纏(つきまと)ひ給へる志、中々申(まうす)に言(ことば)は可無る。其報謝(そのはうしや)の思(おもひ)雖深と、一家の運已(すで)に尽(つき)ぬれば、何を以てか是(これ)を可報。今は我(われ)旁(かたがた)の為に自害(じがい)をして、生前(しやうぜん)の芳恩(はうおん)を死後に報ぜんと存ずる也(なり)。仲時(なかとき)雖不肖也(なり)。平氏一類(へいじいちるゐ)の名を揚(あぐ)る身なれば、敵共(てきども)定(さだめ)て我首(わがくび)を以て、千戸侯(せんここう)にも募(つの)りぬらん。早く仲時(なかとき)が首を取(とつ)て源氏の手に渡し、咎(とが)を補(おぎなう)て忠(ちゆう)に備へ給へ。」と、云(いひ)はてざる言(ことば)の下に、鐙脱(ぬい)で押膚脱(おしはだぬぎ)、腹掻切(かききつ)て伏(ふし)給ふ。糟谷(かすやの)三郎宗秋(むねあき)是(これ)を見て、泪(なみだ)の鎧の袖に懸りけるを押(おさ)へて、「宗秋(むねあき)こそ先(まづ)自害(じがい)して、冥途(めいど)の御先(おんさき)をも仕らんと存候(ぞんじさふらひ)つるに、先立(さきだた)せ給(たまひ)ぬる事こそ口惜(くちをし)けれ。今生(こんじやう)にては命(いのち)を際(きは)の御先途(ごせんど)を見終進(はてまゐ)らせつ。冥途なればとて見放(みはなし)可奉に非(あら)ず。暫(しばらく)御待(まち)候へ。死出(しで)の山の御伴(おんとも)申(ともまうし)候はん。」とて、越後(ゑちごの)守(かみ)の、鞆口(つかぐち)まで腹に突立(つきたて)て被置たる刀を取(とつ)て、己(おのれ)が腹に突立(つきたて)、仲時(なかとき)の膝に抱(いだ)き付(つき)、覆(うつぶし)にこそ伏(ふし)たりけれ。是(これ)を始(はじめ)て、佐々木(ささきの)隠岐前司(おきのぜんじ)・子息次郎右衛門(じらううゑもん)・同(おなじき)三郎兵衛(さぶらうひやうゑ)・同永寿丸(えいじゆまる)・高橋九郎左衛門(くらうざゑもん)・同孫四郎・同又四郎・同弥四郎左衛門・同五郎・隅田(すだ)源七左衛門(げんしちざゑもんの)尉(じよう)・同孫五郎・同藤内(とうない)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・同与一(よいち)・同四郎・同五郎・同孫八・同新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)・同又五郎・同藤六・同三郎・安藤太郎左衛門入道・同孫三郎(まごさぶらう)入道・同左衛門太郎・同左衛門三郎・同十郎・同三郎・同又次郎・同新左衛門(しんざゑもん)・同七郎三郎・同藤次郎・中布利(なかぶり)五郎左衛門(ごらうざゑもん)・石見(いはみ)彦三郎・武田(たけだ)下条(げでう)十郎・関屋(せきや)八郎・同十郎・黒田新左衛門(しんざゑもん)・同次郎左衛門(じらうざゑもん)・竹井(たけゐの)太郎・同掃部(かもん)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・寄藤(よりふぢ)十郎兵衛・皆吉(みなぎり)左京(さきやうの)亮(すけ)・同勘解由(かげゆ)七郎兵衛・小屋木(こやきの)七郎・塩屋(しほや)右馬(うまの)充(じよう)・同八郎・岩切(いはぎり)三郎左衛門・子息新左衛門(しんざゑもん)・同四郎・浦上(うらかみ)八郎・岡田(をかだ)平六兵衛・木工介(もくのすけ)入道・子息介三郎(すけさぶらう)・吉井(よしゐ)彦三郎・同四郎・壱岐(いきの)孫四郎・窪(くぼの)二郎・糟谷(かすやの)弥次郎入道・同孫三郎(まごさぶらう)入道・同六郎・同次郎・同伊賀(いがの)三郎・同彦三郎入道・同大炊(おほゐ)次郎・同次郎入道・同六郎・櫛橋(くしはし)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・南和(なわの)五郎・同又五郎・原宗(はらむねの)左近(さこんの)将監(しやうげん)入道・子息彦七・同七郎・同七郎次郎・同平(へい)右馬三郎・御器所(ごきその)七郎・怒借屋(ぬかりや)彦三郎・西郡(にしこり)十郎・秋月(あきづき)二郎兵衛・半田(はんだ)彦三郎・平塚(ひらつか)孫四郎・毎田(まいでん)三郎・花房(はなぶさ)六郎入道・宮崎三郎・同太郎次郎・山本八郎入道・同七郎入道・子息彦三郎・同小五郎・子息彦五郎・同孫四郎・足立(あだち)源五・三河(みかは)孫六・広田(ひろた)五郎左衛門(ごらうざゑもん)・伊佐治部(いさぢぶの)丞・同孫八・同三郎・息男(そくなん)孫四郎・片山十郎入道・木村四郎・佐々木(ささきの)隠岐(おきの)判官・二階堂(にかいだう)伊予(いよの)入道・石井中務(いしゐなかづかさの)丞・子息弥三郎・同四郎・海老名(えびなの)四郎・同与一・弘田(ひろた)八郎・覚井(さめがゐ)三郎・石川九郎・子息又次郎・進藤(しんどう)六郎・同彦四郎(ひこしらう)・備後(びんご)民部(みんぶの)大夫・同三郎入道・加賀(かがの)彦太郎・同弥太郎(やたらう)・三嶋(みしま)新三郎・同新太郎・武田(たけだ)与三・満王野(みをのや)藤左衛門・池守(いけもり)藤内兵衛・同左衛門五郎・同左衛門七郎・同左衛門太郎・同新左衛門(しんざゑもん)・斎藤宮内(くないの)丞・子息竹丸(たけまる)・同宮内左衛門・子息七郎・同三郎・筑前(ちくぜんの)民部(みんぶの)大夫・同七郎左衛門・田村中務(なかつかさの)入道・同彦五郎・同兵衛次郎・信濃小外記(しなののせうげき)・真上(まかみの)彦三郎・子息三郎・陶山(すやま)次郎・同小五郎・小見山(こみやま)孫太郎・同五郎・同六郎次郎・高境(たかさか)孫三郎(まごさぶらう)・塩谷(しほのやの)弥次郎・庄(しやうの)左衛門四郎・藤田六郎・同七郎・金子(かねこの)十郎左衛門・真壁(まかべ)三郎・江馬(えま)彦次郎(ひこじらう)・近部(こんべ)七郎・能登(のとの)彦次郎(ひこじらう)・新野(にひのの)四郎・佐海(さみの)八郎三郎・藤里(ふぢさと)八郎・愛多義(あたぎ)中務(なかつかさの)丞・子息弥次郎、是等(これら)を宗徒(むねと)の者として、都合(つがふ)四百三十二人(しひやくさんじふににん)、同時に腹をぞ切(きつ)たりける。血は其(その)身を浸(ひた)して恰(あたかも)黄河(くわうが)の流(ながれ)の如く也(なり)。死骸は庭に充満(じゆうまん)して、屠所(どしよ)の肉に不異。彼己亥(かのきがい)の年、五千の貂錦(てうきん)胡塵(こぢん)に亡(ほろ)び、潼関(とうくわん)の戦(たたかひ)に、百万の士卒河水に溺(おぼ)れなんも、是(これ)にはよも過(すぎ)じと哀(あはれ)なりし事共(ことども)、目もあてられず、言(いふ)に詞(ことば)も無(なか)りけり。主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)は、此死人共(このしにんども)の有様を御覧(ごらん)ずるに、肝心(きもこころ)も御身(おんみ)に不傍、只あきれてぞ坐(ま)しましける。
○主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)為五宮被囚給(たまふ)事(こと)付資名(すけなの)卿(きやう)出家(の)事(こと) S0909
去程(さるほど)に五宮(ごのみや)の官軍共(くわんぐんども)、主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)を取進(とりまゐ)らせて其(その)日先(まづ)長光寺へ入(いれ)奉り、三種(さんじゆの)神器(じんぎ)並(ならびに)玄象(げんじやう)・下濃(すそご)・二間(ふたま)の御本尊(ごほんぞん)に至(いたる)まで、自(みづから)五(ごの)宮(みや)の御方(かた)へぞ被渡ける。秦(しん)の子嬰(しえい)漢祖(かんそ)の為に被亡て天子の璽符(しふ)を頚に懸(かけ)、白馬素車(はくばそしや)に乗(のつ)て、■道(しだう)の傍(かたはら)に至り給ひし亡秦(ばうしん)の時に不異。日野(ひのの)大納言資名卿(すけなのきやう)は、殊更当今(たうぎん)奉公の寵臣(ちようしん)也(なり)。しかば、如何なる憂目(うきめ)をか見んずらんとて、身を危(あや)ぶんで被思ければ、其辺(そのへん)の辻堂に遊行(ゆぎやう)の聖(ひじり)の有(あり)ける処へおはして、可出家由を宣(のたま)ひければ、聖(ひじり)軈(やが)て戒師(かいし)と成(なつ)て、無是非髪(かみ)を剃落(そりおと)さんとしけるを、資名卿(すけなのきやう)聖に向(むかつ)て、「出家(しゆつけ)の時は、何とやらん四句(しく)の偈(げ)を唱(となふ)る事の有(あり)げに候者を。」と被仰ければ、此聖(このひじり)其(その)文をや知(しら)ざりけん、「汝是畜生発菩提心(によぜちくしやうほつぼだいしん)。」とぞ唱(となへ)たりける。三河(みかはの)守(かみ)友俊(ともとし)も同(おなじ)く此(ここ)にて出家せんとて、既(すで)に髪を洗(あらひ)けるが、是(これ)を聞(きい)て、「命の惜(をし)さに出家すればとて、汝(なんぢ)は是(これ)畜生(ちくしやう)也(なり)。と唱(となへ)給ふ事の悲しさよ。」と、ゑつぼに入(いつ)てぞ笑(わらはれ)ける。如此今まで付纏(つきまと)ひ進(まゐ)らせたる卿相雲客(けいしやううんかく)も、此彼(ここかしこ)に落留(おちとどまつ)て、出家遁世(とんせい)して退散(たいさん)しける間、今は主上(しゆしやう)・春宮(とうぐう)・両上皇の御方様(おんかたさま)とては、経顕(つねあき)・有光(ありみつ)卿(きやう)二人(ににん)より外(ほか)は供奉(ぐぶ)仕る人もなし。其外(そのほか)は皆見狎(みなれ)ぬ敵軍に前後(ぜんご)を被打囲て、怪(あやし)げなる網代輿(あじろのこし)に被召て、都へ帰上(かへりのぼ)らせ給へば、見物(けんぶつ)の貴賎(きせん)岐(ちまた)に立(たつ)て、「あら不思議(ふしぎ)や、去年先帝を笠置(かさぎ)にて生捕進(いけどりまゐ)らせて、隠岐の国へ流し奉りし其報(そのむくい)、三年(みとせ)の中(うち)に来りぬる事の浅猿(あさまし)さよ。昨日(きのふ)は他州(たしう)の憂(うれへ)と聞(きき)しかど、今日(けふ)は我(わが)上の責(せめ)に当(あた)れりとは、加様(かやう)の事をや申すべき。此(この)君も又如何なる配所(はいしよ)へか被遷させ給(たまひ)て宸襟(しんきん)を被悩ずらんと、心あるも心なきも、見る人毎(ごと)に因果歴然(いんぐわれきぜん)の理(ことわり)を感思(かんし)して、袖をぬらさぬは無(なか)りけり。
○千葉屋(ちはやの)城寄手(よせて)敗北(はいぼくの)事(こと) S0910
去程(さるほど)に昨日(きのふ)の夜、六波羅(ろくはら)已(すで)に被責落て、主上(しゆしやう)・々皇(しやうくわう)皆関東(くわんとう)へ落(おち)させ給(たまひ)ぬと、翌日(よくじつ)の午刻(うまのこく)に、千葉屋(ちはや)へ聞へたりければ、城中には悦び勇(いさん)で、唯篭(こ)の中の鳥の、出(いで)て林に遊ぶ悦(よろこび)をなし、寄手(よせて)は牲(にへ)に赴く羊の、被駆て廟(べう)に近づく思(おもひ)を成す。何様(なにさま)一日も遅く引かば、野伏(のぶし)弥(いよいよ)勢重(かさな)りて、山中の路可難儀とて、十日の早旦(さうたん)に、千葉屋(ちはや)の寄手(よせて)十万(じふまん)余騎(よき)、南都(なんと)の方(かた)へと引(ひい)て行く。前(さき)には兼(かね)て野臥(のぶし)充満(みちみち)たり。跡(あと)よりは又敵急に追懸(おつかか)る。都(すべ)て大勢の引立(ひきたつ)たる時の癖(くせ)なれば、弓矢を取捨(とりすて)て、親子(しんし)兄弟を離(はなれ)て、我先(われさき)にと逃(にげ)ふためきける程に、或(あるひ)は道もなき岩石(がんぜき)の際(きは)に行(ゆき)つまりて腹を切り、或(あるひ)は数千丈(すせんぢやう)深き谷の底へ落入(おちいつ)て、骨を微塵(みぢん)に打摧(うちくだ)く者、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知。始(はじめ)御方(みかた)の勢(せい)を帰さじとて、寄手(よせて)の方より警固を居(すゑ)、谷合(たにあひ)の関(せき)・逆木(さかもぎ)も引除(ひきのけ)て通る人無ければ、被関落ては馬に離れ、倒れては人に被蹈殺。二三里が間の山路(やまぢ)を、数万の敵に被追立て一軍(ひといくさ)もせで引(ひき)しかば、今朝まで十万(じふまん)余騎(よき)と見へつる寄手(よせて)の勢(せい)、残少(のこりずく)なに被討成、僅(わづか)に生(いき)たる軍勢も、馬物具(もののぐ)を捨(すて)ぬは無(なか)りけり。されば今に至るまで、金剛山(こんがうせん)の麓、東条谷(とうでうだに)の路(みち)の辺(へん)には、矢の孔(あな)の刀の疵(きず)ある白骨、収(をさむ)る人もなければ、苔に纏(まとは)れて塁々(るゐるゐ)たり。されども宗徒(むねと)の大将達(たち)は、一人も道にては不被討して生(いき)たる甲斐はなけれ共(ども)、其(その)日(ひ)の夜半(やはん)許(ばかり)に、南都(なんと)にこそ被落着けれ。


太平記(国民文庫)

太平記巻第十
○千寿王殿(せんじゆわうどの)被落大蔵谷事 S1001
足利治部(あしかがのぢぶの)大輔(たいふ)高氏(たかうぢ)敵に成給(なりたまひ)ぬる事(こと)、道遠ければ飛脚(ひきやく)未到来(たうらいせず)、鎌倉(かまくら)には曾(かつ)て其(その)沙汰も無(なか)りけり。斯(かかり)し処に元弘三年五月二日の夜半に、足利殿(あしかがどの)の二男千寿王殿(せんじゆわうどの)、大蔵谷(おほくらのやつ)を落(おち)て行方(ゆきがた)不知成給(なりたまひ)けり。依之(これによつて)鎌倉中(かまくらぢゆう)の貴賎(きせん)、すはや大事(だいじ)出来(いでき)ぬるはとて騒動不斜(なのめならず)。京都の事は道遠(とほき)に依(よつ)て未だ分明(ぶんみやう)の説も無ければ、毎事(まいじ)無心元とて、長崎勘解由左衛門(かげゆざゑもん)入道と諏方(すはの)木工左衛門(もくざゑもん)入道と、両使にて被上ける処に、六波羅(ろくはら)の早馬、駿河(するが)の高橋(たかはし)にてぞ行合(ゆきあひ)ける。「名越(なごや)殿(どの)は被討給(たまふ)、足利殿(あしかがどの)は敵に成給(なりたまひ)ぬ。」と申(まうし)ければ、「さては鎌倉(かまくら)の事も不審(おぼつかなし)。」とて、両使は取(とつ)て返し、関東(くわんとう)へぞ下(くだり)ける。爰(ここ)に高氏の長男竹若殿(たけわかどの)は、伊豆(いづ)の御山(おやま)に御座(おはしまし)けるが、伯父の宰相(さいしやう)法印良遍(りやうべん)、児(ちご)・同宿十三人(じふさんにん)山伏(やまぶし)の姿に成(なつ)て、潛(ひそか)に上洛(しやうらく)し給(たまひ)けるが、浮嶋(うきしま)が原にて、彼(かの)両使にぞ行合給(ゆきあひたまひ)ける。諏方・長崎生取奉(いけどりたてまつら)んと思(おもふ)処に、宰相法印無是非馬上にて腹切(きつ)て、道の傍(かたはら)にぞ臥給(ふしたまひ)ける。長崎、「去(され)ばこそ内に野心(やしん)のある人は、外(ほか)に遁(のが)るゝ無辞。」とて、若竹殿(わかたけどの)を潛(ひそか)に指殺(さしころ)し奉り、同宿十三人(じふさんにん)をば頭(くび)を刎(はね)て、浮嶋が原に懸(かけ)てぞ通(とほ)りける。
○新田(につた)義貞謀叛(むほんの)事(こと)付天狗(てんぐ)催越後勢事 S1002
懸(かかり)ける処に、新田太郎義貞、去(さんぬる)三月十一日先朝(せんてう)より綸旨(りんし)を給(たまひ)たりしかば、千剣破(ちはや)より虚病(きよびやう)して本国へ帰り、便宜(びんぎ)の一族(いちぞく)達(たち)を潛(ひそか)に集(あつめ)て、謀反(むほん)の計略をぞ被回ける。懸(かか)る企(くはだて)有(あり)とは不思寄、相摸(さがみ)入道(にふだう)、舎弟の四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道に十万(じふまん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て京都へ上(のぼ)せ、畿内(きない)・西国の乱(らん)を可静とて、武蔵・上野(かうづけ)・安房(あは)・上総(かづさ)・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)六箇国(ろくかこく)の勢をぞ被催ける。其兵粮(そのひやうらう)の為にとて、近国(きんごく)の庄園(しやうゑん)に、臨時の天役(てんやく)を被懸ける。中にも新田庄(につたのしやう)世良田(せらだ)には、有徳(うとく)の者多しとて、出雲介(いづものすけ)親連(ちかつら)、黒沼(くろぬま)彦四郎(ひこしらう)入道を使にて、「六万貫(ろくまんぐわん)を五日(いつかの)中(うち)可沙汰。」と、堅く下知(げぢ)せられければ、使先(まづ)彼所(かのところ)に莅(のぞん)で、大勢を庄家(しやうけ)に放入(はなちいれ)て、譴責(けんせき)する事法(ほふ)に過(すぎ)たり。新田義貞是(これ)を聞給(ききたまひ)て、「我館(わがたち)の辺(へん)を、雑人(ざふにん)の馬蹄(むまのひづめ)に懸(かけ)させつる事こそ返々(かへすがへす)も無念なれ、争(いかで)か乍見可怺。」とて数多(あまた)の人勢(にんぜい)を差向(さしむけ)られて、両使を忽(たちまち)生取(いけどつ)て、出雲(いづもの)介をば誡(いまし)め置き、黒沼(くろぬま)入道をば頚を切(きつ)て、同日の暮(くれ)程に世良田(せらだ)の里中(さとのうち)にぞ被懸たる。相摸(さがみ)入道(にふだう)此(この)事(こと)を聞(きき)て、大(おほき)に忿(いかつ)て宣(のたまひ)けるは、「当家執世已(すで)に九代、海内(かいだい)悉(ことごとく)其命(そのめい)に不随と云(いふ)事(こと)更になし。然(しかる)に近代遠境(ゑんきやう)動(ややもすれ)ば武命に不随、近国常に下知(げぢ)を軽(かろん)ずる事奇怪(きくわい)也(なり)。剰(あまつさへ)藩屏(はんぺい)の中(うち)にして、使節(しせつ)を誅戮(ちゆうりく)する条、罪科(ざいくわ)非軽に。此(この)時若(もし)緩々(くわんくわん)の沙汰を致さば、大逆(たいぎやく)の基(もとゐ)と成(なり)ぬべし。」とて、則(すなはち)武蔵・上野両国の勢(せい)に仰(おほせ)て、「新田太郎義貞・舎弟脇屋(わきや)次郎義助(よしすけ)を討(うつ)て可進す。」とぞ被下知ける。義貞是(これ)を聞(きい)て、宗徒(むねと)の一族(いちぞく)達(たち)を集(あつめ)て、「此(この)事(こと)可有如何。」と評定有(あり)けるに、異儀区々(いぎまちまち)にして不一定。或(あるひ)は、沼田圧(ぬまたのしやう)を要害(えうがい)にして、利根河(とねがは)を前に当(あて)て敵を待(また)ん。」と云(いふ)義もあり。又、「越後国(ゑちごのくに)には大略(たいりやく)当家の一族(いちぞく)充満(みちみち)たれば、津張郡(つばりのこほり)へ打超(うちこえ)て、上田(うへだ)山を伐塞(きりふさ)ぎ、勢(せい)を付(つけ)てや可防。」と意見不定けるを、舎弟脇屋次郎義助暫(しばらく)思案して、進出(すすみいで)て被申けるは、「弓矢の道、死を軽(かろん)じて名を重(おもん)ずるを以て義とせり。就中相摸守(さがみのかみ)天下を執(とつ)て百六十(ろくじふ)余年(よねん)、于今至(いたる)まで武威盛(さかん)に振(ふるう)て、其命(そのめい)を重(おもん)ぜずと云(いふ)処なし。されば縦(たとひ)戸祢(とね)川をさかうて防(ふせぐ)共(とも)、運尽(つき)なば叶(かなふ)まじ。又越後国(ゑちごのくに)の一族(いちぞく)を憑(たのみ)たり共(とも)、人の意(こころ)不和(ふくわ)ならば久(ひさし)き謀(はかりごと)に非(あら)ず。指(さし)たる事も仕出(しいだ)さぬ物故(ものゆゑ)に、此彼(ここかしこ)へ落行(おちゆき)て、新田の某(それがし)こそ、相摸守(さがみのかみ)の使を切(きり)たりし咎(とが)に依(よつ)て、他国へ逃(にげ)て被討たりしかなんど、天下の人口(じんこう)に入らん事こそ口惜(くちをし)けれ。とても討死をせんずる命を謀反人(むほんにん)と謂(いは)れて、朝家(てうか)の為に捨(すて)たらんは、無(なか)らん跡(あと)までも、勇(いさみ)は子孫の面(かほ)を令悦名は路径(ろけい)の尸(かばね)を可清む。先立(さきだつ)て綸旨(りんし)を被下ぬるは何(なん)の用にか可当。各(おのおの)宣旨(せんじ)を額(ひたひ)に当(あて)て、運命を天に任(まかせ)て、只一騎也(なり)共(とも)国中へ打出(うちいで)て、義兵(ぎへい)を挙(あげ)たらんに勢(せい)付(つきな)ば軈(やが)て鎌倉(かまくら)を可責落。勢不付ば只鎌倉(かまくら)を枕にして、討死するより外(ほか)の事やあるべき。と、義を先(さき)とし勇(いさみ)を宗(むね)として宣(のたまひ)しかば、当座の一族(いちぞく)三十(さんじふ)余人(よにん)、皆此(この)義にぞ同(どう)じける。さらば軈(やが)て事の漏れ聞へぬ前(さき)に打立(うつたて)とて、同(おなじき)五月八日の卯刻(うのこく)に、生品(いくしなの)明神の御前(おんまえ)にて旗を挙(あげ)、綸旨(りんし)を披(ひらい)て三度(みたび)是を拝し、笠懸野(かさかけの)へ打出(うちいで)らる。相随(あひしたが)ふ人々、氏族(しぞく)には、大館(おほたち)次郎宗氏(むねうぢ)・子息孫次郎幸氏(なりうぢ)・二男弥次郎氏明(うぢあきら)・三男彦二郎氏兼(うぢかぬ)・堀口三郎貞満(さだみつ)・舎弟四郎行義(ゆきよし)・岩松三郎経家(つねいへ)・里見五郎義胤(よしたね)・脇屋次郎義助・江田三郎光義(みつよし)・桃井次郎尚義(なほよし)、是等(これら)を宗徒(むねと)の兵(つはもの)として、百五十騎には過(すぎ)ざりけり。此勢(このせい)にては如何(いかが)と思ふ処に、其(その)日(ひ)の晩景(ばんげい)に利根河(とねがは)の方(かた)より、馬・物具(もののぐ)爽(さわやか)に見へたりける兵二千騎(にせんぎ)許(ばかり)、馬煙(むまけぶり)を立(たて)て馳来(はせきた)る。すはや敵よと目に懸(かけ)て見れば、敵には非(あら)ずして、越後(ゑちごの)国(くに)の一族(いちぞく)に、里見(さとみ)・鳥山(とりやま)・田中・大井田(おゐだ)・羽川(はねかは)の人々にてぞ坐(おは)しける。義貞大(おほき)に悦(よろこび)て、馬を扣(ひかへ)て宣(のたまひ)けるは、「此(この)事(こと)兼(かね)てより其企(そのくはだて)はありながら、昨日今日(きのふけふ)とは存ぜざりつるに、俄に思立(おもひたつ)事(こと)の候ひつる間、告申(つげまうす)までなかりしに、何(なに)として存ぜられける。」と問(とひ)給ひければ、大井田(おゐだ)遠江守(とほたふみのかみ)鞍壷(くらつぼ)に畏(かしこまつ)て被申けるは、「依勅定大儀を思召立(おぼしめしたた)るゝ由承(うけたまはり)候はずば、何(な)にとして加様(かやう)に可馳参候。去(さんぬる)五日(いつかの)御使(おんつかひ)とて天狗山伏(てんぐやまぶし)一人、越後の国中を一日の間(ま)に、触廻(ふれまはり)て通候(とほりさふらひ)し間、夜(よ)を日に継(つい)で馳参(はせまゐつ)て候。境を隔(へだて)たる者は、皆明日の程にぞ参着(さんちやく)候はんずらん。他国へ御出(おんいで)候はゞ、且(しばら)く彼勢(かのせい)を御待(まち)候へかし。」と被申て、馬より下(おり)て各対面色代(たいめんしきだい)して、人馬の息を継(つが)せ給(たまひ)ける処に、後陣(ごぢん)の越後勢並(ならびに)甲斐・信濃の源氏共、家々の旗を指連(さしつれ)て、其(その)勢(せい)五千(ごせん)余騎(よき)夥敷(おびたたし)く見へて馳来(はせきたる)。義貞・義助不斜(なのめならず)悦(よろこび)て、「是(これ)偏(ひとへに)八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の擁護(おうご)による者也(なり)。且(しばらく)も不可逗留(とうりう)。」とて、同(おなじき)九日武蔵(むさしの)国(くに)へ打越(うちこえ)給ふに、紀(きの)五左衛門、足利殿(あしかがどの)の御子息(ごしそく)千寿王(せんじゆわう)殿(どの)を奉具足、二百余騎(よき)にて馳着(はせつき)たり。是(これ)より上野(かうづけ)・下野(しもつけ)・上総(かづさ)・常陸(ひたち)・武蔵(むさし)の兵共(つはものども)不期に集り、不催に馳来(はせきたつ)て、其(その)日(ひ)の暮(くれ)程に、二十万七千(にじふまんしちせん)余騎(よき)甲(かぶと)を並べ扣(ひかへ)たり。去(され)ば四方(しはう)八百(はつぴやく)里(り)に余れる武蔵野に、人馬共に充満(みちみち)て、身を峙(そばだつ)るに処なく、打囲(うちかこう)だる勢なれば、天に飛(とぶ)鳥も翔(かけ)る事を不得、地を走る獣(けだもの)も隠(かくれ)んとするに処なし。草の原より出(いづ)る月(つき)は、馬鞍(むまくら)の上にほのめきて冑(よろひ)の袖に傾(かたぶ)けり。尾花が末を分(わく)る風は、旗の影をひらめかし、母衣(ほろ)の手静(しづま)る事ぞなき。懸(かかり)しかば国々の早馬(はやむま)、鎌倉(かまくら)へ打重(うちかさなつ)て、急を告(つぐ)る事櫛(くし)の歯を引(ひく)が如し。是(これ)を聞(きい)て時の変化をも計らぬ者は、「穴(あな)こと/゛\し、何程の事か可有。唐土(たうど)・天竺(てんぢく)より寄来(よせきたる)といはゞ、げにも真(まこと)しかるべし。我朝秋津嶋(わがてうあきつしま)の内より出(いで)て、鎌倉殿(かまくらどの)を亡(ほろぼ)さんとせん事蟷螂(たうらう)遮車、精衛(せいゑい)填海とするに不異。」と欺合(あざむきあへ)り。物(もの)の心をも弁(わきまへ)たる人は、「すはや大事(だいじ)出来(いでき)ぬるは。西国・畿内(きない)の合戦未(いまだ)静(しずまら)ざるに大敵又藩籬(はんり)の中(うち)より起れり。是(これ)伍子胥(ごししよ)が呉王(ごわう)夫差(ふさ)を諌(いさめ)しに、晋(しん)は瘡■(さうゐ)にして越(ゑつ)は腹心の病(やまひ)也(なり)。と云(いひ)しに不異。」と恐合(おそれあ)へり。去程(さるほど)に京都へ討手(うつて)を可被上事をば閣(さしおい)て、新田(につた)殿(どの)退治の沙汰計(ばかり)也(なり)。同(おなじき)九日軍(いくさ)の評定(ひやうぢやう)有(あつ)て翌日(よくじつ)の巳刻(みのこく)に、金沢(かなざは)武蔵守(むさしのかみ)貞将(さだまさ)に、五万(ごまん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、下河辺(しもかうべ)へ被下。是(これ)は先(まづ)上総(かづさ)・下総(しもつさ)の勢(せい)を付(つけ)て、敵の後攻(ごづめ)をせよと也(なり)。一方へは桜田治部大輔(ぢぶのたいふ)貞国(さだくに)を大将にて、長崎二郎高重(たかしげ)・同孫四郎左衛門・加治(かぢ)二郎左衛門(じらうざゑもん)入道に、武蔵・上野両国の勢(せい)六万(ろくまん)余騎(よき)を相副(あひそへ)て、上路(かみみち)より入間河(いるまがは)へ被向。是(これ)は水沢(みづさは)を前に当(あて)て敵の渡さん処を討(うて)と也(なり)。承久より以来(このかた)東風閑(しづか)にして、人皆弓箭(ゆみや)をも忘(わすれ)たるが如(ごとく)なるに、今始(はじめ)て干戈(かんくわ)動(うごか)す珍しさに、兵共(つはものども)こと/゛\敷(しく)此(ここ)を晴(はれ)と出立(いでたち)たりしかば、馬・物具(もののぐ)・太刀(たち)・刀(かたな)、皆照耀許(てりかかやくばかり)なれば、由々敷(ゆゆしき)見物(みもの)にてぞ有(あり)ける。路次(ろし)に両日逗留(とうりう)有(あつ)て、同(おなじき)十一日の辰刻(たつのこく)に、武蔵(むさしの)国(くに)小手差原(こてさしばら)に打臨(うちのぞみ)給ふ。爰(ここ)にて遥(はるか)に源氏の陣を見渡せば、其(その)勢(せい)雲霞(うんか)の如くにて、幾千万騎(いくせんまんぎ)共(とも)可云数(かず)を不知。桜田(さくらだ)・長崎是(これ)を見て、案に相違(さうゐ)やしたりけん、馬を扣(ひかへ)て不進得。義貞忽(たちまち)に入間河(いるまがは)を打渡(うちわたつ)て、先(まづ)時(とき)の声を揚(あげ)、陣を勧(すす)め、早(はや)矢合(やあはせ)の鏑(かぶら)をぞ射させける。平家も鯨波(ときのこゑ)を合せて、旗を進めて懸(かか)りけり。初(はじめ)は射手(いて)を汰(そろへ)て散々(さんざん)に矢軍(やいくさ)をしけるが、前(まへ)は究竟(くつきやう)の馬の足立(あしだち)也(なり)。何れも東国そだちの武士共(ぶしども)なれば、争(いか)でか少しもたまるべき、太刀・長刀(なぎなた)の鋒(きつさき)をそろへ馬の轡(くつばみ)を並(ならべ)て切(きつ)て入(いる)。二百騎・三百騎(さんびやくき)・千騎(せんぎ)・二千騎(にせんぎ)兵を添(そへ)て、相戦(あひたたかふ)事(こと)三十(さんじふ)余度(よど)に成(なり)しかば、義貞の兵三百(さんびやく)余騎(よき)被討、鎌倉勢(かまくらぜい)五百(ごひやく)余騎(よき)討死して、日已(すで)に暮(くれ)ければ、人馬共に疲(つかれ)たり。軍(いくさ)は明日と約諾(やくだく)して、義貞三里引退(ひきしりぞい)て、入間河(いるまがは)に陣をとる。鎌倉勢(かまくらぜい)も三里引退(ひきしりぞい)て、久米河(くめがは)に陣をぞ取(とつ)たりける。両陣相去る其間(そのあひだ)を見渡せば三十(さんじふ)余町(よちやう)に足(たら)ざりけり。何れも今日の合戦の物語して、人馬の息を継(つが)せ、両陣互に篝(かがり)を焼(たい)て、明(あく)るを遅(おそし)と待居(まちゐ)たり。夜(よ)既(すで)に明(あけ)ぬれば、源氏は平家に先(さき)をせられじと、馬の足を進(すすめ)て久米河の陣へ押寄(おしよす)る。平家も夜明けば、源氏定(さだめ)て寄(よせ)んずらん、待(まつ)て戦はゞ利あるべしとて、馬の腹帯(はるび)を固め甲(かぶと)の緒(お)を縮(し)め、相待(あひまつ)とぞみへし。両陣互(たがひ)に寄合(よせあは)せて、六万(ろくまん)余騎(よき)の兵を一手に合(あはせ)て、陽(やう)に開(ひらい)て中にとり篭(こめ)んと勇(いさみ)けり。義貞の兵是(これ)を見て、陰(いん)に閉(とぢ)て中を破(わら)れじとす。是(これ)ぞ此黄石公(このくわうせきこう)が虎を縛(ばく)する手、張子房(ちやうしばう)が鬼を拉(とりひし)ぐ術(じゆつ)、何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱(いりみだれ)て、不被破不被囲して、只百戦(ひやくせん)の命(いのち)を限りにし、一挙(いつきよ)に死をぞ争ひける。されば千騎(せんぎ)が一騎に成(なる)までも、互に引(ひか)じと戦(たたかひ)けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔(わづか)に討(うた)れて平家は多く亡(ほろび)にければ、加治(かぢ)・長崎二度(にど)の合戦に打負(うちまけ)たる心地(ここち)して、分陪(ぶんばい)を差して引退(ひきしりぞ)く。源氏猶(なほ)続(つづい)て寄(よせ)んとしけるが、連日(れんじつ)数度(すど)の戦(たたかひ)に、人馬(じんば)あまた疲(つかれ)たりしかば、一夜(いちや)馬の足を休めて、久米河(くめがは)に陣を取寄(とりよせ)て、明(あく)る日をこそ待(まち)たりけれ。去程(さるほど)に桜田治部(ぢぶの)大輔(たいふ)貞国(さだくに)・加治(かぢ)・長崎等(ながさきら)十二日の軍(いくさ)に打負(うちまけ)て引退(ひきしりぞく)由(よし)鎌倉(かまくら)へ聞へければ、相摸(さがみ)入道(にふだう)・舎弟の四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道恵性(ゑしやう)を大将軍として、塩田陸奥(むつの)入道・安保(あぶ)左衛門入道・城(じやうの)越後(ゑちごの)守(かみ)・長崎駿河(するがの)守(かみ)時光(ときみつ)・左藤(さとう)左衛門入道・安東(あんどう)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)高貞・横溝(よこみぞ)五郎入道・南部(なんぶ)孫二郎・新開(しんがい)左衛門入道・三浦若狭(みうらわかさの)五郎氏明(うぢあきら)を差副(さしそへ)て、重(かさね)て十万(じふまん)余騎(よき)を被下、其(その)勢(せい)十五日の夜半許(やはんばかり)に、分陪(ぶんばい)に着(つき)ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進(いさみすす)まんとす。義貞は敵に荒手(あらて)の大勢加(くはは)りたりとは不思寄。十五日の夜(よ)未(いまだ)明(あけざる)に、分陪(ぶんばい)へ押寄(おしよせ)て時(とき)を作る。鎌倉勢(かまくらぜい)先(まづ)究竟(くつきやう)の射手(いて)三千人(さんぜんにん)を勝(すぐつ)て面(おもて)に進め、雨の降如(ふるごとく)散々(さんざん)に射させける間、源氏射たてられて駈(かけ)ゑず。平家是(これ)に利を得て、義貞の勢(せい)を取篭(とりこめ)不余とこそ責(せめ)たりけれ。新田(につた)義貞逞兵(ていへい)を引勝(ひつすぐつ)て、敵の大勢を懸破(かけやぶつ)ては裏へ通(とほ)り、取(とつ)て返(かへし)ては喚(をめい)て懸入(かけいり)、電光(でんくわう)の如激、蜘手(くもで)・輪違(わちがひ)に、七八度が程ぞ当りける。されども大敵(たいてき)而(しか)も荒手(あらて)にて、先度(せんど)の恥を雪(きよ)めんと、義を専(もつばら)にして闘(たたか)ひける間、義貞(よしさだ)遂に打負(うちまけ)て堀金(ほりかね)を指(さし)て引退(ひきしりぞ)く。其(その)勢(せい)若干(そくばく)被討て痛手(いたで)を負(おふ)者数を不知。其(その)日軈(やが)て追(おう)てばし寄(よせ)たらば、義貞爰(ここ)にて被討給ふべかりしを、今は敵何程の事か可有、新田をば定(さだめ)て武蔵・上野(かうづけ)の者共(ものども)が、討(うつ)て出(いだ)さんずらんと、大様(おほやう)に憑(たのん)で時を移す。是(これ)ぞ平家の運命の尽(つき)ぬる処のしるし也(なり)。
○三浦大多和(おほたわ)合戦意見(いけんの)事(こと) S1003
懸(かかり)し程に、義貞も無為方思召(おぼしめし)ける処へ、三浦大多和平六左衛門義勝(よしかつ)は、兼(かね)てより義貞に志(こころざし)有(あり)しかば、相摸(さがみの)国(くに)の勢(せい)松田・河村(かうむら)・土肥(とひ)・土屋(つちや)・本間(ほんま)・渋谷(しぶや)を具足して、以上其(その)勢(せい)六千余騎(よき)、十五日の晩景(ばんげい)に、義貞の陣へ馳(はせ)参る。義貞大(おほき)に悦(よろこび)て、急ぎ対面有(あつ)て、礼を厚くし、席を近付(ちかづけ)て、合戦の意見(いけん)をぞ被訪ける。平六左衛門畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「今天下二(ふた)つに分れて、互の安否(あんぴ)を合戦の勝負(しようぶ)に懸(かけ)たる事にて候へば、其雌雄(そのしゆう)十度も二十も、などか無(なく)ては候べき。但(ただし)始終(しじゆう)の落居(らくきよ)は天命(てんめい)の帰(き)する処にて候へば、遂に太平を被致事(こと)、何(なん)の疑(うたがひ)か候べき。御勢(おんせい)に義勝(よしかつ)が勢(せい)を合(あはせ)て戦はんに、十万(じふまん)余騎(よき)、是(これ)も猶(なほ)敵の勢に不及候と云(いへ)ども、今度(こんど)の合戦に一勝負(ひとしようぶ)せでは候べき。」と申(まうし)ければ、義貞も、「いさとよ、当手(たうて)の疲(たかれ)たる兵(つはもの)を以て、大敵の勇誇(いさみほこつ)たるに懸(かか)らん事は、如何。」と宣(のたま)ひけるを、義勝重(かさね)て申(まうし)けるは、「今日の軍(いくさ)には治定(ぢぢやう)可勝謂(いは)れ候。其(その)故は、昔秦(しん)と楚(そ)と国を争ひける時、楚の将軍武信君(ぶしんくん)、纔(わづか)に八万(はちまん)余騎(よき)の勢(せい)を以て、秦の将軍李由(りいう)が八十万騎(はちじふまんぎ)の勢(せい)に打勝(うちかち)、首を切(きる)事(こと)四十(しじふ)余万(よまん)也(なり)。是(これ)より武信君(ぶしんくん)心驕(おご)り軍(いくさ)懈(おこたつ)て秦の兵を恐るゝに不足と思へり。楚の副将軍に宋義(そうぎ)と云(いひ)ける兵是(これ)を見て、「戦(たたかひ)に勝(かつ)て将(しやう)驕(おご)り卒(そつ)惰(おこた)る時は必(かならず)破(やぶる)と云へり。武信君今如此。不亡何をか待(また)ん。」と申(まうし)けるが、果して後の軍(いくさ)に、武信君秦(しん)の左将軍章邯(しやうかん)が為に被討て忽(たちまち)に一戦(いつせん)に亡(ほろび)にけり。義勝(よしかつ)昨日(きのふ)潛(ひそか)に人を遣(つかは)して敵の陣を見するに、其(その)将驕(おご)れる事武信君に不異。是(これ)則(すなはち)宋義が謂(いひ)し所に不違。所詮(しよせん)明日の御合戦には、義勝荒手(あらて)にて候へば一方の前(さき)を承(うけたまはつ)て、敵を一当(ひとあて)々(あて)て見候はん。」と申(まうし)ければ、義貞誠(まこと)に心に服(ふく)し、宜(よろしき)に随ひ、則(すなはち)今度の軍(いくさ)の成敗(せいばい)をば三浦平六左衛門にぞ被許ける。明(あく)れば五月十六日の寅刻(とらのこく)に、三浦四万(しまん)余騎(よき)が真前(まつさき)に進んで、分陪(ぶんばい)河原(かはら)へ押寄(おしよす)る。敵の陣近く成(なる)まで態(わざ)と旗の手をも不下、時(とき)の声をも不挙けり。是(これ)は敵を出抜(だしぬい)て、手攻(てづめ)の勝負を為決也(なり)。如案敵は前日数箇度(すかど)の戦(たたかひ)に人馬皆疲(つかれ)たり。其(その)上(うへ)今敵可寄共不思懸ければ、馬に鞍(くら)をも不置、物具(もののぐ)をも不取調、或(あるひ)は遊君(いうくん)に枕を双(ならべ)て帯紐(おびひぼ)を解(とい)て臥(ふし)たる者あり、或(あるひ)は酒宴(しゆえん)に酔(ゑひ)を被催て、前後を不知寝たる者もあり。只一業所感(いちごふしよかん)の者共(ものども)が招自滅不異。爰(ここ)に寄手(よせて)相近づくを見て、河原面(かはらおもて)に陣を取(とつ)たる者、「只今面(おもて)より旗を巻(まい)て、大勢の閑(しづか)に馬を打(うつ)て来(きた)れば、若(もし)敵にてや有らん。御要心(ごえうじん)候へ。」と告(つげ)たりければ、大将を始(はじめ)て、「さる事あり、三浦大多和(おほたわ)が相摸(さがみの)国(くに)勢(せい)を催(もよほし)て、御方(みかた)へ馳参(はせさん)ずると聞へしかば、一定(いちぢやう)参(まいつ)たりと覚(おぼゆ)るぞ。懸(かか)る目出度(めでたき)事(こと)こそなけれ。」とて、驚(おどろく)者一人もなし。只兎(と)にも角(かく)にも、運命の尽(つき)ぬる程こそ浅猿(あさまし)けれ。去程(さるほど)に義貞、三浦が先懸(さきがけ)に追(おつ)すがふて、十万(じふまん)余騎(よき)を三手に分け、三方(さんぱう)より推寄(おしよせ)て、同(おなじ)く時(とき)を作りける。恵性(ゑしやう)時(とき)の声に驚(おどろい)て、「馬よ物具(もののぐ)よ。」と周章騒(あわてさわぐ)処へ、義貞・義助の兵縦横無尽(じゆうわうむじん)に懸(か)け立(たつ)る。三浦平六是(これ)に力(ちから)を得て、江戸・豊嶋(としま)・葛西(かさい)・河越(かはごえ)、坂東(ばんどう)の八平氏、武蔵の七党(しちたう)を七手(ななて)になし、蜘手(くもで)・輪違(わちがひ)・十文字(じふもんじ)に、不余とぞ攻(せめ)たりける。四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道、大勢也(なり)。といへ共(ども)、三浦が一時の計(はかりごと)に被破て、落行(おちゆく)勢(せい)は散々(ちりぢり)に、鎌倉(かまくら)を指(さ)して引退(ひきしりぞ)く。討(うた)るゝ者は数(かず)を不知。大将左近(さこんの)大夫(たいふ)入道も、関戸辺(せきとのへん)にて已(すで)に討(うた)れぬべく見へけるを、横溝(よこみぞ)八郎蹈止(ふみとどまつ)て、近付(ちかづく)敵二十三騎時の間(ま)に射落し、主従(しゆじゆう)三騎打死(うちじに)す。安保(あぶの)入道々堪父子(だうかんふし)三人(さんにん)相随(あひしたが)ふ兵(つはもの)百(ひやく)余人(よにん)、同(おなじ)枕に討死す。其外(そのほか)譜代(ふだい)奉公の郎従(らうじゆう)、一言(いちごん)芳恩(はうおん)の軍勢共(ぐんぜいども)、三百(さんびやく)余人(よにん)引返し、討死しける間に、大将四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道は、其(その)身に無恙してぞ山内(やまのうち)まで被引ける。長崎二郎高重(たかしげ)、久米河(くめがは)の合戦に、組(くん)で討(うつ)たりし敵の首(くび)二(ふたつ)、切(きつ)て落したりし敵の首十三、中間(ちゆうげん)・下部(しもべ)に取持(とりもた)せて、鎧に立(たつ)処の箭(や)をも未(いまだ)抜(ぬかず)、疵(きず)のろより流るゝ血に、白糸(しろいと)の鎧忽(たちまち)に火威(ひをどし)に染成(そめなし)て、閑々(しづしづ)と鎌倉殿(かまくらどの)の御屋形(やかた)へ参り中門(ちゆうもん)に畏(かしこま)りたりければ、祖父(おほぢ)の入道世にも嬉しげに打見て出迎(いでむかひ)、自(みづから)疵(きず)を吸(すひ)血を含(ふくん)で、泪(なみだ)を流(ながし)て申(まうし)けるは、「古き諺(ことわざ)に「見子不如父」いへども、我(われ)先(まづ)汝(なんぢ)を以て、上(うへ)の御用(ごよう)に難立者也(なり)。と思(おもつ)て、常に不孝を加(くはへ)し事(こと)、大(おほき)なる誤(あやまり)也(なり)。汝(なんぢ)今万死(ばんし)を出(いで)て一生(いつしやう)に遇(あひ)、堅(かたき)を摧(くだ)きける振舞、陳平(ちんべい)・張良(ちやうりやう)が為難処を究(きは)め得たり。相構(あひかまへ)て今より後も、我が一大事(いちだいじ)と合戦して父祖(ふそ)の名をも呈(あらは)し、守殿(かうのとの)の御恩をも報(はう)じ申(まうし)候へ。」と、日来(ひごろ)の庭訓(ていきん)を翻(ひるがへ)して只今の武勇(ぶよう)を感じければ、高重頭(かうべ)を地に付(つけ)て、両眼(りやうがん)に泪(なみだ)をぞ浮べける。かゝる処に、六波羅(ろくはら)没落(ぼつらく)して、近江(あふみ)の番馬(ばんば)にて、悉(ことごと)く自害(じがい)のよし告来(つげきたり)ければ、只今大敵と戦(たたかふ)中(うち)に、此(この)事(こと)をきいて、大火(おほび)を打消(うちけし)て、あきれ果(はて)たる事限(かぎり)なし。其所従(そのしよじゆう)・眷属共(けんぞくども)是(これ)を聞(きい)て、泣歎(なきなげ)き憂悲(うれへかなし)むこと、喩(たとへ)をとるに物なし。何(いか)にたけく勇(いさ)める人々も、足手(あして)もなゆる心地(ここち)して東西をもさらに弁(わきま)へず。然(しかり)といへども、此(この)大敵を退(しりぞけ)てこそ、京都へも討手(うつて)を上(のぼ)さんずれとて、先(まづ)鎌倉(かまくら)の軍評定(いくさひやうぢやう)をぞせられける。此(この)事(こと)敵にしらせじとせしかども、隠(かくれ)あるべき事ならねばやがて聞へて、哀(あはれ)潤色(じゆんしよく)やと、悦び勇(いさ)まぬ者はなし。
○鎌倉(かまくら)合戦(かつせんの)事(こと) S1004
去程(さるほど)に、義貞数箇度(すかど)の闘(たたかひ)に打勝給(うちかちたまひ)ぬと聞へしかば、東八箇国(とうはつかこく)の武士共(ぶしども)、順付(したがひつく)事(こと)如雲霞。関戸(せきと)に一日逗留(とうりう)有(あつ)て、軍勢の着到(ちやくたう)を着(つけ)られけるに、六十万(ろくじふまん)七千(しちせん)余騎(よき)とぞ注(しる)せる。こゝにて此勢(このせい)を三手に分(わけ)て、各(おのおの)二人(ににん)の大将を差副(さしそ)へ、三軍の帥(すゐ)を令司ら、其(その)一方には大館(おほたちの)二郎宗氏を左将軍(さしやうぐん)として、江田(えだの)三郎行義(ゆきよし)を右将軍(うしやうぐん)とす。其(その)勢(せい)総(すべ)て十万(じふまん)余騎(よき)、極楽寺(ごくらくじ)の切通(きりどほし)へぞ向はれける。一方には堀口(ほりぐち)三郎貞満(さだみつ)を上将軍とし、大嶋(おほしま)讚岐守(さぬきのかみ)々之(もりゆき)を裨将軍(ひしやうぐん)として、其(その)勢(せい)都合(つがふ)十万(じふまん)余騎(よき)、巨福呂坂(こくぶろざか)へ指向(さしむけ)らる。其(その)一方には、新田(につた)義貞・義助、諸将の命(めい)を司(つかさどつ)て、堀口・山名(やまな)・岩松・大井田(おほゐだ)・桃井(もものゐ)・里見・鳥山(とりやま)・額田(ぬかだ)・一井(いちのゐ)・羽川以下(はねかはいげ)の一族(いちぞく)達(たち)を前後左右に囲(かこま)せて、其(その)勢(せい)五十万(ごじふまん)七千(しちせん)余騎(よき)、粧坂(けはひざか)よりぞ被寄ける。鎌倉中(かまくらぢゆう)の人々は昨日(きのふ)・一昨日(をととひ)までも、分陪(ぶばい)・関戸(せきと)に合戦有(あつ)て、御方(みかた)打負(うちまけ)ぬと聞へけれ共(ども)、猶(なほ)物(もの)の数(かず)共(とも)不思、敵の分際(ぶんざい)さこそ有(あ)らめと慢(あなどつ)て、強(あながち)に周章(あわて)たる気色(けしき)も無(なか)りけるに、大手(おほて)の大将にて向(むかは)れたる四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道僅(わづか)に被討成て、昨日の晩景(ばんげい)に山内(やまのうち)へ引返されぬ。搦手(からめて)の大将にて、下河辺(しもかうべ)へ被向たりし金沢(かなざは)武蔵守(むさしのかみ)貞将(さだまさ)は、小山(をやまの)判官・千葉介(ちばのすけ)に打負(うちまけ)て、下道(しもみち)より鎌倉(かまくら)へ引返し給(たまひ)ければ、思(おもひ)の外(ほか)なる珍事(ちんじ)哉(かな)と、人皆周章(しうしやう)しける処に、結句(けつく)五月十八日の卯刻(うのこく)に、村岡・藤沢・片瀬(かたせ)・腰越(こしごえ)・十間坂(じつけざか)・五十(ごじふ)余箇所(よかしよ)に火を懸(かけ)て、敵三方(さんぱう)より寄懸(よせかけ)たりしかば、武士(ぶし)東西に馳替(はせちがひ)、貴賎(きせん)山野(さんや)に逃迷(にげまよ)ふ。是(これ)ぞ此霓裳(このげいしやう)一曲(いつきよく)の声の中(うち)に、漁陽(ぎよやう)の■鼓(へいく)動地来り、烽火万里(ほうくわばんり)の詐(いつはり)の後に、戎狄(じゆうてき)の旌旗(せいき)天を掠(かすめ)て到(いたり)けん、周(しう)の幽王(いうわう)の滅亡せし有様、唐(たう)の玄宗傾廃(けいはい)せし為体(ていたらく)も、角(かく)こそは有(あり)つらんと、被思知許(ばかり)にて涙も更に不止、浅猿(あさまし)かりし事共也(なり)。去程(さるほど)に義貞の兵三方(さんぱう)より寄(よする)と聞へければ、鎌倉(かまくら)にも相摸左馬(さまの)助(すけ)高成(たかなり)・城(じやうの)式部(しきぶの)大輔(たいふ)景氏(かげうぢ)・丹波(たんばの)左近(さこんの)太夫将監(しやうげん)時守(ときもり)を大将として、三手に分(わけ)てぞ防(ふせぎ)ける。其(その)一方には金沢越後(ゑちごの)左近(さこんの)太夫将監(しやうげん)を差副(さしそへ)て、安房(あは)・上総(かづさ)・下野(しもつけ)の勢(せい)三万(さんまん)余騎(よき)にて粧坂(けはひざか)を堅めたり。一方には大仏(だいぶつ)陸奥(むつの)守(かみ)貞直(さだなほ)を大将として、甲斐(かひ)・信濃(しなの)・伊豆(いづ)・駿河(するが)の勢(せい)を相随へて、五万(ごまん)余騎(よき)、極楽寺(ごくらくじ)の切通(きりどほし)を堅めたり。一方には赤橋前(あかはしのさきの)相摸守(さがみのかみ)盛時(もりとき)を大将として、武蔵(むさし)・相摸(さがみ)・出羽(では)・奥州(あうしうの)の勢(せい)六万(ろくまん)余騎(よき)にて、州崎(すさき)の敵に被向。此外(このほか)末々(すゑずゑ)の平氏八十(はちじふ)余人(よにん)、国々の兵(つはもの)十万騎(じふまんぎ)をば、弱からん方(かた)へ可向とて、鎌倉中(かまくらぢゆう)に被残たり。去程(さるほど)に同日(どうじつ)の巳刻(みのこく)より合戦始(はじまつ)て、終日終夜(しゆうじつしゆうや)責(せめ)戦ふ。寄手(よせて)は大勢にて、悪手(あらて)を入替々々(いれかへいれかへ)責入(せめいり)ければ、鎌倉(かまくら)方には防場(ふせぎば)殺所(せつしよ)なりければ、打出々々(うちいでうちいで)相支(あひささへ)て戦(たたかひ)ける。されば三方(さんぱう)に作る時(とき)の声両陣に呼(さけぶ)箭叫(やさけび)は、天を響(ひびか)し地を動(うごか)す。魚鱗(ぎよりん)に懸(かか)り鶴翼(かくよく)に開(ひらい)て、前後に当り左右を支(ささ)へ、義を重(おもん)じ命を軽(かろん)じて、安否(あんぴ)を一時に定(さだ)め、剛臆(がうおく)を累代(るゐたい)に可残合戦なれば、子被討共(ども)不扶、親は乗越(のりこえ)て前なる敵に懸り、主(しゆ)被射落共(ども)不引起、郎等(らうどう)は其(その)馬に乗(のつ)て懸出(かけいで)、或(あるひ)は引組(ひつくん)で勝負をするもあり、或(あるひ)は打替(うちちがへ)て共に死するもありけり。其猛卒(そのまうそつ)の機を見(みる)に、万人死して一人残り、百陣破(やぶれ)て一陣に成(なる)共、いつ可終軍(いくさ)とは見へざりけり。
○赤橋相摸(あかはしさがみの)守(かみ)自害(じがいの)事(こと)付本間(ほんま)自害(じがいの)事(こと) S1005¥¥¥
懸(かかり)ける処、赤橋(あかはし)相摸守(さがみのかみ)、今朝は州崎(すさき)へ被向たりけるが、此(この)陣の軍(いくさ)剛(つよく)して、一日一夜(いちじついちや)の其(その)間に、六十五度まで切合(きりあひ)たり。されば数万騎有(あり)つる郎従(らうじゆう)も、討(うた)れ落失(おちうす)る程に、僅(わづか)に残る其(その)勢(せい)三百(さんびやく)余騎(よき)にぞ成(なり)にける。侍(さぶらひ)大将にて同陣に候(さふらひ)ける南条左衛門高直(たかなほ)に向(むかつ)て宣(のたま)ひけるは、「漢(かん)・楚(そ)八箇年(はちかねん)の闘(たたかひ)に、高祖(かうそ)度(たび)ごとに討負給(うちまけ)たまひしか共(ども)、一度(ひとたび)烏江(をうがう)の軍(いくさ)に利を得て却(かへつ)て項羽(かうう)を被亡き。斉(せい)・晋(しん)七十度の闘(たたかひ)に、重耳(ちようじ)更に勝(かつ)事(こと)無(なか)りしか共(ども)、遂(つひ)に斉境(せいきやう)の闘(たたかひ)に打勝(うちかつ)て、文公国(ぶんこうくに)を保(たも)てり。されば万死(ばんし)を出(いで)て一生(いつしやう)を得、百回(ももたび)負(まけ)て一戦(いつせん)に利あるは、合戦の習(ならひ)也(なり)。今此戦(このたたかひ)に敵聊(いささか)勝(かつ)に乗るに以たりといへ共(ども)、さればとて当家の運今日に窮(きはま)りぬとは不覚(おぼえず)。雖然盛時(もりとき)に於ては、一門(いちもん)の安否(あんぴ)を見果(みはつ)る迄もなく、此陣頭(このぢんとう)にて腹を切(きら)んと思ふ也(なり)。其(その)故は、盛時(もりとき)足利殿(あしかがどの)に女性方(によしやうがた)の縁(えん)に成(なり)ぬる間、相摸殿(さがみどの)を奉始、一家(いつけ)の人々、さこそ心をも置給(おきたまふ)らめ。是(これ)勇士の所恥也(なり)。彼田広先生(かのでんくわうせんじやう)は、燕丹(えんたん)に被語はし時、「此(この)事(こと)漏(もら)すな」と云(いは)れて、為散其疑、命を失(うしなう)て燕丹(えんたん)が前に死(しし)たりしぞかし。此(この)陣闘(たたかひ)急にして兵皆疲(つかれ)たり。我(われ)何(なん)の面目か有(あつ)て、堅めたる陣を引(ひい)て而(しか)も嫌疑(けんぎ)の中(うち)に且(しばら)く命を可惜。」とて、闘(たたかひ)未(いまだ)半(なかばなら)ざる最中(さいちゆう)に、帷幕(ゐばく)の中(うち)に物具(もののぐ)脱捨(ぬぎすて)て腹(はら)十文字(じふもんじ)に切給(きりたまひ)て北枕(きたまくら)にぞ臥(ふし)給ふ。南条是(これ)を見て、「大将已(すで)に御自害(ごじがい)ある上は士卒(じそつ)誰(た)れが為に命を可惜。いでさらば御伴(おんとも)申さん。」とて、続(つづい)て腹を切(きり)ければ、同志の侍(さぶらひ)九十(くじふ)余人(よにん)、上(いや)が上(うへ)に重(かさな)り伏(ふし)て、腹をぞ切(きつ)たりける。さてこそ十八日の晩(くれ)程に州崎(すさき)一番に破れて、義貞の官軍(くわんぐん)は山内(やまのうち)まで入(いり)にけり。懸(かかる)処に本間(ほんま)山城(やましろの)左衛門は、多年大仏(だいぶつ)奥州貞直(さだなほ)の恩顧の者にて、殊更(ことさら)近習(きんじふ)しけるが、聊(いささか)勘気(かんき)せられたる事有(あつ)て、不被免出仕、未だ己(おの)が宿所にぞ候(そふらひ)ける。已(すでに)五月十九日の早旦(さうたん)に、極楽寺の切通(きりどほし)の軍(いくさ)破(やぶ)れて敵攻入(せめいる)なんど聞へしかば、本間山城(やましろの)左衛門・若党(わかたう)中間(ちゆうげん)百(ひやく)余人(よにん)、是(これ)を最後と出立(いでたつ)て極楽寺坂へぞ向ひける。敵の大将大館(おほたち)二郎宗氏(むねうぢ)が、三万(さんまん)余騎(よき)にて扣(ひかへ)たる真中(まんなか)へ懸入(かけいつ)て、勇誇(いさみほこつ)たる大勢を八方へ追散(おつちら)し、大将宗氏に組(くま)んと透間(すきま)もなくぞ懸(かか)りける。三万(さんまん)余騎(よき)の兵共(つはものども)須臾(しゆゆ)の程に分れ靡(なび)き、腰越(こしごえ)までぞ引(ひい)たりける。余(あま)りに手繁(てしげ)く進(すすん)で懸(かか)りしかば、大将宗氏は取(とつ)て返し思ふ程闘(たたかつ)て、本間が郎等(らうどう)と引組(ひつくん)で、差違(さしちが)へてぞ伏(ふし)給ひける。本間大(おほき)に悦(よろこん)で馬より飛(とん)で下(お)り、其(その)頚を取(とつ)て鋒(きつさき)に貫(つらぬ)き、貞直(さだなほ)の陣に馳参(はせさん)じ、幕(まく)の前に畏(かしこまつ)て、「多年の奉公多日(たじつ)の御恩此一戦(このいつせん)を以て奉報候。又御不審(ごふしん)の身にて空(むなし)く罷成(まかりなり)候はゞ、後世(ごせ)までの妄念(まうねん)共(とも)成(なり)ぬべう候へば、今は御免(ごめん)を蒙(かうむつ)て、心安(やすく)冥途(めいど)の御先仕(さきつかまつり)候はん。」と申(まうし)もはてず、流るゝ泪(なみだ)を押へつゝ、腹掻切(かききつ)てぞ失(うせ)にける。「「三軍をば可奪帥」とは彼(かれ)をぞ云(いふ)べき。「以徳報怨」とは是(これ)をぞ申(まうす)べき。はづかしの本間が心中や。」とて、落(おつ)る泪(なみだ)を袖にかけながら、「いざや本間が志(こころざし)を感ぜん。」とて、自(みづから)打出(うちいで)られしかば、相順(あひしたがふ)兵も泪(なみだ)を流さぬは無(なか)りけり。
○稲村崎(いなむらがさき)成干潟事 S1006
去程(さるほど)に、極楽寺の切通(きりどほし)へ被向たる大館(おほたち)次郎宗氏(むねうぢ)、本間(ほんま)に被討て、兵共(つはものども)片瀬(かたせ)・腰越(こしごえ)まで、引退(ひきしりぞき)ぬと聞へければ、新田(につた)義貞逞兵(ていへい)に万余騎(よき)を率(そつ)して、二十一日の夜半許(やはんばかり)に、片瀬・腰越を打廻(うちまは)り、極楽寺坂へ打莅(うちのぞみ)給ふ。明行(あけゆく)月に敵の陣を見給へば、北は切通(きりどほし)まで山高く路(みち)嶮(けはし)きに、木戸を誘(かま)へ垣楯(かいだて)を掻(かい)て、数万(すまん)の兵(つはもの)陣を双(なら)べて並居(なみゐ)たり。南は稲村崎(いなむらがさき)にて、沙頭(しやとう)路(みち)狭(せば)きに、浪打涯(なみうちぎは)まで逆木(さかもぎ)を繁(しげ)く引懸(ひきかけ)て、澳(おき)四五町(しごちやう)が程に大船共(たいせんども)を並べて、矢倉(やぐら)をかきて横矢(よこや)に射させんと構(かまへ)たり。誠(げに)も此(この)陣の寄手(よせて)、叶はで引(ひき)ぬらんも理(ことわり)也(なり)。と見給(たまひ)ければ、義貞馬より下給(おりたまひ)て、甲(かぶと)を脱(ぬい)で海上を遥々(はるばる)と伏拝(ふしをが)み、竜神(りゆうじん)に向(むかつ)て祈誓(きせい)し給(たまひ)ける。「伝(つたへ)奉る、日本(につぽん)開闢(かいびやく)の主(あるじ)、伊勢天照太神(あまてらすおほみかみ)は、本地(ほんち)を大日(たいにち)の尊像に隠(かく)し、垂跡(すゐじやく)を滄海(さうかい)の竜神(りゆうじん)に呈(あらは)し給へりと、吾(わが)君其苗裔(そのべうえい)として、逆臣(ぎやくしん)の為に西海の浪に漂(ただよひ)給ふ。義貞今(いま)臣たる道を尽(つくさ)ん為に、斧鉞(ふえつ)を把(とつ)て敵陣に臨む。其(その)志偏(ひとへ)に王化(わうくわ)を資(たす)け奉(たてまつつ)て、蒼生(さうせい)を令安となり。仰願(あふぎねがはく)は内海外海(ないかいげかい)の竜神八部(りゆうじんはちぶ)、臣が忠義を鑒(かんがみ)て、潮(うしほ)を万里の外(ほか)に退(しりぞ)け、道を三軍の陣に令開給へ。」と、至信(ししん)に祈念(きねん)し、自ら佩(はき)給へる金作(こがねづくり)の太刀を抜(ぬい)て、海中へ投給(なげたまひ)けり。真(まこと)に竜神納受(なふじゆ)やし給(たまひ)けん、其夜(そのよ)の月の入方(いりがた)に、前々(さきざき)更に干(ひ)る事も無(なか)りける稲村崎(いなむらがさき)、俄(にはか)に二十(にじふ)余町(よちやう)干上(ひあがつ)て、平沙渺々(へいしやべうべう)たり。横矢(よこや)射んと構(かまへ)ぬる数千(すせん)の兵船も、落行(おちゆく)塩(しほ)に被誘て、遥(はるか)の澳(おき)に漂(ただよ)へり。不思議(ふしぎ)と云(いふ)も無類。義貞是(これ)を見給(たまひ)て、「伝聞(つたへきく)、後漢(ごかん)の弐師(じし)将軍は、城中に水尽(つき)渇(かつ)に被責ける時、刀を抜(ぬい)て岩石(がんぜき)を刺(さし)しかば、飛泉(ひせん)俄に湧出(わきいで)き。我朝(わがてう)の神宮皇后(じんぐうくわうぐう)は、新羅(しんら)を責給(せめたまひ)し時自(みづか)ら干珠(かんしゆ)を取(とり)、海上に抛給(なげたまひ)しかば、潮水(てうすゐ)遠(とほく)退(しりぞい)て終(つひに)戦(たたかひ)に勝(かつ)事(こと)を令得玉ふと。是(これ)皆和漢(わかん)の佳例(かれい)にして古今(ここん)の奇瑞(きずゐ)に相似(あひにた)り。進めや兵共(つはものども)。」と被下知ければ、江田(えだ)・大館(おほたち)・里見・鳥山(とりやま)・田中・羽河(はねかは)・山名(やまな)・桃井(もものゐ)の人々を始(はじめ)として、越後・上野(かうづけ)・武蔵・相摸の軍勢共(ぐんぜいども)、六万(ろくまん)余騎(よき)を一手に成(なし)て、稲村が崎の遠干潟(とほひかた)を真(ま)一文字に懸通(かけとほり)て、鎌倉中(かまくらぢゆう)へ乱入(みだれい)る。数多(あまた)の兵是(これ)を見て、後(うしろ)なる敵に懸(かか)らんとすれば、前なる寄手(よせて)迹(あと)に付(つい)て攻入(せめいら)んとす。前なる敵を欲防と、後(うしろ)の大勢道を塞(ふさい)で欲討と。進退(しんたい)失度、東西に心迷(まよう)て、墓々敷(はかばかしく)敵に向(むかつ)て、軍(いくさ)を至す事は無(なか)りけり。爰(ここ)に嶋津(しまづ)四郎と申(まうし)しは、大力(だいりき)の聞へ有(あつ)て、誠(まこと)に器量事(きりやうこと)がら人に勝(すぐ)れたりければ、御大事(おんだいじ)に逢(あひ)ぬべき者也(なり)。とて、執事(しつじ)長崎入道烏帽子々(ゑぼしご)にして一人当千と被憑たりければ、詮度(せんど)の合戦に向(むけ)んとて未(いま)だろ々の防場(ふせぎば)へは不被向、態(わざと)相摸(さがみ)入道(にふだう)の屋形(やかた)の辺(へん)にぞ被置ける。懸(かか)る処に浜の手破(やぶれ)て、源氏已(すで)に若宮小路(わかみやこうぢ)まで攻入(せめいつ)たりと騒ぎければ、相摸(さがみ)入道(にふだう)、嶋津を呼寄(よびよせ)て、自(みづか)ら酌(しやく)を取(とつ)て酒を進め三度(さんど)傾(かたぶけ)ける時、三間(さんげん)の馬屋(むまや)に被立たりける関東(くわんとう)無双(ぶさう)の名馬白浪(しらなみ)と云(いひ)けるに、白鞍(しろくら)置(おい)てぞ被引ける。見る人是(これ)を不浦山と云(いふ)事(こと)なし。嶋津、門前より此(この)馬にひたと打乗(うちのつ)て、由井浜(ゆゐのはま)の浦風に、濃紅(こきくれなゐ)の大笠注(おほかさじるし)を吹(ふき)そらさせ、三物四物(みつものよつもの)取付(とりつけ)て、あたりを払(はらう)て馳向(はせむかひ)ければ、数多(あまた)の軍勢是(これ)を見て、誠(まこと)に一騎当千の兵(つはもの)也(なり)。此(この)間執事(しつじ)の重恩(ぢゆうおん)を与へて、傍若無人(ばうじやくぶじん)の振舞(ふるまひ)せられたるも理(ことわ)り哉(かな)、と思はぬ人はなかりけり。義貞の兵是(これ)を見て、「あはれ敵や。」と罵(ののし)りければ、栗生(くりふ)・篠塚(しのづか)・畑(はた)・矢部(やべ)・堀口(ほりぐち)・由良(ゆら)・長浜を始(はじめ)として、大力の覚へ取(とつ)たる悪者(あらもの)共、我先(われさき)に彼(かの)武者と組(くん)で勝負を決せんと、馬を進めて相(あひ)近づく。両方名誉(めいよ)の大力共が、人交(ひとまぜ)もせず軍(いくさ)する、あれ見よとのゝめきて、敵御方(みかた)諸共(もろとも)に、難唾(かたづ)を呑(のう)で汗を流し、是(これ)を見物してぞ扣(ひか)へたる。懸(かか)る処に島津馬より飛(とん)で下り、甲(かぶと)を脱(ぬい)で閑々(しづしづ)と身繕(みづくろひ)をする程に、何とするぞと見居たれば、をめ/\と降参して、義貞の勢(せい)にぞ加(くはは)りける。貴賎上下(きせんじやうげ)是(これ)を見て、誉(ほめ)つる言(ことば)を翻(ひるがへ)して、悪(にく)まぬ者も無(なか)りけり。是(これ)を降人(かうにん)の始(はじめ)として、或(あるひ)は年来(としごろ)重恩(ぢゆうおん)の郎従(らうじゆう)、或(あるひ)は累代(るゐたい)奉公の家人(けにん)とも、主(しゆ)を棄(すて)て降人(かうにん)になり、親を捨(すて)て敵に付(つく)、目も不被当有様なり。凡(およそ)源平威(ゐ)を振(ふる)ひ、互に天下を争はん事も、今日を限りとぞ見へたりける。
○鎌倉(かまくら)兵火(ひやうくわの)事(こと)付長崎父子(ふし)武勇(ぶようの)事(こと) S1007
去程(さるほど)に、浜面(はもおもて)の在家(ざいけ)並(ならび)稲瀬(いなせ)河の東西に火を懸(かけ)たれば、折節(をりふし)浜風烈(はげしく)吹布(ふきしい)て、車輪(しやりん)の如くなる炎(ほのほ)、黒煙(くろけぶり)の中(なか)に飛散(とびちつ)て、十町(じつちよう)二十町(にじつちよう)が外(ほか)に燃付(もえつく)事(こと)、同時に二十(にじふ)余箇所(よかしよ)也(なり)。猛火(みやうくわ)の下より源氏の兵(つはもの)乱入(みだれいつ)て、度方(とはう)を失へる敵共(てきども)を、此彼(ここかしこ)に射伏切臥(いふせきりふせ)、或(あるひは)引組差違(ひつくんでさしちがへ)、或(あるひは)生捕分捕(いけどりぶんどり)様々(さまざま)也(なり)。煙(けぶり)に迷(まよへ)る女(をんな)・童部(わらんべ)共、被追立て火の中(なか)堀の底共(とも)不云、逃倒(にげたふ)れたる有様は、是(これ)や此(この)帝尺宮(たいしやくきゆう)の闘(たたかひ)に、修羅(しゆら)の眷属共(けんぞくども)天帝(てんてい)の為に被罰て、剣戟(けんげき)の上に倒伏(たふれふし)阿鼻大城(あびだいじやう)の罪人(ざいにん)が獄卒(ごくそつ)の槍(しもと)に被駆て、鉄湯(てつたう)の底に落入(おちい)る覧(らん)も、角(かく)やと被思知て、語るに言(ことば)も更になく、聞(きく)に哀(あはれ)を催して、皆泪(なみだ)にぞ咽(むせび)ける。去程(さるほど)に余煙(よえん)四方(しはう)より吹懸(ふきかけ)て、相摸(さがみの)入道殿(にふだうどの)の屋形(やかた)近く火懸(かか)りければ、相摸(さがみの)入道殿(にふだうどの)千(せん)余騎(よき)にて、葛西(かさい)が谷(やつ)に引篭(ひきこも)り給(たまひ)ければ、諸大将の兵(つはもの)共は、東勝寺(とうしようじ)に充満(みちみち)たり。是(これ)は父祖代々(ふそだいだい)の墳墓(ふんぼ)の地なれば、爰(ここ)にて兵共(つはものども)に防矢(ふせぎや)射させて、心閑に自害せん也(なり)。中(なか)にも長崎三郎左衛門入道思元(しげん)・子息勘解由左衛門(かげゆざゑもん)為基(ためもと)二人(ににん)は、極楽寺(ごくらくじ)の切通(きりどほし)へ向(むかつ)て、責入(せめいる)敵を支(ささへ)て防(ふせぎ)けるが、敵の時(とき)の声已(すで)に小町口(こまちぐち)に聞へて、鎌倉殿(かまくらどの)へ御屋形(おんやかた)に、火懸(かか)りぬと見へしかば、相随(あひしたが)ふ兵七千(しちせん)余騎(よき)をば、猶(なほ)本(もと)の責口(せめくち)に残(のこし)置き、父子(ふし)二人(ににん)が手勢(てぜい)六百(ろつぴやく)余騎(よき)を勝(すぐつ)て、小町口へぞ向(むかひ)ける。義貞の兵是(これ)を見て、中(なか)に取篭(とりこめ)て討(うた)んとす。長崎父子一所(いつしよ)に打(うちよせ)寄て魚鱗(ぎよりん)に連(つらなつ)ては懸破(かけやぶ)り、虎韜(こたう)に別(わかれ)ては追靡(おひなび)け、七八度が程ぞ揉(もう)だりける。義貞の兵共(つはものども)蜘手(くもで)・十文字(じふもんじ)に被懸散て、若宮小路(わかもやこうぢ)へ颯(さつ)と引(ひい)て、人馬に息をぞ継(つが)せける。懸(かか)る処に、天狗堂(てんぐだう)と扇(あふぎ)が谷(やつ)に軍(いくさ)有(あり)と覚(おぼえ)て、馬煙(むまけぶり)夥敷(おびたたしく)みへければ、長崎父子左右(さいう)へ別(わかれ)て、馳向(はせむか)はんとしけるが、子息勘解由左衛門(かげゆざゑもん)、是(これ)を限(かぎり)と思(おもひ)ければ、名残惜(なごりをし)げに立止(たちとどまつ)て、遥(はるか)に父の方(かた)を見遣(みやり)て、両眼より泪(なみだ)を浮べて、行(ゆき)も過(すぎ)ざりけるを、父屹(きつ)と是(これ)を見て、高らかに恥(はぢ)しめて、馬を扣(ひかへ)て云(いひ)けるは、「何か名残(なごり)の可惜る、独(ひとり)死(しし)て独(ひとり)生残(いきのこ)らんにこそ、再会(さいくわい)其期(そのご)も久しからんずれ。我(われ)も人も今日の日(ひ)の中(うち)に討死して、明日は又冥途(めいど)にて寄合(よりあは)んずる者が、一夜(いちや)の程の別れ、何かさまでは悲(かなし)かるべき。」と、高声(かうじやう)に申(まうし)ければ、為基(ためもと)泪(なみだ)を推拭(おしのご)ひ、「さ候はゞ疾(とく)して冥途(めいど)の旅を御急(いそぎ)候へ。死出(しで)の山路(やまぢ)にては待進(まちまゐら)せ候はん。」と云捨(いひすて)て、大勢の中(なか)へ懸入(かけいり)ける心の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。相順(あひしたがふ)兵僅(わづか)に二十(にじふ)余騎(よき)に成(なり)しかば、敵三千(さんぜん)余騎(よき)の真中(まんなか)に取篭(とりこめ)て、短兵(たんぺい)急に拉(とりひし)がんとす。為基が佩(はい)たる太刀は面影(おもかげ)と名付(なづけ)て、来(らい)太郎国行(くにゆき)が、百日精進(しやうじん)して、百貫(くわん)にて三尺(さんじやく)三寸(さんずん)に打(うつ)たる太刀なれば、此鋒(このきつさき)に廻(まは)る者、或(あるひ)は甲(かぶと)の鉢(はち)を立破(たてわり)に被破、或(あるひは)胸板(むないた)を袈裟懸(けさがけ)に切(きつ)て被落ける程に、敵皆是(これ)に被追立て、敢(あへ)て近付(ちかづく)者も無(なか)りけり。只陣を隔(へだて)て矢衾(やぶすま)を作(つくつ)て、遠矢(とほや)に射殺さんとしける間、為基(ためもとが)乗(のつ)たる馬に矢の立(たつ)事(こと)七筋(しちすぢ)也(なり)。角(かく)ては可然敵に近(ちかづい)て、組(くま)んとする事叶はじと思(おもひ)ければ、由井(ゆゐ)の浜の大鳥居(おほどりゐ)の前にて馬よりゆらりと飛(とん)で下(おり)、只一人太刀を倒(さかさま)に杖(つい)て、二王立(にわうだち)にぞ立(たつ)たりける。義貞の兵是(これ)を見て、猶(なほ)も只十方より遠矢に射計(いるばかり)にて、寄合(よせあはせ)んとする者ぞ無(なか)りける。敵を為謀手負(おう)たる真似(まね)をして、小膝(こひざ)を折(をつ)てぞ臥(ふし)たりける。爰(ここ)に誰(たれ)とは不知、輪子引両(りふごひきりやう)の笠符(かさじるし)付(つけ)たる武者(むしや)、五十(ごじふ)余騎(よき)ひし/\と打寄(うちよつ)て、勘解由左衛門(かげゆざゑもん)が頚を取(とら)んと、争ひ近付(ちかづき)ける処に、為基かはと起(おき)て太刀を取直(とりなほ)し、「何者ぞ、人の軍(いくさ)にしくたびれて、昼寝したるを驚(おどろか)すは。いで己等(おのれら)がほしがる頚取(とら)せん。」と云侭(いふまま)に、鐔本(つばもと)まで血に成(なつ)たる太刀を打振(うちふつ)て、鳴雷(なるかみ)の落懸(おちかか)る様(やう)に、大手(おほて)をはだけて追(おひ)ける間、五十(ごじふ)余騎(よき)の者共(ものども)、逸足(いちあし)を出し逃(にげ)ける間、勘解由左衛門(かげゆざゑもん)大音(だいおん)を揚(あげ)て、「何(いづ)くまで逃(にぐ)るぞ。蓬(きたな)し、返せ。と罵(ののし)る声の、只耳本(みみもと)に聞へて、日来(ひごろ)さしも早しと思(おもひ)し馬共、皆一所(いつしよ)に躍(をど)る心地(ここち)して、恐しなんど云(いふ)許(ばかり)なし。為基(ためもと)只一人懸入(かけいつ)て裏へぬけ、取(とつ)て返しては懸乱(かけみだ)し、今日を限(かぎり)と闘(たたかひ)しが、二十一日の合戦に、由比浜(ゆゐのはま)の大勢を東西南北に懸散(かけちら)し、敵・御方(みかた)の目を驚(おどろか)し、其後(そののち)は生死(しやうじ)を不知成(なり)にけり。
○大仏貞直(だいぶつさだなほ)並金沢貞将(さだまさ)討死(うちじにの)事(こと) S1008
去程(さるほど)に、大仏陸奥(むつの)守(かみ)貞直は、昨日まで二万(にまん)余騎(よき)にて、極楽寺の切通(きりどほし)を支(ささへ)て防(ふせぎ)闘ひ給(たまひ)けるが、今朝(こんてう)の浜の合戦に、三百(さんびやく)余騎(よき)に討成(うちなさ)れ、剰(あまつさへ)敵に後(うしろ)を被遮て、前後に度(ど)を失(うしなう)て御座(おはしまし)ける処に、鎌倉殿(かまくらどの)の御屋形(やかた)にも火懸(かか)りぬと見へしかば、世間(よのなか)今はさてとや思(おもひ)けん、又主(しゆ)の自害(じがい)をや勧(すす)めけん、宗徒(むねと)の郎従(らうじゆう)三十(さんじふ)余人(よにん)、白州(しらす)の上に物具(もののぐ)脱棄(ぬぎすて)て、一面に並居(なみゐ)て腹をぞ切(きり)にける。貞直是(これ)を見給(たまひ)て、「日本一(につぽんいち)の不覚(ふかく)の者共(ものども)の行跡(ふるまひ)哉(かな)。千騎(せんぎ)が一騎に成(なる)までも、敵を亡(ほろぼし)名を後代(こうだい)に残すこそ、勇士の本意とする所なれ。いでさらば最後の一合戦(ひとかつせん)快(こころよう)して、兵の義を勧めん。」とて、二百余騎(よき)の兵を相随(あひしたが)へ、先(まづ)大嶋(おほしま)・里見・額田(ぬかだ)・桃井(もものゐ)、六千余騎(よき)にて磬(ひかへ)たる真中(まんなか)へ破(わつ)て入(いり)、思(おもふ)程闘(たたかつ)て、敵数(あま)た討取(うちとつ)て、ばつと駈出(かけいで)見給へば、其(その)勢(せい)僅(わづか)に六十(ろくじふ)余騎(よき)に成(なり)にけり。貞直其(その)兵を指招(さしまねい)て、「今は末々(すゑずゑ)の敵と懸合(かけあつ)ても無益(むやく)也(なり)。」とて、脇屋義助(わきやよしすけ)雲霞(うんか)のごとくに扣(ひかへ)たる真中(まんなか)へ駈入(かけいり)、一人も不残討死して尸(かばね)を戦場の土(つち)にぞ残しける。金沢武蔵守(むさしのかみ)貞将(さだまさ)も、山内(やまのうち)の合戦に相従(あひしたが)ふ兵八百(はつぴやく)余人(よにん)被打散我(わが)身も七箇所(しちかしよ)まで疵(きず)を蒙(かうむつ)て、相摸(さがみ)入道(にふだう)の御坐(おはしま)す東勝寺(とうしようじ)へ打帰り給(たまひ)たりければ、入道不斜(なのめならず)感謝して、軈(やが)て両探題職(たんだいしよく)に可被居御教書(みげうしよ)を被成、相摸守(さがみのかみ)にぞ被移ける。貞将(さだまさ)は一家(いつけ)の滅亡(めつばう)日(ひ)の中(うち)を不過と被思けれ共(ども)、「多年の所望(しよまう)、氏族(しぞく)の規摸(きぼ)とする職なれば、今は冥途(めいど)の思出(おもひで)にもなれかし。」と、彼御教書(かのみげうしよ)を請取(うけとつ)て、又戦場へ打出(うちいで)給(たまひ)けるが、其御教書(そのみげうしよ)の裏に、「棄我百年命報公一日恩。」と大(おほ)文字に書(かい)て、是(これ)を鎧(よろひ)の引合(ひきあはせ)に入(いれ)て、大勢の中(なか)へ懸入(かけいり)、終(つひ)に討死し玉(たまひ)ければ、当家も他家(たけ)も推双(おしなべ)て、感ぜぬ者も無(なか)りけり。
○信忍(しんにん)自害(じがいの)事(こと) S1009
去程(さるほど)に普恩寺(ふおんじ)前(さきの)相摸(さがみの)入道信忍(しんにん)も、粧粧坂(けはひざか)へ被向たりしが、夜(よ)る昼(ひ)る五日の合戦に、郎従(らうじゆう)悉(ことごと)く討死して、僅(わづか)に二十(にじふ)余騎(よき)ぞ残(のこり)ける。諸方の攻口(せめくち)皆破(やぶれ)て、敵谷々(やつやつ)に入乱(いりみだれ)ぬと申(まうし)ければ、入道普恩寺討残(うちのこ)されたる若党(わかたう)諸共(もろとも)に自害(じがい)せられけるが、子息越後(ゑちごの)守(かみ)仲時(なかとき)六波羅(ろくはら)を落(おち)て、江州(がうしう)番馬(ばんば)にて腹切玉(きりたまひ)ぬと告(つげ)たりければ、其(その)最後の有様思出(おもひだ)して、哀(あはれ)に不堪や被思けん、一首(いつしゆ)の歌を御堂(みだう)の柱に血を以て書付玉(かきつけたまひ)けるとかや、待(まて)しばし死出(しで)の山辺(やまべ)の旅の道同(おなじ)く越(こえ)て浮世(うきよ)語らん年来(としごろ)嗜弄給(たしなみもてあそびたまひ)し事とて、最後の時も不忘、心中(しんちゆう)の愁緒(しうしよ)を述(のべ)て、天下の称嘆(しようたん)に残されける、数奇(すき)の程こそ優(やさし)けれと、皆感涙(かんるゐ)をぞ流しける。
○塩田父子(しほだふし)自害(じがいの)事(こと) S1010
爰(ここ)に不思議(ふしぎ)なりしは、塩田陸奥(むつの)入道々祐(だういう)が子息民部大輔(みんぶのたいふ)俊時(としとき)、親の自害(じがい)を勧(すすめ)んと、腹掻切(かききつ)て目前(めのまへ)に臥(ふし)たりけるを見給(たまひ)て、幾程(いくほど)ならぬ今生(こんじやう)の別(わかれ)に目くれ心迷(まよひ)て落(おつ)る泪(なみだ)も不留、先立(さきだち)ぬる子息の菩提(ぼだい)をも祈り、我逆修(わがぎやくしゆ)にも備へんとや被思けん、子息の尸骸(しがい)に向(むかつ)て、年来(としごろ)誦給(よみたまひ)ける持経(ぢきやう)の紐(ひぼ)を解(とき)、要文(えうもん)処々(ところどころ)打上(うちあげ)、心閑(しづか)に読誦(どくじゆ)し給(たまひ)けり。被打漏たる郎等共(らうどうども)、主(しゆ)と共に自害(じがい)せんとて、二百余人(よにん)並居(なみゐ)たりけるを、三方(さんぱう)へ差遣(さしつかは)し、「此(この)御経誦終(よみはつ)る程防矢(ふせぎや)射よ。」と下地(げぢ)せられけり。其(その)中に狩野(かのの)五郎重光許(しげみつばかり)は年来(としごろ)の者なる上、近々召仕(めしつかは)れければ、「吾(われ)腹切(きつ)て後(のち)、屋形(やかた)に火懸(かけ)て、敵に頚とらすな。」と云含(いひふく)め、一人被留置けるが、法花経(ほけきやう)已(すで)に五の巻の提婆品(だいばほん)はてんとしける時、狩野(かのの)五郎門前(もんぜん)に走出(はしりいで)て四方(しはう)を見る真似(まね)をして、「防矢仕(ふせぎやつかま)つる者共(ものども)早(はや)皆討(うた)れて、敵攻近付(せめちかづき)候。早々(はやはや)御自害(ごじがい)候へ。」と勧(すすめ)ければ、入道、「さらば。」とて、経(きやう)をば左の手に握り、右の手に刀を抜(ぬい)て腹十文字(じふもんじ)に掻切(かききつ)て、父子同(おなじ)枕にぞ臥給(ふしたまひ)ける。重光(しげみつ)は年来(としごろ)と云(いひ)、重恩(ぢゆうおん)と云(いひ)、当時遺言(ゆゐごん)旁(かたがた)難遁ければ、軈(やが)て腹をも切らんずらんと思(おもひ)たれば、さは無(なく)て、主(しゆ)二人(ににん)の鎧(よろひ)・太刀・々剥(かたなはぎ)、家中の財宝(ざいはう)中間(ちゆうげん)・下部(しもべ)に取持(とりもた)せて、円覚寺(ゑんがくじ)の蔵主寮(ざうすれう)にぞ隠居(かくれゐ)たりける。此重宝共(このちようはうども)にては、一期(いちご)不足(ふそく)非(あら)じと覚(おぼえ)しに、天罰にや懸(かか)りけん。舟田(ふなだ)入道是(これ)を聞付(ききつけ)て推寄(おしよ)せ、是非なく召捕(めしとつ)て、遂(つひ)に頚を刎(はね)て、由井(ゆゐ)の浜にぞ掛(かけ)られける。尤(もつとも)角(かう)こそ有(あり)たけれとて、悪(にくま)ぬ者も無(なか)りけり。
○塩飽(しあく)入道自害(じがいの)事(こと) S1011
塩飽(しあく)新左近(さこんの)入道聖遠(しやうゑん)は、嫡子(ちやくし)三郎左衛門忠頼(ただより)を呼(よび)、「諸方(しよはう)の攻口悉(ことごとく)破(やぶれ)、御一門達(ごいちもんたち)大略(たいりやく)腹切(きら)せ給(たまふ)と聞へければ、入道も守殿(かうのとの)に先立進(さきだちまゐらせ)て、其(その)忠義を知られ奉らんと思(おもふ)也(なり)。されば御辺(ごへん)は未だ私(わたくし)の眷養(けんやう)にて、公方(くばう)の御恩(ごおん)をも蒙(かうむ)らねば、縦(たと)ひ一所にて今命(いのち)を不棄共(とも)、人強(あながち)義(ぎ)を知(しら)ぬ者とはよも思はじ。然者(しかれば)何(いづ)くにも暫(しばら)く身を隠し、出家遁世(しゆつけとんせい)の身ともなり、我後生(わがごしやう)をも訪(とぶら)ひ、心安く一身(いつしん)の生涯をもくらせかし。」と、泪(なみだ)の中(うち)に宣(のたま)ひければ、三郎左衛門忠頼(ただより)も、両眼に泪(なみだ)を浮(うか)め、しば/\物も不被申けるが、良有(ややあつ)て、「是(これ)こそ仰(おほせ)共(とも)覚(おぼえ)候はね。忠頼直(ぢき)に公方(くばう)の御恩を蒙りたる事は候はね共(ども)、一家(いつけ)の続命(ぞくみやう)悉(ことごと)く是(これ)武恩に非(あらず)と云(いふ)事(こと)なし。其(その)上(うへ)忠頼自幼少釈門(しやくもん)に至る身ならば、恩を棄(すて)て無為(ぶゐ)に入る道も然(しか)なるべし。苟(いやしく)も弓矢の家に生れ、名を此門棄(このもんえふ)に懸(かけ)ながら、武運の傾(かたむく)を見て、時の難(なん)を遁(のが)れんが為に、出塵(しゆつぢん)の身と成(なつ)て、天下の人に指を差(ささ)れん事(こと)、是(これ)に過(すぎ)たる恥辱(ちじよく)や候べき。御腹(おんはら)被召(めされ)候はゞ、冥途(めいど)の御道しるべ仕(つかまつり)候はん。」と云(いひ)も終(はて)ず、袖の下より刀を抜(ぬい)て、偸(ひそか)に腹に突立(つきたて)て、畏(かしこまつ)たる体(てい)にて死(しに)ける。其弟(そのおとと)塩飽(しあく)四郎是(これ)を見て、続(つづい)て腹を切らんとしけるを、父の入道大(おほき)に諌(いさめ)て、「暫く吾を先立(さきだてて)、順次(じゆんじ)の孝を専(もつぱら)にし、其後(そののち)自害せよ。」と申(まうし)ければ、塩飽(しあく)四郎抜(ぬい)たる刀を収(をさめ)て、父の入道が前に畏(かしこまつ)てぞ侯(さふらひ)ける。入道是(これ)を見て快(こころよ)げに打笑(うちわらひ)、閑々(しづしづ)と中門(ちゆうもん)に曲■(きよくろく)をかざらせて、其(その)上(うへ)に結跏趺座(けつかふざ)し、硯(すずり)取寄(とりよせ)て自ら筆を染め、辞世(じせい)の頌(じゆ)をぞ書(かき)たりける。提持吹毛。截断虚空。大火聚裡(たいくわじゆり)。一道清風(いちだうのせいふう)。と書(かい)て、叉手(しやす)して頭(くび)を伸(のべ)て、子息四郎に、「其討(それうて)。」と下地(げぢ)しければ、大膚脱(おほはだぬぎ)に成(なつ)て、父の頚をうち落(おとし)て、其(その)太刀を取直(とりなほし)て、鐔本(つばもと)まで己(おの)れが腹に突貫(つきつらぬい)て、うつぶしざまにぞ臥(ふし)たりける。郎等(らうどう)三人(さんにん)是(これ)を見て走寄(はしりよ)り、同(おなじ)太刀に被貫て、串(くし)に指(さし)たる魚肉(ぎよにく)の如く頭(かうべ)を連(つらね)て伏(ふし)たりける。
○安東(あんどう)入道自害(じがいの)事(こと)付漢(かんの)王陵(わうりようが)事(こと) S1012
安東左衛門入道聖秀(しやうしう)と申(まうせ)しは、新田(につた)義貞の北台(きたのだい)の伯父(をぢ)成(なり)しかば、彼(かの)女房義貞(よしさだ)の状に我文(わがふみ)を書副(かきそへ)て、偸(ひそか)に聖秀(しやうしう)が方へぞ被遣ける。安東、始(はじめ)は三千(さんぜん)余騎(よき)にて、稲瀬河(いなせがは)へ向(むかひ)たりけるが、世良田(せらだ)太郎が稲村崎(いなむらがさき)より後(うしろ)へ回(まは)りける勢(せい)に、陣を被破て引(ひき)けるが、由良(ゆら)・長浜が勢に被取篭て百余騎(よき)に被討成、我(わが)身も薄手(うすで)あまた所負(おう)て、己(おの)が館(たち)へ帰(かへつ)たりけるが、今朝(こんてう)巳刻(みのこく)に、宿所は早(はや)焼(やけ)て其跡(そのあと)もなし。妻子遣属(さいしけんぞく)は何(いづ)ちへか落行(おちゆき)けん、行末(ゆくへ)も不知成(なつ)て、可尋問人もなし。是(これ)のみならず、鎌倉殿(かまくらどの)の御屋形(おんやかた)も焼(やけ)て、入道殿(にふだうどの)東勝寺へ落(おち)させ給(たまひ)ぬと申(まうす)者有(あり)ければ、「さて御屋形(おんやかた)の焼跡(やけあと)には、傍輩(はうばい)何様(なにさま)腹切(きり)討死してみゆるか。」と尋(たづね)ければ、「一人も不見候。」とぞ答(こたへ)ける。是(これ)を聞(きい)て安東(あんどう)、「口惜(くちをしき)事(こと)哉(かな)。日本国の主(あるじ)、鎌倉殿(かまくらどの)程の年来(としごろ)住給(すみたまひ)し処を敵の馬の蹄(ひづめ)に懸(かけ)させながら、そこにて千人も二千人(にせんにん)も討死する人の無(なか)りし事よと、後(のち)の人々に被欺事こそ恥辱なれ。いざや人々、とても死せんずる命(いのち)を、御屋形(やかた)の焼跡(やけあと)にて心閑(しづか)に自害(じがい)して、鎌倉殿(かまくらどの)の御恥(はぢ)を洗(すす)がん。」とて、被討残たる郎等(らうどう)百余騎(よき)を相順(あひしたが)へて、小町口(こまちぐち)へ打莅(うちのぞ)む。先々(さきざき)出仕(しゆつし)の如く、塔辻(たふのつじ)にて馬より下(お)り、空(むなし)き迹(あと)を見廻(みまは)せば、今朝までは、奇麗(きれい)なる大廈高牆(たいかかうしやう)の構(かまへ)、忽(たちまち)に灰燼(くわいじん)と成(なつ)て、須臾転変(しゆゆにてんべん)の煙(けむり)を残し、昨日まで遊戯(あそびたはむれ)せし親類(しんるゐ)朋友も、多く戦場に死して、盛者必衰(しやうじやひつすゐ)の尸(かばね)を余(のこ)せり。悲(かなしみ)の中(うち)の悲(かなしみ)に、安東泪(なみだ)を押(おさ)へて惘然(ばうぜん)たる処に、新田殿(につたどの)の北(きた)の台(だい)の御使(おんつかひ)とて、薄様(うすやう)に書(かき)たる文(ふみ)を捧(ささげ)たり。何事ぞとて披見(ひらきみ)れば、「鎌倉(かまくら)の有様今はさてとこそ承(うけたまはり)候へ。何(いか)にもして此方(こなた)へ御出(おんいで)候へ。此(この)程の式(しき)をば身に替(かへ)ても可申宥候。」なんど、様々(さまざま)に書(かか)れたり。是(これ)を見て安東大(おほき)に色を損(そん)じて申(まうし)けるは、「栴檀(せんだん)の林に入(いる)者は、不染衣(ころも)自(おのづか)ら香(かうば)しといへり。武士(ぶし)の女房たる者は、けなげなる心を一つ持(もち)てこそ、其(その)家をも継(つぎ)子孫の名をも露(あらは)す事なれ。されば昔漢(かん)の高祖(かうそ)と楚(その)項羽(かうう)と闘(たたかひ)ける時、王陵(わうりよう)と云(いふ)者城を構(かまへ)て篭(こもつ)たりしを、楚(そ)是(これ)を攻(せむ)るに更に不落。此(この)時楚の兵相謀(あひはかつ)て云(いはく)、「王陵は母の為に忠孝を存(ぞん)ずる事不浅。所詮(しよせん)王陵が母を捕(とら)へて楯(たて)の面(おもて)に当(あて)て城を攻(せむ)る程ならば、王陵矢を射る事を不得して降人(かうにん)に出(いづ)る事可有。」とて潛(ひそか)に彼(かの)母を捕(とらへ)てけり。彼(かの)母心の中(うち)に思(おもひ)けるは、王陵我(われ)に仕(つかふ)る事大舜(たいしゆん)・曾参(そうしん)が高孝(かうかう)にも過(すぎ)たり。我(われ)若(もし)楯(たて)の面(おもて)に被縛城に向ふ程ならば、王陵悲(かなしみ)に不堪して、城を被落事可有。不如無幾程命を為子孫捨んにはと思定(おもひさだめ)て、自(みづから)剣(けん)の上に死(しし)てこそ、遂に王陵が名をば揚(あげ)たりしか。我(われ)只今まで武恩(ぶおん)に浴(よく)して、人に被知身となれり。今事の急なるに臨(のぞん)で、降人(かうにん)に出(いで)たらば、人豈(あに)恥を知(しつ)たる者と思はんや。されば女性心(によしやうごころ)にて縦(たとひ)加様(かやう)の事を被云共(とも)、義貞勇士(ゆうし)の義(ぎ)を知給(しりたまは)ば、さる事やあるべき、可被制。又義貞縱(たとひ)敵の志(こころざし)を計らん為に宣(のたま)ふ共、北方(きたのかた)は我方様(わがかたさま)の名を失(うしな)はじと思はれば、堅(かたく)可被辞、只(ただ)似るを友とする方見(うたて)さ、子孫の為に不被憑。」と、一度(ひとたび)は恨(うらみ)一度(いちど)は怒(いかつ)て、彼(かの)使の見る前にて、其文(そのふみ)を刀に拳(にぎ)り加へて、腹掻切(かききつ)てぞ失給(うせたまひ)ける。
○亀寿殿(かめじゆどの)令落信濃事付左近(さこんの)大夫偽(いつはつて)落奥州事 S1013
爰(ここ)に相摸(さがみ)入道(にふだう)殿(どの)の舎弟(しやてい)四郎左近(さこんの)大夫(たいふ)入道の方(かた)に候(さふらひ)ける諏方(すは)左馬(さまの)助(すけ)入道が子息、諏訪(すは)三郎盛高(もりたか)は、数度(すど)の戦(たたかひ)に郎等(らうどう)皆討(うた)れぬ。只主従(しゆうじゆう)二騎に成(なつ)て、左近(さこんの)大夫(たいふ)入道の宿所に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「鎌倉中(かまくらぢゆう)の合戦、今は是(これ)までと覚(おぼえ)て候間、最後の御伴(おんとも)仕(つかまつり)候はん為に参(まいつ)て候。早(はや)思召切(おぼしめしきら)せ給へ。」と進め申(まうし)ければ、入道当(あた)りの人をのけさせて、潛(ひそか)に盛高が耳に宣(のたま)ひけるは、「此乱(このらん)不量出来(いできて)、当家(たうけ)已(すで)に滅亡(めつばう)しぬる事更に他なし。只相摸(さがみ)入道(にふだう)殿(どの)の御振舞(おんふるまひ)人望にも背(そむ)き神慮にも違(ちがひ)たりし故(ゆゑ)也(なり)。但(ただ)し天縦(たと)ひ驕(おごり)を悪(にく)み盈(みてる)を欠(かく)とも、数代(すだい)積善(しやくぜん)の余慶(よけい)家に尽(つき)ずば、此(この)子孫の中に絶(たえ)たるを継ぎ廃(すたれ)たるを興(おこ)す者無(なか)らんや。昔斉(せい)の襄公(じやうこう)無道(ぶだう)なりしかば、斉の国可亡を見て、其(その)臣に鮑叔牙(はうしゆくが)と云(いひ)ける者、襄公(じやうこう)の子小伯(せうはく)を取(とつ)て他国へ落(おち)てげり。其(その)間に襄公(じやうこう)果して公孫無智(こうそんぶち)に被亡、斉の国を失へり。其(その)時に鮑叔牙(はうしゆくが)小伯を取立(とりたて)て、斉の国へ推寄(おしよせ)、公孫無智(こうそんぶち)を討(うつ)事(こと)を得て遂に再び斉の国を保(たも)たせける。斉の桓公(くわんこう)は是(これ)也(なり)。されば於我深く存(ぞん)ずる子細(しさい)あれば、無左右自害する事不可有候。可遁ば再び会稽(くわいけい)の恥を雪(きよめ)ばやと思ふ也(なり)。御辺(ごへん)も能々(よくよく)遠慮(ゑんりよ)を回(めぐら)して、何(いか)なる方にも隠忍(かくれしのぶ)歟(か)、不然ば降人に成(なつ)て命(いのち)を継(つい)で、甥(をひ)にてある亀寿(かめじゆ)を隠置(かくしおい)て、時至(いたり)ぬと見ん時再び大軍を起して素懐(そくわい)を可被遂。兄の万寿(まんじゆ)をば五大院(ごだいゐん)の右衛門に申付(まうしつけ)たれば、心安く覚(おぼゆ)る也(なり)。」と宣(のたま)へば、盛高泪(なみだ)を押(おさ)へて申(まうし)けるは、「今までは一身(いつしん)の安否(あんぴ)を御一門(ごいちもん)の存亡(ぞんばう)に任候(まかせさふらひ)つれば、命をば可惜候はず。御前(おんまへ)にて自害仕(じがいつかまつつ)て、二心(ふたごころ)なき程を見へ進(まゐら)せ候はんずる為にこそ、是(これ)まで参(まいつ)て候へ共(ども)、「死を一時に定(さだむ)るは易(やす)く、謀(はかりごと)を万代(ばんだい)に残すは難(かた)し」と申(まうす)事(こと)候へば、兎(と)も角(かう)も仰(おほせ)に可随候。」とて、盛高(もりたか)は御前(おんまへ)を罷立(まかりたつ)て、相摸殿(さがみどの)の妾(おもひびと)、二位殿(にゐどの)の御局(おつぼね)の扇(あふぎ)の谷(やつ)に御坐(おはしまし)ける処へ参(まゐり)たりければ、御局(おつぼね)を始進(はじめまゐら)せて、女房達(にようばうたち)まで誠(まこと)に嬉し気(げ)にて、「さても此(この)世の中は、何(なに)と成行(なりゆく)べきぞや。我等(われら)は女なれば立隠(たちかく)るゝ方(かた)も有(あり)ぬべし。此(この)亀寿(かめじゆ)をば如何(いかが)すべき。兄の万寿をば五大院(ごだいゐんの)右衛門可蔵方(かた)有(あり)とて、今朝(こんてう)何方(いづかた)へやらん具足(ぐそく)しつれば心安く思(おもふ)也(なり)。只此(この)亀寿(かめじゆ)が事思煩(おもひわづらう)て、露の如(ごとく)なる我(わが)身さへ、消侘(きえわび)ぬるぞ。」と泣口説(なきくどき)給ふ。盛高此(この)事(こと)有(あり)の侭(まま)に申(まうし)て、御心(おんこころ)をも慰め奉らばやとは思ひけれども、女性(によしやう)はゝかなき者なれば、後(のち)にも若(もし)人に洩(もら)し給ふ事もやと思返(おもひかへ)して、泪(なみだ)の中(うち)に申(まうし)けるは、「此世中(このよのなか)今はさてとこそ覚(おぼえ)候へ。御一門(ごいちもん)太略(たいりやく)御自害(おんじがい)候なり。大殿計(おおとのばかり)こそ未(いまだ)葛西谷(かさいのやつ)に御座(ござ)候へ。公達(きんだち)を一目(ひとめ)御覧じ候(さふらひ)て、御腹(おんはら)を可被召と仰(おほせ)候間、御迎(むかひ)の為に参(まゐり)て候。」と申(まうし)ければ、御局うれし気(げ)に御座(おはしまし)つる御気色(ごきしよく)、しほ/\と成(なら)せ給(たまひ)て、「万寿をば宗繁(むねしげ)に預けつれば心安し、構(かまへ)て此(この)子をも能々(よくよく)隠してくれよ。」と仰(おほ)せも敢(あへ)ず、御泪(おんなみだ)に咽(むせ)ばせ給(たまひ)しかば、盛高(もりたか)も岩木(いはき)ならねば、心計(ばかり)は悲しけれ共(ども)、心を強く持(もつ)て申(まうし)けるは、「万寿御料(ごれう)をも五大院(ごだいゐんの)右衛門宗繁(むねしげ)が具足(ぐそく)し進(まゐら)せ候(さふらひ)つるを、敵見付(みつけ)て追懸進(おつかけまゐら)せ候(さふらひ)しかば、小町口(こまちぐち)の在家(ざいけ)に走入(はしりいつ)て、若子(わかご)をば指殺(さしころ)し進(まゐら)せ、我(わが)身も腹切(きつ)て焼死候(やけしにさふらひ)つる也(なり)。あの若御(わかご)も今日此(この)世の御名残(なごり)、是(これ)を限(かぎり)と思召(おぼしめし)候へ。とても隠れあるまじき物故(ものゆゑ)に、狩場(かりば)の雉(きじ)の草隠(くさがくれ)たる有様にて、敵にさがし出(いだ)されて、幼(をさな)き御尸(おんかばね)に、一家(いつけ)の御名(おんな)を失(うしなは)れん事口惜(くちをしく)候。其(それ)よりは大殿(おほとの)の御手(おんて)に懸(かけ)られ給(たまひ)て冥途(めいど)までも御伴(おんとも)申させ給(たまひ)たらんこそ、生々世々(しやうじやうせぜ)の忠孝にて御座(ござ)候はん。疾々(とくとく)入進(いりまゐら)せ給へ。」と進めければ、御局(おつぼね)を始進(はじめまゐら)せて、御乳母(おんめのと)の女房達(にようばうたち)に至るまで、「方見(うたて)の事を申(まうす)者哉(かな)。せめて敵の手に懸(かか)らば如何(いかが)せん。二人(ににん)の公達(きんだち)を懐存進(いだきそだてまゐらせ)つる人々の手に懸(かけ)て失ひ奉らんを見聞(みきき)ては、如何許(いかばかり)とか思遣(おもひや)る。只我(われ)を先(まづ)殺して後(のち)、何とも計(はから)へ。」とて、少人(をさなきひと)の前後(ぜんご)に取付(とりつい)て、声も不惜泣悲(なきかなしみ)給へば、盛高(もりたか)も目くれ、心消々(きえぎえ)と成(なり)しか共(ども)、思切(おもひき)らでは叶(かなう)まじと思(おもひ)て、声(こゑを)いらゝげ色を損(そんじ)て、御局(おつぼね)を奉睨、「武士の家に生れん人、襁(むつき)の中(うち)より懸(かか)る事可有と思召(おぼしめさ)れぬこそうたてけれ。大殿(おほとの)のさこそ待思召(まちおぼしめし)候覧(らん)。早(はや)御渡(おんわたり)候(さふらひ)て、守殿(かうのとの)の御伴(おんとも)申させ給へ。」と云侭(いふまま)に走懸(はしりかか)り、亀寿殿(かめじゆどの)を抱取(だきとつ)て、鎧(よろひ)の上に舁負(かいおう)て、門より外(そと)へ走出(はしりいづ)れば、同音(どうおん)にわつと泣(なき)つれ玉(たまひ)し御声々(おんこゑごゑ)、遥(はるか)の外所(よそ)まで聞へつゝ、耳の底に止(とどま)れば、盛高も泪(なみだ)を行兼(せきかね)て、立返(たちかへつ)て見送(みおくれ)ば、御乳母(おんめのと)の御妻(おさい)は、歩跣(かちはだし)にて人目をも不憚走出(はしりいで)させ給(たまひ)て、四五町(しごちやう)が程は、泣(ない)ては倒れ、倒(たふれ)ては起(おき)迹(あと)に付(つい)て被追けるを、盛高(もりたか)心強(つよく)行方(ゆきかた)を知(しら)れじと、馬を進めて打(うつ)程に後影(うしろかげ)も見へず成(なり)にければ、御妻(おさい)、「今は誰(たれ)をそだて、誰を憑(たのん)で可惜命ぞや。」とて、あたりなる古井(ふるゐ)に身を投(なげ)て、終(つひ)に空(むなし)く成(なり)給ふ。其(その)後盛高(もりたか)此若公(このわかぎみ)を具足(ぐそく)して、信濃へ落下(おちくだ)り、諏訪(すは)の祝(はふり)を憑(たのん)で有(あり)しが、建武元年の春(はる)の比(ころ)、暫(しばらく)関東(くわんとう)を劫略(こふりやく)して、天下の大軍を起し、中前代(なかせんだい)の大将に、相摸二郎と云(いふ)は是(これ)なり。角(かう)して四郎左近(さこんの)太夫入道は、二心(ふたごころ)なき侍共を呼寄(よびよせ)て「我は思様(おもふやう)有(あつ)て、奥州(あうしう)の方へ落(おち)て、再び天下を覆(くつがへ)す計(はかりごと)を可回也(なり)。南部(なんぶの)太郎・伊達(だての)六郎二人(ににん)は、案内(あんない)者なれば可召具。其外(そのほか)の人々は自害(じがい)して屋形(やかた)に火をかけ、我は腹を切(きつ)て焼死(やけしに)たる体(てい)を敵に可見。」と宣(のたまひ)ければ、二十(にじふ)余人(よにん)の侍共、一義(いちぎ)にも不及、「皆御定(ごぢやう)に可随。」とぞ申(まうし)ける。伊達(だて)・南部(なんぶ)二人(ににん)は、貌(かたち)をやつし夫(ぶ)になり、中間(ちゆうげん)二人(ににん)に物具(もののぐ)きせて馬にのせ、中黒(なかぐろ)の笠符(かさじるし)を付(つけ)させ、四郎入道を■(あをだ)に乗(のせ)て、血の付(つい)たる帷(かたびら)を上に引覆(ひきおほ)ひ、源氏の兵(つはもの)の手負(ておう)て本国へ帰る真以(まね)をして、武蔵までぞ落(おち)たりける。其後(そののち)残置(のこしおい)たる侍共、中門に走出(はしりいで)、「殿(との)は早(はや)御自害(ごじがい)有(ある)ぞ。志の人は皆御伴(おんとも)申せ。」と呼(よばはつ)て、屋形に火を懸(かけ)、忽(たちまち)に煙(けむり)の中に並居(なみゐ)て、二十(にじふ)余人(よにん)の者共(ものども)は、一度(いちど)に腹をぞ切(きつ)たりける。是(これ)を見て、庭上・門外(もんぐわい)に袖を連(つら)ねたる兵共(つはものども)三百(さんびやく)余人(よにん)、面々(めんめん)に劣(おとら)じ々(おとら)じと腹切(きつ)て、猛火(みやうくわ)の中へ飛(とん)で入(いり)、尸(かばね)を不残焼死(やけしに)けり。さてこそ四郎左近(さこんの)太夫入道の落給(おちたまひ)ぬる事をば不知して、自害(じがい)し給(たまひ)ぬと思(おもひ)けれ。其後(そののち)西園寺の家に仕へて、建武の比(ころ)京都の大将にて、時興(ときおき)と被云しは、此(この)入道の事也(なり)けり。
○長崎高重(たかしげ)最期(さいご)合戦(かつせんの)事(こと) S1014
去程(さるほど)に長崎次郎高重は、始(はじめ)武蔵野の合戦より、今日に至るまで、夜昼(よるひる)八十(はちじふ)余箇度(よかど)の戦(たたかひ)に、毎度(まいど)先(さき)を懸(かけ)、囲(かこみ)を破(やぶつ)て自(みづから)相当る事(こと)、其数(そのかず)を不知然(しか)ば、手者(てのもの)・若党(わかたう)共次第に討亡(うちほろぼ)されて、今は僅(わづか)に百五十騎に成(なり)にけり。五月二十二日に、源氏早(はや)谷々(やつやつ)へ乱入(みだれいつ)て、当家の諸大将、太略皆討(うた)れ給(たまひ)ぬと聞へければ、誰(た)が堅(かた)めたる陣とも不云、只敵の近づく処へ、馳合々々(はせあはせはせあはせ)、八方の敵を払(はらつ)て、四隊の堅(かた)めを破(やぶり)ける間、馬疲れぬれば乗替(のりかへ)、太刀打折(うちを)れば帯替(はきかへ)て、自(みづから)敵を切(きつ)て落す事三十二人(さんじふににん)、陣を破る事八箇度(はちかど)なり。角(かく)て相摸(さがみ)入道(にふだう)の御坐(おはします)葛西谷(かさいのやつ)へ帰り参(まゐつ)て、中門(ちゆうもん)に畏(かしこま)り泪(なみだ)を流し申(まうし)けるは、「高重数代(すだい)奉公の義(ぎ)を忝(かたじけなう)して、朝夕恩顔(おんがん)を拝(はい)し奉りつる御名残(おんなごり)、今生(こんじやう)に於ては今日を限りとこそ覚へ候へ。高重一人数箇所(すかしよ)の敵を打散(うちちらし)て、数度(すど)の闘(たたかひ)に毎度(まいど)打勝(うちかち)候といへ共(ども)、方々(はうばう)の口々(くちくち)皆責破(せめやぶ)られて、敵の兵(つはもの)鎌倉中(かまくらぢゆう)に充満(じゆうまん)して候(さふらひ)ぬる上は、今は矢長(やたけ)に思(おもふ)共不可叶候。只一筋(ひとすぢ)に敵の手に懸(かか)らせ給はぬ様(やう)に、思召定(おぼしめしさだめ)させ給(たまひ)候へ。但し高重帰参(かへりさんじ)て勧(すすめ)申さん程は、無左右御自害(ごじがい)候な。上(うへ)の御存命(ごぞんめい)の間に、今一度(いちど)快(こころよ)く敵の中(なか)へ懸入(かけいり)、思(おもふ)程の合戦して冥途(めいど)の御伴(おんとも)申さん時の物語に仕(つかまつり)候はん。」とて、又東勝寺を打出(うちい)づ。其後影(そのうしろかげ)を相摸入道(さがみにふだう)遥(はるか)に目送玉(みおくりたまひ)て、是(これ)や限(かぎり)なる覧(らん)と名残惜(なごりをし)げなる体(てい)にて、泪(なみだ)ぐみてぞ被立たる。長崎次郎甲(よろひ)をば脱捨(ぬぎすて)、筋(すぢ)の帷(かたびら)の月日(つきひ)推(おし)たるに、精好(せいがう)の大口(おほくち)の上に赤糸(あかいと)の腹巻(はらまき)着(き)て小手(こて)をば不差、兎鶏(とけい)と云(いひ)ける坂東(ばんどう)一の名馬に、金具(かながひ)の鞍(くら)に小総(こふさ)の鞦(しりがひ)懸(かけ)てぞ乗(のつ)たりける。是(これ)を最後と思定(おもひさだめ)ければ、先(まづ)崇寿寺(そうじゆじ)の長老南山和尚(なんざんをしやう)に参じて、案内申(まうし)ければ、長老威儀(ゐぎ)を具足(ぐそく)して出合(いであひ)給へり。方々(はうばう)の軍(いくさ)急にして甲冑を帯したりければ、高重は庭に立(たち)ながら、左右(さいう)に揖(いふ)して問(とつ)て曰(いはく)、「如何(いかなる)是(これ)勇士恁麼(いんも)の事(じ)。」和尚答曰(こたへていはく)、「吹毛(すゐもう)急(きふに)用(もちゐて)不如前。」高重此(この)一句を聞(きい)て、問訊(もんじん)して、門前より馬引寄(ひきよせ)打乗(うちのつ)て、百五十騎の兵(つはもの)を前後(ぜんご)に相随(あひしたが)へ、笠符(かさじるし)かなぐり棄(すて)、閑(しづか)に馬を歩(あゆませ)て、敵陣に紛入(まぎれいる)。其(その)志偏(ひとへ)に義貞に相近付(あひちかづか)ば、撲(うつ)て勝負を決せん為也(なり)。高重(たかしげ)旗をも不指、打物(うちもの)の室(さや)をはづしたる者無ければ、源氏の兵(つはもの)、敵とも不知けるにや、をめ/\と中(なか)を開(ひらい)て通しければ、高重、義貞に近(ちかづ)く事僅(わづか)に半町計(ばかり)也(なり)。すはやと見ける処に、源氏の運や強かりけん、義貞の真前(まつさき)に扣(ひかへ)たりける由良(ゆら)新左衛門(しんざゑもん)是(これ)を見知(みしつ)て、「只今旗をも不指相近勢(あひちかづくせい)は長崎次郎と見(みる)ぞ。さる勇士なれば定(さだめ)て思(おもふ)処有(あつ)てぞ是(これ)までは来(きたる)らん。あますな漏(もら)すな。」と、大音(だいおん)挙(あげ)て呼(よばは)りければ、先陣に磬(ひかへ)たる武蔵の七党(しちたう)三千(さんぜん)余騎(よき)、東西より引裹(ひつつつん)で真中(まんなか)に是(これ)を取込(とりこめ)、我(われ)も々(われ)もと討(うた)んとす。高重は支度(したく)相違しぬと思(おもひ)ければ、百五十騎の兵を、ひし/\と一所へ寄(よせ)て、同音(どうおん)に時(とき)をどつと揚(あげ)、三千(さんぜん)余騎(よき)の者共(ものども)を懸抜懸入交合(かけぬけかけいりまじりあひ)、彼(かしこ)に露(あらは)れ此(ここ)に隠れ、火を散(ちら)してぞ闘(たたかひ)ける。聚散離合(しゆさんりがふ)の有様は須臾(しゆゆ)に反化(へんくわ)して前に有(ある)歟(か)とすれば忽焉(こつえん)として後(しり)へにある。御方(みかた)かと思へば屹(きつ)として敵也(なり)。十方に分身(ぶんしん)して、万卒に同(おなじ)く相当(あひあた)りければ、義貞の兵高重(たかしげ)が在所(ありか)を見定(みさだめ)ず、多くは同士打(どしうち)をぞしたりける。長浜六郎是(これ)を見て「無云甲斐人々の同士打(どしうち)哉(かな)、敵は皆笠符(かさじるし)を不付とみへつるぞ、中(なか)に紛(まぎ)れば、其(それ)を符(しるし)にして組(くん)で討(うて)。」と下地(げぢ)しければ、甲斐・信濃・武蔵・相摸の兵共(つはものども)、押双(おしならべ)てはむずと組(くみ)、々(くん)で落(おち)ては首を取(とる)もあり、被捕もあり、芥塵(かいぢん)掠天、汗血(かんけつ)地を糢糊(もご)す。其在様(そのありさま)項王(かうわう)が漢の三将を靡(なびか)し魯陽(ろやう)が日を三舎(さんしや)に返(かへ)し闘(たたかひ)しも、是(これ)には不過とぞ見へたりける。され共(ども)長崎次郎は未(いまだ)被討、主従只八騎に成(なつ)て戦(たたかひ)けるが、猶(なほ)も義貞に組(くま)んと伺(うかがう)て近付(ちかづく)敵を打払(うちはらひ)、動(ややもす)れば差違(さしちがへ)て、義貞兄弟を目に懸(かけ)て回(まは)りけるを、武蔵国の住人(ぢゆうにん)横山(よこやまの)太郎重真(しげざね)、押隔(おしへだて)て是(これ)に組(くま)んと、馬を進めて相近(あひちか)づく。長崎もよき敵ならば、組(くま)んと懸合(かけあつ)て是(これ)を見るに、横山(よこやまの)太郎重真(しげざね)也(なり)。さてはあはぬ敵ぞと思(おもひ)ければ、重真を弓手(ゆんで)に相受(あひうけ)、甲(かぶと)の鉢(はち)を菱縫(ひしぬひ)の板まで破着(わりつけ)たりければ、重真二(ふた)つに成(なつ)て失(うせ)にけり。馬もしりゐに被打居て、小膝(こひざ)を折(をつ)てどうど伏す。同国(どうごく)の住人(ぢゆうにん)庄(しやうの)三郎為久(ためひさ)是(これ)を見て、よき敵也(なり)。と思(おもひ)ければ、続(つづい)て是(これ)に組(くま)んとす。大手をはだけて馳懸(はせかか)る。長崎遥(はるか)に見て、から/\と打笑(うちわらう)て、「党(たう)の者共(ものども)に可組ば、横山をも何かは可嫌。逢(あは)ぬ敵を失ふ様(さま)、いで/\己(おのれ)に知(しら)せん。」とて、為久(ためひさ)が鎧の上巻(あげまき)掴(つかん)で中(ちゆう)に提(ひつさ)げ、弓杖(ゆんづゑ)五杖(いつつゑ)計(ばかり)安々(やすやす)と投渡(なげわた)す。其人飛礫(そのひとつぶて)に当りける武者(むしや)二人(ににん)、馬より倒(さかさま)に被打落て、血を吐(はい)て空(むなし)く成(なり)にけり。高重(たかしげ)今はとても敵に被見知ぬる上はと思(おもひ)ければ、馬を懸居(かけすゑ)大音揚(あげ)て名乗(なのり)けるは、「桓武(くわんむ)第五の皇子葛原(かつらはらの)親王(しんわう)に三代の孫(そん)、平(たいらの)将軍貞盛(さだもり)より十三代前(さきの)相摸守(さがみのかみ)高時(たかとき)の管領(くわんれい)に、長崎入道円喜(ゑんき)が嫡孫(ちやくそん)、次郎高重(たかしげ)、武恩を報ぜんため討死するぞ、高名(かうみやう)せんと思はん者は、よれや組(くま)ん。」と云侭(いふまま)に、鎧の袖引(ひき)ちぎり、草摺(くさずり)あまた切落(きりおと)し、太刀をも鞘(さや)に納(をさめ)つゝ、左右の大手を播(ひろげ)ては、此(ここ)に馳合(はせあひ)彼(かしこ)に馳替(はせちがひ)、大童(おほわらは)に成(なつ)て駈散(かけちら)しける。懸(かか)る処に、郎等共(らうどうども)馬の前に馳塞(はせふさがつ)て、「何(いか)なる事にて候ぞ。御一所(ごいつしよ)こそ加様(かやう)に馳廻坐(はせまはりましま)せ。敵は大勢にて早(はや)谷々(やつやつ)に乱入(みだれいり)、火を懸(かけ)物を乱妨(らんばう)し候。急(いそぎ)御帰候(かへりさふらう)て、守殿(かうのとの)の御自害(ごじがい)をも勤(すすめ)申させ給へ。」と云(いひ)ければ、高重郎等(らうどう)に向(むかつ)て宣(のたまひ)けるは、「余(あま)りに人の逃(にぐ)るが面白さに、大殿(おほとの)に約束しつる事をも忘(わすれ)ぬるぞや。いざゝらば帰参(かへりまゐら)ん。」とて、主従八騎の者共(ものども)、山内(やまのうち)より引帰(ひきかへ)しければ、逃(にげ)て行(ゆく)とや思ひけん、児玉党(こだまたう)五百(ごひやく)余騎(よき)、「きたなし返せ。」と罵(ののしつ)て、馬を争(あらそう)て追懸(おつかけ)たり。高重、「こと/゛\しの奴原(やつばら)や、何程の事をか仕出(しいだ)すべき。」とて、聞(きか)ぬ由にて打(うち)けるを、手茂(てしげ)く追(おう)て懸(かか)りしかば、主従八騎屹(きつ)と見帰(みかへつ)て馬の轡(くつばみ)を引回(ひきまは)すとぞみへし。山内(やまのうち)より葛西(かさい)の谷口(たにぐち)まで十七度まで返し合せて、五百(ごひやく)余騎(よき)を追退(おひしりぞ)け、又閑々(しづしづ)とぞ打(うつ)て行(ゆき)ける。高重が鎧に立(たつ)処の矢二十三筋(にじふさんすぢ)、蓑毛(みのけ)の如く折(をり)かけて、葛西谷(かさいのやつ)へ参りければ、祖父(おほぢ)の入道待請(まちうけ)て、「何とて今まで遅(おそか)りつるぞ。今は是(これ)までか。」と問(とは)れければ、高重畏(かしこま)り、「若(もし)大将義貞に寄せ合(あは)せば、組(くん)で勝負をせばやと存候(ぞんじさふらう)て、二十(にじふ)余度(よど)まで懸入(かけいり)候へ共(ども)、遂に不近付得。其(その)人と覚(おぼ)しき敵にも見合(みあひ)候はで、そゞろなる党の奴(や)つ原(ばら)四五百人(しごひやくにん)切落(きりおとし)てぞ捨候(すてさふらひ)つらん。哀(あはれ)罪の事だに思ひ候はずは、猶(なほ)も奴原(やつばら)を浜面(はまおもて)へ追出(おひいだ)して、弓手(ゆんで)・馬手(めて)に相付(あひつけ)、車切(くるまぎり)・胴切・立破(たてわり)に仕棄度(つかまつりすてたく)存候(ぞんじさふらひ)つれ共(ども)、上(うへ)の御事(おんこと)何(いか)がと御心元(おんこころもと)なくて帰参(かへりまゐつ)て候。」と、聞(きく)も涼(すずし)く語るにぞ、最期(さいご)に近き人々も、少し心を慰めける。
○高時並一門(いちもん)以下(いげ)於東勝寺自害(じがいの)事(こと) S1015
去程(さるほど)に高重走廻(はしりまはつ)て、「早々(はやはや)御自害(ごじがい)候へ。高重先(さき)を仕(つかまつつ)て、手本に見せ進(まゐら)せ候はん。」と云侭(いふまま)に、胴計(ばかり)残(のこつ)たる鎧(よろひ)脱(ぬい)で抛(なげ)すてゝ、御前(おんまへ)に有(あり)ける盃(さかづき)を以て、舎弟(しやてい)の新右衛門に酌(しやく)を取(とら)せ、三度(さんど)傾(かたむけ)て、摂津(つの)刑部(ぎやうぶの)太夫入道々準(だうじゆん)が前に置き、「思指申(おもひざしまうす)ぞ。是(これ)を肴(さかな)にし給へ。」とて左の小脇(こわき)に刀を突立(つきたて)て、右の傍腹(そばはら)まで切目(きりめ)長く掻破(かきわつ)て、中(なか)なる腸(はらわた)手縷出(たぐりいだ)して道準が前にぞ伏(ふし)たりける。道準盃を取(とつ)て、「あはれ肴や、何(いか)なる下戸(げこ)なり共(とも)此(これ)をのまぬ者非じ。」と戯(たはむれ)て、其(その)盃を半分計(ばかり)呑残(のみのこし)て、諏訪(すは)入道が前に指置(さしおき)、同(おなじ)く腹切(きつ)て死にけり。諏訪(すは)入道直性(ぢきしやう)、其(その)盃を以て心閑(しづか)に三度(さんど)傾(かたむけ)て、相摸(さがみ)入道(にふだう)殿(どの)の前に指置(さしおい)て、「若者共(わかものども)随分芸(げい)を尽(つく)して被振舞候に年老(としより)なればとて争(いかで)か候べき、今より後(のち)は皆是(これ)を送肴(おくりざかな)に仕(つかまつる)べし。」とて、腹十文字(じふもんじ)に掻切(かききつ)て、其(その)刀を抜(ぬい)て入道殿(にふだうどの)の前に指置(さしおい)たり。長崎入道円喜(ゑんき)は、是(これ)までも猶(なほ)相摸(さがみ)入道(にふだう)の御事(おんこと)を何奈(いかが)と思(おもひ)たる気色(けしき)にて、腹をも未(いまだ)切(きらざり)けるが、長崎新右衛門今年十五に成(なり)けるが、祖父(おほぢ)の前に畏(かしこまつ)て、「父祖(ふそ)の名を呈(あらは)すを以て、子孫の孝行とする事にて候なれば、仏神(ぶつじん)三宝も定(さだめ)て御免(おんゆるし)こそ候はんずらん。」とて、年老残(としおいのこつ)たる祖父(おほぢ)の円喜(ゑんき)が肱(ひぢ)のかゝりを二刀(ふたかたな)差(さし)て、其(その)刀にて己(おのれ)が腹を掻切(かききつ)て、祖父を取(とつ)て引伏(ひきふ)せて、其(その)上(うへ)に重(かさなつ)てぞ臥(ふし)たりける。此小冠者(このこくわじや)に義を進められて、相摸(さがみ)入道(にふだう)も腹切(きり)給へば、城(じやうの)入道続(つづい)て腹をぞ切(きつ)たりける。是(これ)を見て、堂上(だうじやう)に座を列(つらね)たる一門(いちもん)・他家の人々、雪の如くなる膚(はだへ)を、推膚脱々々々(おしはだぬぎおしはだぬぎ)、腹を切(きる)人もあり、自(みづから)頭(くび)を掻落(かきおと)す人もあり、思々(おもひおもひ)の最期(さいご)の体(てい)、殊に由々敷(ゆゆしく)ぞみへたりし。其外(そのほか)の人々には、金沢(かなざは)太夫入道崇顕(そうけん)・佐介(さすけ)近江(あふみの)前司(ぜんじ)宗直(むねなほ)・甘名宇(あまなう)駿河(するがの)守(かみ)宗顕(むねあき)・子息駿河(するがの)左近(さこんの)太夫将監(しやうげん)時顕(ときあき)・小町(こまち)中務(なかつかさの)太輔朝実(ともざね)・常葉(ときは)駿河(するがの)守(かみ)範貞(のりさだ)・名越(なごや)土佐(とさの)前司(ぜんじ)時元(ときもと)・摂津(つの)形部大輔(ぎやうぶのたいふ)入道・伊具(いぐ)越前(ゑちぜんの)々司宗有(むねあり)・城(じやうの)加賀(かがの)前司(ぜんじ)師顕(もろあき)・秋田城介師時(あいたのじやうのすけもろとき)・城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)有時(ありとき)・南部(なんぶ)右馬(うまの)頭(かみ)茂時(しげとき)・陸奥(むつの)右馬助(うまのすけ)家時(いへとき)・相摸(さがみの)右馬助(うまのすけ)高基(たかもと)・武蔵(むさしの)左近(さこんの)大夫将監(しやうげん)時名(ときな)・陸奥(むつの)左近(さこんの)将監(しやうげん)時英(ときふさ)・桜田治部(ぢぶの)太輔貞国(さだくに)・江馬(えま)遠江守(とほたふみのかみ)公篤(きんあつ)・阿曾(あその)弾正少弼(せうひつ)治時(はるとき)・苅田(かつた)式部(しきぶの)大夫篤時(あつとき)・遠江兵庫(ひやうごの)助(すけ)顕勝(あきかつ)・備前(びぜんの)左近(さこんの)大夫将監(しやうげん)政雄(まさを)・坂上(さかのうへ)遠江守(とほたふみのかみ)貞朝・陸奥(むつの)式部(しきぶの)太輔高朝(たかとも)・城介高量(じやうのすけたかかず)・同(おなじき)式部(しきぶの)大夫顕高(あきたか)・同(おなじき)美濃(みのの)守(かみ)高茂(たかしげ)・秋田城介(あいたのじやうのすけ)入道延明(えんみやう)・明石(あかし)長門(ながとの)介入道忍阿(にんあ)・長崎三郎左衛門入道思元(しげん)・隅田(すだ)次郎左衛門(じらうざゑもん)・摂津(つの)宮内(くないの)大輔(たいふ)高親(たかちか)・同(おなじき)左近(さこんの)大夫将監(しやうげん)親貞(ちかさだ)、名越(なごやの)一族(いちぞく)三十四人、塩田(しほだ)・赤橋(あかはし)・常葉(ときは)・佐介(さすけ)の人々四十六人、総(そう)じて其門葉(そのもんえふ)たる人二百八十三人(にひやくはちじふさんにん)、我先(われさき)にと腹切(きつ)て、屋形(やかた)に火を懸(かけ)たれば、猛炎(みやうえん)昌(さかん)に燃上(もえあが)り、黒煙(くろけぶり)天を掠(かすめ)たり。庭上・門前に並居(なみゐ)たりける兵共(つはものども)是(これ)を見て、或(あるひ)は自(みづから)腹掻切(かききつ)て炎(ほのほ)の中へ飛入(とびいる)もあり、或(あるひ)は父子(ふし)兄弟差違(さしちが)へ重(かさな)り臥(ふす)もあり。血は流(ながれ)て大地に溢(あふ)れ、漫々(まんまん)として洪河(こうが)の如くなれば、尸(かばね)は行路(かうろ)に横(よこたはつ)て累々(るゐるゐ)たる郊原(かうげん)の如し。死骸(しがい)は焼(やけ)て見へね共(ども)、後に名字を尋(たづ)ぬれば、此一所(このいつしよ)にて死する者、総(すべ)て八百七十(はつぴやくしちじふ)余人(よにん)也(なり)。此外(このほか)門葉・恩顧(おんこ)の者、僧俗(そうぞく)・男女を不云、聞伝々々(ききつたへききつたへ)泉下(せんか)に恩を報(はうず)る人、世上に促悲を者、遠国(ゑんごく)の事はいざ不知、鎌倉中(かまくらぢゆう)を考(かんがふ)るに、総(すべ)て六千余人(よにん)也(なり)。嗚呼(ああ)此(この)日何(いか)なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申(まうす)に、平家九代の繁昌一時(いちじ)に滅亡して、源氏多年の蟄懐(ちつくわい)一朝(いつてう)に開(ひらく)る事を得たり。


太平記(国民文庫)

太平記巻第十一
○五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)宗繁(むねしげ)賺相摸太郎事 S1101
義貞已(すで)に鎌倉(かまくら)を定(しづめ)て、其威(そのゐ)遠近(ゑんきん)に振(ふる)ひしかば、東(とう)八箇国(はちかこく)の大名・高家(かうけ)、手を束(つか)ね膝を不屈と云(いふ)者なし。多日属随(つきしたがひ)て忠を憑(たの)む人だにも如此。況(いはん)や只今まで平氏の恩顧(おんこ)に順(したがひ)て、敵陣に在(あり)つる者共(ものども)、生甲斐(いきがひ)なき命を続(つが)ん為に、所縁(しよえん)に属(しよく)し降人(かうにん)に成(なつ)て、肥馬(ひば)の前に塵(ちり)を望み、高門(かうもん)の外に地を掃(はい)ても、己(おのれ)が咎(とが)を補はんと思へる心根(こころね)なれば、今は浮世(うきよ)の望(のぞみ)を捨(すて)て、僧法師(そうほふし)に成(なり)たる平氏の一族(いちぞく)達(たち)をも、寺々より引出して、法衣(ほふえ)の上に血を淋(そそ)き、二度(ふたたび)は人に契(ちぎ)らじと、髪をゝろし貌(かたち)を替(かへ)んとする亡夫(ばうふ)の後室共(こうしつども)をも、所々より捜出(さがしいだ)して、貞女(ていぢよ)の心を令失。悲(かなしい)哉(かな)、義を専(もつばら)にせんとして、忽(たちまち)に死せる人は、永く修羅(しゆら)の奴(やつこ)と成(なつ)て、苦(くるしみ)を多劫(たごふ)の間(あひだ)に受けん事を。痛(いたはしい)哉(かな)、恥を忍(しのん)で苟(いやしく)も生(いく)る者は、立(たちどこ)ろに衰窮(すゐきゆう)の身と成(なつ)て、笑(わらひ)を万人の前に得たる事を。中にも五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもんの)尉(じよう)宗繁(むねしげ)は、故(こ)相摸(さがみ)入道(にふだう)殿(どの)の重恩(ぢゆうおん)を与(あたへ)たる侍(さぶらひ)なる上、相摸(さがみ)入道(にふだう)の嫡子(ちやくし)相摸太郎邦時(くにとき)は、此(この)五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)が妹(いもうと)の腹に出来(いでき)たる子なれば、甥(をひ)也(なり)。主(しゆ)也(なり)。何(いづれ)に付(つけ)ても弐(ふたごこ)ろは非じと深く被憑けるにや、「此邦時(このくにとき)をば汝(なんぢ)に預置(あづけおく)ぞ、如何(いか)なる方便(てだて)をも廻(めぐら)し、是(これ)を隠し置き、時到(いた)りぬと見へば、取立(とりたて)て亡魂(ばうこん)の恨(うらみ)を可謝。」と相摸(さがみ)入道(にふだう)宣(のたまひ)ければ、宗繁、「仔細(しさい)候はじ。」と領掌(りやうじやう)して、鎌倉(かまくら)の合戦の最中(さいちゆう)に、降人(かうにん)にぞ成(なり)たりける。角(かく)て二三日を経(へ)て後、平氏悉(ことごとく)滅(ほろ)びしかば、関東(くわんとう)皆源氏の顧命(こめい)に随(したがつ)て、此彼(ここかしこ)に隠居(かくれゐ)たる平氏の一族共(いちぞくども)、数(あま)た捜出(いだ)されて、捕手(とりて)は所領(しよりやう)を預(あづか)り、隠せる者は忽(たちまち)に被誅事多し。五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)是(これ)を見て、いや/\果報(くわはう)尽(つき)はてたる人を扶持(ふち)せんとて適(たまたま)遁(のがれ)得たる命を失はんよりは、此(この)人の在所(ざいしよ)を知(しつ)たる由(よし)、源氏の兵(つはもの)に告(つぐ)て、弐(ふたごこ)ろなき所を顕(あらは)し、所領の一所(いつしよ)をも安堵(あんど)せばやと思(おもひ)ければ、或夜(あるよ)彼(かの)相摸太郎に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「是(これ)に御坐(ござ)の事は、如何なる人も知(しり)候はじとこそ存じて候に、如何(いかが)して漏(もれ)聞へ候(さふらひ)けん、船田(ふなだ)入道明日(みやうにち)是(これ)へ押寄候(おしよせさふらひ)て、捜し奉らんと用意(ようい)候由(よし)、只今或方(あるかた)より告知(つげしら)せて候。何様(なにさま)御座(ござ)の在所(ざいしよ)を、今夜替(かへ)候はでは叶(かなふ)まじく候。夜(よ)に紛(まぎ)れて、急ぎ伊豆(いづ)の御山(おやま)の方(かた)へ落(おち)させ給(たまひ)候へ。宗繁(むねしげ)も御伴(おんとも)申度(まうしたく)は存(ぞんじ)候へ共(ども)、一家(いつけ)を尽(つく)して落候(おちさふらひ)なば、船田入道、さればこそと心付(つき)て、何(いづ)くまでも尋求(たづねもとむ)る事も候はんと存じ候間、態(わざと)御伴(おんとも)をば申(まうす)まじく候。」と、誠(まこと)し顔(がほ)に成(なつ)て云(いひ)ければ、相摸太郎げにもと身の置所(おきどころ)なくて、五月二十七日(にじふしちにち)の夜半計(やはんばかり)に、忍(しのび)て鎌倉(かまくら)を落玉(おちたま)ふ。昨日(きのふ)までは天下の主(あるじ)たりし相摸(さがみ)入道(にふだう)の嫡子(ちやくし)にて有(あり)しかば、仮初(かりそめ)の物詣(ものまう)で・方違(かたたが)ひと云(いひ)しにも、御内(みうち)・外様(とざま)の大名共、細馬(さいば)に轡(くつばみ)を噛(かま)せて、五百騎(ごひやくき)・三百騎(さんびやくき)前後(ぜんご)に打囲(うちかこう)で社(こそ)往覆(わうふく)せしに、時移(うつり)事(こと)替(かはり)ぬる世の有様の浅猿(あさまし)さよ、怪(あや)しげなる中間(ちゆうげん)一人に太刀持(もた)せて、伝馬(てんま)にだにも乗らで、破(やれ)たる草鞋(わらぢ)に編笠(あみがさ)着(き)て、そこ共(とも)不知、泣々(なくなく)伊豆の御山(おやま)を尋(たづね)て、足に任(まかせ)て行(ゆき)給ひける、心の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)は、加様(かやう)にして此(この)人をばすかし出(いだ)しぬ。我と打(うつ)て出(いだ)さば、年来(としごろ)奉公の好(よしみ)を忘(わすれ)たる者よと、人に指を被差つべし。便宜(びんぎ)好(よか)らんずる源氏の侍(さぶらひ)に討(うた)せて、勲功(くんこう)を分(わけ)て知行(ちぎやう)せばやと思(おもひ)ければ、急(いそぎ)船田入道が許(もと)に行(ゆき)て、「相摸の太郎殿(たらうどの)の在所(ざいしよ)をこそ、委(くはし)く聞出(ききいで)て候へ、他の勢(せい)を不交して、打(うつ)て被出候はゞ、定(さだめ)て勲功異他候はんか。告申(つげまうし)候忠(ちゆう)には、一所懸命(いつしよけんめい)の地を安堵仕(あんどつかまつ)る様(やう)に、御吹挙(ごすゐきよ)に預り候はん。」と云(いひ)ければ、船田入道、心中(しんちゆう)には悪(にく)き者の云様(いひやう)哉(かな)と乍思、「先(まづ)子細非じ。」と約束して、五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもんの)尉(じよう)諸共(もろとも)に、相摸太郎の落行(おちゆき)ける道を遮(さへぎつ)てぞ待(また)せける。相摸太郎道に相待(あひまつ)敵有(あり)とも不思寄、五月二十八日明(あけ)ぼのに、浅猿(あさまし)げなる■(やつ)れ姿(すがた)にて、相摸河を渡らんと、渡(わた)し守(もり)を待(まつ)て、岸の上に立(たち)たりけるを、五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)余所(よそ)に立(たつ)て、「あれこそ、すは件(くだん)の人よ。」と教(をしへ)ければ、船田が郎等(らうどう)三騎、馬より飛(とん)で下(お)り、透間(すきま)もなく生捕(いけどり)奉る。俄(にはか)の事にて張輿(はりごし)なんどもなければ、馬にのせ舟の縄(なは)にてしたゝかに是(これ)を誡(いまし)め、中間(ちゆうげん)二人(ににん)に馬の口を引(ひか)せて、白昼(はくちう)に鎌倉(かまくら)へ入れ奉る。是(これ)を見聞(みきく)人毎(ごと)に、袖をしぼらぬは無(なか)りけり。此(この)人未だ幼稚(えうち)の身なれば、何程の事か有(ある)べけれ共(ども)、朝敵(てうてき)の長男にてをはすれば、非可閣とて、則(すなはち)翌日(よくじつ)の暁(あかつき)、潛(ひそか)に首(くび)を刎(はね)奉る。昔程嬰(ていえい)が我(わが)子を殺して、幼稚の主の命にかへ、予譲(よじやう)が貌(かたち)を変(へん)じて、旧君(きうくん)の恩を報ぜし、其(それ)までこそなからめ、年来(としごろ)の主を敵に打(うた)せて、欲心(よくしん)に義を忘れたる五大院(ごだいゐんの)右衛門(うゑもん)が心の程、希有(けう)也(なり)。不道(ふだう)也(なり)と、見る人毎(ごと)に爪弾(つまはじき)をして悪(にく)みしかば、義貞げにもと聞給(ききたまひ)て、是(これ)をも可誅と、内々其儀(そのぎ)定まりければ、宗繁(むねしげ)是(これ)を伝聞(つたへきい)て、此彼(ここかしこ)に隠れ行きけるが、梟悪(けうあく)の罪(つみ)身を譴(せ)めけるにや、三界雖広一身(いつしん)を措(おく)に処なく故旧(こきう)雖多一飯(いつぱん)を与(あたふ)る無人して、遂(つひ)に乞食(こつじき)の如(ごとく)に成果(なりはて)て、道路の街(ちまた)にして、飢死(うゑじ)にけるとぞ聞へし。
○諸将被進早馬於船上事 S1102
都には五月十二日千種(ちくさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)忠顕朝臣(ただあきあそん)・足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)・赤松入道円心等(ゑんしんら)、追々(おひおひ)早馬を立(たて)て、六波羅(ろくはら)已(すで)に令没落之(ぼつらくせしむるの)由船上(ふなのうへ)へ奏聞(そうもん)す。依之(これによつて)諸卿僉議(せんぎ)あ(ッ)て、則(すなはち)還幸可成否(いなや)の意見を被献ぜ。時に勘解由次官(かげゆのじくわん)光守(みつもり)、諌言(かんげん)を以て被申けるは、「両六波羅(りやうろくはら)已(すで)に雖没落、千葉屋(ちはや)発向(はつかう)の朝敵等猶(なほ)畿内(きない)に満(みち)て、勢(いきほ)ひ京洛(きやうらく)を呑(の)めり。又賎(いやし)き諺(ことわざ)に、「東(とう)八箇国(はちかこく)の勢(せい)を以て、日本国の勢に対し、鎌倉中(かまくらぢゆう)の勢を以て、東(とう)八箇国(はちかこく)の勢に対(たい)す」といへり。されば承久(しようきう)の合戦に、伊賀判官(いがのはうぐわん)光季(みつすゑ)を被追落し事は輒(たやす)かりしか共(ども)、坂東勢(ばんどうぜい)重(かさね)て上洛(しやうらく)せし時、官軍(くわんぐん)戦ひに負(まけ)て、天下久(ひさしく)武家の権威(けんゐ)に落(おち)ぬ。今一戦(いつせん)の雌雄(しゆう)を測(はか)るに、御方(みかた)は纔(わづか)に十〔に〕して其(その)一二を得たり。「君子(くんしは)不近刑人」と申(まうす)事(こと)候へば、暫(しばら)く只皇居(くわうきよ)を被移候はで、諸国へ綸旨(りんし)を被成下、東国の変違(へんゐ)を可被御覧ぜや候らん。」と被申ければ、当座(たうざ)の諸卿悉(ことごとく)此(この)議にぞ被同ける。而(しか)れども、主上(しゆしやう)猶(なほ)時宜(しぎ)定め難く被思召ければ、自(みづから)周易(しうえき)を披(ひら)かせ給(たまひ)て、還幸(くわんかう)の吉凶(きつきよう)を蓍筮(しぜい)に就(つけ)てぞ被御覧ける。御占師(おんうらなひの)卦(け)に出(いで)て云(いはく)、「師貞、丈人吉無咎、上六大君有命、開国承家。小人勿用。王弼注云、処師之極、師之終也(なり)。大君之命不失功也(なり)。開国承家、以寧邦也(なり)。小人勿用、非其道也(なり)。」と注(ちゆう)せり。御占(おんうらなひ)已(すで)に如此。此(この)上は何をか可疑とて、同(おなじき)二十三日(にじふさんにち)伯耆(はうき)の舟上(ふなのうへ)を御立(おんたち)有(あつ)て、腰輿(えうよ)を山陰(せんおん)の東にぞ被催ける。路次(ろし)の行装(ぎやうさう)例(れい)に替(かは)りて、頭(とうの)大夫行房(ゆきふさ)・勘解由次官(かげゆのじくわん)光守(みつもり)二人(ににん)許(ばかり)こそ、衣冠(いくわん)にて被供奉けれ。其外(そのほか)の月卿雲客(げつけいうんかく)・衛府諸司(ゑふしよし)の助(すけ)は、皆戎衣(じゆうい)にて前騎後乗(ぜんきこうじよう)す。六軍(りくぐん)悉(ことごとく)甲冑(かつちう)を着(ちやく)し、弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して、前後三十(さんじふ)余里(より)に支(ささ)へたり。塩冶(えんや)判官高貞は、千(せん)余騎(よき)にて、一日先立(さきだつ)て前陣を仕(つかまつ)る。又朝山(あさやま)太郎は、一日路(にちぢ)引殿(ひきおくれ)て、五百(ごひやく)余騎(よき)にて後陣(ごぢん)に打(うち)けり。金持(かなぢの)大和(やまとの)守(かみ)、錦(にしき)の御旗(おんはた)を差(さし)て左に候(こう)し、伯耆守(はうきのかみ)長年(ながとし)は、帯剣(たいけん)の役(やく)にて右に副(そ)ふ。雨師(うし)道を清め、風伯(ふうはく)塵(ちり)を払ふ。紫微北辰(しびほくしん)の拱陣(きようぢん)も、角(かく)やと覚(おぼえ)て厳重也(なり)。されば去年の春隠岐(おきの)国(くに)へ被移させ給ひし時、そゞろに宸襟(しんきん)を被悩て、御泪(おんなみだ)の故(もと)と成(なり)し山雲海月の色、今は竜顔(りようがん)を令悦端(はし)と成(なつ)て、松吹(ふく)風も自(おのづか)ら万歳(ばんぜい)を呼ぶかと被奇、塩焼(しほやく)浦の煙(けぶり)まで、にぎわう民の竈(かまど)と成る。
○書写山(しよしやさん)行幸(ぎやうがうの)事(こと)付(つけたり)新田(につた)注進(ちゆうしんの)事(こと) S1103
五月二十七日(にじふしちにち)には、播磨国(はりまのくに)書写山へ行幸(ぎやうがう)成(なつ)て、先年の御宿願(しゆくぐわん)を被果、諸堂御順礼(ごじゆんれい)の次(つぎ)に、開山(かいさん)性空上人(しやうぐうしやうにん)の御影堂(みえいだう)を被開に、年来(としごろ)秘(ひ)しける物と覚(おぼえ)て、重宝(ちようはう)ども多かりけり。当寺の宿老(しゆくらう)を一人召(めし)て、「是(これ)は如何なる由緒(ゆゐしよ)の物共ぞ。」と、御尋(おんたづね)有(あり)ければ、宿老畏(かしこまつ)て一々に是(これ)を演説(えんぜつ)す。先(まづ)杉原(すいばら)一枚を折(をつ)て、法華経(ほけきやう)一部八巻並(ならびに)開結二経(かいけつのにきやう)を細字(さいじ)に書(かき)たるあり。是(これ)は上人寂寞(じやくまく)の扉(とぼそ)に御坐(おはしまし)て妙典(めうでん)を読誦(どくじゆ)し給(たまひ)ける時、第八の冥官(みやうくわん)一人(ひとり)の化人(けにん)と成(なつ)て、片時(へんし)の程に書(かき)たりし御経也(なり)。又歯(は)禿(ちび)て僅(わづか)に残れる杉(すぎ)の屐(あしだ)あり。是(これ)は上人当山より毎日比叡山へ御入堂の時、海道(かいだう)三十五里の間を一時(いつとき)が内に歩(あゆ)ませ給(たまひ)し屐(あしだ)也(なり)。又布(ぬの)にて縫(ぬひ)たる香(かう)の袈裟(けさ)あり。是(これ)は上人御身(おんみ)を不放、長時(ぢやうじ)に懸(かけ)させ給(たまひ)けるが、香の煙(けぶり)にすゝけたるを御覧じて、「哀(あはれ)洗(あらは)ばや。」と被仰ける時、常随給仕(じやうずゐきふじ)の乙護法(おとごほふ)「是(これ)を洗(あらう)て参(まゐり)候はん。」と申(まうし)て、遥(はるか)に西天(さいてん)を指(さ)して飛去(とびさり)ぬ。且(しばら)く在(あつ)て、此(この)袈裟をば虚空(こくう)に懸乾(かけほす)、恰(あたか)も一片(いつぺん)の雲の夕日に映(えい)ずるが如し。上人護法(ごほふ)を呼(よび)て、「此袈裟(このけさ)をば如何なる水にて洗ひたりけるぞ。」と問はせ給へば、護法、「日本(につぽん)の内には可然清冷水(せいりやうすゐ)候はで、天竺(てんぢく)の無熱池(むねつち)の水にて濯(すすい)で候也(なり)。」と、被答申たりし御袈裟也(なり)。生木化仏(しやうもくけぶつ)の観世音(くわんぜおん)、稽首(けいしゆ)生木如意輪(によいりん)、能満有情福寿願(のうまんうじやうふくじゆぐわん)、亦満往生極楽願(やくまんわうじやうごくらくぐわん)、百千倶■悉所念(ひやくせんくていしつしよねむ)と、天人降下供養(かうげくやう)し奉る像(ざう)なり。毘首羯磨(びしゆかつま)が作りし五大尊(ごたいそん)、是(これ)のみならず、法華読誦(ほつけどくじゆ)の砌(みぎり)には、不動(ふどう)・毘沙門(びしやもん)の二童子に、形(かたち)を現(げん)じて仕給(つかへたまふ)也(なり)。又延暦寺(えんりやくじ)の中堂供養(ちゆうだうくやう)の日は、上人当山に坐(ましま)しながら、風(ほのか)に如来唄(によらいばい)を引給(ひきたまひ)しかば、梵音(ぼんおん)遠く叡山の雲に響(ひびい)て一会(いちゑ)の奇特(きどく)を顕(あらは)せし事共(ことども)、委細(いさい)に演説仕(えんぜつつかまつ)りたれば、主上(しゆしやう)不斜(なのめならず)信心を傾(かたむけ)させ給(たまひ)て、則(すなはち)当国の安室郷(やすむろのがう)を御寄附(ごきふ)有(あつ)て、不断如法経(ふだんによほふきやう)の料所(れうしよ)にぞ被擬ける。今に至(いたる)まで、其妙行(そのめうぎやう)片時(へんし)も懈(おこた)る事無(なう)して、如法如説(によほふによせつ)の勤行(ごんぎやう)たり。誠(まこと)に滅罪生善(めつざいしやうぜん)の御願(ごぐわん)難有かりし事共(ことども)也(なり)。二十八日に法華山(ほつけさん)へ行幸(ぎやうがう)成(なつ)て、御巡礼(ごじゆんれい)あり。是(これ)より龍駕(りようが)を被早て、晦日(つごもり)は兵庫(ひやうご)の福厳寺(ふくごんじ)と云(いふ)寺に、儲餉(ちよしやう)の在所(ざいしよ)を点(てん)じて、且(しばら)く御坐(ござ)有(あり)ける処に、其(その)日(ひ)赤松入道父子四人、五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)して参向(さんかう)す。竜顔(りようがん)殊に麗(うるはし)くして、「天下草創(さうさう)の功(こう)偏(ひとへ)に汝等(なんぢら)贔屓(ひいき)の忠戦によれり。恩賞(おんしやう)は各(おのおの)望(のぞみ)に可任。」と叡感有(あつ)て、禁門の警固(けいご)に奉侍(ぶし)せられけり。此(この)寺に一日御逗留(ごとうりう)有(あつ)て、供奉(ぐぶ)の行列還幸の儀式を被調ける処に、其(その)日(ひ)の午刻(うまのこく)に、羽書(うしよ)を頚に懸(かけ)たる早馬三騎、門前まで乗打(のりうち)にして、庭上に羽書を捧(ささげ)たり。諸卿驚(おどろい)て急披(いそぎひらい)て是(これ)を見給へば、新田(につた)小太郎義貞の許(もと)より、相摸(さがみ)入道(にふだう)以下(いげ)の一族(いちぞく)従類等(じゆうるゐら)、不日(ふじつ)に追討(つゐたう)して、東国已(すで)に静謐(せいひつ)の由を注進(ちゆうしん)せり。西国(さいこく)・洛中(らくちゆう)の戦(たたかひ)に、官軍(くわんぐん)勝(かつ)に乗(のつ)て両六波羅(りやうろくはら)を雖責落、関東(くわんとう)を被責事は、ゆゝしき大事(だいじ)成(なる)べしと、叡慮を被回ける処に、此注進(このちゆうしん)到来(たうらい)しければ、主上(しゆしやう)を始進(はじめまゐら)せて、諸卿一同に猶預(ゆよ)の宸襟(しんきん)を休め、欣悦称嘆(きんえつしようたん)を被尽、則(すなはち)、「恩賞は宜(よろしく)依請。」と被宣下て、先(まづ)使者三人(さんにん)に各(おのおの)勲功の賞をぞ被行ける。
○正成(まさしげ)参兵庫事(こと)付(つけたり)還幸(くわんかうの)事(こと) S1104
兵庫に一日御逗留(ごとうりう)有(あつ)て、六月二日被回腰輿(えうよ)処に、楠(くすのき)多門(たもん)兵衛正成(まさしげ)七千(しちせん)余騎(よき)にて参向(さんかう)す。其(その)勢(せい)殊に勇々敷(ゆゆしく)ぞ見へたりける。主上(しゆしやう)御簾(ぎよれん)を高く捲(まか)せて、正成を近く被召、「大儀(たいぎ)早速(さつそく)の功、偏(ひとへ)に汝が忠戦にあり。」と感じ被仰ければ、正成畏(かしこまつ)て、「是(これ)君の聖文(せいぶん)神武(しんぶ)の徳に不依ば、微臣(びしん)争(いかで)か尺寸(せきすん)の謀(はかりごと)を以て、強敵(がうてき)の囲(かこみ)を可出候(さふらはん)乎(や)。」と功を辞して謙下(けんげ)す。兵庫を御立(おんたち)有(あり)ける日より、正成前陣(せんぢん)を奉(うけたまはつ)て、畿内(きない)の勢を相順(あひしたが)へ、七千(しちせん)余騎(よき)にて前騎(ぜんき)す。其(その)道十八里が間、干戈戚揚(かんくわせきやう)相挟(あひはさみ)、左輔右弼(さほいうひつ)列(れつ)を引(ひき)、六軍(りくぐん)次(つい)でを守り、五雲(ごうん)閑(しづか)に幸(みゆき)すれば、六月五日の暮(くれ)程に、東寺(とうじ)まで臨幸(りんかう)成(なり)ければ、武士(ぶし)たる者は不及申、摂政・関白・太政(だいじやう)大臣(だいじん)・左右(さう)の大将(だいしやう)・大中納言・八座(はちざ)・七弁(しちべん)・五位・六位・内外(ないげ)の諸司(しよし)・医陰(いおんの)両道に至(いたる)まで、我(われ)劣(おとら)じと参集(まゐりあつま)りしかば、車馬(しやば)門前に群集(くんしゆ)して、地府(ちふ)に布雲、青紫(せいし)堂上(だうじやう)に陰映(いんえい)して、天極(てんきよく)に列星。翌日(よくじつ)六月六日、東寺より二条(にでう)の内裏(だいり)へ還幸成(なつ)て、其(その)日(ひ)先(まづ)臨時の宣下(せんげ)有(あつ)て、足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)治部卿に任(にん)ず。舎弟兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)直義(ただよし)左馬頭(さまのかみ)に任ず。去程(さるほど)に千種(ちくさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)忠顕(ただあき)朝臣、帯剣(たいけん)の役(やく)にて、鳳輦(ほうれん)の前に被供奉けるが、尚(なほ)非常を慎(つつし)む最中(さいちゆう)なればとて、帯刀(たてはき)の兵(つはもの)五百人(ごひやくにん)二行に被歩。高氏・直義二人(ににん)は後乗(こうじよう)に順(したがつ)て、百官の後(しりへ)に被打。衛府(ゑふ)の官なればとて、騎馬の兵五千(ごせん)余騎(よき)、甲冑(かつちう)を帯して被打。其(その)次に宇都宮(うつのみや)五百(ごひやく)余騎(よき)、佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)七百(しちひやく)余騎(よき)、土居(どゐ)・得能(とくのう)二千(にせん)余騎(よき)、此外(このほか)正成(まさしげ)・長年(ながとし)・円心(ゑんしん)・結城(ゆふき)・長沼・塩冶已下(えんやいげ)諸国の大名は、五百騎(ごひやくき)・三百騎(さんびやくき)、其(その)旗の次に一勢(いつせい)々々(いつせい)引分(ひきわけ)て、輦輅(れんろ)を中(なか)にして、閑(しづか)に小路(こうぢを)打(うつ)たり。凡(およそ)路次の行装(かうさう)、行列の儀式、前々の臨幸に事替(かはつ)て、百司(はくし)の守衛(しゆゑ)厳重(げんぢゆう)也(なり)。見物の貴賎(きせん)岐(ちまた)に満(みち)て、只(ただ)帝徳(ていとく)を頌(しよう)し奉(たてまつる)声(こゑ)、洋々(やうやう)として耳に盈(みて)り。
○筑紫(つくし)合戦(かつせんの)事(こと) S1105
京都・鎌倉(かまくら)は、已(すで)に高氏・義貞の武功に依(よつ)て静謐(せいひつ)しぬ。今は筑紫(つくし)へ討手(うつて)を被下て、九国の探題(たんだい)英時(ひでとき)を可被責とて、二条(にでうの)大納言師基(もろもとの)卿(きやう)を太宰帥(だざいのそつ)に被成て、既(すで)に下(くだ)し奉らんとせられける処に、六月七日、菊池(きくち)・小弐(せうに)・大伴(おほども)が許(もと)より、早馬(はやむま)同時に京着(きやうちやく)して、九州の朝敵無所残、退治候(たいぢさふらひ)ぬと奏聞(そうもん)す。其(その)合戦の次第を、後(のち)に委(くはし)く尋ぬれば、主上(しゆしやう)未だ舟上(ふなのうへ)に御座(ござ)有(あり)し時、小弐入道妙慧(めうゑ)・大伴(おほども)入道具簡(ぐかん)・菊池(きくち)入道(にふだう)寂阿(じやくあ)、三人(さんにん)同心して、御方(みかた)に可参由を申入(まうしいれ)ける間、則(すなはち)綸旨(りんし)に錦の御旗(おんはた)を副(そへ)てぞ被下ける。其企(そのくはだて)彼等(かれら)三人(さんにん)が心中に秘(ひ)して、未(いまだ)色に雖不出、さすがに隠れ無(なか)りければ、此(この)事(こと)頓(やが)て探題英時(ひでとき)が方へ聞へければ、英時、彼等が野心(やしん)の実否(じつぴ)を能々(よくよく)伺ひ見ん為に、先(まづ)菊池(きくち)入道(にふだう)寂阿(じやくあ)を博多(はかた)へぞ呼(よび)ける。菊池(きくち)此(この)使に肝付(きもつい)て、是(これ)は如何様(いかさま)彼隠謀(かのいんぼう)露顕(ろけん)して、我等を討(うた)ん為にぞ呼(よび)給ふ覧(らん)。さらんに於(おいて)は、人に先(さき)をせられては叶ふまじ、此方(こなた)より遮(さへぎつ)て博多へ寄(よせ)て、覿面(てきめん)に勝負(しようぶ)を決せんと思(おもひ)ければ、兼(かね)ての約諾(やくだく)に任(まかせ)て、小弐(せうに)・大伴(おほども)が方へ触遺(ふれつかは)しける処に、大伴、天下の落居(らくきよ)未だ如何なるべしとも見定めざりければ、分明(ぶんみやう)の返事に不及。小弐は又其比(そのころ)京都の合戦に、六波羅(ろくはら)毎度(まいど)勝(かつ)に乗(のる)由聞へければ、己(おのれ)が咎(とが)を補(おぎな)はんとや思(おもひ)けん、日来(ひごろ)の約を変(へん)じて、菊池(きくち)が使(つかひ)八幡弥四郎宗安(やはたやしらうむねやす)を討(うつ)て、其(その)頚を探題(たんだい)の方へぞ出(いだ)したりける。菊池(きくち)入道(にふだう)大(おほき)に怒(いかつ)て、「日本一(につぽんいち)の不当人共(ふたうじんども)を憑(たのん)で、此(この)一大事(いちだいじ)を思立(おもひたち)けるこそ越度(をちど)なれ。よし/\其(その)人々の与(くみ)せぬ軍(いくさ)はせられぬか。」とて元弘三年三月十三日(じふさんにち)の卯刻(うのこく)に、僅(わづか)に百五十騎(ひやくごじつき)にて探題の館(たち)へぞ押寄(おしよせ)ける。菊池(きくち)入道(にふだう)櫛田(くしだ)の宮(みや)の前を打過(うちすぎ)ける時、軍(いくさ)の凶(きよう)をや被示けん。又乗打(のりうち)に仕(し)たりけるをや御尤(とが)め有(あり)けん。菊池(きくち)が乗(のつ)たる馬、俄(にはか)にすくみて一足(ひとあし)も前へ不進得。入道大(おほき)に腹を立(たて)て、「如何なる神にてもをはせよ、寂阿(じやくあ)が戦場へ向はんずる道にて、乗打(のりうち)を尤(とが)め可給様(やう)やある。其(その)義ならば矢一つ進(まゐら)せん。受(うけ)て御覧ぜよ。」とて、上差(うはざし)の鏑(かぶら)を抜き出し、神殿(しんでん)の扉(とびら)を二矢(ふたや)までぞ射たりける。矢を放つと均(ひとし)く、馬のすくみ直りにければ、「さぞとよ。」とあざ笑(わらう)て、則(すなはち)打通(うちとほ)りける。其後(そののち)社壇(しやだん)を見ければ、二丈許(ばかり)なる大蛇(だいじや)、菊池(きくち)が鏑(かぶら)に当(あたつ)て死(しし)たりけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。探題(たんだい)は、兼(かね)てより用意(ようい)したる事なれば、大勢を城の木戸(きど)より外(そと)へ出して戦はしむるに、菊池(きくち)小勢なりといへども、皆命を塵芥(ぢんかい)に比(ひ)し、義を金石(きんせき)に類(るゐ)して、責戦(せめたたかひ)ければ、防ぐ兵若干(そくばく)被打て、攻(つめ)の城(じやう)へ引篭(ひきこも)る。菊池(きくち)勝(かつ)に乗(のつ)て、屏(へい)を越(こえ)関(きど)を切破(きりやぶつ)て、透間(すきま)もなく責入(せめいり)ける間、英時(ひでとき)こらへかねて、既(すで)に自害(じがい)をせんとしける処に、小弐・大友(おほども)六千(ろくせん)余騎(よき)にて、後攻(ごづめ)をぞしたりける。菊池(きくち)入道(にふだう)是(これ)を見て、嫡子(ちやくし)に肥後(ひごの)守(かみ)武重(たけしげ)を喚(よび)て云(いひ)けるは、「我(われ)今小弐・大友(おほども)に被出抜て、戦場の死に赴くといへ共(ども)、義の当る所を思ふ故(ゆゑ)に、命を堕(おとさ)ん事を不悔。然(しか)れば寂阿に於ては、英時(ひでとき)が城を枕にして可討死。汝は急(いそぎ)我館(わがたち)へ帰(かへつ)て、城を堅(かたう)し兵を起して、我が生前(しやうぜん)の恨(うらみ)を死後に報(はう)ぜよ。」と云含(いひふく)め、若党(わかたう)五十(ごじふ)余騎(よき)を引分(ひきわけ)て武重(たけしげ)に相副(あひそへ)、肥後の国へぞ返しける。故郷(こきやう)に留置(とめおき)し妻子共(さいしども)は、出(いで)しを終(つひ)の別れとも知らで、帰るを今やとこそ待(まつ)らめと、哀(あはれ)に覚(おぼえ)ければ、一首(いつしゆ)の歌を袖の笠符(かさじるし)に書(かき)て故郷へぞ送(おくり)ける。故郷(ふるさと)に今夜許(こよひばかり)の命ともしらでや人の我(われ)を待(まつ)らん肥後(ひごの)守(かみ)武重(たけしげ)は、「四十有余(しじふいうよ)の独(ひとり)の親(おや)の、只今討死せんとて大敵に向ふ戦(たたかひ)なれば、一所(いつしよ)にてこそ兎(と)も角(かう)も成(なり)候はめ。」と、再三(さいさん)申(まうし)けれども、「汝(なんぢ)をば天下の為に留(とどむ)るぞ。」と父が庭訓(ていきん)堅(かた)ければ、武重無力是(これ)を最後の別(わかれ)と見捨(みすて)て、泣々(なくなく)肥後へ帰(かへり)ける心の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。其後(そののち)菊池(きくち)入道(にふだう)は二男(じなん)肥後(ひごの)三郎と相共(あひとも)に、百(ひやく)余騎(よき)を前後に立(たて)て、後攻(ごづめ)の勢(せい)には目を不懸して探題(たんだい)の屋形(やかた)へ責入(せめいり)、終(つひ)に一足(ひとあし)も引(ひか)ず、敵に指違々々(さしちがへさしちがへ)一人も不残打死(うちじに)す。専諸(せんしよ)・荊卿(けいけい)が心は恩(おん)の為に仕(つか)はれ、侯生(こうせい)・予子(よし)が命は義に依(よつ)て軽(かろ)しとも、是等(これら)をや可申。さても小弐・大伴(おほども)が今度の振舞(ふるまひ)人に非(あら)ずと天下の人に被譏ながら、暗知(そらしら)ずして世間の様(やう)を聞居(ききゐ)たりける処に、五月七日両六波羅(ろくはら)已(すで)に被責落て、千葉屋(ちはや)の寄手(よせて)も悉(ことごとく)南都(なんと)へ引退(ひきしりぞき)ぬと聞へければ、小弐入道、こは可如何と仰天(ぎやうてん)す。去(さら)ば我れ探題を奉討身の咎(とが)を遁(のがれ)ばやと思(おもひ)ければ、先(まづ)菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)と大友入道とが許(もと)へ内々(ないない)使者を遣(つかは)して相語(あひかたら)ふに、菊池(きくち)は先(さき)に懲(こり)て耳にも不聞入。大友は我(われ)も咎(とが)ある身なれば、角(かく)てや助かると堅(かたく)領掌(りやうじやう)してげり。今日(けふ)や明日(あす)やと吉日を撰(えらび)ける処に、英時(ひでとき)、小弐が隠謀(いんぼう)の企(くはだて)を聞(きき)て、事の実否(じつぴ)を伺見(うかがひみ)よとて、長岡(ながをかの)六郎(ろくらう)を小弐が許(もと)へぞ遣(つかは)しける。長岡(ながをか)則(すなはち)行向(ゆきむかつ)て、小弐に可見参由を云(いひ)ければ、時節(をりふし)相労(あひいたはる)事(こと)有(あり)とて、対面(たいめん)に不及。長岡(ながをか)無力、小弐入道が子息筑後(ちくごの)新小弐(しんせうに)が許(もと)に行向(ゆきむかひ)、云入(いひいれ)て、さりげなき様(やう)にて彼方此方(かなたこなた)を見るに、只今打立(うちたた)んずる形勢(ありさま)にて、楯(たて)を矯(はが)せ鏃(やじり)を砺(とぐ)最中也(なり)。又遠侍(とほさぶらひ)を見るに、蝉本(せみもと)白くしたる青竹の旗竿(はたざを)あり。さればこそ、船上(ふなのうへ)より錦の御旗(おんはた)を賜(たまはつ)たりと聞へしが、実(まこと)也(なり)けりと思(おもつ)て、対面せば頓(やが)て指違(さしちが)へんずる者をと思(おもひ)ける処に、新小弐(しんせうに)何心もなげにて出合(いであひ)たり。長岡(ながをか)座席(ざせき)に着(つく)と均(ひと)しく、「まさなき人々の謀反(むほん)の企(くはだて)哉(かな)。」と云侭(いふまま)に、腰の刀を抜(ぬい)て、新小弐に飛(とん)で懸(かかり)ける。新小弐飽(あく)まで心早き者なりければ、側(そば)なる将碁(しやうぎ)の盤(ばん)をゝつ取(とつ)て突(つく)刀を受留(うけと)め、長岡(ながをか)にむずと引組(ひつくん)で、上(うへ)を下(した)へぞ返しける。頓(やが)て小弐が郎従共(らうじゆうども)あまた走寄(はしりよつ)て、上なる敵を三刀(みかたな)指(さし)て、下なる主(しゆ)を助けゝれば、長岡(ながをかの)六郎(ろくらう)本意を不達して、忽(たちまち)に命を失(うしなひ)てげり。小弐筑後(ちくごの)入道、さては我謀反(わがむほん)の企(くはだて)、早(はや)探題に被知てげり。今は休(やむ)事(こと)を得ぬ所也(なり)とて、大伴入道相共(あひとも)に七千(しちせん)余騎(よき)の軍兵(ぐんぴやう)を率(そつ)して、同(おなじき)五月二十五日の午刻(うまのこく)に、探題英時(ひでとき)の館(たち)へ押寄(おしよせ)ける。世の末(すゑ)の風俗(ふうぞく)、義を重(おもん)ずる者は少く、利に趨(うつ)る人は多ければ、只今まで付順(つきしたがひ)つる筑紫(つくし)九箇国(くかこく)の兵共(つはものども)も、恩を忘(わすれ)て落失(おちう)せ、名をも惜(をし)まで翻(ひるがへ)りける間、一朝(いつてう)の間(ま)の戦(たたかひ)に、英時(ひでとき)遂に打負(うちまけ)て、忽(たちまち)に自害(じがい)しければ、一族(いちぞく)郎従(らうじゆう)三百四十人(さんびやくしじふにん)、続(つづい)て腹をぞ切(きつ)たりける。哀(あはれなる)哉(かな)、昨日(きのふ)は小弐・大友、英時に順(したがひ)て菊池(きくち)を討(うち)、今日は又小弐・大友、官軍(くわんぐん)に属(しよく)して、英時を討(うつ)。「行路難、不在山兮、不在水、唯在人情反覆之間」と、白居易(はくきよい)が書(かき)たりし筆の跡、今こそ被思知たれ。
○長門探題(ながとのたんだい)降参(かうさんの)事(こと) S1106
長門(ながと)の探題遠江守(とほたふみのかみ)時直(ときなほ)、京都の合戦難儀(なんぎ)の由を聞(きき)て、六波羅(ろくはら)に力を勠(あは)せんと、大船(たいせん)百(ひやく)余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て、海上を上(のぼり)けるが、周防(すはう)の鳴渡(なると)にて、京も鎌倉(かまくら)も早(はや)皆源氏の為に被滅て、天下悉(ことごとく)王化に順(したがひ)ぬと聞へければ、鳴渡(なると)より舟を漕(こぎ)もどして、九州の探題と一所(いつしよ)に成(なら)んと、心づくしへぞ赴(おもむ)きける。赤間(あかま)が関(せき)に着(つい)て、九州の様(やう)を伺(うかが)ひ聞(きき)給へば、「筑紫(つくし)の探題英時(ひでとき)も、昨日(きのふ)早(はや)小弐・大友(おほども)が為に被亡て、九国二嶋悉(ことごとく)公家(くげ)のたすけと成(なり)ぬ。」と云(いひ)ければ、一旦(いつたん)催促(さいそく)に依(よつ)て、此(これ)まで属順(つきしたがひ)たる兵共(つはものども)も、いつしか頓(やが)て心替(こころがはり)して、己(おの)が様々(さまざま)に落行(おちゆき)ける間(あひだ)、時直(ときなほ)僅(わづか)に五十(ごじふ)余人(よにん)に成(なつ)て柳浦(やなぎがうら)の浪に漂泊(へうはく)す。彼(かしこ)の浦に帆を下(おろ)さんとすれば、敵鏃(やじり)を支(ささへ)て待懸(まちかけ)たり。此嶋(ここのしま)に纜(ともづな)を結ばんとすれば、官軍(くわんぐん)楯を双(なら)べて討(うた)んとす。残留(のこりとどま)る人々にさへ、今は心を沖津波(おきつなみ)、可立帰方もなく、可寄所もなければ、世を浮(うき)舟の橈(かぢ)を絶(たえ)、思はぬ風に漂(ただよ)へり。跡(あと)に留(とど)めし妻子共(さいしども)も、如何(いかが)成(なり)ぬ〔ら〕んと、責(せめ)て其行末(そのゆくへ)を聞(きき)て後(のち)、心安く討死をもせばやと被思ければ、且(しばらく)の命を延(のべ)ん為に、郎等(らうどう)を一人船よりあげて、小弐・嶋津(しまづ)が許(もと)へ、降人(かうにん)に可成由をぞ伝(つた)へける。小弐も嶋津も年来(としごろ)の好(よし)み浅からざりけるに、今の有様聞(きく)も哀(あはれ)にや思(おもひ)けん。急(いそぎ)迎(むかひ)に来て、己(おの)が宿所(しゆくしよ)に入(いれ)奉る。其比(そのころ)峯(みね)の僧正俊雅(しゆんが)と申(まうせ)しは、君の御外戚(ごぐわいせき)にてをはせしを、笠置(かさぎ)の合戦の刻(きざみ)に筑前の国へ被流てをはしけるが、今一時に運を開(ひらい)て、国人(くにうど)皆其左右(そのさいう)に慎(つつし)み随(したが)ふ。九州の成敗(せいばい)、勅許(ちよくきよ)以前は暫(しばらく)此(この)僧正(そうじやう)の計(はから)ひに在(あり)しかば、小弐・嶋津、彼時直(かのときなほ)を同道して降参の由をぞ申入(まうしいれ)ける。僧正、「子細(しさい)あらじ。」と被仰て、則(すなはち)御前(おんまへ)へ被召けり。時直膝行頓首(しつかうとんしゆ)して、敢(あへ)て不平視、遥(はるか)の末座(まつざ)に畏(かしこまつ)て、誠(まこと)に平伏(へいふく)したる体(てい)を見給(みたまひ)て、僧正泪(なみだ)を流して被仰けるは、「去(さんぬる)元弘の始(はじめ)、無罪して此(この)所に被遠流時、遠州(ゑんしう)我を以て寇(あた)とせしかば、或(あるひ)は過分(くわぶん)の言(ことば)の下に面を低(たれ)て泪(なみだ)を推拭(おしのご)ひ、或(あるひ)は無礼(ぶれい)の驕(おごり)の前に手を束(つかね)て恥を忍(しのび)き。然(しかる)に今天道(てんだう)謙(けん)に祐(さいはひ)して、不測世の変化を見(みる)に、吉凶(きつきよう)相乱(あひみだ)れ栄枯(えいこ)地を易(かへ)たり。夢現(ゆめうつつ)昨日(きのふ)は身の上の哀(あはれ)み、今日(けふ)は人の上の悲(かなしみ)也(なり)。「怨(あた)を報ずるに恩を以てす」と云(いふ)事(こと)あれば、如何にもして命許(いのちばかり)を可申助。」と被仰ければ、時直(ときなほ)頭(かうべ)を地に付(つけ)て、両眼に泪(なみだ)を浮めたり。不日(ふじつ)に飛脚(ひきやく)を以て、此(この)由を奏聞(そうもん)ありければ、則(すなはち)勅免(ちよくめん)有(あつ)て懸命(けんめい)の地をぞ安堵(あんど)せられける。時直無甲斐命(いのち)を扶(たすかつ)て、嘲(あざけり)を万人の指頭(しとう)に受(うく)といへども、時を一家(いつけ)の再興(さいこう)に被待けるが、幾程(いくほど)もあらざるに、病(やまひ)の霧に被侵て、夕の露と消(きえ)にけり。
○越前(ゑちぜんの)牛原地頭(うしがはらぢとう)自害(じがいの)事(こと) S1107
淡河(あいかは)右京亮(うきやうのすけ)時治(ときはる)は、京都の合戦の最中(さいちゆう)、北国の蜂起(ほうき)を鎮(しづ)めん為に越前の国に下(くだつ)て、大野郡(おほののこほり)牛原(うしがはら)と云(いふ)所にぞをはしける。幾程無(いくほどなう)して、六波羅(ろくはら)没落(ぼつらく)の由聞へしかば、相順(あひしたがひ)たる国の勢共(せいども)、片時(へんし)の程に落失(おちうせ)て、妻子従類(さいしじゆうるゐ)の外(ほか)は事問(とふ)人も無(なか)りけり。去程(さるほど)に平泉寺(へいせんじ)の衆徒(しゆと)、折(をり)を得て、彼跡(かのあと)を恩賞に申賜(まうしたまは)らん為に、自国(じこく)・他国の軍勢を相語(あひかたら)ひ、七千(しちせん)余騎(よき)を率(そつ)して、五月十二日の白昼(はくちう)に牛原(うしがはら)へ押寄(おしよす)る。時治(ときはる)敵の勢(せい)の雲霞(うんか)の如(ごとく)なるを見て、戦(たたかふ)共(とも)幾程が可怺と思(おもひ)ければ、二十(にじふ)余人(よにん)有(あり)ける郎等(らうどう)に、向ふ敵を防がせて、あたり近き所に僧の坐(ましま)しけるを請(しやう)じて、女房少(をさな)き人までも、皆髪に剃刀(かみそり)をあて、戒(かい)を受(うけ)させて、偏(ひとへ)に後生菩提(ごしやうぼだい)の経営(けいえい)を、泪(なみだ)の中(うち)にぞ被致ける。戒(かい)の師(し)帰(かへつ)て後(のち)、時治女房に向(むかつ)て「宣(のたま)ひけるは、二人(ふたり)の子共(こども)は男子(なんし)なれば、稚(をさな)しとも敵よも命を助(たすけ)じと覚(おぼゆ)る間、冥途(めいど)の旅に可伴。御事(おこと)は女性(によしやう)にてをわすれば、縦(たと)ひ敵角(かく)と知(しる)とも命を失ひ奉るまでの事は非(あら)じ。さても此(この)世に在存(ながら)へ給はゞ、如何なる人にも相馴(あひなれ)て、憂(うき)を慰(なぐさ)む便(たより)に付(つき)可給。無跡(なきあと)までも心安(やすく)てをはせんをこそ、草の陰(かげ)・苔(こけ)の下(した)までもうれしくは思ふべけれ。」と、泪(なみだ)の中(うち)に掻口説(かきくどい)て聞へければ、女房最(い)と恨(うらみ)て、「水に住(すむ)鴛(をし)、梁(うつばり)に巣(すくふ)燕(つばめ)も翼(つばさ)をかわす契(ちぎり)を不忘。況(いはん)や相馴進(あひなれまゐらせ)て不覚過(すぎ)ぬる十年余(ととせあまり)の袖の下(した)に、二人(ふたり)の子共をそだてて、千代(ちよ)もと祈(いのり)し無甲斐も、御身(おんみ)は今(いま)秋の霜の下(した)に伏し、少(をさな)き者共(ものども)は朝(あした)の露に先立(さきだつ)て、消(きえ)はてなん後(のち)の悲(かなしみ)を堪(た)へ忍(しのび)ては、時の間(ま)もながらふべき我(わが)身かや。とても思(おもひ)に堪(たへ)かねば、生(いき)て可有命ならず。同(おなじく)は思ふ人と共にはかなく成(なつ)て、埋(うづも)れん苔(こけ)の下(した)までも、同穴(どうけつ)の契(ちぎり)を忘(わすれ)じ。」と、泪(なみだ)の床(ゆか)に臥沈(ふししづ)む。去程(さるほど)に防矢(ふせぎや)射つる郎等共(らうどうども)已(すで)に皆被討て、衆徒(しゆと)箱(はこ)の渡(わたし)を打越(うちこえ)、後(うしろ)の山へ廻(まは)ると聞へければ、五(いつつ)と六(むつつ)とに成(なり)ける少(をさな)き人を鎧唐櫃(よろひからひつ)に入(いれ)て、乳母(めのと)二人(ににん)に前後を舁(かか)せ、鎌倉(かまくら)河の淵(ふち)に沈(しづ)めよとて、遥(はるか)に見送(みおくり)て立(たち)たれば、母儀(ぼぎ)の女房も、同(おなじく)其(その)淵に身を沈めんと、唐櫃(からひつ)の緒(を)に取付(とりつい)て歩行(あゆみゆく)、心の中(うち)こそ悲しけれ。唐櫃を岸の上に舁(かき)居(すゑ)て、蓋(ふた)を開(あけ)たれば、二人(ににん)の少(をさな)き人顔を差挙(さしあげ)て、「是(これ)はなう母御(ははご)何(いづ)くへ行(ゆき)給ふぞ。母御の歩(かち)にて歩ませ給ふが御痛敷(おんいたはしく)候。是(これ)に乗らせ給へ。」と何心もなげに戯(たはむれ)ければ、母上流るゝ泪(なみだ)を押(おさ)へて、「此(この)河は是(これ)極楽浄土(ごくらくじやうど)の八功徳池(はつくどくち)とて、少(をさな)き者の生れて遊び戯(たはむ)るゝ所也(なり)。我如(わがごと)く念仏申(まうし)て此(この)河の中へ被沈よ。」と教へければ、二人(ににん)の少(をさな)き人々母と共に手を合せ、念仏高らかに唱(とな)へて西に向(むかつ)て坐(ざ)したるを、二人(ににん)の乳母(めのと)一人づゝ掻抱(かきだい)て、碧潭(へきだん)の底へ飛入(とびいり)ければ、母上も続(つづい)て身を投(なげ)て、同じ淵(ふち)にぞ被沈ける。其後(そののち)時治(ときはる)も自害(じがい)して一堆(いつたい)の灰(はひ)と成(なり)にけり。隔生則忘(きやくしやうそくばう)とは申(まうし)ながら又一念五百生(いちねんごひやくしやう)、繋念無量劫(けねんむりやうごふ)の業(ごふ)なれば、奈利(ないり)八万(はちまん)の底までも、同じ思(おもひ)の炎(ほのほ)と成(なつ)て焦(こがれ)給ふらんと、哀(あはれ)也(なり)ける事共(ことども)也(なり)。
○越中(ゑつちゆうの)守護(しゆご)自害(じがいの)事(こと)付(つけたり)怨霊(をんりやうの)事(こと) S1108
越中(ゑつちゆう)の守護(しゆご)名越(なごや)遠江守(とほたふみのかみ)時有(ときあり)・舎弟(しやてい)修理亮(しゆりのすけ)有公(ありとも)・甥の兵庫助(ひやうごのすけ)貞持(さだもち)三人(さんにん)は、出羽・越後の宮方(みやがた)北陸道(ほくろくだう)を経(へ)て京都へ責上(せめのぼる)べしと聞へしかば、道にて是(これ)を支(ささへ)んとて、越中(ゑつちゆう)の二塚(ふたつづか)と云(いふ)所に陣を取(とつ)て、近国の勢共(せいども)をぞ相催(あひもよほ)しける。斯(かか)る処に、六波羅(ろくはら)已(すで)に被責落て後(のち)、東国(とうごく)にも軍(いくさ)起(おこつ)て、已(すで)に鎌倉(かまくら)へ寄(よせ)けるなんど、様々に聞へければ、催促(さいそく)に順(したがひ)て、只今まで馳集(はせあつまり)つる能登(のと)・越中(ゑつちゆう)の兵共(つはものども)、放生津(はうじやうづ)に引退(ひきしりぞい)て却(かへつ)て守護(しゆご)の陣へ押寄(おしよせ)んとぞ企(くはたて)ける。是(これ)を見て、今まで身に代(かはり)命に代らんと、義を存じ忠を致しつる郎従(らうじゆう)も、時の間(ま)に落失(おちうせ)て、剰(あまつさへ)敵軍に加(くはは)り、朝(あした)に来(きた)り暮(くれ)に往(ゆき)て、交(まじはり)を結び情(なさけ)を深(ふかう)せし朋友(ほういう)も、忽(たちまち)に心変(へん)じて、却(かへつ)て害心(がいしん)を挿(さしはさ)む。今は残留(のこりとどまり)たる者とては、三族に不遁一家(いつけ)の輩(ともがら)、重恩(ぢゆうおん)を蒙(かうむり)し譜代(ふだい)の侍、僅(わづか)に七十九人(しちじふくにん)也(なり)。五月十七日(じふしちにち)の午刻(うまのこく)に敵既(すで)に一万(いちまん)余騎(よき)にて寄(よす)ると聞へしかば、「我等此(この)小勢にて合戦をすとも、何程の事をかし出(いだ)すべき、憖(なまじひ)なる軍(いくさ)して、無云甲斐敵の手に懸(かか)り、縲紲(るゐせつ)の恥に及ばん事(こと)、後代(こうだい)迄の嘲(あざけり)たるべし。」とて、敵の近付(ちかづか)ぬ前(さき)に女性(によしよう)・少(をさな)き人々をば舟に乗(のせ)て澳(おき)に沈め、我(わが)身は城の内にて自害(じがい)をせんとぞ出立(いでたち)ける。遠江守(とほたふみのかみ)の女房は、偕老(かいらう)の契(ちぎり)を結(むすび)て今年二十一年になれば、恩愛(おんあい)の懐(ふところ)の内に二人(ににん)の男子(なんし)をそだてたり。兄は九(ここのつ)弟(おとと)は七(ななつ)にぞ成(なり)ける。修理亮(しゆりのすけ)有公(ありとも)が女房は、相馴(あひなれ)て已(すで)に三年に余(あまり)けるが、只ならぬ身に成(なつ)て、早(はや)月比(つきごろ)過(すぎ)にけり。兵庫(ひやうごの)助(すけ)貞持(さだもち)が女房は、此(この)四五日前(さき)に、京より迎へたりける上臈(じやうらふ)女房にてぞ有(あり)ける。其(その)昔紅顔翠黛(こうがんすゐたい)の世に無類有様、風(ほのか)に見初(みそめ)し珠簾(たまだれ)の隙(ひま)もあらばと心に懸(かけ)て、三年余(あまり)恋慕(こひしたひ)しが、兎角(とかく)方便(てだて)を廻(めぐら)して、偸出(ぬすみいだ)してぞ迎へたりける。語(かたら)ひ得て纔(わづか)に昨日今日(きのふけふ)の程なれば、逢(あふ)に替(かはら)んと歎来(なげきこ)し命も今は被惜ける。恋悲(こひかなし)みし月日は、天(あま)の羽衣(はごろも)撫尽(なでつく)すらん程よりも長く、相見て後のたゞちは、春(はる)の夜の夢よりも尚(なほ)短(みじか)し。忽(たちまち)に此悲(このかなしみ)に逢(あひ)ける契(ちぎり)の程こそ哀(あはれ)なれ。末(すゑ)の露本(もと)の雫(しづく)、後(おく)れ先立(さきだ)つ道をこそ、悲(かなし)き物と聞(きき)つるに、浪(なみ)の上、煙(けぶり)の底に、沈み焦(こが)れん別れの憂(う)さ、こはそもいかゞすべきと、互(たがひ)に名残(なごり)を惜(をしみ)つゝ、伏(ふし)まろびてぞ被泣ける。去程(さるほど)に、敵の早(はや)寄来(よせく)るやらん、馬煙(むまけぶり)の東西に揚(あげ)て見へ候と騒げば、女房・少(をさな)き人々は、泣々(なくなく)皆舟に取乗(とりのつ)て、遥(はるか)の澳(おき)に漕出(こぎいだ)す。うらめしの追風(おひかぜ)や、しばしもやまで、行(ゆく)人を波路(なみぢ)遥(はるか)に吹送(ふきおく)る。情なの引塩(ひきしほ)や、立(たち)も帰らで、漕(こぐ)舟を浦より外(ほか)に誘(さそふ)らん。彼松浦佐用嬪(かのまつらさよひめ)が、玉嶋山(たましまやま)にひれふりて、澳(おき)行(ゆく)舟を招(まねき)しも、今の哀(あはれ)に被知たり。水手櫓(すゐしゆろ)をかいて、船を浪間(なみま)に差留(さしとど)めたれば、一人の女房は二人(ににん)の子を左右の脇(わき)に抱(いだ)き、二人(ににん)の女房は手に手を取組(とりくん)で、同(おなじく)身をぞ投(なげ)たりける。紅(くれなゐ)の衣(きぬ)絳(あかき)袴(はかま)の暫(しばらく)浪に漂(ただよひ)しは、吉野・立田(たつた)の河水(かはみづ)に、落花紅葉(らくくわこうえふ)の散乱(さんらん)たる如(ごとく)に見へけるが、寄来(よせく)る浪に紛(まぎ)れて、次第に沈むを見はてゝ後、城に残留(のこりとどまり)たる人々上下(じやうげ)七十九人(しちじふくにん)、同時に腹を掻切(かききつ)て、兵火(ひやうくわ)の底にぞ焼死(やけしに)ける。其幽魂亡霊(そのいうこんばうれい)、尚(なほ)も此(この)地に留(とどまつ)て夫婦執着(しふぢやく)の妄念(まうねん)を遺(のこ)しけるにや、近比(このごろ)越後より上(のぼ)る舟人(ふなうど)、此(この)浦を過(すぎ)けるに、俄(にはか)に風向ひ波荒(あら)かりける間、碇(いかり)を下(おろ)して澳(おき)に舟を留(と)めたるに、夜(よ)更(ふけ)浪静(しづまつ)て、松涛(しようたう)の風、芦花(ろくわ)の月、旅泊(りよはく)の体(てい)、万(よろ)づ心すごき折節(をりふし)、遥(はるか)の澳(おき)に女の声して泣悲(なきかなし)む音(おと)しけり。是(これ)を怪しと聞居(ききゐ)たる処に、又汀(なぎさ)の方に男の声して、「其(その)舟こゝへ寄せてたべ。」と、声々にぞ呼(よばは)りける。舟人止(や)む事を不得して、舟を渚(なぎさ)に寄(よせ)たれば、最(いと)清(きよ)げなる男三人(さんにん)、「あの澳(おき)まで便船(びんせん)申さん。」とて、屋形(やかた)にぞ乗(のり)たりける。舟人是(これ)を乗(のせ)て澳津塩合(おきつしほあひ)に舟を差留(さしと)めたれば、此(この)三人(さんにん)の男舟より下(おり)て、漫々(まんまん)たる浪の上にぞ立(たつ)たりける。暫(しばらく)あれば、年十六七(じふろくしち)二十許(はたちばかり)なる女房の、色々の衣(きぬ)に赤き袴(はかま)踏(ふみ)くゝみたるが、三人(さんにん)浪の底より浮び出て、其(その)事(こと)となく泣(なき)しほれたる様(さま)也(なり)。男よに眤(むつま)しげなる気色(けしき)にて、相互(あひたがひ)に寄近付(よりちかづか)んとする処に、猛火(みやうくわ)俄(にはか)に燃出(もえいで)て、炎(ほのほ)男女の中(なか)を隔(へだて)ければ、三人(さんにん)の女房は、いもせの山の中々(なかなか)に、思焦(おもひこが)れたる体(てい)にて、波の底に沈(しづみ)ぬ。男は又泣々(なくなく)浪の上を游帰(およぎかへつ)て、二塚(ふたつづか)の方へぞ歩み行(ゆき)ける。余(あまり)の不思議(ふしぎ)さに舟人(ふなうど)此(この)男の袖を引(ひか)へて、「去(さる)にても誰人(たれびと)にて御渡(おんわたり)候やらん。」と問(とひ)たりければ、男答云(こたへていはく)、「我等は名越(なごや)遠江守(とほたふみのかみ)・同(おなじき)修理(しゆりの)亮・並(ならびに)兵庫(ひやうごの)助(すけ)。」と各(おのおの)名乗(なのつ)て、かき消様(けすやう)に失(うせ)にけり。天竺(てんぢく)の術婆伽(じゆつばが)は后(きさき)を恋(こひし)て、思(おもひ)の炎(ほのほ)に身を焦(こが)し、我朝(わがてう)の宇治の橋姫(はしひめ)は、夫(おつと)を慕(した)ひてかたしく袖を波に浸(ひた)す。是(これ)皆上古の不思議(ふしぎ)、旧記(きうき)に載(のす)る所也(なり)。親(まのあた)り斯(かか)る事の、うつゝに見へたりける亡念(まうねん)の程こそ罪深(ふか)けれ。
○金剛山(こんがうせんの)寄手等(よせてら)被誅事(こと)付(つけたり)佐介貞俊(さかいさだとしが)事(こと) S1109
京洛(きやうらく)已(すで)に静まりぬといへ共(ども)、金剛山(こんがうせん)より引返(ひつかへ)したる平氏共(へいじども)、猶(なほ)南都に留(とどまつ)て、帝都を責(せめ)んとする由聞へ有(あり)ければ、中院(なかのゐんの)中将(ちゆうじやう)定平(さだひら)を大将として、五万(ごまん)余騎(よき)、大和路(やまとぢ)へ被差向。楠(くすのき)兵衛正成(まさしげ)に畿内勢(きないのせい)二万(にまん)余騎(よき)を副(そへ)て、河内(かはちの)国(くに)より搦手(からめて)にぞ被向ける。南都に引篭(ひきこも)る平氏の軍兵(ぐんぴやう)已(すで)に十方に雖退散、残留(のこりとどま)る兵尚(なほ)五万騎(ごまんぎ)に余(あまり)たれば、今一度(いちど)手痛(ていた)き合戦あらんと覚(おぼゆ)るに、日来(ひごろ)の儀勢(ぎせい)尽(つき)はてゝ、いつしか小水の魚の沫(あわ)に吻(いきづ)く体(てい)に成(なつ)て、徒(いたづら)に日を送(おくり)ける間、先(まづ)一番に南都(なんと)の一の木戸口(きどぐち)般若寺(はんにやじ)を堅(かため)て居たりける宇都宮(うつのみや)・紀清両党(きせいりやうたう)七百(しちひやく)余騎(よき)、綸旨(りんし)を給(たまはつ)て上洛(しやうらく)す。是(これ)を始(はじめ)として、百騎(ひやくき)二百騎(にひやくき)、五騎十騎、我先(われさき)にと降参しける間、今平氏(へいじ)の一族(いちぞく)の輩(ともがら)、譜代(ふだい)重恩の族(やから)の外(ほか)は、一人も残留(のこりとどま)る者も無(なか)りけり。是(これ)に付(つけ)ても、今は何に憑(たのみ)を懸(かけ)てか命を可惜なれば、各(おのおの)打死して名を後代(こうだい)にこそ残すべかりけるに、攻(せめ)ての業(ごふ)の程の浅猿(あさまし)さは、阿曾(あその)弾正少弼(だんじやうせうひつ)時治(ときはる)・大仏(だいぶつ)右馬助(うまのすけ)貞直(さだなほ)・江馬(えま)遠江守(とほたふみのかみ)・佐介安芸(さすけあきの)守を始(はじめ)として、宗(むね)との平氏十三人(じふさんにん)、並(ならびに)長崎四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・二階堂(にかいだう)出羽(ではの)入道々蘊已下(だううんいげ)・関東(くわんとう)権勢(けんせい)の侍五十(ごじふ)余人(よにん)、般若寺(はんにやじ)にして各(おのおの)入道出家して、律僧(りつそう)の形(かたち)に成り、三衣(さんえ)を肩に懸(かけ)、一鉢(いつはつ)を手に提(さげ)て、降人(かうにん)に成(なつ)てぞ出(いで)たりける。定平(さだひら)朝臣是(これ)を請取(うけとつ)て、高手小手(たかてこて)に誡(いまし)め、伝馬(てんま)の鞍坪(くらつぼ)に縛屈(しばりかが)めて、数万(すまん)の官軍(くわんぐん)の前々(さきざき)を追立(おつたて)させ、白昼(はくちう)に京へぞ被帰ける。平治(へいぢ)には悪源太義平(あくげんだよしひら)、々家(へいけ)に被生捕て首(くび)被刎、元暦(げんりやく)には内大臣(ないだいじん)宗盛(むねもり)公(こう)、源氏に被囚て大路(おほち)を被渡。是(これ)は皆戦(たたかひ)に臨む日、或(あるひ)は敵に被議、或(あるひ)は自害(じがい)に無隙(ひまなく)して、心ならず敵の手に懸(かか)りしをだに、今に至(いたる)まで人口(じんこう)の嘲(あざけり)と成(なつ)て、両家(りやうけ)の末流(まつりう)是(これを)聞(きく)時、面(おもて)を一百(いつぴやく)余年(よねん)の後に令辱。況乎(いはんや)是(これ)は敵に被議たるにも非(あら)ず、又自害(じがい)に隙(ひま)なきにも非(あら)ず、勢(いきほ)ひ未(いまだ)尽(つきざる)先(さき)に自(みづから)黒衣(こくえ)の身と成(なつ)て、遁(のがれ)ぬ命を捨(すて)かねて、縲紲面縛(るゐせつめんばく)の有様、前代未聞(ぜんだいみもん)の恥辱也(なり)。囚人(とらはれびと)京都に着(つき)ければ、皆黒衣(こくえ)を脱(ぬが)せ、法名(ほふみやう)を元の名に改(あらため)て、一人づゝ大名に預(あづけ)らる。其秋刑(そのしうけい)を待(まつ)程に、禁錮(きんこ)の裏(うち)に起伏(おきふし)て、思ひ連(つら)ぬる浮世(うきよ)の中(なか)、涙の落(おち)ぬ隙(ひま)もなし。さだかならぬ便(たより)に付(つけ)て、鎌倉(かまくら)の事共(ことども)を聞(きけ)ば、偕老(かいらう)の枕の上に契(ちぎり)を成(なし)し貞女(ていぢよ)も、むくつけゞなる田舎人(ゐなかうど)どもに被奪て、王昭君(わうせうくん)が恨(うらみ)を貽(のこ)し、富貴(ふうき)の薹(うてな)の中(うち)に傅立(かしづきたて)し賢息(けんそく)も、傍(あたり)へだにも寄(よせ)ざりし凡下(ぼんげ)共(ども)の奴(やつこ)と成(なつ)て、黄頭郎(くわうとうらう)が夢をなせり。是等(これら)はせめて乍憂、未だ生(いき)たりときけば、猶(なほ)も思(おもひ)の数(かず)ならず。昨日(きのふ)岐(ちまた)を過ぎ、今日は門(かど)にやすらふ行客(かうかく)の、穴(あな)哀(あはれ)や、道路に袖をひろげ、食を乞(こひ)し女房の、倒(たふれ)て死(しせ)しは誰(たれ)が母也(なり)。短褐(たんかつ)に貌(かたち)を窶(やつし)て縁(ゆかり)を尋(たづね)し旅人の、被捕て死せしは誰(たれ)が親也(なり)と、風(ほのか)に語るを聞(きく)時は、今まで生(いき)ける我(わが)身の命を、憂(う)しとぞ更に誣(かこ)たれける。七月九日、阿曾(あその)弾正少弼(せうひつ)・大仏(だいぶつ)右馬助(うまのすけ)・江馬遠江守(とほたふみのかみ)・佐介(さすけ)安芸(あきの)守(かみ)・並(ならびに)長崎四郎左衛門、彼此(かれこれ)十五人(じふごにん)阿弥陀峯(あみだがみね)にて被誅けり。此(この)君重祚(ちようそ)の後、諸事の政(まつりごと)未(いまだ)被行前(さき)に、刑罰(けいばつ)を専(ほしいまま)にせられん事は、非仁政とて、潛(ひそか)に是(これ)を被切しかば、首(くび)を被渡までの事に及ばず、面々(めんめん)の尸骸(しがい)便宜(びんぎ)の寺々に被送、後世菩提(ごせぼだい)をぞ被訪ける。二階堂出羽(ではの)入道々蘊(だううん)は、朝敵の最一(さいいち)、武家の輔佐(ふさ)たりしか共(ども)、賢才(けんさい)の誉(ほまれ)、兼(かね)てより叡聞(えいぶん)に達せしかば、召仕(めしつかは)るべしとて、死罪(しざい)一等を許され、懸命(けんめい)の地に安堵(あんど)して居たりけるが、又陰謀(いんぼう)の企(くはだて)有(あり)とて、同年の秋の季(すゑ)に、終(つひ)に死刑に被行てげり。佐介(さすけ)左京(さきやうの)亮(すけ)貞俊(さだとし)は、平氏の門葉(もんえふ)たる上武略才能(ぶりやくさいのう)共(とも)に兼(かね)たりしかば、定(さだめ)て一方の大将をもと身を高く思(おもひ)ける処に、相摸(さがみ)入道(にふだう)さまでの賞翫(しやうぐわん)も無(なか)りければ、恨(うらみ)を含(ふく)み憤(いきどほり)を抱(いだ)きながら、金剛山(こんがうせん)の寄手(よせて)の中にぞ有(あり)ける。斯(かか)る処に千種(ちくさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)綸旨(りんし)を申与(まうしあた)へて、御方(みかた)に可参由を被仰ければ、去(さんぬる)五月の初(はじめ)に千葉屋(ちはや)より降参して、京都にぞ歴回(へめぐり)ける。去程(さるほど)に、平氏の一族(いちぞく)皆出家して、召人(めしうと)に成(なり)し後は、武家被官(ひくわん)の者共(ものども)、悉(ことごとく)所領(しよりやう)を被召上、宿所(しゆくしよ)を被追出て、僅(わづか)なる身一(ひとつ)をだに措(おき)かねて、貞俊(さだとし)も阿波の国へ被流て有(あり)しかば、今は召仕ふ若党(わかたう)・中間(ちゆうげん)も身に不傍、昨日の楽(たのしみ)今日の悲(かなしみ)と成(なつ)て、ます/\身を責(せむ)る体(てい)に成行(なりゆき)ければ、盛者必衰(しやうじやひつすゐ)の理(ことわり)の中に在(あり)ながら、今更世中(よのなか)無情覚(おぼえ)て、如何なる山の奥にも身を隠さばやと、心にあらまされてぞ居たりける。さても関東(くわんとう)の様(さま)何とか成(なり)ぬらんと尋聞(たづねきく)に、相摸(さがみ)入道(にふだう)殿(どの)を始(はじめ)として、一族(いちぞく)以下(いげ)一人も不残、皆被討給(たまひ)て、妻子従類(さいしじゆうるゐ)も共に行方(ゆきかた)を不知成(なり)ぬと聞へければ、今は誰を憑(たの)み、何を可待世とも不覚(おぼえず)、見(みる)に付(つけ)聞(きく)に随(したがひ)て、いとゞ心を摧(くだ)き、魂(きも)を消(けし)ける処に、関東(くわんとう)奉公の者共(ものども)は、一旦(いつたん)命を扶(たす)からん為に、降人(かうにん)に雖出と、遂(つひ)には如何にも野心(やしん)有(あり)ぬべければ、悉(ことごとく)可被誅とて、貞俊又被召捕てげり。挺(とて)も心の留(とどま)る浮世ならねば、命を惜(をし)とは思はねども、故郷(こきやう)に捨置(すておき)し妻子共(さいしども)の行末(ゆくへ)、何ともきかで死なんずる事の、余(あまり)に心に懸りければ、最期(さいご)の十念(じふねん)勧(すすめ)ける聖(ひじり)に付(つい)て、年来(としごろ)身を放(はな)たざりける腰の刀を、預人(あづかりびと)の許(もと)より乞出(こひいだ)して、故郷(こきやう)の妻子(さいし)の許(もと)へぞ送(おくり)ける。聖(ひじり)是(これ)を請取(うけとつ)て、其行末(そのゆくへ)を可尋申と領状(りやうじやう)しければ、貞俊無限喜(よろこび)て、敷皮(しぎかは)の上に居直(ゐなほつ)て、一首(いつしゆ)の歌を詠(えい)じ、十念(じふねん)高らかに唱(となへ)て、閑(しづか)に首(くび)をぞ打(うた)せける。皆人の世に有(ある)時は数ならで憂(うき)にはもれぬ我(わが)身也(なり)けり聖(ひじり)形見(かたみ)の刀と、貞俊が最期(さいご)の時着(き)たりける小袖とを持(もつ)て、急(いそぎ)鎌倉(かまくら)へ下(くだり)、彼(かの)女房を尋出(たづねいだ)し、是(これ)を与へければ、妻室(さいしつ)聞(きき)もあへず、只涙の床(ゆか)に臥沈(ふししづみ)て、悲(かなしみ)に堪兼(たへかね)たる気色(けしき)に見へけるが、側(そば)なる硯(すずり)を引寄(ひきよせ)て、形見(かたみ)の小袖の妻(つま)に、誰(たれ)見よと信(かたみ)を人の留(とど)めけん堪(たへ)て有(ある)べき命ならぬにと書付(かきつけ)て、記念(かたみ)の小袖を引(ひき)かづき、其(その)刀を胸につき立(たて)て、忽(たちまち)にはかなく成(なり)にけり。此外(このほか)或(あるひ)は偕老(かいらう)の契(ちぎり)空(むなし)くして、夫(をつと)に別(わかれ)たる妻室(さいしつ)は、苟(いやしくも)も二夫(じふ)に嫁(か)せん事を悲(かなしん)で、深き淵瀬(ふちせ)に身を投(なげ)、或(あるひ)は口養(くやう)の資(たすけ)無(なく)して子に後(おく)れたる老母は、僅(わづか)に一日の餐(ざん)を求兼(もとめかね)て自(みづから)溝壑(こうがく)に倒れ伏す。承久(しようきう)より以来(このかた)、平氏世を執(とつ)て九代、暦数(れきすう)已(すで)に百六十(ひやくろくじふ)余年(よねん)に及(および)ぬれば、一類(いちるゐ)天下にはびこりて、威を振ひ勢(いきほ)ひを専(ほしいまま)にせる所々(しよしよ)の探題(たんだい)、国々の守護(しゆご)、其(その)名を挙(あげ)て天下に有(ある)者已(すで)に八百人(はつぴやくにん)に余(あま)りぬ。況(いはんや)其(その)家々の郎従(らうじゆう)たる者幾万億と云(いふ)数(かず)を不知(しらず)。去(され)ば縦(たとひ)六波羅(ろくはら)こそ輒(たやすく)被責落共、筑紫(つくし)と鎌倉(かまくら)をば十年(じふねん)・二十年(にじふねん)にも被退治事難(かたし)とこそ覚へしに、六十(ろくじふ)余州(よしう)悉(ことごとく)符(わりふ)を合(あはせ)たる如く、同時に軍(いくさ)起(おこつ)て、纔(わづか)に四十三日(しじふさんにち)の中に皆滅(ほろ)びぬる業報(ごつぱう)の程こそ不思議(ふしぎ)なれ。愚(おろかなる)哉(かな)関東(くわんとう)の勇士、久(ひさしく)天下を保ち、威を遍(あまねく)海内(かいだい)に覆(おほひ)しかども、国を治(をさむ)る心無(なか)りしかば、堅甲利兵(けんかふりへい)、徒(いたづら)に梃楚(ていそ)の為に被摧て、滅亡(めつばう)を瞬目(しゆんぼく)の中(うち)に得たる事(こと)、驕(おご)れる者は失(しつ)し倹(けん)なる者は存(そん)す。古(いにし)へより今に至(いたる)まで是(これ)あり。此裏(このうち)に向(むかつ)て頭(かうべ)を回(めぐら)す人、天道(てんだう)は盈(み)てるを欠(かく)事(こと)を不知して、猶(なほ)人の欲心の厭(いとふ)ことなきに溺(おぼ)る。豈(あに)不迷乎(や)。


太平記(国民文庫)

太平記巻第十二
○公家一統(くげいつとう)政道(せいだうの)事(こと) S1201
先帝重祚(ちようそ)之(の)後(のち)、正慶(しやうきやう)の年号(ねんがう)は廃帝(はいてい)の改元(かいげん)なればとて被棄之、本(もと)の元弘に帰(かへ)さる。其(その)二年の夏比(なつのころ)、天下一時に評定(ひやうぢやう)して、賞罰法令(しやうばつほふれい)悉(ことごと)く公家一統(くげいつとう)の政(まつりごと)に出(いで)しかば、群俗帰風若被霜而照春日、中華(ちゆうくわ)懼軌若履刃而戴雷霆。同(おなじき)年の六月三日、大塔宮(おほたふのみや)志貴(しぎ)の毘沙門堂(びしやもんだう)に御座(ござ)有(あり)と聞へしかば、畿内(きない)・近国の勢(せい)は不及申、京中・遠国(をんごく)の兵までも、人より先(さき)にと馳参(はせさんじ)ける間、其(その)勢頗(すこぶる)尽天下(てんがの)大半をぬらんと夥(おびただ)し。同(おなじき)十三日(じふさんにち)に可有御入洛被定たりしが、無其事と、延引有(えんいんあつ)て、被召諸国兵、作楯砥鏃、合戦の御用意(ごようい)ありと聞へしかば、誰(た)が身の上とは知(しら)ね共(ども)、京中の武士(ぶし)の心中(しんちゆう)更に不穏。依之(これによつて)主上(しゆしやう)右大弁宰相(うだいべんのさいしやう)清忠(きよただ)を勅使にて被仰けるは、「天下已(すで)に鎮(しづまつ)て偃七徳之余威、成九功之大化処に、猶(なほ)動干戈被集士卒之条、其要(そのえう)何事乎(ぞや)、次(つぎに)四海(しかい)騒乱(さうらん)の程は、為遁敵難、一旦(いつたん)其容(そのすがた)を雖被替俗体、世已(すで)に静謐(せいひつ)の上は急(いそぎ)帰剃髪染衣姿、門迹相承(もんぜきさうじよう)の業(げう)を事とし給(たまふ)べし。」とぞ被仰ける。宮(みや)、清忠(きよただ)を御前(おんまへ)近く被召、勅答申させ給(たまひ)けるは、「今四海(しかい)一時に定(しづまつ)て万民誇無事化、依陛下休明徳、由微臣籌策功矣。而(しかる)に足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)僅(わづか)に以一戦(いつせん)功、欲立其志於万人上。今若(もし)乗其勢微不討之、取高時法師逆悪加高氏威勢上に、者なるべし。是(この)故(ゆゑ)に挙兵備武、全(まつたく)非臣罪。次(つぎに)剃髪(ていはつ)の事(こと)、兆前(てうぜん)に不鑒機者定(さだめ)て舌を翻(ひるがへ)さん歟(か)。今逆徒(ぎやくと)不測滅(ほろび)て天下雖属無事(こと)、与党(よたう)猶(なほ)隠身伺隙、不可有不待時。此(この)時上(かみ)無威厳、下(しも)必可有暴慢心。されば文武(ぶんぶ)の二道同(おなじ)く立(たつ)て可治今の世也(なり)。我(われ)若(もし)帰剃髪染衣体捨虎賁猛将威、於武全朝家人(ひとは)誰(たそ)哉(や)。夫(それ)諸仏菩薩(ぼさつ)垂利生方便日、有折伏・摂受二門。其(その)摂受(せふじゆとは)者、作柔和・忍辱之貌慈悲為先、折伏(しやくぶくとは)者、現大勢忿怒形刑罰(けいばつを)為宗。況(いはんや)聖明(せいめいの)君求賢佐・武備才時、或(あるひ)は出塵(しゆつぢん)の輩(ともがら)を帰俗体或(あるひは)退体(たいたい)の主(しゆ)を奉即帝位、和漢其(その)例多し。所謂(いはゆる)賈嶋浪仙(かたうらうせん)は、釈門(しやくもん)より出(いで)て成朝廷臣。我朝(わがてうの)天武(てんむ)・孝謙(かうけん)は、替法体登重祚位。抑(そもそも)我栖台嶺幽渓、纔(わづかに)守一門迹、居幕府上将、遠(とほく)静一天下(いちてんが)、国家の用何(いづ)れをか為吉。此(この)両篇速(すみやか)に被下勅許様に可経奏聞。」被仰、則(すなはち)清忠(きよただ)をぞ被返ける。清忠(きよただの)卿(きやう)帰参(きさん)して、此(この)由を奏聞しければ、主上(しゆしやう)具(つぶさ)に被聞召、「居大樹位、全武備守、げにも為朝家似忘人嘲。高氏誅罰(ちゆうばつ)の事(こと)、彼(かれの)不忠何事ぞ乎(や)。太平の後天下の士卒猶(なほ)抱恐懼心。若(もし)無罪行罰、諸卒豈(あに)成安堵思哉(や)。然(しから)ば於大樹任不可有子細。至高氏誅罰事堅可留其企。」有聖断、被成征夷将軍宣旨。依之(これによつて)宮(みや)の御憤(いきどほり)も散(さん)じけるにや、六月十七日(じふしちにち)志貴(しぎ)を御立(おんたち)有(あつ)て、八幡(やはた)に七日御逗留(ごとうりう)有(あつ)て、同(おなじき)二十三日(にじふさんにち)御入洛(じゆらく)あり。其(その)行列・行装(かうさう)尽天下壮観。先(まづ)一番(いちばんには)赤松入道円心(ゑんしん)、千(せん)余騎(よき)にて前陣(ぜんぢん)を仕(つかまつ)る。二番に殿(とのの)法印良忠(りやうちゆう)、七百(しちひやく)余騎(よき)にて打つ。三番には四条(しでうの)少将隆資(たかすけ)、五百(ごひやく)余騎(よき)。四番には中(なかの)院(ゐんの)中将(ちゆうじやう)定平(さだひら)、八百(はつぴやく)余騎(よき)にて打(うた)る。其(その)次に花やかに鎧(よろ)ふたる兵(つはもの)五百人(ごひやくにん)勝(すぐつ)て、帯刀(たてはき)にて二行に被歩。其(その)次に、宮は赤地(あかぢ)の錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に、火威(ひをどし)の鎧の裾金物(すそかなもの)に、牡丹(ぼたん)の陰(かげ)に獅子(しし)の戯(たはむれ)て、前後左右に追合(おひあひ)たるを、草摺(くさずり)長(なが)に被召、兵庫鎖(ひやうごくさり)の丸鞘(まるさや)の太刀に、虎の皮の尻鞘(しりさや)かけたるを、太刀懸(かけ)の半(なかば)に結(ゆう)てさげ、白篦(しらの)に節陰許(ふしかげばかり)少塗(すこしぬつ)て、鵠(くぐひ)の羽(はね)を以て矧(はい)だる征矢(そや)の三十六(さんじふろく)指(さし)たるを筈高(はずだか)に負成(おひなし)、二所藤(ふたところどう)の弓の、銀(ぎん)のつく打(うつ)たるを十文字(じふもんじ)に拳(にぎつ)て、白瓦毛(しろかはらげ)なる馬の、尾髪(をがみ)飽(あく)まで足(たつ)て太逞(ふとくたくましき)に沃懸地(いつかけち)の鞍置(おい)て、厚総(あつふさ)の鞦(しりがひ)の、只今染出(そめいで)たる如(ごとく)なるを、芝打長(しばうちだけ)に懸成(かけな)し、侍十二人(じふににん)に双口(もろぐち)をさせ、千鳥足(ちどりあし)を蹈(ふま)せて、小路(こうじ)を狭(せば)しと被歩。後乗(こうじよう)には、千種(ちくさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)忠顕(ただあき)朝臣千(せん)余騎(よき)にて被供奉。猶も御用心(ごようじん)の最中(さいちゆう)なれば、御心(おんこころ)安(やすき)兵を以て非常を可被誡とて、国々の兵をば、混物具(ひたもののぐ)にて三千(さんぜん)余騎(よき)、閑(しづか)に小路(こうじ)を被打。其後陣(そのごぢん)には湯浅権(ゆあさごんの)大夫(たいふ)・山本四郎次郎忠行(ただゆき)・伊東三郎行高(ゆきたか)・加藤太郎光直(みつなお)、畿内(きない)近国の勢打込(うちこみ)に、二十万七千(にじふまんしちせん)余騎(よき)、三日支(ささへ)てぞ打(うつ)たりける。時移り事去(さつ)て、万(よろ)づ昔に替る世なれども、天台座主(てんだいざす)忽(たちまち)に蒙将軍宣旨、帯甲冑召具随兵、御入洛有(じゆらくあり)し分野(ありさま)は、珍(めづらし)かりし壮観(さうくわん)也(なり)。其後(そののち)妙法院(めうほふゐんの)宮(みや)は四国の勢を被召具、讚岐(さぬきの)国(くに)より御上洛(ごしやうらく)あり。万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさ)卿(きやう)は、預人(あづかりうど)小田民部(をだみんぶの)大輔(たいふ)相具(あひぐ)して常陸(ひたちの)国(くに)より被上洛(しやうらく)。春宮大進(とうぐうのだいしん)季房(すゑふさ)は配所(はいしよ)にて身罷(みまかり)にければ、父宣房(のぶふさ)卿(きやう)悦(よろこび)の中(うち)の悲(かなし)み、老後の泪満袖。法勝寺(ほつしようじの)円観(ゑんくわん)上人をば、預人(あづかりうど)結城上野(ゆふきかうづけの)入道奉具足上洛(しやうらく)したりければ、君法体(ほつたい)の無恙事を悦び思召(おぼしめし)て、軈(やが)て結城(ゆふき)に本領安堵(あんど)の被成下綸旨。文観(もんくわん)上人は硫黄(いわうが)嶋より上洛(しやうらく)し、忠円(ちゆうゑん)僧正は越後国(ゑちごのくに)より被帰洛。総(そう)じて此(この)君笠置(かさぎ)へ落(おち)させ給(たまひ)し刻(きざみ)、解官停任(げくわんちやうにん)せられし人々、死罪流刑(るけい)に逢(あひ)し其(その)子孫、此彼(ここかしこ)より被召出、一時に蟄懐(ちつくわい)を開けり。されば日来(ひごろ)誇武威無本所を、権門高家(けんもんかうけ)の武士共(ぶしども)、いつしか成諸庭奉公人、或(あるひ)は走軽軒香車後、或(あるひは)跪青侍恪勤前。世の盛衰(せいすゐ)時の転変(てんぺん)、歎(なげく)に叶(かな)はぬ習(ならひ)とは知(しり)ながら、今の如(ごとく)にて公家(くげ)一統(いつとう)の天下ならば、諸国(しよこく)の地頭・御家人(ごけにん)は皆奴婢(ぬび)・雑人(ざふにん)の如(ごとく)にて有(ある)べし。哀(あはれ)何(いか)なる不思議(ふしぎ)も出来(いでき)て、武家執四海(しかい)権世中(よのなか)に又成(なれ)かしと思ふ人のみ多かりけり。同(おなじき)八月三日より可有軍勢恩賞沙汰とて、洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)卿(きやう)を被定上卿。依之(これによつて)諸国の軍勢、立軍忠支証捧申状望恩賞輩(ともがら)、何千万人(いくせんまんにん)と云(いふ)数(かず)を不知(しらず)。実(まこと)に有忠者は憑功不諛、無忠者媚奥求竈、掠上聞間、数月(すげつ)の内に僅(わづか)に二十(にじふ)余人(よにん)の恩賞を被沙汰たりけれ共(ども)、事非正路軈(やがて)被召返けり。さらば改上卿とて、万里小路(までのこうぢ)中納言藤房(ふぢふさの)卿を被成上卿、申状を被付渡。藤房(ふぢふさ)請取之糾忠否分浅深、各(おのおの)申与(まうしあたへ)んとし給ひける処に、依内奏秘計、只今までは朝敵(てうてき)なりつる者も安堵(あんど)を賜(たまは)り、更に無忠輩(ともがら)も五箇所・十箇所(じつかしよ)の所領(しよりやう)を給(たまはり)ける間、藤房(ふぢふさ)諌言(かんげん)を納(いれ)かねて称病被辞奉行。角(かく)て非可黙止とて、九条(くでうの)民部卿を上卿に定(さだめ)て御沙汰(ごさた)有(あり)ける間、光経(みつつね)卿(きやう)、諸大将(しよだいしやう)に其(その)手(て)の忠否(ちゆうひ)を委細尋究(たづねきはめ)て申与(まうしあたへ)んとし給(たまひ)ける処に、相摸(さがみ)入道(にふだう)の一跡(いつせき)をば、内裏(だいり)の供御料所(ぐごれうしよ)に被置。舎弟(しやてい)四郎(しらう)左近(さこんの)大夫(たいふ)入道(にふだう)の跡(あと)をば、兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)へ被進。大仏(だいぶつ)陸奥(むつの)守(かみ)の跡をば准后(じゆごう)の御領(ごりやう)になさる。此外(このほか)相州(さうしう)の一族(いちぞく)、関東(くわんとう)家風(かふう)の輩(ともがら)が所領をば、無指事郢曲妓女(えいきよくぎぢよ)の輩(ともがら)、蹴鞠伎芸(しうきくぎげい)の者共(ものども)、乃至(ないし)衛府諸司(ゑふしよし)・官女・官僧まで、一跡(いつせき)・二跡を合(あはせ)て、内奏(ないそう)より申給(まうしたまは)りければ、今は六十六(ろくじふろく)箇国(かこく)の内には、立錐(りつすゐ)の地も軍勢に可行闕所(けつしよ)は無(なか)りけり。浩(かかり)ければ光経(みつつねの)卿(きやう)も、心許(ばかり)は無偏(むへん)の恩化を申沙汰(まうしさた)せんと欲し給(たまひ)けれ共(ども)、叶(かな)はで年月をぞ被送ける。又雑訴(ざつそ)の沙汰の為にとて、郁芳門(いうはうもん)の左右の脇(わき)に決断所(けつだんしよ)を被造。其議定(そのぎてい)の人数(にんず)には、才学優長(さいがくいうちやう)の卿相(けいしやう)・雲客(うんかく)・紀伝(きてん)・明法(みやうはふ)・外記(げき)・官人(くわんにん)を三番に分(わかつ)て、一月に六箇度(ろくかど)の沙汰の日をぞ被定ける。凡(およそ)事(こと)の体(てい)厳重(げんぢゆう)に見へて堂々(だうだう)たり。去(され)ども是(これ)尚(なほ)理世安国(りせあんこく)の政(まつりごと)に非(あらざ)りけり。或(あるひ)は自内奏訴人(そにん)蒙勅許を、決断所にて論人(ろんにん)に理(り)を被付、又決断所にて本主(ほんしゆ)給安堵、内奏より其(その)地を別人(べつにん)の恩賞に被行。如此互に錯乱(さくらん)せし間、所領一所(しよりやういつしよ)に四五人(しごにん)の給主(きふしゆ)付(つい)て、国々の動乱(どうらん)更に無休時。去(さる)七月の初(はじめ)より中宮御心(おんここち)煩(わづら)はせ給(たまひ)けるが、八月二日隠(かくれ)させ給ふ。是(これ)のみならず十一月三日、春宮(とうぐう)崩御成(ほうぎよなり)にけり。是(これ)非只事、亡卒(ばうそつ)の怨霊共(をんりやうども)の所為(しわざ)なるべしとて、止其怨害、為令趣善所、仰四箇大寺、大蔵経五千三百(ごせんさんびやく)巻(くわん)を一日(いちにちの)中(うち)に被書写、法勝寺(ほつしようじ)にて則(すなはち)供養(くやう)を遂(とげ)られけり。
○大内裏(だいだいり)造営(ざうえいの)事(こと)付(つけたり)聖廟(せいべうの)御事(おんこと) S1202
翌年(よくねん)正月十二日、諸卿(しよきやう)議奏(ぎそう)して曰(いはく)、「帝王の業(げふ)、万機(ばんき)事繁(ことしげう)して、百司(はくし)設位。今の鳳闕(ほうけつ)僅(わづかに)方(はう)四町(しちやう)の内なれば、分内(ぶんない)狭(せばう)して調礼儀無所。四方(しはう)へ一町(いつちやう)宛(づつ)被広、建殿造宮。是(これ)猶(なほ)古(いにしへ)の皇居(くわうきよ)に及ばねばとて、大内裏可被造。」とて安芸(あき)・周防(すはう)を料国(れうごく)に被寄、日本国の地頭(ぢとう)・御家人(ごけにん)の所領(しよりやう)の得分(とくぶん)二十分(にじふぶんの)一(いち)を被懸召。抑(そもそも)大内裡(だいだいり)と申(まうす)は、秦(しん)の始皇帝(しくわうてい)の都、咸陽宮(かんやうきゆう)の一殿を摸(うつ)して被作たれば、南北三十六町(さんじふろくちやう)、東西二十町(にじつちよう)の外(ほか)、竜尾(りゆうび)の置石(すゑいし)を居(す)へて、四方(しはう)に十二の門(もん)を被立たり。東には陽明(やうめい)・待賢(たいけん)・郁芳門(いうはうもん)、南には美福(びふく)・朱雀(しゆじやく)・皇嘉門(くわうかもん)、西には談天(だつてん)・藻壁(さうへき)・殷富門(いんふもん)、北には安嘉(あんか)・偉鑒(ゐかん)・達智門(たつちもん)、此外(このほか)上東(しやうとう)・上西(しやうさい)、二門に至(いたる)迄、守交戟衛伍長時(ぢやうじ)に誡非常たり。三十六(さんじふろく)の後宮(こうきゆう)には、三千(さんぜん)の淑女(しゆくぢよ)飾妝、七十二の前殿(ぜんでん)には文武(ぶんぶ)の百司(はくし)待詔。紫宸殿(ししんでん)の東西に、清涼殿(せいりやうでん)・温明殿(うんめいでん)。当北常寧殿(じやうねいでん)・貞観殿(ちやうぐわんでん)。々々々(ちやうぐわんでん)と申(まうす)は、后町(きさきまち)の北(きた)の御匣殿(みくしげどの)也(なり)。校書殿(かうしよでん)と号せしは、清涼殿の南の弓場殿(ゆばどの)也(なり)。昭陽舎(せうやうしや)は梨壺(なしつぼ)、淑景舎(しげいしや)は桐壺(きりつぼ)、飛香舎(ひきやうしや)は藤壺(ふぢつぼ)、凝花舎(ぎようくわしや)は梅坪(むめつぼ)、襲芳舎(しふはうしや)と申(まうす)は雷鳴坪(かんなりのつぼ)の事也(なり)。萩戸(はぎのと)・陣座(ぢんのざ)・滝口戸(たきぐちのと)・鳥曹司(とりのさうし)・縫殿(ぬひどの)。兵衛(ひやうゑの)陣、左は宣陽門(せんやうもん)、右陰明門(いんめいもん)。日花(じつくわ)・月花(げつくわ)の両門は、対陣座左右。大極殿(たいごくでん)・小安殿(こあどの)・蒼龍楼(さうりようろう)・白虎楼(びやくころう)。豊楽院(ぶらくゐん)・清署堂(せいしよだう)、五節(ごせつ)の宴水(えんすゐ)・大嘗会(だいじやうゑ)は此(この)所にて被行。中和院(ちゆうくわゐん)は中(なかの)院(ゐん)、内教坊(ないけうばう)は雅楽所(ががくじよ)也(なり)。御修法(みしほ)は真言院(しんごんゐん)、神今食(じんごんじき)は神嘉殿(しんかでん)、真弓(まゆみ)・競馬(くらべむま)をば、武徳殿(ぶとくでん)にして被御覧。朝堂院(てうだうゐん)と申(まうす)は八省の諸寮是(これ)也(なり)。右近(うこん)の陣の橘(たちばな)は昔を忍ぶ香(か)を留(とど)め、御階(みはし)に滋(しげ)る竹の台(だい)幾世(いくよ)の霜を重(かさ)ぬらん。在原(ありはらの)中将(ちゆうじやう)の弓(ゆみ)・胡■(やなぐひ)を身に添(そへ)て、雷鳴(かんなり)騒ぐ終夜(よもすがら)あばらなる屋(や)に居たりしは、官(くわん)の庁(ちやう)の八神殿(やつじんどの)、光(ひかる)源氏(げんじの)大将(だいしやう)の、如(しく)物もなしと詠(えい)じつゝ、朧月夜(おぼろづきよ)に軻(あこがれ)しは弘徽殿(こうきでん)の細殿(ほそどの)、江相公(えのしやうこう)の古(いにし)へ越(こしぢ)の国へ下(くだり)しに、旅の別(わかれ)を悲(かなしみ)て、「後会期(こうくわいご)遥(はるか)也(なり)。濡纓於鴻臚之暁涙」と、長篇(ちやうへん)の序(じよ)に書(かき)たりしは、羅城門(らしやうもん)の南なる鴻臚館(こうろくわん)の名残(なごり)なり。鬼の間・直盧(ちよくろ)・鈴(すず)の縄(つな)。荒海(あらうみ)の障子(しやうじ)をば、清涼殿(せいりやうでん)に被立、賢聖(げんじやう)の障子をば、紫宸殿(ししんでん)にぞ被立ける。東の一の間(ま)には、馬周(ばしう)・房玄齢(ばうげんれい)・杜如晦(とじよくわい)・魏徴(ぎちよう)、二の間には、諸葛亮(しよかつりやう)・遽伯玉(きよはくぎよく)・張子房(ちやうしばう)・第伍倫(ていごりん)、三の間には、管仲・■禹(とうう)・子産(しさん)・蕭何(せうか)、四の間には、伊尹(いゐん)・傅説(ふえつ)・太公望(たいこうばう)・仲山甫(ちゆうざんほ)、西の一の間には、李勣(りせき)・虞世南(ぐせいなん)・杜預(どよ)・張華(ちやうくわ)、二の間には、羊■(やうこ)・揚雄・陳寔(ちんしよく)・班固(はんこ)、三の間には、桓栄(くわんえい)・鄭玄(ていげん)・蘇武(そぶ)・倪寛(げいくわん)、四の間には、董仲舒(とうちゆうじよ)・文翁・賈誼(かぎ)・叔孫通(しくそんとう)也(なり)。画図(ぐわと)は金岡(かなをか)が筆、賛詞(さんのことば)は小野道風(をののたうふう)が書(かき)たりけるとぞ承(うけたまは)る。鳳(ほう)の甍(いらか)翔天虹の梁(うつばり)聳雲、さしもいみじく被造双たりし大内裏(だいだいり)、天災(てんさいを)消(けす)に無便、回禄(くわいろく)度々に及(およん)で、今は昔の礎(いしずゑ)のみ残れり。尋回禄由(よし)、彼唐尭(かのたうげう)・虞舜(ぐじゆん)の君は支那四百州の主(あるじ)として、其(その)徳天地に応(おう)ぜしか共(ども)、「茆茨不剪、柴椽不削」とこそ申伝(まうしつたへ)たれ。矧(いはん)や粟散国(ぞくさんこく)の主(あるじ)として、此大内(このだいだい)を被造たる事(こと)、其(その)徳不可相応。後王(こうわう)若(もし)無徳にして欲令居安給はゞ、国(くにの)財力(ざいりよく)も依之(これによつて)可尽と、高野大師(かうやだいし)鑒之、門々(もんもん)の額(がく)を書(かか)せ給(たまひ)けるに、大極殿(だいごくでん)の大の字の中(なか)を引切(ひききつ)て、火(くわ)と云(いふ)字に成し、朱雀門(しゆじやくもん)の朱の字を米(べい)と云(いふ)字にぞ遊(あそば)しける。小野道風(おののたうふう)見之、大極殿は火極殿(くわこくでん)、朱雀門は米雀門(べいじやくもん)とぞ難(なん)じたりける。大権(たいごん)の聖者(しやうじや)鑒未来書(かき)給へる事を、凡俗(ぼんぞく)として難(なん)じ申(まうし)たりける罰(ばつ)にや、其後(そののち)より道風執筆、手戦(ふるひ)て文字正しからざれども、草書(さうしよ)に得妙人なれば、戦(ふるう)て書(かき)けるも、軈(やが)て筆勢(ひつせい)にぞ成(なり)にける。遂に大極殿より火出(いで)て、諸司八省(しよしはつしやう)悉(ことごとく)焼(やけ)にけり。無程又造営(ざうえい)有(あり)しを、北野天神(てんじん)の御眷属(ごけんぞく)火雷気毒神(くわらいきどくじん)、清涼殿(せいりやうでん)の坤柱(ひつじさるのはしら)に落掛給(おちかかりたまひ)し時焼(やけ)けるとぞ承(うけたまは)る。抑(そもそも)彼天満(かのてんまん)大神と申(まうす)は、風月の本主、文道(ぶんだう)の大祖(たいそ)たり。天に御坐(おはしまし)ては日月(じつげつ)に顕光照国土、地に降下(あまくだつ)ては塩梅(えんばい)の臣と成(なつ)て群生(ぐんしやう)を利(り)し玉(たま)ふ。其始(そのはじめ)を申せば、菅原(すがはらの)宰相是善(ぜぜん)卿(きやう)の南庭(なんてい)に、五六歳(ごろくさい)許(ばかり)なる小児(せうに)の容顔美麗(ようがんびれい)なるが、詠前栽花只一人立(たち)給へり。菅相公(くわんしやうこう)怪(あや)しと見給(みたまひ)て、「君は何(いづれ)の処の人、誰(た)が家の男(なん)にて御坐(おはします)ぞ。」と問玉(といたまふ)に、「我は無父無母、願(ねがはく)は相公(しやうこう)を親(おや)とせんと思侍(おもひはんべ)る也(なり)。」と被仰ければ、相公嬉(うれし)く思召(おぼしめし)て、手(てづ)から奉舁懐、鴛鴦(ゑんあう)の衾(ふすま)の下(した)に、恩愛(おんあい)の養育を為事生育(はごくみ)奉り、御名をば菅(くわん)少将とぞ申(まうし)ける。未(いまだ)習(ならはずして)悟道、御才学(ごさいかく)世に又類(たぐひ)も非じと見給(みえたまひ)しかば、十一歳に成(なら)せ給(たまひ)し時父菅相公(くわんしやうこう)御髪(おんかみ)を掻撫(かきなで)て、「若(もし)詩(し)や作り給ふべき。」と問進(とひまゐら)せ給(たまひ)ければ、少しも案じたる御気色(けしき)も無(なう)て、月耀如晴雪。梅花似照星。可憐金鏡転。庭上玉芳馨。と寒夜(かんや)の即事(そくじ)を、言(こと)ば明(あきらか)に五言(ごごん)の絶句(ぜつく)にぞ作(つくら)せ玉(たまひ)ける。其(それ)より後(のち)、詩は捲盛唐波瀾先七歩才、文は漱漢魏芳潤、諳万巻書玉(たまひ)しかば、貞観(ちやうぐわん)十二年三月二十三日(にじふさんにち)対策(たいさく)及第して自(みづから)詞場(しぢやう)に折桂玉ふ。其(その)年の春都良香(とりやうきやう)の家に人集(あつまつ)て弓を射ける所へ菅少将(くわんせうしやう)をはしたり。都良香、此(この)公(こう)は無何と、学窓(がくさう)に聚蛍、稽古(けいこ)に無隙人なれば、弓の本末(もとうら)をも知(しり)玉(たま)はじ、的を射させ奉り咲(わらは)ばやと思(おぼ)して、的矢(まとや)に弓を取副(とりそへ)て閣菅少将(くわんせうしやうの)御前(おんまへ)に、「春(はる)の始(はじめ)にて候に、一度(ひとこぶし)遊(あそ)ばし候へ。」とぞ被請ける。菅少将(くわんせうしやう)さしも辞退(じたい)し給はず、番(つがひ)の逢手(あひて)に立合(たちあひ)て、如雪膚(はだ)を押袒(おしはだぬき)、打上(うちあげ)て引下(ひきおろ)すより、暫(しばらく)しをりて堅めたる体(すがた)、切(きつ)て放(はなし)たる矢色(やいろ)・弦音(つるおと)・弓倒(ゆんだふ)し、五善(ごぜん)何(いづ)れも逞(たくまし)く勢(いきほひ)有(あつ)て、矢所(やつぼ)一寸ものかず、五度(ごど)の十(つづ)をし給(たまひ)ければ、都良香感(かん)に堪兼(たへかね)て、自(みづから)下(おり)て御手(おんて)を引(ひき)、酒宴(しゆえん)及数刻、様々(さまざま)の引出物(ひきでもの)をぞ被進ける。同(おなじき)年の三月二十六日に、延喜帝(えんぎのみかど)未だ東宮(とうぐう)にて御坐(ござ)ありけるが、菅少将(くわんせうしやう)を被召て、「漢朝(かんてう)の李■(りけう)は一夜(いちや)に百首の詩を作(つくり)けると見(みえ)たり。汝(なんぢ)盍如其才。一時に作十首詩可備天覧。」被仰下ければ、則(すなはち)十(じふの)題を賜(たまはり)て、半時許(ばかり)に十首の詩をぞ作(つくら)せ玉(たまひ)ける。送春不用動舟車。唯別残鴬与落花。若使韶光知我意。今宵旅宿在詩家。と云(いふ)暮春(ぼしゆん)の詩(し)も其(その)十首の絶句(ぜつく)の内なるべし。才賢(さいけん)の誉(ほまれ)・仁義の道、一として無所欠、君(きみは)帰三皇五帝徳、世(よは)均周公・孔子(こうし)治只在此人、君無限賞(しやう)じ思召(おぼしめし)ければ、寛平(くわんへい)九年(くねん)六月に中納言より大納言に上(あがり)、軈(やが)て大将(だいしやう)に成(なり)玉ふ。同(おなじき)年十月に、延喜帝(えんぎのみかど)即御位給(たまひ)し後(のち)は、万機(ばんき)の政(まつりごと)然(しかしながら)自幕府上相出(いで)しかば、摂禄(せつろく)の臣も清花(せいぐわ)の家も無可比肩人。昌泰(しやうたい)二年の二月に、大臣(だいじんの)大将(だいしやう)に成(なら)せ給ふ。此(この)時本院大臣(ほんゐんのおとど)と申(まうす)は、大織冠(たいしよくくわん)九代の孫(そん)、昭宣公(せうせんこう)第一(だいいち)の男(なん)、皇后(くわうごうの)御兄(おんせうと)、村上天皇(むらかみてんわう)の御伯父(おんをぢ)也(なり)。摂家(せつけ)と云(いひ)高貴(かうき)と云(いひ)、旁(かたがた)我に等(ひとし)き人非じと思ひ給(たまひ)けるに、官位・禄賞(ろくしやう)共(とも)に菅丞相(くわんしようじやう)に被越給(たまひ)ければ、御憤(いきどほり)更(さらに)無休時。光(ひかる)卿(きやう)・定国(さだくにの)卿(きやう)・菅根朝臣(すがねのあそん)などに内々相計(あいはかつ)て、召陰陽頭、王城の八方に埋人形祭冥衆、菅丞相を呪咀(じゆそ)し給(たまひ)けれども、天道(てんだう)私(わたくし)なければ、御身(おんみ)に災難不来。さらば構讒沈罪科思(おぼし)て、本院(ほんゐんの)大臣(おとど)時々(よりより)菅丞相天下の世務に有私、不知民愁、以非為理由(よし)被申ければ、帝(みかど)さては乱世害民逆臣(ぎやくしんにして)、諌非禁邪忠臣に非(あら)ずと被思召けるこそ浅猿(あさまし)けれ。「誰知、偽言巧似簧。勧君掩鼻君莫掩。使君夫婦為参商。請君捕峰君莫捕。使君母子成豺狼。」さしも可眤夫婦・父子の中(なか)をだに遠(とほざ)くるは讒者(ざんしや)の偽(いつはり)也(なり)。況(いはんや)於君臣間乎。遂(つひに)昌泰(しやうたい)四年正月二十日菅丞相被遷太宰権帥、筑紫(つくし)へ被流給(たまふ)べきに定(さだま)りにければ、不堪左遷御悲、一首(いつしゆ)の歌に千般(せんばん)の恨(うらみ)を述(のべ)て亭子院(ていじゐん)へ奉り給ふ。流行(ながれゆく)我はみくづとなりぬとも君しがらみと成(なり)てとゞめよ法皇此(この)歌を御覧じて御泪(おんなみだ)御衣(ぎよい)を濡(うるほ)しければ、左遷(させん)の罪を申宥(まうしなだめ)させ給はんとて、御参内有(さんだいあり)けれ共(ども)、帝(みかど)遂(つひ)に出御無(しゆつぎよなか)りければ、法皇御憤(いきどほり)を含(ふくん)で空(むなし)く還御成(くわんぎよなり)にけり。其後(そののち)流刑(るけい)定(さだまり)て、菅丞相忽(たちまち)に太宰府(だざいふ)へ被流させ玉ふ。御子二十三人(にじふさんにん)の中(うち)に、四人は男子にてをわせしかば、皆引分(ひきわけ)て四方(しはう)の国々へ奉流。第一(だいいち)の姫君一人をば都に留め進(まゐら)せ、残(のこる)君達(きんたち)十八人は、泣々(なくなく)都を立離(たちはな)れ、心つくしに赴(おもむか)せ玉ふ御有様(おんありさま)こそ悲しけれ。年久(ひさし)く住馴給(すみなれたまひ)し、紅梅殿(こうばいどの)を立出(たちいで)させ玉へば、明方(あけがた)の月幽(かすか)なるに、をり忘(わすれ)たる梅(むめ)が香(か)の御袖(おんそで)に余(あま)りたるも、今は是(これ)や古郷(こきやう)の春(はる)の形見(かたみ)と思食(おぼしめす)に、御涙(おんなみだ)さへ留(とま)らねば、東風(こち)吹(ふか)ば匂(にほひ)をこせよ梅(むめ)の花主(あるじ)なしとて春な忘れそと打詠給(うちえいじたまひ)て、今夜(こよひ)淀(よど)の渡(わたし)までと、追立(おつたて)の官人共(くわんにんども)に道を被急、御車(おんくるま)にぞ被召ける。心なき草木までも馴(なれ)し別(わかれ)を悲(かなしみ)けるにや、東風(こち)吹(ふく)風の便(たより)を得て、此(この)梅(むめ)飛去(とびさつ)て配所の庭にぞ生(おひ)たりける。されば夢の告(つげ)有(あつ)て、折(をる)人つらしと惜(をし)まれし、宰府(さいふ)の飛梅(とびむめ)是(これ)也(なり)。去(さる)仁和の比(ころ)、讚州(さんしう)の任(にん)に下給(くだりたまひ)しには、解甘寧錦纜、蘭橈桂梶(らんのさをかつらのかぢ)、敲舷於南海月、昌泰(しやうたい)の今配所(はいしよ)の道へ赴(おもむか)せ玉ふには、恩賜(おんし)の御衣(ぎよい)の袖を片敷(かたしい)て、浪の上篷(とま)の底、傷思於西府雲、都に留置進(とめおきまゐら)せし北(きたの)御方(おんかた)・姫君の御事(おんこと)も、今は昨日(きのふ)を限(かぎり)の別(わかれ)と悲(かなし)く、知(しら)ぬ国々へ被流遣十八人の君達(きんたち)も、さこそ思はぬ旅に趣(おもむい)て、苦身悩心らめと、一方(ひとかた)ならず思食遣(おぼしめしやる)に、御泪(なみだ)更に乾(かわく)間(ま)も無(なけ)れば、旅泊(りよはく)の思を述(のべ)させ給(たまひ)ける詩にも、自従勅使駈将去。父子一時五処離。口不能言眼中血。俯仰天神与地祇。北(きたの)御方(おんかた)より被副ける御使(おんつかひ)の道より帰(かへり)けるに御文(ふみ)あり。君が住(すむ)宿(やど)の梢(こずゑ)を行々(ゆくゆく)も隠(かく)るゝまでにかへり見しはや心筑紫(つくし)に生(いき)の松、待(まつ)とはなしに明暮(あけくれ)て、配所(はいしよ)の西府(さいふ)に着(つか)せ玉へば、埴生(はにふ)の小屋(こや)のいぶせきに、奉送置、都の官人も帰りぬ。都府楼(とふろう)の瓦の色、観音寺の鐘(かね)の声、聞(きく)に随ひ見(みる)に付(つけ)ての御悲(かなしみ)、此(この)秋は独(ひとり)我(わが)身の秋となれり。起臥(おきふす)露のとことはに、古郷(こきやう)を忍ぶ御涙(おんなみだ)、毎言葉繁ければ、さらでも重(おもき)濡衣(ぬれぎぬ)の、袖乾(かわ)く間(ま)も無(なか)りけり、さても無実(むじつ)の讒(ざん)によりて、被遷配所恨入骨髄、難忍思召(おぼしめし)ければ、七日(なぬかが)、間(あひだ)御身(おんみ)を清(きよ)め一巻(いつくわん)の告文(かうぶん)を遊(あそば)して高山(かうざん)に登り、竿(さを)の前(さき)に着(つけ)て差挙(さしあげ)、七日(なぬか)御足を翹(つまだて)させ給(たまひ)たるに、梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしやく)も其(その)無実をや憐給(あはれみたまひ)けん。黒雲一群(ひとむら)天より下(おり)さがりて、此告文(このかうぶん)を把(とつ)て遥(はるか)の天にぞ揚(あが)りける。其後(そののち)延喜(えんぎ)三年二月二十五日遂(つひ)に沈左遷恨薨逝(こうせい)し給(たまひ)ぬ。今の安楽寺(あんらくじ)を御墓所(みはかしよ)と定(さだめ)て奉送置。惜(をしい)哉(かな)北闕(ほくけつの)春(はるの)花、随流不帰水、奈何(いかんがせん)西府(さいふの)夜(よるの)月、入不晴虚命雲、されば貴賎(きせん)滴涙、慕世誇淳素化、遠近呑声悲道蹈澆漓俗。同(おなじき)年夏の末(すゑ)に、延暦寺(えんりやくじ)第十三の座主(ざす)、法性坊尊意贈(ほふしやうばうそんいぞう)僧正、四明(しめい)山の上、十乗の床前(ゆかのまへ)に照観月、清心水御坐(おはしまし)けるに、持仏(ぢぶつ)堂の妻戸(つまど)を、ほと/\と敲(たたく)音(おと)しければ、押開(おしひらい)て見玉ふに、過(すぎ)ぬる春筑紫(つくし)にて正(まさ)しく薨逝(こうせい)し給(たまひ)ぬと聞へし菅丞相にてぞ御坐(おはしまし)ける。僧正奇(あやしく)思(おぼ)して、「先(まづ)此方(こなた)へ御入(おんいり)候へ。」と奉誘引、「さても御事(おんこと)は過(すぎ)にし二月二十五日に、筑紫(つくし)にて御隠候(かくれさふらひ)ぬと、慥(たしかに)に承(うけたまはり)しかば、悲歎(ひたん)の涙を袖にかけて、後生菩提(ごしやうぼだい)の御追善(つゐぜん)をのみ申居(まうしゐ)候に、少(すこし)も不替元の御形にて入御(じゆぎよ)候へば、夢幻(ゆめうつつ)の間難弁こそ覚(おぼえ)て候へ。」と被申ければ、菅丞相(くわんしようじやう)御顔にはら/\とこぼれ懸りける御泪(なみだ)を押拭(おしのご)はせ給(たまひ)て、「我(われ)成朝廷臣、為令安天下、暫(しばらく)下生人間処に、君時平公(しへいこう)が讒(ざん)を御許容(ごきよよう)有(あつ)て、終(つひ)に無実(むじつ)の罪に被沈ぬる事(こと)、瞋恚(しんい)の焔(ほむら)従劫火盛(さかん)也(なり)。依之(これによつて)五蘊(ごうん)の形は雖壊、一霊(いちれい)の神(しん)は明(あきらか)にして在天。今得大小(だいせうの)神祇(しんぎ)・梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしやく)・四王許、為報其恨九重(ここのへ)の帝闕(ていけつ)に近づき、我につらかりし佞臣(ねいしん)・讒者(ざんしや)を一々に蹴殺(けころ)さんと存ずる也(なり)。其(その)時定(さだめ)て仰山門可被致総持法験。縦(たとひ)雖有勅定、相構(あひかまへて)不可有参内。」と被仰ければ、僧正(そうじやうの)曰(いはく)、「貴方(きはうと)与愚僧師資(しし)之(の)儀雖不浅、君(きみと)与臣上下之礼尚(なほ)深(ふかし)。勅請(ちよくしやう)の旨(むね)一往(いちわう)雖辞申、及度々争(いかで)か参内仕(さんだいつかまつ)らで候べき。」と被申けるに、菅丞相御気色(けしき)俄に損(そん)じて御肴(さかな)に有(あり)ける柘榴(じやくろ)を取(とつ)てかみ摧(くだ)き、持仏堂(ぢぶつだう)の妻戸(つまど)に颯(さつ)と吹懸(ふきかけ)させ給(たまひ)ければ、柘榴の核(さね)猛火(みやうくわ)と成(なつ)て妻戸に燃付(もえつき)けるを、僧正少(すこし)も不騒、向燃火灑水(しやすゐ)の印(いん)を結ばれければ、猛火忽(たちまち)に消(きえ)て妻戸は半(なかば)焦(こげ)たる許(ばかり)也(なり)。此(この)妻戸今に伝(つたはつ)て在山門とぞ承(うけたまは)る。其後(そののち)菅丞相座席(ざせき)を立(たつ)て天(てん)に昇(のぼ)らせ玉ふと見へければ、軈(やがて)雷(いかづち)内裡の上に鳴落(なりおち)鳴騰(なりのぼつて)、高天も落地大地も如裂。一人(いちじん)・百官(はくくわん)縮身消魂給ふ。七日七夜が間雨暴(あらく)風烈(はげしく)して世界(せかい)如闇、洪水(こうずゐ)家々を漂(ただよ)はしければ、京白河の貴賎男女(きせんなんによ)、喚(をめ)き叫ぶ声叫喚(けうくわん)・大叫喚の苦(くるしみ)の如し。遂(つひ)に雷電(らいでん)大内(だいだい)の清涼殿に落(おち)て、大納言清貫(きよつら)卿(きやう)の表(うへ)の衣(きぬ)に火燃付(もえつき)て伏転(ふしまろ)べども不消。右大弁(うだいべん)希世(まれよの)朝臣は、心(こころ)剛(がう)なる人なりければ、「縦(たとひ)何(いか)なる天雷(てんらい)也(なり)とも、王威(わうゐ)に不威哉(や)。」とて、弓に矢を取副(とりそへ)て向(むかひ)給へば、五体(ごたい)すくみて覆倒(うつぶしにたふれ)にけり。近衛(こんゑの)忠包(ただかぬ)鬢髪(びんぱつ)に火付(つき)焼死(やけしに)ぬ。紀蔭連(きのかげつら)は煙(けむり)に咽(むせん)で絶入(たえいり)にけり。本院大臣(ほんゐんのおとど)あはや我(わが)身に懸(かか)る神罰よと被思ければ、玉体に立副進(たちそひまゐら)せ太刀を抜懸(ぬきかけ)て、「朝(てう)に仕(つか)へ給(たまひ)し時も我に礼を乱玉(みだしたま)はず、縦(たと)ひ神と成(なり)玉ふとも、君臣上下の義を失(うしなひ)玉(たま)はんや。金輪(こんりん)位高(たかう)して擁護(おうご)の神未(いまだ)捨玉、暫く静(しづま)りて穏かに其(その)徳を施し玉へ。」と理(り)に当(あたつ)て宣ひければ、理にやしづまり玉(たまひ)けん、時平(しへい)大臣も蹴殺(けころ)され給はず、玉体も無恙、雷神天に上(のぼ)り玉(たまひ)ぬ。去(され)ども雨風の降続(ふりつづく)事(こと)は尚(なほ)不休。角(かく)ては世界国土皆流失(ながれうせ)ぬと見へければ、以法威神(かみの)忿(いかり)を宥(なだめ)申さるべしとて、法性坊(ほつしやうばう)の贈(ぞう)僧正を被召。一両度までは辞退申されけるが、勅宣(ちよくせん)及三度(さんど)ければ、無力下洛(げらく)し給(たまひ)けるに、鴨川をびたゝしく水増(まし)て、船ならでは道有(ある)まじかりけるを、僧正、「只其(その)車水の中(なか)を遣(や)れ。」と下知(げぢ)し給ふ。牛飼(うしかひ)随命、漲(みなぎつ)たる河の中へ車を颯(さつ)と遣懸(やりかけ)たれば、洪水左右へ分(わかれ)、却(かへつ)て車は陸地(くがち)を通(とほ)りけり。僧正参内(さんだい)し給ふより、雨止(やみ)風静(しづまつ)て、神(かみの)忿(いかり)も忽(たちまち)に宥(なだま)り給(たまひ)ぬと見へければ、僧正預叡感登山(とうさん)し玉ふ。山門の効験(かうげん)天下の称讚(しようさん)在之とぞ聞へし。其後(そののち)本院(ほんゐんの)大臣(おとど)受病身心(しんしん)鎮(とこしなへ)に苦(くるし)み給ふ。浄蔵貴所(じやうざうきそ)を奉請被加持けるに、大臣(おとど)の左右の耳より、小青蛇(こせいじや)頭(かしら)を差出して、「良(やや)浄蔵貴所(きそ)、我(われ)無実(むじつ)の讒(ざん)に沈(しづみ)し恨(うらみ)を為散、此(この)大臣を取殺(とりころさ)んと思(おもふ)也(なり)。されば祈療(きれう)共(とも)に以て不可有験。加様(かやう)に云(いふ)者をば誰(たれ)とかしる。是(これ)こそ菅丞相の変化(へんげ)の神、天満大自在(てんまんだいじざい)天神よ。」とぞ示給(しめしたまひ)ける。浄蔵貴所(きそ)示現(じげん)の不思議(ふしぎ)に驚(おどろい)て、暫く罷加持出玉(いでたまひ)ければ、本院(ほんゐんの)大臣(おとど)忽(たちまち)に薨(こう)じ給(たまひ)ぬ。御息女(そくぢよ)の女御(にようご)、御孫(まご)の東宮(とうぐう)も軈(やが)て隠(かく)れさせ玉(たまひ)ぬ。二男八条(はつでうの)大将(だいしやう)保忠(やすただ)同(おなじく)重病に沈給(しづみたまひ)けるが、験者(げんじや)薬師経(やくしきやう)を読む時、宮毘羅大将(くびらだいしやう)と打挙(うちあげ)て読(よみ)けるを、我が頚(くび)切らんと云(いふ)声に聞成(ききなし)て、則(すなはち)絶入給(たえいりたまひ)けり。三男敦忠(あつただ)中納言も早世(さうせい)しぬ。其(その)人こそあらめ、子孫(しそん)まで一時に亡玉(ほろびたまひ)ける神罰の程こそをそろしけれ。其比(そのころ)延喜帝(えんぎのみかど)の御従兄弟(おんいとこ)に右大弁(うだいべん)公忠(きんただ)と申(まうす)人、悩(なやむ)事(こと)も無(なく)て頓死(とんし)しけり。経三日蘇生給(よみがへらせたまひ)けるが、大息(おほいき)突出(つきいで)て、「可奏聞事あり、我を扶起(たすけおこし)て内裏(だいり)へ参れ。」と宣(のたまひ)ければ、子息信明(のぶあきら)・信孝(のぶたか)二人(ににん)左右の手を扶(たすけ)て参内し玉ふ。「事の故(ゆゑ)何ぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、公忠わな/\と振(ふるう)て、「臣冥官(みやうくわん)の庁(ちやう)とてをそろしき所に至り候(さふらい)つるが、長(たけ)一丈(いちぢやう)余(あまり)なる人の衣冠(いくわん)正(ただ)しきが、金軸(こんぢく)の申文(まをしぶみ)を捧(ささげ)て、「粟散辺地(ぞくさんへんち)の主(あるじ)、延喜帝王(えんぎていわう)、時平(しへい)大臣が信讒無罪臣を被流候(さふらひ)き。其誤(そのあやまり)尤(もつとも)重(おも)し、早(はやく)被記庁御札、阿鼻地獄(あびぢごく)へ可被落。」と申(まうせ)しかば、三十(さんじふ)余人(よにん)並居(なみゐ)玉へる冥官大(おほき)に忿(いかつ)て、「不移時刻可及其責。」と同(どう)じ給(たまひ)しを、座中(ざちゆう)第二(だいに)の冥官、「若(もし)年号を改(あらため)て過(とが)を謝(じや)する道あらば、如何(いかん)し候べき。」と宣(のたまひ)しに、座中皆案(あん)じ煩(わづらう)たる体(てい)に見へて、其後(そののち)、公忠(きんただ)蘇生仕(そせいつかまつり)候。」とぞ被奏ける。君大(おほき)に驚思召(おどろきおぼしめし)て、軈(やが)て延喜(えんぎ)の年号を延長に改(あらため)て、菅丞相流罪(るざい)の宣旨(せんじ)を焼捨(やきすて)て、官位を元(もと)の大臣に帰(かへ)し、正(じやう)二位(にゐ)の一階(かい)を被贈けり。其後(そののち)天慶(てんぎやう)九年(くねん)近江(あふみの)国(くに)比良(ひら)の社(やしろ)の袮宜(ねぎ)、神(みぶ)の良種(よしざね)に託(たく)して、大内(おほうち)の北野(きたの)に千本の松一夜(いちや)に生(おひ)たりしかば、此(ここ)に建社壇、奉崇天満大自在天神けり。御眷属(ごけんぞく)十六万八千(じふろくまんはつせん)之神尚(なほ)も静(しづま)り玉(たまは)ざりけるにや、天徳二年より天元(てんげん)五年に至(いたる)迄二十五年の間に、諸司(しよし)八省三度(さんど)迄焼(やけ)にけり。角(かく)て有(ある)べきにあらねば、内裏造営(ざうえい)あるべしとて、運魯般斧新(あらた)に造立(つくりたて)たりける柱に一首(いつしゆ)の蝕(むしくひ)の歌あり。造(つくる)とも又も焼(やけ)なん菅原(すがはら)や棟(むね)の板間(いたま)の合(あは)ん限(かぎ)りは此(この)歌に神慮(しんりよ)尚(なほ)も御納受(ごなふじゆ)なかりけりと驚思食(おどろきおぼしめし)て、一条院より正(じやう)一位(いちゐ)太政(だいじやう)大臣(だいじん)の官位を賜(たまは)らせ玉ふ。勅使安楽寺(あんらくじ)に下(くだつ)て詔書(せうしよ)を読上(よみあげ)ける時天に声有(あつ)て一首(いつしゆ)の詩(し)聞へたり。昨為北闕蒙悲士。今作西都雪恥尸。生恨死歓其我奈。今須望足護天皇基。其後(そののち)よりは、神の嗔(いかり)も静(しづま)り国土も穏(おだやか)也(なり)。偉(おほいなる)矣(かな)、尋本地、大慈大悲(だいじだいひ)の観世音、弘誓(ぐぜい)の海深(ふかう)して、群生済度(ぐんしやうさいど)の船(ふね)無不到彼岸。垂跡(すゐじやく)を申せば天満大自在天神の応化(おうげ)の身、利物(りもつ)日(ひびに)新(あらた)にして、一来結縁(いちらいけちえん)の人所願(しよぐわん)任心成就(じやうじゆ)す。是(ここ)を以て上(かみ)自一人、下(しも)至万民、渇仰(かつがう)の首(かうべ)を不傾云(いふ)人はなし。誠(まことに)奇特(きどく)無双(ぶさう)の霊社(れいしや)也(なり)。去程(さるほど)に、治暦(ちりやく)四年八月十四日、内裏(だいり)造営(ざうえい)の事始(ことはじめ)有(あつ)て、後三条院(ごさんでうのゐん)の御宇(ぎよう)、延久(えんきう)四年四月十五日遷幸(せんかう)あり。文人(ぶんじん)献詩伶倫(れいりん)奏楽。目出(めでた)かりしに、無幾程、又安元(あんげん)二年に日吉(ひよし)山王の依御祟、大内(だいだい)の諸寮(しよれう)一宇(いちう)も不残焼(やけ)にし後(のち)は、国の力衰(おとろへ)て代々(だいだい)の聖主(せいしゆ)も今に至(いたる)まで造営の御沙汰(ごさた)も無(なか)りつるに、今兵革(ひやうかく)の後(のち)、世未(いまだ)安(やすからず)、国費(つひ)へ民苦(くるしみ)て、不帰馬于花山陽不放牛于桃林野、大内裏可被作とて自昔至今、我朝(わがてう)には未(いまだ)用(もちひざる)作紙銭、諸国の地頭・御家人(ごけにん)の所領(しよりやう)に被懸課役条、神慮にも違(たが)ひ驕誇(けうくう)の端(はし)とも成(なり)ぬと、顰眉智臣も多かりけり。
○安鎮国家(あんちんこくかの)法(ほふの)事(こと)付(つけたり)諸大将(しよだいしやう)恩賞(おんしやうの)事(こと) S1203
元弘三年春(はる)の比(ころ)、筑紫(つくし)には規矩(きくの)掃部助(かもんのすけ)高政(たかまさ)・糸田左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)貞義(さだよし)と云(いふ)平氏の一族(いちぞく)出(いで)来て、前亡(ぜんばう)の余類(よるゐ)を集め、所々の逆党(ぎやくたう)を招(まねい)て国を乱(みだ)らんとす。又河内(かはちの)国(くに)の賊徒等(ぞくとら)、佐々目憲法(けんぽふ)僧正と云(いひ)ける者を取立(とりたて)て、飯盛山(いいもりやま)に城郭をぞ構(かまへ)ける。是(これ)のみならず、伊与(いよの)国(くに)には赤橋(あかはし)駿河(するがの)守(かみ)が子息、駿河(するがの)太郎重時(しげとき)と云(いふ)者有(あつ)て、立烏帽子峯(たてゑぼしがみね)に城を拵(こしらへ)、四辺(しへん)の庄園を掠領(かすめりやう)す。此等(これら)の凶徒(きようと)、加法威於武力不退治者、早速(さつそく)に可難静謐とて、俄に紫宸殿(ししんでん)の皇居(くわうきよ)に構壇、竹内(たけのうちの)慈厳(じごん)僧正を被召て、天下安鎮(あんちん)の法をぞ被行ける。此(この)法を行(おこなふ)時、甲冑の武士四門(しもん)を堅(かため)て、内弁(ないべん)・外弁(げべん)、近衛(こんゑ)、階下(かいか)に陣を張(は)り、伶人(れいじん)楽(がく)を奏(そう)する始(はじめ)、武家の輩(ともがら)南庭(なんてい)の左右に立双(たちならん)で、抜剣四方(しはう)を鎮(しづむ)る事あり。四門(しもん)の警固(けいご)には、結城(ゆふき)七郎左衛門(しちらうざゑもん)親光(ちかみつ)・楠(くすのき)河内(かはちの)守(かみ)正成(まさしげ)・塩冶(えんや)判官高貞(たかさだ)・名和伯耆(なわはうきの)守(かみ)長年(ながとし)也(なり)。南庭(なんてい)の陣には右は三浦介(みうらのすけ)、左は千葉大介貞胤(ちばのおほすけさだたね)をぞ被召ける。此(この)両人兼(かね)ては可随其役由を領状申(りやうじやうまうし)たりけるが、臨其期千葉は三浦が相手に成(なら)ん事を嫌(きら)ひ、三浦は千葉が右に立(たた)ん事を忿(いかつ)て、共に出仕(しゆし)を留(とどめ)ければ、天魔の障礙(しやうげ)、法会(ほふゑ)の違乱(ゐらん)とぞ成(なり)にける。後(のち)に思合(おもひあは)するに天下久(ひさしく)無為(ぶゐ)なるまじき表示(へうじ)也(なり)けり。されども此(この)法の効験(かうげん)にや、飯盛(いひもりの)丸城は正成に被攻落、立烏帽子(たてゑぼしの)城は、土居・得能(とくのう)に被責破、筑紫(つくし)は大友・小弐に打負(うちまけ)て、朝敵(てうてき)の首(くび)京都に上(のぼり)しかば、共に被渡大路、軈(やが)て被懸獄門けり。東国・西国已(すでに)静謐(せいひつ)しければ、自筑紫小弐・大友・菊池(きくち)・松浦(まつら)の者共(ものども)、大船(たいせん)七百(しちひやく)余艘(よさう)にて参洛(さんらく)す。新田(につた)左馬(さまの)助(すけ)・舎弟兵庫(ひやうごの)助(すけ)七千(しちせん)余騎(よき)にて被上洛(しやうらく)。此外(このほか)国々の武士共(ぶしども)、一人も不残上(のぼ)り集(あつまり)ける間、京白河に充満(じゆうまん)して、王城の富貴(ふうき)日来(ひごろ)に百倍(ひやくばい)せり。諸軍勢(しよぐんぜい)の恩賞は暫(しばら)く延引すとも、先(まづ)大功の輩(ともがら)の抽賞(ちうしやう)を可被行とて、足利(あしかが)治部大輔(ぢぶのたいふ)高氏(たかうぢ)に、武蔵(むさし)・常陸(ひたち)・下総(しもふさ)三箇国(さんかこく)、舎弟左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)に遠江(とほたふみの)国(くに)、新田左馬(さまの)助(すけ)義貞に上野(かうづけ)・播磨(はりま)両国、子息義顕(よしあき)に越後国(ゑちごのくに)、舎弟兵部(ひやうぶの)少輔(せう)義助(よしすけ)に駿河(するがの)国(くに)、楠判官正成(まさしげ)に摂津国(つのくに)・河内、名和(なわ)伯耆(はうきの)守(かみ)長年(ながとし)に因幡(いなば)・伯耆両国をぞ被行ける。其外(そのほか)公家(くげ)・武家の輩(ともがら)、二箇国(にかこく)・三箇国(さんかこく)を給(たまは)りけるに、さしもの軍忠有(あり)し赤松入道円心(ゑんしん)に、佐用(さよの)庄一所許(ばかり)を被行。播磨国(はりまのくに)の守護職(しゆごしよく)をば無程被召返けり。されば建武の乱(らん)に円心俄に心替(こころがはり)して、朝敵(てうてき)と成(なり)しも、此恨(このうらみ)とぞ聞へし。其外(そのほか)五十(ごじふ)余箇国(よかこく)の守護(しゆご)・国司(こくし)・国々の闕所大庄(けつしよたいしやう)をば悉(ことごとく)公家被官(ひくわん)の人々拝領(はいりやう)しける間、誇陶朱之富貴飽鄭白之衣食矣。
○千種殿(ちぐさどの)並(ならびに)文観(もんくわん)僧正奢侈(しやしの)事(こと)付(つけたり)解脱(げだつ)上人(しやうにんの)事(こと) S1204
中(なか)にも千種(ちぐさの)頭(とうの)中将(ちゆうじやう)忠顕朝臣(ただあきあそん)は、故(こ)六条(ろくでうの)内府(だいふ)有房(ありふさ)公(こう)の孫(まご)にて御坐(おはせ)しかば文字(もんじ)の道をこそ、家業(かげふ)とも嗜(たしな)まるべかりしに、弱冠(じやくくわん)の比(ころ)より我(わが)道にもあらぬ笠懸(かさがけ)・犬追物(いぬおふもの)を好み、博奕(ばくえき)・婬乱(いんらん)を事とせられける間、父有忠(ありただの)卿(きやう)離父子義、不幸の由にてぞ被置ける。され共(ども)此(この)朝臣、一時の栄花(えいぐわ)を可開過去(くわこ)の因縁(いんえん)にや有(あり)けん、主上(しゆしやう)隠岐(おきの)国(くに)へ御遷幸(ごせんかう)の時供奉仕(ぐぶつかまつり)て、六波羅(ろくはら)の討手(うつて)に上(のぼ)りたりし忠功(ちゆうこう)に依(よつ)て、大国三箇国(さんかこく)、闕所(けつしよ)数十箇所(すじつかしよ)被拝領たりしかば、朝恩(てうおん)身に余(あま)り、其侈(そのおご)り目を驚(おどろか)せり。其重恩(そのぢゆうおん)を与へたる家人共(けにんども)に、毎日の巡酒(じゆんしゆ)を振舞(ふるまは)せけるに、堂上(だうじやう)に袖を連(つら)ぬる諸大夫(しよだいぶ)・侍三百人(さんびやくにん)に余れり。其酒肉珍膳(そのしゆじくちんぜん)の費(つひ)へ、一度(いちど)に万銭も尚(なほ)不可足。又数十間(すじつけん)の厩(むまや)を作双(つくりなら)べて、肉(しし)に余れる馬を五六十疋(ごろくじつぴき)被立たり。宴(さかもり)罷(やん)で和興に時は、数百騎(すひやくき)を相随(あひしたが)へて内野(うちの)・北山辺(へん)に打出(うちいで)て追出犬、小鷹狩(こたかがり)に日を暮(くら)し給ふ。其(その)衣裳は豹(へう)・虎(とらの)皮を行縢(むかばき)に裁(た)ち、金襴纐纈(きんらんかうけつ)を直垂(ひたたれ)に縫へり。賎(いやしきが)服貴服謂之僭上。々々無礼(せんじやうぶれいは)国(くにの)凶賊(きようぞく)也(なり)と、孔安国(こうあんこく)が誡(いましめ)を不恥ける社(こそ)うたてけれ。是(これ)はせめて俗人なれば不足言。彼(かの)文観僧正(そうじやう)の振舞を伝聞(つたへきく)こそ不思議(ふしぎ)なれ。適(たまたま)一旦(いつたん)名利(みやうり)の境界(きやうがい)を離れ、既(すで)に三密瑜伽(さんみつゆが)の道場に入給(いりたまひ)し無益、只利欲・名聞(みやうもん)にのみ■(おもむい)て、更に観念定坐(くわんねんぢやうざ)の勤(つとめ)を忘(わすれ)たるに似(にた)り。何(なん)の用ともなきに財宝を積倉不扶貧窮、傍(かたはら)に集武具士卒を逞(たくましう)す。成媚結交輩(ともがら)には、無忠賞を被申与ける間、文観僧正(そうじやう)の手(て)の者と号して、建党張臂者、洛中に充満して、及五六百人(ごろつぴやくにん)。されば程(ほど)遠からぬ参内(さんだい)の時も、輿(こし)の前後に数百騎(すひやくき)の兵打囲(うちかこん)で、路次を横行しければ、法衣(ほふえ)忽(たちまち)汚馬蹄塵、律儀(りつぎ)空(むなしく)落人口譏。彼廬山(かのろざんの)慧遠法師(ゑをんほつし)は一度(ひとたび)辞風塵境、寂寞(じやくまく)の室(しつ)に坐(ざ)し給(たまひ)しより、仮(かり)にも此(この)山を不出と誓(ちかつ)て、十八(じふはちの)賢聖(げんじやう)を結(むすん)で、長日(ちやうじつ)に六時礼讚(ろくじらいさん)を勤(つとめ)き。大梅常和尚(だいばいのじやうをしやう)は強(しひて)不被世人知住処更に茅舎(ばうしや)を移して入深居、詠山居風味得已熟印可給へり。有心人は、皆古(いにしへ)〔も〕今も韜光消跡、暮山(ぼざん)の雲に伴(ともなひ)一池(いつち)の蓮(はちす)を衣(ころも)として、行道清心こそ生涯を尽(つく)す事なるに、此(この)僧正は如此名利の絆(きづな)に羈(ほださ)れけるも非直事、何様(なにさま)天魔外道(げだう)の其(その)心に依託(えたく)して、挙動(ふるまは)せけるかと覚(おぼえ)たり。以何云之ならば、文治(ぶんぢ)の比(ころ)洛陽(らくやう)に有一沙門(しやもん)。其(その)名を解脱(げだつ)上人とぞ申(まうし)ける。其(その)母七歳の時、夢中(むちゆう)に鈴(すず)を呑(のむ)と見て設(まうけ)たりける子なりければ、非直人とて、三(みつつ)に成(なり)ける時より、其(その)身を入釈門、遂(つひ)に貴(たつと)き聖(ひじり)とは成(な)しける也(なり)。されば慈悲深重(じひじんぢゆう)にして、三衣(さんえ)の破(やれ)たる事を不悲、行業(ぎやうごふ)不退(ふたい)にして、一鉢(いつぱつ)の空(むなし)き事を不愁。大隠(たいいん)は必(かならず)しも市朝(してう)の内を不辞。身は雖交五濁塵、心は不犯三毒霧。任縁歳月(としつき)を渡り、利生山川を抖薮(とそう)し給(たまひ)けるが、或時伊勢太神宮に参(まゐつ)て、内外宮(ないげくう)を巡礼(じゆんれい)して、潛(ひそか)に自受法楽(じじゆほふらく)の法施(ほつせ)をぞ被奉ける。大方(おほかた)自余(じよ)の社(やしろ)には様替(さまかはつ)て、千木(ちぎも)不曲形祖木(かたそぎも)不剃、是(これ)正直捨方便(しやはうべん)の形(かたち)を顕(あらは)せるかと見へ、古松(こしよう)垂枝老樹(らうじゆ)敷葉、皆下化衆生(げけしゆじやう)の相(さう)を表(へう)すと覚(おぼえ)たり。垂迹(すゐじやく)の方便をきけば、仮(かり)に雖似忌三宝名、内証深心(ないしやうのしんじん)を思へば、其(それ)も尚(なほ)有化俗結縁理覚(おぼえ)て、そゞろに感涙(かんるゐ)袖を濡(ぬら)しければ、日暮(くれ)けれ共(ども)在家(ざいけ)なんどに可立宿心地もし給はず、外宮(げくう)の御前(おんまへ)に通夜念誦(つやねんじゆ)して、神路山(かみぢやま)の松風に眠(ねぶり)をさまし、御裳濯川(みもすそがは)の月に心を清(すま)して御坐(おしはまし)ける処に、俄に空掻曇(かきくもり)雨風烈(はげしく)吹(ふい)て、雲の上に車を轟(とどろかし)、馬を馳(はす)る音して東西より来れり。「あな恐(おそろ)しや、此(これ)何物やらん。」と上人消肝見給へば、忽然(こつぜん)として虚空(こくう)に瑩玉鏤金たる宮殿(くうでん)楼閣出(いで)来て、庭上に引幔門前に張幕。爰(ここ)に十方より所来の車馬(しやば)の客(かく)、二三千(にさんぜん)も有らんと覚(おぼえ)たるが左右に居流(ゐながれ)て、上座に一人の大人(たいじん)あり。其容(そのすがた)甚(はなはだ)非尋常、長(たけ)二三十丈(にさんじふぢやう)も有らんと見揚(みあげ)たるに、頭(かしら)は如夜叉十二の面上(おもてうへ)に双(なら)べり。四十二の手有(あつ)て左右に相連(あひつらな)る。或(あるひ)は握日月、或(あるひ)は提剣戟八竜(はちりゆう)にぞ乗(のつ)たりける。相順(あひしたがふ)処の眷属共(けんぞくども)、皆非常人、八臂(はつぴ)六足(ろくそく)にして鉄の楯(たて)を挟(さしはさ)み、三面(さんめん)一体(いつたい)にして金の鎧(よろひを)着(ちやく)せり。座(ざ)定(さだまつ)て後(のち)、上坐に居たる大人(たいじん)左右に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「此比(このころ)帝釈(たいしやく)の軍(いくさ)に打勝(うちかつ)て手に握日月、身居須弥頂、一足(ひとあし)に雖蹈大海、其(その)眷属(けんぞく)毎日数万人(すまんにん)亡(ほろぶ)、故(ゆゑ)何事ぞと見れば、南胆部州(なんぜんぶしう)扶桑国(ふさうこくの)洛陽辺(らくやうへん)に解脱房(げだつばう)と云(いふ)一人の聖(ひじり)出(いで)来て、化導利生(けたうりしやう)する間、法威(ほふゐ)盛(さかん)にして天帝(てんたい)得力、魔障(ましやう)弱(よわく)して修羅(しゆら)失勢。所詮(しよせん)彼が角(かく)て有(あら)ん程は、我等(われら)向天帝合戦する事叶ふまじ。何(いか)にもして彼が醒道心、可着■慢(けうまん)懈怠心。」申(まうし)ければ、甲(かぶと)の真向(まつかう)に、第六天の魔王と金字(こんじ)に銘(めい)を打(うつ)たる者座中に進(すすみ)出で、「彼(かれの)醒道心候はん事は、可輒るにて候。先(まず)後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)に滅武家思召(おぼしめす)心を奉着、被攻六波羅(ろくはら)、左京(さきやうの)権大夫(ごんのだいぶ)義時(よしとき)定(さだめ)て向官軍(くわんぐん)可致合戦。其(その)時加力義時ば官軍(くわんぐん)敗北(はいぼく)して、後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)遠国(をんごく)へ被流給(たま)はゞ、義時司天下成敗治天(ちてん)を計(はからひ)申さんに、必(かならず)広瀬(ひろせの)院(ゐん)第二(だいに)の宮(みや)を可奉即位。さる程ならば、此(この)解脱房彼宮(かのみや)の有御帰依聖(ひじり)なれば、被召官僧奉近竜顔、可刷出仕儀則。自是行業(ぎやうごふ)は日々に怠(おこたり)、■慢(けうまん)は時々に増(まし)て、破戒無慚(はかいむざん)の比丘(びく)と成(なら)んずる条、不可有子細、角(かく)てぞ我等も若干(そくばく)の眷属(けんぞく)を可設候。」と申(まうし)ければ、二行に並居(なみゐ)たる悪魔外道(けだう)共(ども)、「此(この)儀尤可然覚(おぼえ)候。」と同(どう)じて各(おのおの)東西に飛去(とびさり)にけり。上人聞此事給(たまひ)て、「是(これ)ぞ神明の我に道心を勧(すすめ)させ給ふ御利生(りしやう)よ。」と歓喜(くわんぎ)の泪(なみだ)を流し、其(それ)より軈(やがて)京へは帰(かへり)給はで、山城(やましろの)国(くに)笠置(かさぎ)と云(いふ)深山(みやま)に卜一巌屋、攅落葉為身上衣、拾菓為口食、長(ながく)発厭離穢土心鎮専欣求浄土勤し給ひける。角(かく)て三四年を過(すごし)給ひける処に承久(しようきう)の合戦出(いで)来て、義時(よしとき)執天下権しかば、後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)被流させ給(たまひ)て、広瀬(ひろせの)宮(みや)即天子位給(たまひ)ける。其(その)時解脱(げだつ)上人在笠置(かさぎ)窟聞召(きこしめし)て、為官僧度々被下勅使被召けれ共(ども)、是(これ)こそ第六天の魔王共が云(いひ)し事よと被思ければ、遂(つひ)に不随勅定弥(いよいよ)行澄(おこなひすま)してぞ御坐(おはしま)しける。智行(ちぎやう)徳(とく)開(ひらけ)しかば、軈(やが)て成此寺開山、今に残仏法弘通紹隆給へり。以彼思此、うたてかりける文観(もんくわん)上人の行儀(ぎやうぎ)哉(かな)と、迷愚蒙眼。遂(つひに)無幾程建武の乱出(いで)来しかば、無法流相続門弟一人成孤独衰窮身、吉野の辺(へん)に漂泊(へうはく)して、終給(をはりたまひ)けるとぞ聞へし。
○広有(ひろあり)射怪鳥事 S1205
元弘三年七月に改元(かいげん)有(あつ)て建武(けんむ)に被移。是(これ)は後漢(ごかんの)光武、治王莽之乱再(ふたたび)続漢世佳例也(なり)とて、漢朝(かんてう)の年号を被摸けるとかや。今年天下に疫癘(えきれい)有(あつ)て、病死する者甚(はなはだ)多し。是(これ)のみならず、其(その)秋の比(ころ)より紫宸殿(ししんでん)の上に怪鳥(けてう)出(いで)来て、「いつまで/\。」とぞ鳴(なき)ける。其(その)声響雲驚眠。聞(きく)人皆無不忌恐。即(すなはち)諸卿相議(あひぎ)して曰(いはく)、「異国(いこく)の昔、尭(げう)の代に九(ここのつ)の日出(いで)たりしを、■(げい)と云(いひ)ける者承(うけたまはつ)て、八(やつつ)の日を射落せり。我(わが)朝の古(いにしへ)、堀川(ほりかはの)院(ゐん)の御在位(ございゐの)時、有反化物、奉悩君しをば、前(さきの)陸奥(むつの)守(かみ)義家(よしいへ)承(うけたまはつ)て、殿上(てんしやう)の下口(したぐち)に候(こうし)、三度(さんど)弦音(つるおと)を鳴(なら)して鎮之。又近衛(こんゑの)院(ゐん)の御在位(ございゐ)の時、鵺(ぬえ)と云(いふ)鳥の雲中に翔(かけつ)て鳴(なき)しをば、源三位(げんざんみ)頼政(よりまさの)卿(きやう)蒙勅、射落したりし例(れい)あれば、源氏の中に誰(たれ)か可射候者有(ある)。」と被尋けれ共(ども)、射はづしたらば生涯の恥辱(ちじよく)と思(おもひ)けるにや、我(われ)承らんと申(まうす)者無(なか)りけり。「さらば上北面(じやうほくめん)・諸庭(しよてい)の侍共(さぶらひどもの)中に誰かさりぬべき者有(ある)。」と御尋(おんたづね)有(あり)けるに、「二条(にでうの)関白左大臣殿(さだいじんどの)の被召仕候、隠岐(おきの)次郎左衛門(じらうざゑもん)広有(ひろあり)と申(まうす)者こそ、其器(そのき)に堪(たへ)たる者にて候へ。」と被申ければ、軈(やがて)召之とて広有をぞ被召ける。広有承勅定鈴間辺(すずのまのへん)に候(さふらひ)けるが、げにも此(この)鳥蚊(か)の睫(まつげ)に巣くうなる■螟(せうめい)の如く少(ちひさく)て不及矢も、虚空(こくう)の外(ほか)に翔(かけり)飛ばゞ叶(かなふ)まじ。目に見ゆる程の鳥にて、矢懸(やがか)りならんずるに、何事ありとも射はづすまじき物をと思(おもひ)ければ、一義(いちぎ)も不申畏(かしこまつ)て領掌(りやうじやう)す。則(すなはち)下人に持(もた)せたる弓(ゆみと)与矢(やと)を執寄(とりよせ)て、孫廂(まごひさし)の陰(かげ)に立隠(たちかくれ)て、此(この)鳥の有様を伺(うかがひ)見るに、八月十七夜の月殊に晴渡(はれわたつ)て、虚空(こくう)清明(せいめい)たるに、大内山(おほうちやま)の上に黒雲(くろくも)一群(ひとむら)懸(かかつ)て、鳥啼(なく)こと荐(しきり)也(なり)。鳴(なく)時口(くち)より火炎(くわえん)を吐(はく)歟(か)と覚(おぼえ)て、声の内より電(いなびかり)して、其(その)光御簾(ぎよれん)の内へ散徹(さんてつ)す。広有此(この)鳥の在所(ありか)を能々(よくよく)見課(みおほせ)て、弓押張り弦(つる)くひしめして、流鏑矢(かぶらや)を差番(さしつがひ)て立向へば、主上(しゆしやう)は南殿(なんでん)に出御(しゆつぎよ)成(なつ)て叡覧(えいらん)あり。関白殿下・左右(さう)の大将(だいしやう)・大中納言・八座(はちざ)・七弁(しちべん)・八省輔(はつしやうふ)・諸家(しよけ)の侍、堂上(だうじやう)堂下(だうか)に連袖、文武(ぶんぶ)百官見之、如何が有(あら)んずらんとかたづを呑(のう)で拳手。広有已(すで)に立向(たちむかつ)て、欲引弓けるが、聊(いささか)思案(しあん)する様(やう)有(あり)げにて、流鏑(かぶら)にすげたる狩俣(かりまた)を抜(ぬい)て打捨(うちすて)、二人(ににん)張(ばり)に十二束二伏(じふにそくふたつぶせ)、きり/\と引(ひき)しぼりて無左右不放之、待鳥啼声たりける。此(この)鳥例(れい)より飛下(とびさがり)、紫宸殿(ししんでん)の上に二十丈(にじふぢやう)許(ばかり)が程に鳴(なき)ける処を聞清(ききすま)して、弦音(つるおと)高く兵(ひやう)と放つ。鏑(かぶら)紫宸殿(ししんでん)の上を鳴り響(ひびか)し、雲の間に手答(てごたへ)して、何とは不知、大盤石(だいばんじやく)の如落懸聞へて、仁寿殿(じじゆでん)の軒の上より、ふたへに竹台(たけのだい)の前へぞ落(おち)たりける。堂上(だうじやう)堂下(だうか)一同に、「あ射たり/\。」と感ずる声、半時許(ばかり)のゝめいて、且(しばし)は不云休けり。衛士(ゑじ)の司(つかさ)に松明(たいまつ)を高く捕(とら)せて是(これ)を御覧(ごらん)ずるに、頭(かしら)は如人して、身は蛇(じや)の形(かたち)也(なり)。嘴(くちばし)の前曲(さきまがつ)て歯如鋸生違(おひちがふ)。両の足に長距(ながきけづめ)有(あつ)て、利(ときこと)如剣。羽崎(はさき)を延(のべ)て見之、長(ながさ)一丈(いちぢやう)六尺也(なり)。「さても広有(ひろあり)射ける時、俄に雁俣(かりまた)を抜(ぬい)て捨(すて)つるは何ぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、広有畏(かしこまつ)て、「此(この)鳥当御殿上鳴候(なきさふらひ)つる間、仕(つかまつつ)て候はんずる矢の落(おち)候はん時、宮殿(きゆうでん)の上に立(たち)候はんずるが禁忌(いまいま)しさに、雁俣(かりまた)をば抜(ぬい)て捨(すて)つるにて候。」と申(まうし)ければ、主上(しゆしやう)弥(いよいよ)叡感有(あつ)て、其夜(そのよ)軈(やが)て広有を被成五位、次の日因幡(いなばの)国(くに)に大庄(だいしやう)二箇所(にかしよ)賜(たまはり)てけり。弓矢取(ゆみやとり)の面目、後代(こうだい)までの名誉也(なり)。
○神泉苑(しんぜんゑんの)事(こと) S1206
兵革(ひやうかく)の後(のち)、妖気(えうき)猶(なほ)示禍。銷其殃無如真言秘密効験とて、俄に神泉苑をぞ被修造ける。彼神泉園(かのしんぜんゑん)と申(まうす)は、大内(だいだい)始(はじめ)て成(なり)し時、准周文王霊囿、方八町(はちちやう)に被築たりし園囿(ゑんいう)也(なり)。其後(そののち)桓武(くわんむ)の御世(みよ)に、始(はじめ)て朱雀門(しゆじやく)の東西に被建二寺。左をば名東寺右をば号西寺。東寺には高野(かうや)大師(だいし)安胎蔵界七百(しちひやく)余尊(よそん)守金輪宝祚。西寺(さいじ)には南都の周敏僧都(しゆびんそうづ)金剛界(こんがうかいの)五百(ごひやく)余尊(よそん)を顕(あらは)して、被祈玉体長久。斯(かか)りし処に、桓武(くわんむの)御宇(ぎよう)延暦二十三年春(はるの)比(ころ)、弘法(こうぼふ)大師(だいし)為求法御渡唐(ごとたう)有(あり)けり。其(その)間周敏(しゆびん)僧都一人奉近竜顔被致朝夕加持ける。或(ある)時御門(みかど)御手水(おんてうづ)を被召けるが、水(みづ)氷(こほつ)て余(あまり)につめたかりける程に、暫(しばし)とて閣(さしお)き給ひたりけるを、周敏(しゆびん)向御手水結火印を給(たまひ)ける間、氷水(ひようすゐ)忽(たちまち)に解(とけ)て如沸湯也(なり)。御門(みかど)被御覧て、余(あまり)に不思議(ふしぎ)に被思召ければ、態(わざと)火鉢に炭を多くをこさせて、障子(しやうじ)を立廻(たてまは)し、火気を内に被篭たれば、臘裏(らふりの)風光宛(あたかも)如春三月也(なり)。帝(みかど)御顔の汗を押拭(おしのご)はせ給(たまひ)て、「此火(このひを)滅(けさ)ばや。」と被仰ければ、守敏又向火水の印(いん)をぞ結び給ひける。依之(これによつて)炉火(ろくわ)忽(たちまち)に消(きえ)て空(むなし)く冷灰(れいくわい)に成(なり)にければ、寒気(かんき)侵膚五体(ごたい)に如灑水。自此後、守敏加様(かやう)の顕奇特不思議(ふしぎ)事如得神変。斯(かかり)しかば帝(みかど)是を帰依渇仰(きえかつがう)し給へる事不尋常。懸(かか)りける処に弘法(こうぼふ)大師(だいし)有御帰朝。即(すなはち)参内し給ふ。帝(みかど)異朝の事共(ことども)有御尋(おんたづね)後、守敏(しゆびん)僧都の此間(このあひだ)様々(さまざま)なりつる奇特共(きどくども)をぞ御物語有(あり)ける。大師(だいし)聞召之、「馬鳴(めみやう)■帷、鬼神(きしん)去(さつて)閉口、栴檀(せんだん)礼塔支提(しだい)破(やぶれて)顕尸と申(まうす)事(こと)候へば、空海(くうかい)が有(あら)んずる処にて、守敏よもさやうの奇特(きどく)をば現(あらは)し候はじ。」とぞ被欺ける。帝(みかど)さらば両人の効験(かうげん)を施(ほどこ)させて威徳の勝劣(しようれつ)を被御覧思召(おぼしめし)て、或(ある)時大師(だいし)御参内有(あり)けるを、傍(かたはら)に奉隠置、守敏応勅御前(おんまへ)に候(こう)す。時に帝(みかど)湯薬(たうやく)を進(まゐ)りけるが、建盞(けんざん)を閣(さしおか)せ給(たまひ)て、「余(あまり)に此(この)水つめたく覚(おぼゆ)る。例の様(やう)に加持(かぢ)して被暖候へかし。」とぞ被仰ける。守敏仔細(しさい)候はじとて、向建盞結火印被加持けれども、水敢(あへ)て不成湯。帝(みかど)「こは何(いか)なる不思議(ふしぎ)ぞや。」と被仰、左右に目くわし有(あり)ければ、内侍(ないし)の典主(すけ)なる者、態(わざと)熱(あつ)く沸返(わきかへり)たる湯をついで参(まゐり)たり。帝(みかど)又湯を立(たて)させて進(まゐ)らんとし給ひけるが、又建盞(けんざん)を閣(さしおか)せ給ふ。「是(これ)は余(あまり)に熱(あつく)て、手にも不被捕。」と被仰ければ、守敏先(さき)にもこりず、又向建盞結水印たりけれ共(ども)、湯敢(あへて)不醒、尚(なほ)建盞の内にて沸返(わきかへ)る。守敏前後の不覚に失色、損気給へる処に、大師(だいし)傍(そば)なる障子(しやうじ)の内より御出(おんいで)有(あつ)て、「何(いか)に守敏、空海(くうかい)是(これ)に有とは被存知候はざりける歟(か)。星光(ほしのひかり)は消朝日蛍(ほたるの)火は隠暁月。」とぞ咲(わらは)れける。守敏大(おほき)に恥之挿欝陶於心中、隠嗔恚於気上被退出けり。自其守敏君を恨(うらみ)申す憤(いきどほり)入骨髄深(ふか)かりければ、天下に大旱魃(だいかんばつ)をやりて、四海(しかい)の民を無一人飢渇(けかち)に合(あは)せんと思(おもつ)て、一大三千界(いちだいさんぜんかい)の中(うち)にある所の竜神共(りゆうじんども)を捕(とら)へて、僅(わづか)なる水瓶(すゐへい)の内に押篭(おしこめ)てぞ置(おき)たりける。依之(これによつて)孟夏(まうか)三月の間、雨降(ふる)事(こと)無(なく)して、農民不勤耕作。天下の愁(うれへ)一人(いちじん)の罪にぞ帰(き)しける。君遥(はるか)に天災の民に害ある事を愁(うれ)へ思召(おぼしめし)て、弘法(こうぼふ)大師(だいし)を召請(めししやう)じて、雨の祈(いのり)をぞ被仰付ける。大師(だいし)承勅、先(まづ)一七日(ひとなぬか)の間入定、明(あきらか)に三千界の中(うち)を御覧(ごらん)ずるに、内海(ないかい)・外海(げかい)の竜神共(りゆうじんども)、悉(ことごとく)守敏の以呪力、水瓶(すゐへい)の中(うち)に駆篭(かりこめ)て可降雨竜神(りゆうじん)無(なか)りけり。但(ただし)北天竺(てんじく)の境(さかひ)大雪山(だいせつせん)の北に無熱池(むねつち)と云(いふ)池(いけ)の善女(ぜんによ)竜王、独(ひとり)守敏(しゆびん)より上位の薩■(さつた)にて御坐(おはしまし)ける。大師(だいし)定(ぢやう)より出(いで)て、此由(このよし)を奏聞(そうもん)有(あり)ければ、俄に大内(だいだい)の前に池を掘(ほら)せ、清涼(せいりやう)の水を湛(たたへ)て竜王をぞ勧請(くわんじやう)し給(たまひ)ける。于時彼(かの)善女龍王金色(こんじき)の八寸(はつすん)の竜に現(げん)じて、長(たけ)九尺(くしやく)許(ばかり)の蛇(くちなは)の頂(いただき)に乗(のつ)て此(この)池に来(きたり)給ふ。則(すなはち)此(この)由を奏す。公家(くげ)殊に敬嘆(きやうたん)せさせ給(たまひ)て、和気真綱(わけのまつな)を勅使(ちよくし)として、以御幣種々物供龍王(りゆうわう)を祭(まつら)せらる。其後(そののち)湿雲(しふうん)油然(ゆぜん)として降雨事国土に普(あまね)し。三日の間をやみ無(なく)して、災旱(さいかん)の憂(うれへ)永(ながく)消(きえ)ぬ。真言(しんごん)の道を被崇事自是弥(いよいよ)盛(さかん)也(なり)。守敏尚(なほ)腹を立(たて)て、さらば弘法(こうぼふ)大師(だいし)を奉調伏思(おもひ)て、西寺に引篭(ひきこも)り、三角(さんかく)の壇(だん)を構(かま)へ本尊(ほんぞん)を北向に立(たて)て、軍荼利夜叉(ぐだりやしや)の法をぞ被行ける。大師(だいし)此(この)由を聞給(ききたまひ)て、則(すなはち)東寺に炉壇(ろだん)を構へ大威徳明王(みやうわう)の法を修(しゆ)し給ふ。両人何れも徳行薫修(とくぎやうくんじゆ)の尊宿(そんしゆく)也(なり)しかば、二尊(にそん)の射給(たまひ)ける流鏑矢(かぶらや)空中(くうちゆう)に合(あつ)て中(なか)に落(おつ)る事(こと)、鳴休(なりやむ)隙(ひま)も無(なか)りけり。爰(ここ)に大師(だいし)、守敏を油断(ゆだん)させんと思召(おぼしめし)て、俄に御入滅(ごにふめつ)の由(よし)を被披露ければ、緇素(しそ)流悲歎泪、貴賎(きせん)呑哀慟声。守敏聞之、「法威成就(ほふゐじやうじゆ)しぬ。」と成悦則(すなはち)被破壇(だんをやぶられ)けり。此(この)時守敏俄に目くれ鼻血(はなぢ)垂(たつ)て、心身被悩乱けるが、仏壇の前に倒伏(たふれふし)て遂(つひ)に無墓成(なり)にけり。「呪咀諸毒薬還着於本人(じゆそしよどくやくげんぢやくをほんにん)」と説(とき)給ふ金言(きんげん)、誠(まこと)に験(しるし)有(あつ)て、不思議(ふしぎ)なりし効験(かうげん)也(なり)。自是して東寺は繁昌し西寺滅亡す。大師(だいし)茅(ちがや)と云(いふ)草を結(むすん)で、竜(りゆう)の形(かたち)に作(つくつ)て壇上に立(たて)て行(おこな)はせ給(たまひ)ける。法成就の後(のち)、聖衆(しやうじゆ)を奉送給(たまひ)けるに、真(まこと)の善女龍王をば、軈(やがて)神泉園(しんぜんゑん)に留奉(とどめたてまつつ)て、「竜華下生三会(りゆうげげしやうさんゑ)の暁(あかつき)まで、守此国治我法給へ。」と、御契約(けいやく)有(あり)ければ、今まで迹(あと)を留(とめ)て彼(かの)池に住(すみ)給ふ。彼茅(かのちがや)の竜王は大龍に成(なつ)て、無熱池(むねつち)へ飛帰(とびかへり)玉ふとも云(いひ)、或(あるひは)云(いはく)聖衆(しやうじゆ)と共に空(そら)に昇(のぼつ)て、指東を、飛去(とびさり)、尾張(をはりの)国(くに)熱田(あつた)の宮(みや)に留(とま)り玉ふ共(とも)云(いふ)説(せつ)あり。仏法東漸(とうぜん)の先兆(せんてう)、東海鎮護(とうかいちんご)の奇瑞(きずゐ)なるにや。大師(だいしの)言(いはく)、「若(もし)此(この)竜王他界(たかい)に移(うつ)らば池浅く水少(すくなく)して国荒れ世乏(とぼしか)らん。其(その)時は我門徒(わがもんと)加祈請、竜王を奉請留可助国。」宣(のたま)へり。今は水浅く池あせたり。恐(おそらく)は竜王移他界玉へる歟(か)。然共(しかれども)請雨経(しやううぎやう)の法被行ごとに掲焉(けつえん)の霊験(れいけん)猶(なほ)不絶、未(いまだ)国(くにを)捨玉似(に)たり、風雨叶時感応奇特(かんおうきどく)の霊池(れいち)也(なり)。代々(だいだい)の御門(みかど)崇之家々の賢臣(けんしん)敬之。若(もし)旱魃(かんばつ)起る時は先(まづ)池を浄(きよ)む。然(しかる)を後鳥羽法皇(ごとばのほふわう)をり居させ玉ひて後、建保(けんほう)の比(ころ)より此(この)所廃(すた)れ、荊棘(けいぎよく)路(みち)を閉(とづ)るのみならず、猪鹿(ちよろく)の害蛇放(はな)たれ、流鏑(かぶら)の音(おと)驚護法聴、飛蹄(ひてい)の響(ひびき)騒冥衆心。有心人不恐歎云(いふ)事(こと)なし。承久(しようきう)の乱(らん)の後(のち)、故武州禅門(ごぶしうぜんもん)潛(ひそか)に悲此事(こと)、高築垣堅門被止雑穢。其後(そののち)涼燠(りやういく)数(しばしば)改(あらたまつ)て門牆(もんしやう)漸(やうやく)不全。不浄汚穢(ふじやうわゑ)之(の)男女出入無制止、牛馬水草を求(もとむ)る往来(わうらい)無憚。定知(さだめてしんぬ)竜神(りゆうじん)不快歟(か)。早(はやく)加修理可崇重給。崇此所国土可治也(なり)。
○兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)流刑(るけいの)事(こと)付(つけたり)驪姫(りきが)事(こと) S1207
兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)天下の乱(らん)に向ふ程は、無力為遁其身難雖被替御法体、四海(しかい)已(すで)に静謐(せいひつ)せば、如元復三千(さんぜん)貫長位、致仏法・王法紹隆給(たまは)んこそ、仏意にも叶ひ叡慮にも違(たが)はせ給ふまじかりしを、備征夷将軍位可守天下武道とて、則(すなはち)勅許(ちよくきよ)を被申しかば、聖慮不隠しか共(ども)、任御望遂に被下征夷将軍宣旨。斯(かか)りしかば、四海(しかい)の倚頼(いらい)として慎身可被重位御事(おんこと)なるに、御心(おんこころ)の侭(まま)に極侈、世の譏(そしり)を忘(わすれ)て婬楽(いんらく)をのみ事とし給(たまひ)しかば、天下の人皆再(ふたた)び世の危(あやふ)からん事を思へり。大乱(たいらん)の後は弓矢を裹(つつみ)て干戈(かんくわ)袋(ふくろ)にすとこそ申すに、何の用ともなきに、強弓(つよゆみ)射る者、大太刀(おほたち)仕(つか)ふ者とだに申せば、無忠被下厚恩、左右前後に仕承(ししよう)す。剰(あまつさへ)加様(かやう)のそらがらくる者共(ものども)、毎夜(まいよ)京白河(しらかは)を廻(まはつ)て、辻切(つしぎり)をしける程に、路次(ろし)に行合(ゆきあ)ふ児法師(ちごほふし)・女童部(をんなわらんべ)、此彼(ここかしこ)に被切倒、逢横死者無休時。是(これ)も只足利(あしかが)治部卿を討(うた)んと被思召ける故(ゆゑ)に、集兵被習武ける御挙動(ふるまひ)也(なり)。抑(そもそも)高氏卿(たかうぢのきやう)今までは随分有忠仁(じん)にて、有過僻不聞、依何事兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)は、是(これ)程に御憤(いきどほり)は深かりけるぞと、根元(こんげん)を尋ぬれば、去年の五月に官軍(くわんぐん)六波羅(ろくはら)を責落(せめおと)したりし刻(きざみ)、殿(とのの)法印の手(て)の者共(ものども)、京中の土蔵(どざう)共(ども)を打破(うちやぶつ)て、財宝(ざいはう)共(ども)を運(はこ)び取(とり)ける間、為鎮狼籍、足利殿(あしかがどの)の方より是(これ)を召捕(めしとつ)て、二十(にじふ)余人(よにん)六条河原(ろくでうかはら)に切(きつて)ぞ被懸ける。其高札(そのたかふだ)に、「大塔宮(おほたふのみや)の候人(こうにん)、殿(とのの)法印良忠(りやうちゆう)が手(て)の者共(ものども)、於在々所々、昼強盜(ひるがうだう)を致す間、所誅也(なり)。」とぞ被書たりける。殿(とのの)法印此(この)事(こと)を聞(きい)て不安事に被思ければ、様々の讒(ざん)を構(かま)へ方便(てだて)を廻(めぐら)して、兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)にぞ被訴申ける。加様(かやう)の事共(ことども)重畳(ぢゆうでふ)して達上聞ければ、宮も憤り思召(おぼしめ)して、志貴(しぎ)に御座(ござ)有(あり)し時より、高氏(たかうぢ)卿(きやう)を討(うた)ばやと、連々(れんれん)に思召立(おぼしめしたち)けれ共(ども)、勅許(ちよくきよ)無(なか)りしかば無力黙止給(もだしたまひ)けるが、尚讒口(ざんこう)不止けるにや、内々以隠密儀を、諸国へ被成令旨を、兵(つはもの)をぞ被召ける。高氏卿(たかうぢのきやう)此(この)事(こと)を聞(きい)て、内々奉属継母准后被奏聞けるは、「兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)為奉奪帝位、諸国の兵(つはもの)を召(めし)候也(なり)。其証拠(そのしやうご)分明(ぶんみやう)に候。」とて、国々へ被成下処の令旨(りやうじ)を取(とつ)て、被備上覧けり。君大(おほき)に逆鱗(げきりん)有(あつ)て、「此(この)宮(みや)を可処流罪。」とて、中殿(ちゆうでん)の御会(くわい)に寄事兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)をぞ被召ける。宮懸(かか)る事とは更に不思召寄、前駈(ぜんく)二人(ににん)・侍(さぶらひ)十(じふ)余人(よにん)召具(めしぐ)して、忍(しのび)やかに御参内有(さんだいあり)けるを、結城判官(ゆふきはうぐわん)・伯耆(はうき)守二人(ににん)、兼(かね)てより承勅用意(ようい)したりければ、鈴(すず)の間(ま)の辺(へん)に待受(まちうけ)て奉捕之、則(すなはち)馬場殿(ばばどの)に奉押篭。宮は一間(ひとま)なる所の蜘手(くもで)結(ゆう)たる中に、参(まゐり)通ふ人独(ひとり)も無(なう)して、泪(なみだ)の床(ゆか)に起伏(おきふさ)せ給ふにも、こは何(いか)なる我(わが)身なれば、弘元の始(はじめ)は武家のために隠身、木の下(した)岩のはざまに露敷(つゆしく)袖をほしかね、帰洛(きらく)の今は一生(いつしやう)の楽(たのしみ)未(いまだ)一日(いちにちも)終(をへざるに)、為讒臣被罪、刑戮(けいりく)の中(うち)には苦(くるし)むらんと、知(しら)ぬ前世の報(むくい)までも思召残(おぼしめしのこ)す方もなし。「虚(きよ)名不久立」云(いふ)事(こと)あれば、さり共(とも)君も可被聞召直思召(おぼしめし)ける処に、公儀(こうぎ)已(すで)に遠流(をんる)に定(さだま)りぬと聞へければ、不堪御悲、内々御心(おんこころ)よせの女房(にようばう)して、委細(いさい)の御書(ごしよ)を遊(あそば)し、付伝奏急(いそぎ)可経奏聞由を被仰遣。其消息(そのせうそくに)云(いはく)先以勅勘之身欲奏無罪之由(よし)、涙落心暗、愁結言短。唯以一令察万、加詞被恤悲者、臣愚生前之望云足而已。夫承久(しようきう)以来、武家把権朝廷棄政年尚矣。臣苟不忍看之、一解慈悲忍辱法衣、忽被怨敵降伏之堅甲。内恐破戒之罪、外受無慙之譏。雖然為君依忘身、為敵不顧死。当斯時忠臣孝子雖多朝、或不励志、或徒待運。臣独無尺鉄之資、揺義兵隠嶮隘之中窺敵軍。肆逆徒専以我為根元之間、四海(しかい)下法、万戸以贖。誠是命雖在天奈何身無措処。昼終日臥深山幽谷、石岩敷苔。夜通宵出荒村遠里跣足蹈霜。撫龍鬚消魂、践虎尾冷胸幾千万(いくせんまん)矣。遂運策於帷幄之中、亡敵於斧鉞之下。竜駕方還都、鳳暦永則天、恐非微臣之忠功、其為誰乎。而今戦功未立、罪責忽来。風聞其科条、一事(いちじ)非吾所犯、虚説所起惟悲不被尋究。仰而将訴天、日月不照不孝者、俯而将哭地、山川無載無礼臣。父子義絶、乾坤共棄。何愁如之乎。自今以後勲業為孰策。行蔵於世軽、綸宣儻被優死刑、永削竹園之名、速為桑門之客。君不見乎、申生死而晋国乱、扶蘇刑而秦世傾。浸潤之譖、膚受之愬、事起于小、禍皆逮大。乾臨何延古不鑒今。不堪懇歎之至、伏仰奏達。誠惶、誠恐謹言。三月五日護良(もりよし)前左大臣殿(さだいじんどの)とぞ被遊ける。此(この)御文、若(もし)達叡聞、宥免(いうめん)の御沙汰(ごさた)も有(ある)べかりしを、伝奏(てんそう)諸(もろもろ)の憤(いきどほり)を恐(おそれ)て、終(つひ)に不奏聞ければ、上天隔听中心の訴(うつた)へ不啓。此(この)二三年宮(みや)に奉付副、致忠待賞御内(みうち)の候人(こうにん)三十(さんじふ)余人(よにん)、潛(ひそか)に被誅之上は不及兎角(とかく)申、遂に五月三日、宮を直義(ただよし)朝臣の方へ被渡ければ、以数百騎(すひやくき)軍勢路次(ろし)を警固(けいご)し、鎌倉(かまくら)へ下(くだ)し奉(たてまつつ)て、二階堂の谷(やつ)に土篭(つちのろう)を塗(ぬつ)てぞ置進(おきまゐら)せける。南の御方(おかた)と申(まうし)ける上臈女房(じやうらふにようばう)一人より外(ほか)は、着副進(つきそひまゐら)する人もなく、月日の光も見へぬ闇室(あんしつ)の内に向(むかつ)て、よこぎる雨に御袖(おんそでを)濡(ぬら)し、岩の滴(しただり)に御枕(おんまくら)を干(ほし)わびて、年の半(なかば)を過(すご)し給(たまひ)ける御心(おんこころ)の内こそ悲しけれ。君一旦(いつたん)の逆鱗(げきりん)に鎌倉(かまくら)へ下し進(まゐら)せられしかども是(これ)までの沙汰あれとは叡慮(えいりよ)も不赴けるを、直義(ただよし)朝臣日来(ひごろ)の宿意(しゆくい)を以て、奉禁篭けるこそ浅猿(あさまし)けれ。孝子其(その)父に雖有誠、継母(けいぼ)其(その)子を讒(ざん)する時は傾国失家事古より其類(そのるゐ)多し。昔(むかし)異国に晋(しん)の献公(けんこう)と云(いふ)人坐(おは)しけり。其后(そのきさき)斉姜(せいきやう)三人(さんにん)の子を生(うみ)給ふ。嫡子(ちやくし)を申生(しんせい)と云(いひ)、次男を重耳(ちようじ)、三男を夷吾(いご)とぞ申(まうし)ける。三人(さんにん)の子已(すで)に長成(ひととなり)て後(のち)、母の斉姜病(やまひ)に侵(をか)されて、忽(たちまち)に無墓成(なり)にけり。献公(けんこう)歎之不浅しかども、別(わかれ)の日数(ひかず)漸(やうやく)遠く成(なり)しかば、移れば替(かは)る心の花に、昔の契(ちぎり)を忘(わすれ)て、驪姫(りき)と云(いひ)ける美人をぞ被迎ける。此驪姫(このりき)只紅顔翠黛(こうがんすゐたい)迷眼のみに非(あら)ず、又巧言令色(かうげんれいしよく)君の心を令悦しかば、献公(けんこうの)寵愛(ちようあい)甚(はなはだしう)して、別(わかれ)し人の化(おもかげ)は夢にも不見成(なり)にけり。角(かく)て経年月程に、驪姫(りき)又子を生(うめ)り。是(これ)を奚齊(けいせい)とぞ名付(なづけ)る。奚齊未(いまだ)幼(をさなし)といへ共(ども)、母の寵愛(ちようあい)に依(よつ)て、父のをぼへ三人(さんにん)の太子に超(こえ)たりしかば、献公(けんこう)常に前(まへ)の后(きさき)斉姜(せいきやう)の子三人(さんにん)を捨(すて)て、今の驪姫が腹の子奚齊(けいせい)に、晋(しん)の国を譲(ゆづら)んと思へり。驪姫心には嬉(うれし)く乍思、上(うへ)に偽(いつはつ)て申(まうし)けるは、「奚齊(けいせい)未だ幼(をさな)くして不弁善悪を、賢愚(けんぐ)更に不見前(さき)に、太子三人(さんにん)を超(こえ)て、継此国事(こと)、是(これ)天下の人の可悪処。」と、時々(よりより)に諌(いさめ)め申(まうし)ければ、献公(けんこう)弥(いよいよ)驪姫が心に無私、世の譏(そしり)を恥(はぢ)、国の安からん事を思へる処を感じて、只万事を被任之しかば、其威(そのゐ)倍々(ますます)重く成(なつ)て天下皆是(これ)に帰伏(きふく)せり。或時(あるとき)嫡子(ちやくし)の申生(しんせい)、母の追孝(つゐけう)の為に、三牲(さんせい)の備(そなへ)を調(ととの)へて、斉姜の死して埋(うづも)れし曲沃(きよくをく)の墳墓(ふんぼ)をぞ被祭ける。其(その)胙(ひもろぎ)の余(あまり)を、父の献公(けんこう)の方へ奉(たてまつり)給ふ。献公(けんこう)折節(をりふし)狩場(かりば)に出(いで)給ひければ、此(この)ひもろぎを裹(つつん)で置(おき)たるに、驪姫(りき)潛(ひそか)に鴆(ちん)と云(いふ)恐(おそろしき)毒(どく)を被入たり。献公(けんこう)狩場(かりば)より帰(かへつ)て、軈(やがて)此(この)ひもろぎを食(くは)んとし給ひけるを、驪姫申されけるは、「外(ほか)より贈(おく)れる物をば、先づ人に食(くは)せて後(のち)に、大人(たいじん)には進(まゐ)らする事ぞ。」とて御前(おんまへ)なりける人に食(くはせ)られたるに、其(その)人忽(たちまち)に血を吐(はい)て死にけり。こは何(い)かなる事ぞとて、庭前(ていぜん)なる鶏(けい)・犬(けん)に食(くは)せて見給へば、鶏(けい)・犬共(けんとも)に斃(たふれ)て死ぬ。献公(けんこう)大(おほき)に驚(おどろい)て其余(そのあまり)を土(つち)に捨(すて)給へば、捨(すて)たる処の土(つち)穿(うげ)て、あたりの草木皆枯萎(かれしぼ)む。驪姫偽(いつわつ)て泪(なみだ)を流し申(まうし)けるは、「吾(われ)太子(たいし)申生(しんせい)を思ふ事奚齊(けいせい)に不劣。されば奚齊を太子に立(たて)んとし給(たまひ)しをも、我こそ諌申(いさめまうし)て止(とめ)つるに、さればよ此(この)毒を以て、我(われ)と父とを殺して、早(はやく)晋(しん)の国を捕(とら)んと被巧けるこそうたてけれ。是(これ)を以て思ふに、献公(けんこう)何(いか)にも成給(なりたまひ)なん後(のち)は、申生(しんせい)よも我と奚齊とをば、一日片時(へんし)も生(いけ)て置(おき)給はじ。願(ねがはく)は君我(われ)を捨(すて)、奚齊を失(うしなひ)て、申生の御心(おんこころ)を休(やすめ)給へ。」と泣々(なくなく)献公(けんこう)にぞ申されける。献公(けんこう)元来(ぐわんらい)智浅(あさう)して讒(ざん)を信ずる人なりければ、大(おほき)に忿(いかつ)て太子申生を可討由(よし)、典獄(てんごく)の官に被仰付。諸群臣(ぐんしん)皆、申生の無罪して死に赴(おもむか)んずる事を悲(かなしみ)て、「急(いそぎ)他国へ落(おち)させ給ふべし。」とぞ告(つげ)たりける。申生是(これ)を聞給(ききたまひ)て、「我(われ)少年の昔は母を失(うしなう)て、長年(ながねん)の今継母(けいぼ)に逢へり。是(これ)不幸の上に妖命(えうめい)備(そなは)れり。抑(そもそも)天地(てんちの)間何(いづれ)の所にか父子(ふし)のなき国あらん、今為遁其死他国へ行(ゆき)て、是(これ)こそ父を殺(ころさ)んとて鴆毒(ちんどく)を与へたりし大逆不幸(だいぎやくふかう)の者よと、見る人ごとに悪(にくま)れて、生(いき)ては何の顔(かほばせ)かあらん。我(わが)不誤処をば天知之。只虚名(きよめい)の下(した)に死を賜(たまはつ)て、父の忿(いかり)を休(やすめ)んには不如。」とて、討手(うつて)の未(いまだ)来(きたらざる)前(さき)に自(みづから)剣(けん)に貫(つらぬかれ)て、遂(つひ)に空(むなしく)成(なり)にけり。其弟(そのおとと)重耳(ちようじ)・夷吾(いご)此(この)事(こと)を聞(きき)て、驪姫(りき)が讒(ざん)の又我(わが)身の上に成(なら)ん事を恐(おそれ)て、二人(ににん)共(とも)に他国へぞ逃給(にげたまひ)ける。角(かく)て奚齊(けいせい)に晋国(しんのくに)を譲(ゆづり)得たりけるが、天命に背(そむき)しかば、無幾程献公(けんこう)・奚齊父子共(ふしとも)に、其(その)臣里剋(りこく)と云(いひ)ける者に討(うた)れて、晋(しん)の国忽(たちまち)に滅びけり。抑(そもそも)今兵革(ひやうかく)一時に定(しづまつ)て、廃帝(はいてい)重祚(ちようそ)を践(ふま)せ給ふ御事(おんこと)、偏(ひとへ)に此(この)宮(みや)の依武功に事なれば、縦(たとひ)雖有小過誡而(いましめてかも)可被宥かりしを、無是非被渡敵人手、被処遠流事は、朝廷再(ふたたび)傾(かたむい)て武家又可蔓延(はびこるべき)瑞相(ずゐさう)にやと、人々申合(まうしあひ)けるが、果(はた)して大塔宮(おほたふのみや)被失させ給(たまひ)し後、忽(たちまち)に天下皆将軍の代(よ)と成(なり)てけり。牝鶏(ひんけい)晨(あした)するは家の尽(つく)る相(さう)なりと、古賢(こけん)の云(いひ)し言(ことば)の末(すゑ)、げにもと被思知たり。


太平記(国民文庫)

太平記巻十三
○龍馬(りゆうめ)進奏(しんそうの)事(こと) S1301
鳳闕(ほうけつ)の西二条(にしにでう)高倉(たかくら)に、馬場殿(ばばどの)とて、俄に離宮(りきゆう)を被立たり。天子常に幸成(みゆきなり)て、歌舞(かぶ)・蹴鞠(しうきく)の隙(ひま)には、弓馬(きゆうば)の達者(たつしや)を被召、競馬(けいば)を番(つが)はせ、笠懸(かさかけ)を射させ、御遊(ぎよいう)の興(きよう)をぞ被添ける。其比(そのころ)佐々木(ささきの)塩冶(えんや)判官(はうぐわん)高貞(たかさだ)が許(もと)より、竜馬(りゆうめ)也(なり)とて月毛(つきげ)なる馬の三寸計(みきばかり)なるを引進(ひきまゐら)す。其相形(そのさうぎやう)げにも尋常(よのつね)の馬に異(こと)也(なり)。骨(ほね)挙(あが)り筋(すぢ)太(ふと)くして脂肉(しじく)短(みじか)し。頚は鶏(にはとり)の如(ごとく)にして、須弥(しゆみ)の髪(かみ)膝(ひざ)を過ぎ、背(せなか)は竜(りゆう)の如(ごとく)にして、四十二の辻毛(つじげ)を巻(まい)て背筋(せすぢ)に連(つらな)れり。両の耳(みみ)は竹を剥(そい)で直(ぢき)に天を指(さ)し、双(さう)の眼(まなこ)は鈴(すず)を懸(かけ)て、地に向ふ如し。今朝の卯刻(うのこく)に出雲の富田(とんだ)を立(たつ)て、酉剋(とりのこく)の始(はじめ)に京著(きやうちやく)す。其(その)道已(すで)に七十六(しちじふろく)里(り)、鞍(くら)の上(うへ)閑(しづか)にして、徒(ただ)に坐(ざ)せるが如し。然共(しかれども)、旋風(せふう)面を撲(うつ)に不堪とぞ奏(そう)しける。則(すなはち)左馬寮(さまれう)に被預、朝には禁池(きんち)に水飼(かひ)、夕には花廏(くわきう)に秣(まくさ)飼(かふ)。其比(そのころ)天下一の馬乗(むまのり)と聞(きこ)へし本間(ほんま)孫四郎を被召て被乗、半漢雕梁(はんかんてうりやう)甚(はなはだ)不尋常。四蹄(てい)を縮(ちぢ)むれば双六盤(すごろくばん)の上(うへ)にも立ち、一鞭(いちべん)を当(あ)つれば十丈(じふぢやう)の堀をも越(こえ)つべし。誠(まこと)に天馬に非(あら)ずば斯(かか)る駿足(しゆんそく)は難有とて、叡慮(えいりよ)更に類無(たぐひなか)りけり。或時(あるとき)主上(しゆしやう)馬場殿(ばばどの)に幸成(みゆきなつ)て、又此(この)馬を叡覧有(えいらんあり)けるに、諸卿皆左右に候(こう)す。時に主上(しゆしやう)洞院(とうゐん)の相国(しやうこく)に向(むかつ)て被仰けるは、「古(いにし)へ、屈産(くつさん)の乗(じよう)、項羽(かうう)が騅(すゐ)、一日に千里を翔(かけ)る馬有(あり)といへども、我(わが)朝に天馬の来(きた)る事を未だ聞(きか)ず。然(しかる)に朕(ちん)が代(よ)に当(あたつ)て此(この)馬不求出来(いできた)る。吉凶如何。」と御尋(おんたづね)ありけるに、相国(しやうこく)被申けるは、「是(これ)聖明(せいめい)の徳に不因ば、天豈(あに)此嘉瑞(このかずゐ)を降(くだし)候はんや。虞舜(ぐしゆん)の代には鳳凰(ほうわう)来(きたり)、孔子(こうし)の時は麒麟(きりん)出(いづ)といへり。就中(なかんづく)天馬の聖代(せいだい)に来(きた)る事第一(だいいち)の嘉祥(かしやう)也(なり)。其故(そのゆゑ)は昔周(しう)の穆王(ぼくわう)の時、驥(き)・■(たう)・驪(り)・■(くわ)・■(りう)・■(ろく)・■(じ)・駟(し)とて八疋(はつぴき)の天馬来れり。穆王是(これ)に乗(のつ)て、四荒八極(しくわうはつきよく)不至云所(いふところ)無(なか)りけり。或(ある)時西天(さいてん)十万里の山川を一時に越(こえ)て、中天竺(ぢく)の舎衛国(しやゑこく)に至り給ふ。時に釈尊(しやくそん)霊鷲山(りやうじゆせん)にして法華(ほつけ)を説(とき)給ふ。穆王馬より下(おり)て会座(ゑざ)に臨(のぞん)で、則(すなはち)仏(ほとけ)を礼(らい)し奉(たてまつ)て、退(しりぞい)て一面に坐(ざ)し給へり。如来(によらい)問(とひ)て宣(のたまは)く、「汝(なんぢ)は何(いづれ)の国の人ぞ。」穆王答曰(こたへていはく)、「吾(われ)は是(これ)震旦国(しんだんこく)の王也(なり)。」仏(ほとけ)重(かさね)て宣(のたまは)く、「善(よい)哉(かな)今来此会場。我(われ)有治国法、汝欲受持否(いなや)。」穆王曰(いはく)、「願(ねがはく)は信受奉行(しんじゆぶぎやう)して理民安国の施功徳。」爾(その)時、仏(ほとけ)以漢語、四要品(しえうぼん)の中の八句の偈(げ)を穆王に授(さづけ)給ふ。今の法華の中の経律(けいりつ)の法門有(あり)と云ふ深秘(しんひ)の文是(これ)也(なり)。穆王震旦(しんだん)に帰(かへつ)て後深(ふかく)心底(しんてい)に秘(ひ)して世に不被伝。此(この)時慈童(じどう)と云(いひ)ける童子(どうじ)を、穆王寵愛(ちようあい)し給ふに依(よつ)て、恒(つね)に帝(みかど)の傍(かたはら)に侍(はんべり)けり。或(ある)時彼慈童(かのじどう)君(きみ)の空位(くうゐ)を過(すぎ)けるが、誤(あやまつ)て帝(みかど)の御枕(おんまくら)の上をぞ越(こえ)ける。群臣(ぐんしん)議(ぎ)して曰(いはく)、「其例(そのれい)を考(かんがふ)るに罪科(ざいくわ)非浅に。雖然事(こと)誤(あやまり)より出(いで)たれば、死罪一等を宥(なだめ)て遠流(をんる)に可被処。」とぞ奏(そう)しける。群議(ぐんぎ)止(やむ)事(こと)を不得して、慈童(じどう)を■県(てつけん)と云(いふ)深山(しんざん)へぞ被流ける。彼■県(かのてつけん)と云(いふ)所は帝城(ていじやう)を去(さる)事(こと)三百里、山深(ふかう)して鳥だにも不鳴、雲暝(くらう)して虎狼(こらう)充満(じゆうまん)せり。されば仮(かり)にも此(この)山へ入(いる)人の、生(いき)て帰ると云(いふ)事(こと)なし。穆王猶(なほ)慈童を哀(あはれ)み思召(おぼしめし)ければ、彼(かの)八句の内を分(わか)たれて、普門品(ふもんぼん)にある二句の偈(げ)を、潛(ひそか)に慈童に授(さづけ)させ給(たまひ)て、「毎朝(まいてう)に十方を一礼(いちらい)して、此(この)文を可唱。」と被仰ける。慈童遂(つひ)に■県(てつけん)に被流、深山幽谷(しんざんいうこく)の底(そこ)に被棄けり。爰(ここ)に慈童君(きみ)の恩命に任(まかせ)て、毎朝に一反(いつぺん)此(この)文を唱(となへ)けるが、若(もし)忘(わすれ)もやせんずらんと思(おもひ)ければ、側(そば)なる菊の下葉(したば)に此(この)文を書付(かきつけ)けり。其(それ)より此(この)菊の葉にをける下露(したつゆ)、僅(わづか)に落(おち)て流るゝ谷の水に滴(しただ)りけるが、其(その)水皆(みな)天の霊薬(れいやく)と成る。慈童渇(かつ)に臨(のぞん)で是(これ)を飲(のむ)に、水の味(あぢはひ)天の甘露(かんろ)の如(ごとく)にして、恰(あたか)百味の珍(ちん)に勝(まさ)れり。加之(しかのみならず)天人花を捧(ささげ)て来り、鬼神手を束(つかね)て奉仕(ぶし)しける間、敢(あへ)て虎狼悪獣(こらうあくじう)の恐(おそれ)無(なく)して、却(かへつ)て換骨羽化(くわんこつうげ)の仙人と成る。是(これ)のみならず、此(この)谷の流(ながれ)の末を汲(くん)で飲(のみ)ける民三百(さんびやく)余家、皆病(びやう)即(そく)消滅(せうめつ)して不老不死の上寿(しやうじゆ)を保(たも)てり。其(その)後時代推移(おしうつつ)て、八百(はつぴやく)余年(よねん)まで慈童猶(なほ)少年の貌(かたち)有(あつ)て、更に衰老(すゐらう)の姿(すがた)なし。魏(ぎ)の文帝(ぶんてい)の時、彭祖(はうそ)と名を替(かへ)て、此術(このじゆつ)を文帝に授(さづけ)奉る。文帝是(これ)を受(うけ)て菊花(きくくわ)の盃(さかづき)を伝へて、万年の寿(ことぶき)を被成。今の重陽(ちようやう)の宴(えん)是(これ)也(なり)。其(それ)より後(のち)、皇太子位(くらゐ)を天に受(うけ)させ給ふ時、必(かならず)先(まづ)此(この)文を受持(じゆぢ)し給ふ。依之(これによつて)普門品(ふもんぼん)を当途王経(たうづわうきやう)とは申(まうす)なるべし。此(この)文我朝(わがてう)に伝はり、代々(だいだい)の聖主(せいしゆ)御即位(ごそくゐ)の日必ず是(これ)を受持(じゆぢ)し給ふ。若(もし)幼主の君(きみ)践祚(せんそ)ある時は、摂政(せつしやう)先(まづ)是(これ)を受(うけ)て、御治世(ごぢせい)の始(はじめ)に必(かならず)君に授(さづけ)奉る。此(この)八句の偈(げ)の文、三国(さんごく)伝来(でんらい)して、理世安民の治略(ちりやく)、除災与楽(ぢよさいよらく)の要術(えうじゆつ)と成る。是(これ)偏(ひとへ)に穆王(ぼくわう)天馬の徳也(なり)。されば此龍馬(このりゆうめ)の来(きた)れる事(こと)、併(しかしながら)仏法・王法の繁昌宝祚(はうそ)長久の奇瑞(きずゐ)に候べし。」と被申たりければ、主上(しゆしやう)を始進(はじめまゐら)せて、当座の諸卿悉(ことごとく)心に服(ふく)し旨(むね)を承(うけたまはつ)て、賀(が)し申(まう)さぬ人は無(なか)りけり。暫有(しばらくあつ)て万里小路(までのこうぢ)の中納言藤房(ふぢふさの)卿(きやう)被参。座定(さだ)ま(ッ)て後(のち)、主上(しゆしやう)又藤房(ふぢふさの)卿(きやう)に向(むかつ)て、「天馬の遠(とほき)より来れる事(こと)、吉凶(きつきよう)の間(あひだ)、諸臣の勘例(かんれい)、已(すで)に皆先(さきに)畢(をはん)ぬ。藤房(ふぢふさ)は如何(いかが)思へるぞ。」と勅問(ちよくもん)有(あり)ければ、藤房(ふぢふさの)卿(きやう)被申けるは、「天馬の本朝に来れる事(こと)、古今未だ其(その)例を承(うけたまはり)候はねば、善悪(ぜんあく)・吉凶勘(かんが)へ申難(もうしがた)しといへども退(しりぞい)て愚案(ぐあん)を回(めぐら)すに、是(これ)不可有吉事に。其故(そのゆゑ)は昔漢(かん)の文帝(ぶんてい)の時、一日に千里を行(ゆく)馬を献(けん)ずる者あり。公卿(くぎやう)・大臣(だいじん)皆(みな)相見て是(これ)を賀(が)す。文帝笑(わらつ)て曰(いはく)、「吾(われ)吉(きつ)に行(ゆく)日は三十里(さんじふり)凶(きよう)に行(ゆく)日は十里(ごじふり)、鸞輿在前、属車在後、吾独乗千里駿馬将安之乎。」とて乃(すなはち)償其道費而遂被返之。又後漢(ごかん)の光武(くわうぶの)時、千里の馬(むま)と宝剣(はうけん)とを献(けん)ずる者あり。光武(くわうぶ)是(これ)を珍(ちん)とせずして、馬をば鼓車(こしや)に駕(が)し、剣(けん)をば騎士(きし)に賜(たま)ふ。又周(しう)の代(よ)已(すで)に衰(おとろへ)なんとせし時、房星(ばうせい)降(くだつ)て八匹の馬と成れり。穆王是(これ)を愛(あい)して造父(ざうほ)をして御(ぎよ)たらしめて、四荒(くわう)八極(きよく)の外瑶池(えうち)に遊び碧台(へきたい)に宴(えん)し給ひしかば、七廟(しちべう)の祭(まつり)年(とし)を逐(おつ)て衰(おとろ)へ、明堂(みやうどう)の礼日(ひ)に随(したがつ)て廃(すた)れしかば、周(しう)の宝祚(はうそ)傾(かたむ)けり。文帝・光武の代(よ)には是(これ)を棄(すて)て福祚(ふくそ)久(ひさし)く栄(さか)へ、周穆(しうぼく)の時には是(これ)を愛して王業(わうげふ)始(はじめ)て衰ふ。拾捨(しふしや)の間、一(ひとつは)凶(きよう)一(ひとつは)吉(きつ)的然(てきぜん)として在耳。臣愚(ぐ)窃(ひそか)に是(これ)を案(あん)ずるに、「由来尤物是非天、只蕩君心則為害。」といへり。去(され)ば今政道正(ただし)からざるに依(よつ)て、房星(ばうせい)の精(せい)、化(くわ)して此(この)馬と成(なつ)て、人の心を蕩(とら)かさんとする者也(なり)。其故(そのゆゑ)は大乱の後(のち)民弊(つひ)へ人苦(くるしん)で、天下未安(いまだやすからざ)れば、執政(しつせい)吐哺を、人の愁(うれへ)を聞(きき)、諌臣(かんしん)上表を、主(しゆ)の誤(あやまり)を可正時なるに、百辟(ひやくへき)は楽(たのしみ)に婬(いん)して世の治否(ちひ)を不見、群臣(ぐんしん)は旨(むね)に阿(おもねつ)て国の安危(あんき)を不申。依之(これによつて)記録所(きろくところ)・決断所(けつだんところ)に群集(ぐんしゆ)せし訴人(そにん)日々に減(げん)じて訴陳(そちん)徒(いたづら)に閣(さしお)けり。諸卿是(これ)を見て、虞■(ぐぜい)の訴(うつたへ)止(とどまつ)て諌鼓(かんこ)撃(うつ)人なし。無為(ぶゐ)の徳(とく)天下に及(およん)で、民(たみ)皆(みな)堂々(だうだう)の化(くわ)に誇(ほこ)れりと思へり。悲(かなしい)乎(かな)其迷(そのまよ)へる事。元弘大乱の始(はじめ)、天下の士卒(じそつ)挙(こぞつ)て官軍(くわんぐん)に属(しよく)せし事更に無他。只一戦(いつせん)の利を以て勲功(くんこう)の賞(しやう)に預(あづか)らんと思へる故(ゆゑ)也(なり)。されば世静謐(せいひつ)の後(のち)、忠を立(たて)賞を望む輩(ともがら)、幾千万(いくせんまん)と云数(いふかず)を知(しら)ず。然共(しかれども)公家被官(くげひくわん)の外(ほか)は、未(いまだ)恩賞(おんしやう)を給(たまひ)たる者あらざるに、申状(まうしじやう)を捨(すて)て訟(うつたへ)を止(やめ)たるは、忠功の不立を恨(うら)み、政道の不正を褊(さみ)して、皆(みな)己(おのれ)が本国(ほんごく)に帰(かへ)る者也(なり)。諌臣(かんしん)是(これ)に驚(おどろい)て、雍歯(ようし)が功を先(さき)として、諸卒(しよそつ)の恨(うらみ)を散(さん)ずべきに、先(まづ)大内裏造営(だいだいりざうえい)可有とて、諸国の地頭(ぢとう)に二十分(にじふぶんの)一(いち)の得分(とくぶん)を割分(さきわけ)て被召れば、兵革(ひやうかく)の弊(つひえ)の上に此功課(このこうくわ)を悲(かなし)めり。又国々には守護(しゆご)威(ゐ)を失ひ国司(こくし)権(けん)を重くす。依之(これによつて)非職凡卑(ひしよくぼんひ)の目代等(もくだいら)、貞応(ぢやうおう)以後の新立(しんりふ)の庄園を没倒(もつたう)して、在庁官人(ざいちやうくわんにん)・検非違使(けびゐし)・健児所(こんでいどころ)等(ら)過分(くわぶん)の勢(いきほ)ひを高(たかく)せり。加之(しかのみならず)諸国の御家人(ごけにん)の称号(しようがう)は、頼朝(よりとも)卿(きやう)の時より有(あつ)て已(すで)に年久しき武名なるを、此御代(このみよ)に始(はじめ)て其号(そのがう)を被止ぬれば、大名(だいみやう)・高家(かうけ)いつしか凡民(ぼんみん)の類(るゐ)に同じ。其憤(そのいきどほり)幾千万(いくせんまん)とか知らん。次には天運(てんうん)図(と)に膺(あたつ)て朝敵自(みづから)亡(ほろび)ぬといへども、今度天下を定(しづめ)て、君の宸襟(しんきん)を休(やす)め奉(たてまつり)たる者は、高氏(たかうぢ)・義貞(よしさだ)・正成(まさしげ)・円心(ゑんしん)・長年(ながとし)なり。彼等(かれら)が忠を取(とつ)て漢の功臣(こうしん)に比(ひ)せば、韓信(かんしん)・彭越(はうゑつ)・張良(ちやうりやう)・蕭何(せうが)・曹参(さうさん)也(なり)。又唐(たう)の賢佐(けんさ)に譬(たとへ)ば、魏徴(ぎちよう)・玄齢(げんれい)・世南(せいなん)・如晦(じよくわい)・李勣(りせき)なるべし。其志(そのこころざし)節(せつ)に当(あた)り義に向(むかつ)て忠を立(たつる)所、何(いづ)れをか前(さき)とし何れをか後(のち)とせん。其賞(そのしやう)皆均(ひとしく)其爵(そのしやく)是(これ)同(おなじ)かるべき処に、円心(ゑんしん)一人僅(わづか)に本領(ほんりやう)一所(いつしよ)の安堵(あんど)を全(まつたう)して、守護(しゆご)恩補(おんふ)の国を被召返事、其咎(そのとが)そも何事ぞや。「賞中其功則有忠之者進、罰当其罪則有咎之者退。」と云へり。痛(いたはしき)哉(かな)今の政道、只抽賞(ちうしやう)の功(こう)に不当譏(そしり)のみに非(あら)ず。兼(かね)ては綸言(りんげん)の掌(たなごころ)を翻(かへ)す憚(はばかり)あり。今若(もし)武家の棟梁(とうりやう)と成(なり)ぬべき器用(きよう)の仁(じん)出来(いでき)て、朝(てう)家を褊(さみ)し申(まうす)事(こと)あらば、恨(うらみ)を含み政道を猜(そね)む天下の士、糧(かて)を荷(になひ)て招(まねか)ざるに集(あつま)らん事不可有疑。抑(そもそも)天馬の用(もちゐる)所を案ずるに、徳の流行(りうかう)する事は郵(いう)を置(おい)て命(めい)を伝(つたふ)るよりも早ければ、此(この)馬必(かならず)しも不足用。只大逆(たいぎやく)不慮(ふりよ)に出来(いできた)る日、急(きふ)を遠国(ゑんこく)に告(つぐ)る時、聊(いささか)用(もちゐる)に得(とく)あらんか。是(これ)静謐(せいひつ)の朝(てう)に出で、兼(かね)て大乱の備(そなへ)を設(まう)く。豈(あに)不吉(ふきつ)の表事(へうじ)に候はずや。只奇物(きぶつ)の翫(もてあそび)を止(やめ)て、仁政(じんせい)の化(くわ)を致(いたさ)れんには不如。」と、誠を至し言を不残被申しに、竜顔(りようがん)少(すこ)し逆鱗(げきりん)の気色有(あつ)て、諸臣皆(みな)色を変(へん)じければ、旨酒高会(ししゆかうぐわい)も無興(ぶきよう)して、其(その)日(ひ)の御遊(ぎよいう)はさて止(やみ)にけりとぞ聞へし。
○藤房(ふぢふさの)卿(きやう)遁世(とんせいの)事(こと) S1302
其(その)後藤房(ふぢふさの)卿(きやう)連続(れんぞく)して諌言(かんげん)を上(たてまつ)りけれども、君遂(つひ)に御許容(きよよう)無(なか)りしかば、大内裏(だいだいり)造営(ざうえい)の事をも不被止、蘭籍桂筵(らんせきけいえん)の御遊(ぎよいう)猶(なほ)頻(しきり)なりければ、藤房(ふぢふさ)是(これ)を諌兼(いさめかね)て、「臣たる道我(われ)に於て至(いた)せり。よしや今は身を退(しりぞけん)には不如。」と、思定(おもひさだめ)てぞ坐(おは)しける。三月十一日は、八幡(やはた)の行幸(ぎやうがう)にて、諸卿皆(みな)路次(ろし)の行装(ぎやうさう)を事とし給(たまひ)けり。藤房(ふぢふさ)も時の大理(だいり)にて坐(おは)する上(うへ)、今は是(これ)を限(かぎり)の供奉(ぐぶ)と被思ければ、御供(おんとも)の官人(くわんにん)、悉(ことごとく)目を驚(おどろか)す程(ほど)に出立(いでたた)れたり。看督長(かどのをさ)十六人、冠(かふり)の老懸(おいかけ)に、袖単(ひとへ)白くしたる薄紅(うすくれなゐ)の袍(うはきぬ)に白袴(はかま)を著し、いちひはばきに乱(みだ)れ緒(を)をはいて列(れつ)をひく。次に走(わし)り下部(しもべ)八人、細烏帽子(ほそゑぼし)に上下(かみしも)、一色(ひといろ)の家の紋(もん)の水干(すゐかん)著て、二行に歩(あゆみ)つゞきたり。其(その)後大理(だいり)は、巻纓(まきふさ)の老懸(おいかけ)に、赤裏(あかうら)の表(うへ)の袴(はかま)、靴(くわ)の沓(くつ)はいて、蒔絵(まきゑ)の平鞘(ひらざやの)太刀を佩(はき)、あまの面(おもて)の羽(は)付(つき)たる平胡■(ひらやなぐひ)の箙(えびら)を負(おひ)、甲斐の大黒(おほぐろ)とて、五尺(ごしやく)三寸(さんずん)有(あり)ける名馬の太(ふと)く逞(たくましき)に、いかけ地(ぢ)の鞍(くら)置(おい)て、水色の厚総(あつぶさ)の鞦(しりがい)に、唐糸(からいと)の手縄(たづな)ゆるらかに結(むすん)でかけ、鞍の上(うへ)閑(しづか)に乗(のり)うけて、町に三処手縄(たづな)入(いれ)させ小路(こうぢ)に余(あまつ)て歩(あゆま)せ出(いで)たれば、馬副(むまぞひ)四人、か千冠(ちかぶり)に猪(ゐ)の皮の尻鞘(しりさや)の太刀佩(はい)て、左右にそひ、かい副(ぞへ)の侍(さぶらひ)二人(ににん)をば、烏帽子(ゑぼし)に花田(はなた)のうち絹(きぬ)を重(かさね)て、袖単(そでひとへ)を出(いだ)したる水干(すゐかん)著(き)たる舎人(とねり)の雑色(ざふしき)四人、次に白張(しらはり)に香(かう)の衣(きぬ)重(かさね)たる童(わらは)一人(いちにん)、次に細烏帽子(ほそゑぼし)に袖単(そでひとへ)白(しろく)して、海松色(みるいろ)の水干(すゐかん)著(き)たる調度懸(てうどかけ)六人、次に細烏帽子に香(かう)の水干著たる舎人(とねり)八人、其(その)次に直垂著(ひたたれき)の雑人(ざふにん)等(ら)百(ひやく)余人(よにん)、警蹕(けいひつ)の声高らかに、傍(あたり)を払(はらつ)て被供奉たり。伏拝(ふしをがみ)に馬を留(とどめ)て、男山(をとこやま)を登(のぼり)給ふにも、栄行(さかゆく)時も有(あり)こし物也(なり)と、明日(あす)は被謂ぬべき身の程も哀(あはれ)に、石清水(いはしみづ)を見給(たまふ)にも、可澄末(すゑ)の久しさを、君が御影(みかげ)に寄(よせ)て祝(しゆく)し、其言葉(そのことのは)の引替(ひきかへ)て、今よりは心の垢(あか)を雪(きよめ)、憂世(うきよ)の耳(みみ)を可洗便(たよ)りに成(なり)ぬと思(おもひ)給ひ、大菩薩(だいぼさつ)の御前(おんまへ)にして、潛(ひそか)に自受法楽(じじゆほふらく)の法施(ほつせ)を献(たてまつ)ても、道心堅固速証菩提(けんごそくしようぼだい)と祈(いのり)給へば、和光同塵(わくわうどうぢん)の月明(あきら)かに心の闇(やみ)をや照(てら)すらんと、神慮(しんりよ)も暗(あん)に被量たり。御神拝(ごじんはい)一日有(あつ)て還幸(くわんかう)事散(ことさん)じければ、藤房(ふぢふさ)致仕(ちじ)の為に被参内、竜顔(りようがん)に近付進(ちかづきまゐら)せん事(こと)、今ならでは何事にかと被思ければ、其(その)事(こと)となく御前(おんまへ)に祗候(しこう)して、竜逢(りようほう)・比干(ひかん)が諌(いさめ)に死せし恨(うらみ)、伯夷(はくい)・叔斉(しゆくせい)が潔(いさぎよ)きを蹈(ふみ)にし跡(あと)、終夜(よもすがら)申出(まうしいで)て、未明(びめい)に退出(たいしゆつ)し給へば、大内山(おほうちやま)の月影(つきかげ)も涙に陰(くも)りて幽(かすか)なり。陣頭(ぢんとう)より車をば宿所へ返(かへ)し遣(つかは)し、侍(さぶらひ)一人召具(めしぐ)して、北山(きたやま)の岩蔵(いはくら)と云(いふ)所へ趣(おもむ)かれける。此(ここ)にて不二房(ふにばう)と云(いふ)僧を戒師(かいし)に請(しやう)じて、遂(つひ)に多年拝趨(はいすう)の儒冠(じゆくわん)を解(ぬい)で、十戒持律(じつかいぢりつ)の法体(ほつたい)に成給(なりたまひ)けり。家貧(まどし)く年老(おい)ぬる人だにも、難離難捨恩愛(おんあい)の旧(ふる)き栖(すみか)也(なり)。況乎(いはんや)官禄(くわんろく)共(とも)に卑(いやし)からで、齢(よはひ)未(いまだ)四十に不足人の、妻子(さいし)を離(はな)れ父母(ふぼ)を捨(すて)て、山川抖薮(とそう)の身と成りしは、ためしすくなき発心(ほつしん)也(なり)。此(この)事(こと)叡聞(えいぶん)に達しければ、君無限驚き思召(おぼしめし)て、「其(その)在所を急ぎ尋出(たづねいだ)し、再び政道輔佐(ふさ)の臣と可成。」と、父宣房(のぶふさの)卿(きやう)に被仰下ければ、宣房(のぶふさの)卿(きやう)泣々(なくなく)車を飛(とば)して、岩蔵(いはくら)へ尋行給(たづねゆきたまひ)けるに、中納言入道は、其(その)朝まで岩蔵(いはくら)の坊(ばう)にをはしけるが、是(これ)も尚(なほ)都(みやこ)近き傍(あた)りなれば、浮世(うきよ)の人の事問(ことと)ひかはす事もこそあれと厭(いと)はしくて、何地(いづち)と云方(いふかた)もなく足に信(まかせ)て出(いで)給ひけり。宣房(のぶふさの)卿(きやう)彼(かの)坊に行給(ゆきたまひ)て、「左様(さやう)の人やある。」と被尋ければ、主(あるじ)の僧、「さる人は今朝まで是(これ)に御坐候(ござさふらひ)つるが、行脚(あんぎや)の御志(おんこころざし)候とて、何地(いづち)へやらん御出(おんいで)候(さふらひ)つる也(なり)。」とぞ答へける。宣房(のぶふさの)卿(きやう)悲歎(ひたん)の泪(なみだ)を掩(おさへ)て其住捨(そのすみすて)たる菴室(あんじつ)を見給へば、誰(た)れ見よとてか書置(かきおき)ける、破(やれ)たる障子(しやうじ)の上に、一首(いつしゆ)の歌を被残たり。住捨(すみすつ)る山を浮世(うきよ)の人とはゞ嵐や庭の松にこたへん棄恩入無為(きおんにふむゐ)、真実報恩者(しんじつはうおんしや)と云(いふ)文の下(した)に、白頭望断万重山。曠劫恩波尽底乾。不是胸中蔵五逆(ごぎやく)。出家端的報親難。と、黄蘗(わうばく)の大義渡(たいぎと)を題せし古き頌(じゆ)を被書たり。さてこそ此(この)人設(たと)ひ何(いづ)くの山にありとも、命(いのち)の中(うち)の再会(さいくわい)は叶(かな)ふまじかりけるよと、宣房(のぶふさの)卿(きやう)恋慕(れんぼ)の泪(なみだ)に咽(むせ)んで、空(むなし)く帰り給ひけり。抑(そもそも)彼(かの)宣房(のぶふさの)卿(きやう)と申(まうす)は、吉田(よしだの)大弐(だいに)資経(すけつね)の孫(まご)、藤三位資通(とうのさんみすけみち)の子也(なり)。此(この)人閑官(かんくわん)の昔、五部(ごぶ)の大乗経(だいじようきやう)を一字三礼(いちじさんらい)に書供養(かきくやう)して、子孫(しそん)の繁昌を祈(いの)らん為に、春日(かすが)の社(やしろ)にぞ被奉納ける。其夜(そのよ)の夢想(むさう)に、黄衣(くわうえ)著(き)たる神人(じんにん)、榊(さかき)の枝(えだ)に立文(たてぶみ)を著(つけ)て、宣房(のぶふさの)卿(きやう)の前に差置(さしおき)たり。何(いか)なる文(ふみ)やらんと怪(あやしみ)て、急(いそぎ)是(これ)を披(ひらい)て見給へば、上書(うはがき)に万里小路(までのこうじ)一位(いちゐ)殿(どの)へと書(かき)て、中(なか)には、速証無上大菩提(そくしようむじやうだいぼだい)と、金字(こんじ)にぞ書(かき)たりける。夢覚(さめ)て後(のち)静(しづか)に是(これ)を案(あん)ずるに、我(われ)朝廷に仕へて、位一品(くらゐいつぼん)に至らんずる条無疑。中(なか)に見へつる金字(こんじ)の文(ぶん)は、我(われ)則(すなはち)此作善(このさぜん)を以て、後生善処(ごしやうぜんしよ)の望(のぞみ)を可達者也(なり)と、二世の悉地(しつち)共(ども)に成就(じやうじゆ)したる心地(ここち)して、憑(たの)もしく思給(おもひたまひ)けるが、果(はた)して元弘の末に、父祖代々(ふそだいだい)絶(たえ)て久(ひさし)き従(じゆ)一位(いちゐ)に成給(なりたまひ)けり。中(なか)に見へし金字(こんじ)の文は、子息藤房(ふぢふさの)卿(きやう)出家得道(しゆつけとくだう)し給(たまふ)べき、其善縁(そのぜんえん)有(あり)と被示ける明神(みやうじん)の御告(おんつげ)なるべし。誠(まこと)に百年の栄耀(えいえう)は風前(ふうぜん)の塵(ちり)、一念の発心(ほつしん)は命後(みやうご)の灯(とぼしび)也(なり)。一子(いつし)出家(しゆつけ)すれば、七世の父母(ふも)皆(みな)仏道を成(な)すと、如来(によらい)の所説(しよせつ)明(あきらか)なれば、此(この)人一人の発心(ほつしん)に依(よつ)て、七世の父母諸共(もろとも)に、成仏得道(じやうぶつとくだう)せん事(こと)、歎(なげき)の中(うち)の悦(よろこび)なるべければ、是(これ)を誠(まこと)に第一(だいいち)の利生(りしやう)預(あづか)りたる人よと、智ある人は聞(きい)て感歎(かんたん)せり。
○北山殿(きたやまどの)謀叛(むほんの)事(こと) S1303
故相摸(こさがみ)入道(にふだう)の舎弟(しやてい)、四郎(しらう)左近(さこんの)大夫(たいふ)入道(にふどう)は、元弘の鎌倉(かまくら)合戦の時、自害(じがい)したる真似(まね)をして、潛(ひそか)に鎌倉(かまくら)を落(おち)て、暫(しばし)は奥州(あうしう)に在(あり)けるが、人に見知(しら)れじが為に、還俗(げんぞく)して京都に上(のぼり)、西園寺殿(さいをんじどの)を憑奉(たのみたてまつ)て、田舎侍(ゐなかさぶらひ)の始(はじめ)て召(めし)仕はるゝ体(てい)にてぞ居たりける。是(これ)も承久(しようきう)の合戦の時、西園寺の太政(だいじやう)大臣(だいじん)公経公(きんつねこう)、関東(くわんとう)へ内通(ないつう)の旨(むね)有(あり)しに依(よつ)て、義時(よしとき)其(その)日(ひ)の合戦に利(り)を得たりし間、子孫(しそん)七代迄(まで)、西園寺殿(さいをんじどの)を可憑申と云置(いひおき)たりしかば、今に至迄(いたるまで)武家異他思(おもひ)を成(な)せり。依之(これによつて)代々(だいだい)の立后(りつこう)も、多(おほく)は此(この)家より出(いで)て、国々の拝任(はいにん)も半(なかば)は其族(そのぞく)にあり。然れば官(くわん)太政(だいじやう)大臣(だいじん)に至り、位一品(くらゐいつぼん)の極位(ごくゐ)を不極と云(いふ)事(こと)なし。偏(ひとへ)に是(これ)関東(くわんとう)贔屓(ひいき)の厚恩(こうおん)也(なり)と被思けるにや、如何(いか)にもして故相摸(こさがみ)入道が一族(いちぞく)を取立(とりたて)て、再び天下の権(けん)を取(とら)せ、我(わが)身公家(くげ)の執政(しつせい)として、四海(しかい)を掌(たなごころ)に握(にぎ)らばやと被思ければ、此(この)四郎(しらう)左近(さこんの)大夫(たいふ)入道を還俗(げんぞく)せさせ、刑部少輔(ぎやうぶのせう)時興(ときおき)と名を替(かへ)て、明暮(あけくれ)は只謀叛(むほん)の計略(けいりやく)をぞ被回ける。或夜(あるよ)政所(せいしよ)の入道、大納言殿(だいなごんどの)の前に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「国の興亡(きようばう)を見(みる)には、政(まつりごと)の善悪(ぜんあく)を見(みる)に不如、政(まつりごと)の善悪(ぜんあく)を見(みる)には、賢臣(けんしん)の用捨(ようしや)を見(みる)に不如、されば微子(びし)去(さつ)て殷(いん)の代傾(かたむ)き、范増(はんぞう)被罪楚王(そわう)滅(ほろび)たり。今の朝家(てうけ)には只藤房(ふぢふさ)一人のみにて候(さふらひ)つるが、未然(みぜん)に凶(きよう)を鑑(かんがみ)て、隠遁(いんとん)の身と成(なり)候事(こと)、朝廷の大凶(たいきよう)、当家(たうけ)の御運(ごうん)とこそ覚(おぼえ)て候へ。急(いそぎ)思召立(おぼしめしたた)せ給(たまひ)候はゞ、前代(ぜんだい)の余類(よるゐ)十方より馳参(はせまゐつ)て、天下を覆(くつがへ)さん事(こと)、一日を不可出。」とぞ勧(すす)め申(まうし)ける。公宗卿(きんむねきやう)げにもと被思ければ、時興(ときおき)を京都の大将として、畿内近国(きないきんごく)の勢(せい)を被催。其甥(そのをひ)相摸次郎時行(ときゆき)をば関東(くわんとう)の大将として、甲斐(かひ)・信濃(しなの)・武蔵(むさし)・相摸(さがみ)の勢を付(つけ)らる。名越(なごや)太郎時兼(ときかぬ)をば北国の大将として、越中・能登・加賀の勢をぞ被集ける。如此諸方の相図(あひづ)を同時に定(さだめ)て後(のち)、西の京(きやう)より番匠(ばんじやう)数(あま)た召寄(めしよせ)て、俄に温殿(ゆどの)をぞ被作ける。其襄場(そのあがりば)に板(いた)を一間(ひとま)蹈(ふ)めば落(おつ)る様(やう)に構(かま)へて、其(その)下に刀の簇(ひし)を被殖たり。是(これ)は主上(しゆしやう)御遊(ぎよいう)の為に臨幸(りんかう)成(なり)たらんずる時、華清宮(くわせいきゆう)の温泉(をんせん)に准(なぞら)へて、浴室(よくしつ)の宴(えん)を勧(すす)め申(まうし)て、君を此(この)下へ陥入奉(おとしいれたてまつ)らん為の企(くはだて)也(なり)。加様(かやう)に様々(さまざま)の謀(はかりこと)を定(さだ)め兵(つはもの)を調(ととのへ)て、「北山(きたやま)の紅葉(もみぢ)御覧(ごらん)の為に臨幸(りんかう)成(なり)候へ。」と被申ければ、則(すなはち)日を被定、行幸(ぎやうがう)の儀則(ぎそく)をぞ被調ける。已(すで)に明日午刻(うまのこく)に可有臨幸由(よし)、被相触たりける其夜(そのよ)、主上(しゆしやう)且(しばら)く御目睡有(おんまどろみあり)ける御夢(おんゆめ)に、赤袴(あかきはかま)に鈍色(にぶいろ)の二(ふた)つ衣(ぎぬ)著(き)たる女一人来(きたつ)て、「前には虎狼(こらう)の怒(いかれ)るあり。後(うし)ろには熊羆(いうひ)の猛(たけ)きあり、明日の行幸(ぎやうがう)をば思召留(おぼしめしとま)らせ給ふべし。」とぞ申(まうし)ける。主上(しゆしやう)御夢(おんゆめ)の中(うち)に、「汝(なんぢ)は何(いづ)くより来れる者ぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、「神泉園(しんぜんゑん)の辺(あたり)に多年住侍(すみはんべ)る者也(なり)。」と、答申(こたへまうし)て立帰(たちかへり)ぬと被御覧、御夢(おんゆめ)は無程覚(さめ)にけり。主上(しゆしやう)怪(あやし)き夢の告(つげ)也(なり)と被思召ながら、是(これ)まで事定(さだ)まりぬる臨幸(りんかう)、期(ご)に臨(のぞん)では如何(いかが)可被停と被思食ければ、遂(つひ)に鳳輦(ほうれん)を被促。乍去夢の告(つげ)怪(あや)しければとて、先(まづ)神泉苑(しんぜんゑん)に幸成(みゆきなつ)て、竜神(りゆうじん)の御手向有(おんたむけあり)けるに、池水(ちすゐ)俄に変(へん)じて、風不吹白浪(しらなみ)岸を打(うつ)事(こと)頻(しきり)也(なり)。主上(しゆしやう)是(これ)を被御覧弥(いよいよ)夢の告(つげ)怪(あやし)く被思召ければ、且(しばら)く鳳輦(ほうれん)を留(とどめ)て御思案(ごしあん)有(あり)ける処に、竹林院(ちくりんゐん)の中納言公重(きんしげ)卿(きやう)馳参(はせさん)じて被申けるは、「西園寺大納言公宗(きんむね)、隠媒(いんぼう)の企(くはたて)有(あつ)て臨幸(りんかう)を勧(すす)め申(まうす)由(よし)、只今或方(あるかた)より告示(つげしめし)候。是(これ)より急(いそぎ)還幸成(くわんかうなつ)て、橋本(はしもとの)中将(ちゆうじやう)俊季(としすゑ)、並(ならびに)春衡(はるひら)・文衡(ぶんひら)入道を被召て、子細(しさい)を御尋(おんたづね)候べし。」と被申ければ、君去夜(さんぬるよ)の夢告(ゆめつげ)の、今日の池水(ちすゐ)の変(へん)ずる態(わざ)、げにも様(やう)ありと思召合(おぼしめしあはせ)て、軈(やが)て還幸成(なり)にけり。則(すなはち)中院(なかのゐん)の中将(ちゆうじやう)定平(さだひら)に結城(ゆふき)判官(はうぐわん)親光(ちかみつ)・伯耆(はうきの)守(かみ)長年(ながとし)を差副(さしそへ)て、「西園寺の大納言公宗(きんむね)卿(きやう)・橋本(はしもとの)中将(ちゆうじやう)俊季(としすゑ)・並(ならびに)文衡(ぶんひら)入道を召取(めしとつ)て参れ。」とぞ被仰下ける。勅宣(ちよくせん)の御使(おんつかひ)、其(その)勢(せい)二千(にせん)余騎(よき)、追手(おふて)搦手(からめて)より押寄(おしよせ)て、北山殿(きたやまどの)の四方(しはう)を七重(ななへ)八重(やへ)にぞ取巻(とりまき)ける。大納言殿(だいなごんどの)、早(はや)此間(このあひだ)の隠謀(いんぼう)顕(あらは)れけりと思(おもひ)給ふ。されば中々(なかなか)騒(さわぎ)たる気色もなし。事の様(やう)をも知(しら)ぬ北御方(きたのおんかた)・女房達(にようばうたち)・侍(さぶらひ)共(ども)はこは如何なる事ぞやと、周章(あわて)ふためき逃倒(にげたふ)る。御弟(おんおとと)俊季朝臣(としすゑあそん)は、官軍(くわんぐん)の向(むかひ)けるを見て、心早(はやき)人なりければ、只一人抽(ぬきんで)て、後(うしろ)の山より何地(いづち)ともなく落給(おちたまひ)にけり。定平(さだひら)朝臣先(まづ)大納言殿(だいなごんどの)に対面(たいめん)有(あつ)て、穏(おだやか)に事の子細(しさい)を被演ければ、大納言殿(だいなごんどの)涙を押(おさ)へて宣(のたまひ)けるは、「公宗(きんむね)不肖(ふせう)の身なりといへども、故中宮(こちゆうぐう)の御好(おんよしみ)に依(よつ)て、官禄(くわんろく)共(とも)に人に不下、是(これ)偏(ひとへ)に明王慈恵(みやうわうじけい)の恩幸(おんかう)なれば、争(いかで)か居陰折枝、汲流濁源志可存候。倩(つらつら)事(こと)の様(やう)を案(あん)ずるに、当家数代(たうけすだい)の間官爵(くわんしやく)人に超(こ)へ、恩禄(おんろく)身に余れる間、或(あるひ)は清花(せいぐわ)の家是(これ)を妬(ねた)み、或(あるひ)は名家(めいか)の輩(ともがら)是(これ)を猜(そねん)で、如何様(いかさま)種々(しゆじゆ)の讒言(ざんげん)を構(かま)へ、様々(さまざま)の虚説(きよぜつ)を成(なし)て、当家(たうけ)を失(うしな)はんと仕る歟(か)とこそ覚(おぼえ)て候へ。乍去天鑑真、虚名(きよめい)いつまでか可掠上聞候なれば、先(まづ)召(めし)に随(したがつ)て陣下(ぢんか)に参じ、犯否(ぼんび)の御糺明(きうめい)を仰(あふ)ぎ候べし。但(ただし)俊季(としすゑ)に於(おいて)は、今朝已(すで)に逐電候(ちくてんさふらひ)ぬる間召具(めしぐ)するに不及。」とぞ宣(のたまひ)ける。官軍共(くわんぐんども)是(これ)を聞(きい)て、「さては橋本(はしもとの)中将殿(ちゆうじやうどの)を隠(かく)し被申にてこそあれ。御所中(ごしよちゆう)を能々(よくよく)見奉れ。」とて数千(すせん)の兵共(つはものども)殿中(でんちゆう)に乱入(みだれいつ)て、天井塗篭(てんじやうぬりこめ)打破(うちやぶり)、翠簾几帳(すゐれんきちやう)を引落(ひきおと)して、無残処捜(さがし)けり。依之(これによつて)只今まで可有紅葉の御賀とて楽絃(がくげん)を調(しら)べつる伶人(れいじん)、装束(しやうぞく)をも不脱、東西に逃迷(にげまよ)ひ、見物の為とて群(ぐん)をなせる僧俗男女、怪(あやし)き者歟(か)とて、多く被召捕不慮(ふりよ)に刑戮(けいりく)に逢(あひ)けり。其辺(そのへん)の山の奥(おく)、岩(いは)のはざま迄(まで)、若(もし)やと猶(なほ)捜(さがし)けれども、俊季(としすゑ)朝臣遂(つひ)に見へ給はざりければ、官軍(くわんぐん)無力、公宗(きんむね)卿(きやう)と文衡(ぶんひら)入道とを召捕奉(めしとりたてまつ)て、夜中に京(きやう)へぞ帰(かへり)ける。大納言殿(だいなごんどの)をば定平(さだひら)朝臣の宿所に、一間(ひとま)なる所を攻篭(つめろう)の如(ごとく)に拵(こしらへ)て、押篭(おしこめ)奉る。文衡(ぶんひら)入道をば結城(ゆふき)判官(はうぐわん)に被預、夜昼(よるひる)三日まで、上(あげ)つ下(おろし)つ被拷問けるに、無所残白状(はくじやう)しければ、則(すなはち)六条河原(ろくでうかはら)へ引出(ひきいだ)して、首(くび)を被刎けり。公宗(きんむね)をば伯耆守(はうきのかみ)長年(ながとし)に被仰付、出雲(いづもの)国(くに)へ可被流と、公儀(こうぎ)已(すで)に定(さだま)りにけり。明日必(かならず)配所(はいしよ)へ赴き給(たまふ)べしと、治定(ぢてい)有(あり)ける其夜(そのよ)、中院(なかのゐん)より北(きた)の御方(おんかた)へ被告申ければ、北(きた)の方(かた)忍(しのび)たる体(てい)にて泣々(なくなく)彼(かし)こへ坐(おは)したり。暫(しばら)く警固(けいご)の武士(ぶし)をのけさせて、篭(ろう)の傍(あた)りを見給へば、一間(ひとま)なる所の蜘手(くもで)密(きびし)く結(ゆう)たる中(なか)に身を縮(ちぢ)めて、起伏(おきふし)もなく泣沈(なきしづ)み給(たまひ)ければ、流るゝ泪(なみだ)袖に余(あま)りて、身も浮く許(ばかり)に成(なり)にけり。大納言殿(だいなごんどの)北(きた)の方(かた)を一目(ひとめ)見給(たまひ)て、いとゞ泪(なみだ)に咽(むせ)び、云出(いひいだ)し給へる言葉(ことのは)もなし。北(きた)の方(かた)も、「こは如何に成(なり)ぬる御有様(おんありさま)ぞや。」と許(ばかり)涙(なみだ)の中(うち)に聞(きこ)へて、引(ひき)かづき泣伏(なきふし)給ふ。良(やや)暫有(しばらくあつ)て、大納言殿(だいなごんどの)泪(なみだ)を押(おさ)へて宣(のたまひ)けるは、「我(わが)身かく引(ひく)人もなき捨小舟(すてをぶね)の如く、深罪(ふかきつみ)に沈(しづ)みぬるに付(つい)ても、たゞならぬ御事(おんこと)とやらん承(うけたまは)りしかば、我故(われゆゑ)の物思(ものおも)ひに、如何(いか)なる煩(わづら)はしき御心地(おんここち)かあらんずらんと、それさへ後の闇路(やみぢ)の迷(まよひ)と成(なり)ぬべう覚(おぼえ)てこそ候へ。若(もし)それ男子(なんし)にても候はゞ、行末(ゆくすゑ)の事思捨(おもひすて)給はで、哀(あはれ)みの懐(ふところ)の中に人となし給(たまふ)べし。我家(わがいへ)に伝(つたふ)る所の物なれば、見ざりし親の忘形見(わすれがたみ)ともなし給へ。」とて、上原(しやうげん)・石上(せきしやう)・流泉(りうせん)・啄木(たくぼく)の秘曲(ひきよく)を被書たる琵琶の譜(ふ)を一帖(いちでふ)、膚(はだ)の護(まぶり)より取出(とりいだ)し玉(たまひ)て、北(きた)の方(かた)に手(てづ)から被渡けるが、側(そば)なる硯(すずり)を引寄(ひきよせ)て、上巻(うはまき)の紙に一首(いつしゆ)の歌を書(かき)給ふ。哀(あはれ)なり日影(ひかげ)待(まつ)間(ま)の露の身に思(おもひ)をかるゝ石竹(なでしこ)の花硯の水に泪(なみだ)落(おち)て、薄墨(うすずみ)の文字さだかならず、見る心地(ここち)さへ消(きえ)ぬべきに、是(これ)を今はの形見(かたみ)とも、泪(なみだ)と共に留玉(とどめたま)へば、北(きた)の御方(おんかた)はいとゞ悲(かなし)みを被副て中々(なかなか)言葉(ことのは)もなければ、只顔をも不擡泣(なき)給ふ。去(さる)程(ほど)に追立(おつたて)の官人(くわんにん)来(きたつ)て、「今夜先(まづ)伯耆(はうきの)守(かみ)長年(ながとし)が方へ渡し奉(たてまつ)て暁(あかつき)配所(はいしよ)へ可奉下。」と申(まうし)ければ、頓(やが)て物騒(ものさわが)しく成(なつ)て、北方(きたのかた)も傍(あたり)へ立隠給(たちかくれたまひ)ぬ。さても猶(なほ)今より後の御有様(おんありさま)如何(いかが)と心苦(くるしく)覚(おぼえ)て、透垣(すいがき)の中に立紛(たちまぎれ)て見玉(みたま)へば、大納言殿(だいなごんどの)を請取進(うけとりまゐらせ)んとて、長年物具(もののぐ)したる者共(ものども)二三百人(にさんびやくにん)召具(めしぐ)して、庭上(ていじやう)に並居(なみゐ)たり。余(あま)りに夜(よ)の深候(ふけさふらひ)ぬると急(いそぎ)ければ、大納言殿(だいなごんどの)縄取(なはとり)に引(ひか)へられて中門(ちゆうもん)へ出(いで)玉ふ。其(その)有様を見給(たまひ)ける北(きた)の御方(おんかた)の心の中(うち)、譬(たと)へて云はん方もなし。既(すで)に庭上に舁居(かきすゑ)たる輿(こし)の簾(すだれ)を掲(かかげ)て乗(の)らんとし給(たまひ)ける時、定平(さだひら)朝臣長年に向(むかつ)て、「早(はや)。」と被云けるを、「殺(ころ)し奉れ。」との詞(ことば)ぞと心得て、長年、大納言に走懸(はしりかかつ)て鬢髪(びんのかみ)を掴(つかん)で覆(うつぶし)に引伏(ひきふ)せ、腰(こしの)刀を抜(ぬい)て御頚(おんくび)を掻落(かきおと)しけり。下(しも)として上(かみ)を犯(をかさ)んと企(くはだつ)る罰(ばつ)の程こそ恐(おそろ)しけれ。北(きた)の方(かた)は是(これ)を見給(たまひ)て、不覚あつとをめいて、透垣(すいがき)の中に倒(たふ)れ伏(ふし)給ふ。此侭(このまま)頓(やが)て絶(たえ)入り給(たまひ)ぬと見へければ、女房達(にようばうたち)車に扶乗奉(たすけのせたてまつ)て、泣々(なくなく)又北山(きたやま)殿(どの)へ帰(かへ)し入れ奉る。さしも堂上(だうじやう)堂下(だうか)雲の如(ごとく)なりし青侍官女(せいしくわんぢよ)、何地(いづち)へか落行(おちゆき)けん。人一人も不見成(なつ)て、翠簾几帳(すゐれんきちやう)皆被引落たり。常の御方(おんかた)を見給へば、月の夜(よ)・雪の朝(あした)、興(きよう)に触(ふれ)て読棄(よみすて)給へる短冊共(たんじやくども)の、此彼(ここかしこ)に散乱(ちりみだれ)たるも、今はなき人の忘形見(わすれがたみ)と成(なつ)て、そゞろに泪(なみだ)を被催給ふ。又夜(よん)の御方(おんかた)を見給へば、旧(ふる)き衾(ふすま)は留(とどまつ)て、枕ならべし人はなし。其面影(そのおもかげ)はそれながら、語(かたり)て慰(なぐさ)む方もなし。庭(には)には紅葉(もみぢ)散敷(ちりしい)て、風の気色(けしき)も冷(すさまじ)きに、古き梢(こずゑ)の梟(ふくろの)声、けうとげに啼(ない)たる暁(あかつき)の物さびしさ、堪(たへ)ては如何(いかが)と住(すみ)はび給へる処に、西園寺(さいをんじ)の一跡(いつせき)をば、竹林院(ちくりんゐん)中納言公重(きんしげ)卿(きやう)賜(たまは)らせ給(たまひ)たりとて、青侍共(あをさぶらひども)数(あま)た来(きたつ)て取貸(とりまかな)へば、是(これ)さへ別(わかれ)の憂数(うきかず)に成(なつ)て、北(きた)の御方(おんかた)は仁和寺(にんわじ)なる傍(かたはら)に、幽(かすか)なる住所(すみところ)尋出(たづねいだ)して移(うつり)玉ふ。時しもこそあれ、故(こ)大納言殿(だいなごんどの)の百箇日(ひやくかにち)に当(あた)りける日、御産(ごさん)事故無(ことゆゑなく)して、若君生(うま)れさせ玉へり。あはれ其(その)昔ならば、御祈(おんいのり)の貴僧高僧歓喜(くわんき)の眉(まゆ)を開(ひら)き、弄璋(ろうしやう)の御慶(ぎよけい)天下に聞(きこ)へて門前の車馬(しやば)群(ぐん)を可成に、桑(くは)の弓引(ひく)人もなく、蓬(よもぎ)の矢射(い)る所もなきあばら屋(や)に、透間(すきま)の風冷(すさま)じけれども、防(ふせ)ぎし陰(かげ)もかれはてぬれば、御乳母(おんめのと)なんど被付までも不叶、只母上(ははうへ)自(みづから)懐(いだ)きそだて給へば、漸(やうや)く故(こ)大納言殿(だいなごんどの)に似(に)給へる御顔つきを見(み)玉ふにも、「形見(かたみ)こそ今はあたなれ是(これ)なくば忘(わす)るゝ時もあらまし物を。」と古人(いにしへびと)の読(よみ)たりしも、泪(なみだ)の故(ゆゑ)と成(なり)にけり。悲歎(ひたん)の思(おもひ)胸に満(みち)て、生産(うぶや)の筵(むしろ)未乾、中院(なかのゐんの)中将(ちゆうじやう)定平(さだひら)の許(もと)より、以使、「御産(ごさん)の事に付(つい)て、内裡(だいり)より被尋仰事候。もし若君にても御渡(おんわたり)候はゞ、御乳母(おんめのと)に懐(いだ)かせて、是(これ)へ先(まづ)入進(いれまゐらせ)られ候へ。」と被仰ければ、母上(ははうへ)、「あな心憂(こころう)や、故(こ)大納言(だいなごん)の公達(きんだち)をば、腹の中(なか)までも開(あけ)て可被御覧聞(きこ)へしかば、若君(わかぎみ)出来(いでき)させ給(たまひ)ぬと漏聞(もれきこ)へけるにこそ有(あり)けれ。歎(なげき)の中(うち)にも此(この)子をそだてゝこそ、故(こ)大納言殿(だいなごんどの)の忘形見(わすれがたみ)とも見、若(もし)人とならば僧にもなして、無跡(なきあと)をも問(とは)せんと思(おもひ)つるに、未だ乳房(ちぶさ)も離(はなれ)ぬみどり子を、武士(もののふ)の手に懸(かけ)て被失ぬと聞(きい)て、有(あり)し別(わかれ)の今の歎(なげき)に、消(きえ)はびん露の命(いのち)を何(なに)に懸(かけ)てか可堪忍。あるを限(かぎり)の命だに、心に叶ふ者ならで、斯(かか)る憂(うき)事(こと)をのみ見聞く身こそ悲しけれ。」と泣(なき)沈み給(たまひ)ければ、春日(かすが)の局(つぼね)泣々(なくなく)内(うち)より御使(おんつかひ)に出合給(いであひたまひ)て、「故(こ)大納言殿(だいなごんどの)の忘形見(わすれがたみ)の出来(いでき)させ給(たまひ)て候(さふらひ)しが、母上(ははうへ)のたゞならざりし時節(をりふし)限(かぎり)なき物思(おもひ)に沈(しづみ)給ふ故(ゆゑ)にや、生(うま)れ落(おち)玉ひし後、無幾程はかなく成給(なりたまひ)候。是(これ)も咎(とが)有(あり)し人の行(ゆく)ゑなれば、如何(いか)なる御沙汰(ごさた)にか逢(あひ)候はんずらんと、上(うへ)の御尤(おんとがめ)を怖(おそれ)て、隠(かく)し侍(はんべ)るにこそと被思召事も候(さふらひ)ぬべければ、偽(いつはり)ならぬしるしの一言を、仏神(ぶつじん)に懸(かけ)て申入(まうしいれ)候べし。」とて、泣々(なくなく)消息(せうそく)を書(かき)給ひ、其(その)奥に、
偽(いつはり)を糺(ただす)の森に置(おく)露(つゆ)の消(きえ)しにつけて濡(ぬ)るゝ袖哉(かな)
使(つかひ)此(この)御文を持(もつ)て帰(かへ)り参(まゐ)れば、定平(さだひら)泪(なみだ)を押(おさ)へて奏覧(そうらん)し給ふ。此(この)一言に、君も哀(あはれ)とや思召(おぼしめさ)れけん、其(その)後は御尋(おんたづね)もなかりければ、うれしき中に思ひ有(あつ)て、焼野(やけの)の雉(きぎす)の残る叢(くさむら)を命にて、雛(ひな)を育(はごくむ)らむ風情(ふぜい)にて、泣(なく)声をだに人に聞(きか)せじと、口を押(おさ)へ乳(ち)を含(ふくめ)て、同枕(おなじまくら)の忍(しの)びねに、泣明(なきあか)し泣暮(なきくら)して、三年(みとせ)を過(すご)し給(たまひ)し心の中(うち)こそ悲しけれ。其後(そののち)建武(けんむ)の乱出来(いでき)て、天下将軍の代(よ)と成(なり)しかば、此(この)人朝(てう)に仕へて、西園寺(さいをんじ)の跡(あと)を継給(つぎたまひ)し、北山の右大将(うだいしやう)実俊(さねとし)卿(きやう)是(これ)也(なり)。さても故(こ)大納言殿(だいなごんどの)滅(ほろ)び給ふべき前表(ぜんべう)のありけるを、木工頭(もくのかみ)孝重(たかしげ)が兼(かね)て聞(きき)たりけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。彼(かの)卿(きやう)謀叛(むほん)の最初(さいしよ)、祈祷(きたう)の為に一七日(ひとなぬか)北野に参篭(さんろう)して、毎夜(まいよ)琵琶(びは)の秘曲(ひきよく)を弾(だん)じ給(たまひ)けるが、七日(なぬか)に満(まん)じける其夜(そのよ)は、殊更(ことさら)聖廟(せいべう)の法楽(ほふらく)に備(そなふ)べき為とや被思けん。月冷(すさまじ)く風秋(ひややか)なる小夜深方(さよふけがた)に、翠簾(すゐれん)を高く捲上(まきあげ)させて、玉樹(ぎよくじゆ)三女の序(じよ)を弾(だん)じ給ふ。「第一(だいいち)・第二(だいにの)絃(げんは)索々(さくさくたり)秋(あきの)風払松疎韻(そゐん)落(おつ)。第三(だいさん)・第四(だいしの)絃(げんは)冷々(れいれいたり)夜鶴(よるのつる)憶子篭(この)中(うちに)鳴(なく)、絃々(げんげん)掩抑(えんよく)只拍子(ひやうし)に移る。六反(ろくへん)の後(のち)の一曲(いつきよく)、誠(まこと)に嬰児(えいじ)も起(たつ)て舞許(まふばかり)也(なり)。時節(をりふし)木工頭(もくのかみ)孝重(たかしげ)社頭(しやとう)に通夜(つや)して、心を澄(すま)し耳を側(そばだて)て聞(きき)けるが、曲終(はて)て後に、人に向(むかつ)て語りけるは、「今夜の御琵琶(びは)祈願(きぐわん)の御事(おんこと)有(あつ)て遊(あそ)ばさるゝならば、御願(ごぐわん)不可成就。其故(そのゆゑ)は此玉樹(このぎよくじゆ)と申(まうす)曲(きよく)は、昔晉(しん)の平公(へいこう)濮水(ぼくすゐ)の辺(ほとり)を過給(すぎたまひ)けるに、流るゝ水の声に絃管(げんくわん)の響(ひびき)あり。平公(へいこう)則(すなはち)師涓(しけん)と云(いふ)楽人(がくにん)を召(めし)て、琴(こと)の曲(きよく)に移(うつ)さしむ。其(その)曲殺声(さつせい)にして、聞人(きくひと)泪(なみだ)を不流云(いふ)事(こと)なし。然共(しかれども)平公(へいこう)是(これ)を愛(あい)して、専(もつぱら)楽絃(がくげん)に用(もちゐ)給ひしを、師曠(しくわう)と云(いひ)ける伶倫(れいりん)、此曲(このきよく)を聴(きき)て難(なん)じて奏(そう)しけるは、「君是(これ)を弄(もてあそ)び玉(たま)はゞ、天下一(ひと)たび乱(みだれ)て、宗廟(そうべう)全(まつた)からじ。如何(いかん)となれば、古(いにし)へ殷(いん)の紂王(ちうわう)彼婬声(かのいんせい)の楽(がく)を作(なし)て弄(もてあそ)び給(たまひ)しが、無程周(しう)の武王に被滅給(たまひ)き。其魂魄(そのこんばく)猶(なほ)濮水(ぼくすゐ)の底(そこ)に留(とどまつ)て、此(この)曲を奏(そう)するを、君今新楽(しんがく)に写(うつ)して、是(これ)を翫(もてあそ)び給ふ。鄭声(ていせい)雅(が)を乱(みだ)る故(ゆゑ)に一唱(いつしやう)三歎(さんたん)の曲に非(あら)ず。」と申(まうし)けるが、果(はた)して平公(へいこう)滅(ほろ)びにけり。其(その)後此楽(このがく)猶(なほ)止(やま)ずして、陳(ちん)の代(よ)に至る。陳(ちん)の後主(こうしゆ)是(これ)を弄(もてあそん)で、隋(ずゐ)の為に被滅ぬ。隋(ずゐ)の煬帝(やうたい)又是(これ)を翫(もてあそ)ぶ事甚(はなはだしく)して唐(たう)の太宗(たいそう)に被滅ぬ。唐の末(すゑ)の代(よ)に当(あたつ)て、我朝(わがてう)の楽人(がくじん)掃部頭(かもんのかみ)貞敏(さだとし)、遣唐使(けんたうし)にて渡(わたり)たりしが、大唐(だいたう)の琵琶(びは)の博士(はかせ)廉承夫(れんせふふ)に逢(あう)て、此(この)曲を我朝(わがてう)に伝来(でんらい)せり。然(しかれ)ども此(この)曲に不吉の声(ね)有(あり)とて、一手(ひとて)を略(りやく)せる所あり。然(しかる)を其夜(そのよ)の御法楽(ほふらく)に、宗(むね)と此(この)手を引(ひき)給ひしに、然(しか)も殊(こと)に殺発(さつばつ)の声(ね)の聞(きこ)へつるこそ、浅増(あさまし)く覚(おぼ)へ侍(はんべ)りけれ、八音(はちいんと)与政通(つう)ずといへり。大納言殿(だいなごんどの)の御身(おんみ)に当(あたつ)て、いかなる煩(わづらひ)か出来(いでく)らん。」と、孝重(たかしげ)歎(なげき)て申(まうし)けるが、無幾程して、大納言殿(だいなごんどの)此死刑(このしけい)に逢(あひ)給ふ。不思議(ふしぎ)也(なり)ける前相(ぜんさう)也(なり)。
○中前代(なかせんだい)蜂起(ほうきの)事(こと) S1304
今天下一統(いつとう)に帰(き)して、寰中(くわんちゆう)雖無事、朝敵の余党(よたう)猶(なほ)東国に在(あり)ぬべければ、鎌倉(かまくら)に探題(たんだい)を一人をかでは悪(あし)かりぬべしとて、当今(たうぎん)第八の宮(みや)を、征夷将軍になし奉(たてまつ)て、鎌倉(かまくら)にぞ置進(おきまゐら)せられける。足利(あしかが)左馬頭(さまのかみ)直義(ただよし)其執権(そのしつけん)として、東国の成敗(せいばい)を司(つかさど)れども、法令(はふれい)皆(みな)旧(ふるき)を不改。斯(かか)る処に、西園寺(さいをんじの)大納言(だいなごん)公宗(きんむね)卿(きやう)隠謀(いんぼう)露顕(ろけん)して被誅給(たまひ)し時、京都にて旗(はた)を挙(あげ)んと企(くはたて)つる平家の余類共(よるゐども)、皆(みな)東国・北国に逃下(にげくだつ)て、猶其素懐(そのそくわい)を達せん事を謀る。名越(なごや)太郎時兼(ときかぬ)には、野尻(のじり)・井口(ゐのくち)・長沢・倉満(くらみつ)の者共(ものども)、馳著(はせつき)ける間、越中・能登・加賀の勢共(せいども)、多く与力(よりき)して、無程六千(ろくせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。相摸(さがみ)次郎時行(ときゆき)には、諏訪(すは)三河(みかはの)守(かみ)・三浦(みうらの)介入道・同若狭(わかさの)五郎・葦名(あしな)判官(はうぐわん)入道・那和(なわ)左近(さこんの)大夫(たいふ)・清久(きよくの)山城(やましろの)守(かみ)・塩谷(しほのや)民部(みんぶの)大夫(たいふ)・工藤(くどう)四郎左衛門(しらうざゑもん)已下(いげ)宗(むね)との大名五十(ごじふ)余人(よにん)与(くみ)してげれば、伊豆・駿河(するが)・武蔵・相摸・甲斐・信濃の勢共(せいども)不相付云(いふ)事(こと)なし。時行(ときゆき)其(その)勢(せい)を率(そつ)して、五万(ごまん)余騎(よき)、俄に信濃(しなのの)国(くに)に打越(こえ)て、時日(ときひ)を不替則(すなはち)鎌倉(かまくら)へ責上(せめのぼ)りける。渋河(しぶかは)刑部(ぎやうぶの)大夫(たいふ)・小山(をやま)判官(はうぐわん)秀朝(ひでとも)武蔵(むさしの)国(くに)に出合(いであ)ひ、是(これ)を支(ささへ)んとしけるが、共に、戦(たたかひ)利(り)無(なう)して、両人所々(しよしよ)にて自害(じがい)しければ、其郎従(そのらうじゆう)三百(さんびやく)余人(よにん)、皆両所にて被討にけり。又新田(につた)四郎上野(こうづけの)国(くに)利根川(とねがは)に支(ささへ)て、是(これ)を防(ふせ)がんとしけるも、敵(てき)目(め)に余(あま)る程の大勢なれば、一戦(いつせん)に勢力を被砕、二百(にひやく)余人(よにん)被討にけり。懸(かか)りし後は、時行(ときゆき)弥(いよいよ)大勢に成(なつ)て、既(すで)に三方(さんぱう)より鎌倉(かまくら)へ押寄(おしよす)ると告(つげ)ければ、直義(ただよし)朝臣は事の急(きふ)なる時節(をりふし)、用意(ようい)の兵(つはもの)少(すくな)かりければ、角(かく)ては中々(なかなか)敵に利(り)を付(つけ)つべしとて、将軍の宮(みや)を具足(ぐそく)し奉(たてまつ)て、七月十六日の暁(あかつき)に、鎌倉(かまくら)を落給(おちたまひ)けり。
○兵部卿宮(ひやうぶきやうのみや)薨御(こうぎよの)事(こと)付(つけたり)干将莫耶(かんしやうばくやが)事(こと) S1305
左馬頭(さまのかみ)既(すで)に山の内を打過給(すぎたまひ)ける時、淵辺(ふちべ)伊賀(いがの)守(かみ)を近付(ちかづけ)て宣(のたまひ)けるは、「御方(みかた)依無勢、一旦(いつたん)鎌倉(かまくら)を雖引退、美濃・尾張(をはり)・三河・遠江(とほたふみ)の勢を催(もよほ)して、頓(やが)て又鎌倉(かまくら)へ寄(よせ)んずれば、相摸次郎時行(ときゆき)を滅(ほろぼ)さん事は、不可回踵。猶も只当家(たうけ)の為に、始終(しじゆう)可被成讎は、兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)也(なり)。此御事(このおこと)死刑(しけい)に行(おこな)ひ奉れと云(いふ)勅許(ちよくきよ)はなけれ共(ども)、此次(このついで)に只失(うしなひ)奉らばやと思ふ也(なり)。御辺(ごへん)は急(いそぎ)薬師堂(やくしだう)の谷(やつ)へ馳帰(はせかへつ)て、宮(みや)を刺殺(さしころ)し進(まゐ)らせよ。」と被下知ければ、淵辺(ふちべ)畏(かしこまつ)て、「承(うけたまはり)候。」とて、山の内(うち)より主従(しゆじゆう)七騎引返(ひきかへ)して宮の坐(ましまし)ける篭(ろう)の御所(ごしよ)へ参(まゐり)たれば、宮はいつとなく闇(やみ)の夜(よ)の如(ごとく)なる土篭(つちろう)の中に、朝(あした)に成(なり)ぬるをも知(しら)せ給はず、猶(なほ)灯(ともしび)を挑(かかげ)て御経あそばして御坐(ござ)有(あり)けるが、淵辺(ふちべ)が御迎(むかひ)に参(まゐり)て候由を申(まうし)て、御輿(おんこし)を庭に舁居(かきす)へたりけるを御覧(ごらん)じて、「汝(なんぢ)は我を失(うしなは)んとの使にてぞ有(ある)らん。心得たり。」と被仰て、淵辺が太刀を奪はんと、走り懸(かか)らせ給(たまひ)けるを、淵辺持(もち)たる太刀を取直(とりなほ)し、御膝(おんひざ)の辺(あたり)をしたゝかに奉打。宮は半年許(ばかり)篭(ろう)の中に居屈(ゐかがま)らせ給(たまひ)たりければ、御足(あし)も快(こころよく)立(たた)ざりけるにや、御心(おんこころ)は八十梟(やたけ)に思召(おぼしめし)けれ共(ども)、覆(うつぶし)に被打倒、起挙(おきあが)らんとし給ひける処を、淵辺(ふちべ)御胸の上に乗(のり)懸り、腰の刀を抜(ぬい)て御頚(おんくび)を掻(かか)んとしければ、宮御頚(おんくび)を縮(ちぢめ)て、刀のさきをしかと呀(くはへ)させ給ふ。淵辺(ふちべ)したゝかなる者なりければ、刀を奪はれ進(まゐ)らせじと、引合ひける間、刀の鋒(きつさき)一寸余(あま)り折(をれ)て失(うせ)にけり。淵辺其(その)刀を投捨(なげすて)、脇差(わきざし)の刀を抜(ぬい)て、先(まず)御心(おんむな)もとの辺(へん)を二刀(ふたかたな)刺(さ)す。被刺て宮少し弱(よわ)らせ給ふ体(てい)に見へける処を、御髪を掴(つかん)で引挙(あ)げ、則(すなはち)御頚(おんくび)を掻(かき)落す。篭(ろう)の前に走出(はしりいで)て、明(あか)き所にて御頚(おんくび)を奉見、噬切(くひき)らせ給ひたりつる刀の鋒(きつさき)、未だ御口の中に留(とどまつ)て、御眼(まなこ)猶(なほ)生(いき)たる人の如し。淵辺是(これ)を見て、「さる事あり。加様(かやう)の頚をば、主には見せぬ事ぞ。」とて、側(かたはら)なる薮(やぶ)の中へ投捨(なげすて)てぞ帰りける。去(さる)程(ほど)に御かいしやくの為(ために)、御前(おんまへ)に候(さふら)はれける南(みなみ)の御方(おかた)、此(この)有様を見奉(たてまつ)て、余(あまり)の恐(おそろ)しさと悲しさに、御身(おんみ)もすくみ、手足もたゝで坐(ましま)しけるが、暫(しばらく)肝(きも)を静(しづ)めて、人心付(つき)ければ、薮(やぶ)に捨(すて)たる御頚(おんくび)を取挙(とりあげ)たるに、御膚(おんはだ)へも猶(なほ)不冷、御目も塞(ふさが)せ給はず、只元(もと)の気色(きしよく)に見へさせ給へば、こは若(もし)夢にてや有(あ)らん、夢ならばさむるうつゝのあれかしと泣悲(なきかなし)み給ひけり。遥(はるか)に有(あつ)て理致光院(りちくわうゐん)の長老、「斯(かか)る御事(おんこと)と承及(うけたまはりおよび)候。」とて葬礼(さうれい)の御事(おんこと)取営(とりいとな)み給へり。南(みなみ)の御方(おんかた)は、軈(やが)て御髪被落ろて泣々(なくなく)京(きやう)へ上(のぼ)り給ひけり。抑(そもそも)淵辺が宮(みや)の御頚(おんくび)を取(とり)ながら左馬頭(さまのかみ)殿(どの)に見せ奉らで、薮(やぶ)の傍(かたはら)に捨(すて)ける事聊(いささか)思へる所あり。昔周(しう)の末(すゑ)の代(よ)に、楚王(そわう)と云(いひ)ける王、武(ぶ)を以て天下を取らん為に、戦(たたかひ)を習はし剣(けん)を好む事年久し。或(ある)時楚王の夫人(ふじん)、鉄(くろがね)の柱に倚傍(よりそひ)てすゞみ給(たまひ)けるが、心地(ここち)只ならず覚(おぼえ)て忽(たちまちに)懐姙(くわいにん)し玉(たまひ)けり。十月(とつき)を過(すぎ)て後、生産(うぶや)の席(せき)に苦(くるしん)で一(ひとつ)の鉄丸(てつぐわん)を産(うみ)給ふ。楚王是(これ)を怪しとし玉(たま)はず、「如何様(いかさま)是(これ)金鉄の精霊(せいれい)なるべし。」とて、干将(かんしやう)と云(いひ)ける鍛冶(かじ)を被召、此鉄(このくろがね)にて宝剣(はうけん)を作(つくつ)て進(まゐら)すべき由を被仰。干将此鉄(このくろがね)を賜(たまはつ)て、其妻(そのつま)の莫耶(ばくや)と共に呉山(ござん)の中に行(ゆき)て、竜泉(りゆうせん)の水に淬(にぶらし)て、三年が内に雌雄(しゆう)の二剣(にけん)を打出(うちいだ)せり。剣成(なつ)て未奏前(さき)に、莫耶(ばくや)、干将(かんしやう)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「此二(このふたつ)の剣(けん)精霊(せいれい)暗(あん)に通じて坐(ゐ)ながら怨敵(をんでき)を可滅剣也(なり)。我(われ)今懐姙(くわいにん)せり。産子(うむこ)は必(かならず)猛(たけ)く勇(いさ)める男なるべし。然れば一(ひとつ)の剣をば楚王に献(たてまつ)るとも今一(ひとつ)の剣をば隠(かく)して我子(わがこ)に可与玉。」云(いひ)ければ、干将(かんしやう)、莫耶(ばくや)が申(まうす)に付(つい)て、其雄剣(そのゆうけん)一(ひとつ)を楚王に献(けん)じて、一(ひとつ)の雌剣(しけん)をば、未だ胎内(たいない)にある子の為に深く隠(かく)してぞ置(おき)ける。楚王雄剣(ゆうけん)を開(ひらい)て見給ふに、誠(まこと)に精霊(せいれい)有(あり)と見へければ、箱の中に収(をさめ)て被置たるに、此剣(このけん)箱の中にして常に悲泣(ひきふ)の声あり。楚王怪(あやしみ)て群臣(ぐんしん)に其泣(そのなく)故(ゆゑ)を問(とひ)給ふに、臣皆申(まう)さく、「此剣(このけん)必(かならず)雄(ゆう)と雌(し)と二(ふた)つ可有。其(その)雌雄一所(いつしよ)に不在間、是(これ)を悲(かなしん)で泣(なく)者也(なり)。」とぞ奏(そう)しける。楚王大(おほき)に忿(いかつ)て、則(すなはち)干将を被召出、典獄(てんごく)の官に仰(おほせ)て首(くび)を被刎けり。其後(そののち)莫耶(ばくや)子を生(うめ)り。面貌(めんばう)尋常(よのつね)の人に替(かはつ)て長(たけ)の高(たかき)事(こと)一丈(いちぢやう)五尺(ごしやく)、力は五百人(ごひやくにん)が力を合(あは)せたり。面(おもて)三尺(さんじやく)有(あつ)て眉間(みけん)一尺(いつしやく)有(あり)ければ、世の人其(その)名を眉間尺(みけんじやく)とぞ名付(なづけ)ける。年十五に成(なり)ける時、父が書置(かきおき)ける詞(ことば)を見るに、日出北戸(ほつこにいづ)。南山其松。松生於石。剣在其中。と書(かけ)り。さては此剣(このけん)北戸(ほつこ)の柱の中に在(あり)と心得て、柱を破(はつ)て見るに、果(はた)して一(ひとつ)の雌剣(しけん)あり。眉間尺(みけんじやく)是(これ)を得て、哀(あはれ)楚王を奉討父の仇(あた)を報ぜばやと思ふ事骨髄(こつずゐ)に徹(とほ)れり。楚王も眉間尺(みけんじやく)が憤(いきどほり)を聞給(ききたまひ)て、彼(か)れ世にあらん程は、不心安被思ければ、数万(すまん)の官軍(くわんぐん)を差遣(さしつかは)して、是(これ)を被責けるに、眉間尺(みけんじやく)一人が勇力(ゆうりき)に被摧、又其雌剣(そのしけん)の刃(やいば)に触れて、死傷する者幾千万(いくせんまん)と云数(いふかず)を不知(しらず)。斯(かか)る処に、父干将(かんしやう)が古(いにし)への知音(ちいん)なりける甑山人(そうさんじん)来(きたつ)て、眉間尺(みけんじやく)に向(むかつ)て云(いひ)けるは、「我(わ)れ汝(なんぢ)が父干将と交(まじは)りを結ぶ事年久(ひさし)かりき。然れば、其朋友(そのほういう)の恩を謝(しや)せん為、汝と共に楚王を可奉討事を可謀。汝若(もし)父の仇(あた)を報ぜんとならば、持所(もつところ)の剣(けん)の鋒(きつさき)を三寸(さんずん)嚼切(くひきつ)て口の中に含(ふくん)で可死。我(われ)汝が頭(くび)を取(とつ)て楚王に献(けん)ぜば、楚王悦(よろこん)で必(かならず)汝が頭(くび)を見給はん時、口に含(ふく)める剣(けん)のさきを楚王に吹懸(ふきかけ)て、共(ともに)可死。」と云(いひ)ければ、眉間尺(みけんじやく)大(おほき)に悦(よろこん)で、則(すなはち)雌剣(しけん)の鋒(きつさき)三寸(さんずん)喫切(くひきつ)て、口の内に含(ふく)み、自(みづから)己(おのれ)が頭(くび)をかき切(きつ)て、客(かく)の前にぞ指置(さしおき)ける。客(かく)眉間尺(みけんじやく)が首(くび)を取(とつ)て、則(すなはち)楚王に献(たてまつ)る。楚王大(おほき)に喜(よろこび)て是(これ)を獄門(ごくもん)に被懸たるに、三月まで其頭(そのくび)不爛(ただれず)、■(みはり)目を、切歯を、常に歯喫(はがみ)をしける間、楚王是(これ)を恐(おそれ)て敢(あへ)て不近給。是(これ)を鼎(かなへ)の中(なか)に入れ、七日七夜までぞ被煮(にられ)ける。余(あまり)につよく被煮(にられ)て、此頭(このくび)少し爛(ただれ)て目を塞(ふさ)ぎたりけるを、今は子細(しさい)非(あら)じとて、楚王自(みづから)鼎(かなへ)の蓋(ふた)を開(あけさ)せて、是(これ)を見給(たまひ)ける時、此頭(このくび)、口に含(ふくん)だる剣(けん)の鋒(きつさき)を楚王にはつと奉吹懸。剣(けん)の鋒(きつさき)不誤、楚王の頚の骨(ほね)を切(きり)ければ、楚王の頭(くび)忽(たちまち)に落(おち)て、鼎(かなへ)の中へ入(いり)にけり。楚王の頭(くび)と眉間尺(みけんじやく)が首(くび)と、煎揚(にえあが)る湯の中(なか)にして、上(うへ)になり下(した)に成り、喫相(くひあひ)けるが、動(ややもすれ)ば眉間尺(みけんじやく)が頭(くび)は下に成(なつ)て、喫負(くひまけ)ぬべく見へける間、客(かく)自(みづから)己(おのれ)が首(くび)を掻落(かきおとし)て鼎の中(なか)へ投入(なげいれ)、則(すなはち)眉間尺(みけんじやく)が頭(くび)と相共(あいとも)に、楚王の頭(くび)を喫破(くひやぶつ)て、眉間尺(みけんじやく)が頭(くび)は、「死して後(のち)父の怨(あた)を報じぬ。」と呼(よばは)り、客(かく)の頭(くび)は、「泉下(せんか)に朋友(ほういう)の恩を謝(しや)しぬ。」と悦ぶ声して、共に皆煮爛(にえただ)れて失(うせ)にけり。此(この)口の中に含(ふくん)だりし三寸(さんずん)の剣(けん)、燕(えん)の国に留(とどまつ)て太子丹(たいしたん)が剣(けん)となる。太子丹(たいしたん)、荊軻(けいか)・秦舞陽(しんぶやう)をして秦始皇(しんのしくわう)を伐(うた)んとせし時、自(みづから)差図(さしづ)の箱の中(なか)より飛出(とびいで)て、始皇帝(しくわうてい)を追(おひ)奉りしが、薬の袋を被投懸ながら、口(くち)六尺の銅(あかがね)の柱の半(なか)ばを切(きつ)て、遂(つひ)に三(みつつ)に折(をれ)て失(うせ)たりし匕首(ひしゆ)の剣(けん)是(これ)也(なり)。其雌雄(そのしゆう)二(ふたつ)の剣(けん)は干将莫耶(かんしやうばくや)の剣(けん)と被云て、代々(だいだい)の天子の宝(たから)たりしが、陳代(ちんのよ)に至(いたつ)て俄に失(うせ)にけり。或(ある)時天に一(ひとつ)の悪星(あくせい)出(いで)て天下の妖(えう)を示す事あり。張華(ちやうくわ)・雷煥(らいくわん)と云(いひ)ける二人(ににん)の臣(しん)、楼台(ろうだい)に上(のぼつ)て此(この)星を見るに、旧獄門(ふるきごくもん)の辺(へん)より剣(けん)の光(ひかり)天に上(のぼつ)て悪星(あくせい)と闘(たたか)ふ気あり。張華怪(あやし)しで光の指(さ)す所を掘(ほら)せて見るに、件(くだん)の干将莫耶(かんしやうばくや)の剣土(つち)五尺(ごしやく)が下(した)に埋(うづも)れてぞ残りける。張華・雷煥是(これ)を取(とつ)て天子に献(たてまつ)らん為に、自(みづから)是(これ)を帯(たい)し、延平津(えんへいしん)と云(いふ)沢(さわ)の辺(へん)を通(とほり)ける時、剣(けん)自(みづから)抜(ぬけ)て水の中(なか)に入(いり)けるが、雌雄(しゆう)二(ふたつ)の竜(りゆう)と成(なつ)て遥(はるか)の浪(なみ)にぞ沈みける。淵辺(ふちべ)加様(かやう)の前蹤(ぜんしよう)を思(おもひ)ければ、兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)の刀の鋒(きつさき)を喫切(くひき)らせ給(たまひ)て、御口の中に被含たりけるを見て、左馬(さまの)頭に近付(ちかづけ)奉らじと、其(その)御頚(おんくび)をば薮(やぶ)の傍(かたはら)に棄(すて)けるとなり。
○足利殿(あしかがどの)東国下向(とうごくげかうの)事(こと)付(つけたり)時行(ときゆき)滅亡(めつばうの)事(こと) S1306
直義(ただよし)朝臣は鎌倉(かまくら)を落(おち)て被上洛(しやうらく)けるが、其路次(そのろし)に於て、駿河(するがの)国(くに)入江庄(いりえのしやう)は、海道第一(だいいち)の難所(なんしよ)也(なり)。相摸次郎が与力(よりき)の者共(ものども)、若(もし)道をや塞(ふさが)んずらんと、士卒(じそつ)皆是(これを)危(あやふく)思へり。依之(これによつて)其所(そのところ)の地頭(ぢとう)入江(いりえ)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)春倫(はるとも)が許(もと)へ使を被遣て、可憑由を被仰たりければ、春倫(はるとも)が一族共(いちぞくども)、関東(くわんとう)再興(さいこう)の時到りぬと、料簡(れうけん)しける者共(ものども)は、左馬(さまの)頭を奉打、相摸次郎殿(さがみじらうどの)に馳参(はせまゐ)らんと云(いひ)けるを、春倫(はるとも)つく/゛\思案(しあん)して、「天下の落居(らくきよ)は、愚蒙(ぐもう)の我等(われら)が可知処に非(あら)ず。只義の向ふ所を思ふに、入江庄(いりえのしやう)と云(いふ)は、本(もと)徳宗領(とくそうりやう)にて有(あり)しを、朝恩(てうおん)に下(くだ)し賜(たまは)り、此(この)二三年が間、一家を顧(かへりみ)る事日来(ひごろ)に勝(まさ)れり。是(これ)天恩の上(うへ)に猶(なお)義を重ねたり。此(この)時争(いかで)か傾敗(けいはい)の弊(つひえ)に乗(のつ)て、不義の振舞(ふるまひ)を致さん。」とて、春倫(はるとも)則(すなはち)御迎(むかひ)に参じければ、直義(ただよし)朝臣不斜(なのめならず)喜(よろこび)て、頓(やが)て彼等(かれら)を召具(めしぐ)し、矢矯(やはぎ)の宿(しゆく)に陣(ぢん)を取(とつ)て、是(これ)に暫(しばらく)汗馬(かんば)の足を休(やす)め、京都へ早馬(はやむま)をぞ被立ける。依之(これによつて)諸卿議奏(ぎそう)有(あつ)て、急(いそぎ)足利(あしかが)宰相高氏(たかうぢ)卿(きやう)を討手(うつて)に可被下に定(さだま)りけり。則(すなはち)勅使(ちよくし)を以て、此(この)由を被仰下ければ、相公(しやうこう)勅使(ちよくし)に対して被申けるは、「去(さん)ぬる元弘の乱の始(はじめ)、高氏御方(みかた)に参ぜしに依(よつ)て、天下の士卒(じそつ)皆(みな)官軍(くわんぐん)に属(しよく)して、勝(かつ)事(こと)を一時に決候(けつしさふらひ)き。然(しかれ)ば今一統(いつとう)の御代(みよ)、偏(ひとへ)に高氏が武功(ぶこう)と可云。抑(そもそも)征夷将軍の任(にん)は、代々(だいだい)源平の輩(ともがら)功(こう)に依(よつ)て、其位(そのくらゐ)に居(きよ)する例不可勝計。此(この)一事(いちじ)殊(こと)に為朝為家、望み深き所也(なり)。次には乱(らん)を鎮(しづ)め治(ち)を致す以謀、士卒(じそつ)有功時節(をりふし)に、賞を行(おこなふ)にしくはなし。若(もし)註進(ちゆうしん)を経(へ)て、軍勢(ぐんぜい)の忠否(ちゆうび)を奏聞(そうもん)せば、挙達(ぎよたつ)道遠(とおく)して、忠戦(ちゆうせん)の輩(ともがら)勇(いさみ)を不可成。然れば暫(しばらく)東(とう)八箇国(はちかこく)の官領(くわんれい)を被許、直(ぢき)に軍勢(ぐんぜい)の恩賞を執行(とりおこな)ふ様(やう)に、勅裁(ちよくさい)を被成下、夜(よ)を日に継(つい)で罷下(まかりくだつ)て、朝敵(てうてき)を退治(たいぢ)仕るべきにて候。若(もし)此(この)両条勅許(ちよくきよ)を蒙(かうむら)ずんば、関東(くわんとう)征罰(せいばつ)の事(こと)、可被仰付他人候。」とぞ被申ける。此(この)両条は天下治乱(ちらん)の端(はし)なれば、君も能々(よくよく)御思案(ごしあん)あるべかりけるを、申請(まうしうく)る旨(むね)に任(まかせ)て、無左右勅許(ちよくきよ)有(あり)けるこそ、始終(しじゆう)如何(いかが)とは覚(おぼ)へけれ。但(ただし)征夷将軍の事は関東(くわんとう)静謐(せいひつ)の忠(ちゆう)に可依。東(とう)八箇国(はちかこく)の官領(くわんれい)の事は先(まづ)不可有子細とて、則(すなはち)綸旨(りんし)を被成下ける。是(これ)のみならず、忝(かたじけなく)も天子の御諱(おんいみな)の字(じ)を被下て、高氏(たかうぢ)と名のられける高の字を改めて、尊(そん)の字にぞ被成ける。尊氏(たかうぢ)卿(きやう)東(とう)八箇国(はちかこく)を官領(くわんれい)の所望(しよまう)、輒(たやす)く道行(ゆき)て、征夷将軍の事は今度の忠節(ちゆうせつ)に可依と勅約(ちよくやく)有(あり)ければ、時日(ときひ)を不回関東(くわんとう)へ被下向けり。吉良(きら)兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)を先立(さきだて)て、我(わが)身は五日引(ひき)さがりて進発(しんばつ)し給(たまひ)けり。都(みやこ)を被立ける日は其(その)勢(せい)僅(わづか)に五百(ごひやく)余騎(よき)有(あり)しか共(ども)、近江(あふみ)・美濃・尾張(をはり)・三河・遠江(とほたふみ)の勢馳加(はせくははつ)て、駿河(するがの)国(くに)に著給(つきたまひ)ける時は三万(さんまん)余騎(よき)に成(なり)にけり。左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)、尊氏(たかうぢ)卿(きやう)の勢を合(あはせ)て五万(ごまん)余騎(よき)、矢矯(やはぎ)の宿(しゆく)より取(とつ)て返して又鎌倉(かまくら)へ発向(はつかう)す。相摸次郎時行(ときゆき)是(これ)を聞(きい)て、「源氏は若干(そくばく)の大勢と聞(きこ)ゆれば、待軍(まちいくさ)して敵に気を呑(のま)れては不叶。先(さきん)ずる時は人を制(せい)するに利(り)有(あり)。」とて、我(わが)身は鎌倉(かまくら)に在(あり)ながら、名越式部(なごやしきぶの)大輔(たいふ)を大将として、東海・東山(とうせん)両道を押(おし)て責上(せめのぼ)る。其(その)勢(せい)三万(さんまん)余騎(よき)、八月三日鎌倉(かまくら)を立(たた)んとしける夜(よ)、俄(にはか)に大風吹(ふい)て、家々を吹破(ふきやぶり)ける間、天災(てんさい)を遁(のが)れんとて大仏殿(だいぶつでん)の中へ逃(にげ)入り、各(おのおの)身を縮(ちぢめ)て居(ゐ)たりけるに、大仏殿(だいぶつでん)の棟梁(とうりやう)、微塵(みぢん)に折(を)れて倒(たふ)れける間、其(その)内にあつまり居(ゐ)たる軍兵共五百(ごひやく)余人(よにん)、一人も不残圧(おし)にうてゝ死(し)にけり。戦場(せんぢやう)に趣(おもむ)く門出(かどで)にかゝる天災に逢ふ。此軍(このいくさ)はか/゛\しからじと、さゝやきけれ共(ども)、さて有(ある)べき事ならねば、重(かさね)て日を取り、名越式部(しきぶの)大輔(たいふ)鎌倉(かまくら)を立(たつ)て、夜(よ)を日(ひ)に継(つい)で路(みち)を急(いそぎ)ける間、八月七日前陣(ぜんぢん)已(すで)に遠江(とほたふみ)佐夜(さよ)の中山(なかやま)を越(こえ)けり。足利相公(あしかがのしやうこう)此由(このよし)を聞給(ききたまひ)て、「六韜(りくたう)の十四変に、敵経長途来急可撃と云へり。是(これ)太公(たいこう)武王に教(をしふ)る所の兵法也(なり)。」とて、同(おなじき)八日の卯刻(うのこく)に平家の陣へ押寄(おしよせ)て、終日(ひねもす)闘(たたかひ)くらされけり。平家も此(ここ)を前途(せんど)と心を一(ひとつ)にして相当(あひあた)る事三十(さんじふ)余箇度(よかど)、入替々々(いれかへいれかへ)戦ひけるが、野心(やしん)の兵(つわもの)後(うしろ)に在(あつ)て、跡(あと)より引(ひき)けるに力を失(うしなつ)て、橋本(はしもと)の陣を引退(ひきしりぞ)き、佐夜(さよ)の中山(なかやま)にて支(ささ)へたり。源氏の真前(まつさき)には、仁木(につき)・細河(ほそかわ)の人々、命を義に軽(かろん)じて進みたり。平家の後陣には、諏方(すは)の祝部(はふり)身を恩に報じて、防(ふせぎ)戦ひけり。両陣牙(たがひ)に勇気を励(はげま)して、終日(ひねもす)相戦(あひたたかひ)けるが、平家此(ここ)をも被破(やぶられ)て、箱根(はこね)の水飲(みづのみ)の峠(たうげ)へ引退(ひきしりぞ)く。此(この)山は海道第一(だいいち)の難所(なんしよ)なれば、源氏無左右懸(かか)り得じと思(おもひ)ける処に、赤松(あかまつ)筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)、さしも嶮(けはし)き山路(やまぢ)を、短兵(たんへい)直(ただち)に進んで、敵(てき)の中へ懸入(かけいつ)て、前後(ぜんご)に当り、左右に激(げき)しける勇力に被払て、平家又此(この)山をも支(ささ)へず、大崩(おほくづれ)まで引退(ひきしりぞ)く。清久(きよく)山城(やましろの)守(かみ)返(かへ)し合(あは)せて、一足(ひとあし)も不引闘(たたかひ)けるが、源氏の兵に被組て、腹(はら)切る間もや無(なか)りけん、其(その)身は忽(たちまち)に被虜、郎従(らうじゆう)は皆被討にけり。路次(ろし)数箇度(すかど)の合戦に打負(うちまけ)て、平家やたけに思へ共(ども)不叶。相摸河を引越(こし)て、水を阻(へだて)て支へたり。時節(をりふし)秋の急雨(しぐれ)一通(ひととほ)りして、河水岸(きし)を浸(ひた)しければ、源氏よも渡(わた)しては懸(かか)らじと、平家少し由断(ゆだん)して、手負(ておひ)を扶け馬を休めて、敗軍(はいぐん)の士(し)を集めんとしける処に、夜に入(いつ)て、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)二千(にせん)余騎(よき)にて上(かみ)の瀬を渡し、赤松(あかまつ)筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)は中(なか)の瀬を渡し、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道々誉(だうよ)と、長井(ながゐ)治部(ぢぶの)少輔は、下(しも)の瀬を渡して、平家の陣の後(うし)ろへ回(まは)り、東西に分れて、同時に時(とき)をどつと作る。平家の兵(つはもの)、前後(ぜんご)の敵に被囲て、叶はじとや思(おもひ)けん、一戦(いつせん)にも不及、皆鎌倉(かまくら)を指(さし)て引(ひき)けるが、又腰越(こしごえ)にて返(かへ)し合(あは)せて葦名(あしなの)判官(はうぐわん)も被討にけり。始(はじめ)遠江(とほたふみ)の橋本(はしもと)より、佐夜(さよ)の中山(なかやま)・江尻(えじり)・高橋・箱根山・相摸(さがみ)河・片瀬(かたせ)・腰越(こしごえ)・十間坂(じつけざか)、此等(これら)十七(じふしち)箇度(かど)の戦ひに、平家二万(にまん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、或(あるひ)は討(うた)れ或(あるひ)は疵(きず)を蒙(かうむ)りて、今僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)に成(なり)ければ、諏方(すは)三河(みかはの)守(かみ)を始(はじめ)として宗(むね)との大名四十三人(しじふさんにん)、大御堂(おほみだう)の内に走入(はしりい)り、同(おなじ)く皆自害(じがい)して名を滅亡(めつばう)の跡(あと)にぞ留(とど)めける。其死骸(そのしがい)を見るに、皆面の皮を剥(はい)で何(いづ)れをそれとも見分(みわけ)ざれば、相摸次郎時行(ときゆき)も、定(さだめ)て此(この)内にぞ在(ある)らんと、聞(きく)人哀(あは)れを催(もよほ)しけり。三浦介(みうらのすけ)入道一人は、如何(いかが)して遁(のが)れたりけん、尾張(をはりの)国(くに)へ落(おち)て、舟より挙(あが)りける所を、熱田(あつた)の大宮司(だいぐうじ)是(これ)を生捕(いけどつ)て京都へ上(のぼ)せければ、則(すなはち)六条河原(ろくでうかはら)にて首を被刎けり。是(これ)のみならず、平家再興の計略(けいりやく)、時や未だ至(いた)らざりけん、又天命にや違(たが)ひけん。名越(なごや)太郎時兼(ときかぬ)が、北陸道(ほくろくだう)を打順(したが)へて、三万(さんまん)余騎(よき)にて京都へ責上(せめのぼり)けるも、越前と加賀との堺(さかひ)、大聖寺(だいしやうじ)と云(いふ)所にて、敷地(しきぢ)・上木(うへき)・山岸・瓜生(うりふ)・深町(ふかまち)の者共(ものども)が僅(わづか)の勢(せい)に打負(うちまけ)て、骨(ほね)を白刃(はくじん)の下に砕(くだ)き、恩を黄泉(くわうせん)の底(そこ)に報ぜり。時行(ときゆき)は已(すで)に関東(くわんとう)にして滅(ほろ)び、時兼(ときかぬ)は又北国にて被討し後(のち)は、末々(すゑずゑ)の平氏共(へいじども)、少々(せうせう)身を隠(かく)し貌(かたち)を替(かへ)て、此(ここ)の山(やま)の奥(おく)、彼(かしこ)の浦の辺にありといへ共(ども)、今は平家の立直(たちなほ)る事難有とや思(おもひ)けん、其(その)昔を忍(しの)びし人も皆怨敵(をんてき)の心を改(あらため)て、足利相公(あしかがのしやうこう)に属(しよく)し奉らずと云(いふ)者無(なか)りけり。さてこそ、尊氏(たかうぢ)卿(きやう)の威勢(ゐせい)自然(じねん)に重く成(なつ)て、武運(ぶうん)忽(たちまち)に開けゝれば、天下又武家の世とは成(なり)にけり。


