平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第四

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平家物語巻第四
廿三日、少将福原におはしつきたれば、瀬尾太郎が
預りて、頓て宿所に置奉る、我方様の者一人もつけ
ざりけり、瀬尾は宰相の帰り聞給はん事を思ひける
にや、さまざまにいたはり志ある様にふるまひけれ
ども、慰む方もなし、さるにつけてもかなしさの尽
せず、仏の御名を唱へて、夜も昼もなくより外の事
もなし、備中の国せのをといふ所にながさるべきと
聞へければ、少将は打あんじて、大納言殿は備前の
国へと聞えければ、そのあたり近くにや逢見奉るべ
きにてはなけれども、あたりの風もなつかしかりな
んとのたまひけるぞ哀なる、その儀にはあらず、法
勝寺執行俊寛、平判官康頼、硫黄が島へ流されける、
同罪にてさつまがたへとぞ聞えし、少将は一すぢに
きゆべき身の、父のりん国のよし聞えしなつかしさ

に、あやしのつけにかかへられて、今日まできえずし
て、重ねてうき事を聞くかなしさよ、ふかきより深
きに沈み、くらきより暗に逢ふ心地して、いとど歎
ぞ重りける、
六月廿五日には少将福原を立給ひ、三人つれて西国
へ赴く、平判官康頼は一条より上紫野といふ所に老
たる母のあるを始て、妻子親しきものどもあまたあ
り、今一度行ていとまをもこひ、名残をしまばやと
思ひながら、くだる歎きのほどは、誰にもおとらじ、
さつまがたへ下りなん後は、二たび召返されんこと
かたしとて、津の国こまの林と云所にて出家してけ
り、本どりはしそくの康もとがともしたりけるにも
たせて、都へのぼす、出家はもとより好みけり、か
やうに栄花の袂を引かへて、墨ぞめの袖となる折を
得て、かくぞ思ひつづけける、
いにしへのはなの衣をぬぎかへて、
いまぞ着そむる墨ぞめの袖、 W033 K264
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終にかく背きはてける世の中を、
とくすてざりしことぞ悔しき、 W034 K021
と打ながめて、法名性照と名乗れり、なくなく三人
つれて西国へ下向せられけり、既に備中国せのをに
下着せり、少将瀬尾をめして、いかにまことか、兒
島、せのをの間、ま近きよし聞ゆ、かかる身なれば、
見奉り見え奉らんといはばこそかたからめ、御文を
参らせて、大納言殿の御返事を取て得させよ、生た
らんほどの形見にもせむ、又死せばそれをしるしに
て後生までも尋奉らん、我硫黄が島へくだりなん後
は、帰り上らんことかたきによて、かやうにいふな
りと仰せられければ、片道僅に海上二三里の道を兼
康かくし申けり、仰のむねかしこみて承りぬ、備前、
備中はりん国とは申候へども、せのを、兒島の遠さ
は、片道三十余日に罷り候、上下向六十余日の道に
て候へば、宣下の時刻推移て叶ふまじきよしを申せ
ば、少将あな心憂や、行ゑしらせじとぞ、かやうに

はいふやらん、日本は纔に三十三ヶ国にてありしを、
崇神天皇の御宇より六十六ヶ国に別られたり、つく
しは島一つにてありしかども、九州の名をつけ、伊
予は一ヶ国にてありしを、阿波、土佐、讃岐を出て、
四国と名づく、はりまは一ヶ国にてありしを、備前、
摂津、美作、丹波を出て、五州と名づく、これてい
に国の名をかさぬといへども、いかでか境を遠く、
国中広くはなるべき、漢土に万里の山なければ、獅
子住まず、日本に千里の野なきが故に、虎すまずと
こそみえたれ、成経も一院の御おぼえ人におとらざ
りしかば、大国あまたふさぎ、大庄その数知行して
過つれども、又こそ西国に三十余日つづいて、片道
のあるは聞ざりしが、つくしより〓の使の上るこそ
廿日の道とは聞えしか、瀬尾、兒島遠しといふとも、
二三日にはよも過じ、あはれ是は行衛しらせじとて
いふよと思はれければ、何とすべき方なくて、泣よ
り外の事ぞなき、
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式部大輔章綱は、播磨の国明石に流されける、増位
寺と云薬師の霊地に参籠して、都帰のことをかんた
んをくだきて祈り申ける程に、百日満じける夜の夢
想に、
きのふまで岩間をとぢし山川の
いつしかたたく谷の下水 W035 K017
と御帳の内より詠じ給ふと見て、打驚て聞けば、御
堂の妻戸をたたく音しけり、誰なるらんと聞く程に、
京にて召仕し青侍也、いかにと問へば、太政入道殿
の御免の御文とて持ち来る、悦ばしなどいふばかり
なくて、頓て本尊にいとま申て出にけり、ありがた
かりし御利生也、
廿三日、大納言すこしくつろぐこともやとおぼしけ
れども、いとどおもく聞えければ、形をかへずして
つれなく月日すぐさんも恐れあり、何事を待にや猶
世にあらんと思ふかと、人の思はむもはづかしけれ
ば、出家の志あると内々小松殿に申合せられたりけ

れば、さもし給べしとのたまひたりければ、大納言
備中の安養寺の住侶調語房と云戒師請じて、出家し
給ひけり、大納言の北の方の北山の住居推はかるべ
し、住なれぬ山ざとはさらぬだに物うかるべし、い
と忍てすまゐければ、過行月日も暮しかね、あかし
わづらふさま也、女房侍どもも、その数多かりしか
ども、身の捨がたければ、世を恐れて人めをつつむ
ほどに、とひ訪ふ者もなかりけり、その中に大納言
の年ごろ近く召つかひける源右衛門尉のぶとしとい
ふ侍あり、よろづなさけあるをのこにて、時々奉事
問、ある暮ほどに参たりければ、北の方簾の際近く
召してのたまひけるは、あはれや、とのはびせんの国
兒島とかやに流され給ひけるが、過ぬる頃より有木
の別所といふ所にましますとばかり聞しかども、世
のつつましければ、是よりも一人も下ることもな
し、生きてやおはすらん、その行衛も知らず、いま
だ命も生ておはせば、さすが此あたりの事いかばか
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りか聞かまほしくおぼすらん、のぶとしいかなるあ
りさまをもしても、尋参りなんや、文の一をも遣は
して、返事をも待みるならば、限りなき心の内も少
し慰む事もやと思ふはいかがすべきとのたまひけれ
ば、のぶとし涙をおさへて、誠にとしごろ召仕はれ
し身にて候へば、限りの御ともを仕るべくこそ候
しかども、御下りの有さま、人一人もつき参らすま
じきよし承り候ひしかば、力に及ばずしてまかりと
どまり候き、あけても暮ても、君の御事より外、何
事をか思ふべく候、召され候し御声耳にとどまり、
諌られ参られ候し御言葉も肝にめいじて忘れず候、
今此仰を承る上は、身は何になり候ともいかがは仕
候べき、御ふみを給はりて、尋まいり候はんと申け
れば、北の方大に悦び給ひて、御文くはしくかきて
たびてけり、若君姫君も面々に父の御もとへとて、
御文かきてたびてけり、のぶとし是を給りて、備前
のこ島へ尋参りて、武士なんばの二郎に、今一度見

