明治期物売考

 
                              菊池真一
 『明治大阪物売図彙』(和泉書院。平成十年)刊行後、調査し得た事柄を補足しておきたい。項目の配列は五十音順とする。
 
 

飴売

 
 「京都日出新聞」明治三十九年九月三日のコラム「労働者と収入(三)」に「飴屋」があり(挿絵付き)、末尾に「されば血気盛りの者の飴売などに出るは稀れにて大抵は五十を過ぎたるお爺さんの己が食ふだけあればとの暢気なのが多し」とある。
 
 

粟餅売

 
 幸田露伴に「餅の賦」(全集第三十二巻所収)がある。
 
 

紙屑屋

 
 「京都日出新聞」明治三十九年九月五日のコラム「労働者と収入(五)」に「紙屑屋」がある(挿絵付き)ので、全文引用する。
  紙屑屋に就ては曾て本紙上に「紙屑屋」と題し連載したる事あれば爰には単に資本と収入とを記さん、資本五円迄と車とを問屋にて借り一日買集めに廻る訳にて其収入に至ては其日の買出し高に因るなれば何程と明言する事は出来ねど古道具などに手を出す者は平均一日一円紙屑のみ専門に買ふ者は余程儲かる日にて三十銭を上らずとなり、而して何日頃が尤も買物の多き時なるやと聞くに第一は年末にて次は時候の変り目なり例令ば昨今の如き夏過ぎて秋に移るの時など已に夏物の不用になりしを言葉巧みに買出せば古着古道具の類など多し古新聞紙、古反古などは年末に多しといふ
 
 

かんかち団粉や

 
 「京都日出新聞」明治三十九年九月十八日のコラム「労働者と収入(十三)」に「団子屋」がある(挿絵付き)ので全文引用する。
  団子屋は僅か五厘か一銭の小児対手の商売なれど其荷や売る方法には中々に意匠を凝し能く時の人気に適る事を思付ゐて大路小路を売歩くなり図に示したるは稍々流行遅れの観あるも未だ都の端々には此種の団子屋を身受く今でこそ秋風歎の趣きを見ゆれ時局当時には此趣向非常に人気に投じ至る所に歓迎され小学生徒などに取巻かれて一日七八十銭位は儲かりしも昨今にては三四十銭も難しく漸く其日を送るに過ぎずといふ戦争当時の残れる紀念の一として見るべし其他小さき立臼を荷の上に置き杵音面白く団子を売歩るく鳥渡勇せ肌のお若いのもあり是は一日の儲け七八十銭を下らずとは団子屋とて馬鹿には出来ず
 鶯亭金升『明治のおもかげ』(昭和二十八年)に、「玉兎」と題する次の一文がある。
  明治中期までカンカチ団子と言ふ団子売りが子供を嬉しがらせて居た。臼と杵を担いで歩き、杵で臼の縁をカンカチ/\と聞える様に叩いて子供を寄せる。もろこし団子に蜜をかけて黄名粉をつけたもので美味しい団子だと大人も喜んだ。カンカチと言ふ名は杵の音ではなく景勝の転じたものらしい。江戸の昔両国回向院の開帳から景勝団子が流行して『玉兎月影勝』と言ふ清元の踊りを芝居でやつてから今も舞踊会に玉うさぎは出るけれど、カンカチ団子は見られない。
 
 