太平記(国民文庫)

太平記巻第十四

○新田(につた)足利(あしかが)確執(かくしつ)奏状(そうじやうの)事(こと) S1401
去(さる)程(ほど)に足利宰相尊氏(たかうぢ)卿(きやう)は、相摸次郎時行を退治して、東国軈(やが)て静謐(せいひつ)しぬれば、勅約の上は何(なん)の子細(しさい)か可有とて、未だ宣旨(せんじ)をも不被下、押(おし)て足利征夷将軍とぞ申(まうし)ける。東(とう)八箇国(はちかこく)の官領(くわんれい)の事は、勅許有(あり)し事なればとて、今度箱根(はこね)・相摸河にて合戦の時、有忠輩(ともがら)に被行恩賞。先立(さいだつて)新田の一族共(いちぞくども)拝領したる東国の所領共を、悉く闕所(けつしよ)に成して、給人(きふにん)をぞ被付ける。義貞朝臣(あそん)是(これ)を聞(きき)て安からぬ事に被思ければ、其替(そのかは)りに我(わが)分国、越後・上野(かうづけ)・駿河(するが)・播磨(はりま)などに足利(あしかが)の一族共(いちぞくども)の知行(ちぎやう)の庄園を押(おさ)へて、家人共(けにんども)にぞ被行ける。依之(これによつて)新田・足利中悪(なかあしく)成(なつ)て、国々の確執無休時。其根元(そのこんげん)を尋ぬれば、去(さん)ぬる元弘の初(はじめ)義貞鎌倉(かまくら)を責亡(せめほろぼ)して、功(こう)諸人に勝(すぐ)れたりしかば、東国の武士共(ぶしども)は皆我下(わがした)より可立と被思ける処に、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の二男千寿王(せんじゆわう)殿(どの)三歳に成(なり)給しが、軍(いくさ)散(さん)じて六月三日下野(しもつけの)国(くに)より立帰(たちかへつ)て、大蔵(おほくら)の谷(やつ)に御坐(おはしま)しける。又尊氏(たかうぢの)卿(きやう)都にて抽賞(ちうしやう)異他なりと聞(きこ)へて、是(これ)を輒(たやす)く上聞(しやうぶん)にも達し、恩賞にも預(あづか)らんと思(おもひ)ければ、東(とう)八箇国(はちかこく)の兵共(つはものども)、心替りして、太半(たいはん)は千寿王殿(せんじゆわうどの)の手にぞ付(つき)たりける。加之(しかのみならず)義貞若宮(わかみや)の拝殿に坐(おは)して、頚共(くびども)実検し、御池(みいけ)にて太刀・長刀を洗ひ、結句(けつく)神殿を打破(うちやぶつ)て、重宝(ちようはう)共(ども)を被見(ひけん)し給(たまふ)に、錦の袋に入(いり)たる二引両(ふたつひきりやう)の旗あり。「是(これ)は曩祖(なうそ)八幡殿(はちまんどの)、後三年(ごさんねん)の軍(いくさ)の時、願書(ぐわんじよ)を添(そへ)て被篭し御旌(はた)也(なり)。奇特(きどく)の重宝(ちようはう)と云(いひ)ながら、中黒(なかぐろ)の旌(はた)にあらざれば、当家(たうけ)の用に無詮。」と宣(のたまひ)けるを、足利殿(あしかがどの)方(がた)の人是(これ)を聞(きき)て彼旌(かのはた)を奉乞。義貞此旌(このはた)不出しかば、両家(りやうけの)確執合戦に及(およ)ばんとしけるを、上聞(しやうぶん)を恐憚(おそれはばかつ)て黙止(もだし)けり。加様(かやう)の事共(ことども)重畳有(ちようでふあり)しかば、果して今、新田・足利一家の好(よし)みを忘れ怨讎(をんしう)の思(おもひ)をなし、互に亡(ほろぼ)さんと牙(きば)を砥(とぐ)の志顕(あらは)れて、早(はや)天下の乱(らん)と成(なり)にけるこそ浅猿(あさまし)けれ。依之(これによつて)讒口(ざんこう)傍(かたは)らに有(あつ)て、乱真事多かりける中に、今度尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、相摸次郎時行(ときゆき)が討手を承(うけたまはつ)て平関東(くわんとう)後(のち)、今隠謀(いんぼう)の企(くはだて)ある由叡聞に達しければ、主上(しゆしやう)逆鱗(げきりん)有(あり)て、「縦(たとひ)其(その)忠功莫太(ばくだい)なりとも、不義を重(かさね)ば可為逆臣条(でう)勿論(もちろん)也(なり)。則(すなはち)追伐(つゐばつ)の宣旨(せんじ)を可被下。」と御憤有(いきどほりあり)けるを、諸卿僉議(せんぎ)有(あつ)て、「尊氏が不義雖達叡聞未知其実罪の疑(うたがは)しきを以て、功の誠(まこと)あるを被棄事は非仁政。」親房(ちかふさ)・公明(きんあきら)、頻(しきり)に諌言(かんげん)を被上しかば、さらば法勝寺(ほつしようじ)の慧鎮(ゑちん)上人を鎌倉(かまくら)へ奉下、事の様(やう)を可尋窮定まりにけり。慧鎮(ゑちん)上人奉勅関東(くわんとう)へ下らんと欲給(ほつしたまひ)ける其(その)日(ひ)、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)細河阿波(あはの)守(かみ)和氏(かずうぢ)を使にて、一紙(いつし)の奏状(そうじやう)を被捧たり。其(その)状(じやうに)曰(いはく)、参議従三位(じゆさんみ)兼武蔵守源朝臣尊氏誠恐誠惶謹言。請早誅罰義貞朝臣一類(いちるゐ)致天下泰平状右謹考往代列聖徳四海(しかい)、無不賞顕其忠罰当其罪。若其道違則讒雖建草創遂不得守文。肆君子所慎、庸愚所軽也(なり)。去元弘之初、東藩武臣恣振逆頻無朝憲。禍乱起于茲国家不獲安。爰尊氏以不肖之身麾同志之師。自是定死於一途士、運倒戈之志、卜勝於両端輩、有与議之誠。聿振臂致一戦(いつせん)之(の)日、得勝於瞬目之中、攘敵於京畿之外。此時義貞朝臣有忿鶏肋之貪心戮鳥使之急課。其罪大而無拠逋身。不獲止軍起不慮。尊氏已於洛陽聞退逆徒之者、履虎尾就魚麗。義貞始以誅朝敵為名。而其実在窮鼠却噛猫闘雀不辞人。斯日義貞三戦不得勝、屈而欲守城深壁之処、尊氏長男義詮為三歳幼稚大将、起下野国。其威動遠、義卒不招馳加。義貞嚢沙背水之謀一成而大得破敵。是則戦雖在他功隠在我。而義貞掠上聞貪抽賞、忘下愚望大官、世残賊国蠹害也(なり)。不可不誡之。今尊氏再為鎮先亡之余殃、久苦東征之間。佞臣在朝讒口乱真。是偏生於義貞阿党裏。豈非趙高謀内章邯降楚之謂乎。大逆之基可莫甚於是焉。兆前撥乱武将所全備也(なり)。乾臨早被下勅許、誅伐彼逆類、将致海内之安静、不堪懇歎之至。尊氏誠惶誠恐謹言。建武(けんむ)二年十月日とぞ被書たりける。此(この)奏状(そうじやう)未だ内覧にも不被下ければ、遍(あまね)く知(しる)人も無(なき)処に、義貞朝臣是(これ)を伝聞(つたへきき)て、同(おなじく)奏状をぞ上(たてまつり)ける。其詞(そのことばに)曰(いはく)、従四位上行左兵衛督兼播磨守源朝臣義貞誠惶誠恐謹言。請早誅伐逆臣尊氏直義等徇天下状右謹案当今聖主経緯天地、徳光古今、化蓋三五。所以神武揺鋒端聖文定宇宙也(なり)。爰有源家末流之昆弟尊氏直義、不恥散木之陋質、並蹈青雲之高官。聴其所功、堪拍掌一咲。太平初山川震動、略地拉敵。南有正成、西有円心。加之四夷蜂起、六軍虎窺。此時尊氏随東夷命尽族上洛(しやうらく)。潛看官軍(くわんぐん)乗勝、有意免死。然猶不決心於一偏、相窺運於両端之処、名越尾張(をはりの)守高家、於戦場墜命之後、始与義卒軍丹州。天誅革命之日、忽乗鷸蚌之弊快為狼狽之行。若夫非義旗約京高家致死者、尊氏独把斧鉞当強敵乎。退而憶之、渠儂忠非彼、須羞愧亡卒之遺骸。今以功微爵多、頻猜義貞忠義。剰暢讒口之舌、巧吐浸潤之譖。其愬無不一入邪路。義貞賜朝敵御追罰(ついばつ)倫旨初起于上野者五月八日也(なり)。尊氏付官軍(くわんぐん)殿攻六波羅(ろくはら)同月七日也(なり)。都鄙相去八百(はつぴやく)余里(より)、豈一日中得伝言哉(かな)。而義貞京洛听敵軍破挙旌之(の)由(よし)載于上奏、謀言乱真、豈禁乎。其罪一。尊氏長男義詮才率百(ひやく)余騎(よき)勢(せい)還入鎌倉(かまくら)者、六月三日也(なり)。義貞随百万騎士、立亡凶党者、五月二十二日也(なり)。而義詮為三歳幼稚之大将致合戦之(の)由(よし)、掠上聞之条、雲泥万里之差違、何足言。其罪二。仲時(なかとき)・時益等敗北之後、尊氏未被勅許、自専京都之法禁誅親王(しんわう)之(の)卒伍、非司行法之咎、太以不残。其罪三。兵革後蛮夷未心服、本枝猶不堅根之間、奉下竹苑於東国、已令苦柳営于塞外之処、尊氏誇超涯皇沢、欲与立。僭上無礼之過無拠遁。其罪四。前亡余党纔存揚蟷螂忿之日、尊氏申賜東(とう)八箇国(はちかこく)管領不叙用以往勅裁、養寇堅恩沢、害民事利欲。違勅悖政之逆行、無甚於是。其罪五。天運循環雖無不往而還、成敗帰一統(いつとう)、大化伝万葉、偏出于兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)智謀。而尊氏構種々讒、遂奉陥流刑訖。讒臣乱国、暴逆誰不悪之。其罪六。親王(しんわう)贖刑事、為l押侈帰正而已。古武丁放桐宮、豈非此謂乎。而尊氏■(かだましく)仮宿意於公議外、奉苦尊体於囹圄中、人面獣心之積悪、是可忍也(なり)。孰不可忍乎。其罪七。直義朝臣劫相摸次郎時行軍旅、不戦而退鎌倉(かまくら)之(の)時、窃遣使者奉誅兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)、其意偏在将傾国家之端。此事隠雖未達叡聞、世之所知遍界何蔵。大逆無道之甚千古未聞此類。其罪八。斯八逆(はちぎやく)者、乾坤且所不容其身也(なり)。若刑措不用者、四維方絶八柱再傾可無益噬臍。抑義貞一挙(いつきよ)大軍百戦破堅、万卒死而不顧、退逆徒於干戈下、得静謐於尺寸中。与尊氏附驥尾超険雲、控弾丸殺篭鳥、大功所建、孰与綸言所最矣。尊氏漸為奪天威、憂義士在朝請誅義貞。与義貞傾忠心尽正義、為朝家軽命、先勾萌奏罰尊氏。国家用捨、孰与理世安民之政矣。望請乾臨明照中正、加断割於昆吾利、可令討罰尊氏・直義以下逆党等之(の)由(よし)、下賜宣旨、忽払浮雲擁弊将輝白日之余光。義貞誠惶誠恐謹言。建武二年十月日とぞ被書たりける。則(すなはち)諸卿参列して、此(この)事(こと)如何(いかが)可有と僉議(せんぎ)有(あり)けれ共(ども)、大臣は重禄閉口、小臣は憚聞不出言処に、坊門(ばうもんの)宰相清忠(きよただ)進出(すすみいで)て、被申けるは、「今両方の表奏(へうそう)を披(ひらい)て倩(つらつら)案一致之道理、義貞が差申(さしまうす)処之尊氏が八逆(はちぎやく)、一々に其(その)罪不軽。就中(なかんづく)兵部(ひやうぶ)卿(きやう)親王(しんわう)を奉禁殺由初(はじめ)て達上聞。此(この)一事(いちじ)申(まうす)処実(まこと)ならば尊氏・直義等(ただよしら)罪責(ざいせき)難遁。但(ただし)以片言獄訟事、卒爾(そつじ)に出(いで)て制すとも不可止。暫(しばらく)待東説実否尊氏が罪科を可被定歟(か)。」と被申ければ、諸卿皆此(この)儀に被同、其(その)日(ひ)の議定(ぎてい)は終(はて)にけり。懸(かか)る処に大塔宮(おほたふのみや)の御介妁(ごかいしやく)に付進(つきまゐら)せ給(たまひ)し南の御方(おかた)と申(まうす)女房、鎌倉(かまくら)より帰り上(のぼり)て、事の様(やう)有(あり)の侭(まま)に奏し申させ給(たまひ)ければ、「さては尊氏・直義が反逆(ほんぎやく)無子細けり。」とて、叡慮(えいりよ)更に不穏。是(これ)をこそ不思議(ふしぎ)の事と思食(おぼしめ)す処に、又四国・西国より、足利殿(あしかがどの)の成(なさ)るゝ軍勢(ぐんぜい)催促の御教書(みげうしよ)とて数十通(すじつつう)進覧(しんらん)す。就之諸卿重(かさね)て僉議(せんぎ)有(あつ)て、「此(この)上は非疑処。急に討手を可被下。」とて、一宮(いちのみや)中務(なかつかさ)卿(きやう)親王(しんわう)を東国の御管領(ごくわんれい)に成し奉り、新田(につた)左兵衛(ひやうゑの)督(かみ)義貞を大将軍に定(さだめ)て国々の大名共(だいみやうども)をぞ被添ける。元弘の兵乱の後、天下一統(いつとう)に帰(き)して万民(ばんみん)無事に誇(ほこる)といへども、其弊(そのつひえ)猶残(のこつ)て四海(しかい)未だ安堵(あんど)の思(おもひ)を不成処に、此(この)事(こと)出来(いでき)て諸国の軍勢共(ぐんぜいども)催促に随へば、こは如何(いか)なる世中(よのなか)ぞやとて、安き意(こころ)も無(なか)りけり。
○節度使(せつどし)下向(げかうの)事(こと) S1402
懸(かかり)ける程(ほど)に、十一月八日新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞朝臣、朝敵追罰(つゐばつ)の宣旨(せんじ)を下(くだ)し給(たまはつ)て、兵(つはもの)を召具(めしぐ)し参内(さんだい)せらる。馬・物具(もののぐ)誠(まこと)に爽(さわやか)に勢(いきほ)ひ有(あつ)て被出立たり。内弁・外弁(けべん)・八座(はちざ)・八省、階下に陣を張り、中議(ちゆうぎ)の節会(せちゑ)被行て、節度(せつど)を被下。治承(ぢしよう)四年に、権亮(ごんのすけ)三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)惟盛(これもり)を、頼朝進罰(しんばつ)の為に被下時、鈴許(すずばかり)給(たまは)りたりしは不吉(ふきつ)の例なればとて、今度は天慶(てんぎやう)・承平(しようへい)の例をぞ被追ける。義貞節度(せつど)を給(たまはつ)て、二条河原(にでうがはら)へ打出(うちいで)て、先(まづ)尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の宿所二条(にでう)高倉(たかくら)へ舟田(ふなた)入道を指向(さしむけ)て、時(とき)の声を三度(さんど)挙(あげ)させ、流鏑(かぶら)三矢(みすぢ)射させて、中門(ちゆうもん)の柱を切(きり)落す。是(これ)は嘉承(かしよう)三年讚岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)が、義親(よしちか)進討(しんたう)の為に出羽(ではの)国(くに)へ下(くだり)し時の例也(なり)とぞ聞へし。其後(そののち)一宮(いちのみや)中務卿親王(しんわう)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて三条河原(さんでうがはら)へ打出(うちいで)させ給(たまひ)たるに、内裏(だいり)より被下たる錦の御旌(おんはた)を指上(さしあげ)たるに、俄に風烈(はげし)く吹(ふい)て、金銀にて打(うつ)て著(つけ)たる月日の御紋(ごもん)きれて、地に落(おち)たりけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。是(これ)を見る者、あな浅猿(あさまし)や、今度御合戦はか/゛\しからじと、忌(いみ)思はぬ者は無(なか)りけり。去(さる)程(ほど)に同日の午刻(うまのこく)に、大将新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞都(みやこ)を立(たち)給ふ。元弘の初(はじめ)に、此(この)人さしもの大敵を亡(ほろぼ)して忠功人に超(こえ)たりしかども、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)君に咫尺(しせき)し給(たまふ)に依(よつ)て抽賞さまでも無(なか)りしが、陰徳(いんとく)遂(つひ)に露(あらはれ)て、今天下の武将に備(そなは)り給(たまひ)ければ、当家も他家も推並(おしなべ)て偏執(へんしゆ)の心を失ひつゝ、付(つき)不随云(いふ)者無(なか)りけり。先(まづ)当家の一族(いちぞく)には、舎弟脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助(よしすけ)・式部(しきぶの)大夫(たいふ)義治(よしはる)・堀口美濃(みのの)守(かみ)貞満・錦折(にしきをり)刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)・里見伊賀(いがの)守(かみ)・同(おなじき)大膳(だいぜんの)亮(すけ)・桃井(もものゐ)遠江守(とほたふみのかみ)・鳥山(とりやま)修理(しゆりの)亮(すけ)・細屋(ほそや)右馬助(うまのすけ)・大井田(おゐだ)式部(しきぶの)大輔(たいふ)・大嶋讚岐守(さぬきのかみ)・岩松民部(みんぶの)大輔(たいふ)・篭沢(こもりざわ)入道・額田掃部(ぬかだかもんの)助(すけ)・金谷(かなや)治部(ぢぶの)少輔(せう)・世良田兵庫(せらたひやうごの)助(すけ)・羽川(はねかは)備中(びつちゆうの)守(かみ)・一井(いちのゐ)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)・堤宮内(つつみくない)卿(きやうの)律師(りつし)・田井蔵人(たゐくらうどの)大夫(たいふ)、是等(これら)を宗(むね)との一族(いちぞく)として末々の源氏三十(さんじふ)余人(よにん)其(その)勢(せい)都合(つがふ)七千(しちせん)余騎(よき)、大将之前後に打囲(うちかこう)たり。他家の大名には、千葉(ちばの)介貞胤(さだたね)・宇都宮(うつのみや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)公綱(きんつな)・菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武重(たけしげ)・大友(おほとも)左近(さこんの)将監(しやうげん)・厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)・大内新介(おほちしんすけ)・佐々木(ささきの)塩冶(えんや)判官(はうぐわん)高貞・同加治(かぢ)源太左衛門・熱田摂津(あつたのつの)大宮司(だいぐうじ)・愛曾(あそ)伊勢(いせの)三郎・遠山加藤(かとう)五郎・武田(たけだの)甲斐(かひの)守(かみ)・小笠原(をがさはら)信濃(しなのの)守(かみ)・高山遠江守(とほたふみのかみ)・河越(かはごえ)三河守・皃玉庄左衛門・杉原下総(しもふさの)守(かみ)・高田薩摩(さつまの)守(かみ)義遠・藤田三郎左衛門・難波(なんば)備前(びぜんの)守(かみ)・田中三郎衛門・舟田(ふなた)入道・同長門(ながとの)守(かみ)・由良(ゆら)三郎左衛門・同美作(みまさかの)守(かみ)・長浜六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・山上(やまがみ)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・波多野(はだの)三郎・高梨・小国(をくに)・河内(かはち)・池・風間(かざま)、山徒(さんと)には道場坊、是等(これら)を宗(むね)との兵(つはもの)として諸国の大名三百二十(さんびやくにじふ)余人(よにん)、其(その)勢(せい)都合(つがふ)六万(ろくまん)七千(しちせん)余騎(よき)、前陣已(すで)に尾張(をはり)の熱田(あつた)に著(つき)ければ後陣(ごぢん)は未だ相坂(あふさか)の関、四宮河原(しのみやがはら)に支(ささへ)たり。東山道(とうせんだう)の勢(せい)は搦手(からめて)なれば、大将に三日引下(ひきさがつ)て都を立(たち)けり。其(その)大将には、先(まづ)大智院宮(だいちゐんのみや)・弾正尹宮(だんじやうのゐんのみや)・洞院(とうゐんの)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・持明院(ぢみやうゐん)兵衛(ひやうゑの)督(かみ)入道々応(だうおう)・園(そのの)中将(ちゆうじやう)基隆(もとたか)・二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為冬(ためふゆ)、侍(さぶらひ)大将には、江田(えだ)修理亮(しゆりのすけ)行義(ゆきよし)・大館(おほたち)左京(さきやうの)大夫(たいふ)氏義・嶋津上総(かづさの)入道・同筑後(ちくごの)前司(ぜんじ)・饗庭(あいば)・石谷(いしがえ)・猿子(ましこ)・落合・仁科(にしな)・伊木(いぎ)・津志(つし)・中村・々上・纐纈(かうけつ)・高梨・志賀・真壁(まかべの)十郎・美濃(みのの)権(ごんの)介助重(すけしげ)、是等(これら)を宗(むね)との侍として其(その)勢(せい)都合(つがふ)五千(ごせん)余騎(よき)、黒田の宿(しゆく)より東山道(とうせんだう)を経(へ)て信濃(しなのの)国(くに)へ入(いり)ければ、当国の国司(こくし)堀河中納言二千(にせん)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る。其(その)勢(せい)を合せて一万(いちまん)余騎(よき)、大井(おほゐ)の城を責落(せめおと)して同時に鎌倉(かまくら)へ寄(よせ)んと、大手(おほて)の相図(あひづ)をぞ待(まち)たりける。討手(うつて)の大勢(おほぜい)已(すで)に京を立(たち)ぬと鎌倉(かまくら)へ告(つげ)ける人多ければ、左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)・仁木(につき)・細河・高(かう)・上杉の人々、将軍の御前(おんまへ)へ参じて、「已(すで)に御一家傾(かたぶけ)申されん為に、義貞を大将にて、東海・東山(とうせん)の両道より攻下(せめくだり)候なる。敵に難所(なんしよ)を被超なば、防戦(ふせぎたたかふ)共(とも)甲斐有(ある)まじ。急(いそぎ)矢矯(やはぎ)・薩■山(さつたやま)の辺(へん)に馳向(はせむかつ)て、御支(ささへ)候へかし。」と被申ければ、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)黙然(もくねん)として暫(しばし)は物も不宣。良(やや)有(あつ)て、「我(われ)譜代弓箭(ふたいきゆうせん)の家に生れ、僅(わづか)に源氏の名を残すといへ共(ども)、承久(しようきう)以来(よりこのかた)相摸守(さがみのかみ)が顧命(こめい)に随(したがつ)て汚家羞名恨(うらみ)を積(つん)だりしを、今度継絶職達征夷将軍望、興廃位極従上三品。是(これ)臣が依微功いへども、豈(あに)非君厚恩哉(かな)。戴恩忘恩事は為人者所不為也(なり)。抑(そもそも)今君の有逆鱗処は、兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)を奉失たると、諸国へ軍勢(ぐんぜい)催促の御教書(みげうしよ)を下(くだ)したると云(いふ)両条の御咎(とが)め也(なり)。是(これ)一(ひとつ)も尊氏が所為(しわざ)に非(あら)ず。此(この)条々謹(つつしん)で事の子細を陳(ちんじ)申さば、虚名(きよめい)遂(つひ)に消(きえ)て逆鱗(げきりん)などか静かならざらん。旁(かたがた)は兎(と)も角(かく)も身の進退(しんたい)を計ひ給へ。於尊氏向君奉(たてまつり)て引弓放矢事不可有。さても猶(なほ)罪科無所遁、剃髪染衣(ていほつぜんえ)の貌(かたち)にも成(なつ)て、君の御為に不忠を不存処を、子孫の為に可残。」と気色(きしよく)を損じて宣(のたまひ)もはてず、後(うしろ)の障子(しやうじ)を引立(ひきたて)て、内へぞ入給(いりたまひ)ける。懸(かか)りしかば、甲冑(かつちう)を帯(たい)して参集(まゐりあつまり)たる人々、皆興を醒(さま)して退出(たいしゆつ)し、思(おもひ)の外(ほか)なる事哉(かな)と私語(ささや)かぬ者ぞ無(なか)りける。角(かく)て一両日(いちりやうにち)を過(すぎ)ける処に、討手の大将一宮(いちのみや)を始め進(まゐら)せて、新田(につた)の人々三河・遠江まで進(まゐり)ぬと騒ぎければ、上杉兵庫入道々勤(だうきん)・細河阿波(あはの)守(かみ)和氏(かずうぢ)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道々誉(だうよ)、左馬(さまの)頭(かみ)殿(との)の御方(おんかた)へ参(まゐつ)て、「此(この)事(こと)如何(いかが)可有。」と評定(ひやうぢやう)しけるに、「将軍の仰(おほせ)もさる事なれども、如今公家(くげ)一統(いつとう)の御代(みよ)とならんには、天下の武士は、指(さし)たる事もなき京家(きやうけ)の人々に付順(つきしたがひ)て、唯(ただ)奴婢僕従(ぬびぼくじゆう)の如(ごとく)なるべし。是(これ)諸国の地頭(ぢとう)・御家人(ごけにん)の心に憤(いきどほ)り、望(のぞみ)を失(うしなふ)といへども、今までは武家(ぶけの)棟梁(とうりやう)と成(なり)ぬべき人なきに依(よつ)て、心ならず公家に相順(あひしたがふ)者也(なり)。されば此(この)時御一家の中に思召(おぼしめ)し立(たつ)御事(おんこと)ありと聞(きき)たらんに、誰か馳参(はせまゐら)で候べき。是(これ)こそ当家(たうけ)の御運の可開初(はじめ)にて候へ。将軍も一往(いちわう)の理(り)の推(おす)処を以(もつて)加様(かやう)に仰(おほせ)候とも、実(まこと)に御身(おんみ)の上に禍(わざはひ)来らばよもさては御座(おはしまし)候はじ。兎(と)やせまし角(かく)や可有と長僉議(ながせんぎ)して、敵に難所(なんじよ)を越(こ)されなば後悔すとも益(えき)あるまじ。将軍をば鎌倉(かまくら)に残し留(と)め奉(たてまつ)て左馬(さまの)頭(かみ)殿(との)御向(むかひ)候へ。我等(われら)面々に御供仕(つかまつつ)て、伊豆(いづ)・駿河辺(するがへん)に相支(あひささ)へ、合戦仕(つかまつつ)て運の程を見候はん。」と被申ければ、左馬(さまの)頭直義朝臣不斜(なのめならず)喜(よろこん)で、軈(やが)て鎌倉(かまくら)を打立(うつたつ)て、夜を日に継(つい)で被急けり。相(あひ)随ふ人々には、吉良(きら)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)・同三河(みかはの)守(かみ)・子息三河(みかはの)三郎・石堂(いしたう)入道・其(その)子中務(なかつかさの)大輔(たいふ)・同右馬(うまの)頭(かみ)・桃井修理亮(もものゐしゆりのすけ)、上杉伊豆(いづの)守(かみ)・同民部(みんぶの)大輔(たいふ)・細河陸奥(むつの)守(かみ)顕氏(あきうぢ)・同形部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春(よりはる)・同式部(しきぶの)大夫(たいふ)繁氏(しげうぢ)・畠山(はたけやま)左京(さきやうの)大夫(たいふ)国清・同宮内少輔(くないのせう)・足利尾張(をはりの)右馬(うまの)頭高経(たかつね)・舎弟式部(しきぶの)大夫(たいふ)時家・仁木(につき)太郎頼章(よりあきら)・舎弟二郎義長(よしなが)・今河修理(しゆりの)亮・岩松禅師(ぜんじ)頼有(らいう)・高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)・越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)・同豊前(ぶぜんの)守(かみ)・南部(なんぶ)遠江守(とほたふみのかみ)・同備前(びぜんの)守(かみ)・同駿河(するがの)守(かみ)・大高(だいかう)伊予(いよの)守(かみ)、外様(とざま)の大名には、小山(をやまの)判官(はうぐわん)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道々誉(だうよ)・舎弟五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じやう)・三浦因幡(いなばの)守(かみ)・土岐弾正少弼(ときだんじやうのせうひつ)頼遠・舎弟道謙(だうけん)・宇都宮(うつのみや)遠江守(とほたふみのかみ)・佐竹左馬(さまの)頭(かみ)義敦(よしあつ)・舎弟常陸(ひたちの)守(かみ)義春・小田中務(をたなかつかさの)大輔(たいふ)・武田(たけだの)甲斐(かひの)守(かみ)・河超(かはこえ)三河(みかはの)守(かみ)・狩野(かのの)新介(しんすけ)・高坂(かうさか)七郎・松田・河村・土肥(とひ)・土屋(つちや)、坂東(ばんとう)の八平氏、武蔵(むさしの)七党(しちたう)を始(はじめ)として、其(その)勢(せい)二十万七千(にじふまんしちせん)余騎(よき)、十一月二十日鎌倉(かまくら)を打立(うつたつ)て、同(おなじき)二十四日三河(みかはの)国(くに)矢矯(やはぎ)の東宿(ひがししゆく)に著(つき)にけり。
○矢矧(やはぎ)、鷺坂(さぎさか)、手超河原(てごしかはら)闘(たたかひの)事(こと) S1403
去(さる)程(ほど)に十一月二十五日の卯刻(うのこく)に、新田(につた)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞・脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助、六万(ろくまん)余騎(よき)にて矢矧河(やはぎがは)に推寄(おしよせ)、敵の陣を見渡せば、其(その)勢(せい)二三十万騎(にさんじふまんぎ)もあるらんと覚敷(おぼしく)て、自河東(ひがし)、橋の上下(かみしも)三十(さんじふ)余町(よちやう)に打囲(うちかこん)で、雲霞(うんか)の如(ごとく)に充満(みちみち)たり。左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞、長浜六郎左衛門(ろくらうざゑもんの)尉(じやう)を呼(よび)て、「此(この)河何(いづ)くか渡(わたり)つべき処ある、委(くはし)く見て参れ。」と宣(のたまひ)ければ、長浜六郎左衛門(ろくらうざゑもん)只一騎河の上下(かみしも)を打廻(うちまは)り、軈(やが)て馳帰(はせかへつ)て申(まうし)けるは、「此(この)河の様(やう)を見候に、渡(わたり)つべき所は三箇所(さんかしよ)候へ共(ども)、向(むかひ)の岸高(たかく)して屏風(びやうぶ)を立(たて)たるが如くなるに、敵鏃(やじり)を汰(そろへ)て支(ささへ)て候。されば此方(こなた)より渡(わたつ)ては、中々(なかなか)敵に利(り)を被得存(ぞんじ)候。只且(しばらく)河原面(かはらおもて)に御磬(ひかへ)候(さふらひ)て敵を被欺ば、定(さだめ)て河を渡(わたつ)てぞ懸(かか)り候はんずらん。其(その)時相懸(あひかか)りに懸(かかつ)て、河中へ敵を追(おう)て手痛(ていた)くあつる程ならば、などか勝(かつ)事(こと)を一戦(いつせん)に得では候べき。」と申(まうし)ければ、諸卒(しよそつ)皆此(この)義に同(どう)じて、態(わざと)敵に河を渡させんと河原面(かはらおもて)に馬の懸場(かけば)を残し、西の宿(しゆく)の端(はし)に南北二十(にじふ)余町(よちやう)に磬(ひかへ)て、射手(いて)を河中の州崎(すさき)へ出し、遠矢(とほや)を射させてぞ帯(おび)きける。案(あん)に不違吉良(きら)左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)・土岐(とき)弾正少弼(せうひつ)頼遠・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道、彼此(かれこれ)其(その)勢(せい)六千(ろくせん)余騎(よき)、上(かみ)の瀬を打渡(うちわたつ)て、義貞の左将軍、堀口・桃井・山名、里見の人々に打(うつ)て懸(かか)る。官軍(くわんぐん)五千(ごせん)余騎(よき)相懸(あひかか)りに懸(かかつ)て、互(たがひ)に命を不惜火を散(ちらし)て責戦(せめたたか)ふ。吉良(きら)左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)の兵(つはもの)三百(さんびやく)余騎(よき)被討て、本陣(ほんぢん)へ引退(ひきしりぞ)けば、官軍(くわんぐん)も二百(にひやく)余騎(よき)ぞ被討ける。二番には高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)・越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)、二万(にまん)余騎(よき)にて橋より下(しも)の瀬を渡して、義貞の右将軍、大嶋・額田(ぬかだ)・篭沢(こざは)・岩松が勢に打懸(うちかか)る。官軍(くわんぐん)七千(しちせん)余騎(よき)、喚(をめ)いて真中(まんなか)に懸入(かけいつ)て、東西南北へ懸散(かけちら)し、半時許(はんじばかり)ぞ揉合(もみあ)ひける。高家(かうけ)の兵(つはもの)又五百(ごひやく)余騎(よき)被討て、又本陣へ引退(ひきしりぞ)く。三番に仁木(につき)・細川・今河・石塔(いしたふ)一万(いちまん)余騎(よき)下(しも)の瀬を渡(わたつ)て、官軍(くわんぐん)の総大将(そうだいしやう)新田義貞に打(うつ)て懸(かか)りたり。義貞は兼(かね)てより馬廻(むままはり)に勝(すぐ)れたる兵(つはもの)を七千(しちせん)余騎(よき)囲(かこ)ませて、栗生(くりふ)・篠塚(しのづか)・名張(なばりの)八郎とて、天下に名を得たる大力(だいぢから)を真先(まつさき)に進ませ、八尺(はつしやく)余(あまり)の金棒(かなぼう)に、畳楯(でふだて)の広(ひろく)厚きを突双(つきなら)べ、「縦(たと)ひ敵懸(かか)るとも謾(みだり)に不可懸、敵引(ひく)とも、四度路(しどろ)に不可追。懸(かけ)寄せては切(きつ)て落せ。中(なか)を破(わら)んとせば、馬を透間(すきま)もなく打(うち)寄せて轡(くつばみ)を双(なら)べよ。一足(ひとあし)も敵には進むとも退(しりぞ)く心不可有。」と、諸軍を諌(いさめ)て被下知ける。敵一万(いちまん)余騎(よき)、陰(いん)に閉(とぢ)て囲(かこ)まんとすれども不囲、陽(やう)に開(ひらい)て懸乱(かけみだ)さんとすれども敢(あへ)て不乱、懸入(かけいつ)ては討(うた)れ、破(わつ)て通(とほれ)ば切(きつ)て被落さ、少しも不漂戦(たたかひ)ける間、人馬共(とも)に気疲(つか)れて、左右に分(わかれ)て磬(ひかへ)たる処に、総大将(そうだいしやう)義貞・副将軍(ふくしやうぐん)義助七千(しちせん)余騎(よき)にて、香象(かうざう)の浪を蹈(ふん)で大海を渡らん勢(いきほ)ひの如く、閑(しづか)に馬を歩(あゆ)ませ、鋒(きつさき)を双(ならべ)て進みける間、敵一万(いちまん)余騎(よき)、其(その)勢(いきほ)ひに辟易(へきえき)して河より向(むかひ)へ引退(ひきしりぞ)き、其(その)勢(せい)若干(そくばく)被討にけり。日已(すで)に暮(くれ)ければ、合戦は明日(あす)にてぞ有(あら)んずらんと、鎌倉勢(かまくらぜい)皆(みな)河より東に陣を取(とつ)て居(ゐ)けるが、如何(いかが)思(おもひ)けん、爰(ここ)にては不叶とて其(その)夜矢矯(やはぎ)を引退(ひきしりぞき)、鷺坂(さぎさか)に陣をぞ取(とり)たりける。懸(かかる)処に宇都宮(うつのみや)・仁科(にしな)・愛曾(あそ)伊勢(いせの)守(かみ)・熱田摂津大宮司(あつたのつのだいぐうじ)、後(おく)れ馳(はせ)にて三千(さんぜん)余騎(よき)、義貞の陣に著(つい)たりけるが、矢矧(やはぎ)の合戦に不合事を無念(むねん)に思(おもひ)て、打寄(うちよる)と等(ひと)しく鷺坂へ推(おし)寄せて、矢一(ひとつ)をも不射、抜連(ぬきつれ)て責(せめ)たりける。引立(ひきたち)たる鎌倉勢(かまくらぜい)、鷺坂をも又被破(やぶられ)て、立足(たつあし)もなく引(ひき)けるが、左馬(さまの)頭(かみ)直義朝臣(ただよしあそん)兵(つはもの)二万(にまん)余騎(よき)荒手(あらて)にて馳著(はせつき)たり。敗軍(はいぐん)是(これ)に力を得て手超(てごし)に陣をぞ取(とつ)たりける。同(おなじき)十二月五日、新田義貞、矢矧(やはぎ)・鷺坂(さぎさか)にて降人(かうにん)に出(いで)たりける勢を合(あはせ)て八万(はちまん)余騎(よき)、手越(てごし)河原(かはら)に打莅(うちのぞん)で敵の勢を見給へば、荒手(あらて)加はりたりと覚(おぼ)へて見しより大勢(おほぜい)也(なり)。「縦(たとひ)何百万騎(なんびやくまんぎ)の勢(せい)加はりたりとも、気(き)疲(つか)れたる敗軍(はいぐん)の士卒(じそつ)半(なか)ば交(まじ)は(ッ)て、跡(あと)より引かば、敵立直(たてなほ)す事不可有、只懸(かけ)て見よ。」とて、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助・千葉介(ちばのすけ)・宇都宮(うつのみや)六千(ろくせん)余騎(よき)にて、手超(てごし)河原(かはら)に推寄(おしよせ)て、東西へ渡(わたし)つ渡されつ、午刻(むまのこく)の始(はじめ)より、酉(とり)の下(さがり)まで、十七度(じふしちど)までぞ戦(たたかひ)たる。夜(よ)に入(いり)けるば、両方人馬(じんば)を休(やす)めて、河を隔(へだて)て篝(かがりび)を焼(たき)、初(はじめ)は月雲に隠(かく)れて、夜(よ)已(すで)に深(ふけ)にければ、義貞の方(かた)より、究竟(くきやう)の射手(いて)を勝(すぐつ)て、薮(やぶ)の陰(かげ)より敵の陣近く忍び寄り、後陣(ごぢん)に磬(ひかへ)たる勢の中へ、雨の降如(ふるごと)く込矢(こみや)をぞ射たりける。数万(すまん)の敵是(これ)に周章騒(あわてさわい)で跡(あと)より引(ひき)ける間、荒手(あらて)の兵共(つはものども)、命を軽(かろん)ずる勇士共(ゆうしども)、「是(これ)は如何(いか)なる事ぞ、返せ/\。」と云(いひ)ながら、落行(おちゆく)勢(せい)に被引立て鎌倉(かまくら)までぞ落(おち)たりける。されば新田義貞度々(どど)の軍(いくさ)に打勝(うちかつ)て、伊豆(いづ)の府(こふ)に著(つき)給へば、落行(おちゆく)勢共(せいども)巻弦脱冑降人(かうにん)に出(いづ)る者数(かず)を不知(しらず)。宇都宮(うつのみや)遠江(とほたふみの)入道、元来(ぐわんらい)総領(そうりやう)宇都宮(うつのみや)京方(きやうがた)に有(あり)しかば、縁にふれて馳著(はせつき)たり。佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道、太刀打(うち)して痛手(いたで)数(あま)た所(ところ)に負(お)ふ。舎弟五郎左衛門(ごらうざゑもん)は手超(てごし)にて討(うた)れしかば、世の中さてとや思(おもひ)けん。降参して義貞の前陳に打(うち)けるが、後(のち)の筥根(はこね)の合戦の時又将軍へは参(まゐり)ける。官軍(くわんぐん)此(この)時若(もし)足をもためず、追懸(おつかけ)たらましかば、敵鎌倉(かまくら)にも怺(こら)ふまじかりけるを、今は何(なん)と無くとも、東国の者共(ものども)御方(みかた)へぞ参らんずらん、其(その)上(うへ)東山道(とうせんだう)より下(くだ)りし搦手(からめて)の勢をも可待とて、伊豆の府(こふ)に被逗留(とうりう)けるこそ、天運とは云(いひ)ながら、薄情(うたて)かりし事共(ことども)なり。猿(さる)程(ほど)に足利左馬(さまの)頭(かみ)直義朝臣(ただよしあそん)は、鎌倉(かまくら)に打帰(うちかへつ)て、合戦の様(やう)を申さん為に、将軍の御屋形(やかた)へ被参たれば、四門(しもん)空(むなし)く閉(とぢ)て人もなし。あらゝかに門を敲(たたい)て、「誰か有(ある)。」と問(とひ)給へば、須賀(すがの)左衛門出合(いであひ)て、「将軍は矢矧(やはぎ)の合戦の事を聞召候(きこしめしさふらひ)しより、建長寺へ御入(おんいり)候(さふらひ)て、已(すで)に御出家候はんと仰候(おほせさふらひ)しを、面々(めんめん)様々(さまざま)申留(まうしとど)めて置進(おきまゐら)せて候。御本結(もとゆひ)は切(きら)せ給(たまひ)て候へども、未だ御法体(ほつたい)には成(なら)せ給はず。」とぞ申(まうし)ける。左馬(さまの)頭(かみ)・高(かう)・上杉の人々是(これ)を聞(きき)て、「角(かく)ては弥(いよいよ)軍勢共(ぐんぜいども)憑(たの)みを失ふべし。如何(いかん)せん。」と仰天(ぎやうてん)せられけるを、上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)且(しばらく)思案(しあん)して、「将軍縦(たと)ひ御出家有(あつ)て法体(ほつたい)に成(なら)せ給(たまひ)候共(とも)、勅勘(ちよくかん)遁(のが)るまじき様(やう)をだに聞召(きこしめし)候はゞ、思召直(おぼしめしなほ)す事などか無(なく)て候べき。謀(はかりこと)に綸旨(りんし)を二三通(にさんつう)書(かき)て、将軍に見せ進(まゐら)せ候はゞや。」と被申ければ、左馬(さまの)頭(かみ)、「兎(と)も角(かく)も事のよからん様(やう)に計(はから)ひ沙汰(さた)候へ。」とぞ被任たりける。伊豆(いづの)守(かみ)、「さらば。」とて、宿紙(しゆくし)を俄に染出(そめいだ)し、能書(のうしよ)を尋(たづね)て、職事(しきじ)の手に少しも不違是(これ)を書(かく)。其詞(そのことば)に云(いはく)、足利宰相尊氏、左馬頭直義以下一類(いちるゐ)等、誇武威軽朝憲之間、所被征罰也(なり)。彼輩縦雖為隠遁身、不可寛刑伐。深尋彼在所、不日可令誅戮。於有戦功者可被抽賞、者綸旨如此。悉之以状。建武二年十一月二十三日(にじふさんにち)右中弁光守武田(たけだ)一族(いちぞく)中小笠原一族(いちぞく)中へと、同文章(おなじぶんしやう)に名字を替(かへ)て、十(じふ)余通(よつう)書(かき)てぞ出したりける。左馬(さまの)頭直義朝臣是(これ)を持(もち)て急(いそぎ)建長寺へ参り給(たまひ)て、将軍に対面(たいめん)有(あつ)て泪(なみだ)を押(おさ)へて宣(のたま)ひけるは、「当家(たうけ)勅勘の事(こと)、義貞朝臣が申勧(まうしすすむ)るに依(よつ)て、則(すなはち)新田を討手(うつて)に被下候間、此(この)一門(いちもん)に於ては、縦(たとひ)遁世(とんせい)降参の者なり共(とも)、求尋(もとめたづね)て可誅と議(ぎ)し候なる。叡慮(えいりよ)の趣(おもむき)も、又同(おなじ)く遁(のが)るゝ所候はざりける。先日矢矧(やはぎ)・手超(てごし)の合戦に討(うた)れて候(さふらひ)し敵の膚(はだ)の守(まも)りに入(いれ)て候(さふらひ)し綸旨共(りんしども)、是(これ)御覧(ごらん)候へ。加様(かやう)に候上(うへ)は、とても遁(のがれ)ぬ一家の勅勘(ちよくかん)にて候へば、御出家の儀を思召翻(おぼしめしかへ)されて、氏族(しぞく)の陸沈(りくちん)を御助(おんたすけ)候へかし。」と被申ければ、将軍此(この)綸旨を御覧じて、謀書(ぼうしよ)とは思(おもひ)も寄り給はず。「誠(まことに)さては一門(いちもん)の浮沈(ふちん)此(この)時にて候(さふらひ)ける。さらば無力。尊氏も旁(かたがた)と共に弓矢の義を専(もつぱら)にして、義貞と死を共にすべし。」とて、忽(たちまち)に脱道服給(たまひ)て、錦の直垂(ひたたれ)をぞ被召ける。されば其比(そのころ)鎌倉中(かまくらぢゆう)の軍勢共(ぐんぜいども)が、一束切(いつそくぎり)とて髻(もとどり)を短くしけるは、将軍の髪を紛(まぎら)かさんが為也(なり)けり。さてこそ事叶はじとて京方へ降参せんとしける大名共(だいみやうども)も、右往左往(うわうざわう)に落行(おちゆか)んとしける軍勢(ぐんぜい)も、俄(にはか)に気を直(なほ)して馳参(はせさんじ)ければ、一日も過(すぎ)ざるに、将軍の御勢(おんせい)は三十万騎(さんじふまんぎ)に成(なり)にけり。
○箱根竹下(はこねたけのした)合戦(かつせんの)事(こと) S1404
去(さる)程(ほど)に同(おなじき)十二月十一日両陣の手分(てわけ)有(あつ)て、左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)箱根路(はこねぢ)を支(ささ)へ、将軍は竹下(たけのした)へ向(むかふ)べしと被定にけり。此間(このあひだ)度々(どど)の合戦に打負(うちまけ)たる兵共(つはものども)、未(いまだ)気を直(なほ)さで不勇、昨日今日(きのふけふ)馳集(はせあつまり)たる勢(せい)は、大将を待(まつ)て猶予(いうよ)しける間、敵已(すで)に伊豆の府(こふ)を打立(うつたつ)て、今夜野七里山七里(のくれやまくれ)を超(こゆ)ると聞(きこえ)しかば、足利尾張(をはりの)右馬(うまの)頭(かみ)高経(たかつね)・舎弟式部(しきぶの)大夫(たいふ)・三浦因幡(いなばの)守(かみ)・土岐弾正少弼(ときだんじやうせうひつ)頼遠・舎弟道謙(だうけん)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)・赤松雅楽助(うたのすけ)貞則(さだのり)、「加様(かやう)に目くらべして、鎌倉(かまくら)に集り居ては叶(かなふ)まじ、人の事はよし兎(と)も角(かく)もあれ、いざや先(まづ)竹下(たけのした)へ馳向(はせむかつ)て、後陣の勢の著(つか)ぬ先(さき)に、敵寄せば一(ひと)合戦して討死(うちじに)せん。」とて、十一日まだ宵(よひ)に竹下(たけのした)へ馳(はせ)向ふ。其(その)勢(せい)僅(わづか)なりしかば、物冷(さび)しくぞ見へたりける。されども義を守る勇士共(ゆうしども)なれば、族(あながち)に多少不可依とて、竹下(たけのした)へ打襄(うちあがつ)て敵の陣を遥(はるか)に直下(みおろし)たれば、西は伊豆の府(こふ)、東は野七里山七里(のくれやまくれ)に焼双(たきなら)べたる篝火(かがりび)の数(かず)幾千万(いくせんまん)とも不知けり。只晴天(せいてん)の星の影、滄海(さうかい)に移る如く也(なり)。さらば御方(みかた)にも篝火(かがりび)を焼(たか)せんとて、雪の下草(したくさ)打払(うちはら)ひ、処々刈(かり)集めて幽(かすか)に火を吹著(ふきつけ)たれば、夏山(なつやま)の茂みが下に夜を明す、照射(ともし)の影に不異。されども武運(ぶうん)強ければにや、敵今夜は寄(よせ)来らず。夜(よ)已(すで)に明(あけ)なんとしける時、将軍鎌倉(かまくら)を打立(うちたた)せ給へば、仁木(につき)・細河・高(かう)・上杉、是等(これら)を宗(むね)との兵(つはもの)として都合(つがふ)其(その)勢(せい)十八万騎竹下(たけのした)へ著(つき)給へば、左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)六万(ろくまん)余騎(よき)にて箱根(はこね)峠(たうげ)へ著(つき)給ふ。去(さる)程(ほど)に、明(あく)れば十二日辰刻(たつのこく)に、京勢共(きやうぜいども)伊豆の府(こふ)にて手分(てわけ)して、竹下(たけのした)へは中務(なかつかさの)卿(きやうの)親王(しんわう)に卿相雲客(けいしやううんかく)十六人、副将軍(ふくしやうぐん)には脇屋(わきや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)義助・細屋(ほそや)右馬助(うまのすけ)・堤卿律師(つつみのきやうのりつし)・大友(おほとも)左近(さこんの)将監(しやうげん)・佐々木(ささきの)塩冶(えんや)判官(はうぐわん)高貞を相副(あひそへ)て、已上(いじやう)其(その)勢(せい)七千(しちせん)余騎(よき)、搦手(からめて)にて被向けり。箱根路(はこねぢ)へは又新田義貞宗徒(むねと)の一族(いちぞく)二十(にじふ)余人(よにん)、千葉(ちば)・宇都宮(うつのみや)・大友(おほとも)千代松丸(ちよまつまる)・菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武重(たけしげ)・松浦党(まつらたう)を始(はじめ)として、国々の大名三十(さんじふ)余人(よにん)、都合(つがふ)其(その)勢(せい)七万(しちまん)余騎(よき)、大手にてぞ被向ける。同(おなじき)日午刻(むまのこく)に軍(いくさ)始まりしかば、大手(おほて)搦手(からめて)敵御方(みかた)、互に時(とき)を作りつゝ、山川(さんせん)を傾(かたぶ)け天地を動(うごか)し、叫喚(をめきさけん)で責(せめ)戦ふ。去(さる)程(ほど)に、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武重、箱根(はこね)軍(いくさ)の先懸(さきがけ)して、敵三千(さんぜん)余騎(よき)を遥(はるか)の峯へ巻上(まくりあ)げ、坂中に楯(たて)を突双(つきならべ)て、一息継(つい)て怺(こら)へたり。是(これ)を見て、千葉・宇都宮(うつのみや)・河越(かはごえ)・高坂(かうさか)・愛曾(あそ)・熱田(あつた)の大宮司(だいぐうじ)、一勢(いつせい)々々(いつせい)陣を取(とつ)て曳声(えいごゑ)を出して責上(せめあがり)々々(せめあがり)、叫喚(をめきさけん)で戦(たたかう)たり。中にも道場坊助注記(じよちゆうぎ)祐覚(いうがく)は、児(ちご)十人(じふにん)同宿(どうじゆく)三十(さんじふ)余人(よにん)、紅下濃(くれなゐすそご)の鎧(よろひ)を一様(いちやう)に著て、児(ちご)は紅梅の作り花を一枝(いつし)づゝ甲(かぶと)の真額(まつかう)に挿(さしはさみ)たりけるが、楯(たて)に外(はづ)れて一陣に進みけるを、武蔵(むさし)・相摸(さがみ)の荒夷(あらえびす)共(ども)、「児(ちご)とも云はず只射よ。」とて、散々(さんざん)に指攻(さしつめ)て射ける間、面(おもて)に進みたる児(ちご)八人矢庭(やには)に倒れて小篠(をざさ)の上にぞ臥(ふし)たりける。党の者共(ものども)是(これ)を見て、頚を取らんと抜連(ぬきつれ)て打(うつ)て下(くだり)けるを、道場坊が同宿共(どうじゆくども)児を討(うた)せて何か可怺。三十(さんじふ)余人(よにん)太刀・長刀の鋒(きつさき)を双(なら)べて手負(ておひ)の上を飛超(とびこえ)々々、「坂本様(さかもとやう)の袈裟切(けさきり)に成仏(じやうぶつ)せよ。」と云侭(いふまま)に、追攻(おひつめ)々々切(きつ)て廻りける間、武士(ぶし)散々(さんざん)に被切立て、北なる峯へ颯(さつ)と引(ひく)と、且(しば)し息をぞ継(つい)だりける。此隙(このひま)に祐覚(いうがく)が同宿共(どうじゆくども)、面(めん)々の手負(ておひ)を肩に引懸(ひつかけ)て、麓の陣へぞ下(くだ)りける。義貞の兵(つはもの)の中に、杉原下総(しもふさの)守(かみ)・高田薩摩(さつまの)守(かみ)義遠・葦堀(あしほり)七郎・藤田六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・川波新左衛門(しんざゑもん)・藤田三郎左衛門・同四郎左衛門(しらうざゑもん)・栗生(くりふ)左衛門・篠塚(しのづか)伊賀(いがの)守(かみ)・難波(なんば)備前(びぜんの)守(かみ)・川越参河(みかはの)守(かみ)・長浜六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・高山遠江守(とほたふみのかみ)・園田(そのだ)四郎左衛門(しらうざゑもん)・青木五郎左衛門(ごらうざゑもん)・同七郎左衛門(しちらうざゑもん)・山上(やまかみ)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)とて、党を結(むすん)だる精兵(せいびやう)の射手(いて)十六人あり。一様(いちやう)に笠験(かさじるし)を付(つけ)て、進(すすむ)にも同(おなじ)く進み、又引(ひく)時も共に引(ひき)ける間、世の人此(これ)を十六騎が党(たう)とぞ申(まうし)ける。彼等(かれら)が射ける矢には、楯も物具(もののぐ)もたまらざりければ、向ふ方(かた)の敵を射すかさずと云(いふ)事(こと)なし。執事(しつじ)舟田(ふなた)入道は、馳廻(はせまはつ)て士卒(じそつ)を諌(いさ)め、大将軍義貞は、一段(いちだん)高き処に諸卒の振舞(ふるまひ)を被実検ける間、名を重(おもん)じ命を軽(かろん)ずる千葉・宇都宮(うつのみや)・菊池(きくち)・松浦(まつら)の者共(ものども)、勇進(いさみすすん)で戦(たたかひ)ける間、鎌倉勢(かまくらぜい)馬の足を立兼(たてかね)て、引退(ひきしりぞく)者数(かず)を不知けり。懸(かか)る処に竹下(たけのした)へ被向たる中書王(ちゆうしよわう)の御勢(おんせい)・諸庭(しよてい)の侍・北面(ほくめん)の輩(ともがら)五百(ごひやく)余騎(よき)、憖(なまじひ)武士に先(さき)を不被懸とや思(おもひ)けん。錦の御旌(おんはた)を先に進め竹下(たけのした)へ押寄(おしよせ)て、敵未(いまだ)一矢も不射先に、「一天(いつてんの)君に向奉(むかひたてまつ)て曳弓放矢者不蒙天罰哉(や)。命惜(をし)くば脱甲降人(かうにん)に参れ。」と声々にぞ呼(よばは)りける。是(これ)を見て尾張(をはりの)右馬(うまの)頭(かみ)・舎弟式部(しきぶの)大夫(たいふ)・土岐(とき)弾正少弼(せうひつ)頼遠・舎弟道謙(だうけん)・三浦因幡(いなばの)守(かみ)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道・赤松筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞則(さだのり)、自宵一陣に有(あり)けるが、「敵の馬の立様(たてやう)、旌(はた)の紋、京家(きやうけ)の人と覚(おぼゆ)るぞ、矢だうなに遠矢(とほや)な射そ。只抜連(ぬきつ)れて懸(かか)れ。」とて三百(さんびやく)余騎(よき)双轡、「弓馬の家に生(うま)れたる者は名をこそ惜(をし)め、命をば惜(をし)まぬ者を。云(いふ)処虚事(そらごと)か実事(まこと)か、戦(たたかう)て手並(てなみ)の程を見給へ。」とて一同に時(とき)を咄(どつ)と挙げ、喚(をめい)てこそ懸(かかり)たりけれ。官軍(くわんぐん)は敵をかさに受(うけ)て麓に引(ひか)へたる勢なれば、何かは一怺(ひとたまり)も可怺、一戦(いつせん)にも不及して、捨鞭(すてむち)を打(うつ)てぞ引(ひき)たりける。是(これ)を見て土岐(とき)・佐々木(ささき)一陣に進(すすみ)て、「言(こと)ばにも似ぬ人々哉(かな)、蓬(きたな)し返せ。」と恥しめて、追立(おつたて)々々(おつたて)責(せめ)ける間、後(おく)れて引(ひく)兵(つはもの)五百(ごひやく)余騎(よき)、或(あるひ)は生捕(いけどら)れ或(あるひは)被討、残少(のこりずくな)に成(なり)にけり。手合(てあは)せの合戦をしちがへて官軍(くわんぐん)漂(ただよひ)て見へければ、仁木(につき)・細河・高(かう)・上杉の人々勇進(いさみすすん)で、中書王(ちゆうしよわう)の御
陣へ会尺(ゑしやく)もなく打(うつ)て懸(かか)る。されば引漂(ひきただよう)たる京勢(きやうぜい)にて、可叶様(やう)無(なか)りけるを、中書王の副将軍(ふくしやうぐん)脇屋右衛門(うゑもんの)佐(すけ)、「云(いふ)甲斐なき者共(ものども)が憖(なまじひ)に一陣に進(すすみ)て御方(みかた)の力を失(うしなふ)こそ遺恨(ゐこん)なれ。こゝを散(ちら)さでは叶(かなふ)まじ。」とて、七千(しちせん)余騎(よき)を一手(ひとて)になして、馬の頭(かしら)を雁行(がんかう)に連(つら)ねて、旌(はた)の足を龍装(りゆうさう)に進めて、横合(よこあひ)に閑々(しづしづ)と懸(かけ)られける。勝誇(かちほこつ)たる敵なれば何かは少しも疼(ひる)むべき。十字(じふもんじ)に合(あつ)て八字(はちもんじ)に破(やぶ)る。大中黒(おほなかぐろ)と二(ふた)つ引両(ひきりよう)と二(ふたつ)の旌(はた)を入替(いれかへ)々々(いれかへ)、東西に靡(なび)き南北に分れ、万卒(ばんそつ)に面を進め一挙(いつきよ)に死をぞ争ひける。誠(まこと)に両方名を被知たる兵共(つはものども)なれば誰かは独(ひとり)も可遁。互に討(うつ)つ討(うた)れつ、馬の蹄(ひづめ)を浸(ひた)す血は混々(こんこん)として洪河(こうが)の流るゝが如く也(なり)。死骸を積める地は、累々(るゐるゐ)として屠所(どしよ)の肉の如く也(なり)。無慙(むざん)と云(いふ)も疎(おろか)也(なり)。爰(ここ)に脇屋右衛門(うゑもんの)佐(すけの)子息式部(しきぶの)大夫(たいふ)とて、今年十三に成(なり)けるが、敵御方(みかた)引分(ひきわか)れける時、如何(いかに)して紛(まぎ)れたりけん、郎等(らうどう)三騎相共(あひとも)に敵の中にぞ残りける。此(この)人幼稚(えうち)なれども心早き人にて、笠符(かさじるし)引切(ひききつ)て投捨(なげすて)、髪を乱(みだ)し顔に振懸(ふりかけ)て、敵に不被見知とさはがぬ体(てい)にてぞ御坐(おはしまし)ける。父義助(よしすけ)是(これ)をば不知、「義治(よしはる)が見へぬは誅(うた)れぬるか、又生捕(いけどら)れぬるか、二(ふたつ)の間(あひだ)をば離れじ。彼死生(かれがししやう)を見ずば、片時(へんし)の命生(いき)ても何かはすべき。勇士(ゆうし)の戦場に命を捨(すつ)る事只是(これ)子孫の後栄(こうえい)を思ふ故(ゆゑ)也(なり)。されば未(いまだ)幼(をさ)なき身なれども、片時(へんし)の別(わかれ)を悲(かなし)んで此(この)戦場にも伴(ともな)ひつる也(なり)。其(その)死生を知らでは、如何(いかが)さて有(ある)べき。」とて、鎧の袖に泪(なみだ)をかけ、大勢の中へ懸(かけ)入り給(たまひ)けるが、「誠(まこと)に父の子を思ふ志、今に初(はじめ)ぬ事なれども、哀(あはれ)なる御事(おんこと)哉(かな)。いざや御伴(おんとも)仕らん。」とて義助の兵共(つはものども)轡(くつばみ)を双(なら)べ三百(さんびやく)余騎(よき)、主を討(うた)せじと懸入(かけいり)ける。義助の二度(にど)の懸(かけ)に、指(さし)もの大勢戦疲(たたかひつか)れて、一度(いちど)にばつとぞ引(ひき)たりける。是(これ)に理(り)を得て、義助尚(なほ)追北進(すす)まれける処に、式部(しきぶの)大夫(たいふ)義治、我が父と見成(みな)して馬を引(ひき)返し、主従(しゆじゆう)四騎にて脇屋(わきや)殿(どの)に馳加(はせくは)はらんと馬を進められけるを、誰とは不知、片引両(かたひきりやう)の笠符(かさじるし)著(つけ)たる兵(つはもの)二騎、御方(みかた)が返すぞと心得て、「やさしくこそ見へさせ給(たまひ)候へ。御供申(ともまうし)て討死し候。」とて、連(つれ)て是(これ)も返しけり。式部(しきぶの)大夫(たいふ)義治は父の義助の勢の中へつと懸(かけ)入り様(さま)に、若党(わかたう)にきつと目くはせゝられければ義治の郎従(らうじゆう)よせ合(あは)せて、つゞいて返しつる二騎の兵を切落(きりおと)し、頚を取(とつ)てぞ指挙(さしあげ)たる。義助是(これ)を見給(たまひ)て死(しし)たる人の蘇生(そせい)したる様(やう)に悦(よろこび)て、今一涯(ひときは)の勇(いさ)みを成(な)し、「且(しばら)く人馬を休(やす)めよ。」とて、又元(もと)の陣へは引(ひき)返されける。一陣余(あまり)に闘(たたか)ひくたびれしかば、荒手(あらて)を入替(いれかへ)て戦(たたかは)しめんとしける処に、大友(おほとも)(おほども)左近(さこんの)将監(しやうげん)・佐々木(ささきの)塩冶(えんや)判官(はうぐわん)が、千(せん)余騎(よき)にて後(うしろ)に引(ひか)へたるが、如何(いかが)思(おもひ)けん一矢射て後(のち)、旗を巻(まい)て将軍方(しやうぐんがた)に馳加(はせくはは)り、却(かへつ)て官軍(くわんぐん)を散々(さんざん)に射る。中書王(ちゆうしよわう)の御勢(おんせい)は、初度(しよど)の合戦に若干(そくばく)討(うた)れて、又も戦はず。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)の兵は両度の懸合(かけあひ)に人馬疲(つか)れて無勢(ぶせい)也(なり)。是(これ)ぞ荒(あら)手にて一軍(ひといくさ)もしつべき者と憑(たのま)れつる大友(おほとも)(おほども)・塩冶(えんや)は、忽(たちまち)に翻(ひるがへつ)て、親王(しんわう)に向奉(むかひたてまつ)て弓を引(ひき)、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)に懸合(かけあは)せて戦(たたかひ)しかば、官軍(くわんぐん)争(いかで)か堪(こら)ふべき。「敵の後(うし)ろを遮(さへぎ)らぬ前(さき)に、大手(おほて)の勢と成合(なりあは)ん。」とて、佐野原(さののはら)へ引退(ひきしりぞ)く。仁木(につき)・細川・今川・荒川・高(かう)・上杉・武蔵・相摸の兵共(つはものども)、三万(さんまん)余騎(よき)にて追懸(おつかけ)たり。是(これ)にて中書王の股肱(ここう)の臣下と憑(たの)み思食(おぼしめし)たりける二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為冬(ためふゆ)討(うた)れ給(たまひ)ければ、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)の兵共(つはものども)返合(かへしあはせ)々々(かへしあはせ)、三百騎(さんびやくき)所々にて討死す。是(これ)をも顧(かへりみ)ず引立(ひきたつ)たる官軍共(くわんぐんども)、我先(われさき)にと落行(おちゆき)ける程(ほど)に、佐野原(さののはら)にもたまり得ず、伊豆の府(こふ)にも支(ささ)へずして、搦(からめ)手(て)の寄手(よせて)三百(さんびやく)余騎(よき)は、海道(かいだう)を西へ落(おち)て行く。
○官軍(くわんぐん)引退箱根(はこね)事 S1405
追手(おふて)箱根路(はこねぢ)の合戦は官軍(くわんぐん)戦ふ毎(ごと)に利を得しかば、僅(わづか)に引(ひか)へて支(ささへ)たる足利(あしかが)左馬(さまの)頭を追落(おひおとし)て、鎌倉(かまくら)へ入らんずる事掌(たなごころ)の内に有(あり)と、寄手(よせて)皆勇(いさみ)に々(いさん)で明(あく)るを遅(おそ)しと待(まち)ける処に、搦手(からめて)より軍(いくさ)破(やぶ)れて、寄手(よせて)皆追散(おつちら)されぬと聞へければ、諸国の催(もよほ)し勢、路次(ろし)の軍(いくさ)に降人(かうにん)に出(いで)たりつる坂東勢(ばんどうぜい)、幕を捨(すて)旗を側(そば)めて、我先(われさき)にと落行(おちゆき)ける間、さしも広き箱根山に、すきまも無く充満(じゆうまん)したりつる陣に、人あり共(とも)見へず成(なり)にけり。執事(しつじ)舟田(ふなた)入道は、一(いち)の責口(せめくち)に敵を攻(せめ)て居たりけるが、敵陣に、「竹下(たけのした)の合戦は将軍打勝(うちかた)せ給(たまひ)て、敵を皆追散(おつちら)して候也(なり)。」と、早馬(はやむま)の参(まゐつ)て罵(ののし)る声を聞(きい)て、誠(まこ)とやらん不審(おぼつか)なく思(おもひ)ければ、只一騎御方(みかた)の陣々を打廻(うちまはつ)て見るに、幕計(まくばかり)残(のこり)て、人のある陣は無(なか)りけり。さては竹下(たけのした)の合戦に、御方(みかた)早(はや)打負(うちまけ)てけり。かくては叶(かなふ)まじと思(おもひ)て、急(いそぎ)大将の陣へ参(まゐつ)て、事の子細(しさい)を申(まうし)ければ、義貞且(しばら)く思案(しあん)し給ひけるが、「何様(いかさま)陣を少し引退(ひきしりぞい)て、落行(おちゆく)勢(せい)を留(とめ)てこそ合戦をもせめ。」とて、舟田(ふなた)入道に打(うち)つれて、箱根山を引(ひき)て下(くだり)給ふ。其(その)勢(せい)僅(わづか)に百騎(ひやくき)には過(すぎ)ざりけり。且(しばら)く馬を扣(ひか)へて後(うしろ)を見給へば、例の十六騎の党馳参(はせまゐり)たり。又北なる山に添(そう)て、三(み)つ葉柏(はかし)の旗の見へたるは、「敵か御方(みかた)歟(か)。」と問(とひ)給へば、熱田(あつた)の大宮司(だいぐうじ)百騎(ひやくき)計(ばかり)にて待(まち)奉る。其(その)勢(せい)を合(あはせ)て野七里(のくれ)に打出(うちいで)給ひたれば、鷹(たか)の羽(は)の旗一流(ひとながれ)指(さ)し揚(あげ)て、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武重(たけしげ)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて馳参(はせまゐ)る。爰(ここ)に散所法師(さんじよほふし)一人西の方(かた)より来りけるが、舟田(ふなた)が馬の前(まへ)に畏(かしこまつ)て、「是(これ)はいづくへとて御(おん)通(とほ)り候やらん。昨日(きのふ)の暮程(くれほど)に脇屋(わきや)殿(どの)、竹下(たけのした)の合戦に討負(うちまけ)て落(おち)させ給候(たまひさふらひ)し後、将軍の御勢(おんせい)八十万騎(はちじふまんぎ)、伊豆の府(こふ)に居余(ゐあまり)て、木の下(した)岩の陰(かげ)、人ならずと云(いふ)所候はず。今此(この)御勢(おんせい)計(ばかり)にて御(おん)通(とほ)り候はん事(こと)、努々(ゆめゆめ)叶(かなふ)まじき事にて候。」とぞ申(まうし)ける。是(これ)を聞(きき)て栗生(くりふ)と篠塚(しのづか)と打双(うちなら)べて候(さふらひ)けるが、鐙(あぶみ)蹈張(ふんば)り、つとのびあがり、御方(みかた)の勢を打(うち)見て、「哀(あつば)れ兵共(つはものども)や。一騎当千の武者(むしや)とは、此(この)人々をぞ申(まうす)べき。敵八十万騎(はちじふまんぎ)に、御方(みかた)五百(ごひやく)余騎(よき)、吉程(よつぼと)の合ひ手也(なり)。いで/\懸破(かけやぶつ)て道開(ひらき)て参(まゐら)せん。継(つづ)けや人々。」と勇(いさ)めて、数万騎(すまんぎ)打集(うちあつまつ)たる敵の中へ懸(かけ)て入(いる)。府中にて一条(いちでうの)次郎三千(さんぜん)余騎(よき)にて戦ひけるが、新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)を見てよき敵と思ひけるにや、馳双(はせならん)で組(くま)んとしけるを、篠塚中(なか)に隔(へだたつ)て、打(うち)ける太刀を弓手(ゆんで)の袖に受留(うけとめ)、大の武者をかい掴(つかん)で弓杖(ゆんづゑ)二丈計(ばかり)ぞ投(なげ)たりける。一条も大力の早業成(はやわざなり)ければ、抛(なげ)られたれ共(ども)倒(たふ)れず。漂(ただよ)ふ足を践直(ふみなほ)して、猶義貞に走懸(はしりかか)らんとしけるを、篠塚馬より飛(とん)でおり両膝合(あはせ)て倒(さかさま)に蹴倒(けたふ)す。倒(たふ)るゝと均(ひとし)く、一条を起(おこ)しも立(たて)ず、推(おさ)へて頚かき切(きつ)てぞ指揚(さしあげ)ける。一条が郎等共(らうどうども)、目の前にて主を討(うた)せて心うき事に思(おもひ)ければ、篠塚を討(うた)んと、馬より飛下(とびおり)々々(とびおり)打(うつ)て懸(かか)れば、篠塚かい違(ちがう)ては蹴倒(けたふし)、々々(けたふ)しては首を取(とり)、足をもためず一所(いつしよ)にて九人(くにん)迄こそ討(うつ)たりけれ。是(これ)を見て、敵数十万騎(すじふまんぎ)有(あり)と云(いへ)ども、敢(あへ)て懸合(かけあは)せん共(とも)せざりければ、義貞閑々(しづしづ)と伊豆の府(こふ)を打(うつ)て通(とほ)り給ふに、宵より落(おち)て其辺(そのへん)にまぎれ居たる官軍共(くわんぐんども)、此彼(ここかしこ)より馳付(はせつき)ける程(ほど)に、義貞の勢二千騎(にせんぎ)計(ばかり)に成(なり)にけり。「此(この)勢(せい)にては縦(たと)ひ百重千重に取篭(とりこめ)たり共(とも)、などか懸破(かけやぶつ)て通らざるべき。」と、悦(よろこび)て行(ゆく)処に、木瀬川(きせがは)に旗一流(ひとながれ)打立(うつたて)て、勢の程二千騎(にせんぎ)計(ばかり)見へたり。近々と打寄(うちよせ)て、旗の文(もん)を見れば、二巴(ふたつともゑ)を旗にも笠璽(かさじるし)にも書(かき)たり。「さては小山(をやま)判官(はうぐわん)にてぞ有(ある)らん、一騎も余(あま)さず打取(うちとれ)。」とて、山名・里見の人々馬の鼻を双(なら)べておめいて懸(かか)りける程(ほど)に、小山(をやま)が勢四角(しかく)八方(はつぱう)に懸散(かけちら)されて、百騎(ひやくき)計(ばかり)は討(うた)れにけり。かくて浮嶋(うきしま)が原を打過(うちすぐ)れば、松原の陰(かげ)に旗三流差(さし)て、勢(せい)の程五百騎(ごひやくき)計(ばかり)扣(ひかへ)たり。「是(これ)は敵か御方(みかた)歟(か)。」と在家(ざいけ)の者に問(とひ)給へば、「是(これ)は昨日(きのふ)の竹下(たけのした)より、一宮(いちのみや)を追進(おひまゐら)せて、所々(しよしよ)にて合戦し候(さふらひ)し甲斐の源氏にて候。」とぞ答申(こたへまうし)ける。「さてはよき敵ぞ、取篭(とりこめ)て討(うて)。」とて、二千(にせん)余騎(よき)の勢を二手(ふたて)に分(わけ)て北南より押寄(おしよす)れば、叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、一矢(ひとや)をも射ずして、降人(かうにん)に成(なつ)てぞ出(いで)たりける。此(この)勢(せい)を先(さき)に打(うた)せて遥(はるか)に行けば、中黒の旗を見付(みつけ)て、落隠居(おちかくれゐ)たる官軍共(くわんぐんども)、彼方此方(かなたこなた)より馳付(はせつき)て、七千(しちせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。今はかうと勇(いさみ)て、今井(いまゐ)・見付(みつけ)を過(すぐ)る処に、又旗五流差揚(さしあげ)て、小山の上に敵二千騎(にせんぎ)計(ばかり)扣(ひかへ)たり。降人に出(いで)たりつる甲斐源氏に、「此(この)敵は誰(た)そ。」と問(とひ)給へば、「是(これ)は武田(たけだ)・小笠原の者共(ものども)にて候也(なり)。」と答ふ。「さらば責(せめ)よ。」とて四方(しはう)より攻上(つめのぼ)りけるを、高山(たかやま)薩摩(さつまの)守(かみ)義遠、「此(この)敵を余さず討(うた)んとせば、御方(みかた)も若干(そくばく)亡(ほろ)ぶべし。大敵をば開(ひら)ひて責(せめ)るにこそ利は候へ。」と申(まうし)ければ、由良・舟田げにもとて、東一方をば開(あ)けて三方(さんぱう)より責上(せめのぼ)りければ、此(この)敵共(てきども)遠矢少々(せうせう)射捨(すて)て、東を指(さし)てぞ落行(おちゆき)ける。是(これ)より後は敢(あへ)て遮(さへぎ)る敵もなかりければ、手負(ておひ)を相助(あひたすけ)、さがる勢を待連(まちつれ)て、十二月十四日の暮(くれ)程(ほど)に、天竜川の東の宿(しゆく)に著給(つきたまひ)にけり。時節(をりふし)川上(かはかみ)に雨降(ふり)て、河の水岸(きし)を浸(ひた)せり。長途(ちやうど)に疲れたる人馬なれば、渡す事叶(かなふ)まじとて、俄に在家(ざいけ)をこぼちて浮橋(うきはし)をぞ渡されける。此(この)時もし将軍の大勢、後(うしろ)より追懸(おつかけ)てばし寄(より)たりしかば、京勢(きやうぜい)は一人もなく亡(ほろ)ぶべかりしを、吉良(きら)・上杉の人々、長僉議(ながせんぎ)に三四日逗留(とうりう)有(あり)ければ、川の浮橋程(ほど)なく渡しすまし、数万騎(すまんぎ)の軍勢(ぐんぜい)残(のこる)所なく一日が中(うち)に渡(わたり)てけり。諸卒を皆渡しはてゝ後、舟田入道と大将義貞朝臣と二人(ににん)、橋を渡り給ひけるに、如何なる野心(やしん)の者かしたりけん、浮橋を一間はりづなを切(きつ)てぞ捨(すて)たりける。舎人(とねり)馬を引(ひい)て渡りけるが、馬と共に倒(さかさま)に落入(おちいつ)て、浮(うき)ぬ沈(しづみ)ぬ流(ながれ)けるを、舟田入道、「誰(たれ)かある、あの御馬(おんむま)引上(ひきあ)げよ。」と申(まうし)ければ、後(うしろ)に渡(わたり)ける栗生(くりふ)左衛門、鎧著(き)ながら川中へ飛(とび)つかり、二町(にちやう)計(ばかり)游付(およぎつき)て、馬と舎人とを左右の手に差揚(さしあげ)て、肩を超(こし)ける水の底を閑(しづか)に歩(あゆん)で向(むかひ)の岸へぞ著(つき)たりける。此(この)馬の落入(おちいり)ける時、橋二間計(にけんばかり)落(おち)て、渡るべき様(やう)もなかりけるを、舟田入道と大将と二人(ににん)手に手を取組(とりくん)で、ゆらりと飛(とび)渡り給ふ。其跡(そのあと)に候(さふらひ)ける兵(つはもの)二十(にじふ)余人(よにん)、飛(とび)かねて且(しば)し徘徊(はいくわい)しけるを、伊賀(いがの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)に名張(なんばり)八郎とて、名誉の大力(だいぢから)の有(あり)けるが、「いで渡して取(とら)せん。」とて鎧武者(むしや)の上巻(あげまき)を取(とつ)て中(ちゆう)に提(ひつさ)げ、二十人までこそ投越(なげこし)けれ。今二人(ににん)残(のこり)て有(あり)けるを左右の脇に軽々(かるがる)と挟(さしはさん)で、一丈(いちぢやう)余(あま)り落(おち)たる橋をゆらりと飛(とん)で向(むかひ)の橋桁(はしげた)を蹈(ふみ)けるに、蹈所(ふむところ)少(すこし)も動かず、誠(まこと)に軽(かる)げに見へければ、諸軍勢(しよぐんぜい)遥(はるか)に是(これ)を見て、「あないかめし、何(いづ)れも凡夫(ぼんぶ)の態(わざ)に非(あら)ず。大将と云(いひ)手(て)の者共(ものども)と云(いひ)、何れを捨(すつ)べし共覚(おぼえ)ね共(ども)、時の運に引(ひか)れて、此軍(このいくさ)に打負(うちまけ)給ひぬるうたてさよ。」と、云はぬは人こそなかりけれ。其(その)後浮橋(うきはし)を切(きつ)て、つき流されたれば、敵縦(たと)ひ寄来(よせきた)る共、左右(さう)なく渡すべき様(やう)もなかりけるに、引立(ひきたつ)たる勢の習(ならひ)なれば、大将と同心に成(なつ)て、今一軍(ひといくさ)せん太平記と思ふ者無(なか)りけるにや。矢矯(やはぎ)に一日逗留(とうりう)し給ひければ、昨日まで二万(にまん)余騎(よき)有(あり)つる勢、十方へ落失(おちうせ)て十分が一もなかりけり。早旦(さうたん)に宇都宮(うつのみや)治部(ぢぶの)太輔、大将の前に来(きたつ)て申されけるは、「今夜官軍共(くわんぐんども)、夜もすがら落(おち)候ひけると承(うけたまはる)が、げにも陣々まばらに成(なつ)て、いづくに人あり共(とも)見へ候はず。爰(ここ)にてもし数日(すじつ)を送(おく)らば、後(うし)ろに敵出来(いでき)て、路を塞(ふさ)ぐ事有(あり)ぬと覚(おぼえ)候。哀(あは)れ今少し引退(ひきしりぞい)て、あじか・州俣(すのまた)を前に当(あ)てゝ、京近き国々に、御陣を召され候へかし。」と申されければ、諸大将(しよだいしやう)、「げにも皇居(くわうきよ)の事おぼつかなく候へば、さのみ都遠き所の長居(ながゐ)は然るべし共存(ぞんじ)候はず。」とぞ同(どう)じける。義貞、「さらば兎(と)も角(かく)も面々の御意見にこそ順ひ候はめ。」とて、其(その)日(ひ)天竜川を立(たつ)てこそ、尾張(をはりの)国(くに)までは引かれけれ。
○諸国(しよこくの)朝敵蜂起(ほうきの)事(こと) S1406
かゝる処に、十二月十日、讚岐(さぬき)より高松(たかまつ)三郎頼重(よりしげ)早馬を立(たて)て京都へ申(まうし)けるは、「足利(あしかが)の一族(いちぞく)細川(ほそかはの)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)、去月二十六日当国鷺田(さぎたの)庄(しやう)に於て旗を揚(あぐ)る処に、詫間(たくま)・香西(かうさい)これに与(くみ)して、則(すなはち)三百(さんびやく)余騎(よき)に及ぶ。是(これ)に依(よつ)て、頼重(よりしげ)時剋を廻(めぐ)らさず、退治(たいじ)せしめん為に、先づ矢嶋(やしま)の麓に打寄(うちよせ)て国中(こくぢゆう)の勢を催す処に、定禅(ぢやうぜん)遮(さへぎつ)て夜討を致せし間、頼重等身命を捨(すて)て防(ふせぎ)戦ふと雖も、属(しよく)する所の国勢忽(たちまち)に翻(ひるがへつ)て剰(あまつさ)へ御方(みかた)を射る間、頼重が老父、並(ならび)に一族(いちぞく)十四人・郎等(らうどう)三十(さんじふ)余人(よにん)、其場(そのば)に於て討死仕畢(つかまつりをはんぬ)。一陣遂に彼が為に破られし後、藤橘(とうきつ)両家(りやうけ)・坂東(ばんどう)・坂西(ばんぜい)の者共(ものども)残る所なく定禅(ぢやうぜん)に属(しよく)する間、其(その)勢(せい)已(すでに)及三千(さんぜん)余騎(よき)に、近日宇多津(うたづ)に於て兵船(ひやうせん)を点(てん)じ、備前の児嶋(こじま)に上(あがつ)て已(すで)に京都に責上(せめのぼら)んと仕(つかまつり)候。御用心(ごようじん)有(ある)べし。」とぞ告申(つげまうし)ける。かゝりけれ共(ども)、京都には新田越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)を大将として、結城(ゆふき)・名和・楠木以下(くすのきいげ)宗(むね)との大名共(だいみやうども)大勢にて有(あり)しかば、四国の朝敵共縦(たと)ひ数(かず)を尽(つく)して責上(せめのぼ)る共、何程の事か有るべきと、さまでの仰天(ぎやうてん)もなかりけるに、同(おなじき)十一日、備前(びぜんの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)児嶋三郎高徳(たかのり)が許(もと)より、早馬を立(たて)て申(まうし)けるは、「去月二十六日、当国の住人(ぢゆうにん)佐々木(ささきの)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)信胤(のぶたね)・同田井(たゐの)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)信高等(のぶたから)、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)が語(かたら)いを得て備中(びつちゆうの)国(くに)に打越(うちこえ)、福山(ふくやま)の城に楯篭(たてこも)る間、彼(かの)国(くに)の目代(もくだい)先(まづ)手勢計(てせいばかり)を以て合戦を致(いたす)と雖も、国中(こくぢゆう)の勢催促(さいそく)に随はず。無勢(ぶせい)なるに依(よつ)て引退(ひきしりぞ)く刻(きざみ)、朝敵勝(かつ)に乗(のり)し間、目代が勢数百人(すひやくにん)討死し畢(をはんぬ)。其(その)翌日に小坂・川村・庄(しやう)・真壁(まかべ)・陶山(すやま)・成合(なりあひ)・那須・市川以下(いげ)、悉く朝敵に馳加(はせくはは)る間、程なく其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)に及(およ)べり。爰(ここ)に備前(びぜんの)国(くに)の地頭・御家人等(ごけにんら)、吉備津(きびつの)宮(みや)に馳集(はせあつまり)て、朝敵を相待(あひまつ)処に、浅山(あさやま)備後(びんごの)守(かみ)、備後の国の守護職(しゆごしよく)を賜(たまはつ)て下向する間、其(その)勢(せい)を合(あはせ)て、同(おなじき)二十八日、福山に押寄責戦(おしよせせめたたかひ)〔し〕日、高徳(たかのり)が一族(いちぞく)等(ら)大手(おほて)を責破(せめやぶつ)て、已(すで)に城中に打入る刻(きざみ)、野心(やしん)の国人等(くにうどら)、忽(たちまち)に翻(ひるがへつ)て御方(みかた)を射る間、目代浄智(じやうち)が子息七条弁房(べんばう)・小周防(こすはう)の大弐房(だいにばう)・藤井六郎(ろくらう)・佐井(さゐの)七郎以下(いげ)三十(さんじふ)余人(よにん)、搦手(からめて)に於て討(うた)れ候畢(さふらひをはんぬ)。官軍(くわんぐん)遂に戦ひ負(まけ)て備前(びぜんの)国(くに)に引退(ひきしりぞき)、三石(みついし)の城に楯篭(たてこも)る処に、当国の守護(しゆご)松田十郎盛朝(もりとも)・大田(おほた)判官(はうぐわん)全職(みつもと)・高津(たかつ)入道浄源(じやうげん)当国に下著(げちやく)して、已(すでに)御方(みかた)に加(くはは)る間、又三石より国中へ引返(ひきかへし)、和気(わけ)の宿(しゆく)に於て、合戦を致す刻(きざみ)、松田十郎敵に属(しよく)する間、官軍(くわんぐん)数十人(すじふにん)討(うた)れて、熊山(くまやま)の城に引篭(こも)る。其(その)夜、当国の住人(ぢゆうにん)内藤弥(ないとうや)二郎、御方(みかた)の陣に有(あり)ながら、潛(ひそか)に敵を城中へ引入(ひきいれ)責劫(せめおびやかす)間、諸卒悉(ことごとく)行方(ゆきかた)を知らず没落候畢(ぼつらくさふらひをはんぬ)。高徳(たかのりが)一族(いちぞく)等(ら)此(この)時纔(わづか)に死を免(まぬかる)る者身を山林に隠(かく)し、討手の下向を相待(あひまち)候。若(もし)早速に御勢(おんせい)を下されずば、西国の乱、御大事(おんだいじ)に及ぶべし。」とぞ申(まうし)たりける。両日の早馬天聴(てんちやう)を驚(おどろか)しければ、「こは如何すべき。」と周章(しうしやう)ありける処に、又翌日の午剋(むまのこく)に、丹波(たんばの)国(くに)より碓井(うすゐ)丹波(たんばの)守(かみ)盛景(もりかげ)、早馬を立(たて)て申(まうし)けるは、「去(さる)十二月十九日の夜、当国の住人(ぢゆうにん)久下(くげ)弥三郎時重(ときしげ)、波々伯部(はうかべ)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・中沢三郎入道等を相語(あひかたらつ)て守護(しゆご)の館(たち)へ押寄(おしよす)る間、防戦(ふせぎたたかう)と雖も、劫戦(こふせん)不慮に起(おこる)に依(よつ)て、御方(みかた)戦破(たたかひやぶ)れて、遂に摂州へ引退(ひきしりぞ)く。雖然と猶他の力を合(あはせ)て其(その)恥を雪(きよめ)ん為に、使者を赤松入道に通(つう)じて、合力を請(うく)る処に、円心(ゑんしん)野心(やしん)を挟(さしはさ)む歟(か)、返答にも及ばず。剰(あまつさ)へ将軍の御教書(みげうしよ)と号し、国中(こくぢゆう)の勢を相催(あひもよほす)由(よし)、風聞(ふうぶん)在人口に。加之(しかのみならず)但馬・丹後(たんご)・丹波の朝敵等(てうてきら)、備前・備中の勢を待(まち)、同時に山陰(せんおん)・山陽(せんやう)の両道より責上(せめのぼ)るべき由承及(うけたまはりおよび)候、御用心(ごようじん)有るべし。」とぞ告(つげ)たりける。又其(その)日(ひ)の酉剋(とりのこく)に、能登(のとの)国(くに)石動山(ゆするぎやま)の衆徒(しゆと)の中(なか)より、使者を立てゝ申(まうし)けるは、「去月(きよげつ)二十七日(にじふしちにち)越中に守護(しゆご)、普門(ふもん)蔵人利清(としきよ)・並(ならび)に井上(ゐのうへ)・野尻(のじり)・長沢・波多野(はだの)の者共(ものども)、将軍の御教書(みげうしよ)を以て、両国の勢を集め、叛逆(ほんぎやく)を企(くはたつ)る間、国司(こくし)中院(なかのゐんの)少将定清(さだきよ)、就用害に被楯篭当山処、今月十二日彼逆徒等(かのぎやくとら)、以雲霞勢押寄(おしよする)間、衆徒等(しゆとら)与義卒に、雖軽身命を、一陣全(まつたき)事(こと)を得ずして、遂に定清(さだきよ)於戦場に被墜命、寺院悉(ことごとく)兵火の為に回禄(くわいろく)せしめ畢(をはんぬ)。是(これ)より逆徒(ぎやくと)弥(いよいよ)猛威を振(ふるう)て、近日已(すで)に京都に責上(せめのぼ)らんと仕(つかまつり)候。急ぎ可被下御勢(おんせい)を。」とぞ申(まうし)ける。是(これ)のみならず、加賀の富樫(とがしの)介、越前に尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)の家人(けにん)、伊予に川野対馬(かうのつしま)入道、長門(ながと)に厚東(こうとう)の一族(いちぞく)、安芸(あき)に熊谷(くまがえ)、周防(すはう)に大内介(おほちのすけ)が一類(いちるゐ)、備後に江田(えだ)・弘沢(ひろさは)・宮(みや)・三善(みよし)、出雲に富田(とんだ)、伯耆(はうき)に波多野(はだの)、因幡(いなば)に矢部(やべ)・小幡(をばた)、此外(このほか)五畿・七道・四国・九州、残(のこる)所なく起(おこ)ると聞へしかば、主上(しゆしやう)を始めまいらせて、公家被官(くげひくわん)の人々、独(ひとり)として肝(きも)を消さずと云(いふ)事(こと)なし。其比(そのころ)何(い)かなる嗚呼(をご)の者かしたりけん。内裏(だいり)の陽明門(やうめいもん)の扉に、一首(いつしゆ)の狂歌をぞ書(かき)たりける。賢王(けんわう)の横言(わうげん)に成る世中(よのなか)は上を下へぞ帰したりける四夷八蛮(しいはちばん)起り合(あつ)て、急を告(つぐ)る事隙(ひま)なかりければ、引他(ひきたの)の九郎を勅使にして、新田義貞猶(なほ)道にて敵を支へんとて、尾張(をはりの)国(くに)に居(ゐ)られたりけるを、急ぎ先(まづ)上洛(しやうらく)すべしとぞ召(めさ)れける。引他(ひきた)九郎竜馬(りゆうめ)を給(たまはつ)て、早馬に打(うち)けるが、此(この)馬にては、四五日の道をも、一日には輒(たやす)く打帰(うちかへら)んずらんと思(おもひ)けるに合せて、げにも十二月十九日の辰刻(たつのこく)に、京を立(たつ)て、其(その)日(ひ)の午刻(むまのこく)に近江(あふみの)国(くに)愛智(えち)川の宿(しゆく)にぞ著(つい)たりける。彼竜馬(かのりゆうめ)俄に病出(やみいだ)して、軈(やが)て死(し)にけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。引佗(ひきた)乗替(のりがへ)に乗替(のりかへ)々々(のりかへ)、日を経(へ)て尾張(をはりの)国(くに)に下著し、此子細(このしさい)を左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)に申(まうし)ければ、「先(まづ)京都へ引返(ひきかへ)して宇治・勢多を支(ささへ)てこそ、合戦を致さめ。」とて、勅使に打(うち)つれてぞ上(のぼ)られける。
○将軍御進発(ごしんばつ)大渡(おほわたり)・山崎等合戦(かつせんの)事(こと) S1407
去(さる)程(ほど)に改(あらたまの)年立帰(たちかへ)れ共(ども)、内裏(だいり)には朝拝(てうはい)もなし。節会(せちゑ)も行(おこなは)れず。京白川(しらかは)には、家をこぼちて堀に入れ、財宝を積(つん)で持運(もちはこ)ぶ。只何(な)にと云(いふ)沙汰(さた)もなく、物騒(ものさわがし)く見へたりける。懸(かか)る程(ほど)に、将軍已(すで)に、八十万騎(はちじふまんぎ)にて、美濃・尾張(をはり)へ著給(つきたまひ)ぬと云(いふ)程こそあれ、四国の御敵(おんてき)も近付(ちかづき)ぬ、山陰(せんおん)道の朝敵も、只今大江山(おいのやま)へ取(とり)あがるなんど聞へしかば、此(この)間召(めし)に応じて上(のぼ)り集(あつまつ)たる国々の軍勢共(ぐんぜいども)十方へ落行(おちゆき)ける程(ほど)に、洛中(らくちゆう)には残り止(とどま)る勢一万騎(いちまんぎ)までもあらじとぞ見へたりける。其(それ)も皆勇(いさめ)る気色(けしき)もなくて、何方(いづかた)へ向(むか)へと下知(げぢ)せられけれ共(ども)、耳にも聞入(ききいれ)ざりければ、軍勢(ぐんぜい)の心を勇(いさ)ません為に、「今度の合戦に於て忠あらん者には、不日(ふじつ)に恩賞(おんしやう)行はるべし。」とし壁書(へきしよ)を、決断所(けつだんしよ)に押(お)されたり。是(これ)を見て、其事書(そのことがき)の奥に例の落書(らくしよ)をぞしたりける。かく計(ばかり)たらさせ給ふ綸言(りんげん)の汗の如くになどなかるらん去(さる)程(ほど)に正月七日に、義貞内裏(だいり)より退出して軍勢(ぐんぜい)の手分(てわけ)あり。勢多へは伯耆(はうきの)守(かみ)長年(ながとし)に、出雲(いづも)・伯耆(はうき)・因幡(いなば)三箇国(さんかこく)の勢二千騎(にせんぎ)を副(そへ)て向けらる。供御(ぐご)の瀬・ぜゞが瀬二箇所(にかしよ)に大木を数千本(すせんぼん)流し懸(かけ)て、大綱(おほづな)をはり乱(らん)ぐひを打(うち)て、引懸(ひつかけ)々々(ひつかけ)つなぎたれば、何(いか)なる河伯(かはく)水神なり共(とも)、上をも游(およぎ)がたく下をも潛難(くぐりがた)し。宇治へは楠木判官正成(まさしげ)に、大和・河内・和泉(いづみ)・紀伊(きの)国(くに)の勢五千(ごせん)余騎(よき)を副(そへ)て向(むけ)らる。橋板(はしいた)四五間(しごけん)はね迦(はづ)して河中に大石を畳(たたみ)あげ、逆茂木(さかもぎ)を繁(しげ)くゑり立(たて)て、東の岸を高く屏風(びやうぶ)の如くに切立(きりたて)たれば、河水二(ふたつ)にはかれて、白浪(しらなみ)漲(みなぎ)り落(おち)たる事(こと)、恰(あた)か竜門(りゆうもん)三級(さんきふ)の如(ごとく)也(なり)。敵に心安く陣を取(とら)せじとて、橘(たちばな)の小嶋(こじま)・槙嶋(まきのしま)・平等院(びやうどうゐん)のあたりを、一宇(いちう)も残さず焼払(やきはらひ)ける程(ほど)に、魔風(まふう)大廈(たいか)に吹懸(ふきかけ)て、宇治の平等院の仏閣宝蔵(はうざう)、忽(たちまち)に焼けゝる事こそ浅猿(あさまし)けれ。山崎へは脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)を大将として、洞院(とうゐん)の按察(あぜち)大納言(だいなごん)・文観(もんくわん)僧正(そうじやう)・大友(おほとも)千代松丸(おほともちよまつまる)・宇都宮(うつのみや)美濃将監(みののしやうげん)泰藤(やすふぢ)・海老名(えびなの)五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)・長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもん)以下(いげ)七千(しちせん)余騎(よき)の勢(せい)を向(むけ)らる。宝寺(たからでら)より川端(かはばた)まで屏(へい)を塗り堀をほりて、高櫓(たかやぐら)・出櫓(だしやぐら)三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)にかき双(ならべ)たり。陣の構(かま)へなにとなくゆゝしげには見へたれ共(ども)、俄に拵(こしらへ)たる事なれば屏(へい)の土も未干(いまだひず)、堀も浅し。又防ぐべき兵(つはもの)も、京家(きやうけ)の人、僧正(そうじやう)の御房(ごばう)の手(て)の者などゝ号(がうす)る者共(ものども)多ければ、此(この)陣の軍(いくさ)はか/゛\しからじとぞ見へたりける。大渡(おほわたり)には、新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞を惣大将(そうだいしやう)として、里見・鳥山・々名・桃井(もものゐ)・額田(ぬかだ)・々中・篭沢(こざは)・千葉・宇都宮(うつのみや)・菊池(きくち)・結城(ゆふき)・池(いけ)・風間(かさま)・小国(をくに)・河内(かはち)の兵共(つはものども)一万(いちまん)余騎(よき)にて堅めたり。是(これ)も橋板三間(さんげん)まばらに引落(ひきおと)して、半(なかば)より東にかい楯(だて)をかき、櫓(やぐら)をかきて、川を渡す敵あらば、横矢(よこや)に射、橋桁(はしげた)を渡る者あらば、走(はし)りを以て推落(おしおと)す様(やう)にぞ構へたる。馬の懸上(かけあが)りへ逆茂木(さかもぎ)ひしと引懸(ひきかけ)て、後(うしろ)に究竟(くつきやう)の兵共(つはものども)、馬を引立(ひきたて)々々(ひきたて)並居(なみゐ)たれば、如何なるいけずき・する墨に乗る共(とも)、こゝを渡すべしとは見へざりけり。去(さる)程(ほど)に将軍は八十万騎(はちじふまんぎ)の勢を率(そつ)し、正月七日近江(あふみの)国(くに)伊岐州(いぎす)の社(やしろ)に、山法師(やまほふし)成願坊(じやうぐわんばう)が三百(さんびやく)余騎(よき)にて楯篭(たてごもり)たりける城を、一日(いちにち)一夜(いちや)に責(せめ)落して、八日に八幡(やはた)の山下(さんげ)に陣を取る。細川(ほそかはの)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)は、四国・中国の勢を率(そつ)して正月七日播磨(はりま)の大蔵谷(おほくらだに)に著(つい)たりけるに、赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)我(わが)国(くに)に下(くだつ)て旗を挙(あげ)ん為に、京より逃下(にげくだり)けるに行逢(ゆきあひ)て、互に悦(よろこび)思ふ事限(かぎり)なし。且(かつう)は元弘の佳例(かれい)也(なり)とて、信濃(しなのの)守(かみ)を先陣にて、其(その)勢(せい)都合(つがふ)二万三千(にまんさんぜん)余騎(よき)、正月八日の午剋(むまのこく)に芥川(あくたかは)の宿(しゆく)に陣を取る。久下(くげの)弥三郎時重(ときしげ)・波々伯部(はうかべの)二郎左衛門(じらうざゑもん)為光(ためみつ)・酒井(さかゐ)六郎(ろくらう)貞信(さだのぶ)、但馬(たじま)・丹後(たんご)の勢と引合(ひきあはせ)て六千(ろくせん)余騎(よき)、二条(にでうの)大納言殿(だいなごんどの)の西山の峯(みね)の堂(だう)に陣を取(とつ)ておはしけるを追(おひ)落して、正月八日の夜半(やはん)より、大江山(おいのやま)の峠に篝(かがり)をぞ焼(たき)ける。京中(きやうぢゆう)には時に取(とつ)て弱からん方(かた)へ向(むく)べしとて、新田の一族(いちぞく)三十(さんじふ)余人(よにん)、国々の勢五千(ごせん)余騎(よき)を貽(のこさ)れたりければ、大江山(おいのやま)の敵を追(おひ)払ふべしとて、江田(えた)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)行義(ゆきよし)を大将として、三千(さんぜん)余騎(よき)を丹波路(たんばぢ)へ差向(さしむけ)らる。此(この)勢(せい)正月八日の暁(あかつき)、桂(かつら)川を打渡(うちわたつ)て、朝霞(あさかすみ)の紛(まぎ)れに、大江山(おいのやま)へ推(おし)寄せ、一矢(ひとや)射違(ちがふ)る程こそ有(あり)けれ、抜連(ぬきつ)れて責上(せめあが)りける間、一陣に進(すすん)で戦ひける久下(くげの)弥三郎が舎弟五郎長重(ながしげ)、痛手(いたで)を負(おう)て討(うた)れにけり。是(これ)を見て後陣(ごぢん)の勢一戦(いつせん)も戦(たたかは)ずして、捨鞭(すてむち)を打(うつ)て引きける間、敵さまでは追(おは)ざりけれ共(ども)、十里(じふり)二十里(にじふり)の外(ほか)まで、引かぬ兵(つはもの)はなかりけり。明(あく)れば正月九日の辰剋(たつのこく)に、将軍八十万騎(はちじふまんぎ)の勢にて、大渡(おほわたり)の西の橋爪(はしづめ)に推寄(おしよせ)、橋桁(はしげた)をや渡らまし、川をや渡さましと見給(たまふ)に、橋の上も川の中も、敵の構(かま)へきびしければ、如何(いかが)すべしと思案(しあん)して時移るまでぞ引(ひか)へたる。時に官軍(くわんぐん)の陣よりはやりをの者共(ものども)と見へたる兵百騎(ひやくき)計(ばかり)、川端(かはばた)へ進出(すすみいで)て、「足利殿(あしかがどの)の搦手(からめて)には憑思食(たのみおぼしめし)て候(さふらひ)つる丹波路(たんばぢ)の御敵(おんてき)どもをこそ、昨日追散(おつちら)して、一人も不残討取(うちとつ)て候へ。御旗(おんはた)の文(もん)を見候に、宗(むね)との人々は、大略(たいりやく)此(この)陣へ御向有(おんむかひあり)と覚(おぼえ)て候。治承(ぢしよう)には足利又太郎、元暦(げんりやく)には佐々木(ささきの)四郎高綱(たかつな)、宇治川を渡して名を後代(こうたい)に挙候(あげさふらひ)き。此(この)川は宇治川よりも浅(あさく)して而(しか)も早からず。爰(ここ)を渡され候へ。」と声々に欺(あざむい)て、箙(えびら)を敲(たたい)て咄(どつ)と笑(わらふ)。武蔵・相摸の兵共(つはものども)、「敵に招(まねか)れて、何(いか)なる早き淵(ふち)川なり共(とも)渡さずと云(いふ)事(こと)やあるべき。仮令(たとひ)川深(ふかう)して、馬人(うまひと)共(とも)に沈みなば、後陣の勢其(それ)を橋に蹈(ふん)で渡れかし。」とて、二千(にせん)余騎(よき)一度(いちど)に馬を打入(うちいれ)んとしけるを、執事(しつじ)武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)馳廻(はせまはつ)て、「是(これ)はそも物に狂ひ給ふか。馬の足もたゝぬ大河の、底は早(はやく)して上は閑(しづか)なるを、渡さば渡されんずるか。暫(しばらく)閑(しづ)まり給へ。在家(ざいけ)をこぼちて、筏(いかだ)に組(くん)で渡らんずるぞ。」と下知(げぢ)せられければ、さしも進みける兵、げにもとや思(おもひ)けん、軈(やが)て近辺(きんへん)の在家数百(すひやく)家を壊(こぼ)ち連(つらね)て、面(おもて)二三町なる筏をぞ組(くん)だりける。武蔵・相摸の兵共(つはものども)五百(ごひやく)余人(よにん)こみ乗(のつ)て、橋より下(しも)を渡(わたり)けるが、河中に打(うち)たる乱杭(らんぐひ)に懸(かかつ)て、棹を指(さ)せ共(ども)行(ゆき)やらず。敵は雨の降る如く散々(さんざん)に射る。筏はちともはたらかず。兎角(とかう)しける程(ほど)に、流れ淀(よどう)たる浪に筏の舫(もやひ)を押(おし)切られて、竿(さを)にも留(とま)らず流(ながれ)けるが、組み重ねたる材木共、次第に別々(べちべち)に成(なり)ければ、五百(ごひやく)余人(よにん)乗(のつ)たる兵(つはもの)皆水に溺れて失(うせ)にけり。敵は楯を敲(たたい)て、「あれ見よ。」と咲(わら)ふ。御方(みかた)は手をあがいて、如何(いかん)かせんと騒(さわ)き悲(かなし)め共(ども)叶(かな)はず。又此軍(このいくさ)散(さん)じて後、橋の上なる櫓(やぐら)より、武者(むしや)一人矢間(やま)の板(いた)を推開(おしひらい)て、「治承(ぢしよう)に高倉(たかくら)の宮(みや)の御合戦の時、宇治橋を三間(さんげん)引(ひき)落して、橋桁(はしげた)計(ばかり)残(のこり)て候(さふらひ)しをだに、筒井浄妙(つつゐのじやうめう)・矢切但馬(やぎりのたじま)なんどは、一条・二条(にでう)の大路(おほち)よりも広げに、走渡(はしりわたつ)てこそ合戦仕(つかまつつ)て候ひけるなれ。況(いはん)や此(この)橋は、かい楯の料(れう)に所々板を弛(はづい)て候へ共(ども)、人の渡り得ぬ程の事はあるまじきにて候。坂東(ばんどう)より上(のぼつ)て京を責(せめ)られんに、川を阻(へだて)たる合戦のあらんずるとは、思ひ設(まうけ)られてこそ候(さふらひ)つらめ。舟も筏も事の煩計(わづらひばかり)にてよも叶(かなひ)候はじ。只橋の上を渡(わたつ)て手攻(てづめ)の軍(いくさ)に我等が手なみの程を御覧じ候へ。」と、敵を欺(あざむ)き恥(はぢ)しめてあざ咲(わらう)てぞ立(たつ)たりける。是(これ)を聞(きい)て武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)が内に、野木(やぎの)与一兵衛入道頼玄(らいげん)とて、大力(だいぢから)の早業(はやわざ)、打物(うちもの)取(とつ)て世に名を知られたる兵(つはもの)有(あり)けるが、同丸(どうまる)の上にふしなはめの大鎧(おほよろひ)すき間(ま)もなく著なし、獅子頭(ししがしら)の冑(かぶと)に、目の下(した)の頬当(ほうあて)して、四尺(ししやく)三寸(さんずん)のいか物作(つくり)の太刀をはき、大たて揚(あげ)の膸当(すねあて)脇楯(わいだて)の下へ引(ひき)こうて、柄(え)も五尺(ごしやく)身も五尺(ごしやく)の備前長刀(なぎなた)、右の小脇(こわき)にかいこみて、「治承(ぢしよう)の合戦は、音(おと)に聞(きい)て目に見たる人なし。浄妙(じやうめう)にや劣(おとる)と我を見よ。敵を目に懸(かく)る程ならば、天竺(てんぢく)の石橋(しやくけう)、蜀川(しよくせん)の縄(なは)の橋也(なり)とも、渡(わたり)得ずと云(いふ)事(こと)やあるべき。」と高声(かうじやう)に広言(くわうげん)吐(はい)て、橋桁(はしげた)の上にぞ進(すすん)だる。櫓(やぐら)の上の掻楯(かいだて)の陰(かげ)なる官軍共(くわんぐんども)、是(これ)を射て落さんと、差攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)散々(さんざん)に射る。面(おもて)僅(わづか)に一尺(いつしやく)計(ばかり)ある橋桁(はしげた)の上を、歩(あゆめ)ば矢に違(ちが)ふ様(やう)もなかりけるに、上(あが)る矢には指覆(さしうつぶき)、下(さが)る矢をば跳越(をどりこ)へ、弓手(ゆんで)の矢には右の橋桁(はしげた)に飛(とび)移り、馬手(めて)の矢には左の橋桁(はしげた)へ飛(とび)移り、真中(ただなか)を指(さし)て射る矢をば、矢切(やぎり)の但馬(たじま)にはあらねども、切(きつ)て落さぬ矢はなかりけり。数万騎(すまんぎ)の敵御方(みかた)立合(たちあつ)て見ける処に、又山川(やまがは)判官(はうぐわん)が郎等(らうどう)二人(ににん)、橋桁(はしげた)を渡(わたつ)て継(つづい)たり。頼玄(らいげん)弥(いよいよ)力を得て、櫓(やぐら)の下へかづき、堀立(ほりたて)たる柱(はしら)を、ゑいや/\と引くに、橋の上にかいたる櫓なれば、橋共(とも)にゆるぎ渡(わたり)て、すはやゆり倒(たふ)しぬとぞ見へたりける。櫓の上なる射手共(いてども)四五十人(しごじふにん)叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、飛下(とびおり)々々(とびおり)倒(たふ)れふためいて二の木戸(きど)の内へ逃入(にげいり)ければ、寄手(よせて)数十万騎(すじふまんぎ)同音(どうおん)に箙(えびら)を敲(たたい)てぞ笑(わらひ)ける。「すはや敵は引(ひく)ぞ。」と云(いふ)程こそ有(あり)けれ、参河・遠江・美濃・尾張(をはり)のはやり雄(を)の兵共(つはものども)千(せん)余人(よにん)、馬を乗放(のりはなち)々々、我前(われさき)にとせき合(あつ)て渡るに、射落されせき落されて、水に溺るゝ者数(かず)を知(しら)ず。其(それ)をも不顧、幾(いく)程もなき橋の上に、沓(くつ)の子(こ)を打(うつ)たるが如く立双(たちならん)で、重々(ぢゆうぢゆう)に構(かまへ)たる櫓(やぐら)かい楯(だて)を引破(ひきやぶ)らんと引(ひき)ける程(ほど)に、敵や兼(かね)てをしたりけん、橋桁(はしげた)四五間(しごけん)中(ちゆう)より折(を)れて、落(おち)入る兵千(せん)余人(よにん)、浮(うき)ぬ沈(しづみ)ぬ流行(ながれゆく)。数万(すまん)の官軍(くわんぐん)同音(どうおん)に楯を敲(たたい)てどつと咲(わらふ)。され共(ども)野木(やぎの)与一兵衛入道計(ばかり)は、水練さへ達者也(なり)ければ、橋の板一枚に乗り、長刀を棹(さを)に指(さし)て、本の陣へぞ帰りける。是(これ)より後は橋桁(はしげた)もつゞかず、筏も叶(かなは)ず。右(かく)てはいつまでか向居(むかひをる)べきと、責(せめ)あぐんで思(おもひ)ける処に、さも小賢(こざかし)げなる力者(りきしや)一人立封(たてふう)したる文(ふみ)を持(もつ)て、「赤松筑前(ちくぜん)殿(どの)の御陣(ごぢん)はいづくにて候ぞ。」と、問々走(とひとひはしり)て出来(いできた)る。筑前(ちくぜんの)守(かみ)は八日の宵より、桃井修理亮(もものゐしゆりのすけ)・土屋三川(みかはの)守(かみ)・安保(あぶ)丹後(たんごの)守(かみ)と陣を双(ならべ)て、橋の下に居(ゐ)たりけるが、此(この)使を見付(みつけ)て、急(いそぎ)文を披(ひらい)て見れば、舎兄(しやけい)信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)の自筆にて、「義貞以下(いげ)の逆徒等(ぎやくとら)退治(たいぢ)の事(こと)、将軍家の御教書(みげうしよ)到来(たうらい)の間、為挙義兵播州に罷下(まかりくだ)る処に、細川(ほそかはの)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)、京都に責上(せめのぼ)らるゝ間、路次(ろし)に於て参会(さんくわい)す。且(しばら)く元弘の佳例(かれい)に任(まかせ)て、範資(のりすけ)可打先陣由一諾(いちだく)事(こと)訖(をはり)、今日已(すでに)芥河(あくたがは)の宿(しゆく)に著(つき)候也(なり)。明日十日辰剋(たつのこく)には、山崎の陣へ推寄(おしよせ)て、合戦を致すべきにて候。此(この)由を又将軍へ申さしめ給ふべし。」とぞ書(かき)たりける。筑前(ちくぜんの)守(かみ)此(この)状を持参して読上(よみあげ)たりければ、将軍を始奉(はじめたてまつ)て、吉良(きら)・石堂(いしたう)・高(かう)・上杉・畠山(はたけやま)の人々、「今はかうぞ。」と悦合(よろこびあへ)る事不斜(なのめならず)。此(この)使立帰(たちかへつ)て後、相図(あひづ)の程(ほど)にも成(なり)ければ、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)二万(にまん)余騎(よき)にて、桜井の宿(しゆく)の東へ打出(うちいで)、赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)二千(にせん)余騎(よき)にて、川に副(そう)て押寄(おしよす)る。筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範(さだのり)、川向(かはむかひ)より旗の文(もん)を見て、小舟(こぶね)三艘(さんざう)に取乗押(とりのりおし)渡りて兄弟一所(いつしよ)になる。此(この)間東西数百(すひやく)里(り)を隔(へだて)て、安否(あんぴ)更に知らざりしかば、いづくの陣にか討(うた)れぬらんと安き心もなかりつるに、互に恙無(つつがなか)りける天運の程の不思議(ふしぎ)さよと、手に手を取(とり)組み、額(ひたひ)を合(あは)せて、先づ悦び泣(なき)にぞ泣(なき)たりける。山崎の合戦は、元弘の吉例(きちれい)に任せて、赤松先(まづ)矢合(やあはせ)をすべしと、兼(かね)て定められたりけるを、播磨(はりま)の紀氏(きうぢ)の者共(ものども)、三百(さんびやく)余騎(よき)抜懸(ぬけがけ)して一番に押(おし)寄せたり。官軍(くわんぐん)敵を小勢(こぜい)と見て、木戸(きど)を開き、逆茂木(さかもぎ)を引除(ひきのけ)て、五百(ごひやく)余騎(よき)抜連(ぬきつれ)て懸出(かけいで)たるに、寄手(よせて)一積(ひとたまり)もたまらず追立(おつたて)られて、四方(しはう)に逃(にげ)散る。二番に坂東(ばんどう)・坂西(ばんぜい)の兵共(つはものども)二千(にせん)余騎(よき)、桜井の宿(しゆく)の北より、山に副(そう)て推寄(おしよせ)たり。城中の大将脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助(よしすけ)の兵(つはもの)、並(ならびに)宇都宮(うつのみや)美濃(みのの)将監(しやうげん)泰藤(やすふぢ)が紀清(きせい)両党二千(にせん)余騎(よき)、二の木戸(きど)より同時に打出(うちいで)て、東西に開(ひら)きあひ、南北へ追(おつ)つ返(かへし)つ、半時計(はんじばかり)相(あひ)戦ふ。汗馬(かんば)の馳違(はせちがふ)音(おと)、鬨(とき)作る声、山に響き地を動(うごか)して、雌雄未決(いまだけつせず)、戦半(たたかひなかば)なる時、四国の大将細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)、六万(ろくまん)余騎(よき)、赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)二千(にせん)余騎(よき)、二手(ふたて)に分(わけ)て押寄(おしよせ)たり。官軍(くわんぐん)敵の大勢(おほぜい)を見て、叶(かな)はじとや思ひけん、引返(ひきかへ)して城の中に引篭(こも)る。寄手(よせて)弥(いよいよ)機(き)に乗(のつ)て、堀に飛漬(とびつか)り、逆茂木(さかもぎ)引(ひき)のけて、射れ共(ども)痛まず、打て共(ども)漂(ただよ)はず、乗越(のりこえ)々々責入(せめいり)ける程(ほど)に、堀は死人(しにん)に埋(うまつ)て平地(ひらち)になり、矢間(さま)は皆射とぢられて開きゑず。城中早(はや)色めき立(たつ)て見へけるが、一番に但馬(たぢまの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもん)、同意の兵(つはもの)三百(さんびやく)余騎(よき)、旗を巻(まい)て降人(かうにん)に出づ。是(これ)を見て、洞院按察(とうゐんあぜち)大納言殿(だいなごんどの)の御勢(おんせい)、文観(もんくわん)僧正(そうじやう)の手(て)の者なんど云(いひ)て、此(この)間畠水練(はたけすゐれん)しつる者共(ものども)、弓を弛(はづ)し冑(かぶと)を脱(ぬい)で我先(われさき)にと降人(かうにん)に出(いで)ける間、城中の官軍(くわんぐん)力を失(うしなつ)て防(ふせぎ)得ず。さらば淀(よど)・鳥羽(とば)の辺(へん)へ引退(ひきしりぞい)て、大渡(おほわたり)の勢と一(ひとつ)に成(なつ)て戦へとて、討(うち)残されたる官軍(くわんぐん)三千(さんぜん)余騎(よき)、赤井(あかゐ)を差(さし)て落行(おちゆけ)ば、山崎の陣は破(やぶれ)にけり。「右(かく)ては敵皇居(くわうきよ)に乱入(みだれい)りぬと覚(おぼゆ)るぞ。主上(しゆしやう)を先(まづ)山門へ行幸成奉(ぎやうがうなしたてまつ)てこそ、心安(やすく)合戦をもせめ。」とて、新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)、大渡(おほわたり)を捨てゝ都へ帰(かへり)給へば、大友(おほとも)千代松丸・宇都宮(うつのみや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)降人(かうにん)に成(なつ)て、将軍の御方(みかた)に馳加(はせくはは)る。義貞・義助一手(ひとて)に成(なつ)て淀の大明神(だいみやうじん)の前を引(ひく)時、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)六万(ろくまん)余騎(よき)にて追懸(おつかけ)たり。新田越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)後陣に引(ひき)けるが、三千(さんぜん)余騎(よき)にて返合(かへしあは)せ、相撲(すまふ)が辻を陣に取(とつ)て、旗を颯(さつ)と指揚(さしあげ)たりけれ共(ども)、跡(あと)に合戦有(あり)とは義貞には告(つげ)られず。先(まづ)山門へ行幸(ぎやうがう)を成奉(なしたてまつ)らん為也(なり)。越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)、矢軍(やいくさ)にて且(しばら)く時を移し、義貞今は内裏(だいり)へ参(さんぜ)られぬらんと覚(おぼゆ)る程(ほど)に成(なつ)て、三千(さんぜん)余騎(よき)を二手(ふたて)に分(わけ)て、東西よりどつとをめいて懸入(かけいり)、大勢(おほぜい)に颯(さつ)と乱(みだれ)合ひ火を散(ちら)してぞ闘(たたかう)たる。只今まで御方(みかた)に有(あつ)て、敵になりぬる大友(おほとも)・宇都宮(うつのみや)が兵共(つはものども)なれば、越後(ゑちごの)守(かみ)を見知(しつ)て、自余(じよ)の勢には目を懸(かけ)ず、此(ここ)に取篭(とりこ)め彼(かしこ)によせ合(あは)せて、打留(うちと)めんとしけるを、義顕(よしあき)打破(うちやぶつ)ては囲(かこみ)を出(いで)、取(とつ)て返(かへし)ては追退(おひしりぞ)け、七八度(しちはちど)まで自(みづから)戦(たたかは)れけるに、鎧の袖も冑(かぶと)のしころも、皆切(きり)落されて、深手(ふかで)あまた所(ところ)負(お)ひければ、半死半生(はんしはんしやう)に切(きり)成されて、僅に都へ帰り給ふ。
○主上(しゆしやう)都落(みやこおちの)事(こと)付(つけたり)勅使河原(てしかはら)自害(じがいの)事(こと) S1408
山崎・大渡(おほわたり)の陣破(やぶ)れぬと聞へければ、京中(きやうぢゆう)の貴賎上下(きせんじやうげ)、俄に出来(いでき)たる事の様(やう)に、周章(あわて)ふためき倒(たふ)れ迷(まよひ)て、車馬東西に馳(はせ)違ふ。蔵物(ざうもつ)・財宝を上下(かみしも)へ持(もち)運ぶ。義貞・義助未(いまだ)馳参(はせまゐ)らざる前(さき)に、主上(しゆしやう)は山門へ落(おち)させ給はんとて、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を玉体(ぎよくたい)にそへて、鳳輦(ほうれん)に召されたれ共(ども)、駕輿丁(かよちやう)一人もなかりければ、四門(しもん)を堅(かため)て候武士共(ぶしども)、鎧著(き)ながら徒立(かちだち)に成(なつ)て、御輿(みこし)の前後をぞ仕りける。吉田(よしだの)内大臣(ないだいじん)定房(さだふさ)公(こう)、車を飛ばせて参ぜられたりけるが、御所中を走廻(はしりまはつ)て見給ふに、よく近侍(きんじ)の人々も周章(あわて)たりけりと覚(おぼえ)て、明星(みやうじやう)・日(ひ)の札(ふだ)、二間(ふたま)の御本尊まで、皆捨(すて)置かれたり。内府(だいふ)心閑(しづか)に青侍共(あをさぶらひども)に執持(とりもた)せて参ぜられけるが、如何(いかん)かして見落し給ひけん、玄象(げんじやう)・牧馬(ぼくば)・達磨(だるま)の御袈裟(けさ)・毘須羯摩(びしゆかつま)が作(つくり)し五大尊(ごだいそん)、取(とり)落されけるこそ浅猿(あさま)しけれ。公卿(くぎやう)・殿上人(てんしやうびと)三四人(さんしにん)こそ、衣冠(いくわん)正くして供奉(ぐぶ)せられたりけれ、其外(そのほか)の衛府(ゑふ)の官は、皆甲冑(かつちう)を著(ちやく)し、弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して、翠花(すゐくわ)の前後に打囲(うちかこ)む。此(この)二三年の間天下僅(わづか)に一統(いつとう)にして、朝恩に誇りし月卿雲客(げつけいうんかく)、指(さし)たる事もなきに、武具を嗜(たしな)み弓馬を好みて、朝義(てうぎ)道に違(たが)ひ、礼法則(のり)に背(そむき)しも、早(はや)かゝる不思議(ふしぎ)出来(いできた)るべき前表(ぜんべう)也(なり)と、今こそ思ひ知られたれ。新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)・脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)・並(ならび)に江田(えだ)・大館(おほたち)・堀口美濃(みのの)守(かみ)・里見・大井田(おゐた)・々中(たなか)・篭沢以下(こざはいげ)の一族(いちぞく)三十(さんじふ)余人(よにん)・千葉介(ちばのすけ)・宇都宮(うつのみや)美濃将監(みののしやうげん)・仁科(にしな)・高梨・菊池(きくち)以下(いげ)の外様(とざま)の大名八十(はちじふ)余人(よにん)、其(その)勢(せい)僅(わづか)に二万(にまん)余騎(よき)、鳳輦(ほうれん)の跡(あと)を守禦(しゆぎよ)して、皆東坂本(ひがしさかもと)へと馬を早む。事の騒(さわが)しかりし有様たゞ安禄山(あんろくざん)が潼関(とうくわん)の軍(いくさ)に、官軍(くわんぐん)忽(たちまち)に打負(うちまけ)て、玄宗皇帝(くわうてい)自(みづか)ら蜀(しよく)の国へ落(おち)させ給(たまひ)しに、六軍翠花(すゐくわ)に随(したがつ)て、剣閣の雲に迷(まよひ)しに異ならず。爰(ここ)に信濃(しなのの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に勅使川原(てしかはら)丹三郎(たんざぶらう)は、大渡(おほわたり)の手に向(むかひ)たりけるが、宇治も山崎も破れて、主上(しゆしやう)早(はや)何地共(いづちとも)なく東を差(さし)て落(おち)させ給ひぬと披露有(あり)ければ、「見危致命臣の義也(なり)。我(われ)何(なん)の顔(かんばせ)有(あつ)てか、亡朝(ばうてう)の臣として、不義の逆臣(ぎやくしん)に順(したが)はんや。」と云(いひ)て、三条川原(さんでうがはら)より父子三騎引返(ひつかへ)して、鳥羽(とば)の造路(つくりみち)・羅精門(らしやうもん)の辺(へん)にて、腹かき切(きつ)て死(しに)けり。
○長年(ながとし)帰洛(きらくの)事(こと)付(つけたり)内裏(だいり)炎上(えんじやうの)事(こと) S1409
那和(なわ)伯耆守(はうきのかみ)長年(ながとし)は、勢多(せた)を堅めて居たりけるが、山崎の陣破れて、主上(しゆしやう)早(はや)東坂本(ひがしさかもと)へ落(おち)させ給(たまひ)ぬと聞へければ、是(これ)より直(すぐ)に坂本へ馳参(はせまゐ)らんずる事は安けれ共(ども)、今一度(いちど)内裏(だいり)へ馳(はせ)まいらで直(すぐ)に落行(おちゆか)んずる事は、後難(こうなん)あるべしとて、其(その)勢(せい)三百(さんびやく)余騎(よき)にて、十日の暮程(くれほど)に又京都へぞ帰(かへり)ける。今日は悪日(あくにち)とて将軍未(いまだ)都へは入(いり)給はざりけれ共(ども)、四国・西国の兵共(つはものども)、数万騎(すまんぎ)打入(うちいつ)て、京白川(しらかは)に充満(みちみち)たれば、帆掛舟(ほかけぶね)の笠符(かさじるし)を見て、此(ここ)に要(よこぎり)彼(かしこ)に遮(さへぎつ)て、打留(うちとどめ)んとしけれ共(ども)、長年(ながとし)懸散(かけちらし)ては通(とほ)り、打破(うちやぶつ)ては囲(かこみ)を出(いで)、十七度(じふしちど)まで戦(たたかひ)けるに、三百(さんびやく)余騎(よき)の勢次第々々に討(うた)れて、百騎(ひやくき)計(ばかり)に成(なり)にけり。され共(ども)長年遂(つひ)に討(うた)れざれば、内裏(だいり)の置石(すゑいし)の辺(へん)にて、馬よりをり冑(かぶと)を脱(ぬ)ぎ、南庭に跪(ひざまづ)く。主上(しゆしやう)東坂本(ひがしさかもと)へ臨幸成(なつ)て、数剋(すごく)の事なれば、四門(しもん)悉(ことごとく)閇(とぢ)て、宮殿正に寂寞(せきばく)たり。然(しかれ)ば早(はや)甲乙人共(かふおつにんども)、乱入(みだれいり)けりと覚(おぼえ)て、百官礼儀を調(ととのへ)し紫宸殿(ししんでん)の上には賢聖(げんじやう)の障子(しやうじ)引破(ひきやぶ)られて、雲台(うんたい)の画図(ぐわと)此(こ)こ彼(かし)こに乱(みだれ)たり。佳人(かじん)晨装(しんさう)を餝(かざ)りし弘徽殿(こうきでん)の前には、翡翠(ひすゐ)の御簾(ぎよれん)半(なかば)より絶(たえ)て、微月(びげつ)の銀鉤(ぎんこう)虚(むなし)く懸(かか)れり。長年(ながとし)つく/゛\と是(これ)を見て、さしも勇める夷心(えびすごころ)にも哀(あは)れの色や勝りけん、泪(なみだ)を両眼に余(あまし)て鎧の袖をぞぬらしける。良(やや)且(しばら)く徘徊(やすらう)て居たりけるが、敵の時(とき)の声ま近(ぢか)く聞へければ、陽明門(やうめいもん)の前より馬に打乗(うちのつ)て、北白川(きたしらかは)を東へ今路越(いまみちごえ)に懸(かかつ)て、東坂本(ひがしさかもと)へぞ参(まゐり)ける。其(その)後四国・西国の兵共(つはものども)、洛中(らくちゆう)に乱入(みだれいつ)て、行幸供奉(ぎやうがうぐぶ)の人々の家に、屋形屋形(やかたやかた)に火を懸(かけ)たれば、時節(をりふし)辻風(つじかぜ)はげしく吹布(ふきしい)て、竜楼竹苑准后(りようろうちくゑんじゆごう)の御所(ごしよ)・式部卿(しきぶきやうの)親王(しんわうの)常盤井殿(ときはゐどの)・聖主御遊(せいしゆぎよいう)の馬場の御所、煙(けぶり)同時に立(たち)登りて炎(ほのほ)四方(しはう)に充満(みちみち)たれば、猛火(みやうくわ)内裏(だいり)に懸(かかつ)て、前殿后宮(こうきゆう)・諸司(しよし)八省(しやう)・三十六(さんじふろく)殿十二門、大廈(たいか)の構(かま)へ、徒(いたづら)に一時の灰燼(くわいじん)と成(なり)にけり。越王(ゑつわう)呉を亡(ほろぼ)して姑蘇城(こそじやう)一片(いつぺん)の煙となり、項羽(かうう)秦を傾(かたぶけ)て、咸陽宮(かんやうきゆう)三月の火を盛(さかん)にせし、呉越(ごゑつ)・秦楚(しんそ)の古(いにしへ)も、是(これ)にはよも過(すぎ)じと、浅猿(あさまし)かりし世間(よのなか)なり。
○将軍入洛(じゆらくの)事(こと)付(つけたり)親光(ちかみつ)討死(うちじにの)事(こと) S1410
明(あく)れば正月十一日、将軍八十万騎(はちじふまんぎ)にて都へ入(いり)給ふ。兼(かね)ては合戦事故(ことゆゑ)なくして入洛(じゆらく)せば、持明院(ぢみやうゐん)殿(どの)の御方(おんかた)の院(ゐん)・宮々(みやみや)の御中(おんなか)に一人御位(おんくらゐ)に即奉(つけたてまつ)て、天下の政道をば武家より計(はから)ひ申(まうす)べしと、議定(ぎぢやう)せられたりけるが、持明院の法皇・儲王(ちよわう)・儲君(ちよくん)一人も残らせ給はず、皆山門へ御幸成(ごかうなり)たりける間、将軍自(みづか)ら万機(ばんき)の政(まつりごと)をし給はん事も叶ふまじ、天下の事如何(いかが)すべきと案じ煩(わづら)ふてぞおはしける。結城(ゆふき)大田(おほたの)判官(はうぐわん)親光(ちかみつ)は、此(この)君に弐(ふたごこ)ろなき者也(なり)と深く憑(たの)まれ進(まゐら)せて、朝恩(てうおん)に誇る事傍(かたはら)に人なきが如(ごとく)也(なり)ければ、鳳輦(ほうれん)に供奉(ぐぶ)せんとしけるが、此(この)世の中、とても今は墓々(はかばか)しからじと思ひければ、いかにもして将軍をねらい奉らん為に、態(わざ)と都に落止(おちとどまり)てぞ居たりける。或(ある)禅僧を縁に執(とつ)て、降参(かうさん)仕るべき由を将軍へ申入(まうしいれ)たりければ、「親光(ちかみつ)が所存よも誠の降参にてはあらじ、只尊氏をたばからん為にてぞあるらん。乍去事の様(やう)を聞かん。」とて、大友(おほとも)左近(さこんの)将監(しやうげん)をぞ遣(つかは)されける。去(さる)程(ほど)に大友(おほとも)と太田(おほた)判官(はうぐわん)と、楊梅東洞院(やまももひがしのとうゐん)にて行合(ゆきあひ)たり。大友(おほとも)は元来(もとより)少し思慮なき者也(なり)ければ、結城に向(むかつ)て、「御降参(ごかうさん)の由を申され候(さふらひ)つるに依(よつ)て、某(それがし)を御使(おんつかひ)にて事の由を能々(よくよく)尋ねよと仰せらるゝにて候。何様(なにさま)降人(かうにん)の法にて候へば、御物具(もののぐ)を解(ぬが)せ給ひ候べし。」と、あらゝかに言(ことば)をぞ懸(かけ)たりける。親光(ちかみつ)是(これ)を聞(きい)て、さては将軍はや我(わが)心中を推量有(あつ)て、打手(うつて)の使に大友(おほとも)を出されたりと心得て、「物具を解(ぬが)せよとの御使(おんつかひ)にて候はゞ進(まゐらせ)候はん。」と云侭(いふまま)に、三尺(さんじやく)八寸(はつすん)の太刀を抜(ぬい)て、大友(おほとも)に馳懸(はせかか)り、冑(かぶと)のしころより本頚(もとくび)まで、鋒(きつさき)五寸(ごすん)計(ばかり)ぞ打(うち)こみたる。大友(おほとも)も太刀を抜(ぬか)んとしけるが、目やくれけん、一尺(いつしやく)計(ばかり)抜懸(ぬきかけ)て馬より倒(さかさま)に落(おち)て死(し)にけり。是(これ)を見て大友(おほとも)が若党(わかたう)三百(さんびやく)余騎(よき)、結城(ゆふき)が手(て)の者十七騎を中に取篭(とりこめ)て、余さず是(これ)を討(うた)んとす。結城が郎等共(らうどうども)は、元来主(しゆ)と共に討死せんと、思切(おもひきつ)たる者共(ものども)なれば、中々(なかなか)戦(たたかひ)てはなにかせんとて、引組(ひつくん)では差違差違(さしちがへさしちがへ)、一足(ひとあし)も引かず、一所(いつしよ)にて十四人まで打(うた)れにけり。敵も御方(みかた)も是(これ)を聞(きい)て、「あたら兵(つはもの)を、時の間(ま)に失(うしなひ)つる事の方見(うたて)しさよ。」と、惜(をし)まぬ人こそなかりけれ。
○坂本御皇居(さかもとごくわうきよ)並(ならびに)御願書(ごぐわんじよの)事(こと) S1411
主上(しゆしやう)已(すで)に東坂本(ひがしさかもと)に臨幸(りんかう)成(なつ)て、大宮(おほみや)の彼岸所(ひがんじよ)に御座あれ共(ども)、未(いまだ)参ずる大衆(だいしゆ)一人もなし。さては衆徒(しゆと)の心も変(へん)じぬるにやと叡慮(えいりよ)を悩(なやま)されける処に、藤本房(ふぢもとばうの)英憲僧都(えいけんそうづ)参(まゐつ)て、申出(まうしいで)たる言(ことば)もなく泪(なみだ)を流して大床(おほゆか)の上に畏(かしこまつ)てぞ候(さふらひ)ける。主上(しゆしやう)御簾(ぎよれん)の内より叡覧(えいらん)あ(ッ)て名字(みやうじ)を委(くはし)く尋仰(たづねおほせ)らる。さて其(その)後、「硯やある。」と仰(おほせ)られければ、英憲(えいけん)急ぎ硯を召寄(めしよせ)て御前(おんまへ)に閣(さしお)く。自(みづから)宸筆(しんぴつ)を染(そめ)られて御願書(ごぐわんじよ)をあそばされ、「是(これ)を大宮(おほみや)の神殿に篭(こめ)よ。」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、英憲(えいけん)畏(かしこまつ)て右方(みぎのかた)権禰宜(ごんのねぎ)行親(ゆきちか)を以て是(これ)を納め奉る。暫くあ(ッ)て円宗院法印(ゑんじゆうゐんのほふいん)定宗(ぢやうしゆう)、同宿(どうじゆく)五百(ごひやく)余人(よにん)召具(めしぐ)して参りたり。君大(おほき)に叡感有(あつ)て、大床(おほゆか)へ召(めさ)る。定宗(ぢやうしゆう)御前(おんまへ)に跪(ひざまづい)て申(まうし)けるは、「桓武(くわんむの)皇帝(くわうてい)の御宇(ぎよう)に、高祖(かうそ)大師(だいし)当山を開基(かいき)して、百王鎮護の伽藍(がらん)を立られ候(さふらひ)しより以来(このかた)、朝家に悦び有る時は、九院挙(こぞつ)て掌(たなごころ)を合(あは)せ、山門に愁(うれ)へある日は、百司均(ひとし)く心を傾(かたぶけ)られずと申す事候はず。誠(まこと)に仏法と王法と相比(あひひ)する故、人として知(しら)ずと云(いふ)者候べからず。されば今逆臣朝廷を危(あやし)めんとするに依(よつ)て、忝(かたじけなく)も万乗(ばんじよう)の聖主、吾(わが)山を御憑(おんたのみ)あ(ッ)て、臨幸成(なつ)て候はんずるを、褊(さみ)し申す衆徒は、一人もあるまじきにて候。身不肖(ふせう)に候へ共(ども)、定宗一人忠貞(ちゆうてい)を存ずる程ならば、三千(さんぜん)の宗徒、弐(ふたごこ)ろはあらじと思食(おぼしめ)し候べし。供奉(ぐぶ)の官軍(くわんぐん)さこそ窮屈(きゆうくつ)に候らめ。先(まづ)御宿(やど)を点じて進(まゐら)せ候べし。」とて、二十一箇所の彼岸所(ひがんしよ)、其外(そのほか)坂本・戸津(とづ)・比叡辻(へいつじ)の坊々(ばうばう)・家々に札(ふだ)を打(うつ)て、諸軍勢(しよぐんぜい)をぞやどしける。其(その)後又南岸坊(なんがんばう)の僧都(そうづ)・道場坊(だうぢやうばうの)祐覚(いうがく)、同宿(どうじゆく)千(せん)余人(よにん)召具(めしぐ)して、先(まづ)内裏(だいり)に参じ、やがて十禅師(じふぜんじ)に立登(たちのぼつ)て大衆(だいしゆ)を起(おこ)し、僉議(せんぎ)の趣(おもむき)を院々(ゐんゐん)・谷々(たにだに)へぞ触送(ふれおく)りける間、三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)悉(ことごと)く甲冑(かつちう)を帯(たい)して馳参(はせまゐる)。先(まづ)官軍(くわんぐん)の兵粮(ひやうらう)とて、銭貨(せんくわ)六万貫(ろくまんぐわん)・米穀七千(しちせん)石(ごく)・波止土濃(はしどの)の前に積(つん)だりければ、祐覚(いうがく)是(これ)を奉(ぶ)行して、諸軍勢(しよぐんぜい)に配分(はいぶん)す。さてこそ未(いまだ)医王山王(いわうさんわう)も、我(わが)君を捨(すて)させ給はざりけりと、敗軍(はいぐん)の士卒(じそつ)悉(ことごと)く憑(たの)もしき事には思ひけれ。


太平記(国民文庫)
太平記巻第十五

○園城寺(をんじやうじ)戒壇(かいだんの)事(こと) S1501
山門二心(ふたごころ)なく君を擁護(おうご)し奉て、北国・奥州の勢を相待(まつ)由聞(きこ)へければ、義貞に勢の著(つか)ぬ前(さき)に、東坂本(ひがしさかもと)を急(いそぎ)可被責とて、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)・同刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)・並(ならびに)陸奥(むつの)守(かみ)を大将として、六万(ろくまん)余騎(よき)を三井寺(みゐでら)へ被差遣。是(これ)は何(いつ)も山門に敵する寺なれば、衆徒(しゆと)の所存よも二心非じと被憑ける故(ゆゑ)也(なり)。随(したがつて)而衆徒被致忠節者、戒壇(かいだん)造営の事(こと)、武家殊に加力可成其功之(の)由(よし)、被成御教書。抑(そもそも)園城寺(をんじやうじ)の三摩耶戒壇(さまやかいだん)の事は、前々(せんぜん)已(すで)に公家(くげ)尊崇(そんそう)の儀を以て、勅裁を被成、又関東(くわんとう)贔負(ひいき)の威を添(そへ)て取立(とりたて)しか共(ども)、山門嗷訴(がうそ)を恣(ほしいまま)にして猛威を振(ふる)ふ間、干戈(かんくわ)是(これ)より動き、回禄(くわいろく)度々(どど)に及べり。其(その)故を如何(いかに)と尋(たづぬ)るに、彼(かの)寺の開山高祖(かいさんかうそ)智証(ちしよう)大師(だいし)と申(まうし)奉るは、最初(そのかみ)叡山(えいさん)伝教(でんげう)大師(だいし)の御弟子(おんでし)にて、顕密両宗(けんみつりやうしゆう)の碩徳(せきとく)、智行兼備の権者(ごんじや)にてぞ御坐(おはしま)しける。而るに伝教(でんげう)大師(だいし)御入滅(ごにふめつ)の後、智証(ちしよう)大師(だいし)の御弟子(おんでし)と、慈覚(じかく)大師(だいし)の御弟子(おんでし)と、聊(いささか)法論の事有(あつ)て、忽(たちまち)に確執(かくしつ)に及(および)ける間、智証(ちしよう)大師(だいし)の門徒修禅(もんとしゆぜん)三百房(さんびやくばう)引(ひい)て、三井寺(みゐでら)に移る。于時教待和尚(けうたいくわしやう)百六十年(ひやくろくじふねん)行(おこなう)て祈出(いのりいだ)し給(たまひ)し生身(しやうじん)の弥勒菩薩(みろくぼさつ)を智証(ちしよう)大師(だいし)に付属(ふぞく)し給へり。大師(だいし)是(これ)を受て、三密瑜伽(さんみつゆか)の道場を構へ、一代説教の法席(ほつせき)を展給(のべたまひ)けり。其(その)後仁寿(にんじゆ)三年に、智証(ちしよう)大師(だいし)求法(ぐほふ)の為に御渡唐有(ごとたうあり)けるに、悪風俄に吹来(ふききたつ)て、海上の御船(おんふね)忽(たちまち)にくつがへらんとせし時、大師(だいし)舷(ふなばた)に立出(たちいで)て、十方を一礼(いちらい)して誠礼を致させ給ひしかば、仏法護持(ごぢ)の不動明王(ふどうみやうわう)、金色(こんじき)の身相(しんさう)を現(げん)じて、船の舳(へ)に立(たち)給ふ。又新羅(しんら)大明神(だいみやうじん)親(まのあた)りに船の艫(とも)に化現(けげん)して、自(みづから)橈(かぢ)を取(とり)給ふ。依之(これによつて)御舟(おんふね)無恙明州津(みやうじうのつ)に著(つき)にけり。角(かく)て御在唐(ございたう)七箇年(しちかねん)の間、寝食(しんしよく)を忘(わすれ)て顕密(けんみつ)の奥義(あうぎ)を究(きは)め給ひて、天安三年に御帰朝あり。其後(そののち)法流弥(いよいよ)盛(さかん)にして、一朝の綱領(かうれい)、四海(しかい)の倚頼(いらい)たりしかば、此(この)寺四箇の大寺(だいじ)の其(その)一つとして、論場(ろんぢやう)の公請(くしやう)に随ひ、宝祚(はうそ)の護持を致(いたす)事(こと)諸寺に卓犖(たくらく)せり。抑(そもそも)山門已(すで)に菩薩(ぼさつ)の大乗戒(だいじようかい)を建(たて)、南都(なんと)は又声聞(しやうもん)の小乗戒(せうじようかい)を立つ。園城寺(をんじやうじ)何ぞ真言(しんごん)の三摩耶戒(さまやかい)を建(たて)ざらんやとて、後朱雀(ごしゆじやく)院(ゐん)の御宇(ぎよう)長暦(ちようりやく)年中に、三井寺(みゐでら)の明尊(みやうそん)僧正(そうじやう)、頻(しき)りに勅許を蒙(かうむ)らんと奏聞しけるを、山門堅く支申(ささへまうし)ければ、彼(かの)寺の本主太政(だいじやう)大臣(だいじん)大友(おほともの)皇子(わうじ)の後胤、大友(おほともの)夜須磨呂(やすまろ)の氏族連署して、官府(くわんふ)を申す。貞観(ぢやうぐわん)六年十二月五日の状に曰(いはく)、「望請長為延暦寺(えんりやくじ)別院(べちゐん)、以件円珍作主持之人、早垂恩恤、以園城寺、如解状可為延暦寺(えんりやくじ)別院(べちゐん)之(の)由(よし)、被下寺牒。将俾慰夜須磨呂(やすまろ)並氏人愁吟。弥為天台(てんだいの)別院(べちゐん)専祈天長地久之御願、可致四海(しかい)八■(はちえん)之泰平云云。仍貞観八年五月十四日、官符被成下曰、以園城寺可為天台(てんだいの)別院(べちゐん)云云。如之貞観九年(くねん)十月三日智証(ちしよう)大師(だいし)記文云、円珍之門弟不可受南都小乗劣戒、必於大乗戒壇院、可受菩薩別解脱戒云云。然(しかれ)ば本末(ほんまつ)の号歴然(れきぜん)たり。師弟の義何ぞ同(おなじ)からん。」証(しよう)を引き理(り)を立(たて)て支申(ささへまうし)ける間、君(きみ)思食煩(おぼしめしわづらは)せ給(たまひ)て、「許否(きよひ)共に凡慮(ぼんりよ)の及(およぶ)処に非(あらざ)れば、只可任冥慮。」とて、自(みづから)告文(かうぶん)を被遊て叡山(えいさんの)根本中堂(こんぼんちゆうだう)に被篭けり。其詞(そのことばに)云(く)、「戒壇立、而可無国家之危者、悟其旨帰、戒壇立而可有王者之懼者、施其示現云云。」此告文(このかうぶん)を被篭て、七日に当りける夜、主上(しゆしやう)不思議(ふしぎ)の御夢想(ごむさう)ありけり。無動寺(むどうじ)の慶命(きやうみやう)僧正(そうじやう)、一紙(いつし)の消息(せうそく)を進(まゐらせ)て云(いはく)、「自胎内之昔、至治天之今、忝(かたじけなくも)雖奉祈請宝祚長久、三井寺(みゐでらの)戒壇院若(もし)被宣下者、可失本懐云云。」又其翌夜(そのつぎのよ)の御夢(おんゆめ)に彼(かの)慶命(きやうみやう)僧正(そうじやう)参内(さんだい)して紫宸殿(ししんでん)に被立たりけるが、大きに忿(いか)れる気色(けしき)にて、「昨日一紙(いつし)の状を雖進覧、叡慮(えいりよ)更に不驚給、所詮(しよせん)三井寺(みゐでら)の戒壇有勅許者、変年来之御祈、忽(たちまち)に可成怨心。」と宣(のたま)ふ。又其翌(そのつぎ)の夜(よ)の御夢(おんゆめ)に、一人の老翁弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して殿上(てんしやう)に候(こう)す。主上(しゆしやう)、「汝(なんぢ)は何者ぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、「円宗(ゑんしゆう)擁護(おうご)の赤山(せきさん)大明神(だいみやうじん)にて候。三井寺(みゐでら)の戒壇院執奏(しつそう)の人に向(むかつ)て、矢一つ仕(つかまつら)ん為に参内(さんだい)して候也(なり)。」とぞ申(まうさ)れける。夜々の御夢想に、君も臣も恐(おそれ)て被成ければ、遂(つひ)に寺門の所望被黙止、山門に道理をぞ被付ける。角(かく)て遥(はるか)に程(ほど)経(へ)て、白河院の御宇(ぎよう)に、江帥匡房(えのそつのきやうばう)の兄に、三井寺(みゐでら)の頼豪(らいがう)僧都(そうづ)とて、貴(たつと)き人有(あり)けるを被召、皇子御誕生の御祈(おんいのり)をぞ被仰付ける。頼豪(らいがう)勅を奉(うけたまはつ)て肝胆(かんたん)を砕(くだい)て祈請(きしやう)しけるに、陰徳忽(たちまち)に顕(あらは)れて承保(しようほう)元年十二月十六日に皇子御誕生有(あり)てけり。帝(みかど)叡感の余(あまり)に、「御祷(おんいのり)の観賞(けんじやう)宜依請。」と被宣下。頼豪(らいがう)年来(としごろ)の所望(しよまう)也(なり)ければ、他の官禄一向是(これ)を閣(さしおい)て、園城寺(をんじやうじ)の三摩耶戒壇(さまやかいだん)造立(ざうりつ)の勅許をぞ申賜(まうしたまはり)ける。山門又是(これ)を聴(きき)て款状(くわじやう)を捧(ささげ)て禁庭(きんてい)に訴へ、先例を引(ひい)て停廃(ちやうはい)せられんと奏(そう)しけれども、「綸言(りんげん)再び不複」とて勅許無(なか)りしかば、三塔(さんたふ)嗷儀(がうぎ)を以て谷々(たにだに)の講演(かうえん)を打止(うちや)め、社々(やしろやしろ)の門戸(もんこ)を閉(とぢ)て御願(ごぐわん)を止(やめ)ける間、朝儀(てうぎ)難黙止して無力三摩耶戒壇造立の勅裁(ちよくさい)をぞ被召返ける。頼豪(らいがう)是(これ)を忿(いかつ)て、百日(ひやくにち)の間髪(かみ)をも不剃爪をも不切、炉壇(ろだん)の烟にふすぼり、嗔恚(しんい)の炎(ほのほ)に骨を焦(こがし)て、我(われ)願(ねがはく)は即身(そくしん)に大魔縁(だいまえん)と成(なつ)て、玉体を悩(なやま)し奉り、山門の仏法を滅ぼさんと云ふ悪念(あくねん)を発(おこ)して、遂(つひ)に三七日(さんしちにち)が中に壇上(だんじやう)にして死にけり。其怨霊(そのをんりやう)果(はた)して邪毒を成(なし)ければ、頼豪(らいがう)が祈出(いのりいだ)し奉りし皇子、未(いまだ)母后(ぼこう)の御膝(ひざ)の上を離(はなれ)させ給はで、忽(たちまち)に御隠(おんかくれ)有(あり)けり。叡襟(えいきん)是(これ)に依(よつ)て不堪、山門の嗷訴(がうそ)、園城(をんじやう)の効験(かうげん)、得失(とくしつ)甚(はなはだし)き事隠無(かくれなか)りければ、且(かつう)は山門の恥を洗(すす)ぎ、又は継体(けいたい)の儲(ひつぎ)を全(まつたう)せん為に、延暦寺(えんりやくじの)座主(ざす)良信(りやうしん)大僧正(だいそうじやう)を申請(まうししやうじ)て、皇子御誕生の御祈(おんいのり)をぞ被致ける。先(まづ)御修法(みしほ)の間種々の奇瑞(きずゐ)有(あり)て、承暦(しやうりやく)三年七月九日皇子御誕生あり。山門の護持(ごぢ)隙(ひま)無(なか)りければ、頼豪(らいがう)が怨霊(をんりやう)も近付(ちかづき)奉らざりけるにや、此(この)宮(みや)遂(つひ)に玉体無恙して、天子の位を践(ふま)せ給ふ。御在位(ございゐ)の後院号(ゐんがう)有(あつ)て、堀河(ほりかはの)院(ゐん)と申(まうし)しは、則(すなはち)此(この)第二(だいに)の宮(みや)の御事(おんこと)也(なり)。其後(そののち)頼豪(らいがう)が亡霊(ばうれい)忽(たちまち)に鉄(くろがね)の牙(きば)、石の身なる八万四千(はちまんしせん)の鼠と成(なつ)て、比叡山(ひえいさん)に登り、仏像・経巻を噛破(くひやぶり)ける間、是(これ)を防(ふせぐ)に無術して、頼豪(らいがう)を一社(いつしや)の神に崇(あが)めて其怨念(そのをんねん)を鎮(しづ)む。鼠の禿倉(ほこら)是(これ)也(なり)。懸(かかり)し後は、三井寺(みゐでら)も弥(いよいよ)意趣(いしゆ)深(ふかう)して、動(ややもすれ)ば戒壇の事を申達(まうしたつ)せんとし、山門も又以前の嗷儀(がうぎ)を例(れい)として、理不尽に是(これ)を欲徹却と。去(され)ば始(はじめ)天歴年中より、去文保(さんぬるぶんほう)元年に至(いたる)迄、此(この)戒壇故(ゆゑ)に園城寺(をんじやうじ)の焼(やく)る事已(すで)に七箇度(しちかど)也(なり)。近年は是(これ)に依(よつ)て、其企(そのくはたて)も無(なか)りつれば、中々(なかなか)寺門繁昌して三宝の住持(ぢゆうぢ)も全(まつた)かりつるに、今将軍妄(みだり)に衆徒の心を取(とら)ん為に、山門の忿(いかり)をも不顧、楚忽(そこつ)に被成御教書ければ、却(かへつ)て天魔(てんま)の所行(しよぎやう)、法滅の因縁(いんえん)哉(かな)と、聞(きく)人毎(ごと)に脣(くちびる)を翻(ひるがへ)しけり。
○奥州勢(あうしうぜい)著坂本事 S1502
去年十一月に、義貞朝臣打手(うつて)の大将を承(うけたまはつ)て、関東(くわんとう)へ被下向時、奥州の国司(こくし)北畠(きたばたけの)中納言顕家(あきいへの)卿(きやう)の方へ、合図(あひづ)の時をたがへず可攻合由綸旨(りんし)を被下たりけるが、大軍を起す事不容易間、兎角(とかう)延引す。剰(あまつさへ)路すがらの軍(いくさ)に日数(ひかず)を送りける間、心許(ばかり)は被急けれども、此彼(ここかしこ)の逗留(とうりう)に依(よつ)て、箱根(はこね)の合戦には迦(はづ)れ給ひにけり。されども幾程(いくほど)もなく、鎌倉(かまくら)に打入(うちいり)給ひたれば、将軍は早(はや)箱根(はこね)竹下(たけのした)の戦に打勝(うちかつ)て、軈(やが)て上洛(しやうらく)し給ひぬと申(まうし)ければ、さらば迹(あと)より追(おつ)てこそ上(のぼ)らめとて、夜を日に継(つい)でぞ被上洛(しやうらくせられ)ける。去程(さるほど)に越後・上野(かうづけ)・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)に残りたる新田(につた)の一族(いちぞく)、並(ならびに)千葉・宇都宮(うつのみや)が手勢(てぜい)共(ども)、是(これ)を聞伝(ききつたへ)て此彼(ここかしこ)より馳加(はせくはは)りける間、其(その)勢(せい)無程五万(ごまん)余騎(よき)に成(なり)にけり。鎌倉(かまくら)より西には手さす者も無(なか)りければ、夜昼(よるひる)馬を早めて、正月十二日近江(あふみ)の愛智河(えちがは)の宿(しゆく)に被著けり。其(その)日(ひ)大館中務(おほたちなかづかさの)大輔(たいふ)、佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)氏頼(うぢより)其比(そのころ)未(いまだ)幼稚(えうち)にて楯篭(たてごも)りたる観音寺(くわんおんじ)の城郭を責落(せめおとし)て、敵を討(うつ)事(こと)都(すべ)て五百(ごひやく)余人(よにん)、翌日(よくじつ)早馬を先立(さきたて)て事の由を坂本へ被申たりければ、主上(しゆしやう)を始進(はじめまゐら)せて、敗軍の士卒(じそつ)悉(ことごとく)悦(よろこび)をなし、志(こころざし)を不令蘇と云(いふ)者なし。則(すなはち)道場坊の助註記(じよちゆうき)祐覚(いうかく)に被仰付、湖上(こしやう)の船七百(しちひやく)余艘(よさう)を点(てん)じて志那浜(しなのはま)より一日が中(うち)にぞ被渡ける。爰(ここ)に宇都宮(うつのみや)紀清(きせい)両党、主の催促に依(よつ)て五百(ごひやく)余騎(よき)にて打連(うちつれ)たりけるが、宇都宮(うつのみや)は将軍方(しやうぐんがた)に在(あり)と聞へければ、面々(めんめん)に暇(いとま)を請(こひ)、色代(しきだい)して志那(しなの)浜より引(ひき)分れ、芋洗(いもあらひ)を廻(まはつ)て、京都へこそ上(のぼ)りけれ。
○三井寺(みゐでら)合戦並(ならびに)当寺撞鐘(つきがねの)事(こと)付(つけたり)俵藤太(たはらとうだが)事(こと) S1503
東国の勢既(すで)[に]坂本に著(つき)ければ、顕家(あきいへの)卿(きやう)・義貞朝臣、其外(そのほか)宗(むね)との人々、聖女(しやうによ)の彼岸所(ひかんじよ)に会合して、合戦の評定(ひやうぢやう)あり。「何様(いかさま)一両日(いちりやうにち)は馬の足を休(やすめ)てこそ、京都へは寄(よせ)候はめ。」と、顕家(あきいへの)卿(きやう)宣(のたまひ)けるを、大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)被申けるは、「長途(ちやうど)に疲れたる馬を一日も休(やすめ)候はゞ中々(なかなか)血下(さがつ)て四五日は物(もの)の用に不可立。其(その)上(うへ)此(この)勢(せい)坂本へ著(つき)たりと、敵縦(たとひ)聞及共(ききおよぶとも)、頓(やが)て可寄とはよも思寄(おもひより)候はじ。軍(いくさ)は起不意必(かならず)敵を拉(とりひしぐ)習(ならひ)也(なり)。只今夜(こんや)の中(うち)に志賀(しが)・唐崎(からさき)の辺(へん)迄打寄(うちよせ)て、未明(びめい)に三井寺(みゐでら)へ押寄せ、四方(しはう)より時(とき)を作(つくつ)て責入(せめいる)程ならば、御方(みかた)治定(ぢぢやう)の勝軍(かちいくさ)とこそ存(ぞんじ)候へ。」と被申ければ、義貞朝臣も楠(くすのき)判官(はうぐわん)正成(まさしげ)も、「此義(このぎ)誠(まこと)に可然候。」と被同て、頓(やが)て諸大将(しよだいしやう)へぞ被触ける。今上(いまのぼ)りの千葉勢是(これ)を聞(きい)て、まだ宵(よひ)より千(せん)余騎(よき)にて志賀の里に陣取る。大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)・額田(ぬかだ)・羽(はね)川六千(ろくせん)余騎(よき)にて、夜半(やはん)に坂本を立(たつ)て、唐崎の浜に陣を取る。戸津(とつ)・比叡辻(へいつじ)・和爾(わに)・堅田(かたた)の者共(ものども)は、小船七百(しちひやく)余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て、澳(おき)に浮(うかめ)て明(あく)るを待(まつ)。山門の大衆(だいしゆ)は、二万(にまん)余人(よにん)、大略(たいりやく)徒立(かちだち)なりければ、如意越(によいごえ)を搦手(からめて)に廻(まは)り、時の声を揚(あ)げば同時に落(おと)し合(あはせ)んと、鳴(なり)を静めて待明(まちあか)す。去(さる)程(ほど)に坂本に大勢(おほぜい)の著(つき)たる形勢(ありさま)、船の往反(わうへん)に見へて震(おびたた)しかりければ、三井寺(みゐでら)の大将細川(ほそかはの)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)、高(かうの)大和(やまとの)守(かみ)が方より、京都へ使を馳(はせ)て、「東国の大勢坂本に著(つき)て、明日可寄由其聞(そのきこ)へ候。急(いそぎ)御勢(おんせい)を被添候へ。」と、三度(さんど)迄被申たりけれ共(ども)、「関東(くわんとう)より何(なに)勢(せい)が其(それ)程迄多(おほく)は上(のぼ)るべきぞ。勢(せい)は大略(たいりやく)宇都宮(うつのみや)紀清(きせい)の両党の者とこそ聞(きこ)ゆれ。其(その)勢(せい)縦(たとひ)誤(あやまつ)て坂本へ著(つき)たりとも、宇都宮(うつのみや)京に在(あり)と聞(きこ)へなば、頓(やが)て主の許(もと)へこそ馳来(はせきたら)んずらん。」とて、将軍事ともし給はざりければ、三井寺(みゐでら)へは勢の一騎をも不被添。夜既(すで)に明方(あけがた)に成(なり)しかば源(げん)中納言(ぢゆうなごん)顕家(あきいへの)卿(きやう)二万(にまん)余騎(よき)、新田(につた)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞三万(さんまん)余騎(よき)、脇屋(わきや)・堀口・額田(ぬかだ)・鳥山(とりやま)の勢一万五千(いちまんごせん)余騎(よき)、志賀(しが)・唐崎の浜路(はまぢ)に駒を進(すすめ)て押寄(おしよせ)て、後陣(ごぢん)遅(おそ)しとぞ待(まち)ける。前陣の勢先(まづ)大津(おほつ)の西の浦、松本の宿(しゆく)に火をかけて時の声を揚(あ)ぐ。三井寺(みゐでら)の勢共(せいども)、兼(かね)てより用意(ようい)したる事なれば、南院(なんゐん)の坂口に下(お)り合(あつ)て、散々(さんざん)に射る。一番に千葉介(ちばのすけ)千(せん)余騎(よき)にて推(おし)寄せ、一二の木戸(きど)打破(うちやぶ)り、城の中へ切(きつ)て入り、三方(さんぱう)に敵を受(うけ)て、半時許(はんじばかり)闘(たたか)ふたり。細川(ほそかはの)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)が横合(よこあひ)に懸(かか)りける四国の勢六千(ろくせん)余騎(よき)に被取篭て、千葉(ちばの)新介(しんすけ)矢庭(やには)に被打にければ、其(その)手(て)の兵(つはもの)百(ひやく)余騎(よき)に、当(たう)の敵を討(うた)んと懸入(かけいり)々々(かけいり)戦(たたかう)て、百五十騎(ひやくごじつき)被討にければ、後陣に譲(ゆづつ)て引退(ひきしりぞ)く。二番に顕家(あきいへの)卿(きやう)二万(にまん)余騎(よき)にて、入替(いれか)へ乱合(みだれあつ)て責(せめ)戦ふ。其(その)勢(せい)一軍(ひといくさ)して馬の足を休(やすむ)れば、三番に結城(ゆふき)上野入道・伊達(だて)・信夫(しのぶ)の者共(ものども)五千(ごせん)余騎(よき)入替(いれかはつ)て面(おもて)も不振責(せめ)戦ふ。其(その)勢(せい)三百(さんびやく)余騎(よき)被討て引退(ひきしりぞき)ければ、敵勝(かつ)に乗(のつ)て、六万(ろくまん)余騎(よき)を二手(ふたて)に分(わけ)て、浜面(はまおもて)へぞ打(うつ)て出(いで)たりける。新田左衛門(さゑもんの)督(かみ)是(これ)を見て、三万(さんまん)余騎(よき)を一手(ひとて)に合(あは)せて、利兵(りへい)堅(かたき)を破(やぶつ)て被進たり。細川雖大勢と、北は大津の在家(ざいけ)まで焼(やく)る最中(さいちゆう)なれば通(とほ)り不得。東は湖海(こかい)なれば、水深(ふかう)して廻(まはら)んとするに便(たよ)りなし。僅(わづか)に半町にもたらぬ細道を只一順(じゆん)に前(すす)まんとすれば、和爾(わに)・堅田(かたた)の者共(ものども)が渚(なぎさ)に舟を漕並(こぎならべ)て射ける横矢(よこや)に被防て、懸引自在(かけひきじざい)にも無(なか)りけり。官軍(くわんぐん)是(これ)に力を得て、透間(すきま)もなく懸(かか)りける間、細川が六万(ろくまん)余騎(よき)の勢五百(ごひやく)余騎(よき)被打て、三井寺(みゐでら)へぞ引返(ひつかへ)しける。額田(ぬかだ)・堀口・江田・大館(おほたち)七百(しちひやく)余騎(よき)にて、逃(にぐ)る敵に追(おつ)すがふて、城の中へ入(いら)んとしける処を、三井寺(みゐでらの)衆徒五百(ごひやく)余人(よにん)関(きど)の口に下(お)り塞(ふさがつ)て、命を捨(すて)闘(たたかひ)ける間、寄手(よせて)の勢百(ひやく)余人(よにん)堀の際(きは)にて被討ければ、後陣(ごぢん)を待(まつ)て不進得。其(その)間に城中より木戸を下(おろ)して堀の橋を引(ひき)けり。義助是(これ)を見て、「無云甲斐者共(ものども)の作法(さほう)哉(かな)。僅(わづか)の木戸(きど)一(ひとつ)に被支て是(これ)程の小城(こしろ)を責(せめ)落さずと云(いふ)事(こと)やある。栗生(くりふ)・篠塚(しのづか)はなきか。あの木戸取(とつ)て引破(やぶ)れ。畑(はた)・亘理(わたり)はなきか。切(きつ)て入れ。」とぞ被下知ける。栗生・篠塚是(これ)を聞(きい)て馬より飛(とん)で下(お)り、木戸を引破(やぶ)らんと走寄(はしりよつ)て見れば、屏(へい)の前に深さ二丈余(あま)りの堀をほりて、両方の岸屏風(びやうぶ)を立(たて)たるが如くなるに、橋の板をば皆刎迦(はねはづ)して、橋桁許(はしげたばかり)ぞ立(たち)たりける。二人(ににん)の者共(ものども)如何(いかに)して可渡と左右をきつと見(みる)処に、傍(そば)なる塚の上(うへ)に、面(おもて)三丈許(ばかり)有(あつ)て、長さ五六丈もあるらんと覚へたりける大率都婆(おほそとば)二本あり。爰(ここ)にこそ究竟(くきやう)の橋板(はしいた)は有(あり)けれ。率都婆(そとば)を立(たつ)るも、橋を渡すも、功徳(くどく)は同じ事なるべし。いざや是(これ)を取(とつ)て渡さんと云侭(いふまま)に、二人(ににん)の者共(ものども)走寄(はしりよつ)て、小脇(こわき)に挟(はさみ)てゑいやつと抜く。土の底五六尺掘入(ほりいれ)たる大木なれば、傍(あた)りの土一二尺(いちにしやく)が程くわつと崩(くづれ)て、率都婆(そとば)は無念抜(ぬけ)にけり。彼等(かれら)二人(ににん)、二本の率都婆(そとば)を軽々(かるかる)と打(うち)かたげ、堀のはたに突立(つきたて)て、先(まづ)自歎(じたん)をこそしたりけれ。「異国には烏獲(をうくわく)・樊■(はんくわい)、吾朝(わがてう)には和泉(いづみの)小次郎・浅井那(あさゐな)三郎、是(これ)皆世に双(なら)びなき大力(だいぢから)と聞ゆれども、我等が力に幾程(いくほど)かまさるべき。云(いふ)所傍若無人(ばうじやくぶじん)也(なり)と思(おもは)ん人は、寄合(よせあつ)て力根(ちからね)の程を御覧(ごらん)ぜよ。」と云侭(いふまま)に、二本の率都婆(そとば)を同じ様(やう)に、向(むかひ)の岸へぞ倒し懸(かけ)たりける。率都婆(そとば)の面(おもて)平(たひらか)にして、二本相並(あひならべ)たれば宛(あたか)四条(しでう)・五条の橋の如し。爰(ここ)に畑(はた)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・亘理(わたり)新左衛門(しんざゑもん)二人(ににん)橋の爪(つめ)に有(あり)けるが、「御辺達(ごへんたち)は橋渡(わた)しの判官に成り給へ。我等(われら)は合戦をせん。」と戯(たはむ)れて、二人(ににん)共橋の上をさら/゛\と走(はしり)渡り、堀の上なる逆木(さかもぎ)共(ども)取(とつ)て引除(ひきのけ)、各(おのおの)木戸(きど)の脇にぞ著(つい)たりける。是(これ)を防ぎける兵共(つはものども)、三方(さんぱう)の土矢間(つちさま)より鑓(やり)・長刀を差出(さしいだ)して散々(さんざん)に突(つき)けるを、亘理新左衛門(しんざゑもん)、十六(じふろく)迄奪(うばう)てぞ捨(すて)たりける。畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)是(これ)を見て、「のけや亘理殿、其屏(そのへい)引破(やぶつ)て心安く人々に合戦せさせん。」と云侭(いふまま)に、走懸(はしりかか)り、右の足を揚(あげ)て、木戸(きど)の関(くわん)の木の辺(へん)を、二蹈三蹈(ふたふみみふみ)ぞ蹈(ふん)だりける。余(あまり)に強く被蹈て、二筋(ふたすぢ)渡せる八九寸の貫(くわん)の木、中より折(をれ)て、木戸の扉も屏柱(へいはしら)も、同(おなじ)くどうど倒れければ、防がんとする兵五百(ごひやく)余人(よにん)、四方(しはう)に散(ちつ)て颯(さつ)とひく。一の木戸已(すで)に破(やぶれ)ければ、新田(につた)の三万(さんまん)余騎(よき)の勢、城の中へ懸入(かけいつ)て、先(まづ)合図(あひず)の火をぞ揚(あげ)たりける。是(これ)を見て山門の大衆(だいしゆ)二万(にまん)余人(よにん)、如意越(によいごえ)より落合(おちあつ)て、則(すなはち)院々(ゐんゐん)谷々(たにだに)へ乱(みだれ)入り、堂舎・仏閣に火を懸(かけ)て呼(をめ)き叫(さけん)でぞ責(せめ)たりける。猛火(みやうくわ)東西より吹懸(ふきかけ)て、敵南北に充満(みちみち)たれば、今は叶(かなは)じとや思(おもひ)けん、三井寺(みゐでら)の衆徒共(しゆとども)、或(あるひ)は金堂(こんだう)に走入(はしりいつ)て猛火(みやうくわ)の中に腹を切(きつ)て臥(ふし)、或(あるひ)は聖教(しやうげう)を抱(いだい)て幽谷(いうこく)に倒れ転(まろ)ぶ。多年止住(しぢゆう)の案内者(あんないしや)だにも、時に取(とつ)ては行方(ゆきかた)を失ふ。況乎(いはんや)四国・西国の兵共(つはものども)、方角もしらぬ烟(けぶり)の中に、目をも不見上迷ひければ、只此彼(ここかし)この木の下岩(いは)の陰(かげ)に疲れて、自害をするより外(ほか)の事は無(なか)りけり。されば半日許(ばかり)の合戦に、大津・松本・三井寺(みゐでらの)内に被討たる敵を数(かぞふ)るに七千三百(しちせんさんびやく)余人(よにん)也(なり)。抑(そもそも)金堂(こんだう)の本尊(ほんぞん)は、生身(しやうしん)の弥勒(みろく)にて渡(わたら)せ給へば、角(かく)ては如何(いかが)とて或(ある)衆徒御首許(みくしばかり)を取(とつ)て、薮(やぶ)の中に隠(かく)し置(おき)たりけるが、多(おほく)被討たる兵(つはもの)の首共(くびども)の中に交(まじは)りて、切目(きりめ)に血の付(つき)たりけるを見て、山法師(やまほふし)や仕(し)たりけん、大札(おほふだ)を立(たて)て、一首(いつしゆ)の歌に事書(ことがき)を書副(かきそへ)たりける。「建武二年の春(はる)の比(ころ)、何(なん)とやらん、事の騒(さわが)しき様に聞へ侍りしかば、早(はや)三会(さんゑ)の暁(あかつき)に成(なり)ぬるやらん。いでさらば八相成道(はつしやうじやうだう)して、説法利生(せつほふりしやう)せんと思ひて、金堂(こんだう)の方(かた)へ立出(たちいで)たれば、業火(ごふくわ)盛(さかん)に燃(もえ)て修羅(しゆら)の闘諍(とうじやう)四方(しはう)に聞ゆ。こは何事(なにこと)かと思ひ分(わ)く方も無(なく)て居たるに、仏地坊(ぶつちばう)の某(それがし)とやらん、堂内(だうのうち)に走(はしり)入り、所以(ゆゑ)もなく、鋸(のこぎり)を以て我が首(くび)を切(きり)し間、阿逸多(あいつた)といへ共(ども)不叶、堪兼(たへかね)たりし悲みの中(うち)に思ひつゞけて侍(はんべ)りし。山を我(わが)敵(てき)とはいかで思ひけん寺法師(てらほふし)にぞ頚(くび)を切(きら)るゝ。」前々(せんぜん)炎上の時は、寺門の衆徒是(これ)を一大事(いちだいじ)にして隠しける九乳(きうにゆう)の鳧鐘(ふしよう)も取(とる)人なければ、空(むなし)く焼(やけ)て地に落(おち)たり。此鐘(このかね)と申(まうす)は、昔竜宮城(りゆうぐうじやう)より伝りたる鐘也(なり)。其(その)故は承平(しようへい)の比(ころ)俵藤太秀郷(たはらとうだひでさと)と云(いふ)者有(あり)けり。或(ある)時此秀郷(このひでさと)只一人勢多(せた)の橋を渡(わたり)けるに、長(たけ)二十丈(にじふぢやう)許(ばかり)なる大蛇(だいじや)、橋の上に横(よこたはつ)て伏(ふし)たり。両の眼(まなこ)は耀(かかやい)て、天に二(ふたつ)の日を卦(かけ)たるが如(ごとし)、双(なら)べる角(つの)尖(するど)にして、冬枯(ふゆかれ)の森の梢に不異。鉄(くろがね)の牙(きば)上下に生(おひ)ちがふて、紅(くれなゐ)の舌炎(ほのほ)を吐(はく)かと怪(あやし)まる。若(もし)尋常(よのつね)の人是(これ)を見ば、目もくれ魂(たましひ)消(きえ)て則(すなはち)地にも倒(たふれ)つべし。されども秀郷天下第一(だいいち)の大剛(だいかう)の者也(なり)ければ更に一念も不動ぜして、彼大蛇(かのだいじや)の背(せなか)の上を荒(あらら)かに蹈(ふん)で閑(しづか)に上をぞ越(こえ)たりける。然(しか)れ共(ども)大蛇も敢(あへ)て不驚、秀郷も後(うし)ろを不顧して遥(はるか)に行隔(ゆきへだ)たりける処に、怪(あやし)げなる小男(こをとこ)一人忽然(こつぜん)として秀郷が前に来(きたつ)て云(いひ)けるは、「我(われ)此(この)橋の下に住(すむ)事(こと)已(すで)に二千(にせん)余年(よねん)也(なり)。貴賎往来(きせんわうらい)の人を量(はか)り見るに、今御辺(ごへん)程(ほど)に剛(かう)なる人を未(いまだ)見ず。我(われ)に年来(としごろ)地を争ふ敵有(あつ)て、動(ややもすれ)ば彼(かれ)が為に被悩。可然は御辺(ごへん)我(わが)敵を討(うつ)てたび候へ。」と、懇(ねんごろ)にこそ語(かたら)ひけれ。秀郷一義(いちぎ)も不謂、「子細有(ある)まじ。」と領状(りやうじやう)して、則(すなはち)此(この)男を前(さき)に立てゝ又勢多(せた)の方(かた)へぞ帰(かへり)ける。二人(ににん)共(とも)に湖水(こすゐ)の波を分(わけ)て、水中に入(いる)事(こと)五十(ごじふ)余町(よちやう)有(あつ)て一(ひとつ)の楼門(ろうもん)あり。開(ひらい)て内へ入るに、瑠璃(るり)の沙(いさご)厚く玉の甃(いしだたみ)暖(あたたか)にして、落花自(おのづから)繽紛(ひんふん)たり。朱楼紫殿玉欄干(たまのらんかん)、金(こがね)を鐺(こじり)にし銀(しろかね)を柱とせり。其(その)壮観奇麗、未曾(いまだかつ)て目にも不見耳にも聞(きか)ざりし所也(なり)。此(この)怪しげなりつる男、先(まづ)内へ入(いつ)て、須臾(しゆゆ)の間に衣冠(いくわん)を正(ただ)しくして、秀郷を客位(きやくゐ)に請(しやう)ず。左右侍衛官(しゑのくわん)前後花の装(よそほひ)善(ぜん)尽(つく)し美(び)尽(つく)せり。酒宴数刻(すごく)に及(およん)で夜既(すで)に深(ふけ)ければ、敵の可寄程(ほど)に成(なり)ぬと周章(あわて)騒ぐ。秀郷は一生涯が間身を放(はな)たで持(もち)たりける五人(ごにん)張(ばり)にせき弦(つる)懸(かけ)て噛(く)ひ湿(しめ)し、三年竹(さんねんだけ)の節近(ふしぢか)なるを十五束(じふごそく)二伏(ふたつぶせ)に拵(こしら)へて、鏃(やじり)の中子(なかご)を筈本(はずもと)迄打(うち)どほしにしたる矢、只三筋(さんすぢ)を手挟(たばさみ)て、今や/\とぞ待(まち)たりける。夜半(やはん)過(すぐ)る程(ほど)に雨風一通(ひととほ)り過(すぎ)て、電火の激(げき)する事隙(ひま)なし。暫有(しばらくあつ)て比良(ひら)の高峯(たかね)の方より、焼松(たいまつ)二三千(にさんぜん)がほど二行に燃(もえ)て、中に嶋の如(ごとく)なる物、此龍宮城(このりゆうぐうじやう)を指(さし)てぞ近付(ちかづき)ける。事の体(てい)を能々(よくよく)見(みる)に、二行にとぼせる焼松(たいまつ)は皆己(おのれ)が左右の手にともしたりと見へたり。あはれ是(これ)は百足蜈蚣(むかで)の化(ばけ)たるよと心得て、矢比(ころ)近く成(なり)ければ、件(くだん)の五人(ごにん)張(ばり)に十五束(じふごそく)三伏(みつぶせ)忘るゝ許(ばかり)引(ひき)しぼりて、眉間(みけん)の真中(まんなか)をぞ射たりける。其手答(そのてごたへ)鉄(くろがね)を射る様(やう)に聞へて、筈(はず)を返してぞ不立ける。秀郷一(いち)の矢を射損(そんじ)て、不安思ひければ、二の矢を番(つがう)て、一分も不違態(わざと)前の矢所(やつぼ)をぞ射たりける。此(この)矢も又前の如くに躍(をど)り返(かへり)て、是(これ)も身に不立けり。秀郷二(ふた)つの矢をば皆射損(そん)じつ、憑(たのむ)所は矢一筋(ひとすぢ)也(なり)。如何せんと思(おもひ)けるが、屹(きつ)と案じ出(いだ)したる事有(あつ)て、此度(このたび)射んとしける矢さきに、唾(つばき)を吐懸(はきかけ)て、又同矢所(おなじやつぼ)をぞ射たりける。此(この)矢に毒を塗(ぬり)たる故(ゆゑ)にや依(より)けん、又同(おなじ)矢坪(つぼ)を三度(さんど)迄射たる故(ゆゑ)にや依(より)けん、此(この)矢眉間(みけん)のたゞ中を徹(とほ)りて喉(のんど)の下迄羽(は)ぶくら責(せめ)てぞ立(たち)たりける。二三千(にさんぜん)見へつる焼松(たいまつ)も、光忽(たちまち)に消(きえ)て、島の如(ごとく)に有(あり)つる物、倒るゝ音(おと)大地を響(ひび)かせり。立寄(より)て是(これ)を見るに、果して百足の蜈蚣(むかで)也(なり)。竜神(りゆうじん)は是(これ)を悦(よろこび)て、秀郷(ひでさと)を様々(さまざま)にもてなしけるに、太刀一振(ひとふり)・巻絹(まきぎぬ)一(ひとつ)・鎧一領(いちりやう)・頚結(ゆう)たる俵(たはら)一(ひとつ)・赤銅(しやくどう)の撞鐘(つきがね)一口(いつく)を与(あたへ)て、「御辺(ごへん)の門葉(もんえふ)に、必(かならず)将軍になる人多かるべし。」とぞ示しける。秀郷(ひでさと)都に帰(かへつ)て後此(この)絹を切(きつ)てつかふに、更に尽(つくる)事(こと)なし。俵は中なる納物(いれもの)を、取(とれ)ども/\尽(つき)ざりける間、財宝倉(くら)に満(みち)て衣裳(いしやう)身に余れり。故(ゆゑ)に其(その)名を俵藤太(たはらとうだ)とは云(いひ)ける也(なり)。是(これ)は産業(さんげふ)の財(たか)らなればとて是(これ)を倉廩(さうりん)に収む。鐘は梵砌(ぼんぜい)の物なればとて三井寺(みゐでら)へ是(これ)をたてまつる。文保(ぶんほう)二年三井寺(みゐでら)炎上の時、此(この)鐘を山門へ取寄(とりよせ)て、朝夕是(これ)を撞(つき)けるに、敢(あへ)てすこしも鳴(なら)ざりける間、山法師(やまほふし)共(ども)、「悪(にく)し、其義(そのぎ)ならば鳴様(なるやう)に撞(つけ)。」とて、鐘木(しもく)を大きに拵(こしら)へて、二三十人(にさんじふにん)立懸(たちかか)りて、破(われ)よとぞ撞(つき)たりける。其(その)時此(この)鐘海鯨(くぢら)の吼(ほゆ)る声を出(いだ)して、「三井寺(みゐでら)へゆかふ。」とぞ鳴(ない)たりける。山徒(さんと)弥(いよいよ)是(これ)を悪(にく)みて、無動寺(むどうじ)の上よりして数千丈(すせんぢやう)高き岩の上をころばかしたりける間、此(この)鐘微塵(みぢん)に砕(くだけ)にけり。今は何の用にか可立とて、其(その)われを取集(とりあつめ)て本寺へぞ送りける。或時(あるとき)一尺(いつしやく)許(ばかり)なる小蛇(こへび)来(きたつ)て、此(この)鐘を尾を以[て]扣(たた)きたりけるが、一夜(いちや)の内に又本(もと)の鐘に成(なつ)て、疵(きず)つける所一(ひとつ)も無(なか)りけり。されば今に至るまで、三井寺(みゐでら)に有(あつ)て此(この)鐘の声を聞(きく)人、無明長夜(むみやうぢやうや)の夢を驚かして慈尊(じそん)出世の暁(あかつき)を待(まつ)。末代(まつだい)の不思議(ふしぎ)、奇特(きどく)の事共(ことども)也(なり)。
○建武二年正月十六日合戦(かつせんの)事(こと) S1504
三井寺(みゐでら)の敵無事故責落(せめおとし)たりければ、長途(ちやうど)に疲(つかれ)たる人馬、一両日(いちりやうにち)機(き)を扶(たすけ)てこそ又合戦をも致さめとて、顕家(あきいへの)卿(きやう)坂本(さかもと)へ被引返ければ、其(その)勢(せい)二万(にまん)余騎(よき)は、彼趣(かのおもむき)に相順ふ。新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、同(おなじく)坂本へ帰らんとし給ひけるを、舟田(ふなた)長門(ながとの)守(かみ)経政(つねまさ)、馬を叩(ひかへ)て申(まうし)けるは、「軍(いくさ)の利(り)、勝(かつ)に乗る時、北(にぐ)るを追(おふ)より外(ほか)の質(てだて)は非じと存(ぞんじ)候。此(この)合戦に被打漏て、馬を棄(すて)物具(もののぐ)を脱(ぬい)で、命許(ばかり)を助からんと落行(おちゆき)候敵を追懸(おつかけ)て、京中(きやうぢゆう)へ押寄(おしよす)る程ならば、臆病神(おくびやうがみ)の付(つき)たる大勢に被引立、自余(じよ)の敵も定(さだめ)て機(き)を失はん歟(か)。さる程ならば、官軍(くわんぐん)敵の中へ紛れ入(いり)て、勢の分際(ぶんざい)を敵に不見せしとて、此(ここ)に火をかけ、彼(かしこ)に時を作り、縦横無碍(じゆうわうむげ)に懸立(かけたつ)る者ならば、などか足利殿(あしかがどの)御兄弟(ごきやうだい)の間に近付奉(ちかづきたてまつ)て、勝負(しようぶ)を仕らでは候べき。落候(おちさふらひ)つる敵、よも幾程(いくほど)も阻(へだた)り候はじ。何様一追(ひとおひ)々懸(おつかけ)て見候はゞや。」と申(まうし)ければ、義貞、「我(われ)も此(この)義を思ひつる処に、いしくも申(まうし)たり。さらば頓(やが)て追懸(おつかけ)よ。」とて、又旗の手を下(おろ)して馬を進め給へば、新田の一族(いちぞく)五千(ごせん)余人(よにん)、其(その)勢(せい)三万(さんまん)余騎(よき)、走る馬に鞭(むち)を進めて、落行(おちゆく)敵をぞ追懸(おつかけ)たる。敵今は遥(はるか)に阻(へだ)たりぬらんと覚(おぼゆ)る程なれば、逃(にぐ)るは大勢にて遅く、追(おふ)は小勢(こぜい)にて早かりければ、山階辺(やましなへん)にて漸(やうやく)敵にぞ追付(おひつき)ける。由良(ゆら)・長浜・吉江(よしえ)・高橋、真前(まつさき)に進(すすん)で追(おひ)けるが、大敵をば不可欺とて、広みにて敵の返(かへ)し合(あひ)つべき所迄はさまで不追、遠矢(とほや)射懸(いかけ)々々(いかけ)、時を作る許(ばかり)にて、静(しづ)々と是(これ)を追ひ、道迫(せま)りて、而も敵の行前(ゆくさき)難所(なんじよ)なる山路(やまぢ)にては、かさより落し懸(かけ)て、透間(すきま)もなく射落し切(きり)臥せける間、敵一度(いちど)も返し不得、只我先(われさき)にとぞ落行(おちゆき)ける。されば手を負(おう)たる者は其侭(そのまま)馬人に被蹈殺、馬離(はなれ)たる者は引(ひき)かねて無力腹を切(きり)けり。其(その)死骸谷をうめ溝を埋(うづ)みければ、追手(おふて)の為には道平(たひらか)に成(なつ)て、弥(いよいよ)輪宝(りんはう)の山谷(さんこく)を平らぐるに不異、将軍三井寺(みゐでら)に軍(いくさ)始(はじまり)たりと聞へて後、黒烟(くろけむり)天に覆(おほう)を見へければ、「御方(みかた)如何様(いかさま)負軍(まけいくさ)したりと覚(おぼゆ)るぞ。急ぎ勢を遣(つかは)せ。」とて、三条河原(さんでうがはら)に打出(うちいで)、先(まづ)勢揃(せいぞろへ)をぞし給ひける。斯(かかる)処に粟田口(あはたぐち)より馬烟(むまけむり)を立(たて)て、其(その)勢(せい)四五万騎(しごまんぎ)が程引(ひい)て出来(いでき)たり。誰やらんと見給へば、三井寺(みゐでら)へ向(むかひ)し四国・西国の勢共(せいども)也(なり)。誠(まこと)に皆軍(いくさ)手痛(ていた)くしたりと見へて、薄手(うすで)少々(せうせう)負(お)はぬ者もなく、鎧の袖冑(かぶと)の吹返(ふきかへし)に、矢三筋(さんすぢ)四筋折懸(をりかけ)ぬ人も無(なか)りけり。さる程(ほど)に新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)、二万三千(にまんさんぜん)余騎(よき)を三手に分(わけ)て、一手(ひとて)をば将軍塚(しやうぐんづか)の上へ挙(あげ)、一手(ひとて)をば真如堂(しんによだう)の前より出し、一手(ひとて)をば法勝寺(ほつしようじ)を後(うしろ)に当(あて)て、二条河原(にでうがはら)へ出(いだ)して、則(すなはち)相図(あひづ)の烟(けむり)をぞ被挙ける。自(みづか)らは花頂山(くわちやうざん)に打上(うちあがつ)て、敵の陣を見渡し給へば、上(かみ)は河合(ただすの)森より、下(しも)は七条河原(しちでうがはら)まで、馬の三頭(さんづ)に馬を打懸け、鎧の袖に袖を重(かさね)て、東西南北四十(しじふ)余町(よちやう)が間、錐(きり)を立(たつ)る許(ばかり)の地も不見、身を峙(そばだて)て打囲(うちかこみ)たり。義貞朝臣弓杖(ゆんづゑ)にすがり被下知けるは、「敵の勢に御方(みかた)を合(あはす)れば、大海の一滴(いつてき)、九牛が一毛(いちまう)也(なり)。只尋常(よのつね)の如くに軍(いくさ)をせば、勝(かつ)事(こと)を得難し。相互(あひたがひ)に面(おもて)をしり被知たらんずる侍共(さぶらひども)、五十騎づゝ手を分(わけ)て、笠符(かさじるし)を取捨(とりすて)、幡(はた)を巻(まい)て、敵の中に紛(まぎ)れ入り、此彼(ここかしこ)に叩々(ひかへひかへ)、暫(しばらく)可相待。将軍塚(しやうぐんづか)へ上(のぼ)せつる勢、既(すで)に軍(いくさ)を始むと見ば、此(この)陣より兵(つはもの)を進めて可令闘。其(その)時に至(いたつ)て、御辺達(ごへんたち)敵の前後左右に旗を差挙(さしあげ)て、馬の足を不静め、前に在(ある)歟(か)とせば後(うしろ)へぬけ、左に在(ある)かとせば右へ廻(まはつ)て、七縦(しちじゆう)八横(はちわう)に乱(みだれ)て敵に見する程ならば、敵の大勢は、還(かへつ)て御方(みかた)の勢に見へて、同士打(どしうち)をする歟(か)、引(ひい)て退(しりぞ)く歟(か)、尊氏此(この)二(ふた)つの中を不可出。」韓信が謀(はかりこと)を被出しかば、諸大将(しよだいしやう)の中より、逞兵(ていへい)五十騎づゝ勝(すぐ)り出して、二千(にせん)余騎(よき)各(おのおの)一様(いちやう)に、中黒(なかぐろ)の旗を巻(まい)て、文(もん)を隠し、笠符(かさじるし)を取(とつ)て袖の下に収(をさ)め、三井寺(みゐでら)より引(ひき)をくれたる勢の真似をして、京勢(きやうぜい)の中へぞ馳加(はせくはは)りける。敵斯(かか)る謀(はかりこと)ありとは、将軍不思寄給、宗(むね)との侍共(さぶらひども)に向ふて被下知けるは、「新田はいつも平場(ひらば)の懸(かけ)をこそ好(このむ)と聞しに、山を後(うし)ろに当てゝ、頓(やが)ても懸出(かけいで)ぬは、如何様(いかさま)小勢の程を敵に見せじと思へる者也(なり)。将軍塚(しやうぐんづか)の上に取(とり)あがりたる敵を置(おい)てはいつまでか可守挙。師泰(もろやす)彼(かしこ)に馳向(はせむかつ)て追散(おひちら)せ。」と宣(のたまひ)ければ、越後(ゑちごの)守(かみ)畏(かしこまつ)て、「承(うけたまはり)候。」と申(まうし)て、武蔵(むさし)・相摸(さがみ)の勢二万(にまん)余騎(よき)を率(そつ)して、双林寺(さうりんじ)と中霊山(なかりやうぜん)とより、二手(ふたて)に成(なつ)てぞ挙(あがつ)たりける。此(ここ)には脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)・堀口美濃(みのの)守(かみ)・大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)・結城(ゆふき)上野入道以下(いげ)三千(さんぜん)余騎(よき)にて向(むかひ)たりけるが、其(その)中より逸物(いちもつ)の射手(いて)六百(ろつぴやく)余人(よにん)を勝(すぐつ)て、馬より下(おろ)し、小松の陰(かげ)を木楯(こだて)に取(とつ)て、指攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)散々(さんざん)にぞ射させたりける。嶮(けはし)き山を挙(あがり)かねたりける武蔵・相摸の勢共(せいども)、物具(もののぐ)を被徹て矢場(やには)に伏(ふし)、馬を被射てはね落されける間、少(すこし)猶予(ゆよ)して見へける処を、「得たり賢(かしこ)し。」と、三千(さんぜん)余騎(よき)の兵共(つはものども)抜連(ぬきつれ)て、大山の崩(くづる)るが如く、真倒(まつさかさま)に落し懸(かけ)たりける間、師泰(もろやす)が兵二万(にまん)余騎(よき)、一足(ひとあし)をもためず、五条河原(かはら)へ颯(さつ)と引退(ひきしりぞく)。此(ここ)にて、杉本(すぎもとの)判官(はうぐわん)・曾我(そがの)二郎左衛門(じらうざゑもん)も被討にけり。官軍(くわんぐん)態(わざと)長追(ながおひ)をばせで、猶(なほ)東山(ひがしやま)を後(うしろ)に当(あて)て勢の程をぞ見せざりける。搦手(からめて)より軍(いくさ)始まりければ、大手(おほて)音(こゑ)を受(うけ)て時を作る。官軍(くわんぐん)の二万(にまん)余騎(よき)と将軍の八十万騎(はちじふまんぎ)と、入替入替(いれかへいれかへ)天地を響(ひびか)して戦(たたかひ)たる。漢楚(かんそ)八箇年(はちかねん)の戦(たたかひ)を一時に集め、呉越(ごゑつ)三十度の軍(いくさ)を百倍(ひやくばい)になす共(とも)、猶(なほ)是(これ)には不可過。寄手(よせて)は小勢(こぜい)なれども皆心を一(ひとつ)にして、懸(かかる)時は一度(いちど)に颯(さつ)と懸(かかつ)て敵を追(おひ)まくり、引(ひく)時は手負(ておひ)を中に立(たて)て静(しづか)に引く。京勢(きやうぜい)は大勢なりけれ共(ども)人の心不調して、懸(かかる)時も不揃、引(ひく)時も助けず、思々(おもひおもひ)心々に闘(たたかひ)ける間、午(うま)の剋(こく)より酉(とり)の終(をはり)まで六十(ろくじふ)余度(よど)の懸合(かけあひ)に、寄手(よせて)の官軍(くわんぐん)度毎(たびごと)に勝(かつ)に不乗と云(いふ)事(こと)なし。されども将軍方(しやうぐんがた)大勢(おほぜい)なれば、被討共(ども)勢(せい)もすかず、逃(にぐ)れども遠引(とほびき)せず、只一所にのみこらへ居たりける処に、最初に紛れて敵に交(まじは)りたる一揆(いつき)の勢共(せいども)、将軍の前後左右に中黒(なかぐろ)の旗を差揚(さしあげ)て、乱合(みだれあつ)てぞ戦(たたかひ)ける。何(いづ)れを敵何(いづれ)を御方共(みかたとも)弁(わきま)へ難(がた)ければ、東西南北呼叫(をめきさけん)で、只同士打(どしうち)をするより外(ほか)の事ぞ無(なか)りける。将軍を始(はじめ)奉りて、吉良(きら)・石堂(いしだう)・高(かう)・上杉の人々是(これ)を見て、御方(みかた)の者共(ものども)が敵と作合(なりあひ)て後矢(うしろや)を射(いる)よと被思ければ、心を置合(おきあひ)て、高・上杉の人々は、山崎を指(さ)して引退(ひきしりぞ)き、将軍・吉良・石堂・仁木(につき)・細川の人々は、丹波路(たんばぢ)へ向(むかつ)て落(おち)給ふ。官軍(くわんぐん)弥(いよいよ)勝(かつ)に乗(のつ)て短兵(たんへい)急に拉(とりひしぐ)。将軍今は遁(のがる)る所なしと思食(おぼしめし)けるにや、梅津(むめづ)、桂河辺(かつらがはへん)にては、鎧の草摺(くさずり)畳(たた)み揚(あげ)て腰の刀を抜(ぬか)んとし給ふ事(こと)、三箇度(さんがど)に及(および)けり。されども将軍の御運(ごうん)や強かりけん、日既(すで)に暮(くれ)けるを見て、追手(おひて)桂河より引返(ひきかへし)ければ、将軍も且(しばら)く松尾(まつのを)・葉室(はむろ)の間に引(ひか)へて、梅酸(ばいさん)の渇(かつ)をぞ休(やす)められける。爰(ここ)に細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)、四国の勢共(せいども)に向(むかつ)て宣(のたまひ)けるは、「軍(いくさ)の勝負(しようぶ)は時の運(うん)に依(よる)事(こと)なれば、強(あながち)に恥ならねども、今日の負(まけ)は三井寺(みゐでら)の合戦より事始りつる間、我等が瑕瑾(かきん)、人の嘲(あざけり)を不遁。されば態(わざと)他の勢を不交して、花やかなる軍(いくさ)一軍(ひといくさ)して、天下の人口を塞(ふさ)がばやと思(おもふ)也(なり)。推量するに、新田が勢(せい)は、終日(ひねもす)の合戦に草伏(くたびれ)て、敵に当り変に応ずる事自在(じざい)なるまじ。其外(そのほか)の敵共(てきども)は、京白河の財宝に目をかけて一所に不可在。其(その)上(うへ)赤松筑前(ちくぜんの)守(かみ)僅(わづか)の勢にて下松(さがりまつ)に引(ひか)へて有(あり)つるを、無代(むたい)に討(うた)せたらんも可口惜。いざや殿原(とのばら)、蓮台野(れんだいの)より北白河へ打廻(うちまはつ)て、赤松が勢と成合(なりあひ)、新田が勢を一あて/\て見ん。」と宣(のたま)へば、藤(とう)・橘(きつ)・伴(ばん)の者共(ものども)、「子細候まじ。」とぞ同(どう)じける。定禅(ぢやうぜん)不斜(なのめならず)喜(よろこん)で、態(わざと)将軍にも知らせ不奉、伊予・讚岐の勢の中より三百(さんびやく)余騎(よき)を勝(すぐつ)て、北野の後(うし)ろより上賀茂(かみかも)を経て、潛(ひそか)に北白河へぞ廻(まは)りける。糾(ただす)の前にて三百(さんびやく)余騎(よき)の勢十方に分(わけ)て、下松(さがりまつ)・薮里(やぶさと)・静原(しづはら)・松崎(まつがさき)・中(なか)賀茂、三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)に火をかけて、此(ここ)をば打捨(うちすて)て、一条・二条(にでう)の間にて、三所に鬨(ときのこゑ)をぞ挙(あげ)たりける。げにも定禅(ぢやうぜん)律師(りつし)推量の如く、敵京白河に分散(ぶんさん)して、一所へ寄る勢少なかりければ、義貞・義助一戦(いつせん)に利(り)を失(うしなう)て、坂本を指(さ)して引返しけり。所々(しよしよ)に打散(うちちり)たる兵共(つはものども)、俄に周章(あわて)て引(ひき)ける間、北白河・粟田口(あはたぐち)の辺(へん)にて、舟田入道・大館(おほたち)左近(さこんの)蔵人・由良(ゆら)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)・高田七郎左衛門(しちらうざゑもん)以下(いげ)宗(むね)との官軍(くわんぐん)数百騎(すひやくき)被討けり。卿律師(きやうりつし)、頓(やが)て早馬を立(たて)て、此(この)由を将軍へ被申たりければ、山陽(せんやう)・山陰(せんおん)両道へ落行(おちゆき)ける兵共(つはものども)、皆又京へぞ立帰る。義貞朝臣は、僅(わづか)に二万騎(にまんぎの)勢(せい)を以て将軍の八十万騎(はちじふまんぎ)を懸散(かけちら)し、定禅(ぢやうぜん)律師(りつし)は、亦(また)三百(さんびやく)余騎(よき)の勢を以て、官軍(くわんぐん)の二万(にまん)余騎(よき)を追落(おひおと)す。彼(かれ)は項王(かうわう)が勇(いさみ)を心とし、是(これ)は張良が謀(はかりこと)を宗(むね)とす。智謀勇力いづれも取々(とりどり)なりし人傑(じんけつ)也(なり)。
○正月二十七日(にじふしちにち)合戦(かつせんの)事(こと) S1505
斯(かか)る処に去年十二月に、一宮(いちのみや)関東(くわんとう)へ御下(おんくだり)有(あり)し時、搦手(からめて)にて東山(とうせん)道より鎌倉(かまくら)へ御下(おんくだり)有(あり)し大智院(だいちゐんの)宮(みや)・弾正尹(だんじやうのゐんの)宮(みや)、竹下(たけのした)・箱根(はこね)の合戦には、相図(あひづ)相違して逢(あは)せ給はざりしかども、甲斐・信濃・上野(かうづけ)・下野(しもつけの)勢共(せいども)馳参(はせまゐり)しかば、御勢(おんせい)雲霞(うんか)の如(ごとく)に成(なつ)て、鎌倉(かまくら)へ入(いら)せ給ふ。此(ここ)にて事の様(やう)を問へば、「新田、竹下(たけのした)・箱根(はこね)の合戦に打負(うちまけ)て引返(ひつかへ)す。尊氏朝臣北(にぐる)を追(おう)て被上洛(しやうらく)ぬ。其(その)後奥州国司(あうしうのこくし)顕家(あきいへの)卿(きやう)、又尊氏朝臣の跡(あと)を追(おう)て、被責上候(さふらひ)ぬ。」とぞ申(まうし)ける。「さらば何様道にても新田蹈留(ふみとどま)らば合戦有(あり)ぬべし。鎌倉(かまくら)に可逗留(とうりう)様なし。」とて、公家(くげ)には洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・持明院右衛門(うゑもんの)督(かみ)入道・信濃(しなのの)国司(こくし)堀河(ほりかはの)中納言・園(そのの)中将(ちゆうじやう)基隆(もとたか)・二条(にでう)少将為次、武士には、嶋津上野入道・同筑後(ちくごの)前司(ぜんじ)・大伴・猿子(ましこ)の一党・落合(おちあひ)の一族(いちぞく)・相場(あひば)・石谷(いしがえ)・纐纈(かうけつ)・伊木(いき)・津子(つし)・中村・々上(むらかみ)・源氏・仁科(にしな)・高梨・志賀・真壁(まかべ)、是等(これら)を宗(むね)との者として都合(つがふ)其(その)勢(せい)二万(にまん)余騎(よき)、正月二十日の晩景(ばんげい)に東坂本(ひがしさかもと)にぞ著(つき)にける。官軍(くわんぐん)弥(いよいよ)勢(いきほ)ひを得て翌日(よくじつ)にも頓(やが)て京都へ寄(よせ)んと議(ぎ)しけるが、打続(つづ)き悪日(あくにち)也(なり)ける上、余(あまり)に強く乗(のつ)たる馬共なれば、皆竦(すくみ)て更(さらに)はたらき得ざりける間、兎(と)に角(かく)に延引(えんいん)して、今度の合戦は、二十七日(にじふしちにち)にぞ被定ける。既(すでに)其(その)日(ひ)に成(なり)ぬれば、人馬を休(やすめ)ん為に、宵より楠木・結城(ゆふき)・伯耆(はうき)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて、西坂を下々(おりさがつ)て、下松(さがりまつ)に陣を取る。顕家(あきいへの)卿(きやう)は三万(さんまん)余騎(よき)にて、大津を経て山科(やましな)に陣を取る。洞院左衛門(さゑもんの)督(かみ)二万(にまん)余騎(よき)にて赤山(せきさん)に陣を取(とる)。山徒(さんと)は一万(いちまん)余騎(よき)にて竜花越(りゆうげごえ)を廻(まはつ)て鹿谷(ししのたに)に陣を取(とる)。新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)兄弟は二万(にまん)余騎(よき)の勢を率(そつ)し、今道(いまみち)より向(むかつ)て、北白河に陣を取る。大手・搦手(からめて)都合(つがふ)十万(じふまん)三千(さんぜん)余騎(よき)、皆宵(よひ)より陣を取寄(とりよせ)たれども、敵に知(しら)せじと態(わざと)篝火(かがりび)をば焼(たか)ざりけり。合戦は明日辰刻(たつのこく)と被定けるを、機早(きばや)なる若大衆共(わかだいしゆども)、武士に先(せん)をせられじとや思(おもひ)けん、まだ卯刻(うのこく)の始(はじめ)に神楽岡(かぐらをか)へぞ寄(よせ)たりける。此(この)岡には宇都宮(うつのみや)・紀清(きせい)両党城郭を構(かまへ)てぞ居たりける。去(され)ば無左右寄著(よりつき)て人の可責様も無(なか)りけるを、助註記(じよちゆうき)祐覚(いうかく)が同宿共(どうじゆくども)三百(さんびやく)余人(よにん)、一番に木戸口(きどぐち)に著(つい)て屏(へい)を阻(へだて)て闘(たたかひ)けるが、高櫓(たかやぐら)より大石数(あま)た被投懸て引退(ひきしりぞく)処に、南岸(なんがんの)円宗院(ゑんじゆうゐん)が同宿共五百(ごひやく)余人(よにん)、入替(いれかはつ)てぞ責(せめ)たりける。是(これ)も城中に名誉の精兵共(せいびやうども)多かりければ、走廻(はしりまはつ)て射けるに、多く物具(もののぐ)を被徹て叶(かな)はじとや思ひけん、皆持楯(もつだて)の陰(かげ)に隠れて、「悪手(あらて)替(かは)れ。」とぞ招きける。爰(ここ)に妙観院(めうくわんゐん)の因幡竪者(いなばのりつしや)全村(ぜんそん)とて、三塔(さんたふ)名誉の悪僧あり。鎖(くさり)の上に大荒目(おほあらめ)の鎧を重(かさね)て、備前長刀(なぎなた)のしのぎさがりに菖蒲形(しやうぶかたち)なるを脇に挟(さしはさ)み、箆(の)の太(ふと)さは尋常(よのつね)の人の蟇目(ひきめ)がらにする程なる三年竹を、もぎつけに押削(おしけづり)て、長船打(をさふねうち)の鏃(やじり)の五分鑿(ごぶのみ)程なるを、筈本(はずもと)迄中子(なかご)を打徹(うちとほし)にしてねぢすげ、沓巻(くつまき)の上を琴(こと)の糸を以てねた巻(まき)に巻(まい)て、三十六(さんじふろく)差(さし)たるを、森の如(ごとく)に負(おひ)成し、態(わざと)弓をば不持、是(これ)は手衝(てつき)にせんが為なりけり。切岸(きりきし)の面(おもて)に二王立(たち)に立(たつ)て名乗(なのり)けるは、「先年三井寺(みゐでら)の合戦の張本(ちやうぼん)に被召て、越後国(ゑちごのくに)へ被流たりし妙観院(めうくわんゐんの)高因幡全村(あらいなばぜんそん)と云(いふ)は我(わが)事(こと)也(なり)。城中の人々此(この)矢一つ進(まゐら)せ候はん。被遊て御覧(ごらん)候へ。」と云侭(いふまま)に、上差(うはざし)一筋(ひとすぢ)抽出(ぬきいで)て、櫓(やぐら)の小間(さま)を手突(てづき)にぞ突(つい)たりける。此(この)矢不誤、矢間(さま)の陰(かげ)に立(たち)たりける鎧武者(よろひむしや)のせんだんの板より、後(うしろ)の角総著(あげまきつけ)の金物(かなもの)迄、裏表二重(うらおもてふたへ)を徹(とほつ)て、矢前(やさき)二寸(にすん)許(ばかり)出(いで)たりける間、其(その)兵櫓(やぐら)より落(おち)て、二言も不云死にけり。是(これ)を見ける敵共(てきども)、「あなをびたゝし、凡夫(ぼんぶ)の態(わざ)に非(あら)ず。」と懼(おぢ)て色めきける処へ、禅智房護聖院(ごしやうゐん)の若者共(わかものども)、千(せん)余人(よにん)抜連(ぬきつれ)て責入(せめいり)ける間、宇都宮(うつのみや)神楽岡(かぐらをか)を落(おち)て二条(にでう)の手に馳加(はせくはは)る。是(これ)よりしてぞ、全村を手突因幡(てつきのいなば)とは名付(なづけ)ける。山法師(やまほふし)鹿谷(ししのたに)より寄(よせ)て神楽岡の城を責(せむ)る由(よし)、両党の中より申(まうし)ければ、将軍頓(やが)て後攻(ごづめ)をせよとて、今河・細川の一族(いちぞく)に、三万(さんまん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て被遣けるが、城は早(はや)被責落、敵入替(いれかはり)ければ、後攻(ごづめ)の勢も徒(いたづら)に京中(きやうぢゆう)へぞ帰(かへり)ける。去(さる)程(ほど)に、楠判官・結城(ゆふき)入道・伯耆(はうきの)守(かみ)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて糾(ただす)の前より押寄(おしよせ)て、出雲路(いづもぢ)の辺(へん)に火を懸(かけ)たり。将軍是(これ)を見給(たまひ)て、「是(これ)は如何様(いかさま)神楽岡の勢共(せいども)と覚(おぼゆ)るぞ、山法師(やまほふし)ならば馬上の懸合(かけあひ)は心にくからず、急ぎ向(むかつ)て懸散(かけちら)せ。」とて、上杉伊豆(いづの)守(かみ)・畠山(はたけやま)修理(しゆりの)大夫(たいふ)・足利(あしかが)尾張(をはりの)守(かみ)に、五万(ごまん)余騎(よき)を差副(さしそへ)てぞ被向ける。楠木は元来(もとより)勇気無双(ぶさう)の上智謀第一(だいいち)也(なり)ければ、一枚楯(いちまいたて)の軽々(かるがる)としたるを五六百(ごろつぴやく)帖(てふ)はがせて、板の端(はし)に懸金(かけがね)と壷(つぼ)とを打(うつ)て、敵の駆(かけ)んとする時は、此(この)楯の懸金を懸(かけ)、城の掻楯(かいだて)の如く一二町(いちにちやう)が程(ほど)につき並(なら)べて、透間(すきま)より散々(さんざん)に射させ、敵引けば究竟(くつきやう)の懸武者(かけむしや)を五百(ごひやく)余騎(よき)勝(すぐつ)て、同時にばつと駆(かけ)させける間、防(ふせぎ)手(て)の上杉・畠山が五万(ごまん)余騎(よき)、楠木が五百(ごひやく)余騎(よき)に被揉立て五条河原(かはら)へ引退(ひきしりぞ)く。敵は是計(こればかり)歟(か)と見(みる)処に、奥州(あうしうの)国司(こくし)顕家(あきいへの)卿(きやう)二万(にまん)余騎(よき)にて粟田口より押寄(おしよせ)て、車大路(くるまおほち)に火を被懸たり。将軍是(これ)を見給(たまひ)て、「是(これ)は如何様(いかさま)北畠殿(きたばたけどの)と覚(おぼゆ)るぞ、敵も敵にこそよれ、尊氏向はでは叶(かなふ)まじ。」とて、自(みづから)五十万騎(ごじふまんぎ)を率(そつ)し、四条(しでう)・五条の河原(かはら)へ馳向(はせむかつ)て、追(おう)つ返(かへし)つ、入替(いれかへ)々々(いれかへ)時移る迄ぞ被闘ける。尊氏(たかうぢの)卿(きやう)は大勢なれども軍(いくさ)する勢少(すくな)くして、大将已(すで)に戦ひくたびれ給(たまひ)ぬ。顕家(あきいへの)卿(きやう)は小勢(こぜい)なれば、入替(いれかは)る勢無(なく)して、諸卒忽(たちまち)に疲れぬ。両陣互に戦屈(たたかひくつ)して忿(いか)りを抑(おさ)へ、馬の息つぎ居たる処へ、新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞・脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助・堀口美濃(みのの)守(かみ)貞満(さだみつ)・大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)、三万(さんまん)余騎(よき)を三手に分け、双林寺(さうりんじ)・将軍塚(しやうぐんづか)・法勝寺(ほつしようじ)の前より、中黒(なかぐろ)の旗五十(ごじふ)余流(よながれ)差(ささ)せて、二条河原(にでうがはら)に雲霞(うんか)の如くに打囲(かこみ)たる敵の中を、真横様(まつよこさま)に懸(かけ)通(とほ)りて、敵の後(うしろ)を切(きら)んと、京中(きやうぢゆう)へこそ被懸入けれ。敵是(これ)を見て、「すはや例の中黒(なかぐろ)よ。」と云(いふ)程こそあれ、鴨河・白河・京中(きやうぢゆう)に、稲麻竹葦(たうまちくゐ)の如(ごとく)に打囲(かこ)ふだる大勢共、馬を馳倒(はせたふ)し、弓矢をかなくり捨(すて)て、四角(しかく)八方(はつぱう)へ逃散(にげちる)事(こと)、秋の木(こ)の葉(は)を山下風(やまおろし)の吹立(ふきたて)たるに不異。義貞朝臣は、態(わざと)鎧を脱替(ぬぎか)へ馬を乗替(のりかへ)て、只一騎敵の中へ懸入(かけいり)々々(かけいり)、何(いづ)くにか尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の坐(おはす)らん、撰(えら)び打(うち)に討(うた)んと伺ひ給ひけれども、将軍運強くして、遂(つひ)に見へ給はざりければ、無力其(その)勢(せい)を十方へ分(わけ)て、逃(にぐ)る敵をぞ追はせられける。中にも里見(さとみ)・鳥山(とりやま)の人々は、僅(わづか)に二十六騎の勢にて、丹波路(たんばぢ)の方へ落(おち)ける敵二三万騎(にさんまんぎ)有(あり)けるを、将軍にてぞ坐(おはす)らんと心得て桂河(かつらがは)の西まで追(おひ)ける間、大勢に返合(かへしあは)せられて一人も不残被討にけり。さてこそ十方に分れて追(おひ)ける兵(つはもの)も、「そゞろに長追(ながおひ)なせそ。」とて、皆京中(きやうぢゆう)へは引返(ひつかへ)しける。角(かく)て日已(すで)に暮(くれ)ければ、楠判官総大将(そうだいしやう)の前に来(きたつ)て申(まうし)けるは、「今日御合戦、不慮(ふりよ)に八方(はつぱう)の衆を傾(かたむ)くと申(まう)せ共さして被討たる敵も候はず、将軍の落させ給(たまひ)ける方をも不知、御方(みかた)僅(わづか)の勢にて京中(きやうぢゆう)に居(ゐ)候程ならば、兵皆財宝(ざいはう)に心を懸(かけ)て、如何に申すとも、一所に打寄(よす)る事不可有候。去(さる)程ならば、前の如く又敵に取(とつ)て被返て、度方(とはう)を失(うしなふ)事(こと)治定(ぢぢやう)可有と覚(おぼえ)候。敵に少しも機(き)を付(つけ)ぬれば、後の合戦しにくき事にて候。只此侭(このまま)にて今日は引返させ給ひ候(さふらひ)て、一日馬の足を休め、明後日の程(ほど)に寄せて、今一あて手痛(ていた)く戦ふ程ならば、などか敵を十里(じふり)・二十里(にじふり)が外まで、追靡(おひなび)けでは候べき。」と申(まうし)ければ、大将誠(まこと)にげにもとて、坂本へぞ被引返ける。将軍は今度も丹波路(たんばぢ)へ引給(ひきたまは)んと、寺戸(てらど)の辺(へん)までをはしたりけるが、京中(きやうぢゆう)には敵一人も不残皆引返(ひつかへ)したりと聞へければ、又京都へぞ帰り給ひける。此外(このほか)八幡・山崎・宇治・勢多・嵯峨・仁和寺(にんわじ)・鞍馬路(くらまぢ)へ懸(かか)りて、落行(おちゆき)ける者共(ものども)も是(これ)を聞(きい)て、みな我(われ)も我(われ)もと立(たち)帰りけり。入洛(じゆらく)の体(てい)こそ恥かしけれども、今も敵の勢を見合(あは)すれば、百分が一もなきに、毎度(まいど)かく被追立、見苦(みぐるし)き負(まけ)をのみするは非直事。我等朝敵(てうてき)たる故(ゆゑ)歟(か)、山門に被咒詛故歟(か)と、謀(はかりこと)の拙(つたな)き所をば閣(さしおい)て、人々怪しみ思はれける心の程こそ愚(おろか)なれ。
○将軍都落(みやこおちの)事(こと)付(つけたり)薬師丸(やくしまる)帰京(ききやうの)事(こと) S1506
楠判官山門へ帰(かへつ)て、翌(つぎ)の朝律僧(りつそう)を二三十人(にさんじふにん)作り立(たて)て京へ下(くだ)し、此彼(ここかしこ)の戦場にして、尸骸(しがい)をぞ求(もとめ)させける。京勢(きやうぜい)怪(あやしみ)て事の由を問(とひ)ければ、此(この)僧共悲歎(ひたん)の泪(なみだ)を押(おさ)へて、「昨日の合戦に、新田(につた)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)殿(どの)・北畠源(げん)中納言(ぢゆうなごん)殿(どの)・楠木判官已下(いげ)、宗(むね)との人々七人(しちにん)迄被討させ給ひ候程(ほど)に、孝養(けうやう)の為に其尸骸(そのしがい)を求(もとめ)候也(なり)。」とぞ答へける。将軍を始奉(はじめたてまつ)て、高(かう)・上杉の人々是(これ)を聞(きい)て、「あな不思議(ふしぎ)や、宗徒(むねと)の敵共(てきども)が皆一度(いちど)に被討たりける。さては勝軍(かちいくさ)をばしながら官軍(くわんぐん)京をば引(ひき)たりける。何(いづ)くにか其(その)頚共(くびども)の有(ある)らん。取(とつ)て獄門(ごくもん)に懸(かけ)、大路(おほち)を渡せ。」とて、敵御方(みかた)の尸骸(しがい)共(ども)の中を求(もとめ)させけれ共(ども)、是(これ)こそとをぼしき頚も無(なか)りけり。余(あまり)にあらまほしさに、此(ここ)に面影(おもかげ)の似たりける頭(くび)を二(ふた)つ獄門の木に懸(かけ)て、新田左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)義貞・楠河内(かはちの)判官(はうぐわん)正成(まさしげ)と書付(かきつけ)をせられたりけるを、如何なるにくさうの者かしたりけん、其札(そのふだ)の側(そば)に、「是(これ)はにた頚也(なり)。まさしげにも書(かき)ける虚事(そらごと)哉(かな)。」と、秀句(しうく)をしてぞ書副(かきそへ)て見せたりける。又同日の夜半許(やはんばかり)に、楠判官下部共(しもべども)に焼松(たいまつ)を二三千(にさんぜん)燃(とぼ)し連(つれ)させて、小原(をはら)・鞍馬(くらま)の方へぞ下(くだ)しける。京中(きやうぢゆう)の勢共(せいども)是(これ)を見て、「すはや山門の敵共(てきども)こそ、大将を被討て、今夜方々(はうばう)へ落行(おちゆく)げに候へ。」と申(まうし)ければ、将軍もげにもとや思ひ給ひけん。「さらば落(おと)さぬ様(やう)に、方々へ勢を差向(さしむけ)よ。」とて、鞍馬路(くらまぢ)へは三千(さんぜん)余騎(よき)、小原口(をはらぐち)へ五千(ごせん)余騎(よき)、勢多(せた)へ一万(いちまん)余騎(よき)、宇治へ三千(さんぜん)余騎(よき)、嵯峨・仁和寺(にんわじ)の方迄(まで)、洩(もら)さぬ様に堅めよとて、千騎(せんぎ)・二千騎(にせんぎ)差分(さしわけ)て、勢を不被置方も無(なか)りけり。さてこそ京中(きやうぢゆう)の大勢(おほぜい)大半減じて、残る兵も徒(いたづら)に用心(ようじん)するは無(なか)りけれ。去(さる)程(ほど)に官軍(くわんぐん)宵より西坂(にしざか)をゝり下(くだつ)て、八瀬(やせ)・薮里(やぶさと)・鷺森(さぎのもり)・降松(さがりまつ)に陣を取る。諸大将(しよだいしやう)は皆一手(ひとて)に成(なり)て、二十九日の卯刻(うのこく)に、二条河原(にでうがはら)へ押寄(おしよせ)て、在々所所(ざいざいしよしよ)に火をかけ、三所に時をぞ揚(あげ)たりける。京中(きやうぢゆう)の勢(せい)は、大勢なりし時だにも叶はで引(ひき)し軍(いくさ)也(なり)。況(まし)て勢をば大略(たいりやく)方々へ分(わか)ち被遣ぬ。敵(てき)可寄とは夢にも知(しら)ぬ事なれば、俄に周章(あわて)ふためきて、或(あるひ)は丹波路(たんばぢ)を指(さし)て引(ひく)もあり、或(あるひ)は山崎を志(こころざし)て逃(にぐ)るもあり、心も発(おこ)らぬ出家して禅律(ぜんりつ)の僧に成(なる)もあり。官軍(くわんぐん)はさまで遠く追(おは)ざりけるを、跡(あと)に引(ひく)御方(みかた)を追懸(おつかく)る敵ぞと心得て、久我畷(こがなはて)・桂河辺(へん)には、自害をしたる者も数を不知ありけり。況(いはんや)馬・物具(もののぐ)を棄(すて)たる事は、足の蹈所(ふみどころ)も無(なか)りけり。将軍は其(その)日(ひ)丹波の篠村(しのむら)を通(とほ)り、曾地(そち)の内藤三郎左衛門入道々勝(だうしよう)が館(たち)に著(つき)給へば、四国・西国の勢(せい)は、山崎を過(すぎ)て芥河(あくたがは)にぞ著(つき)にける。親子兄弟骨肉主従(こつにくしゆじゆう)互に行方(ゆきかた)を不知落行(おちゆき)ければ、被討てぞ死(し)しつらんと悲(かなし)む。されども、「将軍は正(まさ)しく別事(べちのこと)無(なく)て、尾宅(をいわけ)の宿(しゆく)を過(すぎ)させ給(たまひ)候也(なり)。」と分明(ぶんみやう)に云(いふ)者有(あり)ければ、兵庫(ひやうご)湊河(みなとがは)に落(おち)集りたる勢の中より丹波へ飛脚(ひきやく)を立(たて)て、「急ぎ摂州へ御越(おんこし)候へ、勢を集(あつめ)て頓(やが)て京都へ責上(せめのぼ)り候はん。」と申(まうし)ければ、二月二日将軍曾地(そち)を立(たち)て、摂津国(つのくに)へぞ越(こえ)給ひける。此(この)時熊野山(くまのさん)の別当四郎法橋(ほつけう)道有(だういう)が、未(いまだ)に薬師丸(やくしまる)とて童体(どうたい)にて御伴(おんとも)したりけるを、将軍喚寄給(よびよせたまひ)て、忍(しのび)やかに宣(のたまひ)けるは、「今度京都の合戦に、御方(みかた)毎度(まいど)打負(うちまけ)たる事(こと)、全く戦(たたかひ)の咎(とが)に非(あら)ず。倩(つらつら)事(こと)の心を案ずるに、只尊氏混(ひたすら)朝敵(てうてき)たる故(ゆゑ)也(なり)。されば如何にもして持明院殿(ぢみやうゐんどの)の院宣(ゐんぜん)を申賜(まうしたまはつ)て、天下を君(きみ)与君の御争(おんあらそひ)に成(なし)て、合戦を致さばやと思(おもふ)也(なり)。御辺(ごへん)は日野(ひのの)中納言殿(ちゆうなごんどの)に所縁(しええん)有(あり)と聞及(ききおよべ)ば、是(これ)より京都へ帰上(かへりのぼつ)て、院宣を伺ひ申(まうし)て見よかし。」と被仰ければ、薬師丸(やくしまる)、「畏(かしこまつ)て承(うけたまは)り候。」とて、三草山(みくさやま)より暇申(いとままうし)て、則(すなはち)京へぞ上(のぼ)りける。
○大樹(だいじゆ)摂津国(つのくに)豊嶋河原(てしまかはら)合戦(かつせんの)事(こと) S1507
将軍湊河に著給(つきたまひ)ければ、機(き)を失(うしなひ)つる軍勢共(ぐんぜいども)、又色を直(なほ)して、方々より馳(はせ)参りける間、無程其(その)勢(せい)二十万騎(にじふまんぎ)に成(なり)にけり。此(この)勢(せい)にて頓(やが)て責上(せめのぼ)り給はゞ、又官軍(くわんぐん)京にはたまるまじかりしを、湊河の宿(しゆく)に、其(その)事(こと)となく三日迄逗留(とうりう)有(あり)ける間、宇都宮(うつのみや)五百(ごひやく)余騎(よき)道より引返(ひつかへ)して、官軍(くわんぐん)に属(しよく)し、八幡(やはた)に被置たる武田(たけだ)式部(しきぶの)大輔(たいふ)も、堪(こらへ)かねて降人(かうにん)に成(なり)ぬ。其(その)外此彼(ここかしこ)に隠れ居たりし兵共(つはものども)、義貞に属(しよくし)ける間、官軍(くわんぐん)弥(いよいよ)大勢(おほぜい)に成(なつ)て、竜虎(りようこ)の勢(いきほひ)を振へり。二月五日顕家(あきいへの)卿(きやう)・義貞朝臣、十万(じふまん)余騎(よき)にて都を立(たち)て、其(その)日(ひ)摂津(つの)国(くに)の芥河(あくたがは)にぞ被著ける。将軍此(この)由を聞給(ききたまひ)て、「さらば行向(ゆきむかつ)て合戦を致せ。」とて、将軍の舎弟左馬(さまの)頭(かみ)に、十六万騎を差副(さひそへ)て、京都へぞ被上ける。さる程(ほど)に両家(りやうけ)の軍勢(ぐんぜい)、二月六日の巳刻(みのこく)に、端(はした)なく豊嶋(てしま)河原(かはら)にてぞ行合(ゆきあひ)ける。互に旗の手を下(おろ)して、東西に陣を張り、南北に旅(りよ)を屯(たむろ)す。奥州(あうしうの)国司(こくし)先(まづ)二たび逢(あう)て、軍(いくさ)利(り)あらず、引退(ひきしりぞい)て息を継(つげ)ば、宇都宮(うつのみや)入替(いれかはつ)て、一面目(ひとめんぼく)に備(そなへ)んと攻(せめ)戦ふ。其(その)勢(せい)二百(にひやく)余騎(よき)被討て引退(ひきしりぞ)けば、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)二千(にせん)余騎(よき)にて入替(いれかはり)たり。敵には仁木(につき)・細川・高(かう)・畠山、先日の恥を雪(きよ)めんと命を棄(すて)て戦ふ。官軍(くわんぐん)には江田(えだ)・大館(おほたち)・里見・鳥山(とりやま)、是(ここ)を被破(やぶられ)ては何(いづ)くへか可引と、身を無(なき)者に成(なし)てぞ防ぎける。されば互に死を軽(かろん)ぜしかども、遂(つひ)に雌雄(しゆう)を不決して、其(その)日(ひ)は戦ひ暮(くらし)てけり。爰(ここ)に楠判官正成(まさしげ)、殿馳(おくればせ)にて下(くだ)りけるが、合戦の体(てい)を見て、面(おもて)よりは不懸、神崎(かんざき)より打廻(うちまはつ)て、浜の南よりぞ寄(よせ)たりける。左馬(さまの)頭(かみ)の兵、終日(ひねもす)の軍(いくさ)に戦(たたかひ)くたびれたる上、敵に後(うしろ)をつゝまれじと思(おもひ)ければ、一戦(ひといくさ)もせで、兵庫を指(さし)て引退(ひきしりぞ)く。義貞頓(やが)て追懸(おつかけ)て、西宮(にしのみや)に著(つき)給へば、直義(ただよし)は猶(なほ)相支(あひささへ)て、湊河に陣をぞ被取ける。同(おなじき)七日の朝なぎに、遥(はるか)の澳(おき)を見渡せば、大船五百(ごひやく)余艘(よさう)、順風(じゆんぷう)に帆を揚(あげ)て東を指(さし)て馳(はせ)たり。何方(いづかた)に属(つく)勢(せい)にかと見る処に、二百(にひやく)余艘(よさう)は梶(かぢ)を直(なほ)して兵庫の嶋へ漕(こぎ)入る。三百(さんびやく)余艘(よさう)は帆をつゐて、西(にしの)宮(みや)へぞ漕(こぎ)寄せける。是(これ)は大伴・厚東(こうとう)・大内介(おほちのすけ)が、将軍方(しやうぐんがた)へ上(のぼ)りけると、伊予の土居(どゐ)・得能(とくのう)が、御所(ごしよ)方(がた)へ参りけると漕連(こぎつれ)て、昨日迄は同湊(おなじみなと)に泊りたりしが、今日は両方へ引分(わかれ)て、心々にぞ著(つき)たりける。荒手(あらて)の大勢両方へ著(つき)にければ、互(たがひ)に兵(つはもの)を進(すす)めて、小清水(こしみづ)の辺(へん)に羽向合(はせむかふ)。将軍方(しやうぐんがた)は目に余る程の大勢なりけれども、日比(ひごろ)の兵(つはもの)、荒手(あらて)にせさせんとて、軍(いくさ)をせず。厚東(こうとう)・大伴は、又強(あながち)に我等許(われらばかり)が大事(だいじ)に非(あら)ずと思(おもひ)ければ、さしも勇める気色(きしよく)もなし。官軍(くわんぐん)方(がた)は双(なら)べて可云程もなき小勢(こぜい)なりけれども、元来(ぐわんらい)の兵は、是(これ)人の大事(だいじ)に非(あら)ず、我(わが)身の上の安否(あんぴ)と思ひ、荒手(あらて)の土居・得能は、今日の合戦無云甲斐しては、河野(かうの)の名を可失と、機(き)をとき心を励(はげま)せり。されば両陣未(いまだ)闘(たたか)はざる前(さき)に安危の端(はし)機(き)に顕(あらは)れて、勝負(しようぶ)の色暗(あん)に見(みえ)たり。されども荒手(あらて)の験(しる)しなれば、大伴・厚東・大内(おほち)が勢三千(さんぜん)余騎(よき)、一番に旗を進めたり。土居(どゐ)・得能後(うしろ)へつと懸抽(かけぬけ)て、左馬(さまの)頭(かみ)の引(ひか)へ給へる打出宿(うちでのしゆく)の西の端(はし)へ懸通(かけとほ)り、「葉武者共(はむしやども)に目な懸(かけ)そ、大将に組め。」と下知(げぢ)して、風の如くに散(ちら)し雲の如くに集(あつまつ)て、呼(をめ)ひて懸入(かけいり)、々々(かけいつ)ては戦ひ、戦ふては懸抽(かけぬ)け、千騎(せんぎ)が一騎に成(なる)迄も、引(ひく)なと互に恥(はぢし)めて面(おもて)も不振闘(たたか)ひける間、左馬(さまの)頭(かみ)叶はじとや被思けん、又兵庫を指(さ)して引(ひき)給ふ。千度百般(ちたびももたび)戦へども、御方(みかた)の軍勢(ぐんぜい)の軍(いくさ)したる有様、見るに可叶とも覚(おぼえ)ざりければ、将軍も早(はや)退屈(たいくつ)の体(てい)見へ給(たまひ)ける処へ、大伴参(まゐつ)て、「今の如くにては何としても御合戦よかるべしとも覚(おぼえ)候はず。幸(さいはひ)に船共(ふねども)数(あまた)候へば、只先(まづ)筑紫(つくし)へ御開(ひら)き候へかし。小弐(せうに)筑後(ちくごの)入道御方(みかた)にて候なれば、九国の勢多く属進(つきまゐら)せ候はゞ、頓(やが)て大軍を動(うごかし)て京都を被責候はんに、何程の事か候べき。」と申(まうし)ければ、将軍げにもとや思食(おぼしめし)けん、軈(やが)て大伴が舟にぞ乗(のり)給ひける。諸軍勢(しよぐんぜい)是(これ)を見て、「すはや将軍こそ御舟(おんふね)に被召て落(おち)させ給へ。」とのゝめき立(たつ)て、取(とる)物も取(とり)不敢、乗(のり)をくれじとあはて騒ぐ。舟は僅(わづか)に三百(さんびやく)余艘(よさう)也(なり)。乗(のら)んとする人は二十万騎(にじふまんぎ)に余れり。一艘(いつさう)に二千人(にせんにん)許(ばかり)こみ乗(のり)ける間、大船一艘(いつさう)乗沈(のりしづ)めて、一人も不残失(うせ)にけり。自余(じよ)の舟共是(これ)を見て、さのみは人を乗せじと纜(ともづな)を解(とい)て差出(さしいだ)す。乗殿(のりおく)れたる兵共(つはものども)、物具衣裳(もののぐいしやう)を脱捨(ぬぎすて)て、遥(はるか)の澳(おき)に游出(およぎい)で、舟に取著(とりつか)んとすれば、太刀・長刀にて切(きり)殺し、櫓(ろ)かいにて打落(うちおと)す。乗(のり)得ずして渚(なぎさ)に帰る者は、徒(いたづら)に自害をして礒(いそ)越(こ)す波に漂へり。尊氏(たかうぢの)卿(きやう)は福原(ふくはら)の京(きやう)をさへ被追落て、長汀(ちやうてい)の月に心を傷(いたま)しめ、曲浦(きよくほ)の波に袖を濡(ぬら)して、心づくしに漂泊し給へば、義貞朝臣は、百戦の功を高(たかう)して、数万(すまん)の降人(かうにん)を召具(めしぐ)し、天下の士卒(じそつ)に将として花の都に帰(かへり)給ふ。憂喜(いうき)忽(たちまち)に相替(あひかはつ)て、うつゝもさながら夢の如くの世に成(なり)けり。
○主上(しゆしやう)自山門還幸(くわんかうの)事(こと) S1508
去月晦日(みそか)逆徒(ぎやくと)都を落(おち)しかば、二月二日主上(しゆしやう)自山門還幸成(なつ)て、花山院(くわさんのゐん)を皇居(くわうきよ)に被成にけり。同(おなじき)八日義貞朝臣、豊嶋(てしま)・打出(うちで)の合戦に打勝(かつ)て、則(すなはち)朝敵(てうてき)を万里の波に漂(ただよは)せ、同(おなじく)降人(かうにん)の五刑(ごけい)の難(なん)を宥(なだめ)て京都へ帰(かへり)給ふ。事体(ことのてい)ゆゝしくぞ見へたりける。其(その)時の降人(かうにん)一万(いちまん)余騎(よき)、皆元(もと)の笠符(かさじるし)の文(もん)を書直(かきなほ)して著(つけ)たりけるが、墨の濃(こ)き薄(うす)き程見へて、あらはにしるかりけるにや、其次(そのつぎ)の日、五条の辻に高札(たかふだ)を立(たて)て、一首(いつしゆ)の歌をぞ書(かき)たりける。二筋(ふたすぢ)の中の白みを塗隠(ぬりかく)し新田々々(にたにた)しげな笠符(かさじるし)哉(かな)都鄙(とひ)数箇度(すかど)の合戦の体(てい)、君殊に叡感(えいかん)不浅。則(すなはち)臨時(りんじの)除目(ぢもく)を被行て、義貞を左近衛(さこんゑの)中将(ちゆうじやう)に被任ぜ、義助を右衛門(うゑもんの)佐(すけ)に被任けり。天下の吉凶(きつきよう)必(かならず)しも是(これ)にはよらぬ事なれども、今の建武(けんむ)の年号は公家(くげ)の為不吉(ふきつ)也(なり)けりとて、二月二十五日に改元(かいげん)有(あつ)て、延元(えんげん)に被移。近日朝廷已(すで)に逆臣(ぎやくしん)の為に傾(かたぶけ)られんとせしか共(ども)、無程静謐(せいひつ)に属(しよく)して、一天下(いちてんが)又泰平(たいへい)に帰(き)せしかば、此(この)君の聖徳(せいとく)天地に叶へり。如何なる世の末までも、誰かは傾(かたぶ)け可申と、群臣いつしか危(あやふき)を忘れて、慎む方の無(なか)りける、人の心ぞ愚(おろ)かなる。
○賀茂神主(かものかんぬし)改補(かいふの)事(こと) S1509
大凶(だいきよう)一元(いちげん)に帰(き)して万機(ばんき)の政(まつりごと)を新(あら)たにせられしかば、愁(うれへ)を含み喜(よろこび)を懐(いだ)く人多かりけり。中にも賀茂の社(やしろ)の神主職(かんぬししよく)は、神職(しんしよく)の中の重職(ちようしよく)として、恩補(おんふ)次第ある事なれば、咎(とが)無(なく)しては改動(かいどう)の沙汰も難有事なるを、今度尊氏(たかうぢの)卿(きやう)貞久(さだひさ)を改(あらため)て、基久(もとひさ)に被補任、彼(か)れ眉を開く事僅(わづか)に二十日を不過、天下又反覆(はんふく)せしかば、公家(くげ)の御沙汰(ごさた)として貞久に被返付。此(この)事(こと)今度の改動(かいどう)のみならず、両院の御治世(ぢせい)替(かは)る毎(ごと)に転変(てんべん)する事(こと)、掌(たなごころ)を反(かへ)すが如し。其逆鱗(そのげきりん)何事(なにこと)の起(おこり)ぞと尋ぬれば、此基久(このもとひさ)に一人の女(むす)めあり。被養て深窓(しんさう)に在(あり)し時より、若紫(わかむらさき)の■匂(にほひ)殊に、初本結(はつもとゆひ)の寐乱髪(ねみだれがみ)、末(すゑ)如何ならんと、見るに心も迷(まよひ)ぬべし。齢(よはひ)已(すで)に二八にも成(なり)しかば、巫山(ぶさん)の神女(しんによ)雲と成(なり)し夢の面影(おもかげ)を留(とど)め、玉妃(ぎよくひ)の太真院(たいしんゐん)を出(いで)し春(はる)の媚(こび)を残せり。只容色嬋娟(ようしよくせんけん)の世に勝(すぐ)れたるのみに非(あら)ず、小野小町(をののこまち)が弄(もてあそ)びし道を学び、優婆塞宮(うばそくのみや)のすさみ給(たまひ)し跡(あと)を追(おひ)しかば、月の前に琵琶(びは)を弾(だん)じては、傾(かたぶ)く影を招き、花の下(もと)に歌を詠(えい)じては、うつろう色を悲(かなし)めり。されば其情(そのなさけ)を聞き、其貌(そのかたち)を見る人毎(ごと)に、意(こころ)を不悩と云(いふ)事(こと)なし。其比(そのころ)先帝は未(いまだ)帥宮(そつのみや)にて、幽(かす)かなる御棲居(すまひ)也(なり)。是(これ)は後宇多(ごうだ)院(ゐんの)第二(だいに)の皇子後醍醐(ごだいごの)天王(てんわう)と申(まう)せし御事(おんこと)也(なり)。今の法皇は伏見(ふしみの)院(ゐんの)第一(だいいち)の皇子にて、既(すで)に春宮(とうぐう)に立(たた)せ可給と云(いひ)、時めき合(あ)へり。此宮々(このみやみや)如何なる玉簾(たまだれ)の隙(ひま)にか被御覧たりけん。此女(このむすめ)最(いと)あてやかに臈(らふたけ)しとぞ被思食ける。されども、混(ひた)すらなる御業(おんわざ)は如何と思食煩(おぼしめしわづらう)て、荻(をぎ)の葉に伝ふ風の便(たより)に付(つ)け、萱(わすれぐさ)の末葉(すゑば)に結(むす)ぶ露のかごとに寄せては、いひしらぬ御文(おんふみ)の数(かず)、千束(ちつか)に余る程(ほど)に成(なり)にけり。女(むすめ)も最(いと)物わびしう哀(あはれ)なる方に覚(おぼ)へけれども、吹(ふき)も定(さだめ)ぬ浦風に靡(なび)きはつべき烟(けぶり)の末(すゑ)も、終(つひ)にはうき名に立(たち)ぬべしと、心強き気色(けしき)をのみ関守(せきもり)になして、早(はや)年の三年(みとせ)を過(すぎ)にけり。父は賎(いやしう)して母なん藤原なりければ、無止事御子達(みこたち)の御覚(おんおぼえ)は等閑(なほざり)ならぬを聞(きき)て、などや今迄御いらへをも申さではやみにけるぞと、最(いと)痛(いた)ふ打侘(うちわぶ)れば、御消息伝へたる二(ふた)りのなかだち次(ついで)よしと思(おもひ)て、「たらちめの諌(いさ)めも理(ことわ)りにこそ侍(はんべ)るめれ。早(はやく)一方に御返事(おんかへりごと)を。」と、かこち顔(がほ)也(なり)ければ、女(むすめ)云(いふ)ばかりなく打侘(わび)て、「いさや我とは争(いか)でか分(わ)く方可侍。たゞ此度(このたび)の御文(おんふみ)に、御歌の最(いと)憐(あは)れに覚へ侍らん方へこそ参らめ。」と云(いひ)て、少し打笑(わらひ)ぬる気色(けしき)を、二(ふた)りの媒(なかだち)嬉(うれ)しと聞(きき)て、急ぎ宮々の御方(おんかた)へ参(まゐり)てかくと申せば、頓(やが)て伏見(ふしみの)宮(みや)の御方(おんかた)より、取(とる)手もくゆる許(ばかり)にこがれたる紅葉重(もみぢかさね)の薄様(うすやう)に、何(いつ)よりも言(こと)の葉(は)過(すぎ)て、憐(あは)れなる程なり。思ひかね云(いは)んとすればかきくれて泪(なみだ)の外(ほか)は言(こと)の葉もなしと被遊たり。此(この)上の哀(あはれ)誰(たれ)かと思へる処に、帥(そつの)宮(みや)御文あり。是(これ)は指(さし)も色深からぬ花染(そめ)のかほり返(かへり)たるに、言(ことば)は無(なく)て、数ならぬみのゝを山の夕時雨(ゆふしぐれ)強面(つれなき)松は降(ふる)かひもなしと被遊たり。此(この)御歌を見て、女(むすめ)そゞろに心あこがれぬと覚(おぼえ)て、手に持(もち)ながら詠(えい)じ伏(ふし)たりければ、早何(いづ)れをかと可云程もなければ、帥(そつの)宮(みや)の御使(おんつかひ)そゞろに独笑(ひとりゑ)みして帰り参りぬ。頓(やが)て其(その)夜の深(ふ)け過(すぐ)る程(ほど)に、牛車(うしぐるま)さはやかに取(とり)まかないて、御迎(おんむかひ)に参りたり。滝口(たきぐち)なりける人、中門(ちゆうもん)の傍(かたはら)にやすらひかねて、夜もはや丑三(うしみつ)に成(なり)ぬと急げば、女(むすめ)下簾(したすだれ)を掲(かかげ)させて、被扶乗としける処に、父の基久(もとひさ)外より帰りまうで来て、「是(これ)はいづ方へぞ。」と問(とふ)に、母上、「帥(そつの)宮(みや)召有(めしあり)て。」と聞ゆ。父痛(いた)く留(とどめ)て、「事の外(ほか)なる態(わざ)をも計(はから)ひ給ひける者哉(かな)。伏見(ふしみの)宮(みや)は春宮(とうぐう)に立(たた)せ給(たまふ)べき由御沙汰(ごさた)あれば、其(その)御方(おんかた)へ参(まゐり)てこそ、深山隠(みやまがくれ)の老木(おいき)迄も、花さく春にも可逢に、行末(ゆくすゑ)とても憑(たの)みなき帥(そつの)宮(みや)に参り仕へん事は、誰(た)が為とても可待方(かた)や有(ある)。」と云留(いひとど)めければ、母上げにやと思返(おもひかへ)す心に成(なり)にけり。滝口は角(かく)ともしらで簾(みす)の前によりゐて、月の傾(かたぶ)きぬる程を申せば、母上出合(いであひ)て、「只今俄に心地(ここち)の例(れい)ならぬ事侍(はんべ)れば、後(のち)の夕べをこそ。」と申(まうし)て、御車(おんくるま)を返してげり。帥(そつの)宮(みや)かゝる事侍(はべる)とは、露もおぼしよらず、さのみやと今日の憑(たの)みに昨日の憂(う)さを替(かへ)て、度々御使(おんつかひ)有(あり)けるに、「思(おもひ)の外(ほか)なる事候(さふらひ)て、伏見(ふしみの)宮(みや)の御方(おんかた)へ参りぬ。」と申(まうし)ければ、おやしさけずば、東路(あづまぢ)の佐野(さの)の船橋(ふなはし)さのみやは、堪(たへ)ては人の恋(こひ)渡るべきと、思ひ沈ませ給(たまふ)にも、御憤(おんいきどほり)の末(すゑ)深かりければ、帥(そつの)宮(みや)御治世(ぢせい)の初(はじめ)、基久(もとひさ)指(さし)たる咎(とが)は無(なか)りしかども、勅勘を蒙(かうむ)り神職(しんしよく)を被解て、貞久(さだひさ)に被補。其後(そののち)天下大(おほき)に乱(みだれ)て、二君(くん)三たび天位を替(かへ)させ給(たまひ)しかば、基久・貞久纔(わづか)に三四年が中に、三度(さんど)被改補。夢幻(ゆめまぼろし)の世の習(ならひ)、今に始(はじめ)ぬ事とは云(いひ)ながら、殊更身の上に被知たる世の哀(あはれ)に、よしや今は兎(と)ても角(かく)てもと思(おもひ)ければ、うたゝねの夢よりも尚(なほ)化(あだ)なるは此比(このころ)見つる現(うつつ)なりけりと、基久一首(いつしゆ)の歌を書留めて、遂(つひ)に出家遁世(とんせい)の身とぞ成(なり)にける。


太平記(国民文庫)
太平記巻第十六

○将軍(しやうぐん)筑紫(つくしへ)御開(おんひらきの)事(こと) S1601
建武三年二月八日、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)兵庫を落(おち)給ひし迄は、相順ふ兵僅(わづか)七千(しちせん)余騎(よき)有(あり)しか共(ども)、備前の児嶋(こじま)に著給(つきたまひ)ける時、京都より討手(うつて)馳下(はせくだ)らば、三石辺(みついしへん)にて支(ささへ)よとて、尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)氏頼(うぢより)を、田井(たゐ)・飽浦(あくら)・松田・内藤に付(つけ)て留(とめ)られ、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)・同刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)義敦(よしあつ)をば、東国の事無心元とて返さる。其外(そのほか)の勢共(せいども)は、各(おのおの)暇申(いとままうし)て己が国々に留(とどま)りける間、今は高(かう)・上杉・仁木(につき)・畠山(はたけやま)・吉良(きら)・石塔(いしたふ)の人々、武蔵・相摸勢の外(ほか)は相順(したがふ)兵も無(なか)りけり。筑前(ちくぜんの)国(くに)多々良浜(たたらばま)の湊(みなと)に著(つき)給ひける日は、其(その)勢(せい)僅に五百人(ごひやくにん)にも足(たら)ず、矢種(やだね)は皆打出(うちで)・瀬川(せがは)の合戦に射尽(いつく)し、馬・物具(もののぐ)は悉(ことごとく)兵庫西宮(にしのみや)の渡海(とかい)に脱捨(ぬぎすて)ぬ。気疲(つか)れ勢尽(つき)ぬれば、轍魚(てつぎよ)の泥(どろ)に吻(いきつ)き、窮鳥(きゆうてう)の懐(ふところ)に入(いるら)ん風情(ふぜい)して、知(しら)ぬ里に宿(やど)を問ひ、狎(な)れぬ人に身を寄(よす)れば、朝(あさ)の食飢渇(きかつ)して夜(よる)の寝醒(ねざめ)蒼々(さうさう)たり。何(いつ)の日か誰と云(いは)ん敵の手に懸(かかり)てか、魂(たましひ)浮(うか)れ、骨(ほね)空(むなしう)して、天涯望郷(てんがいばうきやう)の鬼と成(なら)んずらんと、明日(あす)の命をも憑(たのま)れねば味気無(あぢきなく)思はぬ人も無(なか)りけり。斯(かかる)処に、宗像大宮司(むなかたのだいぐうじ)使者を進(まゐらせ)て、「御座の辺(あたり)は余(あま)りに分内(ぶんない)狭(せばう)て、軍勢(ぐんぜい)の宿(やど)なんども候はねば、恐(おそれ)ながら此弊屋(このへいをく)へ御入(おんいり)有(あつ)て、暫(しばらく)此(この)間の御窮屈(きゆうくつ)を息(やすめ)られ、国々へ御教書(みげうしよ)を成(なさ)れて、勢を召(めさ)れ候べし。」と申(まうし)ければ、将軍軈(やが)て宗像が館(たち)へ入(いら)せ給ふ。次日(つぎのひ)小弐(せうに)入道妙恵(めうゑ)が方へ、南(みなみの)遠江守(とほたふみのかみ)宗継(むねつぐ)・豊田(とよたの)弥三郎光顕(みつあき)を両使として、恃(たのむ)べき由を宣遣(のたまひつかは)されければ、小弐入道子細(しさい)に及ばず、軈(やがて)嫡子(ちやくし)の太郎頼尚(よりなほ)に、若武者(わかむしや)三百騎(さんびやくき)差添(さしそへ)て、将軍へぞ進(まゐら)せける。
○小弐与菊池(きくち)合戦事(こと)付(つけたり)宗応蔵主(そうおうざうすが)事(こと) S1602
菊池(きくち)掃部(かもんの)助(すけ)武俊(たけとし)は、元来宮方(みやがた)にて肥後(ひごの)国(くに)に有(あり)けるが、小弐が将軍方(しやうぐんがた)へ参(まゐる)由を聞(きき)て道にて討散(うちちらさ)んと、其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)にて水木(みづき)の渡(わたし)へぞ馳向(はせむかひ)ける。小弐太郎は、夢にも此(これ)を知(しら)ずして、小船(こぶね)七艘に込乗(こみのつ)て、我(わが)身は先(まづ)向(むかう)の岸に付く。畦篭(あぜくら)豊前(ぶぜんの)守(かみ)以下(いげ)は未越(いまだこえず)、叩(ひか)へて船の指(さ)し戻(もど)す間を相待(まち)ける処に、菊池(きくち)が兵三千(さんぜん)余騎(よき)、三方(さんぱう)より推寄(おしよせ)て、河中へ追(おつ)ばめんとす。畦篭(あぜくら)が兵百五十騎(ひやくごじつき)、とても遁れぬ所也(なり)と、一途(いちづ)に思定(おもひさだめ)て、菊池(きくち)が大勢の中へ懸入(かけいつ)て、一人も不残討死す。小弐太郎は川向(かはむかひ)より、此(これ)を見けれ共(ども)、大河を中に障(へだて)て、舟ならでは渡(わたる)べき便(たより)も無(な)ければ、徒(いたづら)に恃切(たのみきつ)たる一族(いちぞく)若党共(わかたうども)を敵に取篭(とりこめ)させける心中(こころのうち)、遣方無(やるかたなく)して無念なる。遂に船共(ふねども)近辺(きんぺん)に見へざりければ、忿(いかり)を推(おさへ)て将軍へぞ参(まゐり)ける。菊池(きくち)は手合(てあはせ)の合戦に討勝(うちかつ)て、門出(かどいで)吉(よし)と悦(よろこん)で、頓(やが)て其(その)勢(せい)を率(そつし)、小弐入道妙恵(めうゑ)が楯篭(たてこもつ)たる内山(うちやま)の城へぞ推寄(おしよせ)ける。小弐宗徒(むねと)の兵をば皆頼尚(よりなほ)に付(つけ)て、其(その)勢(せい)過半水木(みづき)の渡(わたし)にて討(うた)れぬ。城に残(のこる)勢(せい)僅(わづか)に三百人(さんびやくにん)にも足(たら)ざりければ、菊池(きくち)が大勢に可叶とも覚へず。されども城の要害緊(きび)しかりければ、切岸(きりきし)の下に敵を直下(みおろ)して、防戦(ふせぎたたかふ)事(こと)数日(すじつ)に及べり。菊池(きくち)荒手(あらて)を入替々々(いれかへいれかへ)夜昼(よるひる)十方より責(せめ)けれ共(ども)、城中の兵一人(いちにん)も討れず、矢種(やだね)も未尽(いまだつきざ)りければ、いかに責(せむ)るとも不落物をと思(おもひ)ける処に、小弐が一族(いちぞく)等(ら)俄に心替(こころがはり)して攻(つめ)の城に引挙(ひきあがり)、中黒(なかぐろ)の旗を揚(あげ)て、「我等(われら)聊(いささか)所存(しよぞん)候間宮方(みやがた)へ参(まゐり)候也(なり)。御同心(ごどうしん)候べしや。」と、妙恵(めうゑ)が方へ云遣(いひつかは)しければ、一言の返答にも及ばず、「苟(いやしく)も存(ながらへ)て義無(なから)んよりは、死して名を残さんには不如。」と云(いひ)て、持仏堂(ぢぶつだう)へ走入(はしりいり)、腹掻斬(かききつ)て臥(ふし)にけり。郎等(らうどう)百(ひやく)余人(よにん)も、堂の大床(おほゆか)に並(なみ)居て、同音に声を出(いだ)し、一度(いちど)に腹をぞ切(きつ)たりける。其(その)声天に響(ひびき)て、悲想悲々想(ひさうひひさう)天迄も聞へやすらんと夥(おびたた)し。小弐が最末(いとすゑ)の子に、宗応蔵主(そうおうざうす)と云(いふ)僧、蔀遣戸(しとみやりど)を蹈破(ふみやぶり)て薪(たきぎ)とし、父が死骸を葬(さう)して、「万里碧天風高月明、為問慧公行脚事(こと)、蹈翻白刃転身行、下火云、猛火重焼一段清」と、閑(しづか)に下火(あこ)の仏事をして、其炎(そのほのほ)の中へ飛入(とびいつ)て同(おなじ)く死にぞ赴(おもむき)ける。
○多々良浜(たたらばま)合戦(かつせんの)事(こと)付(つけたり)高(かうの)駿河(するがの)守(かみ)引例事 S1603
小弐(せうに)が城已(すで)に責落(せめおと)されて、一族(いちぞく)若党(わかたう)百六十五人、一所にて討(うた)れければ、菊池(きくち)弥(いよいよ)大勢に成(なつ)て、頓(やが)て多々良浜(たたらばま)へぞ寄懸(よせかけ)ける。将軍は香椎宮(かしひのみや)に取挙(とりあがつ)て、遥(はるか)に菊池(きくち)が勢を見給ふに、四五万騎(しごまんぎ)も有(ある)らんと覚敷(おぼし)く、御方(みかた)は纔(わづか)に三百騎(さんびやくき)には過(すぎ)ず。而(しか)も半(なかば)は馬にも乗(のら)ず鎧(よろひ)をも著ず、「此(この)兵を以て彼(かの)大敵に合(あは)ん事(こと)、■蜉(ひふ)動大樹、蟷螂(たうらう)遮流車不異。憖(なましひ)なる軍(いくさ)して、云(いふ)甲斐なき敵に合(あは)んよりは腹を切(きら)ん。」と、将軍は被仰けるを、左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)堅く諌申(いさめまうさ)れけるは、「合戦の勝負(しようぶ)は、必(かならずし)も大勢小勢(こぜい)に依(よる)べからず。異国に漢高祖(かんのかうそ)■陽(けいやう)の囲(かこみ)を出(いでし)時は、才(わづか)に二十八騎に成(なり)しかども、遂に項羽(かうう)が百万騎に討勝(うちかつ)て天下を保(たもて)り。吾朝(わがてう)の近比(このごろ)は、右大将頼朝(よりともの)卿(きやう)土肥(とひ)の杉山(すぎやま)の合戦に討負(うちまけ)て臥木(ふしき)の中に隠(かくれ)し時は、僅(わづか)に七騎に成(なつ)て候(さふらひ)しか共(ども)、終(つひ)に平氏の一類(いちるゐ)を亡(ほろぼ)して累葉(るゐえふ)久(ひさしく)武将の位を続(つぎ)候はずや。二十八騎を以て百万騎の囲(かこみ)を出(いで)、七騎を以て伏木(ふしき)の下に隠(かく)れし機分(きぶん)、全く臆病にて命を捨兼(すてかね)しには非(あら)ず、只天運の保(たもつ)べき処を恃(たのみ)し者也(なり)。今敵の勢誠(まこと)に雲霞(うんか)の如しといへども、御方(みかた)の三百(さんびやく)余騎(よき)は今迄著纏(つきまとひ)て、我等(われら)が前途(せんど)を見はてんと思へる一人当千の勇士(ゆうし)なれば、一人も敵に後(うしろ)を見せ候はじ。此(この)三百騎(さんびやくき)志(こころざし)を同(おなじう)する程ならば、などか敵を追払(おひはら)はで候べき。御自害(ごじがい)の事曾(かつ)て有(ある)べからず。先(まづ)直義馳向(はせむかつ)て一軍(ひといくさ)仕(つかまつつ)て見候はん。」と申捨(まうしすて)て、左馬(さまの)頭(かみ)香椎宮(かしひのみや)を打立(うちたち)給へば、相順(したがふ)人々には、仁木(につき)四郎次郎義長(よしなが)・細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏(あきうぢ)・高(かうの)豊前(ぶぜんの)守(かみ)師重(もろしげ)・大高(だいかう)伊予(いよの)守(かみ)重成(しげなり)・南(みなみの)遠江守(とほたふみのかみ)宗継(むねつぐ)・上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)・畠山阿波(あはの)守(かみ)国清(くにきよ)を始(はじめ)として、大伴(おほとも)・嶋津・曾我・白石(しろいし)・八木岡(やぎをか)・相庭(あひば)を宗徒(むねと)の兵として、都合(つがふ)其(その)勢(せい)二百五十騎(にひやくごじつき)、三万(さんまん)余騎(よき)の敵に懸合(かけあは)せんと志(こころざ)して、命を塵芥(ぢんかい)に思(おもひ)ける心の程こそ艷(やさし)けれ。直義(ただよし)已(すでに)旌(はた)の手を下(おろ)し、社壇(しやだん)の前を打過(うちすぎ)給ひける時、烏(からす)一番(ひとつがひ)杉の葉を一枝(ひとえだ)噛(くはへ)て甲(かぶと)の上へぞ落しける。左馬(さまの)頭(かみ)馬より下(おり)て、是(これ)は香椎宮(かしひのみや)の擁護(おうご)し給ふ瑞相(ずゐさう)也(なり)と敬礼(きやうらい)して、射向(いむけ)の袖に差(ささ)れける。敵御方(みかた)相近付(あひちかづき)て、時の音(こゑ)を挙(あげ)んとしける時、大高伊予(いよの)守(かみ)重成は、「将軍の御陣の余(あま)りに無勢(ぶせい)に候へば帰参(きさん)候はん。」とて引返(ひきかへ)しけり。直義此(これ)を見て、「始(はじめ)よりこそ留(とどま)るべきに、敵を見て引返すは臆病の至(いたり)也(なり)。あはれ大高が五尺(ごしやく)六寸(ろくすん)を五尺(ごしやく)切(きつ)てすて、剃刀(かみそり)にせよかし。」と欺(あざむか)れける。去(さる)程(ほど)に菊池(きくち)五千(ごせん)余騎(よき)を率(そつ)し、浜の西より相近付(ちかづき)て、先(まづ)矢合(やあはせ)の流鏑(かぶら)をぞ射たりける。左馬(さまの)頭(かみ)の陣よりは矢の一筋(ひとすぢ)をも射ず、鳴(なり)を閑(ひそ)めて、透間(すきま)あらば切懸(きりかけ)んと伺(うかがひ)見給ひけるに、誰が射(いる)とも不知白羽(しらは)の流鏑矢(かぶらや)敵の上を鳴響(なりひびい)て、落(おつる)所も見へず。左馬(さまの)頭(かみ)の兵共(つはものども)、是は只事(ただごと)に非(あらず)と憑敷(たのもしく)思(おもひ)、勇(いさみ)を不成と云(いふ)者なし。両陣相挑(あひいどん)で、未(いまだ)兵刃(へいじん)を交へざる処に、菊池(きくち)が兵黄河原毛(きかはらげ)なる馬に、火威(ひをどし)の鎧著(き)たる武者只一騎、御方(みかた)の勢に三町余(あま)り先立(さきだつ)て、抜懸(ぬけがけ)にぞしたりける。爰(ここ)に曾我左衛門・白石(しろいし)彦太郎・八木岡(やぎをか)五郎、三人(さんにん)共(とも)に馬・物具(もののぐ)無(なく)て、真前(まつさき)に進(すすん)だりけるが、見之、白石立向(たちむかつ)て馬より引落さんと、手もと近く寄副(よりそひ)ければ、敵太刀を捨(すて)て、腰(こしの)刀を抜(ぬか)んと、一反(ひとそ)り反(そ)りけるが、真倒(まつさかさま)に成(なつ)て落(おち)にけり。白石此(これ)を起(おこし)も立(たて)ず、推(おさ)へて首をば掻(かい)てけり。馬をば曾我走寄(はしりよつ)て打乗り、鎧をば八木岡剥取(はぎとつ)て著たりけり。白石が高名(かうみやう)に、二人(ににん)得利、軈(やがて)三人(さんにん)共(とも)に敵の中へ打入れば、仁木(につき)・細川以下(いげ)、「御方(みかた)討(うた)すな、連(つづけ)や。」とて、大勢の中へ懸入(かけいつ)て乱合(みだれあつ)てぞ闘(たたかひ)ける。仁木(につき)越後(ゑちごの)守(かみ)は、近付(ちかづく)敵五騎切(きつ)て落し、六騎に手負(ておふ)せて、猶敵の中に乍有、仰(のつ)たる太刀を蹈直(ふみなほ)しては切(きり)合ひ、命を限(かぎり)とぞ見(みえ)たりける。されば百五十騎(ひやくごじつき)、参然(さんぜん)として堅(かたき)を破(やぶ)れば、菊池(きくち)が勢誠(まこと)に百倍(ひやくばい)せりといへども、才(わづか)の小勢(こぜい)に懸立(かけたて)られて、一陣の軍兵三千(さんぜん)余騎(よき)、多々良浜(たたらばま)の遠干潟(とほひかた)を、二十(にじふ)余町(よちやう)までぞ引退(ひきしりぞき)ける。搦手(からめて)に回(まは)りける松浦(まつら)・神田(かんだ)の者共(ものども)、将軍の御勢(おんせい)の僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)にも足(たら)ざりけるを二三万騎(にさんまんぎ)に見なし、礒打(いそうつ)浪の音(おと)をも敵の時の声に聞(きき)なしければ、俄(にはか)に叶はじと思ふ心付(つい)て、一軍(ひといくさ)をもせず旌(はた)を捲(まく)と甲(かぶと)を脱(ぬい)で降人(かうにん)に出(いで)にけり。菊池(きくち)此(これ)を見て弥(いよいよ)難儀に思ひ、「大勢の懸(かか)らぬ先(さき)に。」と急(いそぎ)肥後(ひごの)国(くに)へ引返す。将軍則(すなはち)一色(いつしき)太郎入道々献(だうけん)・仁木(につき)四郎次郎義長を差遣(さしつかは)し菊池(きくち)が城を責(せめ)させらるるに、一日も堪(こらへ)得ず深山(みやま)の奥へ逃篭(にげこも)る。是(これ)より軈(やがて)同国八代(やつしろ)の城を責(せめ)て内河(うちかは)彦三郎を追(おひ)落す也(なり)。此(これ)のみならず、阿蘇大宮司(あそのだいぐうじ)八郎(はちらう)惟直(これなほ)は、先日多々良浜(たたらばま)の合戦に深手(ふかで)負(おう)たりけるが、肥前(ひぜんの)国(くに)小杵山(をつきやま)にて自害しぬ。其弟(そのおとと)九郎は、知(しら)ぬ里に行迷(ゆきまよう)て、卑(いやし)き田夫(でんぶ)に生擒(いけとら)れぬ。秋月備前(びぜんの)守(かみ)は、大宰府(ださいふ)迄落(おち)たりけるが、一族(いちぞく)二十(にじふ)余人(よにん)一所にて討(うた)れにけり。是等(これら)は皆一方の大将共なり。又九州の強敵(かうてき)ともなりぬべき者也(なり)しが、天運(てんうん)時至(いたら)ざれば加様(かやう)に皆滅(ほろぼ)されにけり。爾(しかつし)より後は九国・二嶋、悉(ことごとく)将軍に付順奉(つきしたがひたてまつら)ずと云(いふ)者なし。此(これ)全く菊池(きくち)が不覚(ふかく)にも非(あら)ず、又直義(ただよし)朝臣の謀(はかりこと)にも依らず、啻(ただ)将軍天下の主(あるじ)と成(なり)給ふべき過去の善因(ぜんいん)催(もよほ)して、霊神擁護(れいじんおうご)の威を加へ給(たまひ)しかば、不慮(ふりよ)に勝(かつ)ことを得て一時に靡(なび)き順(したがひ)けり。今まで大敵なりし松浦(まつら)・神田(かんだ)の者共(ものども)、将軍の小勢(こぜい)を大勢也(なり)と見て、降人(かうにん)に参(まゐり)たりと其聞有(そのきこえあり)ければ、将軍高(かう)・上杉の人々に向(むかつ)て宣(のたまひ)けるは、「言(ことば)の下(した)に骨(ほね)を消し、笑(わらひ)の中に刀を砺(とぐ)は此比(このころ)の人の心也(なり)。されば小弐が一族共(いちぞくども)は多年の恩顧なりしか共、正(まさし)く小弐を討(うち)つるも遠からぬ様(ためし)ぞかし。此(これ)を見るにも松浦・神田何(いか)なる野心を挿(さしはさん)でか、一軍(ひといくさ)もせず降人(かうにん)には出(いで)たるらん。信心(しんじん)真(まこ)と有(ある)時は感応(かんおう)不思議(ふしぎ)を顕(あらはす)事(こと)あり。今御方(みかた)の小勢(こぜい)を大勢と見し事(こと)、不審(ふしん)無(なき)に非(あら)ず。相構(あひかまへ)て面々(めんめん)心赦(ゆる)し有(ある)べからず。」と仰(おほせ)ければ、遥(はるか)の末坐(まつざ)に候(さふらひ)ける高(かうの)駿河(するがの)守(かみ)進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「誠(まこと)に人の心の測(はか)り難(かたき)事(こと)は、天よりも高(たかく)地よりも厚(あつし)と申せども、加様(かやう)の大儀(たいぎ)に於ては、余(あまり)に人の心を御不審(ごふしん)有(あつ)ては、争(いかで)か早速(さつそく)の大功を成(なし)候べき。就中(なかんづく)御勢(おんせい)の多(おほく)見へて候(さふらひ)ける事(こと)、例(れい)無(なき)にも有(ある)べからず。其(その)故は昔唐朝(たうてう)に、玄宗皇帝(くわうてい)の左将軍(さしやうぐん)に哥舒翰(かじよかん)、与逆臣安禄山兵崔乾祐、潼関(とうくわん)にて戦(たたかひ)けるに、黄(き)なる旗を差(さし)たる兵十万(じふまん)余騎(よき)、忽然(こつぜん)として官軍(くわんぐん)の陣に出来(いできた)れり。崔乾祐(さいけんいう)此(これ)を見て敵大勢なりと思ひ、兵を引(ひい)て四方(しはう)に逃(にげ)散る。其喜(そのよろこび)に勅使宗廟に詣(まうで)けるに、石人(せきじん)とて、石にて作双(つくりならべ)て廟(べう)に置(おき)たる人形共(にんぎやうども)両足泥(どろ)に触(まみ)れ、五体(ごたい)に矢立(たて)り。さてこそ黄旗(きはた)の兵十万(じふまん)余騎(よき)は、宗廟(そうべう)の神官軍(くわんぐん)に化(け)して、逆徒(ぎやくと)を退け給(たまひ)たりけりと、人皆疑(うたがひ)を散じけり。吾朝(わがてう)には天武(てんむ)天皇(てんわう)与大友(おほともの)王子(わうじ)天下を争(あらそ)はせ給(たまひ)ける時、備中(びつちゆうの)国(くに)二万郷(にまのさと)と云(いふ)所にて、両方の兵戦(たたかひ)を決せんとす。于時天武(てんむ)天皇(てんわう)の御勢(おんせい)は僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)、大友(おほともの)王子(わうじ)の御勢(おんせい)は、一万(いちまん)余騎(よき)也(なり)。勢の多少更(さらに)闘(たたか)ふべくも無(なか)りける処に、何(いづく)より来れる共知(しら)ぬ爽(さわや)かなる兵二万(にまん)余騎(よき)、天皇(てんわう)の御方(みかた)に出(いで)来て、大友(おほともの)王子(わうじ)の御勢(おんせい)を十方へ懸散(かけちら)す。此(これ)よりして其(その)所を二万里(にまのさと)と名付(なづけ)らる。君が代(よ)は二万(にま)の里人数(かず)副(そへ)て絶(たえ)ず備(そなふ)る御貢物(みつきもの)哉(かな)と周防の内侍(ないし)が読(よみ)たりしも、此(この)心にて候也(なり)。」と、和漢(わかん)両朝の例(れい)を引(ひい)て、武運の天に叶(かな)へる由を申(まうし)ければ、将軍を始(はじめ)まいらせて、当座の人々も、皆歓喜(くわんぎ)の笑(ゑみ)をぞ含(ふくま)れける。
○西国蜂起(ほうき)官軍(くわんぐん)進発(しんぱつの)事(こと) S1604
去(さる)程(ほど)に、将軍筑紫(つくし)へ没落(ぼつらく)し給(たまひ)し刻(きざみ)、四国・西国の朝敵共(てうてきども)、機を損(そん)じ度(ど)を失(うしなひ)て、或(あるひ)は山林に隠れ或(あるひ)は所縁(しよえん)を尋(たづね)て、新田(につた)殿(どの)の御教書(みげうしよ)を給(たまは)らぬ人は無(なか)りけり。此(この)時若(もし)義貞早速(さつそく)に被下向たらましかば、一人も降参せぬ者は有(ある)まじかりしを、其比(そのころ)天下第一(だいいち)の美人と聞へし、勾当(こうたう)の内侍(ないし)を内裏(だいり)より給(たまはり)たりけるに、暫(しばし)が程も別(わかれ)を悲(かなしみ)て、三月の末迄西国下向(げかう)の事被延引けるこそ、誠(まこと)に傾城(けいせい)傾国の験(しるし)なれ。依之(これによつて)丹波(たんばの)国(くに)には、久下(くげ)・長沢・荻野(をぎの)・波々伯部(はうかべ)の者共(ものども)、仁木(につきの)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)を大将として、高山寺(かうせんじ)の城に楯篭(たてごも)り、播磨国(はりまのくに)には、赤松入道円心白旗(しらはた)が峯(みね)を城郭に構(かまへ)て、射手(いて)の下向を支(ささへ)んとす。美作(みまさか)には、菅家(くわんけ)・江見(えみ)・弘戸(ひろと)の者共(ものども)、奈義能山(なぎのせ)・菩提寺の城を拵(こしら)へて、国中を掠(かす)め領(りやう)す。備前には、田井・飽浦(あくら)・内藤・頓宮(とんぐう)・松田・福林寺(ふくりんじ)の者共(ものども)、石橋左衛門(さゑもんの)佐(すけ)を大将として、甲斐河(かひかは)・三石(みついし)二箇処(にかしよ)の城を構(かまへ)て船路(ふなぢ)・陸地(くがぢ)を支(ささへ)んとす。備中には、庄(しやう)・真壁・陶山(すやま)・成合(なりあひ)・新見(にひみ)・多地部(たちへ)の者共(ものども)、勢山(せやま)を切塞(きりふさい)で、鳥も翔(かけ)らぬ様(やう)に構へたり。是(これ)より西、備後・安芸(あき)・周防・長門は申(まうす)に不及、四国・九州も悉(ことごとく)著(つか)では叶(かなふ)まじかりければ、将軍方(しやうぐんがた)に無志も皆順ひ不靡云(いふ)事(こと)なし。処々(しよしよ)の城郭、国々の蜂起(ほうき)、震(おびたたし)く京都へ聞(きこえ)ければ、先(まづ)東国を敵に成(なし)ては叶(かなふ)まじとて、北畠(きたばたけの)源(げん)中納言(ぢゆうなごん)顕家(あきいへの)卿(きやう)を、鎮守府(ちんじゆふ)の将軍になして、奥州へ下(くだ)さる。新田(につた)左中将(さちゆうじやう)義貞には、十六(じふろく)箇国(かこく)の管領(くわんれい)を被許、尊氏追討(つゐたう)の宣旨(せんじ)をぞ被成ける。義貞綸命(りんめい)を蒙(かうむつ)て、已(すで)に西国へ立(たた)んとし給(たまひ)ける刻(きざみ)、瘧病(ぎやへい)の心地(ここち)煩(わづらは)しかりければ、先(まづ)江田(えた)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)行義(ゆきよし)・大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)二人(ににん)を播磨国(はりまのくに)へ被差下。其(その)勢(せい)二千(にせん)余騎(よき)、三月四日京を立(たつ)て、同(おなじき)六日書写坂本(しよしやさかもと)に著(つき)にけり。赤松入道是(これ)を聞(きい)て、敵に足をためさせては叶(かなふ)まじとて、備前・播磨両国の勢(せい)を合(あはせ)て書写坂本へ押寄(おしよせ)ける間、江田・大館、室山(むろやま)に出向(いでむかつ)て相戦ふ。赤松軍(いくさ)利(り)無(なく)して、官軍(くわんぐん)勝(かつ)に乗(のり)しかば、江田・大館勢(いきほひ)を得て、西国の退治輒(たやす)かるべき由(よし)、頻(しきり)に羽書(うしよ)を飛(とば)せて京都へ注進す。
○新田左中将被責赤松事 S1605
去(さる)程(ほど)に、左中将(さちゆうじやう)義貞の病気能(よく)成(なり)てければ、五万(ごまん)余騎(よき)の勢(せい)を率(そつ)して、西国へ下り給ふ。後陣(ごぢん)の勢を待調(まちそろ)へん為に、播磨国(はりまのくに)賀古河(かごかは)に四五日逗留(とうりう)有(あり)ける程(ほど)に、宇都宮(うつのみや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)公綱(きんつな)・紀伊(きの)常陸(ひたちの)守(かみ)・菊池(きくち)次郎武季(たけすゑ)三千(さんぜん)余騎(よき)にて下著(げちやく)す。其外(そのほか)摂津国(つのくに)・播磨・丹波・丹後(たんご)の勢共(せいども)、思々(おもひおもひ)に馳参(はせさん)じける間、無程六万(ろくまん)余騎(よき)に成(なり)にけり。「さらば軈(やが)て赤松が城へ寄(よせ)て可責。」とて、斑鳩(いかるが)の宿(しゆく)迄打寄せ給(たまひ)たりける時、赤松入道円心(ゑんしん)、小寺(こでら)藤兵衛(ひやうゑの)尉(じよう)を以て、新田殿(につたどの)へ被申けるは、「円心不肖(ふせう)の身を以て、元弘(げんこう)の初(はじめ)大敵に当り、逆徒(ぎやくと)を責却候(せめしりぞけさふらひ)し事(こと)、恐(おそらく)は第一(だいいち)の忠節とこそ存候(ぞんじさふらひ)しに、恩賞の地、降参不儀(ふぎ)の者よりも猶賎(いやし)く候(さふらひ)し間、一旦(いつたん)の恨(うらみ)に依(よつ)て多日の大功を捨候(すてさふらひ)き。乍去兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)の御恩、生々世々(しやうしやうよよ)難忘存(ぞんじ)候へば、全く御敵(おんてき)に属(しよく)し候事(こと)、本意とは不存候。所詮(しよせん)当国の守護職(しゆごしよく)をだに、綸旨(りんし)に御辞状(ごじじやう)を副(そへ)て下(くだ)し給(たまは)り候はゞ、如元御方(みかた)に参(まゐつ)て、忠節を可致にて候。」と申(まうし)たりければ、義貞是(これ)を聞給(ききたまひ)て、「此(この)事(こと)ならば子細(しさい)あらじ。」と被仰て、頓(やが)て京都へ飛脚(ひきやく)を立(たて)、守護職(しゆごしよく)補任(ふにん)の綸旨(りんし)をぞ申成(まうしなさ)れける。其(その)使節往反(わうへん)の間、已(すで)に十(じふ)余日(よにち)を過(すぎ)ける間に、円心城を拵(こしらへ)すまして、「当国の守護(しゆご)・国司(こくし)をば、将軍より給(たまひ)て候間、手(て)の裏を返す様(やう)なる綸旨をば、何かは仕(つかまつり)候べき。」と、嘲哢(てうろう)してこそ返されけれ。新田左中将(さちゆうじやう)是を聞給(ききたまひ)て、「王事毋脆事、縦(たとひ)恨(うらみ)を以て朝敵(てうてき)の身になる共、戴天欺天命哉(や)。其(その)儀ならば爰(ここ)にて数月(すげつ)を送る共、彼(かれ)が城を責(せめ)落さでは通るまじ。」とて、六万(ろくまん)余騎(よき)の勢を以て、白旗(しらはた)の城を百重(ひやくぢゆう)千重(せんぢゆう)に取囲(とりかこみ)て、夜昼(よるひる)五十(ごじふ)余日(よにち)、息をも不継責(せめ)たりける。斯(かか)りけれ共(ども)、此(この)城四方(しはう)皆嶮岨(けんそ)にして、人の上(のぼ)るべき様(やう)もなく、水も兵粮も卓散(たくさん)なる上、播磨・美作(みまさか)に名を得たる射手(いて)共(ども)、八百(はつぴやく)余人(よにん)迄篭(こも)りたりける間、責(せむ)けれども/\只寄手(よせて)々負(ておひ)討(うた)るゝ許(ばかり)にて、城中恙(つつが)なかりけり。脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)是(これ)を見給(たまひ)て、左中将(さちゆうじやう)に向(むかつ)て被申けるは、「先年正成(まさしげ)が篭(こも)りたりし金剛山(こんがうせん)の城を、日本国の勢共(せいども)が責兼(せめかね)て、結句(けつく)天下を覆(くつがへ)されし事は、先代の後悔にて候はずや。僅(わづか)の小城(こじろ)一(ひとつ)に取懸(とりかか)りて、そゞろに日数を送り候はゞ、御方(みかた)の軍勢(ぐんぜい)は皆兵粮に疲(つかれ)、敵陣の城には弥(いよいよ)強(つよ)り候はんか。其(その)上(うへ)尊氏已(すで)に筑紫(つくし)九箇国(くかこく)を平(たひらげ)て、上洛(しやうらく)する由聞(きこえ)候へば、彼(かれ)が近付(ちかづか)ぬ前(さき)に備前・備中を退治(たいぢ)して、安芸・周防・長門の勢を被著候はでは、ゆゝしき大事(だいじ)に及(および)候(さふらひ)ぬとこそ覚(おぼえ)候へ。乍去今迄責懸(せめかけ)たる城を落さで引(ひく)は、天下の哢(あざけり)共(とも)成(なる)べく候へば、御勢(おんせい)を少々(せうせう)被残、自余(じよ)の勢を船坂(ふなさか)へ差向(さしむけ)られ、先(まづ)山陽道(せんやうだう)の路を開(ひらい)て中国の勢を著(つ)け、推(おし)て筑紫へ御下(おんくだり)候へかし。」と被申ければ、左中将(さちゆうじやう)、「此(この)儀尤(もつとも)宜(よろしく)覚(おぼえ)候。」とて、頓(やが)て宇都宮(うつのみや)と菊池(きくち)が勢を差副(さしそへ)、伊東大和(やまとの)守(かみ)・頓宮(とんぐう)六郎(ろくらう)を案内者(あんないしや)として、二万(にまん)余騎(よき)舟坂山(ふなさかやま)へぞ向(むけ)られける。彼(かの)山と申(まうす)は、山陽道(せんやうだう)第一(だいいち)の難処也(なり)。両方は嶺(みね)峨々(がが)として、中に一の細(ほそ)道あり。谷深(ふかく)石滑(なめらか)にして、路羊腸(やうちやう)を践(ふん)で上る事二十(にじふ)余町(よちやう)、雲霧窈溟(うんむえうめい)たり。若(もし)一夫怒(いかつて)臨関、万侶(ばんりよ)難得透。況(いはんや)岩石(がんせき)を穿(うがつ)て細橋(ほそはし)を渡しゝ大木(たいぼく)を倒して逆木(さかもぎ)に引(ひき)たれば、何(いか)なる百万騎の勢にても、責(せめ)破るべしとはみへざりけり。去(され)ば指(さし)も勇める菊池(きくち)・宇都宮(うつのみや)が勢も、麓に磬(ひか)へて不進得。案内者(あんないしや)に憑(たのま)れたる伊東・頓宮(とんぐう)の者共(ものども)も、山をのみ向上(みあげ)て徒(いたづら)に日をぞ送(おくり)ける。
○児嶋三郎熊山(くまやまに)挙旗事(こと)付(つけたり)船坂(ふなさか)合戦(かつせんの)事(こと) S1606
斯(かか)りける処に、備前(びぜんの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)児嶋三郎高徳(たかのり)、去年の冬、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)、四国より責上(せめのぼり)し時、備前・備中数箇度(すかど)の合戦に打負(うちまけ)て、山林に身を隠し、会稽(くわいけい)の恥を雪(すす)がんと、義貞朝臣の下向を待(まつ)て居たりけるが、舟坂山(ふなさかやま)を官軍(くわんぐん)の超(こえ)かねたりと聞(きき)て、潛(ひそかに)使を新田(につた)殿(どの)の方へ立(たて)て申(まうし)けるは、「舟坂(ふなさか)より御勢(おんせい)を可被越由承及(うけたまはりおよび)候事実(まこと)に候はゞ、彼(かの)要害輒(たやす)く難被破(やぶられ)候歟(か)。高徳(たかのり)来(きたる)十八日当国(たうごくの)於熊山可挙義兵候。さる程ならば、舟坂(ふなさか)を堅(かため)たる凶徒等(きようとら)、定(さだめ)て熊山へ寄来(よせきたり)候はん歟(か)。敵の勢のすきたる隙(ひま)を得て御勢(おんせい)を二手(ふたて)に分(わか)たれ、一手(ひとて)をば舟坂(ふなさか)へ差向(さしむけ)て可攻勢(いきほ)ひを見せ、一手(ひとて)をば三石山(みついしやま)の南に当(あたつ)て樵(きこり)の通(かよ)ふ路一(ひとつ)候なる、潛(ひそか)に廻(まはら)せて、三石(みついし)の宿(しゆく)より西へ被出候はゞ、船坂の敵前後を被裹、定(さだめ)て引(ひき)方(がた)を失(うしなひ)候はんか。高徳(たかのり)国中に旗を挙(あげ)、舟坂(ふなさか)を先(まづ)破り候はゞ、西国の軍勢(ぐんぜい)御方(みかた)に参(まゐら)ずと云(いふ)者候べからず。急(いそぎ)此相図(このあひづ)を以て、御合戦有(ある)べく候也(なり)。」とぞ申送(まうしおくり)ける。其比(そのころ)播磨より西、長門の国に至(いたる)まで悉(ことごと)く敵陣にて、案内を通づる者もなきに、高徳が使者来(きたつ)て、企(くはたて)の様(やう)を申(まうし)ければ、新田殿(につたどの)悦(よろこび)給ふ事不斜(なのめならず)。則(すなはち)相図(あひづ)の日を定(さだめ)て、其(その)使をぞ被返ける。使者(ししや)備前に帰(かへつ)て相図(あひづ)の様(やう)を申(まうし)ければ、四月十七日(じふしちにち)の夜半許(やはんばかり)に、児嶋三郎高徳、己(おの)が館(たち)に火をかけて、僅(わづか)二十五騎にてぞ打出(うちいで)ける。国を阻(へだて)境を隔(へだて)たる一族共(いちぞくども)は、事急(きふ)なるに依(よつ)て不及相催、近辺(きんぺん)の親類共に事の子細(しさい)を告(つげ)たりければ、今木・大富(おほどみ)・和田・射越(いのこし)・原・松崎の者共(ものども)、取(とる)物も不取敢馳著(はせつき)ける間、其(その)勢(せい)二百(にひやく)余騎(よき)に成(なり)にけり。兼(かね)ては夜中に熊山へ取上(とりあが)り、四方(しはう)に篝火(かがりび)を焼(たい)て、大勢篭(こも)りたる勢(いきほ)ひを、敵にみせんと巧(たく)みたりけるが、馬よ物具(もののぐ)よとひしめく間に、夏の夜程なく明(あけ)けれども、無力相図の時刻を違(ちがへ)じとて、熊山へこそ取上(とりあが)りけれ。如案三石(みついし)・舟坂(ふなさか)の勢共(せいども)是(これ)を聞(きき)て、「国中に敵出来(いできたり)なば、ゆゝしき大事(だいじ)なるべし。万方(ばんばう)を閣(さしおい)て、先(まづ)熊山を責(せめ)よ。」とて、舟坂(ふなさか)・三石(みついし)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を引分(ひきわけ)て、熊山へぞ向(むかひ)たりける。彼(かの)熊山と申(まうす)は、高さは比叡山(ひえいさん)の如(ごとく)にして四方(しはう)に七(ななつ)の道あり。其路(そのみち)何(いづれ)も麓は少し嶮(けはしう)して峯は平(たひらか)なり。高徳僅(わづか)の勢を七の道へ差分(さしわけ)て、四方(しはう)へ敵をぞ防ぎける。追下(おひおろ)せば責上(せめあが)り、責上(せめあが)れば追下(おひおろ)し、終日(ひねもす)戦暮(たたかひくら)して態(わざ)と時をぞ移(うつ)しける。夜に入(いり)ける時、寄手(よせて)の中に石戸(おしこ)彦三郎とて此(この)山の案内者(あんないしや)有(あり)けるが、思(おもひ)も寄(よら)ぬ方より抜入(ぬけいつ)て、本堂の後(うしろ)なる峯にて鬨(ときのこゑ)をぞ揚(あげ)たりける。高徳(たかのり)四方(しはう)の麓へ勢を皆分(わけ)て遣(つかはし)ぬ。僅(わづか)に十四五騎にて本堂の庭に磬(ひかへ)たりけるが、石戸(おしこ)が二百騎(にひやくき)の中へ喚(をめい)て懸(かけ)入り、火を散(ちらし)てぞ闘ひける。深山(みやま)の木隠(こがく)れ月暗(くらう)して、敵の打(うつ)太刀分明にも見へざりければ、高徳が内甲(うちかぶと)を突(つか)れて、馬より倒(さかさま)に落(おち)にけり。敵二騎落合(おちあつ)て、頚を取(とら)んとしける処へ、高徳が甥(をひ)松崎彦四郎(ひこしらう)・和田四郎馳合(はせあつ)て、二人(ににん)の敵を追払(おつはら)ひ、高徳を馬に引乗せて、本堂の縁(えん)にぞ下(おろ)しける。高徳(たかのり)は内甲(うちかぶと)の疵(きず)痛手(いたで)也(なり)ける上、馬より落(おち)ける時、胸板(むないた)を強く蹈(ふま)れて、目昏(くれ)魂(たましひ)消(きえ)ければ、暫(しばらく)絶入(ぜつじゆ)したりけるを、父備後(びんごの)守(かみ)範長(のりなが)、枕の下(もと)に差寄(さしよつ)て、「昔鎌倉(かまくら)の権五郎(ごんごらう)景政(かげまさ)は、左の眼(まなこ)を射抜(いぬか)れ、三日三夜まで其(その)矢を抜かで、当(たう)の矢を射たりとこそ云(いひ)伝へたれ。是(これ)程の小疵(こきず)一所に弱りて死(しぬ)ると云(いふ)事(こと)や可有。其(それ)程無云甲斐心を以て此(この)一大事(いちだいじ)をば思立(おもひたち)けるか。」と荒(あら)らかに恥(はぢ)しめける間、高徳忽(たちまち)に生出(いきいで)て、「我を馬に舁乗(かきのせ)よ、今一軍(ひといくさ)して敵を追払(おひはら)はん。」とぞ申(まうし)ける。父大(おほき)に悦(よろこん)で、「今は此(この)者よも死なじ。いざや殿原(とのばら)、爰(ここ)らに有(あり)つる敵共(てきども)追散(おつちら)さん。」とて、今木(いまぎの)太郎範秀(のりひで)・舎弟次郎範仲(のりなか)・中西四郎範顕(のりあき)・和田四郎範氏(のりうぢ)・松崎彦四郎(ひこしらう)範家(のりいへ)主従(しゆじゆう)十七騎にて、敵二百騎(にひやくき)が中へまつしらくに懸入(かけいり)ける間、石戸(おしこ)是(これ)を小勢(こぜい)とは知(しら)ざりけるにや、一立合(ひとたてあは)せも立合(たてあは)せず、南面(みなみおもて)の長坂を福岡までこそ引(ひき)たりけれ。其侭(そのまま)両陣相支(あひささへ)て互に軍(いくさ)もせざりけり。相図の日にも成(なり)ければ、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)を大将として、梨原(なしがはら)へ打莅(うちのぞ)み、二万騎(にまんぎ)の勢を三手に分(わか)たる。一手(ひとて)には江田兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)を大将として、二千(にせん)余騎(よき)杉坂へ向(むけ)らる。是(これ)は菅家(くわんけ)・南三郷(なんさんがう)の者共(ものども)が堅(かた)めたる所を追破(おひやぶつ)て、美作(みまさか)へ入(いら)ん為也(なり)。一手(ひとて)には大江田(おいだ)式部(しきぶの)大輔(たいふ)氏経を大将として、菊池(きくち)・宇都宮(うつのみや)が勢五千(ごせん)余騎(よき)を船坂へ差向(さしむけ)らる。是(これ)は敵を爰(ここ)に遮(さへぎ)り留(とめ)て、搦手(からめて)の勢を潛(ひそか)に後(うしろ)より回(まは)さん為也(なり)。一手(ひとて)には伊東大和(やまとの)守(かみ)を案内者(あんないしや)として、頓宮(とんぐう)六郎(ろくらう)・畑(はた)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)、当国の目代(もくだい)少納言範猷(のりみち)・由良新左衛門(しんざゑもん)・小寺(こでら)六郎(ろくらう)・三津沢(みつざは)山城(やましろの)権守(ごんのかみ)以下(いげ)態(わざと)小勢(こぜい)を勝(すぐつ)て三百(さんびやく)余騎(よき)向(むけ)らる。其(その)勢(せい)皆轡(くつわ)の七寸(みづつき)を紙を以て巻(まい)て、馬の舌根(したね)を結(ゆう)たりける。杉坂越(すぎさかごえ)の北、三石(みついし)の南に当(あたつ)て、鹿(しし)の渡る道一(ひとつ)あり。敵是(これ)を知(しら)ざりけるにや、堀切(ほりきり)たる処もなく、逆木(さかもぎ)の一本をも引(ひか)ざりけり。此(この)道余(あまり)に木茂(しげつ)て、枝の支へたる処をば下(おり)て馬を引く。山殊に嶮(けはしう)して、足もたまらぬ所をば、中々(なかなか)乗(のつ)て懸下(かけおろ)す、兎角(とかう)して三時許(みときばかり)に嶮岨(けんそ)を凌(しのい)で三石(みついし)の宿(しゆく)の西へ打出(いで)たれば、城中の者も舟坂(ふなさか)の勢も、遥(はるか)に是(これ)を顧(かへりみ)て、思(おもひ)も寄(よら)ぬ方なれば、熊山の寄手共(よせてども)が帰(かへり)たるよと心得て、更に仰天(ぎやうてん)もせざりけり。三百(さんびやく)余騎(よき)の勢共(せいども)、宿(しゆく)の東なる夷(えびす)の社(やしろ)の前へ打寄り、中黒(なかぐろ)の旗を差揚(さしあげ)て東西の宿に火をかけ、鬨(ときのこゑ)をぞ挙(あげ)たりける。城中の兵は、大略(たいりやく)舟坂(ふなさか)へ差向けぬ。三石(みついし)に有(あり)し勢(せい)は、皆熊山へ向ひたる時分なれば、闘(たたか)はんとするに勢(せい)なく、防(ふせ)がんとするに便(たより)なし。舟坂(ふなさか)へ向ひたる勢、前後の敵に取巻(とりまか)れて、すべき様(やう)もなかりければ、只馬・物具(もののぐ)を捨(すて)て、城へ連(つらなり)たる山の上へ、はう/\逃上(にげのぼ)らんとぞ騒ぎける。是を見て、大手(おほて)・搦手(からめて)差合(さしあは)せて、「余(あま)すな漏(もら)すな。」と追懸(おつかけ)ける間、逃方(にげかた)を失(うしなひ)ける敵共(てきども)此彼(ここかしこ)に行迫(ゆきつまつ)て自害をする者百(ひやく)余人(よにん)、生取(いけど)らるゝ者五十(ごじふ)余人(よにん)也(なり)。爰(ここ)に備前(びぜんの)国(くに)一宮(いちのみや)の在庁(ざいちやう)、美濃(みのの)権(ごんの)介(すけ)佐重(すけしげ)と云(いひ)ける者、可引方なくして、已(すで)に腹を切らんとしけるが、屹(きつ)と思(おもひ)返す事有(あつ)て、脱(ぬぎ)たる鎧を取(とつ)て著(き)、捨(すて)たる馬に打乗(のつ)て、向ふ敵の中を推分(おしわけ)て、播磨の方へぞ通(とほ)りける。舟坂(ふなさか)より打入る大勢共、「是(これ)は何(なに)者ぞ。」と尋(たづね)ければ、「是(これ)は搦手(からめて)の案内者(あんないしや)仕(つかま)つる者にて候が、合戦の様(やう)を委(くはし)く新田殿(につたどの)へ申入(まうしいれ)候也(なり)。」と答(こたへ)ければ、打(うち)合ふ数万の勢共(せいども)、「目出(めでたく)候。」と感じて、道を開(ひらい)てぞ通しける。佐重(すけしげ)、総大将(そうだいしやう)の侍所(さぶらひどころ)長浜が前に跪(ひざまづい)て、「備前(びぜんの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に、美濃(みのの)権(ごんの)介(すけ)佐重、三石(みついし)の城より降人に参(まゐつ)て候。」と申(まうし)ければ、総大将(そうだいしやう)より、「神妙(しんべう)に候。」と被仰、則(すなはち)著到(ちやくたう)にぞ被著ける。佐重若干(そくばく)の人を出抜(だしぬい)て、其(その)日(ひ)の命を助かりける。是(これ)も暫時(ざんじ)の智謀(ちぼう)也(なり)。舟坂(ふなさか)已(すで)に破れたれば、江田兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)は、三千(さんぜん)余騎(よき)にて美作(みまさかの)国(くに)へ打入(いつ)て、奈義能山(なぎのせ)・菩提寺(ぼだいじ)二箇所(にかしよ)の城を取巻(とりまき)給ふ。彼(かの)城もすべなき様(やう)なければ、馬・武具(もののぐ)を捨(すて)て、城に連(つらなり)たる上の山へぞ逃上(にげのぼ)りける。脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助は、五千(ごせん)余騎(よき)にて三石(みついし)の城を責(せめ)らる。大江田(おいた)式部(しきぶの)大輔(たいふ)は、二千(にせん)余騎(よき)にて備中(びつちゆうの)国(くに)へ打越(うちこえ)、福山の城にぞ陣を被取ける。
○将軍自筑紫御上洛(しやうらくの)事(こと)付(つけたり)瑞夢(ずゐむの)事(こと) S1607
多々良浜(たたらばま)の合戦の後、筑紫九国の勢一人として将軍に不順靡云(いふ)者無(なか)りけり。然共(しかれども)中国に敵陣充満(じゆうまん)して道を塞(ふさ)ぎ、東国王化に順(したがひ)て、御方(みかた)に通(つう)ずる者少なかりければ、左右(さう)なく京都へ責上(せめのぼ)らん事は、如何(いかが)有(ある)べからんと、此(この)春(はる)の敗北にこり懼(おぢ)て、諸卒敢(あへ)て進む義勢(ぎせい)無(なか)りける処に、赤松入道が三男(さんなん)則祐律師(そくいうりつし)、並(ならび)に得平因播(とくひらいなばの)守(かみ)秀光(ひでみつ)、播磨より筑紫(つくし)へ馳参(はせまゐつ)て申(まうし)けるは、「京都より下(くだ)されたる敵軍、備中・備前・播磨・美作に充満(じゆうまん)して候といへ共、是(これ)皆城々(しろじろ)を責(せめ)かねて、気疲(つか)れ粮(かて)尽(つき)たる時節(をりふし)にて候間、将軍こそ大勢(おほぜい)にて御上洛(ごしやうらく)候へとだに承及(うけたまはりおよび)候はゞ、一(ひと)たまりも怺(たまら)じと存(ぞんじ)候。若(もし)御進発(ごしんばつ)延引(えんいん)候(さふらひ)て、白旗(しらはた)の城責(せめ)落されなば、自余(じよ)の城一日も怺(こらへ)候まじ。四箇国(しかこく)の要害、皆敵の城に成(なつ)て候はんずる後は、何百万騎(なんびやくまんぎ)の勢(せい)にても、御上洛(ごしやうらく)叶(かなふ)まじく候。是(これ)則(すなはち)趙王(てうわう)が秦(しん)の兵に囲(かこま)れて、楚の項羽(かうう)舟筏(ふないかだ)を沈め、釜甑(ふそう)を焼(やい)て、戦(たたかひ)負けば、士卒(じそつ)一人も生(いき)て返らじとせし戦(たたかひ)にて候はずや。天下の成功只此(この)一挙(いつきよ)に可有にて候者を。」と詞(ことば)を残さで申(まうし)ければ、将軍是(これ)を聞給(ききたまひ)て、「げにも此義(このぎ)さもありと覚(おぼゆ)るぞ。さらば夜を日に継(つい)で、上洛(しやうらく)を急ぐべし。但(ただし)九州を混(ひたす)ら打捨(すて)ては叶(なかふ)まじ。」とて、仁木(につき)四郎次郎義長(よしなが)を大将として、大友(おほとも)・小弐(せうに)両人を留(とめ)置き、四月二十六日に太宰府を打立(うちたつ)て、同二十八日に順風に纜(ともづな)解(とい)て、五月一日安芸(あき)の厳嶋(いつくしま)へ舟を寄(よせ)られて、三日参篭(さんろう)し給ふ。其結願(そのけちぐわん)の日、三宝院(さんばうゐん)の僧正(そうじやう)賢俊(けんしゆん)京より下(くだつ)て、持明院殿(ぢみやうゐんどの)より被成ける院宣(ゐんぜん)をぞ奉ける。将軍是(これ)を拝覧し給(たまひ)て、「函蓋(かんかい)相応(さうおう)して心中の所願已(すで)に叶へり。向後(きやうこう)の合戦に於ては、不勝云(いふ)事(こと)有(ある)べからず。」とぞ悦給(よろこびたまひ)ける。去(さる)四月六日に、法皇は持明院殿(ぢみやうゐんどの)にて崩御(ほうぎよ)なりしかば、後(ご)伏見(ふしみの)院(ゐん)とぞ申(まうし)ける。彼(かの)崩御已前(いぜん)に下(くだり)し院宣(ゐんぜん)なり。将軍は厳島(いつくしま)の奉弊(ほうへい)事(こと)終(をはつ)て、同五日厳嶋を立(たち)給へば、伊予・讚岐・安芸・周防(すはう)・長門(ながと)の勢五百(ごひやく)余艘(よさう)にて馳(はせ)参る。同七日備後・備中・出雲・石見(いはみ)・伯耆(はうき)の勢六千(ろくせん)余騎(よき)にて馳(はせ)参る。其外(そのほか)国々の軍勢(ぐんぜい)不招に集(あつま)り、不責に順ひ著(つく)事(こと)、只吹(ふく)風の草木を靡(なびか)すに異(こと)ならず。新田(につた)左中将(さちゆうじやう)の勢已(すで)に備中・備前・播磨・美作に充満(じゆうまん)して、国々の城を責(せむ)る由聞(きこ)へければ、鞆(とも)の浦より左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)を大将にて、二十万騎(にじふまんぎ)を差分(さしわけ)て、徒路(かちぢ)を上(のぼ)せられ、将軍は一族(いちぞく)四十(しじふ)余人(よにん)、高家(かうけの)一党五十(ごじふ)余人(よにん)、上杉の一類(いちるゐ)三十(さんじふ)余人(よにん)、外様(とざま)の大名百六十(ひやくろくじふ)頭(かしら)、兵船(ひやうせん)七千(しちせん)五百(ごひやく)余艘(よさう)を漕双(こぎならべ)て、海上をぞ上(のぼ)られける。同五日備後の鞆(とも)を立(たち)給ひける時一(ひとつ)の不思議(ふしぎ)あり。将軍の屋形(やかた)の中に少(すこし)目眠給(まどろみたまひ)たりける夢に、南方より光明赫奕(かくやく)たる観世音菩薩一尊(いつそん)飛(とび)来りまし/\て、船の舳(へ)に立(たち)給へば、眷属(けんぞく)の二十八部衆、各(おのおの)弓箭兵杖(きゆうせんひやうぢやう)を帯(たい)して擁護(おうご)し奉る体(てい)にぞ見給(たまひ)ける。将軍夢覚(さめ)て見給へば、山鳩(やまばと)一つ船の屋形の上にあり。彼此(かれこれ)偏(ひとへ)に円通大士(ゑんつうだいし)の擁護(おうご)の威を加へて、勝軍(かちいくさ)の義を可得夢想(むさう)の告(つげ)也(なり)と思召(おぼしめし)ければ、杉原(すいばら)を三帖(さんでふ)短冊(たんじやく)の広さに切(きら)せて、自(みづから)観世音菩薩を書(かか)せ給(たまひ)て、舟の帆柱毎(ほばしらごと)にぞ推させられける。角(かく)て舟路(ふなぢ)の勢(せい)、已(すで)に備前の吹上(ふきあげ)に著けば、歩路(かちぢ)の勢(せい)は、備中の草壁(くさかべ)の庄にぞ著(つき)にける。
○備中(びつちゆうの)福山(ふくやま)合戦(かつせんの)事(こと) S1608
福山に楯篭(たてごも)る処の官軍共(くわんぐんども)、此(この)由を聞(きき)て、「此(この)城未拵(いまだこしらふ)るに不及、彼(かれ)に付(つき)此(これ)に付(つき)、大敵を支へん事は、可叶共(とも)覚(おぼ)へず。」と申(まうし)けるを、大江田(おいた)式部(しきぶの)大輔(たいふ)、且(しばら)く思案して宣ひけるは、「合戦の習(ならひ)、勝負(しようぶ)は時の運に依(よる)といへども、御方(みかた)の小勢(こぜい)を以て、敵の大勢に闘(たたか)はんに、不負云(いふ)事(こと)は、千に一(ひとつ)も有(ある)べからず。乍去国を越(こえ)て足利殿(あしかがどの)の上洛(しやうらく)を支(ささへ)んとて、向ひたる者が、大勢の寄(よす)ればとて、聞逃(ききにげ)には如何(いかが)すべき。よしや只一業所感(ごふしよかん)の者共(ものども)が、此(この)所にて皆可死果報(くわはう)にてこそ有(ある)らめ。軽死重名者をこそ人とは申せ。誰々も爰(ここ)にて討死して、名を子孫に残さんと被思定候へ。」と諌められければ、紀伊(きいの)常陸(ひたち)・合田以下(あひだいげ)は、「申(まうす)にや及(および)候。」と領状して討死を一篇(いつぺん)に思儲(おもひまうけ)てければ、中々心中涼(すずし)くぞ覚(おぼ)へける。去(さる)程(ほど)に、明(あく)れば五月十五日の宵より、左馬(さまの)頭(かみ)直義三十万騎(さんじふまんぎ)の勢にて、勢山(せやま)を打越へ、福山の麓四五里が間、数百(すひやく)箇所(かしよ)を陣に取(とつ)て、篝(かがり)を焼(たい)てぞ居たりける。此(この)勢(せい)を見ては、如何なる鬼神(きじん)ともいへ、今夜落(おち)ぬ事はよも非じと覚(おぼえ)けるに、城の篝も不焼止、猶怺(こらへ)たりと見へければ、夜已(すで)に明(あけ)て後、先(まづ)備前・備中の勢共(せいども)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄せ、浅原峠(あさはらたうげ)よりぞ懸(かかり)たりける。是(これ)迄も城中鳴(なり)を静めて音もせず。「さればこそ落(おち)たりと覚(おぼゆ)るぞ。時の声を挙(あげ)て敵の有無(いうぶ)も知れ。」とて、三千(さんぜん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、楯(たて)の板を敲(たた)き、時を作る事三声、近付(ちかづき)て上(あがら)んとする処に、城中の東西の木戸口(きどぐち)に、大鼓(たいこ)を打(うち)て時の声をぞ合(あは)せたりける。外所(よそ)に磬(ひかへ)たる寄手(よせて)の大勢是(これ)を聞(きき)て、「源氏の大将の篭(こも)りたらんずる城の、小勢(こぜい)なればとて、聞落(ききおち)にはよもせじと思(おもひ)つるが、果して未(いまだ)怺(こらへ)たりけるぞ。侮(あなどつ)て手合(てあはせ)の軍(いくさ)し損(そん)ずな。四方(しはう)を取巻(とりまい)て同時に責(せめ)よ。」とて国々の勢一方々々を請取(うけとつ)て、谷々(たにだに)峯々より攻上(せめのぼ)りける。城中の者共(ものども)は、兼(かね)てより思儲(おもひまうけ)たる事なれば、雲霞(うんか)の勢に囲まれぬれ共少(すこし)も不騒、此彼(ここかしこ)の木隠(こかげ)に立隠(たちかく)れて、矢種(やだね)を不惜散々(さんざん)に射ける間、寄手(よせて)稲麻(たうま)の如(ごとく)に立双(たちなら)びたれば、浮矢(あだや)は一(ひとつ)も無(なか)りけり。敵に矢種(やだね)を尽(つく)させんと、寄手(よせて)は態(わざと)射ざりければ、城の勢(せい)は未だ一人も不手負。大江田(おいだ)式部(しきぶの)大輔(たいふ)是(これ)を見給(たまひ)て、「さのみ精力の尽(つき)ぬさきに、いざや打出(いで)て、左馬(さまの)頭(かみ)が陣一散(ひとちら)し懸散(かけちら)さん。」とて、城中には徒立(かちだち)なる兵(つはもの)五百(ごひやく)余人(よにん)を留(とどめ)て、馬強(むまづよ)なる兵千(せん)余騎(よき)引率(いんぞつ)し、木戸を開(ひら)かせ、逆木(さかもぎ)を引のけて、北(きた)の尾の殊に嶮(けはし)き方より喚(をめい)てぞ懸出(かけいで)られける。一方の寄手(よせて)二万(にまん)余騎(よき)是(これ)に被懸落、谷底に馬を馳(はせ)こみ、いやが上に重(かさな)り臥臥す。式部(しきぶの)大輔(たいふ)是(これ)をば打捨(うちすて)、「東のはなれ尾に二引両(ふたつひきりやう)の旗の見(みゆ)るは、左馬(さまの)頭(かみ)にてぞ有(ある)らん。」とて、二万(にまん)余騎(よき)磬(ひか)へたる勢の中へ破(わつ)て入り、時移るまでぞ闘(たたかは)れける。「是(これ)も左馬(さまの)頭(かみ)にては無(なか)りける。」とて、大勢の中を颯(さつ)と懸抜(かけぬけ)て御方(みかた)の勢を見給へば、五百(ごひやく)余騎(よき)討(うた)れて纔(わづか)に四百騎に成(なり)にけり。爰(ここ)にて城の方を遥(はるか)に観(み)れば、敵早(はや)入替(いりかは)りぬと見へて櫓(やぐら)・掻楯(かいだて)に火を懸(かけ)たり。式部(しきぶの)大輔(たいふ)其(その)兵を一処に集めて、「今日の合戦今は是(これ)迄ぞ、いざや一方打破(うちやぶつ)て備前へ帰り、播磨・三石(みついし)の勢と一(ひとつ)にならん。」とて、板倉(いたくら)の橋を東へ向(むかつ)て落(おち)給へば、敵二千騎(にせんぎ)・三千騎(さんぜんぎ)、此彼(ここかしこ)に道を塞(ふさい)で打留(うちとめ)んとす。四百(しひやく)余騎(よき)の者共(ものども)も、遁(のがれ)ぬ処ぞと思ひ切(きつ)たる事なれば、近付(ちかづく)敵の中へ破(わつ)て入り、懸散(かけちら)し、板倉川(いたくらかは)の辺(へん)より唐皮(からかは)迄、十(じふ)余度(よど)までこそ闘ひけれ。され共兵もさのみ討(うた)れず、大将も無恙りければ、虎口(ここう)の難(なん)を遁(のがれ)て、五月十八日の早旦(さうたん)に、三石(みついし)の宿(しゆく)にぞ落著(おちつき)ける。左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)は、福山の敵を追(おひ)落して、事始(はじめ)よしと悦給(よろこびたまふ)事(こと)不斜(なのめならず)。其(その)日(ひ)一日唐皮の宿に逗留(とうりう)有(あつ)て、頚の実験有(あり)けるに、生捕(いけどり)・討死の頚千三百五十三(せんさんびやくごじふさん)と註(しる)せり。当国の吉備津宮(きびつのみや)に参詣の志をはしけれ共(ども)、合戦の最中(さいちゆう)なれば、触穢(しよくゑ)の憚(はばかり)有(あり)とて、只願書許(ぐわんじよばかり)を被篭て、翌(つぎ)の日唐皮を立(たち)給へば、将軍も舟を出されて、順風に帆をぞあげられける。五月十八日晩景(ばんげい)に、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)三石(みついし)より使者を以て、新田左中将(さちゆうじやう)の方へ立て、福山の合戦の次第、委細(ゐさい)に註進せられければ、其(その)使者軈(やが)て馳返(はせかへつ)て、「白旗(しらはた)・三石(みついし)・菩提寺の城未(いまだ)責落(せめおとさ)ざる処に、尊氏・直義(ただよし)大勢にて舟路(ふなぢ)と陸路(くがぢ)とより上(のぼ)ると云(いふ)に、若(もし)陸(くが)の敵を支(ささへ)ん為に、当国にて相待(あひまた)ば、舟路の敵差違(さしちがひ)て帝都を侵(をか)さん事疑(うたがひ)なし。只速(すみやか)に西国の合戦を打捨(すて)て、摂津国辺(つのくにへん)まで引退(ひきしりぞき)、水陸(すゐろく)の敵を一処に待請(まちうけ)、帝都を後(うしろ)に当(あて)て、合戦を致すべく候。急(いそぎ)其(それ)よりも山の里(さと)辺へ出合(いであは)れ候へ。美作へも此旨(このむね)を申遣(まうしつかは)し候(さふらひ)つる也(なり)。」とぞ、被仰たりける。依之(これによつて)五月十八日の夜半許(ばかり)に、官軍(くわんぐん)皆三石(みついし)を打捨(すて)て、舟坂(ふなさか)をぞ引(ひか)れける。城中の勢共(せいども)、是(これ)に機(き)を得て、舟坂山(ふなさかやま)に出(いで)合ひ、道を塞(ふさい)で散々(さんざん)に射る。宵の間(ま)の月、山に隠(かく)れて、前後さだかに見へぬ事なれば、親討(うた)れ子討(うた)るれども、只一足(ひとあし)も前(さき)へこそ行延(ゆきのび)んとしける処に、菊池(きくち)が若党(わかたう)に、原(はらの)源五・源六とて、名を得たる大剛(たいかう)の者有りけるが、態(わざ)と迹(あと)に引(ひき)さがりて、御方(みかた)の勢を落さんと、防矢(ふせぎや)を射たりける。矢種(やだね)皆射尽(いつくし)ければ、打物(うちもの)の鞘(さや)をはづして、「傍輩(はうばい)共(ども)あらば返せ。」とぞ呼(よばはり)ける。菊池(きくち)が若党共(わかたうども)是(これ)を聞(きき)て、遥(はるか)に落延(おちのび)たりける者共(ものども)、「某(それがし)此(ここ)に有(あり)。」と名乗懸(かけ)て返合(かへしあは)せける間、城よりをり合(あは)せける敵共(てきども)、さすがに近付(ちかづき)得ずして、只余所(よそ)の峯々に立渡(わたつ)て時の声をぞ作りける。其(その)間に数万の官軍共(くわんぐんども)、一人も討(うた)るゝ事なくして、大江田(おいだ)式部(しきぶの)大輔(たいふ)、其(その)夜の曙(あけぼの)には山の里へ著(つき)にけり。和田備後(びんごの)守(かみ)範長(のりなが)・子息三郎高徳、佐々木(ささき)の一党が舟よりあがる由を聞(きき)て、是(これ)を防がん為に、西川尻(にしかはじり)に陣を取(とつ)て居たりけるが、福山已(すで)に落(おと)されぬと聞へければ、三石(みついし)の勢と成合(なりあは)んが為に、九日(ここのか)の夜に入(いつ)て、三石(みついし)へぞ馳著(はせつき)ける。爰(ここ)にて人に尋(たづぬ)れば、「脇屋殿(わきやどの)は早(はや)宵(よひ)に播磨へ引(ひか)せ給ひて候也(なり)。」と申(まうし)ける間、さては舟坂(ふなさか)をば通(とほ)り得じとて、先日搦手(からめて)の廻(まは)りたりし三石(みついし)の南の山路(やまぢ)を、たどるたどる終夜(よもすがら)越(こえ)て、さごしの浦へぞ出(いで)たりける。夜未(いまだ)深かりければ、此侭(このまま)少しの逗留(とうりう)もなくて打(うつ)て通らば、新田殿(につたどの)には安く追著(おつつき)奉るべかりけるを、子息高徳が先(さき)の軍(いくさ)に負(おう)たりける疵(きず)、未愈(いまだいえざり)けるが、馬に振(ふら)れけるに依(よつ)て、目(め)昏(くら)く肝(きも)消して、馬にもたまらざりける間、さごしの辺(へん)に相知(あひしつ)たる僧の有(あり)けるを尋出(たづねいだ)して、預置(あづけおき)ける程(ほど)に、時刻押遷りければ、五月(さつき)の短夜(みじかよ)明(あけ)にけり。去(さる)程(ほど)に此(この)道より落人(おちうと)の通(とほ)りけると聞(きき)て、赤松入道三百(さんびやく)余騎(よき)を差遣(さしつかは)して、名和辺(なわへん)にてぞ待(また)せける。備後(びんごの)守(かみ)僅(わづか)に八十三騎にて、大道(おほち)へと志(こころざし)て打(うち)ける処に、赤松が勢とある山陰(やまかげ)に寄せ合(あつ)て、「落人(おちうと)と見るは誰(たれ)人ぞ。命惜(をし)くば弓をはづし物具(もののぐ)脱(ぬい)で降人(かうにん)に参れ。」とぞかけたりける。備後(びんごの)守(かみ)是(これ)を聞(きき)て、から/\と打笑ひ、「聞(きき)も習はぬ言(こと)ば哉(かな)、降人(かうにん)に可成は、筑紫(つくし)より将軍の、様々の御教書(みげうしよ)を成してすかされし時こそ成(なら)んずれ。其(それ)をだに引(ひき)さきて火にくべたりし範長(のりなが)が、御辺達(ごへんたち)に向(むかつ)て、降人にならんと、ゑこそ申(まうす)まじけれ。物具(もののぐ)ほしくばいでとらせん。」と云侭(いふまま)に、八十三騎の者共(ものども)、三百(さんびやく)余騎(よき)の中へ喚(をめい)て懸(かけ)入り、敵十二騎切(きつ)て落(おと)し、二十三騎に手負(ておは)せ、大勢の囲(かこみ)を破(やぶつ)て、浜路(はまぢ)を東へぞ落行(おちゆき)ける。赤松が勢案内者(あんないしや)なりければ、被懸散ながら、前々(さきざき)へ馳過(はせすぎ)て、「落人(おちうと)の通るぞ、打留め物具はげ。」と、近隣傍庄(ばうしやう)にぞ触(ふれ)たりける。依之(これによつて)其辺(そのへん)二三里が間の野伏共(のぶしども)、二三千人(にさんぜんにん)出合(いであひ)て此(ここ)の山の隠(かくれ)、彼(かしこ)の田の畷(あぜ)に立渡りて、散々(さんざん)に射ける間、備後(びんごの)守(かみ)が若党共(わかたうども)、主を落さんが為に、進(すすん)では懸(かけ)破り引下(さがつ)ては討死し、十八(なは)より阿弥陀(あみだ)が宿(しゆく)の辺(へん)迄、十八度まで戦(たたかつ)て落(おち)ける間、打残(うちのこ)されたる者、今は僅(わづか)に主従六騎に成(なり)にけり。備後(びんごの)守(かみ)或辻堂(あるつじだう)の前にて馬を引(ひか)へて、若党共(わかたうども)に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「あはれ一族共(いちぞくども)だに打(うち)連れたりせば、播磨の国中をば安く蹴散(けちら)して通るべかりつる物を、方々の手分(てわけ)に向(むけ)られて一族(いちぞく)一所に不居つれば、無力範長討(うた)るべき時刻の到来しける也(なり)。今は可遁共(とも)覚(おぼえ)ねば、最後の念仏心閑(しづか)に唱(とな)へて腹を切らんと思(おもふ)ぞ。其(その)程敵の近付かぬ様(やう)に防げ。」とて、馬より飛(とん)でをり、辻堂の中へ走入(はしりいり)、本尊に向ひ手を合(あは)せ念仏高声(かうじやう)に二三百(にさんびやく)返(へん)が程唱(となへ)て、腹一文字に掻切(かききつ)て、其(その)刀を口に加(くはへ)て、うつぶしに成(なつ)てぞ臥(ふし)たりける。其(その)後若党(わかたう)四人つゞきて自害をしけるに、備後(びんごの)守(かみ)がいとこに和田四郎範家(のりいへ)と云(いひ)ける者、暫(しばらく)思案しけるは、敵をば一人も滅(ほろぼ)したるこそ後までの忠なれ。追手(おひて)の敵若(もし)赤松が一族(いちぞく)子共(こども)にてや有(ある)らん。さもあらば引組(ひつくん)で、差違(さしちが)へんずる物をと思(おもひ)て、刀を抜(ぬい)て逆手(さかて)に拳(にぎ)り、甲(かぶと)を枕にして、自害したる体(てい)に見へてぞ臥(ふし)たりける。此(ここ)へ追手(おひて)懸(かか)りける赤松が勢の大将には、宇(うの)弥左衛門次郎重氏(しげうぢ)とて、和田が親類なりけり。まさしきに辻堂の庭へ馳来(はせきたつ)て、自害したる敵の首をとらんとて、是(これ)をみるに袖に著(つけ)たる笠符(かさじるし)皆下黒(すそぐろ)の文(もん)也(なり)。重氏抜(ぬき)たる太刀を抛(なげ)て、「あら浅猿(あさまし)や、誰(たれ)やらんと思(おもひ)たれば、児嶋・和田・今木(いまき)の人々にて有(あり)けるぞや。此(この)人達と■疾(とく)知(しる)ならば、命に替(かへ)ても助くべかりつる物を。」と悲(かなしみ)て、泪(なみだ)を流して立(たち)たりける。和田四郎此(この)声を聞(きき)て、「範家(のりいへ)是(ここ)に有(あり)。」とて、かはと起(おき)たれば、重氏肝(きも)をつぶしながら立寄(たちより)て、「こはいかに。」とぞ悦(よろこび)ける。軈(やが)て和田四郎をば同道して助(たすけ)をき、備後(びんごの)守(かみ)をば、葬礼懇(ねんごろ)に取沙汰して、遺骨(ゆゐこつ)を故郷(こきやう)へぞ送りける。さても八十三騎は討(うた)れて範家一人助(たすか)りける、運命の程こそ不思議(ふしぎ)なれ。
○新田(につた)殿(どの)被引兵庫事 S1609
新田左中将(さちゆうじやう)義貞は、備前・美作の勢共(せいども)を待調(まちそろ)へん為に、賀古川(かごかは)の西なる岡に陣を取(とつ)て、二日までぞ逗留(とうりう)し給ひける。時節(をりふし)五月雨(さみだれ)の降(ふり)つゞいて、河の水増(まさ)りければ、「跡(あと)より敵の懸(かかる)事(こと)もこそ候へ。先(まづ)総大将(そうだいしやう)又宗(むね)との人々許(ばかり)は、舟にて向(むかう)へ御渡(おんわたり)候へかし。」と諸人口々に申(まうし)けれども、義貞、「さる事や有(ある)べき。渡(わた)さぬ先に敵懸(かか)りたらば、中々可引方無(なく)して、死を軽(かろ)んぜんに便(たより)あり。されば韓信が水を背(うしろ)にして陣を張(はり)しは此(ここ)なり。軍勢(ぐんぜい)を渡しはてゝ、義貞後(のち)に渡る共(とも)、何の痛(いたみ)が可有。」とて、先(まづ)馬弱(よわ)なる軍勢(ぐんぜい)、手負(ておう)たる者共(ものども)を、漸々(ぜんぜん)にぞ被渡ける。去(さる)程(ほど)に水一夜(いちや)に落(おち)て、備前・美作の勢馳進(はせまゐ)りければ、馬筏(いかだ)を組(くん)で、六万(ろくまん)余騎(よき)同時に川をぞ渡されける。是(これ)までは西国勢共(せいども)馳参(はせさんじ)て、十万騎(じふまんぎ)に余(あま)りたりしが、将軍兄弟上洛(しやうらく)し給ふ由を聞(きき)て、何(いつ)の間(ま)にか落失(おちうせ)けん、五月十三日(じふさんにち)左中将(さちゆうじやう)兵庫に著給(つきたまひ)ける時は、其(その)勢(せい)纔(わづか)に二万騎(にまんぎ)にも不足けり。
○正成下向兵庫事 S1610
尊氏(たかうぢの)卿(きやう)・直義朝臣大勢を率(そつ)して上洛(しやうらく)の間、用害(ようがい)の地に於て防ぎ戦(たたか)はん為に、兵庫に引退(ひきしりぞき)ぬる由(よし)、義貞朝臣早馬を進(まゐらせ)て、内裡(たいり)に奏聞(そうもん)ありければ、主上(しゆしやう)大(おほき)に御騒有(さわぎあつ)て、楠判官正成(まさしげ)を被召て、「急(いそぎ)兵庫へ罷下(まかりくだり)、義貞に力を合(あは)せて合戦を可致。」と被仰ければ、正成畏(かしこまつ)て奏しけるは、「尊氏(たかうぢの)卿(きやう)已(すで)に筑紫九国の勢を率(そつ)して上洛(しやうらく)候なれば、定(さだめ)て勢(せい)は雲霞(うんか)の如(ごとく)にぞ候覧(らん)。御方(みかた)の疲れたる小勢(こぜい)を以て、敵(てきの)機(き)に乗(のつ)たる大勢に懸合(かけあつ)て、尋常(よのつね)の如くに合戦を致(いたし)候はゞ、御方(みかた)決定(けつぢやう)打負(うちまけ)候(さふらひ)ぬと覚(おぼ)へ候なれば、新田殿(につたどの)をも只京都へ召(めし)候(さふらひ)て、如前山門へ臨幸成(なり)候べし。正成も河内へ罷下(まかりくだり)候(さふらひ)て、畿内(きない)の勢を以て河尻(かはじり)を差塞(さしふさぎ)、両方より京都を攻(せめ)て兵粮(ひやうらう)をつからかし候程ならば、敵は次第に疲(つかれ)て落下(おちくだり)、御方(みかた)は日々に随(したがつ)て馳集(はせあつまり)候べし。其(その)時に当(あたつ)て、新田(につた)殿(どの)は山門より推寄(おしよせ)られ、正成は搦手(からめて)にて攻上(せめのぼり)候はゞ、朝敵(てうてき)を一戦(いつせん)に滅(ほろぼ)す事有(あり)ぬと覚(おぼえ)候。新田殿(につたどの)も定(さだめ)て此了簡(このれうけん)候共(とも)、路次(ろし)にて一軍(ひといくさ)もせざらんは、無下(むげ)に無云甲斐人の思はんずる所を恥(はぢ)て、兵庫に支(ささへ)られたりと覚(おぼえ)候。合戦は兎(と)ても角(かく)ても、始終(しじゆう)の勝(かち)こそ肝要にて候へ。能々(よくよく)遠慮を被廻て、公議(こうぎ)を可被定にて候。」と申(まうし)ければ、「誠(まこと)に軍旅(ぐんりよ)の事は兵(つはもの)に譲(ゆづ)られよ。」と、諸卿僉議(せんぎ)有(あり)けるに、重(かさね)て坊門(ばうもんの)宰相(さいしやう)清忠(きよただ)申されけるは、「正成が申(まうす)所も其謂(そのいはれ)有(あり)といへども、征罰の為に差下(さしくだ)されたる節度使(せつどし)、未(いまだ)戦(たたかひ)を成(なさ)ざる前(さき)に、帝都を捨(すて)て、一年の内に二度(にど)まで山門へ臨幸ならん事(こと)、且(かつう)は帝位を軽(かろん)ずるに似(にた)り、又は官軍(くわんぐん)の道を失(うしなふ)処也(なり)。縦(たとひ)尊氏筑紫(つくし)勢(せい)を率(そつ)して上洛(しやうらく)すとも、去年東(ひがし)八箇国(はちかこく)を順(したが)へて上(のぼり)し時の勢にはよも過(すぎ)し。凡(およそ)戦(たたかひ)の始(はじめ)より敵軍敗北の時に至(いたる)迄、御方(みかた)小勢(こぜい)也(なり)といへども、毎度(まいど)大敵を不責靡云(いふ)事(こと)なし。是(これ)全(まつたく)武略の勝(すぐれ)たる所には非(あら)ず、只聖運の天に叶(かな)へる故(ゆゑ)也(なり)。然れば只戦(たたかひ)を帝都の外(ほか)に決して、敵を斧鉞(ふゑつ)の下に滅(ほろぼ)さん事何の子細か可有なれば、只時を替へず、楠罷下(まかりくだ)るべし。」とぞ被仰出ける。正成、「此(この)上はさのみ異儀を申(まうす)に不及。」とて、五月十六日に都を立(たつ)て五百(ごひやく)余騎(よき)にて兵庫へぞ下(くだり)ける。正成是(これ)を最期の合戦と思(おもひ)ければ、嫡子(ちやくし)正行(まさつら)が今年十一歳にて供(とも)したりけるを、思ふ様(やう)有(あり)とて桜井の宿(しゆく)より河内へ返し遣(つかは)すとて、庭訓(ていきん)を残しけるは、「獅子(しし)子を産(うん)で三日を経(ふ)る時、数千丈(すせんぢやう)の石壁(せきへき)より是(これ)を擲(なぐ)。其(その)子、獅子の機分(きぶん)あれば、教へざるに中(ちゆう)より跳(はね)返りて、死する事を得ずといへり。況(いはん)や汝(なんぢ)已(すで)に十歳に余(あま)りぬ。一言(いちごん)耳に留(とどま)らば、我教誡(わがけうかい)に違(たが)ふ事なかれ。今度の合戦天下の安否(あんぴ)と思ふ間、今生(こんじやう)にて汝(なんぢ)が顔を見ん事是(これ)を限りと思ふ也(なり)。正成已(すで)に討死すと聞(きき)なば、天下は必ず将軍の代に成(なり)ぬと心得べし。然りと云共(いへども)、一旦(いつたん)の身命を助らん為に、多年の忠烈を失(うしなひ)て、降人に出(いづ)る事有(ある)べからず。一族(いちぞく)若党(わかたう)の一人も死残(しにのこり)てあらん程は、金剛山(せん)の辺(へん)に引篭(こもつ)て、敵寄来(よせきた)らば命を養由(やういう)が矢さきに懸(かけ)て、義を紀信(きしん)が忠に比すべし。是(これ)を汝が第一(だいいち)の孝行ならんずる。」と、泣々(なくなく)申(まうし)含めて各東西へ別(わかれ)にけり。昔の百里奚(はくりけい)は、穆公(ぼつこう)晉(しん)の国を伐(うち)し時、戦(いくさ)の利(り)無からん事を鑒(かんがみ)て、其(その)将孟明視(まうめいし)に向(むかつ)て、今を限(かぎり)の別(わかれ)を悲(かなし)み、今の楠判官は、敵軍都(みやこ)の西に近付(ちかづく)と聞(きき)しより、国必(かならず)滅(ほろび)ん事を愁(うれへ)て、其(その)子正行(まさつら)を留(とどめ)て、無跡(なきあと)迄の義を進(すす)む。彼(かれ)は異国の良弼(りやうひつ)、是(これ)は吾朝(わがてう)の忠臣、時千載(せんざい)を隔(へだ)つといへ共、前聖後聖一揆(いつき)にして、有難(ありがた)かりし賢佐(けんさ)なり。正成兵庫に著(つき)ければ、新田左中将(さちゆうじやう)軈(やが)て対面し給(たまひ)て、叡慮(えいりよ)の趣(おもむき)をぞ尋問(たづねとは)れける。正成畏(かしこまつ)て、所存の通(とほ)りと勅定(ちよくぢやう)の様(やう)とを、委(くはし)く語り申(まうし)ければ、「誠(まこと)に敗軍の小勢(こぜい)を以て、機を得たる大敵に戦はん事叶ふべきにてはなけれ共(ども)、去年関東(くわんとう)の合戦に打負(うちまけ)て上洛(しやうらく)せし時、路(みち)にて猶支(ささへ)ざりし事(こと)、人口の嘲(あざけり)遁るゝ時を得ず。其(それ)こそあらめ、今度西国へ下(くだ)されて、数箇所(すかしよ)の城郭一(ひとつ)も不落得して、結句(けつく)敵の大勢なるを聞(きき)て、一支(ひとささへ)もせず京都まで遠引(とほひき)したらんは、余(あま)りに無云甲斐存(ぞんず)る間、戦(たたかひ)の勝負(しようぶ)をば見ずして、只一戦(いつせん)に義を勧(すすめ)ばやと存(ぞんず)る計(ばかり)也(なり)。」と宣ひければ、正成重(かさね)て申(まうし)けるは、「「衆愚(しゆぐ)之(の)愕々(がくがく)たるは、不如一賢之唯々」と申(まうし)候へば、道を不知人の譏(そしり)をば、必(かならず)しも御心(おんこころ)に懸(かけ)らるまじきにて候。只可戦所を見て進み、叶ふまじき時を知(しつ)て退くをこそ良将とは申(まうし)候なれ。さてこそ「暴虎憑河而死無悔之者不与」と、孔子(こうし)も子路(しろ)を被誡事の候。其(その)上(うへ)元弘の初(はじめ)には平大守(へいたいしゆ)の威猛を一時にくだかれ、此(この)年の春は尊氏の逆徒を九州へ退(しりぞけ)られ候(さふらひ)し事(こと)、聖運とは申(まうし)ながら、偏(ひとへ)に御計略の武徳に依(より)し事にて候へば、合戦の方(みち)に於ては誰か褊(さみ)し申(まうし)候べき。殊更今度(こんど)西国より御上洛(ごしやうらく)の事(こと)、御沙汰(ごさた)の次第、一々に道に当(あたつ)てこそ存(ぞんじ)候へ。」と申(まうし)ければ、義貞朝臣誠(まこと)に顔色(がんしよく)解(とけ)て、通夜(よもすがら)の物語に、数盃(すはい)の興(きよう)をぞ添(そへ)られける。後(のち)に思合(おもひあは)すれば、是(これ)を正成が最後なりけりと、哀(あはれ)なりしこと共也(なり)。
○兵庫海陸(かいろく)寄手(よせての)事(こと) S1611
去(さる)程(ほど)に、明れば五月二十五日辰刻(たつのこく)に、澳(おき)の霞(かすみ)の晴間(はれま)より、幽(かすか)に見へたる舟あり。いさりに帰る海人(あま)か、淡路(あはぢ)の迫戸(せと)を渡(わたる)舟歟(か)と、海辺の眺望を詠(ながめ)て、塩路(しほぢ)遥(はるか)に見渡せば、取梶面梶(とりかぢおもかぢ)に掻楯(かいだて)掻(かい)て、艫舳(ともへ)に旗を立(たて)たる数万(すまん)の兵船(ひやうせん)順風に帆をぞ挙(あげ)たりける。烟波眇々(えんはべうべう)たる海の面(おもて)、十四五里が程(ほど)に漕連(こぎつらね)て、舷(ふなばた)を輾(きし)り、艫舳(ともへ)を双(ならべ)たれば、海上俄に陸地(くがち)に成(なつ)て、帆影に見ゆる山もなし。あな震(おびたた)し、呉魏(ごぎ)天下を争(あらそひ)し赤壁(せきへき)の戦(たたかひ)、大元(たいげん)宋朝を滅(ほろぼ)せし黄河(くわうが)の兵も、是(これ)には過(すぎ)じと目を驚かして見る処に、又須磨の上野(うへの)と鹿松岡(しかまつのをか)、鵯越(ひよどりごえ)の方より二引両(ふたつひきりやう)・四目結(よつめゆひ)・直違(すぢかひ)・左巴(ひだりともゑ)・倚(よせ)かゝりの輪違(わちがひ)の旗、五六百(ごろつぴやく)流(ながれ)差連(さしつれ)て、雲霞の如(ごとく)に寄懸(よせかけ)たり。海上の兵船(ひやうせん)、陸地(くがぢ)の大勢、思(おもひ)しよりも震(おびたたし)くして、聞(きき)しにも猶過(すぎ)たれば、官軍(くわんぐん)御方(みかた)を顧(かへりみ)て、退屈してぞ覚(おぼ)へける。され共義貞朝臣も正成も、大敵を見ては欺(あざむ)き、小敵を見ては侮(あなどら)ざる、世祖(せいそ)光武の心根(こころね)を写(うつ)して得たる勇者なれば、少(すこし)も機(き)を失(うしなひ)たる気色(けしき)無(なう)して、先(まづ)和田の御崎(みさき)の小松原(こまつばら)に打出(うちいで)て、閑(しづか)に手分(てわけ)をぞし給ひける。一方には脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助を大将として末々(すゑずゑ)の一族(いちぞく)二十三人(にじふさんにん)、其(その)勢(せい)五千(ごせん)余騎(よき)経嶋(きやうのしま)にぞ磬(ひか)へたる。一方には大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)を大将として、相(あひ)順ふ一族(いちぞく)十六人、其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)にて、灯炉堂(とうろだう)の南の浜に磬(ひかへ)らる。一方には楠判官正成態(わざと)佗(た)の勢を不交して七百(しちひやく)余騎(よき)、湊川の西の宿(しゆく)に磬(ひか)へて、陸地(くがぢ)の敵に相向ふ。左中将(さちゆうじやう)義貞は総大将(そうだいしやう)にてをはすれば、諸将の命を司(つかさどつ)て、其(その)勢(せい)二万五千(にまんごせん)余騎(よき)、和田(わだの)御崎(みさき)に帷幕(ゐばく)を引(ひか)せて磬(ひか)へらる。去(さる)程(ほど)に、海上の船共(ふねども)帆を下(おろ)して礒近く漕(こぎ)寄すれば、陸地(くがぢ)の勢も旗を進めて相近(あひちか)にぞ成(なり)にける。両陣互に攻寄(せめよせ)て、先(まづ)澳(おき)の舟より大鼓(たいこ)を鳴(なら)し、時の声を揚(あぐ)れば、陸地(くがぢ)の搦手(からめて)五十万騎(ごじふまんぎ)、請取(うけとつ)て声をぞ合(あは)せける。其(その)声三度(さんど)畢(をは)れば、官軍(くわんぐん)又五万(ごまん)余騎(よき)、楯の端を鳴(なら)し箙(えびら)を敲(たたい)て時を作る。敵御方(みかた)の時の声、南は淡路絵嶋(ゑじま)が崎・鳴戸(なると)の澳(おき)、西は播磨路(はりまぢ)須摩(すま)の浦、東は摂津国(つのくに)生田森(いくたのもり)、四方(しはう)三百(さんびやく)余里(より)に響渡(ひびきわたつ)て、苟(まこと)に天維も断(たえ)て落(おち)、坤軸(こんぢく)も傾(かたむ)く許(ばかり)なり。
○本間(ほんま)孫四郎(まごしらう)遠矢(とほやの)事(こと) S1612
新田・足利相挑(あひいどん)で未戦(いまだたたかはざる)処に、本間孫四郎(まごしらう)重氏(しげうぢ)黄瓦毛(きがはらげ)なる馬の太く逞(たくまし)きに、紅下濃(くれなゐすそご)の鎧著(き)て、只一騎和田の御崎(みさき)の波打際(なみうちぎは)に馬打寄せて、澳(おき)なる舟に向(むかつ)て、大音声(おんじやう)を挙(あげ)て申(まうし)けるは、「将軍筑紫(つくし)より御上洛(ごしやうらく)候へば、定(さだめ)て鞆(とも)・尾道(をのみち)の傾城共(けいせいども)、多く被召具候覧(らん)。其(その)為に珍しき御肴(さかな)一つ推(おし)て進(まゐら)せ候はん。暫く御待(まち)候へ。」と云侭(いふまま)に、上差(うはざし)の流鏑矢(かぶらや)を抜(ぬい)て、羽の少し広(ひろ)がりけるを鞍の前輪(まへわ)に当(あて)てかき直(なほ)し、二所藤(ふたどころどう)の弓の握太(にぎりぶと)なるに取副(とりそへ)、小松陰(こまつかげ)に馬を打寄(うちよせ)て、浪の上なる鶚(みさご)の、己(おの)が影にて魚を驚(をどろか)し、飛(とび)さがる程をぞ待(まち)たりける。敵は是(これ)を見て、「射放(はづし)たらんは希代(きたい)の笑(わらひ)哉(かな)。」と目を放(はな)たず。御方(みかた)は是(これ)を見て、「射当(いあて)たらんは時に取(とつ)ての名誉哉(かな)。」と、機(き)を攻(つめ)てぞ守(まもり)ける。遥(はるか)に高(たかく)飛挙(とびあが)りたる鶚(みさご)、浪の上に落(おち)さがりて、二尺(にしやく)計(ばかり)なる魚を、主人(しゆじん)のひれを掴(つかん)で澳(おき)の方へ飛行(とびゆき)ける処を、本間(ほんま)小松原(こまつばら)の中より馬を懸出(かけいだ)し、追様(おつさま)に成(なつ)て、かけ鳥にぞ射たりける。態(わざ)と生(いき)ながら射て落さんと、片羽(かたは)がひを射切(きつ)て直中(ただなか)をば射ざりける間、鏑(かぶら)は鳴響(なりひびい)て大内介(おほちのすけ)が舟の帆柱に立(たち)、みさごは魚を掴(つかみ)ながら、大友(おほとも)が舟の屋形(やかた)の上へぞ落(おち)たりける。射手(いて)誰(たれ)とは知(しら)ねども、敵の舟七千(しちせん)余艘(よさう)には、舷(ふなばた)を蹈(ふん)で立双(たちならび)、御方(みかた)の官軍(くわんぐん)五万(ごまん)余騎(よき)は汀(みぎは)に馬を磬(ひか)へて、「あ射たり/\。」と感ずる声天地を響(ひびか)して静(しづま)り得ず。将軍是(これ)を見給(たまひ)て、「敵我(わが)弓の程を見せんと此(この)鳥を射つるが、此方(こなた)の舟の中へ鳥の落(おち)たるは御方(みかた)の吉事(きちじ)と覚(おぼゆ)るなり。何様(いかさま)射手(いて)の名字(みやうじ)を聞(きか)ばや。」と被仰ければ、「小早河(こばやかはの)七郎(しちらう)舟の舳(へ)に立出(たちいで)て、「類(たぐひ)少なく、見所有(あつ)ても遊(あそば)されつる者哉(かな)。さても御名字(おんみやうじ)をば何と申(まうし)候やらん承候(うけたまはりさふらは)ばや。」と問(とひ)たりければ、本間弓杖(ゆんづゑ)にすがりて、「其(その)身人数(ひとかず)ならぬ者にて候へば、名乗申共(なのりまうすとも)誰か御存知候べき。但(ただし)弓箭(ゆみや)を取(とつ)ては、坂東(ばんどう)八箇国(はちかこく)の兵(つはもの)の中には、名を知(しつ)たる者も御座(ござ)候らん。此(この)矢にて名字をば御覧候へ。」と云(いつ)て、三人(さんにん)張(ばり)に十五束(じふごそく)三伏(みつぶせ)、ゆら/\と引渡し、二引両(ふたつひきりやう)の旗立(たて)たる舟を指(さ)して、遠矢(とほや)にぞ射たりける。其(その)矢六町余(あまり)を越(こえ)て、将軍の舟に双(ならび)たる、佐々木(ささきの)筑前(ちくぜんの)守(かみ)が船を箆中(のなか)過通(すぎとほ)り、屋形(やかた)に乗(のつ)たる兵の鎧の草摺(くさずり)に裏をかゝせてぞ立(たつ)たりける。将軍此(この)矢を取寄せ見給ふに、相摸(さがみの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)本間(ほんま)孫四郎(まごしらう)重氏(しげうぢ)と、小刀(こがたな)のさきにて書(かき)たりける。諸人此(この)矢を取(とり)伝へ見て、「穴(あな)懼(おそろし)、如何なる不運の者か此(この)矢崎(さき)に廻(まはつ)て死なんずらん。」と、兼(かね)て胸をぞ冷(ひや)しける。本間孫四郎(まごしらう)扇(あふぎ)を揚(あげ)て、澳(おき)の方をさし招(まねい)て、「合戦の最中(さいちゆう)にて候へば、矢一筋(ひとすぢ)も惜(をし)く存(ぞんじ)候。其(その)矢此方(こなた)へ射返してたび候へ。」とぞ申(まうし)けれ。将軍是(これ)を聞給(ききたまひ)て、「御方(みかた)に誰か此(この)矢射返しつべき者有(ある)。」と高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)に尋給(たづねたまひ)ければ、師直畏(かしこまつ)て、「本間が射て候はんずる遠矢を、同じ坪(つぼ)に射返(かへし)候はんずる者、坂東勢(ばんどうぜい)の中には有(ある)べしとも存(ぞんじ)候はず。誠(まこと)にて候やらん、佐々木(ささきの)筑前(ちくぜんの)守(かみ)顕信(あきのぶ)こそ、西国一の精兵(せいびやう)にて候なれ。彼(かれ)を被召仰付(おほせつけ)られ候へかし。」と申(まうし)ければ、「げにも。」とて佐々木(ささき)をぞ被呼ける。顕信(あきのぶ)召(めし)に随(したがつ)て、将軍の御前(おんまへ)に参(まゐり)たり。将軍本間が矢を取出(とりいだ)して、「此(この)矢、本(もと)の矢坪(やつぼ)へ射返され候へ。」と被仰ければ、顕信畏(かしこまつ)て、難叶由をぞ再三辞(じ)し申(まうし)ける。将軍強(しひ)て被仰ける間、辞(じ)するに無処して、己(おのれ)が舟に立(たち)帰り、火威(ひをどし)の鎧に鍬形(くはがた)打(うつ)たる甲(かぶと)の緒(を)を縮(しめ)、銀(しろかね)のつく打(うつ)たる弓の反高(そりたか)なるを、帆柱に当(あて)てきり/\と推張(おしはり)、舟の舳崎(へさき)に立顕(たちあらはれ)て、弓の弦(つる)くひしめしたる有様、誠(まこと)に射つべくぞ見へたりける。かゝる処に、如何なる推参の婆伽者(ばかもの)にてか有(あり)けん、讚岐(さぬき)勢(せい)の中より、「此(この)矢一(ひとつ)受(うけ)て弓勢(ゆんぜい)の程御覧ぜよ。」と、高らかに呼(よば)はる声して、鏑(かぶら)をぞ一つ射たりける。胸板(むないた)に弦(つる)をや打(うち)たりけん、元来(ぐわんらい)小兵(こひやう)にてや有(あり)けん、其(その)矢二町(にちやう)迄も射付(つけ)ず、波の上にぞ落(おち)たりける。本間が後(うしろ)に磬(ひか)へたる軍兵五万(ごまん)余騎(よき)、同音に、「あ射たりや。」と欺(あざむい)て、しばし笑(わらひ)も止(やま)ざりけり。此後(こののち)は中々射てもよしなしとて、佐々木(ささき)は遠矢を止(やめ)てけり。
○経嶋(きやうのしま)合戦(かつせんの)事(こと) S1613
遠矢射損じて、敵御方(みかた)に笑(わらは)れ憎(にく)まれける者、恥を洗(すす)がんとや思(おもひ)けん。舟一艘(いつさう)に二百(にひやく)余人(よにん)取乗(とりのつ)て、経島(きやうのしま)へ差(さし)寄せ、同時に礒へ飛下(とびおり)て、敵の中へぞ打(うつ)て懸(かか)りける。脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)の兵ども、五百(ごひやく)余騎(よき)にて中に是(これ)を取篭(とりこめ)、弓手馬手(ゆんでめて)に相付(あひつい)て、縄手を廻(まは)してぞ射たりける。二百(にひやく)余騎(よき)の者共(ものども)、心は勇(たけし)といへ共(ども)、射手(いて)も少く徒立(かちだち)なれば、馬武者に懸悩(かけなやま)されて、遂に一人も残らず討(うた)れにければ、乗捨(のりす)つる舟は、徒(いたづら)に岸打(うつ)浪に漂(ただよ)へり。細河(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)是(これ)を見給(たまひ)て、「つゞく者の無(なか)りつる故(ゆゑ)にこそ、若干(そくばく)の御方(みかた)をば故なく討(うた)せつれ。いつを期(ご)すべき合戦ぞや。下場(おりば)のよからんずる所へ舟を著(つけ)て、馬を追下(おひおろし)々々打(うつ)て上(あが)れ。」と被下知。四国の兵共(つはものども)、大船七百(しちひやく)余艘(よさう)、紺部(こんべ)の浜より上(あが)らんとて、礒に傍(そう)てぞ上(のぼ)りける。兵庫嶋三箇所(さんかしよ)に磬(ひか)へたる官軍(くわんぐん)五万(ごまん)余騎(よき)、船の敵をあげ立(たて)じと、漕行(こぎゆく)舟に随(したがひ)て、汀(みぎは)を東へ打(うち)ける間、舟路(ふなぢ)の勢(せい)は自(おのづから)進(すすん)で懸(かか)る勢(いきほひ)にみへ、陸(くが)の官軍(くわんぐん)は偏(ひとへ)に逃(にげ)て引様(ひくやう)にぞ見へたりける。海と陸(くが)との両陣互に相窺(あひうかがう)て、遥(はるか)の汀(みぎは)に著(つい)て上(のぼ)りければ、新田左中将(さちゆうじやう)と楠と、其(その)間遠く隔(へだたり)て、兵庫嶋の舟著(ふなつき)には支(ささへ)たる勢も無(な)かりける。依之(これによつて)九国・中国の兵船六十(ろくじふ)余艘(よさう)、和田の御崎(みさき)に漕寄(こぎよせ)て、同時に陸(くが)へぞあがりける。
○正成(まさしげ)兄弟討死(うちじにの)事(こと) S1614
楠判官正成、舎弟帯刀(たてはき)正季(まさすゑ)に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「敵前後を遮(さへぎつ)て御方(みかた)は陣を隔(へだて)たり。今は遁(のがれ)ぬ処と覚(おぼゆ)るぞ。いざや先(まづ)前なる敵を一散(ひとちら)し追捲(おひまくつ)て後(うし)ろなる敵に闘(たたか)はん。」と申(まうし)ければ、正季、「可然覚(おぼえ)候。」と同(どう)じて、七百(しちひやく)余騎(よき)を前後に立(たて)て、大勢の中へ懸入(かけいり)ける。左馬(さまの)頭(かみ)の兵共(つはものども)、菊水(きくすゐ)の旗を見て、よき敵也(なり)と思(おもひ)ければ、取篭(こめ)て是(これ)を討(うた)んとしけれ共(ども)、正成・正季、東より西へ破(わつ)て通(とほ)り、北より南へ追靡(おひなび)け、よき敵とみるをば馳双(はせならべ)て、組(くん)で落(おち)ては頭(くび)をとり、合はぬ敵と思ふをば、一太刀(ひとたち)打(うつ)て懸(かけ)ちらす。正季と正成と、七度(しちど)合(あひ)七度(しちど)分る。其(その)心偏(ひとへ)に左馬(さまの)頭(かみ)に近付(ちかづき)、組(くん)で討(うた)んと思(おもふ)にあり。遂に左馬(さまの)頭(かみ)の五十万騎(ごじふまんぎ)、楠が七百(しちひやく)余騎(よき)に懸靡(かけなび)けられて、又須磨の上野(うへの)の方へぞ引返(ひつかへ)しける。直義(ただよし)朝臣の乗られたりける馬、矢尻(じり)を蹄(ひづめ)に蹈立(ふみたて)て、右の足を引(ひき)ける間、楠が勢に追攻(おつつめ)られて、已(すで)に討(うた)れ給(たまひ)ぬと見へける処に、薬師寺(やくしじ)十郎次郎只一騎、蓮池(はすいけ)の堤(つつみ)にて返し合(あは)せて、馬より飛(とん)でをり、二尺(にしやく)五寸(ごすん)の小長刀(こなぎなた)の石づきを取延(のべ)て、懸(かか)る敵の馬の平頚(ひらくび)、むながひの引廻(ひきまはし)、切(きつ)ては刎倒(はねたふし)々々(はねたふし)、七八騎(しちはちき)が程切(きつ)て落(おと)しける其(その)間に、直義(ただよし)は馬を乗替(のりかへ)て、遥々(はるばる)落延給(おちのびたまひ)けり。左馬(さまの)頭(かみ)楠に追立(おつたて)られて引退(ひきしりぞく)を、将軍見給(たまひ)て、「悪手(あらて)を入替(いれかへ)て、直義討(うた)すな。」と被下知ければ、吉良(きら)・石堂(いしたう)・高(かう)・上杉の人々六千(ろくせん)余騎(よき)にて、湊河の東へ懸出(かけいで)て、跡を切らんとぞ取巻(とりまき)ける。正成・正季又取(とつ)て返(かへし)て此(この)勢(せい)にかゝり、懸(かけ)ては打違(ちがへ)て死(ころ)し、懸入(かけいつ)ては組(くん)で落(おち)、三時(みとき)が間に十六度(じふろくど)迄闘(たたか)ひけるに、其(その)勢(せい)次第々々に滅びて、後は纔(わづか)に七十三騎にぞ成(なり)にける。此(この)勢(せい)にても打破(やぶつ)て落(おち)ば落つべかりけるを、楠京(きやう)を出(いで)しより、世の中の事今は是(これ)迄と思ふ所存(しよぞん)有(あり)ければ、一足(ひとあし)も引(ひか)ず戦(たたかつ)て、機(き)已(すで)に疲れければ、湊河の北に当(あたつ)て、在家(ざいけ)の一村(ひとむら)有(あり)ける中へ走入(はしりいつ)て、腹を切(きら)ん為に、鎧を脱(ぬい)で我(わが)身を見るに、斬疵(きりきず)十一箇所(じふいちかしよ)までぞ負(おう)たりける。此外(このほか)七十二人(しちじふににん)の者共(ものども)も、皆五箇所(ごかしよ)・三箇所(さんかしよ)の疵(きず)を被(かうむ)らぬ者は無(なか)りけり。楠が一族(いちぞく)十三人(じふさんにん)、手(て)の者六十(ろくじふ)余人(よにん)、六間(むま)の客殿に二行(ぎやう)に双居(なみゐ)て、念仏十返計(ぺんばかり)同音に唱(となへ)て、一度(いちど)に腹をぞ切(きつ)たりける。正成座上(ざじやう)に居つゝ、舎弟の正季に向(むかつ)て、「抑(そもそも)最期の一念に依(よつ)て、善悪の生(しやう)を引(ひく)といへり。九界(きうかい)の間に何か御辺(ごへん)の願(ねがひ)なる。」と問(とひ)ければ、正季から/\と打笑(うちわらう)て、「七生(しちしやう)まで只同じ人間に生(うま)れて、朝敵(てうてき)を滅(ほろぼ)さばやとこそ存(ぞんじ)候へ。」と申(まうし)ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業(ざいごふ)深き悪念(あくねん)なれ共(ども)我(われ)も加様(かよう)に思ふ也(なり)。いざゝらば同(おなじ)く生(しやう)を替(かへ)て此(この)本懐を達せん。」と契(ちぎつ)て、兄弟共に差違(さしちがへ)て、同(おなじ)枕に臥(ふし)にけり。橋本八郎(はちらう)正員(まさかず)・宇佐美河内(かはちの)守(かみ)正安(まさやす)・神宮寺(じんぐうじの)太郎兵衛(たらうひやうゑ)正師(まさもろ)・和田五郎正隆(まさたか)を始(はじめ)として、宗(むね)との一族(いちぞく)十六人、相随(したがふ)兵五十(ごじふ)余人(よにん)、思々(おもひおもひ)に並居(なみゐ)て、一度(いちど)に腹をぞ切(きつ)たりける。菊池(きくち)七郎(しちらう)武朝(たけとも)は、兄の肥前(ひぜんの)守(かみ)が使にて須磨(すま)口の合戦の体(てい)を見に来(きた)りけるが、正成が腹を切る所へ行合(ゆきあひ)て、をめ/\しく見捨(すて)てはいかゞ帰るべきと思(おもひ)けるにや、同(おなじく)自害をして炎(ほのほ)の中に臥(ふし)にけり。抑(そもそも)元弘以来(よりこのかた)、忝(かたじけなく)も此(この)君に憑(たのま)れ進(まゐら)せて、忠を致し功にほこる者幾千万(いくせんまん)ぞや。然共(しかれども)此(この)乱又出来(いでき)て後、仁を知らぬ者は朝恩を捨(すて)て敵に属(しよく)し、勇(いさみ)なき者は苟(いやしく)も死を免(まぬか)れんとて刑戮(けいりく)にあひ、智なき者は時の変(へん)を弁(べん)ぜずして道に違(たが)ふ事のみ有(あり)しに、智仁勇の三徳を兼(かね)て、死を善道(ぜんだう)に守るは、古(いにし)へより今に至る迄、正成程の者は未(いまだ)無(なか)りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失(うしなひ)て、逆臣(ぎやくしん)横(よこしま)に威を振ふべき、其前表(そのぜんべう)のしるしなれ。
○新田殿(につたどの)湊河(みなとがは)合戦(かつせんの)事(こと) S1615
楠已(すで)に討(うた)れにければ、将軍と左馬(さまの)頭(かみ)と一処に合(あつ)て、新田左中将(さちゆうじやう)に打(うつ)て懸(かか)り給ふ。義貞是(これ)を見て、「西の宮(みや)よりあがる敵は、旗の文(もん)を見るに末々(すゑずゑ)の朝敵共(てうてきども)なり。湊河より懸(かか)る勢(せい)は尊氏・直義(ただよし)と覚(おぼゆ)る。是(これ)こそ願ふ所の敵なれ。」とて西(にしの)宮(みや)より取(とつ)て返し、生田(いくた)の森を後(うし)ろを当(あて)て四万(しまん)余騎(よき)を三手に分(わけ)て、敵を三方(さんぱう)にぞ受(うけ)られける。去(さる)程(ほど)に両陣互に勢を振(ふるう)て時を作り声を合(あは)す。先(まづ)一番に大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)・江田(えだ)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)行義(ゆきよし)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて、仁木(につき)・細川が六万(ろくまん)余騎(よき)に懸合(かけあつ)て、火を散(ちら)して相戦ふ。其(その)勢(せい)互に討(うた)れて、両方へ颯(さつ)と引(ひき)のけば、二番に中院(なかのゐん)の中将(ちゆうじやう)定平(さだひら)・大江田(おいだ)・里見・鳥山五千(ごせん)余騎(よき)にて、高・上杉が八万騎に懸合(かけあつ)て、半時許(ばかり)黒烟(くろけむり)を立(たて)て揉合(もみあひ)たり。其(その)勢共(せいども)戦(たたかひ)疲れて両方へ颯(さつ)と引退(ひきしりぞ)けば、三番に脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)・宇都宮(うつのみや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)・菊池(きくち)次郎・河野(かうの)・土居・得能(とくのう)一万騎(いちまんぎ)にて、左馬(さまの)頭(かみ)・吉良(きら)・石堂が十万(じふまん)余騎(よき)に懸合(かけあは)せ、天を響かし地を動(うごか)して責(せめ)戦ふ。或(あるひ)は引組(ひつくん)で落重(おちかさなつ)て、頚を取(とる)もあり、取(とら)るゝもあり。或(あるひ)は敵と打違(ちがへ)て、同(おなじ)く馬より落(おつ)るもあり。両虎二龍(りやうこじりよう)の闘(たたかひ)に、何(いづ)れも討(うた)るゝ者多かりければ、両方東西へ引のきて、人馬の息をぞ休めける。新田左中将(さちゆうじやう)是(これ)を見給(たまひ)て、「荒手(あらて)の兵已(すで)に尽(つき)て戦(たたかひ)未(いまだ)決せず。是(これ)義貞が自(みづから)当(あた)るべき処也(なり)。」とて、二万三千騎(にまんさんぜんぎ)を左右に立(たて)て、将軍の三十万騎(さんじふまんぎ)に懸合(かけあは)せ、兵刃(へいじん)を交(まじ)へて命を鴻毛(ごうまう)よりも軽(かろく)せり。官軍(くわんぐん)の総大将(そうだいしやう)と、武家の上将軍(じやうしやうぐん)と、自(みづから)戦ふ軍(いくさ)なれば、射落(いおと)さるれども矢を抜(ぬく)隙(ひま)なく、組(くん)で下になれ共(ども)、落合(おちあつ)て助くる者なし。只子は親を棄(すて)て切合(きりあひ)、朗等(らうどう)は主に離れて戦へば、馬の馳(はせ)違ふ声、太刀の鐔音(つばおと)、いかなる脩羅(しゆら)の闘諍(とうじやう)も、是(これ)には過(すぎ)じとをびたゝし。先(さき)に一軍(ひといくさ)して引(ひき)しさりたる両方の勢共(せいども)、今はいつをか可期なれば、四隊の陣一処に挙(こぞつ)て、敵と敵と相交(あひまじは)り、中黒(なかぐろ)の旗と二引両(ふたつひきりやう)と、巴(ともゑ)の旗と輪違(わちがひ)と、東へ靡(なび)き西へ靡(なび)き、礒山風(いそやまかぜ)に翩翻(へんほん)して、入違(いりちが)ひたる許(ばかり)にて、何(いづ)れを御方(みかた)の勢とは見へ分かず。新田・足利の国の争ひ今を限りとぞ見へたりける。官軍(くわんぐん)は元来(ぐわんらい)小勢(こぜい)なれば、命を軽(かろん)じて戦(たたかふ)といへども、遂には大敵に懸負(かけまけ)て、残る勢纔(わづか)五千(ごせん)余騎(よき)、生田(いくた)の森の東より丹波路(たんばぢ)を差(さし)てぞ落行(おちゆき)ける。数万の敵勝(かつ)に乗(のつ)て是(これ)を追(おふ)事(こと)甚(はなはだ)急なり。され共(ども)何(いつ)もの習(ならひ)なれば、義貞朝臣、御方(みかた)の軍勢(ぐんぜい)を落延(おちのび)させん為に後陣(ごぢん)に引(ひき)さがりて、返(かへ)し合(あは)せ/\戦(たたかは)れける程(ほど)に、義貞の被乗たりける馬に矢七筋(しちすぢ)迄立(たち)ける間、小膝を折(をつ)て倒(たふれ)けり。義貞求塚(もとめづか)の上に下立(おりたち)て、乗替(のりかへ)の馬を待給共(まちたまふとも)、敢(あへ)て御方(みかた)是(これ)を不知けるにや、下(おり)て乗(の)せんとする人も無(なか)りけり。敵や是(これ)を見知(しり)けん、即(すなはち)取篭(とりこめ)て是(これ)を討(うた)んとしけるが、其(その)勢(いきほひ)に僻易(へきえき)して近(ちかく)は更(さらに)不寄けれ共(ども)、十方より遠矢に射ける矢、雨雹(あられ)の降(ふる)よりも猶繁(しげ)し。義貞は薄金(うすかね)と云(いふ)甲(よろひ)に、鬼切(おにきり)・鬼丸(おにまる)とて多田満仲(ただのまんぢゆう)より伝(つたはり)たる源氏重代(ぢゆうだい)の太刀を二振(ふたふり)帯(はか)れたりけるを、左右の手に抜持(ぬきもち)て、上(あが)る矢をば飛越(とびこえ)、下(さが)る矢には差伏(さしうつぶ)き、真中(まんなか)を指(さし)て射(いる)矢をば二振(ふたふり)の太刀を相交(あひまじへ)て、十六(じふろく)迄ぞ切(きつ)て被落ける。其(その)有様、譬(たとへ)ば四天王(してんわう)、須弥(しゆみ)の四方(しはう)に居(ゐよ)して同時に放つ矢を、捷疾鬼(せふしつき)走廻(わしりまはつ)て、未(いまだ)其(その)矢の大海に不落著前(さき)に、四(よつ)の矢を取(とつ)て返(かへる)らんも角(かく)やと覚許(おぼゆるばかり)也(なり)。小山田(をやまだ)太郎遥(はるか)の山の上より是(これ)を見て、諸鐙(もろあぶみ)を合(あはせ)て馳参(はせまゐり)て、己(おのれ)が馬に義貞を乗奉(のせたてまつ)て、我身(わがみ)徒立(かちだち)に成(なつ)て追懸(おつかく)る敵を防(ふせぎ)けるが、敵数(あま)たに被取篭て、遂(つひに)討(うた)れにけり。其(その)間に義貞朝臣御方(みかた)の勢の中へ馳入(はせいつ)て、虎口(ここう)に害を遁(のがれ)給ふ。
○小山田(をやまだ)太郎高家(たかいへ)刈青麦事 S1616
抑(そもそも)官軍(くわんぐん)の中に知義軽命者雖多、事の急なるに臨(のぞん)で、大将の替命とする兵無(なか)りけるに、遥(はるかに)隔(へだたつ)たる小山田一人馬を引返(ひきかへ)して義貞を奉乗、剰(あまつさへ)我(わが)身跡(あと)に下(さがつ)て打死しける其(その)志を尋(たづぬ)れば、僅(わづか)の情(なさけ)に憑(よつ)て百年の身を捨(すて)ける也(なり)。去年義貞西国の打手(うつて)を承(うけたまはつ)て、播磨に下著(げちやく)し給(たまふ)時、兵多(おほく)して粮(かて)乏(とぼし)。若(もし)軍(いくさ)に法(はふ)を置(おか)ずば、諸卒の狼藉(らうぜき)不可絶とて、一粒(いちりふ)をも刈採(かりとり)、民屋の一(ひとつ)をも追捕(つゐふ)したらんずる者をば、速(すみやかに)可被誅(ちゆうせらるべき)之(の)由(よし)を大札(おほふだ)に書(かい)て、道の辻々にぞ被立ける。依之(これによつて)農民耕作を棄(すて)ず、商人(あきんど)売買を快(こころよく)しける処に、此(この)高家敵陣の近隣に行(ゆき)て青麦(あをむぎ)を打刈(うちから)せて、乗鞍(のりくら)に負(おふ)せてぞ帰(かへり)ける。時の侍所(さぶらひところ)長浜六郎左衛門(ろくらうざゑもんの)尉(じよう)是(これ)を見、直(ぢき)に高家を召寄(めしよせ)、無力法の下(もと)なれば是(これ)を誅せんとす。義貞是(これ)を聞給(ききたまひ)て、「推量(すゐりやう)するに此(この)者、青麦に替身と思(おもは)んや。此(この)所敵陣なればと思誤(おもひあやまり)けるか、然(しから)ずば兵粮に術(じゆつ)尽(つき)て法の重(おもき)を忘(わすれ)たるかの間也(なり)。何様(いかさま)彼役所(かのやくしよ)を見よ。」とて、使者を遣(つかは)して被点検ければ、馬・物具(もののぐ)爽(さわやか)に有(あり)て食物(くひもの)の類(たぐひ)は一粒(いちりふ)も無(なか)りけり。使者帰(かへつ)て此(この)由を申(まうし)ければ、義貞大(おほき)に恥(はぢ)たる気色(けしき)にて、「高家が犯法事は、戦(たたかひ)の為に罪を忘(わすれ)たるべし。何様(いかさま)士卒先(さきん)じて疲(つかれ)たるは大将の恥也(なり)。勇士(ゆうし)をば不可失、法をば勿乱事。」とて、田の主には小袖(こそで)二重(ふたかさね)与(あたへ)て、高家には兵粮十石(じつこく)相副(あひそへ)て色代(しきたい)してぞ帰(かへ)されける。高家此情(このなさけ)を感じて忠義弥(いよいよ)染心ければ、此(この)時大将の替命、忽(たちまち)に打死をばしたる也(なり)。自昔至今迄、流石(さすが)に侍(さぶらひ)たる程の者は、利(り)をも不思、威にも不恐、只依其大将捨身替命者也(なり)。今武将たる人、是(これ)を慎(つつしん)で不思之乎(や)。
○聖主(せいしゆ)又臨幸山門事 S1617
官軍(くわんぐん)の総大将(そうだいしやう)義貞朝臣、僅(わづか)に六千(ろくせん)余騎(よき)に打成(うちな)されて帰洛(きらく)せられければ、京中(きやうぢゆう)の貴賎(きせん)上下色を損(そん)じて周章騒(あわてさわぐ)事(こと)限(かぎり)なし。官軍(くわんぐん)若(もし)戦(たたかひ)に利(り)を失はゞ、如前東坂本(ひがしさかもと)へ臨幸成(なる)べきに兼(かね)てより儀定(ぎぢやう)ありければ、五月十九日主上(しゆしやう)三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を先(さき)に立(たて)て、竜駕(りようが)をぞ廻(めぐ)らされける。浅猿(あさまし)や、元弘の初(はじめ)に公家(くげ)天下を一統(いつとう)せられて、三年を過(すぎ)ざるに、此(この)乱又出来(いでき)て、四海(しかい)の民安からず。然(しかれ)ども去(さん)ぬる正月の合戦に、朝敵(てうてき)忽(たちまち)に打負(うちまけ)て、西海の浪に漂(ただよ)ひしかば、是(これ)聖徳の顕(あらは)るゝ処也(なり)。今はよも上(かみ)を犯(をか)さんと好み、乱を起さんとする者はあらじとこそ覚(おぼ)へつるに、西戎(せいじゆう)忽(たちまち)に襲来(おそひきたつ)て、一年の内に二度(にど)まで天子都を移(うつ)させ給へば、今は日月も昼夜を照(てら)す事なく、君臣も上下を知(しら)ぬ世に成(なつ)て、仏法・王法共に可滅時分にや成(なり)ぬらんと、人々心を迷(まよ)はせり。されども此(この)春も山門へ臨幸成(なつ)て、無程朝敵(てうてき)を退治(たいぢ)せられしかば、又さる事やあらんと定(さだ)めなき憑(たの)みに積習(せきしふ)して、此度は、公家(くげ)にも武家にも供奉(ぐぶ)仕る者多かりけり。摂録(せふろくの)臣は申(まうす)に及(およば)ず、公卿(くぎやう)には吉田(よしだの)内大臣(ないだいじん)定房(さだふさ)・万里小路(までのこうぢ)大納言(だいなごん)宣房(のぶふさ)・竹林院(ちくりんゐんの)大納言(だいなごん)公重(きんしげ)・御子(みこ)左(ひだんの)大納言(だいなごん)為定(ためさだ)・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)・坊城(ばうじやうの)中納言(ちゆうなごん)経顕(つねあき)・洞院(とうゐんの)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・千種(ちくさの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)忠顕(ただあき)・葉室(はむろの)中納言(ちゆうなごん)長光(ながみつ)・中御門(なかのみかど)宰相(さいしやう)宣明(のぶあきら)、殿上人(てんじやうびと)には中院(なかのゐんの)左中将(さちゆうじやう)定平(さだひら)・坊門(ばうもんの)左大弁(べん)清忠(きよただ)・四条(しでうの)中将(ちゆうじやう)隆光(たかみつ)・園(そのの)中将(ちゆうじやう)基隆(もとたか)・甘露寺(かんろじ)左大弁藤長(ふぢなが)・岡崎右中弁範国(のりくに)・一条頭(とうの)大夫(たいふ)行房(ゆきふさ)、此外(このほか)衛府諸司(ゑふしよし)・外記(げき)・史(し)・官(くわん)人・北面(ほくめん)・有官(うくわん)・無官(むくわん)の滝口(たきぐち)・諸家(しよけ)の侍(さぶらひ)・官僧・官女・医陰(いおんの)両道に至(いたる)まで、我(われ)も我(われ)もと供奉(ぐぶ)仕る。武家の輩(ともがら)には、新田左中将(さちゆうじやう)義貞・子息越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)・脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助(よしすけ)・子息式部(しきぶの)大輔(たいふ)義治(よしはる)・堀口美濃(みのの)守(かみ)貞満(さだみつ)・大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)義氏・江田(えだ)兵部(ひやうぶの)少輔(せう)行義(ゆきよし)・額田掃部(ぬかだかもんの)助(すけ)正忠・大江田(おいだ)式部(しきぶの)大輔(たいふ)氏経(うぢつね)・岩松兵衛蔵人義正(よしまさ)・鳥山左京(さきやうの)助(すけ)氏頼・羽川(はねかは)越中(ゑつちゆうの)守(かみ)時房(ときふさ)・桃井(もものゐ)兵庫(ひやうごの)助(すけ)顕氏(あきうぢ)・里見大膳(だいぜんの)亮(すけ)義益(よします)・田中修理(しゆりの)亮(すけ)氏政(うぢまさ)・千葉介(ちばのすけ)貞胤(さだたね)・宇都宮(うつのみや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)公綱(きんつな)・同美濃(みのの)将監(しやうげん)泰藤(やすふぢ)・狩野(かのの)将監(しやうげん)貞綱(さだつな)・熱田(あつたの)大宮司(だいぐうじ)昌能(まさよし)・河野(かうのの)備後(びんごの)守(かみ)通治(みちはる)・得能(とくのうの)備中(びつちゆうの)守(かみ)通益(みちます)・武田(たけだの)甲斐(かひの)守(かみ)盛正(もりまさ)・小笠原蔵人政道(まさみち)・仁科(にしな)信濃(しなのの)守(かみ)氏重(うぢしげ)・春日部(かすかべ)治部(ぢぶの)少輔(せう)時賢(ときかた)・名和伯耆(はうきの)守(かみ)長年(ながとし)・同太郎判官長生(ながたか)・今木新(いまきのしん)蔵人範家(のりいへ)・頓宮(とんぐう)六郎(ろくらう)忠氏、是等(これら)を宗(むね)との侍(さぶらひ)とし、其(その)勢(せい)都合(つがふ)六万(ろくまん)余騎(よき)、鳳輦(ほうれん)の前後に打囲(かこみ)て、今路越(いまみちごえ)にぞ落行給(おちゆきたまひ)ける。
○持明院本院(ほんゐん)潛幸東寺事 S1618
持明院法皇・本院(ほんゐん)・新院・春宮(とうぐう)に至(いたる)まで、悉(ことごとく)皆山門へ御幸成進(ごかうなしまゐ)らすべき由(よし)、太田(おほたの)判官(はうぐわん)全職(たけもと)、路次(ろし)の奉行として、供奉(ぐぶ)仕(つかまつり)たるに、本院(ほんゐん)は兼(かね)てより尊氏に院宣(ゐんぜん)を被成下たりしかば、二度(ふたたび)御治世(ごぢせい)の事やあらんずらんと思召(おぼしめし)て、北白川(きたしらかは)の辺(へん)より、俄に御不預(ごふよ)の事有(あり)とて、御輿(おんこし)を法勝寺(ほつしようじ)の塔(たふの)前に舁居(かきすゑ)させて、態(わざと)時をぞ移されける。去(さる)程(ほど)に敵已(すで)に京中(きやうぢゆう)に入(いり)乱れぬと見て、兵火四方(しはう)に盛(さかん)也(なり)。全職(たけもと)是(これ)を見て、「さのみはいつまでか、暗然(あんぜん)として可待申なれば、供奉(ぐぶ)の人々に急ぎ山門へ成進(なしまゐ)らすべし。」と申置(まうしおき)て、新院(しんゐん)・法皇・春宮許(とうぐうばかり)を先(まづ)東坂本(ひがしさかもと)へぞ御幸成進(なしまゐら)せける。本院(ほんゐん)は全職(たけもと)が立(たち)帰る事もやあらんずらんと恐しく思(おぼし)召されければ、日野(ひのの)中納言(ちゆうなごん)資名(すけな)、殿上人(てんじやうびと)には三条(さんでうの)中将(ちゆうじやう)実継(さねつぐ)計(ばかり)を供奉人(ぐぶにん)として、急(いそぎ)東寺(とうじ)へぞ成(なし)たりける。将軍不斜(なのめならず)悦(よろこん)で、東寺の本堂を皇居(くわうきよ)と定めらる。久我(こがの)内大臣(ないだいじん)を始(はじめ)として、落留(おちとどまり)給へる卿相雲客(けいしやううんかく)参られしかば、則(すなはち)皇統(くわうとう)を立(たて)らる。是(これ)ぞはや尊氏の運を開かるべき瑞(ずゐ)なりける。
○日本(につぽん)朝敵(てうてきの)事(こと) S1619
夫(それ)日本(につぽん)開闢(かいびやく)の始(はじめ)を尋(たづぬ)れば、二儀(にぎ)已(すでに)分れ三才(さんさい)漸(やうやく)顕(あらは)れて、人寿(にんじゆ)二万歳(にまんさい)の時、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冊(いざなみ)の二(ふたり)の尊(みこと)、遂(つひに)妻神夫神(めかみをかみ)と成(なつ)て天(あめ)の下(した)にあまくだり、一女(いちぢよ)三男(さんなん)を生(うみ)給ふ。一女(いちぢよ)と申(まうす)は天照太神(あまてらすおほんがみ)、三男(さんなん)と申(まうす)は月神(つきのかみ)・蛭子(ひるこ)・素盞烏(そさのを)の尊(みこと)なり。第一(だいいち)の御子天照太神(あまてらすおほんがみ)此(この)国(くに)の主(あるじ)と成(なつ)て、伊勢(いせの)国(くに)御裳濯川(みもすそがは)の辺(ほとり)、神瀬下津岩根(かみがせしもついはね)に跡(あと)を垂(た)れ給ふ。或時は垂迹(すゐじやく)の仏と成(なつ)て、番々(ばんばん)出世の化儀(けぎ)を調(ととの)へ、或時は本地(ほんち)の神に帰(かへつ)て、塵々刹土(ぢんぢんせつと)の利生(りしやう)をなし給ふ。是則(これすなはち)迹高本下(しやくかうほんげ)の成道(じやうだう)也(なり)。爰(ここ)に第六天の魔王集(あつまつ)て、此(この)国(くに)の仏法弘(ひろま)らば魔障(ましやう)弱くして其(その)力を失(うしなふ)べしとて、彼応化利生(かのおうけりしやう)を妨(さまたげ)んとす。時に天照太神(あまてらすおほんがみ)、彼(かれ)が障碍(しやうげ)を休(や)めん為に、我(われ)三宝(さんばう)に近付(ちかづか)じと云(いふ)誓(ちかひ)をぞなし給ひける。依之(これによつて)第六天の魔王忿(いか)りを休(や)めて、五体(ごたい)より血を出(あや)し、「尽未来際(じんみらいさい)に至る迄、天照太神(あまてらすおほんがみ)の苗裔(べうえい)たらん人を以て此(この)国(くに)の主とすべし。若(もし)王命に違(たが)ふ者有(あつ)て国を乱(みだ)り民を苦(くるし)めば、十万(じふまん)八千(はつせん)の眷属(けんぞく)朝(あした)にかけり夕べに来(きたつ)て其罰(そのばつ)を行ひ其命(そのいのち)を奪ふべし」と、堅(かたく)誓約(せいやく)を書(かい)て天照太神(あまてらすおほんがみ)に奉る。今の神璽(しいし)の異説(いせつ)是(これ)也(なり)。誠(まこと)に内外(ないげ)の宮(みや)の在様(ありさま)自余の社壇には事替(かはつ)て、錦帳(きんちやう)に本地(ほんち)を顕はせる鏡をも不懸、念仏読経(どくきやう)の声を留(とどめ)て僧尼(そうに)の参詣を許されず。是(これ)然(しかしながら)当社の神約(しんやく)を不違して、化属結縁(けぞくけちえん)の方便を下に秘(ひ)せる者なるべし。されば天照太神(あまてらすおほんがみ)より以来(このかた)、継体(けいたい)の君九十六代、其(その)間に朝敵(てうてき)と成(なつ)て滅(ほろび)し者を数ふれば、神日本磐余予彦天皇(かんやまといはあれひこあめすべらみのみこと)御宇(ぎよう)天平(てんぴやう)四年に紀伊(きの)国(くに)名草郡(なくさのこほり)に二丈余の蜘蛛(くも)あり。足手長(ながく)して力人に超(こえ)たり。綱を張る事数里に及(およん)で、往来の人を残害(ざんがい)す。然共(しかれども)官軍(くわんぐん)勅命を蒙(かうむつ)て、鉄(くろがね)の網を張り、鉄湯(てつたう)を沸(わか)して四方(しはう)より責(せめ)しかば、此蜘蛛(このくも)遂に殺されて、其(その)身分々(つだつだ)に爛(ただ)れにき。又天智天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に藤原千方(ちかた)と云(いふ)者有(あつ)て、金鬼(きんき)・風鬼・水鬼・隠形鬼(おんぎやうき)と云(いふ)四(よつ)の鬼を使へり。金鬼は其(その)身堅固にして、矢を射るに立(たた)ず。風鬼は大風を吹(ふか)せて、敵城を吹(ふき)破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地(ろくち)に溺(でき)す。隠形鬼は其(その)形を隠(かく)して、俄(にはかに)敵を拉(とりひしく)。如斯の神変(じんべん)、凡夫(ぼんぶ)の智力を以て可防非ざれば、伊賀・伊勢の両国、是(これ)が為に妨(さまたげ)られて王化に順(したが)ふ者なし。爰(ここ)に紀朝雄(きのともを)と云(いひ)ける者、宣旨(せんじ)を蒙(かうむつ)て彼(かの)国(くに)に下(くだり)、一首(いつしゆ)の歌を読(よみ)て、鬼の中へぞ送(おくり)ける。草も木も我大君(わがおほきみ)の国なればいづくか鬼の棲(すみか)なるべき四(よつ)の鬼此(この)歌を見て、「さては我等(われら)悪逆無道(あくぎやくぶだう)の臣に随(したがつ)て、善政有徳(うとく)の君を背(そむき)奉りける事(こと)、天罰遁(のが)るゝ処無(なか)りけり。」とて忽(たちまち)に四方(しはう)に去(さつ)て失(うせ)にければ、千方(ちかた)勢(いきほ)ひを失(うしなう)て軈(やが)て朝雄(ともを)に討(うた)れにけり。是(これ)のみならず、朱雀院(しゆじやくゐん)の御宇(ぎよう)承平(しようへい)五年に、将門(まさかど)と云(いひ)ける者東国に下(くだつ)て、相馬郡(さうまのこほり)に都を立(たて)、百官を召仕(めしつかう)て、自(みづから)平親王(へいしんわう)と号す。官軍(くわんぐん)挙(こぞつ)て是(これ)を討(うた)んとせしかども、其(その)身皆鉄身(てつしん)にて、矢石(しせき)にも傷(やぶ)られず剣戟(けんげき)にも痛(いたま)ざりしかば、諸卿僉議(せんぎ)有(あつ)て、俄に鉄(くろがね)の四天を鋳奉(いたてまつ)て、比叡山(ひえいさん)に安置(あんぢ)し、四天合行(がふぎやう)の法を行(おこなは)せらる、故(ゆゑに)天より白羽(しらは)の矢一筋(ひとすぢ)降(ふつ)て、将門が眉間(みけん)に立(たち)ければ、遂に俵藤太秀郷(たはらとうだひでさと)に首を捕(と)られてけり。其首(そのくび)獄門(ごくもん)に懸(かけ)て曝(さら)すに、三月迄色不変、眼(まなこ)をも不塞、常に牙(きば)を嚼(かみ)て、「斬られし我(わが)五体(ごたい)何(いづ)れの処にか有(ある)らん。此(ここ)に来れ。頭(くび)続(つい)で今一軍(ひといくさ)せん。」と夜な/\呼(よばは)りける間、聞人(きくひと)是(これ)を不恐云(いふ)事(こと)なし。時に道過(すぐ)る人是(これ)を聞(きき)て、将門(まさかど)は米かみよりぞ斬られける俵藤太が謀(はかりこと)にてと読(よみ)たりければ、此頭(このくび)から/\と笑ひけるが、眼忽(たちまち)に塞(ふさがつ)て、其尸(そのかばね)遂に枯(かれ)にけり。此外(このほか)大石山丸(おほいしのやままる)・大山(おほやまの)王子(わうじ)・大友(おほともの)真鳥(まとり)・守屋(もりやの)大臣・蘇我入鹿(そがのいるか)・豊浦(とよらの)大臣・山田石川(やまだのいしかは)・左大臣長屋(ながや)・右大臣豊成(とよなり)・伊予(いよの)親王(しんわう)・氷上川継(ひかみのかはつぎ)・橘逸勢(たちばなのはやなり)・文屋宮田(ふんやのみやた)・江美押勝(えみのおしかつ)・井上皇后(ゐがみのくわうごう)・早良(さうらの)太子・大友(おほともの)皇子・藤原(ふぢはらの)仲成(なかなり)・天慶純友(てんぎやうのすみとも)・康和義親(かうわのよしちか)・宇治(うぢの)悪左府(あくさふ)・六条(ろくでうの)判官(はうぐわん)為義(ためよし)・悪(あく)右衛門(うゑもんの)督(かみ)信頼(のぶより)・安陪貞任(あべのさだたふ)・宗任(むねたふ)・清原武衡(きよはらのたけひら)・平相国清盛(きよもり)・木曾冠者(きそのくわんじや)義仲・阿佐原(あさはら)八郎(はちらう)為頼(ためより)・時政(ときまさ)九代の後胤高時(たかとき)法師に至(いたる)迄、朝敵(てうてき)と成(なつ)て叡慮を悩(なやま)し仁義を乱る者、皆身を刑戮(けいりく)の下に苦しめ、尸(かばね)を獄門の前に曝(さら)さずと云(いふ)事(こと)なし。去(され)ば尊氏(たかうぢの)卿(きやう)も、此(この)春東(とう)八箇国(はちかこく)の大勢を率(そつ)して上洛(しやうらく)し玉ひしかども、混(ひたすら)朝敵(てうてき)たりしかば数箇度(すかど)の合戦に打負(うちまけ)て、九州を差(さし)て落(おち)たりしが、此(この)度は其先非(そのせんぴ)を悔(くい)て、一方の皇統を立申(たてまうし)て、征罰を院宣に任(まかせ)られしかば、威勢の上に一(ひとつ)の理出来(いでき)て、大功乍(たちまち)に成(なら)んずらんと、人皆色代申(しきたいまうさ)れけり。去(さる)程(ほど)に東寺已(すで)に院の御所と成(なり)しかば、四壁(しへき)を城郭に構(かま)へて、上皇を警固し奉る由にて、将軍も左馬(さまの)頭(かみ)も、同(おなじ)く是(これ)に篭(こも)られける。是(これ)は敵山門より遥々(はるばる)と寄(よせ)来らば、小路(こうぢ)々々(こうぢ)を遮(さへぎつ)て、縦横(じゆうわう)に合戦をせんずる便(たより)よかるべしとて、此(この)寺を城郭にはせられけるなり。
○正成(まさしげが)首(くびを)送故郷事 S1620
湊川にて討(うた)れし楠判官が首をば、六条川原(ろくでうかはら)に懸(かけ)られたり。去(さん)ぬる春もあらぬ首をかけたりしかば、是(これ)も又さこそ有(ある)らめと云(いふ)者多かりけり。疑(うたがひ)は人によりてぞ残りけるまさしげなるは楠が頚と、狂歌(きやうか)を札(ふだ)に書(かい)てぞ立(たて)たりける。其後(そののち)尊氏(たかうぢの)卿(きやう)楠が首を召(めさ)れて、「朝家私日(てうけしじつ)久(ひさしく)相馴(あひなれ)し旧好(きうかう)の程も不便(ふびん)也(なり)。迹(あと)の妻子共(さいしども)、今一度(いちど)空(むな)しき貌(かたち)をもさこそ見度思(みたくおもふ)らめ。」とて、遺跡(ゆゐせき)へ被送ける情(なさけ)の程こそ有難(ありがた)けれ。楠が後室(こうしつ)・子息正行(まさつら)是(これ)を見て、判官今度(こんど)兵庫へ立(たち)し時、様々(さまざま)申置(まうしおき)し事共(ことども)多かる上、今度の合戦に必ず討死すべしとて、正行を留置(とめおき)しかば、出(いで)しを限(かぎり)の別(わかれ)也(なり)とぞ兼(かね)てより思(おも)ひ儲(まうけ)たる事なれども、貌(かたち)をみれば其(それ)ながら目塞(ふさが)り色変(へん)じて、替(かはり)はてたる首をみるに、悲(かなしみ)の心胸に満(みち)て、歎(なげき)の泪(なみだ)せき敢(あへ)ず。今年十一歳に成(なり)ける帯刀(たてはき)、父が頭(くび)の生(いき)たりし時にも似ぬ有様、母が歎(なげき)のせん方もなげなる様を見て、流るゝ泪を袖に押(おさ)へて持仏堂(ぢぶつだう)の方へ行(ゆき)けるを、母怪(あや)しく思(おもひ)て則(すなはち)妻戸(つまど)の方より行(ゆき)て見れば、父が兵庫へ向ふとき形見(かたみ)に留(とど)めし菊水の刀を、右の手に抜持(ぬきもち)て、袴(はかま)の腰を押(おし)さげて、自害をせんとぞし居たりける。母急(いそぎ)走寄(はしりよつ)て、正行が小腕(こうで)に取付(とりつい)て、泪を流して申(まうし)けるは、「「栴檀(せんだん)は二葉(ふたば)より芳(かうばし)」といへり。汝(なんぢ)をさなく共(とも)父が子ならば、是(これ)程の理(ことわり)に迷ふべしや。小心(こごころ)にも能々(よくよく)事(こと)の様(やう)を思ふてみよかし。故(こ)判官(はうぐわん)が兵庫へ向ひし時、汝(なんぢ)を桜井の宿(しゆく)より返し留めし事は、全く迹(あと)を訪(とぶ)らはれん為に非(あら)ず、腹を切れとて残し置(おき)しにも非(あら)ず。我(われ)縦(たと)ひ運命尽(つき)て戦場に命を失(うしな)ふ共、君何(いづ)くにも御座(ござ)有(あり)と承(うけたまは)らば、死(しに)残りたらん一族(いちぞく)若党共(わかたうども)をも扶持(ふち)し置き、今一度(いちど)軍(いくさ)を起し、御敵(おんてき)を滅(ほろぼ)して、君を御代(みよ)にも立進(たてまゐ)らせよと云置(いひおき)し処なり。其遺言(そのゆゐごん)具(つぶさ)に聞(きき)て、我にも語(かたり)し者が、何(いつ)の程(ほど)に忘れけるぞや。角(かく)ては父が名を失(うしな)ひはて、君の御用(ごよう)に合進(あひまゐ)らせん事有(ある)べし共(とも)不覚(おぼえず)。」と泣々(なくなく)勇(いさ)め留(とどめ)て、抜(ぬき)たる刀を奪(うばひ)とれば、正行(まさつら)腹を不切得、礼盤(らいばん)の上より泣(なき)倒れ、母と共にぞ歎(なげき)ける。其後(そののち)よりは、正行、父の遺言(ゆゐごん)、母の教訓(けうくん)心に染(そみ)肝(きも)に銘(めい)じつゝ、或(ある)時は童部(わらんべ)共(ども)を打倒(うちたふ)し、頭(くび)を捕(とる)真似(まね)をして、「是(これ)は朝敵(てうてき)の頚(くび)を捕(とる)也(なり)。」と云(いひ)、或時は竹馬に鞭(むち)を当(あて)て、「是(これ)は将軍を追懸(おつかけ)奉る。」なんど云(いひ)て、はかなき手ずさみに至るまでも、只此(この)事(こと)をのみ業(わざ)とせる、心の中(うち)こそ恐(おそろ)しけれ。


