街道物都々逸研究

菊池真一

東海道や木曾街道の宿駅に因んだ都々逸を並べたものとして次のような本がある。

一、『彩画独々逸五十三次』(弘化四年か嘉永初年)
二、『芳此五十三駅』(嘉永年中)
三、『絵本どゝいつ惣まくり』(嘉永二年刊か)
四、『膝寿里日記』(嘉永末年刊)
五、『東海道五十三次どゝいつ』(安政三年)
六、『度独逸大成後集之後冊』(安政六年)
七、『東海道五十三次気さんじ都々一』(明治元年十一月から明治四年七月の間)
八、『木曽海道六十九次気さむじ都々逸』(明治初年)
九、『よしこの故能和多橋』(明治十三年)

以下、詳細に見てゆく。


一、『彩画独々逸五十三次』(仮題。関西大学図書館所蔵。図書番号H911.91/D1/1)

 後補表紙に「彩画独々逸五十三次 全」と手書き。表紙は絵のみで題はないが「小信画」とある。これが長谷川小信だとすると、生れは安政六年(1859)、没年は明治十九年(1886)である。本自体は幕末の雰囲気であるが、小信の関係からすると明治初期の成立となる。あるいは、別本の表紙を取り合わせたものかもしれない。
 本書奥付の広告中、「投扇曲芳此源氏」は、神戸大学に弘化四年(1847)刊本を所蔵するとのことである。(「なげ扇源氏よしこの」)これを直近出版物の広告とすると、本書は弘化四年か嘉永初年の刊行ということになる。
 実は、本書は次項、菊池所蔵の『芳此五十三駅』とほとんど同じ版面である。本書がまず成立し、『芳此五十三駅』はその版木を流用して作成したものではないかと推測される。したがって、「小信画」とある本書の表紙は後で取り合わせたもの、本自体は弘化四年か嘉永初年の版行と推定される。菊池所蔵の『芳此五十三駅』はその後、嘉永年中の版行ではなかろうか。
 以下、関西大学蔵本の翻刻。
彩画独々逸五十三次 全」(表紙)
小信画」(表紙)
古語に曰旅はうひものつらひ者其うひ事もつらひのも何にも不知に三味線の三筋の糸のいと道を唱(うた)ふてゆけば大江戸から花の都の道すがら名所名産残りなく知れるは重宝居ながらに名所として歌よみの其上をこす五十三駅(つぎ)よしこののくたぶるゝのは口計リ馬にもらず籠にも乗ず鳥渡小休(こやすみ)茶に煙草そこを気どつてあつかんて一杯やつて又いそぐこんどは立場の長休みちやうしのつぎめ継ぎをやまのおさえの大かんのかの道草をくふ其内に招婦(おじやれ)が客をひくれごろこゝちに宿をいきをひの春きらさぎ旅立よしとい日にしるす  紅葉亭二敷」(一オ)
(絵)」(一ウ)
(絵)月の名処雪まてまるろ恋といろとの花の東都(ゑど)
花がとりもつふたりのなかはもめたせりふの隅田川」(二オ)
一品川 ヱ二リ
くろふはな川そのかひもなくまたもふらるゝすゞか森
あ〜。思ひはアノいざり舟よことごとにこがれゆく
二川崎 ヱ二リ半
恋の川さきわたしがこゝろぬるゝたもとにそでのつゆ
つくすまことは大師のおかげすゑは世にでゝあらわれん」(二ウ)
三神奈川 二リ半
文のかな川かしくでとめる今朝わくぜつでとめて見ん
あかりかねますさぐつて見てもふしの人穴おくふかひ」(三オ)
四程ケ谷 ヱ三リ九丁
いつもおせじのよきほどかやにまもひかれてまよひくる
ほつておかんせやき餅坂よわしのおとこしやまゝにする
五戸塚 ヱ二リ九丁
文はてつよく千束になれど返事なきゆゑ猶くろふ
弓矢八まんちかひをかけてひきはせぬぞえどこまでも」(三ウ)
六藤沢 二リ
こゝはふぢ沢左りを見ればうつる江のしまうばがしま
わたしや小栗のくるまもひくにぬしは手をおく下こゝろ」(四オ)
七平塚 三リ半
ごめんまつ平塚まえられた無理な座しきの其つらさ
八大礒 廿七丁
人目しのびて大磯がしくかいた文さへあとやさき
すいな梅さわお茶屋のあるじくんでしらんせわしの気を
九小田原 四リ
なにを言ふても」(四ウ)おだわらばかりたのみがたなきひとごゝろ
若ひ二人の花水ばしはかけて渡したこひの道
ぬしとわたしは小田原うゐろうまゐ名なれどにがひなか」(五オ)
十箱根 四リ八丁
ぬしをあづまに残しておゐてこすにものうき箱根山
あわれふたゝび花咲春にあふて時めくかれ木坂
十一三島 一リ廿八丁
みじまひするのもたゞうつとりと袖を」(五ウ)ぬらすは涙か化粧の水
朝夕おがんだ其御かげやら顔をみしまの神のおん
十二沼津 一リ半
いやなぬまずの千本松はまつがおゝひでじれがくる
むねは沼津のおどりこ汁ようまひ文句をくわされて」(六オ)
十三原 一リ半
いふにいわれぬたかひの原をかほとしうちでさとりあふ
旅にゆくならせいしをさんせ三とせさきにて」(六ウ)さらぬやう
十四吉原 三リ
わしは浮世の吉原雀なひてくらしてゐるわひな
かくや姫かとおどろくばかりちらと見そめたやぶのうち」(七オ)
十五蒲原 三リ
酒のかんばらぬるひは御めん私やかんしやくで茶わんざけ
名さへわかれの明神さまときくもいやたよきにかゝる
十六由井 一リ
ほかへやろとはわたしの心由井の浜なる親しらず
さつた峠はまたさきの事ふるひあわびのかたおもひ
十七興津 二リ十二丁
ほつておき津のおまへの気をは」(七ウ)汲まてしらるゝ田子の浦
ぬひだ羽織は羽衣ならでかへしやせぬそへゑりまても
十八江尻 一リ二丁
文の返事のそのなかぬまはわしをだませる狐ざき
首尾が江尻でしがなふ逢ふにちわとくぜつで夜をあかす」(八オ)
十九府中 二リ廿六丁
おつなはなして安倍川こへて府中とまりがゑんのはし
そつと手越に渡した文の返事千寿はうらめしや」(八ウ)
二十鞠子 一リ半
一ト夜ふたよとまつ夜をかまんつくやまりこのかづよりも
いつもぬらくらおまゑのへんじいやよまり子のとろゝ汁」(九オ)
廿一岡部 一リ
瀬戸の染つゝ見そめてもめていつか黄まゝになれるやら
つたの細道うちわなくたし秋風ふくかとむねをうつの山
廿二藤枝 一リ廿九丁
わしはふぢ枝今宵もあだにまつにかゝるも馬鹿らしい」(九ウ)
たれにかたみとむかしの人がぬひでおきたるゑぼし岩
廿三島田 二リ八丁
耳にかゝるはおまへの噂しま田くづしの髪よりも
けふは別れとおもひの外に雨でとまつた大井川」(十オ)
廿四金谷 一リ
かたひ金谷の心をたより末のすえまでいひかわす
こがれこがれた今宵の逢瀬川のあいたる心もち」(十ウ)
廿五日阪 一リ廿四丁
日坂の山か石なら夜ばかりなれどひるもかわかぬ袖たもと
うまくころばす手くだとしれどくへばにくなひわらびもち」(十一オ)
廿六掛川 一リ廿九丁
一時もはやふ身まゝと神々様へねがひかけ川朝まいり
わるひはらだよだましておひてあとでわらふはおいけ町」(十ウ)
廿七袋井 二リ十六丁
もろたきせうも大事ニかけてかゞみ袋井しもてある
わしのまことはごんげんさまもみかのはしだよどこまでも」(十一ウ)
廿八見附 一リ半
つゝみかくすもいまゝでの事見付られたら百年め
うどんそばかようち?ゝかれて居てもそひたいぬしのそば
廿九浜松 四リ八丁
わしの言ふ事浜松かぜとそらにふかしてにくらしい
うけたうたかゐしのはら池であろてみたいなどこまでも」(十二オ)
三十舞坂 ニリ半十二丁
蝶の舞ざかあらしほらしやいづれなたねによるわひな
深ひ中をばいまきれなどゝ親の邪見のよこわたし
卅一新居 海上一リ半」(十二ウ)
あら井だてすりやみなみのつまりどふで人目の関やぶり
卅二白須賀 一リ廿四丁
こぬを白すかふけ行かぜにほそるひかげがかふりふる
すき丸作」(十三オ)
二タ川 一リ十七丁
二タリ川らす末まつみでもとふざあわずにやくらされぬ
吉田 一リ半二丁
よしも行きもわきまへながらほれりやくだらぬくちもでる」(十三ウ)
すひたどうしは義理立してもひとよ酒かやなれやすい
(ママ)
いやな御油どのゆだんはならぬいつもむほんのできどころ
よそにます花ありともまゝよすぐなみさほの竹の庄」(十四オ)
卅六赤坂 十六丁
うわさしられてかほ赤坂にそれて世けんえさとらるゝ
わしは長はん牛若さんのよふなとのなら命でも
卅七 藤川 二リ九丁
花のふぢ川わたしのこゝろもつれもつれてとけかぬる
義理できれても」(十四ウ)なを行末はついにそうだの郷(さと)じやまで
卅八岡崎 一リ半七丁
うわきやめたら岡崎ざきをあんじすごしの苦の世界
いふははづかしいはねばしれずなんと矢はぎのはしばしら」(十五オ)
卅九池鯉鮒 二リ廿九丁
かぜに池鯉鮒くあの紅葉々もみづにせかれてゐるわひな
硯引よせしあんにくれてしばしかりやのうでまくら
四十鳴海 二リ三十丁
よその咄もきづもつあしはあせに鳴海のひとしぼり」(十五ウ)
なほもねがはん観音さまにかけるねがひに笠かけて
四十一宮 一リ半六丁
義理と世間のおもわくかひてくろふしとげた今を宮
あわぬかほしてすましてゐれどどこかことばのさやまわり」(十六オ)
四十二桑名 海上七リ
すきと桑名のよひ中どしはいつかふたりでかせぎ出す
桑名かあたよとけふこの頃は貝を焼ので蜃気らし」(十六ウ)
四十三四日市 三リ五丁
ながくあわぬとゆびおり見れはたつた日かずも四日市
ふかひ中をば追分られてたよりまつまも日ながむら
四十四石薬師 二リ廿七丁
里にそだちしわたしじやけれどかたひ心の石やくし
むかし大将のさゝれたさくら今に花さく春もある」(十七オ)
四十五庄野 二十七丁
せふのわるひときいてはゐれど世事でまよひの種になる
世話を焼ごめほうかゐりんきほつてをかんせよその恋
四十六亀山 二リ
すゑのちぎりは此かめ山て」(十七ウ)ちとせすぎてもかはりやせぬ
人眼せき川やうやうこえてあいにおちはり村とまり
四十七関 一リ半
せきにせかれたふたりのなかも胸のしがらみいつをける
追分けられたる其うへにまだせきの地蔵さんが横にらみ」(十八オ)
四十八坂の下 一リ半
さかの下から出てくどかれてつよひいきぢもどこへやら
いけんしかけりやわがよきよふによこに出かける蟹が坂
四十九土山 二リ半」(十八ウ)
顔にぬられた土山なれと心ひとつてあろて見しよ
まは?かねたる筆すて山をすてゝしもふて口でいふ
五十水口 二リ半七丁
いやよおよしよみな口々にそんな世界じやないわいな
みづにまはり気よしてもおくれ夏見すゞしき心太(こゝろぶと)」(十九オ)
五十一石部 三リ半三丁
こひしこひしは石部のしゆくよ恋の重荷といまはなる
親の目川をしのんできたにあひに田楽きがつよひ
五十二草津 二リ半十七丁
どつさくさつのなかてもしばし」(十九ウ)しんのはなしもおく二かゐ
文のかよひもきびしさおきて中のたえたるせたのはし
五十三大津 三リ半六
わしの思ひは大津画げほうはしごかけてもとゞきやせぬ
恋しみやこがちらちらみゆる大津八丁ふたのつじ」(二十オ)
京 三リ半
どんな人でも心のまゝに哥でなびかす御しよ女中
薪をいたゞくあねさんまても姿やさしき京そだち」(二十ウ)
投扇曲芳此源氏 出版 魁春亭貞芳画
〔今時晴●〕芳此壱万集 初編より十編迄近刻
心斎橋通ばくろ町角
河内屋茂兵衛
柏原屋儀兵衛
綿 屋喜兵衛
河内屋新 助
合梓」(裏見返し)
※関西大学図書館蔵書は、著作権の切れたものについては、許可を願い出ることなく、自由に翻刻してよいとのことである。弘化四年か嘉永初年の版行と推定されるので、著作権は消滅していると考えるのが常識的判断である。