汽車中の書物売

 
 「東京朝日新聞」明治二十二年二月六日掲載の雑誌『文』二巻二号の広告の内容目次に、雑報の一つとして「汽車内ノ貸本」あり。
 「国民新聞」明治三十七年六月十五日に「汽車内の行商取締」として次の記事あり。
 京浜間其他の汽車内にて書冊類の押売りを為す者あり近来に至つて殊に甚だしく乗客に迷惑を及ぼす事少なからず其筋にては今回断然鉄道営業法の規定に基き直に之れが退去を命じ若し再びする者あれば相当の処分に附する由依つて乗客は右の押売りに逢ひたる時は駅長又は乗務車掌に告げ其処置を求むべしと
 「東京朝日新聞」明治四十一年一月十三日に「大道商売(三)」として「船中の絵本売」あり。
 「東京朝日新聞」明治四十四年六月九日に「隅田川の汽船の中」と題するスケッチがある。そこでは、男が左手に数冊、右手に一冊、本を持って、客に売り付けているようでもある。
 尾佐竹猛『下等百科辞典』には【箱売(はこばい)】の項目があり、
箱売とは、箱即ち汽車中に於ける売、即ち商売を云ふので、汽車の中売りのことだ。昨年〔注=明治四十三年〕鉄道営業法が改正になつて、これを禁ぜられたが、それ以前は必ず汽車中にあつたもので、これは一二等にのみ乗らるる上流社会の旁々は御存知はないが、我々赤切符連は、前刻御承知の所である。
として詳細に記述している。絵葉書・安本などを売った。
 青木元氏から次のような御教示があったので、紹介し、感謝致したい。
大阪出版協同組合が昭和31年に発行した『大阪出版六十年のあゆみ』の中に、明治末年に「榎本法令館」という業者の販売員が児童の絵本や大衆向けの簡易な読み物を関西線・片町線の列車の中や大阪─神戸間の船中で呼び売りしていた旨の記述があります(P.37─38)。日露戦争頃の主要書店のリスト(P.17 ─19)にも同店が載っていることから、明治35年2月18日の大阪朝日新聞の記述は法令館の事かも知れません。
 『大阪出版六十年のあゆみ』(昭和三十一年)には、次のようにある。
当時〔注=明治末期〕の正式な販売ルートは、小売店を通じて一般消費者に販売されていたが、榎本法令館は特殊な売捌き方法を案出した。それは販売員を使って直接顧客に売るものである。その出版物は、児童の絵本・ポンチ絵(漫画)本、大衆の簡易な読物であって、絵本類は木版活版色刷、読物は××悲話、××心中などという「きわもの」の、薄ペラいものであり、内容は低級なものであって、玩具類似品であった。
関西線の湊町―天王寺間、大阪駅から、吹田、神崎間、片町線などの列車の中や、川口から出帆する大阪商船の定期航路の船中(神戸までの間)に、必ず現れて、
「おなじみの榎本法令館であります。お子達のおみやげに絵本桃太郎をおすすめします。一冊定価××銭ですが、本日は勉強しましてモー一冊金太郎を添えます。それから……と一冊一冊を加え、最後に読物を加えて全部で十冊、これで一冊の定価の××銭でおわけします」
といった具合に、うまく引きつけて近在の農家やお上りさんの乗客に売りつけていた。この方法は大いに成功して法令館はメキメキ発展していった。
 青木元氏から、又、次の記事を御紹介いただいた。『週刊朝日』63巻30号(1958.7.20)85ページの記事(投稿)で、「一銭蒸汽のもの売り」と題するものである。
 小生は、両国育ち。一銭蒸汽は本当の一銭から乗りました。7月6日号の「問答有用」にありました船内の物売り、記憶しておりますまま、お知らせ致します。
○両国から乗船して寝る廐橋であがるのと、廐橋から乗船して吾妻橋であがるのとある。持ち物はズックの鞄。(ジュウタンの古布ヲ胴中ニ用ヒタモノ。柄ガアッテ毛ガ生エテイル)種はゾッキ本、玩具(尾ガ螺線デブルブル動クブルドックナド)お伽話絵本等。大体、十二、三点そろえて金十銭で売る。 「毎度、船内おやかましゅうございます。今日、持って参りましたのは、冒険小説、海国美談『流星号』著者は皆様ご存じ、有名な××先生(一向有名でない)××堂の出版で総振仮名、どなたにも読めて面白くて為になるという……。定価は一部三十五銭でありますが、船内の特別をもちまして、本日一部わずかに十銭で差上げます。だがお待ちなさい。本日は特別のお添え物といたしまして、坊ちゃんお嬢ちゃんへのお土産、お伽話『かちかち山』、全部色刷の上等本。定価は五銭でありますが、『桃太郎』『猿蟹合戦』『一寸法師』『牛若丸』の五部を取りそろえ、全部六冊でわずかに十銭……。はい、ありがとうございます。(遠くの方へ声を掛ける。だれも買うという者はないのだ)
 だが、お待ちなさい。なお今日は特別のお添え物といたしまして、『年中家内重宝』を添えて差上げます。これ一冊さえあれば、神田、深川の御祭礼はもちろんのこと、楯播き、仕立下し、普請、井戸替、その日その日の吉凶善悪、なんでも分るという重宝な本。はい、はい、有難うございます。だがお待ちなさい。今日はなお特別なお添え物といたしまして、云々……。
  全部取りそろえて十三点がわずかに十銭。御用のお方は早く声を掛けて下さいまし。次の廐橋あがりであがります。全部取りそろえ十三点でわずかに十銭。こんなに安いお土産はない…。はい、有難うございます。次の廐橋あがりであがりますから、お早く願います。云々……」(小田原市幸三の五二一・金沢慎二郎・粥文亭主人)
 今井栄『墨東歳時記』(昭和四十九年)にも、
都鳥ののんびりと水面に浮かんでいるそのころの隅田川は、水もきれいであったし、両岸の眺めもまだ美しかった。この川筋をのどかに走った蒸気の姿は、今さらに懐かしいものであるが、忘れられないのは、吾妻、言問の間、また白蒸気でいえば、おんまや橋、横網の間で、いつも見られた物売り風景である。子供心にも、どうしてあんなにおまけがつくのだろうと、不思議に思うほどにおまけがつく。「船内は特別の大勉強、本日は、なお加えまして」などと口上をいゝながら、色彩も美しい絵本を五冊も、六冊も、八冊も九冊も、はては十冊あまり、扇形に並べて手に持って客の購買心をそゝる。今日のように、子供雑誌や教育絵本などの、まだ現れなかった時代である。桃太郎や、かちかち山などのおとぎ話、牛若丸や金太郎の昔話、さては、きつねに化かされのような馬鹿げたものまであった。本所、深川、あるいは向島に育った五十以上の人々は、浅草の観音様の帰りの、蒸気の中の不思議な光景を、はっきりと覚えておられることであろう。
とある。今井栄は明治三十四年生まれ。この話は明治四十年代のことだろう。
 永井荷風『冷笑』には、吾妻橋畔から乗った川蒸気船での絵葉書売りが出てくる。
すると最後に乗込んだ黒眼鏡の筒袖は腰掛の上に鞄を開いて先づ二三枚の絵葉書を取出し、
「船中のお退屈まぎれ。毎度皆様方の御贔屓になりまする絵葉書。今回御覧に入れまするはお児様方のお慰み、教育武士道絵葉書に御座ります……。」と云ひ出す口上に、今まで河面に注がれてゐた乗客の視線を一度に引き集めた。
「最初に御覧に入れますは武田信玄上杉謙信川中島の合戦、この通り美事な極彩色、次には源の牛若丸鞍馬山の場に御ざります。光線にすかすと月に村雲は此通りはつきり透絵になつて居ります。」と一枚一枚説明して、開いた扇のやうに、五本の指の間に絵葉書を挟んで行つた。
〈中略〉
絵葉書売は広げた絵葉書を革包の中にしまひかけて、「都合揃つて十五枚、今日は特別の廉価を持ちまして僅に五銭、一枚はほんの三厘にしかなりません。次の言問で御免を蒙ります、お望のお方はどうぞ唯今の中……。」
これは、明治四十二、三年頃の風景。明治の一時期、絵葉書がはやった。
 