太平記(国民文庫)
太平記巻第十七

○山攻(やまぜめの)事(こと)付(つけたり)日吉(ひよし)神託(しんたくの)事(こと) S1701
主上(しゆしやう)二度(ふたたび)山門へ臨幸なりしかば、三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)去(さん)ぬる春(はる)の勝軍(かちいくさ)に習(ならつ)て、弐(ふたごこ)ろなく君を擁護(おうご)し奉り、北国・奥州の勢(せい)を待(まつ)由聞へければ、将軍・左馬(さまの)頭(かみ)・高(かう)・上杉の人々、東寺(とうじ)に会合して合戦の評定あり。事延引(えんいん)して義貞に勢付(つき)なば叶(かなふ)まじ。勢未(いま)だ微(び)なるに乗(のつ)て山門を可攻とて、六月二日四方(しはう)の手分(てわけ)を定(さだめ)て、追手(おふて)・搦手(からめて)五十万騎(ごじふまんぎ)の勢を、山門へ差向(さしむけ)らる。追手(おふて)には、吉良(きら)・石堂(いしたう)・渋河・畠山(はたけやま)を大将として、其(その)勢(せい)五万(ごまん)余騎(よき)、大津・松本の東西の宿・園城寺(をんじやうじ)の焼跡(やけあと)・志賀(しが)・唐崎(からさき)・如意(によい)が岳(だけ)まで充満(じゆうまん)したり。搦手(からめて)には、仁木(につき)・細河(ほそかは)・今川・荒河を大将として、四国・中国の勢八万(はちまん)余騎(よき)、今道越(いまみちごゑ)に三石(みついし)の麓を経(へ)て、無動寺(むどうじ)へ寄(よせ)んと志す。西坂本へは、高(かうの)豊前(ぶぜんの)守(かみ)師重(もろしげ)・高(かうの)土佐(とさの)守(かみ)・高(かうの)伊予(いよの)守(かみ)・南部(なんぶ)遠江守(とほたふみのかみ)・岩松・桃井等(もものゐら)を大将として三十万騎(さんじふまんぎ)、八瀬(やせ)・薮里(やぶさと)・しづ原・松崎(まつがさき)・赤山(せきさん)・下松(さがりまつ)・修学院(しゆがくゐん)・北白川(きたしらかは)まで支(ささへ)て、音無(おとなし)の滝・不動堂・白鳥(しらとり)よりぞ寄(よせ)たりける。山門には、敵是(これ)まで可寄とは思(おもひ)も寄(よら)ざりけるにや、道々をも警固(けいご)せず、関(きど)・逆木(さかもぎ)の構(かまへ)もせざりければ、さしも嶮(けは)しき道なれ共(ども)、岩石(がんぜき)に馴たる馬共なれば、上(のぼ)らぬ所も無(なか)りけり。其(その)時しも新田(につた)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)を始(はじめ)として、千葉(ちば)・宇都宮(うつのみや)・土肥(どひ)・得能(とくのう)に至るまで東坂本(ひがしさかもと)に集居(あつまりゐ)て、山上には行歩(ぎやうぶ)も叶(かな)はぬ宿老(しゆくらう)、稽古の窓(まど)を閉(とぢ)たる修学者(しゆがくしや)の外(ほか)は、兵(つはもの)一人(いちにん)も無(なか)りけり。此(この)時若(もし)西坂より寄(よす)る大勢共、暫(しばし)も滞(とどこほ)りなく、四明(しめい)の巓(だけ)まで打挙(あが)りたらましかば、山上も坂本も、防(ふせぐ)に便(たよ)り無(なく)して、一時に落(おつ)べかりしを、猶も山王大師(さんわうだいし)の御加護(おんかご)や有(あり)けん、俄に朝霧深(ふかく)立隠(たちかく)して、咫尺(しせき)の内をも見ぬ程なりければ、前陣に作る御方(みかた)の時(とき)の音(こゑ)を、敵の防ぐ矢叫(やさけび)の声ぞと聞誤(ききあやまつ)て、後陣(ごぢん)の大勢つゞかねば、そゞろに時をぞ移(うつ)しける。懸(かか)る処に、大宮(おほみや)へをり下(くだつ)て三塔(さんたふ)会合しける大衆(だいしゆ)上下帰山(きさん)して、将門(しやうもん)の童堂(わらうだう)の辺(へん)に相支(あひささへ)て、こゝを前途(せんど)と防(ふせぎ)ける間、面(おもて)に進みける寄手(よせて)三百人(さんびやくにん)被討、前陣敢(あへ)て懸(かか)らねば、後陣(ごぢん)は弥(いよいよ)不得進、只水飲(みづのみ)の木陰(こかげ)に陣をとり、堀切(ほりきり)を堺(さかひ)て、掻楯(かいたて)を掻(かき)、互に遠矢を射違(いちがへ)て、其(その)日(ひ)は徒(いたづら)に暮(くれ)にけり。西坂に軍(いくさ)始(はじま)りぬと覚(おぼ)へて、時声(ときのこゑ)山に響(ひびき)て聞へければ、志賀・唐崎の寄手(よせて)十万(じふまん)余騎(よき)、東坂本(ひがしさかもと)の西(にしの)穴生(あなふ)の前へ押寄(おしよせ)て、時(ときの)声をぞ揚(あげ)たりける。爰(ここ)にて敵の陣を見渡せば、無動寺(むどうじ)の麓より、湖(みづうみ)の波打際(なみうちぎは)まで、から堀を二丈余(あまり)に堀通(ほりとほ)して処々に橋を懸け、岸の上に屏(へい)を塗(ぬり)、関(きど)・逆木(さかもぎ)を密(きび)しくして、渡櫓(わたりやぐら)・高櫓(たかやぐら)三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)掻双(かきなら)べたり。屏(へい)の上より見越(こ)せば、是(これ)こそ大将の陣と覚へて中黒(なかぐろ)の旗三十(さんじふ)余流(よながれ)山下風(やまおろし)に吹(ふか)れて、竜蛇(りようじや)の如くに翻(ひるがへ)りたる其(その)下に、陣屋を双(ならべ)て油幕(ゆばく)を引(ひき)、爽(さわやか)に鎧(よろう)たる兵二三万騎(にさんまんぎ)、馬を後(うしろ)に引立(ひきたて)させて、一勢(いつせい)々々(いつせい)並居(なみゐ)たり。無動寺(むどうじ)の麓、白鳥(しらとり)の方(かた)を向上(みあげ)たりければ、千葉・宇都宮(うつのみや)・土肥・得能(とくのう)・四国・中国の兵こゝを堅めたりと覚へて、左巴(ひだりどもゑ)・右巴・月に星・片引両(かたひきりやう)・傍折敷(そばをしき)に三文字書(かき)たる旗共(はたども)六十(ろくじふ)余流(よながれ)木々の梢(こずゑ)に翻(ひるがへつ)て、片々(へんへん)たる其陰(そのかげ)に、甲(かぶと)の緒(を)を縮(しめ)たる兵三万(さんまん)余騎(よき)、敵近付(ちかづ)かば横合(よこあひ)にかさより落さんと、轡(くつばみ)を双(ならべ)て磬(ひかへ)たり。又湖上(こじやう)の方を直下(みおろし)たれば、西国・北国・東海道の、船軍(ふないくさ)に馴(なれ)たる兵共(つはものども)と覚(おぼえ)て、亀甲(きつかふ)・下濃(すそご)・瓜(うり)の紋(もん)・連銭(れんぜん)・三星(みつぼし)・四目結(よつめゆひ)・赤幡(あかはた)・水色・三■(みつすはま)、家々の紋画(ゑがい)たる旗、三百(さんびやく)余流(よながれ)、塩(しほ)ならぬ海に影見へて、漕双(こぎなら)べたる舷(ふなばた)に、射手(いて)と覚へたる兵数万人(すまんにん)、掻楯(かいたて)の陰(かげ)に弓杖(ゆんずゑ)を突(つい)て横矢(よこや)を射んと構へたり。寄手(よせて)誠(まこと)に大勢なりといへども、敵の勢に機(き)を被呑て、矢懸(やがか)りまでも進み得ず、大津・唐崎・志賀の里三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)に陣を取(とつ)て、遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。六月六日、追手(おふて)の大将の中より西坂の寄手(よせて)の中へ使者を立て、「此方(こなた)の敵陣を伺(うかがひ)見候へば、新田・宇都宮(うつのみや)・千葉・河野を始(はじめ)として、宗(むね)との武士共(ぶしども)、大畧(たいりやく)皆東坂本(ひがしさかもと)を堅(かため)たりとみへて候。西坂をば嶮(けはし)きを憑(たのみ)て、公家(くげ)の人々、さては山法師(やまほふし)共(ども)を差向(さしむけ)て候なる。一軍(ひといくさ)手痛く攻(せめ)て御覧(ごらん)候へ。はか/\しき合戦はよも候はじ、思図(おもふづ)に大岳(おほだけ)の敵を追(おひ)落されて候はゞ、大講堂・文殊楼(もんじゆろう)の辺(へん)に引(ひか)へて、火を被挙候へ。同時に攻合(せめあは)せて、東坂本(ひがしさかもと)の敵を一人も余さず、湖水に追(おつ)はめて亡(ほろぼ)し候べし。」とぞ牒(てふ)せられける。西坂の大将高(かうの)豊前(ぶぜんの)守(かみ)是(これ)を聞(きき)て、諸軍勢(しよぐんぜい)に向(むかつ)て法を出(いだ)しけるは、「山門を攻(せめ)落すべき諸方の相図(あひづ)明日にあり。此(この)合戦に一足(ひとあし)も退(しりぞき)たらん者は、縦(たとひ)先々(さきざき)抜群(ばつぐん)の忠ありと云(いふ)とも、無(なき)に処(しよ)して本領(ほんりやう)を没収(もつしゆ)し、其(その)身を可追出。一太刀(ひとたち)も敵に打違へて、陣を破り、分捕(ぶんどり)をもしたらんずる者をば、凡下(ほんげ)ならば侍になし、御家人(ごけにん)ならば、直(ぢき)に恩賞を可申与。さればとて独(ひとり)高名(かうみやう)せんとて抜懸(ぬけがけ)すべからず。又傍輩(はうばい)の忠を猜(そねん)で危(あやふ)き処を見放(はな)つべからず。互に力を合せ、共に志を一にして、斬(きる)共(とも)射(いる)共(とも)不用、乗越(のりこえ)々々(のりこえ)進(すすむ)べし。敵引退(ひきしりぞ)かば、立帰(たちかへ)さぬさきに攻立(せめたて)て、山上に攻上(のぼ)り、堂舎・仏閣に火を懸(かけ)て、一宇(いちう)も不残焼払(やきはら)ひ、三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)の頚(くび)を一々に、大講堂の庭に斬懸(きりかけ)て、将軍の御感(ぎよかん)に預(あづか)り給へかし。」と、諸人を励まして下知(げぢ)しける、悪逆の程こそ浅猿(あさまし)けれ。諸国の軍勢(ぐんぜい)等(ら)此命(このめい)を聞(きき)て、勇み前(すす)まぬ者なし。夜已(すで)に明(あけ)ければ、三石(みついし)・松尾(まつのを)・水飲(みづのみ)より、三手に分れて二十万騎(にじふまんぎ)、太刀・長刀の鋒(きつさき)を双(なら)べ、射向(いむけ)の袖を差(さし)かざして、ゑい/\声を出(いだ)してぞ揚(あがつ)たりける。先(まづ)一番に中書王(ちゆうしよわう)の副将軍(ふくしやうぐん)に被憑たりける千種宰相(ちくさのさいしやう)中将(ちゆうじやう)忠顕卿(ただあきのきやう)・坊門(ばうもんの)少将(せうしやう)正忠(まさただ)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて被防けるが、松尾(まつのを)より攻上(せめのぼ)る敵に後(うしろ)を被裹て一人も不残討(うた)れてけり。是(これ)を見て後陣(ごぢん)に支(ささ)へて防ぎける護正院(ごしやうゐん)・禅智坊(ぜんちばう)・道場坊以下(いげ)の衆徒七千(しちせん)余人(よにん)、一太刀(ひとたち)打(うつ)ては引上(ひきあがり)暫(しばらく)支(ささへ)ては引退(ひきしりぞき)、次第々々に引(ひき)ける間、寄手(よせて)弥(いよいよ)勝(かつ)に乗(のつ)て、追立(おつたて)々々(おつたて)一息をも継(つが)せず、さしも嶮(けはし)き雲母坂(きららざか)・蛇池(じやいけ)を弓手(ゆんで)に見成(みなし)て、大岳(おほだけ)までぞ攻(せめ)あがりける。去(さる)程(ほど)に院々(ゐんゐん)に早鐘(はやかね)撞(つい)て、西坂已(すで)に被攻破ぬと、本院(ほんゐん)の谷々(たにだに)に騒ぎ喚(よばは)りければ、行歩(ぎやうぶ)も叶はぬ老僧は鳩の杖に携(たづさはつ)て、中堂・常行堂(じやうぎやうだう)なんどへ参(まゐり)て、本尊と共に焼(やけ)死なんと悲(かなし)み、稽古鑽仰(さんぎやう)をのみ事とする修学者(しゆがくしや)などは、経論聖教(きやうろんしやうげう)を腹に当(あて)て、落行(おちゆく)悪僧(あくそう)の太刀・長刀を奪取(うばひとつ)て、四郎谷(しらうたに)の南、箸塚(はしづか)の上に走挙(はしりあが)り、命を捨(すて)て闘(たたかひ)ける。爰(ここ)に数万人(すまんにん)の中より只一人備後(びんごの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)、江田(えだ)源八泰氏(やすうぢ)と名乗(なのつ)て、洗革(あらひかは)の大鎧(おほよろひ)に五枚甲(ごまいかぶと)の緒を縮(しめ)、四尺(ししやく)余の太刀所々さびたるに血を付(つけ)て、ましくらにぞ上(のぼり)たりける。是(これ)を見て、杉本(すぎもと)の山神大夫(やまかみのだいぶ)定範(ぢやうはん)と云(いひ)ける悪僧(あくそう)、黒糸(くろいと)の鎧に竜頭(たつかしら)の甲(かぶと)の緒をしめ、大立挙(おほたてあげ)の髄当(すねあて)に、三尺(さんじやく)八寸(はつすん)の長刀茎短(くきみじか)に取(とつ)て乱足(みだれあし)を蹈み、人交(ひとまぜ)もせず只二人(ににん)、火を散してぞ斬合(きりあひ)ける。源八遥(はるか)の坂を上(のぼつ)て、数箇度(すかど)の戦(たたかひ)に腕緩(ゆる)く機(き)疲れけるにや、動(ややもす)ればうけ太刀に成(なり)けるを、定範得(え)たり賢(かしこ)しと、長刀の柄(え)を取延(とりのべ)源八が甲(かぶと)の鉢(はち)を破(われ)よ砕(くだけ)よと、重打(かさねうち)にぞ打(うつ)たりける。源八甲(かぶと)の吹返(ふきかへし)を目の上へ切(きり)さげられて、著直(きなほ)さんと推仰(おしあふの)きける処を、定範長刀をからりと打棄(うちすて)て、走懸(はしりかかつ)てむずと組(くむ)。二人(ににん)が蹈(ふみ)ける力足(ちからあし)に、山の片岸(かたきし)崩(くづれ)て足もたまらざりければ、二人(ににん)引組(ひつくみ)ながら、数千丈(すせんぢやう)高き小篠原(こささはら)を、上(うへ)になり下になり覆(ころび)けるが、中程より別々(べちべち)に成(なつ)て両方の谷の底へぞ落(おち)たりける。此外(このほか)十四の禅侶(ぜんりよ)、法花(ほつけ)堂の衆に至るまで、忍辱(にんにく)の衣の袖を結(むすび)て肩にかけ、降魔(がうま)の利剣(りけん)を提(ひつさげ)て、向ふ敵に走懸(はしりかかり)々々(はしりかかり)、命を風塵(ふうぢん)よりも軽(かろく)して防ぎ戦(たたかひ)ける程(ほど)に、寄手(よせて)の大勢進兼(すすみかね)て、四明(しめい)の巓(いただき)・西谷口、今三町許(ばかり)に向上(みあげ)て一気(ひといき)休(やすめ)てぞゆらへける。爰(ここ)に何者か為(し)たりけん、大講堂の鐘を鳴(なら)して、事の急(きふ)を告(つげ)たりける間、篠(ささ)の峯(みね)を堅めんとて、昨日横川(よかは)へ被向たりける宇都宮(うつのみや)五百(ごひやく)余騎(よき)、鞭(むち)に鐙(あぶみ)を合(あはせ)て西谷口へ馳来(はせきた)る。皇居(くわうきよ)を守護(しゆご)して東坂本(ひがしさかもと)に被坐ける新田(につた)左中将(さちゆうじやう)義貞、六千(ろくせん)余騎(よき)を率(そつ)して四明(しめい)の上へ馳上(はせのぼつ)て、紀清(きせい)両党を虎韜(こたう)にすゝませ、江田(えだ)・大館(おほたち)を魚鱗(ぎよりん)に連(つら)ねて真倒(まつさかさま)に懸立(かけたて)られけるに、寄手(よせて)二十万騎(にじふまんぎ)の兵共(つはものども)、水飲(みづのみ)の南北の谷へ被懸落て、馬人上(いや)が上(うへ)に落重(おちかさな)りしかば、さしも深き谷二(ふた)つ死人(しにん)に埋(うまつ)て平地になる。寄手(よせて)此日(このひ)の合戦に討負(うちまけ)て、相図(あひづ)の支度(したく)相違しければ、水飲(みづのみ)より下(した)に陣を取(とつ)て、敵の隙(ひま)を伺ふ。義貞は東坂本(ひがしさかもと)を閣(さしおい)て、大岳(おほだけ)を陣に取り、昼夜旦暮(ちうやたんぼ)に闘(たたかひ)て、互に陣を不被破(やぶられ)、西坂の合戦此侭(このまま)にて休(やみ)ぬ。其翌日(そのよくじつ)高(かうの)豊前(ぶぜんの)守(かみ)大津へ使を立(たて)て、「宗(むね)との敵共(てきども)は、皆大岳(おほだけ)へ向(むかひ)たりと見へて候。急(いそぎ)追手(おふて)の合戦を被始て東坂本(ひがしさかもと)を攻破(せめやぶ)り、神社・仏閣・僧坊・民屋(みんをく)に至るまで、一宇(いちう)も不残焼払(やきはらひ)て、敵を山上に追上(おひあげ)、東西両塔の間に打上(うちあがり)て、煙(けぶり)を被挙候はゞ、大岳(おほだけ)の敵ども前後に心を迷(まよ)はして、進退(しんたい)定(さだめ)て度(ど)を失(うしなひ)つと覚(おぼ)へ候。其(その)時此方(こなた)より同(おなじく)攻上(せめあがり)戦の雌雄(しゆう)を一時に可決。」とぞ牒(てふ)せられける。吉良(きら)・石堂(いしたう)・仁木(につき)・細川の人々是(これ)を聞(きき)て、「昨日(きのふ)は已(すで)に追手(おふて)の勧(すすめ)に依(よつ)て高家(かうけ)の一族共(いちぞくども)手(て)の定(さだまり)の合戦を致しつ。今日は又搦手(からめて)より此(この)陣の合戦を被勧事誠(まこと)に理(り)に当(あた)れり、非可黙止。」とて、十八万騎を三手に分(わけ)て、田中(たなか)・浜道(はまみち)・山傍(そへ)より、態(わざと)夕日に敵を向(むけ)て、東坂本(ひがしさかもと)へぞ寄(よせ)たりける。城中(じやうちゆう)の大将には、義貞の舎弟(しやてい)脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助を被置たりければ、東国・西国の強弓(つよゆみ)・手足(てだれ)を汰(そろ)へて、土矢間(つちさま)・櫓(やぐら)の上にをき、土肥(どひ)・得能(とくのう)・仁科(にしな)・春日部(かすかべ)・伯耆(はうきの)守(かみ)以下(いげ)の四国・北国の懸(かけ)武者共(むしやども)二万(にまん)余騎(よき)、白鳥(しらとり)が岳(をか)に磬(ひか)へさせ、船軍(ふないくさ)に馴(なれ)たる国々の兵(つはもの)に、和仁(わに)・堅田(かただ)の地下人共(ちげにんども)を差添(さしそへ)て五千(ごせん)余人(よにん)、兵船(ひやうせん)七百(しちひやく)余艘(よさう)に掻楯(かいたて)を掻(かい)て、湖水(こすゐ)の澳(おき)に被浮たり。敵陣の構(かまへ)密(きびし)くして、人の近付(ちかづく)べき様(やう)なしといへども、軍(いくさ)をせでは敵の落(おつ)べき様やあるとて、三方(さんぱう)の寄手(よせて)八十万騎(はちじふまんぎ)相近付(あひちかづき)て時を作りければ、城中(じやうちゆう)の勢六万(ろくまん)余騎(よき)、矢間(さま)の板(いた)を鳴(なら)し、舷(ふなばた)を敲(たたい)て時(ときの)声を合(あは)す。大地も為之裂(さけ)、大山も此(この)時に崩(くづれ)やすらんとをびたゝし。寄手(よせて)已(すで)に堀の前までかづき寄せ、埋草(うめくさ)を以て堀をうめ、焼(やき)草を積(つん)で櫓(やぐら)を落さんとしける時、三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)の櫓(やぐら)・土(つち)さま・出屏(だしべい)の内より、雨の降如(ふるごとく)射出(いいだ)しける矢、更に浮矢(あだや)一つも無(なか)りければ、楯のはづれ旗下(はたした)に射臥(いふせ)られて、死生(ししやう)の堺(さかひ)を不知者三千人(さんぜんにん)に余れり。寄手(よせて)余(あまり)に射殺されける間、持楯(もちだて)の陰(かげ)に隠(かくれ)んと、少(すこし)色めきける処を、城中(じやうちゆう)より見澄(みすま)して、脇屋(わきや)・堀口・江田・大館の人々六千(ろくせん)余騎(よき)、三の関(きど)を開(ひらか)せて、驀直(まつしくら)に敵の中へ懸(かけ)入る。土肥(どひ)・得能(とくのう)・仁科(にしな)・伯耆(はうき)が勢二千(にせん)余騎(よき)、白鳥(しらとり)より懸下(かけおり)て横合(よこあひ)にあふ。湖水に浮べる国々の兵共(つはものども)、唐崎の一松(ひとつまつ)の辺(へん)へ漕寄(こぎよせ)て、さし矢・遠矢・すぢかひ矢に、矢種(やだね)を不惜射たりける。寄手(よせて)大勢なりといへ共(ども)、山と海と横矢に射白(しらま)され、田中・白鳥(しらとり)の官軍(くわんぐん)に被懸立、叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、又本陣へ引返す。其後(そののち)よりは日夜朝暮(てうぼ)に兵(つはもの)を出(いだ)し、矢軍許(やいくさばかり)をばしけれ共(ども)、寄手(よせて)は遠攻(とほせめ)に為(し)たる許(ばかり)を態(わざ)にし、官軍(くわんぐん)は城を不被落を勝(かち)にして、はか/゛\しき軍は無(なか)りけり。同(おなじき)十六日熊野の八庄司(はつしやうじ)共(ども)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて上洛(しやうらく)したりけるが、荒手(あらて)なれば一軍(ひといくさ)せんとて、軈(やが)て西坂へぞ向ひたりける。黒糸(くろいと)の鎧甲(よろひかぶと)に、指のさきまで鎖(くさ)りたる篭手(こて)・髄当(すねあて)・半頬(はんぼう)・膝鎧(ひざよろひ)、無透処一様(いちやう)に裹(つつみ)つれたる事がら、誠(まこと)に尋常(よのつね)の兵共(つはものども)の出立(いでたち)たる体(てい)には事替(かはり)て、物(もの)の用に立(たち)ぬと見へければ、高(かうの)豊前(ぶぜんの)守(かみ)悦思(よろこびおもふ)事(こと)不斜(なのめならず)、軈(やが)て対面して、合戦の意見(いけん)を訪(とひ)ければ、湯河庄司(ゆかはのしやうじ)殊更進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「紀伊(きの)国(くに)そだちの者共(ものども)は、少(をさな)きより悪処岩石(あくしよがんぜき)に馴(なれ)て、鷹(たか)をつかひ、狩(かり)を仕る者にて候間、馬の通(かよ)はぬ程の嶮岨(けんそ)をも、平地の如(ごとく)に存ずるにて候。ましてや申さん、此(この)山なんどを見て、難所(なんじよ)なりと思(おもふ)事(こと)は、露許(つゆばかり)も候まじ。威毛(をどしけ)こそ能(よく)も候はね共(ども)、我等が手づから撓拵(ためこしらへ)て候物具(もののぐ)をば、何(いか)なる筑紫(つくし)の八郎殿(はちらうどの)も、左右(さう)なく裏(うら)かゝする程の事はよも候はじ。将軍の御大事(おんだいじ)此(この)時にて候へば、我等武士(ぶし)の矢面(やおもて)に立(たつ)て、敵矢を射ば物具(もののぐ)に請留(うけと)め、斬らば其(その)太刀・長刀に取付(とりつき)、敵の中へわり入(いる)程ならば、何(いか)なる新田殿(につたどの)共(とも)のたまへ、やわか怺(こらへ)へ候や。」と傍若無人(ばうじやくぶじん)に申(まう)せば、聞(きく)人見(みる)人何(いづ)れも偏執(へんしふ)の思(おもひ)を成(なし)にけり。「さらば軈(やが)て是(これ)をさき武者として攻(せめ)よ。」とて、六月十七日(じふしちにち)の辰刻(たつのこく)に、二十万騎(にじふまんぎ)の大勢、熊野(くまの)の八庄司(しやうじ)が五百(ごひやく)余人(よにん)を先(さき)に立(たて)て、松尾坂(まつのをさか)の尾崎(をさき)よりかづきつれてぞ上(のぼり)たりける。官軍(くわんぐん)の方(かた)に綿貫(わたぬきの)五郎左衛門(ごらうざゑもん)・池田五郎・本間(ほんま)孫四郎(まごしらう)・相馬(さうま)四郎左衛門(しらうざゑもん)とて、十万騎(じふまんぎ)が中より勝出(すぐりいだ)されたる強弓(つよゆみ)の手垂(てだれ)あり。池田と綿貫とは、時節(をりふし)東坂本(ひがしさかもと)へ遣はされて不居合ば、本間と相馬と二人(ににん)、義貞の御前(おんまへ)に候(さふらひ)けるが、熊野人共(くまのひとども)の真黒(まつくろ)に裹(つつみ)つれて攻上(せめのぼり)けるを、遥(はるか)に直下(みおろ)し、から/\と打(うち)笑ひ、「今日の軍(いくさ)に御方(みかた)の兵(つはもの)に太刀をも抜(ぬか)せ候まじ。矢一(ひとつ)をも射させ候まじ。我等二人(ににん)罷向(まかりむかつ)て、一矢(ひとや)仕(つかまつつ)て奴原(きやつばら)に肝つぶさせ候はん。」と申(まうし)、最(いと)閑(しづか)に座席をぞ立(たち)たりける。猶も弓を強(つよく)引(ひか)ん為に、著たる鎧を脱置(ぬぎおき)て、脇立許(わいだてばかり)に大童(おほわらは)になり、白木(しらき)の弓のほこ短(みじか)には見へけれ共(ども)、尋常(よのつね)の弓に立双(たちなら)べたりければ、今二尺(にしやく)余(あまり)ほこ長にて、曲高(そりたか)なるを大木共(たいぼくども)に押撓(おしため)、ゆら/\と押張(おしはり)、白鳥(はくてう)の羽(はね)にてはぎたる矢の、十五束(じふごそく)三臥(みつぶせ)有(あり)けるを、百矢(ももや)の中より只二筋(ふたすぢ)抜(ぬい)て弓に取副(とりそへ)、訛歌(そぞろうた)うたふて、閑々(しづしづ)と向(むかう)の尾(を)へ渡れば、跡(あと)に立(たち)たる相馬、銀(しろかね)のつく打(うつ)たる弓の普通(ふつう)の弓四五人(しごにん)張合(はりあはせ)たる程なるを、左の肩に打(うち)かたげて、金磁頭(かなじどう)二(ふた)つ箆撓(のため)に取添(とりそへ)て、道々撓直(ためなほし)爪(つま)よりて一村(ひとむら)茂る松陰(かげ)に、人交(ひとまぜ)もなく只二人(ににん)、弓杖(ゆんづゑ)突(つい)てぞ立(たつ)たりける。爰(ここ)に是(これ)ぞ聞へたる八庄司(しやうじ)が内の大力(おほちから)よと覚(おぼ)へて、長(たけ)八尺(はつしやく)許(ばかり)なる男(をとこ)の、一荒々(ひとあれあれ)たるが、鎖(くさり)の上に黒皮(くろかは)の鎧を著(き)、五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を)を縮(しめ)、半頬(はんぼう)の面(おもて)に朱(しゆ)をさして、九尺(くしやく)に見(みゆ)る樫木(かしのき)の棒(ぼう)を左の手に拳(にぎ)り、猪(ゐ)の目(め)透(すか)したる鉞(まさかり)の歯(は)の亘(わたり)一尺(いつしやく)許(ばかり)あるを、右の肩に振(ふり)かたげて、少もためらふ気色(きしよく)なく、小跳(こをどり)して登る形勢(ありさま)は、摩醯脩羅(まけいしゆら)王・夜叉(やしや)・羅刹(らせつ)の怒(いか)れる姿に不異。あはひ二町(にちやう)許(ばかり)近付(ちかづい)て、本間(ほんま)小松の陰(かげ)より立顕(たちあらは)れ、件(くだん)の弓に十五束(じふごそく)三臥(みつぶせ)、忘るゝ許(ばかり)引(ひき)しぼり、ひやうと射渡す。志す処の矢坪(やつぼ)を些(ちつと)も不違、鎧の弦走(つるはしり)より総角付(あげまきづけ)の板まで、裡面(うらおもて)五重(いつへ)を懸(かけ)ず射徹(とほ)して、矢さき三寸(さんずん)許(ばかり)ちしほに染(そみ)て出(いだし)たりければ、鬼歟(か)神と見へつる熊野人(くまのひと)、持(もち)ける鉞(まさかり)を打捨(うちすて)て、小篠(こささ)の上にどうど臥す。其(その)次に是(これ)も熊野人歟(か)と覚(おぼ)へて、先(さき)の男(をとこ)に一かさ倍(まし)て、二王(にわう)を作損(つくりそん)じたる如(ごとく)なる武者の、眼(まなこ)さかさまに裂(さけ)、鬚(ひげ)左右へ分れたるが、火威(ひをどし)の鎧に竜頭(たつがしら)の甲(かぶと)の緒を縮(しめ)、六尺(ろくしやく)三寸(さんずん)の長刀に、四尺(ししやく)余(あまり)の太刀帯(はい)て、射向(いむけ)の袖をさしかざし、後(うしろ)を吃(きつ)とみて、「遠矢な射そ。矢だうなに。」と云侭(いふまま)に、鎧づきして上(あがり)ける処を、相馬四郎左衛門(しらうざゑもん)、五人(ごにん)張(ばり)に十四束(じふしそく)三臥(みつぶせ)の金磁頭(かなじどう)、くつ巻(まき)を残さず引(ひき)つめて、弦音(つるおと)高く切(きつ)て放(はな)つ。手答(てごたへ)とすがい拍子(びやうし)に聞へて、甲(かぶと)の直向(まつかう)より眉間(みけん)の脳(なう)を砕(くだい)て、鉢著(はちつけ)の板の横縫(よこぬひ)きれて、矢じりの見(みゆ)る許(ばかり)に射篭(こみ)たりければ、あつと云(いふ)声と共に倒れて、矢庭(やには)に二人(ににん)死にけり。跡に継(つづ)ける熊野勢(くまのぜい)五百(ごひやく)余人(よにん)、此(この)矢二筋(ふたすぢ)を見て、前へも不進後(うし)ろへも不帰、皆背(せなか)をくゝめてぞ立(たつ)たりける。本間と相馬と二人(ににん)ながら是(これ)をば少しもみぬ由にて、御方(みかた)の兵の二町(にちやう)許(ばかり)隔(へだ)たりける向(むかう)の尾(を)に陣を取(とつ)て居(を)りけるに向(むかつ)て、「例ならず敵共(てきども)のはたらき候は、軍(いくさ)の候はんずるやらん。ならしに一矢づゝ射て見候はん。何(なに)にても的(まと)に立(たて)させ給へ。」と云(いひ)ければ、「是(これ)を遊ばし候へ。」とて、みな紅(くれなゐ)の扇(あふぎ)に月出(いだ)したるを矢に挟(さしはさみ)て遠的場(とほまとば)だてにぞ立(たて)たりける。本間は前に立(たち)、相馬は後(うしろ)に立(たつ)て、月を射ば天の恐(おそれ)も有(あり)ぬべし。両方のはづれを射んずるぞと約束して、本間はたと射れば、相馬もはたと射る。矢所(やつぼ)約束に不違、中なる月をぞ残しける。其(その)後百矢(ももや)二腰(ふたこし)取寄(とりよせ)て、張(はり)がへの弓の寸引(すびき)して、「相摸(さがみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)本間(ほんま)孫四郎(まごしらう)資氏(すけうぢ)、下総(しもふさの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)相馬(さうま)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)忠重(ただしげ)二人(ににん)、此(この)陣を堅(かため)て候ぞ。矢少々(せうせう)うけて、物具(もののぐ)の仁(さね)の程御覧候へ。」と高らかに名乗(のり)ければ、跡(あと)なる寄手(よせて)二十万騎(にじふまんぎ)、誰追(おふ)としも無(なけ)れども、我先(われさき)にとふためきて、又本の陣へ引返(ひつかへ)す。如今矢軍許(やいくさばかり)にて日を暮(くら)し夜(よ)を明(あか)さば、何年(なんねん)責(せむ)る共、山落(おつ)る事やは可有と、諸人攻(せめ)あぐんで思(おもひ)ける処に、山徒(さんと)金輪院(こんりんゐん)の律師(りつし)光澄(くわうちよう)が許(もと)より、今木(いまぎ)の少納言隆賢(りゆうげん)と申(まうし)ける同宿(どうじゆく)を使にて、高豊前(かうのぶぜんの)守(かみ)に申(まうし)けるは、「新田殿(につたどの)の被支候四明(しめい)山の下は、山上第一(だいいち)の難所(なんじよ)にて候へば、輒(たやす)く攻破(せめやぶ)られん事難叶とこそ存(ぞんじ)候へ。能(よく)物馴(ものなれ)て候はんずる西国方の兵を四五百人(しごひやくにん)、此(この)隆賢に被相副、無動寺(むどうじ)の方(かた)より忍(しのび)入り、文殊楼(もんじゆろう)の辺(へん)四王院の傍(あたり)にて時(ときの)声を被揚候はゞ、光澄(くわうちよう)与力(よりき)の衆徒等(しゆとら)、東西両塔の間に、旗を挙(あげ)時(ときの)声を合(あはせ)て、山門をば時の間(ま)に、攻(せめ)落し候べし。」とぞ申(まうし)ける。あわれ山徒(さんと)の中に御方(みかた)する者の一人なり共出来(しゆつらい)あれかしと、念願(ねんぐわん)しける処に、隆賢忍(しのび)やかに来(きたり)、夜討すべき様(やう)を申(まうし)ければ、高豊前(かうのぶぜんの)守(かみ)大(おほき)に喜(よろこん)で、播磨・美作・備前・備中四箇国(しかこく)の勢の中より、夜討に馴(なれ)たる兵五百(ごひやく)余人(よにん)を勝(すぐつ)て、六月十八日の夕闇(やみ)に四明(しめい)の巓(いただき)へぞ上(のぼ)せける。隆賢多年の案内者(あんないしや)なる上、敵(てき)の有所(あるところ)無(なき)所委(くはしく)見置(おき)たる事なれば、少しも道に迷(まよふ)べきにては無(なか)りけるが、天罰にてや有(あり)けん、俄(にはか)に目くれ心迷(こころまよひ)て、終夜(よもすがら)四明の麓を北南へ迷(まよひ)ありきける程(ほど)に、夜已(すで)に明(あけ)ければ紀清(きせい)両党に見付(みつけ)られて、中に被取篭ける間、迹(あと)なる武者共(むしやども)百(ひやく)余人(よにん)討(うた)れて、谷底へ皆ころび落(おち)ぬ。隆賢一人は、深手(ふかで)数箇所(すかしよ)負(おう)て、腹を切(きら)んとしけるが、上帯(うはおび)を解(とく)隙(ひま)に被組て生虜(いけとら)れにけり。大逆(たいぎやく)の張本(ちやうほん)なれば、軈(やが)てこそ斬らるべかりしを、大将山徒(さんと)の号に宥如(いうじよ)して、御方(みかた)にある一族(いちぞく)の中へ遣はされ、「生(いけ)て置(おか)ん共(とも)、殺されんとも意に可任。」と被仰ければ、今木(いまぎ)中務丞(なかつかさのじよう)範顕(のりあき)畏(かしこまつ)て、「承(うけたまはり)候。」とて、則(すなはち)使者の見ける前(まへ)にて、其首(そのくび)を刎(はね)てぞ捨(すて)たりける。忝(かたじけなく)も万乗の聖主、医王山王の擁護(おうご)を御憑(おんたのみ)有(あつ)て、臨幸成(なり)たる故(ゆゑ)に、三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)悉(ことごとく)仏法と王法と可相比理を存じて、弐(ふたごころ)なく忠戦を致す処に、金輪院(こんりんゐん)一人山徒(さんと)の身として我山(わがやま)を背(そむ)き、武士(ぶし)の家に非(あらず)して将軍に属(しよく)し、剰(あまつさへ)弟子(でし)同宿(どうじゆく)を出(いだ)し立(たて)て、山門を亡(ほろぼさ)んと企(くはたて)ける心の程こそ浅猿(あさまし)けれ。されば悪逆(あくぎやく)忽(たちまち)に顕(あらはれ)て、手引(てびき)しつる同宿ども、或(あるひ)は討(うた)れ或(あるひ)は生虜(いけとら)れぬ。光澄(くわうちよう)は無幾程して、最愛(さいあい)の子に殺されぬ。其(その)子は又一腹(いつぷく)一生(いつしやう)の弟(おとと)に討(うた)れて、世に類(たぐひ)なき不思議(ふしぎ)を顕(あらはし)ける神罰の程こそ怖(おそろ)しけれ。去(さる)程(ほど)に越前の守護(しゆご)尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)・北陸道(ほくろくだう)の勢を率(そつ)して、仰木(あふぎ)より押寄(おしよせ)て、横川(よかは)を可攻と聞へければ、楞厳院(れうごんゐん)九谷(くたに)の衆徒(しゆと)、処々(しよしよ)のつまり/\に関(きど)を拵(こしら)へ逆木(さかもぎ)を引(ひい)て要害を構へける。其比(そのころ)大師(だいし)の御廟(ごべう)修造(しゆざう)の為とて、材木を多く山上に引(ひき)のぼせたりけるを、櫓(やぐら)の柱(はしら)、矢間(さま)の板にせんとて坂中へぞ運(はこび)ける。其(その)日(ひ)、般若院(はんにやゐん)の法印が許(もと)に召仕(めしつかひ)ける童(わらは)、俄に物に狂(くるひ)て様々の事を口走(くちばしり)けるが、「我(われ)に大八王子の権現(ごんげん)つかせ給(たまひ)たり。」と名乗(なのつ)て、「此御廟(このごべう)の材木、急(いそぎ)本(もと)の処へ返(かへ)し運(はこ)ぶべし。」とぞ申(まうし)ける。大衆(だいしゆ)是(これ)を不審(ふしん)して、「誠(まこと)に八王子権現のつかせ給(たまひ)たる物ならば、本地内証(ほんちないしよう)朗(ほがらか)にして諸教(しよけう)の通儀(つうぎ)明かなるべし。」とて、古来碩学(せきがく)の相承(さうじよう)し来(きた)る一念三千(さんぜん)の法門、唯受(ゆゐじゆ)一人の口決(くけつ)共(ども)を様々にぞ問(とひ)たりける。此(この)童から/\と打笑(うちわらう)て、「我(われ)和光(わくわう)の塵(ちり)に交(まじは)る事久(ひさしく)して、三世了達(れうだつ)の智も浅く成(なり)ぬといへ共(ども)、如来(によらい)出世の御時(おんとき)会座(ゑざ)に列(つらなつ)て聞(きき)し事なれば、あら/\云(いつ)て聞かせん。」とて、大衆(だいしゆ)の立てつる処の不審(ふしん)、一々に言(ことば)に花をさかせ理に玉を聯(つら)ねて答へける。大衆(だいしゆ)皆是(これ)に信(しん)を取(とつ)て、重(かさね)て山門の安否(あんぴ)、軍(いくさ)の勝負(しようぶ)を問ふに、此(この)物つき涙をはら/\と流して申(まうし)けるは、「我(われ)内には円宗(ゑんしゆう)の教法(けうほふ)を守り、外(ほか)には百王の鎮護(ちんご)を致さん為に、当山開基(たうさんかいき)の初(はじめ)より跡(あと)を垂(たれ)し事なれば、何(いか)にも吾(わが)山の繁昌、朝廷の静謐(せいひつ)をこそ、心に懸(かけ)て思ふ事なれ共(ども)、叡慮(えいりよ)の向ふ所も、富貴栄耀(ふうきえいえう)の為にして、理民治世(りみんちせ)の政(まつりごと)に非(あら)ず、衆徒の願ふ心も、皆驕奢放逸(けうしやはういつ)の基(もとゐ)にして、仏法紹隆(ぜうりゆう)の為に非ざる間、諸天(しよてん)善神も擁護(おうご)の手を休(や)め、四所三聖(さんしやう)も加被(かひ)の力を不被回。悲(かなしい)哉(かな)、今より後朝儀(てうぎ)久(ひさし)く塗炭(どたん)に落(おち)て、公卿(くぎやう)大臣蛮夷(ばんい)の奴(やつこ)となり、国主(こくしゆ)はるかに帝都を去(さつ)て、臣は君を殺し、子は父を殺す世にならんずる事の浅猿(あさまし)さよ。大逆(たいぎやく)の積(つも)り却(かへつ)て其(その)身を譴(せむ)る事なれば、逆臣(ぎやくしん)猛威(まうゐ)を振(ふる)はん事も、又久しからじ。嗚呼(ああ)恨(うらめし)乎(や)、師重(もろしげ)が吾(わが)山を攻落(せめおと)して堂舎・仏閣を焼払(やきはら)はんと議(ぎ)する事(こと)、看々(みよみよ)人々、明日(みやうにち)の午刻(むまのこく)に早尾大行事(はやをのだいぎやうじ)を差遣(さしつかは)して、逆徒(ぎやくと)を四方(しはう)に退(しりぞ)けんずる者を。此(この)上は吾(わが)山に何(なん)の怖畏(ふゐ)か可有。其材木(そのざいもく)皆如元運(はこび)返せ。」と託宣(たくせん)して、此童(このわらは)自(みづから)四五人(しごにん)して持(もつ)程なる大木(たいもく)を一つ打(うち)かつぎ、御廟(ごべう)の前に打捨(うちすて)、手足を縮(しじ)めて振(ふる)ひけるが、「明日の午刻(むまのこく)に、敵を追(おひ)払ふべしと云(いふ)神託(しんたく)、余(あま)りに事遠からで、誠共(とも)覚(おぼ)へず、一事(いちじ)も若(もし)相違(さうゐ)せば、申(まうす)処皆虚説(きよせつ)になるべし。暫く明日の様を見て思合(おもひあは)する事あらば、後日にこそ奏聞(そうもん)を経(へ)め。」と申して、其(その)日(ひ)の奏し事(ごと)を止(や)めければ、神託(しんたく)空(むなし)く衆徒の胸中に蔵(かく)れて、知(しる)人更に無(なか)りけり。山門には西坂に軍(いくさ)あらば、本院(ほんゐん)の鐘(かね)をつき、東坂本(ひがしさかもと)に合戦あらば、生源寺(しやうげんじ)の鐘を鳴(なら)すべしと方々(はうばう)の約束を定(さだめ)たりける。爰(ここ)に六月二十日の早旦(さうたん)に早尾(はやを)の社(やしろ)の猿共(さるども)数(あまた)群来(むらがりきたつ)て、生源寺(しやうげんじ)の鐘を東西両塔に響(ひびき)渡る程こそ撞(つい)たりけれ。諸方(しよはう)の官軍(くわんぐん)、九院の衆徒是(これ)を聞(きき)て、すはや相図(あひづ)の鐘を鳴(なら)すは。さらば攻口(せめくち)へ馳向(はせむかつ)て防がんとて、我(われ)劣(おと)らじと渡り合ふ。東西の寄手(よせて)此形勢(このありさま)を見て、山より逆寄(さかよせ)に寄するぞと心得て、水飲(みづのみ)・今路(いまみち)・八瀬(やせ)・薮里(やぶさと)・志賀・唐崎・大津・松本の寄手共(よせてども)、楯よ物具よと、周章(あわて)色めきける間、官軍(くわんぐん)是(これ)に利(り)を得て、山上・坂本の勢十万(じふまん)余騎(よき)、木戸(きど)を開(ひらき)、逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけて打(うつ)て出(いで)たりける。寄手(よせて)の大将蹈留(ふみとどまつ)て、「敵は小勢(こぜい)ぞ、引(ひい)て討(うた)るな。きたなし返せ。」と下知(げぢ)して、暫(しばらく)支(ささへ)たりけれ共(ども)、引立(ひきたつ)たる大勢なれば一足(ひとあし)も不留。脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助の兵五千(ごせん)余騎(よき)、志賀の炎魔堂(えんまだう)の辺(へん)に有(あり)ける敵の向ひ城(しろ)に、五百(ごひやく)余箇所(よかしよ)に東西火を懸(かけ)て、をめき叫(さけん)で揉(もう)だりける。敵陣こゝより破(やぶれ)て、寄手(よせて)の百八十万騎(はちじふまんぎ)、さしも嶮(けは)しき今路(いまみち)・古道(ふるみち)・音無(おとなし)の滝・白鳥(しらとり)・三石(みついし)・大岳(おほだけ)より、人雪頽(なだれ)をつかせてぞ逃(にげ)たりける。谷深(ふかう)して行(ゆく)さきつまりたる所なれば、馬人上(いや)が上(うへ)に落重(おちかさなつ)て死(しに)ける有様は、伝聞(つたへきく)治承(ぢしよう)の古(いにし)へ、平家十万(じふまん)余騎(よき)の兵、木曾が夜討に被懸立て、くりから谷に埋(うづも)れけるも、是(これ)には過(すぎ)じと覚(おぼ)へたり。大将高(かうの)豊前(ぶぜんの)守(かみ)は太股(ふともも)を我(わが)太刀に突貫(つきつらぬい)て引兼(ひきかね)たりけるを、舟田(ふなた)長門(ながとの)守(かみ)が手者(てのもの)是(これ)を生虜(いけと)り白昼(はくちう)に東坂本(ひがしさかもと)を渡し、大将新田左中将(さちゆうじやう)の前に面縛(めんばく)す。是(これ)は仏敵・神敵の最(さい)たれば、「重衡(しげひら)卿(きやう)の例(れい)に任(まか)すべし。」とて、山門の大衆(だいしゆ)是(これ)を申請(まうしうけ)て、則(すなはち)唐崎の浜に首(くび)を刎(はね)てぞ被懸ける。此(この)豊前(ぶぜんの)守(かみ)は将軍の執事(しつじ)高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)が猶子(いうし)の弟(おとと)にて、一方の大将を承(うけたまは)る程の者なれば、身に替(かは)らんと思(おもふ)者共(ものども)幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知しか共(ども)、若党(わかたう)の一人も無(なく)して、無云甲斐敵に被生取けるは、偏(ひとへ)に医王山王の御罰(おんばつ)也(なり)けりと、今日(けふ)は昨日(きのふ)の神託(しんたく)に、げにやと被思合て、身の毛も弥立(よだ)つ許(ばかり)なり。
○京都両度(りやうど)軍(いくさの)事(こと) S1702
六月五日より同二十日まで、山門数日(すじつ)の合戦に討(うた)るゝ者疵(きず)を被(かうむ)る者、何千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知(しらず)。結句(けつく)寄手(よせて)東西の坂より被追立、引退(ひきしりぞき)たる兵共(つはものども)は、京中(きやうぢゆう)にも猶足を留(と)めず、十方へ落行(おちゆき)ける間、洛中(らくちゆう)以外(もつてのほか)に無勢(ぶせい)に成(なつ)て、如何(いかが)はせんと仰天(ぎやうてん)す。此(この)時しも山門より時日(ときひ)を回(めぐ)らさず寄(よせ)たらましかば、敵重(かさね)て都にはよも怺(こら)へじと見へけるを、山門に様々の異義(いぎ)有(あつ)て、空(むなし)く十(じふ)余日(よにち)を過(すご)されける程(ほど)に、辺土洛外(へんどらくぐわい)に逃隠(にげかくれ)たる兵共(つはものども)、機(き)を直(なほ)して又立帰(たちかへり)ける間、洛中(らくちゆう)の勢又大勢に成(なり)にけり。是(これ)をば不知、山門には京中(きやうぢゆう)無勢(ぶせい)也(なり)と聞(きき)て、六月晦日(つごもり)十万(じふまん)余騎(よき)を二手(ふたて)に分(わけ)て、今路(いまみち)・西坂よりぞ寄(よせ)たりける。将軍始(はじめ)は態(わざ)と小勢(こぜい)を河原(かはら)へ出して、矢一筋(ひとすぢ)射違(いちが)へて引(ひか)んとせられける間、千葉・宇都宮(うつのみや)・土肥・得能(とくのう)・仁科(にしな)・高梨が勢、勝(かつ)に乗(のつ)て京中(きやうぢゆう)へ追懸(おつかけ)て攻(せめ)入る。飽(あく)まで敵を近付(ちかづけ)て後、東寺(とうじ)より用意(ようい)の兵五十万騎(ごじふまんぎ)を出して、竪小路(たてこうぢ)・横小路(よここうじ)に機変(きへん)の陣をはり、敵を東西南北より押隔(おしへだて)て、四方(しはう)に当(あた)り八方(はつぱう)に囲(かこん)で余(あま)さじと闘(たたかふ)。寄手(よせて)片時(へんし)が間に五百(ごひやく)余人(よにん)被討て西坂を差(さし)て引返す。さてこそ京勢(きやうぜい)は又勢(いきほひ)に乗り山門方は力を落して、牛角(ごかく)の戦(たたかひ)に成(なり)にけり。角(かく)て暫(しばし)は合戦も無(なか)りけるに、二条(にでう)の大納言師基(もろもと)卿(きやう)、北国より、敷地(しきぢ)・上木(うへき)・山岸・瓜生(うりふ)・河島(かはしま)・深町以下(ふかまちいげ)の者三千(さんぜん)余騎(よき)を率(そつ)して、七月五日東坂本(ひがしさかもと)へ著(つき)給ふ。山門是(これ)に又力を得て同十八日京都へぞ被寄ける。前には京中(きやうぢゆう)を経(へ)て、遥々(はるばる)と東寺まで寄(よす)ればこそ、小路(こうぢ)ぎりに前後左右の敵を防(ふせぎ)かねて其囲(そのかこみ)をば破(やぶり)かねつれ、此度(このたび)は、一勢(いつせい)は二条(にでう)を西へ内野(うちの)へ懸出(かけいで)て、大宮(おほみや)を下(くだ)りに押寄せ、一勢(いつせい)は河原(かはら)を下りに押寄せ、東西より京を中に挿(さしはさみ)て、焼攻(やきせめ)にすべしとぞ被議ける。此謀(このはかりこと)いかなる野心(やしん)の者か京都へ告(つげ)たりけん、将軍是(これ)を聞(きき)すましてげれば、六十万騎(ろくじふまんぎ)の勢(せい)を三手に分(わけ)、二十万騎(にじふまんぎ)をば東山と七条河原(しちでうがはら)に被置たり。是(これ)は河原(かはら)より寄(よせ)んずる敵を、東西より却(かへつ)て中に取篭(とりこめ)ん為なり。二十万騎(にじふまんぎ)をば船岳山(ふなをかやま)の麓、神祇官(じんぎくわん)の南に被隠置たり。是(これ)は内野(うちの)より寄(よせ)んずる敵を、南北より引裹(つつ)まん為也(なり)。残る二十万騎(にじふまんぎ)をば西八条東寺の辺(へん)に磬(ひか)へさせて、軍門の前に被置たり。是(これ)は諸方の陣族(ぢんぞく)の被懸散ば、悪手(あらて)に替らん為也(なり)。去(さる)程(ほど)に明(あく)れば十八日卯刻(うのこく)に、山門の勢、北白河・八瀬・薮里・下松(さがりまつ)・修学院(しゆがくゐん)の前に押寄(おしよせ)て東西(とうざい)二陣の手を分つ。新田の一族(いちぞく)五万(ごまん)余騎(よき)は、糾杜(ただすのもり)を南に見て、紫野(むらさきの)を内野へ懸(かけ)通る。二条(にでうの)師基(もろもとの)卿(きやう)・千葉(ちばの)介(すけ)・宇都宮(うつのみや)・仁科(にしな)・高梨、真如堂(しんによだう)を西へ打過(うちすぎ)て、河原(かはら)を下(くだ)りに押寄(おしよす)る。其(その)手(て)の足軽(あしがる)共(ども)走散(はしりち)り、京中(きやうぢゆう)の在家(ざいけ)数百(すひやく)箇所(かしよ)に火を懸(かけ)たりければ、猛火(みやうくわ)天に満ち翻(ひるがへつ)て、黒烟(こくえん)四方(しはう)に吹覆(ふきおほ)ふ。五条河原(ごでうがはら)より軍(いくさ)始(はじまつ)て、射る矢は雨〔の〕如く、剣戟(けんげき)電(いなづま)の如し。軈(やが)て内野(うちの)にも合戦始(はじまつ)て、右近(うこん)の馬場(ばば)の東西、神祇官(じんぎくわん)の南北に、汗馬(かんば)の馳違(はせちがふ)音(おと)、時(ときの)声に相交(あひまじはつ)て、只百千の雷(いかづち)の大地に振ふが如く也(なり)。暫(しばらく)有(あつ)て五条川原(ごでうがはら)の寄手(よせて)、一戦(いつせん)に討負(うちまけ)て引(ひき)たりける程(ほど)に、内野(うちの)の大勢弥(いよいよ)重(かさなつ)て、新田左中将(さちゆうじやう)兄弟の勢を、十重(とへ)・二十重(はたへ)に取巻(とりまい)て、をめき叫(さけん)で攻(せめ)戦ふ。され共義貞の兵共(つはものども)、元来(ぐわんらい)機変(きへん)磬控(けいこう)百鍛(ひやくたん)千錬(せんれん)して、己(おのれ)が物と得たる所なれば、一挙(いつきよ)に百重(ももへ)の囲(かこみ)を解(とい)て、左副右衛(さふうゑ)一人も討(うた)れず、返合(かへしあはせ)々々(かへしあはせ)戦(たたかつ)て、又山へ引帰す。夫(それ)武(ぶ)の七書に言(いふ)、云(いはく)、「将謀泄則軍無利、外窺内則禍不制。」とて、此度(このたび)の洛中(らくちゆう)の合戦に官軍(くわんぐん)即(すなはち)討負(うちまけ)ぬる事(こと)、たゞ敵内通(ないつう)の者共(ものども)の御方(みかた)に有(あり)ける故(ゆゑ)也(なり)とて、互に心を置(おき)あへり。
○山門牒(さんもんのてふ)送南都事 S1703
官軍(くわんぐん)両度の軍(いくさ)に討負(うちまけ)て、気疲(つか)れ勢(いきほ)ひ薄く成(なつ)てげれば、山上・坂本に何(いか)なる野心(やしん)の者か出(いで)来て、不慮の儀あらんずらんと、主上(しゆしやう)玉■(ぎよくい)を安くし給はず、叡襟(えいきん)を傾(かたぶ)けさせ給(たまひ)ければ、先(まづ)衆徒の心を勇(いさま)しめん為に、七社(しちしや)の霊神(れいじん)九院の仏閣へ、各(おのおの)大庄(だいしやう)二三箇所(にさんかしよ)づゝを寄附せらる。其外(そのほか)一所住(いつしよぢゆう)とて、衆徒八百(はつぴやく)余人(よにん)早尾(はやを)に群集(ぐんじゆ)して、軍勢(ぐんぜい)の兵粮已下(ひやうらういげ)の事取沙汰(とりさた)しける衆の中へ、江州の闕所分(けつしよぶん)三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)を被行て、当国の国衙(こくが)を山門永代管領(くわんりやう)すべき由(よし)、永宣旨(えうせんじ)を成(なし)て被補任。若(もし)今官軍(くわんぐん)勝(かつ)事(こと)を得ば、山門の繁昌、此(この)時に有(あり)ぬと見へけれ共(ども)、三千(さんぜん)の衆徒悉(ことごとく)此抽賞(このちうしやう)に誇(ほこ)らば、誰か稽古の窓に向(むかつ)て三諦止観(さんたいしくわん)の月を弄(もてあそ)び、鑽仰(さんぎやう)の嶺(みね)に攀(よぢ)て一色(いつしき)一香(いつかう)の花を折らん。富貴の季(すゑ)には却(かへつ)て法滅の基(もとゐ)たるべければ、神慮も如何(いかが)有(ある)らんと智ある人は是(これ)を不悦。同十七日(じふしちにち)三千(さんぜん)の衆徒、大講堂の大庭(おほには)に三塔(さんたふ)会合して僉議(せんぎ)しけるは、「夫吾山者当王城之鬼門、為神徳之霊地。是以保百王之宝祚、依一山(いつさん)之(の)懇誠。鎮四夷(しい)之擾乱、唯任七社(しちしや)之擁護。爰有源家余裔尊氏・直義者。将傾王化亡仏法。訪大逆於異国、禄山比不堪。尋積悪於本朝、守屋却可浅。抑普天之下無不王土。縦使雖為釈門之徒、此時蓋尽致命之忠義。故北嶺天子本命之伽藍也(なり)。何運朝廷輔危之計略。南都博之氏寺也(なり)。須救藤氏類家之淹屈。然早牒送東大・興福両寺、可被結義戦戮力之一諾。」、三千(さんぜん)一同に僉議(せんぎ)して、則(すなはち)南都へ牒状(てふじやう)を送りける。其詞(そのことば)に云(いはく)、延暦寺(えんりやくじ)牒興福寺衙請早廻両寺一味籌策、御追罰(ついばつ)朝敵(てうてき)源尊氏・直義以下逆徒、弥致仏法・王法昌栄状。牒、仏法伝吾邦兮七百(しちひやく)余歳(よさい)、祝皇統益蒼生者、法相円頓之秘■(ひさく)最勝。神明垂権跡兮七千(しちせん)余座、鎮宝祚耀威光者、四所三聖(さんしやう)之霊験異他。是以先者淡海公建興福寺、以瑩八識五重之明鏡、後者桓武(くわんむの)帝開比叡山(ひえいさん)、以挑四教三観之法灯。爾以降南都北嶺共掌護国護王之精祈。天台(てんだいの)法相互究権教実教之奥旨。寔是以仏法守王法濫觴、以王法弘仏法根源也(なり)。因茲当山有愁之時、通白疏而談懇情。朝家有故之日、同丹心而祈安静。五六年以来天下大乱民間不静。就中尊氏・直義等(ただよしら)、起自辺鄙之酋長、飽浴超涯之皇沢。未知君臣之道、忽有犲狼之心。樹党而誘引戎虜、矯詔而賊害藩籬。倩思王業再興之聖運、更非尊氏一人之武功、企叛逆無其辞。以義貞称其敵、貪天功而為己力、咎犯之所恥也(なり)。仮朝錯挙逆謀、劉■(りうび)之所亡也(なり)。為臣犯君忘恩背義、開闢以来未聞其迹。遂乃去春之初、猛火甚於燎原、九重之城闕成灰燼。暴風扇于区宇、無辜之民黎堕塗炭。論其濫悪誰不歎息。且為避当時之災■(さいげつ)、且為仰和光之神助、廻仙蹕於七社(しちしや)之瑞籬、任安全於四明之懇府。衆徒之心、此時豈敢乎。爰三千(さんぜん)一揆(いつき)、忘身命扶義兵。老少同心、代冥威伏異賊。王道未衰、神感潜通之故(ゆゑ)也(なり)。逆党巻旗而奔西、凶徒(きようと)倒戈而敗北。喩猶紅炉之消雪、相似団石之圧卵。昔晉之祈八公也(なり)。早覆符堅之兵、唐之感四王也(なり)。乍却吐蕃之陣。蓋乃斯謂歟(か)。遂使儼鸞輿之威儀促鳳城之還幸(くわんかう)。天掃■搶(さんさう)、上下同見慶雲之色。海剪鯨鯢、遠近尽歇逆浪之声。然是学侶群侶之精誠也(なり)。豈非医王山王之加護哉(かな)。而今賊党再窺覦帝城、官軍(くわんぐん)暫彷徨征途。仍慣先度之朝儀、重及当社之臨幸。山上山下興廃只在此時。仏法王法盛衰豈非今日乎。天台(てんだい)之(の)教法、七社(しちしや)之霊験、偏共安危於朝廷。法相之護持、四所之冥応、盍加贔屓於国家。貴寺若存報国之忠貞者、衆徒須運輔君之計略矣。満山之愁訴、猶通音問而成合体。一朝之治乱、何随群議、而無与力。仍勒事由、牒送如件。敢勿猶予。故牒。延元々年六月日延暦寺(えんりやくじ)三千(さんぜん)衆徒等(しゆとら)とぞ被書たる。状(じやう)披閲の後、南都(の)大衆則(すなはち)山門に同心して返牒(へんてふ)を送る。其(その)状(じやうに)云(いはく)、
興福寺衆徒牒延暦寺(えんりやくじ)衙来牒一紙(いつし)牒、夫観行五品之居勝位也(なり)。学円頓於河淮之流。等覚無垢之円上果也(なり)。敷了義於印度之境。是以隋高祖(かうそ)之(の)崇玄文、玉泉水清。唐文皇奮神藻、瑶花風芳。遂使一夏敷揚之奥■(あうせき)遥伝于叡山(えいさん)。三国相承之真宗、独留于吾寺以降、及于千祀、軌垂百王。寔是弘仏法之宏規、護皇基之洪緒者也(なり)。彼尊氏・直義等(ただよしら)、遠蛮之亡虜、東夷之降卒也(なり)。雖非鷹犬之才、屡忝爪牙之任。乍忘朝奨還挿野心。討揚氏兮為辞、在藩渓兮作逆。劫略州県、掠虜吏民。帝都悉焼残、仏閣多魔滅。軼赤眉之入咸陽、超黄巾寇河北。濫吹之甚、自古未聞。天誅之所覃、冥譴何得遁。因茲去春之初、鋤■(しよいう)棘矜一摧関中焉、匹馬倚輪纔遁海西矣。今聚其敗軍擁彼余衆、不恐雷霆之威、重待斧鉞之罪。六軍徘徊、群兇益振。是則孟津再駕之役、独夫所亡也(なり)。城濮三舎之謀、侍臣攸敗也(なり)。夫違天者有大咎。失道者其助寡。積暴之勢豈又能久乎。方今廻皇輿於花洛之外、張軍幕於猶渓之辺。三千(さんぜん)群侶、定合懇祈之掌、七社(しちしや)霊神、鎮廻擁護之眸者歟(か)。彼代宗之屯長安也(なり)。観師於香積寺之中。勾践(こうせん)之(の)在会稽(くわいけい)也(なり)。陣兵天台山之北。事叶先蹤、寧非佳摸乎。爰当寺衆徒等(しゆとら)、自翠花北幸、抽丹棘中庭。専祈宝祚之長久、只期妖■(えうげつ)之滅亡。精誠無弐、冥助豈空乎。就中寺辺之若輩、国中之勇士(ゆうし)、頻有加官軍(くわんぐん)之(の)志、屡廻退凶徒(きようと)之策。然而南北境阻、風馬之蹄不及、山川地殊、雲鳥之勢難接矣。矧亦賊徒構謀、寇迫松■(しようぜん)之下。人心未和、禍在蕭牆之中。前対燕然之虜、後有宛城之軍、攻守之間進退失度。但綸命屡降、牒送難黙止。速率鋭師、早征凶党、今以状牒。々到准状。故牒。延元々年六月日興福寺衆徒等(しゆとら)とぞ書(かき)たりける。南都已(すで)に山門に与力(よりよく)しぬと聞へければ、畿内・近国に軍(いくさ)の勝負(しようぶ)を計(はかり)かねて何方(いづかた)へか著(つく)べきと案じ煩ひける兵共(つはものども)、皆山門に志を通じ、力を合せんとす。雖然堺敵陣を隔(へだ)てければ、坂本へ馳参(はせまゐる)事(こと)不可叶、「大将を給(たまはつ)て陣を取(とつ)て京都を攻(せめ)落し候べし。」とぞ申(まうし)ける。「さらば。」とて、八幡(やはた)へは四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけの)卿(きやう)を被差遣。真木・葛葉・禁野(きんや)・片野(かたの)・宇殿(うとの)・賀島(かしま)・神崎(かんざき)・天王寺(てんわうじ)・賀茂・三日(みか)の原の者共(ものども)馳集(はせあつまつ)て、三千(さんぜん)余騎(よき)大渡(おほわたり)の橋より西に陣を取(とつ)て、川尻(かはじり)の道を差塞(さしふさぐ)。宇治へは、中(なかの)院(ゐんの)中将(ちゆうじやう)定平(さだひら)を被遣。宇治・田原・醍醐・小栗栖(をぐるす)・木津(こづ)・梨間(なしま)・市野辺山(いちのへやま)・城脇(しろわき)の者共(ものども)馳集(はせあつまつ)て、二千(にせん)余騎(よき)、宇治橋二三間(にさんげん)引落(ひきおとし)て、橘(たちばな)の小島(こじま)が崎に陣をとる。北丹波道へは、大覚寺の宮(みや)を大将とし奉(たてまつ)て、額田(ぬかだ)左馬(さまの)助(すけ)を被遣。其(その)勢(せい)三百(さんびやく)余騎(よき)、白昼に京中(きやうぢゆう)を打通(うちとほつ)て、長坂(ながさか)に打上(うちあが)る。嵯峨・仁和寺(にんわじ)・高雄(たかを)・栂尾(とがのを)・志宇知(しうち)・山内(やまのうち)・芋毛(いもげ)・村雲の者共(ものども)馳集(はせあつまつ)て、千(せん)余騎(よき)京中(きやうぢゆう)を足の下に直下(みおろ)して、京見峠(きやうみたうげ)・嵐山・高雄・栂尾(とがのを)に陣をとる。此外(このほか)鞍馬道(くらまぢ)をば西塔(さいたふ)より塞(ふさい)で、勢多(せた)をば愛智(えち)・信楽(しがらき)より指塞(さしふさ)ぐ。今は四方(しはう)七つの道、纔(わづか)に唐櫃越許(からうとごえばかり)あきたれば、国々の運送道絶(たえ)て洛中(らくちゆう)の士卒(じそつ)兵粮に疲(つか)れたり。暫(しばし)は馬を売(うり)、物具(もののぐ)を沽(うり)、口中(こうちゆう)の食(じき)を継(つぎ)けるが、後には京白川の在家(ざいけ)・寺々へ打入(うちいつ)て、衣裳を剥取(はぎとり)、食物を奪ひくう。卿相雲客(けいしやううんかく)も兵火(ひやうくわ)の為に焼出(やきいだ)されて、此(ここ)の辻堂、彼(かしこ)の拝殿に身を側(そば)め、僧俗男女(なんによ)は道路に食(じき)を乞(こう)て、築地(ついぢ)の陰(かげ)、唐居敷(からゐしき)の上に飢臥(うゑふ)す。開闢以来(よりこのかた)兵革(ひやうかく)の起る事多しといへ共、是(これ)程の無道(ぶだう)は未(いまだ)記(しるさざる)処也(なり)。京勢(きやうぜい)は疲れて、山門又つよる由聞へければ、国々の勢百騎(ひやくき)・二百騎(にひやくき)、東坂本(ひがしさかもと)へと馳(はせ)参る事引(ひき)もきらず。中にも阿波・淡路(あはぢ)より、阿間(あま)・志知(しち)・小笠原の人々、三千(さんぜん)余騎(よき)にて参りければ、諸卿皆憑(たのも)しき事に被思けるにや、今はいつをか可期、四方(しはう)より牒(てふ)し合せて、四国の勢を阿弥陀(あみだ)が峯へ差向(さしむけ)て、夜々篝(かがり)をぞ焼(たか)せられける。其(その)光二三里が間に連(つらなり)て、一天(いつてん)の星斗(せいと)落(おち)て欄干(らんかん)たるに不異。或夜(あるよ)東寺の軍勢(ぐんぜい)ども、楼門に上(あがり)て是(これ)をみけるが、「あらをびたゝしの阿弥陀が峯の篝(かがり)や。」と申(まうし)ければ、高(かうの)駿河(するがの)守(かみ)とりも敢(あへ)ず、多く共(とも)四十八にはよも過(すぎ)じ阿弥陀(あみだが)峯に灯(とも)す篝火(かがりび)と一首(いつしゆ)の狂歌に取成(とりな)して戯(たはむれ)ければ、満座皆ゑつぼに入(いり)てぞ笑(わらひ)ける。今一度(いちど)京都に寄せて、先途(せんど)の合戦あるべしと、諸方の相図(あひづ)定りにければ、士卒(じそつ)の志を勇(いさ)めんが為に、忝も十善の天子、紅(くれなゐ)の御袴(おんはかま)をぬがせ給ひ、三寸(さんずん)づゝ切(きつ)て、所望(しよまう)の兵共(つはものども)にぞ被下ける。七月十三日(じふさんにち)、大将新田左中将(さちゆうじやう)義貞、度々(どど)の軍(いくさ)に、打(うち)残されたる一族(いちぞく)四十三人(しじふさんにん)引具(ひきぐ)して先(まづ)皇居(くわうきよ)へ参ぜらる。主上(しゆしやう)龍顔(りようがん)麗しく群下(ぐんか)を照臨有(せうりんあつ)て、「今日の合戦何(いつ)よりも忠を尽すべし。」と被仰下ければ、義貞士卒(じそつ)の意に代(かはつ)て、「合戦の雌雄(しゆう)は時の運による事にて候へば、兼(かね)て勝負を定めがたく候。但(ただし)今日の軍(いくさ)に於ては、尊氏が篭(こもつ)て候東寺の中へ、箭(や)一つ射入(いいれ)候はでは、罷(まかり)帰るまじきにて候なり。」と申(まうし)て、御前(おんまへ)をぞ被退出ける。諸軍勢(しよぐんぜい)、大将の前後に馬を早めて、白鳥(しらとり)の前を打過(うちすぎ)ける時、見物しける女童部(をんなわらんべ)、名和伯耆(はうきの)守(かみ)長年が引(ひき)さがりて打(うち)けるを見て、「此比(このころ)天下に結城(ゆふき)・伯耆(はうき)・楠木・千種頭(ちくさのとうの)中将(ちゆうじやう)、三木(さんぼく)一草(いつさう)といはれて、飽(あく)まで朝恩に誇(ほこつ)たる人々なりしが、三人(さんにん)は討死して、伯耆(はうきの)守(かみ)一人残(のこつ)たる事よ。」と申(まうし)けるを、長年遥(はるか)に聞(きき)て、さては長年が今まで討死せぬ事を、人皆云(いふ)甲斐なしと云(いふ)沙汰すればこそ、女童部(をんなわらんべ)までもか様(やう)には云(いふ)らめ。今日の合戦に御方(みかた)若(もし)討負(うちまけ)ば、一人なり共引留(ひきとどまつ)て、討死せん者をと独言(ひとりごと)して、是(これ)を最後の合戦と思定(おもひさだめ)てぞ向(むかひ)ける。
○隆資(たかすけ)卿(きやう)自八幡被寄事 S1704
京都の合戦は、十三日(じふさんにち)の巳刻(みのこく)と、兼(かね)て諸方へ触送(ふれおくり)たりければ、東坂本(ひがしさかもと)より寄(よす)る勢、関山(せきさん)・今路(いまみち)の辺(へん)に引(ひか)へて、時剋(じこく)を待(まち)ける処に、敵や謀(たばかつ)て火を懸(かけ)たりけん、北白川(きたしらかは)に焼失(ぜうしつ)出来(いできたつ)て、烟(けぶり)蒼天に充満したり。八幡(やはた)より寄(よせ)んずる宮方(みやがた)の勢共(せいども)是(これ)を見て、「すはや山門より寄(よせ)て、京中(きやうぢゆう)に火を懸(かけ)たるは。今日の軍(いくさ)に為(し)をくれば、何(なん)の面目か有(ある)べき。」とて、相図(あひづ)の剋限(こくげん)をも不相待、其(その)勢(せい)纔(わづか)に三千(さんぜん)余騎(よき)にて、鳥羽(とば)の作道(つくりみち)より東寺の南大門(なんだいもん)の前へぞ寄(よせ)たりける。東寺(とうじ)の勢、山門より寄(よす)る敵を防(ふせが)んとて、河合(ただす)・北白河の辺(へん)へ皆向(むかひ)たりければ、卿相雲客(けいしやううんかく)、或(あるひ)は将軍近習の老者(らうしや)・児(ちご)なんど許(ばかり)集り居て、此(この)敵を可防兵は更(さら)になかりけり。寄手(よせて)の足軽(あしがる)共(ども)、鳥羽(とばの)田の面(も)の畔(くろ)をつたひ、四塚(よつづか)・羅精門(らしやうもん)のくろの上に立(たち)渡り、散々(さんざん)に射ける間、作道(つくりみち)まで打出(うちいで)たりける、高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)が五百(ごひやく)余騎(よき)、被射立て引退(ひきしりぞ)く。敵弥(いよいよ)勝(かつ)に乗(のつ)て、持楯(もちだて)ひしき楯を突寄(つきよせ)々々(つきよせ)、かづき入(いれ)て攻(せめ)ける程(ほど)に、坤(ひつじさる)の角(すみ)なる出屏(だしへい)の上の高櫓(たかやぐら)一つ、念(ねん)なく被攻破て焼(やき)けり。城中(じやうちゆう)是(これ)に躁(さわが)れて、声々にひしめき合(あひ)けれ共(ども)、将軍は些共(ちつとも)不驚給、鎮守(ちんじゆ)の御宝前(はうぜん)に看経(かんきん)しておはしける。其(その)前に問注所(もんぢゆうしよ)の信濃(しなのの)入道々大(だうだい)と土岐(とき)伯耆(はうきの)入道存孝(そんかう)と二人(ににん)倶(ぐ)して候(さふらひ)けるが、存孝傍(そば)を屹(きつ)と見て、「あはれ愚息(ぐそく)にて候悪源太(あくげんだ)を上(かみ)の手へ向(むけ)候はで、是(これ)に留(とどめ)て候はゞ、此(この)敵をば輒(たやす)く追(おひ)払はせ候はんずる者を。」と申(まうし)ける処に、悪源太つと参りたり。存孝うれしげに打(うち)見て、「いかに上の手(て)の軍(いくさ)は未(いまだ)始まらぬか。」「いやそれは未(いまだ)存知仕(つかまつり)候はず。三条河原(さんでうがはら)まで罷向(まかりむかつ)て候(さふらひ)つるが、東寺の坤(ひつじさる)に当(あたつ)て、烟(けぶり)の見へ候間、取(とつ)て返して馳(はせ)参じて候。御方(みかた)の御合戦は何と候やらん。」と申(まうし)ければ、武蔵守(むさしのかみ)、「只今作道(つくりみち)の軍(いくさ)に打負(うちまけ)て引退(ひきしりぞ)くといへ共、是(この)御陣の兵多からねば、入替(いりかはる)事(こと)叶はず、已(すで)に坤(ひつじさる)の角(すみ)の出屏(だしへい)を被打破て、櫓を被焼落上は、将軍の御大事(おんだいじ)此(この)時也(なり)。一騎なりとも御辺(ごへん)打出(うちいで)て此(この)敵を払へかし。」畏(かしこまつ)て、「承(うけたまは)り候。」とて、悪源太御前(おんまへ)を立けるを、将軍、「暫(しばし)。」とて、いつも帯副(はきぞへ)にし給(たまひ)ける御所作(ごしよつく)り兵庫鎖(ひやうごくさり)の御太刀を、引出物(ひきでもの)にぞせられける。悪源太此(この)太刀を給(たまはつ)て、などか心の勇まざらん。洗皮(あらひかは)の鎧に、白星(しらほし)の甲(かぶと)の緒(を)を縮(しめ)て、只今給(たまは)りたる金作(こがねづく)りの太刀の上に、三尺(さんじやく)八寸(はつすん)の黒塗(くろぬり)の太刀帯副(はきそへ)、三十六(さんじふろく)差(さい)たる山鳥の引尾(ひきを)の征矢(そや)、森の如(ごとく)にときみだし、三人(さんにん)張(ばり)の弓にせき絃(つる)かけて噛(くひ)しめし、態(わざと)臑当(すねあて)をばせざりけり。時々は馬より飛下(とびお)りて、深(ふか)田を歩(あゆ)まんが為也(なり)けり。北(きた)の小門(こもん)より打出(いで)て、羅精門(らしやうもん)の西へ打廻り、馬をば畔(くろ)の陰(かげ)に乗放(のりはなし)て、三町余(あまり)が外に村立(むらだち)たる敵を、さしつめ引(ひき)つめ散々(さんざん)にぞ射たりける。一矢(ひとや)に二人(ににん)三人(さんにん)をば射落せども、あだ矢は一(ひとつ)も無(なか)りければ、南大門(なんだいもん)の前に攻寄(せめよせ)たる寄手(よせて)の兵千(せん)余人(よにん)、一度(いちど)にはつと引退(ひきしりぞ)く。悪源太是(これ)に利(り)を得て、かけ足逸物(いちもつの)馬に打乗(うちのり)、さしも深き鳥羽田中(たなか)を真平地(まつへいち)に懸立(かけたて)て、敵六騎切(きつ)て落し、十一騎に手負(ておは)せて、仰(のつ)たる太刀を押直(おしなほ)し、東寺の方を屹(きつ)と見て、気色(きしよく)ばうたる有様は、いかなる和泉(いづみの)小次郎・朝夷那(あさいな)三郎も是(これ)には過(すぎ)じとぞみへたりける。悪源太一人に被懸立て、数万の寄手(よせて)皆しどろに成(なり)ぬと見へければ、高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)千(せん)余騎(よき)にて、又作道(つくりみち)を下(くだ)りに追(おつ)かくる。越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)は、七百(しちひやく)余騎(よき)にて竹田(たけだ)を下(くだ)りに要合(よこぎり)せんとす。已(すで)に引立(ひきたつ)たる大勢なれば、なじかは足を留(とど)むべき。討(うた)るゝをも顧(かへりみ)ず、手負(ておひ)をも不助、我先(われさき)にと逃散(にげちり)て、元(もと)の八幡(やはた)へ引返す。
○義貞軍(いくさの)事(こと)付(つけたり)長年討死(うちじにの)事(こと) S1705
一方の寄手(よせて)の破れたるをも不知、相図(あひづ)の剋限(こくげん)よく成(なり)ぬとて、追手(おふて)の大将新田(につた)義貞(よしさだ)・脇屋(わきや)義助、二万(にまん)余騎(よき)を率(そつ)して、今路(いまみち)・西坂本より下(くだつ)て、三手に分れて押寄(おしよす)る。一手(ひとて)は義貞・義助・江田(えだ)・大館(おほたち)・千葉・宇都宮(うつのみや)、其(その)勢(せい)一万(いちまん)余騎(よき)、大中黒(おほなかぐろ)・月に星・左巴(ひだりどもゑ)、丹(たん)・児玉(こだま)のうちわの旗、三十(さんじふ)余流(よながれ)連(つなが)りて、糾(ただ)すを西へ打(うち)通(とほ)り、大宮(おほみや)を下(くだ)りに被押寄。一手(ひとて)には伯耆(はうきの)守(かみ)長年(ながとし)・仁科(にしな)・高梨・土居(どゐ)・得能(とくのう)・春日部(かすかべ)、以下(いげ)の国々の勢集(あつまつ)て五千(ごせん)余騎(よき)、大将義貞の旗を守(まもつ)て鶴翼魚鱗(かくよくぎよりん)の陣をなし、猪隈(ゐのくま)を下(くだ)りに押寄(おしよす)る。一手(ひとて)は二条(にでうの)大納言(だいなごん)・洞院(とうゐんの)左衛門(さゑもんの)督(かみ)を両大将にて五千(ごせん)余騎(よき)、牡丹(ぼたん)の旗・扇(あふぎ)の旗、只二流(ながれ)差揚(さしあげ)て、敵に跡(あと)を切られじと、四条(しでう)を東へ引亘(ひきわた)して、さきへは態(わざと)進(すす)まれず。兼(かね)てより阿弥陀(あみだ)が峯に陣を取(とり)たりし阿波・淡路(あはぢ)の勢千(せん)余騎(よき)は、未(いまだ)京中(きやうぢゆう)へは入(いら)ず、泉涌寺(せんゆじ)の前今熊野辺(いまくまのへん)までをり下(くだつ)て、相図(あひづ)の煙(けぶり)を上(あげ)たれば、長坂(ながさか)に陣を取(とつ)たる額田(ぬかだ)が勢八百(はつぴやく)余騎(よき)、嵯峨(さが)・仁和寺(にんわじ)の辺(へん)に打散(うちちり)、所々に火を懸(かけ)たり。京方は大勢なれども、人疲(つか)れ馬疲れ、而(しか)も今朝の軍(いくさ)に矢種(やだね)は皆射尽(つく)したり。寄(よす)るは小勢(こぜい)なれ共(ども)、さしも名将の義貞、先日度々(どど)の軍(いくさ)に打負(うちまけ)て、此度(このたび)会稽(くわいけい)の恥を雪(きよめ)んと、牙(きば)を咀(かみ)名を恥づと聞(きこえ)ぬれば、御治世(ごぢせい)両統(りやうとう)の聖運も、新田・足利(あしかが)多年の憤(いきどほり)も、只今日の軍(いくさ)に定りぬと、気をつめぬ人は無(なか)りけり。去(さる)程(ほど)に六条(ろくでう)大宮(おほみや)より軍(いくさ)始(はじまつ)て、将軍の二十万騎(にじふまんぎ)と義貞の二万騎(にまんぎ)と入乱(いりみだれ)て戦(たたかひ)たり。射違(いちがふ)る矢は、夕立(ゆふだち)の軒端(のきば)を過(すぐ)る音よりも猶滋(しげ)く、打合ふ太刀の鍔音(つばおと)は、空(そら)に応(こたふ)る山彦(やまびこ)の、鳴り止(や)む隙(ひま)も無(なか)りけり。京勢(きやうぜい)は小路(こうぢ)々々(こうぢ)を立塞(たちふさい)で、敵を東西より取篭(とりこめ)、進まば先を遮(さへぎ)り、左右へ分れば中をわらんと、変化機に応じて戦(たたかひ)ければ、義貞の兵少(すこし)も散らで、中をも不破、退(しりぞい)て、跡よりも揉(もう)で、向ふ敵に懸立(かけたて)々々(かけたて)、大宮(おほみや)を下(くだ)りにましくらに懸(かか)りける程(ほど)に、仁木(につき)・細川・今川・荒川・土岐・佐々木(ささき)・逸見(へんみ)・武田(たけだ)・小早河(こばやかは)、此(ここ)を被打散、彼(かしこ)に被追立、所々(しよしよ)に磬(ひか)へたれば、義貞の兵二万(にまん)余騎(よき)、東寺の小門(こもん)前に推寄(おしよせ)て、一度(いちど)に時をどつと作る。義貞坂本を打出(うちいで)し時、先(まづ)皇居(くわうきよ)に参(まゐつ)て、「天下の落居(らくきよ)は聖運に任せ候へば、心とする処に候はず。何様(いかさま)今度の軍(いくさ)に於ては、尊氏が篭(こもつ)て候東寺の中へ矢一(ひとつ)射入(いいれ)候はでは、帰(かへり)参るまじきにて候。」と申(まうし)て出(いで)たりし其言(そのことば)に不違、敵を一(ひ)と的場(まとば)の内に攻(せめ)寄せたれば、今はかうと大(おほき)に悦(よろこん)で、旗の陰(かげ)に馬を打(うち)すへ城を睨(にら)み、弓杖(ゆんずゑ)にすがつて、高らかに宣ひけるは、「天下の乱(らん)休(やむ)事(こと)無(なく)して、無罪人民身を安くせざる事年久し。是(これ)国主両統(りやうとうの)御争(おんあらそひ)とは申(まうし)ながら、只義貞と尊氏(たかうぢの)卿(きやう)との所にあり。纔(わづか)に一身(いつしん)の大功を立(たて)ん為に多くの人を苦しめんより、独身(ひとりみ)にして戦(たたかひ)を決せんと思(おもふ)故(ゆゑ)に、義貞自(みづから)此(この)軍門に罷向(まかりむかつ)て候也(なり)。それかあらぬか、矢一(ひとつ)受(うけ)て知(しり)給へ。」とて、二人(ににん)張(ばり)に十三束二臥(じふさんぞくふたつぶせ)、飽(あく)まで堅めて引(ひき)しぼり、弦音(つるおと)高く切(きつ)て放(はな)つ。其(その)矢二重(にぢゆう)に掻(かい)たる高櫓(たかやぐら)の上を越(こえ)て、将軍の座(おは)し給(たまへ)る帷幕(ゐばく)の中を、本堂の艮(うしとら)の柱(はしら)に一ゆり/\て、くつまき過(すぎ)てぞ立(たつ)たりける。将軍是(これ)を見給(たまひ)、「我(われ)此軍(このいくさ)を起して鎌倉(かまくら)を立(たち)しより、全(まつたく)君を傾(かたぶ)け奉(たてまつら)んと思ふに非(あらず)。只義貞に逢ひて、憤(いきどほり)を散ぜん為也(なり)。き。然れば彼(かれ)と我(われ)と、独身(ひとりみ)にして戦(たたかひ)を決せん事元来(もとより)悦ぶ所也(なり)。其(その)門開け、討(うつ)て出(いで)ん。」と宣ひけるを、上杉伊豆(いづの)守(かみ)、「是(これ)はいかなる御事(おんこと)にて候ぞ。楚の項羽(かうう)が漢の高祖(かうそ)に向ひ、独身(ひとりみ)にして戦(たたかは)んと申(まうし)しをば、高祖(かうそ)あざ笑(わらう)て汝(なんぢ)を討(うつ)に刑徒(けいと)を以てすべしと欺(あざむ)き候はずや。義貞そゞろに深入(ふかいり)して、引方(ひきかた)のなさに能(よき)敵にや遭(あふ)と、ふてゝ仕(つかまつり)候を、軽々(かろがろ)しく御出(おんいで)ある事や候べき。思(おもひ)も寄(よら)ぬ御事(おんこと)に候。」とて、鎧の御袖(おんそで)に取付(とりつき)ければ、将軍無力義者(ぎしや)の諌(いさめ)に順ふて、忿(いかり)を押へて坐(ざ)し給ふ。懸(かか)る処に、土岐(とき)弾正少弼(せうひつ)頼遠(よりとほ)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて、上賀茂(かみかも)に引(ひか)へて有(あり)けるが、五条大宮(ごでうおほみや)に引(ひか)へたる旗を見てければ、大将は皆公家(くげ)の人々よと見てければ、後(うし)ろより時を吐(どつ)と作(つくつ)て、喚(をめ)き叫(さけん)でぞ懸(かけ)たりける。「すはや後(うし)ろより取回(とりまは)しけるは。川原(かはら)へ引(ひき)て、広(ひろ)みにて戦へ」と云(いふ)程こそ有(あり)けれ、一戦(いつせん)も不戦、五条川原(ごでうがはら)へはつと追(おひ)出されて、些(ちつと)も足を不蹈留、西坂本を差(さ)して逃(にげ)たりける。土岐頼遠(ときよりとほ)、五条大宮(ごでうおほみや)の合戦に打勝(うちかつ)て、勝時(かつどき)を揚(あげ)ければ、此彼(ここかしこ)より勢共(せいども)数千騎(すせんぎ)馳集(はせあつまつ)て、大宮を下(くだ)りに、義貞の後(うしろ)へ攻(せめ)よする。神祇官(じんぎくわん)に磬(ひか)へたる仁木(につき)・細川・吉良(きら)・石堂(いしたう)が勢二万(にまん)余騎(よき)は、朱雀(しゆしやか)を直違(すぢかひ)に西八条へ推寄(おしよす)る。東よりは小弐・大友(おほとも)・厚東(こうとう)・大内(おほち)、四国・中国の兵共(つはものども)三万(さんまん)余騎(よき)、七条河原(しちでうがはら)を下(くだ)りに、針(はり)・唐橋(からはし)へ引回(ひきまは)して、敵を一人も不討洩引裹(ひきつつむ)。三方(さんぱう)は如此百重(ひやくぢゆう)千重(せんぢゆう)に取巻(とりまい)て、天を翔(かけ)り地に潜(くぐつ)て出(いづ)るより外(ほか)は、漏(もれ)ても可逃方なし。前には城郭(じやうくわく)堅く守(まもつ)て、数万(すまん)の兵鏃(やじり)をそろへて散々(さんざん)に射る。義貞今日を限(かぎり)の運命也(なり)と思定給(おもひさだめたまひ)ければ、二万(にまん)余騎(よき)を只一手(ひとて)に成(なし)て、八条(はつでう)・九条(くでう)に引(ひか)へたる敵十万(じふまん)余騎(よき)四角(しかく)八方(はつぱう)へ懸散(かけちら)し、三条河原(さんでうがはら)へ颯(さつ)と引(ひい)て出(いで)たるを、千葉・宇都宮(うつのみや)も、はや所々(しよしよ)に引(ひき)分れ、名和伯耆(はうきの)守(かみ)長年も、被懸阻ぬとみへたり。仁科(にしな)・高梨・春日部(かすかべ)・丹(たん)・児玉(こだま)三千(さんぜん)余騎(よき)一手(ひとて)に成(なつ)て、一条を東へ引(ひき)けるが、三百(さんびやく)余騎(よき)被討て鷺(さぎ)の森へ懸抜(かけぬけ)たり。長年は二百(にひやく)余騎(よき)にて大宮にて返し合せ、我(われ)と後(うしろ)の関(きど)をさして一人も不残死してけり。其後(そののち)処々(しよしよ)の軍(いくさ)に勝(かち)ほこりたる敵三十万騎(さんじふまんぎ)、纔(わづか)に討(うち)残されたる義貞の勢を真中(まんなか)に又取篭(とりこむ)る。義貞も思切(おもひきつ)たる体(てい)にて、一引(ひとひき)も引(ひか)んとはし給はず、馬を皆西頭(にしかしら)に立(たて)て、討死せんとし給(たまひ)ける処に、主上(しゆしやう)の恩賜(おんし)の御衣(ぎよい)を切(きつ)て、笠符(かさじるし)に付(つけ)たる兵共(つはものども)所々より馳(はせ)集り、二千(にせん)余騎(よき)、戦ひ疲(つかれ)たる大敵を懸立(かけたて)々々(かけたて)揉(もう)だりけるに、雲霞(うんか)の如くなる敵共(てきども)、馬の足を立兼(たてかね)て、京中(きやうぢゆう)へはつと引(ひき)ければ、義貞・義助・江田(えだ)・大館(おほたち)、万死(ばんし)を出(いで)て一生(いつしやう)に逢ひ、又坂本へ被引返。
○江州(かうしう)軍(いくさの)事(こと) S1706
京都を中に篭(こめ)て四方(しはう)より寄せば、今度はさりともと憑(たのも)しく覚(おぼ)へしに、諸方の相図(あひづ)相違(さうゐ)して、寄手(よせて)又打負(うちまけ)しかば、四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)も、八幡(やはた)を落(おち)て坂本へ被参ぬ。阿弥陀(あみだ)が峯に陣を取(とり)し阿波・淡路の兵共(つはものども)も、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)に打負(うちまけ)て、坂本へ帰(かへり)ぬ。長坂(ながさか)を堅めたりし額田(ぬかだ)も落(おち)て、山上へ帰参(きさん)しければ、京勢(きやうぜい)は篭(こ)の中を出(いで)たる鳥の如く悦(よろこび)、宮方(みやがた)は穴に篭(こも)りたる獣(けだもの)の如く縮(しじま)れり。南都(なんと)の大衆(だいしゆ)も山門に可与力由返牒(へんてふ)を送(おくり)しかば、定(さだめ)て力を合(あは)せんずらんと待(また)れしかども、将軍より数箇所(すかしよ)の庄園を寄附して、被語ける程(ほど)に、目の前の慾に身の後の恥を忘(わすれ)ければ、山門与力(よりよく)の合戦を翻(ひるがへ)して、武家合体(がつてい)の約諾(やくだく)をぞなしける。今は君の御憑(おんたのみ)有(あり)ける方(かた)とては、備後の桜山、備中の那須(なすの)五郎、備前の児島・今木・大富(おほどみ)が兵船(ひやうせん)を汰(そろへ)て近日上洛(しやうらく)の由申(まうし)けると、伊勢の愛州(あいそ)が、当国の敵を退治して、江州(かうしう)へ発向(はつかう)すべしと注進したりし許(ばかり)也(なり)。山門の衆徒(しゆと)財産を尽(つく)して、士卒(じそつ)の兵粮を出(いだ)すといへ共(ども)、公家(くげ)・武家の従類(じゆうるゐ)、上下二十万人に余(あま)りたる人数を、六月の始(はじめ)より、九月の中旬まで養(やしなひ)ければ、家財(かざい)悉(ことごとく)尽(つき)て、共に首陽(しゆやう)に莅(のぞま)んとす。剰(あまつさへ)北国の道をば、足利尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)差塞(さしふさい)で人を不通。近江の国も、小笠原信濃(しなのの)守(かみ)、野路(のぢ)・篠原(しのはら)に陣を取(とつ)て、湖上(こじやう)往返(わうへん)の舟を留(とど)めける間、只官軍(くわんぐん)朝暮(てうぼ)の飢(うゑ)を嗜(たしな)むのみに非(あら)ず、三千(さんぜん)の聖供(しやうぐ)の運送の道塞(ふさがつ)て、谷々(たにだに)の講演も絶(たえ)はてゝ、社々(しやしや)の祭礼も無(なか)りけり。山門角(かく)ては叶(かなふ)まじとて、先(まづ)江州(かうしう)の敵を退治して、美濃・尾張(をはり)の通路を開くべしとて、九月十七日(じふしちにち)に、三塔(さんたふ)の衆徒五千(ごせん)余人(よにん)、志那(しな)の浜より襄(あがつ)て、野路(のぢ)・篠原(しのはら)へ押寄(おしよす)る。小笠原、山門の大勢を見て、さしもなき平城(ひらじやう)に篭(こもり)て、取巻(とりまか)れなば叶(かなふ)まじとて、逆(さか)よせに平野(ひらの)に懸合(かけあは)せて戦(たたかひ)ける程(ほど)に、道場坊(だうじやうばう)注記(ちゆうき)祐覚(いうかく)、一軍(ひといくさ)に打負(うちまけ)て、立(たつ)足もなく引(ひき)ければ、成願坊律師(じやうぐわんばうりつし)入替(いりかはつ)て、一人も不残討(うたれ)にけり。山門弥(いよいよ)憤(いきどほり)を深(ふかく)して、同二十三日(にじふさんにち)、三塔(さんたふ)の衆徒の中より五百房(ごひやくばう)の悪僧(あくそう)を勝(すぐつ)て、二万(にまん)余人(よにん)兵船(ひやうせん)を連(つらね)て推(おし)渡る。小笠原が勢共(せいども)、重(かさね)て寄(よす)る山門の大勢に聞懼(ききおぢ)して大半(たいはん)落失(おちうせ)ければ、勢纔(わづか)三百騎(さんびやくき)にも不足けり。是(これ)を聞(きき)て例の大早(おほはやり)の極(きは)めなき大衆共(だいしゆども)なれば、後陣(ごぢん)の勢をも待調(まちそろ)へず我前(われさき)にとぞ進みける。此(この)大勢を敵に受(うけ)て落留(おちとどま)る程の者共(ものども)なれば、なじかは些(すこし)も気を可屈す。小笠原が三百(さんびやく)余騎(よき)、山徒(さんと)の向ひ陣を取(とり)たりける四十九院(しじふくゐん)の宿(しゆく)へ、未(いまだ)卯刻(うのこく)に推寄(おしよせ)て、懸立(かけたて)々々(かけたて)戦(たたかひ)けるに、宗(むね)との山徒(さんと)理教坊の阿闍梨(あじやり)を始(はじめ)として、三千(さんぜん)余人(よにん)まで討れにければ、湖上の舟に棹(さをさし)て堅田を差(さ)して漕(こぎ)もどる。懸(かか)る処に佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道導誉(だうよ)、京より潜(ひそか)に若狭路(わかさぢ)を廻(まはつ)て、東坂本(ひがしさかもと)へ降参して申(まうし)けるは、「江州は代々(だいだい)当家(たうけ)守護(しゆご)の国にて候を、小笠原上洛(しやうらく)の路(みち)に滞(とどこほつ)て、不慮(ふりよ)に両度の合戦を致し、其(その)功を以て軈(やが)て管領仕(つかまつり)候事(こと)、導誉面目を失ふ所にて候。若(もし)当国の守護職(しゆごしよく)を被恩補候はゞ、則(すなはち)彼(かの)国(くに)へ罷(まかり)向ひ、小笠原を追(おひ)落し、国中を打平(たひら)げて、官軍(くわんぐん)に力を著(つけ)ん事(こと)、時日(ときひ)を移すまじきにて候。」とぞ申(まうし)ける。主上(しゆしやう)も義貞も、出抜(だしぬい)て申(まうす)とは不知給、「事誠(まこと)に可然。」とて、導誉が申請(まうしうく)る旨(むね)に任(まか)せて、当国の守護職(しゆごしよく)並(ならび)に便宜(びんぎ)の闕所(けつしよ)数十箇所(すじつかしよ)、導誉が恩賞に被行て江州へぞ被遣ける。元来(もとより)斟(はかつ)て申(まうし)つる事なれば、導誉江州へ推渡(おしわたつ)て後、当国をば将軍より給りたる由を申す間、小笠原軈(やが)て国を捨(すて)て上洛(しやうらく)しぬ。導誉忽(たちまち)に国を管領して、弥(いよいよ)坂本を遠攻(とほせめ)に攻(せめ)ければ、山徒の遠類(ゑんるゐ)・親類、宮方(みやがた)の被管(ひくわん)・所縁の者までも、近江(あふみの)国中には迹(あと)を可止様(やう)ぞ無(なか)りける。「さては導誉出抜(だしぬき)けり、時刻を不移退治せよ。」と、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)を大将にて、二千(にせん)余騎(よき)を江州へ被差向。此(この)勢(せい)志那(しな)の渡(わたし)をして、舟より下(おり)ける処へ、三千(さんぜん)余騎(よき)にて推(おし)寄せ、上(あげ)も立(たて)ず戦ひける程(ほど)に、或(あるひ)は遠浅(とほあさ)に舟を乗(のり)すへ、襄(あが)り場(ば)に馬を下(おろ)し兼(かね)て、被射落被切臥兵(つはもの)数を不知(しらず)。此(この)日(ひ)の軍(いくさ)にも官軍(くわんぐん)又打負(うちまけ)て、纔(わづかに)坂本へ漕返(こぎもど)る。此(この)後よりは山上・坂本に弥(いよいよ)兵粮尽(つき)て、始め百騎(ひやくき)二百騎(にひやくき)有(あり)し者、五騎十騎になり、五騎十騎有(あり)し人は、馬にも不乗成(なり)にけり。
○自山門還幸(くわんかうの)事(こと) S1707
斯(かか)る処に、将軍より内々(ないない)使者を主上(しゆしやう)へ進(しん)じて被申けるは、「去々年の冬、近臣の讒(ざん)に依(よつ)て勅勘(ちよくかん)を蒙り候(さふらひ)し時、身を法体(ほつたい)に替(かへ)て死を無罪賜(たまは)らんと存候(ぞんじさふらひ)し処に、義貞・義助等(よしすけら)、事を逆鱗(げきりん)に寄(よせ)て日来(ひごろ)の鬱憤(うつぷん)を散ぜんと仕候(つかまつりさふらひ)し間、止(やむ)事(こと)を不得して此(この)乱天下に及(および)候。是(これ)全く君に向ひ奉(たてまつ)て反逆(ほんぎやく)を企(くはた)てしに候はず。只義貞が一類(いちるゐ)を亡(ほろぼ)して、向後(きやうこう)の讒臣をこらさんと存ずる許(ばかり)也(なり)。若(もし)天鑒(てんかん)誠を照(てら)されば、臣が讒(ざん)にをち罪を哀(あはれ)み思召(おぼしめし)て、竜駕(りようが)を九重の月に被廻鳳暦(ほうれき)を万歳(ばんぜい)の春に被複候へ。供奉(ぐぶ)の諸卿、並(ならびに)降参の輩(ともがら)に至(いたるま)で、罪科の軽重(きやうぢゆう)を不云、悉(ことごとく)本官本領に複(ふく)し、天下の成敗(せいばい)を公家(くげ)に任(まか)せ進(まゐら)せ候べし。」と、「且(かつう)は条々(でうでう)御不審(ごふしん)を散ぜん為に、一紙(いつし)別に進覧(しんらん)候也(なり)。」とて、大師勧請(だいしくわんじやう)の起請文(きしやうもん)を副(そへ)て、浄土寺の忠円僧正(そうじやう)の方へぞ被進ける。主上(しゆしやう)是(これ)を叡覧有(あつ)て、「告文(かうぶん)を進(まゐら)する上、偽(いつはり)てはよも申(まう)されじ。」と被思召ければ、傍(かたへ)の元老・智臣にも不被仰合、軈(やが)て還幸(くわんかう)成(なる)べき由を被仰出けり。将軍勅答(ちよくたふ)の趣(おもむき)を聞(きき)て、「さては叡智不浅と申せ共(ども)、欺(あざむ)くに安かりけり。」と悦(よろこび)て、さも有(あり)ぬべき大名の許(もと)へ、縁(えん)に触れ趣(おもむ)きを伺(うかがう)て、潜(ひそか)に状を通(つう)じてぞ被語ける。去(さる)程(ほど)に還幸(くわんかう)の儀事(こと)潜(ひそか)に定(さだまり)ければ、降参の志ある者共(ものども)、兼(かね)てより今路(いまみち)・西坂本の辺(へん)まで抜々(ぬけぬけ)に行設(ゆきまう)けて、還幸(くわんかう)の時分をぞ相待(あひまち)ける。中にも江田兵部(ひやうぶの)少輔(せう)行義(ゆきよし)・大館左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)は、新田の一族(いちぞく)にて何(いつ)も一方の大将たりしかば、安否(あんぴ)を当家(たうけ)の存亡(そんばう)にこそ被任べかりしが、いかなる深き所存か有(あり)けん、二人(ににん)共(とも)降参せんとて、九日(ここのかの)暁(あかつき)より先(まづ)山上に登(のぼつ)てぞ居たりける。義貞朝臣斯(かか)る事とは不知給、参仕(さんし)の軍勢(ぐんぜい)に対面して事なき様にておはしける処へ、洞院(とうゐんの)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよの)卿(きやう)の方より、「只今主上(しゆしやう)京都へ還幸(くわんかう)可成とて、供奉(ぐぶ)の人を召(めし)候。御存知候やらん。」と被告たりければ、義貞、「さる事や可有。御使(おんつかひ)の聞誤(ききあやまり)にてぞ有覧(あるらん)。」とて、最(いと)騒(さわ)がれたる気色も無(なか)りけるを、堀口美濃(みのの)守(かみ)貞満(さだみつ)聞(きき)も敢(あへ)ず、「江田・大館が、何(なん)の用ともなきに、此暁(このあかつき)中堂へ参るとて、登山仕(とうさんつかまつり)つるが怪(あやし)く覚(おぼえ)候。貞満先(まづ)内裏へ参(まゐつ)て、事の様(やう)を見奉り候はん。」とて、郎等(らうどう)に被著たる鎧取(とつ)て肩に投(なげ)懸け、馬の上にて上帯(うはおび)を縮(しめ)、諸鐙(もろあぶみ)合せて参(さん)ぜらる。皇居(くわうきよ)近く成(なり)ければ、馬より下(おり)、甲(かぶと)を脱(ぬい)で中間(ちゆうげん)に持(もた)せ、四方(しはう)を屹(きつ)と見渡すに、臨幸只今の程とみへて、供奉(ぐぶ)の月卿雲客(げつけいうんかく)、衣冠を帯(たい)せるもあり、未(いまだ)鳳輦(ほうれん)を大床(おほゆか)に差寄(さしよせ)て、新典侍(ないしのすけ)、内侍所(ないしところ)の櫃(ひつ)を取出(とりいだ)し奉れば、頭弁(とうのべん)範国(のりくに)、剣璽(けんし)の役(やく)に随(したがつ)て、御簾(ぎよれん)の前に跪(ひざまづ)く。貞満左右に少し揖(いふ)して御前(おんまへ)に参(まゐり)、鳳輦(ほうれん)の轅(ながえ)に取付(とりつき)、涙を流して被申けるは、「還幸(くわんかう)の事(こと)、児如(じじよ)の説(せつ)幽(かすか)に耳に触候(ふれさふらひ)つれ共(ども)、義貞存知仕らぬ由を申候(まうしさふらひ)つる間、伝説(でんせつ)の誤(あやまり)かと存(ぞんじ)て候へば、事の儀式(ぎしき)早(はや)誠(まこと)にて候(さふらひ)ける。抑(そもそも)義貞が不義(ふぎ)何事にて候へば、多年の粉骨(ふんこつ)忠功を被思召捨て、大逆無道(たいぎやくぶだう)の尊氏に叡慮を被移候(さふらひ)けるぞや。去(さんぬる)元弘の始(はじめ)、義貞不肖(ふせう)の身也(なり)といへ共、忝(かたじけなく)も綸旨(りんし)を蒙(かうむつ)て関東(くわんとう)の大敵を数日(すじつ)の内に亡(ほろぼ)し、海西の宸襟(しんきん)を三年の間に休(やす)め進(まゐら)せ候(さふらひ)し事(こと)、恐(おそらく)は上古の忠臣にも類(たぐひ)少く、近日義卒(ぎそつ)も皆功を譲(ゆづ)る処にて候(さふらひ)き。其(その)尊氏が反逆(ほんぎやく)顕(あらはれ)しより以来(このかた)、大軍を靡(なびか)して其師(そのいくさ)を虜(とりこ)にし、万死を出(いで)て一生(いつしやう)に逢(あふ)こと勝計(あげてかぞふ)るに不遑。されば義を重(おもん)じて命(めい)を墜(おと)す一族(いちぞく)百三十二人(ひやくさんじふににん)、節(せつ)に臨(のぞん)で尸(かばね)を曝(さら)す郎従(らうじゆう)八千(はつせん)余人(よにん)也(なり)。然共(しかれども)今洛中(らくちゆう)数箇度(すかど)の戦(たたかひ)に、朝敵(てうてき)勢盛(さかん)にして官軍(くわんぐん)頻(しきり)に利を失(うしなひ)候事(こと)、全(まつたく)戦の咎(とが)に非(あら)ず、只帝徳(ていとく)の欠(かく)る処に候歟(か)。仍(よつて)御方(みかた)に参る勢の少き故(ゆゑ)にて候はずや。詮(せん)ずる処当家累年(るゐねん)の忠義を被捨て、京都へ臨幸可成にて候はゞ、只義貞を始(はじめ)として当家の氏族五十(ごじふ)余人(よにん)を御前(おんまへ)へ被召出、首(くび)を刎(はね)て伍子胥(ごししよ)が罪に比(ひし)、胸を割(さい)て比干(ひかん)が刑に被処候べし。」と、忿(いかれ)る面(おもて)に泪(なみだ)を流し、理(り)を砕(くだい)て申(まうし)ければ、君も御誤(おんあやまり)を悔(くい)させ給へる御気色(ごきしよく)になり、供奉(ぐぶ)の人々も皆理(り)に服(ふく)し義を感じて、首(かうべ)を低(たれ)てぞ坐(おはせ)られける。
○立儲君被著于義貞事(こと)付(つけたり)鬼切(おにきり)被進日吉事 S1708
暫(しばらく)有(あつ)て、義貞朝臣父子兄弟三人(さんにん)、兵三千(さんぜん)余騎(よき)を召具(めしぐ)して被参内たり。其(その)気色皆忿(いか)れる心有(あり)といへ共(ども)、而(しか)も礼儀みだりならず、階下(かいか)の庭上(ていじやう)に袖を連(つら)ねて並居(なみゐ)たり。主上(しゆしやう)例よりも殊に玉顔(ぎよくがん)を和(やはら)げさせ給(たまひ)て、義貞・義助を御前(おんまへ)近く召(めさ)れ、御涙(おんなみだ)を浮べて被仰けるは、「貞満(さだみつ)が朕(ちん)を恨申(うらみまうし)つる処、一儀(いちぎ)其謂(そのいはれ)あるに似(に)たりといへ共(ども)、猶遠慮(ゑんりよ)の不足に当(あた)れり。尊氏超涯(てうがい)の皇沢(くわうたく)に誇(ほこつ)て、朝家(てうけ)を傾(かたむけ)んとせし刻(きざみ)、義貞も其(その)一家(いつけ)なれば、定(さだめ)て逆党(ぎやくたう)にぞ与(くみ)せんと覚(おぼえ)しに、氏族を離れて志を義にをき、傾廃を助(たすけ)て命を天に懸(かけ)しかば、叡感更に不浅。只汝が一類(いちるゐ)を四海(しかい)の鎮衛(ちんゑ)として、天下を治めん事をこそ思召(おぼしめし)つるに、天運時(とき)未到(いまだいたらず)して兵疲れ勢(いきほ)ひ廃(すた)れぬれば、尊氏に一旦(いつたん)和睦(わぼく)の儀を謀(はかつ)て、且(しばら)くの時を待(また)ん為に、還幸(くわんかう)の由をば被仰出也(なり)。此(この)事(こと)兼(かねて)も内々知(しら)せ度(たく)は有(あり)つれ共(ども)、事遠聞(ゑんぶん)に達せば却(かへつ)て難儀なる事も有(あり)ぬべければ、期(ご)に臨(のぞん)でこそ被仰めと打置(うちおき)つるを、貞満が恨申(うらみまうす)に付(つい)て朕(ちん)が謬(あやまり)を知れり。越前国(ゑちぜんのくに)へは、川島(かうしま)の維頼(これより)先立(さきだつ)て下(くだ)されつれば、国の事定(さだめ)て子細(しさい)あらじと覚(おぼゆ)る上、気比(けひ)の社(やしろ)の神官等(しんぐわんら)敦賀(つるが)の津(つ)に城を拵(こしら)へて、御方(みかた)を仕(つかまつる)由聞ゆれば、先(まづ)彼(かしこ)へ下(くだつ)て且(しばら)く兵(つはもの)の機(き)を助け、北国を打随(うちしたが)へ、重(かさね)て大軍を起して天下の藩屏(はんぺい)となるべし。但(ただし)朕京都へ出(いで)なば、義貞却(かへつ)て朝敵(てうてき)の名を得つと覚(おぼゆ)る間、春宮(とうぐう)に天子の位を譲(ゆづり)て、同(おなじく)北国へ下し奉(たてまつる)べし。天下の事小大(なに)となく、義貞が成敗(せいばい)として、朕(ちん)に不替此(この)君を取立進(とりたてまゐら)すべし。朕(ちん)已(すで)に汝が為に勾践(こうせん)の恥を忘る。汝早く朕が為に范蠡(はんれい)が謀を廻(めぐ)らせ。」と、御涙(おんなみだ)を押(おさ)へて被仰ければ、さしも忿(いか)れる貞満も、理(り)を知らぬ夷共(えびすども)も、首(かうべ)を低(た)れ涙を流して、皆鎧の袖をぞぬらしける。九日(ここのか)は事騒(さわがし)き受禅(じゆぜん)の儀、還幸(くわんかう)の装(よそほひ)に日暮(くれ)ぬ。夜更(ふく)る程(ほど)に成(なつ)て、新田左中将(さちゆうじやう)潜(ひそか)に日吉(ひよし)の大宮権現(おほみやごんげん)に参社(さんしや)し玉(たま)ひて、閑(しづか)に啓白(けいびやく)し給(たまひ)けるを、「臣苟(いやしく)も和光(わくわう)の御願(ごぐわん)を憑(たのん)で日を送り、逆縁(ぎやくえん)を結(むすぶ)事(こと)日已(すで)に久し。願(ねがはく)は征路万里(せいろばんり)の末迄も擁護(おうご)の御眸(おんまなじり)を廻(めぐ)らされて、再(ふたたび)大軍を起し朝敵(てうてき)を亡(ほろぼ)す力を加へ給へ。我(われ)縦(たとひ)不幸にして命の中(うち)に此望(こののぞみ)を不達と云共(いふとも)、祈念冥慮(みやうりよ)に不違ば、子孫の中に必(かならず)大軍を起(おこす)者有(あつ)て、父祖の尸(かばね)を清めん事を請(こ)ふ。此二(このふたつ)の内一(ひとつ)も達する事を得ば、末葉(まつえふ)永く当社の檀度(だんと)と成(なつ)て霊神の威光を耀(かかやか)し奉るべし。」と、信心を凝(こら)して祈誓(きせい)し、当家累代(るゐたいの)重宝(ちようはう)に鬼切(おにきり)と云(いふ)太刀を社壇にぞ被篭ける。
○義貞北国落(おちの)事(こと) S1709
明(あく)れば十月十日の巳刻(みのこく)に、主上(しゆしやう)は腰輿(えうよ)にめされて今路(いまみち)を西へ還幸(くわんかう)なれば、春宮(とうぐう)は竜蹄(りようてい)にめされ、戸津(とづ)を北へ行啓(ぎやうけい)なる。還幸(くわんかう)の供奉(ぐぶ)にて京都へ出(いで)ける人々には、吉田(よしだの)内大臣(ないだいじん)定房(さだふさ)・万里小路(までのこうぢ)大納言(だいなごん)宣房(のぶふさ)・御子(みこ)左(ひだりの)中納言(ちゆうなごん)為定(ためさだ)・侍従(じじゆうの)中納言(ちゆうなごん)公明(きんあきら)・坊門(ばうもんの)宰相(さいしやう)清忠(きよただ)・勧修寺(くわんしゆじの)中納言(ちゆうなごん)経顕(つねあき)・民部卿光経(みつつね)・左中将(さちゆうじやう)藤長(ふぢなが)・頭弁(とうのべん)範国(のりくに)、武家の人々には、大館(おほたち)左馬(さまの)頭(かみ)氏明(うぢあきら)・江田(えだ)兵部(ひやうぶの)少輔(せう)行義(ゆきよし)・宇都宮(うつのみや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)公縄(きんつな)・菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武俊(たけとし)・仁科(にしな)信濃(しなのの)守(かみ)重貞(しげさだ)・春日部(かすかべ)左近(さこんの)蔵人家縄(いへつな)・南部(なんぶ)甲斐(かひの)守(かみ)為重(ためしげ)・伊達(だて)蔵人家貞・江戸(えど)民部(みんぶの)丞(じよう)景氏(かげうぢ)・本間(ほんま)孫四郎(まごしらう)資氏(すけうぢ)・山徒(さんと)の道場坊助注記(じよちゆうぎ)祐覚(いうがく)、都合(つがふ)其(その)勢(せい)七百(しちひやく)余騎(よき)、腰輿(えうよ)の前後に相順(したが)ふ。行啓の御供(おんとも)にて、北国へ落(おち)ける人々には、一宮(いちのみや)中務(なかつかさの)卿(きやう)親王(しんわう)・洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・同少将定世・三条(さんでうの)侍従(じじゆう)泰季(やすすゑ)・御子(みこ)左(ひだりの)少将(せうしやう)為次(ためつぐ)・頭大夫(とうのだいぶ)行房(ゆきふさ)・子息少将行尹(ゆきたか)、武士(ぶし)には新田左中将(さちゆうじやう)義貞・子息越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)・脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助・子息式部(しきぶの)大夫(たいふ)義治(よしはる)・堀口美濃(みのの)守(かみ)貞満・一井(いちのゐ)兵部大輔(たいふ)義時(よしとき)・額田左馬(さまの)助(すけ)為縄(ためつな)・里見(さとみ)大膳(だいぜんの)亮(すけ)義益(よします)・大江田(おいだ)式部(しきぶの)大夫(たいふ)義政(よしまさ)・鳥山修理(しゆりの)亮義俊(よしとし)・桃井(もものゐ)駿河(するがの)守(かみ)義繁(よししげ)・山名兵庫(ひやうごの)助(すけ)忠家・千葉(ちばの)介(すけ)貞胤(さだたね)・宇都宮(うつのみや)信濃(しなのの)将監(しやうげん)泰藤(やすふぢ)・同狩野(かのの)将監(しやうげん)泰氏(やすうぢ)・河野(かうの)備後(びんごの)守(かみ)通治(みちはる)・同備中(びつちゆうの)守(かみ)通縄(みちつな)・土岐(とき)出羽(ではの)守(かみ)頼直・一条(いちでうの)駿河(するがの)守(かみ)為治(ためはる)、其外(そのほか)山徒(さんと)少々(せうせう)相雑(あひまじはつ)て、都合其(その)勢(せい)七千(しちせん)余騎(よき)、案内者(あんないしや)を前に打(うた)せて、竜駕(りようが)の前後に打囲(うちかこ)む。此外(このほか)妙法院(めうほふゐん)の宮(みや)は御舟(おんふね)に被召て、遠江(とほたふみの)国(くに)へ落(おち)させ給ふ。阿曾(あその)宮(みや)は山臥(やまぶし)の姿に成(なつ)て吉野の奥へ忍ばせ給ふ。四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)卿(きやう)は紀伊(きの)国(くに)へ下(くだ)り、中(なかの)院(ゐん)少将(せうしやう)定平(さだひら)は河内(かはちの)国(くに)へ隠れ給ふ。其(その)有様、偏(ひとへ)に只歌舒翰(かじよかん)安禄山(あんろくさん)に打負(うちまけ)て、玄宗蜀(しよく)の国へ落(おち)させ給(たまひ)し時、公子(こうし)・内宮(ないきゆう)、悉(ことごとく)、或(あるひ)は玉趾(ぎよくし)を跣(すあし)にして剣閣の雲に蹈(ふみ)迷ひ、或(あるひ)は衣冠を汚(けが)して野径(やけい)の草に逃蔵(にげかく)れし昔の悲(かなしみ)に相似たり。昨日一昨日までも、聖運遂に開けば、錦を著て古郷(こきやう)へ帰り、知(しら)ぬ里、みぬ浦山(うらやま)の旅宿(りよしゆく)をも語り出(いだ)さば、中々(なかなか)にうかりし節(ふし)も悲(かなし)きも、忘形見(わすれかたみ)と成(なり)ぬべし、心々の有様に身を慰めて有(あり)つるに、君臣父子万里(ばんり)に隔(へだた)り、兄弟夫婦十方に別(わかれ)行けば、或(あるひ)は再会の期(ご)なき事を悲(かなし)み、或(あるひ)は一身(いつしん)の置処(おきどころ)なき事を思へり。今も逆旅(げきりよ)の中にして、重(かさね)て行(ゆき)、々(ゆく)も敵の陣帰るも敵の陣なれば、誰か先に討(うた)れて哀(あはれ)と聞(きかれ)んずらん、誰か後に死(しし)て、なき数を添(そへ)んずらんと、詞(ことば)に出(いで)ては云はね共(ども)、心に思はぬ人はなし。「南翔北嚮、難附寒温於春鴈。東出西流、只寄贍望於暁月。」江相公(えのしやうこう)の書(かき)たりし、別れに送る筆の迹(あと)、今の涙と成(なり)にけり。
○還幸(くわんかう)供奉(ぐぶの)人々被禁殺事 S1710

還幸(くわんかう)已(すで)に法勝寺辺(ほつしようじへん)まで近付(ちかづき)ければ、左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)五百(ごひやく)余騎(よき)にて参向(さんかう)し、先(まづ)三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を当今(たうぎん)の御方(おんかた)へ可被渡由を被申ければ、主上(しゆしやう)兼(かねて)より御用意(ごようい)有(あり)ける似せ物を取替(とりかへ)て、内侍(ないし)の方へぞ被渡ける。其(その)後主上(しゆしやう)をば花山院(くわざんのゐん)へ入進(いれまゐら)せて、四門を閉(とぢ)て警固(けいご)を居(す)へ、降参の武士をば大名共(だいみやうども)の方へ一人づゝ預(あづけ)て、召人(めしうと)の体(てい)にてぞ被置ける。可斯とだに知(しり)たらば、義貞朝臣と諸共(もろとも)に北国へ落(おち)て、兎(と)も角(かう)も成(なる)べかりける者をと、後悔すれ共(ども)甲斐ぞなき。十(じふ)余日(よにち)を経(へ)て後、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)は、警固(けいご)の宥(ゆる)くありける隙(ひま)を得て本国へ逃下(にげくだ)りぬ。又宇都宮(うつのみや)は、放召人(はなしめしうと)の如(ごとく)にて、逃(にげ)ぬべき隙(ひま)も多かりけれ共(ども)、出家の体(てい)に成(なつ)て徒(いたづら)に向(むかひ)居たりけるを、悪(にく)しと思ふ者や為(し)たりけん、門の扉(とびら)に山雀(やまがら)を絵書(ゑにかき)、其(その)下に一首(いつしゆ)の歌をぞ書(かき)たりける。山がらがさのみもどりをうつのみや都に入(いり)て出(いで)もやらぬは本間孫四郎(まごしらう)は、元より将軍家来の者なりしが、去(さんぬ)る正月十六日の合戦より新田左中将(さちゆうじやう)に属(しよく)して、兵庫の合戦の時は、遠矢を射て弓勢(ゆんぜい)の程をあらはし、雲母坂(きららさか)の軍(いくさ)の時は、扇(あふぎ)を射て手垂(てだれ)の程を見せたりし、度々(どど)の振舞悪(にく)ければとて、六条川原(ろくでうかはら)へ引出(ひきいだ)して首(くび)を被刎けり。山徒(さんと)の道場坊助注記(じよちゆうぎ)祐覚(いうがく)は、元は法勝寺(ほつしようじ)の律僧(りつそう)にて有(あり)しが、先帝船上(ふなのうへ)に御座(ござ)ありし時、大衣(だいえ)を脱(ぬい)で山徒の貌(かたち)に替(か)へ、弓箭(きゆうせん)に携(たづさはつ)て一時の栄華を開けり。山門両度の臨幸に軍用を支(ささへ)し事(こと)、偏(ひとへ)に祐覚が為処(しわざ)也(なり)しかば、山徒の中の張本(ちやうほん)也(なり)とて、十二月二十九日、阿弥陀が峯にて切られけるが、一首(いつしゆ)の歌を法勝寺(ほつしようじ)の上人の方へぞ送りける。大方(おほかた)の年の暮(くれ)ぞと思(おもひ)しに我(わが)身のはても今夜成(こよひなり)けり此外(このほか)山門より供奉(ぐぶ)して被出たる三公(さんこう)九卿(きうけい)、纔(わづか)に死罪一等を被宥たれ共(ども)、解官停任(げくわんちやうにん)せられて、有(ある)も無(なき)が如くの身に成給(なりたまひ)ければ、傍人(ばうじん)の光彩に向(むかつ)て面(おもて)を泥沙(でいしや)の塵(ちり)に低(たれ)、後生(こうせい)の栄耀(えいえう)を望(のぞん)で涙を犬羊(けんやう)の天に淋(そそ)く。住(すみ)にし迹(あと)に帰り給(たまひ)けれ共(ども)、庭には秋の草
茂(しげり)て通(かよひ)し道露(つゆ)深く、閨(ねや)には夜の月のみさし入(いり)て塵打払(うちはら)ふ人もなし。顔子(がんし)が一瓢(いつぺう)水清(きよく)して、独(ひとり)道ある事を知るといへ共、相如(しやうじよ)が四壁(しへき)風冷(すさまじう)して衣なきに堪(たへ)ず、五衰退没(たいもつ)の今の悲(かなしみ)に、大梵高台(だいぼんかうたい)の昔の楽(たのしみ)を思(おもひ)出し給ふにも、世の憂(うき)事(こと)は数添(そひ)て、涙の尽(つく)る時はなし。
○北国下向勢(げかうぜい)凍死(こごえじにの)事(こと) S1711
同十一日は、義貞朝臣七千(しちせん)余騎(よき)にて、塩津(しほづ)・海津(かいづ)に著(つき)給ふ。七里(しちり)半(はん)の山中をば、越前の守護(しゆご)尾張(をはりの)守(かみ)高経大勢にて差塞(さしふさい)だりと聞へしかば、是(これ)より道を替(かへ)て木目峠(きのめたうげ)をぞ越(こえ)給ひける。北国の習(ならひ)に、十月の初(はじめ)より、高き峯々に雪降(ふり)て、麓の時雨(しぐれ)止(やむ)時なし。今年は例よりも陰寒(いんかん)早くして、風紛(かざまじり)に降る山路(やまぢ)の雪、甲冑(かつちう)に洒(そそ)き、鎧の袖を翻(ひるがへ)して、面(おもて)を撲(うつ)こと烈(はげ)しかりければ、士卒(じそつ)寒谷(かんこく)に道を失ひ、暮山(ぼざん)に宿(やど)無(なく)して、木(こ)の下岩の陰(かげ)にしゞまりふす。適(たまたま)火を求(もとめ)得たる人は、弓矢を折焼(をりたい)て薪(たきぎ)とし、未(いまだ)友を不離者は、互に抱付(いだきつき)て身を暖(あたた)む。元より薄衣(はくえ)なる人、飼(かふ)事(こと)無(なか)りし馬共、此(ここ)や彼(かしこ)に凍死(こごえしん)で、行人道を不去敢。彼叫喚(かのけうくわん)大叫喚の声(こゑ)耳に満(みち)て、紅蓮(ぐれん)大紅蓮の苦(くるし)み眼(まなこ)に遮(さへぎ)る。今だにかゝり、後の世を思遣(おもひや)るこそ悲しけれ。河野・土居・得能は三百騎(さんびやくき)にて後陣(ごぢん)に打(うち)けるが、見(けん)の曲(くま)にて前の勢に追殿(おひおく)れ、行(ゆく)べき道を失(うしなう)て、塩津(しほづ)の北にをり居たり。佐々木(ささき)の一族(いちぞく)と、熊谷(くまがえ)と、取篭(こめ)て討(うた)んとしける間、相がゝりに懸(かかつ)て、皆差違(さしちが)へんとしけれ共(ども)、馬は雪に凍(こご)へてはたらかず、兵は指を墜(おと)して弓を不控得、太刀のつかをも拳(にぎり)得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫(つらぬ)かれてこそ死にけれ。千葉(ちばの)介(すけ)貞胤(さだたね)は五百(ごひやく)余騎(よき)にて打(うち)けるが、東西くれて降(ふる)雪に道を蹈迷(ふみまよひ)て、敵の陣へぞ迷出(まよひいで)たりける。進退(しんたい)歩(あゆみ)を失ひ、前後の御方(みかた)に離れければ、一所(いつしよ)に集(あつまつ)て自害をせんとしけるを、尾張(をはりの)守(かみ)高経の許(もと)より使を立(たて)て、「弓矢の道今は是(これ)までにてこそ候へ。枉(まげ)て御方(みかた)へ出(いで)られ候へ。此(この)間の義をば身に替(かへ)ても可申宥。」慇懃(いんぎん)に宣ひ遣(つかは)されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属(しよく)しける。同十三日(じふさんにち)義貞朝臣敦賀津(つるがのつ)に著(つき)給へば、気比(けひの)弥三郎大夫三百(さんびやく)余騎(よき)にて御迎(おんむかひ)に参じ、東宮・一宮(いちのみや)・総大将(そうだいしやう)父子兄弟を先(まづ)金崎(かねがさき)の城へ入(いれ)奉り、自余(じよ)の軍勢(ぐんぜい)をば津(つ)の在家(ざいけ)に宿(やど)を点(てん)じて、長途(ちやうど)の窮屈を相助く。爰(ここ)に一日逗留(とうりう)有(あつ)て後、此(この)勢(せい)一所に集(あつま)り居ては叶はじと、大将を国々の城へぞ被分ける。大将義貞は東宮に付進(つきまゐら)せて、金崎(かねがさき)の城に止(とどまり)給ふ。子息越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)には北国の勢二千(にせん)余騎(よき)を副(そへ)て越後国(ゑちごのくに)へ下(くだ)さる。脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助は千(せん)余騎(よき)を副(そへ)て瓜生(うりふ)が杣山(そまやま)の城へ遣はさる。是は皆国々の勢を相付(つけ)て、金崎(かねがさき)の後攻(ごづめ)をせよとの為也(なり)。
○瓜生(うりふ)判官(はうぐわん)心替(こころがはりの)事(こと)付(つけたり)義鑑房(ぎかんばう)蔵義治事 S1712
同十四日、義助・義顕(よしあき)三千(さんぜん)余騎(よき)にて、敦賀(つるが)の津(つ)を立(たつ)て、先(まづ)杣山(そまやま)へ打越(うちこえ)給ふ。瓜生(うりふ)判官(はうぐわん)保(たもつ)・舎弟兵庫(ひやうごの)助(すけ)重(しげし)・弾正左衛門照(てらす)、兄弟三人(さんにん)種々の酒肴(さかな)舁(かか)せて鯖並(さばなみ)の宿(しゆく)へ参向(さんかう)す。此外(このほか)人夫五六百人(ごろつぴやくにん)に兵粮を持(もた)せて諸軍勢(しよぐんぜい)に下行(げぎやう)し、毎事(まいじ)是(これ)を一大事(いちだいじ)と取沙汰(とりさた)したる様、誠(まこと)に他事(たじ)もなげに見へければ、大将も士卒(じそつ)も、皆たのもしき思(おもひ)をなし給(たまふ)。献酌(けんしやく)順(じゆん)に下(くだつ)て後、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)殿(どの)の飲(のみ)給ひたる盃(さかづき)を、瓜生判官席を去(さつ)て三度(さんど)傾(かたぶけ)ける時、白幅輪(しろふくりん)の紺糸(こんいと)の鎧一領(いちりやう)引(ひき)給ふ。面目身に余(あま)りてぞみへたりける。其(その)後判官己(おのれ)が館(たち)に帰(かへつ)て、両大将へ色々(いろいろの)小袖(こそで)二十重(にじふかさね)調進す。此外(このほか)御内(みうち)・外様(とざま)の軍勢共(ぐんぜいども)の、余(あまり)に薄衣(はくえ)なるがいたはしければ、先(まづ)小袖一充(ひとつづつ)仕立てゝ送るべしとて、倉の内より絹綿数千(すせん)取出(とりいだ)して、俄に是(これ)をぞ裁縫(たちぬは)せける。斯(かか)る処に足利尾張(をはりの)守(かみ)の方より潜(ひそか)に使者を通(つう)じ、前帝より成(なさ)れたりとて、義貞が一類(いちるゐ)可御追罰(ついばつ)由の綸旨(りんし)をぞ被送ける。瓜生判官是(これ)を見て、元より心遠慮(ゑんりよ)なき者なりければ、将軍より謀(たばかり)て被申成たる綸旨(りんし)とは思(おもひ)も寄(よら)ず。さては勅勘(ちよくかん)武敵の人々を許容(きよよう)して大軍を動(うごか)さん事(こと)、天の恐(おそれ)も有(ある)べしと、忽(たちまち)に心を反(へん)じて杣山(そまやま)の城へ取上(とりあが)り、関(きど)を閉(とぢ)てぞ居たりける。爰(ここ)に判官が弟に義鑑房(ぎかんばう)と云(いふ)禅僧の有(あり)けるが、鯖並(さばなみ)の宿(しゆく)へ参じて申(まうし)けるは、「兄にて候保(たもつ)は、愚痴(ぐち)なる者にて候間、将軍より押(おさ)へて被申成候綸旨(りんし)を誠と存(ぞんじ)て、忽(たちまち)に違反(ゐへん)の志を挿(さしはさ)み候。義鑑房弓箭(きゆうせん)を取(とる)身にてだに候はゞ、差違(さしちがへ)て共に死ぬべく候へ共、僧体(そうたい)に恥ぢ仏見(ぶつけん)に憚(はばかつ)て、黙止(もだし)候事こそ口惜(くちをしく)覚(おぼえ)候へ。但(ただし)倩(つらつら)愚案(ぐあん)を廻(めぐら)し候に、保(たもつ)、事の様(やう)を承(うけたまは)り開き候程ならば、遂には御方(みかた)に参じ候(さふらひ)ぬと存(ぞんじ)候。若(もし)御幼稚(ごえうち)の公達(きんだち)数(あま)た御坐(ござ)候はゞ一人是(これ)に被留置進候へ。義鑑懐(ふところ)の中(うち)、衣(ころも)の下にも隠し置進(おきまゐら)せて、時を得候はゞ御旗(おんはた)を挙(あげ)て、金崎(かねがさき)の御後攻(ごづめ)を仕(つかまつり)候はん。」と申(まうし)も敢(あへ)ず、涙をはらはらとこぼしければ、両大将是(これ)が気色(きしよく)を見給(たまひ)て、偽(いつはつ)てはよも申さじと疑(うたがひ)の心をなし給はず、則(すなはち)席を近付(ちかづけ)て潜(ひそか)に被仰けるは、「主上(しゆしやう)坂本を御出(おんいで)有(あり)し時、「尊氏若(もし)強(しひ)て申(まうす)事(こと)あらば、休(やむ)事(こと)を得ずして、義貞追罰(つゐばつ)の綸旨(りんし)をなしつと覚(おぼゆ)るぞ。汝かりにも朝敵(てうてき)の名を取らんずる事不可然。春宮(とうぐう)に位を譲奉(ゆづりたてまつり)て万乗の政(まつりごと)を任(まか)せ進(まゐ)らすべし。義貞股肱(ここう)の臣として王業再び本(もと)に複(ふく)する大功を致せ」と被仰下、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を春宮(とうぐう)に渡し進(しん)ぜられし上は、縦(たとひ)先帝の綸旨(りんし)とて、尊氏申成(まうしなし)たり共、思慮(しりよ)あらん人は用(もちゐ)るに足(たら)ぬ所也(なり)と思ふべし。然(しか)れ共(ども)判官(はうぐわん)この是非(ぜひ)に迷へる上は、重(かさね)て子細(しさい)を尽(つく)すに及ばず、急(いそい)で兵を引(ひい)て、又金崎(かねがさき)へ可打帰事已(すで)に難儀に及(およぶ)時分、一人兄弟の儀(ぎ)を変(へん)じて忠義を顕(あらは)さるゝ条、殊に有難(ありがた)くこそ覚(おぼえ)て候へ。御心中憑(たの)もしく覚(おぼゆ)れば、幼稚の息男(そくなん)義治をば、僧に預申(あづけまうし)候べし。彼(かれ)が生涯の様、兎(と)も角(かう)も御計(おんはからひ)候へ。」と宣(のたまひ)て、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)殿(どの)の子息に式部(しきぶの)大夫(たいふ)義治(よしはる)とて、今年十三に成(なり)給ひけるを、義鑑坊(ぎかんばう)にぞ預(あづ)けらる。此(この)人鍾愛(しゆあい)他に異(こと)なる幼少の一子(いつし)にて坐(おは)すれば、一日片時(いちにちへんし)も傍(そば)を離れ給はず、荒き風にもあてじとこそ労(いたは)り哀(あはれ)み給ひしに、身近き若党(わかたう)一人をも付(つけ)ず、心も知(しら)ぬ人に預(あづけ)て、敵の中に留(とめ)置き給へば、恩愛(おんあい)の別(わかれ)も悲(かなし)くて、再会の其期(そのご)知(しり)がたし。夜明(あく)れば右衛門(うゑもんの)佐(すけ)は金崎(かねがさき)へ打(うち)帰り、越後国(ゑちごのくに)へ下(くだら)んとて、宿中(しゆくちゆう)にて勢をそろへ給ふに、瓜生(うりふ)が心替(こころがはり)を聞(きい)ていつの間(ま)にか落行(おちゆき)けん、昨日までは三千五百(さんぜんごひやく)余騎(よき)と注(しる)したりし軍勢(ぐんぜい)、纔(わづか)二百五十騎(にひやくごじつき)に成(なり)にけり。此(この)勢(せい)にては、何(なに)として越後まで遥々(はるばる)と敵陣を経(へ)ては下(くだる)べし。さらば共に金崎(かねがさき)へ引返(ひつかへし)てこそ、舟に乗(のつ)て下(くだ)らめとて、義助も義顕(よしあき)も、鯖並(さばなみ)の宿(しゆく)より打連(うちつれ)て、又敦賀(つるが)へぞ打(うち)帰り給(たまひ)ける。爰(ここ)に当国の住人(ぢゆうにん)今庄(いまじやう)九郎入道浄慶(じやうけい)、此(この)道より落人(おちうと)の多く下(くだ)る由を聞(きい)て、打留(うちと)めん為に、近辺の野伏(のぶし)共(ども)を催(もよほ)し集(あつめ)て、嶮岨(けんそ)に鹿垣(ししがき)をゆひ、要害に逆木(さかもぎ)を引(ひい)て、鏃(やじり)を調(そろ)へてぞ待(まち)かけたる。義助朝臣是(これ)を見給(たまひ)て、「是(これ)は何様(いかさま)今庄法眼久経(いまじやうほふげんきうけい)と云(いひ)し者の、当手に属(しよく)して坂本まで有(あり)しが一族共(いちぞくども)にてぞ有(ある)らん。其(その)者共(ものども)ならばさすが旧功(きうこう)を忘(わすれ)じと覚(おぼゆ)るぞ。誰かある、近付(ちかづい)て事の様(やう)を尋(たづね)きけ。」と宣ひければ、由良(ゆら)越前守(ゑちぜんのかみ)光氏(みつうぢ)畏(かしこまつ)て、「承(うけたまはり)候。」とて、只一騎馬を磬(ひかへ)て、「脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)殿(どの)の合戦評定(ひやうぢやう)の為に、杣山(そまやま)の城より金崎(かねがさき)へ、かりそめに御越(おんこし)候を、旁(かたがた)存知候はでばし、加様(かやう)に道を被塞候やらん。若(もし)矢一筋(ひとすぢ)をも被射出候(さふらひ)なば、何(いづ)くに身を置(おい)て罪科を遁れんと思はれ候ぞ、早く弓を伏(ふ)せ甲(かぶと)を脱(ぬい)で通(とほし)申され候へ。」と高らかに申(まうし)ければ、今庄(いまじやう)入道馬より下(お)りて、「親にて候卿法眼(きやうのほふげん)久経(きうけい)御手(おんて)に属(しよく)して軍忠を致し候(さふらひ)しかば、御恩の末(すゑ)も忝(かたじけなく)存(ぞんじ)候へ共、浄慶父子(じやうけいふし)各別(かくべつ)の身と成(なつ)て尾張(をはりの)守(かみ)殿(どの)に属(しよく)し申(まうし)たる事にて候間、此(この)所をば支申(ささへまう)さで通し進(まゐら)せん事は、其(その)罪科難遁存(ぞんじ)候程(ほど)に、態(わざ)と矢一(ひとつ)仕り候はんずるにて候。是(これ)全く身の本意にて候はねば、あはれ御供(おんとも)仕(つかまつり)候人々の中に、名字(みやうじ)さりぬべからんずる人を一両人出(いだ)し給(たまは)り候へかし。其首(そのくび)を取(とつ)て合戦仕(つかまつり)たる支証(ししよう)に備(そな)へて、身の咎(とが)を扶(たすか)り候はん。」とぞ申(まうし)ける。光氏打帰(うちかへつ)て此(この)由を申せば、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)殿(どの)進退(しんたい)谷(きはま)りたる体(てい)にて、兎角の言(ことば)も出(いだ)されざりければ、越後(ゑちごの)守(かみ)見給(たまひ)て、「浄慶が申(まうす)所も其謂(そのいはれ)ありと覚(おぼ)ゆれ共(ども)、今まで付纏(つきまとひ)たる士卒(じそつ)の志、親子よりも重(おも)かるべし。されば彼等が命に義顕(よしあき)は替(かは)るとも、我(わが)命に士卒(じそつ)を替(かへ)がたし。光氏今一度(いちど)打向(むかつ)て、此(この)旨を問答して見よ。猶(なほ)難儀の由を申さば、力なく我等も士卒(じそつ)と共に討死して、将の士(し)を重んずる義を後世に伝(つた)へん。」とぞ宣ひける。光氏又打向(むかつ)て此(この)由を申(まうす)に、浄慶猶(なほ)心とけずして、数刻(すこく)を移しける間、光氏馬より下(おり)て、鎧の上帯(うはおび)切(きつ)て投捨(なげすて)、「天下の為に重(おも)かるべき大将の御身(おんみ)としてだにも、軍勢(ぐんぜい)の命に替(かは)らんとし給(たまふ)ぞかし。況(いはん)や義に依(よつ)て命を軽(かろん)ずべき郎従(らうじゆう)の身として、主(しゆ)の御命に替(かは)らぬ事や有(ある)べき。さらば早(はや)光氏が首(くび)を取(とつ)て、大将を通し進(まゐ)らせよ。」と云(いひ)もはてず、腰の刀を抜(ぬい)て自(みづから)腹を切(きら)んとす。其(その)忠義を見(みる)に、浄慶さすがに肝(きも)に銘(めい)じけるにや、走寄(はしりよつ)て光氏が刀に取付(とりつき)、「御自害(ごじがい)の事怒々(ゆめゆめ)候べからず。げにも大将の仰(おほせ)も士卒(じそつ)の所存も皆理(ことわ)りに覚(おぼ)へ候へば、浄慶こそいかなる罪科に当(あて)られ候(さうらふ)共(とも)、争(いか)でか情(なさけ)なき振舞をば仕り候べき。早(はや)御(おん)通(とほ)り候へ。」と申(まうし)て、弓を伏(ふせ)逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけて、泣々(なくなく)道の傍(かたはら)に畏(かしこま)る。両大将大(おほき)に感ぜられて、「我等はたとひ戦場の塵(ちり)に没(ぼつ)すとも、若(もし)一家(いつけ)の内に世を保つ者出来(いできたら)ば、是(これ)をしるしに出(いだ)して今の忠義を顕(あらは)さるべし。」とて、射向(いむけ)の袖にさしたる金作(こがねつくり)の太刀を抜(ぬい)て、浄慶にぞ被与ける。光氏は主(しゆ)の危(あやふき)を見て命に替らん事を請(こひ)、浄慶は敵の義を感じて後の罪科を不顧、何(いづ)れも理(ことわ)りの中なれば、是(これ)をきゝ見る人ごとに、称嘆(しようたん)せぬは無(なか)りけり。
○十六騎(じふろくきの)勢(せい)入金崎(かねがさき)事 S1713
始(はじめ)浄慶が問答の難儀なりしを聞(きい)て、金崎(かねがさき)へ通らん事叶はじとや思(おもひ)けん、只今まで二百五十騎(にひやくごじつき)有(あり)つる軍勢(ぐんぜい)、いづちともなく落失(おちうせ)て纔(わづか)十六騎(じふろくき)に成(なり)にけり。深山寺(みやまてら)の辺(へん)にて樵(きこり)の行合(ゆきあひ)たるに、金崎(かねがさき)の様を問(とひ)給へば、「昨日の朝より国々の勢二三万騎(にさんまんぎ)にて、城を百重(ひやくぢゆう)千重(せんぢゆう)に取巻(とりまい)て、攻(せめ)候也(なり)。」とぞ申(まうし)ける。「さてはいかゞすべき。是(これ)より東山(とうせん)道を経(へ)て忍(しのん)で越後へや下(くだ)る、只爰(ここ)にて腹をや切る。」と異儀区(まちまち)なりけるを、栗生(くりふ)左衛門進出(すすみいで)て申(まうし)けるは、「何(いず)くの道を経(へ)ても、越後まで遥々(はるばる)と落(おち)させ給はん事叶はじとこそ存(ぞんじ)候へ。下人(げにん)の独(ひとり)をもつれぬ旅人の、疲(つかれ)て道を通(とほ)り候はんを、誰か落人(おちうと)よと見ぬ事の候べき。又面々(めんめん)に爰(ここ)にて腹を切(きり)候はんずる事も、楚忽(そこつ)に覚(おぼ)へ候へば、今夜は此(この)山中に忍(しのび)て夜(よ)を明(あか)して、まだ篠目(しののめ)の明(あけ)はてざらん比(ころ)をひ、杣山(そまやま)の城より後攻(ごづめ)するぞと呼(よば)はりて、敵の中へ懸入(かけいり)て戦(たたかは)んに、敵若(もし)騒(さわ)ひで攻口(せめくち)を引退(ひきしりぞく)事(こと)あらば、差違(さしちが)ふて城へ入(いり)候べし。忻(きそう)て路を遮り候はゞ、思ふ程太刀打(うち)して、惣大将(そうだいしやう)の被御覧御目(おんめ)の前にて討死仕(つかまつつ)て候はんこそ、後までの名も九原(きうげん)の骨にも留(とどま)り候はんずれ。」と申(まうし)ければ、十六人の人々皆此義(このぎ)にぞ被同ける。去(され)ば大勢なる体(てい)を敵に見する様に謀(はか)れとて、十六人が鉢巻(はちまき)と上帯(うはおび)とを解(とい)て、青竹の末に結付(ゆひつけ)て旗の様(やう)にみせて、此(ここ)の木の梢、彼(かしこ)の陰(かげ)に立置(たておき)て、明(あく)るを遅しとぞ待(また)れける。金鶏(きんけい)三たび唱(となへ)て、雪よりしらむ山の端(は)に、横雲(よこぐも)漸(やうやく)引渡(ひきわた)りければ、十六騎(じふろくき)の人々、中黒(なかぐろ)の旗一流(ひとながれ)差挙(さしあげ)、深山寺(みやまてら)の木陰(こかげ)より、敵陣の後(うしろ)へ懸出(かけいで)て、「瓜生(うりふ)・富樫(とがし)・野尻(のじり)・井口(ゐのくち)・豊原(といはら)・平泉寺(へいせんじ)、並(ならび)に剣(つるぎ)・白山(しらやま)の衆徒等(しゆとら)、二万(にまん)余騎(よき)にて後攻仕(ごづめつかまつり)候ぞ。城中(じやうちゆう)の人々被出向候(さふらひ)て、先懸(さきがけの)者共(ものども)の剛臆(かうおく)の振舞委(くはし)く御覧(ごらん)じて、後の証拠(しようご)に立(たた)れ候へ。」と、声々に喚(をめい)て時の声をぞ揚(あげ)たりける。其真前(そのまつさき)に前(すす)みける武田(たけだの)五郎は、京都の合戦に切(きら)れたりし右の指未(いまだ)痊(いえ)ずして、太刀のつかを拳(にぎ)るべき様(やう)も無(なか)りければ、杉の板を以て木太刀を作(つくつ)て、右の腕にぞ結付(ゆひつけ)たりける。二番に前(すすみ)ける栗生(くりふ)左衛門は帯副(はきぞへ)の太刀無(なか)りける間、深山柏(みやまかしは)の回(まは)り一尺(いつしやく)許(ばかり)なるを、一丈(いちぢやう)余(あまり)に打切(うちきつ)て金才棒(かなさいぼう)の如(ごとく)に見せ、右の小脇にかい挟(はさみ)て、大勢の中へ破(わつ)て入(いる)。是(これ)を見て金崎(かねがさき)を取巻(とりまい)たる寄手(よせて)三万(さんまん)余騎(よき)、「すはや杣山(そまやま)より後攻(ごづめ)の勢懸(かかり)けるは。」とて、馬よ物具(もののぐ)よと周章騒(あわてさわ)ぐ。案(あん)の如(ごとく)深山寺(みやまてら)に立並(たちならべ)たる旗共(はたども)の、木々の嵐に翻るを見て、後攻(ごづめ)の勢げにも大勢なりけりと心得て、攻口(せめくち)に有(あり)ける若狭(わかさ)・越前の勢共(せいども)、楯を捨(す)て弓矢を忘れてはつと引(ひく)。城中(じやうちゆう)の勢八百(はつぴやく)余人(よにん)是(これ)に利を得て、浜面(はまおもて)の西へ、大鳥居(おほとりゐ)の前へ打出(うちいで)たりける間、雲霞(うんか)の如くに充満したる大勢共、度(ど)を失(うしなひ)て十方へ逃散(にげちる)。或(あるひ)は迹(あと)に引(ひく)を敵の追(おふ)と心得て、返(かへ)し合せて同士打(どしうち)をし、或(あるひは)要(よこぎつ)て逃(にぐる)を敵とみて、立留(たちどまつ)て腹を切(きる)もあり、二里三里が外(ほか)にも猶不止、誰(た)が追(おふ)としもなき遠引(とほびき)して、皆己(おのれ)が国々へぞ帰りける。
○金崎(かねがさき)船遊(ふなあそびの)事(こと)付(つけたり)白魚(はくぎよ)入船事 S1714
去(さる)程(ほど)に、百重(ひやくぢゆう)千重(せんぢゆう)に城を囲みたりつる敵共(てきども)、一時の謀(はかりこと)に被破(やぶられ)て、近辺(きんぺん)に今は敵と云(いふ)者一人も無(なか)りければ、是(これ)只事に非(あら)ずとて、城中(じやうちゆう)の人々の悦合(よろこびあへ)る事限(かぎり)なし。十月二十日の曙(あけぼの)に、江山(かうざん)雪晴(はれ)て漁舟一蓬(いつぽう)の月を載せ、帷幕(ゐばく)風捲(まい)て貞松(ていしよう)千株(ちゆ)の花を敷(しけ)り。此興(このきよう)都(みやこ)にて未被御覧風流なれば、逆旅(げきりよ)の御心(おんこころ)をも慰められん為に、浦々の船を点(てん)ぜられ、竜頭鷁首(りようどうげきしゆ)に准(なぞらへ)て、雪中の景(けい)をぞ興ぜさせ給(たまひ)ける。春宮(とうぐう)・一宮(いちのみや)は御琵琶、洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよの)卿(きやう)は琴(こと)の役(やく)、義貞は横笛(よこぶえ)、義助は箏(しやう)の笛、維頼(これより)は打物(うちもの)にて、蘇合香(そがふかう)の三帖(さんでふ)・万寿楽(まんじゆらく)の破(は)、繁絃急管(はんげんきふくわん)の声、一唱(いつしやう)三嘆(さんたん)の調(しら)べ、融々洩々(ゆうゆうえいえい)として、正始(せいし)の音(おと)に叶ひしかば、天衆も爰(ここ)に天降(あまくだ)り、竜神(りゆうじん)も納受する程也(なり)。簫韶(せうぜう)九奏(きうそう)すれば鳳(ほう)舞ひ魚(うを)跳(をど)る感(かん)也(なり)。誠(まこと)に心なき鱗(うろくづ)までも、是(これ)を感ずる事や有(あり)けん、水中に魚跳(をどり)御舟(おんふね)の中へ飛入(とびいり)ける。実世(さねよの)卿(きやう)是(これ)を見給(たまひ)て、「昔周(しうの)武王八百(はつぴやく)の諸侯を率(そつ)し、殷(いん)の紂(ちう)を討(うた)ん為に孟津(まうしん)を渡りし時、白魚(はくぎよ)跳(をどつ)て武王の舟に入(いり)けり。武王是(これ)を取(とつ)て天に祭る。果して戦(たたかひ)に勝(かつ)事(こと)を得しかば、殷の世を遂に亡(ほろぼ)して、周八百(はつぴやく)の祚(くらゐ)を保(たもて)り。今の奇瑞(きずゐ)古(いにしへ)に同じ。早く是(これ)を天に祭(まつつ)て寿(ことぶき)をなすべし。」と、屠人(どじん)是(これ)を調(ととのへ)て其胙(そのひもろぎ)を東宮に奉(たてまつる)。春宮(とうぐう)御盃(さかづき)を傾(かたむけ)させ給(たまひ)ける時、島寺(しまでら)の袖と云(いひ)ける遊君(いうくん)御酌に立(たち)たりけるが、柏子(ひやうし)を打(うつ)て、「翠帳紅閨、万事之礼法雖異、舟中波上、一生(いつしやう)之(の)歓会是同。」と、時の調子の真中(まんなか)を三重(さんぢゆう)にしほり歌ひたりければ、儲君儲王忝(かたじけなく)も叡感の御心(おんこころ)を被傾、武将官軍(くわんぐん)も齊(ひとし)く嗚咽(をうえつ)の袖をぞぬらされける。
○金崎(かねがさきの)城(じやう)攻(せむる)事(こと)付(つけたり)野中(のなか)八郎(はちらうが)事(こと) S1715
杣山(そまやま)より引返す十六騎(じふろくき)の勢に被出抜、金崎(かねがさき)の寄手(よせて)四方(しはう)に退散(たいさん)しぬる由京都へ聞へければ、将軍大(おほき)に忿(いか)りを成して、軈(やが)て大勢をぞ被下ける。当国の守護(しゆご)尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)は、北陸道(ほくろくだう)の勢五千(ごせん)余騎(よき)を率(そつ)して、蕪木(かぶらき)より向はる。仁木(につき)伊賀(いがの)守(かみ)頼章(よりあきら)は、丹波・美作の勢千(せん)余騎(よき)を率(そつ)して、塩津(しほつ)より向はる。今河駿河(するがの)守(かみ)は但馬・若狭の勢七百(しちひやく)余騎(よき)を率(そつ)して、小浜(をはま)より向はる。荒河参川(みかはの)守(かみ)は丹後(たんご)の勢八百(はつぴやく)余騎(よき)を率(そつ)して疋壇(ひきた)より向はる。細川源蔵人は四国の勢二万(にまん)余騎(よき)を率(そつ)して、東近江(ひがしあふみ)より向はる。高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)は、美濃・尾張(をはり)・遠江の勢六千(ろくせん)余騎(よき)を率(そつ)して、荒血中山(あらちなかやま)より向はる。小笠原信濃(しなのの)守(かみ)は、信濃国の勢五千(ごせん)余騎(よき)を率(そつ)して、新道(しんだう)より向ふ。佐々木(ささきの)塩冶(えんや)判官(はうぐわん)高貞(たかさだ)は、出雲(いづも)・伯耆(はうき)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を率(そつ)して、兵船(ひやうせん)五百(ごひやく)余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て海上よりぞ向ひける。其(その)勢(せい)都合(つがふ)六万(ろくまん)余騎(よき)、山には役所を作双(つくりなら)べ、海には舟筏(ふないかだ)を組(くん)で、城の四方(しはう)を囲(かこみ)ぬる事(こと)、隙透間(ひますきま)も無(なか)りけり。彼(かの)城(じやう)の有様、三方(さんぱう)は海に依(よつ)て岸高く巌(いはほ)滑(なめらか)也(なり)。巽(たつみ)の方に当れる山一つ、城より少し高ふして、寄手(よせて)城中(じやうちゆう)を目の下に直下(みおろ)すといへ共、岸絶(たえ)地僻(さがり)にして、近付寄(ちかづきより)ぬれば、城郭(じやうくわく)一片(いつぺん)の雲の上に峙(そばだ)ち、遠(とほく)して射れば、其(その)矢万仞(ばんじん)の谷の底に落つ。さればいかなる巧(たくみ)を出(いだ)して攻(せむ)る共、切岸(きりきし)の辺(へん)までも可近付様は無(なか)りけれ共(ども)、小勢(こぜい)にて而(しか)も新田の名将一族(いちぞく)を尽(つく)して被篭たり。寄手(よせて)大勢にて而も将軍の家礼(けらい)威を振(ふるう)て向はれたれば、両家(りやうけ)の争ひ只此(この)城(じやう)の勝負(しようぶ)に有(ある)べしと、各機(き)を張(はり)心を専(もつぱら)にして、攻(せめ)戦ふ事片時(へんし)もたゆまず。矢に当(あたり)て疵(きず)を病(やみ)、石に打(うた)れて骨を砕(くだ)く者、毎日千人・二千人(にせんにん)に及べ共、逆木(さかもぎ)一本をだにも破られず。是(これ)を見て小笠原信濃(しなのの)守(かみ)、究竟(くつきやう)の兵八百人(はつぴやくにん)を勝(すぐつ)て、東の山の麓より巽角(たつみずみ)の尾を直違(すぢかひ)に、かづき連(つれ)てぞ揚(あがつ)たりける。城には此(これ)や被破べき所なりけん、城の中の兵三百(さんびやく)余人(よにん)、二の関(きど)を開(ひらい)て、同時に打(うつ)て出(いで)たり。両方相近(あひぢか)に成(なり)ければ、矢を止(とめ)て打物(うちもの)になる。防ぐ兵(つはもの)は、此(ここ)を引(ひか)ば継(つづい)て攻入(せめい)られぬと危(あやぶ)みて、一足(ひとあし)も不退戦(たたかふ)。寄手(よせて)は無云甲斐引(ひい)て、敵・御方(みかたに)不被笑と、命を捨(すて)てぞ攻(せめ)たりける。敵さすがに小勢(こぜい)なれば、戦疲(たたかひつか)れてみへける処に、例(れい)の栗生(くりふ)左衛門、火威(ひをどし)の鎧に竜頭(たつがしら)の甲(かぶと)を夕日に耀(かかや)かし、五尺(ごしやく)三寸(さんずん)の太刀に、樫(かし)の棒の八角(かく)に削(けづり)たるが、長さ一丈(いちぢやう)二三尺(にさんじやく)も有(ある)らんと覚(おぼ)へたるを打振(ふつ)て、大勢の中へ走り懸り、片手打(かたてうち)に二三十、重ね打(うち)に打(うち)たりける。寄手(よせて)の兵四五十人(しごじふにん)、犬居(いぬゐ)にどうと打居(うちすゑ)られ、中天にづんと被打挙、沙(すな)の上に倒れ伏(ふす)。後陣(ごぢん)の勢是(これ)を見て、しどろに成(なり)て浪打際(なみうちぎは)に村立(むらだつ)所へ、気比(けひ)の大宮司(だいぐうじ)太郎・大学(だいがくの)助(すけ)・矢島七郎(しちらう)・赤松大田の帥法眼(そつのほふげん)、四人無透間打(うつ)て懸(かか)りける間、叶はじとや思(おもひ)けん、小笠原が八百(はつぴやく)余人(よにん)の兵、一度(いちど)にはつと引(ひい)て本の陣へぞ帰りける。今河駿河(するがの)守(かみ)此(この)日(ひ)の合戦を見て推量するに、「此(ここ)が如何様(いかさま)被破(やぶられ)ぬべき所なればこそ、城より此(ここ)を先途(せんど)と出(いで)ては戦(たたかふ)らめ。陸地(くがぢ)より寄せばこそ足立(あしだち)悪(あしく)て輒(たやす)く敵には被払つれ。舟て一攻(ひとせめ)々(せめ)て見よ。」とて、小舟百(ひやく)余艘(よさう)に取乗(とりのつ)て、昨日小笠原が攻(せめ)たりし浜際(はまぎは)よりぞ上(あがり)ける。寄(よる)と均(ひとし)く切岸の下なる鹿垣(ししがき)一重(ひとへ)引破(ひきやぶつ)て、軈(やが)て出屏(だしへい)の下へ著(つか)んとしける処へ、又城より裹(つつ)まれたる兵二百(にひやく)余人(よにん)、抜連(ぬきつれ)て打出(うちいで)たりけるに、寄手(よせて)五百(ごひやく)余人(よにん)真逆(まつさかさま)に被巻落、我先(われさき)にと舟にぞ込乗(こみのり)ける。遥(はるか)に舟を押出(おしいだ)して跡を顧(かへりみる)に、中村六郎(ろくらう)と云(いふ)者痛手(いたで)を負(おう)て舟に乗殿(のりおく)れ、礒陰(いそかげ)なる小松の陰(かげ)に太刀を倒(さかさま)について、「其(その)舟寄(よせ)よ。」と招共(まねけども)、あれ/\と許(ばかり)にて、助(たすけ)んとする者も無(なか)りけり。爰(ここ)に播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)野中(のなか)八郎(はちらう)貞国(さだくに)と云(いひ)ける者是(これ)を見て、「しらで有(あら)んは無力。御方(みかた)の兵の舟に乗殿(のりおく)れて、敵に討(うた)れんとするを、親(まのあた)り見ながら助(たすけ)ぬと云(いふ)事(こと)や有(ある)べき。此(この)舟漕戻(こぎもど)せ。中村助(たすけ)ん。」と云(いひ)けれ共(ども)、人敢(あへ)て耳にも不聞入。貞国大(おほき)に忿(いかつ)て、人の指櫓(さすろ)を引奪(ひきうばう)て、逆櫓(さかろ)に立(たて)、自(みづから)舟を押返(おしもど)し、遠浅(とほあさ)より下立(おりたつ)て、只一人中村が前へ歩行(あゆみゆく)。城の兵共(つはものども)是(これ)を見て、「手負(ておう)て引兼(ひきかね)たる者は何様(いかさま)宗(むね)との人なれば社(こそ)、是(これ)を討(うた)せじと、遥(はるか)に引(ひき)たる敵共(てきども)は、又返合(かへしあは)すらん。下合(おりあつ)て首(くび)を取れ。」とて、十二三人(じふにさんにん)が程、中村が後(うしろ)へ走懸(はしりかか)りけるを、貞国些(ちつと)も不騒、長刀の石づき取伸(とりのべ)て、向(むかふ)敵一人諸膝(もろひざ)薙(ない)で切居(きりすゑ)、其(その)頚を取(とつ)て鋒(きつさき)に貫き、中村を肩に引懸(ひつかけ)て、閑(しづか)に舟に乗(のり)ければ、敵も御方(みかた)も是(これ)を見て、「哀(あつばれ)剛(かう)の者哉(かな)。」と、誉(ほめ)ぬ人こそ無(なか)りけれ。其後(そののち)よりは、寄手(よせて)大勢也(なり)といへ共、敵手痛(ていた)く防(ふせぎ)ければ、攻屈(せめくつ)して、只帰り、逆木(さかもぎ)引(ひき)、向櫓(むかひやぐら)を掻(かい)て、徒(いたづら)に矢軍許(やいくさばかり)にてぞ日を暮(くら)しける。


太平記(国民文庫)
太平記巻第十八

○先帝潜幸芳野事 S1801
主上(しゆしやう)は重祚(ちようそ)の御事(おんこと)相違候はじと、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)様々被申たりし偽(いつはり)の詞(ことば)を御憑(おんたのみ)有(あつ)て、自山門還幸(くわんかう)成(なり)しか共(ども)、元来謀(たばか)り進(まゐら)せん為なりしかば、花山(くわざんの)院(ゐん)の故宮(こきゆう)に被押篭させ給(たまひ)、宸襟(しんきん)を蕭颯(せうさつ)たる寂寞(せきばく)の中に悩(なやま)さる。霜に響(ひび)く遠寺(ゑんじ)の鐘に御枕(おんまくら)を欹(そばたて)て、楓橋(ふうけう)の夜泊(よるのとまり)に、御哀(あはれ)を副(そへ)られ、梢に余(あま)る北山(きたやま)の雪に御簾(ぎよれん)を撥(かかげ)ては、梁園(りやうゑん)の昔の御遊(ぎよいう)に御涙(おんなみだ)を催(もよほ)さる。紅顔(こうがん)花の如(ごとく)なりし三千(さんぜん)の宮女(きゆうぢよ)も、一朝の嵐に誘引(さそはれ)て、何地(いづち)ともなく成(なり)しかば、夜(よん)のをとゞに入(いら)せ給(たまひ)ても、夢より外(ほか)の昔もなし。紫宸(ししん)に星を列(つらね)し百司(はくし)の老臣も満天の雲に被掩、参仕(まゐりつかふ)る人独(ひとり)もなければ、天下の事如何に成(なり)ぬ覧(らん)と、可被尋聞召便(たより)もなし。「抑(そもそも)朕(ちん)が不徳何事(なにこと)なれば、か程(ほど)に仏神(ぶつしん)にも放(はな)たれ奉(たてまつ)て、逆臣(ぎやくしん)の為に被犯覧(らん)。」と、旧業(きうごふ)の程浅猿(あさまし)く、此世中(このよのなか)も憑(たのみ)少く被思召ければ、寛平(くわんへい)の遠き迹(あと)をも尋ね、花山(くわざん)の近き例をも追(おは)ばやと思召立(おぼしめしたた)せ給(たまひ)ける処に、刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)景繁(かげしげ)武家の許(ゆるし)を得て、只一人伺候(しこう)したりけるが、勾当内侍(こうたうのないし)を以て潜(ひそか)に奏聞申(そうもんまうし)けるは、「越前の金崎(かねがさき)の合戦に、寄手(よせて)毎度(まいど)打負(うちまけ)候なる間、加賀(かがの)国(くに)・剣(つるぎ)・白山(しらやま)の衆徒等(しゆとら)御方(みかた)に参り、富樫(とがしの)介(すけ)が篭(こもつ)て候那多(なた)の城を責(せめ)落して金崎(かねがさき)の後攻(ごづめ)を仕らんと企(くはたて)候なる。是(これ)を聞(きき)て、還幸(くわんかう)の時供奉(ぐぶ)仕(つかまつつ)て京都へ罷上候(まかりのぼりさふらひ)し菊池(きくち)掃部(かんもんの)助(すけ)武俊(たけとし)・日吉(ひよし)加賀(かがの)法眼(ほふげん)以下(いげ)、皆己(おのれ)が国々へ逃下(にげくだつ)て義兵を挙(あげ)、国中(こくちゆう)を打順(うちしたが)へて候なる間、天下の反覆(はんぶく)遠からじと、謳歌説(おうかのせつ)満耳に候。急ぎ近日の間(あひだ)に、夜(よ)に紛(まぎ)れて大和(やまと)の方へ臨幸成(なり)候(さふらひ)て、吉野(よしの)・十津川(とつがは)の辺(へん)に皇居(くわうきよ)を被定、諸国へ綸旨(りんし)を被成下、義貞が忠心(ちゆうしん)をも助(たすけ)られ、皇統の聖化(せいくわ)を被耀候へかし。」と、委細(ゐさい)にぞ申入(まうしいれ)たりける。主上(しゆしやう)事(こと)の様(やう)を具(つぶさ)に被聞召、さては天下の武士猶(なほ)帝徳を慕ふ者多かりけり。是(これ)天照太神(あまてらすおほんがみ)の、景繁(かげしげ)が心に入替(いりかはら)せ給(たまひ)て、被示者也(なり)と被思召ければ、「明夜(みやうや)必(かならず)寮(れう)の御馬(おんむま)を用意(ようい)して、東の小門の辺に相待(あひまつ)べし。」とぞ被仰出ける。相図(あひづ)の刻限(こくげん)にも成(なり)ければ、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)をば、新勾当内侍(しんこうたうのないし)に被持て、童部(わらんべ)の蹈開(ふみあけ)たる築地(ついぢ)の崩(くづれ)より、女房の姿にて忍出(しのびいで)させ給ふ。景繁兼(かね)てより用意(ようい)したる事なれば、主上(しゆしやう)をば寮(れう)の御馬(おんむま)に舁(かき)乗(の)せ進(まゐら)せ、三種(さんじゆの)神器(じんぎ)を自(みづから)荷担(かたん)して、未(いまだ)夜の中(うち)に大和路(やまとぢ)に懸(かかり)て、梨間宿(なしまのしゆく)までぞ落し進(まゐら)せける。白昼(はくちう)に南都(なんと)を如此にて通らせ給はゞ、人の怪(あやし)め申(まうす)事(こと)もこそあれとて、主上(しゆしやう)をば怪(あやし)げなる張輿(はりごし)に召替(めしかへ)させ進(たてまつ)て、供奉(ぐぶ)の上北面(しやうほくめん)共(ども)を輿舁(こしかき)になし、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)をば足付(あしつけ)たる行器(ほかゐ)に入(いれ)て、物詣(まうで)する人の破篭(わりご)なんど入(いれ)て持(もた)せたる様(やう)に見せて、景繁夫(ぶ)に成(なつ)て是(これ)を持つ。何(いづ)れも皆習(なら)はぬ態(わざ)なれば、急ぐとすれども行(ゆき)やらで、其(その)日(ひ)の暮程(くれほど)に内山(うちやま)までぞ著(つか)せ給(たまひ)ける。此(ここ)までも若(もし)敵の追蒐進(おつかけまゐ)らする事もや有(あら)んずらんと安き心も無(なか)りければ、今夜(こんや)如何にもして吉野辺(よしのへん)まで成進(なしまゐら)せんとて、此(ここ)より寮(れう)の御馬(おんむま)を進(まゐら)せたれ共(ども)、八月二十八日の夜の事なれば道最(いと)暗(くらう)して可行様(やう)も無(なか)りける処に、俄に春日(かすが)山の上より金峯山(きぶうぜん)の嶺(みね)まで、光物(ひかりもの)飛(とび)渡る勢(いきほ)ひに見へて、松明(たいまつ)の如くなる光終夜(よもすがら)天を耀(かかやか)し地を照(てら)しける間、行路(あんろ)分明(ぶんみやう)に見へて程なく夜の曙(あけぼの)に、大和(やまとの)国(くに)賀名生(あなふ)と云(いふ)所へぞ落著(おちつか)せ給(たまひ)ける。此(この)所の有様、里遠(とほく)して人烟(じんえん)幽(かすか)に山深(ふかう)して鳥の声も稀(まれ)也(なり)。柴(しば)と云(いふ)物をかこいて家とし、芋野老(いもところ)を堀(ほつ)て渡世許(ばかり)なれば皇居(くわうきよ)に可成所もなく、供御(ぐご)に備(そなふ)べき其儲(そのまうけ)も難尋。角(かく)ては如何(いかが)可有なれば、吉野の大衆(だいしゆ)を語(かたら)ひて君を入進(いれまゐら)せんと思(おもひ)て、景繁則(すなはち)吉野へ行(ゆき)向ひ、当寺の宿老吉水(よしみづ)の法印(ほふいん)に此(この)由を申(まうし)ければ、満山(まんさん)の衆徒(しゆと)を語(かたら)ひ蔵王堂(ざわうだう)に集会(しゆゑ)して僉儀(せんぎ)しけるは、「古(いにし)へ清美原(きよみはら)の天皇(てんわう)、大友(おほとも)の皇子に被襲、此(この)所に幸成(みゆきなり)しも、無程天下泰平(たいへい)を被致。其先蹤(そのせんしよう)に付(つい)て今仙蹕(せんひつ)を被促事(こと)、衆徒(しゆと)何ぞ異儀に可及乎(や)。就中(なかんづく)昨夜の光物(ひかりもの)臨幸の道を照(てら)す。是(これ)然(しかしながら)当山の鎮守(ちんじゆ)蔵王権現(ざわうごんげん)・小守(こもり)・勝手大明神(かつてのだいみやうじん)、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を擁護(おうご)し万乗(ばんじよう)の聖主を鎮衛(ちんゑ)し給ふ瑞光(ずゐくわう)也(なり)。暫くも不可有猶予。」とて、若大衆(わかだいしゆ)三百(さんびやく)余人(よにん)、皆甲冑(かつちう)を帯(たい)して御迎(おんむかひ)にぞ参りける。此外(このほか)楠帯刀(たてはき)正行(まさつら)・和田次郎・真木定観(まきのぢやうくわん)・三輪の西阿(せいあ)、紀伊(きの)国(くに)には、恩地(おんぢ)・牲河(にへかは)・貴志(きし)・湯浅、五百騎(ごひやくき)・三百騎(さんびやくき)、引(ひき)も切らず面々(めんめんに)馳参(はせまゐり)ける間、雲霞(うんか)の勢を腰輿(えうよ)の前後に囲(かこ)ませて、無程吉野へ臨幸(りんかう)なる。春雷(しゆんらい)一たび動く時、蟄虫(ちつちゆう)萌蘇(はうそ)する心地して、聖運忽(たちまち)に開けて、功臣既(すで)に顕(あらは)れぬと、人皆歓喜(くわんぎ)の思(おもひ)をなす。
○高野(かうや)与根来不和(ふくわの)事(こと) S1802
先帝花山(くわざんの)院(ゐん)を忍出(しのびいで)させ玉(たまひ)て吉野に潜幸(せんかう)成りしかば、近国の軍勢(ぐんぜい)は申(まうす)に不及、諸寺・諸社の衆徒・神官(じんぐわん)に至(いたる)まで、皆王化(わうくわ)に随(したがつ)て、或(あるひ)は軍用を支(ささ)へ、或(あるひ)は御祷(おんいのり)を致しけるに、根来(ねごろ)の大衆は一人も吉野へ参(まゐ)〔ら〕ず。是(これ)は必(かならず)しも武家を贔負(ひいき)して、公家を背申(そむきまうす)には非(あら)ず。此(この)君高野山を御崇敬有(ごそうきやうあつ)て、方々の所領を被寄、様々の御立願有(ごりふぐわんあり)と聞(きき)て、偏執(へんしふ)の心を挿(さしはさみ)ける故(ゆゑ)也(なり)。抑(そもそも)為釈門徒者は、以柔和宗(むね)とし以忍辱衣とする事にてこそあるに、根来と高野と、依何事是程(これほど)迄に霍執(くわくしつ)の心をば結ぶぞと、事の起(おこ)りを尋ぬれば、中比(なかごろ)高野伝法院(てんぽふゐん)に、覚鑁(かくばん)とて一人の上人御坐(おはし)けり。一度(いちど)三密瑜伽(さんみつゆか)の道場に入(いり)しより、永四曼不離(くしまんふり)の行業(ぎやうごふ)に不懈、観法(くわんぼふ)座(ざ)闌(たけなはに)して薫修(くんしゆ)年久しかりけるが、即身(そくしん)成仏と乍談、猶有漏(うろ)の身を不替事を歎(なげき)て、求聞持(くもんぢ)の法を七座迄行ふ。され共三品成就(さんほんじやうじゆ)の内、何(いづ)れを得たりとも覚(おぼえ)ざりければ、覚洞院(かくとうゐん)の清憲(せいけん)僧正(そうじやう)の室(しつ)に入(いり)、一印(いちいん)一明(いちみやう)を受(うけ)て、又百日(ひやくにち)行(おこな)ひ給ひければ、其(その)法忽(たちまち)に成就(じやうじゆ)して、自然(じねん)智を得給(たまひ)て、浅略深秘(せんりやくじんひ)の奥義(あうぎ)、不習底(そこ)を極(きは)め、不聞旨(むね)を開けり。爰(ここ)に我慢邪慢(がまんじやまん)の大天狗共(てんぐども)、如何にして人の心中に依託(えたく)して、不退(ふたい)の行学(ぎやうがく)を妨(さまたげ)んとしけれ共(ども)、上人定力(ぢやうりき)堅固(けんご)なりければ、隙(ひま)を伺(うかがふ)事(こと)を不得。されども或時上人温室(をんしつ)に入(いつ)て、瘡(かさ)をたでられけるが、心身快(こころよう)して纔(わづか)の楽(たのしみ)に婬著(いんぢやく)す。是(この)時天狗共(てんぐども)力を得て、造作魔(ざうさくま)の心をぞ付(つけ)たりける。是(これ)より覚鑁(かくばん)伝法院(てんぽふゐん)を建立(こんりふ)して、我門徒(わがもんと)を昌(さかん)にせばやと思ふ心懇(ねんごろ)に成(なり)ければ、鳥羽禅定(とばのぜんぢやう)法皇に経奏聞て、堂舎を立(たて)僧坊を作らる。されば一院の草創(さうさう)不日(ふじつ)に事成りし後、覚鑁(かくばん)上人忽(たちまち)に入定(にふぢやう)の扉(とぼそ)を閉(とぢ)て、慈尊(じそん)の出世五十六億七千万歳(ごじふろくおくしちせんまんさい)の暁(あかつき)を待(まち)給ふ。高野(かうや)の衆徒等(しゆとら)是(これ)を聞(きき)て、「何条(なんでう)其御房(そのごばう)我慢の心にて被堀埋、高祖(かうそ)大師(だいし)の御入定(ごにふぢやう)に同じからんとすべき様(やう)やある。其(その)儀ならば一院を破却(はきやく)せよ。」とて、伝法院へ押寄せ堂舎を焼払(やきはら)ひ、御廟(ごべう)を堀破(ほりやぶつ)て是(これ)を見(みる)に、上人は不動明王(みやうわう)の形像(ぎやうざう)にて、伽楼羅炎(かるらえん)の内に座(ざ)し給へり。或若大衆(あるわかだいしゆ)一人走(わし)り寄(よつ)て、是(これ)を引立(ひきたて)んとするに、其(その)身磐石(ばんじやく)の如くにして、那羅延(ならえん)が力にても動(うごか)し難く、金剛(こんがう)の杵(しよ)も砕難(くだきがたく)ぞ見へたりける。悪僧等(あくそうら)猶是(これ)にも不恐、「穴(あな)こと/\し。如何なる古狸(ふるたぬき)・古狐(ふるきつね)なりとも、妖(ばく)る程ならば是(これ)にや劣(おと)るべき。よし/\真(まこと)の不動か、覚鑁(かくばん)が妖(ばけ)たる形か、打(うちて)見よ。」とて、大なる石を拾(ひろ)ひ懸(かけ)て十方より是(これ)を打(うつ)に、投(なぐ)る飛礫(つぶて)の声大日の真言(しんごん)に聞へて、曾(かつ)て其(その)身に不中、あらけて微塵(みぢん)に砕(くだけ)去る。是(この)時覚鑁(かくばん)、「去(され)ばこそ汝等(なんぢら)が打(うつ)処の飛礫(つぶて)、全く我(わが)身に中(あた)る事不可有。」と、少し■慢(けうまん)の心被起ければ、一(ひとつ)の飛礫(つぶて)上人の御額(おんひたひ)に中(あたつ)て、血の色漸(やうやく)にして見へたりけり。「さればこそ。」とて、大衆共(だいしゆども)同音にどつと笑ひ、各(おのおの)院々(ゐんゐん)谷々(たにだに)へぞ帰りける。是(これ)より覚鑁(かくばん)上人の門徒(もんと)五百(ごひやく)坊(ばう)、心憂(こころうき)事(こと)に思(おもひ)て、伝法院の御廟を根来(ねごろ)へ移して、真言(しんごん)秘密の道場を建立(こんりふ)す。其(その)時の宿意(しゆくい)相残(あひのこつ)て、高野・根来の両寺、動(ややも)すれば確執(かくしつ)の心を挿(さしはさ)めり。
○瓜生(うりふ)挙旗事 S1803
去(さる)程(ほど)に、先帝は吉野に御座有(あつ)て、近国の兵馳(はせ)参る由聞へければ、京都の周章(しうしやう)は申(まうす)に不及、諸国の武士も又天下不穏と、安き心も無(なか)りけり。此(この)事(こと)已(すで)に一両月に及(および)けれ共(ども)、金崎(かねがさき)の城には出入(いでいり)絶(たえ)たるに依(よつ)て、知(しる)人も無(なか)りける処に、十一月二日の朝暖(あさなぎ)に、櫛川(くしかは)の島崎(しまさき)より金崎(かねがさき)を差(さし)て游(およぐ)者あり。海松(みる)・和布(わかめ)を被(かづ)く海士人(あまひと)か、浪に漂(ただよ)ふ水鳥かと、目を付(つけ)て是(これ)をみれば、其(それ)には非(あら)ずして、亘理(わたり)新左衛門(しんざゑもん)と云(いひ)ける者、吉野の帝(みかど)より被成たる綸旨(りんし)を、髻(もとどり)には結付(ゆひつけ)て游ぐにてぞ有(あり)ける。城の中の人々驚(おどろき)て、急ぎ開(ひらい)て見るに、先帝潜(ひそか)に吉野へ臨幸(りんかう)成(なつ)て、近国の士卒(じそつ)悉(ことごとく)馳参(はせまゐ)る間、不日(ふじつ)に京都を可被責由被載たり。寄手(よせて)は是(これ)を聞(きき)て、此際(このあひだ)隠(かく)しつる事を、城中(じやうちゆう)に早(はや)知(しり)ぬと不安思へば、城の内には助(たすけ)の兵共(つはものども)国々に出来(いできたつ)て、今に寄手(よせて)を追掃(おひはらひ)ぬと、悦(よろこび)の心(こころ)身に余(あま)れり。中にも瓜生(うりふ)判官(はうぐわん)保(たもつ)、足利(あしかが)尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)の手に属(しよく)して金崎(かねがさき)の責口(せめくち)にあり。其弟(そのおとと)兵庫(ひやうごの)助(すけ)重(しげし)・弾正左衛門照(てらす)・義鑑房(ぎかんばう)三人(さんにん)は、未(いまだ)金崎(かねがさき)へは向(むか)はで、杣山(そまやま)の城に有(あり)けるが、去月十一日に、新田(につた)の人々北国へ被落たりし時、義鑑房が隠置(かくしおき)たりし、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)の子息、式部(しきぶの)大輔(たいふ)義治(よしはる)を大将として、義兵を挙(あげ)んと日々夜々にぞ巧(たくみ)ける。兄の判官此(これ)事(こと)を聞(きき)て、「此(この)者共(ものども)若(もし)楚忽(そこつ)に謀叛を発(おこ)さば、我(われ)必(かならず)存知せぬ事は非じとて、金崎(かねがさき)にて討(うた)れぬ。」と思(おもひ)ければ、兄弟一(ひとつ)に成(なつ)てこそ、兎(と)も角(かく)も成(なら)めと思返(おもひかへ)して、哀(あはれ)同心する人あれかしと、壁(かべ)に耳を付(つけ)て、心を人の腹に置(おい)て、兎角(とかう)伺(うかが)ひ聞(きき)ける折節(をりふし)、陣屋を双(なら)べて居たりける宇都宮(うつのみや)美濃(みのの)将監(しやうげん)と、天野(あまの)民部(みんぶの)大輔(たいふ)と寄合(よりあつ)て、四方山(よもやま)の雑談(ざふだん)の次(ついで)に、家々の旗の文共(もんども)を云沙汰(いひさた)しける処に、誰とは不知末座(まつざ)なる者、「二引両(ふたつひきりやう)と大中黒(おほなかぐろ)と、何(いづ)れか勝(すぐ)れたる文(もん)にて候覧(らん)。」と問(とひ)ければ、美濃(みのの)将監(しやうげん)、「文(もん)の善悪(ぜんあく)をば暫(しばらく)置く、吉凶を云(いふ)者、大中黒程目出(めでた)き文(もん)は非じと覚(おぼ)ゆ。其(その)故は前代の文(もん)に三鱗形(みついろこがた)をせられしが滅びて、今の世二引両(ふたつひきりやう)に成(なり)ぬ。是(これ)を又亡(ほろぼ)さんずる文(もん)は、一引両(ひとつひきりやう)にてこそあらんずらん。」と申(まうし)ければ、天野(あまの)民部(みんぶの)大輔(たいふ)、「勿論(もちろんに)候、周易(しうえき)と申(まうす)文(ふみ)には、一文字(いちもんじ)をばかたきなしと読(よみ)て候なる。されば此御文(このごもん)は、如何様(いかさま)天下を治めて、五畿七道を悉(ことごとく)敵無(なき)世に成(なし)ぬと覚(おぼえ)て候。」と、文字に付(つき)て才学(さいかく)を吐(はき)ければ、又傍(かたは)らなる者の、「天に口なし以人云(いは)しむ。」と、無憚所笑戯(わらひたはむ)れければ、瓜生(うりふ)判官(はうぐわん)是(これ)を聞(きき)て、「さては此(この)人々も、野心(やしん)を挿(さしはさ)む所存有(あり)けり。」と、嬉(うれし)く思(おもひ)て、常に酒を送り茶を進(すすめ)て連々(れんれん)に睦近付(むつびちかづき)て後、大儀(たいぎ)を思立(おもひたち)候由を語りければ、宇都宮(うつのみや)も天野(あまの)も、「子細(しさい)非じ。」とぞ同じける。さらば軈(やが)て杣山(そまやま)へ帰(かへつ)て旗を挙(あげ)んと評定(ひやうぢやう)しける処に、諸国の軍勢共(ぐんぜいども)、暇(いとま)をも不乞、己(おのれ)が所領へ抜々(ぬけぬけ)に帰りけるを押留(おしとど)めん為に、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)、四方(しはう)の口々に堅く兵士(ひやうし)を居(すゑ)て人を不通。若(もし)は所用ありて、此(この)道を通る人は、師泰(もろやす)が判形(はんぎやう)を取(とつ)てぞ通(とほ)りける。瓜生(うりふ)判官(はうぐわん)、さらば此関(このせき)を謀(たばかつ)て通らんと思(おもひ)て、越後(ゑちごの)守(かみ)の許(もと)に行(ゆき)て、「御馬(おんむま)の大豆(まめ)を召進(めしまゐら)せん為に、杣山(そまやま)へ人夫(にんぶ)を百五十人(ひやくごじふにん)可遣候。関所(せきところ)の御札(ふだ)を給(たまは)り候へ。」と云(いひ)ければ、師泰が執事(しつじ)山口入道、杉板を札(ふだ)に作(つくつ)て、「此(この)人夫百五十人(ひやくごじふにん)可通。」と書(かき)て判を居(すゑ)てぞ出(いだ)しける。瓜生(うりふ)此(この)札を請取(こひとつ)て、下なる判形許(はんぎやうばかり)を残し置(おき)て、上なる文字を皆押削(おしけづり)て、「上下三百人(さんびやくにん)可通。」と書直(かきなほ)し、宇都宮(うつのみや)・天野相共(あひとも)に、三山寺(みやまてら)の関所(せきところ)を無事故通(とほり)てげり。瓜生(うりふ)判官(はうぐわん)杣山(そまやま)に帰りければ、三人(さんにん)の弟共(おととども)大(おほき)に悦(よろこび)て、軈(やがて)式部(しきぶの)大輔(たいふ)義治(よしはる)を大将として、十一月八日飽和(あくわ)の社(やしろ)の前にて中黒(なかぐろ)の旗を挙(あげ)ける程(ほど)に、去(さん)ぬる十月坂本(さかもと)より落下(おちくだり)ける軍勢(ぐんぜい)、此彼(ここかしこ)に隠居(かくれゐ)たりけるが、此(この)事(こと)を聞(きき)て何(いつ)の間(ま)にか馳来(はせきた)りけん、無程千(せん)余騎(よき)に成(なり)にけり。則(すなはち)其(その)勢(せい)を五百(ごひやく)余騎(よき)差分(さしわけ)て、鯖並(さばなみ)の宿(しゆく)・湯尾(ゆのを)の峠(たうげ)に関(せき)を居(すゑ)て、北国の道を差塞(さしふさぐ)。昔の火打(ひうち)が城の巽(たつみ)に当る山の、水木足(たつ)て嶮(けはし)く峙(そばだち)たる峯(みね)を攻(つめ)の城に拵(こしらへ)て、兵粮七千(しちせん)余石(よこく)積篭(つみこめ)たり。是(これ)は千万(せんまん)蒐合(かけあひ)の軍(いくさ)に打負(うちまく)る事あらば、楯篭(たてこも)らん為の用意(ようい)也(なり)。越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)は此(この)由を聞(きき)て、「若(もし)遅(おそ)く退治せば、剣(つるぎ)・白山(しらやま)の衆徒等(しゆとら)成合(なりあひ)て、由々敷(ゆゆしき)大事(だいじ)なるべし、時を不替杣山(そまやま)を打(うち)落して、金崎(かねがさき)の城を心安く可責。」とて、能登・加賀・越中三箇国(さんかこく)の勢六千(ろくせん)余騎(よき)を、杣山(そまやま)の城へぞ差向(さしむけ)ける。瓜生(うりふ)是(これ)を聞(きき)て、敵の陣を要害に取(とら)せじとて、新道(しんだう)・今庄(いまじやう)・桑原・宅良(たくら)・三尾(みつのを)・河内(かはのうち)四五里が間の在家(ざいけ)を一宇(いちう)も不残焼払(やきはらつ)て、杣山(そまやま)の城の麓なる湯尾(ゆのを)の宿許(しゆくばかり)をば、態(わざと)焼残(やきのこ)してぞ置(おき)たりける。去(さる)程(ほど)に、十一月二十三日(にじふさんにち)、寄手(よせて)六千(ろくせん)余騎(よき)、深雪(じんせつ)に橇(がんじき)をも懸(かけ)ず、山路(やまぢ)八里を一日に越(こえ)て、湯尾(ゆのを)の宿(しゆく)にぞ著(つい)たりける。此(ここ)より杣山(そまやま)へは五十町(ごじつちよう)を隔(へだて)て、其際(そのあいだ)に大河あり。日暮(くれ)て路に歩(あゆ)み疲(つか)れぬ、明日こそ相近付(あひちかづい)て、矢合(やあはせ)をもせめとて、僅(わづか)なる在家(ざいけ)に攻(つま)り居(ゐ)て、火を焼(たき)身を温(あたた)めて、前後も不知して寝(ね)たりける。瓜生(うりふ)は兼(かね)て案(あん)の図(づ)に敵を谷底へ帯(おび)き入(いれ)て、今はかうと思(おもひ)ければ、其(その)夜の夜半許(やはんばかり)に、野伏(のぶし)三千人(さんぜんにん)を後(うしろ)の山へあげ、足軽(あしがる)の兵七百(しちひやく)余人(よにん)左右へ差回(さしまは)して、鬨声(ときのこゑ)をぞ揚(あげ)たりける。寝(ね)をびれたる寄手共(よせてども)、時声(ときのこゑ)に驚(おどろい)て周章翊(あわてふため)く処へ、宇都宮(うつのみや)・紀清(きせい)の両党乱入(みだれいつ)て、家々に火を懸(かけ)たれば、物具(もののぐ)したる者は太刀を不取、弓を持(もち)たる者は矢を不矯。五尺(ごしやく)余(あまり)降積(ふりつもつ)たる雪の上に橇(がんじき)も不懸して走出(わしりいで)たれば、胸の辺迄(へんまで)落入(おちいつ)て、足を抜(ぬか)んとすれ共不叶。只(ただ)泥(どろ)に粘(ねられ)たる魚の如(ごとく)にて、被生虜者三百(さんびやく)余人(よにん)、被討者は不知数を。希有(けう)にして逃延(にげのび)たる人も、皆物具(もののぐ)を捨(す)て、弓箭(ゆみや)を失はぬ者は無(なか)りけり。
○越前(ゑちぜんの)府(ふの)軍(いくさ)並(ならびに)金崎(かねがさき)後攻(ごづめの)事(こと) S1804
北国の道塞(ふさがつ)て、後(うしろ)に敵あらば、金崎(かねがさき)を責(せめ)ん事難儀なるべし。如何にもして杣山(そまやま)の勢を、国中へはびこらぬ様(やう)にせでは叶(かなふ)まじとて、尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)、北陸道(ほくろくだう)四箇国(しかこく)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を率(そつ)して、十一月二十八日に、蕪木(かぶらき)の浦より越前の府(ふ)へ帰(かへり)給ふ。瓜生此(この)事(こと)を聞(きき)て、敵に少しも足をためさせては悪(あし)かるべしとて、同(おなじき)二十九日に、三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄せ、一日(いちにち)一夜(いちや)責戦(せめたたかひ)て、遂に高経が楯篭(たてごもつ)たる新善光寺(しんぜんくわうじ)の城を責(せめ)落す。此(この)時又被討者三百(さんびやく)余人(よにん)、生虜(いけどり)百三十人(さんじふにん)が首(くび)を刎(はね)て、帆山河原(ほやまかはら)に懸並(かけなら)ぶ。夫(それ)より式部(しきぶの)大輔(たいふ)義治(よしはる)勢(いきほ)ひ漸く近国に振ひければ、平泉寺(へいせんじ)・豊原(といはら)の衆徒、当国他国の地頭(ぢとう)・御家人(ごけにん)、引出物(ひきでもの)を捧(ささ)げ酒肴(さけさかな)を舁(かか)せて、日々に群集(くんじゆ)しけれども、義治よに無興(ぶきよう)げなる体(てい)にのみ見へ給(たまひ)ければ、義鑑房御前(おんまへ)に近(ちかづい)て、「是(これ)程目出(めでた)き砌(みぎり)にて候に、などや勇みげなる御気色(ごきしよく)も候はぬやらん。」と申(まうし)ければ、義治袖掻収(かきをさ)め給(たまひ)て、「御方(みかた)両度の軍(いくさ)に打勝(うちかつ)て、敵を多く亡(ほろぼ)したる事(こと)、尤(もつとも)可悦処なれ共(ども)、春宮(とうぐう)を始進(はじめまゐら)せて、当家(たうけ)の人々金崎(かねがさき)の城に被取篭御座(ごさ)あれば、さこそ兵粮にも詰(つま)り戦(たたかひ)にも苦(くるし)みて、心安き隙(ひま)もなく御坐(おは)すらめと想像(おもひやり)奉る間、酒宴に臨め共(ども)楽(たのし)む心も候はず。」と宣へば、義鑑房畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「其(その)事(こと)にて候はゞ、御心(おんこころ)安く被思召候へ。此間(このあひだ)は余(あま)りに雪吹(ふぶき)烈(はげし)くして、長途(ちやうど)の歩立(かちだち)難儀に候間(あひだ)、天気の少し晴るゝ程を相待(あひまつ)にて候。」とて、感涙を押(おさ)へながら御前(おんまへ)をぞ立(たち)にける。宇都宮(うつのみや)と小野寺(をのでら)と牆越(かきごし)に是(これ)を聞(きき)て、「好堅樹(かうけんじゆ)は地の底に有(あつ)て芽(げ)百囲(ひやくゐ)をなし、頻伽羅(びんぎやら)は卵(かひこ)の中に有(あつ)て声(こゑ)衆鳥に勝(すぐ)れたり」といへり。此(この)人丈夫(ぢやうぶ)の心ねをはして、加様(かやう)に思ひ給(たまひ)けるこそ憑(たのも)しけれ。さらば軈(やが)て金崎(かねがさき)の後攻(ごづめ)をすべし。」とて、兵(つはもの)を集め楯を作(はが)せて、さ程雪の降(ふら)ぬ日を門出(かどで)にしてぞ相待(あひまち)ける。正月七日椀飯(わうばん)事(こと)終(をはり)て、同十一日雪晴(はれ)風止(やみ)て、天気少し長閑(のどか)なりければ、里見(さとみ)伊賀(いがの)守(かみ)を大将として、義治(よしはる)五千(ごせん)余人(よにん)を金崎(かねがさき)の後攻(ごづめ)の為に敦賀(つるが)へ被差向。其(その)勢(せい)皆雪吹(ふぶき)の用意(ようい)をして、物具(もののぐ)の上に蓑笠(みのかさ)を著(き)、踏組(ふぐつ)の上に橇(がんじき)を履(ふん)で、山路(やまぢ)八里が間の雪蹈分(ふみわけ)て、其(その)日(ひ)桑原迄ぞ寄(よせ)たりける。高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)も兼(かね)て用意(ようい)したる事なれば、敦賀津(つるがのつ)より二十(にじふ)余町(よちやう)東に当(あたつ)て、究竟(くつきやう)の用害(ようがい)の有(あり)ける処へ、今河(いまがは)駿河(するがの)守(かみ)を大将として、二万(にまん)余騎(よき)を差向(さしむけ)て、所々(しよしよ)に掻楯(かいだて)掻(かか)せて、今や寄(よす)ると待懸(まちかけ)たり。夜明(あけ)ければ先(まづ)一番に、宇都宮(うつのみや)・紀清(きせい)両党三百(さんびやく)余人(よにん)押寄(おしよせ)て、坂中(さかなか)なる敵千(せん)余人(よにん)を遥(はるか)の峯へ巻(まく)り上(あげ)て、軈(やがて)二陣の敵に蒐(かか)らんとしけるが、両方の峯なる大勢に被射立、北なる峯へ引退(ひきしりぞ)く。二番に瓜生(うりふ)・天野(あまの)・斉藤・小野寺七百(しちひやく)余騎(よき)、鋒(きつさき)を調(そろ)へて上(あが)りけるに、駿河(するがの)守(かみ)の堅めたる陣を三箇所(さんかしよ)被追破、はつと引(ひき)ける処へ、越後(ゑちごの)守(かみ)が勢三千(さんぜん)余騎(よき)、荒手(あらて)に代(かはつ)て相(あひ)戦ふ処に、瓜生・小野寺が勢又追立(おつたて)られて、宇都宮(うつのみや)と一(ひとつ)に成(なら)んと、傍(そば)なる峯へ引上(ひきあが)りけるを、里見(さとみ)伊賀(いがの)守(かみ)僅(わづか)の勢にて、「蓬(きたな)し、返せ。」とて横合(よこあひ)に進まれたり。敵是(これ)を大将よと見てんげれば、自余(じよ)の葉武者(はむしや)には懸(かか)らず、をつ取篭(とりこめ)て討(うた)んとしけるを、瓜生と義鑑房と屹(きつ)と見て、「我等爰(ここ)にて討死せでは御方(みかた)の勢(せい)は助(たすか)るまじき処ぞ。」と自嘆(じたん)して、只二人(ににん)打(うつ)て蒐(かか)り、敵の中へ破(わつ)て入(いら)んとするを見て、判官が弟(おとと)林(はやしの)次郎入道源琳(げんりん)・同(おなじき)舎弟兵庫(ひやうごの)助(すけ)重(しげし)・弾正左衛門照(てらす)三人(さんにん)是(これ)を見て、遥(はるか)に落延(おちのび)たりけるが、共に討死(うちじに)せんと取(とつ)て返(かへ)しけるを、義鑑房(ぎかんばう)尻目(しりめ)に睨(にらん)で、「日来(ひごろ)再三謂(いひ)し事をば何(いつ)の程(ほど)に忘れけるぞ。我等(われら)二人(ににん)討死したらんは、永代の負(まけ)にて有(あら)んずるを、思篭(おもひこむ)る心の無(なか)りける事の云(いふ)甲斐なさよ。」と、あらゝかに申留(まうしとど)めける間、三人(さんにん)の者共(ものども)、現(げ)もと思返(おもひかへ)して少し猶予(いうよ)しける間、大勢の敵に中(なか)を被押隔、里見(さとみ)・瓜生・義鑑房三人(さんにん)は一所(いつしよ)にて被討にけり。桑原より深雪(じんせつ)を分(わけ)て重鎧(おもよろひ)に肩をひける者共(ものども)、数刻(すこく)の合戦に入替(いりかは)る勢もなく戦疲(たたかひつか)れければ、返さんとするに力尽(つ)き引(ひか)んとするに足たゆみぬ。されば此彼(ここかしこ)に引延(ひきのび)て、腹を切(きる)者数(かず)を不知(しらず)。適(たまたま)落延(おちのぶ)る兵(つはもの)も、弓矢・物具(もののぐ)を棄(すて)ぬはなし。「さてこそ先日(せんじつ)府(ふ)・鯖並(さばなみ)の軍(いくさ)に多く捨(すて)たりし兵具共(ひやうぐども)をば、今皆取返(とりかへし)たれ。」と、敦賀(つるが)の寄手共(よせてども)は笑(わらひ)ける。是程(これほど)に不定(ふぢやう)の人間、化(あだ)なる身命を資(たすからん)とて、互に罪業(ざいごふ)を造(つく)り、長き世の苦(くるし)みを受(うけ)ん事こそ浅猿(あさまし)けれ。
○瓜生判官(うりふはうぐわん)老母(らうぼが)事(こと)付(つけたり)程嬰(ていえい)杵臼(しよきうが)事(こと) S1805
去(さる)程(ほど)に、敗軍(はいぐん)の兵共(つはものども)杣山(そまやま)へ帰(かへり)ければ、手負(ておひ)・死人の数を註(しる)すに、里見(さとみ)伊賀(いがの)守(かみ)・瓜生兄弟・甥(をひ)の七郎(しちらう)が外(ほか)、討死する者五十三人(ごじふさんにん)蒙疵者五百(ごひやく)余人(よにん)也(なり)。子は父に別れ弟(おとと)は兄に殿(おく)れて、啼哭(ていこく)する声家々に充満(みちみちた)り。去共(されども)瓜生判官が老母(らうぼ)の尼公(にこう)有(あり)けるが、敢(あへ)て悲(かなし)める気色(きしよく)もなし。此尼公(このにこう)大将義治の前に参(まゐつ)て、「此(この)度敦賀(つるが)へ向ふて候者共(ものども)が不覚(ふかく)にてこそ里見殿(さとみどの)を討(うた)せ進(まゐら)せて候へ。さこそ被思召候らめと、御心中推量(おしはか)り進(まゐら)せて候。但(ただし)是(これ)を見ながら、判官兄弟何(いづ)れも無恙してばし帰り参りて候はゞ、如何に今一入(ひとしほ)うたてしさも無遣方候べきに、判官が伯父(をぢ)・甥(をひ)三人(さんにん)の者、里見殿(さとみどの)の御供(おんとも)申し、残(のこり)の弟(おとと)三人(さんにん)は、大将の御為に活(いき)残りて候へば、歎(なげき)の中(うち)に悦(よろこび)とこそ覚(おぼえ)て候へ。元来上(うへ)の御為に此(この)一大事(いちだいじ)を思立候(おもひたちさふらひ)ぬる上は、百千の甥子共(をひこども)が被討候(さうらふ)共(とも)、可歎にては候はず。」と、涙を流して申(まうし)つゝ、自(みづから)酌(しやく)を取(とつ)て一献(いつこん)を進め奉りければ、機(き)を失へる軍勢(ぐんぜい)も、別(わかれ)を歎く者共(ものども)も、愁(うれへ)を忘れて勇(いさ)みをなす。抑(そもそも)義鑑房が討死しける時、弟(おとと)三人(さんにん)が続(つづい)て返しけるを、堅く制(せい)し留(とど)めける謂(いは)れを如何にと尋ぬれば、此(この)義鑑房合戦に出(いで)ける度毎(たびごと)に、「若(もし)此軍(このいくさ)難儀に及(およ)ばゞ、我等(われら)兄弟の中に一両人は討死をすべし。残(のこり)の兄弟は命を全(まつたく)して、式部(しきぶの)大輔(たいふ)殿(どの)を取立進(とりたてまゐら)すべし。」とぞ申(まうし)ける。是(これ)も古(いにし)への義を守り人を規(のり)とせし故(ゆゑ)也(なり)。昔(むかし)秦(しん)の世に趙盾(てうとん)・智伯(ちはく)と云(いひ)ける二人(ににん)、趙(てう)の国を諍(あらそ)ふ事年久し。或時(あるとき)智伯(ちはく)已(すで)に趙盾(てうとん)がために被取巻、夜明(あけ)なば討死せんとしける時、智伯(ちはく)が臣程嬰(ていえい)・杵臼(しよきう)と云(いひ)ける二人(ににん)の兵(つはもの)を呼寄(よびよせ)て、「我(われ)已(すで)に運命極迄(きはまりいたつて)趙盾に囲(かこ)まれぬ。夜明(あけ)ば必(かならず)討死すべし。汝等我に真実(しんじつ)の志深くば、今夜潜(ひそか)に城を逃出(にげいで)て、我(わが)三歳の孤(みなしご)を隠置(かくしおい)て、長(ひとと)ならば趙盾を亡(ほろぼ)して、我(わが)生前の恥を雪(きよ)むべし。」とぞ宣ひける。程嬰(ていえい)・杵臼(しよきう)是(これ)を聞(きき)て、「臣等主君と共に討死仕(つかまつら)ん事は近(ちかう)して易(やす)し。三歳の孤(みなしご)を隠(かく)して命を全(まつたう)せん事は遠(とほく)して難(かた)し。雖然、為臣道豈(あに)易(やすき)を取(とつ)て難(かた)きを捨(すて)ん哉(や)。必(かならず)君の仰(おほせ)に可随。」とて、程嬰(ていえい)・杵臼(しよきう)は、潜(ひそか)に其(その)夜紛(まぎ)れて城を落(おち)にけり。夜明(あけ)ければ、智伯(ちはく)忽(たちまち)に討死して残る兵(つはもの)も無(なか)りしかば、多年諍(あらそ)ひし趙(てうの)国(くに)終(つひ)に趙盾(てうとん)に随ひけり。爰(ここ)に程嬰(ていえい)・杵臼(しよきう)二人(ににん)は、智伯(ちはく)が孤(みなしご)を隠(かく)さんとするに趙盾是(これ)を聞付(ききつけ)て、討(うた)んとする事頻(しきり)也(なり)。程嬰(ていえい)是(これ)を恐れて、杵臼(しよきう)に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「旧君(きうくん)三歳の孤(みなしご)を以て、此(この)二人(ににん)の臣に託(たくし)たり。されば死(しし)て敵を欺(あざむ)かんと、暫(しばら)く命(いのち)を生(いき)て孤(みなしご)を取立(とりたて)んと、何(いづ)れか難(かた)かるべき。」杵臼(しよきう)が云(いは)く、「死は一心の義に向ふ処に定(さだま)り、生(せい)は百慮(はくりよ)の智を尽(つく)す中に全(まつた)し。然(しから)ば吾(われ)生(せい)を以て難(かた)しとす。」と。程嬰(ていえい)、「さらば吾(われ)は難(かた)きに付(つい)て命を全(まつたう)すべし。御辺(ごへん)は易(やす)きに付(つい)て討死せらるべし。」と云(いふ)に、杵臼(しよきう)悦(よろこん)で許諾(きよだく)す。「さらば謀(はかりこと)を回(めぐら)すべし。」とて、杵臼(しよきう)我(わが)子の三歳に成(なり)けるを旧主(きうしゆ)の孤(みなしご)なりと披露(ひろう)して、是(これ)を抱(いだ)きかゝへ、程嬰(ていえい)は主(しゆ)の孤(みなしご)三(みつつ)になるを我(わが)子なりと云(いひ)て、朝夕是(これ)を養育(やういく)しける。角(かく)て杵臼(しよきう)は山深き栖(すみか)に隠(かく)れ、程嬰(ていえい)は趙盾が許(もと)に行(ゆき)て、可降参由を申(まうす)に、趙盾猶(なほ)も心を置(おき)て是(これ)を不許。程嬰(ていえい)重(かさね)て申(まうし)けるは、「臣は元(もと)智伯(ちはく)が左右に仕(つか)へて、其行跡(そのふるまひ)を見しに、遂(つひ)に趙(てう)の国を失はんずる人なりとしれり。遥(はるか)に君の徳恵(とくけい)を聞(きく)に、智伯(ちはく)に勝(すぐ)れ給へる事千里を隔(へだて)たり。故(ゆゑ)に臣苟(いやしく)も趙盾に仕へん事を乞(こふ)。豈(あに)亡国の先人(せんじん)の為に有徳(いうとく)の賢君(けんくん)を謀(たばか)らんや。君若(もし)我(われ)をして臣たる道を許されば、亡君智伯(ちはく)が孤(みなしご)三歳になる此(ここ)にあり。杵臼(しよきう)が養育深く隠置(かくしおき)たる所我(われ)具(つぶさ)にしれり。君是(これ)を失(うしなは)せ給ひ、趙国を永く令安給へ。」とぞ申(まうし)たりける。趙盾是(これ)を聞(きき)給ひて、さては程嬰(ていえい)不偽吾が臣とならんと思(おもひ)けると信じて、程嬰(ていえい)に武官を授(さづけ)て、あたり近く被召仕けり。さて杵臼(しよきう)が隠(かく)したる所を委(くはしく)尋聞(たづねきき)て、数千騎(すせんぎ)の兵(つはもの)を差遣(さしつかは)して是(これ)を召捕(めしと)らんとするに、杵臼(しよきう)兼(かね)て相謀(あひはかり)し事なれば、未(いまだ)膝の上なる三歳の孤(みなしご)を差(さし)殺して、「亡君智伯(ちはく)の孤(みなしご)運命拙(つたなう)して謀(はかりごと)已(すで)に顕(あらは)れぬ。」と喚(よばはつ)て、杵臼(しよきう)も腹掻切(かききつ)て死(しし)にけり。趙盾(てうとん)今より後(のち)は吾(わが)子孫の代を傾(かたぶ)けんとする者は非じと悦(よろこん)で、弥(いよいよ)程嬰(ていえい)に心をも不置。剰(あまつさへ)大禄を与へ高官を授(さづけ)て国の政(まつりごと)を令司。爰(ここ)に智伯(ちはく)が孤(みなしご)程嬰(ていえい)が家に長(ひととな)りしかば、程嬰(ていえい)忽(たちまち)に兵を発(おこ)して三年が中(うち)に趙盾を亡(ほろぼ)し、遂(つひ)に智伯(ちはく)が孤(みなしご)に趙(てうの)国(くに)を保(たも)たせり。此(この)大功然(しかしながら)程嬰(ていえい)が謀(はかりこと)より出(いで)しかば、趙王(てうわう)是(これ)を賞して大禄を与へんとせらる。程嬰(ていえい)是(これ)を不請。「我(われ)官に昇(のぼ)り禄(ろく)を得て卑(いやし)くも生(せい)を貪(むさぼ)らば、杵臼(しよきう)と倶に計(はかり)し道に非(あら)ず。」とて杵臼(しよきう)が尸(かばね)を埋(うづみ)し古き墳(つか)の前にて、自(みづから)剣(けん)の上に伏(ふし)て、同苔(おなじこけ)にぞ埋(うづも)れける。されば今の保(たもつ)と義鑑房(ぎかんばう)と討死(うちじに)す。古(いにし)への程嬰(ていえい)・杵臼(しよきう)が振舞にも劣(おと)るべしとも云(いひ)がたし。
○金崎(かねがさきの)城(じやう)落(おつる)事(こと) S1806
金崎(かねがさきの)城(じやう)には、瓜生(うりふ)が後攻(ごづめ)をこそ命に懸(かけ)て待(また)れしに、判官打負(うちまけ)て、軍勢(ぐんぜい)若干(そくばく)討(うた)れぬと聞へければ、憑(たのむ)方(かた)なく成(なり)はて、心細(ぼそく)ぞ覚(おぼえ)ける。日々に随(したがつ)て兵粮乏(とぼし)く成(なり)ければ、或(あるひ)は江魚(えのうを)を釣(つり)て飢(うゑ)を資(たす)け、或(あるひ)は礒菜(いそな)を取(とつ)て日を過(すご)す。暫(しば)しが程こそ加様(かやう)の物に命を続(つい)で軍(いくさ)をもしけれ。余(あま)りに事迫(つま)りければ、寮(れう)の御馬(おんむま)を始(はじめ)として諸大将(しよだいしやう)の被立たる秘蔵(ひさう)の名馬(めいば)共(ども)を、毎日一疋(いつぴき)づゝ差殺(さしころ)して、各是(これ)をぞ朝夕の食(じき)には当(あて)たりける。是(これ)に付(つけ)ても後攻(ごづめ)する者なくては、此(この)城(じやう)今十日とも堪(こらへ)がたし。総大将(そうだいしやう)御兄弟(ごきやうだい)窃(ひそか)に城を御出(おんいで)候(さふらひ)て杣山(そまやま)へ入(いら)せ給ひ、与力(よりき)の軍勢(ぐんぜい)を被催て、寄手(よせて)を被追払候へかしと、面々(めんめん)に被勧申ければ、現(げ)にもとて、新田左中将(さちゆうじやう)義貞・脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助・洞院(とうゐん)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・河島(かうしま)左近(さこんの)蔵人惟頼(これより)を案内者(あんないしや)にて上下七人(しちにん)、三月五日の夜半許(やはんばかり)に、城を忍(しの)び抜出(ぬけい)て杣山(そまやま)へぞ落著(おちつか)せ給ひける。瓜生・宇都宮(うつのみや)不斜(なのめならず)悦(よろこび)て、今一度(いちど)金崎(かねがさき)へ向(むかつ)て、先度(せんど)の恥を雪(きよ)め城中(じやうちゆう)の思(おもひ)を令蘇せと、様々思案を回(めぐら)しけれども、東風漸(やうやく)閑(しづか)に成(なつ)て山路の雪も村消(むらぎえ)ければ、国々の勢も寄手(よせて)に加(くははり)て兵十万騎(じふまんぎ)に余れり。義貞の勢(せい)は僅(わづか)に五百(ごひやく)余人(よにん)、心許(ばかり)は猛(たけ)けれ共(ども)、馬・物具(もののぐ)も墓々(はかばか)しからねば、兎(と)やせまし角(かく)やせましと身を揉(もう)で、二十日(はつか)余(あま)りを過(すご)しける程(ほど)に、金崎(かねがさき)には、早(はや)、馬共をも皆食尽(くひつく)して、食事(しよくじ)を断(た)つ事十日許(ばかり)に成(なり)にければ、軍勢共(ぐんぜいども)も今は手足もはたらかず成(なり)にけり。爰(ここ)に大手(おほて)の攻口(せめくち)に有(あり)ける兵共(つはものども)、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)が前に来(きたつ)て、「此(この)城(じやう)は如何様(いかさま)兵粮に迫(つま)りて馬をばし食(くひ)候やらん。初め比(ごろ)は城中(じやうちゆう)に馬の四五十疋(しごじつぴき)あるらんと覚(おぼ)へて、常に湯洗(ゆあらひ)をし水を蹴(け)させなんどし候(さふらひ)しが、近来(このごろ)は一疋(いつぴき)も引出(ひきだ)す事も候はず。哀(あつぱれ)一攻(ひとせめ)せめて見候はばや。」と申(まうし)ければ、諸大将(しよだいしやう)、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻(うのこく)に、大手・搦手(からめて)十万騎(じふまんぎ)、同時に切岸(きりきし)の下、屏際(へいきは)にぞ付(つけ)たりける。城中(じやうちゆう)の兵共(つはものども)是(これ)を防(ふせが)ん為に、木戸(きど)の辺迄(へんまで)よろめき出(いで)たれ共(ども)、太刀を仕(つか)ふべき力もなく、弓を挽(ひく)べき様(やう)も無(なけ)れば、只徒(いたづら)に櫓(やぐら)の上に登り、屏(へい)の陰(かげ)に集(あつまり)て、息つき居たる許(ばかり)也(なり)。寄手共(よせてども)此(この)有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻(せめ)落さん。」とて、乱杭(らんぐひ)・逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけ屏(へい)を打破(うちやぶつ)て、三重(さんぢゆう)に拵(こしらへ)たる二の木戸(きど)迄ぞ攻入(せめいり)ける。由良(ゆら)・長浜二人(ににん)、新田越後(ゑちごの)守(かみ)の前に参(さん)じて申(まうし)けるは、「城中(じやうちゆう)の兵共(つはものども)数日(すじつ)の疲(つか)れに依(よつ)て、今は矢の一(ひとつ)をも墓々敷(はかばかしく)仕(つかまつり)得候はぬ間、敵既(すで)に一二の木戸(きど)を破(やぶつ)て、攻近付(せめちかづい)て候也(なり)。如何(いかに)思食共(おぼしめすとも)叶(かなふ)べからず。春宮(とうぐう)をば小舟にめさせ進(まゐら)せ、何(いづ)くの浦へも落(おと)し進(まゐら)せ候べし。自余(じよ)の人々は一所(いつしよ)に集(あつまり)て、御自害(ごじがい)有(ある)べしとこそ存(ぞんじ)候へ。其(その)程は我等責口(せめくち)へ罷向(まかりむかつ)て、相支(あひささへ)候べし。見苦(みぐる)しからん物共をば、皆海へ入(いれ)させられ候へ。」と申(まうし)て、御前(おんまへ)を立(たち)けるが、余(あま)りに疲れて足も快(こころよ)く立(たた)ざりければ、二の木戸の脇(わき)に被射殺伏(ふし)たる死人(しにん)の股(もも)の肉を切(きつ)て、二十(にじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)一口づゝ食(くう)て、是(これ)を力にしてぞ戦(たたかひ)ける。河野(かうの)備後(びんごの)守(かみ)は、搦手(からめて)より責入(せめいる)敵を支(ささへ)て、半時計(はんじばかり)戦(たたかひ)けるが、今はゝや精力(せいりよく)尽(つき)て、深手(ふかで)余多(あまた)負(おひ)ければ、攻口(せめくち)を一足(ひとあし)も引退(ひきしりぞ)かず、三十二人(さんじふににん)腹切(きつ)て、同枕(おなじまくら)にぞ伏(ふし)たりける。新田越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)は、一宮(いちのみや)の御前(おんまへ)に参(まゐり)て、「合戦の様(やう)今は是(これ)までと覚(おぼ)へ候。我等無力弓箭(きゆうせん)の名を惜(をし)む家にて候間、自害仕らんずるにて候。上様(うへさま)の御事(おんこと)は、縦(たとひ)敵の中へ御出(おんいで)候(さうらふ)共(とも)、失ひ進(まゐら)するまでの事はよも候はじ。只加様(かやう)にて御座(ござ)有(ある)べしとこそ存(ぞんじ)候へ。」と被申ければ、一宮(いちのみや)何(いつ)よりも御快気(おんこころよげ)に打笑(うちゑま)せ給(たまひ)て、「主上(しゆしやう)帝都へ還幸(くわんかう)成(なり)し時、以我元首(ぐわんしゆの)将とし、以汝令為股肱臣。夫(それ)無股肱元首(ぐわんしゆ)持(もつ)事(こと)を得んや。されば吾(われ)命を白刃(はくじん)の上に縮(しじ)めて、怨(あた)を黄泉(くわうせん)の下(もと)に酬(むく)はんと思(おもふ)也(なり)。抑(そもそも)自害をば如何様(いかさま)にしたるがよき物ぞ。」と被仰ければ、義顕(よしあき)感涙を押(おさ)へて、「加様(かやう)に仕る者にて候。」と申(まうし)もはてず、刀を抜(ぬい)て逆手(さかて)に取直し、左の脇に突立(つきたて)て、右の小脇のあばら骨二三枚懸(かけ)て掻破(かきやぶ)り、其(その)刀を抜(ぬい)て宮の御前(おんまへ)に差置(さしおき)て、うつぶしに成(なつ)てぞ死(しし)にける。一宮(いちのみや)軈(やが)て其(その)刀を被召御覧ずるに、柄口(つかぐち)に血余(あま)りすべりければ、御衣(ぎよい)の袖にて刀の柄(つか)をきり/\と押巻(おしまか)せ給(たまひ)て、如雪なる御膚(おんはだへ)を顕(あらは)し、御心(おんむね)の辺(へん)に突立(つきたて)、義顕が枕の上に伏させ給ふ。頭大夫(とうのだいぶ)行房(ゆきふさ)・里見(さとみ)大炊助(おほいのすけ)時義(ときよし)・武田(たけだの)与一・気比(けひの)弥三郎大夫(たいふ)氏治(うぢはる)・大田帥(おほたそつの)法眼(ほふげん)以下(いげ)御前(おんまへ)に候(さふらひ)けるが、いざゝらば宮の御供(おんとも)仕らんとて、同音に念仏唱(となへ)て一度(いちど)に皆腹を切る。是(これ)を見て庭上(ていじやう)に並(なみ)居たる兵(つはもの)三百(さんびやく)余人(よにん)、互に差違(さしちがへ)々々(さしちがへ)弥(いや)が上に重伏(かさなりふす)。気比大宮司(けひのだいぐうじ)太郎は、元来力人に勝(すぐれ)て水練(すゐれん)の達者なりければ、春宮(とうぐう)を小舟に乗進(のせまゐら)せて、櫓(ろ)かいも無(なけ)れ共(ども)綱手(つなで)を己(おのれ)が横手綱(よこてつな)に結付(ゆひつけ)、海上三十(さんじふ)余町(よちやう)を游(およい)で蕪木(かぶらき)の浦へぞ著進(つけまゐら)せける。是(これ)を知(しる)人更(さら)に無(なか)りければ、潜(ひそか)に杣山(そまやま)へ入進(いれまゐら)せん事は最(いと)安かりぬべかりしに、一宮(いちのみや)を始進(はじめまゐら)せて、城中(じやうちゆうの)人々不残自害する処に、我(われ)一人逃(にげ)て命を活(いき)たらば、諸人の物笑(ものわらひ)なるべしと思(おもひ)ける間、春宮(とうぐう)を怪(あや)しげなる浦人(うらびと)の家に預け置進(おきまゐら)せ、「是(これ)は日本国の主(あるじ)に成(なら)せ給ふべき人にて渡(わたら)せ給ふぞ。如何にもして杣山(そまやま)の城へ入進(いれまゐら)せてくれよ。」と申(まうし)含めて、蕪木(かぶらき)の浦より取(とつ)て返し、本(もと)の海上を游ぎ帰(かへつ)て、弥三郎大夫が自害して伏(ふし)たる其(その)上(うへ)に、自(みづから)我首(わがくび)を掻落(かきおとし)て片手に提(ひつさげ)、大膚脱(おほはだぬき)に成(なつ)て死(しし)にけり。土岐(とき)阿波(あはの)守(かみ)・栗生(くりふ)左衛門・矢島七郎(しちらう)三人(さんにん)は、一所(いつしよ)にて腹切(きら)んとて、岩の上に立並(たちならん)で居たりける処に、船田長門(ながとの)守(かみ)来(きたつ)て、「抑(そもそも)新田殿(につたどの)の御一家(ごいつけ)の運(うん)爰(ここ)にて悉(ことごとく)極(きは)め給はゞ、誰々も不残討死すべけれ共(ども)、惣大将(そうだいしやう)兄弟杣山(そまやま)に御座(ござ)あり、公達(きんだち)も三四人(さんしにん)迄、此彼(ここかしこ)に御座(ござ)ある上は、我等一人も活残(いきのこつ)て御用(ごよう)に立(たた)んずるこそ、永代の忠功にて侍(はんべ)らめ。何(なん)と云(いふ)沙汰もなく自害しつれて、敵に所得(しよとく)せさせての用は何事ぞや。いざゝせ給へ、若(もし)やと隠(かく)れて見ん。」と申(まうし)ければ、三人(さんにん)の者共(ものども)船田が迹(あと)に付(つい)て、遥(はるか)の礒へぞ遠浅(とほあさ)の浪を分(わけ)て、半町許(ばかり)行(ゆき)たれば、礒打(うつ)波に当りて大(おほき)に穿(うげ)たる岩穴(いはあな)あり。「爰(ここ)こそ究竟(くつきやう)の隠(かく)れ所なれ。」とて、四人共に此(この)穴の中に隠れて、三日三夜を過(すご)しける心の中(うち)こそ悲しけれ。由良(ゆら)・長浜は、是(これ)までも猶(なほ)木戸口(きどぐち)に支(ささ)へて、喉(のんど)乾(かわ)けば、己(おのれ)が疵(きず)より流るゝ血を受(うけ)て飲み、力落(おち)疲(つか)るれば、前に伏(ふし)たる死人の肉を切(きつ)て食(くう)て、皆人々の自害しはてん迄と戦(たたかひ)けるを、安間(あまの)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)走(わし)り下(くだつ)て、「何(いつ)を期(ご)に合戦をばし給(たまふ)ぞ。大将は早御自害(ごじがい)候(さふらひ)つるぞや。」と申(まうし)ければ、「いざやさらば、とても死なんずる命を、若(もし)やと寄手(よせて)の大将のあたりへ紛(まぎ)れ寄(よつ)て、よからんずる敵と倶(とも)に差違(さしちが)へて死(しな)ん。」とて、五十(ごじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、三の木戸(きど)を同時に打出(うちいで)、責口(せめくち)一方の寄手(よせて)三千(さんぜん)余人(よにん)を追巻(おひまく)り、其(その)敵に相交(あひまじはつ)て、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)が陣へぞ近付(ちかづき)ける。如何に心許(ばかり)は弥武(やたけ)に思へ共(ども)、城より打出(うちい)でたる者共(ものども)の為体(ていたらく)、枯槁憔悴(こかうせうすゐ)して、尋常(よのつね)の人に可紛も無(なか)りければ、皆人是(これ)を見知(しつ)て、押隔(おしへだて)ける間、一人も能(よき)敵に合(あふ)者無(なく)して、所々(しよしよ)にて皆討(うた)れにけり。都(すべ)て城中(じやうちゆう)に篭(こも)る処の勢(せい)は百六十人(ひやくろくじふにん)、其(その)中に降人(かうにん)に成(なつ)て助かる者十二人(じふににん)、岩の中に隠れて活(いき)たる者四人、其外(そのほか)百五十一人(ひやくごじふいちにん)は一時に自害して、皆戦場の土と成(なり)にけり。されば今に到(いたる)迄其怨霊共(そのをんりやうども)此(この)所に留(とどまつ)て、月曇り雨暗き夜は、叫喚求食(けうくわんくじき)の声啾々(しうしう)として、人の毛孔(まうく)を寒からしむ。「誓掃匈奴不顧身、五千貂錦喪胡塵、可憐無定河辺骨、猶是春閨夢裡人」と、己亥(きがい)の歳(とし)の乱(らん)を見て、陳陶(ちんたう)が作りし隴西行(ろうせいかう)も角(かく)やと被思知たり。
○春宮(とうぐう)還御(くわんぎよの)事(こと)付(つけたり)一宮(いちのみや)御息所(みやすどころの)事(こと) S1807
去(さる)程(ほど)に夜明(あけ)ければ、蕪木(かぶらき)の浦より春宮(とうぐう)御座(ござ)の由告(つげ)たりける間、島津駿河(するがの)守(かみ)忠治(ただはる)を御迎に進(まゐら)せて取(とり)奉る。去(さんぬる)夜金崎(かねがさき)にて討死自害の頚百五十一(ひやくごじふいち)取並(とりなら)べて被実検けるに、新田(につた)の一族(いちぞく)には、越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)・里見(さとみ)大炊助(おほいのすけ)義氏(よしうぢ)の頚許(ばかり)有(あつ)て、義貞・義助二人(ににん)の首(くび)は無(なか)りけり。さては如何様(いかさま)其辺(そのへん)の淵の底なんどにぞ沈めたらんと、海人(あま)を入(いれ)て被(かづ)かせけれ共(ども)、曾(かつて)不見ければ、足利(あしかが)尾張(をはりの)守(かみ)、春宮(とうぐう)の御前(おんまへ)に参(まゐり)て、「義貞・義助二人(ににん)が死骸、何(いづ)くに有(あり)とも見へ候はぬは、何(なん)と成候(なりさふらひ)けるやらん。」と被尋申ければ、春宮(とうぐう)幼稚なる御心(おんこころ)にも、彼(かの)人々杣山(そまやま)に有(あり)と敵に知(しら)せては、軈(やが)て押寄(おしよす)る事もこそあれと被思召けるにや。「義貞・義助二人(ににん)、昨日の暮程(ほど)に自害したりしを、手(て)の者共(ものども)が役所の内にして火葬にするとこそ云(いひ)沙汰せしか。」と被仰ければ、「さては死骸のなきも道理也(なり)けり。」とて、是(これ)を求(もとむ)るに不及。さてこそ杣山(そまやま)には墓々敷(はかばかしき)敵なければ、降人にぞ出(いで)んずらんとて、暫(しばし)が程は閣(さしおき)けれ。我執(がしふ)と欲念(よくねん)とにつかはれて、互に害心を発(おこ)す人々も、終(つひ)には皆無常の殺鬼(せつき)に逢ひ、被呵責ことも不久。哀(あはれ)に愚かなる事共(ことども)なり。新田越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)・並(ならびに)一族(いちぞく)三人(さんにん)、其外(そのほか)宗徒(むねと)の首(くび)七(ななつ)を持(もた)せ、春宮(とうぐう)をば張輿(はりこし)に乗進(のせまゐら)せて、京都へ還(かへ)し上(のぼ)せ奉る。諸大将(しよだいしやう)事の体(てい)、皆美々敷(びびしく)ぞ見へたりける。越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)の首をば、大路(おほち)を渡して獄門(ごくもん)に被懸。新帝御即位(ごそくゐ)の初(はじめ)より三年の間は、天下の刑(けい)を不行法也(なり)。未(いまだ)河原(かはら)の御禊(おんはらひ)、大甞会(だいじやうゑ)も不被遂行先に、首(くび)を被渡事は如何(いかが)あるべからん。先帝重祚(ちようそ)の初(はじめ)、規矩掃部助(きくのかもんのすけ)高政(たかまさ)・糸田(いとだ)左近(さこんの)将監(しようげん)貞吉(さだよし)が首を被渡たりしも、不吉の例(れい)とこそ覚(おぼ)ゆれと、諸人の意見共(いけんども)有(あり)けれ共(ども)、是(これ)は朝敵(てうてき)の棟梁(とうりやう)義貞の長男なればとて、終(つひに)大路(おほち)を被渡けり。春宮(とうぐう)京都へ還御成(なり)ければ、軈(やがて)楼(ろう)の御所を拵(こしら)へて、奉押篭。一宮(いちのみや)の御頚(おんくび)をば、禅林寺(ぜんりんじ)の長老夢窓国師(むさうこくし)の方へ被送、御喪礼(ごさうれい)の儀式を引繕(ひきつくろは)る。さても御匣殿(みくしげどの)の御歎(おんなげき)、中々(なかなか)申(まうす)も愚(おろか)也(なり)。此御匣殿(このみくしげどの)の一宮(いちのみや)に参り初給(そめたまひ)し古(いにし)への御心(おんこころ)尽(つく)し、世に類(たぐひ)なき事とこそ聞へしか。一宮(いちのみや)已(すで)に初冠(うひかうむり)めされて、深宮(しんきゆう)の内に長(ひととなら)せ給(たまひ)し後、御才学(ごさいかく)もいみじく容顔(ようがん)も世に勝(すぐ)れて御座(おはせし)かば、春宮(とうぐう)に立(たた)せ給(たまひ)なんと、世の人時明逢(ときめきあ)へりしに、関東(くわんとう)の計(はから)ひとして、慮(おもひ)の外(ほか)に後二条(ごにでうの)院(ゐん)の第一(だいいち)の御子春宮(とうぐう)に立(たた)せ給(たまひ)しかば、一宮(いちのみや)に参り仕(つかふ)べき人々も、皆望(のぞみ)を失ひ、宮も世中(よのなか)万(よろ)づ打凋(うちしをれ)たる御心地(おんここち)して、明暮(あけくれ)は只詩哥(しいか)に御心(おんこころ)を寄せ、風月に思(おもひ)を傷(いたま)しめ給ふ。折節(をりふし)に付(つけ)たる御遊(おんあそび)などあれ共(ども)、差(さし)て興(きよう)ぜさせ給ふ事もなし。さるにつけては、何(いか)なる宮腹(みやばら)、一(いち)の人の御女(おんむすめ)などを角(かく)と仰(おほせ)られば、御心(おんこころ)を尽(つく)させ給ふまでもあらじと覚(おぼ)へしに、御心(おんこころ)に染(そ)む色も無(なか)りけるにや、是(これ)をと被思召たる御気色(ごきしよく)もなく、只独(ひとり)のみ年月を送らせ給(たまひ)ける。或時(あるとき)関白左大臣の家にて、なま上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)余(あま)た集(あつまり)て、絵合(ゑあはせ)の有(あり)けるに、洞院(とうゐん)の左大将の出されたりける絵に、源氏の優婆塞(うばそく)の宮(みや)の御女(おんむすめ)、少し真木柱(まきばしら)に居隠(かくれ)て、琵琶を調(しら)べ給(たまひ)しに、雲隠(くもがく)れしたる月の俄(にはか)に最(いと)あかく指出(さしいで)たれば、扇(あふぎ)ならでも招(まねく)べかりけりとて、撥(ばち)を揚(あげ)てさしのぞきたる顔つき、いみじく臈闌(らふたけ)て、匂(にほ)やかなる気色(けしき)云(いふ)ばかりなく、筆を尽(つく)してぞ書(かき)たりける。一宮(いちのみや)此(この)絵を被御覧、無限御心(おんこころ)に懸りければ、此(この)絵を暫被召置、みるに慰(なぐさ)む方(かた)もやとて、巻返(まきかへし)々々(まきかへし)御覧ぜらるれ共(ども)、御心(おんこころ)更(さら)に不慰。昔漢李夫人(かんのりふじん)甘泉殿(かんせんでん)の病(やまひ)の床に臥して無墓成給(なりたまひ)しを、武帝悲(かなし)みに堪兼(たへかね)て返魂香(はんごんかう)を焼玉(たきたまひ)しに、李夫人(りふじん)の面影(おもかげ)の烟の中に見へたりしを、似絵(にせゑ)に書(かか)せて被御覧しかども、「不言不笑令愁殺人。」と、武帝の歎給(なげきたまひ)けんも、現(げ)に理(ことわり)と思知(おもひしら)せ給ふ。我ながら墓(はか)なの心迷(こころまよひ)やな。誠の色を見てだにも、世は皆夢の中(うち)の現(うつつ)とこそ思ひ捨(すつ)る事なるに、是(これ)はそも何事(なにこと)の化(あだ)し心ぞや。遍照僧正(へんぜうそうじやう)の哥の心を貫之(つらゆき)が難(なん)じて、「歌のさまは得たれ共(ども)実(まこと)少(すくな)し。譬(たと)へば絵に書ける女を見て徒(いたづら)に心を動(うごか)すが如し。」と云(いひ)し、其類(そのたぐひ)にも成(なり)ぬる者哉(かな)と思棄(おもひすて)給へ共(ども)、尚(なほ)文悪(あやにく)なる御心(おんこころ)胸(むね)に充(みち)て、無限御物思(おんものおもひ)に成(なり)ければ、傍(かた)への色異(こと)なる人を御覧じても、御目をだにも回(めぐ)らされず。況(まし)て時々の便(たよ)りにつけて事問通(とひかは)し給ふ御方様(おんかたさま)へは、一急雨(ひとむらさめ)の過(すぐ)る程の笠宿(かさやど)りに可立寄心地(ここち)にも思召(おぼしめ)さず。世中(よのなか)にさる人ありと伝聞(つたへきき)て御心(おんこころ)に懸(かか)らば、玉垂(たまだれ)の隙(ひま)求(もとむ)る風の便(たより)も有(あり)ぬべし。又僅(わづか)に人を見し許(ばかり)なる御心(おんこころ)当(あて)ならば、水の泡(あわ)の消返(きえかへ)りても、寄(よ)る瀬(せ)はなどか無(なか)るべきに、是(これ)は見しにも非(あら)ず聞(きき)しにも非(あら)ず、古(いにしへ)の無墓物語、化(あだ)なる筆の迹(あと)に御心(おんこころ)を被悩ければ、無為方思召煩(おぼしめしわづら)はせ給へば、せめて御心(おんこころ)を遣方(やるかた)もやと、御車(おんくるま)に被召、賀茂(かも)の糾(ただす)の宮(みや)へ詣(まうで)させ給ひ、御手洗河(みたらしかは)の川水を御手水(おんてうづ)に結(むす)ばれ、何(なん)となく河に逍遥(せうえう)せさせ給ふにも、昔業平(なりひらの)中将(ちゆうじやう)、恋せじと御祓(みそぎ)せし事も、哀(あはれ)なる様(さま)に思召出(おぼしめしいだ)されて、祈る共(とも)神やはうけん影をのみ御手洗河(みたらしかは)の深き思(おもひ)をと詠ぜさせ給ふ時しもあれ、一急雨(ひとむらさめ)の過行(すぎゆく)程、木(こ)の下(した)露(つゆ)に立濡(たちぬれ)て、御袖(おんそで)もしほれたるに、「日も早暮(くれ)ぬ。」と申(まうす)声して、御車(おんくるま)を轟(とどろ)かして一条を西へ過(すぎ)させ給ふに、誰(た)が栖宿(すむやど)とは不知、墻(かき)に苔(こけ)むし瓦(かはら)に松生(おひ)て、年久(ひさし)く住荒(すみあら)したる宿(やど)の物さびし気(げ)なるに、撥音(ばちおと)気高(けだか)く青海波(せいがいは)をぞ調(しら)べたる。「怪(あや)しや如何なる人なるらん。」と、洗墻に御車(おんくるま)を駐(とど)めさせて、遥(はるか)に見入(いれ)させ給ひたれば、見る人有(あり)とも不知体(てい)にて、暮居(くれゐる)空の月影の、時雨(しぐれ)の雲間(くもま)より幽々(ほのぼの)と顕(あらは)れ出(いで)たるに、御簾(みす)を高く巻上(まきあげ)て、年の程二八許(ばかり)なる女房の、云(いふ)ばかりなくあてやかなるが、秋の別(わかれ)を慕ふ琵琶を弾(だん)ずるにてぞ有(あり)ける。鉄砕珊瑚一両曲、氷写玉盤千万声、雑錯(かきみだし)たる其(その)声は、庭の落葉(おちば)に紛(まぎれ)つゝ、外(よそ)には降らぬ急雨(むらさめ)に、袖渋(しほ)る許(ばかり)にぞ聞へたる。宮御目も文(あや)に熟々(つくつく)と御覧ずるに、此(この)程漫(そぞろ)に御心(おんこころ)を尽して、夢にもせめて逢(あひ)見ばやと、恋悲(こひかなし)み給ひつる似絵(にせゑ)に少しも不違、尚あてやかに臈闌(らふたけ)て、云はん方なくぞ見へたりける。御心地(おんここち)空(そら)に浮(うかれ)て、たど/\しき程(ほど)に成(なら)せ給へば、御車(おんくるま)より下(おり)させ給(たまひ)て、築山(つきやま)の松の木陰(こかげ)の立寄(たちよら)せ給へば、女房見る人有(あり)と物侘(ものわび)し気(げ)にて、琵琶をば几帳(きちやう)の傍(かたは)らに指寄(さしよ)せて内へ紛(まぎ)れ入(いり)ぬ。引(ひく)や裳裾(もすそ)の白地(あからさま)なる面影(おもかげ)に、又立出(たちいづ)る事もやとて、立徘徊(たちやすら)はせ給(たまひ)たれば、怪(あやし)げなる御所侍(ごしよさぶらひ)の、御隔子進(みかうしまゐら)する音して、早人定(しづま)りぬれば、何迄(いつまで)角(かく)ても可有とて、宮還御成(くわんぎよなり)ぬ。絵にかきたりし形(かたち)にだに、御心(おんこころ)を悩(なやま)されし御事(おんこと)也(なり)。まして実(まこと)の色を被御覧て、何(いか)にせんと恋忍(こひしの)ばせ給(たまふ)も理(ことわり)哉(かな)。其後(そののち)よりは太(ひた)すらなる御気色(おんけしき)に見へながら、流石(さすが)御詞(おんことば)には不被出けるに、常に御会(ぎよくわい)に参り給ふ二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)為冬(ためふゆ)、「何(いつ)ぞや賀茂の御帰(おんかへ)さの、幽(ほのか)なりし宵(よひ)の間(ま)の月、又も御覧ぜまぼしく被思召にや。其(その)事(こと)ならば最(いと)安き事にてこそ侍(はんべ)るめれ。彼(か)の女房の行末を委(くはしく)尋(たづね)て候へば、今出河(いまでがはの)右大臣公顕(きんあき)の女(むすめ)にて候なるを、徳大寺(とくだいじの)左大将に乍申名、未(いまだ)皇太后宮(くわうたいごうぐう)の御匣(みくしげ)にて候なる。切(せつ)に思召(おぼしめさ)れ候はゞ、歌の御会(ぎよくわい)に申寄(まうしよせ)て彼亭(かのてい)へ入(いら)せ給(たまひ)て、玉垂(たまだれ)の隙(ひま)にも、自(みづから)御心(おんこころ)を露(あらは)す御事(おんこと)にて候へかし。」と申せば、宮例(れい)ならず御快(おんこころよ)げに打笑(うちわらは)せ給(たまひ)て、「軈(やがて)今夜其亭(そのてい)にて可有褒貶御会。」と、右大臣の方へ被仰出ければ、公顕(きんあき)忝(かたじけなし)と取りきらめきて、数寄(すき)の人余(あま)た集(あつめ)て、角(かく)と案内申せば、宮は為冬許(ばかり)を御供(おんとも)にて、彼亭(かのてい)へ入(いら)せ給(たまひ)ぬ。哥の事は今夜さまでの御本意(ごほんい)ならねば、只披講許(ひかうばかり)にて、褒貶(はうへん)はなし。主(あるじ)の大臣(おとど)こゆるぎの急ぎありて、土器(かはらけ)もて参りたれば、宮(みや)常よりも興(きよう)ぜさせ給(たまひ)て、郢曲絃歌(えいきよくげんか)の妙々(たへたへ)に、御盃(さかづき)給はせ給ひたるに、主(あるじ)も痛く酔臥(よひふし)ぬ。宮も御枕(おんまくら)を傾(かたむけ)させ給へば、人皆定(しづま)りて夜も已(すで)に深(ふけ)にけり。媒(なかだち)の左中将(さちゆうじやう)心有(あつ)て酔(よは)ざりければ、其(その)案内せさせて、彼(かの)女房の栖(すみ)ける西の台(たい)へ忍入(しのびいら)せ給(たまひ)て、墻(かき)の隙(ひま)より見給へば、灯(ともしび)の幽(かすか)なるに、花紅葉(はなもみぢ)散乱(ちりみだれ)たる屏風(びやうぶ)引回(ひきまは)し、起(おき)もせず寝(ね)もせぬ体(てい)に打濡(うちしをれ)、只今人々の読(よみ)たりつる哥の短冊(たんじやく)取出(とりいだ)して、顔打傾(うちかたむ)けたれば、こぼれ懸りたる鬢(びん)の端(はづ)れより、匂(にほ)やかに幽(ほのか)なる容(かほば)せ、露を含める花の曙(あけぼの)、風に随へる柳の夕の気色(けしき)、絵に書共(かくとも)筆も難及、語るに言(ことば)も無(なか)るべし。外(よそ)ながら幽(ほのか)に見てし形(かたち)の、世に又類(たぐ)ひもやあらんと、怪(あや)しきまでに思ひしは、尚(なほ)数(かず)ならざりけりと御覧じ居給ふに、御心(おんこころ)も早ほれ/゛\と成(なつ)て、不知我が魂(たましひ)も其(その)袖の中にや入(いり)ぬらんと、ある身ともなく覚(おぼえ)させ給ふ。時節(をりふし)辺(あたり)に人も無(なく)て、灯(ともしび)さへ幽(かすか)なれば、妻戸(つまど)を少し押開(おしあけ)て内へ入(いら)せ給(たまひ)たるに、女(をんな)は驚く貌(かたち)にも非(あら)ず、閑(のど)やかにもてなして、やはら衣(きぬ)引被(ひきかづい)て臥(ふし)たる化妝(けはひ)、云(いひ)知らずなよやかに閑麗(みやびやか)なり。宮も傍(そば)に寄伏給(よりふさせたまひ)て、有(あり)しながらの心尽(づく)し、哀(あはれ)なる迄に聞へけれ共(ども)、女はいらへも申さず、只思(おもひ)にしほれたる其気色(そのけしき)、誠(まこと)に匂(にほひ)深(ふかう)して、花薫(かを)り月霞(かす)む夜の手枕(たまくら)に、見終(はて)ぬ夢の化(おもかげ)ある御心(おんこころ)迷(まよひ)に、明(あく)るも不知語(かたら)ひ給へ共(ども)、尚(なほ)強顔(つれなき)気色(けしき)にて程経(へ)ぬれば、己(おのれ)が翅(つばさ)を並(なら)べながら人の別(わかれ)をも思知(おもひしら)ぬ八声(やこゑ)の鳥も告(つげ)渡り、涙の氷解(とけ)やらず、衣々(きぬぎぬ)も冷(ひや)やかに成(なり)て、類(たぐひ)も怨(つら)き在明(ありあけ)の、強顔(つれなき)影(かげ)に立帰(たちかへら)せ給(たまひ)ぬ。其後(そののち)より度々(たびたび)御消息(ごせうそく)有(あつ)て、云(いふ)ばかりなき御文(おんふみ)の数(かず)、早千束(ちづか)にも成(なり)ぬ覧(らん)と覚(おぼゆ)る程(ほど)に積(つも)りければ、女も哀(あはれ)なる方に心引(ひか)れて、のぼれば下(くだ)る稲舟(いなふね)の、否(いな)には非(あら)ずと思へる気色(けしき)になん顕(あらは)れたり。され共(ども)尚(なほ)互に人目を中(なか)の関守(せきもり)になして、月比(つきごろ)過(すぎ)させ給(たまひ)けるに、式部(しきぶの)少輔(せう)英房(ひでふさ)と云(いふ)儒者、御文談(ごぶんだん)に参じて、貞観政要(ぢやうぐわんせいえう)を読(よみ)けるに、「昔唐(たう)の太宗、鄭仁基(ていじんき)が女(むすめ)を后(きさき)に備(そな)へ、元和殿(げんわてん)に冊入(かしづきいれ)んとし玉(たま)ひしを、魏徴(ぎちよう)諌(いさめ)て、「此女(このむすめ)は已(すで)に陸氏(りくし)に約(やく)せり」と申せしかば、太宗其諌(そのいさめ)に随(したがつ)て、宮中に召(めさ)るゝ事を休(や)め給(たまひ)き。」と談(だん)じけるを、宮熟々(つくつく)と聞召(きこしめし)て、何(いか)なれば古(いにしへ)の君は、かく賢人の諌(いさめ)に付(つい)て、好色心を棄給(すてたまひ)けるぞ。何(いか)なる我なれば、已(すで)に人の云名付(いひなづけ)て事定(さだま)りたる中(なか)をさけて、人の心を破(やぶ)るらん。古の様(ためし)を恥(はぢ)、世の譏(そしり)を思食(おぼしめし)て、只御心(おんこころ)の中(うち)には恋悲(こひかなし)ませ給ひけれ共(ども)、御詞(おんことば)には不被出、御文(おんふみ)をだに書絶(かきたえ)て、角(かく)とも聞へねば、百夜(ももよ)の榻(しぢ)の端書(はしがき)、今は我や数(かず)書(かか)ましと打侘(うちわび)て、海士(あま)の刈藻(かるも)に思乱(おもひみだれ)給ふ。角(かく)て月日も過(すぎ)ければ、徳大寺此(この)事(こと)を聞及(ききおよび)、「左様(さやう)に宮なんどの御心(おんこころ)に懸(かけ)られんを、争(いか)でか便(びん)なうさる事可有。」とて、早(はや)あらぬ方に通(かよ)ふ道有(あり)と聞へければ、宮も今は無御憚、重(かさね)て御文(おんふみ)の有(あり)しに、何よりも黒(くろ)み過(すぎ)て、知(しら)せばや塩やく浦の煙(けぶり)だに思はぬ風になびく習(なら)ひを女(をんな)もはや余(あま)りに強顔(つれな)かりし心の程、我ながら憂(うき)物に思ひ返す心地(ここち)になん成(なり)にければ、詞(ことば)は無(なく)て、立(たち)ぬべき浮(うき)名を兼(かね)て思はずは風に烟(けぶり)のなびかざらめや其後(そののち)よりは、彼方此方(かなたこなた)に結(むす)び置(おか)れし心の下紐(したひぼ)打解(うちとけ)て、小夜(さよ)の枕を河島の、水の心も浅からぬ御契(おんちぎり)に成(なり)しかば、生(いき)ては偕老(かいらう)の契(ちぎり)深く、又死(しし)ては同苔(おなじこけ)の下にもと思召通(おぼしめしかよは)して、十月(とつき)余(あま)りに成(なり)にけるに、又天下の乱(らん)出来(いできたつ)て、一宮(いちのみや)は土佐(とさ)の畑(はた)へ被流させ給(たまひ)しかば、御息所(みやすどころ)は独(ひとり)都に留(とどま)らせ給(たまひ)て、明(あく)るも不知歎き沈(しづま)せ給(たまひ)て、せめてなき世の別(わかれ)なりせば、憂(うき)に堪(たへ)ぬ命にて、生(うま)れ逢(あは)ん後の契(ちぎり)を可憑に、同(おなじ)世ながら海山を隔(へだ)てゝ、互に風の便(たより)の音信(おとづれ)をだにも書絶(かきたえ)て、此日比(このひごろ)召仕(めしつか)はれける青侍(せいし)・官女(くわんぢよ)の一人も参り通はず、万(よろ)づ昔に替(かは)る世に成(なつ)て、人の住荒(すみあら)したる蓬生(よもぎふ)の宿(やど)の露けきに、御袖(おんそで)の乾(かわ)く隙(ひま)もなく、思召入(おぼしめしいら)せ給ふ御有様(おんありさま)、争(いか)でか涙の玉の緒(を)も存(ながら)へぬ覧(らん)と、怪(あやし)き程の御事(おんこと)也(なり)。宮も都を御出(おんいで)有(あり)し日より、公(きみ)の御事(おんこと)御身(おんみ)の悲(かなし)み、一方(ひとかた)ならず晴(はれ)やらぬに、又打添(うちそひ)て御息所(みやすどころ)の御名残(おんなごり)、是(これ)や限(かぎり)と思召(おぼしめし)しかば、供御(くご)も聞召入(きこしめしいれ)られず、道の草葉(くさば)の露共(とも)に、消(きえ)はてさせ給(たまひ)ぬと見へさせ給ふ。惜共(をししとも)思食(おぼしめさ)ぬ御命長(なが)らへて、土佐(とさ)の畑(はた)と云(いふ)所の浅猿(あさまし)く、此(この)世の中とも覚(おぼ)へぬ浦の辺(あたり)に流されて、月日を送らせ給へば、晴るゝ間(ま)もなき御歎(おんなげき)、喩(たと)へて云(いは)ん方(かた)もなし。余(あま)りに思(おもひ)くづほれさせ給ふ御有様(おんありさま)の、御痛敷(おんいたはしく)見奉りければ、御警固(おんけいご)に候(さふらひ)ける有井庄司(ありゐのしやうじ)、「何(なに)か苦(くるし)く候べき。御息所(みやすどころ)を忍(しのん)で此(これ)へ入進(いれまゐら)せられ候へ。」とて、御衣(おんきぬ)一重(ひとかさね)し立(たて)て、道の程の用意(ようい)迄細々(さいさい)に沙汰し進(まゐら)せければ、宮無限喜(うれ)しと思召(おぼしめし)て、只一人召仕(めしつかは)れける右衛門(うゑもん)府生(ふしやう)秦武文(はだのたけふん)と申(まうす)随身(ずゐじん)を、御迎(おんむかひ)に京へ上(のぼ)せらる。武文(たけふん)御文(おんふみ)を給(たまはり)て、急(いそぎ)京都へ上(のぼ)り、一条堀川(いちでうほりかは)の御所へ参りたれば、葎(むぐら)茂りて門(かど)を閉(とぢ)、松の葉積りて道もなし。音信通(おとづれかよ)ふものとては、古き梢(こづゑ)の夕嵐(ゆふあらし)、軒もる月の影ならでは、問(とふ)人もなく荒(あれ)はてたり。さては何(いづ)くにか立忍(たちしの)ばせ給(たまひ)ぬらんと、彼方此方(あなたこなた)の御行末を尋行(たづねゆく)程(ほど)に、嵯峨の奥深草(ふかくさ)の里に、松の袖垣(そでがき)隙(ひま)あらはなるに、蔦(つた)はい懸(かかり)て池の姿も冷愁(さびし)く、汀(みぎは)の松の嵐も秋冷(すさまじ)く吹(ふき)しほりて、誰(たれ)栖(すみ)ぬらんと見るも懶(ものう)げなる宿の内に、琵琶を弾(だん)ずる音しけり。怪(あや)しやと立留(たちどまつ)て、是(これ)を聞(きけ)ば、紛(まぎら)ふべくもなき御撥音(ばちおと)也(なり)。武文(たけふん)喜(うれ)しく思ひて、中々(なかなか)案内も不申、築地(ついぢ)の破(やぶ)れより内へ入(いつ)て、中門(ちゆうもん)の縁(えん)の前に畏(かしこま)れば、破(やぶ)れたる御簾(みす)の内より、遥(はるか)に被御覧、「あれや。」と許(ばかり)の御声幽(かすか)に聞へながら、何共(なんとも)被仰出事もなく、女房達(にようばうたち)数(あま)たさゞめき合ひて、先(まづ)泣(なく)声のみぞ聞へける。「武文(ためふん)御使(おんつかひ)に罷上(まかりのぼ)り、是(これ)迄尋(たづね)参りて候。」と申(まうし)も不敢、縁(えん)に手を打懸(うちかけ)てさめ/゛\と泣(なき)居たり。良有(ややあつ)て、「只此迄(これまで)。」と召(めし)あれば、武文(たけふん)御簾(みす)の前に跪(ひざまづ)き、「雲井の外(よそ)に想像進(おもひやりまゐ)らするも、堪忍(たへしの)び難(がた)き御事(おんこと)にて候へば、如何にもして田舎(ゐなか)へ御下(おんくだ)り候へとの御使(おんつかひ)に参(まゐり)て候。」とて、御文(おんふみ)を捧(ささげ)たり。急ぎ披(ひらい)て御覧ぜらゝるに、げにも御思ひの切(せつ)なる色さもこそと覚(おぼえ)て、言(こと)の葉毎(はごと)に置(おく)露の、御袖(おんそで)に余(あま)る許(ばかり)なり。「よしや何(いか)なる夷(ひな)の栖居(すまひ)なりとも、其憂(そのうき)にこそ責(せめ)ては堪(たへ)め。」とて、既(すで)に御門出(おんかどで)有(あり)ければ、武文(たけふん)甲斐々々敷(かひがひしく)御輿(おんこし)なんど尋出(たづねいだ)し、先(まづ)尼崎(あまがさき)まで下(くだ)し進(まゐら)せて、渡海(とかい)の順風をぞ相待(あひまち)ける。懸(かか)りける折節(をりふし)、筑紫人(つくしひと)に松浦(まつら)五郎と云(いひ)ける武士(ぶし)、此(この)浦に風を待(まち)て居たりけるが、御息所(みやすどころ)の御形(かたち)を垣(かき)の隙(ひま)より見進(まゐら)せて、「こはそも天人の此(この)土へ天降(あまくだ)れる歟(か)。」と、目枯(めがれ)もせず守(まも)り居たりけるが、「穴(あな)無端や。縦(たとひ)主(ぬし)ある人にてもあれ、又何(いか)なる女院(にようゐん)・姫宮(ひめみや)にても坐(おはし)ませ。一夜(いちや)の程(ほど)に契(ちぎり)を、百年の命に代(かへ)んは何(なに)か惜(をし)からん。奪取(うばひとつ)て下(くだ)らばや。」と思(おもひ)ける処に、武文(たけふん)が下部(しもべ)の浜の辺(あたり)に出(いで)て行(ゆき)けるを呼寄(よびよせ)て、酒飲(のま)せ引出物(ひきでもの)なんど取(とら)せて、「さるにても御辺(ごへん)が主(あるじ)の具足(ぐそく)し奉(たてまつ)て、船に召(めさ)せんとする上臈(じやうらふ)は、何(いか)なる人にて御渡(おんわたり)あるぞ。」と問(とひ)ければ、下臈(げらふ)の墓(はか)なさは、酒にめで引出物(ひきでもの)に耽(ふけ)りて、事の様(やう)有(あり)の侭(まま)にぞ語りける。松浦大(おほき)に悦(よろこん)で、「此比(このごろ)何(いか)なる宮にても御座(おは)せよ、謀反人(むほんにん)にて流され給へる人の許(もと)へ、忍(しのん)で下給(くだりたま)はんずる女房を、奪捕(うばひとつ)たり共(とも)、差(さし)ての罪科(ざいくわ)はよも非じ。」と思(おもひ)ければ、郎等共(らうどうども)に彼宿(かのやど)の案内能々(よくよく)見置(おか)せて、日の暮(くる)るをぞ相待(あひまち)ける。夜既(すで)に深(ふけ)て人定(しづま)る程(ほど)に成(なり)ければ、松浦が郎等(らうどう)三十(さんじふ)余人(よにん)、物具(もののぐ)ひし/\と堅めて、続松(たいまつ)に火を立(たて)て蔀(しとみ)・遣戸(やりど)を蹈破(ふみやぶ)り、前後より打(うつ)て入(いる)。武文(たけふん)は京家(きやうけ)の者と云(いひ)ながら、心剛(かう)にして日比(ひごろ)も度々(どど)手柄(てがら)を顕(あらは)したる者なりければ、強盜(がうだう)入(いり)たりと心得て、枕に立(たて)たる太刀をゝつ取(とつ)て、中門(ちゆうもん)に走出(わしりいで)て、打入(うちいる)敵三人(さんにん)目の前に切(きり)臥せ、縁(えん)にあがりたる敵三十(さんじふ)余人(よにん)大庭へ颯(さつ)と追出(おひだ)して、「武文(たけふん)と云(いふ)大剛(だいかう)の者此(これ)にあり。取(とら)れぬ物を取らんとて、二(ふた)つなき命を失(うしなふ)な、盜人共(ぬすぶとども)。」と■(あざけつ)て、仰(のつ)たる太刀を押直(おしなほ)し、門(もん)の脇(わき)にぞ立(たつ)たりける。松浦が郎等共(らうどうども)武文(たけふん)一人に被切立て、門より外(そと)へはつと逃(にげ)たりけるが、「蓬(きたな)し。敵は只一人ぞ。切(きつ)て入(いれ)。」とて、傍(そば)なる在家(ざいけ)に火を懸(かけ)て、又喚(をめい)てぞ寄(よせ)たりける。武文(たけふん)心は武(たけ)しといへ共(ども)、浦風に吹覆(ふきおほ)はれたる烟(けむり)に目暮(くれ)て、可防様(やう)も無(なか)りければ、先(まづ)御息所(みやすどころ)を掻負進(かいおひまゐら)せ、向ふ敵を打払(うちはらつ)て、澳(おき)なる船を招き、「何(いか)なる舟にてもあれ、女性(によしやう)暫(しばらく)乗進(のせまゐら)せてたび候へ。」と申(まうし)て、汀(みぎは)にぞ立(たち)たりける。舟しもこそ多かるに、松浦が迎(むかひ)に来たる舟是(これ)を聞(きい)て、一番に渚(なぎさ)へ差寄(さしよせ)たれば、武文(たけふん)大(おほき)に悦(よろこん)で、屋形(やかた)の内に打置(うちおき)奉り、取落(とりおと)したる御具足(ぐそく)、御伴(おんとも)の女房達(にようばうたち)をも、舟に乗(のせ)んとて走帰(わしりかへり)たれば、宿(やど)には早(はや)火懸(かかつ)て、我方様(わがかたざま)の人もなく成(なり)にけり。松浦は適(たまたま)我(わが)舟に此(この)女房の乗(のら)せ給(たまひ)たる事(こと)、可然契(ちぎり)の程哉(かな)と無限悦(よろこび)て、「是(これ)までぞ。今は皆舟に乗れ。」とて、郎等(らうどう)・眷属(けんぞく)百(ひやく)余人(よにん)、捕(とる)物も不取敢、皆此(この)舟に取乗(とりのつ)て、眇(はるか)の澳(おき)にぞ漕出(こぎいだ)したる。武文(たけふん)渚(なぎさ)に帰来(かへりきたつ)て、「其(その)御舟(おんふね)被寄候へ。先(さき)に屋形(やかた)の内に置進(おきまゐら)せつる上臈(じやうらふ)を、陸(くが)へ上進(あげまゐら)せん。」と喚(よばは)りけれども、「耳にな聞入(ききいれ)そ。」とて、順風に帆を上(あげ)たれば、船は次第に隔(へだた)りぬ。又手繰(てぐり)する海士(あま)の小船に打乗(うちのつ)て、自(みづから)櫓(ろ)を推(おし)つゝ、何共(なんとも)して御舟(おんふね)に追著(おひつか)んとしけれ共(ども)、順風を得たる大船に、押手(おして)の小舟非可追付。遥(はるか)の沖に向(むかつ)て、挙扇招きけるを、松浦が舟にどつと笑(わらふ)声を聞(きい)て、「安からぬ者哉(かな)。其(その)儀ならば只今の程(ほど)に海底(かいてい)の竜神(りゆうじん)と成(なつ)て、其(その)舟をば遣(やる)まじき者を。」と忿(いかつ)て、腹十文字(じふもんじ)に掻切(かききつ)て、蒼海(さうかい)の底にぞ沈(しづみ)ける。御息所(みやすどころ)は夜討の入(いり)たりつる宵の間(ま)の騒(さわぎ)より、肝心(きもたましひ)も御身(おんみ)に不副、只夢の浮橋(うきはし)浮沈(うきしづみ)、淵瀬をたどる心地して、何(なん)と成行(なりゆく)事(こと)共(とも)知(しら)せ給はず。舟の中なる者共(ものども)が、「あはれ大剛(だいかう)の者哉(かな)。主(あるじ)の女房を人に奪はれて、腹を切(きり)つる哀(あはれ)さよ。」と沙汰するを、武文(たけふん)が事やらんとは乍聞召、其方(そのかた)をだに見遣(やら)せ給はず。只衣(きぬ)引被(ひきかづい)て屋形の内に泣沈(なきしづ)ませ給ふ。見るも恐ろしくむくつけ気(げ)なる髭男(ひげをとこ)の、声最(いと)なまりて色飽(あく)まで黒きが、御傍(おんそば)に参(まゐつ)て、「何をかさのみむつからせ給ふぞ。面白き道すがら、名所共(めいしよども)を御覧じて御心(おんこころ)をも慰(なぐさ)ませ給(たまひ)候へ。左様(さやう)にては何(いか)なる人も船には酔(よふ)物にて候ぞ。」と、兎角(とかく)慰め申せ共(ども)、御顔をも更(さらに)擡(もたげ)させ給はず、只鬼を一車(ひとつくるま)に載せて、巫(ぶ)の三峡(さんかふ)に棹(さをさ)すらんも、是(これ)には過(すぎ)じと御心(おんこころ)迷ひて、消入(きえいら)せ給(たまひ)ぬべければ、むくつけ男も舷(ふなばた)に寄懸(よりかかつ)て、是(これ)さへあきれたる体(てい)なり。其(その)夜は大物(だいもつ)の浦に碇(いかり)を下(おろ)して、世を浦風に漂(ただよ)ひ給ふ。明(あく)れば風能成(よくなり)ぬとて、同じ泊(とま)りの船共(ふねども)、帆を引(ひき)梶(かぢ)を取り、己(おの)が様々(さまざま)漕(こぎ)行けば、都は早迹(あと)の霞に隔(へだた)りぬ。九国にいつか行著(ゆきつか)んずらんと、人の云(いふ)を聞召(きこしめ)すにぞ、さては心つくしに行(ゆく)旅也(なり)と、御心(おんこころ)細きに付(つけ)ても、北野天神荒人神(あらひとがみ)に成(なら)せ給(たまひ)し其古(そのいにし)への御悲(おんかなし)み、思召知(おぼしめししら)せ給(たま)はゞ、我を都へ帰し御座(おはしま)せと、御心(おんこころ)の中(うち)に祈(いのら)せ給(たまふ)。其(その)日(ひ)の暮(くれ)程(ほど)に、阿波の鳴戸(なると)を通る処に、俄に風替(かは)り塩向(むか)ふて、此(この)船更に不行遣。舟人(ふなうど)帆を引(ひい)て、近辺の礒へ舟を寄(よせ)んとすれば、澳(おき)の塩合(しほあひ)に、大(おほき)なる穴の底も見へぬが出(いで)来て、舟を海底に沈(しづめ)んとす。水主(すゐしゆ)梶取(かんどり)周章(あわて)て帆薦(ほごも)なんどを投入(なげいれ)々々(なげいれ)渦(うづ)に巻(まか)せて、其間(そのま)に船を漕(こぎ)通さんとするに、舟曾(かつて)不去。渦巻くに随(したがつ)て浪と共に舟の廻(めぐ)る事(こと)、茶臼(ちやうす)を推(おす)よりも尚(なほ)速(すみやか)也(なり)。「是(これ)は何様(いかさま)竜神(りゆうじん)の財宝に目(め)懸(かけ)られたりと覚(おぼ)へたり。何をも海へ入(いれ)よ。」とて、弓箭(ゆみや)・太刀・々(かたな)・鎧・腹巻、数(かず)を尽(つく)して投入(なげいれ)たれ共(ども)、渦巻(うづまく)事(こと)尚(なほ)不休。「さては若(もし)色ある衣裳(いしやう)にや目を見入(いれ)たるらん。」とて、御息所(みやすどころ)の御衣(おんきぬ)、赤き袴を投入(なげいれ)たれば、白浪(しらなみ)色変(へん)じて、紅葉(もみぢ)を浸(ひた)せるが如くなり。是(これ)に渦巻(うづま)き少し閑(しづ)まりたれ共(ども)、船は尚(なほ)本(もと)の所にぞ回居(めぐりゐ)たる。角(かく)て三日三夜に成(なり)ければ、舟の中の人独(ひとり)も不起上、皆船底(ふなぞこ)に酔臥(よひふし)て、声々に呼叫(をめきさけ)ぶ事無限。御息所(みやすどころ)は、さらでだに生(いけ)る御心地(おんここち)もなき上に、此(この)浪の騒(さわぎ)になを御肝(おんきも)消(きえ)て、更に人心(ここち)も坐(ましま)さず。よしや憂目(うきめ)を見んよりは、何(いか)なる淵瀬にも身を沈めばやとは思召(おぼしめし)つれ共(ども)、さすがに今を限(かぎり)と叫ぶ声を聞召(きこしめ)せば、千尋(ちひろ)の底の水屑(みくづ)と成(なり)、深き罪に沈(しずみ)なん後(のち)の世をだに誰かは知(しり)て訪(と)はんと思召(おぼしめ)す涙さへ尽(つき)て、今は更に御(み)くしをも擡(もたげ)させ給はず。むくつけ男(をとこ)も早忙然(ばうぜん)と成(なつ)て、「懸(かか)る無止事貴人を取(とり)奉り下(くだ)る故(ゆゑ)に、竜神(りゆうじん)の咎(とが)めもある哉(や)らん。無詮事をもしつる者哉(かな)。」と誠(まこと)に後悔の気色(けしき)なり。斯(かか)る処に梶取(かんどり)一人船底(ふなぞこ)より這出(はひいで)て、「此鳴渡(このなると)と申(まうす)は、竜宮城(りゆうぐうじやう)の東門(とうもん)に当(あたつ)て候間、何(なに)にても候へ、竜神(りゆうじん)の欲(ほ)しがらせ給ふ物を、海へ沈め候はねば、いつも加様(かやう)の不思議(ふしぎ)ある所にて候は、何様(いかさま)彼(かの)上臈を龍神の思懸申(おもひかけまう)されたりと覚(おぼ)へ候。申(まうす)も余(あまり)に邪見(じやけん)に無情候へ共(ども)、此御事(このおこと)独(ひとり)の故(ゆゑ)に若干(そくばく)の者共(ものども)が、皆非分の死を仕らん事は、不便(ふびん)の次第にて候へば、此上臈(このじやうらふ)を海へ入進(いれまゐら)せて、百(ひやく)余人(よにん)の命を助させ給へ。」とぞ申(まうし)ける。松浦(まつら)元来無情田舎人(ゐなかうど)なれば、さても命や助かると、屋形(やかた)の内へ参(まゐつ)て、御息所(みやすどころ)を荒らかに引起し奉り、「余(あまり)に強顔(つれなき)御気色(おんけしき)をのみ見奉るも、無本意存(ぞんじ)候へば、海に沈め進(まゐら)すべきにて候。御契(おんちぎり)深くば土佐(とさ)の畑(はた)へ流れよらせ給ひて、其宮(そのみや)とやらん堂(だう)とやらん、一つ浦に住(すま)せ給へ。」とて、無情掻抱(かきだ)き進(まゐら)せて、海へ投入奉(なげいれたてまつら)んとす。是(これ)程の事に成(なつ)ては、何(なん)の御詞(おんことば)か可有なれば、只夢の様(やう)に思召(おぼしめ)して、つや/\息をも出(いだ)させ給はず、御心(おんこころ)の中(うち)に仏の御名許(みなばかり)を念じ思召(おぼしめし)て、早絶入(たえいら)せ給(たまひ)ぬるかと見へたり。是(これ)を見て僧の一人便船(びんせん)せられたりけるが、松浦(まつら)が袖を磬(ひかへ)て、「こは如何なる御事(おんこと)にて候ぞや。竜神(りゆうじん)と申(まうす)も、南方無垢(むく)の成道(じやうだう)を遂(とげ)て、仏の授記(じゆき)を得たる者にて候へば、全く罪業の手向(たむけ)を不可受。而(しか)るを生(いき)ながら人を忽(たちまち)に海中に沈められば、弥(いよいよ)竜神(りゆうじん)忿(いかつ)て、一人も助(たすか)る者や候べき。只経(きやう)を読み陀羅尼(だらに)を満(みて)て法楽に備(そなへ)られ候はんずるこそ可然覚(おぼ)へ候へ。」と、堅く制止(せいし)宥(なだ)めければ、松浦理(ことわり)に折(をれ)て、御息所(みやすどころ)を篷屋(とまや)の内に荒らかに投棄(なげすて)奉る。「さらば僧の儀に付(つい)て祈りをせよや。」とて、船中の上下異口同音(いくどうおん)に観音の名号(みやうがう)を唱(となへ)奉りける時、不思議(ふしぎ)の者共(ものども)波の上に浮(うか)び出(いで)て見へたり。先(まづ)一番に退紅(こきくれなゐ)著たる仕丁(じちやう)が、長持を舁(かき)て通ると見へて打失(うちうせ)ぬ。其次(そのつぎ)に白葦毛(しらあしげ)の馬に白鞍(しらくら)置(おき)たるを、舎人(とねり)八人して引(ひき)て通ると見へて打失(うちうせ)ぬ。其(その)次に大物(だいもつ)の浦にて腹切(きつ)て死(しし)たりし、右衛門(うゑもんの)府生(ふしやう)秦武文(はだのたけふん)、赤糸威(あかいとをどし)の鎧、同毛(おなじけ)の五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を)を縮(しめ)、黄■毛(きつきげ)なる馬に乗(のつ)て、弓杖(ゆんづゑ)にすがり、皆紅(みなくれなゐ)の扇(あふぎ)を挙げ、松浦が舟に向(むかつ)て、其(その)舟留(と)まれと招く様(やう)に見へて、浪の底にぞ入(いり)にける。梶取(かんどり)是(これ)を見て、「灘(なだ)を走る舟に、不思議(ふしぎ)の見ゆる事は常の事にて候へ共(ども)、是(これ)は如何様(いかさま)武文(たけふん)が怨霊(をんりやう)と覚(おぼ)へ候。其験(そのしるし)を御覧ぜん為に、小船を一艘(いつさう)下(おろ)して此(この)上臈を乗進(のせまゐら)せ、波の上に突流(つきなが)して、竜神(りゆうじん)の心を如何と御覧(ごらん)候へかし。」と申せば、「此(この)儀げにも。」とて、小船を一艘(いつさう)引下(ひきおろ)して、水手(すゐしゆ)一人と御息所(みやすどころ)とを乗せ奉(たてまつ)て、渦(うづ)の波に漲(みなぎつ)て巻却(まきかへ)る波の上にぞ浮べける。彼早離(かのさうり)・速離(そくり)の海岸山(かいがんさん)に被放、「飢寒(きかん)の愁(うれへ)深(ふかく)して、涙も尽(つき)ぬ。」と云(いひ)けんも、人住(すむ)島(しま)の中なれば、立寄(たちよる)方(かた)も有(あり)ぬべし。是(これ)は浦にも非(あら)ず、島にも非(あら)ず、如何に鳴渡(なると)の浪の上に、身を捨舟(すてぶね)の浮(うき)沈み、塩瀬(しほせ)に回(めぐ)る泡(うたかた)の、消(きえ)なん事こそ悲(かなし)けれ。されば竜神(りゆうじん)もゑならぬ中をや被去けん。風俄に吹分(ふきわけ)て、松浦が舟は西を指(さ)して吹(ふか)れ行(ゆく)と見へけるが、一(いち)の谷の澳津(おきつ)より武庫山下風(むこやまおろし)に被放て、行方(ゆきかた)不知成(なり)にけり。其後(そののち)浪静(しづま)り風止(やみ)ければ、御息所(みやすどころ)の御船(おんふね)に被乗つる水主(すゐしゆ)甲斐々々敷(かひがひしく)舟を漕寄(こぎよせ)て、淡路(あはぢ)の武島(むしま)と云(いふ)所へ著(つけ)奉り、此(この)島の為体(ていたらく)、回(まはり)一里に足(たら)ぬ所にて、釣する海士(あま)の家ならでは、住(すむ)人もなき島なれば、隙(ひま)あらはなる葦(あし)の屋(や)の、憂節(うきふし)滋(しげ)き栖(すみか)に入進(いれまゐら)せたるに、此(この)四五日の波風に、御肝(おんきも)消(きえ)御心(おんこころ)弱りて、軈(やが)て絶入(たえいら)せ給ひけり。心なき海人(あま)の子共(こども)迄も、「是(これ)は如何にし奉らん。」と、泣悲(なきかなし)み、御顔に水を灑(そそ)き、櫓床(ろどこ)を洗(あらう)て御口に入(いれ)なんどしければ、半時許(はんじばかり)して活出(いきいで)させ給へり。さらでだに涙の懸(かか)る御袖(おんそで)は乾く間(ま)も無(なか)るべきに、篷漏(とまも)る滴(しづく)藻塩草(もしほぐさ)、可敷忍旅寝(たびね)ならねば、「何迄(いつまで)角(かく)ても有佗(ありわ)ぶべき。土佐(とさ)の畑(はた)と云(いふ)浦へ送りてもやれかし。」と、打佗(うちわび)させ給へば、海士共(あまども)皆同じ心に、「是(これ)程厳敷(いつくしく)御渡(おんわたり)候上臈(じやうらふ)を、我等が舟に乗進(のせまゐら)せて、遥々(はるばる)と土佐迄送り進(まゐら)せ候はんに、何(いづく)の泊(とまり)にてか、人の奪取進(うばひとりまゐら)せぬ事の候べき。」と、叶(かなふ)まじき由を申せば、力(ちから)及ばせ給はずして、浪の立居(たちゐ)に御袖(おんそで)をしぼりつゝ、今年は此(ここ)にて暮し給ふ。哀(あはれ)は類(たぐ)ひも無(なか)りけり。さて一宮(いちのみや)は武文(たけふん)を京へ上(のぼ)せられし後(のち)は、月日遥(はるか)に成(なり)ぬれ共(ども)、何共(なんとも)御左右(おんさう)を申さぬは、如何なる目にも逢(あひ)ぬる歟(か)と、静心(しづごころ)なく思食(おぼしめし)て、京より下(くだ)れる人に御尋(おんたづね)有(あり)ければ、「去年の九月に御息所(みやすどころ)は都を御出(おんいで)有(あつ)て、土佐へ御下(おんくだ)り候(さふらひ)しとこそ慥(たしか)に承(うけたまは)りしか。」と申(まうし)ければ、さては道にて人に被奪ぬるか、又世を浦風に被放、千尋(ちひろ)の底にも沈(しづみ)ぬる歟(か)と、一方(ひとかた)ならず思ひくづほれさせ給(たまひ)けるに、或(ある)夜御警固(おんけいご)に参(まゐり)たる武士共(ぶしども)、中門(ちゆうもん)に宿直申(とのゐまうし)て四方山(よもやま)の事共(ことども)物語しける者の中に、「さるにても去年の九月、阿波の鳴渡(なると)を過(すぎ)て当国に渡りし時、船の梶(かぢ)に懸(かかり)たりし衣(きぬ)を取上(とりあげ)て見しかば、尋常(よのつね)の人の装束(しやうぞく)とも不見、厳(いつくし)かりし事よ。是(これ)は如何様(いかさま)院(ゐん)・内裏(だいり)の上臈女房(じやうらふにようばう)なんどの田舎(ゐなか)へ下(くだ)らせ給ふが、難風に逢(あう)て海に沈み給(たまひ)けん其(その)装束にてぞ有(ある)らん。」と語(かたつ)て、「穴(あな)哀(あはれ)や。」なんど申合(まうしあひ)ければ、宮墻越(かきごし)に被聞召、若(もし)其行末(そのゆくへ)にてや有(ある)らんと不審(ふしん)多く思食(おぼしめし)て、「聊(いささか)御覧ぜられたき御事(おんこと)あり。其衣(そのきぬ)未(いまだ)あらば持(もち)て参れ。」と御使(おんつかひ)有(あり)ければ、「色こそ損(そん)じて候へ共(ども)未(いまだ)私に候。」とて召寄進(めしよせまゐら)せたり。宮能々(よくよく)是(これ)を御覧ずるに、御息所(みやすどころ)を御迎(おんむかひ)に武文(たけふん)を京へ上(のぼ)せられし時、有井(ありゐの)庄司(しやうじ)が仕立(したて)て進(まゐら)せたりし御衣(おんきぬ)也(なり)。穴(あな)不思議(ふしぎ)やとて、裁余(たちあま)したる切(き)れを召出(めしいだ)して、差合(さしあは)せられたるに、あやの文(もん)少(すこし)も不違続(つづ)きたれば、二目共(ふためとも)不被御覧、此衣(このきぬ)を御顔に押当(おしあて)て、御涙(おんなみだ)を押拭(おしのご)はせ給ふ。有井(ありゐ)も御前(おんまへ)に候(さふらひ)けるが、涙を袖に懸(かけ)つゝ罷立(まかりたち)にけり。今は御息所(みやすどころ)の此(この)世に坐(ましま)す人とは露(つゆ)も不被思召、此衣(このきぬ)の橈(かぢ)に懸(かか)りし日を、なき人の忌日(きにち)に被定、自(みづから)御経(おんきやう)を書写(しよしや)せられ、念仏を唱(とな)へさせ給(たまひ)て、「過去聖霊(くわこしやうりやう)藤原氏女(うぢのむすめ)、並(ならびに)物故秦武文(もつこはだのたけふん)共(とも)に三界の苦海(くかい)を出(いで)て、速(すみやか)に九品(くぼん)の浄刹(じやうせつ)に到れ。」と祈らせ給ふ。御歎(おんなげき)の色こそ哀(あはれ)なれ。去(さる)程(ほど)に其(その)年の春(はる)の比(ころ)より、諸国に軍(いくさ)起(おこつ)て、六波羅(ろくはら)・鎌倉(かまくら)・九国・北国の朝敵共(てうてきども)、同時に滅びしかば、先帝は隠岐(おきの)国(くに)より還幸(くわんかう)成り、一宮(いちのみや)は土佐(とさ)の畑(はた)より都へ帰り入らせ給ふ。天下悉(ことごとく)公家一統(くげいつとう)の御世(みよ)と成(なつ)て目出(めでた)かりしか共(ども)、一宮(いちのみや)は唯御息所(みやすどころ)の今(この)世に坐(ましま)さぬ事を歎思食(なげきおぼしめし)ける処に、淡路(あはぢ)の武島(むしま)に未(いまだ)生(いき)て御坐(ござ)有(あり)と聞(きこ)へければ、急(いそぎ)御迎(おんむかひ)を被下、都へ帰上(かへりのぼ)らせ給ふ。只王質(わうしつ)が仙より出(いで)て七世の孫(まご)に会ひ、方士(はうし)が海に入(いつ)て楊貴妃(やうきひ)を見奉りしに不異。御息所(みやすどころ)は、「心づくしに趣(おもむき)し時の心憂(こころう)さ、浪に回(めぐ)りし泡(うたかた)の消(きゆ)るを争(あら)そう命の程、堪兼(たへかね)たりし襟(ものおもひ)は御推量(おんおしはか)りも浅くや。」とて、御袖(おんそで)濡(ぬる)る許(ばかり)なり。宮は又「外渡(とわた)る舟の梶(かぢ)の葉に、書共(かくとも)尽(つき)ぬ御歎(おんなげき)、無跡(なきあと)問(とひ)し月日の数(かず)、御身(おんみ)に積(つも)りし悲(かなし)みは、語るも言(こと)は愚(おろ)か也(なり)。」と書口説(かきくどか)せ給ひける。さしも憂(う)かりし世中(よのなか)の、時の間(ま)に引替(ひきかへ)て、人間の栄花(えいぐわ)、天上の娯楽、不極云(いふ)事(こと)なく、不尽云御遊(ぎよいう)もなし。長生殿(ちやうせいでん)の裏(うち)には、梨花(りくわ)の雨不破壌を、不老門(ふらうもん)の前には、楊柳(やうりう)の風不鳴枝。今日を千年(ちとせ)の始めと、目出(めでた)きためしに思食(おぼしめし)たりしに、楽(たのしみ)尽(つき)て悲(かなし)み来(きた)る人間の習(ならひ)なれば、中(なか)一年有(あつ)て、建武元年の冬の比(ころ)より又天下乱(みだれ)て、公家(くげ)の御世(みよ)、武家の成敗(せいばい)に成(なり)しかば、一宮(いちのみや)は終(つひ)に越前(ゑちぜんの)金崎(かねがさき)の城にて御自害(ごじがい)有(あつ)て、御首(おんくび)京都に上(のぼり)て、禅林寺(ぜんりんじの)長老夢窓(むさう)国師、喪礼(さうれい)被執行など聞へしかば、御息所(みやすどころ)は余(あま)りの為方(せんかた)なさに御車(おんくるま)に被助載て、禅林寺(ぜんりんじ)の辺(あたり)まで浮(うか)れ出(いで)させ給へば、是(これ)ぞ其御事(そのおこと)と覚敷(おぼしく)て、墨染(すみぞめ)の夕(ゆふべ)の雲に立(たつ)煙(けむり)、松の嵐に打靡(うちなび)き、心細く澄上(すみのぼ)る。さらぬ別(わかれ)の悲(かなし)さは、誰とても愚(おろか)ならぬ涙なれ共(ども)、宮などの無止事御身(おんみ)を、剣(やいば)の先(さき)に触(ふれ)て、秋の霜の下に消終(きえはて)させ給(たまひ)ぬる御事(おんこと)は、無類悲(かなしみ)なれば、想像(おもひやり)奉る今はの際(きは)の御有様(おんありさま)も、今一入(ひとしほ)の思ひを添(そへ)て、共に東岱(とうたい)前後の烟と立登(たちのぼ)り、北芒新丘(ほくばうしんきう)の露共(とも)消(きえ)なばやと、返る車の常盤(とことは)に、臥沈(ふししづ)ませ給(たまひ)ける、御心(おんこころ)の中(うち)こそ哀(あはれ)なれ。行(ゆき)て訪旧跡、竹苑(ちくゑん)故宮(こきゆうの)月心を傷(いたま)しめ、帰(かへりて)臥寒閨、椒房(さうばう)寡居(くわきよ)の風夢を吹(ふき)、著見に順聞に、御歎(おんなげき)日毎(ひごと)に深く成行(なりゆき)ければ、軈(やがて)御息所(みやすどころ)も御心地(おんここち)煩(わづら)ひて、御中陰(ごちゆういん)の日数(ひかず)未終(いまだをへざる)先(さき)に、無墓成(なら)せ給ひければ、聞(きく)人毎(ひとごと)に押並(おしなべ)て、類(たぐ)ひ少なき哀(あはれ)さに、皆袂(たもと)をぞ濡(ぬら)しける。
○比叡山(ひえいさん)開闢(かいびやくの)事(こと) S1808
金崎(かねがさき)の城被攻落て後(のち)、諸国の宮方(みやがた)失力けるにや。或(あるひ)は降参し、或(あるひ)は退散(たいさん)して、天下将軍の威に随ふ事(こと)、宛(あたかも)如吹風靡草木。在々所々(ざいざいしよしよ)に宮方(みやがた)の城有(あつ)て、山門又如何なる事をかし出(いだ)さんずらんと危(あやぶ)まれし程こそ、衆徒(しゆと)の心を不違、山門の所領共に被成安堵たりしか、今天下已(すで)に武威に帰(き)して静謐(せいひつ)しぬる上は、何の憤(いきどほり)か可有とて、以前の成敗(せいばい)の事を変(へん)じて、山門を三井寺(みゐでら)の末寺(まつじ)にやなす、又若干(そくばく)の所領を塞(ふさ)げたるも無益(むやく)なれば、只一円に九院(きうゐん)を没倒(もつたう)し衆徒を追出(おひいだ)して、其跡(そのあと)を軍勢(ぐんぜい)にや可充行、高(かう)・上杉の人々、将軍の御前(おんまへ)に参(さん)じて評定(ひやうぢやう)しける処に、北小路(きたのこうぢ)の玄慧法印(げんゑほふいん)出来(いできた)れり。武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)、「此(この)人こそ大智広学(くわうがく)の物知(ものしり)にて候なれば、加様(かやう)の事共(ことども)も存知(ぞんぢ)候はんずれ。此(こ)れに山門の事(こと)、委(くはし)く尋問(たづねとひ)候はゞや。」と被申ければ、将軍、「げにも。」とて、「法印此方(こなた)へ。」とぞ被呼ける。法印席に直(なほつ)て四海(しかい)静謐(せいひつ)の事共(ことども)賀し申(まうし)て、種々の物語共(ものがたりども)に及びける時、上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)、法印に向(むかつ)て被申けるは、「以前(いぜん)山門両度の臨幸を許容申(きよようまうし)て将軍に敵し奉る事無他事。雖然武運合天命に故(ゆゑ)に、遂に朝敵(てうてき)を一時に亡(ほろぼ)して、太平を四海(しかい)に致候(いたしさふらひ)き。抑(そもそも)山門毎年の祭礼に、洛中(らくちゆう)の人民を煩(わづらは)し、三千(さんぜん)の聖供(しやうぐ)共(ども)に、国土の庄園を領(りやう)する事(こと)、為世雖多費、公家武家不止之事は、只専御祈祷(ごきたう)仰天下静謐故(ゆゑ)也(なり)。而(しかる)に今為武家結怨、為朝敵(てうてき)致懇祈。是(これ)当家(たうけ)の蠧害(とがい)、釈門(しやくもん)の残賊(ざんぞく)なるべし。風(ほのか)に聞(きく)比叡山(ひえいさん)草創(さうさう)の事(こと)、時は延暦の末の年に当(あた)れり、君は桓武(くわんむ)の治天(ちてん)に始まれり。此(この)寺未(いまだ)立(たた)ざりし先(さき)に、聖主(せいしゆ)治国給ふ事相続(あひつづい)て五十代、曾(かつて)異国にも不被侵、妖怪(えうくわい)にも不被悩、君巍々(ぎぎ)の徳を播(ほどこ)し、民堂々(だうだう)の化(くわ)に誇(ほこ)る。以是憶之、有(あつ)て無益(むやく)の者は山門(さんもん)也(なり)。無(なく)て可能山法師(やまほふし)也(なり)。但(ただし)山門無(なく)ては叶(かなふ)まじき故候哉覧(やらん)。白河(しらかはの)院(ゐん)も、「朕(ちん)が心に不任は、双六(すごろく)の賽(さい)・賀茂河(かもがは)の水・山法師(やまほふし)也(なり)。」と被仰候(さふらひ)けんなる。其議(そのぎ)誠(まこと)に不審(いぶか)しく覚(おぼえ)候。御物語(おんものがたり)候へ、次(つい)での才学(さいかく)に仕(つかまつり)候はん。」とぞ被申ける。法印熟々(つくづく)と聞之、言語道断(ごんごだうだん)の事なり。閉口去(さり)塞耳帰らばやと思ひけれ共(ども)、若(もし)一言の下(もと)に、翻邪帰正事もやあらんずらんと思ひければ、中々(なかなか)旨(むね)に逆(さか)ひ儀を犯(をか)す言(こと)ばを留(と)めて、長物語(ながものがたり)をぞ始(はじめ)られける。「夫(それ)斯(この)国(くに)の起(おこ)りは家々に伝(つたふ)る処格別(かくべつ)にして其(その)説区(まちまち)也(なり)といへ共(ども)、暫(しばらく)記(き)する処の一儀(いちぎ)に、天地已(すで)に分れて後、第九(だいく)の減劫(げんこふ)人寿(にんじゆ)二万歳(にまんさい)の時、迦葉仏(かせふぶつ)西天に出世し給ふ。于時大聖(だいしやう)釈尊得其授記、住都率天給ひしが、我(われ)八相成道(しやうじやうだう)之(の)後(のち)、遺教流布(ゆゐけうるふ)の地、可有何所と、此南瞻部州(このなんぜんぶしう)を遍(あまね)く飛行して御覧じけるに、漫々(まんまん)たる大海の上に、一切衆生(いつさいしゆじやう)悉有仏性(しつうぶつしやう)、如来常住(によらいじやうぢゆう)無有変易(むうへんやく)と立(たつ)浪の音あり。釈尊是(これ)を聞召(きこしめし)て、此(この)波の流止(ながれとどま)らんずる所、一つの国と成(なつ)て、吾(わが)教法弘通(ぐつう)する霊地(れいち)たるべしと思召(おぼしめし)ければ、則(すなはち)此(この)浪の流行(ながれゆく)に随(したがつ)て、遥(はるか)に十万里の蒼海(さうかい)を凌(しの)ぎ給ふ。此(この)波忽(たちまち)に一葉(いちえふ)の葦(あし)の海中に浮べるにぞ留(とどま)りにける。此(この)葦の葉果(はた)して一の島となる。今の比叡山(ひえいさん)の麓、大宮権現(おほみやごんげん)垂跡給ふ波止土濃(はしどの)也(なり)。是(この)故(ゆゑ)に波止(とどまつ)て土(つち)濃(こまやか)也(なり)とは書(かけ)るなるべし。其後(そののち)人寿(にんじゆ)百歳の時釈尊中天竺(てんぢく)摩竭陀(まかだ)国浄飯王宮(じやうぼんわうぐう)に降誕(がうたん)し給ふ。御歳(おんとし)十九にて二月上八(じやうはち)の夜半(やはん)に王宮を遁(のが)れ出(いで)、六年難行(なんぎやう)して雪山(せつせん)に捨身、寂場樹下(じやくぢやうじゆか)に端坐(たんざ)し給ふ事(こと)、又六年の後夜(ごや)に正覚(しやうがく)を成(なし)し後、頓大(とんだい)三七日、遍小(へんせう)十二年(ねん)、染浄虚融(せんじやうこゆう)の演説(えんぜつ)三十年(さんじふねん)、一実無相(いちじつむさう)の開顕(かいけん)八箇年(はちかねん)、遂に滅度(めつど)を抜提河(ばつだいが)の辺(ほとり)、双林樹下に唱(となへ)給ふ。雖然、仏は元来本有常住(ほんうじやうぢゆう)周遍法界(しうへんほふかい)の妙体(めうたい)なれば、為遺教流布、昔葦(あし)の葉の国と成(なり)し南閻浮提(なんえんぶだい)豊葦原(とよあしはら)の中津国(なかつくに)に到(いたつ)て見給ふに、時は鵜羽(うのは)不葺合尊(みこと)の御代なれば、人未(いまだ)仏法の名字(みやうじ)をだにも不聞。然共(しかれども)此(この)地大日遍照(だいにちへんぜう)の本国として、仏法東漸(とうぜん)の霊地たるべければ、何(いづ)れの所にか可開応化利生之門、彼方此方(かなたこなた)を遍歴(へんれき)し給ふ処に、比叡山(ひえいさん)の麓楽々名美也(ささなみや)志賀(しが)の浦の辺(ほとり)に、垂釣坐(おは)せる老翁(らうをう)あり。釈尊向之、「翁(おきな)若(もし)此(この)地の主(ぬし)たらば此(この)山を吾(われ)に与(あたへ)よ。成結界地仏法を弘(ひろめ)ん。」と宣(のたまひ)ければ、此翁(このおきな)答曰(こたへていはく)、「我は人寿六千歳の始(はじめ)より、此(この)所の主(ぬし)として、此湖(このみづうみ)の七度(しちど)迄蘆原(あしはら)と変ぜしを見たり。但(ただし)此(この)地結界(けつかい)の地と成らば、釣(つり)する所を可失。釈尊早(はやく)去(さつ)て他国に求め給へ。」とぞ惜(をし)みける。此翁(このおきな)は是(これ)白髭(しらひげの)明神也(なり)。釈尊因茲、寂光土(じやくくわうど)に帰らんとし給ひける処に、東方浄瑠璃世界(とうばうじやうるりせかい)の教主(けうしゆ)医王善逝(いわうぜんせい)忽然(こつぜん)として来り給へり。釈尊大(おほき)に歓喜(くわんぎ)し給(たまひ)て、以前老翁が云(いひ)つる事を語り給ふに、医王善逝称歎(しようたん)して宣はく、「善(よい)哉(かな)釈迦尊(しやかそん)、此(この)地に仏法を弘通(ぐづう)し給はん事。我(われ)人寿二万歳(にまんさい)の始(はじめ)より此(この)国(くに)の地主也(なり)。彼老翁(かのらうをう)未知我。何(なんぞ)此(この)山を可奉惜哉(や)。機縁(きえん)時至(いたつ)て仏法東流(とうりう)せば、釈尊は教(をしへ)を伝(つたふ)る大師(だいし)と成(なつ)て、此(この)山を開闢(かいびやく)し給へ。我は此(この)山の王と成(なつ)て久(ひさし)く後五百歳(ごごひやくさい)の仏法を可護。」と誓約(せいやく)をなし、二仏(じぶつ)各東西に去給(さりたまひ)にけり。角(かく)て千八百年を経(へ)て後、釈尊は伝教(でんげう)大師(だいし)と成(なら)せ給ふ。延暦(えんりやく)二十三年に始(はじめ)て求法(ぐほふ)の為に漢土(かんど)に渡り給ふ。則(すなはち)顕密戒(けんみつかい)の三学淵底(えんてい)に玉を拾(ひろ)ひ、同(おなじき)二十四年に帰朝し給(たまひ)ぬ。爰(ここ)に桓武(くわんむの)皇帝(くわうてい)、法の檀度(だんと)と成(なら)せ給(たまひ)て比叡山(ひえいさん)を被草創始め、伝教(でんげう)大師(だいし)承勅、根本中堂(こんぼんちゆうだう)を建(たて)んとて地を引(ひか)れけるに、紅蓮(ぐれん)の如くなる人の舌(した)一つ土の底に有(あつ)て法華読誦(どくじゆ)の声不止。大師(だいし)怪(あやしみ)て其(その)故を問(とひ)給ふに、此(この)舌答(こたへ)て曰く、「我(われ)古(いにし)へ此(この)山に住(ぢゆう)して、六万部の法華経(ほけきやう)を読誦(どくじゆ)せしが、寿命有限身已(すで)に雖壊、音声(おんじやう)無尽舌は尚(なほ)存(ぞん)せり。」とぞ申(まうし)ける。又中堂造営(ざうえい)事(こと)終(をはつ)て、為本尊大師(だいし)御手(てづ)から薬師(やくし)の像を作り給(たまひ)しに、一度(いちど)斧(をの)を下(くだ)して、「像法転時(さうほふてんじ)、利益衆生(りやくしゆじやう)、故号薬師(こがうやくし)、瑠璃光仏(るりくわうぶつ)。」と唱(とな)へて、礼拝(らいはい)し給(たまひ)ける時に、木像(もくざう)の薬師屈首諾(うなづ)かせ給ひけり。其(その)後大師(だいし)は小比叡(をひえ)の峯(みね)に杉の庵(いほり)を卜(しめ)て、暫(しばらく)独住(ひとりずみ)し坐(おはし)ける。或時角(かく)ぞ詠じ給ひける。波母山(はもやま)や小比叡(をひえ)の杉の独居(ひとりゐ)は嵐も寒し問(とふ)人もなしと被遊、観月(くわんげつ)を澄(すま)して御坐(おはし)ける処に、光明嚇奕(かくやく)たる三(み)つの日輪(にちりん)、空中より飛下(とびくだ)れり。其(その)光の中に釈迦・薬師・弥陀(みだ)の三尊(さんぞん)光を並べて坐し給ふ。此(この)三尊或(あるひ)は僧形(そうぎやう)を現(げんじ)或(あるひ)は俗体に変じて、大師(だいし)を礼(らい)し奉(たてまつ)て、「十方大菩薩(だいぼさつ)・愍衆故行道(みんしゆこぎやうだう)・応生恭敬心(おうしやうくきやうしん)・是則我大師(ぜそくがたいし)。」と讚(ほめ)給ふ。大師(だいし)大(おほき)に礼敬(らいきやう)し給(たまひ)て、「願(ねがはく)は其御名(そのみな)を聞(きか)ん。」と問(とひ)給ふに、三尊答曰(こたへていはく)、「竪(たて)の三点に横(よこ)の一点を加へ、横の三点に竪(たて)の一点を添(そ)ふ。我(われ)内には円宗(ゑんしゆう)の教法を守り、外には済度(さいど)の方便を助けん為に、此(これ)山に来れり。」と答(こたへ)給ふ。其光(そのひかり)天に懸(かか)れる事(こと)、百練の鸞鏡(らんけい)の如し。大師(だいし)此(この)言を以て文字(もんじ)を成(なす)に、竪(たて)の三点に横の一点を加へては、山と云(いふ)字也(なり)。横の三点に竪(たて)の一点を添(そへ)ては王と云(いふ)字也(なり)。山は是(これ)高大(かうだい)にして不動形、王は天・地・人の三才(さんさい)に経緯(けいゐ)たる徳を顕(あらは)し玉(たま)へる称号(しようがう)なるべしとて、其(その)神を山王と崇(あが)め奉る。所謂(いはゆる)大宮権現(おほみやごんげん)は久遠実成(くをんじつじやう)の古仏、天照太神(あまてらすおほんがみ)の応作(おうさ)、専(もつぱら)護円宗教法、久(ひさしく)宿比叡山(ひえいさん)。故(ゆゑ)に法宿(ほふしゆく)大菩薩(だいぼさつ)とも奉申。既(すでに)是(これ)三界の慈父(じぶ)、我等が本師也(なり)。聖真子(しやうしんじ)は九品安養界(くほんあんやうかい)の化主(けしゆ)、八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の分身(ぶんじん)、光を和四明麓、速(すみやかに)示三聖形。雖十悪猶(なほ)引接(いんぜふしたまふ)事(こと)は、疾風の雲霧(うんむ)を披(ひらく)よりも甚し。雖一念必(かならず)感応(かんおう)なる事は、喩之巨海納涓露。和光同塵(わくわうどうじん)は既(すで)に為結縁始。往生安楽は豈(あに)非得脱終乎(や)。二の宮(みや)は初め大聖釈尊(だいしやうしやくそん)と約(やく)をなし給ひし東方浄瑠璃世界(とうばうじやうるりせかい)の如来(によらい)、吾(わが)国(くに)秋津州(あきつす)の地主也(なり)。随所示願(ずゐしよじぐわん)の誓ひ既(すで)に叶ふ。現世安隠(げんぜあんおんの)人望(じんばう)、願生(ぐわんしやう)西方の願(ねがひ)、豈(あに)非後生菩提指南乎(や)。八王子は千手(せんしゆ)観音の垂跡(すゐじやく)、以無垢三昧力、済奈落伽重苦、潅頂(くわんぢやう)大法王子(わうじ)也(なり)。故(ゆゑ)に云大八王子。本地(ほんち)清涼(しやうりやう)の月(つき)は雖処安養界、応化(おうげ)随縁(ずゐえん)の影は遥(はるか)に顕麓祠露に。各(おのおの)所居の浄土(じやうど)を表(へうせ)ば、是(これ)然(しかしなが)ら補陀楽山(ふだらくせん)共(とも)申(まうし)つべし。客人(きやくじんの)宮(みや)は十一面観音の応作(おうさ)、白山禅定(しらやまぜんぢやう)の霊神也(なり)。而(しかれども)助山王行化を、出北陸之崇峯来東山之霊地、故(ゆゑに)号客人。現在生(げんざいしやう)の中には得十種勝利を、臨命終(りんみやうじゆう)の時には生九品蓮台。十禅師の宮(みや)は無仏世界の化王(けしゆ)、地蔵薩■(さつた)の応化(おうげ)也(なり)。忝(かたじけなく)も受牟尼遺教、懇(ねんごろに)預■利(たうりの)付嘱に。二仏中間(ちゆうげん)の大導師、三聖執務(さんしやうしふむ)の法体(ほつたい)也(なり)。彼御託宣(かのごたくせん)に云(いはく)、「三千(さんぜん)の衆徒を養(やしなつ)て我(わが)子とし、一乗(いちじよう)の教法を守(まもつ)て我(わが)命とす。」と示し給ふ。設(たと)ひ雖微少結縁也(なり)。宜(よろしく)蒙莫大利益。三の宮(みや)は普賢(ふけん)菩薩の権化(ごんげ)、妙法蓮華の正体也(なり)。一乗(いちじよう)読誦(どくじゆ)の窓の前には、影向(やうがう)を垂(たれ)て哀愍(あいみん)を納受(なふじゆ)し給ふ。既(すでに)是(これ)慚愧懺悔(ざんぎさんげ)の教主たり。六根罪障の我等何(なんぞ)不奉仰之哉(や)。次に中(なかの)七社(しちしや)、牛(うし)の御子(みこ)は大威徳、大行事(だいぎやうじ)は毘沙門(びしやもん)、早尾(はやを)は不動、気比(けひ)は聖観音(しやうくわんおん)、下(しも)八王子は虚空蔵(こくうざう)、王子(わうじ)の宮(みや)は文殊(もんじゆ)、聖女(しやうによ)は如意輪(によいりん)、次に下(しもの)七社(しちしや)の小禅師は弥勒竜樹(みろくりゆうじゆ)、悪(あく)王子(わうじ)は愛染(あいぜん)明王(みやうわう)、新(しん)行事(ぎやうじ)は吉祥天女(きちじやうてんによ)、岩滝(いはたき)は弁才天、山末(やまずゑ)は摩利支天(まりしてん)、剣(つるぎの)宮(みや)は不動、大宮(おほみや)の竃殿(かまどの)は大日、聖真子(しやうしんじ)の竃殿(かまどの)は金剛界(こんがうかい)の大日、二(にの)宮(みやの)竃殿(かまどの)は日光・月光各出大悲門趣利生之道給ふ。其後(そののち)四所の菩薩、化(くわ)を助けて十方より来至(らいし)し、三七の霊神光を並べて四辺に囲繞(ゐねう)し給ふ。夫(それ)済渡利生(さいどりしやう)の区(まちまち)なる徳(とくは)、百千劫(ひやくせんごふ)の間(あひだ)に舌を暢(のべ)て説共(とくとも)不可尽。山は戒定慧(かいぢやうゑ)の三学を表(へう)し建三塔(さんたふ)。人は一念三千(さんぜん)の義を以て員(かず)とす。十二(じふにの)願王回眸故(ゆゑ)に、天下の治乱(ちらん)此冥応(このみやうおう)に不懸と云(いふ)事(こと)なく、七社(しちしやの)権現(ごんげん)垂跡故(ゆゑ)に、海内(かいだい)の吉凶其玄鑒(そのげんかん)に不依と云(いふ)事(こと)なし。されば朝廷に有事日は祈之除災致福。山門(さんもんに)有訴時は傷之以非被理。爰(ここ)に両度の臨幸を山門に許容申(きよようまうし)たりしは、一往衆徒の僻事(ひがごと)に以て候へ共(ども)、窮鳥(きゆうてう)入懐時は狩人(かりうど)も哀之不殺事にて候。況乎(いはんや)十善の君の御恃(おんたのみ)あらんに誰か可不与申。譬(たとへ)ば其(その)時の久執(くしふ)の輩(ともがら)、少々(せうせう)相残(あひのこつ)て野心(やしん)を挿(さしはさ)み候(さうらふ)共(とも)、武将忘其恨、厚恩(こうおん)被行徳候者(さうらはば)、敵の運を祈らんずる勤(つとめ)は却(かへつ)て一家(いつけ)の祈(いのり)となり、朝敵(てうてき)を贔負(ひいき)せん心変じて、御方(みかた)の御ために無弐者と成り候べし。」と、内外(ないげ)の理致(りち)明かに、尽言被申たりければ、将軍・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)を奉始、高(かう)・上杉・頭人(とうにん)・評定衆(ひやうぢやうしゆう)に至る迄、さては山門なくて、天下を治(をさむ)る事有(ある)まじかりけりと信仰(しんがう)して、則(すなはち)旧領安堵(あんど)の外(ほか)に、武家益々(ますます)寄進(きしん)の地をぞ被副ける。