二、『芳此五十三駅』(菊池真一所蔵)

 作者不明。表紙に「貞芳画」とある。この歌川貞芳は、生没年不詳。天保から明治にかけて活動したらしい。絵や本の状態からして、この『芳此五十三駅』は次項の『東海道五十三次どゝいつ』(安政三年)よりも古いものと思われる。前項『彩画独々逸五十三次』との関係から、その版木を流用した嘉永年中の刊行と考えておく。
 菊池本は、丁付けからすると、一・二・十三・二十の各丁が欠けているようだ。
 以下、翻刻。振り仮名は一部を除き省略した。
芳此五十三駅
貞芳画」(表紙)
芳この集」(見返し)
すゞか森
わしか思ひはアノいざり舟よことよことにこがれゆく
三神奈川 二リ半
文のかなかわかしくでとめる今朝わくぜつをとめて見ん
わかりかねますさぐつて見てもふしの人穴おくふかひ」(三オ)
四程ケ谷 ヱ三リ九丁
いつもおせじのよきほどかやにまたもひかれてまよひくる
ほつておかんせやき餅坂よわしのおとこしやまゝにする
五戸塚 ヱ二リ九丁
文はてつよく千束になれど返事なきゆゑ猶くろふ
弓矢八まんちかひをかけてひきはせぬぞえどこまでも」(三ウ)
六藤沢 二リ
こゝはふぢ沢左りを見ればうつる江のしまうばがしま
わたしや小栗のくるまもひくにぬしは手をおく下こゝろ」(四オ)
七平塚 三リ半
ごめんまつ平塚まえられた無理な座しきの其つらさ
八大礒 廿七丁
人目しのびて大磯がしくかいた文さへあとやさき
すいな梅さわお茶屋のあるじくんでしらんせわしの気を
九小田原 四リ
なにを言ふても」(四ウ)おだわらばかりたのみがたなきひとごゝろ
若ひ二人の花水ばしはかけて渡したこひの道
ぬしとわたしは小田原うゐろうまゐ名なれどにがひなか」(五オ)
十箱根 四リ八丁
ぬしをあづまに残しておゐてこすにものうき箱根山
あわれふたゝび花咲春にあふて時めくかれ木坂
十一三島 一リ廿八丁
みじまひするのもたゞうつとりと袖」(五ウ)をぬらすは涙ノ化粧の水
朝夕おがんだ其御かげやら顔をみしまの神のおん
十二沼津 一リ半
いやなぬまづの千本松はまつがおゝひでじれがくる
むねは沼津のおどりこ汁ようまひ文句をくわされて」(六オ)
十三原 一リ半
いふにいわれぬたかひの原をかほとしうちでさとりあふ
旅にゆくならせいしをさんせ三とせさきにて」(六ウ)さらぬやう
十四吉原 三リ
わしは浮世の吉原雀なひてくらしてゐるわひな
かくや姫かとおどろくばかりちらと見そめたやぶのうち」(七オ)
十五蒲原 三リ
酒のかんばらぬるひは御めん私やかんしやくで茶わんざけ
名さへわかれの明神さまときくもいやたよきにかゝる
十六由井 一リ
ほかへやろとはわたしの心由井の浜なる親しらず
さつた峠はまたさきの事ふるひあわびのかたおもひ
十七興津 二リ十二丁
ほつておき津のおまへの気をは」(七ウ)汲まてしらるゝ田子の浦
ぬひだ羽織は羽衣ならでかへしやせぬそへゑりまても
十八江尻 一リ二丁
文の返事のそのなかぬまもわしをだませる狐ざき
首尾を江尻でしがなふ逢ふにちわとくぜつで夜をあかす」(八オ)
十九府中 二リ廿六丁
おつなはなして安倍川こへて府中とまりがゑんのはし
そつと手越に渡した文の返事千寿はうらめしや」(八ウ)
二十鞠子 一リ半
一ト夜ふたよとまつ夜をかまんつくやまりこのかづよりも
いつもぬらくらおまゑのへんじいやよまり子のとろゝ汁」(九オ)
廿(ママ)岡部 一リ
瀬戸の染つゝ見そめてもめていつか黄まゝになれるやら
つたの細道うちわなくらし秋風ふくかとむねをうつの山
廿二藤枝 一リ廿九丁
わしはふぢ枝今宵のあだにまつにかゝるも馬鹿らしい」(九ウ)
たれにかたみとむかしの人がぬひでおきたるゑぼし岩
廿三島田 二リ八丁
耳にかゝるはおまへの噂しま田くづしの髪よりも
けふは別れとおもひの外に雨でとまつた大井川」(拾オ)
廿四金谷 一リ
かたひ金谷の心をたより末のすえまでいひかわす
こがれこがれた今宵の逢瀬川のあいたる心もち」(拾ウ)
廿五日阪 一リ廿四丁
日坂の山か石なら夜ばかりなれどひるもかわかぬ袖たもと
うまくころばす手くだとしれどくへばにくなひわらびもち」(十一オ)
廿六掛川 一リ廿九丁
一時もはやふ身まゝと神々様へねがひかけ川朝まいり
わるひはらだよだましておひてあとでわらふはおいけ町」(拾ウ)
袋井 二リ十六丁
もろたきせうも大事ニかけてかゞみ袋井しもてある
わしのまことはごんげんさまもみかのはしだよどこまでも」(十一ウ)
廿八見附 ?リ半
つゝみかくすもいまゝでの事見付られたら百年め
うどんそばかようち?ゝかれて居てもそひたいぬしのそば
廿九浜松 四リ八丁
わしの言ふ事浜松かぜとそらにふかしてにくらしい
うけたうたかゐしのはら池であろてみたいなどこまでも」(十二オ)
三十舞坂 ニリ半十二丁
蝶の舞ざかあらしほらしやいづれなたねによるわひな
深ひ中をばいまきれなどゝ親ま邪見のよこわたし
卅一新居 海上一リ半」(十二ウ)
<一丁欠あり>
すひたどうしは義理立して?ひとよ酒かやなれやすい
いやな御油どのゆだんはならぬいつもむほんのできどころ
よそにます花ありともまゝよすぐなみさほの竹の庄」(十四オ)
卅六赤坂 十六丁
うわさしられてかほ赤坂にそれてせけんえさとらるゝ
わしは長はん牛若さんのよふなとのなら命でも
卅七 藤川 二リ九丁
花のふぢ川わたしのこゝろもつれもつれてとけかぬる
義理できれても」(十四ウ)なを行末はついにそうだの郷(さと)じやまで
卅八岡崎 一リ半七丁
うわきやめたら岡崎ざきをあんじすごしの苦の世界
いふははづかしいはねばしれずなんと矢はぎのはしばしら」(十五オ)
卅九池鯉鮒 二リ廿九丁
かぜに池鯉鮒くあの紅葉々もみづにせかれてゐるわひな
硯引よせしあんにくれてしばしかりやのうでまくら
四十鳴海 二リ三十丁
よその咄もきづもつあしはあせに鳴海のひとしぼり」(十五ウ)
なほもねがはん観音さまにかけるねがひに笠かけて
四十一宮 一リ半六丁
義理と世間のおもわくかひてくろふしとげた今を宮
あわぬかほしてすましてゐれどどこかことばのさやまわり」(十六オ)
四十二桑名 海上七リ
すきと桑名のよひ中どしはいつかふたりでかせぎ出す
桑名かあたよとけふこの頃は貝を焼ので蜃気よし」(十六ウ)
四十三四日市 三リ五丁
ながくあわぬとゆびおり見れはたつた日かずも四日市
ふかひ中をば追分られてたよりまつまも日ながむら
四十四石薬師 二リ廿七丁
里にそだちしわたしじやけれどかたひ心の石やくし
むかし大将のさゝれたさくら今に花さく春もある」(十七オ)
四十五庄野 二十七丁
せふのわるひときいてはゐれど世事でまよひの種になる
世話を焼ごめほうかゐりんきほつてをかんせよその恋
四十六亀山 二リ
すゑのちぎりは此かめ山て」(十七ウ)ちとせすぎてもかはりやせぬ
人眼せき川やうやうこえてあいにおちはり村とまり
四十七関 一リ半
せきにせかれたふたりのなかも胸のしがらみいつをける
追分けられたる其うへにまだせきの地蔵さんが横にらみ」(十八オ)
四十八坂の下 一リ半
さかの下から出てくどかれてつよひいきぢもどこへやら
いけんしかけりやわがよきよふによこに出かける蟹が坂
四十九土山 二リ半」(十八ウ)
顔にぬられた土山なれと心ひとつてあろて見しよ
まは?かねたる筆すて山をすてゝしもふて口でいふ
五十水口 二リ半七丁
いやよおよしよみな口々にそんな世界じやないわいな
みづにまはり気よしてもおくれ夏見すゞしき心太(こゝろぶと)」(十九オ)
五十一石部 三リ半三丁
こひしこひしは石部のしゆくよ恋の重荷といまはなる
親の目川をしのんできたにあひに田楽きがつよひ
五十二草津 二リ半十七丁
どつさくさつのなかてもしばし」(十九ウ)
和漢書物類〔品々〕
<広告省略>
〔書物画艸紙〕問屋
大阪北ほり江市場 綿屋徳太郎版
心さいばし塩町角 綿屋喜兵衛版」(奥付)
※本書は著者不明である。成立は嘉永頃と考えられる。今から157年以上前のものであり、著作権は消滅していると考えるのが常識的判断である。



三、『絵本どゝいつ惣まくり』(名古屋市蓬左文庫所蔵。図書番号、尾19-155)