剪花売

 
 「京都日出新聞」明治三十九年九月十四日のコラム「労働者と収入(十)」に「花売」がある(挿絵付き)ので、全文を掲げる。
  花売に二種あり一は伏見辺に住みて己が作りしいろ/\の花を朝な/\剪りて市中に売る者と一ツは因幡薬師内の花市其他の花市より求め来りて売る者とありて風流なる花屋は前者にありて時に露の儘なるを売る時あり価は比較的に安きも花の色後者程揃はずされば生花などに用ふる花は後なる花屋に求むる慣ひありて実入の高も亦多けれど是等は大抵自宅と連絡しある事とて鳥渡差別つき難けれど外出のだけにて五六十銭は儲かる由、又己が作りし花を売て売子となれば労働が金となる訳にて得たる金は悉皆儲けとなる次第なるも此種の花屋は仏花を売るが多きゆゑ儲け高又七八十銭に止まりて日々売りに出るといふ運びとならず、彼の白川の花売女は其花売女の小遣銭を儲くれば足れるにて此労働者の部に入らず
 
 

ゲンコツ豆売

 
 「大阪朝日新聞」明治二十四年十一月二十日に「道修町の細工人形」として、次のようにある。
  明廿一日より三日の間東区道修町薬祖神社の祭礼(神農祭)につき例の如くいろ/\の作り物をするよしにて其人形は加藤清正の虎狩、松右衛門の逆櫓、太功記十段目、朝妻船、辻占売ゲンコツ、へら/\坊主、三番叟等にて活花もいろ/\出来るよし
これより「ゲンコツ豆」が明治二十四年の新風俗であったことが伺える。
 
 

