平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第八

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平家物語巻第八
高倉宮御所には、検非違使いまだ向はざりけり、信
連はうすあをのかりぎぬのしわまへよられたるに、
衛府の太刀をはきて、つるぶくろうしろへおしまは
して、ゑぼしぼんのくぼに推入て、狩衣の小袂より
手を出して、中門の中にたたずみたり、宮は今十余
町ものびさせ給ひぬと覚しきほどに、けんびゐし三
人、その勢三百余騎にておし寄せたり、源大夫判官
は、存ずる者ありと見えて、はるかに門外に扣へた
り、博士判官、出羽の判官、乗ながら門の内へう
ち入て申けるは、君世をみださせ給ふべきよし聞え
候によて、仔細をうけ給らん為に、別当宣を承てく
わん人光長かねなり参りて候と高らかに申ければ、
信連出合ひて当時は是は御所にて候はず、忍たる御
所にて候ぞ、参りて奏聞仕るべく候と申ければ、は

かせの判官、こはいかに、此御所ならでいづくにわ
たらせたまふべきぞ、下部どもはなきか、御所をお
しまきてもとめまいらせよと下知しければ、信連、
ものも覚えぬ田舎けんびゐしどもの言ばかな、我君
今こそかたきと思ふとも、乗ながら門の内へ入たる
も奇怪なるに、下部どももとめ参らせよとは、いかに
当時是は御所にてはなきぞといはばいはせよかし、
口のあきたるままに申ものかな、かねても聞置きた
るらん宮の侍の中に、右兵衛尉長谷部の信連といふ
ものなり、いまだ知らぬかとて、かり衣のおび引き
りてなげて、はかまのそば高くはさむ、草ずりのす
そ見えたり、衛府の太刀をぬきてとんでかかるまま
に、事もあたらしく使庁の下べら是をからめんとて
よる所を、さんざんに切りはらひ、七八人は切りふ
せたり、やがて光長が前へうちてかかる、光長が下
部にかねたけと申けるくきやうのはういつのありけ
るが、大はらまきに左右の小手さいて打刀をぬき合
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せて、中にへだてたりければ、それをば打捨てて、
御所へ乱れ入んとしたりける官兵五十余人が中へは
しり入て、さんざんに切りまはりければ、木の葉の
風に吹れてちるやうに庭へさつとぞちりにける、信
つら御所の案内は知たり、今は限りと思ひければ、
あそこにおいつめて丁ときり、ここに追ひ詰め、は
たと切る、信つら、もとよりさるものにてゑふの太
刀なれども、身をば少し心得て作らせたれども、あ
まりに打れてゆがみければ、ひざにあてておしなほ
しおしなほしして、また廿余人切り伏せたり、手負は数を
しらず、うちとるかたき三十余人とぞ聞えし、信連
あまりに戦ひつかれて柱に立添ひてあるを、かねな
りが郎等近藤四郎行なりといふ者、長刀をもちてね
らひよりて、長刀のえをかけず、すんと切りてけれ
ば、長刀の柄を捨てて、逃るを追ひざまにうしろを
たてざまに切られてうつぶしにふしにけり、光長が
下部に七郎康清とて、たけ七尺ばかりなる男の大力

のものの十余人が力持たりと聞えし、猿眼の赤髭な
るが、もえ黄糸をどしの腹巻鎧に、白柄の長刀持ち
たりけるが、一人当千の思ひをなして主の馬のくつ
ばみにつきたりけるが、甲をばきず、大わらはに成て
長刀をひらめて、信連が方へとんでかかりければ、
信連さしりたりとて、十文字に向ひ、康清すそをさ
つとなぐ、信つら太刀をさげて丁と合す、二の太刀
をうたせず、むずとくんで、此男を左の脇にかいは
さみて、右の手にて太刀を打振りて、出羽判官は是
をば見候はぬかや、我君の随分頼たるなる、聞ゆる猿
眼の赤髭男めをこそつかみそんじつれ、たすけたく
ばたすけよといひけれども、光長あへておともせず
さりければ、しばししめて命をたつべけれども、己
ほどの奴原つみつくりにとて、強くすてたりければ、
死入て庭にうつぶしにふしにけり、信つらにさきさ
まに追立られて、逃ちりたりける下部ども、まかげ
をさして見けるが、さる眼の赤髭のさうにはよらざ
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りけりといひあひければ、誠にかなしげなる顔をも
ちあげて申けるは、まさる犬まなこにあひぬれば、
かなはぬぞかしと申けるぞおかしかりける、信つら
はものの疵いた手なりければ、かなはじとや思ひけ
ん、小門より走り出で、東をさして高倉をのぼりに
名乗りけるは、長兵衛尉信連大事の手おひたり、留め
んと思はんものはとどめよやとののしりて、しづし
づと行けるを、かねなりが下部にたけみつといふ者
ねらひよりて、長刀をくきみじかに取て、さつとな
ぎけるを、信連長刀の柄にのらんとしけるほどに、
いかがしたりけんのりはづして、生けどられにけり、
則信連をからめて六波羅へゐて参る、前右大将宗盛
卿大に怒て信連を庭上に引すゑてのたまひけるは、
まづ汝がせんじの御使に向ひて、種々の悪口放言に
及びたるだにきつくわいなるに、あまつさへそこば
くの下部せつがいにんじやうの条はいかに、せんず
る処きうもんを加へて、宮の御在所并事の仔細を委

しく召問ひて白状記録の後は、河原に引き出してか
うべをはねよとのたまひければ、信連少しもさわが
ずあざ笑ひて申けるは、日本国をかたきにうけてお
はします君の御内に候ほどの者の、せんじの御使を
悪口し、使庁の下べを刃傷事もおろかに候へ、たと
ひ何万騎の軍兵なりとも、一人してうちとらばやと
こそ存つれども、折節の太刀をとりあへず候て、思
ふほども切りえず候て、あんをんにて、多く返し候
ぬるこそ、返す返すゐこんにて候へ、所詮とりかへ
なき命を君に参らせて、一人御所に残とどまり候ぬ
る上は、たとひ君の御在所知り参らせて候とも申候
まじ、その上何方へか渡らせたまひ候ぬらん知り参
らせず候、侍ほどの者の申さじと申切なん事を糾問
によて申すべき哉、是は存の中の事にて候、君の御
ために信連が頭をはねられん事、今生の面目冥途の
思ひ出也、とくとく首を召さるべしとぞ申ける、是を
聞たまひて、何条別の仔細にや及ぶべき、とくとく
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河原に引出して、頭を切れとぞのたまひける、侍ど
も口々に申けるは、弓矢とるものの手本御覧じ候へ、
かくこそあるべけれ、信連は度々高名したりし者ぞ
かし、一年本所に候ける時、末座の衆の、事をいた
して狼藉に及ぶ間、ともにもて聞ゆるがうの者にて
あり、諸衆等力及ばずして一らう二らう座を立てさ
わぎ合ひけるに、信つらよて是をしづむるに叶はざ
りければ、信連つとよるままに二人を取ておさへて
左右の脇にはさんで座を罷いで、狼藉をしづめて、
高名その一なりと聞えし者ぞかしと申せば、またあ
る侍申けるは、その次のとしと覚ゆる、大番衆ども
がとどめかねて、通りける大和強盗六人を、のぶ連
ただ一人してよせ合て、四人をばただちにうちとど
め、二人をば生捕にしたりしげんしやうぞかし、
兵衛尉は毎度にはがねを顕はしたりし者ぞかし、か
かる名誉のものをやがて切れん事こそふびんなれ、
是体の者をこそいくらも召仕はれ候はめ、思ひ直し

て御内に候はば一人当千の者にてこそ候はんずれ、
あたら者かなあたら者かなと面々にささやきて、壁見参に惜
み合へり、さらばな切そとてすてられにけり、後に
聞えしは、信連は本所衆長右馬允忠連が子なり、
伯耆国にれいらくして金持が辺に経めぐりけるを、
平家滅亡の後兵衛佐頼朝是を聞給ひて、信連はさる
者にてあんなり、さやうの者こそ大せつなるべけれ
とて、彼国の守護に仰て、去文治二年に関東へ召下
されて、奉公をいたすほどに、隨分きりものにて、兵
衛佐自筆のかなの下文にて、能登国大屋庄〈 号蛤庄 〉を信
連たまはり始めけるよりして、その後庄園あまた給
ひて、大名にてぞありける、高倉の宮失せさせ給ぬ
とののしりければ、京中も馳さわぎけるうへに、山の
大衆既に三条京極の辺までくだるよし聞えければ、
平家の人々右大将以下の軍兵馳向ひたりけれども、
法師一人も見えざりけり、凡あとかたなきひが事な
りければ、静まりにけり、天狗よくあれにけるとぞ
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覚えし、十五日に高倉宮三井寺に逃籠らせたまふよし聞えけ
り、此宮と申も法皇の御子にてましませば、よその
事にあらず、いつしかかかる浅ましき事出来たれば、
ただ鳥羽殿にしづかにましまさで、よしなくも都へ
出けるかなとぞ思召されける、相国の嫡子重盛、去
年八月にうせたまひしかば、次男右大将宗盛に、わ
くかたなく世間の事ゆづりて、入道福原へ下り給ひ
し手合せに、大衆不覚して宮を逃し参らせたる事口
惜しとぞ申あひける、宮は高倉をのぼりに近衛河原
まで出させ給て、やがてその夜の中に如意山へぞ入
せたまひける、知らぬ山路をよもすがら入せましま
しけるに、夏草のしげみが下の露けさは、さこそ所
せばくも思召されけれ、されば御足皆そんじてつか
れよわらせ給ひつつ、はふはふぞ渡らせ給ひける、
いと道もなき深山の中を、心あてにたどり渡らせ給
ければ、白くいつくしき御足葎のためにあかくなる、

