延慶本 平家物語 読み下し版(漢字ひらがな交じり)
凡例
底本 大東急記念文庫蔵、重要文化財「延慶本平家物語」全六巻十二帖
『延慶本平家物語一~三』古典研究会1964年 3冊、別冊『延慶本平家物語 解説・対校表』伊地知鉄男氏 編著 付
*延慶本平家物語は、応永26,27年の間に根来寺において書写されたもので、「根来本」、また後世の所蔵者によって「角倉本」、「嵯峨本」とも呼ばれます。延慶本系としては、他に文政十三年書写の松井本(静嘉堂蔵)、朽木本(内閣文庫蔵)と朽木本を影写した平道樹書写本(国立国会図書館蔵)の3本が有り、前二者は、大東急記念文庫蔵本の虫損までを忠実に影写した写本です。従って、大東急記念文庫蔵本は、延慶本諸本のうち、最古の写本ということになります。
原本通りの翻刻では、読みやすいものにはなりませんので、できるだけ読みやすい本文を提供したいと思います。
古典研究会 1964年の影印本のページを記しました。P+巻数(1~3)+3桁。その後に、( )の中に、原本の丁数、表、裏をそれぞれオ、ウを記しました。単語が分割される場合は、検索の便を考え、後に移動した箇所があります。
片仮名を平仮名に改め、仮名の大小を区別せず、仮名遣いは、できる限り、歴史的仮名遣いに改めました。
句読点・濁点は、適宜施しました。
会話や心中思惟の部分には、「 」、『 』を付けました。
促音は、表記のない場合も「つ」としました。
原本には各冊の冒頭に「目録」がありますので、それぞれの巻頭につけました。
本文中には、章段番号のみで、章段名は、有りませんが、〔 〕の中に入れました。章段番号の無い場合は、内容的に判断して、〔 〕の中に記しました。
漢文的表記の箇所は読み下しました。訓読に際しては、原本の送り仮名・振り仮名・ヲコト点に従うことを原則としましたが、一部、他の『平家物語』諸本を参考にして定めました。
漢字は、原則として「常用漢字表」にある字体に従いました。異体字はおおむね通行の字体に直しましたが、一部に異体字、旧字を残しました。パソコンで入力出来ないコードの無い字(第一・第二水準以外)は、〓で表示し、一部、〓[ + ]で文字を示しました。
原本には多くの誤字・脱字があり、それらのいくつかには、正しいと思われる字や脱字が書き込まれています。適宜それらを採用し、他の諸本を参照しながら、訂正したり、補ったりしました。補った場合は〔 〕に入れて示しました。
当て字と判断されるものは、正しい文字に直しましたが、一部に原本の文字を残しました。
原本の割注は 〈 〉 に入れて示しました。
本書の訓読には、下記を、大いに参考に致しました。
『延慶本平家物語本文篇』(上・下)(大東急記念文庫蔵本)1999:2冊 著者:北原 保雄氏 著者:小川、 栄一氏 勉誠出版
『延慶本平家物語索引篇』(上・下)(大東急記念文庫蔵本)1996:2冊 勉誠出版
延慶本平家物語全注釈 著者 延慶本注釈の会編 出版社名 汲古書院 *2009年に、平家物語 四(第二中)刊行、以後一年に一冊の刊行予定です。
平家物語 一(第一本)
P1001(八オ)
一 平家先祖の事
二 得長寿院供養の事〈付けたり導師山門中堂の薬師の事〉
三 忠盛昇殿の事〈付けたり闇打の事 付けたり忠盛死去の事〉
四 清盛繁昌の事
五 清盛の子息達官途成る事
六 八人の娘達の事
七 義王義女の事
八 主上上皇御中不快の事〈付けたり二代の后に立ち給ふ事〉
九 新院崩御の御事
十 延暦寺と興福寺と額立論の事
十一 土佐房昌春の事
十二 山門大衆清水寺へ寄せて焼く事
十三 建春門院の皇子春宮立ちの事
十四 春宮践詐の事
十五 近習の人々平家を嫉妬の事
十六 平家殿下に恥見せ奉る事
十七 蔵人大夫高範出家の事
十八 成親卿八幡賀茂に僧を籠むる事
十九 主上御元服の事
二十 重盛宗盛左右に並び給ふ事
P1002(八ウ)
廿一 徳大寺殿厳嶋へ詣で給ふ事
廿二 成親卿人々語らひて鹿谷に寄り会ふ事
廿三 五条大納言邦綱の事
廿四 師高と宇河法師と事引き出だす事
廿五 留守所より白山へ牒状を遣はす事〈同返牒の事〉
廿六 白山宇河等の衆徒神輿を捧げて上洛の事
廿七 白山の衆徒山門へ牒状を送る事
廿八 白山の神輿山門に登り給ふ事
廿九 師高罪科せらるべき由人々申さるる事
三十 平泉寺を以つて山門に付けらるる事
卅一 後二条関白殿滅び給ふ事
卅二 高松の女院崩御の事
卅三 建春門院崩御の事
卅四 六条院崩御の事
卅五 平家意に任せて振る舞ふ事
卅六 山門の衆徒内裏へ神輿振り奉る事
卅七 毫雲の事〈付けたり山王効験の事 付けたり神輿祇園へ入り給ふ事〉
卅八 法住寺殿へ行幸成る事
卅九 時忠卿山門へ上卿に立つ事〈付けたり師高被罪科せらるる事〉
四十 京中多焼失する事
P1003(九オ)
平家物語第一本
一 〔平家先祖の事〕 S0101
祇薗精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理りを顕す。驕れる人も久しからず、春の夜の夢尚長し。猛き者も終に滅びぬ、偏へに風の前の塵と留らず。遠く異朝を訪へば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周異、唐の禄山、是等は皆、旧主先皇の務にも従はず、民間の愁ひ、世の乱れを知らざりしかば、久しからずして滅びにき。近く我が朝を尋ぬれば、承平の将門、天慶に純友、康和の義親、平治に信頼、驕れる心も猛き事も取々にこそ有りけれ(けめ)ども、遂に滅びにき。縦ひ人事は詐ると云ふとも、天道詐りがたき者哉。王麗なる猶此くの如し、況や人臣位者、争か慎まP1004(九ウ)ざるべき。間近く、太政大臣平清盛入道、法名浄海と申しける人の有様、伝へ承るこそ心も詞も及ばれね。
彼の先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五皇子一品式部卿葛原親王九代の後胤、讃岐守正盛孫、刑部卿忠盛朝臣嫡男也。彼の親王の御子高見の王、無官無位にして失せ給ひにけり。其の御子高望の親王の御時、寛平二年五月十二日に、初めて平の朝臣の姓を賜りて、上総介に成り給ひしより以来、忽に王氏を出でて人臣に列なる。其の子鎮守府将軍良望、後には常陸の大拯国香と改む。国香より貞盛、維衡、正度、正衡、正盛に至るまで六代、諸国の受領たりと云へども、未だ殿上P1005(一〇オ)の仙藉を聴されず。
二 〔得長寿院供養の事〈付けたり導師山門中堂の薬師の事〉〕 S0102
忠盛朝臣、備前守たりし時、鳥羽院御願、得長寿院を造進し、三十三間の御堂を立て、一千一体の聖観音を安置し奉る〈中尊丈六等身千体〉。仍りて、天承元年〈辛亥〉三月十三日〈甲辰〉吉日良辰を以て、供養を遂げられ畢(を)はんぬ。忠盛は、一身の勧賞には備前国を給はる。其の外、鍛冶・番匠・杣師、惣じて結縁経営の人夫までも、ほどほどに随ひて勧賞を蒙る事、真実の御善根と覚えたり。
御導師には天台の座主と御定めあり。而るに、何なる事にかおはしけむ、座主再三辞し申させ給ふ間、「さては誰にてか有るべき」と仰せあり。其の時、所々の名僧、寺々のP1006(一〇ウ)別当、望み申すところ十三人也。浄土寺の僧正実胤、同じく別当道忠僧都、興福寺の大臣法眼実信、同寺の大納言法印成運、御室の御弟子祐範上人、薗城寺権大僧都良円、同じく智覚僧正、東大寺大納言法印隆〓、花山の僧正覚雲、蓑尾の法眼蓮浄、兵部卿僧都祐全、宇治僧正寛深、桜井の官の聖人円妙〈已上十三人〉、此の智徳達は、皆法皇の御外戚、或いは法皇の御師徳、或いは法皇の御祈祷所の満徳也。皆公請を以て勤めらるる人々也。誠に種姓高貴にして智恵明了也。浄行持律にして説法に冨留那の跡を伝へ、「吾こそ天下一の名僧よ」、「吾こそ日本無双の唱導よ」と、各々〓慢の幡幢P1007(一一オ)をたてて、望み申させ給ふも理也。「げにも天台の座主の外は此の人々こそ器量よ」と、法皇も御定めあり。されば、思し食し煩ひてぞ渡らせ給ひける。毎日に公卿僉議ありけれども、さして誰とも定まらず。「さらば孔子に取るべし」とて、彼の禅侶等を皆、得長寿院に召されたり。ゆゆしき見物にてぞ有りける。
さて、孔子の次第は、十三の内に一には「御導師たるべし」と書きて、余の十二は物も書かざる白孔子也。
法皇の仰せに、「丸が現当二世の大事、只此の仏事にあり。若実の導師たるべき器量の人、此の十三人の外にて猶や有らん。冥の照覧知り難し。されば、今一つを加へて、十四の孔子に成すべし」と云々。仍りて、御定にP1008(一一ウ)任せて十四にして、十三人寄りて面々に取り給ふに、皆白孔子を取りて、「御導師たるべし」と云ふ孔子は残りたり。「冥の照覧、実に様有るべし」と仰せあり。十三人の智徳、各宝の山に入りて手を空しくして帰り給へり。
其の後、法皇、「此の人々の外に誰有るべしとも覚えず。只願はくは、必ずしも智者に非ず、能説に非ずとも、種姓下劣なりとも、心に慈悲ありて、身に行徳いみじく、天下一番に貧しからむ僧を導師に用ゐばやと思ふはいかに」と仰せあり。公卿未だ御返事申されざる処に、蓑笠着たる者、門前に臨みたり。奇しく御覧ずる処に、蓑笠をば唐居敷に指し置き、黒き衣袈裟懸けたる僧一人、老々としてP1009(一二オ)法皇御前に参りて、「実にて候やらん、得長寿院供養の御導師には、無智下賎なりとも、心に慈悲有りて身に徳行あらん貧僧を召さるべしと承はる。愚僧こそ、慈悲と行徳とは開けて候へども、貧窮の事は日本一にて候へ。真実の御事にて候はば、参るべく哉候ふらん」。其の時公卿殿上人、「さこそ仰せあらんからに、和僧様の者をば争か召さるべき。不思議也、見苦しし。とくとく罷り出でよ」と云ふ。法皇の仰に、「いかなる所にある僧ぞ」と御尋ねあり。僧申しけるは、「当時は坂本の地主権現の大床の下に、時々庭草むしりて候ふ」と申す。法皇、「さては、まめやかに無縁貧道の僧にこそあむなれ。不便P1010(一二ウ)なり。御導師に定め思し食す所也。来る十三日の午時以前に、彼の御堂に参るべし」と御定あり。僧、涙をはらはらとこぼして、手を合はせて法皇を拝み進らせて、蓑笠取りて打ちきて罷り帰りけり。
其の時法皇、人を召されて、「あの僧の住所見て参るべし。いかなる有様したる僧ぞ。能々みよ」とて遣はす。御使、みがくれに行く程に、げに地主権現の大床の下に入りぬ。居所の有様、雨皮引き廻して、絵像の弥陀の三尊かけて、仏の前机に焼香散花の匂ひ薫じたり。さては何事もなし。但、机の下に紙にひねりたる物あり。其を取りて茶坏にちと入れて、閼伽桶なる水にすすぎて服しけり。さて、其の後独言に申しP1011(一三オ)けるは、「とかくして儲けたりし松の葉も、はや乏しく成りぬ。なにをもてか露命をも支ふべき。あはれ、はや御仏事の日に成れかし。さても目出たき法皇の御善根のきよさかな。南無山王大師、七社権現、慈悲納受を垂れて、清浄の御善根修行し給へる法皇を守護し進らせ給へ」とて、念珠して侍り。御使、帰り参りて此の由を奏聞す。法皇大きに感じ思し食す所也。
既に御供養の日、彼の大床の下の聖の許へ四方輿を迎へに遣はさる。聖申しけるは、「輿車に乗るべき御導師を召さるべきならば、望み申す所の十余人の高位の僧をこそ召され候ふべけれ。而るに、今は態と無縁貧道のP1012(一三ウ)僧を供養ぜさせ給ふ。清浄の御善根也。争か有名無実の虚仮の相をば現じ候ふべきや」とて、四方輿を返し進らせ畢(を)はんぬ。
吉日は十三日、良辰は午時也。以前に御幸もなり、行幸も成りぬ。女房・男房、すべて雲上の人々、皆参り給へり。何に況や、都鄙遠近、貴賎上下の諸人、幾千万と云ふ事を知らず参り集まり、件の御導師も已に臨み給へり。ありし蓑笠をこそ今日はき給はねども、衣袈裟は只其の時のままなり。老々として、腰少し亀まり給へり。従僧とおぼしくて、若僧二人あり。御布施持たせむとおぼしくて、下僧十二人、庭上にあり。実に〓弱(わうじやく)たる体、諸人皆目をP1013(一四オ)驚かしてぞ侍りける。導師已に高座に登り給へば、膝振ひわななきて、法則次第も前後不覚に見えたり。暫く有りて、勧請の句を、はたと打ち上げ給ひたりければ、三十三間をひびき廻り、一千一体の御仏も納受をたれ給ふらむとぞ目出たかりける。表白実に玉を吐き、説法弥々富楼那の弁舌あり。聴聞集会の万人、随喜の涙を流して無始の罪障を濯ぎ、見聞覚知の道俗は、歓喜の袖を〓(かいつくろ)ひて、即身の菩提を悟る。苗、須達長者が四十九院の祇薗精舎を建てて釈迦善逝の御供養ありけんも、利益結線の砌、これには過ぎじと目出たし。御説法永くして、三時ばかりありP1014(一四ウ)けるを、法皇は刹那程とぞ思し食されける。已に廻向の金鳴らして、高座より下りて、正面の左の柱の本に居給へり。始めには墨染の袈裟衣は、今は錦の法服よりも貴くぞみえける。
御布施千石千貫・金千両、其の上に御加布施、御堂の前に山の動き出でたるが如し。田村の御門の御時、たかき御子と申す女御、隠れさせ給ひて、安祥寺にてみわざし給ひけるに、堂の前にささげもの多くして山の如し。其を在中将よみたりける、
山のみなうつりて今日にあふ事は春の別をとふとなるべし
善根の志の深きには、御布施の色に顕れたり。
月輪西山にP1015(一五オ)隠れて夜陰に及びければ、御堂の前に万燈会をともされたり。御導師已に帰り給ひけるに、聴聞の衆庭に多くして、出でさせ給ふべき様も無かりければ、御堂の正面より虚空を飛び上がりて、惣門上に暫くおはしましけり。二人の従僧は、日光・月光、光りをかかやかし、十二人の下僧は薬師の十二神将也。御導師は地主権現の本地、叡山中堂の伊王善逝にてぞ坐しける。世已に末代たりと云へども、願主の信心清浄なれば、仏神の威光猶以て厳重也。法皇の御心の中、さこそうれしく思し食しけめ。
聖武天皇の御願、東大寺供養の御導師は、P1016(一五ウ)行基菩薩と御定め有りけるに、行基堅く辞し申させ給ひける様は、「御願、大仏事也。小国の比丘、相応せず。霊山浄土の同聞衆、婆羅門尊者と申す大羅漢、今に天竺にあり。迎へに遣すべし」とて、宝瓶に花をたて、閼伽をしきに居ゑて、難波の海に置き給ひければ、風も吹かざるに、閼伽をしき、流れて西をさして行く。七日を経て後、供養の日、彼の婆羅門尊者、閼伽をしきに乗りて、難波の津に来て、大仏殿をば供養し給ひにき。それをこそ奇代の不思議と承るに、これは猶勝れたり。さて、彼のばら門尊者、南天竺より難波の浦に到来P1017(一六オ)の時、行基菩薩対面して宣はく、
霊山の尺迦のみまへに契りてし真如くちせずあひみつる哉
婆羅門尊者の返事
迦毘羅えの苔の莚に行き遇ひし文殊の御かほ又ぞ拝する
さて、ばら門尊者は読師、行基菩薩は講師にて、大仏殿をば供養ありき。其の時、ばら門をば僧正に成して、「東大寺の長老し給へ」と宣旨成りけれども、不日に天竺に帰り給ひにき。行基菩薩は、八十にて天平勝宝元年二月に入滅し給ひき。彼の歌の心にて、ばら門僧正は普賢、行基菩薩は文殊なり。普賢・文殊等の二菩薩、大仏殿をば供養じ給へり。今P1018(一六ウ)此の得長寿院をば、中堂の薬師如来、日光・月光等の二菩薩を従僧とし、十二神将等を眷属として、御供養あり。「遥かに昔の聖跡よりも、当伽藍の効験は勝れ給へり」と、万人皆讃め奉る所也。
三 〔忠盛昇殿の事 付けたり闇打の事 付けたり忠盛死去の事〕 S0103
鳥羽禅定法皇、叡感に堪へさせ御座さず、忠盛に但馬国を給はる上、年三十七にて内昇殿を聴さる。昇殿は、是生涯の撰びなり。設ひ院の昇殿すら然也、何に況や、内の昇殿に於いてを哉。雲上人、欝り猜んで、同年十一月五節、廿三日、豊の明りの節会の夜、暗討にせむと擬す。忠盛朝臣、是の事を風に聞きて、「我右筆の身に非ず。武勇の家に生まれP1019(一七オ)て今此の恥に遇はむ事、家の為、身の為、心うかるべし。所詮身を全くして君に仕へよと云ふ本文あり」と宣ひて、内々用意ありけり。
忠盛朝臣の郎等、元は忠盛の一門なりけるが、後には父讃岐守正盛が時より郎等職に補す、進三郎大夫平季房が子に、左兵衛尉家貞と云ふ者あり。備前守の許に参りて申しけるは、「父季房、恐れながら御一門の末にて候ひけるが、故入道殿の御時、始めて郎等職の振舞を仕り候ひけり。家貞父に増さるべき身にて候はねども、相継ぎて奉公仕り候ふ。今年の五節の御出仕には、一定僻事出来候ふべき由、粗承る旨候ふ。殿中に我も我もと思ふ人共あまた候ふらめP1020(一七ウ)ども、加様の御瀬の折節にあひまいらせむと思ふ者は、さすがすくなくこそ候ふらめなれば、五節の出仕の御共をば家貞仕るべし」と内々申せば、忠盛是を聞きて、「然るべし」とて召し具されたり。
一尺三寸ある黒鞘巻の刀を用意して、着座の始めより乱舞の終はりまで束帯の下にしどけなき様に指して、刀の柄を四五寸計り指し出だして、常は手打ちかけて作り眼して居られたり。傍輩の雲客此を見て恐惶の心あるならば、闇討はせざらましの謀也。
家貞、元よりさる者にて、忠盛に目をかけて、木賊の狩衣の下に萌黄の糸威の腹巻胸板せめて、太刀脇に挟みて、殿上P1021(一八オ)の小庭に候ふ。同じき弟、薩摩平六家長とて齢十七になりけるが、長高く骨太にて、力おぼえ取りて、度々はがね顕はしたる者ありけり。松皮の狩衣の下に紫糸威の腹巻着て、備前作の三尺五寸ありけるわりざやの太刀かいはさみて、狩衣の下より手を出だして、犬居につい跪きて、殿上の方を雲すきに見すかして居たりければ、貫首以下殿上人あやしみて、蔵人を召して、「空柱より内に布衣の者の候ふ。何者ぞ、狼籍なり。罷り出でよ」と云はせければ、家貞少しもさわがず、「相伝の主刑部卿殿、今夜闇討にせらるべき由承り候へば、成らむ様見候はむとて、P1022(一八ウ)かくて候ふ。えこそ罷り出づまじけれ」とて、畏まりて候ひける。頬魂、事がら、主事にあはば、小庭より殿上まで切り上りつべき気色なりければ、人々由なしとや思はれけむ、其の夜の闇討せざりけり。
其の上、忠盛朝臣、大の刀をぬきて、火のほのぐらかりける所にて鬢髪に引きあてて拭はれけり。余所目には氷などの様にぞ見えける。彼と云ひ是と云ひ、あたりを払ひてみえければ、由なくぞ思はれける。
さて、御前に召しありて、忠盛朝臣参られけるに、五節のはやしと申すは、「白うすやうのこぜむじのかみ、まきあげふで、ともえ書きたる筆のぢく」とこそはやすに、是は拍子をかへて、「伊勢平氏はすがめなりけり」とはやしたり。忠盛、P1023(一九オ)左の目の眇みたりければ、かくはやしたり。桓武天皇の末葉と申しながら、中比よりはうちさがて、官途もあさく、地下にのみして、都のすまゐうとうとしく、常は伊勢国に住して久しく人となりければ、此の一門をば伊勢平氏と申しならはしたるに、彼の国の器に対して、「伊勢平氏は酢瓶なりけり」とはやしたりけるとかや。忠盛、すべき様無くてさてやみぬ。
抑、五節と申すは、清見原の天皇の御時、唐土の御門より崑崙山の玉を五つ進らせさせ給へり。其の玉、暗を照らすなり。一の玉の光、五十両の車に至る。是を豊の明りと名付けたり。御秘蔵の玉にて、人足を見る事なし。其の比、又、唐土の商山より仙女五人来たりて、P2024(一九ウ)清御原の庭にて廻雪の袂を翻す事五度あり。但し暗天にして其の形みえざりしかば、彼の五の玉を出だして廻雪の形を御覧じき。玉の光あきらかにして、昼よりも猶明し。而るに、五人の仙人の舞ふ事、各異節也。故に此を五節と名付けたり。其の時より、彼の仙人の舞の手を移して、雲上人舞ひけり。
其の時の拍子には、「白うすやう、こぜむじの帋、まきあげふで」とはやしけり。其の故は、かの仙人の衣のうすくうつくしき事(有イ)さま、白薄様、こぜむじの帋に相似たり。舞の袖をひるがへし、簪より上ざまにまきあげたる形に似たりければ、巻あげの筆とははやしき。されば、舞人の形ありさまをはやすべき事にてぞ有りける。
而るに、すがめP1025(二〇オ)なりけりとはやされて、御遊も未だはてぬに、深更に及びて罷り出でられけるに、「いかに何事か候ひつる」と申せば、面目なき事なれば、「何事もなし」とて出でられにけり。
さて、忠盛出で給ひけるとき、腰刀をば主殿司に預けて、大盤の上におかれてけり。後日に公卿殿上人、此を申されけるは、「傍若無人の体、返す返す謂はれなし。さこそ重代の弓取ならむからに、かやうの雲上の交はりに、殿上人たる者の腰刀をさし顕す事、先例なし。夫雄剣を帯して公宴に列し、兵仗を賜はりて宮中を出入するは、皆格式の礼を守り、綸命由ある先規也。然るに忠盛朝臣に及びて、或いは相伝の郎等と号して布衣の兵を殿上の小庭に召し置き、其の身、腰刀を横だへ差して節会の座に列す。両条P1026(二〇ウ)共に希代未聞の狼籍也。事既に重畳せり。罪科尤も遁れ難し。早く御札を削りて、解官停止せらるべき」由、各一同に訴へ申さる。上皇、驚き思し食されて、忠盛を召して御尋ねあり。陳じ申しけるは、「先づ郎従小庭に祇候の事、忠盛是を存知せず。但し、近日人々相巧まるる子細有るかの間、年来の家人、此の事を伝へ承るかに依りて、其の恥を助けむ為に、忠盛に知られずして竊かに小庭に参候の条、力及ばざる次第也。此の上、猶其の科を遁れ難くは、其の身を召し進らすべく候ふ哉。次に腰刀の事、件の刀、主殿司に預けて候ふ。急ぎ召し出だされて、刀の実否に付きて、咎の左右有るべきか」と申されければ、主上、「尤も然るべし」と思し食されて、彼の刀を召し出だして、P1027(二一オ)「殿上人ぬけ」と仰せ下さる。叡覧を経るに、上はさやまきの黒塗なりけるが、中は木刀に銀薄を押したりけり。主上頗るゑつぼに入らせ給ひて、仰せの有りけるは、「当座の恥辱を遁れんが為に、刀を帯する由を構ふと云へども、後日の訴訟を存知して、木刀を帯したる用意の程こそ神妙なれ。弓箭に携らむ者の謀は、尤もかくこそあらまほしけれ。兼ねては又、郎従、主の恥を濯がむと思ふに依りて、ひそかに参候の条、且は武士の郎従の習ひなり。全く忠盛が咎に非ず」とて、還りて叡感に預りける上は、敢へて罪科の沙汰に及ばざりければ、各憤り深くて止みにけり。
中納言太宰権帥季仲卿は、色の黒かりければ、黒帥とぞP1028(二一ウ)申しける。昔蔵人頭たりし時、其も五節に「穴黒々、くろいとうかな。何なる人のうるしぬりけむ」とはやしたりければ、かの季仲に並びたりける蔵人頭、色の白かりければ、季仲の方人とおぼしき殿上人、「穴白々、白い頭かな。いかなる人の薄をぬりけむ」とはやしたりけり。花山院入道太政大臣忠雅、十歳と申しける時、父中納言に後れ給ひて、孤子にしておはしけるを、中御門中納言家成卿、幡磨守たりし時、聟に取りて花やかにもてなされけるに、是も五節に、 「幡磨米は木賊か椋の葉か。人のきらをみがき付くるは」とはやしたりけり。代上がりては、かかる事にもさせる事も出で来ざりけり。末代はP1029(二二オ)いかがあらんずらむ、人の心おぼつかなし。
忠盛卿、子息あまたおはしき。嫡子清盛、二男経盛、三男教盛、四男家盛、五男頼盛、六男思房、七男忠度、已上七人なり。皆諸衛佐を経て、殿上の交はり、人嫌ふに及ばず。日本には男子七人ある人を長者と申す事なれば、人うらやみけり。此も直事に非ず、得長寿院の御利生のあまりとぞ覚ゆる。
但し命は限りありける習ひなれば、仁平三年正月十五日、生年五十八にて、忠盛朝臣北亡す。歳未だ六十に満たざるに、さかりとこそみえ給ひしに、春の霞と消えにけり。さしたる病もおはせず、正月十五日は毎年に精進潔済し給ひければ、今年も又、身心をきよめ沐浴して、P1030(二二ウ)本尊の御前に香を焼き、花を薫じ給ひけるが、西に向かひて眠るが如くして引き入り給ひにき。今生は一千一体の仏の利益を蒙りて、一天四海に栄花を開き、終焉の暮には三尊の来迎に預かりて、九品蓮台に往生す。女子五人、男子七人、各涙を流して惜しみ給ひき。
男女十二人の腹族、皆取々に幸ひ給ひき。乙姫君ばかりぞ、今年は九に成り給ひければ、母に付きて空しき宿に独りおはしける。父の恋ひしき時は、殖ゑ置き給ひし坪の内の桜の本に立ちより、泣くより外の事なし。明けぬ晩れぬと過ぎ行く程に、正月も過ぎ、二月弥生の比にも成りければ、坪の内の桜うるはしく開(さ)きたり。姫君これをみ給ひて、P1031(二三オ)
みるからに袂ぞぬるるさくらばなひとりさきだつちちや恋ひしき
四 〔清盛繁昌の事〕 S0104
清盛嫡男たりしかば、其の跡を継ぐ。保元元年、左大臣代を乱り給ひし時、安芸守とて御方にて勲功ありしかば、幡磨守に移りて、同年の冬、大宰大弐に成りにき。平治元年、右衛門督謀叛の時、又御方にて凶徒を討ち平げしに依りて、「勲功一に非ず、恩賞是重かるべし」とて、次の年、正三位に叙す。是をだにもゆゆしき事に思ひしに、其の後の昇進、龍の雲に昇るよりも速かなり。打ち継き、宰相、衛府督、検非違使の別当、中納言に成りて、丞相の位に至り、左右を経(へ)ず、内大臣より太政大臣に上がる。兵杖を賜りて、大将にあらねども随身P1032(二三ウ)を召し具して、牛車・輦車の宣旨を蒙りて、乗りながら宮中を出で入る。偏へに執政の人の如し。されば、史記の月令の文を引き御して、寛平法皇の御遺誡にも、「太政大臣は一人に師範として、四海に儀刑せり。国を治め、道を論じ、陰陽を柔げ、其の人無くは(に非ずは-異本)、即ち闕けよ」と云へり。是を則闕の官と名付けて、其の人に非ずは〓すべき官にては無けれども、一天掌の内にある上は子細に及ばず。
相国のかく繁昌する事、偏へに熊野権現の御利生也。其の故は、清盛当初、靭負佐たりし時、伊勢路より熊野へ参りけるに、乗りたる船の中へ目を驚かす程の大きなる鱸飛び入りたりけるを、先達是を見て驚き怪しみて、即ち巫文をしてみるに、「是はためしP1033(二四オ)なきほどの御悦びなり。是は権現の御利生也。怱ぎ養ひ給ふべし」と勘がへ申しければ、清盛宣ひけるは、「唐国の周の西伯留と云ひける人の船にこそ、白魚躍り入りたりけるとは伝へ聞け。此の事いかが有るべかるらむ。去りながら、先達計らひ申さるる上は、半ば権現の示し給ふなり。尤も吉事にてぞ有るらむ」と宣ひて、さばかり十戒を持ち、六情根を懺悔し、精進潔斎したる道にて、彼の魚を調美して家子・郎等、手振・強力に至るまで、一人も漏らさず養ひけり。
又の年、三十七の時、二月十三日の夜半計りに、「口あけ口あけ」と、天にものいふよし夢に見て、驚きて現におそろしながら口をあけば、「是こそ武士の精と云ふ物よ。武士の大将をする者は、天より精を授くる」とて、鳥のP1034(二四ウ)子の様なる物の極めてつめたきを三、喉へ入ると見て、心も武く奢りはじめけり。
されば、熊野より下向の後、打ちつづき悦びのみ在りて、謗りは一も無かりけり。保元に事有りて、大国給はりて大弐に成り、平治に熊野詣でし給ひたりける道に事出で来て、参詣を遂げず、道より下向して合戦を致し、其の功に依りて、親子兄弟大国を兼ね、兼官兼職に任じける上、三品階級に至るまで九代の前蹤をぞ越えられける。是をだにゆゆしき事と思ひしに、子孫の昇進は龍の雲に昇るよりも猶速かなり。
かかりし程に、清盛、仁安三年十一月十一日、歳五十一にして病に侵されて、存命の為、忽ちに出家入道す。法名浄蓮と申しけるが、程P1035(二五オ)なく改名して浄海と云ふ。出家の功徳は莫大なるに依りて、宿病立所に癒へて、天命を全くす。人の従ひ付く事、吹く風の草木を靡かすが如し。世の普く仰げる事は、降る雨の国土を湿すに異ならず。六波羅殿の一家の君達と云ひてければ、花族も英雄も、面を向かへ、肩を並ぶる人無かりけり。さればにや、平大納言時忠卿申されけるは、「此の一門に非ざる者は、男も女も法師も尼も人非人たるべし」とぞ申されける。されば、いかなる人も相構へて其のゆかりにむすぼほれんとぞしける。衣文のかき様、烏帽子のため様より始めて、何事も六波羅様とて、一天四海の人皆是をまなびけり。
いかなる賢王聖主の御政も、摂政関白P1036(二五ウ)の成敗をも、人のきかぬ所にては、なにとなく代にあまされたるいたづら者のかたぶけ申す事は、常の習ひ也。而るに、此の入道の世さかりの間は、人の聞かぬ所なれども、聊もいるがせに申す者なし。其の故は、入道の謀にて、「我が一門の上を謗り云ふ者を聞かん」とて、十四五、若は十七八ばかりなる童部の髪を頸のまはりに切りまはして、直垂・小袴きせて、二三百人召し仕ひければ、京中に充満して、自ら六波羅殿の上をあしざまにも申す者あれば、是等が聞き出だして、吹毛の咎を求めて、行き向かひて即時に滅す。おそろしなど申すも愚か也。されば、眼に見、心に知ると云へども、詞に顕れてものいふ者なし。上下恐ぢをののきて、道を過ぐる馬・車も、よきP1037(二六オ)てぞ通りける。禁門を出で入ると雖も、姓名を問はず。京師の長吏、之が為に目を側むとぞ見えたりける。直事には非ずとぞみえし。
其の比、或る人の申しけるは、「抑此の禿童こそ心得ね。縦ひ京中の耳聞の為に召し仕はると云ふとも、
只普通の童にてもあれかし。何ぞ必ずしもかぶろをそろふる。此等が中に一人も闕けぬれば入れ立てて、三百人を際とするも不審也。何様にも子細有らん」と云ひければ、或る儒者の云はく、「伝へ聞く、異国にかかるためし有りけり。漢帝の御世に、王莽大臣と云ふ賢才殊勝の臣下有りけり。国の位を貪らむが為に謀を廻らす様は、海辺に出でて、亀を幾千万と云ふ数を知らず取り集めて、其の亀の甲の上に勝と云ふ字を書きて、浦々P1038(二六ウ)に放ちぬ。又、銅の馬と人とを造りて、竹のよを通して是を容る。近国の竹の林に多く此を籠められけり。然る後、懐妊七月の女を三百人召し集めて、朱砂を煎じて曼薬と云ふ薬を合はせて此をのます。月満じて産める子、色赤くして偏へに鬼の如し。彼の童を、人に知らせずして深山に籠めて此をそだつ。やうやう生長する程に、哥を作りて習はしむ。『亀の甲の上には、勝と云ふ文字あり。竹の林の中には、銅の人馬あり。王莽天下を持つべき験なり』と。かくして、十四五計りの時、髪を肩のまはりに切り廻して都へ出だすに、此等拍子を打ちて、三百人同音に此の哥を謡ふ。此の気色、普通ならざる間、人怪しみて、帝に奏聞す。即ち彼の童を南庭に召され、先の如くに拍子を打ちてP1039(二七オ)此の哥を謡ひ、庭上に参り臨みければ、頗る叡慮怪しからずと云ふこと莫し。即ち公卿僉議有りて、哥の実否を糺さむが為に、浦々の海人に仰せて亀を召す。其の中に、甲の上に勝の字書ける亀あまたあり。又、近隣の竹の林を求むるに、其の中に銅の人馬多く取り出だせり。帝、此の事を驚き思し食して、怱ぎ御位を避り、王莽に授けられにけり。天下を持ちて十八年とぞ承はる。されば、入道も此の事を表して、三百人召し仕はるるにこそ。位をも心に懸けてやおはすらん。知り難し」とぞ申しける。
五 〔清盛の子息達、官途成る事〕 S0105
入道、我が身の栄花を極むるのみにあらず、嫡子重盛内大臣の左大将、二男宗盛中納言右大将、三男知盛三位中将、P1040(二七ウ)四男重衡蔵人頭、嫡孫惟盛四位少将、舎弟頼盛正二位大納言、同教盛中納言、一門の公卿十余人、殿上人三十余人、諸国の受領・諸衛府妻要所司、都合八十余人、代には又人もなくぞ見えける。
奈良御門の御時、神亀五年〈戊辰〉、中衛大将を始めて置かれたりしが、大同四年、中衛を改めて近衛大将を定め置かれてより以降、左右に兄弟相並ぶ事、僅かに三ヶ度也。初めは平城天皇の御宇、左に内麻呂内大臣左大将、田村丸大納言右大将。次に文徳天皇の御宇、斉衡二年八月廿八日、閑院贈太政大臣冬嗣の二男、染殿関白太政大臣良房〈忠仁公〉、内大臣左大将に御任有りて、同九月P1041(二八オ)廿五日、五男西三条左大将良相公、大納言右大将。次に朱雀院の御宇、天慶八年十一月廿五日、小一条関白太政大臣貞信公嫡男、小野宮関白実頼〈清慎公〉内大臣左大将に御任有り、二男九条右大臣師輔公、関白大納言右大将。次に冷泉院の御宇、左に頼通宇治殿、右に頼宗掘河殿、共に御堂関白道長公の公達也。近くは二条院の御宇、永暦元年九(十イ)月四日、法性寺殿関白太政大臣忠通公御息、左に松殿基房公、右に月輪殿関白太政大臣兼実公、同じき十月、右に並び御す。其の時の落書かとよ、
伊与さぬき左右の大将とりこめてよくの方には一の人かな
P1042(二八ウ)是皆、摂録の臣の御子息也。凡人においては、未だ其の例なし。上代はかうこそ近衛大将をば惜しみおはしまして、一の人の君達ばかりなり給ひしか、是は殿上の交はりをだに嫌はれし人の子孫の、禁色維袍をゆりて綾羅錦繍を身に纏ひ、大臣の大将に成り上がりて、兄弟左右に相並ぶ事、末代と云へども不思議なりし事共也。
六 〔八人の娘達の事〕 S0106
御娘達八人御坐しき。其も取々に幸ひ給へり。一は桜町中納言成範卿の北の方と名付けられて、八歳なる、おはせしが、平治の乱出で来て、遂げずしてやみぬ。後には花山院の左大臣の御台盤所に成り給ひて、御子あまたをはしまして、万づ引き替へて目出たかりP1043(二九オ)けり。其の比、いかなる者かしたりけむ、花山院の四足の扉に書きたりけるは、
花の山たかき梢とききしかどあまの子共かふるめひろふは
此の成範卿を桜町中納言と云ひける事は、此の人、心すき給へる人にて、東山の山庄の町々なりけるに、西南は町に桜を殖ゑとほされたり。北には〓を殖ゑ、東には柳を殖ゑられたりける。其の中に屋を立てて住み給ひけり。来れる年の春毎に花を詠じて、さく事の遅く、散る事の程なきを歎きて、花の祈りの為にとて、月に三度必ず泰山府君を祭りけり。さてこそ、七日にちるならひなれども、此の桜は三七日まで梢に残りありけれ。西南P1044(二九ウ)の惣門の見入より桜見えければ、異名に桜町中納言とぞ申しける。桜待中納言とも云ひけるとかや。花の下にのみおはしければ、桜本中納言とも申しけり。されば、君も賢王に御坐せば、神も神徳を耀かし、花も心ありければ、廿日の齢を延べけり。いづ方に付けても、数奇たる心あらはれて、やさしくぞ聞えし。
二には、内大臣重盛公の御子とす。即ち后に立ち給へり。皇子御誕生ありしかば、皇太子に立ち給ふ。万乗の位に備はり給ひて後は、院号有りて建礼門院と申す。太政入道の娘、天下の国母にて御坐しし上は、とかく申すにおよばず。
三は、六条摂政殿の北政所にておはしまししが、高倉院のP1045(三〇オ)御位の時、御母代とて、三公に准る宣下あつて、人重く思ひ奉る。後は白河殿と申す。
四は、右兵衛督信頼卿の息、新侍従信親朝臣の妻、後には冷泉大納言隆房の北の方にて、其も御子あまたおはしき。
五は近衛入道殿下の北の政所なり。
六は七条修理大夫信隆卿の北の方。
七は安芸厳嶋内侍腹也けるが、十八の年、後白河院へ参り給ひて、女御の様にておはしけり。
此の外、九条院雑士常葉が腹に一人御しき。花山院の左大臣の御許に、御台盤所の親しくおはすればとて、上臈女房にて、廊御方と申しけるとかや。内侍は後には越中前司盛俊相具しけるとぞP1046(三〇ウ)聞えし。
日本秋津嶋は僅に六十六ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり。其の上、庄薗田畠、其の数を知らず。綺羅充満して、堂上花の如し。軒騎群集して、門前市を成す。揚州の金、荊岫の玉、呉郡の綾、萄江の錦、七珍万宝、一として闕けたる事なし。歌堂舞閣の基、魚龍雀馬の翫物、帝闕も仙洞も、争か是には過ぐべきと、目出たくぞ見えし。
昔より、源平両氏、朝家に召し仕はれて、皇化に随はず、朝憲を軽んずる者には、互ひに誡めを加へしかば、代の乱れも無かりしに、保元(ほうげん)に為義(ためよし)切られ、平治(へいぢ)に義朝(よしとも)誅たれて後は、末々(すゑずゑ)の源氏(げんじ)少々(せうせう)ありしかども、或いは流され、或いは誅たれて、今は平家(へいけ)の一類(いちるい)
P1047(三一オ)
のみ繁昌(はんじやう)して、頭(かしら)をさし出だす者なし。何(いか)ならむ末(すゑ)の代までも、何事(なにごと)かあるべきと、目出(めでた)くぞ見えし。
七 〔義王義女の事〕 S0107
其の比、都に白拍子二人あり。姉をば義王、妹をば義女とぞ申しける。天下第一の女にてぞ有りける。此は閇と云ひし白拍子が娘なり。凡そ白拍子と申すは、鳥羽院の御時、嶋の千歳・若の前と云ひける女房を、水旱袴に立烏帽子きせて、刀ささせなどして舞はせ初められたりけるを、近来より、水旱に大口許りにて、髪を高くゆはせて舞はせけり。
彼の義王・義女を、太政入道召しおかれて愛せられけるに、殊に姉の義王をば、わりなく幸ひ給ひければ、人々上下、入道殿の御気色に随ひて、もてなしP1048(三一ウ)かしづきける事限りなし。在所さる体にしつらひて、由あるさまにて居られたり。貞能に仰せ付けて、母・妹などにも、さるべき様に家造りて、彼の徳にて不足なし。毎日に十疋十石を送られけり。其の上、折節に付きて当たられければ、ゆかりの者共までたのしみ栄へけり。是れを見聞く人うらやまずと云ふ事無し。
かくのみ目出たかりしほどに、其の比又、都に白拍子一人出で来たり。みめ形、有様より始めて、天下に並び無き優女にてぞ有りける。名をば仏とぞ申しける。入道の義王をもてなされけるを見聞きて、「よもさりとも空しく帰さるる事はあらじ。能などをば愛し給はんずらむ」と思ひて、或る時、推参P1049(三二オ)をぞしたりける。侍共、入道殿に、「仏と申して、当時都に聞こえ候ふ白拍子の、只今参りて候ふ」と申しければ、「さやうの遊び者は、人の召しによりてこそ参れ。左右無く参る条、不思議なり。其の上、義王御前の有らん所には、仏も神も然るべからず。とくとく罷り帰るべし」とぞ宣ひける。此の上は力およばずして罷り出でけるを、義王御前聞きて、入道殿に申しけるは、「いかにや、あれにはすげなくては帰させ給ふぞ。あれら体の遊び者の習ひ、めされねどもかやうの所へ参るは常の事にて候ふ。御見参に入らずして罷り帰るは、いかに本意なく思ひ候ふらむ。『義王が御所へ推参して、御目もみせられまいらせで帰りにけり』と、人の申さむも不便にP1050(三二ウ)覚ゆ。今こそ、かく御目をみせられまいらせずとも、必ずしも人の上と覚え候はず。心の中、思ひ遣られ候ふに、然るべくは召し返して見参して帰させおはしませ。我が身の面目と思ひ候ふべし」と申しければ、入道宣ひけるは、「こはいかに。彼をすさめて帰しつるは、御前の心をたがへじとてこそかへしつれ。さやうに申すほどならば、召し帰せ」とて、呼びかへさせて出で合ひ給ひたり。「かやうに見参するほどならば、なににても能あるべし」と宣ひければ、仏は取りもあへず、
君をはじめてみるおりは、千代もへぬべしひめこ松
御所の前なるかめをかに、つるこそむれゐてあそぶなれ
と云ふ今様を、おしかへしおしかへし、三反までこそP1051(三三オ)うたひけれ。入道此を聞き給ひて、「今様は上手にておはしけり。舞はいかに」と宣ひければ、「仰せに随ひて」とて、立ちたりけり。大方、みめ事がら、勢、有様はさておきつ、物かぞへたるこはざしよりはじめて面白し。当時名を得たる白拍子也。年の程十八九許り也。さしもすさめて追ひ返し給ひつるに、入道殿、二心もなく見給ひけり。義王は入道殿の気色を見奉りて、をかしく覚えて少し打咲(ゑ)みて有りけり。入道いつしかついたちて、未だ舞もはてぬさきに、仏がこしに抱き付きて、帳台へ入れ給ひけるこそけしからね。
さて申しけるは、「いかにや加様におはしますぞ。わらはが参りてP1052(三三ウ)候ひつるに、見参叶はずして空しく帰り候ひつれば、『なにしに推参し候ひぬらむ』と世の人の聞きて、『さればこそ。遊び者の恥のなさは、めされぬ所へ参りて、御目もみせられずして追ひ返されまゐらせたり』と申し沙汰せられむずらむと心憂くおばえ候ひつれば、いづくの浦へもまかり行かんと、今日を限りにはてぬべく候ひつるを、実やらむ、義王御前の強ちに申させ給ひて、召し返させ給ひたりとこそ承り候へ。わらはが為には世々生々の奉公なり。いかが忽ちに此の恩を忘れて、心の外の事は候ふべき。義王御前の思ひ給はむも恥づかし。能に付きての仰せは、いかにも背くべからず。なめてならぬ御車は、ゆめゆめP1053(三四オ)思し食し留まり給へ」とぞ申しける。入道宣ひけるは、「義王いかに云ふとも、浄海が聞き入れざらむには、なじかは呼び返すべき」とて、いかに申せども、仏も力及ばずして、明くるも晩るるもしらず幸ひ臥し給へり。
さる程に、はかなき世の習ひにて、色みえでうつろふものは世中の人の心の花なれば、只一すぢに仏に心をうつし、はては義王をすさめて、「今はとく罷り出づべし」と宣ひけるぞ情なき。人行き向かひて、此の由を義王御前に申しければ、聞くよりはじめて、心憂しなど申すも中々愚か也。今まで入道殿目みせ給ひつれば、上下諸人もてなしかしづきつる事、只夢とのみ覚えたり。「かやうなる遊び者P1054(三四ウ)なれば、必ずさてしも長らへはて給はじ。終にはかくこそあらんずらめ」と思へども、指し当たりての人目の恥づかしさ、心のあやなさ、なごりの悲しさ、とにかくに推し量られて無慙也。悲しみの涙せきあへず。此を見給ひける人々は、余処のたもとも所せくぞあはれなる。さてしも有るべきならねば、此の日来住みなれし所をあくがれ出づるぞ悲しき。涙を押へて、そばなる障子にかくぞ書き付けて出でにける。
もえ出づるもかるるもおなじのべの草いづれか秋にあはではつべき
さて、里に帰りて、義王、母に泣く泣く申しけるは、「哀れ、我いかなる方へもみやたて、いかなる人の子ともなし給はで、かやうなP1055(三五オ)遊び者となし置き給ひて、今はかかるうき目をみせ給ふ事よ。さもあらん人を取り居ゑて、我を思ひ捨て給はむは力およばず。同じさまなる遊び者に思ひ替へられぬる事の口惜さよ。かかる身の有様にて長らふべき契りにはあらねども、一旦なれどもなのめならず不便にし給ひつれば、近きも遠きもうらやみて、『目出たかりつる事哉』とて、祝のためしにもひかれつる事の、いつしかかくのみなれば、『さればこそ。ほどならぬ者の成りぬるはてよ』と云はれむもはづかし。夢幻の世なれば、とてもかくても有りなむ。義女御前が候へば、母はそれをたのみて、うき世の中を渡り給へ。わらはには只身の暇をたべ。いづくの淵河にもP1056(三五ウ)沈みなむ」とぞ云ひける。妹の義女も、「共にこそ、いかにも罷り成らめ。ひとり向かひて、誰をたよりにてか明かし暮らすべき」と悲しむ。母申しけるは、未だ行末はるばるの人々を先立てて、老いおとろへたる我が身の残り留まりて、幾程の年をか送るべき。或いはみたらし河にみそぎして神をかこつ習ひ、或いは望夫石のうらみ、かかるためし多けれども、忽ちに身など投ぐる事は有りがたき習ひ也。又我も諸共に身をなげば、各母を殺す罪有りて、五逆とかやの其の一にて、おそろしき地獄に落ち給はむもつみふかし。あな賢思ひ止まり給へ」と制し止めて、三人一所に泣き居たり。天人の五衰もかくやと覚えて哀れ也。
さる程に、入道は、P1057(三六オ)義王に当たり給つるにはさし過ぎて花やかにもてなされければ、目出たさ申すばかりなし。親しきあたりまで、日に随ひてたのしみを成す。義王は、入道のあはれみ給ひつるほどは、楽しみにほこりて、世間の事も支度なし。捨てられて後は、一すぢに思ひ沈みて、是を営む事なし。されば次第に衰へけり。此れを見、彼れを聞く人の、心(こころ)有るも心(こころ)無きも、涙(なみだ)を流し袖をしぼらぬぞ無かりける。
さる程に、年も已に暮れぬ。明くる年の春の比、入道殿よりとて、義王か許へ御使あり。何事なるらむとあやしみ思ふところに、「是にある仏御前が余りにつれづれげにてあるに、参りて能共ほどこしてみせよ。さるべき白拍子P1058(三六ウ)あらば、余た具足して参るべし」とぞ宣ひける。義王是を聞きて又母に申しけるは、「有りし時、よく思ひとりて候ひしものを許し給はずして、今かやうの事を聞かせ給ふ事の悲しさよ。たとひ参ぜざらむ咎に、都の外へ移さるるか、又命をめさるるか、是の二つにはよも過ぎじ。中々さもあらばあれ、恨み有るまじ」とて、御返事も申さず。「いかにいかに」と、押し返し度々めされけれども、猶参らず。入道腹を立てて、「参るまじきか。今度申し切れ。相計らふ旨有り」と、にがにがしく宣ひたり。此を聞きて、母泣く泣く義王に申しけるは、「いかにや参り給はぬぞ。思ひ切りしを制し止め奉りしも、老の身にうき目をみじが為也。P1059(三七オ)それに今参り給はぬものならば、忽ちにうき目をみせ給ふべし。只生きての孝養、是に如くべからず。怱ぎ参り給ひて後、さまをやつして、何ならむ片辺りにも草の庵りを結びて、念仏申して後生の祈りをし給へ」など、くどきければ、是を聞きて、義王は、母の思ひの悲しさに、心ならず出で立ちけり。
我身、妹の義女、又若き白拍子二人、惣じて四人、一車に取り乗りてぞ参りける。車より下りて指し入りたれば、未だありしにもかはらぬ御所の有様、なつかしとも云ふばかりなし。さて内へ入りたれば、入道殿、仏御前を始めて、子息あまた並居給へり。此の義王をば〓[木+延](えん)におかれて、一所にだにおき給はで、P1060(三七ウ)今、一なげしさがりたる所にぞ居ゑられける。是に付けても悲しみの涙せきあへず。心の中には母をのみぞ恨みける。重盛・宗盛已下の人々、目も当てられずして、さばかりかたぶき申されけれども、力及ばず。「いかにいかに、何事にてもとくとく」と宣ひければ、義王は、参るほどにてはさてしも有るべきならねばと思ひて、今様の上手にて有りければ、
仏も昔は凡夫なり我等も終には仏なり
何れも三身仏性具せる身をへだつるのみこそ悲しけれ
と、押し返し押し返し、三反までこそ歌ひけれ。是を聞く人、よそのたもとも所せきて、仏御前もともに涙を流しけり。されども入道は、少しも哀をかけ給はず。ましてP1061(三八オ)泣くまでは思ひもよらず。暫く有りて、入道いかが思はれけむ、会尺も無くて内へ入り給ひぬ。其の後、義王は人々に暇申して、涙と共にぞ出でにける。
宿所にかへり、母に向かひて申しけるは、「さればこそ、よく参らじと申しつるを、母の仰せの重くして参りたれば、うき目みる事の悲しさよ」とて、なきゐたり。
さて其の後、世の人、「入道殿すてはて給ひぬ」と聞きければ、心にくく思ひて、我も我もと文をかよはし、縁に付きて契りを結ぶべき由申しけれども、聞き入れずして、義王は廿二、義女は廿、母は五十七にて、一度にさまをかへて、皆墨染に成りつつ、嵯峨の奥なる山里に、草の庵を引き結び、三人一所に籠り居て、偏へに後生浄土、P1062(三八ウ)往生極楽と祈る外他事無くて、既に三月許りに成りけるに、ある夜、夜半ばかりに庵のとぼそをほとほとと叩く者ありけり。此の人々思ひけるは、「こはなにものにてか有るらん。都にも、さるべかりし人々も皆かれはてて、誰事とふべしとも覚えず。かかる柴の庵のすまひなれば、なにのたよりにか尋ぬべき。さなくは、後生菩提を妨げむとて、天魔などの来るやらむ。などかは山神とかやもあはれみ給はざるべき。さりながらも」とて、おづおづ柴の編み戸をあけたれば、「いかにや、いたくな怖ぢ給ひそ」とて指し入りたるをみれば、仏御前にてぞ有りける。「さても、いかにこの日来の御心の中共は」とばかり云ひて、涙もせきあへP1063(三九オ)ずぞ泣きける。其の時、義王は更にうつつとも覚えず。只夢の心地して、野干などのばけて来るやらむ、おそろしながら義王申しけるは、「其の後は、なにはの事も覚えずして、よろづあぢきなくのみ有りしかば、只一筋に思ひ切りてあかしくらす草の庵をば、いかにして聞き伝へておはしたるぞ」と申しければ、仏、涙を押さへて、「さればこそ。わらはが入道殿へ推参して、御気色あしくて罷り帰りしを、それに申させ給ひけるによりて、召しかへされたりしかば、思ひの外に入道殿に見参に入りにき。さる程に、入道殿、心より外の気色におはせしかば、あまりにあさましく覚えて、『只今、入道殿に見参に入るも、それの御故にこそ候へ。いかがはうしろめたなきP1064(三九ウ)事は候ふべき』と、さしもいなみ奉りしかども、女の身のはかなさは、思ひの外の事共の有りき。『たとひさりとも、あれ体の人の習ひなれば、一すぢには思ひ給はじ。あまたをこそ見給はんずらめ』と思ひしほどに、其の義も無くて打ち捨て奉りし事のあへなさ、申すばかり無かりき。余りに心苦しかりしかば、度々申ししかども叶はず。これを人の上と思はざりしかば、又いかなる人にかと、なにはの事もあぢき無くて、『只身の暇をたべ』と申ししかども、ゆるし給はざりしかば、昨日の昼程に、隙の有りしに逃げ出でて候ふ也。諸共に後生を祈り、此の日来の恨みをも休め奉らんとて、うはの空に、いづ方としも分かず迷ひ行き候ひつるほどに、P1065(四〇オ)思ひかけざる道行人、『さやうの人はこの奥にこそ』と申し候ひつれば、是まで尋ね参りたり。御心おき給ふべからず。吾もかやうに成りたり」とて、かづきたるきぬを引きのけたれば、尼にぞ成りたりける。
義王申しけるは、「是程に志の浅からずおはしける事よ。実にかやうのためしは皆先世の事なれば、人を恨み奉るに及ばず。只身の程のつたなさをこそ思ひしかども、凡夫の習ひのうたてさは、思はじとすれども恨みられし事も時々有りつるなり。かく契りを結び給はん上は、いかが心をおき奉るべきなれば、懺悔しつるぞ」とて、隔てなく四人一所に勤め行ひて、終には仏道を遂げにけり。
さてこそ、後白河法皇の長講堂の過去帳には、今も「義王・義女・仏・閉」とは読まれP1066(四〇ウ)けれ。「義王は恨むる方もあれば、さまをやつすも理也。仏は当時の花と上下万人にもてなしかしづかれて、豊かにのみ成りまさり、人にはうらやみをこそなされつるに、さりとて年も僅に廿のうちぞかし。是程に思ひ立ちける心の中の恥づかしさ、類ひ少くぞ有らん」とて、見聞く人の袂を絞らぬは無かりけり。
さて、入道殿は仏を失ひて、東西手を分けて尋ぬれども叶はず。後にはかくと聞き給ひけれども、出家してければ力及ばず。さてやみ給ひき。
八 〔主上上皇御中不快の事、付けたり二代后立ち給ふ事〕 S0108
鳥羽院御晏駕の後は、兵革打つづき、死罪、流刑、解官、停止、常に行はれて、海内も静まらず、世間も落居せず。就中、P1067(四一オ)永暦・応保の比より、内の近習をば院より御誡めあり、院の近習をば、内より御誡めあり。かかりしかば、高きも賎しきも恐れ怖きて、安き心なし。深淵に臨みて薄氷を踏むが如し。其の故は、内の近習者、経宗・惟方が計らひにて、法皇を軽しめ奉りければ、大きに安からざる事に思し食して、清盛に仰せて、阿波国・土佐国へ流されにけり。
さる程に、又主上を呪咀し奉る由聞こえ有りて、賀茂の上の社に主上の御形を書きて種々の事共をする由、実長卿聞き出だして奏聞せられたりければ、巫男一人搦め取りて、事の子細を召し問ふに、「院の近習者資長卿など云ふ格勤の人々の所為也」と白状したりければ、資長卿、修理大夫解官せられぬ。又、P1068(四一ウ)時忠卿、妹小弁殿、高倉院恨み奉らせける時、過言したりしとて、其の前年解官せられたりけり。かやうの事共行ひ相ひて、資時・時忠二人、応保二年六月廿三日、一度に流されにけり。
又、法皇多年の御宿願にて、千手観音千体御堂を造らむと思し食し、清盛に仰せて備前国をもて造られけり。長寛二年十二月十七日、御供養あり。行幸成し奉らむと法皇思し食されけれども、主上「なじかは」とて、御耳にも聞き入れさせ給はざりけり。寺官、勧賞申されけれども、其の御沙汰にも及ばず。親範が職事奉行しけるを、御堂の御所へ召し、「勧賞の事はいかに」と仰せ下されけれP1069(四二オ)ば、「親範が計らひにては候はぬ」由申して、畏りて候ひければ、法皇、御泪を浮けさせ給ひて、「何のにくさに、かほどまでは思し食したるらむ」と仰せの有りけるこそ哀なれ。此の堂を蓮花王院とぞ名付けられける。胡摩僧正行慶と云ひし人は、白河院の御子也。三井門流には左右なき有智徳行の人なりければ、法皇殊に馮み思し食して、真言の御師にておはしけるが、此の御堂をば殊に取沙汰し給ひて、千躰中尊の丈六の面像をば、自らきざみ顕はされたりけると承るこそ目出(めでた)けれ。主上、上皇父子の御中なれば、何事の御隔てか有るべきなれども、加様に御心(こころ)よからぬ御事共多かりけり。是も世澆季に及び、人凶悪をP1070(四二ウ)先とする故也。
主上は、上皇をも常には申し返させ給ひける。其の中に、人耳目を驚かし、世以て傾き申しける御事は、故近衛院の后太皇后宮と申すは、左大臣公能公の御娘、御母は中納言俊忠の娘なり。中宮より皇太后宮にあがらせ給ひけるが、先帝に後れまゐらせ、九重の外、近衛河原の御所に、先帝の故宮にふるめかしく幽かなる御有様也。永暦・応保の比は、御年廿二三にもや成らせ給ひけむ、御さかりも少し過ぎさせ給ひけれども、此の后、天下第一の美人の聞こえ渡らせおはしましければ、主上二条院、御色にのみ染める御心にて、世の謗りをも御かへりみ無かりけるにや、好色に叙し御して、P1071(四三オ)外宮に引き求めしむるに及びて、忍びつつ御艶書あり。后敢へて聞し食し入れさせ給はねばひたすら穂に出でましまして、后入内有るべき由、父左大臣家に宣旨を下さる。
