平家物語○剣巻

凡例
底本:『平家物語』校訂者 永井一孝。有朋堂書店(有朋堂文庫)。明治四十三年。流布本万治二年刊片仮名交り整版本。の巻首に有ります。緒言に「剣巻は原本には無けれども、流布本には載せたるが多ければ、之を巻首に附したり。」と有ります。
「剣巻」には、数種ありますが、これは、版本系で「太平記」や「源平盛衰記」などの版本の付録と同じ物です。冒頭に刀剣礼賛の序を有するのが特色です。
漢字や仮名の表記を一部変更しました。
底本になく、他本にある語句を〔 〕に入れました。


平家物語
○剣巻

沛公は貴坊の属鏤を伝へ、白蛇の霊を切り、天帝の名を出だすを得たり。始皇は、荊軻(けいか)の匕首を取つて、燕使の命を断ち、聖明の運を出だす事を全うす。凡そ白〓黄〓の徳、弓馬矢石の勢、五戈の計、四義の品、皆これ国を治むるの術、位を保つの基なり。尤も賞翫せらるべきは刀剣の類なり。抑々日本に多くの剣あり。所謂宝剣、十柄剣・鬚切・膝丸・小鴉なり。鬚切・膝丸と申す二つの剣の由来を尋ぬれば、人王五十六代の帝をば、清和天皇とぞ申しける。皇子余多まします。中にも第六の皇子をば貞純親王、御子経基六孫王、その嫡子多田満仲上野介、始めて源氏の姓を賜はつて、天下を守護すべきの由、勅宣をぞ蒙りてける。満仲宣ひけるは、「天下を守るべき者は、良き太刀を持たでは如何せん」とて、鉄を集め鍛冶を召し、太刀を作らせて見給ふに、心に称ふ太刀なかりけり。如何すべきと思はれける処に、或る者申す様、「筑前国三笠郡土山といふ処にこそ異朝より鉄の細工渡つて数年侯ふなれ。彼を召さるべく侯ふやらん」と申しければ、則ち彼を都に召し上せ、太刀を多く作らせて見給へども、一つも心に称はず。空しく下るべきにてぞありける。彼の鍛冶思ひけるは、「我筑紫より遙々と召されし甲斐もなく罷り下りなば、細工の名を失はんこそ心憂けれ。昔より今に至るまで、仏神に申す事の叶へばこそ祈祷といふ事もあるらめ」とて、八幡宮に詣でつつ、「帰命頂礼八幡大菩薩、願はくは意に称ふ剣作り出ださせてあたへ給へ。左様ならば大菩薩の御器と罷り成るべし」と、願書を進らせて至誠心にぞ祈りける。七日に満ずる夜の御示現に曰く、「汝が申す所不便なり。疾く罷り出でて六十日の際、鉄を鍛うて作れ。最上の剣二つ与ふべし」と分明に夢想ありけるが、細工悦びて社頭を出でにけり。その後よく金をわかし、鍛ひ撰びて六十日に作りたり。実に最上の剣二つ作り出だす。長さ二尺七寸、彼の漢の高祖の三尺の剣ともいひつべし。満仲大きに悦びて、二つの剣にて有罪の者を切らせて見給ふに、一つの剣は、鬚を加へて切りてければ、「鬚切」と名付けたり。一つをば膝を加へて切りければ、「膝丸」とぞ号しける。満仲、鬚切・膝丸二つの剣を持ちて天下を守護し給ひけるに、靡かぬ草木もなかりけり。かくて嫡子摂津守頼光の代となりて、なりて、不思議様々多かりけり。中にも一つの不思議には、天下に人多く失する事あり。死しても失せず。座敷に連なりて集り居たる中に、立つとも見えず、出づるとも見えずして掻き消す様にぞ失せにける。行末も知らず、在所も聞えずありければ、怖しといふばかりなし。上一人より下万民に至るまで、騒ぎ恐るる事申すに及ばず。これを委しく尋ぬれば、嵯峨天皇の御宇に、或る公卿の娘、余りに嫉妬深うして、貴船の社に詣でて七日籠りて申す様、「帰命頂礼貴船大明神、願はくは七日籠もりたる験には、我を生きながら鬼神に成してたび給へ。妬しと思ひつる女取り殺さん」とぞ祈りける。明神、哀れとや覚しけん、「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れ」と示現あり。女房悦びて都に帰り、人なき処にたて籠りて、長なる髪をば五つに分け五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて三つの足には松を燃やし、続松を拵へて両方に火を付けて口にくはへ、夜更け人定りて後、大和大路へ走り出で、南を指して行きければ、頭より五つの火燃え上り、眉太く、鉄〓(かねぐろ)にて、面赤く身も赤ければ、さながら鬼形に異ならずこれを見る人肝魂を失ひ、倒れ臥し、死なずといふ事なかりけり。斯の如くして宇治の河瀬に行きて、三七日漬りければ、貴船の社の計らひにて、生きながら鬼となりぬ。宇治の橋姫とはこれなるべし。さて妬しと思ふ女、そのゆかり、我をすさむ男の親類境界、上下をも撰ばず、男女をも嫌はず、思ふ様にぞ取り失ふ。男を取らんとては女に変じ、女を取らんとては男に変じて人を取る。京中の貴賤、申の時より下になりぬれば、人をも入れず、出づる事もなし。門を閉ぢてぞ侍りける。その頃摂津守頼光の内に、綱・公時・貞道・末武とて四天王を仕はれけり。中にも綱は四天王の随一なり。武蔵国の美田といふ所にて生れたりければ、美田源次とぞ申しける。一条大宮なる所に、頼光聊か用事ありければ、綱を使者に遣はさる。夜陰に及びければ鬚切を帯かせ、馬に乗せてぞ遣はしける。彼処に行きて尋ね、問答して帰りけるに、一条堀川の戻橋を渡りける時、東の爪に齢二十余りと見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、紅梅の打着に守懸け、佩帯(はいたい)の袖に経持ちて、人も具せず、只独り南へ向いてぞ行きける。綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、「やや、何地へおはする人ぞ。我らは五条わたりに侍り、頻りに夜深けて怖し。送りて給ひなんや」と馴々しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下り、「御馬に召され侯へ」と言ひければ、「悦しくこそ」と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乗らせて堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、正親町へ今一二段が程打ちも出でぬ所にて、この女房後へ見向きて申しけるは、「誠には五条わたりにはさしたる用も侯はず。我が住所(すみか)は都の外にて侯ふなり。それ迄送りて給ひなんや」と申しければ、「承り侯ひぬ。何く迄も御座所へ送り進らせ侯ふべし」と言ふを聞きて、やがて厳しかりし姿を変へて、怖しげなる鬼になりて、「いざ、我が行く処は愛宕山ぞ」と言ふままに、綱がもとどりを掴みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。綱は少しも騒がず件の鬚切をさつと抜き、空様に鬼が手をふつと切る。綱は北野の社の廻廊の星の上にどうと落つ。鬼は手を切られながら愛宕へぞ飛び行く。さて綱は廻廊より跳り下りて、もとどりに付きたる鬼が手を取りて見れば、雪の貌に引替へて、黒き事限りなし。白毛隙なく生ひ繁り銀の針を立てたるが如くなり。これを持ちて参りたりければ、頼光大きに驚き給ひ、不思議の事なりと思ひ給ひ、「晴明を召せ」とて、播磨守安倍晴明を召して、「如何あるべき」と問ひければ、「綱は七日の暇を賜りて慎むべし。鬼が手をば能く能く封じ置き給ふべし。祈祷には仁王経を講読せらるべし」と申しければ、そのままにぞ行なはれける。既に六日と申しけるたそがれ時に、綱が宿所の門を敲く。「何くより」と尋ぬれば、「綱が養母、渡辺にありけるが上りたり」とぞ答へける。彼の養母と申すは、綱が為には伯母なり。人して言ふは、悪しき様に心得給ふ事もやとて、門の際まで立出でて、「適々の御上りにて侯へども、七日の物忌にて候ふが、今日は六日になりぬ。明日ばかりは如何なる事候ふとも叶ふまじ。宿を召され候ふべし。明後日になりなば、入れ参らせ候ふべし」と申しければ、母はこれを聞きてさめざめと打泣きて、「力及ばぬ事どもなり。さりながら、和殿を母が生み落ししより請取りて、養ひそだてし志いかばかりと思ふらん。夜とて安く寝ねもせず。濡れたる所に我は臥し、乾ける所に和殿を置き、四つや五つになるまでは、荒き風にも当てじとして、いつか我が子の成長して、人に勝れて好からん事を見ばや、聞かばやと思ひつつ、夜昼願ひし甲斐ありて、摂津守殿御内には、美田源次といひつれば、肩を並ぶる者もなし。上にも下にも誉められぬれば、悦(よろこび)とのみこそ思ひつれ都鄙遼遠の路なれば、常に上る事もなし。見ばや見えばやと、恋しと思ふこそ親子の中の欺きなれ。この程打ち続き夢見も悪しく侍れば、覚束なく思はれて、渡辺より上りたれども、門の内へも入れられず。親とも思はれぬ我が身の、子と恋しきこそはかなけれ」綱は道理に責められて門を開きて入れにけり。母は悦びて来し方行く末の物語し、「さて七日の斎と言ひつるは何事にてありけるぞ」と問ひければ、隠すべき事ならねばありの儘にぞ語りける。母これを聞き、「扨は重き慎みにてありけるぞや。左程の事とも知らず恨みけるこそ悔しけれ。さりながら親は守りにてあるなれば別の事はよもあらじ。鬼の手といふなるは何なる物にてあるやらん、見ばや」とこそ申されけれ。綱、答へて曰く、「安き事にて侯へども、固く封じて侍れば、七日過ぎでは叶ふまじ、明日暮れて侯はば見参に入れ侯ふべし」母の曰く、「よしよし、さては見ずとても事の欠くべき事ならず。我は又この暁は夜をこめて下るべし」と恨み顔に見えければ、封じたりつる鬼の手を取り出だし、養母の前にぞ置きたりける。母、打返し打返しこれを見て、「あな怖しや。鬼の手といふ物はかかる物にてありけるや」と言ひてさし置く様にて、立ちざまに「これは我が手なれば取るぞよ」と言ふままに恐ろしげなる鬼になりて、空に上りて破風の下を蹴破りて虚に光りて失せにけり、それよりして渡辺党の屋造りには破風を立てず、東屋作りにするとかや。綱は鬼に手を取返されて、七日の斎破るといふとも、仁王経の力に依て別の子細なかりけり。この鬚切をば鬼の手切りて後、「鬼丸」と改名す。同年の夏の頃、頼光瘧病を仕出だし、如何に落せども落ちず。後には毎日に発りけり。発りぬれば頭痛く、身ほとぼり、天にもつかず地にもつかず、中にうかれて悩まれけりか様に逼迫する事三十余日にぞ及びける。或る時又大事に発りて、少し減に付きて醒方になりければ、四天王の者ども看病しけるも、皆閑所に入りて休みけり。頼光少し夜更け方の事なれば、幽かなる燭の影より、長七尺ばかりなる法師するすると歩み寄りて、縄をさばきて頼光に付けんとす。頼光これに驚きて、がばと起き、「何者なれば頼光に縄をば付けんとするぞ。