黒く翠なる御くしささがにのいとにまつはれ、是は
いかになりはてんずることやらんと思召しつづくる
折節、ほととぎすの一声幽に聞えければ、御心の中
にかくぞ思召つづけらる、
時鳥しらぬ山路にまよふには
なくぞ我身のしるべなりける W064 K068
昔、天武天皇大友の皇子におそはれて、よし野山へ
入たまひけんも、かくこそ思し召れけめとおしはか
られてあはれなり、さて三井寺にたどりつかせ給ひ
て、かひなき命のをしさに大乗を憑て来れり、助け
よとなくなく仰られければ、大衆起りて、ほうりん
院といふ所に御所かまへつつ、入参らせて、さまざ
まにいたはり奉る、衆徒せんぎしけるは、当寺の世
上の体を案ずるに、仏法すゐび王法の牢籠この時に
ありと云つべし、爰に宮入御の事是偏に正八幡の擁
護しんら明神の御たすけなり、じやうすゐもはら今
にあり、此時に当つて平相国がぼうあくをいましめ
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ずば、いつの時をか期すべきや、天神地祇も納受を
垂れ、仏力神力降伏をくはへましまさん事何の疑ひ
あるべき、抑北嶺はゑんしゆいちみのえいち、南部
は夏臈得度の戒だんなり、てつそうの所になんぞ与
力せざらんや、同心々々もつともしかるべきよし衆
議一同して、山門へも南都へも牒状をつかはすべし
とぞ申ける、山門へ可合力之由遣牒状其状云、
薗城寺牒、延暦寺衙、
欲殊致合力、被助当寺仏法破滅状
右入道浄海恣失皇法、又滅仏法愁歎無極之間、
去十五日夜、一院第二皇子不慮之外、所令入寺
給也、爰号院宣雖有可奉出之責、皇子令固
(辞)之処、可放遣官軍之旨、有其聞、当寺破滅
将当此時、延暦園城両寺者、雖相分門跡二所、
学是同、円頓一味教文也、譬如鳥二翔、亦似車
二輪、於一方関者、争無其歎者、特致合力
被助仏法破滅者、早忘年来之遺恨、復住山之

昔、衆徒之僉議如斯、仍牒送如(レ)件、
治承四年五月廿一日 小寺主法師成賀
都維那大法師定算
寺主大法師忍慶
上座法橋上人位忠成
とぞ書たりける、山門の衆徒此牒状を見て、山門の
末寺にて当寺と山門とは鳥の二のつばさの如く、車
の二輪に似たりと、押て書之条無其謂と一同に僉
議して、返牒なし、又南都へも遣牒状、
薗城寺牒 興福寺衙
請蒙殊合力被助当寺仏法破滅状
右仏法殊勝事者、為守皇法、皇法亦長久事者、
則依仏法也、然頃年以降、入道前太政大臣平清
盛恣盗国威、乱朝制、付内付外成恨成歎之
間、今月十五日夜、一院第二皇子忽為免不慮之
難、俄令入当寺給、然号院宣、可奉出当寺
之由、雖有責、不能奉出、衆徒一向奉惜之、
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仍彼禅門欲入武士於当寺、云皇法云仏法、一
時正欲破滅諸衆盍愁歎乎、昔唐恵性天子以
軍兵令滅仏法時、清涼山之衆徒合戦防之、皇
憲猶如斯、何況於謀叛八逆之輩哉、誰人之恊猜
哉、就中南都者、無例無罪、被配流長者、定位
由内動、非今度者、何日遂会稽之願衆徒内
助仏法之破滅、外退悪逆之伴類、同心之至可足
本懐、衆徒会議如斯仍牒送如(レ)件、
とぞ書たりければ、これについて興福寺返牒云、
興福寺牒 薗城寺衙
被載来牒一紙、為清盛入道浄海欲滅貴
寺仏法由事
牒今月廿日牒状〓、今日到来披閲之処、悲喜相交、
如何者、玉泉玉花雖立両家之宗義、金章金句同
出一代之教文、南京北京共如来弟子也、貴寺他寺
互可伏調達之魔障、就中貴寺者我等本師弥勒慈
尊常住之精舎也、或公家、或姑射山諸宮、或上聞
**
講砌之時、令戦智諍議事、是則天台法相三論華
厳等、若一宗相関、豈不恨哉、〈 是一 〉、次天台学徒、
被魔滅之、法相獨留為何、凡論師之論甲乙者
則是兄弟之諍也、白衣之仏法欲蔑如者、寧非魔
軍之企哉、悲喜之所及尤可相済者也、〈 是二 〉、次異
域并本朝之時、携弓馬之類力労苦身雖平皇
敵、抽賞以不過千金万戸、官位未必不(レ)及子孫兄
弟〈 是三 〉、次我朝者、古貴武之道、授高位事無之、
既異当家、天平御宇大野東人雖切魁首、僅預末
座、〈 是四 〉、次弘仁御宇坂上将軍遠払奥州甲活、近鎮
平城之淵陣、僅加九卿無昇三公、〈 是五 〉、次清盛入
道者、平氏糟糠、武家塵芥也、祖父正盛者、仕蔵
人五位之家、執諸国受領之鞭大蔵卿為房為加州
之刺史、被補検非違使、〈 是六 〉、次修理大夫顕秀卿為
播磨太守之昔、任馬屋別当職、〈 是七 〉、次親父忠盛昇
殿之時、都鄙老少皆惜蓬壷之瑕瑾、内外之英豪、
各泣馬台之懺文、忠盛雖副青雲之翅、世人猶
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令軽白屋之種、惜名青侍莫莅其家、〈 是八 〉、次平
治元右金吾信頼卿謀叛之時、太上天皇感合戦之
功、被行不次賞之時、高位昇相国、兼賜兵仗、
男子者、或忝台階、連羽林、女子備中宮職、或
准后蒙宣、群弟庶子皆歩玉路、其孫彼甥者、悉
割竹符、〈 是九 〉、加之通領九州不弁符賀納官進
退百司、皆為奴婢僕従、一毛違心者、縦雖皇公
禁之、片言逆耳雖為公卿搦之、為是於究醤
之、爰以為延君一旦之身命欲逢片時聾耳之
苦、万乗聖主猶成面展媚、重代之君還致七孝之
礼、雖奪代々相伝之家領、上裁恐命、巻舌、
雖取宮々相承之庄薗、憚権威無言、乗勝之
余、其驕倍増、〈 是十 〉、次去年十一月追捕太上皇之棲、
抄掠種々之財宝、押流博陸公之身、奪取国々
庄薗、謀逆之甚、誠絶古今、其時我等須行向賊衆
可問其罪、〈 是十一 〉、然而或相量神慮、或依稱皇憲
押欝陶送光陰之間、清盛入道重起軍兵、打

囲一院第二親王宮之処、八幡三所賀茂春日権現速
垂影向、捧銭弼、送貴寺奉預新羅権現之処、
打開枢皇法不(レ)可尽之旨明白也、〈 是十二 〉、隨捨貴
寺命奉守護之条、顔色之類、誰不被隨喜、我
等在逢恩域感其情之処、清盛入道重起兵器
欲打入貴寺之由、幽以承及、兼致用意、為成与
力、廿二日辰旦、起大衆、同廿三日牒送諸寺、
下知末寺調軍士之後、欲達案内之処、飛
来青鳥、投一芳緘、数日之欝念一時皆散、〈 是十三 〉、次
彼唐家清涼山密宗尚返武副之官兵、況和国南北両
門之衆徒、盍打払謀臣之群類、能固良宴左右之
陣、宜我党待進発之告者、録衆議牒送如(レ)件、
請察状莫成疑貽之故牒、
治承四年五月廿三日 都維那法師祐実
権寺主大法師俊範
寺主大法師顕盛
権上座法橋上人位禅慶
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上座法橋上人位朝芸
廿日、今夜三位入道頼政、子息伊豆守仲綱、次男大
夫判官兼綱、三郎三位判官代頼兼、六条蔵人仲家、
同子息蔵人太郎長光、侍には渡島党さつく、播磨の
兵衛はぶく、播磨の次郎あたふ、右馬允つづく、源
太丁七となふ、清進を始として三百余騎、皆三井寺
へ馳参る、かの六条蔵人と申は、父帯刀の先生よし
かた討れて後、みなし子にてありけるを、三位入道
養ひ子にしたりけるとかや、兼綱も三位入道の実子
には非ず、三位判官代と申は舎弟源蔵人大夫頼行が
四男にてありけるを、幼少よりをぢの三位入道とり
て養育して、仲綱がとぎにせんとて、甥を養子にし
たりけるとぞ聞えし、三位入道のもとに侍数多あり
ける中に、入道もふかくたのみ、主をも大事に思ひ
ける三田の源太が末葉競の滝口といふ者ありけり、
本所の三臈なり、右大将の宿所は六条也、かの宿所
のうらついぢの中にきおふが家はありけるに、三位

