平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第九

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平家物語巻第九
治承四年六月二日、俄に太政入道としごろ通ひ給ひ
ける福原へ行幸ありけり、都うつりとぞ申ける、中
宮、一院、新院、摂政殿を始奉て、公卿、殿上人皆
参り給へり、三日と聞えけるを、俄に引あげられけ
る間、供奉の人々、上下いとどあわてさわぎ、取る
物も取あへず、帝皇の幼くおはしますには、后こそ
同輿には奉るに、御めのと平大納言時忠卿の北の方
典侍殿と申しぞ参り給ける、是は先例なき事なりと
ぞ人あざみあへりける、
三日池大納言頼盛の家を皇居と定めて、主上渡らせ
たまふ、四日頼盛家のしやうをかうぶりて、正二位
したまへり、右大臣兼実の御子右大将よしみち越ら
れ給へり、
法皇福原に三間なる板屋をつくりて、四面にはたい

たしまはして、南にむけて口一あけたるにぞわたら
せ給ひける、いつものくせなれば童、楼の御所とぞ
申ける、法皇鳥羽殿にてはさすがにひろくてよかり
しものを、よしなくも出にけるものかなとぞ思召し
ける、せめての事とおぼえてあはれなり、筑紫の武士
いはとの小郷たねなほが子に、佐原大夫たねます守
護し奉る、守護の武士きびしくて、一日に二度供御
の参る外は、たやすく人も参らざりけり、鳥羽殿を出
させ給ひしかばくつろぐやらんと思召しけるに、
高倉の宮の御事出きて、今又かくのみあればいかに
となりなんずるやらんと御心細くぞ思召しける、今
は世の事もしろし召したくもなし、花山法皇のまし
ましけるやうに、山々寺々をも修行して、御心に任
せておはしまさばやとぞ思召されける、
神武天皇は天神七代地神五代十二代の御すゑをうけ
つつ、人代百王のはじめの帝にておはしましける、
辛酉の年、日向の国宮前郡にて、皇王の宝祚をつぎ
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給へり、五十九年と申しつちのとひつじの年十月、
東征して、豊葦原の中津国にとどまりつつ、大和の
国うねび山をてんじて、帝都を立てて、橿原の地を伐
り払ひて、宮室を作りたまひき、則ち橿原の宮と申
ししよりこのかた、代々帝皇の御時都を遷さるる事
三十度に余り四十度に及べり、神武天皇より景行天
皇まで十二代は大和の国に所々に宮造してうつりお
はしまししが、
成務天皇元年、大和国より近江の国志賀の郡に都を
うつし給ふ、
仲哀天皇二年九月、長門の国に移りてとよらの郡に
御座す、仁徳天皇元年に、津の国難波に都を立て
て、高津宮にすみ給ふ、
覆中天皇二年、大和国に帰て十市郡に都を立、反正
天皇元年大和の国より河内の国に遷り、柴籬の宮に
おはします、
允恭天皇四十二年に、河内の国よりまた大和国へ帰

て、遠明日香の宮をつくる、
安康天皇三年、大和国泊瀬朝倉に宮を定、
継体天皇五年、山城国つづきにうつされて十二年お
はしき、そののち乙国に住給ふ、
宣化天皇元年に、猶大和の国へ帰て、桧曲の盧入野に
宮居し給ふ、欽明天皇より皇極天皇まで七代は、大
和国郡々におはしまして、他国へはうつり給はず、
孝徳天皇大化元年、津の国ながらにうつされて豊
崎に宮をたつ、
斉明天皇[B 「天皇」に「女帝」と傍書]二年に、猶大和の国へ帰て、あすかの岡本の
宮におはします、
天智天皇六年に、また近江国志賀郡にうつりて、大
津の宮をつくる、天武天皇元年に大和国へ帰て、
岡本の南宮に住み給ふ、ここをあすかの清見原の宮
と申、持統天皇より光仁天皇まで九代は、猶大和
の国奈良の京におはしまししが、桓武天皇の御宇延
暦三年の十月に、山城の国長岡に移り給ひて、十年は
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此京にましましし程に、同十二年の正月に、大納言
藤原小黒丸、参議左大弁古佐美、大僧都賢〓等を遣
はして、当国の葛野郡宇太村を見せらるるに、両人
ともに申ていはく、此地は、左青龍、右白虎、前朱雀、
後玄武、四神相応地なりと申ければ、愛宕郡におは
します、加茂大明神つげ申されて、同十三年、長岡
京より此の平安城へ移り給ひしより、都を他所へ移
されず、帝皇は三十二代星霜は四百余歳也、むかし
より多くの都有けれども、此京ほどのめでたき所な
しとて、いかがして末代まで此京を他国へうつされ
ぬ事あるべきとて、大臣公卿諸道の博士才人達を召
し集めて、せんぎあて長久成るべき様とて、土にて
八尺の人形を作りて、甲冑をきせつつ、弓矢を持せ
て、王城を守れとて東山の嶺に西に向て立て、ほり埋
みたり、将軍塚とて今にあり、天下に事いてき、ひ
やうかく起らんとては、必ず告知らしめんとて、此
塚なり動くといへり、かしは原の天皇と申は、平

家の先祖にておはします、先祖の御門これ程にしゆ
し思召したる都を、その御末をうけて、さしたるそ
の故もなく、他所へ移す事心得がたし、此京をば字
には平安城といふ、平やすしとかけるめり、かたが
たもて捨てがたし、就中主上も上皇も皆もて平家の
外孫にて、おはします君もいかですてさせ給べき、
是は国々のえびす共せめ上りて、平家都に跡をとど
めず、山野に交るべきずゐさうなりとぞ覚えたる、
ただ今世はうせなんず心うきこと也、もはら平家も
てなしたまふべき都を他国へうつし、当帝をおろし
奉て、太政入道の孫を位につけ奉て、高倉宮の皇子
うち奉てかうべをきり、関白松殿を流し奉て、我む
こ近衛殿をなし奉り、大臣公卿殿上人以下北面の下
臈にいたるまで、或は流し或は殺す、悪行のある限
りをつくして、残る所都遷りばかりなれば、かくし
給ふにこそと人申ける、嵯峨天皇御時大同五年に、
都を他国へうつさんとしても、人さわぎ歎きしかば、
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とどまらせ給ひにき、一天の君万乗の主だにもうつ
しえ給はぬ都を、たやすく凡人の身として思企てら
れけんぞおほけなき、
まことにめでたかりつる平安城ぞかし、王城鎮守の
やしろやしろ四方に光を和らげ、れいけん殊勝の寺々
上下に居をしめ給ふ、百姓万民も煩ひなく、五畿七道
に便あり、是を捨給はん事守護の仏神非をうけ給ふ
べしや、四海の黎民鬱あるべし、いかに況んや論語云
犯人者有乱亡患、犯神者有疾夭禍恐ろし恐ろし
といへり、此京は西方分なり、大将軍酉にあり、方
角すでにふさがる、されば勘文を召されける中に、
陰陽博士安倍季弘の勘状云、
本脩所差、大将軍王相、不論遠近、同可忌避
諸事、然而至遷都者、先例不避之歟、桓武天
皇延暦十三年十月廿一日、長岡京より遷都於葛野
京、今年為冬分、当王相方已不被避之、是依
旧不論方忌、次大将軍之禁忌猶不(レ)及、王相方