悪き奴かな」とて、枕に立て置かれたる膝丸おつ取りて、はたと切る四天王ども聞きつけて、我も我もと走り寄り、「何事にて候ふ」と申しければ、しかじかとぞ宣ひける。灯台の下を見ければ血こぼれたり。手々に火を炬して見れば、妻戸より簀子へ血こぼれけり。これを追ひ行く程に、北野の後に大きなる塚あり。彼の塚へ入りたりければ、即ち塚を掘り崩して見る程に、四尺ばかりなる山蜘蛛にてぞありける。搦めて参りたりければ、頼光「安からざる事かな。これ程の奴に誑かされ、三十余日悩まさるるこそ不思議なれ。大路に曝すべし」とて、鉄の串に刺し河原に立ててぞ置きける。これより膝丸をば「蜘蛛切」とぞ号しける。頼光の代より出羽守頼基の手に渡る。天喜五年、頼光の弟河内守頼信の嫡子伊予守頼義、奥州の住人栗屋河次郎安倍貞任〔舎弟〕鳥海三郎同じく宗任兄弟謀反の由、その聞えありければ、彼の討手に下さるる時、兼陸奥守になし源氏重代の剣、鬼丸・蜘蛛切、頼基が許にありけるを宣旨にて召し出だされ、頼義朝臣に賜ひてけり、頼基の曰く、「この剣は祖父多田満仲より三代相伝の宝なり、嫡々相承の剣にて候へば、争でか身をば、放し候ふべき」と申しけれども、御用ひ無ければ、力及ばず出だしけり。頼義これを賜はりて奥州に下向し、九箇年が間戦ひつつ終に軍に打勝ち、貞任をば首を取り、宗任をば虜りて上洛す。貞任が長九尺五寸、宗任は遥かに劣りて六尺四寸ぞありける。頼義の宿所にありけるを、卿相雲客達、「吾妻の夷、さこそはをかしく侍らめ、いざ行きて笑はん」とて梅花を一枝手折りて、「宗任、これは如何に」と問ひければ、宗任取りあへず、
我が国の梅の花とは見たれども大宮人はいかが言ふらん
と申したりければ、皆しらけてぞ帰りける。さて宗任は筑紫へ流されたりけるが、子孫繁昌して今にあり。松浦党とはこれなり。鬼丸、蜘蛛切二つの剣をば頼義朝臣より嫡子八幡太郎義家に譲りけりここに出羽の国山北金沢城に楯籠りたる武衡・宗衡謀反の由聞えければ、国中の乱を鎮めん為に義家馳せ向ふ。猛き兵なりければ左右なく落ちず。三箇年に滅びにけり。頼義の九箇年の戦と、義家の三年の軍を合はせて、十二年の合戦とは申すなり。何れも剣の徳に依りて敵をば取りてけり。義家子共多くありけれども、嫡子対馬守義親は、出雲国にて謀反の聞えあるに依りて、因幡守正盛を追討の使に下されて、彼の国にて討たれぬ。二男河内判官義忠・三男式部大輔義国、これらにも譲らず。四男六条判官為義譲り得たり、十四の年伯父美濃守義綱謀反の由風聞す。為義討手にぞ下りける。義綱は甥の為義向ふと聞きて、髻切り降に出でて上洛す。これも剣の用とぞ覚えける。又十八歳にて南都の衆徒朝家を恨み奉りて、数万人の大勢京へ攻め上りしを、為義十六騎にて栗子山に馳せ向ひ、追ひ返す。同じく剣の用とぞ聞えける。その時山法師一首の狂歌をぞ立てたりける。
奈良法師栗子山までしぶりきていか物の具をむきぞ取らるる
と読みたりければ、奈良法師安からぬ事にして、いかにもこの答読み返さんとうちやすらふ処に、阿波上座といふ者に謀られて、山法師禁獄せらる。奈良法師、栗子山の答にぞ読みたりける。
比叡法師あはの上座にはかられて緊しき獄につがれけるかな
とぞ読みたりける。さて為義は十四にて伯父を虜にせし勧賞に、左近将監になされ、十八にて南都の衆徒を防ぎし恩忠に兵衛尉になさる。二十八にて左衛門三十九にて検非違使になる。その後陸奥を望み申しければ、「為義が為には不吉なり。祖父頼義は九箇年の合戦し、親父義家は三箇年の軍をす。なほ意趣残る国なりけり。為義国司になりなば、又国の狼籍出来せん。他国を賜はらん」と仰せありければ、「先祖の国を賜はざる者、受領しても何かせん」とて、終に受領せざりけり。為義は腹々に男女四十六人あり、熊野にも女房あり。娘をばたつたはらの女房とぞ申しける。白河院熊野御参詣の時、「この山には別当ありや」と御尋ねありけるに、「いまだ候はず」と申しければ、争でかさる事あるべきとて、別当の器を尋ねらる。ここにうい党、すずきの党と申すは、権現、摩伽陀国より我が朝へ飛渡り給ひし時、左右の翅となりて渡りたりし者なり。これに依て熊野をば我がままに管領して、又人なくぞ振舞ひける。折しも権現の御前に花供へて籠りたる山臥を別当になすべき由、すずき計らひ申しければ、「我が身その器量足らず」とて、教真別当の始めなり。「別当は重代すべき者なり。聖にて叶ふべからず。妻を合はせよ」とて、誰かはあるべきと尋ぬるに、為義が娘たつたはらの女房よかるべしとて、教真にぞ合はせける。為義伝へ聞きて曰く、「為義が婿には源平両家の間に弓箭に携はりて秀でたらん者をこそと思ひつるに、諸寺・諸山の別当執行といふ事は、好きもあり悪しきもあり、行徳群に抜けぬれば、左様の官にも職にもなるとこそ聞け。行末もしらぬ者に押へて合はすらんこそ不思議なれ」とて、音信不通し、不孝の娘にてぞありける。抑々為義が伝へ持ちたる二つの剣終夜吼ゆ。鬼丸吼えたる音は獅子の音に似たり。蜘蛛切が吠えたる音は蛇の泣くに似たり。故に鬼丸をば、「獅子の子」と改名し、蜘蛛切をば「吼丸」とぞ号しける。かかる処に源平たて分けて合戦あるべき由聞えたり。洛中騒動斜ならず。如何なる遠国深山の奥までも聞えずといふ事なかりけり。