入道寺へ参られける時、侍ども競に告候はばやと申
ければ、入道思よらずただ今かくと知せたらば、女
童べ以下資財雑具東西南北へ持ちはこびなどせば大
将怪しみてんず、さるものなれば、追て参らんずら
ん、告げてきおふがちじよくかかすなとて、一党引
きぐして落ちにけり、入道おちぬといふ事ののしり
ければ、三位入道は三井寺へ落ぬ、きおふは是にあ
るかとて、内々見せられけるに、是に候と申ければ、
さらばきおふめせとて、召しよせて大将のたまひけ
るは、いかに三位入道の宮の御供にて、三井寺へ参
るに参らざりけるぞ、きおふ申けるは、相伝の主も
告られ候はば参り候はめ、弓矢とるものの鎧着る程
の事に、心をおきて告げられ候はざらんに参るべき
に候はず、したがふも様にこそより候へと申ければ、
大将年ごろほししほししと、三位入道にも度々こはれ
けれども奉給はず、競は渡辺党のその一、王城第一の
美男也、右大将のうらついぢのうちより朝夕出入す
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る、ほししほししと思はれける間、此をりふしを得て、
さらばわどの宗盛をたのまれ候へ、三位入道のし給
ひたらん恩には、少しも劣るまじきぞとのたまひけ
れば、競かしこまて候ぬと御返事申す、大将大によ
ろこびて、先しよさんしたる引出物にとて、あし毛
なる馬の太くたくましきと、黒鹿毛なる馬のいち物
なるとよき鞍置て給ひたり、競申けるは黒馬を御恩
に蒙るべきにて候はば、同くは伊豆殿より参りて候
し木下丸が、かひ口になり候ばや、御用の時は進上す
べく候と申ければ、大将あざ笑ひて、一定か、さん候、
かひ口になり候て御用の時は必進上すべく候と申た
れば、木下丸を競に給てけり、宿所にかへる、その
のち大将より競はあるかととはるれば、候候と度
度答へて日のくるるをぞ待ける、さる程に日すでに
くれて入相のかねつくほどに、木下丸には競乗り、
あし毛の馬には乗かへのわらは乗せて、家子三騎郎
等二騎我身ともに六騎つれて、ひたかぶとにて、大

将殿の惣門の前を下馬もせず、少し見入て通りけり、
大将殿の侍ども是を見て、むかへの競こそ此御所よ
り今朝給て候つる二疋の御馬のうち、木下丸には競
乗てあし毛にはのりかへのわらはをのせて、家子三
騎郎等二騎我身ともに六騎つれて、此御所の御門を
下馬も仕らで通り候、奇怪に覚え候、追かけて一矢
い候はばやと申ければ、右大将のたまひけるは、
きおふは聞ゆる強弓精ひやう、矢つぎばやの手きき
なり、そやはかねよく調へて廿四さしておひたり、
追かけたらばさる剛の者にて返合せてたたかはん程
に、矢つぼをさしているものにてあんなれば、宗盛
がをしと思ふ侍廿四五人も一定射殺されなん、左様
のしれ物にはめなかけそ、音なせそとぞのたまひけ
る、さればにや手さすものなくて、三井のかたへぞ
馳せ参る、きおふこそ参りて候へと申ければ、三位
入道さればこそとぞのたまひける、同僚どもに申け
るは、無下なる殿原かな、年比日比は一所に死なん
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とこそ契りしに、などきおふには告げざりけるぞと
申ければ、三位入道殿のなつげそ、只今はくちうに告
げたらば、女わらんべ資財ざうぐ東西南北へはこび
ありかんほどに、大将に聞つけられて、競にはぢか
かすな、さるものなれば、追て参らんずるぞと仰ら
れつればこそ、告げ申さねと口々に申ければ、さては
参るべきものと思召されけるこそうれしけれとぞ申
ける、又申けるは、きおふこそ以外のぬすみして参
りて候へ、大将殿より召され候つるに、きおふ参り
て候へば、宗盛をたのめと候間、畏うけ給候ぬと返
事申て候へば、大将殿大に悦で、あし毛なる馬と黒鹿
毛の馬と、二疋によき鞍おきて給て候つる間、黒馬
を御恩に蒙るべきにて候はば、伊豆殿より参りて候
し木下丸がかひ口になりて、御用の時は進上候はん
と申て候へば、大将殿心よげにて木下丸を給て候間、
乗て参りて候なり、されば競を君をはなれ参らせて、
他門につくべきものと大将殿見給ひけん事こそ、あ

ぶなくものたまふものかなと高声に申ければ、人々
一同にどつと笑ひけり、伊豆殿のたまひけるは、一
定わどのは木下丸を取て来りたまひたるか、仲綱に
その馬えさせよとのたまへば、さうけ給り候とて、
引出したり、伊豆守是を見たまひて、いかなる先世
の宿ごうにて、此馬故にかかる大事を思ひ企つらん、
うれしくもわどの取て帰り来給ひたり、いかなる大
将なれば是程志を思ふに、世になき仲綱に思ひつき
て身をいたづらになし給ふ、いかにしてこのうれし
さを思ひ知らせ奉るべき、世になくてさて果てて心
を見せ奉らざらん事こそ口惜けれとて、涙ぐみ給ひ
ければ、侍ども皆袖をしぼりける、重ねてのたまひ
けるは、あし毛馬もわどの一定得給ひたるか、さん
候、さらばそれも仲綱に得させよとのたまひければ、
参らせ候はんとて、引出して参らせける、伊豆殿是
を見給ひて、大将の秘蔵する京中第一の名馬、なんれ
う丸にてありけるや、大将よくわどのをほしと思け
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る、命とともにと聞しなんれう丸をも、わどのにと
らせたり、木下丸をもとらせたり、いかなる人は是
ほどに志深きぞ、仲綱も志は深けれども、世になき
ものにて思ひ出もなき事こそ口をしけれども、なん
れう丸を名を改めて左右のももに宗盛といふかねや
きをあてられける、木下丸をせられけるやうに宗盛
め引出して、なでよはたけよ、宗盛めうちはりて、
あららかに庭のりせよなどのたまひ、三井寺の大衆
大津の在家人などに聞せて、その後京中の人に見も
し聞せんために、とねり男を召し寄せて、やや此宗
盛めを乗て京へ上りて、大将が宿所二三町が程にて
くつわはづして追はなちてとてつかはす、とねり男
乗りて京へ上りて、たそがれ時程に大将の宿所近く
乗上り、くつわはづして追はなちたれば、かひたる
所にてありしかば、大将の宿所へ走り入、侍どもこ
れを見て、こはいかに競に給て候つるなんれう丸が
かへり参りて候と口々に申ければ、とらへよとて、

あつまりて火をともして引まはさせて見給ふに、左
右のももに宗盛といふ火印あり、大将是を見給ひて
かなしうたうはせられたり、それにつけても競こそ
いとをしけれ、身を捨てとどまりゐて、たばかりて
馬をとり返して行かんずるものをと思ひけんこそあ
はれなれ、是をしらずしてぬけぬけととられてたう
わをせられたるこそ安からね、あはれ人のはぢある
侍をば、命にかへても深く思ふべきぞ、ただ一人残
りとどまりて、二疋の馬を取て行、はぢのたうわをし
返したる事こそいとをしけれとぞ競をほめあひけ
る、
山門ならびに南都の大衆同心のよし、その聞えあり、
山へは太政入道座主めいうん僧正をあひかたらひ奉
て、近江米一万石往来に寄せたる、うちしきにはみ
のぎぬ三千疋相添てのぼせて、谷々坊々に四五疋十
疋づつなげ入られけり、米絹送らるる状に云、
園城寺者、本是可謂謀叛之地誠哉此事、非寺
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之訴非人之訴訟、八逆之輩恣失皇法、欲滅仏
法、早今日中企登山、勅定之趣仰聞衆徒、内祈
善神、外降伏悪魔耳、抑深懸叡念於叡山、盍
隨一寺於一門、其上以兵甲防凶徒、定隠遁
山上歟、以此之旨兼被守護者尤可宜守院
宣之趣状如斯、仍而言上如(レ)件、
治承四年五月廿五日 左少弁行隆奉
謹上山座主御房
とぞ書たりける、これによて座主登山したまひて衆
徒等をなだめせいしたまひければ、山門いよいよ与
力せざりけり、山門心かはりしければ、南都大衆、座
主経一巻実語教一巻作りて、根本中堂に送置、
欲心貪如説経
爾時座主三千人の大衆に告てのたまはく、汝等よく
聞け、よく是を思念せよ、近江米壹万石おりのべ絹
三千疋は、大衆の身においてあひてもあひがたきも
の也、我是もろもろの絹米を以て、衆にあてんと思

ふ、ただし大衆の心に於ていかん、座主に申て云、
我今日に於て大利を得て、心大にくわんきをなす、た
だ願くは座主その故をときたまへ、時に座主説ての
たまはく、汝等三井寺の大衆に与力する事なかれ、
教の如くならば我ぐわんすでに満じ、衆ののぞみ又
たりぬ、その時大衆せつの如く、三井寺の大衆により
きの心をたつ、時に座主もろもろの絹米をもて、大
衆に与、咒説言
〓山法師衣ありや、米もありや、はろきていあら
ばさなやそはか
実語教一巻
山高きが故にたつとからず、
僧あるをもてたつとしとす、
僧こえたるが故にたつとからず、
恥あるを以て貴しとす、
織延は一たんの宝、
身めつすれば則ともに破る、
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恥は是れ万代のきず、
命をはれどもともにうする事なし、
倉内のたからは朽ることあり、
身中のはぢは朽ることなし、
よくは是一生のはぢ、
恥なきをもて愚人とす、
四大日々におとろへて、
三たう夜々にくらし、
かるが故に書を読むともがらなし、
学文さらにあとをめつす、
眠を除いて夜討を好、
うへを忍で城郭を構ふ、
四等のふねにのらずば、
海ぞくの道を得がたし、
師に逢ふといへどもおそれず、
弟子に逢といへども恥ぢず、
師君には孝なし、