太平記(国民文庫)
太平記巻第十九

○光厳院(くわうごんゐん)殿(どの)重祚(ちようその)御事(おんこと) S1901
建武(けんむ)三年六月十日、光厳(くわうごん)院(ゐん)太上(だじやう)天皇(てんわう)重祚(ちようそ)の御位(おんくらゐ)に即進(つけまゐら)せたりしが、三年の内に天下(てんが)反覆(はんぶく)して宋鑒(そうかん)ほろびはてしかば、其(その)例いかゞあるべからんと、諸人(しよにん)異議(いぎ)多かりけれ共(ども)、此(この)将軍(しやうぐん)尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の筑紫より攻上(せめのぼり)し時、院宣(ゐんぜん)をなされしも此(この)君也(なり)。今又東寺(とうじ)へ潜幸(せんかう)なりて、武家に威(ゐ)を加(くはへ)られしも此御事(このおこと)なれば、争(いかでか)其(その)天恩を報じ申さではあるべきとて、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)平(ひら)にはからひ申されける上は、末座(まつざ)の異見再往(さいわう)の沙汰に及ばず。其比(そのころ)物にも覚(おぼ)へぬ田舎(ゐなか)の者共(ものども)、茶の会酒宴(しゆえん)の砌(みぎり)にて、そゞろなる物語しけるにも、「あはれ此持明院殿(このぢみやうゐんどの)ほど、大果報(だいくわはう)の人はをはせざりけり。軍(いくさ)の一度(いちど)をもし給はずして、将軍より王位を給(たまは)らせ給(たまひ)たり。」と、申(まうし)沙汰しけるこそをかしけれ。
○本朝(ほんてう)将軍(しやうぐん)補任(ふにん)兄弟無其例事(こと) S1902
同年十月三日改元(かいげん)有(あつ)て、延元(えんげん)にうつる。其(その)十一月五日の除目(ぢもく)に、足利(あしかが)宰相(さいしやう)尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、上首(じやうしゆ)十一人を越(こえ)て、位(くらゐ)正三位(じやうざんみ)にあがり、官(つかさ)大納言(だいなごん)に遷(うつり)て、征夷将軍の武将に備(そなは)り給ふ。舎弟(しやてい)左馬(さまの)頭(かみ)直義(ただよし)朝臣(あそん)は、五人(ごにん)を越(こえ)て、位四品(しほん)に叙(じよ)し、官(つかさ)宰相(さいしやう)に任(にん)じて、日本(につぽん)の副将軍(ふくしやうぐん)に成(なり)給ふ。夫(それ)我朝(わがてう)に将軍を置(おか)れし初(はじめ)は、養老四年に多治比(たぢひ)の真人(まつと)県守(あがたもり)、神亀(じんき)元年に藤原(ふぢはらの)朝臣(あそん)宇合(うまかひ)、宝亀十一年に藤原朝臣(あそん)継綱(つぐつな)。其後(そののち)時代遥(はるか)に隔(へだたつ)て藤原(ふぢはらの)朝臣(あそん)小里丸(をざとまる)、大伴(おほともの)宿禰(すくね)家持(やかもち)・紀(きの)朝臣(あそん)古佐美(こさみ)・大伴(おほともの)宿禰(すくね)乙丸(おとまる)・坂上(さかのうへの)宿禰(すくね)田村丸(たむらまる)・文屋(ふんやの)宿禰(すくね)綿丸(わたまる)・藤原(ふぢはらの)朝臣(あそん)忠文(ただふみ)・右大将宗盛(むねもり)・新中納言知盛(とももり)・右大将源(みなもとの)頼朝(よりとも)・木曾(きその)左馬(さまの)頭(かみ)源(みなもとの)義仲(よしなか)・左衛門(さゑもんの)督(かみ)頼家(よりいへ)・右大臣実朝(さねとも)に至(いたる)まで其(その)人十六人皆功の抽賞(ちうしやう)に依(よつ)て、父子其先(そのさき)を追(おふ)事(こと)ありといへども、兄弟一時に相双(あひならん)で、大樹(たいじゆ)の武将に備(そなはる)事(こと)、古今未(いまだ)其(その)例を聞(きか)ずと、其方様(そのかたざま)の人は、皆驕逸(けういつ)の思(おもひ)気色(きしよく)に顕(あらはれ)たり。其外(そのほか)宗(むね)との一族(いちぞく)四十三人(しじふさんにん)、或(あるひ)は象外(しやうぐわい)の選(せん)に当り、俗骨(しよくこつ)忽(たちまち)に蓬莱(ほうらい)の雲をふみ、或(あるひは)乱階(らんかい)の賞(しやう)に依(よつ)て、庸才(ようさい)立(たちどこ)ろに台閣(たいかく)の月を攀(よづ)。加之(しかのみならず)其門葉(そのもんえふ)たる者は、諸国の守護(しゆご)吏務(りむ)を兼(かね)て、銀鞍(ぎんあん)未解(いまだとかず)、五馬忽(たちまちに)策重山之雲、蘭橈(らんねう)未乾(いまだかわかず)、巨船(こせん)遥(はるかに)棹滄海之浪。総(すべ)て博陸輔佐(はくりくふさ)の臣も、是(これ)に向(むかつ)て上位を臨(のぞま)ん事を憚(はばか)る。況(いはん)や名家儒林(めいかじゆりん)の輩(ともがら)は、彼仁(かのじん)に列(つらなつ)て下風(かふう)に立(たた)ん事を喜べり。
○新田(につた)義貞落越前府城事(こと) S1903
左中将(さちゆうじやう)義貞(よしさだ)朝臣(あそん)・舎弟脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助は、金崎(かねがさきの)城(じやう)没落(ぼつらく)の後、杣山(そまやま)の麓瓜生(うりふ)が館(たち)に、有(ある)も無(なき)が如(ごとく)にてをはしましけるが、いつまでか右(かく)て徒(いたづら)に時を待(まつ)べき。所々(しよしよ)に隠(かく)れ居たる敗軍の兵を集(あつめ)て国中へ打出(うちいで)、吉野に御座(ござ)ある先帝の宸襟(しんきん)をも休(やす)め進(まゐら)せ、金崎(かねがさき)にて討(うた)れし亡魂の恨(うらみ)をも散ぜばやと思はれければ、国々へ潜(ひそか)に使を通じて、旧功の輩(ともがら)をあつめられけるに、竜鱗(りようりん)に付き、鳳翼(ほうよく)を攀(よぢ)て、宿望を達せばやと、蟄居(ちつきよ)に時を待(まち)ける在々所々(ざいざいしよしよ)の兵共(つはものども)、聞伝(ききつたへ)々々(ききつたへ)抜々(ぬけぬけ)に馳集(はせあつま)りける程(ほど)に、馬・物具(もののぐ)なんどこそきら/\敷(しく)はなけれ共(ども)、心ばかりはいかなる樊■(はんくわい)・周勃(しうぼつ)にも劣(おとら)じと思へる義心金鉄(ぎしんきんてつ)の兵共(つはものども)、三千(さんぜん)余騎(よき)に成(なり)にけり。此(この)事(こと)軈(やが)て、京都に聞へければ、将軍より足利尾張(をはりの)守(かみ)高経・舎弟伊予(いよの)守(かみ)二人(ににん)を大将として、北陸道(ほくろくだう)七(しち)箇国(かこく)の勢六千(ろくせん)余騎(よき)を差副(さしそへ)、越前(ゑちぜんの)府(ふ)へぞ下(くだ)されける。右(かく)て数月(すげつ)をふれ共(ども)、府(ふ)は大勢なり、杣山(そまやま)は要害なれば、城へも寄(より)えず府へも懸(かか)りへず、只両陣の堺(さかひ)、大塩(おほしほ)・松崎辺(まつさきへん)に兵を出(いだ)し合(あはせ)て、日々夜々に軍(いくさ)の絶(たゆ)る隙(ひま)もなし。かゝる所に加賀(かがの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、敷地(しきぢ)伊豆(いづの)守(かみ)・山岸新左衛門(しんざゑもん)・上木(うへき)平九郎以下(いげ)の者共(ものども)、畑六郎左衛門(ろくらうざゑもんの)尉(じよう)時能(ときよし)が語(かたらひ)に付(つい)て、加賀・越前(ゑちぜんの)堺(さかひ)、細呂木(ほそろぎ)の辺(へん)に城郭(じやうくわく)をかまへ、津葉(つばの)五郎が大聖寺(だいしやうじ)の城を責落(せめおとし)て、国中を押領(あふりやう)す。此(この)時までは平泉寺(へいせんじ)の衆徒等(しゆとら)、皆二心(ふたごころ)なき将軍方(しやうぐんがた)にてありけるが、是(これ)もいかゞ思(おもひ)けん、過半(くわはん)引分(ひきわかれ)て宮方(みやがた)に与力(よりき)申し、三峰(みつみね)と云(いふ)所へ打出(うちいで)、城をかまへて敵を待(まつ)所に、伊自良(いじら)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)、是(これ)に与(くみ)して三百(さんびやく)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る間、近辺の地頭・御家人等(ごけにんら)、ふせぎ戦(たたかふ)に力を失(うしなつ)て、皆己(おのれ)が家々に火を懸(かけ)て、府(ふ)の陣へ落集(おちあつま)る。北国是(これ)より動乱して、汗馬(かんば)の足を休めず。三峰(みつみね)の衆徒の中より杣山(そまやま)へ使者を立(た)て、大将を一人給(たまはつ)て合戦を致すべき由を申(まうし)ける間、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助朝臣(あそん)五百(ごひやく)余騎(よき)を相副(あひそへ)て三峯(みつみね)の陣へ指遣(さしつかは)さる。牒使(てふし)又加賀(かがの)国(くに)に来(きたつ)て前に相図(あひづ)を定(さだめ)らるゝ間、敷地(しきぢ)・上木(うへき)・山岸・畑(はた)・結城(ゆふき)・江戸・深町の者共(ものども)、細屋(ほそや)右馬助(うまのすけ)を大将として、其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)越前国(ゑちぜんのくに)へ打(うち)こへ、長崎・河合(かはひ)・川口三箇所(さんかしよ)に城(しろ)を構(かまへ)て漸々(ぜんぜん)に府(ふ)へぞ責寄(せめよせ)ける。尾張(をはりの)守(かみ)高経は、六千(ろくせん)余騎(よき)を随へて府中にたて篭(ごも)られたりけるが、敵に国中を押取(おしとら)れて、一所(いつしよ)に篭(こもり)居ては兵粮につまりて、ついによかるまじとて、三千(さんぜん)余騎(よき)をば府に残しをき、三千(さんぜん)余騎(よき)をば一国に分遣(わけつかはし)て山々峯々(みねみね)に城を構(かま)へ、兵を二百騎(にひやくき)・三百騎(さんびやくき)づゝ三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)にぞ置(おか)れける。戦場雪深(ふかく)して馬の足の立(たた)ぬ程は、城と城とを合(あはせ)て昼夜旦暮(ちうやたんぼ)合戦を致すといへ共(ども)、僅(わづか)に一日雌雄(しゆう)を争ふ計(ばかり)にて、誠(まこと)の勝負(しようぶ)は未(いまだ)なかりけり。去(さる)程(ほど)にあら玉の年立帰(たちかへつ)て二月中旬にも成(なり)ければ、余寒(よかん)も漸(やうや)く退(しりぞき)て、士卒(じそつ)弓をひくに手かゞまらず、残雪(ざんせつ)半(なかば)村消(むらきえ)て、疋馬(ひつば)地を蹈(ふむ)に蹄(ひづめ)を労(らう)せず。今は時分よく成(なり)ぬ。次第に府辺(ふのへん)へ近付寄(ちかづきよせ)て、敵の往反(わうへん)する道々に城をかまへて、四方(しはう)を差塞(さしふさい)で攻戦(せめたたかふ)べし。何(いづ)くか用害(ようがい)によかるべき所あると、見試(こころみ)ん為に、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)僅(わづか)百四五十騎にて、鯖江(さばえ)の宿(しゆく)へ打出(うちいで)られけり。名将小勢(こぜい)にて城の外(そと)に打出(うちいで)たるを、能隙(よきひま)なりと、敵にや人の告(つげ)たりけん。尾張(をはりの)守(かみ)の副将軍(ふくしやうぐん)細川出羽(ではの)守(かみ)五百(ごひやく)余騎(よき)にて府の城より打出(うちいで)鯖江宿(さばえのしゆく)へ押寄(おしよせ)、三方(さんぱう)より相近付(あひちかづい)て、一人もあまさじとぞ取巻(とりまき)ける。脇屋(わきや)右衛門(うゑもん)前後の敵に囲(かこま)れて、とても遁(のがれ)ぬ所也(なり)と思切(おもひきつ)てければ、中々(なかなか)心を一(ひとつ)にして少(すこし)も機(き)を撓(たをま)さず。後陣(ごぢん)に高木(たかき)の社(やしろ)をあて、左右に瓜生畔(うりふぐろ)を取(とつ)て、矢種(やだね)を惜(をし)まず散々(さんざん)に射させて、敵に少(すこし)も馬の足を立(たて)させず、七八度(しちはちど)が程遭(あう)つ啓(ひらい)つ追立追立(おつたておつたて)攻付(せめつけ)たるに、細川・鹿草(かくさ)が五百(ごひやく)余騎(よき)、纔(わづか)の勢に懸立(かけたて)られて、鯖江(さばえ)の宿(しゆく)の後(うしろ)なる川の浅瀬(あさせ)を打(うち)わたり、向(むかう)の岸へ颯(さつ)と引(ひく)。結城(ゆふき)上野(かうづけの)介(すけ)・河野(かうの)七郎(しちらう)・熊谷(くまがえ)備中(びつちゆうの)守(かみ)・伊東大和(いとうやまとの)次郎・足立(あだち)新左衛門(しんざゑもん)・小島越後(ゑちごの)守(かみ)・中野藤内左衛門(とうないざゑもん)・瓜生(うりふ)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)八騎の兵共(つはものども)、川の瀬頭(せがしら)に打(うち)のぞみ、つゞいて渡さんとしけるが、大将右衛門(うゑもんの)佐(すけ)、馬を打寄(うちよせ)て制(せい)せられけるは、「小勢の大勢に勝(かつ)事(こと)は暫時(ざんじ)の不思議(ふしぎ)也(なり)。若難所(もしなんしよ)に向(むかつ)て敵にかゝらば、水沢(みづさは)に利(り)を失(うしなつ)て、敵却(かへつ)て機(き)に乗(のる)べし。今日の合戦は、不慮(ふりよ)に出来(いでき)つる事なれば、遠所(ゑんしよ)の御方(みかた)是(これ)をしらで、左右なく馳来(はせきた)らじと覚(おぼゆ)るぞ。此辺(このへん)の在家(ざいけ)に火を懸(かけ)て、合戦ありと知(しら)せよ。」と、下知(げぢ)せられければ、篠塚(しのづか)五郎左衛門(ごらうざゑもん)馳廻(はせまはつ)て、高木(たかき)・瓜生(うりふ)・真柄(まがら)・北村の在家(ざいけ)二十(にじふ)余箇所(よかしよ)に火を懸(かけ)て、狼烟天を焦(こが)せり。所々(しよしよ)の宮方(みやがた)此烟(このけむり)を見て、「すはや鯖江(さばえ)の辺(へん)に軍(いくさ)の有(あり)けるは、馳合(はせあはせ)て御方(みかた)に力を合(あはせ)よ。」とて、宇都宮(うつのみや)美濃(みのの)将監(しやうげん)泰藤(やすふぢ)・天野(あまの)民部(みんぶの)大輔(たいふ)政貞(まささだ)三百(さんびやく)余騎(よき)にて、鯖並(さばなみ)の宿(しゆく)より馳来(はせきたる)。一条(いちでうの)少将(せうしやう)行実(ゆきさね)朝臣(あそん)、二百(にひやく)余騎(よき)にて飽和(あくわ)より打出(うちいで)らる。瓜生(うりふ)越前守(ゑちぜんのかみ)重(しげし)・舎弟加賀(かがの)守(かみ)照(てらす)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて妙法寺の城より馳下(はせくだ)る。山徒(さんと)三百(さんびやく)余騎(よき)は大塩(おほしほ)の城よりをり合ひ、河島(かはしま)左近(さこんの)蔵人惟頼(これより)は、三百(さんびやく)余騎(よき)にて三峯(みつみね)の城より馳(はせ)来り、総大将(そうだいしやう)左中将(さちゆうじやう)義貞(よしさだ)朝臣(あそん)は、千(せん)余騎(よき)にて杣山(そまやま)よりぞ出られける。合戦の相図(あひづ)ありと覚(おぼ)へて、所々の宮方(みやがた)鯖江(さばえ)の宿(しゆく)へ馳集(はせあつま)る由聞へければ、「未(いまだ)河ばたに叩(ひか)へたる御方(みかた)討(うた)すな。」とて、尾張(をはりの)守(かみ)高経・同(おなじき)伊予(いよの)守(かみ)三千(さんぜん)余騎(よき)を率(そつ)して、国分寺の北へ打出(うちいで)らる。両陣相去(あひさる)事(こと)十(じふ)余町(よちやう)、中に一(ひとつ)の河を隔(へだて)つ。此(この)河さしもの大河にてはなけれ共(ども)、時節(をりふし)雪消(ゆきげ)に水増(まし)て、漲(みなぎ)る浪(なみ)岸をひたしければ、互に浅瀬を伺見(うかがひみ)て、いづくをか渡さましと、暫(しばら)く猶予(いうよ)しける処に、船田長門(ふなたながとの)守(かみ)が若党(わかたう)葛(かつらの)新左衛門(しんざゑもん)と云(いふ)者、川ばたに打寄(うちよせ)て、「此(この)河は水だに増(まさ)れば州(す)俄に出来(いでき)て、案内知(しら)ぬ人は、いつも謬(あやまり)する河にて候ぞ。いで其(その)瀬ぶみ仕らん。」と云(いふ)まゝに、白蘆毛(しらあしげ)なる馬に、かし鳥威(どりをどし)の鎧著て、三尺(さんじやく)六寸(ろくすん)のかひしのぎの太刀を抜(ぬき)、甲(かぶと)の真向(まつかう)に指(さし)かざし、たぎりて落(おつ)る瀬枕(せまくら)に、只一騎馬を打入(うちいれ)て、白浪(しらなみ)を立(たて)てぞ游(およが)せける。我先(われさき)に渡さんと打(うち)のぞみたる兵三千(さんぜん)余騎(よき)これを見て、一度(いちど)に颯(さつ)と打入(うちいれ)て、弓の本筈末筈(もとはずうらはず)取(とり)ちがへ、馬の足の立(たつ)所をば手綱(たづな)をさしくつろげて歩(あゆま)せ、足のたゝぬ所をば馬の頭(かしら)をたゝき上(あげ)て泳(およが)せ、真一文字(まいちもんじ)に流(ながれ)をきつて、向(むかう)の岸へ懸(かけ)あげたり。葛(かつらの)新左衛門(しんざゑもん)は、御方(みかた)の勢に二町(にちやう)ばかり先立(さきだち)て渡しければ、敵の為に馬のもろ膝(ひざ)ながれて、歩立(かちだち)に成(なつ)て敵六騎に取篭(とりこめ)られて、已(すで)に打(うた)れぬと見へける処に、宇都宮(うつのみや)が郎等(らうどう)に清(せい)の新左衛門(しんざゑもん)為直(ためなほ)馳合(はせあつ)て、敵二騎切(きつ)て落(おと)し、三騎に手負(ておふ)せ、葛(かつらの)新左衛門(しんざゑもん)をば助(たすけ)てけり。寄(よす)る勢も三千(さんぜん)余騎(よき)、ふせぐ勢も三千(さんぜん)余騎(よき)、大将は何(いづ)れも名を惜(をし)む源氏一流の棟梁(とうりやう)也(なり)。而(しか)も馬の懸引(かけひき)たやすき在所(ざいしよ)なれば、敵御方(みかた)六千(ろくせん)余騎(よき)、前後左右に追(おう)つ返(かへし)つ入乱(いりみだれ)、半時(はんじ)ばかりぞ戦(たたかひ)たる。かくては只命(いのち)を限(かぎり)の戦(たたかひ)にて、いつ勝負(しようぶ)あるべしとも見へざりける処に、杣山(そまやま)河原(かはら)より廻(まはり)ける三峰(みつみね)の勢と、大塩(おほしほ)より下(くだ)る山法師(やまほふし)と差違(さしちがひ)て、敵陣の後(うしろ)へ廻(まは)り、府中に火を懸(かけ)たりけるに、尾張(をはりの)守(かみ)の兵三千(さんぜん)余騎(よき)、敵を新善光寺(しんぜんくわうじ)の城へ入(いり)かはらせじと、府中を指(さして)引返(ひつかへ)す。義貞(よしさだ)朝臣(あそん)の兵三千(さんぜん)余騎(よき)、逃(にぐ)る敵を追(おつ)すがうて、透間(すきま)もなく攻入(せめいり)ける間、城へ篭(こも)らんと逃入(にげいる)勢共(せいども)、己(おのれ)が拵(こしらへ)たる木戸逆木(きどさかもぎ)に支(ささへ)られて、城へ入(いる)べき逗留(とうりう)もなかりければ、新善光寺(しんぜんくわうじ)の前を、府(ふ)より西へ打過(うちすぐ)る。伊予(いよの)守(かみ)の勢千(せん)余騎(よき)は、若狭をさして引(ひき)ければ、尾張(をはりの)守(かみ)の兵二千(にせん)余騎(よき)、織田(おだ)・大虫(おほむし)を打過(うちすぎ)て、足羽(あすは)の城へぞ引(ひか)れける。都(すべ)て此(この)日(ひ)一時(いちじ)の戦(たたかひ)に、府(ふ)の城すでに責(せめ)落されぬと聞及(ききおよび)て、未(いまだ)敵も寄(よせ)ざる先に、国中の城の落(おつる)事(こと)、同時に七十三(しちじふさん)箇所(かしよ)也(なり)。
○金崎東宮(かねがさきのとうぐう)並(ならびに)将軍(しやうぐんの)宮(みや)御隠(おんかくれの)事(こと) S1904
新田(につた)義貞・義助杣山(そまやま)より打出(うちいで)て、尾張(をはりの)守(かみ)・伊予(いよの)守(かみ)府中を落(おち)、其外(そのほか)所々(しよしよ)の城落(おと)されぬと聞へければ、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)・直義(ただよし)朝臣(あそん)大(おほき)に忿(いかつ)て、「此(この)事(こと)は偏(ひとへ)に春宮(とうぐう)の彼等(かれら)を御扶(おんたすけ)あらん為に、金崎(かねがさき)にて此等(これら)は腹を切(きり)たりと宣(のたまひ)しを、誠(まこと)と心得て、杣山(そまやま)へ遅(おそ)く討手を差下(さしくだし)つるによつて也(なり)。此(この)宮(みや)是程(これほど)当家を失はんと思召(おぼしめし)けるを知らで、若(もし)只置(おき)奉らば、何様(いかさま)不思議(ふしぎ)の御企(おんくはたて)も有(あり)ぬと覚(おぼゆ)れば、潜(ひそか)に鴆毒(ちんどく)を進(まゐらせ)て失(うしなひ)奉れ。」と、粟飯原(あひはら)下総(しもふさの)守(かみ)氏光(うぢみつ)にぞ下知(げぢ)せられける。春宮(とうぐう)は、連枝(れんし)の御兄弟(ごきやうだい)将軍(しやうぐん)の宮(みや)とて、直義(ただよし)朝臣(あそん)先年(せんねん)鎌倉(かまくら)へ申下参(まうしくだしまゐら)せたりし先帝第七(だいしち)の宮(みや)と、一処に押篭(おしこめ)られて御座(ござ)ありける処へ、氏光(うぢみつ)薬(くすり)を一裹(ひとつつみ)持(もち)て参り、「いつとなく加様(かやう)に打篭(うちこもつ)て御座(ござ)候へば、御病気なんどの萌(きざ)す御事(おんこと)もや候はんずらんとて、三条(さんでう)殿(どの)より調進(てうしん)せられて候、毎朝一七日(ひとなぬか)聞食(きこしめし)候へ。」とて、御前(おんまへ)にぞ閣(さしおき)ける。氏光罷帰(まかりかへつ)て後、将軍(しやうぐんの)宮(みや)此(この)薬を御覧ぜられて宣(のたまひ)けるは、「未(いまだ)見へざるさきに、兼(かね)て療治(れうぢ)を加(くはふ)る程(ほど)に我等(われら)を思はゞ、此(この)一室(いつしつ)の中に押篭(おしこめ)て朝暮(てうぼ)物を思はすべしや。是(これ)は定(さだめ)て病(やまひ)を治(ぢ)する薬にはあらじ、只命(いのち)を縮(しじむ)る毒なるべし。」とて、庭へ打捨(うちすて)んとせさせ給(たまひ)けるを、春宮(とうぐう)御手(おんて)に取(とら)せ給(たまひ)て、「抑(そもそも)尊氏・直義等(ただよしら)、其(それ)程(ほど)に情(なさけ)なき所存を挿(さしはさ)む者ならば、縦(たとひ)此(この)薬をのまず共(とも)遁(のがる)べき命かは。是(これ)元来(ぐわんらい)所願成就(じやうじゆ)也(なり)。此(この)毒を呑(のみ)世をはやうせばやとこそ存(ぞんじ)候へ。「夫れ人間の習(ならひ)、一日(いちにち)一夜(いちや)を経(ふ)る間に八億四千(はちおくしせん)の念(ねん)あり。一念悪を発(おこ)せば一生(いつしやう)の悪身を得(え)、十念悪を発(おこ)せば十生悪身を受く。乃至(ないし)千億の念も又爾(しか)也(なり)。」といへり。如是一日の悪念の報(はう)、受尽(うけつく)さん事猶(なほ)難(かた)し。況(いはんや)一生(いつしやう)の間の悪業(あくごふ)をや。悲(かなしい)哉(かな)、未来無窮(むぐう)の生死出離(しゆつり)何(いづ)れの時ぞ。富貴栄花(ふつきえいぐわ)の人に於て、猶此(この)苦を遁(のがれ)ず。況(いはんや)我等(われら)篭鳥(ろうてう)の雲を恋(こひ)、涸魚(かくぎよ)の水を求(もとむ)る如(ごとく)に成(なつ)て、聞(きく)に付(つけ)見るに随ふ悲(かなしみ)の中(うち)に、待(まつ)事(こと)もなき月日を送(おくつ)て、日のつもるをも知らず。悪念に犯(をか)されんよりも、命を鴆毒の為に縮(しじめ)て、後生善処(ごしやうぜんしよ)の望(のぞみ)を達(たつせ)んにはしかじ。」と仰られて、毎日法華経(ほけきやう)一部あそばされ、念仏唱(となへ)させ給(たまひ)て、此(この)鴆毒をぞ聞召(きこしめし)ける。将軍の宮(みや)是(これ)を御覧じて、「誰(たれ)とても懸(かか)る憂(う)き世に心を留(とどむ)べきにあらず、同(おなじく)は後生(ごしやう)までも御供(おんとも)申さんこそ本意なれ。」とて、諸共(もろとも)に此(この)毒薬を七日までぞ聞食(きこしめし)ける。軈(やがて)春宮(とうぐう)は、其翌日(そのよくじつ)より御心地(おんここち)例(れい)に違(ちが)はせ給(たまひ)けるが、御終焉(ごじゆうえん)の儀閑(しづか)にして、四月十三日(じふさんにち)の暮(くれ)程(ほど)に、忽(たちまち)に隠(かくれ)させ給(たまひ)けり。将軍(しやうぐんの)宮(みや)は二十日余(あまり)まで後座(ござ)ありけるが、黄疸(わうだん)と云(いふ)御いたはり出来(いでき)て、御遍身(ごへんしん)黄(き)に成(なら)せ給(たまひ)て、是(これ)も終(つひ)に墓(はか)なくならせ給(たまひ)にけり。哀(あはれなる)哉(かな)尸鳩樹頭(しきうじゆとう)の花(はな)、連枝(れんし)早く一朝の雨に随ひ、悲(かなしい)哉(かな)鶺鴒原上(せきれいげんじやう)の草、同根(どうこん)忽(たちまち)に三秋の霜に枯(かれ)ぬる事を。去々年は兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)鎌倉(かまくら)にて失(うしな)はれさせ給ひ、又去年の春は中務(なかづかさの)親王(しんわう)金崎(かねがさき)にて御自害(ごじがい)あり。此等(これら)をこそためしなく哀(あはれ)なる事に、聞人(きくひと)心を傷(いたま)しめつるに、今又春宮(とうぐう)・将軍(しやうぐんの)宮(みや)、幾程(いくほど)なくて御隠(おんかく)れありければ、心あるも心なきも、是(これ)をきゝ及ぶ人毎(ひとごと)に、哀(あはれ)を催(もよほ)さずと云(いふ)事(こと)なし。かくつらくあたり給へる直義(ただよし)朝臣(あそん)の行末、いかならんと思はぬ人も無(なか)りけるが、果して毒害(どくがい)せられ給ふ事こそ不思議(ふしぎ)なれ。
○諸国宮方(みやがた)蜂起(ほうきの)事(こと) S1905
主上(しゆしやう)山門より還幸(くわんかう)なり、官軍(くわんぐん)金崎(かねがさき)にて皆うたれぬと披露(ひろう)有(あり)ければ、今は再び皇威に服(ふく)せん事、近き世にはあらじと、世挙(こぞつ)て思定(おもひさだめ)ける処に、先帝又三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を帯(たい)して、吉野へ潜幸(せんかう)なり、又義貞(よしさだ)朝臣(あそん)已(すで)に数万騎(すまんぎ)の軍勢(ぐんぜい)を率(そつ)して、越前国(ゑちぜんのくに)に打出(うちいで)たりと聞へければ、山門より降参したりし大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)、伊予(いよの)国(くに)へ逃下(にげくだ)り、土居(どゐ)・得能(とくのう)が子共と引合(ひきあつ)て、四国を討従(うちしたが)へんとす。江田兵部(ひやうぶの)大夫(たいふ)行義(ゆきよし)も丹波(たんばの)国(くに)に馳来(はせきたつ)て、足立(あだち)・本庄等(ほんじやうら)を相語(あひかたらつ)て、高山寺(かうせんじ)にたて篭(ごも)る。金谷(かなや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)経氏(つねうぢ)、播磨の東条(とうでう)より打出(うちいで)、吉河(きつかは)・高田が勢を付(つけ)て、丹生(にふ)の山陰(やまかげ)に城郭(じやうくわく)を構へ、山陰(やまかげ)の中道(なかみち)を差塞(さしふさ)ぐ。遠江の井介(ゐのすけ)は、妙法院(めうほふゐんの)宮(みや)を取立(とりたて)まいらせて、奥の山に楯篭(たてごも)る。宇都宮(うつのみや)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)入道は、紀清(きせい)両党五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)して、吉野へ馳参(はせまゐり)ければ、旧功を捨(すて)ざる志(こころざし)を君殊に叡感有(えいかんあつ)て、則(すなはち)是(これ)を還俗(げんぞく)せさせられ四位(しゐの)少将(せうしやう)にぞなされける。此外(このほか)四夷(しい)八蛮(はちばん)、此彼(ここかしこ)よりをこるとのみ聞へしかば、先帝旧労(きうらう)の功臣、義貞恩顧(おんこ)の軍勢(ぐんぜい)等(ら)、病雀(びやうじやく)花(はな)を喰(くらう)て飛揚(ひやう)の翅(つばさ)を伸(のべ)、轍魚(てつぎよ)雨を得て■■(げんぐう)の脣(くちびる)を湿(うるほ)すと、悦び思はぬ人もなし。
○相摸(さがみ)次郎時行(ときゆき)勅免(ちよくめんの)事(こと) S1906
先亡(せんばう)相摸(さがみ)入道(にふだう)宗鑒(そうかん)が二男相摸次郎時行は、一家(いつけ)忽(たちまち)に亡(ほろび)し後(のち)は、天に跼(せぐくま)り地に蹐(ぬきあし)して、一身(いつしん)を置(おく)に安き所なかりしかば、こゝの禅院(ぜんゐん)、彼(かしこ)の律院(りつゐん)に、一夜(いちや)二夜を明(あかし)て隠(かくれ)ありきけるが、窃(ひそか)に使者を吉野殿(よしのどの)へ進(まゐらせ)て申入(まうしいれ)けるは、「亡親(ばうしん)高時(たかとき)法師、臣たる道を弁(わきま)へずして、遂に滅亡を勅勘(ちよくかん)の下に得たりき。然(しかり)といへ共(ども)、天誅(てんちう)の理(り)に当(あた)る故を存ずるに依(よつ)て、時行一塵(いちぢん)も君を恨申(うらみまうす)処を存(ぞんじ)候はず。元弘に義貞は関東(くわんとう)を滅(ほろぼ)し、尊氏は六波羅(ろくはら)を攻落(せめおと)す。彼(かの)両人何(いづれ)も勅命に依(よつ)て、征罰(せいばつ)を事とし候(さふらひ)し間、憤(いきどほり)を公儀に忘れ候(さふらひ)し処に、尊氏忽(たちまち)に朝敵(てうてき)となりしかば、威を綸命(りんめい)の下に仮(かつ)て、世を叛逆(ほんぎやく)の中(うち)に奪(うばは)んと企(くはたて)ける心中、事已(すで)に露顕(ろけん)し候歟(か)。抑(そもそも)尊氏が其(その)人たる事偏(ひとへ)に当家優如(いうじよ)の厚恩に依候(よりさふらひ)き。然(しかる)に恩を荷(になう)て恩を忘れ、天を戴(いただい)て天を乖(そむ)けり。其(その)大逆無道(ぶだう)の甚(はなはだし)き事、世の悪(にく)む所人の指(ゆび)さす所也(なり)。是(ここ)を以(もつて)当家の氏族等(しぞくら)、悉(ことごとく)敵を他に取らず。惟(これ)尊氏・直義等(ただよしら)が為に、其恨(そのうらみ)を散(さんぜ)ん事を存ず。天鑒明(あきらか)に下情(かじやう)を照されば、枉(まげ)て勅免を蒙(かうむつ)て、朝敵(てうてき)誅罰(ちうばつ)の計略を廻(めぐら)すべき由(よし)、綸旨(りんし)を成下(なしくださ)れば、宜(よろし)く官軍(くわんぐん)の義戦を扶(たす)け、皇統の大化(たいくわ)を仰申(あふぎまうす)べきにて候。夫(それ)不義の父を誅せられて、忠功の子を召(めし)仕はるゝ例(れい)あり。異国には趙盾(てうとん)、我朝(わがてう)には義朝(よしとも)、其外(そのほか)泛々(はんはん)たるたぐひ、勝計(しようけい)すべからず。用捨(ようしや)無偏、弛張(ちちやう)有時、明王(みやうわう)の撰士徳也(なり)。豈(あに)既往の罪を以て、当然の理を棄(すて)られ候はんや。」と、伝奏(てんそう)に属(しよく)して委細にぞ奏聞(そうもん)したりける。主上(しゆしやう)能々(よくよく)聞召(きこしめし)て、「犁牛(りぎう)のたとへ、其理(そのことわり)しか也(なり)。罰(ばつ)其(その)罪にあたり、賞(しやう)其(その)功に感ずるは善政の最(さい)たり。」とて、則(すなはち)恩免(おんめん)の綸旨をぞ下(くださ)れける。
○奥州国司(あうしうのこくし)顕家(あきいへの)卿(きやう)並(ならびに)新田徳寿丸(とくじゆまる)上洛(しやうらくの)事(こと) S1907
奥州(あうしう)の国司(こくし)北畠源(みなもとの)中納言(ちゆうなごん)顕家(あきいへの)卿(きやう)、去(さんぬる)元弘三年正月に、園城寺(をんじやうじ)合戦の時上洛(しやうらく)せられて義貞に力を加へ、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)を西海に漂(ただよ)はせし無双(ぶさう)の大功也(なり)とて、鎮守府(ちんじゆふ)の将軍に成(なさ)れて、又奥州へぞ下されける。其翌年(そのよくねん)官軍(くわんぐん)戦(たたかひ)破れて、君は山門より還幸(くわんかう)なりて、花山院の故宮(こきゆう)に幽閉せられさせ給ひ、金崎(かねがさき)の城は攻(せめ)落されて、義顕(よしあき)朝臣(あそん)自害したりと聞へし後は、顕家(あきいへの)卿(きやう)に付(つき)随ふ郎従(らうじゆう)、皆落失(おちうせ)て勢(いきほひ)微々(びび)に成(なり)しかば、纔(わづか)に伊達郡(だてのこほり)霊山(りやうぜん)の城一(ひとつ)を守(まもつ)て、有(ある)も無(なき)が如(ごとく)にてぞをはしける。かゝる処に、主上(しゆしやう)は吉野へ潜幸(せんかう)なり義貞は北国へ打出(うちいで)たりと披露(ひろう)ありければ、いつしか又人の心替(かはり)て催促に随ふ人多かりけり。顕家(あきいへの)卿(きやう)時を得たりと悦(よろこび)て、廻文(くわいぶん)を以て便宜(びんぎ)の輩(ともがら)を催(もよほ)さるゝに、結城(ゆふき)上野入道々忠(だうちゆう)を始(はじめ)として、伊達(だて)・信夫(しのぶ)・南部(なんぶ)・下山(しもやま)六千(ろくせん)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る。国司(こくし)則(すなはち)其(その)勢(せい)を合(あはせ)て三万(さんまん)余騎(よき)、白川の関へ打越給(うちこえたまふ)に、奥州(あうしう)五十四郡(ごじふしぐん)の勢共(せいども)、多分はせ付(つき)て、程なく十万(じふまん)余騎(よき)に成(なり)にけり。さらば軈(やがて)鎌倉(かまくら)を責落(せめおとし)て、上洛(しやうらく)すべしとて、八月十九日白川(しらかはの)関(せき)を立(たつ)て、下野(しもつけの)国(くに)へ打越(うちこえ)給ふ。鎌倉(かまくら)の管領(くわんれい)足利(あしかが)左馬(さまの)頭(かみ)義詮(よしあきら)此(この)事(こと)を聞給(ききたまひ)て、上杉民部(みんぶの)大夫(たいふ)・細川阿波(あはの)守(かみ)・高(かうの)大和(やまとの)守(かみ)、其外(そのほか)武蔵(むさし)・相摸の勢八万(はちまん)余騎(よき)を相副(あひそへ)て、利根河(とねがは)にて支(ささへ)らる。去(さる)程(ほど)に、両陣の勢東西の岸に打臨(うちのぞん)で、互に是(これ)を渡さんと、渡るべき瀬やあると見ければ、其時節(そのをりふし)余所(よそ)の時雨(しぐれ)に水増(まし)て、逆波(さかなみ)高く漲(みなぎ)り落(おち)て、浅瀬はさてもありや無(なし)やと、事問(とふ)べき渡守(わたしもり)さへなければ、両陣共に水の干落(ひおつ)るほどを相待(あひまち)て、徒(いたづら)に一日(いちにち)一夜(いちや)は過(すぎ)にけり。爰(ここ)に国司(こくし)の兵に、長井(ながゐの)斉藤別当実永(さねなが)と云(いふ)者あり。大将の前にすゝみ出(いで)て申(まうし)けるは、「古(いにしへ)より今に至(いたる)まで、河を隔(へだて)たる陣多けれ共(ども)、渡して勝(かた)ずと云(いふ)事(こと)なし。縦(たとひ)水増(まし)て日来(ひごろ)より深く共、此(この)川宇治・勢多・藤戸(ふぢと)・富士川に勝(まさ)る事はよもあらじ。敵に先づ渡されぬさきに、此方(こなた)より渡(わたつ)て、気を扶(たすけ)て戦(たたかひ)を決(けつし)候はんに、などか勝(かた)で候べき。」と申(まうし)ければ、国司(こくし)、「合戦の道は、勇士(ゆうし)に任(まかす)るにしかず、兎(と)も角(かく)も計(はから)ふべし。」とぞ宣(のたまひ)ける。実永(さねなが)大(おほき)に悦(よろこび)て、馬の腹帯(はるび)をかため、甲(かぶと)の緒(を)をしめて、渡さんと打立(うちたち)けるを見て、いつも軍(いくさ)の先(さき)を争ひける部井(へゐの)十郎・高木三郎、少(すこし)も前後を見つくろはず、只二騎馬を颯(さつ)と打入(うちいれ)て、「今日の軍(いくさ)の先懸(さきがけ)、後(のち)に論ずる人あらば、河伯水神(かはくすゐじん)に向(むかつ)て問へ。」と高声(かうじやう)に呼(よばはつ)て、箆橈形(のためかた)に流(ながれ)をせいてぞ渡しける。長井(ながゐの)斉藤別当(べつたう)・舎弟豊後(ぶんごの)次郎、兄弟二人(ににん)是(これ)を見て、「人の渡したる処を渡(わたつ)ては、何の高名(かうみやう)かあるべき。」と、共に腹を立(たて)て、是(これ)より三町(さんちやう)計(ばかり)上(かみ)なる瀬を只二騎渡(わたし)けるが、岩浪高(たかく)して逆巻(さかま)く波に巻入(まきいれ)られて、馬人共(とも)に見へず、水の底に沈(しづん)で失(うせ)にけり。其(その)身は徒(いたづら)に溺(おぼれ)て、尸(かばね)は急流の底に漂(ただよふ)といへ共(ども)、其(その)名は永く止(とどまり)て武を九泉の先(さき)に耀(かかやか)す。さてこそ鬚髪(しゆはつ)を染(そめ)て討死せし実盛が末とは覚(おぼ)へたれと、万人(ばんにん)感ぜし言(ことば)の下に先祖の名をぞ揚(あげ)たりける。是(これ)を見て、奥州(あうしう)の勢十万(じふまん)余騎(よき)、一度(いちど)に打(うち)入れて、まつ一文字(いちもんじ)に渡せば、鎌倉勢(かまくらぜい)八万(はちまん)余騎(よき)、同時に渡合(わたしあはせ)て、河中にて勝負(しようぶ)を決せんとす。され共(ども)先(まづ)一番に渡(わたし)つる奥勢(おくぜい)の人馬に、東岸(とうがん)の流(ながれ)せかれて、西岸の水の早き事、宛(あたか)竜門(りゆうもん)三級の如(ごとく)なれば、鎌倉(かまくら)の先陣三千(さんぜん)余騎(よき)、馬筏(むまいかだ)を押破(おしやぶ)られて、浮(うき)ぬ沈(しづみ)ぬ流行(ながれゆく)。後陣(ごぢん)の勢(せい)は是(これ)を見て、叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、河中より引返(ひつかへし)て、平野(ひらの)に支(ささへ)て戦(たたかひ)けるが、引立(ひきたち)ける軍(いくさ)なれば、右往左往(うわうさわう)に懸(かけ)ちらされて、皆鎌倉(かまくら)へ引返(ひつかへ)す。国司(こくし)利根川(とねがは)の合戦に打勝(うちかつ)て、勢(いきほひ)漸(やうやく)強大(きやうだい)に成(なる)と云(いへ)ども、鎌倉(かまくら)に猶(なほ)東(とう)八箇国(はちかこく)の勢馳集(はせあつまつ)て、雲霞(うんか)の如(ごとく)なりと聞(きこえ)ければ、武蔵(むさし)の府(ふ)に五箇日(ごかにち)逗留(とうりう)して、窃(ひそか)に鎌倉(かまくら)の様(やう)をぞ伺ひきゝ給(たまひ)ける。かゝる処に、宇都宮(うつのみや)左少将公綱(きんつな)、紀清(きせい)両党千(せん)余騎(よき)にて国司(こくし)に馳加(はせくはは)る。然共(しかれども)、芳賀兵衛入道禅可(ぜんか)一人は国司(こくし)に属(しよく)せず。公綱が子息加賀寿丸(かがじゆまる)を大将として、尚(なほ)当国(たうこく)宇都宮(うつのみや)の城に楯篭(たてこも)る。これに依(よつ)て国司(こくし)、伊達(だて)・信夫(しのぶ)の兵二万(にまん)余騎(よき)を差遣(さしつかはし)て、宇都宮(うつのみや)の城を責(せめ)らるゝに、禅可三日が中(うち)に攻落(せめおとさ)れて降参したりけるが、四五日を経(へ)て後(のち)又将軍方(しやうぐんがた)にぞ馳付(はせつき)ける。此(この)時に先亡(せんばう)の余類(よるゐ)相摸次郎時行(ときゆき)も、已(すで)に吉野殿(よしのどの)より勅免を蒙(かうむり)てければ、伊豆(いづの)国(くに)より起(おこつ)て、五千(ごせん)余騎(よき)足柄(あしがら)・箱根(はこね)に陣を取(とつ)て、相共(あひとも)に鎌倉(かまくら)を責(せむ)べき由を国司(こくし)の方へ牒(てふ)せらる。又新田(につた)左中将(さちゆうじやう)義貞の次男徳寿丸(とくじゆまる)、上野(かうづけの)国(くに)より起(おこつ)て、二万(にまん)余騎(よき)武蔵(むさしの)国(くに)へ打越(うちこえ)て、入間河(いるまがは)にて著到(ちやくたう)を付け、国司(こくし)の合戦若(もし)延引せば、自余(じよ)の勢を待(また)ずして鎌倉(かまくら)を責(せむ)べしとぞ相謀(あひはかり)ける。鎌倉(かまくら)には上杉民部(みんぶの)大夫(たいふ)・同中務(おなじきなかつかさの)大夫(たいふ)・志和(しわ)三郎・桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)・高(かうの)大和(やまとの)守(かみ)以下(いげ)宗(むね)との一族(いちぞく)大名数十人(すじふにん)、大将足利左馬(さまの)頭(かみ)義詮(よしのり)の御前(おんまへ)に参(まゐり)て、評定(ひやうぢやう)ありけるは、「利根川(とねがは)の合戦の後、御方(みかた)は気を失(うしなつ)て大半は落散(おちちり)候、御敵(おんてき)は勢(いきほひ)に乗(のつ)て、弥(いよいよ)猛勢(まうせい)に成候(なりさふらひ)ぬ。今は重(かさね)て戦共(たたかふとも)勝(かつ)事(こと)を得難し。只安房(あは)・上総へ引退(ひきしりぞき)て、東(とう)八箇国(はちかこく)の勢何方(いづかた)へか付(つく)と見て、時の反違(へんゐ)に随ひ、軍(いくさ)の安否(あんぴ)を計(はからう)て戦ふべきか。」と、延々(のびのび)としたる評定(ひやうぢやう)のみ有(あつ)て、誠(まこと)に冷(すず)しく聞へたる義勢(ぎせい)は更になかりけり。
○追奥勢跡道々合戦(かつせんの)事(こと) S1908
大将左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)は其比(そのころ)纔(わづか)に十一歳也(なり)。未(いまだ)思慮(しりよ)あるべき程(ほど)にてもをはせざりけるが、つく/゛\と此(この)評定を聞給(ききたまひ)て、「抑(そもそも)是(これ)は面々(めんめん)の異見(いけん)共(とも)覚(おぼ)へぬ事哉(かな)、軍(いくさ)をする程(ほど)にては一方負(まけ)ぬ事あるべからず。漫(そぞろ)に怖(おぢ)ば軍(いくさ)をせぬ者にてこそあらめ。苟(いやしく)も義詮(よしのり)東国の管領(くわんれい)として、たま/\鎌倉(かまくら)にありながら、敵大勢なればとて、爰(ここ)にて一軍(ひといくさ)もせざらんは、後難(こうなん)遁(のが)れがたくして、敵の欺(あざむか)ん事尤(もつとも)当然(たうぜん)也(なり)。されば縦(たとひ)御方(みかた)小勢(こぜい)なりとも、敵寄来(よせきた)らば馳向(はせむかつ)て戦はんに、叶(かな)はずは討死すべし。若(もし)又遁(のがれ)つべくは、一方打破(うちやぶつ)て、安房・上総の方へも引退(ひきしりぞき)て、敵の後(しりへ)に随(したがつ)て上洛(しやうらく)し、宇治・勢多にて前後より責(せめ)たらんに、などか敵を亡(ほろぼ)さゞらん。」と謀(はかりこと)濃(こまやか)に義に当(あたつ)て宣(のたまひ)ければ、勇将猛卒均(ひとし)く此(この)一言に励(はげま)されて、「さては討死するより外(ほか)の事なし。」と、一偏(いつぺん)に思切(おもひきつ)て鎌倉中(かまくらぢゆう)に楯篭(たてこも)る。其(その)勢(せい)一万(いちまん)余騎(よき)には過(すぎ)ざりけり。是(これ)を聞(きき)て国司(こくし)・新田徳寿丸・相摸次郎時行・宇都宮(うつのみや)の紀清(きせい)両党、彼此(かれこれ)都合(つがふ)十万(じふまん)余騎(よき)、十二月二十八日に、諸方皆牒合(てふしあはせ)て、鎌倉(かまくら)へとぞ寄(よせ)たりける。鎌倉(かまくら)には敵の様(やう)を聞(きき)て、とても勝(かつ)べき軍(いくさ)ならずと、一筋(ひとすぢ)に皆思切(おもひきつ)たりければ、城を堅(かたう)し塁(そこ)を深くする謀(はかりこと)をも事とせず、一万(いちまん)余騎(よき)を四手に分(わけ)て、道々に出合(いであひ)、懸合(かけあはせ)々々(かけあはせ)一日支(ささへ)て、各(おのおの)身命を惜(をし)まず戦(たたかひ)ける程(ほど)に、一方の大将に向はれける志和(しわ)三郎杉下(すぎもと)にて討(うた)れにければ、此(この)陣より軍(いくさ)破(やぶれ)て寄手(よせて)谷々(やつやつ)に乱(みだれ)入る。寄手(よせて)三方(さんぱう)を囲(かこみ)て御方(みかた)一処に集(あつまり)しかば、打(うた)るゝ者は多(おほく)して戦兵(たたかふつはもの)は少(すくなし)。かくては始終(しじゆう)叶(かなふ)べしとも見へざりければ、大将左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)を具足(ぐそく)し奉(たてまつ)て、高(かう)・上杉・桃井(もものゐ)以下(いげ)の人々、皆思々(おもひおもひ)に成(なつ)てぞ落(おち)られける。かゝりし後は、東国の勢宮(みや)方(がた)に随付(したがひつく)事(こと)雲霞(うんか)の如し。今は鎌倉(かまくら)に逗留(とうりう)して、何の用かあるべきとて、国司(こくし)顕家(あきいへの)卿(きやう)以下(いげ)、正月八日鎌倉(かまくら)を立(たつ)て、夜を日についで上洛(しやうらく)し給へば、其(その)勢(せい)都合(つがふ)五十万騎(ごじふまんぎ)、前後五日路(いつかぢ)左右四五里を押(おし)て通るに、元来無慚無愧(むざんむぎ)の夷共(えびすども)なれば、路次(ろし)の民屋(みんをく)を追捕(つゐふ)し、神社仏閣を焼払(やきはら)ふ。総(そうじて)此(この)勢(せい)の打過(うちすぎ)ける跡(あと)、塵を払(はらう)て海道二三里が間には、在家(ざいけ)の一宇(いちう)も残らず草木の一本も無(なか)りけり。前陣已(すで)に尾張(をはり)の熱田(あつた)に著(つき)ければ、摂津大宮司(せつつのだいぐうじ)入道源雄(げんゆう)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて馳付(はせつけ)、同(おなじき)日(ひ)美濃の根尾(ねを)・徳山(とこのやま)より堀口美濃(みのの)守(かみ)貞満(さだみつ)、千(せん)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る。今は是(これ)より京までの道に、誰ありとも此(この)勢(せい)を聊(いささか)も支(ささへ)んとする者は有(あり)がたしとぞ見へたりける。爰(ここ)に鎌倉(かまくら)の軍(いくさ)に打負(うちまけ)て、方々へ落(おち)られたりける上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)・舎弟宮内少輔(くないのせう)は、相摸(さがみの)国(くに)より起り、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常(なほつね)は、箱根(はこね)より打出(うちいで)、高(かうの)駿河(するがの)守(かみ)は安房・上総より鎌倉(かまくら)へ押(おし)渡り、武蔵(むさし)・相摸の勢を催(もよほさ)るゝに、所存有(あつ)て国司(こくし)の方へは付(つか)ざりつる江戸・葛西(かさい)・三浦・鎌倉(かまくら)・坂東(ばんどう)の八平氏(はちへいじ)・武蔵(むさし)の七党(しちたう)、三万(さんまん)余騎(よき)にて馳来(はせきた)る。又清(せい)の党旗頭(たうのはたがしら)、芳賀兵衛入道禅可(ぜんか)も、元来将軍方(しやうぐんがた)に志有(あり)ければ、紀清両党が国司(こくし)に属(しよく)して上洛(しやうらく)しつる時は、虚病(きよびやう)して国に留(とどまり)たりけるが、清(せい)の党千(せん)余騎(よき)を率(そつ)して馳加(はせくはは)る。此(この)勢(せい)又五万(ごまん)余騎(よき)国司(こくし)の跡(あと)を追(おう)て、先陣已(すで)に遠江に著(つけ)ば、其(その)国(くに)の守護(しゆご)今河五郎入道、二千(にせん)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る。中(なか)一日ありて三河国に著(つけ)ば、当国(たうごくの)守(かみ)護高(かうの)尾張(をはりの)守(かみ)、六千(ろくせん)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る。又美濃の州俣(すのまた)へ著(つけ)ば、土岐(とき)弾正少弼(せうひつ)頼遠、七百(しちひやく)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る。国司(こくし)の勢六十万騎(ろくじふまんぎ)前(さき)を急(いそぎ)て、将軍を討(うち)奉らんと上洛(しやうらく)すれば、高・上杉・桃井(もものゐ)が勢(せい)は八万(はちまん)余騎(よき)、国司(こくし)を討(うた)んと跡(あと)に付(つき)て追(おう)て行(ゆく)。「蟷螂(たうらう)蝉(せみ)をうかゞへば、野鳥(やてう)蟷螂(たうらう)を窺ふ。」と云(いふ)荘子が人間世(じんげんせい)のたとへ、げにもと思ひ知(しら)れたり。
○青野原(あをのがはら)軍(いくさの)事(こと)付(つけたり)嚢沙背水(なうしやはいすゐの)事(こと) S1909
坂東(ばんどう)よりの後攻(ごづめ)の勢、美濃(みのの)国(くに)に著(つき)て評定しけるは、「将軍は定(さだめ)て宇治・勢多の橋を引(ひい)て、御支(ささへ)あらんずらん。去(さる)程ならば国司(こくし)の勢河を渡しかねて、徒(いたづら)に日を送(おくる)べし。其(その)時御方(みかた)の勢労兵(らうへい)の弊(つひえ)に乗(のつ)て、国司(こくし)の勢を前後より攻(せめ)んに、勝(かつ)事(こと)を立(たちどこ)ろに得つべし。」と申合(まうしあは)れけるを、土岐(とき)頼遠黙然(もくねん)として耳を傾(かたぶ)けゝるが、「抑(そもそも)目の前を打(うち)通る敵を、大勢なればとて、矢の一(ひとつ)をも射ずして、徒(いたづら)に後日の弊(つひえ)に乗(のら)ん事を待(また)ん事は、只楚(そ)の宋義(そうぎ)が「蚊を殺(ころす)には其(その)馬を撃(うた)ず。」と云(いひ)しに似たるべし。天下(てんが)の人口(じんこう)只此一挙(このいつきよ)に有(ある)べし。所詮(しよせん)自余(じよ)の御事(おんこと)は知(しら)ず、頼遠に於ては命を際(きは)の一合戦して、義にさらせる尸(かばね)を九原(きうげん)の苔(こけ)に留(とど)むべし。」と、又余儀もなく申(まう)されければ、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)、「某も如此存(ぞんじ)候。面々(めんめん)はいかに。」と申されければ、諸大将(しよだいしやう)皆理(ことわり)に服(ふく)して、悉(ことごとく)此(この)儀にぞ同(どう)じける。去(さる)程(ほど)に奥勢(おくぜい)の先陣、既(すでに)垂井(たるゐ)・赤坂(あかさか)辺(へん)に著(つき)たりけるが、跡(あと)より上(のぼ)る後攻(ごづめ)の勢近づきぬと聞へければ、先(まづ)其(その)敵を退治(たいぢ)せよとて、又三里引返(ひつかへ)して、美濃・尾張(をはり)両国の間に陣を取らずと云(いふ)処なし。後攻(ごづめ)の勢(せい)は八万(はちまん)余騎(よき)を五手に分(わけ)、前後を鬮(くじ)に取(とつ)たりければ、先(まづ)一番に小笠原信濃(しなのの)守(かみ)・芳賀清兵衛入道禅可二千(にせん)余騎(よき)にて志貴(じき)の渡(わたし)へ馳向(はせむかへ)ば、奥勢(おくぜい)の伊達(だて)・信夫(しのぶ)の兵共(つはものども)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて河を渡(わたつ)てかゝりけるに、芳賀・小笠原散々(さんざん)に懸(かけ)立られて、残少(のこりすくな)に討(うた)れにけり。二番に高(かうの)大和(やまとの)守(かみ)三千(さんぜん)余騎(よき)にて、州俣河(すのまたがは)を渡る所に、渡しも立(たて)ず、相摸次郎時行五千(ごせん)余騎(よき)にて乱合(みだれあひ)、互に笠符(かさじるし)をしるべにて組(くん)で落(おち)、々重(おちかさなつ)て頚を取り、半時(はんじ)ばかり戦(たたかひ)たるに、大和(やまとの)守(かみ)が憑切(たのみきつ)たる兵三百(さんびやく)余人(よにん)討(うた)れにければ、東西に散靡(あらけ)て山を便(たより)に引退(ひきしりぞ)く。三番に今河五郎入道・三浦新介(しんすけ)、阿字賀(あじが)に打出(うちいで)て、横逢(よこあひ)に懸(かか)る所を、南部(なんぶ)・下山(しもやま)・結城(ゆふき)入道、一万(いちまん)余騎(よき)にて懸合(かけあひ)、火出(いづる)程(ほど)に戦(たたかひ)たり。今河(いまがは)・三浦元来小勢なれば、打負(うちまけ)て河より東へ引退(ひきしりぞ)く。四番に上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)・同宮内小輔(くないのせう)、武蔵(むさし)・上野の勢一万(いちまん)余騎(よき)を率(そつ)して、青野原(あをのがはら)に打出(うちいで)たり。爰(ここ)には新田徳寿丸(とくじゆまる)・宇都宮(うつのみや)の紀清(きせい)両党三万(さんまん)余騎(よき)にて相(あひ)向ふ。両陣の旗の紋(もん)皆知りたる兵共(つはものども)なれば、後の嘲(あざけり)をや恥(はぢ)たりけん、互に一足(ひとあし)も引(ひか)ず、命を涯(きは)に相戦ふ。毘嵐(びらん)断(たえ)て大地忽(たちまち)に無間獄(むげんごく)に堕(おち)、水輪(すゐりん)涌(わい)て世界こと/゛\く有頂天(うちやうてん)に翻(ひるが)へらんも、かくやと覚(おぼゆ)るばかり也(なり)。され共(ども)大敵とりひしくに難(かた)ければ、上杉遂(つひ)に打負(うちまけ)て、右往左往(うわうさわう)に落(おち)て行(ゆく)。五番に桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常(なほつね)・土岐弾正少弼頼遠、態(わざ)と鋭卒をすぐつて、一千(いつせん)余騎(よき)渺々(べうべう)たる青野原(おをのがはら)に打出(うちいで)て、敵を西北に請(うけ)てひかへたり。是(これ)には奥州(あうしう)の国司(こくし)鎮守府(ちんじゆふの)将軍(しやうぐん)顕家(あきいへの)卿(きやう)・副将軍(ふくしやうぐん)春日(かすがの)少将(せうしやう)顕信(あきのぶ)、出羽・奥州(あうしう)の勢六万(ろくまん)余騎(よき)を率(そつ)して相向ふ。敵に御方(みかた)を見合(みあは)すれば、千騎(せんぎ)に一騎を合(あは)すとも、猶(なほ)当(あた)るに足(たら)ずと見(み)ける処に、土岐と桃井(もものゐ)と、少(すこし)も機を呑(のま)れず、前に恐(おそる)べき敵なく、後(うしろ)に退(しりぞ)くべき心有(あり)とも見へざりけり。時の声を挙(あぐ)る程こそ有(あり)けれ、千(せん)余騎(よき)只一手(ひとて)に成(なつ)て、大勢の中に颯(さつ)と懸入(かけいり)、半時計(はんじばかり)戦(たたかつ)て、つと懸(かけ)ぬけて其(その)勢(せい)を見れば、三百(さんびやく)余騎(よき)は討(うた)れにけり。相残(あひのこる)勢(せい)七百(しちひやく)余騎(よき)を又一手(ひとて)に束(つか)ねて、副将軍(ふくしやうぐん)春日(かすがの)少将(せうしやう)のひかへたる二万(にまん)余騎(よき)が中へ懸入(かけいつ)て、東へ追靡(おひなびけ)、南へ懸散(かけちら)し、汗馬(かんば)の足を休めず、太刀の鐔音(つばおと)止(やむ)時なく、や声を出(いだし)てぞ戦合(たたかひあひ)たる。千騎(せんぎ)が一騎に成(なる)までも、引(ひく)な引(ひく)なと互に気を励(はげま)して、こゝを先途(せんど)と戦(たたかひ)けれ共(ども)、敵雲霞(うんか)の如くなれば、こゝに囲(かこま)れ彼(かしこ)に取篭(とりこめ)られて、勢(せい)もつき気も屈(くつ)しければ、七百(しちひやく)余騎(よき)の勢も、纔(わづか)に二十三騎に打成(うちな)され、土岐は左の目の下より右の口脇・鼻まで、鋒深(きつさきふか)に切付(きりつけ)られて、長森(ながもり)の城へ引篭(ひきこも)る。桃井(もものゐ)も三十(さんじふ)余箇度(よかど)の懸合(かけあひ)に七十六騎(しちじふろくき)に打成(うちな)され、馬の三図(さんづ)・平頚(ひらくび)二太刀切(きら)れ、草摺(くさずり)のはづれ三所つかれて、余(あまり)に戦疲(たたかひつかれ)ければ、「此軍(このいくさ)是(これ)に限(かぎ)るまじ、いざや人々馬の足休(やすめ)ん。」と、州俣河(すのまたがは)に馬を追漬(おひひたし)て、太刀・長刀(なぎなた)の血を洗(あらう)て、日も暮(くる)れば野に下居(おりゐ)て、終(つひ)に河より東へは越(こえ)給はず。京都には奥勢(おくぜい)上洛(しやうらく)の由(よし)、先立(さきだつ)て聞へけれ共(ども)、土岐(とき)美濃(みのの)国(くに)にあれば、さりとも一支(ひとささへ)は支(ささ)へんずらんと、憑敷(たのもしく)思はれける処に、頼遠既(すで)に青野原(おをのがはら)の合戦に打負(うちまけ)て、行方(ゆくかた)知らずとも聞へ、又は討(うた)れたり共(とも)披露(ひろう)ありければ、洛中(らくちゆう)の周章(しうしやう)斜(なのめ)ならず。さらば宇治・勢多の橋を引(ひき)てや相待つ。不然ば先(まづ)西国の方(かた)へ引退(ひきしりぞき)て、四国・九州の勢を付(つけ)て、却(かへつ)て敵をや攻(せむ)べきと異議まち/\に分(わかれ)て、評定未(いまだ)落居(らくきよ)せざりけるに、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)且(しばら)く思案(しあん)して申されけるは、「古(いにしへ)より今に至(いたる)まで、都へ敵の寄来(よせきた)る時、宇治・勢多の橋を曳(ひい)て戦(たたかふ)事(こと)度々(どど)也(なり)。然(しか)れ共(ども)此(この)河にて敵を支(ささへ)て、都を落されずと云(いふ)事(こと)なし。寄(よす)る者は広く万国を御方(みかた)にして威に乗り、防ぐ者は纔(わづか)に洛中(らくちゆう)を管領(くわんれい)して気を失(うしなふ)故(ゆゑ)也(なり)。不吉の例(れい)を逐(おう)て、忝(おほけな)く宇治・勢多の橋を引(ひき)、大敵を帝都の辺(へん)にて相待(あひまた)んよりは、兵勝(へいしよう)の利(り)に付(つい)て急(いそぎ)近江(あふみ)・美濃(みのの)辺(へん)に馳(はせ)向ひ、戦(たたかひ)を王城の外(ほか)に決せんには如(しか)じ。」と、勇(いさ)み其(その)気に顕(あらは)れ謀(はかりこと)其(その)理に協(かなう)て申されければ、将軍も師直も、「此(この)儀然(しかる)べし。」とぞ甘心(かんしん)せられける。「さらば時刻をうつさず向へ。」とて、大将軍には高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)・同播磨(はりまの)守(かみ)師冬・細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春・佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官(はうぐわん)氏頼・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道々誉・子息近江(あふみの)守(かみ)秀綱、此外(このほか)諸国の大名五十三人(ごじふさんにん)都合(つがふ)其(その)勢(せい)一万(いちまん)余騎(よき)、二月四日都を立(たち)、同六日の早旦(さうたん)に、近江(あふみ)と美濃との堺(さかひ)なる黒地河(くろぢがは)に著(つき)にけり。奥勢(おくぜい)も垂井(たるゐ)・赤坂(あかさか)に著(つき)ぬと聞へければ、こゝにて相(あひ)まつべしとて、前には関(せき)の藤川(ふじかは)を隔(へだて)、後(うしろ)には黒地川をあてゝ、其際(そのあひだ)に陣をぞ取(とつ)たりける。抑(そもそも)古より今に至(いたる)まで、勇士(ゆうし)猛将の陣を取(とつ)て敵を待(まつ)には、後(うしろ)は山により、前は水を堺(さか)ふ事にてこそあるに、今大河を後(うしろ)に当(あて)て陣を取(とら)れける事は又一(ひとつ)の兵法(ひやうはふ)なるべし。昔漢の高祖(かうそ)と楚の項羽(かうう)と天下(てんが)を争(あらそふ)事(こと)八箇年(はちかねん)が際(あひだ)戦(たたかふ)事(こと)休(やま)ざりけるに、或時(あるとき)高祖(かうそ)軍(いくさ)に負(まけ)て逃(にぐ)る事三十里(さんじふり)、討残(うちのこ)されたる兵(つはもの)を数(かぞふ)るに三千(さんぜん)余騎(よき)にも足(たら)ざりけり。項羽(かうう)四十(しじふ)余万騎(よまんぎ)を以て是(これ)を追(おひ)けるが、其(その)日(ひ)既(すで)に暮(くれ)ぬ。夜明(あくれ)ば漢の陣へ押寄(おしよせ)て、高祖(かうそ)を一時(いちじ)に亡(ほろぼ)さん事隻手(せきしゆ)の内に在(あり)とぞ勇(いさ)みける。爰(ここ)に高祖(かうそ)の臣に韓信と云(いひ)ける兵を大将に成(な)して、陣を取らせけるに、韓信態(わざ)と後(うしろ)に大河を当(あて)て橋を焼(やき)落し、舟を打破(うちやぶつ)てぞ棄(すて)たりける。是(これ)は兎(と)ても遁(のが)るまじき所を知(しつ)て、士卒(じそつ)一引(ひとひき)も引(ひく)心なく皆討死せよと、しめさん為の謀(はかりこと)也(なり)。夜明(あけ)ければ、項羽(かうう)の兵四十万騎(しじふまんぎ)にて押寄(おしよせ)、敵を小勢也(なり)と侮(あなどつ)て戦(たたかひ)を即時(そくじ)に決せんとす。其(その)勢(せい)参然(さんぜん)として左右を不顧懸(かかり)けるを、韓信が兵三千(さんぜん)余騎(よき)、一足(ひとあし)も引(ひか)ず死を争(あらそう)て戦(たたかひ)ける程(ほど)に、項羽(かうう)忽(たちまち)に討負(うちまけ)て、討(うた)るゝ兵二十万人、逃(にぐ)るを追(おふ)事(こと)五十(ごじふ)余里(より)なり。沼を堺(さか)ひ沢を隔(へだて)て、こゝまでは敵よも懸(かく)る事得じと、橋を引(ひき)てぞ居(ゐた)りける。漢の兵勝(かつ)に乗(のつ)て今夜軈(やが)て項羽(かうう)の陣へ寄(よせ)んとしけるに、韓信兵共(つはものども)を集(あつめ)て申(まうし)けるは、「我(われ)思様(おもふやう)あり。汝等(なんぢら)皆持(もつ)所の兵粮を捨てゝ、其(その)袋に砂を入(いれ)て持(もつ)べし。」とぞ下知(げぢ)しける。兵皆心得ぬ事哉(かな)と思(おもひ)ながら、大将の命(めい)に随(したがひ)て、士卒(じそつ)皆持(もつ)所の粮(かて)を捨(すて)て、其(その)袋に砂を入(いれ)て、項羽(かうう)が陣へぞ押寄(おしよせ)たる。夜に入(いつ)て項羽(かうう)が陣の様(やう)を見るに、四方(しはう)皆沼を堺(さか)ひ沢を隔(へだて)て馬の足も立(たた)ず、渡るべき様(やう)なき所にぞ陣取(ぢんどつ)たりける。此(この)時に韓信持(もち)たる所の砂嚢(すなふくろ)を沢に投入(なげいれ)々々(なげいれ)、是(これ)を堤(つつみ)に成(なし)て其(その)上(うへ)を渡るに、深泥(しんでい)更に平地(へいち)の如し。項羽(かうう)の兵二十万騎(にじふまんぎ)終日(ひねもす)の軍(いくさ)には疲れぬ。爰(ここ)までは敵よすべき道なしと油断して、帯紐(おびひぼ)とひてねたる処に、高祖(かうそ)の兵七千(しちせん)余騎(よき)時(とき)を咄(どつ)と作(つくり)て押寄(おしよせ)たれば、一戦(いつせん)にも及ばず、項羽(かうう)の兵十万(じふまん)余騎(よき)、皆河水にをぼれて討(うた)れにけり。是(これ)を名付(なづけ)て韓信が嚢砂背水(なうしやはいすゐ)の謀(はかりこと)とは申(まうす)也(なり)。今師泰・師冬・頼春が敵を大勢也(なり)と聞(きき)て、態(わざと)水沢を後(うしろ)に成(なし)て、関(せき)の藤川(ふじかは)に陣を取(とり)けるも、専(もつぱら)士卒(じそつ)心を一(ひとつ)にして、再び韓信が謀を示す者なるべし。去(さる)程(ほど)に国司(こくし)の勢十万騎(じふまんぎ)、垂井(たるゐ)・赤坂(あかさか)・青野原(おをのがはら)に充満(じゆうまん)して、東西六里南北三里に陣を張る。夜々の篝(かがり)を見渡せば、一天(いつてん)の星計(せいと)落(おち)て欄干(らんかん)たるに異(こと)ならず。此(この)時越前国(ゑちぜんのくに)に、新田(につた)義貞(よしさだ)・義助、北陸道(ほくろくだう)を順(したがへ)て、天を幹(めぐ)らし地を略(りやく)する勢(いきほ)ひ専(もつぱら)昌(さかん)也(なり)。奥勢(おくぜい)若(もし)黒地(くろぢ)の陣を払(はらは)ん事難儀ならば、北近江より越前へ打越(うちこえ)て、義貞(よしさだ)朝臣(あそん)と一つになり、比叡山(ひえいさん)に攀上(よぢのぼ)り、洛中(らくちゆう)を脚下(あしのした)に直下(みおろ)して南方の官軍(くわんぐん)と牒(てふ)し合(あは)せ、東西より是(これ)攻めば、将軍京都には一日も堪忍(かんにん)し給はじと覚(おぼえ)しを、顕家(あきいへの)卿(きやう)、我(わが)大功義貞の忠に成(なら)んずる事を猜(そねん)で、北国へも引合(ひきあは)ず、黒地(くろぢ)をも破りえず、俄(にはか)に士卒(じそつ)を引(ひき)て伊勢より吉野へぞ廻(まは)られける。さてこそ日来(ひごろ)は鬼神の如くに聞へし奥勢(おくぜい)、黒地(くろぢ)をだにも破(やぶり)えず、まして後攻(ごづめ)の東国勢京都に著(つき)なば、恐るゝに足(たら)ざる敵也(なり)とぞ、京勢(きやうぜい)には思ひ劣(おと)されける。顕家卿南都(なんと)に著(つき)て、且(しばら)く汗馬(かんば)の足を休(やすめ)て、諸卒に向(むかつ)て合戦の異見(いけん)を問(とひ)給ひければ、白河(しらかは)の結城(ゆふき)入道進(すすみ)て申(まうし)けるは、「今度於路次、度々(どど)の合戦に討勝(うちかち)、所々(しよしよ)の強敵(かうてき)を追散(おつちら)し、上洛(しやうらく)の道を開(ひらく)といへども、青野原(おをのがはら)の合戦に、聊(いささか)利(り)を失ふに依(よつ)て、黒地(くろぢ)の橋をも渡り得ず、此侭(このまま)吉野殿(よしのどの)へ参らん事、余(あまり)に云甲斐(いふかひ)なく覚(おぼ)へ候。只此(この)御勢(おんせい)を以て都へ攻上(せめのぼり)、朝敵(てうてき)を一時に追落(おひおと)す歟(か)、もし不然ば、尸(かばね)を王城の土に埋(うづ)み候はんこそ本意にて候へ。」と、誠(まこと)に無予義申(まうし)けり。顕家(あきいへの)卿(きやう)も、此(この)義げにもと甘心(かんしん)せられしかば、頓(やが)て京都へ攻上(せめのぼり)給はんとの企(くはたて)なり。其聞(そのきこ)へ京都に無隠しかば、将軍大(おほき)に驚給(おどろきたまひ)て、急ぎ南都へ大勢を差下(さしくだ)し、「顕家(あきいへの)卿(きやう)を遮(さへぎ)り留(とど)むべし。」とて討手(うつて)の評定ありしかども、我(わ)れ向(むかは)んと云(いふ)人無(なか)りけり。角(かく)ては如何と、両将其器(そのき)を撰(えら)び給ひけるに、師直被申けるは、「何としても此(この)大敵を拉(とりひし)がん事は、桃井(もものゐ)兄弟にまさる事あらじと存(ぞんじ)候。其(その)故は自鎌倉(かまくら)退(しりぞい)て経長途を、所々にして戦候(たたかひさふらひ)しに、毎度(まいど)此(この)兵どもに手痛く当(あた)りて、気を失ひ付(つけ)たる者共(ものども)なり。其(その)臆病神(おくびやうがみ)の醒(さ)めぬ先(さき)に、桃井(もものゐ)馳向(はせむかつ)て、南都(なんと)の陣を追(おひ)落さん事、案(あん)の内(うち)に候。」と被申しかば、「さらば。」とて、頓(やが)て師直を御使(おんつかひ)にて桃井(もものゐ)兄弟に此(この)由を被仰しかば、直信(なほのぶ)・直常(なほつね)、子細を申(まうす)に及ばずとて、其(その)日(ひ)頓(やが)て打立(うちたつ)て、南都へぞ進発(しんばつ)せられける。顕家(あきいへの)卿(きやう)是(これ)を聞(きき)て、般若坂(はんにやざか)に一陣を張(はり)、都よりの敵に相当(あひあた)る。桃井(もものゐ)直常兵の先(さき)に進んで、「今度諸人(しよにん)の辞退する討手を我等(われら)兄弟ならでは不可叶とて、其撰(そのえらび)に相当(あひあた)る事、且(かつう)は弓矢の眉目(びぼく)也(なり)。此(この)一戦(いつせん)に利を失(うしな)はゞ、度々(どど)の高名(かうみやう)皆泥土(でいど)にまみれぬべし。志を一に励(はげま)して、一陣を先(まづ)攻破(せめやぶ)れや。」と下知(げぢ)せられしかば、曾我(そが)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)を始(はじめ)として、究竟(くつきやう)の兵七百(しちひやく)余騎(よき)身命を捨(すて)て切(きつ)て入る。顕家(あきいへの)卿(きやう)の兵も、爰(ここ)を先途(せんど)と支戦(ささへたたかひ)しかども、長途(ちやうど)の疲(つか)れ武者何(なに)かは叶(かな)ふべき。一陣・二陣あらけ破(やぶれ)て、数万騎の兵ども、思々(おもひおもひ)にぞ成(なり)にける。顕家(あきいへの)卿(きやう)も同(おなじ)く在所(ざいしよ)をしらず成給(なりたまひ)ぬと聞(きこ)へしかば、直信(なほのぶ)・直常兄弟は、大軍を容易(たやすく)追散(おひちら)し、其(その)身は無恙都へ帰上(かへりのぼ)られけり。されば戦功は万人の上に立(たち)、抽賞(ちうしやう)は諸卒の望(のぞみ)を塞(ふさ)がんと、独(ひとり)ゑみして待居給(まちゐたまひ)たりしかども、更に其(その)功其(その)賞に不中しかば、桃井(もものゐ)兄弟は万(よろ)づ世間(よのなか)を述懐(じゆつくわい)して、天下(てんが)の大変を憑(たのみ)にかけてぞ待(また)れける。懸(かか)る処に、顕家(あきいへの)卿(きやうの)舎弟春日(かすがの)少将(せうしやう)顕信(あきのぶ)朝臣(あそん)、今度南都を落(おち)し敗軍を集め、和泉(いづみ)の境(さかひ)に打出(うちいで)て近隣を犯奪(をかしうばひ)、頓(やが)て八幡山(やはたやま)に陣を取(とつ)て、勢(いきほ)ひ京洛を呑(のむ)。依之(これによつて)京都又騒動して、急ぎ討手の大将を差向(さしむく)べしとて厳命を被下しかども、軍忠異于他桃井(もものゐ)兄弟だにも抽賞(ちうしやう)の儀もなし。況(まし)て其已下(そのいげ)の者はさこそ有(あら)んずらんとて、曾(かつ)て進む兵更に無(なか)りける間、角(かく)ては叶(かなふ)まじとて、師直一家(いつけ)を尽(つく)して打立給(うちたちたまひ)ける間、諸軍勢(しよぐんぜい)是(これ)に驚(おどろい)て我(われ)も我(われ)もと馳下(はせくだ)る。されば其(その)勢(せい)雲霞(うんか)の如(ごとく)にて、八幡山(やはたやま)の下四方(しはう)に尺地(せきち)も不残充満(みちみち)たり。されども要害の堀稠(きびしく)して、猛卒悉(ことごと)く志を同(おなじう)して楯篭(たてこもり)たる事なれば、寄手(よせて)毎度戦(たたかひ)に利を失ふと聞(きこ)へしかば、桃井(もものゐ)兄弟の人々、我(わが)身を省(かへり)みて、今度の催促にも不応、都に残留(のこりとどま)られたりけるが、高家氏族(かうけしぞく)を尽し大家(たいか)軍兵を起すと云(いへ)ども、合戦利を失(うしなふ)と聞(きき)て、余所(よそ)には如何見て過(すぐす)べき。述懐は私事(わたくしごと)、弓矢の道は公界(くがい)の義、遁(のが)れぬ所也(なり)とて、偸(ひそ)かに都を打立(うちたつ)て手勢計(ばかり)を引率(いんぞつ)し、御方(みかた)の大勢にも不牒合、自身(じしん)山下(さんげ)に推(おし)寄せ、一日(いちにち)一夜(いちや)攻(せめ)戦ふ。是(これ)にして官軍(くわんぐん)も若干(そくばく)討(うた)れ疵(きず)を被(かうむ)りける。直信(なほのぶ)・直常の兵ども、残少(のこりすくな)に手負(ておひ)討(うた)れて、御方(みかた)の陣へ引(ひい)て加(くはは)る。此比(このころ)の京童部(わらんべ)が桃井塚(もものゐづか)と名づけたるは、兄弟合戦の在所(ざいしよ)也(なり)。是(これ)を始(はじめ)として厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)・大平(おほひら)孫太郎・和田近江(あふみの)守(かみ)自(みづから)戦(たたかひ)て疵(きず)を被(かうむ)り、数輩(すはい)の若党(わかたう)を討(うた)せ、日夜旦暮(たんぼ)相挑(あひいどむ)。かゝる処に、執事(しつじ)師直所々の軍兵を招(まね)き集め、「和泉の堺(さかひ)河内は故(こ)敵国なれば、さらでだに、恐懼(きようく)する処に、強敵(かうてき)其(その)中に起(おこり)ぬれば、和田・楠も力を合(あは)すべし。未(いまだ)微(び)〔な〕るに乗(のつ)て早速に退治(たいぢ)すべし。」とて、八幡(やはた)には大勢を差向(さしむけ)て、敵の打(うつ)て出(いで)ぬ様(やう)に四方(しはう)を囲(かこ)め、師直は天王寺(てんわうじ)へぞ被向ける。顕家(あきいへの)卿(きやう)の官軍共(くわんぐんども)、疲れて而(しか)も小勢なれば、身命を棄(すて)て支戦(ささへたたか)ふといへども、軍(いくさ)無利して諸卒散々(ちりぢり)に成(なり)しかば、顕家(あきいへの)卿(きやう)立(たつ)足もなく成給(なりたまひ)て、芳野(よしの)へ参らんと志(こころざ)し、僅(わづか)に二十(にじふ)余騎(よき)にて、大敵の囲(かこみ)を出(いで)んと、自(みづから)破利砕堅給ふといへども、其(その)戦功徒(いたづら)にして、五月二十二日和泉(いづみ)の堺安部野(さかひあべの)にて討死し給(たまひ)ければ、相従ふ兵(つはもの)悉(ことごと)く腹切(きり)疵(きず)を被(かうむつ)て、一人も不残失(うせ)にけり。顕家(あきいへの)卿(きやう)をば武蔵(むさしの)国(くに)の越生(こしふ)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)奉討しかば、頚をば丹後(たんごの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)武藤右京(うきやうの)進(しん)政清(まさきよ)是(これ)を取(とつ)て、甲(かぶと)・太刀・々(かたな)まで進覧(しんらん)したりければ、師直是(これ)を実検して、疑ふ所無(なか)りしかば、抽賞(ちうしやう)御感(ぎよかん)の御教書(みげうしよ)を両人にぞ被下ける。哀(あはれなる)哉(かな)、顕家(あきいへの)卿(きやう)は武略智謀其(その)家にあらずといへども、無双(ぶさう)の勇将にして、鎮守府(ちんじゆふの)将軍(しやうぐん)に任(にん)じ奥州(あうしう)の大軍を両度まで起(おこし)て、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)を九州の遠境(ゑんきやう)に追下(おひくだ)し、君の震襟(しんきん)を快(こころよ)く奉休られし其誉(そのほま)れ、天下(てんが)の官軍(くわんぐん)に先立(さきだつ)て争ふ輩(ともがら)無(なか)りしに、聖運(せいうん)天に不叶、武徳時至りぬる其謂(そのいはれ)にや、股肱(ここう)の重臣(ちようしん)あへなく戦場の草の露と消給(きえたまひ)しかば、南都(なんとの)侍臣・官軍(くわんぐん)も、聞(きき)て力をぞ失(うしなひ)ける。


太平記(国民文庫)
太平記巻第二十

○黒丸城(くろまるのじやう)初度(しよど)軍(いくさの)事(こと)付(つけたり)足羽(あすは)度々(どど)軍(いくさの)事(こと) S2001
新田左中将(さちゆうじやう)義貞(よしさだ)朝臣(あそん)、去(さる)二月の始(はじめ)に越前(ゑちぜんの)府中の合戦に打勝給(うちかちたまひ)し刻(きざみ)、国中の敵の城七十(しちじふ)余箇所(よかしよ)を暫時(ざんじ)に責(せめ)落して、勢(いきほ)ひ又強大(かうだい)になりぬ。此(この)時山門の大衆、皆旧好(きうかう)を以て内々心を通(かよは)せしかば、先(まづ)彼(かの)比叡山(ひえいさん)に取上(とりのぼり)て、南方の官軍(くわんぐん)に力を合せ、京都を責(せめ)られん事は無下(むげ)に輒(たやす)かるべかりしを、足利(あしかが)尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)、猶越前の黒丸城(くろまるのじやう)に落残(おちのこり)てをはしけるを、攻(せめ)落さで上洛(しやうらく)せん事は無念なるべしと、詮(せん)なき小事に目を懸(かけ)て、大儀を次に成(なさ)れけるこそうたてけれ。五月二日義貞(よしさだ)朝臣(あそん)、自ら六千(ろくせん)余騎(よき)の勢を率(そつ)して国府(こふ)へ打出(うちいで)られ、波羅密(はらみ)・安居(はこ)・河合(かはひ)・春近(はるちか)・江守(えもり)五箇所(ごかしよ)へ、五千(ごせん)余騎(よき)の兵をさし向(むけ)られ、足羽城(あすはのじやう)を攻(せめ)させらる。先(まづ)一番に義貞(よしさだ)朝臣(あそん)のこじうと、一条の少将行実(ゆきざね)朝臣(あそん)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて江守(えもり)より押寄(おしよせ)て、黒龍(くづれの)明神の前にて相戦ふ。行実(ゆきざね)の軍(いくさ)利(り)あらずして、又本陣へ引返(ひつかへ)さる。二番に船田長門(ふなたながとの)守(かみ)政経(まさつね)、七百(しちひやく)余騎(よき)にて安居(はこ)の渡(わたし)より押寄(おしよせ)て、兵半(なかば)河を渡る時、細河(ほそかは)出羽(ではの)守(かみ)二百(にひやく)余騎(よき)にて河向(かはむかひ)に馳合(はせあは)せ、高岸(たかぎし)の上に相支(ささへ)て、散々(さんざん)に射させける間、漲(みなぎ)る浪にをぼれて馬人(むまひと)若干(そくばく)討(うた)れにければ、是(これ)も又差(さし)たる合戦も無(なく)して引返(ひつかへ)す。三番に細屋(ほそや)右馬助(うまのすけ)、千(せん)余騎(よき)にて河合(かはひ)の庄より押寄(おしよせ)、北(きた)の端(はし)なる勝虎城(しようとらがじやう)を取巻(とりまい)て、即時(そくじ)に攻(せめ)落さんと、屏(へい)につき堀につかりて攻(せめ)ける処へ、鹿草(かぐさ)兵庫(ひやうごの)助(すけ)三百(さんびやく)余騎(よき)にて後攻(ごづめ)にまはり、大勢の中へ懸入(かけいつ)て面(おもて)も振らず攻(せめ)戦ふ。細屋が勢、城中(じやうちゆう)の敵と後攻(ごづめ)の敵とに追立(おつたて)られて本陣へ引返(ひつかへ)す。角(かく)て早(はや)寄手(よせて)足羽(あすは)の合戦に、打負(うちまく)る事三箇度(さんがど)に及(およべ)り。此(この)三人(さんにん)の大将は、皆天下(てんが)の人傑(じんけつ)、武略の名将たりしかども、余(あまり)に敵を侮(あなどつ)て、■(おぎろ)に大早(おほはや)りなりし故(ゆゑ)に、毎度の軍(いくさ)に負(まけ)にけり。されば、後漢(ごかん)の光武(くわうぶ)、々(ぶ)に臨む毎(ごと)に、「大敵を見ては欺(あざむ)き、小敵を見ては恐(おそれ)よ。」と云(いひ)けるも、理(ことわり)なりと覚(おぼえ)たり。
○越後勢(ゑちごぜい)越々前事(こと) S2002
去(され)ば越後の国は、其堺(そのさかひ)上野に隣(となつ)て、新田の一族(いちぞく)充満(みちみち)たる上、元弘以後義貞(よしさだ)朝臣(あそん)勅恩の国として、拝任(はいにん)已(すで)に多年なりしかば、一国の地頭(ぢとう)・後家人(ごけにん)、其烹鮮(そのはうせん)に随(したがふ)事(こと)日(ひ)久し。義貞已(すで)に北国を平(たひら)げて京都へ攻上(せめのぼ)らんとし給ふ由を聞(きき)て、大井田(おゐだ)弾正少弼(せうひつ)・同式部(しきぶの)大輔(たいふ)・中条入道・鳥山(とりやま)左京(さきやうの)亮(すけ)・風間(かざま)信濃(しなのの)守(かみ)・禰津掃部(ねづのかもんの)助(すけ)・大田滝口を始(はじめ)として、其(その)勢(せい)都合二万(にまん)余騎(よき)にて、七月三日越後の府(ふ)を立(たつ)て越中(ゑつちゆうの)国(くに)へ打越(うちこえ)けるに、其(その)国(くに)の守護(しゆご)普門(ふもん)蔵人(くらんど)俊清(としきよ)、国の堺(さかひ)に出合(いであひ)て是(これ)を支(ささへ)んとせしか共(ども)、俊清無勢(ぶせい)なりければ、大半(たいはん)討(うた)れて松倉城(まつくらのじやう)へ引篭(ひつこも)る。越後(ゑちごの)勢(せい)はこゝを打捨(うちすて)て、やがて加賀(かがの)国(くに)へ打通る。富樫介(とがしのすけ)是(これ)を聞(きき)て、五百(ごひやく)余騎(よき)の勢を以て、阿多賀(あたか)・篠原(しのはら)の辺(へん)に出(いで)合ふ。然共(しかれども)敵に対揚(たいやう)すべき程の勢ならねば、富樫(とがし)が兵(つはもの)二百(にひやく)余騎(よき)討(うた)れて、那多城(なたのじやう)へ引篭(ひつこも)る。越後の勢両国二箇度(にかど)の合戦に打勝(うちかつ)て、北国所々(しよしよ)の敵恐るゝに足(た)らずと思へり。此(この)まゝにて軈(やが)て越前へ打越(うちこゆ)べかりしが、是(ここ)より京までの道は、多年の兵乱に、国ついへ民疲れて、兵粮(ひやうらう)有(ある)べからず。加賀(かがの)国(くに)に暫(しばら)く逗留(とうりう)して行末の兵粮を用意(ようい)すべしとて、今湊(いまみなと)の宿(しゆく)に十(じふ)余日(よにち)まで逗留(とうりう)す。其(その)間に軍勢(ぐんぜい)、剣(つるぎ)・白山(しらやま)以下所々の神社仏閣に打入(いつ)て、仏物神物(ぶつもつしんもつ)を犯(をか)し執(と)り、民屋(みんをく)を追捕(ついふ)し、資財(しざい)を奪取(うばひとる)事(こと)法に過(すぎ)たり。嗚呼(ああ)「霊神為怒則、災害満岐。」といへり。此(この)軍勢(ぐんぜい)の悪行(あくぎやう)を見(みる)に、其(その)罪若(もし)一人に帰(き)せば、大将義貞(よしさだ)朝臣(あそん)、此度(このたび)の大功を立(たて)ん事如何あるべからんと、兆前(てうぜん)に機を見る人は潜(ひそか)に是(これ)を怪(あやし)めり。
○宸筆(しんぴつの)勅書(ちよくじよ)被下於義貞事(こと) S2003
日を経(へ)て越後勢(ゑちごぜい)、已(すで)に越前の河合に著(つき)ければ、義貞の勢弥(いよいよ)強大(かうだい)に成(なり)て、足羽城(あすはのじやう)を拉(とりひし)がん事、隻手(せきしゆ)の中(うち)にありと、皆掌(たなごころ)をさす思(おもひ)をなせり。げにも尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)の義を守る心は奪(うばひ)がたしといへ共(ども)、纔(わづか)なる平城(ひらじやう)に三百(さんびやく)余騎(よき)にて楯篭(たてごも)り、敵三万(さんまん)余騎(よき)を四方(しはう)に受(うけ)て、篭鳥(ろうてう)の雲を恋ひ、涸魚(かくぎよ)の水を求(もとむ)る如くなれば、何(いつ)までの命をか此(この)世の中に残すらんと、敵は是(これ)を欺(あざむい)て勇(いさ)み、御方(みかた)は是(これ)に弱(よわり)て悲(かなし)めり。既(すで)に来(きたる)二十一日には、黒丸(くろまる)の城を攻(せめ)らるべしとて、堀溝(ほりみぞ)をうめん為に、うめ草三万(さんまん)余荷(よか)を、国中の人夫(にんぶ)に持寄(もちよせ)させ、持楯(もちだて)三千(さんぜん)余帖(よてふ)をはぎ立(たて)て、様々の攻支度(せめしたく)をせられける処に、芳野(よしの)殿(どの)より勅使を立(たて)られて仰(おほせ)られけるは、「義興(よしおき)・顕信(あきのぶ)敗軍の労兵を率(そつ)して、八幡山(やはたやま)に楯篭(たてこも)る処に、洛中(らくちゆう)の逆徒(ぎやくと)数を尽(つく)して是(これ)を囲(かこ)む。城中(じやうちゆう)已(すで)に食乏(とぼしう)して兵皆疲る。然(しかり)といへ共(ども)、北国の上洛(しやうらく)近(ちかき)にあるべしと聞(きき)て、士卒(じそつ)梅酸(ばいさん)の渇(かつ)を忍ぶ者也(なり)。進発(しんばつ)若(もし)延引せしめば、官軍(くわんぐん)の没落疑有(うたがひある)べからず。天下(てんが)の安危(あんき)只此(この)一挙(いつきよ)にあり。早其堺(そのさかひ)の合戦を閣(さしおい)て、京都の征戦を専(もつぱら)にすべし。」と仰(おほせ)られて、御宸筆(ごしんぴつ)の勅書(ちよくじよ)をぞ下(くだ)されける。義貞(よしさだ)朝臣(あそん)勅書を拝見して、源平両家(りやうけ)の武臣、代々(だいだい)大功ありと云共(いへども)、直(ぢき)に宸筆(しんぴつ)の勅書を下されたる例(れい)未聞(いまだきかざる)所也(なり)。是(これ)当家超涯(てうがい)の面目(めんぼく)也(なり)。此(この)時命を軽(かろん)ぜずんば、正に何れの時をか期(ご)すべきとて、足羽(あすは)の合戦を閣(さしお)かれて、先(まづ)京都の進発(しんぱつ)をぞいそがれける。
○義貞牒山門同(おなじく)返牒(へんてふの)事(こと) S2004
児島備後(びんごの)守(かみ)高徳(たかのり)、義貞(よしさだ)朝臣(あそん)に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「先年京都の合戦の時、官軍(くわんぐん)山門を落されて候(さふらひ)し事、全く軍(いくさ)の雌雄(しゆう)に非(あら)ず、只北国の敵に道をふせがれて兵粮(ひやうらう)につまりし故(ゆゑ)也(なり)。向後(きやうこう)も其(その)時の如(ごとく)に候はゞ、縦(たと)ひ山上に御陣を召(めさ)れ候(さうらふ)共(とも)、又先年の様なる事決定(けつぢやう)たるべく候。然れば越前・加賀の宗(むね)との城々には、皆御勢(おんせい)を残し置れて兵粮を運送せさせ大将一両人に御勢(おんせい)を六七千騎(ろくしちせんぎ)も差副(さしそへ)られ山門に御陣を召(めさ)れ、京都を日々夜々攻(せめ)られば、根を深(ふかう)し蔕(ほぞ)を堅(かたう)する謀(はかりこと)成(なつ)て、八幡(やはた)の官軍(くわんぐん)に力(ちから)を付け、九重(ここのへ)の凶徒(きようと)を亡(ほろぼ)すべき道たるべく候。但(ただし)小勢にて山門へ御上(おんのぼり)候はゞ、衆徒案(あん)に相違して御方(みかた)を背(そむ)く者や候はんずらん。先(まづ)山門へ牒状を送られて、衆徒の心を伺ひ御覧ぜられ候へかし。」と申(まうし)ければ、義貞「誠(まこと)に此(この)義謀(はかりこと)濃(こまやか)にして慮(おもんばか)り遠し。さらば牒状を山門へ送るべし。」と宣(のたまへ)ば、高徳兼(かね)て心に草案(さうあん)をやしたりけん。則(すなはち)筆を取(とり)て書之。其の詞(ことばに)云(いはく)、
正四位(しやうしゐの)上(じやう)行左近衛(さこんゑの)中将(ちゆうじやう)兼播磨守源朝臣(あそん)義貞牒延暦寺(えんりやくじ)衙。請早得山門贔屓一諾、誅罰逆臣尊氏・直義以下党類、致仏法王法光栄状。式窃覿素昔渺聞玄風、桓武(くわんむの)皇帝(くわうてい)下詔専一基叡山(えいさん)者、以聖化期昌顕密両宗於億載。伝教(でんげう)大師(だいし)上表九鎮王城者、以法威為護国家太平於無疆之耳也(なり)。然則聞山門衰微悼之、見朝庭傾廃悲之。不九五之聖位三千(さんぜん)之(の)衆徒為孰乎。去元弘之始、一天(いつてん)革命、四海(しかい)帰風之後。有源家余裔尊氏直義。無忠貪大禄、不材登高官。自誇超涯之皇沢、不顧欠盈之天真。忽棄君臣之義、猥懐犲狼之心。聿害流于蒸民、禍溢于八極。公議不獲止、将行天誅之日、烟塵暗侵九重之月、翠花再掃四明之雲。此時貴寺忽輔危、庸臣謀退暴。雖然守死於善道者寡、求党於利門者多。因茲官軍(くわんぐん)戦破、而聖主忝逢■里(いうり)之囚。氈城食竭而君王自臥戦場之刃。自爾以降逆徒弥恣意、婬刑濫行罰。凶戻残賊無不悪而極。自疑天維云絶、日月無所懸。地軸既摧、山川不得載。側耳奪目。苟不忍待時、呑炭含刃、径欲計近敵之処、忽聴鸞輿幸南山、衆星拱北極。於是蘇恩、発恩、徹憤啓憤。起自嶮溢之中、纔得郡県之衆。然則駆金牛開路、飛火鶏劫城。其戦未半決勝於一挙(いつきよ)、退敵於四方(しはう)訖。疇昔范蠡闘黄地、破呉三万(さんまん)之(の)旅、周郎挑赤壁、虜魏十万(じふまん)之(の)軍。把来何足比。如今挙国量誅朝敵(てうてき)。天慮以臣為爪牙之任。肆不遑卜否泰、振臂将発京師。貴山償若不捐故旧、拉大敵於隻手中必矣。伝聞当山之護持、亘古亘今、卓犖于乾坤。承和修大威徳之法、次君乃坐玉■(ぎよくい)。承平安四天王(してんわう)之(の)像、将門遂傷鉄身。是以頼佳運於七社(しちしや)之冥応、復旧規於一山(いつさん)之(の)懇祈。熟思量之凡悪在彼与義在我、孰与天下(てんが)之(の)治乱山上之安危。早聞一諾之群議、而遠合虎竹、速靡三軍之卒伍而為揺竜旗。牒送如件、勒之以状。延元二年七月日とぞ書(かき)たりける。山門の大衆(だいしゆ)は先年春夏両度、山上へ臨幸成(なり)たりし時、粉骨の忠功を致すに依(よつ)て、若干(そくばく)の所領を得たりしが、官軍(くわんぐん)北国に落行き、主上(しゆしやう)京都に還幸(くわんかう)成(なり)しかば、大望(だいばう)一々に相違して、あはれいかなる不思議(ふしぎ)も有(あつ)て、先帝の御代になれかしと祈念する処に、此(この)牒状来したりければ、一山(いつさん)挙(こぞつ)て悦び合(あへ)る事限(かぎり)なし。同(おなじき)七月二十三日(にじふさんにち)に、一所住(いつしよぢゆう)の大衆(だいしゆ)、大講堂の庭に会合して返牒(へんでふ)を送る。其詞(そのことばに)云(いはく)、
延暦寺(えんりやくじ)牒新田左近衛(さこんゑの)中将(ちゆうじやう)家衙。来牒一紙(いつし)被載朝敵(てうてき)御追罰(ついばつ)事。右鎮四夷(しい)之擾乱、而致国家之太平者、武将所不失節。祈百王之宝祚、而銷天地之妖■(えうげつ)者、吾山所不譲他。途殊帰同。豈其際措一線縷乎。夫尊氏・直義等(ただよしら)暴悪、千古未聞其類。是匪啻仏法王法之怨敵。兼又為害国害民之残賊。孟軻有言、出於己者帰己矣。渠若今不亡、以何待之。雖然逆臣益振威、義士恒有困何乎。取類看之、夫差合越之威、遂為勾践(こうせん)所摧、項羽(かうう)抜山之力、却為沛公見獲。是則所以呉無義而猛、漢有仁而正也(なり)。安危所拠無若天命矣。是以山門内重武候之忠烈期佳運、外忝聖主之尊崇、祈皇猷。上下庶幾貪聴之処、儻投青鳥見竭丹心。一山(いつさん)之(の)欣悦底事如之。七社(しちしや)之霊鑒、此時露顕。倩把往昔量吉凶、当山如棄則挙世起而不立。治承之乱、高倉宮聿没外都之塵。吾寺専与則合衆禦而不得。元暦(げんりやく)之(の)初、源義仲忽攀中夏之月。是人情起神慮。捨彼取此之故(ゆゑ)也(なり)。満山之群議今如斯。凶徒(きようと)之誅戮何有疑。時節已到。暫勿遅擬。仍牒送如件。以状。延元二年七月日とぞ書(かき)たりける。山門の返牒(へんでふ)越前に到来しければ、義貞斜(なのめ)ならず悦(よろこん)で、頓(やが)て上洛(しやうらく)せんとし給ひけるが、混(ひたす)らに北国を打捨(すて)なば、高経如何様(いかさま)跡(あと)より起(おこつ)て、北陸道(ほくろくだう)をさし塞(ふさぎ)ぬと覚(おぼゆ)れば、二手(ふたて)に分(わかれ)て国をも支(ささ)へ、又京をも責(せむ)べしとして、義貞は三千(さんぜん)余騎(よき)にて越前に留(とどま)り、義助は二万(にまん)余騎(よき)を率(そつ)して七月二十九日越前の府(ふ)を立(たつ)て、翌日(よくじつ)には敦賀の津に著(つき)にけり。
○八幡(やはた)炎上(えんしやうの)事(こと) S2005
将軍此(この)事(こと)を聞召(きこしめさ)れて、「八幡(やはた)の城未(いまだ)責(せめ)落さで、兵攻戦(こうせん)に疲(つかれ)ぬる処に、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助山門と成し合(あつ)て、北国より上洛(しやうらく)すなるこそゆゝ敷(しき)珍事(ちんじ)なりけれ。期(ご)に臨(のぞん)で引かば、南方の敵勝(かつ)に乗(のる)べし。未(いまだ)事(こと)の急にならぬ先(さき)に、急(いそぎ)八幡の合戦を閣(さしおい)て、京都へ帰(かへつ)て北国の敵を相待(あひまつ)べし。」と、高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)の方へぞ下知(げぢ)し給ひける。師直此(この)由を聞(きき)て、此(この)城(じやう)を責(せめ)かゝりながら、落さで引返(ひつかへ)しなば、南方の敵に利を得られつべし。さて又京都を閣(さしおか)ば、北国の敵に隙(ひま)を伺(うかがは)れつべし。彼此(かれこれ)如何せんと、進退谷(きはまつ)て覚(おぼ)へければ、或夜(あるよ)の雨風の紛(まぎれ)に、逸物(いちもつ)の忍(しのび)を八幡山(やはたやま)へ入れて、神殿に火をぞ懸(かけ)たりける。此(この)八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)と申(まうし)奉るは、忝(かたじけなく)も王城鎮護の宗廟にて、殊更源家(げんけ)崇敬(そうきやう)の霊神にて御坐(おはしま)せば、寄手(よせて)よも社壇を焼(や)く程の悪行はあらじと、官軍(くわんぐん)油断しけるにや、城中(じやうちゆう)周章(あわて)騒動して烟の下に迷倒(めいだう)す、是(これ)を見て四方(しはう)の寄手(よせて)十万(じふまん)余騎(よき)、谷々(たにだに)より攻上(せめのぼつ)て、既(すで)に一二の木戸口(きどぐち)までぞ攻入(せめいり)ける。此(この)城(じやう)三方(さんぱう)は嶮岨(けんそ)にして登(のぼり)がたければ、防(ふせぐ)に其便(そのたより)あり。西へなだれたる尾崎(をさき)は平地につゞきたれば、僅(わづか)に堀切(ほりきつ)たる乾堀(からほり)一重(ひとへ)を憑(たのん)で、春日(かすがの)少将(せうしやう)顕信(あきのぶ)朝臣(あそん)の手(て)の者共(ものども)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて支(ささへ)たりけるが、敵の火を見て攻上(せめのぼ)りける勢(いきほひ)に心を迷はして、皆引色(ひきいろ)にぞ成(なり)にける。爰(ここ)に城中(じやうちゆう)の官軍(くわんぐん)、多田(ただの)入道が手(て)の者に、高木十郎、松山九郎とて、名を知られたる兵二人(ににん)あり。高木は其(その)心剛(かう)にして力足らず、松山は力世に勝(すぐれ)て心臆病也(なり)。二人(ににん)共(とも)に同関(おなじきど)を堅めて有(あり)けるが、一の関(きど)を敵にせめ破(やぶら)れて、二の関(きど)になを支(ささへ)てぞ居たりける。敵已(すで)に逆木(さかもぎ)を引破(ひきやぶつ)て、関(きど)を切(きつ)て落さんとしけれども、例の松山が癖(くせ)なれば、手足振惶(ふるひわなない)て戦(たたかは)ん共(とも)せざりけり。高木十郎是(これ)を見て眼(まなこ)を嗔(いから)かし、腰の刀に手を懸(かけ)て云(いひ)けるは、「敵四方(しはう)を囲(かこみ)て一人も余(あま)さじと攻(せめ)戦ふ合戦也(なり)。こゝを破られては宗(むね)との大将達乃至(ないし)我々に至(いたる)までも、落(おち)て残る者やあるべき。されば爰(ここ)を先途(せんど)と戦(たたかふ)べき処なるを、御辺(ごへん)以(もつて)の外(ほか)に臆(おく)して見へ給(たまふ)こそ浅猿(あさまし)けれ。平生(へいぜい)百人(ひやくにん)二百人(にひやくにん)が力ありと自称せられしは、何(なん)の為の力ぞや。所詮御辺(ごへん)爰(ここ)にて手を摧(くだ)きたる合戦をし給はずば、我(われ)敵の手に懸(かから)んよりは、御辺(ごへん)と差違(さしちが)へて死(しぬ)べし。」と忿(いかつ)て、誠(まこと)に思切(おもひきつ)たる体(てい)にぞ見へたりける。松山其(その)色を見て、覿面(てきめん)の勝負敵よりも猶怖(おそろし)くや思(おもひ)けん、「暫(しばらく)しづまり給へ、公私(こうし)の大事(だいじ)此(この)時なれば、我(わが)命惜(をし)むべきにあらず。いで一戦(いつせん)して敵にみせん。」と云侭(いふまま)に、はなゝく/\走(わし)り立(たつ)て、傍(そば)にありける大石の、五六人して持(もち)あぐる程なるを軽々(かるがる)と提(ひつさげ)て、敵の群(むらがつ)て立(たち)たる其(その)中へ、十四五程大山の崩るゝが如(ごとく)に投(なげ)たりける。寄手(よせて)数万の兵共(つはものども)、此(この)大石に打(うた)れて将碁倒(しやうぎたふし)をするが如(ごとく)、一同に谷底へころび落(おち)ければ、己(おの)が太刀長刀(なぎなた)につき貫(つらぬかれ)て、命を堕(おと)し疵(きず)を蒙(かうむ)る者幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を知らず。今夜既(すで)に攻(せめ)落されぬと見へつる八幡(やはた)の城、思(おもひ)の外(ほか)にこらへてこそ、松山が力は只高木が身にありけりと、咲(わら)はぬ人もなかりけり。去(さる)程(ほど)に敦賀まで著(つき)たりける越前の勢共(せいども)、遥(はるか)に八幡山(やはたやま)の炎上(えんしやう)を聞(きい)て、いか様(さま)せめ落されたりと心得(こころえ)て、実否(じつひ)を聞定(ききさだめ)ん為に数日(すじつ)逗留(とうりう)して、徒(いたづら)に日数(ひかず)を送る。八幡(やはた)の官軍(くわんぐん)は、兵粮を社頭に積(つん)で悉(ことごとく)焼失(やきうしなひ)しかば、北国の勢を待(まつ)までのこらへ場(ば)もなかりければ、六月二十七日(にじふしちにち)の夜半に、潜(ひそか)に八幡の御山(おんやま)を退落(しりぞきおち)て、又河内(かはちの)国(くに)へぞ帰りける。此(この)時若(もし)八幡の城今四五日もこらへ、北国の勢逗留(とうりう)もなく上(のぼ)りたらましかば、京都は只一戦(いつせん)の内に攻(せめ)落すべかりしを、聖運時未(いまだ)至らざりけるにや、両陣の相図(あひづ)相違して、敦賀と八幡との官軍共(くわんぐんども)、互に引(ひき)て帰りける薄運(はくうん)の程こそあらはれたれ。
○義貞重(かさねて)黒丸合戦(かつせんの)事(こと)付(つけたり)平泉寺(へいせんじ)調伏(てうぶくの)法(ほふの)事(こと) S2006
義貞京都の進発(しんぱつ)を急(いそが)れつる事は、八幡の官軍(くわんぐん)に力をつけ、洛中(らくちゆう)の隙(ひま)を伺(うかがは)ん為也(なり)。き。而(しかる)に今其相図(そのあひづ)相違(さうゐ)しぬる上は、心閑(しづか)に越前の敵を悉(ことごと)く対治(たいぢ)して、重(かさね)て南方に牒合(てふしあはせ)てこそ、京都の合戦をば致さめとて、義貞も義助も河合(かはひ)の庄へ打越(うちこえ)て、先(まづ)足羽(あすは)の城を責(せめ)らるべき企(くはたて)也(なり)。尾張(をはりの)守(かみ)高経此(この)事(こと)を聞給(ききたまひ)て、「御方(みかた)僅(わづか)に三百騎(さんびやくき)に足(たら)ざる勢を以て、義貞が三万(さんまん)余騎(よき)の兵に囲(かこ)まれなば、千に一(ひと)つも勝(かつ)事(こと)を得べからず、然(しかり)といへ共(ども)、敵はや諸方の道を差塞(さしふさぎ)ぬと聞(きこ)ゆれば、落(おつ)とも何(いづ)くまでか落延(おちのぶ)べき。只偏(ひとへ)に打死(うちじに)と志(こころざし)て、城を堅くするより外(ほか)の道やあるべき。」とて、深田(ふかた)に水を懸入(かけいれ)て、馬の足も立(たた)ぬ様(やう)にこしらへ、路を堀切(ほりきつ)て穽(おとし)をかまへ、橋をはづし溝(みぞ)を深(ふかく)して、其(その)内に七(ななつ)の城を拵(こしら)へ、敵せめば互に力を合(あはせ)て後(うしろ)へまはりあふ様にぞ構(かまへ)られたりける。此足羽(このあすは)の城と申(まうす)は、藤島(ふぢしま)の庄に相双(あひならん)で、城郭(じやうくわく)半(なかば)は彼(かの)庄(しやう)をこめたり。依之(これによつて)平泉寺の衆徒の中より申(まうし)けるは、「藤島(ふぢしまの)庄(しやう)は、当寺多年山門と相論(さうろん)する下地(したぢ)にて候。若(もし)当庄(たうしやう)を平泉寺に付(つけ)らるべく候はゞ、若輩(じやくはい)をば城々にこめをきて合戦を致させ、宿老は惣持(そうぢ)の扉(とぼそ)を閉(とぢ)て、御祈祷(ごきたう)を致すべきにて候。」とぞ云(いひ)ける。尾張(をはりの)守(かみ)大(おほき)に悦(よろこん)で、今度合戦雌雄、■借衆徒合力、憑霊神之擁護之上者、先以藤島(ふぢしまの)庄(しやう)所付平泉寺也(なり)。若得勝軍之利者、重可申行恩賞、仍執達如件。建武四年七月二十七日(にじふしちにち)尾張(をはりの)守平泉寺衆徒御中と、厳密の御教書(みげうしよ)をぞ成(なさ)れける。衆徒是(これ)に勇(いさみ)て、若輩(じやくはい)五百(ごひやく)余人(よにん)は藤島(ふぢしま)へ下(くだり)て城に楯篭(たてこも)り、宿老五十人(ごじふにん)は、炉壇(ろだん)の烟(けむり)にふすぼり返(かへつ)て、怨敵調伏(てうぶく)の法をぞ行(おこな)はれける。
○義貞夢想(むさうの)事(こと)付(つけたり)諸葛孔明(しよかつこうめいが)事(こと) S2007
其(その)七日に当(あた)りける夜、義貞の朝臣(あそん)不思議(ふしぎ)の夢をぞ見給(たまひ)ける。所は今の足羽辺(あすはへん)と覚(おぼえ)たる河の辺(へん)にて、義貞と高経と相対(あひたい)して陣を張る。未(いまだ)戦(たたかは)ずして数日(すじつ)を経(ふ)る処に、義貞俄(にはか)にたかさ三十丈(さんじふぢやう)計(ばかり)なる大蛇(だいじや)に成(なつ)て、地上に臥(ふし)給へり。高経是(これ)を見て、兵をひき楯を捨(すて)て逃(にぐ)る事数十里(すじふり)にして止(とどまる)と見給(たまひ)て、夢は則(すなはち)覚(さめ)にけり。義貞夙(つと)に起(おき)て、此(この)夢を語り給(たまふ)に、「竜(りよう)は是(これ)雲雨(うんう)の気に乗(のつ)て、天地を動(うごか)す物也(なり)。高経雷霆(らいてい)の響(ひびき)に驚(おどろい)て、葉公(せふこう)が心を失(うしなひ)しが如くにて、去(さ)る事候べし、目出(めでた)き御夢(おんゆめ)なり。」とぞ合(あは)せける。爰(ここ)に斉藤七郎(しちらう)入道々献、垣を阻(へだて)て聞(きき)けるが、眉をひそめて潜(ひそか)に云(いひ)けるは、「是(これ)全く目出(めでた)き御夢(おんゆめ)にあらず。則(すなはち)天の凶(きよう)を告(つぐ)るにて有(ある)べし。其(その)故は昔異朝(いてう)に呉の孫権(そんけん)・蜀(しよく)の劉備(りうび)・魏(ぎ)の曹操(さうさう)と云(いひ)し人三人(さんにん)、支那四百州を三(みつ)に分(わけ)て是(これ)を保(たも)つ。其(その)志皆二(ふたつ)を亡(ほろぼ)して、一(ひとつ)にあはせんと思へり。然共(しかれども)曹操は才智世に勝(すぐ)れたりしかば、謀(はかりこと)を帷帳(ゐちやう)の中(うち)に運(めぐら)して、敵を方域(はうゐき)の外に防ぐ。孫権は弛張(ちちやう)時(とき)有(あつ)て士を労(ねぎ)らひ衆を撫(な)でしかば、国を賊(ぞく)し政(まつりごと)を掠(かすむ)る者競(きほ)ひ集(あつまつ)て、邪(よこしま)に帝都を侵(をか)し奪へり。劉備は王氏を出(いで)て遠からざりしかば、其(その)心仁義に近(ちかく)して、利慾を忘るゝ故(ゆゑ)に、忠臣孝子四方(しはう)より来(きたつ)て、文教をはかり武徳を行ふ。此(この)三人(さんにん)智仁勇の三徳を以て天下(てんが)を分(わけ)て持ちしかば、呉魏蜀(ごぎしよく)の三都相並(あひならん)で、鼎(かなへ)の如く峙(そばた)てり。其比(そのころ)諸葛孔明(しよかつこうめい)と云(いふ)賢才の人、世を避け身を捨てゝ、蜀の南陽山に在(あり)けるが、寂(せき)を釣り閑(かん)を耕(たがへし)て歌ふ歌をきけば、歩出斉東門(とうもん)。往到蕩陰里。里中有三墳。塁々皆相似。借問誰家塚。田疆古冶子。気能排南山。智方絶地理。一朝見讒言。二桃殺三士。誰能為此謀。国将斉晏子。とぞうたひける。蜀の智臣是(これ)を聞(きき)て、彼(かれ)が賢なる所を知(しり)ければ、是(これ)を召(めし)て政(まつりごと)を任せ、官を高(たかく)して世を治め給ふべき由をぞ奏(そう)し申(まうし)ける。劉備則(すなはち)幣(へい)を重(おもう)し、礼を厚(あつく)して召(めさ)れけれ共(ども)、孔明(こうめい)敢(あへ)て勅(ちよく)に応ぜず。只澗飲岩栖(かんいんがんせい)して、生涯を断送(だんそう)せん事を楽しむ。劉備三度(みた)び彼(かれ)の草庵の中へをはして宣(のたま)ひけるは、「朕(ちん)不肖(ふせう)の身を以て、天下(てんが)の太平を求む。全く身を安(やすん)じ、欲を恣(ほしいまま)にせんとには非(あら)ず。只道の塗炭(どたん)にをち、民の溝壑(こうがく)に沈(しづみ)ぬる事をすくはん為のみ也(なり)。公(きみ)若(もし)良佐(りやうさ)の才を出して、朕(ちん)が中心を輔(たすけ)られば、残(ざん)に勝(かち)、殺(さつ)を棄(すて)ん事、何ぞ必(かならず)しも百年を待(また)ん。夫(それ)石を枕にし泉に漱(くちすすい)で、幽栖(いうせい)を楽(たのし)むは一身(いつしん)の為(ため)也(なり)。国を治め民を利して大化を致さんは、万人の為也(なり)。」と、誠を尽し理を究(きはめ)て仰(おほせ)られければ、孔明(こうめい)辞するに詞(ことば)なくして、遂に蜀の丞相(しようじやう)と成(なり)にけり。劉備是(これ)を貴寵(きちよう)して、「朕有孔明(こうめい)如魚有水。」と喜(よろこび)給ふ。遂に公侯(こうこう)の位を与(あたへ)て、其(その)名を武侯(ぶこう)と号せられしかば、天下(てんが)の人是(これ)を臥龍(ぐわりよう)の勢(いきほ)ひありと懼(おそれ)あへり。其(その)徳已(すで)に天下(てんが)を朝(てう)せしむべしと見へければ、魏の曹操(さうさう)是(これ)を愁(うれへ)て、司馬仲達(しばちゆうたつ)と云(いふ)将軍(しやうぐん)に七十万騎(しちじふまんぎ)の兵を副(そへ)て蜀の劉備を責(せめ)んとす。劉備は是(これ)を聞(きき)て孔明(こうめい)に三十万騎(さんじふまんぎ)の勢を付(つけ)て、魏と蜀との堺(さかひ)、五丈原と云(いふ)処へ差向(さしむけ)らる。魏蜀の兵河を阻(へだて)て相支(ささふ)る事五十(ごじふ)余日(よにち)、仲達曾(かつ)て戦(たたかは)んとせず。依之(これによつて)魏の兵、漸く馬疲れ食尽(つき)て日々に竃(さう)を減ぜり。依之(これによつて)魏の兵皆戦(たたかは)んと乞(こふ)に、仲達不可(ふか)也(なり)と云(いひ)て是(これ)を許さず。或時仲達蜀(しよく)の芻蕘共(すうぜうども)をとりこにして、孔明(こうめい)が陣中の成敗(せいばい)をたづね問(とふ)に、芻蕘共(すうぜうども)答(こたへ)て云(いひ)けるは、「蜀の将軍孔明(こうめい)士卒を撫で、礼譲(れいじやう)を厚くし給ふ事疎(おろそか)ならず。一豆(いつとう)の食を得ても、衆と共に分(わかち)て食し、一樽(いつそん)の酒を得ても、流れに濺(そそい)で士と均(ひとし)く飲(いん)す。士卒未(いまだ)炊(かしが)ざれば大将食せず。官軍(くわんぐん)雨露(うろ)にぬるる時は大将油幕(ゆばく)を不張。楽(たのしみ)は諸侯の後に楽(たのし)み、愁(うれへ)は万人の先に愁(うれ)ふ。加之(しかのみならず)夜は終夜(よもすがら)睡(ねむり)を忘(わすれ)て、自(みづから)城(じやう)を廻(まはつ)て懈(おこた)れるを戒(いまし)め、昼は終日(ひねもす)に面を和(やはらげ)て交(まじはり)を睦(むつ)ましくす。未(いまだ)須臾(しゆゆ)の間も心を恣(ほしいまま)にし、身を安(やすん)ずる事を見ず。依之(これによつて)其(その)兵三十万騎(さんじふまんぎ)、心を一(ひとつ)にして死を軽くせり。鼓(つづみ)を打(うつ)て進むべき時はすゝみ、鐘(かね)を敲(たたい)て退(しりぞ)くべき時は退(しりぞか)ん事、一歩も大将の命(めい)に違(たがふ)事(こと)あるべからずと見へたり。其外(そのほか)の事は、我等(われら)が知(しる)べき処に非(あらず)。」とぞ語りける。仲達是(これ)を聞(きい)て、「御方(みかた)の兵(つはもの)は七十万騎(しちじふまんぎ)其(その)心一人も不同、孔明(こうめい)が兵三十万騎(さんじふまんぎ)、其(その)志皆同じといへり。されば戦(たたかひ)を致して蜀に勝(かつ)事(こと)は努(ゆめゆめ)あるべからず。孔明(こうめい)が病(やめ)る弊(つひえ)に乗(のつ)て戦(たたか)はゞ、必(かならず)勝(かつ)事(こと)を得つべし。其(その)故は孔明(こうめい)此炎暑(このえんしよ)に向(むかつ)て昼夜(ちうや)心身を労(らう)せしむるに、温気(うんき)骨に入(いつ)て、病(やまひ)にふさずと云(いふ)事(こと)有(ある)べからず。」と云(いひ)て、士卒(じそつ)の嘲(あざけり)をもかへりみず、弥(いよいよ)陣を遠く取(とり)て、徒(いたづら)に数月(すげつ)をぞ送りける。士卒ども是(これ)を聞(きき)て、「如何なる良医と云共(いふとも)あはひ四十里(しじふり)を阻(へだて)て、暗(あん)に敵の脈を取(とり)知る事やあるべき。只孔明(こうめい)が臥龍(ぐわりよう)の勢(いきほひ)をきゝをぢしてかゝる狂言をば云(いふ)人也(なり)。」と、掌(たなごころ)を拍(うつ)て笑(わらひ)あへり。或夜両陣のあはひに、客星(きやくしやう)落(おち)て、其(その)光火よりも赤し。仲達是(これ)を見て、「七日が中(うち)に天下(てんが)の人傑(じんけつ)を失(うしなふ)べき星(ほし)也(なり)。孔明(こうめい)必(かならず)死すべきに当れり。魏必(かならず)蜀を合(あは)せて取(とら)ん事余日(よにち)あるべからず。」と悦(よろこ)べり。果して其(その)朝より孔明(こうめい)病(やまひ)に臥(ふす)事(こと)七日にして、油幕(ゆばく)の裏(うち)に死にけり。蜀の副将軍(ふくしやうぐん)等(ら)、魏の兵忽(たちまち)に利を得て前(すす)まん事を恐(おそれ)て、孔明(こうめい)が死を隠(かく)し、大将の命と相触(あひふれ)て、旗をすゝめ兵をなびけて魏の陣へ懸(かけ)入る。仲達は元来戦(たたかひ)を以て、蜀に勝(かつ)事(こと)を得じと思(おもひ)ければ一戦(いつせん)にも及ばず、馬に鞭(むちうつ)て走(わしる)事(こと)五十里(ごじふり)、嶮岨(けんそ)にして留(とどま)る。今に世俗の諺(ことわざ)に、「死せる孔明(こうめい)生(いけ)る仲達を走(はしら)しむ。」と云(いふ)事(こと)は、是(これ)を欺(あざけ)る詞(ことば)也(なり)。戦散(たたかひさん)じて後蜀の兵孔明(こうめい)が死せる事を聞(きき)て、皆仲達にぞ降(くだり)ける。其(それ)より蜀先(まづ)亡(ほろ)び呉後に亡(ほろび)て、魏の曹操遂に天下(てんが)を保(たも)ちけり。此故事(このこじ)を以て、今の御夢(おんゆめ)を料簡(れうけん)するに、事の様(やう)、魏呉蜀三国の争(あらそひ)に似たり。就中(なかんづく)竜(りよう)は陽気に向(むかつ)ては威を震(ふる)ひ、陰(いん)の時に至(いたり)ては蟄居(ちつきよ)を閉づ。時今陰の初め也(なり)。而(しか)も龍の姿にて水辺に臥(ふし)たりと見給へるも、孔明(こうめい)を臥龍(ぐわりよう)と云(いひ)しに不異。されば面々は皆、目出(めでた)き御夢(おんゆめ)なりと合(あはせ)られつれ共(ども)、道猷は強(あながち)に甘心(かんしん)せず。」と眉をひそめて云(いひ)ければ、諸人げにもと思(おも)へる気色なれども、心にいみ言(こと)ばに憚(はばかつ)て、凶とする人なかりけり。
○義貞(よしさだの)馬属強(つけずまひの)事(こと) S2008
潤(うるふ)七月二日、足羽(あすは)の合戦と触れられたりければ、国中の官軍(くわんぐん)義貞の陣河合(かはひの)庄(しやう)へ馳集(はせあつま)りけり。其(その)勢(せい)宛(あたか)も雲霞(うんか)の如し。大将新田左中将(さちゆうじやう)義貞(よしさだ)朝臣(あそん)は、赤地錦(あかぢのにしき)の直垂(ひたたれ)に脇立(わいだて)ばかりして、遠侍(とほさぶらひ)の座上に坐し給へば、脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)は、紺地(こんぢ)の錦の直垂に、小具足計(こぐそくばかり)にて、左の一の座に著(つき)給ふ。此外(このほか)山名・大館(おほたち)・里見(さとみ)・鳥山(とりやま)・一井(いちのゐ)・細屋(ほそや)・中条・大井田(おゐだ)・桃井(もものゐ)以下(いげ)の一族(いちぞく)三十(さんじふ)余人(よにん)は、思々(おもひおもひ)の鎧甲(よろひかぶと)に色々の太刀・刀、奇麗(きれい)を尽(つく)して東西二行に座を烈(れつ)す。外様(とざま)の人々には、宇都宮(うつのみや)美濃(みのの)将監(しやうげん)を始(はじめ)として、禰津(ねづ)・風間(かざま)・敷地(しきぢ)・上木(うへき)・山岸・瓜生(うりふ)・河島(かはしま)・大田・金子・伊自良(いじら)・江戸(えど)・紀清(きせい)両党以下著到(ちやくたう)の軍勢(ぐんぜい)等(ら)三万(さんまん)余人(よにん)、旗竿(はたさを)引(ひき)そばめ/\、膝(ひざ)を屈(くつ)し手をつかねて、堂上(だうじやう)庭前(ていぜんに)充満(みちみち)たれば、由良・舟田に大幕(おほまく)をかゝげさせて、大将遥(はるか)に目礼(もくれい)して一勢(いつせい)々々(いつせい)座敷を起(た)つ。巍々(ぎぎ)たるよそをひ、堂々たる礼、誠(まこと)に尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の天下(てんが)を奪(うばは)んずる人は、必(かならず)義貞(よしさだ)朝臣(あそん)なるべしと、思はぬ者はなかりけり。其(その)日(ひ)の軍奉行(いくさぶぎやう)上木(うへき)平九郎、人夫(にんぶ)六千(ろくせん)余人(よにん)に、幕(まく)・掻楯(かいたて)・埋草(うめくさ)・屏柱(へいばしら)・櫓(やぐら)の具足(ぐそく)共(ども)を持(もち)はこばせて参りければ、大将中門にて鎧の上帯(うはおび)しめさせ、水練栗毛(すゐれんくりげ)とて五尺(ごしやく)三寸(さんずん)有(あり)ける大馬に、手綱(たづな)打懸(かけ)て、門前にて乗(のら)んとし給(たまひ)けるに、此(この)馬俄(にはか)に属強(つけずまひ)をして、騰跳(あがつつをどつつ)狂ひけるに、左右に付(つき)たる舎人(とねり)二人(ににん)蹈(ふま)れて、半死半生に成(なり)にけり。是(これ)をこそ不思議(ふしぎ)と見る処に、旗さしすゝんで足羽(あすは)河を渡すに、乗(のつ)たる馬俄(にはか)に河伏(かはぶし)をして、旗さし水に漬(ひたり)にけり。加様(かやう)の怪共(けども)、未然(みぜん)に凶(きよう)を示しけれ共(ども)、已(すで)に打臨める戦場を、引返(ひつかへ)すべきにあらずと思(おもひ)て、人なみ/\に向ひける勢共(せいども)、心中にあやふまぬはなかりけり。
○義貞自害(じがいの)事(こと) S2009
燈明寺(とうみやうじ)の前にて、三万(さんまん)余騎(よき)を七手に分(わけ)て、七(ななつ)の城を押阻(おしへだて)て、先(まづ)対城(むかひじやう)をぞ取られける。兼(かね)ての廃立(はいりつ)には、「前なる兵は城に向ひ逢(あ)ふて合戦を致し、後(うしろ)なる足軽は櫓(やぐら)をかき屏(へい)を塗(ぬつ)て、対城(むかひじやう)を取(とり)すましたらんずる後(のち)、漸々(ぜんぜん)に攻(せめ)落すべし。」と議定(ぎぢやう)せられたりけるが、平泉寺(へいせんじ)の衆徒のこもりたる藤島(ふぢしま)の城、以外(もつてのほか)に色めき渡(わたつ)て、軈(やが)て落つべく見へける間、数万の寄手(よせて)是(これ)に機を得て、先(まづ)対城(むかひじやう)の沙汰をさしおき、屏に著(つき)堀につかつてをめき叫(さけん)でせめ戦ふ。衆徒も落色(おちいろ)に見へけるが、とても遁(のが)るべき方のなき程を思ひ知(しり)けるにや、身命を捨(すて)て是(これ)を防ぐ。官軍(くわんぐん)櫓を覆(くつがへし)て入(いら)んとすれば、衆徒走木(わしりき)を出(いだし)て突(つき)落す。衆徒橋を渡(わたつ)て打(うつ)て出(いづ)れば、寄手(よせて)に官軍(くわんぐん)鋒(きつさき)を調(そろへ)て斬(きつ)て落す。追(おひ)つ返(かへし)つ入れ替(かは)る戦ひに、時刻押移(おしうつつ)て日已(すで)に西山(せいざん)に沈まんとす。大将義貞は、燈明寺の前にひかへて、手負(ておひ)の実検(じつけん)してをはしけるが、藤島(ふぢしま)の戦(たたかひ)強(つよく)して、官軍(くわんぐん)やゝもすれば追立(おつたて)らるゝ体(てい)に見へける間、安からぬ事に思はれけるにや、馬に乗替へ鎧を著かへて、纔(わづか)に五十(ごじふ)余騎(よき)の勢を相従へ、路をかへ畔(くろ)を伝ひ、藤島(ふぢしま)の城へぞ向はれける。其(その)時分黒丸(くろまる)の城より、細川出羽(ではの)守(かみ)・鹿草(かくさ)彦太郎両大将にて、藤島(ふぢしま)の城を攻(せめ)ける寄手共(よせてども)を追払(おひはら)はんとて、三百(さんびやく)余騎(よき)の勢にて横畷(よこなはて)を廻(まはり)けるに、義貞覿面(てきめん)に行(ゆき)合ひ給ふ。細川が方には、歩立(かちだち)にて楯をついたる射手共(いてども)多かりければ、深田(ふけた)に走(はし)り下(お)り、前に持楯(もつたて)を衝双(つきならべ)て鏃(やじり)を支(ささへ)て散々(さんざん)に射る。義貞の方には、射手(いて)の一人もなく、楯の一帖(いちでふ)をも持(もた)せざれば、前なる兵(つはもの)義貞の矢面(やおもて)に立塞(たちふさがつ)て、只的(まと)に成(なつ)てぞ射られける。中野藤内左衛門(とうないざゑもん)は義貞に目加(めくはせ)して、「千鈞(せんきん)の弩(ど)は為■鼠(けいそ)不発機。」と申(まうし)けるを、義貞きゝもあへず、「失士独(ひとり)免(まぬが)るゝは非我意。」と云(いひ)て、尚敵の中へ懸入(かけいら)んと、駿馬(しゆんめ)に一鞭(いちべん)をすゝめらる。此(この)馬名誉の駿足(しゆんそく)なりければ、一二丈の堀をも前々輒(たやす)く越(こえ)けるが、五筋まで射立(たて)られたる矢にやよはりけん。小溝(こみぞ)一(ひとつ)をこへかねて、屏風(びやうぶ)をたをすが如く、岸の下にぞころびける。義貞弓手(ゆんで)の足をしかれて、起(おき)あがらんとし給ふ処に、白羽(しらは)の矢一筋(ひとすぢ)、真向(まつかう)のはづれ、眉間(みけん)の真中(まんなか)にぞ立(たつ)たりける。急所の痛手(いたで)なれば、一矢(ひとや)に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶(かな)はじとや思(おもひ)けん、抜(ぬい)たる太刀を左の手に取(とり)渡し、自(みづか)ら頚をかき切(きつ)て、深泥(じんでい)の中に蔵(かく)して、其(その)上(うへ)に横(よこたはつ)てぞ伏(ふし)給ひける。越中(ゑつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)氏家(うぢへ)中務丞(なかづかさのじよう)重国(しげくに)、畔(くろ)を伝(つたひ)て走(はし)りより、其首(そのくび)を取(とつ)て鋒(きつさき)に貫(つらぬ)き、鎧・太刀・々(かたな)同(おなじ)く取持(とりもつ)て、黒丸(くろまる)の城へ馳(はせ)帰る。義貞の前に畷(なはて)を阻(へだ)てゝ戦(たたかひ)ける結城(ゆふき)上野(かうづけの)介(すけ)・中野藤内左衛門(とうないざゑもんの)尉(じよう)・金持(かなぢ)太郎左衛門(さゑもんの)尉(じよう)、此等(これら)馬より飛(とん)で下(お)り、義貞の死骸の前に跪(ひざまづい)て、腹かき切(きつ)て重(かさな)り臥す。此外(このほか)四十(しじふ)余騎(よき)の兵、皆堀溝(ほりみぞ)の中に射落されて、敵の独(ひとり)をも取(とり)得ず。犬死(いぬじに)してこそ臥(ふし)たりけれ。此(この)時左中将(さちゆうじやう)の兵三万(さんまん)余騎(よき)、皆猛(たけ)く勇める者共(ものども)なれば、身にかはり命に代(かは)らんと思はぬ者は無(なか)りけれ共(ども)、小雨(こさめ)まじりの夕霧(ゆふぎり)に、誰を誰とも見分(わか)ねば、大将の自ら戦ひ打死(うちじに)し給(たまふ)をも知らざりけるこそ悲(かなし)けれ。只よそにある郎等(らうどう)が、主の馬に乗替(のりかへ)て、河合(かはひ)をさして引(ひき)けるを、数万の官軍(くわんぐん)遥(はるか)に見て、大将の跡(あと)に随(したがは)んと、見定(みさだ)めたる事もなく、心々にぞ落行(おちゆき)ける。漢(かんの)高祖(かうそ)は自ら淮南(わいなん)の黥布(げいほ)を討(うち)し時、流矢(ながれや)に当(あたつ)て未央宮(びあうきゆう)の裡(うち)にして崩じ給ひ、斉宣王(せいのせんわう)は自(みづから)楚の短兵(たんぺい)と戦(たたかつ)て干戈(かんくわ)に貫(つらぬか)れて、修羅場(しゆらば)の下に死し給(たまひ)き。されば「蛟竜(かうりよう)は常に保深淵之中。若(もし)遊浅渚有漁綱釣者之愁。」と云(いへ)り。此(この)人君の股肱として、武将の位に備(そなは)りしかば、身を慎(つつし)み命を全(まつたう)してこそ、大儀の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場に赴(おもむい)て、匹夫(ひつぶ)の鏑(やじり)に命を止(とど)めし事、運の極(きはめ)とは云(いひ)ながら、うたてかりし事共(ことども)也(なり)。軍散じて後(のち)、氏家(うぢへ)中務(なかつかさの)丞(じよう)、尾張(をはりの)守(かみ)の前に参(まゐつ)て、「重国こそ新田殿(につたどの)の御一族(ごいちぞく)かとをぼしき敵を討(うつ)て、首(くび)を取(とつ)て候へ。誰とは名乗(なのり)候はねば、名字(みやうじ)をば知(しり)候はねども、馬物具(もののぐ)の様(やう)、相順(あひしたがひ)し兵共(つはものども)の、尸骸(しがい)を見て腹をきり討死を仕候(つかまつりさふらひ)つる体(てい)、何様(いかさま)尋常(よのつね)の葉武者(はむしや)にてはあらじと覚(おぼえ)て候。これぞ其(その)死人のはだに懸(かけ)て候(さふらい)つる護(まぶ)りにて候。」とて、血をも未(いまだ)あらはぬ首(くび)に、土の著(つき)たる金襴(きんらん)の守(まぶり)を副(そへ)てぞ出(いだ)したりける。尾張(をはりの)守(かみ)此(この)首を能々(よくよく)見給(たまひ)て、「あな不思議(ふしぎ)や、よに新田左中将(さちゆうじやう)の顔つきに似たる所有(ある)ぞや。若(もし)それならば、左の眉の上に矢の疵(きず)有(ある)べし。」とて自ら鬢櫛(びんくし)を以て髪をかきあげ、血を洗(すす)ぎ土をあらひ落(おとし)て是(これ)を見給ふに、果して左の眉の上に疵(きず)の跡(あと)あり。是(これ)に弥(いよいよ)心付(つい)て、帯(はか)れたる二振(ふたふり)の太刀を取寄(とりよせ)て見給(たまふ)に、金銀を延(のべ)て作りたるに、一振(ひとふり)には銀を以て金膝纏(きんはばき)の上に鬼切(おにきり)と云(いふ)文字を沈(しづ)めたり。一振(ひとふり)には金を以て、銀脛巾(ぎんはばき)の上に鬼丸(おにまる)と云(いふ)文字を入(いれ)られたり。是(これ)は共に源氏重代の重宝にて、義貞の方に伝(つたへ)たりと聞(きこゆ)れば、末々(すゑずゑ)の一族共(いちぞくども)の帯(は)くべき太刀には非(あらず)と見るに、弥(いよいよ)怪(あやし)ければ、膚(はだ)の守(まぶり)を開(ひらい)て見給ふに、吉野の帝(みかど)の御宸筆(ごしんぴつ)にて、「朝敵(てうてき)征伐事、叡慮所向、偏在義貞武功、選未求他、殊可運早速之計略者也(なり)。」と遊ばされたり。さては義貞の頚相違(さうゐ)なかりけりとて、尸骸(しがい)を輿(こし)に乗(の)せ時衆(じしゆ)八人にかゝせて、葬礼(さうれい)の為に往生院(わうじやうゐん)へ送られ、頚をば朱の唐櫃(からひつ)に入れ、氏家(うぢへ)の中務(なかづかさ)を副(そへ)て、潜(ひそか)に京都へ上(のぼ)せられけり。
○義助重(かさねて)集敗軍事(こと) S2010
脇屋(わきや)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義助は、河合(かはひ)の石丸(いしまる)の城へ打帰(うちかへつ)て、義貞の行末(ゆくへ)をたづね給ふに、始(はじめ)の程は分明(ぶんみやう)に知(しる)人もなかりけるが、事の様(やう)次第に顕(あらは)れて、「討(うた)れ給ひけり。」と申合(まうしあひ)ければ、「日を替へず黒丸(くろまる)へ押寄(おしよせ)て、大将の討(うた)れ給ひつらん所にて、同(おなじく)討死せん。」と宣(のたま)ひけれども、いつしか兵皆あきれ迷(まよう)て、只忙然(ばうぜん)たる外(ほか)は指(さし)たる儀勢(ぎせい)もなかりけり。剰(あまつさ)へ人の心も頓(やが)て替(かは)りけるにや、野心(やしん)の者内にありと覚(おぼ)へて、石丸の城に火を懸(かけ)んとする事、一夜(いちや)の内に三箇度(さんがど)也(なり)。是(これ)を見て斉藤五郎兵衛(ごらうびやうゑの)尉(じよう)季基(すゑもと)、同七郎(しちらう)入道々献二人(ににん)は、他に異なる左中将(さちゆうじやう)の近習(きんじふ)にて有(あり)しかば、門前の左右の脇に、役所(やくしよ)を並べて居たりけるが、幕を捨てゝ夜の間(ま)に何地(いづち)ともなく落(おち)にけり。是(これ)を始(はじめ)として、或(あるひ)は心も発(おこ)らぬ出家して、往生院(わうじやうゐん)長崎(ながさき)の道場に入り、或(あるひ)は縁(えん)に属(しよく)し罪を謝(じやし)て、黒丸の城へ降参す。昨日まで三万騎(さんまんぎ)にあまりたりし兵共(つはものども)、一夜(いちや)の程(ほど)に落失(おちうせ)て、今日は僅(わづか)に二千騎(にせんぎ)にだにも足(たら)ざりけり。かくては北国を蹈(ふま)へん事叶(かな)ふまじとて、三峯(みつみね)の城に河島(かはしま)を篭(こ)め、杣山(そまやま)の城に瓜生(うりふ)を置き、湊(みなと)の城に畑(はた)六郎左衛門(ろくらうざゑもんの)尉(じよう)時能(ときよし)を残されて、潤(うるふ)七月十一日に、義助・義治(よしはる)父子共に、禰津(ねづ)・風間(かざま)・江戸・宇都宮(うつのみや)の勢七百(しちひやく)余騎(よき)を率(そつ)して、当国の府(ふ)へ帰(かへり)給ふ。
○義貞(よしさだの)首懸獄門事(こと)付(つけたり)勾当内侍(こうたうのないしの)事(こと) S2011
新田左中将(さちゆうじやう)の首京都に著(つき)ければ、是(これ)朝敵(てうてき)の最(さい)、武敵の雄(ゆう)なりとて、大路(おほち)を渡して獄門に懸(かけ)らる。此(この)人前朝(ぜんてう)の寵臣(ちようしん)にて、武功世に蒙(かうむ)らしめしかば、天下(てんが)の倚頼(いらい)として、其(その)芳情を悦び、其(その)恩顧をまつ人、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を知(しら)ず、京中(きやうぢゆう)に相交(あひまじは)りたれば、車馬道に横(よこたは)り、男女岐(ちまた)に立(たつ)て、是(これ)を見(みる)に堪へず、泣悲(なきかなし)む声■々(えうえう)たり。中にも彼(か)の北(きた)の台(たい)勾当の内侍の局(つぼね)の悲(かなしみ)を伝へ聞(きく)こそあはれなれ。此(この)女房は頭(とう)の大夫(だいぶ)行房(ゆきふさ)の女(むすめ)にて、金屋(きんをく)の内に装(よそほひ)を閉ぢ、鶏障(けいしやう)の下(もと)に媚(こび)を深(ふかう)して、二八の春(はる)の比(ころ)より内侍に召(めさ)れて君王の傍(かたはら)に侍(はんべ)り、羅綺(らき)にだも堪(たへ)ざる貌(かたち)は、春(はる)の風一片(いつぺん)の花(はな)をふき残すかと疑(うたが)はる。紅粉(こうふん)を事とせる顔(かんばせ)は、秋の雲半江(はんかう)の月をはき出すに似たり。されば椒房(せうばう)の三十六(さんじふろく)宮(みや)、五雲の漸くに遶(めぐ)る事を听(いたみ)、禁漏(きんろう)の二十五声、一夜(いちや)の正(まさ)に長き事を恨む。去(さんぬる)建武の始(はじめ)、天下(てんが)又乱れんとせし時、新田左中将(さちゆうじやう)常に召(めさ)れて、内裡(だいり)の御警固(おんけいご)にぞ候はれける。或夜月冷(すさまじ)く風秋(ひややか)なるに、此勾当(このこうたう)の内侍(ないし)半簾(はんれん)を巻(まい)て、琴(こと)を弾(だん)じ給ひけり。中将(ちゆうじやう)其怨声(そのをんせい)に心引(ひか)れて、覚(おぼ)へず禁庭(きんてい)の月に立吟(たちさまよひ)、あやなく心そゞろにあこがれてければ、唐垣(からかき)の傍(かたはら)に立紛(まぎ)れて伺(うかがひ)けるを、内侍(ないし)みる人ありと物侘(わび)しげにて、琴をば引かずなんぬ。夜痛(いた)く深(ふけ)て、在明(ありあけ)の月のくまなく差入(さしいり)たるに、「類(たぐ)ひまでやはつらからぬ。」と打詠(うちなが)め、しほれ伏(ふし)たる気色(けしき)の、折らばをちぬべき萩の露、拾(ひろ)はゞ消(きえ)なん玉篠(たまざさ)の、あられより尚(なほ)あだなれば、中将(ちゆうじやう)行末(ゆくへ)も知(しら)ぬ道にまよひぬる心地して、帰る方もさだかならず、淑景舎(しげいしや)の傍(かたはら)にやすらひ兼(かね)て立明(あか)す。朝(てう)より夙(つと)に帰りても、風(ほの)かなりし面影の、なをこゝもとにある心迷(こころまよひ)に、世の態(わざ)人の云(いひ)かはす事も心の外(ほか)なれば、いつとなくをきもせず寐もせで夜を明し日を暮(くら)して、若(もし)しるべする海人(あま)だにあらば、忘れ草のをふと云(いふ)浦(うら)のあたりにも、尋ねゆきなましと、そゞろに思(おもひ)しづみ給ふ。あまりにせん方なきまゝに、媒(なかだち)すべき人を尋出(たづねいだ)して、そよとばかりをしらすべき、風の便(たより)の下荻(したをぎ)の穂に出(いづ)るまではなくともとて、我(わが)袖の泪(なみだ)に宿る影とだにしらで雲井の月やすむらんと読(よみ)て遣(つかは)されたりければ、君の聞召(きこしめさ)れん事も憚(はばかり)ありとて、よにあはれげなる気色(けしき)に見へながら、手にだに取らずと、使(つかひ)帰(かへり)て語(かたり)ければ、中将(ちゆうじやう)いとゞ思ひしほれて、云(いふ)べき方なく、有るを憑(たのみ)の命とも覚(おぼ)へずなりぬべきを、何人か奏(そう)しけん、君、等閑(なほざり)ならずと聞召(きこしめし)て、夷心(えびすごころ)のわく方(かた)なさに、思(おもひ)そめけるも理(ことわり)也(なり)と、哀れなる事に思召(おぼしめさ)れければ、御遊(ぎよいう)の御次(おんついで)に左中将(さちゆうじやう)を召(めさ)れ、御酒(おほみき)たばせ給ひけるに、「勾当の内侍をば此盃(このさかづき)に付(つけ)て。」とぞ仰出(おほせいだ)されける。左中将(さちゆうじやう)限(かぎり)なく忝(かたじけなし)と悦(よろこび)て、翌(つぎ)の夜軈(やが)て牛車(うしぐるま)さはやかにしたてゝ、角(かく)と案内せさせたるに、内侍もはや此(この)年月の志(こころざし)に、さそふ水あらばと思ひけるにや、さのみ深(ふ)け過(すぎ)ぬ程(ほど)に、車のきしる音して、中門(ちゆうもん)にながへを指廻(さしまは)せば、侍児(おもとひと)ひとり二人(ふたり)妻戸(つまど)をさしかくして驚破(そよ)めきあへり。中将(ちゆうじやう)は此幾年(このいくとせ)を恋忍(こひしのん)で相逢(あひあ)ふ今の心の中(うち)、優曇花(うどんげ)の春まち得たる心地(ここち)して、珊瑚(さんご)の樹の上に陽台(やうたい)の夢長くさめ、連理(れんり)の枝の頭(ほと)りに驪山(りざん)の花(はな)自(おのづから)濃(こまやか)也(なり)。あやなく迷ふ心の道、諌(いさめ)る人もなかりしかば、去(さん)ぬる建武のすへに、朝敵(てうてき)西海の波に漂(ただよひ)し時も、中将(ちゆうじやう)此(この)内侍に暫しの別(わかれ)を悲(かなしみ)て征路(せいろ)に滞(とどこほ)り、後に山門臨幸の時、寄手(よせて)大岳(おほだけ)より追(おひ)落されて、其(その)まゝ寄せば京をも落(おとさ)んとせしかども、中将(ちゆうじやう)此(この)内侍に迷(まよう)て、勝(かつ)に乗(のり)疲(つかれ)を攻(せむ)る戦(たたかひ)を事とせず。其弊(そのつひ)へ果(はた)して敵の為に国を奪(うばは)れたり。誠(まこと)に「一たび笑(ゑん)で能く国を傾(かたむ)く。」と、古人の是(これ)をいましめしも理(ことわり)也(なり)とぞ覚(おぼ)へたる。中将(ちゆうじやう)坂本(さかもと)より北国へ落(おち)給ひし時は、路次(ろし)の難儀を顧(かへりみ)て、此(この)内侍をば今堅田(いまがたた)と云(いふ)所にぞ留め置(おか)れたりける。かゝらぬ時の別れだに、行(ゆく)には跡(あと)を顧(かへりみ)て、頭(かうべ)を家山(かさん)の雲に回(めぐ)らし、留(とど)まるは末を思ひやりて、泪(なみだ)を天涯(てんがい)の雨に添ふ。況(いはん)や中将(ちゆうじやう)は行末(ゆくへ)とても憑(たの)みなき北狄(ほくてき)の国に趣(おもむ)き給へば、生(いき)て再び廻(めぐ)りあはん後の契(ちぎり)もいさ知らず。又内侍は、都近き海人(あま)の礒屋(いそや)に身をかくし給ひければ、今もやさがし出(いだ)されて、憂(うき)名を人に聞(きか)れんずらんと、一方(ひとかた)ならずなげき給ふ。翌年(よくねん)の春、父行房朝臣(あそん)金崎(かねがさき)にて打(うた)れ給ひぬと聞へしかば、思(おもひ)の上に悲(かなしみ)をそへて、明日までの命もよしや何かせんと、歎きしづみ給ひしか共(ども)、さすがに消(きえ)ぬ露の身なれば、をき居(ゐ)に袖をほしわびて、二年(ふたとせ)あまりに成(なり)にけり。中将(ちゆうじやう)も越前に下(くだ)り著(つき)し日より、軈(やが)て迎(むかひ)をも上(のぼ)せばやと思ひ給ひけれども、道の程も輒(たやす)からず、又人の云(いひ)思はんずる所憚(はばかり)あれば、只時々の音信(おとづれ)ばかりを互に残る命にて、年月を送り給(たまひ)けるが、其(その)秋の始(はじめ)に、今は道の程も暫く静(しづか)に成(なり)ぬればとて、迎(むかひ)の人を上(のぼ)せられたりければ、内侍は此三年(このみとせ)が間、暗き夜のやみに迷へるが、俄(にはか)に夜の明(あけ)たる心地して、頓(やが)て先(まづ)杣山(そまやま)まで下著(くだりつ)き給(たまひ)ぬ。折節(をりふし)中将(ちゆうじやう)は足羽(あすは)と云(いふ)所へ向ひ給(たまひ)たりとて、此(ここ)には人も無(なか)りければ、杣山(そまやま)より輿(こし)の轅(ながえ)を廻(めぐら)して浅津(あさうづ)の橋を渡り給ふ処に、瓜生弾正左衛門(さゑもんの)尉(じよう)百騎(ひやくき)ばかりにて行合(ゆきあひ)奉りたるが、馬より飛(とん)でをり、輿(こし)の前にひれ伏(ふし)て、「是(これ)はいづくへとて御渡(おんわた)り候らん。新田殿(につたどの)は昨日の暮(くれ)に、足羽と申(まうす)所にて討(うた)れさせ給(たまひ)て候。」と申(まうし)もはてず、涙をはら/\とこぼせば、内侍の局、こは何(いか)なる夢のうつゝぞやと、胸ふさがり肝(きも)消(きえ)て、中々(なかなか)泪(なみだ)も落(おち)やらず、輿(こし)の中にふし沈みて、「せめてはあはれ其(その)人の討(うた)れ給ひつらん野原の草の露の底にも、身をすて置(おき)て帰れかし。さのみはをくれさきだゝじ、共に消(きえ)もはてなん。」と、泣悲(なきかなし)み給へ共、「早其輿(そのこし)かき返せ。」とて、急(いそい)で又杣山(そまやま)へぞ返し入れまいらせける。是(これ)ぞ此(この)程中将殿(ちゆうじやうどの)の住(すみ)給ひし所也(なり)とて、色紙(しきし)押散(おしちら)したる障子(しやうじ)の内を見給へば、何となき手ずさみの筆の跡までも、只都へいつかと、あらまされたる言の葉をのみ書(かき)をき、読(よみ)すてられたり。かゝる空(むなし)き形見(かたみ)を見(みる)につけても、いとゞ悲(かなしみ)のみふかくなり行(ゆけ)ば、心少(すこし)も慰(なぐさむ)べき方(かた)ならね共(ども)、中将(ちゆうじやう)のすみすて給(たまひ)し跡なれば、爰(ここ)にて中陰(ちゆういん)の程をも過(すご)して、なき跡をも訪(とぶら)はゞやと覚(おぼ)しけるに、頓(やが)て其辺(そのあたり)も騒(さわが)しく成(なつ)て敵の近付(ちかづく)など聞(きこ)へしかば、城の麓はあしかるべしとて、頓(やが)て又京へ上(のぼ)せ奉り、仁和寺(にんわじ)のあたり、幽(かすか)なる宿(やど)の、主(あるじ)だにすまずなりぬる蓬生(よもぎふ)の宿に送り置(おき)奉る。都も今は返(かへつ)て旅なれば、住所(すみところ)も定まらず、心うかれ袖しほれて、何(いづ)くにか身を浮舟(うきふね)のよるべも有(ある)べきと、昔見し人の行末(ゆくへ)を尋(たづね)て陽明(やうめい)の傍(あた)りへ行(ゆき)給ひける路に、人あまた立(たち)あひて、あなあはれなんど云(いふ)音(おと)するを、何事にかと立留(たちとどまり)て見給へば、越路(こしぢ)はるかに尋行(たづねゆき)て、あはで帰(かへり)し新田左中将(さちゆうじやう)義貞の首(くび)を、獄門の木に懸(かけ)られて、眼(まなこ)塞(ふさが)り色変(へん)ぜり。内侍の局(つぼね)是(これ)を二目(ふため)とも見給はずして、傍(かたはら)なる築地(ついぢ)の陰(かげ)になき倒れ給ひけり。知(しる)も知らぬも是(これ)を見て、共に涙を流さぬはなかりけり。日已(すで)に暮(くれ)けれども、立帰るべき心地(ここち)もなければ、蓬(よもぎ)が本(もと)の露の下に泣(なき)しほれてをはしけるを、其辺(そのへん)なる道場の聖(ひじり)、「余(あま)りに御いたはしく見(みえ)させ給ひ候に。」とて、内へいざなひ入(いれ)奉れば、其(その)夜やがて翠(みどり)の髪を刷下(そりおろ)し、紅顔(こうがん)を墨染(すみぞめ)にやつし給ふ。暫(しば)しが程はなき面影(おもかげ)を身にそへて、泣悲(なきかなし)み給(たまひ)しが、会者定離(ゑしやぢやうり)の理(ことわり)に、愛別離苦(あいべつりく)の夢を覚(さま)して、厭離穢土(えんりゑど)の心は日々にすゝみ、欣求(ごんぐ)浄土(じやうど)の念時々に勝(まさ)りければ、嵯峨の奥に往生院(わうじやうゐん)のあたりなる柴の扉(とぼそ)に、明暮(あけくれ)を行ひすましてぞをはしける。
○奥州下向(げかふの)勢逢難風事(こと) S2012
吉野には、奥州(あうしう)の国司(こくし)安部野(あべの)にて討(うた)れ、春日(かすがの)少将(せうしやう)八幡(やはた)の城を落されて、諸卒皆力を失(うしなふ)といへども、新田殿(につたどの)北国より責上(せめのぼ)る由奏聞(そうもん)したりけるを御憑(おんたのみ)あつて、今や/\と待給(まちたまひ)ける処に、此(この)人さへ足羽(あすは)にて討(うた)れぬと聞(きこ)へければ、蜀の後主(こうしゆ)の孔明(こうめい)を失ひ、唐の太宗の魏徴(ぎちよう)に哭(こく)せしが如く、叡襟(えいきん)更にをだやかならず、諸卒も皆色を失へり。爰(ここ)に奥州(あうしう)の住人(ぢゆうにん)、結城上野入道々忠と申(まうし)けるもの、参内(さんだい)して奏し申しけるは、「国司(こくし)顕家(あきいへの)卿(きやう)三年(みとせ)の内に両度まで大軍を動(うごか)して上洛(しやうらく)せられ候(さふらひ)し事は、出羽奥州(あうしう)の両国みな国司(こくし)に従(したがひ)て、凶徒(きようと)其(その)隙(ひま)を得ざる故(ゆゑ)也(なり)。国人(くにうど)の心未(いまだ)変(へん)ぜざるさきに、宮を一人下(くだ)し進(まゐら)せて、忠功の輩(ともがら)には直(ぢき)に賞(しやう)を行(おこな)はれ、不忠不烈(ふれつ)の族(やから)をば根をきり葉をからして、御沙汰(ごさた)候はんには、などか攻随(せめしたが)へでは候べき。国の差図(さしづ)を見候に、奥州(あうしう)五十四郡(ごじふしぐん)恰(あたか)日本(につぽん)の半国に及べり。若(もし)兵数を尽(つく)して一方に属(しよく)せば、四五十万騎(しごじふまんぎ)も候べし。道忠宮を挟(さしはさ)み奉(たてまつ)て、老年の首(かうべ)に胄(かぶと)を頂く程ならば、重(かさね)て京都に攻上(せめのぼ)り、会稽(くわいけい)の恥を雪(きよ)めん事一年(ひととせ)の内をば過(すご)し候まじ。」と申(まうし)ければ、君を始奉(はじめたてまつ)て左右の老臣悉(ことごと)く、「此(この)議げにも然るべし。」とぞ同(どう)ぜられける。依之(これによつて)第八(だいはちの)宮(みや)の今年(ことし)七歳にならせ給ふを、初冠(うひかうむり)めさせて、春日(かすがの)少将(せうしやう)顕信(あきのぶ)を輔弼(ほひつ)とし、結城(ゆふき)入道々忠を衛尉(ゑゐ)として、奥州(あうしう)へぞ下(くだ)しまいらせられける。是(これ)のみならず新田左兵衛義興(よしおき)・相摸(さがみ)次郎時行(ときゆき)二人(ににん)をば、「東(とう)八箇国(はちかこく)を打平(たひらげ)て宮に力を副(そへ)奉れ。」とて、武蔵(むさし)相摸の間へぞ下(くだ)されける。陸地(くがち)は皆敵強(つよう)して通(とほ)りがたしとて、此(この)勢皆伊勢の大湊(おほみなと)に集(あつまつ)て、船をそろへ風を待(まち)けるに、九月十二日の宵(よひ)より、風やみ雲収(をさまつ)て、海上殊に静(しづま)りたりければ、舟人(ふなうど)纜(ともづな)をといて、万里の雲に帆を飛(とば)す。兵船五百(ごひやく)余艘(よさう)、宮の御座舟(ござふね)を中(なか)に立てゝ、遠江の天竜(てんりゆう)なだを過(すぎ)ける時に、海風俄(にはか)に吹(ふき)あれて、逆浪(さかなみ)忽(たちまち)に天を巻翻(まきかへ)す。或(あるひ)は檣(ほばしら)を吹(ふき)折られて、弥帆(やほ)にて馳(はす)る舟もあり。或(あるひ)は梶(かぢ)をかき折(をり)て廻流(くわいりう)に漂(ただよふ)船もあり。暮(くる)れば弥(いよい)よ風あらく成(なつ)て、一方に吹(ふき)も定(さだま)らざりければ、伊豆の大島(おほしま)・女良(めら)の湊(みなと)・かめ河・三浦・由居(ゆゐ)の浜・津々浦々の泊(とまり)に船の吹(ふき)寄せられぬはなかりけり。宮の召(めさ)れたる御舟(おんふね)一艘(いつさう)、漫々(まんまん)たる大洋(たいやう)に放(はな)たれて、已(すで)に覆(くつがへ)らんとしける処に、光明赫奕(かくやく)たる日輪(にちりん)、御舟(おんふね)の舳前(へさき)に現(げん)じて見へけるが、風俄(にはか)に取(とつ)て返し、伊勢(いせの)国(くに)神風(かみかぜの)浜へ吹(ふき)もどし奉る。若干(そくばく)の舟共(ども)行方(ゆきかた)もしらず成(なり)ぬるに、此(この)御舟(おんふね)計(ばかり)日輪の擁護(おうご)に依(よつ)て、伊勢(いせの)国(くに)へ吹(ふき)もどされ給(たまひ)ぬる事たゞ事にあらず。何様(いかさま)此(この)宮(みや)継体(けいたい)の君として、九五の天位を践(ふま)せ給ふべき所を、忝(かたじけなく)も天照太神(あまてらすおほんがみ)の示されける者也(なり)とて、忽(たちまち)に奥州(あうしう)の御下向(おんげかう)を止(やめ)られ、則(すなはち)又吉野へ返し入れ進(まゐら)せられけるに、果して先帝崩御(ほうぎよ)の後(のち)、南方の天子の御位(おんくらゐ)をつがせ給(たまひ)し吉野の新帝と申奉(まうしたてまつり)しは、則(すなはち)此(この)宮(みや)の御事(おんこと)也(なり)。
○結城(ゆふき)入道堕地獄事(こと) S2013
中にも結城上野入道が乗(のつ)たる舟、悪風に放(はな)されて渺渺(べうべう)たる海上にゆられたゞよふ事、七日七夜(なぬかななよ)也(なり)。既(すで)に大海の底に沈(しづむ)か、羅刹国(らせつこく)に堕(おつる)かと覚(おぼえ)しが、風少し静(しづま)りて、是(これ)も伊勢の安野津(あののつ)へぞ吹著(ふきつけ)られける。こゝにて十(じふ)余日(よにち)を経(へ)て後猶(なほ)奥州(あうしう)へ下(くだ)らんと、渡海(とかい)の順風を待(まち)ける処に、俄(にはか)に重病を受(うけ)て起居(ききよ)も更に叶はず、定業(ぢやうごふ)極(きはま)りぬと見へければ、善知識(ぜんちしき)の聖(ひじり)枕に寄(よつ)て、「此(この)程まではさり共(とも)とこそ存候(ぞんじさふらひ)つるに、御労(おんいたは)り日に随(したがつ)て重(おも)らせ給(たまひ)候へば、今は御臨終(ごりんじゆう)の日遠からじと覚(おぼ)へて候。相構(あひかまへ)て後生善所(ごしやうぜんしよ)の御望(おんのぞみ)惰(おこ)たる事無(なく)して、称名(しようみやう)の声の内に、三尊の来迎(らいがう)を御待(おんまち)候べし。さても今生(こんじやう)には、何事をか思召(おぼしめし)をかれ候。御心(おんこころ)に懸(かか)る事候はゞ仰置(おほせおか)れ候(さふら)へ。御子息(ごしそく)の御方様(おんかたざま)へも伝へ申(まうし)候はん。」と云(いひ)ければ、此(この)入道已(すで)に目を塞(ふさが)んとしけるが、ゝつぱと跂起(はねおき)て、から/\と打笑ひ、戦(わなない)たる声にて云(いひ)けるは、「我(われ)已(すで)に齢(よはひ)七旬(しちじゆん)に及(およん)で、栄花身にあまりぬれば、今生に於ては一事(いちじ)も思残(おもひのこす)事(こと)候はず。只今度(こんど)罷上(まかりのぼつ)て、遂に朝敵(てうてき)を亡(ほろぼ)し得ずして、空(むなし)く黄泉(くわうせん)のたびにをもむきぬる事、多生広劫(たしやうくわうごふ)までの妄念(まうねん)となりぬと覚(おぼ)へ候。されば愚息(ぐそく)にて候大蔵権少輔(ごんのせう)にも、我後生(わがごしやう)を弔(とぶら)はんと思(おも)はゞ、供仏施僧(くぶつせそう)の作善(さぜん)をも致すべからず。更に称名読経(どくきやう)の追賁(つゐひ)をも成すべからず。只朝敵(てうてき)の首(くび)を取(とつ)て、我(わが)墓の前に懸双(かけならべ)て見すべしと云置(いひおき)ける由伝(つたへ)て給(たまは)り候へ。」と、是(これ)を最後の詞(ことば)にて、刀を抜(ぬい)て逆手(さかて)に持ち、断歯(はがみ)をしてぞ死にける。罪障深重(ざいしやうじんぢゆう)の人多しといへ共(ども)、終焉(じゆうえん)に是(これ)程の悪相(あくさう)を現ずる事は、古今未聞(いまだきかざる)の所也(なり)。げにも此(この)道忠が平生(へいぜい)の振舞をきけば、十悪五逆(ごぎやく)重障過極(ぢゆうしやうくわごく)の悪人也(なり)。鹿をかり鷹を使ふ事は、せめて世俗の態(わざ)なれば言ふにたらず。咎(とが)なき者を殴(う)ち縛(しば)り、僧尼(そうに)を殺す事数を知(しら)ず。常に死人の頚(くび)を目に見ねば、心地の蒙気(もうき)するとて、僧俗男女(なんによ)を云(いは)ず、日毎(ひごと)に二三人(にさんにん)が首(くび)を切(きつ)て、態(わざと)目の前に懸(かけ)させけり。されば彼(かれ)が暫(しばし)も居(ゐ)たるあたりは、死骨満(みち)て屠所(どしよ)の如く、尸骸(しがい)積(つん)で九原の如し。此(この)入道が伊勢にて死(しし)たる事、道遠ければ故郷(こきやう)の妻子(さいし)未(いまだ)知る事無(なか)りけるに、其比(そのころ)所縁(しよえん)なりける律僧、武蔵(むさしの)国(くに)より下総へ下(くだ)る事あり。日暮(くれ)野遠(とほく)して留(とま)るべき宿(やど)を尋ぬる処に、山伏(やまぶし)一人出(いで)来て、「いざ、ゝせ給へ。此辺(このへん)に接待所(せつたいしよ)の候ぞ。其(その)所へつれ進(まゐら)せん。」と云(いひ)ける間、行脚(あんぎや)の僧悦(よろこび)て、山伏(やまぶし)の引導(いんだう)に相順ひ、遥(はるか)に行(ゆき)て見(みる)に、鉄(くろがね)の築地(ついぢ)をついて、金銀の楼門(ろうもん)を立(たて)たり。其額(そのがく)を見れば、「大放火寺(だいはうくわじ)」と書(かき)たり。門より入(いつ)て内を見るに、奇麗(きれい)にして、美を尽(つく)せる仏殿あり。其額(そのがく)をば「理非断(りひだん)」とぞ書(かき)たりける。僧をば旦過(たんぐわ)に置(おい)て、山伏(やまぶし)は内へ入(いり)ぬ。暫く有(あつ)て、前の山伏(やまぶし)、内より螺鈿(らでん)の匣(はこ)に法花経(ほけきやう)を入(いれ)たるを持来(もちきたつ)て、「只今是(これ)に不思議(ふしぎ)の事あるべきにて候。いかに恐しく思召(おぼしめし)候(さうらふ)共(とも)、息をもあらくせず、三業(さんごふ)を静めて此(この)経を読誦(どくじゆ)候べし。」と云(いつ)て、己(おのれ)は六の巻の紐(ひぼ)を解(とい)て寿量品(じゆりやうぼん)をよみ、僧には八の巻を与(あたへ)て、普門品(ふもんぼん)をぞ読(よま)せける。僧何事にやとあやしく思ひながら山伏(やまぶし)の云(いふ)に任(まかせ)て、口には経を誦(じゆ)し、心に妄想(まうさう)を払(はらつ)て、寂々(じやくじやく)としてぞ居たりける。夜半過(すぐ)る程(ほど)に、月俄(にはか)にかき陰(くも)り、雨あらく電(いなびかり)して、牛頭馬頭(ごづめづ)の阿放羅刹共(あはうらせつども)、其(その)数を知らず、大庭(おほには)に群集(くんじゆ)せり。天地須臾(しゆゆ)に換尽(くわんじん)して、鉄城(てつじやう)高く峙(そばだ)ち、鉄綱(くろがねのつな)四方(しはう)に張(は)れり。烈々(れつれつ)たる猛火(みやうくわ)燃(もえ)て一由旬(いちゆじゆん)が間に盛(さかん)なるに、毒蛇(どくぢや)舌をのべて焔を吐き、鉄(くろがね)の犬牙(きば)をといで吠(ほえ)いかる。僧是を見て、あな恐ろし、是は無間地獄(むけんぢごく)にてぞあるらんと恐怖して見居たる処に、火(ひの)車(くるま)に罪人を独(ひと)りのせて、牛頭馬頭(ごづめづ)の鬼共、ながへを引(ひい)て虚空(こくう)より来れり。待(まつ)て忿(いか)れる悪鬼(あくき)共(ども)、鉄(くろがね)の俎(まないた)の盤石(ばんじやく)の如(ごとく)なるを庭に置(おき)て、其(その)上(うへ)に此(この)罪人を取(とつ)てあをのけにふせ、其(その)上(うへ)に又鉄の俎(まないた)を重(かさね)て、諸(もろもろ)の鬼共膝を屈し肱(ひぢ)をのべて、ゑいや声を出(いだし)、「ゑいや/\。」と推(お)すに、俎のはづれより血の流るゝ事油をしたづるが如し。是(これ)を受(うけ)て大(おほき)なる鉄(くろがね)の桶に入れあつめたれば、程なく十分に湛(たた)へて滔々たる事夕陽(せきやう)を浸せる江水の如(ごとく)也(なり)。其後(そののち)二(ふたつ)の俎を取(とり)のけて、紙の如(ごとく)に推(お)しひらめたる罪人を、鉄(くろがね)の串(くし)にさしつらぬき、炎(ほのほ)の上に是(これ)を立てゝ、打返(うちかへし)々々(うちかへし)炮(あぶ)る事、只庖人(ばうじん)の肉味(にくみ)を調(てう)するに不異。至極あぶり乾(かわか)して後、又俎の上に推(おし)ひらめて、臠刀(らんたう)に鉄(くろがね)の魚箸(まなばし)を取副(とりそへ)て、寸分(つだつだ)に是(これ)を切割(きりさい)て、銅(あかがね)の箕(み)の中へ投入(なげいれ)たるを、牛頭馬頭(ごづめづ)の鬼共箕(み)を持(もつ)て、「活々(くわつくわつ)。」と唱(とな)へて是(これ)を簸(ひ)けるに、罪人忽(たちまち)に蘇(よみがへつ)て又もとの形になる。時に阿放羅刹(あはうらせつ)鉄(くろがね)の■(しもと)を取(とつ)て、罪人にむかひ、忿(いか)れる言(ことば)を出(いだ)して、罪人を責(せめ)て曰(いはく)、「地獄非地獄、汝が罪責汝。」と、罪人此苦(このく)に責(せめ)られて、泣(なか)んとすれども涙(なんだ)落(おち)ず。猛火(みやうくわ)眼(まなこ)を焦(こが)す故(ゆゑ)に、叫ばんとすれ共声出(いで)ず。鉄丸(てつぐわん)喉(のんど)を塞(ふさぐ)故(ゆゑ)に、若(もし)一時の苦患(くげん)を語るとも、聞(きく)人は地に倒れつべし。客位(きやくゐ)の僧是(これ)を見て、魂(たましひ)も浮(うか)れ骨髄(こつずゐ)も砕(くだけ)ぬる心地(ここち)して、恐(おそろ)しく覚(おぼ)へければ、主人の山伏(やまぶし)に向(むかつ)て、「是(これ)は如何なる罪人を、加様(かやう)に呵責(かしやく)し候やらん。」と問(とひ)ければ、山伏(やまぶし)の云(いはく)、「是(これ)こそ奥州(あうしう)の住人(ぢゆうにん)結城上野入道と申(まうす)者、伊勢(いせの)国(くに)にて死(し)して候が、阿鼻(あび)地獄へ落(おち)て呵責(かしやく)せらるゝにて候(さふら)へ。若(もし)其方様(そのかたざま)の御縁(ごえん)にて御渡(おんわたり)候(さふら)はゞ、跡(あと)の妻子共(さいしども)に、「一日経(いちにちぎやう)を書供養(かきくやう)して、此苦患(このくげん)を救ひ候へ。」と仰(おほせ)られ候へ。我は彼(かの)入道今度上洛(しやうらく)せし時、鎧の袖に名を書(かき)て候(さふらひ)し、六道(ろくだう)能化(のうげ)の地蔵薩■(さつた)にて候也(なり)。」と、委(くはし)く是(これ)を教へけるに、其言(そのことば)未終(いまだをへず)、暁をつぐる野寺の鐘(かね)、松吹く風に響(ひびい)て、一声幽(ほのか)に聞(きこ)へければ、地獄の鉄城(てつじやう)も忽(たちまち)にかきけす様(やう)にうせ、彼(かの)山伏(やまぶし)も見へず成(なつ)て、旦過(たんぐわ)に坐せる僧ばかり野原の草の露の上に惘然(ばうぜん)として居たりけり。夢幻(うつつ)の境(さかひ)も未(いまだ)覚(おぼ)へね共夜已(すで)に明(あけ)ければ、此(この)僧現化(けんげ)の不思議(ふしぎ)に驚(おどろい)て、いそぎ奥州(あうしう)へ下(くだ)り、結城上野入道が子大蔵権少輔(おほくらごんのせう)に此(この)事(こと)を語(かたる)に、「父の入道が伊勢にて死(しし)たる事、未(いまだ)聞及(ききおよ)ばざる前(さき)なれば、是(これ)皆夢中の妄想(まうさう)か、幻(うつつ)の間(ま)の怪異(けい)か。」と、真(まこと)しからず思へり。其(その)後三四日あつて、伊勢より飛脚下(くだつ)て、父の上野入道が遺言(ゆゐごん)の様(やう)、臨終の悪相共委(くはし)く語りけるにこそ、僧の云(いふ)所一(ひとつ)も偽(いつは)らざりけりと信(しん)を取(とつ)て、七々(なぬかなぬか)の忌日(きにち)に当る毎(ごと)に、一日経(いちにちぎやう)を書供養(かきくやう)して、追孝(つゐけう)の作善(さぜん)をぞ致しける。「「若有聞法者無一不成仏(にやくうもんほふしやむいちふじやうぶつ)。」は、如来の金言、此(この)経の大意なれば、八寒(はちかん)八熱(はちねつ)の底までも、悪業(あくごふ)の猛火(みやうくわ)忽(たちまち)に消(きえ)て、清冷(せいりやう)の池水正(まさ)に湛(たたへ)ん。」と、導師(だうし)称揚(しようやう)の舌をのべて玉を吐(はき)給へば、聴衆随喜(ずゐき)の涙(なみだ)を流して袂(たもと)を沾(うるほ)しけり。是(これ)然(しかしながら)地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)の善巧(ぜんげう)方便にして、彼(かの)有様を見せしめて追善を致さしめんが為也(なり)。結縁(けちえん)の多少に依(よつ)て、利生(りしやう)の厚薄(こうはく)はあり共、仏前仏後の導師、大慈大悲の薩■(さつた)に値遇(ちぐ)し奉らばゝ真諦俗諦善願(しんたいぞくたいぜんぐわん)の望(のぞみ)を達せん。今世後世(こんせごせ)能(よく)引導(いんだう)の御誓(ちかひ)たのもしかるべき御事(おんこと)也(なり)。


太平記(国民文庫)
太平記巻第二十一

○天下(てんが)時勢粧(じせいさうの)事(こと) S2101
暦応(りやくおう)元年の末に、四夷八蛮(しいはちばん)悉(ことごと)く王化を助(たすけ)て大軍同時に起(おこ)りしかば、今はゝや聖運(せいうん)啓(ひらけ)ぬと見へけるに、北畠顕家(あきいへの)卿(きやう)、新田(につた)義貞(よしさだ)、共に流矢の為に命(いのち)を墜(おと)し、剰(あまつさへ)奥州(あうしう)下向の諸卒、渡海(とかい)の難風に放されて行方知(ゆきがたしら)ずと聞へしかば、世間(よのなか)さてとや思(おもひ)けん。結城上野入道が子息大蔵(おほくらの)少輔(せう)も、父が遺言(ゆゐごん)を背(そむい)て降人(かうにん)に出(いで)ぬ。芳賀(はが)兵衛(ひやうゑの)入道禅可(ぜんか)も、主(しう)の宇都宮(うつのみや)入道が子息加賀寿丸(かがじゆまる)を取篭(とりこめ)て将軍方(しやうぐんがた)に属(しよく)し、主従の礼儀を乱(みだ)り己(おのれ)が威勢を恣(ほしいまま)にす。此(この)時新田(につたの)氏族(しぞく)尚(なほ)残(のこつ)て城々に楯篭(たてこも)り、竹園(ちくゑん)の連枝(れんし)時を待(まつ)て国々に御座(ござ)有(あり)といへ共(ども)、猛虎(まうこ)の檻(かん)に篭り、窮鳥の翅(つばさ)を削(そが)れたるが如(ごとく)に成(なり)ぬれば、戻眼空(むなし)く百歩(はくほ)の威(ゐ)を闔(おほひ)、悲心遠く九霄の雲を望(のぞん)で、只時々の変有(あら)ん事を待計(まつばかり)也(なり)。天下(てんが)の危(あやふ)かりし時だにも、世の譏(そしり)をも不知侈(おごり)を究め欲を恣(ほしいまま)にせし大家(たいか)の氏族、高・上杉の党類(たうるゐ)なれば、能(のう)なく芸(げい)無くして乱階(らんかい)不次の賞に関(あづか)り、例に非(あら)ず法に非(あらず)して警衛判断の識(しよく)を司(つかさど)る。初(はじめ)の程こそ朝敵(てうてき)の名を憚(はばか)りて毎事(まいじ)天慮を仰ぎ申体(まうすてい)にて有(あり)しが、今は天下(てんが)只武徳に帰(き)して、公家(くげ)有(あつ)て何の用にか立(たつ)べきとて、月卿(げつけい)雲客(うんかく)・諸司格勤(しよしかくご)の所領は云(いふ)に及(およば)ず、竹園椒房(せうばう)・禁裡仙洞(きんりせんとう)の御領までも武家の人押領(あふりやう)しける間、曲水重陽(きよくすゐちようやう)の宴も絶(たえ)はて、白馬蹈歌(あをむまたふか)の節会(せちゑ)も行(おこなは)れず、如形儀計(ぎばかり)也(なり)。禁闕(きんけつ)仙洞さびかへり、参仕拝趨(さんしはいすう)の人も無(なか)りけり。況(いはん)や朝廷の政(まつりごと)、武家の計(はからひ)に任(まかせ)て有(あり)しかば、三家(さんけ)の台輔(たいふ)も奉行頭人(ぶぎやうとうにん)の前に媚(こび)を成し、五門の曲阜(きよくふ)も執事(しつじ)侍所の辺(へん)に賄(まひな)ふ。されば納言(だうげん)宰相(さいしやう)なんど路次(ろし)に行合(ゆきあひ)たるを見ても、声を学(まな)び指を差(さし)て軽慢(きやうまん)しける間、公家の人々、いつしか云(いひ)も習はぬ坂東声(ばんどうごゑ)をつかい、著(き)もなれぬ折烏帽子に額を顕(あらは)して、武家の人に紛(まぎれ)んとしけれ共(ども)、立振舞(たちふるま)へる体(てい)さすがになまめいて、額付(ひたひつき)の跡以外(もつてのほか)にさがりたれば、公家にも不付、武家にも不似、只都鄙(とひ)に歩(あゆみ)を失(うしなひ)し人の如し。
○佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道流刑(るけいの)事(こと) S2102
此比(このころ)殊に時を得て、栄耀(えいえう)人の目を驚(おどろか)しける佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道々誉(だうよ)が一族(いちぞく)若党共(わかたうども)、例のばさらに風流を尽(つく)して、西郊(にしのをか)東山の小鷹狩(こたかがり)して帰りけるが、妙法院(めうほふゐん)の御前(おんまへ)を打過(うちすぐ)るとて、跡にさがりたる下部共(しもべども)に、南底(なんてい)の紅葉(もみぢ)の枝をぞ折(をら)せける。時節(をりふし)門主御簾(みす)の内よりも、暮(くれ)なんとする秋の気色(けしき)を御覧ぜられて、「霜葉(さうえふは)紅於二月花なり。」と、風詠閑吟して興ぜさせ給(たまひ)けるが、色殊なる紅葉(もみぢ)の下枝を、不得心(ふとくしん)なる下部共(しもべども)が引折りけるを御覧ぜられて、「人やある、あれ制せよ。」と仰られける間、坊官(ばうくわん)一人庭に立出(いで)て、「誰なれば御所中の紅葉をばさやうに折(をる)ぞ。」と制しけれ共(ども)、敢て不承引。「結句(けつく)御所とは何(なん)ぞ。かたはらいたの言(こと)や。」なんど嘲哢(てうろう)して、弥(いよいよ)尚(なほ)大なる枝をぞ引折りける。折節(をりふし)御門徒の山法師(やまほふし)、あまた宿直(とのゐ)して候(さふらひ)けるが、「悪(にく)ひ奴原(やつばら)が狼籍(らうぜき)哉(かな)。」とて、持(もつ)たる紅葉の枝を奪取(うばひとり)、散々(さんざん)に打擲(ちやうちやく)して門より外(そと)へ追出(おひいだ)す。道誉聞之、「何(いか)なる門主にてもをわせよ、此比(このころ)道誉が内の者に向(むかつ)て、左様の事翔(ふるまは)ん者は覚(おぼえ)ぬ物を。」と忿(いかつ)て、自ら三百(さんびやく)余騎(よき)の勢を率(そつ)し、妙法院(めうほふゐん)の御所へ押寄(おしよせ)て、則(すなはち)火をぞ懸(かけ)たりける。折節(をりふし)風烈(はげし)く吹(ふき)て、余煙十方に覆(おほひ)ければ、建仁寺の輪蔵(りんざう)・開山堂(かいさんだう)・並(ならびに)塔頭(たつちゆう)・瑞光菴(ずゐくわうあん)同時に皆焼上(やけあが)る。門主は御行法(きやうぼふ)の最中(さいちゆう)にて、持仏堂に御座(ござ)有(あり)けるが、御心(おんこころ)早く後(うしろ)の小門より徒跣(かちはだし)にて光堂(ひかりだう)の中へ逃入せ給ふ。御弟子(おんでし)の若宮は、常の御所に御座(ござ)有(あり)けるが、板敷の下へ逃入(にげいら)せ給ひけるを、道誉が子息源三(げんさん)判官走懸(わしりかかつ)て打擲(ちやうちやく)し奉る。其外(そのほか)出世(しゆつせ)・坊官(ばうくわん)・児(ちご)・侍(さぶらひ)法師共、方々へ逃(にげ)散りぬ。夜中の事なれば、時の声京白河に響きわたりつゝ、兵火(ひやうくわ)四方(しはう)に吹覆(ふきおほふ)。在京の武士共(ぶしども)、「こは何事ぞ。」と遽騒(あわてさわい)で、上下に馳(は)せ違(ちが)ふ。事の由を聞定(ききさだめ)て後(のち)に馳(はせ)帰りける人毎(ひとごと)に、「あなあさましや、前代未聞(ぜんだいみもん)の悪行哉(かな)。山門の嗷訴(がうそ)今に有(あり)なん。」と、云(いは)ぬ人こそ無(なか)りけれ。山門の衆徒此(この)事を聞て、「古より今に至(いたる)まで、喧嘩不慮(ふりよ)に出来(いでく)る事多(おほし)といへ共、未(いまだ)門主・貫頂(くわんちやう)の御所を焼払(やきはら)ひ、出世・坊官を面縛(めんばく)する程の事を聞(きか)ず。早(はやく)道誉・秀綱(ひでつな)を給(たまはり)て、死罪に可行。」由を公家へ奏聞(そうもん)し、武家に触れ訴ふ。此(この)門主と申(まうす)も、正(まさし)き仙院の連枝(れんし)にて御座(ござ)あれば、道誉が翔(ふるまひ)無念の事に憤(いきどほ)り思召(おぼしめし)て、あわれ断罪流刑(だんざいるけい)にも行(おこなは)せばやと思召(おぼしめし)けれ共(ども)、公家の御計(おんはからひ)としては難叶時節(をりふし)なれば、無力武家へ被仰処に、将軍も左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、飽(あく)まで道誉を被贔負ける間、山門は理訴(りそ)も疲(つかれ)て、款状(くわじやう)徒(いたづら)に積り、道誉は法禁を軽(かろん)じて奢侈(しやい)弥(いよいよ)恣(ほしいまま)にす。依之(これによつて)嗷儀(がうぎ)の若輩(じやくはい)、大宮(おほみや)・八王子の神輿(しんよ)を中堂へ上奉(あげたてまつ)て、鳳闕(ほうけつ)へ入れ奉(たてまつら)んと僉儀(せんぎ)す。則(すなはち)諸院・諸堂の講莚(かうえん)を打停(うちとど)め、御願を停廃(ちやうはい)し、末寺・末社の門戸(もんこ)を閇(とぢ)て祭礼を打止(うちとどむ)。山門の安否(あんぷ)、天下(てんが)の大事(だいじ)、此(この)時にありとぞ見へたりける。武家もさすが山門の嗷訴(がうそ)難黙止覚(おぼ)へければ、「道誉が事、死罪一等を減じて遠流(をんる)に可被処歟(か)。」と奏聞しければ、則(すなはち)院宣(ゐんぜん)を成(なさ)れ山門を宥(なだめ)らる。前々ならば衆徒の嗷訴は是(これ)には総(すべ)て休(やすま)るまじかりしか共(ども)、「時節(をりふし)にこそよれ、五刑の其一(そのひとつ)を以て山門に理(り)を付(つけ)らるゝ上は、神訴(しんそ)眉目(びぼく)を開くるに似たり。」と、宿老是(これ)を宥(なだめ)て、四月十二日に三社の神輿(しんよ)を御帰座(きざ)成し奉(たてまつ)て、同二十五日道誉・秀綱(ひでつな)が配所(はいしよ)の事定(さだまり)て、上総(かづさの)国(くに)山辺郡(やまのべこほり)へ流さる。道誉近江の国分寺迄、若党(わかたう)三百(さんびやく)余騎(よき)、打送(うちおくり)の為にとて前後に相順ふ。其輩(そのともがら)悉(ことごとく)猿(さるの)皮(かは)をうつぼにかけ、猿(さるの)皮(かは)の腰当(こしあて)をして、手毎(てごと)に鴬篭(うぐひすこ)を持(もた)せ、道々に酒肴(さかな)を設(まうけ)て宿々に傾城(けいせい)を弄(もてあそ)ぶ。事の体(てい)尋常(よのつね)の流人(るにん)には替(かは)り、美々敷(びびしく)ぞ見へたりける。是(これ)も只公家(くげ)の成敗(せいばい)を軽忽(きやうこつ)し、山門の鬱陶(うつたう)を嘲弄(てうろう)したる翔(ふるまひ)也(なり)。聞(きか)ずや古より山門の訴訟を負(おひ)たる人は、十年(じふねん)を過(すぎ)ざるに皆其(その)身を滅(ほろぼ)すといひ習(ならは)せり。治承には新大納言成親(なりちかの)卿(きやう)、西光・西景(さいけい)、康和には後二条(ごにでうの)関白、其外(そのほか)泛々(はんはん)の輩(ともがら)は不可勝計。されば是(これ)もいかゞ有(あら)んずらんと、智ある人は眼(め)を付(つけ)て怪(あやし)み見けるが、果して文和三年の六月十三日(じふさんにち)に、持明院新帝、山名左京(さきやうの)大夫(だいぶ)時氏に被襲、江州へ臨幸成(なり)ける時、道誉が嫡子(ちやくし)源三(げんさん)判官秀綱(ひでつな)堅田にて山法師(やまほふし)に討(うた)る。其弟(そのおとと)四郎左衛門(しらうざゑもん)は、大和(やまとの)内郡(うちのこほり)にて野伏共(のぶしども)に殺(ころさ)れぬ。嫡孫(ちやくそん)近江(あふみの)判官(はうぐわん)秀詮(ひであきら)・舎弟次郎左衛門(じらうざゑもん)二人(ににん)は、摂津国(つのくに)神崎(かんざき)の合戦の時、南方の敵に誅(ちゆう)せられにけり。弓馬の家なれば本意とは申(まうし)ながら、是等(これら)は皆医王山王の冥見(みやうけん)に懸(かけ)られし故(ゆゑ)にてぞあるらんと、見聞(けんもん)の人舌を弾(ふるは)して、懼(おそ)れ思はぬ者は無(なか)りけり。
○法勝寺塔(ほつしようじのたふ)炎上(えんしやうの)事(こと) S2103
康永元年三月二十日に、岡崎の在家(ざいけ)より俄(にはかに)失火出来(いできたつ)て軈(やが)て焼(やけ)静まりけるが、纔(わづか)なる細■(ほそくづ)一つ遥(はるか)に十(じふ)余町(よちやう)を飛去(とびさつ)て、法勝寺の塔の五重(ごぢゆう)の上に落留(おちとま)る。暫(しばし)が程は燈篭の火の如(ごとく)にて、消(きえ)もせず燃(もへ)もせで見へけるが、寺中の僧達(そうたち)身を揉(もう)で周章迷(あわてまよひ)けれ共(ども)、上(のぼる)べき階(はし)もなく打消(うちけす)べき便(たより)も無(なけ)れば、只徒(いたづら)に虚(そら)をのみ見上(あげ)て手撥(ひろげ)てぞ立(たた)れたりける。さる程(ほど)に此細■(このほそくづ)乾(かわき)たる桧皮(ひはだ)に焼付(やけつき)て、黒煙(けぶり)天を焦(こがし)て焼(や)け上(あが)る。猛火(みやうくわ)雲を巻(まい)て翻る色は非想天の上までも上(のぼ)り、九輪(くりん)の地に響(ひびい)て落(おつる)声は、金輪際(こんりんざい)の底迄も聞へやすらんとをびたゝし。魔風(まふう)頻(しきり)に吹(ふい)て余煙四方(しはう)に覆(おほひ)ければ、金堂(こんだう)・講堂・阿弥陀堂・鐘楼(しゆろう)・経蔵・総社宮(そうしやのみや)・八足(やつあし)の南大門(なんだいもん)・八十六間の廻廊(くわいらう)、一時の程(ほど)に焼失して、灰燼(くわいじん)忽(たちまち)地に満(みて)り。焼(やけ)ける最中外(よそ)より見れば、煙の上に或(あるひ)は鬼形(きぎやう)なる者火を諸堂に吹(ふき)かけ、或(あるひ)は天狗(てんぐ)の形なる者松明(たいまつ)を振上(ふりあげ)て、塔の重々(ぢゆうぢゆう)に火を付(つけ)けるが、金堂(こんだう)の棟木(むなぎ)の落(おつ)るを見て、一同に手を打(うつ)てどつと笑(わらう)て愛宕(あたご)・大岳(おほだけ)・金峯山(きんふせん)を指(さし)て去(さる)と見へて、暫(しばし)あれば花頂山(くわちやうざん)の五重(ごぢゆう)の塔、醍醐寺の七重の塔、同時に焼(やけ)ける事こそ不思議(ふしぎ)なれ。院は二条河原(にでうがはら)まで御幸成(ごかうなつ)て、法滅(ほふめつ)の煙に御胸を焦(こが)され、将軍は西門の前に馬を控(ひかへ)られて、回禄(くわいろく)の災(さい)に世を危(あやぶ)めり。抑(そもそも)此(この)寺と申(まうす)は、四海(しかい)の泰平を祈(いのつ)て、殊(ことに)百王の安全を得せしめん為に、白河(しらかはの)院(ゐん)御建立(ごこんりふ)有(あり)し霊地(れいち)也(なり)。されば堂舎の構(かまへ)善(ぜん)尽(つく)し美(び)尽(つく)せり。本尊の錺(かざり)は、金を鏤(ちりば)め玉を琢(みが)く。中にも八角九重(はちかくくぢゆう)の塔婆(たふば)は、横竪(よこたて)共(とも)に八十四丈にして、重々(ぢゆうぢゆう)に金剛九会(こんがうきうゑ)の曼陀羅(まんだら)を安置(あんぢ)せらる。其奇麗崔嵬(そのきれいさいぐわい)なることは三国無双(ぶさう)の鴈塔(がんたふ)也(なり)。此(この)塔婆始(はじめ)て造出(つくりいだ)されし時、天竺(てんぢく)の無熱池(むねつち)・震旦(しんだん)の昆明池(こんめいち)・我朝(わがてう)の難波(なんばの)浦(うら)に、其(その)影明(あきらか)に写(うつり)て見へける事こそ奇特(きどく)なれ。かゝる霊徳不思議(ふしぎ)の御願所(ごぐわんしよ)、片時(へんし)に焼滅する事、偏(ひとへ)に此(この)寺計(ばかり)の荒廃には有(ある)べからず。只今より後弥(いよいよ)天下(てんが)不静して、仏法も王法も有(あつ)て無(なき)が如(ごとく)にならん。公家も武家も共に衰微すべき前相を、兼(かね)て呈(あらは)す物也(なり)と、歎(なげか)ぬ人は無(なか)りけり。
○先帝崩御(ほうぎよの)事(こと) S2104
南朝の年号延元三年八月九日(ここのか)より、吉野の主上(しゆしやう)御不予(ごふよ)の御事(おんこと)有(あり)けるが、次第に重(おも)らせ給(たまふ)。医王善逝(ぜんぜい)の誓約も、祈(いのる)に其験(そのしるし)なく、耆婆扁鵲(ぎばへんじやく)が霊薬も、施すに其験(そのしるし)をはしまさず。玉体日々に消(きえ)て、晏駕(あんか)の期(ご)遠からじと見へ給(たまひ)ければ、大塔(おほたふの)忠雲(ちゆううん)僧正(そうじやう)、御枕(おんまくら)に近付奉(ちかづきたてまつ)て、泪(なみだ)を押(おさへ)て申されけるは、「神路山(かみぢやま)の花(はな)二たび開(ひらく)る春を待(まち)、石清水(いはしみず)の流れ遂(つひ)に澄(すむ)べき時あらば、さりとも仏神三宝も捨進(すてまゐら)せらるゝ事はよも候はじとこそ存候(ぞんじさふらひ)つるに、御脈(おんみやく)已(すで)に替(かはら)せ給(たまひ)て候由(よし)、典薬頭(てんやくのかみ)驚申(おどろきまうし)候へば、今は偏(ひとへ)に十善の天位を捨(すて)て、三明(さんみやう)の覚路(がくろ)に趣(おもむか)せ給ふべき御事(おんこと)をのみ、思召(おぼしめし)被定候べし。さても最期(さいご)の一念に依(よつ)て三界に生(しやう)を引(ひく)と、経文(きやうもん)に説(とか)れて候へば、万歳(ばんぜい)の後の御事(おんこと)、万(よろ)づ叡慮に懸(かか)り候はん事をば、悉(ことごと)く仰置(おほせおか)れ候(さふらひ)て、後生善所(ごしやうぜんしよ)の望(のぞみ)をのみ、叡心に懸(かけ)られ候べし。」と申されたりければ、主上(しゆしやう)苦(くるし)げなる御息を吐(はか)せ給(たまひ)て、「妻子珍宝及王位(さいしちんはうきふわうゐ)、臨命終時不随者(りんみやうじゆうじふずゐしや)、是(これ)如来(によらい)の金言にして、平生(へいぜい)朕(ちん)が心に有(あり)し事なれば、秦(しんの)穆公(ぼくこう)が三良(さんりやう)を埋(うづ)み、始皇帝(しくわうてい)の宝玉を随へし事、一(ひとつ)も朕が心に取(とら)ず。只生々世々(しやうじやうせぜ)の妄念(まうねん)ともなるべきは、朝敵(てうてき)を悉(ことごとく)亡(ほろぼ)して、四海(しかい)を令泰平と思計(おもふばかり)也(なり)。朕則(すなはち)早世の後(のち)は、第七(だいしち)の宮(みや)を天子の位に即奉(つけたてまつ)て、賢士(けんし)忠臣事を謀(はか)り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行(おこなひ)なくば、股肱(ここう)の臣として天下(てんが)を鎮(しづむ)べし。思之故(ゆゑ)に、玉骨(ぎよくこつ)は縦(たとひ)南山の苔に埋(うづも)るとも、魂魄(こんばく)は常に北闕(ほくけつ)の天を望(のぞま)んと思ふ。若(もし)命(めい)を背(そむき)義を軽(かろん)ぜば、君も継体(けいたい)の君に非(あら)ず、臣も忠烈の臣に非じ。」と、委細(ゐさい)に綸言を残されて、左の御手(おんて)に法華経(ほけきやう)の五(ごの)巻(まき)を持(もた)せ給(たまひ)、右の御手(おんて)には御剣(ぎよけん)を按(あんじ)て、八月十六日の丑剋(うしのこく)に、遂(つひ)に崩御(ほうぎよ)成(なり)にけり。悲(かなしい)哉(かな)、北辰(ほくしん)位(くらゐ)高(たかく)して百官星の如(ごとく)に列(つらなる)と雖も、九泉(きうせん)の旅の路には供奉(ぐぶ)仕(つかまつる)臣一人もなし。奈何(いかんが)せん、南山地僻(さがり)にして、万卒(ばんそつ)雲の如(ごとく)に集(あつまる)といへ共、無常の敵の来(きたる)をば禦止(ふせぎとど)むる兵(つはもの)更になし。只中流(ちゆうる)に舟を覆(くつがへし)て一壷(こ)の浪に漂(ただよ)ひ、暗夜(あんや)に燈(ともしび)消(きえ)て、五更(ごかう)の雨に向(むかふ)が如し。葬礼(さうれい)の御事(おんこと)、兼(かね)て遺勅(ゆゐちよく)有(あり)しかば、御終焉(ごじゆうえん)の御形(おんかたち)を改めず、棺槨(くわんくわく)を厚(あつく)し御坐(ござ)を正(ただしう)して、吉野山の麓、蔵王堂(ざわうだう)の艮(うしとら)なる林の奥に、円丘(ゑんきう)を高く築(つい)て、北向(きたむき)に奉葬。寂寞(じやくまく)たる空山(くうざん)の裏(うち)、鳥啼(なき)日(ひ)已(すでに)暮(くれ)ぬ。土墳(どふん)数尺(すしやく)の草(くさ)、一経(いつけい)涙(なんだ)尽(つき)て愁(うれへ)未尽(いまだつきず)。旧臣后妃(こうひ)泣々(なくなく)鼎湖(ていご)の雲を瞻望(せんばう)して、恨(うらみ)を天辺の月に添へ、覇陵(はりよう)の風に夙夜(しゆくや)して、別(わかれ)を夢裡(むり)の花(はな)に慕ふ。哀(あはれ)なりし御事(おんこと)也(なり)。天下(てんが)久(ひさしく)乱(らん)に向ふ事は、末法(まつぼふの)風俗なれば暫く言(いふ)に不足。延喜天暦(えんぎてんりやく)より以来(このかた)、先帝程の聖主(せいしゆ)神武(じんむ)の君は未(いまだ)をはしまさざりしかば、何と無(なく)共(とも)、聖徳一(ひと)たび開(ひらけ)て、拝趨(はいすう)忠功の望(のぞみ)を達せぬ事は非じと、人皆憑(たのみ)をなしけるが、君の崩御(ほうぎよ)なりぬるを見進(まゐらせ)て、今は御裳濯河(みもすそがは)の流(ながれ)の末も絶(たえ)はて、筑波山の陰(かげ)に寄(よる)人も無(なく)て、天下(てんが)皆魔魅(まみ)の掌握に落(おつ)る世に成(なら)んずらんと、あぢきなく覚へければ、多年著纏進(つきまとひまゐ)らせし卿相雲客(けいしやううんかく)、或(あるひ)は東海の波を蹈(ふん)で仲連(ちゆうれん)が跡(あと)を尋(たづね)、或(あるひ)は南山の歌を唱(となへ)て■戚(ねいせき)が行(おこなひ)を学(まなば)んと、思々(おもひおもひ)に身の隠家(かくれが)をぞ求給(もとめたまひ)ける。爰(ここ)に吉野(よしのの)執行(しゆぎやう)吉水(よしみづの)法印宗信(そうしん)、潜(ひそか)に此形勢(このありさま)を伝聞(つたへきき)て、急(いそぎ)参内(さんだい)して申(まうし)けるは、「先帝崩御(ほうぎよ)の刻(きざみ)被遺々勅、第七(だいしち)の宮(みや)を御位に即進(つけまゐら)せ、朝敵(てうてき)追伐(つゐばつ)の御本意を可被遂と、諸卿親(まのあた)り綸言(りんげん)を含(ふくま)せ給(たまひ)し事也(なり)。未(いまだ)日(ひ)を経(へ)ざるに退散隠遁(いんとん)の御企(おんくはたて)有(あり)と承及(うけたまはりおよび)候こそ、心ゑがたく存(ぞんじ)候へ。異国の例(れい)を以(もつて)吾朝(わがてう)の今を計(はかり)候に、文王草昧(さうまい)の主(あるじ)として、武王周(しう)の業(げふ)を起し、高祖(かうそ)崩(ほう)じ給(たまひ)て後(のち)、孝景(かうけい)漢の世を保(たもち)候はずや。今一人(いちじん)万歳(ばんぜい)を早(はやう)し給ふとも、旧労(きうらう)の輩(ともがら)其(その)功を捨(すて)て敵に降(くだら)んと思(おもふ)者は有(ある)べからず。就中(なかんづく)世の危(あやふき)を見て弥(いよいよ)命(めい)を軽(かろん)ぜん官軍(くわんぐん)を数(かぞふ)るに、先(まづ)上野(かうづけの)国(くに)に新田左中将(さちゆうじやう)義貞の次男左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興、武蔵(むさしの)国(くに)に其家嫡(そのかちやく)左少将義宗(よしむね)、越前国(ゑちぜんのくに)に脇屋(わきや)刑部卿義助、同子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治、此外(このほか)江田・大館・里見(さとみ)・鳥山・田中・羽河(はねかは)・山名・桃井(もものゐ)・額田(ぬかだ)・一井(いちのゐ)・金谷(かなや)・堤・青竜寺(しやうりゆうじ)・青襲(あをそひ)・小守沢(こもりさは)の一族(いちぞく)都合(つがふ)四百(しひやく)余人(よにん)、国々に隠謀し所々に楯篭(たてごも)る。造次(ざうじ)にも忠戦を不計と云(いふ)事なし。他家の輩(ともがら)には、筑紫(つくし)に菊池(きくち)・松浦鬼(まつらき)八郎(はちらう)・草野(くさの)・山鹿(やまが)・土肥(とひ)・赤星、四国には土居・得能・江田・羽床(はねゆか)、淡路に阿間(あま)・志知(しうち)、安芸(あき)に有井、石見には三角(みすみの)入道・合(がふの)四郎、出雲伯耆に長年が一族共(いちぞくども)、備後には桜山、備前に今木(いまき)・大富(おほどみ)・和田・児島、播磨に吉河(よしかは)、河内に和田・楠・橋本・福塚、大和に三輪(みわ)の西阿(せいあ)・真木(まき)の宝珠丸(はうじゆまる)、紀伊(きの)国(くに)に湯浅・山本・井遠(ゐとほの)三郎・賀藤(かとう)太郎、遠江には井介(ゐのすけ)、美濃に根尾(ねをの)入道、尾張(をはり)に熱田大宮司(あつたのだいぐうじ)、越前には小国(をくに)・池・風間(かざま)・禰津(ねづ)越中(ゑつちゆうの)守(かみ)・大田信濃(しなのの)守(かみ)、山徒(さんと)には南岸(なんがん)の円宗院(ゑんじゆうゐん)、此外(このほか)泛々(はんはん)の輩(ともがら)は数(かぞふる)に不遑。皆義心金石の如(ごとく)にして、一度(いちど)も変ぜぬ者共(ものども)也(なり)。身不肖に候へども、宗信右(かく)て候はん程は、当山に於て又何(なん)の御怖畏(ごふゐ)か候べき。何様先(まづ)御遺勅(ごゆゐちよく)に任(まかせ)て、継体(けいたい)の君を御位(おんくらゐ)に即進(つけまゐら)せ、国々へ綸旨を成下(なしくださ)れ候へかし。」と申(まうし)ければ、諸卿皆げにもと思(おもは)れける処に、又楠帯刀(たてはき)・和田和泉(いづみの)守(かみ)二千(にせん)余騎(よき)にて馳(はせ)参り、皇居(くわうきよ)を守護(しゆご)し奉(たてまつ)て、誠(まこと)に他事なき体(てい)に見へければ、人々皆退散の思(おもひ)を翻(ひるがへし)て、山中は無為(ぶゐ)に成(なり)にけり。
○南帝受禅(じゆぜんの)事(こと) S2105
同十月三日に、太神宮へ奉幣使(ほうへいし)を下され、第七(だいしち)の宮(みや)天子の位に即(つか)せ給ふ。夫(それ)継体君(けいたいのきみ)登極の御時(おんとき)、様々の大礼(たいれい)有(ある)べし。先(まづ)新帝受禅(じゆぜん)の日、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を被伝て、御即位(ごそくゐ)の儀式あり。其(その)明年の三月に、卜部宿禰陰陽博士(うらべのしゆくねおんやうのはかせ)、軒廊(こんらう)にして国郡を卜定(ぼくぢやう)す。則(すなはち)行事所始(ぎやうじところはじめ)ありて、百司(はくし)千官次第の神事(じんじ)を執行(とりおこなは)る。同年の十月に、東の河原(かはら)に成(なつ)て御禊(おんはらひ)あり。又神泉苑(しんぜんゑん)の北に斎庁所(さいちやうしよ)を作(つくつ)て、旧主一日抜穂(ぬきぼ)を御覧ぜらる。竜尾堂(りようびだう)を立(たて)られ、壇上にして御行水有(おんぎやうずゐあり)て、回立殿(くわいりふでん)を建(たて)、新帝大甞宮(だいじやうきゆう)に行幸(ぎやうがう)あり。其(その)日(ひ)殊に堂上(だうじやう)の伶倫(れいりん)、正始(せいし)の曲(きよく)を調(しらべ)て一たび雅音(がいん)を奏すれば、堂下(だうか)の舞人(まひびと)、をみの衣(ころも)を袒(かたぬい)て、五たび袖を翻(ひるがへ)す。是(これ)を五節(ごせち)の宴酔(えんすゐ)と云(いふ)。其後(そののち)大甞宮に行幸(ぎやうがう)成(なつ)て御牲(おんにへ)の祭を行(おこなは)る程(ほど)に、悠紀(ゆうき)・主基(しゆき)、風俗の歌を唱(となへ)て帝徳を称じ、童女(いんご)・八乙女(やをとめ)、稲舂(いなつき)の歌を歌(うたう)て神饌(しんせん)を献(たてまつ)る。是(これ)皆代々(だいだい)の儲君(ちよくん)、御位(おんくらゐ)を天に継(つが)せ給ふ時の例なれば、三載(さんさい)数度(すど)の大礼、一も欠(かけ)ては有(ある)べからずといへども、洛外(らくぐわい)山中の皇居(くわうきよ)の事、可周備にあらざれば、如形三種(さんじゆの)神器(じんぎ)を拝せられたる計(ばかり)にて、新帝位(くらゐ)に即(つか)せ給ふ。
○任遺勅被成綸旨事(こと)付(つけたり)義助攻落黒丸城事(こと) S2106
同十一月五日、南朝の群臣(ぐんしん)相義(あひぎ)して、先帝に尊号を献(たてまつ)る。御在位(ございゐ)の間、風教(ふうかう)多(おほく)は延喜の聖代を被追しかば、尤も其寄(そのよせ)有(あり)とて、後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)と諡(おくりな)し奉る。新帝幼主(えうしゆ)にて御座(ござ)ある上、君崩じ給(たまひ)たる後、百官冢宰(ちよさい)に総(すべ)て、三年政(まつりごと)を聞召(きこしめさ)れぬ事なれば、万機(ばんき)悉(ことごと)く北畠(きたばたけの)大納言(だいなごん)の計(はからひ)として、洞院(とうゐんの)左衛門(さゑもんの)督(かみ)実世(さねよ)・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけの)卿(きやう)、二人(ににん)専(もつばら)諸事を被執奏。同十二月先(まづ)北国にある脇屋(わきや)刑部卿義助朝臣(あそん)の方へ綸旨を被成。先帝御遺勅(ごゆゐちよく)異于他上は、不替故義貞之例、官軍(くわんぐん)恩賞以下(いげ)の事相計(あひはかつ)て、可経奏聞之(の)由(よし)被宣下。其外(そのほか)筑紫の西征(せいせい)将軍(しやうぐんの)宮(みや)、遠江(とほたふみの)井城(ゐのしろ)に御座(ござ)ある妙法院(めうほふゐん)、奥州(あうしうの)新国司(しんこくし)顕信(あきのぶ)卿(きやう)の方へも、任旧主遺勅殊に可被致忠戦之(の)由(よし)、綸旨をぞ下されける。義助は義貞討(うた)れし後勢(いきほひ)微(び)也(なり)といへども、所々の城郭(じやうくわく)に軍勢(ぐんぜい)を篭置(こめおき)、さまでは敵に挟(せば)められざりければ、何(いつ)まで右(かく)ても有(ある)べきぞ。城々の勢を一(ひとつ)に合(あはせ)て、黒丸(くろまる)の城に楯篭(たてこも)られたる尾張(をはりの)守(かみ)高経を責落(せめおと)さばやと評定有(あり)ける処に、先帝崩御(ほうぎよ)の御事(おんこと)を承(うけたまはつ)て、惘然(ばうぜん)たる事闇夜(あんや)に灯(ともしび)を失(うしな)へるが如し。さは有(あり)ながら、御遺勅(ゆゐちよく)他に異(こと)なる宣旨(せんじ)の忝(かたじけな)さに、忠義弥(いよいよ)心肝(しんかん)に銘(めい)じければ、如何にもして一戦(いつせん)に利を得、南方祠候(しこう)の人々の機(き)をも扶(たすけ)ばやと、御国忌(みこつき)の御中陰(ごちゆういん)の過(すぐる)を遅(おそし)とぞ相待(あひまち)ける。此(この)両三年越前の城三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)相交(あひまじはつ)て合戦の止日(やむとき)なし。中にも湊(みなとの)城(じやう)とて、北陸道(ほくろくだう)七(しち)箇国(かこく)の勢共(せいども)が終(つひ)に攻(せめ)落さゞりし城は、義助の若党(わかたう)畑(はたの)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)時能(ときよし)が、纔(わづかに)二十三人(にじふさんにん)にて篭(こもつ)たりし平城(ひらじやう)也(なり)。南帝(なんてい)御即位の初(はじめ)天運図(と)に膺(あた)る時なるべし。諸卒同(おなじく)城(じやう)を出(いで)て一所(いつしよ)に集(あつま)り、当国の朝敵(てうてき)を平(たひら)げ他国に打越(うちこゆ)べき由を大将義助の方より牒(てふ)せられければ、七月三日に畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)三百(さんびやく)余騎(よき)にて湊(みなとの)城(じやう)を出(いで)て、金津(かなつ)・長崎・河合(かはひ)・河口にあらゆる所の敵の城十二箇所(じふにかしよ)を打落(おとし)て、首を切(きる)事八百(はつぴやく)余人(よにん)、女童(をんなわらは)三歳の嬰児(えいじ)迄のこさず是(これ)を差(さし)殺す。同五日に、由良(ゆら)越前守(ゑちぜんのかみ)光氏(みつうぢ)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて西方寺(さいはうじ)の城より出(いで)て、和田・江守(えもり)・波羅密(はらみ)・深町(ふかまち)・安居(はこ)の庄内に、敵の稠(きびし)く構(かま)へたる六箇所(ろくかしよ)の城を二日に攻(せめ)落し、則(すなはち)御方(みかた)の勢を入替(いれかへ)て六箇所(ろくかしよ)の城を守らしむ。同五日、堀口兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)氏政、五百(ごひやく)余騎(よき)にて居山(ゐやま)の城より出(いで)て、香下(かした)・鶴沢・穴間(あなま)・河北(かはぎた)、十一箇所(じふいちかしよ)の城を五日が中(うち)に攻(せめ)落して、降人(かうにん)千(せん)余人(よにん)を引率(いんぞつ)し、河合(かはひの)庄(しやう)へ出合(いであ)はる。惣大将(そうだいしやう)脇屋(わきや)刑部卿義助は、禰津(ねづ)・風間(かざま)・瓜生(うりふ)・川島・宇都宮(うつのみや)・江戸・波多野(はだの)が勢、三千(さんぜん)余騎(よき)の将として、国府(こふ)より三手(みて)に分(わかれ)て、織田・々中・荒神峯(くわうじんがみね)・安古渡(はこのわたり)の城十七(じふしち)箇所(かしよ)を三日三夜に攻(せめ)落して、其(その)城(じやう)の大将七人(しちにん)虜(いけど)り士卒(じそつ)五百(ごひやく)余人(よにん)を誅(ちゆう)して、河合(かはひの)庄(しやう)へ打出(いで)らる。同十六日四方(しはう)の官軍(くわんぐん)一所に相集(あひあつまつ)て、六千(ろくせん)余騎(よき)三方(さんぱう)より黒丸(くろまる)を相挟(はさみ)て未戦(いまだたたかはず)。河合孫五郎種経(たねつね)降人に成(なつ)て畑に属(しよく)す。其(その)勢を率(そつし)て、夜半に足羽(あすは)の乾(いぬゐ)なる小山の上に打上(のぼつ)て、終夜(よもすがら)城(じやう)の四辺(しへん)を打廻(うちまは)り、時を作り遠矢を射懸(かけ)て、後陣(ごぢん)の大勢集(あつま)らば、一番に城へ攻入(いら)んと勢(いきほひ)を見せて待明(まちあか)す。爰(ここ)に上木平九郎家光は、元は新田左中将(さちゆうじやう)の兵(つはもの)にて有(あり)しが、近来(このごろ)将軍方(しやうぐんがた)に属(しよく)して、黒丸の城に在(あり)けるが、大将尾張(をはりの)守(かみ)高経の前に来(き)て申(まうし)けるは、「此(この)城(じやう)は先年新田殿(につたどの)の攻られしに、不思議(ふしぎ)の御運(ごうん)に依(よつ)て打勝(うちかた)せ給(たまひ)しに御習(ならひ)候(さふらひ)て、猶子細あらじと思召(おぼしめし)候はんには、疎(おろか)なる御計(おんはからひ)にて候べし。其(その)故は先年此(この)所へ向(むかひ)候(さふらひ)し敵共(てきども)、皆東国西国の兵にて、不知案内(ふちあんない)に候(さふらひ)し間、深田(ふかた)に馬を馳(はせ)こみ、堀溝(ほりみぞ)に堕入(おちいつ)て、遂(つひ)に名将流矢(ながれや)の鏑(かぶら)に懸(かか)り候(さふらひ)き。今は御方(みかた)に候(さふらひ)つる者共(ものども)が多く敵に成(なつ)て候間、寄手(よせて)も城の案内は能(よく)存知(ぞんちして)候。其(その)上(うへ)畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)と申(まうし)て日本一(につぽんいち)の大力(おほちから)の剛(かうの)者、命を此(この)城(じやう)に向(むかつ)て止(とどめ)んと思定(おもひさだめ)て向(むかひ)候なる。恐(おそら)くは今時(いまどき)の御方(みかた)に、誰か是(これ)と牛角(ごかく)の合戦をし候べき。後攻(ごづめ)もなき平城(ひらじやう)に名将の小勢にて御篭(おんこもり)候(さふらひ)て、命を失(うしな)はせ給はん事、口惜(くちをし)かるべき御計(おんはからひ)にて候。只今夜の中(うち)に加賀(かがの)国(くに)へ引退(ひきしりぞか)せ給(たまひ)て、京都の御勢(おんせい)下向の時、力を合(あは)せ兵を集(あつめ)て、還(かへつ)て敵を御退治(ごたいぢ)候はんに、何(なん)の子細か候べき。」とぞ申(まうし)ける。細川出羽(ではの)守(かみ)・鹿草(かぐさ)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・浅倉・斉藤等(さいとうら)に至(いたる)まで、皆此(この)義に同(どう)じければ、尾張(をはりの)守(かみ)高経、五の城に火を懸(かけ)て、其(その)光を松明(たいまつ)に成(なし)て、夜間(よのま)に加賀(かがの)国(くに)富樫(とがし)が城へ落(おち)給ふ。畑が謀(はかりこと)を以て、義助黒丸の城(じやう)を落(おと)してこそ、義貞の討(うた)れられたりし会稽(くわいけい)の恥をば雪(きよめ)けれ。
○塩冶判官(えんやはうぐわん)讒死(ざんしの)事(こと) S2107
北国の宮方(みやがた)頻(しきり)に起(おこつ)て、尾張(をはりの)守(かみ)黒丸の城を落されぬと聞へければ、京都以外(もつてのほか)に周章(しうしやう)して、助(たすけ)の兵を下さるべしと評定(ひやうぢやう)あり。則(すなはち)四方(しはう)の大将を定(さだめ)て、其(その)国々へ勢をぞ添(そへ)られける。高(かうの)上野(かうづけの)介(すけ)師治(もろはる)は、大手の大将として、加賀・能登・越中(ゑつちゆう)の勢を率(そつ)し、加賀(かがの)国(くに)を経(へ)て宮(みや)の腰より向はる。土岐弾正少弼(せうひつ)頼遠は、搦手(からめて)の大将として、美濃・尾張(をはり)の勢を率(そつ)し、穴間(あなま)・郡上(ぐじやう)を経(へ)て大野郡(おほののこほり)へ向はる。佐々木(ささきの)三郎判官氏頼は江州の勢を率(そつ)して、木目岳(きのめたうげ)を打越(うちこえ)て敦賀の津より向はる。塩冶判官高貞は船路(ふなぢ)の大将として、出雲・伯耆の勢を率(そつ)し兵船(ひやうせん)三百艘を調(そろ)へ、三方(さんぱう)の寄手(よせて)の相近付(ちかづか)んずる黎(ころほひに)、津々浦々より上(あがり)て敵の後(うしろ)を襲(おそひ)、陣のあはいを隔(へだて)て、戦(たたかひ)を機変(きへん)の間に致すべしと、合図を堅く定(さだめ)らる。陸地(くがち)三方(さんぱう)の大将已(すで)に京を立(たち)て、分国(ぶんこく)の軍勢(ぐんぜい)を催(もよほさ)れければ、塩冶(えんや)も我(わが)国(くに)へ下(くだつ)て、其(その)用意(ようい)を致さんとしける最中(さいちゆう)に、不慮(ふりよ)の事出来(いでき)て、高貞忽(たちまち)に武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)が為に討(うた)れにけり。其宿意(そのしゆくい)何事ぞと尋(たづぬ)れば、高貞多年相馴(あひなれ)たりける女房を、師直に思懸(おもひかけ)られて、無謂討(うた)れけるぞと聞(きこ)へし。其比(そのころ)師直ちと違例(ゐれい)の事有(あつ)て、且(しばら)く出仕をもせで居たりける間、重恩(ぢゆうおん)の家人共(けにんども)是(これ)を慰(なぐさ)めん為に、毎日酒肴(さかな)を調(ととのへ)て、道々の能者(のうしや)共(ども)を召集(めしあつめ)て、其(その)芸能を尽(つく)させて、座中の興(きよう)をぞ促(もよほ)しける。或時(あるとき)月深(ふけ)夜閑(しづまつ)て、荻(をぎの)葉を渡(わたる)風身に入(しみ)たる心地しける時節(をりふし)、真都(しんいち)と覚都検校(かくいちけんげう)と、二人(ににん)つれ平家を歌(うたひ)けるに、「近衛(こんゑの)院(ゐん)の御時(おんとき)、紫宸殿(ししんでん)の上に、鵺(ぬえ)と云(いふ)怪鳥(けてう)飛来(とびきたつ)て夜な/\鳴(なき)けるを、源三位(げんざんみ)頼政(よりまさ)勅(ちよく)を承(うけたまはつ)て射て落したりければ、上皇限(かぎり)なく叡感有(あつ)て、紅(くれなゐ)の御衣(ぎよい)を当座(たうざ)に肩に懸(かけ)らる。「此勧賞(このけんじやう)に、官位も闕国(けつこく)も猶(なほ)充(あたる)に不足。誠やらん頼政(よりまさ)は、藤壷の菖蒲(あやめ)に心を懸(かけ)て堪(たへ)ぬ思(おもひ)に臥(ふし)沈むなる。今夜(こんや)の勧賞(けんじやう)には、此(この)あやめを下さるべし。但し此(この)女を頼政(よりまさ)音(おと)にのみ聞(きい)て、未(いまだ)目には見ざんなれば、同様(おなじやう)なる女房をあまた出(いだ)して、引煩(わづら)はゞ、あやめも知(しら)ぬ恋をする哉(かな)と笑(わらは)んずるぞ。」と仰(おほせ)られて、後宮(こうきゆう)三千人(さんぜんにん)の侍女(じぢよ)の中より、花(はな)を猜(そね)み月を妬(ねた)む程の女房達(にようばうたち)を、十二人(じふににん)同様(おなじやう)に装束(しやうぞく)せさせて、中々(なかなか)ほのかなる気色(けしき)もなく、金沙(きんしや)の羅(うすもの)の中(うち)にぞ置(おか)れける。さて頼政(よりまさ)を清涼殿の孫廂(まごひさし)へ召(めさ)れ、更衣(かうい)を勅使にて、「今夜(こんや)の抽賞(ちうしやう)には、浅香(あさか)の沼のあやめを下さるべし。其(その)手は緩(たゆむ)とも、自ら引(ひい)て我宿(わがやど)の妻と成(なせ)。」とぞ仰(おほせ)下されける。頼政(よりまさ)勅(ちよく)に随(したがつ)て、清涼殿の大床(おほゆか)に手をうち懸(かけ)て候(さふらひ)けるが、何(いづれ)も齢(よはひ)二八計(ばかり)なる女房の、みめ貌(かたち)絵に書共(かくとも)筆も難及程なるが、金翠(きんすゐ)の装(よそほひ)を餝(かざ)り、桃顔(たうがん)の媚(こび)を含(ふくん)で並居(なみゐ)たれば、頼政(よりまさ)心弥(いよいよ)迷ひ目うつろいて、何(いづれ)を菖蒲(あやめ)と可引心地(ここち)も無(なか)りけり。更衣打笑(うちわらう)て、「水のまさらば浅香(あさか)の沼さへまぎるゝ事もこそあれ。」と申されければ、頼政(よりまさ)、五月雨(さみだれ)に沢辺(さはべ)の真薦(まこも)水越(こえ)て何(いづれ)菖蒲(あやめ)と引(ひき)ぞ煩(わづら)ふとぞ読(よみ)たりける。時に近衛(こんゑ)関白殿(くわんばくどの)、余(あまり)の感に堪(たへ)かねて、自ら立(たつ)て菖蒲の前の袖を引(ひき)、「是(これ)こそ汝が宿の妻よ。」とて、頼政(よりまさ)にこそ下されけれ。頼政(よりまさ)鵺(ぬえ)を射て、弓箭(ゆみや)の名を揚(あげ)たるのみならず、一首(いつしゆ)の歌の御感(ぎよかん)に依(よつ)て、年月久(ひさしく)恋忍(こひしのび)つる菖蒲の前を給(たまはり)つる数奇(すき)の程こそ面目なれ。」と、真都(しんいち)三重(さんぢゆう)の甲(かふ)を上(あぐ)れば、覚一初重(しよぢゆう)の乙に収(をさめ)て歌ひすましたりければ、師直も枕をゝしのけ、耳をそばだて聞(きく)に、簾中(れんちゆう)庭上諸共(もろとも)に、声を上(あげ)てぞ感じける。平家はてゝ後(のち)、居残(ゐのこつ)たる若党(わかたう)・遁世(とんせいの)者共(ものども)、「さても頼政(よりまさ)が鵺(ぬえ)を射たる勧賞(けんじやう)に、傾城(けいせい)を給(たまはり)たるは面目なれ共(ども)、所領か御引出(おんひきで)物かを給(たまは)りたらんずるには、莫太(ばくたいの)劣(おとり)哉(かな)。」と申(まうし)ければ、武蔵守(むさしのかみ)聞(きき)もあへず、「御辺達(ごへんたち)は無下(むげ)に不当なる事を云(いふ)物哉(かな)。師直はあやめほどの傾城(けいせい)には、国の十箇国(じつかこく)計(ばかり)、所領の二三十箇所(にさんじつかしよ)也(なり)とも、かへてこそ給(たまは)らめ。」とぞ恥(はぢ)しめける。かゝる処に、元は公家(くげ)のなま上達部(かんたちめ)に仕(つかへ)て、盛(さかん)なりし御代(みよ)を見たりし女房、今は時と共に衰(おとろへ)て身の寄辺無(よるべなき)まゝに、此(この)武蔵守(むさしのかみ)が許(もと)へ常に立寄(より)ける侍従(じじゆう)と申(まうす)女房、垣越(かきごし)に聞(きい)て、後(うしろ)の障子を引(ひき)あけて無限打笑(うちわらう)て、「あな善悪無(さがな)の御心(おんこころ)あて候や。事の様(やう)を推量候に、昔の菖蒲(あやめ)の前は、さまで美人にては無(なか)りけるとこそ覚(おぼえ)て候へ。楊貴妃(やうきひ)は、一笑(ひとたびゑめ)ば六宮(りくきゆう)に顔色無(なし)と申(まうし)候。縦(たとひ)千人(せんにん)万人の女房を双(なら)べ居(す)へて置(おか)れたり共、あやめの前誠(まこと)に世に勝(すぐ)れたらば、頼政(よりまさ)是(これ)を引(ひき)かね候べしや。是(これ)程の女房にだに、国の十箇国(じつかこく)計(ばかり)をばかへても何か惜(をし)からんと仰(おほせ)候はゞ、先帝の御外戚早田宮(はやたのみや)の御女(おんむすめ)、弘徽殿(こうきでん)の西の台(たい)なんどを御覧ぜられては、日本国・唐土(たうど)・天竺(てんぢく)にもかへさせ給はんずるや。此(この)御方は、よく世に類(たぐひ)なきみめ貌(かたち)にて御渡(おんわた)りありと思食知(おぼしめししり)候へ。いつぞや雲の上人(うへびと)、花(はな)待(まち)かねし春(はる)の日のつれ/゛\に、禁裏仙洞(きんりせんとう)の美夫人、九嬪更衣達(きうひんかういたち)を、花(はな)の譬(たとへ)にせられ候(さふらひ)しに、桐壷の御事(おんこと)は、あてやかにうちあらはれたる御気色(おんけしき)を奉見たる事なければ、譬(たとへ)て申さんもあやなかるべけれ共(ども)、雲井の外目(よそめ)も異(こと)なれば、明(あけ)やらぬ外山(とやま)の花(はな)にやと可申。梨壷(なしつぼ)の御事(おんこと)は、いつも臥沈(ふししづ)み給へる御気色(おんけしき)物がなしく、烽(とぶひ)の昔も理(ことわり)にこそ御覧ぜらるらめと、君の御心(おんこころ)も空(そら)に知(しら)れしかば、「玉顔(ぎよくがん)寂寞(せきばく)として涙(なんだ)欄干(らんかん)たり。」と喩(たと)ゑし、雨の中の梨壷と名にほふ御様(おんさま)なるべし。或(あるひ)は月もうつろふ本(もと)あらの小萩(こはぎ)、波も色ある井出(ゐで)の山吹、或(あるひ)は遍照(へんぜう)僧正(そうじやう)の、「我(われ)落(おち)にきと人に語るな。」と戯(たはむれ)し嵯峨野の秋の女郎花(をみなへし)、光(ひかる)源氏(げんじの)大将の、「白くさけるは。」と名を問(とひ)し、黄昏時(たそかれどき)の夕顔の花(はな)、見るに思(おもひ)の牡丹(ふかみぐさ)、色々様々の花共を取々(とりどり)に譬(たとへ)られしに、梅(むめ)は匂(にほ)ひふかくて枝たをやかならず。桜は色ことなれ共其香(そのか)もなし。柳は風を留(とどむ)る緑の糸(いと)、露の玉ぬく枝(えだ)異(こと)なれ共(ども)、匂(にほひ)もなく花(はな)もなし。梅(むめ)が香(か)を桜が色に移して、柳の枝にさかせたらんこそ、げにも此貌(このかたち)には譬(たと)へめとて、遂(つひ)に花(はな)のたとへの数(かず)にも入(いら)せ給はざりし上は、申(まうす)も中々(なかなか)疎(おろか)なる事にてこそ。」と云戯(いひたはむれ)て、障子を引立(ひきたて)て内へ入(いら)んとするを、師直目もなく打笑(うちわらう)て、「暫(しば)し。」と袖をひかへて、「其(その)宮(みや)はいづくに御座(ござ)候ぞ。御年は何(いか)程(ほど)に成(なら)せ給ふぞ。」と問(とひ)けるに、侍従(じじゆう)立留(たちとどまつ)て、「近比(このごろ)は田舎人(いなかうど)の妻と成(なら)せ給(たまひ)ぬれば、御貌(おんかたち)も雲の上の昔には替(かは)り給(たまひ)、御年も盛り過(すぎ)させ給(たまひ)ぬらんと、思(おもひ)やり進(まゐらせ)て有(あり)しに、一日(ひとひ)物詣(ものまうで)の帰(かへる)さに参(まゐり)て奉見しが、古(いにしへ)の春待遠(まちどほ)に有(あり)し若木(わかき)の花(はな)よりも猶(なほ)色深く匂ひ有(あつ)て、在明(ありあけ)の月の隈(くま)なく指入(さしいり)たるに、南向(みなみむき)の御簾(みす)を高くかゝげさせて、琵琶をかきならし給へば、ゝら/\とこぼれかゝりたる鬢(びん)のはづれより、ほのかに見へたる眉の匂(にほひ)、芙蓉(ふよう)の眸(まなじり)、丹花(たんくわ)の脣(くちび)る、何(いか)なる笙の岩屋の聖(ひじり)なりとも、心迷はであらじと、目もあやに覚(おぼえ)てこそ候(さふらひ)しか。うらめしの結(むすぶ)の神の御計(おんはからひ)にや。いかなる女院(にようゐん)、御息所(みやすどころ)とも奉見か、さらずば今程天下(てんが)の権を取るさる人の妻ともなし奉らで、声は塔(たふ)の鳩(はと)の鳴く様(やう)にて、御副臥(おんそひぶし)もさこそこは/\しく鄙閑(ひなたけ)たるらんと覚(おぼゆ)る出雲の塩冶(えんや)判官(はうぐわん)に、先帝より下されて、賎(いやし)き田舎(ゐなか)の御棲(おんすまひ)にのみ、御身(おんみ)を捨(すて)はてさせ給(たまひ)ぬれば、只王昭君(わうせうくん)が胡国(ここく)の夷(えびす)に嫁(か)しけるもかくこそと覚(おぼえ)て、奉見も悲(かなし)くこそ侍(はんべ)りつれ。」とぞ語(かたり)ける。武蔵守(むさしのかみ)いとゞうれしげに聞竭(ききつく)して、「御物語(おんものがたり)の余(あま)りに面白く覚(おぼゆ)るに、先(まづ)引出物(ひきでもの)申さん。」とて、色ある小袖十重(とかさね)に、沈(ぢん)の枕を取副(そへ)て、侍従(じじゆう)の局(つぼね)が前にぞ置(おか)れたる。侍従(じじゆう)俄(にはか)に徳付(つき)たる心ちしながら、あらけしからずの今の引出物(ひきでもの)やと思(おもひ)て、立(たち)かねたるに、武蔵守(むさしのかみ)近く居寄(ゐよつ)て、「詮(せん)なき御物語(おんものがたり)故(ゆゑ)に、師直が違例(ゐれい)はやがてなをりたる心ちしながら、又あらぬ病(やまひ)の付(つき)たる身に成(なつ)て候ぞや。さりとては平(ひら)に憑申(たのみまうし)候はん。此(この)女房何(いか)にもして我に御媒(おんなかだち)候(さふらひ)てたばせ給へ。さる程ならば所領なりとも、又は家の中の財宝なり共、御所望(ごしよまう)に随(したがつ)て可進。」とぞ語(かたり)ける。侍従(じじゆう)の局は、思寄(おもひよら)ぬ事哉(かな)。只独(ひとり)のみをはする人にてもなし。何(なに)としてかく共申出(まうしいづ)べきぞと思(おもひ)ながら、事の外(ほか)に叶ふまじき由をいはゞ、命をも失(うしなは)れ、思(おもひ)の外(ほか)の目にもや合(あは)んずらんと恐(おそろ)しければ、「申(まうし)てこそ見候はめ。」とて、先づ帰りぬ。二三日は、とやせましかくや云(いは)ましと案じ居たる処に、例ならず武蔵守(むさしのかみ)が許(もと)より様々の酒肴(さかな)なんど送り、「御左右(おんさう)遅(おそし)。」とぞ責(せめ)たりける。侍従(じじゆう)は辞(じ)するに言無(ことばなく)して、彼(かの)女房の方に行(ゆき)向ひ、忍(しのび)やかに、「かやうの事は申出(まうしいだす)に付(つけ)て、心の程も推量(おしはか)られ進(まゐら)せぬべければ、聞(きき)しばかりにてさて有(ある)べき事なれ共(ども)、かゝる事の侍(はんべ)るをば如何(いか)が御計(おんはからひ)候べき。露計(ばかり)のかごとに人の心をも慰(なぐさめ)られば、公達(きんだち)の御為に行末(ゆくすゑ)たのもしく、又憑(たのむ)方(かた)なき我等(われら)迄も立(たち)よる方無(なく)ては候はじ。さのみ度重(たびかさ)ならばこそ、安濃(あこぎ)が浦に引綱(ひくあみ)の、人目に余る憚(はばかり)も候はめ。篠(ささ)の小(を)ざゝの一節(ひとふし)も、露かゝる事有(あり)共(とも)、誰か思寄(おもひよ)り候べき。」と、様々書(かき)くどき聞(きこ)ゆれ共(ども)、北(きた)の台(たい)は、「事の外(ほか)なる事哉(かな)。」と計(ばか)り打(うち)わびて、少(すこし)も云寄(いひよる)べき言葉(ことのは)もなし。さても錦木(にしきぎ)の千束(ちづか)を重(かさね)し、夷心(えびすごころ)の奥をも憐(あはれ)と思(おもひ)しる事もやと、日毎(ひごと)に経廻(へめぐり)て、「我(われ)にうきめを見せ、深き淵河(ふちかは)に沈(しづ)ませて、憐(あはれ)と計(ばかり)後(のち)の御情(おんなさけ)はあり共(とも)、よしや何かせん。只日比(ひごろ)参仕(まゐりつか)へし故宮(こみや)の御名残(おんなごり)と思召(おぼしめさ)ん甲斐には、責(せめ)て一言(ひとこと)の御返事(おんへんじ)をなり共承(うけたまはり)候へ。」と、兎角(とかく)云恨(いひうらみ)ければ、北(きたの)台(たい)もはや気色(けしき)打(うち)しほれ、「いでや、ものわびしく、かくとな聞(きこ)へそ。哀(あはれ)なる方に心引(ひか)れば、高志(たかしの)浜のあだ浪(なみ)に、うき名の立(たつ)事もこそあれ。」と、かこち顔(がほ)也(なり)。侍従(じじゆう)帰(かへつ)て角(かく)こそと語りければ、武蔵守(むさしのかみ)いと心を空(そら)に成(なし)て、度重(たびかさな)らばなさけによはることもこそあれ、文(ふみ)をやりてみばやとて、兼好(けんかう)と云(いひ)ける能書(のうしよ)の遁世者(とんせいしや)を呼寄(よびよせ)て、紅葉重(もみぢかさね)の薄様(うすやう)の、取(とる)手もくゆる計(ばかり)にこがれたるに、言を尽(つく)してぞ聞(きこ)へける。返事遅しと待(まつ)処に、使帰り来(き)て、「御文(おんふみ)をば手に取(とり)ながら、あけてだに見給はず、庭に捨(すて)られたるを、人目にかけじと懐(ふところ)に入(いれ)帰り参(まゐつ)て候(さふらひ)ぬる。」と語りければ、師直大(おほき)に気を損(そん)じて、「いや/\、物(もの)の用に立(たた)ぬ物は手書(てかき)也(なり)けり。今日より其兼好(そのけんかう)法師、是(これ)へよすべからず。」とぞ忿(いかり)ける。かゝる処に薬師寺(やくしじ)次郎左衛門(じらうざゑもん)公義(きんよし)、所用の事有(あつ)て、ふと差出(いで)たり。師直傍(かたはら)へ招(まねい)て、「爰(ここ)に文(ふみ)をやれ共(ども)取(とり)ても見ず、けしからぬ程(ほど)に気色(けしき)つれなき女房の有(あり)けるをばいかゞすべき。」と打笑(うちわらひ)ければ、公義(きんよし)、「人皆岩木(いはき)ならねば、何(いか)なる女房も慕(したふ)に靡(なびか)ぬ者や候べき。今一度(いちど)御文を遣(つかは)されて御覧候へ。」とて、師直に代(かはつ)て文を書(かき)けるが、中々(なかなか)言(ことば)はなくて、返すさへ手やふれけんと思(おもふ)にぞ我文(わがふみ)ながら打(うち)も置(おか)れず押返(おしかへ)して、媒(なかだち)此(この)文を持(もち)て行(ゆき)たるに、女房いかゞ思(おもひ)けん、歌を見て顔打(うち)あかめ、袖に入(いれ)て立(たち)けるを、媒(なかだち)さては便(たよ)りあしからずと、袖を引(ひか)へて、「さて御返事(おんへんじ)はいかに。」と申(まうし)ければ、「重(おもき)が上(うへ)の小夜衣(さよころも)。」と計(ばかり)云捨(いひすて)て、内へ紛入(まぎれいり)ぬ。暫くあれば、使急帰(いそぎかへつ)て、「かくこそ候(さふらひ)つれ。」と語(かたる)に、師直うれしげに打案(うちあん)じて、軈(やがて)薬師寺を呼寄(よびよ)せ、「此(この)女房の返事に、「重(おもき)が上(うへ)の小夜衣(さよころも)と云捨(いひすて)て立(たた)れける。」と媒(なかだち)の申(まうす)は、衣小袖(きぬこそで)を調(ととのへ)て送れとにや。其(その)事ならば何(いか)なる装束(しやうぞく)なりともしたてんずるにいと安かるべし。是(これ)は何(なに)と云(いふ)心ぞ。」と問はれければ、公義、「いや是(これ)はさやうの心にては候はず、新古今の十戒(じつかい)の歌に、さなきだに重(おもき)が上の小夜衣(さよころも)我妻(わがつま)ならぬ妻(つま)な重(かさね)そと云(いふ)歌の心を以て、人目計(ばかり)を憚(はばかり)候物ぞとこそ覚(おぼえ)て候へ。」と、哥(うた)の心を尺(しやく)しければ、師直大(おほき)に悦(よろこび)て、「嗚呼(ああ)御辺(ごへん)は弓箭(ゆみや)の道のみならず、歌道にさへ無双(ぶさう)の達者(たつしや)也(なり)けり。いで引出(ひきで)物せん。」とて、金作(こがねつくり)の団鞘(まるさや)の太刀一振(ひとふり)、手づから取出(とりいだ)して、薬師寺にこそ引(ひか)れけれ。兼好が不祥(ふしやう)、公義(きんよし)が高運(かううん)、栄枯一時に地を易(かへ)たり。師直此(この)返事を聞(きき)しより、いつとなく侍従(じじゆう)を呼(よび)て、「君の御大事(おんだいじ)に逢(あう)てこそ捨(すて)んと思(おもひ)つる命を、詮(せん)なき人の妻故(ゆゑ)に、空(むなし)く成(なら)んずる事の悲しさよ。今はのきはにもなるならば、必(かならず)侍従(じじゆう)殿(どの)をつれ進(まゐらせ)て、死出(しで)の山三途(さんづ)の河をば越(こえ)んずるぞ。」と、或時(あるとき)は目を瞋(いからかし)て云ひをどし、或時は又顔を低(たれ)て云恨(いひうらみ)ける程(ほど)に、侍従(じじゆうの)局(つぼね)もはや持(もて)あつかいて、さらば師直に此(この)女房の湯より上(あがつ)て、只顔(ただがほ)ならんを見せてうとませばやと思(おもひ)て、「暫く御待(おんまち)候へ。見ぬも非(あら)ず、見もせぬ御心(おんこころ)あては、申(まうす)をも人の憑(たのまれ)ぬ事にて候へば、よそながら先(まづ)其様(そのさま)を見せ進(まゐら)せ候はん。」とぞ慰(なぐさ)めける。師直聞之より独(ひとり)ゑみして、今日(けふ)か明日(あす)かと待(まち)居たる処に、北(きたの)台(たい)の方に中居(なかゐ)する女童(をんなわらは)に、兼(かね)て約束したりければ、侍従(じじゆうの)局(つぼね)の方へ来(きたつ)て、「今夜このあれの御留主(るす)にて、御台(みだい)は御湯ひかせ給ひ候へ。」とぞ告(つげ)たりける。侍従(じじゆう)右(かく)と師直に申せば、頓(やが)て侍従(じじゆう)をしるべにて、塩冶(えんや)が館(たち)へ忍(しの)び入(いり)ぬ。二間(ふたま)なる所に、身を側(そば)めて、垣の隙(ひま)より闖(うかが)へば、只今此(この)女房湯より上(あが)りけりと覚(おぼえ)て、紅梅の色ことなるに、氷の如(ごとく)なる練貫(ねりぬき)の小袖の、しほ/\とあるをかい取(とつ)て、ぬれ髪の行(ゆく)ゑながくかゝりたるを、袖の下にたきすさめる虚(そら)だきの煙匂計(にほふばかり)に残(のこつ)て、其(その)人は何(いづ)くにか有るらんと、心たど/\しく成(なり)ぬれば、巫女廟(ぶぢよべう)の花は夢の中(うち)に残り、昭君村(せうくんそん)の柳は雨の外(ほか)に疎(おろそか)なる心ちして、師直物(もの)の怪(け)の付(つき)たる様(やう)に、わな/\と振(ふる)ひ居たり。さのみ程へば、主(あるじ)の帰る事もこそとあやなくて、侍従(じじゆう)師直が袖を引(ひき)て、半蔀(はじとみ)の外迄出(いで)たれば、師直縁(えん)の上に平伏(ひれふし)て、何(いか)に引立(ひきたつ)れ共(ども)起上(おきあが)らず。あやしや此侭(このまま)にて絶(たえ)や入(いら)んずらんと覚(おぼえ)て、兎角(とかう)して帰したれば、今は混(ひたす)ら恋の病(やまひ)に臥(ふし)沈み、物狂(くるは)しき事をのみ、寐(ね)ても寤(さめ)ても云(いふ)なんど聞(きこ)へければ、侍従(じじゆう)いかなる目にか合(あは)んずらんと恐しく覚(おぼえ)て、其行(そのゆく)え知(しる)べき人もなき片田舎へ逃下(にげくだり)にけり。此(これ)より後(のち)は指南(しるべ)する人もなし。師直いかゞせんと歎きけるが、すべき様(やう)有(あり)と案出(あんじいだ)して、塩冶(えんや)隠謀の企(くはたて)有(ある)由を様々に讒(ざん)を運(めぐら)し、将軍・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)にぞ申(まうし)ける。塩冶此(この)事を聞(きき)ければ、とても遁(のが)るまじき我(わが)命也(なり)。さらば本国に逃下(にげくだつ)て旗を挙(あげ)、一旗を促(もよほし)て、師直が為に命を捨(すて)んとぞたくみける。高貞三月二十七日(にじふしちにち)の暁、弐(ふたごこ)ろ有(ある)まじき若党(わかたう)三十(さんじふ)余人(よにん)、狩装束(かりしやうぞく)に出立(いでたた)せ、小鷹(こたか)手毎(てごと)にすへて、蓮台野(れんだいの)・西山辺(にしやまへん)へ懸狩(かけがり)の為に出(いづ)る様(やう)に見せて、寺戸(てらど)より山崎へ引違(ひきちがひ)、播磨路(はりまぢ)よりぞ落行(おちゆき)ける。身に近き郎等(らうどう)二十(にじふ)余人(よにん)をば、女房子共に付(つけ)て、物詣(ものまうで)する人の体(てい)に見せて、半時計(はんじばかり)引別(ひきわか)れ、丹波路(たんばぢ)よりぞ落しける。此比(このころ)人の心、子は親に敵(てき)し、弟は兄を失(うしな)はんとする習(ならひ)なれば、塩冶判官が舎弟四郎左衛門(しらうざゑもん)、急(いそぎ)武蔵守(むさしのかみ)が許(もと)へ行(ゆき)て、高貞が企(くはたて)の様(やう)有(あり)の侭(まま)にぞ告(つげ)たりける。師直聞之、此(この)事長僉儀(ながせんぎ)して、此(この)女房取(とり)はづしつる事の安からずさよと思(おもひ)ければ、急(いそぎ)将軍(しやうぐん)へ参(まゐり)て、「高貞が隠謀の事、さしも急(きふ)に御沙汰(ごさた)候へと申候(まうしさふらひ)つるを聞召(きこしめし)候はで、此暁(このあかつき)西国を指(さし)て逃下候(にげくだりさふらひ)けんなる。若(もし)出雲・伯耆に下著(げちやく)して、一族(いちぞく)を促(もよほし)て城に楯篭(たてこも)る程ならば、ゆゝしき御大事(おんだいじ)にて有(ある)べう候也(なり)。」と申(まうし)ければ、「げにも。」と驚騒(おどろきさわが)れて誰をか追手(おひて)に下(くだ)すべきとて、其(その)器用をぞ撰(えらま)れける。当座(たうざ)に有(あり)ける人々、我をや追手(おひて)にさゝれんと、かたづを飲(のう)で、機(き)を攻(つめ)たる気色(きしよく)を見給(たまひ)て、此(この)者共(ものども)が中には、高貞を追攻(おつつめ)て討(うつ)べき者なしと思はれければ、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏と、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常・太平(おほひら)出雲(いづもの)守(かみ)とを喚(よ)び寄(よせ)て、「高貞只今西国を指(さし)て逃下(にげくだ)り候なる。いづく迄も追攻(おつつめ)て打留(うちとめ)られ候へ。」と宣(のたまひ)ければ、両人共に一儀(いちぎ)にも及(およば)ず、畏(かしこまつ)て領状(りやうじやう)す。時氏はかゝる事(こと)共(とも)知(しら)ず、出仕の装束にて参られたりけるが、宿所へ帰り、武具を帯(たい)し勢(せい)を率(そつ)せば、時剋(じこく)遷(うつり)て追(おつ)つく事を得がたしと思ひけるにや、武蔵守(むさしのかみ)が若党(わかたう)にきせたりける物具(もののぐ)取(とつ)て肩に打懸(うちかけ)、馬の上にて高紐(たかひぼ)かけ、門前より懸足(かけあし)を出(いだ)して、父子主従七騎、播磨路(はりまぢ)にかゝり、揉(もみ)にもみてぞ追(おつ)たりける。直常も太平も宿所へは帰(かへら)ず、中間(ちゆうげん)を一人帰して、「乗替(のりがへ)の馬物具をば路へ追付(おつつ)けよ。」と下知(げぢ)して、丹波路(たんばぢ)を追(おう)てぞ下りける。道に行合(ゆきあふ)人に、「怪(あやし)げなる人や通(とほ)りつる。」と問へば、「小鷹少々すへたりつる殿原達十四五騎(じふしごき)が程、女房をば輿(こし)にのせて急(いそ)がはしげに通(とほ)りつる。其合(そのあはひ)は二三里は過候(すぎさふらひ)ぬらん。」とぞ答へける。「さては幾程も延(のび)じ。をくれ馳(はせ)の勢共(せいども)を待(まち)つれん。」とて、其(その)夜は波々伯部(はうかべ)の宿(しゆく)に暫く逗留(とうりう)し給へば、子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)・小林民部(みんぶの)丞(じよう)・同左京(さきやうの)亮(すけ)以下(すけいげの)侍共(さぶらひども)、取(とる)物も取(とり)あへず、二百五十(にひやくごじふ)余騎(よき)、落人(おちうと)の跡を問々(とひとひ)、夜昼(よるひる)の境もなく追懸(おつかけ)たり。塩冶が若党共(わかたうども)も、追手(おひて)定(さだめ)て今は懸(かか)るらん。一足(ひとあし)もと急(いそぎ)けれ共(ども)、女性(によしやう)・少(をさなき)人を具足(ぐそく)したれば、兎角(とかう)のしつらいに滞(とどこほつ)て、播磨の陰山(かげやま)にては早追付(おつつか)れにけり。塩冶が郎等共(らうどうども)、今は落(おち)得じと思(おもひ)ければ、輿(こし)をば道の傍(かたはら)なる小家(こいへ)に舁入(かきいれ)させて、向(むかふ)敵に立向(たちむかひ)、をしはだぬぎ散々(さんざん)に射る。追手(おひて)の兵共(つはものども)、物具(もののぐ)したる者は少(すくな)かりければ、懸寄(かけよせ)ては射落(いおと)し、抜(ぬい)てかゝれば射すへられて矢場(やには)に死せる者十一人、手負(ておふ)者は数を知(しら)ず。右(かく)ても追手(おひて)は次第に勢(せい)重(かさな)る。矢種(やだね)も已(すで)に尽(つき)ければ、先(まづ)女性(によしやう)をさなき子共を差殺(さしころ)して、腹を切らんとて家の内へ走り入(いつ)て見(みれ)ば、あてやかにしをれわびたる女房の、通夜(よもすがら)の泪(なみだ)に沈(しづ)んで、さらず共(とも)我(われ)と消(きえ)ぬと見ゆる気色(きしよく)なるが、膝の傍(そば)に二人(ふたり)の子をかき寄(よせ)て、是(これ)や何(いか)にせんと、あきれ迷(まよ)へる有様を見るに、さしも武(たけ)く勇(いさ)める者共(ものども)なれ共(ども)、落(おつ)る泪(なみだ)に目も暮(くれ)て、只惘然(ばうぜん)としてぞ居たりける。去(さる)程(ほど)に追手(おひて)の兵共(つはものども)、ま近く取巻(とりまい)て、「此(この)事の起りは何事ぞ。縦(たとひ)塩冶判官を討(うち)たり共、其(その)女房をとり奉らでは、執事(しつじ)の御所存に叶(かなふ)べからず。相構(あひかまへ)て其(その)旨を存知せよ。」と下知(げぢ)しけるを聞(きき)て、八幡(はちまん)六郎(ろくらう)は、判官が次男の三歳に成(なる)が、母に懐(いだ)き付(つき)たるをかき懐(いだき)て、あたりなる辻堂(つじだう)に修行者(しゆぎやうじや)の有(あり)けるに、「此少(このをさなき)人、汝が弟子(でし)にして、出雲へ下(くだ)し進(まゐらせ)て、御命を助進(たすけまゐら)せよ。必ず所領一所(しよりやういつしよ)の主になすべし。」と云(いひ)て、小袖一重(ひとかさね)副(そへ)てぞとらせける。修行者(しゆぎやうじや)かい/゛\しく請取(うけとり)て、「子細(しさい)候はじ。」と申(まうし)ければ、八幡(はちまん)六郎(ろくらう)無限悦(よろこび)て、元の小家(こいへ)に立(たち)帰り、「我は矢種(やだね)の有(あら)ん程は、防矢(ふせぎや)射んずるぞ。御辺達(ごへんたち)は内へ参(まゐつ)て、女性少(をさ)なき人を差殺(さしころ)し進(まゐらせ)て、家に火を懸(かけ)て腹を切れ。」と申(まうし)ければ、塩冶が一族(いちぞく)に山城(やましろの)守(かみ)宗村(むねむら)と申(まうし)ける者内へ走(はし)り入(いり)、持(もつ)たる太刀を取直(とりなほ)して、雪よりも清く花よりも妙(たへ)なる女房の、胸の下をきつさきに、紅(くれなゐ)の血を淋(そそ)き、つと突(つき)とをせば、あつと云(いふ)声幽(かすか)に聞(きこ)へて、薄衣(うすぎぬ)の下に臥(ふし)給ふ。五(いつつ)になる少(をさなき)人、太刀の影に驚(おどろい)て、わつと泣(ない)て、「母御(ははご)なう。」とて、空(むなし)き人に取付(とりつき)たるを、山城(やましろの)守(かみ)心強(つよく)かき懐(いだ)き、太刀の柄(つか)を垣にあて、諸共(もろとも)に鐔本(つばもと)迄貫(つらぬか)れて、抱付(いだきつき)てぞ死(しに)にける。自余(じよ)の輩(ともがら)二十二人(にじふににん)、「今は心安し。」と悦(よろこび)て、髪を乱(みだ)し大裸(おほはだぬき)に成(なつ)て、敵近付(ちかづけ)ば走懸(はしりかかり)々々(はしりかかり)火を散(ちら)してぞ切合(きりあひ)たる。とても遁(のがる)まじき命也(なり)。さのみ罪を造(つくつ)ては何(なに)かせんとは思(おもひ)ながら、爰(ここ)にて敵を暫(しばらく)も支(ささへ)たらば、判官少(すこし)も落延(おちのぶ)る事もやと、「塩冶爰(ここ)にあり、高貞此(これ)にあり。頚(くび)取(とつ)て師直に見せぬか。」と、名乗懸(なのりかけ)々々々(なのりかけ)二時計(ふたときばかり)ぞ戦(たたかひ)たる。今は矢種(やだね)も射尽(いつく)しぬ、切疵(きりきず)負(お)はぬ者も無(なか)りければ、家の戸口に火を懸(かけ)て、猛火(みやうくわ)の中[に]走(わし)り入(いり)、二十二人(にじふににん)の者共(ものども)は、思々(おもひおもひ)に腹切(きつ)て、焼(やけ)こがれてぞ失(うせ)にける。焼(やけ)はてゝ後、一堆(いつたい)の灰を払(はらひ)のけて是(これ)を見れば、女房は焼野(やけの)の雉(きぎす)の雛(ひな)を翅(つばさ)にかくして、焼死(やけしに)たる如(ごとく)にて、未(いまだ)胎内(たいない)にある子、刃(やいば)のさき[に]懸(かけ)られながら、半(なかば)は腹より出(いで)て血と灰とに塗(まみれ)たり。又腹かき切(きつ)て多く重(かさな)り臥(ふし)たる死人(しにん)の下、少(をさな)き子を抱(いだい)て一つ太刀に貫(つらぬか)れたる、是(これ)ぞ何様(いかさま)塩冶判官にてぞあるらん。され共(ども)焼損(やけそん)じたる首(くび)なれば取(とつ)て帰るに及ばずとて、桃井(もものゐ)も太平(おほひら)も、是(これ)より京へぞ帰り上(のぼ)りける。さて山陽道(せんやうだう)を追(おう)て下(くだ)りける山名伊豆(いづの)守(かみ)が若党共(わかたうども)、山崎財寺(たからでら)の前を打過(うちすぎ)ける処に跡(あと)より、「執事(しつじ)の御文(おんふみ)にて候、暫く御逗留(ごとうりう)候へ。可申事有(あり)。」とぞ呼(よばは)りける。何事やらんとて馬を引(ひか)へたれば、此(この)者三町(さんちやう)計(ばかり)隔(へだた)りて、「余(あま)りにつよく走(わしつ)て候程(ほど)に、息絶(たえ)てそれまでも参り得ず候。此方(こなた)へ打帰(うちかへら)せ給へ。」山名我身(わがみ)は馬より下(おり)、若党(わかたう)を四五騎(しごき)帰(かへ)して、「何事ぞ。あれ聞(きいて)、急馳(いそぎはせ)帰れ。」とぞ下知(げぢ)しける。五騎の兵共(つはものども)誠ぞと心得(こころえ)て、使の前にて馬より飛(とび)をり、「何事にて候やらん。」と問へば、此(この)者莞爾(につこ)と打笑(うちわらひ)、「誠(まこと)には執事(つしづ)の使にては候はず。是(これ)は塩冶殿(えんやどの)の御内(みうち)の者にて候が、判官殿(はうぐわんどの)の落(おち)られ候(さふらひ)けるを知(しり)候はで伴をば不仕候。此(ここ)にて主の御為に命を捨(すて)て、冥途(めいど)にて此様(このさま)を語り申(まうす)べきにて候。」と云(いひ)もあへず抜合(ぬきあはせ)、時移(うつ)る迄ぞ切合(きりあひ)ける。三人(さんにん)に手負(ておふ)せ我(わが)身も二太刀(ふたたち)切(きら)れければ、是(これ)迄とや思(おもひ)けん、塩冶が郎等(らうどう)は腹かき破(やぶつ)て死(しに)にけり。「此(この)者に出(いだ)しぬかれ時剋(じこく)移りければ、落人(おちうと)は遥(はるか)に延(のび)ぬらん。」とて、弥(いよいよ)馬を早め追懸(おつかけ)ける。京より湊河(みなとがは)までは十八里の道を二時計(ばかり)に打(うつ)て、「余(あま)りに馬疲(つかれ)ければ、今日はとても近付(ちかづく)事有(あり)がたし。一夜(いちや)馬の足を休(やすめ)てこそ追(お)はめ。」とて、山名伊豆(いづの)守(かみ)湊河(みなとがは)にぞとゞまりける。其時(そのとき)生年(しやうねん)十四歳に成(なり)ける子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)、気早(きばや)なる若者共(わかものども)を呼抜(よびぬい)て宣(のたまひ)けるは、「北(にぐ)る敵は跡(あと)を恐(おそれ)て、夜を日に継(つい)で逃(にげ)て下(くだ)る。我等(われら)は馬労(つかれ)て徒(いたづら)に明(あく)るを待(まつ)。加様(かやう)にては此(この)敵を追攻(おつつめ)て討つと云(いふ)事不可有。馬強(つよ)からん人々は我に同(どう)じ給へ、豆州(とうしう)には知(しら)せ奉らで、今夜此(この)敵を追攻(おつつめ)て、道にて打留(うちと)めん。」と云(いひ)もはてず、馬引寄(ひきよせ)て乗(のり)給へば、小林以下(いげ)の侍共(さぶらひども)十二騎、我(われ)も々(われも)と同(どう)じて、夜中に追(おつ)てぞ馳行(はせゆき)ける。湊河より賀久河(かくがは)迄は、十六(じふろく)里(り)の道を一夜(いちや)に打(うつ)て、夜もはやほの/゛\と明(あけ)ければ、遠方人(をちかたびと)の袖見ゆる、河瀬の霧の絶間(たえま)より、向(むかう)の方を見渡しければ、旅人とは覚(おぼえ)ぬ騎馬の客三十騎計(ばかり)、馬の足しどろに聞(きこ)へて、我先(われさき)にと馬を早めて行(ゆく)人あり。すはや是(これ)こそ塩冶よと見ければ、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)川縁(かはばた)に馬を懸居(かけすゑ)て、「あの馬を早められ候人々は、塩冶殿(えんやどの)と見奉るは僻目(ひがめ)か、将軍を敵に思ひ、我等(われら)を追手(おひて)に受(うけ)て、何(いづ)くまでか落(おち)られぬべき。踏留(ふみとどまつ)て尋常(じんじやう)に討死して、此長河(このちやうが)の流(ながれ)に名を残(のこ)され候へかし。」と、言(ことば)を懸(かけ)られて、判官が舎弟塩冶六郎(ろくらう)、若党共(わかたうども)に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「某(それがし)は此(ここ)にて先(まづ)討死すべし。御辺達(ごへんたち)は細路(ほそみち)のつまり/\に防矢(ふせぎや)射て、廷尉(ていゐ)を落(おとし)奉れ。一度(いちど)に討死にする事有(ある)べからず。」と、無(なか)らん跡(あと)の事までも、委(くはしく)是(これ)を相謀(あひはかつ)て、主従七騎引返(ひつかへ)す。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)の兵十二騎、一度(いちど)に河へ打入(うちいれ)て、轡(くつばみ)を双(ならべ)て渡せば、塩冶が舎弟七騎、向(むかひ)の岸に鏃(やじり)をそろへ散々(さんざん)に射る。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)が胄(かぶと)の吹返(ふきかへ)し射向(いむけ)の袖に矢三筋(さんすぢ)受(うけ)て、岸の上へ颯(さつ)と懸上(かけあが)れば、塩冶六郎(ろくらう)抜合(ぬきあつ)て、懸違懸違(かけちがひかけちがひ)時移る程こそ切合(きりあひ)たれ。小林左京(さきやうの)亮(すけ)、塩冶に切(きつ)て落されて已(すで)に打(うた)れんと見へければ、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)馳塞(はせふさがつ)て、当(たう)の敵を切(きつ)て落す。残り六騎の者共(ものども)、思々(おもひおもひ)に打死しければ、其首(そのくび)を路次(ろし)に切懸(きりかけ)て、時剋(じこく)を移さず追(おつ)て行(ゆく)。此(この)間に塩冶は又五十町(ごじつちよう)計(ばかり)落延(おちのび)たりけれ共(ども)、郎等共(らうどうども)が乗(のつ)たる馬疲(つかれ)て、更にはたらかざりければ、道に乗捨(のりすて)歩跣(かちはだし)にて相従ふ。右(かく)ては本道を落(おち)得じとや思(おもひ)けん、御著宿(ごちやくのしゆく)より道を替(かへ)て、小塩山(をしほやま)へぞ懸(かかり)ける。山名続(つづい)て追(おひ)ければ、塩冶が郎等(らうどう)三人(さんにん)返合(かへしあはせ)て、松の一村(ひとむら)茂(しげ)りたるを木楯(こだて)に取(とり)て、指攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)散々(さんざん)に射る。面(おもて)に前(すす)む敵六騎射て落し、矢種(やだね)も尽(つき)ければ打物(うちもの)に成(なつ)て切合(きりあつ)てぞ死(しに)にける。此(ここ)より高貞落延(おちのび)て、追手(おひて)の馬共皆疲(つかれ)にければ、「今は道にて追付(おひつく)事叶(かなふ)まじ。」とて、山陽道(さんやうだう)の追手(おひて)は、心閑(こころしづか)にぞ下(くだり)ける。三月晦日(つごもり)に塩冶出雲(いづもの)国(くに)に下著(げちやく)しぬれば、四月一日に追手(おひて)の大将、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏、子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏(もろうぢ)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて同国屋杉(やすぎ)の庄に著(つき)給ふ。則(すなはち)国中に相触(あひふれ)て、「高貞が叛逆(ほんぎやく)露顕(ろけん)の間、誅罰(ちゆうばつ)せん為に下向する所也(なり)。是(これ)を打(うち)て出(いだ)したらん輩(ともがら)に於(おいて)は、非職凡下(ぼんげ)を云(いは)ず、恩賞を申与(まうしあた)ふべき由。」を披露(ひろう)す。聞之他人は云(いふ)に不及、親類骨肉(こつにく)迄も欲心に年来(としごろ)の好(よしみ)を忘(わすれ)ければ、自国他国の兵共(つはものども)、道を塞(ふさ)ぎ前(さき)を要(よぎつ)て、此(ここ)に待(まち)彼(かしこ)に来(きたり)て討(うた)んとす。高貞一日も身を隠(かく)すべき所無(なけ)れば、佐々布(ささふ)山に取上(とりのぼつ)て一軍(ひといくさ)せんと、馬を早めて行(ゆき)ける処に、丹波路(たんばぢ)より落(おち)ける若党(わかたう)の中間(ちゆうげん)一人走付(わしりつき)て、「是(これ)は誰(た)が為に御命をば惜(をし)まれて、城に楯篭(たてごも)らんとは思食(おぼしめし)候や。御台(みだい)御供(おんとも)申候(まうしさふらひ)つる人々は、播磨の陰山(かげやま)と申(まうす)所にて、敵に追付(おひつか)れて候(さふらひ)つる間、御台(みだい)をも公達(きんだち)をも皆差殺(さしころ)し進(まゐらせ)て、一人も残らず腹を切(きつ)て死(しに)て候也(なり)。是(これ)を告申(つげまう)さん為に甲斐なき命生(いき)て、是(これ)迄参(まゐつ)て候。」と云(いひ)もはてず、腹かき切(きつ)て馬の前にぞ臥(ふし)たりける。判官是(これ)をきゝ、「時の間(ま)も離れがたき妻子(さいし)を失(うしなは)れて、命生(いき)ては何(なに)かせん、安からぬ物哉(かな)。七生(しちしやう)迄師直が敵と成(なつ)て、思知(おもひしら)せんずる物を。」と忿(いかつ)て、馬の上にて腹を切(きり)、倒(さかさま)に落(おち)て死(しに)にけり。三十(さんじふ)余騎(よき)有(あり)つる若党共(わかたうども)をば、「城になるべき所を見よ。」とて、此彼(ここかしこ)へ遣(つかは)し、木村源三一人付順(つきしたがひ)て有(あり)けるが、馬より飛(とん)でをり、判官が頚を取(とつ)て、鎧直垂(よろひひたたれ)に裹(つつ)み、遥(はるか)の深田(ふかた)の泥中(どろのなか)に埋(うづん)で後、腹かき切(きつ)て、腸(はらわた)繰出(くりいだ)し、判官の頚の切口を陰(かく)し、上に打重(うちかさなつ)て懐付(いだきつき)てぞ死(しに)たりける。後に伊豆(いづの)守(かみ)の兵共(つはものども)、木村が足の泥に濁(よごれ)たるをしるべにて、深田(ふかた)の中より、高貞が虚(むなし)き首を求出(もとめいだ)して、師直が方へぞ送りける。是(これ)を見聞(みきく)人毎(ひとごと)に、「さしも忠有(あつ)て咎(とが)無(なか)りつる塩冶判官、一朝に讒言(ざんげん)せられて、百年の命を失(うしなひ)つる事の哀(あはれ)さよ。只晉(しん)の石季倫(せききりん)が、緑珠(りよくしゆ)が故(ゆゑ)に亡(ほろぼ)されて、金谷(きんこく)の花と散(ちり)はてしも、かくや。」と云(いは)ぬ人はなし。それより師直悪行積(つもつ)て無程亡失(ほろびうせ)にけり。「利人者天必福之、賊人者天必禍之。」と云(いへ)る事、真(まこと)なる哉(かな)と覚(おぼ)へたり。


太平記(国民文庫)
太平記巻第二十二

○畑(はた)六郎左衛門(ろくらうざゑもんが)事(こと) S2201
去(さる)程(ほど)に京都の討手大勢にて攻下(せめくだり)しかば、杣山(そまやま)の城も被落、越前・加賀・能登・越中・若狭五箇国(ごかこく)の間に、宮方(みやがた)の城一所(いつしよ)も無(なか)りけるに、畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)時能(ときよし)、僅(わづか)に二十七人(にじふしちにん)篭(こも)りたりける鷹巣(たかのす)の城計(じやうばかり)ぞ相残りたりける。一井(いちのゐ)兵部(ひやうぶの)少輔(せう)氏政(うぢまさ)は、去年杣山(そまやま)の城より平泉寺(へいせんじ)へ越(こえ)て、衆徒(しゆと)を語(かたら)ひ、挙旗と被議けるが、国中(こくぢゆう)宮方(みやがた)弱(よわく)して、与力(よりき)する衆徒も無(なか)りければ、是(これ)も同(おなじ)く鷹巣(たかのすの)城(じやう)へぞ引篭(ひきこも)りける。時能(ときよし)が勇力(ゆうりよく)、氏政が機分(きぶん)、小勢なりとて閣(さしお)きなば、何様(いかさま)天下(てんが)の大事(だいじ)に可成とて、足利尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)・高(かうの)上野(かうづけの)介(すけ)師重(もろしげ)、両大将として、北陸道(ほくろくだう)七(しち)箇国(かこく)の勢七千(しちせん)余騎(よき)を率(そつ)して、鷹巣城の四辺(しへん)を千百重(せんひやくぢゆう)に被囲、三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)の向ひ城(じやう)をぞ取(とつ)たりける。彼(かの)畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)と申(まうす)は、武蔵(むさしの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)にて有(あり)けるが、歳十六(じふろく)の時より好(このんで)相撲(すまふを)取(とり)けるが、坂東(ばんどう)八箇国(はちかこく)に更に勝(かつ)者無(なか)りけり、腕の力筋太(すぢふとく)して股(もも)の村肉(むらにく)厚(あつ)ければ、彼薩摩(かのさつま)の氏長(うぢなが)も角(かく)やと覚(おぼえ)て夥(おびたた)し。其後(そののち)信濃(しなのの)国(くに)に移住して、生涯山野江海(さんやかうかいの)猟漁(かりすなどり)を業(げふ)として、年久(ひさし)く有(あり)しかば、馬に乗(のつ)て悪所岩石(あくしよがんぜき)を落す事、恰も神変(じんべん)を得るが如し。唯造父(ざうほ)が御(ぎよ)を取(とつ)て千里に不疲しも、是(これ)には不過とぞ覚(おぼ)へたる。水練は又憑夷(ひようい)が道を得たれば、驪龍頷下(りりようがんか)の珠(たま)をも自(みづから)可奪。弓は養由(やういう)が迹(あと)を追(おひ)しかば、弦(つる)を鳴(なら)して遥(はるか)なる樹頭(じゆとう)の栖猿(せいゑん)をも落(おと)しつべし。謀(はかりこと)巧(たくみ)にして人を眤(むつび)、気健(すこやか)にして心不撓しかば、戦場に臨むごとに敵を靡(なび)け堅(かたき)に当る事、樊■(はんくわい)・周勃が不得道をも得たり。されば物は以類聚(あつま)る習ひなれば、彼が甥に所大夫房(ところのだいぶばう)快舜(くわいしゆん)とて、少しも不劣悪僧(あくそう)あり。又中間(ちゆうげん)に悪(あく)八郎(はちらう)とて、欠脣(いぐち)なる大力(だいぢから)あり。又犬獅子(けんじし)と名を付(つけ)たる不思議(ふしぎ)の犬一疋(いつぴき)有(あり)けり。此(この)三人(さんにん)の者共(ものども)、闇にだになれば、或(あるひは)帽子甲(ばうしかぶと)に鎖(くさり)を著(き)て、足軽(あしがる)に出立(いでたつ)時もあり。或(あるひ)は大鎧(おほよろひ)に七物(ななつもの)持(もつ)時もあり。様々質(てだて)を替(かへ)て敵の向城(むかひじやう)に忍入(しのびいる)。先(まづ)件(くだん)の犬を先立(さきだて)て城の用心(ようじん)の様を伺(うかが)ふに、敵の用心(ようじん)密(きびしく)て難伺隙時は、此(この)犬一吠(ひとほえ)々(ほえて)走出(わしりいで)、敵の寝入(ねいり)、夜廻(よまはり)も止(やむ)時は、走出(わしりいで)て主に向(むかつ)て尾を振(ふつ)て告(つげ)ける間、三人(さんにん)共(とも)に此(この)犬を案内者(あんないしや)にて、屏(へい)をのり越(こえ)、城の中へ打入(うちいつ)て、叫喚(をめきさけん)で縦横無碍(むげ)に切(きつ)て廻りける間、数千(すせん)の敵軍驚騒(おどろきさわい)で、城を被落ぬは無(なか)りけり。「夫(それ)犬は以守禦養人。」といへり。誠(まこと)に無心禽獣も、報恩酬徳(はうおんしうとく)の心有(ある)にや、斯(かか)る事は先言(せんげん)にも聞(きき)ける事あり。昔周(しう)の世衰へんとせし時、戎国(じゆうこく)乱(みだれ)て王化に不随、兵を遣(つかは)して是(これ)を雖責、官軍(くわんぐん)戦(たたかひ)に無利、討(うた)るゝ者三十万人、地を被奪事七千(しちせん)余里(より)、国危(あやふ)く士辱(はづか)しめられて、諸侯皆彼に降(くだらん)事を乞(こふ)。爰(ここ)に周王是(これ)を愁(うれへ)て■(い)を安(やすん)じ給はず。時節(をりふし)御前(おんまへ)に犬の候(さふらひ)けるに魚肉を与(あたへ)、「汝若(もし)有心、戎国(じゆうこく)に下(くだつ)て、窃(ひそか)に戎王(じゆうわう)を喰殺(くひころ)して、世の乱を静めよ。然らば汝に三千(さんぜん)の宮女を一人下(くだし)て夫婦となし、戎国の王たら[し]めん。」と戯(たはむれ)て被仰たりけるを、此狗(このいぬ)勅命を聞(きき)て、立(たち)て三声(みこゑ)吠(ほえ)けるが、則(すなはち)万里の路を過(すぎ)て戎国に下(くだつ)て、偸(ひそか)に戎王(じゆうわう)の寐所(ねところ)へ忍入(しのびいつ)て、忽(たちまち)に戎王(じゆうわう)を喰(くひ)殺し、其(その)頚を咆(くは)へて、周王の御前(おんまへ)へぞ進(まゐり)ける。等閑(なほざり)に戯れて勅定(ちよくぢやう)ありし事なれ共(ども)、綸言(りんげん)難改とて、后宮(こうきゆう)を一人此狗(このいぬ)に被下て、為夫婦、戎国を其(その)賞にぞ被行ける。后(きさき)三千(さんぜん)の列(れつ)に勝(すぐ)れ、一人(いちじん)の寵(ちよう)厚かりし其(その)恩情を棄(すて)て、勅命なれば無力、彼(かの)犬に伴(ともなひ)て泣々(なくなく)戎国に下(くだつ)て、年久(ひさしく)住給(すみたまひ)しかば、一人の男子を生(うめ)り。其形(そのかたち)頭(かしら)は犬にして身は人に不替。子孫相続(あひつづい)て戎国を保ちける間、依之(これによつて)彼(かの)国(くに)を犬戎国(けんじゆうこく)とぞ申(まうし)ける。以彼思之、此犬獅子(このけんじし)が行(ゆく)をも珍しからずとぞ申(まうし)ける。されば此(この)犬城中(じやうちゆう)に忍入(しのびいつ)て機嫌(きげん)を計(はかり)ける間、三十七(さんじふしち)箇所(かしよ)に城を拵(こしら)へ分(わかつ)て、逆木(さかもぎ)を引屏(ひきへい)を塗(ぬり)ぬる向城(むかひじやう)共(ども)、毎夜一二(ひとつふたつ)被打落、物具(もののぐ)を捨(す)て馬を失ひ恥をかく事多ければ、敵の強きをば不顧、御方(みかた)に笑(わらは)れん事を恥(はぢ)て、偸(ひそか)に兵粮を入(いれ)、忍々(しのびしのび)酒肴(さかな)を送(おくつ)て、可然は我(わが)城(じやう)を夜討になせそと、畑を語(かたら)はぬ者ぞ無(なか)りける。爰(ここ)に寄手(よせて)の中に、上木(うへき)九郎家光(いへみつ)と云(いひ)けるは、元(もと)は新田左中将(さちゆうじやう)の侍也(なり)けるが、心を翻(ひるがへ)して敵となり、責口(せめくち)に候(さふらひ)けるが、数百(すひやく)石(こく)の兵粮を通して畑に内通(ないつう)すと云(いふ)聞(きこ)へ有(あり)しかば、何(いか)なる者か為(したり)けん、大将尾張(をはりの)守(かみ)高経(たかつね)の陣の前に、「畑を討(うた)んと思はゞ、先(まづ)上木(うへき)を伐(きれ)。」と云(いふ)秀句(しうく)を書(かい)て高札(たかふだ)をぞ立(たて)たりける。是(これ)より大将も上木(うへき)に心を被置、傍輩(はうばい)も是(これ)に隔心(きやくしん)ある体(てい)に見(みえ)ける間、上木口惜(くちをしき)事に思(おもひ)て、二月二十七日(にじふしちにち)の早旦(さうたん)に、己(おのれ)が一族(いちぞく)二百(にひやく)余人(よにん)、俄(にはか)に物具(もののぐ)ひし/\しと堅め、大竹をひしいで楯の面(おもて)に当(あて)、かづき連(つれ)てぞ責(せめ)たりける。自余(じよ)の寄手(よせて)是(これ)を見て、「城の案内知(しつ)たる上木が俄(にはか)に責(せむ)るは、何様(いかさま)可落様(やう)ぞ有(ある)らん。上木一人が高名(かうみや)になすな。」とて、三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)の向城(むかひじやう)の兵共(つはものども)七千人(しちせんにん)、取(とる)物も不取敢(とりあへず)、岩根(いはね)を伝ひ、木の根に取付(とりつき)て、差(さし)も嶮(けは)しき鷹巣城(たかのすのじやう)の坂十八町(じふはちちやう)を一息(ひといき)に責上(せめあが)り、切岸(きりきし)の下にぞ著(つき)たりける。され共城には鳴(なり)を静めて、「事の様(やう)を見よ。」とて閑(しづま)り却(かへつ)て有(あり)けるが、已(すで)に鹿垣(ししかき)程近く成(なり)ける時、畑六郎(ろくらう)・所大夫(ところのだいぶ)快舜(くわいしゆん)・悪(あく)八郎(はちらう)・鶴沢源蔵人(げんくらうど)・長尾新左衛門(しんざゑもん)・児玉五郎左衛門(ごらうざゑもん)五人(ごにん)の者共(ものども)、思々(おもひおもひ)の物具(もののぐ)に、太刀長刀の鋒(きつさき)を汰(そろ)へ、声々に名乗(なのつ)て、喚(をめい)て切(きつ)てぞ出(いで)たりける。誠(まこと)に人なしと由断(ゆだん)して、そゞろに進み近づきたる前懸(さきがけ)の寄手(よせて)百(ひやく)余人(よにん)、是(これ)に驚散(おどろきちつ)て、互の助(たすけ)を得んと、一所(いつしよ)へひし/\と寄(よせ)たる処を、例(れい)の悪(あく)八郎(はちらう)、八九尺(はちくしやく)計(ばかり)なる大木(たいぼく)を脇(わき)にはさみ、五六十しても押(おし)はたらかしがたき大磐石(だいばんじやく)を、転懸(ころばしかけ)たれば、其(その)石に当(あた)る有様、輪宝(りんばう)の山を崩し磊石(らいせき)の卵(かひご)を圧(お)すに不異。斯(かか)る処に理を得て左右に激(げき)し、八方(はつぱう)を払(はらひ)、破(わつ)ては返し帰(かへし)ては進み、散々(さんざん)に切廻(きりまは)りける間、或(あるひは)討(うた)れ或(あるひは)疵(きず)を被(かうむ)る者、不知其数。乍去其(その)後は、弥(いよいよ)寄手(よせて)攻上(せめあが)る者も無(なく)て、只山を阻(へだて)川を境(さかう)て、向(むかひ)陣を遠く取(とり)のきたれば、中々(なかなか)兎角(とかう)もすべき様(やう)無し。懸(かかり)し程(ほど)に、畑つく/゛\と思案して、此侭(このまま)にては叶ふまじ、珍(めづら)しき戦(たたか)ひ今一度(いちど)して、敵を散(ちら)すか散(ちら)さるゝか、二(ふたつ)の間に天運を見んと思(おもひ)ければ、我(わが)城(じやう)には大将一井(いちのゐ)兵部(ひやうぶの)少輔(せう)に、兵十一人を著(つけ)て残し留(とど)め、又我(わが)身は宗徒(むねと)の者十六人を引具(ひきぐ)して、十月二十一日の夜半(やはん)に、豊原(といはら)の北に当(あたり)たる伊地(いづち)山に打上(うちあがり)て、中黒(なかぐろ)の旌(はた)二流(ふたながれ)打立(うちたて)て、寄手(よせて)遅しとぞ待(まち)たりける。尾張(をはりの)守(かみ)高経是(これ)を聞(きき)て、鷹巣城(たかのすのじやう)より勢を分(わかつ)て、此(ここ)へ打出(うちいで)たるとは不寄思、豊原(といはら)・平泉寺(へいせんじ)の衆徒(しゆと)、宮方(みやがた)と引合(ひきあひ)て旌(はた)を挙(あげ)たりと心得(こころえ)て、些(ちつと)も足をためさせじと、同(おなじき)二十二日の卯刻(うのこく)に、三千(さんぜん)余騎(よき)にてぞ押寄(おしよせ)られける。寄手(よせて)初(はじめ)の程は敵の多少を量兼(はかりかね)て、無左右不進けるが、小勢也(なり)けりと見て、些(ちつと)も無恐処、我前(われさき)にとぞ進みたりける。畑六郎左衛門(ろくらうざゑもん)、敵外(そと)に引(ひか)へたる程は、態(わざと)あり共(とも)被知ざりけるが、敵已(すでに)一二町(いちにちやう)に責(せめ)寄せたりける時、金筒(かなどう)の上に火威(ひをどし)の胄(よろひ)の敷目(しきめ)に拵(こしら)へたるを、草摺長(くさずりなが)に著下(きくだし)て、同毛(おなじけ)の五枚甲(ごまいかぶと)に鍬形(くはがた)打(うつ)て緒(を)を縮(しめ)、熊野打(くまのうち)の肪当(ほうあて)に、大立揚(おほたてあげ)の脛当(すねあて)を、脇楯(わいだて)の下(した)まで引篭(ひきこめ)て、四尺(ししやく)三寸(さんずんの)太刀に、三尺(さんじやく)六寸(ろくすん)の長刀茎短(くきみじか)に拳(にぎ)り、一引両(ひとつひきりやう)に三■(みつすはま)の笠符(かさじるし)、馬の三頭(さんづ)に吹懸(ふきかけ)させ、塩津黒(しほづくろ)とて五尺(ごしやく)三寸(さんずん)有(あり)ける馬に、鎖(くさり)の胄(よろひ)懸(かけ)させて、不劣兵十六人、前後左右に相随(あひしたが)へ、「畑将軍此(ここ)にあり、尾張(をはりの)守(かみ)は何(いづ)くに坐(ましま)すぞ。」と呼(よばはつ)て、大勢の中へ懸入(かけいり)、追廻(おひまは)し、懸乱(かけみだ)し、八方(はつぱう)を払(はらつ)て、四維(しゆゐ)に遮りしかば、万卒(ばんそつ)忽(たちまち)に散じて、皆馬の足をぞ立兼(たてかね)たる。是(これ)を見て、尾張(をはりの)守(かみ)高経・鹿草(かくさ)兵庫(ひやうごの)助(すけ)旗の下(もと)に磬(ひかへ)て、「無云甲斐者共(ものども)哉(かな)。敵縦(たとひ)鬼神(おにかみ)也(なり)とも、あれ程の小勢を見て引(ひく)事や有(ある)べき。唯(ただ)馬の足を立寄(たちよ)せて、魚鱗(ぎよりん)に引(ひか)へて、兵(つはもの)を虎韜(こたう)になして取篭(とりこめ)、一人も不漏打留(うちとめ)よや。」と、透間(すきま)も無(なく)ぞ被下知ける。懸(かかり)しかば三千(さんぜん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、大将の諌言(かんげん)に力を得て、十六騎(じふろくき)の敵を真中(まんなか)にをつ取篭(とりこめ)、余(あま)さじとこそ揉(もう)だりけれ。大敵雖難欺、畑が乗(のつ)たる馬は、項羽(かうう)が騅(すゐ)にも不劣程の駿足(しゆんそく)也(なり)しかば、鐙(あぶみ)の鼻に充落(あておと)され蹄(ひづめ)の下(した)にころぶをば、首(くび)を取(とつ)ては馳(はせ)通(とほ)り、取(とつ)て返しては颯(さつ)と破る。相順(あひしたが)ふ兵も、皆似(に)るを友とする事なれば、目に当(あたる)敵をば切(きつ)て不落云(いふ)事なし。其膚(そのはだへ)不撓目(め)不瞬勇気に、三軍敢(あへ)て当(あた)り難く見へしかば、尾張(をはりの)守(かみ)の兵三千(さんぜん)余騎(よき)、東西南北に散乱(さんらん)して、河より向(むかう)へ引退(ひきしりぞ)く。軍(いくさ)散じて後(のち)、畑帷幕(ゐばく)の内に打帰(うちかへり)て、其(その)兵を集(あつむ)るに、五騎は被討九人(くにん)は痛手(いたで)を負(おう)たりけり。其(その)中に殊更憑(たのみ)たる大夫房(だいぶばう)快舜(くわいしゆん)、七所まで痛手負(おう)たりしが、其(その)日(ひ)の暮程(ほど)にぞ死(しに)にける。畑も脛当(すねあて)の外(はづれ)、小手(こて)の余(あま)り、切(きら)れぬ所ぞ無(なか)りける。少々(せうせう)の小疵(こきず)をば、物(もの)の数(かず)とも不思けるに、障子の板の外(はづれ)より、肩崎(かたさき)へ射篭(こめ)られたりける白羽(しらは)の矢一筋(ひとすぢ)、何(いか)に脱(ぬき)けれ共(ども)、鏃(やじり)更に不脱けるが、三日の間苦痛を責(せめ)て、終(つひ)に吠(ほ)へ死(じに)にこそ失(うせ)にけれ。凡(およそ)此(この)畑は悪逆無道(あくぎやくぶだう)にして、罪障(ざいしやう)を不恐のみならず、無用なるに僧法師を殺し、仏閣社壇を焼壊(やきこぼ)ち、修善(しゆぜん)の心は露許(ばかり)もなく、作悪業事(ことは)如山重(かさなり)しかば、勇士(ゆうし)智謀の其芸(そのげい)有(あり)しか共(ども)、遂(つひ)に天の為にや被罰けん、流矢(ながれや)に被侵て死(しに)にけるこそ無慙(むざん)なれ。君不見哉(や)、舁(げい)控弓、天に懸(かか)る九(ここのつ)の日を射て落し、■(がう)盪舟、無水陸地(くがぢ)を遣(やり)しか共(ども)、或(あるひ)は其(その)臣寒■(かんさく)に被殺、或(あるひ)は夏后小康(かこうせうかう)に被討て皆死名を遺(のこ)せり。されば開元(かいげん)の宰相宋開府(そうかいふ)が、幼君の為に武を黷(けが)し、其辺功(そのへんこう)を不立しも、無智慮忠臣と可謂と、思(おもひ)合(あは)せける許(ばかり)也(なり)。畑已(すで)に討(うた)れし後は、北国の宮方(みやがた)気を撓(たわま)して、頭(かしら)を差出(さしいだ)す者も無(なか)りけり。
○義助被参芳野事并(ならびに)隆資(たかすけ)卿(きやう)物語(ものがたりの)事(こと) S2202
爰(ここ)に脇屋(わきや)刑部卿義助(よしすけ)は、去(さんぬる)九月十八日、美濃の根尾(ねを)の城に立篭(たてこもり)しか共(ども)、土岐(とき)弾正少弼(せうひつ)頼遠(よりとほ)・刑部(ぎやうぶの)大夫(たいふ)頼康(よりやす)に責(せめ)落されて、郎等(らうどう)七十三人(しちじふさんにん)を召具(めしぐ)し、微服潜行(びふくせんかう)して、熱田大宮司(あつたのだいぐうじ)が城尾張(をはりの)国(くに)波津(はづ)が崎へ落(おち)させ給(たまひ)て、十(じふ)余日(よにち)逗留(とうりう)して、敗軍の兵を集めさせ給(たまひ)て、伊勢伊賀を経(へ)て、吉野殿(よしのどの)へぞ被参ける。則(すなはち)参内(さんだい)し、竜顔(りようがん)に奉謁しかば、君玉顔殊に麗(うるは)しく照(てら)して前席、此(この)五六年が間の北征(ほくせい)の忠功、異他由を感じ被仰て、更に敗北の無念なる事をば不被仰出、其(その)命無恙して今此(ここ)に来(きた)る事、君臣水魚の忠徳再(ふたたび)可露故(ゆゑ)也(なり)と、御涙(おんなみだ)を浮(うかべ)させ御座(おはしまし)て被仰下。次(つぎの)日(ひ)臨時(りんじ)の宣下(せんげ)有(あつ)て一級を被加。加之(しかのみならず)当参の一族(いちぞく)、並(ならびに)相順(あひしたが)へる兵共(つはものども)に至るまで、或(あるひ)は恩賞を給(たまひ)、或(あるひは)官位を進められければ、面目人に超(こえ)てぞ見へたりける。其(その)時分殿上(てんしやう)の上口(かみくち)に、諸卿被参候たりけるが、物語の次(ついで)に、洞院(とうゐんの)右大将実世(さねよ)未(いまだ)左衛門(さゑもんの)督(かみ)にて坐(ましませ)しが、被欺申けるは、「抑(そもそも)義助越前の合戦に打負(うちまけ)て美濃(みのの)国(くに)へ落(おち)ぬ。其(その)国(くに)をさへ又被追落て、身の置処(おきどころ)なき侭(まま)に、当山へ参りたるを、君御賞翫(ごしやうくわん)有(あつ)て、官禄を進ませらる事返々(かへすがへす)も不心得(こころえず)。是(これ)唯(ただ)治承の昔、権佐三位(ごんのすけさんみの)中将(ちゆうじやう)維盛(これもり)が、東国の討手(うつて)に下(くだつ)て、鳥の羽音(はおと)に驚(おどろい)て逃上(にげのぼり)たりしを、祖父清盛入道が計(はから)ひとして、一級を進ませしに不異。」とぞ被笑ける。四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)卿(きやう)、つく/\と是(これ)を聞(きき)給ひけるが、退(しりぞい)て被申けるは、「今度の儀、叡慮の趣(おもむ)く処、其理(そのり)当(あた)るかとこそ存(ぞんじ)候へ。其(その)故は、義助北国の軍(いくさ)に失利候(さふらひ)し事は全(まつたく)彼が戦(たたかひ)の拙(つたな)きに非(あら)ず。只聖運、時未到(いまだいたらず)、又勅裁(ちよくさい)の将の威を軽(かろ)くせられしに依(よつ)て也(なり)。高才(かうさい)に対して加様(かやう)の事を申せば、以管窺天、听途説塗風情(ふぜい)にて候へ共(ども)、只其の一端(いつたん)を申(まうす)べし。昔周(しう)の未(いまだ)戦国の時に当(あたつ)て、七雄(しちゆう)の諸侯相争(あひあらそ)ひ互に国を奪はんと謀(はかり)し時、呉王闔廬(かふりよ)、孫子(そんし)と云(いひ)ける勇士(ゆうし)を大将として、敵国を伐(うた)ん事を計る。時に孫氏、呉王闔廬に向(むかつ)て申(まうし)けるは、「夫(それ)以不教之民戦(たたかは)しむる事、是(これ)を棄(すて)よといへり。若(もし)敵国を伐(うた)しめんとならば、先(まづ)宮中にあらゆる所の美人を集(あつめ)て、兵(つはもの)の前に立(たて)て、陣を張(は)り戈(ほこ)を持(もた)しめて後、我(われ)其命(そのめい)を司(つかさど)らむ。一日の中に、三度(さんど)戦(たたかひ)の術(じゆつ)を教へんに、命(めい)に随ふ事を得ば、敵国を滅(ほろぼ)さん事、立(たちどころ)に得つべし。」とぞ申(まうし)ける。呉王則(すなはち)孫子(そんし)が任申請、宮中の美人三千人(さんぜんにん)を南庭(なんてい)に出して、皆兵の前陣(ぜんぢん)に立(たて)らる。時に孫氏甲胄を帯し、戈(ほこ)を取(とつ)て、「鼓(つづみ)うたば進んで刃(やいば)を交(まじ)へよ。金(かね)をうたば退(しりぞい)て二陣の兵に譲(ゆづ)れ。敵ひかば急に北(にぐ)るを追へ。敵返さば堪(こらへ)て弱(よわき)を凌(しの)げ。命を背(そむ)かば我(われ)汝等(なんぢら)を斬らん。」と、馬を馳(はせ)てぞ習はしける。三千(さんぜん)の美人君の命(めい)に依(よつ)て戦(たたか)ひを習はす戦場へ出(いで)たれども、窈窕(えうてう)たる婉嫋(ゑんじやく)、羅綺(らき)にだもたへざる体(てい)なれば、戈をだにも擡(もたげ)得ざれば、まして刃を交(まじふ)るまでもなし。あきれたる体(てい)にて打笑(うちわらひ)ぬる計(ばかり)也(なり)。孫氏是(これ)を忿(いかつ)て、殊更呉王闔廬(かふりよ)が最愛の美人三人(さんにん)を忽(たちまち)に斬(きつ)てぞ捨(すて)たりける。是(これ)を見、自余(じよ)の美人相順(あひしたがう)て、「士卒(じそつ)と共に懸(かけ)よ。」といへば進み、「返せ。」といへば止(とどま)る。聚散(しゆさん)応変、進退当度。是(これ)全(まつたく)孫氏が美人の殺す事を以て兵法(ひやうはふ)とはせず、只大将の命(めい)を士卒(じそつ)の重んずべき処を人にしらしめんが為也(なり)。呉王も最愛の美人を三人(さんにん)まで失ひつる事は悲しけれ共(ども)、孫氏が教へたる謀(はかりこと)誠(まこと)に当(あた)れりと被思ければ、遂に孫氏を以て、多くの敵国を亡(ほろぼ)されてげり。されば周(しう)の武王、殷の紂王を伐(うた)ん為に、大将を立(たて)ん事を太公望(たいこうばう)に問(とひ)給ふ。太公望答曰(こたへていはく)、「凡国有難、君避正殿、召将而詔之曰、社稷安危、一在将軍。願将軍帥師応之。将既受命、乃命大史卜。斎三日、之大廟鑽霊亀卜吉日以授斧鉞。君入廟門西面而立、将入廟門北面而立。君親操鉞持首、授将其柄曰、従此上至天者、将軍制之。復操斧持柄授将其刃曰、従此下至淵者、将軍制之。見其虚則進、見其実則止。勿以三軍為衆而軽敵。勿以受命為重而必死。勿以身貴而賎人。勿以独見而違衆。勿以弁舌為必然。士未坐勿坐。士未食勿食。寒暑必同。如此則士衆必尽死力。将已受命拝而報君曰、臣聞国不可以外治、軍不可以中禦。二心不可以事君。疑志不可以応敵。臣既受命専斧鉞之威。臣不敢将。君許之。乃辞而行。軍中之事不聞君命、皆由将出。臨敵決戦、無有二心。若如則無天於上、無地於下。無敵於前、無君於後。是故智者為之謀、勇者(ようしや)為之闘。気励青雲疾若馳々。兵不接刃而敵降服。戦勝於外、功立於内。吏遷士賞百姓懽悦、将無咎殃。是故風雨時節、五穀豊熟、社稷安寧也(なり)。」といへり。古より今に至るまで、将を重んずる事如此にてこそ、敵を亡(ほろぼ)し国を治(をさむ)る道は候事なれ。去(さる)程(ほど)に此間(このあひだ)北国の有様を伝へ承(うけたまは)るに、大将の挙状(きよじやう)を不帯共、士卒直(ぢき)に訴(うつたふ)る事あれば、軈(やが)て勅裁を被下、僅(わづか)に山中を伺ひ以祗候労を、軍用を支(ささ)へらる。北国の所領共を望む人あれば、不事問被成聖断。依之(これによつて)大将威軽(かろく)、士卒(じそつの)心恣(ほしいまま)にして、義助遂に百戦の利を失へり。是(これ)全(まつたく)戦ふ処に非(あら)ず。只上(かみ)の御沙汰(ごさた)の違(たがふ)処に出たり。君忝(かたじけなく)も是(これ)を思召(おぼしめし)知るに依(よつ)て、今其(その)賞を被重者也(なり)。秦(しんの)将(しやう)孟明視・西乞術(せいきつじゆつ)・白乙丙(はくいつへい)、鄭(ていの)国(くに)の軍(いくさ)に打負(うちまけ)て帰(かへり)たりしを秦(しんの)穆公(ぼつこう)素服郊迎(そぶくかうげい)して、「我(われ)不用百里奚・■叔(けんしゆく)言辱(はづか)しめられたり。三子(さんし)は何の罪かある。其(その)専心毋懈。」と云(いひ)て三人(さんにん)の官禄を復せしにて候はずや。」と、理を尽(つくし)て宣(のべ)られければ、さしも大才の実世(さねよの)卿(きやう)、言(ことば)なくしてぞ立(たた)れける。「何ぞ古の維盛(これもり)を入道相国賞せしに同(おなじく)せん哉(や)。」と被申しかば、実世(さねよの)卿(きやう)言(こと)ば無(なく)して被退出けり。
○作々木信胤(ささきのぶたね)成宮方(みやがた)事(こと) S2203
懸(かか)る処に伊予(いよの)国(くに)より専使(せんし)馳来(はせきたつ)て、急ぎ可然大将を一人撰(えらび)て被下、御方(みかた)に対して忠戦を可致之(の)由(よし)を奏聞(そうもん)したりしかば、脇屋(わきや)刑部卿義助朝臣(あそん)を可被下公議定(さだまり)けり。され共(ども)下向(げかう)の道、海上も陸地(くがぢ)も皆敵陣也(なり)。如何して可下、僉議(せんぎ)不一ける処に、備前(びぜんの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)、佐々木(ささきの)飽浦(あくら)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)信胤(のぶたね)早馬(はやむま)を打て(うつ)て、「去月二十三日(にじふさんにち)小豆島(せうどしま)に押(おし)渡り、義兵を挙(あぐ)る処に、国中(こくぢゆう)の忠ある輩(ともがら)馳加(はせくははつ)て、逆徒(ぎやくと)少々打順(うちしたが)へ、京都運送の舟路(ふなぢ)を差塞(さしふさい)で候也(なり)。急(いそぎ)近日大将御下向有(ある)べし。」とぞ告(つげ)たりける。諸卿是(これ)を聞(きき)て、大将進発(しんばつ)の道開(ひらけ)て、天運機を得たる時至りぬと、悦給(よろこびたまふ)事限(かぎり)なし。抑(そもそも)此(この)信胤と申(まうす)は、去建武(さんぬるけんむの)乱の始(はじめ)に、細川卿律師(きやうのりつし)定禅(ぢやうぜん)に与力(よりき)して、備前備中の両国を平(たひら)げ、将軍の為に忠功有(あり)しかば、武恩に飽(あき)て、恨(うらみ)を可含事も無(なか)りしに、依何今俄(にはか)に宮方(みやがた)に成(なる)ぞと、事の根元(こんげん)を尋ぬれば、此比(このころ)天下(てんが)に禍(わざはひ)をなす例(れい)の傾城(けいせい)故とぞ申(まうし)ける。其比(そのころ)菊亭(きくてい)殿(どの)に御妻(おさい)とて、見目貌(みめかたち)無類、其品(そのしな)賎(いやし)からで、なまめきたる女房ありけり。しかあれ共(ども)、元来心軽(かろ)く思定(おもひさだ)めたる方もなければ、何(なに)となく引手数(ひくてあま)たのうき綱(あみ)の、目もはづかなる其喩(そのたと)へも猶(なほ)事過(すぎ)て、寄瀬(よるせ)何(いづ)くにかと我(われ)ながら思分(おもひわか)でぞ有(あり)渡りける。さはありながら、をぼろけにては、人の近付(ちかづく)べきにもあらぬ宮中(きゆうちゆう)の深棲(ふかきすまひ)なるに、何(いか)がして心を懸(かけ)し玉垂(たまだれ)の、間(ひま)求(もとめ)得たる便(たより)にか有(あり)けん、今の世に肩を双(ならぶ)る人もなき高(かうの)土佐(とさの)守(かみ)に通馴(かよひなれ)て、人しれず思結(おもひむすぼ)れたる下紐(したひぼ)の、せきとめがたき中なれば、初(はじめ)の程こそ忍(しのび)けれ、後は早山田(やまた)に懸(かか)るひたふるに打(うち)ひたゝけて、あやにくなる里居(さとゐ)にのみまかでければ、宮仕(みやづか)ひも常には疎(おろ)そかなる事のみ有(あり)て、主(あるじ)の左(ひだん)のをほゐまうち公(きみ)も、かく共(とも)しらせ給(たまひ)しかば、むつかしの人目を中の関守(せきもり)や、よひ/\ごとの深過(ふけすぐ)るをまたず共(とも)あれかしと被許、まかで出(いで)ける時もあり。懸(かかり)し程(ほど)に、此(この)土佐(とさの)守(かみ)に元(もと)相馴(あひなれ)て、子共数(あま)た儲(まうけ)たる鎌倉(かまくら)の女房有(あり)ける。是(これ)は元来(もとより)田舎人(ゐなかうど)也(なり)ければ、物妬(ものねたみ)はしたなく心武々敷(たけだけしく)て、彼(かの)源氏の雨夜(あまよ)の物語に、頭(とうの)中将(ちゆうじやう)の指をくひ切(きり)たりし有様共多かりけり。されども子共の親なれば、けしからずの有様哉(や)とは乍思、いなと云(いふ)べき方も無(なく)て、年を送(おくり)ける処に、土佐(とさの)守(かみ)伊勢(いせの)国(くに)の守護(しゆご)に成(なつ)て下向しけるが、二人(ににん)の女房を皆具足(ぐそく)して下らんとて、元(もと)の女房をば先(まづ)くだしぬ。御妻(おさい)を同様(おなじやう)にと待(まち)しか共(ども)、今日よ明日(あす)よとて少しうるさげなる気色(けしき)に見へしかば、土佐(とさの)守(かみ)猶(なほ)も思(おもひ)の色増(まし)て、伴行(ともなひゆ)かでは叶(かなふ)まじきとて、三日まで逗留(とうりう)して、兎角(とかく)云恨(いひうらみ)ける程(ほど)に、さらばとて、夜半許(やはんばかり)に輿指(こしさし)寄せ、几帳(きちやう)指隠(さしかく)して扶乗(たすけのせ)られぬ。土佐(とさの)守(かみ)無限うれしくて、道に少しも不休、軈(やが)て伊勢路(いせぢ)に趣(おもむき)けり。まだ夜を篭(こめ)て、逢坂(あふさか)の関(せき)の岩かど蹈鳴(ふみなら)し、ゆう付鳥(つけどり)に被送て、水の上なる粟津野(あはづの)の、露分行(ゆ)けばにほの海、流(ながれ)の末(すゑ)の河となる、勢多(せた)の橋を打渡れば、衣手(ころもで)の田上河(たながみがは)の朝風に、比良(ひら)の峯わたし吹来(ふききたつ)て、輿(こし)の簾(すだれ)を吹揚(ふきあげ)たり。出絹(だしぎぬ)の中(うち)を見入(みいれ)たれば、年の程八十許(ばかり)なる古尼(ふるあま)の、額(ひたひ)には皺(しわ)のみよりて、口には歯一(ひとつ)もなきが、腰二重(ふたへ)に曲(かがめ)てぞ乗(のつ)たりける。土佐(とさの)守(かみ)驚(おどろい)て、「是(これ)は何様(いかさま)古狸(ふるたぬき)か古狐(ふるきつね)かの化(ばけ)たるにてぞ有(ある)らん。鼻をふすべよ。蟇目(ひきめ)にて射て見よ。」と申(まうし)ければ、尼泣々(なくなく)、「是(これ)は媚者(ばけもの)にても候はず。菊亭殿(きくていどの)へ年来(としごろ)参通(まゐりかよふ)者にて候を、御妻(おさい)の局(つぼね)へ被召(めされ)て、「加様(かやう)にて京に住(すみ)わびんよりは、我が下(くだ)る田舎へ行(ゆき)て、且(しばら)くも慰めかし。」と被仰候(さふらひ)し間、さそふ水もがなと思ふ憂(うき)身にて候へば、うれしき事に思(おもひ)て昨日(きのふ)御局へ参りて候へば、被留進(まゐら)せて、妻戸(つまど)に輿(こし)を寄(よせ)たりしに、それに乗れと仰候(おほせさふらひ)しかば、何(なに)心もなく乗(のり)たる許(ばかり)にて候ぞ。」と申(まうし)ける。土佐(とさの)守(かみ)、「さては此(この)女房に出抜(だしぬか)れたる者也(なり)。彼御所(かのごしよ)に打入(うちいつ)て、奪取(うばひとら)ずば下(くだ)るまじき者を。」とて、尼をば勢多(せた)の橋爪(はしづめ)に打捨(うちすて)て、空輿(あきこし)を舁返(かきかへ)して、又京へぞ上(のぼ)りける。元来(もとより)思慮なき土佐(とさの)守(かみ)、菊亭殿(きくていどの)に推寄(おしよせ)て、四方(しはう)の門を差篭(さしこめ)て、無残所捜(さが)しける。御所中の人々、「こは何(いか)なる事ぞ。」とて、上下周章騒(あわてさわぐ)事無限。何(いか)に求(もとむ)れ共(ども)なければ、此(この)女房の住(すみ)しあたりなる局(つぼね)に有(あり)ける女(め)の童(わらは)を囚(とら)へて、責問(せめとひ)ければ、「其(その)女房は通(かよふ)方(かた)多かりしかば、何(いづ)くとも差(さし)ては知(しり)がたし。近来(このころ)は飽浦(あくら)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)とかや云(いふ)者にこそ、分(わき)て志深く、人目も憚(はばか)らぬ様(やう)に承(うけたまはり)候(さふらひ)しか。」と語りければ、土佐(とさの)守(かみ)弥(いよいよ)腹を居兼(すゑかね)て、軈(やが)て飽浦(あくら)が宿所へ推寄(おしよせ)て討(うた)んと議(たばか)りけるを聞(きき)て、自科(じくわ)依難遁、身を隠(かく)しかね、多年粉骨(ふんこつ)の忠功を棄(すて)て、宮方(みやがた)の旗をば挙(あげ)ける也(なり)。折(をり)得ても心許すな山桜さそふ嵐に散(ちり)もこそすれと歌に読(よみ)たりしは、人(ひとの)心の花なりけりと、今更思知(おもひしつ)ても、浅猿(あさまし)かりし事共(ことども)也(なり)。
○義助予州(よしうへ)下向(げかうの)事(こと) S2204
去(さる)程(ほど)に四国の通路(つうろ)開(ひらき)ぬとて、脇屋(わきや)刑部卿義助は、暦応三年四月一日勅命を蒙(かうむつ)て、四国西国の大将を奉(うけたまはつ)て、下向とぞ聞(きこ)へし。年来(としころ)相順(あひしたが)ふ兵其数(そのかず)多しといへ共、越前美濃の合戦に打負(うちまけ)し時、大将の行末(ゆくへ)を不知して山林に隠忍(かくれしの)び、或(あるひ)は危難を遁(のがれ)て堺(さかひ)を隔(へだ)てしかば、芳野(よしの)へ馳来(はせきた)る兵五百騎(ごひやくき)にも不足けり。され共(ども)四国中国に心を通ずる官軍(くわんぐん)多く有(あり)しかば、今一日も可急とて、未明(びめい)に芳野を打立(うつたつ)て、紀伊(き)の路(ぢ)に懸(かか)り被通けるに、加様(かやう)の次(ついで)ならでは早晩(いつ)か参詣の志をも遂(と)げ、当来値遇(ちぐ)の縁(えん)をも可結と被思ければ、先(まづ)高野山(かうやさん)に詣(まうで)て、三日逗留(とうりう)し、院々(ゐんゐん)谷々(たにだに)拝(をが)み廻(まは)るに、聞(きき)しより尚貴(たつと)くて、八葉(はちえふ)の峯空にそびへ、千仏(せんぶつ)の座雲(くも)に捧(ささ)げたり。無漏(むろ)の扉(とぼそ)苔閉(とぢ)て、三会(さんゑ)の暁(あかつき)に月を期(ご)す。或(あるひ)は説法衆会(しゆゑ)の場(ぢやう)もあり、或(あるひ)は念仏三昧の砌(みぎり)もあり。飛行(ひぎやう)の三鈷(さんこ)地に堕(おち)、験(しるし)に生(おひ)たる一株(ちう)の松、回禄の余烟風(ほのか)に去(さつ)て、軒を焦(こが)せる御影堂(みえいだう)、香烟(かうのけぶり)窓(まど)を出(いで)て心細く、鈴(れい)の声(こゑ)霧に篭(こもつ)て物冷(さび)し。此(ここ)は昔滝口入道が住(すみ)たりし菴室(あんじつ)の迹(あと)とて尋(たづぬ)れば、旧き板間(いたま)に苔むして、荒(あれ)ても漏(もれ)ぬ夜の月、彼(かしこ)は古(いにしへ)西行法師が結置(むすびおき)し、柴の庵(いほり)の名残(なごり)とて立寄(たちよ)れば、払(はら)はぬ庭に花散(ちり)て、蹈(ふむ)に迹(あと)なき朝(あした)の雪、様々の霊場(れいぢやう)所々(ところどころ)の幽閑(いうかん)を見給(たまふ)にぞ、「遁(のがれ)ぬべくは角(かく)てこそあらまほしく。」と宣(のたまひ)し、維盛(これもり)卿(きやう)の心(こころの)中、誠(げにも)と被思知たる。且(しばら)くも懸(かか)る霊地に逗留(とうりう)して、猶も憂(うき)身の汚れを濯度(すすぎたく)思はれけれ共(ども)、軍旅(ぐんりよ)に趣(おもむき)給ふ事なれば不協して、高野(かうや)より紀伊(き)の路(ぢ)に懸(かか)り、千里(せんり)の浜を打過(うちすぎ)て、田辺(たなべ)の宿(しゆく)に逗留(とうりう)し、渡海の舟を汰(そろ)へ給(たまふ)に、熊野の新宮別当(じんぐうのべつたう)湛誉(たんよ)・湯浅入道定仏(ぢやうぶつ)・山本(やまもとの)判官(はうぐわん)・東四郎(とうしらう)・西四郎(さいしらう)以下(いげ)の熊野人共(くまのとども)、馬・物具(もののぐ)・弓矢・太刀・長刀・兵粮等に至るまで、我(われ)不劣と奉りける間、行路(かうろ)の資(たす)け卓散(たくさん)也(なり)。角(かく)て順風に成(なり)にければ、熊野人(くまのと)共(ども)兵船(ひやうせん)三百(さんびやく)余艘(よさう)調(そろ)へ立(たて)、淡路の武島(むしま)へ送(おくり)奉る。此(ここ)には安間(あま)・志知(しうち)・小笠原の一族共(いちぞくども)、元来(ぐわんらい)宮方(みやがた)にて城を構(かまへ)て居たりしかば、様々の酒肴(さかな)・引出物(ひきでもの)を尽(つく)して、三百(さんびやく)余艘(よさう)の舟を汰(そろ)へ、備前の小島(こじま)へ送(おくり)奉る。此(ここ)には佐々木(ささきの)薩摩(さつまの)守(かみ)信胤(のぶたね)・梶原三郎自去年宮(みや)方(がた)に成(なつ)て、島の内には又交(まじは)る人もなし。されば大船(だいせん)数(あま)た汰(そろ)へて、四月二十三日(にじふさんにち)伊予(いよの)国(くに)今張(いまばりの)浦(うら)に送著(おくりつけ)奉る。大館(おほたて)左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)は、先帝(せんてい)自山門京へ御出(おんいで)有(あり)し時、供奉(ぐぶ)仕(つかまつつ)て有(あり)しが、如何(いかが)思(おもひ)けん降人(かうにん)になり、且(しばら)くは将軍に属(しよく)して居たりけるが、先帝偸(ひそか)に楼(ろう)の御所(ごしよ)を御出(おんいで)有(あつ)て、吉野に御座(ござ)有(あり)と聞(きき)て、軈(やが)て馳参(はせまゐり)たりしかば、君御感(ぎよかん)有(あつ)て伊予(いよの)国(くに)の守護(しゆご)に被補しかば、自去年春当国に居住してあり。又四条(しでうの)大納言(だいなごん)隆資(たかすけ)子息少将有資(ありすけ)は此(この)国(くに)の国司(こくし)にて自去々年在国せらる。土居(どゐ)・得能(とくのう)・土肥(とひ)・河田・武市(たけいち)・日吉(ひよし)の者共(ものども)、多年の宮方(みやがた)にして、讃岐の敵を支(ささ)へ、西は土佐(とさ)の畑(はた)を堺(さか)ふて居たりければ、大将下向に弥(いよいよ)勢(いきほ)ひを得て、竜(りよう)の水を得、虎の山に靠(よりかかる)が如し。其(その)威漸(やうやく)近国に振ひしかば、四国は不及申、備前・備後・安芸・周防・乃至(ないし)九国の方までも、又大事(だいじ)出来(いでき)ぬと云はぬ者こそ無(なか)りけれ。されば当国の内にも、将軍方(しやうぐんがた)の城僅(わづか)に十(じふ)余箇所(よかしよ)有(あり)けるも、未(いまだ)敵も向はぬ先に皆聞落(ききおち)してんげれば、今は四国悉(ことごとく)一統(いつとう)して、何事か可有と憑敷(たのもしく)思(おもひ)あへり。
○義助朝臣(あそん)病死(びやうしの)事(こと)付(つけたり)鞆(とも)軍(いくさの)事(こと) S2205
斯(かか)る処に、同(おなじき)五月四日、国府(こふ)に被坐たる脇屋(わきや)刑部卿義助、俄(にはか)に病(やまひ)を受(うけ)て、身心悩乱(なうらん)し給ひけるが、僅(わづか)に七日過(すぎ)て、終(つひ)に無墓成給(なりたまひ)にけり。相順(あひしたが)ふ官軍共(くわんぐんども)、始皇(しくわう)沙丘(さきう)に崩じて、漢(かん)・楚(そ)機に乗(のる)事を悲(かなし)み、孔明(こうめい)籌筆駅(ちうひつえき)に死して、呉(ご)・魏(ぎ)便(たよ)りを得し事を愁(うれへ)しが如く、五更(ごかう)に灯(ともしび)消(きえ)て、破窓(はさう)の雨に向ひ、中流(ちゆうる)に舟を失(うしなひ)て、一瓢(いつぺう)の浪に漂ふらんも、角(かく)やと覚(おぼ)へて、此(この)事外(よそ)に聞(きこ)へなば、敵に気を得られつべしとて、偸(ひそか)に葬礼(さうれい)を致(いたし)て、隠悲呑声いへ共(ども)、さすが隠無(かくれなか)りしかば、四国の大将軍にて、尊氏の被置たる、細河(ほそかは)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春、此(この)事を聞(きき)て、「時をば且(しばら)くも不可失。是(これ)司馬仲達が弊(つひえ)に乗(のつ)て蜀(しよく)を亡(ほろぼ)せし謀なり。」とて、伊予・讃岐・阿波・淡路の勢七千(しちせん)余騎(よき)を率(そつ)して、先(まづ)伊予の堺(さかひ)なる河江城(かはえのじやう)へ押寄(おしよせ)て、土肥(とひの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)を責(せめ)らる。義助に順付(したがひつき)たりし多年恩顧の兵共(つはものども)、土居・得能・合田(あひだ)・二(にの)宮(みや)・日吉・多田・三木・羽床(はゆか)・三宅(みやけ)・高市(たけいち)の者共(ものども)、金谷(かなや)修理(しゆりの)大夫(たいふ)経氏(つねうぢ)を大将にて、兵船(ひやうせん)五百(ごひやく)余艘(よさう)にて、土肥(とひ)が後攻(ごづめ)の為に海上に推浮(おしうか)ぶ。是(これ)を聞(きき)て、備後の鞆(とも)・尾(を)の道(みち)に舟汰(ふなぞろへ)して、土肥が城へ寄(よ)せんとしける備後・安芸・周防・長門の大船千(せん)余艘(よさう)にて推出(おしいだ)す。両陣の兵船(ひやうせん)共(ども)、渡中(となか)に帆を突(つい)て、扣舷時を作る。塩(しほ)に追ひ風に随(したがつ)て推合(おしあひ)々々(おしあひ)相戦ひける。其(その)中に大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)氏明(うぢあきら)が執事(しつじ)、岡部出羽(ではの)守(かみ)が乗(のり)たる舟十七艘、備後の宮(みや)下野(しもつけの)守(かみ)兼信(かねのぶ)、左右に別(わかれ)て漕双(こぎなら)べたる舟四十(しじふ)余艘(よさう)が中へ分入(わけいり)て、敵の船に乗遷(のりうつり)々々(のりうつり)、皆引組(ひつくん)で海中へ飛入(とびいり)けるこそ、いかめしかりし行迹(ふるまひ)なれ。備後・安芸・周防の舟は皆大船なれば、艫(とも)・舳(へ)に櫓(ろ)を高く掻(かい)て、指下(さしおろ)して散々(さんざん)に射る。伊予・土佐(とさ)の舟は皆小舟なれば、逆櫓(さかろ)を立(たて)て縦横に相当(あひあた)る。両方の兵(つはもの)、よしや死して海底の魚腹に葬(さう)せらるゝ共、逃(にげ)て天下(てんが)の人口(じんこう)には落(おち)じ者をと、互に機を進め、一引(ひとひき)も不引終日(ひねもす)戦ひ暮(くら)しける処に、海上俄(にはか)に風来(きたつ)て、宮方(みやがた)の舟をば悉(ことごと)く西を差(さし)て吹(ふき)もどす。寄手(よせて)の舟をば悉(ことごと)く伊予の地へ吹(ふき)送る。夜に入(いり)て風少(すこし)静まりければ、宮方(みやがた)の兵共(つはものども)、「是(これ)程(ほど)に運のきかぬ時なれば、如何に思ふ共不可叶。只元(もと)の方へ漕返(こぎかへす)べき歟(か)。」と申(まうし)けるを、大将金谷(かなや)修理(しゆりの)大夫(たいふ)、「運(うん)を計(はか)り勝つ事を求(もとむ)る時こそ、身を全(まつたう)して功をなさんとは思へ。只一人憑(たのみ)たる大将軍脇屋(わきや)義助は病(やまひ)に被侵失給(うせたまひ)ぬる上は、今は可為方なき微運(びうん)の我等(われら)が、生(いき)てあらば何許(いかばかり)の事か可有。命(いのち)を限(かぎり)の戦(たたかひ)して、弓矢の義を専にする許(ばかり)なるべし。されば運の通塞(つうそく)も軍(いくさ)の吉凶も非可謂処。いざや今夜備後の鞆(とも)へ推寄(おしよせ)て、其(その)城(じやう)を追落(おひおと)して、中国の勢著(つ)かば西国を責随(せめしたが)へん。」とて、其(その)夜の夜半許(やはんばかり)に、備後の鞆へ押寄する。城中(じやうちゆう)時節(をりふし)無勢(ぶせい)也(なり)ければ、三十(さんじふ)余人(よにん)有(あり)ける者共(ものども)、且(しばら)く戦(たたかひ)て皆討死しければ、宮方(みやがた)の士卒(じそつ)是(これ)に機(き)を挙(あげ)て、大可島(おほかしま)を攻城(つめのじやう)に拵(こしら)へ、鞆の浦に充満して、武島(むしま)や小豆島(せうどしま)の御方(みかた)を待(まつ)処に、備後・備中・安芸・周防四箇国(しかこく)の将軍の勢、三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄(おしよせ)たり。宮方(みやがた)は大可島(おほかしま)を後(うし)ろに当(あて)て、東西の宿(しゆく)へ舟を漕寄(こぎよせ)て、打(うつ)てはあがり/\、荒手(あらて)を入替(いれかへ)て戦(たたかひ)たり。将軍方(しやうぐんがた)は小松寺(こまつでら)を陣に取(とり)て、浜面(はまおもて)へ騎馬の兵(つはもの)を出し、懸合合(かけあひあひ)揉合(もみあはせ)たり。互に戦屈(たたかひくつ)して、十(じふ)余日(よにち)を経ける処に、伊予の土肥(とひ)が城被責落。細河(ほそかは)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春は、大館左馬(さまの)助(すけ)氏明の被篭たる世田(せた)の城へ懸(かか)ると聞(きこ)へければ、土居・得能以下(いげ)の者共(ものども)、同(おなじ)く死なば、我(わが)国(くに)にてこそ尸(かばね)を曝(さら)さめとて、大可島(おほかしま)を打棄(うちすて)て、伊予(いよの)国(くに)に引返(ひつかへ)す。敗軍の士卒(じそつ)相集(あひあつまつ)て、二千(にせん)余騎(よき)有(あり)ける其(その)中より、日来(ひごろ)手柄(てがら)露(あら)はし名を被知たる兵を、三百(さんびやく)余騎(よき)勝(すぐ)り出(いだ)して、懸合(かけあひ)の合戦に勝負を決せんと云(いふ)。是(これ)は細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)目に余る程の大勢也(なり)と聞(きき)、「中々何ともなき取集勢(とりあつめぜい)を対揚(たいやう)して合戦をせば、臆病武者(むしや)に引立(ひきたて)られて、御方(みかた)の負(まけ)をする事有(ある)べし。只一騎当千の兵を勝(すぐつ)て敵の大勢を懸破(かけやぶ)り、大将細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)と引組(ひつくん)で差違(さしちが)へんとの謀也(なり)。さらば敵の国中(こくぢゆう)へ入(いら)ぬ先(さき)に打立(うつたて)。」とて、金谷(かなや)修理(しゆりの)大夫(たいふ)経氏を大将として、勝(すぐつ)たる兵三百騎(さんびやくき)、皆一様(いちやう)に曼荼羅(まんだら)を書(かき)て母衣(ほろ)に懸(かけ)て、兎(と)ても生(いき)ては帰(かへる)まじき軍(いくさ)なればとて、十死一生(じつしいつしやう)の日を吉日(きちにち)に取(とつ)て、大勢の敵に向ひける心の中(うち)、樊■(はんくわい)も周勃(しうぼつ)も未得(いまだえざる)振舞(ふるまひ)也(なり)。あはれ只勇士(ゆうし)の義を存する志程、やさしくも哀(あはれ)なる事はあらじとて、是(これ)を聞(きき)ける者は、皆胄(よろひ)の袖をぞぬらしける。去(さる)程(ほど)に細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)七千(しちせん)余騎(よき)を率(そつ)して、敵已(すで)に打出(うちいづ)るなれば、心よく懸合(かけあひ)の合戦を可致とて、千町(せんちやう)が原へ打出(うちいで)て、敵の陣を見渡せば、渺々(べうべう)たる野原に、中黒の旗一流(ひとながれ)幽(かすか)に風に飛揚して、僅(わづか)に勢の程三百騎(さんびやくき)許(ばかり)ぞ磬(ひか)へたる。細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)是(これ)を見給(たまひ)て、「当国の敵是(これ)程の小勢なるべしとは思はぬに、余(あまり)に無(ぶ)勢に見(みえ)ければ、一定(いちぢやう)究竟(くつきやう)の者共(ものども)を勝(すぐつ)て、大勢の中を懸破(かけやぶり)、頼春に近づかば、組(くん)で勝負を決せん為にてぞあるらん。然者(しからば)思切(おもひきつ)たる小勢を一息(ひといき)に討(うた)んとせば、手に余(あまつ)て討(うた)れぬ事有(ある)べし。只敵破(やぶ)らんとせば被破(やぶられ)て然(しか)も迹(あと)を塞(ふさ)げ、轡(くつばみ)を双(ならべ)て懸(かか)らば、偽(いつはつ)て引退(ひきしりぞい)て敵の馬の足を疲(つか)らかせ、打物(うちもの)に成(なつ)て一騎合(あひ)に懸(かか)らば、あひの鞭(むち)を打(うつ)て推(おし)もぢりに射て落せ。敵疲(つかれ)ぬと見ば、荒手(あらて)を替(かへ)て取篭(とりこめ)よ。余(あまり)に近付(ちかづい)て敵に組(くま)るな。引(ひく)とも御方(みかた)を見放(みはなす)な。敵の小勢に御方(みかた)を合(あは)すれば、一騎に十騎を対(たい)しつべし。飽(あく)まで敵を悩(なや)まして、弊(つひえ)に乗(のつ)て一揉(ひともみ)々(もみ)たらんに、などか是等(これら)を可不討。」と、委細に手段(てだて)を成敗(せいはい)して、旗の真前(まつさき)に露(あらは)れて、閑々(しづしづ)とぞ進まれたる。金谷(かなや)修理(しゆりの)大夫(たいふ)是(これ)を見て、「すはや敵は懸(かか)ると見へたるは。」とて、些(ちつと)も見繕(みつくろ)ふ処もなく、相懸(あひかか)りにむずと攻(せめ)て、矢一(ひとつ)射違(いちがふ)る程こそ有(あり)けれ、皆弓矢をば■(はづ)し棄(すて)、打物(うちもの)に成(なつ)て、喚叫(をめきさけん)で真闇(まつくろ)にぞ懸(かけ)たりける。細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)馬廻(むままはり)に、藤(とう)の一族(いちぞく)五百(ごひやく)余騎(よき)にて磬(ひか)へたるが、兼(かね)ての謀(はかりこと)也(なり)ければ、左右へ颯(さつ)と分れて引(ひか)へたり。此(この)中に大将有(あり)と思(おもひ)も不寄、三百騎(さんびやくき)の者共(ものども)是(これ)をば目にも懸(かけ)ず、裏へつと懸抜(かけぬけ)、二陣の敵に打(うつ)て懸る。此(この)陣には三木(みき)・坂西(ばんせい)・坂東(ばんとう)の兵共(つはものども)相集(あひあつまつ)て、七百(しちひやく)余騎(よき)甲(かぶと)の錣(しころ)を傾(かたぶけ)て、馬を立納(たてをさ)め、閑(しづ)まり却(かへつ)て磬(ひか)へたりけるが、勇猛強力(かうりき)の兵共(つはものども)に懸散(かけちら)されて、南なる山の峯へ颯(さつ)と引(ひい)て上(あが)りけるが、是(これ)もはか/゛\しき敵は無(なか)りけりとて、三陣の敵に打(うつ)て懸る。是(これ)には詫間(たくま)・香西(かうさい)・橘家(きつけ)・小笠原の一族共(いちぞくども)、二千(にせん)余騎(よき)にて引(ひか)へたり。是(これ)にぞ大将は御座(おはす)らんと見澄(みすま)して、中を颯(さつ)と懸破(かけやぶつ)て、取(とつ)て返(かへ)し、引組(ひつくん)では差違(さしちがへ)、落重(おちかさなつ)ては頚を取らる。一足(ひとあし)も不引戦(たたかひ)けるに、宮方(みやがた)の兵三百(さんびやく)余騎(よき)忽(たちまち)に蹄(ひづめ)の下に討死して、僅(わづか)十七騎にぞ成(なり)たりける。其(その)十七騎と申(まうす)は、先(まづ)大将金谷経氏(かなやつねうぢ)・河野(かうの)備前(びぜんの)守(かみ)通郷(みちさと)・得能弾正(とくのうだんじやう)・日吉大蔵(ひよしおほくら)左衛門・杉原与一・富田(とんだ)六郎(ろくらう)・高市(たかいち)与三左衛門・土居備中(びつちゆうの)守(かみ)・浅海(あさみ)六郎(ろくらう)等(ら)也(なり)。彼等は一騎当千の兵(つはもの)なれば、自(みづから)敵に当(あた)る事十(じふ)余箇度(よかど)、陣を破る事六箇度(ろくかど)也(なり)といへ共(ども)、未(いまだ)痛手をも負(おは)ず又疲れける体(てい)も無(なか)りけり。一所に馬を打寄(うちよせ)て、馬も物具(もののぐ)も見知(しら)ねば、大将何共(いづれとも)知(しり)がたし。差(さ)せる事もなき国勢共(こくぜいども)に逢(あう)て、討死せんよりは、いざや打破(やぶつ)て落(おち)んとて、十七騎の人々は、又馬の鼻を引返(ひつかへ)し、七千(しちせん)余騎(よき)が真中(まんなか)を懸破(かけやぶつ)て、備後を差(さし)て引(ひい)て行(ゆく)。いかめしかりし振舞(ふるまひ)也(なり)。
○大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)討死(うちじにの)事(こと)付(つけたり)篠塚(しのづか)勇力(ゆうりよくの)事(こと) S2206
斯(かか)りしかば、大将細川頼春は、今戦ひ事散(さん)じて、御方(みかた)の手負(ておひ)死人を注(しる)さるゝに、七百人(しちひやくにん)に余(あま)れりといへ共(ども)、宗徒(むねと)の敵二百(にひやく)余人(よにん)討(うた)れにければ、人皆気を挙(あ)げ勇(いさみ)をなせり。「さらば軈(やが)て大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)が篭(こもつ)たる世田(せた)の城へ寄(よせ)よ。」とて、八月二十四日早旦(さうたん)に、世田(せた)の後(うし)ろなる山へ打上(うちあがり)て、城を遥(はるか)に直下(みおろし)、一万(いちまん)余騎(よき)を七手に分(わけ)て、城の四辺(しへん)に打寄(うちよ)り、先(まづ)己(おのれ)が陣々をぞ構へたる。対陣(むかひぢん)已(すで)に取巻(とりまか)せければ、四方(しはう)より攻寄(せめよ)せて、持楯(もつだて)をかづき寄(よ)せ、乱杭(らんぐひ)・逆木(さかもぎ)を引(ひき)のけて、夜昼(よるひる)三十日迄ぞ責(せめ)たりける。城の内には宗徒(むねと)の軍(いくさ)をもしつべき兵(つはもの)と憑(たのま)れし岡部(をかべ)出羽(ではの)守(かみ)が一族(いちぞく)四十(しじふ)余人(よにん)、皆日比の与(くみ)にて自害しぬ。其外(そのほか)の勇士共(ゆうしども)は、千町が原の戦(たたかひ)に討死しぬ。力尽(つき)食(じき)乏(とぼしう)して可防様(やう)も無(なか)りければ、九月三日の暁、大館左馬(さまの)助(すけ)主従十七騎、一の木戸口(きどぐち)へ打出(うちいで)て、屏(へい)に著(つき)たる敵五百(ごひやく)余人(よにん)を、遥(はるか)なる麓へ追下(おひおろ)し、一度(いちど)に腹を切(きつ)て、枕を双(ならべ)てぞ臥(ふし)たりける。防矢(ふせぎや)射ける兵共(つはものども)是(これ)を見て、今は何をか可期とて、或(あるひ)は敵に引組(ひつくん)で差違(さしちがふ)るもあり、或(あるひ)は己(おのれ)が役所に火を懸(かけ)て、猛火(みやうくわ)の底に死するもあり。目も当(あて)られぬ有様也(なり)。加様(かやう)に人々自害しける其(その)中に、篠塚伊賀(いがの)守(かみ)一人は、大手の一二の木戸(きど)無残押開(おしひらき)て、只一人ぞ立(たち)たりける。降人(かうにん)に出(いづ)る歟(か)と見ればさは無(なく)て、紺糸(こんいと)の胄(よろひ)に、鍬形(くはがた)打(うつ)たる甲(かぶと)の緒(を)を縮(し)め、四尺(ししやく)三寸(さんずん)有(あり)ける太刀に、八尺(はつしやく)余(あま)りの金撮棒(かなさいぼう)脇に挿(さしはさみ)て、大音(だいおん)揚(あげ)て申(まうし)けるは、「外(よそ)にては定(さだめ)て名をも聞(きき)つらん。今近付(ちかづい)て我をしれ。畠山庄司(しやうじ)次郎重忠(しげただ)に六代の孫(そん)、武蔵(むさしの)国(くに)に生長(そだつ)て、新田殿(につたどの)に一人当千と憑(たのま)れたりし篠塚伊賀(いがの)守(かみ)爰(ここ)にあり。討(うつ)て勲功に預(あづか)れ。」と呼(よばはり)て、百騎(ひやくき)許(ばかり)磬(ひか)へたる敵の中へ、些(ちつと)も擬議(ぎぎ)せず走(わし)り懸る。其(その)勢(いきほひ)事柄(ことがら)勇鋭たるのみならず、兼(かね)て聞(きこえ)し大力(だいりき)なれば、誰かは是(これ)を可遮止。百(ひやく)余騎(よき)の勢東西へ颯(さつ)と引退(ひきしりぞい)て、中を開(ひらい)てぞ通しける。篠塚馬にも不乗弓矢を持(もた)ず、而(しか)も只一人なれば、「何程の事か可有。只近付(ちかづく)事無(なく)て遠矢に射殺せ。返合(かへしあは)せば懸悩(かけなやま)して討(うて)。」とて、藤(とう)・橘(きつ)・伴(ばん)の者ども、二百(にひやく)余騎(よき)迹(あと)に付(つい)て追懸(おつかく)る。篠塚些(ちつと)も不騒、小歌(こうた)にて閑々(しづしづ)と落行(おちゆき)けるを、敵、「あますな。」とて追懸(おつかく)れば立止(たちどまつ)て、「嗚呼(ああ)御辺達(ごへんたち)、痛く近付(ちかづい)て頚に中違(なかちがひ)すな。」とあざ笑(わらう)て、件(くだん)の金棒(かなぼう)を打(うち)振れば、蜘(くも)の子を散(ちら)すが如く颯(さつ)とは逃げ、又村立(むらだつ)て迹(あと)に集(あつま)り、鏃(やじり)を汰(そろ)へて射れば、「某が胄(よろひ)には旁(かたがた)のへろ/\矢はよも立(たち)候はじ。すは此(ここ)を射よ。」とて、後(うし)ろを差向(さしむけ)てぞ休みける。されども名誉の者なれば、一人なり共(とも)若(もし)や打止(うちとむ)ると、追懸(おつかけ)たる敵二百(にひやく)余騎(よき)に、六里の道を被送て、其(その)夜の夜半許(やはんばかり)に、今張(いまばりの)浦(うら)にぞ著(つき)たりける。自此舟に乗(のり)て、陰の島へ落(おち)ばやと志し、「舟やある。」と見るに、敵の乗棄(のりすて)て水主許(かこばかり)残れる舟数多(あまた)あり。是(これ)こそ我(わが)物よと悦(よろこん)で、胄(よろひ)著(き)ながら浪の上五町(ごちやう)許(ばかり)を游(およ)ぎて、ある舟に岸破(がは)と飛乗(とびの)る。水主(かこ)・梶取(かんどり)驚(おどろい)て、「是(これ)は抑(そもそも)何者ぞ。」と咎めければ、「さな云ひそ。是(これ)は宮方(みやがた)の落人(おちうと)篠塚と云(いふ)者ぞ。急(いそぎ)此(この)舟を出(いだ)して、我(われ)を陰の島へ送(おくれ)。」と云(いひ)て、二十(にじふ)余人(よにん)してくり立(たて)ける碇(いかり)を安々(やすやす)と引挙(ひきあ)げ、四十五尋(しじふごひろ)ありける檣(ほばしら)を軽々(かるがる)と推立(おしたて)て、屋形の内に高枕して、鼾(いびき)かきてぞ臥(ふし)たりける。水主(かこ)・梶取(かんどり)共(ども)是(これ)を見て、「穴(あな)夥(おびたたし)、凡夫(ぼんぶ)の態(わざ)にはあらじ。」と恐怖して、則(すなはち)順風に帆を懸(かけ)て、陰の島へ送(おくり)て後、暇(いとま)を請(こう)てぞ帰(かへり)にける。昔も今も勇士(ゆうし)多しといへ共(ども)、懸(かか)る事をば不聞とて、篠塚を誉(ほめ)ぬ者こそ無(なか)りけれ。


太平記(国民文庫)
太平記巻第二十三

○大森彦七(おほもりひこしちが)事(こと) S2301
暦応(りやくおう)五年の春(はる)の比、自伊予国飛脚(ひきやく)到来して、不思議(ふしぎ)の註進(ちゆうしん)あり。其(その)故を委(くはし)く尋(たづぬ)れば、当国の住人(ぢゆうにん)大森彦七盛長と云(いふ)者あり。其(その)心飽(あく)まで不敵にして、力尋常(よのつね)の人に勝(すぐれ)たり。誠(まこと)に血気(けつき)の勇者(ようしや)と謂(いひ)つべし。去(さん)ぬる建武三年五月に、将軍自九州攻上(せめのぼ)り給(たまひ)し時、新田(につた)義貞(よしさだ)兵庫(ひやうごの)湊河にて支(ささ)へ合戦の有(あり)し時、此(この)大森の一族共(いちぞくども)、細川(ほそかは)卿(きやうの)律師(りつし)定禅(ぢやうぜん)に随(したがつ)て手痛(ていた)く軍(いくさ)をし、楠正成に腹を切(きら)せし者也(なり)。されば其(その)勲功異他とて、数箇所(すかしよ)の恩賞(おんしやう)を給(たまは)りてんげり。此悦(このよろこび)に誇(ほこつ)て、一族共(いちぞくども)、様々の遊宴(いうえん)を尽(つく)し活計(くわつけい)しけるが、猿楽(さるがく)は是(これ)遐齢延年(かれいえんねん)の方なればとて、御堂(みだう)の庭に桟敷(さじき)を打(うつ)て舞台を布(しき)、種々の風流を尽(つく)さんとす。近隣の貴賎是(これ)を聞(きき)て、群集(くんじゆ)する事夥(おびたた)し。彦七も其(その)猿楽の衆(しゆ)也(なり)ければ、様々の装束(しやうぞく)共(ども)下人(げにん)に持せて楽屋(がくや)へ行(ゆき)けるが、山頬(やまぎは)の細道を直様(すぐさま)に通るに、年の程十七八許(ばかり)なる女房の、赤き袴に柳裏(やなぎうら)の五衣(いつつぎぬ)著て、鬢(びん)深く削(そぎ)たるが、指出(さしいで)たる山端(やまのは)の月に映じて、只独(ひとり)たゝずみたり。彦七是(これ)を見て、不覚(おぼえず)、斯(かか)る田舎(ゐなか)などに加様(かやう)の女房の有(ある)べしとは。何(いづ)くよりか来(きた)るらん、又何(いか)なる桟敷へか行(ゆく)らんと見居たれば、此(この)女房彦七に立(たち)向ひて、「路芝(みちしば)の露払(はらふ)べき人もなし。可行方をも誰に問はまし。」とて打(うち)しほれたる有様、何(いか)なる荒夷(あらえびす)なりとも、心を不懸云(いふ)事非(あら)じと覚(おぼえ)ければ、彦七あやしんで、何(いか)なる宿(やど)の妻(つま)にてか有(ある)らんに、善悪(あやめ)も不知わざは如何(いか)がと乍思、無云量わりなき姿に引(ひか)れて心ならず、「此方(こなた)こそ道にて候へ。御桟敷など候はずば、適(たまたま)用意(ようい)の桟敷候。御入(おんいり)候へかし。」と云(いひ)ければ、女些(ちと)打笑(うちわらう)て、「うれしや候。さらば御桟敷へ参り候はん。」と云(いひ)て、跡に付(つき)てぞ歩(あゆみ)ける。羅綺(らき)にだも不勝姿、誠(まこと)に物痛(いたは)しく、未(いまだ)一足(ひとあし)も土(つち)をば不蹈人よと覚(おぼ)へて、行難(ゆきなやみ)たる有様を見て、彦七不怺、「余(あまり)に露も深く候へば、あれまで負進(おひまゐら)せ候はん。」とて、前(まへ)に跪(ひざまつき)たれば、女房些(すこし)も不辞、「便(びん)なう如何(いか)が。」と云(いひ)ながら、軈(やが)て後(うし)ろにぞ靠(よりかかり)ける。白玉か何ぞと問(とひ)し古(いにし)へも、角(かく)やと思知(おもひしら)れつゝ、嵐のつてに散(ちる)花の、袖に懸(かか)るよりも軽(かろ)やかに、梅花の匂(にほひ)なつかしく、蹈(ふむ)足もたど/\しく心も空(そら)にうかれつゝ、半町許(ばかり)歩(あゆみ)けるが、山陰(やまかげ)の月些(すこし)暗(くら)かりける処にて、さしも厳(いつく)しかりつる此(この)女房、俄(にはか)に長(たけ)八尺(はつしやく)許(ばかり)なる鬼と成(なつ)て、二(ふたつ)の眼(まなこ)は朱(しゆ)を解(とい)て、鏡の面(おもて)に洒(そそき)けるが如く、上下の歯くひ違(ちがう)て、口脇耳の根まで広く割(さけ)、眉は漆(うるし)にて百入(ももしほ)塗(ぬつ)たる如(ごとく)にして額(ひたひ)を隠(かく)し、振分髪(ふりわけがみ)の中より五寸(ごすん)許(ばかり)なる犢(こうし)の角(つの)、鱗(いろこ)をかづひて生出(おひいで)たり。其重(そのおもき)事大磐石(だいばんじやく)にて推(おす)が如し。彦七屹(きつ)と驚(おどろい)て、打棄(うちすて)んとする処に、此化物(このばけもの)熊の如くなる手にて、彦七が髪を掴(つかん)で虚空(こくう)に挙(あが)らんとす。彦七元来したゝかなる者なれば、むずと引組(ひつくん)で深田(ふかた)の中へ転落(ころびおち)て、「盛長化物(ばけもの)組留(くみと)めたり。よれや者共(ものども)。」と呼(よばは)りける声に付(つい)て、跡(あと)にさがりたる者共(ものども)、太刀・長刀の鞘(さや)を放(はづ)し、走寄(はしりよつ)て是(これ)を見れば、化物(ばけもの)は書(かき)消す様(やう)に失(うせ)にけり。彦七は若党(わかたう)・中間共に引(ひき)起されたれ共(ども)、忙然(ばうぜん)として人心地もなければ、是(これ)直事(ただこと)に非(あら)ずとて、其(その)夜の猿楽は止(やめ)にけり。さればとて、是(これ)程まで習(なら)したる猿楽を、さて可有に非(あら)ずとて、又吉日(きちにち)を定(さだ)め、堂の前に舞台をしき、桟敷を打双(うちなら)べたれば、見物の輩(ともがら)群(ぐん)をなせり。猿楽已(すで)に半(なか)ば也(なり)ける時、遥(はるか)なる海上に、装束の唐笠(からかさ)程なる光物(ひかりもの)、二三百出来(いでき)たり。海人(あま)の縄(なは)焼(たく)居去火(いさりび)か、鵜舟(うぶね)に燃(とぼ)す篝火(かがりび)歟(か)と見れば、其(それ)にはあらで、一村(ひとむら)立(たつ)たる黒雲の中に、玉の輿(こし)を舁連(かきつら)ね、懼(おそろ)し気(げ)なる鬼形(きぎやう)の者共(ものども)前後左右に連(つら)なりたり。其迹(そのあと)に色々に胄(よろう)たる兵(つはもの)百騎(ひやくき)許(ばかり)、細馬(さいば)に轡(くつわ)を噛(かま)せて供奉(ぐぶ)したり。近く成(なり)しより其貌(そのかたち)は不見。黒雲の中に電光(いなびかり)時々して、只今猿楽(さるがく)する舞台(ぶたい)の上に差覆(さしおほ)ひたる森の梢にぞ止(とどま)りける。見物衆みな肝を冷(ひや)す処に、雲の中より高声(かうじやう)に、「大森彦七殿(おほもりひこしちどの)に可申事有(あつ)て、楠正成参(さん)じて候也(なり)。」とぞ呼(よばは)りける。彦七、加様(かやう)の事に曾(かつて)恐れぬ者也(なり)ければ、些(すこし)も不臆、「人死して再び帰る事なし。定(さだめ)て其魂魄(そのこんばく)の霊鬼と成(なり)たるにてぞ有(ある)らん。其(それ)はよし何にてもあれ、楠殿(くすのきどの)は何事の用有(あつ)て、今此(ここ)に現(げん)じて盛長をば呼給(よびたまふ)ぞ。」と問へば、楠申(まうし)けるは、「正成(まさしげ)存命(ぞんめい)の間、様々の謀(はかりこと)を廻(めぐら)して、相摸(さがみ)入道(にふだう)の一家(いつけ)を傾(かたぶけ)て、先帝の宸襟を休(やす)め進(まゐら)せ、天下(てんが)一統(いつとう)に帰(き)して、聖主の万歳(ばんぜい)を仰(あふぐ)処に、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)・直義(ただよし)朝臣(あそん)、忽(たちまち)に虎狼(こらう)の心を挿(さしはさ)み、遂に君を傾(かたぶけ)奉る。依之(これによつて)忠臣義士尸(かばね)を戦場に曝(さら)す輩(ともがら)、悉(ことごと)く脩羅(しゆら)の眷属(けんぞく)に成(なつ)て瞋恚(しんい)を含む心無止時。正成彼と共に天下(てんが)を覆(くつかへ)さんと謀(はかる)に、貪瞋痴(とんじんち)の三毒を表(へう)して必(かならず)三剣(みつつのつるぎ)を可用。我等(われら)大勢(おほぜい)忿怒(ふんぬ)の悪眼(あくがん)を開(ひらい)て、刹那(せつな)に大千界を見るに、願ふ処の剣(つるぎ)適(たまたま)我朝(わがてう)の内に三(みつつ)あり。其一(そのひとつ)は日吉大宮(ひよしのおほみや)に有(あり)しを法味(ほふみ)に替(かへ)て申給(まうしたまは)りぬ。今一(ひとつ)は尊氏の許(もと)に有(あり)しを、寵愛(ちようあい)の童(わらは)に入り代(かはつ)て乞取(こひとり)ぬ。今一つは御辺(ごへん)の只今腰に指(さし)たる刀也(なり)。不知哉(や)、此(この)刀は元暦(げんりやく)の古(いにし)へ、平家壇(だん)の浦にて亡(ほろび)し時、悪(あく)七兵衛(しちひやうゑ)景清(かげきよ)が海へ落(おと)したりしを江豚(いるか)と云(いふ)魚(うを)が呑(のみ)て、讃岐の宇多津(うたつ)の澳(おき)にて死(しし)ぬ。海底に沈(しづん)で已(すで)に百(ひやく)余年(よねん)を経て後、漁父(ぎよふ)の綱(あみ)に被引て、御辺(ごへん)の許(もと)へ伝へたる刀也(なり)。所詮(しよせん)此(この)刀をだに、我等(われら)が物と持(もつ)ならば、尊氏の代(よ)を奪はん事掌(たなごころ)の内なるべし。急ぎ進(まゐら)せよと、先帝の勅定(ちよくぢやう)にて、正成罷向(まかりむかつ)て候也(なり)。早く給(たまは)らん。」と云(いひ)もはてぬに、雷(いかづち)東西に鳴度(なりわたつ)て、只今落懸(おちかか)るかとぞ聞(きこ)へける。盛長是(これ)にも曾(かつ)て不臆、刀の柄(つか)を砕(くだけ)よと拳(にぎつ)て申(まうし)けるは、「さては先度(せんど)美女に化(ばけ)て、我を誑(たぶらか)さんとせしも、御辺達(ごへんたち)の所行(しよぎやう)也(なり)けるや。御辺(ごへん)存日(ぞんじつ)の時より、常に申通(まうしとほ)せし事なれば、如何なる重宝(ちようはう)なり共、御用(ごよう)と承(うけたまは)らんに非可奉惜。但(ただし)此(この)刀をくれよ、将軍の世を亡(ほろぼ)さんと承(うけたまはり)つる、其(それ)こそえ進(まゐら)すまじけれ。身雖不肖、盛長将軍の御方(みかた)に参じ、無弐者と知(しら)れ進(まゐら)せし間、恩賞厚く蒙(かうむつ)て、一家(いつけ)の豊(ゆたか)なる事日比(ひごろ)に過(すぎ)たり。されば此(この)猿楽をして遊ぶ事も偏(ひとへ)に武恩の余慶(よけい)也(なり)。凡(およそ)勇士(ゆうし)の本意、唯心を不変を以て為義。されば縦(たと)ひ身を寸々(つだつだ)に割(さか)れ、骨を一々に被砕共、此(この)刀をば進(まゐら)すまじく候。早御帰(おんかへり)候へ。」とて、虚空(こくう)をはたと睨(にらん)で立(たち)たりければ、正成以外(もつてのほか)忿(いか)れる言ばにて、「何共(なにとも)いへ、遂には取(とら)ん者を。」と罵(ののしつ)て、本(もと)の如く光(ひかり)渡り、海上遥(はるか)に飛去(とびさり)にけり。見物の貴賎是(これ)を見て、只今天へ引(ひき)あげられて挙(あが)る歟(か)と、肝魂(きもたましひ)も身に添(そは)ねば、子は親を呼び、親は子の手を引(ひい)て、四角(しかく)八方(はつぱう)へ逃去(にげさり)ける間、又今夜の猿楽も、二三番にて休(やめ)にけり。其(その)後四五日を経て、雨一通(ひととほり)降過(ふりすぎ)て、風冷(すさまじく)吹(ふき)騒ぎ、電(いなびかり)時々しければ、盛長、「今夜何様(いかさま)件(くだん)の化物(ばけもの)来(きたり)ぬと覚ゆ。遮(さへぎつ)て待(また)ばやと思ふ也(なり)。」とて、中門(ちゆうもん)に席皮敷(しきかはしい)て胄(よろひ)一縮(いつしゆく)し、二所藤(ふたところどう)の大弓に、中指(なかざし)数(あまた)抜散(ぬきちら)し、鼻膏(はなあぶら)引(ひい)て、化物遅(おそし)とぞ待懸(まちかけ)たる。如案夜半(やはん)過(すぐ)る程(ほど)に、さしも無隈つる中空(なかぞら)の月、俄(にはか)にかき曇(くもり)て、黒雲一村(ひとむら)立覆(たちおほ)へり。雲(くもの)中に声有(あつ)て、「何(いか)に大森殿(おほもりどの)は是(ここ)に御座(おはし)ぬるか、先度(せんど)被仰し剣(けん)を急ぎ進(まゐら)せられ候へとて、綸旨(りんし)を被成て候間、勅使に正成又罷向(まかりむかつ)て候は。」と云(いひ)ければ、彦七聞(きき)も不敢庭へ立出(たちいで)て、「今夜は定(さだめ)て来給(きたりたまひ)ぬらんと存じて、宵より奉待てこそ候へ。初(はじめ)は何共なき天狗(てんぐ)・化物などの化(け)して候事ぞと存ぜし間、委細(ゐさい)の問答にも及(および)候はざりき。今慥(たしか)に綸旨(りんし)を帯(たい)したるぞと奉(うけたまはり)候へば、さては子細なき楠殿(くすのきどの)にて御座候(おはしさふらひ)けりと、信(しん)を取(とつ)てこそ候へ。事長々しき様(やう)に候へ共、不審(ふしん)の事共(ことども)を尋(たづ)ぬるにて候。先(まづ)相伴(あひともな)ふ人数(あまた)有(あり)げに見へ候ば、誰人にて御渡(おんわたり)候ぞ。御辺(ごへん)は六道(ろくだう)四生(ししやう)の間、何(いか)なる所に生(うまれ)てをわしますぞ。」と問(とひ)ければ、其(その)時正成庭前(ていぜん)なる鞠(まり)の懸(かかり)の柳の梢に、近々と降(さがつ)て申(まうし)けるは、「正成が相伴(あひともなふ)人々には、先(まづ)後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)・兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)・新田左中将(さちゆうじやう)義貞・平馬助忠政(へいまのすけただまさ)・九郎大夫判官義経(よしつね)・能登(のとの)守(かみ)教経(のりつね)、正成を加へて七人(しちにん)也(なり)。其外(そのほか)泛々(はんはん)の輩(ともがら)、計(かぞふ)るに不遑。」とぞ語(かたり)ける。盛長重(かさね)て申(まうし)けるは、「さて抑(そもそも)先帝は何(いづ)くに御座(ござ)候ぞ。又相随(あひしたがひ)奉る人々何(いか)なる姿にて御座(おはします)ぞ。」と問へば、正成答(こたへ)て云(いはく)、「先朝(せんてう)は元来(ぐわんらい)摩醯首羅王(まけいしゆらわう)の所変(しよへん)にて御座(おはすれ)ば、今還(かへつ)て欲界の六天に御座(ござ)あり。相順(あひしたがひ)奉る人人は、悉(ことごとく)脩羅(しゆら)の眷属(けんぞく)と成(なつ)て、或時は天帝と戦(たたかひ)、或時は人間に下(くだつ)て、瞋恚強盛(しんいがうせい)の人の心に入替(いれかは)る。」「さて御辺(ごへん)は何(いか)なる姿にて御座(おはしまし)ぬる。」と問へば、正成、「某(それがし)も最期の悪念に被引て罪障(ざいしやう)深かりしかば、今千頭王鬼(せんづわうき)と成(なつ)て、七頭(しちづ)の牛に乗れり。不審あらば其(その)有様を見せん。」とて、続松(たいまつ)を十四五同時にはつと振挙(ふりあげ)たる、其(その)光に付(つい)て虚空(こくう)を遥(はるか)に向上(みあげ)たれば、一村立(ひとむらだつ)たる雲の中に、十二人(じふににん)の鬼共玉の御輿(おんこし)を舁捧(かきあげ)たり。其(その)次には兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)、八竜に車を懸(かけ)て扈従(こしよう)し給ふ。新田左中将(さちゆうじやう)義貞は、三千(さんぜん)余騎(よき)にて前陣に進み、九郎大夫判官義経は、混甲(ひたかぶと)数百騎(すひやくき)にて後陣(ごぢん)に支(ささへ)らる。其迹(そのあと)に能登(のとの)守(かみ)教経(のりつね)、三百(さんびやく)余艘(よさう)の兵船(ひやうせん)を雲の浪に推浮(おしうか)べ給へば、平馬助(へいまのすけ)忠政、赤旗一流(ひとながれ)差挙(さしあげ)て、是(これ)も後陣(ごぢん)に控(ひか)へたり。又虚空(こくう)遥(はるか)に引(ひき)さがりて、楠正成湊川にて合戦の時見しに些(すこし)も不違、紺地錦(こんぢにしきの)胄直垂(よろひひたたれ)に黒糸(くろいと)の胄(よろひ)著て、頭(かしら)の七(ななつ)ある牛にぞ乗(のり)たりける。此外(このほか)保元(ほうげん)平治に討(うた)れし者共(ものども)、治承養和(ぢしようやうわ)の争(あらそひ)に滅(ほろび)し源平両家(りやうけ)の輩(ともがら)、近比(このごろ)元弘建武(けんむ)に亡(ほろび)し兵共(つはものども)、人に知(しら)れ名を顕(あらは)す程の者は、皆甲胄(かつちう)を帯し弓箭(ゆみや)を携(たづさ)へて、虚空十里(じふり)許(ばかり)が間に無透間ぞ見へたりける。此(この)有様、只盛長が幻(まぼろし)にのみ見へて、他人の目には見へざりけり。盛長左右を顧(かへりみ)て、「あれをば見ぬか。」と云はんとすれば、忽(たちまち)に風に順(したがふ)雲の如(ごとく)、漸々(ぜんぜん)として消失(きえうせ)にけり。只楠が物云ふ声許(ばかり)ぞ残(のこり)ける。盛長是(これ)程の不思議(ふしぎ)を見つれ共(ども)、其(その)心猶も不動、「「一翳(いちえい)在眼空花(くうげ)乱墜(らんつゐ)す」といへり。千変百怪何ぞ驚くに足(たら)ん。縦(たとひ)如何なる第六天の魔王共が来(きたつ)て謂(い)ふ共、此(この)刀をば進(しん)ずまじきにて候。然らば例の手(て)の裏を返すが如なる綸旨(りんし)給(たまはり)ても無詮。早々(さうさう)面々(めんめん)御帰(おんかへり)候へ。此(この)刀をば将軍へ進(まゐらせ)候はんずるぞ。」と云捨(いひすて)て、盛長は内へ入(いり)にけり。正成大(おほき)に嘲(あざわらう)て、「此(この)国(くに)縱(たとひ)陸地(くがち)に連(つら)なりたり共(とも)道をば輒(たやす)く通すまじ。況(まし)て海上を通るには、遣(やる)事努々(ゆめゆめ)有(ある)まじき者を。」と、同音にどつと笑(わらひ)つゝ、西を指(さし)てぞ飛去(とびさり)にける。其(その)後より盛長物狂敷(くるはしく)成(なつ)て、山を走(わが)り水を潜(くく)る事無休時。太刀を抜き矢を放(はな)つ事間無(ひまなか)りける間、一族共(いちぞくども)相集(あひあつまつ)て、盛長を一間(ひとま)なる所に推篭(おしこめ)て、弓箭兵杖(きゆうせんひやうぢやう)を帯(たい)して警固の体(てい)にてぞ居たりける。或夜又雨風一頻(ひとしきり)通(とほつ)て、電(いなづま)の影(かげ)頻(しきり)なりければ、すはや例の楠こそ来(きた)れと怪(あやし)む処に、如案盛長が寝(ね)たる枕の障子をかはと蹈破(ふみやぶつ)て、数十人(すじふにん)打入(うちいる)音しけり。警固の者共(ものども)起周章(おきふためい)て太刀長刀の鞘(さや)を外(はづ)して、夜討入(うちいり)たりと心得(こころえ)て、敵は何(いづ)くにかあると見れ共更になし。こは何(いか)にと思(おもふ)処に、自天井熊の手(て)の如くなる、毛生(おひ)て長き手を指下(さしおろ)して、盛長が本鳥(もとどり)を取(とつ)て中(ちゆう)に引(ひつ)さげ、破風(はふ)の口より出(いで)んとす。盛長中(ちゆう)にさげられながら件(くだん)の刀を抜(ぬい)て、化物(ばけもの)の真只中(まつただなか)を三刀(みかたな)指(さし)たりければ、被指て些(ちと)弱りたる体(てい)に見へければ、むずと引組(ひつくん)で、破風(はふ)より広庇(ひろびさし)の軒の上にころび落(おち)、取(とつ)て推付(おしつ)け、重(かさね)て七刀(ななかたな)までぞ指(さし)たりける。化物(ばけもの)急所を被指てや有(あり)けん、脇の下より鞠(まり)の勢(せい)なる物ふつと抜出(ぬけいで)て、虚空を指(さし)てぞ挙(あが)りける。警固の者共(ものども)梯(はし)を指(さし)て軒の上に登(のぼつ)て見れば、一(ひとつ)の牛の頭(かしら)あり。「是(これ)は何様(いかさま)楠が乗(のり)たる牛か、不然ば其魂魄(そのこんぱく)の宿(やど)れる者歟(か)。」とて、此(この)牛の頭(かしら)を中門(ちゆうもん)の柱に結著(ゆひつけ)て置(おき)たれば、終夜(よもすがら)鳴(なり)はためきて動(うごき)ける間、打砕(うちくだい)て則(すなはち)水底にぞ沈(しづ)めける。其(その)次の夜も月陰(くもり)風悪(あらう)して、怪しき気色(けしき)に見へければ、警固の者共(ものども)大勢遠侍(とほさぶらひ)に並居(なみゐ)て、終夜(よもすがら)睡(ねむ)らじと、碁双六(ごすごろく)を打(うつ)てぞ遊びける。夜半(やはん)過(すぐ)る程(ほど)に、上下百(ひやく)余人(よにん)有(あり)ける警固の者共(ものども)、同時にあつと云(いひ)けるが、皆酒に酔(ゑへ)る者の如く成(なつ)て、頭(かう)べを低(たれ)て睡(ねぶ)り居たり。其(その)座中に禅僧一人眠(ねぶ)らで有(あり)けるが、灯(ともしび)の影(かげ)より見れば、大(おほき)なる寺蜘蛛(やまぐも)一つ天井より下(さがり)て、寝入(ねいり)たる人の上を這行(はひゆき)て、又天井へぞ挙(あが)りける。其(その)後盛長俄(にはか)に驚(おどろい)て、「心得(こころえ)たり。」と云侭(いふまま)に、人と引組(ひつくん)だる体(てい)に見へて、上が下にぞ返(かへ)しける。叶はぬ詮(せん)にや成(なり)けん、「よれや者共(ものども)。」と呼(よび)ければ、傍(そば)に臥(ふし)たる者共(ものども)起挙(おきあが)らんとするに、或(あるひ)は柱に髻(もとどり)を結著(ゆひつけ)られ、或(あるひ)は人の手を我(わが)足に結合(ゆひあは)せられて、只綱(あみ)に懸(かか)れる魚(うを)の如く也(なり)。此(この)禅僧余(あま)りの不思議(ふしぎ)さに、走立(わしりたち)て見れば、さしも強力(かうりき)の者ども、僅(わづか)なる蜘(くも)のゐに手足を被繋て、更にはたらき得ざりけり。されども盛長、「化物をば取(とつ)て押(おさ)へたるぞ。火を持(もつ)てよれ。」と申(まうし)ければ、警固の者共(ものども)兎角して起挙(おきあが)り、蝋燭(らふそく)を灯(とぼい)て見(みる)に、盛長が押(おさ)へたる膝を持挙(もちあげ)んと蠢動(むぐめき)ける。諸人手に手を重(かさね)て、逃(にが)さじと推(おす)程(ほど)に、大(おほき)なる土器(かはらけ)の破(やぶ)るゝ音して、微塵(みぢん)に砕(くだ)けにけり。其(その)後手をのけて是(これ)を見れば、曝(され)たる死人の首(かうべ)、眉間(みけん)の半(なか)ばより砕(くだけ)てぞ残りける。盛長大息(おほいき)を突(つい)て、且(しば)し心を静めて腰を探(さぐつ)て見れば、早此(この)化物に刀を取(とら)れ、鞘許(さやばかり)ぞ残(のこり)にける。是(これ)を見て盛長、「我已(すで)に疫鬼(えきき)に魂(たましひ)を被奪、今は何(いか)に武(たけ)く思ふ共(とも)叶(かなふ)まじ。我(わが)命の事は物(もの)の数ならず、将軍の御運如何。」と歎(なげき)て、色を変(へん)じ泪(なみだ)を流(なが)して、わな/\と振ひければ、聞(きく)者見(みる)人、悉(ことごとく)身(みの)毛(け)よ立(だつ)てぞ候(さふらひ)ける。角(かく)て夜少し深(ふけ)て、有明(ありあけ)の月中門(ちゆうもん)に差入(さしいり)たるに、簾(みす)を高く捲上(まきあげ)て、庭を見出(いだ)したれば、空より毬(てまり)の如くなる物光(ひかり)て、叢(くさむら)の中へぞ落(おち)たりける。何やらんと走出(わしりいで)て見れば、先(さき)に盛長に推砕(おしくだ)かれたりつる首(かうべ)の半(なかば)残(のこり)たるに、件(くだん)の刀自(みづから)抜(ぬけ)て、柄口(つかぐち)まで突貫(つきつらぬかれ)てぞ落(おち)たりける。不思議(ふしぎ)なりと云(いふ)も疎(おろ)か也(なり)。軈(やが)て此頭(このかうべ)を取(とつ)て火に抛入(なげいれ)たれば、跳出(をどりいで)けるを、金鋏(かなはさみ)にて焼砕(やきくだい)てぞ棄(すて)たりける。事静(しづまつ)て後、盛長、「今は化物よも不来と覚(おぼゆ)る。其(その)故は楠が相伴(あひともな)ふ者と云(いひ)しが我に来(きたる)事已(すで)に七度(しちど)也(なり)。是(これ)迄にてぞあらめ。」と申(まうし)ければ、諸人、「誠(げに)もさ覚ゆ。」と同ずるを聞(きき)て、虚空にしはがれ声にて、「よも七人(しちにん)には限(かぎり)候はじ。」と嘲(あざわらう)て謂(いひ)ければ、こは何(いか)にと驚(おどろい)て、諸人空を見上(あげ)たれば、庭なる鞠(まり)の懸(かかり)に、眉太(まゆぶと)に作(つくり)、金黒(かねくろ)なる女の首(くび)、面(おもて)四五尺(しごしやく)も有(ある)らんと覚(おぼえ)たるが、乱れ髪を振挙(ふりあげ)て目もあやに打笑(うちわらう)て、「はづかしや。」とて後(うし)ろ向(む)きける。是(これ)を見(みる)人あつと脅(おびえ)て、同時にぞ皆倒臥(たふれふし)ける。加様(かやう)の化物(ばけもの)は、蟇目(ひきめ)の声に恐(おそ)るなりとて、毎夜番衆(ばんしゆ)を居(すゑ)て宿直(とのゐ)蟇目(ひきめ)を射させければ、虚空にどつと笑(わらふ)声毎度に天を響(ひびか)しけり。さらば陰陽師(おんやうし)に門を封ぜさせよとて、符(ふう)を書(かか)せて門々に押(お)せば、目にも見へぬ者来(きたつ)て、符(ふう)を取(とつ)て棄(すて)ける間、角(かく)ては如何(いかが)すべきと思煩(おもひわづらひ)ける処に、彦七が縁者に禅僧の有(あり)けるが来(きたつ)て申(まうし)けるは、「抑(そもそも)今現(げん)ずる所の悪霊(あくりやう)共(ども)は、皆脩羅(しゆら)の眷属(けんぞく)たり。是を静(しづ)めん謀(はかりこと)を案ずるに、大般若経(だいはんにやきやう)を読(よむ)に不可如。其(その)故は帝釈(たいしやく)と、脩羅(しゆら)と須弥(しゆみ)の中央にて合戦を致す時、帝釈(たいしやく)軍(いくさ)に勝(かつ)ては、脩羅小身を現(げん)じて藕糸(ぐうし)の孔(あな)の裏(うち)に隠(かく)れ、脩羅又勝(かつ)時は須弥(しゆみ)の頂(いただき)に座して、手に日月を握り足に大海を蹈(ふむ)。加之(しかのみならず)三十三天(さんじふさんてん)の上に責上(せめのぼつ)て帝釈の居所を追落(おひおと)し、欲界の衆生(しゆじやう)を悉(ことごと)く我有(わがう)に成(な)さんとする時、諸天善神善法堂に集(あつまつ)て般若(はんにや)を講じ給ふ。此(この)時虚空より輪宝(りんはう)下(くだつ)て剣戟(けんげき)を雨(ふら)し、脩羅の輩(ともがら)を寸々(つだつだ)に割切(さきき)ると見へたり。されば須弥の三十三天(さんじふさんてん)を領(りやう)し給ふ帝釈だにも、我叶(わがかなは)ぬ所には法威を以て魔王を降伏(がうぶく)し給ふぞかし。況乎(いはんや)薄地(はくち)の凡夫(ぼんぶ)をや。不借法力難得退治(たいぢ)。」と申(まうし)ければ、此(この)義誠(げに)も可然とて、俄(にはか)に僧衆を請(しやう)じて真読(しんどく)の大般若(だいはんにや)を日夜六部(ろくぶ)迄ぞ読(よみ)たりける。誠(まこと)に依般若(はんにや)講読力脩羅威を失ひけるにや。五月三日の暮(くれ)程(ほど)に、導師(だうし)高座(かうざ)の上にて、啓白(けいびやく)の鐘打鳴(なら)しける時より、俄(にはか)に天掻曇(かきくもり)て、雲(くもの)上に車を轟(とどろ)かし馬を馳違(はせちがふ)る声無休時。矢さきの甲胄(かつちう)を徹(とほ)す音は雨の下(ふる)よりも茂(しげ)く、剣戟を交(まじふ)る光(ひかり)は燿(かかや)く星に不異。聞(きく)人見(みる)者推双(おしなべ)て肝を冷(ひや)して恐合(おそれあ)へり。此闘(このたたかひ)の声休(やみ)て天も晴(はれ)にしかば、盛長が狂乱本復(ほんぶく)して、正成が魂魄(こんぱく)曾(かつて)夢にも不来成(なり)にけり。さても大般若経(だいはんにやきやう)真読(しんどく)の功力(くりき)に依(よつ)て、敵軍に威を添(そへ)んとせし楠正成が亡霊静まりにければ、脇屋(わきや)刑部卿義助、大館(おほたち)左馬(さまの)助(すけ)を始(はじめ)として、土居・得能に至るまで、或(あるひ)は被誅或(あるひ)は腹切(きつ)て、如無成(なり)にけり。誠(まことなる)哉(かな)、天竺の班足王(はんぞくわう)は、仁王経(にんわうきやう)の功徳(くどく)に依(よつ)て千王を害する事を休(や)め、吾(わが)朝の楠正成は、大般若(だいはんにや)講読(かうどく)の結縁(けちえん)に依(よつ)て三毒を免(まぬが)るゝ事を得たりき。誠(まことに)鎮護(ちんご)国家の経王(きやうわう)、利益(りやく)人民の要法也(なり)。其(その)後此(この)刀をば天下(てんが)の霊剣なればとて、委細の註進を副(そへ)て上覧に備(そなへ)しかば、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)朝臣(あそん)是(これ)を見給(たまひ)て、「事実(まこと)ならば、末世(まつせ)の奇特(きどく)何事か可如之。」とて、上を作直(つくりなほ)して、小竹作(こたけつくり)と同(おなじ)く賞翫(しやうぐわん)せられけるとかや。沙(いさご)に埋(うづも)れて年久(ひさしく)断剣如(だんけんのごとく)なりし此(この)刀、盛長が註進に依(よつ)て凌天(りようてん)の光を耀(かかやか)す。不思議(ふしぎ)なりし事共(ことども)也(なり)。
○就直義病悩上皇御願書(ぐわんしよの)事(こと) S2302
去(さる)程(ほど)に諸国の宮方(みやがた)力衰(おとろへ)て、天下(てんが)武徳に帰(き)し、中夏静まるに似たれ共(ども)、仏神三宝(さんばう)をも不敬、三台(さんたい)五門の所領をも不渡、政道さながら土炭(どたん)に堕(おち)ぬれば、世中(よのなか)如何(いか)がと申合(まうしあ)へり。吉野の先帝崩御(ほうぎよ)の後、様々の事共(ことども)申せしが、車輪(しやりん)の如くなる光物(ひかりもの)都を差(さ)して夜々(よなよな)飛度(とびわた)り、種々の悪相(あくさう)共(ども)を現(げん)じける間、不思議(ふしぎ)哉(かな)と申(まうす)に合(あは)せて、疾疫(しつえき)家々に満(みち)て貴賎苦(くるし)む事甚(はなはだ)し。是(これ)をこそ珍事(ちんじ)哉(かな)と申(まうす)に、同(おなじき)二月五日の暮(くれ)程より、直義朝臣(あそん)俄(にはか)に邪気に被侵、身心悩乱(なうらん)して、五体(ごたい)逼迫(ひつぱく)しければ、諸寺の貴僧・高僧に仰(おほせ)て御祈(おんいのり)不斜(なのめならず)。陰陽寮(おんやうれう)、鬼見(きけん)・泰山府君(たいさんぶくん)を祭(まつり)て、財宝を焼尽(やきつく)し、薬医(やくい)・典薬(てんやく)、倉公・華佗(くわた)が術(じゆつ)を究(きはめ)て、療治すれ共不痊。病(やまひ)日々に重(おもつ)て今はさてと見へしかば、京中(きやうぢゆう)の貴賎驚き合(あ)ひて、此(この)人如何にも成給(なりたまひ)なば、只小松大臣(こまつのおとど)重盛(しげもり)の早世(さうせい)して、平家の運命忽(たちまち)に尽(つき)しに似たるべしと思(おもひ)よりて、弥(いよいよ)天下(てんが)の政道は徒事(いたづらごと)なるべしと、歎(なげか)ぬ者も無(なか)りけり。持明上皇此由(このよし)を聞召(きこしめ)し殊に歎き思食(おぼしめし)しかば、潜(ひそか)に勅使を被立て八幡宮(はちまんぐう)に一紙(いつし)の御願書(ごぐわんしよ)を被篭て、様々の御立願(ごりふぐわん)あり。其詞(そのことばに)云(いはく)、敬白祈願事右神霊之著明徳也(なり)。安民理国為本。王者之施政化也(なり)。賞功貴賢為先。爰左兵衛督直義朝臣(あそん)者、匪啻爪牙之良将、已為股肱之賢弼。四海(しかい)之(の)安危、偏嬰此人之力。巨川之済渉、久沃眇身之心。義為君臣。思如父子。而近日之間、宿霧相侵、薬石失験。驚遽無聊。若非幽陵之擁護者、争得病源之平愈乎。仍心中有所念、廟前将奉祷請。神霊縦有忿怒之心、眇身已抽祈謝之誠、懇棘忽酬、病根速消者、点七日之光陰、課弥天之碩才、令講讃妙法偈、可勤修尊勝供。伏乞尊神哀納叡願、不忘文治撥乱之昔合体、早施経綸安全之今霊験。春秋鎮盛、華夏純煕。敬白。暦応五年二月日勅使勘解由(かげゆの)長官公時(きんとき)、御願書(ごぐわんしよ)を開(ひらい)て宝前(はうぜん)に跪(ひざまつ)き、泪(なみだ)を流(ながし)て、高らかに読上(よみあげ)奉るに、宝殿且(しばら)く振動して、御殿の妻戸(つまど)開く音幽(かすか)に聞へけるが、誠(まこと)に君臣合体(がつてい)の誠を感じ霊神擁護(おうご)の助(たすけ)をや加へ給(たまひ)けん。勅使帰参して三日(みつかの)中に、直義朝臣(あそん)病(やまひ)忽(たちまち)平愈(へいゆう)し給ひけり。是(これ)を聞(きく)者、「難有哉(かな)、昔周(しうの)武王病(やまひ)に臥(ふし)て崩(ほう)じ給はんとせし時、周公旦(しうこうたん)天に祈(いのつ)て命に替(かは)らんとし給(たまひ)しかば、武王の病忽(たちまち)痊(いえ)て、天下(てんが)無為の化に誇(ほこる)に相似(あひに)たり。」と、聖徳を感ぜぬ者こそ無(なか)りけれ。又傍(かたはら)に吉野殿(よしのどの)方(がた)を引(ひく)人は、「いでや徒(いたづら)事な云(いひ)そ。神不享非礼、欲宿正直頭、何故か諂諛(てんゆ)の偽(いつはり)を受(うけ)ん。只時節(をりふし)よく、し合(あは)せられたる願書也(なり)。」と、欺(あざむ)く人も多かりけり。
○土岐頼遠(ときよりとほ)参合御幸致狼籍事(こと)付(つけたり)雲客(うんかく)下車事(こと) S2303
同(おなじき)九月三日は故伏見(ふしみの)院(ゐんの)御忌日(ごきにち)也(なり)しかば、彼(かの)御仏事殊更故院(こゐん)の御旧迹にて、執行(とりおこな)はせ給はん為に、持明院上皇伏見殿へ御幸(ごかう)なる。此(この)離宮はさしも紫楼紺殿(しろうこんでん)を彩(いろど)り、奇樹怪石を集(あつめ)て、見所(みどころ)有(あり)し栖■(せいち)なれ共(ども)、旧主去座を、年久(ひさし)く成(なり)ぬれば、見しにも非(あら)ず荒(あれ)はて、一村薄(ひとむらずすきの)野(の)と成(なつ)て、鶉(うづら)の床(とこ)も露滋(しげ)く、八重葎(やへむぐら)のみ門を閉(とぢ)て、荻吹(ふき)すさむ軒端(のきば)の風、苔もり兼(かぬ)る板間(いたま)の月、昔の秋を思出(おもひいで)て今の泪(なみだ)をぞ催(もよほ)しける。毎物曳愁添悲秋の気色(けしき)、光陰不待人無常迅速なる理(ことわり)、貴きも賎きも皆古(いにしへ)に成(なり)ぬる哀(あはれ)さを、導師富楼那(ふるな)の弁舌(べんぜつ)を借(かつ)て数刻(すごく)宣説(せんぜつ)し給(たま)へば、上皇を奉始旧臣老儒悉(ことごとく)直衣(なほし)・束帯(そくたい)の袖を絞許(しぼるばかり)にぞ見へたりける。種々の御追善(ごつゐぜん)端多(はしおほく)して、秋の日無程昏(くれ)はてぬ。可憐九月初三(しよさん)の夜の月、出(いづ)る雲間(くもま)に影消(きえ)て、虚穹(こきゆう)に落(おつ)る雁(かり)の声、伏見の小田(をだ)も物すごく、彼方人(をちかたびと)の夕と、動(うごき)静まる程(ほど)にも成(なり)しかば、松明(たいまつ)を秉(とつ)て還御なる。夜はさしも深(ふけ)ざるに、御車(おんくるま)東洞院(ひがしのとうゐん)を登(のぼ)りに、五条(ごでう)辺(あたり)を過(すぎ)させ給ふ。斯(かか)る処に土岐弾正少弼(ときだんじやうせうひつ)頼遠・二階堂(にかいだう)下野(しもつけの)判官(はうぐわん)行春(ゆきはる)、今(いま)比叡(ひえ)の馬場にて笠懸(かさがけ)射て、芝居の大酒に時刻を移し、是(これ)も夜深(ふけ)て帰(かへり)けるが、無端樋口(ひぐち)東洞院(ひがしのとうゐん)の辻にて御幸(ごかう)にぞ参り合(あひ)ける。召次(めしつぎ)御前(おんさき)に走散(わしりちつ)て、「何者ぞ狼籍(らうぜき)也(なり)。下(おり)候へ。」とぞ罵(ののしり)ける。下野(しもつけの)判官(はうぐわん)行春は是(これ)を聞(きい)て御幸(ごかう)也(なり)けりと心得(こころえ)て、自馬飛下(とんでおり)傍(かたはら)に畏(かしこま)る。土岐弾正少弼頼遠は、御幸(ごかう)も不知けるにや、此比(このころ)時を得て世をも不恐、心の侭(まま)に行迹(ふるまひ)ければ、馬をかけ居(すゑ)て、「此比(このころ)洛中(らくちゆう)にて、頼遠などを下(おろ)すべき者は覚(おぼえ)ぬ者を、云(いふ)は如何なる馬鹿者ぞ。一々に奴原(きやつばら)蟇目(ひきめ)負(おふ)せてくれよ。」と罵(ののし)りければ、前駈御随身(せんぐみずゐじん)馳散(はせちつ)て声々に、「如何なる田舎人(ゐなかうど)なれば加様(かやう)に狼籍をば行迹(ふるまふ)ぞ。院の御幸(ごかう)にて有(ある)ぞ。」と呼(よばは)りければ、頼遠酔狂(すゐきやう)の気や萌(きざ)しけん、是(これ)を聞(きい)てから/\と打笑ひ、「何(な)に院と云ふか、犬と云(いふ)か、犬ならば射て落さん。」と云侭(いふまま)に、御車(おんくるま)を真中(まんなか)に取篭(とりこめ)て馬を懸(かけ)寄せて、追物射(おふものい)にこそ射たりけれ。竹林院の中納言公重(きんしげ)卿(きやう)、御後(おんうしろ)に被打けるが、衛府(ゑふ)の太刀を抜馳寄(ぬきはせよ)せ、「懸(かか)る浅猿(あさまし)き狼籍こそなけれ。御車(おんくるま)をとく懸破(かけわつ)て仕れ。」と、被下知けれ共(ども)、牛の胸懸(むながい)被切て首木(くびき)も折れ、牛童共(うしわらはども)も散々(ちりぢり)に成(なり)行き、供奉(ぐぶ)の卿相雲客(けいしやううんかく)も皆打落(うちおと)されて、御車(おんくるま)に当る矢をだに、防ぎ進(まゐ)らする人もなし。下簾(したすだれ)皆撥(かなぐり)落され三十輻(みそのや)も少々(せうせう)折(をれ)にければ、御車(おんくるま)は路頭に顛倒(てんたう)す。浅猿(あさまし)しと云(いふ)も疎(おろ)か也(なり)。上皇は只御夢(おんゆめ)の心地(ここち)座(ましまし)て、何とも思召分(おぼしめしわけ)たる方も無(なか)りけるを、竹林院(ゐんの)中納言(ちゆうなごん)公重(きんしげ)卿(きやう)御前(おんまへ)に参られたりければ、上皇、「何(いかに)公重か。」と許(ばかり)にて、軈(やが)て御泪にぞ咽(むせ)び座(ましま)しける。公重卿も進む泪(なみだ)を押へて、「此比(このころ)の中夏の儀、蛮夷僭上(ばんいせんじやう)無礼の至極(しごく)、不及是非候。而(しか)れ共(ども)日月未(いまだ)天に掛らば、照鑒(せうかん)何の疑か候べき。」と被奏ければ、上皇些(すこし)叡慮を慰(なぐさま)させ御座(おはしま)す。「されば其(その)事よ。聞(きけ)や何(いか)に、五条(ごでう)の天神は御出(おんいで)を聞(きい)て宝殿より下(くだ)り御幸(ごかう)の道に畏(かしこま)り、宇佐八幡は、勅使の度毎(たびごと)に、威儀を刷(つくろひ)て勅答を被申とこそ聞け。さこそ武臣の無礼の代(よ)と謂(いふ)からに、懸(かか)る狼籍を目(ま)の当(あたり)見つる事よ。今は末代(まつだい)乱悪(らんあく)の習俗にて、衛護(ゑご)の神もましまさぬかとこそ覚(おぼゆ)れ。」と被仰出て、袞衣(こんえ)の御袖(おんそで)を御顔に押当(おしあて)させ御座(おはしま)せば、公重卿も涙の中に書闇(かきくれ)て、牛童(うしわらは)少々(せうせう)尋出(たづねいだ)して泣々(なくなく)還御成(なり)にけり。其比(そのころ)は直義(ただよし)朝臣(あそん)、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の政務に代(かはつ)て天下(てんが)の権柄(けんぺい)を執(とり)給ひしかば、此(この)事を伝へ承(うけたまはつ)て、「異朝にも未(いまだ)比類を不聞。況(まし)て本朝に於ては、曾(かつて)耳目(じぼく)にも不触不思議(ふしぎ)也(なり)。其(その)罪を論ずるに、三族(さんぞく)に行(おこなう)ても尚(なほ)不足、五刑に下(くだ)しても何ぞ当らん。直(ぢき)に彼輩(かのともがら)を召出(めしいだ)して車裂(くるまざき)にやする、醢(ししびしほ)にやすべき。」と、大(おほき)に驚嘆(きやうたん)申されけり。頼遠も行春も、角(かく)ては事悪(あし)かりなんと思(おもひ)ければ、皆己(おの)が本国へぞ逃下(にげくだり)ける。此(この)上はとて、軈(やが)て討手を差下(さしくだ)し、可被退治(たいぢ)評定一決したりければ、下野(しもつけの)判官(はうぐわん)は不叶とや思(おもひ)けん、頚(くび)を延(のべ)て上洛(しやうらく)し、無咎由を様々陳(ちん)じ申(まうし)ける間、事の次第委細に糾明有(きうめいあつ)て、行春をば罪の軽(かろき)に依(よつ)て死罪を被宥讃岐(さぬきの)国(くに)へぞ被流ける。土岐頼遠は、弥(いよいよ)罪科遁(のが)るゝ所無(なか)りければ、美濃(みのの)国(くに)に楯篭(たてこもつ)て謀反(むほん)を起さんと相議(あひぎ)して、便宜(びんぎ)の知音(ちおん)一族共(いちぞくども)を招寄(まねきよす)と聞へしかば、急ぎ討手を差下(さしくだ)し、可被退治(たいぢ)とて、先(まづ)甥の刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼康(よりやす)を始(はじめ)として、宗(むね)との一族共(いちぞくども)に御教書(みげうしよ)を被成下しかば、頼遠謀反も不事行、角(かく)ては如何と思案して、潜(ひそか)に都へ上(のぼり)、夢窓国師をぞ憑(たのみ)ける。夢窓は此比(このころ)天下(てんが)の大善知識(だいぜんちしき)にて、公家武家崇敬類(たぐ)ひ無(なか)りしかば、さり共(とも)と被憑仰しか共(ども)、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)、是(これ)程の大逆(だいぎやく)を緩(ゆる)く閣(さしお)かば、向後(きやうこう)の積習(せきしふ)たるべし。而(しか)れ共(ども)御口入(ごこうじゆ)難黙止(もだしがた)ければ、無力其(その)身をば被誅て、子孫の安堵(あんど)を可全と返事被申、頼遠をば侍所細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏(あきうぢ)に被渡て、六条河原(ろくでうかはら)にて終(つひに)被刎首けり。其弟(そのおとと)に周済房(しゆさいばう)とて有(ある)をも、既(すで)に可被切と評定有(あり)けるが、其(その)時の人数にては無(なか)りける由(よし)、証拠分明也(なり)ければ、死刑の罪を免(ゆるし)て、軈(やが)て本国へぞ下(くだ)りける。夢窓和尚(むさうをしやう)の武家に出(いで)て、さりともと口入(こうじゆ)し給(たまひ)し事不叶しを、欺(あざむ)く者や仕(し)たりけん、狂歌を一首(いつしゆ)、天竜寺(てんりゆうじ)の脇壁(わきかべ)の上にぞ書(かき)たりける。いしかりしときは夢窓にくらはれて周済計(しゆさいばかり)ぞ皿に残れる此(この)頼遠は、当代故(ことさ)ら大敵を靡(なび)け、忠節を致(いたせ)しかば、其(その)賞翫(しやうぐわん)も人に勝(すぐ)れ、其(その)恩禄も異他。さるを今浩(かか)る行迹(ふるまひ)に依(よつ)て、重(かさね)て吹挙(すゐきよ)をも不被用、忽(たちまち)に其(その)身を失ひぬる事、天地日月未(いまだ)変異(へんい)は無(なか)りけりとて、皆人恐怖して、直義(ただよし)の政道をぞ感じける。頃比(このごろの)習俗、華夷(くわい)変じて戎国の民と成(なり)ぬれば、人皆院・国王と云(いふ)事をも不知けるにや。「土岐頼遠こそ御幸(ごかう)に参会(まゐりあひ)て、狼籍したりとて、被切進(まゐら)せたれ。」と申(まうし)ければ、道を過(すぐ)る田舎人(ゐなかうど)共(ども)是(これ)を聞(きき)て、「抑(そもそも)院(ゐん)にだに馬より下(おり)んには、将軍に参会(まゐりあひ)ては土を可這か。」とぞ欺(あざむ)きける。さればをかしき事共(ことども)浅猿(あさまし)き中にも多かりけり。爰(ここ)に如何なる雲客(うんかく)にてか有(あり)けん、破(や)れたる簾(みす)より見れば、年四十(しじふ)余(あま)りなりけるが、眉(まゆ)作り金(かね)付(つけ)て、立烏帽子(たてゑぼし)引(ひき)かづき著たる人の、轅(ながえ)はげたる破車(やれぐるま)を、打てども行(ゆか)ぬ疲牛(つかれうし)に懸(かけ)て、北野の方へぞ通(とほ)りける。今程洛中(らくちゆう)には武士共(ぶしども)充満(じゆうまん)して、時を得る人其(その)数を不知(しらず)。誰とは不見、太く逞(たくま)しき馬共に思々(おもひおもひ)の鞍(くら)置(おい)て、唐笠(からかさ)に毛沓(けくつ)はき、色々の小袖ぬぎさげて、酒あたゝめ、たき残したる紅葉(もみぢ)の枝、手毎(てごと)に折(をり)かざし、早歌交(さうかまじ)りの雑談(ざふだん)して、馬上二三十騎(にさんじつき)、大内野(おほうちの)の芝生(しばふ)の花、露と共に蹴散(けちら)かし、当(あた)りを払(はらつ)て歩(あゆ)ませたり。主人と覚(おぼ)しき馬上の客(きやく)、此(この)車を見付(みつけ)て、「すはや是(これ)こそ件(くだん)の院と云(いふ)くせ者よ。頼遠などだにも懸(かか)る恐(おそろしき)者に乗会(のりあ)ひして生涯を失ふ。まして我等(われらが)様(やう)の者いかにとゝがめられては叶(かなふ)まじ。いざや下(おり)ん。」とて、一度(いちど)にさつと自馬下(おり)、ほうかぶりはづし笠ぬぎ、頭(かうべ)を地に著(つけ)てぞ畏(かしこま)りける。車に乗(のり)たる雲客(うんかく)は、又是(これ)を見て、「穴(あな)浅猿(あさまし)哉(や)。若(もし)是(これ)は土岐が一族(いちぞく)にてやあるらん。院をだに散々(さんざん)に射進(まゐ)らする、況(まし)て吾等こゝを下(おり)では悪(あし)かりぬべし。」と周章騒(あわてさわ)ぎ、懸(かけ)もはづさぬ車より飛下(とびおり)ける程(ほど)に、車は生強(なまじひ)に先(さき)へ行馳(ゆきはす)るに、軸(ぢく)に当(あたつ)て立烏帽子(たてゑぼし)を打落し、本鳥放(もとどりはな)ちなる青陪従(あをばいじゆう)片手にては髻(もとどり)をとらへ、片手には笏(しやく)を取(とり)直し、騎馬の客の前に跪(ひざまつ)き、「いかに/\。」と色代(しきたい)しけるは、前代未聞(ぜんだいみもん)の曲事(くせごと)なり。其(その)日(ひ)は殊更聖廟(せいべう)の御縁日(ごえんにち)にて、参詣の貴賎布引(ぬのひ)き也(なり)けるが、是(これ)を見て、「けしからずの為体(ていたらく)哉(や)、路頭の礼は弘安の格式(かくしき)に被定置たり。其(それ)にも雲客(うんかく)武士に対(たい)せば、自車をり髻(もとどり)を放(はなせ)とはなき物を。」とて、笑はぬ者も無(なか)りけり。