教真別当これを聞きて、「我が身は不孝の者なれども、かからん時力をも合はせてこそ、不孝も赦さるべけれ」とて、常住の客僧、山内の悪党等上下を嫌はず、催し立てて、一万余騎の勢にて都に上りけり。人々是を見て、「これはいかなる人やらん。和泉・紀伊国の間にはか様の大名あるべしとも覚えず」とて、委しくこれを尋ぬれば、為義の婿熊野の別当教真なり。舅の方人の為にとて上りたる由言ひければ、為義もこれを聞きて、「氏、種姓は知らねども、甲斐甲斐しき者なりけり。如何なる人の一門ぞ」と尋ぬれば、「実方中将の末孫なり」と申しければ、「さては為義が下すべき人には非ざりけり。今まで対面せざりけるこそ愚かなれ」とて、請じ寄せ、始めて対面す。志の余りにや、重代一具の剣を取分けて、吼丸を婿〔の〕引出物にぞしたりける。教真別当この剣を得て、「これは源氏重代の剣なり。教真が持つべきに非ず」とて、権現に進らせけり。さて為義一具に持ちたりける剣を一つ失ひて、片手のなき様に覚えければ、播磨国より好き鍛冶を召し上せ、獅子の子を本にして、少しも違へず造らる。最上の剣なりければ、悦び給ふ事限りなし。目貫に烏を作り入れたれば、「小烏」とぞ名づけたる。為義は獅子の子・小烏とて一具〔に〕して秘蔵しけるが、今の小烏、二分ばかり長かりけり。或る時二つの剣を抜きて、障子に寄せ懸けて置かれたりけるが、人もさはらぬに、からからと倒るる音聞えければ、「如何に、剣こそ転びぬれ。損じやしつらん」とて、取寄せて見給へば、日来は二分ばかり長しと思ひつる小烏が、獅子の子と同じ様にぞなりにける。「不思議かな。さるべき様やある。斬れたるか、折れたるか」とて、先を見れども、斬れも折れもせざりけり。怪しみて柄を見るに目貫折れて無かりけり。抜きてこれを見れば、柄の中二分許り新しく切りて、目貫を突き抜きてさがりたりと見えたり。これは、一定獅子の子が切りたるよと心得て、獅子の子を改名して「友切」と名づけたり。その後、「我年蘭け、齢衰へたり。今は剣持ちて何かせん」とて、彼の友切・小烏、二つの剣を嫡子下野守義朝にぞ譲られける。かかりし程に保元の合戦出で来たり。義朝は内裏へ召され、為義は院の御所へ召され、子ども六人相具して院の御所へぞ参りける。保元の年七月十一日寅の刻に軍始まりて、辰の時には軍はててけり。只三時に軍破れて新院負け給ふ。その時為義は、天台山に馳せ登り、出家し、義法房とぞ名付けにける。子なればよも見放たじとて、義朝が許へ下りたりけれども、朝敵なれば叶はず、頓て義朝承りて切りにしこそ無慙なれ。義朝、保元の勧賞には左馬頭になりにけり。舎弟六人召し出だされ、五人は切られぬ。為朝一人は落ちたりけるが、程を経て九州田根といふ処より召し出だされて、伊豆国へ流されけり。終にはこれも斬られにけり。子ども四人も斬られぬ。義朝ばかり残りたりけれども、平治元年に悪右衛門督信頼に語らはれて謀反を起し、子ども多く持ちたりしかども、三男右兵衛佐頼朝とて十三になりけるを末代の大将とや見給ひけん、殊に玩ばれ、生絹といふ鎧を着せ、友切といふ剣帯かせ、先に打立ててけり。されども朝敵なればにや、軍に打負けて、義朝は都を落ちて西近江比良といふ所に留まりて、終夜八幡大菩薩をぞ恨み奉りける。「昔はこの剣を以て敵を攻めしに、靡かぬ木草も無かりしに、世の末になりて剣の精も失せぬるにや。大菩薩も捨てさせ給ひたるか。これ程に軍にもろく負くべしとこそ覚えね。義朝が祖父義家は八幡大菩薩の御子として、八幡太郎と名を得たり。七代までは争でか捨て給ふべき。義朝までは三代なり」とて、まどろみたる御示現に曰く、「我、汝を棄つるに非ず。持つ所の友切といふ剣は、満仲が時俄かに与へし剣なり。鬚切・膝丸とて始めの任(まま)にてあらば、剣の用も失すまじきを、次第に名を付け替ふるに依りて、剣の精も弱きなり。ことさら友切といふ名を附けられて、敵をば随へずして友切りとなりたるなり。保元に為義が斬られ、子ども皆滅ぼされしも、友切といふ名の故なり。今般軍に負けしも友切といふ剣の名の科なれば、全く我を恨むべからず。昔の名に返したらば末は〔頼みも〕あるべし」と分明に御示現ありければ、義朝、覚めて誠に浅ましくぞ覚えける。「この事を承るに、悪しく付けられたりける物かな。さては昔に返すべし」とて、「鬚切」とぞなされにける。さて比良を立ちて高島を通りけるに、頼朝、馬眠りして父に追ひ遅れたり。その辺の者ども七八十人馳せ合はせて虜らんとしたりけるに、頼朝打ち驚きて鬚切を抜きて打ち払ひければ、疵を被る者もあり、又死する者も多かりけり。鬚切に帰る験とぞ覚えける。その夜は塩津庄司が許に宿して、夜半ばかりに道しるべを得て東江州へ移りにけり。藤川、不破の関も塞りて、京より討手の下ると聞えければ、義朝は雪の山に分け入りにけり。頼朝は幼き身なれば大雪を分け難くて山口に留まりにけり。悪源太は独り離れて飛騨国へ落ちぬ。義朝は朝長ばかりを相具して、美濃国青墓の遊君が許に留まりて、浦伝ひして尾張国野間の内海の住人長田庄司忠致が宿にして、平治二年正月一日の早朝に主従二人討たれにけり。忠致は義朝の郎従正清が舅なり。相伝の主と婿とを討ちて、世にあらんと思ふこそうたてけれ。忠致は主従二人の首と、小烏といふ太刀とをば都に上せ、平家の見参に入れてけり。