木石に異ならず、
父母常に向拝せず、
なほしちくしやうに同じ、
みはほりのべにかへつ、
妻子にえさせて相ほどこす、
これ学文のはじめ也、
命終るまで忘失する事なかれ、
一乗仏子と名乗りては、
一文ふつうのたぐひなり、
二宮参りと名付ては、
二目かけたる山法師、
三井の堂舎を焼てこそ、
三づのぐほうを定めけれ、
四海にかけりて朝夕に、
四ちうきんをぞ犯しける、
五きにつみたる悪行は、
五道しやうじのもとゐ也、
P272
六くん比丘のすがたにて、
六はらにこそつかはるれ、
七社の神輿をふりてこそ、
七道諸国流さるれ、
八宗の名をだにさとらねば、
八講ごとにねをぞなく、
九重のさたをする時は、
公卿せんぎにもちゐなし、
十種供養に事よせて、
十方施主にすすめこふ、
百姓をどして物をとる、
千僧供をこそせめいたせ、
慢心驕慢高けれど、
臆病一のけ武者なり、
帰命預礼平将ぐん、
今日より我等を捨てずして、
生々世々につげつかへ、

在々所々にともをせん、
又ぬりあしだに歌二首、
山法師おりのべ衣薄くして
はぢをばえこそかくさざりけれ、 W065 K069
山法師味噌かひしほかさかしほか
へいしのしりにつきてめぐれば、 W066 K070
此事洛中にこぞりてののしり嘲りつつやきつつ、中
にもしほのこうぢの童は、みそ大衆とぞはやしける、
きぬにもあはざりける山僧のよみたりけるとかや、
おりのべを一切もえぬ我等さへ
うす恥をかく数に入るかな、 W067 K072
源三位入道山門くみせざりける事を聞て、かくぞよ
みける、
たき木こるしづがねりそのみじかきか
いふことの葉のすゑのあはぬは、 K068 K071
主上俄に太政入道の宿所西八条へ行幸なる、新院日
ごろ是に渡らせ給ふ、日次かたがたあしかりけれ共、
P273
そのさたにも及ばず、ことの外にさわぎてぞ聞えし、
御輿の前後には軍兵数千騎うち囲みて候けり、
堀川院御宇永保元年十一月八日、八幡賀茂両社に行
幸の日、園城寺の悪徒等さんらくすべしと聞えしに
よて、前陸奥守義家弓箭を帯して軍兵三千余騎相具
して、御輿の前後右衛門の陣に候しをこそ万人目を
驚し、希代の事に申しに、近来の行幸には、つはも
の前後に仕ぞ浅ましき、同廿三日、源三位入道頼政
寺より六はらへ押寄せて、太政入道を夜討にせんと
ぞ支度しける、老僧たちを引ぐして如意が峯より一
千人ばかり手々に松明をともして、足軽ども少々白
川の在家中へさし遣はして、火をかけさせんに、六
はらよりはやりをの武者ども、軍を招かれてはせ向
はば、矢どもいさせて岩坂桜下に引あがりて、戦場
によきもの四五百人ばかり引ちがへて、六はらへ入
て、風上より火をかけて、入道を討たん事相違ある
べからずと申ける、この儀もつともしかるべし、山

門の大衆も心がはりしてくみせず、南都の大衆もけ
ふけふと申せども、いまだ見えず、いつを限りと待
べきぞとて、貝鐘をならしければ、講堂に大衆発向
してせんぎす、その中に太政入道のいのりの師、一
如房阿闍梨真海、弟子同宿廿余人引具して、せんぎ
の庭にすすみ出て申けるは、かやうに申せば相国の
方人とぞ各思召され候らん、たとへ方人にても候へ、
門跡の名といひ我寺のはぢといひ、いかでか門徒の
中をばはなれ参らせ候べき、又我等が名を惜まで候
べき、昔源平両家左右の翅にて、たがひに威勢を争
ひしかども、近来よりは源氏果報おとりて運命つき
ほろびはて候ぬ、今は太政入道一天四海を守護し、
天下の守となつてなびかぬ草木もなし、内々かのた
ちのありさまを見候に、たやすく小勢をもて思ひか
からるべきに非ず、但蚊虻岡をになひ、蟷螂車をく
つがへすといふ事あれば、それにはよるまじけれど
も、各々なほ勢をも催しぐして、はかりごとをも外に
P274
めぐらして、後日のさたあるべきにて候かとて、夜
をふかさんとて、長せんぎをす、ここに乗円房のあ
じやりけいしう、衣装束にかしらつつみて、大なる
うち刀さしてすすみ出て申けるは、証據を外にもと
むべきにあらず、我寺の本願清見原天皇、大友の皇
子におそはれて、吉野山を出させ給ひて、大和の国
宇多の郡をすぎさせたまひけるには、上下十七騎と
ぞうけ給る、伊賀伊勢をへて美濃尾張の勢を催して、
美濃と近江との境川といふ所を隔てて、大友の皇子
と戦ひたまふに、その川黒血にて流れたりけり、そ
れよりして此川を黒血川と申なり、さて終に軍に勝
ち給ひたりとぞ申伝へたる、窮鳥ふところに入れば
じんりんあはれむ心ありといふ本文あり、忝くも宮
此寺をたのみ給ひて入せおはしましたらんに、いか
で力をあはせまいらせざるべき、余はしるまじ慶秀
が弟子六波羅にうち入て、太政入道の首取て参らせ
よとぞ申たる、ゑんまん院の大輔といふ悪僧すすみ

出て申けるは、せんぎばし多し、然るを五月の短夜
に時刻おしうつるに、さらばとくとく打立とて、二
手にわかつ、如意越をば源三位入道頼政ぜうゑん房
のあじやりけいしう、帥のほういん善智、その弟子
きほうぜんえい、白川よりして五十騎を引ぐして来
りくははる、老少ともなく千余人、手々につい松を
して白川へ向ひけり、六はらの手にはほうりん院の
大輔弟子あら土佐、りつじやう房日印が弟子伊門房、
ゑんまん院の大輔、是等三人は打もの取ても弓矢取
ても、一人当千の悪僧也、平等院にはいなばのりつ
しや、あら大夫松井の肥後、すみの六郎房、松島のあ
じやり、北院には金光院の六天狗、しきぶの大輔、
能登、加賀、佐渡、備後等なり、じやうき院の鬼佐
渡、筒井法師に郷あじやり、あく少納言、かなちくぜ
ん、南勝院の肥後、日尾定雲、四郎房、大箭修定、後
中院の但馬、ぜうゑん房のあじやり、房六十人の中、
加賀光乗刑部房、一来法師、是等ぞすぐれたるつは
P275
ものにてありける、堂衆には筒井の浄妙明俊、小倉
尊月、尊栄、慈慶、楽住、かなこぼし源王房、武士
には伊豆守仲綱、源大夫判官かねつな、六条蔵人仲
家、蔵人太郎、渡辺のはぶくはりまの次郎、さづく
さつまの兵衛、つづく源太、競の滝口、あたふ右馬允、
長七となふ、きよし、すすむを始として、七百余人、六
はらへとて向ひけり、如意が峰の手は遅々しけり、
その故は宮、寺へ入御の後は、大関小関を堀切りさか
もぎを引きたりければ、逆茂木取のけ、はし渡しなど
するほどに、時刻おしうつりて、関路のにはとり鳴
きあへり、仲つな申けるは、五月の短夜なれば、夜
すでに明なんとす、無勢にて多勢をうつ事夜討こそ
よかりつれ、日中はかなふまじ、とくとく各々帰り給
へと申ければ、ゑんまん院の大輔すすみ出て申ける
は、宋朝は三百六十箇国の地也、かのはんこくの将
軍是をなづけてまうしやうくんといふ、威勢殊にす
ぐれて、三千人を朝夕に召仕ひて、昼夜にけいゑい

す、時の気色雲上のふるまひに異らず、てうおんを
もかんぜず、人のそしりをもかろくせず、ふるまひ
世にすぐれたり、こはくきうといふ物をまうしやう
くん秘蔵して持たりけるを、秦の昭王この事を聞給
ひて、所持のこはくきう我に得させよとのたまひけ
れば、我身に於ては、第一のたからと思ひけれども、
是を与へずば我ほろびなんと思ひて、こはくきうを
昭王に与ふ、則ち官軍に納めてけり、然るをまうし
やうくんおごりをきはむるあひだ、八ぎやくにしよ
せらるべしとて、忽にてう敵となる、まうしやうく
んは裘をうしなひたる事安からぬ事に思ひて、日別
のしよくじをやめて裘の惜き事を歎けり、この人心
広き賢者にて、さまざまの能ある者を召つかひけり、
或は鶏の鳴くまねをする者もあり、或は犬のほゆる
まねするものもあり、或は盗に長じたる者もあり、
その中に李父丁といふ者盗に長ぜり、ただ狐白裘盗
み出して奉らんといひければ、孟嘗君大に悦で李父
P276
丁を遣す、則ち昭王のかたに行て宝蔵を事故なく開
きてかの裘を盗出で、まうしやうくんに奉る、われ
朝敵となりぬる上は、暫くもやすらふべからずとて、
三千人の客を引具して落ちて行道に長飼山、龍剱山、
竹業山、明谷山、拾嶺山などいふ所々にて戦ふ事す
でに廿七ヶ度に及ぶといへども、とかくしてうち勝
て通り行くほどに、今頭牛山をうち過ぎて、函谷関
にかかる、城戸五あり、第一の城戸をば函谷名関と
いふ、是は日夜をきらはず、尊勝陀羅尼を誦する者
をば開きて通す関なり、ここにかくの中に、尊名と
いふつはものあり、文武二道の武者なり、尊勝陀羅
尼を七返となへたりければ、鎖をはづしてさつとと
ほす、第二の城戸にはかつちうよろひて弓矢を帯し
ては通さざる関あり、これは摩尼宝冠の関といふ、
たいはうしうといふ者あり、聖教にもくらからず、
武道にも達せり、又その身の力は八千三百人が力也、
まうしやうくん方の弓箭兵仗かつちうを取り集め

