平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十四

P459
平家物語巻第十四
同二日志雄軍に、十郎蔵人行家負色に成たりければ、
越中前司盛俊勝に乗りてせめ戦ふ、平家は又木曾に
砺波山を追落されて、あたかの橋を引きて篠原の宿
に十三日迄息つき居たり、其間平家の方のがうの者
五十余人同意して、仮屋々々にてかたの如く、巡酒
はじめてあそびける程に、其間軍の内儀さまざま評
定す、伊東九郎がかり屋にて此人々申けるは、いざ
殿原我等五十余人、かいつるうて源氏の御方へ参ら
ん、其故は運命つき果てて、平家は度々の軍に戦ひ負
けぬ、源氏の繁昌疑ひなしとみえたり、我等五十人
源氏の御方へ参たらば、あはや平家方のがうの者ど
も皆源氏へ参りたりとて、一定御恩あらんずるぞ、
此御恩を蒙りて、妻子と死のりべつまでそはんはい
かに殿原といひければ、もつとも然るべしとて其日

も過にけり、次の日やくそく必定と各源氏へ参らん
と出立けるが、長井の斎藤別当実盛が仮屋に寄合ひ
て、巡酒してあそびけるに、おんざになりて実盛申
けるは、昨日との原の評定に、我等五十余人源氏の
御方へ参らんと候しかば、実盛一同すと申候ぬ、いか
に其事は変改せられまじきか、又いかならんと問ひ
ければ、またくもて変改すまじきよしを申ければ、
実盛重て申けるは、や殿原此ことを実盛終夜案ずる
に、叶はじと案じ出したるぞ、其故は我等源氏の御方
へ参たらば、是等こそ平家の宗徒の侍よ、先がけの
者どもよ此等が平家をすて源氏へ参たるこそ神妙
なれとて、一たんは一定御恩はあらんずらんと覚ゆ
るぞ、その御恩を蒙りたればとて、相伝の主を情な
くいたてまつるべしとは思ひ候はず、年ごろ日頃は
一所にて死んと申契り、雲のはて海の果までも、御供
仕候べしとこそ申契りたりしに、契りを変じて御供
をこそ申さざらめ、剰へ立帰りてい奉り亡し奉んこ
P460
と、実盛におきては眼をあつべしとも覚えず、たと
ひ又主をい奉りて源氏の恩を蒙りたりとも、子々孫
孫まで伝らんこと有るまじきぞや、又源氏の侍東国
の人どもさだめて申さんずるぞ、平家の侍どもうた
てき者どもにて有けるぞ、弓矢とる習、運命尽ぬる
事は力及ばず、名を後代に留むるこそ武士の法なれ、
平家世にましましし程は、此人々こそ一二の者にて、
受領けんびゐしをもけがし、あくまで恩のうるほひ
にもほこりしが、今平家負軍になればとて、相伝の
主を棄て源氏の御方へ参る無道さよと、朝夕見ら
れんずる事こそ恥かしけれ、又ささやきつつやきせ
んほどに、源氏も事の謂を存じて、相伝の主をすつ
る程の不道人を、当時忠を致し功を入るればとて、心
をうちとくべからず、又平家強くば後矢射んずる奴
原也、かやうの者に恩をするならば、東国の弓取ど
もが世の中は、とてもかくても有ぬべし、世に有ん方
には靡くべきとて、命を捨る者はあらじとて、世静

らば、傍輩向後の為とて一定切られぬと覚ゆるぞ、
されば御恩を蒙りて妻子に添はてん事有がたし、再
ものをおもはせんこと中々不便なり、実盛ばかりに
はいとまたべ、平家に附き奉りて、年頃の契りをか
へず、討死して死出の山の御供せん、果報有て平家世
に出給ふものならば、実盛も妻子も繁昌せよかしと
終夜おもひ定て候なり、実盛にはいとまたべとぞ同
僚どもに申ける、五十余人の者ども、もつともかう
こそあるべけれと、涙を流していはれたりいはれたり、誠に、
さぞかし、弓とりの心のあまた有は不覚をする事今
にはじめず、斎藤別当の宣ふにつきて、みな一所に
て討死せんずるぞとて、一同に斎藤別当が一言に付
にけり、去程に木曾あたかのみなとへ押寄せて見給
へば、橋を引れたり、渡すべきやうなかりけり、宮崎
太郎が申けるは、此みなとにはやうの候ぞ、大浪立ち
てはいさご打よせられて湊浅くなり、大水増れば砂
打流がされて河深くなり候也、ふかき浅きほとを見
P461
候べしとて、飼ひたる馬四五疋よき鞍置きて、手綱
結びて追渡す、鎧もぬらさでむかへのはたにかきあ
がる、木曾是を見て、あれみよ殿原よかめるは、ぬし
が心得て手綱かいくり、すがりかかへて、馬に力を
付けて、一あをりあをらば、ものても有まじ、渡せ
や渡せやとのたまひければ、是を聞て、樋口、今井、
楯、根井、大室、小室を始として、五百余騎にてさ
と渡す、先に追渡す四五疋、平家の陣屋の前にをど
りて出来り、平家の侍ども、あは源氏は皆落るは鞍
置き馬出きたり、我とらんと奪合ふ処に、畠山庄司重
能、小山田別当有重兄弟、平家につきたりけるが、進
み出て申けるは、あしく申させたまふ殿原かな、源
氏落るならば鞍置馬に乗りてこそ落つべけれ、是は
安高のみなとの浅きほどをこころみんとて渡したる
馬なり、あはや湊はふさがりたりけるはただ今敵渡
し候らん、重能罷り向ひて見候べしとて、宿をうち
出篠原の岡の上に上りて見けるに、源氏の勢雲霞の

ごとくによせたり、さればこそとぞ思ひける、木曾
方に樋口次郎申けるは、あはや畠山が旗よ、木曾の
たまひけるは、汝は何として見知りたるぞ、兼光能
見知て候、児玉党がむこにて常に武蔵の国へ越え候
しかば、畠山が旗をば見知て候、是こそ東国の弓と
りの名人、恥ある武士にて候へ、戦も定て尋常に仕
候べし、畠山が勢五百余騎と聞え候、この勢二百五
十騎を出して戦はせて御覧候へ、其故は平家は十万
余騎、御勢は五万余騎、されば御方一人が敵二人にむ
かうずるにて候、恥ある弓取のかたき二人にむかは
ぬ事や候、千騎には五百騎、五百騎に二百五十騎、
二百騎には百騎出合て戦はせて御覧候へ、畠山が勢
五百騎と聞え候、されば二百五十騎を出して戦はせ
て御覧候へ、畠山に戦勝て候はば、軍にはかちぬと
思召候べし、残の勢はいくらも候へ、ものにても候
まじと申ければ、さらば汝先陣つかまつれ、畏て承
候とて、二百五十騎にて向ひあひ、音にも聞今は目
P462
にも見るらん、信濃の国の住人木曾中三権守兼遠が
二男、木曾殿にはめのと子に樋口次郎兼光、平家も
さる者ありと聞召たり、兼光討て高名せよやとのば
らとて、二百五十騎を相ぐして、甲の緒をしめ、く
つばみを並べて、五百余騎が中へ駈入る、畠山是を
きき、樋口次郎はよきかたきぞ、あますな殿原、組
でとれ、押並べて組めやくめやとて、五百余騎心を
一にして中に取こめて戦ひけり、くんで落つる者も
あり、おち重なる者もあり、うちじにする者もあり、
いづれもひまありとも見えず、さんざんに戦ける程
に、畠山が五百騎三百騎討れて二百騎になる、樋口次
郎が二百五十騎は、百五十騎討れて残り百騎になり
て左右へさと引てのく、畠山は小勢にかけられたる
を安からずと思ひて、甲の緒をしめ、かたきの中へ馳
せ入らんとする所に、弟の小山田別当有重、畠山が馬
のくつばみのさうにしたたかにつきて、おおやけの
軍に我一人と戦して命はすてまじ、残の人どもに戦

はせて、よわらん所をかけ給へとてつきたれば、力
及ばず引退く、これをしらまさじと、平家の方より武
蔵三郎左衛門有国、五百騎の勢にてをめいてかくる、
源氏の方より加賀国の住人林六郎光明、二百五十騎
を相具して、五百騎が中へをめいてかけ入、さつとあ
けてぞ通しける、取て返してたて様横様にさんざん
にかく、武蔵の三郎左衛門有国は、練色のぎよりよ[* 「ぎよりよ」に「魚綾」と振り漢字]
うの直垂に、緋威の鎧に白星の甲を猪首に着なし、
大中黒の矢廿四さしたる頭高におひなし、重籐の弓
真中とて、月毛なる馬のふとくたくましきに、黄ふ
くりんの蔵置て乗たりけり、あはれ大将軍やとぞ見
えたる、五百騎の中にすすみ出て戦けるを、光明が
甥に野宮八郎光宗とて、大の男の大ちから精兵が、
十三束あくまでひいて、しばしかためてひやうと射
る、有国が鎧の胸板はたと射破りて後へつとぞ射通
したる、是に少しよわりては見えけれども、馬の上
にてしばしこらへて戦ひけるを源氏の方より我も
P463
我もと射ける程に、有国が鎧に矢十三筋射立られて、
今はかうとや思ひけん、太刀をぬきて中へはせ入て、
近づく者をば切伏せ切伏せ戦ふ、野宮八郎是を見てさ
しならべて組でどうと落たり、有国は大ちからと聞
えしかども、大事の痛み手あまた負てよわりたりけ
るが、野宮も大ぢからなり、上になり下になり組あ
ふところに、野宮が郎等あまた落合ひて、有国が鎧
の草ずり引き上げて、究竟の所を二刀さされて、そ
れによわりて野宮八郎に有国首とられぬ、是をしら
さまじと平家の方より高橋太郎判官五百騎にておし
よせたり、越中国の住人宮崎太郎二百五十騎にて向
ひ合ふ、宮崎太郎が嫡子入善小太郎為直といふ者あ
り、又宮崎が弟に別府次郎為重と云者あり、宮崎弟の
別府を呼びていひけるは、やや別府殿、あの入善に
目放ち給ふな、あたら若者の先がけこころにすすみ
て、しつきの勢を待ずして、敵の中へ馳せ入て、一
定討れぬと覚ゆるぞといひければ、さ承候ぬとてく

つばみを並べてつれ行くほどに、大勢の中へはせ入
て、押隔てられて入善が行衛を知らざりけり、さる
ほどに平家の侍大将軍高橋判官長綱に入善は引組で
どうと落つる、長綱は三十七八の男、人に勝れたる
大ちから大がうの者にて有けり、入善はきはめて細
き小男なれば、取ておさへられたり、長綱和ぎみは誰
ぞ、わかけれどもやうある者と見ゆるぞ、名乗れ聞
んといひければ、越中の国の住人宮崎太郎が嫡子、入
善小太郎為直生年十七歳と名乗る、長綱是を聞て、
あないとをしあないとをし、わぎみはあたら剛の者かな、お
ほけなくも長綱には組たるものかな、十七歳と名乗
るこそ殊にいとをしけれ、我も十七歳になる子を持
たるぞ、和ぎみと同年になる、わぎみを討たりとも、
負くべき軍に勝つべきに非ず、討たず共勝つべき軍
にまくべきにてもなし、我子と同年になるがいとを
しければ、我子にむくへと思へば汝を討つまじとて
引おこす、別府は入善を見失ひて、入善よ入善よと呼び
P464
ありく、かたきに組たるところに呼び逢ひたれば、入
善是を聞きて、為直是に有るぞ、助けよ別府どのと
いふ、別府是を聞て、あな浅ましと思ひて、急ぎ馬
よりとび下りて、長綱が甲のてへんにゆびを入て、本
どりをつかみてひきあげて首をかく、水もたまらず
切れにけり、其後下なる入善を引起して手や負たる
とて、とかく是を見る程に、長綱が首をば前に打す
てて、ただ入善を引まはして見けれども、入善手も
負はずと申、ここに前なる首をうばうて入善にげた
り、別府是を見て、やれ入善物に狂ふか、其首おけや
おけやとて追て行く、入善是を聞ず足早に逃げて、
木曾殿の前に持ちて参て、是は高橋太郎判官が首に
て候、侍大将軍の首にて候を、為直が分取に仕て候と
て参らせたり、別府やがて追付きて、あれは為重が
取て候首也、入善を見失ひて入善々々と呼びありき
候処に、高橋判官と組んで下におさへられて候が、
爰にあるぞ助けよと申候つる間、浅ましやと存候て、

