尾崎紅葉事典 まえがき

 かつて近代文学史のテキストに〈紅露逍鷗〉という用語がしばしば登場していた。言うまでもなく、明治二〇年代初頭を象徴する言葉であり、尾崎紅葉、幸田露伴、坪内逍遙、森鷗外が中心となり文学界をリードした時代を指している。二葉亭四迷や北村透谷らの欠落が気になるが、それは別としてもこの〈紅露逍鷗〉の用語は今日でもなかなか有効で、しかも魅力的なイメージを発揮しているではないか。
 確かに明治二〇年代初頭から明治三〇年代後半に到る時代は日本の文学ひいては文化が近代的に整備されていく過程での混沌そのものに他ならなかった。誰もが〈近代〉を求めてその幻影を実体化すべく悪戦苦闘せざるを得なかった。〈紅露逍鷗〉とて例外ではなく、それぞれ、もがき苦しみ挫折や中断を余儀なくされたのである。その中でも最も苦闘し、ついには中途で生そのものをも犠牲にせざるを得なかったのが尾崎紅葉であった。この紅葉の悲劇は後の文学的評価となって文学史に定着することとなった。確かに他の三人が比較的長命で結果的にはそれぞれ個性的とも言える文学的営為をつみ重ねたのに対し、わずか三六歳で果てた紅葉の文学的生涯は相対的には貧しかったかもしれない。これまでの評価もそうした傾向に陥りがちであったのも当然であったかもしれない。しかし果たしてそう断定し看過することが現代において意味を持つであろうか。紅葉が短い生涯の中で情熱を傾けたさまざまな文学的行為は逆に現代においてこそその可能性を輝かせるのではないか。
 例えば彼が仲間と共に始めた硯友社という文学サークルと『我楽多文庫』という同人雑誌である。今でこそありふれた現象でしかないが、当時においては画期的な試みでこれに書生たちが群がり集まることになっていったわけで、まさしく〈近代〉を表象する青春の風景の一つと言ってよい。ここに集まった書生たちは必ずしも文学青年に限らなかった。政界や官界あるいは実業界へ進出すべき書生たちも多く、こうしたサークルに群れ集い新鮮な青春を十二分に体感したのではないか。こうしたサークルや同人誌はその後次つぎに生まれていったが、そのエネルギーは外部的にはジャーナリズムを刺激し、新しい新聞や雑誌を数多く生み出す力となっていった。そしてその中心に紅葉が常にいたわけで、その点で彼は〈近代〉の文壇ひいてはジャーナリズムの生成者の一人だったと言ってよい。
 そうした外的活動ばかりではない。紅葉の文学には豊かな物語性や娯楽性に満ちあふれており、後に貧血気味の現象を呈するに到った日本近代文学を活性化する重大な要素を有していた。だからこそ紅葉文学は芝居や歌謡ひいては映画などに共鳴し合う、いわばメディア・ミックスを世起する力を発揮し、現代にその光りを投げかけるものとなっている。
 また、紅葉の文学的活動は小説や演劇あるいは翻訳だけにとどまらない。詩歌の分野でも漢詩、新体詩、俳句、狂歌などから、はては浄瑠璃や都々逸にまで及んでいる。つまり彼は最初は近世からの文学の流れの中にどっぷりと身を浸していたわけで、その点で近世から〈近代〉への転換を一身で体現しているのである。この意味で紅葉は〈近代〉の文学の生成を明らかにするには最適の文学的存在と言ってよい。
 私たちがこの事典を企画したのもこうした認識を基底に据えてのことである。尾崎紅葉という文学者の存在とその文学営為にさまざまな角度から照明をあて、その全貌を明らかにしようと試みた。その結果として〈近代〉の生成を文学的に証し立てられるのではと夢想したのである。もちろん、この試みがこうした夢へのささやかな第一歩に過ぎないことは十二分に承知している。いつか本書を大幅に増補改訂する機会にめぐまれることを期待しつつ、本事典の企画の趣旨説明に替えたい。



尾崎紅葉事典
編者  山田有策・木谷喜美枝・宇佐見毅・市川紘美・大屋幸世
発行日 2020年10月28日
発行所 翰林書房
定価  12,000円+税
ISBN978-4-87737-455-6



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