て、大箱に入て、是は八万聖教の箱と号して戴きて、
かのまにほうくわんに向ひて迷故三界城、悟故十万
空、本来無東西、何所有南北、朝去朝来道、惣じて
かかる所無、何心のあるによて関の戸をとづるぞや
といふ、関守答へていふ、弓矢を袋に入てもち、兵
仗をかくして禍を好む輩に於ては通すべからずと云
ふ、たいはうしう答へていふ、我則ち凶徒に非ず、
九しう山の衆徒なり、召ぐする所は一山の大乗なり、
持所は聖教の箱也、是を見よとて関の戸に当りたれ
ば、大地震のごとし、関守あらしとて、あけんとて
戸を開あひだ、むらむらとかけ通る、その後兵具を
帯せり、かくのごとく芸能一づつある客は、皆是主
のせんにたたんずるため也、その中に文武二道にも
かけ、力よわき事水草のごとし、然れども大食大酒
也、されども心ひとつたけくして、合戦と聞てはわ
れ一人先をかけんと勇みける事、殊に余人に超えた
り、傍輩是を見てにくみそしる事限りなし、その名
P277
を鶏鳴といふ、兵糧米の費え也、又万人の威をうし
なへるもの也、先を争といへども廿八ヶ度の戦にあ
へて以てその益なし、召しぐせられてむやく也とい
へり、君もしろし召たりといへども、にはとりの鳴
声をまねけるが、少しもたがひぬべくもなかりけれ
ば、是を愛して召つかはれけり、すでに第三の城戸
かんこくの関といふにかかる、是は鶏の鳴ざる外は
戸をひらかざるせき也、ただ今はいぬの終り亥の刻
のはじめ也四方のにはとりいまだ鳴ず、仍て関の戸
更にあけがたし、如何せんと孟嘗君歎きて、ただ今
手取にせられなんと恥をかなしむ、その時鶏鳴みて
りの法をかぢして、かたきを三まい儀を前後にはた
らかさず、木ずゑにあがり、殊鷲木といふ木あり、
かの杪に上りあがつて、水印を成就し、関守がため
にあけんと思ふ心をつけて烏帽子をたたきて、鶏の
鳴声をしたりければ、四方の鶏うけ取うけ取はらはら
となく、よくよく時をはかる関路の博士にある金花

といふ鶏、請取て三声鳴ける上はあけんとて、急ぎ
戸をあけたり、まうしやうくん悦をなして、はつと
打通す、鶏鳴は左右の翅をうごかし、中天にかけて
水印をやむ、見ればいまだ亥の刻也、関守いかに夜
や長きとて鶏鳴ともにおちにけり、その時関守驚き
て陰陽も不調也、博士も不覚したりけりと、かさね
て通る事あらば、関のきずといひ、勅勘のがれがた
しとて、天をよくまもりて、関の戸をさしかたむ、こ
こに官軍追かけてまうしやうくんをとどめんとす、
しかれども関の戸を開かざる間、夜の明くるを待程
にはるかに打のびて孟嘗君当座のはぢをのがれにけ
り、是則ち鶏鳴が徳也、されば人は心広くもいやし
き能なりとも賞すべかりけりと思へり、今命を助く
る事何事か是にしかんや、上古にも合戦の道のはか
り事かくの如し、しかれば一如房がはかりごとに関
路のにはとりを鳴せつらん夜をはかり馬を限りにう
つべしとて、手々に火をともしよせよやよせよやと申け
P278
れども、夜はただ明に明にければ、是は一如房が長せ
んぎのしわざなりとて、かの房へおしよせて切りは
らひ、一如房が弟子ども防ぎ戦ひけるほどに、同宿
多く討れにけり、あじやりはうはう六はらへ行向ひ
て、此よしを訴ふ、六はらにはもとより馳せ集たり
ける勢なれば、少しもさわがず、宮は山の大衆与力
せばかくて暫く渡らせ給ふべきに、山門与力せざり
ければ、寺ばかりにてはかなはじとて、廿四日南都
へ赴かせ給ひけり、その次に金堂に御入堂あり、此
宮小枝、せみをれといふ二の御笛をもたせ給ひたり
けり、蝉をれを弥勒に奉給ふ、此御笛は鳥羽院御時こ
がねを千両唐土の御門に奉らせたまひたりければ、
その御返報とおぼしくて漢竹一を奉らせ給けり、院
秘蔵し思召されて、三井寺のほうりん院僧正覚祐に
仰て、壇の上に立て、七日加持ありてほらせられた
りける御笛なり、おぼろげの御遊には取いだされず、
御賀のありけるに、高松中納言実平卿給てふかれた

りけるに、御遊はてて不通のやうに思て、ひざの下
におきて又取出してふかんとせられければ、笛とが
めてや思ひけん、取はづして落して蝉をうちをりて
けり、希代の不覚何事か是にしかんや、是よりして、
彼御笛をば蝉をれとは名付られたり、高倉の宮くわ
んげんに長じて渡らせ給ひけるうへ、殊更御笛の上
手にてわたらせ給ひければ、後白河法皇よりたまは
らせ給ひけるなり、御かた見とてしうしんふかく思
召されたりしかども、龍花の値遇のためとや思召し
けん、終夜万秋楽を遊されて後、此笛をばみろくに
奉らせ給へり、そののちある雲客日吉へまうでて、
夜陰に下向しけるに、三井寺に笛の声のしければ、
暫くやすらひて立聞ければ、故宮の蝉折の音に聞な
して仔細を尋ねければ、金堂執行慶俊あじやり、その
ころ笛ふく児を持たりけるに、時々此御笛を取いだ
してふかせたりける也、ゆゆしく聞しりたりける人
かな、大衆此由を聞て、此御笛をおろそかにする事
P279
あるべからずとて、その時より始めて一和尚の箱に
納められて、園城寺の宝物のその一なり、今にあり
とかや、
乗円房の阿闍梨慶俊〈 ○前段作慶秀与此齟齬 〉はとの杖にすがりすす
み出て申けるは、よはひ八旬にたけて、としきみを
こえぬ身にて候へば、御ともには参り候まじ、是に
候弟子、ぎやうぶ房俊秀とまうす法師は、相模の国
の住人山内すどう刑部丞としみちと申者の子息、父
は平治の乱の時義朝が供にて、五条河原にて討れ候
ぬ、みなし子にて候しを取おき候て、けいしゆんが
跡ふところよりそだて候へば、心ふるまひもよくよ
く知りて候なり、不敵の法師にて候、御身をはなた
せ給はで、此僧が参りて候と思召れ候て、召具せさ
せましまし候へとて、涙を流しければ、宮是を御覧
じていつのなじみ、いつの対面ともなきに、いかに
してかくは思ひ入たるやらんと思召すに、御涙うる
ばせ給ひけり、御方には三位入道の勢并寺の悪僧彼

是都合三百余騎にて、醍醐路より南都へおもむかせ
たまひけるが、御馬にがうごせさせ給はで、寺と宇
治との間にて六度まで御落馬あり世の人桃尻とぞ申
ける、此ほど御しんもならでねぶり落させたまふに
こそとて、宇治橋を中三間ばかりひきて暫く平等院
に立入せ給ひて御休みあり、平家是を聞て軍兵をさ
しつかはして是を追伐せらる、則
左兵衛督知盛、蔵人頭重衡朝臣、新少将資盛朝臣、
権亮少将維盛、中宮亮通盛、左少将清経朝臣、左馬
頭行盛、三河守知度、薩摩守忠度、侍には上総介忠
清、飛騨守かげ家、河内守安つな、飛騨判官景高、
上総の太郎ただつな、武蔵の三郎左衛門尉有国、以
上三万余騎木幡山をはせ越て、平等院へぞ向ひける、
軍兵すでに雲霞の如くにて、馳来るといふほどこそ
あれ、平等院にかたきありと見てければ、馬のはな
をならべてときを作る事三ヶ度也、三位入道もとよ
り思ひまうけたる事なれば、少しもさわがず、三百
P280
余騎にてときをぞ合せける、平家の方より上総介忠
清討手の先陣うけ給て、三百余騎の勢にてはし上へ
ぞ進みける、宮の御方に三井寺の悪僧筒井のじやう
妙めいしゆんといふもの、自門他門にゆるされたる
者也、橋の上の手へこそ向ひけれ、めいしゆん事を
好て装束したり、褐衣の鎧直垂に黒革のをどしの大
あらめの鎧に、黒つ羽の三矢廿四さしたるを、かし
ら高におひなして、七曲したる黒ぬりの弓持ち、三
尺五寸の太刀に熊の皮の尻ざや入てさげはいたり、
三枚甲を猪首に着なし、好む長刀取ぐしてからす黒
の馬のふとくたくましきに黒鞍おきて乗たりけり、
同宿廿余人皆おなじ色の褐衣の直垂に黒革をどしの
鎧着たり、足軽三十余人同黒革をどしのはらまきき
て、橋の上へあゆみ向ひて申けるは、さしたる世に
あるものにてなければ、音にはよもきかせ給はじ、
筒井のじやう妙めいしゆんとて、園城寺にはかくれ
なし、我と思はん人々は、明俊に向へやとて、引き