 大阪大学小野文庫・国学院高藤田小林文庫にも同本を蔵する。大阪大学小野文庫蔵本の保護表紙の見返しに次の如く墨書あり。「此書都々逸ノ起源ヲ知ル珍本也嘉永二己酉年の出板とす」。これによって嘉永二年(1849)の刊行としておく。
 内容は多彩で、次の諸項目から成る。
索々老人の序文(どどいつの歴史)
東都名所
五節供
東海道五十三駅
十二ヶ月
正述心緒
寄物陳思
雑歌
雑体
新吉原八景
以上である。この中の「東海道五十三駅(つぎ)」を蓬左文庫本によって翻刻する。本書の翻刻については、名古屋市蓬左文庫の許可を得た。許可書番号21教蓬第23号。ただし、十五丁が欠けているので、この部分は国学院高本等によって補った。
絵本どゝいつ惣まくり
東都諸名家戯作
蓬壺謫僊
索々老人閲」(見返し)
東海道五十三駅(つぎ)
日本ばしやりはふれふれさていさましいてんきあがりのお江戸だち(四日市 鯛看板)
恋のみなとや品川」(六ウ)あそび日に日におもひは増もとや(新ばし 初音屋)
大森をこして今またさて大もりなめしのなだいは万年や(リヤウリ 卯之助)」(七オ)こひができたよかな川じゆくにのぼりつめたるたきのはし(九返舎 一昇)
あしのぐあいもよい程ケ谷とまはるかなざはしようみやうじ(源氏 茶漬)
かまくらすましてはや江のしまよしやれてかはゆいかひづくし(両国 朱場 おしげ)」(七ウ)
げびざうといはゞいはんせあのさかひぎで〔ぼたもち四五十くふたうちおつれさんはさきへおたち〕(きもとつかはと吉田ばしすみゑのふでによるのふじ)みちは石だかはかどらず(馬喰丁 かりまめや)
あとにおくれしあしよわつれのくるましばしとゆぎやうでら(並木 清瀬)」(八オ)
朝はこざむいはなみづばしでくさめ三ツ四ツ七ツだち
心なき身はしぎたつさはもしらぬひきやくが大礒ぎ(秀ノ山)
小田原の外良(ういらう)つんだるそのくちよりもはやくまはるよわしが気は(清元 菊寿太夫)」(八ウ)
箱根七湯もめぐつてみたがこひのやまひにやきゝはせぬ(市川新車)
三嶋ごよみをみるよなふみはいづれひがらのたのみ状(よし原 竹村)」(九オ)
沼津
千ぼんのあれはまつばか文治のむかし(さるほどにこゝにまた高をのもんがく上人は六代ごぜんのいのちごひ馬をとばせてひとはしり)ちやさへのまずにかけてきた(牛島登山)原
けふもぬらくらまたながやすみまづいうなぎでかしはばら(荒馬)」(九ウ)
おもひだしたよ吉原宿で丁のなじみのふじびたい(千住 鮒屋)
蒲原
たごのうらうちいでゝみればテモしろたへにじゆばんそろへてふじまゐり(新宿 辰近江)
由井
さつたたふげはよめりにやいむがゆきのしろむくふじの山(スチカヒ 仲川屋)」(十オ)
沖津女郎のあのしつこさに江戸の女がしてみたい(揚屋町 魚滝)
名さへきたない江尻のしゆくは馬のおならと牛のくそ(高縄 万清)」(十ウ)
府中
ぎりにからまれ心のたけをやへにくんだる籠細工(辰巳大野や おりよ)
二丁町すぐに出てきて鞠子のしゆくでチヨイととろゝのはらなほし(中橋 環菊)」(十一オ)
岡部
つたのほそみちなにくらからうこひのやまぢにくらべては(今戸 玉秋)
あづまやのしそのつけものこの藤枝のいろのゆかりのこむらさき(??丁 八百栄)」(十一ウ)
嶋田
かはごしにすゑをかけたる嶋田のぢようろおなじはちすのれんだいに(並木田舎茶漬)
金谷
うまでもこされぬあの大井川神のおかごかやすくこし(宮戸川 おてつ)」(十二オ)
西坂
しげつたところがアリヤむけんざん(いかにならひぢやつとめぢやとてもいやなきやくにもあはねばならぬ)金がほしさや三四百(重石)
みちはいのちも掛川なれどぬしはふたみちふたせ川」(十二ウ)
袋井にいれたねすみはにがしてやんなころすもどうやらかはひばし(青山 福富)
見附
天龍川でもとめればとまるとゞめかねたるなみだ川(小柳)」(十三オ)
遠州浜松
赤いよでくろいほねはすみぬりひめぢ紙(竹本 美代太夫)
鳶も舞坂てんきもしづか名のみあらゐのわたしぶね(猿若町 升八)」(十三ウ)
荒井
くものなみまにはまなのはしのあとはかすみのいちもんじ(山谷堀 浜栄)
さきはなんにも白須賀なれどかはゆいめもとのしほみざか(根岸 長次)」(十四オ)
よし田ぼくちもまだ一里半ちよつと一ふく火打坂(つる音)
吉田とほれば二かいからまねくしかもあの子のふりのよさ(松江)」(十四ウ)
こしをかけまでいまたてました御油るされませすゞどほり(仲伊)
げにも赤坂ゐなかのぢよろもみんなけだしはひぢりめん(扇要)」(十五オ)
これもゆかりの藤川なれどむかしをとこのさたはない(竹田くみ太夫)
岡崎女郎衆はよいかはしらずごようごようでおちつかぬ(ハシバ 川口)」(十五ウ)
知立
ときも八ツはしはるばるきぬるつまらん古跡もよいころに(不二?)
鳴海
女にはいつも孝行養老しぼりかつてなじみへとゞけさせ(三分亭)」(十六オ)
鯛やにとまつて子はするがやでよんでどゝいつ宮のしやれ(駐春亭)
七里ねむつてはやよこまくらゆめのまにつく桑名ぶね(つる 清六)」(十六ウ)
四日市やもひとりはねずにひるもひながをのみくらし(小玉太夫)
よほどゐなかにまたなりましたかたいとうふの石薬師(品川 長門屋)」(十七オ)
庄野
しやうのないのはこゝらのしやくよむだもいはずにずいとほり(つる 勝七)
あめにぬれぬれ亀山あたりどろに尾をひくやれわらぢ(竹梶太夫)」(十七ウ)
関のぢざうのふんどしならで〔でたらめ上るり〕(いもがむすびししたひもをかへる日まではとくまいと万葉ぶりのばかりちぎ)ふろをいるときやアなんとせう(鼠笑)」(十八オ)
あけぼのゝはながかうばしめくらのこひぢみづにあふのか土山の(中村うた)
をたの水口つまよぶかはづかはいかはいとなきわたる(延小政)」(十八ウ)
石部金吉をとこにもちなとてもあだではきがもめる(留場 菊松)
草津ても鯛といへどももうこのへんはせたのしゝみにあふみぶな(八百善)」(十九オ)
湖水(みづうみ)
びはの海よりこちやさみせんの川らぬねじめがいつもすき(紀伊国や 亀洲)
大津絵のげはうあたまをあの大こくが〔しんない〕(のぼりつめたる」(十九ウ)二かいのはしごおやにさからふこのみのうへ)アレサ七ふくじんにはおやはない(油丁 すし甚)
たゞ今京都へ三条のはしながの都路さはりなく(三笑)」(二十オ)
※本書の翻刻については、名古屋市蓬左文庫の許可を得た。許可書番号21教蓬第23号。作者は不明であるが、嘉永二年(1849)の成立であり、今から161年前のものであって、著作権は消滅していると考えるのが常識的判断である。



四、『膝寿里日記』(嘉永末年刊)

 日本古典籍総合目録によれば、本書は、麿丸( 歌川/国麿 ) 画、嘉永末刊となっている。本書は複製本が数種出ている。菊池所有の複製本は次の4本である。
  @和紙を使ったもので、中本仕立て。発行元不明。
  A半紙本サイズだがけばけばしく着色したカラー印刷のもの。発行元不明。
  B江戸錦絵愛好会編著、コアラブックス発売、本の森出版センター発行。一九九七年十一月三十日発行。これには赤・茶・薄茶などの着色がある。B5判のカード形式で、綴じてない。「宿女(価)」の部分だけがほとんど活字印刷となっている。序文省略。
  C東大路鐸編集、画文堂発行。「季刊浮世絵別冊 浮世絵美術名品館1」。昭和五十九年(一九八四年)十二月二十日発行。B5判で、見開きの左側に影印、右側に翻刻がある。
 以下、これらによって、各宿の都々逸のみを抽出した。
品川
品川女郎をやつこがかつて鑓をふらずにしりをふる
川崎
つらのかはさきひんむかれても通りいつぺん旅のはぢ
加奈川
冨士のすそのへぬけ穴よりもお前のおあながをがみたい
程ケ谷
ぬしの口前よいほどがやにわたしやころりと信濃ざか
戸塚
わたしや戸塚の大ぎんたまよ今さらお前にじやまがられ
藤沢
松のふじさは枝葉にからみ枯てのちまですがりつく
平塚
人はひらつかこよひの首尾をこんなうれしいことはない
大礒
こゝろなき身もしぎたつさはの秋の夕ぐれものさびし
小田原
小田原ひやうぎはもうやめさんせぬしの気やすめきゝあきた
箱根
箱根八里のかんなんよりも恋のやまさか苦がおほい
三島
それとみしまにもう雲がくれゑゝもしんきな夜半の月
沼津
わたしや沼津のせんぼん松よかはらぬ操は千とせまで

はらのたつほど男根(へのこ)がたてばとうにじんきよをするだらう
吉原
吉原すゞめがちよつちよつときては籠の小とりをそゝなかす
蒲原
酒のかんばら小ゆびの先をちよつとしめしてなめて見る
由井
ゆゐもはいるし髪をもいふてぬしにあかれぬ身ごしらへ
興津
駕籠はよけれど船路はよしな沖津しらなみたちやすい
江尻
三穂の松風琴しらぶればふじのたかねにひくかすみ
府中
恋をするがのふちうときけばいつちやうとぼそか二ちやうまち
鞠子
たとへまり子のつき出されてもえんのかゞりはきれはせぬ
岡部
をかべにかすがへいふてもきかぬことゝ知りつゝまた口どく
藤枝
涯(がけ)のふぢえだぶらりとしてもやがてとりつくつるがある
島田
しまだ小供と小ばかにしたらとんど手くだにおほゐ川
金谷
銭やかなやでじゆうにならば恋じでくらうをするものか
日坂
日坂のわらび餅ほどぬらぬら出して砂糖ちんぼをくひたがる
掛川
思ひかけ川しゞうはどうぞつまや女房といはれたい
袋井
恋のはつ花散さぬやうに風のふくろゐくちをぬへ
見附
見つけの鳩ではわしやないけれどまめをたづねて遠あるき
浜松
もしやそれかとたちでゝ見れば風の浜松おとばかり
舞坂
うたへ舞ざかうきよはとかく酒と女にこめのめし
荒井
わたしや鼻息あらゐのふねよぬしに帆ばしらたてさせる
白須賀
人はしらずか今宵のしゆびをこんなうれしいことはない
二川
桃もほしいが桜もだいじこゝろ二川身はひとつ
吉田
よし田ならねど二階からまねくしかも連子のあひだから
御油
ごゆつくりとはうはべのおせじ鐘や鴉をまちかねる
赤阪
赤さかやつこといはるゝ身でも恋路にくらうはおなじこと
藤川
かほる藤川こひむらさきはたれにゆかりのいろをさく
岡崎
岡崎のしゆく矢矧のはしいたよりもぬしをまつ夜はなほながひ
池鯉鮒
雲か霞とみるまもあらし雪とちりふるさくらばな
鳴海
いろになるみといふつぢうらかぬしの浴衣のこんしぼり

みやのあつたの海こぐ船よあけくれわかずにこがれゐる
桑名
私しや桑名のやきはまぐりよぬしにわられて水をだす
四日市
五十路あまりに三宿のたびもけふは都へ四ツかいち
石薬師
惚れて居るのになぜしてくれぬぬしは木像のいしやくし
荘野
しやうのわるいとしりつゝほれるわたしやくらうがして見たさ
亀山
よろづ代をへる亀山よりもぬしのしらみがたのもしい

人目の関守ないものならば恋じでくらうをするものか
阪の下
さかはてる日もまた雨の夜も逢にやこゝろがやすまらぬ
土山
雨のつちやまあしもとよりもくちのすべりの気をつけな
水口
いろの恋のとみなくちくちにいふはやくのかそねむのか
石部
かたいいしべの木まくらよりもわたしやお前のひざまくら
草津
人のわきがをとやかういふがぼゝのくさつにやアましだらう
大津
長いたびぢのうきかんなんもきみにあふつを楽しみに
京都
花のみやこのいろかをしたひあづま男のふたりづれ
島原
(どどいつナシ)
※本書は著者不明である。成立は嘉永末年とされている。今から157年以上前のものであり、著作権は消滅していると考えるのが常識的判断である。複製本が多数出ている。



五、『東海道五十三次どゝいつ』(菊池真一所蔵)

 安政三年(1856)刊か。一筆菴英寿画篇。上田市立図書館花月文庫に『五十三次都々逸節用集』(音楽/381/花月文庫)なる本があるが、この中の五十三次の部分は菊池本と同じものである。ただし、表紙は後補。また、名古屋市蓬左文庫蔵『どゝ一合本』(尾19-156)の中の五十三次の部分も菊池本と同じものである。更に、菊池は無表紙十丁の東海道都々逸本(外題なし)を所有しているが、これは本書と同じものである。
 以下、菊池本の翻刻。振り仮名は一部を除いて省略。
東海道五十三次どゝいつ
外題国政画」(表紙)
東かい道五十三次どゝ逸」(見返し)
都登いつは滑稽詩(しやれることば)の花の旅うかれし歌も五十三次
一筆菴英寿画讃」(一オ)
日本橋
唐も天ぢくもおよばぬはんぜうひかりかゝやくにほんばし
品川
江戸をはなれてまたしなかはる恋のみなとの舟にのる」(一ウ)
川さき
ぬしのかほみりやとつかはさきへなにからいをやらあとやさき
加な川
ふみのかな川うれしひたよりこひのみちゆきいろのたび」(二オ)
程がや
ぬしのくちまへよいほどがやにわたしやころりとしなのざか
戸つか
とつかまへてもくどひて見たひあだなえがほの茶や女
ふじ沢
杉のふじさはえだはをからみいろもゆかりにすがりつく
平つか
ほどのよひのを見せひらつかしこんなうれしひ中はなひ」(二ウ)
大いそ
大いそのとらのいちねん石までにけるかたひやくそくかはりやせぬ
小田原
おだはらひやうぎはもふやめさんせぬしのきやすめきゝあきた
箱根
はこね八里のかんなんよりも恋の山ぢにくろうする」(三オ)
三島
それとみしまにはや月のかほゑゝもしんきなくもがくれ
沼津
のまずくはすにいるともまゝよぬしとそふならいとやせぬ」(三ウ)