太平記(国民文庫)
太平記巻第二十四

○朝儀年中行事(てうぎねんぢゆうぎやうじの)事(こと) S2401
暦応(りやくおう)改元(かいげん)の比(ころ)より兵革(ひやうがく)且(しばら)く静(しづま)り、天下(てんが)雖属無為京中(きやうぢゆう)の貴賎(きせん)は尚(なほ)窮困(きゆうこん)の愁(うれへ)に拘(かかは)れり。其(その)故は国衙(こくが)・荘園(しやうゑん)も本所の知行(ちぎやう)ならず。正税官物(せいぜいくわんぶつ)も運送の煩(わづらひ)有(あつ)て、公家は逐日狼戻(らうれい)せしかば、朝儀(てうぎ)悉(ことごとく)廃絶(はいぜつ)して政道さながら土炭(どたん)に堕(おち)にける。夫(それ)天子は必(かならず)万機(ばんき)の政(まつりごと)を行(おこな)ひ、四海(しかい)を治(をさめ)給ふ者也(なり)。其(その)年中行事(ねんぢゆうぎやうじ)と申(まうす)は、先(まづ)正月には、平旦(へいたん)に天地四方拝(しはうはい)・屠蘇白散(とそびやくさん)・群臣(ぐんしん)の朝賀(てうが)・小朝拝(こでうはい)・七曜(しちえう)の御暦(ごりやく)・腹赤(はらか)の御贄(みにへ)・氷様(ひのためし)・式兵(しきひやう)二省内外官(にしやうないげくわん)の補任帳(ふにんちやう)を進(たてまつ)る。立春の日は、主水司(もんどつかさ)立春の水(わかみづ)を献(たてまつ)る。子日(ねのひ)の若菜(わかな)・卯(うの)日(ひ)の御杖(みつゑ)・視告朔(かうさく)の礼・中春両宮(ちゆうとうりやうぐう)の御拝賀(ごはいが)。五日(いつかは)東寺の国忌(こつき)・叙位(じよい)の議白(ぎびやく)。七日(なぬかは)兵部(ひやうぶの)省御弓(おんたらし)の奏(そう)。同日白馬節会(あをむまのせちゑ)。八日(やうかは)大極殿(だいこくでん)の御斉会(みさいゑ)。同日真言院(しんごんゐん)の御修法(みしほ)・太元の法・諸寺の修正(しゆしやう)・女叙位(によじよゐ)。十一日(じふいちにちは)外官(げくわん)の除目(ぢもく)。十四日(じふしにちは)殿上(てんしやう)の内論議(うちろんぎ)。十五日(じふごにちは)七種(ななくさ)の御粥(みかゆ)・宮内(くないの)省の御薪(みかまぎ)。十六日(じふろくにちは)蹈歌節会(たうかのせちゑ)・秋冬の馬料(むまれう)・諸司(しよし)の大粮(おほがて)・射礼(しやれい)・賭弓(のりゆみ)・年給(ねんきふ)の帳(ちやう)・神祇官(じんぎくわん)の御麻(みぬさ)。晦日(つごもり)には御巫(みかんのこ)御贖(みあかもの)を奉る。院の尊勝陀羅尼(そんしようだらに)。二月には上(かみ)の丁日(ひのとのひ)尺奠(しやくてん)・上(かみ)の申(さるの)日(ひ)春日祭(かすがのまつり)。翌日(つぎのひ)卒川祭(いさがはのまつり)。上(かみ)の卯(うの)日(ひ)大原野祭(おほはらののまつり)・京官の除目(ぢもく)・祈年(としこひ)の祭(まつり)・三省考選(さんしやうかうせん)の目録(もくろく)・列見(れつけん)の位禄(ゐろく)・季(き)の御読経(みどつきやう)・仁王会(にんわうゑ)を被行。三月には三日(みつかの)御節供(ごせつく)・御灯(ごとう)・曲水(きよくすゐ)の宴(えん)。七日(なぬかは)薬師(やくし)寺の最勝会(さいしようゑ)・石清水(いはしみづ)の臨時(りんじ)の祭(まつり)・東大寺の花厳会授戒(けごんゑじゆかい)。同日鎮花祭(はなしづめのまつり)あり。四月には朔日(ついたち)の告朔(かうさく)。同日掃部寮(かもんれう)冬の御座(ござ)を徹(てつ)して夏の御座を供(くう)ず。主水司(もんどづかさ)始(はじめ)て氷を献(たてまつ)り、兵衛(ひやうゑの)府(ふ)御扇(みあふぎ)を進(たてまつ)る。山科(やましな)・平野(ひらの)・松尾(まつのを)・杜本(もりもと)・当麻(たいま)・当宗(まさむね)・梅(むめの)宮(みや)・大神(おほわ)の祭・広瀬立田(ひろせたつた)の祭あり。五日は中務省(なかつかさのしやう)妃(ひ)・夫人(ふじん)・嬪(よめづかひ)。女御(にようご)の夏の衣服(いふく)の文(もん)を申す。同日准蔭(じゆおん)の位記(ゐき)。七日は擬階(ぎかい)の奏(そう)也(なり)。八日は潅仏(くわんぶつ)。十日は女官、春夏の時の飾(かざ)り物(もの)の文(もん)を奏す。内の弓場(ゆば)の埒(らち)。斉内親(いつきのないしん)王の御禊(みそぎ)。中の申(さるの)日(ひ)国(くにの)祭(まつり)。関白の賀茂詣(かものまうで)。中の酉(とりの)日(ひ)賀茂(かも)の祭。男女の被馬(かざりむま)。下(しも)の子(ねの)日(ひ)吉田(よしたの)宮(みやの)祭(まつり)。東大寺の授戒(じゆかい)の使。駒牽神衣(こまひきかんみそ)の三枝(さいぐさ)の祭(まつり)あり。五月には、三日六衛府(ろくゑふ)、菖蒲(あやめ)并(ならびに)花を献(たてまつ)る。四日は走馬(はしりむま)の結番(つがひ)、并(ならびに)毛色(けいろ)を奏(そう)す。五日(いつかは)端午(たんご)の祭、薬玉御節供(くすだまのおんせく)・競馬(くらべむま)・日吉(ひよしの)祭・最勝講を被行。六月には、内膳司(ないぜんのつかさ)忌火(いんご)の御飯(ごはん)を供(くう)ず。中務省(なかつかさのしやう)暦(れき)を奏す。造酒司(さけのつかさ)の醴酒(ひとよざけ)。神祇官(じんぎくわん)の御体(みたい)の御占(みうら)。月次(つきなみ)。神今食(じんごんじき)。道饗(みあい)。鎮火(ひしづめ)の祭。神祇官(じんぎくわん)の荒世(あらよ)の御贖(みあかもの)を奏す。東西(やまとかはち)の文部(ふんひとべ)、祓(はらへ)の刀(たち)を奏(そう)す。十五日(じふごにちは)祇薗(ぎをん)の祭(まつり)。晦日の節折(よをり)、大祓(おほはらひ)。七月には、朔日の告朔(かうさく)。広瀬竜田(ひろせたつた)の祭(まつり)に可向。五位の定め。女官の補任帳(ふにんちやう)。二日(ふつかは)最勝寺(さいしようじ)の八講(はつかう)・七夕(たなばた)の乞巧奠(きつかうてん)。八日の文殊会(もんじゆゑ)。十四日(じふしにちは)盂蘭盆(うらぼん)。十九日(じふくにちは)尊勝寺(そんしようじ)の八講(はつかう)。二十八日(にじふはちにちは)相撲節会(すまうのせちゑ)。八月には、上(かみ)の丁(ひのと)の尺奠(しやくてん)。明る日内論議(うちろんぎ)。四日(よつかは)北野祭(きたののまつり)。十一日(じふいちにちは)官(くわん)の定考(かうぢやう)・小定考(こかうぢやう)。十五日(じふごにちは)八幡放生会(やはたのはうじやうゑ)。十六日(じふろくにちは)駒引(こまひき)・仁王会(にんわうゑ)・季御読経(きのみどつきやう)あり。九月には、九日(ここのか)重陽(ちようやう)の宴(えん)。十一日(じふいちにちは)伊勢の例幣(れいへい)・祈年(としこひ)・月次(つきなみ)・神甞(かんなめ)・新甞(にひなめ)・大忌風神(おほみかざかん)。十五日(じふごにちは)東寺の灌頂(くわんぢやう)。鎮花(はなしづめ)・三枝(さいぐさ)・相甞(あひなめ)・鎮魂(たましづめ)・道饗(みあい)の祭(まつり)あり。十月には、掃部寮(かもんれう)夏の御座を徹(てつ)して、冬の御座を供(くう)ず。兵庫寮(ひやうごのれう)鼓吹(つづみふえ)の声を発(おこ)し、刑部(ぎやうぶの)省(しやう)年終(ねんしゆう)断罪(たえづみ)の文(ふん)を進(たてまつ)る。亥(ゐの)日(ひ)三度(みたび)の猪子(ゐのこ)。五日(いつかは)弓場始(ゆばはじめ)。十日(とをかは)興福寺(こうぶくじ)の維摩会(ゆゐまゑ)。競馬(くらべむま)の負方(まけかた)の献物(こんぶつ)。大歌始(おほうたはじめ)あり。十一月には、朔日に内膳(ないぜんの)司(つかさ)忌火(いんご)の御飯(ごはん)を供(くう)じ、中務省(なかつかさのしやう)御暦(おんれき)を奏(そう)す。神祇官(じんぎくわん)の御贖(みあかもの)。斎院(さいゐん)の御神楽(みかくら)。山科(やましな)・平野(ひらの)・春日(かすが)・森本(もりもと)・梅宮(うめのみや)・大原野(おほはらのの)祭。新甞会(しんじやうゑ)。賀茂(かもの)臨時(りんじの)祭(まつり)あり。十二月には、自朔日同十八日まで内膳(ないぜんの)司(つかさ)忌火(いんご)の御飯(ごはん)を供(くう)ず。御体(みたい)の御占(みうら)。陰陽寮(おんやうれう)来年の御忌(おんき)を勘禄(かんろく)して、内侍(ないし)に是(これ)を進(たてまつ)る。荷(にの)前(さき)の使(つかひ)。御仏名(おんぶつみやう)。大寒(たいかん)の日、土牛(とご)の童子を立(たて)、晦日に宮内(くないの)省御薬を奏す。大禊(おほはらひ)。御髪上(みくしあげ)。金吾(きんご)四隊(したい)に列(つらなつ)て、院々(ゐんゐん)の焼灯(せうとうは)不異白日。沈香火底(ちんかうくわてい)に坐して吹笙と云(いひ)ぬる追儺(つゐな)の節会(せちゑ)は今夜也(なり)。委細に是(これ)を註(しる)さば、車に載(のす)とも不可尽。唯(ただ)大綱(たいかう)を申許(まうすばかり)也(なり)。是等(これら)は皆代々(だいだい)の聖主賢君の受天奉地、静世治国枢機(すうぎ)なれば、一度(いちど)も不可断絶事なれ共(ども)、近年は依天下(てんが)闘乱一事(いちじ)も不被行。されば仏法も神道も朝儀(てうぎ)も節会(せちゑ)もなき世と成(なり)けるこそ浅猿(あさまし)けれ。政道一事(いちじ)も無きに依(よつ)て、天も禍(わざはひ)を下す事を不知(しらず)。斯(かかりけ)れ共道を知(しる)者無(なけ)れば、天下(てんが)の罪を身に帰(き)して、己(おのれ)を責(せむ)る心の無(なか)りけるこそうたてけれ。されば疾疫飢饉(しつえきききん)、年々に有(あつ)て、蒸民(じようみん)の苦(くるし)みとぞ成(なり)にける。
○天竜寺(てんりゆうじ)建立(こんりふの)事(こと) S2402
武家の輩(ともが)ら如此諸国を押領(あふりやう)する事も、軍用を支(ささへ)ん為ならば、せめては無力折節(をりふし)なれば、心をやる方も有(ある)べきに、そゞろなるばさらに耽(ふけり)て、身には五色を飾(かざ)り、食には八珍(はつちん)を尽し、茶の会酒宴(しゆえん)に若干(そくばく)の費(つひえ)を入(いれ)、傾城田楽(けいせいでんがく)に無量(むりやう)の財(たから)を与(あた)へしかば、国費(つひ)へ人疲(つかれ)て、飢饉疫癘(ききんえきれい)、盜賊(たうぞく)兵乱止(やむ)時なし。是(これ)全く天の災(わざはひ)を降(くだ)すに非(あら)ず。只国の政(まつりこと)無(なき)に依(よる)者也(なり)。而(しかる)を愚(おろか)にして道を知(しる)人無(なか)りしかば、天下(てんが)の罪を身に帰(き)して、己(おのれ)を責(せむ)る心を弁(わきま)へざりけるにや。夢窓(むさう)国師左武衛(さひやうゑの)督(かみ)に被申けるは、「近〔年〕天下(てんが)の様を見候に、人力を以て争(いかで)か天災(てんさい)を可除候。何様(いかさま)是(これ)は吉野の先帝崩御(ほうぎよ)の時、様々の悪相を現(げん)し御座候(ござさふらひ)けると、其神霊(そのじんれい)御憤(おんいきどほり)深(ふかく)して、国土に災(わざはひ)を下し、禍(わざはひ)を被成候と存(ぞんじ)候。去(さる)六月二十四日の夜(よの)夢に吉野の上皇鳳輦(ほうれん)に召(めし)て、亀山(かめやま)の行宮(あんきゆう)に入御座(じゆぎよまします)と見て候(さふらひ)しが、幾程無(いくほどなく)て仙去(せんきよ)候。又其(その)後時々(よりより)金龍(きんりよう)に駕(が)して、大井河(おほゐがは)の畔(ほとり)に逍遥(せうえう)し御座(おはしま)す。西郊(さいかう)の霊迹(れいせき)は、檀林皇后(だんりんくわうぐう)の旧記に任せ、有謂由区々(まちまち)に候。哀(あはれ)可然伽藍(がらん)一所御建立(ごこんりふ)候(さふらひ)て、彼御菩提(かのおんぼたい)を吊(とふら)ひ進(まゐら)せられ候はゞ、天下(てんが)などか静(しづま)らで候べき。菅原(すがはら)の聖廟(せいべう)に贈爵(ぞうしやく)を奉り、宇治の悪左府(あくさふ)に官位を贈(おく)り、讃岐(さぬきの)院(ゐん)・隠岐(おきの)院(ゐん)に尊号を諡(おくりな)し奉り、仙宮(せんきゆう)を帝都に遷進(うつしまゐらせ)られしかば、怨霊(をんりやう)皆静(しづまつ)て、却(かへつ)て鎮護(ちんご)の神(しん)と成(なら)せ給候(たまひさふらひ)し者を。」と被申しかば、将軍も左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、「此(この)儀尤(もつとも)。」とぞ被甘心ける。されば頓(やが)て夢窓(むさう)国師を開山(かいさん)として、一寺を可被建立とて、亀山殿(かめやまどの)の旧跡(きうせき)を点(てん)じ、安芸・周防を料国(れうこく)に被寄、天竜寺(てんりゆうじ)をぞ被作ける。此(この)為に宋朝(そうてう)へ宝(たから)を被渡しかば、売買(ばいばい)其利(そのり)を得て百倍(ひやくばい)せり。又遠国の材木をとれば、運載(うんたい)の舟更に煩(わづらひ)もなく、自(おのづから)順風を得たれば、誠(まこと)に天竜八部(てんりゆうはちぶ)も是(これ)を随喜(ずゐき)し、諸天善神も彼(かれ)を納受(なふじゆ)し給ふかとぞ見へし。されば、仏殿・法堂(はつたう)・庫裏(くり)・僧堂・山門・総門・鐘楼(しゆろう)・方丈(はうぢやう)・浴室(よくしつ)・輪蔵(りんざう)・雲居庵(うんこあん)・七十(しちじふ)余宇(よう)の寮舎(れうしや)・八十四間の廊下(らうか)まで、不日(ふじつ)の経営(けいえい)事成(なつ)て、奇麗(きれい)の装(よそほひ)交(まじ)へたり。此開山(このかいさん)国師、天性(てんせい)水石に心を寄せ、浮萍(ふへい)の跡を為事給(たまひ)しかば、傍水依山十境(じつきやう)の景趣(けいしゆ)を被作たり。所謂(いはゆる)大士応化(おうけ)の普明閣(ふみやうかく)、塵々和光(ぢんぢんわくわう)の霊庇廟(れいひべう)、天心浸秋曹源池(さうげんち)、金鱗(こんりん)焦尾三級岩(さんきふがん)、真珠(じんしゆ)琢頷龍門亭(りようもんちん)、捧三壷亀頂塔(きちやうだふ)、雲半間(うんはんけん)の万松洞(まんしようとう)、不言開笑拈花嶺(ねんげれい)、無声聞音絶唱渓、上銀漢渡月橋(とげつけう)。此(この)十景(じつけい)の其(その)上(うへ)に、石を集(あつめ)ては烟嶂(えんしやう)の色を仮(か)り、樹(き)を栽(うゑ)ては風涛(ふうたう)の声(こゑを)移(うつ)す。慧崇(ゑそう)が烟雨(えんう)の図(づ)、韋偃(ゐえん)が山水の景(けい)にも未得(いまだえざりし)風流也(なり)。康永(かうえい)四年に成風(せいふう)の功(こう)終(をはつ)て、此(この)寺五山第二(だいに)の列(れつ)に至りしかば、惣じては公家の勅願寺(ちよくぐわんじ)、別しては武家の祈祷所(きたうじよ)とて、一千人の僧衆(しゆ)をぞ被置ける。
○依山門嗷訴公卿僉議(くぎやうせんぎの)事(こと) S2403
同八月に上皇臨幸(りんかう)成(なつ)て、供養(くやう)を可被逐とて、国々の大名共(だいみやうども)を被召(めされ)、代々(だいだい)の任例其役(そのやく)を被仰合。凡(およそ)天下(てんが)の鼓騒(こさう)、洛中(らくちゆう)の壮観(さうくわん)と聞へしかば、例の山門の大衆忿(いかり)をなし、夜々の蜂起(ほうき)、谷々(たにだに)の雷動(らいどう)無休時。あはや天魔の障碍(しやうげ)、法会(ほふゑ)の違乱(ゐらん)出来(いできたり)ぬるとぞみへし。三門跡(さんもんぜき)是を為静御登山(ごとうさん)あるを、若大衆(わかだいしゆ)共(ども)御坊(ごばう)へ押寄(おしよせ)て、不日(ふじつ)に追下(おひくだ)し奉り、頓(やが)て三塔(さんたふ)会合(くわいがふ)して大講堂の大庭(おほには)にて僉議(せんぎ)しける。其詞(そのことば)に云(いはく)、「夫王道之盛衰者、依仏法之邪正、国家之安全者、在山門之護持。所謂桓武(くわんむの)皇帝(くわうてい)建平安城(へいあんじやう)也(なり)。契将来於吾山、伝教(でんげう)大師(だいし)開比叡山(ひえいさん)也(なり)。致鎮守於帝城。自爾以来、釈氏化導之正宗、天子本命之道場偏在真言止観之繁興。被専聖代明時之尊崇者也(なり)。爰頃年禅法之興行喧於世、如無顕密弘通。亡国之先兆、法滅之表事、誰人不思之。吾山殊驚嘆也(なり)。訪例於異国、宋朝幼帝崇禅宗、奪世於蒙古。引証於吾朝、武臣相州(さうしう)尊此法、傾家於当今。覆轍不遠、後車盍誡。而今天竜寺(てんりゆうじ)供養之儀、既整勅願之軌則、可及臨幸之壮観云々。事如風聞者、奉驚天聴、遠流踈石法師、於天竜寺(てんりゆうじ)以犬神人可令破却。裁許若及猶予者、早頂戴七社(しちしや)之神輿、可奉振九重之帝闕。」と僉議(せんぎ)しければ、三千(さんぜんの)大衆(だいしゆ)一同に皆尤(もつとも)々とぞ同じける。同(おなじき)七月三日谷々(たにだに)の宿老(しゆくらう)捧款状陳参(ちんさん)す。其(その)奏状に云(いはく)、延暦寺(えんりやくじ)三千(さんぜん)大衆法師等、誠恐誠惶謹言請特蒙天裁、因准先例、忽被停廃踈石法師邪法、追放其身於遠島、至天竜寺(てんりゆうじ)者、止勅供養儀則、恢弘顕密両宗教迹、弥致国家護持精祈状。右謹考案内、直踏諸宗之最頂、快護百王之聖躬、唯天台(てんだい)顕密之法而已。仰之弥高、誰攀一実円頓之月。鑽之弥堅、曷折四曼相即之花。是以累代之徳化、忝比叡運於当山。諸刹之興基、多寄称号於末寺。若夫順則不妨、建仁之儀在前。逆則不得、嘉元之例在後。今如疎石法師行迹者、食柱蠧害、射人含沙也(なり)。亡国之先兆、大教之陵夷、莫甚於此。何以道諸、纔叩其端、暗挙西来之宗旨、漫破東漸之仏法。守之者蒙缶向壁、信之者緘石為金。其愚心皆如斯矣。加旃、移皇居(くわうきよ)之(の)遺基、為人処之栖界、何不傷哉(かな)。三朝礼儀之明堂云捐、為野干争尸之地、八宗論談之梵席永絶、替鬼神暢舌之声。笑問彼行蔵何所似。譬猶調達萃衆而落邪路、提羅貪供而開利門。嗚呼人家漸為寺、古賢悲而戒之、矧於皇居(くわうきよ)哉(かな)。聞説岩栖澗飲大忘人世、道人之幽趣也(なり)。疎石独背之。山櫛藻■、自安居所、俗士之奢侈也(なり)。疎石尚過之。韜光掩門、何異踰墻之人。垂手入市倉、宛同執鞭之士。天下(てんが)言之嗽口、山上聞之洗耳処、剰今儼臨幸之装、将刷供養之儀。因茲三千(さんぜん)学侶忽為雷動、一紙(いつし)表奏、累奉驚天聴。於是有勅答云、天竜寺(てんりゆうじ)供養事、非厳重勅願寺供養、准拠当寺、奉為後醍醐(ごだいごの)天皇(てんわう)御菩提、被建立訖。而追善御仏事、武家申行之間、為御聴聞密々可有臨幸歟之(の)由(よし)、所有其沙汰也(なり)。山門訴申何篇哉云云。就綸宣訪往事、捨元務末、非明王(みやうわう)之至徳。軽正重邪、豈仏意所帰乎。而今九院荒廃、而旧苔疎補侵露之隙、五堂回禄而昨木未運成風之斧。吾君何閣天子本命之道場、被興犢牛前身之僧界。偉哉、世在淳朴四花敷台嶺、痛乎、時及澆薄、五葉為叢林。正法邪法興廃粲然而可覿之。倩看仏法滅尽経文、曰我滅尽期、五濁悪世、魔作沙門(しやもん)、壊乱吾道、但貪財物積集不散。誠哉斯言、今疎石是也(なり)。望請天裁急断葛藤、於天竜寺(てんりゆうじ)者、須令削勅願之号停止勅会之儀、流刑疎石、徹却彼寺。若然者、法性常住之灯長挑、而耀後五百歳(ごごひやくさい)之闇、皇化照耀之自暖、而麗春二三月之天。不耐懇歎之至矣。衆徒等(しゆとら)誠恐誠惶謹言。康永四年七月日三千(さんぜん)大衆法師等上とぞ書(かき)たりける。奏状内覧に被下て後、諸卿参列して此(この)事可有如何と僉議あり。去(され)共(ども)大儀なれば満座閉口の処に、坊城(ばうじやうの)大納言(だいなごん)経顕(つねあき)卿(きやう)進(すすん)で被申けるは、「先(まづ)就山門申詞案事情、和漢の例を引(ひい)て、此宗(このしゆう)を好む世は必(かならず)不亡云(いふ)事なしと申(まうす)条、愚案短才の第一(だいいち)也(なり)。其(その)故は異国に此(この)宗を尊崇せし始(はじめ)を云(いへ)ば、梁(りやうの)武帝、対達磨聞無功徳話を、大同寺(だいどうじ)に禅坐し給(たまひ)しより以来(このかた)、唐(たうの)代二百八十八年、宋朝三百十七年、皆宝祚長久にして国家安静也(なり)。我朝(わがてう)には武臣相摸守(さがみのかみ)此(この)宗に傾(かたむい)て、九代累葉(るゐえふ)を栄(さか)へたり。而(しかる)に幼帝の時に至(いたつ)て、大宋は蒙古に被奪、本朝には元弘の初(はじめ)に当(あたつ)て、高時一家(いつけ)を亡(ほろぼせる)事は、全(まつたく)非禅法帰依咎、只政を乱り驕(おごり)を究(きはめ)し故(ゆゑ)也(なり)。何(なんぞ)必(かならず)しも治(をさま)りし世を捨(すて)て、亡びし時をのみ取(とら)んや。是(これ)■濫謀訴(かんらんのぼうそ)也(なり)。豈(あに)足許容哉(かな)。其(その)上(うへ)天子武を諱(いみな)とし給ふ時は、世の人不謂武名、況乎(いはんや)此(この)夢窓は三代の国師として四海(しかい)の知識たり。山門縱(たとひ)訴(うつたへ)を横(よこたへ)すとも、義を知(しり)礼を存せば、過言を止(とどめ)て可仰天裁。漫(みだりに)疎石法師を遠島へ遣(しかは)し、天竜寺(てんりゆうじ)を犬神人(いぬじんにん)に仰(おほせ)て可破却と申(まうす)条、奇怪至極也(なり)。罪科不軽。此(この)時若(もし)錯刑者向後(きやうこう)の嗷訴(がうそ)不可絶。早(はやく)三門跡(さんもんぜき)に被相尋、衆徒の張本(ちやうほんを)召出(めしいだ)し、断罪流刑(るけい)にも可被行とこそ存(ぞんじ)候へ。」と、誠(まこと)に無余儀被申ける。此(この)義げにもと覚(おぼゆ)る処に、日野(ひのの)大納言(だいなごん)資明(すけあきらの)卿(きやう)被申けるは、「山門聊(いささか)嗷訴(がうそ)に似て候へ共、退(しりぞい)て加愚案一義有(あり)と存(ぞんじ)候。其(その)故は日本(につぽん)開闢は自天台山起り、王城の鎮護は以延暦寺(えんりやくじ)専(もつぱら)とす。故(ゆゑ)に乱政行朝日は山門是(これ)を諌(いさめ)申し、邪法世に興る時は衆徒是(これ)を退(しりぞく)る例其来(そのきたること)尚(ひさし)矣。先(まづ)後宇多院(ごうだのゐんの)御宇(ぎよう)に、横岳(よこだけの)太応国師嘉元寺を被造時、山門依訴申其(その)儀を被止畢(をはんぬ)。又以往(いわう)には土御門院(つちみかどのゐんの)御宇(ぎよう)元久三年に、沙門(しやもん)源空専修(げんくうせんじゆ)念仏敷演(ふえん)の時、山門訴申(うつたへまうし)て是(これ)を退治(たいぢ)す。後堀河(ごほりかはの)院(ゐんの)御宇(ぎよう)嘉禄(かろく)三年(さんねんに)尚(なほ)専修(せんじゆ)の余殃(よあう)を誡(いましめ)て、法然(ほふねん)上人の墳墓を令破却。又御鳥羽(ごとばの)院(ゐんの)御宇(ぎよう)建久年中に、栄西(えいさい)・能忍等(のうにんら)禅宗を洛中(らくちゆう)に弘めし時、南都北嶺共(ともに)起(おこつ)て及嗷訴。而(しかる)に建仁寺建立(こんりふ)に至(いたつ)て、遮那(しやな)・止観(しくわん)の両宗を被置上(う)へ、開山以別儀可為末寺由(よし)、依被申請被免許候き。惣(すべ)て仏法の一事(いちじ)に不限。百王の理乱(りらん)四海(しかい)の安危、自古至今山門是(これ)を耳外(にぐわい)に不処、所謂(いはゆる)治承の往代に、平相国(へいしやうこく)清盛公(きよもりこう)、天下(てんが)の権(けん)を執(とつ)て、此(この)平安城(へいあんじやう)を福原の卑湿(ひしつ)に移せし時も、山門独(ひとり)捧奏状、終(つひ)に遷都(せんと)の儀を申止畢(まうしとどめをはん)ぬ。是等(これら)は皆山門の大事(だいじ)に非(あら)ずといへども、仏法(ぶつぽふと)与王法以相比故(ゆゑに)、被裁許者也(なり)。抑(そもそも)禅宗の摸様とする処は、宋朝の行儀、貴(たつと)ぶ処は祖師(そし)の行迹(かうせき)也(なり)。然(しかる)に今の禅僧之心操法則(しんさうほつそく)、皆是(これ)に相違(さうゐ)せり。其(その)故は、宋朝には西蕃(せいばん)の帝師とて、摩訶迦羅(まかから)天の法を修して朝家(てうか)の護持を致す真言師(しんごんし)あり。彼(か)れ上天(しやうてん)の下(した)、一人(いちじん)の上(うへ)たるべき依有約、如何なる大刹(だいせつ)の長老、大耆旧(ぎきう)の人も、路次(ろし)に行会(ゆきあふ)時は膝をかゞめて地に跪(ひざまづ)き、朝庭(てうてい)に参会する時は伸手沓(くつ)を取(とり)致礼といへり。我朝(わがてう)には不然、無行(ぶきやう)短才なれども禅僧とだに云(いひ)つれば、法務・大僧正(だいそうじやう)・門主・貫頂の座に均(ひとし)からん事を思へり。只今父母の養育(やういく)を出(いで)たる沙弥喝食(しやみかつしき)も、兄を超(こえ)父を越(こえ)んと志あり。是先(これまづ)仁義礼智信の法にはづる。曾(かつ)て宋朝に無例我朝(わがてう)に始(はじま)れり。言(ことば)は語録(ごろく)に似て、其(その)宗旨を説(とく)時は、超仏越祖(てうぶつをつそ)の手段有(あり)といへども、向利に、他之権貴(ごんき)に媚(こぶ)る時は、檀那(だんな)に諂(へつら)ひ富人(とめるひと)に不下と云(いふ)事なし。身には飾五色食には尽八珍(はつちん)、財産を授(うけ)て住持を望み、寄進(きしん)と号して寄沙汰をする有様、誠(まこと)に法滅の至りと見へたり。君子(くんしは)恥其言過其行と云(いへ)り。是(これ)豈(あに)知恥云乎(いはんや)。凡(およそ)有心人は信物化物(けもつ)をみじと可思。其(その)故は戒行(かいぎやう)も欠(かけ)、内証(ないしよう)も不明ば、所得の施物(せもつ)、罪業(ざいごふ)に非(あらず)と云(いふ)事なし。又道学の者に三機あり。上機は人我無相(じんがむさう)なれば心に懸(かか)る事なし。中機は一念浮(うか)べ共(ども)、人我無理を観(くわん)ずる故(ゆゑ)に二念と相続(あひつい)で無思事。下機(げき)は無相の理までは弁(べん)ぜね共(ども)、慙愧懺悔(ざんぎさんげ)の心有(あつ)て諸人を不悩慈悲の心あり。此外(このほか)に応堕地獄者有(ある)べしと見へたり。人の生渡を失はん事を不顧、他の難非(なんひ)を顕(あらは)す此等(これら)也(なり)。凡(およそ)寺を被建事も、人法(にんぼふ)繁昌(はんじやう)して僧法相対(あひたい)せば、真俗道(みち)備(そなはつ)て尤(もつとも)可然。宝堂荘厳(しやうごん)に事を寄(よせ)、奇麗厳浄(ごんじやう)を雖好と、僧衆無慈悲不正直にして、法を持(ぢ)し人を謗(ばう)して徒(いたづら)に明(あか)し暮(くら)さば、仏法興隆とは申難(まうしがた)かるべし。智識とは身命を不惜随逐給仕(ずゐちくきふじ)して諸有(しよう)所得の心を離(はなれ)て清浄(しやうじやう)を修すべきに、今禅の体(てい)を見るに、禁裏仙洞(きんりせんとう)は松門茅屋(しようもんばうをく)の如くなれば、禅家には玉楼金殿をみがき、卿相雲客(けいしやううんかく)は木食草衣(もくじきさうえ)なれば、禅僧は珍膳妙衣に飽(あ)けり。祖師(そしの)行儀如此ならんや。昔(むかし)摩羯陀国(まかだこく)の城中(じやうちゆう)に一人の僧あり。毎朝(まいてう)東に向(むかつ)ては快悦(くわいえつ)して礼拝(らいはい)し、北に向(むかつ)ては嗟嘆(さたん)して泪(なみだ)を流す。人怪(あやし)みて其謂(そのいはれ)を問(とふ)に答(こたへ)て云(いはく)、「東には山中に乗戒(じようかい)倶(とも)に急なる僧、樹下(じゆげ)石上に坐して、已(すで)に証(しよう)を得て年久し。仏法繁昌(はんじやう)す。故(ゆゑ)に是(これ)を礼(らい)す。北には城中(じやうちゆう)に練若(れんにや)あり。数十の堂塔甍(いらか)を双(なら)べ、仏像経巻(きやうくわん)金銀を鏤(ちりばめ)たり。此(ここ)に住する百千の僧俗、飲食衣服(おんじきえぶく)一(ひとつ)として乏(とぼ)しき事なし。雖然如来の正法を究(きは)めたる僧なし。仏法忽(たちまち)に滅(ほろぼ)しなんとす。故(ゆゑ)に毎朝嗟傷(さしやう)す。」と、是(これ)其証(そのしよう)也(なり)。如何に寺を被造共人の煩(わづら)ひ歎(なげき)のみ有(あつ)ては其益(そのえき)なかるべし。朝廷の衰微歎(なげい)て有余。是(これ)を見て山門頻(しきり)に禁廷(きんてい)に訴ふ。言之者(は)無咎、聞之者足以誡乎。然らば山門訴申(うつたへまうす)処有其謂歟(か)とこそ存(ぞんじ)候へ。」と、無憚処ぞ被申ける。此(この)両義相(あひ)分れて是非何れにかあると諸卿傾心弁旨かねたれば、満座鳴(なり)を静めたり。良有(ややあつ)て三条(さんでうの)源(げん)大納言(だいなごん)通冬(みちふゆ)卿(きやう)被申けるは、「以前の義は只天地各別の異論にて、可道行とも不存。縦(たとひ)山門(さんもんの)申(まうす)処雖事多、肝要は只正法(しやうほふと)与邪法の論也(なり)。然らば禅僧(ぜんそうと)与聖道召合(めしあは)せ宗論(しゆうろん)候へかしとこそ存(ぞんじ)候へ。さらでは難事行こそ候へ。凡(およそ)宗論(しゆうろん)の事は、三国の間先例(せんれい)多く候者を。朝参(てうさん)の余暇(よか)に、賢愚因縁経(いんねんきやう)を開(ひらき)見候(さふらひ)しに、彼祇園精舎(かのぎをんしやうじや)の始(はじめ)を尋(たづぬ)れば、舎衛国(しやゑこく)の大臣、須達長者(しゆだつちやうじや)、此(この)国(くに)に一(ひとつ)の精舎(しやうじや)を建(たて)仏を安置(あんち)し奉らん為に、舎利弗(しやりほつ)と共に遍(あまね)く聚落園林(しゆらくゑんりん)を廻(まはり)て見給ふに、波斯匿王(はしのくわう)の太子遊戯経行(いうげきやうぎやう)し給ふ祇陀園(ぎだゑん)に勝(すぐ)れたる処なしとて、長者、太子に此(この)地を乞(こひ)奉る。祇陀(ぎだ)太子(たいし)、「吾(われ)逍遥優遊(せうえういういう)の地也(なり)。容易(たやすく)汝(なんぢ)に難与。但(ただし)此(この)地に布余(しきあま)す程の金(きん)を以て可買取。」とぞ戯(たはむ)れ給(たまひ)ける。長者此(この)言誠(まこと)ぞと心得(こころえ)て、軈(やが)て数箇(すか)の倉庫を開き、黄金(わうごん)を大象に負(おふ)せ、祇陀園(ぎだゑん)八十頃(はちじつきやう)の地に布満(しきみち)て、太子に是(これ)を奉る。祇陀(ぎだ)太子(たいし)是(これ)を見給(たまひ)て、「吾言(わがことば)戯(たはむ)れ也(なり)。汝大願を発(おこ)して精舎を建(たて)ん為に此(この)地を乞(こふ)。何の故(ゆゑ)にか我(われ)是(これ)を可惜。早(はやく)此金(このこがね)を以て造功(ざうこう)の資(たすけ)に可成。」被仰ければ、長者掉首曰(いはく)、「国を可保太子たる人は仮(かり)にも不妄語。臣又苟(いやしくも)不可食言、何ぞ此金(このこがね)を可返給。」とて黄金(わうごん)を地に棄(すて)ければ、「此(この)上は無力。」とて金を収取(をさめとつ)て地を被与。長者大(おほき)に悦(よろこん)で、軈(やが)て此精舎(このしやうじや)を立(たて)んと欲(ほつ)する処に、六師外道(りくしげだう)、波斯匿王(はしのくわう)に参(まゐつ)て申(まうし)けるは、「祇陀(ぎだ)太子(たいし)、為瞿曇沙門(しやもん)須達(しゆたつ)に祇陀園(ぎだゑん)を与(あたへ)て精舎を建(たて)んとし給(たまふ)。此(この)国(くに)の弊(つひえ)民の煩(わづらひ)のみに非(あら)ず。世を失ひ国を保(たもち)給ふまじき事の瑞(ずゐ)也(なり)。速(すみやか)に是(これ)を停(とどめ)給へ。」とぞ訴へける。波斯匿王(はしのくわう)、外道(げだう)の申(まうす)処も有其謂、長者の願力も難棄案じ煩ひ給(たまひ)て、「さらば仏弟子(ぶつでし)と外道(げだう)とを召合(めしあは)せ神力を施(ほどこ)させ、勝負(しようぶ)に付(つけ)て事を可定。」被宣下しかば、長者是(これ)を聞(きい)て、「仏弟子(ぶつでし)の通力我(わが)足の上の一毛(いちもう)にも、外道は不及。」とぞ欺(あざむき)給ひける。さらばとて「予参(よさん)の日を定め、通力の勝劣を可有御覧。」被宣下。既(すでに)其(その)日(ひ)に成(なり)しかば、金鼓(きんこ)を打(うつ)て見聞(けんもん)の衆を集め給ふ。舎衛国(しやゑこく)の三億悉(ことごとく)集(あつまり)、重膝連座。斯(かか)る処に六師外道(りくしげだう)が門人、如雲霞早(はやく)参じて著座したるに、舎利弗(しやりほつ)は寂場樹下(じやくぢやうじゆげ)に禅座して定(ぢやう)より不出給。外道が門徒、「さればこそ、舎利弗(しやりほつ)我(わが)師の威徳に臆して退復(たいふく)し給ふ。」と笑欺(わらひあざむ)ける処に、舎利弗定(ぢやう)より起(たつ)て衣服を整(ととの)へ、尼師壇(にしだん)を左の肩に著け、歩(あゆ)む事如師子王来り給ふ。此(この)時不覚外道共五体(ごたい)を地に著(つけ)て臥(ふし)ける。座定(さだまつ)て後(のち)外道が弟子(でし)労度差(らうとしや)禁庭に歩出(あゆみいで)て、虚空(こくう)に向ひ目を眠(ねぶ)り口に文咒(もんをしゆ)したるに、百囲(ひやくゐ)に余る大木(たいぼく)俄(にはか)に生出(おひいで)て、花散春風葉酔秋霜。見(みる)人奇特(きどく)の思(おもひ)をなす。後に舎利弗(しやりほつ)口(くち)をすぼめて息を出し給ふに、旋嵐風(せんらんふう)となり、此(この)木を根より吹抜(ふきぬい)て地に倒(たふし)ぬ。労度差(らうとしや)又空に向(むかつ)て呪(しゆ)する。周囲三百里にみへたる池水俄(にはか)に湧出(ゆしゆつ)して四面皆七宝の霊池(れいち)となる。舎利弗(しやりほつ)又目を揚(あげ)て遥(はるか)に天を見給へば、一頭(いちづ)六牙(ろくげ)の白象(びやくざう)空中より下(くだ)る。一牙(いちげ)の上に各(おのおの)七宝の蓮花(れんげ)を生じ、一々の花の上に各七人(しちにん)の玉女あり。此象(このざう)舌を延(のべ)て、一口に彼(かの)池水を呑尽(のみつく)す。外道(げだう)又虚空(こくう)に向(むかつ)て且(しばらく)咒(しゆ)したるに、三(みつつ)の大山出現して上に百(ひやく)余丈(よぢやう)の樹木(うゑき)あり。其(その)花雲を凝(こら)し、其菓(そのこのみ)玉を連(つらね)たり。舎利弗(しやりほつ)爰(ここ)に手を揚(あげ)て、空中を招き給ふに、一(ひとり)の金剛力士、以杵此(この)山を如微塵打砕(うちくだ)く。又外道如先呪(しゆ)するに、十頭(じふづ)の大龍雲より下(くだつ)て雨を降(ふらし)雷(いかつち)を振(ふる)ふ。舎利弗又頭を挙(あげ)て空中を見給ふに、一の金翅鳥(こんじてう)飛来(とびきたり)、此(この)大龍を割喰(さきくらふ)。外道又咒(しゆ)するに、肥壮(ひさう)多力の鉄牛(てつぎう)一頭(いちづ)出来(いできたつ)て、地を■(はう)て吼(ほ)へ忿(いか)る。舎利弗一音(いちおん)を出(いだ)して咄々(とつとつ)と叱(しつ)し給ふに、奮迅(ふんじん)の鉄師子(くろがねのしし)走出(はしりいで)て此(この)牛を喰殺(くひころ)す。外道又座を起(たつ)て咒(しゆ)するに、長(たけ)十丈(じふぢやう)余(あまり)の一(ひとつの)鬼神を現(げん)ぜり。頭(かうべ)の上より火出(いで)て炎(ほのほ)天にあがり、四牙(よつのきば)剣(けん)よりも利(するど)にして、眼(まなこ)日月を掛(かけ)たるが如し。人皆怖(おそ)れ倒れて魂を消(けす)処に、舎利弗黙然(もくねん)として座し給ひたるに、多門天王(たもんてんわう)身には金色(こんじき)の胄(よろひ)を著(ちやく)し、手に降伏(がうぶく)の鋒(ほこ)をつきて出現し給ふに、此(この)鬼神怖畏(ふゐ)して忽(たちまち)に逃去(にげさり)ぬ。其後(そののち)猛火(みやうくわ)俄(にはか)に燃出(もえいで)、炎(ほのほ)盛(さかん)に外道が身に懸(かか)りければ、外道が門人悉(ことごと)く舎利弗(しやりほつ)の前に倒れ臥(ふし)て、五体(ごたい)を地に投(なげ)、礼(らい)をなし、「願(ねがはく)は尊者(そんじや)慈悲の心を起して哀愍(あいみん)し給へ。」と、己(おの)が罪をぞ謝(じや)し申(まうし)ける。此(この)時舎利弗慈悲忍辱(にんにく)の意を発(おこ)し、身を百千に化(け)し、十八(じふはち)変(へん)を現(げん)して、還(かへつ)て大座に著(つき)給ふ。見聞の貴賎(きせん)悉(ことごとく)宿福(しゆくふく)開発(かいほつ)し、随喜感動す。六師外道(りくしげだう)が徒(と)、一時に皆出家して正法宗(しやうほふしゆう)に帰服す。是(これ)より須達(しゆだつ)長者願望(ぐわんまう)を遂(とげ)て、祇園精舎(ぎをんしやうじやを)建(たて)しかば、厳浄(ごんじやう)の宮殿微妙(みめう)の浄刹(じやうせつ)、一生(いつしやう)補処(ふしよ)の菩薩(ぼさつ)、聖衆(しやうじゆ)此(この)中に来至(らいし)し給(たま)へば、人天大会(にんてんだいゑ)悉(ことごとく)渇仰(かつがう)の頭(かうべ)を傾(かたぶけ)ける。又異朝に後漢の顕宗(けんそう)皇帝(くわうてい)、永平十四年八月十六日(じふろくにち)の夜、如日輪光明を帯(おび)たる沙門(しやもん)一人、帝(みかど)の御前(おんまへ)に来(きたつ)て空中に立(たち)たりと御夢(おんゆめ)に被御覧、夙(つと)に起(おき)て群臣(ぐんしん)を召(めし)て御夢(おんゆめ)を問給(とひたまふ)に、臣傅毅(ふぎ)奏曰(そうしていはく)、「天竺(てんぢく)に大聖(だいしやう)釈尊とて、独(ひとり)の仏出世(しゆつせ)し給ふ。其(その)教法此(この)国(くに)に流布(るふ)して、万人彼化導(かのけだう)に可預御瑞夢(ずゐむ)也(なり)。」と合(あは)せ申(まうし)たりしが、果して摩騰(まとう)・竺法蘭(ぢくほふらん)、仏舎利(ぶつしやり)、並(ならびに)四十二章経(しやうきやう)を渡す。帝(みかど)尊崇し給(たまふ)事無類。爰(ここ)に荘老の道を貴(たつとん)で、虚無自然理(きよぶしぜんのり)を専(もつぱら)にする道士(だうし)列訴(れつそ)して曰(いはく)、「古(いにしへ)五帝三皇の天下(てんが)に為王より以来(このかた)、以儒教仁義を治(をさ)め、以道徳淳朴(じゆんぼく)に帰(き)し給ふ。而(しか)るに今摩騰(まとう)法師等(ほふしら)、釈氏(しやくし)の教(をしへ)を伝へて、仏骨の貴(たつと)き事を説く。内聖外王(だいせいぐわいわう)の儀に背(そむ)き、有徳無為(いうとくぶゐ)の道に違(たが)へり。早く彼(かの)法師を流罪(るざい)して、太素(たいそ)の風(ふう)に令復給(たまふ)べし。」とぞ申(まうし)ける。依之(これによつて)、「さらば道士(だうし)と法師とを召合(めしあは)せて、其(その)威徳の勝劣を可被御覧。」とて、禁闕(きんけつ)の東門(とうもん)に壇(だん)を高く築(つい)て、予参(よさん)の日をぞ被定ける。既(すでに)其の日に成(なり)しかば、道士(だうし)三千七百人(さんぜんしちひやくにん)胡床(こしやう)を列(つらね)て西に向ひ座す。沙門(しやもん)摩騰(まとう)法師は、草座(さうざ)を布(しい)て東に向ひ座したりけり。其後(そののち)道士等(だうしら)、「何様(いかやう)の事を以て、勝負を可決候や。」と申せば、「唯(ただ)上天入地擘山握月術(じゆつ)を可致。」とぞ被宣下ける。道士等(だうしら)是(これ)を聞(きい)て大(おほき)に悦び、我等(われら)が朝夕為業所なれば、此(この)術不難とて、玉晨君(ぎよくしんくん)を礼(らい)し、焚芝荻呑気向鯨桓審、昇天すれども不被上、入地すれども不被入、まして擘山すれども山不裂、握月すれども月不下。種々の仙術(せんじゆつ)皆仏力に被推不為得しか、万人拍手笑之。道士(だうし)低面失機処に、摩騰(まとう)法師、瑠璃(るり)の宝瓶(はうびやう)に仏舎利を入(いれ)て、左右の手に捧(ささげ)て虚空(こくう)百(ひやく)余丈(よぢやう)が上に飛上(とびあがつ)てぞ立(たち)たりける。上(うへ)に著(つく)所なく下(した)に踏(ふむ)所なし。仏舎利より放光明、一天(いつてん)四海(しかい)を照(てら)す。其(その)光金帳(きんちやう)の裏(うち)、玉■(ぎよくい)の上まで耀(かかや)きしかば、天子・諸侯・卿大夫(けいたいふ)・百寮(ひやくれう)・万民悉(ことごとく)金色(こんじき)の光に映(えい)ぜしかば、天子自(みづから)玉■(ぎよくい)を下(おり)させ給(たまひ)て、五体(ごたい)を投地礼(らい)を成し給へば、皇后(くわうぐう)・元妃(げんび)・卿相(けいしやう)・雲客(うんかく)、悉(ことごとく)信仰(しんがう)の首(かうべ)を地に著(つけ)て、随喜(ずゐき)の泪(なみだ)を袖に余す。懸(かか)りしかば確執(かくしつ)せし道士共(だうしども)も翻邪信心銘肝つゝ、三千七百(さんぜんしちひやく)余人(よにん)即時(そくじ)に出家して摩騰(まとう)の弟子(でし)にぞ成(なり)にける。此(この)日(ひ)頓(やが)て白馬寺(はくばじ)を建(たて)て、仏法を弘通(ぐづう)せしかば、同時に寺を造(つくる)事、支那四百州の中に一千七百三箇所(いつせんしちひやくさんかしよ)なり。自是漢土の仏法は弘(ひろま)りて遺教(ゆゐけう)于今流布(るふ)せり。又我朝(わがてう)には村上天皇(むらかみてんわう)の御宇(ぎよう)応和元年に、天台(てんだい)・法相(ほつさう)の碩徳を召(めし)て宗論(しゆうろん)有(あり)しに、山門よりは横川(よかはの)慈慧(じゑ)僧正(そうじやう)、南都よりは松室(まつむろの)仲■已講(ちゆうざんいかう)ぞ被参ける。予参(よさんの)日(ひ)に成(なり)しかば、仲■(ちゆうざん)既(すでに)南都を出(いで)て上洛(しやうらく)し給(たまひ)けるに、時節(をりふし)木津河(きづかは)の水出(いで)て舟も橋もなければ、如何せんと河の辺(ほとり)に輿(こし)を舁居(かきすゑ)させて、案じ煩給(わづらひたまひ)たる処に、怪気(あやしげ)なる老翁一人現(げん)して、「何事に此(この)河の辺(ほとり)に徘(やす)らひ給(たまふ)ぞ。」と問(とひ)ければ、仲■(ちゆうざん)、「宗論(しゆうろん)の為に召(めさ)れて参内(さんだい)仕るが、洪水(こうずゐ)に河を渡り兼(かね)て、水の干落(ひおつ)る程を待(まつ)也(なり)。」とぞ答(こたへ)給ひける。老翁笑(わらつ)て、「水は深し智は浅し、潜鱗水禽(せんりんすゐきん)にだにも不及、以何可致宗論(しゆうろん)。」と恥(はぢ)しめける間、仲■(ちゆうざん)誠(げにも)と思(おもひ)て、十二人(じふににん)の力者(りきしや)に、「只水中を舁通(かきとほ)せ。」とぞ下知(げぢ)し給ひける。輿舁(こしかき)、「さらば。」とて水中を舁(かい)て通るに、さしも夥(おびたた)しき洪水左右に■(ばつ)と分れて、大河俄(にはか)に陸地(くがち)となる。供奉(ぐぶ)の大衆(だいしゆ)悉(ことごとく)足をも不濡渡(わたり)けり。慈慧(じえ)僧正(そうじやう)も、比叡山(ひえいさん)西坂下松(さがりまつ)の辺(へん)に車を儲(まうけ)させて下洛し給ふに、鴨河の水漲出(みなぎりいで)、逆浪(さかなみ)浸岸茫茫たり。牛童(うしわらは)扣轅如何と立(たち)たる処に、水牛(すゐぎう)一頭(いちづ)自水中游出(およぎいで)て車の前にぞ喘(あへ)ぎける。僧正(そうじやう)、「此(この)牛に車を懸替(かけかへ)て水中を遣(やれ)。」とぞ被仰ける。牛童(うしわらは)随命水牛に車を懸け一鞭(いちべん)を当(あて)たれば、飛(とぶ)が如く走出(はしりいで)て、車の轅(ながえ)をも不濡、浪の上三十(さんじふ)余町(よちやう)を游(およぎ)あがり、内裏(だいり)の陽明門(やうめいもん)の前にて、水牛は書消様(かきけすやう)に失(うせ)にけり。両方の不思議(ふしぎ)奇特(きどく)、皆権者(ごんじや)とは乍云、類(たぐひ)少(すくな)き事共(ことども)也(なり)。去(さる)程(ほど)に清涼殿に師子(しし)の座を布(しい)て、問者(もんじや)・講師(かうし)東西に相対(あひたい)す。天子は南面にして、玉■(ぎよくい)に統■(とうくわう)を挑(かか)げさせ給へば、臣下は北面にして、階下(かいか)に冠冕(くわんべん)を低(うちた)る。法席既(すで)に定(さだまつ)て、僧正(そうじやう)は草木成仏(さうもくじやうぶつ)の義を宣(のべ)給へば、仲■(ちゆうざん)は五性(ごしやう)各別の理を立(たて)て難じて曰(いはく)、「非情草木雖具理仏性、無行仏性、無行仏性何有成仏義。但有文証者暫可除疑。」と宣(のたまひ)しかば、慈慧僧正(そうじやう)則(すなはち)円覚経(ゑんかくきやう)の文を引(ひい)て、「地獄天宮皆為浄土(じやうど)、有性無性斉成仏道。」と誦(じゆ)し給ふ。仲■(ちゆうざん)此(この)文に被詰て暫(しばらく)閉口し給(たまふ)処に、法相擁護(ほつしやうおうご)の春日(かすが)大明神(だいみやうじん)、高座の上に化現坐(けげんましまし)て、幽(かすか)なる御声(みこゑ)にて此(この)文点(もんてん)を読替(よみかへ)て教(をしへ)させ給(たまひ)けるは、「地獄天宮皆為浄土(じやうど)、有性も無性も斉(ひとしく)成仏道。」と、慈慧僧正(そうじやう)重(かさね)て難じて曰(いはく)、「此(この)文点(もんてん)全(まつたく)法文(ほふもん)の心に不叶。一草(いつさう)一木各(かく)一因果、山河大地同一仏性の故(ゆゑ)に、講答(かうたふ)既(すで)に許具理仏性。若(もし)乍具理仏性、遂(つひに)無成仏時ば、以何曰仏性耶(や)。若(もし)又雖具仏性、言不成仏者、有情(うじやう)も不可成仏、有情(うじやう)の成仏(じやうぶつ)は依具理仏性故(ゆゑ)也(なりと)。」難じ給(たまひ)しかば、仲■(ちゆうざん)無言黙止給(もだしたまひ)けるが、重(かさね)て答(こたへ)て曰(いはく)、「草木成仏無子細、非情までもあるまじ。先(まづ)自身成仏(じやうぶつ)の証(しよう)を顕(あらは)し給はずば、以何散疑。」と宣(のたま)ひしかば、此(この)時慈慧僧正(そうじやう)言(ことば)を不出、且(しばし)が程黙座(もだしざ)し給ふとぞ見へし。香染(かうぞめ)の法服(ほふふく)忽(たちまち)に瓔珞細■(やうらくさいなん)の衣(ころも)と成(なつ)て、肉身卒(にはか)に変じて、紫磨黄金(しまわうごん)の膚(はだへ)となり、赫奕(かくやく)たる大光明十方に遍照(へんぜう)す。されば南庭(なんてい)の冬木(とうぼく)俄(にはか)に花開(ひらい)て恰(あたかも)春二三月の東風に繽紛(ひんぶん)たるに不異。列座(れつざ)の三公(さんこう)九卿(きうけい)も、不知不替即身、至華蔵世界土、妙雲如来下(によらいのもと)に来(きたる)かとぞ覚(おぼえ)ける。爰(ここ)に仲■(ちゆうざん)少(すこし)欺(あざむけ)る気色(きしよく)にて、揚如意敲席云(いはく)、「止々、不須説、我法妙難思。」と誦(じゆ)し給ふ。此(この)時慈慧僧正(そうじやう)の大光明忽(たちまちに)消(きえ)て、本(もと)の姿(すがた)に成(なり)給ひにけり。是(これ)を見て、藤氏(とうし)一家(いつけ)の卿相雲客(けいしやううんかく)は、「我氏寺(わがうぢでら)の法相宗(ほつさうしゆう)こそ勝(すぐ)れたれ。」と我慢の心を起して、退出し給(たまひ)ける処に、門外に繋(つながれ)たる牛、舌を低(たれ)て涎(よだれ)を唐居敷(からゐしき)に残(のこ)せるを見給へば、慥(たしか)に一首(いつしゆ)の歌にてぞ有(あり)ける。草も木も仏になると聞(きく)時は情(こころ)有(ある)身のたのもしき哉(かな)是則(これすなはち)草木成仏(じやうぶつ)の証歌也(なり)。春日(かすが)大明神(だいみやうじん)の示(しめし)給ひけるにや。何(いづ)れを勝劣(しようれつ)とも難定(さだめがたし)。理(ことわりなる)哉(かな)、仲■(ちゆうざん)は千手(せんじゆ)の化身(けしん)、慈慧は如意輪(によいりん)の反化(へんげ)也(なり)。されば智弁言説(ちべんごんせつ)何(いづ)れもなじかは可劣、唯(ただ)雲間(うんかん)の陸士竜(りくしりよう)、日下(じつか)の荀鳴鶴(しゆんめいかく)が相逢(あひあふ)時の如く也(なり)。而(しかれ)ば法相(ほつさう)者(は)六宗の長者たるべし。天台(てんだい)者(は)諸宗の最頂(さいちやう)也(なり)と被宣下、共に眉目(びぼく)をぞ開(ひらき)ける。抑(そもそも)天台(てんだい)の血脈(けつみやく)は、至師子尊者絶(たえ)たりしを、緬々(はるばる)世隔(へだたつ)て、唐朝の大師(だいし)南岳(なんがく)・天台(てんだい)・章安(しやうあん)・妙楽、自解仏乗(じげぶつじよう)の智を得て、金口(こんく)の相承(さうじよう)を続(つぎ)給ふ。奇特(きどく)也(なり)といへども、禅宗は是(これ)を髣髴(はうふつ)也(なり)と難じ申(まうす)。又禅の立(たつ)る所は、釈尊大梵王(だいほんわん)の請(しやう)を受(うけ)て、於■利天(たうりてん)法を説(とき)給ひし時、一枝(いつし)の花を拈(ねん)じ給ひしに、会中(ゑちゆうの)比丘衆(びくしゆ)無知事。爰(ここに)摩訶迦葉(まかかせふ)一人破顔微笑(はがんみせう)して、拈花瞬目(ねんげしゆんもく)の妙旨(めうし)を以心伝心たり。此(この)事大梵天王(てんわう)問仏決疑経(もんぶつけつぎきやう)に被説たり。然るを宋朝の舒王(じよわう)翰林(かんりん)学士たりし時、秘して官庫に収めし後、此(この)経失(うしなひ)たりと申(まうす)条、他宗の証拠(しようご)に不足と、天台(てんだい)は禅を難じ申(まうし)て邪法と今も訴へ候上は、加様(かやう)の不審をも此次(このついで)に散度(さんじたく)こそ候へ。唯禅(ぜんと)与天台(てんだい)被召合宗論(しゆうろん)を被致候へかし。」とぞ被申ける。此(この)三儀是非(ぜひ)区(まちまち)に分れ、得失互に備(そなは)れり。上衆(じやうしゆ)の趣(おもむき)何(いづ)れにか可被同と、閉口屈旨(くつしし)たる処に、二条(にでうの)関白殿(くわんばくどの)申させ給(たまひ)けるは、「八宗派(はちしゆうは)分れて、末流道(みち)異(こと)也(なり)といへども、共に是(これ)師子吼無畏(ししくむゐ)の説に非(あらず)と云(いふ)事なし。而(しか)るに何(いづ)れを取り何(いづ)れを可捨。縦(たとひ)宗論(しゆうろん)を致す共、天台(てんだい)は唯受(ゆゐじゆ)一人の口決(くけつ)、禅家は没滋味(もつじみ)の手段、弁理談玄とも、誰か弁之誰か会之。世澆季(げうき)なれば、如摩騰虚空(こくう)に立(たつ)人もあらじ、慈恵大師(だいし)の様(やう)に、即身(そくしん)成仏(じやうぶつ)する事もあるべからず。唯(ただ)如来(によらい)の権実(ごんじつ)徒(いたづら)に堅石(けんせき)白馬の論となり、祖師(そし)の心印空(むなし)く叫騒怒張(けうさうどちやう)の中に可堕。凡(およそ)宗論(しゆうろん)の難(かた)き事我(われ)曾(かつて)听(きき)ぬ。如来滅後(めつご)一千一百年(いつせんいつぴやくねん)を経(へ)て後、西天(さいてん)に護法(ごほふ)・清弁(じやうべん)とて二人(ににん)の菩薩(ぼさつ)坐(ましまし)き。護法菩薩(ごほふぼさつ)は法相宗(ほつさうしゆう)の元祖(ぐわんそ)にて、有相(うさう)の義を談(だん)じ、清弁(じやうべん)菩薩(ぼさつ)は三論宗(さんろんしゆう)の初祖(しよそ)にて、諸法の無相なる理を宣(のべ)給ふ。門徒二(ふたつ)に分れ、是彼非此。或時此(この)二菩薩(にぼさつ)相逢(あひあう)て、空有(くうう)の法論を致し給ふ事七日七夜(なぬかななよ)也(なり)。共に富楼那(ふるな)の弁舌(べんぜつ)を仮(かつ)て、智三千界を傾(かたぶけ)しかば、無心の草木も是(これ)を随喜(ずゐき)して、時ならず花を開(ひら)き、人を恐るゝ鳥獣も、是(これ)を感嘆(かんたん)して可去処を忘れたり。而(しか)れども論義遂(つひ)に不休、法理両篇に分れしかば、よしや五十六億七千万歳(ごじふろくおくしちせんまんさい)を経(へ)て、慈尊の出世し給はん時、臨会座可散此疑とて、護法菩薩(ごほふぼさつ)は蒼天の雲を分ち遥(はるか)に都率天宮(とそつてんぐう)に上(のぼ)り給へば、清弁(じやうべん)菩薩(ぼさつ)は青山の岩を擘(つんざき)、脩羅窟(しゆらくつ)に入給(いりたまひ)にけり。其後(そののち)花厳(けごん)の祖師(そし)香象(かうざう)、大唐(だいたう)にして此空有(このくうう)の論を聞(きき)て、色即是空(しきそくぜくう)なれば護法の有(う)をも不嫌、空即是色(くうそくぜしき)なれば清弁(じやうべん)の空(くう)をも不遮と、二宗を会(ゑ)し給(たまひ)けり。上古の菩薩(ぼさつ)猶(なほ)以(もつて)如斯、況(いはんや)於末世比丘哉(や)。されば宗論(しゆうろん)の事は強(あながち)に無其詮候歟(か)。とても近年天下(てんが)の事、小大(なに)となく皆武家の計(はからひ)として、万(よろ)づ叡慮にも不任事なれば、只山門の訴申(うつたへまうす)処如何可有と、武家へ被尋仰、就其返事聖断(せいだん)候べきかとこそ存(ぞんじ)候へ。」とぞ被申ける。諸卿皆此義(このぎ)可然と被同、其(その)日(ひ)の議定(ぎじやう)は終(はて)にけり。さらばとて次(つぎの)日(ひ)軈(やが)て山門の奏状(そうじやう)を武家へ被下、可計申由被仰下しかば、将軍・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)諸共(もろとも)に、山門の奏状を披見(ひけん)して、「是(これ)はそも何事ぞ。建寺尊僧とて山門の所領をも不妨、衆徒の煩(わづらひ)にもならず、適(たまたま)公家(くげ)武家帰仏法大善事を修(しゆ)せば、方袍円頂(はうはうゑんちやう)の身としては、共に可悦事にてこそあるに、障碍(しやうげ)を成(なさ)んとする条返々(かへすがへす)不思議(ふしぎ)也(なり)。所詮神輿入洛(しんよじゆらく)あらば、兵(つはもの)を相遣(あひつかは)して可防。路次に振棄(ふりすて)奉らば、京中(きやうぢゆう)にある山法師(やまほふし)の土蔵(どざう)を点(てん)じ、造替(つくりかへ)させんに何(なん)の痛(いたみ)か可有。非拠(ひぎよ)の嗷訴(がうそ)を被棄置可被遂厳重供養。」と奏聞(そうもん)をぞ被経ける。武家如斯申沙汰(まうしさた)する上は、公家何(なん)ぞ可及異儀とて、已(すで)に事厳重なりしかば、列参(れつさん)せし大衆(だいしゆ)、徒(いたづら)に款状(くわじやう)を公庭(きんてい)に被棄て、失面目登山(とうさん)ず。依之(これによつて)三千(さんぜん)の大衆(だいしゆ)憤(いきどほり)不斜(なのめならず)。されば可及嗷訴とて、康永四年八月十六日(じふろくにち)、三社の神輿(しんよ)を中堂へ上(あげ)奉り、祇園(ぎをん)・北野(きたの)の門戸(もんこ)を閉(とぢ)、師子(しし)・田楽(でんがく)庭上(ていじやう)に相列(あひつらな)り、神人(じんにん)・社司(しやし)御前(ごぜん)に奉仕(ぶし)す。公武の成敗(せいばい)拘(かかは)る処なければ、山門の安否(あんぴ)此(この)時に有(あり)と、老若(らうにやく)共(ども)に驚嘆す。角(かく)ては猶(なほ)も不叶とて、同(おなじき)十七日(じふしちにち)、剣(つるぎ)・白山(しらやま)・豊原(とよはら)・平泉寺(へいせんじ)・書写(しよしや)・法花寺(ほつけじ)・多武峯(たふのみね)・内山(うちやま)・日光・太平寺(たいへいじ)、其外(そのほか)の末寺末社(まつじまつしや)、三百七十(さんびやくしちじふ)余箇所(よかしよ)へ触送(ふれおく)り、同(おなじき)十八日、四箇の大寺に牒送(てふそう)す。先(まづ)興福寺(こうぶくじ)へ送る。其牒状(そのてふじやうに)云(いはく)、延暦寺(えんりやくじ)牒興福寺(こうぶくじ)衙。可早任先規致同心訴被停止天竜寺(てんりゆうじ)供養儀■令断絶禅室興行子細状。右大道高懸、均戴第一(だいいち)義天之日月、教門広開互斟無尽蔵海之源流。帝徳安寧之基、仏法擁護之要、遐迩勠力彼此同功、理之所推、其来尚矣。是以対治邪執、掃蕩異見之勤、自古覃今匪懈。扶翼朝家修整政道之例、貴寺当山合盟専起先聖明王之叡願、深託尊神霊祇之冥鑑。国之安危、政之要須、莫先於斯。誰処聊爾。爰近年禅法之興行喧天下(てんが)、暗証之朋党満人間。濫觴雖浅、已揚滔天之波瀾。■火不消、忽起燎原之烟■。本寺本山之威光、白日空被掩蔽、公家武家之偏信、迷雲遂不開晴。若不加禁遏者、諸宗滅亡無疑。伝聞、先年和州片岡山達磨寺、速被焼払之、其住持法師被処流刑、貴寺之美談在茲。今般先蹤弗遠。而今就天竜寺(てんりゆうじ)供養之儀、此間山門及再往之訟。今月十四日院宣云、今度儀非勅命云云。仍休鬱訴属静謐之処、勅言忽有表裏、供養殊増厳重。院司公卿以下有限之職掌等、悉以可令参行之(の)由(よし)有其聞。朝端之軌則、理豈可然乎。天下(てんが)之(の)謗議、言以不可欺。吾山已被処無失面目。神道元来如在、盍含忿怒。於今者再帰本訴、屡奉驚上聞。所詮就天竜寺(てんりゆうじ)供養、院中之御沙汰(ごさた)、公卿之参向以下一向被停止之、又於御幸者、云当日云翌日共以被罷其儀。凡又為令断絶禅法興行先被放疎石於遠島、於禅院者不限天竜一寺、洛中(らくちゆう)洛外大小寺院、悉以破却之、永掃達磨宗之蹤跡宜開正法輪之弘通。是専釈門之公儀也(なり)。尤待貴寺之与同焉。綺已迫喉、不可廻踵。若有許諾者、日吉神輿入洛之時、春日神木同奉勧神行、加之或勧彼寺供養之奉行、或致著座催促之領掌藤氏月卿(げつけい)雲客(うんかく)等、供養以前悉以被放氏、其(その)上(うへ)猶押而有出仕之人者、貴寺■山門放遣寺家・社家之神人・公人等、臨其家々可致苛法之沙汰之(の)由(よし)、不日可被触送也(なり)。此等条々衆儀無令停滞。返報不違先規者、南北両門之和睦、先表当時之太平、自他一揆(いつき)之始終、欲約将来之長久、論宗旨於公庭則、雖似有兄弟鬩墻之争、寄至好於仏家則、復須共楚越同舟之志。早成当機不拘之義勢、速聞見義即勇之歓声。仍牒送如件。康永四年八月日とぞ書(かき)たりける。山門既(すで)に南都に牒送すと聞へしかば、返牒(へんでふ)未送(いまだおくらざる)以前にとて、院司(ゐんし)の公卿(くぎやう)藤氏の雄臣等(ゆうしんら)参列して被歎申けるは、「自古山門の訴訟者(は)以非為理事不珍候。其(その)上(うへ)今度の儀は、旁(かたかた)申(まうす)処有其謂歟(かと)存(ぞんじ)候。就中(なかんづく)行仏事貴僧法事も天下(てんが)無為(ぶゐ)にてこそ其詮(そのせん)も候へ。神輿神木入洛有(じゆらくあつ)て、南都北嶺及嗷訴者、武家何(なん)と申共(まうすとも)、静謐の儀なくば法会(ほふゑ)の違乱(ゐらん)なるべし。角(かく)て又叡願も徒(いたづら)に成(なり)ぬと存(ぞんじ)候。只速(すみやか)に有聖断衆徒の鬱訴(うつそ)を被宥、其後(そののち)御心(おんこころ)安く法義大会(ほふぎだいゑ)をも被行候へかし。」と様々に被申しかば、誠(げ)にも近年四海(しかい)半(なかば)は乱(みだれ)て一日も不安居、此(この)上に又南北神訴(しんそ)に及び、衆徒鬱憤(うつふん)して忿(いか)らば、以外の珍事(ちんじ)なるべしとて、枉諸事先(まづ)院宣を被成下、「勅願の義を被停止、為御結縁翌日に御幸(ごかう)可成。」被仰ければ、山門是(これ)に静りて、神輿忽(たちまち)に御帰座有(きざあり)しかば、陣頭警固(けいご)の武士も皆馬の腹帯(はるび)を解(とい)て、末寺末社の門戸(もんこ)も参詣の道をぞ開きける。
○天竜寺(てんりゆうじ)供養(くやうの)事(こと)付(つけたり)大仏供養(くやうの)事(こと) S2404
此(この)上は武家の沙汰として、当日の供養をば執行(とりおこな)ひ、翌日に御幸(ごかう)可有とて、同(おなじき)八月二十九日、将軍並(ならびに)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)路次の行装(ぎやうさう)を調(ととのへ)て、天竜寺(てんりゆうじ)へ被参詣けり。貴賎岐(ちまた)に充満(みちみち)て、僧俗彼(か)れに成群、前代未聞(ぜんだいみもん)の壮観(さうくわん)也(なり)。先(まづ)一番に時の侍所(さむらひどころ)にて山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏、声花(はなやか)に冑(よろ)ふたる兵(つはもの)五百(ごひやく)余騎(よき)を召具(めしぐ)して先行(せんかう)す。其(その)次に随兵(ずゐひやう)の先陣にて、武田(たけだの)伊豆(いづの)前司(ぜんじ)信氏・小笠原兵庫(ひやうごの)助(すけ)政長・戸次(とつきの)丹後(たんごの)守(かみ)頼時・伊東大和(やまとの)八郎左衛門(はちらうざゑもんの)尉(じよう)祐煕(すけひろ)・土屋(つちや)備前(びぜんの)守(かみ)範遠(のりとほ)・東中務(ひがしのなかつかさの)丞(じよう)常顕(つねあき)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)入道(にふだうが)息男四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)秀定・同近江(あふみの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)氏綱・大平(おほひら)出羽(ではの)守(かみ)義尚(よしなほ)・粟飯原(あひばら)下総(しもふさの)守(かみ)清胤・吉良(きら)上総(かづさの)三郎満貞・高(かうの)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)師兼(もろかぬ)、以上十二人(じふににん)、色々の糸毛(いとげ)の胄(よろひ)に烏帽子懸(ゑぼしかけ)して、太く逞(たくまし)き馬に、厚総(あつふさ)懸(かけ)て番(つがひ)たり。三番には帯刀(たてはき)にて武田(たけだの)伊豆(いづの)四郎・小笠原七郎(しちらう)・同又三郎(またさぶらう)・三浦駿河(するがの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・同越中(ゑつちゆうの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・二階堂(にかいだう)美作次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・同対馬(つしまの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)・同佐渡(さどの)四郎・海老名(えびなの)尾張(をはりの)六郎(ろくらう)・平賀(ひらがの)四郎・逸見(へんみの)八郎(はちらう)・小笠原太郎次郎、以上十六人、染尽(そめつく)したる色々の直垂(ひたたれ)に、思々(おもひおもひ)の太刀帯(はい)て、二行に歩(あゆ)み連(つらね)たり。其(その)次に正(じやう)二位(にゐ)大納言征夷大将軍源(みなもとの)朝臣(あそん)尊氏(たかうぢ)卿(きやう)、小八葉(こはちえふ)の車の鮮(あざやか)なるに簾(すだれ)を高く揚(あげ)げ、衣冠(いくわん)正く乗給(のりたまひ)ける。五番には後陣(ごぢん)の帯刀(たちはき)にて設楽(しだら)五郎兵衛(ごらうびやうゑの)尉(じよう)・同六郎(ろくらう)、寺岡兵衛五郎・同次郎・逸見(へんみの)又三郎(またさぶらう)・同源太・小笠原蔵人・秋山新(しん)蔵人(くらんど)・佐々木(ささきの)出羽(ではの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・同近江(あふみの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・富永四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・宇佐美三河(みかはの)守(かみ)・清久(きよくの)左衛門次郎(さゑもんじらう)・森(もりの)長門(ながとの)四郎・曾我左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・伊勢(いせの)勘解由左衛門(かげゆざゑもんの)尉(じよう)、以上十六人、衣服帯剣(たいけん)如先、行列の次等をぞ守(まもり)ける。其(その)次に参議正三位(じやうさんみ)行兼(ぎやうけん)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)源(みなもとの)朝臣(あそん)直義(ただよし)、巻纓(まきふさの)老懸(おいかけ)に蒔絵(まきゑ)の細太刀帯(はい)て、小八葉(こはちえふ)の車に乗れり。七番には役人にて、南部遠江守(とほたふみのかみ)宗継・高(かうの)播磨(はりまの)守(かみ)師冬二人(ににん)は御剣(ぎよけん)の役。長井(ながゐ)大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)広秀・同治部(ぢぶの)少輔(せう)時春御沓(おんくつ)の役。佐々木(ささきの)吉田(よしだの)源左衛門(げんざゑもんの)尉(じよう)秀長・同加地(かぢの)筑前三郎左衛門(さぶらうざゑもん)貞信は御調度(おんてうど)の役。和田越前守(ゑちぜんのかみ)宣茂(のぶしげ)・千秋(せんしう)三河(みかはの)左衛門大夫惟範(これのり)は御笠(おんかさ)の役、以上八人(はちにん)、布衣(ほい)に上括(うはくくり)して列を引(ひく)。八番には高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直・上杉弾正少弼(せうひつ)朝貞(ともさだ)・高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)師泰・上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能・大高(だいかう)伊予(いよの)守(かみ)重成・上杉左馬(さまの)助(すけ)朝房(ともふさ)、布衣(ほい)に下括(したくくり)して、半靴(はんくつ)著(はい)て、二騎充(づつ)左右に打並(うちならび)たり。九番には、後陣(ごぢん)の随兵(ずゐひやう)、足利尾張(をはりの)左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)氏頼・千葉(ちばの)新介(しんすけ)氏胤・二階堂(にかいだう)美濃(みのの)守(かみ)行通(ゆきみち)・同山城三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)行光(ゆきみつ)・佐竹掃部(かもんの)助(すけ)師義・同和泉(いづみの)守(かみ)義長・武田(たけだの)甲斐(かひの)前司(ぜんじ)盛信・伴野(ともの)出羽(ではの)守(かみ)長房・三浦遠江守(とほたふみのかみ)行連(ゆきつら)・土肥(とひの)美濃(みのの)守(かみ)高実(たかさね)、以上十人(じふにん)、戎衣甲冑(じういかつちう)何(いづ)れも金玉を磨(みがき)たり。十番には外様(とざま)の大名五百(ごひやく)余騎(よき)、直垂著(ひたたれぎ)にて相随(あひしたがふ)。土佐(とさの)四郎・長井(ながゐ)修理(しゆりの)亮(すけ)・同丹波(たんばの)左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)・摂津(つの)左近(さこんの)蔵人(くらんど)・城(じやうの)丹後(たんごの)守(かみ)・水谷刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)・二階堂(にかいだう)安芸(あきの)守(かみ)・同山城(やましろの)守(かみ)・中条(ちゆうでう)備前(びぜんの)守(かみ)・薗田(そのた)美作(みまさかの)権(ごんの)守(かみ)・町野加賀(かがの)守(かみ)・佐々木(ささきの)豊前(ぶぜんの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・結城三郎・梶原河内(かはちの)守(かみ)・大内民部(みんぶの)大夫(たいふ)・佐々木(ささきの)能登(のとの)前司(ぜんじ)・太平(おほひら)六郎左衛門(ろくらうざゑもんの)尉(じよう)・狩野(かのの)下野三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)・里見(さとみ)蔵人(くらんど)・島津下野(しもつけの)守(かみ)・武田(たけだの)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・同八郎(はちらう)・安保(あぶ)肥前(ひぜんの)守(かみ)・土屋三河(みかはの)守(かみ)・小幡(をばた)右衛門(うゑもんの)尉(じよう)・疋田(ひきだ)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)・寺岡九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)・田中下総(しもふさの)三郎・須賀(すかの)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・赤松美作(みまさかの)権(ごんの)守(かみ)・同次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・寺尾新蔵人、以上三十二人(さんじふににん)打混(うちこみ)に、不守次第打(うつ)たりけり。此(この)後は吉良(きら)・渋河・畠山・仁木(につき)・細川を始(はじめ)として、宗(むね)との氏族、外様(とさま)の大名打混(うちこみ)に弓箭兵杖(きゆうせんひやうぢやう)を帯(たい)し、思々(おもひおもひ)の馬鞍(むまくら)にて、大宮(おほみや)より西郊(にしのをか)まで、無透間袖を連(つらね)て支(ささ)へたり。薄馬場(すすきのばば)より、随兵(ずゐひやう)・帯刀(たてはき)・直垂著(ひたたれぎ)・布衣(ほい)の役人、悉(ことごとく)守次第列を引く。已(すで)に寺門に至(いたり)しかば、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)秀綱検非違使(けびゐし)にて、黒袴著(ちやく)せる走下部(わしりしもべ)、水干(すいかん)直垂(ひたたれ)、金銀を展(のべ)たる如木(しよぼく)の雑色(ざふしき)、粲(さわやか)に胄(よろう)たる若党(わかたう)三百(さんびやく)余人(よにん)、胡床布衣(こしやうほい)の上に列居して山門を警固(けいご)す。其行装(そのぎやうさう)辺(あた)りを払(はらつ)て見へたり。尊氏(たかうぢの)卿(きやう)・直義朝臣(あそん)既(すで)に参堂有(あり)しかば、勅使藤(とうの)中納言(ちゆうなごん)資明(すけあきらの)卿(きやう)、院司(ゐんじ)の高(かうの)右衛門(うゑもんの)佐(すけ)泰成(やすなり)陣参して、即(すなはち)法会(ほふゑ)を被行。其(その)日(ひ)は無為(ぶゐ)に暮(くれ)にけり。明(あく)れば八月晦日(つごもり)也(なり)。今日は又為御結縁両上皇御幸(ごかう)なる。昨日には事の体(てい)替(かはつ)て、見物の貴賎も閭巷(りよかう)に足を立兼(たてかね)たり。御車(おんくるま)総門(そうもん)に至(いたり)しかば、牛を懸放(かけはな)して手引(ひき)也(なり)。御牛飼(うしかひ)七人(しちにん)、何(いづ)れも皆持明党(ぢみやうたう)とて綱取(とり)て名誉の上手(じやうず)共(ども)也(なり)。中にも松一丸(まついちまる)は遣手(やりて)にて、綾羅(りようら)を裁(た)ち金銀を鏤(ちりば)めたり。上皇御簾(みす)を揚(あげ)て見物の貴賎(きせん)を叡覧あり。黄練貫(きねりぬき)の御衣(ぎよい)に、御直衣(おんなほし)、雲立涌(くもたてわき)、生(すずし)の織物、薄色(うすいろ)の御指貫(おんさしぬき)を召(めさ)れたり。竹林院(ゐんの)大納言(だいなごん)公重(きんしげの)卿(きやう)、濃香(こいかう)に牡丹(ぼたん)を織(おり)たる白裏(しろうら)の狩衣(かりぎぬ)に、薄色の生(すずし)の衣(きぬ)、州流(すながし)に鞆絵(ともゑ)の藤(ふぢ)の丸(まる)、青鈍(せいどん)の生(すずし)の織物(もの)の指貫(さしぬき)にて、御車寄(みくるまよせ)に被参たり。左(ひだりの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)忠季卿、薄色の織襖(おりあう)の裏無(なし)に、蔦(つた)を紋にぞ織(おり)たりける。女郎花(をみなへし)の衣(きぬ)、浮紋(うきもん)に浅黄(あさぎ)の指貫(さしぬき)にて供奉(ぐぶ)せらる。殿上人(てんじやうびと)には左中将(さちゆうじやう)宗雅(むねまさ)朝臣(あそん)、■線綾(ふせんりよう)の女郎花(をみなへし)の狩衣(かりぎぬ)に、槿(あさがほ)を紋(もん)にぞ織(おり)たりける。薄色の生(すずし)の衣(きぬ)、藤の丸の指貫(さしぬき)也(なり)。頭(とうの)左中弁宗光(むねみつ)朝臣(あそん)、■線綾(ふせんりよう)の比金襖(ひきんあう)の狩衣、珍(めづら)しく見へたりける。右少将教貞(のりさだ)朝臣(あそん)、紫苑唐草(しをんからくさ)を織(おり)たる生青裏(すずしのあをうら)、紅(くれなゐ)の引繕木(ひきへぎ)はえ/゛\敷(しく)ぞ見へし。春宮権大進(とうぐうごんのたいしん)時光は、■線綾(ふせんりよう)に萩を経青緯紫段(たてあをぬきむらさきのだん)にして、青く織(おり)たる女郎花の生(すずし)の衣(きぬ)二藍(ふたあゐ)の指貫也(なり)。此(この)後は下北面(げほくめん)の輩(ともがら)、中原(なかはらの)季教(すゑのり)・源(みなもとの)康定・同康兼・藤原(ふぢはらの)親有(みつあり)・安部(あべの)親氏(みつうぢ)・豊原(といはらの)泰長、御随身(みずゐじん)には、秦久文(はだのひさふん)・同久幸此等(ひさゆきこれら)也(なり)。参会の公卿(くぎやう)には三条(さんでうの)帥(そつの)公季(きんすゑの)卿(きやう)・日野(ひのの)中納言(ちゆうなごん)資明(すけあきらの)卿(きやう)・別当四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆蔭(たかかげの)卿(きやう)・春宮大夫(とうぐうのだいぶ)実夏(さねなつ)・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)、何(いづ)れも皆行装(ぎやうさう)当(あた)りを耀(かかや)かす。仏殿の北(きた)の廊(らう)四間(しま)を餝(かざつ)て、大紋(だいもん)の畳を重(かさ)ね布(し)き、其(その)上(うへ)に氈(せん)を被展たり。平敷(ひらしき)の御座其(その)北にあり。西の間(ま)に屏風(びやうぶ)を立隔(たてへだて)て御休所(みやすみところ)に構(かま)へたり。御前(おんまへ)に風流の島形(しまがた)を被居たり。表大井河(おほゐがは)景趣、水紅錦(こうきん)を洗ひて、感興の心をぞ添(そへ)たりける。是(これ)は三宝院僧正(そうじやう)賢俊、依武命儲進(ちよしん)す。仏殿の裏二間(うちふたま)を拵(こしらへ)て御簾(みす)を懸(かけ)、御聴聞所(ごちやうもんところ)にぞ構(かま)へたる。其(その)北に畳を布(しき)て、公卿(くぎやう)の座にぞ被成たる。仏殿の庭の東西に幄(まく)を打(うつ)て、左右の伶倫(れいりん)十一人、唐装束(からしやうぞく)にて胡床(こしやう)に坐す。左には光栄(みつよし)・朝栄(ともなが)・行重(ゆきしげ)・葛栄(かつよし)・行継(ゆきつぐ)・則重(のりしげ)也(なり)。右には久経(ひさつね)・久俊・忠春・久家・久種(ひさたね)也(なり)。鳳笙(ほうしやう)・竜笛(りようてき)の楽人(がくじん)十八人(じふはちにん)、新秋(にひあき)・則祐・信秋・成秋・佐秋(すけあき)・季秋・景朝(かげとも)・景茂(かげもち)・景重(かげしげ)・栄敦(よしあつ)・景宗(かげむね)・景継(かげつぐ)・景成(かげなり)・季氏(すゑうぢ)・茂政(みちまさ)・重方(しげかた)・重時是等(これら)也(なり)。国師既(すで)に自山門進出(すすみいで)させ給へば、楽人(がくじん)巻幄乱声(らんじやう)を奏する事、時をぞ移しける。聴聞(ちやうもん)の貴賎、此(この)時感涙を流しけり。導師は金襴(きんらん)の袈裟(けさ)・鞋(くつ)著(はい)て、莚道(えんだう)に進ませ給へば、二階堂(にかいだう)丹後(たんごの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)執蓋(しつかい)、島津常陸(ひたちの)前司(ぜんじ)・佐々木(ささきの)三河(みかはの)守(かみ)両人執綱(しつかう)にて、同(おなじ)く歩出(あゆみいで)たり。左右の伶倫(れいりん)何(いづ)れも皆幄(まく)より起(たつ)て、参向の儀有(あつ)て、万秋楽(まんじゆらく)の破(は)を奏して、舞台(ぶたい)の下に列を引けば、古清衆(こしやうじゆ)導師に従(したがう)て入堂あり。南禅寺の長老智明(ちみやう)・建仁寺の友梅・東福寺の一鞏(いちきよう)・万寿寺の友松(いうしよう)・真如寺の良元(りやうげん)・安国寺の至孝(しかう)・臨川寺の志玄(しげん)・崇福寺の慧聰(ゑそう)・清見寺(せいけんじ)の智琢(ちたく)、本寺当官にて、士昭首座(しせうしゆざ)、是等(これら)は皆江湖の竜象(りようざう)也(なり)。釈尊の十大弟子(でし)に擬して、扈従(こしよう)の装(よそほひ)厳重なり。其(その)後正面の戸■(こよう)を閉(とぢ)て、願文(ぐわんもん)の説法数剋(すこく)也(なり)。法会(ほふゑ)終(はて)しかば、伶人本幄(ほんまく)に帰(かへつ)て舞(まひ)あり。左に蘇合(そかふ)右に古鳥蘇(ことりそ)、陵王荒序(りようわうくわうじよ)・納蘓利(なつそり)・太平楽(らく)・狛杵(こまほこ)也(なり)。中にも荒序は当道の深秘(しんひ)にて容易(たやすく)雖不奏之、適(たまたま)聖主臨幸の法席也(なり)。非可黙止とて、朝栄(ともなが)荒序を舞(まひ)しかば、笙は新秋(にひあき)、笛は景朝(かげとも)、太鼓は景茂(かげもち)ぞ仕(つかまつり)たる。当道の眉目(びぼく)、天下(てんが)の壮観無比し事共(ことども)也(なり)。此(この)後国師一弁(いちべん)の香を拈(ねん)じて、「今上皇帝(くわうてい)聖躬万歳(せいきゆうばんぜい)。」と祝(しゆく)し給へば、御布施(おんふせ)の役にて、飛鳥井(あすかゐ)新中納言雅孝(まさたかの)卿(きやう)・大蔵卿雅仲(まさなか)・一条(いちでうの)二位(にゐ)実豊(さねとよ)卿(きやう)・持明院三位(さんみ)家藤卿、殿上人(てんじやうびと)には、難波(なんばの)中将(ちゆうじやう)宗有(むねあり)朝臣(あそん)・二条(にでうの)中将(ちゆうじやう)資将(すけまさ)卿(きやう)・難波(なんばの)中将(ちゆうじやう)宗清朝臣(あそん)・紙屋川(かみやがは)中将(ちゆうじやう)教季・持明院少将基秀・姉少路(あねがこうちの)侍従(じじゆう)基賢(もとかた)・二条(にでうの)少将(せうしやう)雅冬(まさふゆ)・持明院前(さきの)美作(みまさかの)守(かみ)盛政、諸大夫には、千秋(せんじゆ)駿河(するがの)左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)・星野刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)・佐脇(さわき)左近(さこんの)大夫(たいふ)、金銀珠玉を始(はじめ)として綾羅綿繍(りようらきんしう)はさて置(おき)ぬ。倭漢(わかん)の間に名をのみ聞(きい)て未(いまだ)目には不見珍宝を持連立(もちつらねたて)て如山積上(つみあげ)たり。只是(これ)王舎城(わうしやじやう)の昔年(そのかみ)、五百(ごひやく)の車(くるま)に珍貨(ちんくわ)を積(つん)で、仏に奉りしも是(これ)には過(すぎ)じとぞ見へし。総(すべ)て此(この)両日の儀を見る者、悉(ことごとく)福智(ふくち)の二報を成就(じやうじゆ)して、済度利生(りしやう)の道を広(ひろく)せし事、此(この)国師に過(すぎ)たる人は非じとて、改宗帰法、偏執(へんしふ)の心をぞ失(うしなひ)ける。さしも違乱(ゐらん)に及びし大法会(ほふゑ)の無事故遂(とげ)て、天子の叡願、武家の帰依(きえ)、一時に望み足(たん)ぬと喜悦(きえつ)の眉をぞ被開ける。夫(それ)仏を作り堂を立つる善根(ぜんこん)誠(まこと)に勝(すぐ)れたりといへ共(ども)、願主聊(いささか)も■慢(けうまん)の心を起す時は法会(ほふゑ)の違乱(ゐらん)出来(しゆつたい)して三宝の住持(ぢゆうぢ)不久。されば梁の武帝、対達磨、「朕(ちん)建寺事一千七百(いつせんしちひやく)箇所(かしよ)、僧尼を供養(くやう)する事十万八千人(じふまんはつせんにん)、有功徳乎(や)。」と問給(とひたまひ)しに、達磨、「無功徳(むくどく)。」と答(こたへ)給ふ。是(これ)誠(まこと)に無功徳云(いふ)には非(あら)ず。叡信(えいしんの)■慢(けうまん)を破(やぶつ)て無作(むさ)の大善に令帰なり。吾朝(わがてう)の古(いにしへ)、聖武(しやうむ)天皇(てんわう)東大寺(とうだいじ)を造立(ざうりふ)せられ、金銅(こんどう)十六丈(じふろくぢやう)の廬舎那仏(るしやなぶつ)を安置(あんぢ)して、供養を被遂しに、行基(ぎやうぎ)菩薩(ぼさつ)を導師に請(しやう)じ給ふ。行基(ぎやうぎ)勅使に向(むかつ)て申させ給(たまひ)けるは、「倫命(りんめい)重(おもう)して辞(じ)するに言(ことば)なしといへ共(ども)、如此の御願(ごぐわん)は、只冥顕(みやうけん)の所帰可被任にて候へば、供養の当日香花(かうげ)を備へ唱伽陀を、自天竺梵僧(ぼんそう)を奉請供養をば可被遂行候。」とぞ計(はから)ひ申されける。天子を始進(はじめまゐら)せて諸卿悉(ことごとく)世既(すでに)及澆季、如何(いかん)してか百万里の波涛(はたう)を隔(へだて)たる天竺より、俄(にはか)に導師来(きたつ)て供養をば可被遂と大(おほき)に疑(うたがひ)をなしながら、行基(ぎやうぎ)の被計申上は、非可及異儀とて明日供養と云迄(いふまで)に、導師をば未被定。已(すで)に其(その)日(ひ)に成(なり)ける朝(あさ)、行基(ぎやうぎ)自(みづから)摂津国(つのくに)難波(なんば)の浦に出(いで)給ひ、西に向(むかつ)て香花(かうげ)を供(くう)じ、坐具(ざぐ)を延(のべ)て礼拝(らいはい)し給ふに、五色の雲天に聳(そびえ)て、一葉(いちえふ)の舟浪に浮(うかん)で、天竺の婆羅門(ばらもん)僧正(そうじやう)忽然(こつぜん)として来(きたり)給ふ。諸天蓋(かい)を捧(ささげ)て、御津(みつ)の浜松、自(みづから)雪に傾(かたぶく)歟(か)と驚き、異香(いきやう)衣(い)を染(そめ)て、難波津(なにはつ)の梅(むめ)忽(たちまち)に春を得たるかと怪(あや)しまる。一時の奇特(きどく)こゝに呈(あらは)れて、万人の信仰(しんがう)不斜(なのめならず)。行基菩薩(ぼさつ)則(すなはち)婆羅門(ばらもん)僧正(そうじやう)の御手(おんて)を引(ひい)て、伽毘羅会(かびらゑ)に共に契(ちぎり)しかい有(あり)て文殊(もんじゆ)の御貌(みかほ)相(あひ)みつる哉(かな)と一首(いつしゆ)の謌(うた)を詠(えい)じ給へば、婆羅門僧正(そうじやう)、霊山(りやうぜん)の釈迦の御許(みもと)に契(ちぎり)てし真如(しんによ)朽(くち)せず相(あひ)みつる哉(かな)と読(よみ)給ふ。供養の儀則(ぎそく)は、中々(なかなか)言(ことば)を尽(つく)すに不遑。天花(てんげ)風に繽紛(ひんぷん)として梵音(ぼんおん)雲に悠揚(いうやう)す。上古(しやうこ)にも末代にも難有かりし供養也(なり)。仏閣供養の有様は、尤(もつとも)如此こそ有(ある)べきに、此の天竜寺(てんりゆうじ)供養(くやうの)事に就(つい)て、山門強(あながち)に致嗷訴、遂(つひ)に勅会(ちよくゑ)の儀を申止(まうしや)めつる事非直事、如何様(いかさま)真俗共(とも)に■慢(けうまん)の心あるに依(よつ)て、天魔波旬(はじゆん)の伺ふ処あるにやと、人皆是(これ)を怪(あやし)みけるが、果して此(この)寺二十(にじふ)余年(よねん)の中に、二度(にど)まで焼(やけ)ける事こそ不思議(ふしぎ)なれ。
○三宅(みやけ)・荻野(をぎの)謀叛(むほんの)事(こと)付(つけたり)壬生地蔵(みぶぢざうの)事(こと) S2405
其比(そのころ)備前(びぜんの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)三宅(みやけ)三郎高徳(たかのり)は、新田(につた)刑部卿義助(よしすけ)に属(しよく)して伊予(いよの)国(くに)へ越(こえ)たりけるが、義助死去の後、備前(びぜんの)国(くに)へ立帰(たちかへ)り児島に隠れ居て、猶(なほ)も本意を達せん為に、上野(かうづけの)国(くに)に坐(おはし)ける新田左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治(よしはる)を喚(よび)奉り、是(これ)を大将にて旗を挙(あげ)んとぞ企(くはたて)ける。此比(このころ)又丹波(たんばの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)荻野(をぎの)彦六朝忠(ともただ)、将軍を奉恨事有(あり)と聞へければ、高徳(たかのり)潜(ひそか)に使者を通(つう)じて触送(ふれおく)るに、朝忠(ともただ)悦(よろこん)で許諾(きよだく)す。両国已(すで)に日を定(さだめ)て打立(うちたた)んとしける処に、事忽(たちまち)に漏聞(もれきこ)へて、丹波へは山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏三千(さんぜん)余騎(よき)にて押(おし)寄せ、高山寺(かうせんじ)の麓四方(しはう)二三里を屏(へい)にぬり篭(こめ)て食攻(じきせめ)にしける間、朝忠終(つひ)に戦屈(たたかひくつ)して降人(かうにん)に成(なつ)て出(いで)にけり。児島へは備前・備中・備後三箇国(さんかこく)の守護(しゆご)、五千(ごせん)余騎(よき)にて寄(よせ)ける間、高徳(たかのり)爰(ここ)にては本意を遂(とぐ)る程の合戦叶はじとや思(おもひ)けん、大将義治を引具(ひきぐ)し、海上より京へ上(のぼつ)て、将軍・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)・高(かう)・上杉の人々を夜討にせんとぞ巧(たくみ)ける。「勢(せい)少(すくな)くては叶(かなふ)まじ、廻文(くわいぶん)を遣(つかは)して同意の勢を集(あつめ)よ。」とて、諸国へ此(この)由を触遣(ふれつかは)すに、此彼(ここかしこ)に身を側(そば)め形(かたち)を替(かへ)て隠れ居たる宮方(みやがた)の兵千(せん)余人(よにん)、夜を日に継(つい)でぞ馳(はせ)参りける。此勢(このせい)一所に集(あつま)らば、人に怪(あや)しめらるべしとて、二百(にひやく)余騎(よき)をば大将義治(よしはる)に付奉(つけたてまつ)て、東坂本(ひがしさかもと)に隠(かく)し置き、三百(さんびやく)余騎(よき)をば宇治・醍醐・真木(まき)・葛葉(くずは)に宿(やど)し置き、勝(すぐ)れたる兵三百人(さんびやくにん)をば京白河に打散(うちちら)し、態(わざ)と一所(いつしよ)には不置けり。已(すで)に明夜(みやうや)木幡峠(こはたたうげ)に打寄(うちよせ)て、将軍・左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)・高・上杉が館(たち)へ、四手に分(わけ)て夜討に可寄と、相図(あひづ)を定(さだめ)たりける前の日、如何(いかが)して聞(きこ)へたりけん、時の所司代(しよしだい)都筑(つづき)入道二百(にひやく)余騎(よき)にて夜討の手引(てびき)せんとて、究竟(くつきやう)の忍び共(ども)が隠れ居たる四条(しでう)壬生(みぶ)の宿(やど)へ未明(びめい)に押寄(おしよす)る。楯篭(たてごも)る所の兵共(つはものども)、元来死生(ししやう)不知の者共(ものども)なりければ、家の上へ走(わし)り上(あが)り、矢種(やだね)のある程射尽(いつく)して後、皆腹掻破(かきやぶつ)て死(し)にけり。是(これ)を聞(きい)て、処々(しよしよ)に隠(かくれ)居たる与党(よたう)の謀反人共(むほんにんども)も皆散々(ちりぢり)に成(なり)ければ、高徳が支度(したく)相違(さうゐ)して、大将義治相共(あひとも)に、信濃(しなのの)国(くに)へぞ落行(おちゆき)ける。さても此(この)日(ひ)壬生(みぶ)の在家に隠れ居たる謀反人共、無被遁処皆討(うた)れける中に、武蔵(むさしの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)に、香勾(かうわ)新左衛門(しんざゑもん)高遠(たかとほ)と云(いひ)ける者只一人、地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)の命に替らせ給ひけるに依(よつ)て、死を遁(のが)れけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。所司代(しよしだい)の勢已(すで)に未明(びめい)に四方(しはう)より押寄(おしよせ)て、十重二十重(とへはたへ)に取巻(とりまき)ける時、此(この)高遠只一人敵の中を打破(うちやぶつ)て、壬生(みぶ)の地蔵堂の中へぞ走入(わしりいつ)たりける。何方(いづかた)にか隠(かくれ)ましと彼方此方(かなたこなた)を見る処に、寺僧(じそう)かと覚(おぼ)しき法師一人、堂の中より出(いで)たりけるが、此(この)高遠を打(うち)見て、「左様(さやう)の御姿(おんすがた)にては叶(かなふ)まじく候。此念珠(このねんじゆ)に其(その)太刀を取代(とりかへ)て、持(もた)せ給へ。」と云(いひ)ける間、げにもと思ひて、此(この)法師の云侭(いふまま)にぞ随(したがひ)ける。斯(かか)りける処に寄手共(よせてども)四五十人(しごじふにん)堂の大庭へ走入(わしりいつ)て、門々をさして無残処ぞ捜(さが)しける。高遠は長念珠(ながねんじゆ)を爪繰(つまぐり)て、「以大神通方便力(いだいじんづうはうべんりき)、勿令堕在諸悪趣(もつりやうだざいしよあくしゆ)。」と、高らかに啓白(けいびやく)してぞ居たりける。寄手(よせて)の兵共(つはものども)皆見之、誠(まこと)に参詣の人とや思(おもひ)けん、敢(あへ)て怪(あやし)め咎むる者一人もなし。只仏壇の内天井(てんじやう)の上まで打破(うちやぶつ)て探(さが)せと許(ばかり)ぞ罵(ののし)りける。爰(ここ)に只今物切(ものきり)たりと覚(おぼ)しくて、鉾(きつさき)に血の著(つき)たる太刀を、袖の下に引側(ひきそば)めて持(もつ)たる法師、堂の傍(かたはら)に立(たち)たるを見付(みつけ)て、「すはや此(ここ)にこそ落人(おちうと)は有(あり)けれ。」とて、抱手(だきて)三人(さんにん)走寄(わしりよつ)て、中(ちゆう)に挙(あげ)打倒(うちたふ)し、高手小手(たかてこて)に禁(いましめ)て、侍所(さぶらひところ)へ渡せば、所司代(しよしだい)都筑(つづき)入道是(これ)を請取(うけとつ)て、詰篭(つめろう)の中にぞ入(いれ)たりける。翌日(つぎのひ)一日有(あつ)て、守手(まもりて)目も不放、篭(ろう)の戸も不開して、此召人(このめしうと)くれに失(うせ)にけり。預人(あづかりうど)怪(あやし)み驚(おどろき)て其迹(そのあと)を見るに、馨香(けいきやう)座に留(とどま)りて恰(あたか)も牛頭旃檀(ごづせんだん)の薫(にほひ)の如し。是(これ)のみならず、「此召人(このめしうと)を搦捕(からめとり)し者共(ものども)の左右(さうの)手、鎧の袖草摺(くさずり)まで異香(いきやう)に染(そみ)て、其(その)匂(にほひ)曾(かつ)て不失。」と申合(まうしあひ)ける間、さては如何様(いかさま)非直事とて、壬生(みぶ)の地蔵堂の御戸(みと)を開かせて、本尊を奉見、忝(かたじけなく)も六道能化(りくだうのうげ)の地蔵薩■(さつた)の御身(おんみ)、所々為刑鞭■黒(つしみくろみて)、高手小手(たかてこて)に禁(いましめ)し其縄(そのなは)、未(いまだ)御衣の上に著(つき)たりけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。是(これ)を誡(いまし)め奉りぬる者共(ものども)三人(さんにん)、発露涕泣(はつろていきふ)して、罪障(ざいしやう)を懺悔(さんげ)するに猶(な)を不堪、忽(たちまち)に本鳥(もとどり)切(きつ)て入道し、発心修行(ほつしんしゆぎやう)の身と成(なり)にけり。彼(かれ)は依順縁今生(こんじやう)に助命、是(これ)は依逆縁来生(らいしやう)の得値遇事誠(まこと)に如来附属(によらいふぞく)の金言(きんげん)不相違、今世後世(こんぜごせ)能(よく)引導(いんだうす)、頼(たのも)しかりける悲願也(なり)。

太平記(国民文庫)
太平記巻第二十五

○持明院殿(ぢみやうゐんどのの)御即位(ごそくゐの)事(こと)付(つけたり)仙洞(せんとう)妖怪(えうくわいの)事(こと) S2501
貞和(ぢやうわ)四年十月二十七日(にじふしちにち)、後伏見(ごふしみの)院(ゐんの)御孫(おんまご)御年十六(じふろく)にて御譲(おんゆづり)を受(うけ)させ給(たまひ)て、同日内裏(だいり)にて御元服(みげんぶく)あり。剣璽(けんし)を被渡て後、同二十八日(にじふはちにち)に、萩原(はぎはらの)法皇の第一(だいいち)の御子(みこ)、春宮(とうぐう)に立(たた)せ給ふ。御歳十三にぞ成(なら)せ給ひける。卜部宿禰兼前(うらべのしくねかねさき)、軒廊(こんらう)の御占(みうら)を奉り、国郡(こくぐん)を卜定有(ぼくぢやうあつ)て、抜穂(ぬきぼ)の使を丹波(たんばの)国(くに)へ下さる。其(その)十月に行事所(ぎやうじところ)始め有(あつ)て、已(すで)に斉庁場所(さいちやうぢやうしよ)を作らむとしける時、院の御所(ごしよ)に、一(ひとつ)の不思議(ふしぎ)あり。二三歳許(ばかり)なる童部(わらんべ)の頭(かしら)を、斑(まだら)なる犬が噛(くはへ)て、院の御所の南殿の大床の上にぞ居たりける。平明(へいめい)に御隔子進(みかうしまゐら)せける御所侍(ごしよさぶらひ)、箒(はうき)を以て是(これ)を打(うた)むとするに、此(この)犬孫廂(まごびさし)の方より御殿の棟木(むなぎ)に上(のぼつ)て、西に向ひ三声(みこゑ)吠(ほえ)てかき消様(けすよう)に失(うせ)にけり。加様(かやう)の夭怪(えうくわい)、触穢(しよくゑ)に可成、今年の大甞会(だいじやうゑ)を可被停止、且(かつう)は先例を引(ひき)、且(かつう)は法令に任(まかせ)て可勘申、法家(ほふけ)の輩(ともがら)に被尋下。皆、「一年の触穢(しよくゑ)にて候べし。」と勘申(かんがへまうし)ける中に、前(さき)の大判事(だいはんじ)明清(あききよ)が勘状(かんじやう)に、法令の文(ぶん)を引(ひい)て云(いはく)、「神道は依王道所用といへり。然らば只宜(よろしく)在叡慮。」とぞ勘申(かんがへまうし)たりける。爰(ここ)に神祇大副(しんぎのたいふ)卜部宿禰兼豊(うらべのしくねかねとよ)一人、大(おほき)に忿(いかつ)て申(まうし)けるは、「如法意勘進(かんしん)して非触穢儀、神道は無き物にてこそ候へ。凡(およそ)一陽(いちやう)分(わか)れて後、清濁汚穢(せいだくわゑ)を忌慎(いみつつし)む事、故(ことさ)ら是(これ)神道の所重也(なり)。而(しか)るを無触穢儀、大礼(たいれい)の神事無為(ぶゐに)被行、一流(ひとながれ)の神書(しんしよ)を火に入(いれ)て、出家遁世(しゆつけとんせい)の身と可罷成。」と無所憚申(まうし)ける。若殿上人(わかてんじやうびと)など是(これ)を聞(きき)て、「余(あま)りに厳重なる申言(まうしこと)哉(かな)、少々は存(ぞんず)る処有(あり)とも残せかし。四海(しかい)若(もし)無事にして、一事(いちじ)の無違乱大甞会(だいじやうゑ)を被行ば、兼豊(かねとよ)が髻(もとどり)は不便(ふびん)の事哉(かな)。」とぞ被笑ける。され共(ども)主上(しゆしやう)も上皇も、此明清(このあききよ)が勘文(かんもん)御心(おんこころ)に叶ひてげにもと被思召ければ、今年(ことし)大甞会(だいじやうゑ)を可被行とて武家へ院宣(ゐんぜん)を被成下。武家是(これ)を施行(しかう)して、国々へ大甞会米(だいじやうゑまい)を宛課(あておほ)せて、不日(ふじつ)に責(せめ)はたる。近年は天下(てんが)の兵乱打続(うちつづい)て、国弊(つひえ)民苦(くるし)める処に、君の御位恒(つね)に替(かはつ)て、大礼(たいれい)止時(やむとき)無(なか)りしかば、人の歎(なげき)のみ有(あつ)て、聊(いささか)も是(これ)こそ仁政なれと思ふ事もなし。されば事騒(ことさわ)がしの大甞会(だいじやうゑ)や、今年(ことし)は無(なく)ても有(あり)なんと、世皆脣(くちびる)を翻(ひるがへ)せり。
○宮方(みやかたの)怨霊(をんりやう)会六本杉事(こと)付(つけたり)医師(いし)評定(ひやうぢやうの)事(こと) S2502
仙洞(せんとう)の夭怪(えうくわい)をこそ、希代(きたい)の事と聞(きく)処に、又仁和寺(にんわじ)に一(ひとつ)の不思議(ふしぎ)あり。往来の禅僧、嵯峨より京へ返りけるが、夕立(ゆふだち)に逢(あひ)て可立寄方も無(なか)りければ、仁和寺(にんわじ)の六本杉の木陰(こかげ)にて、雨の晴間(はれま)を待(まち)居たりけるが、角(かく)て日已(すで)に暮(くれ)にければ行前(ゆくさき)恐(おそろ)しくて、よしさらば、今夜は御堂(みだう)の傍(かたはら)にても明(あか)せかしと思(おもひ)て、本堂の縁(えん)に寄居(よりゐ)つゝ、閑(しづか)に念誦(ねんじゆ)して心を澄(すま)したる処に、夜(よ)痛く深(ふけ)て月清明(せいめい)たるに見れば、愛宕(あたご)の山比叡の岳(だけ)の方より、四方輿(しはうごし)に乗(のり)たる者、虚空(こくう)より来集(きつどひ)て、此(この)六本杉の梢にぞ並居(なみゐ)たる。座定(さだまつ)て後、虚空に引(ひき)たる幔(まん)を、風の颯(さつ)と吹上(ふきあげ)たるに、座中の人々を見れば、上座に先帝の御外戚(ごぐわいせき)、峯(みね)の僧正(そうじやう)春雅(しゆんが)、香(かう)の衣(ころも)に袈裟(けさ)かけて、眼は如日月光り渡り、觜(くちばし)長(ながう)して鳶(とび)の如(ごと)くなるが、水精(すゐしやう)の珠数(じゆず)爪操(つまぐり)て坐し給へり。其(その)次に南都の智教(ちけう)上人、浄土寺(じやうどじ)の忠円(ちゆうゑん)僧正(そうじやう)、左右に著座(ちやくざ)し給へり。皆古(いにし)へ見奉(たてまつり)し形にては有(あり)ながら、眼の光(ひかり)尋常(よのつね)に替(かはつ)て左右の脇より長翅(ながきつばさ)生出(おひいで)たり。往来の僧是(これ)を見て、怪(あや)しや我(われ)天狗道(てんぐだう)に落(おち)ぬるか、将(はた)天狗(てんぐ)の我(わが)眼に遮(さへぎ)るかはと、肝心(きもたましひ)も身にそはで、目もはなたず守(まも)り居たる程に又空中より五緒(いつつを)の車の鮮(あざやか)なるに乗(のつ)て来(きた)る客(きやく)あり。榻(しぢ)を践(ふん)で下(おるる)を見れば、兵部卿(ひやうぶきやうの)親王(しんわう)の未(いまだ)法体(ほつたい)にて御座(ござ)有(あり)し御貌(おんかたち)也(なり)。先に座(ざ)して待(まち)奉る天狗共(てんぐども)、皆席を去(さつ)て蹲踞(そんこ)す。暫(しばらく)有(あつ)て坊官かと覚(おぼ)しき者一人、銀の銚子(てうし)に金の盃(さかづき)を取副(とりそへ)て御酌(おんしやく)に立(たち)たり。大塔宮(おほたふのみや)御盃を召(めさ)れて、左右に屹(きつ)と礼有(あつ)て、三度(さんど)聞召(きこしめし)て閣(さしおか)せ給へば、峯(みねの)僧正(そうじやう)以下(いげ)の人人次第に飲流(のみなが)して、さしも興(きよう)ある気色(けしき)もなし。良(やや)遥(はるか)に有(あつ)て、同時にわつと喚(をめ)く声しけるが、手を挙(あげ)て足を引(ひき)かゝめ、頭(かしら)より黒烟(くろけぶり)燃出(もえいで)て、悶絶■地(もんぜつびやくぢ)する事半時許(ばかり)有(あつ)て、皆火に入る夏の虫の如くにて、焦(こが)れ死(じに)にこそ死(しにに)けれ。穴(あな)恐しや、是(これ)なめり、天狗(てんぐ)道の苦患(くげん)に、熱鉄(ねつてつ)のまろかしを日に三度(さんど)呑(のむ)なる事はと思(おもひ)て見(み)居たれば、二時計(ふたときばかり)有(あつ)て、皆生出(いきいで)給へり。爰(ここ)に峯(みねの)僧正(そうじやう)春雅(しゆんが)苦(くる)し気(げ)なる息をついて、「さても此(この)世中(よのなか)を如何(いかが)して又騒動せさすべき。」と宣(のたま)へば、忠円僧正(そうじやう)末座より進出(すすみいで)て、「其(それ)こそ最(いと)安き事にて候へ。先(まづ)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)は他犯戒(たぼんかい)を持(たもつ)て候間、俗人に於ては我(われ)程禁戒(きんかい)を犯(をか)さぬ者なしと思ふ我慢心(がまんしん)深く候。是(これ)を我等(われら)が依(よる)所なる大塔宮(おほたふのみや)、直義が内室(ないしつ)の腹に、男子と成(なつ)て生(うま)れさせ給ひ候べし。又夢窓(むさう)の法眷(ほつけん)に妙吉侍者(めうきつじしや)と云(いふ)僧あり。道行(だうぎやう)共(ども)に不足して、我(われ)程の学解(がくげ)の人なしと思へり。此(この)慢心我等(われら)が伺(うかがふ)処にて候へば、峯の僧正(そうじやう)御房(ごばう)其(その)心に入替(いりかは)り給(たまひ)て、政道を輔佐(ふさ)し邪法を説破(せつは)させ給(たまふ)べし。智教上人は上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)・畠山(はたけやま)大蔵(おほくらの)少輔(せう)が心に依託(えたく)して、師直・師泰を失(うしな)はんと計らはれ候べし。忠円は武蔵守(むさしのかみ)・越後(ゑちごの)守(かみ)が心に入替(いりかはつ)て、上杉畠山を亡(ほろ)ぼし候べし。依之(これによつて)直義兄弟の中悪(なかあし)く成り、師直主従(しうじゆう)の礼に背(そむ)かば、天下(てんが)に又大(おほき)なる合戦出来(いでき)て、暫く見物は絶(たえ)候はじ。」と申せば、大塔宮(おほたふのみや)を始進(はじめまゐら)せて、我慢(がまん)・邪慢(じやまん)の小天狗共(こてんぐども)に至るまで、「いしくも計(はから)ひ申(まうし)たる哉(かな)。」と、一同に皆入興(じゆきよう)して幻(うつつ)の如(ごとく)に成(なり)にけり。夜(よ)明(あけ)ければ、往来の僧京に出(いで)、施薬院師(せやくゐんし)嗣成(つぐなり)に、此(この)事をこそ語りたりけれ。四五日有(あつ)て後(のち)、足利左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の北方(きたのかた)、相労(あひいたは)る事有(あつ)て、和気(わけ)・丹波の両流の博士(はかせ)、本道・外科(ぐくわ)一代の名医数十人(すじふにん)被招請て脈を取(とら)せらるゝに、或(あるひ)は、「御労(おんいたは)り風より起(おこつ)て候へば、風を治(ぢ)する薬には、牛黄金虎丹(ごわうきんこたん)・辰沙天麻円(しんしやてんまゑん)を合(あは)せて御療治候べし。」と申す。或(あるひ)は、「諸病は気より起る事にて候へば、気を収(をさむ)る薬には、兪山人降気湯(ゆさんじんががうきたう)・神仙沈麝円(しんせんちんじやゑん)を合(あは)せてまいり候べし。」と申(まうす)。或(あるひ)は、「此御労(このおんいたはり)は腹の御病(おんやまひ)にて候へば、腹病(ふくびやう)を治(ぢ)〔す〕る薬には、金鎖正元丹(きんさしやうげんたん)・秘伝玉鎖円(ひでんぎよくさゑん)を合(あはせ)て御療治(おんれうぢ)候べし。」とぞ申(まうし)ける。斯(かか)る処に、施薬院師(せやくゐんし)嗣成(つぐなり)少(すこ)し遅参(ちさん)して、脈を取進(とりまゐら)せけるが、何(いか)なる病(やまひ)とも不弁。病(やまひ)多しといへ共(ども)束(つかね)て四種を不出。雖然泯散(びんさん)の中に於て致料簡をけれ共(ども)、更に何(いづ)れの病(やまひ)共(とも)不見、心中に不審を成(なす)処に、天狗共(てんぐども)の仁和寺(にんわじ)の六本杉にて評定しける事を屹(きつ)と思出(おもひだ)して、「是(これ)御懐姙(ごくわいにん)の御脈(おんみやく)にて候(さふらひ)ける。しかも男子にて御渡(おんわたり)候べし。」とぞさゝやきける。当座に聞(きき)ける者共(ものども)、「あら悪(にく)の嗣成が追従(つゐしよう)や、女房の四十に余(あまつ)て始(はじめ)て懐姙(くわいにん)する事や可有。」口を噤(つく)めぬ者は無(なか)りけり。去(さる)程(ほど)に月日重(かさなり)、誠(まこと)に只ならず成(なり)にければ、そゞろなる御労(おんいたは)りとて、大薬を合(あは)せし医師(いし)は皆面目(めんぼく)を失(うしなひ)て、嗣成一人所領を給(たまは)り、俸禄に預(あづか)るのみならず、軈(やが)て典薬頭(てんやくのかみ)にぞ申成(まうしな)されける。猶(なほ)懐姙誠(まこと)しからず、月比(つきころ)にならば、何(いか)なる人の産(うみ)たらむ子を、是(これ)こそよとて懐(いだ)き冊(かしづ)かれむずらんとて、偏執(へんしふ)の族(やから)は申(まうし)合ひける処に、六月八日の朝、生産(せいざん)容易(たやすく)して、而(しか)も男子にてぞ坐(おは)しける。蓬矢(よもぎのや)の慶賀(けいが)天下(てんが)に聞(きこ)へしかば、源家の御一族(ごいちぞく)、其門葉(そのもんえふ)、国々の大名は中々不申及、人と肩をも双(なら)べ、世に名をも知られたる公家武家の人々は、鎧・腹巻(はらまき)・太刀・々・馬・車・綾羅(りようら)・金銀(きんぎん)、我(われ)人にまさらんと、引出物(ひきでもの)を先立(さきだて)て、賀し申されける間、賓客(ひんかく)堂上(だうじやう)に群集(くんじゆ)し、僧俗門に立列(たちつらな)る。後の禍(わざはひ)をば未知(いまだしらず)、「哀(あつばれ)大果報(だいくわはう)の少(をさな)き人や。」と、云はぬ者こそ無(なか)りけれ。
○藤井寺合戦(ふぢゐでらかつせんの)事(こと) S2503
楠帯刀(たてはき)正行(まさつら)は、父正成(まさしげ)が先年湊川へ下(くだ)りし時、「思様(おもふやう)あれば、今度の合戦に我は必ず打死すべし。汝(なんぢ)は河内へ帰(かへつ)て、君の何(いか)にも成(なら)せ給はんずる御様(おんさま)を、見はて進(まゐら)せよ。」と申含(まうしふく)めしかば、其庭訓(そのていきん)を不忘、此(この)十(じふ)余年(よねん)我(わが)身の長(ひととなる)を待(まち)、討死せし郎従共(らうじゆうども)の子孫を扶持(ふち)して、何(いか)にも父の敵を滅(ほろぼ)し君の御憤(おんいきどほり)を休(やす)め奉らんと、明暮(あけくれ)肺肝(はいかん)を苦(くる)しめて思ひける。光陰過安(すぎやす)ければ、年積(つもつ)て正行(まさつら)已(すで)に二十五、今年は殊更父が十三年の遠忌(ゑんき)に当(あた)りしかば、供仏施僧(くぶつせそう)の作善(さぜん)如所存致して、今は命惜(をし)とも不思ければ、其(その)勢五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)し、時々住吉(すみよし)天王寺(てんわうじ)辺(へん)へ打出(うちいで)々々(うちいで)、中島(なかじま)の在家少々焼払(やきはらつ)て、京勢(きやうぜい)や懸(かか)ると待(まち)たりける。将軍是(これ)を聞給(ききたまひ)て、「楠が勢(せい)の分際(ぶんざい)思ふにさこそ有(あ)らめ。是(これ)に辺境(へんきやう)を侵奪(をかしうばは)れて、洛中(らくちゆう)驚き騒ぐこと、天下(てんがの)嘲哢(てうろう)武将の恥辱也(なり)。急ぎ馳向(はせむかつ)て退治(たいぢ)せよ。」とて、細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏(あきうぢ)を大将にて、宇都宮(うつのみや)三河(みかはの)入道(にふだう)・佐々木(ささきの)六角判官・長(ちやうの)左衛門・松田次郎左衛門(じらうざゑもん)・赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)・舎弟(しやてい)筑前(ちくぜんの)守(かみ)範貞(のりさだ)・村田・奈良崎・坂西(ばんぜい)・坂東(ばんどう)・菅家(くわんけの)一族共(いちぞくども)、都合三千(さんぜん)余騎(よき)、河内(かはちの)国(くに)へ差下(さしくだ)さる。此(この)勢八月十四日の午剋(むまのこく)に、藤井寺にぞ著(つい)たりける。此(この)陣より楠が館(たち)へは七里(しちり)を隔(へだて)たれば、縦(たと)ひ急々に寄する共(とも)、明日か明後日かの間にぞ寄せんずらんと、京勢(きやうぜい)由断(ゆだん)して或(あるひ)は物具(もののぐ)を解(とき)て休息し、或(あるひ)は馬鞍(むまのくら)をおろして休める処に、誉田(こんだ)の八幡宮の後(うし)ろなる山陰(やまかげ)に、菊水の旗一流(ひとながれ)ほの見(み)へて、ひた甲(かぶと)の兵七百(しちひやく)余騎(よき)、閑々(しづしづ)と馬を歩(あゆ)ませて打寄(うちよ)せたり。「すはや敵の寄(よせ)たるは。馬に鞍をけ物具(もののぐ)せよ。」とひしめき色めく処へ、正行真前(まつさき)に進(すすん)で、喚(をめい)て懸入(かけい)る。大将細川陸奥(むつの)守(かみ)よろいをば肩に懸(かけ)たれ共(ども)未(いまだ)上帯(うはおび)をもしめ得ず、太刀を帯(はく)べき隙(ひま)もなく見へ給(たまひ)ける間、村田の一族(いちぞく)六騎小具足計(こぐそくばかり)にて、誰(た)が馬ともなくひた/\と打乗(うちのつ)て、如雲霞群りて磬(ひか)へたる敵の中へ懸入(かけいつ)て、火を散(ちら)してぞ戦(たたかう)たる。され共(ども)つゞく御方なければ、大勢の中に被取篭、村田の一族(いちぞく)六騎は一所(いつしよ)にて討(うた)れにけり。其(その)間に大将も物具(もののぐ)堅(かた)め、馬に打乗(うちのつ)て、相順(あひしたが)ふ兵百(ひやく)余騎(よき)しばし支(ささへ)て戦ふたり。敵は小勢(こぜい)也(なり)。御方(みかた)は大勢(おほぜい)也(なり)。縦(たとひ)進(すすん)で懸合(かけあは)するまではなく共、引退(ひきしりぞ)く兵だに無(なか)りせば、此軍(このいくさ)に京勢(きやうぜい)惣(すべ)て負(まく)まじかりけるを、四国中国より駈集(かりあつめ)たる葉武者(はむしや)、前に支(ささ)へて戦へば、後(うし)ろには捨鞭(すてむち)を打(うつ)て引(ひき)ける間、無力大将も猛卒も同様(おなじやう)にぞ落行(おちゆき)ける。勝(かつ)に乗(のつ)て時(とき)を作懸(つくりかけ)々々(つくりかけ)追(おひ)ける間、大将已(すで)に天王寺(てんわうじ)渡部(わたなべ)の辺(へん)にては危(あやふ)く見へけるを、六角判官舎弟(しやてい)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)、返合(かへしあはせ)て討(うた)れにけり。又赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)・舎弟(しやてい)筑前(ちくぜんの)守(かみ)三百(さんびやく)余騎(よき)命を名に替(かへ)て討死せんと、取(とつ)ては返(かへ)し/\、七八度(しちはちど)まで蹈留(ふみとどまつ)て戦(たたかひ)けるに、奈良崎も主従三騎討(うた)れぬ。粟生田(あふた)小太郎も馬を射られて討(うた)れにけり。此等(これら)に度々被支て、敵さまでも不追ければ、大将も士卒も危(あやふ)き命を助(たすかつ)て、皆京へぞ返(かへ)り上(のぼ)りにける。
○自伊勢進宝剣事(こと)付(つけたり)黄粱(くわうりやう)夢(ゆめの)事(こと) S2504
今年(ことし)、古(いにしへ)安徳(あんとく)天皇(てんわう)の壇(だん)の浦にて海底に沈(しづ)めさせ給(たまひ)し宝剣出来(いできた)れりとて、伊勢(いせの)国(くに)より進奏(しんそう)す。其(その)子細を能々(よくよく)尋ぬれば、伊勢(いせの)国(くに)の国崎神戸(くさきかんべ)に、下野(しもつけの)阿闍梨(あじやり)円成(ゑんじやう)と云(いふ)山法師(やまほふし)あり。大神宮へ千日参詣の志有(あり)ける間、毎日に潮(うしほ)を垢離(こり)にかいて、隔夜(かくや)詣(まうで)をしけるが、已(すでに)千日に満(まんじ)ける夜、又こりをかゝんとて、礒へ行(ゆき)て遥(はるか)の澳(おき)を見るに、一(ひとつ)の光物(ひかりもの)あり。怪(あやし)く思(おもひ)て、釣(つり)する海人(あま)に、「あれは何物(なにもの)の光りたるぞ。」と問(とひ)ければ、「いさとよ何とは不知候。此(この)二三日が間毎夜(まいよ)此光物(このひかりもの)浪の上に浮(うかん)で、彼方此方(かなたこなた)へ流(ながれ)ありき候間、船を漕(こぎ)寄せて取らんとし候へば、打失(うちうせ)候也(なり)。」とぞ答へける。かれを聞(きく)に弥(いよいよ)不思議(ふしぎ)に思(おもひ)て、目も不放是(これ)を守(まもり)て、遠渚(とほきなぎさの)海づらを遥々(はるばる)と歩行(あゆみゆく)処に、此(この)光物次第に礒へ寄(よつ)て、円成(ゑんじやう)が歩(あゆ)むに随(したがひ)てぞ流(ながれ)て来(きたり)ける。さては子細有(あり)と思(おもひ)て立留(たちとまり)たれば、光物些(ちと)少(ちいさ)く成(なつ)て、円成(ゑんじやう)が足許(もと)に来(きた)れり。懼(おそろ)しながら立寄(たちよつ)て取上(とりあげ)たれば、金にも非(あら)ず石にも非(あらざ)る物(もの)の、三鈷柄(さんこえ)の剣(けん)なんどのなりにて、長さ二尺(にしやく)五六寸(ごろくすん)なる物にてぞ有(あり)ける。是(これ)は明月(めいげつ)に当(あたつ)て光を含(ふくむ)なる犀(さい)の角(つの)か、不然海底に生(おふ)るなる珊瑚樹(さんごじゆ)の枝かなんど思(おもひ)て、手に提(ひつさげ)て大神宮へ参(まゐり)たりける。爰(ここ)に年十二三許(ばかり)なる童部(わらんべ)一人、俄(にはか)に物に狂(くるひ)て四五丈飛上(とびあがり)々々(とびあがり)けるが、思ふ事など問ふ人のなかるらんあふげば空に月ぞさやけきと云(いふ)歌を高らかに詠じける間、社人村老(そんらう)数百人(すひやくにん)集(あつまり)て、「何(いか)なる神の託(たく)させ給ひたるぞ。」と問(とふ)に、物付(つ)き口走申(くちばしりまうし)けるは、「神代(かみよ)より伝(つたへ)て我(わが)国(くに)に三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)あり。縦(たと)ひ継体(けいたい)の天子、位を継(つが)せ給ふといへ共(ども)、此三(このみつ)の宝なき時は、君も君たらず、世も世たらず。汝等是(これ)を見ずや、承久(しようきう)以後代々(だいだい)の王位軽(かろ)くして、武家の為に威を失(うしなは)せ給へる事、偏(ひとへ)に宝剣の君の御守(おんまもり)と成(なら)せ給はで海底に沈(しづ)める故(ゆゑ)也(なり)。剰(あまつさ)へ今内侍所(ないしところ)・璽(しるし)の御箱(みはこ)さへ外都の塵に埋(うづも)れて、登極(とうきよくの)天子空(むなし)く九五(きうご)の位(くらゐ)に臨ませ給へり。依之(これによつて)四海(しかい)弥(いよいよ)乱(みだれ)て一天(いつてん)未静(いまだしづかならず)。爰(ここ)に百王鎮護(ちんご)の崇廟(そうべう)の神(かみ)、竜宮に神勅を被下て、元暦(げんりやく)の古(いにし)へ海底に沈(しづみ)し宝剣を被召出たる者也(なり)。すは爰(ここ)に立(たち)て我を見るあの法師の手に持(もち)たるぞ。便宜(びんぎ)の伝奏(てんそう)に属(つけ)て此(この)宝剣を内裏(だいり)へ進(まゐ)らすべし。云処(いふところ)不審あらば是(これ)を見よ。」とて、円成(ゑんじやう)に走懸(はしりかかつ)て、手に持(もち)たる光物を取(とつ)て、涙をはら/\と流し額より汗を流しけるが、暫く死入(しにいり)たる体(てい)に見へて、物(もの)の気(け)は則(すなはち)去(さり)にけり。神託不審あるべきに非(あらざ)れば、斎所(さいしよ)を始として、見及(およぶ)処の神人等(じんにんら)連署(れんしよ)の起請(きしやう)を書(かい)て、円成に与ふ。円成是(これ)を錦(にしき)の袋に入(いれ)て懸頚、任託宣先(まづ)南都(なんと)へぞ赴きける。春日(かすが)の社(やしろ)に七日参篭(さんろう)して有(あり)けるが、是(これ)こそ事の可顕端(はし)よと思ふ験(しるし)も無(なか)りければ、又初瀬(はつせ)へ参(まゐり)て、三日断食(だんじき)をして篭(こも)りたるに、京家(きやうけ)の人よと覚(おぼ)しくて、拝殿の脇に通夜(つや)したる人の有(あり)けるが、円成を呼寄(よびよせ)て、「今夜の夢に伊勢の国より参(まゐつ)て、此(この)三日断食(だんじき)したる法師の申さんずる事を、伝奏(てんそう)に挙達(きよたつ)せよと云(いふ)示現(じげん)を蒙(かうむつ)て候。御辺(ごへん)は若(もし)伊勢(いせの)国(くに)よりや被参て候。」とぞ問(とひ)ける。円成うれしく思(おもひ)て、始(はじめ)よりの有様を委細(ゐさい)に語りければ、「我こそ日野(ひのの)大納言殿(だいなごんどの)の所縁(しよえん)にて候へ。此(この)人に属(つけ)て被経奏聞候はん事、最(いと)安かるべきにて候。」とて、軈(やが)て円成を同道し京に上(のぼつ)て、日野(ひのの)前(さきの)大納言(だいなごん)資明(すけあきらの)卿(きやう)に属(つい)て、宝剣と斎所(さいしよ)が起請(きしやう)とをぞ出(いだし)たりける。資明(すけあきらの)卿(きやう)事の様を能々(よくよく)聞給(ききたまひ)て、「誠(まこと)に不思議(ふしぎ)の神託(しんたく)也(なり)。但(ただし)加様(かやう)の事には、何(いか)にも横句謀計(わうくぼうけい)有(あつ)て、伝奏(てんそう)の短才、人の嘲哢(てうろう)となす事多ければ、能々事の実否(じつぶ)を尋聞(たづねきき)て、諸卿げにもと信(しん)を取(とる)程の事あらば可奏聞。何様(いかさま)天下静謐(せいひつ)の奇瑞なれば引出物(ひきでもの)せよ。」とて、銀剣(ぎんけん)三振(みふり)・被物(きもの)十重(とかさね)、円成にたびて、宝剣をば前栽(せんざい)に崇(あが)め給へる春日(かすが)の神殿にぞ納められける。神代の事をば、何(いか)にも日本記(にほんぎ)の家に可存知事なれば、委(くはし)く尋(たづね)給はんとて、平野の社(やしろ)の神主(かんぬし)、神祇(しんぎ)の大副兼員(たいふかねかず)をぞ召(めさ)れける。大納言、兼員に向(むかつ)て宣(のたま)ひけるは、「抑(そもそも)三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)の事、家々に相伝(さうでん)し来(きた)る義逼(まちまち)也(なり)といへ共、資明(すけあきら)は未是信(いまだこれをしんぜず)。画工闘牛(ぐわこうとうぎう)の尾を誤(あやまつ)て牧童に笑(わらは)れたる事なれば、御辺(ごへん)の被申候はん義を正路(せいろ)とすべきにて候。聊以(いささかもつて)事(ことの)次(ついで)に、此(この)事存知度(ぞんちしたき)事あり。委(くはし)く宣説(せんせつ)候へ。」とぞ被仰ける。兼員(かねかず)畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「御前(おんまへ)にて加様(かやう)の事を申(まうし)候はんは、只養由(やういう)に弓を教へ、羲之(ぎし)に筆を授(さづ)けんとするに相似て候へ共(ども)、御尋(おんたづね)ある事を申さゞらむも、又恐(おそれ)にて候へば、伝(つたは)る処の儀一事(いちじ)も不残申さんずるにて候。先(まづ)天神七代と申(まうす)は、第一(だいいち)国常立尊(くにとこたちのみこと)、第二(だいに)国挟槌尊(くにさづちのみこと)、第三(だいさん)豊斟渟尊(とよくんぬのみこと)。此(この)時天地(あめつち)開(ひら)け始(はじめ)て空中に物あり、葦芽(あしかび)の如しといへり。其(その)後男神(をかみ)に泥土瓊(うひぢにの)尊(みこと)・大戸之道(おほとのちの)尊(みこと)・面足(おもたるの)尊(みこと)、女神(めかみ)に沙土瓊(すひぢにの)尊(みこと)・大戸間辺(おほとまべの)尊(みこと)・惶根(かしこねの)尊(みこと)。此(この)時男女の形(かたち)有(あり)といへ共(ども)更に婚合(こんがふ)の儀なし。其後(そののち)伊弉諾伊弉冊(いざなぎいざなみ)の男神(をかみ)女神(めかみ)の二神(ふたはしら)、天(あま)の浮橋(うきはし)の上にして、此下(このした)に豈(あに)国(くに)なからむやとて、天瓊鉾(あまのぬほこ)を差下(さしおろ)して、大海を掻捜(かきさぐ)り給ふ。其鉾(そのほこさき)の滴(しただり)、凝(こごつ)て一(ひとつ)の島となる、をのころ島是(これ)也(なり)。次に一(ひとつ)の州(くに)を産(うみ)給ふ。此州(このくに)余(あま)りに少(ちひさ)かりし故、淡路州(あはぢのくに)と名付(なづく)、吾恥(わがはぢ)の国と云(いふ)心なるべし。二神(ふたはしら)此(この)島に天降(あまくだ)り給(たまひ)て、宮造(みやつく)りせんとし給ふに、葦原生繁(おひしげつ)て所も無(なか)りしかば、此葦(このあし)を引捨(ひきすて)給ふに、葦を置(おき)たる所は山となり、引捨(ひきすて)たる跡(あと)は河と成(なる)。二神(ふたはしら)夫婦(をつとめ)と成(なつ)て栖(すみ)給ふといへ共(ども)、未(いまだ)陰陽和合(いんやうわがふ)の道を不知給。時に鶺鴒(にはくなぶり)と云(いふ)鳥の、尾を土に敲(たたき)けるを見給(たまひ)て、始(はじめ)て嫁(とつ)ぐ事を習(ならひ)て、喜哉(あなにえや)遇可美小女焉(と)読給(よみたまふ)。是(これ)和歌の始(はじめ)なり。角(かく)て四神(ししん)を生(うみ)給ふ。日神(ひのかみ)・月(つきの)神・蛭子(ひるこ)・素盞烏尊(そさのをのみこと)是(これ)也(なり)。日(ひの)神と申(まうす)は天照太神(あまてらすおほんがみ)、是(これ)日天子(につてんし)の垂跡(すゐしやく)、月(つきの)神と申(まうす)は、月読(つきよみ)の明神(みやうじん)也(なり)。此御形(このおんかたち)余(あま)りにうつくしく御坐(おはしまし)、人間の類(たぐひ)にあらざりしかば、二親(にしん)の御計(おんはから)ひにて天に登(のぼ)せ奉る。蛭子(ひるこ)と申(まうす)は、今の西宮(にしのみや)の大明神(だいみやうじん)にて坐(ましま)す。生(うま)れ給ひし後、三年迄御足不立して、片輪(かたは)に坐(おは)せしかば、いはくす船に乗(の)せて海に放(はな)ち奉る。かぞいろは何(いか)に哀(あはれ)と思ふらん三年(みとせ)に成(なり)ぬ足立(たた)ずしてと読(よめ)る歌是(これ)也(なり)。素盞烏(そさのをの)尊(みこと)は、出雲の大社(おほやしろ)にて御坐(おはしま)す。此尊(このみこと)草木を枯(から)し、禽獣の命を失ひ、諸(もろもろ)荒く坐(おは)せし間、出雲の国へ流し奉る。三神如此或(あるひ)は天に上(のぼ)り、或(あるひ)は海に放たれ、或(あるひは)流し給(たまひ)し間、天照太神(あまてらすおほむかみ)此(この)国(くに)の主(あるじ)と成(なり)給ふ。爰(ここ)に素盞烏(そさのをの)尊(みこと)、吾(われ)国(くに)を取らんとて軍(いくさ)を起(おこし)て、小蝿(さばへ)なす一千(いちせん)の悪神を率(そつ)して、大和(やまとの)国(くに)宇多野(うだの)に、一千(いつせん)の剣(つるぎ)を掘り立(たて)て、城郭(じやうくわく)として楯篭(たてこも)り給ふ。天照太神(あまてらすおほむかみ)是(これ)をよしなき事に思召(おぼしめし)て、八百万神達(やほよろづのかみたち)を引具して、葛城(かづらき)の天(あま)の岩戸(いはと)に閉(と)ぢ篭(こも)らせ給ひければ、六合内(くにのうち)皆常闇(とこやみ)に成(なつ)て、日月の光も見へざりけり。此(この)時に島根見尊(しまねみのみこと)是(これ)を歎(なげき)て、香久山(かぐやま)の鹿を捕(とら)へて肩の骨を抜き、合歓(はわか)の木を焼(やい)て、此(この)事可有如何と占(うら)なはせ給ふに、鏡を鋳(い)て岩戸の前にかけ、歌をうたはゞ可有御出(おんいで)と、占(うら)に出(いで)たり。香久山の葉若(はわか)の下(もと)に占(うら)とけて肩抜(かたぬく)鹿は妻恋(つまごひ)なせそと読(よめ)る歌は則(すなはち)此(この)意也(なり)。さて島根見(しまねみの)尊(みこと)、一千(いちち)の神達(かみたち)を語(かたら)ひて、大和(やまとの)国(くに)天(あま)の香久山に庭火(にはび)を焼(た)き、一面の鏡を鋳(い)させ給ふ。此(この)鏡は思ふ様(やう)にもなしとて被捨ぬ。今の紀州日前宮(にちぜんぐう)の神体(しんたい)也(なり)。次に鋳(い)給ひし鏡よかるべしとて、榊(さかき)の枝に著(つけ)て、一千(いつせん)の神達(かみたち)を引(ひき)調子を調(そろ)へて、神歌(かみうた)を歌ひ給(たまひ)ければ、天照太神(あまてらすおほんがみ)是(これ)にめで給(たまひ)て、岩根手力雄尊(いはねたぢからをのみこと)に岩戸を少し開(ひら)かせて、御顔を差出(さしいだ)させ給へば、世界忽(たちまち)に明(あきらか)に成(なつ)て、鏡に移(うつ)りける御形永く消(きえ)ざりけり。此(この)鏡を名付(なづけ)て八咫(やた)の鏡とも又は内侍所(ないしところ)とも申(まうす)也(なり)。天照太神(あまてらすおほんがみ)岩戸を出(いで)させ給て、八百万(やほよろづの)神達(かみたち)を遣(つかは)し、宇多野(うだの)の城(じやう)に掘立(ほりたて)たる千の剣(つるぎ)を皆蹴破(けやぶつ)て捨(すて)給ふ。是(これ)よりして千剣破(ちはやぶる)とは申(まうし)つゞくる也(なり)。此(この)時一千(いつせん)の悪神は、小蛇(さばへ)と成(なつ)て失(うせ)ぬ。素盞烏(そさのをの)尊(みこと)一人に成(なつ)て、彼方此方(かなたこなた)に迷行玉(まよひゆきたま)ふ程に、出雲(いづもの)国(くに)に行玉(ゆきたま)ひぬ。海上に浮(うかん)で流るゝ島あり。此(この)島は天照太神(あまてらすおほんがみ)も知(しら)せ給(たまふ)べき所ならずとて、尊(みこと)御手(おんて)にて撫留(なでとどめ)て栖(すみ)給ふ。故(ゆゑ)に此(この)島をば手摩島(たましま)とは申(まうす)也(なり)。爰(ここ)にて遥(はるか)に見玉へば、清地(すが)の郷(さと)の奥(おく)、簸(ひ)の川上(かはかみ)に八色(やいろ)の雲あり。尊(みこと)怪(あやし)く思(おもひ)て行(ゆき)て見玉へば、老翁老婆(おきなうば)二人(ににん)うつくしき小女(をとめ)を中(なか)に置(おき)て、泣悲(なきかなし)む事切(せつ)也(なり)。尊彼泣(かのなく)故を問(とひ)給へば、老翁(おきな)答(こたへ)て曰(いはく)、「我をば脚摩乳(あしなづち)、うばをば手摩乳(てなづち)と申(まうす)也(なり)。此(この)姫は老翁老婆(おきなうば)が儲(まうけ)たる孤子(ひとりご)也(なり)。名をば稲田姫(いなたひめ)と申(まうす)也(なり)。近比(このごろ)此(この)所に八岐大蛇(やまたのをろち)とて、八(やつ)の頭(かしら)ある大蛇(をろち)、山(やまの)尾七(ななつ)谷七(ななつ)にはい渡(わたり)て候が、毎夜(まいよ)人を以て食とし候間、野人村老(やじんそんらう)皆食尽(くひつくし)、今日を限(かぎり)の別路(わかれぢ)の遣方(やるかた)もなき悲(かなし)さに、泣臥(なきふす)也(なり)。」とぞ語(かたり)ける。尊(みこと)哀(あはれ)と思食(おぼしめし)て、「此(この)姫を我にえさせば、此大蛇(このをろち)を退治(たいぢ)して、姫が命を可助。」と宣(のたまふ)に、老翁(おきな)悦(よろこび)て、「子細(しさい)候はじ。」と申(まうし)ければ、湯津爪櫛(ゆづつまぐし)を八作(やつつくつ)て、姫が髻(もとどり)にさし、八■(やしぼり)の酒を槽(さかぶね)に湛(たたへ)て、其(その)上(うへ)に棚(たな)を掻(かき)て姫を置奉(おきたてまつり)、其(その)影を酒に移(うつ)してぞ待給(まちたまひ)ける。夜半(よは)過(すぐ)る程に、雨荒(あらく)風烈(はげしく)吹過(ふきすぎ)て、大山の如動なる物来(きた)る勢(いきほ)ひあり。電(いなづま)の光に是(これ)を見れば、八(やつ)の頭(かしら)に各二(ふたつ)の角有(あり)て、あはいに松栢(まつかや)生茂(おひしげり)たり。十八(じふはち)の眼(まなこ)は、日月の光に不異、喉(のんど)の下なる鱗(いろこ)は、夕日を浸(ひた)せる大洋(たいやう)の波に不異。暫(しばし)は槽(さかぶね)の底なる稲田姫(いなたひめ)の影を望見(のぞみみ)て、生牲(いけにへ)爰(ここ)に有(あり)とや思(おもひ)けん、八千(はつせん)石(ごく)湛(たた)へたる酒を少しも不残飲尽(のみつく)す。尽(つき)ぬれば余所(よそ)より筧(かけひ)を懸(かけ)て、数万石(すまんごく)の酒をぞ呑(のま)せたる。大蛇(をろち)忽(たちまち)に飲酔(のみゑひ)て惘然(ほれぼれ)としてぞ臥(ふし)たりける。此(この)時に尊(みこと)剣(けん)を抜(ぬい)て、大蛇(をろち)を寸々(つだつだ)に切(きり)給ふ。至尾剣(つるぎ)の刃(やいば)少し折(をれ)て切れず。尊怪(あやし)みて剣を取直(とりなほ)し、尾を立様(たてさま)に割(さき)て見玉へば、尾の中に一(ひとつ)の剣(けん)あり。此(これ)所謂(いはゆる)天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)也(なり)。尊是(これ)を取(とつ)て天照太神(あまてらすおほむがみ)に奉り玉ふ。「是(これ)は初当(そのかみ)我(われ)高天(たかまの)原より落したりし剣(つるぎ)也(なり)。」と悦(よろこび)玉ふ。其後(そののち)尊(みこと)出雲(いづもの)国(くに)に宮作(みやつくり)し玉(たまひ)て、稲田姫を妻(つま)とし玉ふ。八雲立(やくもたつ)出雲(いづも)八重垣(やへがき)妻(つま)篭(こめ)にやへ垣造(つく)る其(その)やへ垣を是(これ)三十一字(みそじひともじ)に定(さだまり)たる歌の始(はじめ)也(なり)。其(それ)より以来(このかた)此剣(このけん)代代天子の御宝(みたから)と成(なつ)て、代十(よと)つぎを経(へ)たり。時に第十代の帝(みかど)、崇神(しゆじん)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に、是(これ)を伊勢太神宮に献(たてまつ)り給ふ。十二代の帝(みかど)景行天皇(てんわう)四十年(しじふねん)六月に、東夷(とうい)乱(みだれ)て天下不静。依之(これによつて)第二(だいに)の王子(わうじ)日本武(やまとたけるの)尊(みこと)東夷征罰(とういせいばつ)の為に東国に下り給ふ。先(まづ)伊勢太神宮に参(まゐつ)て、事の由を奏し給ひけるに、「慎(つつしん)で勿懈。」直(ぢき)に神勅有(あつ)て件(くだん)の剣(けん)を下さる。尊(みこと)、剣を給(たまはり)て、武蔵野を過(すぎ)給ひける時、賊徒(ぞくと)相謀(あひはかつ)て広野(ひろの)に火を放(はなし)て、尊を焼殺(やきころ)し奉らんとす。燎原(のび)焔(ほのほ)盛りにして、可遁方(かた)も無(なか)りければ、尊(みこと)剣を抜(ぬい)て打払ひ給ふに、刃(やいば)の向ふ方の草木二三里が間、己(おの)れと薙伏(なぎふせ)られて、烟(ほのほ)忽(たちまち)に賊徒(ぞくと)の方に靡(なび)きしかば、尊(みこと)死を遁(のがれ)させ給(たまひ)て朝敵(てうてき)若干(そくばく)亡(ほろび)にけり。依之(これによつて)草薙(くさなぎ)の剣(けん)とは申(まうす)也(なり)。此(この)剣未(いまだ)大蛇(をろち)の尾の中に有(あり)し程、簸(ひ)の河上(かはかみ)に雲懸(かか)りて、天更に不晴しかば、天(あま)の群雲(むらくも)の剣とも名付(なづ)く。其尺(そのしやく)僅(わづか)に十束(とつか)なれば又十束(とつか)の剣とも名付(なづけ)たり。天武(てんむ)天皇(てんわう)の御宇、朱鳥元年に亦(また)被召(めされ)て、内裏(だいり)に収(をさめ)られしより以来(このかた)、代々(だいだい)の天子の御宝(みたから)なればとて、又宝剣とは申(まうす)也(なり)。神璽(しいし)は、天照太神(あまてらすおほんがみ)、素盞烏(そさのをの)尊(みこと)と、共為夫婦(みとのまぐはひ)ありて、八坂瓊(やさかに)の曲玉(まがたま)をねふり給(たまひ)しかば、陰陽(いんやう)成生(せいせい)して、正哉吾勝勝速日天忍穂耳(まさやあかつかつはやひあまのおしほみみの)尊(みこと)を生(うみ)給ふ。此(この)玉をば神璽(しいし)と申(まうす)也(なり)。何(いづ)れも異説多端(たたんなり)、委細(ゐさい)尽(つく)すに不遑。蓬■(ほうひつ)に伝(つたふ)る所の一説、大概是(これ)にて候。」と委細にぞ答申(こたへまうし)たりける。大納言能々(よくよく)聞給(ききたまひ)て、「只今何の次(つい)でとしもなきに、御辺(ごへん)を呼(よび)候(さふらひ)て、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)の様を委(くはし)く問(とひ)つる事は、別の子細なし。昨日伊勢(いせの)国(くに)より、宝剣と云(いふ)物を持参したる事ある間、不審を開(ひら)かん為に尋申(たづねまうし)つる也(なり)。委細の説大畧日来(ひごろ)より誰も存知(ぞんち)の前なれば、別に異儀なし。但(ただし)此(この)説の中に、十束(とつか)の剣(けん)と名付(なづけ)しは、十束ある故(ゆゑ)也(なり)と聞(きき)つるぞ。人の無左右可知事ならずと覚(おぼゆ)る。其剣(そのけん)取出(とりいだ)せ。」とて、南庭(なんてい)に崇(あがめ)給へる春日(かすが)の社(やしろ)より、錦の袋に入(いれ)たる剣を取出(とりいだ)して、尺をさゝせて見給ふに、果(はた)して十束(とつか)有(あり)けり。「さては無不審宝剣と覚(おぼゆ)。但(ただし)奏聞(そうもん)の段は一(ひとつ)の奇瑞(きずゐ)なくば叡信(えいしん)不可立。暫(しばらく)此(この)剣を御辺(ごへん)の許(もと)に置(おい)て、何(いか)なる不思議(ふしぎ)も一(ひとつ)祈出(いのりいだ)されよかし。」と宣(のたま)へば、兼員(かねかず)、「世は澆季(げうき)に及(および)て仏神の威徳も有(あつ)て無きが如くに成(なつ)て候へば、何(いか)に祈(いのり)候とも、誠(まこと)に天下の人を驚(おどろか)す程の瑞相(ずゐさう)、可出来覚(おぼえ)候はず、但(ただし)今も仏神の威光を顕(あらは)して人の信心を催(もよほ)すは、夢に過(すぎ)たる事はなきにて候。所詮(しよせん)先(まづ)此(この)剣を預け給(たまひ)て、三七日が間幣帛(へいはく)を捧(ささ)げ礼奠(れいてん)を調(ととのへ)、祈誓(きせい)を致し候はんずる最中(さいちゆう)、先(まづ)は両上皇、関白殿下、院司(ゐんじ)の公卿(くぎやう)、若(もしく)は将軍、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)なんどの夢に、此(この)剣誠(まこと)に宝剣也(なり)けりと、不審(ふしん)を散ずる程の夢想(むさう)を被御覧候はゞ、御奏聞候へかし。」と申(まうし)て、卜部宿禰兼員(うらべのしくねかねかず)此(この)剣を給(たまはり)てぞ帰りける。翌日(つぎのひ)より兼員此(この)剣を平野(ひらの)の社の神殿に安(あん)じ、十二人(じふににん)の社僧に真読(しんどく)の大般若経(だいはんにやきやう)を読(よま)せ、三十六人の神子(みこ)に、長時(ぢやうじ)の御神楽(みかぐら)を奉らしむるに、殷々(いんいん)たる梵音(ぼんおん)は、本地三身(ほんぢさんしん)の高聴(ちやう)にも達し、玲々(れいれい)たる鈴(すず)の声は垂迹五能(すゐしやくごのう)の応化(おうくわ)をも助くらんとぞ聞(きこ)へける。其(その)外金銀弊帛(へいはく)の奠(てん)、蘋■蘊藻(ひんはんうんさう)の礼、神(しん)其神(そのしん)たらば、などか奇瑞(きずゐ)もこゝに現(げん)ぜざらんと覚(おぼゆ)る程にぞ祈りける。已(すで)に三七日に満(まん)じける夜、鎌倉(かまくら)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)朝臣(あそん)の見給(たまひ)ける夢こそ不思議(ふしぎ)なれ。所は大内(だいだい)の神祇(しんぎ)官かと覚(おぼ)へたるに、三公(さんこう)・九卿(きうけい)・百司(はくし)・千官、位に依(よつ)て列座(れつざ)す。纛(たう)の旗を建(たて)幔(まん)の坐(ざ)を布(しい)て、伶倫(れいりん)楽(がく)を奏し、文人(ぶんじん)詩を献ず。事の儀式厳重(げんぢゆう)にして大礼(たいれい)を被行体(てい)也(なり)。直義朝臣(あそん)夢心地(ゆめここち)に、是(これ)は何事の有(ある)やらんと怪(あやし)く思(おもひ)て、竜尾堂(りようびだう)の傍(かたはら)に徘徊(はいくわい)したれば、権(ごんの)大納言(だいなごん)経顕(つねあき)卿(きやう)出来(いできた)り給へるに、直義朝臣(あそん)、「是(これ)は何事の大礼(たいれい)を被行候やらん。」と問(とひ)給へば、「伊勢太神宮より宝剣を進(まゐ)らせらるべしとて、中議(ちゆうぎ)の節会(せちゑ)を被行候也(なり)。」とぞ被答ける。さては希代(きたい)の大慶(たいけい)哉(かな)と思(おもひ)て、暫(しばらく)見居たる処に、南方より五色の雲一群(ひとむら)立出(たちいで)て、中に光明赫奕(かくやく)たる日輪(にちりん)あり。其(その)光の上に宝剣よと覚(おぼ)へたる一(ひとつ)の剣立(たち)たり。梵天(ぼんてん)・四王・竜神八部(りゆうじんはちぶ)蓋(かい)を捧げ列を引(ひい)て前後左右に囲遶(ゐねう)し給(たま)へりと見て、夢は則(すなはち)覚(さめ)にけり。直義朝臣(あそん)、夙(つと)に起(おき)て、此(この)夢を語給(かたりたまふ)に、聞(きく)人皆、「静謐(せいひつ)の御夢想(ごむさう)也(なり)。」と賀(が)し申さぬは無(なか)りけり。其聞(そのきこ)へ洛中(らくちゆう)に満(みち)て、次第に語(かたり)伝へければ、卜部宿禰兼員(うらべのしくねかねかず)、急ぎ夢の記録を書(かき)て、日野(ひの)大納言殿(だいなごんどの)に進覧(しんらん)す。大納言此(この)夢想の記録を以て、仙洞(せんとう)に奏聞(そうもん)せらる。事の次第御不審(ごふしん)を非可被残とて、八月十八日の早旦(さうたん)に、諸卿参列して宝剣を奉請取。翌日(よくじつ)是(これ)を取進(とりまゐら)せし円成阿闍梨(ゑんじやうあじやり)、次第を不経直任(ぢきにん)の僧都になされ、河内(かはちの)国(くに)葛葉(くずは)の関所(せきところ)を恩賞にぞ被下ける。只周(しう)の代に宝鼎(はうてい)を掘出(ほりいだし)、夏(か)の時に河図(かと)を得たりし祥瑞(しやうずゐ)も是(これ)には過(すぎ)じとぞ見へし。此比(このころ)朝庭(てうてい)に賢才輔佐(ふさ)の臣多(おほし)といへ共(ども)、君の不義を諌(いさ)め政(まつりこと)の不善を誡(いまし)めらるゝは、坊城大納言経顕(つねあき)・日野(ひのの)大納言(だいなごん)資明(すけあきら)二人(ににん)のみ也(なり)。夫(それ)両雄は必(かならず)諍(あらそ)ふ習(ならひ)なれば、互に威勢を被競けるにや、経顕卿被申沙汰たる事をば、資明(すけあきらの)卿(きやう)申破(まうしやぶ)らむとし、資明(すけあきらの)卿(きやう)の被執奏たる事をば経顕卿支申(ささへまう)されけり。爰(ここ)に伊勢(いせの)国(くに)より宝剣進奏(しんそう)の事、日野(ひのの)大納言(だいなごん)被執申たりと聞へしかば、坊城大納言経顕卿、院参(ゐんざん)して被申けるは、「宝剣執奏の事、委細に尋承(たづねうけたまはり)候へば、一向(ひたすら)資明(すけあきら)が阿党(あたう)の所より事起(おこつ)て候なる。佞臣(ねいしん)仕朝国有不義政とは是(これ)にて候也(なり)。先(まづ)思(おもひ)て見候に、素盞烏(そさのをの)尊(みこと)古(いにし)へ簸(ひ)の河上(かはかみ)にて切られし八岐(やまた)の蛇(をろち)、元暦(げんりやく)の比(ころ)安徳(あんとく)天皇(てんわう)と成(なつ)て、此(この)宝剣を執(とつ)て竜宮城へ帰り給ひぬ。其(それ)より後君(きみ)十九代春秋百六十(ひやくろくじふ)余年(よねん)、政(まつりこと)盛(さかん)に徳豊(ゆたか)なりし時だにも、遂(つひ)に不出現宝剣の、何故(なにゆゑ)に斯(かか)る乱世無道(ぶだう)の時に当(あたつ)て出来(いできた)り候べき。若(もし)我(わが)君の聖徳に感じて出現せりと申さば、其(それ)よりも先(まづ)天下の静謐こそ有(ある)べく候へ。若(もし)又直義が夢を以て、可有御信用にて候はゞ、世間(よのなか)に無定相事をば夢幻(ゆめうつつ)と申(まうし)候はずや。されば聖人に無夢とは、是(ここ)を以て申(まうす)にて候。昔漢朝(かんてう)にして富貴を願ふ客あり。楚国の君賢才(けんさい)の臣を求(もとめ)給ふ由を聞(きき)て、恩爵(おんしやく)を貪(むさぼ)らん為に則(すなはち)楚国へぞ趣(おもむき)ける。路に歩疲(あゆみつかれ)て邯鄲(かんたん)の旅亭に暫(しばらく)休(やすみ)けるを、呂洞賓(りよとうびん)と云(いふ)仙術の人、此(この)客の心に願ふ事暗(あん)に悟(さとつ)て、富貴の夢を見する一(ひとつ)の枕をぞ借したりける。客此(この)枕に寝(いね)て一睡(いつすゐ)したる夢に、楚国の侯王(こうわう)より勅使来(きたり)て客を被召。其(その)礼其贈物(そのおくりもの)甚(はなはだ)厚し。客悦(よろこん)で則(すなはち)楚国の侯門(こうもん)に参ずるに、楚王席を近付(ちかづけ)て、道を計り武を問(とひ)給ふ。客答ふる度毎(たびごと)に、諸卿皆頭(かうべ)を屈して旨(むね)を承くれば、楚王不斜(なのめならず)是(これ)を貴寵(きちよう)して、将相(しやうじやう)の位に昇(のぼ)せ給ふ。角(かく)て三十年(さんじふねん)を経て後、楚王隠れ給(たまひ)ける刻(きざみ)、第一(だいいち)の姫宮を客に妻(めあは)せ給ひければ、従官使令(しようくわんしれい)、好衣珍膳(かういちんぜん)、心に不叶云(いふ)事なく、不令目悦云(いふ)事はなし。座上に客常(つねに)満(みち)、樽中(そんちゆう)に酒不空。楽(たのし)み身に余(あま)り遊び日を尽(つく)して五十一年と申すに、夫人(ふじん)独(ひとり)の太子を産(うみ)給ふ。楚王に位を可継御子(みこ)なくして、此孫子(このそんし)出来(いでき)にければ、公卿(くぎやう)大臣皆相計(はかつ)て、楚国の王に成(な)し奉る。蛮夷(ばんい)率服(そつふく)し、諸侯の来朝する事、只秦の始皇の六国(りつこく)を合(あはせ)、漢の文慧(ぶんけい)の九夷(きうい)を順(したが)へしに不異。王子(わうじ)已(すで)に三歳に成給(なりたまひ)ける時、洞庭(とうてい)の波上(はじやう)に三千(さんぜん)余艘(よさう)の舟を双(なら)べ、数百万人の好客(かうかく)を集(あつめ)て、三年三月の遊(あそび)をし給ふ。紫髯(しぜん)の老将は解錦纜、青蛾(せいが)の御女(おんむすめ)は唱棹歌。彼(かれ)をさへや大梵高台(だいぼんかうたい)の花喜見城宮(きけんじやうぐう)の月も、不足見不足翫と、遊び戯(たはぶ)れ舞歌(まひうたう)て、三年三月の歓娯(くわんご)已(すで)に終(をはり)ける時、夫人(ふじん)彼(かの)三歳の太子を懐(いだい)て、舷(ふなばた)に立給(たちたまひ)たるが、踏(ふみ)はづして太子夫人(ふじん)諸共(もろとも)に、海底に落入(おちいり)給ひてげり。数万の侍臣周章(あわて)て一同に、「あらや/\。」と云(いふ)声に、客の夢忽(たちまち)に覚(さめ)てげり。倩(つらつら)夢中の楽(たのし)みを計(はか)れば、遥(はるか)に天位五十年(ごじふねん)を経(へ)たりといへ共(ども)、覚(さめ)て枕の上の睡(ねぶり)を思へば、僅(わづか)に午炊(ごすゐ)一黄粱(いちくわうりやう)の間を不過けり。客云(ここに)人間百年の楽(たのしみ)も、皆枕頭片時(しんとうへんし)の夢なる事を悟り得て、是(これ)より楚国へは不越、忽(たちまち)に身を捨(すて)て、世を避(さく)る人と成(なつ)て、遂(つひ)に名利に繋(つなが)るゝ心は無(なか)りけり。是(これ)を揚亀山(やうきさん)が謝日月詩(しに)作(つくつ)て云(いは)く、少年力学志須張。得失由来一夢長。試問邯鄲欹枕客。人間幾度熟黄粱。是(これ)を邯鄲午炊(ごすゐ)の夢とは申也(なり)。就中(なかんづく)葛葉(くずは)の関は、年来(としごろ)南都の管領(くわんりやう)の地にて候を、無謂召放(めしはなさ)れん事、衆徒の嗷訴(がうそ)を招くにて候はずや。綸言再(ふたたび)し難しといへ共、過(あやまつては)則勿憚改と申(まうす)事候へば、速(すみやか)に以前の勅裁を被召返、南都の嗷訴(がうそ)事未萌前(いまだきざさざるさき)に可被止や候らん。」と委細に奏申(そうしまう)されければ、上皇もげにもとや思召(おぼしめし)けん、則(すなはち)院宣(ゐんぜん)を被成返ければ、宝剣をば平野社(ひらののやしろ)の神主(かんぬし)卜部宿禰兼員(うらべのしくねかねかず)に被預、葛葉(くずは)の関所(せきところ)をば如元又南都へぞ被付ける。
○住吉(すみよし)合戦(かつせんの)事(こと) S2505
去(さんぬる)九月十七日(じふしちにち)に、河内(かはちの)国(くに)藤井寺の合戦に、細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏(あきうぢ)、無甲斐打負(うちまけ)て引退(しりぞき)し後、楠帯刀(たてはき)左衛門正行(まさつら)、勢(いきほ)ひ機に乗(のつ)て、辺境(へんきやう)常に侵(をか)し奪(うば)はるといへ共(ども)、年内は寒気(かんき)甚(はなはだしく)して兵(つはもの)皆指を墜(おと)し、手(て)亀(かがま)る事有(あり)ぬべければ、暫(しばし)とて閣(さしおか)れけるが、さのみ延引せば敵に勢(せい)著(つき)ぬべしとて、十一月二十三日(にじふさんにち)に軍評定(いくさひやうぢやう)有(あつ)て、同(おなじき)二十五日、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏を両大将にて、六千(ろくせん)余騎(よき)を住吉(すみよし)天王寺(てんわうじ)へ被差下。顕氏は去(さん)ぬる九月の合戦に、楠帯刀左衛門正行に打負(うちまけ)て、天下の人口(じんこう)に落(おち)ぬる事、生涯(しやうがい)の恥辱(ちじよく)也(なり)と被思ければ、四国の兵共(つはものども)を召集(めしあつめ)て、「今度の合戦又如先して帰りなば、万人の嘲哢(てうろう)たるべし。相構(あひかまへ)て面々(めんめん)身命を軽(かろん)じて、以前の恥を洗(すす)がるべし。」と、衆を勇(いさ)め気を励(はげま)されければ、坂東(ばんどう)・坂西(ばんせい)・藤(とう)・橘(きつ)・伴(ばん)の者共(ものども)、五百騎(ごひやくき)づゝ一揆(いつき)を結(むす)んで、大旗(おほはた)小旗(こはた)下濃(すそご)の旗三流立(たて)て三手(みて)に分け、一足(ひとあし)も不引可討死と、神水(じんすゐ)を飲(のみ)てぞ打立(うちたち)ける。事の■(おぎろ)実(まこと)に思切(おもひきつ)たる体(てい)哉(かな)と、先(まづ)涼(すず)しくぞ見(みえ)たりける。大手(おほて)の大将山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏、千(せん)余騎(よき)にて住吉(すみよし)に陣をとれば、搦手(からめて)の大将細川陸奥守顕氏、八百(はつぴやく)余騎(よき)にて天王寺(てんわうじ)に陣を取る。楠帯刀正行是(これ)を聞(きき)て、「敵に足をためさせて、住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)両所に城郭(じやうくわく)を被構なば、向神向仏挽弓放矢恐(おそれ)有(あり)ぬべし。不日(ふじつ)に押寄(おしよせ)て、先(まづ)住吉(すみよし)の敵を追払(おひはらひ)、只攻(つめ)につめ立(たて)て、急に追懸(おつかく)る程ならば、天王寺(てんわうじ)の敵は戦はで引退(ひきしりぞき)ぬと覚(おぼゆ)るぞ。」とて、同(おなじき)二十六日(にじふろくにち)の暁天(げうてん)に、五百(ごひやく)余騎(よき)を率(そつ)し、先(まづ)住吉(すみよし)の敵を追出(おひいだ)さんと、石津(いしづ)の在家(ざいけ)に火を懸(かけ)て、瓜生野(うりふの)の北より押寄(おしよせ)たり。山名伊豆(いづの)守(かみ)是(これ)を見て、「敵一方よりよも寄せじ。手を分(わけ)て相(あひ)戦へ。」とて、赤松筑前(ちくぜんの)守(かみ)範貞に、摂津国(つのくに)播磨両国の勢を差副(さしそへ)て、八百(はつぴやく)余騎(よき)浜の手を防(ふせが)んと、住吉(すみよし)の浦の南に陣を取(とる)。土岐周済房(ときしゆさいばう)・明智(あけち)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・佐々木(ささきの)四郎左衛門(しらうざゑもん)、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)にて、安部野(あべの)の東西両所に陣を張る。搦手(からめて)の大将細川陸奥(むつの)守(かみ)は、手勢(てぜい)の外(ほか)、四国の兵五千(ごせん)余騎(よき)を率(そつ)して、態(わざ)と本陣を不離、荒手(あらて)に入替(いれかはら)ん為に、天王寺(てんわうじ)に磬(ひか)へたり。大手の大将山名伊豆(いづの)守(かみ)・舎弟(しやてい)三河(みかはの)守(かみ)・原(はらの)四郎太郎(しらうたらう)・同四郎次郎(しらうじらう)・同四郎三郎は、千(せん)余騎(よき)にて、只今馬烟(むまけぶり)を挙(あげ)て進みたる先蒐(さきがけ)の敵に懸合(かけあは)せんと、瓜生野(うりふの)の東に懸出(かけいで)たり。楠帯刀は敵の馬烟を見て、陣の在所四箇所(しかしよ)に有(あり)と見てければ、多からぬ我勢(わがせい)を数(あま)たに分(わけ)ば、中々可悪とて、本(もと)五手(いつて)に分(わけ)たりける二千(にせん)余騎(よき)の勢を、只一手(ひとて)に集(あつめ)て、瓜生野へ打(うつ)てかゝる。此(この)陣東西南北野遠(とほく)して疋馬(ひつば)蹄(ひづめ)を労(らう)せしかば、両陣互に射手(いて)を進(すすめ)て、時の声を一声挙(あぐ)る程こそあれ、敵御方(みかた)六千(ろくせん)余騎(よき)一度(いちど)に颯(さつ)と懸合(かけあつ)て、思々(おもひおもひ)に相戦(あひたたかふ)。半時許(はんじばかり)切合(きりあつ)て、互に勝時(かちどき)をあげ、四五町(しごちやう)が程両方へ引分(ひきわか)れ、敵御方(みかた)を見渡(わたせ)ば、両陣過半滅(ほろ)びて、死人(しにん)戦場に充満(みちみち)たり。又大将山名伊豆(いづの)守(かみ)、切疵射疵(きりきずいきず)七所迄負(お)はれたれば、兵(つはもの)前(まへ)に立隠(たちかく)して、疵をすひ血を拭(のご)ふ程、少し猶預(いうよ)したる処へ、楠が勢の中より、年の程二十許(はたちばかり)なる若武者(わかむしや)、和田新発意源秀(わだしんぼちげんしう)と名乗(なのつ)て、洗皮(あらひかは)の鎧(よろひ)に、大太刀小太刀二振(ふたふり)帯(はい)て、六尺(ろくしやく)余(あまり)の長刀(なぎなた)を小脇(こわき)に挟(さしはさ)み、閑々(しづしづ)と馬を歩(あゆ)ませて小哥(こうた)歌(うたひ)て進みたり。其(その)次に一人、是(これ)も法師武者の長(たけ)七尺(しちしやく)余(あまり)も有(ある)らんと覚(おぼえ)たるが、阿間了願(あまのれうぐわん)と名乗(なのつ)て、唐綾威(からあやおどし)の鎧に小太刀帯(はい)て、柄(え)の長(ながさ)一丈(いちぢやう)許(ばかり)に見へたる鑓(やり)を馬の平頚(ひらくび)に引副(ひきそへ)て、少しも不擬議懸出(かけいで)たり。其(その)勢(せい)事がら、尋常(よのつね)の者には非(あら)ずと見へながら、跡(あと)に続く勢無ければ、あれやと許(ばかり)云(いひ)て、山名が大勢さしも驚かで控(ひかへ)たる中へ、只二騎つと懸入(かけいつ)て、前後左右を突(つい)て廻(まはる)に、小手の迦(はづれ)・髄当(すねあて)の余(あま)り・手反(てへん)の直中(ただなか)・内甲(うちかぶと)、一分もあきたる所をはづさず、矢庭(やには)に三十六騎(さんじふろくき)突(つき)落して、大将に近付(ちかづか)んと目を賦(くば)る。三河(みかはの)守(かみ)是(これ)を見て、一騎合(あ)ひの勝負は叶はじとや被思けん。「以大勢是(これ)を取篭(とりこめ)よ。」と、百四五十騎にて横合(よこあひ)に被懸たり。楠又是(これ)を見て、「和田討(うた)すな続けや。」とて、相懸(あひがかり)に懸(かかつ)て責(せめ)戦ふ。太刀の鐔音(つばおと)天に響き、汗馬(かんば)の足音地を動(うごか)す。互に御方(みかた)を恥(はぢ)しめて、「引(ひく)な進め。」と云(いふ)声に退(しりぞく)兵無(なか)りけり。されども大将山名伊豆(いづの)守(かみ)已(すで)に疵を被(かうむ)り、又入替(いれかは)る御方(みかた)の勢(せい)はなし、可叶共(とも)覚(おぼ)へざりければ、歩立(かちだち)になる兵共(つはものども)、伊豆(いづの)守(かみ)の馬の口を引向(ひきむけ)て、後陣(ごぢん)の御方(みかた)と一処(いつしよ)にならんと、天王寺(てんわうじ)を差(さし)て引退(ひきしりぞ)く。楠弥(いよいよ)気に乗(のつ)て、追懸(おつかけ)々々(おつかけ)責(せめ)ける間、山名三川(みかはの)守(かみ)・原(はらの)四郎太郎(しらうたらう)・同四郎次郎(しらうじらう)、兄弟二騎、犬飼(いぬかひ)六郎(ろくらう)、主従三騎、返合(かへしあは)せて討(うた)れにけり。二陣に控(ひかへ)たる土岐周済房(ときしゆさいばう)・佐々木(ささきの)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)三百(さんびやく)余騎(よき)にて安部野(あべの)の南に懸出(かけいで)て、暫(しば)し支(ささへ)て戦(たたかひ)けるが、目賀田(めかだ)・馬淵(まぶち)の者共(ものども)、三十八騎一所(いつしよ)にて討(うた)れにける間、此(この)陣をも被破(やぶられ)て共に天王寺(てんわうじ)へと引(ひき)しさる。一陣二陣如此なりしかば、浜の手も天王寺(てんわうじ)の勢も、大河後(うしろ)にあり両陣前に破れぬ。敵に橋を引(ひか)れなば一人も生(いき)て帰る者不可有。先(まづ)橋を警固(けいご)せよとて、渡辺(わたなべ)を差(さし)て引(ひき)けるが、大勢の靡立(なびきたち)たる習(ならひ)にて、一度(いちど)も更に不返得、行先(ゆくさき)狭(せば)き橋の上を、落(おつ)とも云はずせき合(あひ)たり。山名伊豆(いづの)守(かみ)は我(わが)身深手(ふかて)を負(おふ)のみならず、馬の三頭(さんづ)を二太刀切られて、馬は弱(よわ)りぬ、敵は手繁(てしげ)く懸る。今は落延(おちのび)じとや被思けん、橋爪(はじづめ)にて已(すで)に腹を切らんとせられけるを、河村山城(やましろの)守(かみ)只一騎返合(かへしあは)せて近付(ちかづく)敵二騎切(きつ)て落し、三騎に手を負(おはせ)て、暫し支(ささ)へたりける間に、安田弾正走寄(わしりよつ)て、「何(いか)なる事にて候ぞ。大将の腹切(きる)所にては候はぬ者を。」と云(いひ)て、己(おの)が六尺(ろくしやく)三寸(さんずん)の太刀を守木(もりき)に成(な)し、鎧武者を鎧の上に掻負(かいおう)て橋の上を渡るに、守木(もりき)の太刀にせき落されて、水に溺(おぼ)るゝ者数を不知(しらず)。播磨国(はりまのくに)住人(ぢゆうにん)小松原(こまつばら)刑部左衛門は、主の三河(みかはの)守(かみ)討(うた)れたる事をも不知、天神の松原まで落延(おちのび)たりけるが、三川(みかはの)守(かみ)の乗(のり)給ひたりける馬の平頚(ひらくび)、二太刀切(きら)れて放(はなさ)れたりけるを見て、「さては三川(みかはの)守(かみ)殿(どの)は討(うた)れ給ひけり。落(おち)ては誰(た)が為に命を可惜。」とて、只一騎天神の松原より引返(ひつかへ)し、向ふ敵に矢二筋(ふたすぢ)射懸(いかけ)て、腹掻切(かききつ)て死(しに)にけり。其外(そのほか)の兵共(つはものども)、親討(うた)れ共子は不知、主(しゆ)討死すれ共(ども)郎従(らうじゆう)是(これ)を不助、物具(もののぐ)を脱(ぬ)ぎ棄(すて)弓を杖に突(つい)て、夜中に京へ逃上(にげのぼ)る。見苦(みぐる)しかりし分野(ありさま)也(なり)。


太平記(国民文庫)
太平記巻第二十六

○正行(まさつら)参吉野事(こと) S2601
安部野(あべの)の合戦は、霜月(しもつき)二十六日(にじふろくにち)の事なれば、渡辺(わたなべ)の橋よりせき落されて流るゝ兵五百(ごひやく)余人(よにん)、無甲斐命を楠に被助て、河より被引上たれ共(ども)、秋(あきの)霜(しも)肉を破り、暁(あかつき)の氷膚(はだへ)に結(むすん)で、可生共不見けるを、楠有情者也(なり)ければ、小袖を脱替(ぬぎかへ)させて身を暖め、薬を与へて疵(きず)を令療。如此四五日皆労(いたは)りて、馬に乗る者には馬を引(ひき)、物具(もののぐ)失へる人には物具をきせて、色代(しきだい)してぞ送りける。されば乍敵其(その)情(なさけ)を感ずる人は、今日より後(のち)心を通(つうぜ)ん事を思ひ、其(その)恩を報ぜんとする人は、軈(やが)て彼(かの)手に属(しよく)して後、四条(しでう)縄手(なはて)の合戦に討死をぞしける。さても今年(ことし)両度の合戦に、京勢(きやうぜい)無下(むげ)に打負(うちまけ)て、畿内(きない)多く敵の為に犯(をか)し奪はる。遠国(をんごく)又蜂起(ほうき)しぬと告(つげ)ければ、将軍左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の周章(しうしやう)、只熱湯(ねつたう)にて手を濯(あらふ)が如し。今は末々の源氏国々の催勢(もよほしぜい)なんどを向(むけ)ては可叶共不覚とて、執事(しつじ)高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直(もろなほ)、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰兄弟を両大将にて、四国・中国・東山(とうせん)・東海二十(にじふ)余箇国(よかこく)の勢をぞ被向ける。軍勢(ぐんぜい)の手分(てわけ)事定(さだまつ)て、未(いまだ)一日も不過に、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰は手勢(てぜい)三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、十二月十四日の早旦(たん)に先(まづ)淀(よど)に著く。是(これ)を聞て馳加(はせくはは)る人々には、武田(たけだの)甲斐(かひの)守(かみ)・逸見(へんみ)孫六入道・長井(ながゐ)丹後(たんごの)入道(にふだう)・厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)・宇都宮(うつのみや)三川(みかはの)入道(にふだう)・赤松信濃(しなのの)守(かみ)・小早河(こばやかは)備後(びんごの)守(かみ)、都合其(その)勢二万(にまん)余騎(よき)、淀・羽束使(はつかし)・赤井・大渡(おほわたり)の在家に居余て、堂舎仏閣に充満(みちみち)たり。同二十五日武蔵守(むさしのかみ)手勢七千(しちせん)余騎(よき)を卒して八幡(やはた)に著(つ)く。此(この)手に馳加(はせくはは)る人々には、細川阿波(あはの)将監(しやうげん)清氏・仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(だいぶ)頼章(よりあきら)・今河五郎入道・武田(たけだの)伊豆(いづの)守(かみ)・高(かうの)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)・同播磨(はりまの)守(かみ)・南部(なんぶ)遠江守(とほたふみのかみ)・同次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・千葉(ちばの)介(すけ)・宇都宮(うつのみや)遠江(とほたふみの)入道(にふだう)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)・同六角判官・同黒田判官・長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)・松田備前(びぜんの)三郎・須々木(すずき)備中(びつちゆうの)守(かみ)・宇津木(うつき)平三・曾我(そが)左衛門・多田院(ただのゐんの)御家人(ごけにん)、源氏二十三人(にじふさんにん)、外様(とざまの)大名四百(しひやく)三十六人、都合其(その)勢六万(ろくまん)余騎(よき)、八幡(やはた)・山崎・真木(まき)・葛葉(くずは)・鹿島(かしま)・神崎(かんざき)・桜井(さくらゐ)・水無瀬(みなせ)に充満(じゆうまん)せり。京勢(きやうぜい)如雲霞淀・八幡に著(つき)ぬと聞へしかば、楠(くすのき)帯刀(たてはき)正行(まさつら)・舎弟(しやてい)正時一族(いちぞく)打連(うちつれ)て、十二月二十七日(にじふしちにち)芳野の皇居(くわうきよ)に参じ、四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)を以て申けるは、「父正成■弱(わうじやく)の身を以て大敵の威(ゐ)を砕(くだ)き、先朝の宸襟(しんきん)を休め進(まゐら)せ候(さふらひ)し後、天下無程乱(みだれ)て、逆臣(げきしん)西国(さいこく)より責(せめ)上り候間、危(あやふき)を見て命(めい)を致す処、兼(かね)て思(おもひ)定(さだめ)候(さふらひ)けるかに依て、遂(つひ)に摂州(せつしう)湊河にして討死仕(つかまつり)候(さうらひ)了(をはんぬ)。其(その)時正行十三歳に罷成(まかりなり)候(さふらひ)しを、合戦の場へは伴(ともな)はで河内へ帰し死残(しにのこり)候はんずる一族(いちぞく)を扶持(ふち)し、朝敵(てうてき)を亡(ほろぼ)し君を御代に即進(つけまゐら)せよと申置て死て候。然(しかる)に正行・正時已(すでに)壮年に及(および)候(さふらひ)ぬ。此度(このたび)我と手を砕き合戦仕(つかまつり)候はずは、且(かつう)は亡父(ばうふ)の申しし遺言(ゆゐごん)に違ひ、且は武略の無云甲斐謗(そし)りに可落覚(おぼえ)候。有待(うだい)の身(み)思ふに任せぬ習にて、病に犯され早世(さうせい)仕(つかまつる)事候なば、只君の御為には不忠の身と成(なり)、父の為には不孝(ふかう)の子と可成にて候間、今度師直・師泰に懸(かかり)合(あひ)、身命を尽(つく)し合戦仕て、彼等(かれら)が頭(かうべ)を正行が手に懸(かけ)て取(とり)候歟(か)、正行・正時が首(くび)を彼等に被取候か、其(その)二(ふたつ)の中に戦の雌雄(しゆう)を可決にて候へば、今生にて今一度(いちど)君の竜顔(りようがん)を奉拝為に、参内仕て候。」と申しも敢(あへ)ず、涙を鎧の袖にかけて義心其(その)気色(きしよく)に顕(あらは)れければ、伝奏(てんそう)未(いまだ)奏せざる先(さき)に、まづ直衣(なほし)の袖をぞぬらされける。主上(しゆしやう)則(すなはち)南殿(なでん)の御簾(みす)を高く巻(まか)せて、玉顔殊に麗(うるはし)く、諸卒を照臨(せうりん)有て正行を近く召て、「以前両度の戦に勝つ事を得て敵軍に気を屈せしむ。叡慮(えいりよ)先(まづ)憤(いきどほり)を慰(ゐ)する条、累代の武功返返(かへすがへす)も神妙(しんべう)也(なり)。大敵今勢を尽して向ふなれば、今度の合戦天下の安否(あんぴ)たるべし。進退(しんたい)当度反化(へんくわ)応機事は、勇士(ゆうし)の心とする処なれば、今度の合戦手を下すべきに非(あら)ずといへ共、可進知て進むは、時を為不失也(なり)。可退見て退(しりぞく)は、為全後也(なり)。朕(ちん)以汝股肱(ここう)とす。慎(つつしん)で命を可全。」と被仰出ければ、正行首(かうべ)を地(ぢ)に著(つけ)て、兔角(とかく)の勅答(ちよくたふ)に不及。只是(これ)を最後の参内(さんだい)也(なり)と、思定(おもひさだめ)て退出す。正行・正時・和田新発意(わだしんぼち)・舎弟(しやてい)新兵衛・同紀(きの)六左衛門子息二人(ににん)・野田四郎子息二人(ににん)・楠将監(しやうげん)・西河子息・関地良円(せきぢりやうゑん)以下今度の軍に一足(ひとあし)も不引、一処にて討死せんと約束したりける兵百四十三人(しじふさんにん)、先皇(せんくわう)の御廟(ごべう)に参て、今度の軍(いくさ)難義ならば、討死仕(つかまつる)べき暇(いとま)を申て、如意輪堂(によいりんだう)の壁板(かべいた)に各名字を過去帳(くわこちやう)に書連(つらね)て、其(その)奥に、返らじと兼(かね)て思へば梓弓(あづさゆみ)なき数にいる名をぞとゞむると一首(いつしゆ)の哥を書留(かきとど)め、逆修(ぎやくしゆ)の為と覚敷(おぼしく)て、各鬢髪(びんはつ)を切て仏殿に投入(なげいれ)、其(その)日(ひ)吉野を打出て、敵陣へとぞ向(むかひ)ける。
○四条縄手(しでうなはて)合戦(かつせんの)事(こと)付(つけたり)上山(うへやま)討死(うちじにの)事(こと) S2602
師直・師泰は、淀・八幡(やはた)に越年(をつねん)して、猶(なほ)諸国の勢を待調(まちそろへ)て、河内へは可向と議しけるが、楠已(すで)に逆(さ)か寄(よせ)にせん為に、吉野へ参て暇(いとま)申し、今日河内の往生院(わうじやうゐん)に著(つき)ぬと聞へければ、師泰先(まづ)正月二日淀を立て二万(にまん)余騎(よき)和泉の堺(さかひ)の浦に陣を取る。師直も翌日(よくじつ)三日の朝八幡を立て六万(ろくまん)余騎(よき)四条(しでう)に著く。此侭(このまま)軈(やが)て相近付(あひちかづく)べけれ共(ども)、楠定(さだめ)て難所(なんじよ)を前に当(あて)てぞ相待(あひまつ)らん。寄せては可悪、被寄ては可有便とて、、三軍五所に分れ、鳥雲(てううん)の陣をなして、陰(いん)に設(まう)け陽(やう)に備(そな)ふ。白旗一揆(いつき)の衆には、県(あがた)下野(しもつけの)守(かみ)を旗頭(はたがしら)として、其(その)勢五千(ごせん)余騎(よき)飯盛山(いひもりやま)に打上(うちあがり)て、南の尾崎(をさき)に扣(ひかへ)たり。大旗一揆(いつき)の衆には、河津(かはづ)・高橋二人(ににん)を旗頭として、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、秋篠(あきしの)や外山(とやま)の峯に打上(うちあがり)て、東の尾崎に控(ひか)へたり。武田(たけだの)伊豆(いづの)守(かみ)は千(せん)余騎(よき)にて、四条縄手の田中に、馬の懸場(かけば)を前に残して控(ひか)へたり。佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)は、二千(にせん)余騎(よき)にて、伊駒(いこま)の南の山に打上り、面(おもて)に畳楯(でふだて)五百(ごひやく)帖(でふ)突並(つきなら)べ、足軽の射手(いて)八百人(はつぴやくにん)馬よりをろして、打て上る敵あらば、馬の太腹(ふとばら)射させて猶予(いうよ)する処あらば、真倒(まつさかさま)に懸落さんと、後(うし)ろに馬勢控(ひか)へたり。大将武蔵守(むさしのかみ)師直は、二十(にじふ)余町(よちやう)引殿(ひきおくれ)て、将軍の御旗下(おんはたもと)に輪違(わちがひ)の旗打立て、前後左右に騎馬の兵二万(にまん)余騎(よき)、馬回(うままはり)に徒立(かちだち)の射手(いて)五百人(ごひやくにん)、四方(しはう)十(じふ)余町(よちやう)を相支(ささへ)て、如稲麻の打囲(うちかこ)ふだり。手分(てわけ)の一揆(いつき)互(たがひ)に勇争(いさみあらそう)て陣の張様(はりやう)密(きび)しければ、項羽(かうう)が山を抜く力、魯陽(ろやう)が日を返す勢(いきほひ)有共、此(この)堅陣(けんぢん)に懸(かけ)入て可戦とは見へざりけり。去(さる)程(ほど)に正月五日の早旦に、先(まづ)四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)卿(きやう)大将として、和泉・紀伊(きいの)国(くに)の野伏(のぶし)二万(にまん)余人(よにん)引具(ひきぐ)して、色々の旗を手に差上(さしあげ)、飯盛山にぞ向ひ合ふ。是(これ)は大旗・小旗両一揆(いつき)を麓(ふもと)へをろさで、楠を四条縄手へ寄(よせ)させん為の謀(はかりこと)也(なり)。如案大旗・小旗の両一揆(いつき)是(これ)を忻(たばか)り勢(ぜい)とは不知、是(これ)ぞ寄手(よせて)なるらんと心得(こころえ)て、射手(いて)を分て旗を進めて坂中までをり下(さがつ)て、嶮岨(けんそ)に待て戦(たたかは)んと見繕(みつくろ)ふ処に、楠帯刀(たてはき)正行・舎弟(しやてい)正時・和田新兵衛高家・舎弟(しやてい)新発意(しんぼち)賢秀(けんしう)、究竟(くつきやう)の兵三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、霞隠(かすみがく)れより驀直(まつしぐら)に四条縄手へ押寄せ、先(まづ)斥候(せきこう)の敵を懸散(かけちら)さば、大将師直に寄合て、勝負を決(けつ)せざらんと、少(すこし)も擬議(ぎぎ)せず進(すすん)だり。県(あがた)下野(しもつけの)守(かみ)は白旗一揆(いつき)の旗頭にて、遥(はるか)の峯に控(ひかへ)たりけるが、菊水の旗只(ただ)一流(ひとながれ)、無是非武蔵守(むさしのかみ)の陣へ懸入(かけいら)んとするを見て、北(きた)の岡より馳(はせ)下(くだり)馬よりひた/\と飛下(とびおり)て、只今敵のましぐらに懸入(かけいら)んとする道の末を一文字(いちもんじ)に遮(さへぎつ)て、東西に颯(さつ)と立渡り、徒立(かちだち)に成てぞ待懸(まちかけ)たる。勇気尤盛(さかん)なる楠が勢、僅(わづか)に徒立なる敵を見て、何故か些(すこし)もやすらふべき。三手(みて)に分たる前陣の勢五百(ごひやく)余騎(よき)、閑々(しづしづ)と打て蒐(かか)る。京勢(きやうぜい)の中秋山弥次郎(やじらう)・大草(おほくさ)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)二人(ににん)、真前(まつさき)に進て射落さる。居野(ゐの)七郎(しちらう)是を見て、敵に気を付(つけ)じと、秋山が臥(ふし)たる上をつと飛越(とびこえ)て、「爰(ここ)をあそばせ。」と射向(いむけ)の袖を敲(たたい)て、小跳(こをどり)して進(すすん)だり。敵東西より差合(さしあは)せて雨の降様(ふるやう)に射る矢に、是(これ)も内甲草摺(うちかぶとくさずり)のはづれ二所箆深(のぶか)に被射、太刀を倒(さかさま)につき、其(その)矢を抜(ぬか)んとすくみて立たる所を、和田新発意(しんぼち)つと蒐(かけ)寄て、甲(かぶと)の鉢(はち)をしたゝかにうつ。打(うた)れて犬居(いぬゐ)に倒れければ、和田が中間走(はしり)寄て、頚(くび)掻(かき)切て差上(さしあげ)たり。是(これ)を軍の始として、楠が騎馬の兵五百(ごひやく)余騎(よき)と、県(あがた)が徒立(かちだち)の兵三百(さんびやく)余人(よにん)と、喚(をめ)き叫(さけん)で相戦ふに、田野(でんや)ひらけ平にして馬の懸引(かけひき)自在なれば、徒立の兵汗馬(かんば)に被懸悩、白旗一揆(いつき)の兵三百(さんびやく)余騎(よき)太略討(うた)れにければ、県(あがた)下野(しもつけの)守(かみ)も深手(ふかで)五所まで被(かうむつ)て叶はじとや思(おもひ)けん、被討残たる兵と師直の陣へ引て去る。二番に戦屈(くつ)したる楠が勢を弊(つひえ)に乗て討んとて、武田(たけだの)伊豆(いづの)守(かみ)七百(しちひやく)余騎(よき)にて進(すすん)だり。楠が二陣の勢千(せん)余騎(よき)にて蒐(かかり)合ひ二手(ふたて)に颯(さつ)と分て、一人も余さじと取篭(とりこむ)る。汗馬(かんば)東西に馳(はせ)違(ちがひ)、追(おつ)つ返(かへし)つ旌旗(せいき)南北に開(ひらき)分れて、巻(まくつ)つ巻られつ互に命を惜(をし)まで、七八度(しちはちど)まで揉(もみ)合たるに、武田(たけだ)が七百(しちひやく)余騎(よき)残(のこり)少なに討るれば、楠が二陣の勢も大半疵(きず)を被(かうむつ)て、朱(あけ)に成てぞ控(ひかへ)たる。小旗一揆(いつき)の衆は、始より四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)卿(きやう)の偽(いつはつ)て控(ひかへ)たる見せ勢(ぜい)に対して、飯盛山に打上て、大手の合戦をば、徒(いたづら)によそに直下(みおろし)て居たりけるが、楠が二陣の勢の戦ひ疲(つかれ)て麓(ふもと)に扣(ひかへ)たるを見て、小旗一揆(いつき)の中より、長崎彦九郎資宗(すけむね)・松田左近(さこんの)将監(しやうげん)重明(しげあきら)・舎弟(しやてい)七郎五郎(しちらうごらう)・子息太郎三郎・須々木(すずき)備中(びつちゆうの)守(かみ)高行・松田小次郎・河勾(かうわ)左京(さきやうの)進(しん)入道・高橋新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)・青砥左衛門(あをとさゑもんの)尉(じよう)・有元(ありもと)新左衛門(しんざゑもん)・広戸(ひろと)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)・舎弟(しやてい)八郎次郎・其(その)弟太郎次郎以下勝(すぐ)れたる兵四十八騎、小松原(こまつばら)より懸下りて、山を後(うしろ)に当て敵を麓に直下(みおろ)して、懸合々々(かけあひかけあひ)戦ふに、楠が二陣千(せん)余騎(よき)僅(わづか)の敵に被遮、進(すすみ)かねてぞ見へたりける。佐佐木佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)道誉(だうよ)は、楠が軍の疲足(つかれあし)、推量(おしはか)るに自余(じよ)の敵にはよも目も懸じ。大将武蔵守(むさしのかみ)の旗を見てぞ蒐(かか)らんずらん。去(さる)程ならば少し遣過(やりすご)して、迹(あと)を塞(ふさい)で討(うた)んと議(ぎ)して、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、飯盛山の南なる峯(みね)に打上(うちあがり)て、旗打立(うちたて)控(ひかへ)たりけるが、楠が二陣の勢の両度数剋(すこく)の戦ひに、馬疲れ気屈(くつ)して、少し猶予(いうよ)したる処を見澄(みすま)して、三千(さんぜん)余騎(よき)を三手(みて)に分て、同時に時をどつと作て蒐下(かけおろ)す。楠が二陣の勢暫(しばらく)支(ささへ)て戦(たたかひ)けるが、敵は大勢也(なり)。御方(みかた)は疲(つか)れたり。馬強(むまづよ)なる荒手(あらて)に懸立(かけたて)られて叶はじとや思けん、大半討れて残る勢南を差(さし)て引て行く。元来小勢なる楠が兵、後陣(ごぢん)既(すで)に破れて、残止る前陣の勢、僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)にも足(たら)じと見へたれば、怺(こらへ)じと見る処に、楠帯刀・和田新発意(しんぼち)、未(いまだ)討れずして此(この)中に有ければ、今日の軍に討死せんと思て、過去帳に入たりし連署(れんしよ)の兵百四十三人(しじふさんにん)、一所に犇々(ひしひし)と打寄て、少しも後陣(ごぢん)の破れたるをば不顧、只敵の大将師直は迹(あと)にぞ控(ひかへ)て有らんと、目に懸てこそ進みけれ。武蔵守(むさしのかみ)が兵は、御方(みかた)軍に打勝て、敵しかも小勢なれば、乗機勇み進(すすん)で是(これ)を打取(うちとら)んとて、先(まづ)一番に細川阿波(あはの)将監(しやうげん)清氏、五百(ごひやく)余騎(よき)にて相当(あたる)。楠が三百騎(さんびやくき)の勢、些(すこし)も不滞相蒐(かか)りに懸て、面も不振戦ふに、細川が兵五十(ごじふ)余騎(よき)討れて北をさして引退く。二番に仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)、七百(しちひやく)余騎(よき)にて入替て責(せむ)るに、又楠が三百(さんびやく)余騎(よき)、轡(くつばみ)を双(ならべ)て真中(まんなか)に懸入り、火を散して戦ふに、左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章、四角(しかく)八方(はつぱう)へ懸立られて一所へ又も打寄らず。三番に千葉(ちばの)介(すけ)・宇都宮(うつのみや)遠江(とほたふみの)入道(にふだう)・同参河(みかはの)入道(にふだう)両勢合(あはせ)て五百(ごひやく)余騎(よき)、東西より相近(ちかづい)て、手崎(てさき)をまくりて中を破(わらん)とするに、楠敢(あへ)て破られず。敵虎韜(こたう)に連(つらなつ)て囲(かこ)めば、虎韜に分れて相当り、竜鱗(りようりん)に結て蒐(かか)れば竜鱗に進(すすん)で戦ふ。三度(さんど)合て三度(さんど)分れたるに、千葉・宇都宮(うつのみや)が兵若干(そくばく)討れて引返す。此(この)時和田・楠が勢百(ひやく)余騎(よき)討れて、馬に矢の三筋(さんすぢ)四筋射立(いたて)られぬは無りければ、馬を蹈放(ふみはなし)て徒立に成て、とある田の畔(くろ)に後(うしろ)を差宛(さしあて)て、箙(えびら)に差たる竹葉(ちくえふ)取出して心閑(こころしづか)に兵粮(ひやうらう)仕(つか)ひ、機(き)を助(たすけ)てぞ並居(なみゐ)たる。是(これ)程(ほど)に思切たる敵を取篭(とりこめ)て討んとせば、御方(みかた)の兵若干(そくばく)亡(ほろび)ぬべし。只後(うし)ろをあけて、落ちば落せとて、数万騎の兵皆一処に打寄て、取巻(とりまく)体(てい)をば見せざりけり。されば楠縦(たとひ)小勢也(なり)とも、落(おち)ば落(おつ)べかりけるを、初より今度の軍に、師直が頚(くび)を取て返り参(さん)ぜずは、正行が首を六条河原(ろくでうかはら)に曝(さら)されぬと被思食候へと、吉野殿(よしのどの)にて奏(そう)し申たりしかば、其(その)言(ことば)をや恥(はぢ)たりけん、又運命爰(ここ)にや尽(つき)けん、和田も楠も諸共に、一足(ひとあし)も後(うしろ)へは不退、「只師直に寄合て勝負を決せよ。」と声声に罵呼(ののしりよばは)り、閑(しづか)に歩(あゆみ)近付(ちかづき)たり。是を見て細川讃岐守(さぬきのかみ)頼春(よりはる)・今河五郎入道・高(かうの)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)・高(かうの)播磨(はりまの)守(かみ)・南(みなみの)遠江守(とほたふみのかみ)・同次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・佐々木(ささきの)六角判官・同黒田判官・土岐周済房(ときしゆさいばう)・同明智(あけち)三郎・荻野(をぎの)尾張(をはりの)守(かみ)朝忠・長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもん)・松田備前(びぜんの)次郎・宇津木(うつき)平三・曾我(そが)左衛門・多田(ただの)院(ゐん)の御家人(ごけにん)を始として、武蔵守(むさしのかみ)の前後左右に控(ひかへ)たる究竟(くつきやう)の兵共(つはものども)七千(しちせん)余騎(よき)、我(われ)先(さき)に打取らんと、喚(をめ)き呼(さけん)で蒐(かけ)出たり。楠是(これ)に些(すこし)も不臆して、暫(しばらく)息(いき)継(つが)んと思ふ時は、一度(いちど)に颯(さつ)と並居(なみゐ)て鎧(よろひ)の袖をゆり合せ、思様(おもふさま)に射させて、敵近付(ちかづけ)ば同時にはつと立あがり、鋒(きつさき)を双(ならべ)て跳(をど)り蒐(かか)る。一番に懸寄せける南次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)、馬の諸膝(もろひざ)薙(なが)れて落る処に、起(おこ)しも立(たて)ず討(うたれ)にけり。二番に劣(おと)らじと蒐入(かけいり)ける松田次郎左衛門(じらうざゑもん)、和田新発意(しんぼち)に寄合て、敵を切んと差(さし)うつぶく処を、和田新発意長刀の柄(え)を取延(とりのべ)て、松田が甲(かぶと)の鉢(はち)をはたとうつ。打(うた)れて錣(しころ)を傾(かたぶく)る処に、内甲(うちかぶと)を突(つか)れて、馬より倒(さかさま)に落(おち)て討(うた)れにけり。此(この)外目の前に切て落さるゝ者五十(ごじふ)余人(よにん)、小腕(こうで)打落されて朱(あけ)になる者二百(にひやく)余騎(よき)、追立々々(おつたておつたて)責(せめ)られて、叶はじとや思ひけん、七千(しちせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、開靡(ひらきなびい)て引(ひき)けるが、淀・八幡(やはた)をも馳(はせ)過て、京まで逃(にぐ)るも多かりけり。此時若(もし)武蔵守(むさしのかみ)一足(ひとあし)も退(しりぞ)く程ならば、逃る大勢に引立(ひきたて)られて洛中(らくちゆう)までも追著(おひつけら)れぬと見へけるを、少(すこし)も漂(ただよ)ふ気色無(なく)して、大音声を揚(あげ)て、「蓬(きたな)し返せ、敵は小勢ぞ師直爰(ここ)にあり。見捨て京へ逃(にげ)たらん人、何の面目有てか将軍の御目にも懸るべき。運命天にあり。名を惜(をし)まんと思はざらんや。」と、目をいらゝげ歯嚼(はがみ)をして、四方(しはう)を下知せられけるにこそ、恥(はぢ)ある兵は引留(ひきとどま)りて師直の前後に控(ひかへ)けれ。斯(かか)る処に土岐周済房(ときしゆさいばう)の手(て)の者共(ものども)は、皆打散(うちちら)され、我身も膝口切(きら)れて血にまじり、武蔵守(むさしのかみ)の前を引て、すげなう通(とほ)りけるを、師直吃(きつ)と見て、「日来(ひごろ)の荒言(くわうげん)にも不似、まさなうも見へ候者哉(かな)。」と言(ことば)を懸(かけ)られて、「何か見苦(みぐるしく)候べき。さらば討死して見せ申さん。」とて、又馬を引返し敵の真中(まんなか)へ蒐(かけ)入て、終(つひ)に討死してけり。是を見て雑賀(さいが)次郎も蒐入(かけい)り打死す。已(すでに)楠と武蔵守(むさしのかみ)と、あはひ僅(わづか)に半町計(ばかり)を隔(へだて)たれば、すはや楠が多年の本望爰(ここ)に遂(とげ)ぬと見(みえ)たる処に、上山(うへやま)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)、師直の前に馳塞(はせふさが)り、大音声を挙(あげ)て申けるは、「八幡(はちまん)殿(どの)より以来(このかた)、源家累代(るゐだい)の執権(しつけん)として、武功天下に顕(あらは)れたる高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直是に有(あり)。」と名乗(なのつ)て、討死しける其(その)間に、師直遥(はるか)に隔(へだたつ)て、楠本意を遂(とげ)ざりけり。抑(そもそも)多勢の中に、上山一人師直が命に代(かはつ)て、討死しける所存何事ぞと尋(たづぬ)れば、只一言の情(なさけ)を感じて、命を軽くしけるとぞ聞へし。只今楠此(この)陣へ可寄とは不思寄、上山閑(しづか)に物語せんとて、執事(しつじ)の陣へ行(ゆき)ける処に、東西南北騒ぎ色めきて、敵寄(よせ)たりと打立(うちたち)ける間、上山我屋(わがや)に帰り物具せん逗留(とうりう)無(なか)りければ、師直がきせながの料(れう)に、同(おなじ)毛の鎧を二両まで置たりけるを、上山走(はしり)寄て、唐櫃(からひつ)の緒(を)を引切て鎧(よろひ)を取て肩に打懸(うちかけ)けるを、武蔵守(むさしのかみ)が若党(わかたう)、鎧の袖を控(ひかへ)て、「是(これ)は何(いか)なる御事(おんこと)候ぞ。執事の御きせながにて候者を、案内をも申され候はで。」と云て、奪止(うばひとどめ)んと引合(ひきあひ)ける時、師直是(これ)を聞て馬より飛で下り、若党(わかたう)をはたと睨(にらん)で、「無云甲斐者の振舞哉(かな)。只今師直が命に代らん人々に、縦(たとひ)千両万両の鎧也(なり)共(とも)何か惜かるべきぞ。こゝのけ。」と制して、「いしうもめされて候者哉(かな)。」と還(かへつ)て上山を被感ければ、上山誠(まこと)にうれしき気色にて、此(この)詞(ことば)の情(なさけ)を思入たる其(その)心地(ここち)、いはねども色に現れたり。されば事の儀(ぎ)を不知して鎧を惜みつる若党(わかたう)は、軍の難義なるを見て先(まづ)一番に落けれ共(ども)、情(なさけ)を感ずる上山は、師直が其(その)命に代(かはつ)て討死しけるぞ哀(あはれ)なる。加様の事異国(いこく)にも其(その)例(れい)あり。秦(しんの)穆公(ぼくこう)と申す人、六国(りくこく)の諸侯と戦(たたかひ)けるに、穆公軍破(やぶれ)て他国へ落給ふ。敵の追(おふ)事甚(はなはだ)急にして、乗給へる馬疲れにければ、迹(あと)にさがりたる乗替(のりがへ)の馬を待給ふ処に、穆公の舎人(とねり)共(ども)馬をば引て不来して、疲(つかれ)たる兵共(つはものども)二十(にじふ)余人(よにん)、皆高手小手(たかてこて)に縛(しば)りて、軍門の前に引居(ひきすゑ)たり。穆公自ら事の由(よし)を問ふに、舎人答(こたへ)て申(まうす)様、「召し替への御馬(おんむま)を引進(ひきまゐ)り候処に、戦に疲れ飢(うゑ)たる兵共(つはものども)二十(にじふ)余人(よにん)、此(この)御馬(おんむま)を殺して皆食(くらふ)て候間、死罪に行(おこな)ひ候はんが為に生虜(いけどり)て参て候。」とぞ申(まうし)ける。穆公さしも忿(いか)れる気色なく、「死せる者は二度(ふたたび)生(いく)べからず。縦(たとひ)二度(ふたたび)生(いく)る共、獣(けだもの)の卑(いやし)きを以て人の貴きを失はんや。我れ聞く、飢(うゑ)て馬を食せる人は必(かならず)病む事有(あり)。」とて其(その)兵共(つはものども)に酒を飲(のま)せ薬を与へて医療(いれう)を加(くはへ)られける上は、敢(あへ)て罪科(ざいくわ)に不及。其(その)後穆公軍に打負(うちまけ)て、大敵に囚(とら)はれ已(すでに)討れんとし給(たまひ)し時、馬を殺して食(くう)たりし兵共(つはものども)二十(にじふ)余人(よにん)、穆公の命に代り戦(たたかひ)ける程(ほど)に、大敵皆散じて穆公死を逃(のが)れ給ひにけり。されば古も今も大将たらん人は、皆罰(ばつ)をば軽(かろ)く行ひ宥(なだ)め賞(しやう)をば厚く与へしむ。若(もし)昔の穆公馬を惜み給はゞ、大敵の囲(かこみ)を出給はんや。今の師直鎧を不与は、上山命に代らんや。情は人の為ならずとは、加様の事をぞ申(まうす)べき。楠、上山を討て其(その)頭(くび)を見るに、太(ふとく)清(きよ)げなる男也(なり)。鎧を見るに輪違(わちがひ)を金物に掘透(ほりすか)したり。「さては無子細武蔵守(むさしのかみ)を討てげり。多年の本意今日已(すでに)達しぬ。是(これ)を見よや人々。」とて、此(この)頚を中(ちう)に投上(なげあげ)ては請取(うけとり)、請取ては手玉についてぞ悦(よろこび)ける。楠が弟(おとと)次郎走(わしり)寄て、「何(いか)にやあたら首の損(そん)じ候に、先(まづ)旗の蝉本(せみもと)に著(つけ)て敵御方(みかた)の者共(ものども)に見せ候はん。」と云て、太刀の鋒(きつさき)に指貫(さしつらぬき)差上(さしあげ)て是(これ)を見(みす)るに、「師直には非(あら)ず、上山(うへやま)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)が首也(なり)。」と申(まうし)ければ、大に腹立(ふくりふ)して、此(この)頭を投(なげ)て、「上山六郎左衛門(ろくらうざゑもん)とみるはひが目か、汝は日本一(につぽんいち)の剛(かう)の者哉(かな)。我(わが)君の御為に無双(ぶさう)の朝敵(てうてき)也(なり)。乍去余(あまり)に剛にみへつるがやさしさに、自余(じよ)の頭共には混(こん)ずまじきぞ。」とて、著たる小袖の片袖を引切て、此首を押裹(おしつつん)で岸の上にぞ指(さし)置たる。鼻田(はなた)弥次郎(やじらう)膝口を被射、すくみ立たりけるが、「さては師直未(いまだ)討(うた)れざりけり。安からぬ者哉(かな)。師直何(いづ)くにか有らん。」と云(いふ)声を力にして、内甲(うちかぶと)にからみたる鬢(びん)の髪を押のけ、血眼(ちまなこ)に成て遥(はるか)に北(きた)の方(かた)を見るに、輪違(わちがひ)の旗一流(ひとながれ)打立て、清(きよ)げなる老武者を大将として七八十騎が程控(ひか)へたり。「何様師直と覚(おぼゆ)る。いざ蒐(かか)らん。」と云(いふ)処に、和田新兵衛鎧の袖を引(ひか)へて、「暫(しばらく)思(おもふ)様(やう)あり。余(あまり)に勇(いさ)み懸て大事(だいじ)の敵を打漏(うちもら)すな。敵は馬武者也(なり)。我等(われら)は徒立(かちだち)也(なり)。追(おは)ば敵定(さだめ)て可引。ひかば何として敵を可打取。事の様を安ずるに、我等(われら)怺(こら)へで引退(ひきしりぞ)く真似(まね)をせば、此(この)敵、気に乗て追蒐(おつかけ)つと覚(おぼゆ)るぞ。敵を近々と引寄(ひきよせ)て、其中に是(これ)ぞ師直と思はん敵を、馬の諸膝(もろひざ)薙(ない)で切居(きりす)へ、落る処にて細頚(ほそくび)打落(うちおと)し、討死せんと思ふは如何に。」と云(いひ)ければ、被打残たる五十(ごじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、「此(この)義可然。」と一同して、楯を後(うしろ)に引かづき、引退(ひきしりぞ)く体(てい)をぞみせたりける。師直思慮深き大将にて、敵の忻(たばかつ)て引(ひく)処を推(すゐ)して、些(すこし)も馬を動かさず。高(かうの)播磨(はりまの)守(かみ)西なる田中に三百(さんびやく)余騎(よき)にて控(ひかへ)たるが、是を見て引(ひく)敵ぞと心得(こころえ)て、一人も余さじと追蒐(おつかけ)たり。元来剛(かう)なる和田・楠が兵なれば、敵の太刀の鋒(きつさき)の鎧の総角(あげまき)、甲の錣(しころ)二(ふた)つ三(み)つ打あたる程近付て、一同に咄(どつ)と喚(をめい)て、礒打(いそうつ)波の岩に当て返るが如(ごとく)取て返し、火出る程ぞ戦ひける。高(かうの)播磨(はりまの)守(かみ)が兵共(つはものども)、可引帰程の隙もなければ、矢庭(やには)に討(うた)るゝ者五十(ごじふ)余人(よにん)、散々に切立(きりたて)られて、馬をかけ開(ひらい)て逃(にげ)けるが、本陣をも馳過(はせすぎ)て、二十(にじふ)余町(よちやう)ぞ引たりける。
○楠正行最期(さいごの)事(こと) S2603
去(さる)程(ほど)に師直と楠とが間、一町(いつちやう)許(ばかり)に成(なり)にけり。是(これ)ぞ願ふ処の敵よと見澄(みすま)して、魯陽(ろやう)二度(にど)白骨を連(つらね)て韓構(かんこう)に戦(たたかひ)ける心も、是(これ)には過(すぎ)じと勇(いさみ)悦(よろこび)て、千里を一足(ひとあし)に飛て懸らんと、心許(ばかり)は早(はや)りけれども、今朝の巳(みの)刻(こく)より申(さるの)時の終まで、三十(さんじふ)余度(よど)の戦に、息(いき)絶(たえ)気疲るゝのみならず、深手浅手負(おは)ぬ者も無りければ、馬武者を追攻(おつつめ)て可討様ぞ無りける。され共多(おほく)の敵共(てきども)四角(しかく)八方(はつぱう)へ追散(おひちらし)て、師直七八十騎にて控(ひかへ)たれば、何程の事か可有と思ふ心を力にて、和田・楠・野田・関地良円(せきぢりやうゑん)・河辺石掬丸(かはべいしきくまる)、我先(さき)我先(さき)とぞ進たる。余(あまり)に辞理(じり)なく懸(かけ)られて、師直已(すでに)引色(ひきいろ)に見へける処に、九国(くこく)の住人(ぢゆうにん)須々木四郎とて、強弓(つよゆみ)の矢つぎ早(ばや)、三人(さんにん)張(ばり)に十三束二伏(じふさんぞくふたつぶせ)、百歩(ひやつぽ)に柳の葉を立て、百矢(ももや)をはづさぬ程の射手(いて)の有けるが、人の解捨(ときすて)たる箙(えびら)、竹尻篭(しこ)・■(やなぐひ)を掻抱(かきだ)く許(ばかり)取集(とりあつめ)て、雨の降(ふる)が如く矢坪(やつぼ)を指てぞ射たりける。一日著暖(きあたため)たる物具なれば、中(あたる)と当る矢、箆深(のぶか)に立(たた)ぬは無りけり。楠次郎眉間(みけん)ふえのはづれ射られて抜(ぬく)程の気力もなし。正行は左右の膝口三所、右のほう崎(さき)、左の目尻(まじり)、箆深(のぶか)に射られて、其(その)矢、冬野の霜に臥(ふし)たるが如く折懸(をりかけ)たれば、矢すくみに立てはたらかず。其(その)外三十(さんじふ)余人(よにん)の兵共(つはものども)、矢三筋(さんすぢ)四筋射立(いたて)られぬ者も無りければ、「今は是(これ)までぞ。敵の手に懸るな。」とて、楠兄弟差違(さしちが)へ北枕(きたまくら)に臥(ふし)ければ、自余(じよ)の兵三十二人(さんじふににん)、思々(おもひおもひ)に腹掻(かき)切て、上(いや)が上(うへ)に重(かさな)り臥す。和田新発意(しんぼち)如何して紛(まぎ)れたりけん、師直が兵の中に交(まじ)りて、武蔵守(むさしのかみ)に差違(さしちがへ)て死(しな)んと近付(ちかづき)けるを、此(この)程河内より降参したりける湯浅本宮(ゆあさほんぐう)太郎左衛門と云ける者、是を見知て、和田が後(うしろ)へ立回(まはり)、諸膝切て倒(たふるる)所を、走寄て頚を掻(かか)んとするに、和田新発意(しんぼち)朱(しゆ)を酒(そそ)きたる如くなる大の眼を見開て、湯浅本宮をちやうど睨(にら)む。其(その)眼終(つひ)に塞(ふさが)ずして、湯浅に頭をぞ取られける。大剛(たいかう)の者に睨まれて、湯浅臆(おく)してや有けん、其日より病付て身心悩乱(なうらん)しけるが、仰(あふの)けば和田が忿(いかり)たる顔天に見へ、俯(うつぶ)けば新発意(しんぼち)が睨める眼地に見へて、怨霊(をんりやう)五体(ごたい)を責(せめ)しかば、軍(いくさ)散(さん)じて七日と申に、湯浅あがき死(じに)にぞ死にける。大塚掃部助(かもんのすけ)手負(ておう)たりけるが、楠猶跡(あと)に有共しらで、放馬(はなれうま)の有けるに打乗て、遥(はるか)に落延(おちのび)たりけるが、和田・楠討れたりと聞て、只一騎馳帰(はせかへり)、大勢の中へ蒐(かけ)入て、切死(きりじに)にこそ死にけれ。和田新兵衛正朝(まさとも)は、吉野殿(よしのどの)に参て事の由を申さんとや思(おもひ)けん、只一人鎧一縮(いつしゆく)して、歩立(かちだち)に成て、太刀を右の脇(わき)に引側(ひきそば)め、敵の頚一つ取て左の手に提(ひつさげ)て、東条の方へぞ落行(おちゆき)ける。安保(あふ)肥前(ひぜんの)守(かみ)忠実(ただざね)只一騎馳(はせ)合て、「和田・楠の人々皆自害せられて候に、見捨(みすて)て落られ候こそ無情覚(おぼえ)候へ。返され候へ。見参に入らん。」と詞(ことば)を懸(かけ)ければ、和田新兵衛打笑(うちわらう)て、「返(かへす)に難き事か。」とて、四尺(ししやく)六寸(ろくすん)の太刀の貝(かひ)しのぎに、血の著たるを打振て走(はしり)懸る。忠実一騎相(いつきあひ)の勝負(しようぶ)叶はじとや思けん、馬をかけ開て引返す。忠実留(とどま)れば正朝又落(おつ)、落行(おちゆけ)ば忠実又追懸(おつかけ)、々々(おつかく)れば止(とどま)り、一里許(ばかり)を過(すぐ)る迄、互(たがひに)不討不被討して日已(すで)に夕陽(せきやう)に及ばんとす。斯(かか)る処に青木(あをき)次郎・長崎彦九郎二騎、箙(えびら)に矢少し射残して馳(はせ)来る。新兵衛を懸のけ/\射ける矢に、草摺(くさずり)の余(あまり)引合(ひきあはせ)の下、七筋(しちすぢ)まで射立(いたて)られて、新兵衛遂(つひ)に忠実に首をば取(とら)れにけり。総(すべ)て今日一日の合戦に、和田・楠が兄弟四人、一族(いちぞく)二十三人(にじふさんにん)、相順(あひしたが)ふ兵百四十三人(しじふさんにん)、命を君臣二代の義に留めて、名を古今無双(ぶさう)の功に残せり。先年奥州(あうしう)の国司顕家(あきいへの)卿(きやう)、安部野にて討(うた)れ、武将新田(につた)左中将(さちゆうじやう)義貞(よしさだ)朝臣(あそん)、越前にて亡(ほろび)し後は、遠国に宮方(みやがた)の城郭(じやうくわく)少々有といへ共、勢未(いまだ)振(ふる)はざれば今更驚(おどろく)に不足。唯(ただ)此(この)楠許(ばかり)こそ、都近き殺所(せつしよ)に威(ゐ)を逞(たくまし)くして、両度まで大敵を靡(なび)かせぬれば、吉野の君も、魚の水を得たる如く叡慮(えいりよ)を令悦、京都の敵も虎の山に靠(よりかかる)恐懼(きようく)を成(なさ)れつるに、和田・楠が一類(いちるゐ)皆片時(へんし)に亡びはてぬれば、聖運已(すで)に傾(かたぶき)ぬ。武徳誠(まこと)に久しかるべしと、思はぬ人も無りけり。
○芳野炎上(えんしやうの)事(こと) S2604
去(さる)程(ほど)に楠が館(たち)をも焼払(やきはら)ひ、吉野の君をも可奉取とて、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰六千(ろくせん)余騎(よき)にて、正月八日和泉(いづみ)の堺の浦を立て、石川(いしかは)河原(かはら)に先(まづ)向城(むかひじやう)をとる。武蔵守(むさしのかみ)師直は、三万(さんまん)余騎(よき)の勢(せい)を卒(そつ)して、同十四日平田(ひらた)を立て、吉野の麓(ふもと)へ押寄する。其(その)勢已(すで)に吉野郡(こほり)に近付(ちかづき)ぬと聞へければ、四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆資(たかすけ)卿(きやう)、急ぎ黒木(くろき)の御所に参て、「昨日正行已(すで)に討(うた)れ候。又明日師直皇居(くわうきよ)へ襲来仕(しふらいつかまつる)由聞へ候。当山(たうざん)要害(えうがい)の便(たより)稀(まれ)にして、可防兵更(さら)に候はず。今夜急ぎ天河(てんのかは)の奥加納(あなふ)の辺へ御忍(おんしのび)候べし。」と申(まうし)て、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を内侍典司(ないしのすけ)に取出させ、寮(れう)の御馬(おんむま)を庭前(ていぜん)に引立(ひきたて)たれば、主上(しゆしやう)は万づ思食分(おぼしめしわけ)たる方なく、夢路をたどる心地して、黒木(くろき)の御所を立出させ給へば、女院(によゐん)・皇后・准后(じゆごう)・内親王(ないしんわう)・宮々を始進(はじめまゐら)せて、内侍・上童(うへわらは)・北(きたの)政所(まんどころ)・月卿(げつけい)雲客(うんかく)・郎吏(らうり)・従官・諸寮の頭(かみ)・八省(はつしやう)の輔(すけ)・僧正(そうじやう)・僧都・児(ちご)・房官に至るまで、取(とる)物も不取敢(とりあへず)、周章(あわて)騒ぎ倒(たふ)れ迷(まよひ)て、習はぬ道の岩根を歩み、重なる山の雲を分(わけ)て、吉野の奥へ迷入る。思へば此(この)山中とても、心を可留所ならねども、年久(ひさしく)住狎(なれ)ぬる上、行末は猶(なほ)山深き方なれば、さこそは住うからめと思遣(おもひやる)に付(つけ)ても、涙は袖にせき敢(あへ)ず。主上(しゆしやう)勝手(かつて)の宮(みや)の御前(おんまへ)を過(すぎ)させ給ひける時、寮(れう)の御馬(おんむま)より下(おり)させ給て、御泪の中に一首(いつしゆ)かくぞ思召つゞけさせ給ひける。憑(たのむ)かひ無(なき)に付ても誓ひてし勝手の神の名こそ惜(をし)けれ異国の昔は、唐の玄宗(げんそう)皇帝(くわうてい)、楊貴妃(やうきひ)故(ゆゑ)に安禄山に傾(かたむけ)られて、蜀(しよく)の剣閣山(けんかくさん)に幸(みゆき)なる。我朝(わがてう)の古(いにしへ)は、清見原(きよみはら)の天皇(てんわう)、大友(おほとも)の宮(みや)に襲(おそ)はれて、此(この)吉野山に隠(かくれ)給(たまひ)き。是(これ)皆逆臣(げきしん)暫(しばらく)世を乱るといへども、終(つひ)には聖主大化を施(ほどこ)されし先蹤(せんしよう)なれば、角(かく)てはよも有(あり)はてじと思食准(おぼしめしなぞらふ)る方(かた)は有ながら、貴賎男女周章騒(あわてさわい)で、「こはそも何(いづ)くにか暫(しばし)の身をも可隠。」と、泣悲む有様を御覧ぜらるゝに、叡襟(えいきん)更に無休時。去(さる)ほどに武蔵守(むさしのかみ)師直、三万(さんまん)余騎(よき)を卒(そつ)して吉野山に押寄せ、三度(さんど)時の声を揚(あげ)たれ共(ども)、敵なければ音もせず。さらば焼払(やきはら)へとて、皇居(くわうきよ)並(ならびに)卿相雲客(けいしやううんかく)の宿所(しゆくしよ)に火を懸(かけ)たれば、魔風(まふう)盛に吹懸て、二丈(にぢやう)一基(いつき)の笠鳥居(かさとりゐ)・二丈(にぢやう)五尺(ごしやく)の金の鳥居・金剛(こんがう)力士の二階(にかい)の門・北野天神示現(じげん)の宮(みや)・七十二間の回廊(くわいらう)・三十八所の神楽屋(かぐらや)・宝蔵(はうざう)・竃殿(へついどの)・三尊(さんぞん)光を和(やはら)げて、万人(ばんにん)頭(かうべ)を傾(かたぶく)る金剛蔵王(こんがうざわう)の社壇(しやだん)まで、一時に灰燼(くわいじん)と成ては、烟(けむり)蒼天(さうてん)に立登る。浅猿(あさまし)かりし有様也(なり)。抑(そもそも)此(この)北野天神の社壇と申(まうす)は、承平四年八月朔日に、笙(しやう)の岩屋(いはや)の日蔵(にちざう)上人頓死(とんし)し給たりしを、蔵王(ざわう)権現左の御手(おんて)に乗(の)せ奉て、炎魔王宮(えんまわうぐう)に至(いたり)給ふに、第一(だいいち)の冥官(みやうくわん)、一人の倶生神(くしやうじん)を相副(そへ)て、此(この)上人に六道(ろくだう)を見せ奉る。鉄窟苦所(てつくつくしよ)と云(いふ)所に至て見給ふに、鉄湯(てつたうの)中に玉(たまの)冠(かぶり)を著て天子の形なる罪人あり。手を揚(あげ)て上人を招(まねき)給ふ。何(いか)なる罪人ならんと怪(あやしみ)て立寄て見給へば、延喜(えんぎ)の帝(みかど)にてぞ御座(おはしま)しける。上人御前(おんまへ)に跪(ひざまづい)て、「君御在位(ございゐ)の間、外には五常(ごじやう)を正して仁義を専(もつぱら)にし、内には五戒(ごかい)を守て慈悲(じひ)を先(さき)とし御坐(おはせ)しかば、何(いか)なる十地等覚(じふぢとうがく)の位にも到らせ給(たまひ)ぬらんとこそ存(ぞんじ)候(さうらひ)つるに、何故(なにゆゑ)に斯(かか)る地獄には堕(おち)させ給(たまひ)候やらん。」と尋(たづね)申されければ、帝は御涙(おんなみだ)を拭(のご)はせ給て、「吾(われ)在位の間、万機(ばんき)不怠撫民治世しかば、一事(いちじ)も誤(あやま)る事無りしに、時平(しへい)が讒(ざん)を信じて、無罪菅丞相(くわんしようじやう)を流したる故(ゆゑ)に、此(この)地獄に堕(おち)たり。上人今冥途(めいど)に趣(おもむき)給ふといへ共、非業(ひごふ)なれば蘇生(そせい)すべし。朕(ちん)上人と師資(しし)の契(ちぎり)不浅、早(はやく)娑婆(しやば)に帰(かへり)給はゞ、菅丞相(くわんしようじやう)の廟(べう)を建(たて)て化導利生(けだうりしやう)を専(もつぱら)にし給(たまふ)べし。さてぞ朕(ちん)が此(この)苦患(くげん)をば可免。」と、泣々(なくなく)勅宣(ちよくせん)有けるを、上人具(つぶさ)に承(うけたまはり)て、堅(かたく)領状(りやうじやう)申(まうす)と思へば、中十二日と申(まうす)に、上人生(いき)出給(たまひ)にけり。冥土(めいど)にて正(まさし)く勅(ちよく)を承(うけたまは)りし事なればとて、則(すなはち)吉野山に廟(べう)を建(たて)、利生方便(はうべん)を施(ほどこ)し給(たまひ)し天神の社壇(しやだん)是(これ)也(なり)。蔵王権現と申(まうす)は、昔役優婆塞(えんのうばそく)済度(さいど)利生の為に金峯山(きんぶせん)に一千日篭(こもつ)て、生身(しやうじん)の薩■(さつた)を祈(いのり)給(たまひ)しに、此(この)金剛蔵王、先(まづ)柔和忍辱(にうわにんにく)の相(さう)を顕(あらは)し、地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)の形にて地より涌出(ゆしゆつ)し玉ひたりしを、優婆塞(うばそく)頭(かうべ)を掉(ふつ)て、未来悪世の衆生を済度(さいど)せんとならば、加様(かやう)の御形にては叶(かなふ)まじき由を被申ければ、則(すなはち)伯耆の大山(たいせん)へ飛去(さり)給(たまひ)ぬ。其(その)後忿怒(ふんど)の形を顕(あらは)し、右の御手(おんて)には三鈷(さんこ)を握(にぎつ)て臂(ひぢ)をいらゝげ、左の御手(おんて)には五(いつつの)指(ゆび)を以て御腰(おんこし)を押へ玉ふ。一睨(いちげい)大に忿(いかつ)て魔障降伏(ましやうがうぶく)の相(さう)を示し、両脚(りやうきやく)高く低(たれ)て天地経緯(けいゐ)の徳を呈(あらは)し玉へり。示現(じげん)の貌(かたち)尋常(よのつね)の神に替(かはつ)て、尊像(そんざう)を錦帳(きんちやう)の中に鎖(とざ)されて、其(その)涌出(ゆしゆつ)の体(てい)を秘せん為に、役(えん)の優婆塞(うばそく)と天暦(てんりやく)の帝(みかど)と、各手自(てづから)二尊(にそん)を作(つくり)副(そへ)て三尊(さんぞん)を安置し奉(たてまつり)玉ふ。悪愛(をあい)を六十(ろくじふ)余州(よしう)に示して、彼(かれ)を是(ぜ)し此(これ)を非(ひ)し、賞罰(しやうばつ)を三千(さんぜん)世界に顕(あらは)して、人を悩(なやま)し物を利(り)す。総(すべ)て神明権迹(しんめいごんせき)を垂(たれ)て七千(しちせん)余坐、利生の新(あらた)なるを論ずれば、無二亦無三(むにやくむさん)の霊験(れいげん)也(なり)。斯(かか)る奇特(きどく)の社壇仏閣を一時に焼払(やきはらひ)ぬる事誰か悲(かなしみ)を含(ふく)まざらん。されば主(ぬし)なき宿の花は、只露に泣ける粧(よそほひ)をそへ、荒(あれ)ぬる庭の松までも、風に吟(ぎん)ずる声を呑(のむ)。天の忿(いか)り何(いづ)れの処にか帰(き)せん。此(この)悪行(あくぎやう)身に留(とま)らば、師直忽(たちまち)に亡(ほろび)なんと、思はぬ人は無りけり。
○賀名生(あなふ)皇居(くわうきよの)事(こと) S2605
貞和(ぢやうわ)五年正月五日、四条縄手の合戦に、和田・楠が一族(いちぞく)皆亡びて、今は正行が舎弟(しやてい)次郎左衛門(じらうざゑもん)正儀許(ばかり)生残(いきのこり)たりと聞へしかば、此(この)次(ついで)に残る所なく、皆退治(たいぢ)せらるべしとて、高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)師泰三千(さんぜん)余騎(よき)にて、石河々原に向城(むかひじやう)を取て、互(たがひ)に寄(よせ)つ被寄つ、合戦の止(やむ)隙(ひま)もなし。吉野の主上(しゆしやう)は、天の河の奥賀名生(あなふ)と云(いふ)所に僅(わづか)なる黒木(くろき)の御所を造(つく)りて御座(ござ)あれば、彼唐尭虞舜(かのたうげうぐしゆん)の古へ、茅茨(ばうし)不剪柴椽(さいてん)不削、淳素(じゆんそ)の風も角(かく)やと思知(おもひしら)れて、誠なる方も有ながら、女院(にようゐん)皇后は、柴(しば)葺(ふく)庵(いほ)のあやしきに、軒(のき)漏(もる)雨を禦(ふせ)ぎかね、御袖(おんそで)の涙ほす隙(ひま)なく、月卿(げつけい)雲客(うんかく)は、木の下岩の陰に松葉を葺(ふき)かけ、苔(こけ)の筵(むしろ)を片敷(かたしき)て、身を惜(お)く宿とし給へば、高峯(たかね)の嵐吹落(ふきおち)て、夜(よる)の衣(ころも)を返せども、露の手枕(たまくら)寒ければ、昔を見する夢もなし。況乎(いはんや)其郎従眷属(そのらうじゆうけんぞく)たる者は、暮山(ぼさん)の薪(たきぎ)を拾(ひろう)ては、雪を戴(いただ)くに膚(はだへ)寒く、幽谷(いうこく)の水を掬(むすん)では、月を担(にな)ふに肩やせたり。角(かく)ては一日片時(いちにちへんし)も有ながらへん心地(ここち)もなけれ共(ども)、さすがに消(きえ)ぬ露の身の命あらばと思ふ世に、憑(たのみ)を懸(かけ)てや残るらん。
○執事兄弟奢侈(しやしの)事(こと) S2606
夫(それ)富貴(ふつき)に驕(おご)り功に侈(おごつ)て、終(をはり)を不慎は、人の尋常(よのつね)皆ある事なれば、武蔵守(むさしのかみ)師直今度南方の軍に打勝て後、弥(いよいよ)心奢(おご)り、挙動(ふるまひ)思ふ様に成て、仁義をも不顧、世の嘲弄(てうろう)をも知(しら)ぬ事共(ことども)多かりけり。常の法には、四品(しほん)以下の平侍(ひらざむらひ)武士なんどは、関板(せきいた)打(うた)ぬ舒葺(のしぶき)の家にだに居ぬ事にてこそあるに、此(この)師直は一条今出川に、故(こ)兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)の御母堂(ごぼだう)、宣旨(せんじ)の三位(さんみ)殿(どの)の住荒(すみあら)し給ひし古御所(ふるごしよ)を点(てん)じて、棟門唐門(むねもんからもん)四方(しはう)にあけ、釣殿(つりどの)・渡殿(わたりどの)・泉殿(いづみどの)、棟梁(むねうつばり)高(たかく)造り双(ならべ)て、奇麗(きれい)の壮観を逞(たくまし)くせり。泉水(せんすゐ)には伊勢・島(しま)・雑賀(さいが)の大石共を集(あつめ)たれば、車輾(きしり)て軸を摧(くだ)き、呉牛(ごぎう)喘(あへぎ)て舌を垂る。樹(うゑき)には月中の桂・仙家の菊・吉野の桜・尾上(をのへ)の松・露霜染(そめ)し紅(くれなゐ)の八(や)しほの岡(をか)の下紅葉(したもみぢ)・西行法師が古(いにしへ)枯葉の風を詠(ながめ)たりし難波(なには)の葦(あし)の一村・在原(ありはらの)中将(ちゆうじやう)の東(あづま)に旅に露分(わけ)し宇津の山辺(やまべ)のつた楓(かへで)、名所々々の風景を、さながら庭に集(あつめ)たり。又月卿(げつけい)雲客(うんかく)の御女(おんむすめ)などは、世を浮草の寄方(よるかた)無(なく)て、誘引(さそふ)水あらばと打佗(わび)ぬる折節なれば、せめてはさも如何せん。申(まうす)も無止事宮腹(みやはら)など、其(その)数を不知、此彼(ここかしこ)に隠(かくし)置奉て、毎夜通ふ方多かりしかば、「執事の宮廻(みやめぐり)に、手向(たむけ)を受(うけ)ぬ神もなし。」と、京童部(わらんべ)なんどが咲種(わらひぐさ)なり。加様(かやう)の事多かる中にも、殊更冥加(みやうが)の程も如何(いか)がと覚(おぼえ)てうたてかりしは、二条(にでうの)前(さきの)関白殿(くわんばくどの)の御妹(おんいもと)、深宮(しんきゆう)の中に被冊、三千(さんぜん)の数にもと思召(おぼしめし)たりしを、師直盜(ぬすみ)出し奉て、始は少し忍たる様なりしが、後は早打顕(うちあらは)れたる振舞にて、憚(はばか)る方も無りけり。角(かく)て年月を経(へ)しかば、此(この)御腹(おんはら)に男子一人出来て、武蔵(むさし)五郎とぞ申(まうし)ける。さこそ世の末ならめ。忝(かたじけなく)も大織冠(たいしよくわん)の御末太政大臣(だいじやうだいじん)の御妹(おんいも)と嫁(か)して、東夷(とうい)の礼なきに下らせ給ふ。浅猿(あさまし)かりし御事(おんこと)なり。是等(これら)は尚(なほ)も疎(おろそ)か也(なり)。越後(ゑちごの)守(かみ)師泰が悪行(あくぎやう)を伝(つたへ)聞(きく)こそ不思議(ふしぎ)なれ。東山の枝橋(えだはし)と云(いふ)所に、山庄(さんさう)を造らんとて、此(この)地の主を誰(たれ)ぞと問(とふ)に、北野の長者(ちやうじや)菅(くわんの)宰相(さいしやう)在登卿(ありのりきやう)の領地(りやうち)也(なり)と申ければ、軈(やが)て使者を立て、此(この)所を可給由を所望しけるに、菅(くわんの)三位(さんみ)、使に対面して、「枝橋(えだはし)の事御山庄(さんさう)の為に承(うけたまはり)候上は、子細あるまじきにて候。但(ただし)当家の父祖(ふそ)代々(だいだい)此(この)地に墳墓(ふんむ)を卜(しめ)て、五輪(ごりん)を立(たて)、御経を奉納(ほうなふ)したる地にて候へば、彼墓(かのはか)じるしを他所へ移し候はむ程は、御待(おんまち)候べし。」とぞ返事をしたりける。師泰是(これ)を聞て、「何条(なんでう)其(その)人惜まんずる為にぞ、左様(さやう)の返事をば申(まうす)らん。只其(その)墓共皆掘崩(ほりくづ)して捨(すて)よ。」とて、軈(やが)て人夫(にんぶ)を五六百人(ごろつぴやくにん)遣(つかはし)て、山を崩し木を伐(きり)捨て地(ぢ)を曳(ひく)に、塁々(るゐるゐ)たる五輪(ごりん)の下に、苔(こけ)に朽(くち)たる尸(かばね)あり。或(あるひ)は■々(せんせん)たる断碑(だんひ)の上(うへに)、雨に消(きえ)たる名もあり。青塚(せいちよ)忽(たちまち)に破て白楊(はくやう)已(すで)に枯(かれ)ぬれば、旅魂幽霊(りよこんいうれい)何(いづ)くにか吟(さまよ)ふらんと哀(あはれ)也(なり)。是(これ)を見て如何なるしれ者か仕(し)たりけん、一首(いつしゆ)の歌を書て引土(ひきつち)の上にこそ立たりける。無(なき)人のしるしの率都婆(そとば)堀棄(ほりすて)て墓なかりける家作(いへつくり)哉越後(ゑちごの)守(かみ)此(この)落書(らくしよ)を見て、「是は何様(なにさま)菅三位(くわんのさんみ)が所行(しよぎやう)と覚(おぼゆ)るぞ。当座の口論に事を寄(よせ)て差(さし)殺せ。」とて、大覚寺殿(だいかくじどの)の御寵童(ごちようどう)に吾護殿(ごごどの)と云ける大力(だいりき)の児(ちご)を語(かたらひ)て、無是非菅(くわんの)三位(さんみ)を殺させけるこそ不便(ふびん)なれ。此(この)人聖廟(せいべう)の祠官(しくわん)として文道(ぶんだう)の大祖(たいそ)たり。何事の神慮に違(ちが)ひて、無実(むじつ)の死刑に逢(あひ)ぬらん。只是(これ)魏(ぎ)の弥子瑕(びしか)が鸚鵡州(あうむしう)の土に埋(うづ)まれし昔の悲(かなしみ)に相似たり。又此(この)山庄(さんさう)を造りける時、四条(しでうの)大納言(だいなごん)隆陰(たかかげ)卿(きやう)の青侍(あをざぶらひ)大蔵(おほくらの)少輔(せう)重藤(しげふぢ)・古見(こみの)源左衛門(げんざゑもん)と云ける者二人(ににん)此(この)地を通(とほ)りけるが、立寄て見るに、地を引(ひく)人夫(にんぶ)共(ども)の汗を流し肩を苦しめて、休む隙(ひま)なく仕(つか)はれけるを見て、「穴(あな)かはゆや、さこそ卑(いや)しき夫(ぶ)也(なり)とも、是(これ)程までは打はらず共あれかし。」と慙愧(ざんき)してぞ過(すぎ)行(ゆき)ける。作事奉行(さくじぶぎやう)しける者の中間是(これ)を聞て、「何者(なにもの)にて候哉覧(やらん)、爰(ここ)を通る本所(ほんじよ)の侍が、浩(かかり)ける事を申て過(すぎ)候(さうらひ)つる。」と語りければ、越後(ゑちごの)守(かみ)大に忿(いかつ)て、「安き程の事哉(かな)。夫(ぶ)を労(いたは)らば、しやつ原(ばら)を仕(つか)ふべし。」とて、遥(はるか)に行(ゆき)過(すぎ)たりけるを呼返して、夫(ぶ)の著たるつゞりを着替(きかへ)させ、立烏帽子(たてゑぼし)を引こませて、さしも熱(あつ)き夏の日に、鋤(すき)を取ては土を掻寄(かきよせ)させ石を掘(ほつ)ては■(あをた)にて運ばせ、終日(ひねもす)に責仕(せめつか)ひければ、是(これ)を見る人々皆爪弾(つまはじき)をし、「命は能(よく)惜(をし)き者哉、恥を見んよりは死ねかし。」と、云はぬ人こそ無りけれ。是等(これら)は尚(なほ)し少事(せうじ)也(なり)。今年石河川原(かはら)に陣を取て、近辺(きんぺん)を管領(くわんりやう)せし後は、諸寺諸社の所領、一処も本主に不充付、殊更天王寺(てんわうじ)の常燈料(じやうとうれう)所の庄を押(おさ)へて知行せしかば、七百年より以来(このかた)一時も更に不絶仏法常住の灯(とぼしび)も、威光と共に消はてぬ。又如何なる極悪(ごくあく)の者か云出しけん。「此(この)辺の塔の九輪(くりん)は太略(たいりやく)赤銅(しやくどう)にてあると覚(おぼゆ)る。哀(あはれ)是を以て鑵子(くわんす)に鋳(い)たらんに何(いか)によからんずらん。」と申(まうし)けるを、越後(ゑちごの)守(かみ)聞てげにもと思(おもひ)ければ、九輪(くりん)の宝形(はうぎやう)一(ひとつ)下(おろし)て、鑵子(くわんす)にぞ鋳(い)させたりける。げにも人の云(いひ)しに不差。膚(はだへ)■(くぼみ)無くして磨(みが)くに光(ひかり)冷々(れいれい)たり。芳甘(はうかん)を酌(くみ)てたつる時、建渓(けんけい)の風味濃(こまやか)也(なり)。東坡(とうば)先生が人間第一(だいいち)の水と美(ほめ)たりしも、此(この)中よりや出たりけん。上(かみ)の好む所に下(しも)必(かならず)随(したが)ふ習(ならひ)なれば、相集(あひあつま)る諸国の武士共(ぶしども)、是(これ)を聞傅(ききつたへ)て、我劣らじと塔の九輪(くりん)を下(おろし)て、鑵子(くわんす)を鋳させける間、和泉・河内の間、数百(すひやく)箇所(かしよ)の塔婆(たふば)共(ども)一基(いつき)も更に直(すぐ)なるはなく、或(あるひ)は九輪(くりん)を被下、ます形許(がたばかり)あるもあり。或(あるひ)は真柱(しんばしら)を切(きら)れて、九層許(きうぞうばかり)残るもあり。二仏の並座(ならびざす)瓔珞(やうらく)を暁の風に漂(ただよ)はせ、五智の如来は烏瑟(うしつ)を夜の雨に潤(うるほ)せり。只守屋(もりや)の逆臣(げきしん)二度(ふたたび)此(この)世に生(うま)れて、仏法を亡(ほろぼ)さんとするにやと、奇(あやし)き程(ほど)にぞ見へたりける。
○上杉畠山讒高家事(こと)付(つけたり)廉頗(れんぱ)藺相如(りんしやうじよが)事(こと) S2607
此(この)時上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)・畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)直宗(なほむね)と云(いふ)人あり。才短(たん)にして、官位人よりも高からん事を望み、功(こう)少(すくなく)して忠賞(ちゆうしやう)世に超(こえ)ん事を思(おもひ)しかば、只師直・師泰が将軍御兄弟(ごきやうだい)の執事(しつじ)として、万づ心に任せたる事を猜(そね)み、境節(をりふし)に著(つけ)ては吹毛(すゐもう)の咎(とが)を争(あらそう)て、讒(ざん)を構(かまゆ)る事無休時。されども将軍も左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、執事兄弟無(なく)ては、誰(たれ)か天下の乱を静むる者可有と、異于他被思ければ、少々の咎(とが)をば耳にも不聞入給、只佞人讒者(ねいじんざんしや)の世を乱らん事を悲まる。夫(それ)天下を取て、世を治(をさむ)る人には、必(かならず)賢才輔弼(けんさいほひつ)の臣下有て、国の乱を鎮(しづ)め君の誤(あやまり)を正(ただ)す者也(なり)。所謂(いはゆる)■尭(げう)の八元(はちげん)・舜(しゆん)の八凱(はちがい)・周(しう)の十乱・漢の三傑・世祖(せいそ)の二十八将・太宗の十八学士(じふはちがくし)皆禄(ろく)厚く官高しといへ共、諸(もろもろ)に有て争(あらそ)ふ心(ここ)ろ無りしかば、互(たがひ)に非(ひ)を諌(いさ)め国をしづめて、只天下の無為(ぶゐ)ならん事をのみ思へり。是(これ)をこそ呼(よん)で忠臣とは申(まうす)に、今高(かう)・上杉(うへすぎ)の両家(りやうけ)中悪(なかあし)くして、動(やや)もすれば得失を差(さし)て其権(そのけん)を奪はんと、心に挿(さしはさみ)て思へる事、豈(あに)忠烈を存ずる人とせんや。言長(ながく)して聞(きく)に懈(おこたり)ぬべしといへ共、暫(しばらく)譬(たとへ)を取て愚(おろか)なる事を述(のぶ)るに、昔異朝(いてう)に卞和(べんくわ)と申(まうし)ける賎(いやし)き者、楚山(そざん)に畑(はた)を打(うち)けるが、廻(まは)り一尺(いつしやく)に余れる石の磨(みが)かば玉に可成を求(もとめ)得たり。是(これ)私に可用物に非(あら)ず、誰にか可奉と人を待(まち)ける処に、楚(そ)の武王楚山に御狩(みかり)をし給ひけるに、卞和(べんくわ)此(この)石を奉て、「是(これ)は世に無類程の玉にて候べし。琢(みが)かせて御覧候べし。」とぞ申ける。武王大に悦て、則(すなはち)玉磨(たまみがき)を召(めし)て是(これ)を被磨に、光更(さらに)無りければ、玉磨、「是は玉にては候はず、只尋常(よのつね)の石にて候也(なり)。」とぞ奏しける。武王大に忿(いかつ)て、「さては朕(ちん)を欺(あざむ)ける者也(なり)。」とて、卞和(べんくわ)を召出して其(その)左の足を切て、彼(かの)石を背(せなか)に負(おほ)せて楚山にこそ被追放けれ。卞和無罪して此(この)刑(けい)に合へる事を歎(なげき)て、楚山の中に草庵(さうあん)を結て、此石を乍負、世に玉を知(しる)人のなき事をのみ悲(かなしん)で、年月久く泣居たり。其(その)後三年有て武王隠(かく)れ給(たまひ)しが、御子文王の御代に成て、文王又或時楚山に狩をし給ふに、草庵の中に人の泣(なく)声あり。文王怪(あやしみ)て泣(なく)故を問給へば、卞和(べんくわ)答(こたへ)て申さく、「臣昔此(この)山に入て畑(はた)を打(うち)し時一(ひとつ)の石を求(もとめ)得たり。是(これ)世に無類程の玉なる間、先朝(せんてう)武王に奉りたりしを、玉磨(たまみが)き見知らずして、只石にて候と申(まうし)たりし間、我(わが)左の足を被斬進(まゐら)せて不慮(ふりよ)の刑に逢(あひ)候(さうらひ)き、願(ねがはく)は此(この)玉を君に献(けん)じて、臣が無罪所を顕(あらは)し候はん。」と申(まうし)ければ、文王大に悦て、此(この)石を又或玉琢(あるたまみがき)にぞ磨(みが)かせられける。是も又不見知けるにや、「是(これ)全(まつた)く玉にては候はず。」と奏(そう)しければ、文王又大に忿(いかつ)て、卞和が右の足を切(きら)せて楚山の中にぞ被棄ける。卞和両(りやうの)足を切られて、五体(ごたい)苦(くるしみ)を逼(せめ)しか共、只二代の君の眼拙(つたな)き事をのみ悲(かなしん)で、終(つひ)に百年の身の死を早くせん事を不痛、落る涙の玉までも血の色にぞ成(なり)にける。角(かく)て二十(にじふ)余年(よねん)を過(すぎ)けるに、卞和尚(なほ)命強面(つれなう)して、石を乍負、只とことはに泣居たり。去(さる)程(ほど)に文王崩(ほう)じ給(たまひ)て太子成王(せいわう)の御代に成(なり)にけり。成王(せいわう)又或時楚山に狩(かり)し給(たまひ)けるに、卞和尚(なほ)先(さき)にもこりず、草庵の内より這(はひ)出て、二代の君に二の足を切(きら)れし故を語て、泣々(なくなく)此(この)石を成王(せいわう)に奉りける。成王(せいわう)則(すなはち)玉磨きを召(めし)て、是(これ)を琢(みが)かせらるゝに、其(その)光天地に映徹(えいてつ)して、無双(ぶさうの)玉に成(なり)にけり。是(これ)を行路(あんろ)に懸(かけ)たるに、車十七両を照しければ、照車(せうしや)の玉共名付け、是(これ)を宮殿にかくるに、夜十二街を耀(かかや)かせば、夜光の玉とも名付たり。誠(まこと)に天上の摩尼珠(まにしゆ)・海底の珊瑚樹(さんごじゆ)も、是(これ)には過(すぎ)じとぞ見へし。此(この)玉代代天子の御宝と成て、趙(てう)王の代に伝(つたは)る。趙王是(これ)を重(おもん)じて、趙璧(てうへき)と名を替(かへ)て、更に身を放ち給はず。学窓に蛍を聚(あつめ)ね共(ども)書を照す光不暗、輦路(れんろ)に月を不得共(ども)路を分つ影(かげ)明(あきらか)也(なり)。此比(このころ)天下大(おほい)に乱(みだれ)て、諸侯皆威(ゐ)あるは弱きを奪(うば)ひ、大なるは小を亡(ほろぼ)す世に成(なり)にけり。彼(かの)趙国の傍(かたはら)に、秦王(しんわう)とて威勢の王坐(おはし)けり。秦王此(この)趙璧の事を伝(つたへ)聞て、如何にもして奪取(うばひとら)ばやとぞ被巧ける。異国には会盟(くわいめい)とて隣国(りんごく)の王互(たがひ)に国の堺(さかひ)に出合て、羊を殺して其(その)血をすゝり、天神地祇(てんじんちぎ)に誓(ちかひ)て、法を定め約を堅(かたく)して交(まじは)りを結ぶ事あり。此(この)時に隣国(りんごく)に見落されぬれば、当座(たうざ)にも後日にも国を傾けられ、位を奪(うばは)るゝ事ある間、互に賢才(けんさい)の臣、勇猛(ゆうまう)の士を召具(めしぐ)して才を■(たくら)べ武を争(あらそふ)習(ならひ)也(なり)。或時秦王会盟可有とて、趙王に触送(ふれおく)る。趙王則(すなはち)日(ひ)を定(さだめ)て国の堺へぞ出合ひける。会盟事未定(いまださだまらず)血未啜(いまだすすらざる)先(さき)に、秦王宴(えん)を儲(まうけ)て楽(がく)を奏し酒宴終日(ひねもす)に及べり。酒(さけ)酣(たけなは)にして秦王盃(さかづき)を挙(あげ)給ふ時、秦の兵共(つはものども)酔狂(すゐきやう)せる真似(まね)をして、座席(ざせき)に進(すすみ)出て、目を瞋(いからか)し臂(ひぢ)を張(はり)て、「我(わが)君今興(きよう)に和(くわ)して盃(さかづき)を傾(かたぶけ)むとし給ふ。趙王早く瑟(しつ)を調(しらべ)て寿(ことぶき)をなし給へ。」とぞいらで申(まうし)ける。趙王若(もし)辞(じ)せば、秦の兵の為に殺されぬと見へける間、趙王力なく瑟(しつ)を調べ給ふ。君の傍(かたはら)には必(かならず)左史右史(さしいうし)とて、王の御振舞(おんふるまひ)と言(ことば)とを註(しる)し留(とどむ)る人あり。時に秦の左太史筆を取て、秦趙両国の会盟に、先(まづ)有酒宴、秦王盃を挙(あげ)給ふ時、趙王自(みづから)為寿、調瑟とぞ書付(かきつけ)ける。趙王後記に留(とどま)りぬる事心憂(こころう)しと被思けれ共(ども)、すべき態(わざ)なければ力なし。盃回(めぐつ)て趙王又飲(のみ)給ひける時に、趙王の臣下に、始(はじめ)て召仕(めしつか)はれける藺相如(りんしやうじよ)と云(いひ)ける者秦王の前に進出て、剣を拉(ぬ)き臂(ひぢ)をいらゝげて、「我(わが)王已(すで)に秦王の為に瑟(しつ)を調(しらべ)ぬ。秦王何ぞ我(わが)王の為に寿(ことぶき)を不為べき。秦王若(もし)此(この)事辞(じ)し給はゞ、臣必ず君王の座に死すべし。」と申(まうし)て、誠(まこと)に思切たる体をぞ見せたりける。秦王辞(じ)するに言(ことば)無ければ自(みづか)ら立て寿(ことぶき)をなし、缶(ほとぎ)を打(うつて)舞(まひ)給ふ。則(すなはち)趙の左大史進(すすみ)出て、其(その)年月の何日(いくか)の日秦趙両国の会盟あり。趙王盃を挙(あげ)給ふ時、秦王自ら酌(しやく)を取て缶(ほとぎ)を打畢(をはん)ぬと、委細の記録を書留(かきとどめ)て、趙王の恥をぞ洗(すすぎ)ける。右(かく)て趙王帰らんとし給(たまひ)ける時、秦王傍(かたはら)に隠せる兵二十万騎(にじふまんぎ)、甲胄(かつちう)を帯して馳(はせ)来れり。秦王此(この)兵を差招(さしまねき)て、趙王に向て宣(のたまひ)けるは、「卞和(べんくわ)が夜光の玉、世に無類光ありと伝(つたへ)承(うけたまは)る。願(ねがはく)は此(この)玉を給て、秦の十五城を其(その)代(かわり)に献(けん)ぜん。君又玉を出し給はずは、両国の会盟忽(たちまち)に破(やぶれ)て永く胡越(こゑつ)を隔(へだつ)る思(おもひ)をなすべし。」とぞをどされける。異国の一城(いちじやう)と云は方三百六十里(ろくじふり)也(なり)。其を十五合(あは)せたらん地は宛(あだかも)二三箇国(さんかこく)にも及(およぶ)べし。縦(たとひ)又玉を惜(をしみ)て十五城に不替共、今の勢にては無代(むたい)に奪(うばは)れぬべしと被思ければ、趙王心ならず十五城に玉を替(かへ)て、秦王の方へぞ被出ける。秦王是(これ)を得て後十五城に替(かへ)たりし玉なればとて、連城(れんじやう)の玉とぞ名付(なづけ)ける。其(その)後趙王たび/\使を立て、十五城を被乞けれ共秦王忽(たちまちに)約を変(へんじ)て、一城(いちじやう)をも不出、玉をも不被返、只使を欺(あざむ)き礼を軽(かろく)して、返事にだにも及ばねば、趙王玉を失ふのみならず、天下の嘲(あざけ)り甚(はなはだ)し。爰(ここ)に彼(かの)藺相如(りんしやうじよ)、趙王の御前(おんまへ)に参て、「願(ねがはく)は君(きみ)臣(しん)に被許ば、我(われ)秦王の都に行向(ゆきむかつ)て、彼(かの)玉を取返して君の御憤(おんいきどほり)を休め奉るべし。」と申(まうし)ければ、趙王、「さる事やあるべき、秦は已(すでに)国(くに)大に兵多(おほく)して、我が国の力及(および)がたし。縦(たとひ)兵を引て戦を致す共、争(いかで)か此(この)玉を取返(とりかへす)事を得んや。」と宣(のたま)ひければ、藺相如、「兵を引(ひき)力を以て玉を奪はんとには非(あら)ず。我(われ)秦王を欺(あざむい)て可取返謀(はかりこと)候へば、只御許容(きよよう)を蒙(かうむつ)て、一人(いちにん)罷向(まかりむかふ)べし。」と申(まうし)ければ、趙王猶(なほ)も誠しからず思(おもひ)給(たまひ)ながら、「さらば汝(なんぢ)が意に任すべし。」とぞ被許ける。藺相如悦て、軈(やが)て秦(しんの)国(くに)へ越けるに、兵の一人も不召具、自ら剣戟(けんげき)をも不帯、衣冠(いくわん)正しくして車に乗(のり)専使(せんし)の威儀を調(ととのへ)て、秦王の都へぞ参(まゐり)ける。宮門に入て礼儀をなし、趙王の使に藺相如、直(ぢき)に可奏事有て参たる由を申入(まうしいれ)ければ、秦王南殿(なでん)に出御(しゆつぎよ)成て、則(すなはち)謁を成し給ふ。藺相如畏(かしこまつ)て申けるは、「先年君王に献(けん)ぜし夜光の玉に、隠(かく)れたる瑕(きず)の少し候を、角共(かくとも)知(しら)せ進(まゐら)せで進(しんじ)置(おき)候(さふらひ)し事、第一(だいいち)の越度(をつど)にて候。凡(およそ)玉の瑕(きず)をしらで置ぬれば、遂(つひ)に主の宝(たから)に成らぬ事にて候間、趙王臣をして此(この)玉の瑕(きず)を君に知(しら)せ進(まゐ)らせん為に参て候也(なり)。」と申(まうし)ければ、秦王悦て彼(かの)玉を取出し、玉盤(ぎよくばん)の上にすへて、藺相如が前に被置たり。藺相如、此(この)玉を取て楼閣(ろうかく)の柱に押あて、剣を抜て申けるは、「夫(それ)君子(くんし)は食言(しよくげん)せず、約の堅き事如金石。抑(そもそも)趙王心あきたらずといへ共、秦王強(しひ)て十五城を以て此玉に替(かへ)給ひき。而(しかる)に十五城をも不被出、又玉をも不被返、是(これ)盜跖(たうせき)が悪(あく)にも過(すぎ)、文成(ぶんせい)が偽(いつはり)にも越(こえ)たり。此(この)玉全(まつた)く瑕(きず)あるに非(あら)ず。只臣が命を玉と共に砕(くだき)て、君王の座に血を淋(そそ)がんと思ふ故(ゆゑ)に参て候也(なり)。」と忿(いかつ)て、玉と秦王とをはたと睨(にら)み、近づく人あらば、忽(たちまちに)玉を切破て、返す刀に腹を切らんと、誠(まこと)に思切たる眼(まな)ざし事(こつ)がら、敢て可遮留様も無りけり。王秦あきれて言(ことば)なく、群臣(ぐんしん)恐れて不近付。藺相如遂(つひ)に連城(れんじやう)の玉を奪取て、趙の国へぞ帰りにける。趙王玉を得て悦び給ふ事不斜(なのめならず)。是(これ)より藺相如を賞翫(しやうくわん)せられて、大禄(たいろく)を与へ、高官を授(さづけ)給しかば、位外戚(ぐわいせき)を越(こえ)、禄(ろく)万戸(ばんこ)に過(すぎ)たり。軈(やが)て牛車(ぎつしや)の宣旨(せんじ)を蒙(かうむ)り、宮門を出入するに、時の王侯貴人も、目を側(そばめ)て皆道を去る。爰(ここ)に廉頗(れんぱ)将軍(しやうぐん)と申(まうし)ける趙王の旧臣、代々(だいだい)功を積み忠を重(かさね)て、我に肩を双(なら)ぶべき者なしと思けるが、忽(たちまち)に藺相如に権(けん)を被取、安からぬ事に思(おもひ)ければ、藺相如が参内しける道に三千(さんぜん)余騎(よき)を構(かま)へて是を討(うた)んとす。藺相如も勝(すぐれ)たる兵千(せん)余騎(よき)を召具(めしぐ)して、出仕しけるが、遥(はるか)に廉頗が道にて相待(あひまつ)体(てい)を見て戦(たたかは)むともせず、車を飛(とば)せ兵を引て己が館(たち)へぞ逃去(にげさり)ける。廉頗が兵是(これ)を見て、「さればこそ藺相如、勢(いきほ)ひ只他の力をかる者也(なり)。直(ぢき)に戦を決せん事は、廉頗将軍の小指(こゆび)にだにも及ばじ。」と、笑欺(わらひあざむ)ける間、藺相如が兵心憂(こころうき)事に思(おもひ)て、「さらば我等(われら)廉頗が館(たち)へ押寄せ、合戦の雌雄(しゆう)を決して、彼(かの)輩(ともがら)が欺(あざむき)を防がん。」とぞ望(のぞみ)ける。藺相如是(これ)を聞て、其(その)兵に向て涙を流(ながし)て申(まうし)けるは、「汝等未知(いまだしらず)乎、両虎(りやうこ)相闘(たたかう)て共に死する時、一狐(いつこ)其(その)弊(つひえ)に乗て是(これ)を咀(かむ)と云(いふ)譬(たとへ)あり。今廉頗と我とは両虎也(なり)。戦(たたかは)ば必ず共に死せん。秦の国は是一狐(いつこ)也(なり)。弊(つひえ)に乗て趙をくらはんに、誰か是(これ)をふせがん。此(この)理を思う故(ゆゑ)に、我廉頗に戦(たたかは)ん事を不思一朝の欺(あざむき)を恥(はぢ)て、両国の傾(かたぶか)ん事を忘れば、豈(あに)忠臣にあらん哉(や)。」と、理を尽して制しければ、兵皆理に折れて、合戦の企(くはたて)を休(やめ)てけり。廉頗又此(この)由を聞て黙然(もくねん)として大に恥(はぢ)けるが、尚(なほ)我が咎(とが)を直(ぢき)に謝(しや)せん為に、杖(つえ)を背(せなか)に負(おう)て、藺相如が許(もと)に行(ゆき)、「公が忠貞の誠を聞て我が霍執(くわくしつ)の心を恥づ、願(ねがはく)は公我を此(この)杖にて三百打(うち)給へ、是(これ)を以て罪を謝せん。」と請(こう)て、庭に立(たち)てぞ泣居たりける。藺相如元来有義無怨者なりければ、なじかは是(これ)を可打。廉頗を引て堂上(だうじやう)に居(す)へ、酒を勧(すす)め交(まじはり)を深(ふかく)して返しけるこそやさしけれ。されば趙国は秦・楚に挟(はさまれ)て、地せばく兵少しといへども、此二人(ににん)文を以て行(おこな)ひ、武を以て専にせしかば、秦にも楚にも不被傾、国家を持つ事長久也(なり)。誠(まこと)に私を忘て忠を存する人は加様にこそ可有に、東夷南蛮(とういなんばん)は如虎窺(うかが)ひ、西戎北狄(せいじゆうほくてき)は如竜見る折節、高(かう)・上杉の両家(りやうけ)、差(さし)たる恨(うらみ)もなく、又とがむべき所もなきに、権(けん)を争ひ威(ゐ)を猜(そねみ)て、動(ややもす)れば確執(かくしつ)に及ばんと互に伺隙事豈(あに)忠臣と云(いふ)べしや。
○妙吉侍者(めうきつじしやの)事(こと)付(つけたり)秦(しんの)始皇帝(しくわうていの)事(こと) S2608
近来(このころ)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)朝臣(あそん)、将軍に代(かはつ)て天下の権を取給し後、専ら禅の宗旨(しゆうし)に傾(かたむい)て夢窓(むさう)国師の御弟子(おんでし)と成り、天竜寺(てんりゆうじ)を建立(こんりふ)して陞座拈香(しんそねんかう)の招請(てうしやう)無隙、供仏施僧(くぶつせそう)の財産不驚目云(いふ)事無りけり。爰(ここ)に夢窓国師の法眷(はつけん)に、妙吉侍者と云ける僧是(これ)を見て浦山敷(うらやましき)事に思ひければ、仁和寺(にんわじ)に志一房(しいちばう)とて外法成就(げほふじやうじゆ)の人の有(あり)けるに、荼祇尼天(だぎにてん)の法を習(ならひ)て三七日行(おこな)ひけるに、頓法(とんぼふ)立(たちどころ)に成就(じやうじゆ)して、心に願ふ事の聊(いささか)も不叶云(いふ)事なし。是より夢窓和尚(むさうをしやう)も此(この)僧を以て一大事(いちだいじ)に思ふ心著(つき)給ひにければ、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の被参たりける時、和尚(をしやう)宣(のたまひ)けるは、「日夜の参禅(さんぜん)、学道の御為に候へば、如何にも懈(おこた)る処をこそ勧め申(まうす)べく候へ共、行路(かうろ)程遠(とほう)して、往還(わうくわん)の御煩(おんわづらひ)其(その)恐(おそれ)候へば、今より後は、是に妙吉侍者と申(まうす)法眷(はつけん)の僧の候(さうらふ)を参らせ候べし。語録(ごろく)なんどをも甲斐々々敷(かひがひしく)沙汰し、祖師(そし)の心印をも直(ぢき)に承当(しようたう)し候はんずる事、恐らくは可恥人も候はねば、我に不替常に御相看(ごしやうかん)候(さふらひ)て御法談候べし。」とて、則(すなはち)妙吉侍者を左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の方へぞ被遣ける。直義(ただよし)朝臣(あそん)一度(いちど)此(この)僧を見奉りしより、信心胆(きも)に銘(めい)じ、渇仰(かつがう)無類ければ、只西天(てんの)祖達磨(だるま)大師(だいし)、二度(にど)我国に西来して、直指人心(ぢきしじんしん)の正宗(しようしゆう)を被示かとぞ思はれける。軈(やがて)一条堀川(いちでうほりかは)村雲(むらくも)の反橋(もどりばし)と云(いふ)所に、寺を立て宗風(しゆうふう)を開基(かいき)するに、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)日夜の参学(さんがく)朝夕の法談無隙ければ、其(その)趣(おもむき)に随(したが)はん為に山門寺門の貫主(くわんじゆ)、宗(しゆう)を改めて衣鉢(えはつ)を持ち、五山十刹(ごさんじつさつ)の長老も風(ふう)を顧(かへりみ)て吹挙(すゐきよ)を臨(のぞ)む。況乎(いはんや)卿相雲客(けいしやううんかく)の交(まじは)り近づき給ふ有様、奉行頭人(とうにん)の諛(へつらう)たる体(てい)、語るに言(ことば)も不可及。車馬門前に立列(たちつらね)僧俗堂上(だうじやう)に群集(くんじゆ)す。其(その)一日の布施物(ふせもつ)一座の引手物(ひきでもの)なんど集めば、如山可積。只釈尊(しやくそん)出世の其(その)古(いにしへ)、王舎城(わうしやじやう)より毎日五百(ごひやく)の車に色々の宝を積(つん)で、仏に奉り給ひけるも、是(これ)には過(すぎ)じとぞ見へたりける。加様(かやう)に万人崇敬(そうぎやう)類(たぐ)ひ無りけれ共(ども)、師直・師泰兄弟は、何条(なんでう)其(その)僧の知慧(ちえ)才学(さいかく)さぞあるらんと欺(あざむい)て一度(いちど)も更(さらに)不相看、剰(あまつさ)へ門前を乗打(のりうち)にして、路次(ろし)に行逢(ゆきあふ)時も、大衣(だいえ)を沓(くつ)の鼻に蹴さする体(てい)にぞ振舞ける。吉侍者是(これ)を見て安からぬ事に思(おもひ)ければ、物語の端(はし)、事の次(ついで)には、只執事兄弟の挙動(ふるまひ)、穏便(をんびん)ならぬ者哉と云沙汰(いひさた)せられけるを聞て、上杉伊豆(いづの)守(かみ)、畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)、すはや究竟(くつきやう)の事こそ有(あり)けれ。師直・師泰を讒(ざん)し失はんずる事は、此(この)僧にまさる人非じと被思ければ、軈(やが)て交(まじはり)を深(ふかく)し媚(こび)を厚(あつう)して様々讒をぞ構へける。吉侍者も元来悪(にく)しと思ふ高家の者共(ものども)の挙動(ふるまひ)なれば、触事彼等が所行の有様、国を乱り政(まつりこと)を破る最(さい)たりと被讒申事多かりけり。中にも言(こと)ば巧(たくみ)に譬(たとへ)のげにもと覚(おぼゆ)る事ありけるは、或時首楞厳経(しゆりようごんきやう)の談義(だんぎ)已(すで)に畢(をはつ)て異国本朝の物語に及(および)ける時、吉侍者、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)に向て被申けるは、「昔秦の始皇帝(しくわうてい)と申(まうし)ける王に、二人(ににん)の王子(わうじ)坐(おはし)けり。兄をば扶蘇(ふそ)、弟をば胡亥(こがい)とぞ申(まうし)ける。扶蘇は第一(だいいち)の御子にて御座(おはせし)か共、常に始皇帝(しくわうてい)の御政(まつりこと)の治(をさま)らで、民をも愍(あはれ)まず仁義を専にし給はぬ事を諌(いさめ)申されける程(ほど)に、始皇帝(しくわうてい)の叡慮(えいりよ)に逆(さからう)てさしもの御覚(おんおぼ)へも無りけり。第二(だいに)の御子胡亥は、寵愛(ちようあい)の后の腹にて御座(おは)する上、好驕悪賢、悪愛(をあい)異于他して常に君の傍(そば)を離れず、趙高(てうかう)と申ける大臣を執政(しつせい)に被付、万事只此(この)計(はから)ひにぞ任せられける。彼(かの)秦の始皇と申(まうす)は、荘襄王(さうじやうわう)の御子也(なり)しが、年十六(じふろく)の始め魏(ぎ)の畢万(ひつばん)、趙の襄公(じやうこう)・韓(かん)の白宣(はくせん)・斉(せい)の陳敬仲(ちんけいちゆう)・楚王・燕(えん)王の六国(りくこく)を皆滅(ほろぼ)して天下を一にし給へり。諸侯を朝(てう)せしめ四海(しかい)を保(たも)てる事、古今第一(だいいち)の帝(みかど)にて御坐(おはせし)かば、是(これ)をぞ始(はじめ)て皇帝(くわうてい)とは可申とて、始皇とぞ尊号(そんがう)を献(たてまつ)りける。爰(ここ)に昔洪才(こうさい)博学の儒者共が、五帝三王の迹(あと)を追ひ、周公・孔子(こうし)の道を伝(つたへ)て、今の政(まつりこと)古(いにし)へに違(たがひ)ぬと毀(そしり)申(まうす)事、只書伝の世にある故(ゆゑ)也(なり)とて、三墳(さんふん)五典(ごてん)史書全経、総(すべ)て三千七百六十(さんぜんしちひやくろくじふ)余巻(よくわん)、一部も天下に不残、皆焼捨(やきすて)られけるこそ浅猿(あさまし)けれ。又四海(しかい)の間に、宮門警固(けいご)の武士より外は、兵具(ひやうぐ)を不可持、一天下(いちてんが)の兵共(つはものども)が持(もつ)処の弓箭兵仗(きゆうせんひやうぢやう)一(ひとつ)も不残集(あつめ)て是(これ)を焼棄て、其(その)鉄(くろがね)を以て長(たけ)十二丈(じふにぢやうの)金人(こんじん)十二人(じふににん)を鋳(い)させて、湧金門(ゆうきんもん)にぞ被立ける。加様(かやう)の悪行(あくぎやう)、聖に違(たが)ひ天に背(そむ)きけるにや、邯鄲(かんたん)と云(いふ)所へ、天より災(わざはひ)を告(つぐ)る悪星(あくせい)一落て、忽(たちまち)に方十二丈(じふにぢやう)の石となる。面に一句の文字有て、秦の世滅(ほろび)て漢の代になるべき瑞相(ずゐさう)を示したりける。始皇是(これ)を聞(きき)給(たまひ)て、「是(これ)全(まつた)く天のする所に非(あら)ず、人のなす禍(わざはひ)也(なり)。さのみ遠き所の者はよも是(これ)をせじ四方(しはう)十里(じふり)が中を不可離。」とて、此(この)石より四方(しはう)十里(じふり)が中に居たる貴賎の男女一人も不残皆首を被刎けるこそ不便(ふびん)なれ。東南には函谷(かんこく)二■(じかう)の嶮(けわしき)を峙(そばた)て、西北には洪河■渭(こうがけいゐ)の深(ふかき)を遶(めぐ)らして、其(その)中に回(まはり)三百七十里(さんびやくしちじふり)高さ三里の山を九重に築上(つきあげ)て、口六尺(ろくしやく)の銅柱(あかがねのはしら)を立(たて)、天に鉄(くろがね)の網(あみ)を張(はり)て、前殿四十六(しじふろく)殿(どの)・後宮(こうきゆう)三十六(さんじふろく)宮(みや)・千門万戸(ばんこ)とをり開き、麒麟(きりん)列(つらなり)鳳凰(ほうわう)相対(あいむか)へり。虹(こう)の梁(うつばり)金の鐺(こじり)、日月光を放(はなち)て楼閣(ろうかく)互に映徹(えいてつ)し、玉の砂(いさご)・銀の床(ゆか)、花柳(くわりう)影を浮(うかべ)て、階闥(かいたつ)品々(しなじな)に分れたり。其(その)居所を高(たかく)し、其(その)歓楽(くわんらく)を究(きはめ)給ふに付(つけ)ても、只有待(うだい)の御命有限事を歎(なげき)給ひしかば、如何(いかにも)して蓬莱(ほうらい)にある不死の薬を求(もとめ)て、千秋万歳(まんぜい)の宝祚(はうそ)を保(たも)たんと思(おもひ)給ひける処に、徐福(じよふく)・文成(ぶんせい)と申(まうし)ける道士(だうし)二人(ににん)来て、我不死の薬を求(もとむ)る術(じゆつ)を知たる由申(まうし)ければ、帝無限悦(よろこび)給(たまひ)て、先(まづ)彼(かれ)に大官を授けて、大禄(たいろく)を与へ給ふ。軈(やが)て彼が申(まうす)旨に任(まかせ)て、年未(いまだ)十五に不過童男丱女(どうなんくわんじよ)、六千人(ろくせんにん)を集め、竜頭鷁首(りようとうげきしゆ)の舟に載(の)せて、蓬莱(ほうらい)の島をぞ求めける。海漫々(まんまん)として辺(ほとり)なし。雲の浪・烟(けぶり)の波最(いと)深く、風浩々(かうかう)として不閑、月華星彩(せいさい)蒼茫(さうばう)たり。蓬莱は今も古へも只名をのみ聞ける事なれば、天水茫々(ばうばう)として求(もとむ)るに所なし。蓬莱を不見否(いな)や帰らじと云(いひ)し童男丱女は、徒(いたずら)に舟の中にや老(おい)ぬらん。徐福文成(じよふくぶんせい)其(その)偽(いつはり)の顕(あらわ)れて、責(せめ)の我(わが)身に来らんずる事を恐(おそれ)て、「是(これ)は何様(いかさま)竜神(りゆうじん)の成祟と覚(おぼえ)候。皇帝(くわうてい)自(みづから)海上に幸(みゆき)成て、竜神(りゆうじん)を被退治(たいぢ)候(さうらひ)なば、蓬莱の島をなどか尋(たづね)得ぬ事候べき。」と申(まうし)ければ、始皇帝(しくわうてい)げにもとて、数万艘(すまんさう)の大船を漕双(こぎなら)べ、連弩(れんど)とて四五百人(しごひやくにん)して引て、同時に放(はな)つ大弓大矢を船ごとに持せられたり。是(これ)は成祟竜神(りゆうじん)、若(もし)海上に現(げん)じて出たらば、為射殺用意(ようい)也(なり)。始皇帝(しくわうてい)已(すで)に之罘(しふ)の大江を渡(わたり)給ふ道すがら、三百万人(さんびやくまんにん)の兵共(つはものども)、舷(ふなばた)を叩(たた)き大皷(たいこ)を打て、時を作る声止(やむ)時なし。礒山嵐(いそやまあらし)・奥津浪(おきつなみ)、互に響(ひびき)を参(まじ)へて、天維坤軸(てんゐこんぢく)諸共(もろとも)に、絶(た)へ砕(くだけ)ぬとぞ聞へける。竜神(りゆうじん)是(これ)にや驚(おどろ)き給(たまひ)けん。臥長(ふしたけ)五百丈(ごひやくぢやう)計(ばかり)なる鮫大魚(かうたいぎよ)と云(いふ)魚に変(へん)じて、浪の上にぞ浮出たる。頭(かしら)は如師子遥(はるか)なる天に延揚(のびあが)り、背(せなか)は如竜蛇万頃(ばんきやう)の浪に横(よこたは)れり。数万艘(すまんさう)の大船四方(しはう)に漕分(こぎわか)れて同時に連弩(れんど)を放(はな)つに、数百万の毒(どく)の矢にて鮫大魚(かうたいぎよ)の身に射立ければ、此(この)魚忽(たちまち)に被射殺、蒼海(さうかい)万里の波の色、皆血に成てぞ流れける。始皇帝(しくわうてい)其(その)夜龍神と自(みづから)戦ふと夢を見給(たまひ)たりけるが、翌日より重き病を請(うけ)て五体(ごたい)暫(しばらく)も無安事、七日の間苦痛逼迫(ひつぱく)して遂(つひ)に沙丘(しやきう)の平台(へいだい)にして、則(すなはち)崩御(ほうぎよ)成(なり)にけり。始皇帝(しくわうてい)自詔(じぜう)を遺(のこ)して、御位をば第一(だいいち)の御子扶蘇(ふそ)に譲(ゆづ)り給(たまひ)たりけるを、趙高(てうかう)、扶蘇(ふそ)御位に即(つき)給ひなば、賢人才人(さいじん)皆朝家(てうか)に被召仕、天下を我(わが)心に任する事あるまじと思(おもひ)ければ、始皇帝(しくわうてい)の御譲(おんゆづり)を引破て捨(すて)、趙高が養君(やうくん)にし奉りたる第二(だいに)の王子(わうじ)胡亥(こがい)と申(まうし)けるに、代(よ)をば譲(ゆづり)給(たまひ)たりと披露(ひろう)して、剰(あまつさへ)討手を咸陽宮(かんやうきゆう)へ差遣(さしつかは)し、扶蘇(ふそ)をば討奉りてげり。角(かく)て、幼稚(えうち)に坐(おは)する胡亥(こがい)を二世皇帝(にせいくわうてい)と称して、御位に即(つけ)奉り、四海(しかい)万機の政(まつりこと)、只趙高が心の侭(まま)にぞ行(おこな)ひける。此(この)時天下初(はじめ)て乱(みだれ)て、高祖(かうそは)沛郡(はいぐん)より起(おこ)り、項羽(かううは)楚より起て、六国(りくこく)の諸侯悉(ことごとく)秦を背(そむ)く。依之(これによつて)白起(はくき)・蒙恬(もうてん)、秦の将軍として戦(たたかふ)といへ共、秦の軍(いくさ)利(り)無(なく)して、大将皆討れしかば、秦又章邯(しやうかん)を上将軍(じやうしやうぐん)として重(かさね)て百万騎の勢を差下し、河北(かほく)の間に戦(たたかは)しむ。百般(ももたび)戦(たたかひ)千般(ちたび)遭(あふ)といへ共雌雄(しゆう)未決(いまだけつせず)、天下の乱止(やむ)時なし。爰(ここ)に趙高、秦の都咸陽宮(かんやうきゆう)に兵の少き時を伺見(うかがひみ)て二世皇帝(にせいくわうてい)を討奉り、我(われ)世を取(とら)んと思(おもひ)ければ、先(まづ)我が威勢(ゐせい)の程を為知、夏毛(なつけ)の鹿に鞍(くら)を置て、「此(この)馬に召(めさ)れて御覧候へ。」と、二世皇帝(にせいくわうてい)にぞ奉りける。二世皇帝(にせいくわうてい)是(これ)を見給(たまひ)て、「是(これ)非馬、鹿也(なり)。」と宣(のたま)ひければ趙高、「さ候はゞ、宮中の大臣共を召(めさ)れて、鹿(しか)・馬(むま)の間を御尋(おんたづね)候べし。」とぞ申(まうし)ける。二世則(すなはち)百司千官公卿(くぎやう)大臣悉(ことごと)く召集(めしあつめ)て、鹿・馬の間を問(とひ)給ふ。人皆盲者(めしひるもの)にあらざれば、馬に非(あら)ずとは見けれ共(ども)、趙高が威勢に恐(おそれ)て馬也(なり)と申さぬは無りけり。二世皇帝(にせいくわうてい)一度(いちど)鹿・馬の分(わかち)に迷(まよひ)しかば、趙高大臣は忽(たちまち)に虎狼(こらう)の心を挿(さしはさ)めり。是(これ)より趙高、今は我が威勢をおす人は有らじと兵を宮中へ差遣(さしつかは)し、二世皇帝(にせいくわうてい)を責(せめ)奉るに、二世趙高が兵を見て、遁(のが)るまじき処を知(しり)給(たまひ)ければ、自(みづから)剣の上に臥(ふし)て、則(すなはち)御自害(ごじがい)有てけり。是(これ)を聞て秦の将軍にて、漢・楚と戦(たたかひ)ける章邯(しやうかん)将軍(しやうぐん)も、「今は誰をか君として、秦の国をも可守。」とて、忽(たちまち)に降人(かうにん)に成て、楚の項羽(かうう)の方へ出ければ、秦の世忽(たちまち)に傾(かたぶい)て、高祖(かうそ)・項羽(かうう)諸共(もろとも)に咸陽宮(かんやうきゆう)に入(いり)にけり。趙高世を奪(うばひ)て二十一日と申(まうす)に、始皇帝(しくわうてい)の御孫子嬰(しえい)と申(まうせ)しに被殺、子嬰は又楚(その)項羽(かうう)に被殺給(たまひ)しかば、神陵(しんりよう)三月の火九重(きうちよう)の雲を焦(こが)し、泉下(せんか)多少(たせう)の宝玉人間の塵(ちり)と成(なり)にけり。さしもいみじかりし秦の世、二世に至て亡(ほろび)し事は、只趙高が侈(おごり)の心より出来(いでくる)事にて候(さうらひ)き。されば古(いにしへ)も今も、人の代を保(たも)ち家を失ふ事は、其(その)内の執事管領の善悪による事にて候。今武蔵守(むさしのかみ)・越後(ゑちごの)守(かみ)が振舞(ふるまひ)にては、世中(よのなか)静(しづま)り得じとこそ覚(おぼえ)て候へ。我(わが)被官(ひくわん)の者の恩賞(おんしやう)をも給(たまは)り御恩をも拝領して、少所(せうしよ)なる由を歎(なげき)申せば、何を少所と歎(なげき)給ふ。其(その)近辺に寺社本所(ほんじよ)の所領(しよりやう)あらば、堺を越て知行せよかしと下知(げぢ)す。又罪科(ざいくわ)有て所帯を被没収たる人以縁書執事兄弟に属(しよく)し、「如何(いかが)可仕。」と歎けば、「よし/\師直そらしらずして見んずるぞ。縦(たとひ)如何(いか)なる御教書(みげうしよ)也(なり)とも、只押(おさ)へて知行せよ。」と成敗(せいばい)す。又正(まさし)く承(うけたまはり)し事の浅猿(あさま)しかりしは、都に王と云(いふ)人のまし/\て、若干(そくばく)の所領をふさげ、内裏(だいり)・院(ゐん)の御所(ごしよ)と云(いふ)所の有て、馬より下(おる)る六借(むつかし)さよ。若(もし)王なくて叶(かなふ)まじき道理あらば、以木造るか、以金鋳(い)るかして、生(いき)たる院(ゐん)、国王をば何方(いづかた)へも皆流し捨(すて)奉らばやと云(いひ)し言(ことば)の浅猿(あさまし)さよ。一人天下に横行するをば、武王是(これ)を恥(はぢ)しめりとこそ申(まうし)候。況乎(いはんや)己(おのれ)が身申沙汰(まうしさた)する事をも諛(へつらふ)人あれば改(あらため)て非を理になし、下(しも)として上を犯(をか)す科(とが)、事既(すで)に重畳(ぢゆうでふ)せり。其(その)罪を刑罰(けいばつ)せられずは、天下の静謐(せいひつ)何(いづ)れの時をか期(ご)し候べき。早く彼等(かれら)を討(うた)せられて、上杉・畠山を執権として、御幼稚(えうち)の若御(わかご)に天下を保(たも)たせ進(まゐら)せんと思召す御心(おんこころ)の候はぬや。」と、言(ことば)を尽(つく)し譬(たとへ)を引て様々に被申ければ、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)倩(つらつら)事の由を聞給(たまひ)て、げにもと覚(おぼゆ)る心著(つき)給(たまひ)にけり。是(これ)ぞ早仁和寺(にんわじ)の六本杉の梢(こずゑ)にて、所々の天狗共(てんぐども)が又天下を乱らんと様々に計りし事の端(はし)よと覚へたる。
○直冬(ただふゆ)西国下向(げかうの)事(こと) S2609
先(まづ)西国静謐(せいひつ)の為とて、将軍の嫡男(ちやくなん)宮内(くないの)大輔(たいふ)直冬を、備前(びぜんの)国(くに)へ下さる。抑(そもそも)此(この)直冬と申(まうす)は、古へ将軍の忍て一夜(いちや)通ひ給たりし越前(ゑちぜん)の局(つぼね)と申(まうす)女房の腹に出来たりし人とて、始めは武蔵(むさしの)国(くに)東勝寺(とうしようじ)の喝食(かつしき)なりしを、男に成(なし)て京へ上せ奉し人也(なり)。此由(よしの)内々申入るゝ人有(あり)しか共、将軍曾(かつて)許容(きよよう)し給はざりしかば、独清軒玄慧(どくせいけんげんゑ)法印が許(もと)に所学して、幽(かすか)なる体にてぞ住佗(すみわび)給ひける。器用事(こつ)がら、さる体に見へ給(たまひ)ければ、玄慧法印事の次(ついで)を得て左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)に角(かく)と語り申(まうし)たりけるに、「さらば、其(その)人是(これ)へ具足して御渡(おんわたり)候へ。事の様能々(よくよく)試(こころみ)て、げにもと思(おもふ)処あらば、将軍へも可申達。」と、始(はじめ)て直冬を左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の方へぞ被招引ける。是にて一二年過けるまでもなを将軍許容(きよよう)の儀無りけるを、紀伊(きいの)国(くに)の宮方(みやがた)共(ども)蜂起(ほうき)の事及難義ける時、将軍始(はじめ)て父子の号(がう)を被許、右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)に補任(ふにん)して、此(この)直冬を討手の大将にぞ被差遣ける。紀州暫(しばらく)静謐(せいひつ)の体にて、直冬被帰参しより後(のち)、早(はや)、人々是(これ)を重(おもん)じ奉る儀も出来り、時々将軍の御方へも出仕し給(たまひ)しか共、猶(なほ)座席(ざせき)なんどは仁木(につき)・細川の人々と等列(とうれつ)にて、さまで賞翫(しやうくわん)は未(いまだ)無りき。而るを今左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の計(はから)ひとして、西国の探題(たんだい)になし給ひければ、早晩(いつ)しか人皆帰服(きふく)し奉りて、付順(つきしたが)ふ者多かりけり。備後の鞆(とも)に座(おは)し給て、中国の成敗を司(つかさ)どるに、忠ある者は不望恩賞を賜(たまは)り、有咎者は不罰去其堺。自是多年非(ひ)をかざりて、上を犯(をか)しつる師直・師泰が悪行、弥(いよいよ)隠れも無りけり。


太平記(国民文庫)
太平記巻第二十七

○天下妖怪(えうくわいの)事(こと)付(つけたり)清水寺(きよみづでら)炎上(えんしやうの)事(こと) S2701
貞和(ぢやうわ)五年正月の比(ころ)より、犯星客星(ぼんしやうきやくしやう)無隙現じければ旁(かたがた)其(その)慎(つつしみ)不軽。王位の愁(うれへ)天下の変、兵乱疫癘(えきれい)有べしと、陰陽寮(おんやうれう)頻(しきり)に密奏す。是をこそ如何と驚(おどろく)処に、同(おなじく)二月二十六日(にじふろくにちの)夜半許に将軍塚(しやうぐんづか)夥(おびたた)しく鳴動(めいどう)して、虚空(こくう)に兵馬の馳過(はせすぐ)る音半時許(はんじばかり)しければ、京中(きやうぢゆう)の貴賎不思議(ふしぎ)の思をなし、何事のあらんずらんと魂を冷(ひや)す処に、明る二十七日(にじふしちにち)午(うまの)刻(こく)に、清水坂(きよみづさか)より俄(にはか)に失火出来て、清水寺(きよみづでら)の本堂・阿弥陀堂・楼門・舞台(ぶたい)・鎮守まで一宇(いちう)も不残炎滅す。火災は尋常(よのつね)の事なれ共(ども)、風不吹大なる炎遥(はるか)に飛去て、厳重(げんぢゆう)の御祈祷所一時に焼失する事非直事。凡(およそ)天下の大変ある時は、霊仏霊社の回禄(くわいろく)定れる表事(へうじ)也(なり)。又同六月三日八幡(やはた)の御殿、辰刻(たつのこく)より酉(とりの)時(とき)まで鳴動す。神鏑(しんてき)声を添(そへ)て、王城を差て鳴て行(ゆく)。又同六月十日より太白(たいはく)・辰星(しんせい)・歳星(さいせい)の三星合て打続きしかば、不経月日大乱出来(しゆつらい)して、天子失位、大臣受災、子殺父、臣殺君、飢饉疫癘(えきれい)兵革(ひやうかく)相続(あひつづき)、餓■(がへう)満巷べしと天文博士(てんもんのはかせ)注説(ちゆうせつ)す。又潤(うるふ)六月五日戌(いぬの)刻(こく)に、巽方(たつみのかた)と乾(いぬゐの)方(かた)より、電光(いなびかり)耀(かかや)き出て、両方の光寄合て如戦して、砕(くだ)け散ては寄合て、風の猛火(みやうくわ)を吹上(ふきあぐ)るが如く、余光天地に満て光る中に、異類異形(いるゐいぎやう)の者見へて、乾(いぬゐ)の光退き行、巽(たつみ)の光進み行て互の光消失ぬ。此夭怪(えうくわい)、如何様(いかさま)天下穏(おだやか)ならじと申合にけり。
○田楽(でんがくの)事(こと)付(つけたり)長講見物(けんぶつの)事(こと) S2702
今年多(おほく)の不思議(ふしぎ)打続(うちつづく)中に、洛中(らくちゆう)に田楽(でんがく)を翫(もてあそ)ぶ事法に過たり。大樹(たいじゆ)是を被興事又無類。されば万人手足を空(そら)にして朝夕是が為に婬費(いんぴ)す。関東(くわんとう)亡びんとて、高時禅門好み翫(もてあそび)しが、先代一流(ひとながれ)断滅しぬ。よからぬ事なりとぞ申ける。同年六月十一日抖薮(とそう)の沙門(しやもん)有りけるが、四条(しでうの)橋を渡さんとて、新座本座の田楽(でんがく)を合せ老若(らうにやく)に分て能(のう)くらべをぞせさせける。四条川原(しでうがはら)に桟敷(さじき)を打つ。希代(きたい)の見物なるべしとて貴賎の男女挙(こぞ)る事不斜(なのめならず)、公家には摂禄(せつろく)大臣家、門跡は当座主(ざす)梶井(かぢゐ)二品(にほん)法親王(ほふしんわう)、武家は大樹(たいじゆ)是を被興しかば、其(その)以下の人々は不及申、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)諸家(しよけ)の侍、神社寺堂の神官僧侶に至る迄、我不劣桟敷(さじき)を打(うつ)。五六八九寸(ごろくはちくすん)の安(あん)の郡(こほり)などら鐫貫(ゑりぬい)て、囲(わたり)八十三間(はちじふさんげん)に三重(さんぢゆう)四重(しぢゆう)に組上(くみあげ)、物も夥(おびたた)しく要(よこた)へたり。已(すでに)時刻に成しかば、軽軒香車(けいかんかうしや)地を争ひ、軽裘肥馬(けいきうひば)繋(つなぐ)に所なし。幔幕(まんまく)風に飛揚して、薫香天に散満す。新本の老若(らうにやく)、東西に幄(かりや)を打て、両方に橋懸りを懸たりける。楽屋(がくや)の幕には纐纈(かうけつ)を張(はり)、天蓋(てんがい)の幕は金襴なれば、片々(へんぺん)と風に散満して、炎を揚(あぐ)るに不異。舞台に曲■縄床(きよくろくじようしやう)を立双べ、紅緑(こうりよく)の氈(せん)を展布(のべしい)て、豹虎(へうとら)の皮を懸(かけ)たれば、見(みる)に眼を照(てらさ)れて、心も空に成(なり)ぬるに、律雅調(しらべ)冷(すさまし)く、颯声(さつせい)耳を清(すます)処に、両方の楽屋より中門(ちゆうもんの)口(くち)の鼓を鳴し音取(ねとりの)笛を吹立たれば、匂ひ薫蘭(くんらん)を凝(こら)し、粧(よそほ)ひ紅粉(こうふん)を尽したる美麗の童(わらは)八人(はちにん)、一様(いちやう)に金襴の水干(すいかん)を著(ちやく)して、東の楽屋より練(ねり)出たれば、白く清らかなる法師八人(はちにん)、薄化粧(うすげしやう)の金黒(かねくろ)にて、色々の花鳥を織尽(おりつく)し、染狂(そめくるはし)たる水干(すいかん)に、銀の乱紋(らんもん)打たる下濃(すそご)の袴に下結(したくくり)して拍子を打(うち)、あやい笠を傾(かたぶ)け、西の楽屋よりきらめき渡て出たるは、誠(まこと)に由々敷(ゆゆしく)ぞ見へたりける。一(いち)の簓(ささら)は本座の阿古(あこ)、乱(らん)拍子は新座の彦夜叉、刀玉(かたなたま)は道一、各神変(じんべん)の堪能(かんのう)なれば見物耳目(じぼく)を驚(おどろか)す。角(かく)て立合終りしかば、日吉(ひよし)山王の示現(じげん)利生の新たなる猿楽を、肝に染(そみ)てぞし出したる。斯(かか)る処に新座の楽屋八九歳の小童(わらは)に猿の面をきせ、御幣を差上て、赤地の金襴の打懸に虎(とらの)皮(かは)の連貫(つらぬき)を蹴(ふみ)開き、小拍子に懸て、紅緑(こうりよく)のそり橋を斜(なのめ)に踏(ふむ)で出たりけるが高欄(かうらん)に飛上り、左へ回(まはり)右へ曲(めぐ)り、抛(はね)返(かへり)ては上りたる在様(ありさま)、誠(まこと)に此(この)世の者とは不見、忽(たちまち)に山王神託(しんたく)して、此奇瑞(きずゐ)を被示かと、感興身にぞ余(あま)りける。されば百(ひやく)余間(よけん)の桟敷共怺兼(こらへかね)て座にも不蹈、「あら面白や難堪や。」と、喚(をめき)叫びける間、感声(かんせい)席(せき)に余(あま)りつゝ、且(しばし)は閑(しづま)りもやらず。浩(かかる)処に、将軍の御桟敷の辺より、厳(いつく)しき女房の練貫(ねりぬき)の妻高く取けるが、扇を以て幕を揚(あぐ)るとぞ見へし。大物(だいもつ)の五六(ごろく)にて打付たる桟敷傾(かたぶき)立て、あれや/\と云(いふ)程こそあれ、上下二百四十九間、共に将碁倒(しやうぎたふし)をするが如く、一度(いちど)に同(どう)とぞ倒(たふれ)ける。若干(そくばく)の大物(だいもつ)共(ども)落重りける間、被打殺者其数不知(しらず)。斯(かか)る紛れに物取(ものとり)共(ども)、人の太刀々(たちかたな)を奪て逃(にぐ)るもあり、見付て切て留るもあり。或(あるひ)は腰膝を被打折、手足を打切られ、或(あるひ)は己と抜たる太刀長刀に、此彼(ここかしこ)を突貫(つきつらぬか)れて血にまみれ、或(あるひ)は涌(わか)せる茶の湯に身を焼き、喚(をめ)き叫ぶ。只衆合叫喚(しゆうがふけうくわん)の罪人も角(かく)やとぞ見へたりける。田楽(でんがく)は鬼の面を著ながら、装束を取て逃る盜人を、赤きしもとを打振て追て走る。人の中間若党(わかたう)は、主の女房を舁負(かいおう)て逃(にぐ)る者を、打物(うちもの)の鞘をはづして追懸(おつかく)る。返し合(あはせ)て切合(きりあふ)処もあり。被切朱(あけ)に成(なる)者もあり。脩羅(しゆら)の闘諍(とうじやう)、獄率(ごくそつ)の呵責(かしやく)、眼の前に有が如し。梶井(かぢゐの)宮(みや)も御腰(おんこし)を打損(そん)ぜさせ給ひたりと聞へしかば、一首(いつしゆ)の狂歌を四条川原(しでうがはら)に立たり。釘付にしたる桟敷の倒(たふる)るは梶井(かぢゐの)宮(みや)の不覚なりけり又二条(にでうの)関白殿(くわんばくどの)も御覧じ給ひたりと申ければ、田楽(でんがく)の将碁倒(たふし)の桟敷には王許(ばかり)こそ登(あが)らざりけれ是非直事。如何様天狗(てんぐ)の所行にこそ有らんと思合せて、後(のち)能々(よくよく)聞けば山門西塔(さいたふ)院(ゐん)釈迦堂の長講(ちやうかう)、所用有て下りける道に、山伏(やまぶし)一人行合て、「只今(ただいま)四条(しでう)河原(かはら)に希代(きたい)の見物の候。御覧候へかし。」と申ければ、長講、「日已(すで)に日中に成候。又用意(ようい)の桟敷なんど候はで、只今(ただいま)より其座に臨(のぞみ)候(さうらふ)共(とも)、中へ如何(いか)が入(いり)候べき。」と申せば、山伏(やまぶし)、「中へ安く入奉べき様候。只我(わが)迹(あと)に付き被歩候へ。」とぞ申ける。長講、げにも聞(きこゆ)る如くならば希代の見物なるべし。さらば行て見ばやと思ければ、山伏(やまぶし)の迹に付て三足許(みあしばかり)歩(あゆ)むと思たれば、不覚四条(しでう)河原(かはら)に行至りぬ。早(はや)中門(ちゆうもんの)口(くち)打(うつ)程(ほど)に成ぬれば、鼠戸(ねづみと)の口も塞(ふさが)りて可入方もなし。「如何して内へは入候べき。」とわぶれば、山伏(やまぶし)、「我(わが)手に付(つか)せ給へ。飛越て内へ入候はん。」と申(まうす)間、実(まことし)からずと乍思、手に取付たれば、山伏(やまぶし)、長講を小脇に挟(はさん)で三重(さんぢゆう)に構(かまへ)たる桟敷を軽々(かろがろ)と飛越て、将軍の御桟敷の中にぞ入にける。長講座席(ざせき)座中の人々を見るに、皆仁木(につき)・細河(ほそかは)・高(かう)・上杉の人々ならでは交(まじは)りたる人も無ければ、「如何(いかで)か此(この)座には居候べき。」と、蹲踞(そんこ)したる体を見て、彼(かの)山伏(やまぶし)忍やかに、「苦かるまじきぞ。只それにて見物し給へ。」と申(まうす)間、長講は様(やう)ぞあるらんと思て、山伏(やまぶし)と双(ならん)で将軍の対座(たいざ)に居たれば、種々の献盃(こんぱい)、様々の美物(びぶつ)、盃の始まるごとに、将軍殊に此山伏(やまぶし)と長講とに色代(しきたい)有て、替る替る始(はじめ)給ふ処に、新座の閑屋(かくや)、猿の面を著て御幣を差挙(さしあげ)、橋の高欄を一飛(ひととび)々(とび)ては拍子を蹈み、蹈(ふみ)ては五幣を打振て、誠(まこと)に軽げに跳(をどり)出たり。上下の桟敷見物衆是を見て、座席にもたまらず、「面白や難堪や、我死ぬるや、是(これ)助けよ。」と、喚(をめ)き叫て感ずる声、半時許(はんじばかり)ぞのゝめきける。此時彼山伏(やまぶし)、長講が耳にさゝやきけるは、「余に人の物狂はしげに見ゆるが憎きに、肝つぶさせて興(きよう)を醒(さま)させんずるぞ。騒ぎ給ふな。」と云て、座より立て或桟敷の柱をえいや/\と推(おす)と見へけるが、二百(にひやく)余間の桟敷、皆天狗倒(てんぐたふし)に逢てげり。よそよりは辻風の吹(ふく)とぞ見へける。誠(まこと)に今度桟敷の儀、神明御眸(おんまなじり)を被廻けるにや、彼(かの)桟敷崩(くづれ)て人多く死ける事は六月十一日也(なり)。其(その)次の日、終日(しゆうじつ)終夜(しゆうや)大雨降車軸、洪水流盤石、昨日の河原(かはら)の死人汚穢(わゑ)不浄を洗流し、十四日の祇園神幸(しんかう)の路をば清めける。天竜八部(てんりゆうはちぶ)悉(ことごとく)霊神(れいしん)の威(ゐ)を助(たすけ)て、清浄の法雨を潅(そそ)きける。難有かりし様(ためし)也(なり)。
○雲景(うんけい)未来記(みらいきの)事(こと) S2703
又此比(このころ)天下第一(だいいち)の不思議(ふしぎ)あり。出羽(ではの)国(くに)羽黒(はぐろ)と云所に一人の山伏(やまぶし)あり。名をば雲景とぞ申ける。希代(きたい)の目に逢(あう)たりとて、熊野(くまの)の牛王(ごわう)の裏に告文(かうぶん)を書て出したる未来記あり。雲景諸国一見悉(ことごとく)有て、過にし春(はる)の比(ころ)より思立て都に上り、今熊野(いまぐまの)に居住して、華洛の名迹(めいせき)を巡礼する程(ほど)に、貞和(ぢやうわ)五年二十日の事なる天竜寺(てんりゆうじ)一見の為に西郊(にしのをか)にぞ赴(おもむき)ける。官(くわん)の庁(ちやう)の辺より年六十許(ばかり)なる山伏(やまぶし)一人行連(ゆきつれ)たり。彼(かの)雲景に、「御身(おんみ)は何(いづ)くへ御座(ござ)ある人ぞ。」と問ければ、「是は諸国一見の者にて候が、公家武家の崇敬(そうきやう)あつて建立(こんりふ)ある大伽藍(だいがらん)にて候なれば、一見仕(つかまつり)候(さうらは)ばやと存じて、天竜寺(てんりゆうじ)へ参(まゐり)候也(なり)。」とぞ語(かたり)ける。「天竜寺(てんりゆうじ)もさる事なれ共(ども)、我等(われら)が住む山こそ日本(につぽん)無双(ぶさう)の霊地(れいち)にて侍れ。いざ見せ奉らん。」とてさそひ行程(ほど)に、愛宕山(あたごやま)とかや聞ゆる高峯(たかね)に至(いたり)ぬ。誠(まこと)に仏閣(ぶつかく)奇麗(きれい)にして、玉を敷き金を鏤(ちりば)めたり。信心肝(きも)に銘(めい)じ身の毛竪(よだ)ち貴く思ければ、角(かく)てもあらまほしく思(おもふ)処に、此山伏(やまぶし)雲景が袖を磬(ひかへ)て、是まで参り給たる思出に秘所(ひしよ)共(ども)を見せ奉らんとて、本堂の後(うしろ)、座主(ざす)の坊と覚しき所へ行(ゆき)たれば、是又殊勝(しゆしよう)の霊地(れいち)なり。爰(ここ)に至て見れば人多く坐し給へり。或(あるひ)は衣冠(いくわん)正しく金(かねの)笏(しやく)を持給へる人もあり。或(あるひ)は貴僧高僧の形にて香染(かうぞめ)の衣(ころも)著たる人もあり。雲景恐しながら広庇(ひろびさし)にくゞまり居たるに、御坐を二帖(にでふ)布(しき)たるに、大なる金の鵄(とび)翅(つばさ)を刷(つくろ)ひて著座(ちやくざ)したり。右の傍(わき)には長(たけ)八尺(はつしやく)許(ばかり)なる男の、大弓大矢を横(よこた)へたるが畏てぞ候(さふらひ)ける。左の一(いちの)座(ざ)には袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)に日月星辰(じつげつせいしん)を鮮(あざや)かに織たるを著給へる人、金の笏(しやく)を持て並居(なみゐ)玉ふ。座敷の体(てい)余(あまり)に怖(おそろ)しく不思議(ふしぎ)にて、引導(いんだう)の山伏(やまぶし)に、「如何(いか)なる御座敷(おんざしき)候ぞ。」と問へば、山伏(やまぶし)答へけるは、「上座なる金の鵄(とび)こそ崇徳院(しゆとくゐん)にて渡(わたら)せ給へ。其(その)傍(そば)なる大男こそ為義(ためよし)入道(にふだう)の八男八郎(はちらうの)冠者(くわじや)為朝(ためとも)よ。左の座こそ代々(だいだい)の帝王、淡路(あはぢ)の廃帝(はいたい)・井上皇后(ゐかみのくわうぐう)・後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)・後醍醐(ごだいごの)院(ゐん)、次第の登位(とうゐ)を逐(おつ)て悪魔王の棟梁(とうりやう)と成給ふ、止事(やんごと)なき賢帝(けんてい)達よ。其(その)坐の次なる僧綱(そうがう)達こそ、玄肪(げんばう)・真済(しんさい)・寛朝(くわんてう)・慈慧(じゑ)・頼豪(らいがう)・仁海(にんかい)・尊雲(そんうん)等(ら)の高僧達、同(おなじく)大魔王と成て爰(ここ)に集り、天下を乱候べき評定(ひやうぢやう)にて有。」とぞ語りける。雲景恐怖しながら不思議(ふしぎ)の事哉と思つゝ畏居(かしこまりゐ)たれば、一座の宿老(しゆくらうの)山伏(やまぶし)、「是は何(いづ)くより来給ふ人ぞ。」と問ければ、引導(いんだう)の山伏(やまぶし)しか/゛\と申ける。其時此老僧会尺(ゑしやく)して、「さらば此(この)間京中(きやうぢゆう)の事共(ことども)をば皆見聞給ふらん。何事か侍(はんべ)る。」と問ければ、雲景、「殊なる事も候はず。此比(このころ)は只(ただ)四条(しでう)河原(かはら)の桟敷の崩(くづれ)て人多く被打殺候事、昔も今も浩(かか)る事候はず、只天狗(てんぐ)の態(わざ)とこそ申候へ。其外には将軍御兄弟(ごきやうだい)、此比(このころ)執事の故(ゆゑ)に御中(おんなか)不快(ふくわい)と候。是(これ)若(もし)天下の大儀に成候はんずるやらんと貴賎(きせん)申候。」とぞ答(こたへ)ける。其(その)時(とき)此(この)山伏(やまぶし)申けるは、「さる事も有らん、桟敷の顛倒(てんだう)は惣(そう)じて天狗(てんぐ)の態許(わざばかり)にも非(あら)ず。故をいかにと云(いふ)に当関白殿(くわんばくどの)は忝(かたじけなく)も天津児屋根尊(あまつこやねのみこと)の御末、天子輔佐(ふさ)の臣として無止事上臈にて渡らせ給ふ。梶井(かぢゐの)宮(みや)と申は、今上皇帝(きんじやうくわうてい)の御連枝(ごれんし)にて、三塔(さんたふ)の貫主(くわんじゆ)、国家護持(ごぢ)の棟梁(とうりやう)、円宗顕密(ゑんしゆうけんみつ)の主(あるじ)にて御坐(おはしま)す。将軍と申すは弓矢の長者にて海内衛護(かいだいのゑご)の人也(なり)。而(しか)るに此(この)桟敷と申は、橋の勧進(くわんじん)に桑門(さうもん)の捨人が興行(こうぎやう)する処也(なり)。見物の者と云は洛中(らくちゆう)の地下人(ぢげにん)、商買(しやうばい)の輩(ともがら)共(ども)也(なり)。其に日本(につぽん)一州を治(をさ)め給ふ貴人達交(まじは)り雑居(ざつきよ)し給へば、正八幡(しやうはちまん)大菩薩(だいぼさつ)・春日(かすが)大明神(だいみやうじん)・山王権現の忿(いかり)を含ませ給ふに依て、此(この)地を頂(いただ)き給ふ堅牢地神(けんらうぢじん)驚給ふ間、其(その)勢(いきほひ)に応(おう)じて皆崩(くづれ)たる也(なり)。此(この)僧も其(その)比(ころ)京に罷(まかり)出しか共、村雲(むらくも)の僧に可申事有て立寄しに、時刻遷(うつ)りて不見。」とぞ申ける。雲景、「さて今村雲の僧と申て行徳権勢(けんせい)世に聞へ候は、如何なる人にて候ぞ。京童部(わらんべ)は一向天狗(てんぐ)にて御坐(おはしま)すと申候は、如何様(いかやう)の事にて候哉らん。」と問(とひ)ければ、此(この)僧の曰(いはく)、「其はさる事候。彼(かの)僧は殊にさかしき人にて候間、天狗(てんぐ)の中より撰(えら)び出して乱世の媒(なかだち)の為に遣(つかは)したる也(なり)。世中(よのなか)乱れば本の住所(すみところ)へ可帰也(なり)。さてこそ所多きに村雲(むらくも)と云(いふ)所に住(ぢゆう)するなれ。雲は天狗(てんぐ)の乗物なるに依ての故(ゆゑ)也(なり)。加様(かやう)の事努々(ゆめゆめ)人に不可知給。初て此(この)所へ尋来給へば、委細(ゐさい)の物語を申也(なり)。」とぞ語ける。雲景、不思議(ふしぎ)の事をも見聞(みきく)者哉と思て天下の重事(ちようじ)、未来の安否(あんぴ)を聞(きか)ばやと思て、「さて将軍御兄弟(ごきやうだい)執事(しつじ)の間の不和(ふくわ)は、何(いづ)れか道理にて始終(しじゆう)通(とほ)り候べき。」と問へば、「三条殿(さんでうどの)と執事(しつじ)の不快(ふくわい)は一両月を不可過、大なる珍事(ちんじ)なるべし。理非の事は是非を難弁。此(この)人々身の難(なん)に逢ひ不肖(ふせう)なる時は、哀(あはれ)世を持たん時は政道をも能(よく)行(おこな)はんずる者をと思しか共、富貴(ふつき)充満(じゆうまん)の後は古への有増(あらまし)一事(いちじ)も不通。上(かみ)暗く下(しも)諛(へつらう)て諸事に親疎(しんそ)あれば、神明三宝の冥鑒(みやうかん)にも背(そむ)き、天下貴賎(きせん)の人望(じんばう)にも違(たがう)て、我(わが)非(ひ)をば知(しら)ず、人を謗(そし)り合ふ心あり。只師子(しし)の虫の師子の肉を食(くらふ)が如し。適(たまたま)仁政(じんせい)と思事もさもあらず、只人の煩(わづら)ひ歎(なげき)のみ也(なり)。夫(それ)仁(じん)とは施慧四海(しかい)、深く憐民云仁。夫(それ)政道と云は治国憐人、善悪親疎(しんそ)を不分撫育(ぶいく)するを申也(なり)。而るに近日の儀、聊(いささか)も善政を不聞欲心(よくしん)熾盛(しじやう)にして君臣父子の道をも不弁、只人の財(たから)を我有(がう)にせんと許(ばかり)の心なれば不矯飾無云事。仏神能(よく)知見(ちけんし)御座(おはしま)さねば、我が企(くはたつ)る処も不成、依果報浅深、聊(いささか)取世持国者有といへ共、真実の儀に非(あら)ず。されば一人として治世運(うん)長久に不持也(なり)。君を軽(かろ)んじ仏神をだにも恐るゝ処なき末世なれば曾(かつて)其(その)外の政道何事か可有。然間(しかるあひだ)悪逆の道こそ替れ。猜(そね)みもどき合ふ輩(ともがら)、何(いづ)れも無差別亡(ほろ)びん事無疑。喩(たと)へば山賊と海賊と寄合て、互に犯科(ぼんくわ)の得失を指合(さしあふ)が如し。されば近年武家の世を執事(とること)頼朝(よりとも)卿(きやう)より以来(このかた)、高時に到るまで已(すで)に十一代、蛮夷(ばんい)の賎(いや)しき身を以て世の主たる事必(かならず)本儀にはあらね共、世澆季(げうき)に及ぶ験(しるし)に無力。時(ときと)与事只一世の道理に非(あら)ず。臣殺君子殺父、力を以て可争時到る故(ゆゑ)に下剋上(げこくじやう)の一端(いつたん)にあり。高貴清花(かうきせいぐわ)も君主一人(いちのひと)も共に力を不得、下輩下賎(げはいげせん)の士四海(しかい)を呑む。依之(これによつて)天下武家と成也(なり)。是(これ)必(かならず)誰為(たれがわざ)にも非(あら)ず、時代機根(きこん)相萌(あひきざし)て因果業報(いんぐわごふはう)の時到(いた)る故(ゆゑ)也(なり)。君を遠島(ゑんたう)へ配(はい)し奉り悪を天下に行(おこなひ)し義時を、浅猿(あさまし)と云しか共、宿因(しゆくいん)のある程は子孫無窮(ぶきゆう)に光栄せり。是又涯分(がいぶん)の政道を行ひ、己(おのれ)を責(せめ)て徳を施(ほどこ)しゝかば、国豊(ゆたか)に民不苦。されども宿報漸(やうや)く傾(かたぶ)く時、天心に背(そむ)き仏神捨給ふ時を得て、先朝(せんてう)高時を追伐(つゐばつ)せらる。是(これ)必(かならず)しも後醍醐(ごだいごの)院(ゐん)の聖徳の到(いた)りに非(あら)ず、自滅(じめつ)の時到る也(なり)。世も上代、仁徳(じんとく)も今の君主に勝(まさ)り給し後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)の御時(おんとき)は、上(かみ)の威も強く下(しも)の勢も弱(よわかり)しかども下(しも)勝ち上(かみ)負ぬ。今末世濁乱(ぢよくらん)の時分なれ共(ども)、不得下勝不上負事は不依貴賎運の興廃(こうはい)なるべし。是(これを)以(もつて)可心得(こころえ)給。」と語りければ、雲景重(かさね)て申さく、「先代尽(つき)て亡(ほろび)しかば、など先朝久(ひさしく)御代をば治御座(をさめおはしまし)候はぬ。」と問ければ、「其(それ)又有子細事に候。先朝随分賢王(けんわう)の行をせんとし給しか共、真実仁徳撫育(じんとくぶいく)の叡慮(えいりよ)は総じてなし。継絶興廃神明仏陀を御帰依(きえ)有(ある)様に見へしか共、■慢(けうまん)のみ有て実儀(じつぎ)不御座。され共其(それ)程の賢王(けんわう)も末代には有まじければ何事にもよき真似(まね)をばすべし。是を以て暫(しばらく)なれ共加様(かやう)の所を以て其(その)御器用(ごきよう)に当り、運の傾(かたぶ)く高時、消方(きえがた)の灯(とぼしびの)前の扇と成(なら)せ給ひて亡(ほろぼ)し給ひぬ。其理に答(むくう)て累代(るゐだい)繁栄四海(しかい)に満ぜし先代をば亡し給ひしか共、誠(まことに)尭舜(げうしゆん)の功(こう)、聖明(せいめい)の徳御坐(おはせ)ねば、高時に劣(おと)る足利(あしかが)に世をば奪(うばは)れさせ給ぬ。今持明院殿(ぢみやうゐんどの)は中々執権開運武家に順(したがは)せ給て、偏に幼児(えうじ)の乳母(めのと)を憑(たのむ)が如く、奴(やつこ)と等(ひと)しく成て御座(おはします)程(ほど)に、依仁道善悪還(かへつ)て如形安全(あんせん)に御坐(おはします)者也(なり)。是も御本意には有(あら)ね共、理をも欲(よく)心をも打捨て御座(おはしま)さば、末代邪悪(じやあく)の時中々御運を開(ひらか)せ給ふべき者也(なり)とても王法は平家の末より本朝(ほんてう)には尽(つき)はてゝ、武運ならでは立(たつ)まじかりしを御了知(ごれうち)も無(なく)て、仁徳(じんとく)聖化(せいくわ)は昔に不及して国を執(と)らん御欲心許(よくしんばかり)を先とし、本(もと)に代を復(ふく)すべしとて、末世の機分(きぶん)戎夷(じゆうい)の掌(たなごころ)に可堕御悟(おんさとり)無(なか)りしかば、御鳥羽(ごとばの)院(ゐん)の御謀叛(ごむほん)徒(いたづら)に成て、公家の威勢(ゐせい)其時より塗炭(とたん)に落(おと)し也(なり)。されば其(その)宸襟(しんきん)を為休先朝(せんてう)高時を失給しか共、尚(なほ)公家(くげの)代をば執(とら)せ給はぬ者也(なり)。さても三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を本朝(ほんてう)の宝として神代(じんだい)より伝る璽(しるし)、国を理(をさめ)守(まもる)も此神器(じんぎ)也(なり)。是は以伝為詮。然(しかる)に今の王者此(この)明器を伝(つたふ)る事無て位を践御座(ふみおはします)事、誠(まこと)に王位共難申。然共(しかれども)さすが三箇(さんか)の重事(ちようじ)を執行(とりおこな)はせ給へば、天照太神(あまてらすおほんがみ)も守らせ給(たまふ)覧(らん)と憑敷(たのもしき)処もある也(なり)。此(この)明器(めいき)我(わが)朝(てう)の宝として、神代の始より人皇(にんわう)の今に到るまで取(とり)伝(つたへ)御座(おはします)事、誠(まこと)に小国也(なり)といへ共、三国に超過(てうくわ)せる吾(わが)朝(てう)神国の不思議(ふしぎ)は是也(なり)。されば此神器(じんぎ)無(なか)らん代は月入て後の残夜(ざんや)の如し。末代のしるし王法を神道(しんたう)棄(すて)給ふ事と知べし。此(この)重器(ちようき)は平家滅亡の時、安徳(あんとく)天皇(てんわう)西海に渡(わたし)奉(たてまつり)て海底に沈(しづめ)られし時、神璽(しんじ)内侍所(ないしどころ)をば取(とり)返し奉しか共宝剣は遂(つひ)に沈(しづみ)失(うせ)ぬ。されば王法悪王ながら安徳(あんとく)天王(てんわう)の御時(おんとき)までにて失はてぬる証(しよう)は是也(なり)。其(その)故は後鳥羽(ごとばの)院(ゐん)の始て三種(さんじゆ)の重器(ちようき)無(なく)して元暦(げんりやく)に践祚(せんそ)有しに、其(その)末流(まつりうの)皇統(くわうとう)継体(けいたい)として、今に御相承(しやうじようの)佳模(かも)とは申せ共、今思へば彼(かの)元暦(げんりやく)よりこそ正しく本朝に武家を被始置、則海内蔑君王奉る事は出来にけれ。されば武運王道(わうだう)に勝し表示(へうじ)には、宝剣は其(その)時(とき)までにて失にき。仍(すなはち)武威昌(さかん)に立て国家を奪(うばふ)也(なり)。然共(しかれども)其(その)尽(つき)し後百(ひやく)余年(よねん)は武家雅意(がい)に任(まかせ)て天下を司(つかさど)ると云共、王位も文道も相残る故(ゆゑ)に、関東(くわんとう)如形政道をも理(をさ)め君王をも崇(あが)め奉る体にて、諸国に総追捕使(そうつゐぶし)をば置たれども、諸司(しよし)要脚(えうきやく)の公事(くじ)正税(しやうぜい)、仏神の本主(ほんしゆ)、相伝(さうでん)の領(りやう)には手を不懸目出(めでた)かりしに、時代純機(じゆんき)宿報の感果(かんくわ)ある事なれば、後醍醐(ごだいごの)院(ゐん)武家を亡(ほろぼ)し給ふに依て、弥(いよいよ)王道衰(おとろへ)て公家、悉(ことごとく)廃(すた)れたり。此(この)時(とき)を得て三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)徒(いたづら)に微運(びうん)の君に随て空(むなし)く辺鄙外土(へんぴぐわいと)に交(まじは)り給ふ。是神明吾朝(わがてう)を棄(すて)給ひ、王威無残所尽し証拠(しようご)也(なり)。是(これ)元暦(げんりやく)の安徳(あんとく)天皇(てんわう)の御時(おんとき)に相同じ。国を受(うけ)給ふ主に随(したがひ)給はぬは、国を不守験(しるし)也(なり)。されば神道王法共になき代なれば、上(かみ)廃(すた)れ下驕(おごつ)て是非を弁(わきまふ)る事なし。然れば師直(もろなほ)・師泰(もろやす)が安否、将軍兄弟の通塞(つうそく)も難弁。」とぞ語ける。雲景重て申けるは、「さては早(はや)乱悪の世にて下(しも)上(かみ)に逆(さか)ひ、師直(もろなほ)・師泰我侭(わがまま)にしすまして天下を持(たも)つべき歟(か)。」と問へば、「いやさは不可有。如何(いかに)末世濁乱(まつせぢよくらん)の義にて、下(しも)先(まづ)勝(かつ)て上を可犯。され共又上(かみ)を犯(をかす)咎(とが)難遁ければ、下又其(その)咎(とが)に可伏。其故は、将軍兄弟も可奉敬一人(いちじんの)君主を軽(かろん)じ給へば、執事(しつじ)其(その)外家人等(けにんら)も又武将を軽(かろん)じ候。是(これ)因果の道理也(なり)。されば地口天心を呑(のむ)と云変(へん)あれば、何(いか)にも下刻上(げこくじやう)の謂(いはれ)にて師直(もろなほ)先(まづ)可勝。自是天下大に乱(みだれ)て父子兄弟怨讎(をんしう)を結び、政道聊(いささか)も有まじければ、世上も無左右難静。」とぞ申ける。雲景、「今加様に世間の事鑒(かがみ)を懸て宣(のたま)ひつる人は誰(たそ)。」と尋(たづぬ)れば、「彼(かの)老僧こそ、世に人の持あつかう愛宕山(あたごやま)の太郎坊にて御座(おはします)。」と答へける。尚(なほ)も天下の安危(あんき)国(くに)の治乱(ちらん)を問(とは)んとする処に、俄(にはか)に猛火(みやうくわ)燃(もえ)来(きたり)て、座中の客七顛(しちてん)八倒(ばつたう)する程(ほど)に、門外へ走(はしり)出ると思たれば、夢の覚(さめ)たる心地して、大内(たいだい)の旧迹(きうせき)大庭(には)の椋(むく)の木の本に、朦々(もうもう)としてぞ立たりける。四方(しはう)を見廻したれば、日已(すで)に西の山(やまの)端(は)に残て、京へ出る人多ければ、其に伴(ともな)ひて我(わが)宿坊にたどり来て、心閑(こころしづか)に彼(かの)不思議(ふしぎ)を案ずるに、無疑天狗道に行(ゆき)にけり。是は只非可打棄、且(かつう)は末代の物語、且(かつう)は当世の用心(ようじん)にもなれかしと思しかば、我(わが)身の刑(けい)を不顧、委細に書載(かきのせ)、熊野(くまの)の牛王(ごわう)の裏に告文(かうぶん)を書(かき)添(そへ)、貞和(ぢやうわ)五年潤(うるふ)六月三日と書付て、伝奏(てんそう)に付て進奏す。誠(まこと)に怪異(けい)の事共(ことども)也(なり)。
○左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)欲誅師直事(こと) S2704
斯(かか)りし処に、師直・師泰等(もろやすら)誅罰(ちゆうばつ)の事、上杉・畠山が讒尚(なほ)深く、妙吉侍者荐(しきり)に被申ければ、将軍に知(しら)せ奉らで、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)窃(ひそか)に上杉・畠山・大高(だいかう)伊予(いよの)守(かみ)・粟飯原(あいはら)下総(しもふさの)守(かみ)・斉藤五郎左衛門(ごらうざゑもん)入道五六人に評定(ひやうぢやう)有て、内内(ないない)師直兄弟を可被誅(ちゆうせらるべき)謀をぞ被議ける。大高伊予(いよの)守(かみ)は大力也(なり)。宍戸(ししど)安芸(あきの)守(かみ)は物馴(ものなれ)たる剛(かう)の者なればとて、彼等二人(ににん)を組(くみ)手に定め若(も)し手に余る事あらば、討洩(うちもら)さぬ様に用心(ようじん)せよとて、器用(きよう)の者共(ものども)百(ひやく)余人(よにん)に物具(もののぐ)せさせて窃に是を隠(かくし)置(おき)、師直をぞ被召(めされ)ける。師直は夢にも可思寄事ならねば、若党(わかたう)中間は皆遠侍(とほさぶらひ)大庭に並居(なみゐ)て、中門の唐垣(からがき)をかけへだてられ、師直只一人六間(むま)の客殿に座(ざ)したり。師直が今の命は風待(まつ)程の露よりも危(あやふ)しと見へける処に、殊更此(この)事勝(すぐれ)て申沙汰(まをしさた)したりける粟飯原(あいはら)下総(しもふさの)守(かみ)清胤(きよたね)、俄(にはか)に心替(こころがは)りして告(つげ)知(しら)せばやと思ひければ、些(ちと)色代する様にして、吃(きつ)と目くはせをしたりければ、師直心早(こころはやき)者なりければ、軈(やが)て心得(こころえ)て、かりそめに罷(まかり)出る体にて、門前より馬に打(うち)乗(のり)、己(おの)が宿所にぞ帰(かへり)ける。其(その)夜軈(やがて)粟飯原(あいはら)・斉藤二人(ににん)、執事の屋形に来て、「此間三条殿(さんでうどの)の御企(おんくはたて)、上杉・畠山の人々の隠謀(いんぼう)、兔(と)こそ候(さうらひ)つれ角(かく)こそ候(さうらひ)つれ。」と語りければ、執事様々の引出物(ひきでもの)して、「猶も殿中(でんちゆうの)様の事は内々告(つげ)承(うけたまはり)候へ。」とて斉藤・粟飯原を帰しけり。師直是より用心(ようじん)密(きびし)くして、一族(いちぞく)若党(わかたう)数万人(すまんにん)、近辺の在家に宿(やど)し置き、出仕を止め虚病(きよびやう)してぞ居たりける。去年の春より越後(ゑちごの)守(かみ)師泰は、楠(くすのき)退治(たいぢ)の為に河内(かはちの)国(くに)に下て、石川々原に向城(むかひじやう)を構(かまへ)て居たりけるを、師直使を遣(つかはし)て事の由(よし)を告たりければ、畠山左京(さきやうの)大夫(だいぶ)清国紀伊(きいの)国(くに)の守護(しゆご)にて坐(おは)しけるを呼(よび)奉(たてまつり)て、石川(いしかはの)城(じやう)をふまへさせて、越後(ゑちごの)守(かみ)は急ぎ京都へぞ帰(かへり)上(のぼり)ける。左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)は師泰が大勢にて上洛(しやうらく)する由聞給て、此者が心をとらでは叶(かなふ)まじ。すかさばやと被思ければ、飯尾(いのを)修理(しゆりの)進入道を使にて、「武蔵守(むさしのかみ)が行事(ぎやうじ)、万(よろづ)短才庸愚(ようぐ)の事ある間、暫く世務の綺(いろひ)を止る処也(なり)。自今後は越後守を以て、管領に居(すゑ)せしむる者也(なり)。政所(まんどころ)以下の沙汰、毎事(まいじ)慇懃(いんぎん)に沙汰せらるべし。」とぞ委補(ゐふ)せられける。師泰此(この)使に対して、「仰(おほせ)畏て候へ共、枝を切て後根を断(たた)んとの御意にてぞ候覧(らん)。何様罷(まかり)上(のぼり)候(さふらひ)て、御返事(おんへんじ)をば申入(まうしいれ)候べし。」と、事の外なる返事申て、軈(やが)て其(その)日(ひ)石河の陣をぞ打出ける。甲胄(かつちう)を鎧(よろ)ひたる兵三千(さんぜん)余騎(よき)にて打立て、持楯(もちたて)・一枚楯、人夫七千(しちせん)余人(よにん)に持せて混(ひたすら)合戦の体に出立(いでたち)て、態(わざと)白昼に京へ入る。目を驚(おどろか)す有様也(なり)。師泰執事の宿所に著て、三条殿(さんでうどの)と合戦の企(くはたて)有(あり)と聞へければ、八月十一日の宵(よひ)に、赤松入道円心と子息律師(りつし)則祐(そくいう)、弾正少弼(だんじやうのせうひつ)氏範(うぢのり)、七百(しちひやく)余騎(よき)にて武蔵守(むさしのかみ)の屋形へ行(ゆき)向(むかふ)。師直急ぎ対面有て、「三条殿(さんでうどの)無謂師直が一家(いつけ)を亡(ほろぼ)さんとの御意、事已(すで)に喉(のんど)に迫(せまり)候間、将軍へ内々事の由を歎(なげき)申て候へば、武衛(ぶゑい)左様の企に及(およぶ)条(でう)、事の体不隠便、速(すみやか)に其(その)儀を留て讒者(ざんしや)の罪を緩(ゆる)くすべからず。能々(よくよく)制止(せいし)を可加。若(もし)猶(なほ)不叙用して討手を遣(つかは)す事あらば、尊氏必(かならず)師直と一所に成て安否を共にすべしと被仰出候。将軍の御意如斯に候へば、今は乍恐三条殿(さんでうどの)の討手に向て矢一(ひとつ)仕(つかまつ)らんずるにて候。京都の事は内々志を通ずる人多く候へば心安(こころやすく)候。尚(なほ)も只難義に覚へ候は、左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)備後(びんご)に被坐候へば、一定(いちぢやう)中国の勢を引て被責上ぬと覚(おぼゆ)る許(ばかり)にて候。今夜急ぎ播磨へ御下(おんくだり)候(さふらひ)て、山陰・山陽(せんやう)の両道を杉坂(すぎざか)・舟坂(ふなさか)の殺所(せつしよ)にて支(ささへ)て給り候へ。」とて、一献(いつこん)を勧(すす)められけるが、「此(この)太刀は保昌(ほうじやう)より伝て代々(だいだい)身を不放守(まもり)と存(ぞんじ)候へ共、是を可進。」とて懐剣(くわいけん)と云太刀を錦(にしき)の袋より取出して、赤松にこそ引たりけれ。円心軈(やがて)領掌(りやうじやう)し、其(その)夜都を立て播磨国(はりまのくに)に馳下(はせくだり)、三千(さんぜん)余騎(よき)を二手(ふたて)に分て、備前の舟坂(ふなさか)・美作(みまさか)の杉坂、二(ふたつ)の道を差塞(さしふさぎ)、義旗(ぎき)雲竜を靡(なび)かして回天(くわいてん)の機をぞ露(あらは)しける。されば直冬(ただふゆ)大勢にて上らんと被議けるが、其(その)支度(したく)相違したりけり。
○御所囲(かこむ)事(こと) S2705
去(さる)程(ほど)に洛中(らくちゆう)には、只今(ただいま)可有合戦とて周章(あわて)立て、貞和(ぢやうわ)五年八月十二日の宵より数万騎の兵上下(かみしも)へ馳違(はせちが)ふ。馬の足音草摺(くさずり)の音、鳴休(なりやむ)隙も無りけり。先(まづ)三条殿(さんでうどの)へ参りける人々には、吉良(きら)左京(さきやうの)大夫(たいふ)満義(みつよし)・同上総(かづさの)三郎満貞(みつさだ)・石堂(いしだう)中務大輔(なかつかさのたいふ)頼房(よりふさ)・同左馬(さまの)頭(かみ)頼直(よりなほ)・石橋左衛門(さゑもんの)佐(すけ)和義(まさよし)・子息治部(ぢぶの)大輔(たいふ)宣義(のぶよし)・尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫(たいぶ)高経・子息民部(みんぶの)少輔(せう)氏経・舎弟(しやてい)左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)氏頼・荒河(あらかは)三河(みかはの)守(かみ)詮頼(のりより)・細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春・同兵部大輔(たいふ)顕氏・畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)直宗(なほむね)・上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)・同左馬(さまの)助(すけ)朝房(ともふさ)・同弾正少弼(だんじやうのせうひつ)朝貞(ともさだ)・長井(ながゐ)大膳(だいぜんの)大夫(たいぶ)広秀・和田越前守宣茂・高土佐守師秋・千秋(せんじゆ)三河(みかはの)左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)惟範(これのり)・大高伊予(いよの)守(かみ)重成(しげなり)・宍戸(ししど)安芸(あきの)守(かみ)朝重・二階堂(にかいだう)美濃(みのの)守(かみ)行通(ゆきみち)・佐々木(ささきの)豊前(ぶぜんの)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)顕清(あききよ)・里見(さとみ)蔵人(くらんど)義宗・勝田(かつた)能登(のとの)守(かみ)助清・狩野下野(しもつけの)三郎・苑田美作(そのだみまさかの)守(かみ)・波多野(はだの)下野(しもつけの)守(かみ)・同因幡(いなばの)守(かみ)・禰津(ねつの)小次郎・和久(わくの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)・斉藤左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)利康(としやす)・飯尾(いのを)修理(しゆりの)進入道・須賀壱岐(すがのいきの)守(かみ)清秀・秋山新蔵人朝政(ともまさ)・島津四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)、是等(これら)を宗(むね)との兵として都合其(その)勢(せい)七千(しちせん)余騎(よき)、轅門(ゑんもん)を固(かため)て扣(ひかへ)たり。執事師直の屋形へ馳加(はせくはは)る人々には、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・今川五郎入道心省(しんしやう)・同駿河(するがの)守(かみ)頼貞・吉良(きら)左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)貞経・大島讃岐守(さぬきのかみ)盛真(もりさね)・仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)・同弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)頼勝(よりかつ)・桃井(もものゐ)修理(しゆりの)亮(すけ)義盛・畠山宮内(くないの)少輔(せう)国頼・細河(ほそかは)相模(さがみの)守(かみ)清氏・土岐(とき)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼康・同明智(あけち)次郎頼兼(よりかぬ)・同新蔵人頼雄(よりたか)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官(はうぐわん)秀綱(ひでつな)・同四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)秀定(ひでさだ)・同近江(あふみの)四郎氏綱・佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官(はうぐわん)氏頼・舎弟(しやてい)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)直綱(なほつな)・同五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)定詮(さだのり)・同大原判官時親(ときちか)・千葉(ちばの)介(すけ)貞胤(さだたね)・宇都宮(うつのみやの)三河(みかはの)入道(にふだう)・武田(たけだの)伊豆(いづの)前司(ぜんじ)信氏・小笠原兵庫(ひやうごの)助(すけ)政長・逸見(へんみ)八郎(はちらう)信茂・大内(おほち)民部(みんぶの)大輔(たいふ)・結城(ゆふき)小大郎・梶原(かぢはら)河内(かはちの)守(かみ)・佐竹掃部(かもんの)助(すけ)師義(もろよし)・同和泉(いづみの)守(かみ)・三浦遠江守(とほたふみのかみ)行連(ゆきつら)・同駿河(するがの)次郎左衛門(じらうざゑもん)・大友(おほとも)豊前(ぶぜんの)太郎頼時・土肥(とひの)美濃(みのの)守(かみ)高真(たかさね)・土屋(つちや)備前(びぜんの)守(かみ)範遠(のりとほ)・安保(あふ)肥前(ひぜんの)守(かみ)忠真(ただざね)・小田伊賀(いがの)守(かみ)・田中下総(しもふさの)三郎・伴野(ともの)出羽(ではの)守(かみ)長房・木村長門(ながとの)四郎・小幡(をばた)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・曾我左衛門(さゑもんの)尉(じよう)・海老名(えびな)尾張(をはりの)六郎(ろくらう)季直(すゑなほ)・大平(おほひら)出羽守義尚(よしなほ)・粟飯原(あいはら)下総(しもふさの)守(かみ)清胤・二階堂(にかいだう)山城(やましろの)三郎行元(ゆきもと)・中条(ちゆうでう)備前(びぜんの)守(かみ)秀長・伊勢勘解由左衛門(かげゆざゑもん)・設楽(しだら)五郎兵衛(ごらうびやうゑの)尉(じよう)・宇佐美三河(みかはの)三郎・清久(きよく)左衛門次郎(さゑもんじらう)・富永(とみなが)孫四郎(まごしらう)・寺尾新蔵人・厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)・富樫介(とがしのすけ)を始として、多田(ただの)院(ゐんの)御家人(ごけにん)・常陸(ひたちの)平氏・甲斐(かひの)源氏・高家(かうけ)の一族(いちぞく)は申(まうす)に不及、畿内(きない)近国の兵、芳志恩顧(はうしおんこ)の輩(ともがら)、我(われ)も我(われ)もと馳(はせ)寄(よる)間、其(その)勢(せい)無程五万(ごまん)余騎(よき)、一条大路(いちでうのおほぢ)・今出河(いまでかは)・転法輪(てんぱふりん)・柳が辻・出雲路(いづもぢ)河原(かはら)に至るまで、無透間打込(うちこみ)たる。将軍是に驚かせ給ひ、三条殿(さんでうどの)へ使を以て被仰けるは、「師直・師泰過分(くわぶん)の奢侈(しやし)身に余て忽(たちまち)主従の礼を乱る。末代と乍云事常篇(じやうべん)に絶(たえ)たり。此(この)上は如何様(いかさま)其(それ)へ寄(よす)る事も可有、急(いそぎ)是へ御渡(おんわたり)候へ。一所にて安否を定めん。」と被仰ければ、左兵衛督馳(はせ)集(あつまり)たる兵共(つはものども)を召具(めしぐ)して、将軍の御所、近衛東洞院(ひがしのとうゐん)へぞ御坐(おはし)ける。此(この)事の様を見、不叶とや思けん、初(はじめ)馳集たる兵共(つはものども)、五騎十騎(じつき)落失て師直の手にぞ加りける。されば宗徒(むねと)の御一族(ごいちぞく)、近習の輩(ともがら)無弐忠を存する兵僅に千騎(せんぎ)にも不足けり。明(あく)れば八月十三日(じふさんにち)の卯(うの)刻(こく)に、武蔵守(むさしのかみ)師直・子息武蔵五郎師夏、雲霞(うんか)の兵を相卒(そつし)て、法成(はふじやう)寺河原(かはら)に打出て、二手(ふたて)にむずと押分て、将軍の御所の東北を十重二十重(とへはたへ)に囲みて、三度(さんど)時(とき)をぞ揚(あげ)たりける。越後(ゑちごの)守(かみ)師泰は七千(しちせん)余騎(よき)を引分て、西南の小路を立切(たちきり)、搦手(からめて)にこそ廻(まはり)けれ。四方(しはう)より火を懸て焼責(やきぜめ)にすべしと聞へしかば、兵火の余烟(よえん)難遁とて、其辺近(ちかき)卿相(けいしやう)雲客(うんかく)の亭(てい)、長講堂・三宝院(さんぼうゐん)へ資財雑具(ざふぐ)を運び、僧俗男女東西に逃迷(にげまよ)ふ。内裏も近ければ、軍勢(ぐんぜい)事に触(ふれ)て狼藉をも可致とて、俄(にはか)に竜駕(りようが)を被促持明院殿(ぢみやうゐんどの)へ行幸なる。摂禄(せふろく)大臣諸家(しよけ)の卿相(けいしやう)、周章騒(あわてさわい)で馳参(はせまい)る。宮中の官女上達部(かんたちめ)、徒歩(かち)にて逃(にげ)ふためけば、八座(はちざ)・七弁(しちべん)・五位・六位・大吏・外記(げき)、悉(ことごとく)階下庭上に立連(つらなる)。禁中変化(へんくわ)の有様は目も不被当事共(ことども)也(なり)。暦応以来(りやくおうよりこのかた)は天下武家に帰し、世上も少(すこし)穏(おだやか)なりしに、去年楠正行乱(らん)を起せしか共討死せしかば、弥(いよいよ)無為(ぶゐ)の世に成すと喜(よろこび)合(あふ)処に、俄(にはか)に此乱出来ぬれば、兔(と)にも角(かく)にも治まらぬ世の中と歎かぬ者こそ無かりけれ。将軍も左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)も、師直・師泰縦(たとひ)押寄(おしよする)と云共、防戦(ふせぎいくさ)に及(およば)ん事返(かへつ)て恥辱なるべし。兵門前に防(ふせが)ば、御腹(おんはら)召(めさ)るべしとて、小具足許(こぐそくばかり)にて閑(しづま)り返て御座(おはし)けり。師直・師泰、義勢は是までなれ共(ども)、さすが押寄(おしよす)る事はなく、徒(いたづら)に時をぞ移しける。去(さる)程(ほど)に須賀(すがの)壱岐(いきの)守(かみ)を以て師直が方へ被仰けるは、「累祖(るゐそ)義家朝臣(あそん)、天下の武将たりしより以来(このかた)、汝が累祖(るゐそ)、当家累代(るゐだい)の家僕(かぼく)として未(いまだ)曾(かつて)一日も主従の礼儀を不乱。而(しかる)に以一旦(いつたん)忿忘余身恩、穏(おだやか)に不展子細大軍を起して東西に囲を成す。是縦(たとひ)尊氏を賎(いやし)とす共天の譴(せめ)をば不可遁。心中に憤(いきどほ)る事有らば退(しりぞい)て所存を可申。但(ただし)讒者(ざんしや)の真偽(しんぎ)に事を寄(よせ)て国家を奪(うばは)んとの企(くはたて)ならば、再往(さいわう)の問答に不可及。白刃(はくじん)の前に我(わが)命(めいを)止めて忽(たちまち)に黄泉(くわうせん)の下に汝が運を可見。」と、只一言の中に若干(そくばく)の理を尽して被仰ければ、師直、「いや/\是までの仰を可承とは不存、只讒臣(ざんしん)の申処を御承引候(さふらひ)て、無故三条殿(さんでうどの)より師直が一類(いちるゐ)亡(ほろぼ)さんとの御結構(ごけつこう)にて候間、其身の不誤処を申開き、讒者の張本(ちやうぼん)を給(たまはつ)て後人の悪習をこらさん為に候。」とて、旗の手を一同に颯(さつ)と下(おろ)させ、楯を一面に進(すすめ)て両殿を囲(かこみ)奉り、御左右遅しとぞ責(せめ)たりける。将軍弥(いよいよ)腹を居兼(すゑかね)て、「累代(るゐだい)の家人(けにん)に被囲て下手人(げしにん)被乞出す例(れい)やある。よし/\天下の嘲(あざけり)に身を替(かへ)て討死せん。」とて、御小袖(おんこそで)と云(いふ)鎧(よろひ)取て被召(めされ)ければ、堂上(だうじやう)堂下(だうか)に集(あつま)りたる兵、甲(かぶと)の緒(を)をしめ色めき渡て、「あはや天下の安否よ。」と肝を冷(ひや)しける処に、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)被宥申けるは、「彼等奢侈(しやし)の梟悪(けうあく)法に過(すぐ)るに依て、一旦(いつたん)可誡沙汰由相計(あひはかる)を伝(つたへ)聞き、結句(けつく)返(かへつ)て狼藉(らうぜき)を企(くはたつ)る事、当家の瑕瑾(かきん)武略の衰微(すゐび)是に過(すぎ)たる事や候べき。然(しかしながら)此(この)禍(わざはひ)は直義を恨(うらみ)たる処也(なり)。然(しかる)を軽々敷(かろがろしく)家僕に対して防戦(ばうせん)の御手(おんて)を被下事口惜(くちをしく)候べし。彼(か)れ今讒者を差(さし)申す上は、師直が申請(こふ)るに任せ、彼等を被召出事何の痛(いたみ)候べき。若(もし)猶予(ゆよ)の御返答あらんに、師直逆威(ぎやくゐ)を振ひ忠義を忘れば、一家(いつけ)の武運此(この)時(とき)軽(かろく)して、天下の大変親(まのあた)りあるべし。」と堅(かたく)制し被申しかば、将軍も諌言違(たがふ)処なしと思給ひければ、「師直が任申請旨、自今後は左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)殿(どの)に政道綺(いろ)はせ奉る事不可有。上杉・畠山をば可被遠流。」と被許ければ、師直喜悦(きえつ)の眉を開き、囲(かこみ)を解(とい)て打帰る。次の朝軈(やがて)妙吉侍者を召取(めしとら)んと人を遣(つかは)しけるに、早(はや)先立(さきだち)て逐電(ちくてん)しければ行方も不知(しらず)。財産(ざいさん)は方々へ運び取り、浮雲(ふうん)の富貴(ふつき)忽(たちまち)に夢のごとく成にけり。
○右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)鎮西(ちんぜい)没落(ぼつらくの)事(こと) S2706
斯(かかり)し後は弥(いよいよ)師直権威(けんゐ)重く成て、三条殿(さんでうどの)方(がた)の人々は面を低(た)れ眉を顰(ひそ)む。中にも右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)は、中国の探題にて備後の鞆(とも)に御座(おはし)けるを、師直近国の地頭・御家人に相触(あひふれ)て討(うち)奉れと申遣(まうしつかは)したりければ、同九月十三日(じふさんにち)、杉原又四郎に百(ひやく)余騎(よき)にて押寄たり。俄の事なれば可防兵も少くて、直冬朝臣(ただふゆあそん)既(すで)に被誅給ひぬべかりしを、礒部(いそべ)左近(さこんの)将監(しやうげん)が若党(わかたう)散々に防(ふせぎ)けるが、何(いづ)れも究竟(くつきやう)の手足(てだれ)にて志(こころざ)す矢坪(やつぼ)を不違射ける矢に、十六騎(じふろくき)に手負(ておほ)せて、十三騎馬より倒(さかさま)に射て落(おと)したりければ、杉原少し疼(ひるん)で不懸得ければ、其間に右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)は、河尻(かはじり)肥後(ひごの)守(かみ)幸俊(なりとし)が船に乗て、肥後(ひごの)国(くに)へぞ被落ける。志ある者は小舟に乗て追付(おつつき)奉る。此(この)佐(すけ)殿(どの)は武将の嫡(ちやく)家にて、中国の探題に被下て人皆順靡(したがひなびき)奉り、富貴(ふつき)栄耀(えいえう)の門を開き、置酒好会(かうくわい)の席を舒(の)べ、楽(たのしみ)未(いまだ)央(なかばならざり)しに、夢の間に引替て、心筑紫(つくし)に落塩(おちじほ)の鳴戸(なると)を差(さし)て行(ゆく)舟は、片帆(へんぱん)は雲に泝(さかのぼ)り、烟水(えんすゐ)眼(まなこ)に范々(ばうばう)たり。万里漂泊(へうはく)の愁(うれへ)、一葉(いちえふ)扁舟(へんしう)の浮(うき)思ひ、浪馴衣(なみなれごろも)袖朽(くち)て、涙忘るゝ許(ばかり)也(なり)。一年(ひととせ)父尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、京都の軍に利無(なく)して九州へ落(おち)給(たまひ)たりしが、無幾程帰洛の喜(よろこび)に成(なり)給ひし事遠からぬ佳例(かれい)也(なり)と、人々上には勇め共、行末も如何(いか)がしらぬひの、筑紫に赴(おもむく)旅なれば、無為方ぞ見へたりける。九月十三夜、名にをふ月明(げつめい)にして、旅泊(りよはく)の思(おもひ)も切なりければ、直冬、梓弓(あづさゆみ)我こそあらめ引連(ひきつれ)て人にさへうき月を見せつると詠じ給へば、袖を濡さぬ人はなし。
○左馬(さまの)頭(かみ)義詮(よしのり)上洛(しやうらくの)事(こと) S2707
去(さる)程(ほど)に三条殿(さんでうどの)は、師直・師泰が憤(いきどほり)猶(なほ)深きに依て、天下の政務の事不及口入。大樹は元来(ぐわんらい)政務を謙譲(けんじやう)し給へば、自関東(くわんとう)左馬(さまの)頭(かみ)義詮(よしのり)を急ぎ上洛(しやうらく)あらせて、直義(ただよし)に不相替政道を申(まうし)付(つけ)、師直諸事を可申沙汰定りにけり。此(この)左馬(さまの)頭(かみ)と申すは千寿王丸(せんじゆわうまる)と申て久(ひさし)く関東(くわんとう)に居(す)へ置(おか)れたりしが、今は器(き)にあたるべしとて、権柄(けんぺい)の為に上洛(しやうらく)あるとぞ聞へし。同十月四日左馬(さまの)頭(かみ)鎌倉(かまくら)を立て、同二十二日入洛(じゆらく)し給けり。上洛(しやうらく)の体由々敷(ゆゆしき)見物也(なり)とて、粟田口(あはたぐち)・四宮河原(しのみやがはら)辺まで桟敷を打て車を立、貴賎巷(ちまた)をぞ争ひける。師直以下の在京の大名、悉(ことごとく)勢多(せた)まで参向す。東国の大名も川越(かはこえ)・高坂(かうさか)を始として大略送りに上洛(しやうらく)す。馬具足奇麗(きれい)也(なり)しかば誠(まこと)に耳目(じぼく)を驚(おどろか)す。其(その)美(び)を尽(つく)し善を尽(つく)すも理(ことはり)哉、将軍の長男にて直義の政務に替(かは)り天下の権(けん)を執(と)らん為に上洛(しやうらく)ある事なれば、一涯(ひときわ)珍(めづ)らか也(なり)。今夜将軍の亭(てい)に著(つき)給へば、仙洞より勧修寺(くわんしゆじ)大納言(だいなごん)経顕(つねあき)卿(きやう)を勅使(ちよくし)にて、典厩(てんきう)上洛(しやうらく)の事を賀(が)し仰(おほせ)らる。同二十六日(にじふろくにち)三条(さんでうの)坊門(ばうもん)高倉(たかくら)、直義朝臣(あそん)の宿所へ被移住、頓(やが)て政務執行(しつかう)の沙汰始あり。目出(めでた)かりし事共(ことども)也(なり)。
○直義朝臣(あそん)隠遁(いんとんの)事(こと)付(つけたり)玄慧(げんゑ)法印末期(まつごの)事(こと) S2708
去(さる)程(ほど)に直義は世の交(まじはり)を止(やめ)、細川兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)顕氏の錦小路(にしきのこうぢ)堀川(ほりかは)の宿所へ被移にけり。猶も師直・師泰は、角(かく)て始終(しじゆう)御憤(おんいきどほり)を被止まじければ、身の為悪(あし)かるべしとて、偸(ひそか)に可奉失由内々議すと聞へければ、其(その)疑(うたがひ)を散ぜん為に、先(まづ)世に望(のぞみ)なく御身(おんみ)を捨はてられたる心中を知(しら)せんとにや、貞和(ぢやうわ)五年十二月八日、御歳四十二にして御髪(かみ)を落(おろ)し給ひける。未(いまだ)強仕(きやうし)の齢(よはひ)幾程も不過に、剃髪染衣(ていはつぜんえ)の姿に帰(き)し給ひし事、盛者必衰(しやうじやひつすゐ)の理(ことはり)と乍云、うたてかりける事共(ことども)也(なり)。斯(かかり)しかば天下の事綺(いろひ)し程こそあれ、今は大廈高墻(たいかかうしやう)の内に身を置き、軽羅褥茵(けいらじよくいん)の上に非可楽とて、錦小路堀河(にしきのこうぢほりかは)に幽閉閑疎(いうへいかんそ)の御住居(おんすまゐ)、垣に苔むし軒に松旧(ふり)たるが、茅茨(ばうし)煙に篭(こもつ)て夜の月朦朧(もうろう)たり。荻花(てきくわ)風に戦(そよい)で暮(くれ)の声蕭疎(せうそ)たり。時遷(うつり)事去(さり)て、人物(じんぶつ)古(ふるき)に非(あらざ)る事を感じ、蘿窓草屋(らさうさうをく)の底に座来(ざらい)して、経巻を抛(なげうたるる)隙(ひま)も無(なか)りけり。時しもあれや秋暮て、時雨がちなる冬闌(たけ)ぬ。冷然(さび)しさまさる簾(みすの)外には、香盧峯(かうろほう)の雪も浦山敷(うらやましく)、身の古(いにしへ)はあだし世の、夢かとぞ思ふ思(おもひ)きや、雪踏(ふみ)分(わけ)し小野(をの)の山、今更思ひしられつゝ、問(とふ)人もがなと思へども、世の聞耳(ききみみ)を憚(はばかつ)て事問(こととふ)人も無(なか)りしに、独清軒玄慧(どくせいけんげんゑ)法印、師直が許しを得て、時々参りつゝ、異国本朝の物語共(ものがたりども)して慰(なぐさめ)奉りけるが、老病に被犯て不参得と申ければ、薬を一包(ひとつつみ)送(おくり)給ふとて、其裹紙(つつみがみ)に、ながらへて問へとぞ思ふ君ならで今は伴(ともな)ふ人もなき世にと有しかば、法印是を見て泣々、感君一日恩。招我百年魂。扶病坐床下。披書拭泪痕。と一首(いつしゆ)の小詩に九回(きうくわい)の思(おもひ)を尽して奉る。其後無程法印身罷(みまかり)にけり。慧源禅巷(ゑげんぜんかう)哀に思て、自(みづから)此(この)詩の奥に紙を継(つい)で、六兪般若(りくゆはんにや)の真文(しんもん)を写して、彼追善(かのつゐぜん)にぞ被擬ける。
○上杉畠山流罪(るざい)死刑(しけいの)事(こと) S2709
去(さる)程(ほど)に上杉伊豆(いづの)守(かみ)重能(しげよし)・畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)直宗をば、所領を没収(もつしゆ)し、宿所を破却(はきやく)して共に越前国へ流遣(ながしつかは)されけり。此人々さりとも死罪に被行までの事はよも非じと憑(たのま)れけるにや、暫(しばし)の別を悲(かなしみ)て、女房少(をさなき)人々まで皆伴(ともなう)て下(くだり)給へ共、馴(なれ)ぬ旅寝の床(とこ)の露、をきふし袖をや濡すらん。日来(ひごろ)より翫(もてあそ)びし事なれば、旅の思を慰めんと一面の琵琶を馬鞍(むまのくら)にかけ、旅館の月に弾(だん)じ給へば、王昭君(わうぜうくん)が胡角(こかく)一声霜後(さうごの)夢、漢宮(かんきゆう)万里月前(まへの)腸(はらわた)と、胡国の旅を悲(かなしみ)しも角(かく)やと思(おもひ)知(しら)れたり。嵐の風に関(せき)越て、紅葉をぬさと、手向(たむけ)山、暮(くれ)行(ゆく)秋の別(わかれ)まで、身にしられたる哀にて、遁れぬ罪を身の上に、今は大津の東の浦、浜の真砂(まさご)の数よりも、思へば多き歎(なげき)哉(かな)。絶(たえ)ぬ思(おもひ)を志賀(しがの)浦(うら)、渚(なぎさ)によする佐々浪(さざなみ)の、返るを見るも浦山敷(うらやましく)、七座(しちざの)神を伏拝み、身の行末を祈(いのり)ても、都に又も帰(かへる)べき、事は堅田(かただ)に引(ひく)網の、目にもたまらぬ我(わが)泪(なみだ)、今津(いまづ)・甲斐津(かひづ)を過(すぎ)行(ゆけ)ば、湖水の霧に峙(そばたち)て、波間(なみま)に見へたる小島(こじま)あり。是なんめり、都良香(とりやうきやう)が古(いにしへ)、三千(さんぜん)世界は眼(めの)前に尽(つき)ぬと詠ぜしかば、十二因縁(いんえん)は心(こころの)裡(うち)に空(むなし)と云(いふ)下(しもの)句を、弁才天の続(つぎ)給(たまひ)し竹生島(ちくぶしま)よと望(のぞみ)見て、暫(しばらく)法施(ほつせ)を奉る。焼(やか)ぬ塩津(しほづ)を過(すぎ)行(ゆけ)ば、思ひ越路(こしぢ)の秋の風、音は荒血(あらち)の山越て、浅茅(あさぢ)色付(いろづく)野を行(ゆけ)ば、末こそしらね梓弓(あづさゆみ)、敦賀(つるが)の津にも身を寄せて、袖にや浪の懸るらん。稠(きびし)く守る武士(もののふ)の、矢田野(やたの)は何(いづ)く帰(かへる)山、名をのみ聞て甲斐もなし。治承の乱に篭(こもり)けん、火打(ひうち)が城を見上(みあぐ)れば、蝸牛(くわぎう)の角(つの)の上三千界、石火の光の中一刹那(いつせつな)、哀あだなる憂世(うきよ)哉(かな)と、今更驚(おどろく)許(ばかり)也(なり)。無常の虎(とら)の身を責(せむ)る、上野(うへの)の原を過(すぎ)行(ゆけ)ば、我ゆへさはがしき、月の鼠(ねずみ)の根をかぶる、壁草(いつまでぐさ)のいつまでか、露の命の懸るべき。とても可消水の泡(あわ)の流(ながれ)留(とどま)る処とて、江守(えもり)の庄(しやう)にぞ着にける。当国の守護代(しゆごだい)細河(ほそかは)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)、八木光勝(やぎのみつかつ)是を請取(うけとり)て、浅猿気(あさましげ)なる柴の庵の、しばしも如何(いか)が栖(すま)れんと、見るだに物憂(ものうき)住居なるに、警固を居(す)へてぞ置れたりける。痛(いたはしき)哉(かな)都にてはさしも気高(けだか)かりし薄桧皮(うすひはだ)の屋形の、三葉四葉(みつばよつば)に作(つくり)双(ならべ)て奇麗(きれい)なるに、車馬門前に群集(くんじゆ)し賓客(ひんかく)堂上(だうじやう)に充満(じゆうまん)して、声花(はなやか)にこそ住(すみ)給(たまひ)しに、今は引替(ひきかへ)たる鄙(ひな)の長途(ちやうぢ)に、やすらふだにも悲(かなし)きに、竹の編戸(あみど)松の垣、時雨(しぐれ)も風もたまらねば、袂(たもと)の乾(かは)く隙(ひま)もなし。されば如何(いか)なる宿業(しゆくごふ)にてか斯(かか)る憂(うき)目に逢(あふ)らんと、乍我うらめしくて、あるも甲斐なき命なりけるを、猶(なほ)も師直不足にや思(おもひ)けん、後の禍(わざはひ)をも不顧、潜(ひそか)に討手を差下し、守護代(しゆごだい)八木(やぎ)の光勝(みつかつ)に云(いひ)合(あは)せ、上杉・畠山を可討とぞ下知しける。光勝元は上杉が下知に随(したがふ)者也(なり)けるが、武蔵守に被語て俄(にはか)に心変(へん)じければ、八月二十四日の夜半許(ばかり)に、伊豆(いづの)守(かみ)の配所(はいしよ)、江守の庄へ行(ゆき)て、「昨日の暮程に高(かうの)弁(べん)定信大勢にて当国の府に著(つき)て候を、何事やらんと内々相尋(たづね)て候へば、旁(かたがた)を討(うち)進(まゐら)せん為に下(くだり)て候なる。加様(かやう)にて御座(おわしまし)候(さふらひ)ては、争(いかで)か叶はせ給(たまひ)候べき。今夜急(いそぎ)夜に紛(まぎ)れて落させ給ひ、越中越後の間に立忍(しの)ばせ給(たまひ)て、将軍へ事の子細を申入(まうしいれ)させ給(たまひ)候はゞ、師直等(もろなほら)は忽(たちまちに)蒙御勘気、御身(おんみ)の罪は軽(かろく)成て、などか帰参の御事(おんこと)無(なか)るべき。警固の兵共(つはものども)にも道の程の御怖畏(ごふゐ)候まじ。只はや討手の近付(ちかづき)候はぬさきに落させ給ひ候へ。」と誠(まこと)に弐(ふたごころ)なげに申ければ、出抜(だしぬく)とは夢にも知(しり)給はず、取(とる)物も不取敢(とりあへず)、女房少(をさな)き人々まで皆引具(ひきぐ)して、上下五十三人(ごじふさんにん)、歩(かち)はだしなる有様にて加賀の方へぞ被落ける。時しもこそあれ、霑交(こさめまじり)に降(ふる)時雨(しぐれ)、面を打(うつ)が如くにて、僅に細き田面(たのも)の道、上は氷れる馬ざくり、蹈(ふめ)ば深泥(しんでい)膝にあがる。簑(みの)もなく笠も著ざれば、膚(はだへ)までぬれ徹(とほ)り、手亀(かがま)り足寒(ひ)へたるに、男は女の手を引、親は少(をさな)き子を負(おう)て、何(いづ)くを可落著処とも不知、只跡より討手や懸るらんと、怖ろしき侭(まま)に落(おち)行(ゆく)心(こころの)中こそ哀なれ。八木光勝兼て近辺に触回(ふれまは)り、「上杉・畠山の人々、流人の身として落て行事あらば、無是非皆討(うち)止(とめ)よ。」と申(まうす)間、江守・浅生水(あさふづ)・八代(やしろの)庄(しやう)・安居(あこ)・波羅蜜(はらみ)の辺に居たる溢者(あぶれもの)共(ども)、太鼓(たいこ)を鳴し鐘を撞(つき)て、「落人あり打(うち)止(とめ)よ。」と騒動(さうどう)す。上杉・畠山是に驚(おどろき)て、一足(ひとあし)も前へ落(おち)延(のび)んと倒れふためきて、足羽(あすは)の渡へ行著(ゆきつき)たれば、川の橋を引(ひき)落(おと)して、足羽・藤島(ふぢしま)の者共(ものども)、川向(かはむかふ)に楯を一面に衝双(つきなら)べたり。さらば跡へ帰て、八木をこそ憑まめと憂かりし江守へ立帰れば、又浅生水(あさふづ)の橋をはねはづして、迹にも敵充満(みちみち)たり。只つかれの鳥の犬と鷹とに責(せめ)らるらんも、角(かく)やと思ひしられたり。是までも主の先途(せんど)を見はてんと、付順(つきしたが)ひたりける若党(わかたう)十三人(じふさんにん)、主の自害を勧(すす)めん為、押膚(おしはだ)脱(ぬい)で皆一度(いちど)に腹をぞ切たりける。畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)もつゞいて腹掻(かき)切(きり)、其刀を引抜(ひきぬい)て、上杉伊豆(いづの)守(かみ)の前に投(なげ)遣(やり)、「御腰刀(おんこしがたな)は些(ちと)寸延(のび)て見へ候、是にて御自害(ごじがい)候へ。」と云(いひ)もはてず、うつぶしに成て倒れにけり。伊豆(いづの)守(かみ)其刀を手に取ながら、幾程ならぬ憂世(うきよ)の名残惜(をしみ)かねて、女房の方をつく/゛\と見て、袖を顔に押あて、只さめ/゛\と泣居たる許(ばかり)にて、坐(そぞろ)に時をぞ移されける。去(さる)程(ほど)に八木光勝が中間共に生捕(いけど)られて、被差殺けるこそうたてけれ。武士たる人は、平生の振舞はよしや兔(と)も角(かく)もあれ強(あながち)見る処に非(あら)ず。只最後の死様(しにざま)をこそ執(しつ)する事なるに、蓬(きたな)くも見へ給ひつる死場(しにば)哉と、爪弾(つまはじき)せぬ人も無りけり。女房は年此(としごろ)日来(ひごろ)のなじみ、昨日今日の情の色、いつ忘るべしとも不覚と泣(なき)悲みて其淵瀬(ふちせ)に身をも沈めんと、人目の隙(ひま)を求給ひけるを、年来知識に被憑たりける聖(ひじり)、兔角(とかく)止(とど)め教訓して、往生院(わうじやうゐん)の道場(だうじやう)にて髪剃(そり)落(おと)し奉て、無迹(なきあと)を訪(とぶらふ)外は更(さらに)他事なしとぞ聞へし。加様に万づ成ぬれば、天下の政道然(しかしながら)武家の執事の手に落て、今に乱(みだれ)ぬとぞ見へたりける。
○大嘗会(だいじやうゑの)事(こと) S2710
去(さる)程(ほど)に年内頓(やが)て大礼(たいれい)可有と、重(かさね)て評定せられけり。当年三月七日に可行と沙汰有しか共、大儀不事行。乍去さのみ延引(えんいん)如何(いかが)とて、可被果遂にぞ定(さだま)りける。夫(それ)大礼(たいれい)と申は、大内回禄(だいだいくわいろく)の後は代々(だいだい)の流例(りうれい)として、大極殿(だいごくでん)の儀式を被移て大政官の庁(ちやう)にて是を被行。内弁(ないべん)は洞院(とうゐんの)太政大臣(だいじやうだいじん)公資(きんすけ)公(こう)とぞ聞へし。即位の内弁を大相国(たいしやうこく)勤仕(きんし)の事先縦(せんしよう)邂逅(たまさか)なり、或(あるひ)は不快(ふくわい)也(なり)と僉議(せんぎ)区(まちまち)也(なり)しを、勧修寺(くわんしゆじ)大納言(だいなごん)経顕卿勧(すすん)で被申けるは、「相国(しやうこく)の内弁の先例両度也(なり)。保安(ほうあん)・久寿(きうじゆ)の両主也(なり)。保安は誠(まこと)に凶(きよう)例とも云つべし、久寿は又佳例なれば、彼先規を争(いか)でか可被嫌。其(その)上(うへ)今の相国(しやうこく)は時に当る職に達し、世に聞たる才幹(さいかん)なり。されば君主も義を訪(と)ひ政道を■(とひ)給へば、一人(いちじんの)師範其(その)身に当れり。諸家(しよけ)も礼を学(まなび)和漢の鑒(かがみ)と仰て、四海(しかい)の儀形(ぎけい)人を恥(はぢ)ず。」と被申しかば、皆閉口(へいこう)して是非の沙汰にも不及、相国内弁に定り給ひけり。外弁(げべん)は三条(さんでうの)坊門(ばうもん)源(げん)大納言(だいなごん)家信(いへのぶ)・高倉(たかくらの)宰相(さいしやう)広通(ひろみち)・冷泉(れんぜいの)宰相(さいしやう)経隆也(なり)。左の侍従(じじゆう)は花山(くわざんの)院(ゐんの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)家賢(いへかた)、右の侍従(じじゆう)は菊亭三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)公真(きんさね)也(なり)。御即位の大礼(たいれい)は四海(しかい)の経営(けいえい)にて、緇素(しそ)の壮観可比事無(なけ)れば、遠近踵(くびす)を継(つい)で群(ぐん)をなす。両院も御見物の為に御幸(ごかう)成て、外弁(げべんの)幄(かりや)の西南の門外に御車(おんくるま)を被立。天子諸卿冕服(べんふく)を著(ちやく)し諸衛(しよゑ)諸陣大儀を伏す。四神(ししんの)幡(はた)を■(つぼ)に立て、諸衛(しよゑ)鼓を陣(ぢんに)振る。紅旗(こうき)巻風画竜(ぐわりよう)揚(あが)り、玉幡(ぎよくはん)映日文鳳(ぶんほう)翔(かけ)る、秦(しんの)阿房宮(あばうきゆう)にも不異、呉の姑蘇台(こそだい)も角(かく)やと覚(おぼえ)て、末代と乍云、懸る大儀を被執行事有難(ありがた)かりし様(ためし)也(なり)。此(この)日(ひ)何(いか)なる日ぞや、貞和五年十二月二十六日(にじふろくにち)、天子登壇(とうだん)即位して数度の大礼(たいれい)事ゆへなく被行しかば、今年は目出度(めでたく)暮(くれ)にけり。