急ぎ馬より飛下て、長綱が首をかき前に置き、入善
を引起して手や負たるかと問候へば、おはずと申す
てて前なる首をとて逃げて参て、我取たると申候と
いひければ、木曾殿是を聞て、是はいかにと問ひた
まへば、入善さん候、是は少しもたがひ候はず、さて
はいかに、首は一なり主は二人あり、誰か取てあら
んずるぞ、入善申けるは、別府が申候は少しもたが
ひ候はず、木曾殿たがはざらんにはいかに我とりた
りと申条存外也とのたまへば、入善申けるは、是は
やうの候、為直長綱に組て下に押へられて候ところ
に、名乗れと申候つる間、宮崎が嫡子入善の小太郎為
直生年十七歳と名乗て候へば、いとをしいとをしあたら
剛の者也、我も十七になる子を持ちたり、和君が名乗
るを聞ば我子と同年なり、我子にむくへとおもへば、
汝をば討まじきぞとて、押へて候、さては助からん
ずるござんなれ、助けんとてはなちて候はん時、草
摺にかなぐり付、ぬきまうけたる刀なれば、二刀ば
P465
かりさしてよわらんずる処は、ぢやうの首と思ひて
候へば、ただ是れ為直が取りたる首と申ければ、木
曾殿面白し面白し、是聞けや殿原、弓矢とりはかうこ
そ心をかくべけれ、わかけれども下に押へられなが
ら、放ちたらん所をば、定の首とねらひたり、是ほ
ど心静にねらはんには、難なくねらひおほせんず、さ
れどもげには別府がとりたる首なり、汝には別の恩
賞あるべし、是をば別府が取たる首になせとぞ下知
せられける、是をしらまさじと、平家の方より長井
の斎藤別当実盛、赤地の錦の直垂着て、三百余騎に
て押寄たり、源氏の方より信濃国の住人手塚別当、二
百五十騎にて向ひ合ひ互に入くみ戦ふ、手塚が郎等
さんざんに戦ひければ、実盛が勢残なくうたれて落
にけり、実盛思ひ切りにしかば、一騎になる迄戦ひ
けり、手塚、実盛をおつかけて申けるは、ただ一人と
どまりて戦ふこそ心にくけれ、名乗れや名乗れや、かく
申は信濃国の住人諏訪郡住人手塚別当金刺光盛と名

乗りかけたり、実盛申けるはさるものありとは聞置
たり、但わぎみをさくるに非ず、ようのあれば名乗る
まじ、ただ首をうちてげんさんに入よ、木曾殿は御
覧じ知たるらんぞ、思ひ切りたれば一人残りて戦ふ
ぞ、かたきはきらふまじ、よりこ手塚と申ままに、弓
わきはさみてあゆませむけたり、其時手塚が郎等一
人、馬手に並べて中に隔つるとぞ見えし、実盛にむ
ずと組む、実盛さしりたりとてさしおよびて、手塚
が郎等の押付の板をつかまへて、左の手にては手綱
かいくりて、弓手馬手の鎧つよくふみて、むずと引
たりければ、手塚が郎等引落されぬ、実盛押付の板
をしたたかにつかまへて、馬の腹に引付て、さげ
てまかる、足は地より一尺ばかりあがりたり、手塚
是を見て馬手にかい廻りて、実盛が鎧の袖につかみ
付て、ゑい声を出すままに、鎧を越て前に落たり、
実盛二人のかたきをあひしらふとせしほどに、引落
されぬ、引落されながら、実盛郎等を取て押へ、腰
P466
の刀を抜て首をかく、手塚その紛れに実盛が弓手の
くさずりを引きあげて、そば腹をさしたりけり、さ
されて後少しよわる所をふみまろばして、上に乗居
て申けるは、軍と申はかたきの名乗るをも聞き、我
名をも名乗りて、かたきに聞せたればこそ面白けれ、
誰人ぞよき人ならばけうやうをもせん、わろき首な
らばとりても何かせん、堀溝にもすてんずるぞとい
ひければ、斎藤別当名乗るまじきぞと一度いひてん
上は名乗まじ、我首をば人見知らんずるぞ、よき首
取りつるものかな、たやすく棄つべからずといひけ
れば、力及ばず首をぞかきはなつ、おくればせに来
りける郎等に物の具剥がせて、首を持ちて木曾の前
に来りて申けるは、光盛かかるくせ首をこそ持ちて
候へ、名乗れと責ふせ候つれ共、木曾殿は御覧じ知
たるらんとばかり申て名乗り候はず、侍かと存候へ
ば、錦の直垂を着て候、大将軍かと存候へば続く勢
も候はず、京者西国の御家人かと存候へば、声は坂

東声にて候つと申、木曾あはれ是は武蔵の国住人斎
別当にこそあんめれ、但それならば一年義仲がおさ
な目に見しかば、しらがの糟尾なりしぞ、今はこと
の外白髪になりぬらんに、鬢髭の黒きこそ怪しけれ、
あらぬ者やらん、樋口はふるどうれう[* 「ふるどうれう」に「古同僚」と振り漢字]にて見知たる
らん、見せよとて樋口を召す、樋口本どりをとて引
あふのけてただ一目みて、はらはらとなきて、あな
むざんや、実盛にて候けりと申、木曾何とてびん髭
は黒きぞと問はれければ、樋口さればこそ、其仔細
申候はんとし候が、心よわく涙のこぼれ候也、弓矢
取る者は、聊かの事にても思ひで有る詞をば、つかひ
置くべきことにて候、武蔵の国に常に通ひ候し時、
斎藤別当がもとへまかり候き、心も尋常に勇なる者
にて候し、兼光に申候し事は、六十に余りて後は、
軍の陣に向はんには白髪の恥かしからんずれば、鬢
髭に墨をぬりて若やがんと思ふなり、その故は老武
者とてあなづるも口惜し、又若殿原に争ひて先をか
P467
けんもおとなげなしと申候しが、げに墨をぬりて候
けるぞや、水を召して洗はせて御覧候へと申せば、
さもあるらんとて、洗はせて見給へば、しらはふきに
洗なしたり、さてこそうたがひなき実盛とも知りて
けれ、錦の直垂を着たりける事は、実盛京を出ける
日、内大臣に申けるは、一年東国の討手に罷り下りて
候しに、一矢も射ずして蒲原より帰上て候し事、実
盛が老の後の恥、唯此事に候と存候へば、北陸道へ
まかり下候はんには善悪生きてはまかり帰候まじ、
年はまかり寄りて候とも、真先かけて討死仕候べし、
夫にとて実盛もとは越前国の住人にて候しが、近年
所領に付きて武蔵の国に居住仕て候き、事のたとへ
に申候、故郷には錦のはかまを着よと申候ぞ、今度
且は最期の所望也、錦の直垂の御免を蒙るべしと申
ければ、内府かつうはあはれに思し召されて、さうに
及ばずとて許されにければ、悦びてきたりけり、是
をしらまさじとて、平家方より妹尾太郎二百五十騎

にてをめはてかく、源氏の方より加賀国住人倉光太
郎、百騎の勢にて向ひ合ふ、妹尾が二百騎の中へはせ
入てさんざんに戦ふ、倉光妹尾に押並べて組んでど
うと落つる、倉光は大ちからなりければ妹尾を取て
押へたり、倉光が郎等四五騎落ち重りて、妹尾を生捕
にしてけり、さて木曾殿へいて参りぬ、是をしらまま
じとて、平家方より伊東入道が子息伊東九郎二百余
騎にて押寄せたり、木曾方より根井小矢太百騎勢に
て、伊東九郎が二百騎の中へはせ入て、堅様横様さん
ざんにかく、根井小矢太は伊東九郎に組んでどうと
落つ、伊東九郎をとて押へて首をかく、この伊東九
郎は源氏に付くべかりけるが、平家へ参る事は、父
伊東入道、兵衛佐を討たんと内々議しけるを、ひそ
かに佐殿に告げ奉りて、伊豆の御山へ逃したりしに
よて、奉公に兵衛佐殿坂東を討取て鎌倉に居住の初、
いとう入道日頃のあだのがれ難さに、自害してうせ
し時、九郎を召出して、汝は奉公の者なりとて、御
P468
恩あるべきよし仰せられければ、九郎申けるは、誠
に御志畏り入て存候へども、父の入道御かたきとな
りてうせ候、又その子として世に候はんこと面目な
くおぼえ候、昔父の入道君をい参らせんとし候し時、
潜に告げ申て候し事は、一切末に御恩を蒙らんと思
ひよらず候き、はやく首を召さるべく候、然らずば
いとまを給て京へまかりのぼり候て、平家に付き奉
て、君を射奉るべしと申ければ、兵衛佐殿打ちうな
づきて、奉公の者なればいかでか切べき、汝一人あ
りともそれによるまじ、申所返々神妙也、早く平家
につけとていとまをえさせつ、よて九郎平家に付き
奉りて北陸道に下りて、つゐにけふ討れぬるこそあ
はれなれ、其後木曾は郎等今井、樋口、楯、根井、
大室、小室を始として我劣らじとせめ入る間、平家
の軍兵まばらになり、面も向けず引退く、大庭五郎、
間下四郎返し合せて防ぎけり、間下四郎、みなとよ
り三段ばかり沖に大なる岩あり、其上におりゐて寄

せ来るかたきをば射はらひて、自害せんとやおもひ
けん、小具足をきりすつる所を、内甲を射させて死
にけり、難波次郎経遠馬を射させて、叶はねば、自
害してうせにけり、大庭五郎みなとに打立ちて、よ
きかたきぞや、くめやといふところに、武者二騎つ
れてさうよりつとよりけるを、二人をつかんでひざ
の下に押へて、軈てしき殺す、されども根井小矢太
に首の骨を射させて死にけり、大将軍権亮三位中将
のたまひけるは、いかなれば毎度軍に負くるぞ、御
方は大勢なり、敵は小勢也、手組の軍に負る事こそこ
ころ得ね、今日七月一日、朝日に向ひて軍をすればこ
そ負くるらめ、引け後日の軍にせよとて、引退く、
木曾は是を見て、すは平家は落るは、一騎ももらす
な、射取れや者共とて、追物射にこそ射たりけれ、木
曾五百余騎の勢をめいてかけ入、さんざんにけ破り
て、引かへせば、今井四郎三百余騎を相具して、入
かへて又戦ひけり、しばし戦ひてひかへたれば、樋
P469
口次郎三百余騎にて入かへてこそ攻めたりけれ、か
たき数多討取りて引退きたれば、根井小矢太二百余
騎相ぐして、中へはせ入りて攻たりければ、木曾是
を見て、隙なあらせそ、射取や射取やと下知したまへ
ば、小室太郎五百余騎を相具して入かへてせめたり
ければ、平家しばし引けとのたまへども、源氏いと
まもくれず、追かけて追物射にさんざんに射ければ、
平家とつてもかへさず、やがて京へぞのぼられにけ
り、去四月には十万よきにて下りしに、今七月の軍
にまけて帰り上るには、其勢僅に二万余騎、残る七
万よきは北陸道にて討れて、かばねを道のほとりに
さらしけり、平家こんど然るべき侍、大略数をつく
して下されけるに、かく残少く討たれぬる上は、とか
くいふかひなし、流を尽して漁時は太く魚を得とい
ふとも、明年に魚なし、林を焼て狩時は多く獣をと
るといへども、明年に獣なし、後を存て壮健にすく
やかなるを遣はして、少々は官兵を残さるべかりけ

るものをと申人もありけり、内大臣むねと頼み給ひ
たるつる弟の三河守も討れ、又長綱も返らず、一所
にていかにもならんと契り給ひたりつる、めのと子
の景高もうたれぬる上は、大臣殿も心細く覚されけ
るに、父景家申けるは、景高におくれぬる上は、生
ても何かはせん、今は身のいとまを給て、出家遁世
して、後生を弔ふべしとぞ申ける、今度討れたる者
どもの父母妻子のなきかなしむ事限なし、家々には
門戸をとぢて声々に念仏申あひければ、京中はいま
いましき事にてぞありける、昔天宝大きに兵徴駆向
て何処にか去、五月に万里に雲南に行、雲南に瀘水
有、大軍徒より渉に、水湯の如し、未戦十人が二三は
死、村南村北に哭声悲し、児は爺嬢に別れ、夫は妻
に別る、前後蛮に征者千万人行て一人し帰る事なし、
新豊県に男あり、雲南の征戦を恐れつつ、年二十四
にて夜深人静りて後、自ら大石を抱て臂を鎚折き、弓
を張り旗を挙るに倶にたへずして、右の臂は肩によ
P470
り、左のひぢは折たりといへども、雲南の征戦を免
かれ、又骨くだけ筋傷て昔はさにあらざれども、臂
折てよりこのかた六十年、一支はすたれたりといへ
ども、一身は全し、今に至るまで風吹雨降空くもりさ
ゆる夜は、天の明にいたるまで痛で不眠、されども
終悔ず、悦処は老の身の今に有事を、然らざらましか
ば、当初瀘水の頭に死て、雲南の望郷の鬼となりて、
万人の塚の上に哭こと幻々たらまし、よはひは八十
八、かしらは雪に似たりといへども、其孫に助けら
れて店前に行、命あればかかる事にもあへるにや、
一枝を折らずばいかに桜ばな
八十余りの春にあはまじ W101 K130
五日北国の賊徒事、院御所にて定有、左大臣経宗、右
大臣兼実、左大将実定、皇后宮大夫実房、堀河大納言
忠親、梅小路中納言長方、此人々を召されけるに、
堀河右大臣は参り給はざりけり、右大将、大蔵卿泰経
を御使にて、堀河大納言忠親は唯よくよく御祈祷行