兵衛佐頼朝は、山口に棄てられたりしが、東近江草野庄司といふ者に扶けられおはしまし、天井に隠れ居たりし程に、頼朝幼けれども賢き人なりければ、熟々案じけるは、「我、隠れ居てありとも始終はあらはれなん。身こそはさて果つとも、源氏重代の剣を平家に取られん事こそ心憂けれ。如何にしてか隠すべき」と思ひつつ、庄司に語りて曰く、「この日来養はれ奉るも前世の事にこそ侍らめ、今は一向親方と憑むなり。尾張の熱田の大官司は、頼朝が為には母方の祖父なり。それまでこの太刀を持ちて下り、申さるべき様は、頼朝はしかじかの所に深く忍びて候へども、終には遁るべきに非ず。縦ひ頼朝こそ殺さるるとも、この太刀失はじと存じ侯。然るべくは、熱田の社に進らせ置きてたび侯へ」と宣へば、庄司尾張に下り、大宮司にこの由を申しければ、即ち宝殿に納めてけり。さる程に、清盛の舎弟三河守頼盛は、平治の合戦の勧賞に尾張守になりにけり。然る間、侍の中に弥平兵衛宗清、目代にて下りたりけるが、上洛の時、兵衛佐隠れておはしけるを聞き付けて、さがし取りて上りにけり。頓て宗清預りにけり。死罪に行なはるべかりしを、池尼御前の手に申し請けて、伊豆の北条蛭小島へぞ流されける。二十一年経て、三十四と申しける治承四年夏の頃、高倉宮の令旨並びに一院の宣旨を賜はりて、謀反を発されける時、熱田の社に籠められし鬚切を申し出だして帯しけり。さてこそ日本五畿七道をば打ちしたがへ給ひけれ。平治の合戦の時、常盤腹の子、童名は牛若、当歳にてありしが、九つの年鞍馬寺の一和尚東光坊阿閣梨円忍が弟子覚円坊阿閣梨円乗に随ひて学問し、後には舎那王とぞ申しける。十六と申しける承安四年の春の頃、五条の橘次末春といふ金商人に相具して東国へ下りける道にて、自ら男になりて九郎源義経と名乗る。奥州の権太郎秀衡に対面す。かくて暫く徘徊せし程に、兵衛佐の謀反の企てと聞えければ、義経悦び馳せ上る。金沢といふ所にて兄に見参す。昔今の物語し、互ひに悦び給ふ事斜ならず。信濃国の住人木曾冠者義仲、これも高倉宮の令旨を賜はりて謀反を起す間、信濃・上野を始めとして、北陸道七箇国打ち靡かし、都に上りて、平家を攻め落して、天下を我が儘にする間、今は院の御所法住寺殿に押寄せて、月卿雲客に所もおかず、合戦して放火し焼き払ふ。しかのみならず院をも五条の内裏に押籠め参らせて、公卿殿上人をも官職を留めて追籠めらる。これに依て公家より関東に御使ありて、事の子細を仰せらるる間、兵衛佐大いに驚き、舎弟蒲の冠者範頼・九郎冠者義経を大将として六万余騎を差し上す。元暦元年正月二十日都に入る。木曾左馬頭を攻め落して、大津の粟津にて首を取る。その後平家追討の為に、摂津国一の谷に発向する処に、熊野別当教真が子息五人をば、本宮・新宮・那智・若田・田辺五箇所に分けて置く。「この中に、何れも長じたらん者を別当を継がすべし」と遺言したりけるが、その頃は田辺の湛増長じたりければ、別当にてぞありける。湛増別当申しけるは、「源氏は我等が母方なり。源氏の代とならん事こそ悦ばしけれ。兵衛佐頼朝も湛増が為には親しきぞかし。その弟範頼・義経、佐殿の代官にて木曾追討し、平家攻めに下らるる由、その聞えあり。源氏重代の剣、本は膝丸、蛛切、今は吼丸とて、為義の手より教真得て権現に進らせたりしを、申し請けて源氏に与へ、平家を討たせん」とて、権現に申し賜ひて都に上り、九郎義経に渡してけり。義経特に悦びて「薄緑」と改名す。その故は、熊野より春の山を分けて出でたり。夏山は緑も深く、春は薄かるらん。されば春の山を分け出でたれば、薄緑と名付けたり。この剣を得てより、日来は平家に随ひたりつる山陰・山陽の輩、南海・西海の兵ども、源氏に付くこそ不思議なれ。二月三日、源氏は都を出でて一の谷に向ふ。軍兵を二手に分けて、範頼大将軍にて五万余騎、摂津国より押寄せ、後詰の大将軍義経、三草山より発向す。大手・搦手同心に、七日の卯の時より巳の時に至るまで散々に戦ふ。源氏軍に打勝ちて、平家は懸け負け、思ひ思ひに落ちにけり。平家〔の〕大将軍越前三位通盛以下八人まで討たれけり。同十三日、首ども大路を渡して獄門の木に懸く。その恩賞には、八月六日に九郎御曹司、左衛門尉になり、頓て院の宣旨を蒙りて五位尉にとどまる。太夫判官とぞ申しける。蒲の御曹司範頼は三河守になされけり。同二年二月十一日に、又平家攻めに渡らんとて、渡部・神崎にて船揃へをしける時、九郎判官と梶原平三と、船に逆櫓立てう立てじの口論して、仲不和になりにけり。されども義経は大風にも恐れずして、僅かに船五十艘に取乗りて五十余騎にて馳せ渡る。梶原はこの意趣にやありけん、大風にや恐れけん、翌日にぞ渡しける。義経は案内者をしるべにて屋島の館を焼き払ふに、三月二十二日には、長門国赤間関に馳せ向ふ。範頼は九国の軍兵を相具して、豊前国門司の関に向ひ、平家を中に取り籠めて互に限りとぞ戦ひける。終に平家攻め落されて、先帝をば二位殿負ひまゐらせて海に入らせ給ひけり。前の内大臣殿以下三十八人は虜られけり。判官殿、在々所々にて多くの戦ひしけれども、一所も創(きず)を被らず、毎度の軍に打勝ちて、日本国に名を揚げし事も、只この剣の力なり。義経、南海・西海を討ちふせ、平家の虜ども相具して、三種の神器もろともに都へ帰し入れ奉りけり。但し三種の神器の内宝剣は失せにけり。内侍所と神璽とばかり上らせ給ふ。抑々帝王の御宝に神璽・宝剣・内侍所とて三つあり。