聖書売

 
 桜田文吾「貧天地饑寒窟探検記」(『日本』明治二十三・二十四年掲載)に、次の件がある。
  飴売りは忠実だち、先生ドーダ事は相談によるものなり。戴盥の飴屋その本元は浅草にあり、本は警部まで勤めし人の女のために過ちて今の商売となりておらるるが日に三両ほどの商いあり。我友達にも二、三人その世話蒙るがおり候。この身なんどはかかる醜男なれば抛却られて候えど、先生は体が好ければ採用せらるること大丈夫なり、先生ドーダやる気があらば骨折て見候わんかという。側より肩輿屋の翁異議を挿入し、お前さんの様子を見れば耶蘇の本売りなど相当わしからん、飴屋にはちと惜しき物なりといえば、飴売りはこれを駁し、耶蘇などに這入らんより飴屋こそ夐かな勝りたれと論ず。(岩波文庫『明治東京下層生活誌』による)
 
 

ぜんざい屋

 
 「大阪朝日新聞」明治十五年三月十五日の記事に寡婦が善哉売をする次のような記述があり、挿絵も付いている。
  残りし衣類抔を売代なし其金にて古びたる善哉の荷を購ひ来りおまさは毎夜其荷を担ぎ菊蔵を便りに夜露を犯し善哉召れずや正月屋善哉々々と声のかるゝまで荷ひ歩行ど母子が口を凌ぐ程の利益はあらず
 
 