はらとなにやらいつしよにたちてねるもねられぬとこのばん
よし原
よしはらすゝめかちよつちよつときてはかごのとりおばそゝなかす
かん原
さけのかんばらふうふの中をあたゝまる手をたのしみに」(四オ)
由井
ゆいもはいるしかみさへゆふてぬしに見せたひ身ごしらへ
おきつ
人に心をおきつのうみよふかひ思ひをさつしやんせ
江尻
ゑじりふごじりわるくはいへどいかな女もたゞはいぬ
ふちう
ふちう不孝もみな恋ゆへにせうちしながらうかうかと」(四ウ)
まりこ
ぬしのむりにはまりことといへどじつはうれしひさかさまに
岡部
おかべおかめにやらくにも見へるわたしやまめゆへ身をくだく
藤枝
いろのふぢえだぶらりとしてもどふかとりつくつるがある」(五オ)
島田
はなのさかりのしまたのときはおにも十八じやもはたち
金谷
銭やかなやでじゆうにならばいろにくろうをするものか」(五ウ)
日さか
につさかのわらびもちこむほどよいくちにひとつころりとしてやられ
掛川
思ひかけ川しじらはぬしのつまよにやうぼといはれたい
ふくろ井
こいのはつはなちらさぬやうに風のふくろひくちをぬへ」(六オ)
見付
見つけられよかとかくふみさへもしのふもぢずりみだれふで
はま松
もしやぬしかとたち出てみれははまのまつかぜおとばかり
まい坂
うたへまいさかうきよはとかくさけといろとにほかはなひ
あらゐ
あらひ上たるふたりの心なにをとがめるせきはなひ」(六ウ)
しらすか
むしがしらすかこよひのしゆびをこんなうれしひことはなひ
ふた川
もゝとさくらにどちらへゆかふこゝろふた川身はひとつ
吉田
ほどもよし田のしまだのすがたしかもかのこのふりそでに」(七オ)
ごゆ
ごゆつくりとはうはべのお世事まぶにあふのにやしやまになる
赤坂
あかさかやつこといはるゝ身でもこいぢにくろうはおなじこと」(七ウ)
ふぢ川
はなのふぢ川こひむらさきはたれをゆかりのいろにさく
岡崎
おかざきにかけたゆはだのはしいたよりもぬしをまつ夜はなをながひ
ちりふ
ぬしのうはきで心のちりふこいのふちにやしづむ身を」(八オ)
なるみ
いろになるみといふつじうらかそめるゆかたのあいしぼり

あれみやしやんせと人にはいはれだますあなとは気がつかぬ
くわな
わたしやくはなのやきはまぐりよぬしにこがれてやきもする
四日市
いきな心につひひかされてけふもいつゝけ四日いち」(八ウ)
石薬師
ほれているのをよくしりながらぬしは木ぞうかいしやくし
庄野
しやうのわるひとしりつゝほれるわたしやくろうがして見たい」(九オ)
かめ山
つるとかめやまおまへとわたしにせもさんせもすへながく
せき
人めのせきもりないものならば恋ぢにくろうのありはせぬ
坂の下
さかのてる日もまた雨の夜もあはにや心がやすまらぬ
つち山
金をつち山はなまきちらしこいのふちおばうめたがる」(九ウ)
水口
いろのこいのとみなくちぐちにいふはやくのかそねむのか
いしべ
かたひやくそくいしべのしゆくでかいすまくらもいのちづく
草津
あきのくさつにいまはなざかり人のこゝろもいろいろに」(十オ)
大津
ながひたびぢのうきかんなんもぬしに大津をたのしみに
京都
花のみやこへけふのぼりきてつきぬなかめをたのしみに
○五十三次の長旅もまつ京都へどゝいつさんにかけ付めでたしめでたし
一筆菴英寿画篇」(十ウ)
※菊池本はこの後にいろは都々逸十丁がある。その序文に「安政三辰春新刻 一筆菴英寿誌」とある。上田市立図書館本は、最初にいろは都々逸十丁、次に源氏都々逸十丁、その次にさく丸撰の都々逸十丁、次に東海道五十三次都々逸十丁、最後にいろは都々逸六丁となっている。
※著者一筆菴英寿の生没年は不明だが、安政三年(1856)の刊行と推定され、154年前のものであるので、著作権は消滅していると考えるのが常識的判断である。



六、『度独逸大成後集之後冊』(東京都立中央図書館蔵特別文庫東京誌料。図書番号は東/5644/132)
 内題「度独逸大成後集之後冊」、尾題「度独逸大成文句入後編」である。この本の末尾の「前編遺漏」の最後に「東海道五十三駅」として宿駅詠込都々逸が掲げられている。安政六年(1859)の序文がある。『度独逸大成』の編者、歌沢能六斎は、文政九年(1826)生れ、明治十九年(1886)没であるから、著作権は消滅している。
 以下、東京都立中央図書館蔵特別文庫東京誌料本による翻刻。この翻刻については、東京都立中央図書館(館長・松田芳和)の許可を得た。
東海道五十三駅(つぎ)
日本はし鑓はふれふれさていさましいてんきあがりのお江戸だち
恋のみなとや品川あそび日々におもひはますもと屋
大森をこして今またさて大もりなめしのながいに万年屋
こひかてきたよかな川宿にのぼりつめたるたきのはし」(三十五ウ)
足のぐあいもよい程がやとまはる金沢しようめうし
かまくらすましてはやゑの嶋よしやれてかはゆひ貝づくし
けびぞうといはゞいはんせあのさかひ木て〔詞〕(ぼたもち四五十くふたうちおつれさんはさきへおたち)〔上るり〕(きもとつかはとよし田じゝすゑのふでによるのふじ)みちは石だかはかどらず
あとにおくれし足よはつれのくるましばしと遊行寺
朝はこさむい花みつ橋でくさめ三ツ四ツ七ツたち
こゝろなき身は鴫立沢に」(三十六オ)しらぬ飛脚か大礒ぎ
小田原の外良(ういらう)くゝんだその口よりもはやくまはるよわしが気は
箱根七湯にまはつてみたが恋の病にヤきゝはせぬ
三嶋ごよみを見るような文はいづれ日からのたのみ状
千本のあれは松原この治(ち)のむかし(さるほどにこゝにまたたかをのもんがく上人は六代ごぜんのいのちごひ馬をとばせてひとはしり)茶さへのまずにかけて来た」(三十六ウ)
けふもぬらくら又ながやすみまつはうなぎでかしはばら
思ひだしたよよし原宿でてうのなじみのふじびたゐ
田子の浦うち出でみればテモしろたへにじゆよばんそろへてふじまうで
さつたたふげは嫁りにヤいむがゆきのしろむくふじの山
興津女郎のあのしつこさに江戸の女をしてみたい
名さへきたない江尻の宿は馬のおならとうしのくそ
ぎりにからまん心の竹をやへにくんだるかございく」(三十七オ)
一丁町すぐに出てきてまりこの宿でちよいととろゝで腹直し
蔦のほそ道なにくらかろふ恋のやみぢにくらへては
あつま屋のしそのつけもの此藤枝のいろのゆかりの小紫
川こしにすへをかけたる嶋田の女郎おなじはちすのれんだいに
馬でもこされぬあの大井川神のようごかやすくこし
しげつた所がアリヤむけん山(いかにならひじらうとめ」(三十七ウ)じやとてもいやな客にもあはねばならぬ)金がほしさや三四百
わちは命もかけ川なれどぬしはふたみちふたせ川
袋井にいれた鼠はにがしてやんな殺すもどふやらかわいばし
天龍川でもとめればとまるとゞめかねたるなみだ川
遠州はま松赤いようでくろいほねはすみぬりひめぢうみ
鳶は舞坂てんきもしづか名のみあらゐのわたし舟」(三十八オ)
雲のなみまにはまなの橋のあとはかすみの一文字
さきはなんにもしらすかなれどかはゆひめもとのしほみ坂
よし田ぼくちもまた一里半ちよつと一ぷく火打坂
よし田とほれば二階からまねぐしかもあのこのふりのよさ
腰をかけまで今たてました御油るされませすゞ通
げにも赤坂いなかの女郎みんなけだしはひぢりめん
これもゆかりの藤川なれどむかしの男のさたはこい
岡崎女郎衆はよいかはしらす」(三十八ウ)
ときも八ツはしはるばるきぬるつまらん古跡もよいころに
女にはいつもかうかう養老しぼり買てなじみへとゞけさせ
鯛屋にとまつて子はするかやでよんでどゝいつ宮のしやれ
七里ねむつてはや横まくら夢の間につく桑名ふね
四日市しやもひとりはねすにひるもひなかをのみくらし
よほどいなかに又なりましたかたい豆腐の名薬し
庄のないのはこゝらの宿よむだもいはすにずいとねり」(三十九オ)
??ぬれぬれ亀山あたり泥にも尾をひくやれわらし
関の地蔵のふんとしならば〔てたらめ上るり〕(いもがむすびししたひもをかへる日迄はとくまいと万葉ぶりのばかりちぎ)ふろにゐるときアなんとせう
あけぼのゝはながかうばしめくらのこひじ水にあふのかつちやまの
をたの水口つまよぶかはづかはひかはひとなきわたる
石部金吉おとこにもちなとてもあたではきがもめる
草津ても鯛といへとも」(三十九ウ)もう此へんはせたのしゞみにあふみぶな
ひはの海よりこちやさみせんの川らぬねしめかいつもすき
大津絵のげほうあたまをあの大こくが〔新内〕(のぼりつめたる二かいのはしごおやにさかろふこのみのうへ)アレサ七福神には親はない
たゞ今京都へ三条の橋ながのみやこぢさはりなく」(四十オ)
※歌沢能六斎は、文政九年(1826)生れ、明治十九年(1886)没であるから、著作権は消滅している。東京都立中央図書館蔵特別文庫東京誌料本の翻刻については、同館(館長・松田芳和)の許可を得た。



七、『東海道五十三次気さんじ都々一』(名古屋市蓬左文庫。図書番号、尾19-130)

 蓬左文庫蔵本は二巻二冊であるが、菊池蔵本はその前半に相当するもの、表紙欠で本文は嶋田まで、途中一丁欠がある。弘前市立図書館蔵本は後半に相当するもの、虫損が目立つ。
 序者の白山人は吾妻雄兎子こと梅亭金鵞であり、文政四年(1821)生れ、没年は明治二十六年(1893)である。本書の成立は、「東京日本橋」中の記述から、明治元年(1868)十一月から明治四年(1871)七月の間と推定される。
 以下、蓬左文庫本の翻刻。本書の翻刻については、名古屋市蓬左文庫の許可を得た。許可書番号21教蓬第23号。振り仮名は特別なものを除き省略。
東海道五十三次気さんじ都々一」(表紙)
(絵)馬喰三よし小はん」(見返し)