たる橋げたを隔てて、半時ばかり射合たり、廿四さ
したる矢にて敵十二人射殺して、十一人に手おはせ、
矢一はえびらに残りたり、明俊矢をさしはづして申
けるは、殿原暫く軍をとどめよ、その故はかたきの
たてに我矢を射たて、敵の矢を我たてにいたてられ
ては、いつ勝負あるべしとも見えず、橋の上の戦ひ
は、明俊が命を捨てて、勝負あるべし、つづかんと
思はん人々は、急ぎつづけやといふままに、馬より
とびおりて、弓をからとなぎすてけり、あれはいか
にと見る所に、箙をとき捨て、つらぬきて、好む長
刀のさやはづして、左の脇にかいはさんで、いむけ
の袖をゆり合せて、甲の錏をかたぶけて、橋の行け
たを走り渡り、敵三百騎が中へ向て入にけり、人の
一条二条の大路を走るよりも、猶やすく見えたりけ
る、余人はおそれて一人も渡らざりけるに、生年十七
歳になりける一来法師ぞ少しも劣らず渡りにける、
もとよりつかひつけたる長刀をけふを限りとつかひ
P281
ければ、面をむくる者もなし、されども八人薙ぎ倒
し、九人といふに長刀のめぬきの際より折れにけり、
やがて太刀をぬきて戦ひける、太刀にて四人切伏せ、
五人といふに余りにうちしかりて、向ひあひたる敵
の甲のまつかうを強くうちたりけるほどに、目貫の
もとより打折りて、太刀は河へさつと入、今はたの
む所は腰刀ばかりなり、暫く気つきて、刀のつかに
手うちかけて小をどりしてぞ立たりける、後なる一
来法師明俊がわきよりつといで、前に立きりてぞふ
せぎける、めいしゆんうたせじとて、三位入道の郎
等渡辺のはぶく、さづく、競、つづく、あたふ、き
よし、すすむをはじめとして、一文字名のりどもし
て廿二人ぞ渡りける、明俊是等を後に立てて、忠清
が三百余騎の勢と戦ひたる、三十余騎は大略明俊一
人して討取てければ、残ひき退きけるを、平家の大
勢是を見て、先陣の討手のひくこそ見苦しけれ、返
し合せよとて、我も我もと橋の上へぞ馳かさなる、こ

こには敵のよするぞ、あやまちすなといふも聞ず、
二百余騎我先にと打あがる間、河霧たちてくらかり
ければ、後陣の勢に押されて先陣二百余騎おとされ
て流れにけり、此まぎれに明俊は敵二人手とりにし
て、大事の手負て行げたを走りかへりて、平等院の
後にて、物の具ぬぎおきて、おりかけたる矢をかぞ
へて見れば六十二筋、大事の手は五所、薄手は数を
知らず、此いくさを見れば、かなふべしとも覚えず
とて、ふる衣うちきてかしらゆひて、弓きり折りて、
杖につきて、南無阿弥陀仏と申て奈良の方へ行にけ
り、渡辺党廿四人が中に二人は討れぬ、十人はいた
手おひ、のこりはうす手をおひて、皆分どりして首
どもひさげしてひさげして走り帰りたりけり、上総の介忠
清、討手の先陣にて橋の上に向ひたりけれども、めい
しゆん一人がために或はうたれ或はうち落されぬ、
わづかに二百騎がうちになりて引帰、同寺の悪僧大
矢の修定但馬房は、平家の先陣引返すを見て、黒皮を
P282
どしのよろひを着、三尺五寸の大長刀の茅のはのご
とくなるを持て、橋の上を走りわたりて、おもしろ
く長刀をふりてぞをどりける、平家方より矢先をそ
ろへて是をいる、さがる矢をばをどり越、あがる矢
をばさしうつぶきてうち落し、向ひてくる矢をば切
おとす、横に来る矢をもきりければ、時のほどに三
百三十筋までぞ切たりける、向ふ敵十四人きりころ
す、それよりして矢切修定の但馬房とはいはれける、
是は三井寺第一の大矢を射けれども、手少あはらな
りければ、その日は弓をばもたざりけり、打物取て
は一番の手ききなり、信濃国の住人吉田安藤右馬允
かさ原の平三、千葉三郎等二百余騎にておしよせた
り、千葉三郎はうち甲をいさせて引退く、平家の軍
兵宇治橋の北のつめにくつばみをならべて打ち立た
りけるが、橋の上を走り渡り走り帰るものもあり、
うへが上にこみければ、折ふし川霧たちて、いまだ
くらさはくらし、橋を三間引たりけるをも知らず、

後陣の勢におされて、先陣二百余騎また河へ入にけ
り、色々のよろひ色々のかさじるしの宇治川に浮た
りければ、嵐の紅葉を心のままに吹ちらしたるに似
たりける、その中に伊勢国住人古市白児党に館六郎
貞康、同十郎真景、黒田後平五、已上三騎馬をいさ
せて火をとしあかじるしの鎧武者河に流れて、うき
ぬしづみぬして、網代にながれかかりて、弓のはず
を岩のはざまにねぢ立て、それに取つきてうきたり、
その時三位入道はかくぞ申ける、
伊勢武者は皆ひをどしの鎧きて、
宇治の網代にかかりぬるかな、 W069 K075
忠清引き帰て、知盛の卿に申けるは、今日の軍の手
合せこそいと然るべしとも覚え候はね、この河を見
候へば、五月雨のころにて、ことに水早く候へば、
橋よりうはても渡るべしとも覚え候はず、したても
渡るべき所見え候はず、さればとて馬をはなれて、
行げたを渡すにも及ばず候、いかが仕るべく候、夜
P283
に入て是より下供御の瀬の方へ人をつかはして、瀬
ぶみをせさせて、静に明日川をや渡るべき、又上に
案内を申て、淀芋あらひ河内路などを廻べきかと申
ければ、数万人の兵の中に、もの申者もなかりける
に、下野の国の住人足利の又太郎忠綱といふもの進
み出で、あはれ上総殿ならぬ事を申され候ものかな、
此河は近江の水うみの下なれば、待とも更に水はひ
まじ、川をへだて山をへだてたればとて、目にかけ
たる敵をうたであるべきやうやはある、善悪軍の延
びてよき事は候はざらんものを、就中奈良法師三万
余騎の大勢にて、宮の御迎に参る由聞え候、敵に勢
をつけてなんのせんか候べき、かたきの無勢なる時、
ただ渡して急ぎ勝負を決せらるべし、淀いもあらひ
をば唐土天ぢくのつはものをめしては、よも渡され
じなれば、終には各が大事にもこそむかはんずれ、
昔秩父足利と中を違ひて、度々合戦をしけるに、武
蔵と上野との境に利根川といふ大河あり合戦のため

によする時は、瀬を尋て渡せども落つる時は、ふち
瀬もきらはず渡りけり、人もながれず馬も死なず、
ある時足利より秩父へよせし時、上野新田入道を憑
てからめ手をよせさす、大手は長沢の渡をす、搦手
は古我粉の渡りといふ所をわたさんとすれば、ちち
ぶが方より五百余艘の舟を河原に引あげられて、新
田わたりをせざりしに、人にたのまれて、今日の軍
のからめ手によするもの、敵に舟をとられたればと
て、ここにひかへてあるものならば、かへりちうし
てけりと思けがされん事口をしかるべし、かべねは
そこのみくづとなすとも、名をば此河に流がせやと
て、五百余騎の勢にて馬いかだをつくりて渡して、
その日のいくさにはかちにけり、されば新田も渡せ
ばこそ渡してけめ、此河を見るに橋より上のながれ
やう長井の渡りによもすぎじ、いざわたさん殿原と
て、伴なふ者ども、足利が一党のものどもには、小
野寺の禅師太郎、吉水五郎、戸矢子七郎、その子太
P284
郎、佐貫広綱四郎大夫、大子、大室、深栖、山上那和太
郎、郎等には金子丹次郎、大岡太郎、利根四郎、彦
田四郎、田中藤太、宗太、鎮西八、喜里宇六郎、うぶご
やの次郎をはじめとして、家子七十余騎、郎等二百
余騎くつばみを並べてさつとわたす、是を見てむか
へのきしより、三位入道の三百余騎矢先をそろへて
射けれども、馬も射させず、手も負はず、忠綱申け
るは、つよき馬をば、うは手に立てよ、弱き馬をば
したてにたてよ、かたを並べて手をとりくめ、先な
る馬の尾に取つけ、遠からんものには弓はずをとら
せよ、あまたが力を一にして、馬の足の及ばん所を
ば、手綱をすくひてあゆませよ、馬の足のたたぬ所
をば、手綱をくれておよがせよ、かしらあがらば前
輪にかかれ、かしらしづまば、しづわにのりさがれ、
うは手のあぶみを強くふめ、水には多く馬にはすく
なくかかるべし、手綱にみをあらせよ、さればとて
引かつぐな、河中にて弓ばし引くな、かぶとの錏を