太平記(国民文庫)
太平記巻第二十八

○義詮(よしのり)朝臣(あそん)御政務(ごせいむの)事(こと) S2801
貞和六年月二十七日(にじふしちにち)に改元(かいげん)有て、観応(くわんおう)に移る。去年八月十四日に、武蔵守(むさしのかみ)師直・越後(ゑちごの)守(かみ)師泰等(もろやすら)、将軍の御屋形を打(うち)囲(かこみ)て、上杉伊豆(いづの)守(かみ)・畠山大蔵(おほくらの)少輔(せう)を責出(せめいだ)し、配所(はいしよ)にて死罪に行ひたりし後、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義(ただよし)卿(きやう)出家して、隠遁(いんとん)の体(てい)に成給ひしかば、将軍の嫡男(ちやくなん)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)義詮(よしのり)、同(おなじき)十月二十三日(にじふさんにち)鎌倉(かまくら)より上洛(しやうらく)有て、天下(てんか)の政道を執行(とりおこな)ひ給ふ。雖然万事只師直・師泰が計(はから)ひにて有しかば、高家の人々の権勢恰(あたかも)魯(ろ)の哀公(あいこう)に季桓子(きくわんしが)威(ゐ)を振(ふる)ひ、唐の玄宗に楊国忠(やうこくちゆう)が驕(おごり)を究(きは)めしに不異。
○太宰少弐(だざいのせうに)奉聟直冬事(こと) S2802
右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬は、去年の九月に備後を落(おち)て、河尻肥後(ひごの)守(かみ)幸俊(なりとし)が許(もと)に坐(おは)しけるを、可奉討由(よし)自将軍御教書(みげうしよ)を被成たりけれ共(ども)、是は只武蔵守(むさしのかみ)師直が申沙汰する処也(なり)。誠(まこと)に将軍の御意より事興(おこつ)て被成御教書に非(あら)ずと、人皆推量を廻(めぐら)しければ、後の禍(わざはひ)を顧(かへりみ)て、奉討する人も無(なか)りけり。斯(かかる)処に太宰(だざいの)少弐(せうに)頼尚(よりひさ)如何思(おもひ)けん、此(この)兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)を聟(むこ)に取て、己(おのれ)が館(たち)に奉置ければ、筑紫九国(つくしくこく)の外も随其催促重彼命人多かりけり。是に依て宮方(みやがた)、将軍方(しやうぐんがた)、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)方とて国々三(みつ)に分れしかば、世中(よのなか)の総劇(そうげき)弥(いよいよ)無休時。只漢の代傾(かたぶき)て後、呉魏蜀(ごぎしよく)の三国鼎(かなへ)の如くに峙(そばたち)て、互(たがひ)に二(ふたつ)を亡(ほろぼ)さんとせし戦国の始に相似たり。
○三角(みすみの)入道(にふだう)謀叛(むほんの)事(こと) S2803
爰(ここに)石見(いはみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、三角(みすみの)入道(にふだう)、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)直冬の随下知、国中(こくぢゆう)を打順(うちしたが)へ、庄園を掠領(かすめりやう)し、逆威(ぎやくゐ)を恣(ほしいまま)にすと聞へければ、事の大(おほい)に成(なら)ぬ前に退治(たいぢ)すべしとて、越前守(ゑちぜんのかみ)師泰六月二十日都を立て、路次(ろし)の軍勢(ぐんぜい)を卒(そつ)し石見(いはみの)国(くに)へ発向(はつかう)す。七月二十七日(にじふしちにち)の暮程に江河(がうのかは)へ打臨(うちのぞ)み、遥(はるかに)敵陣を見渡せば、是ぞ聞ゆる佐和(さわの)善四郎が楯篭(たてこもり)たる城よと覚(おぼえ)て、青杉(あをすぎ)・丸屋(まるや)・鼓崎(つづみがさき)とて、間(あひだ)四五町(しごちやう)を隔(へだて)たる城三(み)つ、三壷(さんこ)の如(ごとく)峙(そばだつ)て麓(ふもと)に大河(たいが)流(ながれ)たり。城より下向(おりむか)ふたる敵三百(さんびやく)余騎(よき)、河より向(むかひ)に扣(ひかへ)てこゝを渡せやとぞ招(まねき)たる。寄手(よせて)二万(にまん)余騎(よき)、皆河端(かはばた)に打臨(うちのぞん)で、何(いづ)くか渡さましと見るに、深山(みやま)の雲を分て流(ながれ)出たる河なれば、松栢(しようはく)影を浸(ひた)して、青山(せいざん)も如動、石岩(せきがん)流(ながれ)を徹(とほし)て、白雪(はくせつ)の翻(ひるが)へるに相似たり。「案内も知(しら)ぬ立河(たてかは)を、早(はや)りの侭(まま)に渡し懸(かけ)て、水に溺(おぼれ)て亡びなば、猛(たけ)く共何の益(えき)かあらん。日已(すで)に晩(ばん)に及(および)ぬ。夜に入らば水練(すゐれん)の者共(ものども)を数(あま)た入(いれ)て、瀬踏(せぶみ)を能々(よくよく)せさせて後、明日可渡。」と評定有て馬を扣(ひか)へたる処に、森(もりの)小太郎・高橋九郎左衛門(くらうざゑもん)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて一陣に進(すすん)だりけるが申けるは、「足利(あしかがの)又太郎(またたらう)が治承(ぢしよう)に宇治河を渡し、柴田橘六(しばたきちろく)が承久(しようきう)に供御(くご)の瀬を渡したりしも、何(いづ)れか瀬踏をせさせて候(さうらひ)し。思ふに是が渡りにてあればこそ、渡さん所を防(ふせが)んとて敵は向(むかひ)に扣(ひか)へたるらめ。此(この)河の案内者(あんないしや)我に勝(まし)たる人不可有。つゞけや殿原(とのばら)。」とて、只二騎真先(まつさき)に進(すすん)で渡せば、二人(ににん)が郎等(らうどう)三百(さんびやく)余騎(よき)、三吉(みよし)の一族(いちぞく)二百(にひやく)余騎(よき)、一度(いちど)に颯(さつ)と馬を打(うち)入(いれ)て、弓の本弭末弭(もとはずうらはず)取違(とりちがへ)疋馬(ひつば)に流(ながれ)をせき上(あげ)て、向(むかひ)の岸へぞ懸襄(かけあがつ)たる。善四郎が兵暫(しばらく)支(ささへ)て戦(たたかひ)けるが、散々に懸(かけ)立(たて)られて後(うしろ)なる城へ引退(ひきしりぞ)く。寄手(よせて)弥(いよいよ)勝(かつ)に乗て続(つづい)て城へ蒐入(かけいら)んとす。三(みつ)の城(じやう)より木戸を開て、同時に打出て、前後左右より取篭(とりこめ)て散々に射る。森・高橋・三吉が兵百(ひやく)余人(よにん)、痛手を負(おひ)、石弓に被打、進(すすみ)兼(かね)たるを見て、越後(ゑちごの)守(かみ)、「三吉討(うた)すな、あれつゞけ。」と被下知ければ、山口(やまぐちの)七郎左衛門(しちらうざゑもん)、赤旗・小旗・大旗の一揆(いつき)、千(せん)余騎(よき)抜連(ぬきつれ)て懸(かか)る。荒手(あらて)の大勢に攻(せめ)立(たて)られて、敵皆城中(じやうちゆう)へ引(ひき)入れば、寄手(よせて)皆逆木(さかもぎ)の際(きは)まで攻(せめ)寄(よせ)て、掻楯(かいだて)かひてぞ居たりける。手合(てあはせ)の合戦に打(うち)勝(かつ)て、敵を城へは追篭(おひこめ)たれ共(ども)、城の構(かまへ)密(きび)しく岸高く切(きり)立(たち)たれば、可打入便(たより)もなく、可攻落様もなし。只徒(いたづら)に屏(へい)を隔(へだ)て掻楯(かいだて)をさかうて、矢軍(やいくさ)に日をぞ送(おくり)ける。或(ある)時(とき)寄手(よせて)の三吉一揆(いつき)の中に、日来(ひごろ)より手柄を顕(あらは)したる兵共(つはものども)三四人寄(より)合(あひ)て評定しけるは、「城の体(てい)を見るに如今責(せめ)ば、御方(みかた)は兵粮(ひやうらう)につまりて不怺共(とも)、敵の軍に負(まけ)て落(おつ)る事は不可有。其(その)上(うへ)備中・備後・安芸・周防の間に、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)に心を通(かよは)する者多しと聞ゆれば、後(うしろ)に敵の出来(いできた)らんずる事無疑。前には数十箇所(すじつかしよ)の城(じやう)を一(ひとつ)も落さで、後(うし)ろには又敵道を塞(ふさぎ)ぬと聞(きこえ)なば、何(いか)なる樊■(はんくわい)・張良(ちやうりやう)ともいへ、片時も不可怺。いざや事の難儀に成(なら)ぬ前に、此(この)城(じやう)を夜討に落(おと)して、敵に気を失はせ、宰相殿に力を付(つけ)進(まゐら)せん。」と申ければ、「此(この)義尤(もつとも)可然。されば手柄(てがら)の者共(ものども)を集(あつめ)よ。」とて、六千(ろくせん)余騎(よき)の兵の中より、世に勝(すぐれ)たる剛(かう)の者をえり出すに、足立(あだち)五郎左衛門(ごらうざゑもん)・子息又五郎・杉田弾正左衛門(だんじやうざゑもんの)尉(じよう)・後藤左衛門(さゑもんの)蔵人(くらんど)種則(たねのり)・同兵庫(ひやうごの)允(じよう)泰則・熊井(くまがゐ)五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)政成(まさなり)・山口新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)・城所(きところの)藤五・村上新三郎・同弥二郎・神田(かんだの)八郎(はちらう)・奴可(ぬかの)源五・小原平四郎・織田小次郎・井上源四郎・瓜生(うりふ)源左衛門(げんざゑもん)・富田(とた)孫四郎(まごしらう)・大庭(おほには)孫三郎(まごさぶらう)・山田又次郎・甕(もたひ)次郎左衛門(じらうざゑもん)・那珂(なか)彦五郎、二十七人(にじふしちにん)をぞすぐりたる。是等は皆一騎当千(いつきたうぜん)の兵にて、心きゝ夜討に馴(なれ)たる者共(ものども)也(なり)とは云(いひ)ながら、敵千(せん)余人(よにん)篭(こもつ)て用心(ようじん)密(きび)しき城共を、可落とは不見ける。八月二十五日の宵(よひ)の間(ま)に、えい声を出して、先立(さきだつ)人を待調(まちそろ)へさせ筒(どう)の火(ひ)を見せて、さがる勢を進ませて、城の後(うしろ)なる自深山匐々(はふはふ)忍(しのび)寄(より)て、薄(すすき)・苅萱(かるかや)・篠竹(しのだけ)なんどを切て、鎧(よろひ)のさね頭(がしら)・胄(かぶと)の鉢付(はちつけ)の板にひしと差(さし)て、探竿影草(たんかんえいさう)に身を隠し、鼓(つづみ)が崎(さき)の切岸(きりぎし)の下、岩尾(いはほ)の陰(かげ)にぞ臥(ふし)たりける。かるも掻(かき)たる臥猪(ふすゐ)、朽木(くちき)のうつぼなる荒熊(あらくま)共(ども)、人影に驚(おどろき)て、城の前なる篠原(ささはら)を、二三十つれてぞ落(おち)たりける。城中(じやうちゆう)の兵共(つはものども)始(はじめ)は夜討の入(いる)よと心得(こころえ)て、櫓々(やぐらやぐら)に兵共(つはものども)弦音(つるおと)して、抛続松(なげだいまつ)屏(へい)より外へ投出々々(なげだしなげだし)、静返(しづまりかへつ)て見(みえ)けるが、「夜討にては無(なく)て後(うし)ろの山より熊の落(おち)て通(とほ)りけるぞ、止(とどめ)よ殿原。」と呼(よば)はりければ、我先に射て取らんと、弓押(おし)張(はり)靭(うつぼ)掻著々々(かつつけかつつけ)、三百(さんびやく)余騎(よき)の兵共(つはものども)、落(おち)行(ゆく)熊の迹を追(おう)て、遥(はるか)なる麓へ下(さがり)ければ、城に残る兵纔(わづか)に五十(ごじふ)余人(よにん)に成(なり)にけり。夜は既(すで)に明(あけ)ぬ。木戸は皆開(ひらき)たり。なじかは少しも可議擬、二十七人(にじふしちにん)の者共(ものども)、打物(うちもの)の鞘(さや)を迦(はづ)して打(うちて)入(いる)。城の本人佐和(さわ)善四郎並(ならびに)郎等(らうどう)三人(さんにん)、腹巻取(とつ)て肩に投(なげ)懸(かけ)、城戸口(きどぐち)に下合(おりあう)て、一足(ひとあし)も不引戦(たたかひ)けるが、善四郎膝口切(きら)れて犬居(いぬゐ)に伏せば、郎等(らうどう)三人(さんにん)前に立塞(たちふさ)ぎ暫し支(ささへ)て討死す。其(その)間に善四郎は己(おのれ)が役所(やくしよ)に走(はしり)入(いり)、火を懸(かけ)て腹掻(かき)切(きつ)て死(しに)にけり。其(その)外四十(しじふ)余人(よにん)有ける者共(ものども)は、一防(ひとふせぎ)も不防青杉の城(じやう)へ落(おち)て行(ゆく)。熊狩(くまがり)しつる兵共(つはものども)は熊をも不追迹へも不帰、散々(ちりぢり)に成てぞ落(おち)行(ゆき)ける。憑切(たのみきつ)たる鼓崎(つづみがさき)の城(じやう)を被落のみならず、善四郎忽(たちまちに)討れにければ、残(のこり)二(ふたつ)の城(じやう)も皆一日有て落(おち)にけり。兵、伏野飛雁(ひがん)乱行と云(いふ)、兵書の詞(ことば)を知(しら)ましかば、熊(くま)故(ゆゑ)に城をば落されじと、世の嘲(あざけり)に成(なり)にけり。其(その)後越後(ゑちごの)守(かみ)、石見勢(いはみぜい)を相順(あひしたがへ)て国中(こくぢゆう)へ打(うち)出(いで)たるに、責(せめ)られては落(おち)得じとや思(おもひ)けん、石見(いはみの)国中(こくぢゆう)に、三十二箇所(さんじふにかしよ)有ける城共、皆聞落(ききおち)して、今は只三角(みすみ)入道が篭(こもり)たる三隅(みすみ)城(じやう)一(ひとつ)ぞ残(のこり)ける。此(この)城(じやう)山嶮(けはし)く用心(ようじん)深ければ、縦(たとひ)力責(ちからぜめ)に攻(せむ)る事こそ不叶共、扶(たすけ)の兵も近国になし、知行の所領も無ければ、何(いつ)までか怺(こらへ)て城にもたまるべき。只四方(しはう)の峯々に向城(むかひじやう)を取(とつ)て、二年三年にも攻(せめ)落せとて、寄手(よせて)の構(かまへ)密(きび)しければ、城内の兵気たゆみて、無憑方ぞ覚(おぼえ)ける。
○直冬朝臣(ただふゆあそん)蜂起(ほうきの)事(こと)付(つけたり)将軍(しやうぐん)御進発(ごしんぱつの)事(こと) S2804
中国は大略静謐(せいひつ)の体(てい)なれ共(ども)、九州又蜂起(ほうき)しければ、九月二十九日、肥後(ひごの)国(くに)より都へ早馬(はやうま)を立(たて)て注進しければ、「兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)直冬、去月十三日(じふさんにち)当国に下著(げちやく)有て、川尻(かはじり)肥後(ひごの)守(かみ)幸俊(なりとし)が館(たち)に居(きよ)し給ふ処に、宅磨(たくま)別当太郎守直(もりなほ)与力(よりき)同心して国中(こくぢゆう)を駆催(かりもよほす)間、御方(みかた)に志を通ずる族(やから)有といへ共、其(その)責(せめ)に不堪して悉(ことごとく)付(つき)順(したが)はずと云(いふ)者なし。然(しかる)間川尻(かはじり)が勢如雲霞成て宇都宮(うつのみや)三河(みかはの)守(かみ)が城を囲むに、一日(いちにち)一夜(いちや)合戦して討るゝ者百(ひやく)余人(よにん)、疵(きず)を被(かうむ)る兵不知数。遂(つひ)に三河(みかはの)守(かみ)城(じやう)を被責落、未(いまだ)死生の堺を不知分。宅磨・河尻、弥(いよいよ)大勢に成て鹿子木大炊助(かのこぎおほひのすけ)を取(とり)巻(まく)間、後攻(ごづめ)の為少弐(せうに)が代官宗利(むねとし)近国を相催(あひもよほ)すといへ共、九国二島(くこくにたう)の兵共(つはものども)、太半兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)に心を通ずる間、催促に順(したが)ふ輩(ともがら)多からず。事已(すで)に及難儀候、急(いそぎ)御勢(おんせい)を被下べし。」とぞ申ける。将軍此(この)注進に驚(おどろき)て、「さても誰をか討手に可下。」と執事武蔵守(むさしのかみ)に間給ひければ、師直、「遠国の乱を鎮めんが為には、末々(すゑずゑ)の御一族(ごいちぞく)、乃至(ないし)師直なんどこそ可罷下にて候へ共、是はいかにも上さまの自(みづから)御下(おんくだり)候(さうらひ)て、御退治(ごたいぢ)なくては叶(かなふ)まじきにて候。其故は九国の者共(ものども)が兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)に奉付事は、只将軍の君達にて御座候へば、内々御志(おんこころざし)を被通事は候はんと存ずる者にて候也(なり)。天下の人(ひとの)案に相違して、直(ぢき)に御退治(ごたいぢ)の御合戦候はゞ、誰か父子の確執(かくしつ)に天の罰(ばつ)を顧(かへりみ)ぬ者候べき。将軍の御旗下(おんはたもと)にて、師直命を軽(かろん)ずる程ならば、九国・中国悉(ことごとく)御敵(おんてき)に与(くみ)すと云共、何の恐か候べき。只夜を日に継で御下候へ。」と、強(あながち)に勧(すす)め申ければ、将軍一義にも不及給、都の警固には宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮を残(のこし)置(おき)奉て、十月十三日(じふさんにち)征夷(せいい)大将軍正二位(しやうにゐの)大納言源尊氏(みなもとのたかうぢ)卿(きやう)、執事武蔵守(むさしのかみ)師直を召具し、八千(はつせん)余騎(よき)の勢を卒(そつ)し、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)直冬為誅罰とて、先(まず)中国へとぞ急(いそぎ)給ける。
○錦小路(にしきのこうぢ)殿(どの)落南方事(こと) S2805
将軍、已(すでに)明日西国へ可被立と聞へける其夜、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)入道慧源(ゑげん)は、石堂(いしたう)右馬助(うまのすけ)頼房許(ばかり)を召具(めしぐ)して、いづち共不知落(おち)給(たまひ)にけり。是を聞(きき)て世の危(あやぶみ)を思ふ人は、「すはや天下の乱出来ぬるは、高家の一類(いちるゐ)今に滅(ほろび)ん。」とぞ囁(ささやき)ける。事の様を知らぬ其(その)方様(かたさま)の人々女姓(によしやう)なんどは、「穴(あな)浅猿(あさまし)や、こはいかに成(なり)ぬる世中(よのなか)ぞや。御共に参(まゐり)たる人もなし。御馬(おんむま)も皆厩(むまや)に繋(つなが)れたり。徒洗(かちはだし)にては何(いづ)くへか一足(ひとあし)も落(おち)させ給ふべき。是は只武蔵守(むさしのかみ)の計(はからひ)として、今夜忍(しのび)やかに奉殺者也(なり)。」と、声も不惜泣(なき)悲(かなし)む。仁木(につき)・細川の人々も執事の尾形に馳集(はせあつまつ)て、「錦小路殿(にしきのこうぢどの)落(おち)させ給ひて候事、後の禍(わざはひ)不遠と覚(おぼえ)候へば、暫(しばらく)都に御逗留(ごとうりう)有て在所(ざいしよ)をも能々(よくよく)可被尋や候(さうらふ)らん。」と被申ければ、師直、「穴(あな)こと/゛\し、縦(たとひ)何(いか)なる吉野十津河(とつかは)の奥、鬼海(きかい)高麗(かうらい)の方へ落(おち)給ひたり共、師直が世にあらん程は誰か其人に与(くみ)し奉(たてまつる)べき。首を獄門(ごくもん)の木に曝(さら)し、尸(かばね)を匹夫(ひつぷ)の鏃(やじり)に止(とど)め給はん事、三日が内を不可出。其(その)上(うへ)将軍(しやうぐん)御進発(ごしんぱつ)の事、已(すで)に諸国へ日を定(さだめ)て触遣(ふれつかは)しぬ。相図(あいづ)相違せば事の煩(わづらひ)多かるべし。暫(しばらく)も非可逗留(とうりう)処。」とて、十月十三日(じふさんにち)の早旦に師直遂(つひ)に都を立て、将軍を先立(さきだて)奉り、路次(ろし)の軍勢(ぐんぜい)駆具(かけぐ)して、十一月十九日に備前の福岡に著(つき)給ふ。爰(ここ)にて四国中国の勢を待(まち)けれ共(ども)、海上は波風荒(あれ)て船も不通山陰道(せんおんだう)は雪降積(ふりつもつ)て馬の蹄も立(たた)ざれば、馳(はせ)参る勢不多。さては年明(あけ)てこそ筑紫へは向はめとて、将軍備前の福岡にて徒(いたづら)に日をぞ送られける。
○自持明院殿(ぢみやうゐんどの)被成院宣事(こと) S2806
左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)入道慧源(ゑげん)は、師直が西国へ下らんとしける比(ころ)をひ、潜(ひそか)に殺し可奉企(くはたて)有(あり)と聞へしかば、為遁其死忍(しのん)で先(まづ)大和国へ落て、越智(をち)伊賀(いがの)守(かみ)を憑(たの)まれたりければ、近辺の郷民(きやうみん)共(ども)同心に合力して、路々を切塞(きりふさ)ぎ四方(しはう)に関を居(すゑ)て、誠(まこと)に弐(ふたごころ)なげにぞ見へたりける。後一日有て、石堂(いしたう)右馬助(うまのすけ)頼房以下、少々志を存(ぞんず)る旧好(きうかう)の人々馳(はせ)参りければ、早(はや)隠れたる気色もなし。其聞へ都鄙(とひ)の間に区(まちまち)也(なり)。何様天気ならでは私の本意を難達とて、先(まづ)京都へ人を上せ、院宣を伺(うかがひ)申されければ、無子細軈(やが)て被宣下、剰(あまつさへ)不望鎮守府(ちんじゆふの)将軍(しやうぐん)に被補。其(その)詞(ことばに)云(いはく)、被院宣云(いはく)、斑鳩宮之誅守屋、朱雀院之戮将門、是豈非捨悪持善之聖猷哉(かな)。爰退治(たいぢ)凶徒(きようと)、欲息父叔両将之鬱念、叡感甚不少。仍補鎮守府将軍、被任左兵衛督畢。早卒九国二島並五畿七道(ごきしちだう)之軍勢(ぐんぜい)企上洛(しやうらく)、可令守護(しゆご)天下。者依院宣執達如件。観応元年十月二十五日権中納言国俊奉足利左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)殿(どの)
○慧源禅巷(ゑげんぜんかう)南方合体(なんぱうがつていの)事(こと)付(つけたり)漢楚(かんそ)合戦(かつせんの)事(こと) S2807
左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)入道、都を仁木(につき)・細川・高家の一族共(いちぞくども)に背(そむ)かれて浮れ出ぬ。大和・河内・和泉・紀伊(きいの)国(くに)は、皆吉野の王命に順(したがう)て、今更武家に可付順共不見ければ、澳(おき)にも不著礒にも離(はなれ)たる心地して、進退歩(あゆみ)を失へり。越智(をち)伊賀(いがの)守(かみ)、「角(かく)ては何様(いかさま)難儀なるべしと覚へ候。只吉野殿(よしのどの)の御方(みかた)へ御参候(さふらひ)て、先非(せんぴ)を改め、後栄(こうえい)を期(ご)する御謀(はかりこと)を可被廻とこそ存(ぞんじ)候へ。」と申ければ、「尤此(この)儀可然。」とて、軈(やが)て専使(せんし)を以て、吉野殿(よしのどの)へ被奏達けるは、元弘初、先朝為逆臣被遷皇居(くわうきよ)於西海、宸襟被悩候時、応勅命雖有起義兵輩、或敵被囲、或戦負屈機、空志処、慧源苟勧尊氏(たかうぢの)卿(きやう)企上洛(しやうらく)、応勅決戦、帰天下於一統(いつとう)皇化候事、乾臨定被残叡感候歟(か)。其後依義貞等讒、無罪罷成勅勘之身、君臣空隔胡越之地、一類(いちるゐ)悉残朝敵(てうてき)之名条歎有余処也(なり)。臣罪雖誠重、天恩不過往、負荊下被免其咎、則蒙勅免綸言、静四海(しかい)之(の)逆乱、可戴聖朝之安泰候。此旨内内得御意、可令奏聞給候。恐惶謹言。十二月九日(ここのか)沙弥慧源進上四条(しでうの)大納言殿(だいなごんどの)と委細の書状を捧(ささげ)て、降参の由をぞ被申たる。則(すなはち)諸卿参内して、此事如何(いか)が可有と僉議ありけるに、先(まづ)洞院(とうゐんの)左大将実世(さねよ)公(こう)被申けるは、「直義入道が申処、甚(はなはだ)以(もつて)偽(いつは)れり。相伝譜代(ふだい)の家人(けにん)、師直・師泰が為に都を被追出身の措(おき)処なき間、聊(いささか)借天威己(おのれが)為達宿意、奉掠天聴者也(なり)。二十(にじふ)余年(よねん)の間一人(いちじん)を始(はじめ)進(まゐら)せて百司千官悉(ことごとく)望鳳闕之雲、■飛鳥之翅事、然(しかしながら)直義入道が不依悪逆乎。而(しかるに)今幸(さいはひに)軍門に降(くだ)らん事を請(こ)ふ、此(これ)天の与(あたふ)る処也(なり)。乗時是を不誅後の禍(わざはひ)噛臍無益。只速(すみやか)に討手を差(さし)遣(はし)て首を禁門の前に可被曝とこそ存(ぞんじ)候へ。」と被申ける。次に二条(にでうの)関白左大臣殿(くわんばくさだいじんどの)暫(しばらく)思案して被仰けるは、「張良(ちやうりやう)が三略の詞(ことば)に、推慧施恩士力日新戦如風発といへり。是己(おのれが)謝罪者は忠貞に不懈誠以尽事、却(かへつ)て無弐故(ゆゑ)也(なり)。されば章邯(しやうかん)楚に降(くだつ)て秦忽(たちまち)に破れ、管仲許罪斉(せい)則治(をさまりし)事、尤(もつとも)今の世に可為指南。直義入道御方(みかた)に参る程ならば、君天下を保(たもた)せ給はん事万歳是より可始。只元弘の旧功を不被捨、官職に復して被召仕より外の義は非じとこそ覚へ候へ。」と異儀区(まちまち)にこそ被申けれ。諌臣両人の異儀、得失互に備(そな)ふ。是非難分。君も叡慮を被傾、末座の諸卿も言を出さで良(やや)久(ひさしく)ある処に、北畠(きたばたけの)准后禅閤(じゆごうぜんかふ)喩(たとへ)を引て被申けるは、「昔秦の世已(すで)に傾(かたぶ)かんとせし時、沛公(はいこう)は沛郡(はいぐん)より起り項羽(かうう)は楚より起る。六国(りくこく)の諸候の秦を背(そむ)く者彼両将に付(つき)順(したがひ)しかば、共に其(その)威漸(やうやく)振(ふるう)て、沛公(はいこう)が兵十万(じふまん)余騎(よき)、漢の濮陽(ぼくやう)の東に軍(いくさ)だちし、項羽(かうう)が勢(せい)は四十万騎(しじふまんぎ)、定陶(ていたう)を攻(せめ)て雍丘(ようきう)の西に至る。沛公(はいこう)、項羽(かうう)相共(あひとも)に古(いにしへ)の楚王の末孫心(そんしん)と云(いひ)し人、民間に下て羊を飼(かひ)しを、取立(とりたて)義帝(ぎてい)と号し、其(その)御前(おんまへ)にて、先(まづ)咸陽(かんやう)に入て秦を亡(ほろぼ)したるらん者、必(かならず)天下に王たるべしと約諾(やくだく)して、東西に分れて責(せめ)上る。角(かく)て項羽(かうう)已(すで)に鉅鹿(きよろく)に至(いたる)時(とき)、秦の左将軍(さしやうぐん)章邯(しやうかん)、百万騎にて相(あひ)待(まち)ける間、項羽(かうう)自(みづから)二十万騎(にじふまんぎ)にて河を渡て後(のち)、船を沈(しづ)め釜甑(ふぞう)を破て盧舎(ろしや)を焼(やく)。是(これ)は敵大勢にて御方(みかた)小勢也(なり)。一人も生(いき)ては不返と心を一にして不戦ば、千に一も勝(かつ)事非じと思ふ故(ゆゑ)に、思(おもひ)切(きつ)たる心中を士卒に為令知也(なり)。於是秦の将軍と九たび遇(あう)て百たび戦(たたかふ)。忽(たちまち)に秦の副将軍(ふくしやうぐん)蘇角(そかく)を討て王離を生虜(いけどり)しかば、討(うた)るゝ秦の兵四十(しじふ)余万人(よまんにん)、章邯(しやうかん)重(かさね)て戦ふ事を不得、終(つひ)に項羽(かうう)に降(くだつ)て還(かへつ)て秦をぞ責(せめ)たりける。項羽(かうう)又新安城(しんあんじやう)の戦(たたかひ)に打(うち)勝(かつ)て首を切(きる)事二十万(にじふまん)、凡(すべ)て項羽(かうう)が向ふ処不破云(いふ)事なく、攻(せむ)る城は不落云(いふ)事無(なか)りしか共、至(いたる)所ごとに美女を愛し酒に淫(いん)し、財を貪(むさぼ)り地を屠(はふり)しかば、路次(ろし)に数月(すげつ)の滞(とどこほり)有て、末だ都へは不責入。漢の元年十一月に、函谷関(かんこくくわん)にぞ著(つき)にける。沛公(はいこう)は無勢(ぶせい)にして而(しか)も道難処(なんしよ)を経(へ)しか共、民を憐み人を撫(ぶ)する心深(ふかく)して、財をも不貪人をも不殺しかば、支(ささへ)て防ぐ城もなく、不降云(いふ)敵もなし。道開けて事安かりしかば、項羽(かうう)に三月先立(さきだち)て咸陽宮(かんやうきゆう)へ入にけり。而共(しかれども)沛公(はいこう)志(こころざし)天下に有しかば、秦の宮室をも不焼、驪山(りざん)の宝玉をも不散、剰(あまつさへ)降(くだ)れる秦の子嬰(しえい)を守護(しゆご)し奉て、天下の約を定めん為に、還(かへつ)て函谷(かんこく)へ兵を差(さし)遣(つかは)し、項羽(かうう)を咸陽へ入(いれ)立(たて)じと関の戸を堅(かたく)閉(とぢ)たりける。数月(すげつ)有て項羽(かうう)咸陽へ入らんとするに、沛公(はいこう)の兵函谷関を閉(とぢ)て項羽(かうう)を入(いれ)ず。項羽(かうう)大(おほい)に怒(いかつ)て当陽君(たうやうくん)に十二万騎(じふにまんぎ)の兵を差副(さしそへ)、函谷関を打(うち)破(やぶつ)て咸陽宮へ入(いり)にけり。則(すなはち)降(くだ)れる子嬰(しえい)皇帝(くわうてい)を殺(ころし)奉(たてまつつ)て咸陽宮に火を懸(かけ)たれば、方三百七十里(さんびやくしちじふり)に作(つくり)双(ならべ)たる宮殿楼閣(くうでんろうかく)一(ひとつ)も不残焼(やけ)て、三月まで火不消、驪山(りざん)の神陵(しんりやう)忽(たちまち)に灰塵(くわいぢん)と成(なる)こそ悲しけれ。此(この)神陵と申は、秦(しんの)始皇帝(しくわうてい)崩御(ほうぎよ)成(なり)し時、はかなくも人間の富貴(ふつき)を冥途(めいど)まで御身(おんみ)に順(したが)へんと思して、楼殿(ろうでん)を作(つくり)瑩(みが)き山川(さんせん)をかざりなせり。天には金銀を以て日月を十丈(じふぢやう)に鋳(い)させて懸け、地には江海を形取(かたどつ)て銀水を百里に流せり。人魚の油十万(じふまん)石(ごく)、銀の御錠(あぶらつき)に入(いれ)て長時(ぢやうじ)に灯(とぼしび)を挑(かかげ)たれば、石壁(せきへき)暗しといへ共青天白日の如く也(なり)。此中に三公(さんこう)已下の千官六千人(ろくせんにん)、宮門守護(しゆご)の兵一万人、後宮(こうきゆう)の美人三千人(さんぜんにん)、楽府(がくふ)の妓女(ぎによ)三百人(さんびやくにん)、皆生(いき)ながら神陵の土に埋(うもれ)て、苔(こけ)の下にぞ朽(くち)にける。始作俑人無後乎と文宣(ぶんせん)王の誡(いましめ)しも、今こそ思(おもひ)知(しら)れたれ。始皇帝(しくわうてい)如此執覚(しつしおぼして)様々の詔(せう)を被残神陵なれば、さこそは其妄執(まうしふ)も留(とどめ)給(たまふ)らんに、項羽(かうう)無情是(これ)を堀(ほり)崩して殿閣(でんかく)悉(ことごとく)焼払(やきはらひ)しかば、九泉(きうせん)の宝玉二度(ふたたび)人間に返るこそ愍(あはれ)なれ。此時項羽(かうう)が兵は四十万騎(しじふまんぎ)新豊(しんほう)の鴻門(こうもん)にあり。沛公(はいこう)が兵は十万騎(じふまんぎ)咸陽の覇上(はじやう)にあり。其間相(あひ)去(さる)事三十里(さんじふり)、沛公(はいこう)項羽(かうう)に未(いまだ)相(あひ)見(まみえず)。於是(ここに)范増(はんぞう)といへる項羽(かうう)が老臣、項羽(かうう)に口説(くどい)て云(いひ)けるは、「沛公(はいこう)沛郡に有(あり)し時、其(その)振舞(ふるまひ)を見しかば、財を貪(むさぼり)美女を愛する心尋常(よのつね)に越(こえ)たりき。今咸陽に入て後、財をも不貪美女をも不愛。是(これ)其(その)志天下にある者也(なり)。我人を遣(つかは)して窃(ひそか)に彼(かの)陣中(ぢんちゆう)の体(てい)を見するに、旗(はたの)文(もんに)竜虎(りようこ)を書けり。是(これ)天子の気に非(あらず)や。速(すみやか)に沛公(はいこう)を不討ば、必天下為沛公(はいこう)可被傾。」と申ければ、項羽(かうう)げにもと聞(きき)ながら、我(わが)勢の強大なるを憑(たのみ)て、何程の事か可有と思(おもひ)侮(あなどつ)てぞ居たりける。斯(かか)る処に沛公(はいこう)が臣下(しんかに)曹無傷(さうぶしやう)と云ける者、潜(ひそか)に項羽(かうう)の方へ人を遣(つかは)して、沛公(はいこう)天下に王たらんとする由をぞ告(つげ)たりける。項羽(かうう)是を聞て、此(この)上は無疑とて四十万騎(しじふまんぎ)の兵共(つはものども)に命(めい)じて、夜明ば則(すなはち)沛公(はいこう)の陣へ寄せ、一人も不余可討とぞ下知しける。爰(ここ)に項羽(かうう)が季父(をぢ)に項伯(かうはく)と云(いひ)ける人、昔より張良(ちやうりやう)と知音(ちいん)也(なり)ければ、此(この)事を告(つげ)知(しら)せて落さばやと思(おもひ)ける間、急(いそぎ)沛公(はいこう)の陣へ行(ゆき)向ひ張良を呼出して、「事の体(てい)已(すで)に急也(なり)。今夜急ぎ逃(にげ)去て命許(ばかり)を助かれ。」とぞ教訓したりける。張良元来(もとより)義を重(おもん)じて、節に臨(のぞ)む時命を思ふ事塵芥(ぢんかい)よりも軽(かろく)せし者也(なり)ければ、何故(なにゆゑ)か事の急なるに当(あたつ)て、高祖(かうそ)を捨(すて)て可逃去とて、項伯が云(いふ)処を沛公(はいこう)に告ぐ。沛公(はいこう)大(おほい)に驚て、「抑(そもそも)我兵を以て項羽(かうう)と戦(たたかは)ん事、勝負(しようぶ)可依運や。」と問(とひ)給へば、張良暫く案じて、「漢の兵は十万騎(じふまんぎ)、楚は是(これ)四十万騎(しじふまんぎ)也(なり)。平野にて戦(たたかは)んに、漢勝(かつ)事を難得。」とぞ答へける。沛公(はいこう)、「さらば我(われ)項伯を呼(よび)て、兄弟の交(まじはり)をなし婚姻(こんいん)の義を約して、先(まづ)事の無為(ぶゐ)ならんずる様を謀(はか)らん。」とて項伯を帷幕(ゐばく)の内へ呼(よび)給(たまひ)て、先(まづ)旨酒(ししゆ)を奉じ自(みづから)寿(ことほぎ)をなして宣ひけるは、「初(はじめ)我と項王と約を成(なし)て先(まづ)咸陽に入らん者を王とせんと云(いひ)き。我項王に先立(さきだつ)て咸陽に入(いる)事七十(しちじふ)余日(よにち)、而(しか)れ共約を以て我天下に王たらん事を不思、関(せき)に入て秋毫(しうがう)も敢(あへ)て近付(ちかづくる)処に非(あら)ず。吏民(りみん)を籍(せき)し府庫(ふこ)を封(ほう)じて項王の来(きたり)給はん日を待(まつ)。是(これ)世の知る処也(なり)。兵を遣(つかは)して函谷関を守らせし事は、全く項王を防(ふせぐ)に非(あら)ず。他(たの)盜人(ぬすびと)の出入と非常とを備へん為也(なり)き。願(ねがはく)は公速(すみやか)に帰て、我が徳に不倍処を項王に語て明日の戦を留給へ。我則(すなはち)旦日(たんじつ)項王の陣に行(ゆき)て自(みづから)無罪故を可謝。」と宣(のたまへ)ば、項伯則(すなはち)許諾(きよだく)して馬に策(むちうつ)てぞ帰にける。項伯則(すなはち)項王の陣に行て具(つぶさ)に沛公(はいこう)の謝(しや)する処を申けるは、「抑(そもそも)沛公(はいこう)先(まづ)関中を破らざらましかば、項王今咸陽に入て枕を高(たかく)し食を安(やすん)ずる事を得ましや。今天下の大功は然(しかしながら)沛公(はいこう)にあり。而(しか)るを小人の讒(ざん)を信じて有功人を討(うた)ん事大なる不義也(なり)。不如沛公(はいこう)と交(まじはり)を深(ふかく)し功を重(おもん)じて天下を鎮(しづ)めんには。」と、理を尽して申ければ、項羽(かうう)げにもと心服して顔色(がんしよく)快(こころよ)く成(なり)にけり。暫(しばし)あれば沛公(はいこう)百(ひやく)余騎(よき)を随(したが)へて来て項王に見(まみ)ゆ。仍(すなはち)礼謝して曰(いはく)、「臣項王と力を勠(あはせ)て秦を攻(せめ)し時、項王は河北(かほく)に戦ひ臣は河南(かなん)に戦ふ。不憶き、万死を秦(しん)の虎口(ここう)に逋(のが)れて、再会を楚の鴻門(こうもん)に遂(とげ)んとは。而(しか)るに今佞人(ねいじん)の讒(ざん)に依(よつ)て臣項王と胡越(こゑつ)の隔(へだて)有らん事豈可不悲乎。」と首(かうべ)を著地宣へば、項羽(かうう)誠(まこと)に心解(とげ)たる気色(けしき)にて、「是(これ)沛公(はいこう)の左司馬曹無傷(さうぶしやう)が告(つげ)知(しら)せしに依(よつ)て頻(しきり)に沛公(はいこう)を疑(うたがひ)き。不然何(なにを)以(もつ)てか知(しる)事あらん。」と、忽(たちまち)に証人(しようにん)を顕(あらは)して誠(まこと)に所存なげなる体(てい)、心浅くぞ見へたりける。項羽(かうう)頻(しきり)に沛公(はいこう)を留めて酒宴に及ぶ。項王項伯とは東に嚮(むい)て坐し、范増(はんぞう)は南に嚮(むき)たり。沛公(はいこう)は北に嚮て坐し、張良は西(にしに)嚮て侍り。范増(はんぞう)は兼(かね)てより、沛公(はいこう)を討(うた)ん事非今日ば何(いつ)をか可期と思(おもひ)ければ、項羽(かうう)を内へ入(いれ)て、沛公(はいこう)と刺(さし)違(ちが)へん為に、帯(はい)たる所の太刀を拳(にぎつ)て、三度(さんど)まで目加(めくはせ)しけれ共(ども)、項羽(かうう)其心を不悟只黙然(もくねん)としてぞ居たりける。范増(はんぞう)則(すなはち)座を立て、項荘(かうさう)を呼(よび)て申けるは、「我為項王沛公(はいこう)を討(うた)んとすれ共項王愚(おろか)にして是を不悟。汝早(はやく)席に帰て沛公(はいこう)を寿(ことぶき)せよ。沛公(はいこう)盃(さかづき)を傾(かたぶけ)ん時、我(われと)与汝剣を抜(ぬい)て舞ふ真似(まね)をして、沛公(はいこう)を坐中にして殺(ころさ)ん。而(しか)らずは汝が輩(ともがら)遂(つひ)に沛公(はいこう)が為に亡(ほろぼ)されて、項王の天下を奪はれん事は、一年の中を不可出。」と涙を流(ながし)て申ければ、項荘一義に不及。則(すなはち)席に帰て、自(みづから)酌を取て沛公(はいこう)を寿(ことぶき)す。沛公(はいこう)盃を傾(かたぶく)る時、項荘、「君王今沛公(はいこう)と飲酒(いんしゆ)す。軍中楽(がく)を不為事久し。請(こふ)臣等(しんら)剣を抜(ぬい)て太平の曲を舞(まは)ん。」とて、項荘剣を抜(ぬい)て立(たつ)。范増(はんぞう)も諸共に剣を指(さし)かざして沛公(はいこう)の前に立(たち)合(あひ)たり。項伯彼等が気色(けしき)を見、沛公(はいこう)を討せじと思(おもひ)ければ、「我(われ)も共に可舞。」とて同(おなじく)又剣を抜(ぬい)て立(たつ)。項荘南に向へば項伯北に向(むかつ)て立。范増(はんぞう)沛公(はいこう)に近付(ちかづけ)ば項伯身を以て立(たち)隠す。依之(これによつて)楽已(すで)に徹(をはら)んとするまで沛公(はいこう)を討(うつ)事不能。少し隙(ひま)ある時に張良門前に走(はしり)出て誰かあると見るに、樊■(はんくわい)つと走(はしり)寄て、坐中(ざちゆう)の体(てい)如何と問ければ、張良、「事甚(はなはだ)急也(なり)。今項荘剣を抜(ぬい)て舞ふ。其意常に沛公(はいこう)に在(あり)。」と答(こたへ)ければ、樊■(はんくわい)、「此(これ)已(すで)に喉(のんどに)迫(せま)る也(なり)。速(すみやか)に入て沛公(はいこう)と同(おなじく)命を失(うしなは)んにはしかじ。」とて、胄(かぶと)の緒(を)を縮(し)め、鉄(くろがね)の楯(たて)を挟(はさみ)て、軍門の内へ入(いら)んとす。門の左右に交戟(かうげき)の衛士(ゑいし)五百(ごひやく)余人(よにん)、戈(ほこ)を支(ささ)へ太刀を抜(ぬい)て是を入(いれ)じとす。樊■(はんくわい)大に忿(いかつ)て、其(その)楯を身に横(よこた)へ門の関(くわん)の木七八本押(おし)折(をつ)て、内へつと走(はしり)入れば、倒(たふ)るゝ扉(とびら)に打(うち)倒され、鉄(くろがね)の楯につき倒されて、交戟(かうげき)の衛士(ゑいし)五百人(ごひやくにん)地に臥(ふ)して皆起(おき)あがらず。樊■(はんくわい)遂(つひ)に軍門に入て、其(その)帷幕(ゐばく)を掲(かかげ)て目を嗔(いから)し、項王をはたと睨(にらん)で立(たち)けるに、頭(かしら)の髪(かみ)上にあがりて胄の鉢(はち)をゝひ貫(つらぬ)き、師子(しし)のいかり毛(げ)の如く巻て百千万の星となる。眦(まなじり)逆(さかさま)に裂(さけ)て、光(ひかり)百練(ひやくれん)の鏡に血をそゝぎたるが如(ごとく)、其(その)長(たけ)九尺(くしやく)七寸(しちすん)有て忿(いか)れる鬼鬚(ひげ)左右に分れたるが、鎧突(よろひづき)して立(たつ)たる体(てい)、何(いか)なる悪鬼羅刹(あくきらせつ)も是には過(すぎ)じとぞ見へたりける。項王是を見給(たまひ)て、自(みづから)剣を抜懸(ぬきかけ)て跪(ひざまづい)て、「汝何者(なにもの)ぞ。」と問(とひ)給へば、張良、「沛公(はいこう)の兵に樊■(はんくわい)と申(まうす)者にて候也(なり)。」とぞ答(こたへ)ける。項羽(かうう)其時に居直(ゐなほつ)て、「是(これ)天下の勇士(ゆうし)也(なり)。彼(かれ)に酒を賜(たま)はん。」とて、一斗(いつと)を盛る巵(さかづき)を召(めし)出して樊■(はんくわい)が前にをき、七尾許(ななつをばかり)なる■(きのこ)の肩を肴(さかな)にとつて出されたり。樊■(はんくわい)楯を地に覆(ふせ)剣を抜(ぬき)て■(きのこ)の肩を切て、少(すこし)も不残噛食(かみくう)て巵(さかづき)に酒をたぶ/\と受て三度(さんど)傾(かたぶ)け、巵(さかづき)を閣(さしおい)て申(まうし)けるは、「夫(それ)秦王虎狼(こらう)の心有て人を殺し民を害する事無休時。天下依之(これによつて)秦を不背云(いふ)者なし。爰(ここ)に沛公(はいこう)と項王と同(おなじ)く義兵を揚(あげ)、無道(ぶだう)の秦を亡(ほろぼ)して天下を救はん為に、義帝(ぎてい)の御前(おんまへ)にして血をすゝりて約せし時、先(まづ)秦を破(やぶり)て咸陽に入らん者を王とせんと云(いひ)き。然るに今沛公(はいこう)項王に先立(さきだつ)て咸陽に入(いる)事数月(すげつ)、然共(しかれども)秋毫(しうがう)も敢(あへ)て近付(ちかづく)る所非(あら)ず。宮室(きゆうしつ)を封閉(ほうへい)して以て項王の来(きたり)給はん事を待(まつ)、是(これ)豈(あに)沛公(はいこう)の非仁義乎。兵を遣(つかは)して函谷関を守(まもら)しめし事は、他の盜人の出入と非常とに備へん為也(なり)き。其功の高(たかき)事如此。未(いまだ)封侯(ほうこう)の賞(しやう)非(あら)ずして剰(あまつさへ)有功(いうこう)の人を誅(ちゆう)せんとす。是(これ)亡秦(ばうしん)の悪を続(つい)で自(みづから)天の罰を招く者也(なり)。」と、少(すこし)も不憚項王を睨(にらみ)て申せば、項王答(こたふ)るに言(こと)ば無(なく)して只首(かうべ)を低(たれ)て赤面す。樊■(はんくわい)は加様(かやう)に思(おもふ)程云(いひ)散(ちら)して、張良が末座に著(つく)。暫(しばらく)有て沛公(はいこう)厠(かはや)に行(ゆく)真似して、樊■(はんくわい)を招(まねい)て出給ふ。潜(ひそか)に樊■(はんくわい)に向(むかつ)て、「先(さき)に項荘が剣を抜(ぬい)て舞つる志偏(ひとへ)に吾を討(うた)んと謀(はか)る者也(なり)。座久(ひさしく)して不帰事危(あやふき)に近し。是より急(いそぎ)我(わが)陣へ帰らんと思ふが、不辞出ん事非礼。如何すべき。」と宣へば、樊■(はんくわい)、「大行(かう)は不顧細謹、大礼(たいれい)は不必辞譲、如今人は方(まさ)に為刀俎、我は為魚肉、何ぞ辞(じ)することをせんや。」とて、白璧(はくへき)一双(いつさう)と玉の巵(さかづき)一双(いつさう)とを張良に与(あたへ)て留(とどめ)置き、驪山の下より間道(かんだう)を経て、竜蹄(りようてい)に策(むち)を進め給へば、■強(きんきやう)・紀信(きしん)・樊■(はんくわい)・夏侯嬰(かこうえい)四人、自(みづから)楯を挟(はさ)み戈(ほこ)を採(とつ)て、馬の前後に相(あひ)順(したが)ふ。其(その)道二十(にじふ)余里(より)、嶮(けはし)きを凌(しの)ぎ絶(たえ)たるを渡て、半時を不過(すぎ)覇上(はじやう)の陣に行(ゆき)至りぬ。初め沛公(はいこう)に順(したが)ひし百(ひやく)余騎(よき)の兵共(つはものども)は、猶(なほ)項王の陣の前に並居(なみゐ)て、張良未(いまだ)鴻門にあれば人皆沛公(はいこう)の帰(かへり)給へるを不知(しらず)。暫(しばらく)有(あつて)張良座に返て謝(しや)して曰、「沛公(はいこう)酔(ゑひ)て坏(さかづき)を酌(くむ)に不堪、退出し給ひ候つるが、臣良(りやう)をして、謹(つつしん)で足下(そつか)に可献之と被申置。」とて、先(まづ)白璧(はくへき)一双(いつさう)を奉て、再拝して項王の前にぞ置たりける。項王白璧を受て、「誠(まこと)に天下の重宝也(なり)。」と感悦して、坐上に置て自(みづから)愛し給ふ事無類。其(その)後張良又玉斗(ぎよくと)一双(いつさう)を捧(ささげ)て范増(はんぞう)が前にぞ置たりける。范増(はんぞう)大に忿(いかつ)て、玉斗を地に投(なげ)剣を抜(ぬい)て突摧(つきくだ)き、項王をはたと睨(にらみ)て、「嗟(ああ)豎子(じゆし)不足与謀奪項王之天下者必沛公(はいこう)なるべし。奈何(いかんか)せん吾(わが)属(ともがら)今為之虜(とりこ)とならん事。白璧(はくへき)重宝也(なり)といへ共豈(あに)天下に替(かへ)んや。」とて、怒(いかる)る眼に泪を流し半時ばかりぞ立たりける。項王猶(なほ)も范増(はんぞう)が心を不悟、痛く酔(ゑひ)て帳中に入(いり)給へば、張良百(ひやく)余騎(よき)を順(したがへ)て覇上に帰りぬ。沛公(はいこう)の軍門に至て、項王の方へ返忠(かへりちゆう)しつる曹無傷を斬(きつ)て、首を軍門に被懸。浩(かか)りし後は沛公(はいこう)項王互に相(あひ)見(まみ)ゆる事なし。天下は只項羽(かうう)が成敗(せいばい)に随て、賞罰(しやうばつ)共(とも)に明(あきらか)ならざりしかば、諸侯万民皆共(ともに)、沛公(はいこう)が功の隠れて、天下の主たらざる事をぞ悲みける。其後項羽(かうう)と沛公(はいこう)と天下を争(あらそふ)気已(すで)に顕(あらは)れて、国々の兵両方に属(しよく)せしかば、漢楚二(ふたつ)に分れて四海(しかい)の乱無止時。沛公(はいこう)をば漢の高祖(かうそ)と称(しよう)す。其手に属(しよく)する兵には、韓信・彭越(はうゑつ)・蕭何(せうか)・曹参(さうさん)・陳平(ちんぺい)・張良・樊■(はんくわい)・周勃(しうぼつ)・黥布(げいほ)・盧綰(ろくわん)・張耳(ちやうじ)・王陵(わうりよう)・劉賈(りうか)・■商(れきしやう)・潅嬰(くわんえい)・夏侯嬰・傅寛(ふくわん)・劉敬(さいけい)・■強(きんきやう)・呉■(ごぜい)・■食其(れきいき)・董公(とうこう)・紀信・轅生(ゑんせい)・周苛(しうか)・侯公(こうこう)・随何(ずゐか)・陸賈(りくか)・魏(ぎの)無知(ぶち)・斉孫通(しゆくそんつう)・呂須(りよしゆ)・呂巨(りよこ)・呂青(りよせい)・呂安(りよあん)・呂禄(りよろく)以下の呂氏三百(さんびやく)余人(よにん)都合其(その)勢三十万騎(さんじふまんぎ)、高祖(かうそ)の方にぞ属(しよく)しける。楚の項羽(かうう)は元来(もとより)代々(だいだい)将軍(しやうぐん)の家也(なり)ければ、相(あひ)順(したが)ふ兵八千人(はつせんにん)あり。其外今馳著(はせつき)ける兵には、櫟陽(やくやうの)長史欣(ちやうしきん)・都尉(とゐ)董翳(とうえい)・塞王(さいわう)司馬欣(しばきん)・魏王(ぎわう)豹(へう)・瑕丘(かきうの)申陽(しんやう)・韓王(かんわう)・成(せい)・趙(てうの)司馬■(しばがう)・趙(てうの)王歇(わうけつ)・常山王(じやうざんわう)張耳(ちやうじ)・義帝(ぎてい)柱国共敖(ちゆうこくきようがう)・遼東(れうとうの)韓広(かんくわう)・燕(えんの)将臧荼(ざうと)・田市(でんし)・田都(でんと)・田安(でんあん)・田栄(でんえい)・成安君(せいあんくん)陳余(ちんよ)・番君将(ばんくんがしやう)梅■(ばいけん)・雍王(ようわう)章邯(しやうかん)、是は河北の戦ひ破れて後、三十万騎(さんじふまんぎ)の勢にて項羽(かうう)に降(くだつ)て属(しよく)せしかば、項氏十七人(じふしちにん)、諸侯五十三人(ごじふさんにん)、都合其(その)勢三百八十六万騎、項王の方にぞ加(くは)りける。漢の二年に項王城陽(せいやう)に至て、高祖(かうそ)の兵田栄(でんえい)と戦ふ。田栄が軍破れて降人(かうにん)に出ければ、其老弱婦女(らうじやくふぢよ)に至るまで、二十万人を土の穴に入て埋(うづめ)て是を殺す。漢王又五十六万人を卒(そつ)して彭城(はうせい)に入る。項羽(かうう)自(みづから)精兵(せいびやう)三万人を将(ひきゐ)て胡陵(こりよう)にして戦ふ。高祖(かうそ)又打負(うちまけ)ければ、楚則(すなはち)漢の兵十(じふ)余万人(よまんにん)を生虜(いけどつ)て■水(すゐすゐ)の淵(ふち)にぞ沈めける。■水為之不流。高祖(かうそ)二度(にど)戦負(まけ)て霊壁(れいへき)の東に至る時、其(その)勢纔(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)也(なり)。項王の兵三百万騎、漢王を囲(かこみ)ぬる事三匝(さんさふ)、漢可遁方も無(なか)りける処に、俄(にはか)に風吹(ふき)雨荒(あらう)して、白日忽(たちまち)に夜よりも尚(なほ)暗かりければ、高祖(かうそ)数十騎(すじつき)と共に敵の囲(かこみ)を出て、豊沛(ほうはい)へ落(おち)給ふ。是を追て沛郡へ押(おし)寄(よせ)ければ、高祖(かうその)兵共(つはものども)爰(ここ)に支(ささ)へ彼(かし)こに防(ふせい)で、打死する者二十(にじふ)余人(よにん)、沛郡の戦にも又漢王打(うち)負(まけ)給ひければ、高祖(かうそ)の父大公、楚の兵に虜(とらは)れて項王の前に引出さる。漢王又周呂侯(しうりよこう)と蕭何(せうか)が兵を合(あは)せて二十万(にじふまん)余騎(よき)、■陽(けいやう)に至る。項王勝(かつ)に乗て八十万騎(はちじふまんぎ)彭城(はうせい)より押(おし)寄(よせ)て相(あひ)戦ふ。此時漢の戦纔(わづか)に雖有利、項王更に物共せず。漢楚互に勢(いきほひ)を振(ふつ)て未(いまだ)重(かさね)て不戦、共に広武(くわうぶ)に張陣川を隔(へだて)てぞ居たりける。或(ある)時(とき)項王の陣に高き俎(まないた)を作て、其(その)上(うへ)に漢王の父大公を置て高祖(かうそ)に告(つげ)て云(いは)く、「是(これ)沛公(はいこう)が父に非(あらず)や。沛公(はいこう)今首を延(のべ)て楚に降(くだ)らば太公と汝が命を助(たすけ)ん。沛公(はいこう)若(もし)楚に降らずは、急に大公を可烹殺。」とぞ申ける。漢王是を聞て、大に嘲(あざわらう)て云(いはく)、「吾項羽(かうう)と北面にして命(めい)を懐王(くわいわう)に受(うけ)し時、兄弟たらん事を誓(ちかひ)き。然れば吾(わが)父は即(すなはち)汝が父也(なり)。今而(しかる)に父を烹殺(にころ)さば幸(さいはひ)に我に一盃(いつぱい)の羹(あつもの)を分(わか)て。」と、欺(あざむか)れければ、項王大(おほい)に怒(いかつ)て即(すなはち)大公を殺さんとしけるを、項伯堅(かたく)諌(いさめ)ければ、「よしさらば暫(しば)し。」とて、大公を殺(ころす)事をば止めてけり。漢楚久(ひさしく)相支(ささへ)て未勝負を決、丁壮(ていさう)は軍旅(ぐんりよ)に苦(くるし)み老弱(らうじやく)は転漕(てんさう)に罷(つか)る。或(ある)時(とき)項羽(かうう)自(みづから)甲胄を著し戈(ほこ)を取、一日に千里を走(わし)る騅(すゐ)と云(いふ)馬に打(うち)乗(のり)て、只一騎(いつき)川の向(むかひ)の岸に控(ひかへ)て宣(のたまひ)けるは、「天下の士卒戦に苦む事已(すで)に八箇年(はちかねん)、是我と沛公(はいこう)と只両人を以ての故(ゆゑ)也(なり)。そゞろに四海(しかい)の人民を悩(なやま)さんよりは、我と沛公(はいこう)と独身(ひとりみ)にして雌雄(しゆう)を決すべし。」と招(まねい)て、敵陣を睨(にらん)でぞ立たりける。爰(ここ)に漢皇(かんくわう)自(みづから)帷幕(ゐばく)の中より出て、項王をせめて宣(のたまひ)けるは、「夫(それ)項王自(みづから)義無(なく)して天罰を招く事其罪非一。始(はじめ)項羽(かうう)と与(とも)に命を懐王に受(うけ)し時、先(まづ)入て関中を定(しづ)めたらん者を王とせんと云(いひ)き。然(しかる)を項羽(かうう)忽(たちまち)に約を背(そむい)て、我を蜀漢(しよくかん)に主たらしむ。其(その)罪一(ひとつ)。宋義、懐王の命を受て卿子(けいし)冠軍(くわんぐん)となる処に、項羽(かうう)乱(みだり)に其(その)帷幕(ゐばく)に入て、自(みづから)卿子冠軍の首を斬(きつ)て、懐王我をして是を誅(ちゆう)せしめたりと偽(いつはつ)て令(れい)を軍中に出す。其(その)罪二(ふたつ)。項羽(かうう)趙(てう)を救(すくう)て戦(たたかひ)利有(あり)し時、還(かへつ)て懐王に不報(ほうぜず)、境内(きやうだい)の兵を掃(はらう)て自(みづから)関に入る。其(その)罪三(みつ)。懐王堅(かた)く令(れい)すらく、秦に入らば民を害し財を貪(むさぼ)る事なかれと。項羽(かうう)数月(すげつ)をくれて秦に入し後、秦の宮室(きゆうしつ)を焼き、驪山(りざん)の塚を堀(ほり)て其(その)宝玉を私にせり。其(その)罪四(よつ)。又降(くだ)れる秦王子(わうじ)嬰(しえい)を殺して、天下にはびこる。其(その)罪五(いつつ)。詐(いつはつ)て秦の子弟を新安城(しんあんじやう)の坑(あな)に埋(うづめ)て殺せる事二十万(にじふまん)。其(その)罪六(むつ)。項羽(かうう)のみ善(よき)地に王として故主を逐誅(ちくちゆうし)たり。畔逆(はんげき)是より起る。其(その)罪七(ななつ)。懐王を彭城(はうせい)に移して韓王の地を奪(うばひ)、合(あは)せて梁楚に王として自(みづから)天下を与(あづか)り聞く。其(その)罪八(やつ)。項羽(かうう)人をして陰(ひそか)に懐王を江南に殺せり。其(その)罪九(ここのつ)。此(この)罪は天下の指(さす)所、道路(だうろ)目を以てにくも者也(なり)。大逆(たいぎやく)無道(ぶだう)の甚(はなはだしき)事、天豈(あに)公(こう)を誡(いましめ)刑(けい)せざらんや。何ぞいたづがはしく、項羽(かうう)と独(ひとり)身にして戦ふ事を致さん。公が力山を抜(ぬく)といへ共我(わが)義の天に合(かなへ)るには如(しか)じ。而(しか)らば刑余(けいよ)の罪人をして甲兵(かふへい)金革(きんかく)をすて、挺楚(ていそ)を制して、項羽(かうう)を可撃殺。」と欺(あざむい)て、百万の士卒、同音に箙(えびら)を敲(たたい)てどつと笑ふ。項羽(かうう)大(おほい)に怒(いかつ)て自(みづから)強弩(きやうど)を引て漢王を射る。其(その)矢河の面(おも)て四町(しちやう)余を射越して漢王の前に控(ひかへ)たる兵の、鎧の草摺(くさずり)より引敷(ひつしき)の板(いたの)裏(うら)をかけず射徹(いとほ)し、高祖(かうそ)の鎧の胸板(むないた)に、くつまき責(せめ)てぞ立たりける。漢の兵に楼煩(ろうはん)と云けるは、強弓(つよゆみ)の矢継早(やつぎばや)、馬の上の達者にて、三町(さんちやう)四町(しちやう)が中の物をば、下針(さげばり)をも射る程の者也(なり)けるが、漢王の当(たう)の矢を射んとて矢比(やごろ)過(すぎ)て懸(かけ)出たりけるを、項羽(かうう)自(みづから)戟(ほこ)を持て立(たち)向ひ、目を瞋(いから)かし大音声(だいおんじやう)を揚(あげ)て、「汝何者(なにもの)なれば、我に向(むかつ)て弓を引(ひか)んとはするぞ。」と怒(いかつ)てちやうどにらむ。其(その)勢(いきほひ)に僻易(へきえき)して、さしもの楼煩(ろうはん)目敢(あへ)て物を不見、弓を不引得人馬共に振(ふる)ひ戦(わなない)て、漢王の陣へぞ逃(にげ)入(いり)ける。漢王疵(きず)を蒙(かうむつ)て愈を待(まつ)程(ほど)に、其(その)兵皆気を失ひしかば、戦毎(たたかふごと)に楚勝(かつ)に不乗云(いふ)事なし。是(これ)只范増(はんぞう)が謀(はかりこと)より出て、漢王常に囲まれしかば、陳平・張良等、如何(いか)にもして此(この)范増(はんぞう)を討(うた)んとぞ計りける。或(ある)時(とき)項王の使者漢王の方に来れり。陳平是に対面して、先(まづ)酒を勧(すす)めんとしけるに、大■(たいらう)の具(そな)へを為(なし)て山海の珍(ちん)を尽(つく)し旨酒(ししゆ)如泉湛(たたへ)て、沙金四万(しまん)斤(きん)、珠玉・綾羅(りようら)・錦綉(きんしう)以下の重宝、如山積(つみ)上(あげ)て、引出物(ひきでもの)にぞ置たりける。陳平が語る詞毎(ことばごと)に、使者敢(あへ)て不心得(こころえず)、黙然(もくねん)として答(こたふ)る事無(なか)りける時に、陳平詐(いつはり)驚(おどろい)て、「吾公を以て范増(はんぞう)が使也(なり)と思て密事(みつじ)を語(かたる)、今項王の使なる事を知て、悔(くゆ)るに益(えき)なし。是(これ)命(めい)を伝(つたふ)る者の誤(あやまり)也(なり)。」と云て、様々に積(つみ)置(おき)ける引出物(ひきでもの)を皆取(とり)返(かへ)し、大■(らう)の具(そな)へを取入て、却(かへり)て飢口(きこう)にだにもあきぬべき、悪食をぞ具へける。使者帰(かへつ)て此(この)由(よし)を項王に語る。項王是より范増(はんぞう)が漢王と密儀を謀(はかつ)て、返忠(かへりちゆう)をしけるよと疑(うたがひ)て、是が権を奪(うばひ)て誅(ちゆう)せん事を計る。范増(はんぞう)是(これ)を聞て、一言も遂に不陳謝。「天下の事大に定(さだまり)ぬ。君王自(みづから)是(これ)を治(をさ)め給へ。我已(すで)に年八十(はちじふ)余、命の中に君が亡(ほろび)んを見ん事も可悲。只願(ねがはく)は我首を刎(はね)て市朝(してう)に被曝歟(か)、不然鴆毒(ちんどく)を賜(たまう)て死を早(はやう)せん。」と請(こひ)ければ、項王弥(いよいよ)瞋(いかつ)て鴆毒を呑(のま)せらる。范増(はんぞう)鴆(ちん)を呑(のみ)て後未(いまだ)三日を不過血を吐てこそ死にけれ。楚漢相戦て已(すで)に八箇年(はちかねん)自(みづから)相(あひ)当る事七十(しちじふ)余度(よど)に及ぶまで、天下楚を背(そむく)といへ〔共〕、項羽(かうう)度(たび)ごとに勝(かつ)に乗(のり)し事は、只楚の兵の猛(たけ)く勇めるのみに非(あら)ず。范増(はんぞう)謀(はかりこと)を出して民をはぐゝみ、士を勇(いさ)め敵の気を察(さつ)し、労(らう)せる兵を助け化(くわ)を普(あまね)く施(ほどこ)して、人の心を和(くわ)せし故(ゆゑ)也(なり)。されば范増(はんぞう)死を賜(たまひ)し後、諸侯悉(ことごとく)楚を負(そむい)て漢に属(しよく)せる者甚(はなはだ)多し。漢楚共に■陽の東に至て久(ひさしく)相(あひ)支へたる時に、漢は兵盛(さかり)に食多(おほく)して楚は兵疲(つか)れ食絶(たえ)ぬ。此(この)時(とき)漢の陸賈(りくか)を楚に使して曰(いはく)、「今日より後は天下を中分(ちゆうぶん)して、鴻溝(こうこう)より西をば漢とし東をば楚とせん。」と和を請(こひ)給ふに、項王悦(よろこび)て其(その)約を堅(かたく)し給ふ。仍(よつて)先に生取(いけどつ)て戦の弱き時には、是を烹殺(にころ)さんとせし漢王の父太公を緩(ゆる)して、漢へぞ送られける。軍勢(ぐんぜい)皆万歳を呼(よば)ふ。角(かく)て楚は東に帰り漢は西に帰らんとしける時、陳平・張良共に漢王に申けるは、「漢今天下の太半を有(たもつ)て諸侯皆付(つき)順(したが)ふ。楚は兵罷(つかれ)て食尽(つき)たり。是天の楚を亡(ほろぼ)す時也(なり)。此時不討只虎を養(やしなう)て自(みづから)患(うれへ)を遺(のこし)侯者なるべし。」漢王此(この)諌(いさめ)に付(つき)て即(すなはち)諸候に約し、三百(さんびやく)余万騎(よまんぎ)の勢にて項王を追懸給ふ。項羽(かうう)僅(わづか)十万騎(じふまんぎ)の勢を以て固陵(こりよう)に返し合(あはせ)て漢と相(あひ)戦ふ。漢の兵四十(しじふ)余万人(よまんにん)討(うた)れて引退(ひきしりぞ)く。是を聞て韓信、斉(せいの)国(くに)の兵三十万騎(さんじふまんぎ)を卒(そつ)して、寿春(じゆしゆん)より廻(まはつ)て楚と戦ふ。彭越(はうゑつ)、彭城(はうせい)の兵二十万騎(にじふまんぎ)を卒(そつ)して、城父(せいほ)を経(へ)て楚の陣へ寄せ、敵の行(ゆく)前(さき)を遮(さえぎつ)て張陣。大司馬周殷(しういん)、九江の兵十万騎(じふまんぎ)を卒(そつ)して、楚の陣へ押(おし)寄せ水を阻(へだて)て取(とり)篭(こむ)る。東南西北悉(ことごとく)百重(ひやくぢゆう)千重(せんぢゆう)に取(とり)巻(まき)たれば、項羽(かうう)可落方無(なく)て、垓下(がいか)の城(じやう)にぞ被篭ける。漢の兵是を囲める事数百重(すひやくぢゆう)、四面皆楚歌するを聞て項羽(かうう)今宵(こよひ)を限(かぎり)と思はれければ、美人虞氏(ぐし)に向て、泪(なみだ)を流し詩を作(つくつ)て悲歌慷慨(ひかかうがい)し給ふ。虞氏悲(かなしみ)に不堪、剣を給(たまはつ)て自(みづから)其(その)刃(やいば)に貫(つらぬか)れて臥(ふし)ければ、項羽(かうう)今は浮世に無思事と悦(よろこび)て、夜明(あけ)ければ、討残されたる兵二十八騎を伴ふて、先(まづ)四面を囲みぬる漢の兵百万余騎(よき)を懸(かけ)破り、烏江(をうがう)と云川の辺に打出給ひ、自(みづから)泪(なみだ)を押(おさへ)て其(その)兵に語(かたつ)て曰(いはく)、「吾兵を起してより以来、八箇年(はちかねん)の戦に、自(みづから)逢(あふ)事七十(しちじふ)余戦、当る所は必(かならず)破る、撃つ所は皆服す。未(いまだ)嘗(はじめ)より一度(いちど)も不敗北遂に覇(は)として天下を有(たも)てり。然(しかれ)共(ども)今勢(いきほ)ひ尽(つき)力衰(おとろ)へて漢の為に被亡ぬる事、全(まつたく)非戦罪只天我を亡(ほろぼ)す者也(なり)。故(ゆゑ)に今日の戦に、我必(かならず)快(こころよ)く三度(さんど)打勝て、而も漢の大将の頚を取(とり)、其旗を靡(なび)かして、誠(まこと)に我(わが)言(いふ)処の不誤事を汝等にしらすべし。」とて、二十八騎を四手に分(わけ)、漢の兵百万騎を四方(しはう)に受て控(ひか)へたる処に、先(まづ)一番に漢の将軍淮陰侯(わいいんこう)、三十万騎(さんじふまんぎ)にて押(おし)寄(よせ)たり。項羽(かうう)二十八騎を迹(あと)に立て、真前(まつさき)に懸(かけ)入(いつ)て、自(みづから)敵三百(さんびやく)余騎(よき)斬(きつ)て落(おと)し、漢(かんの)大将の首を取て鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て、本(もと)の陣へ馳(はせ)返り、山東にして見給へば、二十八騎の兵、八騎討れて二十騎(にじつき)に成にけり。其(その)勢を又三所に控(ひか)へさせて、近(ちかづ)く敵を待(まち)懸(かけ)たるに、孔(く)将軍(しやうぐん)二十万騎(にじふまんぎ)、費(ひ)将軍(しやうぐん)五十万騎(ごじふまんぎ)にて東西より押(おし)寄(よせ)たり。項王又大(おほい)に呼(をめい)て山東より馳(はせ)下(くだり)、両陣の敵を四角(しかく)八方(はつぱう)へ懸(かけ)散(ちら)し、逃(にぐ)る敵五百(ごひやく)余人(よにん)を斬(きつ)て落(おと)し、又大将都尉(とゐ)が頭を取(とり)、左の手に提(ひつさげ)て、本の陣へ馳(はせ)返り、其(その)兵を見給ふに纔(わづか)七騎に成(なり)にけり。項羽(かうう)自(みづから)漢の大将軍三人(さんにん)の頭を鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て指(さし)揚(あげ)、七騎の兵に向て、「何(いか)に汝等(なんぢら)我(わが)言(いふ)所に非(あら)ずや。」と問(とひ)給へば、兵皆舌を翻(ひるがへし)て、「誠(まこと)に大王の御言(おんことば)の如し。」と感じける。項羽(かうう)已(すで)に五十(ごじふ)余箇所(よかしよ)疵(きず)を被(かうむり)てければ、「今は是までぞ、さらば自害をせん。」とて、烏江(をうがう)の辺に打臨(うちのぞみ)給ふ。爰(ここ)に烏江の亭(てい)の長(ちやう)と云(いふ)者、舟を一艘(いつさう)漕(こぎ)寄せて、「此(この)川の向は項王の御手(おんて)に属(しよく)して、所々の合戦に討死仕りし兵共(つはものども)の故郷にて候。地狭(せば)しといへ共其(その)人数十万人あり。此(この)舟より外は可渡浅瀬もなく、又橋もなし。漢の兵至る共、何を以てか渡る事を得ん。願(ねがはく)は大王急ぎ渡て命をつぎ、重(かさね)て大軍を動かして、天下を今一度(ひとたび)覆(くつがへ)し給へ。」と申ければ、項王大(おほい)に哈(あざわらう)て、「天我を亡(ほろぼ)せり。我何(いか)んか渡る事をせん。我昔江東(かうとう)の子弟八千人(はつせんにん)と此(この)川を渡(わたつ)て秦を傾(かたぶ)け、遂(つひ)に天下に覇(は)として賞(しやう)未(いまだ)士卒に不及処に、又高祖(かうそ)と戦ふ事八箇年(はちかねん)、今其子弟一人も還(かへ)る者無(なく)して、我独(ひとり)江東に帰らば、縦(たとひ)江東の父兄(ふけい)憐(あはれん)で我を王とすとも、我何の面目有てか是(これ)に見(まみ)ゆる事を得ん。彼(かれ)縦(たとひ)不言共、我独(ひとり)心に不愧哉(や)。」とて、遂(つひ)に河を不渡給。され共(ども)、亭の長が其(その)志を感じて、騅(すゐ)と云(いひ)ける馬の一日に千里を翔(かけ)るを、只今(ただいま)まで乗(のり)給ひたるを下(くだし)て、亭の長にぞたびたりける。其(その)後歩立(かちだち)に成て、只三人(さんにん)猶(なほ)忿(いかつ)て立(たち)給へる所へ、赤泉侯(せきせんこう)騎将として二万(にまん)余騎(よき)が真前(まつさき)に進み、項王を生取(いけどら)んと馳(はせ)近付(ちかづく)。項王眼を瞋(いからか)し声を発(はつ)して、「汝何者(なにもの)なれば我を討(うた)んとは近付(ちかづく)ぞ。」と忿(いかつ)て立(たち)向(むかひ)給ふに、さしもの赤泉侯其(その)人こそあらめ、意(こころ)なき馬さへ振(ふる)ひ戦(わなない)て、小膝(こひざ)を折(をつ)てぞ臥(ふし)たりける。爰(ここ)に漢の司馬呂馬童(りよばどう)が遥(はるか)に控(ひかへ)たりけるを、項王手を挙(あげ)て招き、「汝は吾年来(としごろ)の知音(ちいん)也(なり)。我聞(きく)、漢我(わが)頭(くび)を以て千金の報(はう)万戸(ばんこ)の邑(いふ)に購(あがなふ)と、我今汝が為に頭を与(あたへ)て、朋友(ほういう)の恩を謝すべし。」と云。呂馬童(りよばどう)泪を流して敢(あへ)て項羽(かうう)を討んとせず。項羽(かうう)、「よしやさらば我と我(わが)頚(くび)を掻(かき)切(きつ)て、汝に与へん。」とて、自(みづから)剣を抜(ぬい)て己が首を掻(かき)落(おと)し、左の手に差(さし)挙(あげ)て立(たち)すくみにこそ死(しに)給ひけれ。項王遂(つひ)に亡(ほろび)て、漢七百(しちひやく)の祚(そ)を保(たもち)し事は、陣平・張良が謀(はかりこと)にて、偽(いつはつ)て和睦(わぼく)せし故(ゆゑ)也(なり)。其智謀今又当れり。然れば只直義入道が申(まうす)旨に任(まかせ)て先(まづ)御合体(ごがつてい)あらば、定(さだめ)て君を御位に即進(つけまゐら)せて、万機(ばんき)の政(まつりこと)を四海(しかい)に施(ほどこ)されん歟(か)。聖徳普(あまねく)して、士卒悉(ことごとく)帰服し奉らば、其(その)威(ゐ)忽(たちまち)に振(ふるひ)て逆臣等(げきしんら)を亡(ほろぼ)されんに、何の子細か候べき。」と、次での才学(さいかく)と覚へて、言(こと)ば巧(たくみ)に申されければ、諸卿げにもと同心して、即(すなはち)勅免の宣旨をぞ被下ける。被綸言云(いはく)、温故知新者、明哲之所好也(なり)。撥乱復正者、良将之所先也(なり)。而不忘元弘之旧功奉帰皇天之景命、叡感之至、尤足褒賞。早揚義兵可運天下静謐之策。者綸旨如此、仍執達如件。正平五年十二月十三日(じふさんにち)左京権大夫正雄奉足利左兵衛督入道殿(にふだうどの)とぞ被成ける。是ぞ誠(まこと)に君臣永(ながく)不快(ふくわい)の基(もとゐ)、兄弟忽(たちまち)向背の初(はじめ)と覚へて、浅猿(あさまし)かりし世間(よのなか)なり。


太平記(国民文庫)
太平記巻第二十九

○宮方(みやがた)京攻(きやうぜめの)事(こと) S2901
暫時(ざんじ)の智謀事(こと)成(なり)しかば、三条(さんでうの)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)入道慧源(ゑげん)と吉野殿(よしのどの)と御合体(ごがつてい)有て、慧源は大和の越智(をち)が許(もと)に坐(おはし)ければ、和田・楠を始として大和・河内・和泉・紀伊(きいの)国(くに)の宮方(みやがた)共(ども)、我(われ)も我(われ)もと三条殿(さんでうどの)に馳参(はせまゐ)る。是のみならず、洛中辺土(らくちゆうへんど)の武士共(ぶしども)も、面々に参ると聞へしかば、無弐(むに)の将軍方(しやうぐんがた)にて、楠退治(たいぢ)の為に、石河々原に向城(むかひじやう)を取て被居たりける畠山阿波将監(あはのしやうげん)国清も、其(その)勢(せい)千(せん)余騎(よき)にて馳参る。謳歌(おうか)の説巷(ちまた)に満(みち)て、南方(なんぱう)の勢已(すで)に京へ寄すると聞へけれ。京都の警固(けいご)にて坐(おはし)ける宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)義詮(よしのり)朝臣(あそん)より早馬(はやうま)を立て、備前の福岡(ふくをか)に、将軍九州下向の為とて座(おは)しける所へ、急を被告事頻並(しきなみ)也(なり)。依之(これによつて)将軍(しやうぐん)より飛脚を以て、越後守師泰が、石見の三角(みすみ)の城(じやう)退治(たいぢ)せんとて居たりけるを、其(その)国(くに)は兔(と)も角(かく)もあれ、先(まづ)京都一大事(いちだいじ)なれば、夜を日に継(つい)で可上洛(しやうらく)由をぞ被告ける。飛脚の行帰る程日数(ひかず)を経ければ、師泰が参否の左右を待(まつ)までもなしとて、将軍急(いそぎ)福岡を立て、に千(せん)余騎(よき)にて上洛(しやうらく)し給ふ。入道左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)此(この)由を聞て、さらば京都に勢の著(つか)ぬ前(さき)に、先(まず)義詮を責落(せめおと)せとて、観応二年正月七日、七千(しちせん)余騎(よき)にて八幡山(やはたやま)に陣を取る。桃井(もものゐ)右馬(うまの)権頭(ごんのかみ)直常、其比(そのころ)越中(ゑつちゆう)の守護(しゆご)にて在国したりけるが、兼て相図(あひづ)を定(さだめ)たりければ、同正月八日越中を立て、能登・加賀・越前の勢を相催(あひもよほ)し、七千(しちせん)余騎(よき)にて夜を日に継(つい)で責上(せめのぼ)る。折節雪をびたゝしく降(ふつ)て、馬の足も不立ければ、兵を皆馬より下(おろ)し、橇(かんじき)を懸(かけ)させ、二万(にまん)余人(よにん)を前に立て、道を蹈(ふま)せて過(すぎ)たるに、山の雪氷(こほつ)て如鏡なれば、中々馬の蹄(ひづめ)を不労して、七里(しちり)半(はん)の山中をば馬人容易(たやすく)越(こえ)はてゝ、比叡山(ひえいさん)の東坂本(ひがしさかもと)にぞ著(つき)にける。足利宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)義詮は其比(そのころ)京都に坐(おは)しけるが、八幡山(やはたやま)、比叡坂本に大敵を請(うけ)て、非可由断、著到(ちやくたう)を付(つけ)て勢を見よとて、正月八日より、日々に著到を被付けり。初日は三万騎(さんまんぎ)と註(しる)したりけるが、翌日(つぎのひ)は一万騎(いちまんぎ)に減ず。翌日は三千騎(さんぜんぎ)になる。是は如何様(いかさま)御方(みかた)の軍勢(ぐんぜい)敵になると覚ゆるぞ。道々に関を居(すゑ)よとて、淀・赤井・今路(いまみち)・関山(せきせん)に関を居(すゑ)たれば、関守共に打連(うちつれ)て、我(われ)も我(われ)もと敵に馳著(はせつき)ける程に、同(おなじき)十二日の暮程には、御内(みうち)・外様(とさま)の御勢(おんせい)五百騎(ごひやくき)に不足とぞ注(しる)したる。さる程に十三日(じふさんにち)の夜より、桃井(もものゐ)山上に陣を取(とり)ぬと見へて、大篝(おおかがり)を焼(た)けば、八幡山(やはたやま)にも相図(あひづ)の篝を焼(たき)つゞけたり。是を見て、仁木・細川以下宗(むね)との人人評定有て、「合戦は始終(しじゆう)の勝こそ肝要(かんえう)にて候へ。此(この)小勢にて彼(かの)大敵にあわん事、千に一も勝(かつ)事を難得覚(おぼえ)候。其(その)上(うへ)将軍(しやうぐん)已(すで)に西国(さいこく)より御上(おんのぼり)候なれば、今は摂津国(つのくに)辺にも著(つか)せ給(たまひ)て候(さうらふ)覧(らん)。只京都を無事故御開(ひらき)候(さふらひ)て、将軍の御勢(おんせい)と一になり、則(すなはち)京都へ寄(よせ)られ候はゞ、などか思ふ図(づ)に合戦一度(いちど)せでは候べき。」と被申ければ、義詮卿、「義は宜(よろしき)に順(したが)ふに不如。」とて、正月十五日早旦に、西国を差て落(おち)給へば、同日の午(うまの)刻(こく)に、桃井(もものゐ)都へ入(い)り替(かは)る。治承(ぢしよう)の古(いにし)へ平家都を落(おち)たりしか共(ども)、木曾(きそ)は猶(なほ)天台山に陣を取て十一日まで都へ不入。是(これ)全(まつたく)入洛(じゆらく)を非不急、敵を欺(あざむ)かざる故なり。又は軍勢(ぐんぜい)の狼藉(らうぜき)を静めん為なりき。武略に長(ちやう)ぜる人は、慎(つつし)む処加様(かやう)にこそ堅かるべし。今直常敵の落(おち)ぬといへばとて、人に兵粮(ひやうらう)をもつかはせず、馬に糠(ぬか)をもかはせず、楚忽(そこつ)に都へ入替る事其(その)要(えう)何事ぞや。敵若(もし)偽(いつはつ)て引退き、却(かへつ)て又寄(よせ)来(きたる)事あらば、直常打負ぬと云はぬ人こそ無りけれ。又桃井(もものゐ)を引(ひく)者は、敵御方勝負を決すべきならば、争(いかで)か敵を欺(あざむか)ざるべき。未(いまだ)落(おち)ぬ先にも入洛すべし。まして敵落(おち)なば、何しにすこしも擬議(ぎぎ)すべき。如何(いか)にも入洛(じゆらく)を急(いそぎ)てこそ、日比(ひごろ)の所存も達しぬべけれ。若(もし)敵偽(いつはつ)て引退き、又帰寄(かへしよす)る事あらば、京都にて尸(かばね)を曝(さら)したらん事何か苦(くるし)かるべき。又軍勢(ぐんぜい)の狼藉(らうぜき)は、入洛の遅速(ちそく)に依(よる)べからず。其(その)上(うへ)深き了簡もをはすらんと、申(まうす)族(やから)も多かりけり。
○将軍上洛(しやうらくの)事(こと)付(つけたり)阿保秋山河原(かはら)軍(いくさの)事(こと) S2902
義詮心細く都を落(おち)て、桂河を打渡り、向(むかふの)明神を南へ打過させ給(たまは)んとする処に、物集女(もづめ)の前西(にし)の岡(をか)に当て、馬煙(うまけぶり)夥(おびたた)しく立て、勢の多少は未見(いまだみず)、旗二三十流翻(ひるがへし)て、小松原(こまつばら)より懸出(かけいで)たり。義詮馬を控(ひかへ)て、「是は若(もし)八幡より搦手(からめて)に廻(まは)る敵にてや有らん。」とて、先(まづ)人をみせに被遣たれば、八幡の敵にはあらで、将軍と武蔵守(むさしのかみ)師直、山陽道(せんやうだう)の勢を駆具(かりぐ)し、二万(にまん)余騎(よき)を率(そつ)して上洛(しやうらく)し給ふにてぞ有ける。義詮を始奉て、諸軍勢(しよぐんぜい)に至るまで、只窮子(くうし)の他国より帰て、父の長者に逢へるが如(ごとく)、悦び合(あふ)事限(かぎり)なし。さらば軈(やがて)取て返して洛中(らくちゆう)へ打寄せ、桃井(もものゐ)を責落(せめおと)せと、将軍父子の御勢(おんせい)都合(つがふ)二万(にまん)余騎(よき)を桂川より三手(みて)に分て、大手は武蔵守(むさしのかみ)を大将として、仁木(につき)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)頼章(よりあきら)・舎弟(しやてい)右馬(うまの)権(ごんの)助(すけ)義長(よしなが)・細河(ほそかは)阿波(あはの)将監(しやうげん)清氏・今河駿河(するがの)守(かみ)、五千(ごせん)余騎(よき)四条(しでう)を東へ押寄(おしよす)る。佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)は、手勢七百(しちひやく)余騎(よき)を引分て、東寺の前を東へ打通(うちとほ)りて、今比叡(いまひえい)の辺に控(ひか)へ、大手の合戦半(なかば)ならん時、思(おもひ)も寄(よら)ぬ方より、敵の後(うしろ)へ蒐出(かけいで)んと、旗竿(はたざを)を引側(ひきそば)め笠符(かさじるし)を巻隠し、東山へ打上る。将軍と宰相(さいしやうの)中将殿(ちゆうじやうどの)は、一万(いちまん)余騎(よき)を一手(ひとて)に合(あはせ)、大宮(おほみや)を上(のぼり)に打通(うちとほ)り、二条(にでう)を東へ法勝寺(ほつしようじ)の前に打出んと、相図(あひづ)を定(さだめ)て寄せ給ふ。是は桃井(もものゐ)東山に陣を取たりと聞(きこえ)ければ、四条(しでう)より寄(よす)る勢に向て、合戦は定(さだめ)て川原(かはら)にてぞ有んずらん。御方偽(いつはつ)て京中(きやうぢゆう)へ引退(ひきしりぞ)かば、桃井(もものゐ)定(さだめて)勝(かつ)に乗(のつ)て進まん歟(か)、其(その)時(とき)道誉(だうよ)桃井(もものゐ)が陣の後へ蒐出(かけいで)て、不意に戦を致さば前後の大敵に遮(さへぎ)られて、進退度(ど)を失はん時、将軍の大勢北白河(きたしらかは)へ懸出て、敵の後へ廻る程ならば、桃井(もものゐ)武(たけ)しと云共(いふとも)引かではやはか戦(たたかふ)と、謀(はかりこと)を廻(めぐら)す処也(なり)。如案中の手大宮(おほみや)にて旗を下(おろ)して、直(すぐ)に四条川原(しでうがはら)へ懸出たれば、桃井(もものゐ)は東山を後(うしろ)にあて賀茂河を前に堺(さかう)て、赤旗一揆(いつき)・扇一揆(いつき)・鈴付(すずつけ)一揆(いつき)・二千(にせん)余騎(よき)を三所に控(ひかへ)て、射手(いて)をば面(おもて)に進ませ、帖楯(でふたて)二三百帖(にさんびやくでふ)つき並(なら)べて、敵懸らば共に蒐(かか)り合ふて、広みにて勝負を決せんと、静(しづま)り返て待懸(まちかけ)たり。両陣旗を上(あげ)て、時の声をば揚(あげ)たれ共(ども)、寄手(よせて)は搦手(からめて)の勢の相図を待て未(いまだ)懸(かけ)ず。桃井(もものゐ)は八幡の勢の攻寄(せめよせ)んずる程を待て、態(わざと)事を延(のば)さんとす。互に勇気を励(はげま)す程に、或(あるひ)は五騎十騎(じつき)馬を懸居懸廻(かけすゑかけまはし)、かけ引(ひき)自在に当らんと、馬を乗浮(のりうかぶる)もあり。或(あるひ)は母衣袋(ほろふくろ)より母衣(ほろ)取出して、是(ここ)を先途(せんど)の戦と思へる気色顕(あらは)れて、最後と出立(いでたつ)人もあり。斯(かか)る処に、桃井(もものゐ)が扇一揆(いつき)の中より、長(たけ)七尺(しちしやく)許(ばかり)なる男の、ひげ黒に血眼(ちまなこ)なるが、火威(ひをどし)の鎧に五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を)を縮(しめ)、鍬形(くはがた)の間に、紅(くれなゐ)の扇の月日出したるを不残開て夕陽(せきやう)に耀(かかや)かし、樫木(かしのき)の棒の一丈(いちぢやう)余(あま)りに見へたるを、八角に削(けづつ)て両方に石突(いしづき)入れ、右の小脇に引側(ひきそば)めて、白瓦毛(しろかはらけ)なる馬の太く逞(たくま)しきに、白泡かませて、只一騎(いつき)河原面(かはらおもて)に進出て、高声に申けるは、「戦場(せんぢやう)に臨(のぞ)む人毎(ひとごと)に、討死を不志云(いふ)者なし。然(しかれ)共(ども)今日の合戦には、某(それがし)殊更(ことさら)死を軽(かろん)じて、日来(ひごろ)の広言(くわうげん)をげにもと人に云(いは)れんと存(ずる)也(なり)。其(その)名人に知らるべき身にても候はぬ間、余(あまり)にこと/゛\しき様に候へ共、名字を申(まうす)にて候也(なり)。是は清和源氏の後胤(こういん)に、秋山新蔵人(しんくらんど)光政と申(まうす)者候。出王氏雖不遠、已(すで)に武略の家に生(うま)れて、数代只弓箭(きゆうせん)を把(とつ)て、名を高(たかく)せん事を存ぜし間、幼稚(えうち)の昔より長年(ちやうねん)の今に至(いたる)まで、兵法を哢(もてあそ)び嗜(たしな)む事隙(ひま)なし。但(ただし)黄石公(くわうせきこう)が子房(しばう)に授(さづけ)し所は、天下の為にして、匹夫(ひつぷ)の勇に非ざれば、吾未学(いまだまなばず)、鞍馬(くらま)の奥僧正(そうじやうが)谷にて愛宕(あたご)・高雄(たかを)の天狗共(てんぐども)が、九郎判官義経に授(さづけ)し所の兵法に於ては、光政是(これ)を不残伝へ得たる処なり。仁木・細河(ほそかは)・高家(かうけ)の御中に、吾と思はん人々名乗て是へ御出(おんいで)候へ。声花(はなやか)なる打物(うちもの)して見物の衆の睡(ねぶり)醒(さま)さん。」と呼(よば)は(ッ)て、勢(いきほ)ひ当りを撥(はらう)て西頭(にしがしら)に馬をぞ控(ひか)へたる。仁木・細河(ほそかは)・武蔵守が内に、手柄(てがら)を顕(あらは)し名を知(しら)れたる兵多(おほし)といへ共、如何思(おもひ)けん、互に目を賦(くばつ)て吾是に懸合て勝負をせんと云(いふ)者もなかりける処に、丹(たん)の党(たう)に阿保(あふ)肥後(ひごの)守(かみ)忠実(ただざね)と云ける兵、連銭葦毛(れんせんあしげ)なる馬に厚総(あつぶさ)懸て、唐綾威(をどし)の鎧(よろひ)竜頭(たつがしら)の甲(かぶと)の緒(を)を縮(し)め、四尺(ししやく)六寸(ろくすん)の貝鏑(かひしのぎ)の太刀を抜(ぬい)て、鞘(さや)をば河中へ投(なげ)入れ、三尺(さんじやく)二寸(にすん)の豹(へう)の皮の尻鞘(しりざや)かけたる金作(こがねづくり)の小太刀帯副(はきそへ)て、只一騎(いつき)大勢の中より懸出て、「事珍(めづら)しく耳に立(たて)ても承(うけたまは)る秋山殿の御詞(おんことば)哉(かな)。是は執事の御内(みうち)に阿保(あふ)肥前(ひぜんの)守(かみ)忠実と申(まうす)者にて候。幼稚の昔より東国に居住して、明暮(あけくれ)は山野(さんや)の獣(けだもの)を追ひ、江河の鱗(うろくづ)を漁(すなどつ)て業(げふ)とせし間、張良が一巻(いつくわん)の書をも呉氏・孫氏が伝へし所をも、曾(かつ)て名をだに不聞。され共変化時に応じて敵の為に気を発(はつ)する処は、勇士(ゆうし)の己(おの)れと心に得(う)る道なれば、元弘建武以後三百(さんびやく)余箇度(よかど)の合戦に、敵を靡(なび)け御方(みかた)を助け、強きを破り堅(かた)きを砕(くだ)く事其(その)数を不知(しらず)。白引(すびき)の精兵(せいびやう)、畠水練(はたけすゐれん)の言(ことば)にをづる人非じ。忠実が手柄の程試(こころみ)て後、左様の広言をば吐(き)給へ。」と高(たから)かに呼(よば)は(ッ)て、閑々(しづしづ)と馬をぞ歩ませたる。両陣の兵あれ見よとて、軍(いくさ)を止(とめ)て手を拳(にぎ)る。数万の見物衆は、戦場とも不云走(はしり)寄て、かたづを呑(のみ)て是を見る。誠(まこと)に今日(こんにち)の軍の花は、只是に不如とぞ見へたりける。相近(あひぢか)になれば阿保と秋山とにつこと打笑(うちわらう)て、弓手(ゆんで)に懸違(かけちが)へ馬手(めて)に開(ひらき)合て、秋山はたと打てば、阿保うけ太刀に成て請流(うけなが)す。阿保持て開(ひらい)てしとゞ切れば、秋山棒にて打側(うちそむ)く。三度(さんど)逢(あひ)三度(さんど)別ると見へしかば、秋山は棒を五尺(ごしやく)許(ばかり)切折(きりをら)れて、手本僅(わずか)に残り、阿保は太刀を鐔本(つばもと)より打折(うちをら)れて、帯添(はきぞへ)の小太刀許(ばかり)憑(たのみ)たり。武蔵守(むさしのかみ)是を見て、「忠実は打物取て手はきゝたれ共(ども)、力量(りきりやう)なき者なれば、力勝(ちからまさ)りに逢(あう)て始終は叶はじと覚(おぼゆ)るぞ、あれ討(うた)すな。秋山を射て落せ。」とぞ被下知。究竟(くつきやう)の精兵(せいびやう)七八人(しちはちにん)河原面(かはらおもて)に立渡て、雨の降るが如く散々に射る。秋山件(くだん)の棒を以て、只中(ただなか)を指(さし)て当る矢二十三筋(にじふさんすぢ)まで打落す。忠実も情ある者也(なり)ければ、今は秋山を討(うた)んともせず、剰(あまつさへ)御方(みかた)より射(いる)矢を制して矢面にこそ塞(ふさが)りけれ。かゝる名人を無代(むたい)に射殺さんずる事を惜(をしみ)て、制しけるこそやさしけれ。角(かく)て両方打除(うちのき)て、諸人の目をぞさましける。されば其比(そのころ)、霊仏霊社の御手向(おんたむけ)、扇団扇(あふぎうちは)のばさら絵にも、阿保・秋山が河原(かはら)軍とて書(かか)せぬ人はなし。其後合戦始て、桃井(もものゐ)が七千(しちせん)余騎(よき)、仁木・細河(ほそかは)が一万(いちまん)余騎(よき)と、白河を西へまくり東へ追靡(おひなび)け、七八度(しちはちど)が程懸(かけ)合(あひ)たるに、討(うた)るゝ者三百人(さんびやくにん)、疵(きず)を被(かうむ)る者数を不知(しらず)。両陣互に戦(たたかひ)屈(くつ)して控(ひかへ)息を継(つぐ)処に、兼(かねて)の相図を守て、佐々木(ささきの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)七百(しちひやく)余騎(よき)にて、思も寄らぬ中霊山(なかりやうぜん)の南より、時をどつと作て桃井(もものゐ)が陣の後(うしろ)へ懸(かけ)出たり。桃井(もものゐ)が兵是(これ)に驚きあらけて、二手(ふたて)に分(わかれ)て相(あひ)戦ふ。桃井(もものゐ)は西南の敵に破立られて、兵引色(ひきいろ)にみへける間、兄弟二人(ににん)態と馬より飛で下り、敷皮の上に著座して、「運は天にあり、一足(ひとあし)も引(ひく)事有べからず。只討死をせよ。」とぞ下知しける。去(さる)程(ほど)に日已(すで)に夕陽(せきやう)に及て、戦数剋(すこく)に成ぬれども、八幡の大勢は曾(かつて)不攻合せ、北国の兵気疲(つか)れて暫(しばらく)東山に引(ひき)上(あげ)んとしける処に、将軍並(ならびに)羽林(うりん)の両勢五千(ごせん)余騎(よき)、二条(にでう)を東へ懸(かけ)出て、桃井(もものゐ)を山上へ又引返させじと、跡を隔(へだて)てぞ取巻ける。桃井(もものゐ)終日(ひねもす)の合戦に入替る勢もなくて、戦疲れたる上、三方(さんぱう)の大敵に囲(かこま)れて、叶(かなは)じとや思(おもひ)けん、粟田口(あはたぐち)を東へ山科越(やましなごえ)に引(ひい)て行(ゆく)。され共尚(なほ)東坂本(ひがしさかもと)までは引返さで、其(その)夜は関山(せきさん)に陣を取て、大篝(おほかがり)を焼(たい)てぞ居たりける。
○将軍親子御退失事(こと)付(つけたり)井原(ゐはらの)石窟(いはやの)事(こと) S2903
将軍都へ立帰(たちかへり)給て、桃井(もものゐ)合戦に打負(うちまけ)ぬれば、今は八幡(やはた)の御敵(おんてき)共(ども)も、大略将軍へぞ馳参(はせまゐ)らんと、諸人推量を廻(めぐら)して、今はかうと思(おもは)れけるに、案に相違して、十五日の夜半許(ばかり)に、京都の勢又大半落て八幡の勢にぞ加(くはは)りける。「こはそも何事ぞ。戦(たたかひ)に利あれば、御方の兵弥(いよいよ)敵になる事は、よく早(はや)尊氏を背(そむ)く者多かりける。角(かく)ては洛中(らくちゆう)にて再び戦を致し難し。暫く西国の方へ引退(ひきしりぞい)て、中国の勢を催(もよほ)し、東国の者共(ものども)に牒(てふ)し合(あはせ)て、却(かへつ)て敵を責(せめ)ばや。」と、将軍頻(しきり)に仰(おほせ)あれば、諸人、「可然覚へ候。」と同(どう)じて、正月十六日(じふろくにち)の早旦に丹波路(たんばぢ)を西へ落給ふ。昨日は将軍都に立帰て桃井(もものゐ)戦(たたかひ)に負しかば、洛中(らくちゆう)には是を悦(よろこ)び八幡には聞て悲む。今日は又将軍都を落給て桃井(もものゐ)軈(やが)て入替ると聞へしかば、八幡には是を悦び洛中(らくちゆう)には潜(ひそか)に悲む。吉凶は糾(あざなへ)る縄の如く。哀楽(あいらく)時(とき)を易(かへ)たり。何を悦び何事を可歎共不定め。将軍は昨日都を東嶺(とうれい)の暁(あかつき)の霞と共に立隔(たちへだた)り、今日は旅を山陰(やまかげ)の夕(ゆふべ)の雲に引別(ひきわかれ)て、西国へと赴(おもむ)き給ひけるが、名将一処に集(あつま)らん事は計略なきに似たりとて、御子息(ごしそく)宰相(さいしやう)中将殿(ちゆうじやうどの)に、仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)・舎弟(しやてい)右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)を相副(あいそへ)て二千(にせん)余騎(よき)、丹波の井原(ゐはらの)石龕(いはや)に止めらる。此寺の衆徒(しゆと)、元来無弐(むにの)志を存せしかば、軍勢(ぐんぜい)の兵粮、馬の糟藁(ぬかわら)に至るまで、如山積上(つみあげ)たり。此(この)所は岸高く峯聳(そびえ)て、四方(しはう)皆嶮岨(けんそ)なれば、城郭(じやうくわく)の便りも心安(こころやす)く覚へたる上、荻野(をぎの)・波波伯部(はうかべ)・久下(くげ)・長沢(ながさは)、一人も不残馳参て、日夜(にちや)の用心(ようじん)隙(ひま)無(なか)りければ、他日窮困(きゆうこん)の軍勢共(ぐんぜいども)、只翰鳥(かんてう)の■(げき)を出、轍魚(てつぎよ)の水を得たるが如くにて、暫く心をぞ休めける。相公(しやうこう)登山(とうざん)し給(たまひ)し日より、岩室寺(いはやでら)の衆徒、坐(ざ)醒(さま)さずに勝軍(しようぐん)毘沙門(びしやもん)の法をぞ行(おこなひ)ける。七日に当りたりし日、当寺の院主雲暁(うんげう)僧都、巻数(くわんじゆ)を捧(ささ)げて参(まゐり)けり。相公則(すなはち)僧都に対面し給て、当寺開山の事の起り、本尊霊験(れいけん)顕(あらは)し給ひし様(やう)など、様々(さまざま)問(とひ)ける次(ついで)に、「さても何(いづ)れの薩■(さつた)を帰敬(ききやう)し、何(いか)なる秘法を修してか、天下を静め大敵を亡(ほろぼ)す要術(えうじゆつ)に叶ひ候べき。」と宣ひければ、雲暁僧都畏(かしこまつ)て申けるは、「凡(およそ)、諸仏薩■(さつた)の利生(りしやう)方便区々(まちまち)にして、彼を是(ぜ)し此を非(ひ)する覚へ、応用言(こと)ば辺々に候へば、何(いづ)れをまさり何れを劣たりとは難申候へども、須弥(しゆみ)の四方(しはう)を領(りやう)して、鬼門(きもん)の方を守護(しゆご)し、摧伏(さいぶく)の形を現(げん)じて、専ら勝軍(しようぐん)の利を施(ほどこ)し給ふ事は、昆沙門(びしやもん)の徳にしくは候べからず。是(これ)我(わが)寺の本尊にて候へばとて、無謂申(まうす)にて候はず。古(いにしへ)玄宗皇帝(くわうてい)の御宇(ぎよう)、天宝十二年に安西(あんせい)と申(まうす)所に軍起て、数万の官軍(くわんぐん)戦ふ度毎(たびごと)に打負(うちまけ)ずと云(いふ)事なし。「今は人力の及(およぶ)処に非(あら)ず如何(いか)がすべき。」と玄宗有司(いうし)に問給ふに、皆同(おなじ)く答て申さく、「是(これ)誠(まこと)に天の擁護(おうご)に不懸ば静むる事を難得。只不空三蔵(ふくうさんざう)を召(めさ)れて、大法を行(おこなは)せらるべき歟(か)。」と申ける間、帝則(すなはち)不空三蔵を召(めされ)て昆沙門(びしやもん)の法を行(おこなは)せられけるに、一夜(いちや)の中に鉄(くろがね)の牙(きば)ある金鼠(きんそ)数百万安西(あんせい)に出来て、謀叛(むほん)人の太刀・々(かたな)・甲(かぶと)・胄(よろひ)・矢の筈(はず)・弓の弦に至(いたる)まで、一も不残食破(くひやぶ)り食切(くひきり)、剰(あまつさへ)人をさへ咀殺(かみころ)し候(さふらひ)ける程に、凶徒(きようと)是を防(ふせ)ぎかねて、首(かうべ)をのべて軍門に降(くだり)しかば、官軍(くわんぐん)矢の一をも不射して若干(そくばく)の賊徒(ぞくと)を平げ候き。又吾朝(わがてう)に朱雀(しゆしやく)院(ゐん)の御宇に、金銅(こんどう)の四天王(してんわう)を天台山に安置(あんぢ)し奉て、将門を亡(ほろぼ)されぬ。聖徳太子(しやうとくたいし)昆沙門(びしやもん)の像を刻(きざみ)て、甲(かぶと)の真甲(まつかふ)に戴(いただい)て、守屋の逆臣(げきしん)を誅(ちゆう)せらる。此等の奇特(きどく)世の知(しる)処、人の仰(あふ)ぐ処にて候へば、御不審(ごふしん)あるべきに非(あら)ず。然るに今武将幸(さいはひ)に多門(たもん)示現(じげん)の霊地(れいち)に御陣を召(めさ)れ候事、古(いにしへ)の佳例(かれい)に違(ちがふ)まじきにて候へば、天下を一時に静(しづめ)られて、敵軍を千里の外に掃(はら)はれ候(さうらは)ん事、何の疑か候べき。」と、誠憑(たのも)し気に被申たりければ、相公(しやうこう)信心を発(おこさ)れて、丹波(たんばの)国(くに)小川(こかはの)庄(しやう)を被寄附、永代の寺領にぞ被成ける。
○越後守自石見引返事(こと) S2904
越後(ゑちごの)守(かみ)師泰は、此(この)時(とき)まで三角(みすみの)城(じやう)を退治(たいぢ)せんとて猶(なほ)石見(いはみの)国(くに)に居たりけるを、師直が許(もと)より飛脚を立(たて)て、「摂津(せつつの)国(くに)播磨(はりま)の間に合戦(かつせんの)事已(すで)に急也(なり)。早く其(その)国(くに)の合戦を閣(さしおい)て馳上(はせのぼ)らるべし。若(もし)中国の者共(ものども)かゝる時の弊(つひえ)に乗(のつ)て、道を塞(ふさが)んずる事もや有んずらんと存(ぞんじ)候間、武蔵五郎を兼(かね)て備前へ差遣(さしつかは)す。中国の蜂起(ほうき)を静めて、待申べし。」とぞ告たりける。越後(ゑちごの)守(かみ)此(この)使に驚て石見を立て上(のぼ)れば、武蔵五郎の相図を違(ちが)へじと播磨(はりま)を立て、備後の石崎(いはさき)にぞ付(つき)にける。将軍は八幡(やはた)比叡山(ひえいさん)の敵に襲(おそは)れて、播磨(はりま)の書写(しよしや)坂本へ落下り、越後(ゑちごの)守(かみ)は三角(みすみの)城(じやう)を責兼(せめかね)て、引退(ひきしりぞく)と聞へしかば、上杉弾正少弼(だんじやうせうひつ)八幡より舟路(ふなぢ)を経て、備後の鞆(とも)へあがる。是を聞て備後・備中・安芸・周防の兵共(つはものども)、我劣(おとら)じと馳付(はせつき)ける程に、其(その)勢雲霞の如(ごとく)にて、靡(なびか)ぬ草木もなかりけり。去(さる)程(ほど)に武蔵五郎、越後守を待付(まちつけ)て、中国には暫(しばし)も逗留(とうりう)せず、やがて上洛(しやうらく)すと聞へければ、上杉取(とる)物も取敢(とりあへ)ず、跡を追て打止(うちとめ)よとて、其(その)勢二千(にせん)余騎(よき)、正月十三日(じふさんにち)の早旦に、草井地(くさゐぢ)より打立て、跡を追てぞ寄にける。越後(ゑちごの)守(かみ)は夢にも是を知(しら)ず、片時(へんし)も行末を急ぐ道なれば、疋馬(ひつば)に鞭を進(すすめ)て勢山(せやま)を打越(うちこえ)ぬ。小旗(こばた)一揆(いつき)・川津(かはづ)・高橋・陶山(すやま)兄弟は、遥(はるか)の後陣(ごぢん)に引殿(ひきおくれ)て、未(いまだ)竜山(たつやま)の此方(こなた)に支(ささへ)たり。先陣後陣(せんぢんごぢん)相阻(あひへだたつ)て勢の多少も見分ねば、上杉が先懸(さきがけ)の五百(ごひやく)余騎(よき)、一の後陣(ごぢん)に打(うち)ける陶山が百(ひやく)余騎(よき)の勢を目に懸て、楯のはを敲(たたい)て時を作る。陶山元来軍の陣に臨(のぞ)む時、仮(かり)にも人に後(うしろ)を見せぬ者共(ものども)なれば、鬨(ときのこゑ)を合(あはせ)て、矢一筋(ひとすぢ)射違(いちがふ)るほどこそあれ、大勢の中へ懸入て責(せめ)けれども、魚鱗鶴翼(ぎよりんかくよく)の陣、旌旗電戟(せいきでんげき)の光、須臾(しゆゆ)に変化(へんくわ)して、万方(ばんぱう)に相当れば、野草(やさう)紅(くれなゐ)に染(そみ)て汗馬(かんば)の蹄(ひづめ)血を蹴(け)たて、河水派(みなまた)せかれて、士卒(しそつ)の尸(かばね)忽(たちまち)流れをたつ。かゝりけれども、前陣は隔(へだたつ)て知(しら)ず、後陣(ごぢん)にはつゞく御方(みかた)もなし。只今(ただいま)を限(かぎり)と戦(たたかひ)ける程に、陶山又次郎高直(たかなほ)、脇の下・内胄(うちかぶと)・吹返(ふきかへし)の迦(はづれ)、三所(みところ)突(つか)れて打(うた)れにけり。弟(おとと)の又五郎是(これ)を見て、哀れよからんずる敵に組(くん)で、指違(さしちがへ)ばやと思(おもふ)処に、火威(ひをどし)の鎧紅(くれなゐ)の母衣(ほろ)懸たる武者一騎(いつき)、合近(あひぢか)に寄合ふたる。「誰(た)そ。」と問(とへ)ば、土屋(つちや)平三と名乗(なのる)。陶山莞爾(につこ)と笑(わらう)て、「敵をば嫌(きらふ)まじ、よれ組(くま)ん。」と云(いふ)侭(まま)に、引組で二疋が中へどうど落(おつ)る。落付(おちつく)処にて、陶山上になりければ、土屋を取て押(おさへ)て頚(くび)をかゝんとするを見て、道口(みちくち)七郎(しちらう)落合て陶山が上に乗懸(のりかか)る。陶山下(さんげ)なる土屋をば左の手にて押へ、上なる道口をかい掴(つかん)で、捩頚(ねぢくび)にせんと振返(ふりかへり)て見ける処を、道口が郎等(らうどう)落重て陶山がひつしきの板を畳上(たたみあげ)、あげさまに三刀(みかたな)指(さし)たりければ、道口・土屋は助(たすかり)て陶山は命を留(とどめ)たり。陶山が一族(いちぞく)郎等(らうどう)是(これ)を見て、「何の為に命を惜(をし)むべき。」とて、長谷(はせの)与一・原(はらの)八郎左衛門(はちらうざゑもん)・小池新平衛以下の一族(いちぞく)若党共(わかたうども)、大勢の中へ破(わつ)ては入(いり)、/\、一足(ひとあし)も引(ひか)ず皆切死(きりじに)にこそ死にけれ。上杉若干(そくばく)の手(ての)者を打(うた)せ乍(なが)ら、後陣(ごぢん)の軍には勝にけり。宮(みや)下野(しもつけの)守(かみ)兼信は、始(はじめ)七十騎(しちじつき)にて中の手に有けるが、後陣(ごぢん)の軍に御方(みかた)打負(うちまけ)ぬと聞て、何(いつ)の間にか落失(おちうせ)けん、只六騎に成にけり。兼信四方(しはう)を屹(きつ)と見て、「よし/\有るにかいなき大臆病(おくびやう)の奴原(やつばら)は、足纏(あしまとひ)に成(なる)に、落失(おちうせ)たるこそ逸物(いちもつ)なれ。敵未(いまだ)人馬の息を休(やすめ)ぬ先に、倡(いざや)懸(かか)らん。」と云侭(いふまま)に、六騎馬の鼻を双(ならべ)て懸入(かけいる)。是(これ)を見て、小旗(こばた)一揆(いつき)に、河津・高橋、五百(ごひやく)余騎(よき)喚(をめい)て懸りける程に、上杉が大勢跡より引立(ひきたち)て、一度(いちど)も遂に返さず、混引(ひたひき)に引(ひき)ける間、上杉深手を負(おふ)のみに非(あら)ず、打(うた)るゝ兵三百(さんびやく)余騎(よき)、疵(きづ)を蒙(かうむ)る者は数を知(しら)ず。其(その)道三里が間には、鎧・腹巻・小手・髄当(すねあて)・弓矢・太刀・々(かたな)を捨(すて)たる事、足の踏所(ふみどころ)も無りけり。備中の合戦には、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰念なく打勝(うちかち)ぬ。是(これ)より播磨(はりま)までは、道のほど異なる事あらじと思(おもふ)処に、美作(みまさかの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、芳賀(はが)・角田(つのだ)の者共(ものども)相集て七百(しちひやく)余騎(よき)、杉坂(すぎさか)の道を切塞(きりふさい)で、越後(ゑちごの)守(かみ)を打留んとす。只今(ただいま)備中の軍に打勝て、勢(いきほ)ひ天地を凌(しの)ぐ河津・高橋が両(りやう)一揆(いつき)、一矢(ひとや)をも射させず、抜(ぬき)つれて懸りける程に、敵一たまりもたまらず、谷底へまくり落(おち)て、大略皆討(うた)れにけり。両国の軍に事故なく打勝て、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰・武蔵五郎師夏、喜悦(きえつ)の眉(まゆ)を開き、観応二年二月に、将軍の陣を取てをわしける書写(しよしや)坂本へ馳(はせ)参る。
○光明寺合戦(かつせんの)事(こと)付(つけたり)師直怪異(けいの)事(こと) S2905
去(さる)程(ほど)に八幡より、石堂(いしたう)右馬(うまの)権頭(ごんのかみ)を大将にて、愛曾(あそ)伊勢(いせの)守(かみ)、矢野(やのの)遠江守(とほたふみのかみ)以下五千(ごせん)余騎(よき)にて書写坂本へ寄(よら)んとて下向しけるが、書写坂本へは越後(ゑちごの)守(かみ)が大勢にて著たる由を聞て、播磨(はりま)の光明寺に陣を取て、尚(なほ)八幡へ勢をぞ乞(こは)れける。将軍此(この)由を聞給て、光明寺に勢を著(つか)ぬ前(さき)に、先(まず)是(これ)を打散(ちら)さんとて、同(おなじき)二月三日将軍書写坂本を打立て、一万(いちまん)余騎(よき)の勢を卒(そつし)、光明寺の四方(しはう)を取巻(とりまき)給ふ。石堂(いしたう)城(じやう)を堅(かため)て光明寺に篭(こもり)しかば、将軍は引尾(ひきを)に陣を取り、師直は泣尾(なきを)に陣をとる。名詮自性(みやうせんじしやう)の理(ことわり)寄手(よせて)の為に、何(いづ)れも忌々(いまいま)しくこそ聞へけれ。同四日より矢合(やあはせ)して、寄手(よせて)高倉(たかくら)の尾(を)より責上(せめのぼ)れば、愛曾(あそ)は二王堂の前に支(ささへ)て相戦ふ。城中(じやうちゆう)には死生(ししやう)不知のあぶれ者共(ものども)、此(ここ)を先途(せんど)と命を捨(すて)て戦ふ。寄手(よせて)は功(こう)高く禄(ろく)重き大名共(だいみやうども)が、只御方の大勢を憑(たの)む許(ばかり)にて、誠(まこと)に吾(われ)一大事(いちだいじ)と思入たる事なければ、毎日の軍に、城の中勝(かつ)に不乗云(いふ)事なし。赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)は、七百(しちひやく)余騎(よき)にて泣尾(なきを)へ向ひたりけるが、遥(はるか)に城の体(てい)を見て、「敵は無勢(ぶせい)なりけるを、一責(ひとせめ)々(せめ)て見よ。」と下知しければ、浦上(うらかみ)七郎兵衛行景(ゆきかげ)・同五郎左衛門(ごらうざゑもん)景嗣(かげつぐ)・吉田弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)盛清(もりきよ)・長田(ながた)民部(みんぶの)丞(じよう)資真(すけさね)・菅野(すげの)五郎左衛門(ごらうざゑもん)景文(かげぶん)、さしも岨(けは)しき泣尾(なきを)の坂を責上(せめのぼつ)て、掻楯(かいだて)の際(きは)まで著(つき)たりける。此(この)時(とき)に自余(じよ)の道々よりも寄手(よせて)同時に責上る程ならば、城をば一息に攻落すべかりしを、何となくとも今宵(こよひ)か明日(あす)か心落(こころおち)に落(おち)んずる城を骨折(ほねをり)に責(せめ)ては何(なに)かすべきとて、数万の寄手(よせて)徒(いたづら)に見物して居たりければ、浦上七郎兵衛を始として、責入(せめいる)寄手(よせて)一人も不残掻楯の下に射臥(いふせ)られて、元の陣へぞ引返しける。手合の合戦に敵を退(しりぞけ)て城中(じやうちゆう)聊(いささか)気を得たりといへ共、寄手(よせて)は大勢也(なり)。城の構(かまへ)未拵(いまだこしらへず)、始終いかゞ有(ある)べからんと、石堂・上杉安き心も無(なか)りける処に、伊勢の愛曾(あそ)が召仕ひける童(わらは)一人、俄(にはか)に物に狂(くるう)て、十丈(じふぢやう)許(ばかり)飛上りて跳(をど)りけるが、「吾に伊勢太神宮乗居(のりゐ)させ給て、此(この)城(じやう)守護(しゆご)の為に、三本杉の上に御坐(ござ)あり。寄手(よせて)縦(たとひ)何(いか)なる大勢なりとも、吾角(かく)てあらん程は城を被落事有べからず。悪行(あくぎやう)身を責(せめ)、師直・師泰等(もろやすら)、今七日が中に滅(ほろぼ)さんずるをば不知や。あらあつや堪(たへ)がたや。いで三熱(さんねつ)の焔(ほのほ)さまさん。」とて、閼伽井(あかゐ)の中へ飛漬(とびつか)りたれば、げにも閼伽井の水湧(わき)返てわかせる湯の如し。城中(じやうちゆう)の人々是を聞て渇仰(かつがう)の首(かうべ)を不傾云(いふ)事なし。寄手(よせて)の赤松(あかまつ)律師(りつし)も此(この)事を伝(つたへ)聞て、さては此(この)軍墓々(はかばか)しからじと、気に障(さは)りて思(おもひ)ける処に、子息肥前(ひぜんの)権守(ごんのかみ)朝範(とものり)が、胄(かぶと)を枕にして少し目睡(まどろみ)たる夢に、寄手(よせて)一万(いちまん)余騎(よき)同時に掻楯(かいだて)の際(きわ)に寄て火を懸しかば、八幡山(やはたやま)・金峯山(きんぶぜん)の方より、山鳩(やまはと)数千(すせん)飛来て翅(つばさ)を水に浸(ひた)して、櫓(やぐら)掻楯(かいだて)に燃著(もえつく)火を打消(うちけす)とぞ見へたりける。朝範軈(やが)て此(この)夢を則祐に語る。則祐是(これ)を聞て、「さればこそ此(この)城(じやう)を責(せめ)落さん事有難(ありがた)しなどやらんと思(おもひ)つるが、果して神明の擁護(おうご)有けり。哀(あはれ)事の難義にならぬ前に引て帰らばや。」と思(おもひ)ける処に、美作(みまさか)より敵起て、赤松へ寄する由聞へければ、則祐(そくいう)光明寺の陣を捨(すて)て白旗(しらはたの)城(じやう)へ帰にけり。軍の習(ならひ)、一騎(いつき)も勢の加(くはは)る時には人の心勇(いさ)み、一人もすく時は兵の気たゆむ習(ならひ)なれば、寄手(よせて)の勢次第に減ずるを見て、武蔵守(むさしのかみ)が兵共(つはものども)弥(いよいよ)軍(いくさ)懈(おこたつ)て、皆帷幕(ゐばく)の中に休息(きうそく)して居たりける処に、巽(たつみ)の方より怪気(あやしげ)なる雲一群(ひとむら)立出て風に随(したがつ)て飛揚(ひやう)す。百千万の鳶烏(とびからす)其(その)下に飛(とび)散(ちつ)て、雲居る山の風早み、散乱(ちりみだ)れたる木葉(このは)の空(そら)にのみして行(ゆく)が如し。近付(ちかづく)に随て是(これ)を見れば、雲にも霞にも非(あら)ず、無文(むもん)の白旗一流(ひとながれ)天より飛降(とびさがる)にてぞ有ける。是(これ)は八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の擁護(おうご)の手を加へ給ふ奇瑞(きずゐ)也(なり)。此(この)旗の落留らんずる方ぞ軍には打勝(うちかた)んずらんとて、寄手(よせて)も城中(じやうちゆう)も手を叉(あざ)へ礼を成して、祈念を不致云(いふ)人なし。此旗城の上に飛上飛下(とびあがりとびさがつ)て暫(しばら)く翩翻(へんほん)しけるが、梢の風に吹(ふか)れて又寄手(よせて)の上に翻(ひるがへ)る。数万(すまん)の軍勢(ぐんぜい)頭(かうべ)を地に著て、吾(わが)陣に天降(あまくだ)せら給ふと信心を凝(こら)す処に、飛鳥(ひてう)十方に飛散(とびちつ)て、旗は忽(たちまち)に師直が幕の中にぞ落たりける。諸人同(おなじ)く見て、「目出(めでた)し。」と感じける声、暫(しば)しは静(しづま)りも得ざりけり。師直甲(かぶと)を脱(ぬい)で、左の袖に受留(うけと)め、三度(さんど)礼して委(くはし)く是(これ)を見れば、旌(はた)にはあらで、何(なに)共(とも)なき反古(ほんぐ)を二三十枚続集(つぎあつめ)て、裏に二首の歌をぞ書たりける。吉野山峯の嵐のはげしさに高き梢(こずゑ)の花ぞ散(ちり)行(ゆく)限(かぎり)あれば秋も暮ぬと武蔵野の草はみながら霜枯(しもがれ)にけり師直傍(かた)への人に、「此(この)歌の吉凶(きつきよう)何(いかが)ぞ。」と問(とひ)ければ、聞(きく)人毎(ひとごと)に、穴(あな)浅猿(あさまし)や、高き梢の花ぞ散行(ちりゆく)とあるは、高家の人可亡事にやあるらん。然(しか)も吉野山峯の嵐のはげしさにとあるも、先年蔵王堂(ざわうだう)を被焼たりし罪、一人にや帰(き)すらん。武蔵野の草はみながら霜枯(かれ)にけりとあるも、名字(みやうじ)の国なれば、旁(かたがた)以(もつて)不吉なる歌と、忌々(いまいま)しくは思ひけれ共(ども)、「目出(めでた)き歌共にてこそ候へ。」とぞ会尺(えしやく)しける。
○小清水(こしみづ)合戦(かつせんの)事(こと)付(つけたり)瑞夢(ずゐむの)事(こと) S2906
去程(さるほど)に其(その)日(ひ)の暮程に、摂津国(つのくに)の守護(しゆご)赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)、使者を以て申けるは、「八幡より石堂中務大輔(いしたうなかつかさのたいふ)・畠山阿波(あはの)守(かみ)国清・上杉蔵人(くらんどの)大夫(たいふ)を大将にて、七千(しちせん)余騎(よき)を光明寺の後攻(ごづめ)の為にとて、被差下也(なり)。前には光明寺の城(じやう)堅(かた)く守て、後(うしろ)に荒手(あらて)の大敵懸りなば、ゆゝしき御大事(おんだいじ)にて候べし。只先(まづ)其(その)城(じやう)をば閣(さしおか)れ候(さふらひ)て、討手の下向(げかう)を相支(あひささ)へ、神尾(かんのう)・十林寺(じふりんじ)・小清水(こしみづ)の辺にて御合戦候はゞ、敵の敗北非疑処。御方一戦(いつせん)に利を得ば、敵所々に軍(いくさ)すと云ふ共、いつまでか怺(こら)へ候べき。是只一挙(いつきよ)に戦を決して、万方に勝事(かつこと)を計る処にて候べし。」と、追々早馬(はやうま)を打(うた)せて、一日に三度(さんど)までこそ申されけれ。将軍を始奉て師直・師泰に至るまで、げにも聞ゆる如(ごとく)ならば、敵は小勢也(なり)。御方は是に十倍せり。岨(けは)しき山の城(じやう)を責(せむ)ればこそ叶はね、平場(ひらば)に懸合(かけあひ)て勝負を決せんに、御方不勝と云(いふ)事不可有。さらば此(この)城(じやう)を閣(さしおい)て、先(まづ)向(むかふ)なる敵に懸(かか)れとて、二月十三日(じふさんにち)、将軍も執事兄弟も、光明寺の麓を御立(おんたち)有て兵庫湊川(ひやうごのみなとがは)へ馳(はせ)向はる。畠山阿波(あはの)守(かみ)国清は、三千(さんぜん)余騎(よき)にて播磨(はりま)の東条(とうでう)に有けるが、此(この)事を聞て、さては何(いづ)くにてもあれ、執事兄弟のあらんずる所へこそ向(むかは)めとて、湯山(ゆのやま)を南へ打越(うちこえ)て、打出(うちで)の北なる小山に陣をとる。光明寺に楯篭(たてこもり)つる石堂右馬(うまの)頭(かみ)・上杉左馬(さまの)助(すけ)も光明寺をば打捨(うちすて)て皆畠山が陣へ馳加(はせくはは)る。同(おなじき)十七日(じふしちにちの)夜、将軍執事(しつじ)の勢二万(にまん)余騎(よき)御影浜(みかげのはま)に押寄(おしよせ)、追手(おふて)搦手(からめて)二手(ふたて)に分らる。「軍は追手(おふて)より始て戦(たたかひ)半(なかば)ならん時、搦手(からめて)の浜の南より押寄(おしよせ)て、敵を中に取篭(とりこめ)よ。」と被下知ける。薬師寺次郎左衛門(じらうざゑもん)公義(きんよし)は、今度の戦如何様(いかさま)大勢を憑(たのみ)て御方為損(しそん)じぬと思ひければ、弥(いよいよ)吾(わが)大事(だいじ)と気を励(はげま)しけるにや、自余(じよ)の勢(せい)に紛(まぎ)れじと、絹三幅(みはば)を長さ五尺(ごしやく)に縫合(ぬひあは)せて、両方に赤き手を著(つけ)たる旌(はた)をぞ差たりける。一族(いちぞく)の手勢二百(にひやく)余騎(よき)雀(すずめの)松原の木陰(こかげ)に控(ひかへ)て、追手(おふて)の軍(いくさ)今や始まると待(まつ)処に、兼(かね)ての相図(あひづ)なれば、河津左衛門(かはづさゑもん)氏明(うぢあきら)・高橋中務英光(ひでみつ)、大旌(おほはた)一揆(いつき)の六千(ろくせん)余騎(よき)、畠山が陣へ押寄(おしよせ)て時を作る。畠山が兵静(しづま)り返て、態(わざ)と時の声をも不合、此(ここ)の薮陰(やぶのかげ)、彼(かし)この木陰(こかげ)に立隠(たちかくれ)て、差攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)散々に射けるに、面(おもて)に立つ寄手(よせて)数百人(すひやくにん)、馬より真倒(まつさかさま)に射落されければ、後陣(ごぢん)はひき足に成て不進得。河津左衛門(かはづさゑもん)是(これ)を見て、「矢軍許(やいくさばかり)にては叶(かなふ)まじきぞ、抜て蒐(かか)れ。」と下知して、弓をば薮(やぶ)へからりと投(なげ)棄て、三尺(さんじやく)七寸(しちすん)の太刀を抜(ぬい)て、敵の群(むらが)りたる中へ会尺(ゑしやく)もなく懸入(かけいら)んと、一段(いちだん)高き岸の上へ懸上(かけあがり)ける処に、十方より鏃(やじり)を汰(そろへ)て射ける矢に、馬の平頚(ひらくび)草わき、弓手の小かいな、右の膝口、四所まで箆深(のぶか)に射られて、馬は小ひざら折てどうと臥す。乗手は朱(あけ)に成て下立(おりたつ)たり。是(これ)を見て畠山が二百(にひやく)余騎(よき)喚(をめい)て蒐(かか)りければ、跡に控(ひかへ)たる寄手(よせて)の大勢共荒手(あらて)を入替(いれかへ)て戦はんともせず、手負を助けん共せず。鞭(むち)に鐙(あぶみ)を合(あはせ)て一度(いちど)にはつとぞ引たりける。石堂右馬(うまの)頭(かみ)が陣は、是より十(じふ)余町(よちやう)を隔てたれば、未(いまだ)御方の打勝たるをも不知、「打出の浜に旌(はた)の三流(みながれ)見へたるは、敵か御方か見て帰れ。」と云(いは)れければ、原三郎左衛門(さぶらうざゑもん)義実(よしざね)只一騎(いつき)、馳向て是を見(みる)に、三幅(みはば)の小旗に赤き手を両方に著(つけ)たり。さては敵也(なり)と見課(みおほせ)て馳(はせ)帰(かへり)けるが、徒(いたづら)に馬の足を疲(つから)かさじとや思(おもひ)けん、扇を挙(あげ)て御方の勢をさし招き、「浜の南に磬(ひか)へたる勢(せい)は敵にて候ぞ。而(しか)も追手(おふて)の軍は御方打勝たりと見へ候。早懸らせ給へ。」と、声を挙てぞ呼(よばは)りける。元より気早(きばや)なる石堂・上杉の兵共(つはものども)是(これ)を聞て何かは少しも可思惟。七百(しちひやく)余騎(よき)の兵共(つはものども)、馬の轡(くつばみ)を並(なら)べて喚(をめい)て懸(かかり)けるに、薬師寺が迹に扣(ひかへ)たる執事兄弟の大勢共、未(いまだ)矢の一(ひとつ)をも不被射懸、捨鞭(すてむち)を打てぞ逃(にげ)たりける。梶原(かぢはら)孫六・同(おなじく)弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)二人(ににん)は追手(おふて)の勢の中に有て、心ならず御方に被引立六七町(ろくしちちやう)落(おち)たりけるが、後代の名をや恥(はぢ)たりけん、只二騎引返して大勢の中へ懸(かけ)入る。暫(しばし)が程は二人(ににん)一所にて戦(たたかひ)けるが、後には別々に成て、只命を限りとぞ戦(たたかひ)ける。孫六は敵三騎切て落(おと)して、裏へつと懸(かけ)抜たるに、続く御方もなく、又見とがむる敵も無りければ、紛(まぎ)れて助からんよと思(おもひ)て、笠符(かさじるし)を取て袖の下に収(をさ)め、西(にしの)宮(みや)へ打通て、夜に入(いり)ければ、小船(こぶね)に乗て将軍の陣へぞ参りける。弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)は偏(ひとへ)に敵に紛(まぎ)れもせず、懸(かけ)入ては戦ひ戦ひ、七八度(しちはちど)まで馬烟(うまけぶり)を立(たて)て戦(たたかひ)けるが、藤田小次郎と猪股(ゐのまた)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)と、二騎に被取篭討(うた)れにけり。後(のち)に、「あはれ剛(かう)の者や、誰と云(いふ)者やらん。名字を知(しら)ばや。」とて是(これ)を見るに、梅花を一枝(いつし)折て箙(えびら)の上に著(つけ)たり。さては元暦(げんりやく)の古(いにしへ)、一谷(いちのたに)の合戦に、二度(にど)の懸して名を揚(あげ)し梶原平三(へいざう)景時が、其(その)末にてぞ有らんと、名のらで名をぞ被知ける。薬師寺二郎左衛門(じらうざゑもん)公義は御方(みかた)の追手(おふて)搦手(からめて)二万(にまん)余騎(よき)、崩(くづ)れ懸て引(ひけ)共(ども)少(すこし)も不騒、二百五十騎(にひやくごじつき)の勢にて、石堂・上杉が七百(しちひやく)余騎(よき)の勢を山際(やまぎは)までまくり付(つけ)て、続く御方を待(まつ)処に、一騎(いつき)も扣(ひかへ)たる兵なければ、又浪打際に扣(ひかへ)て居たるに、石堂・畠山が大勢共、「手著(つけ)たる旌(はた)は薬師寺と見るぞ、一人も余すな。」とて追懸(おひかけ)たり。公義が二百五十騎(にひやくごじつき)、敵後に近付(ちかづけ)ば、一度(いちど)に馬を屹(きつ)と引返して戦ひ、敵先を遮(さへぎ)れば、一同にわつと喚(をめい)て懸破(かけやぶ)り、打出(うちでの)浜の東より御景(みかげの)浜の松原まで、十六度(じふろくど)迄返して戦(たたかひ)けるに、或(あるひ)は討(うた)れ或(あるひ)は敵に被懸散、一所に控(ひかへ)たる勢とては、弾正左衛門(だんじやうざゑもん)義冬(よしふゆ)・勘解由左衛門(かげゆざゑもん)義治(よしはる)、已上六騎に成にけり。兵共(つはものども)暫(しばらく)馬の息を継(つが)せて傍(かたはら)を屹(きつ)と見たるに、輪違(わちがひ)の笠符(かさじるし)著(つけ)たる武者一騎(いつき)、馬を白砂(しらす)に馳(はせ)通して、敵七騎に被取篭たり。弾正左衛門(だんじやうざゑもん)義冬是(これ)を見て、「是は松田左近(さこんの)将監(しやうげん)と覚(おぼゆ)る。目(めの)前にて討(うた)るゝ御方を不助云(いふ)事やあるべき。」とて、六騎抜連(ぬきつれ)て懸れば、七騎の敵引退(ひきしりぞき)て松田は命を助(たすかり)てげり。松田・薬師寺七騎に成て暫(しば)し扣(ひかへ)たる処、彼等(かれらが)手(て)の者共(ものども)彼方(かなた)より馳付(はせつい)て、又百騎(ひやくき)許(ばかり)に成(なり)ければ、石堂・畠山先懸(さきがけ)して兵を三町(さんちやう)許(ばかり)追返したるに、敵も勇気や疲(つか)れけん、其後よりは不追ければ、軍は此にて止にけり。薬師寺は鎧に立(たつ)処の矢少し折懸(をりかけ)て湊川へ馳帰(はせかへり)たれば、敵の旌(はた)をだにも不見して引返しつる二万(にまん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、勇気を失(うしなひ)、落方(おつるかた)を求(もとめ)て、只泥(どろ)に酔(よひ)たる魚の小水にいきづくに異(ことな)らず。さても合戦をつら/\案ずるに、勢の多少兵の勝劣(しようれつ)、天地各別(かくべつ)なり。何事にか是(これ)程(ほど)に無念可打負。是(これ)非直事と思ふに合て、其前(さき)の夜、武蔵五郎・河津左衛門(かはづさゑもん)と、少(すこし)も不替二人(ににん)見たりける夢こそ不思議(ふしぎ)なれ。所は何(いづ)く共不知渺々(べうべう)たる平野に、西には師直・師泰以下、高家の一族(いちぞく)其(その)郎従数万騎打集(うちあつまり)て、轡(くつばみ)を双(ならべ)て控(ひかへ)たる。東には錦小路(にしきのこうぢ)禅門・石堂・畠山・上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)、千(せん)余騎(よき)にて相向ふ。両陣鬨(ときのこゑ)を合(あは)せて、其(その)戦未(いまだ)半(なかばなる)時(とき)、石堂・畠山が勢旌(はた)を巻て引退く。師直・師泰勝に乗て追蒐(おひかく)る処に、雲の上より錦の旌(はた)一流(ひとながれ)差挙(さしあげ)て、勢の程百騎(ひやくき)許(ばかり)懸出たり。左右に分れたる大将を誰ぞと見れば、左は吉野の金剛蔵王(ざわう)権現、頭に角生(つのおひ)て八(やつ)の足ある馬に被召(めされ)たり。小守(こもり)勝手(かつて)の明神、金の鎧に鉄(くろがね)の楯を引側(ひきそば)めて、馬の前後に順(したが)ひ給ふ。右は天王寺(てんわうじ)の聖徳太子(しやうとくたいし)、甲斐(かひ)の黒駒(くろこま)に白鞍(くら)置て被召(めされ)たり。蘇我馬子(そがのむまこの)大臣甲胄(かつちう)を帯し、妹子(いもこの)大臣・跡見(あとみ)の赤梼(いちひ)・秦河勝(はだのかはかつ)、弓箭(きゆうせん)を取て真前(まつさき)に進む。師直・師泰以下の旌共、太子の御勢(おんせい)を小勢と見て、中に篭(こめ)て討(うた)んとするに、金剛蔵王御目をいらゝげて、「あれ射て落せ。」と下知(げぢ)し給へば、小守・勝手・赤梼(いちひ)・河勝(かはかつ)、四方(しはう)に颯(さつ)と走りけり。同時に引て放つ矢、師直・師泰・武蔵(むさしの)五郎・越後(ゑちごの)将監(しやうげん)が眉間(みけん)の真中を徹(とほつ)て、馬より倒(さかさま)に地を響(ひびか)して落(おつ)ると見て、夢は則(すなはち)醒(さめ)にけり。朝に此(この)夢を語て、今日の軍如何(いかが)あらんずらんと危ぶみけるが、果して軍に打負ぬ。此(この)後とても、角(かく)ては憑(たのも)しくも不思と、聞(きく)人心に思(おもは)ぬはなし。此夢の記録(きろく)吉野の寺僧(じそう)所持(しよぢ)して、其隠(そのかくれ)なき事也(なり)。
○松岡(まつをかの)城(じやう)周章(あわての)事(こと) S2907
小清水(こしみづ)の軍に打負(うちまけ)て、引退(ひきしりぞく)兵二万(にまん)余騎(よき)、四方(しはう)四町(しちやう)に足(たら)ぬ松岡(まつをか)の城(じやう)へ、我(われ)も我(われ)もとこみ入(いり)ける程に、沓(くつ)の子を打たるが如(ごとく)にて、少(すこし)もはたらくべき様も無(なか)りけり。角(かく)ては叶(かなふ)まじ、宗(むね)との人々より外(ほか)は内(うち)へ不可入とて、人の郎従若党(らうじゆうわかたう)たる者は、皆そとへ追出して、四方(しはう)の関(きどを)下(おろ)したれば、元来落心地(おちごこち)の付たる者共(ものども)、是に事名付(なづけ)て、「無憑甲斐執事の有様哉(かな)。さては誰が為にか討死をもすべき。」と、面々につぶやきて打連(うちつれ)/\(うちつれ)落行(おちゆく)。今は定(さだめ)て路々に敵有て、落得じと思ふ人は、或(あるひ)は釣(つり)する海人(あま)に紛(まぎ)れて、破れたる簔(みの)を身に纏(まと)ひ、福良(ふくら)の渡(わたし)・淡路(あはぢ)の迫門(せと)を、船にて落(おつ)る人もあり。或(あるひ)は草苅(くさかり)をのこに窶(やつれ)つゝ、竹の簣(あじか)を肩に懸(かけ)、須磨の上野(うへの)・生田(いくた)の奥へ、跣(はだし)にて逃(にぐ)る人もあり。運の傾(かたぶ)く僻(くせ)なれ共(ども)、臆病神(おくびやうがみ)の著(つき)たる人程見苦(みぐるし)き者はなし。夜已(すで)に深ければ、さしもせき合(あひ)つる城中(じやうちゆう)さび返て、更に人ありとも見へざりけり。将軍執事兄弟を召(めし)近付(ちかづけ)て宣(のたまひ)けるは、「無云甲斐者共(ものども)が、只一軍(ひといくさ)に負(まけ)たればとて、落行(おちゆく)事こそ不思議(ふしぎ)なれ。さりとも饗庭命鶴(あいばみやうづる)・高橋・海老名(えびな)六郎(ろくらう)は、よも落去(おちさら)じな。」と問給へば、「それも早落(おち)て候。」「長井治部少輔(ながゐぢぶのせう)・佐竹(さたけ)加賀は早落つるか。」「いやそれも皆落て候。」「さては残る勢幾程かある。」「今は御内(みうち)の御勢(おんせい)、師直が郎従・赤松信濃(しなのの)守(かみが)勢、彼是(かれこれ)五百騎(ごひやくき)に過(すぎ)候はじ。」と申せば、将軍、「さては世中(よのなか)今夜を限りござんなれ、面々に其用意(ようい)有べし。」とて、鎧をば脱(ぬぎ)て推除(おしのけ)小具足許(こぐそくばかり)になり給ふ。是(これ)を見て高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直・越後(ゑちごの)守(かみ)師泰・武蔵五郎師夏・越後(ゑちごの)将監(しやうげん)師世・高(かうの)豊前五郎・高(かうの)備前守・遠江(とほたふみの)次郎・彦部(ひこべ)・鹿目(かめ)・河津以下、高家の一族(いちぞく)七人(しちにん)、宗(むね)との侍二十三人(にじふさんにん)、十二間の客殿(きやくでん)に二行に坐を列(つらね)て、各諸天(しよてん)に焼香(せうかう)し、鎧直垂(よろひひたたれ)の上をば取て抛除(なげのけ)、袴許(はかまばかり)に掛羅(くわら)懸(かけ)て、将軍御自害(ごじがい)あらば御供(おんとも)申さんと、腰の刀に手を懸(かけ)て、静(しづま)り返てぞ居たりける。厩侍(むまやざぶらひ)には、赤松信乃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)上坐(じやうざ)して、一族(いちぞく)若党(わかたう)三十二人(さんじふににん)、膝を屈(くつ)して並居(なみゐ)たりけるが、「いざや最後の酒盛して、自害の思ひざしせん。」とて、大なる酒樽(さかだる)に酒を湛(たた)へ、銚子(てうし)に盃(さかづき)取副(そへ)て、家城(やぎ)源十郎師政酌(しやく)をとる。信濃(しなのの)守(かみの)次男信濃五郎直頼(なほより)が、此年十三にて内に有けるを、父呼出し、「鳥之将死其鳴也(なり)。哀(とりのまさにしなんとするときそのなくことやなし)。人之将死其言也(なり)。善(ひとのまさにしなんとするときそのいふことよし)と云(いへ)り。吾(わが)一言汝が耳に留(とどま)らば、庭訓(ていきん)を不忘、身を慎(つつしみ)て先祖を恥(はぢ)しむる事なかるべし。将軍已(すで)に御自害(ごじがい)あらんずる間、範資も御供(おんとも)申さんずるなり。日来(ひごろ)の好(よしみ)を思はゞ家の子若党共(わかたうども)も、皆吾と共に無力死に赴(おもむ)かんとぞ思定(おもひさだめ)たるらん。但汝は未(いまだ)幼少なり。今共に腹を不切共、人強(あながち)に指をさす事有まじ。則祐(そくいう)已(すで)に汝を猶子(いうし)にすべき由(よし)、兼(かね)て約束有しかば、赤松へ帰て則祐を真(まこと)の父と憑(たのみ)て、生涯を其安否(そのあんぴ)に任(まか)するか、不然は又僧法師にもなりて、吾(わが)後生をも訪(とぶ)らひ汝が身をも助かるべし。」と、泣々(なくなく)庭訓を残して涙を押拭(おしのご)へば、坐中の人々げにもと、同(おなじ)く涙を流しけれ。直頼熟(つくづく)と父の遺訓(ゆゐきん)を聞て、扇取直(とりなほ)して申けるは、「人の幼少(えうせう)程と申(まうす)は、五(いつつ)や六(むつ)や乃至(ないし)十歳に足(たら)ぬ時にてこそ候へ。吾已(すでに)善悪をさとる程に成(なり)て、適(たまたま)此(この)坐に在合(ありあひ)ながら、御自害(ごじがい)を見捨(みすて)て一人故郷(こきやう)へ帰ては、誰をか父と憑(たの)み、誰にか面(おもて)を向(むかふ)べき。又禅僧に成たらば、沙弥(しやみ)喝食(かつしき)に指をさゝれ、聖道(しやうだう)に成たらば、児(ちご)共(ども)に被笑ずと云(いふ)事不可有。縦(たとひ)又何(いか)なる果報(くわはう)有て、後の栄花(えいぐわ)を開(ひらき)候とも、をくれ進(まゐら)せては、ながらふべき心地もせず。色代(しきだい)は時に依る事にて候。腹切の最後の盃にて候へば、誰にか論じ申さまし。我先(まづ)飲(のみ)て思(おもひ)ざし申さん。」とて、前なる盃を少し取傾(かたぶく)る体(てい)にて、糟谷(かすや)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)保連(やすつら)にさし給へば、三度(さんど)飲て、糟谷新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)伊朝(これとも)・奥(おく)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・岡本(をかもと)次郎左衛門(じらうざゑもん)・中山(なかやまの)助五郎(すけごらう)、次第に飲下(のみくだし)、無明(むみやう)の酒の酔(よひ)の中に、近付(ちかづく)命ぞ哀なる。
○師直師泰出家(しゆつけの)事(こと)付(つけたり)薬師寺遁世(とんせいの)事(こと) S2908
斯(かか)る処に、東の木戸(きど)を荒らかに敲(たた)く人あり。諸人驚(おどろき)て、「誰(た)そ。」と問へば、夜部(ゆうべ)落(おち)たりと沙汰せし饗庭命鶴丸(あいばみやうづるまる)が声にて、「御合体(ごがつてい)に成て、合戦は有まじきにて候ぞ。楚忽(そこつ)に御自害(ごじがい)候な。」とぞ呼はりける。こはそも何とある事ぞやとて急ぎ木戸を開きたれば、命鶴(みやうづる)将軍(しやうぐん)の御前(おんまへ)に参て、「夜部(ゆうべ)事の由をも申さで、罷出(まかりいで)候(さふらひ)しが、早落たりとぞ思召(おぼしめし)候(さうらひ)つらん。御方の軍勢(ぐんぜい)の気を失(うしなひ)、色を損(そん)じたる体を見候(さふらひ)しに、角(かく)ては戦ふ共難勝、落(おつ)共(とも)延(のび)させ給はじと覚へ候たる間、畠山阿波(あはの)将監(しやうげん)が陣へ罷向(まかりむかひ)候(さふらひ)て、御合体(ごがつてい)の由を申て候へば、錦小路殿(にしきのこうぢどの)も、只暮々(くれぐれ)其(その)事をのみこそ仰(おほせ)候へ。執事兄弟の不義も、只一往(いちわう)思(おもひ)知(しら)するまでにて候へば、執事深く被誅伐までの義も候まじ。親にも超てむつましきは、同気(どうき)兄弟の愛也(なり)。子にも不劣なつかしきは、多年主従の好(よしみ)也(なり)。禽獣(きんじう)も皆其(その)心あり。況(いはんや)人倫(じんりん)に於(おい)てをや。縦(たとひ)合戦に及ぶ共、無情沙汰を致すなと、八幡より給て候御文数通候とて、取出して見せられ候つる。」と、命鶴委細(ゐさい)に申(まうし)ければ、将軍も執事兄弟も、さては子細非じとて、其(その)夜の自害は留(とどま)りてげり。さても三条殿(さんでうどの)は御兄弟(ごきやうだい)の御事(おんこと)なれば、将軍をこそ悪(にくし)と不思召とも、師直去年の振舞をば、尚(なほ)もにくしと思召(おぼしめさ)ぬ事不可有。げにも頭(かうべ)を延(のべ)て参る位ならば、出家をして参るか、不然は将軍を赤松の城(じやう)へ遣進(やりまゐら)せて、師直は四国へや落(おつ)ると評定(ひやうぢやう)有けるを、薬師寺次郎左衛門(じらうざゑもん)公義(きんよし)、「など加様(かやう)に無力事をば仰候ぞ。六条(ろくでうの)判官(はうぐわん)為義が、己(おのれ)が咎(とが)を謝(しや)せん為に、入道に成て出候(さふらひ)しをば、義朝子の身としてだにも、首を刎(はね)候(さふらひ)しぞかし。縦(たとひ)御出家候(さふらひ)て、何(いか)なる持戒持律(ぢかいぢりつ)の僧と成(なら)せ給(たまひ)て候(さうらふ)共(とも)、三条殿(さんでうどの)の御意(みこころ)も安まり、上杉・畠山の一族(いちぞく)達、憤(いきどほり)を散(さんじ)候べしとは覚(おぼえ)候はず。剃髪(ていはつ)の尸(かばね)墨染(すみそめ)の衣の袖に血を淋(そそき)て、憂名(うきな)を後代(こうだい)に残(のこさ)れ候はん事、只口惜(くちをし)かるべき事にて候はずや。将軍を赤松の城(じやう)へ入進(いれまゐら)せて、師直を四国へ落さばやと承(うけたまはり)候事も、都(すべ)て可然共覚(おぼえ)候はず。細川陸奥(むつの)守(かみ)も、三条殿(さんでうどの)の召(めし)に依て、大勢早三石(みついし)に著て候と聞へ候へば、将軍こそ摂州(せつしう)の軍に負(まけ)て、赤松へ引(ひか)せ給(たまふ)と聞(きき)て、打止(うちとめ)奉らんと思はぬ事や候べき。又四国へ落(おち)させ給はん事も不可叶。用意(ようい)の舟も候はで、此彼(ここかしこ)の浦々にて、渡海(とかい)の順風を待(まち)て御渡(おんわた)り候はんに、敵追懸て寄候はゞ、誰か矢の一(ひとつ)をも、墓々敷(はかばかしく)射出す人候べき。御方(みかた)の兵共(つはものども)の有様は、昨日の軍に曇(くも)りなく被見透候者を、人に無剛臆、気に有進退と申(まうす)事候間、人の心の習ひ、敵に打懸(うちかか)らんとする時は、心武(たけ)くなり、一足(ひとあし)も引(ひく)となれば、心臆病(おくびやう)に成(なる)者にて候。只御方の勢の未(いまだ)すかぬ前(さき)に、混(ひたすら)討死と思召(おぼしめし)定(さだめ)て、一度(いちど)敵に懸りて御覧候より外は、余義(よぎ)あるべし共覚(おぼえ)候はず。」と、言(ことば)を残さで申けれ共(ども)、執事兄弟只曚々(もうもう)としたる許(ばかり)にて、降参出家の儀に落(おち)伏しければ、公義泪(なみだ)をはら/\と流して、「嗚呼(ああ)豎子不堪倶計と、范増(はんぞう)が云(いひ)けるも理(ことわ)り哉(かな)。運尽(つき)ぬる人の有様程、浅猿(あさまし)き者は無(なか)りけり。我此(この)人と死を共にしても、何の高名かあるべき。しかじ憂世(うきよ)を捨(すて)て、此(この)人々の後生(ごしやう)を訪(とぶらは)んには。」と、俄(にはか)に思(おもひ)定(さだめ)て、取(とれ)ばうし取(とら)ねば人の数ならず捨(すつ)べき物は弓矢也(なり)けりと、加様(かやう)に詠(えい)じつゝ、自(みづから)髻(もとどり)押きりて、墨染に身を替(かへ)て、高野山へぞ上りける。三間(さんけんの)茅屋(ばうをく)千株(せんしゆの)松風、ことに人間の外の天地也(なり)けりと、心もすみ身も安く覚へければ、高野山(たかのやま)憂世(うきよ)の夢も覚(さめ)ぬべしその暁を松の嵐にと読(よみ)て、暫(しば)しは閑居幽隠(いういん)の人とぞ成たりける。仏種は縁(えん)より起(おこる)事なれば、かやうに次(ついで)を以て、浮世を思(おもひ)捨(すて)たるは、やさしく優なる様なれ共(ども)、越後(ゑちごの)中太(ちゆうた)が義仲(よしなか)を諌(いさめ)かねて、自害をしたりしには、無下(むげ)に劣りてぞ覚(おぼえ)たる。
○師冬自害(じがいの)事(こと)付(つけたり)諏方(すは)五郎(ごらうの)事(こと) S2909
高(かうの)播磨(はりまの)守(かみ)は師直が猶子(いうし)也(なり)しを、将軍の三男(さんなん)左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)の執事になして、鎌倉(かまくら)へ下りしかば、上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)と相共(あひとも)に東国の管領(くわんれい)にて、勢(いきほひ)八箇国(はちかこく)に振(ふる)へり。西国こそ加様(かやう)に師直を背(そむ)く者多く共、東国はよも子細非(あら)じ、事の真(まこと)に難儀ならば、兵庫より船に乗て、鎌倉(かまくら)へ下(くだり)て師冬と一(ひとつ)にならんと、執事兄弟潜(ひそか)に被評定ける処に、二十五日の夜半許(ばかり)に、甲斐(かひの)国(くに)より時衆(じしゆう)一人来て、忍(しのび)やかに、「去年の十二月に、上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)が養子に、左衛門(さゑもんの)蔵人(くらんど)、父が代官にて上野(かうづけ)の守護(しゆご)にて候(さふらひ)しが、謀叛(むほん)を起(おこし)て鎌倉殿(かまくらどの)方(がた)を仕る由聞へしかば、父民部(みんぶの)大輔(たいふ)是(これ)を為誅伐下向の由を称して、上野に下著、則(すなはち)左衛門(さゑもんの)蔵人(くらんど)と同心して、武蔵(むさしの)国(くに)へ打越へ、坂東(ばんどう)の八平氏(はちへいじ)武蔵(むさし)の七党(しちたう)を付順(つけしたが)ふ。播州師冬是(これ)を被聞候(さふらひ)て、八箇国(はちかこく)の勢を被催に、更に一騎(いつき)も不馳寄。角(かく)ては叶(かなふ)まじ。さらば左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)を先立(さきだて)進(まゐら)せて上杉を退治(たいぢ)せんとて、僅に五百騎(ごひやくき)を卒(そつ)して、上野へ発向(はつかう)候(さふらひ)し路次(ろし)にて、さりとも弐(ふたごこ)ろ非じと憑切(たのみきつ)たる兵共(つはものども)心変りして、左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)を奪(うばひ)奉る間、左馬(さまの)頭(かみ)殿(どのの)御後見(おんうしろみ)三戸(みとの)七郎(しちらう)は、其(その)夜同士打(どうしうち)せられて半死半生に候(さふらひ)しが、行方を不知成(なり)候(さうらひ)ぬ。是より上杉には弥(いよいよ)勢加り、播州師冬には付順(つきしたが)ふ者候はざりし間、一歩(いつほ)も落て此方(こなた)の様をも聞(きか)ばやとて、甲斐(かひの)国(くに)へ落(おち)て、州沢(すざはの)城(じやうに)被篭候処に、諏方下宮祝部(すはのげぐうのはふり)六千(ろくせん)余騎(よき)にて打寄(うちよせ)、三日三夜の手負討死(ておひうちじに)其(その)数を不知(しらず)。敵皆大手へ向ふにより、城中(じやうちゆうの)勢大略(たいりやく)大手にをり下(くだつ)て、防(ふせぎ)戦ふ隙(ひま)を得て、山の案内者(あんないしや)後(うしろ)へ廻(まはつ)て、かさより落(おと)し懸(かか)る間、八代(やしろ)の某(なにがし)一足(ひとあし)も不引討死仕る。城已(すで)に落(おち)んとし候(さうらふ)時(とき)、御烏帽子々(おんえぼしご)に候(さうらひ)し諏方(すは)五郎、初(はじめ)は祝部(はふり)に属(しよく)して城を責(せめ)候(さうらひ)しが、城の弱りたるをみて、「抑(そもそも)吾(われ)執事の烏帽子々(えぼしご)にて、父子の契約を致しながら、世挙(こぞつ)て背(そむ)けばとて、不義の振舞をば如何(いか)が可致。曾参(そうしん)は復車於勝母之郷、孔子(こうし)は忍渇於盜泉之水といへり。君子(くんし)は其於不為処名をだにも恐る。況乎(いはんや)義の違ふ処に於乎(おいてをや)。」とて、祝部(はふり)に最後の暇(いとま)乞(こう)て城中(じやうちゆう)へ入り、却(かへつ)て寄手(よせて)を防(ふせ)ぐ事、身命(しんめい)を不惜。去(さる)程(ほど)に城の後(うし)ろより破れて、敵四方(しはう)より追(おひ)しかば、諏方(すはの)五郎と播州とは手に手を取違へ、腹掻切(かききつ)て臥(ふし)給ふ。此外(このほか)義を重(おもん)じ名を惜(をし)む侍共(さぶらひども)六十四人、同時に皆自害して、名を九原(きうげん)上の苔(こけ)に残し、尸(かばね)を一戦(いつせんの)場(ば)の土に曝(さら)さる。其(その)後は東国・北国残りなく、高倉殿(たかくらどの)の御方(みかた)へ成(なり)て候。世は今はさてとこそ見へて候へ。」と、泣々(なくなく)執事にぞ語られける。筑紫九国は兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)に順付(したがひつき)ぬと聞ゆ。四国は細川陸奥(むつの)守(かみ)に属(しよく)して既(すで)に須磨(すまの)大蔵谷(おほくらだに)の辺まで寄(よせ)たりと告(つげ)たり。今は東国をこそ、さり共と憑(たのみ)たれば、師冬さへ討れにけり。さては何(いづ)くへか落(おち)誰をか可憑とて、さしも勇(いさみ)し人々の気色、皆心細(こころぼそく)見へたりける。命は能(よく)難棄物也(なり)けり。執事兄弟、かくても若(もし)命や助かると、心も発(おこ)らぬ出家して、師直入道々常、師泰入道々勝とて、裳(も)なし衣(ごろも)に提鞘(さげさや)さげて、降人(かうにん)に成て出ければ、見(みる)人毎(ひとごと)に爪弾(つまはじき)して、出家の功徳(くどく)莫太(ばくだい)なれば、後生(ごしやう)の罪は免(まぬか)る共、今生(こんじやう)の命は難助と、欺(あざむか)ぬ人は無(なか)りけり。
○師直以下被誅事(こと)付(つけたり)仁義(じんぎ)血気(けつき)勇者(ようしやの)事(こと) S2910
同(おなじき)二十六日(にじふろくにち)に、将軍已(すで)に御合体(ごがつてい)にて上洛(しやうらく)し給へば、執事兄弟も、同遁世者(とんせいしや)に打紛(うちまぎれ)て、無常の岐(ちまた)に策(むち)をうつ。折節春雨しめやかに降(ふり)て、数万(すまん)の敵此彼(ここかしこ)に控(ひかへ)たる中を打通れば、それよと人に被見知じと、蓮(はす)の葉笠を打傾(かたぶ)け、袖にて顔を引隠(ひきかく)せ共、中々紛(まぎ)れぬ天(あめ)が下(した)、身のせばき程こそ哀なれ。将軍に離れ奉ては、道にても何(いか)なる事かあらんずらんと危(あやぶみ)て少しもさがらず、馬を早めて打(うち)けるを、上杉・畠山の兵共(つはものども)、兼(かね)て儀(ぎ)したる事なれば、路の両方に百騎(ひやくき)、二百騎(にひやくき)、五十騎(ごじつき)、三十騎(さんじつき)、処々(ところどころ)に控(ひか)へて待(まち)ける者共(ものども)、すはや執事よと見てければ、将軍と執事とのあはいを次第に隔(へだて)んと鷹角(たかづの)一揆(いつき)七十(しちじふ)余騎(よき)、会尺色代(ゑしやくしきたい)もなく、馬を中へ打こみ/\しける程に、心ならず押隔(おしへだて)られて、武庫(むこ)川の辺を過ける時は、将軍と執事とのあはひ、河を隔(へだて)山を阻(へだて)て、五十町(ごじつちよう)許(ばかり)に成(なり)にけり。哀なる哉、盛衰(せいすゐ)刹那(せつな)の間に替(かは)れる事、修羅(しゆら)帝釈(たいしやく)の軍に負(まけ)て、藕花(ぐうげ)の穴に身を隠し、天人の五衰(ごすゐ)の日に逢(あひ)て、歓喜苑(くわんぎゑん)にさまよふ覧(らん)も角(かく)やと被思知たり。此人(このひと)天下の執事にて有つる程は、何(いか)なる大名高家も、其えめる顔を見ては、千鍾(せんしよう)の禄(ろく)、万戸(ばんこ)の侯(こう)を得たるが如く悦び、少しも心にあはぬ気色を見ては、薪(たきぎ)を負(おう)て焼原を過ぎ、雷(らい)を戴(いただい)て大江を渡(わたる)が如(ごとく)恐れき。何況(いかにいはんや)将軍(しやうぐん)と打双(うちならべ)て、馬を進め給はんずる其(その)中へ、誰か隔(へだ)て先立(さきだつ)人有(ある)べきに、名も知ぬ田舎(ゐなか)武士、無云許人の若党共(わかたうども)に押隔(おしへだて)られ/\、馬ざくりの水を蹴懸(けかけ)られて、衣深泥(しんでい)にまみれぬれば、身を知る雨の止(やむ)時(とき)なく、泪(なみだ)や袖をぬらすらん。執事兄弟武庫川(むこがは)を打渡て、小堤(こつつみ)の上を過(すぎ)ける時、三浦八郎左衛門(はちらうざゑもん)が中間二人(ににん)走寄(わしりより)て、「此(ここ)なる遁世者(とんせいしや)の、顔を蔵(かく)すは何者(なにもの)ぞ。其笠ぬげ。」とて、執事の著(き)られたる蓮葉笠(はすのはがさ)を引切(ひつきつ)て捨(すつ)るに、ほうかぶりはづれて片顔(かたかほ)の少し見へたるを、三浦八郎左衛門(はちらうざゑもん)、「哀(あはれ)敵や、所願の幸哉(かな)。」と悦て、長刀の柄(え)を取延(とりのべ)て、筒中(どうなか)を切て落さんと、右の肩崎(かたさき)より左の小脇(こわき)まで、鋒(きつさき)さがりに切付(きりつけ)られて、あつと云(いふ)処を、重(かさね)て二打(ふたうち)うつ、打(うた)れて馬よりどうど落ければ、三浦馬より飛(とん)で下(お)り、頚を掻(かき)落(おと)して、長刀の鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て差上(さしあげ)たり。越後(ゑちごの)入道(にふだう)は半町許(ばかり)隔たりて打(うち)けるが、是(これ)を見て馬を懸(かけ)のけんとしけるを、迹(あと)に打ける吉江(よしえ)小四郎、鑓(やり)を以て胛骨(せぼね)より左の乳(ち)の下へ突徹(つきとほ)す。突(つか)れて鑓に取(とり)付(つき)、懐(ふところ)に指(さし)たる打刀(うちがたな)を抜(ぬか)んとしける処に、吉江が中間走(はしり)寄(より)、鐙(あぶみ)の鼻を返して引落す。落(おつ)れば首を掻切(かききつ)て、あぎとを喉(のんど)へ貫(つらぬき)、とつ付(つけ)に著(つけて)馳(はせ)て行(ゆく)。高(かうの)豊前(ぶぜんの)五郎をば、小柴(こしば)新左衛門(しんざゑもん)是(これ)を討(うつ)。高(かうの)備前(びぜんの)守(かみ)をば、井野(いのの)弥四郎(やしらう)組(くん)で落て首を取る。越後(ゑちごの)将監(しやうげん)をば、長尾彦四郎(ひこしらう)先(まづ)馬の諸膝(もろひざ)切て、落る所を二太刀(ふたたち)うつ。打(うた)れて少(すこし)弱る時、押へて軈(やが)て首を切る。遠江(とほたふみ)次郎をば小田左衛門五郎切て落す。山口入道をば小林又次郎引組(ひつくん)で差殺す。彦部(ひこべ)七郎(しちらう)をば、小林掃部助(かもんのすけ)後(うしろ)より太刀にて切(きり)けるに、太刀影(たちかげ)に馬驚(おどろき)て深田の中へ落(おち)にけり。彦部引返(ひつかへし)て、「御方はなきか、一所に馳寄(はせよつ)て、思々(おもひおもひ)に討死せよ。」と呼(よばは)りけるを、小林が中間(ちゆうげん)三人(さんにん)走(はしり)寄て、馬より倒(さかさま)に引落(ひきおと)し踏(ふま)へて首を切て、主の手にこそ渡しけれ。梶原孫六をば佐々宇(ささう)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)是(これ)を打(うつ)。山口新左衛門(しんざゑもん)をば高山又次郎切て落す。梶原孫七は十(じふ)余町(よちやう)前に打(うち)けるが、跡に軍有て執事の討(うた)れぬるやと人の云けるを聞て、取て返して打刀(うちがたな)を抜(ぬい)て戦(たたかひ)けるが、自害を半(なかば)にしかけて、路の傍(かたはら)に伏(ふし)たりけるを、阿佐美(あさみ)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)、年来(としごろ)の知音(ちいん)なりけるが、人手に懸(かけ)んよりはとて、泣々(なくなく)首を取てけり。鹿目(かのめ)平次左衛門は、山口が討(うた)るゝを見て、身の上とや思(おもひ)けん、跡なる長尾三郎左衛門(さぶらうざゑもん)に抜(ぬい)て懸りけるを、長尾少(すこし)も不騒、「御事(おんこと)の身の上にては候はぬ者を、僻事(ひがごと)し出して、命失はせ給ふな。」と云(いは)れて、をめ/\と太刀を指て、物語して行(ゆき)けるを、長尾中間(ちゆうげん)にきつと目くはせしたれば、中間二人(ににん)鹿目(かのめ)が馬につひ傍(そう)て、「御馬(おんむま)の沓(くつ)切(きつ)て捨(すて)候はん。」とて、抜(ぬい)たる刀を取直し、肘(ひぢ)のかゝりを二刀(ふたかたな)刺(さし)て、馬より取て引落(ひきおと)し、主に首をばかゝせけり。河津(かはづ)左衛門は、小清水の合戦に痛手(いたで)を負(おひ)たりける間、馬には乗得(のりえ)ずして、塵取(ちりとり)にかゝれて、遥(はるか)の迹(あと)に来けるが、執事こそ已(すで)に討れさせ給(たまひ)つれと、人の云(いふ)を聞て、とある辻堂(つじだう)の有けるに、輿(こし)を舁居(かきすゑ)させ、腹掻切て死にけり。執事の子息武蔵五郎をば、西(さいの)左衛門四郎是(これ)を生虜(いけどつ)て、高手小手に禁(いましめ)て、其(その)日(ひ)の暮をぞ相待ける。此人は二条(にでうの)前(さきの)関白太臣の御妹、無止事御腹(おんはら)に生(うま)れたりしかば、貌容(はうよう)人に勝(すぐ)れ心様(こころざま)優にやさしかりき。されば将軍も御覚(おんおぼ)へ異于他、世(よの)人ときめき合へる事限なし。才あるも才なきも、其(その)子を悲むは人の父たる習(ならひ)なり。況乎(いはんや)最愛の子なりしかば、塵をも足に蹈(ふま)せじ荒き風にもあてじとて、あつかい、ゝつき、かしづきしに、いつの間に尽終(つきはて)たる果報ぞや。年未(いまだ)十五に不満、荒き武士に生虜(いけどられ)て、暮(くるる)を待間(まつま)の露の命、消(きえ)ん事こそ哀なれ。夜に入(いり)ければ、誡(いましめ)たる縄をときゆるして已(すで)に切(きら)んとしけるが、此(この)人の心の程をみんとて、「命惜く候はゞ、今夜速(すみやか)に髻(もとどり)を切て僧か念仏衆かに成(なら)せ給(たまひ)て、一期(いちご)心安(こころやす)く暮らさせ給へ。」と申ければ、先(まづ)其(その)返事をばせで、「執事は何と成(なら)せ給(たまひ)て候とか聞へ候。」と問ければ、西(さいの)左衛門四郎、「執事は早討れさせ給て候也(なり)。」と答ふ。「さては誰が為にか暫(しばし)の命をも惜み候べき。死手(しで)の山三途(さんづの)大河とかやをも、共に渡らばやと存(ぞんじ)候へば、只(ただ)急ぎ首を被召(めされ)候へ。」と、死を請て敷皮(しきがは)の上に居直(ゐなほ)れば、切手(きりて)泪(なみだ)を流して、暫(しば)しは目をも不持上、後(うし)ろに立て泣居たり。角てさてあるべきにあらねば、西に向(むかひ)念仏十遍許(ばかり)唱(となへ)て、遂に首を打落す。小清水の合戦の後、執事方の兵共(つはものども)十方に分散して、残る人なしと云(いひ)ながら、今朝松岡(まつをか)の城(じやう)を打出るまでは、まさしく六七百騎(ろくしちひやくき)もありと見しに、此(この)人々の討(うた)るゝを見て何(いづ)ちへか逃(にげ)隠れけん、今討(うた)るゝ処十四人の外は、其(その)中間下部(しもべ)に至るまで、一人もなく成にけり。十四人と申も、日来(ひごろ)皆度々の合戦に、名を揚(あげ)力を逞(たくま)しくしたる者共(ものども)なり。縦(たとひ)運命尽(つき)なば始終(しじゆう)こそ不叶共、心を同(おなじく)して戦はゞ、などか分々(ぶんぶん)の敵に合て死せざるべきに、一人も敵に太刀を打著(うちつけ)たる者なくして、切ては被落押へては頚を被掻、無代(むたい)に皆討れつる事、天の責(せめ)とは知(しり)ながら、うたてかりける不覚(ふかく)哉(かな)。夫(それ)兵は仁義(じんぎ)の勇(ゆう)者、血気(けつき)の勇者(ようしや)とて二(ふた)つあり。血気の勇者(ようしや)と申(まうす)は、合戦に臨毎(のぞむごと)に勇(いさみ)進んで臂(ひぢ)を張り強きを破(やぶ)り堅きを砕(くだ)く事、如鬼忿神(ふんしん)の如く速(すみや)かなり。然共(しかれども)此(この)人若(もし)敵の為に以利含(ふく)め、御方の勢を失ふ日は、逋(のが)るに便(たより)あれば、或(あるひ)は降下(かうにん)に成て恥(はぢ)を忘れ、或(あるひ)は心も発(おこ)らぬ世を背(そむ)く。如此なるは則(すなはち)是(これ)血気の勇者(ようしや)也(なり)。仁義の勇者(ようしや)と申(まうす)は必(かならずし)も人と先を争(あらそ)い、敵を見て勇むに高声多言(かうじやうたげん)にして勢(いきほひ)を振ひ臂(ひぢ)を張(はら)ざれ共(ども)、一度(いちど)約をなして憑(たのま)れぬる後は、弐(ふたごころ)を不存ぜ心不変して臨大節志を奪(うばは)れず、傾(かたぶく)所に命を軽(かろん)ず。如此なるは則(すなはち)仁義の勇者(ようしや)なり。今の世聖人(せいじん)去て久(ひさし)く、梟悪(けうあく)に染(そま)ること多ければ、仁義の勇者(ようしや)は少(すくな)し。血気の勇者(ようしや)は是(これ)多し。されば異朝(いてう)には漢楚(かんそ)七十度(しちじふど)の戦、日本(につぽん)には源平三箇年の軍に、勝負互に易(かはり)しか共、誰か二度(にど)と降下(かうにん)に出たる人あるべき。今元弘(げんこう)以後君と臣との争(あらそひ)に、世の変ずる事僅(わづか)に両度に不過、天下の人五度(ごど)十度(じふど)、敵に属(しよく)し御方になり、心を変ぜぬは稀なり。故(ゆゑ)に天下の争(あらそ)ひ止(やむ)時(とき)無(なく)して、合戦雌雄(しゆう)未(いまだ)決(けつせず)。是(ここ)を以て、今師直・師泰が兵共(つはものども)の有様を見るに、日来(ひごろ)の名誉も高名も、皆血気にほこる者なりけり。さらずはなどか此(この)時(とき)に、千騎(せんぎ)二千騎(にせんぎ)も討死して、後代の名を挙(あげ)ざらん。仁者必有勇、々者必不仁と、文宣王(ぶんせんわう)の聖言(せいげん)、げにもと被思知たり。


太平記(国民文庫)
太平記巻第三十

○将軍御兄弟(ごきやうだい)和睦(わぼくの)事(こと)付(つけたり)天狗(てんぐ)勢汰(せいぞろへの)事(こと) S3001
志(こころざし)合(がつする)則(ときは)胡越(こゑつ)も不隔地。況(いわん)や同(おなじ)く父母の出懐抱浮沈(ふちん)を共にし、一日も不離咫尺、連枝(れんし)兄弟の御中也(なり)。一旦(いつたん)師直・師泰等(もろやすら)が、不義を罰するまでにてこそあれ、何事にか骨肉(こつにく)を離るゝ心可有とて、将軍と高倉殿(たかくらどの)と御合体(ごがつてい)有(あり)ければ、将軍は播磨より上洛(しやうらく)し、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮(よしのり)は丹波(たんばの)石龕(いはや)より上洛(しやうらく)し、錦小路殿(にしきのこうぢどの)は八幡より入洛(じゆらく)し給ふ。三人(さんにん)軈(やがて)会合(くわいがふ)し給(たまひ)て、一献(いつこん)の礼有(あり)けれ共(ども)、此(この)間の確執(かくしつ)流石(さすが)片腹いたき心地して、互(たがひ)の言(こと)ば少く無興気(ぶきようげ)にてぞ被帰ける。高倉殿(たかくらどの)は元来(ぐわんらい)仁者(じんしや)の行(かう)を借(かつ)て、世の譏(そしり)を憚(はばか)る人也(なり)ければ、いつしか軈(やがて)天下の政(まつりこと)を執(とつ)て、威(ゐ)を可振其(その)機を出されねども、世の人重んじ仰ぎ奉る事、日来(ひごろ)に勝(すぐ)れて、其被官(そのひくわん)の族(やから)、触事に気色は不増云(いふ)事なし。車馬門前に立列(つらなつ)て出入側身を、賓客(ひんかく)堂上(だうじやう)に群集(くんじゆ)して、揖譲(いふじやう)の礼を慎(つつし)めり。如此目出度(めでたき)事のみある中に、高倉殿(たかくらどの)最愛の一子(いつし)今年四(よつ)に成(なり)給ひてけるが、今月二十六日(にじふろくにち)俄(にはか)に失(うせ)給ひければ、母儀(ぼぎ)を始(はじめ)奉(たてまつり)上下万人泣(なき)悲(かなし)む事限なし。さても西国東国の合戦、符(わりふ)を合(あは)せたるが如く同時に起て、師直・師泰兄弟父子の頚、皆京都に上(のぼり)ければ、等持寺(とうぢじ)の長老旨別源(しべつげん)、葬礼を取営(いとなみ)て下火(あこ)の仏事をし給ひけるに、昨夜春園風雨暴。和枝吹落棣棠花。と云(いふ)句の有(あり)けるを聞て、皆人感涙をぞ流しける。此二十(にじふ)余年(よねん)執事の被官(ひくわん)に身を寄(よせ)て、恩顧(おんこ)に誇る人幾千万(いくせんまん)ぞ。昨日まで烏帽子の折様(をりやう)、衣紋(えもん)のため様をまねて、「此(これ)こそ執事の内(うちの)人よ。」とて、世に重んぜられん事を求(もとめ)しに、今日はいつしか引替(ひきかへ)て貌(かたち)を窶(やつ)し面を側(そば)めて、「すはや御敵(おんてき)方(がた)の者よ。」とて、人にしられん事を恐懼(きようく)す。用(もちゆる)則(ときは)鼠(ねずみ)も為虎、不用(もちゐざる)則(ときは)虎も為鼠と云(いひ)置(おき)し、東方朔(とうばうさく)が虎鼠(こそ)の論、誠(まこと)に当れる一言なり。将軍兄弟こそ、誠(まこと)に繊芥(せんかい)の隔(へだて)もなく、和睦(わぼく)にて所存もなく坐(おはし)けれ。其門葉(そのもんえふ)に有て、附鳳(ふほう)の勢(いきほ)ひを貪(むさぼつ)て、攀竜(はんりよう)の望(のぞみ)を期する族(やから)は、人の時を得たるを見ては猜(そね)み、己が威を失へるを顧(かへりみ)ては、憤(いきどほり)を不含云(いふ)事なし。されば石塔(いしたふ)・上杉・桃井(もものゐ)は、様々の讒(ざん)を構(かまへ)て、将軍に付(つき)順ひ奉る人々を失はゞやと思ひ、仁木(につき)・細川・土岐・佐々木(ささき)は、種々の謀(はかりこと)を廻(めぐら)して、錦小路殿(にしきのこうぢどの)に、又人もなげに振舞ふ者共(ものども)を滅さばやとぞ巧(たくみ)ける。天魔波旬(はじゆん)は斯(かか)る所を伺(うかが)ふ者なれば、如何なる天狗共(てんぐども)の態(わざ)にてか有けん、夜にだに入(いり)ければ、何(いづ)くより馳寄(はせよする)共(とも)知(しら)ぬ兵共(つはものども)、五百騎(ごひやくき)三百騎(さんびやくき)、鹿(しし)の谷・北白河・阿弥陀け峯(みね)・紫野辺に集(あつまり)て、勢ぞろへをする事度々(どど)に及ぶ。是(これ)を聞て将軍方(しやうぐんがた)の人は、「あはや高倉殿(たかくらどの)より寄(よせ)らるゝは。」とて肝(きも)を冷(ひや)し、高倉殿(たかくらどの)方(がた)の人は、「いかさま将軍より討手を向(むけ)らるゝは。」とて用心(ようじん)を致す。禍(わざはひ)利欲(りよく)より起(おこつ)て、息(やむ)ことを得ざれば、終(つひ)に己(おのれ)が分国(ぶんこく)へ下て、本意(ほい)を達せんとや思(おもひ)けん、仁木左京大夫頼章(よりあきら)は病と称(しよう)して有馬の湯へ下る。舎弟(しやてい)の右馬(うまの)権(ごんの)助(すけ)義長(よしなが)は伊勢へ下(くだ)る。細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春(よりはる)は讃岐(さぬき)へ下る。佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)は近江へ下る。赤松筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範・甥の弥次郎(やじらう)師範(もろのり)・舎弟(しやてい)信濃五郎範直(のりなほ)は、播磨へ逃下(にげくだ)る。土岐(とき)刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)頼康(よりやす)は、憚(はばか)る気色もなく白書に都を立て、三百(さんびやく)余騎(よき)混(ひたす)ら合戦(かつせんの)用意(ようい)して、美濃(みのの)国(くに)へぞ下りける。赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)は、初(はじめ)より上洛(しやうらく)せで赤松に居たりけるが、吉野殿(よしのどの)より、故兵部(ひやうぶの)卿(きやう)親王(しんわう)の若宮を大将に申(まうし)下し進(まゐら)せて、西国の成敗(せいばい)を司(つかさどつ)て、近国の勢を集(あつめ)て、吉野・戸津河(とつかは)・和田・楠と牒(しめ)し合せ、已(すで)に都へ攻上(せめのぼら)ばやなんど聞へければ、又天下三に分れて、合戦息(やむ)時(とき)非じと、世の人安き心も無(なか)りけり。
○高倉殿(たかくらどの)京都退去(たいきよの)事(こと)付(つけたり)殷(いんの)紂王(ちうわうの)事(こと) S3002
同七月晦日、石塔入道・桃井(もものゐ)右馬(うまの)権(ごんの)頭(かみ)直常二人(ににん)、高倉殿(たかくらどの)へ参て申けるは、「仁木・細河(ほそかは)・土岐・佐々木(ささき)、皆己(おのれ)が国々へ逃(にげ)下て、謀叛(むほん)を起し候なる。是(これ)も何様(いかさま)将軍(しやうぐん)の御意を請(うけ)候歟(か)、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)の御教書(みげうしよ)を以て、勢を催(もよほ)すかにてぞ候らん。又赤松(あかまつ)律師(りつし)が大塔(おほたふの)若宮を申下(くだし)て、宮方(みやがた)を仕(つかまつ)ると聞へ候も、実は寄事於宮方(みやがた)に、勢を催して後、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)へ参らんとぞ存(ぞんじ)候らん。勢も少く御用心(ごようじん)も無沙汰にて都に御坐(おはしまし)候はん事如何とこそ存(ぞんじ)候へ。只(ただ)今夜々紛(よまぎ)れに、篠峯(ささのみね)越に北国の方へ御下(おんくだり)候(さふらひ)て、木目(きのめ)・荒血(あらち)の中山(なかやま)を差塞(さしふさ)がれ候はゞ、越前に修理(しゆりの)大夫(だいぶ)高経、加賀に富樫介(とがしのすけ)、能登に吉見(よしみ)、信濃に諏方下宮祝部(すはのげぐうのはふり)、皆無弐(むに)の御方(みかた)にて候へば、此(この)国々へは何(いか)なる敵か足をも蹈入(ふみいれ)候べき。甲斐(かひの)国(くに)と越中とは我等(われら)が已(すで)に分国(ぶんこく)として、相交(あひまじは)る敵候はねば、旁以(かたがたもつて)安かるべきにて候。先(まづ)北国へ御下(おんくだり)候(さふらひ)て、東国・西国へ御教書(みげうしよ)を成下(なしくだ)され候はんに、誰か応じ申さぬ者候べき。」と、又予儀(よぎ)もなく申ければ、禅門少しの思安(しあん)もなく、「さらば軈(やが)て下(くだ)るべし。」とて、取(とる)物も不取敢(とりあへず)、御前(おんまへ)に有逢(ありあひ)たる人々許(ばかり)を召具して、七月晦日の夜半許(ばかり)に、篠(ささ)の峯越に落(おち)給(たまふ)。騒がしかりし有様也(なり)。是(これ)を聞て、御内(みうち)の者は不及申、外様(とざま)の大名、国々の守護(しゆご)、四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)三百(さんびやく)余人(よにん)、在京人(ざいきやうにん)、畿内(きない)・近国・四国・九州より、此(この)間上(のぼ)り集(あつま)りたる軍勢共(ぐんぜいども)、我(われ)も我(われ)もと跡を追て落(おち)行(ゆき)ける程に、今は公家被官(くげひくわん)の者より外、京中(きやうぢゆう)に人あり共更(さら)に不見けり。夜明ければ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)将軍(しやうぐん)の御屋形へ被参て、「今夜京中(きやうぢゆう)のひしめき、非直事覚(おぼえ)て候。落行ける兵共(つはものども)大勢にて候なれば、若(もし)立帰(たちかへり)て寄(よす)る事もや候はんずらん。」と申されければ、将軍些(すこし)も不騒給、「運は天にあり、何の用心(ようじん)かすべき。」とて、褒貶(はうへん)の探冊(たんじやく)取出し、心閑(こころしづか)に詠吟(えいぎんし)、打嘯(うそぶい)てぞ坐(おはし)ける。高倉殿(たかくらどの)已(すで)に越前の敦賀(つるがの)津に坐(おは)して、著到(ちやくたう)を著(つけ)られけるに、初(はじめ)は一万(いちまん)三千(さんぜん)余騎(よき)有けるが、勢日々に加て六万(ろくまん)余騎(よき)と注せり。此(この)時(とき)若(もし)此(この)大勢を率(そつ)して京都へ寄(よせ)たらましかば、将軍も宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)も、戦ふまでも御坐(おはし)まさじを、そゞろなる長僉議(ながせんぎ)、道も立(たた)ぬなま才学(さいがく)に時移(うつり)て、数日(すじつ)を徒(いたづら)に過にけり。抑(そもそも)是(これ)は誰が依意見、高倉殿(たかくらどの)は加様に兄弟叔父(をぢ)甥(をひ)の間、合戦をしながらさすが無道(ぶだう)を誅(ちゆう)して、世を鎮めんとする所を計(はから)ひ給ふと尋(たづぬ)れば、禅律(ぜんりつ)の奉行(ぶぎやう)にて被召(めされ)仕ける南家の儒者、藤原少納言有範(ありのり)が、より/\申(まうし)ける儀(ぎ)を用ひ給ひける故とぞ承(うけたまは)る。「さる程に昔殷(いん)の帝武乙(ぶいつ)と申しゝ王の位に即(つい)て、悪を好む事頻(しきり)也(なり)。我(われ)天子として一天(いつてん)四海(しかい)を掌(たなごころ)に握(にぎ)るといへ共、猶(なほ)日月の明暗を心に不任、雨風の暴(あら)く劇(けは)しき事を止(とめ)得ぬこそ安からねとて、何(いか)にもして天を亡(ほろぼ)さばやとぞ被巧ける。先(まづ)木を以て人を作て、是(これ)を天神と名(なづ)けて帝自(みづから)是(これ)と博奕(ばくえき)をなす。神真(まこと)の神ならず、人代(か)は(ッ)て賽(さい)を打ち石を仕(つか)ふ博奕なれば、帝などか勝(かち)給はざらん。勝(かち)給へば、天負(まけ)たりとて、木にて作れる神の形を手足を切り頭を刎(は)ね、打擲蹂躪(ちやうちやくじうりん)して獄門(ごくもん)に是(これ)を曝(さら)しけり。又革(かは)を以(もつて)人を作て血を入て、是(これ)を高き木の梢に懸(か)け、天を射ると号(がう)して射るに、血出て地に洒(そそ)く事をびたゝし。加様(かやう)の悪行(あくぎやう)身に余(あま)りければ、帝武乙(ぶいつ)河渭(かゐ)に猟(かり)せし時、俄(にはか)に雷(いかつち)落懸りて御身(おんみ)を分々(つだつだ)に引裂(さき)てぞ捨たりける。其(その)後御孫の小子帝位に即(つき)給ふ。是(これ)を殷(いん)の紂王(ちうわう)とぞ申(まうし)ける。紂王(ちうわう)長(ひととな)り給(たまひ)て後、智は諌(いさめ)を拒(こばみ)、是非の端(はし)を餝(かざ)るに足れり。勇は人に過(すぎ)て、手づから猛獣(まうじう)を挌(とりひしぐ)に難しとせず。人臣に矜(ほこ)るに能(のう)を以てし、天下にたかぶるに声(な)を以てせしかば、人皆己(おのれ)が下より出たりとて、諌諍(かんさう)の臣をも不被置、先王の法にも不順。妲己(だつき)と云(いふ)美人を愛して、万事只是(これ)が申侭(まうすまま)に付(つき)給ひしかば、罪無(なく)して死を賜ふ者多く只積悪(せきあく)のみあり。鉅鹿(きよろく)と云(いふ)郷(がう)に、まはり三十里(さんじふり)の倉を作りて、米穀(べいこく)を積余(つみあま)し、朝歌(てうか)と云(いふ)所に高さ二十丈(にじふぢやう)の台(うてな)を立て、銭貨を積満(つみみて)り。又沙丘(しやきう)に廻(まはり)一千里の苑台(ゑんだい)を造(つくり)て、酒を湛(たた)へ池とし、肉を懸(かけ)て林とす。其中に若く清らかなる男三百人(さんびやくにん)、みめ貌(かたち)勝(すぐ)れたる女三百人(さんびやくにん)を裸(はだか)になして、相逐(あひおつ)て婚姻(こんいん)をなさしむ。酒の池には、竜頭鷁首(りようどうげきしゆ)の舟を浮(うかべ)て長時(ちやうじ)に酔(ゑひ)をなし、肉の林には、北里の舞、新婬(しんいん)の楽(がく)を奏して不退(ふたい)の楽(たのしみ)を尽す。天上の婬楽快楽(いんらくけらく)も、是には及ばじとぞ見へたりける。或(ある)時(とき)后(きさき)妲己(だつき)、南庭の花の夕ばえを詠(えいじ)て寂寞(せきばく)として立(たち)給ふ。紂王(ちうわう)見(みる)に不耐して、「何事か御意に叶(かなは)ぬ事の侍る。」と問給へば、妲己、「哀(あはれ)炮格(はうかく)の法とやらんを見ばやと思ふを、心に叶はぬ事にし侍る。」と宣(のたまひ)ければ、紂王(ちうわう)、「安き程の事也(なり)。」とて、軈(やが)て南庭に炮格を建(たて)て、后の見物にぞ成(なさ)れける。夫(それ)炮格の法と申(まうす)は、五丈の銅(あかがね)の柱を二本東西に立て、上に鉄(くろがね)の縄(なは)を張(はり)て、下炭火(すみび)ををき、鉄湯炉壇(ろだん)の如くにをこして、罪人の背(せなか)に石を負(おふ)せ、官人戈(ほこ)を取て罪人を柱の上に責上(せめのぼ)せ、鉄(くろがね)の縄を渡る時、罪人気力に疲(つかれ)て炉壇の中に落入(おちいり)、灰燼(くわいじん)と成て焦(こが)れ死ぬ。焼熱(せうねつ)大焼熱の苦患(くげん)を移せる形なれば炮格(はうかく)の法とは名(なづ)けたり。后是(これ)を見給て、無類事に興(きよう)じ給ひければ、野人村老(やじんそんらう)日毎(ひごと)に子を被殺親を失て、泣悲む声無休時。此(この)時(とき)周(しう)の文王未(いまだ)西伯(せいはく)にて坐(おはし)けるが、密(ひそか)に是(これ)を見て人の悲み世の謗(そしり)、天下の乱と成ぬと歎(なげき)給ひけるを、崇侯虎(そうこうこ)と云ける者聞て殷(いんの)紂王(ちうわう)にぞ告(つげ)たりける。紂王(ちうわう)大に忿(いかつ)て、則(すなはち)西伯を囚(とら)へて■里(いうり)の獄舎(ひとや)に押篭(おしこめ)奉る。西伯が臣に■夭(くわうえう)と云ける人、沙金(しやきん)三千両・大宛(たいゑんの)馬百疋・嬋妍幽艶(せんけんいうえん)なる女百人(ひやくにん)を汰(そろ)へて、紂王(ちうわう)に奉て、西伯の囚(とらはれ)を乞受(こひうけ)ければ、元来色に婬(いん)し宝を好む事、後の禍(わざはひ)をも不顧、此(この)一を以(もつ)ても西伯を免(ゆる)すに足(たん)ぬべし、況哉(いはんや)其多(そのおほき)をやと、心飽(あく)まで悦て、則(すなはち)西伯をぞ免(ゆる)しける。西伯故郷に帰て、我命の活(いき)たる事をばさしも不悦給、只炮格の罪に逢(あう)て、無咎人民共が、毎日毎夜に十人(じふにん)二十人被焼殺事を、我身に当れる苦の如(ごとく)哀(あはれ)に悲く覚しければ、洛西(らくせい)の地三百里を、紂王(ちうわう)の后に献(けん)じて、炮格の刑(けい)を被止事をぞ被請ける。后も同(おなじ)く欲に染(そ)む心深くをはしければ、則(すなはち)洛西の地に替(かへ)て、炮格の刑を止(とめ)らる。剰(あまつさへ)感悦猶(なほ)是(これ)には不足けるにや、西伯に弓矢斧鉞(ふえつ)を賜(たまはつ)て、天下の権(けん)を執(とり)武を収(をさめ)ける官を授(さづけ)給ひければ、只龍の水を得て雲上(うんじやう)に挙(あが)るに不異。其(その)後西伯渭浜(ゐひん)の陽(きた)に田(かり)せんとし給ひけるに、史編(しへん)と云ける人占(うらなう)て申けるは、「今日の獲物(えもの)は非熊非羆、天君(きみ)に師を可与ふ。」とぞ占(ひ)ける。西伯大(おほい)に悦(よろこび)て潔斉(けつさい)し給ふ事七日、渭水(ゐすゐ)の陽(きた)に出て見給ふに、太公望(たいこうばう)が半簔(はんさ)の烟雨(えんう)水冷(すさまじう)して、釣を垂(た)るゝ事人に替(かは)れるあり。是(これ)則(すなはち)史編が占(うらな)ふ所也(なり)とて、車の右に乗(の)せて帰(かへり)給ふ。則(すなはち)武成王(せいわう)と仰(あふぎ)て、文王是(これ)を師とし仕(つか)ふる事不疎、逐に太公望が謀(はかりこと)に依て西伯徳(とく)を行ひしかば、其(その)子武王の世に当て、天下の人皆殷(いん)を背(そむい)て周(しう)に帰せしかば、武王逐に天下を執て永く八百(はつぴやく)余年(よねん)を保(たも)ちき。古への事を引て今の世を見候に、只羽林相公(うりんしやうこう)の淫乱(いんらん)、頗(すこぶ)る殷(いんの)紂王(ちうわう)の無道(ぶだう)に相似(あひに)たり、君仁(じん)を行はせ給ひて、是(これ)を亡(ほろぼ)されんに何の子細か候べき。」と、禅門をば文王の徳に比(ひ)し、我(わが)身をば太公望に准(なぞらへ)て、時節(をりふし)に付て申けるを、信ぜられけるこそ愚かなれ。さればとて禅門の行迹(かうせき)、泰伯が有徳の甥(をひ)、文王に譲(ゆづり)し仁にも非(あら)ず。又周公の無道(ぶだう)の兄(このかみ)、管叔を討せし義にも非(あら)ず。権道覇業(けんだうはげふ)、両(ふたつ)ながら欠(かけ)たる人とぞ見へたりける。
○直義追罰(つゐばつの)宣旨(せんじ)御使(おんつかひの)事(こと)付(つけたり)鴨社(かものやしろ)鳴動(めいどうの)事(こと) S3003
同八月十八日、征夷将軍源二位大納言尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、高倉入道左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)追討(つゐたう)の宣旨を給て、近江(あふみの)国(くに)に下著(げちやく)して鏡(かがみの)宿(しゆく)に陣を取る。都を被立時までは其(その)勢纔(わづか)に三百騎(さんびやくき)にも不足けるが、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)・子息近江(あふみの)守(かみ)秀綱(ひでつな)は、当国勢三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して馳(はせ)参る。仁木右馬(うまの)権(ごんの)頭(かみ)義長(よしなが)は伊賀・伊勢の兵四千(しせん)余騎(よき)を率して馳参る。土岐刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)頼康は、美濃(みのの)国(くに)の勢二千(にせん)余騎(よき)を率して馳参りける間、其(その)勢無程一万(いちまん)余騎(よき)に及ぶ。今は何(いか)なる大敵に戦ふ共、勢の不足(ふそく)とは不見けり。去(さる)程(ほど)に高倉入道左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)、石塔・畠山・桃井(もものゐ)三人(さんにん)を大将として、各二万(にまん)余騎(よき)の勢を差副(さしそへ)、同九月七日近江(あふみの)国(くに)へ打出、八相山(はつさうやま)に陣を取る。両陣堅く守て其(その)戦を不決。其(その)日(ひ)の未(ひつじ)の剋に、都には鴨(かも)の糾(ただす)の神殿鳴動(めいどう)する事良(やや)久(ひさしく)して、流鏑矢(かぶらや)二筋(ふたすぢ)天を鳴響(なりひびか)し、艮(うしとら)の方を差(さし)て去ぬとぞ奏聞しける。是(これ)は何様(いかさま)将軍(しやうぐん)兄弟の合戦に、吉凶(きつきよう)を被示怪異(けい)にてぞあるらんと、諸人推量しけるが、果して翌日(よくじつ)の午(うまの)剋に、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)が手(て)の者共(ものども)に、多賀(たがの)将監(しやうげん)と秋山新蔵人と、楚忽(そこつ)の合戦し出して、秋山討(うた)れにければ、桃井(もものゐ)大に忿(いかつ)て、重て可戦由を申けれ共(ども)、自余(じよ)の大将に異儀(いぎ)有て、結句(けつく)越前国(ゑちぜんのくに)へ引返す。其(その)後畠山阿波(あはの)将監(しやうげん)国清、頻(しきり)に、「御兄弟(ごきやうだい)只(ただ)御中なをり候(さふらひ)て、天下の政務を宰相殿に持(もた)せ進(まゐら)せられ候へかし。」と申けるを、禅門許容(きよよう)し不給ければ、国清大に忿(いかつ)て、己が勢(せい)七百(しちひやく)余騎(よき)を引分(ひきわけ)て、将軍へぞ参(まゐり)ける。此(この)外縁(えん)を尋(たづね)て降下(かうにん)になり、五騎十騎(じつき)打連(うちつれ)々々(うちつれ)、将軍方(しやうぐんがた)へと参(まゐり)ける間、角(かく)ては越前に御坐候はん事は叶はじと、桃井(もものゐ)頻(しきり)に勧(すすめ)申されければ、十月八日高倉禅門又越前を立て、北陸道(ほくろくだう)を打通(うちとほ)り、鎌倉(かまくら)へぞ下り給ひける。
○薩多山(さつたやま)合戦(かつせんの)事(こと) S3004
将軍は八相山(はつさうやま)の合戦に打勝て、軈(やがて)上洛(しやうらく)し給ひけるを、十月十三日(じふさんにち)、又直義入道可誅罰之(の)由(よし)、重被成宣旨ければ、翌日軈(やがて)都を立て鎌倉(かまくら)へ下(くだり)給ふ。混(ひたすら)に洛中(らくちゆう)に勢を残さゞらんも、南方の敵に隙(ひま)を窺(うかが)はれつべしとて、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)をば、都の守護(しゆご)にぞ被留ける。将軍已(すで)に駿河(するがの)国(くに)に著(つき)給ひけれ共(ども)、遠江より東(ひが)し、東国・北国の勢共(せいども)、早(はや)悉(ことごとく)高倉殿(たかくらどの)へ馳属(はせつい)てければ、将軍へはゝか/゛\しき勢も不参。角(かく)て無左右鎌倉(かまくら)へ寄(よせ)ん事難叶。先(まづ)且(しばら)く要害に陣を取てこそ勢をも催(もよほさ)めとて、十一月晦日(つごもり)駿河(するがの)薩■山(さつたやま)に打上り、東北に陣を張(はり)給ふ。相順(あひしたが)ふ兵には、仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)・畠山阿波(あはの)守(かみ)国清兄弟四人・今河五郎入道心省(しんしやう)・子息伊予守・武田(たけだの)陸奥守・千葉介・長井(ながゐ)兄弟・二階堂(にかいだう)信濃入道・同山城判官、其(その)勢(せい)僅(わづか)に三千(さんぜん)余騎(よき)には不過けり。去(さる)程(ほど)に将軍已(すでに)薩■山(さつたやま)に陣を取て、宇都宮(うつのみや)が馳参るを待給ふ由聞へければ、高倉殿(たかくらどの)先(まづ)宇都宮(うつのみや)へ討手を下さでは難義なるべしとて、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常に、長尾(ながを)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)、並(ならび)に北陸道(ほくろくだう)七箇国(しちかこく)の勢(せい)を付て、一万(いちまん)余騎(よき)上野(かうづけの)国(くに)へ被差向。高倉禅門も同日に鎌倉(かまくら)を立て、薩■山(さつたやま)へ向ひ給ふ。一方には上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)憲顕(のりあき)を大手の大将として、二十万(にじふまん)余騎(よき)由井(ゆゐ)・蒲原(かんばら)へ被向。一方には石堂入道・子息右馬(うまの)頭(かみ)頼房を搦手(からめての)大将として、十万(じふまん)余騎(よき)宇都部佐(うつぶさ)へ廻(まはつ)て押寄する。高倉禅門は寄手(よせて)の惣大将(そうだいしやう)なれば、宗(むね)との勢十万(じふまん)余騎(よき)を順(したが)へて、未(いまだ)伊豆(いづの)府(こふ)にぞ控(ひかへ)られける。彼(かの)薩■山(さつたやま)と申(まうす)は、三方(さんぱう)は嶮岨(けんそ)にて谷深く切れ、一方は海にて岸高く峙(そばだて)り。敵縦(たと)ひ何万騎あり共、難近付とは見へながら、取巻く寄手(よせて)は五十万騎(ごじふまんぎ)、防ぐ兵三千(さんぜん)余騎(よき)、而(しか)も馬疲れ粮(かて)乏(とぼ)しければ、何(いつ)までか其(その)山に怺(こら)へ給ふべきと、哀なる様に覚(おぼえ)て、掌(たなごころ)に入れたる心地しければ、強(あながち)急に攻落さんともせず、只(ただ)千重(せんぢゆう)万重に取巻たる許(ばかり)にて、未(いまだ)矢軍(やいくさ)をだにもせざりけり。宇都宮(うつのみや)は、薬師寺次郎左衛門(じらうざゑもん)入道元可(げんか)が勧(すすめ)に依て、兼てより将軍に志を存(ぞんじ)ければ、武蔵守(むさしのかみ)師直が一族(いちぞく)に、三戸(みとの)七郎(しちらう)と云(いふ)者、其(その)辺に忍(しのび)て居たりけるを大将に取立て、薩■山(さつたやま)の後攻(ごづめ)をせんと企(くはたて)ける処に、上野(かうづけの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)、大胡(おほご)・山上(やまかみ)の一族共(いちぞくども)、人に先をせられじとや思(おもひ)けん。新田(につた)の大島(おほしま)を大将に取立て五百(ごひやく)余騎(よき)薩■山(さつたやま)の後攻の為とて、笠懸(かさがけ)の原へ打出たり。長尾孫六・同平三・三百(さんびやく)余騎(よき)にて騎上野(かうづけの)国(くに)警固(けいご)の為に、兼てより世良田(せらだ)に居たりけるが、是(これ)を聞(きく)と均(ひとし)く笠懸の原へ打寄(うちよせ)、敵に一矢をも射させず、抜連(ぬきつれ)て懸立ける程に、大島が五百(ごひやく)余騎(よき)十方に被懸散、行方も不知成(なり)にけり。宇都宮(うつのみや)是(これ)を聞て、「此(この)人々憖(なまじひ)なる事為(し)出して敵に気を著(つけ)つる事よ。」と興(きよう)醒(さめ)て思(おもひ)けれ共(ども)、「其(それ)に不可依。」と機を取直して、十二月十五日宇都宮(うつのみや)を立て薩■山(さつたやま)へぞ急(いそぎ)ける。相伴(あひともな)ふ勢(せい)には、氏家(うぢへ)大宰(だざいの)小弐(せうに)周綱(ちかつな)・同下総(しもふさの)守(かみ)・同三河(みかはの)守(かみ)・同備中(びつちゆうの)守(かみ)・同遠江守(とほたふみのかみ)・芳賀(はが)伊賀(いがの)守(かみ)貞経・同肥後(ひごの)守(かみ)・紀党(きのたうには)増子(ましこ)出雲(いづもの)守(かみ)・薬師寺次郎左衛門(じらうざゑもん)入道元可(げんか)・舎弟(しやてい)修理(しゆりの)進義夏・同勘解由左衛門(かげゆざゑもん)義春・同掃部(かもんの)助(すけ)助義・武蔵(むさしの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)猪俣(ゐのまた)兵庫(ひやうごの)入道(にふだう)・安保(あふ)信濃(しなのの)守(かみ)・岡部(をかべ)新左衛門(しんざゑもん)入道・子息出羽(ではの)守(かみ)、都合(つがふ)其(その)勢(せい)千五百騎(せんごひやくき)、十六日(じふろくにち)午(うまの)剋に、下野(しもつけの)国(くに)天命宿(てんみやうのしゆく)に打出たり。此(この)日(ひ)佐野(さの)・佐貫(さぬき)の一族(いちぞく)等(ら)五百(ごひやく)余騎(よき)にて馳加(はせくははり)ける間、兵皆勇進(いさみすすん)で、夜明れば桃井(もものゐ)が勢には目も不懸、打連(うちつれ)て薩■山(さつたやま)へ懸(かか)らんと評定しける処に、大将に取立たる三戸(みとの)七郎(しちらう)、俄(にわか)に狂気に成て自害をして死にけり。是(これ)を見て門出(かどで)悪しとや思(おもひ)けん、道にて馳著(はせつき)つる勢共(せいども)一騎(いつき)も不残落(おち)失(うせ)て、始(はじめ)宇都宮(うつのみや)にて一味同心せし勢許(ばかり)に成(なり)ければ、僅(わづか)に七百騎(しちひやくき)にも不足けり。角(かく)ては如何(いか)が有(あら)んと諸人色を失ひけるを、薬師寺入道暫(しばらく)思案して、「吉凶(きつきよう)は如糾索いへり。是(これ)は何様(いかさま)宇都宮(うつのみや)の大明神(だいみやうじん)、大将を氏子に授(さづけ)給はん為に、斯(かか)る事は出来る也(なり)。暫(しばらく)も御逗留(ごとうりう)不可有。」と申(まうし)ければ、諸人げにもと気を直(なほ)して路に少しの滞(とどこほり)もなく、引懸(ひきかけ)々々(ひきかけ)打(うつ)程(ほど)に、同(おなじき)十九日の午(うまの)剋に、戸禰河(とねがは)を打渡て、那和庄(なわのしやう)に著(つき)にけり。此(ここ)にて跡に立たる馬煙(うまけぶり)を、馳著(はせつ)く御方(みかた)歟(か)と見ればさにあらで、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)・長尾左衛門、一万(いちまん)余騎(よき)にて迹(あと)に著て押寄(おしよせ)たり。宇都宮(うつのみや)、「さらば陣を張(はつ)て戦へ。」とて、小溝(こみぞ)の流れたるを前にあて、平々(へいへい)としたる野中(のなか)に、紀清(きせい)両党七百(しちひやく)余騎(よき)は大手に向て北(きた)の端(はし)に控(ひかへ)たり。氏家(うぢへ)太宰(だざいの)小弐(せうに)は、二百(にひやく)余騎(よき)中の手に引(ひか)へ、薬師寺入道元可(げんか)兄弟が勢(せい)五百(ごひやく)余騎(よき)は、搦手(からめて)に対して南の端(はし)に控(ひかへ)、両陣互に相待て、半時計(はんじばかり)時(とき)を移す処に、桃井(もものゐ)が勢七千(しちせん)余騎(よき)、時の声を揚(あげ)て、宇都宮(うつのみや)に打て懸る。長尾左衛門が勢三千(さんぜん)余騎(よき)、魚鱗に連(つらなつ)て、薬師寺に打て係(かか)る。長尾孫六・同平三、二人(ににん)が勢五百(ごひやく)余騎(よき)は皆馬より飛下(とびお)り、徒立(かちだち)に成て射向(いむけ)の袖を差簪(かざ)し、太刀長刀の鋒(きつさき)をそろへて、閑々(しづしづ)と小跳(こをどり)して、氏家が陣へ打て係(かか)る。飽(あく)まで広き平野(へいや)の、馬の足に懸る草木の一本もなき所にて、敵御方(みかた)一万(いちまん)二千(にせん)余騎(よき)、東に開け西に靡(なび)けて、追(おつ)つ返(かへし)つ半時計(ばかり)戦(たたかひ)たるに、長尾孫六が下(おり)立たる一揆(いつき)の勢五百(ごひやく)余人(よにん)、縦横(じゆうわう)に懸悩まされて、一人も不残被打ければ、桃井(もものゐ)も長尾左衛門も、叶はじとや思ひけん、十方に分れて落(おち)行(ゆき)けり。軍(いくさ)畢(をはつ)て四五箇月の後までも、戦場(せんぢやう)二三里が間は草腥(なまぐさう)して血原野(げんや)に淋(そそ)き、地嵬(うづだか)くして尸(かばね)路径(ろけい)に横(よこたは)れり。是(これ)のみならず、吉江(よしえ)中務が武蔵(むさしの)国(くに)の守護代(しゆごだい)にて勢を集(あつめ)て居たりけるも、那和(なわ)の合戦と同日に、津山(つやま)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)並(ならびに)野与(のいよ)の一党に被寄、忽(たちまち)に討(うた)れければ、今は武蔵・上野両国の間に敵と云(いふ)者一人もなく成(なり)て、宇都宮(うつのみや)に付(つく)勢三万(さんまん)余騎(よき)に成(なり)にけり。宇都宮(うつのみや)已(すで)に所々の合戦に打勝て、後攻(ごづめ)に廻(まは)る由(よし)、薩■山(さつたやま)の寄手(よせて)の方へ聞へければ、諸軍勢(しよぐんぜい)皆一同に、「あはれ後攻の近付(ちかづか)ぬ前に薩■山(さつたやま)を被責落候べし。」と云(いひ)けれ共(ども)、傾(かたぶ)く運にや引(ひか)れけん、石堂・上杉、曾(かつて)不許容ければ、余(あま)りに身を揉(もう)で、児玉党(こだまたう)三千(さんぜん)余騎(よき)、極(きは)めて嶮(けは)しき桜野(さくらの)より、薩■山(さつたやま)へぞ寄(よせ)たりける。此(この)坂をば今河上総(かづさの)守(かみ)・南部(なんぶの)一族(いちぞく)・羽切(はきり)遠江守(とほたふみのかみ)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて堅めたりけるが、坂中に一段(いちだん)高き所の有(あり)けるを切払(きりはらう)て、石弓を多く張(はり)たりける間、一度(いちど)にばつと切て落す。大石共に先陣の寄手(よせて)数百人(すひやくにん)、楯の板ながら打摯(うちひし)がれて、矢庭(やには)に死する者数を不知、後陣(ごぢん)の兵是(これ)に色めいて、少し引色(ひきいろ)に見へける処へ、南部・羽切抜連(ぬきつれ)て係(かか)りける間、大類(おほるゐ)弾正・富田以下を宗(むね)として、児玉党十七人(じふしちにん)一所にして被討けり。「此(この)陣の合戦は加様(かやう)也(なり)とも、五十万騎(ごじふまんぎ)に余(あま)りたる陣々の寄手共(よせてども)、同時に皆責上(せめのぼ)らば、薩■山(さつたやま)をば一時に責(せめ)落すべかりしを、何(なに)となく共今に可落城を、高名顔に合戦して討(うた)れたるはかなさよ。」と、面々に笑嘲(わらひあざ)ける心の程こそ浅猿(あさまし)けれ。去(さる)程(ほど)に同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)、後攻の勢三万(さんまん)余騎(よき)、足柄山(あしがらやま)の敵を追散(おつちら)して、竹下(たけがした)に陣を取る。小山(をやま)判官(はうぐわん)も宇都宮(うつのみや)に力を合て、七百(しちひやく)余騎(よき)同日に古宇津(こうつ)に著(つき)ければ、焼続(たきつづ)けたる篝火(かがりび)の数、震(おびたたし)く見へける間、大手搦手(からめて)五十万騎(ごじふまんぎ)の寄手共(よせてども)、暫(しばらく)も不忍十方へ落て行(ゆく)。仁木越後守義長(よしなが)勝(かつ)に乗て、三百(さんびやく)余騎(よき)にて逃(にぐ)る勢を追立て、伊豆(いづの)府(こふ)へ押寄(おしよせ)ける間、高倉禅門一支(ひとささへ)も不支して、北条へぞ落行(おちゆき)給ひける。上杉民部(みんぶの)太輔(たいふ)・長尾左衛門が勢二万(にまん)余騎(よき)は、信濃を志(こころざし)て落けるを、千葉(ちばの)介(すけ)が一族共(いちぞくども)五百騎(ごひやくき)許(ばかり)にて追蒐(おつかけ)、早河尻(はやかはじり)にて打留めんとしけるが、落行(おちゆく)大勢に被取篭、一人も不残被討けり。さてこそ其(その)道開けて、心安(こころやす)く上杉・長尾左衛門は、無為(ぶゐ)に信濃の国へは落(おち)たりけれ。高倉禅門は余(あまり)に気を失て、北条にも猶(なほ)たまり不得、伊豆の御山(おやま)へ引て、大息ついて坐(おは)しけるが、忍(しのび)て何地(いづち)へも一まど落(おち)てや見る、自害をやすると案じ煩(わづらひ)給ひける処に、又和睦(わぼく)の儀有て、将軍より様々に御文を被遣、畠山阿波(あはの)守(かみ)国清・仁木左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)を御迎に被進たりければ、今の命の捨難(すてがた)さに、後の恥(はぢ)をや忘れ給ひけん、禅門降人(かうにん)に成て、将軍に打連(うちつれ)奉て、正月六日の夜に入て、鎌倉(かまくら)へぞ帰(かへり)給ひける。
○慧源(ゑげん)禅門逝去(せいきよの)事(こと) S3005
斯(かかり)し後は、高倉殿(たかくらどの)に付順(つきしたが)ひ奉る侍の一人もなし。篭(ろう)の如くなる屋形(やかた)の荒(あれ)て久(ひさし)きに、警固(けいご)の武士を被居、事に触(ふれ)たる悲(かなし)み耳に満(みち)て心を傷(いたま)しめければ、今は憂世(うきよ)の中にながらへても、よしや命も何かはせんと思ふべき、我身さへ無用物に歎(なげき)給ひけるが、無幾程其(その)年の観応三年壬辰(みづのえたつ)二月二十六日(にじふろくにち)に、忽(たちまち)に死去し給ひけり。俄(にはか)に黄疽(わうだん)と云(いふ)病に被犯、無墓成(なら)せ給(たまひ)けりと、外には披露(ひろう)ありけれ共(ども)、実(まこと)には鴆毒(ちんどく)の故(ゆゑ)に、逝去(せいきよ)し給(たまひ)けるとぞさゝやきける。去々年の秋は師直、上杉を亡(ほろぼ)し、去年の春は禅門、師直を被誅、今年の春は禅門又怨敵(をんでき)の為に毒を呑(のみ)て、失(うせ)給(たまひ)けるこそ哀なれ。三過門間(あひだの)老病死(らうびやうし)、一弾指頃去来今(だんしきやうこらいこん)とも、加様(かやう)の事をや申べき。因果歴然(れきぜん)の理(ことわり)は、今に不始事なれども、三年の中に日を不替、酬(むく)ひけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。さても此(この)禅門は、随分(ずゐぶん)政道をも心にかけ、仁義をも存(ぞんじ)給(たまひ)しが、加様に自滅(じめつ)し給ふ事、何(いか)なる罪の報(むくひ)ぞと案ずれば、此(この)禅門依被申、将軍鎌倉(かまくら)にて偽(いつはり)て一紙(いつし)の告文(かうぶん)を残されし故(ゆゑ)に其(その)御罰(おんばつ)にて、御兄弟(ごきやうだい)の中も悪(あし)く成(なり)給(たまひ)て、終に失(うせ)給(たまふ)歟(か)。又大塔宮(おほたふのみや)を奉殺、将軍(しやうぐんの)宮(みや)を毒害(どくがい)し給(たまふ)事、此(この)人の御態(おんわざ)なれば、其(その)御憤(おんいきどほり)深して、如此亡(ほろび)給ふ歟(か)。災患(さいくわん)本(もと)無種、悪事を以て種とすといへり。実(まこと)なる哉、武勇(ぶよう)の家に生れ弓箭(きうせん)を専(もつぱら)にすとも、慈悲を先とし業報(ごふはう)を可恐。我が威勢のある時は、冥(みやう)の昭覧(せうらん)をも不憚、人の辛苦をも不痛、思(おもふ)様に振舞(ふるまひ)ぬれば、楽(たのしみ)尽(つき)て悲(かなしみ)来り、我と身を責(せむ)る事、哀に愚(おろ)かなる事共(ことども)也(なり)。
○吉野殿(よしのどの)与相公羽林御和睦(わぼくの)事(こと)付(つけたり)住吉(すみよしの)松折(をるる)事(こと) S3006
足利宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)は、将軍鎌倉(かまくら)へ下り給(たまひ)し時京都守護(しゆご)の為に被残坐(おは)しけるが、関東(くわんとう)の合戦の左右は未(いまだ)聞へず、京都は以外に無勢(ぶせい)也(なり)。角(かく)ては如何様(いかさま)、和田・楠に被寄て、無云甲斐京を被落ぬとをぼしければ、一旦(いつたん)事を謀(はかつ)て、暫(しばらく)洛中(らくちゆう)を無為(ぶゐ)ならしめん為に、吉野殿(よしのどの)へ使者を立て、「自今以後は、御治世(ごぢせい)の御事(おんこと)と、国衙(こくが)の郷保(がうほ)、並(ならび)に本家領家(ほんけりやうけ)、年来(としごろ)進止(しんし)の地に於ては、武家一向(いつかう)其(その)綺(いろひ)を可止にて候。只承久(しようきう)以後新補(しんぽ)の率法(りつはふ)並(ならびに)国々の守護職(しゆごしよく)、地頭御家人(ごけにんの)所帯(しよたい)を武家の成敗に被許て、君臣和睦(わぼく)の恩慧(おんけい)を被施候は、武臣七徳の干戈(かんくわ)を収(をさめ)て、聖主万歳(ばんぜい)の宝祚(ほうそ)を可奉仰。」頻(しきり)に奏聞をぞ被経ける。依之(これによつて)諸卿僉議(せんぎ)有て、先に直義入道和睦(わぼく)の由を申て、言(ことばの)下に変じぬ。是も亦偽(いつはつ)て申(まうす)条無子細覚(おぼゆ)れ共(ども)、謀(はかりこと)の一途(いちづ)たれば、先(まづ)義詮が被任申旨、帝都還幸(くわんかう)の儀を催(もよほ)し、而(しかうして)後に、義詮をば畿内(きない)・近国の勢を以て退治(たいぢ)し、尊氏をば義貞が子共に仰(おほせ)付(つけ)て、則被御追罰(ついばつ)何の子細か可有とて、御問答再往(さいわう)にも不及、御合体(ごがつてい)の事子細非(あら)じとぞ被仰出ける。両方互に偽(いつはり)給へる趣、誰かは可知なれば、此(この)間持明院殿(ぢみやうゐんどの)方(がた)に被拝趨ける諸卿、皆賀名生(あなふ)殿(どの)へ被参。先(まづ)当職(たうしよく)の公卿には二条(にでうの)関白太政大臣(だいじやうだいじん)良基(よしもと)公(こう)・近衛(このゑの)右大臣道嗣(みちつぐ)公(こう)・久我(こがの)内大臣(ないだいじん)右大将(うだいしやう)通相(みちすけ)公(こう)・葉室(はむろの)大納言(だいなごん)長光(ながみつ)・鷹司(たかつかさの)大納言(だいなごん)左大将冬通(ふゆみち)・洞院(とうゐん)大納言(だいなごん)実夏(さねなつ)・三条(さんでうの)大納言(だいなごん)公忠(きんただ)・三条(さんでうの)大納言(だいなごん)実継(さねつぐ)・松殿(まつどの)大納言(だいなごん)忠嗣(ただつぐ)・今小路(いまこうぢ)大納言(だいなごん)良冬(よしふゆ)・西園寺(さいをんじ)大納言(だいなごん)実俊(さねとし)・裏築地(うらついぢ)大納言(だいなごん)忠季(ただすゑ)・大炊御門(おほひのみかど)中納言(ちゆうなごん)家信・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆持(たかもち)・菊亭(きくてい)中納言(ちゆうなごん)公直(きんなほ)・二条(にでうの)中納言(ちゆうなごん)師良(もろよし)・華山院(くわざんのゐん)中納言(ちゆうなごん)兼定(かねさだ)・葉室(はむろの)中納言(ちゆうなごん)長顕(ながあき)・万里小路(までのこうぢ)中納言(ちゆうなごん)仲房(なかふさ)・徳大寺中納言実時(さねとき)・二条(にでうの)宰相(さいしやう)為明(ためあきら)・勘解由小路(かげゆこうぢ)左大弁(さだいべん)宰相兼綱(かねつな)・堀河(ほりかはの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)家賢(いへかた)・三条(さんでうの)宰相(さいしやう)公豊(きんとよ)・坊城(ばうじやうの)右大弁宰相経方(つねまさ)・日野(ひのの)宰相(さいしやう)教光(のりみつ)・中御門(なかみかど)宰相(さいしやう)宣明(のぶあきら)、殿上人(てんじやうびと)には日野(ひのの)左中弁時光(ときみつ)・四条(しでうの)左中将(さちゆうじやう)隆家(たかいへ)・日野(ひのの)右中弁(うちゆうべん)保光(やすみつ)・権(ごんの)右中弁(うちゆうべん)親顕(ちかあき)・日野(ひのの)左少弁(させうべん)忠光(ただみつ)・右少弁平(たひらの)信兼(のぶかぬ)・勘解由(かげゆの)次官行知(ゆきとも)・右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)嗣房等(つぐふさら)也(なり)。此(この)外先官(せんぐわん)の公卿、非参議(ひさんぎ)、七弁(しちべん)八座(はちざ)、五位六位、乃至(ないし)山門園城(をんじやう)の僧綱(そうがう)、三門跡(さんもんぜき)の貫首(くわんしゆ)、諸院家(しよゐんげ)の僧綱、並(ならび)に禅律の長老、寺社の別当神主(かんぬし)に至(いたる)まで我先(さき)にと馳(はせ)参りける間、さしも浅猿(あさまし)く賎(いや)しげなりし賀名生(あなふ)の山中、如花隠映(いんえい)して、如何(いか)なる辻堂、温室(をんしつ)、風呂までも、幔幕(まんまく)引かぬ所も無(なか)りけり。今参候する所の諸卿の叙位転任(じよゐてんにん)は、悉(ことごとく)持明院殿(ぢみやうゐんどの)より被成たる官途(くわんと)なればとて各一汲(いつきふ)一階を被貶けるに、三条(さんでうの)坊門(ばうもん)大納言(だいなごん)通冬(みちふゆ)卿(きやう)と、御子(みこ)左(ひだりの)大納言(だいなごん)為定(ためさだ)卿(きやう)と許(ばかり)は、本(もと)の官位に被復せけり。是(これ)は内々吉野殿(よしのどの)へ被申通ける故(ゆゑなり)。京都より被参仕たる月卿(げつけい)雲客(うんかく)をば、降参人とて官職を被貶、山中伺候(しこう)の公卿殿上人(てんじやうびと)をば、多年の労(らう)功(こう)ありとて、超涯不次(てうがいふじ)の賞を被行ける間、窮達(きゆうたつ)忽(たちまち)に地を易(かへ)たり。故三位殿(さんみどの)御局(つぼね)と申(まうし)しは、今天子の母后(ぼこう)にて御坐(おはしま)せば、院号蒙(かうむら)せ給(たまひ)て、新待賢門院(しんたいけんもんゐん)とぞ申ける。北畠入道源(みなもとの)大納言(だいなごん)は、准后(じゆごう)の宣旨を蒙(かうむり)て華(はな)著(つけ)たる大童子(おほわらは)を召具(めしぐ)し、輦(てぐるま)に駕(が)して宮中を出入すべき粧(よそほひ)、天下耳目(じぼく)を驚かせり。此(この)人は故奥州(こあうしう)の国司顕家(あきいへ)卿(きやう)の父、今皇后(くわうごうの)厳君(げんくん)にてをはすれば、武功と云(いひ)華族(くわしよく)と云(いひ)、申(まうす)に及(およば)ぬ所なれ共(ども)、竹園摂家(ちくゑんせつけ)の外に未(いまだ)准后(じゆごう)の宣旨を被下たる例(れい)なし。平相国(へいしやうこく)清盛入道出家の後、准后(じゆごう)の宣旨を蒙りたりしは、皇后の父たるのみに非(あら)ず、安徳(あんとく)天皇(てんわう)の外祖(ぐわいそ)たり。又忠盛が子とは名付(なづけ)ながら、正(まさし)く白河(しらかはの)院(ゐん)の御子なりしかば、華族(くわしよく)も栄達も今の例には引(ひき)がたし。日野(ひのの)護持院(ごぢゐん)僧正(そうじやう)頼意(らいい)は、東寺の長者醍醐(だいご)の座主(ざす)に被補て、仁和寺(にんわじ)諸院家(しよゐんげ)を兼(かね)たり。大塔(おほたふの)僧正(そうじやう)忠雲は、梨本(なしもと)大塔(おほたふ)の両門跡を兼(かね)て、鎌倉(かまくら)の大御堂(おほみだう)、天王寺(てんわうじ)の別当職に被補。此(この)外山中伺候の人々、名家(めいか)は清華(せいぐわ)を超(こえ)、庶子(しよし)は嫡家(ちやくけ)を越て、官職雅意(がい)に任(まかせ)たり。若(もし)如今にて天下定らば、歎(なげく)人は多(おほく)して悦(よろこぶ)者は可少。元弘(げんこう)一統(いつとう)の政道如此にて乱(みだれ)しを、取て誡(いましめ)とせざりける心の程こそ愚かなれ。憂かりし正平六年の歳晩(くれ)て、あらたまの春立(たち)ぬれども、皇居(くわうきよ)は猶(なほ)も山中なれば、白馬蹈歌(あをむまたうか)の節会(せちゑ)なんどは不被行。寅(とら)の時の四方拝(しはうはい)、三日の月奏許(ぐわつそうばかり)有て、後七日(ごしちにちの)御修法(みしほ)は文観(もんくわん)僧正(そうじやう)承(うけたまはり)て、帝都の真言院(しんごんゐん)にて被行。十五日過(すぎ)ければ、武家より貢馬(くめ)十疋(じつぴき)・沙金(しやきん)三千両奏進之。其(その)外別進(べつしんの)貢馬三十疋(さんじつぴき)・巻絹(まききぬ)三百疋・沙金五百両(ごひやくりやう)、女院(にようゐん)皇后三公(さんこう)九卿(きうけい)、無漏方引進(ひきまゐらす)。二月二十六日(にじふろくにち)、主上(しゆしやう)已(すで)に山中を御出(おんいで)有て、腰輿(えうよ)を先(まづ)東条へ被促。剣璽(けんじ)の役人計(ばかり)衣冠正(ただし)くして被供奉。其(その)外の月卿・雲客・衛府(ゑふ)・諸司(しよし)の尉(ゐ)は皆甲胄を帯して、前騎後乗(こうじよう)に相順(あひしたが)ふ。東条に一夜(いちや)御逗留(ごとうりう)有て、翌日頓(やが)て住吉(すみよし)へ行幸なれば、和田・楠以下、真木野(まきの)・三輪(みわ)・湯浅(ゆあさ)入道・山本判官・熊野の八庄司(しやうじ)吉野十八郷(じふはちがう)の兵、七千(しちせん)余騎(よき)、路次(ろし)を警固仕(つかまつ)る。皇居(くわうきよ)は当社の神主(かんぬし)津守国夏(つもりのくになつ)が宿所を俄(にはか)に造(つくり)替(かへ)て臨幸なし奉りけり。国夏則(すなはち)上階(じやうかい)して従三位(じゆさんみ)に被成。先例未(いまだ)なき殿上の交(まじは)り、時に取ての面目なり。住吉(すみよし)に臨幸成て三日に当りける日、社頭に一の不思議(ふしぎ)あり。勅使(ちよくし)神馬(じんめ)を献(たてまつ)て奉幣(ほうへい)を捧げたりける時、風も不吹に、瑞籬(たまがき)の前なる大(おほいなる)松一本中より折(をれ)て、南に向て倒(たふ)れにけり。勅使(ちよくし)驚て子細を奏聞しければ、伝奏(てんそう)吉田(よしだの)中納言(ちゆうなごん)宗房卿、「妖(えう)は不勝徳。」と宣(のたまひ)てさまでも驚(おどろき)給はず。伊達(だて)三位(さんみ)有雅(いうが)が武者所(むしやどころ)に在(あり)けるが、此(この)事を聞て、「穴(あな)浅猿(あさまし)や、此(この)度の臨幸(りんかう)成(なら)せ給はん事は難有。其(その)故は昔殷(いんの)帝大戊(たいぼう)の時、世の傾(かたぶか)んずる兆(しるし)を呈(あらは)して、庭に桑穀(くは)の木一夜(いちや)に生(おひ)て二十(にじふ)余丈(よぢやう)に迸(はびこ)れり。帝大戊懼(おそれ)て伊陟(いちよく)に問(とひ)給ふ。伊陟が申(まうさ)く、「臣聞(きく)妖(えう)は不勝徳に、君の政の闕(かく)る事あるに依て、天此(この)兆(しるし)を降(くだ)す者也(なり)。君早(はやく)徳を脩(をさ)め給へ。」と申(まうし)ければ、帝則(すなはち)諌(いさめ)に順(したがひ)て正政撫民、招賢退佞給(たまひ)しかば、此(この)桑穀(くは)の木又一夜(いちや)の中に枯(かれ)て、霜露の如くに消(きえ)失(うせ)たりき。加様の聖徳を被行こそ、妖(えう)をば除(のぞ)く事なるに、今の御政道に於て其(その)徳何事なれば、妖(えうは)不勝徳とは、伝奏の被申やらん。返々(かへすがへす)も難心得(こころえがたく)才学(さいかく)哉(かな)。」と、眉を顰(ひそめ)てぞ申(まうし)ける。其(その)夜何(いか)なる嗚呼(をこ)の者かしたりけん。此(この)松を押削(おしけづり)て一首(いつしゆ)の古歌を翻案(ほんあん)してぞ書たりける。君が代の短(みじか)かるべきためしには兼てぞ折(をれ)し住吉(すみよし)の松と落書にぞしたりける。住吉(すみよし)に十八日御逗留(ごとうりう)有て、潤(うるふ)二月十五日天王寺(てんわうじ)へ行幸なる。此(この)時(とき)伊勢の国司中(なかの)院(ゐんの)衛門(ゑもんの)督(かみ)顕能(あきよし)、伊賀・伊勢の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を率(そつ)して被馳参けり。同(おなじき)十九日八幡(やはた)へ行幸成て、田中法印が坊を皇居(くわうきよ)に被成、赤井・大渡(おほわたり)に関を居(す)へて、兵山上山下(さんげ)に充満(みちみち)たるは、混(ひたす)ら合戦の御用意(ごようい)也(なり)と、洛中(らくちゆう)の聞へ不穏。依之(これによつて)義詮朝臣(よしあきらあそん)、法勝寺(ほつしようじ)の慧鎮(ゑちん)上人を使にて、「臣不臣の罪を謝して、勅免(ちよくめん)を可蒙由(よし)申入るゝ処に、照臨已(すで)に下情(かじやう)を被恤、上下和睦の義、事定(さだま)り候(さうらひ)ぬる上は、何事の用心(ようじん)か候べきに、和田・楠以下の官軍(くわんぐん)等(ら)、混(ひたすら)合戦の企(くはたて)ある由(よし)承(うけたまはり)及(および)候。如何様(いかやう)の子細にて候やらん。」と被申たり。主上(しゆしやう)直(ぢき)に上人に御対面有て、「天下未(いまだ)恐懼(きようく)を懐(いだ)く間、只非常を誡(いまし)めん為に、官軍(くわんぐん)を被召具いへ共、君臣已(すで)に和睦の上は更に異変の義不可有。縦(たとひ)讒者(ざんしや)の説あり共、胡越(こえつ)の心を不存ば太平の基(もとゐ)たるべし。」と、勅答有てぞ被返ける。綸言(りんげん)已(すで)に如此。士女(しぢよ)の説何ぞ用る処ならんとて、義詮朝臣(よしあきらあそん)を始(はじめ)として、京都の軍勢(ぐんぜい)、曾(かつ)て今被出抜とは夢にも不知、由断(ゆだん)して居たる処に、同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)の辰(たつの)刻(こく)に、中(なかの)院(ゐんの)右衛門(うゑもんの)督(かみ)顕能、三千(さんぜん)余騎(よき)にて鳥羽より推寄(おしよせ)て、東寺の南、羅城門(らしやうもん)の東西にして、旗の手を解(とき)、千種(ちぐさの)少将(せうしやう)顕経五百(ごひやく)余騎(よき)にて、丹波路(たんばぢ)唐櫃越(からうとごえ)より押寄(おしよせ)て、西の七条に火を上(あぐ)る。和田・楠・三輪・越知(をち)・真木・神宮寺(じんぐうじ)、其(その)勢都合五千(ごせん)余騎(よき)、宵より桂川を打渡て、まだ篠目(しののめ)の明(あけ)ぬ間(ま)に、七条大宮(しちでうおほみや)の南北七八町(しちはちちやう)に村立(むらだつ)て、時の声をぞ揚(あげ)たりける。東寺・大宮(おほみや)の時(ときの)声、七条口の烟を見て、「すはや楠寄(よせ)たり。」と、京中(きやうぢゆう)の貴賎上下遽騒(あはてさわぐ)事不斜(なのめならず)。細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏は、千本(せんぼん)に宿して居たりけるが、遥(はるか)に西七条の烟を見て、先(まづ)東寺へ馳寄(はせよ)らんと、僅に百四五十騎(ひやくしごじつき)にて、西の朱雀(しゆしやか)を下りに打(うち)けるが、七条大宮(しちでうおほみや)に控(ひかへ)たる楠が勢に被取篭、陸奥(むつの)守(かみ)の甥(をひ)、細河(ほそかは)八郎(はちらう)矢庭(やには)に被討ければ、顕氏主従八騎に成て、若狭を指(さし)てぞ落(おち)ける。細河(ほそかは)讃岐守(さぬきのかみ)頼春(よりはる)は、時の侍所(さぶらひどころ)也(なり)ければ、東寺辺へ打出て勢を集(あつめ)んとて、手勢三百騎(さんびやくき)許(ばかり)にて、是(これ)も大宮(おほみや)を下りに打(うち)けるが、六条(ろくでう)辺にて敵の旗を見て、「著到(ちやくたう)も勢汰(せいぞろへ)も今はいらぬ所也(なり)。何様まづ此(これ)なる敵を一散(ちら)し々(ちら)さでは、何(いづ)くへか可行。」とて、三千(さんぜん)余騎(よき)控(ひかへ)たる和田・楠が勢に相向ふ。楠が兵兼ての巧(たくみ)有(あり)て、一枚楯の裏の算(さん)を繁(しげ)く打て、如階認(こし)らへたりければ、在家(ざいけ)の垣に打懸々々(うちかけうちかけ)て、究竟(くつきやう)の射手(いて)三百(さんびやく)余人(よにん)、家の上に登(のぼり)て目の下なる敵を直下(みおろ)して射ける間、面を向(むく)べき様も無(なく)て進(すすみ)兼(かね)たる処を見て、和田・楠五百(ごひやく)余騎(よき)轡(くつばみ)を双(ならべ)てぞ懸(かけ)たりける。讃岐守(さぬきのかみ)が五百(ごひやく)余騎(よき)、左右へ颯(さつ)と被懸阻又取て返さんとする処に、讃岐守(さぬきのかみ)が乗たる馬、敵の打(うつ)太刀に驚(おどろき)て、弓杖(ゆんづゑ)三杖(みつゑ)計(ばかり)ぞ飛(とび)たりける。飛(とぶ)時(とき)鞍(くら)に被余真倒(まつさかさま)にどうど落つ。落(おつ)ると均(ひとし)く敵三騎落合(おちあひ)て、起(おこ)しも不立切(きり)けるを、讃岐守(さぬきのかみ)乍寐二人(ににん)の敵の諸膝(もろひざ)薙(ない)で切居(きりす)へ、起揚(おきあが)らんとする処を、和田が中間走(わしり)懸て、鑓(やり)の柄(え)を取延(とりのべ)て、喉吭(のどぶえ)を突(つい)て突倒す。倒るゝ処に落合て頚をば和田に被取にけり。
○相公(しやうこう)江州落(がうしうおちの)事(こと) S3007
細河(ほそかは)讃岐守(さぬきのかみ)は被討ぬ。陸奥(むつの)守(かみ)は何地(いづち)共(とも)不知落行(おちゆき)ぬ。今は重(かさね)て可戦兵無(なか)りければ、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)、僅(わづか)に百四五十騎(ひやくしごじつき)にて、近江を差(さし)て落(おち)給(たまふ)。下賀(げが)・高山(たかやま)の源氏共、兼て相図を定めて、勢多の橋をば焼落(やきおと)しぬ。舟はこなたに一艘(いつさう)もなし。山門へも、大慈院(だいじゐんの)法印を天王寺(てんわうじ)より被遣て、山徒(さんと)皆君の御方(みかた)に成(なり)ぬと聞へつれば、落行(おちゆく)処を幸(さいは)いと、勢多へも定(さだめ)て懸るらん。只都にて討死すべかりつる者を、蓬(きた)なく是(ここ)まで落(おち)て、尸(かばね)を湖水(こすゐ)の底に沈め、名を外都(ぐわいと)の土に埋まん事、心憂かるべき恥辱(ちじよく)哉と後悔せぬ人も無りけり。敵の旗の見へば腹を切(きら)んとて、義詮朝臣(よしあきらあそん)を始(はじめ)として、鎧をば皆脱置(ぬぎおき)て、腰(こしの)刀許(ばかり)にて、白沙(しらす)の上に並居(なみゐ)給ふ。爰(ここ)に相模(さがみの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)に曾我左衛門と云(いひ)ける者、水練(すゐれん)の達者(たつしや)也(なり)ければ、向の岸に游(およ)ぎ著て、子舟の有(あり)けるを一艘(いつさう)領(りやう)して、自(みづから)櫓(ろ)を推(お)して漕(こぎ)寄する。則(すなはち)大将を始(はじめ)として、宗(むね)との人々二十(にじふ)余人(よにん)一艘(いつさう)に込乗(こみのつ)て、先(まづ)向の岸に著(つき)給ふ。其(その)後又小舟三艘(さんざう)求(もとめ)出して、百五十騎(ひやくごじつき)の兵共(つはものども)皆渡してけり。是(これ)までも猶(なほ)敵の追て懸る事無ければ、棄(すて)たる馬も物具(もののぐ)も次第/\に渡し終(はて)て、舟蹈返(ふみかへ)し突(つき)流(なが)して、「今こそ活(いき)たる命なれ。」と、手を拍(うつ)て咄(どつ)とぞ被笑ける。大将軍無事故、近江の四十九院(しじふくゐん)に坐(おは)する由聞へければ、土岐・大高伊予(いよの)守(かみ)、東坂本(ひがしさかもと)へ落(おち)たりけるが、舟に乗て馳参る。佐々木(ささき)の一党は不及申、美濃・尾張(をはり)・伊勢・遠江の勢共(せいども)、我(われ)も我(われ)もと馳参る程に、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)又大勢を著て、山陽・山陰に牒(てふ)し合(あは)せ、都を攻(せめ)んと議し給ふ。
○持明院殿(ぢみやうゐんどの)吉野(よしのへ)遷幸(せんかうの)事(こと)付(つけたり)梶井(かぢゐの)宮(みやの)事(こと) S3008
去(さる)程(ほど)に敵は都を落(おち)たれ共(ども)、吉野の帝は洛中(らくちゆう)へ臨幸も不成、只(ただ)北畠入道准后(じゆごう)・顕能(あきよし)卿(きやう)父子計(ばかり)京都に坐(おは)して、諸事の成敗を司(つかさど)り給(たまひ)て、其(その)外の月卿(げつけい)雲客(うんかく)は、皆主上(しゆしやう)の御坐(まします)に付(つい)て、八幡(やはた)にぞ祠候(さふらひ)し給(たまひ)ける。同(おなじき)二十三日(にじふさんにち)、中(なかの)院(ゐんの)中将(ちゆうじやう)具忠(ともただ)を勅使(ちよくし)にて、都の内裡(だいり)に御坐(おはしま)す三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を吉野の主上(しゆしやう)へ渡し奉る。是(これ)は先帝山門より武家へ御出(おんいで)し有し時、ありもあらぬ物を取替(とりかへ)て、持明院殿(ぢみやうゐんどの)へ被渡たりし物なればとて、璽(しるし)の御箱(みはこ)をば被棄、宝剣と内侍所(ないしところ)とをば、近習(きんじゆ)の雲客に被下て、衛府(ゑふ)の太刀(たち)・装束(しやうぞく)の鏡にぞ被成ける。げにも誠の三種(さんじゆの)神器(じんぎ)にてはなけれ共(ども)、已(すで)に三度(さんど)大嘗会(じやうゑ)に逢(あひ)て、毎日の御神拝(ごじんぱい)・清署堂(せいしよだう)の御神楽(みかぐら)、二十(にじふ)余年(よねん)に成(なり)ぬれば、神霊もなどか無かるべきに、余(あまり)に無恐凡俗(ぼんぞく)の器物に被成ぬる事、如何(いかが)あるべからんと、申す族(やから)も多かりけり。同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)北畠右衛門(うゑもんの)督(かみ)顕能、兵五百(ごひやく)余騎(よき)を率して持明院殿(ぢみやうゐんどの)へ参り、先(まづ)其(その)辺の辻々門々を堅(かた)めさせければ、「すはや武士共(ぶしども)が参りて、院・内を失ひ進(まゐ)らせんとするは。」とて女院・皇后御心(おんこころ)を迷はして臥(ふし)沈ませ給ひ、内侍・上童(うへわらは)・上臈・女房などは、向後(ゆくへ)も不知逃(にげ)ふためいて此彼(ここかしこ)に立吟(さまよ)ふ。され共顕能卿、穏(おだやか)に西の小門より参て、四条(しでうの)大納言(だいなごん)隆蔭(たかかげ)卿(きやう)を以て、「世の静(しづま)り候はん程は、皇居(くわうきよ)を南山に移し進(まゐ)らすべしとの勅定(ちよくぢやう)にて候。」と被奏ければ、両院・主上(しゆしやう)・東宮あきれさせ給へる許(ばかり)にて、兔角(とかう)の御言(おんことば)にも不及、只御泪(なみだ)にのみほれさせ給(たまひ)て、羅穀(らこく)の御袂(おんたもと)絞(しぼ)る計(ばかり)に成(なり)にけり。良(やや)暫(しばらく)有て、新院泪(なみだ)を抑(おさへ)て被仰けるは、「天下乱(らん)に向ふ後、僅に帝位を雖践、叡慮より起りたる事に非(あらざ)れば一事(いちじ)も世の政(まつりこと)を御心(おんこころ)に不任。北辰(ほくしん)光消(きえ)て、中夏(ちゆうか)道闇(くらき)時(とき)なれば、共に椿嶺(ちんれい)の陰(かげ)にも寄り、遠く花山(くわざん)の跡をも追(おは)ばやとこそ思召(おぼしめし)つれ共(ども)、其(それ)も叶はぬ折節の憂(う)さ豈(あに)叡察(えいさつ)なからんや。今天運膺図に万人望(のぞみ)を達する時至れり。乾臨(けんりん)曲(まげ)て恩免(おんめん)を蒙(かふむ)らば、速(すみやか)に釈門(しやくもん)の徒(と)と成て、辺鄙(へんぴ)に幽居(いうきよ)を占(しめ)んと思ふ。此(この)一事(いちじ)具(つぶさ)に可有奏達。」と被仰出けれ共(ども)、顕能再往(さいわう)の勅答に不及、「已(すで)に綸命(りんめい)を蒙(かふむ)る上は、押へては如何(いか)が奏聞を経(へ)候べき。」とて、御車(おんくるま)を二両差寄(さしよ)せ、「余(あま)りに時刻移(うつり)候。」と急げば、本院(ほんゐん)・新院・主上(しゆしやう)・東宮、御同車(ごどうしや)有て、南の門より出御(しゆつぎよ)なる。さらでだに霞(かす)める花の木(こ)の間(ま)の月、是(これ)や限の御泪に、常よりも尚(なほ)朧(おぼろ)也(なり)。女院・皇后は、御簾(みす)の内、几帳(きちやう)の陰(かげ)に臥沈(ふししづ)ませ給へば、此(こ)の馬道(めだう)、彼(かし)この局(つぼね)には、声もつゝまず泣(なき)悲(かなし)む。御車(おんくるま)を暁(あかつき)の月に輾(きしつ)て、東洞院(ひがしのとうゐん)を下(くだ)りに過(すぎ)ければ、故卿の梢漸(やうやく)幽(かすか)にして、東嶺(とうれい)に響く鐘の声、明行(あけゆく)雲に横(よこた)はる。東寺までは、月卿(げつけい)雲客(うんかく)数(あま)た被供奉たりけれ共(ども)、叶ふまじき由を顕能被申ければ、三条(さんでうの)中将(ちゆうじやう)実音(さねとし)・典薬頭(てんやくのかみ)篤直計(あつなほばかり)を召具(めしぐ)せられて、見馴(みなれ)ぬ兵に被打囲、鳥羽まで御幸成(なり)たれば、夜は早若々(ほのぼの)と明(あけ)はてぬ。此(ここ)に御車(おんくるま)を駐(とどめ)て、怪(あや)しげなる網代輿(あじろこし)に召替(かへ)させ進(まゐ)らせ、日を経て吉野の奥賀名生(あなふ)と云(いふ)所へ御幸成し奉る。此(この)辺の民共が吾(わが)君とて仰(あふぎ)奉る吉野の帝の皇居(くわうきよ)だにも、黒木の柱、竹椽(たけたるき)、囲(かこ)ふ垣(かき)ほのしばしだにも栖(すま)れぬべくもなき宿(やど)り也(なり)。況(いはんや)敵の為に被囚、配所の如くなる御栖居(すまゐ)なれば、年経(へ)て頽(くづれ)ける庵室(あんじつ)の、軒を受(うけ)たる杉の板屋(いたやの)、目もあはぬ夜の寥(さび)しさを事問(とふ)雨の音までも御袖(おんそで)を湿(ぬら)す便りなり。衆籟(しゆらい)暁(あかつき)寒(さむう)して月庭前(ていぜん)の松に懸り、群猿(ぐんえん)暮に叫(さけん)で風洞庭(とうてい)の雲を送る。外(よそ)にて聞(きき)し住憂(すみう)さは数にもあらぬ深山(みやま)哉と、主上(しゆしやう)・上皇いつとなく被仰出度(た)び毎(ごと)に御泪の乾(かは)く隙(ひま)もなし。梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)は此(この)時(とき)天台(てんだいの)座主(ざす)にて坐(おは)しけるが、同(おなじ)く被召捕させ給て、金剛山(こんがうせん)の麓にぞ坐(おは)しける。此(この)宮(みや)は本院(ほんゐん)の御弟(おとと)、慈覚(じかく)大師(だいし)の嫡流(ちやくりう)にて、三度(さんど)天台(てんだいの)座主に成(なら)せ給ひしかば、門迹(もんぜき)の富貴(ふつき)無双、御門徒(ごもんと)の群集(くんじゆ)如雲。師子(しし)・田楽(でんがく)を被召(めされ)、日夜に舞(まひ)歌はせ、茶飲み、連歌士(れんがし)を集めて、朝夕遊び興ぜさせ給(たまひ)しかば、世の譏(そし)り山門の訟(うつたへ)は止(やむ)時(とき)無りしか共、御心(おんこころ)の中の楽(たのしみ)は類(たぐひ)非じと見へたりしに、今引(ひき)替(かへ)たる配所の如くなる御棲居(すまゐ)、山深く里遠くして鳥の声だにも幽(かす)かなるに、御力者(おんりきしや)一人より外(ほか)は被召(めされ)仕人もなし。隙(ひま)あらはなる柴(しば)の庵(いほ)に袖を片敷(かたしく)苔筵(こけむしろ)、露は枕に結べども、都に帰る夢はなしと、御心(おんこころ)を傷(いたま)しめ給ふに就(つけ)けも、仏種は従縁起る事なれば、よしや世中(よのなか)角(かく)ても遂(つひ)にはてなば三千(さんぜん)の貫頂(くわんちやう)の名を捨(すて)て混(ひたすら)桑門(さうもん)の客(かく)と成(なら)んと思食(おぼしめし)けるこそ哀なれ。天下若(もし)皇統に定て世も閑(しづか)ならば、御遁世(ごとんせい)の御有増(あらまし)も末(すゑ)通(とほ)りぬべし。若(もし)又武家強(つよう)て南方の官軍(くわんぐん)打負けば、失(うしな)ひ奉る事も何様(いかさま)有(あり)ぬべしと思召(おぼしめし)つゞくる時にこそ、さしも浮世を此侭(このまま)にて、頓(やが)てもさらば静まれかしと、還(かへつ)て御祈念(きねん)も深かりけり。


太平記(国民文庫)
太平記巻第三十一

○新田起義兵事(こと) S3101
吉野殿(よしのどの)武家に御合体(ごがつてい)有(あり)つる程こそ、都鄙(とひ)暫(しばら)く静(しづか)也(なり)つれ。御合体(ごがつてい)忽(たちまち)に破(やぶれ)て、合戦に及(および)し後、畿内(きない)・洛中(らくちゆう)は僅(わずか)に王化に随(したがふ)といへ共、四夷八蛮(しいはちばん)は猶(なほ)武威に属(しよく)する者多かりけり。依之(これによつて)諸国七道の兵彼(かれ)を討ち是(これ)を従へんと互(たがひ)に威を立(たつ)る間、合戦の止(やむ)時(とき)もなし。已(すでに)闘諍堅固(とうじやうけんご)に成(なり)ぬれば、是(これ)ならずとも静(しづか)なるまじき理(ことわり)也(なり)。元弘建武の後より、天下久(ひさし)く乱(みだれ)て、一日も未(いまだ)不治。心あるも心無(こころなき)も、如何なる山の奥もがなと、身の穏家(かくれが)を求(もとめ)ぬ方もなけれど、何(いづ)くも同じ憂世(うきよ)なれば、厳子陵(げんしりよう)が釣台(てうだい)も脚(あし)を伸(のぶ)るに水冷(すさまじ)く、鄭大尉(ていたいゐ)が幽栖(いうせい)も薪(たきぎ)を担(にな)ふに山嶮(けは)し。如何なる一業所感(いちごふしよかん)にか、斯(かか)る乱世に生(うま)れ逢(あう)て、或(あるひ)は餓鬼道(がきだう)の苦を乍生受(うけ)、或(あるひ)は脩羅道(しゆらだう)の奴(やつこ)と不死前(さき)に成(なり)ぬらんと、歎かぬ人は無(なか)りけり。此(この)時(とき)、故新田左中将(さちゆうじやう)義貞の次男左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)・三男(さんなん)少将(せうしやう)義宗(よしむね)・従父兄弟(いとこ)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治(よしはる)三人(さんにん)、武蔵・上野・信濃・越後の間に、在所(ざいしよ)を定めず身を蔵(かくし)て、時を得ば義兵(ぎへい)を起さんと企(くはた)て居たりける処へ、吉野殿(よしのどの)未(いまだ)住吉(すみよし)に御坐有(あり)し時、由良(ゆら)新左衛入道信阿(しんあ)を勅使(ちよくし)にて、「南方と義詮と御合体(ごがつてい)の事は暫時(ざんじ)の智謀也(なり)と聞ゆる処也(なり)。仍(すなはち)節(せつ)に迷ひ時を過すべからず。早(はやく)義兵を起(おこし)て、将軍を追討(つゐたう)し、宸襟(しんきん)を休め奉るべし。」とぞ被仰下ける。信阿急ぎ東国へ下て、三人(さんにん)の人々に逢(あう)て事の子細を相触(あひふれ)ける間、さらば軈(やが)て勢(せい)を相催(あひもよほ)せとて、廻文(くわいぶん)を以て東(とう)八箇国(はちかこく)を触廻(ふれまは)るに、同心の族(やから)八百人(はつぴやくにん)に及べり。中にも石堂(いしたう)四郎入道は、近年高倉殿(たかくらどの)に属(しよく)して、薩■山(さつたやま)の合戦に打負(うちまけ)て、無甲斐命計(ばかり)を被助、鎌倉(かまくら)に有(あり)けるが、大将に憑(たのみ)たる高倉禅門は毒害せられぬ。我とは事を不起得。哀(あはれ)謀反(むほん)を起す人のあれかし、与力(よりき)せんと思ひける処に、新田兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)・同少将の許(もと)より内状を通(つう)じて、事の由(よし)を知(しら)せたりければ、流れに棹(さをさす)と悦(よろこび)て、軈(やが)て同心してけり。又三浦(みうらの)介(すけ)・葦名(あしなの)判官(はうぐわん)・二階堂(にかいだう)下野(しもつけの)二郎・小俣(をまた)宮内少輔(せう)も高倉殿(たかくらどの)方(がた)にて、薩■山(さつたやま)の合戦に打負(うちまけ)しかば、降人に成て命をば継たれども、人の見る処、世の聞(きく)処、口惜(くちをし)き者哉、哀(あはれ)謀反を起さばやと思(おもひ)ける処に、新田武蔵守(むさしのかみ)・同左衛門(さゑもんの)佐(すけ)の方より、憑(たの)み思ふよしを申たりければ、願ふ処の幸(さいはひ)哉と悦(よろこび)て、則(すなはち)与力(よりき)して、此(この)人々密(ひそか)に扇谷(あふぎのやつ)に寄合て評定(ひやうぢやう)しけるは、「新田の人々旗を挙(あげ)て上野(かうづけの)国(くに)に起り、武蔵国へ打越ると聞へば、将軍は定(さだめ)て鎌倉(かまくら)にてはよも待(まち)給はじ、関戸(せきと)・入間河(いるまがは)の辺に出合てぞ防ぎ給はんずらん。我等(われら)五六人が勢何(な)にと無(なく)とも、三千騎(さんぜんぎ)はあらんずらん。将軍戦場に打出給はんずる時、態(わざ)と馬廻(うままは)りに扣(ひかへ)て、合戦已(すで)に半ばならんずる最中(さいちゆう)、将軍を真中(まんなか)に取篭(とりこめ)奉り、一人も不残打取(うちとつ)て後に御陣へは参(まゐり)候べし。」と、新田の人々の方へ相図(あひづ)を堅く定(さだめ)て、石堂入道・三浦介・小俣(をまた)・葦名は、はたらかで鎌倉(かまくら)にこそ居たりけれ。諸方の相図(あひづ)事定りければ、新田武蔵守(むさしのかみ)義宗・左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義治(よしはる)、閏(うるふ)二月八日、先(まづ)手勢八百(はつぴやく)余騎(よき)にて、西上野に打出らる。是(これ)を聞て国々より馳参(はせまゐり)ける当家他門の人々、先(まづ)一族(いちぞく)には、江田(えだ)・大館(おほたち)・堀口・篠塚(しのづか)・羽河(はねかは)・岩松(いはまつ)・田中・青竜寺(しやうりゆうじ)・小幡(をはた)・大井田(おほゐた)・一井(いちのゐ)・世良田(せらた)・篭沢(こもりざは)、外様(とざま)には宇都宮(うつのみや)三河(みかはの)三郎・天野(あまの)民部大輔(たいふ)政貞・三浦近江守・南木(なんぼく)十郎・西木(さいぼく)七郎(しちらう)・酒勾(さかわ)左衛門・小畑左衛門・中金(なかかね)・松田・河村(かはむら)・大森・葛山(かつらやま)・勝代(かつしろ)・蓮沼(はすぬま)・小磯(こいそ)・大磯・酒間(さかま)・山下(やまもと)・鎌倉(かまくら)・玉縄(たまなは)・梶原(かぢはら)・四宮(しのみや)・三宮(さんのみや)・南西(なんさい)・高田・中村、児玉党(こだまたう)には浅羽(あさば)・四方田(よもだ)・庄(しやう)・桜井・若児玉(わかこだま)、丹(たん)の党には安保(あふ)信濃(しなのの)守(かみ)・子息修理(しゆりの)亮(すけ)・舎弟(しやてい)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・加治(かぢ)豊後(ぶんごの)守(かみ)・同丹内左衛門(たんないさゑもん)・勅使河原(てしがはらの)丹七郎(たんしちらう)・西党(さいたう)・東党(とうたう)・熊谷(くまがや)・太田・平山・私市(きさいち)・村山・横山・猪俣(ゐのまた)党、都合其(その)勢十万(じふまん)余騎(よき)、所々に火を懸(かけ)て、武蔵(むさしの)国(くに)へ打越る。依之(これによつて)武蔵・上野より早馬を打て鎌倉(かまくら)へ急を告(つぐ)る事、櫛の歯を引(ひく)が如し。「さて敵の勢(せい)は何程(いかほど)有(ある)ぞ。」と問へば、使者ども皆、「二十万騎(にじふまんぎ)には劣(おとり)候はじ。」とぞ答(こたへ)ける。仁木・細川の人々是(これ)を聞て、「さてはゆゝしき大事(だいじ)ごさんなれ。鎌倉中(かまくらぢゆう)の勢、千騎(せんぎ)にまさらじと覚(おぼゆる)也(なり)。国々の軍勢(ぐんぜい)は縦(たとひ)参る共、今の用には難立。千騎(せんぎ)に足らぬ御勢(おんせい)を以て、敵の二十万騎(にじふまんぎ)を防(ふせが)ん事は、可叶共覚(おぼえ)候はず。只先(まづ)安房(あは)・上総(かづさ)へ開(ひらか)せ給て、御勢(おんせい)を付(つけ)て御合戦こそ候はめ。」と被申けるを、将軍つく/゛\と聞(きき)給て、「軍の習(ならひ)、落(おち)て後(のち)利ある事千に一の事也(なり)。勢を催(もよほ)さん為に、安房・上総へ落(おち)なば、武蔵・相摸・上野・下野の者共(ものども)は、縦(たとひ)尊氏に志有(あり)共(とも)、敵に隔(へだて)られて御方(みかた)に成(なる)事あるべからず。又尊氏鎌倉(かまくら)を落(おち)たりと聞かば、諸国に敵に成(なる)者多かるべし。今度に於ては、縦(たとひ)少勢なりとも、鎌倉(かまくら)を打出て敵を道に待て、戦を決せんには如(しか)じ。」とて、十六日(じふろくにち)の早旦に、将軍僅(わづか)に五百(ごひやく)余騎(よき)の勢を率(そつ)し、敵の行合(ゆきあは)んずる所までと、武蔵(むさしの)国(くに)へ下り給ふ。鎌倉(かまくら)より追著(おつつき)奉る人々には、畠山上野(かうづけ)・子息伊豆(いづの)守(かみ)・畠山左京(さきやうの)大夫(たいふ)・舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)・舎弟(しやてい)大夫(たいふの)将監(しやうげん)・其(その)次式部(しきぶの)大夫(たいふ)・仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)・三男(さんなん)修理(しゆりの)亮(すけ)・岩松(いはまつ)式部(しきぶの)大夫(たいふ)・大島讃岐守(さぬきのかみ)・石堂左馬(さまの)頭(かみ)・今河五郎入道・同式部(しきぶの)大夫(たいふ)・田中三郎・大高(だいかう)伊予(いよの)守(かみ)・同土佐(とさの)修理(しゆりの)亮(すけ)・太平(おほひら)安芸(あきの)守(かみ)・同出羽(ではの)守(かみ)・宇津木平三・宍戸(ししど)安芸(あきの)守(かみ)・山城(やましろの)判官(はうぐわん)・曾我兵庫(ひやうごの)助(すけ)・梶原弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)・二階堂(にかいだう)丹後(たんごの)守(かみ)・同三郎左衛門(さぶらうざゑもん)・饗庭命鶴(あいばみやうづる)・和田筑前(ちくぜんの)守(かみ)・長井(ながゐ)大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)・同備前(びぜんの)守(かみ)・同治部(ぢぶの)少輔(せう)・子息右近(うこんの)将監(しやうげん)等(ら)也(なり)。元より隠謀有(あり)しかば、石堂入道・三浦(みうらの)介(すけ)・小俣(をまた)少輔(せう)次郎・葦名(あしな)判官(はうぐわん)・二階堂(にかいだう)下野(しもつけの)次郎、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)は、他勢を不交、将軍の御馬(おんむま)の前後に透間(すきま)もなくぞ打たりける。久米河(くめがは)に一日逗留(とうりう)し給へば、河越(かはごえ)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・同上野(かうづけの)守(かみ)・同唐戸(からと)十郎左衛門・江戸遠江守(とほたふみのかみ)・同下野(しもつけの)守(かみ)・同修理(しゆりの)亮(すけ)・高坂(かうさか)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)・同下野(しもつけの)守(かみ)・同下総(しもふさの)守(かみ)・同掃部(かもんの)助(すけ)・豊島(としま)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)・同兵庫(ひやうごの)助(すけ)・土屋(つちや)備前(びぜんの)守(かみ)・同修理(しゆりの)亮(すけ)・同出雲(いづもの)守(かみ)・同肥後(ひごの)守(かみ)・土肥(とひ)次郎兵衛入道(ひやうゑにふだう)・子息掃部助(かもんのすけ)・舎弟(しやてい)甲斐(かひの)守(かみ)・同三郎左衛門(さぶらうざゑもん)・二宮(にのみや)但馬(たぢまの)守(かみ)・同伊豆(いづの)守(かみ)・同近江(あふみの)守(かみ)・同河内(かはちの)守(かみ)・曾我(そが)周防(すはうの)守(かみ)・同三河(みかはの)守(かみ)・同上野(かうづけの)守(かみ)・子息兵庫(ひやうごの)助(すけ)・渋谷木工左衛門(もくざゑもん)・同石見(いはみの)守(かみ)・海老名(えびな)四郎左衛門(しらうざゑもん)・子息信濃(しなのの)守(かみ)・舎弟(しやてい)修理(しゆりの)亮(すけ)・小早河(こばやかは)刑部(ぎやうぶの)大夫(たいふ)・同勘解由左衛門(かげゆざゑもん)・豊田(とよた)因幡(いなばの)守(かみ)・狩野介(かののすけ)・那須(なす)遠江守(とほたふみのかみ)・本間(ほんま)四郎左衛門(しらうざゑもん)・鹿島(かしま)越前守(ゑちぜんのかみ)・島田備前(びぜんの)守(かみ)・浄法寺(じやうほふじ)左近(さこんの)大夫(たいふ)・白塩(しらしほ)下総(しもふさの)守(かみ)・高山越前守(ゑちぜんのかみ)・小林右馬助(うまのすけ)・瓦葺(かはらふき)出雲(いづもの)守(かみ)・見田(みた)常陸(ひたちの)守(かみ)・古尾谷(ふるをや)民部(みんぶの)大輔(たいふ)・長峯(ながみね)石見(いはみの)守(かみ)・都合其(その)勢八万(はちまん)余騎(よき)、将軍の陣へ馳(はせ)参る。已(すで)に明日矢合(やあはせ)と定められたりける夜、石堂四郎入道、三浦(みうらの)介(すけ)を呼(よび)のけて宣ひけるは、「合戦已(すで)に明日と定められたり。此(この)間相謀(あひはかり)つる事を、子息にて候右馬(うまの)頭(かみ)に、曾(かつ)て知(しら)せ候はぬ間、此(この)者一定(いちぢやう)一人残(のこり)止(とどまつ)て、将軍に討(うた)れ進(まゐら)せつと覚(おぼえ)候。一家(いつけ)の中を引分て、義卒(ぎそつ)に与(くみ)し、老年の頭(かうべ)に胄(かぶと)を戴(いただ)くも、若(もし)望み達せば、後栄(こうえい)を子孫に残さんと存ずる故(ゆゑ)也(なり)。されば此(この)事を告(つげ)知(しら)せて、心得(こころえ)させばやと存ずるは如何(いか)が候べき。」と問(とひ)給ひければ、三浦、「げにも是(これ)程の事を告進(つげまゐら)せられざらんは、可有後悔覚(おぼえ)候。急(いそぎ)知(しら)せ進(まゐ)らせ給へ。」と申ける間、石堂禅門、子息右馬(うまの)頭(かみ)を呼(よび)て、「我薩■山(さつたやま)の合戦に打負(うちまけ)て、今降人(かうにん)の如くなれば、仁木・細川等に押(おし)すへられて、人数ならぬ有様御辺も定(さだめ)て遺恨(ゐこん)にぞ思(おもふ)らん。明日の合戦に、三浦(みうらの)介(すけ)・葦名(あしな)判官(はうぐわん)・二階堂(にかいだう)の人々と引合て、合戦の最中(さいちゆう)将軍(しやうぐん)を討(うち)奉り、家運(かうん)を一戦(いつせん)の間に開(ひら)かんと思(おもふ)也(なり)。相構(あひかまへ)て其旨(そのむね)を心得(こころえ)て、我(わが)旗の趣(おもむく)に可被順。」と云(いは)れければ、右馬(うまの)頭(かみ)大に気色(きしよく)を損(そん)じて、「弓矢の道弐(ふたごこ)ろあるを以て恥とす。人の事は不知、於某は将軍に深く憑(たのま)れ進(まゐら)せたる身にて候へば、後矢(うしろや)射て名を後代(こうだい)に失はんとは、えこそ申(まうす)まじけれ。兄弟父子の合戦古(いにしへ)より今に至(いたる)まで無き事にて候はず。何様三浦(みうらの)介(すけ)・葦名判官、隠謀(いんぼう)の事を将軍に告(つげ)申さずは大なる不忠なるべし。父子(ふしの)恩義已(すで)に絶(たえ)候(さうらひ)ぬる上は、今生(こんじやう)の見参(げんざん)は是(これ)を限りと思召(おぼしめし)候へ。」と、顔を赤め腹を立て、将軍の御陣へぞ被参ける。父の禅門大に興(きよう)を醒(さま)して、急ぎ三浦が許(もと)に行(ゆき)て、「父の子を思ふ如く、子は父を思はぬ者にて候(さうらひ)けり。此(この)事右馬(うまの)頭(かみ)に不知、敵の中に残(のこり)て討(うた)れもやせんずらんと思ふ悲(かなし)さに、告知(つげしら)せて候へば、以外(もつてのほか)に気色(きしよく)を損じて、此(この)事将軍に告(つげ)申さでは叶(かなふ)まじきとて、帰(かへり)候(さうらひ)つるは如何(いかに)。此(この)者が気色、よも告(つげ)申さぬ事は候はじ、如何様(いかさま)軈(やが)て討手を向(むけ)られんと覚(おぼえ)候。いざゝせ給へ。今夜(こんや)我等(われら)が勢(せい)を引分(ひきわけ)て、関戸(せきと)より武蔵野へ回(まはつ)て、新田の人々と一になり、明日の合戦を致(いたし)候はん。」と宣ひければ、多日(たじつ)の謀(はかりこと)忽(たちまち)に顕(あらは)れて、却(かへつ)て身の禍(わざはひ)に成(なり)ぬと恐怖(きようふ)して、三浦・葦名・二階堂(にかいだう)手勢(てぜい)三千(さんぜん)余騎(よき)を引分(ひきわけ)、寄手(よせて)の勢(せい)に加(くはは)らんと関戸を廻(まはつ)て落行(おちてゆく)。是(これ)ぞはや将軍の御運尽(つき)ざる所なれ。
○武蔵野合戦(かつせんの)事(こと) S3102
三浦が相図(あひづ)相違したるをば、新田武蔵守(むさしのかみ)夢にも不知、時刻よく成(なり)ぬと急ぎ、明れば閏(うるふ)二月二十日の辰(たつの)刻(こく)に、武蔵野の小手差原(こてさしはら)へ打臨(うちのぞ)み給ふ。一方の大将には、新田武蔵守(むさしのかみ)義宗五万(ごまん)余騎(よき)、白旗(しらはた)・中黒(なかぐろ)・頭黒(かしらくろ)、打輪(うちわ)の旗は児玉党、坂東(ばんどうの)八平氏(はちへいじ)・赤印(あかじるし)一揆(いつき)を五手(いつて)に引分て、五所(いつところ)に陣をぞ取たりける。一方には新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)を大将にて、其(その)勢都合二万(にまん)余騎(よき)、かたばみ・鷹の羽・一文字(いちもんじ)・十五夜の月弓(つきゆみ)一揆(いつき)、引ては一(ひと)りも帰(かへら)じと是(これ)も五手に一揆(いつき)して四方(しはう)六里に引(ひか)へたり。一方には脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治(よしはる)を大将にて、二万(にまん)余騎(よき)、大旗・小旗・下濃(すそご)の旗、鍬形(くはがた)一揆(いつき)・母衣(ほろ)一揆(いつき)、是(これ)も五箇所(ごかしよ)に陣を張り、射手(いて)をば左右に進ませて懸手(かけて)は後(うしろ)に■控(ひか)へたり。敵小手差原(こてさしばら)にありと聞(きこ)へければ、将軍十万(じふまん)余騎(よき)を五手に分て、中道(なかみち)よりぞ寄(よせ)られける。先陣は平一揆(たひらいつき)三万(さんまん)余騎(よき)、小手(こて)の袋・四幅袴(よのはかま)・笠符(かさじるし)に至るまで一色(いつしき)に皆赤かりければ、殊更耀(かかやい)てぞ見へたりける。二陣には白旗一揆(しらはたいつき)二万(にまん)余騎(よき)、白葦毛(しろあしげ)・白瓦毛(しろかはらけ)・白佐馬(しろさめ)・■毛(つきげ)なる馬に乗て、練貫(ねりぬき)の笠符に白旌(しらはた)を差(さし)たりけるが、敵にも白旌有(あり)と聞て俄(にはか)に短(みじか)くぞ切たりける。三陣には花一揆(はないつき)、命鶴(みやうづる)を大将として六千(ろくせん)余騎(よき)、萌黄(もよぎ)・火威(ひをどし)・紫糸(むらさきいと)・卯(う)の花の妻取(つまどつ)たる鎧に薄紅(うすくれなゐ)の笠符をつけ、梅花一枝(ひとえだ)折て甲(かぶと)の真甲(まつかふ)に差たれば、四方(よも)の嵐の吹(ふく)度(たび)に鎧の袖や匂ふらん。四陣は御所一揆(いつき)とて三万(さんまん)余騎(よき)、二引両(ふたつひきりやう)の旌(はた)の下(もと)に将軍を守護(しゆご)し奉て、御内(みうち)の長者・国大名、閑(しづか)に馬を引(ひか)へたり。五陣は仁木左京大夫頼章(よりあきら)・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)・三男(さんなん)修理(しゆりの)亮(すけ)義氏、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、笠符をも不著、旌をも不差、遥(はるか)の外(よそ)に引のけて、馬より下(おり)てぞ居たりける。是(これ)は両方大勢の合戦なれば、十度(じふど)二十度(にじふど)懸合々々戦(たたかは)んに、敵も御方も気を屈(くつ)し、力疲れぬ事不可有。其(その)時(とき)荒手(あらて)に代(かは)りて、敵の大将の引(ひか)へたらんずる所を見澄(みすま)して、夜討せんが為也(なり)けり。去(さる)程(ほど)に新田・足利両家(りやうけ)の軍勢(ぐんぜい)二十万騎(にじふまんぎ)、小手差原に打臨(うちのぞん)で、敵三声(みこゑ)時(とき)を作れば御方(みかた)も三度(さんど)時(とき)の声を合(あは)す。上は三十三天(さんじふさんてん)までも響き、下は金輪際迄(こんりんざいまで)も聞ゆらんと震(おびたた)し。先(まづ)一番に新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)が二万(にまん)余騎(よき)と、平一揆(たひらいつき)が三万(さんまん)余騎(よき)と懸合(かけあはせ)て、追(おつ)つ返(かへし)つ合(あう)つ分(わか)れつ、半時計(はんじばかり)相戦て、左右へ颯(さつ)と引除(ひきのき)たれば、両方に討(うた)るゝ兵八百(はつぴやく)余人(よにん)、疵(きず)を被(かうむ)る者は未(いまだ)計(かぞふ)るに不遑。二番に脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)が二万(にまん)余騎(よき)と、白旗一揆(しらはたいつき)が二万七千(にまんしちせん)余騎(よき)と、東西より相懸(あひがか)りに懸て、一所に颯(さつ)と入乱(いりみだ)れ、火を散(ちら)して戦ふに、汗馬(かんば)の馳違(はせちがふ)音、太刀の鐔音(つばおと)、天に光り地に響(ひび)く。或(あるひ)は引組(ひつくん)で頚(くび)を取(とる)もあり被取もあり、或(あるひ)は弓手妻手(ゆんでめて)に相付て、切て落すもあり被落もあり。血は馬蹄(ばてい)に被蹴懸紅葉(もみぢ)に酒(そそ)く雨の如く、尸(かばね)は野径(やけい)に横(よこたはつ)て尺寸(せきすん)の地も不余さ。追靡(おひなび)け懸立(かけたて)られ、七八度(しちはちど)が程戦て東西へ颯(さつ)と別れたれば、敵御方(みかた)に討るゝ者又五百人(ごひやくにん)に及べり。三番に饗庭(あいば)の命鶴(みやうづる)生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)、容貌(ようばう)当代無双(ぶさう)の児(ちご)なるが、今日花一揆(はないつき)の大将なれば、殊更(ことさら)花を折て出立(いでたち)、花一揆(はないつき)六千(ろくせん)余騎(よき)が真前(まつさき)に懸出たり。新田武蔵守(むさしのかみ)是(これ)を見て、「花一揆(はないつき)を散(ちら)さん為に児玉党を向はせ、打輪(うちわ)の旗は風を含(ふく)める物也(なり)。」とて、児玉党七千(しちせん)余騎(よき)を差向(さしむけ)らる。花一揆(はないつき)皆若武者(わかむしや)なれば思慮もなく敵に懸りて、一戦(ひとたたかひ)々(たたかふ)とぞ見(み)へし。児玉党七千(しちせん)余騎(よき)に被揉立、一返(ひとかへし)も返(かへ)さずはつと引(ひく)。自余(じよ)の一揆(いつき)は、かくる時は一手(ひとて)に成(なつ)て懸り、引(ひく)時(とき)は左右へ颯と別れて、荒手(あらて)を入替(いれかへ)さすればこそ、後陣(ごぢん)は騒(さわ)がで懸違(かけちがひ)たれ。是(これ)其軍立(そのいくさだち)無甲斐、将軍の後(うしろ)に引(ひか)へておはする陣の中へ、こぼれ落て引(ひく)間(あひだ)、荒手(あらて)は是(これ)に被蹴立不進得、敵は気に乗て勝時(かちどき)を作懸々々(つくりかけつくりかけ)、責付(せめつけ)て追懸(かく)る。角(かく)ては叶(かなふ)まじ、些(すこし)引退(ひきしりぞい)て一度(いちど)に返せと云(いふ)程こそ有(あり)けれ、将軍の十万(じふまん)余騎(よき)、混引(ひたひき)に引立て、曾(かつ)て後(うしろ)を不顧。新田武蔵(むさしの)守(かみ)義宗、旗より先に進(すすん)で、「天下の為には朝敵(てうてき)也(なり)。我為(わがため)には親の敵也(なり)。只今(ただいま)尊氏(たかうぢが)頚を取て、軍門に不曝、何(いつ)の時をか可期。」とて、自余(じよ)の敵共(てきども)の南北へ分れて引(ひく)をば少(すこし)も目に懸(かけ)ず、只二引両(ふたつびきりやう)の大旗の引くに付て、何(いづ)くまでもと追蒐(おつかけ)給ふ。引(ひく)も策(むち)を挙げ、追(おふ)も逸足(いちあし)を出せば、小手差原より石浜(いしはま)まで坂東道(ばんどうみち)已(すでに)四十六里を片時(へんし)が間(ま)にぞ追付たる。将軍石浜を打渡(わたり)給ひける時は、已(すで)に腹を切(きら)んとて、鎧(よろひ)の上帯(うはおび)切て投捨(なげす)て高紐(たかひぼ)を放(はな)さんとし給ひけるを、近習(きんじふ)の侍共(さぶらひども)二十(にじふ)余騎(よき)返(かへし)合(あはせ)て、追蒐(おつかく)る敵の河中まで渡懸(わたしかけ)たると、引組々々(ひつくみひつくみ)討死しける其(その)間に、将軍急(きふ)を遁(のが)れて向の岸にかけ上り給ふ。落行(おちゆく)敵は三万(さんまん)余騎(よき)、追懸る敵は五百(ごひやく)余騎(よき)、河の向の岸高(たかく)して、屏風(びやうぶ)を立(たて)たるが如くなるに、数万騎の敵返合(かへしあは)せて、此(ここ)を先途(せんど)と支(ささへ)たり。日已(すで)に酉(とり)のさがりに成て河の淵瀬も不見分、新田武蔵守(むさしのかみ)義宗続(つづ)ひて渡すに不及、迹(あと)より続く御方(みかた)はなし。安からぬ者哉と牙(きば)を嚼(かみ)て本陣へと引返さる。又将軍の御運(うん)のつよき所なり。新田兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)と脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)とは一所に成て、白旗一揆(しらはたいつき)が二三万騎(にさんまんぎ)北に分れて引(ひき)けるを、是(これ)ぞ将軍にておはすらん。何(いづ)くまでも追攻(おつつめ)て討(うた)んとて、五十(ごじふ)余町(よちやう)迄(まで)追懸て行(ゆく)処に、降参の者共(ものども)が馬より下(おり)、各(おのおの)対面して色代(しきたい)しける程に、是(これ)に会尺(ゑしやくせ)んと、所々にて馬を控(ひか)へ会尺(ゑしやく)し給ひける間、軍勢(ぐんぜい)は皆北(にぐる)を追て東西へ隔(へだた)りぬ。義興と義治(よしはる)と僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)に成てぞをおはしける。仁木左京大夫頼章・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)は、元来(ぐわんらい)加様(かやう)の所を伺(うかがう)て未(いまだ)一戦(いつせん)もせず、馬を休めて葦原の中に隠れて居られたりけるが、是(これ)を見て、「末々(すゑずゑ)の源氏、国々のつき勢をば、何千騎討ても何(なに)かせん。あはれ幸(さいはひ)や、天の与へたる所哉(かな)。」と悦(よろこび)て、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、只一手(ひとて)に成て押寄たり。敵小勢なれば、定(さだめ)て鶴翼(かくよく)に開(ひらい)て、取篭(とりこめ)んずらんと推量して、義興・義治(よしはる)魚鱗(ぎよりん)に連(つらなつ)て、轡(くつばみ)をならべて、敵の中を破(わら)んと見繕(みつくろ)ふ処に、仁木越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)是(これ)を屹(きつ)と見て、「敵の馬の立様(たてやう)・軍立(いくさだち)、尋常(よのつね)の葉武者に非(あら)ず。小勢なればとて、侮(あなど)りて中を破(わ)らるな。一所に馬を打寄て、敵懸(かか)る共懸合(かけあは)すな。前後に常に目を賦(くばつ)て、大将と覚(おぼ)しき敵あらば組(くん)で落て首をとれ。葉武者かゝらば射落せ。敵に力を尽(つく)させて御方(みかた)少(すこし)も不漂、無勢(ぶせい)に多勢不勝や。」と、委細(ゐさい)に手立(てだて)を成敗(せいばい)して一処に勢をぞ囲(かこみ)たる。案に不違義興・義治(よしはる)、目の前に引(ひか)へて欺(あざむ)く敵に怺(こら)へ兼(かね)て、三百(さんびやく)余騎(よき)を一手(ひとて)になし、敵の真中(まんなか)を懸破(かけわり)て、蜘手(くもで)十文字(じふもんじ)に懸立(かけたて)んと喚(をめい)て懸りけれ共(ども)、仁木越後(ゑちごの)守(かみ)些(すこし)も不轟。「真中(まんなか)を破(わ)らるな。敵に気を尽(つく)させよ。」と下知して、弥(いよいよ)馬を立寄(たちよせ)、透間(すきま)もなく引(ひか)へたれば、面(おもて)にある兵計(ばかり)互(たがひ)に討(うた)れて颯(さつ)と引(ひき)けれ共(ども)、追ても更に不懸、裏へ通(とほ)りて戦へども、面は些(すこし)も不騒、東へ廻(まは)れ共西は閑(しづか)なり。北へ廻れ共南は曾(かつて)不轟。懸寄(かけよす)れば打違(うちちがひ)、組(くん)で落れば落重(おちかさな)る。千度百度(ちたびももたび)懸(かく)れ共(ども)、強陣(がうぢん)勢堅くして大将退(しりぞ)く事無(なけ)れば、義興・義治(よしはる)気疲れて東を差(さし)て落て行(ゆく)。二十(にじふ)余町(よちやう)落延(おちのび)て、誰々(たれたれ)討(うた)れたると計(はか)るに、三百(さんびやく)余騎(よき)有(あり)つる兵共(つはものども)、百(ひやく)余騎(よき)討(うた)れて二百(にひやく)余騎(よき)ぞ残りける。義興甲(かぶと)の錣(しころ)・袖の三(さん)の板切落されて、小手の余(あま)り・臑当(すねあて)のはづれに、薄手(うすで)三所負(お)ひたり。義治(よしはる)は太刀かけ・草摺(くさずり)の横縫(よこぬひ)、皆突切(つきき)れて威毛計(をどしげばかり)続(つづき)たるに、鍬形(くわかた)両方被切折、星も少々削(けづ)られたり。太刀は鐔本(つばもと)より打折(うちをれ)ぬ。中間(ちゆうげん)に持(もた)せたる長刀を持(もた)れけるが、峯はさゝらの子(こ)の如く被切て、刃(やいば)は鋸(のこぎり)の様にぞ折(をれ)たりける。馬は三所まで被切たりけるが、下(おり)て乗替(のりがへ)にのり給へば、倒れて軈(やが)て死にけり。両大将如此、自(みづから)戦て疵(きず)を被(かうむ)る上は其已下(そのいげ)の兵共(つはものども)痛手(いたで)を負(おひ)、切疵(きりきず)の二三箇所(にさんかしよ)負(おは)ぬ者は希(まれ)也(なり)。新田武蔵守(むさしのかみ)、将軍をば打漏しぬ。今日は日已(すで)に暮(くれ)ぬれば、勢を集(あつめ)て明日石浜へ寄(よせ)んとて小手差原へ打帰る。「兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)何(いづ)くにか引(ひか)へ給(たまひ)ぬる。」と行合ふ兵共(つはものども)に問(とひ)給へば、「兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)と脇屋殿(わきやどの)とは、一所に引(ひかへ)て御渡(おんわた)り候つるが、仁木殿に打負(うちまけ)て、東の方へ落させ給(たまひ)候つる也(なり)。」とぞ答(こたへ)ける。さて爰(ここ)に見へたる篝(かがり)は、敵歟(か)御方(みかた)かと問(とひ)給へば、「此(この)辺に御方は一騎(いつき)も候まじ。是(これ)は仁木殿兄弟の勢か、白旗一揆(しらはたいつき)の者共(ものども)が、焼(たい)たる篝(かがり)にてぞ候覧(らん)。小勢にて此(この)辺に御坐(おはしまし)候はん事は如何(いかが)と覚候へば、夜に紛(まぎれ)て急ぎ笛吹峠(うすひのたうげ)の方へ打越させ給(たまひ)候(さふらひ)て、越後・信濃(しなのの)勢を待調(まちそろ)へられ候(さふらひ)て、重(かさね)て御合戦候へかし。」と申ければ、武蔵守(むさしのかみ)暫(しばらく)思案して、「げにも此(この)義然(しかる)べし。」とて、「笛吹峠(うすひのたうげ)は何(いづ)くぞ。」と、問々(とひとひ)夜中に落給ふ。
○鎌倉(かまくら)合戦(かつせんの)事(こと) S3103
新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)・脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)二人(ににん)は、纔(わづか)に二百(にひやく)余騎(よき)に被打成、武蔵守(むさしのかみ)に離れぬ、御方(みかた)の勢共(せいども)は何地(いづち)へか引(ひき)ぬらん。浪にも不著礒にも離(はなれ)たる心地して、皆馬より下居(おりゐ)て休まれけるが、「此(この)勢にては上野(かうづけ)へも帰り得まじ。落て可行方(かた)もなし。可打死命なれば、鎌倉(かまくら)へ打入て、足利左馬(さまの)頭(かみ)に逢(あう)て、命を失はゞや。」と宣へば、諸人皆此(この)義に同(どう)じて、混(ひたす)ら討死せんと志(こころざ)し、思々(おもひおもひ)の母衣(ほろ)懸(かけ)て、鎌倉(かまくら)へとぞ趣(おもむか)れける。夜半過(すぐる)程(ほど)に関戸(せきと)を過(すぎ)給(たまひ)けるに、勢の程五六千騎も有らんと覚(おぼえ)て、西を指(さし)て下(くだ)る勢に行合給て、是(これ)は搦手(からめて)に廻る勢にてぞ有らん。さては鎌倉(かまくら)までも不行著して、関戸にてぞ、尸(かばね)をば可曝にて有(あり)けりと、面々(めんめん)に思(おもひ)定(さだめ)て一処に馬を懸寄(かけよ)せ、「是(これ)は誰殿(たれどの)の勢(せい)にて御渡(おんわたり)候ぞ。」と問(とは)れければ、「是(これ)は石堂入道・三浦(みうらの)介(すけ)、新田殿(につたどの)へ御参(おんまゐり)候也(なり)。」とぞ答(こたへ)ける。義興・義治(よしはる)手を拍(うつ)て、こはいかにと悦(よろこび)給ふ事無限。只魯陽(ろやう)が朽骨(きうこつ)二(ふた)たび連(つらなつ)て韓搆(かんこう)と戦を致(いたせ)し時、日を三舎(さんしや)に返しゝ悦(よろこび)も、是(これ)には過(すぎ)じとぞ覚(おぼえ)ける。軈(やが)て此(この)勢と打連(うちつ)れて、神奈河(かみながは)に著て鎌倉(かまくら)の様を問(とひ)給へば、「鎌倉(かまくら)には将軍の御子息(ごしそく)左馬(さまの)頭(かみ)基氏を警固(けいご)し奉て、南(みなみ)遠江守(とほたふみのかみ)、安房・上総の勢三千(さんぜん)余騎(よき)にて、けはひ坂・巨福呂(こふくろ)坂を切塞(きりふさい)で用心(ようじん)密(きびし)く見へ候(さうらひ)しが、昨日の朝(あした)敵三浦に有(あり)と聞て、打散(うちちら)さんとて向はれ候(さうらひ)しか共、虚言(そらごと)にて有(あり)けりとて、只今(ただいま)鎌倉(かまくら)へ打帰(うちかへらせ)給(たまひ)て候よ。」とぞ語りける。「さては只今(ただいま)の合戦ごさんなれ、爰(ここ)にて軍の用意(ようい)をせよ。」とて、兵粮(ひやうらう)を仕(つか)ひ馬に糟(ぬか)かはせて、三千(さんぜん)余騎(よき)二手(ふたて)に分て、鶴岳(つるがをか)へ旗指(はたさし)少々差遣(さしつかはし)て大御堂(おほみだう)の上より真下(まつくだり)にぞ押寄(おしよせ)たる。鎌倉勢(かまくらぜい)は只今(ただいま)三浦より打帰て、未(いまだ)馬の鞍をもをろさず鎧の上帯(うはおび)をも解(とか)ぬ程なれば、若宮小路(わかみやこうぢ)へ打出て、只一所に引(ひか)へたり。小俣(をまた)小輔次郎をば、今日の軍奉行と今朝より被定たりければ、手勢七十三騎ひつ勝(すぐつ)て、敵の村立(むらだつ)て引(ひか)へたる中へつと懸入(かけいり)、火を散(ちらし)て切乱(きりみだ)す。三浦・葦名(あしな)・二階堂(にかいだう)の兵共(つはものども)、案内は知たり、人馬は未疲(いまだつかれず)、此谷彼(ここのやつかしこ)の小路(こうぢ)より、どつと喚(をめい)ては懸入り、颯(さつ)と懸破(かけわつ)ては裏へ抜(ぬけ)、谷々(やつやつ)小路々々に入乱(いりみだれ)てぞ戦(たたかひ)たる。兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)義興は、浜面(はまおもて)の在家(ざいけ)のはづれにて、敵三騎切て落(おと)し、大勢の中をつと懸抜(かけぬけ)ける処にて、小手の手覆(たおほひ)を切(きり)ながさるゝ太刀にてゝ手綱(たづな)のまがりをづんと切(きら)れて、弓手(ゆんで)の片手綱(かたたづな)土にさがり馬の足に蹈(ふま)れけるを、太刀をば左の脇に挟(はさ)み、鐙(あぶみ)の鼻に落(おち)さがり、左右の手縄(たづな)を取合(とりあはせ)て結(むすば)れけるを、敵三騎能(よき)隙(ひま)哉と馳寄(はせよせ)て、胄(かぶと)の鉢(はち)と総角著(あげまきつけ)とを三打(みうち)四打(ようち)したゝかに切けれ共(ども)、義興些(すこし)も不騒、閑(しづか)に手綱(たづな)を結て鞍坪(くらつぼ)に直(なほ)り給へば、三騎の敵はつと馬を懸のけて、「あはれ大剛の武者や。」と、高声(かうじやう)に二声(ふたこゑ)三声(みこゑ)感じて御方の勢にぞ馳著(はせつき)たる。塔辻(たふのつじ)の合戦難義也(なり)と見へければ、脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)と、小俣(をまた)小輔二郎と一手(ひとて)に成て、二百(にひやく)余騎(よき)喚(をめ)ひて懸られけるに、南遠江守(とほたふみのかみ)被懸立て、旗を巻(まい)て引退くを見て、谷谷(やつやつ)に戦(たたかひ)ける兵共(つはものども)、十方へ落散(おちちり)ける間、一所に打寄(うちよる)事不叶して、百騎(ひやくき)二百騎(にひやくき)思々(おもひおもひ)に落て行(ゆく)。され共三浦・石堂が兵共(つはものども)、余に戦くたびれて、さして敵を不追ければ、南遠江守(とほたふみのかみ)は、今日の合戦に被打洩、左馬頭を具足し奉て、石浜(いしはま)を差(さし)て被落けり。新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)・脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)、二月十三日(じふさんにち)の鎌倉(かまくら)の軍に打勝てこそ、会稽(くわいけい)の恥を雪(きよむ)るのみに非(あら)ず、両大将と仰(あふ)がれて、暫(しばら)く八箇国(はちかこく)の成敗に被居けり。
○笛吹峠(うすひのたうげ)軍(いくさの)事(こと) S3104
新田武蔵守(むさしのかみ)は、将軍の御運に退緩(たいくわん)して、石浜の合戦に本意を不達しかば、武蔵(むさしの)国(くに)を前になし、越後・信濃を後(うしろ)に当て、笛吹(うすひの)峠に陣を取てぞおはしける。是(これ)を聞て打よる人々には、大江田(おいた)式部(しきぶの)大輔(たいふ)・上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)・子息兵庫(ひやうごの)助(すけ)・中条(ちゆうでう)入道・子息佐渡(さどの)守(かみ)・田中修理(しゆりの)亮(すけ)・堀口近江(あふみの)守(かみ)・羽河(はねかは)越中(ゑつちゆうの)守(かみ)・荻野(をぎの)遠江守(とほたふみのかみ)・酒勾(さかわ)左衛門四郎・屋沢(やざわ)八郎(はちらう)・風間(かざま)信濃(しなのの)入道(にふだう)・舎弟(しやてい)村岡(むらをか)三郎・堀兵庫(ひやうごの)助(すけ)・蒲屋(かまや)美濃(みのの)守(かみ)・長尾右衛門(うゑもん)・舎弟(しやてい)弾正忠(だんじやうのちゆう)・仁科(にしな)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・高梨(たかなし)越前守(ゑちぜんのかみ)・大田滝口(たきぐち)・干屋(ほしや)左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)・矢倉(やくら)三郎・藤崎(ふぢさき)四郎・瓶尻(みかじり)十郎・五十嵐文四(いがらしぶんし)・同文五・高橋大五郎・同大三郎・友野十郎・繁野(しげの)八郎(はちらう)・禰津(ねづ)小二郎・舎弟(しやてい)修理(しゆりの)亮(すけ)・神家(じんけの)一族(いちぞく)三十三人(さんじふさんにん)・繁野(しげのの)一族(いちぞく)二十一人、都合其(その)勢(せい)二万(にまん)余騎(よき)、先朝第二(だいにの)宮(みや)上野(かうづけの)親王(しんわう)を大将にて、笛吹(うすひの)峠へ打出る。将軍小手差原(こてさしはら)の合戦に無事故、石浜にをはする由聞へければ、馳参(はせまゐら)れける人々には、千葉(ちばの)介(すけ)・小山(をやまの)判官(はうぐわん)・小田(をだの)少将(せうしやう)・宇都宮(うつのみや)伊予(いよの)守(かみ)・常陸大丞(ひたちのたいじやう)・佐竹右馬助(うまのすけ)・同刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)・白河権(ごんの)少輔(せう)・結城(ゆふき)判官(はうぐわん)・長沼判官・河越(かはごえ)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・高坂(かうさか)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)・江戸(えど)・戸島(としま)・古尾谷(ふるをや)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)・三田(みた)常陸(ひたちの)守(かみ)・土肥(とひの)兵衛入道(ひやうゑにふだう)・土屋(つちや)備前(びぜんの)々司・同修理(しゆりの)亮(すけ)・同出雲(いづもの)守(かみ)・下条小三郎・二宮(にのみや)近江(あふみの)守(かみ)・同河内(かはちの)守(かみ)・同但馬(たぢまの)守(かみ)・同能登(のとの)守(かみ)・曾我(そが)上野(かうづけの)守(かみ)・海老名(えびな)四郎左衛門(しらうざゑもん)・本間(ほんま)・渋谷(しぶや)・曾我三河(みかはの)守(かみ)・同周防(すはうの)守(かみ)・同但馬(たぢまの)守(かみ)・同石見(いはみの)守(かみ)・石浜(いしはま)上野(かうづけの)守(かみ)・武田(たけだの)陸奥(むつの)守(かみ)・子息安芸(あきの)守(かみ)・同薩摩(さつまの)守(かみ)・同弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・小笠原・坂西(はんぜい)・一条三郎・板垣(いたがき)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)・逸見(へんみ)美濃(みのの)守(かみ)・白州(しらす)上野(かうづけの)守(かみ)・天野(あまの)三河(みかはの)守(かみ)・同和泉(いづみの)守(かみ)・狩野介(かののすけ)・長峯(ながみね)勘解由左衛門(かげゆざゑもん)、都合其(その)勢八万(はちまん)余騎(よき)、将軍の御陣へ馳参る。鎌倉(かまくら)には、義興・義治(よしはる)七千(しちせん)余騎(よき)にて、著到(ちやくたう)を付(つく)ると聞へ、武蔵には新田義宗・上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)、二万(にまん)余騎(よき)にて引(ひか)へたりと聞ゆ。何(いづ)くへ可向と評定有(あり)けるが、先(まづ)勢(せい)の労(らう)せぬ前(さき)に、大敵に打勝(うちかち)なば、鎌倉(かまくら)の小勢は不戦共可退散、衆議一途(いちづ)に定(さだまり)て、将軍同(おなじき)二月二十五日石浜を立て、武蔵(むさしの)府(ふ)に著(つき)給へば、甲斐(かひの)源氏・武田(たけだの)陸奥(むつの)守(かみ)・同刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)・子息修理(しゆりの)亮(すけ)・武田(たけだの)上野(かうづけの)守(かみ)・同甲斐(かひの)前司(ぜんじ)・同安芸(あきの)守(かみ)・同弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・舎弟(しやてい)薩摩(さつまの)守(かみ)・小笠原近江(あふみの)守(かみ)・同三河(みかはの)守(かみ)・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)・一条四郎・板垣(いたがき)四郎・逸見(へんみ)入道・同美濃(みのの)守(かみ)・舎弟(しやてい)下野(しもつけの)守(かみ)・南部(なんぶ)常陸(ひたちの)守(かみ)・下山(しもやま)十郎左衛門、都合二千(にせん)余騎(よき)にて馳参る。同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)将軍笛吹(うすひの)峠へ押寄(おしよせ)て、敵の陣を見給へば、小松生茂(おひしげつ)て前に小河流(ながれ)たる山の南を陣に取て、峯には錦(にしき)の御旗(おんはた)を打立(うちたて)、麓には白旗・中黒・棕櫚葉(しゆろのは)・梶葉(かじのは)の文書(もんかき)たる旗共(はたども)、其(その)数満々(みちみち)たり。先(まづ)一番に荒手(あらての)案内者(あんないしや)なればとて、甲斐(かひの)源氏三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄(おしよせ)たり。新田武蔵守(むさしのかみ)と戦ふ。是(これ)も荒手(あらて)の越後勢(ゑちごぜい)、同三千(さんぜん)余騎(よき)にて相懸りに懸りて半時許(はんじばかり)戦ふに、逸見(へんみ)入道以下宗(むね)との甲斐源氏共百(ひやく)余騎(よき)討(うた)れて引退く。二番に千葉・宇都宮(うつのみや)・小山(をやま)・佐竹が勢(せい)相集(あひあつまり)て七千(しちせん)余騎(よき)、上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)が陣へ押寄(おしよせ)て入乱々々(いりみだれいりみだれ)戦ふに、信濃勢二百(にひやく)余騎(よき)討(うた)れければ、寄手(よせて)も三百(さんびやく)余騎(よき)討れて相引(あひびき)に左右へ颯(さつ)と引(ひく)。引けば両陣入替(いれかはつ)て追つ返つ、其(その)日(ひ)の午刻(むまのこく)より酉(とりの)刻(こく)の終(をはり)まで少しも休む隙(ひま)なく終日(ひねもす)戦ひ暮してけり。夫(そ)れ小勢を以て大敵に戦ふは鳥雲(てううん)の陣にしくはなし。鳥雲の陣と申(まうす)は、先(まづ)後(うしろ)に山をあて、左右に水を堺(さか)ふて敵を平野に見下(みおろ)し、我(わが)勢の程を敵に不見して、虎賁狼卒(こほんらうそつ)替る/\射手(いて)を進めて戦ふ者也(なり)。此(この)陣幸(さいはひ)に鳥雲に当れり。待て戦はゞ利あるべかりしを、武蔵守(むさしのかみ)若武者(わかむしや)なれば、毎度広(ひろ)みに懸出て、大勢に取巻(とりまか)れける間、百度(ももたび)戦ひ千度(ちたび)懸破るといへ共、敵目に余る程の大勢なれば、新田・上杉遂(つひ)に打負(うちまけ)て、笛吹(うすひの)峠へぞ引上りける。上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)が兵に、長尾弾正・根津(ねづ)小次郎とて、大力の剛(かうの)者あり。今日の合戦に打負(うちまけ)ぬる事、身一の恥辱(ちじよく)也(なり)と思(おもひ)ければ、紛(まぎ)れて敵の陣へ馳入(はせいり)、将軍を討奉らんと相謀(はかつ)て、二人(ににん)乍(なが)ら俄(にはか)に二(ふた)つ引両(びきりやう)の笠符(かさじるし)を著替(つけか)へ、人に見知(みしら)れじと長尾は乱髪(みだれがみ)を顔へ颯(さつ)と振り懸け、根津は刀を以(もつ)て己が額(ひたひ)を突切(つききり)て、血を面(おもて)に流しかけ、切て落(おと)したりつる敵の頚(くび)鋒(きつさき)に貫(つらぬ)き、とつ付(つけ)に取著(とりつけ)て、只(ただ)二騎将軍の陣へ馳入る。数万の軍勢(ぐんぜい)道に横(よこたはつ)て、「誰が手(て)の人ぞ。」と問(とひ)ければ、「是(これ)は将軍の御内(みうち)の者にて候が、新田の一族(いちぞく)に、宗(むね)との人々を組討(くみうち)に討て候間、頚実検(くびじつけん)の為に、将軍の御前(おんまへ)へ参(まゐり)候也(なり)。開(あけ)て通され候へ。」と、高らかに呼(よばはり)て、気色(きしよく)ばうて打通れば、「目出(めで)たう候。」と感ずる人のみ有て、思(おもひ)とがむる人もなし。「将軍は何(いづ)くに御座候やらん。」と問へば、或人、「あれに引(ひか)へさせ給ひて候也(なり)。」と、指差(ゆびさし)て教ふ。馬の上よりのびあがりみければ、相隔(あひへだ)たる事草鹿(くさじし)の的山計(あづちばかり)に成(なり)にける。「あはれ幸(さいはひ)や、たゞ一太刀(ひとたち)に切て落さんずる者を。」と、二人(ににん)屹(きつ)と目くはせして、中々馬を閑々(しづしづ)と歩ませける処に、猶(なほ)も将軍の御運や強かりけん、見知(みしる)人有て、「そこに紛(まぎれ)て近付(ちかづく)武者は、長尾弾正と根津小次郎とにて候は。近付てたばからるな。」と呼(よばは)りければ、将軍に近付(ちかづき)奉らせじと、武蔵・相摸の兵共(つはものども)、三百(さんびやく)余騎(よき)中を隔(へだ)て左右より颯(さつ)と馳寄る。根津と長尾と、支度(したく)相違(さうゐ)しぬと思(おもひ)ければ、鋒(きつさき)に貫(つらぬ)きたる頚を抛(なげ)て、乱髪(みだれがみ)を振揚(ふりあげ)、大勢の中を破(わつ)て通る。彼等二人(ににん)が鋒(きつさき)に廻(まは)る敵、一人として甲(かぶと)の鉢(はち)を胸板(むねいた)まで真二(まつふたつ)に破著(わりつ)けられ、腰のつがひを切て落されぬは無りけり。され共敵は大勢也(なり)。是等(これら)は只二騎なり、十方より矢衾(やぶすま)を作て散々に射ける間、叶はじとや思(おもひ)けん、「あはれ運強(つよ)き足利殿(あしかがどの)や。」と高らかに欺(あざむい)て、閑々(しづしづ)と本陣へぞ帰りける。夜に入(いり)ければ、両陣共に引退(ひきしりぞき)て陣々に篝(かがり)を焼(たき)たるに、将軍の御陣を見渡せば、四方(しはう)五六里に及て、銀漢(ぎんかん)高くすめる夜に、星を列(つらぬ)るが如くなり。笛吹(うすひの)峠を顧(かへりみ)れば、月に消行(きえゆく)蛍火(ほたるび)の山陰(やまかげ)に残るに不異。義宗也(これ)を見給て、「終日(ひねもす)の合戦に、兵若干(そくばく)討れぬといへ共、是(これ)程まで陣の透(すく)べしとは覚(おぼえ)ぬに、篝(かがり)の数の余(あま)りにさびしく見(みゆ)るは、如何様(いかさま)勢の落行(おちゆく)と覚(おぼゆ)るぞ。道々に関を居(すゑ)よ。」とて、栽田山(うえたやま)と信濃路(しなのぢ)に、稠(きびし)く関を居(すゑ)られたり。「夫(それ)士率将を疑ふ時は戦不利云(いふ)事あり。前には大敵勝(かつ)に乗て、後(うしろ)は御方(みかた)の国国なれば、今夜一定(いちぢやう)越後・信濃へ引返さんずらんと、我を疑はぬ軍勢(ぐんぜい)不可有。舟を沈(しづ)め糧(かて)を捨て、二度(ふたた)び帰(かへら)じと云(いふ)心を示すは良将の謀(はかりこと)なり。皆馬の鞍(くら)をゝろし鎧(よろひ)を脱(ぬい)で、引(ひく)まじき気色、人に見せよ。」とて、大将鎧を脱(ぬぎ)給へば士率悉(ことごとく)鞍をおろして馬を休む。宵(よひ)の程は皆心を取静めて居たりけるが、夜半許(ばかり)に続松(たいまつ)をびたゝしく見へて、将軍へ大勢のつゞく勢見へければ、明日の戦も叶はじとや思はれけん、上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)、篝計(かがりばかり)を焼棄(やきすて)て、信濃へ落(おち)にければ、新田武蔵守(むさしのかみ)、其(その)暁越後へ落(おち)られけり。斯(かか)りし後は、只今(ただいま)まで新田・上杉に付順(つきしたがひ)つる武蔵・上野の兵共(つはものども)も、未(いまだ)何方(いづかた)へも不著して、一合戦(ひとかつせん)の勝負を伺(うかが)ひ見つる上総・下総の者共(ものども)も、我前(さき)にと将軍へ馳参りける程に、其(その)勢無程百倍(ひやくばい)して、八十万騎(はちじふまんぎ)に成(なり)にけり。新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興・脇屋(わきや)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義治(よしはる)は、六千(ろくせん)余騎(よき)にて尚(なほ)鎌倉(かまくら)にをはしけるが、将軍已(すで)に笛吹(うすひの)峠の合戦に打勝て、八箇国(はちかこく)の勢を卒(そつ)して、鎌倉(かまくら)へ寄(よせ)給ふ由(よし)聞へければ、義興も義治(よしはる)も、只此(ここ)にて討死せんと宣ひけるを、松田・河村の者共(ものども)、「某等(それがしら)が所領の内、相摸河の河上に究竟(くつきやう)の深山(みやま)候へば、只それへ先(まづ)引篭(ひきこも)らせ給て、京都の御左右をも聞召し、越後信乃(しなの)の大将達へも被牒合候(さふらひ)て、天下の機を得、諸国の兵を集(あつめ)てこそ重(かさね)て御合戦も候はめ。」と、より/\強(しひ)て申(まうし)ければ、義興・義治(よしはる)諸共(もろとも)に、三月四日鎌倉(かまくら)を引て、石堂・小俣(をまた)・二階堂(にかいだう)・葦名判官・三浦(みうらの)介(すけ)・松田・河村・酒勾(さかわ)以下、六千(ろくせん)余騎(よき)の勢を卒(そつ)して、国府津山(こふづやま)の奥にぞ篭(こも)りける。
○八幡(やはた)合戦事(こと)付(つけたり)官軍(くわんぐん)夜討(ようちの)事(こと) S3105
都には去月二十日の合戦に打負(うちまけ)て、足利宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)殿(どの)は近江(あふみの)国(くに)へ落させ給ひ、持明院の本院(ほんゐん)・新院・主上(しゆしやう)・春宮(とうぐう)は、皆捕(とら)はれさせ給て、賀名生(あなふ)に遷幸(せんかう)成(なり)ぬ。吉野の主上(しゆしやう)は猶(なほ)世を危(あやぶみ)て、八幡に御座(ござ)あり。月卿(げつけい)雲客(うんかく)は、西山・東山・吉峯(よしみね)・鞍馬の奥などに逃隠(にげかく)れてをはすれば、帝城の九禁(きうきん)いつしか虎賁猛将(こふんまうしやう)の備(そな)へもなく、朝儀(てうぎ)大礼(たいれい)の沙汰も無(なく)て、野干(やかん)の棲(すみか)と成(なり)にけり。桓武(くわんむ)の聖代此(この)四神(ししん)相応(さうおう)の地を撰(えらん)で、東山に将軍塚(しやうぐんづか)を築(つか)れ、艮(うしとら)の方に天台山を立て、百王万代(ばんだい)の宝祚(はうそ)を修(しゆ)し置(おか)れし勝地(しようち)なれば、後五百歳(ごごひやくさい)未来永々(みらいやうやう)に至るまで、荒廃(くわうはい)非(あら)じとこそ覚(おぼえ)つるに、こはそも何(いか)に成(なり)ぬる世の中ぞやと、歎かぬ人も無りけり。宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)は、近江の四十九院(しじふくゐん)に、はる/゛\とをはしけれ共(ども)、土岐・佐々木(ささき)が外は、相従ふ勢も無(なか)りしが、東国の合戦に、将軍勝(かち)給(たまひ)ぬと聞へて、後(うしろ)より勢の付(つき)奉る事如雲霞。さらば軈(やが)て京都へ寄せよとて、三月十一日四十九院(しじふくゐん)を立て、三万(さんまん)余騎(よき)先(まづ)伊祇代(いぎす)三大寺にして手を分つ。或(あるひは)漫々(まんまん)たる湖上に、山田・矢早瀬(やばせ)の渡舟(わたしぶね)の棹(さをさ)す人もあり。或(あるひ)は渺々(べうべう)たる沙頭(しやとう)に、堅田(かただ)・高島(たかしま)を経て駒に鞭(むち)うつ勢もあり。旌旗(せいき)水烟(すゐえん)に翻(ひるがへつ)て、竜蛇(りようじや)忽(たちまちに)天にあがり、甲胄(かつちう)夕陽(せきやう)に耀(かかやい)て、星斗(せいと)則(すなはち)地に列(つら)なる。中の院の宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)具忠(ともただ)卿(きやう)、千(せん)余騎(よき)にて此(この)勢を防(ふせが)ん為に、大津辺(おほつへん)に控(ひかへ)られたりけるが、敵の大勢なる体(てい)を見て、戦ふ事不叶とや思はれけん。敵の未(いまだ)不近前(さき)に八幡(やはた)へ引返さる。同(おなじき)十五日宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)京都に発向(はつかう)して、東山に陣をめさるれば、宮方(みやがた)の大将北畠(きたばたけ)右衛門(うゑもんの)督(かみ)顕能(あきよし)、都を去て淀(よど)・赤井に陣を取る。同(おなじき)十七日(じふしちにち)に宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)下京(しもぎやう)に御移(おんうつり)有て、東寺に御陣を召(めさ)るれば、顕能卿淀河(よどかは)を引て、八幡の山下(さんげ)に陣をとる。未(いまだ)戦(たたかはざる)前(さき)に宮方(みやがた)の大将陣を去(さる)事三箇度(さんがど)なれば、行末とてもさぞ有(あら)んずらめと、憑(たのみ)少なくぞ見(みえ)たりける。さは有り乍(なが)ら、八幡は究竟(くつきやう)の要害なるに、赤井の橋を引て、畿内(きない)の官軍(くわんぐん)七千(しちせん)余騎(よき)にて楯篭(たてこも)りたり。三方(さんぱう)は大河(たいか)隔(へだたつ)て橋もなく舟もなし。宇治路(うぢぢ)を後(うしろ)へ廻(まは)らば、前後皆敵陣にはさまりて、進退(しんたい)心安(こころやす)かるまじ、如何すべきと評定有て、東寺には猶(なほ)国々の勢を待(また)れける処に、細川陸奥(むつの)守(かみ)四国の勢を率(そつ)して、三千(さんぜん)余騎(よき)にて上洛(しやうらく)せらる。又赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)は、吉野殿(よしのどの)より宮を一人申(まうし)下(くだ)し進(まゐら)せて、今までは宮方(みやがた)を仕(つかまつ)る由(よし)にて有(あり)けるが、是(これ)もいかゞ思案したりけん。宮方(みやがた)を背(そむ)きて京都へ馳(はせ)来りければ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)は竜(りよう)の水を得、虎の山に靠(よりかかる)が如くに成て、勢(いきほひ)京畿(けいき)を掩(おほへ)り。同三月二十四日、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)三万(さんまん)余騎(よき)の勢を率(そつ)し、宇治路(うぢぢ)を回(まはつ)て木津河(こつがは)を打渡り、洞峠(ほらがたうげ)に陣を取(とら)んとす。是(これ)は河内・東条(とうでう)の通路(つうろ)を塞(ふさぎ)て、敵を兵粮に攻(つめ)ん為也(なり)。八幡より北へは、和田五郎・楠次郎左衛門(じらうざゑもん)とを向(むけ)られけるが、楠は今年二十三、和田は十六(じふろく)、何(いづ)れも皆若武者(わかむしや)なれば思慮なき合戦をや致さんずらんと、諸卿悉(ことごと)く危み思はれけるに、和田五郎参内して申けるは、「親類兄弟悉(ことごとく)度々(どど)の合戦に、身を捨(すて)討死仕(つかまつり)候(さうらひ)畢(をはんぬ)。今日の合戦は又公私(こうし)の一大事(いちだいじ)と存ずる事にて候上は、命を際(きは)の合戦仕て、敵の大将を一人討取(うちとり)候はずは、生(いき)て再(ふたた)び御前(おんまへ)へ帰り参る事候まじ。」と、申切て罷(まかり)出ければ、列座の諸卿・国々の兵、あはれ代々(だいだい)の勇士(ゆうし)也(なり)と、感ぜぬ人は無(なか)りけり。去(さる)程(ほど)に和田・楠・紀伊(きいの)国(くにの)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、皆荒坂山(あらさかやま)へ打向て爰(ここ)を支(ささへ)んと引(ひか)へたれば、細河(ほそかは)相摸守(さがみのかみ)清氏・同陸奥(むつの)守(かみ)顕氏・土岐大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)・舎弟(しやてい)悪五郎(あくごらう)、六千(ろくせん)余騎(よき)にて押寄(おしよせ)たり。山路(やまぢ)嶮(けは)しく、峯高く峙(そばだち)たれば、麓より皆馬を蹈放(ふみはな)ち/\、かづき連(つれ)てぞ上(のぼり)たりける。斯(かか)る軍(いくさ)に元来(ぐわんらい)馴(なれ)たる大和・河内の者共(ものども)なれば、岩の陰(かげ)、岸の上に走り渡て散々(さんざん)に射る間、面(おもて)に立つ土岐と細河(ほそかは)が兵共(つはものども)、射(い)しらまされて不進得。土岐悪五郎(あくごらう)は、其(そ)の比(ころ)天下に名を知(しら)れたる大力の早わざ、打物取て達者也(なり)ければ、卯(う)の花威(はなをどし)の鎧に鍬形(くはがた)打て、水色の笠符(かさじるし)吹流させ、五尺(ごしやく)六寸(ろくすん)の大太刀抜(ぬい)て引側(ひきそば)め、射向(いむけ)の袖を振(ふり)かざいて、遥(はるか)に遠き山路(やまぢ)を只(ただ)一息に上らんと、猪(ゐのしし)の懸(かか)る様(やう)に、莞爾(につこと)笑(わらひ)上りけるを、和田五郎あはれ敵やと打見て、突(つい)たる楯をかはと投(なげ)棄て、三尺(さんじやく)五寸(ごすん)の小長刀、茎短(くきみじか)に取て渡(わたり)合ふ。爰(ここ)に相摸守(さがみのかみ)が郎従に、関左近(さこんの)将監(しやうげん)と云ける兵、土岐が脇よりつと走(はしり)抜(ぬけ)て、和田五郎に打て蒐(かか)る。和田が中間是(これ)を見て、小松の陰(かげ)より走出て、近々と攻(つめ)寄て、十二束三伏(じふにそくみつぶせ)暫(しばらく)堅(かた)めて放つ矢、関将監(しやうげん)がゝらどうを、くさ目どほしに射抜(いぬか)れて、小膝をついてぞ臥(ふし)たりける。悪五郎(あくごらう)走(はしり)寄て引起(おこ)さんとしける処を、又和田が中間二の矢を番(つが)ふて、悪五郎(あくごらう)が脇立(わいだて)のつぼの板、くつ巻(まき)せめてぞ射こうだる。関将監(しやうげん)是(これ)を見て、今は可助く人なしと思(おもひ)けるにや、腰の刀を抜(ぬい)て腹を切(きら)んとしけるを、悪五郎(あくごらう)、「暫し自害なせそ、助けんずる。」とて、つぼ板に射立(いたて)られたる矢をば、脇立(わいだて)ながら引切て投棄(なげすて)、かゝる敵を五六人切臥(きりふせ)、関将監(しやうげん)を左の小脇(こわき)に挟(さしはさ)み、右手にて件(くだん)の太刀を打振(うちふり)々々(うちふり)、近付(ちかづ)く敵を打払て、三町(さんちやう)許(ばかり)ぞ落(おち)たりける。跡に続ひて何(いづ)くまでもと追懸(おひかけ)ける和田五郎も討遁(うちのが)しぬ。不安思ひける処に、悪五郎(あくごらう)が運や尽(つき)にけん、夕立(ゆふだち)に掘(ほれ)たる片岸(かたきし)の有(あり)けるを、ゆらりと越(こえ)けるに、岸の額(ひたひ)のかた土(つち)くわつと崩(くづ)れて、薬研(やげん)のやうなる所へ、悪五郎(あくごらう)落(おち)ければ、走(わしり)寄て長刀の柄(え)を取延(とりのべ)、二人(ににん)の敵をば討てげり。入乱れたる軍(いくさ)の最中(さいちゆう)なれば、頚(くび)を取(とる)までもなし。悪五郎(あくごらう)が引切て捨(すて)たりつる、脇立許(わいだてばかり)を取て、討たる証拠(しようご)に備(そな)へ、身に射立(いたて)ふれたる矢ども少々折懸(をりかけ)て、主上(しゆしやう)の御前(おんまへ)へ参り合戦の体(てい)を奏し申せば、「初め申つる言(こと)ばに少しも不違、大敵の一将を討取て数箇所(すかしよ)の疵(きず)を被(かうむ)りながら、無恙して帰り参る条(でう)、前代未聞(ぜんだいみもん)の高名也(なり)。」と、叡感更(さら)に不浅。悪五郎(あくごらう)討(うた)れて官軍(くわんぐん)利を得たりといへ共、寄手(よせて)目に余る程の大勢なれば、始終此(こ)の陣には難怺とて、楠次郎左衛門(じらうざゑもん)夜に入て八幡へ引返せば、翌日朝敵(てうてき)軈(やが)て入替て、荒坂山に陣を取る。然(しかれ)ども官軍(くわんぐん)も不懸、寄手(よせて)も不攻上、八幡を遠攻(とほぜめ)にして四五日を経(へ)る処に、山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏、出雲・因幡・伯耆三箇国(さんかこく)の勢(せいを)卒(そつ)して上洛(しやうらく)す。路次(ろし)の遠きに依て、荒坂山の合戦にはづれぬる事、無念に思はれける間、直(すぐ)に八幡へ推寄(おしよせ)て一軍(ひといくさ)せんとて淀より向はれけるが、法性寺(ほふしやうじ)の左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)爰(ここ)に陣を取て、淀の橋三間(さんげん)引落(ひきおと)し、西の橋爪(はしづめ)に掻楯(かいだて)掻(かい)て相待(あひまち)ける間、橋を渡る事は叶はず、さらば筏(いかだ)を作り渡せとて、淀の在家(ざいけ)を壊(こぼち)て筏を組(くみ)たれば、五月の霖(ながさめ)に水増(まさ)りて押流されぬ。数日(すじつ)有て後、淀の大明神(だいみやうじん)の前に浅瀬有(あり)と聞出して、二千(にせん)余騎(よき)を一手(ひとて)になし、流(ながれ)を截(きつ)て打渡すに、法性寺の左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)只(ただ)一騎(いつき)、馬のかけあがりに控(ひか)へて、敵三騎切て落(おと)し、のりたる太刀を押直(おしなほ)して、閑々(しづしづ)と引て返れば、山名が兵三千(さんぜん)余騎(よき)、「大将とこそ見奉るに、蓬(きたな)くも敵に後(うしろ)をば見せられ候者哉(かな)。」とて追懸(おひかけ)たり。「返すに難き事か。」とて、兵衛(ひやうゑの)督(かみ)取て返してはつと追散(おつちら)し、返し合(あはせ)ては切て落(おと)し、淀の橋爪より御山(おやま)まで、十七度(じふしちど)迄(まで)こそ返されけれ。され共馬をも切(きら)れず、我身も痛手を負(おは)ざれば、袖の菱縫(ひしぬひ)吹返しに立(たつ)処の矢少々折(をり)懸(かけ)て、御山の陣へぞ帰られける。山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)、財園院(ざいをんゐん)に陣をとれば、左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)猶(なほ)守堂口(もりだうぐち)に支(ささへ)て防(ふせ)がんとす。四月二十五日、四方(しはう)の寄手(よせて)同時に牒(てふ)し合(あは)せて攻(せめ)戦ふ。顕能卿の兵、伊賀・伊勢の勢三千(さんぜん)余騎(よき)にて、園殿口(そのどのぐち)に支(ささへ)て戦ふ。和田・楠・湯浅・山本・和泉・河内の軍勢(ぐんぜい)は、佐羅科(さらしな)に支(ささへ)て戦ふ。軍未(いまだ)半(なかば)なるに、高橋の在家(ざいけ)より神火燃(もえ)出て、魔風十方に吹懸(ふきかけ)ける程に、官軍(くわんぐん)烟(けむり)に咽(むせん)で防がんとするに叶はねば、皆八幡の御山へ引上(ひきあが)る。四方(しはう)の寄手(よせて)二万(にまん)余騎(よき)、則(すなはち)洞峠(ほらがたうげ)へ打上りて、土岐・佐々木(ささき)・山名・赤松・々田・飽庭(あくは)・宮(みやの)入道(にふだう)、一勢(いつせい)々々(いつせい)数十箇所(すじつかしよ)に陣を取(とり)、鹿垣(ししがき)結(ゆう)て、八幡山(やはたやま)を五重六重(いつへむへ)にぞ取巻(とりまき)ける。細河(ほそかは)陸奥(むつの)守(かみ)・同相摸守(さがみのかみ)は、真木(まき)・葛葉(くずは)を打廻(うちまはつ)て、八幡の西の尾崎(をさき)、如法経塚(によほふきやうづか)の上に陣を取て、敵と堀一重を隔(へだて)てぞ攻(せめ)たりける。五月四日、官軍(くわんぐん)七千(しちせん)余騎(よき)が中より夜討に馴(なれ)たる兵八百人(はつぴやくにん)を勝(すぐ)りて、法性寺左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)に付(つけ)らる。左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)昼程(ひるほど)より此(この)勢を吾(わが)陣へ集(あつめ)て、笠符(かさじるし)を一様(いちやう)に著(つけ)させ、誰(た)そと問(とは)ば、進(すすむ)と名のるべしと約束して、夜已(すで)に二三更(にさんかう)の程也(なり)ければ、宿院(しゆくゐん)の後(うしろ)を廻(まはつ)て如法経塚へ押寄(おしよせ)、八百人(はつぴやくにん)の兵共(つはものども)、同音に時をどつと作る。細河(ほそかは)が兵三千(さんぜん)余人(よにん)、暗さは闇(くら)し分内(ぶんない)はなし、馬放れ人騒(さわい)で、太刀をも不抜得、弓をも不挽得ければ、手負(ておひ)、討(うた)るゝ者数を不知(しらず)。遥(はるか)なる谷底へ人なだれをつかせて追(おひ)落されければ、馬・物具(もののぐ)を捨(すて)たる事、幾千万(いくせんまん)共(とも)難知。一陣破(やぶる)れば残党全(まつた)からじと見る処に、土岐・佐々木(ささき)・山名・赤松が陣は些(すこし)も動かず、鹿垣(ししがき)密(きびし)く結(ゆう)て用心(ようじん)堅(かたく)見へたれば、夜討に可打様もなく、可打散便(たよ)りも無(なか)りけり。角(かく)ては何(いつ)までか可怺、和田・楠を河内(かはちの)国(くに)へ返(かへし)て、後攻(ごづめ)をせさせよとて、彼等両人を忍(しのび)て城より出して、河内(かはちの)国(くに)へぞ遣(つかは)されける。八幡には此後攻(このごづめ)を憑(たのみ)て今や/\と待(まち)給(たまひ)ける処に、是(これ)を我(わが)大事(だいじ)と思入れて引立(ひきたち)ける和田五郎、俄(にはか)に病出して、無幾程も死にけり。楠は父にも不似兄にも替(かは)りて、心少(すこ)し延(のび)たる者也(なり)ければ、今日よ明日よと云(いふ)許(ばかり)にて、主上(しゆしやう)の大敵に囲まれて御座(ござ)あるを、如何(いかが)はせんとも心に不懸けるこそ方見(うたて)けれ。尭(げう)の子(こ)尭(げう)の如くならず、舜(しゆん)の弟(おとと)舜に不似とは乍云、此(この)楠は正成が子也(なり)。正行が弟也(なり)。何(いつ)の程にか親に替(かは)り、兄に是(これ)まで劣るらんと、謗(そし)らぬ人も無(なか)りけり。
○南帝八幡御退失(たいしつの)事(こと) S3106
三月十五日より軍(いくさ)始(はじまり)て、已(すで)に五十(ごじふ)余日(よにち)に及べば、城中(じやうちゆう)には早兵粮(ひやうらう)を尽(つく)し、助(たすけ)の兵を待(まつ)方(かた)もなし。角(かく)ては如何(いか)が可有と、云囁(いひささやく)程こそあれ。軈(やが)て人々の気色(けしき)替(かはつ)て、只(ただ)落支度(おちじたく)の外はする態(わざ)もなし。去(さる)程(ほど)に是(これ)ぞ宗(むね)との御用(ごよう)にも立(たち)ぬべき伊勢の矢野(やのの)下野(しもつけの)守(かみ)・熊野湯河庄司(くまののゆかはのしやうじ)、東西の陣に幕(まく)を捨(すて)て、両勢三百(さんびやく)余騎(よき)降人(かうにん)に成て出にけり。城の案内敵に知れなば、落(おつ)る共落(おち)得じ。さらば今夜主上(しゆしやう)を落(おと)し進(まゐらせ)よとて、五月十一日の夜半計(やはんばかり)に、主上(しゆしやう)をば寮(れう)の御馬(おんむま)に乗進(のせまゐら)せて、前後に兵共(つはものども)打囲(うちかこ)み、大和路(やまとぢ)へ向て落(おち)させ給へば、数万の御敵(おんてき)前(まへ)を要(よぎ)り跡(あと)に付て討留進(うちとめまゐ)らせんとす。依義軽命官軍共(くわんぐんども)、返し合せては防ぎ、打破ては落(おと)し進(まゐ)らするに、疵(きず)を被(かうむつ)て腹を切り、蹈留(ふみとどまつ)て討死する者三百人(さんびやくにん)に及べり。其(その)中に宮一人討(うた)れさせ給ひぬ。四条(しでうの)大納言(だいなごん)隆資(たかすけ)・円明院(ゑんみやうゐん)大納言(だいなごん)・三条(さんでうの)中納言(ちゆうなごん)雅賢(まさかた)卿(きやう)も討(うた)れ給ひぬ。主上(しゆしやう)は軍勢(ぐんぜい)に紛(まぎ)れさせ給はん為に、山本判官が進(まゐら)せたりける黄糸の鎧をめして、栗毛(くりげ)なる馬にめされたるを、一宮(いちのみや)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)有種(ありたね)追蒐進(おひかけまゐら)せて、「可然大将とこそ見進(まゐら)せ候。蓬(きたな)くも敵に被追立、一度(いちど)も返させ給はぬ者哉(かな)。」と呼(よば)はり懸て、弓杖(ゆんづえ)三杖(みつゑ)許(ばかり)近付(ちかづき)たりけるを、法性寺左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)屹(きつ)と顧(かへりみ)て、「悪(にく)ひ奴原(やつばら)が云様哉(かな)。いで己(おのれ)に手柄(てがら)の程を見せん。」とて、馬より飛(とん)で下(お)り、四尺(ししやく)八寸(はつすん)の太刀を以て、甲(かぶと)の鉢を破(われ)を砕けよとぞ打(うた)れたる。さしもしたゝかなる一宮(いちのみや)、尻居(しりゐ)にどうど打居(うちすゑ)られて、目くれ胆(きも)消(きえ)にければ、暫(しばら)く心を静めんと、目を塞(ふさ)ぎて居たる間に、主上(しゆしやう)遥(はるか)に落延(おちのび)させ給ひにけり。古津河(こつかは)の端(はし)を西に傍(そう)て、御馬(おんむま)を早めらるゝ処に、備前の松田・備後の宮(みや)の入道が兵共(つはものども)、二三百騎(にさんびやくき)にて取篭(とりこめ)奉る。十方より如雨降射る矢なれば、遁(のが)れ給ふべし共不見けるが、天地神明の御加護も有(あり)けるにや、御鎧の袖・草摺(くさずり)に二筋(ふたすぢ)当りける矢も、曾(かつ)て裏をぞかゝざりける。法性寺左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)、是(これ)までも尚(なほ)離れ進(まゐら)せず、只一騎(いつき)供奉(ぐぶ)したりけるが、迹(あと)より敵懸(かか)れば引返して追散(おひちら)し、敵前を遮(さへぎ)れば懸破て、主上(しゆしやう)を落(おと)し進(まゐ)らせける処に、何(いづく)より来るとも不知御方の兵百騎(ひやくき)計(ばかり)、皆中黒(なかぐろ)の笠符(かさじるし)著(つけ)て、御馬(おんむま)の前後に候(さうらひ)けるが、近付(ちかづく)敵を右往左往(うわうさわう)に追散して、かき消(けす)様に失(うせ)にければ、主上(しゆしやう)は玉体無恙して東条へ落(おち)させ給(たまひ)にけり。内侍所の櫃(ひつ)をば、初め給(たまはつ)て持(もち)たりける人が田の中に捨(すて)たりけるを、伯耆(はうきの)大郎左衛門長生(ながなり)、著たる鎧を脱捨(ぬぎすて)て、自(みづから)荷担(かたん)したりける。迹より追(おふ)敵共(てきども)、蒔(まき)捨(すつ)る様に射ける矢なれば、御櫃の蓋(ふた)に当る音、板屋を過(すぐ)る村雨(むらさめ)の如し。され共身には一筋(ひとすぢ)も不立ければ、長生(ながなり)兔角(とかく)かゝくり付(つい)て、賀名生(あなふ)の御所へぞ参りける。多くの矢共御櫃に当りつれば、内侍所も矢や立(たた)せ給ひたるらんと、浅猿(あさまし)くて御櫃を見進(まゐら)せたれば、矢の跡は十三まで有けるが、纔(わづか)に薄き桧木板(ひのきいた)を射徹(いとほ)す矢の一筋(ひとすぢ)も無(なか)りけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。今度忻(たばかり)て京都を攻(せめ)られん為に、先(まづ)住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)へ行幸成(なり)たりし時、児島(こじま)三郎入道志純(しじゆん)も召(めさ)れて参りたりけるを、「是(これ)が一大事(いちだいじ)なれば急(いそぎ)東国・北国に下て、新田(につた)義貞(よしさだ)が甥(をひ)・子共に義兵を興(おこ)させ、小山(をやま)・宇都宮(うつのみや)以下、便宜(びんぎ)の大名を語(かたら)ひて、天下の大功を即時(そくじ)に致す様に、智謀を運(めぐら)せ。」と仰(おほせ)出されければ、志純夜を日に継(つい)で関東(くわんとう)へ下(くだ)りたれば、東国の合戦早(はや)事散(さん)じて、新田義興・義治(よしはる)は河村の城(じやう)に楯篭(たてこも)り、武蔵守(むさしのかみ)義宗は越後国(ゑちごのくに)にぞ居たりける。勅使(ちよくし)東国・北国に行向(ゆきむかう)て、「君已(すで)に大敵に囲(かこま)れさせ給ひて助(たすけ)の兵、力労(つかれ)ぬ。若(もし)神竜(しんりよう)化(け)して釣者(てうしや)の為に捕(とら)はれさせ給ひなば、天下誰が為にか争(あらそ)はん。」と、依義重可軽命習(ならひ)を申ければ、小山(をやま)五郎・宇都宮(うつのみや)少将(せうしやう)入道も、「勅定(ちよくぢやう)に随(したが)ふ也(なり)。」とて、東国静謐(せいひつ)の計略を可運由約諾(やくだく)す。義興・義治(よしはる)は尚(なほ)東国に止(とどまり)て将軍と戦ひ、新田武蔵守(むさしのかみ)義宗・桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常・上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)・吉良(きら)三郎満貞(みつさだ)・石堂入道、東山(とうせん)・東海・北陸道(ほくろくだう)の勢(せい)を卒(そつ)し二手(ふたて)に成て上洛(しやうらく)し、八幡の後攻(ごづめ)を致して朝敵(てうてき)を千里の外に可退と、諸将の相図を定(さだめ)て、勅使(ちよくし)を先立(さきだち)てぞ上りける。去(さる)程(ほど)に新田武蔵守(むさしのかみ)義宗は、四月二十七日(にじふしちにち)越後の津張(つばり)より立て、七千(しちせん)余騎(よき)越中(ゑつちゆう)の放正津(はうじやうづ)に著(つ)けば、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常、三千(さんぜん)余騎(よき)にて馳(はせ)参る。都合其(その)勢一万(いちまん)余騎(よき)、九月十一日前陣(せんぢん)已(すで)に能登(のとの)国(くに)へ発向(はつかう)す。吉良(きら)三郎・石堂も、四月二十七日(にじふしちにち)に駿河(するがの)国(くに)を立て、路次(ろし)の軍勢(ぐんぜい)を駈催(かりもよほ)し、六千(ろくせん)余騎(よき)を卒(そつ)して、五月十一日に先陣已(すで)に美濃の垂井(たるゐ)・赤坂(あかさか)に著(つき)しかば、八幡に力を勠(あは)せんと遠篝(とほかがり)をぞ焼(たき)たりける。是(これ)のみならず信濃の下(しも)の宮(みや)も、神家(じんけ)・滋野(しげの)・友野・上杉・仁科(にしな)・禰津(ねづ)以下の軍勢(ぐんぜい)を召具(めしぐ)して、同日に信濃を立(たた)せ給ふ。伊予には土居(とゐ)・得能(とくのう)、兵船七百(しちひやく)余艘(よさう)に取乗て、海上より責上(せめのぼ)る。東山(とうさん)・北陸(ほくろく)・四国・九州の官軍共(くわんぐんども)、皆我(わが)国々を立(たち)しかば、路次(ろし)の遠近に依て、縦(たとひ)五日三日の遅速(ちそく)は有(ある)とも、後攻(ごづめ)の勢こそ近づきたれと、云ひ立(たつ)程ならば、八幡の寄手(よせて)は皆退散すべかりしを、今四五日不待付して、主上(しゆしやう)は八幡を落(おち)させ給ひしかば、国々の官軍(くわんぐん)も力を落(おと)しはて、皆己(おのれ)が本国へぞ引返しける。是(これ)も只天運の時不至、神慮より事起る故とは云(いひ)ながら、とすれば違ふ宮方(みやがた)の運の程こそ謀(はか)られたれ。