十返舎の大人。膝栗毛を引出して。弥次郎兵衛喜多八をして是に乗らしめ。東海道より登したれど。此両子をして都々逸を唄はせざるを以て実に金玉の一瑕と為すとぞ。故に今彼の弥次喜の両人が。宿々或るは名所旧跡にて詠じたる。与之古埜の文句を集め。前後二帙の小」(一オ)冊と為し。一九翁が失念の穴を塞がんとす元来御苦労無の二子等が。駅路(うまやぢ)の出放題看るもの聞ものを鼻唄に唄ひなしたるものなれば。題して気散じ都々逸といふ。是また一種の道中記ならむかし
白山人述」(一ウ)
東京日本橋 しながはへ二里
○きやう橋よりかみてのかたにあたりいふぢよやできるいろごとをしんしまばらといふこれぞ恋ぢのふりだしなるべし
恋をするがの冨士さへみえていろの振出し日本ばし」(二オ)
品川 かはさきへ二里はん
○いぎりす人しながはを見て一分三朱のうみなりといふなぜといつたらおだいばが七ツ見ゆるとこたへしとぞ
しな川女郎衆の意気地は客をふつて音(ね)の出る鈴が森」(二ウ)
大森 あひのしゆく名ふつかうのもの
このところのかごやしきりにかこをすゝむるゆゑはてなと思つてうみのなかをみたらそのはづのことのりそた
忍びおほもり口説のたびにこひの手くだへ海苔が来る」(三オ)
川崎 かながはへ二里はん
かみてのかた半道にして大しかはらあり六ごうの川はそう名玉川なれどなむ大しへんじやう五合といふより一合ふやして六がふなづけしとぞ
面(つら)のかはさきひんむくならば大師かわらのかけがよい」(三ウ)
鶴見 あひのしゆく名ぶつ梨子(なし)
○つるみといへるより水たくさんなるなしをめいぶつとすればかこひなしはうまみすくなしとかくぬすみなしこそみつけおほくしてうまみありといふ
空につるみの蜻蛉が出ればいろ気梨子(なし)さへ水をもつ」(四オ)
神奈川 ほどがやへ一里九丁
○めいぶつのかめのこうせんべいはこうらをあつくしてむしやうにはいかけろといふのをしへのよしなればたびのはぢはかきてこそのちのはなしのたねともなる
ふみのかな川かく文字りも便りよするならてれがらふ」(四ウ)
横浜 みやのかしよりふねにて廿丁
○このところはべつせかいにしてちかごろいこくよりもぢようろ来りにつほん人これをかいいこく人は日本の女をかいわかんいれごみのまはしきやくじつにおもしろくろんぼうもありとぞ
わしが思ひは本牧なれどぬしはよこはますねことば」(五オ)
保土ケ谷 とつかまで二リ九丁
○かなざはへの道ありよこはまひらけてよりこのところのいふ女はんじやうするによりけんしきはふじの人あなとともにたかしゆゑにしゆくのなのほどがやにてころりとさすべし
ぬしのきりやうがよい程が谷にわたしや苦労をしなの坂」(五ウ)
戸塚 ふぢさはへ一リ三十丁
○かまくらへゆく道ありこのところにむかし大ぎんたまありしがちかごろまたたやむらといふところにいろいろのぞうもつあるあなできたりまはりてみるべし
とつかまへたらもふ何処(とこ)までもはなしやせぬぞへ凧の糸」(六オ)
鎌倉 とつかより五十丁
○あましやうぐんのぢぶんさねともこうひこつきたまひしところにして毛はへざるなめりがはいゝがはまなぞのめいしやうあり
うはきよ刈る様なはがねがあらばわたしやゆきたや鎌くらへ」(六ウ)
藤沢 ひらつかへ三里はん
○ゆぎやう寺は一へんしやう人のかいきなりむさしぼふべんけいも一へん上人なるよしなれどそれにはあらず小栗堂ありぢぞうそんはとるてのひめのまもりほんぞんなりといふ
深いひかりのいろ濃いまつへからむ藤さは千代までも」(七オ)
榎の嶋 ふぢさはより五十丁
○べんざいてんをあなにまつるは女がみなればなるべしさればこのしまにまつだけはゆることなくかひあはせをするをもつてあそびとするよしいへり
ふかい思ひはあの江のしまの岩屋の穴にもまけはせぬ」(七ウ)
平塚 大いそへ廿七丁
○なりひらのあそんこのところをとほりしにさむさつよくしてはなみづをたらしたまふゆゑに花水橋ありそのはな水のあと十間ほどにひきたればとて十間坂といふもある也
膳のひらつか長薯などゝすてゝ置れぬ味がある」(八オ)
大山 よつ谷よりわかれて北へ入る
○六七月のころはうつくしき女たくさんなるゆへさんけいの男みな大てんくにてだいねつのくるしみをうくる也らうべんのたきなどあびてはなをちゞますべし
ぬしにあふ山その夜は路次のしまる四ツ谷が気にかゝる」(八ウ)
大礒 をだはらへ四里
○しぎたつさはありしぎたつさはのしへにごりをうてばじきたつさはなりじきたつさはゝ大いそぎのしゆくにあればなるべしとうこいししゆくのなかほどにあり
べに筆なめてはわるがみへかくふみの便りの大いそぎ」(九オ)
小田原 はこねへ四里八丁
○をとこもうめぼしのごとくしなびればをだはらちやうちんのごとくなるべしゆゑにこのところのめいぶつはうめぼしを第一となしういらふしほからなどもあるなり
をだはらひやう議の月日もいつかたてば早いぞ二十七」(九ウ)
湯元 小田原より一里
○はこね山のおんせんはよくすみて風呂のそこのこみまで見ゆる也むかしゆげのだうきやうこゝにたうぢせしときゆのなかにてどうきやうまたの毛をかぞへしに三万三千三百三十三本ありしとぞ
木賀や湯元の七湯もなんの恋のまひにきくものか」(十オ)
箱根 三嶋へ三里廿八丁
○御関しよ今はなしゆゑに女のわうらいじゆうなればみづうみのふちにさいのかはらあれどもこゝへゆくものなしされどふた子のいましめあればうはきはつゝしむべし
はこね八里は馬でも越すがねやのしきゐがこしにくひ」(十ウ)
三嶋 沼津へ一里半
○みやうじんのみたらしにうなぎおほきはこのうなぎのごとくつかまへどこもなくぬらくらとしてはならぬとのおんいましめなるよしいへり
それとみしまにもふ雲がくれぬしは月夜の子規(ほとゝぎす)」(十一オ)
沼津 原へ一里半
○きせ川といふ村にいふ女亀づるのつかありかめづるがもとへかよふ男まい夜千人にすぐゆゑにぬまづに千本まつたけあり今あやまりて千ぼんまつばらといふ
あめの沼津の水かさましてあやめまこもが見わからぬ」(十一ウ)
原 吉原へ三里六丁
○人丸も田子のうらのけしきを見てうきしまがはらのうかれいだし名ぶつのひごずいきにふじの人あなをねらひしまことによい毛ひきのところなり
ごう原まぎれにすてばちよいへば笑顔つくらふふじびたへ」(十二オ)
吉原 かん原へ二里三十丁
○このところにむかしかくやひめといへる美人ありしが天てうへめさるれどもあがらずふしぎのほれられぐすりをのこしててんじやうなせしとぞ
よし原すゞめのいけさうぞしい怨みよきくよな耳はない」(十二ウ)
蒲原 由井へ一里
○吹上のはまにじやうるりひめのつかありこのところをとほる人きさんじどゝ一をひとつづツうたいこのはかに手むくべしとなり
あついぬるいの好みがあつて酒のかん原むづかしい」(十三オ)
冨士山 上リ十里
○ふじ山のごときはいぎりすふらんすあめりかにもなしとていこくの人も大いにこれをあいすまことにおふじさんのゆきのはだにはさいぎやうのこしをぬかせしもむべならずや
つもるおもひは三国一のふじのみ山は雪のたけ」(十三ウ)
岩渕 あひの宿名ぶつくりの子もち
○ふど川にたつ水鳥の羽おとにおどろきへいけのさむらいにげたりといひしが今はなりざしきのおぢやれのもたつきにこしをぬかすたび人もまゝありとぞ
かたいお前の岩ぶちでさへ栗のこもちにやがてなる」(十四オ)
由井 おきつへ二里十二丁
○このところしほがまおほきゆゑしほをやく小屋のうちにやどりてしほくみの女をころばせばこの女千鳥のなきごゑをいだすといへり
かゆいところへ手をとゝかせてまことつくすになにふそく」(十四ウ)
薩陀峠 本名いわき山
○このところあはびのめいしよにしてすひつくがごときのけいしよくありされどかたおもひはにをかつぐ人足のみにてそれさへ今は山の下なみうちぎはをとほればくるしみすくなしとぞ
いたくない様にぶつくらさはでさつた峠といふはうそ」(十五オ)
興津 江じりへ一里三丁
○みのぶ山人の道ありこれへさんけいすれば女のほれることめうほうれんげきやうとこどんどんなこちびてもかなはぬといふことなしとぞ
寝つおきつまてどお前はおとさたなくてそばやあんまやかごのこゑ」(十五ウ)
江尻 しづ岡へ二里廿七丁
○くのう山へまはりてしづをかへいづべしきよみがたせいけんじなどありてたうかい道ぶそうのふうけい也こゝにてもこのどゝ一をうたひあまをとめにおもひつかるべし
じやうだんまぎれのつひ手がさはり江尻つめツてしかられる」(十六オ)
清水湊 かい道よりすこし海てのかたへ入る
○はごろものまつはみほにありはくりやうといふれうしこゝにてはころもをひろひてん人をくどきてつまとなしたるところなれば松のえだをよく見るべし今もはごろものわすれものなきにしもあらずとなり
しみづみなとの帆ばしらよりもみ穂の松たけなほふとい」(十六ウ)
静岡 まりこへ一里半
○をごろまですんふといひしところなり二丁まちとて東京のよし原のほんもとあり手ごしのさとよりせんじゆのまへまたそがの五郎のあいかたせうせうなどいへるいろ女のいでしところとぞ
あたりしづ岡更行まどにかごの松むしなきほそる」(十七オ)
丸子 岡べへ二里
○めいぶつのとろゝは第一のじんやくなればこれをしよくしてこそつゞけさまに十だんごもうつの山なるべけれ
おもはぬ袂もひく気になるははづむまりこの手のかげん」(十七ウ)
阿部川 かちわたし
○川ごしのものとかく女をかたぐるまにてわたしたがる也されどみをのびやかにしてかつぐものゝきんたまのごとくちゞみてゐることなかれとなり
わたしやお前にあべ川もちでべたりくたりとつきまとふ」(十八オ)
岡部 藤えだへ一里廿九丁
○おかべとはとうふのことをいふとうふはかどばつてゐてもやはらかし人もかどはつたものだけ女にかゝるとやはらかになれば岡べはちもくうはべからはわからぬといふことをところの名にせとものとぞ
からまりつひても岡部の岩はつたにみむきもせぬふぜい」(十八ウ)
藤枝 嶋田へ二里八丁
○このしゆくの女りよ人にからまりまつはりてはなれざることまつのえだにふぢのからみしがごとくなればふぢえだとなづけたるにて天宝二年にできたるしんしゆく也
みてはよけれどゆかりのいろの花の藤えださめやすい」(十九オ)
嶋田 金谷へ一里
○大ゐ川はかいだうだいゝちのかちわたりなりたとへしま田の女にこの川のごとくくびつきりはまつてもむえきな金谷をつかふなといふいましめにこの名をつけたりとぞ
あだなしまだにわしやほれこんで首ツたけだよ大井川」(十九ウ)
東海道五十三次きさんじ都々逸」(表紙)
(絵)馬喰三よし小はん」(見返し)