就延暦之佳例被遷都、雖為大将軍之方、何可
有其憚哉、
といへり、是を聞てある人申けるは、延暦の遷都に
御方違ありといへり、ながく旧都をすてられんに於
ては、方角の禁忌あるべからずともいへり、何様にも
御方違はあるべかりけるものをと人唇を返しける、
新都へ供奉の人の中に、旧都の柱にかきつけらる、
百年を四かへりまでに過きにし
おたぎの里のあれやはてなん W073 K086
咲出るはなの都をふりすてて
風ふく原のすゑぞあやうき W074 K088
六月九日、福原の新都の事始とぞ聞えし、福原とい
ふ所は北には神明跡をたれ、いく田、広田、西の宮、
千代にかはらぬみどりは雀の松原、みかけの松、雲
井にさらす布引の滝、南をのぞめば、うみまんまん
たるあはぢ島山、眼の前にさへぎる船、ゑんほの行
かふも哀に心すめる眺望なり、上卿は左大将実定、
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宰相には右中将通親、奉行には頭左中弁経房、蔵人
左少弁行隆とぞ聞えし、河内のかみ光行丈尺をとり
て、和田の松原西野に宮城の地を定られけるに、一
条より五条までこそ小路ありけれ、五条より下其所
なかりけり、土御門宰相中将通親三条大路の広さを
あけて、十二の通門をたつ、大国にもかうこそしけ
れ、我朝に五条まであるはなんの不足かあるべきと
ぞ申されける、されども行事官どもちから及はで帰
りにけり、さては小屋野にてあるべきか又いなみ野
にてあるべきかなど、公卿僉議ありけれども、事も
ゆかず先づ里内裏を作るべきよし議定あて、五条大
納言国綱、周防国を給てつくり進せらるべきよし、
太政入道申されければ、六月廿三日事はじめあて八
月十日棟上あるべしと定め申されけり、
彼大納言大福長者なり、つくり出さん事は左右に及
ばねども、いかでか民の煩ひなかるべき、殊にさし
あたりたる大会を差置て、かかる世の乱に遷幸造

内裏海賊かつきぬとぞ見えたる論語に云、楚起章花
之台而黎民散、秦興阿房殿而天下乱ともいへり、
又帝範云茅茨不剪、採椽不〓、舟車不餝、衣服無
文といへり、唐の太宗の驪山宮を作りながら、民の
費をいたみて、終に臨幸なくしてかきに苔むし瓦に
松生ひてやみにけり、さるままに新都は繁昌して、
旧都は荒れはてて、たまたま残れる家々には門ぜん
に草生て、庭上につゆふかし、空しきあとは雉兎禽
獣のすみか、黄竹紫蘭の野辺とぞ成にける、
廿一日園城寺の円恵法親王と申は、後白河院の御子
なり、天王寺別当とどめられたまひて、検非違使つ
きて悪僧を召され給ふ、院宣云、
園城寺悪僧等違背朝家、忽企謀叛、仍門徒僧綱以
下皆悉停止公請解却見任并綱徳兼又末寺庄園
及彼寺僧等私領仰諸国宰吏早令収公、但於有
限寺用者、為国司之沙汰付寺家、所司任其
用途莫令退転、恒例仏事無品円恵法親王宜令
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停止所帯天王寺検校職、
とぞかかれたりける、上綱には
僧正房覚、権僧正覚智、法印権大僧都定慧、能慶、実
慶、行乗、権少僧都真円、豪禅、兼智、良智、顕舜、
慶智、権律師道顕、覚増、勝成、行智、行舜、〈 以上十七人 〉
見任解却、
法印公経、行暁、慶実、法眼真勝、道澄、道俊、弁
窓、実印、倫円、源獻、観忠、法橋良俊、忠祐、良
覚、前大僧正覚讃、前権僧正公顕、前権少僧都道任、
〈 以上廿人准上、 〉次二会講師、円全、障〓、証兼、公胤〈 以上四人令停止公請、 〉
殊僧綱十三人、公請をやめられ、官を召さる、所領
を没官して、同使庁使を付て水火のせめに及で、悪
僧を召さる、
房覚一乗院僧正をば飛騨判官景高朝臣承る、実慶常
陸法印をば、上総判官忠綱朝臣承る、行乗中納言法
印をば、博士判官章貞承る、能慶真如院法印をば、
和泉判官仲頼承る、真円亮僧都をば、源大夫判官季

貞承る、覚智美濃僧正をば、摂津判官盛澄承る、勝
慶蔵人法橋をば、祇園博士判官基広承る、公顕宰相
僧正をば、出羽判官光長承る、覚讃僧正をば、斎藤
判官友実承る、乗智明王院僧都をば、新志明基承る、
実印右大臣法眼をば、任府生経広承はる、観忠中納
言法眼、行暁大蔵法印をば、紀府生兼康承はる、去
五月に高倉宮扶持し奉りし事によて、三井寺せめら
るべしとさたありければ、大衆発て大津の南北の浦
にかひたてかき矢倉かきて、防ぐべきよし結構す、
十一月十七日、頭中将重衡朝臣を大将軍にて、一千
余騎の軍兵を卒して、三井寺へ発向す、衆徒防ぎ戦
ふといへども、何事かはあるべき、三百余人討れに
けり、残る所の大衆こらへずしておちにけり、重衡
朝臣寺中にうち入て、次第に是を焼拂ふ、南北の中
三院内焼所の堂舎塔廟、神社、仏閣、本覚院、鶏足
坊、常喜院、真如院、桂薗院、尊皇院、王堂、普賢
堂、青龍院、大宝院、今熊野宝殿、同拝殿等、護法
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善神社檀教待和尚本坊〈 同御身影像同本尊等 〉鐘楼七宇、二階大門、
〈 右金剛力士 〉八間四面大講堂、三重宝塔一基、阿弥陀堂、同
宝蔵、山王宝殿四足一宇、四面廻廊、五輪院、十二
間大坊三院、各別灌頂堂〈 各一宇 〉、但金堂ばかりはやけざ
りけり、其外の僧房六百宇大津の在家千五百余家地
を拂畢、
仏像二千余体、顕密両宗章疏大師の渡したまへる唐
本一切経五千余巻、忽に灰燼と成ぬ、又焼死する所
の雑人既に千余人とぞ聞えし、凡顕密須臾に滅して
伽藍更にあともなし、三密道場もなければ、振鈴の
声も聞えず、一花も仏前になければ、あかの水もた
えにけり、宿老有智の大徳も行学に怠り、受法相承
も経教にわかれたり、此寺と申は本は近江大領私の
寺たりしを天智天皇に寄進し奉りしより以来、御願
寺となる、本仏と申も彼の帝の御本尊なりしを、生身
の弥勒如来と聞給ひし、教待和尚百六十二年行て、
その後、智証大師に附属したまひたりける弥勒とぞ