此の事、天下において殊なる勝事なりければ、怱ぎ公卿僉議あり。「異朝の先縦を尋ぬれば、則天皇后は、太宗・高宗両帝の后に立ち給へる事あり。則天皇后と申すは、唐の太宗の后、高宗皇帝の継母也。太宗に後れ奉りて、尼と成りて盛業寺に籠り給へり。高宗の宣はく、『願はくは、宮室に入りて政を扶け給へ』と。天使五度来ると云へども、敢へて随ひ給はず。爰に、帝已に盛業寺に臨幸あつて、『朕敢へて私の志をP1072(四三ウ)遂げむとには非ず。只偏へに天下の為なり』と。皇后更に勅になびく詞なし。『先帝の他界を訪はむが為に、適釈門に入れり。再び塵象に帰るべからず』と仰せられけるに、皇帝、内外の君平に文籍を勘がへて、強ひて還幸を進むと云へども、皇后確然として翻らず。爰に扈従の群公等、横しまに取り奉るが如くして、都に入れ奉れり。高宗在位三十四年、国静かに民楽しめり。皇后と皇帝と、二人政を摂め給ひし故に、彼の御時をば、二和の御宇と申しき。高宗崩御の後、皇帝の后、女帝として位に即き給へり。其の時の年号を神功元年と改む。周王の孫なる故に、唐の代を改めて、大周則天大皇帝と称す。爰に臣下歎きて云はく、『P1073(四四オ)先帝の高宗、代を経営し給へる事、其の功績古今類ひ無しと謂ひつべし。天子無きにしも非ず。願はくは、位を太子に授け給ひて、高宗の功業を長からしめ給へ」と。仍て在位廿一年にして、高宗の子、中宗皇帝に授け給へり。即ち代を改めて、又大唐神龍元年と称す。則ち吾が朝文武天皇、慶雲二年乙巳歳に当れり。「両帝の后に立ち給ふ事、異国には其の例有りと云へども、本朝の先規を勘ふるに、神武天皇より以来人皇七十余代、然而も二代の后に立ち給へる其の例を聞き及ばず」と、諸卿一同に僉議し申されけり。
法皇も此の事を聞こし食して、然るべからざる由、度々申させ給ひけれども、主上仰せの有りけるは、「天子P1074(四四ウ)に父母なし。我万乗の宝位を忝くせむ日は、などか是程の事、叡慮に任せざるべき」とて、既に入内の日剋まで宣下せられける上は、子細に及ばず。
后、此の事聞こし食してより、侶無き事に思し食されて、引きかづきて伏し給へり。御歎きの色深くのみぞ見えさせ給ひける。実と覚えて哀なり。先帝に後れまゐらせられし久寿の秋の初めに、同じ草葉の露ときえ、家をも出でて世をも遁れたりせば、かかるうき事は聞かざらまし。口惜しき事哉」とぞ思し召されける。父左大臣なぐさめ申されけるは、「『世に随はざるを以て狂人とす』と云へり。既に詔命を下されたり。子細を申すに所なし。只偏へに愚老を助けさせ御さむは、孝養のP1075(四五オ)御計らひたるべし。又、此の御末に皇子御誕生あつて、君も天下の国母にてもや御坐さむ。愚老も外祖父と云はるべき。家門の栄花にてもや候ふらむ。大方かやうの事は、此の世一つの事ならぬ上、天照大神の御計らひにてこそ候ふらめ」など、様々に誘へ申させ給ひけれども、御返事も無かりけり。只御泪にのみ咽ばせ給ひて、かくのみぞすさませ給ひける。
うきふしにしづみもはてぬ河竹の世にためしなき名をや流さむ
世にはいかにして漏れ聞こえけるやらむ、哀にやさしき事にぞ申しける。
既に入内の日時定まりにければ、父大臣、供奉の上達部、出車の儀式、常よりもめづらしく、心も詞も及ばず出だし立てまゐらせP1076(四五ウ)給へり。后はものうき御出立なりければ、とみにも出でさせ給はず、遥かに夜深け、さよも半ば過ぎてぞ、御車には扶け乗せられ給ひける。殊更色ある御衣はめさざりけり。白き御衣、十四五ばかりぞめされたりける。御入内の後は、やがて恩をかぶらせ給ひて、麗景殿にぞ渡らせ給ひける。朝政を進め申させ給ふ。清涼殿の画図の御障子に、月をかきたる所あり。近衛院未だ幼年帝にて渡らせ給ひける当初、何となく御手まさぐりにかきくもらかさせ給ひけるが、少しも昔にかはらで有りけるを御覧ぜられけるに、先帝の昔の御面影、思し食し出でさせ給ひて、御心所せきて、P1077(四六オ)かくぞ思し食しつづけさせ給ひける。
思ひきやうき身ながらにめぐり来て同じ雲井の月をみむとは
此の間の御なからへ、哀にたぐひ少くぞ聞えし。其の比は、是のみならず、かやうの思ひの外の事共多かりけり。
かかる程に、永万元年の春の比より、主上二条院、御不予の事御坐すと聞こえしが、其の年の夏の初めになりしかば、事の外によはらせ給ひにき。是に依りて、大膳大夫紀兼盛が娘の腹に、今上の一の御子、二歳にならせ給ふ王子御坐ししを、皇太子に立たせ給ふべき由、聞こえし程に、六月廿五日、俄に親王の宣旨を下されて、やがて其の夜、位を譲り奉らせ給ひにき。なにとなく上下周章たりしP1078(四六ウ)事共也。
我が朝、童帝の例を尋ぬるに、清和天皇、九歳にて父文徳天皇の御譲りを受けさせ給ひしより始まれり。周公旦の成王に代はりつつ、南面にして一日万機の政を行ひ給しに准へて、外祖忠仁公、幼主を扶持し給ひき。摂政又是より始まれり。「鳥羽院五歳、近衛院三歳にて御即位ありしをこそ、『とし』と人思へりしに、是は僅かに二歳、未だ先例なし。物騒がし」と云へり。
九 〔新院崩御の御事〕 S0109
永万元年六月廿七日に、新帝御即位の事ありしに、同七月廿八日に、新院御年廿三にて失せさせ給ひき。新院とは二条院の御事なり。御位さらせ給ひて三十余日也。P1079(四七オ)天下憂喜相交はりて、取り敢へざりし事也。同八月七日、香隆寺に白地に宿し進らせて後、彼の寺の 艮に蓮台野と云ふ所に納め奉る。八条中納言長方卿、其の時大弁宰相にて御坐しけるが、御葬の御幸を見奉りて、
つねにみし君が御幸をけさとへば帰らぬ旅と聞くぞかなしき
忠胤僧都が秀句も此の時の事也。七月廿八日、いかなる日ぞや。去りぬる人帰らず。香隆寺、いかなる所ぞや。御出ありて還御なき。哀なりし事共なり。
近衛院大宮は、二代の后に立ち給ひたりしかども、又此の君にも後れまゐらせさせ給ひしかば、やがて御ぐしおろさせ給ひけるとぞ聞えし。高きも賎しきP1080(四七ウ)も、定めなき世のためし、今更哀れ也。
十 〔延暦寺と興福寺と額立論の事〕 S0110
御葬送の夜、興福寺・延暦寺の僧徒、額立論をして、互に狼籍に及べり。国王の崩御有りて、御墓へ送り奉る時の作法、南北二京の大小僧徒等、悉く供奉して、我が寺々の額を打つ。南都には、東大寺・興福寺を始めとして、末寺々々相伴なへり。東大寺は聖武天皇の御願、諍ふべき寺なければ、一番なり。二番、大織冠淡海公氏寺、興福寺の額を打ちて、南都末寺々々、次第に立て並べたり。興福寺に向かひて、北京には延暦寺の額を打つ。其の外、山々寺々、あなたこなたに立て並べたり。
今度、御葬送之時、延暦寺衆徒、P1081(四八オ)事を乱りて、東大寺の次、興福寺の上に神を立つる間、山階寺の方より、東門院衆徒西金堂衆土佐房昌春と申しける堂衆、三枚甲に左右の小手差して、黒革威の大荒目の鎧、草摺長なる、一色ざざめかして、茅の葉の如くなる大長刀を以て、或いは凍りの如くなる太刀をぬきて走り出でて、延暦寺の額をま逆まに伐りたふして、「うれしや水、なるはたきの水」とはやして、興福寺の方へ入りにけり。延暦寺の衆徒、先例を背きて狼籍を致せば、即座に手向かひあるべきに、心深く思ふ事有ければ、一詞も出ださず。
抑、一天の君、万乗の主、世を早くせさせ給ひしかば、心なき草木までも猶愁ひたる色浅からずP1082(四八ウ)こそ有りけむに、かかるあさましき事にて、或いは散々として、高きも賎しきも、誰を得としも無ければ、四方に退散す。或いは蓮台野、船岡山の溝にぞ多く走り入りける。をめき叫ぶ声、雲をひびかし、地を動かす。誠におびたたしくぞ聞こえける。
十一 〔土佐房昌春の事〕 S0111
大和国に針庄と云ふ所あり。此の庄の沙汰に依りて、西金堂の御油代官小河四郎遠忠が打ち留むる間、興福寺上綱侍従の五師快尊を率して、件の針庄へ打ち入りて、小河四郎を夜討にす。土佐房昌春、元より大和国住人也。侍従五師、大衆を語らひて、昌春を追ひ籠めて、「御榊の餅り奉りて、洛中へ入れ奉りて、奏聞を経べし」とて、衆徒等発向する処に、昌春、数多の凶徒を率して、P1083(四九オ)彼の榊を散々に伐り捨てけり。大衆弥蜂起して訴へ申す間、昌春を公家より召すに、敢へて勅に従はず。時に、別当兼忠に仰せて御聖断有るべき由、昌春に仰せ下さる。之に就きて昌春上洛せしむる処に、即ち兼忠に仰せて昌春を召し取りて、其の時、大番衆土肥二郎実平に預けられて月日を送る程に、土肥二郎に親しく成りたりけるとかや。随ひて又、公家にも御無沙汰にて御坐しけり。
「南都には敵人こはくして、還住せむ事難かりければ、重ねて南都のすまひも今は叶ふまじ。流人兵衛佐殿こそ末たのもしけれ」と思ひて、伊豆北条に下りて、兵衛佐に奉公したりけり。心ぎは、さる者にて有りければ、兵衛佐身をはなたず召し仕はれけり。兵衛佐、P1084(四九ウ)治承四年に院宣・高倉宮の令旨を給はりて、謀叛を起こし給ひし時、昌春二文字に洪雁の文の旗を給はり、きり者にて有りける間、人の申けるは、「春日大明神の罰を蒙るべかりける者をや」と申しけるに、後に鎌倉殿より、「九郎大夫判官討て」とて、京都へ差し上せられたりけるに、討ち損じて、北を差して落ちけるが、鞍馬の奥、僧正が谷より搦め取られて、六条河原にて首を刎ねられける時、「遅速ぞ有りける、明神の罰は怖ろしき事哉」とぞ人申しける。
十二 〔山門大衆、清水寺へ寄せて焼く事〕 S0112
同じき八月九日の午剋ばかりに、山門の大衆下ると聞こえければ、武士・検非違使、西坂本へ馳せ向かひたりけれども、衆徒、神輿をP1085(五〇オ)捧げ奉りて、押し破りて乱れ入りぬ。貴賎上下、騒ぎ〓(ののし)る事斜めならず。内蔵頭平教盛朝臣、布衣にて右衛門陣に候はる。何者の云ひ出だしたりけるにや、「上皇、山の大衆に仰せて、平中納言清盛を追討すべき故に、衆徒都へ入る」と聞こえければ、平家の一類、六波羅へ馳せ集まる。上下周章たりけれども、右兵衛督重盛卿一人ぞ、「何の故に只今さるべきぞ」とて、静められける。上皇、大きに驚き思し食して、怱ぎ六波羅へ御幸なる。平中納言清盛も、大きに畏り驚かれけり。
山門の大衆、清水寺へ押し寄せて焼き払ふべき由、聞こえけり。去んぬる七日の会稽の恥を雪めんとなり。清水寺は興福寺の末寺なる故にてぞ有りける。清水寺法師、P1086(五〇ウ)老少を云はず起こりて、二手に分かれて相待ちけり。一手は滝尾の不動堂に陣を取る。一手は西門に陣を取る。山門の大衆、搦手は久々目路、清閑寺、歌の中山まで責め来る。大手は覇陵の観音寺まで責め寄せたり。やがて坊舎に火を懸けたりければ、折節西風はげしくて、黒煙東へふき覆ひてければ、清水寺法師、一矢を射るに及ばず、四方に退散す。終には大門に吹き付けたり。昔、嵯峨天皇の第三皇子門居親王の后、二条右大将坂上田村丸の御娘、春子女御、御懐妊の御時、「御産平安ならば、我が氏寺に三重の塔を組むべき」由、御願にて、建てさせ給ひし三重の塔、九輪高くP1087(五一オ)耀きしも、焼けにけり。児安塔と申すは是也。如何がしたりけむ、塔にて火は消えにければ、本堂一宇ばかりぞ残りける。
爰に、無動寺法師に伯耆竪者乗円と云ふ学生大悪僧の有りけるが、進み出でて僉議しけるは、「罪業本より所有なし、妄想顛倒より起こる。心性源清ければ、衆生即ち仏也。只本堂に火を懸けて焼けや者共」と申しければ、衆徒等「尤々」と申して火を燃し、御堂の四方に付けたりければ、煙、雲井はるかに立ち昇る。
感陽宮の異朝の煙を諍ふ。一時が程に回禄す。あさましと云ふも疎か也。
衆徒かく焼き払ひて返り登りければ、法皇還御成りにけり。右兵衛督重盛も御送りにP1088(五一ウ)参らる。右兵衛督、御共より帰られたりければ、父中納言清盛宣ひけるは、「法皇の入らせ御坐しつるこそ返す返すも恐れ覚ゆれ。さりながら、聊も思し食し寄り仰せらるる旨のあればこそ、かやうにも漏れ聞こゆらめ。其等にも打ち解けらるまじ」と宣ひければ、右兵衛督、「此の事、ゆめゆめ御色にも御詞にも出ださせ給ふべからず。人々心付きて、中々あしき事也。叡慮に背き給はず、人の為によく御坐さば、三宝神明の御加護有るべし。さらむに取りては、御身の恐れあるまじ」とて、立ち給ひぬ。「兵衛督はゆゆしく大様なる者哉」とぞ、中納言宣ひける。
法皇還御の後、うとからぬ近習者共、御前に候ひける中に、按察使入道資賢P1089(五二オ)も候はれけり。法皇、「さるにても不思議の事云ひ出だしつる者哉。何なる者の云ひ出だしつらむ」と仰せ有りければ、西光法師が候ひけるが、「『天に口なし、人を以ていはせよ』とて、以ての外に平家過分に成り行けば、天道の御計らひにて」と申しければ、「此の事由なし、壁に耳ありと云ふ。おそろしおそろし」とぞ人々申しける。
さても清水寺焼たりける後朝に、「火坑変成池は何に」と札に書きて、大門の前に立てたりければ、次の日、「歴劫不思議是也」と返し札をぞ立てたりける。何なるあとなし者のしわざなるらむと、をかしかりけり。
十三 〔建春門院の皇子春宮立ちの事〕 S0113
永万元年、今年は諒闇にて、御禊、大嘗会も無し。P1090(五二ウ)同じき年の十二月廿五日、東の御方の御腹の法皇の御子、親王の宣旨蒙らせ給ふ。今年は五歳にぞ成らせ給ひける。年来は打ち籠められて御坐しつるが、今は万機の政わく方なく法皇聞こし食しければ、御慎みなし。此の東の御方と申すは、時信朝臣の娘、知信朝臣の孫なり。小弁殿とて候ひ給ひけるを、法皇時々忍びて召されけるが、皇子位に即かせ給ひて後、院号有りて建春門院とぞ申しける。相国の次男宗盛、彼の女院御子にせさせ給ひたりければにや、平家殊にもてなし申されけり。
仁安元年、今年は大嘗会有るべきなれば、天下其の営みなり。同じき年十月七日、去年親王のP1091(五三オ)宣旨蒙らせ給ひし皇子、東三条殿にて東宮立の御事ありけり。春宮と申すは、常は帝の御子也。是をば太子と申す。又、帝の御弟の、儲君に備はらさせ給ふ事あり。御弟を大弟と申す。其に主上は御甥、僅かに三歳、春宮は御叔父、六歳に成らせ給ふ。「昭穆相叶はず。物騒がし」と云へり。「寛仁三 (二イ)年に、一条院は七歳にて御即位あり。三条院、十三歳にて春宮に立ち給ふ。先例なきに非ず」と、人々申しあはれけり。
十四 〔春宮践祚の事〕 S0114
六条院、御譲りを受けさせ給ひたりしかども、僅かに三年にて、同年二月十九日、春宮〈高倉院〉八歳にて大極殿にて践祚ありしかば、先帝は僅かに五歳にて御位退かせ給ひて、新院とP1092(五三ウ)申して、同六月十七日に上皇御出家あり。後白河法皇とぞ申しける。未だ御元服なくて、御童形にて太上天皇の尊号ありき。漠家・本朝、是ぞ始めなるらむと、めづらしかりし事也。
此の君の位に即かせ御坐すは、弥平家の栄花とぞみえし。国母建春門院と申すは、平家の一門にて御坐す上は、とりわき入道の北の方二位殿、御妹にて御坐しければ、相国の公達、二位殿の御腹は、当今の御いとこにてむすぼほれ進らせて、ゆゆしかりける事共也。平大納言時忠卿と申すは、女院の御せうと、主上の御外戚にて御坐しければ、内外に付けたる執権の人にて、叙位除目已下、公家のP1093(五四オ)御政、偏へに此の卿の沙汰なりければ、世には平関白とぞ申しける。当今御即位の後は、法皇もいとど分く方なく、万機の政を知ろし食されしかば、院・内の御中、御心(こころ)よからずとぞ聞えし。
十五 〔近習之人々、平家を嫉妬する事〕 S0115
院に近く召し仕はるる公卿、殿上人、下北面の輩に至るまで、ほどほどに随ひて、官位俸禄、身に余る程に朝恩を蒙りたれども、人の心の習ひなれば、尚あきたらず覚えて、此の入道の一類、国をも庄をも多く塞ぎたる事、目ざましく思ひて、「此の人の亡びたらば、其の国は定めて闕けなむ、其の庄はあきなむ」と、心中に思ひけり。うとからぬどしは、忍びつつささやく時も有りP1094(五四ウ)けり。
法皇も内々思し食されけるは、「昔より今に至るまで、朝敵を平ぐる者の多けれども、かかる事やはありし。貞盛・秀郷が将門を討ちて、頼義が貞任・宗任を滅ぼしたりし、義家が武衡を攻めたりしも、勧賞行はるる事、受領には過ぎず。清盛が指してし出だしたる事も無くて、かく心のままに振舞ふこそ然るべからね。此も末代に成り、王法の尽きぬるにや」と、安からず思し食されけれども、事の次無ければ、君も御誡めもなし。又平家も朝家を怨み奉る事も無くて有りけるほどに、代の乱れける根元は、
十六 〔平家、殿下に恥見せ奉る事〕 S0116
去んぬる嘉応二年十月十六日に、小松内大臣重盛公の二男、新三位P1095(五五オ)中将資盛、越前守たりし時、蓮台野に出でて小鷹狩をせられけるに、小侍二三十騎ばかり打ちむれて、はひたか〔 〕あまたすゑさせて、鶉、雲雀、追ひ立てて、終日かり暮らされけり。折節、雪ははだれに降りたり、枯野の景気面白かりければ、夕日山の端に傾きて、京極を下りに帰られけり。其の時は、松殿基房、摂禄にて御座しけるが、院の御所法住寺殿より、中御門東洞院の御所へ還御成りけるに、六角京極にて、殿下の御出に資盛鼻つきに参り会はれたり。越前守、誇り勇みて代を世ともせざりける上、召し具したる侍共、皆十六七の若者にて、礼儀骨法を弁へたる者の一人P1096(五五ウ)も無かりければ、殿下の御出とも云はず、一切下馬の礼儀も無かりければ、前駈・御随身、頻りに是をいらつ。「何者ぞ、御出の成るに、洛中にて馬に乗る程の者の下馬仕らざるは。速かに罷り留まりて下り候へ」と申しけれども、更に耳に聞き入れず、けちらして通りけり。闇き程にてはあり、御共の人々もつやつや入道の孫とも知らざりければ、資盛朝臣以下、馬より引き落とし、散々に〔 〕せられにけり。匍々六波羅へ逃げ帰り、「此の事、穴賢披露すな」と警められけれども、隠れ無かりけり。
入道の最愛の孫にてはおはしけり、大きに怒りて、「設ひ殿下なりとも、争か入道があたりをば憚り思ひ給はざるべき。少き者に左右無く恥辱P1097(五六オ)を与へておはするこそ、遺恨の次第なれ。此の事、思ひ知らせ申さでは、えこそ有るまじけれ。かかる事より、人にはあなづらるるぞ。殿下を怨み奉らばや」と宣ひければ、小松内府、「此の事努々々有るべからず。重盛なむどが子共と申さむずる者は、殿下の御出に参り会ひて、馬よりも車よりも下りぬこそ尾籠にて候へ。さ様にせられ進らするは、人数に思し召さるるによつて也。此の事、還りて面目にて非ずや。頼政・時光体の源氏なむどにあざむかれたらば、誠に恥辱にても候ひなむ、加様の事より代の乱れとも成る事にて候ふ。努力々々思し食し寄るべからず」と宣ひければ、其の後は内府にはかくとも宣はず。
片田舎の侍共の、こはらかにて、入道殿のP1098(五六ウ)仰せより外には重き事無しと思ひて、前後も弁へぬ者共、十四五人召し寄せて、「来たる廿一日、主上御元服の定めに、殿下の参内有らむずる道にて待ち請けて、前駈・随身等が本鳥切れ」と下知せられて、又宣ひけるは、「殿下の御出に、御随身廿人にはよも過ぎじ。随身一人に二人づつ付け。其の中に、相模守通貞とて、齢ひ十七八計りぞ有るらむ。彼は具平親王の末葉にて、父も祖父も聞こえたる甲の者なり。通貞も定めて甲にぞ有るらむ。彼には兵十人付くべし」とぞ云はれける。
其の日に成りて、中御門猪熊辺にて、六十余騎の軍兵を率して、殿下の御出を待ち懸けたり。殿下は、かかる事有りとも知ろし食さず、主上の明年の御元服P1099(五七オ)の加冠拝官の為に、今日より大内の御直慮に七日候はせ御坐すべきにて有りければ、常の御出仕よりも引きつくろはせ給ひて、今度は待賢門より入内あるべきにて、何心も無く中御門を西へ御出なりけるに、猪熊掘河の辺にて、六十余騎の軍兵待ち請け進らせて、射殺し切り殺さねども、散々に懸け散らして、右の府生武光を始めとして、引き落とし引き落とし、十九人まで本鳥を切る。十九人が中、藤蔵人大夫高範が本鳥を切りける時は、「是は汝が本鳥を切るには非ず、主の本鳥を切る也」と云ひ含めてぞ切りける。
其の中に、相模守通貞は、長高く色白きが、手綱をくりしめて、左右をきと見る。兵寄りて引き落とさP1100(五七ウ)むとしければ、懐より、一尺三寸有りける刀の、鞆に馬の尾巻きたるを抜き出だして、向かふ敵の内甲を指しければ、左右無く寄る者なし。馬より飛び下りて、刀を額にあてて、兵の中を打ち破り、そばなる小家に走り入りけるを、兵の寄りて打ち留めむとしければ、立ち帰りて、刀をもて思ふさまに切りたりければ、取り付かむとしける者の小肘を、小手を加へてつと切り落とし、片織戸を丁と立てて、後へつと逃げにければ、つづいて懸くる者もなし。かかりければ、通貞計りは遁れて、残りは恥にぞ及びける。
殿下は、御車の内へ弓のはずをあららかにつき入れつき入れしければ、こらへかねて落ちさせ給ひて、あやしの民の家に立ち入らせ給ひにけり。前駈、P1101(五八オ)御随身もいづちか失せにせむ、一人も無かりけり。供奉の殿上人、或いは物見打ち破られ、或いは鞦むながい切り放たれて蜘昧を散らすが如く逃げ隠れぬ。六十余騎の軍兵かやうにし散らして、中御門面にて悦びの時をはと作りて、六波羅へ帰りにけり。入道は、「ゆゆしくしたり」と感ぜられけり。
小松内大臣、此の事を聞きて、大きにさわがれけり。「景綱・家貞、奇怪なり。設ひ入道いかなる不思議を下知したまふとも、争か重盛に夢をばみせざりけるぞ」とて、行き向かひたりける侍共十余人、勘当せられけり。凡は重盛などが子共にてあらむ者は、殿下をも重んじ奉り、礼儀をも存じてP1102(五八ウ)こそ有るべきに、云ふ甲斐無き若き者共召し具して、かやうの尾籠を現じて父祖の悪名を立つる、不孝の至り、独り汝にあり」とて、越前守をも諌められけるとかや。惣じて此の大臣は、何事に付けても吉き人とぞ、代にも人にもほめられ給ひける。
其の後、殿下の御ゆくへ知りまゐらせたる者無かりけるに、御車副の古老の者に、淀の住人因幡の先使国久丸と申しける男、下臈なりけれどもさかざかしかりける者にて、「抑吾が君はいかがならせ給ひぬらむ」とて、ここかしこ尋ねまゐらせけるに、殿下はあやしの民の家の遣戸のきはに立ち隠れて、御直衣もしほしほとして渡らせ給ひけり。国久丸、只一人、しりがひ・P1103(五九オ)むながい結び合はせて、御車仕りて、是より中御門殿へ還御成りにけり。その御儀式、心憂しとも愚か也。摂政関白のかかるうき目を御覧ずる事、昔も今もためしありがたくこそ有りけめ。是ぞ平家の悪行の始めなる。
明けぬる日、西八条の門前に作り物をぞしたりける。法師の引きこしがらみて、長刀を以て物を切らんとする景気を作りたり。又、前に石鍋に毛立したるものを置きたり。道俗男女、門前市をなす。されども心得る者一人もなし。「こは何事ぞ」と云ふ処に、歳五十余計りなる老僧、指し寄りて、打ち見て申しけるは、「此は夜部の事を作りたるにや」と申せば、「それは何事ぞ」とP1104(五九ウ)云ふに、「夜部殿下の御出なりけるを、平家の侍、大炊の御門猪隈にて待ち請けまゐらせて、散々と追ひ散らして、御車覆し、前駈・御随身、本鳥を切られたりけるを作りたり。是をこそ『むし物にあうてこしがらむ』と申すは」と云ひければ、一同にはと咲ひけり。いかなる跡なし者のしわざなるらむと、をかしかりける事共なり。
十七 〔蔵人大夫高範出家の事〕 S0117
さて、前駈したりける蔵人大夫高範は、あやなく本鳥切られたりければ、いかにすべき様も無くて、宿所に帰りて引きかづきて臥したりけるが、俄に、「大とのゐの綾をりが中に、目あかく手ききたる二人ばかり、きと召して進らせよ」と云ひけれP1105(六〇オ)ば、妻子共、なにやらむと穴倉く思ひける処に、程無く召して参りけるを、妻子眷属にもみせず、一間なる所に籠り居て、切られたりける本鳥を、かづらをたふして、一夜の中に結びつがせて、蔵人所に参りて申しけるは、「苟しくも武士に生まれて、形の如くの弓箭を取り、重代罷り過ぐ。其の日、然るべき不祥に合ひたり。然而るに、身に束帯をまとひ、爪切ほどの小刀体の物をも身にしたがへず。人に手をかくるまでこそ無くとも、あたる所の口惜しき目を見るよりは、自害をこそ仕るべかりしかども叶はず。剰さへ本鳥切られたりと云ふ不実さへ云ひ付けられ、弓箭取る者の死ぬべき所にて死なざるが致す所也。P1106(六〇ウ)則ち、世をも遁れ、家をも出づべけれども、左右無く出家したらば、『本鳥切られたる事は一定なり』と沙汰せられむ事、生々世々の瑕瑾なり。今一度、誰々にも対面申さむと存じて参りたり。但し、憖に人なみなみに世に立ち交じればこそ、かかる不実をも云ひ付けらるれ。思ひ立ちたる事有り」とて、懐より刀を取り出だして、本鳥押し切りて、乱し髪に烏帽子引き入れて、袖打ちかづきて罷り出づるこそ、賢かりけるし態なれ。
廿二日に、摂政殿は、法皇に御参ありて、「かかる心うき目にこそ逢ひて候へ」と歎き申させ給ひければ、法皇もあさましと思し食して、「此の由をこそ入道にも云はめ」とぞ仰せ有りける。入道漏れ聞き、P1107(六一オ)「入道が事を院に訴へ申されたり」とて、又しかり〓(ののし)りけり。殿下かく事にあはせ給ひければ、廿五日、院の殿上にてぞ御元服の定めは有りける。
さりとて、さて有るべきならねば、摂政殿は、十二月九日、兼ねて宣旨蒙らせ給ひて、十四日に太政大臣にならせ給ふ。是は明年御元服の加冠の料也。
同十七日、御拝賀あり。ゆゆしくにがりてぞ有りける。太政入道第二の娘、后立の御定めあり。今年十五にぞ成り給ひける。建春門院の猶子也。
十八 〔成親卿、八幡賀茂に僧籠むる事〕 S0118
妙音院入道殿、其の時は内大臣左大将にて御坐しけるに、太政大臣にならせ給はむとて、大将を辞し申させ給ひけるを、後徳大寺P1108(六一ウ)の大納言実定、一の大納言にて御坐しけるが、理運に充てて成り給ふべき由、聞こえけり。其の外、花山院の中納言兼雅卿も所望せられけり。殿三位中将師家卿など申す、御年の程は無下に少く御坐せども、成り給はむずらむと世間には申し合ひける程に、故中御門中納言家成卿三男、新大納言成親卿、平に申されけり。院の御気色よかりければ、様々の祈りを始めて、さりともと思はれけり。此の事祈請の為には、或る僧を八幡に籠めて、真読の大般若を読ませられけるに、半分ばかり読みたりける時に、瓦大明神の御前なりける橘の木に山鳩二つ来て、食ひ合ひて死にけり。鳩は大菩薩の侍者也。宮仕にかかる不思議P1109(六二オ)なしとて、別当清浄、事の由公家に奏聞したりければ、神祇官にて御占あり。「天子・大臣の御慎みに非ず。臣下の御慎み」とぞ占ひ申ける。 是のみならず、賀茂の上社に七ヶ日、鴨御祖社に七ヶ日、忍びて歩行の日詣をして、百度せられけり。「帰命頂礼、別雷大明神、所修納受して、所祈に答へ給へ」と祈られけるに、第三日に当たる夜、詣でて下向し給ひて、中御門の宿所に亜相臥し給ひたりける夜の夢に、神の御前に候ふとおぼしきに、神風心すごく吹き下して、御宝殿の御戸を屹と押し開かれたりけるに、良暫く有りて、ゆゆしく気高き女房の御音にて、一首の歌をぞ詠ぜられける。
P1110(六二ウ)さくら花賀茂の河風うらむなよちるをばえこそ留めざりけれ
成親卿夢中に打ち歎きて驚かれけり。
是にも憚らず、上の社には仁和寺俊堯法印を籠めて、真言秘法を行ひけり。下若宮には三室戸法印を籠めて、〓枳尼天(だきにてん)を行はれけるほどに、七日に満ずる夜、俄に天ひびき、地動くほどの大雨ふり、大風吹きて、雷鳴りて、御宝殿の後の椙木に雷落ちかかり、天火燃え付きて、若宮の社焼けにけり。神は非例を稟け給はねば、かかる不思議出で来にけるにや。成親卿、是にも思ひ知らざりけるこそあさましけれ。
十九 〔主上御元服の事〕 S0119
さる程に、嘉応三年正月三日、主上御元服せさせ給ひて、十三日、P1111(六三オ)朝覲の行幸とぞ聞こえし。法皇・女院は御心もとなく待ち請け進らせ給ふ。新冠の御体も良たくぞ渡らせ給ひける。
三月には、入道相国の第二の御娘、女御に参り給ひて、中宮の徳子とぞ申しける。法皇御猶子の儀也。
七月には相模節あり。重盛右に連なりおはしければ、「近衛大将に至らむからに、容儀身体さへ人に勝れ給へるは」と申しあひけるとかや。かやうに讃め奉りて、せめての事にや、「末代に相応せで、御命や短く御坐せむずらむ」と申しあひけるこそ、忌まはしけれ。御子達、大夫、侍従、羽林など云ひて、余た御坐しけるに、皆優にやさしく花やかなる人にて御坐しける上、大将は心ばへよき人にて、子息達にもP1112(六三ウ)詩歌管絃を習ひ、事にふれ、由ある事をぞ勧め教へられける。
廿 〔重盛・宗盛、左右に並び給ふ事〕 S0120
さる程に、此の比の叙位除目は平家の心のままにて、公家・院中の御計らひまでも無し、摂政関白の成敗にても無かりければ、治承元年正月廿四日の除目に、徳大寺殿、花山院中将殿も成り給はず、況や新大納言、思ひやよるべき。入道の嫡子重盛、右大将にて御坐ししが左に移りて、次男宗盛、中納言にて御しけるが、数輩の上臈を越えて右に加はられけるこそ、申す量り無かりしか。嫡子重盛の大将に成り給ひたりしをこそ、ゆゆしき事に人思へりしに、二男にて打ちつづき並び給ふ。世には又人ありともみえざりけり。
廿一 〔徳大寺殿、厳嶋へ詣で給ふ事〕 S0121
P1113(六四オ) 中にも徳大寺一大納言にて、才覚優長し、家重代にて、越えられ給ひしこそ不便なりしか。「定めて御出家などや有らむずらむ」と、世の人申しあひけれども、「此の世の中の成らむ様をも見はてむ」と思ひ給ひければ、籠居し給ひて、「今は世に有りてもなにかせむ。本鳥をも切りて山林にも交はりて、一向まことの道に入らむ」と宣へば、源蔵人大夫資基、歎き申しけるは、「平家四海を打ち平げて、天下を掌に挙り、万事思ふ様なる上、摂政関白に所をおかず恥辱を与へ奉り、万機の政を心のままに取り行はる。非例非法張行する平家の振舞をうらみさせ給はば、多くの青女房達、皆餓死し候はんずらむ事こそ口惜しく候へ。世は謀にてこそ候へ。P1114(六四ウ)太政入道の殊に崇め給ふ、安芸国の一宮厳嶋へ御参詣有るべく候ふ。大将の御祈梼の為に御参籠渡らせ給はば、其の神子をば内侍と申し候ふ、多く参りて候はば、種々の御引出物たびて〓(もてな)させおはしませ。さて御下向あらば、定めて内侍共、御送りに参り候はむずらむ。様々にすかして、内侍四五人相伴はせ御坐して、京へ御上り候へ。内侍、京にて定めて太政入道殿の見参に入り候はんずらむ。『なにしに上りたるぞ』と問ひ給はば、内侍共、ありのままに申さば、『我が憑み奉る所の厳嶋の大明神に参り給ひたりけるごさむなれ。争か神の御威光をば失ひ進らすべき。大将に進らせよ』とて、一定進り候ひぬと存じ候ふ。かやうに御計らひP1115(六五オ)や有るべく候ふらむ。徳大寺を此の御時失はせ給はむ事、口惜しく候ふ」と、泣く泣く誘へ申しければ、げにもとや思し食されけむ、御心ならず厳嶋へ御詣であり。案の如く、内侍共つどひたりければ、種々の御引出物給ひて、様々にもてなし給ひけり。
かくて七日御参籠有りて、御下向ある処に、内侍共余波を惜しみ進らせて、一日送り進らせけり。次の日帰らむとするに、徳大寺殿仰せの有りけるは、「情なし。内侍達、今一日送れかし」と宣ひければ、「承りぬ」と申して送り奉る。次の日帰らむとする処、又色々の御引出物給ひて、「やや内侍達、都を立ち出でて、多くの国々を隔てて、波路を分けて参りたる志は何計りとかや思ふ。されば、大明神御名残P1116(六五ウ)惜しく思ひ進らするに、内侍達の是まで送り給ひたるは併しながら大明神の御納受と仰ぎて信を取る。其の上は、只今引き分かれ給はむ事、あまりに余波をしきに、今一日送れかし」と宣へば、「承りぬ」とて、又参りにけり。「今一日」「今一日」と宣ふ程に、内侍もさすがに振り捨てがたくて、都近く参りにけり。徳大寺殿の宣ひけるは、「内侍、さすがに城は近く、我等が本国は遠く成りたり。同じくは、いざ都へ。京づとばしも取らせむ」と宣へば、「承りぬ」とて、内侍十人、京へ上る。「此の上は又、太政入道殿の見参に入らざらむ事も恐れ有り」とて、内侍共、入道殿へ参じけり。出で合ひて対面し給ひけるに、入道宣ひけるは、「なにしに上りたるぞ」と問ひ給ひければ、「徳大寺殿、P1117(六六オ)大将超えられ給ひて、其の御歎きに御籠居候ひけるが、御出家有りて後生菩提の御勤めせむと思し食し立ちて候ひけるが、誠や、厳嶋の大明神こそ、現弁も新たに渡らせ給ふなれ。此の事祈請して叶はずは御出家有るべきにて、御詣で候ひて、御参籠の間、御心優にわりなく渡らせ給ふ。内侍共にも色々の御引出物給ひて、御情深く渡らせ給ふ程に、御名残をしみ進らせて、一日送り進らせて候へば、『今一日』『今一日』とて送り進らせ候ひつる程に、京まで参りて候ふ。上る程にては、争か又見参に入らざるべきとて、参りて候ふ」と申しければ、入道殿、「一定か、内侍達」。「さむ候ふ」と申しければ、「糸惜し糸惜し。さては厳嶋へ御詣で有りけるごさむなれ。浄海、P1118(六六ウ)大明神を深く崇敬し奉る。争か権現の御威光をば失ひ奉るべき。重盛大将に上げよ」とて、大将へ押し上げて、徳大寺殿を左大将に成し奉る。
廿二 〔成親卿人々語らひて鹿谷に寄り会ふ事〕 S0122
さて、新大納言成親卿思はれけるは、殿の中将殿、徳大寺殿、花山院に超えられたらば何がせむ。平家の二男に超えられぬるこそ遺恨なれ。いかにもして平家を滅ぼして本望を遂げむ」と思ふ心付きにけるこそおほけなけれ。父の卿は中納言までこそ至りしに、其の子にて、位正二位、官大納言、年僅かに四十四(二イ)、大国あまた給はりて、家中たのしく、子息所従に至るまで朝恩に飽き満ちて、何の不足有りてか、今かかる心の付きにけむ。是も天魔P1119(六七オ)の致す所也。信頼卿の有様を親りみし人ぞかし。其の時、小松大臣の恩を蒙りて、頸をつがれし人に非ずや。外き人も入らぬ所にて兵具を調へ集め、然るべき者を語らひて、此の営みより外は他事無かりけり。
東山に鹿谷と云ふ所は、法勝寺の執行俊寛が領也。件の処は、後は三井寺につづきて吉き城也とて、彼こに城郭を構へて、平家を討ちて引き籠らむとぞ支度しける。多田蔵人行綱、法勝寺執行俊寛、近江入道蓮浄〈俗名成雅〉、山城守基兼、式部大夫章綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、左衛門入道等を始めとして、北面の下臈あまた同意したりけり。平家を滅ぼすP1120(六七ウ)べき与力の人々、新大納言を始めとして、常に寄り合ひ寄り合ひ談義しけり。法皇も時々入らせ給ひて、聞こし食し入れさせ給ふ。毎度俊寛が沙汰にて、御儲け丁寧にしてもてなし進らせて、御延年ある時も有りけり。或る時、彼の人々、俊寛が坊に寄り合ひて、終日に酒宴して遊びけるに、酒盛半ばに成りて万づ興有りけるに、多田蔵人が前に盃流れ留まりたり。新大納言、青侍一人招き寄せてささやきければ、程なく清げなる長櫃一合、〓(えん)の上にかきすゑたり。尋常なる白布五十端取り出だして、やがて多田蔵人が前に置かせて、大納言目かけて、「日来談義し申しつる事、大将には一向御辺を憑み奉る。其の弓袋の料に進らす。P1121(六八オ)今一度候はばや」と云ひたりければ、行綱畏りて布に手打ち係けて押しのけければ、郎等よりて取りてけり。
其の比、静憲法印と申しける人は、故少納言入道信西が子息也。万事思ひ知りて振る舞ふ人にて有りければ、平相国も殊に用ゐて、世の中の事共、時々云ひ合はせられけり。法皇の御気色もよくて、蓮花王院執行にもなされなどして、天下の御政常に仰せ合はせられけるに、「さても此の事はいかが有るべき」と法皇仰せの有りければ、「此の事奴刀々々有るべからずと覚え候ふ。今は人多く承り候ひぬ。何がし候ふべき。只今、天下の大事出で来候ひなむず。我が君は天照大神七十二代、太上法皇の尊号にて御坐し候ふといへども、王法の代末に成り、清盛又朝家P1122(六八ウ)に盛り也。其と申すは、君の御恩ならずと云ふ事なし。然而、朝敵を平ぐる事度々也。されば、何を以て清盛をば失はせ給ひ候ふべき」と、憚る所無く申されければ、成親卿、気色替はりて立たれけるが、御前なる瓶子を狩衣の袖に係けて倒したりけるを、法皇、「あれは何に」と仰せ有りければ、取り敢へず、「平氏すでに倒れて候ふ」と申されたりければ、法皇御ゑつぼに入らせおはしまして、「康頼参りて当弁仕れ」と仰せありしかば、康頼が能なれば、つい立ちて、「凡そ近来は、平氏が余り多く候ひて、もてゑひて候ふ」と申したりければ、成親卿、「さて其をばいかがすべき」と申さる。康頼、「それをば頸を取るには如かず」とて、瓶子の頸を取りて入りにけり。法皇も興に入らせ給ひて、着座P1123(六九オ)の人々もゑみまけてぞ咲はれける。静憲法印ばかりぞ、あさましと思ひて物も宣はず、声をも出だされざりける。
彼の康頼は、阿波国住人にて、品さしもなき者なりけれども、諸道に心得たる者にて、君に近く召し仕はれ進らせて、検非違使五位の尉まで成りにけり。末座に候ひけるを召し出だされけるも、時に取りては面目とぞみえし。土の穴を掘りて云ふなる事だにも漏ると云へり。まして、さほどの座席なれば、なじかは隠れあるべき。空怖ろしくぞ覚ゆる。
彼の俊寛は、木寺法印寛雅が子、京極大納言雅俊が孫也。指して弓箭取る家にあらねども、彼の大納言、ゆゆしく心の武く、腹あしき人にて御座しければ、京極の家の前をば人をも轍くとほさず、常に歯をくひしばりP1124(六九ウ)て、嗔りて御坐しければ、人、「歯くひの大納言」とぞ申しける。かかりし人の孫なればにや、此の俊寛も、僧なれども心武く奢れる人にて、かやうの事にも与せられたりけるにや。
就中、此の俊寛僧都と成親卿と、殊更親しく昵びける事は、新大納言の内に、松・鶴とて、二人の美女有りけり。俊寛、彼の二人を思ひて通ひける程に、鶴は今すこし容貌は増さりたり、松は少し劣りたれども、心ざま離り無かりければ、松にうつりて、子息一人儲けたりける故に、大納言も隔なく打ち憑み語らひける間、与力したりける也。
三月五日、除目に、内大臣師長公、太政大臣に転じ給へる替はりに、左大将重盛、大納言定房卿を越えて内大臣に成られにけり。P1125(七〇オ)院の三条殿にて大饗行はる。近衛大将に成り給し上は子細に及ばねども、又宇治の左大臣の御例憚りあり。又太政入道心もとなげに云はれければ、「由なし」と仰せられけるとかや。
廿三 〔五条大納言邦綱の事〕 S0123
五条中納言邦綱卿、大納言に成らる。歳五十六。一の中納言にて御坐しけれども、第二にて中御門中納言宗家卿、第三にて花山院中納言兼雅卿、此の人々成り給ふべかりけるを止めて、邦綱卿のなられける事は、太政入道、万事思ふさまなる故也。此の邦綱卿は、中納言兼輔卿八代の末葉、式部大夫盛綱が孫、前右馬助成綱が子也。然而、三代は蔵人にだにも成らず、受領、諸司助などにて有りけるが、進士の雑色とて、近衛院の御時、近くP1126(七〇ウ)召し仕はれけるが、去んぬる久安四年正月七日、家を発(興歟)して蔵人頭に成りにけり。其の後次第に成り上りて、中宮亮などまでは法性寺殿の御推(吹歟)挙にて有りし程に、法性寺殿隠れさせ給ひて後、太政入道に執り入りて、さまざまに宮仕へける上、日ごとに何にても一種を奉られければ、
「所詮現世の得意、此の人に過ぎたる人有るまじ」とて、子息一人入道の子にして経邦と申し付けて侍従に成されぬ。三位中将重衡を聟になしてけり。後には、中将、内の御乳母に成られたりければ、其の北の方をば母代とて、大納言の典侍とぞ申しける。
〔北面は〕上古には無かりけり。白河院の御時始め置かれて、衛府共あまた候ひけり。中にも、為俊・盛重、童より千手丸・今犬丸などとて、切者にてP1127(七一オ)有りけり。千手丸は本は三浦の者也。後は駿河守になさる。今犬丸は周防国住人、後は肥後守とぞ申しける。鳥羽院の御時も、季範・季頼父子、近く召し仕はれて、伝奏するをりもありと聞きしかども、皆身の程をば振る舞ひてこそ有りしに、此の御時の北面の者共は、事の外に過分して、公卿殿上人をも物ともせず、礼儀も無かりけり。下北面より上北面に移り、上北面より又殿上をゆるさるる者も有りけり。かくのみある間に、驕れる心ありき。彼の季範と申すは、源左衛門大夫康季が子息、河内守是也。季頼は季範が子也。大夫尉と云ふも是也。其の中に故少納言入道の許に師光・成景と云ふ者ありけり。小舎人童、若は格勤者にて、けしかるP1128(七一ウ)者共なりけれども、さかざかしかりける間、院の御目にかかりて召し仕はれけり。師光は左衛門尉、成景は右衛門尉に、二人一度に成りたりけり。少納言入道の事に合ひし時、二人共に出家して、各名乗の一字を替へず、左衛門入道は西光、右衛門入道は西景とぞ云ひける。二人ながら御倉預にて召し仕はれけり。西光が子師高も切者にて有りければ、検非違使五位尉まで成りにけり。
廿四 〔師高と宇河法師と車引き出だす事〕 S0124
安元二年十一月廿九日、加賀守に任じて国務を行ふ間、さまざまの非例非法張行せしあまり、神社、仏事、権門の庄領をも倒し、散々の事共にてぞ有りける。縦ひ邵公が跡を伝ふとも、穏便P1129(七二オ)の務をこそ行ふべかりしに、万づ心のままに振る舞ひし故にや、同じき三年八月に、白山の末寺に宇河と云ふ山寺に出温あり。彼の湯屋に目代が馬を引き入れて湯洗ひしけるを、寺の小法師原、「往古より此の所に馬の湯洗ひの例無し。争か、かかる狼籍有るべき」とて、白山の中宮八院三社の惣長吏、智積・覚明等を張本として、目代の秘蔵の馬の尾を切りてけり。目代是を大きに嗔りて、即ち彼の宇河へ押し寄せて坊舎一宇も残さず焼き払ひにけり。宇河白山八院の大衆、金大房大将軍として、五百騎にて加賀国府へ追ひ懸かる。露吹むすぶ秋風は鎧の袖をひるがへし、雲井を照す稲妻は甲の星をかかやかす。かくて講堂に立て籠もり、P1130(七二ウ)庁へ使を立てたれば、目代、僻事しつとや思ひけむ、庁にはしばしもたまらずして逃げ上りにけり。
宇河の大衆共、力及ばずして僉議しけるは、「所詮本山の末寺也。本山へ訴へ申すべし。若此の訴訟叶はずは、我等永く生土に帰るべからず」。「尤も尤も」とて、神水を呑み、一同して、神輿をやがて振り上げ奉る間、安元三年二月五日、宇河を立ちて、願成寺に着き給ふ。御共の大衆、一千余人也。願成寺より、同六日、仏が原金剣宮へ入り給ふ。茲に於て一両日逗留す。
廿五 〔留守所より白山へ牒状を遣はす事 同じく返牒の事〕 S0125
同じき九日、留守所より牒状あり。使者には楠二郎大夫則次、但田の二郎大夫忠利等也。彼の牒状に云はく、
留守所の牒、白山宮の衆徒の衙
P1131(七三オ)早く衆徒の参洛を停止せられんと欲する事
牒す。神輿を振り奉りて、衆徒参洛を企てて、訴訟を致さしむ。事の趣き、重からざること無きに非ず。茲に因りて、在庁忠利を差し遣はして、子細を尋ね申す処に、石井の法橋訴へ申さんが為に、参洛せしむと返答有りと云々。此の条、豈然るべからず。争か小事に依りて大神を動かし奉るべき哉。若し国の沙汰と為て裁許為るべき訴訟か。者れば、解状を賜りて申し上ぐべき也。乞ふ哉、状を察して以て牒す。
安元三年二月九日 散位朝臣
散位朝臣P1132(七三ウ)
散位朝臣
目代源朝臣在判
とぞ書きたりける。之に依りて衆徒の返牒に云はく、
白山中宮の大衆政所、返牒、所の衛
来牒一紙に載せ送らるる、神輿御上洛の事
牒す。今月九日の牒、同日到来す。状に依りて子細を案ずるに、神明和合し在す。而るに吉日を点定して旅路に進発す。次に人力を以て之を成敗すべからず。冥慮、豈之を恐れざらん哉。仍りて、後日を以て牒返の状に任せん。子細の状、件の如し。
P1133(七四オ)安元三年二月九日 中宮大衆等
廿六 〔白山宇河等の衆徒神輿を捧げて上洛の事〕 S0126
同じき十日、仏が原を出でて推津へ差し給ふ。同日又留守所より使二人あり。税所大夫成貞、橘二郎大夫則次等、野代山にて大衆の後陣に件の使追ひ付きたり。即ち落馬しぬれば馬の足折れたり。是れを見て衆徒弥神力を取る。同じき十一日に二人の使推津に到来す。敢へて返牒無し。詞を以つて使者神輿を留め奉るといへども、事ともせず上洛す。其の時の貫首は六条大納言源顕通の御子、久我大政大臣の御孫、明雲僧正にて御す。門跡の大衆三十余人P1134(七四ウ)を差し下し、敦賀の中山にて神輿を留め奉る。敦賀の津、金崎の観音堂へ入れ奉りて、守護しけり。
廿七 〔白山衆徒山門へ送牒状事〕 S0127
白山衆徒等、山門へ牒状を遺す。其の状に云はく、
謹請 延暦寺御寺牒
白山の神輿を山上に上げ奉り、目代師経罪科を裁許せられんと欲する事
右、子細を言上せしむと雖も、今に裁報を蒙らざる間、神輿御入洛の処、抑留の条、是一山之大訴也。倩ら事情を案ずるに、白山は敷地有りと雖も、是併しながら三千の聖供也。免田有りと雖も、当任は有名無実P1135(七五オ)也。之に依りて、仏神の事断絶、顕然也。仍りて当年の八講・三十講、同じく以て断絶す。我が山は是大悲権現、和光同塵の素意に候ふ。近来忝くも向拝の族、又以て断絶す。此時に当たりて、深く歎き切也。然れば、神輿を振り奉り、群参を企つる所也。永く向後の栄えを忘れ、五尺の洪鐘、徒に黄昏の勤を響かす。誰か冥道の徳を明らかにせむ。人倫に在りて、迷癡の用深き也。蓋ぞ全く将来の吉凶を現ぜざらん哉。権現の御示現、之に在す。然れば則ち、制法に拘はらずして、既に敦賀津に附かしめ、御寺牒の状に任せ、神輿上洛の儀を止め、御裁報を待つべき状、件の如し。
P1136(七五ウ) 安元三年二月廿日 衆徒等
廿八 〔白山神輿山門に登給ふ事〕 S0128
とぞ書きたりける。
同じき廿一日、専当等、此の状を取りて帰り上るあひだ、裁許を相待つ処に、重ねて使者来たりて云はく、 「上洛せられたりと云ふとも、御裁許有るべからず。其の故は、院、御熊野詣でなり。御下向の後、上洛せらるべし」とて、彼の神輿を奪ひ取り奉り、金崎観音堂に入れ奉りて、大衆、宮仕、専当等、是を守護し奉る。白山の衆徒、竊に神輿を盗み取り奉りて、敦賀の中山道へは係からで、東路にかかり、入の山を越え、柳瀬を通り、近江国甲田の浜に着く。其より船に御輿を舁き載せ奉りて、東坂本へ入れ奉んと欲す。折節、〔巽〕の風はげしく吹きて、海上静かならずして、小松が浜へ吹き寄せられP1137(七六オ)給ひけり。其より東坂本へ神輿を振り上げ奉る。
山門の衆徒、三塔会合して僉議しけるは、「末社の神輿疎かならず、本社の権現の如し。末寺の僧賤しからず、本山の大衆に同じ。争か訴訟を聞き入れざるべき」と、一同に僉議して、日吉社には白山をば客人と祝ひ奉りたれば、早松の神輿をば客人の宮に安め奉りて、山門の大衆等、院の熊野詣の御帰洛をぞ相待ちける。
廿九 〔師高罪科せらるべきの由人々申さるる事〕 S0129
さる程に、院御下向あり。「白山の衆徒等、訴訟此くの如し。げに此の事黙止がたく候ふ哉。然れば、師高を流罪に行はれ、師恒(経)を禁獄せらるべき」由、奏聞せしに、御裁許遅かりしかば、太政大臣、左右大臣已下、さも然るべき公卿達は、 「哀れ、とく御裁許有るべきP1138(七六ウ)者を。山門の訴訟は、昔より他に異なる事也。大蔵卿為房・大宰権師季仲は、朝家の重臣なりしかども、大衆の訴訟に依りて流罪せられにき。まして師高などが事は、ものの数ならず。子細にや及ぶべき」と、内々は申されけれども、詞に顕れて奏聞の人無し。「大臣は禄を重んじて申されず、小臣は罪を恐れて諌めず」と云ふ事なれば、各口を閉ぢ給へり。其の時の現任の公卿には、兼実・師長を始めとして、定房・隆秀に至るまで、身を忘れていさめ奉り、力を尽くして国を助くべき人々にておはしける上、武威を耀かして天下を鎮めし入道の子息重盛など、夙夜の勤労をつつ 〔し歟〕みておはせしに、彼と云ひ此と云ひ、師高P1139(七七オ)一人に憚りて、心に傾けながら、詞には諌め申されざりける事、君に仕ふる法、豈夫然るべけん哉。「前車の覆へるを扶けずは、後車の廻るを豈恃まん哉」とこそ、蕭荷をば大宗は仰せられけれ。恐らくは、君もくらく覚えさせ給ふべきに非ず、臣も憚りあひ給ふべき人々にやおはせし。何に況や、君臣の国においてをや。権勢の政ひがまむにおいてをや。「賀茂河の水、双六の〓(さい)、山法師、是れぞ我が心に叶はぬもの」と、白河院は仰せ有りけるとかや。されば鳥羽院の御時、平泉寺を以て薗城寺に付けらるべき由、其の聞こえ有り。山門の衆徒忽ちに騒動して奏状を捧げ申す。
其の状に云はく、P1140(七七ウ)
卅 〔平泉寺を以て山門に着けらるる事〕 S0130
延暦寺の衆徒等、解して院庁の裁を請ふ事
曲げて恩恤を垂れ、応徳の寺牒に任せて、白山平泉寺を以て、永く当山の末寺と為さむと請ふ状
右、謹みて案内を検するに、去んぬる応徳元年、白山の僧等、彼の平泉寺を以て当山の末寺に寄進す。時に座主良真、寄文の旨に任せ、寺牒を成して彼の山に付け畢(を)はんぬ。尓りしより以降、僧侶の訴訟無きに依りて、衆徒の沙汰に及ばず。然る間、去んじ春、彼の山の住僧等、来たりて当山に訴へて云はく、「是、延暦寺の末寺也。応徳の寺牒、尤も証験に足れり」と云々。覚宗、P1141(七八オ)彼の別当の職に任せ、非法濫行、日を遂ひて倍増し、愁へを積みて枕と為す。結句、当山を以て薗城寺の末寺と為さんと欲すてへり。当山は本より本寺无きに非ず。就中、日吉の客人宮は白山権現也。垂跡、彼の神慮を測るに、定めて其の故有らむか。叡慮忽ちに変ず。君の不明に非ず、臣の不直に非ず。我が山の仏法、将に以て滅びんとする兆也。愁へて余り有り。蒼天を仰ぎて涙を押さへ、悲しみて何が為ん。中丹に丘して魂を銷す。衆徒若し勅命に乖違せば、千僧の公請に応ずべからず。衆徒若し朝威を忽緒せば、愁へを懐きて一山の騒動を止むべからず。裁報の処、何ぞ〓迹(きやうしやく)無からむ。望み請ふらくは、曲げてP1142(七八ウ)恩恤を垂れ、白山平泉寺を以て、旧の如く天台の末寺と為すべき由、裁許せられば、将に浄行三千の愁吟を慰めて、弥仙院数百の遐齢を祈り奉らむ。仍りて勒状、謹みて解す。
久安三年四月 日
とぞ書きたりける。此の申し状に依りて、公卿僉議有りて、山門に付けらるべく院宣を下されて云はく、院宣を被りて稱はく、衆徒の騒動、制止に拘はらず、事濫訴為り。茲に因りて、且は梟悪の輩を禦がんが為、且は蜂起の類を停めんが為に、先例に任せてP1143(七九オ)武士を儲けらるる所也。而るに、勇士、鉾を競ひて雌雄を決せんと欲る由、洛中に謳歌し、山上に風聞す。既に叡慮に非ず。仍りて、武士乃ち群を解いて本国に返し遺し畢(を)はんぬ。何に況や、今度、公請と云ひ、神事と云ひ、只勅命を専らにして、勤行せしむる由、披陳の旨、叡念の中に争か哀憐無からん哉。仍りて僧正覚宗云はく、彼の白山平泉寺を以て延暦寺の末寺たるべき由、宣下せらるべし。但し、自今以後、末寺庄薗の事に依りて、非道の訴へを致すべからず。此の条に於いては、殆諸衆の誹謗を招くか。一山の瑕瑾を残すに似たり。然るに、御帰依の僧浅からずして、遂に非を以て理と為して、裁許せらるる所也。各歓喜の掌(心)を合はせて、百二十年之算を祈り奉るべき由、仰せ遣はすべきP1144(七九ウ)者也。宣に依りて、上啓件の如し。
久安三年四月廿七日 民部卿奉
とぞ書きたりける。昔、江中納言匡房の申されける様に、「神輿を陣頭へ振り奉りてへ訴申さむ時は、君いかが御計らひ有るべき」と申されたりけるには、「げに黙止しがたき事なり」とこそ仰せられけれ。
卅一 〔後二条関白殿滅び給ふ事〕 S0131
堀河院御宇、去んぬる嘉保元年〈甲戊〉、頼義〔 〕男、美濃守源義綱朝臣、当国の新立の庄を顛例する間、山の久住者円応を殺害す。之に依りて、山門欝り深くして、同じき十月廿四日、此の事を訴へP1145(八〇オ)申さむとて、寺官神官を先として大衆下洛する由風聞ありしかば、武士を河原へ差し遺して防かる。然るに、寺官等三十余人、申文を捧げ、押し破りて陣頭へ参上せむとしけるを、師通後二条関白殿、中宮大夫師思が申状に依りて、御侍大和源氏中務丞頼治を召して、「只法に任せて当るべき也」と仰せられければ、頼治承りて防きけるに、猶大内へ入らむとする間、頼治が郎等散々に射る。疵を蒙る神人六人、死ぬる者二人、社司諸司等四方に逃げ失せぬ。誠に山王の神襟、いかばかりか思し食すらむとぞ見えける。中にも八王子の祢宜友実に矢立ちたりけるこそあさましけれ。