箱根八里は初編のうちに。既にして越たれど嶋田の駅でぎつちりと。筆の止つた大井川を。今復(また)渡して金谷より。こじ付る気散じ都々一。旅は憂とは誰が云た。野暮な口にも唄ひよい。口調へ一寸宿の名を入れ。里数は勿論相の村。名勝名物旧跡まで大凡は書加へたれば。縄手の道な松並の。長きに」(一オ)倦(あき)の来ぬのみか。旅店へ着ても宿女(よね)達を。浮し句文(もんく)の道中記は。東海道と恋路との。二たみち懸てゑいやツと。上りと成りしこゝの人や。彼処の図どりの鈍きも亦。お笑ひ草の種瓢箪と。共にお腰に付させ給へば。是また旅中の調法ならん歟
白山人述」(一ウ)
金谷 につさかへ一里廿九丁
○あはがたけにむけんのかねありてこれをつくときはきんぎんじざいにできるといへども男は女にほれられず女は男にほれられなくなるゆゑにきんぎんにはかへられずといへり
川が明ても泊つて居るよ銭や金谷のあるうちは」(二オ)
日坂 かけがはへ一里廿九丁
○さよのなか山のよなき石ならひよなきをする女しゆくのうちにまゝありゆゑにわらびもちのぬらくらをめいぶつとするなりとぞ
ぬしのうはきに能につさかでこのこもぬらくらわらび餅」(二ウ)
掛川 ふくろゐへ二里十二丁
○このところの女みなくず布(ふ)をおりてめいぶつとすれともくすにはあらずみなめい婦なりちなみて知るべし
ねがひかけ川まだ間もないにぬしはそろそろあきはみち」(三オ)
袋井 見附へ一里半
○うつべ村の花むしろはふたりねにしてをらせてよしたゞしまくらのあたるところをおとせぬやうにやはらかにおらすべし
風のふくろゐふくれた顔へはやすりんきの角(つの)のとげ」(三ウ)
見附 はままつへ四里八丁
○池田の里にゆやといへる美人ありてむねもりのちやうあいをうけたりそれゆゑか今もつてよい女をおりおりは見つけのしゆくの名ありとぞ
みつけられたらもう百年め戸だなさがしのつまみぐひ」(四オ)
浜松 まひ坂へ二里三十丁
○このところひろいやうでせまければうはきをするとおきにしれる也ましてたびのはぢはかきすてにいかずひく馬のうまにてちうしんするがごとくくにもとへしれることふしぎ也
風のはままつ夜すがら寝ずにさはぐはずだよすねたふり」(四ウ)
舞坂 あらゐへふなわたしにて海上一里
○このところしんぞのゐるふねへのるを上としとしまのゐるふねへのるを中とし大どしまのゐるふねへのるを下とさだむとかくのりあひの女によりてふねのきつきようをしるとなり
足のふみどこ手のまひさかもわすれてお前に逆上(のぼせ)しやう」(五オ)
荒井 しらすかへ一里廿六丁
○このところ女をとほさゞりしが御せきしよおんはいしとなりてよりよき女のわうらいすることおびたゞしくまことに今ぎりよりうしほのおしくるがごとしとぞ
鼻風のあらゐゆふべは寝どこの海になみをうたせる夜着のすそ」(五ウ)
白須賀 ふた川へ一里半
○このところの女へやういに手をだすことなかれしほみ坂のしほあひをみさだめてよし女谷といふところありよりともきやうのちようあいの女こゝにゐたりとぞ
窓のしやうじにまたるゝ人の来るをしらすかとりのかげ」(六オ)
二川 よしだへ一里半
○いはやのくわんのんをねんずればさるがばんばもとしまもしんぞもほれぬといふことなしといふ
灸のふたがはひきむしられていたいお前のあてこすり」(六ウ)
吉田 ごゆまで二里半
○せきの小まんのはかありめいぶつのほくちはうはきをたきつけるにはあらざるなりまた二かいからまねかれてもやういにゆくことなかれと也
よし田とほれば二階はおろかまねく尾花の野にもある」(七オ)
豊川 よしだよりまはればごゆへいづる
○とよかはいなりへさんけいしてけんぞくのきつねにたのみうはきをばかしてかたぎにしてもらふべしまた人をきらひおのれにのみほれるやうにもたのむべし
御ぐわんかけ根のとよ川さまへぬしのうはきのなほるやう」(七ウ)
御油 赤さかへ十六丁
○うしくぼに山本かん助のこせきあれども人々みなしゆくのおじやれにこゝろうかれてたづぬるものすくなし
御ゆだんめさるななぞとはうそよお前からしてふたごゝろ」(八オ)
赤坂 ふぢかはへ二里九丁
○このしゆくもいふぢよのめいぶつ也ほふぞじのなはゝうはきをしばりておくによしとぞ
顔はてらてらあかさかやつこひとくらのつたる濁酒(しろうま)へ」(八ウ)
藤川 をかざきへ一里はん
○このしゆくのかたはらにころもといふところありこのころもをおかさきの女にやはぎとらるゝといふことはりとぞ
うはきなふぢかは手を出しかけてそつちこつちへはいまはす」(九オ)
岡崎 ちりふへ三里三十丁
○むかしうしわか丸じやうるりひめにもたつきしあとをひきて今もたびの人このところのいふぢよにもたつくゆゑにいふぢよをめいぶつとす
岡ざきのやどのあねへにわしやうちこんで一まい着ものをやはぎ川」(九ウ)
千鯉鮒 なるみへ二里三十丁
○このところのざとうのぼういかにもしろものゝ大きかりしゆゑ馬市となづけたりしがいつしかうまをあきなふ市のたつところとなりしもおかし
山寺のかねのひゞきにさびしさ増して花もちりふの里の夕」(十オ)
桶狭間 今がよよしもとうちじにのば
○このところの女はあめなどふるひ人なきをりをうかゞひきふにおこりてくとくがよしのぶながのよしもとをうちたるもこのしほふをもつて也
わたしやお前にぬけがけされて箍のはづれた桶はざま」(十ウ)
鳴海 みやへ一里はん
○むかしはこのところよりみやへはまつたひにてゆきしゆゑ女いろくろかりしが今ははまをとほらぬゆゑいろしろくしてよい女もありまつのしぼりをめいぶつとする也
ちよつと見かけは美しけれどなるみしぼりて丈(じやう)がない」(十一オ)
宮 くはなへ海上七里
○このところはかいだうぶそうのいふぢよにしてきやく人みなあつぼうのあつたとなるなりなごや人まちつゞき五十丁あり
豆をねらふとお前はいふがわたしやあつたのみやのはと」(十一ウ)
佐屋 川ふねへ三里のりてくはなへいづる
○にようぼうのことをさやといへるなればこのところへまはるべしおまつりはつしまのこづてんわうにてわたすなり
うみはあぶないまはりであろとかごでとばせなさやのみち」(十二オ)
桑名 四日いちへ三里八丁
○ひがしとみたおかふけのりやうしよはやきはまぐりのめいぶつにして弥次郎べゑはまぐりをまたぐらへおとしきんたまをやきたるところのきうせきなり
わたしやくはなのやきはまぐりでぬしにわらせて喰せたい」(十二ウ)
四日市 いしやくしへ二里廿七丁
○このところの女あげてあそぶべしもつともかたはらにみえ川あればぶじやれはすることなかれとぞ
四日いち夜のたひゞとでさへ惚りやわかれがつらくなる」(十三オ)
石薬師 しやうのへ廿七丁
○しゆくのなかにまりがはらといふところあればこゝにてはずいぶんはづみてあそぶべしとぞ
裂てもさかれぬふたりがなかはかたいちかひのいしやくし」(十三ウ)
庄野 かめやまへ二里
○さゝきの四郎がのりたるいけづきといひしうまのいでたるところなりゆゑにいけずきならばやきもちもやくべしとて名ぶつをやきごめとするとぞ
すゑをあんじてふさいて居れば苦労しやうのと人がいふ」(十四オ)
亀山 せきへ一里はん
○かめやまのかめといふより石川こうの御もちじろとなりたるよしりよ人もこのところにこうらをほしてあそぶべし
池のかめやまよろつ代までも生てお前にそひとげる」(十四ウ)
関 さかのしたへ一里はん
○このところは火なはのめいぶつなればいろ女などにたきつけられぬやうにやうじんすべしほそくながくやかれてはたれしもこまるものとぞ
たとへ人目のせきしよがあろがわたしや恋路のまはりみち」(十五オ)
坂の下 つちやまへ二里はん
○かのこほふげんこのところのけしきをゑがき女のもとへおくらんとせしにけしきあまりてふでのたてどころをしらずゆゑにふですて山といふ
ぬしは高根のさくらのはなでわたしや見て居る坂の下」(十五ウ)
土山 みなくちへ二里はん十丁
○めいぶつのさしぐしはもとめて女のみやげにするによけれど茶はちやにするなどのつじうらありこゝろをもちいて買ふべし
雨のつちやますべつてさへもぬしは気強くころびやせぬ」(十六オ)
水口 いしべまで三里十二丁
○めいぶつのかぶりがさをもとむべしぎりわるき女のまへをすどほりするときかたむけてゆくによし
よるとさはるとみなくちぐちにぬしをすいたといふうはさ」(十六ウ)
石部 くさつへ二里半七丁
○長右衛門おはんがねぞうのわるきをみてきをわるくせしところなれば今もをりをりきをわるくするやうなることおほしつゝしむべし
いしべ金吉とはおもてむき誰しも惚ればのろくなる」(十七オ)
草津 大津へ三里半余
○うばがもちよくねれたれどしゆくのなのくさつにはあらずきそかいどうへのおひわけあり
風にふきしくくさつのやうに世界のをんながなびきやよい」(十七ウ)
矢橋 ふなわたし大つへ一里
○のりあひはとかく女のゐるふねをめがくべしせんどうのさをのつゝはりよければおほつの坂もとへざんじにちやくするとぞ
いそぐこゝろはやばしの船よどうぞ追風(おひて)をふかせたい」(十八オ)
膳所 あふみ八けいのうちの一ケしよ
○めいぶつのげん五郎ふなはじんやくの第一といふことうそにはあらず本だ侯のおんしろ也
名にしあふみの八景さへもぜゝがあるので人がすく」(十八ウ)
大津 さいきやうへ三里
○このところはなにごともむかふみづうみのふちなれば女とみたらばさんばしへつくふねのごとくあたりてためすべしあはづといふなはおもてむきばかりとぞ
今宵あふつといふやくそくにおちる日をまつ西の京」(十九オ)
西京(きやうと) めいしやうきうせきおほしたづぬべし
○みやこはにつほんずい一の女のよきところにてものごしやさしくばんじしとやかなりをとこのとりあつかいとはだざはりのこまやかなるはじつによこくにるいなしとぞ
鴨川のみづでさらしたわたしのむねは心のそこまですきとほる」(十九ウ)
※本書の翻刻については、名古屋市蓬左文庫の許可を得た。許可書番号21教蓬第23号。本書の著者の白山人は吾妻雄兎子こと梅亭金鵞であり、明治二十六年(1893)である。著作権は消滅している。



八、『木曽海道六十九次気さむじ都々逸』(関西大学図書館所蔵。図書番号H911.91/A1/1)

 序文・柱・内容からして、本書は第二編である。初編の所在は不明。菊池も同じものを所蔵するが、一丁欠がある。