かたぶけよ、かたぶけすごしててへん射さすな、射
むけの袖をまつかうにあてよ、水ははやし、底は深
し一文字にな渡しそ、水にしなひて、五六段はさが
らばさがれ、馬たをひて敵によわげ見ゆるな、渡せ
や渡せや殿原とて、三百余騎一騎も流さず、橋より下
五六段ばかりさがりて、むかへのきしにさつとつき
てうちあがり、あぶみふんばり弓杖つきて、馬の気
つかせて、暫く物の具の水はしらかす、さるほどに
夜もほのぼのとあけにけり、忠綱もくらん地の直
垂に、ひをどしの鎧のおもだかをば金ものにうちた
るに、鍬がたうちたる白星のかぶとをゐくびに着な
して、紅のほろをかけ、大中黒の廿四さしたる征矢
かしら高におひなして、重籐の弓の真中取てれんぜ
んあしげなる馬の七寸にはづみ、ふとくたくましき
に、白ふくりんの鞍おきてぞ乗たりける、平等院の
前にうちよせて、皆くれなゐのあふぎひらきつかひ
て申けるは、ただ今此河を渡して候者をば、何者と
P285
も君はよもしろしめされ候はじ、是は、昔承平の比
朝敵将門を討ちて、帝王のげんざんに入て、名を後
代にあげて候し俵藤太秀郷には五代の孫、下野国住
人足利の又太郎忠綱、童名王法師、生年十七歳、小
事はしらず、大事にあふ事三ヶ度、いまだ不覚を仕
らず、か様の無官無位の身にて君に向ひ参らせて、
弓を引き、矢をはなち候はん事、神慮も御照覧候へ、
その恐れ少なからず候へども、太政入道殿御使にて
候へば、くわほうも冥加も、入道殿に任し奉り候、
今日先陣に於ては、忠綱渡して候、源三位入道殿に
見参に入候はんとて、やがて門の内へぞせめ入ける、
是を見て平家の軍兵我も我もと渡しけり、三万余騎
の大勢一度に河に打入たりければ大勢にせかれて水
流れやらず、暫くよどみてぞ見えける、下の瀬を渡る
雑人などは腹巻のくさずりもぬらさでわたり着く、
乗かへ郎等などの河の案内もしらぬ者共の、むまや
人やとひざよりをのづからはづむ水に、なにもたま

らずながれけり、かれ是八百余騎は流れにけり、そ
の外は皆渡り着にけり、三万余騎の勢大略渡りたり
ければ、宮の御方の兵三百余騎を中にとりこめて戦
ふ、三位入道頼政は、ちやうけんの直垂にしながは
をどしの鎧を着、今日を限りと思はれければ、わざ
とかぶとをば着ざりけり、子息伊豆守仲綱は、赤地
の錦の直垂に黒革をどしの鎧きて、是も矢束をなが
くひかんがためにかぶとをば着ざりけり、舎弟源太
夫判官かね綱は、萠黄のすずしの直垂に、緋威の鎧
に白星のかぶとを着て、白あしげなる馬にぞのりた
りける、六条蔵人父子渡辺の郎等共、我も我もと命
を惜まず戦ひけり、此間に宮はのびさせたまひける
を、平家の大勢せめかかりければ、兼綱父をのばさ
んと返合て戦ひけるぼどに、兼綱大事の手負ひてぶ
ちをあげて、奈良路をさして落けるを、上総の太郎
判官忠綱、七百余騎にて追かけて、此先へ落たまふは
源大夫判官殿とこそ見えたれ、いかでうたてくも源
P286
氏の名折に、鎧のうしろをば敵に見せ給ふぞ、きた
なしや、返し合せよやといひてせめかかりければ、
是は宮の御ともに参るぞと答へけれども、敵無下に
責よりたりければ、今はかなはじとや思ひけん、我
身相具してただ十一騎ぞありける、馬のはなを引返
して、十文字にかけ入たりければ、中をあけてさつ
ととほす、一人もくむものなかりければ、立さま横
さまにさんざんにぞかけたりける、忠綱これをみて
よくひきていたりければ、兼つな内かぶとをいさせ
て、少しひるむやうにしける所を、忠つながわらは
次郎丸すぐれたる大りきなりけるが、おしならべて
組で落ちぬ、取ておさへたりけれども、暫く首をか
かざりけるを、忠つなが郎等落ち合ひて鎧の草ずり
をたたみあげて、二刀さしたりければ、内かぶとも
いた手にてよわりたりけるうへ、かくさされてけれ
ば、はたらかざりけるを、首をかき切てけり、三位
入道是をも知らず、兼つなが引返すを見て、同く引

返て平家の大勢をたびたび河ばたへ追返して、敵数
多討取り、手おはせてさいごのかつせんとぞはげま
れける、此入道わかくてはゆゆしき精兵と聞しかど
も、七十にあまりて、今は弓の力もことの外におと
り、矢つかもみじかく成たりけれども、なべての人
にはにざりけり、矢おもての物ども、うらかかせず
といふ事なし、矢だね皆つくして太刀をぬいて走り
まはりける程に、右のひざぶしすねあてのはづれを
いさせて、あぶみをふまざりければ、郎等のかたに
かかりて、平等院のつりどのへぞ入にける、伊豆守
も父のもとに同く引籠りぬ、鎧ぬぎける所へ六条蔵
人仲家、三位入道のもとへ使をたてて申けるは、御
やくそくたがへ参らせで、防ぎ矢をばよくよく仕候
ぞ、源大夫判官どのもすでに討れたまひぬ、しづか
に御念仏申させたまへ、やがて御とも仕るべく候と
申つかはしたりければ、その時三位入道今はかうご
ざんなれと思ひて、郎等どもにふせぎ矢いさせてじ
P287
がいせんとしけるが、箙の中より小硯をとりいだし
て、つりどののはしらにかくぞ書付られける、
むもれ木の花さく事もなかりしに
身のなりはてぞ哀なりける W070 K076
此時など歌よむべしとも覚えね共、かやうの時もせ
られけるにこそとあはれなり、さてわたなべの丁七
となふをよびて首をうてといふ、主の首うたん事さ
すがにかはゆく覚えて、御自害候べしとて、太刀を
さしやりたりければ、入道太刀をぬきて、伊豆どの
自害ばしわろくすな、是は後代の物語にてあらんず
るぞ、是を本にしたまへとて、念仏百へんばかり申
て太刀の先をはらにあててたふれかかり死にけり、
その後下総国住人下河辺藤三郎よりて首をとり、直
垂の袖に包みて、板敷のかべ板をつきやぶりて、か
くしてけり、伊豆守是をみていなばの国住人弥太郎
もりかねといふものを召して、我首をば入道どのの
首といつしよにおけとて、はらかき切りてふしにけ

り、盛兼首をとつて、平等院の後戸の壁板をはなち
てなげ入たり、人是を知ず、後日に血の流れ出たりけ
るを見て、かべをうちはなちて見ければ、死人の首
一あり、伊豆守なり、さてこそじがいの門とて今に
あり、六条蔵人は門にて郎等どもと防ぎ矢いけるが、
もりかね走り出て、すでに入道どのも伊豆殿も御自
害候ぬといひければ、仲家いまはかうござんなれと
て、父子自害して伏しにけり、大将軍ども自害して
ければ、渡辺の者どもの中にも、競となふ以下のむ
ねとの者どもは、自害しつ、おちつべきものども落
ちにけり、下河辺のものどもあまたありけるも、落
ちにけり、伊豆守のかたに、伊豆国住人工藤四郎五
郎とて、兄弟ありけるも、落ちにけり、その中に滝
口が事をば大将安からぬ事にして、軍兵うちたちけ
る所にて、相かまへて競いけどりにせよ、のこぎり
にて首をきらんとのたまひければ、侍ども随分心に
懸たりけれども、競先に心得て、敵にとられば、自
P288
害してんず、一度もはぢをば見まじき物をと思ひ切
て、さんざんに戦ひて、敵あまた打ち取て自害して
けり、人は皆落ちけれども、はぶくは、宇治橋のを
とこ柱をこだてに取て、命もをしまず戦ひけり、二
人の子ども尋ね来て、三位入道どのも伊豆殿も御自
害候ぬと申ければ、入道殿には誰かつき参らせたる
と言ければ、丁七となふが附き参らせて候と申けれ
ば、さては心安し、御首など無下に敵にとらるる事
よもあらじとて軍をばせで、中ざしぬきてをとこ柱
に並べ立て、歌をぞ一首よみたりける、
君がために身をばはぶくとせし程に
世を宇治川に名をばながしつ W071 K281
といひはつれば、自害せんとしけるを、二人の子ど
も、左右の手に取付て、わかれを惜みてなく、力及
ばで親子三騎にておちけるが、栗子山のたうげへは
せ行て、いかが思ひけん、はぶくいひけるは、抑弓
矢取者のちぎりを変ずる様やある、三位入道殿一所