辻占豆

 
 「読売新聞」明治八年八月二十九日に、
  ○私が此間西洋の辻占菓子を貰ひ開いて見ましたが横文字にて分らぬ故翻訳して貰ましたら「わたしのこゝろが、あなたのこゝろに、叶ひましたら、母さんへ咄して見ましやう」とありましたが西洋の娘たちは常々母が能教へます故色事などにも自分の気まゝにはしませぬことゝみえて能ことであります付ては我国の辻占煎餅などには甚しい色ごとのことが書てありますし又流行唄などにも淫奔ごとを無暗に作ツてうたはせますが大きに娘たちの風俗に関り誠に宜しからぬこと故其筋の御役所より御差止になりたく又親々は娘御達に此様なものは見せも聞せもせぬやうになされたいといふ者は 浅草浣花翁
とある。
 「大阪朝日新聞」明治二十七年三月十三日に、
  ●千日前の乞食  南地千日前には売淫女多く其境界の大略は前号に記載したるが尚同所には諸国より入込みて乞食を渡世同様にして居る者頗る多く其数凡そ百名に近きよしされど此等の者は公然と乞食とは名乗らず表面ばかりの申訳に紙屑拾、烟管の仕替、磨砂売、遊芸稼(祭文語り、阿房陀羅坊主等)車の挽子、辻占売等の鑑札を受けて居れど其実は皆物貰にて一人の頭ありて其指揮を受け諸方に出て物を貰うて帰ることなるが其貰高の最も多きは廿銭ぐらゐ少きは四五銭にて貰ひの多きは賞め少きは叱り又それ/\組合ありて病気のときなどは互に助け合ひ情交頗る親密なりといふ
とある。
 「大阪朝日新聞」明治二十八年十二月十三日の広告に、
  かい良辻うらせんべい  一枚壱厘
  右今回新製発売仕候品は御子達様御婦人様方の御たのしみのせんべいなり
    大阪市北区しゞめばし  近藤本店
    天満天神戎門西手    近藤支店
とある。
 「大阪朝日新聞」明治三十六年八月十二日に「夜の公園」と題する次の文章がある。
  行水にザツと汗を流して、扇子の他、物持たぬ袂は軽く歩を移して、中之島公園にさしかゝれば、樹の蔭、長床几の後よりチヨコ/\と走り出づる小さき姿あり。
  不意なれば、犬ころがそばへ付きしかと、俯向いて視るに児童なり、浴衣着たる合総頭の女の児童なり、品格は左程にいやしからず、色も白し、手に数十枚の紙片を持ち、哀れなる声にて「辻占買ふとくなはれ、旦那様辻占を」といそがしくいふ、我に辻占の要なけれど、二三葉買うてやり、お前は幾歳と問へば十歳と答ふ、次に、家は何処、親はあるかと問ふに、少女は眼を円くしながら、私は北野からまゐります、父は無し母と六歳の弟一人あり、毎夜母諸共こゝに来て十二時頃に還るに十銭位の所得あり、昼間は又自分一人留守番して母のみ辻占売に行く由を答ふ、いと覚束なし、かうして頼めば大概買うて呉れるかと更に問へば「イヽエ頭をたたきやはる人がおます」と涙含む、咄、かゝる動物もありけり、いかに付き纒はるゝがうるさしとて、罪も無き者をたゝくべきか、それ程の無情にて涼む面見たし、その冷やかさにて氷飲む面見たし、中流か、下層か、紳士か、労働者か、紳士はまさかに、されど世に、紳士と称する者あり、大方標的に成らず、髭を生し美服を着て大手を振る、一寸えらきやうなれど、心のさもしさは乞食にも劣れるが少からず、この辻占売をたゝく輩、もしやその種類かと想像する間に、少女の姿は掻き消されたり。
  我も亦彼方へ去るに、又忽ち黒きものチヨコ/\と走り寄る、今度は二人、姉妹らし、以前のよりは色黒く、着物も汚く窶れたり「辻占買ふとくなはれ、辻占、辻占」声細く慄へて夏なほ寒し、殊に妹と見ゆるは頑是なく、姉に手を引かれながら眠気なり、勿論母など陰に付き添へるなるべし、あはれこの小さき者の境遇よ。
  傍には●母車に揺られて微笑む幼児あり、いかなる運命や持つらん、又五人六人づゝ打群れて他の児童等遊べり、雀の如く囀り、兎の如く走りつゝ、楽しさ想ひやるべし、又奥様あり、下女に後より団扇で煽がれつゝ行く。
  その道筋に当つて、法衣姿の一群、抱き茗荷の紋付きたる高張提燈を押立て、その中の一人、朽木の株台に登つて説教す、下手らしけれど熱心は溢れたり、同時に他の仲間は『罪悪』と題せる印刷物を配布る、五逆罪の仏説を引用し、先天後天尽天尽地法として自ら然るべきものなどの文句あり、それを貰うてや、電燈の光うすき方に休息するに、横手の長床几に微酔機嫌の男と女の私語、初対面の如く又知人の如し、その女尋常物にあらじ、風情によつて推せらる、言葉によつて察せらる、白粉の匂ひ立迷ひてかの辻占売の前途をさへ想はしむ。
  いつぞや我こゝにて耶蘇教徒の讃美歌を耳にせし事あり、立正安国会の演説を聞きし事あり、鞭声粛粛と東雲のストライキとを聞きし事もあり、之を考ふるに意味いよ/\煩はし。
  還つて燈下に坐し、戯れにかの辻占を焙り出すに「あかせば共々苦労する」またいはく「力づくでは切れないわたし」さても浮世はさま/゛\や、恋の辻占児童の涙、教育宗教の声涸れて接吻清からず、貧、富、物質、精神、明き公園、暗き公園、一夜に人の運命を描くこと幾許ぞ。(小塊)
 「東京朝日新聞」明治三十七年一月十三日に次の記事がある。
  ●老の辻占(泥坊だよ) 霜夜に年寄の声細く『花のたより淡路島通ふ千鳥の恋の辻占』と本所区内を売歩く五十二三の親父あり若い者なら卒知らず提灯の絵の花もなきヨボ/\の辻占は『色気がないよ』と評したけれど慈善心ある人々は『かあいさうだねへ』とか『思ひやられます』とか涙ぐんで煎餅を買ふので商売は『大当りだよ』と当人喜んで居るは何よりなれど折々界隈の子供に揶揄ひ我売物の辻占を大攫みに与へるは何うやら不審の振舞故其筋の人も目を離さず『ほんにお前はをかしな素振たゞして遣りたい事がある』と頻に注意せし処一昨夜右の親父が十数個の亜鉛製バケツを提げ急ぎ行く体を見掛けしゆゑ『怪しいねへ』と呼とゞめ『あかしてお呉れ』と訊問すると『大凶、望事かなはず、盗物あらはる』といふ様な訳にて胡乱な言葉を出せしかば『ちよいとお出で』と拘引し猶厳重に取調べたるに此辻占売は茨城県猿島郡古河町平民小西熊吉といふ者にて辻占入煎餅は度々松倉町の菓子屋平泉にて盗み又バケツも諸所にて引攫ひ是を飲食店へ持込んで酒代にかへる次第まで明細に白状したりとは『あきれたよ』
 
 