大衆、憤満の余り、同廿五日、神輿を中堂へ振り上げ奉り、P1146(八〇ウ)祢宜をば八王子の拝殿に舁き入れて、静信・定学二人を以て関白殿を呪咀し奉る。其の啓白の詞に云はく、「吾等が菁種の二葉よりおほし立てたまふ、七の社の神達、左右しかの耳ふり立てて聞き給へ。(茄物に合ひてこしがらうで)山王の神人・宮仕射殺し給ひつる、生々世々に口惜し。願はくは、八王子権現、後二条関白殿へ鏑矢一つ放ち当て給へ。第八王子権現」と、たからかにこそ祈請しけれ。其の比の説法表白は、秀句を以て先とす。申上の導師は忠胤僧都とぞ聞こえし。江中納言匡房申されけるは、「師忠が申状、甚だ神明の恥辱に及ぶ。哀れ亡国の基哉。宇治殿の御時、大衆張本とて、頼寿・良円等を流さるP1147(八一オ)べきにて有りしに、山王の御詫宣掲焉かりければ、即ち罪名を宥められて、様々に御おこたりを申させ給ひしぞかし。されば此の事いかがあらんずらむ」と、疑ひ申されけり。さても不思議なりしには、八王子の御殿より鏑矢の声出でて、王城をさして鳴りて行くとぞ、人の夢には見えたりける。其の朝、関白殿の御所の御格子を上げたりければ、只今山より取りて来たる様に、露にぬれたる樒一枝、立ちたりけるこそおそろしけれ。やがて、後二条の関白殿、山王の御とがめとて、重き御労りを受けさせ給ふ。
母上大殿の北の政所、斜めならず御歎き有りて、御様をやつしつつ、賎しき下臈の為をして、P1148(八一ウ)日吉の社に御参籠有りて、七日七夜が間祈り申させ給ひけり。先づ顕はれての御祈りには、百番の芝田楽、百番の一つ物、競馬、矢鏑馬、相摸、各百番、百座の仁王講、百座の薬師講、一〓手半の薬師百体、等身の薬師一体、并びに釈迦・阿弥陀の像、各造立供養ぜられけり。又御心中に余の御立願あり。御心の中の事なれば、人争か知り奉るべき。
それに不思議なりし事は、八王子の御社にいくらも並み居たるまゐり人の中に、みちの国よりはるばると上りたりける童神子、夜半ばかりに俄に絶え入りけり。遥にかき出だして祈りければ、程無く生き出でて、立ちて舞かなづ。人奇特の思ひをP1149(八二オ)成して是を見る。半時ばかり舞ひて後、山王下りさせ給ひて、様々の御詫宣こそおそろしけれ。「衆生等たしかに承はれ。我円宗の教法を守らんが為に、遥かに実報花王の土を捨てて、穢悪充満の塵に交はり、十地円満の光を和げて、此の山の麓に年尚し。鬼門の凶害を防かんとては、嵐はげしき嶺にて日をくらし、皇帝の宝祚を護らん為には、雪深き谷にて夜を明かす。抑凡夫は知るや否や、関白の北の政所、我が御前に七日籠らせ給ひて、御立願さまざまなり。先づ第一の願には、『今度殿下の寿命助けてたべ。さも候はば、八王子の社より此の砌まで廻廊作りて、衆徒の参社の時、雨露の難をP1150(八二ウ)防くべし」と。此の願、誠に有り難し。されども、吾が山の僧侶、三の山の参籠の間、霜雪雨露にうたるるを以て、行者の功を哀れみて和光同塵の結縁として、此の所を卜めて我にちかづく者を哀れまんとなり。第二には、『三千人の衆徒に、毎年の冬、小袖一つ着せん』との願、是又請け思し食されず。其の故は、九夏三伏の暑きには、汗を拭ひて終日に三大即是の〓(はなぶさ)を手向け、玄冬素雪の寒きにも、身を忘れて通夜止観明浄の月を翫ぶを以て、止住僧侶の行とせり。第三には、『自ら一期の間、月の障りを除きて、都のすまひを捨てて宮籠に交はりて宮仕ひ申さむ』となり。此の願殊に糸惜し。然りと雛も、大殿の北政所程の人P1151(八三オ)を、宮籠の者に並べ奉らむ事、叶ふまじ。第四の願には、『御娘五人の姫君、何れも王城一の美女也。彼を以て芝田楽せさせてみせ進らせん』との御志切なれども、摂政関白の御娘達、いかがさ様の振舞をばせさせ奉るべき。第五には、『八王子の御社にて、毎日退転なく法花問答講行ふべし』となり。此等の御願共、何れも疎かならねども、法花問答講は誠にあらまほしくこそ思し食せ。今度の訴訟は無下にやすかりぬべき事を、御裁許無くして、師通・頼治に仰せて我を馬の蹄に蹴さするのみならず、神人・宮仕射殺され、人多く疵を蒙りて、泣く泣くまゐりて我が御前にて訴へ申す事が心P1152(八三ウ)うければ、いかならむ末の代までも忘るべしとも思し食さず。彼等に立つところの矢は、併しながら和光垂跡の御はだへに立ちたるなり。実・虚言は是を見よ」とて、肩脱ぎたるをみれば、左の脇の下、大なる土器の口ほど穿げのきたるこそ奇特なれ。「これがあまりに心うければ、いかに申すとも始終の事は叶ふまじ。一定法花問答講行はすべくは、三年が命を延べ奉らむ。それを不足に思ひ給はば力及ばず」とて、山王上がらせ給ひけり。母上人に語らせ給はねば、たれ漏らしつらむと疑はせ給ふ方も無かりしに、御心の中の事どもありのままに御詫宣有りしかば、いとど心肝に染みて貴くぞ覚えける。P1153(八四オ)泣く泣く申させ給ひけるは、「たとひ一日片時長らへ候ふとも、ありがたうこそ候ふべきに、まして三とせが命をのべて給はらむ事、しかるべうさふらふ」とて、日吉の社を御下り有りて、都へ入らせ給ひけり。やがて、殿下の御領、紀伊国田仲庄と云ふ所、永代寄進せられけり。されば、今の代に至るまで、法花問答講毎日退転なしとぞ承る。
かかりし程に、後二条関白殿、御病かるませ給ひて、元の如くに成らせたまふ。上下喜びあはれしほどに、三とせの過ぐるは夢なれや、永長二年に成りにけり。六月廿一日、又後二条関白殿、山王の御とがめとて、御ぐしのきはにあしき御瘡出で来させ給ひて、打ち臥さP1154(八四ウ)せ給ひしが、同じき廿七日、御年三十八にて、つひに隠れさせ給へり。御心の武さ、理のつよさ、さしもゆゆしくおはせしかども、まめやかに今はの時にも成りしかば、御命を惜しませ給ひける也。誠に惜しかるべき御よはひなり。四十にだに満たせ給はで、大殿に先立ちまゐらせさせ給ふこそ悲しけれ。必ずしも父を先立つべしと云ふ事は無けれども、生死のおきてに随ふ習ひ、万徳円満の世尊、十地究竟の大士達も力およばせ給はず。慈悲具足の山王利物の方便なれば、御とがめ無かるべしとも覚えず。彼の義綱も程なく自害して、一類皆滅びけり。師忠も程無く失せにけり。昔も今も山王の御威光は恐るべき事とぞ申し伝へたる。P1155(八五オ)
惣じて代々の帝、北嶺を崇重せらるる事、他山に越ゆ。仏法・王法、互に之を護れば、一乗・万乗、共に盛り也。されば、「山門の訴訟は、只衆徒の歎き、山王独りの御憤りにも限るべからず。別しては国家の御大事、惣じては天下の愁ひなり。神国に住みて神代を継ぎ、神を崇め給ふ事、朝家の徳政なれば、山王にかたさり御しても、などか御裁許無からん」とぞ、人傾き申しける。誠に仏法・王法は五岳(牛角歟)の如し。一も闕けては有るべからず。法有れば国静か也。仏法若し滅びなば、王法何ぞ全からむ。山門若し滅亡せば、
円宗何か存すべき哉。
世、末法に移りて既に二百余歳、闘諍堅固の時に当たれり。人魔・天魔の力強くして、人の心摂まらず。
凡そ叡山の地形の体を見るに、師子の臥せるに似たりとぞ承はる。P1156(八五ウ)人の心、住所に似たる事、水の器に随ふが如しと云へり。居を高嶺に卜め、鎮にけはしき坂を上り下れば、衆徒の心武くして、〓慢(けうまん)を先と為。されば、昔将門、宣旨を蒙りて御使に叡山に登りけるが、大獄と云ふ所にて京中を直下すに、僅かに手に挙る計りに覚えければ、即ち謀叛の心付きにけり。白地の登山、猶然なり。何に況や、旦暮の経歴に於いてを哉。
抑延暦寺と申すは、伝教大師草創の砌、桓武天王の御願也。伝へ聞く、伝教大師、御年十九と申す延暦四年七月の比、叡山に攀ぢ登り給ひて、伽藍を建立し、仏法を弘めむとて、本尊を作り奉らんが為に山中に入り給ひて、「利益衆生の仏像と成るべき霊木やおはする」と、声を上げて叫び給ひけるに、虚空蔵の尾の北P1157(八六オ)なる林の中に、「ここにあり」とぞ答へける。彼の霊木を切りて、大師手づから自ら薬師如来の形像をぞ刻み顕し給ひける。一たび削りては、「普く長夜の闇を照らし給へ」と、削る度に礼拝し給へば、御頭より始めて、面像顕れ御す。御胸の程にも成りしかば、大師礼し給ふ毎に、霊像頭を低れてうなづき給ふ。
其の時、衆生済度をば事請けし給ひぬ。「あなかしこ、一人も漏らし給ふな」とて、造畢し給ひにけり。長五尺五寸の皆金色の立像也。同じき七年に本堂を造りて安置し奉り給へり。慈覚大師、彼の仏像と常に物語し給ひけるとかや。相応和尚ばかりぞ、御声をば聞き給ひける。
同じき十三年、長岡京より平安城に遷りて、皇居P1158(八六ウ)定められけるに、鬼門の方に当たりて高き嶺あり。「彼の嶺に伽藍を建てば、都の凶害有るべからず」と、帝思し食して、伝教大師に仰せ合はせられければ、「吾が寺を君に献るべし」とて、本仏薬師如来は御息災の御ため尤も相応し給へり。造立の次第など細かく申させ給ひければ、天皇大きに叡感有りて、大師と深く師檀の契りを結び給ひて、御願寺と定められにけり。帝余りに当山を執し思し食して、御詞のつまにも「我が山」とぞ仰せ有りける。されば、近来も山門を「我が山」と申すは、彼の御詞の末とかや。大師は「我がたつ杣」とも宣へり。叡慮に比へるが故に、「比叡山」とも名づく。又「叡岳」とも云ふなるべし。眺望余所に勝れて、四方遠く晴れたるが故に、P1159(八七オ)「四明山」とも名づくとかや。又、天台宗の寺なるが故に、「天台山」とも名づけたり。大体、唐の天台山に似たりと云へり。
さても天台宗は、南岳・天台、共に霊山の聴衆として、震旦に出で給ひて仏法を弘め給ひしより、師資相承せり。震旦国に鑑真和尚と云ひし人、玄義・文句・止観の三大部を持ちて本朝へ渡りしに、機根堪へざりしかば、石の室に納めて披露せざりしを、伝教大師、諸宗の教相を伺ひ給ふに、天台の法文に心付き給ひければ、我が山に流布し給ひて、諸宗の明徳を〓[口+屈](くつ)して開講の論義を談ぜられけるに、理崛猶極まらず思はれければ、同じき廿三年四月に、御年三十八にして入唐す。先づ彼のP1160(八七ウ)聖主に奏して天台の遺跡を巡礼し給ひけるに、一の宝蔵あり。天台大師入滅の朝より今に至るまで、鎰無くして開く人なし。大師の記文に云はく、
「吾滅後に東国より上人来たりて、此の宝蔵をば開くべし」と云々。伝教大師、是を聞き給ひて、懐より鎰を取り出だし、「是は、本朝にて伽藍建立のため地を引きし時、土の中より掘り出だしたりしを、様有るべしと思ひて、昼夜に身を放たず持ちたり。若し此の鎰や合ひたる、試みに開けて見む」と宣ひて、件の鎰を指し合はせ給へば、宛も符契の如くして、宝蔵開きにけり。聖主に此の由を奏し申しければ、前世の宿縁浅からざる事を叡感有りて、彼の庫蔵に納むる所の聖財、悉く大師にP1161(八八オ)渡し奉り給へり。則ち大師是を請来し給ひて、吾が山にぞ納められける。今の御経蔵と申すは是也。伝教大師常儀の道具、章安大師の渡し給へる聖教等、皆彼の経蔵に納まれり。此の中に、天台の一の箱と名づけて、一生不犯の人一人して見る事にて、輙く開く座主希なり。
彼の渡唐の時、道〓和尚・行満座主に遇ひて、教相を伝持し、順暁あざりに金胎両部の秘法を伝授して、同じき廿四年六月に帰朝し給へり。顕密の奥義を極められしかば、一天仰崇し、四海帰伏す。三仙の長講を制作して、千秋の宝祚を祈り、六基の塔婆を六州に分かち居ゑ奉りて、万春の安寧を祈請し給ふ。P1162(八八ウ)さればにや、天下治まりて、国郡豊かなりき。
次に常行堂の阿弥陀は、慈覚大師帰朝の時、海上に示現して光を放ち声を上げて引声を唱へ給ひし尊像を、大師迎へ奉り安置し給へる、自然涌出の仏也。彼の大師、横河の椙の洞にて三年の間行ひて書写し給へる如法経、我が朝の有勢無勢の神達、昼夜に結番して守護し給ふとかや。無動寺の本尊は、相応和尚生身の不動を拝み奉らんと誓ひて、北方へ向かひてあこがれ御しける処に、文殊の化身なる老翁に教へられて、桂河の第三の瀧に至りつつ、丹精の誠を致して祈誓せられければ、生身の不動出現し給へり。和尚随喜の涙を流しつつ、又「都率天P1163(八九オ)に至りて、生身の弥勒を拝せさせ給へ」と祈念せられければ、御肩にのせつつ、程無く都率の内院に上り給ひて、現身に弥勒菩薩を拝し奉り給ひける、生身の不動尊是也。
此の外、大権の垂跡、其の数多し。高僧の行徳新たなるも多かりき。彼の恵亮脳を摧き、尊恵剣を振るひし効験、誰人か肩を並べん哉。惣じて、西塔・横川、大師先徳の造立、利生結縁の本尊、数を知らず。其の霊験、繁多也。是皆、仏日照覧を表示し、聖朝安穏の奇瑞に非ず哉。誠に天下無双の霊山、鎮護国家の道場なり。桓武天皇の勅願なれば、代々の賢王聖主、皆我が山を崇め給ひ、諸院諸堂、勅願に非ずといふこと無し。堂塔・行法、P1164(八九ウ)今に断へず。星霜四百余廻、薫修幾くか積もるらむ。法は是一乗三密の妙法、仏法の源底に非ず哉。人は止観舎那の行、菩薩の大戒を持てり。
就中、日吉山王七社、王城守護の鎮将として、鬼門の方に跡を垂れ給へり。此の日吉山王と申すは、欽明天皇の御時、三輪の明神と顕れて、大和国に住み給ひき。天智天皇の御時、大和国より此の砌へ移り給ひて、当山草創に先立ち給ふ事百余歳、後に一乗円宗を弘めらるべき事を鑑み給ひけるにや。或いは南海の面に五色の波立ちけるが、「一切衆生悉有仏性」と唱へける、其の御法の声を尋ねて、此の砌へは移り御したりとも申しき。始めは大津の東浦に現じ御して、P1165(九〇オ)其より西の浦に移らせ給ひて、田仲の常世が船に召して、幸崎の琴の御館、牛丸が許へ入らせ給ひにけり。牛丸、直人に非ずと思ひて、荒薦を敷きて居ゑ奉りて、常世、粟の御飯を進らせたりければ、常世に託し給ひけるは、「汝我が氏人と成りて、毎年出仕の時、粟の御飯を供御に備ふべし」とぞ宣ひける。今の大津の神人は、彼の常世が末葉也。其の時の儀式に准へて、卯月の御祭の時、必ず粟の御々供を献るとかや。
さて、牛丸が船に乗り給へば、いづちへ渡らせ御すやらむと怪しみ見たてまつるほどに、彼の庭前の大木の梢にぞ、現ぜさせ給ひける。牛丸、不思議の瑞相を拝みて、奇異の思ひを成す処に、「是よりP1166(九〇ウ)西北に勝地あり。汝、我が氏人として草を結びたらむを験にて、宝殿を造り奉るべし」と示し給へり。牛丸、「さて、御号をば何と号し奉るべきぞ」と申しければ、「竪に三点を立てて横に一点を引き、横に三点を引きて竪に一点を立つべし」と、教へ給へり。則ち、「山王」と云ふ文字也。牛丸、神明の教へに任せて、西北の方へ尋ね行きて見るに、封ゆひ給へる所あり。是を験として宝殿を造進し、大木の上に顕れ給ひたりし御影を摸し奉りて、祝はれ給へり。今の大宮と申すは是也。
爾りしより以降、大小の神祇、年々歳々に跡を垂れ給ひて、彼も此も眷属と成り給へり。二宮は狗留尊仏の時より神明と顕れ給ひにけり。始め修禅の北、横川のP1167(九一オ)西南に、大比叡と云ふ山の中に御しけるが、東南の麓に移住し給ひけるに、今の大宮来り給ひければ其の所を避らせ給ひて、樹去の西敷地に移住し給へり。
地主権現十禅師と申すは、天照大神の御子也。惣じて日域の地主にてぞ渡らせ給ひける。彼の三聖は、伝教大師に契りを結びて、吾が山の仏法擁護の鎮守として学徒を省み、円宗を守らんと誓ひ給ひて、三聖共出家授戒せさせ御し、同じく法号を授けられ給へり。唐の天台山の麓にも、山王垂跡御すと云へり。伝教は天台の化身なれば、権者の儀も合ひ給ひけるやらむと、貴くぞ覚ゆる。
住吉明神は、地主五代の尊也。始めは悪神として、一百一十の邪神P1168(九一ウ)に伴ひて仏法を信じ給はざりけるに、伝教大師、彼の御社に詣でて仁王経を講読せられければ、邪心を改め、仏法の大檀那と成りて、円頓の教を守らんと誓はせ給ひて、大宮に移住せさせ給へり。東竹林、是也。彼の御託宣に云はく、「天慶年中に凶徒を集誅せしには、吾大将として、山王は副将軍なりき。康平の官軍には、山王大将、吾副将軍たりき。凡そ吾が朝の大将として夷賊を征伐する事、既に七ヶ度なり。山王は鎮へに一乗の法味に飽満し給へるが故に、勢力吾に勝れ給へり」とぞ示し給ひける。八幡若宮も、伝教大師に契りを結び給ひて、我が宗を守らんとて、大宮に御す。西竹林、是也。P1169(附箋)
卅二 〔高松の女院崩御の事〕 S0132
安元二年六月十二日に、高松女院隠れさせ給ひにけり。御年三十三。是は、鳥羽院第六姫宮、二条院后にて御しき。永万元年に、御歳二十二にて御出家ありき。大方の御心ざまわりなき人にて、惜しみ奉りけり。P1170(ナシ)P1171(九二オ)
卅三 〔建春門院崩御の事〕 S0133
同七月八日、建春門院隠れさせ給ひぬ。御歳三十五。是は贈左大臣時信の御娘なり。法皇の女御、当帝の御母儀なり。
先年不例の時、御願を果たさむとて、御歩行にて御熊野参詣ありけり。四十日に本宮へ詣で着かせ給ひて、権現法楽の為に胡飲酒と云ふ舞をまはせてましましけるに、俄に大雨ふりけれども、舞を止めず、ぬれぬれ舞ひければ、宣旨を反す舞なれば、権現めでさせ給ひけるにや、忽ちに天晴れて、さまざまの霊瑞ども有りけり。
さて、御下向有りて、幾程を経(へ)ずして、去んじ春比より御身の中苦しくして、世中をあぢきなく思し食して、去んぬる六月十日、院号御辞退あり。今朝に御出家、夕にP1172(九二ウ)無常の道に趣き給ふ。院・内の御欺き、何れも愚かならず。天下諒闇の宣旨を下さる。
其の御孝養の為に、殺生禁断と云ふ事を行はれける。折節、伯耆僧都玄尊、近江国大鹿庄を召されて歎きけるが、御歎き漸く期過ぎて、人々御目さまし申しける時、玄尊立ちて、「殺生禁断とは」と云ふ舞を至す事、三度ありき。院の御前近く参りて、「大鹿は取られぬ」と申して走り入りぬ。院ゑつぼに入らせましまして、彼の大鹿庄を返し賜りにけり。
卅四 〔六条院崩御の事〕 S0134
同じき廿七日、六条院崩御なる。御年十三。故二条院の御嫡子ぞかし。御歳五歳にて太上天皇の尊号ありしかども、P1173(九三オ)未だ御元服も無くて崩御なりぬるこそ哀なれ。加様に打ち続き天下に歎きのみ多く、人の心の定まらざる事は、偏へに平家の一門のみ栄えて一天四海を掌に挙りて、先例に違へる 務 を申し行へる故とぞ、内々は申しあひける。
卅五 〔平家意に任せて振る舞ふ事〕 S0135
推古天皇の御宇、聖徳太子、十七箇条憲法を作り給ひて、世の不調なる事を顕し給ひしかども、大方の禁め許りにて、当代の御煩ひに非ざりき。文徳天皇の御宇、不比等の大臣律令を撰び給ひき。各十巻の書を作りてましまししかども、是を閣きて僻まれしかば、行はれざりき。其の後百余年を経て、淳和帝の御宇にこそ、世乱れ直ならざりしかば、法令を先として代をP1174(九三ウ)治め給ひて四百余歳、其より以来、代は日を送りて衰へ、人は時々に随ひて僻めり。平治の逆乱の時までは、源平両氏肩を並べて互ひに朝敵を鎮められき。此の両氏、皇化に随ひ奉る歟と見えし程に、平治以後、源氏滅びて、平家奢りて恐るる方無し。太政入道、天下の政を執行して、非義非例を重ねしかば、争か神慮の恵み然るべき。「政務を執り行はむ日は、我が心不調にしては有るべからず。上鎮まりて下乱れず」と云へり。「身正しくして影曲む事無し」とこそ申すめれ。されば、「人の煩ひを致すべからず」とぞ人申しける。
卅六 〔山門の衆徒、内裏へ神輿を振り奉る事〕 S0136
治承元年丁酉四月十四日、御祭りにて有るべかりけるを、大衆打ち留めて、同十三日辰剋に、衆徒、日吉七社の御輿、同八王子・P1175(九四オ)客人・十禅師等の三社、山一社の神輿を陣頭へ振り下したり。「師高を流罪せらるべき由、訴へ申さん」とて、西坂本・下り松・切堤・賀茂河原・忠須・梅多田・東北院・法城寺の辺、神人・宮仕充満して、声を上げてをめき叫ぶ。京・白河、貴賎上下集まり来りて之を拝し奉る。其れに就きて、祇園に一社、京極に二社、北野に二社、都合十一社の神輿を陣頭へ振り奉る。其の時の皇居は里内裏、閑院殿にて有りけるに、既に神輿、二条烏丸室町辺に近づき御す。其の時、平氏の大将は小松内大臣重盛公、俄事なりければ、直衣に衵さしはさみて、金作りの太刀帯きて、連銭葦毛の馬の太く逞ましきに黄伏輪P1176(九四ウ)の鞍置きてぞ乗られける。伊賀・伊勢両国の若党共三千余騎相具せられたり。東面の左衛門陣を固めたり。
源氏の大将兵庫頭頼政は、結紋紗の狩衣に紫の指貫生縊りて、火威の鎧に、切符矢に重籐の弓の真中取りて、二尺九寸のいかもの作りの太刀はきて、烏帽子の縁り引き切りて押し入れて着るままに、鹿毛なる馬に白伏輪の鞍置きて乗りたりけり。連の源太、授・省・競・唱を始めとして、一人当千のはやり男の若党三百余人相具して、北の陣を固めたり。神輿、彼の門より入り給ふべき由聞えければ、頼政馬より下りて甲を脱ぐ。大将軍かくすれば、家子郎等も又此くの如し。P1177(九五オ)大衆是を見て、様有らむとて暫く神輿を舁き留めたてまつる。
頼政が郎等、渡部の競の瀧口を召して、大衆の中へ使者に立つ。競は生年三十四、長七尺ばかりなる男の、白く清げなるが、褐衣の鎧直垂に、大荒目の鎧の小桜を黄に反したる、裾金物打ちたるに、豹の皮の尻鞘の大刀帯きて、黒つ羽の征矢の角筈入れたる廿四指したる、頭高に負ひ成して、塗籠藤の弓のにぎり太なるに、大長刀、歩行走に持たせて、弓手の脇に相具したり。鹿毛なる馬の太く逞しきに黒鞍置きてぞ乗りたりける。神輿近付かせ給ひければ、馬より飛び下りて、甲をぬぎ左肩にかけ、P1178(九五ウ)弓取り直し、御輿の前に跪きて申しけるは、「此の北の陣をば、源の兵庫頭頼政の固めて候ふが、大衆の御中へ申せと候ふは、『昔は源平両家左右に並びて、少しも勝劣候はざりしが、源氏においては保元・平治の比より皆絶え失せて、大略無きが如し。六孫王の末葉とては、頼政ばかりこそ候へ。山王の御輿、陣頭へ入らせ御し候ふべき由、其の聞え候ふ間、公家殊に騒ぎ驚き御して、源平の軍兵四方を固むべき由、宣旨を下され候ふ。王土にはらまれながら勅命を対捍せむも其の恐れ候ひて、憖に此の門を固め候ふ。又、今度山門の御訴訟、理運の条勿論に候ふ。御聖断遅々こそ余所にても遺恨に候へ。其の上、頼政P1179(九六オ)元より神明に首を傾け奉りたる身にて候へば、わざと此の門よりこそ入れ奉るべう候ふ間、門をこそ開けて候へ。但し、自今以後に於いては、永く弓矢の道こそ離れはて候はんずれ。神威に怖れ奉りて御輿を入れ奉り候はば、綸言を軽んずる過あり。宣旨を重んじて神輿を防き奉らば、冥の照覧測り難し。進退惟谷れり。且は又、小松内大臣以下の官兵、大勢にて固めて候ふ門々をば破り給はで、頼政僅かなる無勢の所を御覧じて入らせ御しぬる物ならば、山の大衆は目だり印治をしけりなど、人の申し候はん事も、山の御名折にてや候はんずらむ。且は殊におどろおどろしく天聴を驚し奉らんと思し食さP1180(九六ウ)れ候はば、東面の左衛門の陣は小松内大臣三千余騎にて固めて候ふ。多
勢の門を打ち破りて入らせ御し候はば、弥よ神威の程も顕れて、大衆の御威も今一気味にて候ひぬべければ、神輿をば左衛門の陣へ廻し入れ奉らるべうもや候ふらむ。所詮かく申し候はん上を、猶破り給はば、力及ばず候ふ。後代の名惜しく候へば、命をば山王大師に奉り、骸をば神輿の前にて曝し候ふべしと申せ』と候ふ。御使は、渡部党に箕田の源七綱が末葉、競の滝口と申す者にて候ふ」とて、射向の袖引きつくろひて、畏りてぞ候ひける。
大衆是を聞きて、「何条別の子細にや及ぶべき。只破れ」と云ふ者もあり、又、P1181(九七オ)「暫く僉議せられよや」と云ふ者もあり。其の中に、西塔法師に摂津竪者毫雲と申しける、三塔一の言ひ口、大悪僧なりけるが、萌黄の糸威の腹巻、衣の下に着、太刀脇にはさみ、進み出でて申しけるは、「今頼政が条々申し立つる所、其の謂はれ無きに非ず。神輿を先立て奉りて、衆徒訴訟せらるるならば、善悪大手を打ち破りてこそ、後代の名もいみじからめ。且は又、頼政は六孫王より以来、弓箭の芸に携はりて、未だ其の不覚を聞かず。武芸に於いては当職たる者をいかがはせむ、加之、風月の達者、和漢の才人にて世に聞ゆる名人ぞかし。一年、故院(近衛院)の御時、鳥羽殿にて中殿御会に、『深山の花』と云ふ題を簾中よりP1182(九七ウ)出だされたりけるを、当座の事にて有りければ、左中将有房など聞えし歌人も読み煩ひたりしを、頼政召しぬかれて、則ち仕りたり。
み山木のその梢ともわかざりしに桜は花にあらはれにけり
と読みて、叡感に預りしぞかし。弓箭取りても並ぶ方なし。歌道の方にもやさしき男にて、山王に頭を傾け進らせたる者の固めたる門よりは、争か情なく破りて入れ奉るべき。頼政が申し請ふ旨に任せて、東面の左衛門陣へ神輿を舁き直し進らせよや」と云ひければ、「尤々」と一同して、左衛門の陣へ舁き奉る。
御神宝朝日に輝きて、日月の光り地に落給へP1183(九八オ)るかと疑はる。軈神輿を進め奉りて、左衛門の陣へぞ押し入りける。閑院殿へ神輿を振り奉る事、是始め也。軍兵馬の轡を並べて、大衆神輿を先として押し入らむとする間、心より外の狼藉出で来たりて、武士の放つ矢、十禅師の御輿にたつ。神人一人、宮仕一人、矢に中たりて死ぬ。其の外、疵を被る者多し。かかる間、大衆神人のをめき叫ぶ声、梵天までも及ぶらむと、おびたたしくぞ聞えける。貴賎上下悉く身の毛竪つ。大衆、神輿を陣頭に捨て置き奉りて、泣々本山へ帰り登りにけり。
卅七 〔毫雲の事 付けたり山王効験の事 付けたり神輿祇園へ入れ奉る事〕 S0137
彼の毫雲、訴訟有りて後白河院へ参りたりけるに、折節、法皇南殿に出御あり。或る殿上人を以て、「何者ぞ」と御尋ねありP1184(九八ウ)けるに、「山僧、摂津の竪者毫雲と申す者にて候ふ」と奏す。「さては山門に聞ゆる僉議者ごさむなれ。己が山門の講堂の庭にて僉議すらむ様に、只今申せ。訴訟有らば直に御聖断有るべき」由、仰せ下さる。毫雲頭を地に傾けて、「山門の僉議と申し候ふは、殊なる事にて候ふ。先づ、王の舞を舞ひ候ふには、面摸の下にて鼻をしかむる事の候ふなる定に、三塔の僉議の様は、大講堂の庭に三千人の大
衆会合して、破れたる袈裟にて頭を裹みて、入堂杖とて二三尺計り候ふ杖を面々に突きて、道芝の露打ち払ひて、小さき石を一つづつ持ち候ひて、其の石に腰を係け、居並みて候へば、同宿なれども互ひに見知らP1185(九九オ)ぬ様にて候ふ。『満山の大衆、立ち廻られ候へや』とて、訴訟の趣を僉議仕り候ふに、然るべきをば『尤々』と同じ候ふ。然るべからざるをば、『謂はれ無し』と申し候ふ。我が山の定まれる法に候ふ。勅定にて候へばとて、ひた頭にては争か僉議仕り候ふべき」と申したりければ、法皇興に入らせ御して、「さらば、とく出で立ちて、参りて僉議仕れ」と仰せ下さる。
毫雲、勅定を蒙りて、同宿十余人に頭裹ませて、下部の者共には、直垂・小袴などを以てぞ、頭をば裹ませける。已上十二三人ばかり引き具して、御前の雨打の石に尻係けて、毫雲、己が訴訟の趣、事の始めより一時申したりければ、同宿共、兼ねて議したるP1186(九九ウ)事なれば、一同に「尤々」と申したり。法皇興に入らせ御して、当座に御勅裁蒙りたりし毫雲とぞ聞えし。
蔵人左少弁、仰せを奉りて、先例を出羽守師尚に尋ねらる。「保安四年〈癸卯〉七月、神輿入洛の時は、座主に仰せて神輿本山へ送り奉ららる。又、保延四年〈戊午〉御入洛の時は、祇薗の別当に仰せて、神輿、祇薗社へ送り奉る」と勘へ申しければ、殿上にて俄かに公卿僉議有りて、「今度は保延の例たるべし」とて、神輿を祇薗社へ渡し奉るべき由、諸卿一同に申されければ、未の尅に及びて、彼の社の別当、権大僧都澄憲を召し、神輿を迎へ奉るべき由、仰せ下さる。
澄憲申されけるは、「天下無双P1187(一〇〇オ)の垂跡、鎮護円宗の霊神也。白昼に塵灰の中に蹴立て進らせて当社へ入れ奉る事、生々世々口惜しかるべし。王法は是仏法の加護を以て国土を持ち給ふに非ずや。
されば、昔、仁明天皇の御宇弘仁九年、諸国飢饉し疫癘衢に起こりて、死人道路に充つ。其の時、帝、民を省み給ふ御志深くして、諸寺諸山に仰せて是を祈らせ給ひけれども、更に其の験無し。帝弥よ歎き思し食して、叡山の衆徒に仰せて是を祈るべき由宣下せらる。三塔会合して、『此の御祈り何が有るべかるらむ。昔より雨を祈り日を祈る事は有りしかども、飢饉疫癘立ち所に祈り留むる例、未だ承り及ばず。さればとて、辞し申さば王命P1188(一〇〇ウ)を背くに似たり。進退惟谷まれり』と云ふ衆徒もあり。又、『仏法の威験、疎かならず。飢饉なりとも、などか我が山の医王山王の御力にて退けたまはざるべきなれば、護国利民の方法、凶害消除の祈祷には、仁王経に過ぐべからず』とて、三千人の衆徒、異口同音に丹誠を致して、根本中堂・大講堂・文殊楼にして、七ヶ日の間、十四万七千余座の仁王経を講読し奉る。供養は地主十禅師の社壇にて遂げられにけり。
比は卯月半ばの事にや、飢饉温病に責められて、親死ぬる者は子歎きに沈み、子に後れたるは親穢れけるに依りて、瑞籬に臨む人も無し。爰を以て、導師説法の終方に、『卯月はP1189(一〇一オ)垂跡の縁月なれども、幣帛を捧ぐる人も無し。八日は薬師の縁日なれども、南无と唱ふる音もせず。緋の玉墻神さびて、引く四目縄の跡も無し』と申したりければ、衆徒哀を催しつつ、一度に感涙を流して衣の袖をぞぬらしける。
其の夜、帝の御夢想に、比叡山より天童二人京へ下りて、青鬼と赤鬼との多く有りけるを白払にて打ち払ひければ、鬼神共南を指して飛び行きぬと御覧じて、『本山の祈請已に感応して、病難も直りぬ』と思し食す霊瑞有りければ、帝、御夢の次第を御自筆にあそばして、御感の院(勅歟)宣を衆徒の中へ下されたりけるとぞ承はる。
即ち国土穏にしP1190(一〇一ウ)て、民の烟もにぎはひて、朝な夕なの煙絶えせざりければ、御門、古き歌を常に詠ぜさせ給ひけるとかや。
たかき屋にのぼりてみればけぶりたつたみのかまどはにぎはひにけり
かかる目出(めでた)く止む事無き御神を、白昼に雑人に交へ奉りて動かし奉らん事、心憂かるべし」と申して、日既に暮れ、秉燭に及びて、当社の神人・宮仕詣りて、御輿を祇薗社へ入れ奉る。
凡そ神輿入洛の事、其の例を勘ふるに、永久元年より以来、既に六ヶ度也。武士を召して防かるる事も度々也。然れども、正しく神輿を射奉る事、先例無し。今度十禅師の御輿に矢を射立つる事、あさましと云ふも愚かなり。「『人を怨むる神を怨むれば、国に災害起こる』と云へり。只P1191(一〇二オ)天下の大事出で来なむ」とこそ恐れあひけれ。
卅八 〔法住寺殿へ行幸成る事〕 S0138
十四日に大衆重ねて下るべき由聞えければ、夜中に主上腰輿に召して法住寺殿へ行幸なる。内大臣重盛以下、供奉の人々、非常の警固にて、直衣に失負ひて供奉せらる。左少将雅賢、闕腋の束帯を着、平胡〓(ひらやなぐひ)負ひて供奉せらる。内大臣の随兵前後に打ち囲みて、中宮は御車にて行啓あり。禁中の上下周章騒ぎ、京中の貴賎走り迷へり。関白以下、大臣諸卿、殿上の侍臣、皆馳せ参りけり。
「裁報遅々の上、神輿に矢立ち、神人・宮仕矢に当たりて死す。衆徒多く疵を被る上は、今は山門の滅亡此の時也」とて、「大宮・二宮以下の七社、講堂・中堂・諸堂P1192(一〇二ウ)一宇も残さず焼き払ひて山野に交はるべき」由、三千人一同に僉議すと聞えければ、山門の上綱を召して、「衆徒の申す所、御成敗有るべき」由、仰せ下さる。十五日、僧綱等勅宣を奉りて、子細を衆徒に相触れんとて登山する処に、衆徒等猶嗔りを成して追ひ返す。僧綱等、色を失ひて逃げ下る。
卅九 〔時忠卿山門へ上卿に立つ事 付けたり師高等罪科せらるる事〕 S0139
院より衆徒を宥められむが為に、「大衆の欝訴達すべき由、勅使と為て登山すべし」と仰せ下されけれども、公卿の中にも殿上人の中にも、「我上卿に立たん」と申す人無し。皆辞し申しける間、平大納言時忠、其の時は左衛門督にておはしけるを、登山すべき由、仰せ下されければ、時忠心中には「益無き事哉」と思はれけれども、君のP1193(一〇三オ)仰せ背き難き上、多くの人の中に思し食し入りて仰せ下さるる事、面目と存じて、殊にきらめきて出で立ち給へり。侍一人、花を折りて装束す。雑色四人、当色にて万づ清げにて、登山して大講堂の庭に立たれたり。
三塔の大衆、蜂の如く起こり合ひて、院々谷々よりをめき叫びて群集する有様、おびたたしなどは斜めならず。時忠卿、色を失ひ神を消して、打ちあきれて立たれたりけるに、衆徒等、時忠を見て弥よ嗔りて、「何故に時忠登山すべきぞや。返 々奇怪なり。既に山王大師の御敵なり。速やかに大衆の中へ引き入れて、しや冠を打ち落とし、足手を引き張り、本鳥切りて、湖に逆まにはめよ」と、音々に〓(ののし)りけるをP1194(一〇三ウ)聞きて、共に有りつる侍も雑色も、いづちか行きぬらむ、皆逃げ失せぬ。時忠危く思はれけれども、本よりさる人にて、乱の中の面目とや思はれけむ、騒がぬ体にて宣ひけるは、「衆徒の申さるる所、尤も其の謂はれあり。但し、人を損ずるは君の御歎きたるべき。非例を訴へ申さるる間、御裁許遅々する事は国家の法也。されども今御成敗有るべき由、仰せ下さるる上は、衆徒強ちに嗔りを成されん哉」とて、懐より小硯を取り出だして、諸司を召し寄せて水を入れさせ、畳紙を押し開きて一句を書きて、大衆の中へ投げ出だされたり。其の詞に云はく、「衆徒の濫悪を致すは魔縁の所行か。明王の制止を加ふるは善逝の加護也」とぞ書かれたりける。P1195(一〇四オ)諸司此の一筆を捧げて、さしもどどめく大衆の前毎に披露す。或る大衆是を見て、「面白くも書かれたる一筆哉」とて、はらはらとぞ泣きける。大衆面々に、「勝に面白く書きたり」と感じ合ひて、時忠を引き張るに及ばず、静まりにけり。大衆静まりて後、山門の訴訟達すべき由の宣旨をぞ披露せられける。其の時こそ、共なりつる者共も、事がらよげに見えければ、ここかしこより出で来て、主をもてなし奉りけれ。
時忠、一紙一句を以て、三塔三千の衆徒の憤りを休め、虎口を遁れけるこそ有難けれ。山上・洛中の人々、感じあへる事限りなし。「山門の衆徒は発向の喧しき計り歟とこそ存じつれ、理をも知りたりけるにこそ。争か御成敗P1196(一〇四ウ)無かるべき」など、各申し合ひけり。
さて、時忠卿、院の御所へ参られたりければ、「さても衆徒の所行は何に」と、取り敢へず御尋ねありけり。時忠、「大方兎も角も申すに及ばず候ふ。只山王大師の助けさせ給ひたるとばかり存じて、匍ふ匍ふ逃げ下りて候ふ。怱ぎ御裁報有るべく候ふ」と奏聞せられければ、此の上は法皇力及ばせ給はずして、廿日、加賀守藤原師高解官して、尾張国へ配流せらるべき由宣下せらる。其の状に云はく、
従五位上加賀守藤原朝臣師高、官を解き、位を尾張国に追ふこと
職事頭右中弁(権中納言イ)兼左兵衛督光能朝臣仰す。上卿別当忠雅仰す。右少弁藤原光雅、左大史小槻澄(隆イ)職に仰せて、P1197(一〇五オ)官符を作らしむ。参議平頼定卿、少納言藤原雅基等、御政御印。
官符に又仰せて云はく、検非違使右衛門志中原重成、早く配所へ追ひ遣すべし者ば、今月十三日、叡山衆徒、日吉の社の神輿を捧げ、勅制を軽んぜしめ、陣中に乱れ入らしむるに依りて、警固の輩、凶党を相禦ぐ間、其の矢、誤りて神輿に中たる事、図らずと雖も、何ぞ其の科を行はざらん。宜しく検非違使に仰せて、平利家・同家兼・藤原通久・同成直・同光(元イ)景・田使俊行等を召して、禁獄せしめ給ふべき者也。加賀守師高流罪、并びに神輿を射奉る官兵共六人禁獄の事、今日已にP1198(一〇五ウ)宣下し畢(を)はんぬ。件の間の事二通、之を遺す。此の旨を以て山上に披露せしめ給ふべき由、候する所也。恐々謹言
四月廿日 権中納言藤原光能
執当法眼御房へ
とぞ書かれたりける。追書に云はく、
禁獄の官兵等が夾名、山上に定めて不審せしむる歟。仍りて内々委しく尻付の夾名を相尋ね、一通相副へられ候ふ所也。禁獄人等、平俊家、字は平次、是は薩摩入道家季が孫、中務丞家資が子。同家兼、字は平五、故筑前入道家貞が孫、平内太郎家継P1199(一〇六オ)が子。藤原通久、字は加藤太、同成直、字は早尾十郎、馬允成高が子。同光景、字は新二郎、前左衛門尉忠清が子。田使俊行、難波五郎等也。かやうにこそは注されけれ。目代師経をば備前国府へ流されにけり。
四十 〔京中多く焼失する事〕 S0140
廿八日亥時計りに、樋口富小路より火出で来たる。折節、辰巳の風はげしく吹きて、京中多く焼けにけり。終には内裏に吹き付けて、朱雀門より始めて、応天門・会昌門・大極殿・豊楽院・所司八省・大学寮・真言院・勧学院・穀蔵院、冬嗣のP1200(一〇六ウ)大臣の閑院殿、惟喬の御子の小野宮、菅丞相の紅梅殿、梅殿、桃殿、良明大臣の高松殿、具平親王の秋を好みし千草殿、三代の御門の誕生し給ひし京極殿、忠仁公の染殿、清和院の貞仁公故一条院、山吹さきし故二条院、照宣公の掘河殿、萱御殿、高陽院、寛平法皇の亭子院、永頼の三位の山の井殿、紫雲立ちし公任の大納言の四条の宮、神泉薗の東三条、鬼殿、松殿、鳩井殿、橘の逸 勢、五条后の東五条、融の大臣の河原院、かやうの名所三十P1201(一〇七オ)余ヶ所、公卿の家だにも十六ヶ所焼けにけり。まして殿上人・諸大夫の家は数を知らず。地を払ひて焼けにけり。
樋口富小路よりすぢかへに戌亥の方を差して、車の輪計りなる火聚飛び行きければ、恐ろしと云ふも愚かなり。是直事に非ず。偏に叡山より猿多く松に火を付けて京中を焼くとぞ、人の夢に見えたりける。
大極殿は、清和天皇御時、貞観十八年四月九日始めて焼けたりければ、同十九年正月九日、陽成院の御位は豊楽院にてぞ有りける。P1202(一〇七ウ)元慶元年四月廿一日、事始め有りて、同三年十月八日にぞ造畢せられける。
後冷泉院の御宇天喜五年四(二イ)月廿一日に又焼けにけり。治暦四年八月二日事始め有りて、同年十月十日棟上ありけれども、造畢せられずして、後冷泉院は隠れさせ給ひぬ。後三条院の御宇延久四年十月十(五イ)日造り出だして、行幸有りつつ、宴会行はる。文人詩を献じ、楽人楽を奏す。
此の内裏は、四位少納言入道信西、勅宣を奉り、国の費も無く民の煩ひも無くして、一両年間P1203(一〇八オ)に造畢して行幸なし奉りし内裏也。今は世の末に成りて、国の力衰へて、又造り出ださむ事も難くや有らんずらむと歎きあへり。
平家物語第一本
平家物語 二
P1205(一オ)
一 天台座主明雲僧正被止公請事
二 七宮天台座主に補給ふ事
三 明雲僧正流罪に定る事
四 明雲僧正伊豆国へ被流事
五 山門の大衆座主を奉取返事
六 一行阿闍梨流罪事
七 多田蔵人行綱仲言の事
八 大政入道軍兵被催集事
九 大政入道院御所へ使を進る事
十 新大納言召取事
十一 西光法師搦取事
十二 新大納言を痛め奉る事
十三 重盛大納言の死罪を申宥給ふ事
十四 成親卿の北方の立忍給ふ事
十五 成親卿無思慮事
十六 丹波少将成経西八条へ被召事
十七 平宰相丹波少将を申請給ふ事
十八 重盛父教訓之事
十九 重盛軍兵被集事〈付周幽王事〉
廿 西光頸被切事
P1206(一ウ)
廿一 成親卿流罪事〈付鳥羽殿にて御遊事成親備前国へ着事〉
廿二 謀叛の人々被召禁事
廿三 師高尾張国にて被誅事
廿四 丹波少将福原へ被召下事
廿五 迦留大臣之事
廿六 式部大夫章綱事
廿七 成親卿出家事〈付彼北方備前へ使を被遣事〉
廿八 成経康頼俊寛等油黄嶋へ被流事
廿九 康頼油黄嶋に熊野を祝奉事
卅 康頼本宮にて祭文読事
卅一 康頼が歌都へ伝る事
卅二 漢王の使に蘇武を胡国へ被遣事
卅三 基康が清水寺に籠事〈付康頼が夢の事〉
卅四 成親卿被れ失は給ふ事
卅五 成親卿の北方君達等出家事
卅六 讃岐院之御事
卅七 西行讃岐院の墓所に詣る事
卅八 宇治の悪左府贈官等の事
卅九 三条院の御事
四十 彗星東方に出る事
P1207(二オ)
平家物語第一末
一 〔天台座主明雲僧正公請を止めらるる事〕 S0201
五月五日、天台座主明雲僧正、公請を止めらる。蔵人を遣して、如意輪の御本尊を召し返し、御持僧を改易せらる。即ち庁の使を付けて、今度神輿を捧げ奉りて陣頭へ参りたる大衆の張本を召さる。「加賀国に座主の御坊領あり。師高是を停廃の間、其の宿意に依りて、門徒の大衆を語らひて訴訟を出だす。已に朝家の御大事に及ぶ」由、西光法師父子讒奏の間、法皇大きに逆鱗ありて、殊に重科に行ふべき由思し召しけり。明雲は、かやうに法皇の御気色あしかりければ、印鎰を返し奉りてP1208(二ウ)座主を辞し申されけり。
〔二〕 〔七宮、天台座主に補せられ給ふ事〕
十一日七宮天台座主にならせ給ふ。鳥羽院第七宮故青蓮院大僧正行玄の御弟子也。
〔三〕 〔明雲僧正流罪に定まる事〕
十二日、先座主、所職を止めらるるの上、検非違使二人付きて水火の責めに及ぶ。此の事によりて、大衆又奏状を捧げて憤り申す。猶参洛すべき由聞こえければ、内裏并びに法住寺殿に軍兵を召し集めらる。京中の貴賎騒ぎあへり。大臣公卿馳せ参る。
廿日、「前座主罪科の事、僉議有るべし」とて、太政大臣以下公卿十三人参内して、陣の座に着きて定め申さる。八条中納言長方卿、其の時は右大弁宰相にておはしけるが、P1209(三オ)申されけるは、「法家の勘へ申すに任せて、死罪一等を減じて遠流せらるべしと云へども、明雲僧正は、顕密兼学して浄行持律也。戒珠光明らかにして一天の下に耀き、定水流れ深くして四海の上に澄めり。三密の教法源を究めて、遥かに恵果・法全の古風を扇ぎ、五瓶の智水底を払ひて、遠く不空・無畏の清流を汲む。智恵高貴にして一山の貫首為り。徳行無双にして三千の和尚為り。其の上、明王聖主には一乗法花の師範たり。太政法皇には円頓受戒の和尚たり。御経御戒の師、重科に行はるる事、冥の照覧測り難し。還俗遠流の儀を宥せられば、天下泰平の基たるべきか」と、憚る所無く申されければ、太政大臣師長公より始めて、十三P1210(三ウ)人の公卿、各「長方定め申さるる儀に同ず」と申されけれども、法皇の御鬱り深かりければ、猶流罪に定まりにけり。太政入道も此の事申し止めむとて参られたりけれども、御風の気と仰せられて、御前へも召されざりければ、憤り深くして出でられにけり。
四 〔明雲僧正伊豆国へ流さるる事〕
廿一日、前座主明雲僧正をば、僧の流罪せらるる例とて、度縁を召し返されて、大納言大夫藤井松枝と云ふ俗名を付けて、伊豆国へ流さるべき由、宣下せらる。皆人傾き申しけれども、西光法師が無実の讒奏によりてかく行はれけり。其の時、いかなる者か読みたりけん、札に書きて立てたりけり。
松枝はみなさかもぎに切りはてて山にはざすにすべきものなし
〔五〕 〔山門の大衆、座主を取り返し奉る事〕
▼P1211(四オ)衆徒是を聞きて、西光法師父子が名字を書きつつ、根本中堂に御坐す十二神の寅神に当たり給へる金毘羅大将の御足の下にふませ奉りて、「十二神将、七千夜叉、時尅を廻さず、西光師高父子が一魂を召し取り給へ」と呪咀しけるこそ、聞くも怖しけれ。
「今夜都を出だし奉れ」と院宣きびしくて、追立の検非違使、白川の御坊に参りて其の由を申しければ、廿三日、白川御坊を出でさせ給ひて、伊豆国の配所へ趣き給ふ御有様こそ悲しけれ。昨日までは三千人の貫首と仰がれて、四方輿にこそ乗り給ひつるに、あやしげなる伝馬に結鞍と云ふ物を置きて乗せ奉る。いつくしげ▼P1212(四ウ)なる御手に皆水精の御念珠を持ち給へるを縄手綱に取り具して、前輪にうつぶし入りて、見馴れ給ひし御弟子一人も付き奉らず、門徒の大衆も見送り奉らず、官人共の先に追ひ立てられて、関より東に趣き給ふ御心の内、中有の旅とぞ思し食しける。夢に夢みる心地して、流るる涙に御目くれ、行先も見え給はず。是を見奉る上下の諸人、涙を流さぬはなかりけり。
日も既に晩れにければ、粟田口の辺、一切経の別所と云ふ所にしばしやすらひ給ふ。夜を待ちあかして、次の日の午時ばかりに、粟津の国分寺の堂に立ち入りて、しばらくやすみ給ふ。
之に依りて、満山の大衆、一人も残り留まらず東坂本へ下りつつ、十禅師の▼P1213(五オ)御前に集会して僉議しけるは、「抑も我が山は仏日照臨の地、法水交流の砌也。所以に旧学の高才、踝を継ぎて、天台三観の月を翫び、後進の翹楚、林妙を為して、四教権実の玉を瑩く。月氏雲幽かにして、鷲嶺の視聴を西天の昔に隔つと雖も、日域光朗かにして、全く鵞王の大法を東漸の今に得たり。霊山の八万、質を替へて三千余人の学徒に象り、地誦の十界、体を弊して東西楞厳の文巻を捧ぐ。仏日光を和らげて四明の峯に一乗の法を弘め、覚月塵に同じくして、台嶺の麓に八相の機を調ふ。誠に日域無二の霊山、天下無双の勝地也。又、座主和尚とは、仏教の奥旨を究めて、高位の崇斑に昇り、一山の貫首と仰がれて、三▼P1214(五ウ)千の棟梁為り。両界三部は万練の鏡、大日遍照の秘法に陰り無く、一乗五律は深淵の水、仏衆法海の勝文に波静か也。威風遠く扇ぎて、梢を靡かし、慈雲厚く覆ひて、満山潤ひを受く。止観の窓に臂を朽して、多年南岳・天台の源を尋ね、瑜伽の壇に心を澄まして、数歳龍智・龍猛の流を汲む。貫首と云ひ、山上と云ひ、誰か是を軽しめむ。就中、伝教・慈覚・智証三代の御事は申すに及
ばず、義真和尚より以来五十五代、未だ天台座主流罪の例を聞かず。末代と云へども、争か我が山に疵をば付くべき。詮ずる所、三千の大衆、身を我が山の貫首に代へ奉り、命を伊王山王に進らす。粟津へ罷り向かひて、貫首を取り留め奉るべし。但し、追立の官人、領▼P1215(六オ)送使あむなれば、取り得奉らむ事難し。山王大師の御力より外、憑む方なし。事故なく取り得奉るべくは、只今験見せ給へ」 と、三千人の衆徒一同に肝胆を摧きて祈念す。
良久しくありて、一人の物付き狂ひ出でて、暫く狂ひ躍る。五体より汗を流して申しけるは、「世は末なれども、日月未だ地に落ちず。国は賎しけれども、霊神光を耀かす。爰に貫首明雲は、我が山の法燈、三千の依怙たり。而るを罪なくして他国に遷されむ事、一山の瑕瑾、生々世々に心憂かるべし。さらむに取りては、我此の山の麓に跡を留めてもなにかはせむ。本土へこそ帰らむずらめ」とて、袖を皃におしあててさめざめと泣きければ、大衆是を怪しみて、「実に山王の御詫宣ならば、我等が念珠を▼P1216(六ウ)献りたらむを、少しも違へず、本の主々へ返し給ふべし」とて、衆徒等念珠を同時に宝前へ投げたりければ、物付是を悉く拾ひ集めて、本の主々へ一々に賦り渡してけり。誠に我が山の七社権現の霊験の新たにおはします忝けなさに、大衆涙を流しつつ、「さらばとうとう迎へ奉れや」とて、或いは眇々たる志賀・唐崎の浜路に、小馬に鞭打つ衆徒もあり、或いは漫々たる山田・矢馳の湖上に、舟に棹さす大衆もあり。東坂本より粟津へつづきて、国分寺の堂におはしましける座主を取り留め奉りければ、きびしげなりつる追立の官人もみえず、領送使もいづちか行きぬらむ、失せにけり。
座主は大きに怖れ給ひて、「勅勘の者は▼P1217(七オ)月日の光にだにもあたらずとこそ申せ。時剋を廻らさず追ひ下さるべき由、宣下せらるるに、暫しもやすらふべからず。衆徒とくとく返り上り給へ」とて、はし近く居出でて宣ひけるは、「三台槐門の家を出でて四明荊蕀の窓に入りしより以来、広く円宗の教法を学して、只我が山の興隆をのみ思ひ、国家を祈り奉る事も疎かならず、門徒を省む志も深かりき。身に誤つ事なし。両所三聖、定めて照覧し給ふらむ。無実の讒奏によりて遠流の重科を蒙る、是先世の宿業にてこそは有らめと思へば、世をも人をも、神をも仏をも、更に恨み奉る事なし。是まで訪ひ来り給へる衆徒の芳心こそ申し尽くしが▼P1218(七ウ)たけれ」とて、涙に咽び給ふ。香染の御袖も絞る計り也。是を見奉りて、そこばくの大衆も皆涙を流す。
やがて御輿よせて乗せ奉らむとしければ 「昔こそ三千人の貫首たりしかども、今はかかるさまになりたれば、争か止む事無き修学者、智恵深き大徳達には、かかげささげられて、我が山へは帰り登るべき。藁履なむど云ふ物はきて、同じさまに歩みつづきてこそ上り候はめ」とて、乗り給はざりければ、かかる乱逆の中なれども、万づ物哀れなりけるに、西塔の西谷に戒浄房阿闍梨祐慶とて、三塔に聞こえたる悪僧有りけり。二枚甲を居頸にきなし、黒革威の大荒目の草摺長なるに、三尺五▼P1219(八オ)寸の大擲刀の茅の葉の如くなるをつき、「大衆の御中に申し候はむ」とて、さしこえさしこえ分け行きて、座主の御前に参りて、甲を抜ぎて薮の方へがはと投げ入れければ、下部の法師原取りてけり。擲刀脇に挟み、膝をかがめて申しけるは「かやうに御心弱く渡らせ給ふによりて、一山に疵をも付けさせ給ひ、心憂き目をも御覧ぜられ候ふぞかし。貫首は三千人の衆徒に代はりて流罪の宣旨を蒙り給ふに、三千人の衆徒は貫首に代はり奉りて命を失ふとも、何の愁ひかあらむ。とくとく御輿に奉り候ふべし」と申して、座主の御手をむずと取りて御輿にかきのせ奉りければ、座主わななくわななく乗り給ひぬ。やがて祐慶
輿の先▼P1220(八ウ)陣をかく。後陣は若き大衆、行人なむどかき奉る。粟津より鳥の飛ぶが如くして登山するに、祐慶阿闍梨は一度もかはらざりけり。擲刀の柄も奥の長柄も、くだく計りぞ見えたりける。後陣こらへずして各代はりけり。さしもさがしき東坂を、平地を歩むにことならず、大講堂の庭に舁きすゑ奉る。
粟津へ下らぬ、行歩に叶はぬ老僧共は、「此の事何様に有るべきぞや。日来は一山の貫首と仰ぎ奉りつれども、今は勅勘を蒙り給ひて遠流せらるる人を、横取りに取り留むる事、始終いかが有るべかるらむ」なむど議する輩もありければ、祐慶少しも憚らず、扇開き仕りて、胸おしあけ、胸板きらめかして申しけるは、▼P1221(九オ)「吾が山は是日本無双の霊地、鎮護国家の道場也。山王の御威光弥よ盛りにして、仏法王法牛角也。衆徒の意趣も余山に越え、賎しき小法師原に至るまで、世以て猶軽しめず。何に況や、明雲僧正は、智恵高貴にして一山の和尚たり。徳行無双にして三千の貫首たり。而るを今罪なくして罪を蒙り給ふ事、是併ら山上洛中の鬱り、興福・園城の嘲りか。悲しき哉、此の時に当たりて顕密の主を失ひて、止観の窓の前には螢雪の勤め廃れ、三密の壇の上に護摩の煙絶ゆる事、心憂き事に非ずや。誠に中途にして留め奉る違勅の罪科遁れ難くは、所詮、祐慶、今▼P1222(九ウ)度三塔の張本に差されて禁獄流罪せられ、首を刎ねらるる
事、全く痛み存ずべからず。且は今生の面目、冥途の思ひ出たるべし」と高声に〓りて、双眼より涙を流しければ、満山の衆徒是を聞きて、老いたるも若きも、皆衣の袖を絞りつつ、「尤も尤も」と一同す。やがて座主を舁き奉りて、東塔の南谷妙光坊へ入れ奉る。
其より、祐慶をば、異名にはいかめ房と名づけたり。其の弟子、恵海律師をば小いかめ、其の弟子、〓慶備前注記を
ば孫いかめと申しけるとかや。
六 〔一行阿闍梨流罪の事〕
時の横災は権化の人も遁れざりけるにや。大唐の一行阿闍梨は、玄宗皇帝の時、無実の疑ひによりて罪を蒙る事有り▼P1223(一○オ)けり。其の故は、玄宗の后に陽貴妃と云ふ人おはしき。元より仙女なりければ、蓬莱宮へ帰り給ふべき期も近くなりにけり。御〓[女+夫]の楊国忠を召して宣ひけるは、「仏前仏後の中間に生まれて、釈尊慈氏の記別に漏れ、行住坐臥の妄念に沈みて、生死流転の業因を結ぶ。三界処広けれども、皆是有為無常の境、四生形多けれども、又是生者必滅の類なり。これに依つて、十力無畏の尊、寂滅を双林の嵐に任せ、六天浄妙の楽しみ、退役を五衰の露に悲しむ。会者定離の理、東岱の煙に見え、老少不定の習ひ、南門の風に聞こゆ。帝に別れ奉るべき期の近付きたるやらむ、此の程は胸騒ぎ打ちして、はかなき夢のみ見へ ▼P1224(一〇ウ)て、常に心のすむぞとよ」と宣ひければ、「南浮不定の棲、諸尊の妙体を憑み奉り、息災延寿の基、菩薩浄戒に如くは無し。彼の一行は、戒珠を瑩きて光を増し、尸羅を織りて色鮮やかなり。彼を召し請じて三摩耶戒を受けさせ給ふべし」と申しければ、一行を召して道場を飾る。捧ぐる所は山野四季の花、仏前に備へて色鮮やかなり。供ふる所
は草木百薬の香、道場に薫りて匂ひ芳し。然れども「帝の御ゆるされなからむには、輙く戒を授け奉り難き」旨を申さる。其の時、貴妃の宣はく、「和尚は菩薩の行を立てて一切衆生を導き給ふなるに、何ぞ我が身一人に限りて戒を授け給はざるべきや」と恨み給ひければ、「さらば」とて七日七夜菩薩▼P1225(一一オ)浄戒を授け奉らる。