奉る事もやとて、年ごろの侍源左衛門尉信俊と申者
はるばると尋参り候と申ければ、武士もあはれとや
思ひけん、ゆるしてけり、参りて見奉れば、土を壁
にぬり廻して、あやしげなる柴の庵の中に、わらの
つかみといふものの上に、僅の御まし一枚しきて、
すへ奉りける、御住居の心うさもさることにて、御さ
まさへかはりにけりと、墨染の袂を見奉るに付ても、
目もくれ、心も消えはてにけり、大納言入道殿も今
更かなしみの心ぞ増給ふ、多くのものどもの中に、
いかにして尋来るぞとのたまふもあへず、こぼるる
涙も哀也、信俊なくなく申けるは、北の方去六月一
日より北山雲林院の僧房にぼたい講を行ふ所候、彼
所に忍びて渡らせ給候が、御歎きの深く渡らせ給ふ
事斜ならず候、公達のこひかなしひ給ふ事、又仰せら
れつる次第、くはしく申て、御文取出して参らせけ
り、大納言入道是を見て、涙にくれて、水ぐきのあ
とそことも見えわかねども、若君姫君の恋かなしひ
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給ふ有さま、我身もまた月日を過ぐべき様もなく、
心細くかすかなる御有さまを思つづけ給ひたりける
を見給ひては、日ごろ覚束なかりつるよりも、いと
どもだえこがれ給へる有さま、げにことわりと覚え
て哀也、信俊二三日は候けるが、泣々申けるは、かく
てつきはて参らせて、かぎりの御ありさまをも見は
てまいらせ候はばやと存候へども、都にもまたみゆ
づり参らせ候方も候はざりつる上、つみ深く、御返事
を今一度御覧ぜばやと思召され候つるに、むなしく
程を経候はば、跡もなくしるしもなくや思召され候
はんずらん、心ぐるしく思ひやり参らせ候、今度は
御返事を給候て、もちて参りて、又こそやがてまい
り下り候はめと申ければ、大納言よに名残をしげに
思はれながら、誠にさるべし、とくとく帰り上れ、
汝がこんたびを待つくべき心地もせぬぞ、いかにも
なりぬときかば、後生をこそとぶらはめとて、御返事
くはしく書き給ひて、御ぐしの有けるを引包みて、

かつうは是をかた見とも御らんぜよ、ながらへてし
も聞はてられ奉らじ、こん世にこそなど心細く書つ
づけて、給ひてそのおくに、
行あはむことのなければ黒髪を
かたみとてやる見てもなぐさめ W036 K018
と書とどめてたびてけり、若君姫君の御返事もあり、
信俊持てかへり上るが、いでもやらず、大納言もさし
てのたまふべきことは皆つきにけれども、したはし
さの余りに、たびたび是をめし返す、たがひの心さこ
そありけめと推量せらる、さてもあるべき事ならね
ば、信俊都へ上りにけり、北山へ参りて御返事奉け
れば、北の方あなめづらし、いかにいかに、さればい
まだ御命はいきてましましけるなとて、急ぎ急ぎ御
返事を引ひろげて見給ふに、御ぐしのくろぐろとし
てありけるを、ただ一目ぞ見給ひける、此人は様か
へられにけりとばかりの給ひて、又物ものたまはず、
引かつぎてふし給ひぬ、此御ぐしをふところに入て
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むねにあて、かほにあててぞもだえこがれ給ひける、
うつり香もいまだ尽ざりければ、御ぬしは只面影ば
かり也、若君姫君もいくら父御前の御ぐしはとて、
面々に取わたし取わたしして泣給ふぞむざんなる、かた
見こそ今はあだなれ、是なかりせば、今更かくは思
はざらまじとぞ覚されける、太政入道此事を聞ての
たまひけるは、誰がゆるしにて、大納言は本どりを
切たりけるぞ、さやうのことをこそじゆの事とはい
へ、流し置たらばさてはあらでふしぎ也とて、小松
殿にはかくしてなんばがもとへ、大納言急ぎうしな
ふべしとぞのたまひ遣しける、
丹波少将は備中のくに瀬尾の湊、ゆく井といふ所よ
り御船に召して波路はるかにこぎうかぶ、是は伊予
の国夏地につきてめぐられける、高く聳えたる遠山
のはるかに見えければ、あれはいづくぞと少将問給
へば、土佐のはた、足摺みさきと申ければ、少将思い
だして、さては昔、理一と申僧ありき、有漏の身をも

て、ふだらく山を拝んと誓ひて、一千日の行ほうを
始めて御弟子のりけんと申一人ばかり召具して、御
船にめして、おしうかび給ふに、むかひ風烈しく吹き
て、元のなぎさに吹返す、理一猶行法の功をはらざ
りけりとて、又百日の行法をし給ひて、百日過けれ
ば、聖人もとより人を具してはかなふまじとて、御
船にただ一人めす、彼舟はうつほ船なり、白きぬの
の帆をかけて、順風に任す、げにもおいて事をへだ
て、遥に遠ざかる、御弟子のりけんは、聖人に捨て
られ奉りて、ふだらくせんををがむべからざる事を
かなしむ、りんゑして生死を出まじきやらんと、はや
御船のかくるるほどなれば、名残をしくしたひ奉り、
余りのたへがたさに倒れふし、足摺をしておめきか
なしむ、足摺地をうがち、身をかくすばかりになり
ぬ、聖人をしたひ奉りし志の切なりしによりて、魂
去りて現に聖人のともをして、普陀らくせんを拝み
奉りき、すがたは此所にとどまれり、本地くわんを
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んにてましませば、垂跡足摺の明神にてましますご
ざんなれ、昔の別れ、因位の時の御事しり給はず、
成つねが歎をやめさせ給へ、本地観世音菩薩、すゐ
じやく大慈大悲足摺明神とて、よそながらふし拝み
奉り、はるかにこぎわかる、何事なるらんとて、又少
将の御有さま、あはれともおもはぬものはなかりけ
り、かくて日数をふるほどに、伊予と豊後との境な
るさがのみさきのわたりして、心づくしにも着給ら
て、さて豊後の国米水の浦と申所に、花見てとひけ
る歌人おほうみの水のみかさやまさるらんといひけ
る、をちの瀧そのしら瀧のあの浦はたたなるらんと
ぞ思はれける、あはれ歩行にて下る事なりせば、小
野小町が歌のふし、あづまや、かちを、駒いななけ
ば、たにくら谷とかやを見てましものをと思はれけ
り、かくて日数もつもりゆけば、日向の国あや部の
港わかの津にこそ着かれけれ、それよりして、鐡輪三
足のさかに取り上りたまふ、下臈はかなは坂とも申

けり、是は我朝人皇のはじめ、神武天皇の日向国宮
崎の郡に、帝都をたて、御即位有し時、三女一男下
りて土の仏を作りて、てつりん三足をたてて、供御
をしてまつりけり、それよりして、最初竈門三足の
峯とも申、都にありし時は家の日記を以て是れを知
るといへども、いかでか親に見べき、をん流の思ひ
でには、かかる名所を見るこそすこしなぐさむ心地
すれ、それ室野、船引、大山といひて月影日影もささ
ぬ深山の峨々たるせきがんを凌きこえて、日向国西
方が島津の庄に着給ふ、彼庄内にあさくら野と云所
に、ひとつの峯高くそびえて、煙りたえせぬ所あり、
日本最初の峯、霧島のだけと號す、金峯山、しやかの
だけ、富士の高根よりも、最初の峯なるが故に、名
付て最初の峯といふ、六所権現の霊地也、彼いただ
きに巌穴あり、長時に猛火もえ上りて、雲に續く、
いつとなく黒砂ふり下りて、すゑ何千里とはかる事
なし、然れども彼峯を何の本地ともしらざりけるを、
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はりまの国、書写の山を建立してける、證空上人彼峯
に登山して、我この神の本地を拝み奉らんと誓ひ給
ひて、七日参籠して、法花経をどくじゆせられける、
五日といふ子の刻ばかりに、大山震動して、岩崩れ、
めう火もえて、ことに煙りうずまきて、暫ばかりし
て、廻り一二丈そのたけ十余丈ばかりある大蛇の、
角はかれ木の如くおほひかかり、眼は日月の如くか
がやきて、大にいかる様にて出来給ふ、上人是を御
覧じて、此山の有さまを見るに、もとより龍宮じや
うとはぞんぜられ候ぬ、思ふにすゐじやくは龍のす
がたにてあつし候か、本地をこそ拝み奉度候へ、と
くとく本地を現はさせ給へ、あしくもげんぜさせ給
ふものかなとて、はたと守り奉る、大蛇本地に帰り
ぬ、つぎの日の未の刻計に、三尺計なる大鷹の尾ふ
さの鈴をふりならして、めう火の中より飛び出て、
前なる平岩に居たり、しやうくう腹を立て、龍をだ
に用ひ奉らず、いはんやいやしき野鳥のすがたをば