辻洋食

 
 『明治大阪物売図彙』に「大阪独特の商売であろうか。」と書いたが、東京にもあった。「東京朝日新聞」明治四十一年二月二十四日に「屋台店廻り」と題する次の文章がある。
  近来西洋一品料理の屋台店の殖えた事は実に驚く許りで、繁華な市街の横町で白金巾を引廻した西洋料理の屋台見世の影の見えない事はない、是がまた相応に繁昌する、客の種類は商家の手代、丁稚、労働者、書生、下級会社員等で偶には近傍から皿を以て買ひに来るのもあるさうだ、
  △夫れで彼等が第一の得意とするは商家の小僧さん達で、小僧は労働が劇しいから夕食をしたゝか詰込んでも一時間も経つとゲツソリ腹をへらすので、風呂の戻り乃至主用の帰りに此屋台店へ頭を突込でパクツクので、大店の小僧などになると平素主家が何百円何千円と大きな取引を目馴れ耳馴れして居るので、気位が高くなツて居るから五銭や十銭の金は何とも思はず七銭のビフテキを三四皿と七銭のライスカレーを二皿位を夷げて五十銭銀貨を抛り出し手行くから此連中の来るのを書入にして居る。
  △ソコデ一寸一品料理の値段を紹介せう、シチウ四銭、カツレツ、コロツケー、オムレツ、フライ、ライスカレー、ビーフテキの類各七銭、コールビーフ九銭、ハヤシビーフ十銭、正宗、沢の鶴一合壜中味九銭、麦酒小中味十五銭といふ安売だから、山盛のシチウ一皿で正宗一本を倒してライスカレーを食つて勘定と云ふと僅かに二十銭だ。
  △二十銭と云へば普通料理一品の値段だ何と安い物でないか、尤も安いには安いだけの理由がある、肉類は大抵ソツプの出し殻たるは云ふまでもない例の桜肉も無論用ひられて居るが、ソースや辛子を添へてお剰に珈琲まで服まして帰す、素人眼から見ると何如して引合ふかと怪しまれるが、爰に最う一ツ安い理由がある。
  △其理由といふのは、西洋食料品商の手代などがちよい/\立食に来て亭主と顔馴染になると、何々を安くするが買とかないか、何々は幾割引くとかと云つて抜荷を売付けに来る、此方は渡りに船だ足下を見て値切倒して安く仕入れるといふ便利があるので彼等は大に助かつて居るさうだ、何の道にも抜目はない。
  △目貫の場所に出て居る亭主の云ふには、増税で是から先は売り難いだらうと思ひます、ナニ利益ですか先づ三割くらゐの商法をして居ては何にもなりません、毎晩の売上げが十円以上なくツては食て行かれません、夏と冬ですか、左様夏の方が売口は可いのですが夜が短かいし、冬は夜が長いけど寒いから立つ人が夏のやうにはありませんから平均すれば同じやうなものです云々。
  △シテ見ると十円商法して半夜に三円になる、一ケ月九十円の純益があると聞いては屋台店の殖えるのも無理はない。
 
『団々珍聞』第一千二百二十号(明治三十二年六月十七日)十二頁に、
  ●むだ口投書 (其二)
▲西洋料理の屋台店を出してもらひたい(立食生)
とある。
この立食生は、大阪にあるのを知って「東京でも」と言ったのか、あるいは知らずに単なる希望を述べたのか。
 
 

豆腐屋

 
 「京都日出新聞」明治三十九年九月七日の「労働者と収入(六)」というコラムに「豆腐屋の売子」と題して、次の文章がある(挿絵付き)。
  絵の上部は東京の豆腐屋、下のが当地の豆腐売なるはいふ迄もなし、此豆腐売の中にも豆腐屋の主人自から売に出ると売子を何人も置ける家との別あり、主人が直接に出る分は此所に要なし、売子は概ね北国より来り家内にあつては豆腐製造の手伝をなし午前は十時頃より午後は三時より売りに出るが売りに行く場所は大抵決り居れり時に平生の得意場所以外へ売りに行事あるも効なしといふ、主家で食つて一ケ月二円位の小遣ひを貰ふが上の部にて売りに出れば二割の口銭を貰ふを定めとする由其の売上高は先づ一月平均二十五六円あるを余程商売巧手の者といふが四季共此の調子といふ訳にゆかず、書入れ日は月末に豆腐粕、私祭前及び年末に煮染用として売れる時なりといふ
 
 

鍋焼うどん

 
 「東京朝日新聞」明治三十七年十二月七日に「鍋焼うんどん」と題するスケッチが掲載されている。
 
 

鋏とぎ

 
 「京都日出新聞」明治三十九年九月十六日の「労働者と収入(十一)」というコラムに「研ぎ屋」と題して、次の文章が掲載されている(挿絵付き)。
  以前の研屋は道具を入れたる箱を肩に担ぎ或は天秤棒にて是を担ひて大路小路を「剪刀、剃刀トギ」と呼びあるきたるが羅宇の仕替が蒸汽を応用する程の世となりたれば研屋も又た小さき車を曳く事となりぬ、研屋の道具だけみては車の上の寂しきより小刀、庖刀其他の金物類を列べて販売をも兼ぬる従つて其収入も増加し多き日は一日に三十銭にもなれど尠き日は十五六銭の時もあり平均一日の収益四十銭位になるといふ雨天の多き月など殊に困難なり而して以前の研屋は大抵渡り者が多く木賃に宿りて日本全国を跨にかけしが近頃車を曳いて来るは重に土地に住む者なりとぞ
 