其の比、安禄山と云ひける大臣、奸心を挿みて、楊国忠を失ひて国の務を執らばやと思ふ心深くして、次でを求めける折節、此の事を漏り聞きて、密かに皇帝に申しけるは、「后既に帝に二心おはしまして、楊国忠に御心を合はせて、一行に近付き給ふ事あむなり。君打ち解け給ふべからず」と。帝、是を聞こし召して、「貴妃我に志浅からず。一行又貴僧也。何故にか、只今猿事あるべき」と思ひ給ひけれども、実否を知り給はむが為に、陽貴妃の真の体を少しも違へず画に書きて献るべき由を一行に仰せらる。一行、大唐一のにせ絵の上手にておわしければ、かかる謀有りとも知り給はず、筆を尽くして貴妃の形を移して進らせらるる程に、いかがしたり▼P1226(一一ウ)けむ、筆を取りはづして、貴妃の臍の程に当たりて墨を付けてけり。「貴妃の膚には黒子と云ふ物のありけるとかや、書きなほさばや」とは思はれけれども、帝「おそし」と責め給ひければ、献りぬ。帝、此を見給ひて、「安禄山は実を云ひけり。一行、貴妃に近付かずは、争でか膚なる黒子をば知るべき」とて即ち一行を火羅国と云ふ国へ流さる。
件んの国は古き王宮なりければ、彼の国へ下る道三あり。一の道をば林池道と云ふ。此の道は御幸の路也。一の道をば遊池道と名づく。貴賤上下を嫌はず行き通ふ道也。今一の道をば闇穴道と名づけたり。犯科の者出できぬれば流し遣はす路也。此の道は下に水湛々として際なく、上には日月星宿の光もみえ給はず。▼P1227(一二オ)七日七夜空をみずして行く道なり
ければ、冥々として天闇く、行歩に前途の路みへず。深々として人もなく、函谷の鶏の一声もなく、さこそは心細く悲しく思ひ給ひけめ。思ひ遣られて哀れ也。
一行無実によりて遠流の罪を被る事を天道憐れみ給ひて、九曜の形を現じて守り給ふ。一行随喜の余りに、右の指をくひきりて、左の三衣の袂に九曜の形を写し留め給ひにけり。火羅の図とて吾が朝までも世に流布する九曜の曼荼羅と申すは即ち是也。一行阿闍梨と申すは、龍猛菩薩よりは六代、龍智あざりよりは五代、金剛智三蔵よりは四代、不空三蔵よりは三代、善無畏三蔵の御弟子也。▼P1228(一二ウ)「人を斬る刃は口より出でてこれを斬る。人を殺す種は身より出でてこれを蒔ふ」と云ふ本文に違はず。
大衆、前座主を取り留め奉るの由、法皇聞こし召して、いとど安からず思召されける上に、西光入道内々申しけるは、「昔より山門の大衆猥き訴訟仕る事は今に始めねども、未だ是程の狼藉承り及ばず。今度ゆるに御沙汰有らば、世は世に
ても有るべからず。能く能く御誡め有るべし」とぞ申しける。身の只今に滅せむずる事をも顧みず、山王の神慮にも憚らず、加様にのみ申して、いとど震襟を悩まし奉る、あさましき事なりけり。「讒臣は国を乱り、妬婦は家を破る」とみへたり。「叢蘭茂らむと欲し、秋風これを敗る。王者明らかならんと欲すれども、讒臣これを蔽す」とも云へり。誠なる哉。此の事を武家に▼P1229(一三オ)仰せけれどもすすまざりければ、新大納言以下の近習の輩、武士を集めて山を責めらるべき由、沙汰ありけり。物にも覚へぬ若き人々、北面の下臈なむどは興ある事に思ひていさみあへり。少しも物の心をも弁へたる人は、只今大事出で来なむず。こは心憂き態哉」と歎きあへり。又、内々大衆をも誘へ、仰せの有ければ、院宣の度々下るもかたじけなければ、王土にはらまれながら詔命を対押(捍)せむも恐れ有りければ、思ひ返し靡き奉る衆徒も有りけり。
座主は妙光坊に御座しけるが、大衆二心有りと聞き給ひぬれば、「何と成りなむずる身やらむ」とぞ思食されける。▼P1230(一三ウ)
七 〔多田蔵人行綱仲言の事〕
成親卿は山門の騒動に依つて私の宿意をば押へられけり。そも内議支度はさまざまなりけれども、議勢ばかりにて其の事叶ふべしともみえざりけり。其の中に、多田蔵人行綱、さしも契深くたのまれたりけるが、此の事無益なりと思ふ心付きにけり。さて弓袋の料に新大納言より得たりける五十端の布共、直垂小袴に裁ち縫ひて家の子郎等にきせつつ、目打ちしばたたきて居たりけるが、思ひけるは、「倩ら平家の繁昌する有様を見るに、当時輙く傾け難し。大納言の語らはれたる兵、いく程なし。由無きことに与力してけり。若し此の事漏れぬる物ならば誅せられ▼P1231(一四オ)む事疑ひ無し。甲斐なき命こそ大切なれ。他人の口より漏れぬ先に返り忠して、命生きなむ」と思ひて、五月廿九日夜打ち深けて、大政入道の許へ行き向ひて、「行綱こそ、申すべき事あて、参りて候へ」と申しければ、「常にも参らぬ者の、只今夜中に来たるこそ心得ね。何事ぞ。聞け」とて、平権守盛遠が子、主馬判官盛国を出だされたり。「人づてに申すべき事に非ず。直に見参に入りて申すべし」と申しければ、入道、右馬頭重衡相具して中門の廊に出で合ひて、入道宣ひけるは、「六月無礼とて紐とかせ給へ。入道も白衣に候ふ」とて、
白幡に白大口ふみくくみて、すずしの小袖打ちかけて、左の手に打刀ひさげ▼P1232(一四ウ)て蒲打輪仕はる。「此の夜はまうにふけぬらむ。いかに、何事におはしたるにか」。
行綱、近々と指し寄りて小音になりてささやき申しけるは、「いと忍びて申すべき事候ひて、昼は人目のつつましさに、態と夜にまぎれて参りて候ふ。院中の人々、兵具をととのへ軍兵を召し集めらるる事をば、知食されて候ふやらむ」と申しければ、「いさ、それは山の大衆を責めらるべしとこそ承れ」と、いと事もなげに宣ひければ、「其の儀にては候はず」とて、日来月来、新大納言を始めとして、俊寛が鹿谷の山庄にて、よりあひよりあひ内議支度しける事、「其は、とこそ申し候ひしか、かくこそ申し候ひしか」と人の吉き事云ひたるをば▼P1233(一五オ)我申したりしと云ひ、我悪口したりしをば人の申したるに語りなし、五十端の布の事をば一端も云ひ出ださず、有りのままには指し過ぎて、やうやうさまざまの事ども取り付けて細かく申しければ、入道大きに驚きて宣ひけるは、「保元平治より以来、君の御為に命を捨つる事、既に度々也。人々いかに申すとも、きみ君にて渡らせ給はば、争でか入道をば子々孫々までも捨てさせ給ふべき。恐れながら、君もくやしくこそ渡らせ給はむずらめ。抑も此の事は、院は一定知ろし食されたるか」と宣ひければ、「子細にや及び候ふ。大納言の軍兵催され候ひしも、院
宣とてこそ催され候ひしか」。其の外も様々の事ども云ひちらして、「暇申して」 ▼P1234(一五ウ)とて帰りにけり。
入道大声にて侍共をよびて、〓りしかられける気色、門外まで聞こえければ、行綱「慥かなる証人にもぞ立つ」とて、「穴怖し」とて、野に火を付けたる心地して、人もおはぬに、取袴をして怱ぎ馳せ帰りぬ。
八 〔大政入道軍兵催し集めらるる事〕
入道、貞能を召して、「謀叛の者共の有んなるぞ。侍共きと召し集めよ。一家の人々にも、各ふれ申せ」と宣ひければ、面々に使をはしらかして此の由を申すに、凡そいづれもいづれも騒ぎあひて、我先にと馳せ集まる。右大将宗盛、三位中将知盛、右馬頭重衡を始めとして、人々侍・郎等、各甲冑をよろひ弓箭を帯して馳せつどふ。其の勢雲霞ノ如し。▼P1235(一六オ)夜中に五千余騎になりにけり。
九 〔大政入道院御所へ使を進らする事〕
六月一日、未だほのぐらき程に、入道の検非違使安倍の資成を召して、「院御所へ参りて大膳大夫信業を呼び出だして申さむ様はよな、『近習に候ふ者共の恣に朝恩に誇る余りに、世を乱らむと仕る由承り候へば、尋ね沙汰仕るべし』と申せ」とて進らする。資成怱ぎ院の御所へ参りて、信業を呼び出だして此の由を申しければ、信業色を失ひて、御前に参じて奏聞しけれども、分明の御返事なかりけり。「此の事こそえ御心得なけれ。こは何事ぞ」と計り仰せあり。資成急ぎ馳せ帰りて此の由を申しければ、入道、「よも御返事あらじ。何とかは仰せ有るべき。▼P1236(一六ウ)はや君も知らせ給ひたりけり。行綱は実を云ひけり」とて、いかられけり。
十 〔新大納言召取る事〕
其の後、雑色を以て、「新大納言の許に行きて、『申し合はせ奉るべき事あり。怱ぎ渡らせ給へ』と申すべし」と宣ひければ、使走り付きて此の様を申す。大納言、「哀れ是は例の山の大衆の事を院へ申さむずるにや。此の事はゆゆしく御憤り深げなり。叶ふまじき物を」など思ひて、我が身の上とはつゆ知り給はで、怱ぎ出でられけるこそはかなけれ。八葉の車の鮮やかなるに、前駈三人、侍三四人召し具して、上きよげなる布衣たをやかにきなして、雑色・牛飼に至るまで、常の出仕よりは少し引きつくろひたる体にて▼P1237(一七オ)ぞ出でられける。其も最後のありきとは、後にこそ思ひ合はせ給
ひけめと哀れ也。
入道のおはする西八条近くやりよせて、其の程を見給へば、四五丁に軍兵充満せり。「あなおびたたし。何なる事ぞ」と胸打ち騒ぎて、車より下り給ひたれば、門の内にも兵所もなく立ちこみて、只今事の出でたる体也。中門のとに怖しげなる者二人立ち向ひて、大納言の左右の手を取りて、引き張りてうつぶさまに投げ臥せて、「警め奉るべきか」と申す。入道殿、「昨日までは院の御所、私所にても肩を比べし卿相也。今こそ敵とはならむからに」と、いかれる心にもかはゆくや思はれけむ、「しからずとも」とて、つと入り給ひぬ。▼P1238(一七ウ)其の後、兵十余人来たりて、前後左右に立ちかこみ、天にも上げず地にもつけず、中に引きくくつて上へ引きのぼせ奉り、一間なる所におしこめつ。大納言、夢の心地してあきれて物も宣はず。是を見て共に有りつる諸大夫・侍も、雑色・牛飼童も、牛・車を捨てて四方へ逃げ失せぬ。大納言は、六月のさしも熱き比、一間なる所にこめられて、装束もくつろげずおはしければ、あつさたへがたし。涙も汗もあらそひてぞ流れける。「我が日来のあらまし事の聞えにけるにこそ。何なる者の漏らしつらむ。北面の輩の中にぞ有らむ。小松大臣は見え給はぬやらむ。さりとも思
ひ放ち給はじ物を」と思はれけれ▼P1239(一八オ)ども、誰して宣ふべしともなければ、涙をこぼし汗を流してぞおはしける。
十一 〔西光法師搦め取る事〕
其の後、入道、筑後守家貞・飛騨守景家を召して、「謀叛の輩の其の数あり。北面の者共一人も漏らさず搦め取るべき」由、下知し給ひければ、或ひは一二百騎、或ひは二三百騎、押し寄せ押し寄せ皆搦め取りて、警め置きけり。其の中に左衛門入道西光、根本与力の者なりければ、「構へて搦め逃がすな」とて、松浦太郎重俊が奉りにて、方便を付けて伺ひける程に、院の御所にて人々の事に合ひける事共聞きて、人の上とも覚えず、「あさまし」と思ひて、あからさまに私の宿所に出でて、即ち又御所へ参りけるに、▼P1240(一八ウ)物具したる武士七八人計り先に立ちたり。後の方にも十余人有りと見て、此の世の習なれば、武士には目も見かけず、足ばやに歩みけるを、先に待ち懸けたる武士、「八条入道殿より、『きと立ち寄り給へ。怱ぎ申し合はすべき事あり』と仰せられ候ふ」と云ひければ、西光少し赤面して、にが咲ひて、「公事に付けて申すべき事候ふ。やがて参り候ふべし」と云ひて、歩み過ぎんとするに、後にきつる武士、「やは、入道程の者の何事をかは君に申すべき。世の大事引き出だして、我も人も煩ひあり。物ないはせそ」とて、打ちふせて縄付けて、武士十余人が中に追ひ立てて行きて、八条に
て「かく」と申し入れたりければ、門より内へも入ら▼P1241(一九オ)れず。即ち重俊が 奉りにて、事の発りを尋ねられければ、初めは大きにあらがひ申して、我が身にあやまらぬ由を陳じければ、入道大きに腹を立て、乱形にかけて打ちせためて問ひければ、有る事無き事落ちにけり。白状かかせて判せさせて、入道に奉る。入道、是を見給ひて、「西光取りて参れ」と宣ひければ、重俊が家子郎等、空にも付けず地にも付けず、中にさげて参りたり。やがて面道のまがきの前に引きすゑたり。
入道は、長絹の直垂に、黒糸威の腹巻に、金作りの太刀、かもめ尻にはきなして、上うらなしふみちぎりて、すのこの辺にたたれたり。其の気色益なげにぞみえられける。さて、西光をにらまへて▼P1242(一九ウ)宣ひけるは、「いかに己程のやつは、入道をば傾けむとはするぞ。元より下臈の過分しつるは、かかるぞとよ。『あれ程の奴原を召し上げて、なさるまじき官職をなしたびて召し仕はせ給ふ間、おやこ共に過分の振舞ひする者哉』とみしに合はせて、罪もおはせぬ天台座主讒し奉りて、遠流に申し行ひて、天下の大事引き出だして、剰へ此の事に根元与力の者と聞き置きたり。其の子細具に申せ」と宣ひければ、西光元よりさるげの者なりければ、少しも色も変ぜず、わるびれたる気色もなくて、あざ咲ひて、「いで後言せむ」とて申しけるは、「院中に召し仕はるる身にて候へば、執事別当新大納言殿の、院宣とて催され▼P1243(二〇オ)候ひし事に、与せずとは争か申し候ふべき。与して候ひき。但し耳に止まる御詞をもつかはせ給ふ者哉。他人の前はしらず、西光が前にては過分の御詞をば、えこそつかはせ給ふまじけれ。見ざりし事か。殿は故刑部卿殿の嫡子にて渡らせ給ひしかども、十四五歳までは
叙爵をだにもし給はず。冠をだにも給はらせ給はで、継母の他の尼公のあはれみて、藤中納言家成卿の許へ時々申しより給ひし時は、『あは、六波羅のふかすみの高平太の通るは』とこそ京童部は指を指して申ししか。其の後、故卿殿、海賊の張本卅余人搦め出だされたりし勲功の賞に、去んじ保延の比かとよ、御年十七か八▼P1244(二○ウ)かの程にて、四位して、四位の兵衛佐に成り給ひたりしをこそ、『ゆゆしき事哉』と世以て傾き申ししか。同じき王孫と云ひながら、数代久しく成り下りて、殿上の交はりをだにも嫌はれて、闇打ちにせられむとし給ひし人の子にて、今忝くも即闕の官を奪ひ取りて、太政大臣に成り上りて、剰へ天下を我がままに思ひ給へり。是をこそ過分とは申すべけれ。侍品の者の受領・検非違使・靭負尉になる事は傍例なきに非ず。なにかは過分なるべき。入道こそ過分よ、入道こそ過分よ」と居長高になりて、詞もたばはず散々に申しければ、入道余りに怒りて物も宣はず。
暫ありて、「西光め左右なく首切るな。能々▼P1245(二一オ)さひなめ」と宣ひければ、重俊が郎等つとよりて、ふときしもとを以て七十五度の考訊を加へたり。西光心は武かりけれども、本より問ひ損ぜられたる上、枳身にしみて術なかりければ、
残りなく落ちにけり。白状四五枚に記されたり。
良久しくありて、内の方より人の足音高らかにして来りければ、大納言は、「只今失はれなむずるやらむ」と肝心をけして居られたりけるに、入道、大納言のおはしける後ろの障子をあららかにさつとあけられたり。麁絹の衣の短からかなるに、白き大口ふみくくみて、聖柄の刀をおしくつろげて、大きに怒れるけしきにて、大納言をにらまへて▼P1246(二一ウ)宣ひけるは、「やや大納言殿、一年、平治の逆乱の時、信頼・義朝等に御同心あつて、朝敵となり給ひたりし時、越後中将とて嶋摺の直垂・小袴きて、折烏帽子引き立てて、六波羅の馬屋の前に引きすゑられておはせしかば、罪に定まりて既に誅せられ給ふべきにておはせしを、内府とかくして申し宥めたりしかば、『七代までの守りの神とならむ』と手を合はせて、泣々宣ひし事は忘れ給ひたるな。人はみめ貌のなだらかなるをば人とは申さぬぞ、恩を知るを以て人とは申すぞ。わ殿の様なる者をこそ、人の皮をきたる畜生とはいへ。されば何の科怠によりて、当家を▼P1247(二二オ)滅ぼすべき由の御結構ありけるやらむ。されども微運の尽きざるによりて、此の事顕れて迎へ申したり。日来の御結構の次第、只今直に承り候ふべし」と宣ひければ、大納言
涙を流して、憖(愍)に「身に取りては全く誤りたる事なく候ふ。人の讒言にてぞ候ふらん。委く御尋ねあるべく候ふ」と宣ひければ、入道いはせもはてず、「西光法師が白状まゐらせよ」と宣へば、持て参りたり。入道引き広げて、くりかへし高らかに二返までよまれたり。成親卿を始めとして、俊寛が鹿谷の坊にて平家を滅すべき結構の次第、法皇の御幸、康頼が答返、一事として漏るる所なし。四五枚に記されたり。「是はいかに。此の上は▼P1248(二二ウ)披陳にや及ぶべき。是はどこをあらがふぞ。あらにくや」とて、白状を大納言に投げかけて、障子をはたとたてて返り給ひけるが、猶腹をすゑかね給ひて、
十二 〔新大納言を痛め奉る事〕
「経遠・兼康はなきか」と宣ひければ、経遠・兼康・季貞・盛国・盛俊なむど参りたりければ、「誰が下知にて、あの大納言をば障子の内へはのぼせけるぞ。あれ坪に引き下ろして取りてふせて、したたかにさいなみて、をめかせよ」と宣ひければ、経遠已下の兵共、つとよりて、大納言を庭に引き落とす。其の中に、季貞は元より情ある者にて、大納言を取りてをさへて、左手にて大納言の頸をつよく▼P1249(二三オ)取る様にして、さすがにつよくとらず、右手にて大納言の胸をおす様にして、つよくおさず、季貞が口を大納言の耳に指しあてて、「入道のきかせ給ひ候ふやうに、只御声を立てて、をめかせ給へ」とささやきければ、大納言声をあげて二声三声をめかれけるを、入道聞き給ひて、「只おし殺せや、おし殺せや」とぞ宣ひける。
其の有様目もあてられず。地獄にて獄卒・阿防羅刹の浄頗梨の鏡に罪人を引き向けて、前世に造りし所の業によりて呵嘖の杖を加へ、業の秤に懸けて軽重を糺して、「異人の悪を作り、異人の苦報を受くるに非ず。自業自得の果、衆生皆是くの如し」と云ひて、刑罰を行ふ▼P1250(二三ウ)らむもかくやと覚えて無慚也。
「蕭樊、〓韓彭に囚はれて、〓〓されたり。晁錯、戮を受け、周魏、辜せらる。其の余、命を佐け、功を立つる士、賈諠亜夫の徒、皆信に命世の才なり。将相の具へを抱けり。而るに少人の讒を受け、並びに禍敗の憂へを受く」と云へり。蕭荷・樊会・韓信・彭越、皆高祖の功臣たりしかども、かくのみこそ有りけれ。唐朝にも限らず、我が朝にも保元平治の比はあさましかりし事共も有りしぞかし。新大納言一人にも限るまじ。こはいかがはせむずる」と人歎きあへり。
かくして季貞のきにけり。大納言半死半生にぞみえられける。
内大臣、此の後いと久しくありて、烏帽子直垂にて、▼P1251(二四オ)子息の少将車の尻にのせて、衛府四五人、随身二三人計り召し具して、それらも皆布衣にて物具したる者一人も具せずして、のどやかにておはしたり。入道を初め奉りて、人々思
はずに思ひ給へり。「いかに是程の大事の出できたるに」と人々宣ひければ、「何事かは有るべき」と宣ひけるにこそ、
人々皆しらけにけれ。兵具を帯したる者、そぞろきてぞ有りける。
内府、「さるにても大納言をば何としてけるやらん。今の程には死罪流罪にはよも及ばれじ」と思し召して、見廻し給へば、侍の障子の上に、大なる木を以て、くもでを結ひちがへたる一間なる所あり。日来かかる所有りとも思はぬに、俄にいでき▼P1252(二四ウ)たりければ、「哀、ここに大納言をば籠めたるよな」とおぼして、只今こそとほる由、きとおとなはれたりければ、案の如く大納言くもでの間より内府を見付けて、地獄にて地蔵菩薩を見奉りたらむも、是には過ぎじとうれしくて、「是はいかなる事にて候ふぞ。誤りたる事も候はぬ物を。さておはしませば、さりともとこそ思ひ奉りて候へ」とて、はらはらと泣き給ふも無慚也。
大臣は「人の讒言にてぞ候ふらむ。御命計りは申し請けばやとこそ思ひ給へども、それもいかが候はんずらむ」と、たのもしげなく宣へば、「心うし。平治の乱の時、失せぬべかりしに、御恩を蒙りて命を生けられ奉りて、正二位大納▼P1253(二五オ)言に至り、年既に四十余りに成り侍りぬ。生々世々に報じ尽し奉り難くこそ思ひ給へ。此の度の命計りを同じくは生けさせ給へ。頭を剃りて、高野粉河にも籠りて、一筋に後世の勤めをせむ」と宣ふも哀れ也。「重盛かくて候へば、さりともと思し召すべし。御命にも代り奉るべし」とてたたれければ、かく宣ふに付けても只甲斐なき涙のみぞ流れける。「少将も召しや取られぬらむ。残り留まる跡の有様もいかなるらむ。少き者共もおぼつかなし」。我が身の御事はさる事にて、是をおぼしつづくるに、胸せきあげて熱さも堪へがたきに、晩るるを待たで、命も絶ゆべくぞ覚しける。内の大臣のおはしつる程は、聊かなぐさむ心地もしつるに、いと詞少なにて▼P1254(二五ウ)帰り給ひて後は、今少し物も怖しく悲しくぞおぼされける。
〔十三〕 〔重盛大納言の死罪を申し宥め給ふ事〕
大臣殿、入道の前におはしたりければ、入道宣ひけるは、「大納言の謀叛の事は聞かれたるか」。「さん候ふ。皆承りて候ふ。さて何様なる罪に行はるべきにて候ふやらむ」。「事も愚かや、只今切らむずる物を」と宣ひければ、大臣宣ひけるは、「さては不便の事こそ候ふなれ。大納言を失はん事は、能々御計らひ候ふべし。六条修理大夫顕季卿、白川院に召し仕はれ奉りしより以来、家久しくなりて、既に位正二位、官大納言まで昇りて、当時も君の御いとほしみの者なるを、忽ちに首を刎ねられん事、いかが有るべかるらむ。さる事争か候べき。都の外へ出だされ▼P1255(二六オ)たらむに事足り候ひなん。かくは聞こし食せども、若し僻事にても候はば、弥不便の事に候はずや。北野天神は時平の大臣の讒奏によつて、延喜の御門に流され奉り、西宮大神は多田の新発が讒言によつて、安和の御門に流され給ひき。各無実なりけれども、流罪せられ給ひにき。是皆延喜の聖主、安和の御帝の御僻事とこそ申し伝へたれ。上古猶此くの如し。況や末代を哉。賢王猶御誤りあり。況や凡夫を哉。委く御尋ねも有るべし。能々御思惟も有るべし。物さはがしき事は、後悔先にたたずとこそ申せ。既にかく召し置かれぬる上は、怱
ぎ失れずとても、何の苦しみか有るべき。『罪の疑はしきをば惟れ▼P1256(二六ウ)軽んぜよ。功の疑はしきをば惟れ重んぜよ』とこそ申し伝へて候へ。いかさまにも今夜首を切らむ事は然るべからず」と宣ひければ、入道猶心ゆかず、返事もし給はざりければ、内大臣重ねて申されけるは、「申す旨御承引なくは、先一人に仰せ付けて、先重盛が頸を召さるべく候ふ。其の後御心に任せて振舞ひおはしまし候へ。重盛、彼の大納言の妹に相異して候ふ。惟盛、又大納言の聟也。かやうに親しく罷り成りて候へばとて申すとや思し召され候ふらん。いかにも其の儀にては候はず。世の為、民の為、君の為、家の為を存じて申し候ふ也。一年保元の逆乱の時、故少納言入道信西、適ま執権の時に相当たり、本朝に絶えて久しくなりにし死罪を申し行ひて、▼P1257(二七オ)左府の死骸を実検せられし事なむどは、余りなる御政とこそ覚え候ひしか。古人の申され候ひしは、『死罪を行はるれば、謀叛の輩絶ゆべからず』と。此の詞はたして中二年有りて、平治に事出でて、信西が埋まれたりしを掘りおこして、首を切りて渡しき。保元に行ひし事、忽ちに報ひて、身の上にむかはりにけりと思ひ合はせられて、怖しくこそ候ひし
か。是はさせる朝敵にもあらず。方々怖れ有るべし。御身の御栄花残る所なければ、今は思し召し残す御事なけれども、子々孫々までも繁昌こそあらまほしけれ。『積善の家には余慶あり。積悪の門には余殃留まる』とこそ承れ。周の文王は、大公望に命ぜられて▼P1258(二七ウ)四如己を恐れ、唐の大宗は、張温古を切りて後、五復の奏を用ゐらる。又『善を行へば、則ち徴を休めて之を報ず。悪を行へば、則ち徴を咎めて之に随ふ』なむども申したり。又『世を治むる事は琴をならすが如し。大絃急なる時は、小絃堪えできる』とこそ、天暦の帝も仰せられ候ひけれ」なむど、細々と誘へ申されければ、げにもとや思はれけむ、今夜切るべき事は思ひ宥めて、其の日はくれにけり。
内大臣はかく誘へおきて帰り給ひけるが、猶心安からず覚えて、さも然るべき侍共を召して宣ひけるは、「仰せなればとて。重盛に云ひ合せずして、左右なく大納言を失ふ事有るべからず。腹の立ち給ふままに物騒しき事あらば、後悔先に立つまじ。僻事▼P1259(二八オ)し出だして、重盛恨むな」と誡められければ、武士共舌を振りて怖ぢあへり。「経遠・兼保なむどが大納言に情なく当たりたりける事、返々奇怪也。されば重盛が返り聞かむ所をば、争か憚らざるべき。忠清・景家体の者ならば、縦入道殿いかに仰せらるとも、かくはよもあらじ。片田舎の者はかかるぞとよ」と宣ひければ、難波二郎・妹尾太郎も恐れ入りたりけり。
十四 〔成親卿の北方の立ち忍び給ふ事〕
さて大納言の共したりける者共、走り帰りて、「大納言殿は八条殿に召し籠られ給ひぬ。ゆふさり失ひ奉るべしとて、晩るるを待つと承りつる」と、ありつる有様を泣々申しければ、北の方より始めて、▼P1260(二八ウ)男女声を揚げてをめき叫ぶ。さこそ悲かりけめ。理押しはからる。夢かや夢かやと思へども、うつつにてぞ有りける。「いかにかくては渡らせ給ふぞ。
叶はざらむまでも立ち忍ばせ給へ。少将殿を初め奉りて、君達まで召されさせ給ふべしとこそ承りつれ」と、涙もかきあへず申しあひければ、「是程の事になりて、残り留まる身共安穏にてもなむの甲斐かは有るべき。いかにも只一所にて、ともかくもならむこそ本意なれ。けさを限りと思はざりける事の悲しさよ」とて、臥しまろびて泣き給ふ。
「已に兵来りなむ」と人申しければ、かくて恥がましく有らむ事もさすがなるべければ、「一まどなり▼P1261(二九オ)とも立ち忍び給はん」とて、出で給ふ。尻頭ともなき少き人共取り乗せて、何くを指して行くともなく遣り出だしつ。牛飼、「是はいづちへ仕るべきにて候ふやらん」と申しければ、「北山の方へ」と車の内より宣へば、大宮を上りに北山の雲林院の辺までおはしにけり。其の辺りなる僧坊におろしすゑ奉りて、送りの者共も身々の捨て難ければ、各暇申して帰りにけり。今は甲斐なき少き人々計り留まり居て、憑もしき人一人もなくておはしけむ。北の方の御心の内、押しはかられていとほし。日の晩れ行く影を見給ふに付けても、大納言の露の命、こよひをかぎるなりと思ひ遣られて、消え入る心地ぞせられける。女房・侍共もかちはだしにて、恥▼P1262(二九ウ)をも知らず迷ひ出でにけり。家中の見苦しき物を取りしたたむるにも及ばず。門は扉を開けども、押し立つる又者もなし。馬は馬厩に立つれども、草飼なづる人もなし。夜あくれば車馬門に立ちて、賓客座に列なれり。遊び戯れ舞ひ躍り、世を世とも思はず。近隣の人は物をだにも高くいはず。門前を
ことわリ
すぐる者も怖ぢ恐れてこそ昨日までも有りつるに、夜の間に替はり行く有様、盛者必衰の理、眼の前にこそ顕はれけれ。
夜も漸くふけければ、大納言は只今失はるべしと聞き給ひければ、「命の有らん事も今計り也。誰にか此の世に思ひおく事云ひおかん。北の方・少き者共もいかがなりぬらん。あはれ、事付を今一度せばや。死なむ▼P1263(三〇オ)事は力及ばぬ事なれども、是が心にかかるこそよみぢの障りなれ」と覚しつづけて、さめざめと泣き給ふも理也。今夜計りの命なれば、「今や今や」と待つ程に、夜も明け方になりにけり。「大納言殿は今夜とこそ聞きつるにいかに。今までは沙汰なきやらん。若御命の助かり給はんずるにや」とて、武士共も悦びあへり。
〔十五〕 〔成親卿無思慮事〕
大方此の大納言はおほけなく思慮なき心したる人にて、人の聞きとがめぬべき事をも顧み給はず。 常に戯れふかき人にて、墓無き事共をも宣ひ過ごす事も有りけり。
後白川院の近習者、坊門中納言親信と云ふ人おはしき。父右京大夫信輔朝臣、武蔵守たりし時、彼の国へ下られたりしに儲けられたり▼P1264(三〇ウ)ける子なり。元服して叙爵し給ひたりければ、坂東大夫とぞ申しける。院に候ひ給ひければ、兵衛佐に成りにけり。又坂東兵衛佐なむど申しけるを、ゆゆしく本意なき事に思ひ入れられたりける程に、新大納言、法皇の御前に候はれける時、たはぶれにや、「親信、坂東に何事共か有る」と申されたりければ、取りもあへず、「縄目の色革こそ多く候へ」と返答せられたりければ、成親卿、顔気色少し替はりて、又物も宣はざりけり。人々あまた候はれけり。按察入道資賢も候はれけり。後に宣ひけるは、「兵衛佐はゆゆしく返答したりつる者哉。事の外にこそにがりたりつれ」と申されけるとかや。▼P1265(三一オ)平治の逆乱の時、此の大納言の事に合はれし事を申されたりけり。
十六 〔丹波少将成経西八条へ召さるる事〕
新大納言の嫡子丹波少将成経、歳廿一になり給ふは、院の御所に上臥して未だ罷り出でられぬ程なりけるに、大納言の御許なりつる侍一人、院の御所へ馳せ参りて申しけるは、「大納言殿は、けさ西八条殿に召し籠められさせ給ぬ。今夜失ひ奉るべきの由、聞へ候ふ。君達も皆召され給ふべしとこそ承りつれ」と申しければ、「こはいかに」とあきれ給ひて、物も覚へ給はず。「さりとも宰相の許よりは、かくと申されんずらん」と思ひ給ひしほどに、宰相の許より使あり。
「具し奉りて来れと八条より申されたり。と▼P1266(三一ウ)くとく渡り給へ」。こはいかなる事にやあさましとも愚か也。
少将は近習にておはしける兵衛佐と云ふ女房を尋ね出して、「かかる勝事こそ候ふなれ。夜部より世間物さはがしと承れば、例の山の大衆の下るやらんなむど、余所に思ひて候へば、身の上にて候けり。御前へも参り候ひて今一度君をも見進らせ候べきに、今はかかる身にて候へば、憚り存じ候ひて罷り出で候ひぬと披露せさせ給へ」と宣ふもあへず泣き給ふ。日比、馴れ給ひつる女房達あまた出で来てあさましがりて泣きあへり。「成経八才にて見参に罷り入りてよりは、夜昼候ひて、所労なむどの候はぬ限りは一日も御所へ参らぬ事▼P1267(三二オ)も候はざりつ。君の御いとほしみ忝くて、朝暮に龍顔に咫尺し奉りて、朝恩にのみあき満て明し晩し候ひつるに、何なる目を見るべきにて候やらん、大納言も今夜死罪に行なはるべしと承り候ふ。父のさやうに罷り成り候ひなん上は、成経が身も同罪にこそ行なはれ候はんずらめ」と云ひつづけて狩衣の袖も絞る計り也。余所の袂も絞りあへず。
兵衛佐、御前に参りて此の由を申されければ、法皇も大きに驚かせ給ひて、「是等が内々謀りし事、漏れにけるよ」など思食すもあさまし。「今朝、相国の使の有つるに、事出ぬとは思食しつ。さるにても是へ」と御気色有りければ、「世は怖しけれども、今一度君をも見奉らん」と思はれければ、御前へ参られたりけ▼P1268(三二ウ)れども、君も仰せ遣りたる方もなし。龍顔より御涙を流させ給ふ。少将も申し述べたる方もなし。袖を顔に押しあてて、罷り出でられぬ。又、門まで遥かに見送りて、御所中の女房達、限りの余波を惜しみ、しぼらぬ袂もなかりけり。法皇も後を遥かに見送らせ給ひて、御涙をのごはせ給ひて、「又、御覧ぜぬ事もや」と思食すぞ忝なき。「末代こそ、うたてく心うけれ。強にかくしもや有べき」とぞ仰せられける。近く召し仕へける人々も、「更に人の上と思ふべきに非ず。何なる事か有らむずらん」と安き心なし。
少将は、宰相の許へおはしたれば、此の事聞きつるより、少将の北方はあきれ迷ひて物も覚へず、糸惜しき体にてぞおはしける。近く産し▼P1269(三三オ)給ふべき人にて、何となく日比も悩み給ひつるに、かかるあさましき事を聞き給へば、いとど臥し沈み給ふも理也。少将は今朝より流るる涙尽きせぬに、北方の気色を見給ふに、いとどせむかたなくぞおぼさる。「せめては、此の人、身々とならむを見おきて、いかにもならばや」と思されけるも、責めての事と覚えて糸惜し。
六条とて、年来付き奉りたる乳母の女房有りけり。此の事を聞くより、臥しまろびもだえこがるる事なのめならず。少将の袖に取り付きて、「いかにやいかに、君の血の中におはしまししを取り上げまゐらせて、洗ひ上げ奉りて、糸惜し悲しと思ひそめ奉りしより、冬の寒き朝にはしとねをあたためて据ゑ奉り、夏の熱き夜は冷しき所に臥せ奉りて、明けても晩れても此の御事よりほか、又い▼P1270(三三ウ)となむ事なし。我が年の積もるをばしらず、人となり給はん事をのみ思ひて、夜の明くるをも日の晩るるをも心もとなくて、廿一年を送り、おほし立て奉りて、院内へ参り給ひても、遅くも出で給へば、おぼつかなく恋しくのみ思ひ奉りつるに、こはいづくへおはしますべきぞや。捨てられ奉りて、一日片時も生きて有るべしとこそ覚えね」と、くどき立てて泣く。「げにもさこそ思ふらめ」とおぼせば、少将涙を押さへて、「いたくな思ひそ。我が身誤まらねば、さりともとこそ思へ。宰相さておはすれば、命計りはなどか申し請けられざるべき」となぐさめ給へども、人目もしらず泣き悶ゆるも無慚也。
八条よりとて使あり。▼P1271(三四オ)「遅し」とあれば、「いかさまにも参り向ひてこそは、ともかくも申さめ」とて宰相出で給へば、車に乗り具して少将も出で給ひぬ。無き人を取り出だす様に見送りて泣きあへり。保元・平治より以来は、平家の人々は、楽しみ栄えは有れども愁歎はなかりつるに、門脇の宰相こそ、由なかりける聟ゆゑに、かかる歎きをせられけるこそ不便なれ。
十七 〔平宰相丹波少将を申し請け給ふ事〕
八条近く遣り寄せて見れば、其の四五丁に武士充満して、幾千万と云ふ数を知らず。いとど怖しなむどは云ふ計りな
し。少将は是を見給ふに付けても、大納言の御事おぼすぞ悲しき。宰相、車をば門外に留めて案内を申し給へば、「少将をば内へは入れ▼P1272(三四ウ)給ふべからず」 と有りければ、其の辺近き侍の家に下し置きて、宰相内へ入り給ひぬ。見もしらぬ兵あまた来たりて、居めぐりて守り申す。少将は、恃みたりつる宰相は入り給ひぬ、いとど心細く悲し。宰相入りて見給
へば、大方、内の有様、武士共のひそめきあへるさま、誠におびたたし。「教盛こそ参りて候へ。見参に入らん」と宣ひ
けれども、入道出で合ひ給はざりければ、季貞を呼びて宰相申されけるは、「由無き者に親しくなりて、返す返すくやしく候へども、甲斐も候はず。成経に相具して候ふ物、いたくもだえこがれ候が、恩愛の道、力及ばざる事にて、無慚に覚え候ふ。近く産すべき者にて候ふが、いかに候ふやらん、日▼P1273(三五オ)来なやみ候ひつるが、此の歎き打ち副ひ候ひなば、身々ともならぬ先に命も絶え候ひなんず。助けばやと思ひ候ひて、恐れながらかく申し入れ候ふ。成経計りをば申し預かり候はばや。敦盛かくて候へば、争か僻事せさせ候ふべき。おぼつかなく思し召さるべからず」と泣く泣く申し給ふ。季貞此の由を入道に申しければ、よに心得ずげにて、とみに返事も宣はず。宰相、中門にて「いかにいかに」と待ち給ふ。
良久しくありて入道宣ひけるは、「成親卿、此の一門を滅ぼして、天下を乱らんとする企有りけり。しかれども一家の運尽きぬによつて、此の事顕れたり。少将は既に彼の大納言の嫡子也。親しくおはすとても、えこそ宥め申すまじけれ。彼の企遂げましかば、其れ御辺とても▼P1274(三五ウ)おだしくてや御すべき。いかに御身の上の大事をば、かくは宣ふぞ。聟も子も身に増さるべきかは」と、少しもゆるぎなく宣へば、季貞返り出でて、此の由を申しければ、宰相大きに本意なげに思ひ給ひて、押し返し宣ひけるは、「加様に仰せらる上を重ねて申すは、其の恐れ深けれども、心の中に思はん程の事を残さむも口惜しければ申すぞ。季貞、今一度よくよく申せよ。去る保元・平治両度の合戦にも、身を捨てて御命に替はり奉らんとこそ思ひしか。是より後なりとも、荒き風をば先づ防がむとこそ思ひ給へ。教盛こそ、今は年罷りよりて候へども、若者共あまた候へば、御大事も有らむ時は、などか一方の御国めとも▼P1275(三六オ)ならで候ふべき。夫に教盛が憑み奉りたる程は、つやつや思食され候はざりけり。成経を暫く罷り預からむと申すをおぼつかなく思し召して、御ゆるされのなからむは、既に二心有る者
と思食すにこそ。是程に後めたなき物に思はれ奉りて、世に有りては何にかはすべき。世に有らば又、何計りの事かは有るべき。今は只、身の暇を給はりて、出家入道して片山寺にも籠り居て、後生菩提の勤めを仕るべし。由無き憂き世の交はり也。世に有ればこそ望みもあれ、望みの叶はねばこそ恨みもあれ。如かじ、只世を遁れて実の道に入らんには」と宣へば、季貞にがにがしき事哉と思ひて、此の由を委しく入道に申しければ、「物に心得ぬ人哉」とて、又返事も宣はず。
季貞申しけるは、「宰相殿は▼P1276(三六ウ)思食し切りたる御気色にて渡らせ給ひ候ふめり。能く能く御計らひ有るべくや候ふらん」と申ければ、其の時入道宣ひけるは、「先づ御出家あるべしと仰せられ候ふなるこそ驚き存じ候へ。大方は是程に恨みられ進らせ候ふべしとこそ存じ候はねども、夫程の仰せに及ばむ上は、少将をば暫く御宿所に置かれ候ふべし」と、
しぶしぶに有りければ、宰相悦びて出で給ひにけり。
少将はなにとなく憑もしげに思ひて、「いかに」と問ひ給ふも哀れ也。宰相思はれけるは、「あな無慚やな。我が身に替へて申さざらむには、叶ふまじかりつる者の命ぞかし。人の子をあまた持つ事は無益の事かな。我が子の縁にむすぼほれざらんには、人の上の事にこそ見るべき者の事を、身の上になして肝心を消すこそよしな▼P1277(三七オ)けれ」と、おぼされければ、「いさとよ。入道殿の鬱りなのめならず深げにて、教盛には対面もし給はず。叶ふまじき由、度々宣ひつれども、季貞を以て、『出家入道をもせむ』とまで申したりつればやらん、『暫く宿所におき給へ』と計り宣ひつれども、始終よかるべしとも覚えず」と宣ひければ、少将申されけるは、「成経御恩にて一日の命も延び候ひけるにこそ。一日とてもおろかの儀にて候はず。助かり候はん事こそ然るべく候へ。是に付け候ひても、大納言の行方、いかが聞食され候ひつる」と宣ひければ、宰相、「いさとよ。御事をこそ、とかく申し候ひつれ。大納言殿の御事までは心も及ばず」と宣ひければ、げにも理かなと思へども、「大納言、今▼P1278(三七ウ)夜失はれ候はば、御恩にて成経今日計り命生きても、なににかはし候ふべき。死出の山をも諸
共に越へ、片時も遅れじとこそ存じ候へ。同じ御恩にて候はば、大納言のいかにも成り候はん所にて、ともかくも罷り成り候はばや。同じくは、さやうに申し行はせおはしますべくや候ふらん」 とて、さめざめと泣かれければ、宰相又心苦しげにて、「実やらん、大納言の事をば、内のおとど殿とかく申されければ、今夜は延び給ひぬるやらんとこそ、ほのぎきつれ。心安く思ひ給ふべし」と宣ひければ、少将其の時、手を合はせて喜ばれけり。「責めて今夜計りなりとも延び給へかし」とて悦ばれけるを見給ひけるにこそ、宰相、又、「無漸やな。子ならざらん者は、只今誰かは是▼P1279(三八オ)程に、我身の上を差し置いておぼつかなくも思ひ、延びたるを聞きて、身にしみてうれしく思ふべき。実の思ひは父子の志にこそ留めてけれ。子をば人の持つべかりける物を」とぞ、やがて思し返されける。
さて、宰相は少将を具して帰り給ひければ、宰相の宿所には少将の出で給ひつるよりも、北方を始めとして母上乳母の六条臥し沈みて、「何なる事をか聞かむずらん」と肝心を迷はして思し召しける程に、「宰相帰り給ふ」と云ひければ、いとど胸せき上げて、「打ち捨てておはするにこそ。未だ命もおはせば、何に弥よ心細くおぼすらむ」と悲しく思はれけるに、「少将殿も帰らせ給ふ」と、先に人走り向ひて告げ申したりければ、車寄に出で向かひて、「実かや」とて、又声を整へて泣きあひ給へり。実に宰▼P1280(三八ウ)相、少将乗り具して帰り給へり。後は知らず、帰りおはしたれば、死したる人の蘇生したる様に覚えて悦び泣き共しあはれけり。此の宰相の宿所は門脇とて、六波羅の惣門の内なれば、程隔たらず。入道当時は八条におはしけれども、世も猶つつましくて、門さし、蔀の上計りあけてぞおはしける。
十八 〔重盛父教訓の事〕
入道は、かやうに人々あまた警めおかれたりけれども、猶心安からず思はれければ、「善悪法皇を先づ迎へ取り奉り
て、此の八条に押し籠めまゐらせて、いづちへも御幸なし奉らむ」と思ふ心、付かれにけり。赤地の錦の直垂に、白金物打ちたる黒糸威の腹巻の胸板責めて、そのかみ安芸守にて神拝せられけ▼P1281(三九オ)る時、厳嶋社より霊夢を蒙りて儲けられたりける、白金の蛭巻したる秘蔵の手鉾の、常に枕を放たざりける、左脇に挟みて、中門の廊につと出でて立たれたり。
其の気色、ゆゆしくぞ見えられける。
肥後守貞能は、木蘭地の直垂に、緋威の鎧きて、御前に跪いて候ふ。入道、宣ひけるは、「貞能、此の事いかが思ふ。入道が存ずるは僻事か。一年保元の逆乱の時、右馬助を初めとして、親しき者共は半ば過ぎて讃岐院の御方へ参りにき。一宮の御事は、故卿殿の養君にて渡らせ給ひしかば、方々思ひ放ち奉りがたかりしかども、故院の御遺誠に任せて、御方にて先をかけたりき。是一の奉公なりき。次に平▼P1282(三九ウ)治の逆乱の時、信頼・義朝が振舞、入道命を惜しみては叶ふまじかりしを、命を捨てて凶徒を追ひ落として、天下を鎮む。其の後、経宗・惟方を誡めしに至るまで、君の御為に命を捨てむとする事度々也。縦ひ人いかに申すとも、入道が子孫をば争でか捨てさせ給ふべき。されば入道が事を忽緒し申さむ者をば、君も尤も御誡めも有るべきに、誡めらるるまでこそなからめ、大納言が讒に付かせ給ひて、情けなく一門追討せらるべき由の院中の御結構こそ、遺恨の次第なれ。此の事行綱告げ知らせずは、顕るべしや。顕れずは、入道安穏にて有るべしや。猶も北面の下臈共が諌め申す事なむどあらば、当家追討の院宣▼P1283(四○オ)下されぬと覚ゆるぞ。朝敵と成りなむ後は、悔やむに益有るまじ
。世を鎮めん程、仙洞を鳥羽の北殿へ移し奉るか、然らずは御幸を是へなし奉らばやと思ふ也。其の儀ならば、北面の者共の中に、矢をも一筋射出だす者もありぬとおぼゆるぞ。侍共に其の用意せよと触るべし。大方は入道、院方の宮仕へ思ひ切りたり。きせなが共取り出だせ。馬に鞍おかせよ」とぞ下知せられける。
鳥羽殿への御幸とは聞こえけれども、内々は法皇を西国の方へ流し進らすべき由をぞ議せられける。
主馬判官盛国、此の気色を見奉りて、小松殿に馳せ参りて、大臣殿に申しけるは、「世は今はかうと見え候ふ。入道殿、既に御きせながを召され候ふ。侍共皆打つ立ち候ふ。法住寺殿へ寄せられ候ふ。鳥羽殿への御▼P1284(四〇ウ)幸とこそ聞こえ候へども、内々は、西国の方へ御幸なるべきにて候ふやらんとこそ、承り候ひつれ。いかに此の御所へは今まで御使ひは候はぬやらん」と、息もつぎあへず申しければ、内大臣大きに騒がれけり。「争でかさしもの事はあるべきとは思へども、今朝の入道殿の御気色、さる物狂はしき事も有らん」と、おぼされければ、内府怱ぎ馳せ来たり給ふ。其の時も同じく甲冑をよろふに及ばず。八葉の召車のけしかるに、子息の惟盛車の尻にのせて、重代伝はりたる唐皮と云ふ鎧、小烏と云ふ大刀、車の内に内々用意して持たれたり。引きさがりて鞍置馬引かせたり。衛府四五人、随身二三人召し具して、深更に及びて、けさの体にて、烏帽▼P1285(四一オ)子直衣にておはしたりけり。
西八条に指し入りてみられければ、高燈台、侍中門坪々にかき立てて、一門の卿相雲客数十人、各思ひ思ひの鎧直垂に、色々の鎧きて、中門の廊に二行に着座せられたり。衛府・所司・諸国の受領なむどは〓に居こぼれて、壷にもひしと並み居たり。旗棹ども引きそばめ、馬の腹帯をしめて、甲を膝の上に置きて、只今かけ出でむずる体とみえけるに、内大臣直衣にて、大文の指貫のそば取りて、ざやめき入られけり。事の外にこそ見えられけれ。入道此を遥かに見付けて、少し伏し目にこそなられけれ。「例の内府が入道を表する様に振舞ふは」とて、心得ずげに思はれたり。
内大臣▼P1286(四一ウ)聊も憚る気色なく、ゆらゆらと歩みよつて、中門の廊に着かれたり。弟の右大将宗盛卿より上なる一座に、むずとつかれたり。内府四方を見まはして、「いしげにさう御気色共かな」とて、へし口せられけり。兵杖を帯したる人々も、皆そぞろきてぞ見えられける。客殿を見給へば、大政入道の体、惣じて軽々なり。赤地の錦の直垂に、黒糸威の腹巻きて、左の方には黒糸威の鎧に、白星の甲重ねて置かれたり。右の方には白金の蛭巻したる擲刀立てて、院の御所か、臣家の許へか、只今打ち入りげなる気色なりけるが、入道は是を見給ひて、子ながらも、内には五戒を持ちて、慈悲を先とし、外には五常を▼P1287(四二オ)みだらず、礼義を正しくし給ふ臣なりければ、腹巻を着て相ひ向かはん事の面はゆくや思はれけん、障子を少し引き立てて、腹巻の上に素絹の衣を引き懸けて、胸板の金物のはづれてきらめきてみえけるを隠さむと、頻りに衣の胸を引きちがへ引きちがへぞせられける。内大臣此の気色を見給ひて、「あな口惜し。入道殿には能く天狗付きたりけり」と、うとましくぞ思はれける。
入道宣ひけるは、「抑も此の間の事を西光法師に委しく相ひ尋ね候へば、成親卿父子が謀叛の企ては枝葉にて候ひけるぞ。真実には法皇の御叡慮より思し食し立たせ給ふ御事にて候ひけり。大方は近来よりいとしもなき近習者共が、折にふれ時に随ひて、さまざまの▼P1288(四二ウ)事を勧め申すなる間、御軽々の君にて渡らせ給ふ。一定天下の煩ひ、当家の大事引き出ださせ給ひぬと覚ゆる時に、法皇を是へ迎へまゐらせて、片辺りに追ひ籠めまゐらせむと存ずる事を、申し合はせ奉らむとて、度々使ひを遣はしつる也」と宣へば、内府、「畏まりて承り候ひぬ」と計りにて、双眼より涙をはらはらと落とし給ふ。入道あさましとおぼして、「こはいかに」と宣へば、内府暫く物も宣はず。
良久しく有りて、直衣の袖にて涙を拭ひ、鼻打ちかみ宣ひけるは、「なにかの事は知り候はず。先づ御体を見まゐらせ候ふこそ、少しもうつつともおぼえ候はね。さすが吾が朝は、辺地粟散の境と申しながら、天照大神の御子孫、国の▼P1289(四三オ)主として、天児屋根の御末、朝の政を掌り給ひしより以来、太政大臣の位に昇る人、甲冑をよろふ事、輙かるべしとも覚え候はず。方々御憚り有るべく候ふ物を。就中御出家の御身也。夫れ三世諸仏、解脱同相の法衣を脱ぎ捨てて、忽ちに甲冑を帯し坐しまさん事、既に内には破戒無慚の罪を招き給ふのみに非ず、外には又仁・義・礼・智・信の法にも背き候ひぬらんとこそ覚え候へ。能々御栄花尽きて、御世の末に成りて候ふと覚え候ふ間、余りに悲しく覚え候ひて、不覚の涙の先立ち候ふぞや。方々恐れある申し事にて候へども、暫く御心をしづめさせおはしまして、重盛が申し候はん事を具に聞こし召され候ふべし。且は最後の申し状也。心の底に存ぜん程の旨趣を▼P1290(四三ウ)のこすべきに候はず。
先づ世に四恩と申す事は、諸経の説相不同にして、内外の存知、各別なりと云へども、且く心地観経の第八の巻によらば、一には天地の恩、二には国王の恩、三は師長の恩、四には衆生の恩、是也。是を知るを以て人倫とし、知らざるを以て鬼畜とす。其の中に尤も重きは朝恩也。普天の下、王土に非ずといふこと莫し。率土の浜、王臣に非ずといふこと莫し。されば、彼の穎川の水に耳を洗ひ、首陽山に蕨を折りける賢人も、勅命の背き難き礼義をば存じてこそ候ふなれ。
忝くも御先祖、桓武天皇の御苗裔、葛原親王の御後胤と申しながら、中比より無下に官途も打ち下りて、纔かに下国の受領をだにもゆるされでこそ候ひけるに、故刑部卿殿、備前国国務の時、鳥羽院御願、▼P1291(四四オ)得長寿院を造進の勧賞によつて、家に久しく絶えたりし内の昇殿をゆるされける時は、万人脣を翻しけるとこそ承り伝へて候へ。何に況や、御身既に先祖にも未だ拝任の跡を聞かざりし、大政大臣の位を極めさせ給ふ。御末又大臣の大将に至れり。所謂重盛なんどが不才愚暗の身を以て、蓮府槐門の位に至る。加之、国郡半ばは一門の所領也。田園悉く家門の進止たり。是希代の朝恩に非ず乎。今是等の莫大の朝恩を忘れて、君を傾け進らせましまさむ事、天照大神・正八幡宮・日月星宿・堅牢地神までも御免されや候ふべき。『君を背く者は、近くは百日、遠くは三年を出でず』とこそ申し伝へたれ。若し又院宣にて謀叛の御企て有りとも、僻事とも存じ候はず。倩ら上古を思ひ候ふに、嚢祖平将軍貞盛、相馬小二郎将門▼P1292(四四ウ)を誅ちたりしも、勧賞を行はれ候ひし事、受領には過ぎざりき。伊与入道頼義が貞任・宗任を誅戮し、陸奥守義家が武衡・家衡を滅ぼしたりしも、いつかは丞相
の位に昇り、不次の賞に預かりたりし。而るを此の一門代々朝敵を追討して、四海の逆浪を鎮むる事は無双の忠なれども、面々の恩賞に於いては、傍若無人とも申しつべし。
されば、聖徳太子の十七ヶ条の憲法には、『人皆心有り。心各執有り。彼を是すれば我を非し、我を是すれば彼を非す。是非之理、誰か能く定むべき。相ひ共に賢愚なり。環の如くして端無し。是を以て、彼の人嗔ると雖も、還りて我が失を恐れよ』とこそ候へ。之に依つて、君事の次を以つて、奇怪也と思し召さん事は、尤も理りにてこそ候へ。然而御運尽きざる歟に依つて、此の事既に顕れて、仰せ合はせられ候ふ人々、かやうに召し置かれ▼P1293(四五オ)候ひぬ。縦ひ又君いかなる事を思し召し立ち候ふとも、且く何の怖れかはおはしますべき。大納言以下の輩に、所当の罪科行はれ候ひなん上は、退きて事の由を陳じ申させ給ひて、君の御為には弥奉公の忠節を尽くし、民の為には増々撫育の哀憐を致させ給はば、神冥仏陀の擁護浅からず、冥衆善神の加護頻りにして、君の御政引き替へて直になるならば、逆臣忽ちに滅亡し、凶徒即ち退散して、四海波静かに八挺嵐治まらん事、掌を返さんよりも猶速やかなるべし。猥りがはしく法皇を傾け進らせましまさん事、然るべしとも覚え候はず。
『父命を以て王命を辞せず、王命を以て父命を辞す。家事を以て王事を辞せず、王事を以て家事を辞す』とも侍り。又君と臣とを准らふるに、親疎をわかず君に仕へ奉るは、忠臣の法也。道理と僻事とを准らへんに、争でか▼P1294(四五ウ)道理に付かざらん。是に於いては、君の御道理にて候へば、重盛におきては御院参の御共をば仕るべしとも存じ候はず。叶はざらむまでも、院中を守護し奉らばやとこそ存じ候へ。重盛、初め六位に叙せしより、今三公の末に列なるまで、朝恩を蒙る事、身において頗る過分也。其の重き事を論ずれば、千顆万顆の玉にも越え、其の深き色を案ずるに、一入再入の紅にも過ぎたるらん。然れば重盛、君の御方へ参り候はば、命に替はり身に代はらんと、契り深き恥ある侍、二百余人は相ひ従へて候ふ。此の者共はよも捨て候はじ。
遠く例をば求むるに及ばず、正しく御覧じ見候ひし事ぞかし。保元逆乱の時、関白殿は内裏に候はせましまし、弟の左大臣殿は新院の御方に候ひ給ふに、▼P1295(四六オ)陸奥判官為義は新院の御方へ参り、子息下野守義朝は内裏に候ひて合戦す。兵いくさ事終へて後、大炊殿は戦場の煙の底になりにしかば、左府は流れ矢に中りて命を失ひ、新院は讃州へ配流せられさせ給ひぬ。其の後大将軍為義は出家入道して、義朝を憑み顕れ、手を合はせて来たりしかば、勲功の賞を進らせ上げて、父が命を平に申ししかども、正しく君を射奉る罪遁れ難きに依つて、死罪に定まりしを、人手にかけじとて、義朝が朱雀の大路に引き出だして、頸を切り候ひしをこそ、同じ勅命の背き難さと申しながら、悪逆無道の至り、口惜しき事哉とこそ、昨日までも見聞き候ひしに、今日は重盛が身の上になりぬとこそ覚え候へ。『君打ち勝たせ給ひ候はば、彼の保元の▼P1296(四六ウ)例に任せて、重盛五逆罪の一分犯し候ひぬ』と覚え候ふこそ、兼ねて心憂く覚え候へ。
悲しき哉、君の御為に忠を致さむとすれば、迷慮八万の頂猶下れる父の御恩を、忽ちに忘れなんとす。痛ましき哉、不孝の罪を遁れんとすれば、蒼海万里の底猶浅き君の御為に、不忠の逆臣となりぬべし。是と申し、彼と云ひ、思ふに無益の事にて候ふ。只末代に生を受けてかかる憂き目を見る、重盛が果報の程こそ口惜しく候へ。されば、申し請くる所猶御承引なくして、御院参有るべきにて候はば、先づ重盛が首を召され候ふべし。所詮院中をも守護すべからず。又御共をも仕るべからず。申し請くる所は、只首を召さるべきにあり。
今思し召し合はせさせ御はしまし候へ。御運は一定末になりて候ふと覚え候ふ。人の運の末に臨む時、かやうの謀は思ひ▼P1297(四七オ)立つ事にて候ふなるぞ。老子の書きおかれて候ふ詞こそ、思ひ合はせられ候へ。『功名称ひ遂げて、身を退き位を避れずは、即ち害に遇ふ』と云へり。彼の勲蕭荷は大功を立つる事、傍輩に越えたるに依つて、官大相国に至り、剣を帯し沓をはきながら、殿上に昇る事をゆるされたりき。然而叡慮に背く事有りしかば、高祖重く誡めて、廷尉におろされて罪せらる。論語と申す文には、『郊に道無き時は、富み且つ貴きは恥なり』と云ふ文あり。かやうの先蹤を思ひ合はせ候ふにも、御福貴と云ひ、御栄花と云ひ、朝恩と云ひ、重職と云ひ、一方ならず極めましまして、年久しくなりぬれば、御運の尽きんとてもかたかるべきに非ず。『富貴の家、禄位重畳するは、猶し再実の木のごとし。其の根必ず傷む』とも云へり。心細くこそ覚え候へ。いつまでか命生きて、乱れぬ▼P1298(四七ウ)世をも見候ふべき。只とくとく首を刎ねられ候ふべし。侍一人に仰せて、只今御壺に引き出ださせ給ひて、首を刎ねられむ事、よに安き事にてこそ候はんずれば、是は殿原いかが思ひ給ふ」とて、
直衣の懐よりたたう紙取り出だして、鼻打ちかみ、さめざめと泣く泣く宣ふ。一門の人々より始めて、侍共に致るまで、皆鎧の袖をぞぬらされける。