用奉るべきや、然らば心眼ともにひらきて、仏体を
拝み奉らんとこそ思ふに、見仏せざらんには、双眼
ともに無益なりとて、どこを持て双眼をささんとし
給へば、鷹去てしばらく計して、十一面の観音光明
かくやくとして幻のごとくにて見えさせ給ふ、その
時上人夢うつつともわかず、ずゐき申ばかりなくし
て涙を流されけり、性空上人心中のせいぐわんには、
こんど仏たいを拝み奉程ならば、法華の行者と成て、
彼教に従ひて、衆生をけどせんと誓はる、したがひ
て心願成就のうへは、法華を殊に信仰し給へり、此
煙の中より光さして末のとどまらん所を、我在所と
定めんと思召されけるに、煙の中より光をさして、
はりまの国書寫にとどまる、よてかの所をこんりう
して、長きすみかとし給ふ、かかるごんけの人の徳
をほどこし給へる峯なれば、成経も参籠して拝まば
や、我さつま方へ行なん後は、二たび故郷にかへら
んことかたし、しやさんして後世をたすからんと思
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ふはとありければ、預りの武士なさけある者にて、
何かくるしく候はんとて、具し奉り参りたり、殊に
地ぎやうすぐれて、眺望世にこえたり、ためし少き
所也、少将あまり名残をしくして、七日参籠して、
法華廿八品、尺の石の面に書寫してこめ奉りて、そと
ばを作り、五輪をきざみ、梵漢両字を書きなどして、
忘れがたみを残し、梅桜をみづから植置き、さまざま
に、彼山にかたみをのこしなどして、御宿に下向あ
り、少将月日の重るにつけても、ただ故郷のみ恋し
くて、暮にも及びければ、今様をうたひ、らう詠を
しなど心をすまし、涙を流し、いつとなくしほれた
る御有さま也、心あるも心なきも、互に袖をぞしぼ
りける、預の武士ども申けるは、此君になれ参らせ
て、名残はをしく成ませども、思ひあき奉る事はな
し、さればとて都に聞れん事も恐れあり、とくさつま
がたへ渡し奉らんとて、又出立せ奉る、少将是をこ
そ、ずゐぶんにつらき所と思ふに、猶いたましき所

のあらんずるにやと先しられてかなしかりけり、さ
てはやに夏影、とかみ、あかさかといふ所を打過て、
大隅の国けしきのもりにつき給ふ、少将此森を見給
ひて、
秋近きけしきの森になく蝉の
涙の露や下葉染むらん W037 K265
と云名所は是やらんとぞ思しめしける、正八幡宮の
御あたりをよそながら拝み奉り、宿願をたてて、通
られけり、少将は都にてさつまがたへと聞給ひしか
ば、さもやはと思給けるに、九州のうちには有ざり
けり、誠に世の常の流罪だにかなしかるべし、まし
て此島の有様伝聞ては、各もだえこがれけるこそむ
ざんなれ、道すがら旅の寒さこそ哀を催しけめと、
推量せられて哀也、せんどにまなこさきだつれば、
とくゆかんことをかなしみ、きうりに心をとうずれ
ば、はやく帰らん事かたし、或は海辺すいたくの幽
かなるみぎりには、蒼波眇々として、恨心綿々たり、
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或は山関よう谷のくらき道には、巌路峨々として、
ひるはゆうゆうたり、さらぬだに旅のうきねはかな
しきに、更る夜の月のほがらかなるに、夕つげ鳥か
すかに音づれて、遊子残月に行けむ、凾谷の思ひ出
られてかなしからずといふ事なし、さつまがたとは
惣名也、きかいは十二の島なれば、くち五島は日本
へ随へり、おく七しまはいまだ我朝に従はずといへ
り、白石、、あこしき、くろ島、いわうが島、あせ納、
あ世波、やくの島とて、ゑらぶ、おきなは、きかい
が島といへり、くち五島の内、少将をば三のとまり
の北いわうが島に捨て置く、康頼をばあこしきの島、
しゆんくわんをば白石がしまにぞ捨置ける、彼島に
は白鷺多くして、石白し、水の流に至るまで、波白く
ぞ見えていさぎよし、かかりければ白石島とは云け
るかや、せめては一島にも捨てられたらば、なぐさむ
方も有るべきに、遥なるはなれ島どもにすて置きけ
れば、かなしきなどいふも愚也、かかるはういつじ

やけんの島には、一島にあらんだにもかなしかるべ
し、まして所々の思いかにして一日片時も日を送る
べきとなきけり、とかくして俊くわんも、康よりも、
少将のましましけるいわうが島へたどりつきて、互
に血の涙をぞ流しける、彼島西北十里の島也、その
地乾地にして、山田うつ賤が業もなければ、米穀も
なし、そののくわをもかはざれば、絹布のたぐひも
希なり、島の中に高き山あり、峯には火もえ、麓に
は雨ふり、雷なる事ひまなかりければ、魂をけすよ
り外の事なし、めいどにつづきたるともいへり、寒
暑ことわりにも過たり、さつまがたよりはるばると
浪路をわたりて行く道なれば、おぼろげにては人の
通ふことなし、をのづから有ものも此土の人には似
ず、色黒くて牛のごとし、身には毛長く生たり、け
ん布の類ひなければ、きたるものもなし、男と覚し
きものは木の皮をはぎて、たうさぎにかき、はねか
づらといふものをし、女は木の皮を腰にまきたれど
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も、男女のかたちもみえわかず、髪は空ざまへおひ
上り、びんは夜しやにことならず、いふ事も聞しら
ず、偏に鬼の如し、何事につけても聞しらず、命生
くべき様なかりけり、少将はただ中々首を切られた
らばいかがせん、生きながら地ごくに落ちぬるこそ
とぞかなしまれける、各が身のかなしさはさる事に
て、故郷に残りとどまる父母妻子どもの此有さまを
伝へ聞て、もだえこがれける心中どもむざん也、人
の思ひのつもる平家のすゑこそおそろしけれ、彼海
まんまんとして風かうかうたる雲の波煙の浪にむせ
ぶなる、蓬莱方丈瀛洲の三の神山の島には、不死の
くすりもあんなれば、すゑもたのもしかるべし、此
さつまがたの白石、あこしき、いわうが島には、何
事かは慰むべき、哀也、眼にさへぎるものとては、
山の峯にもえ上る、耳にみてるものとては百千万
の雷の音、ひたすら無間大じやうと覚えて、見聞に
つけても、ただ身の毛ばかりぞたちける、少将判官

入道は、きえもうせなんと思けれども、せめてのか
なしさのあまりに、浦々島々を見廻りて、都の方を
詠めやる、僧都はあまりにかなしみやせて、岩のは
ざまに沈みいたり、慰む事とては常には一所になみ
居つつ、尽せぬ昔物語のみして、さればとて一日に
もきえもせぬ身どもなれば、木の葉をかき集め、も
くづを拾ひて、かたのごとくなる庵を結びて、あか
しくらしける、されども少将のしうと、平宰相の領、
ひぜんの国かせの庄といふ所あり、折節につきて忍
び忍びにあひとぶらはる、太政入道の聞給はん所を
恐れて、思ふほどこそなけれども、かたのごとく衣
食を送られければ、康頼もしゆんくわんもそれにか
かりて日を送りけり、此人々露の命きえやらぬ身に、
惜むべきには有らねども、朝な夕なをとぶらふべき
人一人もつきしたがはぬ事なれば、いつならはねど
も、薪をひろはんとて、山路にまどふ時もあり、水
を結ばんとては、澤につかるる折もあり、さこそた
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よりなくかなしかりけめと、推量せられてむざん也、
判官入道申けるは、さのみなき歎てもいかがせむ、
仏の御名を唱へてこそ、みやうけんの恵をあふぎて
二度都に帰らんことをねがひ、後生ぼたいをも祈ら
めと申て、己がのふなれば、歌をうたひ、舞をまひ
て、島の明神に報じ奉る、島の者ども、時々来て是
を見て、興に入てなくもあり、笑ふもあり、康頼日
にそへて、都の恋しさもなぐさまず、中にも母の七
十有余なるが、紫野にありしを思ひやりけるに、い
とどせん方なく、我流されし時もかくと知せまほし
かりけれども、きかば老のなみに歎きかなしまんず
ることのいたはしさに、思ながら告ざりしかば、今
一度見もしみえざりしに、此有さまを伝へ聞て、今
までながらへてあらむ事をもあり難しなど、来し方
行末のことまでつくづくと思ひつづけられて、ただ
なくより外の事ぞなかりける、康頼島に着きて、廿
日と申けるに、不思議の夢をぞ見たりける、夢の心