はるべき由を申されける、左大臣は門々をかためら
るべしと申されけるぞ云がひなかりける、右大臣は
東寺にて秘法あり、かやうの時行はるべきにや、宗の
長者に仰せらるべきかと申させ給ふに、長方卿軍兵
の力今は叶ふまじきかと、前内大臣に尋らるべし、其
後の儀にてあるべきかとぞ申されける、廿一日より
延暦寺にて薬師経の千僧の御読経を行はるべし、是
も兵革の御祈也、御ふせには手作布一反、供米袋一、
院別当左中弁兼光朝臣仰を承て、催沙汰有り、行事
の主典代、庁官、御布施供米を相具して西坂本赤山堂
にて是を引くほどに、小法師原をもてうけとる、一
人してあまたをとる法師もあり、又手を空しくして
とらぬものもありけり、然る間、行事官と法師原と
事をいたす、主典代、庁官、烏帽子打落されて、さんざ
んの事にてぞありける、はては主典代とらへて山へ
上せけり、平家の主とする神事仏事の祈り一として
しるしなかりけり、同日、蔵人右衛門権佐定長承て、
P471
祭主神祇大副大中臣親俊、殿上口に召して兵革平が
ば、太神宮へ行幸あるべきよし申させ給ひけり、太
神宮と申は、昔高天原より天降りましまししを、垂仁
天皇御宇廿五年と申し戊申三月に、伊勢の国度会郡
五十鈴川の上、したつ岩ねに大宮柱ふとしきたてて、
祝ひ始め奉り給ひしより、宗廟社稷の天照御神にて、
御代ごとに崇敬奉行事、吾朝六十余州の三千七百余
社の、大小神祇冥道にも勝てましまししかども、代
代帝の臨幸はなかりしに、ならの御門の御時、右大
臣不比等の孫式部卿宇合の御子、右近衛権少将兼太
宰大弐藤原広継と云人ましましき、天平十二年十月
に肥前国松浦郡にて一万人の凶賊を相語らひて謀叛
を起し、帝をかたむけ奉らんと計る由聞えしかば、
大野東人と申し人を大将軍にて、国々の官兵二万余
人かり集めて、さし遣して打落されにき、其御祈に同
十一月に始めて太神宮へ行幸ありき、今度其例とぞ
聞えし、彼広継討れて後、其亡霊あれて恐しき事ど

も多かりけり、同十八年六月に、太宰府の観世音寺
供奉せられけるに、玄〓僧正といひし人を導師に請
られしを、俄に空かき雲り、黒雲の中より龍王下り
て、彼僧正を取りて天に上りにけり、恐しなどいふば
かりなし、是により彼霊を神と崇められき、今の松
浦の明神是也、其僧正は吉備大臣と入唐して法相宗
を吾朝へ渡したりし人也、入唐の時宋人其名を難じ
て、玄〓とはいかに還て亡といふ通音あり、本朝に帰
りて事に逢べき人なりと申たりけるとかや、さて遙
にほどへて後、彼首を興福寺西金堂の前に落して、
空にはと笑ふ声のしけり、此寺は法相宗の寺なるが
故なり、昔もかかる兵乱の時の御願を立らるる事有
にや、嵯峨天皇の御時、大同五年庚寅平城帝尚侍のす
すめにより世乱れにしかば、其時の御祈に、始て帝
の第三皇女有智子内親王を、加茂の斎に立奉らせ給
ひき、是又斎院の始也、朱雀院の御時、天慶二年〈 乙亥 〉将
門純友が謀反の時の御願に、八幡臨時の祭始れり、
P472
今度もか様の例ども尋ねらるとぞ聞えし、木曾冠者
義仲は度々の合戦に打勝ちて、六月上旬には、東山
北陸二道の二手に分て打上る、東山道の先陣は尾張
国すのまた川につく、北陸道の先陣は越前国府につ
く、評定しけるは、抑山門の大衆は未だ平家と一也、
おのおの西近江を打上らんずるに、東坂本の前小事
なをかとつ、唐崎、三津、河尻などよりこそ京へは入
らんずるに、例の山の大衆の憎さはとどめやせんず
らん打破りて通らんずるも安けれども、当時は平家
こそ仏神をもいはず、寺をも亡し僧をも失ひ、か様の
悪行をばいたせ、我等は此守護の為に上る者が平家
と一なればとて、山門の大衆を亡さん事、少しも違
はぬ二のまひたるべし、さればとて、此事にためら
ひて、上るべからん道を逗留するに及ばず、是こそや
す大事なれ、いかがあるべきといひければ、手書に
相ぐしたりける、木曾大夫覚明申けるは、山門の骨
法粗承り候に、衆徒は三千人必定一味同心する事候

はず、思ひ思ひ心々なれば、いみじう申奉る事も異
儀を申者あらば、破る事も候、されば三千人一同に
平家と一なるべしといふ事も不定なり、源氏に志思
ひ奉る大衆もなどかなかるべき、牒状を遣して御覧
候へ、事の様は返牒に見え候ぬと覚え候といひけれ
ば、もつとも然るべしとて牒状を山門へ遣す、彼牒
状をばやがて覚明ぞ書きたりける、彼覚明はもとは
ぜんもんなり、勧学院に進士蔵人とて有けるが、出
家して西乗房信救とぞ申ける、信救奈良に有ける時、
三井寺より牒状を南都へ遣したりける、返牒をば信
救ぞ書たりける、太政入道浄海は、平家の糠糟武士の
塵芥と書たりける事を、安からぬ事に思ひて、いか
にもして信救尋取て、誅せんとはかるよし聞えけれ
ば、南都も都のほど近ければ叶はじと思ひて、南都
を逃出べきよしおもひけれども、入道道々に方便を
つけて置かれたるよし聞えければ、いかにももとの
すがたにては叶まじとおもひて、漆を湯にわかして
P473
あみたりければ、膨脹したる白癩の如くになりにけ
り、かくして南都を真白昼に逃げちれども、手かく
る者なかりけり、信救猶都の辺りにてはとられなん
ずと思ひて、鎌倉へ下りけるに、十郎蔵人行家平家
追討の為に、東国より都へ攻上りけるが、墨俣川に
て平家と合戦をとぐ、行家さんざんに打落されて引
き退く、三河国府に着きてありける所に、信救行合
て行家に付にけり、真の癩にあらざりければ、次第
に膨脹も直りてもとの信救になりにけり、行家三河
国府にて伊勢太神宮へ奉ける願書も、信救ぞ書たり
ける、其後行家兵衛佐に中たがひて、信濃へ越て木
曾に付たりける時よりして、信救、木曾を頼みて、改
名して木曾大夫覚明とぞ申ける、山門への牒状六月
十六日山上に披露す、大講堂の庭に会向して是を披
見す、其状に云、
奉親王宣欲令停止平家逆乱事
右、平治以来、平家跨張之間、貴賎〓手、緇素戴

足、忝進止帝位、恣虜掠諸国、或追捕権門勢家、
令及恥辱、或搦取月卿雲客、無令知其行方、
就中治承三年十一月、移法皇之仙居於鳥羽故
宮、遷博陸之配流於夷夏西鎮、加之不依蒙咎、
無罪失命、積功奪国、抽忠解官之輩、不(レ)可
勝計者歟、然而衆人不言、道路以目之処、重去
治承四年五月中旬、打囲親王家、欲断刹利種
之日、百王治天之御運未尽、其員本朝之守護之神
冥尚在本宮、故奉保仙駕於園城寺既畢、其時
義仲兄源仲家依難忘芳恩、因以奉扈従、翌日青
鳥飛来、令旨密通、有可急参之催、忝奉厳命、
欲企頓参之処、平家聞此事、前右大将喚籠義
仲乳母中原兼遠之身、其上住所付之伺之、怨敵
満国中、郎従無相順、心身迷山野、東西不覚間、
未致参洛之時、有御僉議云、園城寺為体、地形
平均、不能禦敵、仍奉進仙蹕於南都之故城、
遂合戦於宇治橋之辺之刻、頼政卿父子三人、仲
P474
綱兼綱以下卒爾打立、心中相違之間、被討者多、遁
者少、骸埋龍門原上之土、名施鳳凰城都之宮、畢、
哀哉令旨数度之約、一時難参会、悲哉同門親眤
之契、一旦絶面謁事、抑貴山被同心当家、忠戦
哉否令与力平家悪逆哉否、若被党令与力者、
定我等不慮対天台衆徒、企非分之合戦歟、速
飜平家値遇之僉議、被修当家安穏之祈祷、若猶
無承引者、自滅慈覚門徒、定有衆徒後悔歟、
如(レ)此觸申事、全非恐衆徒之武勇、偏只尊当住
三宝故也、何況叡山衆徒、殊護持国家者先蹤
也、詔書云、朕是右丞相之末葉也、慈覚大師之門
跡也、是則慈恵僧正終所致給験也、早遂彼先
規、上祈請百皇無為之由、下被廻万民豊饒之計
者、七社権現之威光益盛、三塔衆徒之願力新成歟、
爰義仲以不肖之身、誤打廻廿余国、〓渭之間、北
国諸庄園、不遂乃貢之運上、誠是自然是恐戦也、
申而有余、謝而難遁、努々莫処将門純友之類、

神不禀非礼者、忝令知見心中之精勤耳、宜
以此等之趣内令達三千之衆徒、外被聞重貴
賎者、生前之所望也、一期之懇志也、義仲恐惶謹
言、
寿永二年六月十日 源義仲申文
進上 恵光坊律師御房
山門三千の衆徒木曾が牒状を見て、僉議まちまち也、
或は平家の方へよる者も有り、或は源氏の方へよら
んといふ者もあり、されば心々の僉議まちまちなり
けれども、所詮我等、専、金輪聖王天長地久を祈り奉
る、平家は当帝の御外戚、山門にして帰敬を致され
ば、今にいたるまで彼の繁昌を祈りき、されども頃
年よりこのかた平家悪行法にすぐるる間、四夷乱を
起し万人是を背くによて、討手を遣はさるといへど
も、諸国へ還て異賊に追落されて、度々逃帰り畢、是
偏に仏神不加加護運命末に臨めるによりて也、源
家は近年度々の合戦に打勝て、官外皆以帰伏す、機
P475
感時至り運命既開たり、何当山獨宿運傾たる平家に
同意して、運命さかんなる源氏を背くべきや、此条山
王七社いわう善逝の冥慮はかりがたし、就中今の牒
送之趣、道理非無半、須平家値遇の思ひを飜して、
速に源家合力の思ひに任すべき旨、一同にせんぎし
て返牒を送る、其状に云、
右、六月十日御書状、同十六日到来、披閲之処、数
日之欝念一時解散、故何者源家者、自古携武弓、
奉仕朝廷、振威勢禦王敵、爰平家者背朝章
起兵乱、軽皇威好謀叛、不被征平家者、争
保仏法哉、爰源家被制伏彼類之間、追取本
寺之千僧供物、依侵損末社之神輿、衆徒等深訴
訟、欲達案内之処、青鳥飛来幸投芳札、於今者
永飜平家安穏之祈祷、速可随源家合力之僉議
也、是則歎朝威之陵遅、悲仏法之破滅故也、夫
漢家貞元之暦、円宗興隆、本朝延暦之天、一乗弘
宣之後、桓武天皇興平安城、親崇敬一代五時之

仏法、伝教大師開天台山、遠奉祈百王無為之御
願以来、守金輪護玉体、在三千之丹心飜天
変払地天、唯是一山之効験也、因茲代々賢王、皆
仰蘿洞之精誠、世々重臣、悉恃台岳之信心、所謂
一条院御宇之時、偏慈覚大師門徒之日綸言明白也、
九条右丞相并御堂入道太相国、発願文曰、雖居
黄閣之重臣、願為白衣之弟子、子々孫々、久固帝
王皇后基、代々世々、永得大師遺弟之道、同施賢
王無為之徳、加之永治二年鳥羽法皇忝叡山御願文
云、昔践九五之尊位、今列三千之禅徒者也、倩
思之感涙難押、静案之随善尤深、星霜四百廻、皇
徳三十代、天朝久保十善之位、徳化普四海之民、
守国守家之道場、為君為家之聖跡也、運上本
寺千僧供物、雖作末社神興、末寺諸庄園併如旧
被安堵者、三千人衆徒合掌、而祈玉体於東海之
光、一山揚声、而傾平家於南山之宮、凶徒傾首来
詣、怨敵束手乞降、十乗床上、鎮扇五日之風、三密
P476
壇前、遙濯十旬之雨者、依衆徒僉議執達如件、
寿永二年七月日 大衆等
木曾冠者牒を見て、大に悦で、もとより語ふ所の悪
僧白井法橋幸明、慈雲房法橋寛覚、三神闍梨源慶等
を先として登山す、平家又是をも知らずして、興福
寺園城寺は大衆憤りを含みたる折節なれば、語ふと
もなびくまじ、山門は当家の仇を結ばず、当家又山
門のために不忠を存ぜず、山王大師に祈請して三千
の衆徒を語らはばやとて、一門卿相十余人同心連署
して、願書を山上へ送、其状云、
敬白
可以延暦寺帰依准氏寺以日吉神尊崇
如氏社一向仰天台仏法事
右、当家一族之輩、殊有祈請、旨趣何者、叡山者
桓武天皇御宇、伝教大師入唐帰朝後、弘円頓教法
於斯処、伝舎那大戒於其中以来、為仏法繁昌
之霊跡久備鎮護国家道場、方今伊豆国流人前