 見返しに「吾妻雄兎子作/鶯亭ゑかく」とある。序者の白山人は吾妻雄兎子こと梅亭金鵞であり、文政四年(1821)生れ、没年は明治二十六年(1893)である。本書の成立年代は不明だが、『東海道五十三次気さんじ都々一』の続編とすると、明治初年の成立である。
 以下、関西大学本の翻刻。振り仮名は特別なものを除き省略。パソコンで出ない字は「●」とした。
木曽海道六十九次気さむじ都々逸」(表紙)
吾妻雄兎子作
鶯亭ゑかく」(見返し)
初編既に御祓(みそぎ)する。夏越のころ出来すれど。この道元より難所多く。其処彼処(そこかしこ)に往(ゆき)詰り。二編に至りて遅遠したり然れど恋路の六ケ敷に比ぶれば峻山の九折(つゞらをり)も深谷の棧道も誠にものゝ数ならずと竊に奮発することありて終に六十九次となしぬ嗚呼大きに御苦労千万歳と自ら祝して詞の花唄となしぬ
白山人述」(一オ)
宮腰(みやのこし) ふくしまへ一里半
○きそよし仲の城あとありよし仲にめかけ二人あり一をもえといひ一を山ぶきといふ二女ともによくたゝかふといへればよしなかのねやのうちおもひやられたり
あせを流してはだかに成てわたしやかついたみやの輿」(一ウ)
福嶋 あげまつへ二里半
○御せきしよ今はなしおんたけ山のとりゐありおんみやまで十り程このへんの女さつはりとしたることはおんたけ川のながれにてけつをあらふがごとしとぞ
ぬるりぬるりとする摺小木をなんでふくしまとろゝ顔」(二オ)
上松(あげまつ) すはらへ三リ九丁
○このしゆくとふくしまとのあひだにきそのかけはしありねざめのとこのかたはらにある小のゝたきはすさましくしてねだめ小便のごとしとぞ
くるりくるりと尻ふりまはし杖をあげまつとんぼう荷」(二ウ)
須原 のじりへ一リ三十丁
○いづもの明神のやしろあり恋のねがひをかけてよしきそ川のなかれくみてけしやうの水とすればきめこまかになるといふ
尻の須はらぬうはきといふが言れる程には出来はせぬ」(三オ)
野尻 みとのへ二里半
○きその古道ありめいぶつわがふの酒はこんいんのさかづきごとにもちひてよし
口のうしろのしりからのぞきどこがもるかといふ薬くわん」(三ウ)
三冨野(みとの) つまこへ一リ半
○きそとうげあり鯉岩は恋いわなりゆゑにかたはらにめをのたきそゝぎおちて水けたくさんなりといふ
恋の深みへはまつたこの身とのごまかせにしたうきな」(四オ)
妻籠(つまご) まごめへ二里
○きその山中はとりわけさむさつよければ男女いだきつきてねることつねなりゆゑにつまごまごめもおほくできるといふ
いろにやよけれど妻ごにやよしなしりがはやくて茶わん酒」(四ウ)
馬籠(まごめ) おちあひへ一里五丁
○かまくらかいだうありふせやの里あり十曲たうげは十の曲どりをせしところといふもまつたくすけべゑどうしのおちあひばしならんとぞ
思案なかばに鉄炮かとおもやそとで馬士(まご)めがするおなら」(五オ)
落合 なかつがはへ一リ五丁
○かまがはしはおひはぎいでゝりよじんのかまをねらひしかばばんしよをたてこれをきんずよさかのばんしよはよなかのばんしよのあやまりなるべし
すけべゑどうしの落あひなれば根太(ねだ)は夜すがらみつしみし」(五ウ)
中津川 おほゐへ二里半
○花なし山ありむかしこのところの人おほくそうどくにてはなをおとせしかはこの名ありといふつゝしむべし
片時あはねばくよくよするは深い恋路のなかつ河」(六オ)
大井 大くてへ三里半
○さいぎやうほふしのつかありいせさんぐう又なごやへのわかれ道なりかまど山はおかまをねらふによろしとぞ
おほいおほいと呼のは誰だほれた人なら代でくれ」(六ウ)
大●(おほくて) ほそくてへ一里三十丁
○つぼ岩ほろ岩ひはたとうげあり月よし日よしのさとはこんいんをむすぶにいつといふきらひなしとぞ
おほく手のあるお前だなぞとげぢやむかでじやあるまいし」(七オ)
細久手 みたけへ三里
○おにのいはやにいんらんの女ありてゆげのだうきやうをひとのみになしたりとぞゆゑに一トのみのしみづなほのこれり
心ほそくてひとりはいやよ誰か来てくれわしがねや」(七ウ)
御嶽(みたけ) ふしみへ一里五丁
○おにのくびつかありありはらのゆきひらのつかは川のむかふにありゆきひらにほれたる女のたてしものとぞ
みたけ首ツたけ天窓(あたま)まではまるもふ一ケ所はまれば夫でよし」(八オ)
伏見 おほたへ二里
○めいさんみのがみはけいちうにもちひて音するゆゑわるしはちやがきのあま口はよけれどせきのかぢの刀のきれるといふは恋ぢにはすこしいむべし
またをひらいてうつ伏しみれば御嶽浅間も尻の下」(八ウ)
太田 うぬまへ二里
○いはやのくわんおんは恋のねがいをかけてよしもちふものなら冬もかたびら山のけしきいとおもしろしとぞ
おほた初手から身にしみじみとあてにならないうはきもの」(九オ)
鵜沼 かなふへ四里八丁
○はりつなのじんじやさいれいにぎやかにしてわかき男みなまつりの女をぞめきにいづるなりゆゑにはりつなの名ありといへり
うはきよして見ろうぬまアほんにたゞは置ぬとうでまくり」(九ウ)
加納 ごうどへ一里半
○なから川はうかひのめいしよなりぎふは妓婦のあやまりにてむかしこのところにげいしやおほくすみたりとぞ
願いくひかなふと御くじにやあれどすゑをまてとは気がながい」(十オ)
河渡(がうど) みえじへ一里六丁
むしろ田はある男女をつれきたりいぬるにふとんはないからひくものはむしろだといひしよし名となる女はむしろのたかひくにてせなかいたきゆゑ糸ぬき河かたはらにながるゝとぞ
何のがうどでわしやこのやうにあかいお芋が恋しかろ」(十ウ)
美江寺 あかさかへ二里八丁
○むすぶの神のやしろありねがいをかければりやくはやきことくひぜ河のながれのごとしゆゑに子安くわんおんはあかさかのしゆくのかたはらにあり
腹がへつてはみえじはいらぬ其所らさがしてつまみ喰」(十一オ)
赤坂 たるゐへ一里十二丁
○日もく上人だびつかありまたかぶとつかはあをはかのちやうじやがてるてのひめのねやへわすれてゆきしをうづめしものとぞ
なんのあたまがあか坂などゝ言れなからものぼせしやう」(十一ウ)
垂井 せきがはらへ一里
○のがみのさとのかたはらにはんによのきうせきありいぶきの山の名ぶつもぐさをすゆれば大いにじんきをたすくるとぞ
よだれがたるいと笑はゞわらへみとれりや誰しもこんなもの」(十二オ)
関が原 いまずへ一里
○月見のやしろありふはのせきのあとありこのところ月のあかるきころはねやのうちはともしびをおかず月あかりをもつてともしびとするとぞ
鰻鶏卵(たまご)のせいきもいつか尽て腎きよのせきがはら」(十二ウ)
今須 かしはばらへ一里
○くるまがへしの坂ありねものがたりのさとはみのとあふみのさかい也みのゝねものがたりあふみへきこえあふみのねものがたりみのへきこゆまれにはまくらのおともきこゆるとぞ
ぬらしておきなよ今するとこだ坊のあたまのさかやきを」(十三オ)
柏原 さめがゐへ一里半
○やまとだけのみことのこしかけ岩ありまた西行水ありさいきやうほふしゆきゝの女のうつくしきをみて水をいたせし河とぞ
白いお酒を一合のんでふとんかぶつてかしはばら」(十三ウ)
醒井(さめがゐ) ばんばへ三十丁
○三水四石のめいしよありやまとだけのみことゐさめのしみづは町のなかほどにありくみてぼんのうのねつをさますべし
夢はさめがゐ大摺小木(おほすりこき)がまたで突張夜あけがた」(十四オ)
番馬 とりゐ本へ一里六丁
○よごのうみまたひはのうみありあさまのさとはもといふ女ありしところつしままつりは男をかさねしかづだけ女なべをかぶるといふ
見ては新造いろには年増せわはばんばがよくとゝく」(十四ウ)
鳥居本 たかみやへ一里半
○小まちづかあり小まちししてのち小まちといねたる男もはやよぎもふとんもいらぬとておのおのこのところへもちきたりすてたるゆゑそのところをとこの山といふ
呑で水性(うはき)でお花が好でなにがお前の鳥ゐもと」(十五オ)
高宮 ゑち川へ二里八丁
○四十九いんゆゐねんじありめいぶつのたかみやぬのはおつこちのみやげにするにめうなりとぞ
いきがたかみやしづかにしなよ隣りざしきはまだ寝ない」(十五ウ)
愛知川(ゑちがは) むさへ二里半
○めいぶつの一けい茶きつすべしぢごくごへはかくしばい女をかいにゆく山みちなりといへり
宿はゑち川わしやまゝのかはあついお前の面のかは」(十六オ)
武佐(むさ) もり山へ三里半
○ちやうじやのからうすありほばしらくわんおんを男のほとけなりと思ふはひなり人をほばしらのごとくにする女のほとけなりといへり
歯くそ目やにゝ涎とはなでむさくするのも女よけ」(十六ウ)
守山 くさつへ一里半
○くさつ川はなりひらのあそんこの川のほとりにてほゝあかき女に出あひヲヽくさやといふてつをはきたまひしかばくさつ川の名ありといふ
孫をもりやまする年でさへ何様(どう)もうはきはやめられぬ」(十七オ)
草津 おほつへ三里半六丁
○とうせんだうととうかい道のわかれ道しゆくはづれにあり石山のくわんのんにむらさきしきぶがげんじの間を見てきをわるくするものおほしとぞ
ほゝの赤いので草津と知れどねれて嬉しいうばか餅」(十七ウ)
大津 さいきやうへ三里
○てんちてんわう大つのみやをつくらせたまひしところにてしはゐ町のいふぢよはおさおさ三都におとることなしあげてあそぶべし
わたしや大津の牛ではないが恋のおも荷をひきあぐむ」(十八オ)
西京(さいきよう)
○きやうとは女のさいたい一にしていろ白くきめこまやかにしてものいひやさしくとりまはしなまめかしければしよこくの人々これがためにこしをぬかさぬはなしじつに婦人の美をきはめゑんをきはむることこの地をもつてせかいの冠となすべし」(十八ウ)
ぬしは京都の鴨川ぞめよ人に目だつてうつしくい」(十九オ)
附録
大坂 京都より十一里
○これまたいろの大みなと恋のみやこのさい大なるものにして今芝ゐにてするみちゆきのしんじうはみなこの地の男女にして東京さい京にもまさるところのもたつきありまづしんまちのあたりよりためすべし
梅の花さく難波の人をすいといはないものはない」(十九ウ)
※関西大学図書館蔵書は、著作権の切れたものについては、許可を願い出ることなく、自由に翻刻してよいとのことである。本書の著者の白山人は吾妻雄兎子こと梅亭金鵞であり、明治二十六年(1893)である。著作権は消滅している。