地に前の濱に出で遊びけるに、海上を見渡しければ、
こがねにて作りたる大船一艘出できたる、艫舳には
しやうしんの龍をすへたり、やかたには幔の幕を引
きたり、風のさつと吹上げたるたえ間より見入たれ
ば、十七八ばかりの女房たち、琴をだんじ、びはを
引き、今様をうたひ、朗詠し管絃しすましたり、都
をはなれて後、いまだ是ほど心を養ひたる事こそな
けれと思ふ所に、よはひたけたる老僧五六人なみゐ
させ給ひて、こんでいの法華経机に置きまいらせて、
同音に読じゆあり、しんかんにめいじて、随喜なの
めならず、船の帆には、一乗妙法蓮華経の文字様々
にあらはれさせ給ひたるをかけて、順風に任せ、前
の浦を走通ると見たり、あなたつとや、是は此極楽
浄土のくぜいの船とかやは、是やらんと思ふ所に、
我子の康基が、白き馬に乗て、此島にあがると見た
りけり、康頼入道夢さめて、あな不思議や、夢と知
りせば今暫くもまどろみて見てまし、はやくも覚め
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ぬる事のむねんさよと恨む、誠に此夢は康頼入道が
子息、康基が毎日都清水寺に参詣して、法華経の二
の巻の信解品をどくじゆし奉て、南無千じゆ千眼大
慈大悲観世音菩薩、願はくはこの経の功力によて、
父の骸姿を今一度見せさせ給へときせい申ける、誠
熊野参詣事
にくわん音の御利生あて康頼を守らせ給ふやらんと
ぞ覚えし、天性康頼は、熊野信心のものにてありけ
れば、或時少将に申けるは、此島に熊野権現をいは
ひ奉て参りて、帰洛の祈誓を申候ばやと思ひ候はい
かにと申ければ、少将我も昔は君の御ともに参りて
候き、又私にも参詣しき、成経都に候し時猶参詣の
志深く候しを、一方ならぬまぎれに、本意をとげず
して、かやうにまかり下て候事、後生ぼたいのさは
りともなりぬと覚え候とありければ、康頼入道申け
るは、権現遠からず願へば、その心に来り給ふ、仏
陀近きにあり、きせいすれば、道場に入り給ふといへ
り、然れば当山権現と申は、本地はあみだ如来にて

まします、いかならん野の末、山のふもとなりとも、
衆生の真実をいたさば、いくわうをささんとちかひ
給ふ、此島なりとも、我等まことをいたし奉てあがめ
奉らんに、などかは光をさし給はざらん、いざさせ
給へ、此島を廻りて見候はんに、くまの山に似させ
給ひたる所候はば、権現を崇め奉て、帰洛の祈をも
仕候はばやと申ければ、少将是を感じ悦び給ひけり、
法勝寺の執行にのたまひあはせければ、御宿願はさ
る事にて候へども、若都にめしかへされて候はん時、
さんそうどもの、比叡のじむじやは、本社へだにも
参詣せず、法勝寺の執行こそ硫黄が島へ流罪せられ
てありける、かなしさのあまりに、よしなきもろも
ろの岩の角を熊野権現と崇めて、拝みありきたりけ
りと笑はれん事のはづかしく候へば、参り候まじ、
山王の御事ならばさもありなんとて、参詣にはあた
はざりけり、二人の人々島をめぐりて見給ふに、は
るかにわけ入て、人跡たえて鳥の声だにもせぬ所に
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河ながれたり、音なし河に相似たり、高く聳えたる
峯あり、雲取志古峯と名づけて、遥の峯に上りて、
南の方を見わたせば、雲海ちんちんとして、蒼天霞
をこめ、へきがん峨々として、奥のたきを見わたせ
ば、白浪峰より流れたり、瀧の音も涼しく、松吹く
風も神さびたり、そのけいき瀧山ひりやうごん現の
まします、なちの御山に似たりければ、則ち那智山
と號す、東をはるかにかへり見れば、いさごへいへ
いとして銀河渺茫たり、月真如の影をうかぶ、元和
十五年の秋、長安倡家の女の船中にしてびはを弾ぜ
しかば、白楽天月毛の駒をとどめ詠めけん、〓陽江
の辺もかくやと思ひなずらへて、新宮の湊にたとへ
たり、すこしうちはれたる所あり、大きなる岩屋あ
り、それに松一むら生たり、是を本宮と名づけ奉て、
草打拂ひ、しめ引まはしたり、傍に石巌高く聳え、
白雲腰に〓き、神さびたる所あり、神くらにぞたと
へたる、浪間左右にむらだちて、みぎはのしら洲も

入ちがひ、千鳥しばなく所をば、玉津しまの明神、
和歌、吹上など、三の山にかたどりて、道々の岩を
ば、切部、藤代、鹿の瀬、米持、こんがう童子五だい
王子と名付けつつ、四方の木の下には、一万十万禪
師、聖兒子宮、岩代はしもと、あひどく山など、王
子々々とまりどまりの名をつくる、その夜はくろめに
下向して、法勝寺の執行に御参り候へや、眺望本社
におとらせ給はずとのたまひければ、僧都難澁なり
ければ二人の人々たちかふべき浄衣なければ、麻の
衣を洗ひつつ、澤辺の水を垢離にかき、七日精進し
てまうでけり、津の国くぼ津の王子よりはじめてま
うずる時、さして道のれいぎおこたらず、なれこま
ひなど、かたの如くかなでてぞ通りける、康頼法師
は己がのうなれば、さまざまにあはれなる事どもか
ぞへつづけて、舞ひすまして通りけり、是しかしな
がら我等丹誠をいたす心ざしの深さを権現納受し
て、地形便を得、かつがうの信心をまし給ふ上は、
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いかでか所願成就せざるべきとたのもしくぞ覚えけ
る、夕に濱路を出るには、千里の濱思出られて、山
川谷川を渡るには悪業煩悩、無始の罪しやう、消ゆ
なるものをと頼もしくぞ思ひける、かくの如くして、
八十余所の王子々々詣で過て、本宮しやうじやうでん
御前にまうでつつ、本地あみだ如来にてまします、
十悪五逆をもすて給はぬ御ちかひあるなれば、遠き
近きにはよるまじ、心の至誠なるをこそ権現金剛童
子も、あはれみ覚さんずらめと思ひて、南無日本第
一大霊験熊野三所権現、和光の恵を施して、成経性
照、今一度都へ返させ給へと、肝胆を碎きていのり
申されける、康頼けつさいの次にのつとをぞ思ひつ
づけ申あげける、性照御幣紙に花ぶさをささげて、
謹請再拝、維当歳次治承二年戊戌月並十月二月日
数三百五十四ヶ日、八月廿八日神己未択吉日良辰、
掛畏忝日本第一大霊験熊野三所権現、並飛龍大薩
〓、教令宇津弘前、信心大施主羽林藤原成経沙弥

性照致一心清浄誠、抽三業相応志、謹以敬白、
夫證誠大権現濟度苦海教主、三身円満覚王也、
両所権現或東方浄瑠璃醫王主、衆病悉除如来也、
或南方補堕落能化主、入重玄門大士、若王子娑婆
世界本主、施無畏者大士、頂上仏面現、衆生所願満
給、雖然法性真如都出、自和光同塵道入給以
来、神通自在難化衆生誘、善巧方便利益施給、因
茲自上一人迄下万民、朝結清水肩懸、煩悩
垢濯、暮向深山寳號唱、感応無懈時、峨々峯高
神徳高喩、嶮々谷深弘誓深准、雲分昇露凌下、爰
利益地不憑爭歩運嶮難道権現徳不施、何必幽
遠堺御、仍證誠大権現飛龍大薩〓青蓮慈悲眦相並、
早鹿八御耳振立、我等無弐丹誠知見、一懇志令納
受給、成経性照遠流苦止、早旧城故郷令付、当
人間有為妄執改、速法性無為證真理而已、然則
結早玉両所権現、各機隨有縁衆生引導、無縁群類
為救、七寶荘厳棲捨、八万四千和光、六道三有
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塵同給、故定業亦能将求長寿、得長寿禮拝、連
袖無隙、漫々深海、罪障垢重々、峨々高峯、懺
悔風扇、戒律乗急心調、忍辱衣重、覚道花捧、神
殿床動、信心水澄利生地湛、神明納受給、諸願何
不成就、仰願十二所権現利生翅並、遥翔苦海底、
慰左遷愁速令遂帰路本懐給、敬白再拝、
とぞ申ける、康頼は子息左衛門尉康基が示し知らせ
ける夢想の事なんど思ひ出して、大江の匡房が無常
の筆をぞ思ひ續けて、生死の嶮路定めがたし、老少
いづれの時を期すべき、ぼうこんいたづらに去て、
野外の崇廟幽々たり、彼かんやう宮のけぶり片々と
して雲となる、いづ方へか去ん、思へば皆夢の如し
とて、本宮をいで、苔路をさしたるまねをして、新
宮へつたふ、雲とりしこの峰と申、けはしき山こえ
て、なちへ詣でつつ、三山の奉幣とげにければ、悦
の道になりて、切めの王子のなぎの葉を、稲荷の社
の杉の葉にとりかさねて、今は黒めにつきぬと思ひ