凡そ神璽と申すは、神代より伝はりて代々の御帝の御守にて験の箱に納めけり。この箱開く事なく、見る人もなし。これに依て後冷泉院の御時、如何思しけん、この箱を開かんとて蓋を取り給ひしに、忽ちに箱より白雲立登り給ひけり。良ありて雲は元のごとく返り入らせ給ひぬ。紀伊内侍蓋覆うてからげ納め奉る。「日本は小国なりといへども、大国にまさる事はこれなり」とぞ申しける。一天の君万乗の主だにも御心に任せずして御覧ぜられぬ物なれば、まして凡人いふべきに非ず。況や凡下に於てをや。神璽とは神の印(おして)といふ文字なり。神の印(おして)といふは、如何なる子細にて帝王の御宝とはなるやらん、覚束なし。委しくこれを尋ぬれば、我が朝の起りより出でたり。天神七代の初め、国常立尊「この下に国無からんや」とて、天〓矛(あめのぬぼこ)を降して大海の底を捜り給ふに、国なければ矛を引き上げ給ひけるに、矛の滴落ち留まり、凝りかたまり、島となりにけり。吾が朝の出で来るべき前表にて、大海の浪の上に「大日」といふ文字浮べり。文字の上に矛の〓留(したた)りて島となるが故に、大日本国と名付けたり。淡路国はこれ日本の始めなり。国常立尊より三代は、男の姿のみ顕れて女の姿はなし。第四代の泥土〓尊より第六代の面足尊まで三代は、男女の姿これなりといへども、夫婦婚合の義は無かりけり。第七の伊〓諾・伊〓冊尊、淡路国に下りて男女婚合あらはれり。山石草木をうゑ給へり。大八島の国を造り、次に国の数を造り、又、世の主無からんやとて、一女三男を生み給ふ。所謂、日神・月神・蛭子・素盞鳴尊なり。日神と申すは、伊勢大神宮、天照大神これなり。月神と申すは、月読尊、高野丹生大明神と号す。蛭子は三年まで足立たぬ尊にておはしければ、天石〓樟船に乗せ奉り、大海が原に押し出だして流され給ひしが、摂津国に流れ寄りて海を領ずる神となりて、夷三郎殿と顕れ給ひて、西宮におはします。素盞鳴尊は、御意荒しとて出雲国に流され、後には大社となり給へり。さて、伊〓詰・伊〓冊尊は、国をば天照大神に譲り、山をば月読命に奉り、海をば蛭子領じ給へり。素盞鳴尊は、「分領なし」とて、御兄達と度々合戦に及ぶ。これに依て不孝せられて雲州へぞ流されける。さて、天照大神は日本を譲り得給ひながら、心の任(まま)にも進退せず。第六天の魔王と申すは、他化自在天に住して、欲界の六天を我が儘に領ぜり。然も今の日本国は六天の下なり。「我が領内なれば、我こそ進退すべき処に、この国は大日といふ文字の上に出で来る島なれば、仏法繁昌の地なるべし。これよりして人皆生死を離るべしと見えたり。されば此には人をも住ませず、仏法をも弘めずして、偏に我が私領とせん」とて免さずありければ、天照大神、力及ばせ給はで、三十一万五千載をぞ経給ひける。譲りをば請けながら星霜積りければ、大神、魔王に逢ひ給ひて曰く、「然るべくは、日本国を譲りの任(まま)に免し給はば、仏法をも弘めず僧・法をも近付けじ」とありければ、魔王心解けて、「左様に仏法僧を近付けじと仰せらる。とくとく奉る」とて、日本を始めて赦し与へし時、「手験に」とて印を奉りけり。今の神璽とはこれなり。次に宝剣と申すは、神代より伝はれる霊剣二つありと見えたり、天叢雲剣・天のはば切の剣なり。天の叢雲剣は、代々帝の御守即ち宝剣これなり。天武天皇の御宇朱鳥元年六月に尾張国熱田の社に籠められたり。また天のはば切の剣は本は十柄の剣と申ししが、大蛇を斬りて後は、天のはば切の剣と号す。大蛇の尾の名をはばといふ故なり。をろちとも名づく。彼の剣、後には大和国石上布留の社に納まれり。昔、素盞鳴尊は、出雲国におはしける時、彼の国の簸の川上の山に大蛇あり。尾・首共に八つあり。八つの尾八つの谷に蔓れり。眼は日月の如し。背には苔むして諸の木草生ひたり。年々人を呑む。親を呑まれては子悲しみ、子を呑まれては親悲しむ。村南村北に哭する声絶えず。国中の人種皆取り失はれて、今は山神の夫婦手摩乳・脚摩乳ばかり残れり。一人の娘あり。稲田姫と名付けて生年八歳なり。これを中に置きつつ、泣き悲しむ事限りなし。尊燐み給ひて、由を如何にと問ひ給ふ。手摩乳答へて曰く、「我に最愛の娘あり。稲田姫と申すを、今夜八岐の大蛇の為に呑まれん事を悲しむなり」と申しければ、尊、不便に思し召し、「娘を我に得させば、大蛇を討ちてとらせん事は如何に」と宣へば、手摩乳・脚摩乳大いに悦ぶ色見えて、「大蛇をだにも討ち給はば、娘を進らせ候ふべし」と申しければ、尊、大蛇を討ち給ふべき謀をぞ為し給ひける。床を高く掻き、稲田姫を厳しげに装束させて、〓(かづら)に湯津爪櫛を差して立てられたり。四方には火を焼き廻らして、火より外に甕に酒を入れて八方に置く。夜半に及びて八岐大蛇来りつつ、稲田姫を呑まんとするに、床の上にありと見れども四方に火を焼き廻らしたれば、寄るべき様なかりけり。時移るまで能く見れば、稲田姫の影甕の酒に映り見えたりけり。大蛇これをよろこび、八つの甕に八つの頭を打ち漬して、飽くまで酒を飲みてけり。余りに飲み酔ひて、前後も知らず臥したりける。尊、剣を抜き持ちて大蛇を寸々に切り給ふ。その八つの尾に至りて剣のかかはる処あり。怪しみてこれを見給へば、剣の刃白みたり。尾を裂きのけてこれを見るに、〔中に〕一つの剣あり。「これ最上の剣なり」とて、天照大神に奉る。