「いかに御用ゐなくとも、叶はざらんまでも、各かやうの事をば申さるべきにてこそ候ふに、諌め申さるるまでこそ候はずとも、先づ与しがましく御物具かためられ候ふ事、且は軽々異体の物狂はしき有様、御振舞共哉。かくては世を持ち、子々孫々繁昌して家門の栄花、末憑み無くこそ覚え候へ」と宣ひければ、弟の右大将、赤面してすくみ返りて、汗水になられけり。▼P1299(四八オ)事の外にわろくぞ見えられける。入道もさすが石木ならねば、道理につまりて返事もし給はず。体のはづかしさに、障子の奥へすべり入りておはしけるが、内府の既に立ち給ひけるを見て、しらけぬ体に、「哀れ、ききたる殿の口かな。わ殿も説法し給ふ。暫くおはせよかし。人道も説法して聞かせ申さむ」とぞ宣ひける。内大臣は中門の廊に立ち出でて、さも然るべき侍共にあひて宣ひけるは、「重盛が申しつる事は各きかずや。されば院参の御共に於いては、重盛が頸の切られんを見て後、仕るべしと覚ゆるはいかに。今朝より是に候ひて、叶はざらんまでも諌め申さばやと存じつれども、是等が体余りにひたあはてに見えつる時に、帰りたりつる也。今は憚る所有るべからず。『首を▼P1300(四八ウ)召さるべし』と申しつれば
、其の旨をこそ存ぜめ。但し未ださも仰せられぬは、いかなるべきやらん。さらば人参れ」とて、小松殿へぞ帰られける。
十九 〔重盛軍兵集めらるる事 付けたり周の幽王の事〕
内大臣帰りはてられければ、盛国を使にて、「重盛、別して天下の大事を聞き出だしたる事あり。我を我と思はん者共は、怱ぎ物具して参るべし。此にて重盛に志の有無は見るべし」と催されければ、是を聞きて、「少の事にはさはぎ給はぬ人の、かかる仰せの有るは」とて、侍共、入道には「かく」とだにも申さで、我先にとぞ馳せ参りける。夜あけにければ、洛中の外、白川・西京・鳥羽・羽束志・醍醐・小栗巣・勧修寺・小原・志津原・瀬料の郷にあぶれ居たりける侍、郎等、古入道までも次第に聞き伝へ聞き伝へして、或いは馬に乗るも▼P1301(四九オ)あり乗らぬもあり、或は鎧きて未だ甲をきぬ者もあり。或は弓持ちて矢負はぬ者もあり、或は矢を負ひて弓をとらぬ者もあり。かやうに我劣らじと馳せ集まりにければ、西八条には、青女房、古尼公、自ら筆取りなんどぞ少々残りたりける。弓馬に携る程の者は一人もなかりけり。入道宣ひけるは、「内府はなにと思ひて是等をば呼び取るやらん」とて、よに心得ずげにて、腹巻ぬぎ置きて、素絹の衣に袈裟打ち懸けて〓行道して、心も発らぬ念誦してうそ打ち吹きて、「内府に中達ひてもよき大事や」とぞ思はれける。
小松殿には、盛国が奉りにて侍の着到付けけり。侍三千余人、郎等・乗替ともなく、凡その勢二万七千八百余騎とぞ注しける。内大臣は着到披見の後、侍共に対▼P1302(四九ウ)面して宣ひけるは、「日来の契約違へず、かやうに馳せ参り合ひたるこそ、返す返す神妙なれ。重盛不思議の事を聞き出だしたりつる程に、俄にかくは催したりつるなり。されども其の事聞きなほしつ。僻事にて有りけり。とくとく罷り帰られよ。自今以後も、是より催さんには参るべし。返す返す本意なり」とて、皆返されけるが、又宣ひけるは、「是に事なければとて、後に遅参有るべからず。異国にもさるためし有りけり。
昔、唐国に周の幽王と云ふ帝おはしけり。后をば褒氏とぞ申しける。此の后、生を受け給ひてより以来、咲み給はず。帝此の后を寵愛し給ひける余りに、いかにしてゑませ奉らんと、種々の態をし給ひけれども、つひに▼P1303(五〇オ)ゑみ給はず。或る時、天下に事出でて、烽火を上げ、時を作りて、甲冑をよろへる武者、宮城に充満せり。是を見給ひて、后初めてゑみ給へり。
烽火とは、大国の習ひ、都に騒ぐ事出で来ぬれば、諸国へ兵を召さむとては、烽火燈炉と名づけて火輪を飛ばす術をして、王城の四方の高き嶺峯にとぼして、諸国の兵を召す也。又は統天輪とも名づけたり。此の烽火出できぬれば、『都に事出できたむなり』とて、国々の兵、城へ馳せ参る。是を飛火とも名づけたるにや。
其の後、常に后をゑませ奉らむとて、烽火を上げ、時の声を作りしかば、諸国の官軍馳せ参りたりけれども、かかる謀なりければ、各本国へ帰りにけり。東山へ行く官軍は千里の道に小馬をはやめ、西国へ趣くせむだ羅は、八重の塩路を陵ぎけり。南北の国々も此くの如し。
▼P1304(五〇ウ)或る時、戎の軍よせて、幽王を滅ぼさんとしけるに、先々の如く烽火を上げ、時の声を合はせしかども、諸国の官兵等、『例の后ゑませ奉らん料にてぞ有るらん』とて、一人もまゐらざりければ、幽王忽ちに滅び給ひてけり。褒氏をば戎の軍取りて帰りぬ。
其より美人をば傾城とぞ名づけたる。『城を傾く』と云ふ読みあり。此の読みをば、当初は誡められけれども、当世、都には猶傾城とぞよばれける。彼の后、後には尾三つある狐になりて、古き塚へ逃げ去りにけり。狐の、女にばけて人の心をたぶらかすと云ふ事は、本説ある事にや。思ひ合はすべし」とぞ宣ひける。
内大臣、実にはさせる事も聞き出だされざりけれども、父の入道を諌め申されつる詞に随ひて、我が身に勢の付くか付ぬかの程をもしり、且は又、▼P1305(五一オ)父と軍をせむとには非ず、父の謀叛の心をや思ひ宥め給はむとの謀なるべし。内大臣の存知の旨、文宣公の宣ひけるに違はず、君の為には忠あり、父の為には孝あり。哀れ、ゆゆしかりける人かな。
法皇此の事を聞こし召して、「今に始めぬ事なれども、重盛が心の中こそ恥ずかしけれ。『讎をば恩を以て報ぜよ』と云ふ文あり。丸ははや讎をば恩にて報ぜられにけり」と仰せありけるとぞ聞こえし。
廿 〔西光頸切らるる事〕
左衛門入道西光をば、其の夜、松浦太郎重俊に仰せて、朱雀の大路に引き出だして首を刎ねらる。郎等三人、同じく切られにけり。西光は、三位中将知盛の乳母人、紀伊二郎兵衛為範が舅なりければ、知盛、二位殿に付き奉りてたりふし申されけり。為範も、「人手に懸け候はんよりも、▼P1306(五一ウ)申し預かり候ひて誡め候はん」と再三申しけれども、終に叶はず切られにければ、三位中将も為範も世を恨みて、さばかりの騒動なりけれども指しも出で給はざりけり。
廿一〔成親卿流罪の事 付けたり鳥羽殿にて御遊の事 成親備前国へ着く事〕
二日、成親卿をば、夜漸くあくる程に、公卿の座に出だし奉りて、物まゐらせたりけれども、胸もせき、喉もふさがりて、聊かもめされず。やがて追立の官人参りて車指し寄せ、「とくとく」と申しければ、心ならず乗り給ひぬ。御車の簾を逆まに懸けて、後ろざまに乗せ奉りて、門外へ追出す。先づ火丁一人つとよりて、車より引き落とし奉りて、祝のしもとを三度あて奉る。次に看督長一人よりて、殺害の刀とて二刀突くまねをし奉る。次に山城判官季助、宣命を含め奉る。かかる▼P1307(五二オ)事は人の上にても未だ御覧じ給はじ。増して御身の上にはいつかは習ひ給ふべきと、御心の内、押しはかられて哀れ也。門外よりは軍兵数百騎、車の前後に打かこみて、我が方さまの者は一人もなし。いかなる所へ行くやらんも、知らする人もなし。「内大臣に今一度遇ひ申さで」とおぼしけれども、其も叶はず。身にそへる物は、尽きせぬ涙計りなり。朱雀を南へ行きければ、大内山を顧みてもおぼし出づる事多かりける中にも、かくぞ思ひつづけられける。
極楽と思ふ雲井を振りすててならくの底へいらん悲しさ
鳥羽殿を過ぎ給へば、年来仕へ奉りし舎人・牛飼共、なみゐつつ涙を流すめり。「余所の者だにもかくこそあるに、増して都に残り留まる者▼P1308(五二ウ)共、何計悲しかるらん。我世に有りし時従ひ付きたりし者、一二千人も有りけんに、一人だにも身にそふ者もなくて、今日を限りて都を出づるこそ悲しけれ。重き罪を蒙りて遠き国へ行く者も、人一人具せぬ事やは有る」なんど、さまざまに独り言を宣ひて、声も惜しまず泣き給へば、車の尻先に近き兵は鎧の袖をぞぬらしける。鳥羽殿を過ぎ給へば、「此の御所へ御幸の成りしには一度もはづれざりし物を」なんど覚して、我が内の前を通り給へば、よそも見入らですぎ給ふも哀れ也。
南門を出でぬれば、河鰭にて 「御船の装束、とく」といそがす。「こはいづくへやらむ。失はるべくは只此の程にてもあれかし」とおぼすも、責めての悲しさの余りにや。近く打ちたる武士を、「是はたそ」と問ひ給へば、「経遠」と名乗りけり。▼P1309(五三オ)難波二郎と云ふ者なりけり。「若此の程に我ゆかりの者やあると尋ねてむや。船にのらぬさきに云ひ置くべき事の有るぞ」と宣ひければ、「其の辺近き当りを打ち廻りて尋ねけれども、答ふる者なし」と申しければ、「世に恐れをなしたるにこそ。なじかはゆかりの者なかるべき。命にも代はらむと云ひ契りし者、一二百人も有りけむ物を。余所にても我が有様をみむと思ふ者のなきこそ口惜しけれ」とて涙を流し給へば、武き物の武なれども哀れとぞ思ひける。
大納言御船に乗り給ひて、鳥羽殿を見渡して、守護の武士に語り給ひけるは、「去んぬる永万の比、法皇あの鳥羽殿へ御幸ありて、終日に御遊有りき。四条太政大臣師長、御琵琶の役を勤めらる。源少将正賢、御笛の役に参ぜらる。葉室の中納言俊▼P1310(五三ウ)賢、篳篥の役に参り給ひ、楊梅三位顕親、笙笛を仕り、盛定・行実、打物を勤めらる。かかりしかば、宮中澄み渉り、群集の諸人感涙を催しき。調子盤渉調にて万秋楽の秘曲を奏せられしに、五六の帖になりしかば、天井の上に琵琶の音、風に聞こゆ。絃々掩抑として声々の思ひあり。閑関たる鴬語は花の下になめらかに、幽咽たる泉流は氷の下になづめり。〓々たる大絃は村雨とぞ覚えし。窃々たる小絃は秘語に似たりしかば、着座の人人は各色を失ふ。君は少しも騒がせ給はず、成親其の時四位少将にて末座に祗候したりしを召されて、『何なる人ぞ』と尋ね申すべき由、仰せ下されしかば、成親畏まりて天井に向かひて、『君は何なる人にて▼P1311(五四オ)渡らせ給ふぞ』と、院宣の趣きを申したりしかば「我は住吉の辺に候ふ拯也」と答へて、やがて琵琶の音もせず、答ふる人も失せたりき。住吉大明神の御影嚮有りけるにや。諸人身の毛竪ちける
ほどに、池の汀に、赤鬼、青き褓をかきて、扇を三本結び立てたり。御遊の楽にめで給ひて、住吉の大明神のかけらせ給ひけるにこそ。其よりしてぞ、すはま殿をば住吉殿とも申しける。
彼の師長公の琵琶は、神慮にも相応の勝事多かりける中に、或る年、天下旱魃の間、諸寺諸山の浄行持律の僧等に仰せて雨の御祈り有りけれども、露だにもおかずして人々不覚し給ひたりけるに、此の太政大臣日吉の社に参籠せられて祈精あり。種々の秘曲を弾き給ひたりければ、▼P1312(五四ウ)忽ちに空かきくもり、国土に雨くだりて、天下豊饒なりき。
又、源少将正賢の吹きける笛は、紅葉と云ふ名物也。彼の笛は、昔住吉の大明神、紅葉の比、大井河に御幸して御遊有りけるに、紅葉面白くありけるに交りて、空より降りけるを取らせおはしまして、還御の後、御身を放たれずして御秘蔵有りてもたせ給ひたりけるほどに、内裏守護して還御なるとて落とさせ給ひたりけるを、彼の正賢の先祖に一条の左大臣正親公と申す人、求めてけり。或る時、正親公夢にしめして云はく、「此の笛は、我しかじかして設けたりしを、内裏にて落としたりき。秘蔵の物也。我に返せ」と仰せられければ、正親公申すやう、「求め得て後は、此に過ぎたる宝▼P1313(五五オ)なしと存じ候ふ時に、進らすまじく候ふ。それに奇怪に思し召され候はば、命をめせ」と申したりければ、「さらば、其の笛のかはりに汝が所持の唐本の法花経を進らすべし」と仰せられければ、又申すやう、「笛は今生一旦の翫び、物経は当来世々の資縁にて候へば、笛をこそ進らせ候はめ」と申しけるを、明神あはれと思し食して、経をも笛をもめされざりき。さて身を放たず、弥よ宝物と思ひて持ちたりけるほどに、内裏焼亡の時、いかがしたりけむ、落として失ひてけり。只事にあらず、若は明神の召し返されけ
るにや。其の後設けられたりける笛の、少しもたがはざりければ、是をも紅葉と名付く。今の笛は後の紅葉にてぞ有りける。かやうに有り難き人々御坐しければ、明神の御影嚮も理にこそ▼P1314(五五ウ)覚えしか。かかりし時も、人こそ多かりしかども、成親こそ召しぬかれて君の御使をばしたりしか。
簫・笛・琴・箜篌・琵琶・鐃・銅〓、其の名区なれども、中道の方便なりければ、皆是本有の妙理也。惣て生きとし生ける者、いづれか音を離れたる。離鴻去雁の囀り、龍吟魚躍の鳴までも、或いは絃の源、或いは管の起り也。声ととのほりぬれば、君の道直也。されば天子も楽を用ゐ給ひて、雅楽の寮を置かれて朝庭の議式に備へらる。淳素に返る御世なれば、安楽の音ぞ目出たき。余たの調の中にも、風香調こそすぐれたれ。今の盤渉調をば、琵琶には風香調と云ふ。されば妙音大士も三昧の琵琶を取り、四徳の形を備へて、左の御手の印像に深き故有りとかや。
▼P1315(五六オ)抑も万秋楽は希代の秘曲、楽家の妙調なる故に、神明もここに降臨し、仏陀も是に納受す。故に則ち其の道を重んじて、輙く是を顕さず。次第相承を訪へば、日蔵上人渡唐の時、唱歌を以て、本朝に帰りてぞ、管絃には移されし。弥陀四十八願の荘厳にも、菩薩是を翫び、〓利三十三天の快楽にも、釈提是を舞ひかなづ。実に希代の楽也。
さても今、朝敵に非ずして配所へ向かふこそ悲しけれ。住吉の大明神、助けさせ給へ」とて、声も惜しまず泣き給へば、経遠を始めとして、多くの武士共、鎧の袖をぞぬらしける。
熊野詣・天王寺詣なむどには、二瓦の三棟に造りたる船に、次の船二三十艘付きてこそ有りしに、是はけしかるかきすゑ屋形の船に大幕引きまはして、我が方ざまの▼P1316(五六ウ)者は一人もなくて、見もしらぬ兵に乗り具して、いづちともしらずおはしけむ心の内、さこそは悲しかりけめ。今夜は大物と云ふ所に着き給へり。
新大納言死罪を宥められて流罪に定まりにけりと聞こえければ、さも然るべき人々悦びあはれけり。是は内府の、入道に強ちに申されたりける故とぞ聞こえし。「国に諌臣有れば其国必ず安し。家に諌子有れば其家必ず正し」と云へり。誠なるかなや。此の大納言、宰相か中将かの程にて異国より来りたりける相人に遇ひ給ひたりければ、「官は正二位、大納言に昇り給ふべし。但し獄に入る相のおはするこそ糸惜しけれ」と相したりけるとかや。今思ひ合はせられて不思議也。
又中納言にておはしける時、尾張国を知り給ひけるに、去んじ▼P1317(五七オ)嘉応元年の冬の比、目代右衛門尉政朝、尾張国へ下るとて杭瀬河に留まりたりけるに、山門の領、美乃国平野庄住人と事出だす事ありけり。平野庄の住人葛を売りけるに、彼の政朝が宿にて直の高下を論じけるに、後には葛に墨を付けたりけるをとがめける程に、互に云ひあがりて神人を刃傷したりける故とぞ聞へし。これに依りて平野庄神人、山門に訴へければ、同年十二月廿四日、大衆起こりて日吉の神輿を陣頭へ捧げて参ず。ふせかせられけれども叶はず。近衛の門より入て建礼門の前に神輿を比べすゑ奉りて、「成親卿を流罪せられ、目代政朝を禁獄せらるべき」由訴へ申しければ、「成親卿備中国へ流され、目代政朝を獄舎へ入れらる▼P1318(五七ウ)べき」由を宣下せらる。大納言既に西の朱雀なる所まで出だされたりける程に、同廿八日、召し返さると聞こえしかば、大衆成親卿をおびたたしく呪咀すと聞こえしかども、同廿九日、本位に復して、やがて中納言に成り返り給ふ。同二年正月五日、右衛門督を兼じて検非違使別当にならる。
其後も目出く時めき栄え給ひて、去んじ承安二年七月廿一日、従二位し給ひし時も、資賢・兼雅を越え給ひて、資賢は吉き人おとなにておはしき、兼雅は清礼の人なりしに、越えられ給ふも不便なりし事也。是は三条殿造進の賞なり。御移徙の日なりけり。同三年四月十三日、又正二位し給ふ。今度は中御門中納言宗家卿越えられ給ふ。去々年承安▼P1319(五八オ)元年十一月廿八日、第二の中納言を越えて、左衛門督検非違使別当権大納言に上り給ふ。かやうに栄えられければ、人嘲りて、「山門の大衆にはのろはるべかりける物を」とぞ申しける。されども其の積りにや、今かかる目を見給ふぞ怖しき。神明の罰も人の呪咀も、疾きもあり遅きもあり、不同の事なり。
三日未だ晩れざるに、「京より御使あり」とてひしめくめり。「既に失へとにや」と聞き給へば、「備前国へ」と云ひて、船を出ださるべき由、〓る。内の大臣の許より御文あり。「『都近き山里なむどに置き奉らん』と再三申しつれども、叶はぬ事こそ、世に有る甲斐も候はね。是に付けても世の中あぢきなく候へば、『親に先立ちて後生を助け給へ』とこそ、天道には祈り申し候へ。心に叶ふ命ならば、御身に▼P1320(五八ウ)も替へまほしく思ひ候へども、叶はず。御命計りは申し請けて候ふ。御心長く思し召し候へ。程経ば、入道聞きなほさるる事もやとこそ、思ひ給ひ候へ」とて旅の御用意細々と調へて奉り給へり。難波二郎が許へも御文あり。「あなかしこ、おろかに当たり奉るな。宮仕へ、よくよくすべし。おろかに当
たり申して我うらむな」とぞ仰せられたりける。
「さばかり不便に思し召されたりつる君をも離れ奉り給て、少き者共を振り捨てて、いづちとて行くらん。今一度都へ帰りて妻子を見ん事有りがたし。一年山の大衆の訴へにて、日吉七社の御輿を振り奉りて、已に朝家の御大事になりておびたたしかりしだにも、西七条に五ヶ日こそ有りしか、其れもやがて御ゆるされありき。是は君の御誡めにもあらず、大衆の▼P1321(五九オ)訴へにてもなし。こはいかにしつる事ぞや」と、天に仰ぎ地に臥して、をめき叫び給へども甲斐なし。
夜も明けければ、船を指し出だす。道すがらも只涙にのみ咽び給ひて、はかばかしく湯水をだにも喉へ入れ給はねば、ながらふべしとも思ひ給はねども、さすが露の命もきえはて給はず。日数経るままには都のみ恋しく、跡の事のみぞおぼつかなく思ひ給ひける程に、備前小嶋と云ふ所に落着き給へり。民の家のあやしげなる柴の編戸の内へぞ入り給ひにける。後には山、前は礒なれば、松に答ふる嵐の音、岩に摧くる波の声、浦に友呼ぶ浜千鳥、塩路をさ渡るかもめ鳥、適指し入る物とては、都にて詠めし月の光計りぞ、皃がはりもせず澄み渡りける。
新大納言父子にも限らず、誡めらるる▼P1322(五九ウ)人余ありき。
廿二 〔謀叛の人々召し禁ぜらるる事〕
近江入道蓮浄をば、土肥二郎実平預かりて常陸国へ遣はす。新平判官資行をば、源大夫判官季定預かりて佐土国へ遣はす。山城守基兼をば、進二郎宗政預かりて淀の宿所に誡め置く。平判官康頼、法勝寺執行俊寛僧都をば、備中国住人妹尾太郎兼康預かりて福原に召し置かる。丹波少将成経をば舅の平宰相に預けらる。
廿三 〔師高尾張国にて誅せらるる事〕
西光が嫡子、前加賀守師高・同弟左衛門尉師親・其弟右衛門尉師平等、追討すべき由、大政入道下知し給ひければ、武士尾張国の配所井土田へ下りて、河狩を初めて遊君を召し集めて、▼P1323(六〇オ)酒盛りして師高ををびき出だして首を刎ぬべき由を支度したりける程に、五日、師高が母の許より使を下して申しけるは、「『入道殿、八条殿より召し取られ給ひぬ。さりとも院の御所より尋ね御沙汰あらんずらむと待ち給ひし程に、やがて其の晩に打たれ給ひぬ。尾張の公達とても助け給ふべからず。怱ぎ下りて夢見せ奉れ』と宣ひつる」と云ひければ、師高、井戸田をば逃げ出でて、当国鹿野と云ふ所に忍びて居たりけるを、小熊郡司惟長、聞き付けてよせて搦めむとしけるに、師高なかりければ、兵共返らんとしける所に、檀紙にて髪の垢をのごひて捨てたる有りけり。是を見付けてあやしみて、猶能能穴ぐり求めける程に、民の家には、づしと云ふ所あり、其に隠れて師高が居たりけるを、求め出だして搦めむとしければ▼P1324(六〇ウ)自害してけり。郎等に近平四郎なにがしとかや申しける者、一人付きたりけるも同じく自害してけり。師高が首をば小熊郡司取りて六波羅へ献る。其の骸をば、師高が思ひけ
る鳴海宿の君、手づから自ら焼きはぶつて取り納めけるぞ無慚なる。
西光父子、切れ者にて世を世とも思はず、人を人ともせざりし余りにや、指もやむ事なくおはする人のあやまち給はぬをさへ、さまざま讒奏し奉りければ、山王大師の神罰冥罰立所に蒙て、時尅を廻さずかかる目にあへり。「さみつる事よ。さみつる事よ」とぞ人々申しあへりし。大方は女と下臈とは、さかざかしき様なれども思慮なき者也。西光も下臈の終なりしが、さばかりの君に召し仕はれまゐらせて果報や▼P1325(六一オ)尽きたりけむ。天下の大事引き出して我身もかく成りぬ。あさましかりける事共也。
廿四 〔丹波少将福原へ召し下さるる事〕
廿日、福原より太政入道平宰相の許へ、「丹波少将是へ渡し給へ。相計らひていづちへも遣はすべし。都の内にては猶あしかるべし」と宣ひたりければ、宰相あきれて、「こはいかなる事にか。人をば一度にこそ殺せ。二度に殺す事やはある。日数も隔たればさりともとこそ思ひつれ。さらば中々有りし時、ともかくも成りたらば再び物は思はざらまし。惜しむとも叶ふまじ」と思はれければ、「とくとく」と宣ひて少将諸共に出で給ふ。「今日までもかく有りつるこそ不思議なれ」と少将宣ひければ、北方も乳母の六条も思ひ儲けたる事なれども、今更に▼P1326(六一ウ)又もだえこがる。「猶も宰相の申し給へかし」とぞ思ひあへる。「存ずる所は委しく申してき。其の上加様に宣はむは力及ばず。今は世を捨つるより外はなにとか申すべき」とぞ宰相は宣ひける。「さりとも御命の失はるる程の事は、よもとぞ覚ゆる。いづくの浦におはすとも訪ね奉らむずる事なれば、たのもしく思ひ給へ」と宣ひけるも哀れ也。
少将は今年四歳(三歳イ)に成り給ふ男子を持ち給へり。若き人にて、日来は公達のゆくへなむど細かに宣ふ事もなかりけれども、そも恩愛の道の悲しさは、今はの期に成りぬれば、さすが心にやかかられけむ、「少き者今一度みむ」とて呼び寄せられたり。若君少将を見給ひて、いとうれしげにて取り付きたれば、少将かみをかきなでて、「七歳にならば男になして、御所へ進ら▼P1327(六二オ)せむとこそ思ひしかども、今は其の事云ふ甲斐なし。頭かたく生ひたちたらば、法師になりて我が後世を訪へよ」と、おとなに物を云ふやうに、涙もかきあへず宣へば、若君なにと聞きわき給はざるらめども、父の御皃を見上げ給ひて打ちうなづき給ふぞ糸惜しき。是を見て北方も六条も臥しまろびて声も惜しまずをめき叫びければ、若君あさましげにぞおぼしける。今夜は鳥羽までとて怱ぎ給ふ。宰相は出で立ち給ひたりけれども、世の恨めしければとて、此度は伴ひ給はぬに付けても弥心細くぞ思はれける。
廿二日、少将福原におはし付きたれば、妹尾太郎預かりて、やがて彼が宿所にすゑ奉る。我が方ざまの人は一人も付かざりけり。妹尾、宰相の返り聞き給はん事を思ひける▼P1328(六二ウ)にや、さまざまに労り、志ある様に振る舞ひけれども、なぐさむ方もなし。さるに付けても悲しみは尽きせず。仏の御名のみ唱へて、夜昼泣くより外の事なし。備中国妹尾と云ふ所へ流すべしと聞きければ、少将打ち案じて、「大納言殿は備前国へと聞こゆ。其のあたり近きにや。相見奉るべきにはなけれども、当りの風もなつかしかりなむ」と宣ひけるぞ哀れなる。「責めてはそなたとだに知らん」とて、妹尾太郎に、「我が流されて有らむずる妹尾とかやより、大納言のおはする備前国の児嶋へはいか程の道にて有らむ」と問はれければ、片道僅かに海上三里の道をかくして、「十三日」とぞ申しける。少将是を聞きて思はれけるは、「日本▼P1329(六三オ)秋津嶋は昔は三十三ヶ国にて有りけるを、後に半国づつに分けて六十六ヶ国とす。されば僅の小嶋ぞかし。中にも山陽道にさ程の大国有りとはきかぬ物を。宰府より〓の使の年々に参りしを聞きしも、廿日余りなむどこそ聞きしか。備前・備中両国の間、いかに遠くとも二
三日にはよもすぎじ。是は我が父のおはし所を近しと聞く物ならば、文なむどや通はんずらむとて、知らせじとて云ふよ」と心得給ひてければ、其の後はゆかしけれども問ひ給はず。哀れ也し事也。
廿五 〔迦留大臣の事〕
昔迦留大臣と申す人おはしき。遣唐使にして異国に渡りて御しけるを、何なる事か有りけん、物いはぬ薬をくはせて▼P1330(六三ウ)五体に絵を書きて、額に燈がひを打ちて、燈台鬼と名づけて火をともす由聞こえければ、其御子に弼宰相と申す人、万里の波を凌ぎ他州の雲を尋ねて見給ひければ、燈鬼涙を流して手の指を食ひ切りてかくぞ書き給ひける。
我は是日本花京の客 汝は即ち同姓一宅の人
父と為り子と為る前世の契り 山を隔て海を隔て恋ふる情け辛なり
年を経て涙を流す蓬蕎の宿 目を遂ひて思ひを馳す蘭菊の親び
形は他州に破れて燈鬼と成れり 争でか旧里に帰りて斯の身を棄てむ
と書きたり。是を見給ひけむ宰相の心中、何計りなりけむ。遂に御門に申し請けて、帰朝して其の悦びに大和国迦留寺を建▼P1331(六四オ)立すと見えたり。彼は父を助けつれば、孝養の第一也。是は其の詮もなけれども、親子の中の哀れさは、只大納言の事をのみ悲しみて、あけくれ泣きあかし給ひけり。
廿六 〔式部大夫章綱事〕
式部大夫章綱は、幡磨の明石へ流されたりけるが、増位寺と云ふ薬師の霊地に百日参籠して、都帰の事を肝胆を摧きて祈り申しける程に、百日に満じける夜の夢の内に、
昨日まで岩間を閉ぢし山川のいつしかたたく谷のしたみづ
と御帳の内より詠ぜさせ給ふと見えて、打ち驚きて聞けば、御堂の妻戸をたたく音しけり。誰なるらんと聞く程に京にて召し仕ひし青侍なりけり。「何に」と問へば、「太政入道殿の御免しの文」とて、持て来れりけり。うれしな▼P1332(六四ウ)むどは云ふ計りなくて、やがて本尊に暇申して出でにけり。有り難かりける御利生也。
二十七 〔成親卿出家の事 付けたり彼北方備前へ使を遣はさるる事〕
廿三日、大納言は「少し窕ぐ事もや有る」と覚しけれども、いとど重くのみなりて、少将も福原へ召し下さると聞こえければ、体をやつさでつれなく月日をすごさむも恐れあり。「何事を待つぞ。猶世に有らむと思ふか」と、人の思はんもはづかしければ、「出家の志有り」と、内大臣の許へ申し合はせられたりける返事に、「さもし給へかし」と宣ひたりければ、出家し給ひにけり。
大納言の北の方の北山のすまひ、又押しはかるべし。住みなれぬ山里は、さらぬだに物うかるべし。いと忍びてすまひければ、過ぎ行く月日も晩しかね、明かし煩ふさまなり。女房、侍共も、其の数多かりしかども、身の捨てがたければ、▼P1333(六五オ)世を恐れ人目をつつむ程に、聞き問ふ者もなかりけり。
源内左衛門信俊と云ふ侍有りけり。万づ情け有りける男にて、時々言問ひ奉る。或る晩方に尋ね参りたりければ、北の方すだれのきは近く召して宣ひけるは、「哀れ、殿は備前児嶋とかやへ流され給ひたりけるが、過ぎぬる比より有木別所と云ふ所におはしますと計りは聞きしかども、世のつつましければ、是より人一人をも下したる事もなし。生きてやおはすらん、死にてや御はすらむ、其の行へも知らず。未だ命生きておはせば、さすが此の当りの事をも何計りかは聞かまほしくおぼさるらん。信俊、何なる有様をもして尋ね参りなむや。文一つをも遣はして返事をも待ち見るならば、限りなき心の内、少しなぐさむ事もやと思ふは、いかがすべき」と宣ひければ、信俊涙を押さへて▼P1334(六五ウ)申しけるは、「誠に年比近く召し仕はれ奉りし身にて候ひしかば、限りの御共をも仕るべくこそ候ひしかども、御下りの御有様、人一人も付き進らせ候べき様なしと承り候ひしかば、力及ばず罷り留まり候ひて、明けても晩れても君の御事より外は何事をかは思ひ候ふべき。召され候ひし御声も耳に留まり、諌められ進らせし御詞も肝に銘じて忘られ候はず。今此の仰せを承る上は、身は何に成り候ふとても罷り下り候ふべし
。御文を給はりて尋ね参らむ」と申しければ、北の方大ひに悦び給ひて、文細かに書きて給ひてけり。若君姫君も面々に父の許への御事づてとて書きて給ひてけり。
信俊是を取りて児嶋へ尋ね下りて、預かり守り奉る武士に合ひて、「大納言殿の御ゆくへのおぼつかなさに、今一度見奉らんとて、年来の青侍に信俊と申す者、はるばると尋ね▼P1335(六六オ)進らせて参りて候ふ」と申したりければ、武士ども哀れとや思ひけん、ゆるしてけり。参りて見奉れば、土を壁にぬりまはして、あやしげなる柴の庵の内なり。藁のつかなみと云ふ物の上に、僅かに莚一枚敷きてぞすゑ奉りたりける。御すまひの心うさもさる事にて、御体さへ替はりにけり。墨染の袖を見奉るに付きても目もくれ心も消えはてにけり。大納言も今更悲しみの色を増し給ふ。「多くの者共の中に、なにとして尋ね来たりけるぞ」と、宣ひもあへず、こぼるる涙も哀れ也。信俊泣く泣く北の方の仰せらるる次第、細かに申して、御文取り出だしてまゐらせけり。大納言入道、是を見給ひて涙にくれつつ、水くきの跡そこはかともみえわかねども、若君姫君の恋ひ悲しみ給ふ有様、我が御身も又月日を過ぐすべき様もなく、心細く▼P1336(六六ウ)幽かなる御有様を書きつづけ給へるを見給ひては、日来おぼつかなかりつるよりも、げにいとどもだえこがれ給ふ、げに理と覚えて哀れ也。
信俊二三日は候ひけるが、泣く泣く申しけるは、「かくても付きはてまゐらせて、御有様をも見はて進らせ候はばやと存じ候へども、都も又、見ゆづり進らせ候ふ方も候はざりつる上、罪深く御返事を今一度御覧ぜばやと覚しめされて候ひつるに、空しく程を経候はば、跡もなく験もなくや思し召され候はむずらんと、心苦しく思ひ遣り進らせ候ふ。此の度は御返事を給はりて、持ち参り仕り候ひて、又こそはやがて罷り下り候はめ」と申しければ、大納言はよに余波惜しげには思ひ給ひながら、「誠にさるべし。とくとく帰り上れ。但し汝が今こむ度を待ち付くべき心地もせぬぞ。いかにもな▼P1337(六七オ)りぬと聞かば、後の世をこそ訪はめ」とて、返事細に書き給ひて、御ぐしの有りけるを引きつつみて、「且は是を形見とも御覧ぜよ。ながらへてしも、よも聞きはてられ奉らじ。こむ世をこそは」と心細く書き付け給ひて信俊に給ひてけり。
行きやらむ事のなければ黒かみを信物にぞやるみてもなぐさめ
と書き止め給へり。若君姫君の御返事共もあり。信俊是を持ちて帰り上りけるが出でもやられず。大納言もさして宣ふべき事は皆尽きにけれども、したはしさの余りに度々是を召し返す。互の心の内、さこそは有りけめと押しはからる。さても有るべきならねば、信俊都へ上りにけり。
北山へ参じて北の方に御返事奉りたりければ、北の方は 「あなめづらし。い▼P1338(六七ウ)かにいかに。さればいまだ御命は生きておはしましけるな」とて、怱ぎ御返事を引きひろげて見給ふに、御ぐしの黒々として有りけるを、只一目ぞ見給ひける。「此の人はさまかへられにけり」と計りにて、文物も宣はず。やがて引きかづきて臥し給ひぬ。御うつりがも未だ尽きざりければ、指し向かひ奉りたる様にはおぼされけれども、御主は只面影計り也。若君姫君も「いづら、父御前の御ぐしは」とて、面々に取り渡して泣き給ふも無慚也。
信物こそ今はあだなれ是なくはか計り物はおもはざらまし
とぞ詠じ給ひける。
太政入道此の事を聞き給ひて宣ひけるは、「誰がゆるしにて信俊は下り、大納言は本鳥をば切りけるぞ。かやうの事▼P1339(六八オ)をこそ自由の事とはいへ。流し置きたらば、さてもあらで、不思議なり」とて、小松の大臣には隠し給ひて、経遠が許へ「大納言怱ぎ失ふべし」とぞ、内々宣ひたりける。
丹波少将をば福原へ召し取りて、妹尾太郎が預かりて備中国へ遣はしけるを、法勝寺執行俊寛僧都・平判官康頼を薩摩国鬼海嶋へ遣はしけるに、此の少将を具して遣はしけり。
康頼は元より出家の志ありける上、流罪の儀に成りければ、内々小松殿に付き奉りて、人して小松殿の許へ書をかき
て遣はしけり。
其の状に云はく、「已に暁は配所に趣くべき由、承り候ふ。夫れ苦縁を厭ふは最も出離生死の終り、災難に遇ふことは歎きの中の悦びなるを乎。浄縁を傾く者は亦往生極楽▼P1340(六八ウ)の因、人身を受けたるは悦びの中の悦び也。抑も出家は昔より本望なり。況や左遷の今においてを哉。願はくは途中の海岸の松の下に侍りて、薩〓の遇教、頭の霜を払はんと欲す。
其奈かん。仍りて誠惶誠恐謹言。謹上小松内大臣殿御右下。平判官康頼状」とぞ書きたりける。
小松殿の御返事には、
墨ぞめの衣の色ときくからによそのたもともしぼりかねつつ
「やさしの御返事や」とて、康頼泣く泣く薩摩国へぞ趣きける。
摂津国狗林と云ふ所にて、髪を剃りてけり。戒の師には聖音房阿闍梨と申しける老僧也。領送使しきりに怱ぎける間、心静かに説戒なむども聴聞せず、形の如く三帰戒の名字計りを受けて、法▼P1341(六九オ)名聖照とぞ申しける。萌黄の裏つけたるうす香の直垂をぬぎおきて、こき墨ぞめの衣の色落つる涙にしぼりあへず。さて出でさまにかくぞ口ずさみける。
遂にかくそむきはてぬる世の中をとくすてざりし事ぞくやしき
此の判官入道の子息に、左衛門尉基康とて、殊に親を思ふ志深き者有りけり。忍びつつ只一人つきめぐりて、領送使に案内を経て、狗の林まで門送りしたりけり。泣く泣く父に向かひて申しけるは、「なかなか只遂の御別れとだに思ひ進らせば、一すぢに思ひ定むる方も候ひなむ。生きながらかく別れ進らする御行末のおぼつかなさ、一日片時も何にして思ひ忍ぶべしとも存じ候はず。定めてさこそおぼしめし候ふ▼P1342(六九ウ)らめ。嶋までこそ候はずとも、今一日も御共申すべく候ふに、世を恐れ候ふ程にかやうに罷り留まり候ふ也。憑み進らせたる父のかやうに成らせ給ひ候はん上は、必ずしも身を全くすべきにて候はねども、人の心を背き候ひてはなかなか御為あしく候ひぬと覚え候へば、暇申して罷り帰らむ」とて、かきもあへずさめざめとぞ泣きける。判官入道、基康が袖を引かへて、「人の身には愛子とて同じ子なれども、殊に志深き子あり。汝は入道が愛子にて、襁褓の時より成人の今に至るまで、恩愛の志未だ尽きず。一日も見ざる時は恋慕の情とこめづらし。十日廿日送りたりとても、帰らむ別れが悲しからざるべきか。人々の御覧ずるも恥づかし。余所目もみぐるし。うれしく此まで送りたり。▼P13
43(七○オ)早々帰り給へ」とて、各袖を絞りつつ、父は南に向ひて行けば、子は都の方へぞ行きける。思ひ切りては行けども、尚もなごりや惜しかりけむ、近き程は互ひにみかへりつつ、父は子の方をみ返り、子は父の方をかへりみける処に、父詞をば出ださず、手あげて子を招きけり。
基康怱ぎ打ち返りたりければ、父涙を流し、良久しく有りて申しけるは、「心得さすべき事の有りつるを、余りの思の深さに申さざりつるなり。聖照が母儀の尼公の、八十有余に成り給ふが、蓮台野の東に紫野と云ふ所に、草の庵結びておはするぞかしな。念仏申して後世菩提の勤めより外は他念なくして、朝の露、暮の風をまたず、あさがほの日影を待たざる如くして、今日明日とも知り給はぬ人の、只一人馮み給へるが、▼P1344(七〇ウ)たけごろひとしき子の、いつかへるべしとも知らず、遠き嶋の人もかよはぬ所へ流されぬと聞き給ふ物ならば、又打ち憑む方もなき所に残り留り給ひて泣き悲しみ給はん事、恩愛の習ひ、さこそ思ひ給はむずらめ。されば山林に交はりてそぞろに泣きかなしみ給はむほどに、最後の十念にも及ばずして、日比の行業を空くなし給はん事の悲しさよ。さればかくとも申さず暇をも乞ひ奉り、今一度見もし見えもし奉りたかりつれども、見奉る程にては忍ぶとも叶ふまじ。思ふ心色にあらはれて、問ひ給はば、又何とかくしとぐべきならねば、何にもして知らせ奉らじと思ひて出づる事の、心に係かりて覚ゆるぞ。汝も何にもして隠し遂げぬべくは、知らせ奉▼P1345(七一オ)るなよ。
汝帰りなば、紫野に参りて申すべき事はよな、『人に讒言せられて太政入道殿より御不審を蒙りて候ふ間、しばらく双林寺に籠居し候ふ也。折を伺ひて申し披き候はんずれば、大事はよも候はじ。御心苦しく思し召すべからず。さても御往生の安心は先々申しおきて候ひしかば、夢幻と思し食して、只ねてもさめても無為の浄土に心を懸けましまし、来迎の台にあなうらを踏み給ふべし。決定往生すべき人には、臨終には必ず境界愛と申す魔縁来たりて、或いは親と変じ、夫婦鐘愛の形とも変じ、或いは七珍万宝とも変じて裟婆に心を留むる事の候ふ也。されば親を見ばや、子を見ばやと思ふ心をば、魔縁の所為と思し食して、只一向に西▼P1346(七一ウ)方に心を懸けさせ給ふべし。若し尚しも康頼を恋しと思し食されむ時は、一年書き注して進らせ候ひし往生の私記を御覧候ふべく候ふ』と、能々心得て申すべし」とて袖もしぼる計り也。
此の紫野と申すは、蓮台野の東に蒼々たる小松原あり。昔念仏の行者侍りき。常に紫の雲の聳えけるによりて、紫野と名付けたり。今も求願往生の人、多く庵を結びて住みけり。康頼入道が母、若くして夫には後れにけり。偏へに往生を求むる志深くして、蓮台野の辺、紫野の松の木隠に庵を結びて功徳池の流れに心をすましてぞ侍りける。少くしては二親におくれ、成人しては夫に後れにき。又三人の子あり。二人は女子にて花やかにうつくしかりし▼P1347(七二オ)かども、無常の風にさそはれて北亡の露と消えにけり。老少不定の堺なれば、始めて驚くべきにはあらねども、恩愛別離の歎きには凡聖同じく袖をしぼる習ひにて、此の尼上、懐旧の涙かはくまもなし。
むらさきの草のいほりにむすぶ露のかはくまもなき袖の上かな
と読みて、憑む所は康頼計りこそ有りつるに、これかくなりて再び会ふ期を知らず。遠流の身と聞きなば、朝暮の行も打ち捨てられて、往生の障りとならむ事こそ悲しけれ。相構へかくし奉るべし。汝入道を哀れと思はば、雪の中に笋を求むる志をはげまして、紫野へ常に詣り、入道が没後を訪ふと思ひなして、紫野にて常随▼P1348(七二ウ)給仕をも申すべし。此の事より外には大事と思ふ歎きなし」とて、手を合はせてぞ泣きける。
基康申しけるは、「御信物とて、只一人残り留らせ給ふ祖母の御事なれば、仰せを蒙り侍らずとも、争でか疎略侯ふべき。尤も此の御遺言、肝に銘じて忘れ難く候ふ。罷り帰り候ひなば、やがて常随給仕申すべし」とて、各行きわかれにけり。
基康、道すがら落つる涙に目もくれて、月日の光もなきがごとし。「有為無常の堺は、父にもおくれ母にも後れて、送りをさめて帰る事は常の習ひなれども、何なる宿報にて、基康は生きたる父を送りすてて帰るらむ」と、独りごとにくどきつつ、流るる涙、道しばのつゆ、払ひもあへず、「道にて若失はれ給はば、屍▼P1349(七三オ)をも誰か隠すべき。生きながら嶋にすてられ給はば、家も無くして何かがすべき。飢ゑてや死に給はむずらん、こごへてや失せ給はむずらん。霜雪ふらば何がせむ。霰ふる夜の岩はざま、塩風はげしき露命のきえむ事、四大は日々におとろへて、今日や明日やと待ち給はん事の心うさ、只一度にわかれなましかば、これほどにちくさに歎きはよもあらじ」と思ひつづけて、馬にまかせて帰り上りけり。
二十八 〔成経康頼俊寛等油黄嶋へ流さるる事〕
さても、成経以下の人々、世の常の流罪だにも悲しむべし、増して此の嶋の有様、伝え聞きては、各もだえこがれけるこそ無慚なれ。道すがらの旅の空、さこそは哀れを催しけめと、おしはかられて無慚なり。▼P1350(七三ウ)前途に眼を先立つれば、とく行かむ事を悲しみ、旧里に心を通はすれば、早く帰らん事をのみ思ひき。或いは、海辺水駅の幽かなる砌には、蒼波眇々として、恨みの心綿々たり。或いは、山館渓谷の暗き道には、巌路峨々として、悲しみの涙態々たり。さらぬだに旅のうきねは悲しきに、深夜の月の朗らかなるに、夕告鳥幽かに音信れて、遊子残月に行きけむ函谷の有様、思ひ出でられて悲しからずと云ふ事なし。漸く日数経にければ、薩摩国にも着きにけり。是より彼の鬼海嶋へは、日なみを待ちて渡らむとす。
鬼界嶋は異名也。惣名をば流黄嶋とぞ申しける。端五嶋、奥七嶋とて、嶋の数十二あむなる内、端五嶋は昔より日本に▼P1351(七四オ)随ふ嶋なり。奥七嶋と申すは、未だ此の土の人の渡りたる事なし。端五嶋の中に流黄の出づる嶋々をば、油黄の嶋と名付けたり。さて順風有りければ、彼の嶋へ押し付きて、端五嶋が内、少将をば三の迫の北の油黄嶋、康頼をばあこしきの嶋、俊寛をば白石の嶋にぞ捨て置きける。彼の嶋には、白路多くして石白し。水の流れに至るまで、浪白くして潔し。かかりければにや、白石の嶋と名付けたり。責めて一嶋に捨て置きたらば、なぐさむ方も有るべきに、はるかなる離れ嶋共に捨て置きければ、悲しみなむどは愚か也。されども後には、俊寛も康頼も、とかくして少将の有りける油黄嶋へたどり付きて、互ひに血の涙を流しけり。
彼の嶋は、嶋のまはり西国廿里の▼P1352(七四ウ)嶋也。其の地乾地にして、田畠もなければ米穀もなし。自ら渚に打ちよせられたる荒和布なむどを取りて、僅かに命を続ぐ計り也。嶋の中に高き山あり。嶺には火もえ、麓には雨降りて、雷鳴る事隙なければ、神をけすより外の事なし。冥途につづきたむなれば、日月星宿の下なりと云へども、寒暑理にも過ぎたり。薩摩潟より遥々と海を渡りて行く道なれば、おぼろけにては人の通ふ事もなし。自ら有る者も、此世の人には似ず。色黒くして牛の如し。身には毛長く生ひたり。絹布の類なければ、着たる物もなし。男と覚しき者は、木の皮をはぎて、はねかづらと云物をし、褒にかき、腰に巻きたれば、男女の形もみ▼P1353(七五オ)えわかず。髪は空さまへ生ひ上りて、天婆夜叉に異ならず。云ふ詞をも、さだかに聞こえず。偏に鬼の如し。何事に付けても、一日片時、命生くべき様もなかりければ、心憂く悲しき事限りなし。
かかる所へ流し遣はされたれば、少将は只「中々頸を切られたらば、いかがはせむ。生きながら憂目をみる事の心憂き。此の世一つの事にあらじ」とぞ思されける。かやうに心憂き所へ放たれたる各が身の悲しさはさる事にて、旧里に残り留まる父母妻子、此の有様を伝へ聞きて、もだえこがるらむ心の内、思ひやられて無慚也。人の思ひの積るこそ怖しけれ。
「彼の海漫々として、風皓々たる、雲の浪、煙の濤に咽びたる、蓬莱、方丈、瀛州の三の神山には不死の薬もあむなれば、末も憑みある▼P1354(七五ウ)べし。此の薩摩方、白石あこしき油黄嶋には、何事にかはなぐさむべき」と思ひ遣られて哀れなり。眼に遮る物とては、山の峯に燃え上る焔、耳に満つる物とては、百千万の雷の音、生きながら地獄へ堕ちたる心地して、聞きても只身の毛計りぞ竪ちける。
少将判官入道は、思ひにも沈みはてず、常には浦々嶋々を見廻りて、都の方をも詠めやる。僧都は余りに悲しみに疲れて、岩の迫に沈み居たり。なぐさむ事とては、常に一所に指しつどひて、尽きせぬ昔物語をのみぞしける。さればとて、一月にもさすが消えうせぬ身なれば、木の葉をかきあつめ、もくづを拾ひて、形の様なる庵を結びてぞ明かし晩らしける。さ▼P1355(七六オ)れども、少将の舅平宰相の領、肥前国加世庄と云ふ所あり。彼こより、折節に付けて形の如くの衣食を訪はれければ、康頼も俊寛も、それにかかりてぞ日を送りける。此の人々、露の命消えやらぬを惜しむべしとにはなけれども、朝な夕なを訪ふべき人一人も従ひ付かぬ身共なれば、いつならはねども、薪を拾はむとて山路に迷ふ時もあり、水を結ばむとて沢辺に疲るるをりもあり。さこそ便りなく悲しかりけめ。押しはかられて無慚也。
康頼入道は、日にそへて都の恋しさもなのめならず。中にも母の事を思ひ遣るに、いとど為方無く、「流されし時も、かくと知らせまほしかりしかども、聞きては老のなみに▼P1356(七六ウ)歎かん事の労しさに、思ひながら告げざりしかば、今一度みもしみえざりしに、我が有様伝へ聞きては、今までながらへて有らん事も有りがたし」なむど、来し方向後の事まで
も、つくづくと思ひつづけられて、只泣くより外の事ぞなかりける。
〔二十九〕 〔康頼油黄嶋に熊野を祝ひ奉る事〕
判官入道は、そのかみ熊野権現を信じ奉り、卅三度参詣の志し有りけるが、今十五度をはたさずして此の嶋へ流されたり。宿願をはたさぬ事を口惜しく思はれけり。身は能く朝庭の月にあそむで、心は偏に仏教の玉をみがく。叡山天台の法嶺に登りては、十界互具の花を翫び、高野密教の道場に臨みては、三密喩伽の燈を挑ぐ。況や外典▼P1357(七七オ)においては、九経三史の光にくもりなく、五百余巻の読書の花、亭樹の枝に開きたり。詩歌管絃に心をすまして、風月文道明々たり。かかる名人智徳の人たりと云へども、人間の八苦未だ免れず。過去の宿因恥かしく、今生の歎き遣るせをしらず。「抑も人身を受くる事は、五戒の中の修因也。五戒に何なる誤り有りてか、此程の人苦難にあへるらむ」と不審殊に少なからず。現報とやせむ、宿報とやせむ。不覚の涙つきかねたり。
丹波少将宣ひけるは、「誠に宿善いみじくおはしければこそ、雲上の月に隣をしめ、鳳闕の花を翫び、松門の風にたはぶれて、法水の流をも汲み給ひけめ。其の上、熊野参詣だにも▼P1358(七七ウ)十余度と承りき。御利生こそなからめ、かかる歎きの塵とならせ給ひぬる事、仏神の御加護、疑ひ実に多し」。康頼入道、「実に仰せの如く熊野山に頭をかたぶけ奉る志し深くして、卅三度参るべき宿願をみてず。三度の御幸に三度ながら望み申して供奉仕りし事も、内心は只宿願の度数と存じ候ひき。私の参詣十五度也。合はせて十八度、今十五度参り候らはで此の難にあへる事、今生の妄念、神明の御利生空しきに似たり」とて、遺恨の涙かきあへず。
法勝寺の執行此を聞きて、「少将殿も御参詣候ひけるやらむ」と問へば、少将「成経は、未だ一度も参り候はず」と宣へば、僧都▼P1359(七八オ)「俊寛も未だ参り候はず。されば神の名だてにては候へども、度々の参詣空しくして、一度も参らざる輩に同罪同所の身とならせ給ふ事、何のしるしか候ふべき。御恨み、尤も理なり」と宣へば、康頼入道申しけるは「しかも卅三度の宿願は後生菩提とは存ぜず候ふ。只併ら今生の栄花、息災延命と存じ候ひき。身は貧道の身にて、心は大慳慢の心也。然る間、仏法を聞くと申すも、只名聞のため、外典を学ると申すも、若し人の御師徳にもや召され、才人の聞こえあらば、官位加階や進むとのみ思ひ侍りし故也。然りと雖へども、師徳にも召されず、官爵にも進まず。奉公の忠を抽んづと云へども、不次の賞にもあづか▼P1360(七八ウ)らず。事にふれ折に随ひては恨みのみ多くして、心に快き事一つもなし。之に依りて、一向に神明を憑み奉りて栄花を開き候はむとて、卅三度の大願をも発し、十八度の参詣をも遂げで候ひき。何に権現のにくしと思し食しけん。後悔さきにたたず」とて、暫く案じて申しけるは、「太原の白居易、文集七十巻を二部書て、一部をば鉢塔院の宝蔵に納め、一部をば南禅院の千仏堂に送り奉りて、其の後、件の文集の箱より光明を現ずる事度々也。両院の寺僧怪しみを成して、文集の箱を開けて見る所に、第六十の巻に発願の文あり。其の一々の文字より現るる所の光明也。其の文と申すは、▼P1361(七九オ)朗詠の仏事の詩に、「願はくは今生世俗文字の業、狂言綺語の誤りを以て、翻して当来世々讃仏乗の因、転法輪の縁と為む」とは此也。此の発願の心は、今生世俗の業、狂言綺語の誤りなれども、翻して当来には仏を讃嘆し、法輪を転じて衆生済度の身たらんと改悔懺悔したる発願也。所以に懺悔は吉く滅罪の法なれば、生死の長夜に迷ふべからずと云ふ表示に、発願の文より光明かくやくたり。されば、聖照も今日より昔の安心を翻して、一向に後生菩提の行業に廻向し侍るべし」とぞ申しける。
さて、此の人々の住所より南の方に五十余町を去りて一の離山▼P1362(七九ウ)あり。蛮岳とぞ申しける。鬼界嶋の住人等 「あの蛮が岳にはえびす三郎殿と申す神を祝ひて岩殿と名付けたり。此の嶋に猛火俄にもえ出でて、住人更に堪へ難き時、種々の供物を捧げて祭り候へば、猛火も定まり大風ものどかに吹きて嶋の住人自ら安堵仕る」とぞ申しける。少将、此を聞きて 「かかるされば、猛火の中、鬼の住所にも神と申す事の侍るらむよ」と宣へば、康頼入道 「申すにや及び候ふ。炎魔王界と申すは鬼の栖、猛火の中にて侍るぞかし。其だにも十王とも申し十神とも名付けて、十体の神、床を並べてすみ給へり。まして此の嶋と申すは、扶桑神国の類嶋なれば、▼P1363(八〇オ)えびす三郎殿も栖み給ふべし。さてもさても、聖照、熊野参詣の宿願、安心こそ不浄に候ひしかども、十八度は参りて侍りき。残る十五度を後生善所の為に岩殿にてはたし候はばやと存じ候ふ。大神も小神も倔請の砌に影嚮し給ふ事にて候へば、権現定めて御納受候ふべし。各は何が思し食す」と申せば、少将は取りあへず「成経もやがて先達にし進らせて参詣仕るべし」と宣ふ。
俊寛は能々をかしげに思ひて遥かに返事もせず。やや久しくありて申しけるは、「日本は神国と申して、守屋の大臣、神名帳を注したりけるに、『上一万三千』と云へり。其の神名帳の中に、『鬼海の嶋の岩殿』と申す神、未だ見えず。其の上、えびす▼P1364(八〇ウ)三郎殿と申すは、巫女に付きたる有りさま、云ふ甲斐なき者とこそみえて候へ。やはや尋常はかばかしき利生も候はんずる。熊野権現だにも十八度の参詣空しくて、かかる災難に当たり給ひて侍るぞかし。且は古郷に聞き候はむ事、恥づかしく候ふ。『法勝寺の執行程の者のせめての事かな。夷三郎を尊重して、こりをかき、歩みを運びけん事よ』と親疎に申されん事、いとけぎたなく覚え候ふ。次に、後生菩提をば必ずしも神明に申さずとても、念仏読経せば何の不足か候ふべき。『神を神と信ずれば邪道の報ひを受けて永く▼P1365(八一オ)出離の期を知らず』と申したり。『ただ本地阿弥陀如来を念ずれば十悪五逆の窓の前にも来迎し給ふ』とこそ、観経には説きて候ふめれ。抑も、浄土宗の事は俊寛未だ心得ず侍り。ただ鈍根無智の者の為に皆心を一境におく事也。されば方便にして実儀にはあらず。それ仏法の大綱は、顕教も密教も凡聖不二と
談じて、自心の外に仏法もなく神祇もなし。三界唯一心と悟れば、欲界も色界も外にはなく、地獄も傍生も我心より生ず。人中も天上も我心なり。声聞も縁覚も菩提薩〓と申すも、心を離れて外にはなし。凡そ一切衆生、真俗二諦、森羅の方法、我性一心の法に非ずと云ふ事なし。随縁真如の前には迷ひの心を神と名づけ、悟る心を仏とす。迷悟本より外になし。邪正一如の妙理なるをや。さては禅の法門▼P1366(八一ウ)こそ、教外の別伝と申して、言語道断の妙理にて候へ。一代聖教に超過して、八宗九宗の禅頂たり。当時、法勝寺に卿律師本空とて、入唐の禅僧あり。入唐せざりし昔は真言・天台の学匠にて、四種三昧の行者、入壇灌頂の聖にて候ひしが、禅の法門に移り候ひて、無行第一の僧に成りて候ふ也。神をも敬はず、仏をも敬はず、乞者非人なればとて賎しむ事なし。真言・天台・浄土宗の法門をば瓜の皮法門と云ひて大に咲ひ候ふ也。恵能禅師の頒とて常に口ずさみ侍る言には、
菩提、樹に無く、明鏡、台に非ず。元より一物無し、何ぞ塵垢有らむ。
▼P1367(八二オ)と詠じて、ずず・けさもかけず、仏に花・香をも供せず、念仏も申さず、経をもよまず。『何に坐禅をばし給はぬぞ』と申せば、大に咲ひて、『何事ぞ、坐禅と申す事は、諸教の中に初心の行者の修行する法也。天台宗には止観の坐禅、真言教には阿字観の坐禅、浄土宗には日想観の坐禅等也。禅宗と申す行法有るべからず。沙金能く淤泥に埋むとも金也、錦の袋に裹みたるも金也。禅の法門を一向に証せず。初心の行者、日夜旦暮に座禅すと云へども、全く禅頂の位に登る事なし』。達磨の頒に云はく、
▼P1368(八二ウ)座禅して仏を得ば、誰か閑床を卜せざらむ。
とて、達磨は座禅する事なかりき。白浪何幾か浄き、床禅主に帰依す。
六の根に六の花さくおほぞらをはるばるみれば我が身なりけり
此こそ大座禅の聖よ』とて、五辛酒肉、檀に服し、懈怠無慚の高枕打ちして、臥しぬおきぬし侍る也。げに恵能禅師の頒の文は、俊寛も領解して覚え候ふ。『菩提、樹に無ければ、仏になると云ふ事もなし。明鏡、台に非ざれば、浄土と云ふ事も有るべからず。元より一物なき法なれば、万法皆虚空也。何ぞ塵垢有らむ』と観ずれば、見思塵沙の罪業も夢幻に似たり。まさに知るべし、熊野権現と申すも夷三郎殿と申すも、妄心虚妄の幻化、亀毛兎角の縄蛇」と云ひて、同心同道もせず、俊寛▼P1369(八三オ)はひとり留まりたり。
俊寛一人岩のはざま松の木陰に留まり居て、諸法の相を観ぜし処に、風俄かに吹きて地震忽ちにきびしくして、一山皆動揺しければ、石岸崩れて大海に入る。其の時、禅門に古き歌あり。思ひ出して詠ず。
岸崩れて魚を殺す、其の岸未だ苦を受けず。風発りて花を供す、其の風豈仏と成らんや
と申して居たり。