てぞ下向しける、かく詣づる事こぞの八月より懈ら
ず、さるほどに、同九月上旬にもなりにけり、或日
本宮に詣で、法施をつくづくと手向け奉てありけれ
ば、いつよりも信心肝にめいじ、五体に汗出て、身
の毛よだち、ごんげんこんごう童子の御影向も忽に
ある心地して、嵐すごく吹おろして、木の葉かつち
りけるに、なぎの葉二つ、康頼がひざに散りかかる
を見れば、一は帰雁とむしくひたり、一には二文字
をくひたり、又よくよく見れば、歌を一首むしくひ
たるを見出したり、
千早振神のいかきを頼む人
などか都にかへらざるべき W038 K032
康頼入道是を御覧候へ、此島にはなぎは候はぬに、此
葉の出て来たり候はとて、少将に奉る、少将取りて
見て、あら不思議や、いまは権現の御利生に預りて
都へ返らん事は一定也とて、弥々祈念せられけるに、
康頼入道申けるは、入道が家には蜘蛛だにもさがり
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ぬれば、むかしより必ず悦を仕候が、けさの道にこ
ぐものおちかかり候つるに、権現の御利生にて、少
将殿召返されさせ給はん次に、入道も都へ帰り候は
んずるにやと思ひて候つる也、さても帰雁二とよま
れて候こそあやしく候へ、いかさまにも残りとどま
る人候はんずると覚え候とて、涙を流して下向せら
れけり、康頼はあやしげなる草堂のまねかたを作り
て、浦人、島人集りたる時、念仏をすすめて、同音
に申させて、念仏を拍子にて、乱拍子を舞ひけり、
あみだの三ぞんのいみじき事をばしらねども、此舞
のおもしろさに、是をはやすとて心ならず念仏をぞ
申ける、彼草堂は島人どもが寄合所にて、今にある
とかや、又をのづから汀に寄たる木を拾ひ集めて、
千本のそとばを刻みて一面には阿字を書きて、その
下に年號月日を書たり、一面には二首の歌を書く、
さつまがた沖の小島に我ありと
親には告げよ八重の潮風 W039 K034

思ひやれしばしと思ふ旅だにも
猶古さとの恋しきものを W040 K033
此二首の歌の下に平判官やす頼法師とかな、まなを
書きて心あらん人、是を御覧じて、康頼が故郷へ送
り給へとぞ、卒都婆ごとに書きたりける、書終りて、
天に仰ぎてちかひけるは、願くは上ぼんてん帝釋、四
大天王、閻羅王、けんらう地神、別しては日本第一
大霊験、熊野證誠一所、両所権現、一万十万、金剛
童子、日吉山王、厳島明神、哀と思し召して、我書
付くる言の葉、必ず日本の地へつけさせ給へときね
んして、西風の吹く度に此そとばを、八重のしほぢ
へぞなげ入ける、其きねんのこたへて、思ふ思ひや風
となりけん、まんまんたる波の上なれども、同じ流
のすゑなれば、浪に引かれ風にさそはれて、はるか
の日数を経て、そとば一本は熊野の新宮のみなとへ
よりたりけり、浦の者取て熊野の別当の許へ持て行
たりけれども、見とがむる人もなくてやみにけり、
P142
又そとば一本は、安芸の国厳島の大明神の御前にぞ
よりたりける、哀なる事は康頼がゆかりある僧の、
康頼西海の波に沈みぬと聞えければ、あまりのむざ
んさに、何となく都をあくがれ出て、西国の方へ修
行しける程に、便風もあらば彼島へ渡りて、生死を
も聞かばやと思はれけれども、おぼろげにては船も
通ふ事なし、おのづからあき人などの渡るも、はる
かに順風を待ちてこそわたれなど申ければ、たやす
く尋渡るべき心地せず、さりながらいかにもしてそ
のおとづれを聞かばや、生死も覚束なし、いかがは
すべきなどと思ひて、あきの国まで下りにけり、び
んぎなりければ、厳島の社へぞまうでにける、明神
の御在所をはいけんするに、後には御山高くそびえ
て、等覚、めうがくの迹門は十四、十五の秋の月に
かたどり、内せう、げせうのしやだんには、三十三
天の春花をくらすと見えたり、誠に大日の霊地、し
んごんひみつの浦と相応せり、潮来ては海となり、

潮去ては島となる、それ和光同塵の利生さまざまな
りといへども、いかなりけるいんえんにて、此神か
やうに海畔のうろくづに縁を結ぶらんと思ふも哀
也、当社大明神は、三十三の大願あり、第一の願に
は道心の者をまぼらんとの御誓なれば、一度参詣す
れば、後生ぼだいの憑あり、一切衆生の所望を悉く
かなふべしとの御誓あり、我のぞむ所は舎兄康頼入
道が死しても候はば、そのしるしを見せ給へ、若生
きて候はば、そのおとづれを聞候ばやときせい申け
り、まことや此神は太政入道ことに崇敬し給へるぞ
かし、されば平家のいきどほり深き人をかやうに思
へば、神もいかに思召すらんと恐しくて、ぬさも取
あへぬ程あれば、ひねもすにほつせたむけ奉りける、
日も暮方になりにけり、月出で汐みちけるに、そこは
かとなき藻屑の流れける中に、小そとばのやうなる
もの見えければ、あやし、何なるらんと思ひて取り
て見れば、彼二首の歌をぞ書たりける、是を見て哀
P143
なる事限りなし、ずゐきの涙を流しつつ、おいのか
たにさして都へもちて上て、康頼が母の宿所紫野に
行て、とらせたりければ、老母妻子集りて、各々是を
見て悲しみの涙をぞ流しける、新宮の湊によりたり
けるそとばも、熊野より出来ける山伏につけて、お
なじく都へ着きたりけるぞふしぎなる、たとひ一丈、
二丈の木なりとも、硫黄が島にてまんまんたる海に
入たらんは新羅、高麗、百済、震旦へもゆられゆか
で、安芸国までよるべきや、まして渚にうち上げら
れたるもくづの中に、交はりたるこけらにて、千本
まで作りたりけるそとばなれば、一二尺にはよも過
じ、文字はゑり入きざみつけたりければ、なみにも
洗はれずして、あざあざとして彼しまより都まで伝
はりけんこそ哀なれ、余りに思ふ事はかくほどなく
かなひけるも目出たし、康頼三年の命消えやらで、
都へ文を伝へたりとて、此二首の歌を都に披露しけ
れば、彼のそとばの事えいぶんに及びて、召し出し