九、『よしこの故能和多橋』(国立国会図書館蔵本。図書番号は特55-403)
 編者近藤巴太郎の生没年は不明だが、同人の著作は、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」において、「この図書は著作権法第67条による文化庁長官裁定を受けて公開しています。」とされている。著作権は消滅しているものと考えてよい。
 国会図書館蔵書は、著作権の消滅しているものについては、自由に翻刻してよいとのことである。
よしこの故能和多橋
近藤巴太郎編輯」(扉?)
四方の通子を杖となし東海道を笠に着てよしこのの集(ほん)の初編(はつたび)にまづ手土産の妓(こ)の腸(わた)多留粋心にあふか間の駅(しゆく)名所古跡ももらしなく路程は一百三十余里たゞひとすじに三弦(みすじ)の糸みち不二山(たかいやま)から谷素湖(たにそこ)も瓜や茄子(なすび)の下等(へた)撰者滑稽(しやれ)と胡盧(ごろ)とをたねとして人情風化の導に漸々(やうやく)鄙の●(かたこと)にててにをは仮名の間ちかひは見ゆるしたまへと一寸序文(ざつき)に
誌者は
蚊雷居巴太郎」(序)
西京 二リ廿六丁
花ともみちのいろかにくれてあかぬにし山ひかしやま(ヤハキ 旭山)
色に出口の柳のめにもそれとしられて露をもつ(平井 坂田楼)
人をはかると狐の火ころ井筒のしたのはふかい智恵(水島住 実河良)
世にも鳴神はつねのいろに客をひくのも三味のいと(タキ 漉水)
なにも鴨川人目の網にもれしたがひの鷺しらす(岡サキ 新冨貴屋礼)」(一オ)
鶏のそらねもよにあふ坂もしつてゆるさぬ恋のせき(タカハマ 清婦)
へたてられても命をかけてしのび逢坂関所ごし(ヲカサキ 植田屋常吉)
うき名つゝめどあふさか山の関のしみづはもれやすい(アラ井 黒主)
こよひ首尾してあふ坂山とこゝろ関寺小町漬(ナゴヤ 西川小松)
ともに走井なかれの身では人目の関路はとふしれぬ(東京中ばし 彫千)」(一ウ)
人のうはさに気は走り井のみづになかれのます苦労(ハマヽツ 紙屋豊吉)
大津 三リ半六丁
こひの重荷てあけくれかよふぬしに大津の車うし(風琴)
よくも大津絵りんきのつのをおつて手くだのかねしもく(トヨハシ 鶯鳴)
浪のしらべる琵琶湖の音もてうし粟津のさよあらし(二川 穂々丸)
ぬしをまつばら夜もいつしかとふけて粟津の身のつらさ(トヨハシ 鳥声)」(二オ)
ゑんもむすべはこれから崎ははれてそひねを一ツ松(ナゴヤ小田原町 山田ゆう)
はれて近江になつたる今宵なぜかこゝろが浮御堂(トヨハシ みそじ)
ぬしにこゝろをまか瀬田蜆くちをあくたびあかゞ出る(桜連 湖流)
矢橋こゝろにつひ蒸気船ごねにや石炭たくおもひ(ヲカサキ ●亭小八重)
こゝろ八景わからぬうちにわたしやのり出す矢橋舟(トヨハシ 松楽)」(二ウ)
部屋のいゝ艸津らいをこらへこよひ大津のうすけしやう(大サカ 錦平)
草津 三リ
人が草津て八景をみれは矢はせ粟津で出るつらさ(小望 義?)
呼はる女の気もやはらかにねれてほどよい姥か餅(二川 穂々丸)
すいつすかれつこの梅の木に花のしたひもとけたなか(岸舎)
石部 三リ半
閼伽ぬこゝろをたかひにくむはかたい石部の金勝寺(二川 思顔)」(三オ)
ふかくむすびて見しまさ夢は水の出刃屋のにひまくら(ヲカサキ伝マ 八重咲小久)
水口 二リ半七丁
かぶせかけたる水口ぎんもはげて地鉄(ちがね)のてるきせる(下地 一玉)
土山 二リ半
おもひあひ性のわしや土山で縁を木櫛にむすぶ髪(緑水)
はじも鈴鹿でいまさらぬしにあふて辛苦のます峠(サクラレン 湖流)
坂下 一リ半十六丁
きれてしまうと筆捨山が画そらことにもかゝりよふか(岸舎)」(三ウ)
狩野うらみの筆捨よりもかはりやすきはぬしのむね(ヨシハマ ヘト)
関 一リ半
こゝろせきなるわたしのねがひとへどこたへぬ石地蔵(トヨハシ 鎗安)
亀山 二リ
よはひ久しき鶴亀山とおもひ相生かざり台(二川 琴月)
よろづよまでもかめ山なれば恋のしようやどかへはせぬ(トヨハシ 山毛)
庄野 廿七丁
きては義理をはかけひきばなしどうか庄野といふこゝろ(トヨハシ みそじ)」(四オ)
むしのついたる箱いりひなはいけん庄野もきゝはせぬ(トヨハシ 酒好)
おもひこがるゝ身は焼米よなんと庄野のたわらいり(トヨハシ 菊岡花香)
石薬師 二リ廿七丁 
やわらぐやうにとがんごめしてもぬしはかたぎの石薬師(二川 穂々丸)
そふてたかひに杖衝(つえつき)村とかたひちかひのいしやくし(ニカトリ 松霞)
四日市 三リ八丁
亀のうちわけ日永のひものとけてあふ夜も四日市(ニヒホリ しらはへ)」(四ウ)
あつくなつたるひながの団扇しばしはなれてくらされぬ(ヤハタ 立野女)
うひてながれのこゝろのそこは水にしれたる朝明(あさげ)川(一二三)
桑名 海上七リ
むねに桑名のやきはまぐりがほつと吹出す蜃気楼(二川 穂々丸)
其手桑名や焼蛤のこかれて見せたる貝がない(ナゴヤ 美宗)
なさけ白魚そひますなぞとその手桑名のはかりこと(トヨハシ 緑水)」(五オ)
桑名いつとめと人にはみせてふさぐ目もとにふるしぐれ(ヤハギ 十々丸)
いつも其手は桑名いわたしぬしを真帆にはかけられぬ(ナゴヤ 水月)
みえる神戸(こうど)もこゝろがのればほんに間遠のわたし舟(トヨ川 水鳥)
宮 一リ半六丁
さきが熱田じやしのんてこよひうはきならずの梅のはな(ナゴヤ 中源)
恋のねかひのほんもうとけてさけあつたの宮まいり(緑水)」(五ウ)
藍といわねど気は間松のかほにはづかし紅しぼり(東陵)
底にきつかずこゝろの箍(たが)のゆるみてみだるゝ桶狭間陣(ヲカサキ 梅山)
胸も前後で落合つかぬ袖もなみだになるみぞめ(サクラヰ 七五三)
もゆるおもひに前後もわすれむせぶなみだの煙艸(ヲカサキ 雪枝)
はれてよなよな逢妻川でつゝみかくさぬ水こゝろ(花暁)」(六オ)
はしごだんから名を呼?の浜はこよひのまはし家(タカハマ 湖月)
ぬれて嬉しや笠寺さまの大慈大悲の御利生雨(ベツゴ 梅琴)
鳴海 三リ一丁
明る星崎かり寝の夢のさめて千鳥の泣わかれ(カモ 実河良)
恋も闇路とはや鳴海潟うらむ千鳥のなき別れ(タカハマ 詞睦)
しぼりあげたるたがひのからだもはやきまゝになるみぞめ(トヨハシ 十々丸)」(六ウ)
知立 三リ卅丁
さむい色ても三河の綿はいれりやたがひに厚衾(赤坂 高田屋多津)
ぬしの気ひつがあらしじやゆへにすへはちりふのあださくら(二川 穂々丸)
あふてうれしく手にてをにぎりむねてうなづく馬の市(トヨハシ 茶楽斎)
せけんはれてのぬしや市の客ふかく御ゑんをつなぎ駒(タカハマ 詞睦)
池んきかする鯉ちのせたいつ?へたよりをまつ井鮒(チリフ 柳司)」(七オ)
うそとまことの文かきつばたひく手あまたの蜘手いと(タカハマ 湖月)
たとへ向ふは焼餅屋でもわしはたちよる水嚢蕎麦(ニイホリ しらはへ)
岡崎 一リ半七丁 岩津天神社 一リ半
直(すぐ)なわたしの岡崎紡車(つも)をまげて今さらきれるいと(常磐連)
矢作とふれは浄瑠璃姫のむかしがたりになきおとし(秋風)
軍(いくさ)みかけてやはぎのさとのこひも其?のできごゝろ(二川 穂々丸)」(七ウ)
粋にそひたひ神へのなぞでなにも岩津にたちし梅(近藤愛子)
ほれたおまへの美婦(ゑにようほ)山とうき名たつなら明大寺(みようだいし)(ヲカサキテンマ 尾張屋小松)
きてもあわゆきあはねばほんにうらみ升屋のうらざしき(ヲカサキ 版吉)
なごりをしさにいつあわ雪ときくも山葵のなみだごへ(岸吉)
岩にせかれし早瀬の水もすへはいつしか大屋川(ヲカサキテンマ 政野屋千代吉)」(八オ)
藤川 二リ十九丁
藤川のなかれつとめの身をせぎとめてはなれ舞木の渕となる(ミヲホノ 天重)
先のこゝろのむらさき麦としらて起証をかきつばた(トヨハシ 鳥声)
たとへ親御はおゑんま堂でもすへは衣文のいつしん寺(伝馬町 種源)
秋はせぬかとつひ気をもみぢしばしおかほも宮路(みやぢ)山(イハゲ 東陵)
赤坂 十六丁
こゝろ赤坂きをもみぢばのいろにいでゝもぬしのため(ナゴヤ じんかぎ)」(八ウ)
つきぬ咄しに夜はあかさかのそでもなみだにぬれたなか(クハコ 要人)
御油 二リ半四丁
うはき下御油せかれてあふせねかひかけまの鳥居さき(トヨハシ 一瓢)
あふも玉鮓とよかはさんへ願をかけまのもとりみち(ヲギハラ 秋風)
ぬしをいなりのねかひもとげていまじやうれしく●枳尼天(だぎにてん)(札木町 木原屋久吉)
耳は籠でももとめてみれば玉に鳥居のあらおまへ(平サカ 定吉)」(九オ)
豊橋 一リ半十二丁
おもひわたりし身はとよはしのながくうはきを通し樌(ぬき)(トヨハシ 広女)
音にきこえて身はとよはしにばつとうき名を揚花火(下地 一玉)
むかし雲井へ納めし豆のころもかけしも寺の伝(トヨハシ 茶楽斎)
二川 一リ廿一丁
かわひらしさに二川目もとそれと岩屋のぬれ仏(トヨハシ 松楽)
ふかいあさひの二川ながれせぶみしらずののぼり鮎(二川 琴月)」(九ウ)
故能和多橋
はしめのつゝき
よしこの東海道五十三次
みよし」(間紙)
国産
木綿
岡崎女郎衆
仝 紡錘
豊橋納豆
刈谷白魚
佐久崎海鼠揚
八帖味噌」(間紙)
新所 海上六リ
いまはうれしや新所をもちてくらすおまへとわたし舟(ヲカサキテンマ 宮川屋染松)
白須賀 一リ廿四丁
なさけ白須賀そのよしあしもつらや片葉のかたたより(ハマヽツ 嶋屋豆八)
おもひ高師のやまやまなれば鹿も音になく恋もする(タカス 眠霍)
人はしらすかとはおもへどもいつかうき名の高師山(下地 一二三)
荒井 海上一リ
あら井風をもいとひしぬしをしらぬ人手にわたし舟(札木町 菊岡君香)」(十オ)
浪風のあら井辛苦もいとはぬわたし人目の関所もやふれかけ(トヨハシ 雪舎)
あら井おまへにしんからほれてわたしやうなぎでのろくなる(ヲカサキ 麩屋長)
あら井だてすりやぬしやとろうなぎわたし舟こそあかはない(トヨハシ 山毛)
いろも香もあるまひさか海苔は麁朶(ひゞ)にはなれぬわたし舟(ニイホリ 花暁)
わたし舟にもつひ海苔かきてまいさかよき汐まつはかり(ヲカサキテンマ 松嶋屋栄)」(十ウ)
浜松 四リ八丁
萩の花つま引馬のつゆにみだれそめたるすり衣(岸舎)
浮名ばかりか立場とおもやそへぬふたりか中の町(トヨハシ 緑水)
見附 一リ十八丁
そこのつめたひ性根をわたしやちらと見附の浅黄足袋(下地 一二三)
ふかひたくみにこそかけたびとおもふ手事を見附宿(下地 一二三)
しのぶ見付の足袋かさなりてもはやこよひが三香野坂(ツヽミ 木綿舎)」(十一オ)
袋井 二リ十八丁
ふうじ袋井こゝろをこめてかよはすかしくの文だより(トヨハシ 松楽)
うき名いとへば状袋井も人目しのぶのすりもよふ(トヨハシ みそじ)
いのちあづけて起請はわしがまもり袋井いれてもつ(トヨハシ 酒好)
掛川 一リ廿九丁
なさけかけ川紐つけしたはほんにお客のくづばかま(トヨハシ 深流亭)
日坂 一リ廿九丁
妹かくちはにつひうまうまとくろてあぢないわらひ餅(二川 穂々丸)」(十一ウ)
人の手まへを曲物飴でうまくかさねてむすびたい(チリフ 露月)
そへぬふたりがこの中山をおもひ出しては夜泣石(ヲカサキ 松嶋屋玉)
いけんきかずに情立場茶やいまはたがいに夜泣石(ヲカサキ 種源)
ふかい中山せかれていまはみずに菊川このくろう(ヲカサキ伝マ 扇屋たつ)
金谷 一リ
ぬれて逢瀬のねかひが金谷ふかきそこひも大井川(ニイホリ 花暁)」(十二オ)
ねがひ金谷と思ふてゐるにさきのこゝろの大井川(ヲカサキ 俵山)
したり大井川恋路のやみにまよひはじめはほたるかり(古井 豊旭)
嶋田 二リ九丁
つらい苦界に身をなげ嶋田うかむ瀬をまつ大井川(雪舎)
藤枝 二リ廿九丁
かためかけてもゑん藤枝になりてくろうを作り鮫(一玉)
ながい藤枝松みにかゝり山葵やなきだす漬物屋(ニイホリ 花暁)」(十二ウ)
岡部 二リ九丁
来ては居つゝけ宇津谷峠はなれかたなき蔦かづら(緑水)
もはや三字を宇津谷峠道もなかなか十団子(伝馬町 有川楼雪)
鞠子 一リ半
こひもうすひもわしやしらまりこぬしにまかする色のいと(タカハマ 湖月)
とけつもつれつくろうをかさねまるくなりたる糸まりこ(みそじ)
せじでころばす阿部川ゆへにあひにお客がきなこもち(同 出たらめ)」(十三オ)
静岡 二リ廿七丁
あかせぶるまひするがの紙にやぶれかふれのなぶりがき(東陵)
冨士の山ほどうきなはたてどいつもつれなひ三保の松(黒主)
江尻 一リ三丁
せなと瀬名川たがひにやめていまはこゝろも清見かた(ナゴヤ かんかんや)
興津 二リ十二丁
客とまふとに出てなくなみだぬるゝ袖師の浦おもて(トヨハシ みそじ)
山のかみじやのさつたのなぞとぬしにはるみちてきたゆへ(同 山毛)」(十三ウ)
親も子しらず子も親しらずいつかさつたの山の神(トヨハシ 松楽)
恋のやみちの倉沢あわびはれていはれぬかたおもひ(アラ井 黒主)
つとめはなれて倉沢なれは小指や栄螺(さゞい)のつのであろ(伝馬町 種源)
あへぬかんばら由井たひことを興津みすぢになきあかす(ヲカサキテンマ 梅村屋染●)
由井 一リ
辛苦するがのわたしにむりをきてはいちいぢ由井なんす(イハツ 東陵)」(十四オ)
蒲原 二リ四丁
なにを塩はまわかれの宮とかんばらきばやにたゝしやんす(トヨハシ 文持)
吉原 三リ六丁
ほんにあいきよもよし原まくら寝かほやさしき冨士びたひ(トヨハシ 緑水)
首尾もよし原おもひもはれてふしのこげんに雪のはだ(トヨハシ 雪舎)
原 一リ
不二の雪ほどつむかんなんをとけずいぢもつぬしの原(ヲカサキ 俵山)
くろうするがのアノふじさんも見れはおもひのつもる雪(タカトリ 柳水)」(十四ウ)
親の手綱のきれたるうらは不二て野馬のはなしがひ(チリフ 柳司)
よわい足柄山いをおしてぬしをちからの関所こえ(ヲカサキ 彫孝)
沼津 一リ半
ともにうはきは千貫樋(とゆ)とちかひするがの国さかひ(ナコヤ長者町 小友)
三嶌 三リ廿八丁
月のいりくちまつよはふけて顔も三嶌のあけのかね(トヨハシ 緑水)
あふてはつゆめみしまのこよみうれしこよひの姫はしめ(トヨハシ 山毛)」(十五オ)
胸のふさがりはやあけのかたおかほみしまの巻暦(岸舎)
箱根 四リ八丁
あけてわかれりやはこねの矢竹すぐにこよひのふしをまつ(水鳥)
小田原 四リ八丁
小田原はかりてぬしやういろうや実がくすりにして見たい(岸舎)
大礒 廿七丁
はれてうれしくけふ大礒にこゝろせわしき化粧(けはひ)坂(二川 琴月)
かたくちきりてまた大礒に石をのこせし虎御前(ヲカサキテンマ 扇屋小やす)」(十五ウ)
平塚 二リ九丁
たまに大山気は石尊にしのぶ人目の前不動(ナゴヤ水?先 小牧歌子)
顔はひらつかおたふく助とそはせたいこの持あそび(トヨハシ 緑水)
藤沢 二リ
いろのゆかりの藤沢宿にたより江の嶌道がつく(ウノヤ 二本坊)
みがきあげたるみさほの鏡いまにくもらず照手姫(クハゴ 千枝)
戸塚 二リ九丁
そへにや命の境木なればとくとしやんせ科(しなの)坂(トヨハシ 鳥声)」(十六オ)
程谷 一リ九丁
もはや時刻もよいほどがやとむりにお客をひきて茶屋(トヨハシ 鎗安)
神奈川 一リ半
文字のかながはてにをはあはせかみにちかひのむすびぶみ(岸舎)
ぬしのこゝろか浦嶌寺やあけてはなせぬ玉手箱(ハマヽツ 嶋屋小しん)
川崎 二リ半
すゑを弘法大師とおもやさきの遍照(へんじよ)かきにくはぬ(東京ヤナギハシ 彫兼)
恋のいろはをならふたうへはぬしを大師にするこゝろ(ヲカサキテンマ 豊田屋小梅)」(十六ウ)
うその川崎万年茶漬うまひ手ごとのくはせかた(一二三)
しのび大森たがひにいまはすいな気あぢの梅ひしほ(一玉)
馬の鈴石またからすいしきひて八幡のあさまうで(ナコヤ みのやれい女)
品川 二リ一リ
四十七士の名も高輪にのこす忠義のかな手本(近藤愛子)
恋の仇討ほんもうとげてもはやうはきは泉岳寺(緑水)」(十七オ)
時も八ツ山よもやにくれてまちしたよりも浪の音(広女)
辛苦品川あまたの客にたえずこゝろを沖の石(同 雪舎)
ひらくあふきと不二さへ見ゆる国のかなめの日本はし(ヲカサキ すし貞)
五十三次よしへだつともこゝろ一時の伝信機(同 近藤愛子)
あきらかな御代のしるしの夜は瓦斯燈に見へてにぎわし日本はし(蚊雷居)」(十七ウ)
よしこの都々一はすへて恋情を常として作する多し余か著すところは勧懲文化を原となし恋九これにつくよつて此道の好風に作意を一変し出詠あれ遠からす官許を得て後編は木曽街道六十九次を出板す
編者白
明治十三年四月七日御届
同 年八月三十一日出版
編輯人  愛知県平民
     近藤巴太郎
     愛知県三河国額田郡
     康生町五十四番地
出板人  同県平民
     天野重助
     静岡県遠江国敷智郡
     紺屋町八十四番地」(裏見返し)