聞えし、都史多天上摩尼宝殿よりあまくだりましま
して、はるかに龍花下生の朝を待たまふと聞つるに、
こはいかになりぬるやらん、当時の恵命もすでに尽
き果てぬるにやとぞ見えし、天智天武持統三代の帝
の御鵜葺湯の水を汲たりける故に、御井寺と名付た
り、または此所を伝法灌頂の霊跡として、井花水を
汲む事慈尊の朝を待故に、三井寺とも申也、かくや
んごとなき聖跡ともいばず、弓矢を入、凶徒乱入して
塵灰となされける事こそ悲しけれ、
廿一日園城寺円恵法親王、天王寺別当をやめられ給
ふ、彼宮と申は、後白河院御子なり、院宣云、
園城寺悪僧、奉違背朝家、企謀叛仍門徒僧綱
以下悉停止公請、兼又末寺庄園及彼寺僧等私領、
仰諸国宰吏可令収公、但有限寺用者、為国
司沙汰、付寺家所司、任其用途勿令退転、恒
例仏寺無品円恵法親王、宜令停止天王寺検校
職、
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とぞかかれたりける、〈 ○今按二十一日以下之文恐衍 〉新都は益々繁昌し、
旧都は弥あれゆくめり、小路には辻毎に堀をほり、
逆茂木を引きて、車など通ふべくもなければ、たま
さかに小車に乗る人も、道をへてぞ行通ひける、程
なく田舎にたたなりになるも、夢の心地して浅まし
き、人々の家々皆こぼちつつ、筏にくみて福原へと
ぞ賀茂川かつら川にうけて下す間、むなしきあとの
み多ければ浅ぢが原、よもぎがそま、鳥のふしどと
なりはてて、虫の声のみぞ恨むる、残る所も門をと
ぢて、庭には草深くして茂き野辺とぞなりにける、心
細くかなしからずといふ事なし、新都の道のほとり
を見れば、車にのるべきものは、馬にのり、衣冠布
衣なるべき者は、多く直垂を着たり、都の手ぶり忽
に改りて、ただひなびたる武士に異ならず、秋もふ
かくなり行けば、心ある人々名所々々の月を見る、
源氏大将のあとを追、須磨より明石へ浦伝ふ人もあ
り、あはぢの瀬戸をおし渡りゑじまの月見る人もあ

り、都のほとりの恋しさに広沢へ行人もあり、この
中に後徳大寺の左大将実定古き都を恋て、八月十日
余の比にや、入道の宿所に行向ひて、今一度旧都の
月を見候はばやと存候、実定いとまを給候なんやと
のたまひければ、入道いつよりも心よげにて、何か
くるしく候べき、とくとくとありければ、実定悦で
むちをあげてぞのぼられける、鳥羽田のおもの秋の
暮、稲葉がすゑを渡る風、恨むる虫の声までも身に
しみ、露も涙に争ひて袂をしぼるばかりなり、大将
その夜は大宮の御所にまいらせたまひ、待宵の小侍
従をぞ尋ねたまひける、かの小侍従と申は、もとは
安房の局とぞ申ける、高倉院御位の時御悩あて供御
も参らず、歌よみたらは供御参りてんとありければ、
時もかはらず、
君が代は二万の里人数そひて
今も備ふるみつぎものかな W075 K091
とよみたりければ、その時のけん賞に侍従には成さ
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れたりけるとぞ申、のちには皇太后宮に参り、せい
のちいさかりければ、小侍従とぞ召されける、かの
母と申は、鳥羽院の御内に小大進の局とて候けるが、
いささかなる事によて、御内を住うかれ、かた辺土
なる所にかすかなる住居にてぞ候ける、或時小大進
のつぼねうづまさに参りて七日籠り、我身のありわ
びたる事をぞいのり申ける、七日にまんじける暁、
下向せんとての夜半ばかり、薬師の十二の誓願の中
に、衆病悉除のたのもしきことを思ひ出し、
南無薬師憐み給へ世の中に
すみわびたるも同じ病ひぞ W076 K282
と読で参らせ下向し、十二日と申しに、やはたのけ
ん校広清にぐそくしてまうけたりし子なり、此子二
と申けるに、父母ともに南おもてに出てぞ遊びける、
此子母がひざよりおり広縁をはひありきけり、比は
九月中旬のころ南面の籬に薯蕷はひかかり、その蘇
なりさがりたりけるを、広清これを見て、

いもが子ははやはふほどに成にけり、と口ずさみた
りければ、母此子をいだきてとるとて、
いまはもりもやとるべかるらん、 W077 K283とぞつけたりける、
父母ともにすきたりける者なりければ、かの小侍従
も歌よみにてぞ候ける、大将年ごろ浅からず思ひて
通はせられけるに、ある夜待わび、さむしろ打拂ひ
富士のけぶりのたえぬ思の心地して、宵のかねうち
過おくれがねかすかに聞えければ、侍従なくなくか
うぞ思ひ続けける、
待宵のふけゆくかねの音きけば
あかぬわかれの鳥はものかは W078 K093
と申たりける事を聞召されてぞ上様にも待宵の小待
従とは召されける、大将かの御所に参らせ給ひ、惣
門をたたかせられければ、内より女のこゑしてたぞ
や、此程はよもぎふの露打払ひ参よる人一人も候は
ぬに、小夜もはるかに更さふらひぬるにととがめけ
れば、御供の人々福原より後徳大寺殿の御参り候に
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と申ければ、さては惣門は鎖のささりて候に、西表
の小門より入せ給へといひ捨てて、女は内へぞ入に
ける、大将西表へまいり給ひけり、侍従も小門へ参
りあひ参らせ、手をとり組みてぞ入給ひける、たえ
て久とはれ奉らぬ事を恨み申てなき居たり、大将の
たまひけるは、此ほどは新都の事はじめあるべし、
よろづひまなく候つれば、かきまぎれて候よしを仰
せられければ、侍従誠にも思召さるるそのいろふか
くば、たとひ海山をば隔つとも、などか一度のつて
には預らざらんと恨申てなきければ、大将もげにこ
とわりやと思召され、御直衣のそでしぼるばかりに
なり給ひける、ややあて大将、宮はいづくに渡らせた
まひ候やらんととひたまひければ、月を待せ給はん
とて東のだいに御びは遊ばしてましまし候と申けれ
ば、さては参りて候由を申され候へと仰られければ、
侍従参りて此よしを申す、宮聞召され、あな珍し、
これへとの御気色なり、大将うけたまはり、しやく