康頼入道云はく、「御法門の趣は、花厳宗の法界唯一心かと覚え候ふ。されば不変真如の妙理、真妄同空の所談也。ことあたらしく中々申すに及ばず。次に、禅の法門は、仏遂に口音に陳べ給はず。唯、迦葉一人の所証と承る。因果を撥撫するが故に仏教には非ず、仏教にあらざるが故に外道の法門也。▼P1370(八三ウ)底下の凡夫、全く以て信用にたらず。『仏をも敬はず、神をも信ぜず、善根をも修せず、悪業をも憚らず』と談ぜば、一代聖教を皆破滅する大外道と聞こえたり。努々顕露に御披露有るべからず。一切衆生を皆地獄に落さん事、末世の提婆達多、是なるべし。悲しき哉、釈迦善逝の遺弟に非ずは、誰か善神護法の加護をかぶらむや。聖照は鈍根無智の者にて候ふ間、真言教には加持の即身成仏、浄土宗には他力の往生、此を信じて候ふ也。之に依りて十方の浄土も外にあり、八大地獄も外にあり、三世諸仏も外にまします、三所権現も外にましますと信じて候へば、いざさせ給へ、少将殿」とて、二人つれて▼P1371(八四オ)岩殿へぞ参りける。
彼の岩殿の地形を見るに、谷々峯々を遥かに分け入りて、人跡絶えて鳥の声だにもせぬ処に、河流れ出でたり。音無川に相似たり。其の水上を尋ぬれば、少し打ち晴れたる所あり。大なる岩屋あり。其の上に椙一叢生ひたり。是をば本宮と名づけて、草打ち払ひ、しめ引きまはしたり。又、山を越えて、渚近き椙叢あり。是を新宮と号す。其より奥へ猶尋ね入りてみれば、碧巌高く峙ちて、白浪嶺より流れ下りたり。滝の音、松の風、神さびたる景気、南山飛滝権現の渡らせ給ふ那智の御山に似たりければ、又、苔を打ち払ひ、しめ引きまはして、此の岩かどをば米持金▼P1372(八四ウ)剛・五体王子と名付け奉り、彼の木の本をば一万十万・禅子・聖・児・子守なむど名付けつつ帰りにけり。
僧都に又「熊野詣の事はいかに」と云ひけれども、僧都猶伴はざりければ、「さらば二人詣でむ」とて、裁ち替ふべき浄衣もなければ、麻の衣を身にまとひて、けがらはしき体なれども、沢辺の水をこりにかきて、精進潔済してぞ詣でける。藤のわらうづをだにもはかざれば、ひたすらのはだしにて人もかよはぬ海岸、鳥だにもをとせぬ深山を泣々つれておはしけむ心の内ぞ哀れなる。
手にたらひ、身にこたへたる事とては、入江のしほ沢辺の水に、かく▼P1373(八五オ)こり計り也。朝夕は「南無慚愧懺悔六根罪障」と懺悔し、心に心を警めて、僅かに半日に行き帰る路なれど、同じ所を行き帰り行き帰り、白浪さざなみ凌ぎつつ、漫々たる蒼海にただよひ、塩風波間のこりの水、何度と云ふ数を知らず。浦路浜路を行く時は、鹿の瀬・藤代・かぶら坂・十条・高原・滝の尻とも観念し、石岸いはほ高くして、青苔あつくむし、万木枝をまじへて、旧草道をふさげる谷川もあり。東岸西岸を渡る時は、岩田川を思ひ出だして煩悩のあかをすすぎ、近つひ・湯の河・三の河、思ひ遣られて哀れ也。冷しき木陰を行く時は、九品の鳥居を只今とほると思ひなし、大なる木の本に立ち寄りては、上品上生の心地発心門とも観▼P1374(八五ウ)念す。此の山路海岸の間に波間にみゆる石もあり。青黄赤白の石もあり。男女僧形の石もあり。岩のはざま苔の莚、椙の村立、常葉木、目にかかり、心の及ぶ所をば摂津窪津の王子より始めて、八十余所の王子王子とぞ伏し拝み給ひける。
奉幣御神楽なむどの事こそ叶はずとも、王子王子の御前にて、なれこ舞計りは心の及ぶ程に仕るべしとて、少将は天性無骨の仁にて、形の如くのかひなざし、康頼入道は洛中無双の上手なり。魍魎鬼神もとらけて、慈悲納受を垂らむとぞ舞ひける。少将も毎度にはらはらとぞ泣き給ひける。
おはしま
此くの如くして、彼の本宮証誠殿の御前に詣でつつ、「本地あみだ如来▼P1375(八六オ)にて御坐す、十悪五逆をも捨て給はぬ御誓ひあむなれば、遠近にはよるまじ、心の至誠なるをこそ、権現金剛童子も哀れとは思し食さむずらめ」と思ひて、「南無日本第一大霊験熊野三所権現、和光の恵みを施して、今一度都へ帰させ給へ」と肝胆を摧きてぞ申されける。康頼は子息左衛門尉基康が示し知らせける夢想の事なむど思ひ出して、大江の匡房が無常の筆をぞ思ひつづけける。「生死の嶮路定め難し、老少何れの時をか期すべき。亡魂徒に避りて、野外の崇廟幽々として、彼の感陽宮の煙り〓々たり。雲と作りて何れの方へ去りしぞや。思へば皆夢の如きなり」と観じて、二人本宮を出でて、新▼P1376(八六ウ)宮へ伝ひて那智山へ詣でけり。
遥かに浜路を詠むれば、前路眇々として、眼渇仰の虚に窮り、海上茫茫として、涙悲願の月に浮かぶ。一心称名の音声を風浪の韻響に揚げて、多所饒益の本誓を水月の感応に仰ぐ。心中に心澄み、信心誠に起り、波上の思ひ静かにして、哀傷暗に催す。兼ねて彼の景気を思へば、涙連々として留まらず。遮りて其の慈悲を計れば、心念々に勇み有り。幼稚若少の昔より盛年長大の今に至るまで、丹誠を権現の宝前に抽きんでて、懇志を垂跡の霊窟に凝らす。星霜多く重なれり。機感何ぞ疑はむ。
三の山の奉幣遂げにければ、悦びの道に成りつつ、切目の王子のなぎの▼P1377(八七オ)葉を稲荷の椙に取り替へて、今はくろめに着きぬと思ひて下向し給ひけり。
かく詣づる事、其年の八月より怠らざる程に、次の年の九月中旬にも成りにけり。
〔三十〕 〔康頼本宮にて祭文読む事〕
或る日、二人伴ひて彼の本宮に詣でて、法施をつくづくとたむけ奉りて、「和光利益本誓たがはず、我等が勤念の信の実を照見し給ひて、清盛入道の無道の悪心を和らげて、必ず都へ帰し入れ、再び妻子を相見せ給へ。已に参詣十五度に満じぬ」と、肝胆をくだいて一心に丹誠を抽きんでたり。殊更に神の御なごりをしく、御前にて常葉木の枝を三つ折り立てて、三所権現の御影向とぞ敬ひ給ひける。其の御▼P1378(八七ウ)前にて、「卅三度の結願なれば、身の能を仕り候ふべし。聖照が第一の能には、今様こそ候ひしか」とて、神祇の巻の今様の内に、一つは、
仏の方便なりければ、神祇の威光たのもしや
叩けば必ずひびきあり、あふげばさだめて花ぞさく
と歌ひて、「此は本宮証誠殿に進らせ候ふ。今一つは両所権現に廻向し進らせ候ふべし」とて、
白露は月の光に、黄を沾す化へあり
権現舟に棹さして、むかへのきしによする白波
とぞ歌ひたりける。「権現舟に棹さして、むかへの岸によする白浪」と、未だうたひもはてぬ時、よもの山には吹かざるに、すずしき▼P1379(八八オ)風俄かに吹き出でて、三所権現の常葉木の枝、〓々(ひつひつ)として動揺する事やや久し。聖照感涙をおさへて、
一首の歌をぞ読みたりける。
神風や祈る誠のきよければ心の雲をふきやはらはむ
少将も泣く泣く、
ながれよるいわうの嶋のもしほ草いつかくまのにめぐみ出づべき
其の時又、不思議の瑞相出で来たる。比は秋の末つかたの事なれば、たのむの雁のまれなるべきにはなけれども、東の方より雁三つ飛び来りて、一つは俄に谷の底へ飛び入りて、又もみえず。今二つは、此の人々の上より取り返して、東の方へぞ飛び帰りける。康頼入道此をみて、
▼P1380(八八ウ)白波やたつたの山をけふこへて花の都にかへるかりがね
と読みて、各立ちて帰雁を七度づつ礼拝したりけり。其の上、少将は、判官入道をも七度礼し給ひたりければ、入道
「此は何に」と問ひ奉るに、少将、「入道殿の御計らひにて、十五度の参詣も遂げぬ。神の御利生にて、再び都に帰らむ事、併ら入道殿の御恩なるべし」とて泣き給へば、入道も「あな哀れや」とて泣く。
さて、入道、浦のはまゆふ御幣にはさみ、山すげと云草をしでにたれて、清き砂を金の散供とし、御前にすすみ出で、左の膝をたて、右の足を片敷きて、思ふ意趣をつづけつつ、之を読む。其の詞に云く、
▼P1381(八九オ)謹話再拝々々。維当たれる年次は治承二年歳次戊戌、月の并びは十月二月、日の数は三百五十余ヶ日、八月廿八日己未、吉日良辰を撰び定めて、掛けまくも忝く坐す、日本第一大霊験、熊野三所権現並びに王子眷属等の宇津の広前に、信心の大施主、羽林藤原成経並びに沙弥聖照等、各定恵の掌を合はせ、信心の礼黙を捧げ、竭仰の頭を傾け、観念清謹の沙金を献ず。其の懇志の至り、発願の趣き、故何んとなれば、夫れ、神明は本地を顕し奉る時、威光いよいよ増進す。感応の光、厳重也。之に依りて、今忝く三所権現の本地本誓を讃嘆し奉らんと欲するのみ。
竊かに惟れば、本宮証誠殿は、昔珊提嵐国の主、無上念王と申しし時、▼P1382(八九ウ)菩提心を発し給ひしより以後、五劫思惟の大願已に成就し坐して、今安養浄土の教主、来迎引摂の妙体也。所以に、摂取不捨の光明は、能く一念称名の行者を照し、済度群萌の船筏は、必ず九品蓮台の宝池に寄す。剰へ、広大慈悲の水は雨のごとく灑き、風のごとく戦す。将又、垂跡応化の榊葉に、和光利物の影を宿し給へり。風香、証誠殿と名づけ奉ることは、本地清涼の風冷しくして、三尊来迎の雲聳き、極重最下の水渇きぬれば、九品正覚の花新た也。不取正覚の秋の夕には、十劫成道の菓を結び、諸仏証誠の暁の月は、一切迷凡の疑ひを謝す。此則ち、釈尊の金言也。権現此の勝利を示さんが為に、忝く御名を証誠大権現と号すのみ。名詮自性也。何れの衆生か、権現の本誓を疑ひ奉らんや。願はくは、権現の本誓重▼P1383(九〇オ)願不虚、聖照等が臨終寿焉の時、必ず応に引摂の蓮を開かせ給ふべきのみ。
次に新宮は、是れ本地東方の教主、浄瑠璃浄土の主也。十二大願成就の如来、衆病悉除の願、世に越え給へり。憑しきかな、伊王善逝。人間八苦の中には、病苦尤も勝れたり。何れの衆生か、病患を受けざる。誰が家にか、渇仰の頭を傾けざらむや。悲しきかな、聖照等、当時の心中の体、更に身上の病患にも過ぎたり。願はくは和光同塵の光、速やかに左遷流罪の闇を照らし坐して、将に古郷恋慕の胸の病を助け給ふべし。
次に那智飛瀧権現は、千手千眼の霊地、弥陀左脇の補属、大悲闡提の尊容也。仰ぎ願はくは、聖照等、拙くも衆生有苦の嶋に放たれ、憑み奉る所は三称我名の権現也。早く不往救者の▼P1384(九〇ウ)船に棹さして、将に不取正覚の都に引導し給ふべし。抑も三五夜中の新月、色は能く二千里の外を照らすと雖も、未だ深泥濁河の水には宿らず。設ひ草葉の露、野守の鏡為りと雖も、清く澄める時は、必ず明月影を宿さずと云ふ事無し。
之に依りて、今忝く権現の本誓を推察し奉るに、熊野三所の光は、純、日本紀州の霊地、無漏の郡音無里に社壇の甍を列ね、纓の玉垣、錦を曝すと雖も、聖照等が崛請の水、潔し。和光同塵の影、何ぞ此に浮かばざらんや。庶幾くは、三所権現、若一王子、一万の眷属十万金剛童子、四所明神、五体王子、満山の護法天等、禅師・聖・児・子守、勧請十五所、飛行夜叉、八大金剛童子、新宮飛鳥・神倉等の部類眷属、急難の中に能く施無畏の方便を廻らし、入道大相▼P1385(九一オ)国の為に、免除慈悲の心を発さしめ給へと也。若し聖照等が今度の所願、円満成就せざれば、敢へて神明の威光を以て、誰か之を仰ぎ奉らむ。一度参詣の功徳すら、尚ほ以て悪趣を離る。何に況や、卅三度の参詣に於いてをや。返々も現世安穏の利益、後生菩提の発願、成就円満々々々々再拝々々
とぞ読みたりける。
〔三十一〕 〔康頼が歌都へ伝はる事〕
祭文読み畢はりにければ、いつよりも信心肝に銘じ、五体に汗いよだちて、権現金剛童子の御影嚮、忽ちにある心地して、山風すごく吹きおろし、木々の梢もさだかならず。木葉かつちりけるに、ならの葉の二つ、康頼入道が膝に散りかかりたりけるが、虫のくひたる姿にてあやしかりければ、入道是を取りて、打ち返し打ち返しよくよく▼P1386(九一ウ)みるに、文字のすがたにぞ見ないたる。一つには「帰雁二」と虫食ひたり。「あらふしぎの事や」と思ひて、少将にみせ奉りけるに、「げに不思議の事哉」とて居たるに、今一つを取りてみるに、是も又文字の体とみ成して、「是御覧候へ」とて少将に奉るに、一首の歌にてぞ有りける。
ちはやぶる神に祈りのしげければなどか都へ帰らざるべき
康頼入道、「是御覧候へ」とて、少将に奉りたれば、少将取りて見て 「あら不思議や。今は権現の御利生に預りて、都へ帰らむ事は一定なり」とて、弥祈念せられけるに、康頼入道申しけるは、「入道が家は、蜘蛛だにも▼P1387(九二オ)さがり候ひぬ
れば、昔より必ず悦びを仕り候ふが、今朝の道にくもの落ちかかりて候ひつる間、権現の御利生にて、少将殿の召し帰されさせ給はん次に、入道も都へ帰り候はんずるにやと思ひて候ひつるなり。但し『帰雁二』とよまれて候ふこそあやしく候へ。いかさまにも残り留まる人の候はんずると覚え候ふ」とて、涙を流しければ、少将も「誠に」とて、涙を流してぞ下向せられける。
康頼は、あやしげなる草堂のまねかたを造りて、浦人嶋人の集りたる時は、念仏を勧めて、同音に申させて、念仏を拍子にて乱拍子を舞ひけり。阿弥陀の三字のいみじき事をば知らねども、此の舞の面白さに是をはやすとて、心▼P1388(九二ウ)ならず念仏をぞ申しける。彼の草堂は嶋人共がよりあひ所にて、今に有りとかや。狂言綺語の誤りを以て、西方六字の名を唱へ、翻して当来世々讃仏乗の因、転法輪の縁とするこそ哀れなれ。
思ひ遣れしばしと思ふ旅だにもなほ旧里は恋しき物を
薩摩方をきの小嶋に我有と親にはつげよ八重のしほ風
此の二首の歌の下に、平判官康頼法師、「心あらむ人は、是を御覧じては、康頼が旧里へ送り給へ」とぞ、卒都婆ごとに書きたりける。書き終はりて後に、天に仰ぎ誓ひけるは、「願はくは、上は梵天・帝釈、四大天王、下は閻羅王界、堅牢地神、別しては▼P1389(九三オ)日本第一大霊験熊野証誠一所両所権現、一万十万金剛童子、日吉山王、巌嶋大明神、哀れみを垂れ思し食して、我が書き捨つる言の葉、必ず日本の地へ付けさせ給へ」と祈念して、西風の吹く度には、此の卒都婆を八重の塩にぞ投げ入れける。其の祈念や答へけむ、其の思ひや波風と成りけむ、漫々たる海上なれども、同じ流れの末なれば、浪に引かれ、風にさそはれて、遥かの日数を経て、卒都婆一本、熊野新宮の湊へ寄りたりけり。浦人取りて、熊野別当の許へ持ちて行きたりけれども、見とがむる人もなくてやみにけり。
又、卒都婆一本、安芸国巌嶋の大明神の御前にぞよりたりける。哀れなりける▼P1390(九三ウ)事は、康頼がゆかりなりける僧の、康頼西海の波に流されぬと聞きければ、余りの無慚さに、なにとなく都をあくがれ出でて西国の方へ修行しける程に、「便りの風もあらば、彼の嶋へも渡りて死生をも聞かばや」と思ひけれども、おぼろけにては舟も人も通ふ事なし、自ら商人なむどの渡るも、「遥かに順風を待ちてこそ渡れ」なむど申しければ、輙く尋ね渡るべき心地もせず。「さなくは何にもして其の音信をだにも聞かばや。死生も穴倉し。いかがはすべき」なむど思ひ煩ひて、安芸国までは下りけり。便宜なりければ、巌嶋社へぞ詣でにける。
明神の渡らせまします所は、昼は塩干て嶋となり、夜は塩満ちて海となる。▼P1391(九四オ)「夫和光同塵の利生さまざまなりと云へども、何なりける因縁にてか、此の明神は、海畔の 鱗に縁を結び給ふらむ」と思ふも哀れにて、其の日は此の社に候ひけり。「抑も此の御神をば、平家の入道大臣、殊に崇敬し奉り給ふぞかし。されば、平家の憤り深き人をかやうに思へば、神もいかが思し食すらむ」と、神慮も怖しくて、ぬさも取り敢へぬ程なれば、終日に法施をぞ奉りける。「嶋へ渡らむ事こそかたからめ、康頼がゆくへ聞かせ給へ」なむど祈り申しける程に、日も晩方になりにければ、月出でて塩の満ちけるに、そこはかともなきもくづ共の流れよりける中に、小さきそとばの様なる物の見えければ、「あやしや、なにやらむ」とて、取りて見れば、彼の二首の▼P1392(九四ウ)歌をぞ書きたりける。
是を見て、哀れの事やと思ひて、悦びの法施を奉り、をいの肩に指して、都へ持ちて登りて、康頼が母の、一条より上、紫野と云ふ所に有りけるに、とらせたりければ、妻子集りて、各あちとりこちとり是を見て、悲しみの涙を流しける程に、新宮の湊によりたりける卒都婆も、熊野より出でける山臥に付きて、同日都へ伝はりたりけるこそ不思議なれ。縦ひ一丈二丈の木なりとも、油黄嶋にて漫々たる海に入れたらむが、新羅・高麗・百済・鶏旦へもゆられゆかで、安芸国、又新宮までよるべしやは。まして渚に打ち寄せられたるもくづの中に交はりたるこけらと云ふ物を▼P1393(九五オ)拾ひ集めて、千本まで造りたりけるそとばなれば、いかに大なりとも、一尺二尺にはよもすぎじ。文字はえり入れきざみ付けたりければ、波にもあらはれず、あざあざとして油黄嶋より都まで伝はりけるこそ不思議なれ。余りに思ふ事は、かく程なく叶ひけるも哀れ也。
「康頼、三年の命きえやらで、都へ文を伝へたり」とて、此の二首の歌を都に披露しければ、彼の卒都婆を召し出だして叡覧あり。「誠に康頼法師が文なりけり。少しもまがふべくもなし。露命消えやらで、未だ彼の嶋に有りける事の無慚さよ」とて、法皇龍顔より御涙を流させ給ひけるぞ、かたじけなき。昔、大江定基が出家の後、彼の大唐国にして、仏生国の阿▼P1394(九五ウ)育大王の造り給へる八万四千基の石の塔の内、日本江州の石塔寺に一基留まる事を、彼の振旦国にして書き顕はしたりける事の、幡磨国増位寺とかやへ流れよりたりけるためしにも、此の有がたさは劣らざりける物をやと哀れ也。
三十二 〔漢王の使に蘇武を胡国へ遣はさるる事〕
昔、唐国に漢武帝と申す帝ましましけり。王城守護の為に数万の栴陀羅を召されたりけるに、其の期すぎけるに、胡国の狄申しけるは、「我等胡国の狄と申しながら、〓田の畝に生を禀けて、朝夕聞こゆる物とては、旅雁哀猿の夜の声、憂きながらすごき庵の軒ばになるる物とては、黄蘆苦竹の風の音。適賢王の聖主に会ひ奉りて、▼P1395(九六オ)帰国の思ひ出なにかせむ。願はくは、君三千の后を持ち給へり。一人を給はりて胡城に帰らむ」と申しければ、武帝是を聞き給ひて、「いかがすべき」と歎き給ふ。「所詮、三千の后の其の形を絵に書きて、顔よきを留めて、あしきをたばむ」と定まりぬ。
王照君と申すは、朝夕寵愛甚だしく、容顔美麗の人なりき。鏡の影を憑みて黄金を送らざる故に、あらぬ形にうつされて、九重の都を立ち離れ、万里の越地に趣きし、別れのいまだ悲しき。玄城長くとざせり、しばしば胡門の暮の堤に驚く。胡国いづくむか有る、早く両京の暁の夢を破る。羅雲忽ちに絶えて、旅の思ひつながれず。漢月漸く傾きて、愁眉も開かざりけ▼P1396(九六ウ)れば、習はぬ旅の奥までも、絞りかねたる袖の上に、尽きせぬ涙計りこそ、袂をしたひけるかな。遠山の緑の黛も、胡国の雪に埋もれ、蘭じゃの昔の匂ひも、左斎の風に跡を消す。帝京を離れて謫居して、徒らに胡城に臥せる夜は、昔の事を夢に見る。夢になける涙は、欄干として色探し。楓葉荻花の風の音、索々として身にしみ、遠波曲江の月の影、茫々として心澄む。五陵の時より翫び、手なれし琵琶にたづさひて、泣くより外の事なし。家留ては空しく漢の荒門となり、身は化して徒らに胡の朽骨とならむ事を、朝夕歎き給ひき。
▼P1397(九七オ)見る度に鏡のかげのつらきかなかからざりせばかからましやは
武帝此の事をやすからず思ひ給ひて、李陵と云ふ兵を大将軍として、胡国を責めにつかはす。其の勢僅かにして千騎にすぎざりけり。李陵胡国に行きて、微力を励まして責め戦ふと云へども、魚驪鶴翼の陣、官軍利することを得ず。星旄電戟の威ひ、逆類勝に乗るに似たり。而る間官軍滅びて、終に狄の為に李陵取られて、胡国の王単宇に仕はる。
武帝是を聞き給ひて、「年来はかくは思はざりしかばこそ、大将軍に撰び遣はしつるに、さては二心ありける物を。やすからず」とて、李陵が母を責め殺し、父が墓を掘りて、其の死骸を打つ。是のみならず、▼P1398(九七ウ)親類兄弟、皆武帝の為に罪せらる。李陵是を伝へ聞きて、悲しみをのべて云はく、「我思ひき。胡国追討の使に撰ばれし時は、彼の国を亡ぼして君の為に忠を致さむとこそ思ひしか。されども軍敗れて、胡王が為にとらはれて仕はると云へども、朝夕隙を何ひて、胡王を滅ぼして、日来の怨を報ぜむとこそ思ひしに、今かかる身になりぬる上は」とて、胡王を憑みて年月を送る。武帝是を聞き給ひて、李陵を呼び給へども来ず。
さても漢王軍に負け給ひぬる事を安からず思し食して、漢の天漢元年に、又李将軍と云ふ者と、蘇子荊と云ふ兵とを差し遣はす。蘇子荊と申すは、今の蘇武是也。蘇武が十六歳に成りけるを、右大▼P1399(九八オ)臣に成して、二人を大将軍として、又胡国を責めに遣はしけるに、蘇武を近く召し寄せて、軍の旗を賜はるとて武帝宣ひけるは、「此の旗をば、汝が命と共に持つべし。汝若戦場にして死せば、相構へて此の旗をば我が許へ返すべし」と、宣命を含められけり。
さて蘇武胡国へ行きて狄を責めけれども、胡城に戦ふ師さ、狄の勢強くして、官軍又落とされぬ。大将軍を始めとして、宗との者卅余人、生け取られぬ。蘇武其の内なりければ、皆片足をぞ折られける。即ち死する者もあり。又二三日、
四五日に死する者もあり。或いは、甲斐なき命生きて年月を送る者もあり。
古京の妻子の恋しき事、日夜旦暮にわすれず。▼P1400(九八ウ)瓢箪屡ば空し、草顔淵が巷に滋し。藜〓深く鎖せり、雨原憲が枢を湿しけむも、是には過ぎじとぞ覚えし。彼は僅かにはにふの小屋もありければこそ、雨も枢を湿し、草も巷に滋かりけめ。此は草葉を引き結ぶ、あやしの柴のやどりもなければ、只野沢田中にはい行きて、春はくわいを堀り、秋は落穂を拾ひてぞ、あけくれはすぐしける。禽獣鳥類のみ朋となれりければ、常には羊の乳を飲みて、明かし晩しけり。秋のたのむの雁も他国に飛び行けども、春は越地に帰る習ひあり。是はいつを期するとしなければ、只泣くより外の事なし。
▼P1401(九九オ)帰る雁隔つる雲の余波まで同じ跡をぞ思ひつらねし
さても生死無常の悲しさは、刹利をもきらはぬ山風に、日の色薄くなりはてて、思はぬ外の浮雲に、武帝隠れ給ひぬ。龍楼、竹〓、後宮、卿相、侍臣、雲客、誰も思ひは深草の露より滋き涙にて、同じ煙の内にもと、もゆる思ひは切なれど、照帝位を受け給ひて、蘇武を尋ねに遣はす。「早失せにき」と偽り答へける間、「未だ有りと計りだに、古里人に聞かればや」とは思へども、〓田の畝に住む身なれば、甲斐なく是にも会はざりけり。牡羊に乳を期して、歳化空しく重なりて、僅かにいけるに似たれども、漢の節を失はず。
▼P1402(九九ウ)言の下には暗に骨を滑す火を生し、咲みの中には偸に人を刺す刀を鋭ぐいかにもして胡王単于を滅ぼして古京へ帰らむと思へども、力及ばず過ごしけり。
朝暮に見馴れし雁の、春の空を迎へて、都の方へ飛び行きけるに、蘇武、右の指をくひ切りて、其の血を以て柏葉に一詞を書きて、雁の足に結び付けて云ひけるは、「一樹の影に宿り、一河の流れを渡る、皆是先世の契りなり。何に況んや己は肩を並べて年久し。争か此の愁ひを訪はざらむ」とて、雁に是をことづけぬ。
折節御門上林薗に御幸して、霞める四方を打ち詠め、千草の花を見給ふに、雁一行飛び来たりて、遥かの雲の上にはつねの聞こゆるかと覚ゆるに、一の雁▼P1403(一〇〇オ)程無く飛び下る。あやしと叡覧を経るに、結び付けたる書をくひほどきて落としたりけるを、官人是を取りて、照帝に献る。帝自ら叡覧を経給ふに、其の詞に云く、
「昔は巌穴の洞に籠められて、徒らに三春の愁歎を送り、今は〓田の畝に放たれて、空しく胡狄の一足を聞く。設ひ
身は留まりて胡地に朽つとも、魂は還りて再び漢君に仕へむ」
とぞ書きたりける。
是を御覧じけるに、帝限り無く哀れと思し食して、歎きの御涙おさへがたし。「蘇武未だ生きて有りける物を」とて、永律と云ふ賢き兵を大将軍として、百万騎の勇士を卒して胡国を責め給ふに、今度は胡国敗られて、単于も既に失せにけり。永律、▼P1404(一〇〇ウ)照君を取り返し、蘇子荊を尋ね得たり。
蘇武は片足は折れたれども、十九年の星霜を経て、古郷へ帰り上りしに、李陵余波を惜しみて云はく、「我が身年来君の御為に二心なし。就中、胡国追討の大将軍に撰ばれ奉りし事、面目の一つ也。然れども、宿運のしからしむる事にや、御方の軍敗れて胡国の王にとらはれぬ。されども如何にもして胡王を滅ぼして、漢帝の御為に忠を致さむとこそ思ひしに、今母を罪せられ奉り、父が死骸を掘りおこして、打ちせため給ひけむ。亡魂いかが思ひけむ。悲しとも愚か也。又親類兄弟に至るまで、一人も残らず皆罪せらるる事、歎きの中の歎き也。故郷を▼P1405(一〇一オ)隔てて、只異類をのみ見る事の悲しき」とて、李陵、蘇武が許へ五言の詩を送れり。其の詞に云はく、「手を携へて河梁に上る。遊子暮に何くにか之く。二〓倶に北に飛び、一〓独り南に翔る。余は自ら斯の館に留まり、子は今故郷に帰る」。是れ五言の詩の始め也。
此の心をよめるにや、
同じ江にむれゐる鴨の哀れにも返る波路を飛びおくれぬる
蘇武十九年の間、胡国北海の辺に栖みしかば、万里遼海の波の音を聞きては、遺愛寺の暁の鐘になぞらへ、四五朶山の冬の梢を見ては、香炉峯の雪かと誤たる。飛花落葉の転変を見ては、春秋の遷り替はる事を知ると云へども、博士陰陽の仁にも近付かざれば、日月の行途を知らず。▼P1406(一〇一ウ)故郷に帰り旧宅に行きたれば、蘇武去りし年より帰京の今の年まで、旧妻愁ひの余りにや、毎年一の衾を調へて、棹に並べて懸けおけり。細かに是を算ふれば、十九にてぞ有りける。
是よりしてぞ、蘇武去りて十九年とは知りにける。
急ぎ御門に参りて、李陵が詩を奉る。帝是を御覧じて、哀れとおぼしけれど甲斐もなし。先帝の御時給はりし旗を懐より取り出して、御方の軍敗れて、胡王単于にとらはれて〓田の畝に放たれて、年月悲しかりつる事、又李陵が愁歎せし事、かきくどき細かに語り申せば、御門悲涙せ▼P1407(一〇二オ)きあへ給はず。蘇武生年十六歳にして胡国へ越き、三十四にして旧都へ帰りたりしに、白髪の老翁にてぞ有りける。後には典属国と云ふ官を給はつて君に仕へ奉り、遂に神爵元年に、年八十余まで有りて死にけり。
さればにや、是よりして文をば雁書とも云ひ、雁札とも名付けたり。使をば雁使ともいへるとかや。又雁の足に結び付けたりけるが、玉の様に円かりければ、玉づさとも申す也。
へだてこし昔の秋にあはましやこしぢの雁のしるべならずは
と、源の光行が詠ぜしも理とぞ覚ゆる。
蘇武は胡国に入りて、賓雁に書を繋げて再び林〓の花を翫び、康頼は小嶋に栖みて蒼▼P1408(一〇二ウ)波に歌を流して遂に故郷の月を見る。彼は漢明の胡国、是は我が国の油黄、彼は唐国の風儀にて思ひを述ぶる詩をあやつり、是は本朝の源流にて心を養ふ歌を詠ず。彼は雁の翅の一筆の跡、是は卒都婆の銘の二首の歌。彼は雲路を通ひ、是は浪の上を伝ふ。彼は十九年の春秋を送り迎へ、是は三ヶ年の夢路の眠り覚めたり。李陵は胡国に留まり、俊寛は小嶋に朽ちぬ。上古末代はかはり、境ひ遼かに遠くは隔たれども、思ふ心は一にして、哀れは同じ哀れ也。
三十三 〔基康が清水寺に籠る事 付けたり康頼が夢の事〕
康頼が嫡子、平左衛門尉基康は、摂津小馬林まで、父が共して見送りたりけるが、康頼出家してけれ▼P1409(一〇三オ)ば、基康泣く泣く小馬林より都へ還り上りて、やがて精進潔済して、百ヶ日清水寺へ参詣す。法花経の廿八品の其の中に、信解品を毎日に読み奉りて、百日が間、隔夜する折りもあり、夙夜する時もあり。「願はくは、大慈大悲の千手千眼、『枯れたる木草も花さき菓なるべし』と御誓ひあむなり。されば此の身を替へずして、二度父に合はせさせ給へ」と、三千三百三十三度の礼拝をまゐらせけり。既に八十余日も積もりけるに、油黄嶋に流されたる判官入道の或る夜の夢に、海上を遥かに詠めやれば、白き帆懸けたる船の奥の方より漕ぎ来るとみる程に、次第に近く漕ぎ寄るをみれば、我が子の▼P1410(一○三ウ)左衛門尉基康、其の船に乗りたりけり。其の白帆に文字あり。「妙法蓮花経信解品」とぞ書きたりける。猶次第に近くよるをよくよくみれば、船にはあらずして、白馬にぞ基康は乗りたりけると見て、打ち驚き、なにと有る妄想やらむと怪しくて、汗おしのごひて、人にも語らざりけり。康頼都帰りの後にこそ、子息基康に初めて語りける。観音の御変化は白馬に現ぜさせ給ふとかや。
偏へに是、基康が祈念感応して、観音の御利生にて都へは帰り上りにけり。又、小嶋に崇め奉りし権現の御本地も、観音の本師▼P1411(一○四オ)弥陀如来也。師弟哀れを施して、今都へ上りぬと、父子共に感涙をぞ流しける。
三十四 〔成親卿失はれ給ふ事〕
大納言入道は、少将も油黄嶋へ流され、其の弟共の少く御するも、安堵せず、ここ彼こに逃げ隠れ給ふなむど聞き給ひて、いとど心憂く悲しくて、日に随ひては思ひ沈みて、身も既によはりてみえ給ひける上、怱ぎ失ひ奉るべき由、承りにければ、或る時、経遠が許に大納言入道の呵嘖に付きたりける智明と申しける僧、大納言に申しけるは、「是は海中の嶋にて候ふ間、何事に付けてもすみうく候ふに、此より北に経遠が所領近く候ふ所に、吉備中山、細谷川なむど▼P1412(一〇四ウ)申して、名ある所候ふ。彼の所に、有木別所と云ふ、いたひけしたる山寺の候ふこそ、山水木立優なる所にて候へ。其へ渡らせ給ひ候へかし。渡し進らせ候はん」と申しければ、大納言入道げにもとおぼして、「ともかくも計らひにこそ随はめ」と宣ひければ、彼の山寺に難波太郎俊定が作り置きたりける僧房の有りけるを借りて、渡しすゑ奉りてけり。初めはとかく労り奉る由にて、同七月十九日に、坊の後に穴を深く堀らせて、穴の底にひしを植ゑて、上に仮橋を渡して、其の上に土をはねかけて、年来ふみ付けたる道の様にこしらへて置きたりけるを、▼P1413(一〇五オ)大納言入道、知り給はで、通りさまに其の上を歩み給ふと
て、落ち入り給ひたりけるを、用意したりける事なれば、やがて土を上にはねかけて埋み奉りにけり。隠しけれども、世に披露しけり。
三十五 〔成親卿の北方君達等出家の事〕
北の方、此の由を聞き給ひけむ心の内こそ悲しけれ。「『黄泉何なる所ぞ、一たび往きて還らず。其の台何れの方ぞ、再び会ふに期無し。書を懸けて訪はむと欲すれば、則ち存没路隔てて、飛雁通ぜず。衣を擣ちて寄せむと欲すれば、生死界異にして、意馬徒らに疲れぬ』と云へり。替らぬ体を今一度みゆることもやとてこそ、憂き身ながら髪も付けて有りつれども、今は云ふに甲斐なし」とて、自ら▼P1414(一○五ウ)御ぐしを切り給ひてけり。雲林院と申して寺の有りけるに、忍びて参り給ひてぞ、戒をも持ち給ひける。又其の寺にてぞ、形の如くの追善なむども営みて、彼の菩提を訪ひ奉り給ひける。若君闘伽の水を結び給ける日は、姫君は樒をつみ、姫君水を取り給ふ日は、若君花をたをりなむどして、父の後世を訪ひ給ふも哀れ也。時移り事定まりて、楽しみ尽き、悲しみ来る。只天人の五衰とぞみえし。されども、大納言の妹、内大臣の北の方より、折りに触れてさまざまの贈りものありけり。是を見る人、涙を流さぬはなし。なき跡までも内大臣の御志の深さこそやさしけれ。
成親卿は、若きより▼P1415(一〇六オ)次第の昇進かかはらず、家に未だなかりし大納言に至り、栄花先祖にこえ給へり。目出たかりし人の、いかなる宿業にて、かかるうき目を見給ひて、再び故郷へも帰り給はず、終に配所にて失せ給ひにけむ。
其の最後の有様も、都にはさまざまに聞こえけり。歎きの日数積もりて、やせ衰へて思ひ死にに死に給ひたりとも聞こゆ。又、酒に毒を入れてすすめ奉りたりとも沙汰し、又、おきに漕ぎ出でて海へ入れ奉りたりとも申しけり。とかく云ひささやきける程に、不思議なりける事は、経遠が最愛の娘二人あり。七月下旬の比より一度に病付きて、はてには▼P1416(一〇六ウ)物に狂ひて、竹の中へ走り入りて、竹の切りくひにたふれ懸かりて、つらぬかれて、二人ながら一度に死にけり。忽ちに報いにけるこそおそろしけれ。
三十六 〔讃岐院の御事〕
廿九日、讃岐院御追号あり崇徳院と申す。此の院と申すは、去んぬる保元元年に、悪左府頼長公の勧めに依りて世を乱りましましし御事也。其の合戦の庭を逃げ出でさせ御しまして、仁和寺の寛遍法務の御坊へ御幸なりたりけるが、讃岐国へ移されまします由を聞きて、其の比西行と聞こえし者、かくぞ思ひつづけし。
ことのはの情絶えぬる折節に有り合ふ身こそ悲しかりけれ
▼P1417(一〇七オ) しき嶋や絶えぬる道になくなくも君とのみこそ跡をしのばめ
新院、讃岐へ御下向あり。当国国司参行朝臣の沙汰として、鳥羽の草津より御船に召し、四方打ちつけたる御屋形の内に、月卿雲客の御身近く随ひ奉る一人もなし。只女房二三人ぞ、泣き悲しみながら仕へ奉りける。御屋形は開く事もなければ、月日の光もへだたりぬ。
道すがら、浦々嶋々、由ある所々をも御覧ぜず、空しく過ぎさせましませば、御心のなぐさむ方もなし。取磨の浦と聞こし食しては、行平中納言、もしほたれつつ歎きけむ心の中を思し食しやられ、淡路嶋と聞こし召しては、昔大炊の▼P1418(一〇七ウ)廃帝の、彼の嶋に遷されつつ、思ひにたへず失せ給ひけむも、今は我が身の御上と思し食す。日数の経るままには都の遠ざかり行くも心細く、況や一宮の御事、思し食し出づるに付けては、いとど消え入る御心地なり。「なにしに今までながらへて、かかる思ひに咽ぶらむ。只水の沫ともきえ、底のみくづともたぐひなばや」とぞ思し食す。
昔、河辺の逍遥のありしには、龍頭鷁首の御船を浮かべて錦の纜を解き、王公卿相前後に囲遶して、詩歌管絃の興を
催しき。今は海尾船の苫屋形の下にうづもれつつ、南海の外へ趣かせまします、生死苦海の有様こそ、返す返す▼P1419(一〇八オ)も哀れなれ。遠く異朝を検れば、正邑王賀は故国へ帰り、玄宗皇帝は蜀山に遷されき。近く吾が朝を尋ぬれば、安孝天皇は継子に殺され、崇峻天皇は逆臣に犯され給ひき。十善の君、万乗の主、先世の宿業は力及ばぬ事ぞかしと、思し食しなぞらへけるこそ、責めての事とは覚えしか。
されども、つながぬ月日なれば、泣々讃岐へつき給ひぬ。当国志度郡直嶋に御所を立てて、すゑ奉る。彼の嶋は、国の地にはあらずして、海の面を渡る事、二時計りを隔てたり。田畠もなし、住民もなし。実にあさましき御すまゐとぞ見えし。長き一宇の屋を立てて、方一丁の築垣あり。▼P1420(一〇八ウ)南に門を一つ立てて、外より鎖を指したりけり。国司を始めとして、あやしの民に至るまで、恐れを成して言問ひ参る人もなし。浦路を渡るさよ千鳥、松を払ふ風の音、磯辺によする波の音、叢にすだく虫の音、何れも哀れを催し、涙を流さずと云ふ事なし。紫蓋峯の嵐疎かなり、雲七百里の外に収まり、曝泉浪を布きて冷しく、月四十尺の余りに澄めり。幽思窮まらず、深巷に人無きの処、愁腸断へなむと欲す、閑窓に月有るの時とかや。
是より又、当国の在庁一の庁官、野大夫高遠が堂に移り給ひたりけるが、後には鼓の岡に御所立ててぞ渡らせ給ひける。
かくて年▼P1421(一○九オ)月をすごさせましますに、御身には何事も先世の事と思し食すとも、女房達は何の顧みにも及ばず、都を恋ふる心なのめならず、落つる涙は紅に変じ、押さふる袖は朽ちぬ計り也。是れを御覧ずるに付けては、何事も御心弱くなりて、相構へて申し宥めらるべき由、御人わろく関白殿へ度々仰せ事有りけれども、返事にもおよばず。責めての御事に思し召されけるは、「我、天照大神の苗裔を受けて天子の位を沓み、忝く太上天皇の尊号を蒙りて、紛陽の居を卜めき。春は春の遊びに随ひ、秋は秋の興を催し、韶陽の花を翫び、長秋の月を詠じ、久しく▼P1422(一〇九ウ)仙洞の楽しみに誇りて、又思ひ出無きに非ず。如何なる罪の報ひにて、遥かの嶋に放たれて、かかる悲しみを含むらむ。境ひ南北に有らざれば、旅雁縁書の便りを得難し。政陰陽を別かざれば、烏頭馬角の変有り難し。懐土の思ひ最深し。望郷の鬼とこそならむずらめ。天竺・振旦より日本吾が朝に至るまで、位を争ひ国を論じて、叔父甥合戦を致し、兄弟闘諍を起せども、果報の勝劣に随ひて、叔父も負け、兄もまく。然りと雖も、時移り事去つて、罪を謝し讎を飜すは王道の恵み無偏の情也。されば奈良の先帝、内侍督
の勧めに依つて世を▼P1423(一一○オ)乱り給ひしかども、出家せられしかば流罪には及ばざりき。況んや是れは責めらるべきの由聞きしかば、其の難を遁るる方もやと防きし計りなり。さしも罪深かるべしとも覚えず。是程の有様にては、帰り上りてもなにかせむ。今は生きても何の益かあらむ」とて、御ぐしもめさず、御爪をも切らせ給はず、柿の頭巾・柿の御衣を召しつつ、御指より血をあやし、五部の大乗経をあそばして、御室へ申させ給ひけるは、「形の如く墨付に、五部の大乗経を三ヶ年間書き奉りて候ふを、貝鐘の声も聞えぬ国に棄て置き奉らむ事、うたてく候。此の御▼P1424(一一○ウ)経ばかり、都近き八幡・鳥羽の辺にも置きてたばせ給へ」と申させ給ひければ、御室より関白殿へ申させ給ふ。関白殿より内裏へ申させ給ひければ、少納言入道信西、「争でかさる事は候ふべき」と大きに諌め申しければ、御経をだにもゆるし奉る事なかりけり。
これに依つて、新院、深く思食されけるは、「我勅の責め遁れ難くして、既に断罪の法に伏す。今に於いては恩謝を蒙るべきの由、強ちに望み申すと雖も、許容無きの上は不慮の行業になして、彼の讎を報ひむ」と思食して、御経を御前に積み置きて、御舌のさきをくひきらせ給ひて、其の血を以て軸の本毎に御▼P1425(一一一オ)誓状をあそばしける。「吾れ此の五部の大乗経を三悪道に投げ籠めて、此の大善根の力を以て日本国を滅ぼす大魔縁とならむ。天衆地類必ず力を合はせ給へ」と誓はせ給ひて、海底に入れさせ給ひにけり。怖しくこそ聞こえし。
かくて九年を経て、御歳四十六と申しし長寛二年八月廿六日、志度の道場と申す山寺にして終に崩御なりにけり。やがて白峯と申す所にて焼き上げ奉る。其の煙は都へやなびきけむ。御骨をば高野山へ送れとの御遺言有りけれども、いかが有りけむ、そも知らず。御墓所をば、やがて白峯にぞ構へ奉りける。此の君、当国▼P1426(一一一ウ)にて崩御なりにしかば、讃岐院と号し奉りけり。
新院の御子重仁親王は御出家ありて後は、花山院法印元性と申しき。新院崩御の事、都へ聞えて、御服奉らむとしける時、入道法親王より、「いつより召され候ぞ」と問ひ申させ給ひたりければ、宮、御涙をおさへつつ、かくぞ御返事にはありける。
憂きながら其の松山の信物には今夜ぞ藤の衣をばきる
一宮とて寵きかしづき奉りしに、思はぬ外の御有様にならせ給ひにしこそ悲しけれ。我が御身ながらも、さこそ心憂く思し食されけめと哀れ也。
▼P1427(一一二オ)三十七 〔西行、讃岐院の墓所に詣づる事〕
仁安三年の冬比、西行法師、後には大法房円位上人と申しけるが、諸国修行しけるが、此の君崩御の事を聞きて四国へ渡り、さぬきの松山と云ふ所にて、「是は新院の渡らせ給ひし所ぞかし」と思ひ出で奉りて、参りたりけれども其の御跡もみえず。松葉に雪ふりつつ道を埋みて、人通りたるあともなし。直嶋より支度と云ふ所に遷らせ給ひて三年久しくなりにければ 理なり。
吉しさらば道をば埋め積もる雪さなくは人の通ふべきかは
松山の波に流れてこし船のやがて空しくなりにける哉
と打ち詠じて、白峯の御墓へ尋ね参りたりけるに、▼P1428(一一二ウ)あやしの国人の墓なむどの様にて草深くしげれり。是を見奉るに涙も更に押へがたし。昔は一天四海の君として南殿に政を納め給ひしに、八元八〓の賢臣、左に候し右に随ひ奉りき。王公卿相雲の如く霞の如くして、万邦の随ひ奉る事、草の風に靡くが如くなりき。されば二六金殿の間には朝夕玉楼を瑩き、長生仙洞の中には綾羅錦繍にのみまつはされてこそ明かし晩し給ひしに、今は八重のむぐらの下に臥し給ひけむ事、悲しとも愚か也。一旦の災忽ちに起りつつ、九重の花洛を出でて千里の外に移されて、終を遠境に告げ給へり。先世の御▼P1429(一一三オ)宿業と云ひながら、哀れなりし事ぞかし。御墓堂とおぼしくて、方間の構へ有れども修理修造もなければ、ゆがみ傾きて樢葛はいかかり、況んや法花三昧勤むる禅侶もなければ、貝鐘の音もせず。事問ひ参る人もなければ、道ふみつけたる方もなし。昔は十善万乗の主、錦帳を九重の月に耀かし、今は懐土望郷の魂、玉体を白峯の苔に混ず。朝露に跡を尋ね、秋の草泣きて涙を添へ、嵐に向かひて君を問へば、老檜悲しみて心を傷ましむ。仙儀も見えず、只朝の雲も夕べの月をのみ見、法音も
聞えず、又松の響き鳥の語るをのみ聞く。軒傾きて暁の風猶危く、甍破れて暮の雨▼P1430(一一三ウ)防き難し。宮も藁屋もはてしなければ、かくても有りぬべき。世の中などつくづく昔今の御有様、とかく思ひつづくるに、不覚の涙ぞ押へがたき。かくぞ思ひつづけける。
よしやきみ昔の玉の床とてもかからむ後はなににかはせむ
さて松の枝にて庵結びて、七日不断念仏申して罷り出でけるが、庵の前なる松にかくぞ書き付けける。
ひさにへて我が後の世を問へよ松跡忍ぶべき人しなければ
三十八 〔宇治の悪左府贈官等の事〕
八月三日、宇治の左大臣、又贈官贈位の事あり。勅使少納言惟基、彼の御墓所へ詣りて、宣命を捧げて太政大臣正一位を贈らるる由読み上げらる。御墓▼P1431(一一四オ)は大和国添上郡河上村般若野の五三昧也。昔保元の合戦の時、流れ矢に当たりて失せ給ひぬと風聞しけれども、正しく実否を聞食さざりければ、滝口師光・資行・能盛三人を遣はして実検せらる。其の墓を掘りをこしたれば、七月のさしも熱き折節に十余日にはなりぬ、何とてかは其の形とも見へ給ふべき。余りにかはゆき様なりければ、各々面をそばめてのきにけり。
昔、宮中を出入し給ひしには、紅顔粧ひ濃かにして春の花の色を恥ぢ、異香かをりなつかしくして妓廬の煙薫を譲り、妙なる勢ひなりしかば、御目にまみへ御詞に▼P1432(一一四ウ)懸からむとこそ思ひしに、只今の御有様こそ口惜しけれ。色相ひ変異して〓脹爛壊し給へり。支節分散して膿血溢れ流れたり。悪香充満して不浄出現せり。余りかはゆく目もあてられざりければ、重ねて見るに及ばず。此の人々は帰りにけり。御不審の残る所はさる事なれども、墳墓を掘りうがち、死骸を実検せらるる事は、少納言入道信西が計らひに諸事随はせ給ふと云ひながら、情なくこそ聞えしか。此の報ひにや、信西、平治の最後の有様少しもたがはざりき。怖しかりし事共也。
昔堀りをこして棄てられ給ひにし▼P1433(一一五オ)後は、死骸路の頭の土となりて、年々に春の草のみしげれり。今、朝の使尋ね行きて勅命を伝へてむ。亡魂いかがおぼしけむ、穴倉なし。思ひの外なる事共ありて、世間も静かならず。「是直事に非ず。偏へに怨霊の致す所なり」と人々申されければ、加様に行はれけり。冷泉院の御物狂はしくましまし、花山の法皇の御位をさらせ給ひ、三条院の御目のくらくおはしまししも、元方民部卿の怨霊の崇りとこそ承れ。
三十九 〔三条院の御事〕
抑三条院の御目も御覧ぜられざりけるこそ心うかりけれ。只人の見まゐらせけるには、御眼なむど▼P1434(一一五ウ)もいときよらかに、聊かも替らせ給ひたる事渡らせ給はざりければ、虚事の様にぞ見へさせ給ひける。伊勢の斎宮の立たせ給ふに別れのくし刺させ給ひては、互ひに御らむじかへる事はいむ事にてあむなるに、此の院は指し向かはせ給ひたりけるを見まひらせてこそ渡らせ給ひけれ。此れを人みまゐらせてこそ、「さればこそ」と申しける。
昔も今も怨霊は怖しき事なれば、光仁天皇の第二の御子、甲良の廃太子は崇道天皇と号し、聖武天皇妾〓井上の親王は皇后の職位に補し給ふ。是れ皆怨霊を▼P1435(一一六オ)宥められし謀なり。
四十 〔彗星東方に出る事〕
同じき十二月廿四日、彗星東方に出づ。「又いかなる事の有らむずるやらむ」と、人怖ぢあへり。「彗星は、五行の気、五星の変。内に大兵有り、外に大乱有り」と云へり。
平家物語第一末
▼(一一六オ) (花押)
▼P1436(一二一オ)一一六ウ 裏表紙見返
シヨにち
暑日
夏の日の異名なり。
平家物語 三(第二本)
▼P1437(一オ)
一 院の御所に拝礼被行事
二 法皇御灌頂事
三 天王寺地形目出事
四 山門に騒動出来事
五 建礼門院御懐任事 〈付成経等赦免事〉
六 山門の学生と堂衆と合戦事 〈付山門滅亡事〉
七 信乃善光寺炎上事 〈付彼如来事〉
八 中宮御産有事 〈付諸僧加持事〉
九 御産之時参る人数事 〈付不参人数事〉
十 諸僧に被行勧賞事
十一 皇子親王の宣旨蒙給ふ事
十二 白河院三井寺頼豪に皇子を被祈事
十三 丹波少将故大納言の墓に詣事
十四 宗盛大納言と大将とを被辞事
十五 成経鳥羽に付事
十六 少将判官入道入洛事
十七 判官入道紫野の母の許へ行事
十八 有王丸油黄嶋へ尋行事
十九 辻風荒吹事
廿 小松殿死給ふ事
▼P1438(一ウ)
廿一 小松殿熊野詣事
廿二 小松殿熊野詣の由来事
廿三 小松殿大国にて善を修し給ふ事
廿四 大地震事
廿五 太政入道朝家を可奉恨之由事
廿六 院より入道の許へ静憲法印被遣事
廿七 入道卿相雲客四十余人解官事
廿八 師長尾張国へ被流給ふ事 〈付師長熱田に参給ふ事〉
廿九 左少弁行隆事
卅 法皇を鳥羽に押籠奉る事
卅一 静憲法印法皇の御許に詣事
卅二 内裏より鳥羽殿へ御書有事
卅三 明雲僧正天台座主に還補事
卅四 法皇の御棲幽なる事
▼P1439(二オ)
平家物語第二本
〔一〕 〔院の御所に拝礼行はるる事〕
治承二年正月一日、院の御所には拝礼行はる。四日、朝覲の行幸有りて、例に替はりたる事はなけれども、去年成親卿以下近習の人々多く失はれし事、法皇御鬱り未だ休まらず、世の御政も倦くぞ思し食されける。入道も、多田蔵人行綱告げ知らせて後は、君をもうしろめたなき御事に思ひ進らせて、世の中打ちとけたる事もなし。上には事なき様なれども、下には心用心して、只にが咲ひてぞ有りける。
七日の暁、彗星東方にみゆ。十八日に光をます。〓尤旗とも申す。又赤気とも申す。何事の有るべきやらむと、人怖れをなす。
二 〔法皇御灌頂の事〕
法皇は、三井寺の公顕僧正を御師範として、真言の秘法を受けさせおはしましけるが、今年の春、三部の秘経を受けさせ給ひて、二月五日には、▼P1440(二ウ)園城寺にて御灌頂有るべきよし、思し召し立つと聞こえし程に、天台大衆嗔り申す。
「昔よりして今に至るまで、御灌頂・御受戒は、皆我が山にて遂げさせおはします事、既に是先規也。就中、山王の化道は受戒灌頂の御為也。三井寺にて遂させ給はむ事、然るべからず」と申しければ、さまざまに誘らへ仰せられけれども、例の山の大衆、一切に院宣をも用ゐず。「三井寺にて御灌頂あるべきならば、延暦寺の大衆発向して、園城寺を焼き払ふべし」と僉議すと聞こえければ、重ねて宥め仰せられければ、留まりにけれ。
「園城寺、向後延暦寺の戒を受くべきの由、請文を出だすべき」由、仰せ下されければ、北院・中院は公顕僧正の門徒多かりければ、勅定に従ふべき由申しけるを、南院、「今更我が寺に瑕瑾を貽すべからず」とて、異議をなして▼P1441(三オ)従はざりけり。南院より「当寺の僧、天台座主に補せらるる時、寺務を遂行すべし。又、法城寺の探題、当寺、同じく勤仕せしむべし。此の両条裁許有らば、勅命に従ひて延暦寺の戒を受くべき」由、申しけり。彼此の議、いづれも成し難かりければ、御加行結願して、御灌頂は思し食し止まりにけり。
抑も三部経と申すは、其の数あまたあり。一は法花三部、二は大日三部、三は鎮護国家三部、四は弥勒慈尊三部、五は浄土真宗他力往生三部なり。今法皇の受けさせまします三部は、大日三部、真言教の依経なり。其三部とは、一は大日経、二は金剛頂経、三は蘇悉地経、是なり。今此の経の大意を尋ぬれば、「若有人此経、受持読誦者、即身成仏故、放大光明円」と説く。「若し人ありて、此の妙典を受持読誦すれば、父母所生の依▼P1442(三ウ)身、忽ちに大日如来と成りて、胸の間の大光明を放ちて、三界六道の闇をてらす」と説かれたる妙典なり。
後白河法皇、忝くも観行五品の位に心を懸けましまして、法花修行の道場、五種法師の燈を挑げて、七万八千余部の転読なり。上古にも未だ承り及ばず、何に況や末代においてをや。十善玉体の御衣の色三密護摩の壇にすすけて、即身菩提の聖の御門とぞみえさせ給ひける。
彼の公顕僧正と申すは、法皇の御外戚、顕密両門の御師徳なり。止観玄文の窓の前には一乗円融の玉をみがき、三密瑜伽の宝瓶には東寺山門の花開け給へり。此くの如く、内につけ外につけて御帰依の御志深きによりて、妙典をも公顕僧正に受け、御灌頂をも三井寺にてと思し食し立ちけるが、山門騒動して打ち止め奉る事、何計りか心憂く思し食されけむ。
▼P1443(四オ)法皇、「我が朝は、此れ辺地粟散の国なり。何事も争か大国にひとしかるべきなれども、中にも雲泥及びなかりけるは、律の法文、僧の振舞にてぞ有らむ。僧衆の法は、帰僧息諍論、同入和合の海といへり。和合海にこそ入らざらめ、諍論を専らにして、指したる咎もなき三井寺を焼失せむとする条、無道心の者共かな。破和合僧のおもむき、是又五逆罪の随一に非ずや。形計りは出家にして、心は偏に在俗に同ず。愚鈍の闇深くして、〓慢の幢高し。比丘の形となりながら、値ひ難き如来の教法をも修行せず、大日覚王の智水の流れに身をもすすがず。丸がたまたま入壇灌頂せむとするをさへ、障礙する事の無慙さよ。縦ひ丸理を枉げたる非法をも宣下し、若しは山門の所領を別院に寄すと云ふとも、王位王位たらば、誰か此を背くべき。何に況や、受職灌頂と▼P1444(四ウ)は、上求菩提の春の花、下化衆生の秋の月なり。智徳明匠此を讃嘆し、貴賎男女此を随喜す。縦ひ随喜讃嘆の褒美せしむるまでこそなからめ、無上福田の衣の上に邪見放逸の冑を着し、定恵二手の掌の内に仏法破滅の続松をささげて、三井寺を焼き失はむと僉議するらむ条、少しもたがはぬ昔の提婆達多が伴類なり。さこそ末代と
いはむからに、是程王位をかろしむべき様やある。口惜事かな」とて、宸襟しづかならず、逆鱗屡忝し。
「抑も王位は仏法をあがめ、仏法は王位を護りてこそ、相互に助けて効験も目出たく、明徳もいみじけれ。若し王位を王位とせずは、何れの仏法か、我が朝に興隆すべきや。今度山僧等、園城寺を焼失せむにおいては、天台の座主を流罪▼P1445(五オ)し、山門の大衆をも禁籠せむ」とぞ思し食す。又かへして思し食しけるは、「山門大衆、内心こそ愚痴の闇深うして、邪雲忽ちに仏日の影を犯すといへども、形は既に比丘の形なり。一々に禁籠せむ事、罪業又なむぞ消滅すべきや。且は五帖法衣を身にまとへり。帰依の志、全く賢哲師子にをとるべからず。且は大師聖霊の御計らひをも待ち奉るべし。且は伊王山王も争か捨てはてさせ給ふべきや」とて、御涙にぞむせばせ給ひける。
此の法皇は百王七十七代の御門鳥羽院第三の御子雅仁天王とぞ申しける。治天僅かに三年なり。いそぎ御位をすべらせおはしましける御志は「無官有智の僧に近付きて、甚深の仏法をも聴聞し、壇所行法の花香をも手づから自ら営まむ」と思し食さるる故なり。
抑も百王と申すは、天神七代地神▼P1446(五ウ)五代の後、神武天皇より始めて、御衣濯河の流すずしく、龍楼鳳闕閲の月くもりなかりしかども、第廿九代の御門宣化天皇の御時までは、仏法未だ我が朝に伝はらず、名字をすら聞く事なかりき。されば其の時までは、罪業を恐るる人もなく、善根を修行する人もなかりき。親に孝養をもせず、心に仏道をももとめず、持律持戒の作法もなく、念仏読経のいとなみもなし。
而るに、第卅代の御門欽明天皇の御宇十三年壬申歳十月十日、百済国の聖明王より金銅の釈迦如来、并びに経論少々、幢幡、蓋、宝瓶等の仏具なむど送られたりき。但し仏像来臨し聖教伝来すと云へども、談義転読する僧宝未だなかりしかば、三宝をも供養し、聖教をも随喜せず、只▼P1447(六オ)闇の夜の錦にてぞ侍りける。第卅二代の御門、用明天皇と申し、御諱豊日天皇とも申しき。此の御門の御時より、三宝あまねく流布して大小乗の法文光り天下にかかやく。
其より以来、仏法修行の貴賎其数多しと云へども、此の法皇程の薫修練行の御門を未だ承らず。子に臥し寅に起きさせ給ふ御行法なれば、打ち解けて更に御寝もならず。金烏東にかかやけば、六部転読の法水、三身仏性の玉をみがき、夕日西に傾けば、九品上生の蓮台に三尊来迎の心をはこび給へり。
或る時、一両句の御願文をあそばして、常の御座の御障子の色紙にかかせ給ひたりける明句に云はく、
身は暫く東土八苦の蕀の下に居ると雖も、心は常に西方九品の蓮の上に遊ばしむ。
▼P1448(六ウ)とぞあそばされたる。又常の御詠吟に云はく、
智者は秋の鹿、鳴きて山に入る。愚人は夏の虫、飛びて火に焼く。
とぞ、常にはながめさせ給ひける。此は止観の行者、四種三昧の大意を釈したる絶句とかや。昔より常に此の事ながめさせ御座す御事なれども、今度山門の大衆に御灌頂の事を打ちさまされ給ひし時より、何なる深き山にも閉ぢ籠り、苔深き洞の中にも隠れ居せばやとや思し食しけん、御心をすまして 「智者は秋の鹿」とのみ御詠ありけるとかや。后宮も此をあさましく思し食し、雲客月卿も肝神を失ひ給ひき。已に時は青陽五春の比にもなりにけり。三月桃花の宴とて、桃花の盛に開きたり。西母が跡の桃とて、唐土の桃を南庭の桜に殖ゑ▼P1449(七オ)交ぜて色々さまざまにぞ御覧じける。桜のさきにさく時もあり、桃花さきにさく時もあり。桃桜一度に開きて匂う時もあり。今年は桜は遅くつぼみて、桃花は前に開きたり。されども、「智者は秋の鹿」 とのみ詠めさせ給ひて、桃花を御覧ずる事もなかりけり。