てえいらんあり、誠に康頼法師が手跡也、少しもま
ぎるべくもなし、露の命消えやらで、いまだ彼島に
有ける事のむざんさよとて、法皇龍顔より御涙を流
させ給ひけるぞかたじけなき、昔大江のさだもと、
出家の後、大唐国にて、仏生国阿育大王の作り給へ
りし八万四千基の石塔内、日本江州石塔寺に一基留
る事を、かの震旦国にしてかきあらはしたる事の、は
りまの国そうゐ寺にながれよりたりけん、ためしに
も、此有がたさはおとらざりけるものをやと哀なり、
此事小松内府聞給ひて、かかる哀なる事こそ候はね、
康頼が硫黄が島にての手跡都に伝はりて哀なる事に
て候とて、世間には披露し候こそ不便に候へとて、
入道殿に申されければ、入道は音もし給はず、柿の
もとの人麿は、島がくれ行船をおしみ、山辺の赤人
は、あしべのたづをながむ、住吉の大明神は、かた
そぎの思ひをなし、三輪の明神は杉たてる門をさす、
そさのをのみこと、三十一字をはじめ給ひしよりこ
P144
のかた、諸明神、此字の内に、百千万の思ひをのべ
給ふ、いはんや太政入道木石にあらねば、いかでか
此歌をあはれと思ひ給はざるべき、
昔唐国に漢の武帝と申す帝ましましけり、王昭君と
いふ后を胡国のえびすに給りたりける事をくやしと
思し召して、彼の后を奪ひとどめんために、李陵と
いふ者を大将軍として、十万騎を卒して、ここくへ
つかはす、李陵微力をはげまして、せめ戦ひけれど
も、胡国の軍こはくして、官兵皆亡びて、敵のため
に李陵とらはれて、ここくの皇につかはる、武帝是
を聞て、李陵をばむねと憑み思ひつればこそ、大将
軍にえらびつかはしつるに、かく二心ありけるもの
をとて、李陵が母をとらへて、せめ殺し、父が墓を
ほりて、その骸をうつ、是のみならず、李陵がしん
るゐ兄弟皆以て罪せらる、李陵是を伝へ聞て、かな
しみを含みて曰く、我思ひき、胡国追討の使にえら
まれし時は、彼国を亡して君のために忠を致さんと

す、然れども軍やぶれて後、胡王のためにとらはれ
てつかはるといへども、隙をうかがひて、胡王を亡
して日ごろの恨を報ぜんとこそ思ひつれども、今か
かるめにあひぬる上はとて、胡王を頼みて年月を送
りけるに、武帝我に志ありけるよしを聞給ひて、李
陵をよび給ひけれども来らず、さて漢の軍まけぬる
事を帝安からぬ事におぼして、天漢元年に李将軍と
いふ兵また蘇子荊と申つはもの、とし十六になりけ
るを右大臣になして大将軍として、又十二万騎の勢
をもて、胡国を攻につかはされけるに、蘇子荊をば
蘇武といふ、彼をめして軍の旗を給ふとて、武帝仰ら
れけるは、此旗をば汝が命とともに持べし、若汝死
なば、我方へ返すべしと、宣命を含められけり、さ
て蘇武ここくへ行てせめ戦ひけれども、蘇武まけに
ければ、大将を始としてむねとのもの三十人生捕ら
れて、窟の中にこめおく、三年といふに取出してひ
ざぶしよりかた足を切て、あれ田にはなちおく、或
P145
は一日二日に死ぬるもあり、或は五六日に死するも
あり、蘇武一人生き残りて、年月をふるに、故郷の
恋しき事旦暮片時忘るる時もなし、ただ恋しきこと
かぎりなし、草葉を引結ぶあやしのかりのやどりも
なければ、ただ野澤の田中にはひありきて、春は田
豆をほり、秋はほを拾ひ、羊のちちをのみなどして
ぞまどひありきける、かかりければ、禽獣鳥類のみ
友となれり、秋の田の面の雁も、他国へ飛行けども
春はこし路に帰る習あり、我思ふ国へもや行らんと
なつかしくぞ思ひける、朝夕みなるる事なれば、雁
一、殊に近づきたりけるに、蘇武右の指をくひ切り
て、そのちをもて、柏の葉に一筆書すさみて、雁の
翅に結びつけてことづてけり、武帝上林苑といふ所
に御行あて、千草の色を御覧じて御遊ありける所に、
雁一行飛び来て、遥かに雲の上に初音の聞ゆると覚
ゆるに、一の雁ほどなく飛下る、あやしとえいらん
をふる所に、翅に結びつけたる文をくひほどきて、

落したりけるを、官人是を取て、漢王に奉る、帝み
づから叡覧あり、其状に云、
昔被籠巌崛洞、徒送三春之愁歎、今被放秋山
田〓、空為胡狄之族失一足、設此身留而朽胡
国、魂還而再仕漢君、
とぞ書たりける、是を御覧じて、帝御涙おさへがた
くして、蘇武はいまだ生きてありけるものをとて、
永律といふ賢者を大将軍として百万騎の勇士を卒し
て、又胡国をせめ給ふに、此度は胡国の軍まけにけ
り、蘇武片足は切られたりけれども、十九年の星霜
をへて、王昭君をとり返して都へ帰りけるに、李陵
君の御ために二心なし、就中に胡国追討の大将軍に
えらばれ参らせし事、誠に面目のその一也、然れど
も我宿運尽ぬることにや、官軍破れて我胡国にとら
はれぬ、されどもいかにもして胡王を亡して、御門
の御ために忠をいたさんとこそ存つるに、今母を殺
され参らせ、父が骸をほりおこして打たたかる、亡
P146
魂いかに思ひけんとかなしくてせん方なし、またあ
やまらぬしんるゐ兄弟も、残らず皆罪せらるる事、
つみふかくこそ候へども、文を一巻書て蘇武にこと
づてて武帝に奉る、帝是を見給ふに、その状に云、
双鳧倶北飛、一鳥獨南翔、
とぞ書たりける、帝大に憐を含て、後悔し給ひけれ
どもかひなし、蘇武かんていに参りて賜たりし旗を
懐よりとり出して奉る、さて御方のいくさ破れて、
胡王にとらはれける、田にはなたれて、年月かなし
かりつる事、李陵がかなしみ歎し事を、委しく語り
申ければ、武帝悲涙せきあへ給はず蘇武生年十六歳
にて、胡国におもむき、久沒したりしかども、三十
五にて旧都へ帰りたりしに、白髪の老翁にぞなりに
ける、後に伝息国といふ官を給て、君に仕へ奉る、
孝宣皇帝の御代、神爵二年に八十余にて死にけり、
その後廿露三年に御門賢人どもを、麒麟閣に昼し給
ひけるに、蘇武その中にあるとかや、是よりして文

をばがん書といひ、がんさつとも名づけたり、使を
ばがんしともいへるとかや、彼は胡国、是は硫黄が
島、彼は雁の翅、是はそとばの面、彼は一筆、是は
二首の歌、彼は雲路を通し、是は浪の上を伝ひ、か
れは十九年を送りむかへ、是は三年の夢さめにけり、
有がたかりける事どもかな、上古末代、昔今世はか
はり、さかひはへだたれども、思ひはひとつにて、
哀れにぞ覚えける、康頼が嫡子、平左衛門尉やすも
と、津の国こまの林まで父康頼がともして見送りた
りけるが、康頼出家したりければ、やすもとなくな
くこまの林より都へ帰り上て、頓て精進けつさいし
て、百日清水寺へ参詣す、法華経の廿八品のその中
に、信解品を習ひ読て、百ヶ日の間隔夜にする折も
あり、〓[B 通イ]夜する時もあり、願はくは大慈大悲千手千
眼、枯たる木草も花さき実なるべしと御ちかひある
なり、されば此体をかへずして、二たび父にあはせ
給へと三千三百三十三度の拝を参らせける、かかり
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けるしるしにや、硫黄がしまなる判官入道の夢想に
も、やすもとが白馬に乗りて来るとみえけり、くわ
んおんの御へん化は白馬に現じさせ給ふとかや、偏
に是やすもとがきねん感応して、観音の御利生にて
都へ帰り上にけりと、後には父子共に涙をぞ流しけ
る、少将、康頼入道は本宮に参りて、各々能を尽さんと
て、少将に拍子をうたせ奉りて、舞を面白くまひす
ましたり、少将はやうぢやう取出して、万秋楽の秘
曲を吹かれけり、その夜は本宮に通夜し給ひ、夜深
更に及びて、少将夢想あり、なにとなく沖の方を見
給へば天かきくもり俄に時雨うちして、沖の方より
大船一艘出来りけり、次第に近づくにしたがひて、
浪はしづまりぬ、かの船の中に迦陵頻迦の声にて法
華経のだいぼほんをぞよまれける、やや久あて、う
つくしげなる童子八人出来て、仰せられけるは、汝
らが拝にいのり申によて、権現御納受あり、故郷へ
帰られん事疑ひあるべからず、来暮秋のころしるし