にやうちやうとりそへて、南庭をわたり東おもてへ
ぞ参られける、宮は秋風楽と申がくを三返あそばし、
御びはをさしおかせ給ひける、ばちしてこれへと招
かせたまへば、大将月の光ともろともにさしぞ入せ
給ひける、さてこそ源氏の宇治巻には、うばそくの
宮の御むすめ秋の名残を惜みつつ、びはを調べて夜
もすがら、御心を慰め給ひけるに、八月十五夜ゐま
ちの月を待わび、猶たへずやおぼされけん、ばちし
て招きたまひける、その夜の月のおもかげも今こそ
思召し知られけれ、折しりがほなる初雁の声ほのか
におとづれ、妻恋鹿の恨こゑ、虫の声々たえだえな
るも時しあればと思召れ、草の戸ざしもかれにけり、
更け行ままに大将やうちやう音とりすまし御びはに
つけ、がく二三あそばし、ふるき詩を詠じ給ひける、
霜草欲枯虫思苦、風枝未定鳥栖難、古き都の荒行
けるを、大将今やうにつくりてぞうたはれける、古
き都を来てみれば、浅茅が原と荒れはてて、月の光
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はくまなくて、秋風のみぞ身には入と、押返押返二
三べんうたはれければ、大宮をはじめ参らせて、侍
従以下の女房たち袖をしぼらぬはなかりけり、
たまたまの御上なれば、暫御逗留あらんずらんと思
召されけれども、八声の鳥もかさなり、しののめや
うやう明けければ、大将いとまを申て帰られけり、
御所中の女房たち御名残ををしみ参らせ、はるかに
見送り参らせ、涙にむせび給ひけり、まして侍従が
心中さこそと思ひ知られてあはれなり、大将も心づ
よくは出給たりけれども、ただうしろ引返す心地し
て駒更にすすまれず、御ともに候ける蔵人をめし、
侍従が門送りしてはるかまで出たりつるを、何とも
いはで帰りたるが心にかかりて覚ゆるぞや、行て何
事をもいひかけて帰れかしと仰られければ、蔵人承
て侍従がなきゐたりける所に馬よりおり、是は大将
殿の申せとの仰にて候と申、
ものかはと君がいひけん鳥の音の

けさしもいかにかなしかるらん W079 K094
と申ければ、侍従もなくなく御返事申けり、
またばこそ更け行かねもつらからめ
あかぬわかれの鳥の音ぞうき W080 K095
蔵人六田河原の辺にて追つき参らせたり、大将蔵人
を待得給ひ、よにうれしげに思召したるげにて、い
かにと御尋ある、蔵人しかじかとぞ申ける、わりな
し神べうなりとて、津の国なるしきの庄をぞ給ける、
それよりしてこそ蔵人をば、物かはの蔵人ともめさ
れ、又やさ蔵人とも申けれ、夏もすぎ秋にもなりぬ、
月日はすぎ行けれども世はいまだ静まらず、胸に手
を置たる心ちして、常に心さわぎ打してぞありける、
平家の人々は、二位殿をはじめ奉てさまざまに夢見
あしく、さとしども多くありければ、神社仏寺、事に
祈りぞ頻りなりける、そのころ入道福原にましまし
けるに、不思議の瑞相ども多くぞありける、ある夜
のゆめに入道見たまひけるは、まだ早旦なる心地し
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てえんぎやうだうしてましましけるに、されかうべ
二いでて、東西よりねりあひねりあひぞしける、初は二
ありけるが、のちには十廿五十百千万、後には幾千
万といふ数を知らず、つぼにみちみちてぞ候ける、
是等が集り居て、上なるかうべは下になり、下なる
かうべは上になり、かしひしとぞくひあひける、さて
その後静まりて、かうべどもがおもてを並べて入道
をはたとにらまへてぞ候ける、此かうべどもは面に
目一づつぞ候ける、入道もまけじと是等をにらみ給
ふ、たとへば人の目くらべをする様に、たがひにま
たたきもせずはたとにらまへてぞ候ける、ややあつ
て一同に声を上げてどつと笑ひて、霧霞雪霜などの
ごとく消失せて、後にはあとかたちなくぞなりにけ
る、その後入道夢うちさめて、むなさわぎしてぞま
しましける、又あるときゆめに見給ひけるは、八間
の所にはばかるほどのされかうべあて、これも目一
ありけるが、また入道と目くらべし、是もにらみま

けて失せにけり、かかる事どもを見たまひ、その後
はつねに物ぐるはしき心ぞ出きける、
其頃京極源中納言雅頼卿内の青侍が、ある夜の夢に
見ける事はいづくとも其所をばたしかに覚えず、大
内裏の内神祇官かとおぼしき所に衣冠正しくしたる
上臈たち並居たまひて評定ありけり、ことに尋常に
ましましける上臈の仰られける事は、このほど清盛
入道に預け給ふ所の剱をば召返して、伊豆国の流人
前兵衛佐頼朝に給ふべしとぞ仰ありける、弓手の方
に居させ給ひたりける上臈、是を請取て仰ありける
は、もつともこのつるぎをば召返して頼朝に給べく
候、頼朝一期の後は我に給て、孫にて候者に給べき
よしを仰られける、同じく居させ給ひたりける上臈
中座に出させましまして、冠を地につけて仰られけ
るは、此ほど清盛入道に預けたまふ所の剱をば何の
罪科に召され候ぞ、今暫し給りましませかしと仰あ
りければ、じんじやうにましましける上臈大にいか
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りをなし、かの清盛入道と申は、朝位をいるかせに
し、仏法王法の敵なり、何によてか今しばしも給ふ
べき、此座に清盛入道の方人申さるべき人あるべし
とこそ覚え候はね、上日の者や候とぞ召されける、は
るかの末座に居たりける人、せきいにけんしやくを
たいしたりけるが候とて、御前に参られたり、彼を
出し奉れと仰ければ、二人さしよりて、左右の手を
取て、引たてはるかの門外におし出し奉る、しほしほ
として出させ給ふ、青侍は是を承り、つくづくと見
参らせ、傍なる人に向ひて申ける事は、あら目出た
の上臈達や、近くは見参らせたりとも覚えぬものか
な、是はいかなる上臈にていまし候やらんと申けれ
ば、彼人答へていふ、汝しれりやいなや、是こそ日
本国中の神たち参り給ひて、源平の評定あれ、座上に
まします上臈の清盛入道に給所の剱を召返して、頼
朝にたばんと仰られつる上臈こそ源氏の氏神正八幡
の本地応神天皇にてましませど、其次にまします上