これによりて、雲上人、更に一人も花を詠ずる人おはせざりけるに、三月三日夕晩に、
春来りては遍く是桃花水なれば、仙源を弁へず何れの処にか尋ねむ
と、高らかに詠ずる人あり。法皇誰ぞやと聞こし食さるるほどに、やがて清涼殿に参りて、笛吹きならしつつ、調子黄鐘調に音とりすましたり。やがて御厨子の上なる千金と云ふ御琵琶をいだきおろし奉りて、赤白桃李花と申す楽を三反計りぞ引きたりける。「只人とは覚へず▼P1450(七ウ)奇代の不思議かな」とぞ、法皇聞こし食されける。赤白桃李花を三反引きて後、琵琶をもひかず、詩歌をも詠ぜず、笛などをも吹く事なくして、良久しく有りければ、「此の者は帰りぬるやらむ」と思し食して、法皇、「やや赤白桃李花は何者ぞ」と仰せ有りければ、「御宿直の番衆」とぞ申したりける。「番衆と申すは誰ぞや」と問はせ給へば、「開発の源平大夫住吉」とぞ名乗り給ひたりける。「さては住吉の大明神にておはしけるにや」と思し食して、怱ぎ御対面あり。夢にもあらず、現にもあらず、奇代の不思議かなとぞ思し食しける。
さて、種々の御物語ありける中に、大明神仰せられけるは、「今夜の当番衆は松尾大明神にて候へども、いそぎ申すべき事ありて、引きかへて参りて候ふ。昨日の暁、山王七社伝教大▼P1451(八オ)師、翁が宿所に来臨して、日本国の吉凶を評定し候ひしに、今度山門の大衆、邪風ことに甚しく、宸襟を悩ましまゐらせ候ひし条、存外の次第にて候ふ。但しむつごころにては候はざりつるなり。日本の天魔あつまりて、山の大衆に入りかはりて、公の御灌頂を打ち留めまゐらせ候ふ処なり。されば、大衆の禍をば御免有るべき事にて候ふなり」。
時に法皇、「抑も天魔は、人類か、畜類か、修羅道衆類か。何なる業因の物にて仏法を破滅し侍るぞや」。大明神答へて宣はく、「聊か通力を得たる人類也。此について三つあり。一には天魔、二は破旬、三は魔縁也。第一に天魔と云ふは、もろもろの智者学生の無道心にして驕慢甚し。其の無道心の智者の死ぬれば、必ず天魔と申す鬼になり候ふ也。其の形、頭は狗、身は人にて、左右の手に羽生ひたり。前後百才の事を悟る▼P1452(八ウ)通力あり。虚空を飛ぶ事、隼のごとし。仏法者なるが故に地獄にはおちず、無道心なるが故に往生をもせず。驕慢と申すは、人にまさらばやと思ふ心也。無道心と申すは、愚痴の闇に迷ひたる者に智恵の燈をさづけばやとも思はず、あまつさへ、念仏申す者を妨げて嘲りなむどする者、必ず死ぬれば天狗道に堕つと云へり。当に知るべし、末世の僧は皆無道心にして驕慢有るが故に、十人に九人は必ず天魔となつて仏法を破滅すべしとみえたり。八宗の智者にて天魔となるが故に、是をば天狗と申すなり。浄土門の学者も、名利の為にほだされて、虚仮の法門を囀り、無道心にしてずずをくり、慢心にして数反をすれば、天魔の来迎に預かりて、鬼魔天と申す所に年久しと云へり。
当に知るべし、魔王は一切衆生の形に似たり。第六▼P1453(九オ)意識反りて魔王となるが故に、魔王の形も又一切衆生の形に似たり。されば、尼・法師の驕慢は、天狗になりたる形も尼天狗・法師天狗にて侍る也。つらは狗に似たれども、頭は尼・法師也。左右の手に羽はをいたれども、身には衣に似たる物をきて、肩には袈裟に似たる物を懸けたり。男、驕慢天狗と成りぬれば、つらこそ狗に似たれども、頭には烏帽子、冠をきたり。二の手には羽をひたれども、身には水干・袴・直垂・狩衣などに似たる物をきたり。女の驕慢天狗と成りぬれば、狗の頭にかづらかけて、べに白物のやふなる物をつらには付けたり。大眉つくりてかねぐろなる天狗もあり。紅の袴にうすぎぬかづけて大空を飛ぶ天狗もあり。
はじゆん にんじん も
第二に破旬と申すは、天狗の業すでに尽きはてて後、人身を受けむとする時、若しは深山の峯、若しは深谷の洞、人跡たえて千▼P1454(九ウ)里ある処に入定したる時を、破旬と名づけたり。一万才の後、人身を受くといへり。
第三、魔縁とは、驕慢無道心の者、死ぬれば必ず天狗になれりといへども、未だ其の人死せざる時に、人にまさらばやと思ふ心のあるを縁として、諸の天狗あつまるが故に、此をなづけて魔縁とす。されば驕慢なき人の仏事には、魔縁なきが故に、天魔来てさはりをなすことなし。天魔は世間に多しといへども、障礙をなすべき縁なき人の許へはかけり集る事更になし。されば、法皇の御驕慢の御心、忽ちに魔王の来るべき縁とならせ給ひて、六十余州の天狗共、山門の大衆に入りかはりて、さしも目出たき前加行をも打さましまゐらせて候ふ也。御驕慢のおこるも誠に御道理にてこそ候へ。
『両▼P1455(一〇オ)界の万だらを一夜二時に懈怠なく行はせ給へる事、〓余代の御門の中にましまさざりき。僧の中にもまれにこそ有らめ』と思し食さるる御心、即ち魔縁となれり。『廿五壇の別尊法、諸寺諸山の僧衆も丸には争かまさるべき』と思し食すは又魔縁也。『三密瑜伽の行法、護摩八千の薫修、上古の御門にましまさず。まして末代にはよもおはせじ。仏法修行の智者達にもまさらばや』と思し食すは是魔縁也。『光明真言、尊勝だらに、慈救呪、宝篋印、火界真言、千手経、護身結界十八道、仁王般若五壇法、丸に過たる真言師もまれにこそあるらめ』と、思し召したるは魔縁也。『況や入壇灌頂して金剛不壊の光を放ちて大日遍照の位にのぼらむ事、明徳の中にもまれなるべし。天子帝王の中にも我ぞ勝れた▼P1456(一〇ウ)るらむ』と、大驕慢をなさせ給ふが故に、大天狗共多くあつまりて、御灌頂の空しくなり候ひぬる事こそ、あさましく覚え候へ」とぞ申させ給ひける。
其の時法皇、「日本国中に天狗になりたる智者、幾人計りか侍るや」。大明神の宣はく、「よき法師は皆天狗になり候ふあひだ、其の数を申すに及ばず。大智の僧は大天狗、小智の僧は小天狗、一向無智の僧の中にも随分の慢心あり。それらは皆畜生道に堕ちて打ちはられ候ふ、もろもろの馬牛共、是也。中比、我朝に柿本木僧正と申しし高名の智者、有験の聖侍りき。大驕慢の心の故に忽に日本第一の大天狗となりて候ひき。此をあたごの山の太郎房とは申し候ふ也。すべて驕慢の人多きが故に、随分の天狗となりて、▼P1457(一一オ)六十余州の山の峯に、或は十人計り、或は百人計り、かけり集まらざる峯は一つも候はず」。
其の時法皇、「誠に仰せの如く、丸が行法は、王位の中にも仏法者の中にも、いとまれにこそあるらめと思ひて候ひつる也。先づ両界を空に覚えて毎夜二時に供養法し給ふ御門、上古には未だきかずと思ひ侍りき。別尊法、鈴杵を廿五壇に立てたる帝王も、未だ聞かずと思ひ侍りき。子に臥し寅に起くる行法、帝王の中には未だ聞かずと思ひ侍りき。毎日に法花経六部を信読によみ奉る国王も、我が朝には未だ聞かずと思ひ侍りき。況や三部経の持者、秘密灌頂の聖となりて、本寺本山の智者達にもまさりたりとほめられむと思ふ慢心を発す事、たびたびなりき。さては、今こそ既に罪業の雲はれては覚え候へ。全く山門の大衆の狼籍にては侍らざ▼P1458(一一ウ)りけり。我が身の驕慢、則ち天魔の縁となりて、六十余州の天狗共、数日精勤の加行を打ちやぶりけるこそ、道理にては侍りけれ。今は慙愧懺悔の風冷し。魔縁魔境の雲、争かはれざらむや。さては忍びやかに宿願をはたし候はばやと存じ候ふ。御計らひ候へ」と仰せ有りければ、大明神の宣はく、「伝教大師申せと候ひつるは、『延暦寺と申すは愚老が建立、園城寺と申すは智証大師の草創也。効験何れも軽くして、御帰依の分にあたはず。日本国の霊地には、二
々天王寺勝れたりと覚え候ふ。其の故は、聖徳太子の御建立、仏法最初の砌也。其の聖徳太子は救世観音の応現、大悲闡提の菩薩也。此によりて信心空に催して、勝利何ぞ少からむや。折りしも彼の寺に入唐の聖の帰朝して、恵果▼P1459(一二オ)八仙の流水、五智五瓶にいさぎよし。灌頂の大阿闍梨、其の器に尤も足りぬべし。密かに御幸ならせおはしまして御入壇候へ』」とて、明神忽ちに失せ給ひぬ。
法皇思し食されけるは、「慢心をいかにおこさじと思へども、事により折に随ひておこるべき物にて有りけり。さしも大明神のをしへ給ひつる慢心の、今又おこりたるぞや。其の故は、大唐国に一百余家の大師先徳、其の数多しといへども、韋多天に対面して物語し給ひける明徳は、終南山の道宣律師(大師ィ)許り也。吾が朝には人王始まりて朕に至るまで、七十余代の御門、其の数多しといへども、住吉の大明神に直に対面して種々物語したる御門は丸計りこそ有るらめと、驕慢のおこりたるぞや。南無阿弥だぶ南無阿弥だぶ、此罪障消滅して助けさせおはしませ」とぞ御祈念有りける。
法皇▼P1460(一二ウ)すでに天王寺へ御幸なりけるとき、御手を合はせつつ、いかなる御祈念かおはしけむ、
すみよしの松吹風に雲はれてかめゐの水にやどる月かげ
とあそばして御幸なりつつ、天王寺の五智光院にして亀井の水を結び上げて五瓶の智水として、仏法最初の霊地にてぞ、伝法灌頂の素懐を遂げさせ御坐しける。無上菩提の御願すでに成就して、有待の御身も今は金剛仏子の法皇とならせおはしましたる。天魔はいささかなやましまゐらせたりけれども、住吉大明神にをしへられましまして、即身成仏の玉体とならせおはしましたる。誠に目出たく侍り。所以に、六大無礙の春の花は、▼P1461(一三オ)金剛界の智水より開き、四種万陀の秋の月は、台蔵界の理門より出づ。三密瑜伽の鏡面は、五智円満の聖体に浮かび、八葉肉団の胸の間には、三十七尊の光円耀けり。
同五月廿日、天台の衆徒所司を以て参陣せしめて訴へ申しけるは、「今度最勝講に延暦寺の僧を召されず。此の条都て先規無し。何に依りてか、忽ちに棄捐せらるべき哉」とぞ申したりける。蔵人右少弁光雅、参院して奏聞しければ、「更に御棄て置きの儀に非ず。天台の衆徒、自由の張行を以て御願を妨げ奉る条、頗る奇怪なるに依りて、其の事つみしらせむが為なり」とぞ仰せ下されける。此の趣をぞ、所司には仰せ含めける。又、延暦寺より専使を差し遺して園城寺に申し送りけるは、「最勝講は鎮護国家の御願なり。而るに今度、天台宗を棄てらるる処に、▼P1462(一三ウ)園城寺の僧参勤せらるべき由、風聞あり。何れの宗を以てか、参勤せらるべき哉。当寺は天台か、花厳か、三論か、法相か。委細に承りて存知仕るべし」とぞ申したりける。爰に、園城寺の衆徒、三院会合して僉議すといへども、何れの篇も返答すべしと云ふ義も定まらざりければ、只「追つて申すべし」とばかりぞ、返答したりける。
抑も道宣律師の相ひ給ひて物語し給ひし韋荼天と申すは、毘沙門天王の太子なり。道宣律師、終南山にして晴夜にして高楼を立てて彼に登りて御しけるが、誤りて高楼より落ち給ふ時、中途にしてみしと懐きたてまつる者あり。「何者ぞ」と問はれければ、「韋荼天」と答えけり。道宣の宣はく、「何にしてこれへは来るぞや」。天の云く、「吾れ毘沙門天王の御使▼P1463(一四オ)者として彼の命に随ひて日来より参りて常に守護し奉る也」と云々。道宣重ねて宣はく、「其の議ならば、顕れて常に物語をもし給へかし」と云はれければ、「仰せに随ひて」とて、其の後は庭前の柳に登りて、光明をはなちて、諸の世界国土の物語を申しけり。
彼の道宣と韋荼天との物語を注せる一巻の伝記、是あり。感通伝と名づけたり。道宣云はく、「毘沙門天王は、当時はいづくに御しますぞ」。天答へて云はく、「当時はびさ門天王は、玄弉三蔵の大般若訳し給へる処に、彼の三蔵を守護の為に御します」とぞ申しける。道宣の云はく、「玄弉は破戒の僧なり。我は持戒の者也。我をこそ守護し給ふべきに、我をば韋荼天に預けて、玄弉三蔵を守護せらるらむ事は、存外の事也」とぞ自称し給ひける。
げにも道宣の云ふが如くに、道宣律師は二百五十の▼P1464(一四ウ)律儀を守りて一事も戒を犯さず。八万の細行を正しくして、身口の表を鮮かにせり。玄弉三蔵は乱僧也。徳行遥かに下れり。然るに、道宣をすて、玄弉を守り給ふらむ事、疑ひ実に多し。倩ら事の次第を案ずるに、高僧伝を開き見るに、一切の僧の徳行を釈せむとして十の科を立てたり。「第一には翻訳の僧、其の功殊に貴し。第二は義解の僧、仏法流伝の謀、誠に目出たし」。此くの如く、次第に科門を立て、釈し畢りて、「第十には仏蔵経論等を修復修造の僧也」と連ねたり。彼を以て之を案ずるに、玄弉三蔵と云ふは、其の身破戒にして、防・生・光・基の四人の子をまうくといへども、高僧伝に立つる所の十科の中に第一の翻訳の三蔵として、般若大乗教を流転する事数百軸、此の徳を▼P1465(一五オ)鑑みて、毘沙門天王の自身往きて守護し給へるかとぞおぼえし。
かくて、道宣大慈恩寺の長老に任ぜられたりけるに、住寺の僧侶一千余人、衣鉢を帯して止住す。堂舎の構梁は三百三十三間なり。金銀をちりばめて鮮潔也。其の後、韋荼天惣じて来る事なし。遥かに程隔てて来れりければ、道宣韋荼天に宣はく、「天、何故ぞ久しく来らざる哉」。天答へて云はく、「終南山におはせしときは、身は律儀の為に貴く、心は求法の為に苦也き。内外共に清浄なりしかば、御心けがるることなかりき。而るに当寺に任し給ひてより後は、御心汚穢にして世路の思ひこまやかに、御身不浄にして名聞の志し深し。之に依りて、毘沙門天王惣じて参ずべからざる由、
禁め仰せらるる間、参らざりつれども、▼P1466(一五ウ)日来の御好みを忘れ奉らずして、毘沙門天王の命を背きて、暫時の暇を申して私に参りたり」とぞ申しける。而るに彼の韋荼天の宣ひける、慈恩寺にして身心の不浄におはしけむ事はいかにと思へば、昔し終南山におはせし時は、一向下化衆生の心を先として、世俗馳走の思ひもなかりしかば、内外共に清浄なりき。今此の慈恩寺と申すは、徳宗皇帝の建立として、堂舎塔廟広博也。されば止住の僧侶も多くして、行法の床も数しげし。彼の大伽藍の長老となり給ひしかば、住寺の僧を助けむとて、自ら度世の計らひをも心にや懸け給ひけむ。若し爾らば、心汚穢になり給ひたりとて、守護を加へ給はざりけるも理なりとぞ覚えし。
三 〔天王寺の地形目出たき事〕
▼P1467(一六オ)抑も四天王寺と申すは、天下第一之奥区、人間無双の浄刹なり。聖徳太子草創の霊場、救世菩薩利生の勝地也。寺は殊勝の名区に隣れる、即ち極楽東門の中心、堺は霊験の奇地に摂す、是れ往生西刹の古跡也。西に向かへば則ち激海漫々として、八功徳池の眺望、眼の前に有り。東に顧れば又清水滔々として、三界水沫の無常心中に浮ぶ。村南村北に遐邇の輩ら、会ふ日を契りて以て烏合し、東より西より都鄙の類ひ道場に詣でて、以て鳩集す。加之、天枝帝葉の輿輦を廻す、本尊に帰して叡慮を傾け、山玄水蒼の舟車を動かす、道場に臨みて満願を成す。来る者は他人の催しに非ず、只善根の宿因に催されて来る所也。莅む者は自身の発すに非ず、偏に往生の▼P1468(一六ウ)当縁に発るに依りて莅む所也。天下に首を傾くる者、皆是れ観音弘誓の慈悲に応ず。人中に心を属くる者、孰か又極楽霊稼の人民に非ざらんや。堺は王地に在りて王地に〓ぜず、常住の三宝を以て主と為す。処は国郡に摂して国郡に随はず、護世四王を以て吏と為す。戒律を定むる庭なれば、放逸の者は跡を削り、浄土に望む砌なれば、不信の者は来ること無し。観音応迹の処なれば、住む人皆慈悲有り。往生極楽の地なれば、
詣づる人悉く念仏を行ず。之に依りて、現世には三毒七難の不祥を滅して、二求両願の悉地を満足し、当来には三輩九品の浄刹に生じて、常楽我浄の妙果を証得せむ。遠く月氏の仏跡を尋ね、遥かに震旦の霊場を訪へば、如来説法の祇園精舎、徊録の災に依りて、咸陽宮の煙り片々たり。賢聖集会の▼P1469(一七オ)鶏頭磨寺、梁棟傾危して、古蘇台の露壌々たり。漢の明帝の白馬寺、法音を断ちて煙嵐を残し、高祖帝の慈恩寺、法侶去りて虎狼を住ます。
又、本朝の諸寺諸山、炎上の例是れ多し。而るに当寺に於ては、濁世に臨みて王臣の帰依弥よ新に、劫末に入りて本尊の利益実に盛なり。上宮の威光、日々に耀き、寺塔の興隆歳々に増す。護世四王寺を護れば、四魔三障の難も来らず。恒居の青龍法を戴けば、仏法の水の流れも乾かず。
かかる霊地なれば、四明、三井にもまさりて思し召されければ、事故なく遂げさせ給ひにけり。是、当寺の面目に非
ずや。
四 〔山門に騒動出で来たる事〕
山門の騒動を鎮めむが為に、園城寺の御灌頂は止まりたりけれども、山上には学生と堂衆と不和の事有りて閑かならずと聞こゆ。山門に事出でぬれば、世も▼P1470(一七ウ)必ず乱ると云へり。又何なる事のあらむずるやらむと恐ろし。
此の事は、去年の春の比、義竟四郎叡俊、越中国へ下向して、釈迦堂の衆、来乗房義慶が立て置く神人を押し取りて、知行して跡を押領す。義慶、怒りをなして敦賀の津に下りあひて、義竟四郎を散々に打ち散らして、物具を剥ぎ取り恥に及べり。叡俊、山に逃げ登て、夜に入りて匍ふ匍ふ登山して衆徒に訴へければ、大衆大いに憤りて忽ちに騒動す。来乗房、又堂衆を語らふ間、堂衆同心して来乗房を助けむとす。
五 〔建礼門院御懐任の事付けたり成経等赦免の事〕
建礼門院、其の比は中宮と申ししが、春の暮程より常に御乱り心地にて、供御もはかばかしくまゐらず。御寝も打ち解けてならざりしかば、何の沙汰にも及ばず。惣じては天下の騒ぎ、別しては平家の歎きとぞ見えし。太政入道、二▼P1471(一八オ)位殿、肝心を迷はし給ふ、理なり。されば諸寺諸山に御読経はじまり、諸宮諸社に奉幣使を立てらる。陰陽術を尽くし、医家薬を運ぶ。大法秘法、残す所無く修せられき。かくて一両月を経る程に、御悩ただにも非ず、御懐妊と聞こえしかば、平家の人々、日比は歎かれけるが、引き替へて今は面々に悦び合われけり。
御懐孕の事定まりにければ、貴僧高僧に仰せて御産平安を祈り、日月星宿に付けて皇子誕生を願ふ。主上今年十八にならせ給ふに、皇子も未だ渡らせおはしまさず。中宮は廿三にぞならせ給ひける。皇子御誕生なむどの有る様に、あらまし事をぞ悦ばれける。「平家の繁昌、時を得たり。然れば皇子誕生疑ひなし」と申す人もありけり。
かかりし程に、六月廿八日、中宮御着帯とぞ聞こえし。月日の重なるに随ひて、御乱れ猶煩はしき様に渡らせ▼P1472(一八ウ)給ひければ、常には夜の大殿にのみぞ入らせ給ひける。少し面やせて、またゆげに見えさせ給ふぞ心苦しき。さるに付けても、いとどらうたくぞ見えさせ給ひける。彼の漢の李夫人の昭陽殿の病の床に臥したりけむもかくや有らむ。桃李の雨を帯び、芙蓉の露に萎れたるよりも心苦しき御有様なり。
かかりし御悩の折節に合はせて、執念き物気、度々取り付き奉る。有験の僧共あまた召されて、護身加持隙もなし。よりまし明王の縛にかけて、様々の物気顕はれたり。惣じては讃岐院の御怨霊、別しては悪左府の御臆念、成親卿・西光法師が怨霊、丹波少将成経・判官入道康頼・法勝寺執行俊寛なむどが生霊なむども占ひ申しけり。
之に依りて、入道相国、生霊死霊共に軽からず、おどろおどろしく聞こえ給ひければ、▼P1473(一九オ)「宥めらるべき由の御政有るべし」と、計らひ申さる。
門脇宰相は、「いかなる次もがな、丹波少将が事申し宥めむ」と思はれけるが、此の折りを得て、怱ぎ小松内大臣の許へおはして、「御産の御祈りにさまざまの攘災行はるべき由聞こゆ。いかなる事と申すとも、非常の大赦に過ぎたる事、有るべからず。就中、成経召し返されたらむ程の功徳善根は、争か有るべき。大納言が怨霊を宥めむと思し食さむに付けても、生きたる成経をこそ召し返され候はめ。此の事、執り申さじとは思ひ候へども、娘にて候ふ者の余りに思ひ沈みて、命もあやふく見え候ふ時に、常に立ちよりて『あながちかくな思ひそ。教盛さてあれば、さりとも少将をば申し預からむずるぞ』と慰め申し候らへば、顔をもて上げて教盛を打ち見て、涙を流して引きかづきて候ふ。教盛、御一門の片端にてあり。『親を持つとも、此の時は▼P1474(一九ウ)宰相ほどの親をこそもつべけれ。などか少将一人申し預らざるべきぞ』と内々恨み申し候ふなるが、げにもと覚えて、いたく無慙に覚え候ふ。成経が事、然るべき様に執り申させ給ひて、赦免に申し行はせ給へ」と、泣々くどき申されければ、小松大臣涙を流して、「子の悲しさは重盛も身につみて候へば、さこそ思し食され候ふらめ。やがて申し候ふべし」
とて、八条へ渡り給ひて、入道の気色いたく悪しからざりければ、「宰相の成経が事を強ちに歎き申され候ふこそ不便に覚え候へ。尤も御計らひ有るべしと覚え候。中宮御産の御祈りに、定めて非常の大赦行はれ候はむずらむ。其の内に入れさせ給ふべく候。宰相の申され候ふ様に、誠に類なき御祈りにて有らむずらむと覚え候ふ。大方は人の願を満たさせ給ひ候はば、御願成就、疑ひ▼P1475(二〇オ)有るべからず。御願成就せば、皇王御誕生ありて家門の栄花弥盛りなるべし」と細々に申し給へば、入道、今度は事の外に和ぎて、げにもと思はれたりげにて、「さて俊寛・康頼が事はいかに」。「それらも免されて候はば、然るべくこそ候はめ。一人も留まらむ事は中々罪業たるべしと覚え候ふ」なむど申されけれども、「康頼が事はさる事にて、俊寛は且は知られたる様に、随分入道が口入にて法勝寺の寺務にも申しなしなむどして人となれる物ぞかし。其に人知れず鹿谷に城を構へ、事にふれて安からぬ事をのみ云ひける由を聞くが、殊に奇怪に覚ゆるなり」とぞ宣ひける。
「中宮御産の御祈りによりて、大赦行はるべし」と、太政入道申し行はれければ、即ち職事奉書を下さる。其の状に云はく、
▼P1476(二〇ウ)中宮御産御祈りの為に、非常の大赦行はるるに依りて、薩摩国流黄嶋の流人、丹波小将成経、并びに平判官入道
康頼法師、二人帰参すべきの状、仰せに依りて執達件の如し。
治承二年七月 日
とぞ仰せ下されける。宰相是を聞き給ひて、うれしなむどはなのめならず。少将の北方は猶うつつとも覚えず、臥し沈みてぞおはしける。
七月十三日御使下されければ、平宰相はあまりにうれしくて、私の使を差し副へて、「夜を日に継ぎて下れ」とてぞ遣はされける。其も輙く行くべき舟路ならねば、波風あらくて船の中にて日送りける程に、九月半ばすぎてぞ彼の嶋には渡り付きたりける
折りしも其日は日もうららかにて、少将も康頼も礒に出でて▼P1477(二一オ)遥々と塩瀬の方を詠むれば、漫々たる海上になにとやらむはたらく物あり。怪しくて、「やや入道殿、あのおきに眼に遮る物の有るはなにやらむ」と少将宣へば、康頼入道是を見て、「にをのうきすの波に漂ふにこそ」と申しけり。次第に近くなるをみれば、舟の体に見なしたり。「是は端嶋の浦人共が流黄ほりに時々渡る事のあれば、さにこそ」と思ふ程に、礒近く漕ぎ寄る舟の内に云ひ通はす詞共、さしも恋しき都人の音に聞きなしつ。少将思はれけるは、「我等が様に罪をかぶりて此の嶋へ放たるる流人なむどにこそ」と思ひ給ひて、「とく漕ぎ寄せよかし、都の事共尋ねむ」と思はれけれども、まめやかに近付けば、見苦しさの有様を見えむ事のはづかしくて、礒を立ちのきて浜松がえの木本、岩のかげにやすらひて、みえがくれにぞ待たれける。
さる程に、舟▼P1478(二一ウ)漕ぎつけて怱ぎおりて我等が方へ近付く。俊寛僧都は余りにくたびれて、只あしたゆふべの悲しさにのみ思ひ沈みて、神明仏陀の御名も唱へ奉らず、あらましの熊野詣をもせず、常は岩のはざま苔の下にのみうづもれ居られたりけるが、いかにして只今の有様を見給ひけるやらむ、此の人共のおはする前に来れり。六はらの使申しけるは、「太政入道殿の御教書并びに平宰相殿の私の御使、相副へられて、都へ御帰り有るべき由の御文持ちて下りて候ふ。丹波少将殿はいづくに渡らせ給ひ候ふやらむ。此の御教書を進らせ候はばや」と申しければ、是を聞き給ひけむ三人の人々の心中、いかばかりなりけむ。余りに思ふ事なれば、猶夢やらむとぞ思はれける。三人一所になみ居られたり。
少将の許へは宰相さまざまに送り給へり。康頼が▼P1479(二二オ)方へは妻が方より事づてあり。俊寛僧都が許へはひとくだりの文もなかりければ、其の時ぞ、「都に我がゆかりの者一人も跡を留めずなりにけるよ」と心得られにける。心うくかなしき事限りなし。さて、俊寛奉書を開きてみ給へば、「中宮御産の御祈りの為、非常の大赦行はるるに依りて、成経・康頼、帰参すべし」とは有りけれども、俊寛は漏れにけり。僧都是を見てあきれ迷ひてつやつや物もおぼへず。若し僻よみかとて又見れども、「俊寛」と云ふ文字はなし。又みれども、「二人」とこそはかかれたれ、「三人」とはかかれず。夢にこそかかる事はみゆれ、夢かと思ひなさむとすればうつつなり。うつつと思へば又夢の如し。此の文をひろげつ巻きつ、千度百度おきつ取りつして、臥しまろびてをめき叫びて、悲しみの涙をぞ流しける。「三人同じ罪にて一所へ放たれぬ。▼P1480(二二ウ)今赦免の時、二人はゆるされて俊寛一人漏るべしとは思はぬ物をや」とて、天に仰ぎ地に臥して、又をめきさけぶ。此の嶋へ流されし時の歎きを今の思ひにくらぶれば、事の数ならざりけり。留めらるる事を思ふに、いかにすべしともおぼえず。泣く泣く奉
書を取りて、「是は執筆の誤りなり。さらでは、俊寛を此の嶋へ流し給へる事を、平家の思し食しわすれたるか」とて、又初めの如くもだえこがれけるこそ無慙なれ。二人の悦び、一人の歎き、悦びも歎きも事の究めとぞ見えし。
少将・判官入道は、塩・風の沙汰にも及ばず、今一時もとく漕ぎ出でなむとて、流黄津と云ふ所へ移りにけり。僧都余りの悲しさに船津まで来て、二人の人にすこしも目を放たず、少将の袖に取り付きても涙を流し、判官入道の袂を引へても叫びけり。「年来日来は各さておはしつれば、昔物語▼P1481(二三オ)をもして都の恋しさをも嶋の心うさをも申しなぐさみてこそ有りつるに、打ち棄てられ奉りては、一日片時も堪え忍ぶべき心地もせず。ゆるされなければ、みやこへは中々思ひもよらず。ただ此の船に乗せて出でさせ給へ。底のみくづともなりてまぎれ失せなむ。中々新ら高麗とかやの方へも渡り行かば、思ひ絶えても有るべきに、俊寛一人残り留まりて、嶋の巣守とならむ事こそ悲しけれ」とて、又をめきさけびければ、少将泣く泣く宣ひけるは、「誠にさこそ思し食され候ふらめ。成経が上るうれしさはさる事なれども、御有様を見置き奉るに、更に行くべき空も覚えず。御心の中、皆押しはかりて候へども、都の御使も叶ふまじき由を申す上、三人船津を出でにけりと聞こえむ事もあしかりぬべし。なにとしても甲斐なき命こそ大切の事にて▼P1482(二三ウ)候へば、且は成経が身上にても思し召し知られ
候へ。罷り下り候ひし即ちは、ともかくもして命を失はばやとこそ存ぜしかども、甲斐なき命の候へばこそ、かやうにうれしき音信をも待ち得候ひぬれば、此の度留まらせ給ひて候ふとも、又自ら召し帰されさせ給ひ候ふ御事も、などか候はざるべき。成経罷り上り候ひなば、身につみて思ひ知り進らせて候へば、宰相にも且は吉き様に申し候ふべし。いかさまにも御身を投げても由なき御事なり。只いかにもして今一度都の音信をも聞かむとこそ思し食され候はめ。其の程は、日来おはせしやうに思ひて待たせ給へ」と、且はなぐさめ且はこしらえられければ、僧都返事に及ばず、少将に目を見合はせて、「俊寛をば捨て置き給ひなむずるな。ただ俊寛をも具して上り給へ。具して上りたる御とがめ有らば、又も流さ▼P1483(二四オ)れ候へかし」なむど、さまざまにくどかれけれども、「是程に罪深くて残し留めらるる程の人を、ゆるされもなきに具し上りなば、まさるとがにもこそあたれ」と思はれければ、「誠にさこそ思し食さるらめ」と計りにて、少将は「形見にも御覧ぜよ」とて、夜の衾をおかれけり。判官入道のわすれ形見には、本尊持経をぞ留めける。「誠に花の春さくらがりして志賀の山を越え、吉野の奥へ尋ね
入る人も、皆風にさそはるる習ひあれば、散りぬる後は木本を惜しみて岩の枕に夜をあかす事もなく家路へ怱ぎ、月の秋、明月を尋ねてすま明石へ浦伝ひする人も又、山のはに傾くためしあれば入りぬる後をしたひて海人の苫屋に宿りもやらず、すぎこしあとを尋ねけり。恋路にまよふ人だにも、我が身にまさる物やある」と互ひに云ひ通はしつつ、少将も入道も怱ぐ心ぞ情けな▼P1484(二四ウ)き。路行く人の一村雨の木本、同じ流れを渡る友だにも、過ぎ別るるなごりは猶惜しくこそ覚ゆるに、まして僧都の心中、思ひ遣られて無慙なり。
さる程に順風よかりければ、僧都のもだへこがれけるひまに、やわら共縄をときて漕ぎ出でむとするに、僧都思ひに絶えずして、御使に向かひて手をすり、「具しておはせよや、具しておはせよや」とをめかれければ、人の身に我身をばかへぬ事にて、「力及ばず」と情けなく答へければ、僧都余りの悲しさに船の舳へに走りまはり、乗りてはおり、下りては乗り、あらましをせられける有様、目もあてられずぞ覚えける。次第に船を押し出だせば、僧都共縄に取り付きて、たけの立つ所までは引かれて行く。そこしも遠浅にて、一二丁計り行きたりけれども、みちくる塩立ちかへりて口へ入りければ、共綱にわき打ち懸けて、「さて俊寛をばすて置き給ひぬるな」とて、又▼P1485(二五オ)声もおしまず呼ばひ給ひけれども、少将もいかにすべしともおぼえず、諸共にぞ泣かれける。僧都猶も心の有りけるやらむ、とかくして波にも溺れず、いそに帰り上りて、なぎさにひれふして、少き者の乳母や母にすてられて道をしたふ様に浜に足をすりて、「少将殿、判官入道殿や」とをめき叫びけるは、「父よ母よ」と呼ぶに似たりけり。をめき叫ぶ声の遥かに波を別きて聞こえければ、誠にさこそ思ふらめと、少将も康頼も共に涙を
流して、つやつや行く空もなかりけり。漕ぎ行く船の跡の白波、さこそうらやましくおぼされけめ。
未だこぎかくれぬ船なれども、涙にくれてこぎきえぬとみえければ、岩の上に登りて船を招きけるは、松浦さよひめが唐船をしたひつつ、ひれふり(袖振り)けるにことならず。よしなき少将の情の詞を憑みて、其の瀬に身をも投げられ▼P1486(二五ウ)ざりけるこそ、責めての罪の報いとは見えしか。日すでに暮れにけれども、あやしの臥床へも立ち帰るべき空も覚えず、又渚に倒れ臥して、奥の方をまぼらへつつ、露にしほぬれ波に足打ちあらはせて、頭をたたき胸を打ちて、血の涙を流して、終夜泣きあかされければ、袖は涙にしほれ、すそは波にぞぬれにける。「少将、情も深く物の哀れをも知りたる人なれば、『かかる無慙なる事こそありしか』なむど申されば、若しくつろぐ事もや」とたのみをかけて、眇々たる礒を廻りて命を助け、漫々たる海を守りて心をなぐさめてあかしくらし給ひければ、昔、早離即離が南海の絶嶋に放れたりけむも是にはすぎじとぞ覚えし。其は兄弟二人ありければ、なぐさむ方も有りけむ、此の僧都の悲しみはわきまへ遣るべき方もなし。
少将は九月半すぎて嶋を▼P1487(二六オ)漕ぎ出でて、風をしのぎ波をわけ、浦伝ひ嶋伝ひして、廿三日と云ふには九国の地へ付きにけり。やがて都へ上らむと怱がれけれども、冬にもなりにければ、船の行きかふ事もなかりける上、平宰相の許より重ねて使下りて申しけるは、「去年より彼の嶋におはして、定めて身もつかれ損じ、病も付き給ひぬらむ。寒き空に遥々と上り給はば、上りも付き給はで、道にてあやまちも出できなむず。肥前国加世庄と云ふ所は、味木庄とも名づけたり。彼の所は、教盛が所領なり。此の冬は彼庄におはして、御身をも労りて、明春、風和らかになりて、のどかに上り給へ」と云ひ遣はしたりければ、其の冬は彼の庄にて湯あみなむどして、便の風をぞ待たれける。さるほどに、年もすでに暮れにけり。
六 〔山門の学生と堂衆と合戦の事 付けたり山門滅亡の事〕
八月六日、学生、義竟四郎を大将軍として、堂衆が坊舎十▼P1488(二六ウ)三宇切り払ひて、そこばくの資財雑物を追捕して、学生、大納言が岡に城廓を構へて立て籠もる。八日、堂衆登山して東陽坊に城廓を構へて、大納言の岡の城に立て籠もる所の学生と合戦す。堂衆八人しころを傾けて城の木戸口へ責め寄せたりけるを、学生、義竟四郎を初めとして六人打ち出でて、一時計り打ち戦ひける程に、八人の堂衆引き退きけるを、義竟四郎打ちしかりて長追ひをしける程に、返し合はせて又打ち組む所に、義竟四郎擲刀の柄を蛭巻の許より打ちをられにけり。腰刀を抜きてはねてかかりけるが、いかがしたりけむ、頸を打ち落とされぬ。大将軍と憑みたる四郎打たれにける上は、学生やがて落ちにけり。
十日、堂衆、東陽坊を引きて、近江国三ヶ庄に下向して、国中の悪党を語らひ、数▼P1489(二七オ)多の勢を引卒して学生を滅ぼさむとす。堂衆に語らはるる所の悪党と申すは、古盗人・古強盗・山賊・海賊等なり。年来貯へ持ちたる米穀布絹の類を施し与へければ、当国にも限らず、他国よりも聞き伝へて、摂津・河内・大和・山城の武勇の輩、雲霞の如くに集りけりと聞こえしほどに、九月廿日、堂衆数多の勢を相具して登山して、早尾坂に城廓を構へて立て籠もる。学生、不日に押し寄せたりけれども、散々と打ち落とされぬ。安からぬ事に思ひてあがりをがりけれども、甲斐なし。
大衆公家に奏聞し武家に触れ訴へけるは 「堂衆等、師主の命を背きて悪行を企つる間、衆徒誡めを加ふる処に、諸国の悪徒を相語らひて、山門に発向して、合戦既に度々に及ぶ。学侶多く討たれて仏法忽ちに失せなむとす。早く官兵を差し副へられて追討せらるべし」と申しければ、院より大政入道に▼P1490(二七ウ)仰せらる。入道の家人紀伊国住人湯浅権守宗重を大将軍として、大衆三千人、官兵二千余騎、都合五千余騎の軍兵を差し遣はす。筑紫人、并びに和泉・紀伊国・伊賀・伊勢・摂津・河内の駈武者なり。然るべき者は無かりけり。
十月四日、学生、官兵を賜はりて、早尾坂の城へ寄す。今度はさりともと思ひけるに、衆徒は官兵をすすめむとす。官兵は衆徒を先立てむと思ひけり。此の如き間、心々にしてはかばかしく責め寄する者もなし。堂衆は執心深く面もふらず戦ひける上に、語らふ所の悪党等、欲心熾盛にして死生不知なる奴原の、各我一人と戦ひければ、官兵も学生も散々に打ち落とされて、戦場にて死者二千余人、手負は数を知らずとぞ聞こえし。
五日、学生一人も残らず下洛して、あしこここに寄宿しつつ、▼P1491(二八オ)いきつぎ居たり。かかりける間、山上には谷々の講演も悉く断絶し、堂々の行法も皆退転しぬ。修学の窓を閉ぢて、坐禅の床も空しくせり。義竟四郎、神人一庄を押留して知行すとも、強ちに何計りの所得か有らむずるに、敦賀の中山にて恥を見るのみにあらず、取り替えなき命を失ひ、山門の滅亡朝家の御大事に及びぬる事こそあさましけれ。人は能々思慮有るべき物哉とぞ覚ゆる。食欲は必ず身をはむといへり。深く慎むべし。
十一月五日、学生、上座寛賢威儀師斉明等を大将軍として、堂衆が立籠所の早尾坂の城へ押し寄せて責め戦ふ。しかれども学生夜に入りて追ひ返されて、四方に逃げ失せぬ。学生の方に討たるる者百余人、あさましかりし事共なり。
其の後は、山門弥よ荒れはてて、西塔の禅衆の外は止住の僧侶希なり▼P1492(二八ウ)けり。当山草創より以来、未だ此くの如き事なし。世の末は、悪は強く善は弱くなれば、行人は強くして、智者の謀も賢かりしは皆ちりぢりに行き別れて、人なき山になりにけり。中堂衆、皆失せにけり。三百余歳の法燈、挑ぐる人もなし。六時不断の香煙も絶えやしぬらむ。堂舎高く聳えて、三重の構を青渓の雲にさしはさみ、棟梁遥かに秀でて、四面の垂木を白露の間に懸けたりき。されども今は供仏を嶺の嵐に任せ、金容を空しき瀝にうるほす。夜の月、燈をかかげて軒の間より漏り、暁の露、玉をつらぬいて蓮座の粧を添ふ。哀れなる哉、学徒、昔は伊王慈悲の室に住み、修学を営むと雖も、今は庸夫蒭蕘の宅に居て、偏へに愁涙に溺る。衰邁の師範は、鳩杖に耐へずして疲れに臨み、幼稚の垂▼P1493(二九オ)髪は、螢雪を翫ばずして闇に迷ふ。現世の仏法、既に滅す。将来の恵命、何かが継がむ。かかりければ、仏前に詣づる僧侶もなし。社壇に拝する社司もなし。
夫、末代の俗に至りては、三国の仏法も次第に以て衰微せり。遠く天竺の仏跡を訪へば、昔仏の法説き給ひける鷲の御山も竹林精舎も給孤独園も、中古よりは虎狼野干の栖となりはてぬ。祇園精舎の四十九院、名をのみ残して礎あり。白路池には水絶えて、草のみ深く生ひしげり、退凡下乗の卒都婆の銘も霧に朽ちて傾きぬ。振旦の仏法も同じく滅びにき。天台山、五台山、双林寺、玉泉寺も、此の比は住侶なきさまに成りはてて、大小乗の法文は箱の底にぞ朽ちにける。吾が朝の仏法も又同じ。南都の七大寺も皆あれはてて、八宗九宗も跡絶えぬ。瑜伽唯識の両▼P1494(二九ウ)部の外は残れる法文もなく、東大・興福両寺の外は、残れる今は堂舎もなし。愛宕護・高雄の山も昔は堂舎軒をきしりたりしかども、一夜の中に荒れにしかば、今は天狗の棲となりたり。昔、玄弉三蔵、貞元三年の比、仏法を弘めむとして、流沙葱嶺を凌ぎて仏生国へ渡り給ひしに、春秋寒暑一十七年、耳目見聞一百三十八ヶ国、或は三百六十余の国々を見巡り給ひしに、大乗流布の国、僅かに十五ヶ国ぞ有りける。さしも広き月氏の境にだにも、仏法流布の所は有りがたかりけるぞかし。其も今は虎狼のふしどと成りはてぬ。さればやらむ、止事無
かりつる天台の仏法も、治承の今に当たりて滅びはてぬるにやと、心有るきはの人、悲しまずと云ふ事なし。離山しける僧の、中堂の柱に書き付けけるとかや。
▼P1495(三〇オ)祈りこし我が立つそまの引きかへて人なき峯となりやはてなむ
伝教大師当山草創の昔、「阿耨たら三藐三菩提の仏達」と祈り申させ給ひける事を思ひ出だし、読みたりけるにやと、いと艶しくこそ聞こえしか。宮の御弟子、法性寺殿の御子、天台座主慈円大僧正、其の時法印にておはしけるが、人しれず此の事を悲しみて、雪の降りたりける朝、尊円阿闍梨が許へ遣はされける。
いとどしく昔の跡や絶えなむと思ふも悲しけさの白雪
尊円阿闍梨が返事、
君が名ぞなほあらはれむふる雪の昔の跡は絶えはてぬとも
堂衆と申すは、学生の所従にて、足駄・尻切なむどとる童部の法師に成りたる、▼P1496(三〇ウ)中間法師共なり。借上・出挙しつつ、切物・寄物の沙汰して得付き、けさ衣きよげに成りて、行人とて、はてには公号を付けて、学生をも物ともせず、大湯屋にも、申の時は堂衆とこそ定められたりけるに、午の時より下りて、学生の後に居て指をさして咲ひければ、「かくやは有るべき」とて、学生共是をとがめければ、堂衆、「我等がなからむ山は山にても有るまじ。学生とて、ともすれば聞きも知らぬ論議と云ふはなむぞ、あなをかし」なむどぞ云ひける。近比、金剛寿院の座主覚尋権僧正治山の時より、三塔に結番して、夏衆とて、仏に花を献りし輩なり。
〔七〕 〔信乃善光寺炎上の事 付けたり彼の如来の事〕
又、去んぬる三月廿四日、信乃善光寺炎上の由、其の聞こえあり。此の如来と申すは、苦し中天竺毘沙舎離国に五種の悪病発りて、人庶多く亡ぜしに、▼P1497(三一オ)月蓋長者が祈請によりて龍宮城より閻浮檀金を得て、釈尊・阿難長者心を一にして模し顕し給へりし、一〓手半の弥陀の三尊、閻浮第一の霊像也。仏滅度の後、天竺に留りまします事五百歳、仏法東漸の理にて百済国へ渡りましまして、一千歳の後、欽明天皇の御宇に本朝に渡りましましき。其の後、推古天皇の御宇に及びて、信乃国水内の郡、稚麻続真人本太善光、是を安置し奉りてより以降、五百八十余歳、炎上の例、是ぞ初めと聞こえし。王法傾かむとては仏法先づ滅ぶと云へり。さればにや、かやうにさしも止事なき霊寺霊山の多く滅びぬるは、王法の末に臨める瑞相にやとぞ歎きあへる。
〔八〕 〔中宮御産有る事 付けたり諸僧加持の事〕
十一月十二日、寅の時計りより、中宮御産の気渡らせおはしますとて、▼P1498(三一ウ)天下罵るめる。去月廿七八日の比より、時々其の気渡らせおはしましけれども、取り立てたる御事は無かりけるほどに、此の暁よりは隙なく取りしきらせ給へり。平家の一門は申すに及ばず、関白殿を始め奉りて、公卿・殿上人馳せ参らる。法皇は西面の小門より御幸なる。御験者には房覚・昌雲両僧正、俊尭法印、豪禅・実全両僧都、此の上、法皇も祈り申させ給ひけるにや。
内大臣は善悪に付けていとさわがぬ人にて、少し日たけて公達あまた引き具して参り給へり。とどろかにぞ見え給ひける。権亮少将惟盛・左少将清経・越前少将資盛なむど遣りつづけさせて、御馬十二疋、御剣七腰、御衣十二両広蓋に入れて相具して参り給へり。きらきらしくぞみえ給ひける。
女院后宮の御祈りに、時に臨みて▼P1499(三二オ)大赦行はるる事、先例也。且は大治二年九月十一日、待賢門院の御産〈法皇御誕生の時なり〉、大赦行はれき。其の例とて、重科の者十三人寛宥せらるる。
内裏よりは御使隙なし。右中将通親朝臣・左中将泰通朝臣・左少将隆房朝臣・右衛門権佐経仲朝臣・蔵人所衆滝口等、二三度づつ馳せ参り給ふ。承暦元年には寮の御馬を給ひて是に乗る。今度は其の儀なし。殿上人各車にて参る。所衆なむどぞ騎馬にてはありける。八幡・賀茂・日吉・春日・北野・平野・大原野なむどへ行啓有るべき由、御願を立てらる。啓白は五壇法の降三世壇の大阿闍梨全玄法印とぞ聞こえし。又神社には石清水・賀茂を始め奉りて、北野・平野・稲荷・祇園・今西の宮・東光寺に至るまで四十一ヶ所、仏寺には東大寺・興福寺・延暦・▼P1500(三二ウ)薗城・広隆・円宗寺に至るまで七十四ヶ所の御読経有り。神馬を引かるる事、大神宮・石清水を初め奉りて厳嶋に至るまで、廿三社也。
内大臣の御馬を進らせらるる事は然るべし。后宮の御せうとにておはします上、父子の御契りなれば。且は寛弘に上東門院御産の時、御堂の関白神馬を奉らる。其の例に相ひ応へり。又、五条大納言邦綱卿、神馬を二疋進らせらる。「然るべからず」と、人々傾きあへり。「志の至りか、徳の余りか」とぞ申しける。
仁和寺守覚法親王は孔雀経の御修法、山の座主覚快法親王は七仏薬師の法、寺の長吏円恵法親王は金剛童子法、此の外、五大虚空蔵・六観音・一字金輪・五檀法、六字河臨・八字文殊・普賢延命・大熾盛光に至るまで、残る所も無かりき。▼P1501(三三オ)仏師の法印召されて、御等身の七仏薬師并に五大尊の像を造り初めらる。御読経の御剣御衣諸寺諸社へ献らせ給ふ。御使宮の侍の中に有官の輩是を勤む。ひやう文の狩衣に帯剣したる者共の、東の対より南庭に渡りて、西の中門を持ちつづきて出づ。ゆゆしき見物にてぞ有りける。
相国二位殿はつやつや物も覚え給はず。余りの事にや、物申しければ「ともかくも」とて、あきれてぞおはしける。「さりとも軍の陣ならば、かくしもは臆せじ物を」とぞ、後には入道宣ひける。
新大納言・西光法師体の御物気、さまざまに申す旨共有りて、御産とみになりやらず。遥かに時剋移りければ、御験者達面々各々に僧伽の句共を上げて、本寺本山の三宝年来所持の本尊責め伏せ奉る。各黒煙を立てて声々にもみ伏せらるる▼P1502(三三ウ)気色、心の内共おしはかられて 「何れも何れも誠にさこそは」と覚えて貴き中に、法皇の御声の出でたりけるこそ、今一きは事代はりて、皆人身の毛竪ちて涙を流しける。躍り狂ふよりましの縛共も、少し打ちしめりたり。其の時、法皇御帳近く居よらせおはしまして仰せの有りけるは、「何なる悪霊なりとも、此の老法師かくて候はむには、争か近付き奉るべき。何に況や、顕るる所の怨霊共、皆丸が朝恩によりて人となりし輩には非ずや。縦ひ報謝の心をこそ存ぜざらめ、豈に障碍を成さむや。其の事然るべからず。速かに罷り退き候へ」とて、「女人生まれ難からん産の時に臨みて、邪魔遮障苦忍び難からんにも、心を至して大悲呪を称誦せば、鬼神退散して安楽に生まれむ」とて、御念珠をさらさらとおしもませおはしましければ、御産やすやすとなりにけり。
頭の中将重衡朝臣は中宮亮にて▼P1503(三四オ)おはしけるが、御簾の中よりつと出でて、「御産平安、王子御誕生」と高らかに申されたりければ、入道・二位殿は余りのうれしさに声を上げて手を合はせてぞ泣かれける。中々いまいましくぞ覚えし。関白殿下・太政大臣・左大臣以下、公卿・殿上人、諸の御修法の大阿ざり、助修数輩の御験者、陰陽の頭、典薬の頭より始めて、道々の者共堂上堂下の人々、一同にあと悦びける声、どよみにてぞ有りける。しばしはしづまりやらざりけり。内大臣は「天を以て父と為よ、地を以て母と為よ」と祝ひ奉りて、金銭の九十九文御枕におきて、やがて、おとど、御ほぞのをを切り奉り給ふ。故建春門院の御妹あの御方いだき奉らせ給ひ、左衛門督時忠卿の北方洞院殿、御乳母に付き進せ給ひにけり。囲碁手の銭出だされたり。弁靭負佐がかけ物にて是を▼P1504(三四ウ)うつ。是又例有る事にや。
法皇は新熊野御参詣可有にて怱ぎ出でさせ給て、御車を門外に立てらる。女御・后の御産は常の事なれども、太上法皇の御験者は希代の例か。前代も聞かず、後代にも有りがたかるべし。是は当帝の后にて渡らせ給へば、法皇の御志も浅からぬ上に、猶も太政入道を重く思し食さるる故也。「但し此の事軽々しきに似たり。然るべからず」と申す人々も有りき。「凡そは軽々しき御振舞をば、故女院うけぬ御事に申させおはしましければ、法皇も憚り思し食しけり。今も女院だにも渡らせ給はましかば、申し止め進らせ給ひなまし」と、事のまぎれに古き女房達ささやきあひ給へり。其の上、沙金一千両・富士綿千両を御験者の禄に法皇に進らせられたりけるこそ、弥よ奇異の珍事にてありけれ。▼P1505(三五オ)此の送文を法皇御覧じて、「入道、験者してもすぎつべきよな」とぞ仰せられける。
陰陽頭泰親以下多く参り集られたりければ、御占さまざま有りけるに、或は 「亥子時」なむど占ひ申すもあり、或は「王女」と申すも有りけるに、泰親朝臣計りぞ、「御産只今也。皇子にて渡らせ給ふべし」と占ひ申したりける。其の詞未だをはらざるに御産なりにけり。さすのみこと申しけるも理りなり。今度の御産にさまざまの事共有りける中に、目出たかりける事は太上法皇の御加持、有りがたかりける御事也。昔染殿の后と申ししは、清和の国母にて一天下をなびかし給へりし程に、紺青鬼と云ふ御物のけに取り籠められて、世の中の人にもさがなくいはれさせ給ふ事侍りけり。智証大師の御時にておはしましければ、様々に加持せられけれども、叶はずしてやみ給ひにけるに、今の▼P1506(三五ウ)法皇の御験者に御物の気の譏嫌の事、返々目出たくぞ覚えし。又、三条院の宇治殿頼通を御聟に取らむとせさせおはしましけるに、御病付きて大事になり給ひて、験者には心誉僧都・明尊阿闍梨、陰陽師には賀茂の光栄・安部の古平なむどをめして、音をあげて罵りけれども、只よはりによはらせましまして引き入らせ給けるを、御堂関白道長公のおはしまして、「日本国に法花経の是程にひろまらせ給ふは我が力也。
このたび我が子の命生けさせ給へ」とて、なみだを流して寿量品を一枚計り読み給ひければ、御しうとの具平親王、物のけにあらはれ給ひて、「子の悲しさは誰も同じ事にてこそあれ。我が子に物を思はせむことの悲しければ、付き奉りたれども、法花経にかたさり奉りて帰り侍りぬ」と宣ひて、御病止みにけり。▼P1507(三六オ)かかる事を思ふには、法皇に御物気の恐れ奉りけるもことはり也。
又、思はずなりける事は、太政入道のあきれて物も知り給はざりける事。優にやさしかりける事は、小松の大臣の御振舞。本意なかりける事は、右大将の籠居。出仕し給はましかば、いかに目出たからまし。あやしかりつる事は、甑形を姫宮の御誕生のときの様に北の御壺の中へまろばかして、又とりあげて南へ落したりつる事。をかしかりける事は、前の陰陽頭安倍時晴が千度の御祓勤めけるが、或る所の面道にて冠をつきおとして有りけるが、余りにあはてて、其をもしらで、束帯ただしくしたる者が放本鳥にて、さばかり正しき御前へねり出たりけるけしき。かばかりの大事の中に、公卿、殿上人、北面の輩、見物の諸▼P1508(三六ウ)衆、皆悉く腹を切り給へり。たへずして閑所へ逃げ入る人もありけり。
〔九〕 〔御産の時参る人数の事 付けたり不参の人数の事〕
御産の間に参り給ふ人々、先は関白松殿、太政大臣妙音院師長、左大臣大炊御門殿経宗、右大臣月輪殿兼実、内大臣小松殿重盛、左大将実定、源大納言定房、三条大納言実房、土御門大納言郡綱、中御門中納言宗家、按察使資賢、花山院中納言兼雅、左衛門督時忠、中納言資長、別当忠親、左兵衛督成範、右兵衛督頼盛、源中納言雅頼、権中納言実綱、皇太后宮大夫朝房、平宰相教盛、左宰相中将実家、六角宰相中将実守、右大弁長方、左大弁俊経、左京大夫修範、大宰大弐親信、菩提院三位中▼P1509(三七オ)将公衡、新三位中将実清、已上三十三人。右大弁長方の外は直衣也。
不参の人々、前太政大臣忠雅〈花山院近年出仕無し〉、前大納言実長〈近年出仕せず、布衣を着し、入道宿所に向かはる〉、大宮大納言隆季〈第一娘三位中将兼房卿室、産、去ぬる七日より事有り、仍て不吉の例と存ぜらるる故か〉、右大将宗盛〈去七月、室家逝去の後、出仕せられず、彼の所労の時、大納言并びに大将を辞せらる〉、前治部卿光隆、左三位中将兼房、右二位中将基通、宮内卿永範、七条修理大夫信隆〈所労〉、東宮権大夫朝盛〈所労〉、新三位隆輔、左三位中将隆忠、已上十三人、故障に依りて不参とぞ聞えし。
〔十〕 〔諸僧に勧賞行はるる事〕
御修法結願して、勧賞行はる。仁和寺法親王は、公家御沙汰にて東寺修造せらるべし。後七日御修法、大元法、并びに灌頂興行せらるべき由、宣下せられける上、御弟子法印覚盛を以て権大僧都に任ぜらる。座▼P1510(三七ウ)主宮は二品并びに牛車の宣旨を申させおはしましけるを、仁和寺法親王支へ申させ給ひけるに依りて、且く御弟子法眼円良を以て法印に叙せらる。此の両事、蔵人頭皇大后宮権大夫光能朝臣奉て是を仰す。醍醐の聖宝僧正の余流、権少僧都実継は、准胝法牛王加持を勤めて大僧都に任ず。此の外の勧賞共、毛挙に遑あらず。
右大将宗盛の北方、御帯を進らせられたりしかば、御乳母にておはしますべかりしかども、去んぬる七月に失せ給ひにしかば、左衛門督時忠卿北方洞院殿、御めのとに定まりぬ。此の北方と申すは、故中山中納言顕時卿の御娘なり。元は建春門院に候はれき。皇子受禅の後は内侍典侍成り給ひて、輔典侍殿とぞ申しける。中宮は日数経にければ内へ参り給ひぬ。
〔十一〕 〔皇子親王の宣旨蒙り給ふ事〕
▼P1511(三八オ)十二月八日、皇子親王の宣旨を下さる。十五日、皇子皇太子に立たせ給ふ。
十四日、親傅には小松内大臣、大夫には右大将宗盛卿、権大夫には時忠卿ぞなられける。いみじかりし事共也。
建礼門院、后に立たせ給ひしかば、何にもして皇子誕生ありて位に即け奉り、外祖父にて弥よ世を手に挙らむと思はれければ、入道・二位殿、日吉社に百日の日詣をして祈り申されけれども、其もしるし無かりけるほどに、「さりとも、などか我が祈り申さむに叶はざるべき」とて、殊に憑み進せられたる安芸国の一宮厳嶋社へ月詣を初て祈り申されけるに、三ヶ月が内に中宮ただならず成らせ給ひて、例の厳重の事共有りけるとかや。
誠に代々の后宮余た渡らせおはしましけれども、皇子誕生の例、希なる事也。后腹の皇子は尤もあらまほしき御事なるべし。
十二 〔白河院三井寺の頼豪に皇子を祈らるる事〕
▼P1512(三八ウ)白河院御在位の時、六条右大臣顕房の御娘を、京極大殿猶子にしまゐらせさせ給ひて入内有りしをば、皇后宮賢子の中宮と申しき。其の腹に皇子御誕生あらまほしく思し食されて、三井寺実蔵房阿闍梨頼豪と聞こえし有験の僧を召して、皇子誕生を祈り申させ給ふ。「御願成就せば、勧賞は乞ふによるべし」と仰せ下されたりければ、頼豪「畏りて承りぬ」とて、肝胆を摧きて祈念申しける程に、かひがひしく中宮御懐妊ありて、承保元年十二月十六日、思し食すさまに王子御誕生ありしかば、主上殊に叡感ありて、頼豪を召して「王子誕生の勧賞には何事を申し請はむぞ」と仰せの有りければ、頼豪「別の所望候はず。三井寺に戒壇を建て、年来の本意を遂げ候はむ」と申しければ、主上仰せの有りけ▼P1513(三九オ)るは、「こは何に。かかる勧賞とや思し食されし。我が身に一階僧正をも申すべきかなむどこそ思し食されつるに、是は非分の所望なり。凡そは王子誕生ありて祚を継がしめむ事も、海内無為を思ふ故也。今汝が所望を達せば、山門憤りて世上静かなるべからず。両門の合戦出で来て、天台の仏法忽に滅びてむず」とて、御ゆるされなかりければ、頼豪悪心に住したる気色にて申しける
は、「此の事を申さむとてこそ、老いの波の朝暮、肝胆をば摧き候ひつれ。叶ひ候ふまじからむには、今は思ひ死にこそ候ふなれ」とて、水精の様なる涙をはらはらと流して、泣々三井寺へ罷り帰りつつ、やがて持仏堂に立て龍もりて飲食を断ず。主上是を聞こし食して震襟安からず。朝政を怠らせ給ふに及べり。