天叢雲剣と名づく。この剣、大蛇の尾にありし時、黒雲常に覆ふ。故に天叢雲剣と名付けたり。この大蛇は尾より風を出だし、頭より雨を降らす。風水龍王の天降りけるなり。手摩乳は姫の助かりたる事を喜び、尊を婿に取り奉る時、円さ三尺六寸の鏡を引出物に奉る。稲田姫、尊に参りし時、〓(かづら)に差しし湯津爪櫛を後様に投げて、始めて尊に参り給ふ。別れの櫛とはこれなり。尊は出雲国に宮作りして稲田姫を妻室とし婚合し給へり。兄達と不和の事悪しくや思し召されけん、蛇の尾より取り出でたる天叢雲剣、並びに天のはば切の剣、手摩乳が婿〔の〕引出物の鏡、以上三種を天照大神に奉りて、不孝は赦され給へり。彼の婿〔の〕引出物の鏡は、今の内侍所これなり。人皇第四代の帝〓徳天皇の御時、天より三つの鏡降れり。その内一つは婿〔の〕引出物の鏡なり。二つには天照大神の天の岩戸に閉ぢ籠らせ給ひし時、我が形を鋳移し留めて、「子孫この鏡を見ては我を見るが如くに思へ」とて、摸(も)し給へる鏡なり。始め鋳給へるはちひさしとて、又鋳直し給へり。始めの御鏡は、紀伊国の日前宮と祝はれ給へり。後の御鏡は、伊勢国蓋見の浦に一里ばかりの沖に岩に副うて御座すが、塩の満つる時は岩の上にあがり、塩の干る時はさがりて岩に副うておはします。海のなぎたる時は船にておし渡りて、先達ありて拝むなり。婿〔の〕引出物の鏡は内侍所なり。帝の御守にて大内に御座すを、第十代の帝崇神天皇の御時、同殿然るべからずとて、殿を作り、鏡を鋳て、新しきを御守とし、古きをば天照大神に返し参らせ給ひけり。鋳移し給ふ御鏡も、作り替へられたる宝剣も、霊験は少しも劣り給はず。然るに十二代の帝景行天皇四十年の夏、東夷多く御政を背きて関東静まらず。帝の第二の皇子日本武尊、御心も猛く御力も勝れておはしければ、彼の皇子を遣はして平げしに、同年冬十月に道に出でて、先づ大神宮に参り給ふやまと姫の尊をして、天皇の命に随ひて東攻めに赴く由を申されたりければ、崇神天皇の時返し置かるる天叢雲剣を出だし給ふ。日本武尊これを帯して東国に下り給ふに、道に不思議あり。出雲国にて素盞鳴尊に害せられたりし八岐大蛇天降り、無体に命を失はれ、剣を奪はれし憤り散ぜず、今日本武尊の帯して東国に赴き給ふを、せき留めて奪ひ返さんその為に、毒蛇となりて不破の関の大路を伏し塞ぎたり。尊、事ともし給はず、躍り越えてぞ通られける。尾張国に下りて、松子の島といふ所に、源大夫といふ者の家に泊り給へり。大夫に娘あり。名を岩戸姫といひけり。眉目貌好かりければ、尊これを召して幸し給ふ。一夜の契り深くして互に志浅からず。かくてもあらまほしく思し召しけれども、夷を攻めに下る者が女に付きて留まらん事悪しかりなんと思はれければ、帰らん時又と憑みて、頓て打出で給ひけり。駿河国富士の裾野に到る。その国の凶徒、「この野に鹿多く侯。狩して遊ばせ給へ」と申しければ、尊即ち出で〔て〕遊び給ふに、凶徒等野に火を着けて尊を焼き殺し奉らんとしける時、帯き給へる天叢雲剣を抜きて草を薙ぎ給ふに、苅草に火付きて劫かしたりけるに、尊は火石・水石とて二つの石を持ち給へるが、先づ水石を投げ懸け給ひたりければ、即ち石より水出でて消えてけり。又火石を投げ懸け給ひければ、石中より火出でて凶徒多く焼け死にけり。それよりしてぞその野をば、天の焼けそめ野とぞ名付けける。叢雲剣をば草薙剣とぞ申しける。尊、振り捨て給ひし岩戸姫の事忘れがたく心に懸りければ、山復(かさ)なり、江復(かさ)なるといふとも志の由を彼の姫に知らせんとて、火石・水石の二つの石を、駿河の富士の裾野より、尾張の松子の島へこそ投げられけれ。彼の所の紀大夫といふ者の作れる田の北の耳に火石は落ち、南の耳に水石は落つ。二つの石留まる夜、紀大夫の作りける田、一夜が内に森となりて、多くの木生ひ繁りたり。火石の落ちける北の方には、如何なる洪水にも水出づる事なく、水石の落ちたる南の方には、何たる旱魃にも水絶ゆる事なし。これ火石・水石の験なり。尊はこれより奥へ入り給ひて、国々の凶徒を平げ、所々の悪神を鎮め、同五十三年尾張へ帰り、又岩戸姫に幸ひし給へり。さてしもはつべき事ならねば、都へ上り給ひけるに、「草薙剣をば紀念〔と〕せよ」とて、岩戸姫に渡し給ひしを、「我、女の身なれば、剣持ちて何か〔は〕せん。只持ちて上り給へ」と申されければ、「存ずる旨あり」とて、桑の枝に懸けて、尊は上り給ひにけり。さる程に、八岐の大蛇、伊吹大明神は、尊に跳り越えられてえ留めぬ事を本意なく思ひて、前よりも尚大きに高く顕れて大路を塞ぎ給へり。尊は猶も事ともし給はず。走り越えて通り給ひけるに、引き給ひける足の先、大蛇にちとさはりたりければ、それより頓てほとぼり上りて、五体身心忍びがたく、打臥しぬべくおぼせども、心強におはしける程に、悩みながら近江国まで越え給ふ。道の辺(べ)に水の流れ出でて冷しく清潔なりければ、端なる石に腰をかけて、水に足をさし降して寒し給ひける程に、立処にほとぼり醒めにけり。それよりして、この水をば醒井とぞ名付けたる。ほとぼり醒めたれども、御悩重かりければ、虜〔の〕夷をば大神宮に奉り、武彦を以てこの由を奏し給ふ。尊は猶近江国千の松原といふ所に悩み臥し給ひけるが、松子の島に宿り給ひし岩戸姫は、尊の余波を惜しみつつ、在りもあられぬ心地して尋ね上り給ひけるが、近江の千の松原におはしましけり。