臈の、頼朝一期の後は、我に給て孫にて候者にたぶ
べきよし仰られつる上臈こそ、藤原氏の先祖春日大
明神にてましませ、中座に出させ給て、彼剱をば清
盛に今しばし給候へと申させ給ひつる上臈は、平家
氏神厳島の大明神是なり、上日の者と召れ、赤衣に剱
笏を持ちて参られたりつるこそ、今日の番頭三十番
神の其一住吉すはの大明神にてましませ、御ざしき
にありける事をくれぐれ申、さてその後青侍も夢う
ちさめて、恐しさのあまりに五体よりあせみちみち
てぞ候ける、青侍天晴れて後、主の雅頼卿にこの事を
ありのままに申ければ、雅頼卿ゆめゆめこの事披露
すべからず、入道この事を聞給ては、汝もいかなる
目をか見んずらんと口をしめし給ひけれども、京中
にこの事聞えて人の五人三人寄合所には、ただ此事
のみぞ申あひける、入道この事聞給ひ、越中次郎兵
衛盛次を召してのたまひけるは、源中納言雅頼のも
とにあるらん者が、入道があたりの事を夢に悉く見
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たるよしを承る、是を給て委しく承候べしと申、召
し取て参れ、委く尋聞べしとぞのたまひける、盛次
承て、雅頼のもとへまかり向ひけり、雅頼此事を聞
給ひ、青侍召してのたまひけるは、さしも口をしめ
しつるかひなく、此事披露して汝を召しに人むかふ
なり、いかなるめをか見んずらん、我も汝故によか
るべしとも覚えず、いづくの方へもうせよとぞのた
まひける、青侍もこれを承り、よしなきゆめゆゑに
都の外へぞ出にける、越中次郎兵衛、雅頼のもとに罷
向て、入道のたまひつる事をありのままに申ければ、
雅頼その返事に、畏て承候此ものかかる事申て後は、
世をはばかりいづちへか行候ぬらん、行すゑをも知
らず候とのたまひければ、次郎兵衛帰て入道にかう
とぞ申ける、入道猶も腹居ぬげにてのたまひけるは、
かかる者までも入道が事を申らんこそ不思議なれ、
世の事を思ふにこそとぞのたまひける、雅頼卿もか
様に返事をばしたまひたれども、猶も世の恐しさに

入道の方へぞ参られたる、入道中門の廊に中納言を
入奉り、出あひ対面してのたまひけるは、別の仔細候
はず、それに候なる青侍が、夢を委く見たるよし伝
へ承候つる間、委く参らんためにこそ申て候へ、是
までの御入こそ殊に悦入候へ、別の仔細候まじ、と
くとく帰たまへと仰られければ、中納言悦急ぎ宿所
へぞ帰られける、青侍も都をいで、丹波の国あなた
の辺に候けるが、猶もふかく尋らるる事を聞て、そ
の後は行方しらずうせにけり、宰相入道正頼は、此
事を聞、万人の愁を聞てはともにうれひ、徳政を聞
てはともに悦び給けるが、是を聞、さては入道の世
は今はかうござんなれ、厳島明神と申は、しやかつ
ら龍王の第三の姫宮、胎蔵界の垂跡女体にてこそい
ますに、俗体に現じたまひける不思議さよ、越前国
気比の宮と申は、金剛界のすゐ跡なり、厳島に客人
の宮と申は、けひの宮是也、けひの宮に沖の御前と
申は厳島是也、胎金両部の垂跡顕れてましませば、俗
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体に現じ給ひけるはことわり也とかんぜられける、
春日の大明神の、頼朝の後には俄に給て、まごにて
候ものにたばんと仰られけるこそ不思議なれ、此後
藤原氏の世をもたんずる事のあるべきやらんとぞ仰
られける、其後、頼朝世を取て日本将軍といはれた
まひ、一天四海を掌に握りて、代を保ちたまふ、頼
家実朝頼朝の跡をつぎ、三代将軍の後、義時代を取
てありけるが、天子の恐れを思ひ公家に仔細を申て、
車内納言なにがしの将軍とて、関東に下し給ひし時
にこそ、青侍が見たりし夢はまことなりけりと、万
人かんじ申けり、
治承四年九月二日、大庭三郎景親東国より早馬をた
て、新都につき、太政入道殿に申けるは、伊豆国流人
前右兵衛佐頼朝、一院の院宣高倉宮令旨ありと申て、
伊豆の国の住人北条四郎時政を先として、忽にむほ
んを企て、去八月十七日の夜、同国の住人和泉判官
兼隆が屋牧のたちへおし寄せて、兼たかをうち、館

に火かけてやき拂ひぬ、同廿日北条四郎時政が一る
ゐを卒して、相模の土肥へ打越て土肥、土屋、岡崎
等与力して三百余騎の兵をひきゐつつ、石橋といふ
所にたて籠りて候を、同国の住人大庭三郎景親、武蔵
相模に平家に心ざし思ひ参らする者どもを招きて、
三千余騎にて、同廿三日石橋へよせてせめ候しかば、
兵衛佐無勢なるによて、さんざんにうち散らされて、
椙山といふ所に引籠る、同廿四日さがみの国由井の
小坪といふ所にて、畠山庄司重能が子庄司次郎重忠、
五百余騎にて兵衛佐の方人三浦大介義明が子ども三
百余騎と合戦して、畠山庄司次郎かけちらされて、
武蔵国へ引退く、同廿六日に武蔵の国住人江戸太郎
重長、河越小太郎重頼等を大将として、党者どもに
は、金子、むら山、丹党、よこ山、篠党、児玉党、
野与、綴喜党等をはじめとして、二千余騎にて相模
国へ越て、三浦をせむ、三浦の者ども衣笠の城に籠
りて、一日一夜戦ひて、矢だね射尽して舟に乗、安
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房の国へ渡り候ぬとぞ申たりける、平家の人々此事
を聞てさわぎあひけり、畠山庄司重能、同舎弟小山
田別当有重兄弟二人平家に奉公して候けるが、此事
を聞て何事の候はんずるぞ流人兵衛佐方人して、朝
敵とならんとおもふ者たれかは候べき、したしく候
へば、時政ばかりこそ候はんずれ、今聞召し直させ給
ひなんとぞ申たる、平家のわかき人々、興ある事を
ききたるやうに思ひて、あはれとく討手に向はばや
などといひけるこそあはれなれ、畠山庄司次郎重忠
三浦の人どもと合戦しけるは、父庄司重能、叔父小
山田別当有重等平家につきて、在京の間、そのかう
べをつがんためなりとぞ聞えし、太政入道のたま
ひけるは、昔義朝は信頼にかたらはれて、朝敵とな
りて追討せられにしかば、その子孫一人も生られま
じかりしを、頼朝をば池大納言頼盛が子と申、ゆる
ししかば死ざいをのがれて、流ざいになしにき、い
のちを生られたる恩を忘れて、忽に国家を乱る、我