にてと御ちぎり有つるに、入道殿は平等院にて自害
したまひぬ、はぶくかひなき命をここまで落たるこ
そ口惜けれ、たとひ人々の落つるといふとも、日
本国を敵にうけたり、いづくへ行たりともおだしか
るべしとも思はず、ここにて自害して入道殿に追付
参らせん、わどの原はとくとく伊豆の兵衛佐殿に参
るべし、末頼もしき人ぞ、若ければいかなるふるま
ひをもして、各々が身ひとつを助かりて、兵衛佐殿
の御ありさまを見はて参らせよ、はぶくが後世をも
とぶらへとて、自害せんとしければ、二人の子ども、
我もともに自害せんとなきけり、若くさかんなる子
どもの命を失はん事ものうかるべしとて、思わづら
ひて居たりけるが、いと久しくあて、水のほしく覚
ゆるぞ、いかがせんといひければ、軍にはしつかれ
たり、さる事あるらんとて、二人の子ども谷へ走り
下て、水をもとむ、はぶく水のほしきといひけるは、
子どもをのけんとのはかりごと也、二人の子どもお
P289
りたりける所に、物の具ぬぎすて、念仏百返ばかり
となへて、腹かきやぶりて死にぬ、二人の子ども谷
に行て、小川のありける所にて水をくみて行べきも
のもなかりければ、白帷子をぬぎ、よくよく谷川に
て洗ひて、水をしめて持ちて行たれども、父は自害
して死にぬれば、水を進むるに及ばず、父が足手に
取つきて、声もをしまずなき居たり、されども帰来
る事に能はず、力及ばずしてむなしき父の首をかき
落して、鎧直垂の袖に包みて、なくなく落行けるこ
そむざんなれ、ゑんまん院の大輔は、ひをどしの鎧
にゆひがしらして、大長刀をくきみじかに取なして、
宮いまだ是に渡らせたまふ、我と思はんものどもは
参りて見参に入やと申ければ、兵ども馬の足をなが
れじとて、百人ばかり馬よりおりたちて、太刀をぬ
きてかかりければ、大輔長刀打ふりて、百余人が中
へおめいて走り入ければ、敵中をあけてさつと散る
所を走り越えて、河へ入て水の底をくぐりむかへの

岸にののしりあがる、しころ打ふり、よろひぬぎし
て、物の具の水はしらかしけり、長刀打ふりて平家
の殿ばらここに来られなんや、いとま申てとて頭打
ふりて、寺のかたへぞ落にける、宮は平等院をおち
させたまひて、男山をふしをがませ給ひて、二井の
池をもすぎさせ給ひにけり、此のほど御しんはなら
ず御のどかわかせたまひて水参りたく思召されけれ
ば、ある所に小川ながれたりけるを、汲みて参らせ
たり、此所をばいづくといふぞ、又此川をば何川と
いふぞと尋させ給ひけるに、此辺をば山城の井での
たかのは川と申、川をば水なし川と申候と申たりけ
れば、御うちうなづかせ給ひて、
山城のたかのわたりに時雨して
水なし川に波やたつらん W072 K077
と口ずさませ給ひて、光明山の前にぞかからせ給ひ
ける、飛騨の判官かげたか、宮は先立せたまひぬと
見てければ、平等院の軍をばうち捨てて、宮の御あ
P290
とにつきて追奉りけるほどに、光明山の鳥居の前に
て追ひ付き奉けり、郎等ども、遠矢に射るほどに、流
矢宮の御そば腹に中りて、御馬よりさかさまに落さ
せ給ひぬ、御目も御覧じあげられず、寺法師にさぬ
きのあじやり覚尊といひけるもの、御ともにありけ
るが、此ほど宮に思ひ付参らせて、御身近く候けり、
そけんの衣にちがへ袖して、したはら巻着て、三位
入道の秘蔵の馬あぶら鹿毛にぞ乗たりける、此馬に
乗て御ともすべしとてえたりけるとかや、かくそん
馬よりとび下りて、宮をかかへ参らせてありけれど
も、ものも仰せられずして御息たえにけり、くろ丸と
いふ御中間、御馬にかきのせ奉りけれどもかなはず、
さるほどに敵すでにせめかかりて、飛騨判官鞭を差
てあれあれといひければ、郎等どもあまたおち合ひ
て、宮の御首を取奉らんとするに、かくそん太刀を
抜きて打払ひていひけるは、わぎみは飛騨の判官か
げたかと見るはいかにひが事か、君かくて渡らせ給

ふ、又かくそんあるにいかに馬にのりながら事をば
下知するぞ、おのれは日本第一のしれものかなとい
ひければ、さないはせそとて、郎等十余人落合たり、
かくそんも驚かず、中へとび入てさんざんに切まは
る、寺法師に、りつじやう房日胤が弟子伊賀房、ぜ
うゑん房が弟子、刑部房俊秀等のこりとどまりて、
命を惜まず八方を切まはる、ここによて、十余人の
者ども皆討れにけり、遠矢に射ける程にかくそんが
膝ぶしをかせぎに射つなぬかれて、片膝ついて、腰
刀をぬきて、腹巻の引あはせをおし切りて腹かき切
つて、宮の御とのごもりたる御あとにふして、腹わ
たくり出して、やがて御ともに参るぞとて死ににけ
り、日胤はなほ敵の中へ走り入て、敵六人うちとり
て討死す、伊賀房は八人切伏せて、四人に手を負せ
て、奈良の方へぞ落ちにける、此紛れに黒丸も失せ
にけり、さて宮の御首をば、景高まいりて取参らせ
てけり、寺法師りつじやう房日胤は、伊豆の兵衛佐
P291
頼朝いまだ国におはしける時、諸寺諸山にきそうを
尋ね聞て、忍で祈りをせさせられけるに、園城寺に
は日胤をもて、いのりの師とせられけるが、日胤八
幡に千日こもりて、無言にて大はんにやを読誦しけ
り、七百日にあたる夜、御ほう殿よりこがねのかぶ
とを給はると示現を蒙りてありければ、日胤伊豆の
国へはしり下りて、兵衛佐にかたり申、佐大きに悦
で、なにさまにも末頼母しき事にてこそ候なれと、
夢合せし給ひて、頼朝世にあらば思ひしるべしとぞ
のたまひける、さるほどに騒動ありと聞えければ、に
ちいん急ぎはせ上て、此事にあひて死にけり、平家
ほろびて後、兵衛佐代を取て、彼りつじやう房尋られ
けるに、去治承のころ、高倉の宮に御とも申て討死
仕て候と、寺より申たりければ、さてはひぶんのこ
とにこそあんなれとて、かつうは祈りの師なり、
昔かたりし夢のくわんしやうにも、孝養すべし、是
しかしながら律静房の故なりとて、かの報恩孝養い

まにたえずぞありける、
南都大衆三万余人御迎に奉る、すでに先陣は木津川
までむかふ、後陣はいまだ興福寺の南大門にありな
んとののしりければ、たのもしく思召されけれども、
今四五十町渡らせ給つかで、討れさせ給ひけるこそ
かなしけれ、まさしき法皇の御子なり、位につかせ
給ひて、代をしろし召すとても、かたかるべきに非
ず、それまでこそなからめ、今かかる御事あるべき
や、いかなる先世の御宿業ぞと思ふもあはれなり、
宮は、光明山の鳥居の前にてうたれさせ給ひぬと聞
えければ、大将軍のおはせざらんいくさすべきに非
ずとて、南都の大衆なら坂より引退きにけり、佐大
夫宗信は、馬よわくて、宮の御ともにもえ参りつか
ず、さがりたりけるが、後には敵すでにせめかかり
たり、せん方なくて、二井の池の南のはたの水の中
に入て、草にて顔をかくして、わななきふせりける
が、軍兵どものけかぶとになりて、道あらそひて、
P292
いくらともなく馳行ありさま、おそろしなどはいふ
ばかりなし、宮はさりとも今は木津川を渡らせたま
ひて、なら坂などへはかからせ給ひぬらんと思ひけ
るに、浄衣きたる死人の首もなきを、たごしにのせ
てかきて通りけるを見れば、宮の御むくろなり、御
笛を御腰にささせ給へり、はや討れさせたまひけり
と見参らせければ、やがてめもくれ、心も消えはて
て、いだきつき参らせばやと思ひけれども、さすが
走りも出られず、その時は命はよくをしかりけるも
のかなと身ながら覚えける、御笛は御秘蔵のさえだ
なりけり、此笛を我死にたらば、必棺に入れよとま
で仰られけるとぞ、のちには人々かたりける、佐大
夫は、夜に入て池の中よりはひ出でて、はうはう京
へ帰りにけり、かひなき命ばかり生きて、五十まで
よるかたもなかりけるが、正治元年に改名して伊賀
守になりて邦輔とぞ申ける、此宗信は、六条宰相宗
保の孫、左衛門佐宗光の子なり、

さて宮よりはじめ奉て、源三位入道以下五十余人が
首をささげて、軍兵都へ帰入、事のありさま目もあ
てられず、頼政入道の首とて持ちたりけるは、はる
かに若き首をぞ、頼政が首とて渡しける、惣じて宮
の御かたにてうたるる者六十余人、手負四十余人也、
平家の方には、手負数をしらず、しぬる者七百余人
とぞ聞えし、此宮は、常に人の参りよる事もなかり
ければ、はかばかしく見知り参らせたる者もなかり
けり、たれ人か見知り参らせたると、京中を尋ねら
るれば、典薬頭定成朝臣こそ先年に御悩の時御療治
に参りて、見知り参らせたる人と申ければ、定成朝
臣を召して見せらるべきにてありければ、定成是を
聞ておほきにいたみ申ける程に、よくよく見知り参
らせたる女房を尋出されて、見せられたりければ、
御首見けるより、ともかくもものもいはで、袖をか
ほにおしあて、さめざめとなきければ、一定の御首
とはしりにけり、年ごろなれ近づき奉て、御子もお
P293
はしましければ、おろかならず思召しける人なり、
女房もいかにもして、今一度見奉んと思はれける志
の深さの余に、見奉りけり、中々よしなかりける事
かなとぞ覚えし、心の中いかばかりなりけん、おし
はかられていとをし、宮は御顔にきずの渡らせたま
ひて、すでにあやうくわたらせ給ひけるを、定成朝
臣すぐれたる名醫にてありければ、めでたくつくろ
ひ出し参らせて、そのたびたすからせ給ひにけり、
御かほのきずはそのあととぞうけたまはる、かの定
成朝臣は、いえがたき痛をもいやしければ、時に取
ては耆婆、扁鵲の如くにおもへり、
平家物語巻第八終