 

瓢箪山辻占

 
 「大阪朝日新聞」明治十五年二月十日の記事の中に、
  河内瓢箪山辻占屋でございと毎夜南地の花街を駈歩行き日々の渡世にして居る難波村新金刀毘羅神社前の井口利助(五十八)といふ老爺は老て益々壮なるか(以下省略)
という一節がある。
 「大阪朝日新聞」明治十八年五月二十三日に「瓢箪山稲荷の贋物」と題する次の記事がある。
  名高き河内瓢箪山稲荷神社の支社が此程より西成郡九条村茨住吉神社の近傍に出来たりとの評判世上に高く聞えて之に参詣するもの頗る多く為めに河内の本社に影響するほどなりし然るに本社にては元より支社なんどを置きしことのなきを以て其実際を取調んと一昨日態々来阪し直に九条村に至り見るに果して立派に飾付たる一社あり依て金十銭を出し他人の手を以て試にお供を為せし処瓢箪山社務所と記したる領収証を出したれば愈々贋物なりとの証拠を得昨日其筋へ告訴なしたりといふ
 「大阪朝日新聞」明治三十年三月二十六日に「辻うら売」と題する次の記事が掲載されている。
  河内瓢箪山辻うらでございと愛らしき声張上げて呼ぶ後より運気縁談待人失物旅立方角恋の辻占と婀嫋気なき声に和け行くは十九と十五の娘なり宵から廻る新町の廓には調子も合ぬ三味聞て撥を持つ手に二円三円握らせる客はあれど高が五厘一銭の辻占見向て呉れる人もなければ提燈の火に姉妹が手を温めしよんぼり佇立む扇屋の門へ東の方より来かゝりたる廿二三の婦人オヽ辻占屋はん此処に居てか辻占買うて上げましよといふに姉妹嬉しくすり寄て五厘のだすか一銭がのにしましよかと笑顔に見上る顔を見下し何ぼあるか知らぬけども一枚五厘に買うて進ぜる悉皆出しなはれと二十銭銀貨投出され姉妹は気もいそ/\底を払うて辻占を渡し売溜の小銭かき攫うて十六銭の過剰を与へてお有難うの百遍も述べたるのち喜び勇んで廓を出で千日前を新金比羅まで来りしは一昨夜の十二時過なり妹は其処の魚屋に鮪の骨盛りたるを見て姉はん彼の鮪何ぼや知らぬが爺さんに買うて上げたら少しは身体の力にならうといへばオヽ宜う気が付た今夜は思はぬ商ひした依て二銭だけなと買うて上げましよと一盛二銭の鮪の骨買ひ受けて二十銭を払ひ渡すに魚屋の爺目を剥て十八銭と其の骨とを騙り取らうと為くさつても其手に乗る爺ぢやないあのこヽな偽金使ひめと銀貨を投出し打擲する下を潜つて言訳してもいつかな肯ぬ一徹に姉妹はワつと泣出せしが折よく見知り人の通りかゝつて身の明りだけは立たるものゝ立ぬは銀貨の始末なり泣く/\日本橋五丁目七一四番屋敷の藤田安吉とうつたる名さへ薄墨ながらの吾が家へ帰り父安吉(五十年)におろ/\と言訳すれば父は目をしばたゝきおまつも泣なおきぬも泣くな皆な己が悪かつたのぢや其方が母に別れてから手伝職も碌々出来ねば姉のお松も妹のお絹も可愛さうにお寅(十五)まで燐寸製造場へ稼ぎにやり手習ひ一つさせなんだので五厘の五の字が読なんだのぢや朝は疾から製造場で稼ぎ夜はさうして辻占を売り死損なうた此の親を養んで呉れる孝心は通ぜずして此様な災難に遭ふといふのは神も仏もない世かと男泣きに泣叫べば二人も堪らず泣出すに臥したるお寅も泣出して其夜は一家泣明しぬ警察の偵邏巡査はこの泣声に不審を生じて家に立入り仔細を聞き其の婦人は洒落か欲かは知らねども正しく法律の罪人なれば今に仇は我々が取つて遣る力を落さず明晩も商ひに出よと慰め諭して引取りたるよし死ぬ者の咽喉を干すとはかゝる婦人を言ふた事なり
 
 