が子孫に向ひ弓をひき矢を放たん事、仏神もいかで
か御ゆるされあるべき、天のせめただ今蒙らんずる
頼朝なり、あやしの鳥獣もおんとくを報ずるとこそ
聞け、されば我が子孫に向ひて、頼朝七代まではい
かで弓を引べきと、くり返ししかり給ひける、時の
才人たち内々申されけるは、入道のたまふもそのい
はれなきにあらず、但恩をわすれ徳をもむくいず、
野心をさしはさみしもの昔も多くありき、
日本盤余彦御宇四年己未春、紀伊国名草郡高尾村
(土)蜘蛛あり、身短く手足長くして、力人にすぎた
り、皇化に従はざりければ、官軍葛の網を結て終に
おほひ殺す、それより以来野心をさしはさんで朝家
を背きし者おほし、すなはち
大山皇子、大石山丸、大伴真鳥、守屋大臣、蘇我入
鹿、山田石川、右大臣豊成、左大臣長屋、太宰少弐
広継、恵美押勝、井上皇后、氷上川継、早良太子、
伊与親王、藤仲成、橘逸勢、文屋宮田、武蔵権守、
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平将門、伊与守藤原純友、安部頼長、子息厨川次郎
大夫貞任、同鳥海三郎宗任、対馬守義親、悪左府、
悪右衛門督にいたるまで惣て廿余人なり、されども
一人として素懐をとげたるものなし、みな頭を獄門
にかけられ、尸を山野にさらしき、南蛮北狄東夷西
戎、新羅高麗百済国にいたるまで、我朝を背く事な
し、此世にこそ王威も無下にかろけれ、上古には宣
旨と申てければ、枯たる草木も忽にひこばえ、天を
かける鳥、山にすむ獣までも、したがひけり、近ごろ
の事ぞかし、延喜御時、池のみぎはに鷺居たりける
を、御門御らんじて、蔵人を召して、あの鷺取て参
れと仰られければ、蔵人取らんとて、まかりければ、
鷺羽づくろひをして、すでに立んとしけるを、せん
じぞわ鷺まかりたつなと申ければ、鷺飛去らずして
とられにけり、御所へ持て参りたりければ、やがて
放されにけり、まだら鷺御用なかりけれども、皇威
のほどをしろしめさんがためなり、

我朝にもかぎらず唐国の燕の太子丹といふ者、秦の
始皇といくさをするに、太子丹軍にまけて始皇に取
こめられて、年月をふるに、すでに六ヶ年いましめ
置れたり、かの太子丹我身のいましめられたる事は
さる事にて、殊に父母を恋心せちなりけり、時に燕丹
曰く、今はゆるしたまへ、本国へ帰て恋しき父八十
になる母を今一度見候はん、六ヶ年を過てきんごく
のれいや候と申ければ、始皇あざむきて、烏のかし
らの白くなり馬に角のおひたらん時、本国へ返すべ
しとのたまひければ、燕丹こころうき事なり、さて
は我恋しと思ふ父母をも見ずして、ここにて徒に死
なんずるこそと思ひけるに、今更かなしくせん方な
くして、夜はよもすがら天に仰きてなき明し、昼は
ひねもすに祈誓しければ、かしら白き烏飛び来れり、
燕丹是を見て、今ゆるされなんずるにこそ、山烏か
しらも白くなりにけれ、我帰べき時や来にけんと思
ひけるに、是にもゆるされず、馬に角のおひたらん
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時返すべしとて、ゆるし給はざりければ、今は日頃
たのみもつきはてて、いかにすべしとも覚えず、妙
音菩薩は霊山しやうどに詣て不孝の輩をいましめ、
孔子老子は大唐震旦にあらはれて孝道章を立、上梵
釈四王より下堅牢地神にいたるまで、孝養のものを
ば憐み給ふなるものをとて、涙にむせびて天道に祈
念し、仏神にいのり申事、明けても暮ても怠らざり
けるしるしにや、角おひたる馬庭上に出来る、始皇
是を見給ひて驚きおぼして、燕丹は天道の加護の者
にてありけるぞやと申て、烏頭馬角の変ずるに驚き
て、燕丹を本国へかへしつかはす、なほ安からずお
ぼして、本国へ帰みちに大河に橋あり、かのはしを
かたぶけてあばらになしてけり、ゑんたん是を知ら
ず、このはしを渡るに、則ち落にけり、されども河
の底へも入らず、平地を歩むが如くにして、むかひ
の地につきて上りにけり、みれば千万の亀出来て、
甲を並べてぞ渡したりける、是またふしぎの事なり、

本国へ帰たれば、父母親類兄弟等来集り悦あへり、
燕丹始皇に取こめられて、かなしかりつる事をかた
りて、いかにもゆるされまじかりつるを、しかじか
の事ありてゆるされたりと母に語ければ、母悦てあ
りがたき事にこそ、いかにしてか、かしら白き烏を憐
まむと思ひけれども、行けん方もしらず、たとひ知
たりともいかがはせんとて、せめての事にや黒烏を
集めて、ものをたびにけるに、かしら白き烏出来た
りけるとかや、是も不思議のことにてぞありける、
ゑんたんはいましめ置れたりし事を心うき事に思ひ
て、いかにもして始皇帝をほろぼさんと心にかけた
るに、荊軻といふ臣下のありけるが申けるは、太子
のゆるされ給へるは、始皇の宥免にはあらず、しか
しながら天神地祇の御助なり、されば秦の国に押寄
せて始皇帝を討んといひければ、もつともしかるべ
しとて、せん非を悔いず契を変じて、始皇をほろぼ
すべき謀をめぐらす、燕丹返されたる悦に燕の国を
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始皇帝に参らする、国々の券文ゑんのさしづあひぐ
してつかはす、又〓嶺の形を金にて鋳て、さしづの
箱に入、かの箱の中に、仙秘の剱とて一尺八寸ある
剱をかくし入て、けいかに持せて秦の国へやる、ま
た河付僧欲といふ者二人を副将軍にて、すでに秦の
国へ向ひけり、又先生といふ者を語らふ、先しやう
たのまれて申けるは、きりんといふ馬は一駅に千里
をとぶ、しかれども年老衰へぬれば駑馬にもおとれ
り、我身さかむなりし事を聞おぼしてたのませ給ふ
か、兵をかたらひて参らせんと申て立ちぬ、燕丹さ
らばあなかしこ、この事披露すなよとぞ申ける、国
国驕兵披露すなと仰られたらん事を流布したらんに
すぎたる恥はいかでかあるべき、我命ながらへてあ
らば、もし披露あらん時は、先生こそ披露したるら
めと思召さんこと口惜かるべしといひて、生年七十
一にて腹かき切て死にけり、皇帝には敵あまたあり
ける中に、はんゑきといふ者ありけり、けいかはん