右兵衛権佐源頼朝、不悔身過、還嘲朝憲、加之
与奸謀致源氏義仲行家以下凶党同心、抄掠数
国土貢、押領万物、因茲且追累代勲功之蹤、且
任当時弓馬之芸、速追討賊徒、可降伏凶党之
由、苟〓勅命頻企征伐、魚鱗鶴翼之陣、官軍不
得利、星旗電戟威、逆徒似乗勝、若非仏神之
加被、争鎮叛逆之凶乱、是以一向帰天台之仏法、
不退恃日吉之神恩而已、何況忝憶臣等之曩祖、
可謂本願余〓、弥々可崇重、弥々可恭敬、自今以
後、山門有慶為一門之慶、社家有鬱、為一家
之鬱、付善付悪成喜憂、各伝子孫、永不失墜、
藤氏者以春日社興福寺、為氏寺氏社、久帰依
法相大乗宗、当家者以日吉社延暦寺、如氏社氏
寺、親値遇円実頓悟之教、彼者遺跡也、為家思
栄幸、是今之精祈也、為君請討罰、仰願山王七社
王子眷属、東西満山護法聖衆、十二上願、医王善逝、
日光月光、十二神将、照無二之丹誠垂唯一之玄
P477
応然則邪謀逆心之賊、束手於軍門、暴虐残害之
徒、伝首於京都、我等精苦、諸仏神其捨給哉、仍当
家公卿等、一口同意作礼、而祈請如件、敬白、
寿永二年七月日
従三位行右近衛権中将平朝臣資盛
従三位平朝臣通盛
従三位行右近衛権中将兼丹波権守
平朝臣維盛
正三位行左近衛権中将兼但馬守平朝臣重衡
正三位右衛門督平朝臣清宗
参議正三位行太皇太后宮権大夫兼
修理大夫備前権守平朝臣経盛
征夷大将軍従二位行権中納言兼
左兵衛督平朝臣知盛
従二位行中納言平朝臣教盛
正二位行権大納言兼
陸奥出羽按察使平朝臣頼盛
前内大臣従一位平朝臣宗盛
近江国佐々木庄領家預所得分等、且為朝家安穏
且為資故入道菩提、併所回向千僧供料候也、

件庄早為寺家御沙汰可令知行給候、恐々謹
言、
七月廿九日 平宗盛
謹上 座主僧正御房
とぞ書たりける、大衆を語ひし事は、延暦二年伝教大
師当山に上り給ひて、鎮護国家の道場を開、一乗円
宗の教法を弘め給しより此かた、仏法さかりにして
王法を守奉る事年久し、然るを此二三年が間東国北
国の凶徒等、多くの道々をふさぎ、国税官物を不奉、
庄には年貢所当をよくりうし、朝家を敵として綸言
に随はず、剰へ都へ攻上らんとす、防戦に力既に尽
ぬ、仍神明の御資にあらざらんよりは、争か悪党を退
けん、山王大師憐みを垂給へ、三千の衆徒力を合せよ
と也、是を聞人々したしきもうときも、心あるも心
なきも涙をながし、袖をしぼらぬはなかりけり、さ
れども年頃日頃のふるまひ、神慮にも叶はず、人望
も背き果しかば、力及ばず、既に源氏同心の返牒を
P478
送る、かるがるしく今又其儀を変るに能はず、誠に
さこそはとて大衆事のよしを憐みけれども、許容す
る衆徒もなかりけり、かかりければ人口のにくさは
あは面白き事を、源氏は勢も多く手もきき心もたけ
かんなれば、一定源氏勝て平家まけなんずとて、己が
上に徳つき官なりたる様に、面々にささやき悦びけ
るぞ浅ましき、十八日、肥後守貞能鎮西より上洛、
西国の輩謀叛の由聞えければ、其儀鎮めん為に、去
去年下りたりけるに、菊池次郎城郭を搆へてたて籠
る間、輙くせめ落し難く有りけるに、貞能九州の軍
兵を催してこれをせむる、軍兵多く打落されてせめ
戦に力なし、ただ城を打囲て守る、日数積りにけれ
ば、城の内に兵粮米つきて菊池終に降人になりにけ
り、貞能九国に兵粮米あて催す、庁官一人宰府使二
人貞能使一人其従類八十余人、権門勢家の庄園をい
はず責催す、菊池原田が党類帰伏す、彼等を相具し
て今日入洛す、未尅ばかりに八条を東へ河原を北へ、

六はらの宿所へ着にけり、其勢僅に九百余騎千騎に
足らざりけり、前内大臣宗盛車を七条に立てて見給
へり、鎧着たる者二百よき、其中に前薩摩守親頼う
す青のすずし、ぎよれう[* 「ぎよれう」に「魚綾」と振り漢字]の直垂に赤威の鎧着て、白
蘆毛なる馬に乗て、貞能が屋形口にうちたりけり、
預刑部卿憲方孫相模守頼憲が子也、勧修寺の嫡々な
り、指武勇の家に非ず、こはいかなる事ぞやと見る
人ごとにそしりあへり、今日の武士には目もかけず、
ただ此人をぞ見ける、西国は僅に平ぎたれども、東
国は弥勢付て、すでに都へ打上ると聞えしかば、平
家次第に心よわくなりて、防ぎ支へる力もつきて都
にあとを留め難ければ、内をも院をも引具し参らせ
て、一まどなりともたすかりやすると、西国の方へ落
行給ふべきよしをぞ議せられける、
七月十三日、暁より何といふ事は聞分けねども、六
波羅の辺大に騒ぐ、京中も又静かならず、資財雑具
東西に運び隠す、こはいかにしつる事ぞやとて、魂
P479
をけす事斜ならず、大方は帝都は名利の地鶏鳴安思
なしといへり、治れる世だにも此の如し、況んや乱
れたる時は理也、吉野の奥までもいらまほしく思へ
ども、諸国七道一天四海の乱なれば、深山遠国もい
づくの浦かおだしかるべき、三界無安、猶如火宅、
衆苦充満、甚可怖畏と説き給ふ、如来の金言一乗の
妙文なり、なじかは違ふべきや、如何して此度生死
をはなれて、極楽浄土へ往生すべきとぞ歎きあへり
ける、此暁俄にさわげる事は、美濃源氏佐渡右衛門
尉重実といふ者あり、一年筑紫八郎為朝が、近江国北
山寺に隠れて有りけるを搦めて出しけるに依て、右
衛門尉になり、源氏にはなたれて平家にへつらひけ
るが、乗かへ一騎ばかり相具して、瀬多を廻りて夜半
ばかりに六はらに馳上て、北国の源氏既に近江の国
へ打入て、道々をうちふさぎ、人を通さざるよしを申
たりければ、六波羅京中騒ぎあへり、かかりければ新
三位中将資盛卿大将軍として、貞能以下宇治橋をめ

ぐりて近江国へ下向す、其夜は宇治にとどまる、其
勢二千余騎、又新中納言知盛卿、本三位中将重衡大将
軍として瀬多より近江国へ下向す、それも今夜は山
科に宿す、其勢三千余騎、去程に源氏の大衆と同心
してしかば、宇治勢多をば廻らずして、山田、矢馳、
堅多、多木の浜、三津、河尻所々の渡より、小舟をま
うけて湖の東浦より西浦へ押渡して、十日は林六郎
光明を大将軍として、五百余騎天台山へ競ひあがる、
惣持院を城郭とす、三塔の大衆同心して、ただ今大
嶽を下て平家を討とすとののしる、凡東坂本には、
源氏の後陣じうまんせり、此上は、新三位中将も宇
治より京へせめ入、本三位中将も山科より都へせめ
入ぬ、又、十郎蔵人以下摂津国河内のあぶれ源氏ど
も、河尻、渡辺を打ふさぐとののしる、足利判官代義
清も丹波に打越えて、大江山生野の道をうちふさぐ
と聞ゆ、かかりければ平家の人々色を失ひて、さわ
ぎあひけり、権亮三位中将維盛北方にのたまひける
P480
は、我身は人々に相具して都を出べきにて候ぞ、い
かならん野のすゑ山のすゑまでも、相具し奉るべき
にてこそ候へども、おさなき者ども候へば、いづくに
落付べきともなき旅のそらに出て、波にただよはん
こと心うし、行先にも源氏道をきりてうち落さんと
すれば、おだしからんことも有がたし、世になきも
のと聞なし給ふとも、あなかしこあなかしこ、さまなどやつ
し給ふべからず、いかならん人にも見え給ひて、幼
きものどもをはごくみ、我が身もたすかり給へ、あ
はれいとをしといふ人もなどかなかるべきとのたま
へば、北の方是を聞給て、袖を顔におしあてて、と
かくの返事もし給はず、引かづきてふし給ぬ、やや
久しくありて起上りてのたまひけるは、日頃は志浅
からぬやうにもてなし給ひければ、人しれずこそ深
く頼み奉りしに、いつの間にかはりける御心ぞと恨
めしけれ、いかならん所へも伴ひ奉りて、同野の露
ともきえ、同底のみくづともなりなん事こそ本意な

れ、父もなし母もなし、あはれをかくべき親しき方
もなし、人を頼み奉るより外は又頼む方なし、先世
の契りあれば、御身濁りこそあはれと思ひ給ふとも、
人ごとに情をかくべきに非ず、いかならん人にも見
えよなど承る事の恨めしさよ、別奉らん後は又誰に
かはみえ候べき、幼き者共も打捨られ奉らせては、い
かにして明し暮し候べき、誰かはごくみ誰か憐むべ
しとて、か様に留め置き給ふやらんとて、涙もかき
あへずなき給へば、三位中将又のたまひけるは、誠
に人は十四維盛は十六の年より見そめ奉りて、今年
は十年になりぬとこそ覚ゆれ、火の中水の中にもい
らばともに入、沈まばともに沈み、限ある道にも後
れ先立ち奉らじとこそ思ひつれども、かく心うき有
様にて合戦の道に思ひ立ちては、ながらへん事も不
定なり、行衛も知らぬ旅の空にてうきめを見せ奉ら
ん事も、心苦しなど思ふ故にてこそあるに、かやう
に怨給ふこそ立別れ奉る悲しさにまさりて、心苦し
P481
く覚ゆれとてなき給ふ、若君姫君のさうにまします
も、女房どもの前に並居たるも、是を聞て声ををし
まずなき合ひけり、げにことわりと覚えて哀也、此
北の方と申は、中御門新大納言成親卿の御娘也、容
顔世に越えて心優におはしますことも、尋常にはあ
り難し、かかりければ、なべての人にみえん事いたは
しく覚されて、女御后にもと父母思ひ給けり、かく
聞えければ、人々哀と思はぬはなかりけり、法皇此
よし聞召て、御色に染める御心にて忍びて御書あり
けれ共、是もよしなしとて御返事申させ給はず、
雲井より吹来る風のはげしくて
涙の露のおちまさるかな W102 K132
と口ずさみ給ひけるこそやさしけれ、父成親卿法皇
の御書ありけるよし聞給て、あわて悦び給けれども、
姫君あへて聞入給はねば、親のため不孝の人にてま
しましける也、父子の儀おもひけるこそ悔しけれ、
けふより後は父子のちぎりはなれ奉りぬ、御方へ人

行通ふべからずとのたまひければ、上下恐れ奉りて
通ふ人もなし、めのとごの兵衛佐と申ける女房一人
ぞわづかに許されてかよひける、是に付きても姫君
は世のうき事を御もとゆひにてすさみ給ける
結びつる歎きもふかき元結に
ちぎる心はほどけもやせし W103 K133
と書きて引むすびてすてたまひけり、兵衛佐是を見
て後にこそ思ふ人ありともしりにけれ、色に出ぬる
心の中をいかでか知るべきと、さまざま諌め申ける
は、女の御身とならせ給ては、かやうの御幸をこそ
神にも祈り、仏にも申させ給て、あらまほしき御事に
て候へと申ければ、姫君涙を押へて、我身には人し
れず思ふ事あり、いく程ならぬ夢幻の世の中に、つ
きせぬ思ひの罪ふかければ、何事もよしなきぞよと
て引かづきてふし給ふ、兵衛佐申けるは、幼きより
立去る方もなくなれ宮仕ひ奉るに、かく御心置せ給
ひけるこそ心うけれと、さまざまに終夜恨み奉けれ
P482
ば、姫君まげてありし殿上人の宴醉に見初めたりし
人の、ひたすら愛顕ていひし事を聞かざりしかば、此
世ならぬ心の中をしらせたりしかば、いかばかりか
くと聞かば、歎かんずらんと思ひてぞよとのたまへ
ば、小松殿の公達権亮少将殿こそ申させ給ふと聞し
が、さては其御事にやと兵衛佐思ひて、小松殿へ忍
で参りてしかじかの御事など申ければ、少将さるこ
とありとて、忍びやかに急ぎ御車を遺はして迎へ奉
りけり、年ごろにもなり給にければ、若君姫君まう
け給へる御中なり、若君は十歳姫君は八にぞ成給け
る、我をば貞能が五代とつけたりしかばとて、是を
ば六代といはんとて、若君をば六代御前とぞ申ける、
姫君をば夜叉御前とぞ聞えし、
廿四日亥の刻計りに主上忍びて六はらに行幸あり、
れいよりも人少にて、こといそがはしく人々あわて
さわぎたり、ある北面下臈法住寺殿へ馳参て、潜に
法皇に申けるは、小山田別当有重とて相親しく候が、