太平記(国民文庫)
太平記巻第三十二

○茨宮(いばらのみや)御位(おんくらゐの)事(こと) S3201
今度吉野殿(よしのどの)と将軍と御合体(ごがつてい)の儀破れて合戦に及(およびし)剋(きざみ)、持明院の本院(ほんゐん)・新院・主上(しゆしやう)・春宮・梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)まで、皆南方の敵に囚(とらはれ)させ給て、或(あるひ)は賀名生(あなふ)の奥、或(あるひ)は金剛山(こんがうせん)の麓に御座(ござ)あれば、都には御在位(ございゐ)の君も御座(おはしま)さず、山門には時の貫首(くわんじゆ)も渡(わたら)せ給はず。此(この)平安城(へいあんじやう)と比叡山(ひえいさん)と同時に始まりて、已(すで)に六百(ろつぴやく)余歳(よさい)、一日も未(いまだ)斯(かか)る事をば不承及、是(これ)ぞ末法の世に成(なり)ぬる験(しるし)よと、浅猿(あさまし)かりし事共(ことども)也(なり)。されども角(かく)ては如何(いかが)あるべきとて、天台(てんだいの)座主には、梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)の御弟子(おんでし)、承胤(じよういん)親王(しんわう)を成(なし)奉る。此(この)宮(みや)は前門主の御振舞(おんふるまひ)に様替(やうかはつ)て、遊宴奇物をも愛せさせ給はず、行業(ぎやうごふ)不退(ふたい)にして只吾山(わがやま)の興隆をのみ御心(おんこころ)に懸(かけ)られたりければ、靡(なび)き奉らぬ衆徒も無(なか)りけり。さて御位には誰をか即(つ)け進らすべきと尋(たづね)求(もとめ)奉る処に、本院(ほんゐん)第二(だいに)の御子、三条(さんでう)の内大臣(ないだいじん)公秀(きんひで)の御女(おんむすめ)三位殿(さんみどの)の御局、後には陽禄(やうろく)門院と申しゝ御腹(おんはら)に生(うま)れさせ給たりしが今年十五に成(なら)せ給ふを、日野(ひのの)春宮(とうぐうの)権大進(ごんのたいしん)保光(やすみつ)に仰(おほせ)て、南方へ取(とり)奉らんとせられけるが、兔角(とかく)料理(れうり)に滞(とどこほつ)て、保光京都に捨置(すておき)奉りけるを尋出(たづねいだし)進(まゐら)せて、御位には即進(つけまゐら)せける也(なり)。此(この)宮(みや)をば去年御継母(ごけいぼ)宣光門(せんくわうもんの)女院(にようゐん)の御計(おんはから)ひとして、妙法院(めうほふゐん)の門跡(もんぜき)へ御入室(ごにふしつ)有(ある)べしとて、已(すでに)御出家あらんとし給けるを、御外祖母(ごぐわいそぼ)広義門院より、内々(ないない)北斗堂の実■(じつさん)法印に御占(うら)を問(とは)せ給たりければ、王位に即(つか)せ可給御果報御座(おはしま)す由を勘(かんがへ)申(まうし)たりける間、誠しからずとは乍思召、御出家の儀を止(とめ)られて、日野(ひのの)右大弁時光に預置進(あづけおきまゐら)せられける。其翌(そのあけ)の年観応三年八月二十七日(にじふしちにち)に俄(にはか)に践祚(せんそ)有(あり)しかば、兆前(てうぜん)の勘文(かんもん)更(さら)に一事(いちじ)も不違、実■(じつさん)法印忽(たちまち)に若干(そくばく)の叡感(えいかん)の忠賞に預(あづか)りけり。
○無剣璽御即位無例事(こと)付(つけたり)院(ゐんの)御所炎上(えんしやうの)事(こと) S3202
同九月二十七日(にじふしちにち)に改元(かいげん)有て文和(ぶんわ)と号す。其(その)年の十月に河原(かはら)の御禊(みはらひ)有て、翌(あけ)の月大嘗会(だいじやうゑ)を被遂行。三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)をはしまさで、御即位の事は如何(いかが)有(ある)べからんと、諸卿(しよきやうの)異儀(いぎ)多かりけれ共(ども)、武家強(しひ)て申沙汰しける上は、只兔(と)も角(かく)も其(その)儀に随(したが)ふべしとて、織部(かんなめ)の祭をば致されけるとぞ承(うけたまは)る。夫(それ)人代(じんだい)百王の始は、鵜羽葺不合尊(うがやふきあはせずのみこと)の第四(だいしの)王子(わうじ)、神日本磐余彦尊(かんやまといはあれひこのみこと)、大和(やまとの)国(くに)畝火橿原(うねびかしはら)の宮(みや)にいまして、朝政(あさまつりこと)をきこしめしたりしより以来(このかた)、我(わが)君の御宇已(すで)に九十九代、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)をはしまさで、御位を続(つが)せ給ふ事は、未(いまだ)其例(そのれい)を不聞と、有職(いうしよく)を立(たつ)る人々の欺(あざむき)申さぬは無りけり。帝都(ていと)今静(しづま)りて御在位(ございゐ)安泰(あんたい)なるに付(つけ)ても、先皇(せんくわう)・両院・梶井(かぢゐの)宮(みや)、南山(なんざん)の奥に御座(ござ)あれば、さこそ御心(おんこころ)を悩(なやま)さるらめと、主上(しゆしやう)御心(おんこころ)苦(くるし)き事に思召(おぼしめさ)れければ、何(いか)にもして南山より盜(ぬすみ)出し奉らんと方便を被廻けれ共(ども)、主上(しゆしやう)・両上皇は南山の警固の兵密(きび)しくて可有御出(おんいで)様(やう)も無りけり。遥(はるか)に程経て梶井(かぢゐの)宮(みや)許(ばかり)をぞ、兔角(とかく)して盜(ぬすみ)出し進(まゐら)せける。同年の十月二十八日(にじふはちにち)に国母(こくぼ)陽禄門院隠(かくれ)させ給ひければ、天下諒闇(りやうあん)の儀にて、洛中(らくちゆう)に物(もの)の音をもならさゞる事三月(みつき)、禁裏椒庭(せうてい)殊更(ことさら)に物哀(ものあわれ)なる折節也(なり)。同(おなじき)二年二月四日、俄(にわか)に矢火出来(いでき)て院(ゐんの)御所持明院殿(ぢみやうゐんどの)焼(やけ)にけり。回禄(くわいろく)は天災(てんさい)にて尋常(よのつね)有(ある)事なれ共(ども)、近年打続き京中(きやうぢゆう)の堂社・宮殿残(のこり)少(すくな)く焼(やけ)失(うせ)ぬる事直事(ただこと)とも不覚(おぼえず)、只(ただ)法滅の因縁(いんえん)王城の衰微(すゐび)とぞ見へたりける。元弘・建武の乱より以来回禄に逢(あひ)ぬる所々を数(かぞふ)れば、先(まづ)内裏・馬場殿(ばばどの)・准后(じゆごう)の御所・式部卿親王(しんわう)の常盤井殿(ときはゐどの)・兵部卿(ひやうぶきやうの)宮(みや)の二条(にでう)の御所・宣光門(せんくわうもんの)女院(にようゐん)の御旧宅・城南(ぜいなんの)離宮の鳥羽殿・竹田に近き伏見殿・十楽院(じふらくゐん)・梨本(なしもと)・青蓮院(しやうれんゐん)・妙法院(めうほふゐん)の白河殿・大覚寺殿(だいかくじどの)の御旧迹(ごきうせき)・洞院左府(とうゐんさふ)の亭宅(ていたく)・大炊御門内府(おほひのみかどだいふ)の亭(てい)・吉田(よしだの)内府の北白河・近衛(このゑ)殿(どの)の小坂殿(こざかどの)・為世(ためよの)卿(きやう)の和歌所(わかどころ)・大覚寺(だいかくじの)御山庄(さんさう)・三条(さんでうの)大納言(だいなごん)棲馴(すみなれ)し毘沙門堂(びしやもんだう)・頼基が天(あま)の橋立跡(あと)旧(ふり)て、塩竃(しほがま)の浦を摸(うつ)せし河原(かはらの)院(ゐん)・中書王の古を慕(したう)て立(たて)し花園(はなぞの)や、融(とほる)の大臣(おとど)の迹(あと)を慕(したふ)千種(ちぐさの)宰相(さいしやう)の新亭(しんてい)、雲客以下の家々は未(いまだ)数(かぞふ)るに非遑。禁裏・仙洞・竹苑(ちくゑん)・椒房(せうばう)、三台九卿(さんだいきうけい)の曲阜(きよくふ)以下都(すべ)て三百二十(さんびやくにじふ)余箇所(よかしよ)、此(この)時(とき)に当て焼(やけ)にけり。仏閣霊験(れいけん)の地には、法城寺・法勝寺(ほつしようじ)・長楽寺(ちやうらくじ)・清水寺(せいすゐじの)六僧房・双林寺(さうりんじ)・講堂・慶愛寺(けいあいじ)・北霊山(きたりやうぜん)・西福寺・宇治(うぢの)宝蔵(ほうざう)・浄住寺(じやうぢゆうじ)・六波羅(ろくはら)の地蔵堂・紫野の寺・東福寺(とうふくじ)・雪村(せつそん)の塔頭(たつちゆう)大龍庵(たいりようあん)・夢窓国師の建(たて)られし天竜寺(てんりゆうじ)に至るまで、禅院・律院・御祈祷所、三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)の仏閣も皆此(この)時(とき)に焼(やけ)にけり。されば東山西郊(ゆしのをか)、京白河(しらかはの)在家(ざいけ)もつゞかず、寺院も稀なれば、盜賊(たうぞく)巷(ちまた)に満(みち)て、往来(わうらい)の道も不安、貝鐘(ばいしよう)の声も幽(かすか)にして、無明の睡(ねむり)も醒(さ)め難(がた)し。
○山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)為敵事(こと)付(つけたり)武蔵将監(しやうげん)自害(じがいの)事(こと) S3203
山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏(もろうぢ)は今度八幡(やはた)の軍に功有て、忠賞我に勝(まさ)る人非じと被思ける間、先年拝領して未(いまだ)当(たう)知行無(なか)りける若狭(わかさの)国(くに)の斉所(さいしよ)今積(いまづみ)を如本の可宛給由(よし)、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)に属(しよく)して申達(まうしたつ)せん為に、日々に彼の宿所へ行(ゆき)給ひけれ共(ども)、「今日は連歌の御会席(くわいせき)にて候。」「只今(ただいま)は茶会(ちやのくわい)の最中にて候。」とて一度(いちど)も対面に不及、数剋(すこく)立(たた)せ、暮(くる)るまで待(また)せて、只(ただ)徒(いたづら)にぞ帰しける。度重(たびかさ)なれば右衛門(うゑもんの)佐(すけ)大に腹立(ふくりふ)して、「周公旦(しゆこうたん)は文王の子武王の弟たりしか共、髪を洗ふ時訴人(そにん)来れば髪を握(にぎつ)て合(あひ)、飯(はん)を食する時賓客(ひんかく)来れば哺(ほ)を吐(はい)て対面し給(たまひ)けり。才乏(とぼ)しといへ共我大樹(たいじゆ)の一門(いちもん)に列(つら)なる身たり。礼儀を存せば、沓(くつ)を倒(さかさま)にしても庭に出迎ひ、袴の腰を結び/\も急(いそぎ)てこそ対面すべきに、此(この)入道(にふだう)加様(かやう)に無礼(ぶれい)に振舞(ふるまふ)こそ返々(かへすがへす)も遺恨(ゐこん)なれ。所詮(しよせん)叶はぬ訴詔(そしやう)をすればこそ、諂(へつら)ふまじき人をも諂(へつら)へ。今夜の中に都を立て伯耆へ下り、軈(やが)て謀叛を起して天下を覆(くつがえ)し、無礼なりつる者共(ものども)に、思(おもひ)知(しら)せんずる物を。」と独言(ひとりごと)して、我(わが)宿所へ帰ると均(ひとし)く、郎等共(らうどうども)に角(かく)共(とも)いはず、唯一騎(いつき)文和(ぶんわ)元年八月二十六日(にじふろくにち)の夜半に伯耆を差(さし)て落(おち)て行けば、相順(あひしたがひ)し兵共(つはものども)聞伝(つたへ)て、七百(しちひやく)余騎(よき)迹(あと)を追てぞ下りける。伯耆(はうきの)国(くに)に著(つか)れければ、師氏先(ま)づ親父(しんぶ)左京大夫時氏の許(もと)に行(ゆき)て、「京都の沙汰の次第、面目を失(うしなひ)つる間、将軍に暇(いとま)をも申さず罷(まかり)下(くだり)候。」と語りければ、親父も大に忿(いかつ)て、軈(やが)て宮方(みやがた)の御旗(おんはた)を揚(あ)げ、先(ま)づ道誉(だうよ)が小目代(もくだい)にて、吉田肥前(ひぜん)が出雲(いづもの)国(くに)に有けるを追出し、事の子細を相触(あひふる)るに、富田(とんだの)判官(はうぐわん)を始として、伊田(いだ)・波多野(はだの)・矢部(やべ)・小幡(をばた)に至(いたる)まで皆同意しければ、出雲・伯耆・隠岐・因幡、四箇国(しかこく)即時に打順(うちしたが)へてげり。さらば軈(やが)て南方へ牒送(てふそう)せよとて、吉野殿(よしのどの)へ奏聞を経(ふ)るに、山陰道(せんおんだう)より攻(せめ)上らば、南方よりも官軍(くわんぐん)を出されて、同時に京都を可被攻と被仰出ければ、時氏大に悦(よろこび)て、五月七日伯耆(はうきの)国(くに)を立て、但馬・丹後(たんご)の勢(せい)を引具(ひきぐ)して、三千(さんぜん)余騎(よき)丹波路(たんばぢ)を経て攻(せめ)上る。兼(かね)て相図を差(さし)ければ、南方より惣大将(そうだいしやう)四条(しでうの)大納言(だいなごん)隆俊(たかとし)・法性寺左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)康長(やすなが)・和田・楠・原・蜂屋(はちや)・赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範(うぢのり)・湯浅・貴志(きじ)・藤波を始(はじめ)として、和泉・河内・大和・紀伊(きいの)国(くにの)兵共(つはものども)三千(さんぜん)余騎(よき)勝(すぐ)り出しければ、南は淀・鳥羽・赤井・大渡(おほわたり)、西は梅津・桂の里・谷堂(たにのだう)・峯堂(みねのだう)・嵐山までも陣に取らぬ所なければ、焼(たき)つゞけたる篝火(かがりび)の影、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知(しらず)。此(この)時(とき)将軍未(いまだ)上洛(しやうらく)し給はで、鎌倉(かまくら)にをはせしかば、京都余(あま)りに無勢(ぶせい)にて、大敵可戦様も無(なか)りけり。中々なる軍して敵に気を著(つけ)ては叶(かなふ)まじとて、土岐・佐々木(ささき)の者共(ものども)、頻(しきり)に江州(がうしう)へ引退(ひきしりぞい)て、勢多にて敵を相待(あひまた)んと申けるを、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)、「敵大勢なればとて、一軍(ひといくさ)もせでいかゞ聞逃(ききにげ)をばすべき。」とて、主上(しゆしやう)をば先(まづ)山門の東坂本(ひがしさかもと)へ行幸なし進(まゐらせ)て、仁木・細河(ほそかは)・土岐・佐々木(ささき)三千(さんぜん)余騎(よき)を一処に集め、鹿谷(ししのたに)を後(うしろ)に当(あて)て、敵を洛川(らくせん)の西に相待たる。此(この)陣の様、前に川有て後に大山峙(そばだち)たれば、引場(ひきば)の思(おもひ)はなけれ共(ども)、韓信が兵書を褊(さみ)して背水(はいすゐの)陣を張(はり)しに違(ちが)へり。殊更(ことさら)土岐・佐々木(ささき)の兵、近江と美濃とを後に於(おい)て戦はんに、引て暫(しばらく)気を休めばやと思はぬ事や有(ある)べきと、未戦(いまだたたかはざる)前(さき)に敵に心をぞはかられける。去程(さるほど)に文和二年六月九日(ここのか)卯刻(うのこく)に、南方の官軍(くわんぐん)、吉良(きら)・石堂(いしたう)・和田・楠・原・蜂屋・赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範三千(さんぜん)余騎(よき)、八条(はつでう)九条(くでう)の在家(ざいけ)に火を懸(かけ)て、相図の烟(けぶり)を上(あげ)たれば、山陰道(せんおんだう)の寄手(よせて)、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏・伊田(いだ)・波多野(はだの)、五千(ごせん)余騎(よき)、梅津・桂・嵯峨(さが)・仁和寺(にんわじ)・西七条に火を懸(かけ)て、先(まづ)京中(きやうぢゆう)へぞ寄(よせ)たりける。洛中(らくちゆう)には向ふ敵なければ、南方西国の兵共(つはものども)、一所に打寄て、四条川原(しでうがはら)に轡(くつばみ)を双(ならべ)て引(ひか)へたり。此(これ)より遥(はるか)に敵の陣を見遣(みやれ)ば、鹿谷(ししのたに)・神楽岡(かぐらをか)の南北に、家々の旗二三百流れ翻(ひるがへつ)て、四(よ)つ目結(めゆひ)の旗一流(ひとながれ)真前(まつさき)に進(すすん)で、真如堂の前に下(お)り合(あ)ふたり。敵陣皆(みな)山に寄て木陰(こかげ)に引(ひか)へたり。勢の多少も不見分。和田・楠、法勝寺の西の門を打通て、川原(かはら)に引(ひか)へたりけるが、敵を帯(おび)き出して勢の程を見んとて、射手(いて)の兵五百人(ごひやくにん)馬より下(おろ)し、持楯(もつたて)畳楯(でふたて)つきしとみ/\、閑(しづか)に田の畦(くろ)を歩(あゆま)せて、次第々々に相近付(あひちかづく)。爰(ここ)に佐々木(ささき)惣領(そうりやう)氏頼、其(そ)の比(ころ)遁世(とんせい)にて西山辺(にしやまへん)に隠れ居たりける間、舎弟(しやてい)五郎右衛門(うゑもんの)尉(じよう)世務(せむ)に代(かはつ)て国の権柄(けんぺい)を執(とり)しが、近江(あふみの)国(くに)の地頭・御家人、此(この)手に属(しよく)して五百(ごひやく)余騎(よき)有(あり)けるが、楠が勢に招(まねか)れて、胡録(えびら)を敲(たた)き時の声を揚げ喚(をめい)て懸る。楠が勢陽(やう)に開き陰(いん)に囲(かた)めて散々に射る。射れ共佐々木(ささき)が勢(せい)ひるまず、錣(しころ)を傾けて袖をかざし、懸(かけ)入(いり)けるを見て、山名が執事小林左京(さきやうの)亮(すけ)、七百(しちひやく)余騎(よき)にて横合(よこあひ)にあふ。佐々木(ささき)勢余(あま)りに手痛く懸(かけ)られて、叶はじとや思(おもひ)けん、神楽岡(かぐらをか)へ引上(ひきあが)る。宮方(みやがた)手合(てあはせ)の軍に打勝て、気を揚(あ)げ勇(いさみ)に乗て東の方を見たれば、土岐の桔梗(ききやう)一揆(いつき)、水色の旗を差上(さしあげ)、大鍬形(おほくはがた)を夕陽(せきやう)に耀(かかやか)し、魚鱗(ぎよりん)に連(つらな)りて六七百騎(ろくしちひやくき)が程控(ひか)へたり。小林是(これ)を見て人馬に息をも継(つが)せず、軈(やが)て懸(かけ)合(あは)せんとしけるを、山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)扇を揚(あげ)て招止(まねきとど)め、荒手(あらて)の兵千(せん)余騎(よき)を引勝(ひきすぐつ)て相近付(あひちかづく)。土岐も山名もしづ/\と馬を歩ませて、一矢射違(いちがふ)る程こそあれ。互に諸鐙(もろあぶみ)を合(あは)せて懸入り、敵御方二千(にせん)余騎(よき)、一度(いちど)に颯(さつ)と入(いり)乱(みだれ)て、弓手に逢ひ馬手(めて)に背(そむ)き、半時許(はんじばかり)切(きり)合(あひ)たるに、馬烟(むまけぶり)虚空(こくう)に廻(まはつ)て飆(つじかぜ)微塵(みぢん)を吹(ふき)立(たて)たるに不異。太刀の鍔音(つばおと)・時(とき)の音、大山(たいざん)を崩(くづ)し大地(だいち)を動(うごか)して、すはや宮方(みやがた)打勝(うちかち)ぬと見へしかば、鞍(くら)の上空(むな)しき放(はな)れ馬四五百疋、河より西へ走(わしり)出て、山名が兵の鋒(きつさき)に頚を貫(つらぬ)かぬは無(なか)りけり。細河(ほそかは)相摸守(さがみのかみ)清氏、是(これ)程御方(みかた)の打負(うちまけ)たるを見ながら、些(すこし)も機を不屈、尚(なほ)勇(いさみ)進(すすん)でぞ見へたりける。吉良・石堂・原・蜂屋・宇都宮(うつのみや)民部(みんぶの)少輔(せう)・海東(かいとう)・和田・楠、皆荒手(あらて)なれば細河(ほそかは)と懸り合て、鴨川を西へ追渡(おひわた)し、真如堂の前を東へ追立て、時移るまでぞ戦たる。千騎(せんぎ)が一騎(いつき)に成(なる)までも引(ひか)じとこそ戦(たたかひ)けれ共(ども)、将軍の陣あらけ靡(なびい)て後(うしろ)の御方(みかた)あひ遠(どほ)に成(なり)ければ、細河(ほそかは)遂(つひ)に打負(うちまけ)て四明(しめい)の峯(みね)へ引上(ひきあが)る。赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範は、いつも打(うち)ごみの軍(いくさ)を好まぬ者也(なり)ければ、手勢計(てぜいばかり)五六十騎(ごろくじつき)引分(ひきわけ)て、返す敵あれば、追立(おつたて)々々(おつたて)切て落す。名もなき敵共(てきども)をば、何百人切てもよしなし。哀(あはれ)よからんずる敵に逢(あは)ばやと願ひて、北白川(きたしらかは)を今路(いまみち)へ向て歩(あゆ)ませ行(ゆく)処に、洗(あら)ひ皮(かは)の鎧の妻(つま)取たるに竜頭(たつがしら)の甲(かぶと)の緒(を)を縮(しめ)、五尺(ごしやく)許(ばかり)なる太刀(たち)二振(ふたふり)帯(はい)て、歯の亘(わた)り八寸(はつすん)計(ばかり)なる大鉞(おほまさかり)を振(ふり)かたげて、近付(ちかづく)敵あらば只一打に打ひしがんと尻目に敵を睨(にらん)で閑(しづか)に落行(おちゆく)武者あり。赤松遥(はるか)に是(これ)をみて、是(これ)は聞(きこゆ)る長山(ながやま)遠江守(とほたふみのかみ)ごさんめれ。其(そ)れならば組(くん)で討(うた)ばやと思(おもひ)ければ、諸鐙(もろあぶみ)合(あは)せて迹(あと)に追著(おつつき)、「洗革(あらひかは)の鎧は長山殿と見るは僻目(ひがめ)か、蓬(きたな)くも敵に後(うしろ)を見せらるゝ者哉(かな)。」と、言(ことば)を懸(かけ)て恥(はぢ)しめければ、長山屹(きつ)とふり返てから/\と打笑ひ、「問ふは誰(たそ)とよ。」「赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範よ。」「さてはよい敵。但(ただし)只一打(ひとうち)に失はんずるこそかはゆけれ。念仏申て西に向へ。」とて、件(くだん)の鉞(まさかり)を以て開き、甲(かぶと)の鉢(はち)を破(われ)よ砕(くだ)けよと思(おもふ)様に打(うち)ける処を、氏範太刀を平(ひら)めて打背(そむ)け、鉞の柄(え)を左の小脇(こわき)に挟(はさみ)て、片手にてえいやとぞ引たりける。引(ひか)れて二疋の馬あひ近に成(なり)ければ、互(たがひ)に太刀にては不切、鉞を奪(うば)はん奪(うばは)れじと引合(ひきあひ)ける程に、蛭巻(ひるまき)したる樫木(かしのき)の柄(え)を、中よりづんと引切て、手本(てもと)は長山(ながやまが)手に残り、鉞の方は赤松が左の脇にぞ留(とどま)りける。長山今までは我に勝(まさ)る大力非じと思(おもひ)けるに、赤松に勢力を砕(くだ)かれて、叶はじとや思(おもひ)けん、馬を早めて落延(おちのび)ぬ。氏範大に牙(きば)を嚼(かみ)て、「無詮力態(ちからわざ)故(ゆゑ)に、組(くん)で討(うつ)べかりつる長山を、打漏しつる事の猜(ねた)さよ。ゝし/\敵は何(いづ)れも同(おなじ)事、一人も亡(ほろぼ)すに不如。」とて、奪(うばひ)取たる鉞にて、逃(にぐ)る敵を追攻(おつつめ)々々(おつつめ)切(きり)けるに、甲の鉢を真向(まつかう)まで破付(わりつけ)られずと云(いふ)者なし。流るゝ血には斧(をの)の柄(え)も朽(くつ)る許(ばかり)に成(なり)にけり。美濃勢には、土岐七郎(しちらう)を始(はじめ)として、桔梗一揆(いつき)の衆九十七騎まで討(うた)れぬ。近江勢には、伊庭(いばの)八郎(はちらう)・蒲生(がまふ)将監(しやうげん)・川曲(かわぐま)三郎・蜂屋(はちや)将監(しやうげん)・多賀中務(たがのなかづかさ)・平井孫八郎(はちらう)・儀俄(げが)五郎知秀(ともひで)以下、三十八騎討(うた)れぬ。此外(このほか)粟飯原(あいはら)下野(しもつけの)守(かみ)・匹田(ひきだ)能登(のとの)守(かみ)も討死しつ。後藤筑後(ちくごの)守(かみ)貞重も生虜(いけどら)れぬ。打残されたる者とても、或(あるひ)は疵(きず)を被(かふむ)り或(あるひ)は矢種(やだね)射尽(いつく)して、重(かさね)て可戦共覚(おぼえ)ざりければ、大将義詮朝臣(よしあきらあそん)も日暮(くれ)て東坂本(ひがしさかもと)へ落給ふ。是(これ)までも猶(なほ)細河相摸守(さがみのかみ)清氏は元の陣を不引退、人馬(じんば)に息を継(つが)せて、我に同(どう)ずる御方あらば、今一度(いちど)快(こころよ)く挑戦(いどみたたかう)て雌雄(しゆう)を爰(ここ)に決せんとて、西坂本に引(ひき)、其(その)夜は遂(つひ)に落(おち)給はず。夜明(あけ)ければ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)より使者を立て、「重(かさね)て合戦の評定あるべし。先(まづ)東坂本(ひがしさかもと)へ被打越候へ。」と被仰ければ、此(この)上は清氏一人留ても無甲斐とて、翌日早旦に東坂本(ひがしさかもと)へ被参ける。此(この)時(とき)故武蔵守(むさしのかみ)師直が思者(おもいもの)の腹に出来たりとて、武蔵将監(しやうげん)と云(いふ)者、片田舎に隠(かくれ)て居たりけるを、阿保(あふ)肥前(ひぜんの)守(かみ)忠実(ただざね)・荻野(をぎの)尾張(をはりの)守(かみ)朝忠等(ともただら)、俄(にはか)に取(とり)立(たて)て大将になし、丹波・丹後(たんご)・但馬三箇国(さんかこく)の勢、三千(さんぜん)余騎(よき)を集(あつめ)て、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)に力を合(あは)せん為に、西山の吉峯(よしみね)に陣を取てぞ居たりける。京都の大敵にだに輙(たやす)く打勝て勇々(いさみいさみ)たる山名が兵共(つはものども)なれば、なじかは少しも可猶予、十一日(じふいちにちの)曙(あけぼの)に吉峯へ押寄(おしよせ)、矢一(ひとつ)も射させず、抜連(ぬきつれ)て切て上る。阿保(あふ)・荻野(をぎの)が兵共(つはものども)余(あま)りにつよく被攻て、一支(ひとささへ)も支(ささ)へず谷底へ懸落(かけおと)されければ、久下(くげ)五郎を始(はじめ)として討(うた)るゝ者四十(しじふ)余人(よにん)、疵(きず)を被(かうむ)る者数を不知(しらず)。希有(けう)にして逃延(にげのび)たる者共(ものども)も、弓矢・太刀・長刀を取捨(とりすて)て、赤裸(あかはだか)にて落(おち)て行(ゆく)。見苦(みぐる)しかりし有様也(なり)。武蔵将監(しやうげん)は、二町(にちやう)許(ばかり)落延(おちのび)たりけるを、阿保(あふ)と荻野と遥(はるか)に顧(かへりみ)て、「今は叶はぬ所にて候。御自害(ごじがい)候へ。」と勧(すすめ)ける間、馬上にて腹掻切(かきき)り、倒(さかさま)に落(おち)て死にけり。此(この)首を取(とら)んとて、敵一所に打寄てひしめきけるを、沼田(ぬまた)小太郎只(ただ)一騎(いつき)返(かへし)合(あは)せて戦(たたかひ)けるが、敵は大勢也(なり)。御方(みかた)はつゞかず、叶ふまじとや思(おもひ)けん、同(おなじく)腹掻切て、武蔵将監(しやうげん)が死骸を枕にしてぞ臥(ふし)たりける。其(その)間に阿保と荻野は落延(おちのび)て、無甲斐命を助(たすか)りけり。
○主上(しゆしやう)義詮没落(ぼつらくの)事(こと)付(つけたり)佐々木(ささきの)秀綱討死(うちじにの)事(こと) S3204
義詮朝臣(よしあきらあそん)は、兼(かね)て佐々木(ささきの)近江(あふみの)守(かみ)秀綱を警固に備(そな)ふれば、東坂本(ひがしさかもと)の事心安(こころやす)かるべし。爰(ここ)にて国々の勢をも催(もよほ)さんと被議けるが、吉野殿(よしのどの)より大慈院(だいじゐん)の法印を大将の為に山門へ呼(よび)寄(よせ)たりと沙汰しける間、坂本を皇居(くわうきよ)になされん事可悪とて、同六月十三日(じふさんにち)、義詮朝臣(よしあきらあそん)竜駕(りようが)を守護(しゆご)し奉て、東近江(ひがしあふみ)へ落給ふ。行幸の供奉(ぐぶ)には、二条(にでうの)前(さきの)関白左大臣(くわんばくさだいじん)・三条(さんでうの)大納言(だいなごん)実継(さねつぐ)・西園寺(さいをんじ)大納言(だいなごん)実俊(さねとし)・裏築地(うらつぢ)大納言(だいなごん)忠秀(ただひで)・松殿(まつどの)大納言(だいなごん)忠嗣(ただつぐ)・大炊御門(おほひのみかど)中納言(ちゆうなごん)家信(いへのぶ)・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆持(たかもち)・菊亭(きくてい)中納言(ちゆうなごん)公直(きんなほ)・花山(くわざんの)院(ゐんの)中納言(ちゆうなごん)兼定(かねさだ)・左大弁(さだいべん)俊冬(としふゆ)・右大弁経方(つねまさ)・左中弁時光(ときみつ)・勘解由(かげゆの)次官行知(ゆきとも)・梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)に至らせ給ふまで出世・坊官一人も不残被召具、竜駕の次に御輿(おんこし)を早めらる。武士には足利宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮を大将にて、細河相摸守(さがみのかみ)清氏・尾張(をはりの)民部(みんぶの)少輔(せう)・舎弟(しやてい)左京(さきやうの)権(ごんの)大夫(たいふ)・同左近(さこんの)将監(しやうげん)・今河駿河(するがの)守(かみ)頼貞(よりさだ)・同兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)助時(すけとき)・同左近(さこんの)蔵人(くらんど)・土岐(とき)大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)頼康(よりやす)・熊谷(くまがえ)備中(びつちゆうの)守(かみ)直鎮(なほつね)・佐々木(ささき)・山内(やまのうち)五郎左衛門(ごらうざゑもん)信詮(のぶあきら)、是等(これら)を宗(むね)との人々として、都合其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)、和仁(わに)・堅田(かただ)の浜道に駒を早めてぞ被落ける。爰(ここ)に故(こ)堀口美濃(みのの)守(かみ)貞満(さざみつ)の子息掃部助(かもんのすけ)貞祐(さだすけ)が、此(この)四五年堅田に隠(かくれ)て居たりけるが、其(その)辺の溢者共(あぶれものども)を語て、五百(ごひやく)余人(よにん)真野(まの)の浦に出合て、落行(おちゆく)敵を打止(うちとめ)んとす。真前(まつさき)には住上を擁護(おうご)し奉て、梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)御門徒(ごもんと)の大衆、済々(せいぜい)と召具(めしぐ)して落(おち)させ給へば、門主に恕(じよ)を置奉て弓を不引、矢を不放。此(この)間坂本の警固(けいご)にて居たりつる佐々木(ささきの)近江(あふみの)守(かみ)秀綱、三百(さんびやく)余騎(よき)にて遥(はるか)の後陣(ごぢん)に通(とほ)りけるを、「是(これ)は山門の故敵(こてき)、時の侍所なれば、是(これ)を討留(とどめ)よ。」とて、堀口が兵五百(ごひやく)余人(よにん)東西より引裹(ひつつつん)で、足軽の射手(いて)山にそひ皋(さは)を阻(へだて)て散々に射ける間、佐々木(ささきの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)・箕浦(みのうら)次郎左衛門(じらうざゑもん)・寺田八郎左衛門(はちらうざゑもん)・今村五郎一所にて皆討(うた)れにけり。秀綱は憑(たのみ)切たる一族(いちぞく)若党共(わかたうども)が、跡に蹈(ふみ)止て討死しけるを見て、心憂き事にや思ひけん。高尾四郎左衛門(しらうざゑもんの)入道(にふだう)と二騎、馬の鼻を引返して、敵の中へ懸て入る。共に歩立(かちだち)の敵に馬の諸膝(もろひざ)ながれて、落(おつ)る処にて討(うた)れにければ、遥(はるか)に落延(おちのび)たる若党共(わかたうども)三十七人(さんじふしちにん)、返合(かへしあはせ)々々(かへしあはせ)所々にて討(うた)れにけり。其(その)夜は塩津(しほづ)に腰輿(えうよ)を舁(かき)留(とどめ)奉りて、供奉(ぐぶ)の人々をも些(すこし)休め奉らんとせられけるを、塩津(しおづ)・海津(かいづ)の地下人(ぢげにん)共(ども)、軍勢(ぐんぜい)此(ここ)に一夜(いちや)も逗留(とうりう)せば、事に触(ふれ)て煩(わづらひ)あるべしと思(おもひ)ける間、此(ここの)道の辻、彼(かしこ)の岡山(をかやま)に取上(とりあげ)て、鐘を鳴(なら)し時を作りける程に、暫(しばし)の御逗留(ごとうりう)叶はで、主上(しゆしやう)又腰輿(えうよ)に召(めさ)れたれ共(ども)、舁進(かきまゐ)らすべき駕輿丁(かよちやう)も、皆逃失(にげうせ)て一人もなければ、細河相摸守(さがみのかみ)清氏、馬より飛(とん)で下(お)り徒立(かちだち)になり、鎧の上に主上(しゆしやう)を負進(おひまゐら)せて、塩津の山をぞ越(こえ)られける。子推(しすゐ)が股(もも)の肉を切り、趙盾(てうとん)が車の片輪を扶(たすけ)しも、此(この)忠には過(すぎ)じとぞ見へし。月卿(げつけい)雲客(うんかく)、或(あるひ)は長汀(ちやうてい)の月に策(むち)をあげ、或(あるひ)は曲浦(きよくほ)の浪に棹(さを)さし給へば、「巴猿一叫停舟於明月峡之辺、胡馬忽嘶失路於黄沙磧之裏。」と古人の書(かき)し征路(せいろ)の篇(へん)も、今こそ被思知たれ。是(これ)より東は路次(ろし)の煩(わづらひ)も無(なか)りしかば、美濃の垂井(たるゐ)の宿の長者が家を皇居(くわうきよ)にして、義詮朝臣(よしあきらあそん)以下の官軍(くわんぐん)皆四辺(しへん)の在家に宿を取て、皇居(くわうきよ)を警固し奉りけり。
○山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏京落(きやうおちの)事(こと) S3205
去(さる)程(ほど)に山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏は、都の敵を輙(たやす)く攻(せめ)落(おと)して心中の憤(いきどほり)一時に解散(げさん)しぬる心地して、喜悦(きえつ)の眉を開(ひらく)事理(ことはり)也(なり)。勢著(つ)かばやがて濃州(ぢようしう)へ発向(はつかう)して、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)を攻(せめ)奉らんと議せられけれ共(ども)、降参する敵もなし催促に応ずる兵稀(まれ)也(なり)。剰(あまつさへ)洛中(らくちゆう)には吉野殿(よしのどの)より四条(しでうの)少将(せうしやう)を成敗(せいばい)の体(てい)にて置(おか)れたりける間、毎事(まいじ)山名が計(はからひ)にも非(あら)ず、又知行の所領も近辺に無(なか)りければ、出雲・伯耆より上り集(あつまり)たりし勢共(せいども)も、在京に労(つか)れて漸々(ぜんぜん)に落行(おちゆき)ける程に、日を経て無勢(ぶせい)に成(なり)にけり。角(かく)ては如何(いかが)せん、却(かへつ)て敵に寄(よせ)られなば我(われ)も都を落されぬと、内々仰天(ぎやうてん)せられける処に、義詮朝臣(よしあきらあそん)、東山(とうせん)・東海・北陸道(ほくろくだう)の勢を率(そつ)して宇治・勢多より攻(せめ)上らるとも聞へ、又赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)が中国より勢を卒(そつ)して上洛(しやうらく)すとも聞へければ、四方(しはう)の敵の近付かぬ先に早く引退(ひきしりぞ)けとて、数日(すじつ)の大功徒(いたづら)に、天下に時を不得しかば、四条(しでうの)少将(せうしやう)は官軍(くわんぐん)を卒(そつ)して南方に帰り、山名は父子諸共(もろとも)に道を追払て、伯耆の国へぞ下りける。
○直冬(ただふゆ)与吉野殿(よしのどの)合体(がつていの)事(こと)付(つけたり)天竺震旦(しんだん)物語(ものがたりの)事(こと) S3206
翌年(よくねん)の春、新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)・脇屋(わきや)左衛門義治(よしはる)、共に相摸(さがみ)の河村の城(じやう)を落(おち)て、何(いづ)くに有共不聞しかば、東国心安(こころやす)く成て、将軍尊氏(たかうぢの)卿(きやう)上洛(しやうらく)し給へば京都又大勢に成(なり)にけり。さらば軈(やがて)山名を可被攻とて、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)を先(まづ)播磨国(はりまのくに)へ下さる。山名伊豆(いづの)守(かみ)是(これ)を聞て、此度(このたび)は可然大将を一人取り立(たて)て合戦をせずは、我に勢の著(つく)事は有まじと被思ける間、足利右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬の筑紫九国の者共(ものども)に被背出、安芸・周防の間に漂泊し給ひけるを招請(まねきしやう)じ奉り、惣大将(そうだいしやう)とぞ仰ぎける。但(ただし)是(これ)も将軍に敵すれば、子として父を譴(せむ)る咎(とが)あり。天子に対すれば臣として君を無(ないがしろに)し奉る恐(おそれ)あり。さらば吉野殿(よしのどの)へ奏聞を経て勅免(ちよくめん)を蒙(かうむ)り、宣旨に任(まかせ)て都を傾け、将軍を攻(せめ)奉らんは、天の忿(いか)り人の譏(そし)りも有(ある)まじとて、直冬潜(ひそか)に使を吉野殿(よしのどの)へ進(まゐら)せて、「尊氏(たかうぢの)卿(きやう)・義詮朝臣(よしあきらあそん)以下の逆徒(ぎやくと)を可退治(たいぢ)由の綸旨(りんし)を下(くだし)給て、宸襟(しんきん)を休め奉るべし。」とぞ申されける。伝奏洞院(とうゐんの)右大将(うだいしやう)頻(しきり)に被執甲ければ、再往(さいわう)の御沙汰(ごさた)迄もなく直冬が任申請、即(すなはち)綸旨をぞ被成ける。是(これ)を聞て遊和軒朴翁(いうくわけんはくをう)難じ申(まうし)けるは、「天下の治乱興滅(ちらんこうめつ)皆(みな)大の理に不依と云(いふ)事なし。されば直冬朝臣(ただふゆあそん)を以て大将として京都を被攻事、一旦(いつたん)雖似有謀事(こと)成就(じやうじゆ)すべからず。其(その)故は昔天竺に師子国(ししこく)と云(いふ)国(くに)あり。此(こ)の国の帝他国より后(きさき)を迎へ給(たまひ)けるに、軽軒香車(けいけんかうしや)数百乗(すひやくじよう)、侍衛(じゑ)官兵十万人、前後四五十里(しごじふり)に支(ささへ)て道をぞ送り進(まゐら)せける。日暮(くれ)て或深山(あるしんざん)を通(とほ)りける処に、勇猛奮迅(ふんじん)の師子(しし)共(ども)二三百疋(にさんびやつぴき)走(はしり)出(いで)、追譴(おつせめ)々々(おつせめ)人を食(くひ)ける間、軽軒軸(ぢく)折(をれ)て馳(はす)れ共不遁、官軍(くわんぐん)矢射尽(いつくし)て防げ共不叶、大臣・公卿・武士・僕従(ぼくじゆう)、上下三百万人(さんびやくまんにん)、一人も不残喰殺(くいころ)されにけり。其(その)中に王たる師子(しし)、彼后(かのきさき)を口にくはへて、深山幽谷の巌(いはほ)の中に置奉て、此(この)師子容顔(ようがん)美麗なる男の形に変じければ、后此(この)妻と成(なり)給(たまひ)て、思はぬ山の岩の陰(かげ)に、年月をぞ送らせ給(たまひ)ける。始の程は后、かゝる荒き獣(けだもの)の中に交(まじは)りぬれば、我さへ畜類(ちくるゐ)の身と成(なり)ぬる事の心憂(こころう)さ、何に命のながらへて、一日片時(いちにちへんし)も過(すぐ)べしと覚えず、消(きえ)ぬを露の身の憂さに思召沈(おぼしめししづ)ませ給ひけるが、苔(こけ)深き巌は変じて玉楼金殿となり、虎狼野干(こらうやかん)は媚(ばけ)て卿相(けいしやう)雲客(うんかく)となり、師子は化(け)して万乗の君と成て、玉■(ぎよくい)の座に粧(よそほひ)を堆(うづだか)くして、袞竜(こんりよう)の御衣に薫香(くんかう)を散ぜしかば、后早(はや)憂かりし御思も消果(きえはて)て、連理の枝の上に、心の花のうつろはん色を悲(かなし)み、階老(かいらう)の枕の下に、夜の隔(へだ)つる程をだにかこたれぬべく思召す。角(かく)て三年(みとせ)を過(すご)させ給(たまひ)ける程に、后たゞならず成(なり)給(たまひ)て男子を生(うみ)給へり。愍(あはれ)みの懐(ふところ)の中に長(ひととなつ)て歳十五に成(なり)ければ、貌形(みめかたち)の世に勝(すぐれ)たるのみに非(あら)ず、筋力(きんりよく)人に超(こえ)て、何(いか)なる大山を挟(はさん)で北海を飛越(とびこゆ)る共、可容易とぞみへたりける。或(ある)時(とき)此(この)子母の后に向て申けるは、「適(たまたま)人界(にんがい)の生を受(うけ)ながら、后は畜類の妻と成(なら)せ給ひ、我は子と成(なり)て候事、過去の宿業(しゆくごふ)とは申ながら、心憂(こころうき)事にて候はずや。可然(しかるべき)隙(ひま)を求(もとめ)て、后此(この)山を逃(にげ)出させ給へ。我負(おひ)奉て師子国(ししこく)の王宮(わうぐう)へ逃篭(にげこも)り、母を后妃の位に昇(のぼせ)奉り、我(われ)も朝烈(てうれつ)の臣と仕へて、畜類の果(くわ)を離れ候はん。」と勧(すすめ)申ければ、母の后無限喜(よろこび)て、師子の他(たの)山へ行(ゆき)たりける隙(ひま)に、后此(この)子に負(おは)れて、師子国の王宮へぞ参り給(たまひ)ける。帝不斜(なのめならず)喜び思召(おぼしめし)て、君恩類(たぐひ)無(なか)りければ、後宮(こうきゆう)綺羅(きら)の三千(さんぜん)、為君薫衣裳、君聞蘭麝為不馨香。為君事容色、君看金翠為無顔色。新(あたらし)き人来(きたりて)旧き人棄(すて)られぬ。眼の裏(うち)の荊棘(けいぎよく)掌上(たなごころのうへ)の花の如し。去(さる)程(ほど)に師子(しし)外の山より帰り来て后を尋(たづね)求(もとむ)るに、后も座(おはしま)さず、我(わが)子もなし。こは何(いか)なる事ぞと驚き周章(あわて)て、ばけたる貌(かたち)元の容(すがた)に成て、山を崩し木を堀倒し求(もとむ)れ共不得。さては人の棲(す)む里にぞ御坐(おはす)らんとて、師子国へ走(はしり)出て、奮迅(ふんじん)の力を出して吠忿(ほえいか)るに、何(い)かなる鉄(くろがね)の城(じやう)なり共破れぬべくぞ聞へける。野人村老懼(おそ)れ倒(たふれ)、死する者幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数をしらず。又不近付所も、家を捨(すて)財宝を捨(すて)逃去(にげさり)ける間、師子国十万里の中には、人一人も無りけり。され共(ども)、此(この)師子王位にや恐(おそれ)けん、都の中へは未入(いまだいらず)、只王宮近き辺に来て、夜々(よなよな)地を揺(うごか)して吠嗔(ほえいか)り、天に飛揚(ひやう)して鳴叫(なきさけび)ける間、大臣・公卿・刹利(せつり)・居士(こじ)、皆宮中に逃篭(にげこも)る。時に公卿僉議有て、此(この)師子を退治(たいぢ)して進(まゐら)せたらんずる者には、大国を一州下さるべしと法を出して、道々に札(ふだ)を書てぞ被立ける。彼(かの)師子の子此(この)札を見て、さらば我(われ)父の師子を殺して一国を給(たまは)らんと思(おもひ)ければ、尋常(よのつね)の人ならば、百人(ひやくにん)しても引はたらかすまじかりける鉄(くろがね)の弓・鉄の矢を拵(こしら)へ、鏃(やじり)に毒を塗(ぬつ)て、父の師子をぞ相待(あひまち)ける。師子今は王宮へ飛入て、国王大臣を喰殺(くひころ)さんとて、禁門の前を過(すぎ)けるが、我(わが)子の毒の矢をはげて立向(たちむかひ)たるを見て、涙を流し地に臥(ふし)て申けるは、「我年久(ひさしく)相馴(あひなれ)し后と、二人(ににん)ともなき汝を失(うしなひ)て、恋(こひしく)悲(かなし)く思ふ故(ゆゑ)に、若干(そくばく)の人を失ひ多くの国土を亡(ほろぼ)しつ。然(しか)るに事の様を尋(たづね)きけば、后は王宮にをはすなれば、今生にて再び相見ん事有(あり)がたし。せめて汝をだに一目見たらば、縦(たとひ)我(わが)命を失ふ共悲(かなし)む処にあらずと思(おもひ)き。道々に被立たる札を見れば、我(わが)命を以(もつて)一国の抽賞(ちうしやう)に被報たり。然れども我を一箭にも射殺さんずる者は、天下に汝より外は有(ある)べからず。命を惜(をし)むも子の為也(なり)。汝一国の主と成て栄花を子孫に及(およぼ)さば、我命全く不可惜。早く其(その)弓を引(ひき)其(その)矢を放(はなち)て我を射殺し、報国(はうこく)の賞に預(あづか)れ。」とて、黄(き)なる涙を流しつゝ、「爰(ここ)を射よ。」とて自(みづから)口(くち)をあきてぞ臥(ふし)たりける。師子は畜類なれ共子を思ふ心猶(なお)深く、子は人倫(じんりん)の身なれ共親を思ふ道無(なか)りければ、飽(あく)まで引て放つ矢に、師子喉(のんど)を射抜(いぬか)れて、地に伏(ふし)て忽(たちまち)に死(しに)けり。子、師子の頚(くび)を取て天子に是(これ)を奉る。一人(いちじん)万民悦(よろこび)合へる事限(かぎり)なし。已(すで)に宣旨を下して其(その)賞を定(さだめ)られし上は子細に不及、師子の子に一国を下し給ふべかりしを、重(かさね)て公卿僉議有て、勅宣(ちよくせん)に随(したが)ふ処は雖有忠父を殺す罪不軽。但(ただし)忠賞の事は法を被定しかば、綸言(りんげん)今更変じ難しとて、恩賞に被擬ける一国の正税(しやうぜい)・官物(くわんもつ)、百年が間を勘(かんがへ)て、天下の鰥寡孤独(くわんくわこどく)の施行(せぎやう)に引(ひか)れぬ。以彼思之、縦(たとひ)一旦(いつたん)利を得たり共終(つひ)には諸天の御とがめあるべし。又漢朝の古、帝尭(ていげう)と申けるいみじき聖徳(せいとく)の帝(みかど)御坐(おはしま)しけり。天子の位にいます事七十年(しちじふねん)、御年已(すで)に老(おい)ぬ。「誰にか天下を可譲る。」と御尋(おんたづね)有ければ、大臣皆諛(へつらう)て、「幸(さいはひ)に皇太子にて御渡(おんわたり)候へば丹朱(たんしゆ)にこそ御譲(おんゆづ)り候はめ。」と申けるを、帝尭(ていげう)、「天下は是(これ)一人の天下に非(あら)ず、何を以てか太子なればとて、天下授(さづく)るに足(たら)ざらん者に位を譲て、四海(しかい)の民を苦しましむべき。」とて丹朱に世を授(さづけ)給はず。さても何(いづ)くにか賢人ありと、隠遁(いんとん)の者までも尋(たづね)求め給ひける処に、箕山(きさん)と云(いふ)所に許由(きよゆう)と申(まうし)ける賢人、世を捨(すて)光を韜(つつみ)て、只(ただ)苔深く松痩(やせ)たる岩の上に一瓢(いつぺう)を懸(かけ)て、瀝々(れきれき)たる風の音に人間迷情(めいせい)の夢を醒(さま)してぞ居たりける。帝尭(ていげう)是(これ)を聞召(きこしめし)て即(すなはち)勅使(ちよくし)を立(たて)られ、御位を譲(ゆづる)べき由を被仰けるに、許由遂(つひ)に勅答を不申。剰(あまつさへ)松風渓水(しやうふうけいすゐ)の清き音を聞て爽(さはやか)なる耳の、富貴(ふつき)栄花(えいぐわ)の賎(いや)しき事を聞て汚(けが)れたる心地しければ、潁川(えいせん)の水に耳を洗(あらひ)ける程に、同じ山中に身を捨(すて)隠居したりける巣父(さうふ)と云(いふ)賢人、牛を引て此(この)川に水を飼(かは)んとしけるが、許由が耳を洗ふを見て、「何事に今耳をば洗ふぞ。」と問(とひ)ければ、許由(よし)、「帝尭(ていげう)の我に天下を譲らんと被仰つるを聞て、耳汚(けがれ)たる心地して候間洗ふ也(なり)。」とぞ答へける。巣父首(かうべ)を掻(かい)て、「さればこそ此(この)水例(れい)よりも濁(にごつ)て見へつるを、何故(なにゆゑ)やらんと無覚束思ひたれば、此(この)事にて有けり。左様(さやう)に汚(けがれ)たる耳を洗(あらひ)たる水の流(ながれ)をば、牛にも飲(か)ふべき様なし。」とて徒(いたづら)に牛を引てぞ帰りける。帝■尭(ていげう)さては誰にか世を可授とて、至らぬ隈(くま)もなく尋(たづね)求(もとめ)給ふに、冀州(きしう)に虞舜(ぐしゆん)と云(いふ)賎(いやし)き人あり。其(その)父瞽叟(こそうは)盲(めしひて)母は頑■(くわんぎん)也(なり)。弟(おとと)の象(しやうは)驕戻(おごりもとる)。虞舜は孝行の心深(ふかく)して、父母を養はん為に歴山(れきさん)に行て耕(たかや)すに、其(その)地の人畔(くろ)を譲り、雷沢(らいたく)に下て漁(すなど)るに、其(その)浦(うら)の人居(きよ)を譲る。河浜(かひん)に陶(すゑものづくり)するに、器(うつはもの)苦(ゆがみ)窪(いしま)あらず。虞舜の行(ゆき)て居(を)る処、二年あれば邑(いう)をなし、三年あれば都(と)をなす。万人其(その)徳を慕(したう)て来(きたり)集(あつまり)し故(ゆゑ)也(なり)。舜年二十(はたち)にして孝行天下に聞へしかば、帝尭(ていげう)是(これ)に天下を譲らんと覚(おぼ)す心あり。先(まづ)内外に著(つけ)て其(その)行を御覧ぜんと覚(おぼ)して、娥皇(がくわう)・女英(ぢよえい)と申ける姫宮を二人(ににん)舜に妻(めあ)はせ給ふ。又尭(げう)の御子九人(くにん)を舜の臣となして、其(その)左右にぞ慎(つつし)み随(したが)はせられける。尭(げう)の二女己(おの)れが高きを以て夫(をつと)に驕(おご)らざれば、舜の母に嬪(よめづかひ)する事甚(はなはだ)不違。九男(きうなん)同(おなじ)く舜に臣として事(つかふ)ること礼敬更(さら)に不懈。帝尭(ていげう)弥(いよいよ)悦(よろこび)て、舜に又、倉廩(さうりん)・牛羊(ぎうやう)・■衣(ちい)・琴(こと)一張を給ふ。舜如斯声誉(せいよ)上に達し父母に孝有しか共、継母(けいぼ)我(わが)子の象(しやう)を世に立(たて)ばやと猜(そね)む心深く有しかば、瞽叟(こそう)と象と三人(さんにん)相謀(あひはかつ)て舜を殺さんとする事度々(どど)也(なり)。舜是(これ)をしれ共父をも不恨、母をも弟をも不嗔、孝悌(かうてい)の心弥(いよいよ)慎(つつしみ)て、只(ただ)父母の意(こころ)に違(たが)へる事をのみ天に仰(あふい)でぞ悲(かなし)みける。或(ある)時(とき)瞽叟(こそう)舜を廩(くら)の上に登(のぼ)せて屋(やね)を葺(ふか)せけるに、母下より火を放(はなし)て舜を焼殺さんとす。舜始(はじめ)より推(すゐ)したりしかば、兼(かね)て持(もち)たる二の唐笠(からかさ)を張(はり)て、其柄(そのえ)に取付て飛下(とびおり)にけり。瞽叟不安思(おもひ)ければ、又象と相謀(あひはかつ)て舜に井をぞ堀(ほら)せける。是(これ)は井已(すで)に深く成(なり)たらん時、上より土を下して舜を乍生埋(うづめ)ん為也(なり)。堅牢地神(けんらうぢじん)も孝行の子を哀(あはれ)にや覚(おぼ)しけん、井の底より上(あげ)ける土の中に半(なか)ば金(こがね)ぞ交(まじは)りたりける。瞽叟・弟の象共に欲心(よくしん)に万事を忘(わすれ)ければ、土を揚(あげ)ける度毎(たびごと)に是(これ)を争ふ事限なし。其(その)間に舜傍(かたはら)に匿穴(くけあな)をぞ堀(ほつ)たりける。井已(すで)に深く成(なり)ぬる時、瞽叟と象と共に土を下し大石を落(おと)して舜を埋(うづめ)ければ、舜潜(ひそか)に兼(かね)て堀(ほり)し匿穴(くけあな)より逋(のがれ)出て己(おの)れが宮へぞ帰(かへり)ける。舜如斯して生(いき)たりとは弟の象夢にも不知、帝尭(ていげう)より舜に給はりし財共を面々に分ち領(りやう)じけるに、牛羊(ぎうやう)・倉廩(さうりん)をば父母に与へ二女と琴(こと)一張とをば象我(わが)物にすべしと相計(あひはから)ふ。象則(すなはち)琴を弾じて二女を愛せん為に、舜の宮(みや)に行(ゆき)たれば、舜敢(あへ)て不死、二女は瑟(しつ)を調べ、舜は琴(こと)を弾じて、優然としてぞ居たりける。象大に鄂(おどろい)て曰く、「我(われ)舜を已(すで)に殺しつと思(おもひ)て、鬱陶(うつたう)しつ。」と云(いひ)て、誠(まこと)に忸怩(はぢ)たる気色なれば、舜琴を閣(さしおい)て、其弟(そのおとと)たる言(こと)ばを聞くがうれしさに、「汝さぞ悲(かなし)く思ひつらん。」とてそゞろに涙をぞ流しける。斯(かかり)し後も舜弥(いよいよ)孝有て父母に事(つかふ)る道も不懈、弟を愛(あいす)る心も不浅ければ、忠孝の徳天下に顕(あらは)れて、帝尭(ていげう)遂(つひ)に帝位を譲り給ひにけり。舜天子の位を践(ふん)で世を治め給ふ事天に叶ひ地に随(したが)ひしかば、五日の風枝を不鳴十日の雨壌(つちくれ)を破(やぶる)事なし。国富み民豊(ゆたか)にして、四海(しかい)其(その)恩を仰ぎ、万邦其(その)徳を頌(しよう)せり。されば孔子(こうし)も、尋於忠臣在孝子之門といへり。為父不孝ならん人、豈(あに)為君忠あらんや。天竺・震旦(しんだん)の旧(ふる)き迹(あと)を尋(たづぬ)るに、親のために道なければ忠あれども罪せらる。師子国の例(れい)是(これ)也(なり)。為父孝あれば賎(いや)しけれ共被賞。虞舜の徳是(これ)也(なり)。然(しかる)に右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)は父を亡(ほろぼ)さん為に君の命を仮(から)んとす。君是(これ)を御許容(きよよう)有て大将の号(がう)を被許事旁(かたがた)以(もつて)非道。山名伊豆(いづの)守(かみ)若(もし)此(この)人を取立(とりたて)て大将とせば天下の大功を致さん事不可有。」と昨木(さくぼく)の隠子朴翁(いんしはくをう)が眉(まゆ)を顰(ひそめ)て申(まうし)けるが、果してげにもと被思知世に成(なり)にけり。
○直冬上洛(しやうらくの)事(こと)付(つけたり)鬼丸(おにまる)鬼切(おにきりの)事(こと) S3207
南方に再往(さいわう)の評定有て、足利右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬を大将として京都を可攻由(よし)、綸旨(りんし)を被成ければ、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏、五千(ごせん)余騎(よき)の勢を卒(そつ)して、文和三年十二月十三日(じふさんにち)伯耆(はうきの)国(くに)を立(たち)給ふ。山陰道(せんおんだう)悉(ことごとく)順(したがひ)付て兵七千騎(しちせんぎ)に及びしかば、但馬(たぢまの)国(くに)より杉原越(すぎはらごえ)に播磨へ打て出(いでて)、先(まづ)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)義詮の鵤(いかるが)の宿(しゆく)にをはするをや打散す、又直(すぐ)に丹波へ懸て、仁木(につき)左京(さきやうの)太夫(たいふ)頼章(よりあきら)が佐野の城(じやう)に楯篭(たてこもつ)て、我等(われら)を支(ささ)へんとするをや打落すと、評定しける処へ、越中(ゑつちゆう)の桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常・越前(ゑちぜんの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)高経の許(もと)より飛脚同時に到来(たうらい)して、只(ただ)急ぎ京都へ攻(せめ)上られ候へ。北国の勢を引て、同時に可攻上由を牒(てふ)せられける間、さらば夜を日に継(つい)で上(のぼら)んとて、山名父子七千六百(しちせんろつぴやく)余騎(よき)、前後十里(じふり)に支(ささへ)て丹波(たんばの)国(くに)を打通るに、仁木左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章当国(たうごく)の守護(しゆご)として敵を支(ささへ)ん為に在国(ざいこく)したる上、今は将軍の執事として勢(いきほ)ひ人に超(こえ)たれば、丹波(たんばの)国(くに)にて定(さだめ)て火を散(ちら)す程の合戦五度(ごど)も十度(じふど)もあらんずらんと覚(おぼ)へけるに、敵の勇鋭(ゆうえい)を見て戦(たたかう)ては中々叶はじとや思ひけん、遂(つひ)に矢の一(ひとつ)をも不射懸して城の麓をのさ/\と通しければ、敵の嘲(あざけ)るのみならず天下の口遊(くちずさみ)とぞ成(なり)にける。都に有(あり)とある程の兵をば義詮朝臣(よしあきらあそん)に付(つけ)て播磨へ被下、遠国の勢(せい)は未(いまだ)上らず。将軍僅(わづか)なる小勢にて京中(きやうぢゆう)の合戦は中々悪(あし)かりぬと、思慮旁(かたがた)深かりければ、直冬已(すで)に大江山(おいのやま)を超(こゆ)ると聞へしかば、正月十二日の暮程に、将軍主上(しゆしやう)を取奉て江州(がうしうの)武作寺(むさてら)へ落(おち)給ふ。抑(そもそも)此(この)君御位に即(つか)せ給て後、未(いまだ)三年を不過、二度(ふたたび)都を落(おち)させ給ひ、百官皆他郷(たきやう)の雲に吟(さまよ)ひ給ふ、浅猿(あさまし)かりし世中(よのなか)なり。去(さる)程(ほど)に同(おなじき)十三日(じふさんにち)、直冬都に入(いり)給へば、越中(ゑつちゆう)の桃井(もものゐ)・越前(ゑちぜんの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて上洛(しやうらく)す。直冬朝臣(ただふゆあそん)此(この)七八箇年(しちはちかねん)、依継母讒那辺這辺(かなたこなた)漂泊(へうはく)し給(たまひ)つるが、多年の蟄懐(ちつくわい)一時に開けて今天下の武士に仰(あふが)れ給へば、只年に再(ふたた)び花さく木の、其(その)根かるゝは未知(いまだしらず)、春風(しゆんぷう)三月、一城(いちじやう)の人皆狂(きやう)するに不異。抑(そもそも)山名伊豆(いづの)守(かみ)は、若狭(わかさの)所領の事に付て宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)に恨(うらみ)あり。桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)は、故高倉禅門に属(しよく)して望(のぞみ)を不達憤(いきどほり)あれば、此(この)両人の敵に成(なり)給ひぬる事は少し其謂(そのいはれ)も有(ある)べし。尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)高経は忠戦自余(じよ)の一門(いちもん)に超(こえ)しに依て、将軍も抽賞(ちうしやう)異于他にして世其仁(そのじん)を重くせしかば、何事に恨(うらみ)有(ある)べし共覚(おぼえ)ぬに、俄(にはか)に今敵に成て将軍の世を傾(かたぶけ)んとし給ふ事、何の遺恨(ゐこん)ぞと事の起りを尋ぬれば、先年(せんねん)越前の足羽(あすは)の合戦の時、此(この)高経朝敵(てうてき)の大将新田左中将(さちゆうじやう)義貞を討て、源平累代(るゐだい)の重宝(ちようはう)に鬼丸(おにまる)・鬼切(おにきり)と云(いふ)二振(ふたふり)の太刀を取(とり)給ひたりしを、将軍使者を以て、「是(これ)は末々(すゑずゑ)の源氏なんど可持物に非(あら)ず、急ぎ是(これ)を被渡候へ。当家の重宝として嫡流(ちやくりう)相伝すべし。」と度々被仰けるを、高経堅く惜(をしみ)て、「此(この)二振の太刀をば長崎(ながさき)の道場に預(あづけ)置(おき)て候(さふらひ)しを、彼(かの)道場炎上(えんしやう)の時焼て候。」とて、同じ寸の太刀を二振取替(とりかへ)て、焼損(やきそん)じてぞ出されける。此(この)事有(あり)の侭(まま)に京都へ聞へければ、将軍大に忿(いかつ)て、朝敵(てうてき)の大将を討たりつる忠功抜群(ばつくん)也(なり)といへ共さまでの恩賞をも不被行、触事に面目なき事共(ことども)多かりける間、高経是(これ)を憤(いきどほつ)て、故高倉禅門の謀叛の時も是(これ)に与(くみ)し、今直冬(ただふゆ)の上洛(しやうらく)にも力を合(あはせ)て、攻上り給ひたりとぞ聞へける。抑(そもそも)此(この)鬼丸(おにまる)と申(まうす)太刀は、北条(ほうでうの)四郎時政天下を執(とつ)て四海(しかい)を鎮(しづ)めし後、長(たけ)一尺(いつしやく)許(ばかり)なる小鬼(せうき)夜々(よなよな)時政が跡枕(あとまくら)に来て、夢共なく幻(うつつ)共(とも)なく侵(をか)さんとする事度々也(なり)。修験(しゆげん)の行者(ぎやうじや)加持(かぢ)すれ共不休。陰陽寮(おんやうれう)封(ふう)ずれ共不立去。剰(あまつさ)へ是故(これゆゑに)時政病を受(うけ)て、身心(しんしん)苦(くるし)む事隙(ひま)なし。或夜の夢に、此(この)太刀独(ひとり)の老翁(らうをう)に変じて告(つげ)て云(いは)く、「我常に汝を擁護(おうご)する故(ゆゑ)に彼夭怪(かのようくわい)の者を退(しりぞ)けんとすれば、汚(けが)れたる人の手を以て剣を採(と)りたりしに依て、金精(さび)身より出て抜(ぬけ)んとすれ共不叶。早く彼(かの)夭怪の者を退けんとならば、清浄(しやうじやう)ならん人をして我(わが)身の金清(さび)を拭(のご)ふべし。」と委(くはし)く教へて、老翁は又元の太刀に成(なり)ぬとぞ見(みえ)たりける。時政夙(つと)に起(おき)て、老翁の夢に示しつる如く、或侍に水を浴(あび)せて此(この)太刀の金精(さび)を拭(のご)はせ、未(いまだ)鞘(さや)にはさゝで、臥(ふし)たる傍(そば)の柱にぞ立掛(たちかけ)たりける。冬の事なれば暖気(だんき)を内に篭(こめ)んとて火鉢を近く取寄たるに、居(すゑ)たる台を見れば、銀(しろがね)を以て長(たけ)一尺(いつしやく)許(ばかり)なる小鬼(せうき)を鋳(い)て、眼には水晶を入(いれ)、歯には金をぞ沈(しづ)めたる。時政是(これ)を見るに、此(この)間夜な/\夢に来て我を悩(なやま)しつる鬼形(きぎやう)の者は、さも是(これ)に似たりつる者哉と、面影ある心地して守(まも)り居たる処に、抜(ぬい)て立たりつる太刀俄(にはか)に倒れ懸りて、此(この)火鉢の台なる小鬼(せうき)の頭(かうべ)をかけず切てぞ落(おと)したる。誠(まこと)に此(この)鬼や化(け)して人を悩(なやま)しけん、時政忽(たちまち)に心地直(なほ)りて、其(その)後よりは鬼形の者夢にも曾(かつ)て見へざりけり。さてこそ此(この)太刀を鬼丸(おにまる)と名付(なづけ)て、高時の代に至るまで身を不放守りと成て平氏の嫡家に伝(つたは)りける。相摸(さがみ)入道(にふだう)鎌倉(かまくら)の東勝寺にて自害に及(および)ける時、此(この)太刀を相摸入道(さがみにふだう)の次男少名(をさなな)亀寿(かめじゆ)に家の重宝なればとて取(とら)せて、信濃(しなのの)国(くに)へ祝部(はふり)を憑(たのみ)て落行(おちゆく)。建武二年八月に鎌倉(かまくら)の合戦に打負(うちまけ)て、諏防(すは)三河(みかはの)守(かみ)を始として宗(むね)との大名四十(しじふ)余人(よにん)大御堂(おほみだう)の内に走入(わしりいり)、顔の皮をはぎ自害したりし中に此(この)太刀有ければ、定(さだめて)相摸次郎時行も此(この)中に腹切てぞ有(ある)らんと人皆哀(あはれ)に思(おもひ)合へり。其(その)時(とき)此(この)太刀を取て新田殿(につたどの)に奉る。義貞不斜(なのめならず)悦(よろこび)て、「是(これ)ぞ聞ゆる平氏の家に伝へたる鬼丸(おにまる)と云(いふ)重宝也(なり)。」と秘蔵(ひさう)して持(もた)れける剣也(なり)。是(これ)は奥州(あうしう)宮城(みやぎの)郡(こほり)の府に、三の真国(さねくに)と云(いふ)鍜冶(かぢ)、三年精進潔斎(しやうじんけつさい)して七重にしめを引(ひき)、きたうたる剣なり。又鬼切(おにきり)と申(まうす)は、元(もと)は清和源氏の先祖摂津(つの)守(かみ)頼光(よりみつ)の太刀にてぞ有ける。其(その)昔大和(やまとの)国(くに)宇多(うだの)郡(こほり)に大(なる)森あり。此陰(このかげ)に夜な/\妖者(ばけもの)有て、往来の人を採食(とりくら)ひ、牛馬六畜(ぎうばろくちく)を掴裂(つかみさ)く。頼光是(これ)を聞て、郎等(らうどう)に渡辺源五綱(つな)と云(いひ)ける者に、彼(か)の妖者(ばけもの)討て参れとて、秘蔵(ひさう)の太刀をぞたびたりける。綱則(すなはち)宇多(うだの)郡(こほり)に行き甲胃(かつちう)を帯(たい)して、夜々(よなよな)件(くだん)の森の陰(かげ)にぞ待(まち)たりける。此妖者(このばけもの)綱が勢にや恐(おそれ)たりけん、敢(あへ)て眼に遮(さへぎ)る事なし。さらば形を替(かへ)て謀(たばか)らんと思(おもひ)て、髪を解乱(ときみだ)して掩(おほ)ひ、鬘(かつら)をかけ、かね黒(ぐろ)に太眉(おほまゆ)を作り、薄衣(うすぎぬ)を打かづきて女の如くに出立て、朧月夜の明ぼのに、森の下をぞ通(とほ)りける。俄(にはか)に空掻曇(かきくもり)て、森の上に物(もの)の立翔(かけ)る様に見へけるが、虚空(こくう)より綱が髪を掴(つかん)で中(ちう)に提(ひつさげ)てぞ挙(あがつ)たりける。綱、頼光(よりみつ)の許(もと)より給(たまは)りたる太刀を抜(ぬい)て、虚空を払斬(はらひぎり)にぞ切たりける。雲の上に唖(あ)と云(いふ)声して、血の颯(さつ)と顔(かほ)に懸りけるが、毛の黒く生(おひ)たる手(て)の、指三(みつ)有て爪の鉤(かがまり)たるを、二の腕よりかけず切てぞ落(おと)しける。綱此(この)手を取て頼光に奉る。頼光是(これ)を秘(ひ)して、朱(しゆ)の唐櫃(からひつ)に収(をさめ)て置(おか)れける後、夜々をそろしき夢を見給ける間、占夢(せんむ)の博士(はかせ)に夢を問(とひ)給(たまひ)ければ、七日が間の重き御慎(おんつつしみ)とぞ占(うらな)ひ申ける。依之(これによつて)堅(かたく)門戸(もんこ)を閉(とぢ)て、七重に七五三(しめ)を引(ひき)四門に十二人(じふににん)の番衆を居(すゑ)て、毎夜(まいよ)宿直(とのゐ)蟇目(ひきめ)をぞ射させける。物忌(ものいみ)已(すで)に七日に満じける夜、河内(かはちの)国(くに)高安の里より、頼光(よりみつ)の母義(ぼぎ)をはして門をぞ敲(たたか)せける。物忌の最中(さいちゆう)なれ共(ども)、正(まさ)しき老母(らうぼ)の、対面の為とて渺々(はるばる)と来り給(たまひ)たれば、力なく門を開(ひらき)て、内へいざなひ入奉て、終夜(よもすがら)の酒宴にぞ及びける。頼光酔(ゑひ)に和(くわ)して此(この)事を語り出されたるに、老母(らうぼ)持たる盃(さかづき)を前に閣(さしお)き、「穴(あな)をそろしや、我傍(わがあたり)の人も此妖物(このばけもの)に取(とら)れて、子は親に先立(さきだち)、婦(め)は夫(をつと)に別れたる者多く候ぞや。さても何(いか)なる者にて候ぞ。哀(あはれ)其(その)手を見ばや。」と被所望ければ、頼光、「安き程の事にて候。」とて、櫃(ひつ)の中より件(くだん)の手を取出して老母(らうぼ)の前にぞ閣(さしおき)ける。母是(これ)を取て、暫(しばら)く見る由(よし)しけるが、我(わが)右の手(て)の臂(ひぢ)より切られたるを差出して、「是(これ)は我(わが)手にて候(さうらひ)ける。」と云て差合(さしあはせ)、忽(たちまち)に長(たけ)二丈(にぢやう)計(ばかり)なる牛鬼(うしおに)と成て、酌(しやく)に立たりける綱(つな)を左の手に乍提、頼光(よりみつ)に走蒐(わしりかか)りける。頼光(よりみつ)件(くだん)の太刀を抜(ぬい)て、牛鬼の頭(かうべ)をかけず切て落す。其頭(そのかうべ)中(ちう)に飛揚(とびあが)り、太刀の鋒(きつさき)を五寸(ごすん)喰(くひ)切て口に乍含、半時許(はんじばかり)跳上(をどりあが)り/\吠忿(ほえいか)りけるが、遂(つひ)には地に落(おち)て死(しに)にけり。其形(そのむくろ)は尚(なお)破風(はふ)より飛出て、遥(はるか)の天に上りけり。今に至るまで渡辺党の家作(つくり)に破風をせざるは此故(このゆゑ)也(なり)。其比(そのころ)修験清浄(しゆげんしやうじやう)の横川(よかは)の僧都覚蓮(がくれん)を請(しやう)じ奉て、壇上に此(この)太刀を立(たて)、七五三(しめ)を引(ひき)、七日加持し給(たまひ)ければ、鋒(きつさき)五寸(ごすん)折(をれ)たりける剣に、天井よりくりから下懸て鋒を口にふくみければ、乍(たちまち)に如元生(おひ)出にけり。其(その)後此(こ)の太刀多田(ただの)満仲(まんぢゆう)が手に渡て、信濃(しなのの)国(くに)戸蔵山(とかくしやま)にて又鬼を切たる事あり。依之(これによつて)其(その)名を鬼切(おにきり)と云(いふ)なり。此(この)太刀は、伯耆(はうきの)国(くに)会見(ゑみの)郡(こほり)に大原五郎太夫安綱(やすつな)と云(いふ)鍜冶、一心清浄(しやうじやう)の誠(まこと)を至し、きたひ出したる剣也(なり)。時の武将田村(たむら)の将軍に是(これ)を奉る。此(これ)は鈴鹿(すずか)の御前(ごぜん)、田村将軍と、鈴鹿山にて剣合(つるぎあはせ)の剣是(これ)也(なり)。其(その)後田村丸、伊勢大神宮へ参詣の時、大宮(おほみや)より夢の告(つげ)を以て、御所望有て御殿に被納。其(その)後摂津(つの)守(かみ)頼光(よりみつ)、太神宮参詣の時夢想あり。「汝(なんじ)に此(この)剣を与(あたふ)る。是(これ)を以て子孫代々(だいだい)の家嫡に伝へ、天下の守たるべし。」と示(しめし)給ひたる太刀也(なり)。されば源家に執(しつ)せらるゝも理(ことわり)なり。
○神南(かうない)合戦(かつせんの)事(こと) S3208
去(さる)程(ほど)に、将軍は持明院の主上(しゆしやう)を守護(しゆご)し奉て、近江(あふみの)国(くに)四十九院(しじふくゐん)に落止(おちとどま)り、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)は西国より上洛(しやうらく)せんずる敵を支(ささ)へん為に、播磨の鵤(いかるが)に兼(かね)て在庄し給ひたりと聞へしかば、土岐・佐々木(ささき)・仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて四十九院(しじふくゐん)へ馳(はせ)参る。四国・西国の兵二万(にまん)余騎(よき)、鵤(いかるが)へ馳集る。畠山尾張(をはりの)守(かみ)も東(とう)八箇国(はちかこく)の勢を率(そつ)して、今日明日の程に参著仕(さんちやくつかまつ)るべしと、飛脚及度度由申されければ、将軍父子の御勢(おんせい)、只(ただ)竜(りよう)の天に翔(かけつ)て雲を起し、虎の山に靠(よりかかつ)て風を生(しやうずる)が如し。東西の牒使(てふし)相図(あひづ)の日を定めければ、将軍は三万(さんまん)余騎(よき)の勢にて、二月四日東坂本(ひがしさかもと)に著(つき)給ふ。義詮朝臣(よしあきらあそん)は七千(しちせん)余騎(よき)にて、同日の早旦に、山崎の西、神南(かうない)の北なる峯に陣を取(とり)給ふ。右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)も始は大津・松本の辺に馳向て合戦を致さんと議せられけるが、山門・三井寺(みゐでら)の衆徒、皆(みな)将軍(しやうぐん)に志を通ずる由聞へければ、只洛中(らくちゆう)にして東西に敵を受(うけ)て繕(つくろう)て合戦をすべしとて、一手(ひとて)は右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬を大将にて、尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)高経・子息兵部(ひやうぶの)少輔(せう)・桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常(なほつね)・土岐・原・蜂屋・赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)、其(その)勢(せい)都合(つがふ)六千(ろくせん)余騎(よき)、東寺を攻(つめ)の城(じやう)に構(かま)へて、七条より下九条(くでう)まで家々小路(こうぢ)々々(こうぢ)に充満(みちみち)たり。一手(ひとて)は山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏を大将にて、伊田・波多野・石原・足立(あだち)・河村(かはむら)・久世(くぜ)・土屋(つちや)・福依(ふくより)・野田・首藤沢・浅沼・大庭(にわ)・福間(ふくま)・宇多河(うだがは)・海老名(えびな)和泉(いづみの)守(かみ)・吉岡安芸(あきの)守(かみ)・小幡(をばた)出羽(ではの)守(かみ)・楯(たての)又太郎(またたらう)・加地(かぢ)三郎・後藤壱岐(いきの)四郎・倭久(わくの)修理(しゆりの)亮(すけ)・長門山城(やましろの)守(かみ)・土師(とじ)右京(うきやうの)亮(すけ)・毛利因幡(いなばの)守(かみ)・佐治(さぢ)但馬(たぢまの)守(かみ)・塩見源太以下其(その)勢(せい)合(あはせ)て五千(ごせん)余騎(よき)、前に深田(ふけた)をあて、左に河を堺(さかう)て、淀・鳥羽・赤井・大渡に引分々々陣を取る。河より南には、四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆俊・法性寺右衛門(うゑもんの)督(かみ)康長を大将として、吉良(きら)・石堂(いしたう)・原・蜂屋・赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)・和田・楠・真木・佐和・秋山・酒辺(さかへ)・宇野・崎山(さきやま)・佐美(さみ)・陶器(すゑ)・岩郡(いはくり)・河野辺(かわのへ)・福塚(ふくづか)・橋本を始(はじめ)として、吉野の軍兵三千(さんぜん)余騎(よき)、八幡(やはた)の山下(さんげ)に陣を取る。山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏、始の程は待て戦(たたかは)んとて議したりけるが、神南(かうない)の敵さまでの大勢ならずと見すかして、日来(ひごろ)の議を翻(ひるがへ)して、八幡に引(ひか)へたる南方の勢と一(ひとつ)に成て、先(まづ)神内(かうない)の宿(しゆく)に打寄り、楯の板をしめし、馬の腹帯(はるび)を堅めて二の尾(を)よりあげたり。此(この)陣始(はじめ)より三所に分れて、西の尾崎をば、赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)・子息弥次郎(やじらう)師範(もろのり)・五郎直頼(なほより)・彦五郎範実(のりざね)・肥前(ひぜんの)権(ごんの)守(かみ)朝範(とものり)、並(ならびに)佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)が手(ての)者・黄旗(きはた)一揆(いつき)、彼是(かれこれ)合(あはせ)て二千(にせん)余騎(よき)にて堅めたり。南の尾崎(をさき)をば、細河右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)・同式部(しきぶの)大輔(たいふ)、西国・中国の勢相共(あひとも)に、二千(にせん)余騎(よき)堅(かた)めたり。北に当りたる峯には、大将義詮朝臣(よしあきらあそん)の陣なれば、道誉(だうよ)・則祐(そくいう)以下老武者、頭人(とうにん)・評定衆・奉行人、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、油幕(ゆばく)の内に布皮(しきかは)を敷(し)き双(なら)べ、袖を連(つらね)て並居(なみゐ)たり。嶮(けはし)き山の習として、余所(よそ)はみへて麓は不見。何(いづ)れの陣へか敵は先(まづ)蒐(かか)らんと、遠目(とほめ)仕(つか)ふて守(まも)り居たる所に、山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)を先(さき)として、出雲・伯耆の勢二千(にせん)余騎(よき)、西の尾崎へ只一息(ひといき)に懸上(かけあげ)て、一度(いちど)に時をどつと作る。分内(ぶんない)狭(せば)き両方の峯に馬人身を側(そば)むる程に打寄(うちよせ)たれば、互に射違(いちがふ)るこみ矢のはづるゝは一もなし。爰(ここ)に播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)後藤三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)基明(もとあきら)と云ける強弓(つよゆみ)の手垂(てだ)れ、一段(いちだん)高き岩の上に走(わし)り上て、三人(さんにん)張りに十四束(じふしそく)三伏(みつぶせ)、飽(あく)まで引て放(はなし)けるに、楯も物具もたまらねば、山名が兵共(つはものども)進(すすみ)かねて、少し白(しろ)うてぞ見へたりける。是(これ)を利にして、佐々木(ささき)が黄旗一揆(いつき)の中より、大鍬形に一様(いちやう)の母衣(ほろ)懸(かけ)たる武者三人(さんにん)、己が結(ゆう)たる鹿垣(ししがき)切て押破り、「日本一(につぽんいち)の大剛の者、近江(あふみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)江見(えみの)勘解由左衛門(かげゆざゑもんの)尉(じよう)・蓑浦(みのうら)四郎左衛門(しらうざゑもん)・馬淵(まぶち)新左衛門(しんざゑもん)、真前(まつさき)懸(かけ)て討死仕るぞ。死残る人あらば語て子孫に名を伝へよ。」と声々に名乗呼(よば)は(ッ)て、斬死(きりじに)にこそ死(しに)にけれ。後藤三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)基明・一宮(いちのみや)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)有種(ありたね)・粟飯原(あいはら)彦五郎・海老名新左衛門(しんざゑもん)四人、高声(かうしやう)に名乗て川を渡し城へ切て入(いる)。「合戦こそ先懸(さきがけ)は一人に定まれ。加様(かやう)の広(ひろ)みの軍には、敵と一番に打違(うちちがへ)たるを以て先懸とは申すぞ。御方に一人も死残る人あらば、証拠(しようご)に立てたび候へ。」と呼(よば)は(ッ)て、寄手(よせて)数万の中へ只四人切て入る。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)大音声を揚(あげ)て、「前陣戦労(たたかひつか)れて見ゆるぞ。後陣(ごぢん)入替てあの敵討(うて)。」と下知すれば、伊田・波多野の早雄(はやりを)の若武者共(わかむしやども)、二十(にじふ)余人(よにん)馬より飛下飛下(とびおりとびおり)、勇々(いさみいさん)で抜連(ぬきつれ)て渡(わたり)合ふ。後(うし)ろには数万の敵、「御方つゞくぞ引(ひく)な。」と力を合て喚(をめ)き叫ぶ。前には五十(ごじふ)余人(よにん)の者共(ものども)颯(さつ)と入乱れて切合ふ。太刀の鐔音鎧突(つばおとよろひづき)、山彦(やまびこ)に響き暫(しばし)も休(やむ)時(とき)なければ、山岳(さんがく)崩(くづれ)て川谷(せんこく)を埋(うづ)むかとこそ聞へけれ。此(この)時(とき)後藤三郎左衛門(さぶらうざゑもん)已下、面(おもて)に立(たつ)程の兵五十(ごじふ)余人(よにん)討(うた)れにけり。二陣の南尾(みなみを)をば、細河右馬(うまの)頭(かみ)・同式部(しきぶの)大輔(たいふ)大将にて、四国・中国の兵共(つはものども)が二千(にせん)余騎(よき)にて堅めたりけるが、此(ここ)は殊更(ことさら)地僻(さが)り谷深く切れて、敵の上(のぼる)べき便(たより)なしと思(おもひ)ける処(ところに)、山名伊豆(いづの)守(かみ)を先として小林民部(みんぶの)丞(じよう)・小幡(をばた)・浅沼・和田・楠、和泉・河内・但馬・丹後(たんご)・因幡の兵共(つはものども)三千(さんぜん)余騎(よき)にて、さしも岨(けはし)き山路(やまぢ)を盤折(つづらをり)にぞ上たりける。此(この)陣には未(いまだ)鹿垣(ししがき)の一重(ひとへ)も結(ゆは)ざれば、両方時の声を合(あは)せて矢一筋(ひとすぢ)射違る程こそ有けれ。軈(やが)て打物(うちもの)に成(なり)て乱(みだれ)合ふ。先(まづ)一番に進(すすん)で戦(たたかひ)ける四国勢の中に、秋間(あきま)兵庫(ひやうごの)助(すけ)兄弟三人(さんにん)・生稲四郎左衛門(しらうざゑもん)一族(いちぞく)十二人(じふににん)一足(ひとあし)も引かで討(うた)れにけり。是(これ)を見て坂東(ばんどう)・坂西(ばんぜい)・藤家(とうけ)・橘家(きつけ)の者共(ものども)少し飽(あぐ)んで見へけるを、備前(びぜんの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)須々木(すずき)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)父子兄弟六人入替て戦(たたかひ)けるが、つゞく御方(みかた)なければ是(これ)も一所にて討(うた)れにけり。是(これ)より一陣二陣共に色めき、兵しどろに見へけるを、小林民部(みんぶの)丞(じよう)得(え)たり賢(かしこ)しと、勝(かつ)に乗て短兵(たんぺい)急に拉(とりひしが)んと、揉(もみ)に揉(もう)で責(せめ)ける間、四国・中国の三千(さんぜん)余騎(よき)、山より北へまくり落されて、遥(はるか)に深き谷底へ、人雪頽(ひとなだれ)をつかせて落重(おちかさ)なれば、敵に逢(あう)て討死する者は少しといへ共、己が太刀・長刀に貫(つらぬか)れて死する兵数(かず)を不知(しらず)。是(これ)を見て山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)弥(いよいよ)気に乗て真前(まつさき)に進む上は、相順(あひしたが)ふ兵共(つはものども)誰かは少しも擬議(ぎぎ)すべき、我先(さき)に敵に合(あは)んと争ひ前(すす)まずと云(いふ)者なし。中にも山名が郎等(らうどう)、因播(いなばの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に福間(ふくまの)三郎とて、世に名を知(しら)れたる大力の有(あり)けるが、七尺(しちしやく)三寸(さんずん)の太刀だびら広(ひろ)に作りたるを、鐔本(つばもと)三尺(さんじやく)計(ばかり)をいて蛤歯(はまぐりば)に掻合(かきあは)せ、伏縄目(ふしなはめ)の鎧(よろひ)に三鍬形(みつくはがた)打たる甲(かぶと)を猪頚(ゐくび)に著なし、小跳(こをどり)して片手打(かたてうち)の払切(はらひぎり)に切て上(あが)りけるに、太刀の歯(は)に当る敵は、どう中(なか)諸膝(もろひざ)かけて落され、太刀の峯に当る兵は、或(あるひ)は中(ちう)にづんど打上(うちあげ)られ、或(あるひは)尻居(しりゐ)にどうど打倒されて、血を吐(はい)てこそ死にけれ。両陣已(すで)に破(やぶれ)し後、兵皆(みな)乱(みだれ)て、惣大将(そうだいしやう)の御勢(おんせい)と一所にならんと、崩(くづ)れ落(おち)て引(ひき)ける間、伊田・波多野の者共(ものども)、「余すな洩(もら)すな。」と喚(をめ)き叫(さけん)で追懸(おひかけ)たり。石巌(せきがん)苔(こけ)滑(なめら)かにして荊棘(けいきよく)道を塞(ふさぎ)たれば、引(ひく)者も不延得返す兵敢(あへ)て不討云(いふ)事なし。赤松弥次郎(やじらう)・舎弟(しやてい)五郎・同彦五郎三人(さんにん)引留りて、「此(ここ)を返さで引(ひく)程ならば、誰かは一人可生残。命惜(をし)くは返せや殿原(とのばら)、返せや一揆(いつき)の人々。」と恥しめて罵(ののしり)けれ共(ども)、蹈(ふみ)留る者無(なか)りければ、小国(をくに)播磨(はりまの)守(かみ)・伊勢(いせの)左衛門太郎・疋壇(ひきだ)藤六・魚角(うをすみ)大夫房・佐々木(ささき)弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)・同能登(のとの)権(ごんの)守(かみ)・新谷(にひのや)入道・薦田(こもだ)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)・河勾(かうわ)弥七・瓶尻(かめじり)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・粟生田(あはふだ)左衛門次郎(さゑもんじらう)、返(かへし)合(あはせ)々々(かへしあはせ)所々にて討(うた)れにけり。河原(かはら)兵庫(ひやうごの)助(すけ)重行(しげゆき)は、今度の軍に打負(うちまけ)ば、必(かならず)討死せんと兼(かね)て思(おもひ)儲(まうけ)けるにや、敵の已(すで)に押寄(おしよせ)んと方々より打寄るを見て申けるは、「今日の合戦は我身(わがみ)独(ひとり)の喜び哉(かな)。元暦(げんりやく)の古へ、平家一谷(いちのたに)に篭(こも)りしを攻(せめ)し時、一の城戸(きど)生田(いくたの)森の前にて、某が先祖河原(かはら)大郎・河原(かはら)次郎二人(ににん)、城の木戸(きど)を乗越て討死したりしも二月也(なり)。国も不替月日も不違、重行同(おなじ)く討死して弥(いよいよ)先祖の高名を顕(あらは)さば、冥途黄泉(めいどくわうせん)の道の岐(ちまた)に行合て、其尊霊(そのそんりやう)さこそ悦(よろこび)給はんずらめ。」と、泪(なみだ)を流して申けるが、云(いひ)つる言(ことば)少しも不違、数万人(すまんにん)の敵の中へ只一騎(いつき)懸入て、終(つひ)に討死しけるこそ哀(あはれ)なれ赤松肥前(ひぜんの)権(ごんの)守(かみ)朝範(とものり)は、此(この)陣を一番に破られぬる事、身独(ひとり)の恥と思(おもひ)ければ、袖に著(つけ)たる笠符(かさじるし)を引隠(かくし)て、敵の中へ交(まじはつ)て、よき敵にあはゞ打違(うちちが)へて死なんと伺見(うかがひみ)ける処に、山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)が引(ひく)敵を追立て、敵を少(すこし)も足ためさせずして、只何(いづ)くまでも追攻々々(おつつめおつつめ)討て、前(さき)へ通れと兵を下知して、弓手(ゆんで)の方を通(とほ)りけるを、朝範吃(きつ)と打見て、「哀(あはれ)敵や。」と云(いふ)侭(まま)に、走(わしり)懸て追様(おつさま)に、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)が甲(かぶと)を破(われ)よ砕(くだけ)よとしたゝかにちやうど打(うた)れて吃(きつ)と振返れば、山名が若党(わかたう)三人(さんにん)中に隔(へただつ)て、肥前(ひぜんの)守(かみ)が甲(かぶと)を重(かさ)ね打(うち)に打て打落す。落(おち)たる甲を取て著(き)んとて、差(さし)うつぶく処に、小鬢(こびん)のはづれ小耳(こみみ)の上、三太刀まで被切ければ、流るゝ血に目昏(めくれ)て、朝範犬居(いぬゐ)に動(どう)と臥せば、敵押へてとどめを差(さし)てぞ捨(すて)たりける。され共此(この)人死業(しにごふ)や不来けん、敵頚(くび)をも不取。軍散じて後、草の陰(かげ)より生(いき)出て助りけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。一陣二陣忽(たちまち)に攻(せめ)破られて、山名弥(いよいよ)勝に乗ければ、峯々に控(ひかへ)たる国々の集勢(あつめぜい)共(ども)、未戦(いまだたたかはざる)先(さき)に捨鞭(すてむち)を打て落行(おちゆき)ける程に、大将羽林公(うりんこう)の陣の辺には僅(わづか)に勢百騎(ひやくき)計(ばかり)ぞ残(のこり)ける。是(これ)までも猶(なほ)佐々木(ささきの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)・赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)二人(ににん)、小(すこし)も気を不屈、敷皮(しきがは)の上に居直(ゐなほ)りて、「何(いづ)くへか一足(ひとあし)も引(ひき)候べき。只(ただ)我等(われら)が討死仕て候はんずるを御覧ぜられて後、御自害(ごじがい)候へ。」と、大将をおきて奉て、弥(いよいよ)勇(いさみ)てぞ見へたりける。大将の陣無勢(ぶせい)に成て、而(しか)も四目結(よつめゆひ)の旗一流(ひとながれ)有(あり)と見へければ、山名大に悦て申けるは、「抑(そもそも)我此(こ)の乱(らん)を起(おこ)す事、天下を傾(かたぶ)け将軍を滅(ほろぼ)し奉らんと思ふに非(あら)ず、只(ただ)道誉(だうよ)が我に無礼(ぶれい)なりし振舞を憎しと思(おもふ)許(ばかり)也(なり)。此(ここ)に四目結(よつめゆひ)の旗は道誉(だうよ)にてぞ有(ある)らん。是(これ)天の与(あたへ)たる処の幸也(なり)。自余(じよ)の敵に目な懸(かけ)そ。あの頚(くび)取て我に見せよ。」と、歯嚼(はがみ)をして前(すす)まれければ、六千(ろくせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、我先にと勇み前(すす)んで大将の陣へ打て懸る。敵の近(ちかづく)事二町(にちやう)許(ばかり)に成(なり)にければ、赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐、帷幕(ゐばく)を颯(さつ)と打挙(うちあげ)て、「天下(てんがの)勝負此(この)軍に非(あら)ずや。何(いつ)の為にか命を可惜。名将の御前(おんまへ)にて紛(まぎれ)もなく討死して、後記(こうき)に留めよや。」と下知しければ、「承(うけたまはり)候。」とて、平塚(ひらつか)次郎・内藤与次・近藤大蔵(おほくらの)丞(じよう)・今村宗五郎・湯浅新兵衛(ひやうゑの)尉(じよう)・大塩次郎・曾禰(そね)四郎左衛門(しらうざゑもん)七人(しちにん)、大将の御前(おんまへ)をはら/\と立て抜(ぬい)て懸る。敵に射手(いて)は一人もなし。向(むか)ふ敵を御方(みかた)の射手(いて)に射すくめさせて、七人(しちにん)の者共(ものども)鎧(よろひ)の射向(いむけ)の袖汰合(ゆりあは)せ、跳懸(をどりかかり)々々(をどりかかり)鍔本(つばもと)に火を散(ちら)し、鋒(きつさき)に血を淋(そそ)ひで切(きつ)て廻(まはり)けるに、山名が前懸(さきがけ)の兵四人目の前に討(うた)れて、三十人(さんじふにん)深手を負(おひ)ければ、跡につゞける三百(さんびやく)余人(よにん)進(すすみ)兼(かね)てぞ見へたりける。是(これ)を見て平井新左衛門(しんざゑもん)景範(かげのり)・櫛橋(くしはし)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)・桜田左衛門俊秀(としひで)・大野弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)氏永(うぢなが)、声々に、「つゞくぞ引(ひく)な。」と、御方の兵に力を付(つけ)て、喚(をめい)てぞ懸(かかり)たりける。かさに敵を請(うけ)たる徒立(かちだち)の勢なれば、悪手(あらて)の馬武者に中を懸破(かけわ)られて足をもためず、両方の谷へ雪下(なだれおり)て引(ひく)を見て、初め一陣二陣にて打散(うちちら)されつる四国・中国の兵、此彼(ここかしこ)より馳(はせ)来て、忽(たちまち)に千(せん)余騎(よき)に成(なり)にけり。山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)、跡なる勢を麾(さしまねい)て、猶(なほ)蒐入(かけいら)んと四方(しはう)を見廻す処に、南方の官軍共(くわんぐんども)、跡に千(せん)余騎(よき)にて控(ひかへ)たりけるが、何と、云(いふ)儀(ぎ)もなく、崩(くづれ)落(おち)て引(ひき)ける間、矢種(やだね)尽(つ)き気疲れたる山名が勢、心は猛(たけ)く思へ共不叶、心ならず御方に引立(ひきたて)られて、山崎を差(さし)て引退く。敵却(かへつ)て勝(かつ)に乗(のり)しかば、嶺(みね)々谷々(たにだに)より、五百騎(ごひやくき)三百騎(さんびやくき)道を要(よこた)へ前を遮(さへぎつ)て、蜘手(くもで)十文字(じふもんじ)に懸立(かけたつ)る。中にも内海(うつみの)十郎範秀(のりひで)は、逃(にぐ)る敵に追(おつ)すがうて、甲(かぶと)の鉢・胄(よろひ)の総角(あげまき)、切付(きりつけ)々々(きりつけ)行(ゆき)けるが、鐔本(つばもと)より太刀をば打折(うちをり)ぬ。馬は疲れぬ。徒立(かちだち)に成てぞ立たりける。弓手(ゆんで)の方を屹(きつ)と見たれば、噎(さも)爽(さはやか)に鎧(よろ)ふたる武者一騎(いつき)、三引両(みつびきりやう)の笠符(かさじるし)著(つけ)て馳(はせ)通(とほ)りけるを、哀(あはれ)敵やと打見て、馬の三頭(さんづ)にゆらりと飛(とび)乗り、敵と二人(ににん)馬にぞ乗たりける。敵是(これ)を御方ぞと心得(こころえ)て、「誰にてをはするぞ。手負ならば我が腰に強く抱著(だきつき)給へ。助(たすけ)奉らん。」と云(いひ)ければ、「悦(よろこび)入て候。」と云(いひ)もはてず、刀を抜(ぬい)て前なる敵の頚(くび)を掻落(かきおと)し、軈(やがて)其(その)馬に打乗て、落行(おちゆく)敵を追て行く。山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)が兵共(つはものども)始(はじめ)因幡を立(たち)しより、今度(こんど)は必(かならず)都にて尸(かばね)を曝(さら)さんと思(おもひ)儲(まうけ)し事なれば、伊田・波多野・多賀谷(たがたに)・浅沼・藤山・土屋・福依(ふくより)・石原・久世(くぜ)・竹中・足立・河村(かはむら)・首藤(すどう)・大庭(おほには)・福塚(ふくづか)・佐野・火作(こつくり)・歌(うだ)・河沢(かはざは)・敷美(しきみ)以下、宗(むね)との侍八十四人、其(その)一族(いちぞく)郎従二百六十三人(にひやくろくじふさんにん)、返(かへし)合(あはせ)々々(かへしあはせ)四五町(しごちやう)が中にて討(うた)れにけり。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)は小林民部(みんぶの)丞(じよう)が跡に蹈(ふみ)止て防矢(ふせぎや)射けるを、討(うた)せじと七騎にて又取て返し、大勢の中へ懸入て面(おもて)も不振戦はれける程に、左の眼を小耳(こみみ)の根へ射付(いつけ)られて目くれ肝(きも)消(け)しければ、太刀を倒(さかさま)に突(つい)て、些(すこし)心地を取直さんとせられける処に、敵の雨の降(ふる)如く射る矢、馬の太腹(ふとはら)・草脇(くさわき)に五筋まで立(たち)ければ、小膝(こひざ)を折て動(どう)ど臥す。馬より下(お)り立て、鎧の草摺(くさずり)たゝみ上て、腰の刀を抜(ぬい)て自害をせんとし給(たまひ)けるを、河村弾正馳(はせ)寄て、己が馬に掻乗(かきの)せ、福間(ふくま)三郎が戦(たたかひ)疲れて、とある岩の上に休(やすみ)て居たりけるを招(まねい)て、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)の馬の口を引(ひか)せ、河村は徒立(かちだち)に成て、追て懸る敵に走懸(わしりかかり)々々(わしりかかり)、切死(きりじに)にこそ死(しに)にけれ。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)は乗替(のりがへ)の馬に乗て、些(ちと)人心は付(つき)たれ共(ども)、流るゝ血目に入て東西更(さら)に不見ければ、「馬廻(うままはり)に誰かある。此(この)馬の口を敵の方へ引(ひき)向(むけ)よ。馳入(はせいり)、河村弾正が死骸の上にて討死せん。」と勇(いさみ)けるを、福間三郎、「此方(こなた)が敵の方にて候。」とて、馬の口を下(くだ)り頭(がしら)に引(ひき)向け、自(みづから)馬手(めて)の七寸(みづつき)に付て、小砂(こすな)まじりの小篠原(こささはら)を、三町(さんちやう)許(ばかり)馳落(はせおとし)て、御方(みかた)の勢にぞ加(くは)りける。爰(ここ)までは追てかゝる敵もなし。其(その)後軍は休(やみ)にけり。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)は淀へ打帰て、此(この)軍に討(うた)れつる者共(ものども)の名字(みやうじ)を一々に書注(かきしる)して、因幡の岩常谷(いはつねだに)の道場(だうぢやう)へ送り、亡卒(ばうそつ)の後世菩提(ごせぼだい)をぞ吊(とぶら)はせられける。中にも河村弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)は我(わが)命に代(かはつ)て討(うた)れつる者なればとて、懸(かかり)たる首を敵に乞受(こひうけ)て、空(むな)しき顔を一目見て泪(なみだ)を流(ながし)てくどかれけるは、「我此(この)乱を起して天下を覆(くつが)へさんとせし始(はじめ)より、御辺が我を以て如父憑(たの)み、我は御辺を子の如くに思(おもひ)き。されば戦場に臨(のぞ)む度毎(たびごと)に、御辺いきば我(われ)もいき、御辺討死せば我(われ)も死なんとこそ契(ちぎり)しに、人は依儀に為我死し、我は命を助(たすけ)られて人の跡に生残りたる恥かしさよ。苔(こけ)の下草の陰(かげ)にても、さこそ無云甲斐思給ふらめ。末の露と先立(さきだち)本(もと)の瀝(しづく)と後(おく)るゝ共、再会は必(かならず)九品(くほん)浄土(じやうど)の台(うてな)に有(ある)べし。」と泣々(なくなく)鬢(びん)を掻(か)き撫(なで)て、聖(ひじり)一人(いちにん)請(しやう)じ寄て、今まで秘蔵(ひさう)して被乗たる白瓦毛(しろかはらげ)の馬白鞍置(おき)て葬(さう)馬に引(ひか)せ、白太刀一振(ひとふり)聖(ひじり)に与(あたへ)て、討死しつる河村が後生菩提を問(とは)れける、情の程こそ難有けれ。昔唐(たう)の太宗戦に臨(のぞん)で、戦士を重くせしに、血を含(ふく)み疵(きず)を吸(すふ)のみに非(あら)ず、亡卒(ばうそつ)の遺骸(ゆゐがい)をば帛(はく)を散して収(をさめ)しも、角(かく)やと覚(おぼえ)て哀(あはれ)なり。


太平記(国民文庫)
太平記巻第三十三

○京軍(きやういくさの)事(こと) S3301
昨日神南(かうない)の合戦に山名打負(うちまけ)て、本陣へ引返(ひつかへし)ぬと聞へしかば、将軍比叡山(ひえいさん)を打おり下て、三万(さんまん)余騎(よき)の勢を卒(そつ)し、東山に陣をとる。仁木左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)は、丹後(たんご)・丹波の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を順(したが)へて、嵐山(あらしやま)に取上(とりあが)る。京より南、淀・鳥羽・赤井・八幡(やはた)に至るまでは、宮方(みやがた)の陣となり、東山・西山・山崎・西岡(にしのをか)は、皆将軍方(しやうぐんがた)の陣となる。其(その)中に有(あり)とあらゆる神社仏閣は役所(やくしよ)の掻楯(かいだて)の為に毀(こぼ)たる。山林竹木(さんりんちくぼく)は薪櫓(たきぎやぐら)の料(れう)に剪尽(きりつく)さる。京中(きやうぢゆう)をば敵横合(よこあひ)に懸る時、見透(みすか)す様になせとて、東山より寄(よせ)て日々夜夜(にちにちやや)に焼仏ふ。白河をば敵を雨露(あめつゆ)に侵(をか)させて、人馬(じんば)に気を尽(つく)させよとて、東寺より寄(よせ)て焼仏ふ。僅(わづか)に残る竹苑(ちくゑん)・枡庭(せうてい)・里内裏(さとだいり)・三台(さんだい)・九棘(きうきよく)の宿所々々(しゆくしよしゆくしよ)、皆門戸(もんこ)を閉(とぢ)て人も無(なけ)れば、野干(やかん)の栖(すみか)と成(なり)はて、荊棘(けいきよく)扉(とぼそ)を掩(おほ)へり。去程(さるほど)に二月八日、細川相摸守(さがみのかみ)清氏千(せん)余騎(よき)にて、四条大宮(しでうおほみや)へ押寄せ、北陸道(ほくろくだう)の敵八百(はつぴやく)余騎(よき)に懸(かけ)合て、追(おう)つ返(かへし)つ終日(ひねもす)に戦ひ暮して、左右へ颯(さつ)と引退(ひきしりぞく)処に、紺糸(こんいと)の鎧(よろひ)に紫の母衣(ほろ)懸(かけ)て、黒瓦毛(くろかはらけ)なる馬に厚総(あつぶさ)懸(かけ)て乗たる武者、年の程四十許(ばかり)に見へたるが、只(ただ)一騎(いつき)馬を閑々(しづしづ)と歩(あゆ)ませ寄(より)て、「今日の合戦に、進む時は士率(しそつ)に先立(さきだち)て進み、引(ひく)時(とき)は士率に殿(おく)れて引(ひか)れ候(さうらひ)つるは、如何様(いかさま)細河相摸守(さがみのかみ)殿(どの)にてぞ坐(おは)すらん。声を聞ても我を誰とは知(しり)給はんずれ共(ども)、日已(すで)に夕陽(せきやう)に成(なり)ぬれば分明(ふんみやう)に見分(みわ)くる人もなくて、あはぬ敵にや逢(あは)んずらんと存ずる間、事新(あたらし)く名乗(なのり)申(まうす)也(なり)。是(これ)は今度北陸道(ほくろくだう)を打順(うちしたが)へて罷上(まかりのぼ)りて候桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常(なほつね)にて候ぞ。あはれ相摸殿(さがみどの)に参り会(あう)て、日来(ひごろ)承(うけたまはり)及(および)し力の程をも見奉り、直常が太刀の金(かね)をも金引(かなびい)て御覧候へかし。」と、高声(かうしやう)に名乗(なのり)懸(かけ)て、馬を北頭(きたがし)らに立(たて)てぞ控(ひか)へたる。相摸守(さがみのかみ)は元来敵に少(すこし)も言(こと)ばを懸(かけ)られて、たまらぬ気の人なりければ、桃井(もものゐ)と名乗たるを聞て、少(すこし)も不擬議、是(これ)も只一騎(いつき)馬を引返(ひつかへし)て歩ませ寄る。あひ近(ぢか)に成(なり)ければ、互(たがひ)にあはれ敵や、天下の勝負只(ただ)我と彼(かれ)とが死生に可有。馬を懸(かけ)合(あは)せ、組(くん)で勝負をせんと、鎧の綿嚼(わたがみ)を掴(つか)んで引著(ひきつけ)たるに、言(ことば)には不似桃井(もものゐ)が力弱く覚へければ、甲(かぶと)を引切(ひつきつ)て抛(な)げ捨て、鞍の前輪(まへわ)に押当(あて)て、頚(くび)掻切(かききつ)てぞ差挙(さしあげ)たる。軈(やが)て相摸守(さがみのかみ)の郎従十四五騎(じふしごき)来たるに、此(この)首と母衣(ほろ)とを持(もた)せて将軍の御前(おんまへ)へ参り、「清氏こそ桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)を討て候へ。」とて軍の様(やう)を申されければ、蝋燭(らつそく)を明(あきらか)に燃(とぼ)し是(これ)を見給ふに、年の程はさもやと覚へ乍(なが)らさすがそれとは不見へ、田舎に住(すみ)て早(は)や多年になりぬれば面替(おもがは)りしけるにやと不審(ふしん)にて、昨日降人(かうにん)に出たりける八田(やだ)左衛門大郎と云(いひ)ける者を被召(めされ)、「是(これ)をば誰(た)が頚(くび)とか見知(みしり)たる。」と問(とは)れければ、八田此(この)頚を一目見て、涙をはら/\と流し、「是(これ)は越中(ゑつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に二宮(にのみや)兵庫(ひやうごの)助(すけ)と申(まうす)者の頚にて候。去月(きよぐわつ)に越前の敦賀(つるが)に著(つき)て候(さふらひ)し此時、二宮、気比(けひ)の大明神(だいみやうじん)の御前(おんまへ)にて、今度京都の合戦に、仁木・細川の人々と見る程ならば、我(われ)桃井(もものゐ)と名乗て組(くん)で勝負を仕(つかまつ)るべし。是(これ)若(もし)偽(いつはり)申さば、今生(こんじやう)にては永く弓矢の名を失ひ後生にては無間(むげん)の業(ごふ)を受(うく)べしと、一紙(いつし)の起請(きしやう)を書て宝殿(はうでん)の柱に押(おし)て候(さうらひ)しが、果(はた)して討死仕(つかまつ)りけるにこそ。」と申ければ、其母衣(そのほろ)を取寄(とりよせ)て見給ふに、げにも、「越中(ゑつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)二宮兵庫(ひやうごの)助(すけ)、曝尸於戦場、留名於末代。」とぞ書たりける。昔の実盛(さねもり)は鬢鬚(びんひげ)を染(そめ)て敵にあひ、今の二宮は名字を替(かへ)て命をすつ。時代隔(へだ)たるといへ共其(その)志相同(あひおな)じ。あはれ剛の者哉と惜(をし)まぬ人こそ無(なか)りけれ。二月十五日の朝は、東山の勢共(せいども)上京(かみきやう)へ打入て、兵粮(ひやうらう)を取(とる)由(よし)聞へければ、蹴散(けちら)かさんとて、苦桃(にがもも)兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)・尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて東寺を打出、一条・二条(にでう)の間を二手(ふたて)に成て打廻(うちまは)る。是(これ)を見て細川相摸守(さがみのかみ)清氏・佐々木(ささきの)黒田判官、七百(しちひやく)余騎(よき)にて東山よりをり下(くだ)る。尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)が後陣(ごぢん)に朝倉(あさくら)下野(しもつけの)守(かみ)が五十騎(ごじつき)許(ばかり)にて通(とほ)りけるを、追切(おひきつ)て討(うた)んと、六条河原(ろくでうかはら)より京中(きやうぢゆう)へ懸入る。朝倉少(すこし)も不騒、馬を東頭(ひがしがし)らに立て直(なほ)して、閑(しづか)に敵を待(まち)懸(かけ)たり。細川・黒田が大勢是(これ)を見て、あなづりにくしとや思(おもひ)けん。あはひ半町計(ばかり)に成て、馬を一足(ひとあし)に颯(さつ)とかけ居(すゑ)て、同音(どうおん)に時をどつと作る。朝倉少(すこし)も不擬議大勢の中へ懸(かけ)入て、馬烟(けぶり)を立(たて)て切合ふ。左衛門(さゑもんの)佐(すけ)是(これ)を見て、「朝倉討(うた)すな、つゞけ。」とて、三百(さんびやく)余騎(よき)にて取て返し、六条(ろくでう)東洞院(ひがしのとうゐん)を東へ烏丸(からすまる)を西へ、追つ返つ七八度(しちはちど)までぞ揉合(もみあひ)たる。細河度毎(たびごと)に被追立体(てい)に見へけるに、南部(なんぶ)六郎(ろくらう)とて世に勝(すぐれ)たる兵有(あり)けるが、只(ただ)一騎(いつき)踏止(ふみとどまつ)て戦ひ、返し合(あはせ)ては切て落(おと)し、八方(はつぱう)をまくりて戦ひけるに、左衛門(さゑもんの)佐(すけ)の兵共(つはものども)、箆白(のじろ)に成てぞ見へたりける。左衛門(さゑもんの)佐(すけ)の兵の中に、三村首藤左衛門(みむらすどうざゑもん)・後藤掃部助(かもんのすけ)・西塔(さいたふ)の金乗坊(こんじようばう)とて、手番(てつが)ふたる勇士(ゆうし)五騎あり。互に屹(きつ)と合眼(めくはせ)して、南部に組(くま)んと相近付く。南部尻目(しりめ)に見て、から/\と打咲(うちわら)ひ、「物々しの人々哉(かな)。いで胴(どう)切(きつ)て太刀の金の程見せん。」とて、五尺(ごしやく)六寸(ろくすん)の太刀を以(もつ)て開(ひらい)て片手打(かたてうち)にしとゝ打(うつ)。金乗房無透間つと懸寄てむずと組(くむ)。南部元来大力なれば、金乗を取て中(ちう)に差(さし)上(あげ)たれ共(ども)、人飛礫(ひとつぶて)に打(うつ)まではさすが不叶、太刀の寸延(のび)たれば、手本近(ちかく)してさげ切(きり)にもせられず、只(ただ)押殺さんとや思(おもひ)けん、築地(ついぢ)の腹に推当(おしあて)て、ゑいや/\と押(おし)けるに、已(すで)に乗たる馬尻居(しりゐ)に動(どう)と倒(たふ)れければ、馬は南部が引敷(ひつしき)の下に在(あり)ながら、二人(ににん)引組(ひつくん)で伏(ふし)たり。四騎の兵馳寄(はせより)て、遂(つひ)に南部を打てければ、金乗(こんじよう)南部が首を取て鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て馳返(はせかへ)る。此(これ)にて軍は止(やん)で敵御方(みかた)相引(あひびき)に京白河へぞ帰りにける。又同日の晩景(ばんげい)に、仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)・土岐大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)頼康(よりやす)、其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)にて七条河原(しちでうがはら)へ押寄せ、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常・赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範(うぢのり)・原・蜂屋(はちや)が勢二千(にせん)余騎(よき)と寄合(よせあはせ)て、川原(かはら)三町(さんちやう)を東西へ追つ返(かへし)つ、烟塵(えんぢん)を捲(まい)て戦(たたかふ)事二十(にじふ)余度(よど)に及べり。中にも桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)が兵共(つはものども)、半(なか)ば過て疵(きず)を被(かうむり)ければ、悪手(あらて)を替(かへ)て相助(たすけ)ん為に、東寺へ引返しける程に、土岐の桔梗一揆(いつき)百(ひやく)余騎(よき)に被攻立、返し合(あはす)る者は切て落され、城へ引篭(ひきこも)る者は城戸(きど)・逆木(さかもぎ)にせかれ不入得。城中(じやうちゆう)騒(さわ)ぎ周章(あわて)て、すはや只今(ただいま)此(この)城(じやう)被攻落ぬとぞ見へたりける。赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範は、郎等(らうどう)小牧(こまき)五郎左衛門(ごらうざゑもん)が痛手(いたで)を負(おう)て引兼(ひきかね)たるを助(たすけ)んと、馬(むまの)上より手を引立(ひきたて)て歩(あゆ)ませけるを、大将直冬(ただふゆ)朝臣(あそん)、高櫓(たかやぐら)の上より遥(はるか)に見給(たまひ)て、「返して御方(みかた)を助けよ。」と、扇を揚(あげ)て二三度(にさんど)まで招(まねか)れける間、氏範、小牧五郎左衛門(ごらうざゑもん)をかひ掴(つかんで)城戸(きど)の内へ投(なげ)入(いれ)、五尺(ごしやく)七寸(しちすん)の太刀の鐔本(つばもと)取延(とりのべ)て、只(ただ)一騎(いつき)返(かへし)合(あはせ)々々(かへしあはせ)、馳並(はせならべ)々々(はせならべ)切(きり)けるに、或(あるひ)は甲(かぶと)の鉢を立破(たてわり)に胸板(むないた)まで破付(わりつけ)られ、或(あるひ)は胴中(どうなか)を瓜切(うりきり)に斬(きつ)て落されける程に、さしも勇める桔梗一揆(いつき)叶はじとや思(おもひ)けん、七条河原(しちでうがはら)へ引退て、其(その)日(ひ)の軍は留りけり。三月十三日(じふさんにち)、仁木・細川・土岐・佐々木(ささき)・佐竹・武田(たけだ)・小笠原(をがさはら)相集(あひあつまつ)て七千(しちせん)余騎(よき)、七条西(にしの)洞院(とうゐん)へ押寄せ、一手(ひとて)は但馬・丹後(たんご)の敵と戦ひ、一手(ひとて)は尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)高経と戦ふ。此(この)陣の寄手(よせて)動(ややもすれ)ば被懸立体(てい)に見へければ、将軍より使者を立(たて)られて、「那須五郎を可罷向。」と被仰ける。那須は此(この)合戦に打出ける始(はじめ)、古郷(こきやう)の老母(らうぼ)の許(もと)へ人を下して、「今度の合戦に若(もし)討死仕(つかまつ)らば、親に先立(さきだ)つ身と成(なり)て、草の陰(かげ)・苔(こけ)の下までも御歎(おんなげき)あらんを見奉らんずる事こそ、想像(おもひやる)も悲(かなし)く存(ぞんじ)候へ。」と、申遣(まうしつかは)したりければ、老母(らうぼ)泣々(なくなく)委細(ゐさい)に返事を書て申送(おくり)けるは、古(いにしへ)より今に至(いたる)まで、武士の家に生(うま)るゝ人、名を惜(をしみ)て命を不惜、皆是(これ)妻子に名残(なごり)を慕(した)ひ父母に別(わかれ)を悲(かなし)むといへ共、家を思ひ嘲(あざけり)を恥(はづ)る故(ゆゑ)に惜(をし)かるべき命を捨(すつ)る者也(なり)。始め身体髪膚(しんていはつぷ)を我に受(うけ)て残傷(そこなひやぶら)ざりしかば、其(その)孝已(すで)に顕(あらはれ)ぬ。今又身を立(たて)道を行(おこなう)て名を後(のち)の世に揚(あぐ)るは、是(これ)孝の終(をはり)たるべし。されば今度(こんどの)合戦に相構(あひかまへ)て身命を軽(かろん)じて先祖の名を不可失。是(これ)は元暦(げんりやく)の古へ、曩祖(なうそ)那須(なすの)与一資高(すけたか)は、八島(やしま)の合戦の時扇を射て名を揚(あげ)たりし時の母衣(ほろ)也(なり)。」とて、薄紅(うすくれなゐ)の母衣(ほろ)を錦(にしき)の袋に入(いれ)てぞ送りたりける。さらでだに戦場に臨(のぞみ)て、いつも命を軽(かろん)ずる那須五郎が、老母(らうぼ)に義を勧(すす)められて弥(いよいよ)気を励(はげま)しける処に、将軍より別(べつ)して使を立(たて)られ、「此(この)陣の戦(たたかひ)難儀に及ぶ。向て敵を払へ。」と無与儀も被仰ければ、那須曾(かつ)て一儀(いちぎ)も不申畏(かしこまつ)て領状(りやうじやう)す。只今(ただいま)御方(みかた)の大勢共立足(たつあし)もなくまくり立(たて)られて、敵皆勇み進める真中(まんなか)へ会尺(ゑしやく)もなく懸(かけ)入て、兄弟二人(ににん)一族(いちぞく)郎従三十六騎(さんじふろくき)、一足(ひとあし)も不引討死しける。那須が討死に、東寺の敵機(き)に乗らば、合戦又難儀に成(なり)ぬと危(あやふ)く覚へける処に、佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)と相摸守(さがみのかみ)清氏と両勢一手(ひとて)に成て、七条大宮(しちでうおほみや)へ懸(かけ)抜け、敵を西にうけ東に顧(かへりみ)て、入替々々半時許(はんじばかり)ぞ戦(たたかう)たる。東寺の敵も此(ここ)を先途(せんど)と思(おもひ)けるにや、戒光寺(かいくわうじ)の前に掻楯(かいだて)掻(かい)て打出(うちいで)々々(うちいで)火を散(ちら)して戦(たたかひ)けるに、相摸守(さがみのかみ)薄手(うすで)数所(あまたところ)に負(おう)て、すはや討(うた)れぬと見へければ、崇永(そうえい)弥(いよいよ)進(すすみ)て是(これ)を討(うた)せじと戦ふたる。斯(かかる)処に土岐桔梗(ききやう)一揆(いつき)五百(ごひやく)余騎(よき)にて、悪手(あらて)に替(かは)らんと進(すすみ)けるを見て、敵も悪手(あらて)をや憑(たのみ)けん、掻楯(かいだて)の陰(かげ)をばつと捨(すてて)半町計(ばかり)ぞ引(ひき)たりける。敵に息を継(つが)せば又立直(たてなほ)す事もこそあれとて、佐々木(ささき)と土岐と掻楯(かいだて)の内へ入て、敵の陣に入替(いれかは)らんとしけるが、廻(まは)る程も猶(なほ)遅くや覚へけん、佐佐木が旗差(はたさし)堀(ほりの)次郎、竿(さを)ながら旗を内へ投げ入(いれ)て、己(おのれ)が身は軈(やが)て掻楯を上り越てぞ入たりける。其(その)後相摸守(さがみのかみ)と桔梗一揆(いつき)と左右より回(まはつ)て掻楯の中へ入(いり)、南に楯を突双(つきならべ)て、三千(さんぜん)余騎(よき)を一所に集め、向城(むかひじやう)の如くにて蹈(ふま)せたれば、東寺に篭(こも)る敵軍の勢、気を屈(くつ)し勢を呑(のま)れて、城戸(きど)より外(そと)へ出ざりけり。京中(きやうぢゆう)の合戦は、如此数日(すじつ)に及て雌雄(しゆう)日々(ひび)に替(かは)り、安否(あんぴ)今にありと見へけれ共(ども)、時の管領(くわんれい)仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)は、一度(いちど)も桂川より東へ打越(うちこえ)ず、只(ただ)嵐山より遥(はるか)に直下(みおろ)して、御方の勝(かち)げに見ゆる時は延上(のびあが)りて悦び、負(まく)るかと覚(おぼ)しき時は、色を変(へん)じて落支度(おちじたく)の外(ほか)は他事(たじ)なし。同陣に有(あり)ける備中の守護(しゆご)飽庭許(あいばばかり)ぞ、余(あま)りに見兼(かね)て、己(おのれ)が手勢許(ばかり)を引分(ひきわけ)て、度々の合戦をばしたりける。され共大廈(たいか)は非一本支、山陰道(せんおんだう)をば頼章の勢(せい)に塞(ふさ)がれ、山陽道(せんやうだう)は義詮朝臣(よしあきらあそん)に囲(かこま)れ、東山・北陸(ほくろく)の両道は将軍の大勢に塞(ふさ)がつて、僅(わづか)に河内路(かうちぢ)より外はあきたる方(かた)無(なか)りければ、兵粮(ひやうらう)運送(うんそう)の道も絶(たえ)ぬ。重(かさね)て攻(せめ)上るべき助(たすけ)の兵もなし。合戦は今まで牛角(ごかく)なれ共(ども)、将軍の勢日々に随(したがひ)て重(かさな)る。角(かく)ては始終叶はじとて、三月十三日(じふさんにち)の夜に入て右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬朝臣(ただふゆあそん)、国々の大将相共に、東寺・淀・鳥羽の陣を引て、八幡・住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)・堺(さかひ)の浦へぞ落(おち)られける。
○八幡御託宣(ごたくせんの)事(こと) S3302
爰(ここ)にて落(おち)集(あつまつ)たる勢を見れば五万騎(ごまんぎ)に余れり。此(この)上に伊賀・伊勢・和泉・紀伊国の勢共(せいども)、猶(なほ)馳集(はせあつま)るべしと聞へしかば、暫(しばらく)此(この)勢を散(ちら)さで今一合戦(ひとかつせん)可有歟(か)と、諸大将(しよだいしやう)の異見区(まちまち)也(なり)けるを、直冬朝臣(ただふゆあそん)、「許否(きよひ)凡慮(ぼんりよ)の及ぶ処に非(あら)ず。八幡の御宝前にして御神楽(みかぐら)を奏し、託宣(たくせん)の言(ことば)に付て軍の吉凶(きつきよう)を知(しる)べし。」とて、様々(さまざま)の奉幣(ほうへい)を奉り、蘋■(ひんぱん)を勧(すすめ)て、則(すなはち)神の告(つげ)をぞ待(また)れける。社人(しやじん)の打つ鼓(つづみ)の声、きねが袖ふる鈴(すず)の音、深(ふ)け行(ゆく)月に神さびて、聞(きく)人信心を傾(かたぶけ)たり。託宣の神子(みこ)、啓白(けいびやく)の句、言(こと)ば巧(たく)みに玉を連(つら)ねて、様々(さまざま)の事共(ことども)を申(まうし)けるが、たらちねの親を守りの神なれば此手向(このたむけ)をば受(うく)る物かはと一首(いつしゆ)の神歌をくり返し/\二三反(にさんべん)詠(えい)じて、其後(そののち)御神(かみ)はあがらせ給(たまひ)にけり。諸大将(しよだいしやう)是(これ)を聞て、さては此(この)兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)を大将にて将軍と戦はん事は、向後(きやうこう)も叶(かなふ)まじかりけりとて、東山(とうせん)・北陸(ほくろく)の勢(せい)は、駒に策(むち)をうち己が国々へ馳下り、山陰(せんおん)・西海(さいかい)の兵は、舟に帆(ほ)を揚(あげ)て落て行(ゆく)。誠(まこと)に征罰(せいばつ)の法、合戦の体は士卒に有(あり)といへ共、雌雄(しゆう)は大将に依(よ)る者也(なり)。されば周(しう)の武王は木主(もくしゆ)を作て殷(いん)の世を傾(かたぶ)け、漢(かんの)高祖(かうそ)は、義帝(ぎてい)を尊(たつとみ)て秦の国を滅(ほろぼ)せし事、旧記(きうき)の所載誰か是(これ)を不知(しらず)。直冬是(これ)何人ぞや、子として父を攻(せめ)んに、天豈(あに)許(ゆる)す事あらんや。始め遊和軒(いうくわけん)の朴翁(はくをう)が天竺・震旦(しんだん)の例(れい)を引て、今度の軍に宮方(みやがた)勝(かつ)事を難得と、眉を顰(ひそめ)て申(まうし)しを、げにも理(ことわり)なりけりとは、今社(こそ)思ひ知(しら)れたれ。東寺落(おち)て翌(あけ)の日、東寺の門にたつ。兔(と)に角(かく)に取立にける石堂(いしたう)も九重(くぢゆう)よりして又落(おち)にけり深き海高き山名と頼(たのむ)なよ昔もさりし人とこそきけ唐橋(からはし)や塩の小路(こうぢ)の焼(やけ)しこそ桃井殿(もものゐどの)は鬼味噌(おにみそ)をすれ
○三上皇自芳野御出(おんいでの)事(こと) S3303
足利右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)・尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)高経・山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常以下の官軍(くわんぐん)、今度諸国より責(せめ)上て、東寺・神南(かうない)度々(どど)の合戦に打負(うちまけ)しかば、皆己(おのれ)が国々に逃下(にげくだり)て、猶(なほ)此素懐(このそくわい)を達せん事を謀(はか)る。依之(これによつて)洛中(らくちゆう)は今静謐(せいひつ)の体(てい)にて、髪を被(かうむ)り衽(じん)を左にする人はなけれ共(ども)、遠国は猶(なほ)しづまらで、戈(ほこ)を荷(にな)ひ粮(かて)を裹(つつむ)こと隙(ひま)なし。爰(ここ)に持明院の本院(ほんゐん)・新院・主上(しゆしやう)・春宮(とうぐう)は皆(みな)去々年の春南方へ囚(とらは)れさせ給(たまひ)て、賀名生(あなふ)の奥に被押篭御坐(おはせ)しかば、とても都には茨(いばら)の宮(みや)已(すで)に御位に即(つか)せ給(たまひ)ぬる上は、山中の御棲居(おんすまゐ)余(あま)りに御痛(おんいた)はしければとて、延文(えんぶん)二年の二月に、皆賀名生(あなふ)の山中より出し奉て、都へ還幸(くわんかう)なし奉る。上皇は故院の住(すみ)荒させ給(たまひ)し伏見殿に移らせ給て御座(ござ)あれば、参り仕(つかまつ)る月卿(げつけい)雲客(うんかく)の一人もなし。庭には草生滋(おひしげ)りて、梧桐(ごとう)の黄葉(くわうえふ)を踏(ふみ)分(わけ)たる道もなく、軒には苔(こけ)深くむして、見(みる)人からに袖ぬらす月さへ疎(うと)く成(なり)にけり。本院(ほんゐん)は去(さんぬる)観応三年八月八日、河内の行宮にして御出家あり。御年四十一、法名勝光智(しようくわうち)とぞ申(まうし)ける。御帰洛の後、本院(ほんゐん)・新院、両御所ともに夢窓国師の御弟子(おんでし)に成(なら)せ給(たまひ)て、本院(ほんゐん)は嵯峨(さが)の奥小倉(をぐら)の麓に幽(かすか)なる御庵(おんいほ)りを結ばれ、新院は伏見の大光明寺にぞ御座(ござ)有(あり)ける。何(いづ)れも物さびしく人目枯(かれ)たる御栖居(おんすまゐ)、申(まうす)も中々疎(おろ)かなり。彼悉達(かのしつだ)太子(たいし)は、浄飯(じやうばん)王の宮(みや)を出て檀特山(だんどくせん)に分(わけ)入(いり)、善施(ぜんせ)太子(たいし)は、鳩留国(くるこく)の翁(おきな)に身を与へて檀施(だんせ)の行(ぎやう)を修(しゆ)し給ふ。是(これ)は皆十善の国を合(あは)せたる十六(じふろく)の大国を保(たもち)給ひし王位なれ共(ども)、捨(すつ)るとなれば其(その)位一塵(いちぢん)よりも猶(なほ)軽し。況(いはん)や我(わが)国(くに)は粟散辺地(ぞくさんへんち)の境(さかひ)也(なり)。縦(たとひ)天下を一統(いつとう)にして無為(ぶゐ)の大化(たいくわ)に楽(たのし)ませ給ふ共、彼(か)の大国の王位に比(ひ)せば千億にして其(その)一にも難及。加様(かやう)の理(ことわ)りを思食(おぼしめし)知(しら)せ給(たまひ)て、憂(うき)を便(たよ)りに捨(すて)はてさせ給ひぬる世なれば、御身(おんみ)も軽(かろ)きのみならず御心(おんこころ)も又閑(しづか)にして、半間(はんかん)の雲一榻(いつたふ)の月、禅余(ぜんよ)の御友(おんとも)と成(なり)にければ、中々御心(おんこころ)安くぞ渡らせ給(たまひ)ける。
○飢人(きにん)投身事(こと) S3304
角(かく)て事の様を見聞(みきく)に、天下此(こ)の二十(にじふ)余年(よねん)の兵乱に、禁裏(きんり)・仙洞・竹苑(ちくゑん)・枡房(せうばう)を始(はじめ)として、公卿(くぎやう)・殿上(てんじやう)・諸司(しよし)・百官の宿所々々多く焼け亡(ほろび)て、今は纔(わづか)に十が二三残りたりしを、又今度の東寺合戦の時、地を払(はらつ)て、京白川に武士(ぶし)の屋形(やかた)の外は在家(ざいけ)の一宇(いちう)もつゞかず。離々(りり)たる原上(げんじやう)の草、塁々(るゐるゐ)たる白骨(はつこつ)、叢(くさむら)に纏(まとは)れて、有(あり)し都の迹(あと)共(とも)不見成(なり)にければ、蓮府槐門(れんぶくわいもん)の貴族・なま上達部(かんだちめ)・上臈(じやうらふ)・女房達(にようばうたち)に至るまで、或(あるひ)は大井(おほゐ)、桂川の波の底の水屑(みくづ)となる人もあり、或(あるひ)は遠国に落下て田夫野人(でんぶやじん)の賎(いやし)きに身を寄せ、或(あるひ)は片田舎に立忍(しのび)て、桑門(さうもん)、竹(たけの)扉(とぼそ)に住(すみ)はび給へば、夜(よ)るの衣薄(うすく)して暁(あかつき)の霜冷(すさまじ)く、朝気(あさけ)の煙絶(たえ)て後、首陽(しゆやう)に死する人多し。中にも哀(あはれ)に聞へしは、或る御所の上北面(じやうほくめん)に兵部(ひやうぶの)少輔(せう)なにがしとかや云(いひ)ける者、日来(ひごろ)は富栄(とみさかえ)て楽(たのし)み身に余(あま)りけるが、此(この)乱の後財宝は皆取散(とりちら)され、従類眷属(じゆうるゐけんぞく)は何地(いづち)共(とも)なく落(おち)失(うせ)て、只(ただ)七歳になる女子、九になる男子(なんし)と年比(としごろ)相馴(あひなれ)し女房と、三人(さんにん)許(ばかり)ぞ身に添(そひ)ける。都の内には身を可置露のゆかりも無(なく)て、道路に袖をひろげん事もさすがなれば、思(おもひ)かねて、女房は娘の手を引(ひき)、夫(をつと)は子の手を引て、泣々(なくなく)丹波の方へぞ落行(おちゆき)ける。誰を憑(たのむ)としもなく、何(いづ)くへ可落著共覚(おぼえ)ねば、四五町(しごちやう)行(ゆき)ては野原(のばら)の露に袖を片敷(かたしき)て啼明(なきあか)し、一足(ひとあし)歩(あゆん)では木の下草にひれ臥(ふし)て啼(な)き暮す。只夢路をたどる心地して、十日許(ばかり)に丹波(たんばの)国(くに)井原(ゐはら)の岩屋(いはや)の前に流(ながれ)たる思出河(おもひでがは)と云(いふ)所に行至りぬ。都を出しより、道に落(おち)たる栗柿(くりかき)なんどを拾(ひろう)て纔(わづか)に命を継(つぎ)しかば、身も余(あま)りにくたびれ足も不立成(なり)ぬとて、母・少(をさな)き者、皆(みな)川のはたに倒れ伏(ふし)て居たりければ、夫(をつと)余(あま)りに見かねて、とある家のさりぬべき人の所と見へたる内へ行(ゆき)て、中門の前に彳(たたずん)で、つかれ乞(こひ)をぞしたりける。暫(しばら)く有て内より侍・中間(ちゆうげん)十(じふ)余人(よにん)走(はしり)出て、「用心(ようじん)の最中(さいちゆう)、なまばうたる人のつかれ乞(ごひ)するは、夜討強盜(ようちがうだう)の案内見る者歟(か)。不然は宮方(みやがた)の廻文(くわいぶん)持て回(まは)る人にてぞあるらん。誡置(いましめおき)て嗷問(がうもん)せよ。」とて手取(とり)足取(とり)打縛(うちしば)り、挙(あげ)つ下(おろし)つ二時許(ばかり)ぞ責(せめ)たりける。女房・少(をさな)き者、斯(かか)る事とは不思寄、川の端(はた)に疲(つか)れ臥(ふし)て、今や/\と待(まち)居たりける処に、道を通る人行(ゆき)やすらひて、「穴(あな)哀(あはれ)や、京家(きやうけ)の人かと覚(おぼ)しき人の年四十許(ばかり)なりつるが、疲(つか)れ乞(ごひ)しつるを怪(あやし)き者かとて、あれなる家に捕(とら)へて、上(あげ)つ下(おろし)つ責(せめ)つるが、今は責(せめ)殺(ころし)てぞあるらん。」と申(まうし)けるを聞て、此(この)女房・少(をさな)き者、「今は誰に手を牽(ひか)れ誰を憑(たのみ)てか暫(しばら)くの命をも助(たすか)るべき。後(おく)れて死なば冥途(めいど)の旅に独(ひとり)迷(まよ)はんも可憂。暫(しばらく)待(まち)て伴(ともな)はせ給へ。」と、声々に泣(なき)悲(かなしん)で、母と二人(ににん)の少(をさな)き者、互(たがひ)に手に手を取(とり)組(くみ)、思出河(おもひでがは)の深(ふかき)淵(ふち)に身を投(なげ)けるこそ哀(あはれ)なれ。兵部(ひやうぶの)少輔(せう)は、いかに責(せめ)問(とひ)けれ共(ども)、此(この)者元来(ぐわんらい)咎(とが)なければ、落(おち)ざりける間、「さらば許せ。」とて許されぬ。是(これ)にもこりず、妻子の飢(うゑ)たるが悲しさに、又とある在家(ざいけ)へ行て、菓(このみ)なんどを乞集(こひあつめ)て、先(さき)の川端(かはばた)へ行(ゆき)て見るに、母・少(をさな)き者共(ものども)が著(つけ)たる小草鞋(こわらぢ)・杖なんどは有て其(その)人はなし。こは如何(いか)に成(なり)ぬる事ぞやと周章騒(あわてさわ)ぎて、彼方此方(かなたこなた)求(もとめ)ありく程に、渡より少(すこ)し下(し)もなる井堰(ゐせき)に、奇(あやし)き物(もの)のあるを立寄(たちより)て見たれば、母と二人(ににん)の子と手に手を取組(とりくみ)て流(ながれ)懸りたり。取上(とりあげ)て泣(なき)悲(かなし)め共、身もひへはてゝ色も早(はや)替りはてゝければ、女房と二人(ににん)の子を抱拘(だきかか)へて、又本(もと)の淵に飛入(とびいり)、共に空(むなし)く成(なり)にけり。今に至(いたる)まで心なき野人村老(やじんそんらう)、縁(ゆかり)も知(しら)ぬ行客(かうかく)旅人までも、此(この)川を通る時、哀(あはれ)なる事に聞(きき)伝(つたへ)て、涙を流さぬ人はなし。誠(まこと)に悲しかりける有様哉と、思遣(おもひやら)れて哀なり。
○公家武家(くげぶけ)栄枯(えいこ)易地事(こと) S3305
公家の人は加様に窮困(きゆうこん)して、溝壑(こうがく)に填(うづまり)道路に迷ひけれ共(ども)、武家の族(やから)は富貴(ふつき)日来(ひごろ)に百倍(ひやくばい)して、身には錦繍(きんしう)を纏(まと)ひ食には八珍(はつちん)を尽せり。前代相摸守(さがみのかみ)の天下を成敗(せいばい)せし時、諸国の守護(しゆご)、大犯(だいぼん)三箇条の検断(けんだん)の外は綺(いろ)ふ事無(なか)りしに、今は大小(だいせう)の事、共(とも)に只(ただ)守護(しゆご)の計(はから)ひにて、一国の成敗雅意(がい)に任すには、地頭後家人を郎従の如くに召仕(めしつか)ひ、寺社本所の所領を兵粮料所とて押(おさ)へて管領(くわんりやう)す。其(その)権威只(ただ)古(いにしへ)の六波羅(ろくはら)、九州の探題(たんだい)の如し。又都には佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)始(はじめ)として在京(ざいきやう)の大名、衆(しゆ)を結(むすん)で茶の会(くわい)を始め、日々寄合(よりあひ)活計(くわつけい)を尽すに、異国本朝の重宝を集め、百座の粧(よそほひ)をして、皆曲■(きよくろく)の上に豹(へう)・虎(とら)の皮を布(し)き、思々(おもひおもひ)の段子金襴(どんすきんらん)を裁(たち)きて、四主頭(ししゆちやう)の座に列(れつ)をなして並居(なみゐ)たれば、只百福荘厳(ひやくふくしやうごん)の床(ゆか)の上に、千仏の光を双(ならべ)て坐(ざ)し給へるに不異。異国の諸侯は遊宴をなす時、食膳方丈(しよくぜんはうぢやう)とて、座の囲(まはり)四方(しはう)一丈(いちぢやう)に珍(ちん)物を備(そな)ふなれば、其(それ)に不可劣とて、面五尺(ごしやく)の折敷(をしき)に十番の斎羹(さいかう)・点心(てんじん)百種・五味(ごみ)の魚鳥・甘酸苦辛(かんさんくしん)の菓子(くわし)共(ども)、色々様々居双(すゑなら)べたり。飯後(はんご)に旨酒(ししゆ)三献(さんこん)過(すぎ)て、茶の懸物(かけもの)に百物、百の外に又前引(まへひき)の置物をしけるに、初度(しよど)の頭人(とうにん)は、奥染物(おくそめもの)各百充(づつ)六十三人(ろくじふさんにん)が前に積む。第二度(だいにど)の頭人は、色々の小袖十重充(とかさねづつ)置(おく)。三番の頭人は、沈(ぢん)のほた百両宛(づつ)、麝香(じやかう)の臍(ほそ)三充(づつ)副(そへ)て置(おく)。四番の頭人は沙金(しやきん)百両宛(づつ)金糸花(きんしくわ)の盆(ぼん)に入(いれ)て置(おく)。五番の頭人は、只今(ただいま)為立(したて)たる鎧(よろひ)一縮(いつしゆく)に、鮫(さめ)懸(かけ)たる白太刀、柄鞘(つかさや)皆金にて打くゝみたる刀に、虎の皮の火打袋(ひうちぶくろ)をさげ、一様(いちやう)に是(これ)を引く。以後の頭人二十(にじふ)余人(よにん)、我(われ)人に勝(すぐ)れんと、様(さま)をかへ数を尽して、如山積重(つみかさ)ぬ。されば其費(そのつひえ)幾千万(いくせんまん)と云(いふ)事を不知(しらず)。是(これ)をもせめて取て帰らば、互に以此彼(かれ)に替(かへ)たる物共とすべし。ともにつれたる遁世者(とんせいしや)、見物の為に集(あつま)る田楽(でんがく)・猿楽(さるがく)・傾城(けいせい)・白拍子(しらびやうし)なんどに皆取(とり)くれて、手を空(むなしく)して帰(かへり)しかば、窮民(きゆうみん)孤独の飢(うゑ)を資(たすく)るにも非(あら)ず、又供仏施僧(くぶつせそう)の檀施(だんせ)にも非(あら)ず。只金(こがね)を泥(でい)に捨て玉を淵(ふち)に沈(しづ)めたるに相(あひ)同じ。此(この)茶事過(すぎ)て後(のち)又博奕(ばくえき)をして遊びけるに、一立(ひとた)てに五貫(ごくわん)十貫(じつくわん)立(たて)ければ、一夜(いちや)の勝負に五六千貫負(まく)る人のみ有て百貫(ひやくくわん)とも勝つ人はなし。此(これ)も田楽(でんがく)・猿楽・傾城・白拍子に賦(くば)り捨(すて)ける故(ゆゑ)也(なり)。抑(そもそも)此(この)人々長者(ちやうじや)の果報(くわはう)有(あり)て、地より物が涌(わき)ける歟(か)、天より財(たから)が降(ふり)けるか。非降非涌、只(ただ)寺社本所の所領を押へ取り、土民百姓の資財(しざい)を責取(せめとり)、論人(ろんにん)・訴人(そにん)の賄賂(わいろ)を取(とり)集めたる物共也(なり)。古の公人たりし人は、賄賂(わいろ)をも不取、勝負をもせず、囲碁(ゐご)双六(すごろく)をだに酷(はなはだ)禁ぜしに、万事の沙汰を閣(さしおい)て、訴人来れば酒宴茶の会(くわい)なんど云(いひ)て不及対面、人の歎(なげき)をも不知、嘲(あざけり)をも不顧、長時に遊び狂(くる)ひけるは、前代未聞(ぜんだいみもん)の癖事(ひがこと)なり。懸(かかり)し程に、延文三年二月十二日、故左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)直義入道慧源(ゑげん)、さしも爪牙耳目(さうげじぼく)の武臣たりしかば、従二位の贈爵(ぞうしやく)を苔(こけ)の下(した)なる遺骸(ゆゐがい)にぞ賜(たま)ひける。法体(ほつたい)死去の後、如此宣下(せんげ)無其例とぞ人皆申合(まうしあは)れける。
○将軍御逝去(ごせいきよの)事(こと) S3306
同年四月二十日、尊氏(たかうぢの)卿(きやうの)背(せなか)に癰瘡(ようさう)出て、心地(ここち)不例御坐(おはし)ければ、本道(ほんだう)・外科(げくわ)の医師(いし)数を尽して参(まゐり)集る。倉公(さうこう)・華他(くわた)が術(じゆつ)を尽し、君臣佐使(さし)の薬を施(ほどこ)し奉れ共更(さらに)無験。陰陽頭(おんやうのかみ)・有験(うげん)の高僧集(あつまつ)て、鬼見(きけん)・太山府君(たいさんぶくん)・星供(しやうく)・冥道供(みやうだうく)・薬師(やくし)の十二神将(じふにじんじやうの)法・愛染明王(あいぜんみやうわう)・一字文殊・不動慈救(ふどうじく)延命(えんめい)の法、種々の懇祈(こんき)を致せ共、病(やまひ)日(ひ)に随て重くなり、時を添(そへ)て憑(たのみ)少(すくな)く見へ給ひしかば、御所中(ごしよぢゆう)の男女機(き)を呑(の)み、近習の従者涙を押へて、日夜(にちや)寝食(しんしよく)を忘(わすれ)たり。懸(かか)りし程に、身体(しんたい)次第に衰へて、同(おなじき)二十九日寅(とらの)刻(こく)、春秋五十四歳にて遂(つひ)に逝去(せいきよ)し給(たまひ)けり。さらぬ別(わかれ)の悲(かなし)さはさる事ながら、国家の柱石(ちゆうせき)摧(くだ)けぬれば、天下今も如何(いかが)とて、歎き悲(かなし)む事無限。さて可有非(あら)ずとて、中(なか)一日有て、衣笠山(きぬがさやま)の麓(ふもと)等持院(とうぢゐん)に葬(さう)し奉る。鎖龕(そがん)は天竜寺(てんりゆうじ)の竜山(りようざん)和尚、起龕(きがん)は南禅寺(なんぜんじ)の平田(へいでん)和尚、奠茶(てんちや)は建仁寺(けんにんじ)の無徳(ぶとく)和尚、奠湯(てんたう)は東福寺(とうふくじ)の鑑翁(かんをう)和尚、下火(あこ)は等持院の東陵(とうりよう)和尚にてぞをはしける。哀(あはれ)なる哉、武将に備(そなはつ)て二十五年、向ふ処は必(かならず)順(したが)ふといへ共、無常の敵の来るをば防(ふせ)ぐに其(その)兵なし。悲(かなしい)哉、天下を治(をさめ)て六十(ろくじふ)余州(よしう)、命(めい)に随(したが)ふ者多しといへ共、有為(うゐ)の境(さかひ)を辞(じ)するには伴(ともなう)て行く人もなし。身は忽(たちまち)に化(け)して暮天(ぼてん)数片(すへん)の煙と立(たち)上り、骨(ほね)は空(むなし)く留(とどまつ)て卵塔(らんたふ)一掬(いつきく)の塵(ちり)と成(なり)にけり。別れの泪(なみだ)掻暮(かきくれ)て、是(これ)さへとまらぬ月日哉(かな)。五旬(ごじゆん)無程過(すぎ)ければ、日野(ひの)左中弁忠光(ただみつ)朝臣(あそん)を勅使(ちよくし)にて、従(じゆ)一位(いちゐ)左大臣の官を贈(おく)らる。宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)、宣旨を啓(ひらい)て三度(さんど)拝せられけるが、涙を押へて、帰(かへる)べき道しなければ位山(くらゐやま)上(のぼ)るに付(つけ)てぬるゝ袖かなと被詠けるを、勅使(ちよくし)も哀なる事に聞て、有(あり)の侭(まま)に奏聞しければ、君無限叡感(えいかん)有て、新千載集(しんせんざいしふ)を被撰けるに、委細(ゐさい)の事書(ことがき)を載(のせ)られて、哀傷(あいしやう)の部にぞ被入ける。勅賞(ちよくしやう)の至り、誠(まこと)に忝(かたじけな)かりし事共(ことども)なり。
○新待賢門院(しんたいけんもんゐん)並梶井(かぢゐの)宮(みや)御隠(おんかくれの)事(こと) S3307
同四月十八日、吉野の新待賢門の女院(にようゐん)隠れさせ給(たまひ)ぬ。一方の国母(こくぼ)にて御坐(おは)しければ、一人(いちじん)を始め進(まゐら)せて百官皆(みな)椒房(せうばう)の月に涙を落(おと)し、掖庭(えきてい)の露に思(おもひ)を摧(くだ)く時節(をりふし)、何(いか)に有(あり)ける事ぞやとて、涙を拭(のごひ)ける処に、又同年五月二日、梶井(かぢゐの)二品(にほん)親王(しんわう)御隠(おんかくれ)有(あり)ければ、山門の悲歎(ひたん)、竹苑(ちくゑん)の御歎(おんなげき)更(さら)に類(たぐひ)なし。此等(これら)は皆(みな)天下の重き歎(なげき)なりしかば、知(しる)も知(しら)ぬも推並(おしなべ)て、世の中如何(いかが)あらんずらんと打ひそめき、洛中(らくちゆう)・山上・南方、打続(うちつづき)たる哀傷(あいしやう)、蘭省(らんしやう)露(つゆ)深く、柳営(りうえい)烟(けむり)暗(くらく)して、台嶺(たいれい)の雲の色悲(かなし)んで今年は如何(いか)なる歳なれば、高き歎(なげき)の花散(ちり)て、陰(かげ)の草葉に懸(かか)るらんと、僧俗男女共に押並(おしなべ)て袖をぞ絞(しぼ)りける。
○崇徳院(しゆとくゐんの)御事(おんこと) S3308
今年の春、筑紫(つくし)の探題(たんだい)にて将軍より被置たりける一色左京(さきやうの)大夫(たいふ)直氏・舎弟(しやてい)修理(しゆりの)大夫(たいふ)範光は、菊池(きくち)肥前(ひぜんの)守(かみ)武光(たけみつ)に打負(うちまけ)て京都へ被上ければ、小弐(せうに)・大友(おほとも)・島津(しまづ)・松浦(まつら)・阿蘇(あそ)・草野に至るまで、皆(みな)宮方(みやがた)に順(したが)ひ靡(なび)き、筑紫九国の内には、只(ただ)畠山治部(ぢぶの)大輔(たいふ)が日向(ひうが)の六笠(むかさ)の城(じやう)に篭(こもり)たる許(ばかり)ぞ、将軍方(しやうぐんがた)とては残りける。是(これ)を無沙汰(ぶさた)にて閣(さしお)かば、今将軍の逝去(せいきよ)に力を得て、菊池(きくち)如何様(いかさま)都へ責(せめ)上りぬと覚(おぼゆ)る。是(これ)天下の一大事(いちだいじ)也(なり)。急(いそい)で打手(うつて)の大将を下さでは叶(かなふ)まじとて、故細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏(あきうぢの)子息、式部(しきぶの)大夫(たいふ)繁氏(しげうじ)を伊予(いよの)守(かみ)になして、九国の大将にぞ下されける。此(この)人先(まづ)讃岐(さぬきの)国(くに)へ下り、兵船をそろへ軍勢(ぐんぜい)を集(あつむ)る程に、延文四年六月二日俄(にはか)に病(やまひ)付て物狂(ものぐるひ)に成(なり)たりけるが、自(みづか)ら口走(くちばしつ)て、「我(われ)崇徳院(しゆとくゐん)の御領を落(おと)して、軍勢(ぐんぜい)の兵粮(ひやうらう)料所(れうしよ)に充行(あておこなひ)しに依て重病を受(うけ)たり。天の譴(せめ)八万(はちまん)四千(しせん)の毛孔(けのあな)に入て五臓(ござう)六府(ろつぷ)に余る間、冷(すず)しき風に向へ共盛なる炎(ほのほ)の如く、ひやゝかなる水を飲(のめ)共(ども)沸返(わきかへ)る湯の如し。あらあつや難堪や、是(これ)助(たすけ)てくれよ。」と悲(かなし)み叫(さけび)て、悶絶僻地(もんぜつびやくぢ)しければ、医師(いし)陰陽師(おんやうじ)の看病(かんびやう)の者共(ものども)近付(ちかづか)んとするに、当り四五間(しごけん)の中は猛火(みやうくわ)の盛(さかり)に燃(もえ)たる様に熱(ねつ)して、更(さら)に近付(ちかづく)人も無(なか)りけり。病付(やみつき)て七日に当りける卯(う)の刻に黄なる旗一流(ひとながれ)差(さし)て、混(ひ)た甲(かぶと)の兵千騎(せんぎ)許(ばかり)、三方(さんぱう)より同時に時の声を揚(あげ)て押寄(おしよせ)たり。誰とは不知敵寄(よせ)たりと心得(こころえ)て、此(この)間馳集(はせあつまり)たる兵共(つはものども)五百(ごひやく)余人(よにん)、大庭(おほには)に走(はしり)出て散々に射る。箭種(やだね)尽(つき)ぬれば打物(うちもの)に成て、追つ返(かへし)つ半時許(はんじばかり)ぞ戦たる。搦手(からめて)より寄(よせ)ける敵かと覚(おぼえ)て、紅(くれなゐ)の母衣(ほろ)掛(かけ)たる兵十(じふ)余騎(よき)、大将細川伊予(いよの)守(かみ)が頚(くび)と家人(けにん)行吉掃部助(ゆきよしかもんのすけ)が頚(くび)とを取て鋒(きつさき)に貫(つらぬ)き、「悪(にく)しと思ふ者をば皆打取(うちとり)たるぞ。是(これ)看(み)よや兵共(つはものども)。」とて、二(ふたつ)の頚を差上(さしあげ)たれば、大手の敵七百(しちひやく)余騎(よき)、勝時(かちどき)を三声(みこゑ)どつと作て帰るを見れば、此寄手(このよせて)天に上り雲に乗(じよう)じて、白峯(しらみね)の方へぞ飛(とび)去(さり)ける。変化(へんげ)の兵帰(かへり)去れば、是(これ)を防(ふせぎ)つる者共(ものども)、討(うた)れぬと見へつる人も不死、手負(ておひ)と見つるも恙(つつが)なし。こはいかなる不思議(ふしぎ)ぞと、互(たがひ)に語り互に問(とひ)て、暫(しばら)くあれば、伊予(いよの)守(かみ)も行吉(ゆきよし)も同時に無墓成(なり)にけり。誠(まこと)に濁悪(ぢよくあく)の末世(まつせ)と乍云、不思議(ふしぎ)なる事共(ことども)なり。
○菊池(きくち)合戦(かつせんの)事(こと) S3309
小弐(せうに)・大友(おほとも)は、菊池(きくち)に九国を打順(うちしたがへ)られて、其(その)成敗に随(したがふ)事不安思(おもひ)ければ、細川伊予(いよの)守(かみ)の下向を待て旗を挙(あげ)んと企(くはたて)けるが、伊予(いよの)守(かみ)、崇徳院(しゆとくゐん)の御霊(ごりやう)に罰(ばつ)せられて、犬死(いぬじに)しぬと聞へければ、力を失(うしなひ)て機(き)を呈(あらは)さず。斯(かか)る処に畠山治部(ぢぶの)太輔(たいふ)が、未(いまだ)宮方(みやがた)には随(したが)はで楯篭(たてこもり)たる六笠(むかさ)の城(じやう)を責(せめ)んとて、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光五千(ごせん)余騎(よき)にて、十一月十七日(じふしちにち)肥後(ひごの)国(くに)を立て日向(ひうがの)国(くに)へぞ向(むかひ)ける。道四日路(よつかぢ)が間、山を超(こえ)川を渡て、行先は嶮岨(けんそ)に跡は難所にてぞ有(あり)ける。小弐(せうに)・大友(おほとも)、菊池(きくち)が催促(さいそく)に応(おう)じて、豊後(ぶんごの)国中(こくぢゆう)に打出て勢汰(せいぞろへ)をしけるが、是(これ)こそよき時分なりと思(おもひ)ければ、菊池(きくち)を日向(ひうがの)国(くに)へ遣(や)り過(すご)して後、大友(おほとも)刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)氏時、旗を挙(あげ)て豊後(ぶんご)の高崎(たかさき)の城(じやう)に取上る。宇都宮(うつのみや)大和(やまとの)前司(ぜんじ)は、河を前にして豊前の路を塞(ふさ)ぎ、肥前(ひぜんの)刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)は、山を後(うしろ)に当(あて)て筑後(ちくご)の道をぞ塞ぎける。菊池(きくち)已(すで)に前後の大敵に取篭(とりこめ)られて何(いづ)くへか可引。只篭(こ)の中(うち)の鳥、網代(あじろ)の魚の如しと、哀(あはれ)まぬ人も無(なか)りけり。菊池(きくち)此(この)二十四年が間、筑紫九国の者共(ものども)が軍立手柄(いくさだててがら)の程を、敵に受け御方(みかた)になして、能(よく)知透(しりすか)したりければ、後(うし)ろには敵旗を上(あげ)道を塞(ふさぎ)たりと聞へけれ共(ども)、更に事ともせず、十一月十日より矢合(やあはせ)して、畠山治部(ぢぶの)太輔(たいふ)が子息民部少輔(みんぶのせう)が篭(こもり)たる三保(みつまた)の城(じやう)を夜昼十七日(じふしちにち)が中に責(せめ)落(おと)して、敵を打(うつ)こと三百人(さんびやくにん)に及べり。畠山父子憑切(たのみきり)たる三保(みつまた)の城(じやう)落されて、叶はじとや思ひけん、攻(つめ)の城(じやう)にもたまらず、引て深山(みやま)の奥へ逃篭(にげこも)りければ、菊池(きくち)今は是(これ)までぞとて肥後(ひごの)国(くに)へ引返すに、跡を塞ぎし大敵共更(さら)に戦ふ事なければ、箭の一(ひとつ)をも不射己(おのれ)が館(たち)へぞ帰りける。是(これ)までは未(いまだ)太宰小弐(だざいのせうに)・阿蘇大宮司(あそのだいぐうじ)、宮方(みやがた)を背(そむ)く気色(けしき)無(なか)りければ、彼等(かれら)に牒(てふ)し合(あは)せて、菊池(きくち)五千(ごせん)余騎(よき)を卒(そつ)して大友(おほとも)を退治(たいぢ)せん為に豊後(ぶんごの)国(くに)へ馳向ふ。是(この)時(とき)太宰(だざいの)小弐(せうに)俄(にはか)に心替(こころがはり)して太宰府(だざいふ)にして旗を挙(あげ)ければ、阿蘇(あその)大宮司(だいぐうじ)是(これ)に与(くみ)して菊池(きくち)が迹を塞(ふさ)がんと、小国(をくに)と云(いふ)処に九箇所(くかしよ)の城(じやう)を構(かまへ)て、菊池(きくち)を一人も打漏(うちもら)さじとぞ企(くはたて)ける。菊池(きくち)兵粮(ひやうらう)運送の路を止(とめ)られて豊後(ぶんご)へ寄(よす)る事も不叶、又太宰府へ向はんずる事も難儀也(なり)ければ、先(まづ)我肥後(ひごの)国(くに)へ引返してこそ、其(その)用意(ようい)をも致さめとて、菊池(きくち)へ引返しけるが、阿蘇(あその)大宮司(だいぐうじ)が構(かまへ)たる九箇所(くかしよ)の城(じやう)を一々に責(せめ)落(おと)して通るに、阿蘇(あその)大宮司(だいぐうじ)憑切(たのみきり)たる手(ての)者共(ものども)三百(さんびやく)余人(よにん)討(うた)れければ、敵の通路(つうろ)を止むるまでは不寄思、我(わが)身の命を希有(けう)にしてこそ落(おち)行(ゆき)けれ。去(さる)程(ほど)に七月に征西(せいせい)将軍(しやうぐんの)宮(みや)を大将として、新田の一族(いちぞく)・菊池(きくち)の一類(いちるゐ)、太宰府へ寄(よする)と聞へしかば、小弐(せうに)は陣を取て敵を待(また)んとて、大将太宰(だざいの)筑後(ちくごの)守(かみ)頼尚(よりひさ)・子息筑後(ちくごの)新小弐(せうに)忠資(ただすけ)・甥(をひ)太宰(だざいの)筑後(ちくごの)守(かみ)頼泰・朝井(あさゐ)但馬(たぢまの)将監(しやうげん)胤信(たねのぶ)・筑後(ちくごの)新左衛門(しんざゑもん)頼信(よりのぶ)・窪能登(くぼののとの)太郎泰助(やすすけ)・肥後(ひごの)刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)泰親(やすちか)・太宰(だざいの)出雲(いづもの)守(かみ)頼光(よりみつ)・山井(やまゐ)三郎惟則(これのり)・饗場(あいば)左衛門(さゑもんの)蔵人(くらんど)重高(しげたか)・同左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)行盛(ゆきもり)・相馬(さうま)小太郎・木綿(こわたの)左近(さこんの)将監(しやうげん)・西河(さいかの)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・草壁(くさかべ)六郎(ろくらう)・牛糞(うしくそ)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)、松浦党(まつらたう)には、佐志(さしの)将監(しやうげん)・田平(たひら)左衛門(さゑもんの)蔵人(くらんど)・千葉(ちば)右京(うきやうの)大夫(たいふ)・草野(くさの)筑後(ちくごの)守(かみ)・子息肥後(ひごの)守(かみ)・高木肥前(ひぜんの)守(かみ)・綾部(あやべ)修理(しゆりの)亮(すけ)・藤木(ふぢのき)三郎・幡田(はたた)次郎・高田筑前(ちくぜんの)々司・三原(みはら)秋月(あきづき)の一族(いちぞく)・島津上総(かづさの)入道(にふだう)・渋谷(しぶや)播磨(はりまの)守(かみ)・本間(ほんま)十郎・土屋(つちや)三郎・松田弾正少弼(だんじやうせうひつ)・河尻(かはじり)肥後(ひごの)入道(にふだう)・託間(たくま)三郎・鹿子木(かのこぎ)三郎、此等(これら)を宗(むね)との侍として都合其(その)勢(せい)六万(ろくまん)余騎(よき)、杜(えずり)の渡(わたり)を前に当(あて)て味坂庄(あぢさかのしやう)に陣を取る。宮方(みやがた)には、先帝第六の王子(わうじ)征西(せいせい)将軍(しやうぐんの)宮(みや)、洞院(とうゐん)権大納言(ごんだいなごん)・竹林院三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)・春日(かすがの)中納言(ちゆうなごん)・花山院(くわざんのゐん)四位(しゐの)少将(せうしやう)・土御門(つちみかどの)少将(せうしやう)・坊城(ばうじやうの)三位(さんみ)・葉室(はむろの)左衛門(さゑもんの)督(かみ)・日野(ひのの)左少弁(させうべん)・高辻(たかつじの)三位(さんみ)・九条(くでうの)大外記(だいげき)・子息主水頭(もんどのかみ)、新田(につたの)一族(いちぞく)には、岩松(いはまつ)相摸守(さがみのかみ)・瀬良田(せらだ)大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)・田中弾正(だんじやうの)大弼(だいひつ)・桃井(もものゐ)左京(さきやうの)亮(すけ)・江田(えた)丹後(たんごの)守(かみ)・山名因幡(いなばの)守(かみ)・堀口(ほりぐち)三郎・里見(さとみ)十郎、侍大将には、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光・子息肥後(ひごの)次郎・甥(をひの)肥前(ひぜんの)二郎武信・同孫三郎(まごさぶらう)武明(たけあきら)・赤星(あかほし)掃部助(かもんのすけ)武貫(たけつら)・城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)・賀屋(かや)兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)・見参岡(みさをか)三川(みかはの)守(かみ)・庄(しやうの)美作(みまさかの)守(かみ)・国分(こくぶんの)二郎・故伯耆(はうきの)守(かみ)長年(ながとし)が次男名和(なわ)伯耆(はうきの)権(ごんの)守(かみ)長秋(ながあき)・三男(さんなん)修理(しゆりの)亮(すけ)・宇都宮(うつのみや)刑部(ぎやうぶの)丞(じよう)・千葉刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)・白石(しらいし)三川(みかはの)入道(にふだう)・鹿島(かしま)刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)・大村弾正少弼(だんじやうせうひつ)・太宰(だざいの)権(ごんの)小弐(せうに)・宇都宮(うつのみや)壱岐(いきの)守(かみ)・大野式部(しきぶの)太輔(たいふ)・派(みなまた)讃岐守(さぬきのかみ)・溝口(みぞぐち)丹後(たんごの)守(かみ)・牛糞(うしくそ)越前(ゑちぜんの)権(ごんの)守(かみ)・波多野(はだの)三郎・河野辺(かはのべ)次郎・稲佐(いなさ)治部(ぢぶの)太輔(たいふ)・谷山(たにやま)右馬助(うまのすけ)・渋谷(しぶや)三河(みかはの)・同修理(しゆりの)亮(すけ)・島津上総四郎・斉所(さいしよ)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・高山(たかやま)民部(みんぶの)太輔(たいふ)・伊藤摂津(つの)守(かみ)・絹脇(きぬわき)播磨(はりまの)守(かみ)・土持(つちもち)十郎・合田(あふた)筑前(ちくぜんの)守(かみ)、此等(これら)を宗(むね)との兵として、其(その)勢(せい)都合八千(はつせん)余騎(よき)、高良山(かうらさん)・柳坂(やなぎさか)・水縄山(みなふやま)三箇所(さんかしよ)に陣をぞ取たりける。同七月十九日に、菊池(きくち)は先(まづ)己(おのれ)が手勢(てぜい)五千(ごせん)余騎(よき)にて筑後河(ちくごがは)を打渡り、小弐(せうに)が陣へ押寄す。小弐(せうに)如何(いかが)思(おもひ)けん不戦、三十(さんじふ)余町(よちやう)引退(ひきの)き大原(おほはら)に陣を取る。菊池(きくち)つゞひて責(せめ)んとしけるが、あはひに深き沼有て細道一つ有(あり)けるを、三所(みところ)堀(ほり)切て、細き橋を渡したりければ、可渡様(やう)も無(なか)りけり。両陣僅(わづか)に隔(へだて)て旗の文(もん)鮮(あざやか)に見ゆる程になれば、菊池(きくち)態(わざと)小弐(せうに)を為令恥、金銀にて月日を打て著(つけ)たる旗の蝉本(せみもと)に、一紙(いつし)の起請文(きしやうもん)をぞ押(おし)たりける。此(これ)は去年太宰(だざいの)小弐(せうに)、古浦城(ふるうらのじやう)にて已(すで)に一色(いつしき)宮内(くないの)太輔(たいふ)に討(うた)れんとせしを、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)大勢を以(もつ)て後攻(ごづめ)をして、小弐(せうに)を助(たすけ)たりしかば、小弐(せうに)悦びに不堪、「今より後子孫七代に至(いたる)まで、菊池(きくち)の人々に向て弓を引(ひき)矢を放(はなつ)事不可有。」と、熊野(くまの)の牛王(ごわう)の裏に、血をしぼりて書(かき)たりし起請(きしやう)なれば、今無情心替(こころがは)りしたる処のうたてしさを、且(かつう)は訴天に、且(かつう)は為令知人に也(なり)けり。八月十六日(じふろくにち)の夜半許(ばかり)に、菊池(きくち)先(まづ)夜討に馴(なれ)たる兵を三百人(さんびやくにん)勝(すぐつ)て、山を越(こえ)水を渡て搦手(からめて)へ廻(まは)す。宗(むね)との兵七千(しちせん)余騎(よき)をば三手(みて)に分て、筑後河の端(はた)に副(そう)て、河音(かはおと)に紛(まぎ)れて嶮岨(けんそ)へ廻(まは)りて押寄す。大手の寄手(よせて)今は近付(ちかづか)んと覚(おぼえ)ける程に、搦手(からめて)の兵三百人(さんびやくにん)敵の陣へ入て、三処に時の声を揚(あ)げ十方に走(はしり)散(ちつ)て、敵の陣々へ矢を射懸(いかけ)て、後(うしろ)へ廻(まはつ)てぞ控(ひかへ)たる。分内(ぶんない)狭(せば)き所に六万(ろくまん)余騎(よき)の兵、沓(くつ)の子(こ)を打たる様(やう)に役所(やくしよ)を作り双(ならべ)たれば、時の声に驚き、何(いづれ)を敵と見分たる事もなく此(ここ)に寄合(よせあはせ)彼(かしこ)に懸合(かけあひ)て、呼叫(をめきさけび)追つ返(かへし)つ同士打(どしうち)をする事数剋(すこく)也(なり)しかば、小弐(せうに)憑切(たのみきり)たる兵三百(さんびやく)余人(よにん)、同士打(どしうち)にこそ討(うた)れけれ。敵陣騒乱(さわぎみだれ)て、夜已(すで)に明(あけ)ければ、一番に菊池(きくち)二郎、件(くだん)の起請(きしやう)の旗を進めて、千(せん)余騎(よき)にてかけ入(いる)。小弐(せうに)が嫡子(ちやくし)太宰(だざいの)新小弐(せうに)忠資(ただすけ)、五十(ごじふ)余騎(よき)にて戦(たたかひ)けるが、父が起請や子に負(おひ)けん。忠資忽(たちまち)に打負(うちまけ)て、引返(ひつかへし)々々(ひつかへし)戦(たたかひ)けるが、敵に組(くま)れて討(うた)れにけり。是(これ)を見て朝井(あさゐ)但馬(たぢまの)将監(しやうげん)胤信(たねのぶ)・筑後(ちくごの)新左衛門(しんざゑもん)・窪(くぼの)能登(のとの)守(かみ)・肥前(ひぜんの)刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)、百(ひやく)余騎(よき)にて取て返し、近付く敵に引組(ひつくみ)々々差違(さしちがへ)て死(しに)ければ、菊池(きくち)孫次郎武明(たけあきら)・同越後(ゑちごの)守(かみ)・賀屋(かや)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)・見参岡(みさをか)三川(みかはの)守(かみ)・庄(しやうの)美作(みまさかの)守(かみ)・宇都宮(うつのみや)刑部(ぎやうぶの)丞(じよう)・国分(こくぶん)次郎以下宗(むね)との兵八十三人(はちじふさんにん)、一所にて皆討(うた)れにけり。小弐(せうに)が一陣の勢(せい)は、大将の新小弐(せうに)討(うた)れて引退(ひきしりぞき)ければ、菊池(きくち)が前陣の兵、汗馬(かんば)を伏て引(ひか)へたり。二番に菊池(きくち)が甥(をひ)肥前(ひぜんの)二郎武信・赤星掃部(かもんの)助(すけ)武貫(たけつら)、千(せん)余騎(よき)にて進めば、小弐(せうに)が次男太宰越後(ゑちごの)守(かみ)頼泰、並(ならびに)太宰出雲(いづもの)守(かみ)、二万(にまん)余騎(よき)にて相向ふ。初(はじめ)は百騎(ひやくき)宛(づつ)出合(いであひ)て戦(たたかひ)けるが、後には敵御方(みかた)二万(にまん)二千(にせん)余騎(よき)、颯(さつ)と入(いり)乱(みだれ)、此(ここ)に分れ彼(かしこ)に合(あひ)、半時許(はんじばかり)戦(たたかひ)けるが、組(くん)で落(おつ)れば下重(おりかさな)り、切て落せば頚(くび)をとる。戦未(いまだ)決(けつせざる)前(さき)に、小弐(せうに)方には赤星掃部(かもんの)助(すけ)武貫を討て悦び、寄手(よせて)は引返す。菊池(きくち)が方には太宰(だざいの)越後(ゑちごの)守(かみ)を虜(いけどり)て、勝時(かちどき)を上(あげ)てぞ悦(よろこび)ける。此(この)時(とき)宮方(みやがた)に、結城(ゆふき)右馬(うまの)頭(かみ)・加藤大夫判官(たいふのはうぐわん)・合田(あふた)筑前(ちくぜんの)入道(にふだう)・熊谷(くまがえ)豊後(ぶんごの)守(かみ)・三栗屋(みくりや)十郎・太宰(だざいの)修理(しゆりの)亮(すけ)・松田丹後(たんごの)守(かみ)・同出雲(いづもの)守(かみ)・熊谷(くまがえ)民部(みんぶの)大輔(たいふ)以下、宗(むね)との兵三百(さんびやく)余人(よにん)討死しければ、将軍方(しやうぐんがた)には、饗庭(あいば)右衛門(うゑもんの)蔵人(くらんど)・同左衛門(さゑもんの)大夫(たいふ)・山井(やまゐ)三郎・相馬(さうま)小太郎・木綿(こわた)左近(さこんの)将監(しやうげん)・西川(にしかは)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・草壁(くさかべ)六郎(ろくらう)以下、憑切(たのみきり)たる兵共(つはものども)七百(しちひやく)余人(よにん)討(うた)れにけり。三番には、宮の御勢(おんせい)・新田の一族(いちぞく)・菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)一手(ひとて)に成て、三千(さんぜん)余騎(よき)、敵の中を破(わつ)て、蜘手(くもて)十文字(じふもんじ)に懸(かけ)散(ちらさ)んと喚(をめ)ひて蒐(かか)る。小弐(せうに)・松浦(まつら)・草壁・山賀(やまが)・島津・渋谷(しぶや)の兵二万(にまん)余騎(よき)、左右へ颯(さつ)と分れて散々(さんざん)に射る。宮方(みやがた)の勢射立(いたて)られて引(ひき)ける時、宮は三所(みところ)まで深手を負(おは)せ給(たまひ)ければ日野(ひのの)左少弁(させうべん)・坊城(ばうじやう)三位(さんみ)・洞院(とうゐん)権大納言(ごんだいなごん)・花山院四位(しゐの)少将・北山(きたやま)三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)・北畠(きたばたけ)源(げん)中納言(ぢゆうなごん)・春日(かすがの)大納言(だいなごん)・土御門(つちみかど)右少弁・高辻(たかつじの)三位(さんみ)・葉室(はむろ)左衛門(さゑもんの)督(かみ)に至るまで、宮を落(おと)し進(まゐら)せんと蹈止(ふみとどまつ)て討(うた)れ給ふ。是(これ)を見て新田の一族(いちぞく)三十三人(さんじふさんにん)、其(その)勢(せい)千(せん)余騎(よき)横合(よこあひ)に懸て、両方の手崎(てさき)を追(おひ)まくり、真中(まんなか)へ会尺(ゑしやく)もなく懸(かけ)入て、引組(ひつくん)で落(おち)、打違(うちちがへ)て死(しに)、命を限(かぎり)に戦(たたかひ)けるに、世良田(せらだ)大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)・田中弾正(だんじやうの)大弼(だいひつ)・岩松(いはまつ)相摸守(さがみのかみ)・桃井(もものゐ)右京(うきやうの)亮(すけ)・堀口三郎・江田(えだ)丹後(たんごの)守(かみ)・山名播磨(はりまの)守(かみ)、敵に組(くま)れて討(うた)れにけり。菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光・子息肥後(ひごの)次郎は、宮の御手(おんて)を負(おは)せ給(たまふ)のみならず、月卿(げつけい)雲客(うんかく)・新田(につたの)一族(いちぞく)達若干(そくばく)討(うた)るゝを見て、「何(いつ)の為に可惜命ぞや。日来(ひごろ)の契約(けいやく)不違、我に伴(ともな)ふ兵共(つはものども)、不残討死せよ。」と励(はげま)されて、真前(まつさき)に懸入る。敵此(これ)を見知(みしり)たりければ、射て落さんと、鏃(やじり)をそろへて如雨降射けれ共(ども)、菊池(きくち)が著(き)たる鎧(よろひ)は、此(この)合戦の為に三人(さんにん)張(ばり)の精兵(せいびやう)に草摺(くさずり)を一枚宛(づつ)射させて、通らぬさねを一枚まぜに拵(こしらへ)て威(をどし)たれば、何(いか)なる強弓(つよゆみ)が射けれ共(ども)、裏かく矢一(ひとつ)も無(なか)りけり。馬は射られて倒(たふる)れ共乗手は疵(きず)を被(かうむ)らねば、乗替(のりかへ)ては懸(かけ)入(いり)々々(かけいり)、十七度(じふしちど)迄(まで)懸(かけ)けるに、菊池(きくち)甲(かぶと)を落されて、小鬢(こびん)を二太刀切(きら)れたり。すはや討(うた)れぬと見へけるが、小弐(せうに)新左衛門(しんざゑもん)武藤(たけふぢ)と押双(おしならべ)て組(くん)で落(おち)、小弐(せうに)が頚を取て鋒(きつさき)に貫(つらぬ)き、甲(かぶと)を取て打著(うちき)て、敵の馬に乗替(のりかへ)、敵の中へ破(わつ)て入(いり)、今日の卯(うの)剋より酉(とり)の下(さがり)まで一息をも不継相戦(あひたたかひ)けるに、新小弐(せうに)を始(はじめ)として一族(いちぞく)二十三人(にじふさんにん)、憑切(たのみきり)たる郎従四百(しひやく)余人(よにん)、其(その)外の軍勢(ぐんぜい)三千二百二十六人まで討(うた)れにければ、小弐(せうに)今は叶はじとや思(おもひ)けん、太宰府へ引退(ひきのい)て、宝万(はうまん)が岳(だけ)に引上(ひきあが)る。菊池(きくち)も勝軍(かちいくさ)はしたれども、討死したる人を数(かぞふ)れば、千八百(はつぴやく)余人(よにん)と注(しる)したりける。続(つづい)て敵にも不懸、且(しばら)く手負(ておひ)を助(たすけ)てこそ又合戦を致さめとて、肥後国へ引返す。其(その)後は、敵も御方(みかた)も皆己(おのれ)が領知(りやうち)の国に楯篭(たてこもり)て、中々軍(いくさ)も無(なか)りけり。
○新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)自害(じがいの)事(こと) S3310
去(さる)程(ほど)に尊氏(たかうぢの)卿(きやう)逝去(せいきよ)あつて後、筑紫は加様(かやう)に乱れぬといへ共、東国は未(いまだ)静(しづか)也(なり)。爰(ここ)に故新田左中将(さちゆうじやう)義貞の子息左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興・其(その)弟武蔵(むさしの)少将(せうしやう)義宗(よしむね)・故脇屋(わきや)刑部(ぎやうぶの)卿(きやう)義助(よしすけの)子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)義治(よしはる)三人(さんにん)、此(この)三四年が間越後国(ゑちごのくに)に城郭(じやうくわく)を構(かま)へ半国許(ばかり)を打随(うちしたが)へて居たりけるを、武蔵・上野の者共(ものども)の中より、無弐由(よし)の連署(れんじよ)の起請(きしやう)を書て、「両三人(さんにん)の御中に一人(いちにん)東国へ御越(おんこし)候へ。大将にし奉て義兵を揚(あ)げ候はん。」とぞ申たりける。義宗・義治(よしはる)二人(ににん)は思慮深き人也(なり)ければ、此比(このころ)の人の心無左右難憑とて不被許容。義興は大早(おほはやり)にして、忠功人に先立(さきだ)たん事をいつも心に懸(かけ)て思はれければ、是非の遠慮を廻(めぐら)さるゝまでもなく、纔(わづか)に郎従百(ひやく)余人(よにん)を行(ゆき)つれたる旅人の様に見せて、窃(ひそか)に武蔵(むさしの)国(くに)へぞ越(こえ)られける。元来(ぐわんらい)張本(ちやうぼん)の輩(ともがら)は申(まうす)に不及、古(いにし)へ新田(につた)義貞(よしさだ)に忠功有(あり)し族(やから)、今(いま)畠山入道々誓(だうせい)に恨(うらみ)を含む兵、窃(ひそか)に音信(いんしん)を通じ、頻(しきり)に媚(こび)を入て催促(さいそく)に可随由(よし)を申(まうす)者多かりければ、義興今は身を寄(よす)る所多く成(なり)て、上野・武蔵両国の間に其(その)勢(いきほ)ひ漸(やうやく)萌(きざ)せり。天に耳無(なし)といへ共是(これ)を聞(きく)に人を以(もつ)てする事なれば、互(たがひ)に隠密(おんみつ)しけれ共(ども)、兄(あに)は弟(おとと)に語り子は親に知(しら)せける間、此(この)事無程鎌倉(かまくら)の管領(くわんれい)足利左馬(さまの)頭(かみ)基氏(もとうぢ)朝臣(あそん)・畠山入道々誓(だうせい)に聞へてげり。畠山大夫入道(たいふにふだう)是(これ)を聞(きき)しより敢(あへ)て寝食を安くせず、在所を尋(たづね)聞(きい)て大勢を差遣(さしつかは)せば、国内通計(つうげ)して行方を不知(しらず)。又五百騎(ごひやくき)三百騎(さんびやくき)の勢を以て、道に待(まち)て夜討に寄(よせ)て討(うた)んとすれば、義興更(さら)に事共(こととも)せず、蹴散(けちら)しては道を通(とほ)り打破(やぶつ)ては囲(かこみ)を出て、千変万化(せんべんばんくわ)総(すべ)て人の態(わざ)に非(あら)ずと申ける間、今はすべき様(やう)なしとて、手に余(あま)りてぞ覚へける。さても此(この)事如何(いか)がすべきと、畠山入道々誓昼夜(ちうや)案じ居たりけるが、或(ある)夜潜(ひそか)に竹沢右京(うきやうの)亮(すけ)を近付(ちかづけ)て、「御辺(ごへん)は先年(せんねん)武蔵野の合戦の時、彼(か)の義興の手に属(しよく)して忠ありしかば、義興も定(さだめ)て其旧好(そのきうかう)を忘れじとぞ思はるらん。されば此(この)人を忻(たばかつ)て討(うた)んずる事は、御辺(ごへん)に過(すぎ)たる人可有。何(いか)なる謀(はかりこと)をも運(めぐら)して、義興を討て左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)の見参に入(いれ)給へ。恩賞は宜依請に。」とぞ語(かたら)れける。竹沢は元来(ぐわんらい)欲心(よくしん)熾盛(しじやう)にして、人の嘲(あざけり)をも不顧古(いにし)への好(よし)みをも不思、無情者也(なり)ければ、曾(かつ)て一義をも申さず。「さ候はゞ、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)の疑(うたがひ)を散じて相近付(あひちかづき)候はん為に、某(それがし)態(わざと)御制法(せいはふ)候はんずる事を背(そむい)て御勘気(かんき)を蒙(かうむ)り、御内(みうち)を罷(まかり)出たる体(てい)にて本国へ罷(まかり)下て後(のち)、此(この)人に取寄り候べし。」と能々(よくよく)相謀(あひはかつ)て己(おのれ)が宿所へぞ帰(かへり)ける。兼(かね)て謀(はか)りつる事なれば、竹沢翌日(よくじつ)より、宿々(しゆくしゆく)の傾城(けいせい)共(ども)を数十人(すじふにん)呼(よび)寄(よせ)て、遊び戯(たはぶ)れ舞(まひ)歌(うたふ)。是(これ)のみならず、相伴(あひともな)ふ傍輩(はうばい)共(ども)二三十人(にさんじふにん)招集(まねきあつめ)て、博奕(ばくち)を昼夜(ちうや)十(じふ)余日(よにち)までぞしたりける。或(ある)人是(これ)を畠山に告(つげ)知(しら)せたりければ、畠山大に偽(いつは)り忿(いかつ)て、「制法(せいはふ)を破る罪科(ざいくわ)非一、凡(およそ)破道理法はあれども法を破る道理なし。況(いはん)や有道(いうだう)の法をや。一人の科(とが)を誡(いましむ)るは万人を為助也(なり)。此(この)時(とき)緩(ゆる)に沙汰致さば、向後(きやうこう)の狼籍(らうぜき)不可断。」とて、則(すなはち)竹沢が所帯を没収(もつしゆ)して其(その)身を被追出けり。竹沢一言の陳謝(ちんじや)にも不及、「穴(あな)こと/゛\し、左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)に仕(つか)はれぬ侍は身一(ひとつ)は過(すぎ)ぬ歟(か)。」と、飽(あく)まで広言(くわうげん)吐散(はきちら)して、己(おのれ)が所領へぞ帰(かへり)にける。角(かく)て数日(すじつ)有て竹沢潜(ひそか)に新田兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)へ人を奉て申けるは、「親にて候(さうらひ)し入道、故新田殿(につたどの)の御手(おんて)に属(しよく)し、元弘の鎌倉(かまくら)合戦に忠を抽(ぬきん)で候(さうらひ)き。某(それがし)又先年武蔵野の御合戦の時、御方(みかた)に参て忠戦致し候(さうらひ)し条、定(さだめ)て思召(おぼしめし)忘(わすれ)候はじ。其(その)後は世の転変(てんぺん)度々(どど)に及て、御座(ござの)所をも存知仕(ぞんぢつかまつ)らで候(さうらひ)つる間、無力暫(しばら)くの命を助(たすけ)て御代(みよ)を待(まち)候はん為に、畠山禅門に属(しよく)して候(さうらひ)つるが、心中の趣(おもむき)気色に顕(あらは)れ候(さうらひ)けるに依て、差(さし)たる罪科(ざいくわ)とも覚へぬ事に一所懸命の地を没収(もつしゆ)せらる。結句(けつく)可討なんどの沙汰に及び候(さうらひ)し間、則(すなはち)武蔵(むさし)の御陣を逃(にげ)出て、当時は深山幽谷(しんざんいうこく)に隠れ居たる体(てい)にて候。某(それがし)が此(この)間の不義をだに御免あるべきにて候はゞ、御内(みうちに)奉公の身と罷(まかり)成(なり)候(さうらひ)て、自然の御大事(おんだいじ)には御命に替(かは)り進(まゐら)せ候べし。」と、苦(ねんごろ)にぞ申入たりける。兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)是(これ)を聞給て、暫(しばらく)は申(まうす)所誠(まこと)しからずとて見参をもし給はずして、密儀(みつぎ)なんどを被知事も無(なか)りければ、竹沢尚(なほ)も心中の偽(いつは)らざる処を顕(あらは)して近付(ちかづき)奉らんため、京都へ人を上せ、ある宮の御所より少将殿と申(まうし)ける上臈女房の、年十六七(じふろくしち)許(ばかり)なる、容色(ようしよく)無類、心様(こころさま)優(いう)にやさしく坐(おはし)けるを、兔角(とかく)申(まうし)下して、先(まづ)己(おのれ)が養君(やうくん)にし奉り、御装束(しやうぞく)女房達(にようばうたち)に至(いたる)まで、様々(さまざま)にし立て潜(ひそか)に兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)の方へぞ出したりける。義興元来(もとより)好色(かうしよく)の心深かりければ、無類思通(おもひかよは)して一夜(いちや)の程の隔(へだて)も千年を経(へ)る心地に覚(おぼえ)ければ、常の隠家(かくれが)を替(かへ)んともし給はず、少し混(ひたた)けたる式(しき)にて、其方様(そのかたざま)の草のゆかりまでも、可心置事とは露許(ばかり)も思(おもひ)給はず。誠(まこと)に褒■(ほうじ)一たび笑(ゑん)で幽王(いうわう)傾国、玉妃(ぎよくひ)傍(かたはら)に媚(こび)て玄宗失世給(たまひ)しも、角(かく)やと被思知たり。されば太公望が、好利者与財珍迷之、好色者与美女惑之と、敵を謀(はか)る道を教(をしへ)しを不知けるこそ愚かなれ。角(かく)て竹沢奉公の志(こころざし)切(せつ)なる由を申けるに、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)早(はや)心打解(うちとけ)て見参し給ふ。軈(やが)て鞍置(おき)たる馬三疋(さんびき)、只今(ただいま)威(をど)し立てたる鎧(よろひ)三領、召替への為とて引進(ひきまゐら)す。是(これ)のみならず、越後より著(つ)き纏(まとひ)奉て此彼(ここかしこ)に隠居(かくれゐ)たる兵共(つはものども)に、皆一献(いつこん)を進(すす)め、馬・物具(もののぐ)・衣裳・太刀・々(かたな)に至(いたる)まで、用々に随て不漏是(これ)を引(ひき)ける間、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)も竹沢を異于也(なり)。思(おもひ)をなされ、傍輩(はうばい)共(ども)も皆是(これ)に過(すぎ)たる御要人(ごえうにん)不可有と悦ばぬ者は無(なか)りけり。加様(かやう)に朝夕宮仕(みやづかひ)の労(らう)を積み昼夜無二(むに)の志を顕(あらはし)て、半年計(ばかり)に成(なり)にければ、佐殿今は何事に付ても心を置(おき)給はず、謀反(むほん)の計略、与力(よりき)の人数、一事(いちじ)も不残、心底(しんてい)を尽(つくし)て被知けるこそ浅猿(あさまし)けれ。九月十三夜は暮天(ぼてん)雲晴(はれ)て月も名にをふ夜を顕はしぬと見へければ、今夜明月の会(くわい)に事を寄(よせ)て佐殿を我館(わがたち)へ入れ奉り、酒宴の砌(みぎり)にて討(うち)奉らんと議(ぎ)して、無二の一族(いちぞく)若党(わかたう)三百(さんびやく)余人(よにん)催(もよほ)し集め、我館(わがたち)の傍(かたはら)にぞ篭置(こめおき)ける。日暮(くれ)ければ竹沢急ぎ佐殿に参て、「今夜は明月の夜にて候へば、乍恐私(わたくし)の茅屋(ばうをく)へ御入(おんいり)候(さふらひ)て、草深き庭の月をも御覧候へかし。御内(みうち)の人々をも慰め申(まうし)候はん為に、白拍子共少々召(めし)寄(よせ)て候。」と申(まうし)ければ、「有興遊(あそび)ありぬ。」と面々に皆悦(よろこび)て、軈(やが)て馬に鞍置(おか)せ、郎従共召集(めしあつめ)て、已(すで)に打出(いで)んとし給(たまひ)ける処に、少将の御局よりとて佐殿へ御消息(ごせうそく)あり。披(ひらい)て見給へば、「過(すぎ)し夜の御事(おんこと)を悪(あし)き様なる夢に見進(まゐらせ)て候(さうらひ)つるを、夢説(ゆめとき)に問(とひ)て候へば、重き御慎(おんつつしみ)にて候。七日が間は門の内を不可有御出(おんいで)と申(まうし)候也(なり)。御心(おんこころ)得候べし。」とぞ被申たりける。佐殿是(これ)を見給て、執事(しつじ)井(ゐの)弾正を近付(ちかづけ)て、「如何(いかが)可有。」と問(とひ)給へば、井(ゐの)弾正、「凶(きよう)を聞て慎(つつし)まずと云(いふ)事や候べき。只(ただ)今夜の御遊(ぎよいう)をば可被止とこそ存(ぞんじ)候へ。」とぞ申(まうし)ける。佐殿げにもと思(おもひ)給(たまひ)ければ、俄(にはか)に風気(ふうき)の心地有(あり)とて、竹沢をぞ被帰ける。竹沢は今夜の企(くはたて)案に相違して、不安思(おもひ)けるが、「抑(そもそも)佐(すけ)殿(どの)の少将の御局の文を御覧じて止(とどま)り給(たまひ)つるは、如何様(いかさま)我企(わがくはたて)を内々(ないない)推(すゐ)して被告申たる者也(なり)。此女姓(このによしやう)を生(いけ)て置ては叶(かなふ)まじ。」とて、翌(あけ)の夜潜(ひそか)に少将の局を門へ呼(よび)出奉て、差殺して堀の中にぞ沈(しづ)めける。痛(いたはしい)乎(かな)、都をば打続きたる世の乱(みだれ)に、荒(あれ)のみまさる宮の中に、年経(へ)て住(すみ)し人々も、秋の木葉(このは)の散々(ちりぢり)に、をのが様々(さまざま)に成(なり)しかば、憑(たの)む影なく成(なり)はてゝ、身を浮草(うきくさ)の寄(よる)べとは、此(この)竹沢をこそ憑(たのみ)給ひしに、何故(なにゆゑ)と、思(おもひ)分(わき)たる方もなく、見てだに消(きえ)ぬべき秋の霜の下に伏(ふし)て、深き淵に沈(しづめ)られ給ひける今はの際(きは)の有様を、思遣(おもひやる)だに哀(あはれ)にて、外(よそ)の袖さへしほれにけり。其(その)後より竹沢我(わが)力にては尚(なほ)討(うち)得じと思ひければ、畠山殿の方へ使を立て、「兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)の隠れ居られて候所をば委細(ゐさい)に存知仕(つかまつつ)て候へ共、小勢にては打漏(うちもら)しぬと覚へ候。急(いそぎ)一族(いちぞく)にて候江戸遠江守(とほたふみのかみ)と下野守とを被下候へ。彼等(かれら)に能々(よくよく)評定(ひやうぢやう)して討(うち)奉(たてまつり)候はん。」とぞ申(まうし)ける。畠山大夫入道(たいふにふだう)大に悦(よろこび)て、軈(やが)て江戸遠江守(とほたふみのかみ)と其甥(そのをひ)下野(しもつけの)守(かみ)を被下けるが、討手を下す由兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)伝(つたへ)聞かば、在所(ざいしよ)を替(かへ)て隔(へだつ)る事も有(あり)とて、江戸伯父甥が所領、稲毛(いなげ)の庄(しやう)十二郷(じふにがう)を闕所(けつしよ)になして則(すなはち)給人(きふにん)をぞ被付ける。江戸伯父甥大に偽(いつは)り忿(いかつ)て、軈(やが)て稲毛の庄へ馳下り、給人を追出(して)城郭(じやうくわく)を構(かま)へ、一族(いちぞく)以下の兵五百(ごひやく)余騎(よき)招(まねき)集(あつめ)て、「只(ただ)畠山殿に向ひ一矢射て討死せん。」とぞ罵(ののし)りける。程経て後、江戸遠江守(とほたふみのかみ)、竹沢右京(うきやうの)亮(すけ)を縁(えん)に取て兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)に申けるは、「畠山殿無故懸命の地を没収(もつしゆ)せられ、伯父甥共に牢篭(らうろう)の身と罷(まかり)なる間、力不及一族共(いちぞくども)を引卒(いんぞつ)して、鎌倉殿(かまくらどの)の御陣に馳向(はせむか)ひ、畠山殿に向て一矢射んずるにて候。但(ただし)可然大将を仰(あふぎ)奉らでは、勢の著(つ)く事有(ある)まじきにて候へば、佐殿を大将に憑(たのみ)奉らんずるにて候。先(まづ)忍(しのび)て鎌倉(かまくら)へ御越(おんこし)候へ。鎌倉中(かまくらぢゆう)に当家の一族(いちぞく)いかなりとも二三千騎(にさんぜんぎ)も可有候。其(その)勢を付て相摸(さがみの)国(くに)を打随(うちしたが)へ、東(とう)八箇国(はちかこく)を推(おし)て天下を覆(くつがへ)す謀(はかりこと)を運(めぐ)らし候はん。」と、誠(まこと)に容易(たやす)げにぞ申たりける。さしも志深き竹沢が執(しつし)申(まうす)なれば、非所疑憑(たのま)れて、則(すなはち)武蔵・上野・常陸・下総の間に、内々与力(よりき)しつる兵どもに、事の由(よし)を相触(あひふれ)て、十月十日の暁に兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)は忍(しのん)で先(まづ)鎌倉(かまくら)へとぞ被急ける。江戸・竹沢は兼(かね)て支度(したく)したる事なれば、矢口(やぐち)の渡りの船の底を二所(ふたところ)えり貫(ぬい)て、のみを差(さ)し、渡の向(むかふ)には宵(よひ)より江戸遠江守(とほたふみのかみ)・同下野(しもつけの)守(かみ)、混物具(ひたもののぐ)にて三百(さんびやく)余騎(よき)、木の陰(かげ)岩の下に隠(かくれ)て、余る所あらば討(うち)止めんと用意(ようい)したり。跡には竹沢右京(うきやうの)亮(すけ)、究竟(くつきやう)の射手(いて)百五十人(ひやくごじふにん)勝(すぐつ)て、取て帰されば遠矢(とほや)に射殺さんと巧(たくみ)たり。「大勢にて御(おん)通(とほ)り候はゞ人の見尤(みとが)め奉る事もこそ候へ。」とて、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)の郎従共をば、兼(かね)て皆抜々(ぬけぬけ)に鎌倉(かまくら)へ遣(つかは)したり。世良田(せらだ)右馬助(うまのすけ)・井(ゐの)弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)・大島周防(すはうの)守(かみ)・土肥(とひの)三郎佐衛門・市河五郎・由良(ゆら)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・同新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)・南瀬口(みなせくち)六郎(ろくらう)僅(わづか)に十三人(じふさんにん)を打連(うちつれ)て、更(さら)に他人をば不雑、のみを差(さし)たる船にこみ乗(のり)て、矢口(やぐちの)渡(わたり)に押出す。是(これ)を三途(さんづ)の大河(たいが)とは、思(おもひ)寄(よら)ぬぞ哀(あはれ)なる。倩(つらつら)是(これ)を譬(たと)ふれば、無常の虎に追(おは)れて煩悩(ぼんなう)の大河を渡れば、三毒(さんどく)の大蛇(だいじや)浮(うかび)出て是(これ)を呑(のま)んと舌を暢(の)べ、其餐害(そのざんがい)を遁(のがれ)んと岸の額(ひたひ)なる草の根(ね)に命を係(かけ)て取(とり)付(つき)たれば、黒白二(ふたつ)の月の鼠が其(その)草の根をかぶるなる、無常の喩(たと)へに不異。此(この)矢口の渡(わたり)と申(まうす)は、面(おもて)四町(しちやう)に余(あま)りて浪嶮(けはし)く底深し。渡し守(も)り已(すで)に櫓を押て河の半(なか)ばを渡る時、取はづしたる由にて、櫓(ろ)かいを河に落(おと)し入れ、二(ふたつ)ののみを同時に抜(ぬき)て、二人(ににん)の水手同じ様に河にかは/\と飛(とび)入て、うぶに入てぞ逃去(にげさり)ける。是(これ)を見て、向の岸より兵四五百騎(しごひやくき)懸出て時をどつと作れば、跡より時を合せて、「愚(おろか)なる人々哉(かな)。忻(たばか)るとは知(しら)ぬか。あれを見よ。」と欺(あざむい)て、箙(えびら)を扣(たたい)てぞ笑(わらひ)ける。去(さる)程(ほど)に水船に涌(わき)入て腰中許(こしなかばかり)に成(なり)ける時、井(ゐの)弾正、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)を抱(いだき)奉て、中(ちう)に差揚(さしあげ)たれば、佐殿、「安からぬ者哉(かな)。日本一(につぽんいち)の不道人(ふたうじん)共(ども)に忻(たばか)られつる事よ。七生(しちしやう)まで汝等(なんぢら)が為に恨(うらみ)を可報者を。」と大に忿(いかつ)て腰の刀を抜き、左の脇より右のあばら骨まで掻回(かきまはし)々々(かきまはし)、二刀(ふたかたな)まで切(きり)給ふ。井(ゐの)弾正腸(はらわた)を引切て河中へかはと投(なげ)入れ、己(おのれ)が喉笛(のどぶえ)二所(ふたところ)さし切て、自(みづか)らかうづかを掴(つか)み、己(おのれ)が頚を後(うし)ろへ折(を)り付(つく)る音、二町(にちやう)許(ばかり)ぞ聞へける。世良田右馬助(うまのすけ)と大島周防(すはうの)守(かみ)とは、二人(ににん)刀を柄口(つかぐち)まで突違(つきちがへ)て、引組(ひつくん)で河へ飛入る。由良兵庫(ひやうごの)助(すけ)・同新左衛門(しんざゑもん)は舟の艫舳(ともへ)に立(たち)あがり、刀を逆手(さかて)に取直して、互(たがひ)に己(おのれ)が頚を掻落す。土肥(とひの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)・南瀬口(みなせくち)六郎(ろくらう)・市河五郎三人(さんにん)は、各(おのおの)袴(はかま)の腰(こし)引(ひき)ちぎりて裸(はだか)に成(なり)、太刀を口えくわへて、河中に飛(とび)入(いり)けるが、水の底を潜(くぐり)て向の岸へかけあがり、敵三百騎(さんびやくき)の中へ走(はしり)入り、半時計(はんじばかり)切(きり)合(あひ)けるが、敵五人(ごにん)打取り十三人(じふさんにん)に手負(ておほ)せて、同(おなじ)枕に討(うた)れにけり。其(その)後水練(すゐれん)を入(いれ)て、兵衛(ひやうゑの)左(すけ)殿(どの)並(ならび)に自害討死の頚十三求(もとめ)出し、酒に浸(ひた)して、江戸遠江守(とほたふみのかみ)・同下野(しもつけの)守(かみ)・竹沢右京(うきやうの)亮(すけ)五百(ごひやく)余騎(よき)にて、左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)の御坐(おはします)武蔵(むさし)の入間(いるま)河の陣へ馳(はせ)参(まゐる)。畠山入道不斜(なのめならず)悦(よろこび)て、小俣(をまた)少輔(せう)次郎・松田・河村を呼(よび)出して此(これ)を被見に、「無子細兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)にて御坐(おは)し候(さふらひ)けり。」とて、此(この)三四年が先に、数日(すじつ)相馴(あひなれ)奉(たてまつり)し事共(ことども)申(まうし)出て皆泪(なみだ)をぞ流しける。見る人悦(よろこび)の中に哀(あはれ)添(そう)て、共に袖をぞぬらしける。此(この)義興と申(まうす)は、故新田左中将(さちゆうじやう)義貞の思ひ者の腹に出来たりしかば、兄越後(ゑちごの)守(かみ)義顕(よしあき)が討(うた)れし後も、親父(しんぶ)猶(なお)是(これ)を嫡子(ちやくし)には不立、三男(さんなん)武蔵守(むさしのかみ)義宗を六歳(ろくさい)の時より昇殿(しやうでん)せさせて時めきしかば、義興は有(ある)にも非(あら)ず、孤(みなしご)にて上野(かうづけの)国(くに)に居たりしを、奥州(あうしう)の国司顕家卿、陸奥(むつの)国(くに)より鎌倉(かまくら)へ責(せめ)上る時、義貞に志ある武蔵・上野の兵共(つはものども)、此(この)義興を大将に取立て、三万(さんまん)余騎(よき)にて奥州(あうしう)の国司に力を合(あは)せ、鎌倉(かまくら)を責(せめ)落(おと)して吉野へ参じたりしかば、先帝叡覧有て、「誠(まこと)に武勇(ぶよう)の器用(きよう)たり。尤(もつとも)義貞が家をも可興者也(なり)。」とて、童名(わらべな)徳寿丸(とくじゆまる)と申(まうし)しを、御前(おんまへ)にて元服(げんぶく)させられて、新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)とぞ召(めさ)れける。器量(きりやう)人に勝(すぐ)れ謀(はかりこと)巧(たくみ)に心飽(あく)まで早かりしかば、正平七年の武蔵野の合戦、鎌倉(かまくら)の軍にも大敵を破り、万卒(ばんそつ)に当る事、古今未(いまだ)聞(きかざる)処多し。其(その)後身を側(そば)め、只二三人(にさんにん)武蔵・上野の間に隠れ行(ありき)給ひし時、宇都宮(うつのみや)の清党(せいのたう)が、三百(さんびやく)余騎(よき)にて取篭(とりこめ)たりしも不討得。其振舞(そのふるまひ)恰(あたか)も天を翔(かけり)地を潜(くぐ)る術(じゆつ)ありと、怪(あやし)き程の勇者(ようしや)なりしかば、鎌倉(かまくら)の左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)も、京都の宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)も、安き心地をばせざりつるに、運命窮(きはま)りて短才庸愚(たんさいようぐ)の者共(ものども)に忻(たばか)られ、水に溺(おぼ)れて討(うた)れ給ふ。懸(かか)りし程に江戸・竹沢が忠功抜群(ばつくん)也(なり)とて、則(すなはち)数箇所(すかしよ)の恩賞をぞ被行ける。「あはれ弓矢の面目哉(かな)。」と是(これ)を羨(うらや)む人もあり、又、「涜(きたな)き男の振舞(ふるまひ)哉(かな)。」と爪弾(つまはじき)をする人もあり。竹沢をば猶(なほ)も謀反与同(よとう)の者共(ものども)を委細(ゐさい)に尋(たづね)らるべしとて、御陣に被留置、江戸二人(ににん)には暇(いとま)たびて恩賞の地へぞ下されける。江戸遠江守(とほたふみのかみ)喜悦(きえつ)の眉(まゆ)を開て、則(すなはち)拝領の地へ下向しけるが、十月二十三日(にじふさんにち)の暮程に、矢口の渡(わたり)に下居(おりゐ)て渡の舟を待(まち)居たるに、兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)を渡し奉(たてまつり)し時、江戸が語らひを得て、のみを抜(ぬい)て舟を沈(しづ)めたりし渡守(わたしもり)が、江戸が恩賞給て下ると聞て、種々の酒肴(さかな)を用意(ようい)して、迎(むかひ)の舟をぞ漕(こぎ)出しける。此(この)舟已(すで)に河中を過(すぎ)ける時、俄(にはか)に天掻曇(かきくも)りて、雷(いかづち)鳴(なり)水嵐(すゐらん)烈(はげし)く吹漲(ふきみなぎ)りて、白波舟を漂(ただよ)はす、渡守周章騒(あわてさわい)で、漕戻(こぎもどさ)んと櫓(ろ)を押(おし)て舟を直しけるが、逆巻(さかまく)浪に打返されて、水手梶取(かんとり)一人も不残、皆水底(みなそこ)に沈(しづ)みけり。天の忿(いかり)非直事是(これ)は如何様(いかさま)義興の怨霊(をんりやう)也(なり)と、江戸遠江守(とほたふみのかみ)懼(おそれ)をのゝきて、河端(かはばた)より引返(ひつかへし)、余(よ)の処をこそ渡さめとて、此(これ)より二十(にじふ)余町(よちやう)ある上(かみ)の瀬(せ)へ馬を早めて打(うち)ける程に、電行(でんかう)前(さき)に閃(ひらめい)て、雷(いかづち)大に鳴霆(なりはた)めく、在家(ざいけ)は遠し日は暮(くれ)ぬ。只今(ただいま)雷神(らいしん)に蹴殺(けころ)されぬと思ひければ、「御助(おんたすけ)候へ兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)。」と、手を合(あは)せ虚空(こくう)を拝して逃(にげ)たりけるが、とある山の麓なる辻堂を目に懸(かけ)て、あれまでと馬をあをりける処に、黒雲(くろくも)一村(ひとむら)江戸が頭(かうべ)の上に落さがりて、雷電(らいでん)耳の辺に鳴閃(なりひら)めきける間、余(あま)りの怖(おそろし)さに後(うし)ろを屹(きつ)と顧(かへりみ)たれば、新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興、火威(ひをどし)の鎧に竜頭(たつがしら)の五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を)を縮(しめ)て、白栗毛なる馬の、額(ひたひ)に角(つの)の生(はえ)たるに乗(のり)、あひの鞭(むち)をしとゝ打(うち)て、江戸を弓手の物になし、鐙(あぶみ)の鼻に落(おち)さがりて、わたり七寸(しちすん)許(ばかり)なる雁俣(かりまた)を以て、かひがねより乳(ち)の下へ、かけずふつと射とをさるゝと思(おもひ)て、江戸馬より倒(さかさま)に落(おち)たりけるが、やがて血を吐(は)き悶絶僻地(もんぜつびやくぢ)しけるを、輿(こし)に乗(のせ)て江戸が門へ舁著(かきつけ)たれば、七日が間足手をあがき、水に溺(おぼれ)たる真似(まね)をして、「あら難堪や、是(これ)助けよ。」と、叫び死(じに)に死(しに)にけり。有為(うゐ)無常の世の習(ならひ)、明日を知(しら)ぬ命の中に、僅(わづか)の欲(よく)に耽(ふけ)り情なき事共(ことども)を巧(たく)み出し振舞(ふるまひ)し事、月を阻(へだて)ず因果歴然(いんぐわれきぜん)乍(たちまち)に身に著(つき)ぬる事、是(これ)又未来永劫(みらいやうごふ)の業障(ごふしやう)也(なり)。其(その)家に生(うま)れて箕裘(ききう)を継(つぎ)弓箭(ゆみや)を取(とる)は、世俗の法(はふ)なれば力なし。努々(ゆめゆめ)人は加様(かやう)の思(おもひ)の外(ほか)なる事を好み翔(ふるま)ふ事有(ある)べからず。又其翌(そのあけ)の夜の夢に、畠山大夫(たいふ)入道殿(にふだうどの)の見給ひけるは、黒雲(くろくも)の上に大鼓(たいこ)を打て時を作る声しける間、何者(なにもの)の寄(よせ)来るやらんと怪(あやし)くて、音する方を遥(はるか)に見遣(みやり)たるに、新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興、長(たけ)二丈(にぢやう)許(ばかり)なる鬼に成(なり)て、牛頭(ごづ)・馬頭(めづ)・阿放(あはう)・羅刹(らせつ)共(ども)十(じふ)余人(よにん)前後に随(したが)へ、火(ひの)車(くるま)を引て左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)のをはする陣中(ぢんちゆう)へ入(いる)と覚へて、胸打騒(うちさわぎ)て夢覚(さめ)ぬ。禅門夙(つと)に起(おき)て、「斯(かか)る不思議(ふしぎ)の夢をこそ見て候へ。」と、語り給ひける言(こと)ばの未(いまだ)終(はて)ざるに、俄(にはか)に雷火(らいくわ)落懸り、入間河(いるまがは)の在家(ざいけ)三百(さんびやく)余宇(よう)、堂舎(だうしや)仏閣数十箇所(すじつかしよ)、一時に灰燼(くわいじん)と成(なり)にけり。是(これ)のみならず義興討(うた)れし矢口の渡(わたり)に、夜々(よなよな)光(ひかり)物出来て往来(わうらい)の人を悩(なやま)しける間、近隣(きんりん)の野人村老(やじんそんらう)集(あつまつ)て、義興の亡霊(ばうれい)を一社(いつしや)の神に崇(あが)めつゝ、新田(につた)大明神(だいみやうじん)とて、常盤堅盤(ときはかきは)の祭礼、今に不絶とぞ承(うけたまは)る。不思議(ふしぎ)なりし事共(ことども)なり。


太平記(国民文庫)
太平記巻第三十四

○宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどのに)賜将軍宣旨事(こと) S3401
鎌倉(かまくら)贈(ぞう)左大臣尊氏公薨(こう)じ給(たまひ)し刻(きざみ)、世の危(あやぶむ)事、深淵(しんえん)に臨(のぞん)で薄氷(はくひよう)を蹈(ふむ)が如(ごとく)にして、天下今に反覆(はんぷく)しぬと見へける処に、是(これ)ぞ誠(まこと)に武家の棟梁(とうりやう)共(とも)成(なり)ぬべき器用(きよう)と見へし新田兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)義興は、武蔵(むさしの)国(くに)にて討れぬ。去年まで筑紫九国を打順(うちしたが)へたりし菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光も、小弐(せうに)・大伴が翻(ひるがへつ)て敵に成(なり)し後は勢(いきほ)ひ少く成(なり)ぬと聞へしかば、宮方(みやがた)の人々は月を望むには暁の雲に逢へるが如く、あらまほしき天に悲(かなしみ)あつて、意に叶はぬ世のうさを歎(なげき)ければ、将軍方(しやうぐんがた)の武士共(ぶしども)は、樹(うゑき)を移(うつし)て春(はる)の花を看(みる)が如く、危き中にも待(まつ)事多(おほく)して、今は何事か可有と悦ばぬ人も無(なか)りけり。去(さる)程(ほど)に延分三年十二月十八日、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)、二十九歳にて征夷将軍に成(なり)給ふ。日野(ひのの)左中弁時光を勅使(ちよくし)にて宣旨を下されければ、佐々木(ささきの)太郎判官秀詮(ひであきら)を以て宣旨を請取(うけとり)奉る。天下の武功に於ては申(まうす)に不及といへども、相続(さうぞく)して二代忽(たちまち)に将軍の位に備(そなは)り給ふ、目出(めでた)かりし世の様(ため)し也(なり)。抑(そもそも)此比(このごろ)将軍家に於て、我に増(まし)たる忠の者あらじと擘(ただむき)を振ふ輩(ともがら)多き中に、秀詮(ひであきら)宣旨を請(うけ)取(とり)奉る面目身に余る。其(その)故を聞(きけ)ば、祖父佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)、去(さる)元弘の始(はじめ)、相摸(さがみ)入道(にふだう)が振舞(ふるまひ)悪逆無道(ぶだう)にして武運已(すで)に傾(かたぶく)べき時至(いたり)ぬとや見たりけん。平家を討て代(よ)を知(しり)給へと頻(しきり)に将軍を進め申せしが、果(はた)して六波羅(ろくはら)、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の為に亡(ほろ)びにき。然共(しかれども)四海(しかい)尚(なほ)乱(みだれ)て二十(にじふ)余年(よねん)、其(その)間に名を高くせし武士共(ぶしども)、宮方(みやがた)に参らば又将軍方(しやうぐんがた)に降(くだ)り、高倉禅門に属(しよく)するかと見れば右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬に与力(よりき)し、見を一偏(いつぺん)に決せず、道誉(だうよ)将軍方(しやうぐんがた)にして、親類太略(たいりやく)討死す。中にも秀詮(ひであきら)が父、源三判官秀綱(ひでつな)、去(さ)る文和二年六月に山名伊豆(いづの)守(かみ)が謀叛に依て、主上(しゆしやう)帝都を去(さら)せ御座(おはしま)して、越路(こしぢ)の雲に迷(まよは)せ給ふ。爰(ここ)に新田掃部助(かもんのすけ)、山名が謀叛に節(せつ)を得て、堅田浦(かたたのうら)にて君を襲(おそひ)奉(たてまつり)し時、秀綱返し合(あは)せ命を軽(かろん)ず。其(その)間に主上(しゆしやう)延(のび)させ御座(おはしま)す事、偏(ひとへ)に秀綱が武功に依(より)て也(なり)。其(その)忠他に異(こと)也(なり)とて、秀詮(ひであきら)を撰(えらび)出されけるとぞ。是(これ)は建久の古(いにしへ)、鎌倉(かまくら)右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)頼朝(よりとも)々臣、武将に備(そなは)り給(たまひ)し時鶴岡(つるがをか)の八幡宮にて、三浦荒二郎(くわうじらう)宣旨を請(うけ)取(とり)奉りし例とぞ見へし。
○畠山道誓上洛(しやうらくの)事(こと) S3402
思(おもひ)の外に世の中閑(しづか)なるに付ても、両雄は必(かならず)争ふと云(いふ)習(ならひ)なれば、鎌倉(かまくら)の左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)と宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)との御中、何様(いかさま)不和(ふくわ)なる事出来(いでき)ぬと、人皆(みな)危(あやし)み思へり。是(これ)を聞て畠山大夫入道(たいふにふだう)々誓(だうせい)、左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)に向て申されけるは、「故左大臣殿(さだいじんどの)の御薨逝(こうせい)の後天下の人皆(みな)連枝(れんし)の御中に、始終(しじゆう)如何様(いかさま)御不快の御事(おんこと)候(さうらひ)ぬと、怪(あやし)み思(おもひ)て候なる。昔漢(かんの)高祖(かうそ)崩御(ほうぎよ)成て後、呂氏(りよし)と劉氏(りうし)と互(たがひ)に心を置合(おきあひ)て、世中(よのなか)又乱れんとしけるを、高祖(かうそ)の旧臣(きうしん)、周勃(しうぼつ)・樊会等(はんくわいら)、兵を集め勢(せい)を合(あは)せて、世を治めたりとこそ承及(うけたまはりおよび)候へ。道誓誠(まこと)に不肖(ふせう)の身にて候へ共、且(しばら)く大将の号(がう)を可有御免にて候はゞ、東国の勢を引卒(いんぞつ)して、京都へ罷(まかり)上て南方へ発向(はつかう)し、和田・楠を責(せめ)落(おと)し天下を一時に定(さだめ)て、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)の御疑(おんうたがひ)をも散じ候はゞや。」と被申ければ、左馬(さまの)頭(かみ)、「此(この)儀誠(まこと)に可然。早く東(とう)八箇国(はちかこく)の勢を催(もよほし)て、南方の敵陣へ可発向。」とぞ宣ひける。畠山(はたけやま)入道(にふだう)は、元来上に公儀を借(かつ)て、下に私の権威を貪(むさぼら)んと思へる心ありければ、先(まづ)大名共(だいみやうども)の許(もと)に行向ひ、未(いまだ)非功忠賞の厚からん事を約し、未(いまだ)親(したしま)ざるに交(まじは)りの久(ひさし)からん事を語(かたら)ひ、一日も己(おのれ)を剋(せ)め礼に復する時は天下の人民帰仁習(ならひ)なれば、東(とう)八箇国(はちかこく)の大名小名一人も不残、皆(みな)催促にぞ順(したが)ひける。此(この)上は暫(しばらく)も不可有猶予とて、延文四年十月八日、畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)、武蔵(むさし)の入間河(いるまがは)を立て上洛(しやうらく)するに、相順(あひしたが)ふ人々には、先(まづ)舎弟(しやてい)畠山尾張(をはりの)守(かみ)・其(その)弟式部(しきぶの)太輔(たいふ)、外様(とざま)には、武田(たけだの)刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)・舎弟(しやてい)信濃(しなのの)守(かみ)・逸見(へんみ)美濃(みのの)入道(にふだう)・舎弟(しやてい)刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)・同掃部助(かもんのすけ)・武田(たけだの)左京(さきやうの)亮(すけ)・佐竹刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)・河越(かはごえ)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・戸島(とじま)因幡(いなばの)入道(にふだう)・土屋(つちや)修理(しゆりの)亮(すけ)・白塩(しらしほ)入道・土屋(つちや)備前(びぜんの)入道(にふだう)・長井(ながゐ)治部(ぢぶの)少輔(せう)入道・結城(ゆふき)入道・難波(なんば)掃部(かもんの)助(すけ)・小田(をだ)讃岐守(さぬきのかみ)・小山(をやまの)一族(いちぞく)十三人(じふさんにん)・宇都宮(うつのみや)芳賀(はが)兵衛入道(ひやうゑにふだう)禅可(ぜんか)・子息伊賀(いがの)守(かみ)・高根沢(たかねざは)備中(びつちゆうの)守(かみ)・同一族(いちぞく)十一人、是等(これら)を宗徒(むねと)の大名として、坂東(ばんどう)の八平氏(はちへいじ)・武蔵(むさし)の七党(しちたう)・紀清(きせい)両党、伊豆・駿河(するが)・三河・遠江の勢(せい)馳加(はせくははり)て、都合二十万七千(にじふまんしちせん)余騎(よき)と聞へしかば、前後七十(しちじふ)余里(より)に支(ささへ)て櫛(くし)の歯を引(ひく)が如し。路次(ろし)に二十日余(あまり)の逗留(とうりう)有(あつ)て、京著(きやうちやく)は十一月二十八日(にじふはちにち)の午(うまの)刻(こく)と聞へしかば、摂政関白・月卿(げつけい)雲客(うんかく)を始(はじめ)として、公家武家の貴賎上下、四宮河原(しのみやがはら)より粟田口(あはたぐち)まで、桟敷(さじき)を打続け、車を立双(たてなら)べて、見物の衆二行に群(ぐん)をなす。げにも聞(きき)しに不違。天下久(ひさし)く武家の一統(いつとう)と成て、富貴(ふつき)に誇(ほこ)る武士共(ぶしども)が、爰(ここ)を晴(はれ)と出立たれば、馬・物具(もののぐ)・衣裳・太刀・刀・金銀をのべ綾羅(りようら)を不飾云(いふ)事なし。中にも河越(かはごえ)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)は、余(あま)りに風情(ふぜい)を好(このん)で、引(ひき)馬三十疋(さんじつぴき)、白鞍置て引(ひか)せけるが、濃紫(こきむらさき)・薄紅(うすくれなゐ)・萌黄(もよぎ)・水色・豹文(へうもん)、色々に馬の毛を染(そめ)て、皆舎人(とねり)八人(はちにん)に引(ひか)せたり。其(その)外の大名共(だいみやうども)一勢(いつせい)一勢(いつせい)引分て、或(あるひ)は同(おなじ)毛の鎧(よろひ)著て、五百騎(ごひやくき)千騎(せんぎ)打(うつ)もあり、或(あるひ)は四尺(ししやく)五尺(ごしやく)の白太刀に、虎(とらの)皮(かは)の尻鞘(しりざや)引篭(ひきこ)め、一様(いちやう)に二振(ふたふり)帯副(はきそへ)て、百騎(ひやくき)二百騎(にひやくき)打(うつ)もあり。只(ただ)孟嘗君(まうしやうくん)が三千(さんぜん)の客悉(ことごとく)珠履(たまのくつ)をはいて春信君が富(とみ)を欺(あざむき)しも、角(かく)やと覚へて目も盻(あや)也(なり)。
○和田楠軍評定(ひやうぢやうの)事(こと)付(つけたり)諸卿分散(ぶんさんの)事(こと) S3403
此比(このころ)吉野の新帝は、河内(かはちの)天野(あまの)と云(いふ)処を皇居(くわうきよ)にて御座(ござ)有(あり)ければ、楠左馬(さまの)頭(かみ)正儀(まさよし)・和田和泉(いづみの)守(かみ)正武(まさたけ)二人(ににん)、天野(あまの)殿(どの)に参じて奏聞しけるは、「畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)東(とう)八箇国(はちかこく)の勢を卒(そつ)して二十万騎(にじふまんぎ)、已(すで)に京都に著(つき)て候なる。山陽道(せんやうだう)は播磨を限り、山陰道(せんおんだう)は丹波を堺(さか)ひ、東海・東山・南海・北陸道(ほくろくだう)の兵、数を尽して上洛(しやうらく)仕り候なれば、敵の勢(せい)は定(さだめ)て雲霞(うんか)の如くにぞ候覧(らん)。但(ただし)於合戦は、決定(けつぢやう)御方(みかた)の勝とこそ料簡(れうけん)仕て候へ。其故(そのゆゑ)は、軍に三の謀(はかりこと)候べし。所謂(いはゆる)天の時・地の利・人の和(くわ)にて候。此(この)内一も違(たが)ふ時は、勢ありと云(いへ)共(ども)、勝(かつ)事を不得とこそ見へて候へ。先(ま)づ天の時に付て勘(かんがへ)候へば、明年よりは大将軍(だいじやうぐん)西に在(あり)て東よりは三年塞(ふさがり)たり。畠山冬至(とうじ)以後、東国を立て罷(まかり)上て候。是(これ)已(すで)に天の時に違(たがは)れ候はずや。次に地の利に付て案じ候に、御方(みかた)の陣、後(うしろ)は深山に連(つらなつ)て敵案内を不知、前に大河流(ながれ)て僅なる橋一(ひとつ)を路とせり。さ候へば、元弘の千盤屋(ちはや)の軍は中々不及申に。其(その)後建武の乱より以来(このかた)、細河帯刀(たてわき)・同陸奥(むつの)守(かみ)顕氏・山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直・同越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)、今の畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)に至るまで、已(すで)に六箇度(ろくかど)此(この)処へ寄(よせ)て、猛勢(まうぜい)を振(ふる)ひ戦を挑(いどみ)しに、敵の軍遂(つひ)に不利。或(あるひ)は尸(かばね)を河南(かなん)の路に曝(さら)し或(あるひ)は名を敗北(はいぼく)の陣に失ひ候き。是(これ)当山(たうざん)形勝(けいしよう)の地、要害の便(たより)を得たる故(ゆゑ)にて候。次には人の和(くわ)に付て思案を廻(めぐら)し候に、今度畠山が上洛(しやうらく)は、只勢(いきほひ)を公義に借(かつ)て忠賞を私に貪(むさぼら)んと志にて候なる。仁木・細川の一族共(いちぞくども)も彼(かれ)が権威を猜(そね)み、土岐・佐々木(ささき)が一類(いちるゐ)も其(その)忠賞を嫉(ねた)まぬ事や候べき。是(これ)又人の心の和(くわ)せぬ処にて候はずや。天地人の三徳三乍(みつなが)ら違(たが)ひ候はゞ、縦(たとひ)敵百万の勢を合(あは)せて候(さうらふ)共(とも)、恐(おそるる)に足(たら)ぬ所にて候。但(ただし)、今の皇居(くわうきよ)は余(あま)りにあさまなる処にて候へば、金剛山(こんがうせん)の奥、観心寺(くわんしんじ)と申(まうし)候処へ、御座を移し進(まゐら)せ候(さうらひ)て、正儀・正武等(まさたけら)は和泉・河内の勢(せい)を相伴(あひともな)ひ、千葉屋(ちはや)・金剛山に引篭(ひきこも)り、竜山(りゆうせん)・石川(いしかは)の辺に懸出々々(かけいでかけいで)、日々夜々に相戦(あひたたか)ひ、湯浅(ゆあさ)・山本・恩地(おんぢ)・贄河(にへかは)・野上(のがみ)・山本の兵共(つはものども)は、紀伊(きいの)国(くにの)守(かみ)護代、塩冶(えんや)中務に付て、竜門山(りゆうもんせん)・最初峰(さいしよがみね)に陣を張(はら)せ、紀伊川禿辺(かぶろへん)に野伏(のぶし)を出して、開合(ひらきあは)せ攻合(せめあは)せ、息をも継(つが)せず令戦、極めて短気なる坂東勢共(ばんどうぜいども)などか退屈せで候べき。退屈して引返す者ならば、勝(かつ)に乗て追懸け、敵を千里の外に追散し、御運を一時に可開。是(これ)庶幾(そき)する処の合戦也(なり)。」と、事もなげにぞ申(まうし)ける。主上(しゆしやう)を始(はじめ)進(まゐら)せて近侍(きんじ)の月卿(げつけい)雲客(うんかく)に至るまで、皆憑(たの)もしき事にぞ思食(おぼしめし)ける。さらば軈(やが)て観心寺へ皇居(くわうきよ)を移し進(まゐ)らすべしとて臨幸なるに、無用(むよう)ならん人々を、そゞろに召具(めしぐ)させ給(たまふ)べからずと申(まうし)ける間、げにもとて伝奏(てんそう)の上卿(しやうきやう)両三人(さんにん)・奉行の職事(しきじ)一両輩(いちりやうはい)・護持僧(ごぢそう)二人(ににん)・衛府(ゑふの)官四五人(しごにん)許(ばかり)を召具せられ、此(この)外は何地(いづち)へも暫(しばら)く落忍(おちしのび)て、御敵(おんてき)退散(たいさん)の時を可待と被仰出ければ、摂政関白・太政大臣(だいじやうだいじん)・左右の大将・大中納言(だいちゆうなごん)・七弁(しちべん)・八史・五位・六位・後宮(こうきゆう)の美婦人(びふじん)・青上達部(なまかんだちめ)・内侍・更衣(かうい)・上臈女房・出世・房官に至るまで、或(あるひ)は高野(かうや)・粉川(こかは)・天河(てんのかは)・吉野・十津河(とつがは)の方に落行て、浅猿(あさまし)げなる山賎共(やまがつども)に、憂身(うきみ)を寄(よす)る人もあり、或(あるひ)は志賀の古郷(ふるさと)・奈良の都・京白河に立帰り、敵陣の中に紛(まぎ)れ居て、魂(たましひ)を消す人もあり。諸苦所因貪欲為本(とんよくゐほん)と、如来の金言、今更(いまさら)に思(おもひ)知(らるる)こそ哀(あは)れなれ。
○新将軍南方進発(しんぱつの)事(こと)付(つけたり)軍勢(ぐんぜい)狼籍(らうぜきの)事(こと) S3404
去(さる)程(ほど)に足利新征夷(しんせいい)大将軍義詮朝臣(よしあきらあつそん)、延文(えんぶん)四年十二月二十三日(にじふさんにち)都を立て、南方の大手へ向(むかひ)給ふ。相順(あひしたが)ふ人々には、先(まづ)一族(いちぞく)細川相摸守(さがみのかみ)清氏・舎弟(しやてい)左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)・同兵部太輔(たいふ)・同掃部助(かもんのすけ)・同兵部(ひやうぶの)少輔(せう)・尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)・仁木(につき)右京(うきやうの)大夫(たいふ)・舎弟(しやてい)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・同右馬助(うまのすけ)・一色左京(さきやうの)大夫(たいふ)・今河上総(かづさの)介(すけ)・子息左馬(さまの)助(すけ)・舎弟(しやてい)伊予(いよの)守(かみ)、他家には、土岐(とき)大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)善忠(ぜんちゆう)・舎弟(しやてい)美濃(みのの)入道(にふだう)・同出羽(ではの)入道(にふだう)・同宮内(くないの)少輔(せう)・同小宇津(こうつ)美濃(みのの)守(かみ)・同高山(たかやま)伊賀(いがの)守(かみ)・同小里(をさと)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・同猿子(ましこ)右京(うきやうの)亮(すけ)・厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)・同蜂屋(はちや)近江(あふみの)守(かみ)・同左馬(さまの)助(すけ)義行(よしゆき)・同今峰(いまみね)駿河(するがの)守(かみ)・同舟木(ふなき)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・同明智(あけち)下野(しもつけの)入道(にふだう)・同戸山(とやま)遠江守(とほたふみのかみ)・同修理(しゆりの)亮(すけ)頼行(よりゆき)・同出羽(ではの)守(かみ)頼世(よりよ)・同刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)頼近(よりちか)・同飛弾(ひだの)伊豆(いづの)入道(にふだう)・佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)信詮(のぶのり)・佐佐木六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・舎弟(しやてい)山内(やまのうち)判官・河野(かうのの)一族(いちぞく)・赤松筑前(ちくぜんの)入道(にふだう)世貞(せいてい)・舎弟(しやてい)帥(そつの)律師(りつし)則祐(そくいう)・甥(をひの)大夫(たいふ)判官(はうぐわん)光範(みつのり)・舎弟(しやてい)信濃(しなのの)五郎直頼(なほより)・同彦五郎範実(のりざね)・諏防(すはの)信濃(しなのの)守(かみ)・禰津(ねつの)小次郎・長尾(ながを)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)・浅倉(あさくら)弾正、此等(これら)を始(はじめ)として、都合其(その)勢七万(しちまん)余騎(よき)、大島・渡辺・尼崎(あまがさき)・鳴尾(なるを)・西宮(にしのみや)に居余て、堂宮(だうみや)までも充満(みちみち)たり。畠山大夫入道(たいふにふだう)々誓(だうせい)は搦手(からめて)の大将として、東(とう)八箇国(はちかこく)の勢二十万騎(にじふまんぎ)引卒(いんそつ)して、翌日の辰(たつの)刻(こく)に都を立て、八幡の山下(さんげ)・真木(まき)・葛葉(くずは)に陣を取(とる)。是(これ)は大手の勢渡辺の橋を懸(かけ)ん時、敵若(もし)川に支(ささへ)て戦(たたかは)ば、左々良・伊駒の道を経て、敵を中に篭(こめ)んと也(なり)。大手の寄手(よせて)赤松判官光範は、摂津国(つのくに)の守護(しゆご)にて、敵陣半(なか)ば我(わが)領知を篭(こめ)たれば、人より先(さき)に渡辺の辺に、五百(ごひやく)余騎(よき)にて打寄たり。河舟百(ひやく)余艘(よさう)取寄(とりよせ)て、河の面二町(にちやう)余に引並(ひきなら)べ、柱をゆり立(たて)、もやいを入(いれ)て、上にかぶ木を敷並(しきなら)べたれば、人馬打並て渡れ共曾(かつ)て不危。和田・楠爰(ここ)に馳向て、手痛く一合戦(ひとかつせん)せんずらんと、人皆思ひて控(ひかへ)たりけれ共(ども)、如何(いか)なる深き謀(はかりこと)か有(あり)けん、敢(あへ)て河を支(ささへ)ん共せざりけり。去(さる)間大手・搦手(からめて)三十万騎(さんじふまんぎ)、同日に河より南へ打越、天王寺(てんわうじ)・安部野(あべの)・住吉(すみよし)の遠里小野(うりふの)に陣を取る。され共猶(なほ)大将宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)は河を越(こえ)不給、尼崎に轅門(ゑんもん)を堅(かたく)してをはすれば、赤松筑前入道世貞・同帥(そつの)律師(りつし)則祐は、大渡に打散て、斥候(せきこう)の備へを全(まつたう)し、仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)は、三千(さんぜん)余騎(よき)を一所に集め、西宮に陣を取て、先陣若(もし)戦(たたかひ)負(まけ)ば、荒手(あらて)に成て入替(いれかはり)、天下の大功を我(われ)一人の高名に称美(しようび)せられんとぞ儀(ぎ)せられける。南方の兵の軍立(いくさだて)、始は坂東(ばんどう)の大勢の程を聞て、「城に篭(こもつ)て戦はゞ、取巻(とりまか)れて遂(つひ)に不被責落云(いふ)事有(ある)べからず。只深山幽谷(しんざんいうこく)に走(わしり)散て敵に在所(ざいしよ)を知れず、前に有(ある)かとせば後へ抜(ぬけ)て、馬に乗(のる)かとせば野伏に成て、在々所々にて戦はんに、敵頻(しきり)に懸(かか)らば難所(なんじよ)に引懸(ひきかけ)て返(かへし)合(あは)せ、引て帰らば迹に付て追懸け、野軍(のいくさ)に敵を疲(つから)かして、雌雄(しゆう)を労兵(らうへい)の弊(つひえ)に決すべし。」と議したりけるが、東国勢の体思ふにも不似、無左右敵陣へ懸(かけ)入(いら)ん共せず、爰(ここ)に日を経、彼(かし)こに時をぞ送りける。さらば此方(こなた)も陣を前に取り、城を後(うしろ)に構へて合戦を致せとて、和田・楠は、俄(にはか)に赤坂(あかさか)の城(じやう)を拵(こしらへ)て、三百(さんびやく)余騎(よき)にて楯篭(たてごも)る。福塚(ふくづか)・川辺(かはべ)・佐々良(ささら)・当木(まさき)・岩郡(いはくに)・橋本判官以下の兵は、平石(ひらいは)の城(じやう)を構(かまへ)て、五百(ごひやく)余騎(よき)にて楯篭る。真木野(まきの)・酒辺(さかべ)・古折(ふるをり)・野原(のはら)・宇野(うの)・崎山(さきやま)・佐和(さわ)・秋山以下の兵は、八尾(やを)の城(じやう)を取り繕(つくろう)て、八百(はつぴやく)余騎(よき)にて楯篭る。此外(このほか)大和・河内・宇多(うだ)・宇智(うちの)郡(こほり)の兵千(せん)余人(よにん)をば、竜泉峯(りゆうせんがみね)に屏(へい)を塗り、櫓(やぐら)を掻(かか)せて、見(み)せ勢(ぜい)になしてぞ置たりける。去(さる)程(ほど)に寄手(よせて)は同(おなじき)二月十三日(じふさんにち)、後陣(ごぢん)の勢三万(さんまん)余騎(よき)を、住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)に入替(いれかへ)させて、後(うしろ)を心安(こころやす)く蹈(ふま)へさせ、先陣の勢二十万騎(にじふまんぎ)は、金剛山(こんがうせん)の乾(いぬゐ)に当りたる津々山(つづやま)に打上て陣を取(とる)。敵御方其(その)あはい僅(わづか)に五十(ごじふ)余町(よちやう)を隔(へだて)たり。互(たがひ)に時を待て未(いまだ)戦(たたかは)ざる処に、丹下(たんげ)・俣野(またの)・誉田(こんだ)・酒勾(さかわ)・水速(みはや)・湯浅(ゆあさ)太郎・貴志(きじ)の一族(いちぞく)五百(ごひやく)余騎(よき)、弓を弛(はづ)し甲(かぶと)を脱(ぬい)で、降人(かうにん)に成て出たりければ、津々山の人々皆勇罵(いさみののしつ)て、さればこそ敵早(はや)弱りにけり。和田・楠幾程(いくほど)か可怺と、思はぬ人も無りけり。され共未(いまだ)騎馬の兵懸合て、勝負をする程の事はなし。只(ただ)両陣互(たがひ)に野伏(のぶし)を出(いだし)合(あは)せて、矢軍(やいくさ)する事隙(ひま)なし。元来(もとより)敵は物馴(ものなれ)て、御方(みかた)は案内を知(しら)ねば、毎度(まいど)合戦に寄手(よせて)の手負(ておひ)、討(うた)るゝ事数を不知(しらず)。角(かく)ては只(ただ)和田・楠が、兼(かね)て謀(はか)る案の内(うち)に落されたる事よと云(いひ)ながら、止事(やむこと)を不得ける。去(さる)程(ほど)に始(はじめ)のほどこそ禁制(きんぜい)をも用ひけれ。兵次第(しだい)に疲れければ、神社仏閣に乱(みだれ)入て戸帳(とちやう)を下(おろ)し神宝を奪ひ合ふ。狼籍(らうぜき)手に余て不拘制止、師子(しし)・駒犬(こまいぬ)を打破(うちわつ)て薪(たきぎ)とし、仏像・経巻を売(うり)て魚鳥を買ふ。前代未聞(ぜんだいみもん)の悪行也(なり)。先年高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)師奉が、石川々原に陣を取て、楠を攻(せめ)て居たりし時、無悪不造(むあくふざう)の兵共(つはものども)が塔の九輪(くりん)を下(おろし)て、鑵子(くわんす)に鋳(い)たりし事こそ希代(きたい)の罪業(ざいごふ)哉と聞(きき)しに、是(これ)は猶(なほ)其(そ)れに百倍(ひやくばい)せり。浅猿(あさまし)といふも疎(おろか)也(なり)。「為不善于顕明之中者、人得誅之、為不善乎幽暗之中者、鬼得討之。」いへり。師泰已(すで)に是(これ)を以て亡(ほろび)き。前車の轍(てつ)未(いまだ)遠(とほからず)。畠山今是(これ)を取て不誡、後車の危(あやふ)き事在近。今度の軍(いくさ)如何様(いかさま)にも墓々(はかばか)しからじと、私語(ささや)く人も多かりけり。
○紀州竜門山(りゆうもんせん)軍(いくさの)事(こと) S3405
四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆俊(たかとし)は、紀伊(きいの)国(くに)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、紀伊(きいの)国(くに)最初峯(さいしよがみね)に陣を取てをはする由聞へければ、同四月三日、畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)が舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)義深(よしふか)を大将にて、白旗一揆(しらはたいつき)・平一揆(たひらいつき)・諏防祝部(すはのはふり)・千葉の一族(いちぞく)・杉原が一類(いちるゐ)、彼(か)れ此(こ)れ都合三万(さんまん)余騎(よき)、最初が峯へ差向(さしむけ)らる。此(この)勢則(すなはち)敵陣に相対したる和佐山(わさやま)に打上(うちあが)りて三日まで不進、先(まづ)己(おのれ)が陣を堅(かたう)して後に寄(よせ)んとする勢(いきほひ)に見へて、屏(へい)塗り櫓(やぐら)を掻(かき)ける間、是(これ)を忻(たばか)らん為に宮方(みやがた)の侍大将塩谷(しほのや)伊勢(いせの)守(かみ)、其(その)兵を引具して、最初峰(さいしよがみね)を引退て、竜門山(りゆうもんせん)にぞ篭(こも)りける。畠山が執事、遊佐(ゆさ)勘解由左衛門(かげゆざゑもん)是(これ)を見て、「すはや敵は引(ひき)けるぞ。何(いづ)くまでも追懸て、打取れ者共(ものども)。」とて馳向(はせむか)ふ。楯をも不用意、手分(てわけ)の沙汰もなく、勝(かつ)に乗る処は、げにもさる事なれ共(ども)、事の体(てい)余(あま)りに周章(あわてて)ぞ見へたりける。彼(かの)竜門山と申(まうす)は、岩(いは)竜頷(りゆうがん)に重(かさ)な(ッ)て路(みち)羊腸(やうちやう)を遶(めぐ)れり。岸は松栢(しようはく)深ければ嵐も時の声を添へ、下には小篠(こざさ)茂りて露に馬蹄(ばてい)を立(たて)かねたり。され共麓までは下(お)り合ふ敵なければ、勇む心を力にて坂中まで懸上り、一段(いちだん)平(たひら)なる所に馬を休めて、息を継(つが)んと弓杖(ゆんづえ)にすがり太刀を逆(さかさま)に突(つく)処に、軽々(かろがろ)としたる一枚楯に、靭(うつぼ)引付(ひつつけ)たる野伏共(のぶしども)千(せん)余人(よにん)、東西の尾崎(をさき)へ立渡り、如雨降散散(さんざん)に射る。三万(さんまん)余騎(よき)の兵共(つはものども)が、僅なる谷底へ沓(くつ)の子を打(うつ)たる様に引(ひか)へたる中へ、差下(さしおろし)て射こむ矢なれば、人にはづるゝは馬に当り、馬にはづるゝは人に当る。一矢(ひとや)に二人(ににん)は射らるれ共(ども)、はづるゝは更になし。進(すすん)で懸(かけ)散(ちら)さんとすれば、岩石(がんせき)前に差覆(さしおほう)て、懸上(かけのぼ)るべき便(たより)もなし。開ひて敵に合はんとすれば、南北の谷深く絶(たえ)て、梯(はし)ならでは道もなし。いかゞせんと背(せなか)をくゞめて、引(ひき)やする引かれてやあると見る処に、黄瓦毛(きかはらけ)なる馬の太く逞(たくまし)きに、紺糸(こんいと)の鎧のまだ巳(み)の剋(こく)なるを著たる武者、濃紅(こきくれなゐ)の母衣(ほろ)懸(かけ)て、四尺(ししやく)許(ばかり)に見へたる長刀の真中(まんなか)拳(にぎつ)て、馬の平頚(ひらくび)に引側(ひきそば)め、塩谷(しほのや)伊勢(いせの)守(かみ)と名乗て真前(まつさき)に進めば、野上(のがみ)・山東・貴志(きし)・山本・恩地(おんぢ)・牲河(にへかは)・志宇津(しうつ)・禿(かぶろ)の兵共(つはものども)二千(にせん)余騎(よき)、大山も崩れ鳴雷(なるかみ)の落(おつ)るが如く、喚(をめ)き叫(さけん)で懸(かけ)たりける。敵を遥(はるか)のかさに受(うけ)て、引心地(ひきごこち)付たる兵共(つはものども)なれば、なじかは一足(ひとあし)も支ふべき。手負を助けんともせず、親子の討(うた)るゝをも不顧、馬物具を脱捨(ぬぎす)て、さしも嶮(けはし)き篠原(ささはら)を、すべる共なく転(ころ)ぶ共なく、三十(さんじふ)余町(よちやう)を逃(にげ)たりける。塩谷は余(あま)りに深く長追して、馬に箭(や)三筋(さんすぢ)立(たち)、鑓(やり)にて二処つかれければ、馬の足立兼(たてかね)て、嶮岨(けんそ)なる処より真逆様(まつさかさま)に転(ころび)ければ、塩谷も五丈計(ばかり)岩崎(いはさき)より下に投(なげ)ふれければ、落付(おちつく)よりして目くれ東西に迷(まよひ)、起上(おきあがら)んとしける処を、蹈留(ふみとどまる)敵余(あまり)に多(おほき)に依て、武具(もののぐ)の迦(はづ)れ内甲(うちかぶと)を散々(さんざん)にこみければ、つゞく御方(みかた)はなし、塩谷終(つひ)に討(うた)れにけり。半時許(はんじばかり)の合戦に、生慮(いけどり)六十七人(ろくじふしちにん)、討(うた)るゝ者二百七十三人(にひやくしちじふさんにん)とぞ聞へし。其(その)外捨(すて)たる馬・物具・弓矢・太刀・刀(かたな)、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知(しらず)。其(その)中に遊佐(ゆさ)勘解由左衛門(かげゆざゑもん)が今度上洛(しやうらく)之(の)時(とき)、天下の人に目を驚かさせんとて金百両を以て作たる三尺(さんじやく)八寸(はつすん)の太刀もあり。又日本(につぽん)第一(だいいち)の太刀と聞へたる禰津(ねづ)小次郎が六尺(ろくしやく)三寸(さんずん)の丸鞘(まるさや)の太刀も捨(すて)たりけり。されば大力も高名も不覚も時の運による者也(なり)。此(この)禰津小次郎は自讃(じさん)に常に申けるは、「坂東(ばんどう)八箇国(はちかこく)に弓矢を取(とる)人、駈合(かけあひ)の時根津(ねづ)と知らで駈合(かけあは)せ太刀打違(うちちがへ)んは不知、是(これ)禰津よと知(しり)たらん者、我に太刀打(うた)んと思(おもふ)人は、恐(おそら)くは不覚(おぼえず)。」と申(まうす)程の大力の剛(かう)の者なれ共(ども)、差(さし)たる事もせで力のある甲斐(かひ)には、人より先(さき)に逃(にげ)たりけり。
○二度(ふたたび)紀伊(きいの)国(くに)軍(いくさの)事(こと)付(つけたり)住吉(すみよしの)楠折(をるる)事(こと) S3406
紀伊国の軍に寄手(よせて)若干(そくばく)討(うた)れて、今は和佐山(わさやま)の陣にも御方(みかた)怺(こら)へ難(がた)しと云(いひ)たりければ、津々山の勢も尼崎(あまがさき)の大将も、興(きよう)を醒(さま)し色を失ふ。され共仁木(につき)右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)一人は、「あらをかしやさてこそよ。哀(あはれ)同じくは津々山・天王寺(てんわうじ)・住吉(すみよし)の勢共(せいども)も皆被追散裸(はだか)に成て逃(にげ)よかし。興(きよう)ある見物せん。」とて、えつぼに入てぞ咲(わらひ)ける。是(これ)をば御方とや云(いふ)べき敵とや申(まうす)べき。難心得(こころえがたく)所存(しよぞん)也(なり)。紀伊路(きのぢ)の向陣(むかひぢん)を追(おひ)落されなば津々山とても不可怺。さらば敵の懸(かか)らぬ前(さき)に荒手(あらて)を副(そへ)て、尾張(をはりの)守(かみ)に力を付(つけ)よとて、同四月十一日、畠山式部(しきぶの)大夫(たいふ)・今河伊予(いよの)守(かみ)・細河左近(さこんの)将監(しやうげん)・土岐宮内(くないの)少輔(せう)・小原(をはら)備中(びつちゆうの)守(かみ)・佐々木(ささきの)山内(やまのうち)判官(はうぐわん)・芳賀(はが)伊賀(いがの)守(かみ)・土岐(ときの)桔梗(ききやう)一揆(いつき)・佐々木(ささきの)黄一揆(きいつき)、都合其(その)勢七千(しちせん)余騎(よき)、重(かさね)て紀伊路(きのぢ)へぞ向(むけ)られける。中にも芳賀兵衛(ひやうゑの)入道(にふだう)禅可(ぜんか)は我(わが)身は天王寺(てんわうじ)に止(とめ)られて、嫡子伊賀(いがの)守(かみ)公頼(きんより)を紀伊路へ向(むけ)られけるが、二三里が程打送て、泪(なみだ)を流(ながし)て申けるは、「東国に名ある武士多しといへ共、弓矢の道に於て指をさゝれぬは只(ただ)我等(われら)が一党也(なり)。御方の大勢先度(せんど)の合戦に打負(うちまけ)て敵に機を著(つけ)ぬれば、今度の合戦は弥(いよいよ)手痛(ていた)からんと知(しる)べし。若(も)し合戦仕違(しちがへ)て引返しなば、只(ただ)少しも違はぬ二の舞にて、敵に力を付(つく)るのみならず、殊(こと)に仁木左京(さきやうの)大夫(たいふ)に笑(わらは)れん事、我一人が恥と存(ぞんず)べし。されば此(この)軍に敵を追(おひ)落さずは、生(いき)て二度(ふたたび)我に面(おもて)を不可向。是(これ)は円覚寺(ゑんがくじ)の長老より持ち奉りし御袈裟也(なり)。是(これ)を母衣(ほろ)に懸(かけ)て、後世(ごせ)の悪業(あくごふ)を助(たすか)れ。」とて、懐(ふところ)より七条の袈裟(けさ)を取出て泣々(なくなく)公頼に与ふ。公頼庭訓(ていきん)を受(うけ)て、子細に不及と領掌(りやうじやう)して両へ別れけるが、今生の対面若(もし)是(これ)や限(かぎり)なるべきと、名残惜(をし)げに顧(かへりみ)て、互(たがひ)に泪をぞ浮(うか)めける。恩愛の道深ければ、何(いか)なる鳥獣(てうじう)さへも子を思ふ心浅からず。況乎(いはんや)於人倫乎。況乎(いはんや)於一子(いつし)乎。され共弓矢の道なれば、禅可最愛の子に向て、只(ただ)討死せよと進めける心の中こそ哀なれ。去(さる)程(ほど)に四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆俊は、重(かさね)て大勢懸(かか)る由聞へしかば、尚(なほ)本(もと)の陣にてや戦ふ、平場(ひらば)に進(すすん)でや懸合ひにすると評定有(あり)けるに、湯川(ゆかはの)庄司(しやうじ)心替(こころがは)りして後(うしろ)に旗を挙(あ)げ、熊野路(くまのぢ)より寄する共(とも)披露(ひろう)し、船をそろへて田辺(たなべ)よりあがるとも聞へければ、此(この)陣角(かく)ては如何(いか)が可有と、案じ煩(わづらう)てをはしけるを見て、大手(おほて)の一の木戸(きど)を堅めたりける越智(をち)、降人(かうにん)に成て芳賀(はが)伊賀(いがの)守(かみ)が方へ出たりける。さらでだに猛(たけ)き清党(せいのたう)、兼(かね)て父に義を被勧、今又越智(をち)に力を被著、なじかは少しも滞(とどこほ)るべき。竜門(りゆうもん)の麓へ打寄ると均(ひとし)く、楯をも不突、矢の一(ひとつ)をも不射、抜連(ぬきつ)れて責(せめ)上(のぼり)ける程に、さしもの兵と聞へし恩地(おんぢ)・牲河(にへかは)・貴志(きし)・湯浅・田辺(たなべの)別当・山本判官、半時(はんじ)も不支竜門の陣を落されて、阿瀬河(あぜがは)の城(じやう)へぞ篭(こも)りける。芳賀(はが)二度(にど)めの軍に先度の恥をぞ洗(すすぎ)ける。今は是(これ)まで也(なり)。一功(ひとこう)なす上はとて、紀州の討手伊賀(いがの)守(かみ)、無恙津々山の陣へ帰(かへり)ければ、父の禅可悦喜(えつき)して、公私(こうし)の大崇(たいそう)是(これ)に過(すぐ)るは非(あら)じとぞ申ける。四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆俊卿、竜門山の軍に打負(うちまけ)て阿瀬河へ落(おち)ぬと聞へければ、吉野の主上(しゆしやう)を始進(はじめまゐら)せて、竜顔(りようがん)に咫尺(しせき)し奉る月卿(げつけい)雲客(うんかく)、色を失ひ胆(きも)を銷(け)し給ふ。斯(かか)る処に又住吉(すみよし)の神主津守(つもりの)国(くに)久密(ひそか)に勘文(かんもん)を以て申けるは、今月十二日の午(うまの)剋に、当社の神殿鳴動(めいどう)する事良(やや)久し。其(その)後庭前(ていぜん)なる楠、不風吹中より折れて、神殿に倒れ懸る。され共枝繁(しげ)く地に支(ささへ)て、中に横はる間、社壇は無恙とぞ奏し申ける。諸卿此(この)密奏を聞て、「神殿の鳴動は凶(きよう)を示し給(たまふ)条(でう)無疑。楠今官軍(くわんぐん)の棟梁(とうりやう)たり。楠倒(たふ)れば誰か君を擁護(おうご)し奉るべき。事皆不吉(ふきつ)の表事(へうじ)也(なり)。」と、私語(ささや)き合(あは)れけるを、大塔(おほたふの)忠雲僧正(そうじやう)不聞敢被申けるは、「好事(かうじ)も不如無と申(まうす)事候へば、まして此(この)事吉事なるべしとは難申。但(ただし)神凶(きよう)を告(つげ)給ふは、天未捨(いまだすてざる)者也(なり)。其(その)故は後漢(ごかん)の光武の昔、庭前(ていぜん)なる槐木(くわいぼく)の高さ二十丈(にじふぢやう)に余(あまり)たるが、不風吹根より抜(ぬけ)て倒(さかさま)にぞ立(たち)たりける。諸臣相見て皆(みな)恐怖しけるを、光武天の告(つげ)を悦(よろこび)て、貧(まづし)き民に財を省(はぶ)き余れるを以て不足(ふそくを)助(たすけ)給(たまひ)ければ、此槐木(このくわいぼく)一夜(いちや)に又如本成て一葉(いちえふ)も不枯けり。又我(わが)朝(てう)には応和(おうわ)の年の末に、比叡山(ひえいさん)の三宮林(さんのみやはやし)の数千本(すせんぼん)の松一夜(いちや)に枯凋(かれしぼみ)て、霜を凌(しの)ぐ緑の色黄葉(くわうえふ)に成(なり)にけり。三千(さんぜん)の衆徒大に驚て、十善寺(じふぜんじ)に参て、各自受法楽(じじゆほふらく)の法施(ほつせ)を奉り、前相(ぜんさう)何事ぞと祈誓(きせい)を凝(こら)さしめたりけるに、一人の神子(みこ)俄(にはか)に物に狂(くるひ)出て、「我に七社(しちしや)権現乗居(のりゐ)させ給へり。」とて託(たく)しけるは、「我(われ)内には円宗(ゑんしゆう)の教法を守て化縁(けえん)を三千(さんぜん)の衆徒に結び、外には国家の安全(あんせん)を致して利益(りやく)を六十(ろくじふ)余州(よしう)に垂(た)る。雖然今衆徒の挙動(ふるまひ)一として不叶神慮、兵杖を横(よこた)へて法衣(ほふえ)を汚(けが)し、甲胄(かつちう)を帯して社頭を往来す。嗚呼(ああ)自今後、三諦即是(さんたいそくぜ)の春(はる)の華(はな)誰(たれ)が袂(たもと)にか薫(にほ)はまし。四曼不離(しまんふり)の秋の月、何(いづ)れの扉(とぼそ)をか可照。此(この)上は我当山の麓に迹(あと)を垂(たれ)ても何(なに)かせん。只速(すみやか)に寂光(じやくくわう)の本土へこそ帰らめ。只(ただ)耳に留(とどま)る事とては、常行三昧(じやうぎやうさんまい)の念仏の音、尚(なほ)も心に飽(あか)ぬは、一乗(いちじよう)読讃(どくさん)の論義の声。」と、泣々(なくなく)託宣しけるが、額(ひたひ)より汗を流して、物(もの)の付(つき)は則(すなはち)醒(さめ)にけり。大衆(だいしゆ)是(これ)に驚て、聖真子(しやうしんじ)の御前(おんまへ)にして、常行三昧の仏名を唱(とな)へ、止観(しくわん)院(ゐん)の外陣(げぢん)にして一乗(いちじよう)読讃の竪義(りふぎ)を執(とり)行(おこな)ふ。衣之神慮も忽(たちまち)に休まりけるにや、月に叫(さけぶ)峡猿(かふゑん)の声も暁(あかつき)の枕を不濡、戴霜林松(りんしよう)の色本(もと)の緑に成(なり)にけり。其(その)後住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)の四海(しかい)の凶賊(きようぞく)を静め給ひし御託宣(ごたくせん)に曰(いはく)、「天慶(てんぎやう)に誅凶徒(きようと)昔は我為大将軍、山王は為副将軍(ふくしやうぐん)。承平に静逆党時(ときは)山王は為大将軍、我は為副将軍(ふくしやうぐん)。山王は鎮(とこしなへ)に飽一乗(いちじよう)法味に。故(ゆゑ)に勢力勝我に云云。」彼(かれ)を以て此(これ)を思ふに、叡慮徳に趣(おもむ)き、四海(しかい)の民を安穏ならしめんと思召す大願を被発、以法味を神力を被添候はゞ、朝敵(てうてき)は還(かへつ)て御方(みかた)になり、禍(わざはひ)は転じて幸(さいはひ)に帰せん事、疑ふ処に非(あら)ず。」と被申ければ、群臣(ぐんしん)悉(ことごとく)此(この)旨に順(したが)ひ、君も無限叡信を凝(こら)させ給(たまひ)て、軈(やが)て住吉(すみよし)四所の明神、日吉(ひよし)七社(しちしやの)権現を勧請(くわんじやう)し奉て、座(ざ)さまさずの御修法(みしほ)を百日(ひやくにち)の間行はせらる。主上(しゆしやう)毎朝(まいてう)に御行水を召(めさ)れて、玉体を投地に除災与楽(ぢよさいよらく)の御祈(おんいの)り、誠(まこと)に身の毛も弥立許(よだつばかり)也(なり)。天地も是(これ)に感応し、神明仏陀もなどか擁護(おうご)の御手(おんて)を垂れ給はざらんと、憑(たの)も敷(しく)ぞ見へたりける。
○銀嵩(かねがだけ)軍(いくさの)事(こと)付(つけたり)曹娥(さうが)精衛(せいゑいの)事(こと) S3407
此比(このころ)吉野の将軍の宮(みや)と申(まうす)は、故兵部卿(ひやうぶきやう)の親王(しんわう)の御子、御母は北畠(きたばたけの)准后(じゆごう)の御妹にてぞ御坐(おはし)ける。御幼稚の時より文武(ぶんぶ)二(ふたつ)の道何(いづれ)も達して見へさせ給ひしかば、此(この)宮(みや)ぞ誠(まこと)に四海(しかい)の逆浪(げきらう)をも静められて、旧主(きうしゆ)先帝の御追念をも休め進(まゐ)らせらるべき御機量にて御坐(おはします)とて、吉野の新帝登極(とうきよく)の後則(すなはち)被宣下、征夷将軍に成(な)し進(まゐ)らせらる。去(さ)る正平七年に、赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐、暫く事を謀(はかつ)て宮方(みやがた)に参ぜし時、此(この)宮(みや)を大将に申下し進(まゐ)らせたりしが、則祐忽(たちまち)に変じて又武家に参ぜしかば、宮心ならず京へ上らせ給て、召人(めしうど)の如(ごとく)にして御座(ござ)有(あり)しを、但馬(たぢまの)国(くに)の者共(ものども)盜(ぬすみ)出し奉て、高山寺(かうせんじ)の城(じやう)へ入れ奉る。本庄平太・平三、御手(おんて)に属(しよく)して、但馬・丹波の両国を打随(したがふ)るに、不靡云(いふ)者更になし。軈(やが)て播磨国(はりまのくに)を退治(たいぢ)せんとて山陽道(せんやうだう)へ御越有(あり)しに、則祐三千(さんぜん)余騎(よき)にて、甲山(かぶとやま)の麓(ふもと)に馳向て相戦ふ。軍未(いまだ)決(けつせず)、宮の一騎当千(いつきたうぜん)と憑(たの)み思召(おぼしめし)たりける本庄(ほんじやう)平太・平三、共に数箇所(すかしよ)の疵(きず)を被(かうむり)て、兄弟同時に討(うた)れにければ、軍忽(たちまち)に破(やぶれ)て、宮は河内(かはちの)国(くに)へ落(おち)させ給ひにけり。其(その)後も大将にし奉らんとて、国々より此(この)宮(みや)を申(まうし)けれ共(ども)、自然の事もあらば、此(この)宮(みや)をこそ大将にもし奉らんずれとて、何(いづ)くへも下し進(まゐら)せられず、武略の為に惜(をし)まれて、吉野の奥にぞ坐(おはし)ける。今紀伊(きいの)国(くに)の合戦に四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)打負(うちまけ)て、阿瀬河(あぜがは)へ落(おち)給(たまひ)ぬ。和田・楠も津々山(つづやま)の敵陣に被攻て、機疲(つかれ)ぬと見へければ、「今はいつをか可期。可然兵共(つはものども)を被相副候へ、自(みづから)出向て合戦を致(いたし)候はん。」と、宮頻(しきり)に被仰ける間、げにもとて、此(この)三四年兄弟不和の事有て吉野へ被参たりける赤松弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)氏範(うぢのり)に、吉野十八郷(じふはちがう)の兵を差副(さしそへ)て、宮の御方へぞ進(まゐら)せられける。宮此(この)勢を付順(つきしたが)へさせ給(たまひ)て後、何(いか)なる物狂(ものぐる)はしき御心(おんこころ)や著(つき)けん。さらば此(この)時分に吉野の新帝を亡(ほろぼ)し奉て、武家の為に忠を致して、吉野十八郷(じふはちがう)を一円(いちゑん)に管領(くわんれい)せばやと思召(おぼしめし)けるこそ不思議(ふしぎ)なれ。密(ひそか)に御使(おんつかひ)を以て事の由(よし)を義詮朝臣(よしあきらあつそん)の方へ被牒て、四月二十五日宮の御勢(おんせい)二百(にひやく)余騎(よき)、野伏三千人(さんぜんにん)を召具して賀名生(あなふ)の奥に銀嵩(かねがだけ)と云(いふ)山に打上り、御旗(おんはた)を被揚、先の皇居(くわうきよ)賀名生の黒木(くろき)の内裡(だいり)を始(はじめ)として、其(その)辺の山中に隠居(かくれゐ)たる月卿(げつけい)雲客(うんかく)の宿所々々を一々に焼払(やきはら)はる。暫(しばし)が程は真実を知(しり)たる人少なければ、是(これ)は如何様(いかさま)大宋の伯顔(はくがん)将軍(しやうぐん)が城を焼て敵を忻(たばか)りし謀(はかりこと)歟(か)、不然は楚の項羽(かうう)が自(みづか)ら廬舎(ろしや)を焼て再び本の陣へ帰(かへら)じと誓ひし道歟(か)と、様々(さまざま)に推量を廻(めぐら)して、此(この)宮(みや)尚(なほ)も御敵(おんてき)に成(なら)せ給ひたりと知る人聊(いさゝか)も無(なか)りけり。去(さる)程(ほど)に探使(たんし)度々馳廻(はせまはつ)て宮の御謀叛(ごむほん)事已(すで)に急也(なり)と奏聞しければ、軈(やがて)其翌(そのあけ)の日二条(にでうの)前(さきの)関白殿(くわんばくどの)を大将軍として和泉・大和・宇多(うだ)・宇智(うちの)郡(こほり)の勢千(せん)余騎(よき)を向(むけ)らる。是(これ)を見てさらば御謀叛(ごむほん)の宮(みや)に可奉著様なしとて、吉野十八郷(じふはちがう)の者共(ものども)皆散々(ちりぢり)に落失(おちうしなひ)ける程に、宮の御勢(おんせい)僅(わづか)に五十(ごじふ)余騎(よき)に成(なり)てげり。され共赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範は、今更(いまさら)弱きを見て捨(すつ)るは弓矢の道にあらず、無力処也(なり)。討死するより外の事有(ある)まじとて、主従二十六騎(にじふろくき)は、四方(しはう)に馳(はせ)向て散々に戦(たたかひ)ける程に、寄手(よせて)無左右近付(ちかづき)得ず、三日三夜相戦て、氏範数箇所(すかしよ)の疵(きず)を被(かうむり)てければ、今は叶はじとて宮は南都の方へ落(おち)させ給へば、氏範は降人(かうにん)に成て、又本国播州へ立返る。不思議(ふしぎ)なりし御謀反也(なり)。抑(そもそも)故尊氏(たかうぢの)卿(きやう)朝敵(てうてき)と成て、先帝外都(ぐわいと)にて崩御(ほうぎよ)なり、天下大に乱(みだれ)て今に二十七年、公家被官(ひくわんの)人悉(ことごとく)道路に袖をひろげ、武家奉公の族(やから)は、皆国郡に臂(ひぢ)を張る事は何故(なにゆゑ)ぞや。只尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、故兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)を殺し奉(たてまつり)し故(ゆゑ)也(なり)。天以(もつ)て許し給はゞ、天下の将軍として六十六(ろくじふろく)箇国(かこく)などか此(この)宮(みや)に帰伏し奉らざらん。然(しから)ば旧主先皇も草の陰(かげ)にても喜悦の眉を開(ひらか)せ給はゞ、忠孝の御志(おんこころざし)を天神地祇(ちぎ)もなどか感応(かんおう)の御眸(おんまなじり)を添(そへ)させ給はざらん。然(しから)ば御子孫繁昌して天下の武将たるべきに、思慮なき御謀叛(ごむほん)起されて、先皇梁園(りやうゑん)の御尸(おんかばね)血をそゝき給へば、厳親幽霊(げんしんいうれい)も、いかに方見(うたて)しく覚すらんと、草の陰(かげ)さこそは露も乱(みだる)らめ。昔漢朝に一人の貧者あり。朝気(あさけ)の煙絶(たえ)て、柴の庵のしば/\も、事問通(とひか)はす人もなければ、筧(かけひ)の竹の浮節(うきふし)に堪(たへ)て、可住心地も無(なく)て明し暮しけるが、或(ある)時(とき)曹娥(さうが)と云ける一人の娘を携(たづさ)へて、他国へぞ落(おち)行(ゆき)ける。洪河(こうが)と云(いふ)河を渡らんとするに、折節(をりふし)水増(まさ)りて橋もなく船もなし。行(ゆく)前(さき)遠(とほく)して可留里も遥(はるか)に過(すぎ)ぬれば、何(いつ)までか角(かく)ても可有。さらば自(みづから)此(この)娘を負(おう)てこそ渡らめと思(おもひ)て、先(まづ)川の淵瀬(ふちせ)を知(しら)ん為に、娘をば岸の上に置(おき)て、只一人河の瀬を蹈(ふ)み行(ゆき)ける時に、毒蛇俄(にはか)に浮(うかび)出て、曹娥が父を噛(くは)へて碧潭(へきたん)の底へぞ入(いり)にける。曹娥是(これ)を見て、手を揚(あげ)て地に倒(たふれ)て、如何(いかが)せんと佗(わび)て、悲(かなし)めども可助人もなし。一日二日は尚(なほ)も無墓心にて、若(もし)や流(ながれ)の末に浮出たると、河に傍(そう)て下(くだり)て見れ共(ども)、浮出たる事もなし。若(もし)や岩のはざまに流(ながれ)懸りたると、岸に上り見れ共(ども)、散(ちり)浮ぶ木葉(このは)ならでは、せかれて留(とどま)る物もなし。日を暮(くら)し夜を明(あか)し、空(むなし)くをくれて独(ひとり)は可帰心地も無(なか)りければ、七日七夜(なぬかななよ)まで川の上にひれ臥(ふし)、天に叫(さけ)び地に哭(こく)して、「我(わが)父を失(うしなひ)つる毒蛇を罰してたび候へ。縦(たとひ)空(むなし)き形なり共、父を今一度(いちど)我に見せしめ給へ。」と、梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしやく)・堅牢地神(けんらうぢじん)に肝胆(かんたん)を砕(くだき)てぞ祈(いのり)ける。夫(それ)叶(かな)はぬ物ならば同(おなじ)水底(みなそこ)に沈(しづ)まんともだへあこがる。志誠(まこと)に蒼天(さうてん)にや答へけん、洪河(こうが)の水忽(たちまち)に血に成て流(ながれ)けるが、毒蛇遂(つひ)に河伯水神(かはくのすゐじん)に罰せられて、曹娥が父を乍呑其(その)身寸々(つだつだ)に被切割て、波の上にぞ浮出たりける。曹娥此(この)処に空(むなし)き骨(こつ)を収(をさめ)て、泣々(なくなく)故郷(こきやう)へ帰(かへり)にけり。彼(かの)処の人是(これ)を憐(あはれみ)て、此(ここ)に墳(つか)を築(きづ)き石を刻(きざみ)て、碑(ひ)の文を書て立たりける。其銘石(そのめいせき)今に残て、行客泪(なみだ)を落(おと)し騒人(さうじん)詩を題(だい)す、哀なりし孝行也(なり)。又発鳩(はつきう)山に精衛(せいゑい)と申(まうす)人、他国に行(ゆき)て帰るとて、難風に船を覆(くつがへ)されて、海中に沈(しづみ)て無墓成(なり)にけり。其(その)子未(いまだ)幼(いとけな)くて故郷(ふるさと)に独(ひとり)有(あり)けるが、父が海に沈(しづ)める事を聞て、其(その)江の辺(ほとり)に行て夜昼泣(なき)悲(かなしみ)けるが、尚(なほ)も思(おもひ)に堪(たへ)かね、遂(つひ)に蒼海(さうかい)の底に身を投(なげ)て死(しに)にけり。其魂魄(そのこんぱく)一の鳥と成て、波の上に飛(とび)渡り、精衛々々と呼(よぶ)声、泪(なみだ)を不催云(いふ)事なし。怨念(をんねん)尽(つく)る事なければ、此(こ)の鳥自(みづか)ら大海(だいかい)を埋(うづめ)て、平地になさんと思ふ心を挿(さしはさみ)、毎日三度(さんど)草の葉木の朶(えだ)をくはえて、海中に沈(しづ)めて飛帰る。尾閭(びりよ)洩(もら)せ共不乾、七旱(しつかん)ほせ共(ども)曾(かつ)て一滴も不減大海なれば、何(いか)なる神通(じんつう)を以ても争(いかで)か埋(うづめ)はつべき。され共父が怨(あた)を報(はう)ぜん為に、此(この)鳥一枝(いつし)一葉(いちえふ)を含(ふくん)で、海中に是(これ)を沈(しづむ)る事哀(あはれ)なりける志也(なり)。されば此(この)精衛を題(だい)するに、人笑其功少、我怜其志多と、詩人も是(これ)を賛(ほめ)たり。君不見乎、精衛は卑(いやし)き鳥也(なり)。親の恩を報じて大海を埋(うめ)ん事を謀(はか)る。曹娥は幼(いとけな)き女なれ共(ども)、父の為に悲(かなしん)で、毒蛇を害(がい)する事を得たり。人として鳥獣にだにも不及、男子にして女子にも如(しか)ず、何をか異(こと)也(なり)とせんやと、此(この)宮(みや)の御謀叛(ごむほん)を欺(あざむ)き申さぬ人はなし。
○龍泉寺(りゆうせんじ)軍(いくさの)事(こと) S3408
竜泉の城(じやう)には和田・楠等(くすのきら)相謀(あひはかつ)て、初は大和・河内の兵千(せん)余人(よにん)を篭置(こめおき)たりけるが、寄手(よせて)敢(あへ)て是(これ)を責(せめ)ん共せざりける間、角(かく)ては徒(いたづら)に勢を置ても何(なに)かせん、打散(うちちら)してこそ野軍(のいくさ)にせめとて、竜泉の勢をば皆呼(よび)下(くだし)て、さしもなき野伏共(のぶしども)百人(ひやくにん)許(ばかり)見せ勢に残し置き、此(ここ)の木の梢、彼(かし)この弓蔵(ゆみかくし)のはづれに、旗許(ばかり)を結付(ゆひつけ)、尚(なほ)も大勢の篭(こも)りたる体を見せたりける。津々山の寄手(よせて)是(これ)を見て、「あなをびたゝし。四方(しはう)手を立(たて)たる如くなる山に、此(この)大勢の篭(こも)りたらんずるをば、何(いか)なる鬼神共いへ、可責落者に非(あら)ず。」とろ々に云(いひ)恐(おそれ)て、責(せめ)んと云(いふ)人は一人もなし。只徒(いたづら)に旗許(ばかり)を見上(みあげ)て、百五十(ひやくごじふ)余日(よにち)過(すぎ)にけり。或(ある)時(とき)土岐桔梗一発の中に、些(ちと)なま才覚(ざいかく)ありける老武者、竜山(りゆうせん)の城(じやう)をつく/゛\と守り居たりけるが、其(その)衆中に語て云(いは)く、「太公が兵書の塁虚篇(るゐきよへん)に、望其塁上飛鳥不驚、必知敵詐而為偶人也(なり)といへり。我此(この)三四日相近て竜泉の城(じやう)を見るに、天に飛(とぶ)鳶(とび)林に帰る烏(からす)、曾(かつ)て驚(おどろく)事なし。如何様(いかさま)是(これ)は大勢の篭(こも)りたる体(てい)を見せて、旗許(ばかり)を此彼(ここかしこ)に立(たて)置(おき)たりと覚ゆるぞ。いざや人々他の勢を不交此(この)一発許(ばかり)向て竜泉を責(せめ)落(おと)し、天下の称歎(しようたん)に備(そなへ)ん。」と云(いひ)ければ、桔梗一発の衆五百(ごひやく)余騎(よき)、皆、「可然。」とぞ同じける。さらば軈(やが)て打立(うつたて)とて、閏(うるふ)四月二十九日の暁、桔梗一揆(いつき)五百(ごひやく)余騎(よき)、忍(しのび)やかに津々山(つづやま)より下(おり)て、まだ篠目(しののめ)の明(あけ)はてぬ霧の紛(まぎ)れに、竜泉の一の木戸口(きどぐち)に推寄(おしよせ)、同音に時をどつと作る。細川相摸守(さがみのかみ)清氏と、赤松彦五郎範実(のりざね)とは、津々山の役所を双べて居たりけるが、竜泉の時の声を聞て、「あはや人に前(さき)を懸(かけ)られぬるは。但(ただし)城(じやう)へ切て入(いら)んずる事は、又一重(いちぢゆう)の大事(だいじ)ぞ。夫(それ)をこそ誠の先懸(さきがけ)とは云(いふ)べけれ。馬に鞍(くら)置け旗差(はたさし)急げ。」と云(いふ)程こそ有(あり)けれ。相摸守(さがみのかみ)と彦五郎と、鎧取て肩に投(なげ)懸(かけ)、道々高紐(たかひぼ)堅(かため)て、竜泉の西の一の城戸(きど)、高櫓(たかやぐら)の下へ懸(かけ)上(あげ)たり。爰(ここ)にて馬を蹈放(ふみはな)し、後(うしろ)を屹(きつ)と見たれば、赤松が手(て)の者に、田宮(たなみや)弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)・木所(きどころ)彦五郎・高見(たかみ)彦四郎(ひこしらう)、三騎続ひたり。其迹(そのあと)を見れば、相摸守(さがみのかみ)の郎従六七十、かけ堀共云はず我先(さき)にと馳(はせ)来る。其(その)旗差、高岸(たかぎし)に馬の鼻を突(つか)せて、上(のぼり)かねたるを見て、相摸守(さがみのかみ)自(みづから)走(わしり)下(くだり)て、其(その)旗をおつ取て、切岸(きりぎし)の前に突立(つきた)て、「先懸(さきがけ)は清氏に有(あり)。」と高声(かうしやう)に名乗(なのり)ければ、赤松彦五郎城の中へ入(いり)、「先懸(さきがけ)は範実にて候。後の証拠(しようご)に立(たち)て給(たまは)り候へ。」と声々に名乗て、屏(へい)の上をぞ越(こえ)たりける。是(これ)を見て桔梗一揆(いつき)の衆に日吉(ひよし)藤田兵庫(ひやうごの)助(すけ)・内海(うつみ)修理(しゆりの)亮(すけ)光範(みつのり)、城戸(きど)を引破て込(こみ)入る。城の中の兵共(つはものども)、暫(しばら)く支(ささ)へて戦(たたかひ)けるが、敵の大勢に御方(みかた)の無勢(ぶせい)を顧(かへりみ)て、叶はじとや思(おもひ)けん、心閑(こころしづか)に防矢(ふせぎや)射て、赤坂(あかさか)を差して落(おち)行(ゆき)ける。暫(しばら)くあれば、陣々に集り居たる大勢共、「すはや桔梗一揆(いつき)が竜泉へ寄(よせ)て責(せめ)けるは。但(ただ)し輙(たやす)くはよも責(せめ)落さじ。楯の板しめせ、射手(いて)を先立(さきだて)よ。」と、最(いと)騒(さわが)ず打立て、其(その)勢既(すで)に十万(じふまん)余騎(よき)、竜泉の麓へ打向ひたれば、城は早(はや)已(すで)に責(せめ)落されて、櫓掻楯(やぐらかいだて)に火を懸(かけ)けり。数万の軍勢(ぐんぜい)頭(かしら)を掻(かい)て、「安からぬ者哉、是(これ)程まで敵小勢なるべしとは知らで、土岐・細川に高名をさせつる事の心地あしさよ。」と、牙(きば)を喫(かま)ぬ者は無(なか)りけり。
○平石城(ひらいはのじやう)軍(いくさの)事(こと)付(つけたり)和田夜討(ようちの)事(こと) S3409
今河上総(かづさの)守(かみ)・佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・舎弟(しやてい)山内(やまのうち)判官(はうぐわん)、竜山の軍に不合つる事、安からぬ者哉と思はれければ、態(わざと)他の勢を不交して、五百(ごひやく)余騎(よき)、同日の晩景(ばんげい)に平石(ひらいは)の城(じやう)へ押(おし)寄する。一矢射違ふる程こそあれ、切岸高ければ、先なる人の楯の■(さん)を蹈(ふま)へ、甲(かぶと)の鉢(はち)を足だまりにして、城戸(きど)逆木(さかもぎ)を切破り、討(うた)るゝをも不云、手を負(おふ)をも不顧、我先(さき)にと込(こみ)入(いり)ける間、敵不怺して、其(その)日(ひ)の夜半計(ばかり)に金剛山(こんがうせん)を差(さし)て落(おち)にけり。二箇所(にかしよ)の城(じやう)輙(たやす)く落されしかば、寄手(よせて)は勝(かつ)に乗て、竜(りよう)の水を得たるが如くになり、和田・楠は機を失て、魚の泥(どろ)に吻(いきづく)が如し。如斯ならば、赤坂(あかさか)の城(じやう)も幾程か怺(こら)ふべき。暫時(ざんじ)に責(せめ)落(おと)して後、主上(しゆしやう)を生虜進(いけどりまゐ)らせ、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を取(とり)奉て、都へ返し入れ進(まゐ)らすべしと、諸人指掌を思ひをなす。すはや天下静(しづま)りて、武家一統(いつとう)の世に成(なり)ぬと、思はぬ人は無(なか)りけり。竜門(りゆうせん)・平石(ひらいは)二箇所(にかしよ)の城(じやう)落(おち)しかば、八尾(やをの)城(じやう)も不怺、今は僅(わづか)に赤坂(あかさか)の城(じやう)許(ばか)りこそ残りけれ。此(この)城(じやう)さまでの要害共不見、只(ただ)和田・楠が館(たち)の当(あた)りを敵に無左右蹴散(けちら)されじと、俄(にはか)に構へたる城なれば、暫(しばらく)もやは支(ささふ)るとて、陣々の寄手(よせて)一所に集て二十万騎(にじふまんぎ)、五月三日の早旦(さうたん)に赤坂(あかさか)の城(じやう)へ押(おし)寄せ、城の西北三十(さんじふ)余町(よちやう)が間に一勢(いつせい)々々(いつせい)引分て、先(まづ)向城(むかひじやう)をぞ構へける。楠は元来(ぐわんらい)思慮深きに似て急に敵に当る機(き)少(すくな)し。「此(この)大敵に戦はん事難叶。只(ただ)金剛山へ引隠(ひきかくれ)て敵の勢のすく処を見て後に戦はん。」と申けるを、和田はいつも戦ひを先として、謀(はかりこと)を待(また)ぬ者なりければ、都(すべ)て此(この)儀に不同、「軍の習ひ負(まく)るは常の事也(なり)。只可戦所を不戦して身を慎(つつしむ)を以て恥とす。さても天下を敵に受(うけ)たる南方の者共(ものども)が、遂に野伏軍許(のぶしいくさばかり)しつる事のをかしさよと、日本国の武士共(ぶしども)に笑(わらは)れん事こそ口惜(くちをし)けれ。何様一夜討(ひとようち)して、太刀の柄(つか)の微塵(みぢん)に砕(くだく)る程切(きり)合(あは)んずるに、敵あらけて引退(ひきしりぞき)なば、軈(やが)て勝(かつ)に乗て討(うつ)べし。引(ひか)ずんば又力なく、其(その)時(とき)こそ金剛山の奥までも、引(ひき)篭(こもつ)て戦はんずれ。」とて、夜討に馴(なれ)たる兵三百人(さんびやくにん)勝(すぐつ)て、「問はゞ武(たけ)しと答へよ。」と、約束の名乗(なのり)を定(さだめ)つゝ、夜深(ふく)る程をぞ待(まち)たりける。五月八日の夜なれば、月(つき)は宵(よひ)より入(いり)にけり。時剋(じこく)よく成(なり)ぬとて三百人(さんびやくにん)の兵共(つはものども)、一陣に進(すすん)で見へける結城(ゆふき)が向城へ忍(しのび)寄て、木戸口(きどぐち)にして時を作る。其(その)声に驚て、外(よそ)の陣には騒げ共、結城が陣は少(ちと)も不騒、鳴(なり)を静めて待(まち)懸(かけ)たり。射手(いて)は元来(もとより)櫓(やぐら)にあれば、矢間(やま)を引て差攻(さしつめ)々々(さしつめ)散々に射る。打物(うちもの)の衆は、掻楯逆木(かいだてさかもぎ)を阻(へだ)てゝ、上(のぼ)れば切て落(おと)し、越れば突落(つきおと)し、此(ここ)を先途(せんど)と防(ぎ)けれ共(ども)、和田和泉(いづみの)守(かみ)正武・真前(まつさき)に懸て切て入る。「日来(ひごろ)の言(ことば)を不忘して、続けや人々。」と喚(をめい)て、掻楯(かいだて)切て引破り、一枚楯引側(ひきそば)めて、城の中へ飛(とび)入(いり)ければ、相順(あひしたがふ)兵三百人(さんびやくにん)、続(つづい)て城へぞ込(こみ)入(いり)ける。甲の鉢を傾(かたぶ)け、鎧の袖をゆり合(あは)せ/\切(きり)逢(あう)て、天地を動かし火を散(ちら)す。互に喚叫(をめきさけん)で半時計(はんじばかり)切(きり)合たるに、結城が兵七百(しちひやく)余人(よにん)、余に戦(たたかひ)屈して、已(すで)に引色(ひきいろ)に見へける処に、細川相摸守(さがみのかみ)五百(ごひやく)余騎(よき)にて敵の後(うしろ)へ廻(まは)り、「清氏後攻(ごづめ)をするぞ、引(ひく)な/\。」と呼(よばは)りけるに力を得て、鹿窪(かのくぼ)十郎・富沢(とみさは)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・茂呂(もろの)勘解由左衛門(かげゆざゑもんの)尉(じよう)三人(さんにん)、蹈止(ふみとどまり)々々(ふみとどまり)戦(たたかひ)けるに、和田が兵数十人(すじふにん)討(うた)れ、若干(そくばく)疵(きず)を被(かうむつ)て、叶はじとや思(おもひ)けん、一方の掻楯(かいだて)蹈(ふみ)破て、一度(いちど)にばつと引たりけり。爰(ここ)に結城が若党(わかたう)に、物部(もののべ)次郎郡司(ぐんじ)とて、世に勝(すぐれ)たる兵四人あり。兼(かね)てより、敵若(もし)夜討に入(いり)たらば、我等(われら)四人は敵の引返さんずるに紛(まぎ)れて、赤坂(あかさか)の城(じやう)へ入(いり)、和田・楠に打違へて死(しぬ)るか、不然は城に火を懸(かけ)て焼(やき)落すかと、約束したりけるが、少(ちと)も不違、引て帰る敵に紛(まぎれ)て、四人共に赤坂(あかさか)の城(じやう)へぞ入たりける。夫(それ)夜討強盜(がうだう)をして帰る時、立勝(たちすぐ)り居勝(ゐすぐ)りと云(いふ)事あり。是(これ)は約束の声を出して、諸人同時に颯(さつ)と立(たち)颯(さつ)と居、角(かく)て敵の紛(まぎ)れ居たるをえり出さん為の謀(はかりこと)也(なり)。和田が兵赤坂(あかさか)の城(じやう)に帰て後、四方(しはう)より続松(たいまつ)を出し、件(くだん)の立勝(たちすぐ)り居勝(ゐすぐ)りをしけるに、紛(まぎ)れ入(いれる)四人の兵共(つはものども)、敢(あへ)て加様(かやう)の事に馴(なれ)ぬ者共(ものども)なりければ、無紛えり出されて、大勢の中に取(とり)篭(こめ)られ、四人共に討死して、名を留めけるこそ哀なれ。天下一の剛(かう)の者とは、是(これ)をぞ誠(まこと)に云(いふ)べきと、褒(ほめ)ぬ人こそ無(なか)りけれ。和田が夜討にも、敵陣一所も不退、城気に乗て見へければ、此(この)城(じやう)にて敵を支(ささ)へん事は叶はじとて、和田も楠も諸共(もろとも)に、其(その)夜の夜半許(ばかり)に、赤坂(あかさか)の城(じやう)に火を懸(かけ)て、金剛山の奥へ入(いり)にけり。
○吉野(よしのの)御廟(ごべう)神霊(しんれいの)事(こと)付(つけたり)諸国(しよこくの)軍勢(ぐんぜい)還京都事(こと) S3410
南方の皇居(くわうきよ)は、金剛山の奥観心寺(くわんしんじ)と云(いふ)深山(みやま)なれば、左右なく敵の可付所ならね共、斥候(せきこう)の御警固(おんけいご)に憑(たのみ)思召(おぼしめさ)れたる龍泉・赤坂(あかさか)も責(せめ)落されぬ。又昨日一昨日(おととひ)まで御方せし兵共(つはものども)、今日は多く御敵(おんてき)と成(なり)ぬと聞へしかば、山人・杣人(そまびと)案内者(あんないしや)として、如何様(いかさま)何(いづ)くの山までも、敵責(せめ)入(いり)ぬと申沙汰しければ、主上(しゆしやう)を始(はじめ)進(まゐら)せて、女院・皇后・月卿・雲客、「こは如何(いかが)すべき。」と、懼恐(おぢおそ)れさせ給ふ事無限。爰(ここ)に二条(にでうの)禅定(ぜんぢやう)殿下の候人(こうにん)にて有(あり)ける上北面、御方の官軍(くわんぐん)加様(かやう)に利(り)を失(うしな)ひ城を落さるゝ体(てい)を見て、敵のさのみ近付(ちかづか)ぬ先に妻子共(さいしども)をも京の方へ送り遣(つかは)し、我(わが)身も今は髻(もとどり)切て、何(いか)なる山林(さんりん)にも世を遁(のが)ればやと思(おもひ)て、先(まづ)吉野辺まで出たりけるが、さるにても多年の奉公を捨(すて)はてゝ主君に離れ、此境(このさかひ)を立(たち)去る事の悲(かなし)さに、せめて今一度(いちど)先帝の御廟(ごべう)へ参り、出家の暇(いとま)をも申さんと思(おもひ)て、只一人御廟(ごべう)へ参りたるに、近来(このごろ)は洒掃(しやさう)する人無(なか)りけりと覚(おぼえ)て、荊棘(けいぎよく)道を塞(ふさ)ぎ、葎(むぐら)茂(しげり)て旧苔(きうたい)扉(とぼそ)を閉(とぢ)たり。何(いつ)の間(ま)にかくは荒(あれ)ぬらんと此彼(ここかしこ)を見奉るに、金炉香(きんろか)絶(たえて)草残一叢之煙、玉殿無灯、蛍照五更(ごかう)之夜。思(おもひ)有て聞く時は、心なき啼鳥(ていてう)も哀を催(もよほ)す歟(か)と覚へ、岩漏(いはもる)水の流(ながれ)までも、悲(かなしみ)を呑(のむ)音なれば、通夜(よもすがら)円丘(ゑんきう)の前に畏(かしこまつ)て、「つく/゛\と憂世(うきよ)の中の成行(なりゆ)く様を案じつゞくるに、抑(そもそも)今の世何(いか)なる世なれば、有威無道(ぶだう)者は必(かならず)亡ぶと云(いひ)置(おき)し先賢(せんけん)の言(ことば)にも背(そむ)き、又百王を守らんと誓ひ給(たまひ)し神約も皆誠ならず。又いかなる賎(いやし)き者までも、死(し)ては霊(りやう)となり鬼(き)と成て彼(かれ)を是(ぜ)し此(これ)を非(ひ)する理(ことわり)明(あきらか)也(なり)。況(いはんや)君已(すで)に十善の戒力(かいりき)に依て、四海(しかい)の尊位(そんゐ)に居し給ひし御事(おんこと)なれば、玉骨は縦(たとひ)郊原(かうげん)の土と朽(くち)させ給ふとも、神霊(しんれい)は定(さだめ)て天地に留て、其苗裔(そのべうえい)をも守り、逆臣(げきしん)の威(ゐ)をも亡(ほろぼ)さんずらんとこそ存ずるに、臣君を犯(をか)せ共天罰もなし、子父を殺せども神の忿(いかり)をも未見(いまだみず)。こはいかに成(なり)行(ゆく)世の中ぞや。」と泣々(なくなく)天に訴(うつたへ)て、五体(ごたい)を地に投(なげ)礼をなす。余(あま)りに気くたびれて、頭(かうべ)をうな低(だれ)て少し目睡(まどろみ)たる夢の中に、御廟(ごべう)の震動する事良(やや)久し。暫(しばらく)有て円丘(ゑんきう)の中より誠(まこと)にけたかき御声(みこゑ)にて、「人やある/\。」と召(めさ)れければ、東西の山の峯より、「俊基(としもと)・資朝(すけとも)是(これ)に候。」とて参りたり。此(この)人々は、君の御謀叛(ごむほん)申(まうし)勧(すすめ)たりし者共(ものども)也(なり)とて、去る元徳三年五月二十九日に、資朝(すけとも)は佐渡(さどの)国(くに)にて斬(きら)れ、俊基(としもと)は其(その)後鎌倉(かまくら)の葛原(くずはら)が岡(をか)にて、工藤(くどう)二郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)に斬(きら)れし人々也(なり)。貌(かたち)を見れば、正(まさし)く昔見たりし体(てい)にては有(あり)ながら、面には朱(しゆ)を差(さし)たるが如く、眼の光耀(かかやい)て左右の牙(きば)銀針(ぎんしん)を立(たて)たる様に、上下(うへした)にをひ違(ちがひ)たり。其(その)後円丘の石の扉(とぼそ)を排(ひら)く音しければ遥(はるか)に向上(みあげ)たるに、先帝袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)を召(めさ)れ、宝剣を抜(ぬい)て右の御手(おんて)に提(ひつさ)げ、玉■(ぎよくい)の上に坐(ざ)し給ふ。此(この)御容(おんすがた)も昔の竜顔には替(かはつ)て、忿(いか)れる御眸(おんまなじり)逆(さかさま)に裂(さけ)、御鬚(おんひげ)左右へ分(わか)れて、只夜叉(やしや)羅刹(らせつ)の如(ごとく)也(なり)。誠(まこと)に苦(くる)し気(げ)なる御息をつがせ給ふ度毎に、御口より焔(ほのほ)はつと燃(もえ)出て、黒烟(くろけぶり)天に立(たち)上る。暫(しばらく)有て、主上(しゆしやう)俊基(としもと)・資朝(すけとも)を御前(おんまへ)近く召(めさ)れて、「さても君を悩(なやま)し、世を乱(みだ)る逆臣(げきしん)共(ども)をば、誰にか仰(おほせ)付(つけ)て可罰す。」と勅問あれば、俊基(としもと)・資朝(すけとも)、「此(この)事は已(すで)に摩醯脩羅(まけいしゆら)王の前にて議定有(あり)て、討手を被定て候。」「さて何(いか)に定(さだめ)たるぞ。」「先(まづ)今南方の皇居(くわうきよ)を襲はんと仕候五畿七道(ごきしちだう)の朝敵共(てうてきども)をば、正成に申(まうし)付(つけ)て候へば、一両日(いちりやうにち)の間には、追(おつ)返し候はんずらん。仁木(につき)右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)をば、菊池(きくち)入道(にふだう)愚鑑(ぐかん)に申(まうし)付(つけ)て候へば、伊勢(いせの)国(くに)にてぞ亡(ほろ)び候はんずらん。細川相摸守(さがみのかみ)清氏をば、土居(どゐ)・得能(とくのう)に申(まうし)付(つけ)て候へば、四国に渡て後(のち)亡(ほろび)候べし。東国の大将にて罷(まかり)上て候畠山(はたけやま)入道(にふだう)・舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)をば、殊更嗔恚強盛(しんいがうせい)の大魔王、新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興が申(まうし)請(うけ)候(さふらひ)て、可罰由申(まうし)候(さうらひ)つれば、輙(たやす)かるべきにて候。道誓(だうせい)が郎従共をば、所々にて首を刎(はね)させ候はんずる也(なり)。中に江戸下野(しもつけの)守(かみ)・同遠江守(とほたふみのかみ)二人(ににん)は、殊更に悪(にく)ひ奴(やつ)にて候へば、竜(たつ)の口(くち)に引居(ひきすゑ)て、我(わが)手に懸(かけ)て切(きり)候べしとこそ申候(さうらひ)つれ。」と奏し申ければ、主上(しゆしやう)誠(まこと)に御心(おんこころ)よげに打(うち)咲(えま)せ給て、「さらば年号の替(かは)らぬ先に、疾々(とくとく)退治(たいぢ)せよ。」と被仰て、御廟(ごべう)の中へ入(いら)せ給(たまひ)ぬと見進(まゐら)せて、夢は忽(たちまち)に覚(さめ)にけり。上北面此示現(このじげん)に驚て、吉野より又観心寺へ帰り参り、人々に内々語(かたり)ければ、「只あらまほしき事ぞ、思寝(おもひね)の夢に見へつらん。」とて、信ずる人も無(なか)りけり。げにも其験(そのしるし)にてや有(あり)けん、敵寄せば尚(なほ)山深く主上(しゆしやう)をも落(おと)し進(まゐら)せんと、逃方(にげがた)を求(もとめ)て戦はんとはせざりけり。観心寺の皇居(くわうきよ)へは敵曾(かつて)不寄来、剰(あまつさ)へさしてし出したる事もなきに、「南方の退治(たいぢ)今は是(これ)までぞ。」とて、同五月二十八日(にじふはちにち)、寄手(よせて)の総大将宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)尼崎(あまがさき)より帰洛し給(たまひ)しかば、畠山・仁木・細川・土岐・佐々木(ささき)・宇都宮(うつのみや)以下、都(すべ)て五畿七道(ごきしちだう)の兵二十万騎(にじふまんぎ)、我先にと上洛(しやうらく)して各国へぞ下りける。さてこそ上北面が見たりしと云(いふ)夢も、げにやと思(おもひ)合(あは)せられて、如何様(いかさま)にも、仁木・細川・畠山も、滅ぶる事やあらんずらんと、夢を疑(うたがひ)し人々も、却(かへつ)て是(これ)をぞ憑(たのみ)ける。


太平記(国民文庫)
太平記巻第三十五

○新将軍帰洛(きらくの)事(こと)付(つけたり)擬討仁木義長(よしなが)事(こと) S3501
南方の敵軍、無事故退治(たいぢ)しぬとて、将軍義詮朝臣(よしあきらあつそん)帰洛し給ひければ、京中(きやうぢゆう)の貴賎悦合(よろこびあ)へる事不斜(なのめならず)。主上(しゆしやう)も無限叡感有て、早速(さつそく)の大功、殊(ことに)以(もつて)神妙の由(よし)、勅使(ちよくし)を下されて仰(おほせ)らる。則(すなはち)今度御祈祷(ごきたう)の精誠(せいぜい)を被致つる諸寺の僧綱(そうがう)・諸社の神官(じんぐわん)に、勧賞(けんじやう)の沙汰有(ある)べしと被仰出けれ共(ども)、闕国(けつこく)も所領もなければ、僅に任官の功をぞ被出ける。其比(そのころ)畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)が所に、細河相摸守(さがみのかみ)・土岐大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)以下、日々寄(より)合(あひ)て、此(この)間の辛苦(しんく)を忘(わすれ)んとて酒宴・茶の会なんどして夜昼遊(あそび)けるが、互に無隔心程を見て後に、畠山(はたけやま)入道(にふだう)密(ひそか)に其(その)衆中に私語(ささやき)けるは、「今は何をか可隠申。道誓今度東国より罷(まかり)上り候(さうらひ)つる事、南方の御敵(おんてき)退治(たいぢ)の為とは乍申、宗(むね)とは仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)が過分(くわぶん)の挙動(ふるまひ)を鎮(しづめ)んが為にて候(さうらひ)き。旁(かたがた)も定(さだめ)てさぞ被思召候覧(らん)。彼が心操(こころばへ)曾(かつて)一家(いつけ)をも可治者とは不見。然(しかる)を今非其器用四箇国(しかこく)の守護職(しゆごしよく)を給(たまは)り、差(さし)たる忠無(なく)して、数百(すひやく)箇所(かしよ)の大圧を領知す。外には不敬仏神、朝夕狩漁(かりすなどりを)為業内には将軍の仰(おほせ)を軽(かろん)じて毎事(まいじ)不拘成敗。然(され)ば今度南方退治(たいぢの)時(とき)も、敵の勝(かつ)に乗る時は悦び、御方の利を得るを聞ては悲(かなしむ)。是(これ)は抑(そも)勇士(ゆうし)の本意とや可申、忠臣の挙動(ふるまひ)とや可申。将軍尼崎(あまがさき)に御陣を被取二百(にひやく)余日(よにち)に及(および)しに、義長(よしなが)西宮(にしのみや)に乍居、一度(いちど)も不出仕、一献を進ずる事も無りしかば、何に抑(そも)斯(かか)る不忠不思議(ふしぎ)の者に大国を管領せさせ、大庄を塞(ふさが)せては、世の治(をさま)ると云(いふ)事や候べき。只此(この)次に仁木を被退治(たいぢ)、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)の世務を被助申候はゞ、故将軍も草の陰にては、嬉(うれし)くこそ被思召候はんずらめ。旁(かたがた)は如何(いかが)被思召候。」と問(とひ)ければ、細河相摸守(さがみのかみ)は、今度南方の合戦の時、仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)、三河の星野(ほしの)・行明等(ぎやうみやうら)が、守護(しゆご)の手に属(しよく)せずして、相摸守(さがみのかみ)の手に付たる事(ことを)忿(いかつ)て、彼等が跡を闕所(けつしよ)に成て家人共(けにんども)に宛行(あておこな)はれたりしを、所存に違て思はれける人也(なり)。土岐大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)善忠(ぜんちゆう)は、故土岐頼遠(よりとほ)が子左馬(さまの)助(すけ)を仁木が養子にして、動(ややもす)れば善忠が所領を取て左馬(さまの)助(すけ)に申(まうし)与(あたへ)んとするを、鬱憤(うつぷん)する折節(をりふし)也(なり)。佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)は、多年御敵(おんてき)なりし高山(たかやま)を打て其(その)跡を給(たまはり)たるを、仁木建武の合戦に恩賞に申給(たまはり)たりし所也(なり)とて、押(おさへ)て知行せんとするを、遺恨(ゐこん)に思ふ人なり。佐渡判官入道(はうぐわんにふだう)は、我身に取て仁木に差(さし)たる宿意はなけれ共(ども)、余に傍若無人(ばうじやくぶじん)なる振舞を、狼藉(らうぜき)なりと目にかけゝるとき也(なり)。今河・細河・土岐・佐々木(ささき)、皆義長(よしなが)を悪(にく)しと思ふ人共なりければ、何(いづ)れも不及異儀、「只此次(このついで)に討(うち)て、世を鎮(しづむ)るより外の事は候はじ。」と、面々にぞ被同ける。然(さら)ば軈(やが)て合戦評定可有とて、人々の下人共を遠く除(のけ)たる処に、推参(すゐさん)の遁世者(とんせいしや)・田楽童(でんがくわらは)なんど数多(あまた)出来ける程に、諸人皆目加(めくは)せして、其(その)日(ひ)は酒宴にて止(やみ)にけり。
○京勢(きやうぜい)重(かさねて)南方発向(はつかうの)事(こと)付(つけたり)仁木没落(ぼつらくの)事(こと) S3502
斯(かか)る処に和田・楠等(くすのきら)、金剛山(こんがうせん)並に国見(くにみ)より出て、渡辺の橋を切落(きりおと)し、誉田(こんだ)の城(じやう)を
責(せめ)んとする由(よし)、和泉・河内より京都へ早馬を打て、急ぎ勢を可被下と告(つげ)たりければ、先日数月(すげつ)の大功、一時に空(むなし)く成(なり)ぬと、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)周章(しうしやう)し給(たまひ)けれ共(ども)、誰を下れと下知する共、不可有下者、諸人の心を推量し給(たまひ)て、大息(おほいき)突(つい)て御坐(おはし)けるに、聞(きく)と等(ひとし)く畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)・細河相摸守(さがみのかみ)清氏・土岐大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)善忠・佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・今河上総(かづさの)介(すけ)・舎弟(しやてい)伊予(いよの)守(かみ)・武田(たけだの)弾正少弼(だんじやうせうひつ)・河越(かはごえ)弾正・赤松大夫判官(たいふのはうぐわん)光範(みつのり)・宇都宮(うつのみや)芳賀(はが)兵衛入道(ひやうゑにふだう)禅可以下、此(この)間一揆(いつき)同心の大名三十(さんじふ)余人(よにん)、其(その)勢都合七千(しちせん)余騎(よき)、公方(くばう)の催促をも不相待我先にと天王寺(てんわうじ)へぞ向(むかひ)ける。後に事の様を案ずれば、是(これ)全く南方の蜂起(ほうき)を鎮(しづめ)ん為にては無りけり。只(ただ)右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)を亡(ほろぼ)さんが為に、勢を集めける企(くはたて)也(なり)。何(なに)とは不知、京より又大勢下りければ、和田・楠、渡辺にも不支、誉田(こんだ)の城(じやう)をも不責、又金剛山の奥へ引篭(ひきこも)る。京勢(きやうぜい)、本より敵対治(たいぢ)の為ならねば、楠引け共続いても不責、勝にも不乗、皆天王寺(てんわうじ)に集(あつまり)居、頭(かうべ)を差合(さしあは)せ諾(うなづい)て、仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)を可討謀(はかりこと)をぞ廻(めぐら)しける。只(ただ)二人(ににん)して云(いふ)事だにも天知(しる)地知(しる)我知(しると)いへり。況(いはん)や是(これ)程の大勢集て云(いひ)私語(ささや)く事なれば、なじかは可有隠。此(この)事軈(やが)て京都へ聞(きこえ)てげり。義長(よしなが)大に忿(いかつ)て、「こは何(いか)に某が討(うた)るべからん咎(とが)は抑(そも)何事ぞ。是(これ)只(ただ)道誓・清氏等(きようぢら)が、此次(このついで)に謀叛を起さん為にぞ、左様の事をば企(くはたつ)らん。此(この)事を急ぎ将軍に申さでは叶(かなふ)まじ。」とて、中務(なかつかさの)少輔(せう)計(ばかり)を召具し、急ぎ宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)へ参て、「道誓・清氏こそ義長(よしなが)を可討とて、天王寺(てんわうじ)より二手(ふたて)に成て、打て上り候なれ。是(これ)は何様(いかさま)天下を覆(くつがへさ)んと存(ぞんず)る者共(ものども)と覚(おぼえ)候。御由断あるまじきにて候。」と申ければ、「さる事や可有。云(いふ)者の誤(あやまり)にぞ有(ある)らん。千万(せんまん)に一もさる事あらば、義詮を亡(ほろぼ)さんとする企(くはたて)なるべし。我与御辺一所に成て戦はゞ誰か下剋上(げこくじやう)の者共(ものども)に可与。」と宣へば、義長(よしなが)誠(まこと)に悦(よろこび)て、己が宿所へぞ帰(かへり)ける。義長(よしなが)分国よりの兵共(つはものども)、未(いまだ)一人も下さで置(おき)たりければ、天王寺(てんわうじ)の大勢、已(すで)に二手(ふたて)に作(なり)て、責上(せめのぼ)ると告(つげ)けれ共(ども)、敢(あへ)て物ともせず。「さもあれ当手の軍勢(ぐんぜい)何程か有(ある)覧(らん)、著到(ちやくたう)を著(つけ)て見よ。」とて、国々を分て著到を付(つけ)たるに、手勢三千六百(ろつぴやく)余騎(よき)、外様(とざま)の軍勢(ぐんぜい)四千(しせん)余騎(よき)とぞ注しける。義長(よしなが)著到を披見(ひけん)して、「あはれ勢や、七千(しちせん)余騎(よき)は、天王寺(てんわうじ)の勢十万騎(じふまんぎ)にも勝(まさ)るべし。然(さら)ば手分(てわけ)をして敵を待(また)ん。」とて、猶子(いうし)中務(なかつかさの)少輔(せう)頼夏(よりなつ)に二千(にせん)余騎(よき)を著て四条大宮(しでうおほみや)に引(ひか)へさせ、舎弟(しやてい)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)に一千(いつせん)余騎(よき)を付(つけ)て東寺の辺に陣を張(はら)せ、我身は勝(すぐ)りたる兵相具して、宿所の四方(しはう)四五町(しごちやう)の程の在家を焼払(やきはら)ひ、馬の懸場(かけば)を広く成して、未(いまだ)惟幕(ゐばく)の中に並居(なみゐ)たり。其(その)勢(いきほ)ひ事柄(ことがら)、げにも寄手(よせて)縦(たとひ)何(いか)なる大勢なり共、此(この)勢に二度(にど)三度(さんど)は何様(いかさま)懸(かけ)散(ちら)されんとぞ見へたりける。宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)若(もし)讒人の申(まうす)旨に付て細河・畠山に御内(みうち)通の事有(あり)なば、外様(とざま)の兵何様弐(ふたごこ)ろを仕つべく覚(おぼゆ)れば、中将殿(ちゆうじやうどの)を取篭(とりこめ)奉て、近習の者共(ものども)をあたり近く不可寄とて、中務(なかつかさの)少輔(せう)を召具し、宿に入れば義長(よしなが)二百(にひやく)余騎(よき)にて、中将殿(ちゆうじやうどの)御屋形へ参じ、四方(しはう)の門を警固(けいご)して、曾(かつ)て御内外様(みうちとざま)の人を不近付、毎事己(おの)が所存の侭(まま)に申行ひければ、天王寺(てんわうじ)下向の軍勢共(ぐんぜいども)は、忽(たちまち)に朝敵(てうてき)の名を蒙(かうむつ)て、追罰(つゐばつ)の綸旨(りんし)・御教書(みげうしよ)を成(なさ)れ、義長(よしなが)は武家執事の職に居て、天下の権を司(つかさど)る。只(ただ)五更(ごかう)に油(あぶら)乾(かはい)て、灯(とぼしび)正(まさ)に欲銷時増光不異。去(さる)程(ほど)に七月十六日(じふろくにち)に天王寺(てんわうじ)の勢七千(しちせん)余騎(よき)、先(まづ)山崎に打集て二手(ふたて)に分つ。一方に細河相摸守(さがみのかみ)を大将とし三千(さんぜん)余騎(よき)、鵙目(もずめ)・寺戸(てらど)を打過(うちすぎ)て、西の七条口より寄(よせ)んとす。畠山(はたけやま)入道(にふだう)・土岐・佐々木(ささき)を大将にて五千(ごせん)余騎(よき)、久我縄手(こがなはて)を経て東寺口より可寄とぞ定(さだめ)ける。今年南方既(すで)に静謐(せいひつ)して御敵(おんてき)今は近国に有(あり)共(とも)聞へねば、京中(きやうぢゆうの)貴賎、すは早(はや)世中(よのなか)心安(こころやす)く成(なり)ぬと悦(よろこび)合へる処に、又此(この)事出来にければ、こは如何(いかが)すべきと周章(あわて)騒ぎ、妻子をもてあつかひ財宝を隠し運ぶ事、道をも通(とほ)り得ぬ程也(なり)。折を得て疲労(ひらう)の軍勢(ぐんぜい)猛悪(まうあく)の下部(しもべ)共(ども)、辻々に打散て、無是非奪取(うばひと)り剥(はぎ)むくりければ、喚(をめ)き叫ぶ声物音(ものおと)も聞へず、京中(きやうぢゆう)只(ただ)上を下へぞ返しける。是(これ)までも猶(なほ)中将殿(ちゆうじやうどの)は、仁木に被取篭御座(おはしま)しけるを、佐々木(ささきの)判官入道(はうぐわんにふだう)、忍(しのび)やかに小門より参て、「何(いか)なる事にて御座候ぞ。国々の大名一人も不残一味同心して、失(うしな)はんと謀(はか)り候義長(よしなが)を、御一所して拘(かかへ)させ給(たまひ)候はゞ、可叶候歟(か)。彼(かれ)が挙動(ふるまひ)仏神にも被放、人望(じんばう)にも背(そむき)はてたる者にて候とは被御覧候はざりけるか、乍去君の御寵臣(ちようしん)を、時宜(じぎ)をも不伺、左右なく討(うた)んと擬(ぎ)し、忽(たちまち)に京中(きやうぢゆう)に打て入(いる)彼等(かれら)が所存も一往(いちわう)御怖畏(ごふゐ)なきに非(あら)ず。されば先(まづ)御忍(おんしのび)候べし。道誉(だうよ)只今(ただいま)仁木に対面して軍評定仕(つかまつり)候はんずる其(その)間に、可然近習の者一人被召具、女房の体に出立(いでたた)せ給(たまひ)て、北(きた)の小門より御出(おんいで)候へ。御馬(おんむま)を用意(ようい)仕て候。何(いづ)くへも忍ばせ進(まゐら)せ候べし。」とぞ申たりける。将軍げにもと思(おもひ)給(たまひ)ければ、風気の事有(あり)とて帳台(ちやうだい)の内へ入り宿衣(よぎ)引纏頭(ひきかづき)臥(ふし)給へば、仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)も、遠侍へ出にけり。暫(しばらく)有て佐々木(ささきの)判官入道(はうぐわんにふだう)、百騎(ひやくき)許(ばかり)にて馳(はせ)来り、仁木に対面して、軍評定及数刻、去(さる)程(ほど)に夜も痛(いた)く深(ふけ)ぬ。可見咎申人もなく成(なり)にければ、中将殿(ちゆうじやうどの)は女房の体に出立て、紅梅の小袖に、柳裏(やなぎうら)の絹打纏頭(うちかづき)て、海老名(えびな)信濃(しなのの)守(かみ)・吹屋清(ふきやせいの)式部(しきぶの)丞(じよう)・小島次郎計(ばかり)を召具して、北(きた)の小門より出給へば、築地(ついぢ)の陰に、用意(ようい)の御馬(おんむま)に手綱打係(うちかけ)て引立(ひきたて)たり。小島次郎そと寄り、掻懐(かいだ)き奉て馬に打乗(うちの)せ進(まゐら)せて、中間二人(ににん)に口引(ひか)せ、装束裹(しやうぞくのつつみ)持(もた)せて、四五町(しごちやう)が程は閑々(しづしづ)と馬を歩ませ、京中(きやうぢゆう)を過れば、鞭(むち)に鐙(あぶみ)を合(あは)せて、花苑(はなぞの)・鳴滝(なるたき)・並岡(ならびのおか)・広沢(ひろさはの)池を過(すぎ)て、時の間に西山の谷堂(たにのだう)へ落(おち)給ふ。是(これ)を夢にも不知ける仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)が運こそ浅猿(あさまし)けれ。中将殿(ちゆうじやうどの)今は何(いづ)くへも落著(おちつか)せ給(たまひ)ぬと思ふ程に成(なり)ければ、判官入道(はうぐわんにふだう)己(おのれ)が宿所へとてぞ帰(かへり)ける。其(その)後義長(よしなが)常の御方へ参て、「夜明(あけ)候はゞ、敵定(さだめ)て寄(よせ)つと覚へ候に、今は御旗(おんはた)をも被出候へとて参て候、軍勢共(ぐんぜいども)に御対面も候へかし。余(あま)りに久(ひさし)く御宿篭(おんとのごも)り候者哉(かな)。御風気は何と御坐候やらん。」と申ければ、女房達(にようばうたち)一二人(いちににん)御寝所(ねどころ)に参て此(この)由を申さんとするに、宿衣(よぎ)を小袖の上に引係(かけ)被置たる許(ばかり)にて、下に臥(ふし)たる人はなし。女房達(にようばうたち)、「此(こ)は何(いか)なる御事(おんこと)ぞや。」と周章騒(あわてさわい)で、「穴(あな)不思議(ふしぎ)や、上(うへ)には是(これ)には御坐(ござ)も候はざりけるぞや。」と申ければ、義長(よしなが)大に忿て、女房達(にようばうたち)近習の者共(ものども)の知(しら)ぬ事は有(ある)まじきぞ、四方(しはう)の門をさし人を出すなと騒動(さうどう)す。中務(なかつかさの)少輔(せう)は余(あまり)に腹を立て、貫(つらぬき)はきながら、召合(めしあは)せの内へ走入て屏風障子を踏破り、「日本一(につぽんいち)の云甲斐(いひがひ)なしを憑(たのみ)けるこそ口惜(くちおし)けれ。只今(ただいま)も軍に打勝(うちかつ)ならば、又此(この)人我等(われら)が方へ手を摺(すり)てこそ出給はんずらめ。」と、様々の悪口を吐散(はきちら)して、己が宿所へぞ帰(かへり)ける。宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)の仁木が方(かた)に御坐(おはしま)しつる程こそ、此(この)人の難捨さに、国々の勢外様(とざま)の人々も、数多(あまた)義長(よしなが)が手には著順(つきしたが)ひつれ、仁木を討(うた)せん為に中将殿(ちゆうじやうどの)落(おち)給ひたりと聞へければ、我(われ)も々(われ)もと百騎(ひやくき)二百騎(にひやくき)、打連(うちつれ)々々(うちつれ)寄手(よせて)の方へ馳著(はせつき)ける程に、今朝まで七千(しちせん)余騎(よき)と注(しる)したりし義長(よしながが)勢、僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)に成(なり)にけり。義長(よしなが)は暫(しばらく)はへらぬ体(てい)に打笑(うちわらう)て、「よし/\云甲斐なからん奴原(やつばら)は足纏(あしまとひ)になるに、落(おち)たるこそよけれ。」云(いひ)けるが、是(これ)を実に身に替(かは)り、命に替らんずる者と、憑(たの)み思(おもひ)たる重恩の郎従も、皆落(おち)失(うせ)ぬと聞へければ、早(はや)、言(ことば)もなく興(きよう)醒(さめ)、忙然(ばうぜん)としたる気色也(なり)。去(さる)程(ほど)に夜も漸(やうやう)深行(ふけゆけ)ば、鵙目(もずめ)・寺戸(てらど)の辺に、続松(たいまつ)二三万(にさんまん)燃(とぼ)し連(つれ)て、次第に寄手(よせて)の近付(ちかづく)勢(いきほ)ひ見へければ、義長(よしなが)角(かく)ては不叶とや思(おもひ)けん、舎弟(しやてい)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)をば、長坂(ながさか)を経て丹後(たんご)へ落す。猶子(いうし)中務(なかつかさの)少輔(せう)をば、唐櫃越(からうとごえ)を経て丹波へ落す。我(わが)身は近江路へ係(かか)る由をして、粟田口(あはたぐち)より引違へ、木津河(きづがは)に添(そひ)伊賀路(いがぢ)を経て、伊勢(いせの)国(くに)へぞ落(おち)たりける。義長(よしなが)勢(いきほひ)尽(つき)都を落(おち)ぬと聞へしかば、中将殿(ちゆうじやうどの)も軈(やが)て都へ帰(かへり)入(いり)給ひ、寄手共(よせてども)も今度の軍は定(さだめ)て手痛(ていた)からんずらんと、あぐんで思(おもひ)けるが、安(あん)に相違して一軍(ひといくさ)もなければ、皆悦(よろこび)勇(いさん)で、軈(やが)て京へぞ入(いり)にける。
○南方蜂起(ほうきの)事(こと)付(つけたり)畠山関東(くわんとう)下向(げかうの)事(こと) S3503
去(さる)程(ほど)に京都に同士軍(どしいくさ)有て、天王寺(てんわうじ)の寄手(よせて)引返すと聞へしかば、大和・和泉・紀伊(きいの)国(くに)の宮方(みやがた)時(とき)を得て、山々峯峯に篝(かがり)を焼(たき)、津々浦々(つつうらうら)に船を集む。是(これ)を見て京都より被置たる城々の兵共(つはものども)、寄合(よりあひ)寄除(よりの)き私語(ささや)きけるは、、「前に日本国の勢共(せいども)が集て責(せめ)し時だにも、終(つひ)に退治(たいぢ)し兼(かね)て有し和田・楠也(なり)。まして我等(われら)が城に篭(こもつ)て被取巻なば、一人も帰(かへる)者不可有。」とて、先(まづ)和泉の守護(しゆご)にて置(おか)れし細河兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)、未(いまだ)敵の係(かか)らぬ前(さき)に落(おち)しかば、紀伊(きいの)国(くに)の城(じやう)湯浅(ゆあさ)の一党も、船に取乗て兵庫を差(さし)て落(おち)行(ゆく)。河内(かはちの)国(くに)の守護代(しゆごだい)、杉原(すぎはら)周防入道は、誉田(こんだ)の城(じやう)を落て、水走(みはや)の城(じやう)に楯篭(たてこも)り、爰(ここ)に暫(しばら)く支(ささへ)て京都の左右を待(また)んとしけるが、楠大勢を以て息も不継責(せめ)ける間、一日(いちにち)一夜(いちや)戦て、南都の方へぞ落(おち)にける。根来(ねごろ)の衆は、加様(かやう)に御方(みかた)の落(おち)行(ゆく)をも不知、与力同心の兵集て三百(さんびやく)余人(よにん)、紀伊(きいの)国(くに)春日山(かすがやま)の城(じやう)に楯篭(たてこも)り、二引両(ふたつひきりやう)の旗を一流(ひとながれ)打立(うちたて)て居たりけるを、恩地(おんぢ)・牲河(にへがは)・三千七百(さんぜんしちひやく)余騎(よき)の勢にて押寄(おしよせ)、城の四方(しはう)を取巻て、一人も不余討(うち)にけり。熊野(くまの)には湯河(ゆかはの)庄司(しやうじ)、将軍方(しやうぐんがた)に成て、鹿(しし)の瀬(せ)・蕪坂(かぶらさか)の後(うしろ)に陣を取り、阿瀬河(あぜかは)入道定仏(ぢやうぶつ)が城を責(せめ)んとしけるを、阿瀬河入道・山本判官・田辺(たなべの)別当、二千(にせん)余騎(よき)にて押寄せ、四角(しかく)八方(はつぱう)へ追散(おひちら)し、三百三十三人(さんじふさんにん)が頚を取て、田辺の宿にぞ懸(かけ)たりける。鷸蚌相挟則烏乗其弊とは、加様(かやう)の時をや申(まうす)べき。都には仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)落(おち)たりと、悦ばぬ人も無りけれ共(ども)、畿内遠国の御敵(おんてき)は、是(これ)に時を得て蜂起(ほうき)すと聞へければ、すはや世は又大乱(たいらん)に成(なり)ぬるはと、私語(ささや)かぬ人も無りけり。其比(そのころ)何(いか)なる者の態(わざ)にや、五条(ごでう)の橋爪(はしづめ)に高札(たかふだ)を立(たて)て、二首の歌を書(かき)付(つけ)たり。御敵(おんてき)の種(たね)を蒔置(まきおく)畠山打返すべき世とは知(しら)ずや何程(いかほど)の豆を蒔(まき)てか畠山日本国をば味噌(みそ)になすらん又是(これ)は仁木を引(ひく)人の態(わざ)かと覚(おぼえ)て、一首(いつしゆ)の歌を六角堂の門の扉(とびら)に書(かき)付(つけ)たり。いしかりし源氏の日記失ひて伊勢物語せぬ人もなし畠山(はたけやま)入道(にふだう)、其比(そのころ)常に狐(きつね)の皮(かは)の腰当(こしあて)をして、人に対面しけるを、悪(にく)しと見る人や読(よみ)たりけん、畠山狐の皮の腰当にばけの程こそ顕(あらは)れにけれ又湯河庄司(ゆかはのしやうじ)が宿の前に、作者芋瀬(いもせ)の庄司(しやうじ)と書(かき)て、宮方(みやがた)の鴨頭(かうと)になりし湯川(ゆのかは)は都に入て何の香(か)もせず今度の乱(らん)は、然(しかしながら)畠山(はたけやま)入道(にふだう)の所行(しよぎやう)也(なり)と落書(らくしよ)にもし歌にも読(よみ)、湯屋風呂(ゆやふろ)の女童部(をんなわらんべ)までも、もてあつかひければ、畠山面目なくや思(おもひ)けん、暫(しばらく)虚病(きよびやう)して居たりけるが、如斯(かく)ては、天下の禍(わざはひ)何様(いかさま)我身(わがみ)独(ひとり)に係(かか)りぬと思(おもひ)ければ、将軍に暇(いとま)をも申さで八月四日の夜、密(ひそか)に京都を逃(にげ)出て、関東(くわんとう)を差(さし)てぞ下りける。参河(みかはの)国(くに)は仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)多年管領(くわんりやう)の国也(なり)ければ、守護代(しゆごだい)西郷(さいがう)弾正左衛門(だんじやうざゑもんの)尉(じよう)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて矢矧(やはぎ)に出張(でばりし)て、道を差塞(さしふさ)ぎける間不通得、路次(ろし)に日数をぞ送りける。如斯何(いつ)までか中途(ちゆうと)に浮(うか)れて可有、中山道(なかせんだう)を経てや下る、京へや引返すと案じ煩ひける処に、小川(をがは)中務仁木(につき)に同心して、尾張(をはりの)国(くに)にて旗を揚(あぐ)る間、関東(くわんとう)下向の勢、畠山を始(はじめ)として、白旗一揆(しらはたいつき)・平一揆(たひらいつき)・佐竹・宇都宮(うつのみや)に至るまで、前後の敵に被取篭、前へも不通、迹(あと)へも不帰得、忙然(ばうぜん)としてぞ居たりける。山名伊豆(いづの)守(かみ)は、東国勢既(すで)に南方を退治(たいぢ)して、都へ帰(かへり)ぬと聞(きこえ)しかば、始(はじめ)は何様(いかさま)此次(このついで)に我(わが)方(かた)へも被寄ぬと推量して、城を構へ鏃(やじり)を磨(みがい)て、可防用意(ようい)をせられけるが、都に不慮の軍出来て、仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)宮方(みやがた)になり、和田・楠又打出たりと聞へければ、伊豆(いづの)守(かみ)軈(やがて)機(き)に乗て、其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)を卒し二手(ふたて)に分(わけ)て、因幡・美作両国の間に勢を分てぞ置たりける。赤松筑前(ちくぜんの)入道(にふだう)世貞(せいてい)・同律師(りつし)則祐(そくいう)が、所々の城(じやう)を責(せむ)るに・草木(くさぎ)・揉尾(そとを)・景石(かげいし)・塔尾(たふのを)・新宮(しんぐう)・神楽尾(かぐらを)の城(じやう)共、一怺(ひとこらへ)もせず、或(あるひ)は敵に成て却(かへつ)て御方(みかた)を責め、或(あるひ)は行方を不知落(おち)失(うせ)ぬ。脣(くちびる)竭(つき)て歯寒(さむく)、魯酒(ろしゆ)薄(うすく)して邯鄲(かんたん)囲(かこま)るとは、加様(かやう)の事をや申(まうす)べき。
○北野通夜(つや)物語(ものがたりの)事(こと)付(つけたり)青砥左衛門(あをとさゑもん/が)事(こと) S3504
其比(そのころ)日野(ひのの)僧正(そうじやう)頼意(らいい)、偸(ひそか)に吉野の山中を出て、聊(いささか)宿願の事有ければ、霊験の新(あらた)なる事を憑(たのみ)奉り、北野の聖廟(せいべう)に通夜し侍りしに、秋も半(なかば)過(すぎ)て、杉の梢の風の音も冷(すさまじ)く成、ぬれば、晨朝(ありあけ)の月の松より西に傾き、閑庭(かんてい)の霜に映ぜる影、常よりも神宿(かみさび)て物哀(ものあはれ)なるに、巻(まき)残せる御経を手に持(もち)ながら、灯(とぼしび)を挑(かか)げ壁に寄傍(よりそう)て、折に触(ふれ)たる古き歌など詠じつゝ嘯(うそぶき)居たる処に、是(これ)も秋の哀に被催て、月に心のあこがれたる人よと覚(おぼし)くて、南殿(なんでん)の高欄(かうらん)に寄懸(よりかかり)て、三人(さんにん)並居(なみゐ)たる人あり。如何(いか)なる人やらんと見れば、一人は古(いにし)へ関東(くわんとう)の頭人(とうにん)評定衆なみに列(つらなつ)て、武家の世の治(をさま)りたりし事、昔をもさぞ忍覧(しのぶらん)と覚(おぼえ)て、坂東声(ばんどうごゑ)なるが、年の程六十許(ばかり)なる遁世者(とんせいしや)也(なり)。一人は今朝廷に仕へながら、家貧(まづし)く豊(ゆたか)ならで、出仕なんどをもせず、徒(いたづら)なる侭(まま)に、何となく学窓の雪に向て、外典(げでん)の書に心をぞ慰む覧(らん)と覚へて、体(てい)縟(なびやか)に色青醒(あをざめ)たる雲客(うんかく)也(なり)。一人は何(なに)がしの律師(りつし)僧都なんど云はれて、門迹辺(もんぜきへん)に伺候(しこう)し、顕密(けんみつ)の法灯(ほつとう)を挑げんと、稽古(けいこ)の枢(とぼそ)を閉(と)ぢ玉泉の流に心を澄(すま)すらんと覚へたるが、細(ほそ)く疲(つかれ)たる法師也(なり)。初(はじめ)は天満天神の文字を、句毎(くごと)の首(かしら)に置て連歌をしけるが、後には異国本朝の物語に成て、現(げ)にもと覚(おぼゆ)る事共(ことども)多かり。先(まづ)儒業の人かと見へつる雲客、「さても史書の所載、世の治乱を勘(かんがふ)るに、戦国の七雄(しちゆう)も終(つひ)に秦の政(せい)に被合、漢楚(かんそ)七十(しちじふ)余度(よど)の戦も八箇年(はちかねん)の後、世(よ)漢に定(さだま)れり。我朝にも貞任(さだたふ)・宗任(むねたふ)が合戦、先(さき)九年(くねん)後(のち)三年の軍、源平諍(あらそひ)三箇年、此(この)外も久(ひさしく)して一両年を不過。抑(そもそも)元弘より以来(このかた)、天下大に乱(みだれ)て三十(さんじふ)余年(よねん)、一日も未(いまだ)静(しづかな)る事を不得。今より後もいつ可静期(ご)共(とも)不覚(おぼえず)。是(これ)はそも何故(なにゆゑ)とか御料簡(れうけん)候。」といへば坂東声(ばんどうごゑ)なる遁世者(とんせいしや)、数返(すへん)高らかに繰鳴(くりなら)し、無所憚申けるは、「世の治(をさま)らぬこそ道理にて候へ。異国本朝の事は御存知の前にて候へば、中々申(まうす)に不及候へども、昔は民苦(みんく)を問(とふ)使とて、勅使(ちよくし)を国々へ下されて、民の苦を問ひ給ふ。其故(そのゆゑ)は、君は以民為体、民は以食為命、夫(それ)穀(こく)尽(つき)ぬれば民窮(きゆう)し、民窮(きゆう)すれば年貢(みつき)を備(そなふる)事なし。疲馬(ひば)の鞭を如不恐、王化をも不恐、利潤(りじゆん)を先として常に非法を行(おこな)ふ。民の誤(あやま)る処は吏(り)り科(とが)也(なり)。吏(り)の不善(ふぜん)は国王に帰す。君良臣を不撰、貪利輩(ともがら)を用れば暴虎を恣(ほしいまま)にして、百姓をしへたげり。民の憂(うれ)へ天に昇(のぼつ)て災変をなす。災変起れば国土乱る。是(これ)上(かみ)不慎下慢(しもあなど)る故(ゆゑ)也(なり)。国土若(もし)乱れば、君何(なんぞ)安からん。百姓荼毒(とどく)して四海(しかい)逆浪(げきらう)をなす。されば湯武(たうぶ)は火に投身、桃林(たうりん)の社(しや)に祭り、大宗(たいそうは)呑蝗、命を園囿(ゑんいう)の間に任す。己を責(せめ)て天意に叶(かなひ)、撫民地声を顧(かへりみ)給へと也(なり)。則(すなはち)知(しん)ぬ王者の憂楽(いうらく)は衆と同(おなじ)かりけりと云(いふ)事を、白楽天も書置(かきおき)侍りき。されば延喜(えんぎ)の帝(みかど)は、寒夜に御衣をぬがれ、民の苦を愍(あはれ)み給(たまひ)しだに、正(まさし)く地獄に落(おち)給(たまひ)けるを、笙(しやう)の岩屋(いはや)の日蔵(にちざう)上人は見給(たまひ)けるとこそ承(うけたまは)れ。彼(かの)上人、承平四年八月一日午時頓死(とんし)して、十三日(じふさんにち)ぞ御在(おはしま)しける。其(その)程夢にも非(あら)ず、幻(うつつ)にも非(あら)ず、金剛蔵王(こんがうざわう)の善巧方便(ぜんげうはうべん)にて、三界流転(さんがいるてん)の間、六道(ろくだう)四生(ししやう)の棲(すみか)を見給(たまひ)けるに、等活(とうくわつ)地獄の別処(べつしよ)、鉄崛(てつくつ)地獄とてあり。火焔(くわえん)うずまき黒雲空(そら)に掩(おほ)へり。觜(くちばし)ある鳥飛来て、罪人の眼をつゝきぬく。又鉄(くろがね)の牙(きば)ある犬来て、罪人の脳(なう)を吸喰(すひくら)ふ。獄卒眼を怒(いからか)して声を振(ふる)事雷(いかづち)の如し。狼虎(らうこ)罪人の肉を裂(さき)、利剣(りけん)足の蹈所(ふみどころ)なし。其(その)中に焼炭(やきすみ)の如(ごとく)なる罪人有四人。叫喚(けうくわん)する声を聞(きけ)ば、忝(かたじけなく)も延喜の帝にてぞ御在(おはしまし)ける。不思議(ふしぎ)やと思(おもひ)て、立寄て事の様(やう)を問へば、獄卒答(こたへて)曰(いはく)、「一人は是(これ)延喜帝(えんぎのみかど)、残(のこり)は臣下也(なり)。」とて、鋒(ほこ)に指貫(さしつらぬい)て、焔(ほのほ)の中へ投(なげ)入(いれ)奉りけり。在様(ありさま)業果法然(ごふくわほふねん)の理とは云(いひ)ながら、余(あま)りに心憂(こころうく)ぞ覚(おぼえ)ける。良(やや)暫(しばらく)有て上人、「さりとては延喜の帝に少の御暇(おんいとま)奉宥、今一度(いちど)拝竜顔本国へ帰らん。」と、泣々(なくなく)宣(のたまひ)ければ、一人の獄卒是(これ)を聞て、いたはしげもなく鉄(くろがね)の鉾(ほこ)に貫(つらぬい)て、焔(ほのほ)の中より指(さし)出し、十丈(じふぢやう)計(ばかり)差上(さしあげ)て、熱鉄(ねつてつ)の地の上へ打(うち)つけ奉る。焼炭(やけすみ)の如(ごとく)なる御貌(おんかたち)散々に打砕(うちくだか)れて、其(その)御形共見へ給はず。鬼共又走寄て以足一所にけあつむる様にして、「活々(くわつくわつ)。」と云(いひ)ければ、帝の御姿顕(あらはれ)給ふ。上人畏て只(ただ)泪(なみだ)に咽(むせび)給ふ。帝の宣(のたまは)く、「汝(なんぢ)我を敬(うやまふ)事なかれ。冥途(めいど)には罪業(ざいごふ)無(なき)を以て主とす。然れば貴賎上下を論ずる事なし。我は五種の罪に依て此(この)地獄に落(おち)たり。一には父寛平法皇の御命(ごめい)を背(そむ)き奉り久(ひさし)く庭上に見下(みおろ)し奉りし咎(とが)、二には依讒言、無咎才人(さいじん)を流罪したりし報(むく)ひ、三には自の怨敵(をんてき)と号(がう)して、他の衆生(しゆじやう)を損害(そんがい)せし咎(とが)、四には月中の斎日(さいじつ)に、本尊を不開咎(とが)、五には日本(につぽん)の王法をいみじき事に思(おもひ)て人間に著心(ぢやくしん)の深かりし咎(とが)、此(この)五を為根本、自余(じよ)の罪業無量(むりやう)也(なり)。故(ゆゑ)に受苦事無尽(むじん)也(なり)。願(ねがはく)は上人為我善根を修(しゆ)してたび給へ。」と宣ふ。可修由応諾(おうだく)申す。「然らば諸国七道に、一万本の卒都婆(そとば)を立て、大極殿(だいごくでん)にして仏名懺悔(さんげの)法を可修。」と被仰たりける時、獄卒又鉾(ほこ)に指貫(さしつらぬき)、焔(ほのほ)の底へ投(なげ)入る。上人泣々(なくなく)帰(かへり)給(たまふ)時(とき)、金剛蔵王の宣(のたまは)く、「汝に六道(ろくだう)を見する事、延喜帝(えんぎのみかど)の有様を為令知也(なり)。」とぞ被仰ける。彼(かの)帝は随分(ずゐぶん)愍民治世給(たまひ)しだに地獄に落(おち)給ふ。況(まし)て其(それ)程の政道もなき世なれば、さこそ地獄へ落る人の多かるらめと覚(おぼえ)たり。又承久(しようきう)より已降(このかた)武家代々(だいだい)天下を治(をさめ)し事は、評定の末席(まつせき)に列(つらなつ)て承置(うけたまはりおき)し事なれば、少々耳に留る事も侍るやらん。夫(それ)天下久(ひさしく)武家の世と成(なり)しかば尺地(せきち)も其有(そのう)に非(あらず)と云(いふ)事なく、一家(いつけ)も其(その)民に非(あらず)と云(いふ)所無(なか)りしか共、武威(ぶゐ)を専(もつぱら)にせざるに依て地頭敢(あへ)て領家(りやうけ)を不侮、守護(しゆご)曾(かつ)て検断(けんだん)の外に不綺。斯(かか)りしか共尚(なほ)成敗(せいばい)を正(ただし)くせん為に、貞応(ぢやうおう)に武蔵(むさしの)前司(ぜんじ)入道、日本国の大田文(おほたぶみ)を作て庄郷(しやうがう)を分(わかち)て、貞永に五十一箇条の式目を定(さだめ)て裁許に不滞。されば上(かみ)敢(あへ)て不破法下又不犯禁を。世治(をさま)り民直(すなほ)なりしか共、我朝(わがてう)は神国の権柄(けんぺい)武士の手に入り、王道仁政の裁断夷狄(いてき)の眸(まなじり)に懸りしを社(こそ)歎きしか。されども上代には世を治(をさめ)んと思(おもふ)志深かりけるにや、泰時朝臣(あつそん)在京の時、明慧(みやうえ)上人に相看(しやうかん)して法談の次に仰(おほせ)られけるはく、「如何(いかに)してか天下を治め人民を安(やすん)じ候べき。」と被申ければ、上人宣(のたまは)く、「良医(りやうい)能く脈(みやく)を取て、其(その)病の根源を知て、薬を与へ灸(きう)を加(くはふ)れば、病自(おのづか)ら愈(いゆ)る様に、国を乱る源(みなもと)を能(よ)く知て可治給。乱世の根源は只(ただ)欲を為本。欲心変じて一切万般(ばんばん)の禍(わざはひ)と成る。」と宣へば、泰時(やすときの)云(いはく)、「我雖存此旨、人々無欲(むよく)に成(なら)ん事難(かた)し。」と宣へば、上人(しやうにんの)云(いはく)、「太守(たいしゆ)一人無欲にならん事を思(おもひ)給はゞ、其(それ)に恥(はぢ)て万人自然(じねん)に欲心薄(うすく)成(なる)べし。人の欲心深(ふかく)訴来(うつたへきた)らば我(わが)欲の直らぬ故ぞと我を恥(はぢ)しめ可給。古人(いにしへびとの)云(いはく)、其(その)身直(すぐ)にして影不曲、其政(そのまつりこと)正(ただしく)して国乱るゝ事なしと云云。又云(いはく)、君子居其室其言(そのことば)を出(いだす)事善なる則(ときは)、千里の外皆応之。善と云(いふ)は無欲也(なり)。伝(つたへ)聞(きく)、周(しうの)文王の時一国の民畔(くろ)を譲るも、文王一人の徳諸国に及(およぼ)す故(ゆゑに)、万人皆やさしき心に成(なり)し也(なり)。畔(くろ)を譲ると云(いふ)は、我(わが)田の堺(さかひ)をば人の方へは譲(ゆづり)与(あたふ)れども、仮(かり)にも人の地をして掠(かすめ)取(とる)事はなかりけり。今程の人の心には違たり。かりにも人の物をば掠(かすめ)取(とれ)共(ども)、我(わが)物を人に遣(やる)事不可有。其比(そのころ)他国より為訴詔此(この)周(しう)の国を通るとて、此(この)有様を道(みちの)畔(ほとり)にて見て、我(わが)欲の深(ふかき)事を恥(はぢ)て、路より帰りけり。されば此(この)文王我(わが)国(くに)を収(をさむ)るのみならず、他国まで徳を施(ほどこ)すも只此(この)一人の無欲に依てなり。剰(あまつさへ)此(この)徳満(みち)て天下を一統(いつとう)して取り百年の齢(よはひ)を持(たもち)き。太守一人小欲に成(なり)給はゞ天下皆かゝるべし。」と宣(のたまひ)ければ、泰時深く信じて、父義時朝臣(あつそん)の頓死(とんし)して譲状(ゆづりじやう)の無(なか)りし時倩(つらつら)義時の心を思(おもふ)に、我よりも弟をば鍾愛(しようあい)せられしかば、父の心には彼(かの)者にぞ取(とら)せ度(たく)思(おもひ)給(たまひ)て譲(ゆづり)をばし給はざるらんと推量して、弟の朝時(ともとき)・重時(しげとき)以下に宗徒(むねと)の所領を与(あたへ)て、泰時は三四番めの末子(ばつし)の分限(ぶんげん)程少く取られけれ共(ども)、今までは聊(いささか)不足なる事なし。如此万(よろ)づ小欲に振舞(ふるまふ)故(ゆゑ)にや、天下随日収(をさま)り、諸国逐年豊(ゆたか)也(なり)き。此(この)太守の前に、訴訟の人来れば、つく/゛\と両人の顔を守(まもり)て云(いは)く、「泰時天下の政を司(つかさどつ)て、人の心に無姦曲事を存ず。然ば廉直(れんちよく)の中に無論。一方は定(さだめ)て姦曲なるべし。何(いつ)の日両方証文を持て来(きたる)べし。姦謀(かんぼう)の人に於ては、忽(たちまち)に罪科に可申行。姦智(かんち)の者一人国にあれば万人の禍(わざはひ)と成る。天下の敵何事か如之。疾々(とくとく)可帰給。」とて被立けり。此(この)体を見るに、僻事(ひがこと)あらば軈而(やがて)いかなる目にも可被合とて、各帰て後両方談合して、或(あるひ)は和談(わだん)し或(あるひは)僻事(ひがこと)の方は私に負(まけ)て論所を去渡(のきわた)しける。凡(およそ)無欲なる人をば賞し欲深き者をば恥(はぢ)しめ給(たまひ)しかば、人の物を掠(かす)め取(とら)んとする者は無りけり。されば寛喜元年に、天下飢饉の時、借書(しやくしよ)を調(ととの)へ判形を加へて、富祐(ふくいう)の者の米を借るに、泰時法を被置けるは、「来年世立直(たちなほ)らば、本物計(ばかり)を借(か)り主(ぬし)に可返納。利分(りぶん)は我(われ)添(そへ)て返すべし。」と被定て、面々の状を被取置けり。所領をも持(もち)たる人には、約束の本物を還(かへ)させ、自我方添利分、慥(たしか)に返し遣(つかは)されけり。貧者(ひんなるもの)には皆免(ゆる)して、我(わが)領内の米にてぞ主には慥(たしか)に被返ける。左様の年は、家中に毎事行倹約、一切の質物(しちもつ)共(ども)も古物を用ふ。衣裳も新しきをば不著、烏帽子をだに古きをつくろはせて著(ちやく)し給ふ。夜は灯(とぼしび)なく、昼は一食(いちじき)を止め、酒宴遊覧の儀なくして、此費(このつひえ)を補(おぎなひ)給(たまひ)けり。仍(すなはち)一度(いちど)食するに、士(し)来れば不終に急ぎ是(これ)にあひ一たび梳(かみけづる)にも訴(うつたへ)来れば先(まづ)是(これ)をきく。一寝(いつしん)一休(いつきう)是(これ)を不安して人の愁(うれへ)を懐(いだい)て待(また)んことを恐る。進(すすん)では万人を撫(なで)ん事を計(はか)り、退(しりぞい)ては一身(いつしん)に失(しつ)あらん事を恥づ。然(しかる)に太守逝去(せいきよ)の後、背父母失兄弟とする訴論(そろん)出来て、人倫(じんりん)の孝行日に添(そひ)て衰へ、年に随(したがつ)てぞ廃(すたれ)たる。一人正(ただし)ければ万人夫(それ)に随(したがふ)事分明也(なり)。然る間猶(なほ)も遠国の守護(しゆご)・国司・地頭・御家人、如何(いか)なる無道猛悪(ぶだうまうあく)の者有てか、人の所領を押領(あふりやう)し人民百姓を悩(なやま)すらん。自(みづから)諸国を順(めぐり)て、是(これ)を不聞は叶(かなふ)まじとて、西明寺(さいみやうじ)の時頼禅門密(ひそか)に貌(かたち)を窶(やつ)して六十(ろくじふ)余州(よしう)を修行し給(たまふ)に、或(ある)時(とき)摂津(つの)国(くに)難波(なには)の浦に行(ゆき)到(いたり)ぬ。塩汲(くむ)海士(あま)の業(わざ)共(ども)を見給(たまふ)に、身を安(やすく)しては一日も叶(かなふ)まじき理(ことわり)を弥(いよいよ)感じて、既(すで)に日昏(くれ)ければ、荒(あれ)たる家の垣間(かきま)まばらに軒傾(かたぶい)て、時雨(しぐれ)も月もさこそ漏(もる)らめと見へたるに立寄て、宿を借(かり)給(たまひ)けるに、内より年老(おい)たる尼公(にこう)一人出て、「宿を可奉借事は安けれ共(ども)、藻塩草(もしほぐさ)ならでは敷(しく)物もなく、磯菜(いそな)より外は可進物も侍らねば、中々宿を借(かし)奉ても甲斐なし。」と佗(わび)けるを、「さりとては日もはや暮(くれ)はてぬ。又可問里も遠ければ、枉(まげ)て一夜(いちや)を明し侍(はべら)ん。」と、兔角(とかく)云佗(いひわび)て留(とま)りぬ。旅寝の床(ゆか)に秋深(ふけ)て、浦風寒く成(なる)侭(まま)に、折焼(をりたく)葦(あし)の通夜(よもすがら)、臥佗(ふしわび)てこそ明しけれ。朝に成(なり)ぬれば、主(あるじ)の尼公(にこう)手づから飯匙(いひがひ)取(とる)音して、椎(しひ)の葉折敷(をりしき)たる折敷(をしき)の上に、餉(かれいひ)盛(もり)て持出来たり。甲斐々々敷(かひがひしく)は見へながら、懸る態(わざ)なんどに馴(なれ)たる人共見へねば不審(おぼつかな)く覚(おぼえ)て、「などや御内(みうち)に被召(めされ)仕人は候はぬやらん。」と問(とひ)給へば、尼公泣々(なくなく)「さ候へばこそ、我は親の譲(ゆづり)を得て、此(この)所の一分の領主にて候(さうらひ)しが、夫(をつと)にも後(おく)れ子にも別(わかれ)て、便(たより)なき身と成(なり)はて候(さうらひ)し後、惣領(そうりやう)某(なにがし)と申(まうす)者、関東(くわんとう)奉公の権威を以て、重代相伝の所帯を押(おさへ)取て候へ共、京鎌倉(かまくら)に参て可訴詔申代官も候はねば、此(この)二十(にじふ)余年(よねん)貧窮孤独(びんぐうこどく)の身と成て、麻の衣の浅猿(あさまし)く、垣面(かきも)の柴のしば/\も、ながらふべき心地侍らねば、袖のみ濡(ぬる)る露の身の、消(きえ)ぬ程とて世を渡る。朝食(あさけ)の烟(けぶり)の心細さ、只推量(おしはか)り給へ。」と、委(くはし)く是(これ)を語て、涙にのみぞ咽(むせ)びける。斗薮(とそう)の聖(ひじり)熟々(つくづく)と是(これ)を聞て、余に哀(あはれ)に覚(おぼえ)て、笈(おひ)の中より小硯(こすずり)取出し、卓(しよく)の上に立たりける位牌(ゐはい)の裏に、一首(いつしゆ)の歌をぞ被書ける。難波潟塩干に遠(とほき)月影の又元の江にすまざらめやは禅門諸国斗薮(とそう)畢(をはつ)て鎌倉(かまくら)に帰(かへり)給ふと均(ひとし)く、此(この)位牌を召出し、押領せし地頭が所帯を没収(もつしゆ)して、尼公が本領の上に副(そへ)てぞ是(これ)を給(たび)たりける。此(この)外到る所ごとに、人の善悪を尋(たづね)聞て委(くはし)く注(しる)し付(つけ)られしかば、善人には賞(しやう)を与へ、悪者には罰(ばつ)を加(くはへ)られける事、不可勝計。されば国には守護(しゆご)・国司、所には地頭・領家(りやうけ)、有威不驕、隠(かくれ)ても僻事(ひがこと)をせず、世帰淳素民の家々豊(ゆたか)也(なり)。後の最勝園寺貞時(さいしようをんじさだとき)も、追先蹤又修行し給(たまひ)しに、其比(そのころ)久我(こがの)内大臣(ないだいじん)、仙洞の叡慮に違(ちが)ひ給て、領家悉(ことごとく)被没収給(たまひ)しかば、城南(ぜいなん)の茅宮(ばうきゆう)に、閑寂(かんせき)を耕(たがやし)てぞ隠居(いんきよ)し給ひける。貞時斗薮(とそう)の次(つい)でに彼故宮(かのこきゆう)の有様を見給て、「何(いか)なる人の棲遅(せいち)にてかあるらん。」と、事問(とひ)給(たまふ)処に、諸大夫と覚しき人立出て、しかしかとぞ答へける。貞時具(つぶさ)に聞て、「御罪科差(さし)たる事にても候はず、其(その)上(うへ)大家の一跡、此(この)時(とき)断亡(だんばう)せん事無勿体候。など関東(くわんとう)様(さま)へは御歎(おんなげき)候はぬやらん。」と、此(この)修行者申ければ、諸大夫、「さ候へばこそ、此(この)御所の御様(おんさま)昔びれて、加様(かやう)の事申せば、去(さる)事や可有。我(わが)身の無咎由に関東(くわんとう)へ歎かば、仙洞の御誤(おんあやまり)を挙(あぐ)るに似たり。縦(たとひ)一家(いつけ)此(この)時(とき)亡ぶ共、争(いか)でか臣として君の非をば可挙奉。無力、時刻到来(たうらい)歎かぬ所ぞと被仰候間、御家門の滅亡此(この)時(とき)にて候。」と語りければ、修行者感涙を押(おさへ)て立帰(かへり)にけり。誰と云(いふ)事を不知(しらず)。関東(くわんとう)帰居の後、最前(さいぜん)に此(この)事を有(あり)の侭(まま)に被申しかば、仙洞大に有御恥久我旧領(こがのきうりやう)悉(ことごと)く早速(さつそく)に被還付けり。さてこそ此(この)修行者をば、貞時と被知けれ。一日二日の程なれど、旅に過(すぎ)たる哀はなし。況乎(いはんや)烟霞(えんか)万里の道の末、想像(おもひやる)だに憂(うき)物を、深山路(みやまぢ)に行(ゆき)暮(くれ)ては、苔(こけ)の莚(むしろ)に露を敷き、遠き野原を分佗(わけわび)ては、草の枕に霜を結ぶ。喚渡口船立(たち)、失山頭路帰る。烟蓑雨笠(えんさうりつ)、破草鞋(はさうあいの)底、都(す)べて故郷を思ふ愁(うれへ)ならずと云(いふ)事なし。豈(あに)天下の主(あるじ)として、身(み)富貴(ふつき)に居(きよ)する人、好(このん)で諸国を可修行哉(や)。只身安く楽(たのしみ)に誇(ほこつ)ては、世難治事を知る故(ゆゑ)に、三年の間只(ただ)一人、山川を斗薮(とそう)し給ける心の程こそ難有けれと、感ぜぬ人も無(なか)りけり。又報光(はうくわう)寺・最勝園寺(さいそうをんじ)二代の相州(さうしう)に仕(つか)へて、引付(ひきつけ)の人数に列(つらな)りける青砥左衛門(あをとさゑもん)と云(いふ)者あり。数十箇所(すじつかしよ)の所領を知行して、財宝豊なりけれ共(ども)、衣裳には細布(さいみ)の直垂(ひたたれ)、布の大口、飯(いひ)の菜(さい)には焼(やき)たる塩、干(ほし)たる魚一つより外はせざりけり。出仕の時は木鞘巻(きざやまき)の刀を差(さ)し木太刀を持(もた)せけるが、叙爵(じよしやく)後は、此(この)太刀に弦袋(つるぶくろ)をぞ付(つけ)たりける。加様(かやう)に我(わが)身の為には、聊(いささか)も過差(くわさ)なる事をせずして、公方(くばうの)事には千金万玉をも不惜。又飢たる乞食(こつじき)、疲れたる訴詔人(そせうにん)などを見ては、分(ぶん)に随(したが)ひ品(しな)に依て、米銭絹布(けふ)の類を与へければ、仏菩薩(ぼさつ)の悲願に均(ひとし)き慈悲にてぞ在(あり)ける。或(ある)時(とき)徳宗領(とくそうりやう)に沙汰出来て、地下の公文(くもん)と、相摸守(さがみのかみ)と訴陳(そぢん)に番(つがふ)事あり。理非懸隔(けんかく)して、公文(くもん)が申(まうす)処道理なりけれ共(ども)、奉行・頭人(とうにん)・評定衆、皆徳宗領に憚(はばかつ)て、公文(くもん)を負(まか)しけるを、青砥左衛門(あをとさゑもん)只(ただ)一人、権門(けんもん)にも不恐、理の当る処を具(つぶさ)に申立て、遂に相摸守(さがみのかみ)をぞ負(まか)しける。公文不慮(ふりよ)に得利して、所帯に安堵(あんど)したりけるが、其(その)恩を報ぜんとや思(おもひ)けん、銭を三百貫(さんびやくくわん)俵(たはら)に裹(つつみ)て、後ろの山より潜(ひそか)に青砥左衛門(あをとさゑもん)が坪(つぼ)の内へぞ入れたりける。青砥左衛門(あをとさゑもん)是(これ)を見て大に忿り、「沙汰の理非を申つるは相摸殿(さがみどの)を奉思故(ゆゑ)也(なり)。全(まつたく)地下の公文を引(ひく)に非(あら)ず。若(もし)引出物(ひきでもの)を取(とる)べくは、上の御悪名を申留(とどめ)ぬれば、相摸殿(さがみどの)よりこそ、悦(よろこび)をばし給ふべけれ。沙汰に勝(かち)たる公文が、引出物(ひきでもの)をすべき様なし。」とて一銭をも遂(つひ)に不用、迥(はるか)に遠き田舎まで持送(もちおくら)せてぞ返しける。又或(ある)時(とき)此(この)青砥左衛門(あをとさゑもん)夜に入て出仕しけるに、いつも燧袋(ひうちぶくろ)に入(いれ)て持(もち)たる銭を十文取(とり)はづして、滑河(なめりかは)へぞ落(おと)し入(いれ)たりけるを、少事の物なれば、よしさてもあれかしとてこそ行過(すぐ)べかりしが、以外(もつてのほか)に周章(あわて)て、其(その)辺の町屋へ人を走らかし、銭五十文を以て続松(たいまつ)を十把(じつぱ)買(かひ)て下(くだり)、是(これ)を燃(とぼ)して遂(つひ)に十文の銭をぞ求(もとめ)得たりける。後日に是(これ)を聞て、「十文の銭を求(もとめ)んとて、五十(ごじふ)にて続松を買て燃(とぼ)したるは、小利大損哉(かな)。」と笑(わらひ)ければ、青砥左衛門(あをとさゑもん)眉(まゆ)を顰(ひそめ)て、「さればこそ御辺達(ごへんたち)は愚(おろか)にて、世の費(つひえ)をも不知、民を慧(めぐ)む心なき人なれ。銭十文は只今(ただいま)不求は滑河(なめりかは)の底に沈て永く失(うせ)ぬべし。某が続松(たいまつ)を買(かは)せつる五十(ごじふ)の銭は商人の家に止ま(ッ)て永(ながく)不可失。我損(わがそん)は商人の利也(なり)。彼と我と何の差別(しやべつ)かある。彼此(かれこれ)六十の銭一をも不失、豈(あに)天下の利に非(あら)ずや。」と、爪弾(つまはじき)をして申ければ、難(なん)じて笑(わらひ)つる傍(かたへ)の人々、舌を振てぞ感じける。加様(かやう)に無私処神慮にや通じけん。或(ある)時(とき)相摸守(さがみのかみ)、鶴岡(つるがをか)の八幡宮に通夜(つや)し給ける暁(あかつき)、夢に衣冠(いくわん)正しくしたる老翁一人枕に立て、「政道を直(なほ)くして、世を久(ひさし)く保たんと思はゞ、心私なく理に不暗青砥左衛門(あをとさゑもん)を賞翫(しやうくわん)すべし。」と慥(たしか)に被示と覚へて、夢忽(たちまちに)覚(さめ)てげり。相摸守(さがみのかみ)夙(つと)に帰(かへり)、近国の大庄八箇所(はちかしよ)自筆に補任(ふにん)を書て、青砥左衛門(あをとさゑもん)にぞ給ひたりける。青砥左衛門(あをとさゑもん)補任を啓(ひら)き見て大に驚て、「是(これ)は今何事に三万貫に及ぶ大庄給(たまは)り候やらん。」と問(とひ)奉りければ、「夢想に依て、先(まづ)且(しばらく)充行(あておこなふ)也(なり)。」と答(こたへ)給ふ。青砥左衛門(あをとさゑもん)顔を振て、「さては一所(いつしよ)をもえこそ賜り候まじけれ。且は御意の通(とほり)も歎(なげき)入(いり)て存(ぞんじ)候。物(もの)の定相(ぢやうさう)なき喩(たとへ)にも、如夢幻泡影如露亦如電(によむげんはうやうによろやくによでん)とこそ、金剛経にも説(とか)れて候へば、若(もし)某(それがし)が首を刎(はね)よと云(いふ)夢を被御覧候はゞ、無咎共如夢被行候はんずる歟(か)。報国の忠薄(うすく)して、超涯(てうがい)の賞(しやう)を蒙(かうむ)らん事、是(これ)に過(すぎ)たる国賊(こくぞく)や候べき。」とて、則(すなはち)補任(ふにん)をぞ返し進(まゐら)せける。自余(じよ)の奉行共も加様(かやう)の事を聞て己(おのれ)を恥(はぢ)し間、是(これ)までの賢才は無(なか)りしか共、聊(いささか)も背理耽賄賂事をせず。是(ここを)以(もつて)平氏相州(さうしう)八代まで、天下を保(たもち)し者也(なり)。夫(それ)政道の為に怨(あた)なる者は、無礼(ぶれい)・不忠・邪欲(じやよく)・功誇(こうくわ)・大酒・遊宴・抜折羅(ばさら)・傾城(けいせい)・双六(すごろく)・博奕(ばくえき)・剛縁(かうえん)・内奏(ないそう)、さては不直(ふちよく)の奉行也(なり)。治(をさま)りし世には是(これ)を以て誡(いましめ)とせしに、今の代の為体皆是(これ)を肝要とせず。我こそ悪からめ。些(ちと)礼義をも振舞(ふるまひ)、極信(ごくしん)をも立(たつ)る人をば、「あら見られずの延喜式や、あら気詰(きづまり)の色代や。」とて、目を引(ひき)、仰(あふのき)に倒(たふれ)笑ひ軽謾(きやうまん)す。是(これ)は只一の直(すぐ)なる猿が、九の鼻欠(はなかけ)猿に笑(わらは)れて逃(にげ)去(さり)けるに不異。又仏神領に天役課役(てんやくくわやく)を懸(かけ)て、神慮冥慮(みやうりよ)に背(そむ)かん事を不痛。又寺道場に懸要脚僧物施料(せれう)を貪(むさぼる)事を業(げふ)とす。是(これ)然(しかしながら)上方(らうへかた)御存知なしといへ共、せめ一人に帰(き)する謂(いはれ)もあるか。角(かく)ては抑世の治(をさま)ると云(いふ)事の候べきか。せめては宮方(みやがた)にこそ君も久(ひさしく)艱苦(かんく)を嘗(なめ)て、民の愁(うれへ)を知食(しろしめ)し候。臣下もさすが知慧ある人多(おほく)候なれば、世を可被治器用(きよう)も御渡(おんわたり)候覧(らん)と、心にくゝ存(ぞんじ)候へ。」と申せば、鬢帽子(びんばうし)したる雲客打ほゝ笑(ゑみ)て、「何をか心にくゝ思召(おぼしめし)候覧(らん)。宮方(みやがた)の政道も、只(ただ)是(これ)と重二(ぢゆうに)、重一(ぢゆういち)にて候者を。某も今年の春まで南方に伺候(しこう)して候(さうらひ)しが、天下を覆(くつが)へさん事も守文(しゆぶん)の道も叶(かなふ)まじき程を至極見透(みすか)して、さらば道広く成て、遁世(とんせい)をも仕(つかまつ)らばやと存じて、京へ罷(まかり)出て候際(あひだ)、宮方(みやがた)の心にくき所は露許(ばかり)も候はず。先(まづ)以古思(おもひ)候に昔周(しう)の大王と申(まうし)ける人、■(ひん)と云(いふ)所に御坐(おは)しけるを、隣国(りんごく)の戎(えびす)共(ども)起(おこつ)て討(うた)んとしける間、大王牛馬珠玉等(とう)の宝を送て、礼を成(なし)けれ共尚(なほ)不止。早く国を去て不出、以大勢可責由をぞ申ける。万民百姓是(これ)を忿(いかり)て、「其(その)儀ならば、よしや我等(われら)身命を捨(すて)て防ぎ戦(たたかは)んずる上は、大王戎(えびす)に向て和(わ)を請(こ)ふ事御坐(おは)すべからず。」と申けるを、大王、「いや/\我(われ)国(くに)を惜(をし)く思ふは、人民を養はんが為許(ためばかり)也(なり)。我若(もし)彼(かれ)と戦はゞ、若干(そくばく)の人民を殺すべし。其(それ)を為養地を惜(をしみ)て、可養民を失(うしなは)ん事何の益(えき)か有(ある)べき。又不知隣国(りんごく)の戎(えびす)共(ども)、若(もし)我より政道よくは、是(これ)民の悦たるべし。何ぞ強(あながち)に以我主とせんや。」とて、大王■(ひん)の地を戎(えびす)に与へ、岐山(きさん)の麓へ逃(にげ)去て、悠然として居給(たまひ)ける。■(ひん)の地の人民、「懸(かか)る難有賢人を失(うしなひ)て、豈(あに)礼義をも不知仁義もなき戎(えびす)に随(したが)ふべしや。」とて、子弟老弱(じやく)引(ひき)連(つれ)て、同(おなじ)く岐山(きさん)の麓に来て大王に付(つき)順ひしかば、戎(えびす)は己(おのれ)と皆亡(ほろび)はてゝ、大王の子孫遂(つひ)に天下の主と成(なり)給ふ。周(しう)の文王・武王是(これ)也(なり)。又忠臣の君を諌(いさ)め、世を扶(たす)けんとする翔(ふるまひ)を聞(きく)に、皆今の朝廷(てうてい)の臣に不似。唐の玄宗は兄弟二人(ににん)坐(おは)しけり。兄の宮(みや)をば寧王(ねいわう)と申し、御弟をば玄宗とぞ申ける。玄宗位に即(つか)せ給(たまひ)て、好色(かうしよくの)御心(おんこころ)深(ふかか)りければ、天下に勅を下して容色(ようしよく)如華なる美人を求(もとめ)給(たまひ)しに、後宮(こうきゆう)三千人(さんぜんにん)の顔色我(われ)も我(われ)もと金翠(すゐ)を餝(かざり)しかども、天子再(ふたた)びと御眸(おんまなじり)を不被廻。爰(ここ)に弘農(こうのう)の楊玄■(やうげんえん)が女(むすめ)に楊貴妃と云(いふ)美人あり。養(やしなは)れて在深窓人未(いまだ)知之。天の生(な)せる麗質(れいしつ)なれば更に人間の類(たぐひ)とは不見けり。或人是(これ)を媒(なかだち)して、寧王(ねいわう)の宮(みや)へ進(まゐら)せけるを、玄宗聞召(きこしめし)て高力士(かうりきし)と云(いふ)将軍(しやうぐん)を差(さし)遣(つかは)し、道より是(これ)を奪(うばひ)取て後宮へぞ冊(かしつき)入(いれ)奉りける。寧王(ねいわう)無限無本意事に思召(おぼしめし)けれ共(ども)、御弟ながら時の天子として振舞(ふるまは)せ給(たまふ)事なれば、不及力。寧王(ねいわう)も同(おなじ)内裏(だいり)の内に御坐(ござ)有(あり)ければ、御遊(ぎよいう)などのある度毎(たびごと)に、玉の几帳(きちやう)の外(はづれ)金鶏障(きんけいしやう)の隙(ひま)より楊貴妃の容(かたち)を御覧ずるに、一度(ひとた)び笑(ゑ)める眸(まなじり)には、金谷千樹(きんこくせんじゆ)の花薫(にほひ)を恥(はぢ)て四方(しはう)の嵐に誘引(さそは)れ、風(ほのか)に見たる容貌(ようばう)は、銀漢(ぎんかん)万里の月妝(よそほひ)を妬(ねたみ)て五更(ごかう)の霧に可沈。雲居遥(はるか)に雷(いかつち)の中を裂(さけ)ずは、何故(なにゆゑ)か外(よそ)には人を水の泡(あわ)の哀とは思(おもひ)消(きゆ)べきと、寧王(ねいわう)思(おもひ)に堪兼(たへかね)て、臥(ふし)沈み歎かせ給(たまひ)ける御心(おんこころ)の中こそ哀なれ。天子の御傍(おんかたはら)には、大史の官とて、八人(はちにん)の臣下長時(ぢやうじ)に伺候(しこう)して、君の御振舞(ふるまひ)を、就善悪注(しる)し留め、官庫に収(をさむ)る習也(なり)。此(この)記録をば天子も不被御覧、かたへの人にも不見、只史書に書(かき)置(おき)て、前王の是非を後王の誡(いましめ)に備(そなふ)る者也(なり)。玄宗皇帝(くわうてい)今寧王(ねいわう)の夫人(ふじん)を奪(うばひ)取(とり)給へる事、何様(いかさま)史書に被注留ぬと思召(おぼしめし)ければ、密(ひそか)に官庫を開(ひらか)せて、大夫の官が注(しる)す所を御覧ずるに、果(はた)して此(この)事を有(あり)の侭(まま)に注(しるし)付(つけ)たり。玄宗大に逆鱗(げきりん)あつて、此(この)記録を引破て被捨、史官をば召(めし)出して、則(すなはち)首をぞ被刎ける。其(それ)より後大史の官闕(かけ)て、此職(このしよく)に居る人無(なか)りければ、天子非を犯(をか)させ給へども、敢(あへ)て憚(はばか)る方も不御坐。爰(ここ)に魯国(ろこく)に一人の才人(さいじん)あり。宮闕(きゆうけつ)に参て大史の官を望みける間、則(すなはち)左大史に成(な)して天子の傍(そば)に慎随(つつしみしたが)ふ。玄宗又此(この)左大史も楊貴妃の事をや記(しる)し置(おき)たる覧(らん)と思召(おぼしめし)て、密(ひそか)に又官庫を開(ひらか)せ記録を御覧ずるに、「天宝十年(じふねん)三月弘農楊玄■女為寧王(ねいわう)之夫人(ふじん)。天子聞容色之媚漫遣高将軍、奪容后宮。時大史官記之留史書云云。窃達天覧之日、天子忿之被誅史官訖。」とぞ記したりける。玄宗弥(いよいよ)逆鱗(げきりん)有(あつ)て、又此(この)史官を召出し則(すなはち)車裂(くるまざき)にぞせられける。角(かく)ては大史の官に成(な)る者非じと覚(おぼえ)たる処に、又魯国(ろこく)より儒者一人来て史官を望(のぞみ)ける間、軈(やが)て左大史に被成。是(これ)が注(しる)す処を又召出して御覧ずるに、「天宝年末泰階平安而四海(しかい)無事也(なり)。政行漸懈遊歓益甚。君王重色奪寧王(ねいわう)之夫人(ふじん)。史官記之或被誅或被車裂。臣苟為正其非以死居史職。後来史官縦賜死、続以万死、為史官者不可不記之。」とぞ記(しる)したりける。己(おのれ)が命を軽(かろん)ずるのみに非(あら)ず、後(のちの)史官に至(いたる)まで縦(たとひ)万人死する共不記有(ある)べからずと、三族(さんぞく)の刑(けい)をも不恐注(しるし)留(とどめ)し左大史が忠心の程こそ難有けれ。玄宗此(この)時(とき)自(みづから)の非を知(しろ)し食(め)し、臣の忠義を叡感(えいかん)有て、其(その)後よりは史官を不被誅、却(かへつ)て大禄(たいろく)をぞ賜(たまは)りける。人として死(しを)不痛云(いふ)事なければ、三人(さんにんの)史官全(まつた)く誅(ちゆう)を非不悲。若(もし)恐天威不注君非、叡慮無所憚悪(あし)き御翔(ふるまひ)尚(なほ)有(あり)ぬと思(おもひ)し間、死罪に被行をも不顧、是(これ)を注し留(とどめ)ける大史官の心の中、想像(おもひやる)こそ難有けれ。国(くにに)有諌臣其(その)国(くに)必(かならず)安(やすく)、家(いへに)有諌子其(その)家必(かならず)正し。されば如斯君も、誠(まこと)に天下の人を安からしめんと思召し、臣も無私君の非を諌(いさめ)申(まうす)人あらば、是(これ)程(ほど)に払棄(はらひすつ)る武家の世を、宮方(みやがた)に拾(ひろう)て不捕や。か程に安き世を不取得、三十(さんじふ)余年(よねん)まで南山の谷の底に埋木(うもれき)の花開(さ)く春を知(しら)ぬ様にて御坐(おはします)を以て、宮方(みやがた)の政道をば思ひ遣(やら)せ給へ。」と爪弾(つまはじき)をしてぞ語りける。両人物語、げにもと聞(きき)居て耳を澄(すま)す処に、又是(これ)は内典(ないでん)の学匠(がくしやう)にてぞある覧(らん)と見へつる法師、熟々(つくづく)と聞て帽子(ばうし)を押除(おしのけ)菩提子(ぼだいじ)の念珠(ねんじゆ)爪繰(つまぐり)て申けるは、「倩(つらつら)天下の乱を案ずるに、公家の御咎(とが)共(とも)武家の僻事(ひがこと)とも難申。只(ただ)因果の所感とこそ存(ぞんじ)候へ。其(その)故は、仏に無妄語と申せば、仰(あふい)で誰か信を取らで候べき。仏説の所述を見(みる)に、増一阿含経(ぞういちあごんきやう)に、昔天竺に波斯匿王(はしのくわう)と申ける小国の王、浄飯王(じやうぼんわう)の聟(むこ)に成(なら)んと請(こ)ふ。浄飯王(じやうぼんわう)御心(おんこころ)には嫌(きら)はしく乍思召辞するに詞(ことば)や無(なか)りけん、召仕はれける夫人(ふじん)の中に貌形(はうぎやう)無殊類勝(すぐれ)たるを撰(えらん)で、是(これ)を第三(だいさん)の姫宮と名付(なづけ)給て、波斯匿王(はしのくわう)の后にぞ被成ける。軈(やがて)此(この)后の御腹(おんはら)に一人の皇子出来させ給ふ。是(これ)を瑠璃(るり)太子(たいし)とぞ申ける。七歳に成(なら)せ給(たまひ)ける年、浄飯王(じやうぼんわう)の城(じやう)へ坐(おは)して遊ばれけるが、浄飯王(じやうぼんわう)の同じ床(ゆか)にぞ坐(ざ)し給(たまひ)たりける。釈氏(しやくしの)諸王大臣是(これ)を見て、「瑠璃太子は是(これ)実(まこと)の御孫には非(あらず)、何故(なにゆゑ)にか大王と同位(どうゐ)に座(ざ)し給(たまふ)べき。」とて、則(すなはち)玉の床(ゆか)の上より追(おひ)下(おろ)し奉る。瑠璃太子少(をさな)き心にも不安事に思召(おぼしめし)ければ、「我(わが)年長(ちやう)ぜば必(かならず)釈氏を滅(ほろぼ)して此(この)恥を可濯。」と深く悪念をぞ被起ける。さて二十(にじふ)余年(よねん)を歴(へ)て後(のち)、瑠璃太子長(ひと)となり浄飯王(じやうぼんわう)は崩御(ほうぎよ)成(なり)しかば、瑠璃太子三百万騎の勢を卒(そつ)して摩竭陀国(まかだこく)の城(じやう)へ寄(よせ)給ふ。摩竭陀国(まかだこく)は大国たりといへ共、俄(にはか)の事なれば未(いまだ)国々より馳(はせ)参らで、王宮已(すで)に被攻落べく見へける処に、釈氏の刹利種(せつりしゆ)に強弓(つよゆみ)共(ども)数百人(すひやくにん)有て、十町(じつちよう)二十町(にじつちよう)を射越しける間、寄手(よせて)曾(かつて)不近付得、山に上(のぼ)り河を隔(へだて)て徒(いたづら)に日をぞ送りける。斯(かか)る処に釈氏の中より、時の大臣なりける人一人、寄手(よせて)の方へ返忠(かへりちゆう)をして申けるは、「釈氏の刹利種(せつりしゆ)は五戒(ごかい)を持たる故(ゆゑ)に曾(かつ)て人を殺(ころす)事をせず。縦(たとひ)弓強(つよく)して遠矢を射る共人に射あつる事は不可有。只(ただ)寄(よせ)よ。」とぞ教へける。寄手(よせて)大に悦て今は楯をも不突鎧をも不著、時の声を作りかけて寄(よせ)けるに、げにも釈氏共の射る矢更(さら)に人に不中、鉾(ほこ)を仕(つか)ひ剣(けん)を抜(ぬい)ても人を斬(きる)事無(なか)りければ、摩竭陀国(まかだこくの)王宮忽(たちまち)に被責落、釈氏の刹利種悉(ことごとく)一日が中に滅(ほろび)んとす。此(この)時(とき)仏弟子(ぶつでし)目連(もくれん)尊者、釈氏の無残所討れなんとするを悲(かなしみ)て、釈尊の御所(みもと)に参て、「釈氏已(すで)に瑠璃王(るりわう)の為に被亡て、僅(わづか)に五百人(ごひやくにん)残れり。世尊何ぞ以大神通力五百人(ごひやくにん)の刹利種(せつりしゆ)を不助給や。」と被申ければ、釈尊、「止々(やみなんやみなん)、因果の所感仏力にも難転。」とぞ宣(のたまひ)ける。目連尊者尚(なほ)も不堪悲に、「縦(たとひ)定業(ぢやうごふ)也(なり)共(とも)、以通力是(これ)を隠弊(いんへい)せんになどか不助や。」と思召(おぼしめし)て、鉄鉢(くろがねのはち)の中に此(この)五百人(ごひやくにん)を隠(かくし)入(いれ)て、■利天(たうりてん)にぞ被置ける。摩竭陀国(まかだこく)の軍はてゝ瑠璃王(るりわう)の兵共(つはものども)皆本国に帰(かへり)ければ、今は子細非じとて目連神力の御手(おんて)を暢(のべ)て、■利天(たうりてん)に置(おか)れたる鉢(はち)を仰(あふの)けて御覧ずるに、以神通被隠五百人(ごひやくにん)の刹利種(せつりしゆ)、一人も不残死(しに)けり。目連悲(かなしみ)て其(その)故を仏に問(とひ)奉(たてまつる)。仏答(こたへ)て宣(のたまは)く、「皆是(これ)過去の因果(いんぐわ)也(なり)。争(いかで)か助る事を得ん。其(その)故は、往昔(わうせき)に天下三年旱(ひでり)して無熱池(むねつち)の水乾(かは)けり。此(この)池に摩羯魚(まかつぎよ)とて尾首(をかしら)五十丈(ごじふぢやう)の魚あり。又多舌魚(たぜつぎよ)とて如人言(ものい)ふ魚あり。此(ここ)に数万人(すまんにん)の漁(すなとり)共(ども)集て水を換尽(かへつく)し、池を旱(ほし)て魚を捕(とら)んとするに、魚更(さら)になし。漁父(ぎよふ)共(ども)求(もとむ)るに無力空(むなし)く帰(かへら)んとしける処に、多舌魚岩穴(いはあな)の中より這(はひ)出て、漁父共に向て申けるは、『摩羯魚(まかつぎよ)は此(この)池の艮(うしとら)の角に大なる岩穴を掘(ほつ)て水を湛(たたへ)、無量の小魚共を伴(ともな)ひて隠(かくれ)居たり。早く其(その)岩を引除(ひきのけ)て隠(かくれ)居たる摩羯魚(まかつぎよ)を可殺。加様(かやう)に告(つげ)知(しら)せたる報謝(はうしや)に、汝等(なんぢら)我(わが)命を助(たすけ)よ。』と委(くはし)く是(これ)を語て、多舌魚は岩穴の中へぞ入(いり)にける。漁父共大に悦(よろこび)て件の岩を掘(ほり)起(おこ)して見(みる)に、摩羯魚(まかつぎよ)を始として五丈六丈ある大魚共其(その)数を不知集(あつまり)居たり。小水に吻(いきづ)く魚共なれば、何(いづ)くにか可逃去なれば、不残漁父に被殺、多舌魚許(ばかり)を生(いけ)たりけり。されば此(この)漁父と魚と諸共(もろとも)に生(しやう)を替(かへ)て後、摩羯魚(まかつぎよ)は瑠璃太子の兵共(つはものども)と成り、漁父は釈氏の刹利種(せつりしゆ)となり、多舌魚は今返忠(かへりちゆう)の大臣と成て摩竭陀国(まかだこく)を滅(ほろぼ)しける。又舎衛国(しやゑこく)に一人の婆羅門(ばらもん)あり。其(その)妻一(ひと)りの男を産(うめ)り。名をば梨軍支(りぐんし)とぞ号(がう)しける。貌(かたち)醜(みにく)く舌強くして、母の乳を呑(のま)する事を不得。僅(わづか)に酥蜜(そみつ)と云(いふ)物を指(ゆび)に塗(ぬ)り、舐(ねぶら)せてぞ命を活(い)けたりける。梨軍支(りぐんし)年長(ちやう)じて家貧(まどし)く食に飢(うゑ)たり。爰(ここ)に諸の仏弟子(ぶつでし)達城に入て食を乞(こひ)給ふが、悉(ことごとく)鉢(はち)に満(みち)て帰(かへり)給(たまふ)を見て、さらば我(われ)も沙門(しやもん)と成て食に飽(あか)ばやと思ひければ、仏の御前(おんまへ)に詣(まう)でゝ、出家の志ある由を申(まうす)に、仏其(その)志を随喜(ずゐき)し給(たまひ)て、『善来比丘於我(ぜんらいびくおが)法中快修梵行得尽苦際(けしゆぼんぎやうとくじんくさい)。』と宣(のたま)へば、鬢髪(びんはつ)を自(みづから)落(おとし)て沙門(しやもん)の形に成(なり)にけり。角(かく)て精勤修習(しやうごんしゆしふ)せしかば軈(やがて)阿羅漢(あらかんの)果(くわ)をぞ得たりける。さても尚(なほ)貧窮(びんぐう)なる事は不替。長時(ちやうじ)に鉢を空(むなし)くしければ仏弟子(ぶつでし)達是(これ)を憐(あはれみ)て、梨軍支(りぐんし)比丘(びく)に宣ひけるは、『宝塔の中に入て坐(ざせ)よ。参詣の人の奉(たてまつら)んずる仏供(ぶつく)を請(うけ)て食(くは)んに不足あらじ。』とぞ教(をしへ)られける。梨軍支(りぐんし)悦(よろこび)て塔の中に入て眠(ねぶり)居たる其(その)間に、参詣の人仏供を奉りたれ共更(さら)に是(これ)を不知(しらず)。時に舎利弗(しやりほつ)五百人(ごひやくにん)の弟子(でし)を引て、他邦(たはう)より来て仏塔の中を見給(たまふ)に、参詣の人の奉る仏供あり。是(これ)を払集(あつめ)て、乞丐人(こつがいにん)に与へ給ふ。其(その)後梨軍支(りぐんし)眠(ねぶり)醒(さめ)て、食せんとするに物なし。足摺(あしずり)をしてぞ悲(かなしみ)ける。舎利弗(しやりほつ)是(これ)を見給て、『汝(なんぢ)強(あながち)に勿愁事、我今日汝を具(ぐ)して城に入り、旦那(だんな)の請(しやう)を可受。』とて伽耶城(がやじやう)に入て、檀那(だんな)の請(しやう)を受(うけ)給(たまふ)。二人(ににん)の沙門(しやもん)已(すで)に鉢(はち)を挙(あげ)て飯(いひ)を請(う)けんとし給(たまひ)ける処に、檀那の夫婦俄(にはかに)喧(いさかひ)をし出して、共に打(うち)合(あひ)ける間、心ならず飯(いひ)を打(うち)こぼして、舎利弗(しやりほつ)・梨軍支(りぐんし)共に餓(うゑ)てぞ帰(かへり)給(たまひ)ける。其翌(そのあけ)の日又舎利弗、長者の請(しやう)を得て行(ゆき)給ひけるが、梨軍支(りぐんし)比丘を伴(ともな)ひ連(つれ)給ふ。長者五百(ごひやく)の阿羅漢(あらかん)に飯(いひ)を引(ひき)けるが、如何(いかが)して見はづしたりけん。梨軍支(りぐんし)一人には不引けり。梨軍支(りぐんし)鉢を捧(ささげ)て高声に告(つげ)けれども人終(つひ)に不聞付ければ、其(その)日(ひ)も飢(うゑ)て帰(かへり)にける。阿難尊者此(この)事を憐(あはれみ)て、『今日我(われ)仏に随(したがひ)奉て請(しやう)を受(うく)るに、汝を伴(ともなつ)て飯(いひ)に可令飽。』と約し給(たまふ)。阿難既(すで)に仏に随て出給(たまふ)時(とき)に、梨軍支(りぐんし)に約束し給(たまひ)つる事を忘(わすれ)て、連(つれ)給はざりければ、今日さへ鉢を空(むなしく)して徒然(とぜん)としてぞ昏(くら)しける。第五日に、阿難又昨日梨軍支(りぐんし)を忘(わすれ)たりし事を浅猿(あさまし)く思召(おぼしめし)て、是(これ)に与(あたへ)ん為に或(ある)家に行(ゆき)て飯(いひ)を乞(こひ)て帰(かへり)給(たまふ)。道に荒狗(あらいぬ)数十疋(すじつぴき)走(わしり)進ける間、阿難鉢を地に棄(すて)て、這々(はふはふ)帰(かへり)給(たまひ)しかば、其(その)日(ひ)も梨軍支(りぐんし)餓(うゑ)にけり。第六日に、目連尊者(もくれんそんじや)梨軍支(りぐんし)が為に食(しよく)を乞(こう)て帰(かへり)給(たまふ)に、金翅鳥(こんじてう)空中より飛下(とびさがり)て、其(その)鉢を取て大海に浮べければ、其(その)日(ひ)も梨軍支(りぐんし)餓(うゑ)にけり。第七日に、舎利弗(しやりほつ)又食(しよく)を乞て、梨軍支(りぐんし)が為に持て行(ゆき)給(たまふ)に、門戸(もんこ)皆堅(かた)く鎖(さ)して不開。舎利弗(しやりほつ)以神力其(その)門戸を開(ひらい)て内へ入(いり)給へば、俄(にはか)に地裂(さけ)て、御鉢金輪際(こんりんざい)へ落(おち)にけり。舎利弗(しやりほつ)、伸神力手御鉢を取(とり)上げ飯(いひ)を食(くは)せんとし給(たまふ)に、梨軍支(りぐんし)が口俄(にはか)に噤(つぐみ)て歯を開く事を不得。兔角(とかく)する程に時已(すで)に過(すぎ)ければ、此(この)日(ひ)も食(くら)はで餓(うゑ)にけり。此(ここ)に梨軍支(りぐんし)比丘大に慚愧(ざんぎ)して、四衆の前にして、『今は是(これ)ならでは可食物なし。』とて、砂をかみ水を飲(のみ)て即(すなはち)涅槃(ねはん)に入(いり)けるこそ哀なれ。諸(もろもろ)の比丘怪(あやしみ)て、梨軍支(りぐんし)が前生の所業(しよげふ)を仏に問(とひ)奉る。于時世尊諸(もろもろ)の比丘に告(つげて)曰(いはく)、『汝等(なんぢら)聞け、乃往過去(ないわうくわこ)に、波羅奈国(はらないこく)に一人の長者有て名をば瞿弥(くみ)といふ。供仏施僧(くぶつせそう)の志日々に不止。瞿弥(くみ)已(すで)に死して後、其(その)妻相続(あひつづい)て三宝に施(ほどこし)する事同じ。長者が子是(これ)を忿(いかつ)て其(その)母を一室(いつしつ)の内に置き、門戸(もんこ)を堅く閉(とぢ)て出入を不許。母泣涕する事七日、飢(うゑ)て死なんとするに臨(のぞん)で、母、子に向て食を乞(こふ)に、子忿(いか)れる眼を以て母を睨(にらみ)て曰(いはく)、「宝を施行(せぎやう)にし給はゞ、何(なん)ぞ砂(いさご)を食(くら)ひ水を飲(のん)で飢(うゑ)を不止。」と云(いひ)て遂(つひ)に食物を不与。食絶(たえ)て七日に当る時母は遂(つひに)食に飢(うゑ)て死ぬ。其(その)後子は貧窮困苦(びんぐうこんく)の身と成て、死して無間地獄(むけんぢごく)に堕(だ)す。多劫(たごふ)の受苦事終(をはつ)て今人中(にんぢゆう)に生(うま)る。此(この)梨軍支(りぐんし)比丘是(これ)也(なり)。沙門(しやもん)と成(なり)即(すなはち)得阿羅漢(あらかん)果事は、父の長者が三宝を敬(うやまひ)し故(ゆゑ)也(なり)。其(その)身食に飢(うゑ)て砂(すな)を食(くらう)て死せし事は、母を飢(うや)かし殺したりし依其因果也(なり)。』」と、釈尊正(まさ)に梨軍支(りぐんしが)過去の所業を説(とき)給(たまひ)しかば、阿難・目連・舎利弗等(しやりほつら)作礼而去(さり)給(たまふ)。加様(かやう)の仏説を以て思ふにも、臣君を無(なみ)し、子父を殺すも、今生一世の悪に非(あら)ず。武士は衣食(いしよく)に飽満(あきみち)て、公家は餓死(がし)に及(およぶ)事も、皆過去(くわこの)因果にてこそ候らめ。」と典釈(てんしやく)の所述(しよじゆつ)明に語りければ、三人(さんにん)共(とも)にから/\と笑(わらひ)けるが、漏箭(ろうせん)頻(しきり)に遷(うつつて)、晨朝(じんでう)にも成(なり)ければ、夜も已(すで)に朱(あけ)の瑞籬(みづがき)を立出て、己(おの)が様々(さまざま)に帰(かへり)けり。以是安(あん)ずるに、懸(かか)る乱の世間(よのなか)も、又静(しづか)なる事もやと、憑(たのみ)を残す許(ばかり)にて、頼意(らいい)は帰(かへり)給(たまひ)にけり。
○尾張(をはり)小河(をがは)東池田(ひがしいけだが)事(こと) S3505
去(さる)程(ほど)に小河(をがは)中務(なかつかさの)丞(じよう)と、土岐東池田(ときひがしいけだ)と引合て、仁木(につき)に同心し、尾張(をはりの)小河(をがはの)庄(しやう)に城を構(かまへ)て楯篭(たてこも)りたりけるを、土岐宮内(くないの)少輔(せう)三千(さんぜん)余騎(よき)にて押(おし)寄せ、城を七重八重に取巻て、二十日余(あま)り責(せめ)けるが、俄(にはかに)拵(こしらへ)たる城なれば、兵粮(ひやうらう)忽(たちまち)に尽(つき)て、小河も東池田も、共に降人(かうにん)に出たりけるを、土岐日来(ひごろ)所領を論ずる事有(あり)し宿意(しゆくい)に依て、小河中務をば則(すなはち)首を刎(はね)て京都へ上(のぼ)せ、東池田をば一族(いちぞく)たるに依て、尾張(をはり)の番豆崎(はづがさき)の城(じやう)へぞ送りける。吉良(きら)治部(ぢぶの)太輔(たいふ)も仁木が語(かたら)ひを得て、参河(みかはの)国(くに)の守護代(しゆごだい)西郷(さいがう)兵庫(ひやうごの)助(すけ)と一に成て、矢矧(やはぎ)の東に陣を張(は)り、海道(かいだう)を差塞(さしふさ)ぎ、畠山(はたけやま)入道(にふだう)が下向を支(ささへ)たりけるが、大島左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義高(よしたか)、当国の守護(しゆご)を給て、星野・行明等(ぎやうめいら)と引(ひき)合ひ、国へ入(いり)ける路次の軍に打負(うちまけ)て、西郷(さいがう)伊勢へ落(おち)行(ゆき)ければ、吉良治部(ぢぶの)太輔(たいふ)は御方(みかた)に成て、都へぞ出たりける。是(これ)のみならず、石塔刑部(ぎやうぶの)卿(きやう)頼房(よりふさ)、仁木三郎を大将として、伊賀・伊勢の兵を起し、二千(にせん)余騎(よき)にて近江(あふみの)国(くに)に打越(うちこえ)、葛木(かづらき)山に陣を取(とる)。佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官入道(はうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・舎弟(しやてい)山内(やまのうち)判官、国中(こくぢゆう)の勢を集(あつめ)て飯守岡(いひもりがをか)に陣を張り数日(すじつ)を経(ふ)る処に、九月二十八日(にじふはちにち)早旦に、仁木三郎兵を印て申けるは、「当国に打越て、数日(すじつ)合戦に不及して徒(いたづら)に里氏を煩す事非本意上(うへ)、伊勢の京兆(けいてう)も定(さだめ)て未練にぞ思(おもひ)給(たまふ)らん。今日吉日なれば敵を一当(ひとあて)々(あて)て可散。但(ただし)佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)少輔(せう)高秀(たかひで)が手(て)の者を分て守るなる市原(いちはら)の城(じやう)を責(せめ)落(おと)し、敵を一人も跡に不残、心安(こころやす)く合戦を可致。」とて打立(うちたち)ければ、石塔刑部(ぎやうぶの)卿(きやう)も伊賀の名張(なばり)が一族(いちぞく)、当国の大原・上野(うへの)の者共(ものども)付順(つきしたが)ひける間、手勢三百(さんびやく)余騎(よき)是(これ)も同(おなじ)く打立て、旗を靡(なび)け兵を進めければ、此(この)勢を見て佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官入道(はうぐわんにふだう)、「すはや敵こそ陣を去て色めきたれ、打立(うちたて)や者共(ものども)。」とて兵を集(あつめ)ける。譜代恩顧(ふだいおんこ)の若党(わかたう)三百(さんびやく)余騎(よき)の外は、相順(あひしたがふ)勢も無(なか)りけり。敵は是(これ)が天下の要(かな)めなるべし。仁木京兆(けいてう)の憑(たのみ)たる桐(きり)一揆(いつき)を始(はじめ)として、宗徒(むねと)の勇士(ゆうし)五百(ごひやく)余騎(よき)に、伊賀の服部(はつとり)・河合(かはひ)の一揆(いつき)馳(はせ)加て、廻天(くわいてん)の勢を振(ふる)ふ。其(その)様を見(みる)に、五百騎(ごひやくき)に足(たら)ぬ佐々木(ささき)が勢可叶とは見へざりけり。され共佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官入道(はうぐわんにふだう)其(その)気勇健(ゆうけん)なる者なりければ、「此(この)軍天下の勝負(しようぶ)を計(はか)るのみに非(あら)ず。今日打負(うちまけ)なば弓矢の名を可失とて、僅(わづか)の勢を数(あま)たに成(なし)ては叶(かなふ)まじ。」とて、目賀田(めかだ)・楢崎(ならさき)・儀俄(げが)・平井・赤一揆(あかいつき)を旗頭(はたがしら)にて、河端(かはばた)に傍(そう)て引(ひか)へたり。青地(あをち)・馬淵(まぶち)・伊庭(いばの)入道(にふだう)・黄一揆(きいつき)を大将として、左手(さす)の河原(かはら)に陣を取(とる)。佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官入道(はうぐわんにふだう)に、吉田・黒田・二部(にいべ)・鈴村(すずむら)・大原・馬杉(ますぎ)を始(はじめ)として、宗(むね)との兵を馬回(まはり)に引(ひか)へさせて、敵の真中を破(わら)んと引(ひか)へたり。■弱(わうじやく)の勢かさを見て大勢の敵などか勇まであるべき、「三手(みて)の小勢を見(みる)に、中なる四目結(よつめゆひ)の大旌(おほはた)は、大将佐々木(ささき)と見るぞ。打取て勲功に預(あづか)れや。」と呼(よばはつ)て、長野が蝿払(はひはらひ)一揆(いつき)、一陣に進(すすん)で懸(かけ)出たり。元来佐々木(ささき)は機変■控(きへんかけひき)を心に得て、死を一時に定(さだめ)たる気分なれば、何(なに)かは些(すこし)も可擬議、大勢の真中(まんなか)に懸入て十文字(じふもんじ)巴(は)の字に懸(かけ)散(ちら)し、鶴翼魚鱗(くわくよくぎよりん)に連(つらなつ)て東西南北に馬の足を不悩、敵の勢を懸靡(かけなびけ)て、後(うしろ)に小野の有(あり)けるに、西頭(にしがしら)に馬を立(たて)直(なほ)し人馬の息を継(つが)せければ、朱(あけ)に成たる放(はなれ)馬其(その)数を不知(しらず)。蹄(ひづめ)の下に切て落(おと)したる敵共(てきども)、算(さん)を散(ちらし)てぞ臥(ふし)たりける。是(これ)を見て残の兵気を失て、さしも深き内貴田井を天満山(てんまやま)へと志し、左になだれて引(ひき)ける間、機に乗たる佐々木(ささき)が若党共(わかたうども)、息をもくれず追懸(おひかけ)たり。引立たる者共(ものども)が、難所(なんしよ)に追懸(おひかけ)られて、なじかは可能。矢野(やのの)下野(しもつけの)守(かみ)・工藤判官・宇野部(うのべ)・後藤弾正・波多野(はだの)七郎左衛門(しちらうざゑもん)・同弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)・佐脇(さいき)三河(みかはの)守(かみ)・高島次郎左衛門(じらうざゑもん)・浅香(あさか)・萩原(はぎはら)・河合(かはひ)・服部(はつとり)、宗(むね)との者共(ものども)五十(ごじふ)余人(よにん)、一所にて皆討(うた)れにけり。軍散じければ、同(おなじき)十一月一日、彼(かの)首共を取て都に上(のぼ)せしかば、六条河原(ろくでうかはら)にぞ被懸ける。是(これ)を見ける大名・小名・僧俗・貴賎、哀哉(あはれなるかな)、昨日までも詞をかはし肩を双(ならべ)て、見馴(みなれ)し朋友なれば、涙を拭(のごう)て首を見、悲(かなしみ)の思(おもひ)散満(さんまん)たり。懸(かか)りしかば仁木義長(よしなが)も、三千(さんぜん)余騎(よき)と聞へし兵皆落失(おちうせ)て五百(ごひやく)余騎(よき)にぞ成(なり)にける。結句(けつく)憑(たのみ)たる連枝(れんし)仁木三郎は、今度(こんどの)軍に打負(うちまけ)て、其侭(そのまま)降参して出たりける。加様(かやう)に義長(よしなが)微々(びび)に成(なり)しかば、「軈(やが)て責(せめ)よ。」とて、佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官入道(はうぐわんにふだう)・土岐大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)、両人討手を承(うけたまはり)て、七千(しちせん)余騎(よき)にて伊勢(いせの)国(くに)へ発向(はつかう)す。義長(よしなが)さしもの勇士(ゆうし)なりしか共、兵減(げん)じ気疲れしかば、懸合て一度(いちど)も軍をせず、長野が城に楯篭(たてこも)る。要害よければ寄手(よせて)敢(あへ)て不近得。土岐・佐々木(ささき)は又大勢なれば、平場(ひらば)に陣を取れども、義長(よしなが)打出て散すに不及。両陣五六里を隔(へだて)て、玉笥(たまくしげ)二見(ふたみ)の浦の二年は、徒(いたづら)にのみぞ過(すご)しける。