磨砂売

 
 「大阪朝日新聞」明治二十七年三月十三日に、
  ●千日前の乞食  南地千日前には売淫女多く其境界の大略は前号に記載したるが尚同所には諸国より入込みて乞食を渡世同様にして居る者頗る多く其数凡そ百名に近きよしされど此等の者は公然と乞食とは名乗らず表面ばかりの申訳に紙屑拾、烟管の仕替、磨砂売、遊芸稼(祭文語り、阿房陀羅坊主等)車の挽子、辻占売等の鑑札を受けて居れど其実は皆物貰にて一人の頭ありて其指揮を受け諸方に出て物を貰うて帰ることなるが其貰高の最も多きは廿銭ぐらゐ少きは四五銭にて貰ひの多きは賞め少きは叱り又それ/\組合ありて病気のときなどは互に助け合ひ情交頗る親密なりといふ
とある。
 
 

焼薯屋

 
 「読売新聞」明治八年九月十五日に、
  ○今年は薩摩芋が大当りにて焼芋やの殖こと諸方へ沢山出来まして「○やき」十三里または「九里半」塩やき「胡麻やき」てツか焼と銘々に工夫をして釜の支度や行燈のはり替へ筆太に書たてる中に本所亀沢町の引こんだ家の行燈には「○焼六里半」と書て有ますが東京は物見高い土地ゆゑに女中衆は猶さら眼を付て十三里なら九里四里うまいといふこと十一里は川越といふこと九里半は九里をこすといふこと「十里」と有れば五里五里いも五十四里なら六九里やけたのだが「六里半」といふのは何の訳で有ろう大かた女房がお世辞が無いから六里(むツつり)すぎることでも有ろうと虚ではない本所の人のはなし
とある。
 
 

焼栗や

 
 「京都日出新聞」明治三十九年九月二十八日の「労働者と収入(十五)」というコラムに「焼栗屋」と題する次の文章がある。
  焼栗屋は年中夕刻より一種の節ある「栗や栗や」との呼声高く各遊郭を売歩き居る意気な若者もあり看板の行燈には夜泣のそれの如く役者の名などを記せり、名は焼栗屋といふも銀杏も持ち居りて車の上にて焼きつゝ売るなり、子供の相人ならぬだけ五銭より以下の買人はなく大抵十銭二十銭を撒きちらす金で買ふ事なれば安い高いは無論いはず随分と面白さうな商売にて時に浮気な娼妓などの惚れるとか腫れるとか、其一日の収入はと聞けば高上げの日に因て相違あるは勿論にて五十銭位の時もあれば二円五六十銭の時もありて昨今の如き新栗の顔を出し始める頃が一番多く売れる由にて平均一日の純益金六七十銭以上なりと聞く
 
 

らうしかへ

 
 「大阪朝日新聞」明治二十七年三月十三日に、
  ●千日前の乞食  南地千日前には売淫女多く其境界の大略は前号に記載したるが尚同所には諸国より入込みて乞食を渡世同様にして居る者頗る多く其数凡そ百名に近きよしされど此等の者は公然と乞食とは名乗らず表面ばかりの申訳に紙屑拾、烟管(らを)の仕替、磨砂売、遊芸稼(祭文語り、阿房陀羅坊主等)車の挽子、辻占売等の鑑札を受けて居れど其実は皆物貰にて一人の頭ありて其指揮を受け諸方に出て物を貰うて帰ることなるが其貰高の最も多きは廿銭ぐらゐ少きは四五銭にて貰ひの多きは賞め少きは叱り又それ/\組合ありて病気のときなどは互に助け合ひ情交頗る親密なりといふ
とある。
 「京都日出新聞」明治三十九年九月十日の「労働者と収入(七)」というコラムに「羅苧の仕替」という題で、次の文章が掲載されている(挿絵付き)。
  羅苧の仕替屋といへば薄汚い衣物を纒ひし爺か婆かに定つて一日「羅苧仕かへ」と声を涸らして歩いても十銭前後儲かるのが関の山なりしに世の進むにつれて此の仕事にさへ蒸気を使用する事となりしは大した進歩とやいふべき、随て以前の如く襤褸を纒ひし者なくなりたれど尚昔の名残を見受けぬにあらず中には子供を玉に使ひて「今日は親の命日ゆゑ長いのも短かいのも一銭」と声高に呼び歩き憐れを装うて儲けを多くせんと巧むもあり而して所謂機械応用の分は一日三四十銭の儲けある由にて風俗が変れば儲けの多くなりしも不思議なり彼等が第一に仕事の多き場所は中京にて是は白鼠殿が脂下つて煙草に暇を潰す結果なるべく次は遊郭にて場末となるに従ひ反比例に仕事が殖えるといふ事なり
 
 
 
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菊池眞一