あるべし、我を誰とか思ふ、娑竭羅龍宮の八天童子
也、万秋楽こそことに奇異なれ、今はいとま申とて
帰り給ひぬと、夢に見給ひけり、悦ばしきなどは、
事もおろか也、是につけても、弥々権現をば信敬し給
ひけり、
新大納言成親卿若くよりしだい昇進かかはらず、家
にいまだなかりし大納言に至る、栄花先祖にすぐれ
給へり、めでたかりし人の、いかなる前世の宿業に
てうきめを見給ひて二たび、故郷にかへり給はで配
所にて失給ひけん、少将も硫黄が島へ流されそのお
ととどもの幼少におはするも安堵ならず、爰かしこ
に迯かくるなどと聞給ひて、いとど心ぐるしくて、
日に隨ていよいよわり給へり、思ひの積りにや、
なやみ給ひて、七月十日ころより起臥もたやすから
ず、是につけてもわかれにし人々のみ恋しく今一度
思ひ見る事もならで、露の命消えはてん事をぞかな
しくおばされける、かく御心地のなやましくくるし
P148
きに付ても、あと枕にゐて哀といふ人一人もなし、
前に近きものとては、あらげなきつはものばかり也、
大納言殿をば小松内府にはかくして、入道相国のも
とよりとくとく失ひ奉るべきよし、つね遠うけ給け
れば、或時つね遠もとより大納言のかいしやくにつ
けたりける智明と申ほうし、大納言入道殿に申ける
は、是は海中の島にて候間、何事につきてもすみう
く候、此所につね遠所領の近く候所に、きびの中山、
ほそたに川など申て、名ある所にある木のべつしよ
とていたいけしたる山寺の候こそ、水木たたへてよ
き所にて候へ、それに渡らせ給ひ候へかし、わたし
参らせんと申ければ、大納言げにもと覚して、とも
かくもはからひにこそ隨はめとのたまひければ、彼
山寺に難波の太郎としさだが作り置きたりける僧房
を借て、わたしすへ奉てけり、はじめはとかくいた
はり奉るよしにて、同七月十九日坊の後にあなをふ
かくほらせて、穴の底に〓(ひし)を植へて上にかりばしを

わたして、その上に土をはねかけて、年ごろふみつけ
たるやうに調へておきたりけるを、大納言入道知り
給はで、ひえおはすとて、その上をあゆみ給ふとて、
落入給けるを、用意したる事なれば、やがて上に土
をはねかけて埋みてけり、此事かくしけれども、世
間に披露しければ、北の方此よしを伝へ聞給けん心
の中こそかなしけれ、
黄泉何所、一住不還、去台何方、再会無期、懸
書欲訪、存沒隔路兮飛鳥不通、擣衣欲寄、
生死界異兮意馬徒疲、
といへり、かはらぬすがたを今一度見ゆる事もやと
てこそ、憂き身ながら髪をもつけてありつれども、今
はいひがひなしとて、北の方自ら御くしをきり給ひ
て、雲林院のぼたい講と申す古寺にて、忍で戒を保
ち給ひけり、又その寺にてぞ形のごとく追ぜんなど
もいとなみて、彼のぼたいを弔ひ聞えける、若君あ
かの水をむすび給ひける日は、姫君は樒をつみ、姫
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君水をとり給ふ日は、若君花を手折りなどして、父
の後生を弔ひ給ふも哀也、時うつり事さり、たのし
み尽てかなしみ来、天人の五衰とぞ見えし、されど
も大納言の御妹、小松内府の北の方より、折にした
がひてさまざまのおくりものありけり、是を見る人
涙を流さぬはなし、なきあとまでも内大臣の志のふ
かきこそやさしけれ、大納言の最期のありさま都に
はさまざまに聞えけり、歎き日数をつみてやせ衰へ
て、思死にに給たりともきこゆ、又酒にどくを
入てすすめ奉たりとも申、また沖にこぎいだして海
に入たてまつりたりともさたしけり、但〓(ひし)につらぬ
かれて死給ひたる事は、まこととおぼしき事は、彼
の智明がさいあいの娘三人あり、七月下旬の頃より
一度にやまひつきて、俄に物に狂ひて、竹の林の中
にはしり入て、竹の切ぐいにつらぬかれて三人なが
ら一度に死にけり、是則ち大納言の霊と覚えて、忽
に報いけるぞ恐しかりし事どもなる、さても大納言

かくれ給ひて、九日と申けるに申の刻計に、天かき
くもり、雨俄にそそいてふり下る、一時ばかりふり
ければ、大洪水いづる程なり、雷電夥く鳴り落ちて、
地のそこに声ありき、つね遠に別のいしゆなし、然
るを我命終りし時、くらくらとしてほだいの道に妨
をなせり、汝においては安穏にあるべからずとて、
なりくだりなりくだり五六ヶ度震動す、難波の次郎此事を聞
て、大に恐れつつ、文武二道のをのこなりければ、
かりぎぬ着し、ゑぼしのぎしきを正しくして、幣帛
を捧げ、かしこまて天に向ひて、我あやまりなし、
主君の命によるよしをつぶさに敬白す、大納言の霊
ことわりとや思はれけん、しづまりにけり、則ち彼
雷落ちたるところをば龍宮城と號す、人申けるは、
此大納言は遠祖にも超過し、位正二位を極め、あま
つさへ大将に心をかけ給へる事は、かかる人なるに
よて也、又目をとめて見ければ、此人の京の宿所の
うへに常に黒雲おほふ事ありけり、龍の住む所にこ
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そ、かかる事はあれなどと怪みしに、かやうに死し
て後、かたのごとくの瑞相現じけり、返すがえす恐し
かりし事ども也、
新院讃州配流の後は、さのきの院と申けるを、廿九
日追號あり、崇徳院と申、去保元元年七月に当国に
うつされ給ひて、はじめはなほ島にましましけるが、
後にはさぬきの国の一在廰野太夫たかとをが堂に渡
らせ給ひけるが、後にはつづみの岡に御所を立てぞ
わたらせ給ひける、さぬきの院の主上にて渡らせ給
ひける時、小河の侍従隆憲と申けるが、院かくなら
せ給ひければ、後の御門に仕へむ事も物うかるべし
とて、もとどり切りて、今は蓮如上人とぞ申ける、
山林に交はりて一向まことの道に入たりけるほど
に、院の御跡を尋参らせて、さんしうへまいり、な
ほ島といふ所に、ついがき高くして惣門を隔てて、
内には屋一宇をつくりて、門に武士をそへて、外よ
り鎖をさし、供御をまいるより外はたやすく門を開

くことなし、かかりければ、蓮如参りたりけれども、
見参に入事もせず、我かかる遁世の身なり、何かく
るしかるべき、一目見参らせて罷上り候ばや、まげ
て御許を蒙らんと、守護の武士になくなく申けれど
も、ゆるされず、力及ばず此蓮如俗にてありし時、
笛を面白く吹ける間、笈の中に笛を入て持たりける
を取出して、参りたりとだにも知らせ参らせんとて、
一町の築垣を終夜笛を吹てぞまはりける、是をきこ
しめして、年ごろ是に笛吹くものこそなかりつれ、
いかなる者の吹やらん、小河侍従隆憲が吹し笛の音
に、少しも違はぬものかなと思し召して、今更恋し
くならせ給ひて、惣門近く出御あて、きこしめせば、
姿は御らんぜねどもたかのりが声にて、今生の思ひ
出、後生の訴に、今一度をがみ参らせんとなくなく
申けり、院是を聞召して、かなしみの御涙せきあへ
ず、蓮如なくなくかくぞ申ける、
身を捨てて木の丸殿に入ながら
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君にしられで帰るかなしさ W041 K266
院是を聞召して、さればこそと思召されければ、人
にもはばかり給はず、御声をあげてなかせ給ふ、や
や久しくあて、何とも御詞をば出さずかたみにせよ
とや思召されけん、御一筆を書きすさみて、門より
外へなげ出し給ひぬ、蓮如是を給て、月の光に見け
れば、
あさくらやただいたづらに返すにも
つりするあまの音をのみぞなく W042 K267
蓮如此御一筆をむねにあて、かほにあてて、ただこ
がるる事限りなし、心のゆくほどなきあきて、あな
口をしや、生をへだてて候らんもかくこそ候らめ、
六道の巷にこそおもはしきものの声ばかりは聞候な
れと、目に見る事はなかんなれ、その定に多くの国
国を隔てて、浪路はるかにわけ参りて候に、わづか
に壁を隔てて見参に入候はぬ事こそ口惜く候へ、た
だし是に付ても今生はただうき所と思召し、此度生