ゑきをかたらふ、はんゑきはもと秦の国の者なり、
皇帝のために親おうぢ兄弟子息皆ほろぼされて、我
身一人残て此国に逃げこもりたりけり、せんじを四
海にくだされて、はんゑきがかうべ参らせたらんも
のには、五百斤の金を与へんと仰ありける、けいか
はんゑきに申けるは、汝がかうべは金五百斤に報い
たるかうべ也、汝が首を我にかせ、始皇帝に奉てそ
の命を奪はんといふ、はんゑき膝をかかげをどり上
りて、我父おうぢ親類兄弟皆始皇帝にほろぼされて、
夜ひるの思ひこつずゐに通りたへがたし、わが頭を
汝にかさんに、始皇帝の命を奪はん事塵芥よりもや
すかるべしといひて、首をすなはちとらす、此外秦
の国に舞陽といふものあり、十三にておやの敵を討
て此国に逃籠りたりけり、にらめば七尺の男も絶入
し、笑へば三子もいだかるといへり、まことなるか
な、はんゑきがかうべ舞陽に持せて秦の国へおもむ
く、始皇帝の内裏は空へぞ高く作りたりける、東西
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へ九町、南北へ五町、かんやう宮の高さ三十六丈に
作りたり、八丈のはたほこをたて、大床の下に五丈
のはたほこを並べ立たるに、心も詞も及ばず、はん
ゑきがかうべ鉾に貫きて舞陽に持たせたり、燕の国
のさしづ、国々の券契相ぐして、けいかぞ持ちたりけ
る、かのはこの中に仙秘の剱とて一尺八寸の剱をか
くせり、道すがら太鼓を打ちて行く、すでに秦の国
の境へ入て王宮へ望ければ、燕の太子丹こそ免され
たる悦に、秦の国の第一の朝敵はんゑきが首を窺ひ
取て、当国へ参るなれなど聞えければ、さじきをうち
て是を見る、秦の国の官兵内裏の四方の陣をかため
たり、けいか、ぶやう二人の臣下、咸陽宮の阿ほう殿
へ参りて、玉の階をのぼりて、甍を見れば、眼もつか
れぬべし、安西城郭にはついぢをつき、秋の田の面の
雁の春は、越路に帰るも飛行自在のさはりあれば、
ついぢには雁門とて穴をぞ明けたりける、かかる九
重のうちに始皇は住み給へり、これめいどの使をよ

せじの謀なり、はんゑきが頭ほこに貫きて持たるぶ
やう、ただ今あく事をいたさんずる心やあらはれけ
ん、左右の膝わなわなとふるひて、玉の階をのぼり
わづらふ、庭上に並居たるつはものども色をうしな
ひてさわぎあへり、大将軍とおぼしき者是を見て、
暫くおさへてふしんを相尋る所に、けいかさとられ
なんずと驚きて申けるは、翫其積礫不窺玉淵
者、未知驪龍之所蟠、習其弊邑不視上邦者
未知英雄之所宿、といひければ、つはものども静
まりにけり、たとへば土くれを積でもてあそびもの
とするほどのものは、玉に望なければ、なんだ、ばつ
なんだ等の龍の蟠まれる淵を知らず、あやしの柴の
庵に住ならひたる賎の女は花の都をも見なれねば、
礼義の正しき事をしらぬなりとぞちんじたりける、
そのとき二人の臣下南殿近くのぼりあがて、はんゑ
きが頭を皇帝に奉らんとしける所に、官使うけとり
て上覧すべきよし仰下されければ、けいか申けるは、
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かかるありがたき朝敵のかうべをいかでたやすくつ
てには上覧仕るべき、燕の国小国なりといへども、
かの国の臣下なり、直に進報仕らん事何の恐れか候
べきと申ければ、誠に日ごろへたる宿意ふかき朝敵
なり、申所そのいはれありとて始皇自らとり給ふべ
き儀式にて、玉体けいかに近づき給ふ、はんゑきが
死してくわいけいの恥を雪がんと、たばかりたりし
事少しもたがはざりけり、けいかはんゑきが頭を奉
る、始皇是をかんじ給ふ所に、ゑんの国のさしづ券
契入たるはこをけいかあけたれば、秋の霜冬の氷の
如くなる剱のさきのかがやきて見えければ、始皇大
に驚き給ひて逃たまふ、けいか御衣にとりつき奉り
て、かの仙秘の剱を取て、始皇の御むねにあててい
はく、誠には燕の太子丹を六ヶ年までいましめ置か
れたりつるくちをしさに、かくたばかりたりといひ
て、すでに剱をふらんとしければ、始皇涙を流して
のたまひけるは、我一天の君万乗の主として武王の

中の武王なり、昔も今も朕にならぶ帝なし、されど
も運命限りありければにや、今はのがるべき身に非
ず、但臨終のまうねんになりぬべきよしみ残れり、
九重の中に千人の后を置たり、その中に第一の皇后
琴をいみじくひきたまへり、その曲を今一度聞ばや
とのたまひければ、けいか思ひけるは、我辺土の臣
下なり、始皇の宣旨を直に蒙る事あり難し、とりこ
め奉ぬる上は、何事かあるべきと思ひて、暫くゆる
べたりければ、始皇悦給ひて、南殿に七尺の屏風を
立てて、后行啓しあて、琴を引給ふに、さまざまの
秘曲今は限りと聞たまひて、いつよりもあはれなり、
心細きこと限りなし、さて終り方に七尺の屏風はを
どらは越つべし、羅〓の袂もひかばきれなんといふ
曲をたびたび引給ひけるに、けいか、ぶやう二人の臣
下は、くわんげんの道やうとかりけん、この曲を聞
知らず、始皇は聞知り給ひて女人の身なれども、を
りに隨ひて、武き心もありけるにや、我武王の中の
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大武王として敵にとりこめられたる事を心うしと、
がうじやうの心忽に起りて、七尺の屏風を後さまに
がばと越給ひける時、けいか琴の音に心をすまして
ねぶりたる体なりけるが、打驚き剱をおひざまにな
げかけたりければ玉体にはあたらで、かの銅の柱を
半ばかりぞ切入たりける、夏附旦といふ番の醫師が
侍醫といふつかさにて、折節御前に候けるが、とり
あへずくすりの袋を玉体近く投たりけり、皇帝疵一
所もおはせ給はねば醫師袋、要にはなけれども、時に
取てはゆゆしかりける事也、皇帝立帰り、我宝剱を
ぬきて、けいか、てんくわう先生、しん舞陽等を八
さきにさかれにけり、やがて燕の国へ軍兵をさし遣
はして燕丹をほろぼし給ひてけり、その時白虹日を
貫てとほらずといふ天変ありけり、日を通りたらば、
皇帝の御命危かるべかりけるに、つらぬきながら通
らざりければ、その天変は災に非ずといへり、され
ば、昔の恩をわすれたるによて、燕丹かくほろびぬ、