太平記(国民文庫)
太平記巻第三十六

○仁木京兆(につきけいてう)参南方事(こと)付(つけたり)大神宮御託宣(ごたくせんの)事(こと) S3601
都には去年の天災(てんさい)・旱魃(かんばつ)・飢饉(ききん)・疫癘(えきれい)、都鄙(とひ)の間に発(おこつ)て、尸骸(しがい)路径(ろけい)に充満(じゆうまん)せし事、只事にあらず、何様改元(かいげん)有(ある)べしとて、延文(えんぶん)六年三月晦日に、康安(かうあん)に改(あらため)られける。其(その)夜四条(しでう)富小路(とみのこうぢ)より火出て、四方(しはう)八十六町まで焼(やけ)失す。改元(かいげん)の始(はじめ)に、洛中(らくちゆう)加様(かやう)に焼(やけ)ぬる事、先(まづ)不吉(ふきつ)の表示(へうじ)也(なり)。此(この)年号不可然と被申人多かりけれ共(ども)、武家既(すで)に宣下を承(うけたまはり)て国々へ施行(しかう)しぬるを、いつしか又改元(かいげん)有(あら)ん条無其例とて、終(つひ)に此(この)年号をぞ被用ける。去(さる)程(ほど)に仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)は、三年が間大敵に取(とり)巻(まか)れて、伊勢の長野の城(じやう)に篭(こも)りたれば、知行の地もなく、兵粮(ひやうらう)乏(とぼし)くなるに付て、憑(たのみ)切たる一族(いちぞく)郎従漸々(ぜんぜん)に落(おち)失(うせ)て、僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)に成(なり)にけり。土岐右馬(うまの)頭(かみ)氏光・外山(とやま)・今峯(いまみね)、兄弟三人(さんにん)、始(はじめ)は仁木に属(しよく)して城に篭(こも)りたりけるが、弟の外山・今峯は、忽(たちまち)に翻(ひるがへつ)て寄手(よせて)に加(くはは)り、兄の右馬(うまの)頭(かみ)は、猶(なほ)城(じやう)に留て仁木が方にぞ居たりける。連枝(れんし)の間なれば、外山・今峯、何(いか)にもして右馬(うまの)頭(かみ)を助(たすけ)ばやと思(おもひ)て、潜(ひそか)に人を遣(つかは)し、「城のさのみ弱り候はぬ先に、急ぎ御降参候へ。将軍の御意も無子細候へば、御本領なども相違有(ある)まじきにて候。」と、申遣(まうしつかは)したりければ、右馬(うまの)頭(かみ)使に向て、兔角(とかく)の返事をばせで、其(その)文を引返(ひつかへし)て、一首(いつしゆ)の歌を書(かき)てぞ返しける。連(つらな)りし枝の木葉(このは)の散々(ちりぢり)にさそふ嵐の音さへぞうき外山・今峯此(この)返事を見て、是(これ)程(ほど)に思(おもひ)切たる人なれば、語(かたら)ふ共甲斐(かひ)あるまじ。げにも連枝の兄弟散々(ちりぢり)に成て後、憂世(うきよ)を秋の霜の下に朽(くち)なん名こそ悲(かなし)けれと、泪(なみだ)ぐみけるぞ哀なる。日に随て勢の落(おち)行(ゆく)気色を見て、我(わが)力にては遂(つひ)に可叶とも不思けるにや、義長(よしなが)潜(ひそか)に吉野殿(よしのどの)へ使者を進じて、御方に可参由をぞ申入(まうしいれ)たりける。伝奏(てんそう)吉田(よしだの)中納言(ちゆうなごん)宗房(むねふさ)卿(きやう)、参内して事の由を被奏聞けるに、諸卿異儀多しといへ共、義長(よしなが)御方(みかた)に参りなば、伊賀・伊勢両国、官軍(くわんぐん)に属(しよく)するのみならず、伊勢の国司顕能(あきよし)卿(きやう)の城(じやう)も、心安(こころやす)く成(なり)ぬべしとて、則(すなはち)勅免の綸旨をぞ被成ける。是(これ)を承(うけたまはり)て、武者所(むしやどころ)に候(さうらひ)ける者共(ものども)が囁(ささや)き申けるは、「近年源氏の氏族の中に、御方(みかた)に参ずる人々を見るに、何(いづ)れも以詐君を欺(あざむき)申さずと云(いふ)者なし。先(まづ)錦小路慧源(にしきのこうぢゑげん)禅門は、相伝譜代の家人師直・師泰等(もろやすら)が害を遁(のがれ)ん為に、御方に参りしか共、当方の力を仮(かつ)て、会稽(くわいけい)の恥を雪(すすぎ)たりし後、一日も更(さら)に天恩を重(おも)しとせず、其譴(そのせめ)身に留て遂(つひ)に毒害せられにき。其(その)後又宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)、御方に可参由を申て、君臣御合体(ごがつてい)の由なりしも、何(いつし)か天下を君の御成敗に任(まか)せたりし堅約(けんやく)忽(たちまち)に破(やぶれ)て、義詮江州(がうしう)を差(さし)て落(おち)たりしは、其偽(そのいつはり)の果(はたす)所に非(あら)ずや。又右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)・石堂刑部卿頼房・山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏等(ときうぢら)が、御方の由なるも、都(すべ)て実(まこと)共(とも)不覚(おぼえず)。推量するに、只勅命を借(かつ)て私の本意を達せば、君をば御位に即進(つけまゐら)する共、天下をば我侭(わがまま)にすべき者をと、心中に挟(さしはさむ)者也(なり)。今又仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)、大敵に囲(かこま)れたるが難堪さに、御方に参(さんずる)由を申(まうす)を、諸卿許容し給(たまふ)こそ心得(こころえ)ね。彼が平生(へいぜい)の振舞(ふるまひ)悪(あく)として不造云(いふ)事なし。聊(いささか)も心に逆ふ時は、無咎人を殺(ころし)て誤(あやま)れりとも不思、気に合(あふ)時(とき)は、無忠賞を与(あたへ)て忽(たちまち)に是(これ)を取返す。先(まづ)多年の芳恩を忘(わすれ)て、義詮朝臣(よしあきらあつそん)を背(そむ)く程の者なれば、君の御為に深く忠義を可存や。七箇国(しちかこく)の管領を、尚(なほ)あきたらず思(おもひ)し程の心なれば、此方の五箇国(ごかこく)・三箇国(さんかこく)の恩賞を、不足なしと可思や。若(もし)又彼(かれ)が如所存恩賞を被行、日本(につぽん)六十六(ろくじふろく)箇国(かこく)に一所も残(のこる)処不可有。多年旧功(きうこう)の官軍共(くわんぐんども)、何(いづ)れの所にか身を可置。倩(つらつら)是(これ)を思(おもふ)に、非忠臣非智臣、仏神に被捨進(まゐら)せ、人望に背(そむい)て自滅せんとする悪人を、御方に被成たらば、豈(あに)聖運の助ならんや。只虎を養て自(みづから)患(うれひ)を招く風情(ふぜい)なるべき者を。」と申ければ、又傍(かたはら)に仁木を引(ひく)者やと覚(おぼ)しくて申けるは、「此(この)人悪(わろ)き事はさる事なれ共(ども)、又直人(ただびと)とは不覚(おぼえず)。鎌倉(かまくら)にては鶴岡(つるがをか)の八幡宮にて、児(ちご)を切(きり)殺して神殿に血を淋(そそ)き、八幡(やはた)にては、駒方(こまがた)の神人(じんにん)を殺害(せつがい)して若干(そくばく)の神訴(しんそ)を負(お)ふ。尋常(よのつね)の人にて是(これ)程の悪行をしたらんに、暫(しばら)くも安穏(あんをん)なる事や候べき。仙輿(せんよ)国王の五百人(ごひやくにん)を殺し、斑足(はんぞく)太子(たいし)の一千(いつせん)の王を害せしも、皆権者(ごんじや)の所変(しよへん)とこそ承(うけたまは)れ。是(これ)も只(ただ)人を贔屓(ひいき)して申(まうす)に非(あら)ず。人の語り伝へし事の耳に留(とどまり)て候間申(まうす)にて候也(なり)。近年此(この)人伊勢(いせの)国(くに)を管領して、在国(ざいこく)したりしに、前々更(さら)に公家武家手を不指神三郡(かみさんぐん)に打入て、大神宮の御領(ごりやう)を押領(あふりやう)す。依之(これによつて)祭主(さいしゆ)・神官等(じんぐわんら)京都に上て、公家に奏聞し武家に触訴(ふれうつた)ふ。開闢(かいびやく)以来未(いまだ)斯(かか)る不思議(ふしぎ)やあるとて、厳密(げんみつ)の綸旨(りんし)御教書(みげうしよ)を被成しか共、義長(よしなが)曾(かつて)不承引。剰(あまつさへ)我を訴訟(そしよう)しつるが悪(にく)きとて、五十鈴川をせいて魚を捕(と)り、神路山(かみぢやま)に入て鷹を仕(つか)ふ。悪行日来(ひごろ)に重畳(ぢゆうでふ)せり。よしやさらば神罰に任(まかせ)て亡(ほろび)んを待(まて)とて、五百(ごひやく)余人(よにん)の神官等(じんぐわんら)榊の朶(えだ)に木綿(しで)を懸(かけ)、様々の奉幣(ほうへい)を捧(ささげ)て、只義長(よしなが)を七(しち)箇日(かにち)の内に蹴殺させ給へと、異口同音(いくどうおん)にぞ呪咀(じゆそ)しける。七日に当りける日、十歳許(ばかり)なる童部(わらんべ)一人、俄(にはか)に物に狂(くるう)て、「我に大神宮乗居(のりゐ)させ給へり。」とて、託宣(たくせん)しけるは、「我本学覚如(ほんがくしんによ)の都を出て、和光同塵の跡(あと)を垂(たれ)しより以来(このかた)、本高跡下(ほんかうしやくげ)の秋の月不照云(いふ)処もなく、化属結縁(けぞくけちえん)の春(はる)の華不薫云(いふ)袖もなし。去(され)ば方便の門には罪有(ある)をも不嫌、利物(りもつ)の所には愚(おろか)なるをも不捨。抑(そもそも)義長(よしなが)が悪行を汝等(なんぢら)天に訴(うつたへ)て呪咀する事こそ心得(こころえ)ね。彼が三生の前に義長(ぎちやう)法師と云(いひ)し時、五部(ごぶ)の大乗経を書て此(この)国(くに)に納(をさ)めたりき。其(その)善根今生に答(こたへ)て当国を知行する事を得たり。加様(かやう)の宿善ならずは彼(かれ)豈(あに)一日も安穏(あんをん)なる事を得んや。嗚呼(ああ)あたら善根や。若(もし)無上菩提の心に趣て、此(この)経を書(かき)たらましかば、速(すみやか)に離生死至仏果菩提なまし。只(ただ)名聞利養(みやうもんりやう)の為に、修せし処の善根なれば、今身は武名の家に生(うま)れて、諸国を管領し、眷属(けんぞく)多くたなびくといへ共、悪行心に染(そみ)て、乱を好み人を悩(なやま)す。哀なる哉、過去の善根此(この)世に答(こたへ)て、今生の悪業(あくごふ)又未来に酬(むく)はん事を。」とかきくどきて泣(なき)けるが、暫(しばらく)寝入たる体にて物付(ものつき)は則(すなはち)覚(さめ)にけり。加様(かやう)の事を以て思(おもふ)時(とき)は、義長(よしなが)も故ある人とこそ覚へ候へ。」と申ければ、初(はじめ)譏(そしり)つる者共(ものども)、「其(そ)れは不知、於悪行は天下第一(だいいち)の僻者(くせもの)ぞ。」と終夜(よもすがら)語て、明(あく)れば朝(てう)よりぞ退(しりぞき)てける。
○大地震並(ならびに)夏雪(なつゆきの)事(こと) S3602
同年の六月十八日の巳(みの)刻(こく)より同(おなじき)十月に至るまで、大地をびたゝ敷(しく)動(うごい)て、日々夜々に止(やむ)時(とき)なし。山は崩(くづれ)て谷を埋(うづ)み、海は傾(かたむい)て陸(くが)地に成(なり)しかば、神社仏閣倒(たふ)れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知(しらず)。都(すべ)て山川・江河・林野・村落(そんらく)此(この)災に不合云(いふ)所なし。中にも阿波(あは)の雪(ゆき)の湊(みなと)と云(いふ)浦(うら)には、俄(にはか)に太山の如(ごとく)なる潮(うしほ)漲(みなぎり)来て、在家一千七百(いつせんしちひやく)余宇(よう)、悉(ことごと)く引塩(ひきしほ)に連(つれ)て海底に沈(しづみ)しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑(もくづ)と成(なり)にけり。是(これ)をこそ希代(きたい)の不思議(ふしぎ)と見る処に、同六月二十二日、俄(にはか)に天掻曇(かきくもり)雪降(ふつ)て、氷寒(ひようかん)の甚き事冬至の前後の如し。酒を飲(のみ)て身を暖め火を焼(たき)炉(ゐるり)を囲む人は、自(みづから)寒を防(ふせ)ぐ便りもあり、山路(さんろ)の樵夫(せうふ)、野径(やけい)の旅人(りよじん)、牧馬(ぼくば)、林鹿(りんろく)悉(ことごとく)氷に被閉雪に臥(ふし)て、凍(こご)へ死(しす)る者数を不知(しらず)。七月二十四日には、摂津国(つのくに)難波(なんばの)浦(うら)の澳(おき)数百町、半時許(ばかり)乾(ひ)あがりて、無量の魚共沙(すな)の上に吻(いきづき)ける程に、傍(あたり)の浦の海人共、網を巻(まき)釣(つり)を捨(すて)て、我劣(おとら)じと拾(ひろひ)ける処に、又俄(にはか)に如大山なる潮(うしほ)満(みち)来て、漫々(まんまん)たる海に成(なり)にければ、数百人(すひやくにん)の海人(あま)共(ども)、独(ひとり)も生きて帰(かへる)は無りけり。又阿波(あはの)鳴戸(なると)俄(にはかに)潮(うしほ)去て陸(くが)と成る。高く峙(そばたち)たる岩の上に、筒のまはり二十尋(にじふひろ)許(ばかり)なる大皷(たいこ)の、銀のびやうを打て、面には巴(ともゑ)をかき、台には八竜を拏(ひこづら)はせたるが顕(あらはれ)出たり。暫(しばし)は見(みる)人是(これ)を懼(おぢ)て不近付。三四日を経(へ)て後、近き傍(あたり)の浦人共数百人(すひやくにん)集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張(はつ)たりける。尋常(よのつね)の撥(ばち)にて打たば鳴(なら)じとて、大なる鐘木(しゆもく)を拵(こしらへ)て、大鐘(おほがね)を撞(つく)様につきたりける。此(この)大皷(たいこ)天に響き地を動(うごか)して、三時許(ばかり)ぞ鳴(なつ)たりける。山崩(くづれ)て谷に答へ、潮(うしほ)涌(わい)て天に漲(みなぎ)りければ、数百人(すひやくにん)の浦人共、只今(ただいま)大地の底へ引(ひき)入(いれ)らるゝ心地して、肝魂(きもたましひ)も身に不副、倒るゝ共なく走(はしる)共(とも)なく四角(しかく)八方(はつぱう)へぞ逃(にげ)散(ちり)ける。其(その)後よりは弥(いよいよ)近付(ちかづく)人無(なか)りければ、天にや上りけん、又海中へや入(いり)けん、潮(うしほ)は如元満(みち)て、大皷(たいこ)は不見成(なり)にけり。又八月二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈(はげし)く吹て、虚空(こくう)暫(しばらく)掻(かき)くれて見へけるが、難波浦の澳(おき)より、大龍二(ふたつ)浮出て、天王寺(てんわうじ)の金堂(こんだう)の中へ入ると見(みえ)けるが、雲の中に鏑矢(かぶらや)鳴(なり)響(ひびき)て、戈(ほこ)の光四方(しはう)にひらめきて、大龍と四天と戦ふ体(てい)にぞ見へたりける。二(ふたつ)の竜去る時、又大地震(おびたたし)く動(うごい)て、金堂(こんだう)微塵(みぢん)に砕(くだけ)にけり。され共四天は少しも損(そん)ぜさせ給はず。是(これ)は何様(いかさま)聖徳太子(しやうとくたいし)御安置(ごあんぢ)の仏舎利(ぶつしやり)、此(この)堂(だう)に御坐(おはしませ)ば、竜王是(これ)を取(とり)奉らんとするを、仏法護持の四天王(してんわう)、惜(をし)ませ給(たまひ)けるかと覚へたり。洛中(らくちゆう)辺土(へんど)には、傾(かたぶか)ぬ塔の九輪(くりん)もなく、熊野参詣の道には、地の裂(さけ)ぬ所も無(なか)りけり。旧記の載(のす)る所、開闢(かいびやく)以来(よりこのかた)斯(かか)る不思議(ふしぎ)なければ、此(この)上に又何(いか)様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐(おぢおそ)れぬ人は更(さら)になし。
○天王寺(てんわうじ)造営(ざうえいの)事(こと)付(つけたり)京都御祈祷(ごきたうの)事(こと) S3603
南方には此(この)大地震に、諸国七道の大伽藍共の破たる体(てい)を聞(きく)に、天王寺(てんわうじ)の金堂(こんだう)程崩れたる堂舎はなく、紀州の山々程裂(さけ)たる地もなければ、是(これ)外の表事(へうじ)には非(あら)じと御慎(おんつつしみ)有て、様々の御祈(おんいのり)共(ども)を始(はじめ)らる。則(すなはち)般若寺(はんにやじ)円海(ゑんかい)上人勅(ちよく)を承(うけたまはり)て、天王寺(てんわうじ)の金堂(こんだう)を作られけるに、希代(きたい)の奇特(きどく)共(ども)多かりけり。先(まづ)大廈(たいか)高堂の構(かまへ)なれば、安芸・周防・紀伊(きいの)国(くに)の杣山(そまやま)より、大木(たいぼく)を取(とら)んずる事、一二年の間には難道行覚へけるに、二人(ににん)して抱(いだ)き廻(まは)す程なる桧木(ひのき)の柱、六七丈なるかぶき三百本、何(いづ)くより来る共不知、難波の浦に流(ながれ)寄(より)て、塩の干潟(ひがた)にぞ留(とどま)りける。暫(しばら)くは主ある材木にてぞ在(ある)らんと、尋(たづね)くる人を待(また)れけれ共求(もとめ)くる人も無(なか)りければ、さては天竜八部(てんりゆうはちぶ)の人力を助(たすけ)給(たまふ)にてぞ有(ある)らんとて、虹(こう)の梁(うつばり)・鳳(ほう)の甍(いらか)、品々(しなじな)に是(これ)をぞ用ひける。又柱立已(すで)に訖(をはり)、棟木(むなぎ)を揚(あげ)んとしけるに、■巻(くるまき)の縄に信濃皮(しなのかは)むき千束(せんぞく)入(いる)べしと、番匠(ばんじやう)麁色(そしき)を出せり。輙(たやす)く可尋出物ならねば、上人信濃(しなのの)国(くに)へ下て便宜の人に勧進(くわんじん)せんと企(くはたて)給(たまひ)ける処に、難波堀江の汀(みぎは)に死蛇(しじや)の如くなる物流(ながれ)寄(より)たり。何(なに)やらんと近付(ちかづき)見れば、信濃皮むきにて打たる大綱(おほづな)、太(ふと)さ二尺(にしやく)長さ三十丈(さんじふぢやう)なるが十六(じふろく)筋(すぢ)まで、水(みづの)泡(あわ)に連(つらなつ)てぞ寄(より)たりける。上人不斜(なのめならず)悦(よろこび)て、軈(やが)てくるまきの綱(つな)に用ひらる。是(これ)第一(だいいち)の奇特(きどく)也(なり)とて、所用(しよよう)の後は、此(この)綱を宝蔵にぞ収(をさ)め給ひける。又三百(さんびやく)余人(よにん)有(あり)ける番匠(ばんじやう)の中に、肉食を止め酒を飲(のま)ぬ番匠あまたあり。上人怪(あやし)く思(おもひ)給ひて是(これ)がする業(わざ)を見給(たまふ)に、一人のする業(わざ)、余(よ)の番匠十人(じふにん)にも過(すぎ)たり。さればこそ直(ただ)人にては無(なか)りけれと、弥(いよいよ)怪(あやし)く覚(おぼ)して、日暮(くれ)て帰るを見送り給へば、何(いづ)くへ行(ゆく)共(とも)不見、かき消す様に失(うせ)にけり。其(その)数二十八人(にじふはちにん)有(あり)つるは、何様(いかさま)千手観音の御眷属(けんぞく)、二十八部衆にてぞ御坐(おは)すらんと、皆人信仰(しんがう)の手を合(あは)す。されば造営日あらずして奇麗(きれい)金銀を鏤(ちりばめ)たり。霊仏の威光、上人の陰徳(いんとく)、函蓋(かんかい)共(ども)に相応(さうおう)して、奇特(きどく)なりし事共(ことども)也(なり)。都には東寺の金堂(こんだう)一尺(いつしやく)二寸(にすん)南へのきて、高祖(かうそ)弘法(こうぼふ)大師(だいし)南天へ飛(とび)去(さら)せ給(たまひ)ぬと、寺僧の夢に見(みえ)ければ、洛中(らくちゆう)の御慎(おんつつしみ)たるべしとて、青蓮院(しやうれんゐん)の尊道法親王(ほふしんわう)に被仰、伴僧(ばんそう)二十口(にじつく)八月十三日(じふさんにち)より内裏に伺候(さふらひ)して、大熾盛光(だいしじやうくわう)の法を行(おこなは)る。聖護院(しやうごゐん)覚誉(かくよ)親王(しんわう)は、二間(ふたま)に御参(おんまゐり)有て、九月八日より一七日、尊星王(そんしやうわう)の法をぞ修せられける。是(これ)のみならず、近年絶(たえ)て無(なか)りつる最勝講(さいしようかう)を行(おこなは)る。初日(しよにち)は問者(もんじや)叡山(えいさん)の尋源(じんげん)・東大寺(とうだいじ)の深慧(しんゑ)、講師には、興福寺(こうぶくじ)の盛深(じやうじん)・同寺の範忠(はんちゆう)、第二日の問者は、東大寺(とうだいじ)の経弁(けいべん)・同良懐(りやうくわい)、講師は興福寺(こうぶくじ)の実遍(じつべん)・山門の慈俊(じしゆん)、第三日の問者は、興福寺(こうぶくじ)の円守・山門の円俊、講師は、三井寺(みゐでら)の経深(けいじん)・興福寺(こうぶくじ)の覚成(かくせい)、第四日の問者は、興福寺(こうぶくじ)の孝憲(けうけん)・同寺の覚家(かくげ)、講師は、叡山(えいさん)の良憲(りやうけん)・三井寺(みゐでら)の房深(ばうじん)、結日(けつにち)の問者は、東大寺(とうだいじ)の義実(ぎじつ)・興福寺(こうぶくじの)教快(けうくわい)講師は、山門(さんもんの)良寿(りやうじゆ)・興福寺(こうぶくじの)実縁(じつえん)、証義(しようぎ)は、大乗院の前(さきの)大僧正(だいそうじやう)孝学(かうがく)・尊勝院の慈能(じのう)僧正(そうじやう)にてぞ御坐(おはし)ける。講問朝夕(てうせき)に坐(ざ)を替(かへ)て、学海に玉を拾へる論談を決択(けつたく)して詞(ことば)の林に花開(さ)く。富楼那(ふるな)の弁舌(べんぜつ)、文殊(もんじゆ)の智恵も、角(かく)やと覚(おぼゆ)る許(ばかり)也(なり)。
○山名伊豆(いづの)守(かみ)落美作城事(こと)付(つけたり)菊池(きくち)軍(いくさの)事(こと) S3604
斯(かか)る処に、七月十二日山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・嫡子右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師義(もろよし)・次男中務(なかつかさの)大輔(たいふ)、出雲・伯耆・因播、三箇国(さんかこく)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して美作へ発向(はつかう)す。当国の守護(しゆご)赤松筑前入道世貞(せいてい)、播州に在て未戦(いまだたたかはざる)前(さき)に、広戸掃部(ひろとかもんの)助(すけ)が、名木(なぎ)杣二箇処(にかしよの)城(じやう)、飯田(いひだ)の一族(いちぞく)が篭(こもつ)たる篠向(ささむき)の城(じやう)、菅家(くわんけ)の一族(いちぞく)の大見丈(たいけんぢやう)の城(じやう)、有元(ありもと)民部(みんぶの)大夫入道(たいふにふだう)が菩提寺(ぼだいじ)の城(じやう)、小原(をはら)孫次郎入道が小原の城(じやう)、大野の一族(いちぞく)が篭(こも)りたる大野(おほのの)城(じやう)、六箇所(ろくかしよ)の城(じやう)は、一矢(ひとや)をも不射降参す。林野(はやしの)・妙見(めうけん)二(ふたつ)の城(じやう)は、二十日余(あま)り怺(こらへ)たりけるが、山名に兔角(とかく)すかされて、遂(つひ)には是(これ)も敵になる。今は倉懸(くらかけ)の城(じやう)一(ひとつ)残て、佐用(さよ)美濃(みのの)守(かみ)貞久・有元(ありもと)和泉(いづみの)守(かみ)佐久(すけひさ)、僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)にて楯篭(たてこも)りたりけるを、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・子息中務(なかつかさの)少輔(せう)三千(さんぜん)余騎(よき)にて押寄せ、城の四方(しはう)の山々峯々二十三箇所(にじふさんかしよ)に陣を取て、鹿垣(ししがき)を二重三重(ふたへみへ)に結(ゆ)ひ廻(まは)し、逆木(さかもぎ)しげく引懸(ひきかけ)て、矢懸(やがか)り近くぞ攻(せめ)たりける。播磨と美作との堺(さかひ)には、竹山・千草(ちくさ)・吉野・石堂(いしたう)が峯、四箇所(しかしよ)の城(じやう)を構(かまへ)て、赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐、百騎(ひやくき)づゝの勢を篭(こめ)たりける。山名が執事小林民部(みんぶの)丞(じよう)重長(しげなが)、二千(にせん)余騎(よき)にて星祭(ほしまつり)の岳(だけ)へ打上り、城を目の下に直下(みおろ)して、透間(すきま)もあらば打蒐(かか)らんと、馬の腹帯(はるび)を堅めて引(ひか)へたり。赤松筑前入道世貞(せいてい)・舎弟(しやてい)律師(りつし)則祐・其(その)弟弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範(うぢのり)・大夫判官(たいふのはうぐわん)光範・宮内(くないの)少輔(せう)師範・掃部(かもんの)助(すけ)直頼(なほより)・筑前(ちくぜんの)五郎顕範(あきのり)・佐用(さよ)・上月(かうづき)・真島(ましま)・杉原の一族(いちぞく)相集て二千(にせん)余騎(よき)、高倉山の麓に陣を取て、敵倉懸(くらかけ)の城(じやう)を攻(せめ)ば弊(つひえ)に乗て後攻(ごづめ)をせんと企(くはた)つと聞へければ、山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師義、勝(すぐ)れたる兵八百(はつぴやく)余騎(よき)を卒(そつ)して、敵の近付(ちかづか)ん所へ懸合(かけあは)せんと、浮勢(うきぜい)に成て引(ひか)へたり。赤松は右衛門(うゑもんの)佐(すけ)小勢也(なり)と聞て、先(まづ)此(この)敵を打散(うちちら)さんと打立(うちたち)ける処に、阿保(あふ)肥前(ひぜんの)入道(にふだう)信禅(しんぜん)、俄(にはか)に敵に成て但馬(たぢまの)国(くに)へ馳(はせ)越(こえ)、長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもん)と引合て播磨へ打て入(いら)んと企(くはたて)ける間、赤松、「さらば東(ひんがしの)方(かた)に城郭(じやうくわく)を構へ、路々に警固の兵を置け。」とて、法花(ほつけ)山に城を構へ、大山越(だいせんごえ)の道を切(きり)塞(ふさい)で、五箇所(ごかしよ)へ勢をぞ差向(さしむけ)ける。依之(これによつて)進んで山名に戦(たたかは)んとするも勢少く、退(しりぞい)て但馬へ向はんとするも不叶。進退歩(あゆみ)を失(うしなつ)て前後の敵に迷惑す。さらば中国の大将細河右馬(うまの)頭(かみ)頼旨(よりむね)、讃岐(さぬきの)国(くに)の守護(しゆご)を相論(さうろん)して、四国(しこく)にをはするに触(ふれ)送て其(その)勢を呼(よび)越(おこ)し、備前・備中・備後、当国四箇国(しかこく)の勢を以て、倉懸(くらかけ)の城(じやう)の後攻(ごづめ)をせよとて、事の子細を牒送(てふそう)するに、右馬(うまの)頭(かみ)大に驚(おどろい)て、九月十日備前へ押渡(おしわたり)て後陣(ごぢん)の勢を待(まち)けるに、相順(あひしたが)ふ四箇国(しかこく)の兵共(つはものども)、己(おの)が国々の私戦(わたくしたたかひ)を捨(すて)かねて、大将に不属。備前・備中・備後三箇国(さんかこく)の勢(せい)は、皆野心を含(ふく)める者共(ものども)なれば、非可憑とて、大将唐河(からかは)に陣を取り、徒(いたづら)に月日をぞ被送ける。去(さる)程(ほど)に倉懸の城(じやう)には人多(おほく)して兵粮少(すくな)かりければ、戦ふ度に軍(いくさ)利(り)有(あり)といへ共、後攻(ごづめ)の憑(たのみ)もなく、食尽(つき)矢種(やだね)尽(つき)ければ、無力十一月四日遂(つひ)に城を落(おち)にけり。是(これ)より山名山陰道(せんおんだう)四箇国(しかこく)を合(あは)せて勢弥(いよいよ)近国に振(ふるふ)のみに非(あら)ず、諸国の聞へをびたゝしかりければ、世中(よのなか)如何(いかが)あらんと危(あやふ)く思はぬ人も無(なか)りけり。又筑紫には去ぬる七月(しちぐわつの)初に、征西将軍(しやうぐんの)宮(みや)、新田の一族(いちぞく)二千(にせん)余騎(よき)、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光三千(さんぜん)余騎(よき)、博多に打て出て香椎(かしひ)に陣を取(とる)と聞へしかば、勢の著(つか)ぬさきに追(おひ)落せとて、大伴(おほとも)刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)七千(しちせん)余騎(よき)・太宰(だざいの)小弐(せうに)五千(ごせん)余騎(よき)・宗像(むなかた)大宮司(だいぐうじ)八百(はつぴやく)余騎(よき)・紀井(きゐの)常陸(ひたちの)前司(ぜんじ)三百(さんびやく)余騎(よき)、都合二万五千(にまんごせん)余騎(よき)の勢、一手(ひとて)に成て大手へ向ふ。上松浦(かみまつら)・下(しも)松浦の一党、両勢の兵三千(さんぜん)余騎(よき)は、飯守(いひもり)山に打(うち)上(あがり)て敵の後(うしろ)へぞ廻(まは)りける。寄手(よせて)は目に余る程の大勢にて、而(しか)も敵を取(とり)巻(まき)たり。宮方(みやがた)は対揚(たいやう)までもなき小勢にて、而(しか)も平場(ひらば)を陣に取(とり)たりけれ共(ども)、菊池(きくち)が気分元来(もとより)大敵を拉(とりひしぐ)心(こころ)ね也(なり)ければ敢(あへ)て事ともせざりけり。両陣の間(あはひ)僅(わづか)に二十(にじふ)余町(よちやう)を阻(へだて)たれば、数日(すじつ)互(たがひ)に馬の腹帯(はるび)を堅(かた)め、鎧の高紐(ひぼ)を弛(はづ)さで、懸(かか)りてや責(せむ)る、待(まち)てや闘(たたか)ふと、隙(ひま)を伺(うかが)ひ気をためらいて、徒(いたづら)に両月をぞ送りける。菊池(きくち)が家の子城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)は、謀(はかりこと)ある者なりければ、山臥(やまぶし)・禅僧・遁世者(とんせいしや)なんどを、忍々(しのびしのび)に松浦が陣へ遣(つかは)して、其(その)陣の人々の中に、「たれがしは御方(みかた)へ内通の事あり、何(なに)がしは後矢(うしろや)射て降参すべき由を申候ぞ。野心の者共(ものども)に心を置(おか)で、犬死し給ふな。」なんど、様々(さまざま)にぞ申遣(まうしつかは)しける。是(これ)を聞て去(さる)事や可有と乍思、今時の人の心、又あるまじき事にてもなしと、互(たがひ)に心置(おき)合(あひ)て危(あや)ぶまぬ人も無(なか)りけり。其(その)後少し程経(へ)て、八月六日の暁、城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)千(せん)余騎(よき)の勢にて飯守(いひもり)山に押(おし)寄(よせ)、楯(たて)の板を敲(たたい)て時をどつと作る。松浦党元来大勢也(なり)。城よかりければ、此(この)敵に可被落様は無(なか)りけるを、城中(じやうちゆう)に敵の内通の者多しと、敵の謀(はかつ)て告(つげ)たりしを誠と心得(こころえ)て、「御方(みかた)に討(うた)るな、目を賦(くば)れ。」と云(いふ)程こそ有(あり)けれ、我先にと落(おち)ける間、寄手(よせて)勝(かつ)に乗て追懸(おつかけ)々々(おつかけ)是(これ)を討(うつ)。夜明たりせば一人も助るべしとは不見けり。乍敵手痛からんずると思(おもひ)つる松浦党をば、城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)が謀(はかりこと)にて輙(たやす)く責(せめ)落(おと)しぬ。小弐(せうに)・大友(おほとも)を打(うち)散(ちら)さん事は指掌よりも可輙とて、菊池(きくち)、宮の御勢(おんせい)と一手(ひとて)に成て五千(ごせん)余騎(よき)、明(あく)る七日午刻(むまのこく)に香椎(かしひ)の陣へ押(おし)寄(よす)る。松浦党昨日搦手(からめて)の軍に打負(うちまけ)ぬと聞(きき)しより、哀(あはれ)引(ひか)ばやと思(おもふ)小弐(せうに)・大友(おほとも)が勢共(せいども)なれば、何(なじ)かは一積(ひとたまり)も積(たま)るべき。鞭(むち)に鐙(あぶみ)を合(あは)せて我先にと落(おち)て行(ゆく)。道も不去得脱(ぬぎ)捨(すて)たる物具弓矢に目を懸(かけ)ずは、一日路(いちにちぢ)余(あま)り追(おは)れつる大手二万(にまん)余騎(よき)は、半(なかば)も生(いき)て本国へ可帰とは不見けり。
○秀詮(ひであきら)兄弟討死(うちじにの)事(こと) S3605
又同年の九月二十八日(にじふはちにち)、摂津国(つのくに)に不慮(ふりよ)の事出来て、京勢(きやうぜい)若干(そくばく)討(うた)れにけり。事の起(おこり)を尋(たづ)ぬれば、当国の守護職(しゆごしよく)をば、故赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)、無二の忠戦に依て将軍より給(たまは)りたりしを、範資死去(しきよの)後、嫡子大夫判官(たいふのはうぐわん)光範(みつのり)相続して是(これ)を拝領す。而(しか)るを去年宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)、五畿七道(ごきしちだう)の勢を卒(そつ)して、南方を被責時、光範が軍用の沙汰、毎年不足也(なり)と、将軍近習の輩(ともがら)共(ども)つぶやきけるを、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)、能次(よきつい)でとや思(おもひ)けん、南方の軍散(さん)じて後、光範差(さし)たる咎(とが)もなきに、摂津国(つのくに)の守護職(しゆごしよく)を可被召放由を申(まうし)て、則(すなはち)我(わが)恩賞にぞ申給(たまは)りける。光範は今度の軍用と云(いひ)、合戦と云(いひ)、忠烈人に超(こえ)たりと思(おもひ)ければ、定(さだめ)て抜群(ばつくん)の恩賞をぞ給(たまは)らんずらんと思(おもひ)ける処に、夫(それ)こそ無(なか)らめ、結句二代の忠功を被処無に、多年管領(くわんりやう)の守護職(しゆごしよく)を被改替ければ、含憤残恨といへ共、上裁(じやうさい)なれば不及力、謹(つつしん)で訴詔(そしよう)をし居たりける。和田・楠是(これ)を聞て、能(よ)き時分也(なり)と思(おもひ)ければ、五百(ごひやく)余騎(よき)を卒(そつ)して、渡辺の橋を打渡り、天神の森に陣を取る。佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)が嫡孫(ちやくそん)、近江(あふみの)判官(はうぐわん)秀詮(ひであきら)・舎弟(しやてい)次郎左衛門(じらうざゑもん)、兼(かね)て在国したりければ、千(せん)余騎(よき)にて馳(はせ)向ひ、神崎(かんざき)の橋を阻(へだて)て防(ふせぎ)戦(たたかは)んと議(ぎ)しけるを、守護代(しゆごだい)吉田肥前房厳覚(ひぜんばうげんかく)、「何条(なんでう)さる事や候べき。近年赤松大夫判官(たいふのはうぐわん)、当国の守護(しゆご)にて乍有、動(ややもす)れば和田・楠等(くすのきら)に境内(きやうない)を犯奪(をかしうばは)れんとする事、未練(みれん)の至(いたり)也(なり)とて、申給(たまは)らせ給ひける守護職(しゆごしよく)にて候に、敵の国を退治(たいぢ)するまでこそ無(なか)らめ、当国に打越(うちこえ)たる敵を、一人も生(いけ)て返したらんは、赤松に被笑のみに非(あら)ず、京都の聞へも不可然。厳覚命を軽(かろん)ずる程ならば、一族(いちぞく)他門の兵共(つはものども)、誰か見放(みはな)つ者候べき。恩賞ほしくはつゞけや人々。」と、広言(くわうげん)吐(はい)て、厳覚真前(まつさき)に神崎(かんざき)の橋を打渡れば、後陣(ごぢん)の勢一千(いつせん)余騎(よき)も、続(つづい)て河を越したりける。爰(ここ)にて敵の分際(ぶんさい)を問ふに、「楠は未(いまだ)河を不越、和田が勢許(ばかり)僅(わづか)に五百騎(ごひやくき)にも不足見へて候。」と牛飼童部(うしかひわらんべ)共(ども)の語りければ、吉田肥前(ひぜん)から/\と笑(わらう)て、「哀(あはれ)甘身(あさまし)や、敵の種(たね)をば此(ここ)にて尽(つく)さすべし。同(おなじく)は楠をも河を越させて打殺せ。」とて、最(いと)閑(しづか)に馬を飼(かう)てのさ/\としてぞ居たりける。和田・楠是(これ)を見澄(みすま)して、河より西へ下部(しもべ)を四五人(しごにん)遣(つかは)して、「南方の御敵(おんてき)は西より被寄候ぞ。神崎(かんざき)の橋爪(はしづめ)を支(ささへ)させ給へ。」とぞ呼(よば)はらせける。佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)是(これ)を聞て、「敵さては差違(さしちがう)て迹(あと)より寄(よせ)けり。取て返して戦へ。」とて両方深田(ふかだ)なる道一(ひとつ)を一面に打(うち)並(ならべ)て、本の橋爪へと馬を西頭(にしがしら)に成(な)して歩(あゆ)ませ行(ゆく)処に、楠が足軽の野伏三百人(さんびやくにん)両方の深田へ立渡て、鏃(やじり)を支(ささ)へ散々(さんざん)に射る。両方は深田にて馬の足も不立、迹(あと)より返して広みにて戦へと、先陣の勢に制(せい)せられて、後陣(ごぢん)より返さんとする処に、和田・楠・橋本・福塚(ふくづか)、五百(ごひやく)余騎(よき)抜連(ぬきつれ)て追懸(おひかけ)たり。中津河(なかつかは)の橋爪にて、白江(しらえの)源次六騎踏止(ふみとどまつ)て討死しける。是(これ)ぞ案内者(あんないしや)なれば、足立(あしだち)の善悪(ぜんあく)をも弁(わきま)へて一軍(ひといくさ)もせんずると、佐々木(ささき)が兼(かね)てより憑(たのみ)ける国人(くにうど)の中白一揆(しらいつき)五百(ごひやく)余騎(よき)、一戦(いつせん)も不戦、物具・太刀・刀を取(とり)捨(すて)て、河中へ皆飛(とび)漬(つか)る。始はさしも義勢(ぎせい)しつる吉田肥前(ひぜん)、真先(まつさき)に橋を渡て逃(にげ)けるが、続く敵を不渡とやしたりけん、橋板一間引(ひき)落(おとし)てければ、迹(あと)に渡る御方の兵三百(さんびやく)余騎(よき)は、皆水に溺(おぼれ)てぞ流れける。佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)兄弟は、橋の辺まで落(おち)延(のび)たりけるが、県(あがた)二郎が、「橋の落(おち)て候ぞ、とても叶(かなは)ぬ所也(なり)。返(かへし)て討死せさせ給へ。御共申さん。」と云(いひ)けるに恥(はぢ)しめられて、兄弟二騎引返(ひつかへし)て、矢庭(やには)に討(うた)れてけり。瓜生(うりふ)次郎左衛門(じらうざゑもん)父子兄弟三人(さんにん)も、判官の討死するを見て、一所に打寄らんとしけるが、馬の平頚(ひらくび)射られて、刎(はね)落されければ、田の畔(くろ)の上に三人(さんにん)立双(たちならん)で、敵懸らば打(うち)違(ちがへ)て死なんとしけるが、遠矢(とほや)に皆射すくめられて、一所にて皆討(うた)れにけり。半時許(ばかり)の軍に、死する京勢(きやうぜい)二百七十三人(にひやくしちじふさんにん)、此(この)内敵に討(うた)れて死する兵僅(わづか)に五六人には不過。其(その)外二百五十(にひやくごじふ)余人(よにん)は、皆河に流(ながれ)てぞ失(うせ)にける。楠父祖の仁慧(じんけい)をつぎ、有情者なりければ、或(あるひ)は野伏共(のぶしども)に生捕(いけどら)れて、被面縛たる敵をも不斬、或(あるひ)は河より被引上、無甲斐命生(いき)たる敵をも不禁置、赤裸(あかはだか)なる者には小袖を著せ、手負(ておう)たる者には薬を与へて、京へぞ返(かへし)遣(つかは)しける。身の恥は悲しけれ共(ども)、悦ばぬ者は無(なか)りけり。
○清氏叛逆(ほんぎやくの)事(こと)付(つけたり)相摸守(さがみのかみ)子息元服(げんぶくの)事(こと) S3606
此等(これら)をこそ、すはや大地震の験(しるし)に、国々の乱出来ぬるはと驚き聞(きく)処に、京都に希代(きたい)の事有て、将軍の執事細河相摸守(さがみのかみ)清氏・其(その)弟左馬(さまの)助(すけ)・猶子(いうし)仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)、三人(さんにん)共(とも)に都を落(おち)て、武家の怨敵(をんてき)と成(なり)にけり。事の根元を尋ぬれば、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)と、細河相摸守(さがみのかみ)清氏と内々怨を含(ふくむ)事有(あり)しに依て、遂(つひ)に君臣豺狼(さいらう)の心を結ぶとぞ聞(きこ)へし。先(まづ)加賀(かがの)国(くに)の守護職(しゆごしよく)は、富樫(とがしの)介(すけ)、建武の始(はじめ)より今に至るまで一度(いちど)も変ずる事無(なく)して、而(しか)も忠戦異他成敗依不暗、恩補列祖(おんぽれつそ)に復(ふく)せしを、富樫(とがしの)介(すけ)死去せし刻(きざみ)其(その)子未(いまだ)幼稚也(なり)とて、道誉(だうよ)、尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)を聟に取て、当国の守護職(しゆごしよく)を申(まうし)与(あたへ)んとす。細河相摸守(さがみのかみ)是(これ)を聞て、さる事や可有とて富樫(とがしの)介(すけ)が子を取立て、則(すなはち)守護(しゆご)安堵の御教書(みげうしよ)をぞ申成ける。依之(これによつて)道誉(だうよ)が鬱憤(うつぷん)其(その)一也(なり)。次に備前の福岡の庄は頓宮(とんぐう)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)が所領也(なり)。而(しか)るを頓宮が軍忠中絶(ちゆうぜつ)の刻(きざみ)、赤松(あかまつ)律師(りつし)是(これ)を申給る。後、頓宮、細河が手に属(しよく)して忠有しかば、細河是(これ)を贔屓(ひいき)して、安堵の御教書を申与ふ。然(しかれ)共(ども)則祐は道誉(だうよ)が聟也(なり)ければ、国を押へられ上裁を支(ささへ)られて、頓宮所領に還住(げんぢゆう)せず。是(これ)清氏が鬱憤の其(その)一也(なり)。次に摂津国(つのくに)守護職(しゆごしよく)をば道誉(だうよ)無謂申給て、嫡孫(ちやくそん)近江判官秀詮(ひであきら)に持(もた)せたりけるを、相摸守(さがみのかみ)本主(ほんしゆ)赤松大夫判官(たいふのはうぐわん)光範(みつのり)に安堵せさせんと、時々(よりより)異見を献ずる事所憚なし。依之(これによつて)道誉(だうよ)が鬱憤其(その)二也(なり)。次に今度七夕の夜は、新将軍、相摸守(さがみのかみ)が館(たち)へをはして、七百番の謌合をして可遊也(なり)と兼(かね)て被仰ければ、相摸守(さがみのかみ)誠(まこと)に興(きよう)じ思(おもひ)て、様々の珍膳(ちんぜん)を認(こしらへ)、哥読(うたよみ)共(ども)数十人(すじふにん)誘引(いういん)して、已(すで)に案内を申ける処に、道誉(だうよ)又我(わが)宿所に七所を粧(かざつ)て、七番菜(しちばんさい)を調へ、七百種の課物(かけもの)を積み、七十服の本非の茶を可呑由を申て、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)を招請(せうしやう)し奉(たてまつり)ける間、歌合はよしや後日にてもありなん、七所の飾(かざり)は珍(めづらし)き遊(あそび)なるべしとて、兼日の約束を引(ひき)違(ちがへ)、道誉(だうよ)が方へをはしければ、相摸守(さがみのかみ)が用意(ようい)徒(いたづら)に成て、数寄(すき)の人も空(むなし)く帰(かへり)にけり。是(これ)又清氏が鬱憤の其(その)二也(なり)。加様(かやう)の事共(ことども)互(たがひ)に憤(いきどほり)深く成(なり)にければ、両人の確執(かくしつ)止む事を不得。上にはさりげなき体(てい)なれども、下には悪心を挿(さしはさ)めり。されば始終(しじゆう)は如何(いかが)と被思遣たり。此(この)相摸守(さがみのかみ)は気分飽(あく)まで侈(おごつ)て、行迹(ぎやうせき)尋常(よのつね)ならざりけれ共(ども)、偏(ひとへ)に仏神を敬(うやま)ふ心深かりければ、神に帰服(きふく)して、子孫の冥加を祈(いのら)んとや思(おもは)れけん、又我(わが)子の烏帽子親に可取人なしとや思(おもひ)けん、九と七とに成(なり)ける二人(ににん)の子を八幡(やはた)にて元服(げんぶく)せさせ、大菩薩(だいぼさつ)の烏帽子々(えぼしご)に成(なし)て、兄をば八幡(はちまん)六郎(ろくらう)、弟をば八幡八郎(はちらう)とぞ名付(なづけ)ける。此(この)事軈(やが)て天下の口遊(くちずさみ)と成(なり)ければ、将軍是(これ)を聞(きき)給(たまひ)て、「是(これ)は只当家の累祖(るゐそ)伊予(いよの)守(かみ)頼義三人(さんにん)の子を八幡太郎・賀茂次郎・新羅(しんら)三郎と名付(なづけ)しに異(ことなら)ず。心中にいかさま天下を奪(うばは)んと思ふ企(くはたて)ある者也(なり)。」と所存に違(たがひ)てぞ思はれける。佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)道誉(だうよ)是(これ)を聞て、すはや憎(にく)しと思ふ相摸守(さがみのかみ)が過失は、一(ひとつ)出来にけるはと独(ひとり)笑(ゑみ)して、薮(やぶ)に■(めくはせ)し居たる処に、外法成就(げほふじやうじゆ)の志一(しいち)上人鎌倉(かまくら)より上て、判官入道(はうぐわんにふだう)の許(もと)へをはしたり。様々の物語して、「さても都は還(かへつ)て旅にて、万(よろ)づさこそ便(たより)なき御事(おんこと)にてこそ候らめ。誰か檀那(だんな)に成(なり)奉て、祈(いのり)なんどの事をも申入(まうしいれ)候。」と問(とは)れければ、「未(いまだ)甲斐々々敷(かひがひしき)知音(ちいん)檀那等(だんなとう)も候はで、いつしか在京難叶心地して候(さうらひ)つるに、細河相摸殿(さがみどの)よりこそ、此(この)一両日(いちりやうにち)が先に一大事(いちだいじ)の所願候。頓(とん)に成就(じやうじゆ)ある様に祈(いのつ)てたび候へとて、願書を一通封(ふう)して、供具(きようぐ)の料足(れうそく)一万疋副(そへ)て、被送て候(さうらひ)しか。」と、語り給ひければ、道誉(だうよ)、「何事の所願にてか候らん。」と、懇切(こんせつ)に被所望。生強(なましひ)に語りは出(いだ)しつ、さのみ惜(をし)まん事も難叶ければ、無力此(この)願書をぞ取寄(とりよせ)て披見(ひけん)させける。道誉(だうよ)此(この)願書を内へ持て入て、「只今(ただいま)些(ちと)急ぐ事候間外へ罷(まかり)出候。此(この)願書は閑(しづか)に披見(ひけん)候(さふらひ)て返(かへし)進(まゐらす)べし。明日是(これ)へ御渡(おんわたり)候へ。」とて、後(うしろ)の小門より出違(いでちが)ひければ、志一上人重(かさね)て云(いひ)入るゝに言(ことば)なくして、宿所へぞ帰り給ひける。道誉(だうよ)、其(その)翌日(よくじつ)此(この)願書を伊勢入道(いせのにふだう)が許(もと)へ持て行て、「是(これ)見給へ。相摸守(さがみのかみ)が隠謀の企(くはたて)有て、志一上人に付て、将軍を呪咀(しゆそ)し奉りけるぞや。自筆自判の願書、分明に候上(うへ)は、所疑にて候はず。急(いそぎ)是(これ)を持参して、潜(ひそか)に将軍に見せ進(まゐら)せられ候へ。」とて、爪弾(つまはじき)をして懐(ふところ)よりぞ取(とり)出しける。伊勢入道(いせのにふだう)不思議(ふしぎ)の事哉(かな)と思(おもひ)て、披(ひらい)て是(これ)を見るに、三箇条の所願を被載たり。敬白荼祇尼天宝前一清氏管領四海(しかい)、子孫永可誇栄花事。一宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)、忽受病患可被死去事。一左馬頭基氏失武威背人望、可被降我軍門事。右此三箇条之所願、一々令成就(じやうじゆ)者、永為此尊之檀度、可専真俗之繁昌。仍祈願状如件。康安元年九月三日相摸守清氏と書て、裏判(うらはん)にこそせられけれ。伊勢入道(いせのにふだう)此(この)願書を読(よみ)畢(をはつ)て、眉を顰(ひそ)めて大息(いき)をつぐ事良(やや)久(ひさしく)して、手迹(しゆせき)は誰共知(しら)ね共、判形共に於ては疑(うたがひ)なければ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)の見参にこそ入(いれ)んずらめと思(おもひ)けるが、是(これ)を披露(ひろう)申なば、相摸殿(さがみどの)忽(たちまち)に身を可被失。其(その)上(うへ)斯(かか)る事には、謀作(ぼうさく)謀計なんども有(ある)ぞかし。卒爾(そつじ)にはいかゞ申入(まうしいる)べきと斟酌(しんしやく)して、深く箱の底にぞ収(をさ)めける。斯(かか)る処に羽林将軍俄(にはか)に邪気(じやき)の事有て、有験(うげん)の高僧加持し奉れ共不静、頭の痛み日を追て増(まさ)る由聞へしかば、道誉(だうよ)急ぎ参て、「先日伊勢入道(いせのにふだう)の進(しん)じ候(さふらひ)し清氏が願書をば御覧ぜられ候(さうらひ)けるやらん。」と、問(とひ)奉るに、「未(いまだ)披露(ひろう)せず。」と宣ふ。「さては御労(おんいたはり)其(その)故と覚(おぼえ)候。」とて、急(いそぎ)伊勢入道(いせのにふだう)を呼(よび)寄(よせ)、件(くだん)の願書を召(めし)出して、羽林将軍に見せ奉る。其(その)後幾程無(なく)して邪気立去て、違例(ゐれい)本復(ほんぶく)し給(たまひ)ければ、「道誉(だうよ)が申(まうす)処偽(いつは)らで、清氏が呪咀疑(うたがひ)無(なか)りけり。」と、将軍是(これ)を信じ給ふ。其(その)後又心付て、八幡に清氏願書を篭(こめ)ぬる事有(ある)べからずとて、内々社務(しやむ)を召(めし)て問(とは)れければ、「去(さる)願書は封(ふう)して神馬(じんめ)と送られて候が、頓(やが)て神殿にこめて候。」と申ければ、「其(それ)取(とり)出(いだし)て奉るべし、聊(いささか)不審あり。」と仰有(あり)ければ、軈(やが)て取(とり)出し持参しけり。是(これ)を披見し給ふにも、大樹の命を奪ひ、我(われ)世を取(とら)んとの発願(ほつぐわん)也(なり)。弥(いよいよ)疑(うたがふ)所なし。凡(およそ)志一上人を上せられけるも、畠山、我奇特(きどく)の人と思ひ、同心に京・関東(くわんとう)を取(とら)んとて、其(その)祈祷の為に畠山吹挙(すゐきよ)にて上られけり。其(その)後よりは、兔(と)やして清氏を討(うた)まし、角(かく)やせましと、道誉(だうよ)一人に談合(だんかふ)有て、案じ煩(わづら)ひ給ひける処に、道誉(だうよ)俄(にはか)に病と称して為湯治湯山(ゆのやま)へ下りぬ。其(その)後四五日有て、相摸守(さがみのかみ)普請(ふしん)の為とて、天竜寺(てんりゆうじ)へ参りけるが、不例庭に入て物具したる兵共(つはものども)、三百(さんびやく)余騎(よき)召(めし)具したり。将軍是(これ)を聞(きき)給(たまひ)て、「さては道誉(だうよ)に評定(ひやうぢやう)せし事、はや清氏に聞へてけり。さらんに於(おい)ては却(かへつ)て如何様(いかさま)被寄ぬと覚(おぼゆ)るぞ。京中(きやうぢゆう)の戦は小勢にて叶(かなふ)まじ。要害(えうがい)に篭て可防。」とて九月二十一日の夜半許(ばかり)に、今熊野(いまくまの)に引(ひき)篭(こも)り、一の橋引(ひき)落(おと)して、所々掻楯(かいたて)掻(か)き車引(ひき)双(ならべ)て、逆木轅門(さかもぎゑんもん)を堅めて待(まち)懸(かけ)給へば、今川上総(かづさの)守(かみ)・宇都宮(うつのみや)参川(みかはの)入道(にふだう)以下、我(われ)も我(われ)もと馳(はせ)参る。俄(にはか)の事なれば、何事のひしめきと、聞(きき)定(さだめ)たる事はなけれ共(ども)、武士東西に馳(はせ)違(ちが)ひ、貴賎四方(しはう)に逃吟(にげさまよふ)。相摸守(さがみのかみ)は天竜寺(てんりゆうじ)にて、京中(きやうぢゆう)のひしめきを聞て、何条(なんでふ)今時(いまどき)洛中(らくちゆう)に何事の騒ぎ可有。告(つぐ)る者の誤りにてぞあらんとて、騒(さわ)ぐ気色も無(なか)りけるが、我(わが)身の上と聞(きき)定(さだめ)てければ、三百(さんびやく)余騎(よき)にて天竜寺(てんりゆうじ)より打帰り、弟の僧愈侍者を今熊野へ進(まゐら)せて、「洛中(らくちゆう)の騒動何事とも存知仕(つかまつり)候はで、急(いそぎ)馳(はせ)参て候へば、清氏が身の上にて候(さうらひ)ける。罪科(ざいくわ)何事にて候やらん。若(もし)無実の讒(ざん)に依て、死罪を行(おこなは)れ候はゞ、政道の乱(みだ)れ御敵(おんてき)の嘲(あざけり)、不可過之。暫(しばらく)御糺明(ごきうめい)の後に、罪科の実否(じつぷ)を可被定にて候はゞ、頭(かうべ)を延(のべ)て軍門に参(まゐり)候べし。」とぞ申入(まうしいれ)たりけれ共(ども)、「清氏が多日の隠謀、事已(すで)に露顕(ろけん)の上は、兔角(とかく)の沙汰に不可及。」とて、使僧に対面もなく一言の返事にも及(および)給はねば、色を失(うしなひ)て退出す。清氏此(この)上は陳じ申(まうす)に言(こと)ばなし。今は定(さだめ)て討手をぞ向(むけ)らるらん。一矢射て腹を切(きら)んとて、舎弟(しやてい)左馬(さまの)助(すけ)頼利(よりとし)・大夫将監(しやうげん)家氏・兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)将氏(まさうぢ)・猶子(いうし)仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)、いとこの兵部(ひやうぶの)少輔(せう)氏春、六人中門にて武具ひし/\と堅め、旗竿(はたざを)取(とり)出し、馬の腹帯(はるび)を堅めさすれば、重恩、新参の郎従共、此彼(ここかしこ)より馳(はせ)参て七百(しちひやく)余騎(よき)に成(なり)にけり。今熊野には、始(はじめ)五百(ごひやく)余騎(よき)参して、「哀(あは)れ、我討手を承(うけたまはり)て向(むかは)ばや。」と義勢しける者共(ものども)、相摸守(さがみのかみ)七百(しちひやく)余騎(よき)にて控(ひか)へたりと聞へしかば、興醒顔(きようざめがほ)に成て、此(ここ)の坊中(ばうちゆう)彼(かしこ)の在家(ざいけ)に引(ひき)入り、荒(あら)く物をも不云、只(ただ)何方(いづかた)に落場(おちば)あると、山の方をぞ守りける。相摸守(さがみのかみ)は今や討手を給(たまは)ると、甲の緒(を)を縮(しめ)二日まで待(また)れけれども、向ふ敵無(なか)りければ、洛中(らくちゆう)にて兵を集め、戦を致さんと用意(ようい)したるも、且(かつう)は狼籍(らうぜき)也(なり)。陣を去り都を落(おち)てこそ猶(なほ)陳じ申さめとて、二十三日(にじふさんにち)の早旦に、若狭を差(さ)して落(おち)て行(ゆく)。仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)・細河大夫将監(しやうげん)二人(ににん)は、京に落(おち)留(とどま)りぬ。相順(あひしたが)ふ勢次第に減(げん)じぬと見へけるに、辺土(へんど)洛外の郎等共(らうどうども)、少々路に追付(おひつき)て、「将軍の御勢(おんせい)は、僅(わづか)に五百騎(ごひやくき)に不足とこそ承(うけたまはり)候に、などや此(この)大勢にて都をば落(おち)させ給(たまひ)候やらん。」と申せば、相摸守(さがみのかみ)馬を引(ひか)へて、「元来将軍に向奉て、合戦をすべき身にてだにあらば、臆病第一(だいいち)の取集勢(とりあつめぜい)四五百騎(しごひやくき)戦(わなな)き居たるを、清氏物(もの)の数とや可思。君臣の道死すれども上に逆(さか)へざる義を思ふ故(ゆゑ)に、一(ひと)まども落(おち)てや陳じ申すと存(ぞんじ)て、無云甲斐体(てい)を人に見へつる悲(かなし)さよ。身不肖(ふせう)なれば、無罪討(うた)れ進(まゐ)らす共世の為に可惜命に非(あら)ず。只讒(ざん)人事を乱(みだつ)て、将軍天下を失はせ給はんずるを、草の陰にても見聞(みきか)ん事こそ悲しけれ。」とて、両眼に泪(なみだ)を浮べ給へば、相順ふ兵共(つはものども)、皆鎧の袖をぞぬらしける。千本を打過(うちすぎ)て、長坂へ懸る処にて、舎弟(しやてい)兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)といとこの兵部(ひやうぶの)少輔(せう)二人(ににん)を近付(ちかづけ)て、「御辺達(ごへんたち)兄弟骨肉の義依不浅、我(わが)安否を見はてんと、是(これ)まで付(つき)纏(まと)ひ給ふ志、千顆(せんくわ)万顆(まんくわ)の玉よりも重く、一入再入(ひとしほふたしほ)の紅(くれなゐ)よりも猶(なほ)深し。雖然、清氏は依佞人讒不慮の刑に沈(しづ)む上は力なし。御辺達(ごへんたち)両人は讒(ざん)を負(おひ)たる身にも非(あら)ず、又将軍の御不審(ごふしん)を蒙(かうむつ)たる事もなき者が、何と云(いふ)沙汰もなく、我(われと)共(とも)に都を落(おち)て、路径(ろけい)に尸(かばね)を曝(さら)さん事後難なきに非(あら)ず。早く此(これ)より将軍へ帰参して、清氏が所存をも申開き、父祖の跡をも失はぬ様に計(はから)ひ給へ。是(これ)我を助(たすく)る謀(はかりこと)、又身を立(たつ)る道なるべし。」と、泪を流して宣へば、両人の人々押(おさ)ふる泪に咽(むせん)で、暫(しば)しは返事にも不及。良(やや)暫(しばらく)有て、「心憂(こころうき)事をも承(うけたまはり)候者哉(かな)。縦(たとひ)是(これ)より罷(まかり)帰(かへり)て候(さうらふ)共(とも)、讒人君の傍(かたはら)に有て、憑(たのむ)影なき世に立(たち)紛(まぎ)れ候はゞ、何(い)つ迄(まで)身をか保(たもち)候べき。将軍には心を置進(おかしまゐら)せ、傍(かた)への人には指を差(ささ)れ候はん事、恥の上の不覚たるべきにて候へば、何(いづ)くまでも伴(ともな)ひ奉て、安否を見はて進(まゐら)せん事こそ本意にて候へ。」と、再三被申けれども、相摸守(さがみのかみ)、「さては弥(いよいよ)我に隠謀有(あり)けりと、世の人の思はんずる処が悲(かなし)く候へば、枉(まげ)て是(これ)より帰られ候(さふらひ)て、真実の志あらば、後日に又音信(おとづれ)も候へ。」と、強(しひ)て被申ければ、二人(ににん)の人々、「此(この)上の事は兔(と)も角(かく)も仰にこそ随(したが)ひ候はめ。」とて、泣々(なくなく)千本より打別れて、本の宿所へぞ帰(かへり)にける。京中(きやうぢゆう)には、合戦あらば在家は一宇(いちう)も不残と、上下万人劇騒(あわてさわ)ぎけるが、相摸守(さがみのかみ)無事故都を落(おち)にければ、二十四日、将軍軈(やがて)今熊野より本の館(たち)へ帰(かへり)給(たまふ)。何(いつ)しか相州(さうしう)被官(ひくわん)の者共(ものども)、宿所を替(かへ)身を隠(かくし)たる有様、昨日の楽(たのしみ)今日の夢と哀(あはれ)也(なり)。有為転変(うゐてんぺん)の世の習、今に始(はじめ)ぬ事なれ共(ども)、不思議(ふしぎ)なりし事ども也(なり)。
○頓宮(とんぐう)心替(こころがはりの)事(こと)付(つけたり)畠山道誓(だうせい/が)事(こと) S3607
若狭(わかさの)国(くに)は、相摸守(さがみのかみ)近年管領(くわんりやう)の国にて、頓宮四郎左衛門(しらうざゑもん)兼(かね)て在国したりければ、小浜(をはま)に究竟(くつきやう)の城(じやう)を構(かまへ)て、兵粮数万石積(つみ)置(おき)たり。相摸守此(ここ)に落付て、城の構へ勢の程を見(みる)に、懸合(かけあひ)の合戦をする共、又城に篭(こもつ)て戦(たたかふ)共(とも)、一年二年の内には輙(たやす)く落されじ物をとぞ思はれける。去(さる)程(ほど)に尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)氏頼、討手の大将を承(うけたまはり)て、北陸道(ほくろくだう)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、越前より椿峠(つばきたうげ)へ向ふ。仁木三郎搦手(からめて)の大将を承(うけたまはり)て、山陰道(せんおんだう)の勢二千(にせん)余騎(よき)を卒(そつ)して、丹波より逆谷(さかさまたに)へ向(むかふ)と聞へければ、相摸守(さがみのかみ)大に笑(わらう)て、「穴(あな)哀の者共(ものども)や。此等(これら)を敵に受(うけ)ては、力者(りきしや)二三人(にさんにん)に杉材棒(すぎさいぼう)突(つか)せて差(さし)向(むけ)たらんに不足あるまじ。先(まづ)敦賀に朝倉(あさくら)某が先打(さきうち)にて陣を取たるを打散(うちちら)せ。」とて、中間を八人(はちにん)差遣(さしつかは)さる。八人(はちにん)の中間共敦賀の津へ紛(まぎれ)入(いり)、浜面(はまおもて)の在家十(じふ)余箇所(よかしよ)に火を懸(かけ)て、時の声をぞ揚(あげ)たりける。朝倉が兵三百(さんびやく)余騎(よき)時(とき)の声に驚(おどろき)て、「すはや相摸守(さがみのかみ)の寄(よせ)たるは。定(さだめ)て大勢にてぞ有(ある)らん。引て後陣(ごぢん)の勢に加(くは)れ。」とて、矢の一をも不射、朝倉敦賀を引(ひき)ければ、相伴(あひともなふ)兵三百(さんびやく)余騎(よき)、馬物具を取捨(とりすて)て、越前の府へぞ逃(にげ)たりける。さればこそ思(おもひ)つる事よと、人毎(ひとごと)に云弄(いひもてあそ)ぶと沙汰せしかば、尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)大に忿(いかつ)て、軈(やが)て大勢を卒(そつ)して十月二十九日椿峠へ打向ふ。相摸守是(これ)を聞て、「今度は一人も敵と云(いふ)者を生(いけ)て遣(やる)まじければ、自身向はでは叶(かなふ)まじ。」とて、城には頓宮四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)を残し置(おき)、舎弟(しやてい)右馬助(うまのすけ)共(とも)に五百(ごひやく)余騎(よき)にて追手(おふて)の敵に馳(はせ)向ふ。敵陣難所なれば、待(まち)てや戦(たたかふ)、懸(かか)りやすると思安(しあん)して、未戦決(いまだたたかひけつせざる)処に、重恩他に異(こと)なれば、是(これ)ぞ弐(ふたごころ)有(ある)まじき者と憑(たのま)れける頓宮四郎左衛門(しらうざゑもん)俄(にはか)に心替(こころがはり)して、挙旗城戸(きど)を打て寄手(よせて)の勢を後(うしろ)より城へ引(ひき)入(いれ)ける間、相摸守(さがみのかみ)に相順(あひしたがふ)兵共(つはものども)、可戦力尽(つき)はてゝ、右往左往に落(おち)て行(ゆく)。朽(くち)たる縄を以て、六馬をば紲(つなぎ)て留(とむ)るとも、只(ただ)難憑此比(このころ)の武士の心也(なり)。清氏さしもの勇士(ゆうし)なりしか共、角(かく)ては叶はじとや思(おもは)れけん、舎弟(しやてい)右馬助(うまのすけ)と只二騎打連(うちつれ)て篠峯(ささのみね)越に忍(しのん)で都へ紛(まぎれ)入(いる)。一夜(いちや)の程も洛中(らくちゆう)には難隠と思(おもは)れければ、兄弟別々に成て、相摸守(さがみのかみ)は東坂本(ひがしさかもと)へ打越(うちこ)へ、一日馬の足を休(やすめ)て天王寺(てんわうじ)へ落(おち)ければ、右馬(うまの)頭(かみ)は夜半に京中(きやうぢゆう)を打通(うちとほ)り、大渡(おほわたり)を経(へ)て、兼(かね)ての相図(あひづ)を不違天王寺(てんわうじ)へぞ落著(おちつき)ける。相摸守(さがみのかみ)軈(やがて)石堂刑部卿の許(もと)へ使者を立(たて)、「清氏已(すで)に依讒者訴、無罪死罪を行(おこなは)れんと候(さうらひ)つる間、身の置所(おきどころ)なき余に、天恩を戴(いただい)て軍門に降参仕て候。旧好(きうかう)其(その)故も候へば、混(ひたす)ら貴方(きはう)を憑(たのみ)申(まうす)にて候。兔(と)も角(かく)も可然様に御計(おんはからひ)候へ。」とぞ言遣(いひつかは)されける。石堂刑部卿急(いそぎ)使者に対面して、先(まづ)兔角(とかく)の返事に不及、「こはそも夢か現(うつつ)か。」とて、良(やや)久(ひさし)く泪(なみだ)を袖に押(おさ)へらる。軈(やがて)参内して事の子細を奏聞せられけるに、左右の大臣相議(あひぎ)して云(いはく)、「敵軍首(かうべ)を延(のべ)て帝徳に降(くだ)る。天恩何(なん)ぞ是(これ)を慧(めぐま)れざらん。早く軍門に慎仕(つつしみつか)へて、征伐の忠を専(もつぱら)にすべし。」と、恩免(おんめん)の綸旨(りんし)を下されしかば、石堂限なく悦(よろこび)て、則(すなはち)細河に対面し給ふ。互(たがひ)に言(こと)ば無(なく)して泪に咽(むせ)び給ふ。暫(しばらく)有て、「世の転変今に始(はじめ)ぬ事にて候へ共、不慮(ふりよ)の参会こそ多年の本意にて候へ。」と許(ばかり)、色代(しきだい)してぞ被帰ける。只秦の章邯(しやうかん)・趙高(てうかう)が讒(ざん)を恐れ、楚の項羽(かうう)に降(くだり)し時、面をたれ涙を流して言(こと)ばには不出ども、讒者の世を乱(みだ)る恨(うらみ)を含(ふくみ)し気色に不異。去(さる)程(ほど)に仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)は、京より伊勢へ落(おち)て、相摸守(さがみのかみ)に相順(あひしたが)ふと聞へ、兵部(ひやうぶの)少輔(せう)氏春は、京より淡路へ落(おち)て国中(こくぢゆう)の勢を相付(あひつけ)て、相摸守(さがみのかみ)に力を合(あは)せ、兵船を調(ととの)へて堺の浜へ著(つく)べしと披露あり。摂津国(つのくにの)源氏松山は、香下(かしたの)城(じやう)を拵(こしらへ)て南方に牒(てふ)し合(あはせ)、播磨路(はりまぢ)を差塞(さしふさい)で、人を不通聞へければ、一方(ひとかた)ならぬ蜂起に、京都以外に周章(しうしやう)して、すはや世の乱出来ぬと危(あやぶま)ぬ人も無(なか)りけり。宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)は畿内の蜂起を聞て、「近国は縦(たとひ)起るとも、坂東(ばんどう)静(しづか)なれば、東(とう)八箇国(はちかこく)の勢召上(めしのぼせ)て退治(たいぢ)せんに、何(なに)程の事か可有。」とて、強(あなが)ちに騒(さわ)ぐ気色も無(なか)りける処に、康安元年十一月十三日(じふさんにち)、関東(くわんとう)より飛脚到来して、「畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)、舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)御敵(おんてき)に成て、伊豆(いづの)国(くに)に楯篭(たてこも)り候間、東国の路(みち)塞(ふさがつ)て、官軍(くわんぐん)催(もよほ)しに不応。」とぞ申ける。其濫觴(そのらんしやう)何事ぞと尋(たづ)ぬれば、去々年の冬、畠山(はたけやま)入道(にふだう)南方退治(たいぢ)の大将として上洛(しやうらく)せし時、東(とう)八箇国(はちかこく)の大名・小名数を尽(つく)してぞ上りける。此(この)軍勢(ぐんぜい)長途(ちやうど)に疲れ数月(すげつ)の在陣にくたびれて、馬物具を売位(うるくらゐ)に成(なり)しかば、怺兼(こらへかね)て、畠山に暇(いとま)をも不乞抜々(ぬけぬけ)に大略本国へ下(くだり)ける。遥(はるか)に程経て、畠山関東(くわんとう)に下向して彼等(かれら)が一所懸命の所領どもを没収(もつしゆ)して、歎(なげ)け共耳にも不聞入、適(たまたま)披露する奉行あれば、大に鼻を突(つか)せ追(おひ)込(こみ)ける間、訴人(そにん)徒(いたづら)に群集(くんじゆ)して、愁(うれへ)を不懐云(いふ)者なし。暫(しばらく)は訴詔(そしよう)を経(へ)て廻(まは)りけるが、余に事興盛(こうせい)しければ、宗(むね)との者共(ものども)千(せん)余人(よにん)、神水(じんずゐ)を呑(のん)で、所詮(しよせん)畠山(はたけやま)入道(にふだう)を執権に被召(めされ)仕、毎事御成敗に随(したがふ)まじき由を左馬(さまの)頭(かみ)へぞ訴(うつたへ)申ける。下(しも)として上(かみ)を退(しりぞく)る嗷訴(がうそ)、下刻上(げこくじやう)の至(いたり)哉(かな)と、心中には憤(いきどほり)思はれけれども、此(この)者どもに背(そむか)れなば、東国は一日も無為なるまじと覚(おぼ)して、軈(やが)て畠山が許(もと)へ使を立て、「去々年上洛(しやうらく)の時、南方退治(たいぢ)の事は次に成て、専(もつぱら)仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)を討(うた)んと被謀候(さうらひ)し事、隠謀の其(その)一にて非(あらず)や。其(その)後関東(くわんとう)に下向して、差(さし)たる無罪科諸人の所帯(しよたい)を没収(もつしゆ)せられ候(さうらひ)ける事、只世を乱(みだ)して、基氏を天下の人に背(そむ)かせんとの企(くはたて)にてぞ候覧(らん)。叛逆(ほんぎやく)旁(かたがた)露顕(ろけん)の上は一日も門下に跡を不可被留。退出及遅々、速(すみやか)に討手をさし遣(つかは)すべし。」とぞ被云送ける。畠山は其比(そのころ)鎌倉(かまくら)に有(あり)けるが、此(この)上は陳じ申(まうす)とも叶(かなふ)まじとて、兄弟五人(ごにん)並(ならびに)郎従已下引具(ひきぐ)して、三百(さんびやく)余騎(よき)伊豆(いづの)国(くに)を指(さ)して落(おち)て行(ゆく)。此(この)勢小田原の宿に著(つき)たりける夜、土肥掃部(とひのかもんの)助(すけ)、「御敵(おんてき)に成て落(おつ)る者に、矢一(ひとつ)射懸(いかけ)ずと云(いふ)事や可有。」とて、主従只八騎にて小田原の宿へ押(おし)寄せ、風上(かざかみ)より火を懸(かけ)て、烟(けぶり)の下より切て入る。畠山が方に、遊佐(ゆさ)・神保(じんぼ)・斎藤・杉原、出向て散々(さんざん)に追払ふ。是(これ)程小勢なりける者をとて、時の興(きよう)にぞ笑(わらひ)合(あひ)ける。さて其(その)後は後陣(ごぢん)に防矢(ふせぎや)少々射させて、其(その)夜小田原の宿を落(おち)て、伊豆の修禅寺(しゆぜんじ)に楯篭(たてこも)る。其(その)後畠山が舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)義深(よしふか)、信濃へ越(こえ)て、諏防(すは)の祝部(はふり)と引(ひき)合て、敵に成(なる)と聞へしかば、東国・西国・東山道(とうせんだう)、一度(いちど)に何様(いかさま)起(おこ)り合(あひ)ぬと、洛中(らくちゆう)の貴賎騒(さわぎ)合(あへ)り。


太平記(国民文庫)
太平記巻第三十七

○清氏正儀(まさのり)寄京事(こと) S3701
相摸守は、石堂刑部卿を奏者(そうしや)にて、「清氏不肖(ふせう)の身にて候へ共、御方に参ずる故(ゆゑ)に依て、四国(しこく)・東国・山陰・東山、太略義兵(ぎへい)を揚(あげ)候なる。京都は元来はか/゛\しき兵一人も候はぬ上、細川右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)・赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)は、当時山名伊豆(いづの)守(かみ)と陣を取向ふて、相戦ふ最中にて候へば、皆我(わ)が国を立(たち)離れ候まじ。土岐・佐々木(ささき)等(ら)は、又仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)と戦て、両陣相支(あひささへ)て上洛(しやうらく)仕る事候まじ。可防兵もなく助の勢も有(ある)まじき時分にて候へば、急ぎ和田・楠以下の官軍(くわんぐん)に、合力を致(いたし)候へと仰(おほせ)下され候へ。清氏真前(まつさき)を仕て京都を一日が中に責(せめ)落(おと)して、臨幸を正月以前に成(なし)進(まゐら)せ候べし。」とぞ申ける。主上(しゆしやう)げにもと思食(おぼしめし)ければ、軈(やが)て楠を召(めし)て、「清氏が申(まうす)所いかゞ有(ある)べき。」と仰(おほせ)らる。正儀暫(しばら)く思案して申けるは、「故尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、正月十六日(じふろくにち)の合戦に打負(うちまけ)て、筑紫へ落(おち)て候(さふらひ)しより以来(このかた)、朝敵(てうてき)都を落(おつ)る事已(すで)に五箇度(ごかど)に及(および)候。然(しか)れども天下の士卒、猶(なほ)皇天(くわうてん)を戴(いただ)く者少く候間、官軍(くわんぐん)洛中(らくちゆう)に足を留(とどむ)る事を不得候。然も、一端(いつたん)京都を落さん事は、清氏が力を借(かる)までも候まじ。正儀一人が勢を以てもたやすかるべきにて候へ共、又敵に取て返されて責(せめ)られ候はん時、何(いづ)れの国か官軍(くわんぐん)の助と成(なり)候べき。若(もし)退(しりぞ)く事を恥(はぢ)て洛中(らくちゆう)にて戦(たたかひ)候はゞ、四国(しこく)・西国の御敵(おんてき)、兵船を浮べて跡を襲(おそ)い、美濃・尾張(をはり)・越前・加賀の朝敵共(てうてきども)、宇治・勢多より押寄(おしよせ)て戦を決せば、又天下を朝敵(てうてき)に奪(うばは)れん事、掌(たなごころ)の内に有(あり)ぬと覚(おぼえ)候。但(ただ)し愚案短才(ぐあんたんさい)の身、公儀を褊(さみ)し申(まうす)べきにて候はねば、兔(と)も角(かく)も綸言(りんげん)に順(したが)ひ候べし。」とぞ申ける。主上(しゆしやう)を始め進(まゐら)せて、竹園・椒房(せうばう)・諸司(しよし)・諸衛(しよゑ)に至るまで、住(すみ)馴(なれ)し都の変しさに後の難儀をば不顧、「一夜(いちや)の程なり共、雲居(くもゐ)の花に旅ねしてこそ、後は其(その)夜の夢を忍ばめ。」と宣ひければ、諸卿の僉義(せんぎ)一同して、明年よりは三年北塞(きたふさが)りなり、節分以前に洛中(らくちゆう)の朝敵(てうてき)を責(せめ)落(おと)して、臨幸を成(なし)奉るべき由儀定(ぎぢやう)あ(ッ)て、兵共(つはものども)をぞ被召(めされ)ける。
○新将軍京落(きやうおちの)事(こと) S3702
公家(くげの)大将には、二条(にでう)殿(どの)・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆俊(たかとし)卿(きやう)、武将には、石堂刑部卿頼房・細川相摸守(さがみのかみ)清氏・舎弟(しやてい)左馬(さまの)助(すけ)・和田・楠・湯浅・山本・恩地(おんぢ)・牲川(にへかは)、其(その)勢二千(にせん)余騎(よき)にて、十二月三日住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)に勢調(せいぞろ)へをすれば、細川兵部(ひやうぶの)少輔(せう)氏春淡路の勢を卒して、兵船八十(はちじふ)余艘(よさう)にて堺(さかひ)の浜へつく。赤松彦五郎範実(のりざね)、「摂津国(つのくに)兵庫より打立てすぐに山崎へ攻(せむ)べし。」と相図を差(さ)す。是(これ)を聞て京中(きやうぢゆう)の貴賎、財宝を鞍馬(くらま)・高雄へ持運び、蔀(しとみ)・遣戸(やりど)を放取(はなしと)る。京白川の騒動なゝめならず。宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)は二日より東寺に陣取(ぢんどり)て、著到を付(つけ)られけるに、御内(みうち)・外様(とざま)の勢四千(しせん)余騎(よき)と注せり。「さては敵の勢よりも、御方(みかた)は猶(なほ)多かりけり。外都(ぐわいと)に向て可防。」とて、時の侍所なればとて、佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)少輔(せう)高秀(たかひで)を、摂津国(つのくに)へ差(さし)下さる。当国は親父道誉(だうよ)が管領(くわんれい)の国なれば、国中(こくぢゆう)の勢を相催(あひもよほ)して、五百(ごひやく)余騎(よき)忍常寺(にんじやうじ)を陣に取て、敵を目の下に待(まち)懸(かけ)たり。今河伊予(いよの)守(かみ)に三河・遠江の勢を付(つけ)て、七百(しちひやく)余騎(よき)山崎へ差(さし)向(むけ)らる。吉良治部(ぢぶの)太輔(たいふ)・宇都宮(うつのみや)三河三郎・黒田判官を大渡(おほわたり)へ向(むけ)らる。自余(じよ)の兵千(せん)余騎(よき)、淀・鳥羽・伏見・竹田へ引(ひか)へさせ、羽林(うりん)の兵千(せん)余騎(よき)をば、東寺の内にぞ篭(こめ)られける。同七日南方の大将河を越て、軍評定の有(あり)けるに、細川相摸守(さがみのかみ)進(すすみ)出て申されける様は、「京都の勢の分際(ぶんせい)をも、兵の気色をも皆見透(みすか)したる事にて候へば、此(この)合戦に於(おい)ては、枉(まげ)て清氏が申(まうす)旨に任(まかせ)られ候へ。先(まづ)清氏後陣(ごぢん)に引(ひか)へて、山崎へ打通(うちとほ)り候はんに、忍常寺に候なる佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)少輔(せう)、何千騎候と云(いふ)共(とも)、よも一矢も射懸(いかけ)候はじ。山崎を今河伊予(いよの)守(かみ)が堅(かため)て候なる。是(これ)又一軍(ひといくさ)までも有(ある)まじき者にて候。洛中(らくちゆう)の合戦に成(なり)候はば、大和・河内・和泉・紀伊国の官軍(くわんぐん)は、皆跣立(かちだち)に成て一面に楯をつきしとみ、楯の陰(かげ)に鑓(やり)長刀の打物(うちもの)の衆を五六百人(ごろつぴやくにん)づゝ調(そろ)えて、敵かゝらば馬の草脇(くさわき)・太腹(ふとばら)ついては跳(はね)落させ/\、一足(ひとあし)も前へは進(すすむ)とも一歩(いつほ)も後(うしろ)へ引く気色なくは、敵重(かさね)て懸(かけ)入る者候べからず。其(その)時(とき)石堂刑部卿・赤松彦五郎・清氏一手(ひとて)に成て敵の中を懸(かけ)破り、義詮朝臣(よしあきらあつそん)を目に懸(かけ)候程ならば、何(いづ)くまでか落(おと)し候べき。天下の落居一時が中に定り候べき物を。」と申されければ、「此(この)儀誠(まこと)に可然。」とて、官軍(くわんぐん)中島(なかじま)を打越て、都を差(さし)て責(せめ)上る。げにも相摸守(さがみのかみ)の云つるに少(すこし)も不違、忍常寺(にんじやうじ)の麓を打通るに、佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)少輔(せう)は時の侍所也(なり)。甥二人(ににん)まで当国にて楠に打(うた)れぬ。爰(ここ)にて先日の恥をも洗(すすが)んとて、手痛き軍をせんずらんと、思(おもひ)儲(まう)けて通(とほり)けるに、高秀、相摸守(さがみのかみ)に機(き)を呑(のま)れて臆(おく)してや有(あり)けん、矢の一をも不射懸、をめ/\とこそ通しけれ。さては山崎にてぞ、一軍(ひといくさ)あらんずらんと思ふ処に、今河伊予(いよの)守(かみ)も叶(かなふ)まじとや思(おもひ)けん、一戦(いつせん)も戦はで、鳥羽(とば)の秋山(あきやま)へ引退く。此(これ)を見て此彼(ここかしこ)に陣を取たる勢共(せいども)、未(いまだ)敵も近付(ちかづか)ざるに、落支度(おちじたく)をのみぞし居たりける。「かくては合戦はか/゛\しからじ。先(まづ)京を落(おち)てこそ、東国・北国の勢をもまため。」とて、持明院の主上(しゆしやう)をば警固し奉り、同八日の暁に、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)、苦集滅道(くづめぢ)を経て勢多を通(とほ)り、近江の武佐寺(むさでら)へ落(おち)給ふ。君は舟臣は水、水能(よく)浮船、水又覆船也(なり)。臣能(よく)保君、臣又傾君といへり。去去年の春は清氏武家の執事として、相公を扶持(ふち)し奉り、今年の冬は清氏忽(たちまち)に敵と成て、相公を傾け奉る。魏徴(ぎちよう)が太宗を諌(いさめ)ける貞観政要(ぢやうぐわんせいえう)の文、げにもと思ひ知(しら)れたり。同日の晩景(ばんげい)に南方の官軍(くわんぐん)都に打入て、将軍の御屋形を焼(やき)払ふ。思(おもひ)の外に洛中(らくちゆう)にて合戦なかりければ、落(おつ)る勢も入(いる)勢も共に狼籍(らうぜき)をせず、京白川は中々に此(この)間よりも閑(しづか)なり。爰(ここ)に佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)都を落(おち)ける時、「我(わが)宿所へは定(さだめ)てさもとある大将を入替(いれかはら)んずらん。」とて、尋常(じんじやう)に取(とり)したゝめて、六間(むま)の会所(くわいしよ)には大文(だいもん)の畳を敷双(しきなら)べ、本尊・脇絵(わきゑ)・花瓶(くわびん)・香炉・鑵子(くわんす)・盆(ぼん)に至(いたる)まで、一様(いちやう)に皆置(おき)調へて、書院には義之(ぎし)が草書の偈(げ)・韓愈(かんゆ)が文集(ぶんしふ)、眠蔵(めんざう)には、沈(ぢん)の枕に鈍子(どんす)の宿直(とのゐ)物を取(とり)副(そへ)て置く。十二間の遠侍には、鳥・兔・雉・白鳥、三竿(みさを)に懸(かけ)双(なら)べ、三石入許(ばかり)なる大筒に酒を湛(たた)へ、遁世者(とんせいしや)二人(ににん)留(とどめ)置(おき)て、「誰にても此(この)宿所へ来らん人に一献を進めよ。」と、巨細(こさい)を申置(おき)にけり。楠一番に打入(うちいり)たりけるに、遁世者(とんせいしや)二人(ににん)出向て、「定(さだめ)て此弊屋(このへいをく)へ御入(おんいり)ぞ候はんずらん。一献を進め申せと、道誉(だうよ)禅門申置(おか)れて候。」と、色代(しきたい)してぞ出迎(いでむかひ)ける。道誉(だうよ)は相摸守(さがみのかみ)の当敵なれば、此(この)宿所をば定(さだめ)て毀焼(こぼちやく)べしと憤(いきどほ)られけれ共(ども)、楠此情(このなさけ)を感じて、其(その)儀を止(とめ)しかば、泉水の木一本をも不損、客殿の畳の一帖(いちでふ)をも不失。剰(あまつさへ)遠侍の酒肴(さかな)以前のよりも結構(けつかう)し、眠蔵(めんざう)には、秘蔵(ひさう)の鎧に白太刀一振(ひとふり)置(おい)て、郎等(らうどう)二人(ににん)止(とめ)置(おき)て、道誉(だうよ)に■替(けうたい)して、又都をぞ落(おち)たりける。道誉(だうよ)が今度の振舞(ふるまひ)、なさけ深く風情(ふぜい)有(あり)と、感ぜぬ人も無(なか)りけり。例の古博奕(ふるばくち)に出しぬかれて、幾程なくて、楠太刀と鎧取られたりと、笑ふ族(やから)も多かりけり。
○南方(なんばうの)官軍(くわんぐん)落都(みやこをおつる)事(こと) S3703
宮方(みやがた)には、今度京(みやこ)の敵を追落す程ならば、元弘の如く天下の武士皆こぼれて落て、付(つき)順(したが)ひ進(まゐら)せんずらんと被思けるに、案に相違して、始(はじめ)て参る武士こそなからめ。筑紫の菊池(きくち)・伊予(いよの)土居(どゐ)・得能(とくのう)、周防の大内介(おほちのすけ)、越中(ゑつちゆう)の桃井(もものゐ)、新田武蔵守(むさしのかみ)・同左衛門(さゑもんの)佐(すけ)、其(その)外の一族共(いちぞくども)、国々に多しといへども、或(あるひ)は道を塞(ふさ)がれ、或(あるひ)は勢(いきほ)ひ未(いま)だ叶(かなは)ざれば、一人も不上洛(しやうらく)。結句伊勢の仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)は、土岐が向(むかひ)城(じやう)へよせて、打負(うちまけ)て城へ引篭る。仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)は、丹波にて仁木三郎に打負(うちまけ)て都へ引返し、山名伊豆(いづの)守(かみ)は暫(しばらく)兵の疲(つかれ)を休めんとて、美作を引て伯耆へかへり、赤松彦五郎範実(のりざね)は、養父則祐(そくいう)様々に誘(こしら)へ宥(なだ)めけるに依て、又播磨へ下りぬと聞へければ、国々の将軍方(しやうぐんがた)機(き)を得ずと云(いふ)者なし。さらば軈(やが)て京へ責(せめ)上れとて越前(ゑちぜんの)修理(しゆりの)大夫入道(たいふにふだう)々朝の子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)以下、三千(さんぜん)余騎(よき)にて近江(あふみの)武佐寺(むさでら)へ馳(はせ)参る。佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)少輔(せう)高秀・小原備中(びつちゆうの)守(かみ)は白昼に京を打通て、道誉(だうよ)に馳(はせ)加(くはは)る。道誉(だうよ)其(その)勢を合(あはせ)て七百(しちひやく)余騎(よき)、野路(のぢ)・篠原(しのはら)にて奉待。土岐桔梗(ききやう)一揆(いつき)は、伊勢の仁木が向城(むかひじやう)より引(ひき)分(わけ)て五百(ごひやく)余騎(よき)、鈴鹿山(すずかやま)を打越(うちこえ)て篠原の宿にて追付(おひつき)奉る。此(この)外佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永・今川伊予(いよの)守(かみ)・宇都宮(うつのみや)三河(みかはの)入道(にふだう)が勢、都合一万(いちまん)余騎(よき)、十二月二十四日に武佐寺(むさでら)を立て、同(おなじき)二十六日(にじふろくにち)先陣勢多に付(つき)にけり。丹波路(たんばぢ)より仁木三郎、山陰道(せんおんだう)の兵七百(しちひやく)余騎(よき)を卒(そつ)して責(せめ)上る。播磨路(はりまぢ)よりは、赤松筑前(ちくぜんの)入道(にふだう)世貞(せいてい)・帥律師(そつのりつし)則祐(そくいう)一千(いつせん)余騎(よき)にて兵庫に著く。残五百(ごひやく)余騎(よき)をば、弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範(うぢのり)に付(つけ)て船に乗(の)せ、堺・天王寺(てんわうじ)へ押寄(おしよせ)て、南方の主上(しゆしやう)を取(とり)奉り、楠が跡を遮(さへぎら)んと二手(ふたて)に成てぞ上りける。宮方(みやがた)の官軍(くわんぐん)、始(はじめ)は京都にてこそ兔(と)も角(かく)もならめと申けるが、四方(しはう)の敵雲霞(うんか)の如く也(なり)と告(つげ)たりければ、是(これ)程(ほど)に能(よく)しよせたる天下を、一時に失ふべきにあらず。先(まづ)南方へ引て、四国・西国へ大将を分遣(わけつかは)し、越前・信濃・山名・仁木に牒合(てふしあはせ)て、又こそ都を落さめとて、同(おなじき)二十六日(にじふろくにち)の晩景(ばんげい)程(ほど)に、南方の宮方(みやがた)宇治を経て、天王寺(てんわうじ)・住吉(すみよし)へ落(おち)ければ、同(おなじき)二十九日将軍京へ入(いり)給ひけり。
○持明院新帝(しんてい)自江州(がうしう)還幸(くわんかうの)事(こと)付(つけたり)相州(さうしう)渡四国事(こと) S3704
帝都の主上(しゆしやう)は、未(いまだ)近江へ武佐寺(むさでら)に御坐(ござ)有て、京都の合戦いかゞ有らんと、御心(おんこころ)苦敷(こころぐるし)く思食(おぼしめし)ける処に、康安元年十二月二十七日(にじふしちにち)に、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)早馬を立(たて)て、洛中(らくちゆう)の凶徒等(きようとら)事故なく追(おひ)落(おと)し候(さうらひ)ぬ。急ぎ還幸(くわんかう)なるべき由を申されたりければ、君を始め進(まゐらせ)て、供奉(ぐぶ)の月卿(げつけい)雲客(うんかく)、奴婢僕従(ぬひぼくじゆう)に至るまで、悦(よろこび)あへる事尋常(よのつね)ならず。其翌(そのあけ)の朝軈(やが)て竜駕(りようが)を促(うなが)されて、先(まづ)比叡山(ひえいさん)の東坂本(ひがしさかもと)へ行幸成て、此(ここ)にて御越年(ごをつねん)あり。佐々波(さざなみ)よする志賀の浦、荒(あれ)て久しき跡なれど、昔ながらの花園(はなぞの)は、今年を春と待顔(まちがほ)なり。是(これ)も都とは思(おもひ)ながら馴(なれ)ぬ旅寝の物うさに、諸卿みな今一日もと還幸(くわんかう)を勧(すす)め申されけれ共(ども)、「去年十二月八日都を落(おち)させ給ひし刻(きざみ)に、さらでだに諸寮司(つか)さ闕(かけ)たりし里内裏(さとだいり)、垣も格子も破(やぶれ)失(うせ)、御簾(みす)畳も無(なか)りければ、暫(しばら)く御修理(みしゆり)を加(くはへ)てこそ還幸(くわんかう)ならめ。」とて、翌年(よくねん)の春(はる)の暮月(ぼげつ)に至(いたる)まで、猶(なほ)坂本にぞ御坐(ござ)ありける。近日は聊(いささか)の事も、公家の御計(おんはからひ)としては難叶ければ、内裡修理の事武家へ仰(おほせ)られたりけれ共(ども)、領掌(りやうじやう)は申されながら、いつ道行(ゆく)べしとも見へざりければ、いつまでか外都(ぐわいと)の御住居(おんすまゐ)も有(ある)べきとて、三月十三日(じふさんにち)に西園寺(さいをんじ)の旧宅(きうたく)へ還幸(くわんかう)なる、是(これ)は后妃(こうひ)遊宴の砌(みぎり)、先皇(せんくわう)臨幸の地なれば、楼閣玉を鏤(ちりば)めて、客殿雲に聳(そびえ)たり。丹青(たんぜい)を尽(つく)せる妙音堂、瑠璃(るり)を展(のべ)たる法水(ほつすゐ)院(ゐん)、年々に皆荒(あれ)はてゝ、見しにもあらず成(なり)ぬれば、雨を疑ふ岩下(がんか)の松風、糸を乱(みだ)せる門前の柳、五柳先生(ごりうせんじやう)が旧跡(きうせき)、七松居士(しちしようこじ)が幽棲(いうせい)も角(かく)やと覚(おぼえ)て物さびたり。爰(ここ)にて今年の春を送らせ給(たまふ)に、兔角(とかく)して諸寮の修理如形出来れば、四月十九日に本(もと)の里内裏へ還幸(くわんかう)なる。供奉(ぐぶの)月卿(げつけい)雲客(うんかく)は指(さし)たる行粧(かうさう)なかりしか共、辻(つじ)々の警固随兵(ずゐひやう)の武士共(ぶしども)皆傍(あたり)を耀(かかやか)してぞ見へたりける。「細川相摸守(さがみのかみ)清氏は、近年武家の執事として、兵の随付(したがひつき)たる事幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知(しらず)。其(その)身又弓箭(ゆみや)を取て、無双(ぶさう)の勇士(ゆうし)なりと聞へしかば、是(これ)が宮方(みやがた)へ降参しぬる事、偏(ひとへ)に帝徳の天に叶へる瑞相(ずゐさう)、天下の草創は必(かならず)此(この)人の武徳より事定(さだま)るべし。」と、吉野の主上(しゆしやう)を始(はじめ)進(まゐらせ)て、諸卿皆悦び思食(おぼしめし)ければ、則(すなはち)大将の任(にん)をぞ授(さづけ)られける。其(その)任案(あん)に相違して、去年の冬南方(なんばうの)官軍(くわんぐん)相共に、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)を追(おひ)落(おと)して、暫(しばら)く洛中(らくちゆう)に勢を振(ふる)ひし時も、此(この)人に馳(はせ)付(つく)勢もなし。幾程なくて官軍(くわんぐん)又都を落されて、清氏河内(かはちの)国(くに)に居たれ共(ども)、其旧好(そのきうかう)を慕(したひ)て尋(たづね)来る人も稀(まれ)なり。只禿筆(とくひつ)に譬(たと)へられし覇陵(はりよう)の旧将軍(きうしやうぐん)に不異。清氏は為(せ)ん方なさに、「若(もし)四国へ渡りたらば、日来(ひごろ)相順(あひしたが)ひし兵共(つはものども)の馳(はせ)付(つく)事もや有らん。」とて、正月十四日に、小船十七艘に取乗て阿波(あはの)国(くに)へぞ渡られける。
○可立大将(だいしやう/に\たつ/べき)事(こと)付(つけたり)漢楚(かんそ)立義帝(ぎてい/を\たつる)事(こと) S3705
夫(それ)大将を立(たつ)るに道あり。大将其(その)人に非(あら)ざれば、戦に勝(かつ)事を得がたし。天下已(すで)に定て後、文を以て世を治(をさむ)る時は、智慧を先とし、仁義を本とする故(ゆゑ)に、今まで敵なりし人をも許容して、政道を行(おこな)はせ大官を授(さづく)る事あり。所謂(いはゆる)魏徴(ぎちよう)は楚の君の旧臣なりしか共、唐(たうの)太宗是(これ)を用(もちゐ)給ふ。管仲は子糾(しきう)が寵人(ちようじん)たりしか共、斉(せい)の桓(くわん)公(こう)是(これ)を賞(しやう)せられき。天下未(いまだ)定(さだまらざる)時(とき)、武を以て世を取らんずるには、功ある人を賞し咎(とが)ある人を罰する間、縦(たとひ)威勢ある者なれども、降人(かうにん)を以て大将とはせず。伝(つたへ)聞(きく)秦の左将軍(さしやうぐん)章邯(しやうかん)は、四十万騎(しじふまんぎ)の兵を卒して、楚に降参したりしか共、項羽(かうう)是(これ)を以て大将の印(いん)を不与。項伯は、鴻門(こうもん)の会(くわい)に心を入(いれ)て高祖(かうそ)を助(たすけ)たりしか共、漢に下て後是(これ)に諸侯の国を不授。加様(かやう)の先蹤(せんしよう)を、南方祗候(しこう)の諸卿誰(たれ)か存知し給はざるに、先(まづ)高倉左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)入道慧源(ゑげん)に、大将の号を授(さづけ)て、兄の尊氏(たかうぢの)卿(きやう)を打(うた)せんと給ひしか共叶はず。次に右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)に、大将の号をゆるされて、父の将軍を討(うた)せんとし給ひしも不叶。又仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)に大将を授(さづけ)て、世を覆(くつがへ)さんとせられしも不叶。今又細川相摸守(さがみのかみ)清氏を大将として、代々(だいだい)の主君宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)を亡(ほろぼ)さんとし給ふ不叶。是(これ)只其(その)理に不当大将を立て、或(あるひ)は父兄(ふけい)の道を違(たが)へ、或(あるひ)は主従の義を背(そむ)く故(ゆゑ)に、天の譴(せめ)あるに非(あら)ずや。されば古も世を取(とら)んとする人は、専(もつぱ)ら大将を撰びけるにや。昔秦の始皇の世を奪(うばは)んとて陣渉(ちんせふ)と云(いひ)ける者、自(みづか)ら大将の印を帯(おび)て大沢(たいたく)より出たりしが、無程秦の右将軍白起(はくき)が為に被討ぬ。其(その)後又項梁(こうりやう)と云(いふ)者、自(みづか)ら大将の印を帯(おび)て、楚国より出たりけるも、秦(しんの)左将軍(さしやうぐん)章邯に被打にけり。爰(ここ)に項羽(かうう)・高祖(かうそ)等(ら)色を失て、さては誰をか大将として、秦を可責と計りけるに、范増(はんぞう)とて年七十三(しちじふさん)に成(なり)ける老臣、座中に進(すすみ)出て申けるは、「天地の間に興(おこる)も亡(ほろぶる)も、其(その)理に不依と云(いふ)事なし。されば楚は三戸(さんこ)の小国なれども、秦を亡さんずる人は、必(かならず)楚王の子孫にあるべし。其(その)故は秦の始皇六国を亡(ほろぼ)して天下を並呑(へいどん)せし時、楚の懐王遂(つひ)に秦を背(そむく)事なし。始皇帝(しくわうてい)故(ゆゑ)なく是(これ)を殺して其(その)地を奪(うば)へり。是(これ)罪は秦に有て善(ぜん)は楚に残るべし。故(ゆゑ)に秦を打たんとならば、如何(いか)にもして、楚の懐王の子孫を一人取立(とりたて)て、諸卒皆命に随(したがふ)べし。」とぞ計(はからひ)申ける。項羽(かうう)・高祖(かうそ)諸共(もろとも)に、此(この)義げにもと被思ければ、いづくにか楚の懐王の子孫ありと尋(たづね)求(もとめ)けるに、懐王の孫に孫心と申ける人、久(ひさし)く民間に降(くだつ)て、羊(ひつじ)を養(やしなひ)けるを尋(たづね)出て、義帝(ぎてい)と号(がう)し奉(たてまつり)て、項羽(かうう)も高祖(かうそ)も均(ひとし)く命を慎(つつし)み随(したが)ひける。其(その)後より漢楚(かんそ)の軍は利あつて、秦の兵所々にて打負(うちまけ)しかば、秦の世終(つひ)に亡(ほろび)にけり。是(これ)を以て思(おもふ)に、故新田(につた)義貞(よしさだ)・義助兄弟は、先帝の股肱(ここう)の臣として、武功天下無双。其(その)子息二人(ににん)義宗・義治(よしはる)とて越前国(ゑちぜんのくに)にあり。共に武勇(ぶよう)の道父に不劣、才智又世に不恥。此(この)人々を召て竜顔(りようがん)に咫尺(しせき)せしめ、武将に委任せられば、誰か其(その)家を軽(かろん)じ、誰か旧功を続(つが)ざらん。此等(これら)を閣(さしおい)て、降参不儀の人を以て大将とせられば、吉野の主上(しゆしやう)天下を被召事、千に一(ひとつ)も不可有。縦(たとひ)一旦(いつたん)軍に打勝(うちかた)せ給(たまふ)事有(ある)とも、世は又人の物とぞ覚(おぼ)へたる。
○尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)遁世(とんせいの)事(こと) S3706
都には細川相摸守(さがみのかみ)敵になりし後は、執事と云(いふ)者なくして、毎事(まいじ)叶はざりける間、誰をか其(その)職に可置と評定ありけるが、此比(このころ)時(とき)を得たる佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)が聟たるに依て、傍(かた)への人々皆追従(つゐしよう)にや申けん、「尾張(をはりの)大夫(たいふ)入道(にふだう)の子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)殿(どの)に、増(まし)たる人あらじ。」と申ければ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)も心中に異儀無(なく)して、執事職を内々此(この)人に定め給ひにけり。父の大夫入道(たいふにふだう)は、元来(ぐわんらい)当腹(たうふく)の三男(さんなん)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)義将(よしまさを)寵愛(ちようあい)して、先腹の兄二人(ににん)を世にあらせて見んとも思はざりければ、左衛門(さゑもんの)佐(すけ)執事職に可居由を聞て、様々の非を挙(あげ)て、種々の咎(とが)を立て、此(この)者曾(かつ)て其(その)器用に非(あら)ざる由をぞ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)へ申されける。中将殿(ちゆうじやうどの)も人の申(まうす)に付(つき)安き人にて御座(おはし)ければ、「げにも見子不如父。さらば当腹の三男(さんなん)を面(おもて)に立(たて)て、幼稚の程は、父の大夫入道(たいふにふだう)に、世務を執行(とりおこなは)さすべし。」と宣ひける。左衛門(さゑもんの)佐(すけ)是(これ)を聞て、父をや恨(うらみ)にけん、世をうしとや思ひけん、潜(ひそか)に出家して、いづちともなく迷(まよひ)出にけり。付(つき)随(したが)ふ郎従共二百七十人(にひやくしちじふにん)、同時に皆髻(もとどり)を切て、思々(おもひおもひ)にぞ失(うせ)にける。此(この)人誠(まこと)に父の所存をも不破、我(わが)身の得道をも願(ねがう)て、出家遁世(しゆつけとんせい)しぬる事類(たぐひ)少き発心なり。但(ただし)此比(このころ)の人の有様は、昨日は髻(もとどり)切て実(まこと)に貴(たつと)げに見ゆるも、今日は頭を裹(つつみ)て、無慚無愧(むざんむぎ)に振舞(ふるまふ)事のみ多ければ、此(この)遁世(とんせい)も又行末通(とほ)らぬ事にてやあらんずらんと思ひしに、遂(つひ)に道心さむる事なくして、はて給ひけるこそ難有けれ。
○身子声聞(しんししやうもん)、一角仙人、志賀寺上人(しやうにんの)事(こと) S3707
凡(およそ)煩悩(ぼんなう)の根元を切り、迷者の絆(きづな)を離るゝ事は、上古にも末代にも、能(よく)難有事にて侍るにや。昔天竺に身子(しんし)と申ける声聞(しやうもん)、仏果を証(しよう)ぜん為に、六波羅蜜(ろくはらみつ)を行ひけるに、已(すで)に五波羅蜜を成就(じやうじゆ)しぬ。檀波羅蜜(だんばらみつ)を修するに至て、隣国(りんごく)より一人の婆羅門来て、財宝を乞(こふ)に、倉の内の財、身の上の衣、残る所なく是(これ)を与ふ。次に眷属(けんぞく)及(および)居室を乞(こふ)に皆与へつ。次に身の毛を乞(こふ)に、一筋(ひとすぢ)も不残抜(ぬい)て施(ほどこし)けり。波羅門猶(なほ)是(これ)に不飽足、「同(おなじく)は汝が眼を穿(くじつ)て、我に与へよ。」とぞ乞(こひ)ける。身子両眼を穿(くじつ)て、盲目の身と成て、暗夜(あんや)に迷(まよふ)が如(ごとく)ならん事、いかゞ在(ある)べきと悲(かなしみ)ながら無力、此(この)行の空(むなし)くならん事を痛(いたみ)て、自(みづか)ら二(にの)眼を抜(ぬい)て、婆羅門にぞ与へける。婆羅門二の眼を手に取て、「肉眼は被抜て後、涜(きたな)き物成(なり)けり。我何の用にか可立。」とて、則(すなはち)地に抛(なげ)て、蹂躙(じうりん)してぞ捨(すて)たりける。此(この)時(とき)に身子、「人の五体(ごたい)の内には、眼にすぎたる物なし。是(これ)程用にもなき眼を乞(こひ)取(とり)て、結句(けつく)地に抛(なげ)つる事の無念さよ。」と一念瞋恚(しんい)の心を発(おこ)しゝより、菩提の行(ぎやう)を退(しりぞけ)しかば、さしも功を積(つみ)たりし六波羅蜜(ろくはらみつ)の行(ぎやう)一時に破れて、破戒の声聞(しやうもん)とぞ成(なり)にける。又昔天竺の波羅奈国(はらないこく)に一人の仙人あり。小便をしける時、鹿のつるみけるを見て、婬欲(いんよく)の心ありければ、不覚して漏精(ろせい)したりける。其(その)かゝれる草の葉を妻鹿(めしか)食て子を生す。形は人にして額(ひたひ)に一の角(つの)ありければ、見る人是(これ)を一角仙人とぞ申ける。修行功積(つもつ)て、神通殊(こと)にあらたなり。或(ある)時(とき)山路に降(くだつ)て、松のしづく苔(こけ)の露、石岩(せきがん)滑(なめらか)なりけるに、此(この)仙人谷へ下るとて、すべりて地にぞ倒れける。仙人腹を立て、竜王があればこそ雨をも降(ふ)らせ、雨があればこそ我はすべりて倒れたり。不如此(この)竜王共を捕(とら)へて禁楼(きんろう)せんにはと思(おもひ)て、内外八海の間に、あらゆる所の大龍・小竜共を捕(とら)へて、岩の中にぞ押篭(おしこめ)ける。是(これ)より国土に雨を降(ふら)すべき竜神(りゆうじん)なければ、春三月より夏の末に至るまで天下大に旱魃(かんばつ)して、山田のさなへさながらに、取らで其侭(そのまま)枯(かれ)にけり。君遥(はるか)に民の愁(うれへ)を聞召(きこしめ)して、「いかにしてか此(この)一角仙人の通力を失(うしなう)て、竜神(りゆうじん)を岩の中より可出す。」と問(とひ)給ふに、或智臣(ちしん)申けるは、「彼(かの)仙人縦(たと)ひ霞を喰(くら)ひ気を飲(のみ)て、長生不老の道を得たり共、十二の観(くわん)に於て未足(いまだたらざる)所あればこそ、道にすべりて瞋(いか)る心は有(あり)つらめ。心未(いまだ)枯木死灰(こぼくしくわい)の如(ごとく)ならずは、色に耽(ふけ)り香(か)に染(そ)む愛念などか無(なか)らんや。然(しか)らば三千(さんぜん)の宮女の中に、容色(ようしよく)殊(こと)に勝(すぐ)れたらんを、一人彼(かの)草庵の中へ被遣て、草の枕を並べ苔の筵(むしろ)を共にして、夜もすがら蘿洞(らとう)の夢に契(ちぎり)を結ばれば、などか彼(かの)通力を失はで候べき。」とぞ申ける。諸臣皆此(この)儀に同じければ、則(すなはち)三千(さんぜん)第一(だいいち)の后、扇陀女(せんだによ)と申けるに、五百人(ごひやくにん)の美人を副(そへ)て、一角仙人の草庵の内へぞ被送ける。后はさしもいみじき玉(たま)の台(うてな)を出て、見るに悲(かなし)げなる草庵に立入(たちいり)給へば、苔(こけ)もるしづく、袖の露、かはく間(ま)もなき御涙(おんなみだ)なれ共(ども)、勅(ちよく)なれば辞(じ)するに言(こと)ばなくして、十符(とふ)のすがごもしき忍(しの)び、小鹿(をしか)の角(つの)のつかの間に、千年(ちとせ)を兼(かね)て契(ちぎり)給ふ。仙人も岩木(いはき)にあらざれば、あやなく后に思(おもひ)しみて、ことの葉ごとに置く露の、あだなる物とは不疑。夫(それ)仙道は露盤(ろはん)の気を嘗(なめ)ても、婬欲(いんよく)に染(そみ)ぬれば、仙の法皆尽(つき)て其験(そのしるし)なし。されば此(この)仙人も一度(いちど)后に落されけるより、鯢桓(げいくわん)の審(しん)も破(やぶ)れて通力もなく、金骨返て本の肉身と成(なり)しかば、仙人忽(たちまち)に病衰(びやうすゐ)して、軈(やが)て空(むなし)く成(なり)にけり。其(その)後后は宮中へ立帰り、竜神(りゆうじん)は天に飛(とび)去て、風雨時に随(したがひ)しかば、農民東作(とうさく)を事とせり。其(その)一角仙人は仏の因位(いんゐ)なり。其婬女(そのいんぢよ)は耶輙陀羅女(やしゆだらによ)これなり。又我朝(わがてう)には志賀寺の上人とて、行学勲修(ぎやうがくくんしゆ)の聖才をはしけり。速(すみやか)に彼(かの)三界の火宅(くわたく)を出て、永(なが)く九品(くほん)の浄刹(じやうせつ)に生(うまれ)んと願(ねがひ)しかば、富貴(ふつき)の人を見ても、夢中の快楽(けらく)と笑ひ、容色の妙(たへ)なるに合ても、迷(まよひ)の前の著相(ちやくさう)を哀(あはれ)む。雲を隣(となり)の柴(しば)の庵(いほ)、旦(しば)しばかりと住(すむ)程(ほど)に、手づから栽(うゑ)し庭の松も、秋風高く成(なり)にけり。或(ある)時(とき)上人草庵の中を立出て、手に一尋(いちじん)の杖を支(ささ)へ、眉に八字の霜を垂(た)れつゝ、湖水波閑(しづか)なるに向て、水想観(すゐさうくわん)を成(なし)て、心を澄(すま)して只一人立(たち)給(たまひ)たる処に、京極(きやうごく)の御息所(みやすどころ)、志賀の花園の春(はる)の気色を御覧じて、御帰(おんかへり)ありけるが、御車(おんくるま)の物見をあけられたるに、此(この)上人御目を見合(みあは)せ進(まゐら)せて、不覚心迷(こころまよう)て魂(たましひ)うかれにけり。遥(はるか)に御車(おんくるま)の跡を見送(みおくり)て立(た)たれ共(ども)、我思(わがおも)ひはや遣(やる)方(かた)も無(なか)りければ、柴(しば)の庵(いほり)に立帰て、本尊に向(むかひ)奉りたれ共(ども)、観念の床(ゆか)の上には、妄想(まうさう)の化(け)のみ立(たち)副(そひ)て、称名(しやうみやう)の声の中には、たへかねたる大息(おほいき)のみぞつかれける。さても若(もし)慰(なぐさ)むやと暮山(ぼさん)の雲を詠(ながむ)ればいとゞ心もうき迷ひ、閑窓(かんさう)の月に嘯(うそぶ)けば、忘(わすれ)ぬ思(おもひ)猶(なほ)深し。今生の妄念(まうねん)遂(つひ)に不離は、後生の障(さはり)と成(なり)ぬべければ、我(わが)思(おもひ)の深き色を御息所に一端(いつたん)申(まうし)て、心安(こころやす)く臨終(りんじゆう)をもせばやと思(おもひ)て、上人狐裘(こきう)に鳩(はと)の杖をつき、泣々(なくなく)京極の御息所の御所へ参て、鞠(まり)のつぼの懸(かかり)の本に、一日(いちにち)一夜(いちや)ぞ立たりける。余(よ)の人は皆いかなる修行者乞食(こつじき)人やらんと、怪(あやし)む事もなかりけるに、御息所御簾(みす)の内より遥(はるか)に御覧ぜられて、是(これ)は如何様(いかさま)志賀の花見の帰るさに、目を見合(みあは)せたりし聖(ひじり)にてやをはすらん。我故(われゆゑ)に迷はゞ、後世の罪誰(た)が身の上にか可留。よそながら露許(ばかり)の言(こと)の葉(は)に情をかけば、慰む心もこそあれと思召(おぼしめし)て、「上人是(これ)へ。」と被召(めされ)ければ、はな/\とふるひて、中門の御簾の前に跪(ひざまつき)て、申出たる事もなく、さめ/\とぞ泣(なき)給ひける。御息所は偽りならぬ気色の程、哀にも又恐ろしくも思食(おぼしめされ)ければ、雪の如くなる御手(おんて)を、御簾の内より少し指(さし)出させ給ひたるに、上人御手(おんて)に取付(とりつき)て、初春の初(はつ)ねの今日の玉箒(たまははき)手に取(とる)からにゆらぐ玉の緒(を)と読(よま)れければ、軈(やが)て御息所取(とり)あへず、極楽の玉の台(うてな)の蓮葉(はちすば)に我をいざなへゆらぐ玉の緒(を)とあそばされて、聖の心をぞ慰め給ひける。かゝる道心堅固(だうしんけんご)の聖人、久修練業(くしゆれんぎやう)の尊宿(そんしゆく)だにも、遂(とげ)がたき発心修行の道なるに、家富(とみ)若き人の浮世の紲(きづな)を離れて、永く隠遁の身と成(なり)にける、左衛門(さゑもんの)佐(すけ)入道(にふだう)の心の程こそ難有けれ。
○畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)謀叛(むほんの)事(こと)付(つけたり)楊国忠(やうこくちゆうが)事(こと) S3708
畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)・舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)義深(よしふか)・同式部大輔(しきぶのたいふ)兄弟三人(さんにん)は、其(その)勢五百(ごひやく)余騎(よき)にて伊豆(いづの)国(くに)に逃下(にげくだ)り、三津(みつ)・金山・修禅寺(しゆぜんじ)の三(みつ)の城(じやう)を構(かまへ)て楯篭(たてこも)りたりと聞へければ、鎌倉(かまくら)の左馬(さまの)頭(かみ)基氏(もとうぢ)先(ま)づ平一揆(たひらいつき)の勢三百(さんびやく)余騎(よき)を被差向。其(その)勢已(すで)に伊豆(いづの)府(こふ)に付(つき)て、近辺の庄園に兵粮(ひやうらう)を懸(かけ)、人夫(にんぶ)を駈(かり)立(たて)ける程に、葛山(かつらやま)備中(びつちゆうの)守(かみ)と、平一揆(たひらいつき)と所領の事に就(つい)て闘諍(とうじやう)を引(ひき)出し、忽(たちまち)に軍をせんとぞひしめきける。畠山が手(て)の者に、遊佐(ゆさ)・神保(じんほ)・杉原此(これ)を聞て、あはれ弊(つひえ)に乗る処やと思ひければ、五百(ごひやく)余騎(よき)を三手(みて)に分(わけ)て、三月二十七日(にじふしちにち)の夜半に、伊豆(いづの)府(こふ)へ逆寄(さかよせ)にぞ寄せたりける。葛山(かつらやま)は、平一揆(たひらいつき)の者共(ものども)畠山と成(なり)合て、夜打に寄せたりと騒ぎ、平一揆(たひらいつき)は、葛山(かつらやま)と引(ひき)合て、畠山御方(みかた)を打(うた)んとする物なりと心得(こころえ)て、共に心を置(おき)合(あひ)ければ、矢の一(ひとつ)をもはか/゛\しく不射出、寄手(よせて)三万騎(さんまんぎ)徒(いたづ)らに鎌倉(かまくら)を指(さし)て引退く。児女(じぢよ)の嘲(あざけ)り理(ことわり)なり。左馬(さまの)頭(かみ)不安思ひければ、新田・田中を大将として、軈(やがて)武蔵・相摸・伊豆・駿河(するが)・上野・下野・上総(かづさ)・下総(しもふさ)八箇国(はちかこく)の勢、二十万(にじふまん)余騎(よき)をぞ被向ける。畠山は此(この)十(じふ)余年(よねん)左馬(さまの)頭(かみ)を妹聟(いもとむこ)に取て、栄耀(えいえう)門戸に余るのみならず、執事の職に居(こ)して天下を掌(たなごころ)に握(にぎり)しかば、東(とう)八箇国(はちかこく)の者共(ものども)の、命に替(かは)らんと昵(むつ)び近付(ちかづき)けるを、我身(わがみ)の仁徳(じんとく)と心得(こころえ)て、何(なに)となく共我(われ)旗を挙(あげ)たらんに、四五千騎も馳(はせ)加(くは)らぬ事はあらじと憑(たのみ)しに、案(あん)に相違して余所(よそ)の勢一騎(いつき)も不付、結句(けつく)一方の大将にもと憑(たのみ)し狩野介(かののすけ)も降参しぬ。又其(その)外相伝譜代(ふだい)の家人、厚恩(こうおん)異他郎従共も、日にそへ落(おち)失(うせ)て今は戦ふべしとも覚へざりければ、大勢の重(かさね)て向ふ由を聞て、二(ふたつ)の城(じやう)に火を懸(かけ)て修禅寺(しゆぜんじ)の城(じやう)へ引(ひき)篭る。夢なる哉(かな)、昨日は海をはかりし大鵬(たいほう)の、九霄(きうせう)の雲に搏(はうつ)が如く、今日は轍(てつ)に伏(ふす)涸魚(かくぎよ)の、三升の水を求(もとむ)るに不異。「我(わが)身かゝるべしと知(しり)たらば、新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)を、枉(まげ)て打つまじかりける物を。」と後悔せりといへり。早く報(むく)ひけるを、兼(かね)て不知こそ愚(おろか)なれ。抑畠山(はたけやま)入道(にふだう)去去年東国の勢を催(もよほし)立(たて)て、南方へ発向したりし事の企(くはたて)を聞けば、只唐の楊国忠・安禄山が天威を仮(かつ)て、後(のち)に世を奪(うば)はんと謀(はかり)しに似たり。昔唐の玄宗位に即(つき)給ひし始、四海(しかい)無事なりしかば、楽(たのしみ)に誇(ほこ)り驕(おごり)をつゝしませ給はざりしかば、あだなる色をのみ御心(おんこころ)にしめて、五雲の車に召(めさ)れ、左右のをもと人に手を引かれ、殿上を幸(みゆき)して後宮(こうきゆう)三十六(さんじふろく)宮(みや)を廻(まは)り、三千人(さんぜんにん)の后を御覧ずるに、玄献(げんけん)皇后・武淑妃(ぶしゆくひ)二人(ににん)に勝(まさ)る容色も無(なか)りけり。君無限此(この)二人(ににん)の妃に思食(おぼしめし)移りて、春(はる)の花秋の月、いづれを捨(すつ)べしとも思召さゞりしに、色ある者は必(かならず)衰へ、光ある者は終(つひ)に消(きえ)ぬる憂世(うきよ)の習(ならひ)なれば、此(この)二人(ににん)の后無幾程共に御隠(おんかくれ)ありけり。玄宗余(あま)りに御歎(おんなげき)有て、玉体も不穏しかば、大臣皆相許(あひはかつ)て、いづくにか前の皇后・淑妃(しゆくひ)に勝(まさ)りて、君の御心(おんこころ)をも慰め進(まゐら)すべき美人のあると、至らぬ隅(くま)もなくぞ尋(たづね)ける。爰(ここ)に弘農(こうのう)の楊玄■(やうげんえん)が女(むすめ)に、楊貴妃と云ふ美人あり。是(これ)は其(その)母昼寝して、楊(やなぎ)の陰(かげ)にねたりけるに、枝より余る下(した)露、婢子(ひし)に落(おち)懸(かか)りて胎内に宿りしかば、更々(さらさら)人間の類(たぐひ)にては不可有、只天人の化(け)して此(この)土に来(きたる)物なるべし。紅顔翠黛(こうがんすゐたい)は元来天の生(な)せる質(かたち)なれば、何ぞ必(かならず)しも瓊粉金膏(けいふんきんかう)の仮(かり)なる色を事とせん。漢の李夫人(りふじん)を写(うつせ)し画工(ぐわこう)も、是(これ)を画(ゑが)かば遂(つひ)に筆の不及事を怪(あやし)み、巫山(ふざん)の神女を賦(ふ)せし宋玉(そうぎよく)も、是(これ)を讃(さん)せば、自(みづか)ら言(ことば)の方(まさ)に卑(いやしからん)事を恥(はじ)なん。其(その)語るを聞ても迷(まよひ)ぬべし、況(いはん)や其(その)色を見ん人をや。加様(かやう)にはりなく覚へし顔色(がんしよく)なれば、時の王侯・貴人・公卿・大夫・媒妁(ばいしやく)を求め、婚礼を厚(あつく)して、夫婦たらん事を望(のぞみ)しか共、父母かつて不許。秘(ひ)して深窓(しんさう)に有(あり)しかば、夭々(えうえう)たる桃花(たうくわ)の暁(あかつき)の露を含(ふくん)で、墻(かき)より余る一枝(いつし)の霞に匂(にほ)へるが如く也(なり)。或人是(これ)を媒(なかだち)して、玄宗皇帝(くわうてい)の連枝(れんし)の宮(みや)、寧王(ねいわう)の御方へ進(まゐら)せけるを、玄宗天威に誇(ほこつ)て濫(みだり)に高(かう)将軍(しやうぐん)を差遣(さしつかは)して、道より奪(うばひ)取て後宮(こうきゆう)へぞ冊(かしづき)入(いれ)奉(たてまつり)ける。玄宗の叡感、寧王(ねいわう)の御思(おんおもひ)、花開(さく)枝の一方は折(をれ)てしぼめるに相似たり。されば月来前殿早、春入後宮遅と詩人も是(これ)を題せり。尋常(じんじやう)の寒梅樹(かんばいじゆ)折(をれ)て軍持(ぐんじ)に上れば、一段(いちだん)の清香人の心を感ぜしむ。民屋(みんをく)粛颯(せうさつ)たるに衰楊柳(すゐやうりう)移(うつり)て宮苑(きゆうゑん)にいれば、千尺の翠条(すゐでう)、別(べつ)に春風長かるべし。さらでだにたへに勝(すぐ)れたる容色の上に、金翠(きんすゐ)を荘(かざ)り薫香を散ぜしかば、只歓喜園(くわんぎゑん)の花の陰(かげ)に舎脂(しやし)夫人(ふじん)の粧(よそほひ)をなして、春に和(くわ)せるに不異。一度(いちど)君王に面(おもて)をまみへしより、袖の中の珊瑚(さんご)の玉、掌(たなごころ)の上の芙蓉(ふよう)の花と、見る目もあやに御心(おんこころ)迷ひしかば、暫(しばらくも)其側(そのそば)を離れ給はず、昼は終日(ひねもす)に輦(てぐるま)を共にして、南内(なんだい)の花に酔(ゑひ)を勧(すす)め、夜は通宵(よもすがら)席を同(おなじく)して、西(せい)宮(みや)の月に宴(えん)をなし給ふ。玄宗余(あまり)の柔(わり)なさに、世人の面に紅粉(こうふん)を施(ほどこ)し、身に羅綺(らき)を帯(おび)たるは、皆仮(かり)なる嬋娟(せんけん)にて真(まこと)の美質(びしつ)に非(あら)ず。同(おなじく)は楊貴妃の顕(あらは)したる膚(はだへ)を見ばやと思召て、驪山宮(りさんきゆう)の温泉に瑠璃(るり)の沙(いさご)を敷き、玉の甃(いしだたみ)を滑(なめらか)にして、貴妃の御衣をぬぎ給へる貌(かたち)を御覧ずるに、白く妙(たへ)なる御はだへに、蘭膏(らんかう)の御湯を引かせければ、藍田(らんでん)日(ひ)暖(あたたかにして)玉低涙、■嶺(ゆれい)雪融(とほりて)梅吐香かとあやしまるゝ程也(なり)。牛車(ぎうしや)の宣旨を被(かうむつ)て、宮中を出入せしかば、光彩(くわうさい)の栄耀(えいえう)門戸に満(みち)て、服用(ふくよう)は皆(みな)大長公主に均(ひとし)く、富貴(ふつき)甚(はなはだ)天子王侯にも越(こえ)たり。此(この)楊貴妃のせうとに、楊国忠と云(いふ)者あり。元来家賎(いやしく)して、■畝(けんほ)の中に長(ひと)となりしかば、才もなく芸もなく、文にも非(あら)ず武にも非(あら)ざりしか共、后(きさき)の兄(あに)なりしかば、軈(やが)て大臣にぞなされける。此(この)時(とき)に安禄山と云(いひ)ける旧臣、権威爵禄(しやくろく)共(ども)に楊国忠に被越て、不安思ひけれ共(ども)、すべき様なければ力不及。係(かか)る処に、天子色を重(おもん)じて政(まつりごと)を乱(みだ)り、小人高位に登(のぼつ)て国の弊(つひえ)を不知を見て、吐蕃(とばん)の国々皆王命を背(そむく)と聞へしかば、「誰をか打手に向(むく)べき。」と議(ぎ)せられけるに、楊国忠武威を恣(ほしいまま)にせん為に、大将の印(いん)を被授ば、罷(まかり)向て輙(たやす)く是(これ)を可静由を望(のぞみ)申ける間、是(これ)に上将軍(じやうしやうぐん)の宣旨をぞ被下ける。楊国忠則(すなはち)五十万騎(ごじふまんぎ)の勢を卒して、大荒(だいくわうの)峯に陣を取る。夫(それ)大将となる人は、士卒の志を一にせん為に、士未食将不餐、士宿野将不張蓋。得一豆之飯与士喫、淋一樽(いつそん)之酒与兵飲とこそ申(まうす)に、此(この)楊国忠明(あく)れば旨酒(ししゆ)に漬(ひたつ)て、兵の飢(うゑ)たるを不知(しらず)。暮(くる)れば美女に纏(まとは)れて人の訴(そしり)をも不聞入。只長時(ちやうじ)の楽(たのしみ)にのみ誇(ほこ)り、軍の事をば忘(わすれ)ても不云けるこそ浅猿(あさまし)けれ。去(さる)程(ほど)に兵疲れ将懈(おこた)りて、進む勢無(なか)りければ、吐蕃(とばん)の戎狄共(じゆうてきども)二十万騎(にじふまんぎ)の勢を引(ひき)て、逆寄(さかよせ)にこそ寄(よせ)たりけれ。大将は元来臆病なり、士卒の心を一にせざれば一戦(いつせん)も不戦、楊国忠が五十万騎(ごじふまんぎ)、我先にと河を渡して、五日路(いつかぢ)まで逃(にげ)たりければ、大荒(だいくわう)の四方(しはう)七千(しちせん)余里(より)、吐蕃(とばん)に随(したが)ひ靡(なび)きにけり。敵はさのみ追はざりしか共、楊国忠此(ここ)にも猶(なほ)たまり得ずして、都を差(さし)て引(ひき)けるが、今度大将を申請(まうしうけ)て、発向したる甲斐(かひ)もなく、一軍(ひといくさ)せで帰らん事、上聞(じやうぶん)其憚(そのはばかり)有(あり)ければ、御方の勢の中に馬にも不乗物具もせで、疲(つかれ)たる兵を一万人首を刎(はね)て、各鋒(きつさき)に貫(つらぬ)き、是(これ)皆吐蕃の徒(と)の頚(くび)なりと号(がう)して、都へぞ帰(かへり)参りける。罪無(なく)して首を刎(はね)られたる兵共(つはものども)の親子兄弟幾千万、悲(かなしみ)を含(ふくみ)て声を呑(の)み、家々に哭(こく)すといへ共、楊国忠が漏(もれ)聞(きか)んずる事を恐(おそれ)て、奏し申(まうす)人なければ、御方の兵一万人は、敵の頚(くび)となして獄門(ごくもん)の木に懸(かけ)られ、大荒(たいくわう)の地千里は、打平(うちたひら)げたる所と号して楊国忠にぞ被行ける。上(かみ)乱れ下(しも)不背と云(いふ)事なれば、挙世、只楊国忠を滅(ほろぼ)さんずる事をぞ計(はか)りける。安禄山、此比(このころ)大荒(だいくわう)の境(さかひ)に吐蕃(とばん)を防がんとて居たりけるが、時至りぬと悦(よろこび)て、諸侯に約をなし、士卒に礼を深(ふかく)して、「楊国忠を打(うつ)べしと、宣旨を給(たまはり)たり。」と披露(ひろう)して兵を催(もよほす)に、大荒(だいくわう)にて楊国忠に打(うた)れたりし、一万人の兵共(つはものども)の親類兄弟大に悦て、我先(さき)にと馳(はせ)集りける程に、安禄山が兵は程なく七十万騎(しちじふまんぎ)に成(なり)にけり。則(すなはち)崔乾祐(さいけんいう)を右将軍(うしやうぐん)とし子思明(ししめい)ら左将軍(さしやうぐん)として都へ上るに、路次(ろし)の民屋(みんをく)をも不煩、城郭(じやうくわく)をも不責、安禄山朝敵(てうてき)に成て長安へ責(せめ)上(のぼる)とは、夢にも人思ひよらず。箪食瓠漿(たんしいこしやう)を持(もち)て、士卒の疲をぞ労(いたは)りける。此(この)勢既(すで)に都より七十里(しちじふり)を隔(へだて)たる潼関(とうくわん)と云(いふ)山に打あがりて、初(はじめ)て旗の手をおろし、時の声をぞ揚(あげ)たりける。玄宗皇帝(くわうてい)は、折節驪山宮(りさんきゆう)に行幸成て、楊貴妃に霓裳羽衣(げいしやううい)の舞をまはせて、大梵高台(ほんかうだい)の楽(たのしみ)も是(これ)には過(すぎ)じと思召(おぼしめし)ける処に、潼関(とうくわん)に馬烟(うまけぶり)をびたゝしく立て、漁陽(ぎよやう)より急(きふ)を告(つぐ)る■鼓(へいく)、雷(いかづち)の如くに打つゞけたり。探使(たんし)度々馳(はせ)帰て、安禄山が徒(と)、崔乾祐(さいけんいう)・子思明等(ししめいら)、百万騎にて寄(よせ)たりと騒ぎければ、「事の体を見て参れ。」とて、哥舒翰(かじよかん)に三十万騎(さんじふまんぎ)を相副(あひそへ)て、咸陽の南へ被差向。安禄山既(すで)に潼関(とうくわん)の山に打挙(うちあが)りて、哥舒翰麓(ふもと)に馳(はせ)向ひたれば、かさよりまつくだりに懸(かけ)落されて、官軍(くわんぐん)十万(じふまん)余騎(よき)河水に溺(おぼれ)て死にけり。哥舒翰僅(わづか)に打(うち)なされて、一日猶(なほ)長安に支(ささへ)て居たりけるが使を馳(はせ)て、「幾度戦ふとも勝(かつ)事を難得。急ぎ竜駕(りようが)を被廻て蜀山(しよくざん)へ落(おち)させ給ふべき。」由を申たりければ、さしも面白かりつる霓裳羽衣の舞も未(いまだ)終(をはらざる)に、玄宗皇帝(くわうてい)と楊貴妃と、同(おなじ)く五雲の車に被召(めされ)て都を落給へば、楊国忠を始(はじめ)として、諸王千官悉(ことごと)く歩跣(かちはだし)なる有様にて、泣々(なくなく)大軍の跡に相順(あひしたがふ)。哥舒翰長安の軍にも打負(うちまけ)て鳳翔県(ほうしやうけん)へ落(おち)ければ、安禄山が兵、君を追懸進(おつかけまゐらせ)て、旗の手五十町(ごじつちよう)計(ばかり)の跡に連(つらな)りたり。竜駕既(すで)に馬嵬(ばくわい)の坡(つつみ)を過(すぎ)させ給ひける時、供奉(ぐぶ)仕る官軍(くわんぐん)六万(ろくまん)余騎(よき)、道を遮(さへぎつ)て君を通し進(まゐら)せず。「是(これ)は何事ぞ。」と御尋(おんたづね)ありければ、兵皆戈(ほこ)をふせ地に跪(ひざまづい)て、「此(この)乱俄(にはか)に出来て天子宮闕(きゆうけつ)を去(さら)せ給ふ事、偏(ひとへ)に楊国忠が驕(おごり)を極(きは)め罪なき人を切(きり)たりし故(ゆゑ)也(なり)。然(しか)れば楊国忠を官軍(くわんぐん)の中へ給て首を刎(はね)、天下の人の心を息(やす)め候べし。不然は縦(たとひ)禄山が鋒(ほこさき)には死すとも、天子の竜駕をば通し進(まゐら)すまじ。」とぞ申ける。跡より敵は追懸(おひかけ)たり。惜(をし)むとも不可叶と思召(おぼしめし)ければ、「早く楊国忠に死罪をたぶべし。」とぞ被仰ける。官軍(くわんぐん)大に喜て、楊国忠を馬より引落(ひきおと)し、戈(ほこ)の先に指貫(さしつらぬ)き、一同にどつとぞ笑(わらひ)ける。是(これ)を御覧じける楊貴妃の御心(おんこころ)の中こそ悲(かなし)けれ。角(かく)ても官軍(くわんぐん)猶(なほ)あきたらざる気色ありて、竜駕を通し進(まゐら)せざりければ、「此(この)上の憤(いきどほ)り何事ぞ。」と尋(たづね)らるゝに、兵皆、「后妃の徳たがはゞ四海(しかい)の静(しづま)る期(ご)あるべからず。褒■(ほうじ)周(しう)の世を乱(みだ)り、西施(せいし)呉の国を傾(かたぶけ)し事、統■(とうくわう)耳を不塞。君何ぞ思召(おぼしめし)知らざらん。早く楊貴妃に死を給(たまは)らずは、臣等(しんら)忠言の為に胸を裂(さき)て、蒼天(さうてん)に血を淋(そそ)くべし。」とぞ申ける。玄宗是(これ)を聞食(きこしめし)て遁(のがる)まじき程を思召(おぼしめし)ければ、兔角(とかく)の御言(おんことば)にも不及、御胸もふさがりて、御心(おんこころ)消(きえ)て鳳輦(ほうれん)の中に倒(たふ)れ伏(ふ)させ給ふ。霞の袖を覆(おほ)へ共、荒き風には散る花の、かくるゝ方も無(なか)るべきに、楊貴妃さてもや遁(のが)るゝと、君の御衣(ぎよい)の下へ御身(おんみ)を側(そば)めて隠れさせ給へば、天子自(みづから)御貌(おんかたち)を胸にかきよせて、「先(まづ)朕(ちん)を失(うしなひ)て後(のち)彼を殺せ。」と歎かせ給ひければ、指(さし)も忿(いか)れる武士共(ぶしども)も皆戈(ほこ)を捨(すて)て地に倒る。其(その)中に邪見放逸(じやけんはういつ)なる戎(えびす)の有(あり)けるが、「角(かく)ては不可叶。」とて、玉体に取付(つか)せ給ひたる楊貴妃の御手(おんて)を引(ひき)放(はなし)て、轅(ながえ)の下へ引落(ひきおと)し奉り、軈(やが)て馬の蹄(ひづめ)にぞ懸(かけ)たりける。玉の鈿(かんざし)地に乱(みだれ)て、行(ゆく)人道を過(すぎ)やらず。雪の膚(はだへ)泥(どろ)にまみれて、見(みる)人袖をほしかねたり。玄宗は無力して、御貌(おんかたち)をも擡(もたげ)させ給はず、臥(ふし)沈ませ給ひしかば、今はのきはの御有様(おんありさま)を、まのあたり御覧ぜざりしこそ、中々絶(たえ)ぬ玉の緒の、長き恨とは成(なり)にけれ。其(その)後に二陣の兵ふせぎ矢射て、前陣の竜駕を早めければ、程なく蜀(しよく)へ落著(おちつか)せ給ひけり。則(すなはち)回■(くわいきつ)十万騎(じふまんぎ)の勢を卒して馳(はせ)参る。厳武(げんぶ)・哥舒翰(かじよかん)又国々の兵(つはものを)催(もよほし)立(たて)て、五十万騎(ごじふまんぎ)蜀(しよく)の行在(あんざい)へぞ参りける。安禄山が勢(せい)は、始(はじめ)楊国忠を打(うた)んとする由を聞てこそ、我(われ)も我(われ)もと馳(はせ)集りしか、今の如(ごとく)は只(ただ)天下を奪(うばは)んとする者なりけりとて、兵多く落(おち)失(うせ)ける間、安禄山が栄花、たゞ春一時(ひととき)の夢とぞ見へたりける。加様(かやう)に都の敵は日々に減じ、蜀の官軍(くわんぐん)は国々より参りけれ共(ども)、玄宗皇帝(くわうてい)は、楊貴妃の事に思(おもひ)沈(しづ)ませ給ひて、万機(ばんき)の政(まつりごと)にも御心(おんこころ)を不被懸、只(ただ)死しても生(うま)れ合(あふ)べくは、いきて命も何(なに)かせんと、思召(おぼしめす)外は他事もなし。厳武・哥舒翰・回■等(くわいきつら)、角(かく)ては叶(かなふ)まじと思(おもひ)ければ、玄宗皇帝(くわうてい)の第二(だいに)の御子粛宗(しゆくそう)の、鳳翔県(ほうしやうけん)と云(いふ)所に隠(かくれ)てをはしけるを、天子と仰(あふぎ)奉て四海(しかい)に宣旨を下し、諸国の兵を催(もよほし)て、八十万騎(はちじふまんぎ)先(まづ)長安へぞ寄(よせ)たりける。安禄山、崔乾祐(さいけんいう)・子思明(ししめい)を大将にて、是(これ)も八十万騎(はちじふまんぎ)長安に馳(はせ)向ふ。両陣相挑(あひいどんで)未(いまだ)戦(たたかはざる)処に、祖廟(そべう)の神霊百万騎の兵に化(け)し、黄なる旗を差(さし)て、哥舒翰が勢に加(くはは)り、崔乾祐と戦(たたかひ)ける間、安禄山が兵共(つはものども)に破れ立て、一時に皆亡(ほろび)にけり。朝敵(てうてき)忽(たちまち)に被誅て、洛陽則(すなはち)静(しづま)りければ、粛宗位を辞(じ)して、又玄宗を位に即(つけ)奉らん為に、官軍(くわんぐん)皆蜀(しよく)へ御迎(おんむかへ)にぞ参りける。玄宗はかく天下の程なく静(しづま)りぬるに付(つけ)ても、只(ただ)楊貴妃の世にをはせぬ事のみ思召(おぼしめし)て、再(ふたた)び天子の位を践(ふま)せ給はん事も、御本意ならねども、馬嵬(ばくわい)の昔の跡をも御覧ぜばやと、思食す御心(おんこころ)に急がれて、軈(やが)て遷幸の儀則(ぎそく)を促(うなが)されける。馬嵬の道の辺(ほとり)に鳳輦(ほうれん)を留(とめ)られて、是(これ)ぞ去年の秋楊貴妃の武士に被殺て、はかなく成(なり)し跡よとて御覧ずれば、長堤(ちやうてい)の柳の風にしなへるも、枕に懸(かか)りしねみだれ髪の、朝の面影御泪(なみだ)に浮び、池塘(ちたう)の草の露にしほれたるも、落(おち)て地に乱(みだれ)けん玉の鈿(かんざし)、角(かく)やと思食(おぼしめし)知られて、いとゞ御心(おんこころ)を悩まされ、うかれて迷ふ其魄(そのたましひ)の跡までも猶(なほ)なつかしければ、只日暮(くれ)夜明(あく)れ共(ども)、此(ここ)にて思(おもひ)消(きえ)ばやと思食(おぼしめし)けれ共(ども)、翠花(すゐくわ)揺々(えうえう)として東に帰れば、爰(ここ)をさへ亦(また)別(わかれ)ぬる事よと、御涙(おんなみだ)更(さら)に塞(せき)あへず、遥(はるか)に跡を顧(かへりみ)させ給ふに、蜀江(しよくかう)水緑(みどりにして)蜀山青(あをし)、聖主朝々(あさなあさな)暮々(ゆふべゆふべの)情(こころ)譬(たと)へて云はん方もなし。日を経て長安に遷幸成て、楊貴妃の昔の住(すみ)玉(たま)ひし驪山の華清宮(くわせいきゆう)の荒(あれ)たる跡を御覧ずるに、楼台池苑皆依旧。太掖芙蓉未央柳、芙蓉如面柳如眉。君王対此争無涙。春風桃李花開日、秋露梧桐葉落時、西宮南苑多秋草、宮葉満階紅不掃。行宮見月傷心色、夜雨聞鈴断腸声、夕殿蛍飛思消然。孤灯挑尽未成眠、遅々鐘皷初長夜、耿々星河欲曙天。鴛鴦瓦冷霜花重。翡翠衾寒誰与共。物ごとに堪(たへ)ぬ御悲のみ深く成(なり)行(ゆき)ければ、今は四海(しかい)の安危(あんき)をも叡慮に懸(かけ)られず、御位をさへ粛宗皇帝(くわうてい)に奉譲、玄宗はたゞいつとなく御涙(おんなみだ)にしほれて、仙院の故宮(こきゆう)にぞ御座(おはし)ける。爰(ここ)に臨■(りんかう)の道士(だうし)楊通幽(やうつういう)、玄宗の宮(みや)に参て、「臣は神仙の道を得たり。遥(はるか)に君王展転(てんでん)の御思を知れり。楊貴妃のをはする所を尋(たづね)て帰(かへり)参らん。」と申ければ、玄宗無限叡感有て、則(すなはち)高官を授(さづけ)て大禄(たいろく)を与へ給ふ。方士則(すなはち)天に登り地に入て、上は碧落(へきらく)を極め、下は黄泉(くわうせん)の底まで尋(たづね)求(もとむ)るに、楊貴妃更(さら)にをはしまさず。遥(はるか)に飛(とび)去て、天海万里の波涛(はたう)を凌(しの)ぐに、あはい七万里を隔てゝ、蓬莱(ほうらい)・方丈(はうぢやう)・瀛州(えいしう)の三の島あり。一の亀是(これ)を戴(いただ)けり。中に五城峙(そばだち)て、十二の楼閣あり。其(その)宮門に金字(こんじ)の額(がく)あり。立寄て是(これ)を見れば、玉妃太真院(たいしんゐん)とぞ書(かき)たりける。楊貴妃さて此(この)中に御坐(おはし)けりとうれしく思(おもひ)て、門をあらゝらかに敲(たたき)ければ、内より双鬟(さうくわん)の童女出て、「いづくより誰を尋ぬる人ぞ。」と問(とふ)に、方士手を歛(をさめ)て、「是(これ)は漢家の天子の御使(おんつかひ)に、方士と申(まうす)者にて候が、楊貴妃の是(これ)に御坐(ござ)あると承(うけたまはり)て、尋(たづね)参て候。」と答(こたへ)申ければ、双鬟(さうくわん)の童女、「楊貴妃は未(いまだ)をうとのごもりて候。此(この)由を申て帰(かへり)侍らん。」とて、玉の扉(とぼそ)を押(おし)たてゝ内へ入(いり)ぬ。方士門の傍(かたはら)に立て、今や出(いづ)ると是(これ)を待(まつ)に、雲海沈々(ちんちんとして)洞天(とうてん)に日晩(くれ)ぬ。瓊戸(けいこ)重(かさな)り閉(とぢ)て、悄然(せうぜん)として無声。良(やや)有て双鬟(さうくわん)の童女出て、方士を内へいざない入る。方士手を揖(いふ)して、金闕(きんけつ)の玉の廂(ひさし)に跪(ひざまつ)く。時に玉妃夢さめて、枕を推(おし)のけて起き給ふ。雲鬢(うんくわん)刷(つくろ)はずして、羅綺(らき)にだも堪(たへ)ざる体、譬(たとへ)て言(いふ)に比類(ひるゐ)なし。左右(さうの)侍児(おもとひと)七八人(しちはちにん)、皆金蓮(きんれん)を冠(かぶり)にし、鳳■(ほうせき)を著して相随(あひしたが)ふ。五雲飄々(へうへう)として、玉妃玉堂より出給ふ。雲頭艶々(えんえん)として、暁月(げうげつ)の海を出(いづ)るに不異。方士泪(なみだ)を押(おさへ)て、君王展転(てんでん)の御思(おんおもひ)を語るに、玉妃つく/゛\と聞(きき)給ひて、含情凝睇謝君王。一別(して)音容(いんよう)両(ふたつながら)渺茫(べうばうたり)。昭陽殿(せうやうでんの)裡(うち)恩愛絶(たゆ)、蓬莱宮(ほうらいきゆうの)中日月長(ながし)となん恨(うらみ)給ひて、中々御言葉もなければ、玉(たまの)容(かたち)寂寞(せきばくとして)涙(なんだ)欄干(らんかん)たり。只梨花(りくわ)一枝(いつし)春帯雨如し。将(まさに)方士帰去(かへん)なんとするに及て、「玉妃の御信(かたみ)を給(たまはり)候へ。尋(たづね)奉る験(しるし)に献(けん)ぜん。」と申ければ、玉妃手づから玉の鈿(かんざし)を半(なかば)擘(さき)て方士にたぶ。方士鈿(かんざし)を給て、「是(これ)は尋常(よのつね)世にある物也(なり)。何ぞ是(これ)を以て験(しるし)とするに足(た)らんや。願(ねがはく)は玉妃君王に侍(はんべり)し時、人の曾(かつ)て不知事あらば、其(それ)を承(うけたまはり)て験(しるし)とせん。不然は臣忽(たちまち)に新垣平(しんゑんへい)が詐(いつはり)を負(おう)て、身斧鉞(ふゑつ)の罪に当(あたら)ん事を恐る。」と申ければ、玉妃重(かさね)て宣(のたまは)く、「我七月七日長生殿(ちやうせいでんに)夜半(やはんに)無人上(うへ)の傍(そば)に侍りし時、牽牛織女(けんぎうしよくじよ)の絶(たえ)ぬ契(ちぎり)を羨(うらやみ)て、「在天願作比翼鳥、在地願為連理枝。」と誓(ちかひ)き。是(これ)は君王と我とのみ知れり。是(これ)を以て験(しるし)とすべし。」とて泣々(なくなく)玉台を登り給へば、音楽雲に隔(へだた)り、団扇(だんせん)大に隠(かくれ)て、夕陽(せきやう)の影の裏(うち)に漸々(ぜんぜん)として消(きえ)去(さり)ぬ。方士鈿(かんざし)の半(なかば)と言の信(かたみ)とを受(うけ)て宮闕(きゆうけつ)に帰参(きさんし)、具(つぶさ)に此(これ)を奏するに、玄宗思(おもひ)に堪兼(たへかね)て、伏(ふし)沈(しづま)せ給(たまひ)けるが、其(その)年の夏未央宮(びやうきゆう)の前殿にして、遂(つひ)に崩御(ほうぎよ)なりにけり。一念五百(ごひやく)生繋念無量劫(けねんむりやうこふ)といへり。況(いはん)や知(しら)ぬ世までの御契(ちぎり)浅からざりしかば、死此生彼、天上人間禽獣魚虫(きんじうぎよちゆう)に生を替(かへ)て、愛著(あいぢやく)の迷(まよひ)を離れ給はじと、罪深き御契なり。抑天宝の末の世の乱(らん)、只安禄山・楊国忠が天威を仮(かつ)て、功に誇(ほこ)り人を猜(そねみ)し故なり。今関東(くわんとう)の軍、道誓が隠謀(いんぼう)より事起(おこつ)て、傾廃(けいはい)古(いにしへ)に相似たり。天驕(おごり)を悪(にく)み欠盈。譴脱(せめのが)るゝ処なければ、道誓の運命も憑(たの)みがたしとぞ見へたりける。


太平記(国民文庫)
太平記巻第三十八

○彗星客星(すゐせいきやくせいの)事(こと)付(つけたり)湖水(こすゐ)乾(かわく)事(こと) S3801
康安二年二月に、都には彗星・客星(きやくせい)同時に出たりとて、天文博士共(てんもんのはかせども)内裏へ召(めさ)れて吉凶(きつきよう)を占(うらな)ひ申(まうし)けり。「客星は用明天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に、守屋(もりや)仏法を亡(ほろぼ)さんとせし時、始(はじめ)て見へたりけるより、今に至るまで十四箇度(じふしかど)、其(その)内二度(にど)は祥瑞(しやうずゐ)にて、十二度(じふにど)は大凶(たいきやう)也(なり)。彗星は皇極天王(くわうごくてんわう)の御宇に、豊浦(とよらの)大臣の子、蘇我入鹿(そがのいるか)が乱を起して、中臣大兄皇子(おほえのわうじ)並(ならびに)中臣鎌子(なかとみかまこ)と合戦をしたりし時、始(はじめ)て此(この)星出たりしより、今に至(いたる)迄(まで)八十六箇度(はちじふろくかど)、一度(いちど)も未(いまだ)災難ならずと云(いふ)事なし。尤(もつとも)天下の御慎(おんつつしみ)にて候べし。」と、博士一同に勘(かんがへ)申(まうし)ければ、諸臣皆(みな)色を失(うしなひ)て、「さればよ、此乱世(このらんせい)の上には、げにも世界国土が金輪際(こんりんざい)の底へ落入(おちいる)か、不然は異国の蒙古(もうこ)寄来(よせき)て、日本国を打取(うちとる)かにてこそあらめ。さる事有(ある)まじき世共(とも)不覚(おぼえず)。」と、面々に申合(まうしあは)れけり。誠(まこと)に天地人の三災(さんさい)同時に出来(いできたり)ぬと覚(おぼえ)て、去年の七月より日々に二三度(にさんど)の地震も未休(いまだやまず)、又今年の六月より同(おなじき)十一月の始まで旱魃(かんばつ)して、五穀(ごこく)も不登、草木も枯萎(かれしぼみ)しかば、鳥はねぐらを失ひ、魚は泥(どろ)に吻(いきづく)のみならず、人民共の飢死(うゑし)ぬる事、所々に数を不知(しらず)。此(この)時(とき)近江の湖(みづうみ)も三丈六尺(ろくしやく)干(ひ)たりけるに、様々(さまざま)の不思議(ふしぎ)あり。白髭(しらひげ)の明神の前にて、奥(おき)に二人(ににん)して抱許(だくばかり)なる桧木(ひのき)の柱を、あはひ一丈(いちぢやう)八尺(はつしやく)づゝ立双(たてなら)べて、二町(にちやう)余に渡せる橋見へたり。「古人の語り伝(つたへ)たる事もなし、古き記録にも不載。是(これ)は何様(いかさま)竜宮城の道にてぞ有覧(あるらん)。」と云沙汰(いひさた)して、見る人日々に群集(くんじゆ)せり。又竹生島(ちくぶしま)より箕浦(みのうら)まで水の上三里、入譱瑙なる切石を広さ二丈(にぢやう)許(ばかり)に平に畳連(たたみつら)ねて、二河白道(じがはくだう)も角(かく)やと覚(おぼえ)たる道一通(ひととほり)顕(あらはれ)出たり。是(これ)も如何様(いかさま)竜神(りゆうじん)の通路(かよひぢ)にてぞ有(ある)らんとて、蹈(ふん)では渡る人なし。只傍(あたり)の浦に船を浮(うけ)て見る人如市也(なり)。此湖(このみづうみ)七度(しちど)まで桑原(くははら)に変ぜしを我見たりと、白髭明神(しらひげみやうじん)、大宮権現(おほみやごんげん)に向て被仰けると云(いふ)古の物語あれば、左様(さやう)の桑原にやならんずらんと見る人奇(あやし)み思へり。天地(てんち)の変(へん)は既(すで)に如此、人事の変又さこそあらんずらめと思(おもふ)処に、国々より早馬(はやうま)を打て、宮方(みやがた)蜂起(ほうき)したりと、告(つぐ)る事曾(かつ)て休(やむ)時(とき)なし。
○諸国宮方(みやがた)蜂起(ほうきの)事(こと)付(つけたり)越中(ゑつちゆう)軍(いくさの)事(こと) S3802
山陽道(せんやうだう)には同年六月三日に、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏五千(ごせん)余騎(よき)にて、伯耆(はうき)より美作(みまさか)の院庄(ゐんのしやう)へ打越(うちこえ)て国々へ勢(せい)を差分(さしわか)つ。先(まづ)一方へは、時氏(ときうぢの)子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)師義(もろよし)を大将にて、二千(にせん)余騎(よき)、備前・備中両国へ発向(はつかう)す。一勢(いつせい)は備前(びぜんの)仁万堀に陣を取て敵を待(まつ)に、其(その)国(くに)の守護(しゆごの)勢、松田・河村(かはむら)・福林寺(ふくりんじ)・浦上(うらかみ)七郎兵衛行景等(ゆきかげら)、皆(みな)無勢(ぶせい)なれば、出合ては叶はじとや思(おもひ)けん。又讃岐(さぬき)より細河右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)、近日児島(こじま)へ押渡ると聞ゆるをや相待(あひまち)けん。皆(みな)城(じやう)に楯篭(たてこもつ)て未曾戦(いまだかつてたたかはず)。一勢(いつせい)は多治目(たぢめ)備中(びつちゆうの)守(かみ)、楢崎(ならさき)を侍大将にて、千(せん)余騎(よき)備中の新見(にひみ)へ打出たるに、秋庭(あきば)三郎多年拵(こしらへ)すまして、水も兵粮も卓散(たくさん)なる松山の城(じやう)へ、多治目・楢崎を引入(ひきいれ)しかば、当国の守護(しゆご)越後(ゑちごの)守(かみ)師秀可戦様(やう)無(なく)して、備前の徳倉(とくら)の城(じやう)へ引退(ひきしりぞ)く刻(きざみ)、郎従赤木(あかき)父子二人(ににん)落止(おちとどまつ)て、思(おもふ)程戦(たたかひ)て遂(つひ)に討死してけり。依之(これによつて)敵勝(かつ)に乗(のつ)て国中(こくぢゆう)へ乱(みだれ)入て、勢を差向(さしむけ)々々(さしむけ)責(せめ)出すに、一儀(いちぎ)をも可云様(やう)無(なけ)れば、国人(くにびと)一人も順(したが)ひ不付云(いふ)者なし。只陶山(すやま)備前(びぜんの)守(かみ)許(ばかり)を、南海の端(はし)に添(そう)て僅(わづか)なる城を拵(こしらへ)て、将軍方(しやうぐんがた)とては残りける。備後へは、富田(とんだ)判官(はうぐわん)秀貞が子息弾正少弼(だんじやうせうひつ)直貞(なほさだ)八百(はつぴやく)余騎(よき)、出雲より直(すぐ)に国中(こくぢゆう)へ打出たるに、江田・広沢・三吉(みよし)の一族(いちぞく)馳著(はせつき)ける間、無程二千(にせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。富田其(その)勢を合(あはせ)て、宮(みやの)下野入道(しもつけのにふだう)が城を攻(せめ)んとする処に、石見(いはみの)国(くに)より足利左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)直冬、五百騎(ごひやくき)許(ばかり)にて富田に力を合(あはせ)戦(たたかはん)と、備後の宮内(みやのうち)へ被出たりけるが、禅僧を一人、宮(みやの)下野入道(しもつけのにふだう)の許(もと)へ使に立(たて)て被仰けるは、「天下の事時刻(じこく)到来(たうらい)して、諸国の武士大略御方(みかた)に志(こころざし)を通ずる処に、其(その)方(かた)より曾(かつて)承(うけたまは)る旨(むね)なき間に、遮(さへぎつ)て使者を以(もつ)て申(まうす)也(なり)。天下に人多(おほし)といへ共、別(べつ)して憑思(たのみおもひ)奉る志深し。今若(もし)御方(みかた)に参じて忠を被致候はゞ、闕所分(けつしよぶん)已下の事に於(おい)ては毎事(まいじ)所望に可随。」とぞ宣(のたま)ひ遣(つかはさ)れける。宮(みやの)入道(にふだう)道山(だうせん)先(まづ)城(じやう)へ使者の僧を呼(よび)入(いれ)て点心(てんじん)を調(ととのへ)、礼儀を厚(あつく)して対面あれば、使者の僧今はかうと嬉しく思ふ処に、彼(かの)禅門道山、僧に向て申(まうし)けるは、「天下に一人も宮方(みやがた)と云(いふ)人なく成(なり)て、佐殿(すけどの)も無憑方成(なら)せ給ひたらん時、さりとては憑(たのむ)ぞと承(うけたまは)らば、若(もし)憑(たのま)れ進(まゐら)する事もや候はんずらん。今時(いまどき)近国の者共(ものども)多く佐殿に参りて、勢(せい)付(つか)せ給ふ間、当国に陣を召(めさ)れて参れと承(うけたまは)らんに於ては、えこそ参り候まじけれ。悪(にく)し其(その)儀ならば討て進(まゐら)せよとて、御勢(おんせい)を向(むけ)られば、尸(かばね)は縦(たとひ)御陣の前に曝(さら)さる共、魂(たましひ)は猶(なほ)将軍(しやうぐん)の御方に止(とどまつ)て、怨(うらみ)を泉下(せんか)に報(はう)ぜん事を計(はから)ひ候べし。抑(そもそも)加様(かやう)の使などには御内(みうち)外様(とざま)を不云、可然武士をこそ立(たて)らるゝ事にて候に、僧体(そうたい)にて使節に立(たた)せ給ふ条(でう)、難心得(こころえがたく)こそ覚(おぼえ)て候へ。文殊(もんじゆ)の、仏の御使(おんつかひ)にて維摩(ゆゐま)の室(しつ)に入り、玄奘(げんじやう)の大般若(だいはんにや)を渡さんとて流沙(りうさ)の難(なん)を凌(しのぎ)しには様(やう)替(かは)りて、是(これ)は無慚無愧(むざんむぎ)道心の御挙動(おんふるまひ)にて候へば、僧聖(そうひじ)りとは申(まうす)まじ。御頚(おんくび)を軈(やが)て路頭(ろとう)に懸度(かけたく)候へ共、今度許(ばかり)は以別儀ゆるし申(まうす)也(なり)。向後(きやうこう)懸(かか)る使をして生(いき)て帰るべしとな覚(おぼ)しそ。御分(ごぶん)誠(まこと)に僧ならば斯(かか)る不思議(ふしぎ)の事をばよもし給はじ。只(ただ)此(この)城(じやう)の案内見ん為に、夜討の手引しつべき人が、貌(かたち)を禅僧に作(つくり)立(たて)られてぞ、是(これ)へはをはしたるらん。やゝ若党共(わかたうども)、此(この)僧連(つれ)て城の有様能々(よくよく)見せて後、木戸より外(そと)へ追(おひ)出し奉れ。」とて、後(うしろ)の障子を荒らかに引立(ひきたて)て内へ入れば、使者の僧今や失(うしな)はるゝと肝心(きもたましひ)も身にそはで、這々(はふはふ)逃(にげ)てぞ帰りける。「此(この)使帰らば佐殿(すけどの)定(さだめ)て寄せ給はんずらん。先(さきん)ずる時は人を制(せい)するに利ありとて、逆寄(さかよせ)に寄て追散(おひちら)せ。」とて、子息下野次郎氏信に五百(ごひやく)余騎(よき)を差副(さしそへ)、佐殿の陣を取て御坐(おはします)宮内(みやのうち)へ押寄せ、懸立(かけたて)々々(かけたて)責(せめ)けるに、佐殿の大勢共、立(たつ)足もなく打負(うちまけ)て、散々(ちりぢり)に皆成(なり)にければ、富田(とんだ)も是(これ)に力を落(おと)して、己が本国へぞ帰りにける。直冬(ただふゆ)朝臣(あつそん)、宮(みやの)入道(にふだう)と合戦をする事其(その)数を不知(しらず)。然共(しかれども)、直冬一度(いちど)も未(いまだ)打勝給ひたる事なければ、無云甲斐と思ふ者やしたりけん、落書の哥を札(ふだ)に書て、道の岐(ちまた)にぞ立(たて)たりける。直冬はいかなる神の罰(ばつ)にてか宮にはさのみ怖(おぢ)て逃(にぐ)らん侍大将と聞へし森備中(びつちゆうの)守(かみ)も、佐殿より前(さき)に逃(にげ)たりと披露(ひろう)有(あり)ければ、高札(たかふだ)の奥に、楢(なら)の葉のゆるぎの森にいる鷺(さぎ)は深山下風(みやまおろし)に音(ね)をや鳴(なく)らん但馬(たぢまの)国(くに)へは、山名左衛門(さゑもんの)佐(すけ)・舎弟(しやてい)治部(ぢぶの)太輔(たいふ)・小林民部(みんぶの)丞(じよう)を侍大将にて、二千(にせん)余騎(よき)、大山(だいせん)を経(へ)て、播磨へ打越んとて出たりけるが、但馬(たぢまの)国(くにの)守護(しゆご)仁木弾正少弼(につきだんじやうせうひつ)・安良(やすら)十郎左衛門、将軍方(しやうぐんがた)にて楯篭(たてこもり)たる城未(いまだ)落(おち)ざりける間、長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)・安保(あふ)入道信禅(しんぜん)已下の宮方(みやがた)共(ども)、我(わが)国(くに)を閣(さしおい)て、他国へ越(こえ)ん事を不心得(こころえず)。さらば小林が勢許(せいばかり)にても、播磨へ打越んと企(くはたつ)る処に、赤松掃部(かもんの)助(すけ)直頼(なほより)大山(だいせん)に城を構(かまへ)て、但馬の通路(つうろ)を差塞(さしふさ)ぎける程に、小林難所(なんしよ)を被支丹波へぞ打越ける。丹波には当国の守護(しゆご)仁木兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)義尹(よしたか)、兼(かね)て在国(ざいこく)して待(まち)懸(かけ)たる事なれば、軈(やが)て合戦有(あり)ぬとこそ覚(おぼえ)けるに、楚忽(そこつ)に軍(いくさ)しては中々悪(あし)かりぬとや被思けん、和久(わく)の郷(がう)に陣を取て、互(たがひ)に敵の懸(かか)るをぞ相待(あひまち)ける。「丹波は京近き国なれば暫(しばら)くも非可閣、急(いそぎ)大勢を下(くだ)して義尹(よしたか)に力を合(あは)せよ。」とて、若狭の守護(しゆご)尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)入道心勝(しんしよう)・遠江守(とほたふみのかみ)護今河(いまがは)伊予(いよの)守(かみ)・三河(みかはの)守護(しゆご)大島遠江守(とほたふみのかみ)三人(さんにん)に、三箇国(さんかこく)の勢(せい)を相副(あひそへ)て三千(さんぜん)余騎(よき)、京都より差下さる。其(その)勢已(すで)に丹波の篠村(しのむら)に著(つき)しかば、当国の兵共(つはものども)、心を両方に懸(かけ)て、何方(いづかた)へか著(つか)ましと思案しける者共(ものども)、今は将軍方(しやうぐんがた)ぞ強からんずらんと見定(みさだめ)て、我先(われさき)にと馳付(はせつき)ける程に、篠村の勢(せい)は日々に勝(まさり)て無程五千(ごせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。山名が勢(せい)は纔(わづか)に七百(しちひやく)余騎(よき)、国遠(とほく)して兵粮乏(とぼし)く馬・人疲れて城の構(かまへ)密(きび)しからず。角(かく)ては如何(いかが)怺(こらふ)べき、聞落(ききおち)にぞせんずらんと覚(おぼえ)ける処に、小林右京(うきやうの)亮(すけ)伯耆(はうきの)国(くに)を出しより、「今度天下を動(うごか)す程の合戦をせずは、生(いき)て再(ふたた)び本国へ帰らじ。」と申切て出たりしかば、少(すこし)も非可騒、一所にて討死せんと、気を励(はげま)し心を一にする兵共(つはものども)、神水(じんずゐ)を飲(のみ)て已(すで)に篠村を立(たつ)と聞しかば、何(いづ)くにても広みへ懸(かけ)合(あは)せて、組打に討(うた)んと議しける間、篠村の大勢是(これ)を聞て、却(かへつ)て寄(よせ)られやせんずらんと、二日路(ふつかぢ)を隔(へだて)たる敵に恐(おそれ)て一足(ひとあし)も先へは不進、木戸を構(かま)へ逆木(さかもぎ)を引て、用心(ようじん)密(きびし)くては居たりけれ共(ども)、小林兵粮につまりて、又伯耆へ引退(ひきしりぞき)ければ、「御敵(おんてき)をば早(はや)追(おひ)落(おとし)て候。」とて、気色(きしよく)ばうてぞ帰洛(きらく)しける。越中には、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常信濃(しなのの)国(くに)より打越て、旧好(きうかう)の兵共(つはものども)を相語(あひかたら)ふに、当国の守護(しゆご)尾張(をはりの)大夫(たいふ)入道(にふだう)の代官鹿草(かくさ)出羽(ではの)守(かみ)が、国の成敗(せいばい)みだりなるに依て、国人挙(こぞつ)て是(これ)を背(そむき)けるにや、野尻(のじり)・井口(ゐのくち)・長倉・三沢の者共(ものども)、直常に馳(はせ)付(つき)ける程に、其(その)勢千(せん)余騎(よき)に成(なり)にけり。桃井(もものゐ)軈(やが)て勢(いきほ)ひに乗て国中(こくぢゆう)を押すに手にさわる者なければ、加賀(かがの)国(くに)へ発向(はつかう)して富樫(とがし)を責(せめ)んとて打出ける。能登・加賀・越前の兵共(つはものども)是(これ)を聞て、敵に先をせられじと相集て、三千(さんぜん)余騎(よき)越中(ゑつちゆうの)国(くに)へ打越て三箇所(さんかしよ)に陣を取る。桃井(もものゐ)はいつも敵の陣未(いまだ)取(とり)をほせぬ所に、懸(かけ)散(ちらす)を以て利とする者なりければ、逆寄(さかよせ)に押寄(おしよせ)て責(せめ)戦(たたかふ)に、越前の勢一陣先(まづ)破(やぶれ)て、能登・越中(ゑつちゆう)の両陣も不全、十方に散てぞ落行(おちゆき)ける。日暮(くる)れば桃井(もものゐ)本(もと)の陣へ打帰て、物具脱(ぬい)で休(やすみ)けるが、夜半計(ばかり)に些(ちと)可評定事ありとて、此(この)陣より二里許(ばかり)隔(へだて)たる井口(ゐのくち)が城へ、誰にも角(かく)とも不知して只(ただ)一人ぞ行(ゆき)たりける。此(この)時(とき)しも能登・加賀の者共(ものども)三百(さんびやく)余騎(よき)打連(うちつれ)て、降人(かうにん)に出たりける。執事に属(しよく)して、大将の見参に入(いら)んと申(まうす)間、同道して大将の陣へ参じ、事の由(よし)を申さんとするに、大将の陣に人一人もなし。近習(きんじふ)の人に尋ぬれ共(ども)、「何(いづ)くへか御入(おんいり)候(さふらひ)ぬらん。未(いまだ)宵(よひ)より大将は見へさせ給はぬ也(なり)。」とぞ答(こたへ)ける。陣を並べたる外様の兵共(つはものども)是(これ)を聞て、「さては桃井殿被落にけり。」と騒(さわぎ)て、「我(われ)も何(いづ)くへか落行(おちゆか)まし。」と物具を著(きる)もあり捨(すつ)るもあり、馬に乗(のる)もあり、乗(のら)ぬもあり、混(ひた)ひしめきにひしめく間、焼捨(たきすて)たる火陣屋(ぢんや)に燃著(もえつい)て、燎原(れうげん)の焔(ほのほ)盛なり。是(これ)を見て、降人に出たりつる三百(さんびやく)余騎(よき)の者共(ものども)、「さらばいざ落行(おちゆく)敵共(てきども)を打取て、我が高名にせん。」とて、箙(えびら)を敲(たた)き時を作て、追懸(おつかけ)々々(おつかけ)打(うち)けるに、返(かへし)合(あは)せて戦(たたかは)んとする人なければ、此(ここ)に被追立彼(かれ)に被切伏、討(うた)るゝ者二百(にひやく)余人(よにん)生虜(いけどり)百人(ひやくにん)に余れり。桃井(もものゐ)は未(いまだ)井口(ゐのくち)の城(じやう)へも不行著、道にて陣に火の懸(かか)りたるを見て、是(これ)は何様(いかさま)返忠(かへりちゆう)の者有て、敵夜討に寄(よせ)たりけりと心得(こころえ)て、立帰る処に、逃(にぐ)る兵共(つはものども)行合て息をもつきあえず、「只(ただ)引(ひか)せ給へ、今は叶(かなふ)まじきにて候ぞ。」と申合(まうしあひ)ける間不及力、桃井(もものゐ)も共に井口(ゐのくち)の城(じやう)へ逃篭(にげこも)る。昼の合戦に打負(うちまけ)て、御服峯(ごふくのみね)に逃上(にげのぼ)りたる加賀・越前の勢共(せいども)、桃井(もものゐ)が陣の焼(やく)るを見て、何とある事やらんと怪(あやし)く思ふ処に、降人(かうにん)に出て、心ならず高名しつる兵共(つはものども)三百(さんびやく)余騎(よき)、生捕(いけどり)を先に追立(おひたて)させ、鋒(きつさき)に頭(くび)を貫(つらぬい)て馳来り、「如鬼神申(まうし)つる桃井(もものゐ)が勢をこそ、我等(われら)僅(わづか)の三百(さんびやく)余騎(よき)にて夜討に寄(よせ)て、若干(そくばく)の御敵(おんてき)共(ども)を打取て候へ。」とて、仮名実名(けみやうじつみやう)事新しく、こと/゛\しげに名乗(なのり)申せば、大将鹿草(かくさ)出羽(ではの)守(かみ)を始(はじめ)として国々の軍勢(ぐんぜい)に至(いたる)迄(まで)、「哀(あは)れ大剛(たいかう)の者共(ものども)哉(かな)。此(この)人々なくは、争(いかで)か我等(われら)が会稽(くわいけい)の恥をば濯(すす)がまし。」と、感ぜぬ人も無(なか)りけり。後に生捕(いけどり)の敵共(てきども)が委(くはし)く語るを聞てこそ、さては降人に出たる不覚の人共が、倒(たふ)るゝ処に土を掴(つか)む風情(ふぜい)をしたりけるよとて、却(かへつ)て悪(にく)み笑(わらは)れける。
○九州探題(きうしうたんだい)下向(げかうの)事(こと)付(つけたり)李将軍陣中(ぢんちゆうに)禁女事(こと) S3803
筑紫には、小弐(せうに)・大友(おほとも)以下の将軍方(しやうぐんがた)の勢共(せいども)、菊池(きくち)に追(おひ)すへられて、已(すで)に又九州宮方(みやがた)の一統(いつとう)に成(なり)ぬと見へければ、探題を下して、小弐(せうに)・大友(おほとも)に力を合(あは)せでは叶(かなふ)まじとて、尾張(をはりの)大夫(たいふ)入道(にふだう)の子息左京(さきやうの)大夫(たいふ)氏経(うぢつね)を、九州の探題に成(なし)てぞ被下ける。左京(さきやうの)大夫(たいふ)先(まづ)兵庫に下て、四国・中国の勢(せい)を催(もよほ)しけれ共(ども)、付順(つきしたが)ふ勢も無(なか)りければ、さりとては道より非可引返とて、僅に二百四五十騎(にひやくしごじつき)の勢にて、已(すで)に纜(ともづな)を解(とき)けるに、左京(さきやうの)大夫(たいふ)の屋形船(やかたぶね)を始(はじめ)として、士卒の小船共に至(いたる)まで、傾城(けいせい)を十人(じふにん)二十人のせぬ船は無りけり。磯(いそ)に立双(たちならん)で是(これ)を見物しける者共(ものども)の中に、些(ちと)こざかしげなる遁世者(とんせいしや)の有(あり)けるが、傍(かた)への人々に向て申けるは、「筑紫九箇国(くかこく)の大敵を亡(ほろぼ)さんとて、討手の大将を承(うけたまは)る程の人の、是(これ)程物を知らでは、何としてか大功を成(なさ)るべき。夫(それ)大敵に向て陣を張(は)り、戦を決せんとする時、兵気(ひやうき)と云(いふ)事あり。此(この)兵気敵の上に覆(おほう)て立(たつ)時(とき)は、戦必(かならず)勝(かつ)事を得、若(もし)陣中(ぢんちゆう)に女多く交(まじはつ)てある時は、陰気(いんき)陽気を消す故(ゆゑ)に、兵気曾(かつて)不立上。兵気立(たた)ざれば、縦(たとひ)大勢なりといへ共、戦(たたかひに)勝(かつ)事を不得いへり。されば昔覇陵(はりよう)の李将軍と云(いひ)ける大将、敵国に赴(おもむい)て陣を張り旅(たむろ)を調(ととの)へて、単于(ぜんう)と戦を決せんとしけるに、敵僅(わづか)に三万(さんまん)余騎(よき)、御方(みかた)は是(これ)に十倍せり。兵気定(さだめ)て敵の上に覆(おほふ)らんと思(おもひ)て、李将軍先(まづ)高(たかき)山の上に打上(うちあが)り、両方の陣を見るに、御方(みかた)の陣にあがらんとする兵気、陰(いん)の気に押(おさ)れて、立(たた)んとすれ共不立得。李将軍倩(つらつら)是(これ)を案ずるに、何様(いかさま)是(これ)は我方の陣に女交(まじはつ)て、隠れ居たればこそ、加様(かやう)には有(ある)らんと推(すゐ)して陣中(ぢんちゆう)をさがすに、果(はた)して陣中(ぢんちゆう)に女隠れて三千(さんぜん)余人(よにん)交(まじは)り居たり。さればこそ是(この)故(ゆゑ)に兵気は不上けりとて、悉(ことごとく)此(この)女を捕へて、或(あるひ)は水に沈(しづ)め或(あるひ)は追(おひ)失(うしなひ)て、後又高き山に打上て、御方(みかた)の陣を見(みる)に、兵気盛(さかり)に立て敵の上に覆へり。其(その)後兵を進めて闘(たたかひ)を決するに、敵四方(しはう)に逃(にげ)散(ちり)て勝(かつ)事を一時に得しかば、李将軍と云(いは)れて武功天下に聞へたり。智ある大将は加様(かやう)にこそあるに、大敵の国に臨(のぞ)む人の兵をば次にして、先(まづ)女を先立(さきだて)給ふ事不被心得(こころえ)。」と難じ申けるが、果して無幾程高崎の城(じやう)にも不怺、浅猿(あさまし)き体(てい)にて上洛(しやうらく)し給ひしが、面目なくや被思けん、尼崎(あまがさき)にて出家して諸国流浪(るらう)の世捨人(よすてびと)と成(なり)にけり。
○菊池(きくち)大友(おほとも)軍(いくさの)事(こと) S3804
左京(さきやうの)大夫(たいふ)已(すで)に大友(おほとも)が館(たち)に著(つき)ぬと聞へければ、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光、敵に勢(せい)の著(つか)ぬ先(さき)に打散(うちちら)せとて、菊池(きくち)彦次郎(ひこじらう)・城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)・宇都宮(うつのみや)・岩野・鹿子木(かのこぎ)民部(みんぶの)大輔(たいふ)・下田帯刀(しもたたてはき)以下勝(すぐ)れたる兵五千(ごせん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、探題左京(さきやうの)大夫(たいふ)を責(せめ)ん為に、九月二十三日(にじふさんにち)豊後(ぶんごの)国(くに)へ発向す。探題左京(さきやうの)大夫(たいふ)是(これ)を聞(きく)に、「抑(そもそも)我九州静謐(せいひつ)の為に被下たる者が、敵の城(じやう)へ不寄して、却(かへつ)て敵に被寄たりと京都に聞へんずる事、先(まづ)武略の不足に相似たり。されば敵を城にて相待(あひまつ)までもあるまじ。路次(ろし)に馳向て戦へ。」とて、探題の子息松王丸の、未(いまだ)幼稚にて今年十一歳に成(なり)けるを大将にて、大宰小弐(だざいのせうに)・舎弟(しやてい)筑後(ちくごの)二郎・同新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)・宗像(むなかたの)大宮司(だいぐうじ)・松浦(まつらの)一党都合其(その)勢七千(しちせん)余騎(よき)にて、筑前(ちくぜんの)国(くに)長者原(ちやうじやがはら)と云(いふ)所に馳(はせ)向て、路を遮(さへぎつ)てぞ待(まち)懸(かけ)たる。同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)に菊池(きくち)彦二郎(ひこじらう)五千(ごせん)余騎(よき)を二手(ふたて)に作り長者原(ちやうじやがはら)へ押寄て戦(たたかひ)けるに、岩野・鹿子木将監(かのこぎしやうげん)・下田帯刀(しもだたてはき)已下、宗徒(むねと)の勇士(ゆうし)三百(さんびやく)余騎(よき)討(うた)れて、其(その)日(ひ)の大将菊池(きくち)彦次郎(ひこじらう)、三所まで疵を被(かうむ)りければ、宮方(みやがた)の軍勢(ぐんぜい)已(すで)に二十(にじふ)余町(よちやう)引退く。すはや打負(うちまけ)ぬと見へける処に、城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)五百(ごひやく)余騎(よき)、入替て戦(たたかひ)けるに、小弐(せうに)筑後(ちくごの)二郎・同新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)、二人(ににん)共(とも)に一所にて討(うた)れぬ。其(その)外松浦(まつら)・宗像大宮司(だいぐうじ)が一族(いちぞく)・若党(わかたう)四百(しひやく)余人(よにん)討(うた)れにければ、探題・小弐(せうに)・大友(おほとも)二度目(にどめ)の軍に打負(うちまけ)て、皆散々(ちりぢり)に成(なり)にけり。菊池(きくち)已(すで)に手合の軍に打勝(うちかち)しかば、探題の勇威(ゆうゐ)も恐(おそる)るに不足と蔑(あなどつ)て、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光悪手(あらて)の兵三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、舎弟(しやてい)彦次郎(ひこじらう)が勢に馳加て、豊後(ぶんご)の府(ふない)へ発向す。是(これ)までも猶(なほ)探題・小弐(せうに)・大友(おほとも)・松浦(まつら)・宗像(むなかた)が勢(せい)は七千(しちせん)余騎(よき)有(あり)けるが、菊池(きくち)に気を呑(のま)れて、懸合の合戦叶(かなふ)まじとや思(おもひ)けん、探題と大友(おほとも)とは、豊後(ぶんご)の高崎(たかざきの)城(じやう)に引篭(ひきこも)り、大宰(だざいの)小弐(せうに)は、岡(をか)の城(じやう)に楯篭(たてこも)り、大宮司(だいぐうじ)は棟堅(むなかた)の城(じやう)に篭て、嶮岨(けんそ)を命に憑(たのみ)ければ、菊池(きくち)は豊後(ぶんご)の府(ふない)に陣を取り、三方(さんぱう)の敵を物共せず、三の城(じやう)の中を押隔(おしへだ)て、今年は已(すで)に三年まで、遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。抑(そもそも)小弐(せうに)・大友(おほとも)は大勢にて城に篭(こも)り、菊池(きくち)は小勢にて是(これ)を囲む。菊池(きくち)が城必(かならず)しも皆剛なるべからず、小弐(せうに)・大友(おほとも)が勢必(かならず)しも皆臆病なるべきに非(あら)ず。只士卒の剛臆(がうおく)は大将の心による故(ゆゑ)に、九国は加様(かやう)に成(なり)にける也(なり)。
○畠山兄弟修禅寺(しゆぜんじの)城(じやうに)楯篭(たてこもる)事(こと)付(つけたり)遊佐(ゆさ)入道(にふだうの)事(こと) S3805
筑後(ちくご)には宮方(みやがた)蜂起すといへ共、東国は無程静(しづま)りぬ。去年より畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)・舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)義深、伊豆の修禅寺(しゆぜんじ)に楯篭(たてこもつ)て東(とう)八箇国(はちかこく)の勢と戦(たたかひ)けるが、兵粮(ひやうらう)尽(つき)て落方(おちかた)も無りければ、皆城中(じやうちゆう)にて討死せんとす。左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)より使者を以て、先非(せんぴ)を悔(くい)て子孫を思はゞ、首を延(のべ)て可降参由被仰けるを、誠ぞと信じて道誓は禅僧になり、舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)は、伊豆(いづの)国(くに)の守護職(しゆごしよく)還補(くわんぷ)の御教書(みげうしよ)を給て、九月十日降参したりけるが、道誓は伊豆の府(こふ)に居て、先(まづ)舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)を、鎌倉(かまくら)左馬(さまの)頭(かみ)の御坐(おは)する箱根(はこね)の陣へぞ参らせける。旧好(きうかう)ある人、万死を出て二度(ふたた)び見参に入(いる)事の嬉しさよなど云て一献を勧(すす)め、此(この)程無情あたりつる傍輩(はうばい)は、いつしか媚(こび)を諛(へつらう)て、言(ことば)を卑(いや)しくし礼を厚(あつく)して、頻(しきり)に追従をしける間、門前に鞍置馬(くらおきうま)の立止(たちやむ)隙(ひま)もなく、座上に酒肴(さけさかな)を置連(おきつら)ねぬ時も無りけり。角(かく)て三四日経て後、九月十八日の夜、稲生(いなふ)平次潜(ひそか)に来て道誓に囁(ささや)きけるは、「降参御免(ごめん)の事は、元来被出抜事に候へば、明日討手を可被向にて候なる。げにも聞(きく)に合(あは)せて、豊島(としま)因幡(いなばの)守(かみ)俄(にはか)に陣を取易(とりかへ)て、道を差塞(さしふさ)ぐ体(てい)に見へて候。今夜急(いそぎ)何(いづ)くへも落(おち)させ給(たまふ)べし。」とぞ告(つげ)たりける。道誓聞(きき)も不敢、舎弟(しやてい)式部(しきぶの)大輔(たいふ)に屹(きつ)と目加(めくは)せしけるが、仮初(かりそめ)に出る由にて、中間一人に太刀持(もた)せ、兄弟二人(ににん)徒(かち)にて、其(その)夜先(まづ)藤沢の道場までぞ落(おち)たりける。上人甲斐々々敷(かひがひしく)馬二疋、時衆(じしゆう)二人(ににん)相副(あひそへ)て、夜昼の堺(さかひ)もなく、馬に鞭を進めて上洛(しやうらく)しけるをば、知(しる)人更(さら)にも無(なか)りけり。舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)義深は、箱根(はこね)の御陣に有(あり)けるが、翌(つぎ)の夜或(ある)時(とき)衆の斯(かか)る事と告(つげ)けるに驚て、さては我(われ)も何(いづ)くへか落(おち)なましと案ずれ共(ども)、東西南北皆道塞(ふさが)りて可落方(かた)も無(なか)りければ、結城(ゆふき)中務(なかつかさの)大輔(たいふ)が陣屋に来て、平(ひら)に可憑由をぞ宣ひける。是(これ)を隠さんずる事は、至極(しごく)の難義なれ共(ども)、弓矢取(とる)身の習(ならひ)、人に被憑て叶はじと云(いふ)事や可有と思(おもひ)ければ、長唐櫃(からひつ)の底に穴をあけて気を出し、其(その)櫃の中に臥(ふ)させて、数十合舁連(かきつら)ねたる鎧唐櫃(よろひからひつ)の跡にたて、態(わざ)と鎌倉殿(かまくらどの)の御馬(おんむま)廻(まはり)に供奉(ぐぶ)して、尾張(をはりの)守(かみ)をべ夜に紛(まぎれ)て、藤沢の道場へぞ送りける。命程可惜者はなかりけり。此(この)人遂(つひ)には御免(ごめん)有て、越前の守護(しゆご)に被補、国の成敗穏(おだや)かにて土民を安(やすん)ぜしかば、鰐(わに)の淵(ふち)を去り、蝗(くわう)の境(さかひ)を出る許(ばかり)也(なり)。遊佐(ゆさ)入道性阿(せいあ)は、主の被落妝(よそほひ)を軈(やが)て知たりけれ共(ども)、暫(しばら)く人にあひしらひて、主を何(いづ)くへも落延(おちのび)させん為に少(すこし)も騒(さわぎ)たる気色を不見、碁(ご)・双六(すごろく)・十服茶など呑(のみ)て、さりげなき体にて笑戯(わらひたはぶれ)て居たりければ、郎従共も外様(とざま)の人も、可思寄様無(なか)りけれ共(ども)、遂(つひ)に隠るべき事ならねば、畠山兄弟落(おち)たりと沙汰する程こそ有(あり)けれ。軈(やが)て討手を被向と聞へければ、遊佐入道は禅僧の衣を著て、只(ただ)一人京を志(こころざし)てぞ落(おち)行(ゆき)ける。兔角(とかく)して湯本(ゆのもと)まで落(おち)たりけるが、行合(ゆきあふ)人に口脇(くちわき)なる疵(きず)を隠さん為に、袖にて口覆(くちおほひ)して過(すぎ)けるを見る人中々あやしめて、帽子(ぼうし)を脱(ぬが)せ袖を引のけゝる間、口脇の疵無隠顕(あらは)れて可遁様無(なか)りければ、宿屋の中門に走上(わしりあがり)て、自(みづから)喉(のど)ぶへ掻放(かきはな)ち返す刀に腹切て、袈裟(けさ)引被(ひきかづ)きて死(しに)にけり。江戸修理(しゆりの)亮(すけ)は竜口(たつのくち)にて生捕(いけどら)れて斬(きら)れぬ。其(その)外此(ここ)に隠れ、彼(かしこ)に落行(おちゆき)ける郎従共六十(ろくじふ)余人(よにん)、或(あるひ)は被捜出て切(きら)れ、或(あるひ)は被追懸腹を切る。目も当(あて)られぬ有様也(なり)。畠山(はたけやま)入道(にふだう)兄弟、無甲斐命助(たすか)りて、七条の道場へ夜半許(ばかり)に落著(おちつき)たりけるを、聖二三日労(いたは)り奉て、道の案内者(あんないしや)少々相副(あひそへ)て、行路の資(たすけ)など様々に用意(ようい)して南方へぞ被送ける。道誓暫(しばら)く宇知郡(うちのこほり)の在家に立寄て、「楠が方へ降参の綸旨(りんし)を申(まうし)てたび候へ。」と、宣ひ遣(つかは)されたりけれども、楠さしも許容の分無(なか)りければ、宇知(うちの)郡(こほり)にも不隠得都へ可立帰方もなし、南都山城脇辺(やましろわきへん)に、とある禅院律院、或(あるひ)は山賎(やまがつ)の柴(しば)の庵(いほ)、賎士(しづ)がふせ屋のさびしきに、袂(たもと)の露を片敷(かたしき)て、夜を重(かさ)ぬべき宿もなく、道路に袖をひろげぬ許(ばかり)にて、朝三暮四(てうさんぼし)の資(たすけ)に心有(ある)人もがなと、身を苦しめたる有様、聞(きく)に耳冷(すさまじ)く、見(みる)に目も充(あて)られず。幾程もなく、兄弟共に無墓成(なり)けるこそ哀なれ。人間の栄耀(えいえう)は風前(まへの)塵(ちり)と白居易(はくきよい)が作り、富貴(ふつきは)草頭(さうとうの)露と杜甫(とほ)が作りしも理(ことわ)り哉(かな)。此(この)人々去々年の春は、三十万騎(さんじふまんぎ)が大将として、南方へ発向したりしかば、徳風遠く扇(あふい)で、靡(なび)かぬ草木も無(なか)りしに、いつしか三年を不過、乍(たちまち)生恥(いきはぢ)を曝(さら)して、敵陣の堺(さかひ)に吟(さまよ)ひぬる事、更に直事(ただこと)とは不覚(おぼえず)。此(この)人に被出抜討(うた)れし新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)怨霊(をんりやう)と成て、吉野の御廟(ごべう)へ参(まゐり)たりけるが、「畠山をば義興が手に懸(かけ)て、乍生軍門に恥を曝(さら)さすべし。」と奏し申ける由(よし)、先立(さきだち)て人の夢に見て、天下に披露(ひろう)有(あり)しも訛(あやまり)にては無りけりと、今こそ思(おもひ)知(しら)れたり。
○細川相摸守(さがみのかみ)討死(うちじにの)事(こと)付(つけたり)西長尾(にしながを)軍(いくさの)事(こと) S3806
讃岐には細川相摸守(さがみのかみ)清氏と細川右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)と、数月(すげつ)戦(たたかひ)けるが、清氏遂(つひ)に討(うた)れて、四国無事故閑(しづま)りにけり。其(その)軍の様を伝(つたへ)聞(きく)に、相摸守(さがみのかみ)四国を打平(うちたひら)げて、今一度(いちど)都を傾(かたぶけ)て、将軍を亡(ほろぼ)し奉らんと企(くはた)て、堺(さかひ)の浦より船に乗て讃岐へ渡ると聞へしかば、相摸(さがみの)守(かみ)がいとこの兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)淡路(あはぢの)国(くに)の勢を卒(そつ)して、三百(さんびやく)余騎(よき)にて馳著(はせつく)。其(その)弟掃部(かもんの)助(すけ)、讃岐(さぬきの)国(くに)の勢を相催(あひもよほし)て五百(ごひやく)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る。小笠原宮内(くないの)大輔(たいふ)、阿波(あはの)国(くに)の勢を卒(そつ)して、三百(さんびやく)余騎(よき)にて馳著(はせつき)ける間、清氏の勢(せい)は無程五千(ごせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。其比(そのころ)右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)は、山陽道(せんやうだう)の蜂起(ほうき)を静(しづめ)んとて、備中(びつちゆうの)国(くに)に居たりけるが、此(この)事を聞て、備中・備前両国の勢千(せん)余騎(よき)を卒(そつ)し、讃岐(さぬきの)国(くに)へ押渡る。此(この)時(とき)若(もし)相摸守(さがみのかみ)敵の船よりあがらんずる処へ、馳向て戦はゞ、一戦(いつせん)も利あるまじかりしを、右馬(うまの)頭(かみ)飽(あく)まで心に智謀(ちぼう)有て、機変(きへん)時(とき)と共に消息(せうそく)する人也(なり)ければ、兼(かね)て母儀(ぼぎ)の禅尼を以て、相摸守(さがみのかみ)の許(もと)へ言遣(いひやり)けるは、「将軍群少の讒佞(ざんねい)を不被正、貴方(きはう)無科刑罰に向はせ給ひし時、陳謝(ちんじや)に言(ことば)無(なく)して寇讐(こうしう)に恨(うらみ)有(あり)し事、頼之尤(もつとも)其(その)理に服し候き。乍去、故左大臣殿(さだいじんどの)も、仁木(につき)・細川の両家(りやうけ)を股肱(ここう)として、大樹(たいじゆ)累葉(るゐえふ)の九功を光栄すべしとこそ被仰置候(さふらひ)しに、一家(いつけ)の好(よしみ)を放(はなれ)て敵に降り、多年の忠を捨(すてて)、戦(たたかひ)を被致候はん事、亡魂の恨(うらみ)苔(こけ)の下まで深く、不義の譏(そし)り世の末までも不可朽。頼之苟(いやしく)も此(この)理を存ずる故(ゆゑ)に、全(まつた)く貴方(きはう)と合戦を可致志を不廻。往者(いんじを)不尤と申(まうす)事候へば、御憤(おんいきどほり)今は是(これ)までにてこそ候へ。枉(まげ)て御方(みかた)へ御参(おんまゐり)候へ。御分国已下、悉(ことごとく)日来(ひごろ)に不替可申沙汰にて候。若(もし)又其(そ)れも御意に叶はで、御本意を天下の反覆(はんぶく)に達せんと被思召候はゞ、頼之無力四国を捨(すて)て備中へ可罷返候。」言(ことば)を和(やはら)げ礼を厚(あつく)して、頻(しきり)に和睦(わぼく)の儀を請(こは)れけるを、相摸守(さがみのかみ)心浅(あさく)信じて、問答に日数を経(へ)ける間に右馬(うまの)頭(かみ)中国の勢を待調(まちととの)へ城郭(じやうくわく)を堅く拵(こしらへ)て、其(その)後は音信(おとづれ)も無(なか)りけり。相摸守(さがみのかみ)の陣は白峯(しらみね)の麓、右馬(うまの)頭(かみ)の城(じやう)は歌津(うたつ)なれば、其(その)あはひ僅(わづか)に二里也(なり)。寄(よせ)やする待(まち)てや戦ふと、互に時を伺(うかがう)て数日(すじつ)を送りける程に、右馬(うまの)頭(かみ)の勢、太略(たいりやく)遠国の者共(ものども)なれば、兵粮につまりて窮困(きゆうこん)す。角(かく)ては右馬(うまの)頭(かみ)は讃岐(さぬきの)国(くに)には怺(こらへ)じと見へける程に、結句備前の飽浦(あくら)薩摩(さつまの)権(ごんの)守(かみ)信胤(のぶたね)宮方(みやがた)に成て、海上に押浮(おしうかめ)、小笠原美濃(みのの)守(かみ)、相摸守(さがみのかみ)に同心して、渡海(とかい)の路を差塞(さしふさぎ)ける間、右馬(うまの)頭(かみ)の兵は日々に減じて落(おち)行き、相摸守(さがみのかみ)の勢(せい)は国々に聞へて夥(おびたた)し。只(ただ)魏(ぎ)の将司馬仲達(しばちゆうたつ)が、蜀の討手に向て、戦はで勝(かつ)事を得たりけん、其謀(そのはかりこと)に相似たり。七月二十三日(にじふさんにち)の朝、右馬(うまの)頭(かみ)帷帳(ゐちやう)の中より出て、新開(しんがい)遠江守(とほたふみのかみ)真行(さねゆき)を近付(ちかづけ)て宣ひけるは、「当国両陣の体(てい)を見るに、敵軍は日々にまさり、御方(みかた)は漸々(ぜんぜん)に減ず。角(かく)て猶(なほ)数日(すじつ)を送らば、合戦難儀に及(および)ぬと覚(おぼゆ)る。依之(これによつて)事をはかるに宮方(みやがた)の大将に、中院(なかのゐんの)源少将と云(いふ)人、西長尾(にしながを)と云(いふ)所に城を構(かまへ)てをはすなる。此(この)勢を差向(さしむけ)て可攻勢(いきほひ)を見せば、相摸守(さがみのかみ)定(さだめ)て勢を差分(さしわけ)て城へ入(いる)べし。其(その)時(とき)御方の勢(せい)城(じやう)を攻(せめ)んずる体(てい)にて、向城(むかひじやう)を取て、夜に入らば篝(かがり)を多く焼捨(たきすて)てこと道より馳(はせ)帰り、軈(やが)て相摸守(さがみのかみ)が城へ押寄せ、頼之搦手(からめて)に廻(まは)りて先(まづ)小勢を出し、敵を欺(あざむ)く程ならば、相摸守(さがみのかみ)縦(たとひ)一騎(いつき)なり共懸(かけ)出て、不戦云(いふ)事有(ある)べからず。是(これ)一挙(いつきよ)に大敵を亡(ほろぼ)す謀(はかりこと)なるべし。」とて、新開(しんがい)遠江守(とほたふみのかみ)に、四国・中国の兵五百(ごひやく)余騎(よき)を相副(あひそへ)、路次(ろし)の在家に火を懸(かけ)て、西長尾へ向(むけ)られける。如案相摸守(さがみのかみ)是(これ)を見て、敵は西長尾の城(じやう)を攻(せめ)落(おと)して、後(うしろ)へ廻(まは)らんと巧(たくみ)けるぞ。中(なかの)院(ゐん)殿(どの)に合力せでは叶(かなふ)まじとて、舎弟(しやてい)左馬(さまの)助(すけ)、いとこの掃部(かもんの)助(すけ)を両大将として、千(せん)余騎(よき)の勢を西長尾の城(じやう)へ差向(さしむけ)らる。新開元来(もとより)城(じやう)を攻(せめ)んずる為ならねば、態(わざ)と日を暮(くら)さんと、足軽少々差向(さしむけ)て、城の麓なる在家所々焼払(やきはらひ)て、向陣(むかひぢん)をぞ取たりける。城は尚(なほ)大勢なれば、哀(あは)れ新開が寄(よせ)て責(せめ)よかし。手負少々射出して後、一度(いちど)にばつと懸(かけ)出て、一人も不残討(うち)留(とどめ)んとぞ勇(いさみ)ける。夜已(すで)に深ければ、新開向陣(むかひぢん)に篝(かがり)を多く焼(たき)残して、山を超(こえ)る直道(すぐみち)の有(あり)けるより引返して、相摸守(さがみのかみ)の城(じやう)の前白峯(しらみね)の麓へ押寄(おしよす)る。兼(かね)て定めたる相図なれば、同(おなじき)二十四日の辰(たつの)刻(こく)に、細川右馬(うまの)頭(かみ)五百(ごひやく)余騎(よき)にて搦手(からめて)へ廻(まは)り、二手(ふたて)に分れて時の声をぞ挙(あげ)たりける。此(この)城(じやう)元来(もとより)鳥も難翔程に拵(こしらへ)たれば、寄手(よせて)縦(たとひ)如何(いか)なる大勢なり共、十日二十日が中には、容易(たやすく)可攻落城ならず。其(その)上(うへ)新開(しんかい)、西長尾より引帰(ひつかへし)ぬと見へば、左馬(さまの)助(すけ)・掃部(かもんの)助(すけ)軈(やが)て馳(はせ)帰て、寄手(よせて)を追掃(おひはら)はん事、却(かへつ)て城方(しろがた)の利に成(なる)べかりけるを、相摸守(さがみのかみ)はいつも己(おのれ)が武勇(ぶよう)の人に超(こえ)たるを憑(たのみ)て、軍立(いくさだて)余(あま)りに大早(おほはやり)なる人なりければ、寄手(よせて)の旗の手を見ると均(ひとし)く、二の木戸(きど)を開かせ、小具足をだにも堅めず、袷(あはせ)の小袖引(ひき)せたをりて、鎧許(ばかり)を取て肩に抛懸(なげかけ)て、馬上にて上帯(うはおび)縮(しめ)て、只(ただ)一騎(いつき)懸(かけ)出(いで)給へば、相順(あひしたが)ふ兵三十(さんじふ)余騎(よき)も、或(あるひ)はほうあてをして未(いまだ)胄(かぶと)をも不著、或(あるひ)は篭手(こて)を差して未(いまだ)鎧を不著、真前(まつさき)に裹連(つつみつれ)たる敵千(せん)余騎(よき)が中へ破(わつ)て入る。哀れ剛の者やとは乍見、片皮破(かたかはやぶり)の猪武者(ゐのししむしや)、をこがましくぞ見へたりける。げにも相摸守(さがみのかみ)敵を物とも思はざりけるも理(ことは)り哉(かな)。寄手(よせて)千(せん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、相摸守(さがみのかみ)一騎(いつき)に懸分(かけわけ)られて、魚鱗(ぎよりん)にも不進鶴翼(くわくよく)にも不囲得、此(こ)の塚(つか)の上彼(かしこ)の岡に打上りて、馬人共に辟易(へきえき)せり。相摸守(さがみのかみ)は鞍の前輪(まへわ)に引付て、ねぢ頚(くび)にせられける野木(やぎ)備前(びぜんの)次郎・柿原(かきはら)孫四郎(まごしらう)二人(ににん)が首を、太刀の鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て差(さし)挙げ、「唐土(たうど)・天竺・鬼海(きかい)・太元(たいげん)の事は国遠ければ未知(いまだしらず)、吾朝(わがてう)秋津島の中に生れて、清氏に勝(まさ)る手柄の者有(あり)とは、誰もやはいふ。敵も他人に非(あら)ず、蓬(きたな)く軍(いくさ)して笑はるな。」と恥(はぢ)しめて、只(ただ)一騎(いつき)猶(なほ)大勢の中へ懸(かけ)入(いり)給(たまふ)。飽(あく)まで馬強(つよ)なる打物(うちもの)の達者が、逃(にぐ)る敵を追立(おひたて)々々(おひたて)切て落せば、其鋒(そのきつさき)に廻(まは)る者、或(あるひ)は馬と共に尻居(しりゐ)に打居(うちすゑ)られ、或(あるひ)は甲(かぶと)の鉢を胸板(むないた)まで被破付、深泥(しんでい)死骸に地を易(かへ)たり。爰(ここ)に備中(びつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)真壁(まかべ)孫四郎(まごしらう)と備前(びぜんの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)伊賀掃部(いがかもんの)助(すけ)と、二騎田の中なる細道をしづ/\と引(ひき)けるを、相摸守(さがみのかみ)追付て切(きら)んと、諸鐙(もろあぶみ)を合(あは)せて責(せめ)られける処に、陶山が中間そばなる溝(みぞ)にをり立て、相摸守(さがみのかみ)の乗(のり)給へる鬼鹿毛(おにかげ)と云(いふ)馬の、草脇(くさわき)をぞ突(つい)たりける。此(この)馬さしもの駿足(しゆんそく)なりけれ共(ども)、時の運にや曵(ひか)れけん一足(ひとあし)も更に動かず、すくみて地にぞ立たりける。相摸守(さがみのかみ)は近付て、敵の馬を奪はんと、手負(ておう)たる体(てい)にて馬手(めて)に下(お)り立ち、太刀を倒(さかさま)に突(つい)て立(たた)れたりけるを、真壁(まかべ)又馳(はせ)寄せ、一太刀(ひとたち)打ち当倒(あてたふさ)んとする処に、相摸守(さがみのかみ)走(はしり)寄て、真壁(まかべ)を馬より引(ひき)落(おと)し、ねぢ頚(くび)にやする、人竜礫(ひとつぶて)にや打つと思案したる様にて、中(ちう)に差(さし)上(あげ)てぞ立(たた)れたる。伊賀掃部(かもんの)助(すけ)高光は懸合(かけあは)する敵二騎切て落(おと)し、鎧に余る血を笠符(かさじるし)にて押拭(おしのご)ひ、「何(いづ)くにか相摸殿(さがみどの)のをはすらん。」と東西に目を賦(くば)る処、真壁孫四郎(まごしらう)を中(ちう)に乍提、其(その)馬に乗(のら)んとする敵あり。「穴(あな)夥(おびたた)し。凡夫(ぼんぶ)とは不見、是(これ)は如何様(いかさま)相摸殿(さがみどの)にてぞをはすらん。是(これ)こそ願ふ処の幸よ。」と思(おもひ)ければ、伊賀掃部(かもんの)助(すけ)畠を直違(すぢかひ)に馬を真闇(まつくろ)に馳(はせ)懸(かけ)て、むずと組(くん)で引かづく。相摸守(さがみのかみ)真壁をば、右の手にかい掴(つかん)で投(なげ)棄(すて)、掃部(かもんの)助(すけ)を射向(いむけ)の袖の下に押へて頭(くび)を掻(かか)んと、上帯(うはおび)延(のび)て後(うしろ)に回(まは)れる腰の刀を引回(ひきまは)されける処に、掃部(かもんの)助(すけ)心早き者なりければ、組(くむ)と均(ひとし)く抜(ぬい)たりける刀にて相摸守(さがみのかみ)の鎧の草摺(くさずり)はねあげ、上様(あげさま)に三刀(みかたな)さす。刺(ささ)れて弱れば刎返(はねかへ)して、押へて頚をぞ取たりける。さしもの猛将(まうしやう)勇士(ゆうし)なりしか共、運尽(つき)て討(うた)るゝを知(しる)人更(さら)に無(なか)りしかば、続(つづい)て助(たすく)る兵もなし。森次郎左衛門(じらうざゑもん)と鈴木孫七郎行長と、討死をしける外は、一所にて打死する御方(みかた)もなし。其(その)身は深田の泥の土にまみれて、頚(くび)は敵の鋒(きつさき)にあり。只(ただ)元暦(げんりやく)の古、木曾(きそ)義仲(よしなか)が粟津(あはづ)の原に打(うた)れ、暦応二年の秋の初(はじめ)、新田左中将(さちゆうじやう)義貞の足羽(あすは)の縄手(なはて)にて討(うた)れたりし二人(ににん)の体(てい)に不異。西長尾の城(じやう)に向(むけ)られたりつる左馬(さまの)助(すけ)、二十四日の夜明(あけ)て後、新開(しんかい)が引帰したるを見て、「是(これ)は如何様(いかさま)相摸殿(さがみどの)御陣の勢を外へ分(わけ)させて、差(さし)違ふて城へ寄(よせ)んと忻(たばかり)けるを。軍(いくさ)今は定(さだめ)て始(はじま)りぬらん。馳返て戦へ。」とて、諸鐙(もろあぶみ)に策(むち)をそへて、千里を一足(ひとあし)にと馳(はせ)返り給へば、新開道に待(まち)受(うけ)て、難所に引懸(ひきかけ)て平野(ひらの)に開(ひらき)合(あは)せ、入替(いれかへ)々々(いれかへ)戦たり。互(たがひ)に討(うち)つ討(うた)れつ、東西に地を易(か)へ、南北に逢(あう)つ別(わかれ)つ、二時許(ばかり)戦て、新開遂(つひ)に懸(かけ)負(まけ)ければ、左馬(さまの)助(すけ)・掃部(かもんの)助(すけ)兄弟、勝時(かちどき)三声(みこゑ)揚(あげ)させて、気色ばうたる体(てい)にて、白峯(みねの)城(じやう)へ帰(かへり)給ふ。斯(かか)る処に笠符(かさじるし)かなぐり捨て、袖・甲(かぶと)に矢少々射付(いつけ)られたる落武者共(おちむしやども)、二三十騎(にさんじつき)道に行合たり。迹(あと)に追著(おひつき)て、「軍の様何(なに)と有(あり)けるぞ。」と問(とひ)給へば、皆泣声にて、「早(はや)相摸殿(さがみどの)は討(うた)れさせ給(たまひ)て候也(なり)。」とぞ答へける。「こは如何(いかに)。」とて、城を遥(はるか)に向上(みあげ)たれば、敵早(はや)入替(いりかはり)ぬと覚(おぼえ)て、不見し旗の紋共関櫓(きどやぐら)の上に幽揚(いうやう)す。重(かさね)て戦(たたかは)んとするに無力、楯篭(たてこも)らんとするに城なければ、左馬(さまの)助(すけ)・掃部(かもんの)助(すけ)、落行(おちゆく)勢を引具して、淡路国へぞ被落ける。其(その)国(くに)に志有し兵共(つはものども)、此(この)事を聞て、何(いつ)しか皆(みな)心替(こころがはり)しければ、淡路にも尚(なほ)たまり得ず、小船一艘(いつさう)に取乗て、和泉(いづみの)国(くに)へぞ落(おち)られける。是(これ)のみならず、西長尾(にしながをの)城(じやう)も被攻ぬ前(さき)に落(おち)しかば、四国は時の間(ま)に静(しづま)りて、細川右馬(うまの)頭(かみ)にぞ靡順(なびきしたが)ひける。
○和田楠与箕浦次郎左衛門(じらうざゑもん)軍(いくさの)事(こと) S3807
南方の敵軍和田・楠も、相摸守(さがみのかみ)に兼(かね)て相図を定(さだめ)て、同時に合戦を始(はじめ)んと議したりけるが、七月二十四日相摸守(さがみのかみ)討(うた)れて、四国・中国は太略細川右馬(うまの)頭(かみ)頼之に靡順(なびきしたがひ)ぬと聞へければ、日来(ひごろ)の支度(したく)相違して、気を損じ色を失てぞ居たりける。さもあれ、加様(かやう)にて徒(いたづら)に日を送らば、敵は弥(いよいよ)勝(かつ)に乗て、諸国の御方(みかた)降人(かうにん)になる者ありぬと覚(おぼゆ)れば、一軍(ひといくさ)して国々の宮方(みやがた)に気を直させんとて、和田・楠其(その)勢八百(はつぴやく)余騎(よき)を卒(そつ)し、野伏(のぶし)六千(ろくせん)余人(よにん)神崎(かんざき)の橋爪(はしづめ)へ打臨(うちのぞ)む。此比(このころ)摂津国(つのくに)の守護(しゆご)をば、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)が持(もち)たりければ、其(その)身は京都に有乍(ありなが)ら、箕浦(みのうら)次郎左衛門(じらうざゑもん)に勢百四五十騎(ひやくしごじつき)付(つけ)て、国の守護代(しゆごだい)にぞ置たりける。催促(さいそく)の国人(くにうど)取合(とりあはせ)て、其(その)勢僅(わづか)に五百(ごひやく)余騎(よき)、神崎(かんざき)の橋二三間(にさんげん)焼(やき)落(おとし)て、敵川を渡さば河中にて皆射落さんと、鏃(やじり)を汰(そろへ)て待(まち)懸(かけ)たり。和田・楠態(わざと)敵を忻(たばから)ん為に、神崎(かんざき)の橋爪(はしづめ)と株瀬(くひぜ)と二箇所(にかしよ)に打向て引(ひか)へたれば、此(ここ)を渡させじと、箕浦(みのうら)弥次郎(やじらう)・同四郎左衛門(しらうざゑもん)・塩冶(えんや)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・多賀将監(たがのしやうげん)・後藤木村兵庫(ひやうごの)允(じよう)泰則(やすのり)以下五十(ごじふ)余騎(よき)は株瀬(くひぜ)へ馳(はせ)向ふ。守護代(しゆごだい)箕浦(みのうら)次郎左衛門(じらうざゑもん)・伊丹(いたみ)大和(やまとの)守(かみ)・河原林(かはらばやし)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)・芥河(あくたがは)右馬(うまの)允(じよう)・中白(なかじろ)一揆(いつき)三百(さんびやく)余騎(よき)は神崎(かんざきの)橋爪へ打臨(うちのぞ)む。橋桁(はしけた)は元来(もとより)焼落(おと)したり、株瀬は水深し。和田・楠が兵共(つはものども)、縦(たとひ)弥長(やたけ)に思ふ共、可渡とは見へざりけり。八月十六日(じふろくにち)の夜半許(ばかり)に、和田・楠、元の陣に尚(なほ)控(ひか)へたる体(てい)を見せん為に、殊更(ことさら)篝(かがり)を多く焼続(たきつづ)けさせて、是(これ)より二十(にじふ)余町(よちやう)上なる三国(みくに)の渡より打渡(うちわたし)て、小屋野(こやの)・富松(とまつ)・河原林(かはらばやし)へ勢(せい)を差回(さしまは)して、敵を河へ追(おひ)はめんと取篭(とりこめ)たり。京勢(きやうぜい)は是(これ)を夢にも知(しら)ねば、徒(いたづら)に河向に敵未(いまだ)引(ひか)へたりと肝繕(きもづくろひ)して居たる処に、小屋野・富松に当て、所々に火燃(もえ)出て、煙の下に旗の手数(あま)た見へたり。是(これ)までも尚(なほ)敵川を越たりとは思(おもひ)も不寄、焼亡(ぜうまう)は御方(みかた)の軍勢共(ぐんぜいども)の手過(てあやま)ちにてぞ有(ある)らんと由断(ゆだん)して、明(あけ)行(ゆく)侭(まま)に後(うしろ)を遥(はるか)に見渡したれば、十(じふ)余箇所(よかしよ)に村雲(むらくも)立て引(ひか)へたる勢(せい)、旗(はた)共(ども)は、皆菊水の紋也(なり)。「さては敵早(はや)川を渡してけり。平場(ひらば)の懸(かけ)合(あひ)は叶(かなふ)まじ、城へ引篭(ひきこもつ)て戦へ。」とて、浄光寺(じやうくわうじ)の要害(えうがい)へ引返さんとすれば、敵はや入替りたりと覚(おぼえ)て、勝時(かちどき)を作る声、浄光寺の内に聞へたり。是(これ)を見て中白(なかじろ)一揆(いつき)の勢三百(さんびやく)余騎(よき)は、国人なれば案内を知て、何(いつ)の間(ま)にか落(おち)失(うせ)けん一騎(いつき)も不残留、只守護(しゆご)の家人僅(わづか)五十(ごじふ)余騎(よき)、思(おもひ)切たる体(てい)に見へて、二箇所(にかしよ)に控(ひか)へて居たりける。両所に扣(ひか)へたる勢、一所に打(うち)寄らんとしけるが、敵の大勢に早(はや)中を隔(へだて)られて不叶ければ、箕浦次郎左衛門(じらうざゑもん)東を差(さ)して落(おち)行(ゆく)に、両方深田なる細堤(ほそづつみ)を、敵立切(たちきり)て是(これ)を打(うち)留めんと、行前(ゆくさき)を遮(さへぎ)り道を要(よぎつ)て、取篭(とりこむる)事度々(どど)に及べり。され共箕浦懸(かけ)破ては通(とほ)り取て返(かへし)ては戦ひけるに、一番に河原林弾正左衛門(だんじやうざゑもん)は討(うた)れぬ。是(これ)を見て芥河(あくたがは)右馬(うまの)允(じよう)、すげなう引(ひき)分(わか)れて落(おち)て行(ゆか)んとしけるを、「日比(ひごろ)の口には似ぬ者哉(かな)。」と箕浦に言(ことば)を被懸、一所に打寄て相伴(あひともな)ふ。箕浦是(これ)を案内者(あんないしや)にて、数箇所(すかしよ)の敵の中を遁(のが)れ出、都を差(さし)てぞ上りける。下の手に扣(ひか)へたる者共(ものども)は、落方(おちがた)を失て惘然(ばうぜん)として居たるを、木村兵庫(ひやうごの)允(じよう)泰則、「兵共(つはものども)の掟(おきて)、面々存知(ぞんぢ)の前なれ共(ども)、戦難儀なる時、死なんとすれば生き、生(いき)んとすれば死(しぬ)る者にて候ぞ。只幾度(いくたび)も敵のなき方へ引かで、敵の大勢扣(ひか)へたらん所へ懸(かけ)入て戦はんに、討(うたる)れば元来(もとより)の儀、討(うた)れずは懸(かけ)抜(ぬけ)て、西を指(さし)て落(おち)て行(ゆか)んに、敵もさすが命を捨(すて)ては、さのみ長追をばし候はん哉(や)。と云(いふ)処げにもと思はゞ、泰則に続けや人々。」と云(いふ)侭(まま)に、浄光寺前に百騎(ひやくき)許(ばかり)扣(ひか)へたる敵の方へ、馬を引返して歩(あゆ)ませ行く。敵是(これ)を見て、是(これ)は何様(いかさま)降人(かうにん)に出(いづ)る者かと、少し猶余(いうよ)して扣(ひか)へたる処に、歩立(かちだち)なる石津(いしづ)助五郎(すけごらう)行泰に、矢二筋(ふたすぢ)三筋(さんすぢ)射させて、敵の馬の足少(ちと)しどろになれば、三騎の者どもをつと喚(をめい)て懸(かけ)入るに、百騎(ひやくき)許(ばかり)扣(ひか)へたる敵颯(さつ)と分れ靡(なび)きて、敢(あへ)て是(これ)に当(あた)らんとせず。只射手(いて)を進めて射させける程に、箕浦弥次郎(やじらう)討れぬ。同四郎左衛門(しらうざゑもん)深手を負(おう)て田中に臥(ふし)たり。塩冶(えんや)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・木村兵庫も、馬の平頚(ひらくび)・草脇(くさわき)二所射させて深田のあぜに下(おり)立たり。すはや討(うた)れぬと見へけるが、木村兵庫放(はな)れ馬のありけるに打乗て、かちに成りたる塩冶(えんや)を、馬の上より手を引て尼崎(あまがさき)へ落(おち)て行く。敵迹(あと)に付ても追(おは)ざりければ、道場(だうぢやう)の内に一夜(いちや)隠れ居て翌(あけ)の夜京へぞ上りける。和田・楠等(くすのきら)只一軍(ひといくさ)に摂州の敵を追(おひ)落(おと)して勝(かつ)に乗(のる)といへ共、赤松判官・信濃彦五郎兄弟、猶(なほ)兵庫の北なる多田部(たたへの)城(じやう)に篭(こもつ)て、兵庫湊河(みなとがは)を管領すと聞へければ、九月十六日(じふろくにち)、石堂右馬(うまの)頭(かみ)・和田・楠三千(さんぜん)余騎(よき)にて、兵庫湊川へ押寄せ、一宇(いちう)も不残焼払(やきはら)ふ。此(この)時(とき)赤松判官兄弟は、多田部・山路(やまち)二箇所(にかしよ)の城(じやう)に篭(こもつ)て、敵懸(かか)らば爰(ここ)にて利をせんと待(まち)懸(かけ)けるが、楠いかゞ思ひけん、軈(やが)て兵庫より引返しければ、赤松出会(いであふ)に不及、野伏少々城より出して、遠矢(とほや)射懸(いかけ)たる許(ばかり)にて、墓々敷(はかばかしき)軍は無(なか)りけり。都には同九月晦日改元(かいげん)有て貞治(ぢやうじ)と号(がう)す。是(これ)は南方の蜂起(ほうき)さてもや静まると、諸卿申(まうし)合(あは)れし故(ゆゑ)也(なり)。げにも改元(かいげん)の験(しるし)にや、京都より武家の執事尾張(をはりの)大夫入道(たいふにふだう)、大勢を討手に下すと聞へければ、和田・楠又尼崎・西宮(にしのみや)の陣を引(ひい)て河内(かはちの)国(くに)へ帰りぬ。是(これ)を聞て山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏が勢の、丹波の和久(わく)に居たりしも、因幡(いなばの)国(くに)へぞ引返しける。今年天下已(すで)に同時に乱(みだれ)て、宮方(みやがた)眉(まゆ)開きぬと見へけるが、無程国々静(しづま)りけるも、天運の未(いまだ)至らぬ処とは云(いひ)ながら、先(まづ)は細川相摸守(さがみのかみ)が楚忽(そこつ)の軍して、無云甲斐討死をせし故(ゆゑ)也(なり)。
○太元(たいげんの)軍(いくさの)事(こと) S3808
昔孔子(こうし)謂顔淵曰、「用之則行舎之則蔵。唯我与爾有是夫。」とほめ給ひけるを、傍(そば)にて聞(きき)ける子路、大に忿(いかつ)て曰(いはく)、「子行三軍則誰与。」と申ければ、孔子(こうし)重(かさね)て子路を諌(いさめ)て曰(のたまはく)、「暴虎憑河死而無悔者吾不与也(なり)。必也(なり)。臨事而懼、好謀而成者也(なり)。」とぞ宣ひける。されば古も今も、敵を滅し国を奪(うば)ふ事、只武(たけ)く勇めるのみに非(あら)ず。兼(かね)ては謀(はかりこと)を廻(めぐ)らし智慮を先とするにあり。今大宋(たいそう)国の四百州一時に亡(ほろび)て、蒙古(もうこ)に奪(うば)はれたる事も、西蕃(せいばん)の帝師が謀(はかりこと)を廻(めぐら)せしによれり。其草創(そのさうさう)のよれる所を尋ぬれば、宋朝(そうてう)世を治(をさめ)て已(すで)に三十七代、其(その)亡(ほろび)し時の帝をば幼帝(えうてい)とぞ申ける。此(この)時(とき)太元(たいげん)の国主老(こくしゆらう)皇帝(くわうてい)、其比(そのころ)は未(いまだ)吐蕃(とばん)の諸侯にてありけるが、哀(あは)れ何(いか)にもして宋朝四百州・雲南万里(うんなんばんり)・高麗(かうらい)三韓(さんかん)に至るまで不残是(これ)を打(うち)取(とら)ばやと思ふ心、骨髄(こつずゐ)に入て止(やむ)時(とき)なし。或(ある)時(とき)彼(かの)老皇帝(らうくわうてい)此(この)事を天に仰(あふ)ぎ、少し目睡(まどろみ)給(たまひ)ける夢に、「宋朝の幼帝と太元の老皇帝(らうくわうてい)と楊子江(やうすがう)を隔(へだて)て陣を張(はり)て相対(あひたい)する事日久し。時に楊子江、俄(にはか)に水旱(ひ)て陸地(くがぢ)となる。両陣の兵已(すで)に相近(あひちかづき)て戦はんとする処に、幼帝は其(その)身化(け)して勇猛忿迅(ゆうまうふんじん)の獅子(しし)となり、老皇帝(らうくわうてい)は形俄(にはか)に変じて白色柔和(はくしきにうわ)の羊(ひつじ)となる。両方の兵是(これ)を見て、弓をふせ戈(ほこ)を棄(すて)て、「天下の勝負は只(ただ)此(この)獅子と羊との戦(たたかひ)に可在。」と伺見(うかがひみ)る処に、羊獅子の忿(いか)れる形に懼(おそ)れて忽(たちまち)に地に倒る。時に羊二の角と一の尾骨をつき折て、天にのぼりぬ。」とぞ見給ひける。老皇帝(らうくわうてい)夢醒(さめ)て後(のち)心更(さら)に悦ばず、大に不吉なる夢なりと思ひ給(たまひ)ければ、夙(つと)に起(おき)て西蕃(せいばん)の帝師(ていし)に此(この)夢を語り給ふ。帝師是(これ)を聞て心の中に夢を占(うらなう)て謂(いはく)、「羊と云(いふ)文字は八点に王を書て懸針(かけはり)を余(あま)せり。八点は角(つの)なり、懸針(かけはり)は尾(を)なり。羊二(ふたつ)の角と一(ひとつ)の尾を失(うしな)はゞ王と云(いふ)字になるべし。是(これ)老皇帝(らうくわうてい)太元(たいげん)宋国(そうこく)高麗(かうらい)の国を合(あは)せ保(たもつ)て天下に主たるべき瑞相(ずゐさう)也(なり)。又宋朝の幼帝獅子に成て闘ひ忿(いか)ると見へけるも、自滅(じめつ)の相(さう)也(なり)。獅子の身中に毒虫(どくちゆう)ありて必(かならず)其(その)身を食殺(くひころ)す。如何様(いかさま)幼帝の官軍(くわんぐん)の中に弐(ふたごころ)ある者出来て、戈(ほこ)を倒(さかしま)にする事あるべし。」と占(うらなふ)。夢の理(ことわ)り明(あきらか)に両方の吉凶(きつきよう)を心に勘(かんが)へければ、「是(これ)大(おほい)なる吉夢(きつむ)也(なり)。時を不易兵を召(めさ)れて宋国を可被攻。」とぞ、帝師(ていし)勧(すす)め申されける。老皇帝(らうくわうてい)は元来(もとより)帝師が才智を信じて、万事を是(これ)が申(まうす)侭(まま)に用ひ給ひければ、重(かさね)て吉凶の故を尋(たづね)問(とふ)までに不及、太元七百州の兵三百万騎の勢を催(もよほ)して、楊子江の北(きた)の畔(ほとり)に打臨(うちのぞ)み、河の面三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)に浮橋(うきはし)を渡し、同時に兵を渡さんとぞ支度せられける。太宋国(たいそうこくの)幼帝此(この)事を聞給て、「さらば討手を差下せ。」とて、伯顔丞相(はくがんじようしやう)を上将軍(じやうしやうぐん)として百万騎、襄陽(じやうやう)の守(しゆ)呂文煥(りよぶんくわん)を裨(ひ)将軍(しやうぐん)として三十万騎(さんじふまんぎ)、大金(たいきん)の賈似道(かじたう)・賈平相(かへいしやう)兄弟を副将軍(ふくしやうぐん)として、六十万騎(ろくじふまんぎ)を差(さし)下さる。三軍の兵三百万騎、江南(かうなん)に打臨(うちのぞ)み、夜を日に継(つい)で、楊子江を前に直下(みおろし)て、三箇所(さんかしよ)に陣をぞ取たりける。中にも伯顔丞相一陣に進(すすみ)て、楊子江の南に控(ひか)へたりけるが、太元の兵共(つはものども)の浮橋をかけ陣を張(はり)たる体(てい)を見て、謀(はかりこと)を廻(めぐら)して不戦勝(かつ)事を難得しと思ひければ、今の陣より六十里(ろくじふり)後(うしろ)に高く岨(けはし)き山を城に拵(こしらへ)て、四方(しはう)の屏(へい)を何(いか)に打破る共無左右破られぬ様に高く塗(ぬら)せて、内に数千間の家を透間(すきま)もなく作り並(なら)べ、櫓(やぐら)の上矢間(やま)の陰(かげ)に、人形を数千万(すせんまん)立(たて)置(おき)て、或(あるひ)は戈(ほこ)をさしまねき刃(やいば)を交(まじ)へ或(あるひ)は大皷(たいこ)を打(うち)弓を引て、戦を致さんとする様に、風を以て料理(しつらひ)、水を以てあやつりて、岩を切たる細道に、たゞ木戸一(ひとつ)開て、内に実(まこと)の兵を二百(にひやく)余人(よにん)留(とどめ)置き、敵城へ寄せば暫(しば)し戦ふ真似をしてふせぎ兼(かね)たる体(てい)を見せよ。敵勝(かつ)に乗て城中(じやうちゆう)へ責(せめ)入らば敵を皆内へ帯(おび)き入(いれ)て後(のち)、同時に数千(すせん)の家々に火を懸(かけ)て、己(おのれ)が身許(ばかり)隠して、堀(ほつ)たる土の穴より遁(のがれ)出て敵を皆可焼殺とぞ謀(はか)りける。去(さる)程(ほど)に三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)の浮橋を已(すで)に渡(わたし)すましてければ、太元の兵三百万騎争(あらそ)ひ前(すすん)で橋を渡る。伯顔丞相兼(かね)て謀(たばかり)たる事なれば、矢軍些(ちと)する真似(まね)して、暫(しばらく)も不支引て行(ゆく)。太元の兵勝(かつ)に乗て、逃(にぐ)るを追(おふ)事甚(はなはだ)急也(なり)。宋国の兵猶(なほ)も偽(いつはり)て引(ひく)体(てい)を敵に推(すゐ)せられじと、楯・鉾(ほこ)・鎧・胄を取捨て、堀溝(ほりみぞ)に馬を乗(のり)棄(すて)て我先(さき)にと逃走(にげはし)る。是(これ)を謀(たばか)るとも不知ける羽衛(うゑ)斥候(せきこう)の兵、徒(いたづら)に命を軽(かろん)じて討死するも多かりけり。日已(すで)に暮(くれ)ければ、宋国の兵城へ引篭(ひきこも)る真似(まね)をして後(うしろ)なる深山(みやま)へ隠れぬ。太元の兵は敵の疲(つか)れたる弊(つひえ)に乗て、則(すなはち)是(これ)を討(うた)んと城の際(きは)までぞ攻(せめ)たりける。旗を進め戈(ほこ)をさしまねきて、城を遥(はるか)に向上(みあげ)たれば、櫓(やぐら)の上屏(へい)の陰(かげ)に、兵袖を連ねて並居(なみゐ)たりとは見へながら、時の声も幽(かすか)に、射出す矢楯をだにも不徹。太元の将軍是(これ)を見て、人形の木偶人(もくぐうにん)共(ども)に誠の人が少々相交(あひまじは)りてふせぐ真似(まね)するとは思ひ不寄。「敵は今朝の軍に遠引(とほびき)して気疲(つかれ)勢(いきほひ)尽(つき)はてけるぞ。時を暫(しばらく)も不可捨。攻(せめ)よや兵共(つはものども)。」と諌(いさ)め罵(ののしつ)て、責皷(せめつづみ)を打て楯を進めければ、城中(じやうちゆう)に少々残(のこし)置(おか)れたる兵共(つはものども)、暫(しばらく)有て火の燃(もえ)出る様に、家々に火を懸(かけ)て、ぬけ穴より逃走(にげさり)ける。木偶人(もくぐうにん)誠(まこと)の兵ならねば、敵責入(せめい)れ共防(ふせ)ぐ者なし。太元三百万騎の兵共(つはものども)、勇み進(すすん)で二(ふた)つともなき木戸より城の中へ込入(こみい)り、或(あるひ)は偽(いつはり)て棄(すて)置(おき)たる財宝を争(あらそう)て奪(うばひ)合ひ、或(あるひ)は忻(たばかつ)て立(たて)置(おき)たる木人(もくにん)に向て、剣(けん)を拉(とりひし)ぎ戈(ほこ)を靡(なびかす)処に、三万(さんまん)余家(よか)作(つくり)双(なら)べたる城中(じやうちゆう)の家々より同時に火燃(もえ)出て、煙満城に炎(ほのほ)四方(しはう)に盛なり。太元の兵共(つはものども)屏(へい)を上超(のぼりこえ)て火に遁(のが)れんとすれば、可取付便(たより)もなく橋もなし。責(せめ)入(いり)つる木戸より出んとするに烟(けぶり)に目くれて胆(きも)迷(まよう)て何(いづ)くを其方(そのかた)共(とも)不覚(おぼえず)、只猛火(みやうくわ)の中に走(はしり)倒れて、太元の兵三百万人(さんびやくまんにん)は皆焼死(やけしに)にけり。太元(たいげんの)王は、多日の粉骨(ふんこつ)徒(いたづら)に一時の籌策(ちうさく)に被破(やぶられ)、大軍未(いまだ)帝都の戦を不致前(さき)に三百万人(さんびやくまんにん)まで亡びければ、此(この)事今は叶(かなふ)まじかりけりと、気を屈して黙止(もだ)されける処に、西蕃(せいばん)の帝師(ていし)太元(たいげんの)王に謁(えつ)して申(まうし)けるは、「大器は遅(おそ)くなるといへり。太元国の天下豈(あに)大器に非(あら)ずや。又機巧(きかう)は大真(たいしん)に非(あら)ず。成る事は微々(びび)にして破(やぶる)る事は大也(なり)。今宋国の節度使等(せつどしら)が武略の体(てい)を聞(きく)に、死を善道(ぜんだう)に守り命を義路(ぎろ)に軽(かろ)んずるに非(あら)ず、只尺寸(せきすん)の謀(はかりこと)を以て大功の成らん事を意(い)とする者也(なり)。宋国り臣独(ひとり)智あつて元朝(げんてう)の人皆(みな)愚(おろか)ならんや。我今謀(はかりこと)を廻(めぐら)さば勝(かつ)事を一戦(いつせん)の前に得つべし。君益(ますます)志を天下の草創(さうさう)に懸(かけ)給へ。臣須(すべから)く以智謀、太宋国(たいそうこく)の四百州を一日の中に可傾。」と申ければ、太元(たいげんの)王大に悦て、「公が謀(はかりこと)を以て我若(もし)太宋国(たいそうこく)を得ば、必(かならず)公(こう)を上天の下、一人(いちじん)の上に貴(たつとん)で、代々(だいだい)帝王の師と可仰。」とぞ被約ける。帝師則(すなはち)形をかへ身を窶(やつ)して太宋国(たいそうこく)へ越(こえ)、江南の市(いち)に行(ゆき)て、哀(あはれ)身貧(まどしく)して子多く持(もち)たる人もがなと伺見(うかがひみ)る処に、年六十有余(いうよ)なる翁(おきな)の、一の剣(けん)を売(うり)て肉饅頭(にくまんぢゆう)を買(かふ)あり。帝師問て曰(いはく)、「剣(けん)をうりて牛を買ふは治(をさま)れる世の備(そな)へなり。牛を売(うり)て剣を買ふは乱(みだれ)たる時の事也(なり)。父老(ふらう)今剣(けん)を売て饅頭を買ふ。其(その)用何事(なにごと)ぞや。」老翁答(こたへ)て曰(いはく)、「我嘗(かつて)兵の凶器(きようき)なる事を不知、若(わか)かりし時好(このん)で兵書を学びき。智は性の嗜(たしな)む処に出(いづ)る者なれば、呉氏(ごし)・孫氏(そんし)が秘(ひ)する処の道、尉潦(うつれう)・李衛(りゑい)が難(かた)しとする処の術(じゆつ)、一を挙(あげ)て占(うらな)へば、則(すなはち)三を反(へん)してさとりき。然(しか)れば乍坐三尺(さんじやく)の雄剣(ゆうけん)を提(ひつさげ)て、立処(たちどころ)に四海(しかい)の乱を理(をさ)めん事、我に非(あら)ずは誰(た)そやと、心を千戸万戸(せんこばんこ)の侯(こう)に懸(かけ)て思(おもひ)しに、我壮(さか)んなりし程は世治(をさま)り国静(しづか)なりし間、武に於(おい)て用(もちゐ)られず、今天下方(まさ)に乱れて、剣士(けんし)尤(もつとも)功を立(たつ)る時には、我已(すで)に老衰(らうすゐ)して其選(そのえらび)に不当、久(ひさし)く此(この)江南の市(いち)の上(ほと)りに旅宿して、僅(わづか)に三人(さんにん)の男子を儲(まうけ)たり。相如(しやうじよ)が破壁(はへき)風寒(さぶく)して夜の衣短く、劉仲(りうちゆう)が乾鍋(かんくわ)薪(たきぎ)尽(つき)て朝の餐(ざん)空(むな)し。只老驥(らうき)の千里を思ふ心未(いまだ)屈(くつ)せざれ共(ども)、飢鷹(きおう)の一呼(いつこ)を待(まつ)身と成(なり)ぬ。故(ゆゑ)に此(この)剣を売(うり)て三子(さんし)の飢(うゑ)を扶(たすけ)んと欲する也(なり)。」と委(くはし)く身上(みのうへ)の羸(つかれ)を侘(わび)て涙を流してぞ立たりける。帝師重(かさね)て問て云(いはく)、「父老の言(ことば)を聞(きく)に、三人(さんにん)の子共飢(うゑ)て、公が百年の命已(すで)に迫(せま)れり。我三千両の金を持(もち)たり。願(ねがはく)は是(これ)を以て父老の身を買(かは)ん。父老何ぞ兔(と)ても無幾程老後の身を売(うり)て、行末遥(はるか)なる子孫の富貴(ふつき)を不欲せや。」と問(とふ)に、老翁眉(まゆ)を揚(あ)げ面を低(たれ)て、「誠(まこと)に公の言(ことば)の如く、我に三千両の金を被与、我豈(あに)三子(さんし)の飢(うゑ)を助(たすけ)て無幾程命を不捨や。」とぞ悦(よろこび)ける。「さらば。」とて、帝師則(すなはち)老翁の身を三千両の金に買ひ、太元へ帰りて後、先(まづ)使者を宋国の帝都へ遣(つかは)して、今度楊子江の合戦に功ありて、千戸万戸の侯にほこれりと聞(きこゆ)る上将軍(じやうしやうぐん)伯顔丞相・呂文煥等(りよぶんくわんら)が事を、都にいかゞ云沙汰(いひさた)するとぞ伺聞(うかがひきか)せける。使者都に上て家々に彳(たたず)み、事の体(てい)人の云沙汰する趣(おもむき)、能々(よくよく)伺(うかがひ)聞て太元に帰り、帝師に対(むかひ)て語(かたり)けるは、「伯顔丞相・呂文煥等(りよぶんくわんら)太元の軍に打勝て、武功身に余れり。天下の士是(これ)を重(おもん)ずる事、上天の威(ゐ)に超(こえ)たり。若(もし)此(この)勢を以て世を傾(かたぶけ)んと思はゞ、只指掌よりも安かるべし。古(いにしへ)安禄山(あんろくさん)が兵を引て帝都を侵(をか)し奪(うばひ)しも、斯(かか)る折節にてこそあれと、恐れ思はぬ人も候はず。」とぞ語りける。帝師使者の語るを聞て、今はかうと思(おもひ)ければ、三千両の金に身を売(うり)たりつる老翁を呼(よび)て、彼(かれ)が股(もも)の肉を切裂(きりさい)て、呂文煥(りよぶんくわん)・伯顔将軍・賈丞相(かしようじやう)三人(さんにん)が手迹(しゆせき)を学(まなび)て返逆籌策(ほんぎやくちうさく)の文を書(かき)、彼(かれ)が骨のあはひに収(をさめ)て疵(きず)を愈(いや)してぞ持(もた)せける。其(その)文に書(かき)けるは、「我等(われら)已(すで)に太元の軍に打勝て士卒の付順(つきしたがふ)事数を不知(しらず)。天已(すで)に時を与(あたへ)たり。不取却(かへつて)禍(わざはひ)有(ある)べし。然(しかれ)ば早(はやく)士を引(ひき)約(やく)を成(な)して帝都に赴(おもむか)んと欲す。若(もし)亡国の暗君を捨(すて)て有道(いうだう)の義臣に与(くみ)せんとならば、戈(ほこ)を倒(さかしま)にする謀(はかりこと)を可致。」と書て、宮中の警固(けいご)に残し留(とどめ)られたる国々の兵の方へぞ遣(つかは)しける。敵を討(うつ)手だて如此認(したため)て、帝師重(かさね)て老翁に向て申けるは、「汝先(まづ)帝都に上り怪(あやし)げなる体(てい)にて宮中を伺見(うかがひみ)るべし。去(さる)程ならば、宮門を守る兵共(つはものども)汝を捕へて嗷問(がうもん)すべし。縦(たとひ)水火の責(せめ)に逢(あふ)共(とも)、暫(しばらく)は勿落事。倒懸(たうけん)身を苦(くるし)め炮烙(はうらく)骨を砕(くだく)時(とき)に至て、我は伯顔将軍・賈丞相等(かしようじやうら)が使として、謀反与力(むほんよりき)の兵共(つはものども)に事の子細を相触(あひふれ)ん為に、帝都に赴(おもむ)きたる由を白状(はくじやう)して、其験(そのしるし)是(これ)也(なり)とて、件(くだん)の身の中に隠しける書を可取出。」とぞ教へける。彼(かの)老翁已(すで)に三千両の金に身を売(うり)し上は、命を非可惜、帝師が教(をしへ)の侭(まま)に謀反催促(むほんさいそく)の状を数十通(すじつつう)身の肉を創(さい)て中に収(をさ)め、帝都の宮門へぞ赴(おもむき)ける。忽(たちまち)身を車裂(くるまざき)にせられ骨を醢(ひしほ)にせらるべきをも不顧、千金に身を替(かへ)て五刑(ごけい)に趣(おもむ)く、人の親の子を思(おもふ)道こそ哀なれ。老翁則(すなはち)帝都に上て、態(わざと)怪(あやし)げなる体(てい)に身を窶(やつ)し、宮門を廻(まはつ)て案内を見る由に翔(ふるま)ひける間、守護(しゆご)の武士是(これ)を捕(とら)へて、上(あげ)つ下(おろし)つ責(せめ)問(とふ)に、暫(しばし)は敢(あへ)て不落。嗷問(がうもん)度重(たびかさなつ)て骨砕(くだ)け筋(すぢ)断(たえ)ぬと見へける時に、「我は是(これ)伯顔将軍・呂文煥等(りよぶんくわんら)が謀叛催促の使也(なり)。」と白状(はくじやう)して、股(もも)の肉の中より、宮中洛外(らくぐわいの)諸侯の方へ、約をなし賞(しやう)を与(あたへ)たる数通の状をぞ取(とり)出(いだし)たりける。典獄(てんごく)の官驚(おどろき)て此(この)由を奏聞しければ、先(まづ)使者の老翁を誅(ちゆう)せられて、軈(やが)て伯顔将軍・賈丞相(かしようじやう)・呂文煥等(りよぶんくわんら)が父子兄弟三族(さんぞく)の刑(けい)に行(おこなは)れて、或(あるひ)は無罪諸侯死を兵刃(へいじん)の下に給(たまは)り、或(あるひ)は功有(あり)し旧臣(きうしん)尸(かばね)を獄門(ごくもん)の前に曝(さら)せり。此(この)事速(すみやか)に楊子江の陣へ聞へしかば、伯顔将軍・賈丞相(かしようじやう)・呂文煥等(りよぶんくわんら)、頭(かうべ)を延(のべ)て無罪由を陳じ申さん為に、太元(たいげん)の戦を打捨(うちすて)て都へ帰り上(のぼり)けるが、国々の諸侯道(みちを)塞(ふさぎ)て不通ける間、三人(さんにん)の将軍空(むなし)く帝師が謀(はかりこと)に被落て、所々にて討(うた)れにけり。是(これ)より楊子江の陣には敵を防ぐ兵一人も無(なけ)れば、太元五百万騎の兵共(つはものども)、推(お)して都へ責(せめ)上るに、敢(あへ)て遮(さへぎ)るべき勢(せい)なければ、宋朝の幼帝宮室(きゆうしつ)を尽(つく)し宗廟(そうべう)を捨(すて)て、遂(つひ)に南蛮国へ落(おち)給ふ。太元の老皇帝(らうくわうてい)、軈(やが)て都に入替(いれかは)り給(たまひ)しかば、天下の諸侯皆(みな)順付(したがひつき)奉て、太宋国(たいそうこく)四百州、忽(たちまち)に太元の世に成(なり)にけり。さしもいみじかりし太宋国(たいそうこく)、一時に傾(かたぶき)し事も、天運図(と)に当る時とは云(いひ)ながら、只帝師が謀(はかりこと)によれる者也(なり)。今細河相摸守(さがみのかみ)、無双(ぶさうの)大力世に超(こえ)たる勇士(ゆうし)なりと聞へしか共、細河右馬(うまの)頭(かみ)が尺寸(せきすん)の謀(はかりこと)に被落、一日の間に亡(ほろび)ぬる事、偏(ひとへ)に宋朝の幼帝、帝師が謀(はかりこと)に相似たり。人而無遠慮、必有近憂とは、如此の事をや申(まうす)べき。


太平記(国民文庫)
太平記巻第三十九

○大内介(おほうちのすけ)降参(かうさんの)事(こと) S3901
聖人世に出て義を教へ道を正す時だにも、上智は少く下愚(かぐ)は多ければ、人の心都(すべ)て不一致。肆(かるがゆゑ)に尭(げう)の代にすら四凶の族(ぞく)あり。魯国(ろこく)に小星卯(せうせいばう)あり。況(いはんや)時(とき)今澆季(げうき)也(なり)。国又卑賎(ひせん)也(なり)。因何に仁義を知(しる)人有(ある)べきなれ共(ども)、近年我朝(わがてう)の人の有様程うたてしき事をば不承。先(まづ)弓矢取(ゆみやとり)とならば、死を善道に守り名を義路に不失こそ可被思、僅(わづか)に欲心を含(ふくみ)ぬれば、御方に成るも早く、聊(いささか)も有恨、敵になるも易(やす)し。されば今誰をか始終の御方と可憑思。変じ安き心は鴻毛(こうまう)より軽く、不撓志は麟角(りんかく)よりも稀也(なり)。人数(ひとかず)ならぬ小者(こもの)共(ども)の中に、適(たまたま)一度(いちど)も翻(ひるがへ)らぬ人一両人有(あり)といへ共、其(そ)れも若(もし)禄(ろく)を与へ利を含めて呼(よび)出す方あらば、一日も足を不可留。只五十歩に止(とどま)る者、百歩に走るを如咲。見所(けんじよ)の高懸(たかがけ)とかやの風情(ふぜい)して、加様(かやう)の事を申(まうす)共(とも)、書伝の片端(かたはし)を聞たる人は古へを引て、さても百里奚(はくりけい)は虞(ぐ)の君を棄(すて)て、秦の穆(ぼく)公(こう)に不仕、管夷吾(くわんいご)は桓(くわん)公(こう)に降(くだつ)て公子糾(こうしきう)と不死しは如何に、とぞ思(おもひ)給(たまふ)らん。それは誠(まこと)に似たる事は似たれ共(ども)、是(ぜ)なる事は是(ぜ)ならず。彼(かの)百里奚は、虞公の、垂棘(すゐきよく)の玉、屈産(くつさん)の乗(じよう)の賄(まひなひ)に耽(ふけつ)て路を晉(しん)に開(ひらき)しかば、諌(いさめ)けれ共叶(かなふ)まじき程を知て、秦の穆公に仕(つか)へき。管夷吾(くわんいご)は召忽(せうこつ)と共に不死、子路非仁譏(そし)りしかば、豈如匹夫匹婦自経溝壑無知乎と、文宣王(ぶんせんわう)是(これ)を塞(ふさ)ぎ給へり。されば古賢の世を治(をさ)めん為に二君に仕(つかへ)しと、今の人の欲を先として降人(かうにん)に成(なる)とは、雲泥(うんでい)万里の隔(へだて)其(その)中に有(あり)と云つべし。爰(ここ)に大内(おほうちの)介(すけ)は多年宮方(みやがた)にて周防・長門両国を打(うち)平(たひら)げて、無恐方居たりけるが、如何(いか)が思ひけん、貞治(ぢやうぢ)三年の春(はる)の比(ころ)より俄(にはか)に心変(へん)じて、此(この)間押(おさ)へて領知する処の両国を給(たまは)らば、御方に可参由を、将軍羽林の方へ申たりければ、西国静謐(せいひつ)の基(もとゐ)たるべしとて、軈(やが)て所望の国を被恩補。依之(これによつて)今迄弐(ふたごころ)無(なか)りける厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)、長門(ながとの)国(くに)の守護職(しゆごしよく)を被召放含恨ければ、則(すなはち)長門(ながとの)国(くに)を落て筑紫へ押渡り、菊池(きくち)と一に成て、却(かへつ)て大内(おほうちの)介(すけ)を攻(せめ)んとす。大内(おほうちの)介(すけ)遮(さへぎつ)て、三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して豊後(ぶんごの)国(くに)に押寄せ、菊池(きくち)と戦(たたかひ)けるが、第二度(だいにど)の軍に負(まけ)て菊池(きくち)が勢に囲(かこま)れければ、降(かう)を乞(こう)て命を助(たすか)り、己(おのれ)が国へ帰(かへつ)て後、京都へぞ上りける。在京の間数万貫の銭貨(せんくわ)・新渡(しんと)の唐物(からもの)等(ら)、美(び)を尽(つく)して、奉行・頭人・評定衆・傾城(けいせい)・田楽(でんがく)・猿楽(さるがく)・遁世者(とんせいしや)まで是(これ)を引(ひき)与へける間、此(この)人に勝(まさ)る御用人有(ある)まじと、未(いまだ)見へたる事もなき先に、誉(ほめ)ぬ人こそ無(なか)りけれ。世上の毀誉(きよは)非善悪、人間の用捨(ようしや)は在貧福とは、今の時をや申すべき。
○山名京兆(けいてう)被参御方事(こと) S3902
山名左京(さきやうの)大夫(たいふ)時氏・子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏(もろうぢ)は、近年御敵(おんてき)に成て、南方と引合て、両度まで都を傾(かたむけ)しかば、将軍の御為には上なき御敵(おんてき)なりしか共、内々属縁、「両度の不義全(まつた)く将軍の御世を危(あやぶ)め奉らんとには非(あら)ず。只(ただ)道誉(だうよ)が余(あまり)に本意無(なか)りし振舞(ふるまひ)を思(おもひ)知(しら)せん為許(ばかり)にて候(さうらひ)き。其(その)罪科を御宥免(いうめん)有て、此(この)間領知の国々をだにも被恩補候はゞ、御方に参て忠を致すべき。」由をぞ申たりける。げにも此(この)人御方に成(なる)ならば、国々の宮方(みやがた)力を落すのみならず、西国も又可無為とて、近年押へて被領知つる因幡・伯耆の外、丹波・丹後(たんご)・美作、五箇国(ごかこく)の守護職(しゆごしよく)を被充行ければ、元来多年旧功(きうこう)の人々、皆手を空(むなしく)して、時氏父子の栄花(えいぐわ)、時ならぬ春を得たり。是(これ)を猜(そねみ)て述懐(じゆつくわい)する者共(ものども)、多く所領を持(もた)んと思はゞ、只御敵(おんてき)にこそ成(なる)べかりけれと、口を顰(ひそめ)けれ共甲斐(かひ)なし。「人物競紛花、麗駒逐鈿車。此時松与柏、不及道傍花。」と、詩人の賦(ふ)せし風諭(ふうゆ)の詞(ことば)、げにもと思(おもひ)知(しら)れたり。
○仁木京兆(につきけいてう)降参(かうさんの)事(こと) S3903
仁木左京(さきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)は、差(さし)たる不義は無(なか)りしか共、行迹(ぎやうせき)余(あま)りに思ふ様也(なり)とて、諸人に依被悪、心ならず御敵(おんてき)になり、伊勢(いせの)国(くに)に逃(にげ)下て、長野の城(じやう)に楯篭(たてこも)りたりしを、初めは佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・土岐大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)善忠両人討手を承(うけたまはり)、是(これ)を攻(せめ)けるが、佐々木(ささき)は他事に被召(めされ)て上洛(しやうらく)しぬ。土岐一人国に留て攻(せめ)戦(たたかひ)けれども、義長(よしなが)敢(あへ)て城を不被落。此(この)時(とき)又当国の国司北畠源(げん)中納言(ぢゆうなごん)顕信(あきのぶ)卿(きやう)、雲出川(くもでがは)より西を管領(くわんりやう)して、兵を出し隙(ひま)を伺(うかがう)て戦ひ挑(いどみ)し間、一国三(みつ)に分れて、片時も軍の絶(たゆ)る日もなし。角(かく)て五六年を経て後、義長(よしなが)日来(ひごろ)の咎(とが)を悔(くい)て降参すべき由を被申ければ、「此(この)人元来(もとより)忠功異于他。今又降参せば、伊賀・伊勢両国も静(しづま)るべし。」とて、義長(よしなが)を京都へ返し入られける。是(これ)は勢已(すで)に衰(おとろへ)たる後の降参なりしかば、領知の国もなく、相従(あひしたがひ)し兵も身に不添、李陵(りりよう)が如在胡にして、旧交(きうかう)の友さへ来らねば、省(み)る人遠き庭上(ていじやう)の花、春(はるは)独(ひとり)春(はる)の色なり。鞍馬(あんば)稀(まれ)なる門前の柳、秋(あきは)独(ひとり)秋(あき)の風なり。
○芳賀(はが)兵衛入道(ひやうゑにふだう)軍(いくさの)事(こと) S3904
如斯近年は、敵に成(なり)たりつる人々は皆降参して、貞治改元(かいげん)の後より洛中(らくちゆう)西国静也(なり)といへ共、東国に又不慮の同士軍(どしいくさ)出来して里民(りみん)樵蘇(せうそ)を不楽。其(その)事の起りを尋(たづぬ)れば、此(この)三四年が先に、将軍兄弟の御中悪(あし)く成(なり)給(たまひ)て、合戦に及(および)し刻(きざみ)、上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)、故高倉禅門の方にて、始(はじめ)は上野(かうづけの)国(くに)板鼻(いたばな)の合戦に宇都宮(うつのみや)に打負(うちまけ)て、後には薩■山(さつたやま)の軍に御方(みかた)の負(まけ)をしたりしが、兔角(とかく)して信濃(しなのの)国(くに)へ逃(にげ)下り、宮方(みやがた)に成(なり)て猶(なほ)此(この)所存を遂(とげ)ばやと、時を待てぞ居たりける。上杉斯(かか)る不義を致しけれども、鎌倉(かまくら)左馬(さまの)頭(かみ)基氏、幼少より上杉に懐(いだ)きそだてられたりし旧好(きうかう)難捨思はれければ、以別儀先(まづ)越後国(ゑちごのくに)守護職(しゆごしよく)を与(あたへ)て上杉をぞ被呼出ける。此(この)時(とき)芳賀(はが)兵衛入道(ひやうゑにふだう)禅可(ぜんか)は、越後国(ゑちごのくに)の守護(しゆご)にて有(あり)けるが、「降参不忠の上杉に被思替奉て、忠賞恩補(おんぽ)の国を可被召放様やある。」とて、上杉と芳賀(はが)と越後国(ゑちごのくに)にて及合戦事数月(すげつ)也(なり)。禅可遂(つひ)に打負(うちまけ)しかば当国を上杉に被奪のみならず、一族(いちぞく)若党(わかたう)其(その)数を不知落様(おちさま)に皆討(うた)れにけり。禅可是(これ)を忿(いかつ)て、「哀(あはれ)不思議(ふしぎ)も有て世中(よのなか)乱(みだれ)よかし。上杉と一合戦(ひとかつせん)して此(この)恨(うらみ)を散ぜん。」と憤(いきどほり)けり。斯(かか)る処、上杉已(すで)に左馬(さまの)頭(かみ)の執事に成て鎌倉(かまくら)へ越(こゆ)ると聞へければ、禅可道に馳(はせ)向て戦はんとて、上野の板鼻(いたばな)に陣を取てぞ待(また)せける。然共(しかれども)上杉、上野(かうづけの)国(くに)へも不入先(さき)に、左馬(さまの)頭(かみ)宣(のたま)ひけるは、「何ぞ任雅意加様(かやう)の狼籍(らうぜき)を可致。所存あらば逐(おつ)て可致訴詔処に、合戦の企(くはたて)奇怪(きくわい)の至(いたり)也(なり)。所詮(しよせん)可加退治(たいぢ)。」とて、自(みづから)大勢を卒(そつ)して宇都宮(うつのみや)へぞ被寄ける。禅可此(この)事を聞て、「さらば鎌倉殿(かまくらどの)と先(まづ)戦はん。」とて、我(わが)身は宇都宮(うつのみや)に有(あり)ながら、嫡子伊賀(いがの)守(かみ)高貞・次男駿河(するがの)守(かみ)八百(はつぴやく)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、武蔵(むさしの)国(くに)へぞ遣(つかは)しける。此(この)勢坂東路(ばんどうみち)八十里(はちじふり)を一夜(いちや)に打て、六月十七日(じふしちにちの)辰刻(たつのこく)に、苦林野(にがはやしの)にぞ著(つき)にける。小塚(こつか)の上に打(うち)上(あがり)て鎌倉殿(かまくらどの)の御陣を見渡せば、東には白旗一揆(しらはたいつき)の勢五千(ごせん)余騎(よき)、甲胄の光を耀(かかやか)して、明残(あけのこ)る夜の星の如くに陣を張る。西には平一揆(たひらいつき)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)、戟矛(げきぼう)勢(いきほ)ひ冷(すさましく)して、陰森(いんしん)たる冬枯(ふゆがれ)の林を見(みる)に不異。中の手は左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)と覚(おぼえ)て、二引両(ふたつひきりやう)の旗一流(ひとながれ)朝日に映じて飛揚(ひやう)せる其陰(そのかげ)に、左輔(さふ)右弼(いうひつ)密(きびし)く、騎射馳突(きしやちとつ)の兵共(つはものども)三千(さんぜん)余騎(よき)にて控(ひか)へたり。上より見越(みこせ)ば数百里に列(つらなり)て、坂東(ばんどう)八箇国(はちかこく)の勢共(せいども)、只今(ただいま)馳(はせ)参ると覚(おぼえ)て如雲霞見へたり。雲鳥(うんてう)の陣堅(かたく)して、逞卒(ていそつ)機(き)尖(するど)なれば、何(いか)なる孫呉(そんご)が術(じゆつ)を得たり共、千騎(せんぎ)に足(たら)ぬ小勢にて懸(かけ)合(あは)すべしと不覚(おぼえず)。芳賀伊賀(いがの)守(かみ)馬に打(うち)乗て、母衣(ほろ)を引繕(ひきつくろ)ひて申けるは、「平一揆(たひらいつき)・白旗一揆(しらはたいつき)は、兼て通ずる子細有(あり)しかば、軍の勝負(しようぶ)に付(つい)て、或(あるひ)は敵ともなり或(あるひ)は御方とも成(なる)べし。跡(あと)にさがりて只今(ただいま)馳(はせ)参る勢(せい)は、縦(たと)ひ何百万騎(なんびやくまんぎ)有(あり)と云(いふ)共(とも)、物(もの)の用に不可立。家の安否(あんぷ)身の浮沈(ふちん)、只一軍(ひといくさ)の中に定むべし。」と高声(かうしやう)に呼(よばはつ)て、前後に人なく東西に敵有(あり)とも思はぬ気色にて、真前(まつさき)にこそ進(すすん)だれ。舎弟(しやてい)駿河(するがの)守(かみ)是(これ)を見て、「軍門に君(きみ)の命なし。戦場に兄(あに)の礼(れい)なし。今日の軍の先懸(さきがけ)は、我ならでは覚(おぼえ)ぬ者を。」と、嗚呼(をこ)がましげに広言(くわうげん)吐(はい)て、兄より先につと懸(かけ)抜(ぬけ)て懸(かけ)入(いる)上は、相従ふ兵共(つはものども)八百(はつぴやく)余騎(よき)誰(たれ)かは是(これ)に可劣、我(われ)先に戦はんと、魚鱗(ぎよりん)に成てぞ懸りける。左馬(さまの)頭(かみ)の基氏、参然(さんぜん)たる敵の勇鋭(ゆうえい)を見ながら機を撓(たわ)め給はず、相懸(あひがか)りに馬を閑々(しづしづ)と歩(あゆ)ませ事もなげに進まれたり。敵時の声三度(さんど)作て些(ちと)擬議(ぎぎ)したる処に、天も落ち地も裂(さく)るかと覚(おぼゆ)る許(ばかり)に、只一声時を作て左右に颯(さつ)と分る。芳賀(はが)が八百(はつぴやく)余騎(よき)を東西より引裹(ひつつつみ)て、弓手(ゆんで)に相付(あひつ)け馬手(めて)に背(そむ)けて、切ては落され、まく(ッ)つまくられつ半時許(はんじばかり)戦て、両陣互に地を易(かへ)、南北に分れて其(その)迹を顧(かへりみ)れば、原野(げんや)血に染(そみ)て草はさながら緑(みどり)をかへ、人馬汗を流(ながして)、堀(ほり)かねの池も血となる。左馬(さまの)頭(かみ)は芳賀が元の陣に取(とり)上(あが)り、芳賀は左馬(さまの)頭(かみ)の始の陣に打上て、共に其(その)兵を見るに、討(うた)れたる者百(ひやく)余人(よにん)、被疵者数を不知(しらず)。「さても宗(むね)との者共(ものども)の中に、誰か討(うた)れたる。」と尋(たづぬ)る処に、「駿河(するがの)守(かみ)殿(どの)こそ、鎌倉殿(かまくらどの)に切(きり)落され給ふと見へつるが、召(めさ)れて候(さうらひ)し御馬(おんむま)の放(はな)れて候(さうらひ)つる。如何様(いかさま)討(うた)れさせ給(たまひ)てや候らん。」と申ければ、兄の伊賀(いがの)守(かみ)流るゝ涙を汗と共に推拭(おしのごひ)て云(いひ)けるは、「只(ただ)二人(ににん)如影随(したが)ふて、死(しな)ば共にと思(おもひ)つる弟を、目の前にて被討、其(その)死骸何(いづ)くに有(あり)共(とも)不見、さてあると云(いふ)事や可有。」とて、切(きり)散(ちら)されたる母衣(ほろ)結継(むすびつい)で鎧ゆり直し、喚(をめ)ひてぞ懸(かけ)入(いり)ける。鎌倉殿(かまくらどの)方(がた)にも、軍兵七十(しちじふ)余人(よにん)討(うた)れたるのみならず、木戸(きど)兵庫(ひやうごの)助(すけ)、両方引(ひき)分(わかれ)つる時、近付(ちかづく)敵に引組(ひつくみ)て、落(おち)重(かさな)る敵に被討ければ、是(これ)を聞(きき)給(たまひ)て、鎌倉殿(かまくらどの)御眼(おんまなこ)血をときたる如くに成て宣(のたま)ひけるは、「此(この)合戦に必(かならず)死なば諸共(もろとも)に死し、生(いき)ば同(おなじく)生(いき)んと、深く契(ちぎり)し事なれば、命を惜(をしむ)べきに非(あら)ず。」とて、如編木子叩(たた)きなしたる太刀の歯本(はもと)を小刀にて削(けづ)り直(なほ)し、打(うち)振(ふつ)て懸足(かけあし)を出し給へば、左右の兵共(つはものども)三千(さんぜん)余騎(よき)、大将の先に馳抜(はせぬけ)て、一度(いちど)に颯(さつ)と蒐(かか)り逢(あ)ひ、追廻(おひまはし)懸違(かけちが)へ、喚(をめ)き叫(さけん)で戦ふ声、さしも広き武蔵野に余る許(ばかり)ぞ聞へける。大将左馬(さまの)頭(かみ)、余(あま)りに手繁(しげ)く懸立(かけたて)々々(かけたて)戦(たたかひ)ける程に、乗(のり)給へる馬の三頭(さんづ)・平頚(ひらくび)三太刀斬(きら)れて、犬居(いぬゐ)にどうとぞ臥(ふし)たりける。是(これ)を大将と見知(みしり)たる敵多かりければ、懸寄(かけよせ)々々(かけよせ)胄を打(うち)落さんと、後(うしろ)より廻(まは)る者あり、飛(とび)下(おり)々々(とびおり)徒立(かちだち)に成(なり)、太刀を打背(そむ)けて組討にせんと、左右より懸る敵あり。され共左馬(さまの)頭(かみ)元来(もとより)力人に勝(すぐ)れ、心飽(あく)まで早(はやく)して、膚(はだへ)撓(たわ)まず目(め)逃(のが)れず、黄石公(くわうせきこう)が伝へし処、李道翁(りだうおう)が授(さづけ)し道、機に膺(あたつ)て心とせし太刀きゝなれば、或(あるひ)は胄の鉢を真二(まつふたつ)に打(うち)破(わ)り、引(ひく)太刀に廻(まは)る敵を斬(きり)居(すゑ)、或(あるひ)は鎧のどう中を不懸打(うち)切て、余る太刀にては、左に懸る敵を払はる。其刃(そのやいば)に胸を冷(ひや)して敵敢(あへ)て不近付。東西開(ひら)け前後晴(はれ)て、弥(いよいよ)大将馬に放(はな)れぬと、見知(みしら)ぬ敵も無(なか)りけり。大高(たいかう)左馬(さまの)助(すけ)重成(しげなり)遥(はるか)に是(これ)を見て、急(いそぎ)馳(はせ)寄り弓手(ゆんで)に下(おり)立て、「穴(あな)夥(おびたたし)の只今(ただいま)の御挙動(おんふるまひ)候や。昔の和泉(いづみ)・朝比奈(あさひな)も是(これ)まではよも候はじ。」と、覿面(てきめん)に奉褒、「早(はや)此(この)馬に召(めさ)れ候へ。」と申せば、左馬(さまの)頭(かみ)悦て、馬の内跨(うちまた)にゆらりと飛(とび)乗て、鞍坪(くらつぼ)に直(なほ)り様(ざま)に、「平家の侍(さむらひ)後藤兵衛が主の馬に乗て逃(にげ)たりしには、遥(はるか)に替(かは)りたる御振舞(おんふるまひ)哉(かな)。」と、「只今(ただいま)こそ誠(まこと)に大高(たいかう)の名は相応(さうおう)したれ。」と、互にぞ褒(ほめ)返されける。其(その)後左馬(さまの)助(すけ)は、放(はな)れ馬の有(あり)けるを取て打乗(うちのり)、所々に村立(むらだち)たる御方(みかた)の勢を相招き、又敵の中へ懸(かけ)入て、時移るまでぞ戦(たたかひ)ける。互に人馬を休めて、両方へ颯(さつ)と引(ひき)分(わかれ)たれば、又鎌倉殿(かまくらどの)の御陣は芳賀(はが)が陣となり、芳賀が陣は二度(ふたたび)鎌倉殿(かまくらどの)の御陣となる。芳賀伊賀(いがの)守(かみ)御方の勢を見巡(みめぐら)して、「八郎(はちらう)がみへぬは、討(うた)れたるやらん。」と親の身なれば心元(こころもと)なげに申けるを、馬の前なる中間(ちゆうげん)、「放(はな)れ馬の数百(すひやく)疋走散(わしりちり)たる中に、毛色(けいろ)・鞍具足(くらぐそく)を委(くはし)く見て候へば、黒鴾毛(くろつきげ)なる馬に連蒻(れんじやく)の鞦(しりがい)懸(かけ)たるは、慥(たし)かに八郎殿(はちらうどの)召(めさ)れたりつる御馬(おんむま)にて候。早(はや)討(うた)れさせ給ひぬとこそ覚へ候へ。」と申ければ、「さて其(その)馬に血や付(つき)たる。」と問ふに、「いや馬の頭(かしら)に矢一筋(ひとすぢ)立て見へ候へ共鞍(くら)に血は候はず。」とぞ答へける。是(これ)を聞てさしも勇(いさ)める伊賀(いがの)守(かみ)、涙を一目に浮(うか)めて、「さては此(この)者幼稚(えうち)なれば被生捕けり。軍暫(しばら)くも隙(ひま)あらば、八郎(はちらう)如何様(いかさま)切られぬと覚ゆ。いさ今一軍(ひといくさ)せん。」と云(いひ)ければ、岡本(をかもとの)信濃(しなのの)守(かみ)富高(とみたか)聞(きき)も敢(あへ)ず莞爾(につこ)とうち笑(わらう)て、「子細候はじ。敵の大将を見知(みしら)ぬ程こそ、葉武者に逢(あう)て組(くん)で勝負はせじと、軍はしにくかりし。今は見知りたり。先に白糸の鎧著て、下(おり)立たりつる若武者(わかむしや)は、慥(たしか)に鎌倉殿(かまくらどの)と見澄(みすま)したり。鎧の毛をしるしにして、組討(くみうち)に討(うち)奉らんずる事、何よりも可安る。」とて、敵に心安(こころやす)く紛(まぎ)れんと、笠符(かさじるし)を取て投(なげ)捨(すて)、時衆(じしゆう)に最期(さいご)の十念を受(うけ)て、思(おもひ)切たる機をぞ顕(あらは)しける。左馬(さまの)頭(かみ)の御方(みかた)に、岩松治部(ぢぶの)大輔(たいふ)はよく慮(おもんばかり)有て軍の変(へん)を計(はか)る人なりければ、大将左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)の鎧の毛を、敵何様(いかさま)見知(みしり)ぬらんと推量して、御大事(おんだいじ)に替(かは)らんと思はれければ、我(わが)今まで著給へる紺糸(こんいと)の鎧に、鎌倉殿(かまくらどの)の白糸の鎧を俄(にはか)に著替(きかへ)奉りてぞ控(ひか)へたる。暫(しばらく)有て両陣又乱(みだれ)合(あう)て入替(いれかへ)々々(いれかへ)戦(たたかひ)ける。岡本(をかもとの)信濃(しなのの)守(かみ)白糸の鎧著たる岩松を左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)ぞと目に懸(かけ)て、組(くん)で討(うた)んと相近付く。岩松は又元来左馬(さまの)頭(かみ)の命に代(かは)らんと鎧を著替(きかへ)し上は、なじかは命を可惜。二人(ににん)共(とも)に閑々(しづしづ)と馬を歩(あゆ)ませ寄(よつ)て、あはひ已(すで)に草鹿(くさじし)のあづち長(たけ)に成(なり)ける時、岩松が郎等(らうどう)金井(かなゐ)新左衛門(しんざゑもん)、岩松が馬の前に馳塞(はせふさがつ)て、岡本(をかもと)と引組(ひつくみ)馬よりどうと落けるが、互に中(ちう)にて差違(さしちが)へて、共に命を止(とどめ)てけり。岩松は左馬(さまの)頭(かみ)の命に代(かは)らんと鎧を著かへ、金井(かなゐ)は岩松が命に代(かはつ)て討死す。主従共に義を守(まもり)て節を重んずる忠貞(ちゆうてい)、難有かるべき人々也(なり)。其(その)外命を軽(かろん)じ義を重んじて、爰(ここ)にて勝負を決せんと、相互(あひたがひ)にぞ戦(たたかひ)ける。さて芳賀八郎(はちらう)は被生捕たりけれども、幼稚の上垂髪(たれかみ)なりければ、軍(いくさ)散じて後に、人を付(つけ)て被帰けるとかや。優(いう)にやさしとぞ申ける。去(さる)程(ほど)に芳賀が八百(はつぴやく)余騎(よき)の兵、昨日は二日路(ふつかぢ)を一夜(いちや)に打(うち)しかば馬皆疲れぬ。今日は又入替る勢も無(なく)て終日(ひねもす)戦ひくらしければ、兵息を不継敢。所存今は是(これ)までとや思(おもひ)けん、日已(すで)に夕陽(せきやう)に成(なり)ければ、被討残たる兵纔(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)を助(たすけ)て、宇都宮(うつのみや)へぞ帰(かへり)ける。是(これ)を見て今まで戦を外(よそ)に見て、勝方に付(つか)んと伺(うかがひ)つる白旗一揆(しらはたいつき)、弊(つひえ)に乗て疲(つかれ)を攻(せめ)て、何(いづ)くまでも追攻(おつつめ)て打(うち)止(とめ)んと、高名がほに追たりける。是(これ)のみならず芳賀が勢打負(うちまけ)て引(ひく)と聞へしかば、後(おく)れ馳(ばせ)に御陣へ参りける兵共(つはものども)、橋を引(ひき)、路を塞(ふさい)で落さじとしける程に、道にても百(ひやく)余騎(よき)被討けり。辛(から)き命を助(たすかり)て、故郷に帰(かへり)ける者も、大略皆髪を切り遁世(とんせい)して、無きが如くに成(なり)にけり。軍散じければ、軈(やが)て宇都宮(うつのみや)を退治(たいぢ)せらるべしとて、左馬(さまの)頭(かみ)八十万騎(はちじふまんぎ)の勢にて先(まづ)小山(をやま)が館(たち)へ打越給ふ。斯(かか)る処に、宇都宮(うつのみや)急ぎ参じて申けるは、「禅可が此(この)間の挙動(ふるまひ)、全く我同意したる事候はず。主従向背(きやうはい)の自科(じくわ)依難遁、其(その)身已(すでに)逐電(ちくてん)仕(つかまつり)ぬる上は、御勢(おんせい)を被向までも候まじ。」と申ければ、左馬(さまの)頭(かみ)も深き慮(おもんばかり)やをはしけん、翌日(よくじつ)軈(やが)て鎌倉(かまくら)へ打帰(うちかへり)給(たまひ)にけり。されば「君無諌臣則君失其国矣、父無諌子則父亡其家矣。」と云(いへ)り。禅可縦(たとひ)老僻(おいひがみ)て斯(かか)る悪行を企(くはた)つ共、子共若(もし)義を知て制(せい)し止(とどむ)る事あらば、豈(あに)若干(そこばく)の一族共(いちぞくども)を討(うた)せて、諸人に被嘲哢乎。無思慮禅可が合戦故(ゆゑ)に、鎌倉殿(かまくらどの)の威勢弥(いよいよ)重く成(なり)しかば、大名一揆(いつき)の嗷儀(がうぎ)共(ども)、是(これ)より些(ちと)止(やみ)にけり。
○神木(しんぼく)入洛(じゆらくの)事(こと)付(つけたり)洛中(らくちゆう)変異(へんいの)事(こと) S3905
尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫入道(たいふにふだう)々朝(だうてう)は、将軍御兄弟(ごきやうだい)合戦(かつせんの)時(とき)、慧源(ゑげん)禅門の方に属(しよく)して打負(うちまけ)しかば、鬱陶(うつたう)を不散、暫くは宮方(みやがた)に身を寄(よせ)けるが、若(わか)将軍(しやうぐん)義詮朝臣(よしあきらあつそん)より様々弊礼(へいれい)を尽(つく)して頻(しきり)に招請(せうしやう)し給(たまひ)ける間、又御方(みかた)に成て、三男(さんなん)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)義将(よしまさ)を面に立て執事の職に居(すゑ)、武家の成敗をぞ意に任(まかせ)られける。去(さる)程(ほど)に越前国(ゑちぜんのくに)は多年の守護(しゆご)にて、一国の寺社本所領(ほんじよのりやう)を半済(はんせい)して家人共(けにんども)にぞ分行(わけおこなひ)ける。其(その)中に南都の所領河口庄(かはぐちのしやう)をば、一円に家中の料所(れうしよ)にぞ成(なし)たりける。此(この)所は毎年維摩会(ゆゐまゑ)の要脚(えうきやく)たるのみに非(あら)ず、一寺の学徒是(これ)を以て、朝三(てうさん)の資(たすけ)を得て、僅に餐霞(ざんか)の飢(うゑ)を止(やめ)、夜窓(やさう)の燈(とぼしびを)挑(かかげ)て聚蛍(しゆけい)の光に易(か)ふ。而(しか)るを近年は彼(かの)依押領諸事の要脚悉(ことごとく)闕如(けつじよ)しぬれば、維摩の会場(ゑぢやう)には、柳条(りうでう)乱(みだれ)て垂手(すゐしゆ)の舞を列(つら)ね、講問(かうもん)の床(ゆか)の前には、鴬舌(あうぜつ)代(かはつ)て緩声(くわんしやう)の哥を唱(とな)ふ。是(これ)一寺滅亡の基(もとゐ)、又は四海(しかい)擾乱(ぜうらん)の端(はし)たるべし。早く当社押領の儀を止(やめ)て、大会(たいゑ)再興の礼に令復給(たまふ)べしと、公家(くげ)に奏聞し武家に触訴(ふれうつた)ふ。然(しかれ)共(ども)公家の勅裁(ちよくさい)はなれ共人不用、武家の奉書(ほうしよ)は憚(はばかつ)て渡す人なし。依之(これによつて)嗷儀(がうぎ)の若輩(じやくはい)・氏人(うぢつと)の国民(くにたみ)等(ら)、春日(かすが)の神木を奉餝、大夫入道(たいふにふだう)々朝が宿所の前に奉振捨。其(その)日(ひ)軈(やが)て勅使(ちよくし)参迎(さんかう)して、神木をば長講堂へぞ奉入ける。天子自(みづから)玉■(ぎよくい)を下(おり)させ給(たまひ)て、常の御膳(ごぜん)を降(く)ださる。摂家皆高門を掩(おほう)て、日(ひ)の御供(みく)を奉り給ふ。今澆末(げうまつ)の風(ふう)に向て大本(たいほん)の遠(とほき)を見るに、政道は棄(すた)れて無(なき)に似たりといへ共、神慮は明にして如在。哀(あはれ)とく裁許(さいきよ)あれかしと人々申合(まうしあはれ)けれども、時の権威に憚(はばかつ)て是(これ)をと申沙汰する人も無(なか)りけり。禰宜(ねぎ)が鈴振る袖の上に、託宣(たくせん)の涙せきあへず、社人(みやうど)の夙夜(しゆくや)する枕の上に、夢想の告止(つげやむ)時(とき)なし。同五月十七日(じふしちにち)、何(いづ)くの山より出たり共知(しら)ず、大鹿(おほしか)二頭(ふたかしら)京中(きやうぢゆう)に走(わしり)出たりけるが、家の棟(むね)・築地(ついぢ)の覆(おほひ)の上を走渡(わしりわたつ)て、長講堂の南の門前にて四声(よこゑ)鳴(ない)て、何(いづく)の山へ帰る共見へずして失(うせ)にけり。是(これ)をこそ不思議(ふしぎ)の事と云(いひ)沙汰しける処に、同(おなじき)二十一日月額(さかやき)の迹(あと)有て、目も鼻も無(なく)て、髪長々と生(おひ)たる、なましき入道(にふだうの)頚(くび)一つ、七条東洞院(ひがしのとうゐん)を北へ転(まろび)ありくと見へて、書消(かきけ)す様に失(うせ)にけり。又同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)長講堂の大庭(おほには)に、こま廻(まは)して遊(あそび)ける童(わらは)の内に、年の程十許(ばかり)なるが、俄(にはか)に物に狂(くるう)て、二三丈飛(とび)上(あがり)々々(とびあがり)、跳(をど)る事三日三夜也(なり)。参詣の人怪(あやしみ)て、何(いか)なる神の託(つか)せ給(たまひ)たるぞと問(とふ)に、物づき口うち噤(つぐみ)て、其(その)返事をばせで、人や勝つ神や負(まく)ると暫(しば)しまて三笠の山のあらん限(かぎり)はと、数万人(すまんにん)の聞(きく)所にて、高らかに三反(さんべん)詠じて物付は則(すなはち)醒(さめ)にけり。見るも懼(おそろ)しく、聞(きく)に身の毛も竪(よだつ)神託共なれば、是(これ)に驚て、神訴(しんそ)を忽(たちまち)に裁許有(あり)ぬと覚へけれ共(ども)、混(ひたす)ら耳の外に処(しよ)して、三年まで閣(さしおか)れければ、朱(あけ)の玉垣徒(いたづら)に、引(ひく)人もなき御注連縄(みしめなは)、其(その)名も長く朽(くち)はてゝ、霜の白幣(しらゆふ)かけまくも、賢(かしこ)き神の榊葉(さかきば)も、落(おち)てや塵(ちり)に交(まじる)らんと、今更神慮の程被計、行末如何(いかが)と空(そら)をそろし。今程国々の守護(しゆご)、所々の大名共(だいみやうども)、独(ひとり)として寺社本所領(ほんじよのりやう)を押へて、不領知云(いふ)者なし。然共叶はぬ訴詔(そしやう)に退屈して、乍歎徒(いたづら)に黙止(もだし)ぬれば、国々の政(まつりこと)に僻事(ひがこと)多けれ共(ども)、其(その)人無咎に似たり。然るに此(この)人独(ひとり)斯(かか)る大社の訴詔に取合ふて、神訴を得、呪咀(じゆそ)を負(おひ)けるも、只其(その)身の不祥(ふしやう)とぞ見へたりける処に、同(おなじき)十月三日道朝が宿所、七条東洞院(ひがしのとうゐん)より俄(にはか)に失火(しつくわ)出来(いでき)て、財宝一(ひとつ)も不残、内厩(うちむまや)の馬共までも多(おほく)焼(やけ)失(うせ)ぬ。是(これ)こそ春日(かすが)明神の御祟(たたり)よと、云(いひ)沙汰せぬ人も無(なか)りけり。されども道朝やがて三条高倉(さんでうたかくら)に屋形を立て、大樹(たいじゆ)に咫尺(しせき)し給へば、門前に鞍置馬(くらおきうま)の立(たち)止(やむ)隙(ひま)もなく、庭上に酒肴(さけさかな)を舁列(かきつら)ねぬ時もなし。夫(それ)さらぬだにも、富貴(ふつき)の家をば鬼(き)睨之云(いへ)り。何(いかに)況(いはん)や神訴を負へる人也(なり)。是(これ)とても行末如何(いか)が有(あら)んずらんと、才ある人は怪しめり。
○諸大名讒道朝事(こと)付(つけたり)道誉(だうよ)大原野(おほはらの)花会(はなのくわいの)事(こと) S3906
抑此管領職(このくわんれいしよく)と申(まうす)は、将軍家にも宗(むね)との一族(いちぞく)也(なり)ければ、誰かは其(その)職を猜(そね)む人も可有。又関東(くわんとう)の盛(さかん)なりし世をも見給(たまひ)たりし人なれば、礼儀法度(はつと)もさすがに今の人の様にはあるまじければ、是(これ)ぞ誠(まこと)に武家の世をも治(をさ)めんずる人よと覚(おぼえ)けるに、諸人の心に違(たが)ふ事のみ有(あり)て、終(つひ)に身を被失けるも、只(ただ)春日大明神(かすがだいみやうじん)の冥慮(みやうりよ)也(なり)と覚へたり。諸人の心に違(たがひ)ける事は、一には近年日本国の地頭・御家人の所領に、五十分(ごじふぶんの)一(いち)の武家役(ぶけやく)を毎年被懸けるを、此管領(このくわんれい)の時に二十分(にじふぶんの)一(いち)になさる。是(これ)天下の先例に非(あら)ずと憤(いきどほり)を含む処也(なり)。次に将軍三条(さんでう)の坊門(ばうもん)万里小路(までのこうぢ)に御所を立(たて)られける時、一殿一閣を大名一人づゝに課(おほせ)て被造。赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)も其(その)人数たりけるが、作事(さくじ)遅(おそく)して期日(ごにち)纔(わづか)に過(すぎ)ければ、法を犯(をか)す咎(とが)有(あり)とて新恩の地、大庄一所没収(もつしゆ)せらる。是(これ)又赤松が恨(うらみ)を含む随一(ずゐいち)也(なり)。次には佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)、五条(ごでう)の橋を可渡奉行を承(うけたまはり)て京中(きやうぢゆう)の棟別(むねべつ)を乍取、事大営(たいえい)なれば少し延引(えんいん)しけるを励(はげま)さんとて、道朝他の力をも不仮、民の煩(わづらひ)をも不成、厳密(げんみつ)に五条(ごでう)の橋を数日(すじつ)の間にぞ渡(わたし)にける。是(これ)又道誉(だうよ)面目を失ふ事なれば、是(これ)程の返礼をば致さんずる也(なり)とて、便宜(びんぎ)を目に懸(かけ)てぞ相待(あひまち)ける。懸(かかる)処に、柳営(りうえい)庭前(ていぜん)の花、紅紫(こうし)の色を交(まじへ)て、其(その)興無類ければ、道朝種々の酒肴(さけさかな)を用意(ようい)して、貞治(ぢやうぢ)五年三月四日を点(てん)じ、将軍の御所にて、花(はなの)下(もと)の遊宴あるべしと被催。殊更道誉(だうよ)にぞ相触(あひふれ)ける。道誉(だうよ)兼(かね)ては可参由領状(りやうじやう)したりけるが、態(わざ)と引(ひき)違(ちが)へて、京中(きやうぢゆう)の道々の物(もの)の上手共、独(ひとり)も不残皆引具(ひきぐ)して、大原野(おほはらの)の花の本(もと)に宴(えん)を設(まう)け席を妝(よそほう)て、世に無類遊(あそび)をぞしたりける。已(すで)に其(その)日(ひ)に成(なり)しかば、軽裘肥馬(けいきうひば)の家を伴(ともな)ひ、大原や小塩(をしほ)の山にぞ趣(おもむ)きける。麓に車を駐(とどめ)て、手を採(とつ)て碧蘿(へきら)を攀(よぢのぼ)るに、曲径(きよくけい)幽(かすかなる)処に通じ、禅房花木(くわぼく)深し。寺門に当て湾渓(わんけい)のせゞらきを渉(わた)れば、路(みち)羊腸(やうちやう)を遶(めぐつ)て、橋雁歯(がんし)の危(あやふき)をなせり。此(ここ)に高欄を金襴にて裹(つつみ)て、ぎぼうしに金薄(きんばく)を押し、橋板に太唐氈(たいたうのせん)・呉郡(ごぐん)の綾・蜀江(しよくかう)の錦(にしき)、色々に布展(しきの)べたれば、落花上に積(つもつ)て朝陽不到渓陰処、留得横橋一板雪相似たり。踏(ふむ)に足冷(すさまじ)く歩(あゆ)むに履(くつ)香(かうば)し。遥(はるか)に風磴(ふうとう)を登れば、竹筧(ちくけん)に甘泉(かんせん)を分て、石鼎(せきてい)に茶の湯を立(たて)置(おき)たり。松籟(しようらい)声を譲(ゆづり)て芳甘(はうかん)春濃(こまやか)なれば、一椀(いちわん)の中に天仙をも得つべし。紫藤(しとう)の屈曲(くつきよく)せる枝毎(ごと)に高く平江帯(ひんごうたい)を掛(かけ)て、■頭(ちとう)の香炉に鶏舌(けいぜつ)の沈水(ぢんずゐ)を薫(くん)じたれば、春風香暖(だん)にして不覚栴檀(せんだんの)林に入(いる)かと怪(あやし)まる。眸(まなじり)を千里に供(くう)じ首(かうべ)を四山に廻(めぐらし)、烟霞(えんか)重畳(ちようでふ)として山川雑(まじ)り峙(そばだち)たれば、筆を不仮丹青、十日一水の精神云(ここ)に聚(あつま)り、足を不移寸歩、四海(しかい)五湖(ごこ)の風景立(たちどころ)に得たり。一歩(いつほ)三嘆(さんたん)して遥(はるか)に躋(のぼれ)ば、本堂の庭に十囲(じふゐ)の花木(くわぼく)四本あり。此(この)下に一丈(いちぢやう)余(あま)りの鍮石(ちゆうじやく)の花瓶(くわひん)を鋳懸(いかけ)て、一双(いつさう)の華に作り成(な)し、其交(そのあはひ)に両囲(りやうゐ)の香炉を両机に並べて、一斤(いつきん)の名香を一度(いちど)に焚上(たきあげ)たれば、香風四方(しはう)に散じて、人皆浮香(ふかう)世界の中に在(ある)が如し。其陰(そのかげ)に幔(まん)を引(ひき)曲■(きよくろく)を立(たて)双(ならべ)て、百味の珍膳(ちんぜん)を調(ととの)へ百服の本非(ほんぴ)を飲(のみ)て、懸物(かけもの)如山積(つみ)上(あげ)たり。猿楽優士(いうし)一たび回(めぐり)て鸞(らん)の翅(つばさ)を翻(ひるがへ)し、白拍子倡家(しやうか)濃(こまやか)に春鴬(しゆんあう)の舌を暢(のぶ)れば、坐中の人人大口(おほぐち)・小袖を解(とい)て抛与(なげあた)ふ。興(きよう)闌(たけなは)に酔(ゑひ)に和(くわ)して、帰路(きろ)に月無(なけ)れば、松明(たいまつ)天を耀(かかやか)す。鈿車(でんしやの)軸(ぢく)轟(とどろ)き、細馬(さいば)轡(くつばみ)を鳴(なら)して、馳散(はせち)り喚(をめ)き叫びたる有様、只三尸(さんし)百鬼(ひやくきの)夜深(ふけ)て衢(ちまた)を過(すぐ)るに不異。華(はな)開(ひらき)花落(おつ)る事二十日、一城(いちじやう)の人皆狂(きやう)ぜるが如しと、牡丹(ぼたん)妖艶(えうえん)の色を風せしも、げにさこそは有(あり)つらめと思(おもひ)知(しら)るゝ許(ばかり)也(なり)。此遊(このあそび)洛中(らくちゆう)の口遊(くちずさみ)と成て管領(くわんれい)の方へ聞へければ、「是(これ)は只(ただ)我申沙汰する将軍家の華下(はなのもと)の会(くわい)を、かはゆ気(げ)なる遊(あそび)哉(かな)と欺(あざむき)ける者也(なり)。」と、安からぬ事にぞ被思ける。乍去是は心中の憤(いきどほり)にて公儀に可出咎(とが)にもあらず。「哀(あはれ)道誉(だうよ)、何事にても就公事犯法事あれかし。辛(から)く沙汰を致さん。」と心を付て被待ける処(ところに)、二十分(にじふぶんの)一(いち)の武家役を、道誉(だうよ)両年まで不沙汰間、管領すはや究竟(くつきやう)の罪科出来(しゆつらい)すと悦て、道誉(だうよ)が近年給(たまは)りたりける摂州の守護職(しゆごしよく)を改め、同国の旧領多田(ただの)庄(しやう)を没収(もつしゆ)して政所料所(まんどころれうしよ)にぞ成(なし)たりける。依之(これによつて)道誉(だうよ)が鬱憤(うつぷん)不安。如何(いか)にもして此(この)管領を失(うしなは)ばやと思(おもひ)て、諸大名を語(かたら)ふに、六角入道(ろくかくにふだう)は当家の惣領(そうりやう)なれば無子細。赤松は聟也(なり)。なじかは可及異儀。此(この)外の太名共も大略は道誉(だうよ)に不諛云(いふ)者無(なか)りければ、事に触(ふれ)此(この)管領天下の世務に叶(かなふ)まじき由を、将軍家へぞ讒(ざん)し申ける。魯叟(ろそう)有言、曰(いはく)、衆悪之必察焉、衆好之必察焉。或(あるひ)は其(その)衆阿党比周(あたうひしう)して好(よみん)ずる事あり。或(あるひ)は其(その)人特立不詳(とくりつふしやう)にして悪(にくま)るゝ事あり。毀誉(きよ)共(とも)に不察あるべからず。諸人の讒言遂(つひ)に真偽を不糾しかば、道朝無咎して忽(たちまち)に可討に定けり。此(この)事内々佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永に被仰て、江州(がうしう)の勢をぞ被召(めされ)ける。道朝此(この)由を伝(つたへ)聞て、貞治四年八月四日晩景(ばんげい)に、将軍の御前(おんまへ)に参じて被申けるは、「蒙御不審(ごふしん)由内々告(つげ)知(しら)する人の候(さうらひ)つれ共(ども)、於身不忠不儀の事候はねば、申(まうす)人の謬(あやまり)にてぞ候らんと、愚意(ぐい)を遣(やり)候(さうらひ)つるに、昨日江州(がうしう)の勢共(せいども)、合戦の用意(ようい)にて、罷(まかり)上り候(さうらひ)ける由承(うけたまはり)及(および)候へば、風聞の説早(はや)実(まこと)にて候(さうらひ)けりと信(しん)を取て候。抑道朝以無才庸愚身、大任重器(ちようき)の職を汚(けが)し候(さうらひ)ぬれば、讒言も多く候覧(らん)と覚(おぼえ)候。然(しか)るを讒者の御糺明(ごきうめい)までも無(なく)て、御不審(ごふしん)を可蒙にて候はゞ、国々の勢を被召までも候まじ。侍一人に被仰付て、忠諌の下に死を賜て、衰老(すゐらう)の後に尸(かばね)を曝(さら)さん事何の子細か候べき。」と、恨(うらみ)の面に涙を拭(のごひ)て被申ければ、将軍も理に服したる体(てい)にて、差(さし)たる御言(おんことば)なし。良(やや)久(ひさしく)黙然(もくねん)として涙を一目に浮べ給ふ。暫(しばらく)有て道朝已(すで)に退出せんとせられける時、将軍席を近付(ちかづけ)給(たまひ)て、「条々(でうでう)の趣げにもさる事にて候へ共、今の世中(よのなか)我(わが)心にも任たる事にても無ければ、暫(しばら)く越前の方へ下向有て、諸人の申(まうす)処をも被宥候へかし。」と宣へば、道朝、「畏て承ぬ。」とて軈(やがて)被退出ぬ。去(さる)程(ほど)に崇永兼(かね)て用意(ようい)したる事なれば、稠(きびし)くよろひたる兵八百(はつぴやく)余騎(よき)を卒して将軍の御屋形へ馳(はせ)参り、四門を警固仕る。是(これ)より京中(きやうぢゆう)ひしめき渡て、将軍へと馳(はせ)参る武者もあり、管領へと馳(はす)る人もあり。柳営(りうえい)家臣の両陣のあはひ僅(わづか)に半町許(ばかり)あれば、何(いづ)れを敵何(いづ)れを御方共不見分。道朝始(はじめ)は一箭(ひとや)射て腹を切らんと企(くはたて)けるが、将軍より三宝院(さんぼうゐんの)覚済(かくせい)僧正(そうじやう)を御使(おんつかひ)にて、度々被宥仰ける間、さらばとて北国下向の儀に定(さだま)りぬ。乍去をめ/\と都を出て下る体ならば悪(あし)かりなん。敵共(てきども)に被追懸事もこそあれとて、八月八日の夜半許(ばかり)に、二宮(にのみや)信濃(しなのの)守(かみ)五百(ごひやく)余騎(よき)、高倉面の門より、将軍家に押寄(おしよす)る体を見せて、鬨をぞ揚(あげ)たりける。是(これ)を聞て、将軍家へ馳(はせ)参りたる大勢共、内へ入(いら)んとするもあり、外へ出んとするもあり。何と云(いふ)事もなくせき合ふ程に、鎧の袖・胄(かぶと)を奪(うばは)れ、太刀・長刀を取られ、馬・物具を失ふ者数を不知(しらず)。未戦先(さき)に、禍(わざはひ)蕭墻(せうしやう)の中より出たりとぞ見へたりける。此(この)ひしめきの紛(まぎ)れに、道朝は三百(さんびやく)余騎(よき)の勢を卒し、長坂(ながさか)を経て越前へぞ被落ける。先陣今は一里許(ばかり)も落延(おちのび)ぬらんと覚(おぼゆ)る程に成て、二宮は迹を追て落行く。諸大名の勢共(せいども)、疲れに乗て打止(うちと)めんと追懸(おひかけ)たり。二宮長坂峠に控(ひかへ)て少も漂(ただよ)へる機(き)を不見、馬に道草かふて嘲(あざわらう)たる声(こわ)ざしにて申けるは、「都にて軍をせざりつるは敵を恐るゝにはあらず、只将軍に所を置(おき)奉る故(ゆゑ)也(なり)。今は都をも離れぬ。夜も明(あけ)ぬ。敵も御方も只今(ただいま)まで知り知られたる人々也(なり)。爰(ここ)にては我(われ)人の剛臆(がうおく)の程を呈(あらは)さでは何(いづ)れの時をか可期。馬の腹帯(はるび)の延(のび)ぬ先に早(はや)是(これ)へ御入(おんいり)候へ。我等(われら)が頚(くび)を御引出物(おんひきでもの)に進(まゐら)するか、御頚共(おんくびども)を餞(はなむけ)に給(たまは)るか、其(その)二の間に自他の運否(うんぴ)を定め候(さうらは)ばや。」と高声に呼(よばはり)て、馬の上にて鎧の上帯(うはおび)縮直(しめなほ)して、東頭(ひがしがしら)に引(ひか)へたり。其(その)勇気誠(まこと)に節に中(あたつ)て、死を軽(かろん)ずる義有て、前に可恐敵なしと見へければ、数万騎の寄手共(よせてども)、よしや今は是(これ)までぞとて、長坂の麓より引返しぬ。道朝、二宮を待(まち)付(つけ)て、越前へ下著(げちやく)し、軈(やが)て我(わが)身は杣山(そまやま)の城(じやう)に篭(こも)り、子息治部(ぢぶの)大輔(たいふ)義将(よしまさ)を栗屋(くりや)の城(じやう)に篭(こめ)て、北国を打(うち)随(したが)へんと被議ける間、将軍、「さらば討手を下(くだ)せ。」とて、畠山尾張(をはりの)守(かみ)義深(よしふか)・山名中務(なかつかさの)大輔(たいふ)・佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)高秀・土岐左馬(さまの)助(すけ)・佐々木(ささきの)判官入道(はうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・舎弟(しやてい)山内(やまのうち)判官入道(はうぐわんにふだう)崇誉(そうよ)・赤松大夫判官(たいふのはうぐわん)・同兵庫(ひやうごの)助(すけ)範顕(のりあき)、能登・加賀・若狭・越前・美濃・近江の国(くにの)勢、相共(あひとも)に七千(しちせん)余騎(よき)、同年の十月より二(ふたつ)の城(じやう)を囲(かこみ)て、日夜朝暮に攻(せめ)けれ共(ども)、此(この)城(じやう)可被落とも不見けり。斯(かか)る処に翌年(よくねん)七月に道朝俄(にはか)に病に被侵逝去(せいきよ)しければ、子息治部(ぢぶの)大輔(たいふ)義将(よしまさ)様様(さまざま)に歎(なげき)申されけるに依て、同九月に宥免安堵(いうめんあんど)の御教書(みげうしよ)を被成、京都へ被召返。無幾程越中(ゑつちゆう)の討手を承(うけたまはり)て、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常を退治(たいぢ)したりしかば、軈(やがて)越中(ゑつちゆう)の守護職(しゆごしよく)に被補。是(これ)より北国は無為(ぶゐ)に成(なり)にけり。此濫觴(このらんしやう)抑道朝が僻事(ひがこと)は何ぞや。唯(ただ)依諸人讒言失身給(たまひ)し者也(なり)。されば楚の屈原(くつげん)が泪羅(べきら)の沢(さは)に吟(さまよう)て、「衆人皆酔(ゑへり)、我独(ひとり)醒(さめ)たり。」と、世を憤(いきどほり)しを、漁父笑(わらつ)て、「衆人皆酔(ゑへ)らば、何(なん)ぞ其糟(そのかす)を喰(くらつ)て其(その)汁(しる)をすゝらざる。」と哥(うたう)て、滄浪(さうらう)の舟に棹(さをさし)しも、げにさる事も有(あり)けりと、被思知世と成(なり)にけり。
○神木御帰座(ごきざの)事(こと) S3907
大夫入道(たいふにふだう)々朝都を落(おち)て後、越前国(ゑちぜんのくに)河口(かはぐちの)庄(しやう)南都被返付しかば、神訴忽(たちまち)に落居(らくきよ)して、八月十二日神木御帰坐(ごきざ)あり。刻限卯(うの)時(とき)と被定(さだめられ)たるに、其(その)暁より雨闇(くら)く風暴(あら)かりしかば、天の忿(いかり)猶(なほ)何事にか残(のこる)らんと怪(あやし)かりしに、其期(そのご)に臨(のぞん)で雨晴(はれ)風定(しづま)りて、天気殊(こと)に麗(うるはし)かりしかば、是(これ)さへ人の意を感ぜしめたり。先(まづ)南曹弁(なんさうべんの)嗣房(つぎふさ)参て諸事を奉行す。午刻(むまのこく)許(ばかり)に鷹司(たかつかさの)左大臣殿(さだいじんどの)・九条殿・一条殿、大中納言(だいちゆうなごん)・大理以下次第に参り給ふ。関白殿(くわんばくどの)御著座あれば、数輩(すはい)の僧綱(そうがう)以下、御座の前にして其(その)礼を致す。是(これ)時(とき)の長者の験(しるし)也(なり)。出御(しゆつぎよ)の程に成(なり)ぬれば、数万人(すまんにん)立(たち)双(ならび)たる大衆の中より、一人進(すすみ)出て有僉議。音声雲に響き、言語玉を連(つら)ねたり。僉議終(をはれ)ば幄屋(あくや)に乱声(らんじやう)を奏す。翕如(きふじよ)たる声の中に、布留(ふる)の神宝を出し奉るに、関白殿(くわんばくどの)以下、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)席を避(さけ)て皆跪(ひざまつ)き給ふ。其(その)次に本社の御榊・四所の御正体(みしやうだい)、光明(くわうみやう)赫奕(かくやく)としてゆすり出させ給へば、数千(すせん)の神官(じんくわん)共(ども)、覆面(ふくめん)をして各捧(ささ)げ奉る。両列(りやうれつ)の伶倫(れいりん)、道々還城楽(げんじやうらく)を奏して、正始(せいし)の声を調(しら)べ、神人警蹕(けいひつ)の声を揚(あげ)て非常を禁(いま)しむ。赤衣仕丁(せきえのじちやう)白杖(はくぢやう)を持て御前(おんまへ)に立(たち)、黄衣(くわうえの)神人神宝を頂戴(ちやうだい)して次々に順(したが)ふ。其(その)外の神司(かんつかさ)束帯を著して列(れつ)を引(ひく)。白衣(はくえの)神人、数千人(すせんにん)の国民等(こくみんら)歩列(あゆみつらな)る。時の関白良基(よしもと)公(こう)は、柳の下重(したがさね)に糸鞋(いとぐつ)を召(めし)、当(あた)りも耀(かかや)く許(ばかり)に歩み出させ給へば、前駆(ぜんく)四人左右に順(したが)ひ、殿上人(てんじやうびと)二人(ににん)御裾(おんきよ)をもつ。随身(ずゐじん)十人(じふにん)有(あり)といへ共態(わざと)御先(おんさき)をばをはず。神幸に恐(おそれ)を成し奉る故(ゆゑ)也(なり)。其(その)次には鷹司(たかつかさの)左大臣・今出河大納言・花山(くわざんの)院(ゐん)大納言(だいなごん)・九条(くでうの)大納言(だいなごん)・一条(いちでうの)大納言(だいなごん)・坊城(ばうじやうの)中納言(ちゆうなごん)・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)・西園寺中納言・四条(しでうの)宰相(さいしやう)・洞院(とうゐんの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)、殿上人(てんじやうびと)には、左中将(さちゆうじやう)忠頼(ただより)・右中将(うちゆうじやう)季村(すゑむら)・新中将(しんちゆうじやう)親忠(ちかただ)・左中弁嗣房(つぎふさ)・新中将(しんちゆうじやう)基信(もとのぶ)・蔵人(くらうど)右中弁(うちゆうべん)宣房(のぶふさ)・権右中弁(ごんのうちゆうべん)資康(すけやす)・蔵人左中弁仲光・右小弁宗顕(むねあき)・左少将為有(ためあり)・右少将兼時(かねとき)、行妝(ぎやうさう)を整(ととの)へ、威儀を正(ただし)くして、閑(しづか)に列(れつ)をなし給へば、供奉(ぐぶ)の大衆二万人、各(おのおの)貝(かひ)を吹(ふき)連(つらね)て、前後三十(さんじふ)余町(よちやう)に支(ささへ)たり。盛(さかんなる)哉(かな)朝廷無事の化(くわ)、遠く天児屋根(あまのこやね)の昔に立(たち)返り、博陸具瞻(はくりくぐせん)の徳、再(ふたた)び高彦霊尊(たかみむすびのみこと)の勅を新(あらた)にし給へり。誠(まこと)に利物(りもつ)の垂迹(すゐじやく)、順逆の縁に和光(わくわう)し不給、今斯(かか)る神幸を拝し奉るべしやと、岐(ちまた)に満(みつ)る見物衆の、神徳を貴ばぬは無(なか)りけり。
○高麗人(かうらいじん)来朝(らいてうの)事(こと) S3908
四十(しじふ)余年(よねん)が間本朝大に乱(みだれ)て外国(ぐわいこく)暫(しばらく)も不静。此(この)動乱に事を寄せて、山路には山賊有て旅客(りよかく)緑林(りよくりん)の陰(かげ)を不過得、海上には海賊多(おほく)して、舟人白浪(はくらう)の難を去兼(さりかね)たり。欲心(よくしん)強盛(がうせい)の溢物(あぶれもの)共(ども)以類集りしかば、浦々島々多く盜賊(たうぞく)に被押取て、駅路(えきろ)に駅屋(えきや)の長(ちやう)もなく関屋(せきや)に関守(せきもる)人を替(かへ)たり。結句此賊徒(このぞくと)数千艘の舟をそろへて、元朝(げんてう)・高麗(かうらい)の津々泊々(とまりとまり)に押(おし)寄(よせ)て、明州(みやうしう)・福州(ふくしう)の財宝を奪(うばひ)取る。官舎・寺院を焼(やき)払ひける間、元朝・三韓(さんかん)の吏民(りみん)是(これ)を防兼(ふせぎかね)て、浦近き国々数十箇国(すじつかこく)皆栖(すむ)人もなく荒(あれ)にけり。依之(これによつて)高麗国の王より、元朝皇帝(くわうてい)の勅宣(ちよくせん)を受(うけ)て、牒使(てふし)十七人(じふしちにん)吾(わが)国(くに)に来朝す。此(この)使異国の至正(しせい)二十三年八月十三日(じふさんにち)に高麗を立て、日本国貞治(ぢやうぢ)五年九月二十三日(にじふさんにち)出雲に著岸(ちやくがん)す。道駅を重(かさね)て無程京都に著(つき)しかば、洛中(らくちゆう)へは不被入して、天竜寺(てんりゆうじ)にぞ被置ける。此(この)時(とき)の長老春屋和尚(しゆんをくをしやう)覚普明国師、牒状を進奏せらる。其詞(そのことばに)云(いはく)、皇帝(くわうてい)聖旨寰、征東行中書省、照得日本(につぽん)与本省所轄高麗地境水路相接。凡遇貴国飄風人物、往往依理護送。不期自至正十年(じふねん)庚寅、有賊船数多、出自貴国地面、前来本省合浦等処、焼毀官廨、掻擾百姓甚至殺害。経及一十(じふ)余年(よねん)、海舶不通、辺界居民不能寧処。蓋是島嶼居民不懼官法、専務貪婪。潜地出海劫奪。尚慮貴国之広、豈能周知。若使発兵勣捕、恐非交隣之道。徐已移文日本国照験。頗為行下概管地面海島、厳加禁治、毋使如前出境作耗。本省府今差本職等一同馳駅、恭詣国主前啓稟。仍守取日本国回文還省。閣下仰照験。依上施行、須議箚付者。一実起右、箚付差去、万戸金乙貴、千戸金龍等准之。とぞ書たりける。賊船の異国を犯奪(をかしうばふ)事は、皆四国九州の海賊共がする所なれば、帝都より厳刑(げんけい)を加(くはふ)るに拠(よんどころ)なしとて、返牒をば不被送。只来献(らいけん)の報酬とて、鞍(くら)馬十疋(じつぴき)・鎧二領(にりやう)・白太刀三振(ふり)・御綾(あや)十段・綵絹(さいけん)百段・扇子(せんす)三百本、国々の奉送使(ほうそうし)を副(そへ)て、高麗へぞ送り被著ける。
○自太元(たいげんより)攻日本(につぽんをせむる)事(こと) S3909
倩(つらつら)三余(さんよ)の暇(いとま)に寄(よせ)て千古の記する処を看(み)るに、異国より吾朝(わがてう)を攻(せめ)し事、開闢以来(かいびやくよりこのかた)已(すで)に七箇度(しちかど)に及べり。殊更(ことさら)文永・弘安両度の戦は、太元国の老皇帝(らうくわうてい)支那四百州を討取て勢(いきほ)ひ天地を凌(しの)ぐ時なりしかば、小国の力にて難退治(たいぢ)かりしか共、輙(たやす)く太元の兵を亡(ほろぼ)して吾(わが)国(くに)無為(ぶゐ)なりし事は、只是(これ)尊神霊神(そんしんれいしん)の冥助(みやうじよ)に依(より)し者也(なり)。其(その)征伐の法を聞けば、先(まづ)太元の大将万(まん)将軍(しやうぐん)、日本王畿五箇国(ごかこく)を四方(しはう)三千七百(さんぜんしちひやく)里(り)に勘(かんが)へて、其(その)地に兵を無透間立双(たちならべ)て是(これ)を数(かぞふ)るに、三百七十万騎(さんびやくしちじふまんぎ)に当れり。此(この)勢を大船七万(しちまん)余艘(よさう)に乗て、津々浦々(つつうらうら)より推(おし)出す。此企(このくはたて)兼(かね)てより吾朝に聞へしかば、其(その)用意(ようい)を致せとて、四国・九州の兵は筑紫の博多に馳(はせ)集り、山陽・山陰の勢(せい)は帝都に馳参る。東山道(とうせんだう)・北陸道(ほくろくだう)の兵は、越前敦賀(つるが)の津をぞ堅(かた)めける。去(さる)程(ほど)に文永二年八月十三日(じふさんにち)、太元七万(しちまん)余艘(よさう)の兵船、同時に博多の津に押寄(おしよせ)たり。大舶(たいはく)舳艫(ともへ)を双(ならべ)て、もやいを入(いれ)て歩(あゆみ)の板を渡して、陣々に油幕(ゆばく)を引き干戈(かんくわ)を立双(たちなら)べたれば、五島(ごたう)より東、博多の浦に至るまで、海上の四囲(しゐ)三百(さんびやく)余里(より)俄(にはか)に陸地(くがち)に成(なり)て、蜃気(しんき)爰(ここ)に乾闥婆城(けんだつばじやう)を吐(はき)出せるかと被怪。日本(につぽん)の陣の構(かまへ)は、博多の浜端(はまばた)十三里に石の堤(つつみ)を高く築(きづい)て、前は敵の為に切立たるが如く、後(うしろ)は為御方平々(へいへい)として懸引(かけひき)自在也(なり)。其陰(そのかげ)に屏(へい)を塗り陣屋を作て、数万の兵並居(なみゐ)たれば、敵に勢の多少をば見透(みすか)されじと思ふ処に、敵の舟の舳前(へさき)に、桔槹(はねつるべ)の如くなる柱を数十丈(すじふぢやう)高く立て、横なる木の端(はし)に坐を構(かまへ)て人を登せたれば、日本(につぽん)の陣内目の下に直下(みおろ)されて、秋毫(しうがう)の先をも数(かぞへ)つべし。又面の四五丈広き板を、筏(いかだの)如(ごとく)に畳鎖(たたみくさり)て水上に敷双(しきならべ)たれば、波の上に平なる路数(あま)た作(つくり)出されて、恰(あたかも)三条(さんでう)の広路(ひろみち)、十二の街衢(かいく)の如く也(なり)。此(この)路より敵軍数万の兵馬を懸出し、死をも不顧戦ふに、御方(みかた)の軍勢(ぐんぜい)の鉾(ほこ)たゆみて、多くは退屈してぞ覚(おぼえ)ける。皷を打て兵刃(へいじん)既(すで)に交(まじは)る時、鉄炮(てつぱう)とて鞠(まり)の勢なる鉄丸(てつぐわん)の迸(ほとばし)る事下坂輪(くだりざかりん)の如く、霹靂(へきれき)する事閃電光の如くなるを、一度(いちど)に二三千(にさんぜん)抛(なげ)出したるに、日本(につぽんの)兵多(おほく)焼(やき)殺され、関櫓(きどやぐら)に火燃(もえ)付(つき)て、可打消隙も無(なか)りけり。上松浦(かみまつら)・下松浦(しもまつら)の者共(ものども)此(この)軍を見て、尋常(よのつね)の如(ごとく)にしては叶はじと思(おもひ)ければ、外(よそ)の浦より廻(まはつ)て、僅(わづか)に千(せん)余人(よにん)の勢にて夜討にぞしたりける。志の程は武(たけ)けれ共(ども)、九牛(きうぎう)が一毛(いちまう)、大倉(たいさう)の一粒(いちりふ)にも当らぬ程の小勢にて寄せたれば、敵を討(うつ)事は二三万人なりしか共、終(つひ)には皆被生捕、身を縲紲(るゐせつ)の下に苦しめて、掌(たなごころ)を連索(れんさく)の舷(ふなばた)に貫(つらぬか)れたり。懸(かか)りし後は重(かさね)て可戦様も無(なか)りしかば、筑紫九国の者共(ものども)一人も不残四国・中国へぞ落(おち)たりける。日本(につぽん)一州の貴賎上下如何(いか)がせんと周章騒(あわてさわ)ぐ事不斜(なのめならず)。諸社の行幸御幸(ぎやうがうごかう)・諸寺の大法秘法、宸襟(しんきん)を傾(かたぶけ)て肝胆(かんたん)を砕(くだ)かる。都(すべ)て六十(ろくじふ)余州(よしう)大小(だいせう)の神祇、霊験(れいけん)の仏閣に勅使(ちよくし)を被下、奉幣を不被捧云(いふ)所なし。如此御祈祷(ごきたう)已(すで)に七日満(まん)じける日、諏訪(すは)の湖(みづうみ)の上より、五色の雲西に聳(たなび)き、大蛇の形に見へたり。八幡(やはたの)御宝殿の扉(とびら)啓(ひら)けて、馬の馳(はせ)ちる音、轡(くつばみ)の鳴(なる)音、虚空(こくう)に充満(みちみち)たり。日吉の社二十一社(にじふいつしや)の錦帳(きんちやう)の鏡動(うご)き、神宝刃(やいば)とがれて、御沓皆西に向へり。住吉(すみよし)四所の神馬(じんめ)鞍の下に汗流れ、小守(こもり)・勝手(かつて)の鉄(くろがね)の楯(たて)己(おのれ)と立て敵の方につき双(なら)べたり。凡(およそ)上中下二十二社の震動奇瑞(しんどうきずゐ)は不及申、神名帳に載(のす)る所の三千七百五十(さんぜんしちひやくごじふ)余社(よしや)乃至(ないし)山家村里(さんかそんり)の小社(ほこら)・櫟社(れきしや)・道祖(だうそ)の小神迄(まで)も、御戸(みと)の開(ひらか)ぬは無(なか)りけり。此(この)外春日野(ひの)の神鹿(しんろく)・熊野山(くまのさん)の霊烏(れいう)・気比(けひの)宮(みや)の白鷺(しらさぎ)・稲荷山の名婦(みやうぶ)・比叡山(ひえいさん)の猿、社々の仕者(ししや)、悉(ことごとく)虚空を西へ飛(とび)去ると、人毎(ひとごと)の夢に見へたりければ、さり共此(この)神々の助(たすけ)にて、異賊(いぞく)を退(しりぞ)け給はぬ事はあらじと思ふ許(ばかり)を憑(たのみ)にて、幣帛(へいはく)捧(ささげ)ぬ人もなし。浩(かか)る処に弘安四年七月七日、皇太神宮の禰宜(ねぎ)荒木田尚良(あらきたのひさよし)・豊受(とようけ)太神宮の禰宜度会貞尚等(わたらゑのさだひさら)十二人(じふににん)起請(きしやう)の連署(れんしよ)を捧(ささげ)て上奏しけるは、「二宮(にぐう)の末社(まつしや)風の社(みや)の宝殿の鳴動する事良(やや)久し。六日の暁天(げうてん)に及(および)て、神殿より赤(あかき)雲一村(ひとむら)立(たち)出て天地を耀(かかやか)し山川を照す。其(その)光の中より、夜叉羅刹(やしやらせつ)の如くなる青色の鬼神顕(あらは)れ出て土嚢(どなう)の結目(ゆひめ)をとく。火風其(その)口(くち)より出て、沙漁(しやぎよ)を揚(あ)げ大木(たいぼく)を吹(ふき)抜く。測(はかり)ぬ、九州の異狄等(いてきら)、此(この)日(ひ)即(すなはち)可滅と云(いふ)事を。事若(もし)誠有て、奇瑞(きずゐ)変(へん)に応ぜば、年来(としごろ)申請(まうしうく)る処の宮号(みやがう)、被叡感儀可火宣下。」とぞ奏し申ける。去(さる)程(ほど)に大元(たいげん)の万(まん)将軍(しやうぐん)、七万(しちまん)余艘(よさう)のもやひをとき、八月十七日(じふしちにち)辰刻(たつのこく)に、門司・赤間が関を経て、長門・周防へ押渡る。兵已(すで)に渡中(となか)をさしゝし時、さしも風止(や)み雲閑(しづか)なりつる天気俄(にはか)に替(かはつ)て、黒雲一村艮(うしとら)の方より立覆(おほ)ふとぞ見へし。風烈(はげし)く吹(ふい)て逆浪(さかなみ)大に漲(みなぎ)り、雷(いかづち)鳴霆(なりはためい)て電光地に激烈す。大山も忽(たちまち)に崩れ、高天も地に落(おつ)るかとをびたゝし。異賊七万(しちまん)余艘(よさう)の兵船共或(あるひ)は荒磯の岩に当て、微塵(みぢん)に打砕かれ、或(あるひ)は逆巻(さかまく)浪に打返されて、一人も不残失(うせ)にけり。斯(かか)りけれ共(ども)、万将軍一人は大風にも放たれず、浪にも不沈、窈冥(えうめい)たる空中に飛(とび)揚(あが)りてぞ立たりける。爰(ここ)に呂洞賓(りよとうひん)と云(いふ)仙人、西天の方より飛来て、万将軍に占(しめ)しけるは、「日本(につぽん)一州の天神地祇三千七百(さんぜんしちひやく)余社(よしや)来て、此(この)悪風を起し逆浪(げきらう)を漲(みなぎら)しむ。人力の可及処に非(あら)ず。汝(なんぢ)早く一箇の破船に乗て本国へ可帰。」とぞ申ける。万将軍此(この)言を信じて、一箇の破船有(あり)けるに乗て、只一人大洋万里の波を凌(しのぎ)て、無程明州の津にぞ著(つき)にける。舟より上り、帝都へ参らんとする処に、又呂洞賓忽然(こつぜん)として来て申けるは、「汝日本(につぽん)の軍に打負(うちまけ)たる罪に依て、天子忿(いかつ)て親類骨肉、皆(みな)三族の罪に行(おこな)はれぬ。汝帝都に帰らば必(かならず)共(とも)に可被刑。早く是(これ)より剣閣(けんかく)を経て、蜀(しよく)の国へ行去れ。蜀王以汝大将として、雍州(ようしう)を攻(せめ)ばやと、羨念(うらやみおも)ふ事切(せつ)なり。至らば必(かならず)大功を建(たつ)べしと云て別れたるが、我汝が餞送(はなむけ)の為に嚢(なう)中を探(さぐ)るに、此(この)一物の外は無他。」とて、膏薬(かうやく)を一付与へける。其(その)銘に至雍発(しようはつ)とぞ書(かき)付(つけ)たりける。万将軍呂洞賓(りよとうひん)が言に任(まかせ)て、蜀へ行(ゆき)たるに、蜀王是(これ)を悦(よろこび)給ふ事無限。軈(やが)て万将軍に上将(じやうしやう)の位を授け、雍州をぞ攻(せめ)させける。万将軍兵を卒し旅(りよ)を屯(たむろし)て雍州に至るに、敵山隘(さんあい)の高く峙(そばだち)たるに、石の門を閉(とぢ)てぞ待(まち)たりける。誠(まこと)に一夫(いつぶ)忿(いかつ)て臨関に、万夫(ばんぷ)も不可傍と見へたり。此(この)時(とき)に万将軍、呂洞賓が我に与(あたへ)し膏薬の銘(めい)に至雍発(はつ)せよと書(かき)たりしは、此(この)雍州の石門に付(つけ)よと教へけるにこそと心得(こころえ)て、密(ひそか)に人をして、一付有(あり)ける膏薬を、石門の柱にぞ付(つけ)させたりける。付(つく)ると斉(ひとし)く石門の柱も戸も如雪霜とけて、山崩(くづ)れ道平になりければ、雍州の敵数万騎、可防便(たより)を失(うしなひ)て、皆蜀王にぞ降(くだ)りける。此(この)功然(しかしながら)万将軍が徳也(なり)とて、軈(やが)て公侯の位に登せられける。居(を)る事三十日有て、万将軍背(せなか)に癰瘡(ようさう)出たりけるが、日を不経して忽(たちまち)に死(しに)にけり。雍州の雍の字と癰瘡(ようさう)の癰字と■声(いんせい)通ぜり。呂洞賓が膏薬の銘に至癰発と書(かき)けるは、雍州の石門に付(つけ)よと教(をしへ)けるか、又癰瘡(ようさう)の出たらんに付(つけ)よと占(しめ)しけるか、其(その)二の間を知(しり)難し。功は高(たかく)して命は短し。何をか捨(すて)何をか取(とら)ん。若(もし)休(やむ)事を不得して其(その)一を捨(すて)ば、命は在天、我は必(かならず)功を取(とら)ん。抑太元三百万騎の蒙古(もうこ)共(ども)一時に亡(ほろび)し事、全(まつたく)吾国の武勇(ぶよう)に非(あら)ず。只(ただ)三千七百五十(さんぜんしちひやくごじふ)余社(よしや)の大小(だいせう)神祇、宗廟(そうべう)の冥助(みやうじよ)に依るに非(あら)ずや。
○神功皇后(じんぐうくわうごう)攻新羅給(たまふ)事(こと) S3910
昔(むか)し仲哀天皇(てんわう)、聖文神武(せいぶんしんむ)の徳を以て、高麗(かうらい)の三韓を攻(せめ)させ給ひけるが、戦(たたかひ)利無(なく)して帰らせ給ひたりしを、神功皇后(じんぐうくわうごう)、是(これ)智謀武備(ぶび)の足(たら)ぬ所也(なり)とて、唐朝(たうてう)へ師(いくさ)の束脩(そくしゆ)の為(ため)に、沙金(しやきん)三万両を被遣、履道翁(りだうおう)が一巻(いつくわん)の秘書を伝(つたへ)らる。是(これ)は黄石(くわうせき)公(こう)が第五日の鶏鳴(けいめい)に、渭水(ゐすい)の土橋(つちはし)の上にて張良に授(さづけ)し書なり。さて事已(すで)に定て後、軍評定の為に、皇后諸(もろもろ)の天神地祇を請(しやう)じ給ふに、日本(につぽん)一万(いちまん)の大小(だいせう)の神祇冥道(みやうだう)、皆勅請(ちよくしやう)に随て常陸(ひたち)の鹿島(かしま)に来(きたり)給ふ。雖然、海底に迹(あと)を垂(たれ)給(たまふ)阿度部(あとべ)の磯良(いそら)一人不応召。是(これ)如何様(いかさま)故(ゆゑ)あらんとて、諸の神達(かみたち)燎火(にはび)を焼(た)き、榊の枝に白和幣(しらにぎて)・青和幣取(あをにぎて)取(とり)懸(かけ)て、風俗(ふうぞく)・催馬楽(さいばら)、梅枝(むめがえ)・桜人(さくらひと)・石河(いしかは)・葦垣(あしがき)・此殿(このとの)・夏引(なつひき)・貫河(ぬきかは)・飛鳥井(あすかゐ)・真金吹(まかねふく)・差櫛(さしくし)・浅水(あさうづ)の橋、呂律(りよりつ)を調べ、本末を返(かへし)て数反(すへん)哥はせ給(たまひ)たりしかば、磯良(いそら)感に堪兼(たへかね)て、神遊(かみあそび)の庭にぞ参たる。其貌(そのかたち)を御覧ずるに、細螺(したたみ)・石花貝(かき)・藻(も)に棲(すむ)虫、手足五体(ごたい)に取付て、更(さら)に人の形にては無(なか)りけり。神達(かみたち)怪(あやし)み御覧じて、「何故(なにゆゑに)懸(かか)る貌(かたち)には成(なり)けるぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、磯良答(こたへ)て曰く、「我滄海(さうかい)の鱗(うろくづ)に交(まじはり)て、是(これ)を利(り)せん為に、久(ひさし)く海底に住(すみ)侍りぬる間、此(この)貌に成(なり)て候也(なり)。浩(かか)る形にて無止事御神前に参らんずる辱(はづか)しさに、今までは参り兼(かね)て候つるを、曳々融々(えいえいゆうゆう)たる律雅(りつが)の御声(みこゑ)に、恥をも忘れ身をも不顧して参りたり。」とぞ答(こたへ)申ける。軈(やが)て是(これ)を御使(おんつかひ)にて、竜宮城に宝とする干珠(かんじゆ)・満珠(まんじゆ)を被借召。竜神(りゆうじん)即(すなはち)応神勅二(ふたつ)の玉を奉る。神功皇后(じんぐうくわうごう)一巻(いつくわん)の書を智謀とし、両顆(りやうくわ)の明珠を武備(ぶび)として新羅(しんら)へ向(むか)はんとし給ふに、胎内に宿り給ふ八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)已(すで)に五月(いつつき)に成(なら)せ給ひしかば、母后の御腹(おんはら)大に成て、御鎧を召(めさ)るゝに御膚(おんはだへ)あきたり。此(この)為に高良(かうら)明神の計(はからひ)として、鎧の脇立(わいだち)をばし出しける也(なり)。諏防(すは)・住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)を則(すなはち)副将軍(ふくしやうぐん)・裨(ひ)将軍(しやうぐん)として、自余(じよ)の大小(だいせう)の神祇、楼船(ろうせん)三千(さんぜん)余艘(よさう)を漕双(こぎなら)べ、高麗国へ寄給ふ。是(これ)を聞て高麗の夷(えびす)共(ども)、兵船一万(いちまん)余艘(よさう)に取乗て海上に出向ふ。戦(たたかひ)半(なかば)にして雌雄(しゆう)未(いまだ)決(けつせざる)時(とき)、皇后先(まづ)干珠(かんじゆ)を海中に抛(なげ)給(たまひ)しかば、潮(うしほ)俄(にはか)に退(しりぞい)て海中陸地(ろくぢ)に成(なり)にけり。三韓(さんかんの)兵共(つはものども)、天我に利を与へたりと悦て、皆舟より下(おり)、徒立(かちだち)に成てぞ戦ひける。此(この)時(とき)に又皇后満珠(まんじゆ)を取て抛(なげ)給(たまひ)しかば、潮(うしほ)十方より漲(みなぎ)り来て、数万人(すまんにん)の夷(えびす)共(ども)一人も不残浪に溺(おぼれ)て亡(ほろび)にけり。是(これ)を見て三韓の夷の王自(みづから)罪を謝(しやし)て降参し給ひしかば、神功皇后(じんぐうくわうごう)御弓の末弭(うらはず)にて、「高麗の王は我が日本(につぽん)の犬也(なり)。」と、石壁(せきへき)に書(かき)付(つけ)て帰らせ給ふ。是(これ)より高麗我朝(わがてう)に順(したがひ)て、多年其貢(そのみつぎもの)を献(たてまつ)る。古は呉服部(くれはとり)と云(いふ)綾織(あやおり)、王仁(わうにん)と云(いふ)才人(さいじん)、我朝に来りけるも、此貢(このみつぎもの)に備(そなは)り、大紋(だいもん)の高麗縁(かうらいべり)も其篋(そのはこもの)とぞ承(うけたまは)る。其(その)徳天に叶ひ其化(そのくわ)遠(とほき)に及(および)し上古の代にだにも、異国を被順事は、天神地祇の力を以てこそ、容易(たやすく)征伐せられしに、今無悪不造(ふざう)の賊徒等(ぞくとら)、元朝高麗を奪(うばひ)犯(をかし)、牒使(てふし)を立(たて)させ、其課(そのかけもの)を送らしむる事、前代未聞(ぜんだいみもん)の不思議(ふしぎ)なり。角(かく)ては中々吾朝(わがてう)却(かへつ)て異国に奪(うばは)るゝ事もや有らんずらんと、怪しき程の事共(ことども)也(なり)。されば福州の呉元帥王乙(ごげんすゐわういつ)が吾朝へ贈りたる詩にも、此(この)意を暢(のべ)たり。日本(につぽん)狂奴乱浙東。将軍聴変気如虹。沙頭列陣烽烟闇。夜半皆殺兵海水紅。篳篥按哥吹落月。髑髏盛酒飲清風。何時截尽南山竹。細写当年殺賊功。此(この)詩の言(ことば)に付て思ふに、日本(につぽん)一州に近年竹の皆枯失(かれうす)るも、若(もし)加様(かやう)の前表にてやあらんと、無覚束行末也(なり)。
○光厳院(くわうごんゐん)禅定法皇(ぜんぢやうほふわう)行脚(あんぎやの)事(こと) S3911
光厳院(くわうごんゐん)禅定法皇(ぜんぢやうほふわう)は、正平七年の比、南山賀名生(あなふ)の奥より楚の囚(とらはれ)を被許させ給(たまひ)て、都へ還御成(なり)たりし後、世中(よのなか)をいとゞ憂き物に思召(おぼしめし)知(しら)せ給(たまひ)しかば、姑耶山(こやさん)の雲を辞(じ)し、汾水陽(ふんすゐやう)の花を捨(すて)て、猶(なほ)御身(おんみ)を軽く持たばやと思召けり。御荒増(おんあらまし)の末通(とほり)て、方袍円頂(はうはうゑんちやう)の出塵(しゆつぢん)の徒(と)と成(なら)せ給(たまひ)しかば、伏見の里の奥光厳院(くわうごんゐん)と聞へし幽閑(いうかん)の地にぞ住(すま)せ給ひける。是(これ)も猶(なほ)都近き所なれば、旧臣の参り仕へんとするも厭(いと)はしく、浮世の事の御耳に触るも冷(すさまじ)く思召(おぼしめさ)れければ、来(きたりて)無所止、去(さりて)無住。柱杖頭辺(しゆぢやうとうへん)活路(くわつろ)通ずと、中峯(ちゆうほう)和尚の被作送行偈(そうあんのげ)、誠(まこと)に由(よし)ありと御心(おんこころ)に染(そみ)て、人工(にんぐ)・行者(あんじや)の一人をも不被召具、只順覚と申ける僧を一人御共にて、山林斗薮(とそう)の為に立(たち)出させ給ふ。先(まづ)西国の方を御覧ぜんと思食(おぼしめし)て、摂津国(つのくに)難波の浦を過(すぎ)させ給ふに、御津(みつ)の浜松霞(かすみ)渡(わたり)て、曙(あけぼの)の気色(けしき)物哀(ものあはれ)なれば、迥(はるか)に被御覧て、誰待(まち)てみつの浜松霞(かすむ)らん我が日本(ひのもと)の春ならぬ世にと、打涙ぐませ給ふ。山遠き浦の夕日の浪に沈まんとするまで興ぜさせ給(たまひ)て、猶(なほ)過(すぎ)うしと思召(おぼしめし)たるに、望無窮水接天色、看不尽山映夕暉と云(いふ)対句の時節に相叶(あひかなひ)たるにも、捨(すて)ぬ世ならば、何故(なにゆゑ)浩(かか)る風景をも可見と被仰けるも物悲し。是(これ)より高野山を御覧ぜんと思召(おぼしめし)て、住吉(すみよし)の遠里小野(うりうの)へ出させ給ひたれば、焼痕(せうこん)回緑春容早(はやく)、松影穿紅日脚西なり。海天(かいてん)野景(やけい)歩(あゆむ)に随て新(あらた)なる風流に、御足たゆむ共不被思食。昔は銷金軽羅(せうこんけいら)の茵(しとね)ならでは、仮(かり)にも蹈(ふま)せ給はざりし玉趾(ぎよくし)を、深泥湿土(しんでいしつと)の黯(くろめる)に汚(けが)れさせ給ひ御供(おんとも)の僧は、仕(つか)へて懸(かけ)し肘後(ちうご)の府に替(かは)れる一鉢(いつぱつ)を脇(わき)にかけ、今夜堺(さかひの)浦(うら)までも歩ませ給へば、塩干(しほひ)の潟(かた)にむれ立て、玉藻を拾ひ磯菜(いそな)取る海人(あま)共(ども)の、各つげの小櫛を差(さし)て、葦間に隠(かく)れ顕(あらは)れたる様を被御覧にも、「御貢(みつぎもの)備(そなへ)し民の営(いとなみ)、是(これ)程(ほど)に身を苦しめけるをしらで、等閑(なほざり)にすさびける事よ。」と、今更浅猿(あさまし)く思食(おぼしめし)知(しら)せ給ふ。回首望東を、雲に聯(つら)なり霞に消(きえ)て、高く峙(そばた)てる山あり。道に休める樵(きこり)に山の名を問はせ給へば、「是(これ)こそ音に聞へ候金剛山の城(じやう)とて、日本国の武士共(ぶしども)の、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数をも不知討(うた)れ候(さうらひ)し所にて候へ。」とぞ申ける。是(これ)を聞食(きこしめし)て、「穴(あな)浅猿(あさまし)や、此(この)合戦と云(いふ)も、我一方の皇統(くわうとう)にて天下を争ひしかば、其亡卒(そのばうそつ)の悪趣(あくしゆ)に堕(だ)して多劫(たごふ)が間苦(く)を受けん事も、我罪障(わがざいしやう)にこそ成(なり)ぬらめ。」と先非を悔(くい)させ御坐(おはしま)す。経日紀伊(きいの)川を渡らせ給ひける時、橋柱朽(くち)て見るも危(あやふ)き柴橋(しばはし)あり。御足冷(すさまじ)く御肝(おんきも)消(きえ)て渡りかねさせ給ひたれば、橋の半(なかば)に立(たち)迷(まよう)てをはするを、誰とは不知、如何様(いかさま)此(この)辺に、臂(ひぢ)を張り作(つく)り眼する者にてぞある覧(らん)と覚へたる武士七八人(しちはちにん)迹(あと)より来りけるが、法皇の橋の上に立(たた)せ給ひたるを見て、「此(ここ)なる僧の臆病気(おくびやうげ)なる見度(みたう)もなさよ。是(これ)程急ぎ道の一つ橋を、渡らばとく渡れかし。さなくは後に渡れかし。」とて、押のけ進(まゐ)らせける程に、法皇橋の上より被押落させ給ひて、水に沈ませ給ひにけり。順覚、「あら浅猿(あさまし)や。」とて、衣乍著飛(とび)入て引起し進(まゐら)せたれば、御膝は岩のかどに当りて血になり、御衣は水に漬(ひた)りてしぼり不得。泣々(なくなく)傍(あたり)なる辻堂へ入れ進(まゐら)せて、御衣を脱替(ぬぎかへ)させ進(まゐら)せけり。古へも浩(かか)る事やあるべきと、君臣共に捨(すつ)る世を、さすがに思召(おぼしめし)出ければ、涙の懸(かか)る御袖(おんそで)は、ぬれてほすべき隙(ひま)もなし。行末心細き針道(はりみち)を経て御登山有(あり)ければ、山又(また)山、水又(また)水、登臨(とうりん)何(いづれの)日(ひか)尽(つく)さんと、身力疲れて被思食にも、先年大覚寺(だいかくじの)法皇の、此(この)寺へ御幸成りしに、供奉(ぐぶ)の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)諸共(もろとも)に、一町(いつちやう)に三度(さんど)の礼拝をして、首(かうべ)を地に著(つ)け、誠(まこと)を致されける事も、難有かりける御願哉(かな)。予が在位の時も、代(よ)静(しづ)かなりせば、などか其芳躅(そのはうしよく)を不蹈と、思召(おぼしめし)准(なぞら)へらる。さて御山にも御著(おんつき)有(あり)しかば、大塔(だいたふ)の扉(とびら)を開(ひらか)せて両界の曼荼羅(まんだら)を御拝見あれば、胎蔵界(たいざうかい)七百(しちひやく)余尊(よそん)、金剛界(こんがうかい)五百(ごひやく)余尊(よそん)をば、入道太政大臣(だいじやうだいじん)清盛公(きよもりこう)、手(てづか)ら書(かき)たる尊容(そんよう)也(なり)。さしも積悪(せきあく)の浄海、何(いか)なる宿善に被催、懸(かか)る大善根を致しけん。六大無碍(ろくだいむげ)の月晴(はる)る時有て、四曼相即(しまんさうぞく)の花可発春を待(まち)けり。さては是(これ)も只混(ひたすら)なる悪人にては無(なか)りけるよと、今爰(ここ)に思召(おぼしめし)知(しら)せ給ふ。落花為雪笠無重、新樹謬昏日未傾(いまだかたぶかず)、其(その)日(ひ)頓(やが)て奥の院へ御参詣有て、大師(だいし)御入定の室(むろ)の戸を開かせ給へば、嶺松含風顕踰伽上乗之理、山花篭雲秘赤肉中台之相。前仏の化縁(けえん)は過(すぎ)ぬれ共(ども)、五時の説今耳に有(ある)かと覚え、慈尊の出世は遥(はるか)なれ共(ども)、三会(さんゑ)の粧(よそほひ)已(すで)に眼に如遮。三日まで奥(おくの)院(ゐん)に御通夜有て暁(あかつき)立(たち)出させ給(たまふ)に一首(いつしゆ)の御製あり。高野(たかの)山迷(まよひ)の夢も覚(さむ)るやと其(その)暁を待(また)ぬ夜ぞなき安居(あんご)の間は、御心(おんこころ)閑(しづか)に此(この)山中にこそ御坐(ござ)あらめと思召(おぼしめし)て、諸堂御巡礼ある処に、只今(ただいま)出家したる者と覚(おぼし)くて、濃(こき)墨染にしほれたる桑門(よすてびと)二人(ににん)御前(おんまへ)に畏(かしこまつ)て、其(その)事となく只さめ/\とぞ泣(なき)居たりける。何者(なにもの)なるらんと怪(あやし)く思召(おぼしめし)てつく/゛\御覧じければ、紀伊川を御渡(おんわたり)有(あり)し時、橋の上より法皇を押(おし)落(おと)し進(まゐ)らせたりし者共(ものども)にてぞ有(あり)ける。不思議(ふしぎ)や何事に今遁世(とんせい)をしけるぞや。是(これ)程無心放逸(はういつ)の者も、世を捨(すつ)る心の有(あり)けるかと思召(おぼしめし)て過(すぎ)させ給へば、此(この)遁世者(とんせいしや)御迹に随(したがひ)て、順覚に泣々(なくなく)申けるは、「紀伊川を御渡(おんわたり)候(さうらひ)し時、懸(かか)る無止事〔御事(おんこと)〕共知(しり)奉り候はで、玉体にあしく触(ふれ)奉(たてまつり)し事、余に浅猿(あさまし)く存(ぞんじ)候(さうらひ)て、此貌(このかたち)に罷(まかり)成(なり)て候。仏種は従縁起る儀も候なれば、今より薪(たきぎ)を拾ひ、水を汲(くむ)態(わざ)にて候(さうらふ)共(とも)、三年が間常随(じやうずゐ)給仕(きふじ)申(まうし)候(さふらひ)て、仏神三宝の御とがめをも免(ゆるさ)れ候はん。」とぞ申ける。「よしや不軽菩薩(ふきやうぼさつ)の道を行(ゆき)給(たまひ)しに、罵詈誹謗(めりひばう)する人をも不咎、打擲蹂躙(ちやうちやくじうりん)する者をも、却(かへつ)て敬礼(きやうらい)し給(たまひ)き。況(いはんや)我已(すでに)貌(かたち)を窶(やつ)して人其(その)昔を不知(しらず)。一時の誤(あやまり)何か苦(くるし)かるべき。出家は誠(まこと)に因縁(いんえん)不思議(ふしぎ)なれ共(ども)、随順(ずゐじゆん)せん事は怒々(ゆめゆめ)叶(かなふ)まじき。」由を被仰けれ共(ども)、此(この)者強(しひ)て片時(へんじ)も離れ進(まゐ)らせざりしかば、暁(あかつき)閼伽(あか)の水汲(くみ)に被遣たる其(その)間に、順覚を召具して潜(ひそか)に高野をぞ御出(おんいで)有(あり)ける。御下向は大和路(やまとぢ)に懸(かか)らせ給ひしかば、道の便(たより)も能(よろし)とて、南方の主上(しゆしやう)の御座(ござ)ある吉野殿(よしのどの)へ入らせ給ふ。此(この)三四年の先までは、両統(りやうとう)南北に分れて此(ここ)に戦ひ彼(かしこ)に寇(あた)せしかば、呉越(ごえつ)の会稽(くわいけい)に謀(はかり)しが如く、漢楚(かんそ)の覇上(はじやう)に軍(いくさだて)せしにも過(すぎ)たりしに、今は散聖(さんじやう)の道人(だうにん)と成(なら)せ給(たまひ)て、玉体を麻衣草鞋(まえさうあい)にやつし、鸞輿(らんよ)を跣行(せんかう)の徒渉(とせう)に易(かへ)て、迢々(はるばる)と此(この)山中迄(まで)分(わけ)入(いら)せ給(たまひ)たれば、伝奏未(いまだ)事の由を不奏先(さきに)直衣の袖をぬらし、主上(しゆしやう)未(いまだ)御相看(ごしやうかん)なき先に御涙(おんなみだ)をぞ流させ給(たまひ)ける。是(ここ)に一日(いちにち)一夜(いちや)御逗留(ごとうりう)有て、様々の御物語(おんものがたり)有(あり)しに、主上(しゆしやう)、「さても只今(ただいま)の光儀(くわうぎ)、覚(さめ)ての後の夢、夢の中の迷(まよひ)かとこそ覚へて候へ。縦(たとひ)仙院の故宮(こきゆう)を棄(すて)て釈氏(しやくし)の真門(しんもん)に入(いら)せ給ふ共、寛平(くわんへい)の昔にも准(なぞら)へ、花山の旧(ふる)き跡をこそ追(おは)れ候べきに、尊体を浮萍(ふへい)の水上に寄(よせ)て、叡心(えいしん)を枯木(こぼく)の禅余(ぜんよ)に被付候(さうらひ)ぬる事、何(いか)なる御発心(ほつしん)にて候(さうらひ)けるぞや。御羨(うらやましく)こそ候へ。」と、尋(たづね)申させ給(たまひ)ければ、法皇御泪に咽(むせび)て、暫(しばし)は御詞(おんことば)をも不被出。良(やや)有て、「聰明文思(そうめいぶんし)の四徳を集(あつめ)て叡旨に係(かけ)候へば、一言未挙(いまだあげざる)先に、三隅(さんぐう)の高察も候はん歟(か)。予元来(ぐわんらい)万劫煩悩(まんこふぼんなう)の身を以て、一種虚空(こくう)の塵(ちり)にあるを本意とは存ぜざりしか共、前業(ぜんごふ)の嬰(かか)る所に旧縁(きうえん)を離(はなれ)兼(かね)て、可住荒増(あらまし)の山は心に乍有、遠く待(また)れぬ老の来る道をば留むる関も無(なく)て年月を送(おくり)し程に、天下の乱一日も休(や)む時無(なか)りしかば、元弘(げんこう)の始(はじめ)には江州(がうしう)の番馬(ばんば)まで落(おち)下り、五百(ごひやく)余人(よにん)の兵共(つはものども)が自害せし中に交(まじはり)て、腥羶(せいせん)の血に心を酔(よは)しめ、正平の季(すゑ)には当山の幽閑(いうかん)に逢(あう)て、両年を過(すぐ)るまで秋刑(しうけい)の罪に胆(きも)を嘗(なめ)き。是(これ)程されば世は憂(うき)物にて有(あり)ける歟(か)と、初(はじめ)て驚(おどろく)許(ばかり)に覚(おぼえ)候(さうらひ)しかば、重祚(ちようそ)の位に望をも不掛、万機(ばんき)の政(まつりこと)に心をも不留しか共、一方の戦士我を強(しひ)して本主(ほんしゆ)とせしかば、可遁出隙(ひま)無(なく)て、哀(あはれ)いつか山深き栖(すみか)に雲を友とし松を隣(となり)として、心安(こころやす)く生涯を可尽と、心に懸(かけ)て念じ思(おもひ)し処に、天地命を革(あらため)て、譲位(じやうゐ)の儀出来しかば、蟄懐(ちつくわい)一時に啓(ひらけ)て、此(この)姿に成てこそ候へ。」と、御涙(おんなみだ)の中に語(かたり)尽(つく)させ給へば、一人諸卿諸共(もろとも)に御袖(おんそで)をしぼる許(ばかり)也(なり)。「今は。」とて御帰(おんかへり)あらんとするに、寮(れう)の御馬(おんむま)を進(まゐら)せられたれ共(ども)、堅(かたく)御辞退有て召(めさ)れず。いつしか疲(つかれ)させ給ひぬれ共(ども)、猶(なほ)如雪なる御足に、荒々(あらあら)としたる鞋(わらぢ)を召(めさ)れて出立させ給へば、主上(しゆしやう)は武者所(むしやどころ)まで出御(しゆつぎよ)成て、御簾(みす)を被掲(かかげられ)、月卿(げつけい)雲客(うんかく)は庭上の外まで送り進(まゐら)せて、皆泪にぞ立(たち)ぬれ給(たまひ)ける。道すがらの山館野亭(さんくわんやてい)を御覧ぜらるゝにも、先年■里(いうり)の囚(とらはれ)に逢(あは)せ給(たまひ)て、一日片時(いちにちへんし)も難過と、御心(おんこころ)を傷(いたま)しめ給(たまひ)し松門茅屋(ばうをく)あり。戦図(せんと)に入(いる)山中ならずは斯(かか)る処にぞ住(すみ)なましと、今は昔の憂(うき)栖(すみか)を御慕(おんしたひ)有(あり)けるぞ悲(かなし)き。諸国御斗薮(とそう)の後、光厳院(くわうごんゐん)へ御帰(おんかへり)有て暫(しばらく)御座(ござ)有(あり)けるが、中使頻(しきり)に到て松風の夢を破り、旧臣常(つね)に参(まゐり)て蘿月(らげつ)の寂(じやく)を妨(さまたげ)ける程に、此(ここ)も今は住(すみ)憂(うし)と思召(おぼしめし)、丹波(たんばの)国(くに)山国と云(いふ)所へ、迹(あと)を銷(け)して移(うつら)せ給(たまひ)ける。山菓落庭朝三食飽秋風、柴火宿炉夜薄衣防寒気、吟肩骨痩担泉慵時、石鼎湘雪三椀茶飲清風、仄歩山嶮折蕨倦時、岩窓嚼梅、一聯(いちれん)句甘閑味給ふ。身の安(やすき)を得る処即(すなはち)心安(こころやす)し。出有江湖、入有山川と、一乾坤(けんこん)の外に逍遥(せうえう)して、破蒲団(はふとん)の上に光陰を送らせ給(たまひ)けるが、翌年(よくねん)の夏(なつの)比(ころ)より、俄(にはか)に御不予(ごふよ)の事有て、遂(つひ)に七月七日隠(かくれ)させ給(たまひ)にけり。
○法皇御葬礼(ごさうれいの)事(こと) S3912
比(この)時(とき)の新院光明院殿も、山門(さんもんの)貫主(くはんじゆ)梶井(かぢゐの)宮(みや)も、共に皆禅僧に成(なら)せ給(たまひ)て、伏見殿に御座(ござ)有(あり)ければ、急ぎ彼遷化(かのせんげ)の山陰(やまかげ)へ御下り有て御荼毘(おんだび)の事共(ことども)、取(とり)営(いとなま)せ給(たまひ)て、後(うしろ)の山に葬(さう)し奉る。哀(あはれ)仙院芝山(しざん)の晏駕(あんが)ならましかば、百官泪(なみだ)を滴(したで)て、葬車の御迹に順(したが)ひ、一人(いちじん)悲(かなしみ)を呑(のん)で虞附(ぐふ)の御祭をこそ営(いとなま)せ給ふべきに、浩(かかる)る御事(おんこと)とだに知(しる)人もなき山中の御葬礼(ごさうれい)なれば、只徒(いたづら)に鳥啼(なき)て挽歌(ばんか)の響(ひびき)をそへ、松咽(むせん)で哀慟(あいどう)の声を助(たすく)る計(ばかり)也(なり)。夢なる哉、往昔(わうじやく)の七夕には、長生殿にして二星一夜(いちや)の契(ちぎり)を惜(をしみ)て、六宮(りくきゆう)の美人両階の伶倫(れいりん)台下(だいか)に曲を奏して、乞巧奠(きつかうでん)をこそ備へさせられしに、悲(かなしい)哉(かな)、当年の今日は、幽邃(いうすい)の地にして三界八苦の別(わかれ)に逢(あう)て、万乗の先主・一山(いつさん)の貫頂(くわんちやう)、山中に棺(ひつぎ)を荷(にな)ふて御葬送を営(いとなま)せ給ふ。只千秋亭の月有待(うだい)の雲に隠れ、万年樹の花無常の風に随(したが)ふが如し。されば遶砌山川も、是(これ)を悲(かなしみ)て雨となり雲となる歟(か)と怪(あやし)まる。無心草木も是(これ)を悼(いたみ)て、葉落ち花萎(しぼ)めるかと疑はる。感恩慕徳旧臣多(おほし)といへ共、預(あらかじ)め勅を遺(のこ)されしに依て、参り集る人も稀(まれ)なりしかば、纔(わづか)に篭(こもり)僧三四人の勤(つと)めにて、御中陰(ごちゆういん)の菩提(ぼだい)にぞ資(たす)け奉りける。御国忌(みこくき)の日ごとに、種々の作善積功(さぜんしこう)累徳(るゐとく)せらる。殊更に第三(だいさん)廻(くわい)に当りける時は、継体(けいたい)の天子今上皇帝(くわうてい)、御手自(おんてづから)一字三礼(いちじさんらい)の紺紙金泥(こんしこんでい)の法華経(ほけきやう)をあそばされて、五日八講(はつかう)十種供養あり。伶倫(れいりん)正始(せいし)の楽(がく)は、大樹緊那(たいじゆきんな)の琴の音(おと)に通じ、導師称揚(しようやう)の言は、富楼那尊者(ふるなそんじや)の弁舌を展(のべ)たり。結願の日に当て、薪(たきぎ)を採(とり)て雪を荷(にな)ふ夕郎は、千載(せんざい)給仕(きふじ)の昔の迹を重くし、水を汲(くみ)て月を運ぶ雲客は、八相成道の遠き縁を結ぶ。是(これ)又善性・善子の珊提嵐国(さんだいらんこく)に仕へし孝にも過ぎ、浄蔵(じやうざう)・浄眼(じやうげん)の妙荘厳王(めうしやうごんわう)を化(け)せし功にも越(こえ)たれば、十方の諸仏も明(あきら)かに此追賁(このつゐひ)を随喜(ずゐき)し給ひ、六趣の群類も定(さだめ)て其(その)余薫にこそ関(あづか)るらめと、被思知御作善(ごさぜん)也(なり)。


太平記(国民文庫)
太平記巻第四十

○中殿(ちゆうでん)御会(ごくわいの)事(こと) S4001
貞治(ぢやうぢ)六年三月十八日、長講堂(ちやうかうだう)へ行幸あり。是(これ)は後白河法皇の御遠忌(ごゑんき)追賁(つゐひ)之(の)御為に、三日まで御逗留(ごとうりう)有て法花御読経(みどきやう)あり。安居院(あぐゐ)の良憲(りやうけん)法印・竹中(たけのうちの)僧正(そうじやう)慈照(じせう)、導師にぞ被参ける。難有法会(ほふゑ)なれば、聴聞の緇素(しそ)不随喜云(いふ)者なし。惣(そう)じて此(この)君御治天(ちてん)の間、万(よろ)づ継絶、興廃御坐(おはしま)す叡慮也(なり)しかば、諸事の御遊(ぎよいう)に於(おい)て、不尽云(いふ)事不御座。故(ゆゑ)に中殿(ちゆうでんの)御会(ごくわい)は、累世(るゐせ)の規摸(きぼ)也(なり)。然(しか)るを此(この)御世に未(いまだ)無其沙汰。仍連々に思食(おぼしめし)立(たち)しかば、関白殿(くわんばくどの)其(その)外の近臣内々被仰合、中殿の宸宴(しんえん)は大儀なる上、毎度天下の凶事(きようじ)にて先規不快(せんきふくわいの)由(よし)、面々一同に被申ければ、重(かさね)て有勅定(ちよくぢやう)けるは、聖人有謂、詩三百一言(さんぱくいちげん)思無邪と。されば治(をさま)れる代の音(こゑ)は安(やすく)して楽(たのし)む。乱れたる代の音(こゑ)は恨(うらみ)て忿(いか)るといへり。日本哥(やまとうた)も可如此。政(まつりこと)を正(ただ)して邪正(じやせい)を教へ、王道の興廃を知(しる)は此(この)道也(なり)。されば昔の代々(だいだい)の帝も、春(はる)の花の朝(あした)・秋の月の夜、事に付(つけ)つゝ哥を合(あは)せて奉らん人の慧(めぐ)み、賢愚(さかしくおろか)なるをも知食(しろしめし)けるにや。神代(じんだい)の風俗(ならはし)也(なり)。何(いづ)れの君か是(これ)を捨(すて)給(たまは)ん。聖代の教誡(けうかい)也(なり)。誰人か不哢之。抑中殿の宸宴(しんえん)と申侍るは、後冷泉院天喜四年三月画工(ぐわこう)の桜花(さくらばな)を叡覧有て土御門大納言師房(もろふさ)卿(きやう)に勅して、「新成桜花。」と云(いふ)題を令献、清涼殿に召群臣(ぐんしん)御製を被加、同(おなじく)糸竹(しちく)の宴会あり。自爾以来(このかた)、白河(しらかはの)院(ゐん)応徳元年三月左大弁(さだいべん)匡房(ただふさ)に勅して「花契多春。」と云(いふ)題を令献、於中殿被講之。又堀河(ほりかはの)院(ゐんの)御代(みよ)永長元年三月権大納言(ごんだいなごん)匡房(ただふさ)卿(きやう)に課(おほせ)て、「花契千年。」と云(いふ)題を令献、宴遊を被伸。又崇徳(しゆとく)院(ゐんの)御宇(ぎよう)天承元年十月、権中納言師頼(もろより)に勅して、「松樹緑久。」と云(いふ)題を令献、宸宴(しんえん)有(あり)き。其(その)後建保六年八月順徳院光明峯寺(くわうみやうぶじ)の関白に勅して、「池月久澄。」と云(いふ)題を令献被講き。次(つぎに)後醍醐(ごだいごの)院(ゐんの)御宇(ぎよう)元徳二年二月、権中納言為定(ためさだ)卿(きやう)に勅して、「花契万春。」と云(いふ)題にて、中殿の御会を被行之。此(この)外承保二年四月・長治二年三月・嘉承二年三月・建武二年正月、清涼殿にして和哥の宴雖在之、非一二度(にど)、中殿の御会(ごくわいの)先規(せんき)には不加侍にや。加様(かやう)の先蹤(せんしよう)皆聖代(せいだいの)洪化(こうくわ)なり。何ぞ不快の例(れい)といはんや。然(しかる)に今年の春は九城の裏(うち)の花香(かうばし)く、八島の外に風治(をさま)れる時至れり。早く尋建保芳躅、題並(ならびに)序の事。関白可被献之(の)由(よし)強(しひ)て有勅定(ちよくぢやう)しかば、中殿の御会の事内々已(すで)に定りにけり。征夷将軍も、此(この)道に数奇(すき)給ふ事なれば、勅撰なんど被申行上、近比(ちかごろ)は建武の宸宴(しんえん)、贈(ぞう)左府の嘉躅(かしよく)非無由緒、被仰出しかば、不及子細領掌被申けり。因此蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)仲光を奉行にて、三月二十九日を被定。勅喚(ちよくくわん)の人々に賦題。「花多春友。」と云(いふ)題を、任建保例兼日(けんじつ)に関白被出けるとかや。既(すで)に其(その)日(ひ)に成(なり)しかば、母屋(もや)の廂(ひさし)の御簾(みす)を捲(まい)て、階(はし)の西の間(ま)より三間(さんげん)北にして、二間(ふたま)に各(おのおの)菅(すげ)の円座(ゑんざ)を布(しき)て公卿の座とす。長治元年には雖為二行、今度は関白殿(くわんばくどの)の加様(かやう)に座を被設。御帳(みちやう)の東西には三尺(さんじやく)の几帳(きちやう)を被立、昼の御座の上には、御剣(ぎよけん)・御硯箱(すずりばこ)を被措たり。大臣の座(ざの)末(すゑ)、参議の坐の前には、各(おのおの)高灯台(たかとうだい)を被立たり。関白直廬(ちよくろ)より御参あれば、内大臣(ないだいじん)已下相随(あひしたが)ひ給ふ。任保安例今日既(すで)に直衣(なほし)始(はじめ)の事あり。前駆(せんく)・布衣(ほい)・随身(ずゐじん)の褐衣(かつい)如常なれば、差(さし)たる見事は無(なか)りけり。丑刻(うしのこく)許(ばかり)に将軍已(すで)に参内あり。其行妝(そのぎやうさう)見物の貴賎皆(みな)目を驚かせり。公家家礼(けらい)の人々には、為秀(ためひで)・行忠(ゆきだだ)・実綱(さねつな)卿(きやう)・為邦(ためくに)朝臣(あつそん)なんど庭上に下(おり)て礼あり。左衛門の陣の四脚(よつあし)に、将軍即(すなはち)参入あり。先(まづ)帯刀(たてはき)十人(じふにん)左右に相番(あひつがう)て曳列。左は佐々木(ささきの)佐渡(さどの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)時秀、地白(ぢしろ)の直垂(ひたたれ)に金銀の薄(はく)にて四日結(よつめゆひ)を挫(おし)たる紅(くれなゐ)の腰に、鰄(かひらぎ)の金作(こがねづくり)の太刀を帯(は)く。右は小串(こくし)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)詮行(のりゆき)、地緇(ぢぐろ)の直垂(ひたたれ)に、銀薄(ぎんばく)にて二雁(ふたつかり)を挫(おし)白太刀を佩(は)く。次(つぎに)伊勢七郎左衛門(しちらうざゑもん)貞行(さだゆき)、地白(ぢしろ)の直垂に、金薄(きんばく)にて村蝶(むらてふ)を押(おし)て白太刀を佩(はい)て左に歩(あゆ)む。右は斉藤三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)清永(きよなが)、地香(ぢかう)の直垂に、二筋違(ふたつすぢちがへ)の中に、銀薄にて■菱(なでしこ)を押(おし)たる黄腰(きごし)に、鰄(かひらぎ)の太刀を佩(はい)たり。次に大内(おほち)修理(しゆりの)亮(すけ)、直垂に金薄にて大菱(おほびし)を押す。打鰄(うちざめ)に金作(こがねづくり)の太刀を帯(は)く。右は海老名(えびな)七郎左衛門(しちらうざゑもんの)尉(じよう)詮季(のりすゑ)、地黒(ぢぐろ)に茶染(ちやぞめの)直垂に、金薄にて大笳篭(おほかご)を押して、黄なる腰に白太刀帯(はい)たり。次(つぎに)本間左衛門太郎義景、地白紫の片身易(かたみがはり)の直垂に金銀の薄(はく)にて十六(じふろく)目結(めゆひ)を押(おし)、紅(くれなゐ)の腰に白太刀を佩(は)く。右に山城四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)師政(もろまさ)、地白に金泥(こんでい)にて州流(すながれ)を書(かき)たる直垂に、白太刀佩(はい)て相随ふ。次に粟飯原(あいはら)弾正左衛門(だんじやうざゑもんの)尉(じよう)詮胤(のりたね)、地黄■(かりやす)に銀泥(ぎんでい)にて水を書(かき)、金泥にて鶏冠木(かへで)を書(かき)たる直垂に、帷(かたびら)は黄なる腰に白太刀を帯(はい)たり。由々敷(ゆゆしく)ぞ見へたりける。此(この)次に征夷大将軍正二位(しやうにゐの)大納言源(みなもとの)朝臣(あつそん)義詮卿、薄色(うすいろ)の立紋(たてもん)の織物(おりもの)の指貫(さしぬき)に、紅(くれなゐ)の打衣を出し、常の直垂也(なり)。左の傍(わき)に山名民部少輔(みんぶのせう)氏清(うぢきよ)、濃(こき)紫の指貫に款冬(やまぶき)色の狩衣著(ちやく)して帯剣(たいけん)の役に随(したが)へり。右は摂津掃部(かもんの)頭(かみ)能直(よしなほ)、薄色の指貫、白青(あさぎの)織物(おりもの)の狩衣著て沓(くつ)の役に候(こう)す。佐々木(ささきの)備前五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)高久、二重(ふたへ)狩衣にて御調度(おんてうど)の役に候(こう)す。本郷左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)詮泰(のりやす)は、香(かう)の狩衣にて笠の役に随(したが)ふ。今河伊予(いよの)守(かみ)貞世は侍所にて、爽(さはや)かに胄(よろう)たる随兵、百騎(ひやくき)許(ばかり)召具して、轅門(ゑんもん)の警固に相随(あひしたがふ)。此(この)外土岐伊予(いよの)守(かみ)直氏・山城中務少輔(なかつかさのせう)行元・赤松大夫判官(たいふのはうぐわん)光範・佐々木(ささきの)尾張(をはりの)守(かみ)高信・安東信濃(しなのの)守(かみ)高泰・曾我美濃(みのの)守(かみ)氏助・小島掃部(かもんの)助(すけ)詮重・朝倉小次郎詮繁・同又四郎高繁・彦部(ひこべ)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)秀光。藤民部五郎左衛門(ごらうざゑもん)盛時・八代(やしろ)新蔵人師国・佐脇(さわき)右京(うきやうの)亮(すけ)明秀・藁科(わらしな)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)家治・中島弥次郎(やじらう)家信・後藤伊勢(いせの)守(かみ)・久下(くげ)筑前(ちくぜんの)守(かみ)・荻野(をぎの)出羽(ではの)守(かみ)・横地(よこち)山城(やましろの)守(かみ)・波多野出雲(いづもの)守(かみ)・浜名左京(さきやうの)亮(すけ)・長次郎、是等(これら)の人々思々(おもひおもひ)の直垂にて、飼(かう)たる馬に厚総(あつぶさ)係(かけ)て、折花尽美。将軍堂上(だうじやう)の後、帯刀の役人は、皆申門の外に敷皮(しきかは)を布(しい)て列居す。先(まづ)依別勅御前(おんまへ)の召あり。関白殿(くわんばくどの)御前(おんまへ)に被参。其(その)後刻限に至て、人々殿上に著座あり。右大臣・内大臣(ないだいじん)・按察使実次(さねつぐ)・藤中納言時光・冷泉中納言為秀・別当忠光・侍従(じじゆう)宰相(さいしやう)行忠・小倉前宰相実名(さねな)・二条(にでうの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)為忠・富小路(とみのこうじ)前(さきの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)実遠なんどぞ被参ける。関白殿(くわんばくどの)奉行(ぶぎやうの)職事(しきじ)仲光を召(めし)て、事の具否(ぐふ)を尋(たづね)らる。軈(やが)て被伺出御。御衣は黄(きの)直衣・打の御袴也(なり)。関白殿(くわんばくどの)著座(ちやくざ)有て後、頭(とうの)左中弁嗣房(つぎふさ)朝臣(あつそん)を召(めし)て、公卿可著坐由を仰(おほ)す。嗣房於殿上諸卿を召す。右大臣・内大臣(ないだいじん)以下、次第に著座有(あり)しかば、将軍は殿上には著座し給はで、直(ぢき)に御前(おんまへ)に進著せらる。爾後(そののち)嗣房朝臣(あつそん)・仲光・懐国(やすくに)・五位(ごゐの)殿上人(てんじやうびと)伊顕(これあき)なんど、面々の役に随(したがつ)て、灯台(とうだい)・円座(ゑんざ)・懐紙(くわいし)等(ら)を措(お)く。為敦(ためあつ)・為有・為邦朝臣(あつそん)・為重(ためしげ)・行輔(ゆきすけ)なんど迄著座ありしか共、右兵衛(うひやうゑの)督(かみ)為遠は御前(おんまへ)には不著、殿上の辺(ほとり)に徘徊(はいくわい)す。是(これ)は建保に定家卿如此の行迹(かうせき)たりし其例(そのれい)とぞ申合(まうしあひ)ける。富小路(とみのこうぢ)前(さきの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)・冷泉院(れんぜいゐん)中納言(ちゆうなごん)・藤中納言・鎌倉(かまくらの)大納言(だいなごん)・内大臣(ないだいじん)・右大臣・関白なんど懐紙の名、膝行(しつかう)皆思々(おもひおもひ)也(なり)。関白は依建保之例雖為序者、任位次置之。又直衣蹈哺(ふみくくみ)て膝行あり。故太閤(たいかう)元徳の中殿の御会に被参しに此(この)作法侍(はんべ)りけるとかや。右大臣依為読師、直(ぢき)に御前(おんまへ)の円座(ゑんざ)に著し給て、講師仲光を召す。又序(じよ)を為講、由別勅時光卿を被召。右大弁為重を召て懐紙を令重。序より次第に是(これ)を読(よみ)上(あげ)たり。春日侍中殿同詠花多春友応製和歌一首(いつしゆ)並(ならびに)序関白従(じゆ)一位(いちゐ)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)良基上。夫天之仁者春也(なり)。地之和者花也(なり)。則天地悠久之道、而施於不仁之仁、玩煙霞明媚之景、而布大和之和。黄鴬呼友、遷万年之枝、粉蝶作舞、戯百里之囿。鑠乎聖徳、時哉宸宴。爰騰哥詠於五雲之間、忽興治世之風。奏簫韶於九天之上、再聞大古之調。況又玉笙之操、高引紫鸞之声焉。奎章之巧、新■(つぐ)素鵝之詞矣。盛乱之世、未必弄雅楽、兼之者此時也(なり)。好文之主、未必携和語、兼之者我君也(なり)。一場偉観千載(せんざい)之(の)徽猷者耶。小臣久奉謁竜顔、忝佐万機之政。親奏鳳詔、聊記一日之遊。其辞曰、つかへつゝ齢(よはい)は老(おい)ぬ行末の千年も花になをや契(ちぎ)らん此(この)次に右大臣正二位(しやうにゐ)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)実俊(さねとし)・内大臣(ないだいじん)正二位(しやうにゐ)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)師良(もろよし)・正二位(しやうにゐ)行(ぎやう)陸奥出羽按察使(あぜちし)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)実継(さねつぐ)、此(この)次は征夷大将軍正二位(しやうにゐ)臣(しん)源(みなもとの)朝臣(あつそん)義詮(よしあきら)・正二位(しやうにゐ)行(ぎやう)権中納言臣藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)時光・正二位(しやうにゐ)行(ぎやう)権中納言藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)為秀(ためひで)・権中納言従三位(じゆさんみ)兼行(けんぎやう)左衛門(さゑもんの)督(かみ)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)忠光、此(この)次(つぎに)参議従三位(じゆさんみ)兼行(けんぎやう)侍従(じじゆう)兼(けん)備中(びつちゆうの)権(ごんの)守(かみ)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)行忠・従三位(じゆさんみ)兼(けん)右兵衛(うひやうゑの)督(かみ)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)為遠(ためとほ)・蔵人内舎人六位上行(ぎやう)式部(しきぶの)大丞(だいじやう)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)懐国等(やすくにら)に至(いたる)迄、披講(ひかう)事終て、講師皆(みな)退(しりぞき)給(たまひ)ければ、講誦(かうじゆ)の人々、猶(なほ)可祗候由(よし)、依天気関白読師(どくし)の円座(ゑんざ)に著(つき)給(たまひ)しかば、別勅にて権中納言時光卿を被召、御製の講師として、開匂(さきにほ)ふ雲居の花の本つ枝(え)に百代(ももよ)の春を尚(なほ)や契覧(ちぎらん)講誦(かうじゆ)十返許(ばかり)に及(および)しかば、日已(すで)に内樋(うちひ)に耀(かかや)く程也(なり)。されば物(もの)の色合さだかに、花の薫(にほひ)も懐(なつか)しく、霞(かすみ)立(たつ)気幸(けはひ)も最(いと)艶(えん)なるに、面々の詠哥の声も雲居に通る心地して、身に入許(しむばかり)ぞ聞へける。御製の披講(ひかう)終て、各(おのおの)本坐に退(しりぞ)けば、伶人(れいじん)にあらざる人々も座を退(しりぞ)く。其(その)後軈(やが)て御遊(ぎよいう)始(はじま)り、笛は三条(さんでうの)大納言(だいなごん)実知(さねとも)卿(きやう)、和琴(わごん)は左(ひだんの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)実綱、篳篥(ひちりき)は前(さきの)兵部卿(ひやうぶきやう)兼親(かねちか)、笙(しやう)は前(さきの)右衛門(うゑもんの)督(かみ)刑時(のりとき)、拍子は綾小路(あやのこうぢ)三位(さんみ)成方(なりかた)、琴は公全(きんまさ)朝臣(あつそん)、付歌(つけうた)者(は)宗泰(むねやす)朝臣(あつそん)也(なり)。呂(りよ)には此殿(このとの)・鳥(とり)の破(は)・席田(むしろだ)・鳥(とり)の急(きふ)、律(りつ)には万歳楽(まんざいらく)・伊勢海(いせのうみ)・三台急(さんだいのきう)也(なり)けり。玉笙(ぎよくしやう)の声の中には鳳鳥(ほうてう)も来儀(らいぎ)し、和琴の調(しらべ)の間には鬼神も感動するかとぞ覚(おぼえ)し。此(この)宸宴に有御所作事邂逅(たまさか)也(なり)。建保には御琵琶にて有(あり)ける也(なり)。爾後(そののち)は稀(まれ)なる御事(おんこと)なるを、今此(この)御宇(ぎよう)に詩哥両度の宸宴(しんえん)に、毎度の御所作難有事とぞ聞へし。懸(かか)る大会(たいゑ)は聊(いささか)の故障(こしやう)もある事なるに、一事(いちじ)の違乱煩(わづらひ)なく無為(ぶゐ)に被遂行ぬれば、万邦磯城島(しきしま)の政道に帰(き)し、四海(しかい)難波津(なにはづ)の古風を仰(あふぎ)て、人皆柿本(かきのもと)の遺愛(ゐあい)を恋(こふ)るのみならず、世挙(こぞつ)て柳営(りうえい)の数奇(すき)を感嘆し、翌日午刻(むまのこく)許(ばかり)に人々被退出しかば、目出(めでたし)なんど云ふ許(ばか)りなし。さても中殿の御会と云(いふ)事は、吾朝(わがてうに)不相応宸宴(しんえん)たるに依て、毎度天下に重事(ちようじ)起ると人皆申慣(ならは)せる上、近臣悉(ことごとく)眉(まゆ)を顰(ひそめ)て諌言を上(たてまつり)たりしか共、一切(つやつや)無御承引終(つひ)に被遂行けり。さるに合(あは)せて、同三月二十八日(にじふはちにち)丑刻(うしのこく)に、夥敷(おびたたしく)大変西より東を差(さし)て飛(とび)行(ゆく)と見へしが、翌日(よくじつ)二十九日申刻(さるのこく)に天竜寺(てんりゆうじ)新造の大廈(たいか)、土木の功未終(いまだをへざるに)、失火忽(たちまち)に燃(もえ)出て一時の灰燼(くわいじん)と成(なり)にけり。故(ことさら)に此(この)寺は、公家武家尊崇(そんそう)異于他して、五山第二(だいに)の招提(せうだい)なれば、聊爾(れうじ)にも攘災集福(じやうさいしゆふく)の懇祈(こんき)を専(もつぱら)にする大伽藍(がらん)なるに、時節こそあれ、不思議(ふしぎ)の表示(へうじ)哉(かな)と、貴賎唇(くちびる)をぞ翻(ひるがへ)しける。因慈将軍御参内(ごさんだい)の事は可有斟酌由(よし)、再三被経奏聞しか共、是(この)寺已(すで)に勅願寺たる上者(は)、最(もつとも)天聴を驚(おどろか)す所なれ共(ども)、如此の拠災殃、臨期宸宴を被止事無先規。早(はやく)諸卿に被仰下しかば、此(この)問答に時遷(うつり)て、御参内(ごさんだい)も夜深(よふけ)過(すぐ)る程になり、御遊(ぎよいう)も翌日に及びけるとかや。浅猿(あさまし)かりし事共(ことども)なり。
○左馬(さまの)頭(かみ)基氏逝去(せいきよの)事(こと) S4002
角(かく)ては天下も如何(いか)んと危(あや)ぶめる処に、今年の春(はる)の比(ころ)より、鎌倉(かまくらの)左馬(さまの)頭(かみ)基氏(もとうぢ)、聊(いささか)不例の事有(あり)と聞へしかば、貞治六年四月二十六日(にじふろくにち)、生年二十八歳(にじふはつさい)にて忽(たちまち)に逝去(せいきよ)し給(たまひ)けり。連枝(れんし)の鍾愛(しようあい)は多けれ共(ども)、此(この)別(わかれ)に至ては争(いかで)か可不悲。矧(いはん)や是(これ)は唯二人(ににん)、二翼両輪(によくりやうりん)の如くに華夷(くわい)の鎮憮(ちんぶ)と成(なり)給(たまひ)しかば、さらぬ別(わかれ)の悲(かなし)さもさる事ながら、関東(くわんとう)の柱石(ちゆうせき)摧(くだけ)ぬれば、柳営(りうえい)の力衰(おとろへ)ぬと、愁歎(しうたん)特(こと)に不浅。就之京都大に怖慎(おそれつつしみ)て、祈祷(きたう)なども可有と沙汰ありけり。
○南禅寺(なんぜんじと)与三井寺(みゐでら)確執(かくしつの)事(こと) S4003
同六月十八日、園城寺の衆徒蜂起(ほうき)して、公武(くぶ)に致列訴事あり。其謂(そのいはれ)を何事ぞと尋ぬれば、南禅寺(なんぜんじ)為造営此比(このころ)被建たる於新関、三井寺(みゐでら)帰院の児(ちご)を関務(くわんむ)の禅僧是(これ)を殺害(せつがい)す。是(これ)希代(きたい)の珍事(ちんじ)とて寺門の衆徒鬱憤(うつふん)を散ぜんと、大勢を卒し、不日に推(おし)寄(よせ)て、当務の僧共・人工(にんぐ)・行者(あんじや)に至(いたる)迄、打殺すのみならず、猶(なほ)も憤(いきどほり)を不休、南禅寺(なんぜんじ)を令破却、達磨宗(だるましゆう)の蹤跡(しようせき)を削(けづり)て、為令達宿訴、忽(たちまち)に嗷訴(がうそ)にぞ及(および)ける。即(すなはち)山門・南都へ牒送(てふそう)して、四箇(しか)の大寺の安否を可定由(よし)、已(すで)に往日(わうじつ)の堅約(けんやく)也(なり)。何(なん)の余儀(よぎ)にか可及。一国に触訴(ふれうつたへ)て、事令遅々、神輿(しんよ)・神木・神坐の本尊、共に可有入洛罵(ののし)りければ、■(すは)や天下の重事(ちようじ)出来ぬるはと、有才人は潜(ひそか)に是(これ)を危(あやぶ)みける。され共事大儀なれば、山門も南都も急には不思立。結句(けつく)山門には、東西両塔に様々(さまざま)の異儀(いぎ)有て、三塔(さんたふ)の事書、鳥使(てうし)翅(つばさ)を費許(つひやすばかり)也(なり)。然(しかれ)ば無左右可事行共不覚(おぼえず)、公方の御沙汰(ごさた)は、載許(さいきよ)無其期しかば、園城寺は款状(くわんじやう)徒(いたづら)に被抛て、忿(いかり)の中に日数をぞ送りける。
○最勝講(さいしようかう)之(の)時(とき)及闘諍事(こと) S4004
去(さる)程(ほど)に同八月十八日、最勝講可被行とて、南都・北嶺(ほくれい)に課(おほせ)て、所作の人数をぞ被召(めされ)ける。興福寺(こうぶくじ)より十人(じふにん)、東大寺(とうだいじ)より二人(ににん)、延暦寺(えんりやくじ)より八人(はちにん)也(なり)。園城寺は今度の訴詔に、是非の左右に不及間、不可随公請由所存(しよぞんを)申(まうす)に依て、四箇(しか)の一寺は被除畢(をはんぬ)。証義(しようぎ)は前(さきの)大僧正(だいそうじやう)懐雅(くわいが)・山門の慈能(じのう)僧正(そうじやう)をぞ被召(めされ)ける。講演論場(ろんぢやう)の砌(みぎり)には、学海智水を涌(わか)し、慧剣(ゑけん)を令闘事なるに、南都・北嶺の衆徒等(しゆとら)、於南庭不慮(ふりよ)に喧嘩を引出して、散々の合戦にぞ及(および)ける。紫宸殿(ししんでん)の東、薬殿(くすどの)の前には南都の大衆、西の長階(ながはし)の前には山門の衆徒、列立したりけるが、南都の衆徒は、面々に脇差(わきざし)の太刀なんど用意(ようい)の事なれば、抜連(ぬきつれ)て切て懸(かか)る。山門の大衆は、太刀・長刀も不持ければ争(いかで)か可叶。一歩(いつほ)も不践止、紫宸殿(ししんでん)の大床(おほゆか)の上へ被捲上、足手にも不係けるに、光円坊良覚(りやうかく)・一心坊の越後(ゑちごの)注記(ちゆうき)覚存(かくそん)・行泉坊の宗運・明静(みやうじやう)房の学運・月輪房の同宿円光房・十乗房を始(はじめ)として、宗徒(むねと)の大衆腰刀許(こしがたなばかり)にて取て返し、勇(いさみ)誇(ほこつ)たる南都の衆徒の中へ、面(おもて)も不振切て入る。中にも一心坊の越後(ゑちごの)注記は、南都若大衆の持たる四尺(ししやく)八寸(はつすん)の太刀を引(ひき)奪(うばう)て、我一人の大事(だいじ)と切て廻(まはり)けるに、奈良法師被切立、村雲(むらくも)立て見へける処に、手掻(てんがい)の侍従(じじゆう)房只一人蹈止(ふみとどまり)て、一足(ひとあし)も不退、喚叫(をめきさけん)で切合たり。追ひ廻(まは)し追(おひ)靡(なび)け、時移る程闘(たたかひ)けるに、山門の衆徒、始(はじめ)は小勢にて而(しか)も無(ぶ)用意(ようい)也(なり)ける間、叶(かなふ)べくも不見けるが、山徒の召仕ふ中方(ちゆうはう)の者共(ものども)、太刀・長刀の鋒(きつさき)を調(そろ)へ、四脚(よつあし)の門より込(こみ)入て、縦横無碍(じゆうわうむげ)に切て廻(まはり)しかば、南都の大衆は大勢也(なり)といへ共、怺兼(こらへかね)て、北(きた)の門より一条大路(いちでうのおほぢ)へ、白雲の風に雲珠巻(うずまく)が如(ごとく)にぞ、靉(たなびき)出たりける。されば南庭の白砂(しらすの)上には、手蓋(てんがい)の侍従(じじゆう)を始(はじめ)として、宗(むね)との衆徒八人(はちにん)まで、尸(かばね)を双(ならべ)て切(きり)臥(ふせ)らる。山門方にも手負(ておひ)数(あま)た有(あり)けり。半死半生の者共(ものども)を、戸板・楯(たて)なんどに乗(の)せて、舁連(かきつらね)たる有様、前代未聞(ぜんだいみもん)の事共(ことども)也(なり)。浅猿(あさましい)哉(かな)、紫宸北闕(ししんほくけつ)の雲の上、玄圃茨山(げんほしざん)の月の前には、霜剣(さうけん)の光冷(すさまじく)して、干戈(かんくわ)の場(には)と成(なり)しかば、御溝(ぎよこう)の水も紅(くれなゐ)を流し、著座の公卿大臣も束帯悉(ことごと)く緋(あけ)の色に染成(そめな)して、呆(あきれ)給(たまふ)許(ばかり)也(なり)。さしも是(これ)程の騒動なりしか共、主上(しゆしやう)は是(これ)にも騒がせ給(たまふ)御事(おんこと)もなく、手負(ておひ)・死人共を取捨(とりすて)させ、血を濯(あらひ)清めさせ、席を改(あらため)させられて、最勝講をば無子細被遂行けるとかや。是(これ)則(すなはち)厳重(げんぢゆう)の御願、天下の大会(だいゑ)たるに、斯(かか)る不思議(ふしぎ)出来ぬれば、就公私不吉の前相(ぜんさう)哉と、人皆物を待(まつ)心地ぞせられける。
○将軍薨逝(こうせいの)事(こと) S4005
斯(かか)る処に、同九月下旬の比(ころ)より、征夷将軍義詮身心例ならずして、寝食不快しかば、和気(わけ)・丹波の両流は不及申、医療に其(その)名を被知程の者共(ものども)を召して、様々の治術(ぢじゆつ)に及(および)しか共、彼大聖(かのたいしやう)釈尊(しやくそん)、双林(さうりん)の必滅(ひつめつ)に、耆婆(ぎば)が霊薬も其験(そのしるし)無(なか)りしは、寔(まこと)に浮世の無常を、予(あらかじ)め示し置(おか)れし事也(なり)。何(いづれ)の薬か定業(ぢやうごふ)の病をば愈(いや)すべき。是(これ)明らけき有待転変(うだいてんべん)の理(ことわり)なれば、同(おなじき)十二月七日子刻(ねのこく)に、御年三十八にて忽(たちまち)に薨逝(こうせい)し給(たまひ)にけり。天下久(ひさし)く武将の掌(たなごころ)に入て、戴恩慕徳者幾千万(いくせんまん)と云(いふ)事を不知(しらず)。歎き悲(かなし)みけれ共(ども)、其(その)甲斐更(さら)に無(なか)りけり。さて非可有とて、泣々(なくなく)薨礼の儀式を取営(いとなみ)て、衣笠山(きぬがさやま)の麓(ふもと)等持院(とうぢゐん)に奉遷。同(おなじき)十二日午刻(むまのこく)に、荼毘(だび)の規則(きそく)を調(ととのへ)て、仏事の次第厳重(げんぢゆう)也(なり)。鎖龕(さがん)は東福寺(とうふくじの)長老信義堂(しんぎだう)、起龕(きがん)は建仁寺(けんにんじ)沢竜湫(たくりゆうしう)、奠湯(てんたうは)万寿寺(まんじゆじの)桂岩(けいがん)、奠茶(てんちやは)真如寺(しんによじの)清■(せいぎん)西堂、念誦(ねんじゆは)天竜寺(てんりゆうじの)春屋(しゆんをく)、下火(あこ)は南禅寺(なんぜんじの)定山和尚にてぞをはしける。文々(もんもん)に悲涙(ひるゐ)の玉詞(ぎよくし)を瑩(みが)き、句々に真理の法義を被宣しかば、尊儀速(すみやか)に出三界苦輪、直(ぢきに)到四徳楽邦給(たまひ)けんと哀なりし事共(ことども)也(なり)。去(さる)程(ほど)に今年は何(いか)なる年なれば、京都と鎌倉(かまくら)と相同(おなじ)く、柳営(りうえい)の連枝忽(たちまち)に同根空(むなし)く枯(かれ)給ひぬれば、誰か武将に備(そなは)り、四海(しかい)の乱をも可治と、危(あやふ)き中に愁(うれへ)有て、世上今はさてとぞ見へたりける。
○細河右馬(うまの)頭(かみ)自西国上洛(しやうらくの)事(こと) S4006
爰(ここ)に細河右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)、其比(そのころ)西国の成敗を司(つかさどつ)て、敵を亡(ほろぼ)し人をなつけ、諸事の沙汰の途轍(とてつ)、少し先代貞永(ぢやうえい)・貞応(ぢやうおう)の旧規(きうき)に相似たりと聞へける間、則(すなはち)天下の管領職(くわんれいしよく)に令居、御幼稚の若君を可奉輔佐と、群議同赴(おなじおもむき)に定りしかば、右馬(うまの)頭(かみ)頼之を武蔵守(むさしのかみ)に補任(ふにん)して、執事職を司(つかさど)る。外相内徳(げさうないとく)げにも人の云(いふ)に不違しかば、氏族も是(これ)を重(おも)んじ、外様(とざま)も彼命(かのめい)を不背して、中夏無為(ちゆうかぶゐ)の代に成て、目出(めでた)かりし事共(ことども)也(なり)。