死をはなれて極楽浄土へ参らせ給へ、蓮如も此身に
なり候へば、ただ極楽浄土の恋しさに、うき世をい
とひて候なり、君もはかなきかりのやどに都へ帰ら
せ給ひても、何かはせさせ給ふべき、ただ急ぎ浄土
へ参らんと思召さるべしと、蓮如も必来世にては参
りあひ候べしとて、笈を肩にかけて、島をなくなく
罷出ぬ、蓮如が申ける事肝に思召されて、今生のこ
とを思召し捨て、後生ぼだいのために、五部の大乗
経を、御筆に三年の間書集めさせ給ひて、御室へ申
させ給ひけるは、墨付に五部の大乗経を三年が間に
書き集めて候を、かいかねの声せぬ遠国に捨て置き
奉らんことうたてしく覚え候、御経ばかり都近き八
幡辺に置き奉候はばやと申させ給ひける、御書のお
くに、
はま千鳥跡は都に通へども
身は松山にねをのみぞなく W043 K268
御室より此由関白殿へ申させ給ふ、関白殿内裏へ申
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させ給ひければ、少納言入道信西が申けるは、いか
でかさる事候べき、叡聞に及ぶべからずと、大に諌
め奉りければ、御経を都へ入参らする事叶ふべから
ずと仰下されけり、新院此事聞召して、心うかりけ
るためしかな、しんら、はくさい、けいたんに至る
まで、或は兄弟位を論じ、或はをぢをひ国を争ひて、
合戦をいたす事、常の習ひなれども、果報のましお
とりにより、兄もまけをぢまくる、されども手を合
せて、降人に来れば、かさねて科におこなふ事にや
ある、我今悪行の心をもて、かかる人を見れば、今
生の事を思ひ捨てて、後生ぼだいのために経を書き
奉る、置所だにもゆるされず、此世ひとつのかたき
のみにあらず、後生までのかたきござんなれと、大
悪心をたてて思し召しければ、御舌のさきをくひ切
らせ給ひて、その血をもて御経の軸のもとごとに、
御誓言をぞ遊ばしける、我此五部の大乗経を、三悪
道になげこうて、此大善根の力をもて、日本国をめ

つする大まゑんとならんと誓はせ給ひて、その後は
御爪も切らせ給はず、生ながら天狗の形にならせ給
ひて、九年と申長寛二年秋八月廿六日、御年四十二
にて志度といふ処にてつゐにかくれさせ給ひにけ
り、御骨をばかならず高野山へ送り奉れとさいごに
仰せられけるとかや、それもいかがならせ給ひけむ
覚束なし、
去仁安三年の冬の頃、佐殿兵衛入道西行、後には大
法房円位と改名しける、国々修行しけるに、讃岐の
松山といふ所にて、是は新院の渡らせ給ひし所ぞか
しと思ひ出奉て参りたりけれども、そのあとも見え
ず、松の葉に雪ふりかかりつつ、道を埋みて人の通
ひたる跡もなし、なほ島より志度といふ所にうつら
せ給ひて、年久なりにければ、ことわり也、
よしさらば道をばうづめつもる雪
さなくば人の通ふべきかは W044 K045
とうち詠じて、白峯といふ所の御はか所に尋参りた
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りけるに、怪しの国人の墓のやうにて草ふかくしげ
りたり、いかなりける御宿業にて渡らせ給ふやらん
と、心うく覚えて、昔は十善のあるじとて、九重の
内にまつはれて、あかし暮し給ひしに、今は三途の
闇にまどひて、八重の葎の下にふしましましけんと、
かなしからずといふ事なし、翠帳紅閨の中には、三
千の主と仰がれ、龍楼鳳闕の中には、二八の主とか
しづかれ給ふ、辨才世にかまびすし、威徳朝にふる
ひ給ひしに、徒に名ばかりとどまるならひなれば、
宮もわらやもはてしなし、世の中はとてもかくても
有ぬべきかなと、思ひつづけてつらつらと、御墓所
のまへに候へども、法華三まいつとむる禅侶もなく、
念仏三まい勤むる僧も一人もなかりければ、
なほ島の波にゆられて行く舟の
行衛も知らずなりにける哉 W045 K269
とよみたりければ、御墓震動して、俄に黒雲うづ巻、
真黒ざまになりにけり、斜ならず御憤り深かりける

を、行衛もしらずと読みたりけるを、御とがめあり
て、あしく読奉りけるにやとて、ひがさをのけ、袖
かきつくろひて、
よしや君昔の玉のゆかとても
かからん後は何にかはせん W046 K047
と読みたりければ、御はか元の如くしづまらせ給ふ、
この歌に怨霊も御心なだまり給ふらんとぞ覚えし、
さて松の枝にて、庵をむすびて七日七夜ふだん念仏
申て御菩だいを弔ひまいらせて、罷出けるが、庵の
前なる松にかくぞ書付ける、
ひさに経て我後の世をとへよ松
あと忍ぶべき人もなき身を W047 K048
八月三日宇治の左大臣贈位の御事あるべしとて、勅
使の少納言これもと彼墓にまかりて、宣命を捧げて
太政大臣正一位を贈らるるよしをぞ読かけ奉りけ
る、件の御はかは大和国添の上郡河上の林、般若野
の五三まいなり、昔保元の秋のはじめに掘おこして
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捨られし後は、死骸を路頭の土となして、年々の春
の草のみ茂るに、今勅使尋ね来て、宣命を伝へけん、
亡魂いかが思ひけん覚束なし、思の外の事どもあり
て、世の乱は、ただ事にあらず、偏に怨霊のいたす
所也と、人々はからひ申されければ、かやうに行は
れけり、或人夢に見たりけるは、さぬきの院鳳輦の
御輿に乗奉り、左府又腰輿に召て、先陣に候はせ給
ふ、平右馬助忠正後陣を仕り、六条判官為義子息ど
も皆引具して、都合その勢三百余騎にて、白旗赤旗
さしぐして、御輿の前後に候けるが、忠正鳥羽の南
門にて、馬をゆらへて、是は何方へ御輿をば仕るべ
く候やらんと申ければ、左府の仰に、院の御所法住
寺殿へと仰せられければ、忠正申けるは、それには
当時ことに御祈きびしくて、日吉山王の御宿直かた
く候へば、かなふべしとも存ぜずと申ければ、さら
ば太政入道の西八条へと仰られければ、承候ぬとて
三百余騎の兵ども、同時にときをつくりて、さうな

く惣門より攻入ぬとぞ見えたりける、さればにや程
なく入道相国例ならぬ心づきて、法皇を押込めなや
まし奉り、物ぐるはしきことのみありて、悪行数を
尽しける、恐しとも申に及ばざりけり、冷泉院の御
ものぐるはしくましまし、花山法皇の位を去らせ給
ひ、三条院の御目くらかりし、元方民部卿の悪霊の
たたりとこそ承はれ、抑三条院の御目も御覧ぜられ
ざりけるこそ、心うかりけれ、御眼はいと清らかに、
いささかもかはりたる事わたらせ給はざりければ、
空事のやうにぞ見えさせ給ひける、伊勢斎宮のたた
らせ給ふに、くしなげさせ給ひたりけるを、見奉ら
せてこそは、たたらせ給ひけめ、是を人見参らせて
こそ、さればこそとは申けれ、むかしも今も怨霊は
恐しき事なれば、早良の廢太子をば崇道天皇と號し、
井上内親王をば皇后の職位に補す、是皆怨霊をなだ
め給ひけるはかりごと也、同十二月廿四日彗星出、
又いかなる事のあらんずるやらんと人あやしみあへ
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り、彗星は五行之気、五星之変、内有大兵外大乱
といへり、
平家物語巻第四終