此二三年平家に番勤め候けるが、唯今語申候つる平
家の殿原は、暁西国へ落らるべく候とて、以外にひ
しめき候なるが、ぐし参らせんとて既に公家を迎へ
参らせて候也、君をば程近う渡らせ給へば、安しき
と渡し参らせよとて、人々少々参候よし申ければ、
法皇は御心よげなる御気色にて嬉しう告げ申たり、
此事又人に語るべからず、御はからひあるべしと仰
の有けるを、承りもはてず、いそぎ御所をばまかり
出にけり、其後に夜ふくるほどに、内大臣は薄塗の
烏帽子に、白帷子に大口ばかりにて、ひそかに建礼門
院御方に参りて申給ひけるは、此世の中さりともと
こそ思ひつれども、今はかなふまじきにこそ候ぬれ、
都の中にて最後の合戦して兎も角もならんと申さる
る人も候へども、それも然るべしとも覚え候はず、
主上の御行衛君の御有様、いといたはしく忝く思ひ
参らせ候へば、かなはざらんまでも、西国の方へお
もむきて見候ばやとおもひ候、主上皇宮をも具し奉
P483
り参らせ候はんずれば、鎮西の輩よもそむき候はじ、
源氏はいみじく都へ入て候とも、誰をか頼み候べき、
唯天を仰で主なき犬のやうにてこそ候はんずれ、其
の時にならば与力のやつばらも、一定心がはりして
思ひ思ひになり候はんず、其後は主上都へ帰し入参
らせ候べきよし存候と申されければ、女院は御涙に
むせばせましまして、兎も角もただよき様にとぞ仰
ありける、内府又申されけるは、主上の御事はさる
事にて、儲君の二宮をも具し参らせ候へ、やがて法
皇をもぐし参らせ候べし、院、内をだにも方人にとり
参らせ候なば、いづくへまかりたりとも、世の中は
せばかるまじ、源氏の奴原いかに狂ひ候とも、誰を
方人にしてか世をも取候べきなど申て、其夜は女院
の御前に、終夜越方行末の事共細々と申承に付ても、
御袖もいたく萎れにけり、女院は御衣の袂に余る御
涙、いとどところせきてぞ見えさせ給ける、秋の長
夜の明方ちかくぞなりにける、さても同夜半計に法

皇密に殿上に出御ありて、今夜の番は誰そと御尋あ
り、左馬頭資時と申されたりければ、北面に伺公し
たらん者、皆召して参れと御定あり、壱岐判官知康、
薩摩判官信盛、源内左衛門尉定安候けるを、資時召し
て参られたりけるを、やおのれらは是にあれ、ただ
今きと忍びてあるかばやと思ふぞ、かやうの事を下
臈に聞かせければ、披露する事もあり、各々心を一に
して此女房ごし仕れと法皇仰せありければ、御前立
さらば後あしき事もこそあれとて、各々畏て頓て御輿
をつかまつる、下すだれかけられたり、西の小門と仰
ありて出させまします、浄衣着たる男一人参りあふ、
あれは誰ぞと申ければ、為末と名乗る、法皇聞召し
しらせ給て、御供仕れと仰ありければ、参りけり、
年来伊勢氏人為末とて北面に候ける者也、七条京極
を北へいそげと仰せ有りければ、各々あせ水になりて
仕る、為末近き御幸かとおもひたれば、遠き御幸に
てありけるよとて、知りたる人を尋ぬるに二所まで
P484
空し、二条京極にて、征矢に黒ぬりの弓をかりえて、
浄衣のそばたかくはさみてはしる、これを待ちつけ
んとや思召けん、いそがずともくるしきにと仰有り、
一条京極にて弓のつるつけするおと聞ゆ、其こゑい
かめしく聞ゆ、院は糺の明神をふし拝ませ給て、東
のしらむほどになりにければ、法皇御後を御覧ずれ
ば、為末矢おひながら脇ごしに参るぞ、頼もしき武
者かなと仰ありて笑はせ給けり、かくて夜もほのぼ
のと明ければくらま寺へぞ入せ給ける、
廿五日、橘内左衛門尉季康と申ける平家の侍は、院
にも近く召仕はれければ、折しもその夜法住寺殿に
うへぶしたりけるが、常の御所のかたさわがしくさ
さめき合ひて、しのび声にて女房たちなかるる声の
しければ、怪しと思ひて聞ければ、御所の渡らせ給
はぬは、いづちへやらんとて騒ぎあへり、季康浅ま
しと思ひて、急ぎ六波羅へはせ参りたり、内府はい
まだ女院の御所より出給はぬほど也、やがて女院の

御所へ参りて、内大臣殿呼び出し奉りて此由を申、
内府大にあわてさわぎて、ふるひ声にてよもさる事
あらじ、ひがごとにてぞ有るらんとのたまひながら、
急ぎ法性寺殿へ馳参り給ひて、尋ね参らせられけれ
ば、夜番近く候はれける人々皆候はれけり、まして
女房丹後のつぼねを始めとして、一人もはたらき給
はず、大臣殿、君は何処に渡らせ給ふぞと申されけれ
ども、我こそ知り参らせたれといふ人もなし、ただ
各々なきあへり、浅ましなど云ばかりなし、去程に夜
も明ぬ、法皇渡らせ給はずと披露ありければ、上下
諸人はせ集りて、御所中まどひさわぐ事斜ならず、
まして平家の人々、唯今家々にかたきのうち入たら
んも限りあれば、これには過じとぞ見えし、軍兵落
中に充満してありければ、平家の一門ならぬ人も、さ
わぎ迷はぬは一人もなかりけり、日比は法皇の御幸
をもなし奉らんと、支度せられたりけれども、かく
渡らせ給はねば、内府は頼む木下に雨のたまらぬ心
P485
地して、さりとては行幸ばかりなりともなしまいら
すべしとて、御輿さしよせたり、忝き鳳輦を西海の
浪にいそぐべきにはあらねども、主上いまだいとけ
なき御よはひなれば、何心なく奉りぬ、神璽宝剱と
り具し、建礼門院も同じ輿に奉る、内侍所も渡し奉
りぬ、印鑑、時簡、玄上、鈴鹿に至る迄、とり具すべ
しと平大納言時忠下知し給ひけり、されどもあまり
にあわてにければ、とりおとす物多かりけり、昼御
座の御剱も残しとどめてけり、御輿いださせ給ひけ
れば、前後に候人は、平大納言時忠、内蔵頭信基ば
かりぞ、衣冠正しうして供奉したりける、其外の人
人は、公卿も近衛司も、御綱佐も皆鎧を着給へり、
女房は二位殿をはじめ奉りて、女房輿十二ちやう、
馬の上の女房は数をしらず、七条を西へ朱雀を南へ
行幸なる、夢などの様なりし事どもなり、一年都う
つりとてあはただしかりし御幸は、かかるべかりし
しるしにてありけるよと、今こそ思ひ合すれ、かかる

さわぎの中に何者かたてたりけん、六はらの惣門に
札に書てたてけるは、あづまよりともの大風吹来れば
西へかたぶく日にやあるらん W104 K134
六波羅の旧館西八条の蓬屋よりはじめて、池殿、小
松殿以下の人々の宿所三十余所、一度に火をかけた
れば、余炎数十町に及びて、日の光も見えざりけり、
或階下誕生の霊跡、龍楼幼稚春宮、博陸補佐の居所、
或相府丞相旧室、三台槐門の故亭、九棘怨鸞の栖也、
門前繁昌堂上栄花砌、如夢如幻、強呉滅長有荊蕀、
姑蘇台之露〓々、暴秦衰長無虎狼、咸陽宮之煙片々
たりけん、漢家三十六宮の楚項羽の為に亡されけん
も、是には過じとぞ見えし、無常春花随風散、有涯
暮月伴雲隠、誰栄花如春花不驚、可憶命葉与
朝露共易零、蜉蝣戯風懇逝之楽幾許、螻蛄諍露
合散之声伝韻、崑閣十二楼上仙之楼終空、雉蝶一万
里中洛之城不固、多年経営一時魔滅、法皇仙洞を出
P486
させおはしまして見えさせ給はず、主上は鳳闕を去
て、西国へとて行幸なりぬ、関白殿は吉野山の奥に
籠らせ給ぬと聞ゆ、院宮みやばらは、嵯峨、大原、八
幡、賀茂などの片辺にかくれさせ給ひぬ、平家は落
ちたれども、源氏もいまだ入かはらず、此都すでに
主もなし、人もなきやうにぞなりにける、天地開闢
より以来、いまだかかる事あるべしとは誰かしらま
し、彼聖徳太子の未来記にも、今日の事こそゆかしけ
れ、平相国禅門をば八条太政大臣と申き、八条より
北、坊城より西方に一町の亭有し故也、彼家は入道
の失せられし暁にやけにき、大小棟の数五十余に及
べり、六波羅とてののしりし所は、故刑部卿忠盛の
世にいでし吉所也、南は六はらが末、賀茂河一町を隔
てて、もとは方一町なりしを此相国の時造作あり、
これも家数百七十余宇に及べり、是のみならず、北
の鞍馬路よりはじめて、東の大道をへだてて、辰巳
の角小松殿まで廿余町に及ぶ迄、造作したりし一族

親類の殿原の室、郎等眷属の住所細かにこれをかぞ
ふれば、五千二百余宇の家々一どに煙と上りし事、
おびただしなどいふばかりなし、法住寺の院内ばか
りは「しばしやけざりければ、仏の御力にて残るかと
思ひしほどに、筑後守家貞が奉行にて、故刑部卿忠
盛、入道相国、小松内府の墓所どもを掘りあつめて、
かの御堂の正面の間に並べ置きて、仏と共にやきあ
げて、骨をば首にかけ、あたりの土をばなら[B がイ]し、家貞
主従落ちにけり、此寺は入道相国、父の孝養のために
多年の間造磨て、代々本尊木像と云、画像と云、烏瑟
を並べ金客を交てましまししが、荘厳美麗にして時
にとりてならびなし、今朝まで住侶貝を吹、禅侶声を
ならし、たうとかりし有様の、須臾の間に永く絶に
けり、されば仏のとき置きたまへる畢竟空の理は是
ぞかし、あはれ也、諸行無常眼前なり、権亮三位中
将の方に人参りて申けるは、源氏既に打入て候、暁
より法皇も渡らせ給はずとて、六波羅にはあわて騒
P487
ぎ、西国へ行幸ならせたまひ候、大臣殿以下の殿原、
我も我もとうち立ち給ふに、いかに今までかくて渡
らせ給ふぞと申ければ、三位中将は、日頃おもひ儲
たりつる事なれども、さしあたりては、あな心うやと
おもひ給ひて出給ひぬ、つかの間もはなれがたき人
人を、頼もしき人一人もなきに、捨てて出なんずる
事こそ悲しけれと思召すに、涙先立ちてせきあへ給
はず、北の方おくれじと出立給へども、兼て申しや
うに具し奉りては人のためいとをしきぞ、ただ留り
給へとのたまへば、いかにかくはのたまふぞとて、涙
もせきあへずさけび給へば、さまざまに拵へ給へど
も更に叶ふべくもなし、程もふれば、大臣殿さらぬ
だに、維盛をば二ある者とのたまふなるに、今まで
打出ねば、いとどさこそ思ひ給ふらめとて、なくな
く出給へば、北の方袖をひかへてのたまひけるは、
父もなし母もなし、都に残し留めては、いかにせよ
とてふりすてて出給ふぞ、野の末、山のすゑまでも、

引具してこそともかくも見なし給はめとて、人目を
つつまずなきこがれ給ふぞ心ぐるしき、さりとては
いづくにも落留まらん所より、急ぎ迎へとり参らせ
んとなぐさめ給ふほどに、新三位中将、左中将以下の
弟たち四五人はせ来りたまひて、我等は此御方をこ
そ守り参らせ候に、行幸は遙かに延びさせ給ふに、
いかなる御遅参ぞやとのたまへば、弓の筈にてみす
をかきあげて、これ御覧ぜよとのばら、ただ軍の先
をこそかけめ、是をばいかがやるべきとて、弟なん
どにもはばからず涙をぞながされける、さても有る
べきにあらねば、思ひきりて出給けり、中門廊にて
鎧取てきて馬引寄せて、既に打出んとし給ひければ、
六代御前姫君中門に走り出、鎧の左右の袖に取つき
て、父御前はいづくへわたらせ給ふぞや、我等も参
らんとて慕ひ給ひしこそ、げにうき世のほだしとは
見えけれ、誠に目もあてられずぞ有ける、斎藤五宗
貞、斎藤六宗光とて、年来身近く召仕ひ給ふ侍あり、
P488
兄弟也、中将此二人を召してのたまひけるは、己等
をば年頃かげの如く、身をはなさず召仕つれば、召
ぐしていかにもなりたらん所にて、恥をも隠させん
とこそ思ひつれども、いとけなき者ども留置くが覚
束なければ、己等二人は留りておさなき者どもの杖
柱ともなり、もし安穏にて帰る事あらば、汝等西国
へ下らん志にはおもひ落すまじきぞ、己等ならでは
此等がために心ぐるしかるべきぞと、こしらへ給へ
ば、二人の者どもくつばみの左右にとりつきて申け
るは、君に仕へまゐらせしより、もしもの事あらば、
いのちをすて候はんと思ひきりて候き、こんどすて
られまいらせば、ほうばいに再おもてをあはせ候な
んや、理をまげて御供に候べしと申ければ、多くの
者共の中に思ふ仔細ありてこそ留めおけ、など口を
しくかくは申やらん、かかるをりふしなれば、ただ
とてもかくても思ふにやとうらみたまへば、心うく
悲しくは思ひけれども、涙を押へながら留りぬ、遙に