同意の者も討れにけり、されば昔の恩を忘れて、よ
りとももいかで平家を背きむほんを企べきとぞ入道
のたまひける、
兵衛佐は、永暦元年三月廿日流罪せられてのち、廿
一年の春秋を送り、年ごろ日ごろさてこそすぎつる
に、今年いかにしてかかるむほんを企つらんと人恠
をなしけり、後日に聞えけるは、高尾の文覚がすすめ
たりけるとぞ承はりし、その文覚をば在俗の時は、
遠藤三郎盛遠とぞいひける、上西門院の衆にて、後
には武者所に参りたりければ、遠藤武者とぞいひし、
十八の年道心起して、もとどりを切りつつ、文覚房
とて熊野に籠りて行ひけり、高野、こかは、山々寺
々参りありきけるが、都へ帰りて高尾辺に住けり、
このたかをの神護寺をちしき奉加にてつくらんとい
ふねがひを起しつつ、十方旦那をすすめありきける
程に、院の御所法住寺殿へ参りて、御奉加あるべき
よしを申けるを、折節御遊のほどにて奏者御前へ参
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らず、申入人もなかりければ、御前のこつなきとは
思はで、人の申入ぬにこそと心得て、大慈大悲の名
にてぞ渡らせ給ふに、などか聞し召入られざらん、
人のうたてきにてこそあれと思ひけるうへ、天せい
ぶたうのものぐるはしきものにてありければ、常の
御前の御つぼの方へすすみ入て、以外の大音声をは
なちてくわん進帳をよむ、状云、
勧進僧文覚敬白
請蒙殊貴賎道俗助成高雄山霊地建立一院
令勤修二世安楽大利子細状、
夫真如広大雖絶生仏之假名法性隨意雲厚覆自
〓十二因縁之峯、以降本有心蓮之月光幽而、未
顕三徳四曼之大虚悲哉、仏日早没、生死流転之
〓、冥冥只耽色耽酒、誰謝狂性跳猿之迷、徒謗
人謗法、豈免〓羅獄卒之責乎、爰文覚偶払俗
塵、雖餝法衣、悪業於意逞、与造于日夜、善苗又
耳逆、廃于朝暮哉、再帰三途之火坑永廻四生

之苦輪、所以牟尼之憲法千万軸、々々明仏種之因
隨縁至誠之法、一而無不至菩提之彼岸、故文覚
無常之観門落涙、催上下親類之結縁、上品蓮台
運心立妙覚王之霊場也、抑高雄者山堆而顕鷲
峯山之梢、谷禅而敷商山洞之苔、巌泉咽曳布、
嶺猿〓遊枝、人里遠而無囂塵、咫尺好而有信
心、地形勝尤可崇仏天、奉加微誰不助成乎、
風聞聚沙為仏塔之功徳、忽感仏因、何況於一
紙半銭之宝財乎、願建立成就、而禁闕鳳暦、御願
円満乃至都鄙遠近親疎里民歌尭舜無為之化、
開椿葉再会之咲、況聖霊幽儀前後大小速遊一仏
菩提之台、心翫三身、満徳之月、仍勧進修行之趣、
盖以如斯
治承三年三月日
とぞよみたりける、四条太政大臣、按察大納言資賢、
右馬頭すけ時、源少将まさかた、四位侍従もりさだ
等座に候て、資賢卿拍子を取て、風俗さいばらをう
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たひ、太政の弟琵琶かきならし朗詠し給ひ、資賢も
りさだ今様謳ひなどして目出度面白かりければ、院
奥に入らせましましたりけるに、この大音声に調子
もたがひ、人々もおどろき、興さめてければ、法皇
忽に御げきりんあり、北面に候けんびゐしどもにそ
くびをつくべきよし仰下されければ、平判官すけ行
さうなくそくびをつかんとて走よりたりけるを、く
わん進帳を取直して烏帽子をうち落し、やがてむね
をつきてのけにつきまろばしてけり、北面に候あひ
たるものども我も我もと走りかかりけるを、ふとこ
ろより七寸ばかりなる刀の柄に、馬の尾をまきたる
が氷などのやうなるを抜出して、走り向ひたりけれ
ば、北面の者ども、大ゆかの上へ逃上りぬ、かかる
間院中さうどうす、公卿、殿上人、御前の座を立さ
わぎ給ふ、たけ七尺ばかりなる法師のすぐれたる大
力なりけるが、腰刀をぬきて走りめぐりたりければ、
思ひ寄らぬにはか事にてはあり、こはいかなる事ぞ

やとて上下皆さわぎあへり、宮内判官公朝近くよて、
やや上人の御房まかり出られよ、既にからめとらる
べきにて人々の来なりと申ければ、神護寺に庄一所
よせられざらん程は、いかにもまかり出まじと申て、
弥くるひまはりけるを安藤右馬大夫忠宗がたうしよ
くのとき、武者所に候けるが、太刀をぬきて走向ひ
て、太刀のみねにてしたたかに左の肩を首へかけて
うちたりけるに、少しひるむやうにしけるを、太刀
をすてていだきたりけり、忠宗こがひなをつかれた
りけれども、はなたずいだきたりけり、その後ここ
かしこより人々多く出来て取つきて、手々にはたら
く所の定か[B 「定か」に「ママ」と傍書]らして門へひき出して、平判官が下部に
たびてけり、すけ行は烏帽子うちおとされて恥がま
しくぞありける、忠宗は御かむにあづかりて右馬允
になりにけり、文覚悲しきめを見たりけれども、口
へらざりけり、右の獄に入られたりけるに、いつしか
非常の大しやありけるに、文覚ゆりてけり、されど
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もくちしひず、ものすすめにありきて、さまざまの
狂言はなちて、いまいましき事ともをのみいひけれ
ば、遠く流せとて、伊豆の国へつかはしける、かの
くには伊豆守仲綱国司にて知行し給ひければ、仲綱
院宣を承りて、渡辺党さつま兵衛はぶくに具せさせ
て下すべかりけるに、をりふしいづのくにの御家人、
近藤七国平といふ者のぼりたりけるに、文覚をぐせ
させて、南海道より伊勢路をぞくだしける、文覚船
にのりける日より、天にあふぎてちかひをなしける
は、我願成就すべきならば、湯水を呑ずとも国へつ
かんまで命を全くすべし、願成就すまじくば、今日
より七日の中に、命終るべしといひて、三宝神明か
ならず御知見たれ給へとちかひて、おんじきをたち、
人くはせけれども、喉へも入ず、廿一日と申に、伊
豆の国へつきたりけり、そのあひだに、湯水をもの
まずして、五穀はいふに及ばず、されども、色かほ
おとろへず、おこなひうちしてぞありける、ただも

のにはあらざりけるやらん、ふしぎの事どもなり、
平家物語巻第九終