尊は悩みながら思ひ出だされて、恋しく思しける処に、岩戸姫来り給ひければ、余りの悦ばしさに、「あは、妻よ」とて、大きに悦び給ひけり。それよりして東国をば、「吾妻」とぞ名付けたる。かくて日数を送り給ふ程に、尊は御悩重くならせ給ひて、終に失せ給ひにけり。白鳥となりて南を指して飛び給ふ。岩戸姫は、尊の別れを悲しみて、悶え焦れ給へども、その甲斐なき事なれば、泣く泣く尾張国へ帰り給ひけり。尊に仕へる人々、別れを悲しみ奉りて、跡目に付きて行く程に、紀伊国名草郡に暫く落ち留まりけるが、この所を悪しくや思しけん、東国に飛び返り、尾張国松子の島にぞ飛び行きける。白鳥にて飛び給ひし時は、長さ一丈の白幡二流と見えしなり。尾張国に飛び落ちぬ。その所をば白鳥塚と名付けたり。幡の落ちける処をば幡屋とて今にあり。兵衛佐頼朝は、末代の源氏の大将となるべき故にや、彼の幡屋にてぞ生れ給ふ。草薙剣をば桑の枝に懸け置き給ひしを、岩戸姫これをとり、紀大夫が田、一夜の内に森になりたる社の杉に寄せ掛けて置かれたりけるが、夜な夜な剣より光立ちければ、彼の光杉に燃え付きて焼け倒れにけり。田に杉の焼けて倒れ入りたりければ田も熱かりけるといふ心に熱田とぞ名付けたる。日本武尊は、白鳥にて飛び落ち給ひて神になる。今の熱田大明神これなり。岩戸姫もあかで別れし中なれば、即ち神と顕れ、源大夫も神となり、紀大夫も同じく神とぞ顕れける。さても草薙剣をば宝殿を作りて置かれたりけるが、夜な夜なに剣に光立つ。知法行徳の人ならでは見る事なし。然も新羅の沙門道行といひける高僧の、日本にたつ剣の光を見て、帝にかたりければ、「何ともして彼の剣を取りて我に与へよ」と仰せありければ、「さては取りて進らせ侯はん」とて、日本にぞ渡りにける。尾張の熱田に詣でつつ彼の剣を七日行なひて盗み取りて、五条の袈裟に包みて逃げける程に、剣袈裟を突き破りて本の宝殿に返り入る。二七日行なひて剣を取り、七条の袈裟に包みて逃げけるに、剣又七条をも突き破りて宝殿に返る。道行尚立返りて、三七日行なひて今般は、九条に包みて出でける間、袈裟をも破る事〔を〕得ずして、筑紫の博多まで逃げ帰りたりけるを、熱田明神、安からぬ事と思召し、住吉大明神を討手に下し、道行を蹴殺して草薙剣を奪ひ取る。帝、生不動といふ将軍に、七つの剣を持たせて日本へぞ渡しける。生不動、既に尾張国まで攻め来る。熱田の神宮、悪き奴かなとて、蹴殺し給ひにけり。所持の七つの剣を召し取りて、草薙剣に加へて宝殿に祝はれたり。今の八剣の大明神とはこれなり。代々かくこそありしに、後の宝剣も霊験を取り給はず。平家取りて都外に出で〔て〕、二位殿腰にさして海に入る。上古ならましかば、失ふべきに非ず。末代こそ心憂けれ。潜きする海人に仰せてこれを求めさせ、水練を召して尋ぬれども見えず。龍神これを取りて龍宮へ納めてければ終に来たらざりけり。その頃或る人の夢に見えけるは、草薙剣は風水龍王、八岐大蛇と変じて、素盞鳴尊に害せられ、持つ所の剣を奪はる。この風水龍王は、伊吹大明神たるに依りて、不破の関に蛇となりて、日本武尊の伊勢大神宮より天叢雲剣を賜はりて東夷の為に下国しけるを留め取らんとし給ひけるもかなはず、御上りの時待ちまうけて、奪ひ返さんとし給ひけるも殺されけり。生不動、八歳の帝と現れて、本の剣は叶はねども、後の宝剣を取り持ちて西海の波の底にぞ沈み給ひける。終に龍宮に納まりぬれば、見るべからずとぞ見えたりける。さて、九郎大夫判官義経、平氏の虜ども相具して関東へ下向ありけるが、梶原が讒言に依りて腰越に関を居ゑて鎌倉へは入れられず。判官本意なき事に思ひて、起請文を書きて度々進らせられたれども用ひ給はず。力及ばず空しく都に上りける時、箱根権現に参りて、「兄弟の仲和らげしめ給へ」とて、薄緑の剣を進らせらる。土佐房昌俊都に上り、謀らんとしけれども、判官心得給へば、し損じて土佐房、鞍馬の奥僧正谷に籠りたりけるを、鞍馬法師、昔の好ありければ、摘め取りて判官に奉る。中務丞知国に仰せて六条西の朱雀にて誅せられけり。関東より重ねて討手上洛の由聞えければ、義経五百余騎船に乗りて西海へ趣き給へども、大風に逢ひつつ難波の浦にさすらひ、静といふ白拍子ばかりを具して芳野山に入り、その後北陸道にかかり奥州まで落ち下り、秀衡入道を憑みて三四年は過ぎにけり。文治四年四月二十九日、五百余騎にて攻めけるに、判官は、「泰衡に向ひて軍して何かせん」とて、女房二十二、若君四歳、当歳の姫、我が身三十一と申しけるに自害してこそ失せにけれ。仲も直らぬ物ゆゑに、剣を権現に進らせけるも運の窮めとぞ覚えける。建久四年五月二十八日の夜、相模国〔の〕曾我十郎祐成、同五郎時宗が、親の敵祐経を討ちける時、箱根の別当行実が手より兵庫鎖の太刀を得たりければ、思ふ様に敵をぞ討ちたりける。この太刀は、九郎判官の権現に進らせたりし薄緑といふ剣、昔の膝丸これなり。親の敵心のままに討ちおほせて、日本五畿七道に名を揚げ、上下万人に讃(ほめ)られけるも、この剣の用なりとぞ聞えし。その後彼の膝丸、鎌倉殿に召されけり。鬚切・膝丸一具にて、多田満仲八幡大菩薩より賜りて、源氏重代の剣なれば、暫く中絶すといへども、終には一所に経廻りて、鎌倉殿に参りけるこそ目出たかりける様(ためし)なりけれ。