見送り奉りて、なほも走りつきてしたひけれども、
まこと思召すやうのありてこそ留め給ふらめ、しき
りにこしらへ給へる事を、そむき申さん事もかへり
て不忠なるべければ、追こそまいらめと思ひて、な
くなく留りにけり、中将はかく心づよくふりすて出
給ひけれども、なほさきへは進み給はず、うしろへ
のみ引返すやうに覚えて、涙にくれて行先も見え給
はず、鎧の袖もいたくしほれにければ、弟たちの見
給ふもさすがつつましくぞ思召す、北の方は年頃あ
りつれども、これ程なさけなき人とはしらざりけり、
いつよりかはりける心ぞやとて、引かづきてふし給
へば、若君姫君も前にふしまろびてなき給ふ、かく
捨られ給ひぬれば、いかにして片時もあかし暮すべ
しともおぼしめさず、世の恐しさも堪へ忍ぶべき心
地もし給はず、身一人ならばせめてはとにもかくに
もありなん、幼き人々の事を思ひ給ふぞ、いとど道
せばくかなしかりける、池大納言頼盛は、池殿に火
P489
かけて子息保盛、為盛、仲盛、光盛等引具して打出ら
る、侍ども皆おち散りて、わづかに其勢百騎、鳥羽
の南の赤井河原に暫くやすらひており居られ、大納
言四方を見廻してのたまひけるは、行幸にはおくれ
ぬ、かたきは後にあり、中空なる心地のするはいか
にとの原、此度などやらんにげ憂きぞとよ、ただ是
より帰らんと思ふなり、都にては弓矢とりの浦やま
しくもなきぞ、されば故入道にも従ひてしたがはざ
りき、さうなく池殿を焼つるこそ返々もくやしけれ、
いざさらば京の方へ鎧をば各々用意のために着るべ
し、人は世にあればとて、奢るまじかりけることか
な、入道のすゑは今はかうにこそあんめれ、いかに
もはかばかしかるまじ、都を迷ひ出ていづくをはか
りともなく、女房をさへ引ぐして旅立ぬる事の心う
さよ、侍ども皆赤印取すてよとのたまひければ、と
かくする程に、未の時ばかりになりにけり、京へ今
は源氏打入ぬらん、いづちへか入らせ給ふべきとさ

ぶらひども申ければ、何様にも京を離れてはいづち
へか行べき、とくとくとて大納言前に打て馬を早め
て帰給ふ、みるもの怪しくぞ思ひける、九条より朱雀
を上りに、八条女院御所、仁和寺の常葉殿へ参り給
ふ、大納言は女院の御めのと子、宰相殿と申女房に相
ぐせられたりければ、此御所へ参らるる、女院より
始め参らせて女房たち侍ども、いかに夢かやと仰あ
り、大納言は鎧ぬぎ置給ひて、直垂計りにて御前近く
申されけるは、世の中の有さまただ夢のごとくにて
候、池殿に火をかけて心ならず打出て候つれども、
つらつらあんじ候へば、都に留りて君の見参にも入、
出家入道をも仕りて、静に候て後生をも助からんと
存候て、かく参りて候と申されければ、女院、三位殿
を御使にて、誠にそれもさる事なれども、源氏既に
京へ入て平家を亡すべしと聞ゆ、さらんにとりては、
此内にてはかなふまじ、世の世にてあらばや、仰も
仰にてあらめと仰ありければ、頼盛畏て申されける
P490
は、誠に左様の事になり候はば、いそぎ御所をもま
かり出候なん、なじかは御大事に及候べきと申され
ければ、女院又いかにもよくよく相はからはるべし、
但源氏とののしるは、伊豆の兵衛佐ぞかし、それは
のぼりぬるやらん、のぼりたらばさりともよも別事
あらじ、かしこくこそ故入道と一心におはせざりけ
れ、今は人もよし、平家の名残とて世におはしなん
ずと仰の有ければ、頼盛世にあらんと申候はんでう
今何事か候べき、ただ今落人にてここかしこさまよ
ひ候はんことのかなしさにこそ、かやうに参りて候
へ、故母池尼上が事申出して、其かたみと頼朝は思
はんずるぞ、世にあらんと思ふもその為也と、頼朝が
度ごとに申遣はして候し也、其文どもこれに持ちて
候とて、中間男の首にかけさせたる皮袋よりとり出
して見参に入られけり、同じ筆なるもあり、またかは
りたるもあり、然れども判はいづれもかはらずと御
覧あり其上討手づかひ上るにも、あなかしこあなかしこ、

池殿の殿原に向ひて弓をも引くべからず、弥平佐衛
門宗清に手かくなと、国々軍兵にも兵衛佐いましめ
られけるとかや、越中次郎兵衛盛次、大臣殿御前に
進み出て申けるは、池殿は留まらせ給ひ候にこそ、
あはれ安からず口惜く候ものかな、上はさる御事に
候とも、侍共が参り候はぬこそいこんに候へ、矢一射
かけて参り候はんと申ければ、中々さなくともあり
なん、年比の重恩をわすれて、いづくにもおちつか
ん所を見送らずして、留まる程の者は、源氏とても心
ゆるしせじ、さほどの奴ばらありとてもなににかは
せん、とかくいふに及ばずとぞ大臣殿のたまひける、
三位中将はいかにと問たまひければ、小松殿の公達
もいまだ一所も見えさせ給はずと申ければ、さこそ
有んずらめとて、よに心細げにおぼして、御涙の落
ちけるを押のごひ給ふを、新中納言見給ひて、皆お
もひまうけたる事也、今更驚くべきに非ず、都を出
ていまだ一日だにも過ぬに、人々の心も皆かはりぬ、
P491
行先こそおし計らるれ、都にていかにもなるべかり
つる物をとて、大臣殿の方を見やり給て、つらげに
おほされたり、げにもと覚えて哀也、去程に、権亮
三位中将維盛、新三位中将資盛、左中将清経以下兄
弟五六人引ぐして、淀東、六田河原を打過て、関戸院
のほどにて行幸に追ひ付給へり、其勢僅に三百騎ば
かりぞありける、大臣殿は此人々を見つけ給ひて、
すこし力付きたる心地して、今まで見え給はざりつ
れば、覚束なかりつるに、うれしくもとのたまひけ
れば、三位中将幼き者どものしたひ候つる程に、今
までとて御涙の落けるを、さりげなき様に紛らかし
給ける有様、まことに哀にぞみえける、大臣殿又いか
に具し奉り給はぬぞ、留置き奉りては心ぐるしき事
にこそとのたまへば、行末とてもたのみ候はずとて、
問につらさといとど涙ぞ流しける、池大納言の一類
は、今や今やと待給けれども終に見え給はず、其外
の公卿には、前内大臣宗盛、平大納言時忠、平中納

言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、左衛門督清
宗、本三位中将重衡、権亮三位中将維盛、越前三位
通盛、新三位中将資盛、殿上人には、内蔵頭信基、
皇后宮亮経正、左中将清経、薩摩守忠度、小松少将
有盛、左馬頭行盛、能登守教経、武蔵守知章、備中
守師盛、小松侍従忠房、若狭守経俊、淡路守清房、
僧綱には、二位僧都全親、法勝寺執行能円、中納言
律師忠快、侍には受領、検非違使、衛府、諸司亮、百
六十余人、無官の者数を知らず、此二三ヶ年の間、
東国北国度々の合戦に皆討れたるが、僅に残る処也、
其時近衛殿下と申は、普賢寺内大臣基通の御事也、
太政入道の御聟にて平家に親み給たりける上、法皇
西国へ御幸なるべきよし聞えければ、摂政殿も御供
奉あるべきよし御領状ありければ、内大臣殿より已
に行幸なり候ぬと告げ申されたりければ、摂政殿御
出ありけれども、法皇の御幸もなかりければ、御心
中に思召し煩はせたまひけるに、御供に候ける進藤
P492
左衛門尉頼範が、法皇の御幸もならせ給候はず、平家
の人々も多く落ち留らせ給ひ候ぬ、これより還御あ
るべくや候らんと申たりければ、平家の思はん所は
いかがあるべきと御気色ありければ、頼範しらぬ顔
にて頓て御車を仕る、御牛飼に目を見合せたりけれ
ば、七条朱雀より御車をやり返す、一ずはえへあてけ
れば、究竟の牛にてありければ、飛がごとくにて、朱
雀を上りに還御なりにけり、平家の侍越中次郎兵衛
盛次これを見奉て、殿下も落させ給ふにこそ口をし
く候ものかな、留め参らせ候はんと申ままに、片手
矢はげて追ひかけけり、頼範返合せて戦けるを、大
臣殿見給て、年頃の情を思ひ忘れて、落ん人をばい
かでもありなん、一門の人々だにもあまたみえたま
はず、せんなしとよと制し給ひければ、盛次引帰に
けり、摂政殿へ都へは帰らせたまはで、西林寺とい
ふ所に渡らせたまひて、それより知足院へぞ入せた
まひける、是を知らずして、摂政殿は吉野の奥へと

ぞ申あひける、河尻に源氏廻りたりと聞えければ、
肥後守貞能馳向たりけるが、僻事にてありければ、帰
り上りけるに、此人々の落たまふに行合ひけり、貞
能はこむらごの直垂に、黒かは威しの鎧着て、大臣
殿の御前にて馬より下りて、弓脇にはさみて、爪弾
をして申けるは、あな心うや、これはいづちへとて
渡らせ給ふぞや、都にてこそとにもかくにもならせ
給はめ、西国へ落させ給たらば、遁れさせ給べきか、
又たひらかに落着かせたまふべしとも覚え候はず、
落人とてここかしこにうち散らされて、かばねを道
の辺りにさらしたまはん事こそ心うけれ、こはいか
にしつることぞや、新中納言、本三位中将殿引返ら
せたまへ、興あるいくさ仕て、後代の物語にせさせ
候はん、弓矢取る習ひ、かたきに討るる事全く恥にて
非ず、何事も限り有る事なれば、平家の御運こそつき
させ給ひぬらめ、さればとてかなはぬもの故、かた
きに後を見えんことうたてく候と申ければ、新中納
P493
言は大臣殿の方をにらまへて、誠に心うげに思ひた
まへり、大臣殿のたまひけるは、貞能はまだ知ぬか、
源氏天台山に上りて谷々に充満したん也、此夜半ば
かりより、院も渡らせ給はず、各々が身一ならばい
かがはせん、女院二位殿を始め奉て、女房あまたあ
り、忽にうきめをみせん事もむざんなれば、一まど
もやと思ふぞかし、かつうは又、禅門名将の御墓所に
まうでて、思ふほどのことをも申置きて、塵灰とも
ならばやと思ふ也とのたまへば、貞能又申けるは、
弓矢取習ひ、妻子を憐む心だに候へば、おもひきら
ぬ事にて候、さこそ夥しく聞え候とも、源氏忽によ
もせめ寄り候はじ、又法皇をばいかにして逃し参ら
せて、渡らせたまふにか、よひより参りこもらせ給
ひて、御目をはなち参らせでこそすすめ申させたま
ふべく候けれ、季康などぞ告げ申て候らん、さりと
も女房達の中に知り参らせぬ事はよも候はじ、足を
はさみてこそ糾問せさせ給ひ候はめ、季康が妻と申

候奴は、御内には候はざりけるか、しやつが中げん
にてぞ候らん、憎さはにくし、貞能に於てはかばね
を晒すべしとて帰上る、盛次、景清、同貞能につきて
帰上る、其勢二千余騎ばかりぞ有ける、義仲これを
聞て申けるは、貞能が最後の軍せんとて、かへり上
りたるこそ哀なれ、弓矢取の習さこそあるべけれ、
相構へて生捕にせよとぞ下知しける、酉の時まで待
てども待てども大臣殿以下の人々帰り上り給はず、今朝
家々は皆焼ぬ、何に着べしともなくて法住寺の辺に
一夜宿す、貞能都へ帰り上りぬと聞えける上、盛次、
景清大将軍として都に残り留る、平家ども討べしと
聞えければ、池大納言は色を失ひて騒がれける、さ
れども源氏もいまだ打入ず、平家には引わかれぬ、波
にもいそにもつかぬ心地して、八条院にもしもの事
候はば、助させ給へと申されけれども、それもかか
る乱れの世なれば、いかがはせさせ給べき、院の御
所には、さればこそいかにも事の出来ぬと、女房た
P494
ちあわてさわぎて、終夜物をはこびなどしければ、
北面の者どもいたく物さわがしくあわて給ふべから
ず、たとへば平家の方より院の渡らせ給ふ所を尋ね
申さんずるか、山に渡らせ給ふよし聞えければ、其
旨いひてんずとて各々いもねず、其夜も明けぬれば、
貞能御所へをし入て、何といふ事もなく御厩に立ら
れたりける御馬を、かいえりかいえり引出して、則御所を
ば出にけり、盛次、景清が入洛の事は僻事にてぞ有け
る、貞能はたけく思へども力及ばずして、西をさし
落にけり、心の中こそかなしけれ、日ごろ召置たり
つる東国の者ども、宇都宮左衛門尉朝綱、畠山庄司
重能、小山田別当有重在京してありけるが、子息所
従等皆兵衛佐に属しにければ、是等は召籠られて有
しを、西国へぐし下て斬るべしとさた有りけるを、
貞能是等が首ばかりを召されたらんによるまじ、妻
子けんぞくもさこそ恋しく候らめ、ただとくとく御
ゆるしあて、本国へ下さるべく候と、再三申ければ、

誠にさもありなん、汝等が首を切たりとも、運命尽き
なば世をとらん事かたし、汝等をゆるしたりとも宿
運あらば、又立帰ることもなどかはなかるべき、と
くとくいとまとらするぞ、若世にあらば忘るなよと
てゆるされにけり、是等も廿余年のよしみ名残なれ
ば、さこそ思ひけめども、各々悦びの涙をおさへて罷
りとどまりにけり、其中に宇都宮左衛門は、貞能が
預りにて日来も事にふれて芳心有りけるとかや、源
氏の世になりてのち、貞能宇都宮を頼みて東国へ下
りければ、昔のよしみ忘れず、申預り芳心しけるとか
や、平家の人々は淀の渡せの程まで、船を尋ねて乗
給ふ、御心の内こそかなしけれ、或はしきつの浪枕、
八重の塩路に日を経つつ、船に棹さす人もあり、或
遠きはげしきを忍びつつ、馬に乗人もあり、前途を
いづくとも定めず、生涯を闘戦の日に期して、思々
心々にぞ落られける、権亮三位中将の外は、大臣殿
を始めて宗徒の人々皆妻子を引具し給へども、侍共
P495
はさのみ引しろふに及ばねば、皆都に留置しかば、各
別れを惜みつつ、夜がれをだにも心苦しく思ひし者
どもの、行も留るも互に袖をしぼりけり、ただかり
そめのわかれをだに恨みしに、後会其期を知らず、
別れけんこそ悲しけれ、相伝譜代の好も、年ごろ浅
からざる重恩も、いかでか忘るべきなれば、悲しみの
涙を押へつつ、大方催されては出けれども、進まれ
ず、都をはなれがたし、留め置し妻子も忘れがたけ
れば、いづれも行やらざりけり、淀の大渡にてぞ男
山ふし拝み、南無八幡三所今一たび都へ返し入させ
給へとぞ各々祈念し給ひける、されども神慮もいかが
ありけんはかりがたし、誠に古郷をば一片の煙りに
隔てて、前途万里の波を分け、いづくに落付べしと
もなく、あこがれ落給ひけん心の内、おしはかられて
哀なり、其中にやさしく哀なりしことは、薩摩守忠
度は当世随分の好士なり、其頃皇太后宮大夫俊成卿、
勅を奉て千載集を撰れけり、忠度乗かへ四五騎がほ

ど相具して四づかの辺より帰て、彼俊成卿の五条京
極の宿所の前にひかへて、門をたたかせければ、内
よりいかなる人ぞと問へば、薩摩守忠度と名乗りけ
れば、落人にこそと聞きて、世のつつましさに、返
事もせられず、門も明ざりければ、其時忠度別の事に
ては候はず、此程百首をつらねて候を、見参に入ず
して外土へ罷り出ん事の口惜さに、持て参りて候、
何かくるしく候べき、立ながら見参に入候はばやと
いひたりければ、三位哀と思して、わななくわななく出
合給へり、世静り候なば、定て勅撰の功終候はんず
らん、身こそかかる有さまにて候とも、なからんあ
と迄も、此道に名をかけん事、生前の面目たるべし、
集撰ばれ候中に、此巻物の中にさるべき句も候はば、
思召立て一首入られ候なんや、かつうは又念仏をも
御弔ひ候べしとて、箙の中より百首の巻物を取出し
て、門より内へ投入て、忠度今は西海の浪に沈む共、
此世に思ひ置く事候はず、さらば入せ給へとて、涙
P496
をおさへて帰りにけり、俊成卿涙をおさへて内へ帰
り入て、燈のもとにて此巻物を見られければ、歌ど
もの中に古さとの花といふことを、
さざ波やしがの都はあれにしを
むかしながらの山ざくらかな W105 K137
忍恋
いかにせんみかきが原につむ芹の
ねのみなけども知る人のなき W106 K138
其後いく程なくて世静りにければ、かの集撰ばれけ
るに、忠度此道にすきて道より帰りたりし志浅から
ず、但勅勘の人の名を入る事、はばかりある事なれば
とて、此二首をよみ人知らずとぞ入られたりける、
延喜天暦は年号を名によばれ、花山一条皇居を御名
に付給ふ、その身朝敵とはいひながら、口惜かりし
こと也、左馬頭行盛も、幼少より此道を好て、京極
中納言入道定家卿、其比少将にてましましけり、彼
行盛常にましましてむつび給ひき、此道をのみたし

なみ給き、さるほどに一門都を落し時、日頃の名残
を惜みて、何となくよみたる歌ども書集て、後の思
ひ出にもとやおぼされけん、文こまかに書て袖書に
かくぞ書たりける、
ながれ名のなだにもとまれ水ぐきの
あはれはかなき身はきえぬとも W107 K140
定家少将、此歌を見たまひて、感涙をながして、若
撰集あらば必ずいれんとぞ思はれける、俊成卿忠度
の歌をよみ人知らずとて、千載集に入られたりし事
を心うき事におぼして、後堀河院の御時、新勅撰を撰
ばるるとき、三代名を顕すことこそ恐れなりつれ、
今は三代過給ひたれば、何かくるしかるべきとて、
左馬頭行盛と名を顕はして、此歌を入られたりしこ
そ優しく哀れに覚えしか、皇后宮亮経正は、幼少より
仁和寺守覚法親王の御所に候はれしが、昔のよしみ
忘れがたく思されければ、これも引返して侍二人打
ぐして、五宮御所へ参りて、人して申入ければ、一
P497
門運尽ぬるに依て、けふ既に帝都を罷出候上は、身
を西海の浪に沈め、かばねを山野の辺に曝し候はん
事疑ひ候まじ、但此世に心留り候事は、君を今一度
見参らせ候はで、万里の波にただよひ候はんことこ
そ、かなしみの中の悲みにて候へと申入たりければ、
宮は世おほきに憚り思召しけれども、またも御覧ぜ
ぬこともこそあれとて、則御前へ召されけり、経正
は練貫に鶴を縫ひたる鎧直垂に、萌黄糸をどしの鎧
をぞ着たりける、二人の侍教朝重時も冑きたり、経
正なくなく申されけるは、十一歳と申候ひし時より、
此御所に初参仕て、朝夕御前をたちはなれ参らせ候
はず、叙爵仕て後も、禁裏仙洞の出仕のはばかりに
は、いかにもして此御所に参らんとのみ存候しかば、
一日に二度参る日は候へ共、参らぬ日は候はざりし
に、都をまかり出候て鎮西の旅泊にただよひ、八重
のしほ路を漕へだて候なん後は、帰京其期を知らず
候、されば今一度君を見参らせんと存候て、きげん

をかへりみ候はず、推参仕て候と申て、藤九郎有盛に
もたせたりける御琵琶を取寄て、あづけ下されて候
青山をば、いかならん世までも、身をはなち候まじと
存候つれども、名宝を西海の底に沈め候はん事、心
うく候て持ちて参りて候也とて、錦の袋に入れなが
ら御前に差おかる、是を御覧じて御涙にむせばせま
しまして、御返事に及ばず御衣の袖もしぼる計也、
此青山と申御琵琶は、村上天皇の御時、秋の夜月く
まなく風の音身にしみて、何となく物哀なるに、此御
琵琶をかきならし、帝万秋楽の秘曲を弾ぜさせたま
ひしに、更闌夜閑かになるままに、御ばち音いつよ
りもすみのぼりて、身にしみて聞えけるに、五六帖
の秘曲に至りて、天人あま下りて、廻雪の袖をひる
がへして、則雲をわけてのぼりにけり、其後かの御
琵琶を、凡人ひくことなかりけり、代々の帝の御財に
て有けるを、次第に伝はりて、この宮の御方に参り
て、御宝物の其一にてありけるを、此経正十七歳に
P498
て初冠して、宇佐の宮勅使に下されし時、申下して宇
佐の拝殿にて、わうしきてうにて海青楽を弾きたり
しに、神明御納受ありて、天童の形をして、社壇に
てまひ給ふ、経正此奇異の瑞を拝して、神明御納受
ありけりとて、楽をば引やみて、三曲の其一流泉の
曲を暫くしらべられければ、宮人心ありければ、各々
袂をうるほしけり、村上御宇より此かた、凡人此び
はをひく事経正一人ぞありける、かかる宝物なりけ
れば、経正身にかへて惜くはおぼされけれども、是
を御覧ぜんたびごとに、思召出つまとなれかしなど
おぼされければ、御びはを参らせあぐるとて、
呉竹のもとの筧はかはらねど
猶すみあかぬ宮の中かな W108 K141
宮御涙を押へさせ給ひて、
あかずしてわかるる袖に涙をば
君がかたみにつつみてぞおく W109 K143
御前に浅からずちぎりし人々あまた有ける中に、侍

従律師行経といひける人、ことに深く思ひ入られた
り、
皆ちりぬ老木もこきも山ざくら
おくれさきだつ花も残らじ W110 K144
経正なくなく、
旅衣よなよな袖をかたしきて
思へば遠く我はゆきなん W111 K145
との給ひて、今は心にかかる事候はねば、いかにな
る身の果までも、おもひ置事露候はずとて、御前を
立れければ、朝夕見たまひし人々、鎧の袖に取付き
て衣の袖をしぼられけり、誠に夜を重ね日を重ぬと
も御名残は尽候まじ、行幸は遙にのびさせたまひ候
ぬらん、さらばいとま申てとて、甲の緒をしめて、
馬に打乗、宮の御前へ参る時は、世をも御憚ありとて
つつみつれども、まかりいでける時は、赤はた一な
がれささせて、南をさしてあゆませけり、かく心づ
よくは出たれども、住なれし古京を、ただ今を限りに
P499
て、打出られければ、鎧の袖もしぼるばかりにて、
行幸に追付参らせんと、ふちを上げられける心の内
こそ哀なれ、さて行幸に追付参らせて、何となく心
のすみければ、かくぞ思ひつづけける、
御幸するすゑも都と思へども
猶なぐさまぬ浪のうへかな W112 K146
平家は福原の旧里に着きて、一夜をぞ明されける、
各々禅門の御はか所に参りて、過去聖霊、出離生死、
往生極楽、頓証菩提と祈念して、存生の人の前に物
をいふ様に、つくづくとくどき給ふ、岩木もいかで哀
と思はざるべき、さても主上は島の御所へ入らせ給
へば、月卿雲客みな故入道のはか所へ参られけり、
女院二位殿も参らせ給ふ、其間主上をば時忠卿いだ
き奉て、雪御所のめんだう[* 「めんだう」に「馬道」と振り漢字]に立給ふ、内大臣以下の
一門の人々みなつれて、墓所を見給へば、五輪落散
りて苔むせり、忍草生茂りて牛馬の蹄も行かふ道な
く、円実法眼が書写供養したりし、法華経八軸の石御

経も所々に〓壊したり、女院自ら是を拾ひ直させ給
こそ哀なれ、二位殿御袖を顔に押当て仰られけるは、
たとへ業報限ありて他界し給ふとも、いつしかかか
るべしや、さしも執ふかくましまししに、草の陰に
も守りたまへ、女院も是に渡らせ給候ぞ、さしもい
とをしくし給し小松内府の子共も、みな是にありな
どかきくどき、涙もせきあへずのたまへば、答ふる
者もなかりけり、さらぬだに秋に成行旅の空、物う
からずといふ事なし、さこそ心細くおぼされけめ、
其後主上は島の御所へ入せ給ふ、二位殿いだき参ら
せて南面にまします、内大臣宗盛、新中納言知盛、大
床の左右より参り給て、知盛卿申されけるは、兵ど
もを見候へば、例ならず見え候、心がはりして候や
らん、召して仰含めらるべきよし申されければ、肥
後守貞能、飛騨守景家、越中前司盛俊以下侍共を召
て二位殿仰られけるは、積善余慶家に尽て積悪の余
殃身に及び、神明にも放たれ奉り、君に捨てられ奉
P500
り、帝都を迷ひ出て旅泊にただよへる上は、さこそ
心細く頼み少くあるらめども、一樹のかげに宿るも
前世のちぎり浅からず、一河の流を汲むも他生の縁
猶深し、何ぞいはんや、汝等は一旦語ひをなす家人
に非ず、累祖相伝の門客也、或は親近の好み異他も
あり、或は重代の芳恩これふかきもあり、家門繁昌の
昔は、恩潤によて私をかへり見き、楽み尽きて悲し
み来る、今は何の思慮をめぐらしてか救はざらんや、
其上十善帝王、三種の神器御身に随へてましませば、
天照太神も立帰て、我君をこそ守りはぐくみ給ふら
め、つらつら此事を思ふに、宿運強き我也、速に合
戦の忠を励まして、再び都へ返し入奉て、逆徒を討
取て、徳は昔に超、名をば後代に留めんと、思ふ心を
一にして、野の末、山のはてまでも、君の落付せまし
まさん所へ送り奉るべし、火の中へ入水の底に沈む
とも、今は限りの御有さまを見はて奉るべし、との
たまへば、三百余人御前に並居たる者ども、老たる

も若きも、涙を流し袖をしぼりて申けるは、心は恩
のためにつかへ、命は義によて軽ければ、命をば相
伝の君に奉候ぬ、あやしの鳥獣だにも、恩を報じ徳を
報ふ志候とこそ承はれ、いかに申さんや、人として
いかでか年来日来の重恩を忘れて、君をば捨参らせ
候べき、廿余年の間官位と云ひ俸禄といひ、身に於
て名にあげん事も、妻子をあはれみ、郎従をかへり
みしことも、しかしながら君の御恩にあらずといふ
事なし、就中弓矢の道に二心を存をもて、長く世の
恥とす、たとへ日本国の外なる新羅、高麗、百済国、
雲のはて海の果なりとも、おくれ奉るべからずと一
同に申候れば、二位殿大臣殿も今更に頼もしく思召
て、嬉しきに付きてもつらきに付きても、涙にむせ
ばせ給ふ、薩摩守忠度かくぞくちずさみ給ひける、
はかなしや主は雲井にわかるれど
やどはけぶりとのぼりぬるかな W113 K148
修理大夫経盛卿、
P501
古さとを焼野の原にかへりみて
すゑも煙りの波路をぞゆく W114 K149
平大納言、
こぎ出て波とともにはただよへど
よるべき浦のなき我身かな W115 K150
同北の方、
磯なつむ海人よをしへよいづくをか
都のかたを見るめとはいふ W116 K151
誠にしばしと思ふ旅だにも、別行は悲しきぞかし、
是は心ならず立はなれて、いづくをさすともなく、
ただよはれけん、さこそ心細かりけめとおしはから
れて哀なり、中にも入道の立置き給ひし花見の春の
岡の御所、初音を尋ぬる山田の御所、月見の秋の浦
の御所、雪の朝の萱の御所、島の御所、馬場殿、泉
殿、二階のさじき殿より始て、五条大納言の作り置れ
し里内裏、人々の家々にいたるまで、いつしか三年
のほどにいたくあれ果てて、みすもすだれもなかり

けり、旧苔道をふさぎ、秋の草門をとぢ、かはらに松
生ひ、垣につた茂りて分入袖も露けく、行かふ道も
絶えにけり、ただ音づるる物とては松吹風の音計也、
つきせずさし入ものとては、もりくる月のみぞ面が
はりせざりけり、さらぬだに秋に成行、大方は物う
きに、昨日は東海の東にくつばみを並べ、けふは纜を
西国の西にとく、雲海沈々として、蒼天既に明けな
んとす、孤島に霞立ちて、月海上に浮ぶ、長松の洞
を出て駒の蹄を早むるは、嶺猿の声に耳を驚かし、
極浦の浪を分て、潮に引れて行船は半天の雲にさか
上る、夜深起きて見れば、秋の初の廿日余の月出て、
弓張に深行空もしつ嵐の音すごくして、草葉にすが
る白露も、あだの命によそならず、秋の初風立ちし
より、やうやう夜寒に成行ば、旅寝の床の草枕、露も
涙も争ひて、そぞろに物こそかなしけれ、二位殿大
臣殿も一所にさしつどひて、さてもいづくに落付せ
給ふべき、故入道かかりける事をかねてさとられけ
P502
るにや、此所をしめて家を立て、船を作りおかれた
りける事の哀さよなど、こし方行末の事どものたま
ひかよはして、互に涙を流し給ひけるほどに、夜も
ほのぼのと明にけり、平家の跡と源氏に見すなとて、
浦の御所より始て御所に火を掛て、主上女院をはじ
め奉りて、二位殿北の政所以下人々皆船に召して、
万里の海上に浮びたまひければ、余炎片々として海
上赫奕たり、都を立ちしほどこそなけれども、これ
も名残は惜かりけり、海人のたくもの夕しほ[B 煙カ]、尾上
の鹿の暁の声、渚々によする波の音、袖に宿かる月
の影、目に見耳にふるる事、一として涙を催さずとい
ふ事なし、平家は保元の春の花とさかえしかども、
寿永の秋の紅葉とちりはてて、八条、峯里、六はら
の旧館より始めて、福原の里内裏に至る迄、暮風塵を
揚げ煙雲焔をはく、龍頭鷁首を海上に浮べて、波の
上の行幸安き時もなかりけり、いそ辺の躑躅の紅は、
袖の露より咲くかと疑はれ、五月の旅寝の苔の雫は、

故郷の軒のしのぶにあやまたれ、月をひたす潮の深
き愁に沈み、霜おほへる蘆の葉のもろきいのちを危
ぶむ、すざきにさわぐ千鳥の声は、暁のそへはいに[B 「そへはいに」に「本のまま」と傍書]
かかるかぢ浪は、夜半にこころを砕くかな、白鷺の
遠き松に群居るを見ては、源氏のはたをなびかすか
とうたがひ、夜雁の遼海になくを聞きては、兵の船
をこぐかと驚き、青嵐に膚を破て、翠黛紅顔の粧ひ
漸く衰へ、蒼波眼を穿て懐土望郷の涙おさへがたし、
卿相雲客の朝敵と成て、都を出そめしをきくに、昔
藤原の仲麿といふ人有けり、贈太政大臣武智麿の子
也、高野女帝の御時、帝の従父兄弟にて、内外執行し
て候給ひける程に、御寵臣と成て、天下の政を心のま
まに執行して、世をも世と思はず、驕て一族親類悉く
朝恩に誇れり、帝御覧ずれば心にゑまほしく思召さ
るとて、二文字を加へて恵美仲麿と名付、それを
もあらためて後には押勝とぞつきにける、大保大師
に至りしかば、恵美大臣とぞ申ける、日を経年を重
P503
ぬるに随ひて、威雄重くして、人の怖畏るることい
まの平家のごとし、めでたかりし程に、昔も今も世
の恐しき事は、河内国弓削といふ所に、道鏡法師とい
ふものあり、召されて禁中に候けるが、如意輪法を
行けるしるしにやありけん、帝の御寵愛はなれがた
くて、恵美大臣の権勢事の数ならずおしさげられて
けり、法師の身にて太政大臣になされ、御位を譲ら
んと思召して、大納言和気清麿を御使として、宇佐宮
へ申させ給ひたりけるが、御許されもなかりければ、
力及ばせ給はず、ただ法皇の位を授けられて弓削法
皇とぞ申ける、恵美大臣は弓削法皇をそねみて、帝
を恨み奉けるあまり、天平宝字八年九月十八日、国
家をかたぶけ奉らんとはかる、罪逆にあたりしかば、
寵臣なりしかども官をやめられて、死罪に行はんと
し給ひしかば、大臣兵を集めて防ぎたたかひせんず
れども、坂上苅田丸を大将軍として、官兵多くせめ
かけければ、たまらずして一門引具して都を出で、

東国へ赴きて凶徒を語ひて、猶朝家を打たんとたく
みけるを、官兵騒て、瀬多の橋を引ければ、高島へ
向ひて塩津海津を過て敦賀の山を越て、越前国へ逃
げ下り、相具したりける輩をば、是は帝にて渡らせ
給ふ、彼は大臣公卿なりとて、人の心をたぶらかし
し程に、官兵追ひつづきてせめしかば、船にこみ乗
てにげけれども、風はげしく波荒く立ちて、既にお
ぼれなんとしければ、船よりおりて戦し程に、大臣
こらへずして、同つゐに近江国にて討れにけり、一
族親類同心合力の輩、首あたま都へ持参られけり、
公卿だにも五人首を刎られぬ、上古もかかる浅まし
き事ども有けるとぞ承る、平家栄えめでたかりつる
有さまも、又朝敵と成りて家々に火かけて、都を落ぬ
る事がらも、恵美大臣にことならず、西国へ落ち給
たりとも、幾月かあるべき、ただ今亡びなんずる物
をとぞ人々申あひける、法皇は鞍馬寺より薬王坂小
竹が峯などいふ、さかしき山を越えさせ給ひて、横川
P504
へ上らせ給て、解脱の谷、寂場坊へぞ入せ給ひける、
本院へうつらせ給べきよし大衆申ければ、東塔へう
つらせ給ひて、南谷の円融房へぞわたらせたまひけ
る、かかりければ衆徒も武士も弥々力付きて、円融房
の御所近く候けり、あくる日廿五日、法皇天台山に
渡らせ給ふと聞えければ、人々我先にと馳参らる、摂
政殿近衛殿、左大臣経宗、右大臣兼実公九条殿、内大臣
実定公後徳大寺より始奉り、大中納言、参議、非参議、
四位、五位、殿上人、上下北面の輩に至るまで、世
に人ときざまるる輩、一人ももれずさんぜられけれ
ば、円融坊には、堂上堂下門外ひまなかりけり、誠に
山門の繁昌門跡の面目とぞ見えし、平家は落ぬ、さの
み山上に渡らせましますべきならねば、廿八日御下
洛あり、近江源氏錦古利冠者白旗をさして先陣に候
けり、此程は平家の一族赤旗赤印にて供奉せられし
に、源氏の白旗今更珍しくぞ思召されける、卿相雲客
済々として蓮花王院の御所へ入らせ給ひけり、去程

に其日の辰の時計り、十蔵蔵人行家伊賀国より木ば
た山を越て京都に入る、未刻計に木曾冠者近江国よ
り東坂本を通りて、同く京へ入りぬ、又其外甲斐信
濃美濃尾張の源氏ども、此両人に相従ひて入洛す、其
勢六万余騎に及べり、入はてしかば在々所々を追捕
し衣裳をはぎとり、食物を奪ひとりしかば、洛中の
狼藉なのめならず、
廿九日いつしか義仲、行家を院の御所へ召して、別当
左衛門督実家、頭左中弁兼光をもて、前内大臣宗盛以
下平氏の一類追討すべき由両将に召仰す、両人庭上
に膝まづきて是を承る、行家は褐衣の鎧直垂に、黒
革威の鎧を着て右に候、義仲は赤地錦の直垂に、唐綾
をどしの冑着て左に候けり、各々宿所候はぬ由を申
ければ、行家は南殿のかやの御所給て、東山をしゆ
ごす、義仲は大膳大夫信業が六条西洞院の亭を給て、
洛中を警固す、此十余日の前までは、平家こそ朝恩
にほこりて、源氏を追討せよといふ院宣宣旨を下さ
P505
れしに、今又かやうに源氏朝恩にほこりて、平家を
追討せよとの院宣を下さる、いつの間に引かへたる
有さまぞと哀なり、主上外家の悪党に引かれて、西
国へ赴給ふ事もつとも不便に思召されて、速に返し
入奉るべきよし、平大納言時忠卿の許へ院宣を下さ
るるといへども、平家用ひねば力及ばずして新主を
すへ奉るべき由、院殿上にて公卿僉議あり、主上還
御あるべきよし御心の及ぶほどは仰せられて、今は
とかくの御さたに及ぶべからず、但びんきの君渡ら
せ給はずば、法皇こそ、還り殿上せさせましますべけ
れと申さるる人々もあり、重祚の例は、百五十[B 誤カ]六代皇
極天皇、三十八代斉明天皇、是は女帝なり、男帝の重
祚は先例なしと申さるる人もありけり、或は鳥羽院
の乙姫宮八条院、即位あるべきかと申さるる人もあ
り、女帝は第十五代の神功皇居より始め奉て、推古、
持統、元明、元正也、法皇思召し煩はせ給けり、丹後
の局申されけるは、故高倉院宮王子二をば平家拘引

奉りぬ、三四の宮は慥に渡らせ給ふ、平家の世には、
御世をつつませ給てこそ渡らせ給ひけれども、今は
何かは御はばかりあるべきと申されければ、法皇う
れしく思召して、もつとも其儀左もありぬべし、同
くば吉日に見参すべしとて、泰親に日次を御尋あり
ければ、来八月十五日と勘申、その儀なるべしとて、
事定らせ給けり、
平家物語巻第十四終