御歎きの余りに、江中納言匡房卿、其の時美作守と申しけるを召して、「頼豪が皇子誕生の勧賞に薗城寺に▼P1514(三九ウ)戒壇建立の事を望み申すを、御ゆるされなしとて悪心を発したる由聞こし食す。汝は師壇の契り深かむ也。罷り向かひて誘へ宥めてむや」と仰せければ、やがて内裏より、装束を改めず、束帯正しくして頼豪が宿坊に罷り向かひてみれば、持仏堂の明障子、護摩の煙にふすぼりて、なにとなく身の毛いよだちておぼえけれども、宣旨の趣を仰せ含めむとて、「かく」と云ひ入れたりけれども、対面もせず、持仏堂に立て籠もりて念珠打ちして有りけるが、良久しく有りて、以ての外にふすぼりかへりたる幕の中よりはい出て、持仏堂の障子をあららかにあけて指し出でたるを見れば、齢九十有余なる僧の白髪長く生ひて、目くぼくぼと落ち入りて、顔の正体もみえわかず、誠におそろしげなる気色にてしはがれたる音にて、「何事をか仰せらるべき。『天子に戯論なし。綸言▼P1515(四〇オ)汗の如し』とこそ承はれ。是程の所望叶ひ候ふまじからむにをいては、祈り出だし奉りて候ふ王子にをきては具し奉りて、只今魔道へ罷り候ひなむず」と計り申して障子を引き立てて入りにければ、匡房卿力
及ばずして帰られにけり。
頼豪は、七日と申しけるに、持仏堂にて終にひ死にに死にけり。「さしもやは」と思し食しける程に、皇子常は悩ませ給ければ、一乗寺・御室なむど云ふ智証の門人、貴き僧共を召して加持ありけれども叶はず。承暦元年八月六日、皇子四歳にて遂に失せさせ給ひにけり。敦文親王、是也。
主上殊に歎き思し食して、西京の座主良真大僧都、其の時円融房の大僧都と申して、山門には止事なき人なりけるを召して、此の事を歎き仰せられければ、「いつも我が山の御力にてこそ、加様の御願は成就する事にて候へ。九条右丞相、慈恵僧正に契り申されしにより▼P1516(四〇ウ)てこそ、冷泉院の御誕生も有りしか。なじかは御願成就しましまさざるべき」とて、本山へ返り上りて、両所三聖医王善逝に他念なく祈精申されければ、同三年七月九日、御産平安、皇子誕生有りき。堀川院の御事、是也。是より座主は二間の夜居に候はれけり。思し食すさまに、応徳三年十一月廿六日春宮に立たせ給ひにけり。御歳八歳。同十二月廿九日、御即位。寛治三年正月廿日、御歳十一歳にて御冠服有き。されどもおそろしき事共有りて、御在位廿六年、嘉承二年七月十九日、御歳廿九にて、法皇に先立ちまゐらせて崩御なりにき。是も頼豪が怨霊の至す所とぞ聞こえし。
さて、頼豪、「山の支へにてこそ、我が宿願は遂げざりしか」とて、大なるねずみとなりて山の聖教を食ひ損じける間、「此のね▼P1517(四一オ)ずみを神と祝ふべし」と僉議ありければ、社を造りて神に祝ひて後、彼のねずみ静まりにけり。東坂本にねずみのほくらと申すは即ち是也。今も山には大なるねずみをば頼豪ねずみとぞ申すなる。頼豪よしなき妄執に牽かれて、多年の行業を捨て、畜趣の報を感じけるこそ悲しけれ。よく慎むべし、よく慎むべし。かくて其の年もくれぬ。
十三 〔丹波少将故大納言の墓に詣づる事〕
治承三年正月、元三の儀式いつよりも花やかに目出たかりき。誠にさこそ有りけめ。
丹波少将は、正月廿日比に賀世庄を立ちて京へ上り給ふ。「都にまつ人も、いかに心もとなく思ふらむ」とて怱がれけれども、余寒なほはげしくて海上いたくあれければ、浦伝ひ嶋伝ひして、二月十日比に備前国児嶋へ漕ぎ寄せて、怱ぎ船より下りて、故大納言入道のおはしける所へ尋ね入りて▼P1518(四一ウ)問ひ給ひければ、国人申しけるは、「初めは是の嶋に渡らせ給ひ候ひしが、是は猶悪しかりなむとて、是より北、備前備中両国の境、吉備中山と申す所に有木別所と申す山寺の候ふに、難波太郎俊定と申す者の古屋に渡らせ給ふと承り候ひしが、早昔物語にならせ給ひにき」と申しければ、少将さぞかしと弥よ悲しくおぼして、先づ父大納言のおはしける所を立ち入りて見給へば、柴の庵、竹の編戸を引き立てたりける、あさましき山辺也。岩間を伝ふ水の音、かそかに峯吹きすさむ嵐はげしきを聞き給ふに付けても、いかばかりかは思ひにたへず悲しくおはしけむと、袖もしぼりあへ給はず。
それより又船にのりて、彼の有木別所へ尋ね入りて見給へば、是又うたてげなるしづの屋也。「かかる所にしばしもおはしける事よ」と、彼までもいたはしくて、内に入りて見廻り給へば、▼P1519(四二オ)古き障子に手習ひしたる所、破れ残りたり。
「哀れ是は故大納言のかかれたるよ」と打ち見給ふに、涙さとうきければ、少将顔に袖を押し当て立ちのきて、「やや、入道殿。共に書きたる物御覧ぜよ」とすすめ給へば、判官入道近く寄りてみれば、「前には海水〓々として、月真如の光りを浮かべ、後ろには巌松森々として、風常楽の響きを奏す。三尊来迎の儀、便り有り。九品往生の望み、足りぬべし。荊鞭蒲朽ちて、螢空しく去りぬ。諌鼓苔深くして、鳥も驚かず。
かたみとはなに思ひけむ中々にそでこそぬるれ水ぐきのあと
六月廿三日出家。同廿七日信俊下向」とぞ書かれたりける。「故入道殿の御手跡とこそ見進らせ候へ。早御覧候へ」と入道申されければ、▼P1520(四二ウ)少将又立ち寄りて細かに見給ふに、誠に違はず。さてこそ源左衛門尉が下りたりけるよと知り給ひにけれ。信俊が都より下りたりける事を、余りのうれしさにや、常に居られたりける所の西の障子に、其の日並を忘れじとにや、書かれ給ひけると覚えて哀れ也。是をみ給ひけるにこそ、欣求浄土の心もおはしけるにやと、限りなき思ひの中にもいささか心安くはおぼしけれ。父の存生の筆の跡、子として後に見給ひけむ事、跡は千年も有りぬべしとは是やらむと悲しくて、「さて御墓はいづくぞ」と問ひ給へば、「此の屋の後の一村松の本」と申しければ、少将涙を押さへて草葉を別けて尋ね給へば、露も涙も争ひて、ぬれぬ所もなかりけり。其のしるしと見る事もなし。実に誰かは立つべきなれば、卒都婆の形もみえず。只土の少し高くて、八重の葎の引きふたぎ、苔深く▼P1521(四三オ)しげりたる計りぞ、其の跡とも覚えける。少将其の前につひ居給ふより、袖を顔におしあてて涙にむせび給ふ。判官入道も是を見るに、余りに悲しくて、墨染の袖も絞りあへず。
少将良久しく有りて涙を拭ひて、「さても備中国へ流さるべしと承り候ひしかば、渡らせ給ふ国近きやらむとうれしくて、相見奉るべきにては候はざりしかども、何にとなく憑もしく、うれしく候ひしに、引き違へて薩摩方へ流され候ひて後、彼の嶋にてこそはかなくならせ給ぬと計り、鳥なむどの音信れて通ふる様に、かすかに承り候ひしか。心の内の悲しさはただおしはからせ給ふべし。万里の波濤を凌ぎて鬼界の嶋へ流されにし後は、一日片時、堪へて有るべしとも覚え候はざりしかども、遠き守りと成らせ給ひたりけるやらむ、露命きえやらで、三年を待ちくらして、再び都へ帰り、妻子を見む事はうれしかるべけれども、ながらへて渡らせ▼P1522(四三ウ)給はむを見奉ればこそ、甲斐なき命の有るしるしも候はめ。是まではいそがれつれども、是より後は行く空も有るべしとも覚えず」と、生きたる人に物を云ふ様に、墓の前にて夜終泣き給ひて、しげき涙のひまより、
まれに来てみるも悲しき松風を苔の下にやたえず聞くらむ
と詠めてくどき給へども、春風にそよぐ松の響き計りにて、亡魂なれば、答ふる人も更になし。歳去り年来れども、撫育の昔の恩を忘れ難し。夢の如く、幻の如くして、恋慕の今の涙を尽くし難し。容を求むとも見えず、只苔底の朽骨を想像らる。声を尋ぬとも答ふるもの無し、又徒らに墳墓の松風をのみ聞くこそ悲しけれ。
「成経参りたりと聞き給はむには、いかなる火の中、水の底におはすとも、などか一言の御返事なかるべき。縦ひ御不審を蒙りたりとも、生きておはしまさむには、其の憑みも有りぬべし。▼P1523(四四オ)生を隔つる習ひこそ悲しけれ」と宣ひて、泣々旧苔を打ち払ひ、墓をつき、父の御為にとて、道すがら造り持たせられたりける卒都婆取り寄せて、「聖霊決定生極楽」と云ふ文の下に、「孝子成経」と自筆に書き給ふ。其の卒都婆の本に、判官入道一首あり。
朽ちはてぬ其の名ばかりは有木にて昔がたりに成近のさと
さて、墓に立てて釘貫しまはして、「又参らむと思へども、参らぬ事もこそあれ」とて、墓の前に仮屋造りて、七日七夜不断念仏申して、「過去聖霊、成等正覚、頓証菩提」と祈り給ふ。草の影にても、いかに哀れと思ひ給ふらむとて、さても有るべきならねば、泣々尊霊に暇申して、備前国をも漕ぎ出で給ひにけり。苔の下にもいかばかり余波は惜しくおぼされけむ。都の漸く近付くに▼P1524(四四ウ)付けても哀れはつきせずぞ覚えし。
十四 〔宗盛大納言と大将とを辞さるる事〕
二月廿六日、宗盛卿大納言大将を辞し申さる。上表に云はく、
臣宗盛申す。去年十月三日、臣に授くるに内大臣を以てす。臣に賜ふに随身兵杖を以てす。改めて表す。たく倍々あふれ、蜘蛛弥よ重し。臣聞く、大臣は四海の舟楫なり、明徹を撰びて任ずべし。闇愚の居るべきにあらず。爰を以て、いむけい、しとに登る。こかうを敷き、はせいを調ふ。夏の禹しようを司どる、すいどを平げ、愁吟を分かつ。爰に即ち、芸才ある者は委するに佻人を以てすべからず。聡智ある者は責むるに大節を以てすべからず。せうれうの備勤也、争か水鳥の翅を学ばむ。どたいのかぜうなり、半漢の蹄を追ひがたし。縦ひ、やうせきりむのじゆむを受くるとも、寧ろ、きよせむの要たらむ哉。縦ひ、じよなむゑむもむが▼P1525(四五オ)塵を伝ふとも、誰か大廈の師と云はむ。伏して願はくは、陛下、此の度陽の職を閉ぢて、彼の聖智の人を用ゐよ。右衛府を本府に還し、じやうきの忠勤をいたさしめよ。平栄の心堪えず。謹みて以て拝表違分す。臣宗盛、誠惶誠恐頓首謹言。
とぞ書かれたりける。今年卅三に成り給ふ。重厄の慎の為とぞ聞こえし。
然れども、十二月二日、宗盛卿、大納言・大将両官辞状を返し給はる。去んぬる二月に両官を辞し申したりしかども、君も御憚りをなさせましまして、臣下にも授けさせ給はず、臣も其の畏れをなして望み申されず。三条大納言実房・花山院中納言兼雅も、哀れとは思ひ給ひけれども、詞をも出だし給はざりけるに、宗盛卿、右大将并びに大納言に成り返り給ひたりければ、人々さればこそと思し食したりけり。
▼P1526(四五ウ)十五 〔成経鳥羽に付く事〕
三月十六日、少将未だあかく鳥羽に着き給へり。今夜六波羅の宿所へ怱ぎ行かばやと思ひけれども、三年が間余りにやせ衰へたりつる有様を人々にみえん事もさすがにはづかしくて、宰相の許へ文にて、「是まではとかくして付きてこそ候へ。ひるは見苦しく候ふに、ふくる程に牛車賜るべし」と申されたりければ、宰相の許には「少将上り給ふべき比も今は近く成りたるに、いかに遅きやらむ」と、心本なさに、室・兵庫に人を置きてぞ待たれける。少将殿御文とて鳥羽へ着き給へるよし、青侍来たりて申したりければ、宰相を初め奉りて、高きも卑しきも悦び給へり。福原へ召し下され給ひし時の御歎きの涙よりも、只今上り給ふ由聞き給ひけるうれしさの御涙は、遥かにまさりたり。局々の女房・女童部までも、少将の御文を聞きては、「ひるはいかなぞや。必ずしもふけて入らせ給ふべきや」とて、▼P1527(四六オ)三年の間もさてこそおはせしに、暮るる空も心本なく立ちさわぎ、「猶夢の心地こそすれや」とて、心本なげにぞ申し相ひける。新大納言の宿所は、都の内にも限らず、片田舎にも余た有りける中に、鳥羽の田中の山庄、眺望余りにすぐれて林形水色興を増し、哀れを催す所也ければ、大納言秘蔵して洲浜
殿と名づけて住吉の住の江を写して造られたり。去んぬる応保二年十一月廿一日、事始め有りて、同三年に造畢ありて、廿一日と申ししに、法皇の御幸なる。大納言面目極まり無しと思はれければ、さまざまにもてなしまゐらせて、法皇の御引出物に八葉の御車を壱岐太とて秘蔵せられたる御牛にかけて参らせらる。其の外、公卿・殿上人、上北面・下北面、御力者・舎人・牛飼に至るまで、色々さまざまの引出物、いくらと云ふかずをしらず▼P1528(四六ウ)せられたりければ、諸人悉く耳目を驚かしけり。
そもくれにければ、終夜の御酒宴ありけるに、夜深け人定まりて後、一つの不思議あり。法皇南庭を御覧じいだして渡らせ給ひけるに、御〓の端に齢ひ八十有余なる老翁、白髪をいただいて、立烏帽子しりひきにきなして、すそは〓の袴に下緒を、上は絹文叉の狩衣の以ての外にすすけたる、たをやかにきて、跪きて爪笏とりて畏りて居たり。余の人はかかる人ありとも見知りたる気色もなし。法皇、御目を懸けさせおはしまして、「あれは何なる者ぞ」と御尋ね有りければ、しわがれたる老音にて、「これは住吉の辺りに候ふ小允にて候ふが、君に訴へ申すべき事候ひて、恐れをかへりみず推参仕りて候ふなり。我が年比秘蔵して朝夕愛し候ふ住吉に、▼P1529(四七オ)住江と申すところを、此の亭に移され候ひし間、住の江無下にあさまに成りて、無がしろになりはて候ひなむと存じ候ひて、其の子細を歎き申し候はむとて、よひより参りて候ひつれども、見参に入るる人も候はぬあひだ、夜将に曙けんとし候ふほどに、直奏仕り候ふ事は恐れ入りて候ふ。詮ずる所、此の由を能く能く仰せ含めらるべくや候ふらむ。かやうに申し入れ候はんを、若し御用ゐ候はずは、常に参りかよひ候はむずれば、其の上は御ぱからひ」とて
、南をさして飛び去りぬ。
法皇不思議かなと思し食されけれども、御披露におよばず。其の上、御酔乱の程なりければ、後には思し食し忘れさせ給ひけるにや。大納言常に宿して山水木立面白き所なればとて、上皇ときどき御幸ならせ給ひて、さまざまの御遊宴有りければ、住吉の霊幣なるにや、次年の夏の比をひ、住吉▼P1530(四七ウ)大明神の御とがめとて、上皇常に御なやみ渡らせ御坐しければ、御存命のために御出家ありけりとぞ聞こえし。されば、成親卿も彼の明神の御たたりにて、幾程無くして備前国の配所へ下られける。其の後は彼の所もあれはてて、今は野干の棲とぞみえし。住吉の大明神の領ぜさせおはしましけるとおぼしくて、殊更怖ろしくぞ覚えし。
されば、丹波少将も三年の間配所におはせしかば、今すこしもいそぎ都へ上りて、恋しき人々を見もし又みえばやとは思はれけれども、彼の田中の山庄をば父大納言随分秘蔵して、私には洲浜殿と名づけて造り置かれたりし亭也とて、少将彼の洲浜殿に指し入りて見給へば、築地は有れどもおほひなく、門は有れども扉もなし。屋数は所々残りたれども、しとみ遣戸もなし。▼P1531(四八オ)羅門乱れて地に落ちて、唐垣破れてつたしげれり。庭には見るとも覚えぬ千草のみしげりて、「いとど深草のとやなりなむ」と詠ぜし事を思ひて、「野とならばうづらとなりて鳴きをらむ」と誰か云ひけむと哀也。比はやよひの中の六日の事なれば、春も既にくれなむとす。百囀の宮の鴬の声も既に老いたり。楊梅桃李の色々もをりしりがをにさきたれども、詠ぜし人も今はなし。射山仙洞の水湊を詠むれば、白浪折りかけて紫鴛白鴎避遥す。興ぜし人の恋しさに、いとど哀ぞ増さりける。南楼の木村には嵐のみをとづれて夢をさます友となり、木の間漏る月の袖に宿るも余波を惜しむかと覚えたり。梢の花の落ちのこりたりけるも、猶なごり有りとみゆるに、などや父の余波のなかるらむ。
さて、少将亡屋へ立ち入りて見給へば、「ここは妻戸なりしかば、と▼P1532(四八ウ)こそ出で給ひしか。彼は遣戸なりしかば、かうこそ入り給ひしか」と、日終に泣きくらして、寝殿の軒近く、大納言の秘蔵して手づからうゑられたりし梅の本に立ち依りて、古詩を思ひ出でてぞ詠じ給ひける。
桃李言はず、春幾か暮れぬ。煙霞跡無し、昔誰か栖みし。
人はいさ心もしらずふるさとの花ぞ昔にかはらざりける
十六 〔少将判官入道入洛の事〕
さる程に、「宰相の許より御迎へに牛車参りたり」と申しければ、少将判官入道怱ぎ同車して、轅を北へぞ向けられける。さても漕ぎ出でにし油黄嶋の堪へがたく悲しかりける事、僧都残し捨てられて歎き悲しむらむ有様、我等があらましの熊野詣のしるしにや、再び都へ帰り上りぬる事のありがたさなむど、互に宣ひ通はして、各袖をぞ絞られける。
判官入道申しけ▼P1533(四九オ)るは、「昔し召し仕ひし下人、東山双林寺と申す処に候ひき。未だながらへて候はば、其に草庵結びて、今は一向後生菩提のいとなみより外は他事候ふまじ。若し真如堂・雲居寺なむどへ御参詣の次には、必ず御尋ね候へ。性照も世しづまり候ひなば、常には六波羅殿へも参り候ふべし。此の三年の間、うかりし嶋の中にて、朝夕一所にてなれまゐらせて候ひし御遺りこそ、いかならむ世までもわすれまゐらせ候ふべしとも覚え候はね」なむど申して、七条東の朱雀より下りて、東山へとてぞ行きにける。判官入道は其より東山へ行きけるが、取つてかへし、北山紫野の母の宿所へぞまかりける。一乗所感の身なりしかば、前世の機縁も浅からずこそ、互ひに思ひしられけれ。
丹波少将は六波羅へおはしつきたれば、先づ宰相を始め奉りて、悦び給ふ事なのめならず。▼P1534(四九ウ)我がすみ給ひし方へおはして見給へば、かけならべたりし御簾も、立てならべたりし屏風までもはたらかず、昔のままなり。乳母の六条が黒かりし髪も白みて見ゆ。「ことわりや。物おもへば一夜の内に白くなるなれば、今年三年が間、我が事をひまなく歎きけるに、みどりなりしかみの白くなりたるも理なり」とぞ思はれける。「足柄の明神の他国へわたらせ給ひて、返り入らせ給ひて、妻の明神を御らむじ給へば、白くきよらかに肥えて渡らせ給ひければ、我が御事をば思ひ給はざりけむと思し食して、『恋せずもありぬべし、恋せばやせもしぬべし』とうたがはせ給ひて、かきけつやうにうせさせ給ひにけり」と伝へ聞き給ふに、今少将北方を見奉るに、物思ひ給ひたりとおぼしくて、事の外にやせおとろへて見え給ふ。「我が事思ひわすれ給はざ▼P1535(五〇オ)りけり」と思ひ遣られて、「彼の足柄の明神の妻の神には事の外に相違し給へる物哉」と、いとど哀れにぞおもはれける。又、源氏の大将の、すま明石の浦伝して都帰りの有りし後、よもぎのもとにわけ入りて、
たづねても我こそとはめみちもなく深きよもぎのもとの心を
と、よみ給ひけむ事までも、少将我身の上に思ひ知られて哀れなり。
流されし時、四つにて別れにし若君、をとなしくなりて、髪おひのび、肩のまはり打ち過ぎて、ゆふほどになりたり。朝夕歎き沙汰する事なれば、なじかはわすれ給ふべきなれば、父の入り給ふと聞き給ふ上、見わすれ給はざりけるにや、いつしかなつかしげにおぼして、少将の御ひざ近く居より給へり。又三つばかりなる少き人の、北方の御そばにより居給へり。少将「あの人はたそ」と問ひ給ひければ、北方「これこそは」とのたま▼P1536(五〇ウ)ひけるより外は、又ものもえ宣はず、打ち臥して泣かれければ、其の時少将、「我が油黄嶋へ流されし時、心苦しく見え置きしが、生まれて人となりにけるよ」とぞ心得られける。此を見、彼を見るに付けても、悲しさのみいとど深くなりて、なぐさむ方もなかりけり。少将は、「油黄嶋にて、北方の歎き給ふらむ事、乳母の六条が悲しむらむ事、少き人々のこざかしくなりたるらむと思ひをこせて心のひまのなかりし」と語りて泣き給へば、北方は「未だみぬ油黄嶋とかやも、いかがして尋ね行かむずると、かなはぬ物ゆゑあさゆふ思ひ遣り奉りし心の中、只おぼしめしやらせ給へ」とて、其の夜は互ひに泣きぞあかされける。
昔もろこしに、漢の明帝の時劉晨阮肇と云ひし二人の者、永平十五年に、薬を取らむが為に、二人ながら天台山へ登りけるが、帰らむとするに▼P1537(五一オ)路を失ひて山の中に迷ひしに、谷河より盃の流れ出でしを見付けて、人の栖の近き事を心得て、其の水上をたづねつつ行く事、幾程を経ずして一つの仙家に入れり。楼閣重畳として、草木皆春の景気なり。然して後に帰らむ事を望みしかば、仙人出でて返るべき道を教ふ。各の怱ぎ山を出でて、己が里を顧みれば、人も栖も悉くありしにもあらずなりにけり。あさましく悲しく覚えて、委しく行へを尋ぬれば、「我は昔山に入りて失せにし人の其の余波、七世の孫也」とぞ答へける。少将今度宿所の荒れにける有様、此の少き人共の人となり給へるをみられけるこそ、彼の仙家より帰りけむ人の心地して、夢の様にぞ思われける。
少将いつしか御所へ参りて、君をも見奉らばやと思はれけれども、恐れをなして左右無くも参り給はず。法皇も御覧ぜばやと思し食されけれども、世に御憚り有りて召さるる▼P1538(五一ウ)事なかりけり。されども終には召し仕へて、宰相の中将までなられけるとぞ聞こえし。
十七 〔判官入道紫野の母の許へ行く事〕
判官入道は七条河原より暇申して、北山紫野母の宿所へ行きて、有りしすみかをみれば、やどはあれはてて人もなし。余のいぶせさに、隣の小屋に立ち依りて、下種女に此の事を問ひければ、内より立ち出でて答へけるは、「さる人はこれにおはせしが、御身遠流の後は其の事のみ歎き給ひしほどに、去年の七月の末つかた、赦免と聞きしかば、なのめならず喜びて、いまやいまやと待ち給ひしほどに、去年も空しく過ぎぬ、今年もすでに三月に成るまで見え給はねば、「嶋にて思ひに消え給ひけるか、道にて又いかなる事にもあひてうせにけるやらむ」と、そぞろに御なげきありしが、此月の始めつかた、賀茂に七日の御参籠ありき。御下向の後は此の御思ひの積りにや、常になやみ給ひしが、次第に病も大事に▼P1539(五二オ)成りて、昔語りと成り給ひて、今日五日に成る」とぞ申しける。康頼此の事を聞きて、「中々なにしに都へ上りける。よもの神仏にも今一度母をみむとこそ祈りしに、空しき御事の悲しさよ」とて、そぞろに袖をぞ絞りける。そこをば泣々出でて、東山双林寺の旧跡に行きて、つくづくと詠めをりて、さよふくるままにいとど心もすみければ、
ふるさとの軒のいたまに苔むして思ひしよりももらぬ月かな
十八 〔有王丸油黄島へ尋ね行く事〕
俊寛僧都は此の人々にも捨てられ、嶋の栖守となりはてて、事問ふ人も無かりければ、油黄嶋に只独り迷ひ行きけり。僧都の世におはせし時、兄弟三人少きより召し仕ふ者、粟田口の辺に有りけり。大兄は法師にて法勝寺の一預にて有りけり。次郎は亀王、三郎は有王丸とて、二人ながら大童子にてぞ有りける。亀王丸、僧都の流され給ひし時、淀におはしける所へ尋ね行きて、「最後の▼P1540(五二ウ)御共、是が限りにて候へば、いづくまでも参り候ふべし」と泣々申したりければ、「誠に主従の芳契、昔も今も浅からず、多の者共ありしかども、世中に恐れて問ひ来る者一人もなけれども、恨みと思ふべきにあらず。余の中に尋ね来て、かく云ふ志の程こそ返す返す哀れなれ。但し我一人にも限らず、丹波少将・判官入道なむども、人一人も随はずなむどこそきけ。皆薩摩国油黄嶋とかやへ流さるべしと聞けば、命の有らむ事もかたし。道の程にてもやはかなくならむずらむ。我身の事はさてをきつ。都に残り留まる女房少者共の心苦さ、思ふはかりなし。彼の者共に付きて、朝夕の杖柱ともなれ。我に付きたらむに露をとるまじ。とくとく帰れ」と宣ひける程に、宣旨の御使・六はらの使、「何事を申す童ぞ」と怪しみ尋
ねければ、恐ろしさの余りに亀王泣く泣く都へ帰り上りにけり。
同じき▼P1541(五三オ)弟有王丸と申す童は、僧都に別れ奉りて後は又宮仕ふる方もなくて、或は大原・しづ原・嵯峨・法輪の方へ迷ひ行きて、嶺の花をつみ、谷の水を結びて、山々寺々の仏に奉りて、「我が主に今一度合はせ給へ」と泣く泣く祈り申しけるが、「少将・判官入道、都帰り有り」と聞きて、「我が主のゆくへ何になり給ひぬらむ」と思ふも悲しくて、少将の辺に尋ねければ、「御上りまで、流黄嶋に僧都御房渡らせ給ひけるとこそ承れ」と人申しければ、「されば未だ死に給はずおはするにこそ。誰はぐくみ、誰哀み奉るらむ」と悲しく覚えて、父母にも知られず、親しき者共にもかくともいはず、只一人都を出でて、遥々とまだしらぬ薩摩方へぞ下りける。淀川尻の程より、「油黄嶋へはいづちへ罷るぞ」と問ひ、足に任せてぞ下りける。道すがら、あやしの者のあひたるにも、「我が主もかくこそおはすら▼P1542(五三ウ)め」と思ひ、或る時は海上に便りを求め、或る時は山川にも迷ふ時もあり。日数やうやう積りければ、百余日計りに彼の嶋へたどり付きにけり。
いそぎ船より下りてみれば、日来都にて聞きしには過ぎて、おそろし悲し。田も無く畠もなし。村もなく郷もなし。山の嶺に焼へ登る煙り、野沢に落ちさかる電の音、何事に付けても絶へて有るべき様もなし。されども、主の行への悲しさに、奥さまに尋ね行く程に、嶋人と覚しくて適ま相へる者は、此の土の人にもにず、木の皮を額に巻たる者、赤はだかにて〓鼻ばかりかきたるが、長六七尺もやあるらむと覚ゆる者、二三人相ひたりければ、生きながら冥途にたづね行きたる心地して、生きて故郷へ帰るべしとも覚えず。さりながらも、「此の嶋に一年せ法勝寺執行僧都御房と申す人の流されておはしまししは、▼P1543(五四オ)未だおはするか」と問ひたりければ、理や、法勝寺の執行僧都とも、争かしるべきなれば、答ふるに及ばず、頭をふりて自ら云ふ事も聞き別かず。「しらずしらず」とのみ云ひ捨てぞ通りける。さるにてもと思ひて、又相へる者に、「流人とてありし人は」と尋ねけるに、其の度は少し心得たりけるやらむ、「いさとよ、さる人みえしが、二人は過ぎにし比都へとて帰り上りき。今一人はいづくともなく迷ひ行きしが、行へをしらず」とぞ答ける。是を聞くに、いとど心憂しとも愚かなり。
若しやとて、遥かに山へぞ尋ね入りにける。山を越え過ぎたれば、眇々とある野に至る。野中に松一本ありけるに、日も既にくれにければ、今夜はここに明かさむとて、松の本へぞ立ち寄りける。松高くしては、風旅人の夢を破ると覚えたり。鶏楼の山も明け行けば、洞戸に鳥は返るとも、眼に遮る物もなし。一樹の影にやどるといふは理すぎ▼P1544(五四ウ)たり。我は都の者也、松は薩摩方野中にあり。こよひ此にあかしつるこそ一樹の影の契りなれ。今はなれなむ後、いつか又返り来むなれども、かくて有るべきならねば、云へども答へぬ松にいとまを乞ひて、又足に任せて尋ね行く程に、浪よせかくるみぎはへぞ出でにける。
此の間は打ちつづき空かきくらしはげしかりけるが、今日は日もうららかに波風も和かなり。塩干方をいづくをさすともなく遥かにたづね行きけれども、船も人も通へるけしきもみえぬ荒いそなりければ、砂頭に印をきざむかもめ、奥の白すにすだく浜千鳥の外は、跡ふみ付けたる形もなし。猶遥かに礒の方を見渡せば、人か人に非ざるか、かげろふの如くなる者、あゆむやうにはしけれども、一所にのみ見へけるを、「あやしや何やらむ」と覚え、おそろしながら、さすがにゆかしかりければ、且は物語にも▼P1545(五五オ)せむと思ひて、近くよりてみれば、かみは空さまに立ちあがりて、さまざまの塵もくづ取り付きたれども、打ち払へる気色もなかりければ、をどろをいただけるが如し。衣装は絹・布とも見え別かぬを、腰のまはりに結ひ集めて、あらめと云ふ物をはさみ、左右の手にはなましき魚の少きを二つ三つにぎりて、はげうであゆむ様にはしけれども、余りに力なげにて、よろよろとして、砂に只一所にゆるぎ立ちたる者一人あり。
童思ひけるは、「かはゆの者の有様や。非人乞凶の中にも、未だかかるさましたる者こそみざりつれ。此の嶋の非人にてこそ有らめ。さても我が主の御行へを尋ぬれば、罪深き御事にて、生きながら餓鬼道にばし落ち給ひたるやらむ。餓鬼城の果報こそ、かかるさまはしたるなれ」なむど、さまざまに思ふに、いとど悲しくて、且は哀れみ、且は懺悔す。さるにても若しや知りたると思ひて、「此の嶋へ▼P1546(五五ウ)三人流され給ひし人、二人はゆりて上り給ひにき。今一人、法勝寺の執行御房と云ふ僧のおはするは、いづくにおはするぞ」と、かきくどき問ひたりければ、僧都是をみ給ふに、「我が身能く衰へはてにけり。されども、目もくれ心もかはらねば、我が召し仕ひし童なり」。童は主を見忘れたり、主は童は見忘れねば、「我こそそなれ」と云ひたけれども、果報こそつたなく、かかる身にならめ、心さへかはりにけりと、童が思はむもはづかし。中にも生しき魚をにぎり、腰にあらめを付けたる事も、あまりにはづかしく悲しくて、「只しらぬ様にて過ぎ行きなばや」と千度百度思へども、「此の嶋にて、只の都人の行き逢ひたらむそら、うれしさは限りなかるべし。まして是は、年来朝暮に召し仕ひし童なり
。なじかははづかしかるべき」と思ひ返して、手ににぎりたる魚をいそぎ投げすてて、「あれは有王丸か、いかにしてこれまで尋ね▼P1547(五六オ)来るぞや。我こそ然なれ」と泣く泣く宣ひて、たふれふし、足ずりをしてをめきさけび給ふに、童つやつや見知らざりけれども、「有王丸か」とよび給ふに「さては我が主なりけり」と思ふより、同じくたふれ臥して、音を合はせて共に泣く。二人ながら時をうつして、涙に咽びて、互ひに物もいはず。
良久しくありて、僧都おきあがりて、「さればよ、なにとして尋ね来れるぞ。此の事こそ、少しもうつつともおぼえね。あけてもくれても都の事をのみ思ひゐたれば、恋しき者共は面かげに立つ時もあり、幻にみゆる時もあり。身もかくよはりにし後は、夢もうつつもさだかに思ひわかれず。されば汝が来れるをも、只夢かとのみこそ思へ。若し又天魔波旬の我が心をたぶらかさむとて汝が形に変じて来れるかとまで覚ゆるぞ。若し此の事夢ならば、さめての後はいかがせむ」とて又泣かれければ、有王丸、「うつつにて候ふぞ。御心安く▼P1548(五六ウ)思し食され候へ」と申しければ、僧都少し心落ち居て、童が手を取り組みて又宣ひけるは、「此の嶋は多くの海山隔てて雲居のよそなれば、おぼろけにては人の通ふ事もなし。されば、都の事づても有がたし。少将・判官入道ありし程は、昔物語をもして互ひになぐさみき。少将も入道も召し返されて、我が身一人残り留まる上は、一日片時も堪へて有るべしとは思はざりしが、甲斐なき命のながらへてありけるは、今一度汝をも見、汝にもみゆべかりける故にこそありけれ。是程の身の有様なれば、何事もおぼゆまじけれども、故郷に残り留まる者共の事、常に思ひ出でら
れて、忘るる時の隙もなければ、我に人一人従ひ付きたらば問はまほしくこそ覚ゆれ。心強くもこの三年は問はざりつる物哉」と恨み給へば、童涙を押へて申しけるは、「父母にも▼P1549(五七オ)申さず、親しき者共にもしらせ候はで、只独り都を罷り出でて、遥かの海山をわけすぎ、かかるあさましき配所へ尋ね参りぬるも、昔の御体を今一度や見奉るとて、はるばると尋ね参りたれども、今の御体を見まゐらせ候ふに、日比都にてゆくへを思ひ遣りまゐらせ候ひつるは、事のかずならざりけり。まのあたり御有様を見まゐらせ候ふに、命生きて御宮仕へ申すべしとも覚え候はず。されば何かなる御罪のむくひにて渡らせ給ひけるぞや。さても都の御有様、ことも愚かなる御事と思し食され候ふかや。君の西八条へ召籠られさせ給し後は、御あたりの人々と申す者をば、とらへからめ、ほだしを打ち、楼囚獄にこめられ、家烟を追捕し、屋骨をこぼち取られて、謀叛の事を責め問はれ候ひしかば、跡形も候はず、皆諸国七道へ落ち失せ候ひぬ。女房も鞍馬の▼P1550(五七ウ)奥に少き人々具しまゐらせて忍びて渡らせ給ひ候しが、あけてもくれても御歎き浅からずみえさせ給ひし程に、御歎きの積りにや、なにとなくなや
ませ給ひて、こぞの冬、終に失せさせ給ひ候ひにき。若君は、『父のわたらせ給ふ所はいづくやらむ、いかなる所と知らする人だにあらば、尋ね参りて見まゐらせむ』と、つねには仰せの候ひしを、母御前、『あなかしこしらすな、知らせたらば、少き心にいづちともなく走り出でたらむほどに、嶋へも尋ね行かず、是へも帰らず、道にて失せむ事の悲しきに」と、仰せの候ひしかば、知らせまゐらする人も候はざりしほどに、人のし相ひ候ひしもがさと申す事をわづらわせ給ひて、すぎにし五月に失せさせ給ひにき。姫君ばかりこそ、いまだ渡らせ給へ。母御前に後れまゐらせさせ給ひて、後には都の御すまひも叶ひ候はず、奈良のをば御前の御許に渡らせ給ひ▼P1551(五八オ)候ふ。是へまかりくだりさまに、奈良へ参りて、「君の御ゆくへの悲しく思ひまゐらせ候ふ時に、嶋へ尋ね参り候ふ。御事付けや候ふ」と申し入れて候ひしかば、昔は争か只御声をも承り候ふべきなれども、はし近く居出でさせ給ひて、『あはれ、女の身程心うかりける物はあらじ。父の恋しさは譬へむ方はなけれども、男子の身ならねば、かなはぬ事こそ口惜しけれ。多くの人の中に、をのれ一人しも尋ねまゐらむことのうれしさよ。今日より後、仏
神に詣でては、我が身の祈りをば申すまじ。構へて平らかに参り付けと、汝が祈りをせむずるぞ。自ら平かに参り付きたらば、是まゐらせよ。世の代はりたる哀れさに、筆の立て所もおぼえ候はず。余りに涙がこぼれて、泣く泣く書きて候へば、文字の形にても候はじなれば、あそばしにくくこそ渡らせ給はむずらめとまうせ』とこそ仰せ候ひしか。『薩摩の地にて、あやしき文や持ちたるとさがす』と、人のおど▼P1552(五八ウ)し候ひしおそろしさに、恐れながら本ゆいの中へしこめて参りて候ふ』とて、取り出でて奉りたりければ、僧都、姫君の文を取りて、涙を押しのごひて見給ふに、文字もあざやかに、詞もおとなしく書きたり。
其の詞に云はく、「其の後、便り少くなりはてて、御行へをもしりまゐらせ候はず。如何なる罪のむくひにて三人流されさせ給たる人の二人はゆるされて召し返され給ふに、御身ひとり残り留まらせ給ふ事の悲しさよ。御ゆかりの人をばとらへからむると申ししかば、おぢおそれて今は都には一人も候はず。されば草のゆかりもかれはててあれば、糸惜しと申す者も候はず。公達も召しとらるべしと聞こえ候ひしかば、母御前は鞍馬の奥とかやに忍びて渡らせ給ひしほどに、御事をのみ朝ゆふ歎き申させ給ひしが、積りて病にならせ給ひたりしかば、せうとと二人、とかくなぐさめ申しし▼P1553(五九オ)かども、日にそへて重くのみなりて、遂にはかなくならせ給ひ候ひぬ。母御前にをくれまひらせ候ふは我一人の事ならず、そひはてぬ世のうらめしさ、人ごとの習ひと思ひなされ候へば、自らなぐさむ方も候ふ。父に生きながら別れまゐらせて、国々をへだて、波をわけ、薩摩潟まではるばると思ひ遣りまゐらせ候ふ心の中の悲しさ、只おしはからせ給ふべし。生きての別れ、死しての悲しさ、せうとと二人、ひるは終日に泣きくらし、夜は夜終ら泣きあかし候ひしほどに、せうとも人のしあひて候ひしもがさと云ふ物をして
、此の春失せ候ひにき。歎きの程、只おしはからせ給ひ候へ。故母御前の、「我死なば、いかにしてながらへてあらむずらむと思ふこそ悲しけれ。自らの便りには、奈良の里にをばと云ふ者のあるぞ。いかにもして尋ね行け」と、最後の時に仰せ候ひしかば、当時はならのをばの御許に▼P1554(五九ウ)候ふ也。などや、この三年は有りとも無しとも問はせ給はぬぞ。是に付けても女の身こそ今更に口惜しけれ。をのこごの身なりせば、などか鬼海・高麗とかやにおはすとも、尋ねまゐらざるべき。童をば誰に預け、いかになれと思し食すぞや。こひしとも恋し、ゆかしともゆかし。とくとくしていかにもして上らせ給へ。あなかしこ、あなかしこ」と、うらがきはしがきまで、うすくこくさまざまに書き給へり。
僧都此の文をむねに当て顔にあてて、悲しみ給ふ事限りなし。「此の嶋に放たれて、今年三年にこそなれ。姫君も今年は十二になるとこそ覚ゆるに、今はおとなしくこそ有るべきに、猶をさなかりける物かな。此の心ばへにては、争か人にもみえ、宮仕へをもして、身をも助くべき。『とくして上れ』とは何事ぞ。打ち任せたる田舎下りとこそ覚えたれ。心に任せたる道ならば、などか今▼P1555(六〇オ)まで上らざるべき。はかなの者の書き様や」とて、恩愛の習ひの悲しさは、我が身の上を閣きて、娘の事を云ひつづけて今更又泣かれけるこそ無慙なれ。童是を見て、「遥かに思ひ遣り奉りけるは事の数ならざりけり。中々よしなく下りにける物かな。かばかり無慚の事こそなけれ」とぞ思ひける。
僧都又宣けるは、「此嶋に残し捨てられにし後は、片時たへて有べしとも思はざりしに、露の命消えやらで今日までながらへて有つる事こそ不思議なれ。汝一人を見たるを以て、都の人を皆見たる心地す。我はかかる罪人なれば、云ふに及ばず。今はとくとく帰り上りね。『一人も付かざりしに、京より人渡りて扱ひ侍るなり』と聞こえなば、まさる咎にもぞ当たる」と宣へば、童爪弾きをはたはたとして、「穴うたての御心や。其程の御身の有様にても、猶世の▼P1556(六〇ウ)恐ろしく思し食され候ふか。又御命の惜しく渡らせ給ひ候ふか。はたらかせ給へばとて、麗しき人の御形と思し食され候ふか。只なましき骸骨のはたらかせ給ふにてこそ渡らせ給ふめれ」と申しければ、僧都是を聞き給ひて、「志の切なる汝さへ、此の嶋にて朽ちはてむ事の悲しさの余りにこそ、かくも言へ」と宣へば、童涙を押のごひて、「父母親類にも知らせず、命を君に奉り、身をば大海に沈めむと思ひ切りて参り候ひし上は、都にて一度すて候ひぬる命を、嶋にて二度思ひ返すにも及び候はず」と申せば、僧都、「いざさらば我が棲みせむ」とて、童を具しておはしたり。
松の四五本岩にたふれかかりたるを便りにて、自ら打ち寄せられたる竹のはし、葦荻体の物を拾ひ渡して、よろづの藻屑・木葉を取り掛けたれば、雨風溜まるべしとも見えず。京童部の、犬の▼P1557(六一オ)家とて造りたるよりも、猶目もあてられず。僧都一人内へ入り給へば、腰より下もは外にありければ、童内へ入るに及ばず。「穴うたてや、古き歌物語にこそ、はにふの小屋と云ふ事はあれ。はに土を以てしまはしたる家をば慎粉の小屋と申す。又は『半に臥す』と書ては『はにふのこや』と詠まるなり。半に臥すが埴生の小屋ならば、是や、はにふの小屋なるらむ」。傍なる木にかくぞ書き付けられたる。
みせばやなあはれとおもふ人やあると只ひとりすむあしのとまやを
と、牡蠣の殻なむどにて書き付けられたるにやと覚しくて、さすがに漂ひたるやうにぞ書きたりける。
昔は大伽藍の寺務職として、八十余ヶ所の庄務掌どり給へりしかば、京極御坊、白河御坊、鹿谷の山庄まで、塵も付けじと作り磨かれて、棟門・平門の中に、二三百人の所従眷属▼P1558(六一ウ)に囲遶せられてこそ過ぎ給ひしか。されば、かかる御住まひにても此三年はおはしけるかやと今更悲しくぞ思ひける。業にさまざまあり、巡現・巡生・巡後・巡不定業といへり。僧都、一期の間、身に用ゐる所は、大伽藍の寺物仏物にあらずと云ふ事なし。然れば、彼の信施無慚の罪においては今生に感得せられけるかと覚えたり。
かかる思ひの中なれども、僧都の料にとて菓子体の物、塵ばかりづつ持たりけるを取り出だして勧めければ、今日食ひて明日食うべき物にてもなし。明日食ひて又次の日食ふべきにてもなければ、怱ぎて食はざりけり。童が持ちて渡る志の切なればとて、食ひけれども、食ひ忘れて久しくなれば、気味の程も覚えざりけり。童、「いかにして、比程の御有様にては今まで長らへて渡らせ給ひけるぞ▼P1559(六二オ)や」と申せば、「一年流されし人の内、丹波少将の許へ舅の門脇の宰相の許より、一年に二度船を渡されしなり。春渡すは秋冬の衣食のため、秋渡すは帰る年の春夏の衣食のためと渡ししを、少将心映へ吉き人にて、一人の衣装を新しきをば我着、古きをば二人の者に着せ、一人が相節を以ては三人の相節に当てなむどして育みし程は、さすが人の形にて有りつるが、少将・判官入道帰り上りて後は、自ら事のはの次にも「哀れ糸惜し」と事問ふ人もなければ、甲斐なき命の惜しきままに、身の力のありし程は、此の山の峯に上りて、硫黄と云ふ物を取りて、九国の地へ通ふ商人の船の着きたるにとらせて、日を送りき。身の力弱り衰へて後は、山へ上るべくもなければ、野沢に出でては根芹を摘み、嬾き蕨ををりて
、寂しさを慰む。浜に出でては、波に打ち寄▼P1560(六二ウ)せられたる荒和布を拾ひ、釣りする海士に膝を屈め、手を合はせて魚を乞ひて食事にして、今日までは命を継ぎつるなり。此の嶋の有様は、おろおろ見もしつらむ。生きて甲斐なき様なれども、かかる所にも住めば住まるる習ひにて有りけるぞ。月の缺け、月の盈つるをもて、一二月と覚えたり。花の散り、葉の落つるを以て、春秋を知る也。其の移り変わる有様を算ふれば、年の三年せを送りにけり。我はかく弱り疲れたれば、今いくばくをか限るべき。己さへ此の嶋にて消えなむ事こそ、いと罪深けれ」と宣ひければ、「此まで尋ね参る程にては、いく年せを過ごし候ふとも、其の恨み候ふまじ。いかにも成りはてさせ給はむずる、最後の御有様を見果て進らせ候ふべし」とて、僧都の前後に有りければ、僧都に教えられて、山の峯に上りて硫黄を取りて商人の舟の寄りたるに、是を商▼P1561(六三オ)ひ、とかく育みて明かし暮らしける程に、「今いくかをか限らむ」と宣ひけれども、日来の疲れ立ち直らず、明くる年の正月十日比より病付き給ひにけり。童は片時も立ち離れず、様々に看病して、夏も過ぎ秋にも成りて、八月十日比にもなりにければ、今
は限りにぞ見えられける。童申しけるは、「『都へ帰り上り給はぬ事、本意なし』なむど思し食すべからず。今生の穢土の終はりと思し食して、御心強く一筋に浄土を願ひ給へ」と善知識して、念仏勧め奉りなむどしける程に、同十三日寅剋に、終に失せられにけり。
童只一人営みて、松の枯枝、葦の枯葉を切り覆ひ、寄り来る藻屑につみこめて、たくもの煙とたぐへてけり。荼毘事終へにければ、墓なむど形の如くして、白骨を頸にかけて、泣く泣く都へ上りけり。苔の下にも都へと余波や惜しく思はるらむ。
備▼P1562(六三ウ)前国下津井と云ふ所より下り、或る山寺にしばらく逗留して、頭をおろし、墨染の袖になりて、奈良の姫君の許へ行き、「嶋に硯も紙も候はざりしかば、御返事には及び候はず」とて、僧都の遺言なむど細かに語りければ、姫君、天に仰ぎ地に臥して、をめき叫ばれける有様、さこそは悲しかりけめ。「御舎利をも拝ませ進らせ候べく候へども、同じ事にて候へば、是より高野山に上りて、奥院に納め奉り候ふべし」と申して、やがて高野へ上り、御廟の御前に納めてけり。其の後、寺々修行して、主の後世をぞ訪ひける。主従の芳契、誠に昔も今も其の好みあさからぬ事なれども、有王丸が志は例し少なくぞ覚えし。見目皃、心様までも、吉き童にてぞ有りける。
姫君は、父の臨終の有様聞き給ひて、伯母の許を忍び出でて、高野へも尋ねお▼P1563(六四オ)はして、父の骨納めたる所をも拝みたく思し召しけれども、女人の上らぬ所なればとて、高野の麓、天野別所と云ふ所にて、様変へられにけり。後には真言の行者と成りて、父の後生菩提を祈り給ひけるこそ哀なれ。童は修行しありきけるが、主の骨も恋しくて、高野山へ立ち帰り、南院に蓮阿みだ仏と申されて、仏に花香を奉り、主の後世をぞ訪らひける。山門の大衆、猶鎮まらずして、弥よ騒動すと聞こえければ、堂衆等を罪科に行はるべき由、諸卿計らひ申されければ、宣旨を下さる。其の状に云はく、
治承三年六月廿五日 宣旨。左大臣左少弁。
叡山堂衆等、勅制に憚からず、座主の制止に拘はらず、猥りがはしく▼P1564(六四ウ)狼戻を成して、一山を滅亡せむと欲す。仍りて、先づ官軍を差し遣はして、三ヶ庄及び寄住の所々を追却せしむべし。但し、横河・無動寺等に籠り住む輩に於いては、同じく彼の輩に仰せて、坂本往反の路を守護して責め落とすべし。兼ねては又、洛陽に逃げ隠るる輩は、宜しく検非違使をして、搦め進らすべし。諸国に逃げ移らんに至りては、宰吏に仰せて其身を召し進じ。此の次は失せ了はんぬ。
十九 〔辻風荒く吹く事〕
▼P1565(六五オ)六月十四日、辻風おびたたしく吹きて、人屋多く顛倒す。風は中御門京極辺より発りて、坤の方へ吹きもて行くに、棟門・平門なむどを吹き抜けて、四五町、十丁もて行きて、投げ捨てなむどしける。上は、桁・梁・長押・棟木なむど虚空に散在して、あしこここに落ちけるに、人馬鹿畜多く打ち殺されにけり。只舎屋の破れ損ずるのみにあらず、命を失ふ者多し。其の外、資財雑具、七珍万宝の散り失せし事、数を知らず。
此の事、直事に非ずぞ見えし。即ち御占あり。「百日の内に大葬、白衣の怪異、天子大臣の御慎み也。就中、禄を重んずる大臣の慎み、別しては天下大きなる怖乱、仏法・王法共に滅び、兵革相続きて、飢饉疫癘の兆す所なり」と、神祇官・陰陽寮、共に占ひ申しけり。
二十 〔小松殿死に給ふ事〕
八月一日、小松内大臣重盛公、薨じ給ひぬ。御年四十三にぞなられける。▼P1566(六五ウ)五十にだにも満ち給はず、世は盛りと見え給ひつるに、口惜しかりける事也。「此の大臣失せられぬる事は、偏に平家の運命尽ぬる故也。其の上、世の為人の為、必ずあしかるべし。入道のさしも横紙を破らるる事をも、此の大臣のなをし宥られつればこそ、世も穏しくて過ぎつるに、こはあさましき事かな」とぞ歎きあへる。前右大将方さまの者共は、「世は大将殿に伝はりなむず」とて、悦びあへる輩もあり。
二十一 〔小松殿熊野に詣づる事〕
内大臣、今年夏熊野参詣の事有りき。本宮証誠殿の御前にて啓白せられけるは、「父相国禅門、悪逆無道にして、動もすれば君をもなやませ奉る。重盛長子として頻に諌めを加ふといへども、身不逍にして、彼以て服膺せず。其の振舞を見るに、一期の栄花▼P1567(六六オ)猶危し。枝葉連続して親を顕し、名を揚げむ事かたし。此の時に当たりて、重盛苟くも思へり、憖に諛ひて世と浮沈せむ事、敢へて良臣孝子の法にあらず。如かじ、只名を遁れ身を退きて、今生の名望を抛てて来世の菩提を求むには。但し、凡夫の薄地、是非に迷へる故に、猶志を恣にせず。願はくは権現金剛童子、子孫の繁栄絶えずして君に仕へて朝庭に交はるべくは、入道の悪心を和らげて、天下の安全を得しめ給へ。若し栄耀一期を限りて後昆の恥に及ぶべくは、重盛が今生の運命を縮めて、来世の苦輪を助け給へ。両ヶの愚願、偏へに冥助を仰ぐ」と肝胆を摧きて祈念せられける時、内大臣の御頸の程より大きなる燈爐の光の様なる物が、はと立あがつてはきえ、たびたびしけり。御共人数々にはみず。或る侍一人是を見て、「是は何なる御先相ぞや。吉き御事やらむ、悪しき御事やら▼P1568(六六ウ)む」と思ひけれども、恐れをなして人
には語らざりけり。大臣の失せ給ひて後にこそ、「さる事有りき」とも申しけれ。
今度の熊野参詣に、御子息二人、共せられたり。嫡子惟盛・次男資盛、下向にかかり給ふ。岩田川にて、二人の御子息達の浄衣の色、重服にかへりて河浪にぞうつりたる。孔子の一筆を白楽天の釈し給ひけるは、「孝妣恵み有れば、子孫大なる慶び有り。子孫孝妃有れば、天地門を開く」と云ふ。内大臣の「世を厭ひ、今生を打ち棄てて、後世を扶けさせ給へ」と申されけるをば、仏神悦び給ひて、兼ねて示し給ひけると覚えたり。源大夫判官季貞此を見とがめて、「君達召され候ふ御浄衣、いかにとやらむ、いまはしく見えさせ給ひ候ふ。召し替へられ候ふべし」と申しければ、内大臣是を見たまひて打ち涙ぐみて「重盛が所願、既に▼P1569(六七オ)成就しにけるこそあむなれ。敢へて其の浄衣着替ふべからず」とて、別して悦びの奉幣ありて、やがて其の浄衣にてくろめまで着き給ひけり。さなきだに岩田川は渡るに哀れを催すに、波に涙を諍ひて、重盛袖をぞ絞り給ふ。人々あやしとは思へども、其の心を得ざりけり。而るに程無く此の公達、実の墨染の袂に移り給ひけるを見奉りけるにこそ、さればよと思ひ知られて、いと哀れにぞ思ひあへる。
さて、下向の後、六月十三日、御方違の御幸あり。小松内大臣の嫡子権亮少将惟盛御縄助の殿上人にて供奉せらるべきにて出立し給ひたり。内大臣是を見給ひて「我子ながらも人に勝れてみゆる物哉。されども生死界の習ひなれば、かかる子にも副ひはてで、近く離れなむ事こそ悲しけれ。権現の示し給ひし事、只今に臨めり。是が最後の終にてこそあらむず▼P1570(六七ウ)らめ。能々みむ」とて、「暫く是へ入らせ給へ。申すべき事あり」と仰せられければ、少将入り給ふ。女房に盃酌せさせて酒を勧め給ふ。貞能を招き寄せてささやき給ひければ、貞能御内に入りて、赤地の錦の袋に裏みたる太刀一振取り出だす。少将の前に指し置きて、「御肴に進らせ候ふ。今一度」と勧め給へば、少将うれしげにおぼして三度して袋を開けて見給へば、大臣の死し給ひて葬送する時、其の嫡子にておはする人のはきて最後の共し給ふなる、無文の太刀と云ふ物也。少将いまはしげに覚して、貞能が方を恨めしげに見給ふ。内大臣「あれは貞能が取り違へたるには候はず。重盛が志し進らせて候ふ也。其の故は、今日出仕の供奉の人々多く候ふらめども、御辺程の人少くこそ侯ふらめ。片腹痛き申し事にて候へども、我が子にておはしま
せば▼P1571(六八オ)にやらむ、人に勝れていみじくみえ給ふ。それに取りて老少不定にしてさだめなき憂世の習ひ、祈るとも叶ふまじ。さればいみじと思ひ奉る御辺にも、副ひ終てぬ事も有りぬべし。同じく別るれば重盛前立ちて此の大刀を帯き孝養をし給へかしと思ふ間、何の引出物よりも目出たき太刀にて候ふぞ。親を先立つる人の子、孝養を致さむと思ふ志探し。神明仏陀も御加護あり。親残り留まりて子を前立つるは、子の為不孝の罪深し。されば、老いたる若き定めなくて、御辺前立ち給はば、重盛が残り留まりて思はむ事の悲しければ、我身前立ちて御辺に孝養せられ奉り、仏神三宝の御加護に預り、弥よ孝養の志し深く御しませと思ふ間、御引出物に進らせ候ふ也」とて、打ゑみ給ひければ、少将は今の様に覚えて涙うかび給ひけれども、此の上は子細を申すに及ばず、浅増ながら取り給ひにけり。▼P1572(六八ウ)其の後はさしもやと思ひ給けるに、内大臣に後れ給ひて、葬送の時、此の大刀を取り出でてはき給ひ、最後の御共し給ひけるにこそ、有りし時仰せられし事共思ひ連けて、涙に暮れて覚えけれ。御方違の行幸は六月十三日なり。
同七月廿五日に、内大臣の御頸に悪瘡出でにければ、「是れ思ひ儲たりつる事なり」とて、療治も祈精もし給はず。一向後生菩提の勤めより外は他事なかりけり。太政入道・二位殿はをりふし福原におはしけるが、此の事を聞き給ひて、大いに驚きて、取る物も取りあへず、京へ上り給ひて、「なべての医師なむどの療治すまじき事と内府は思ふらむ」とて、肥後守貞能を使にて内府の許へ云ひ遣はされたりけるは、「御所労の由承る。一定ならば返す返す歎きに存ず。いかにさ様の腫物をば怱ぎ療治もせられず候ふなるぞ。親に先立つ子をば▼P1573(六九オ)不孝に同じとこそ申せ。入道既に六十有余也。此の有様をば争か御覧じはてざるべき。老いたる父母を残し置き給ひて物を思はせさせ給はむ事は、且は罪深かるべし。但し、折節御冥加と覚ゆる事は、宋朝より勝れたる名医、本朝へ渡りて忍びて京へ上るなるが、摂津国今津に付きて候ふよしを承れば、怱ぎ召し遣し候ひぬ。彼の医師と申すは、医療の道に携はりて、遥に神農化他の旧跡を続ぎ、治方の業を伝へて、遠く祇婆〓鵲の先縦を追ふ。故に三代の家に長じて、早く十全の深術を究め、常に一天の君に仕へて、専ら四海の名誉を恣にする者也。速に対面して殊に
医療を加へしめ給へ」と云ひ遣はされたりければ、内府病床に臥し給ひたりけるが、入道の御使と聞き給ひて恐れられけるにや、怱ぎおきあがりて、烏帽子直衣ただしくして、貞能に▼P1574(六九ウ)向かひ給ひて返事に申されけるは、「医療の事、承り候ひぬ。但し今度の所労は、旁存ずる旨候ふの間、医療を加へず候ふ。仍りて今更対面仕るに及ばず。其の故は、昔漢高祖、維南の懸布を攻めし時、流失高祖に当たる。既に命限りになり給ひければ、呂大后と云ふ后、良医を迎へて見せしむるに、医師の云はく、「療治しつべし。但し五百斤の金を賜るべし」と申す。高祖宣はく、「朕三尺の剣を提げて天下を取る。是天命なり。命は即ち天にあり。我項羽と合戦を致す事、八ヶ年の間に七十余ヶ度也。されども天命の有る程は、一度も疵を被らず。今天命地に堕ちて、既に疵を被れり。然れば名医として疵をば癒すとも、命を療すべからず。篇昔と云ふとも何の益かあらむ。全く金を惜しみて云ふにあらず」とて、即ち五百斤の金をば医師に給はりながら、疵をば▼P1575(七○オ)治さずして、終に失せ給ひにけり。先言耳にあり、今以て肝心とす。
近く本朝に於いては、三条院の御時、典薬頭雅忠と云ふ医師ありき。癒し難き病をいやし、生き難き命を生きしかば、時の人、「薬師如来の化身か、はたまた耆婆が再誕か」と疑ふ。身は本朝に居ながら、名を唐朝に施しにけり。其の比、異国の后、悪瘡を煩ふ事歳久し。時に異国の名医等、医術を究め療治を致すと雖も効験なかりしかば、雅忠を渡さるべきの由、異国の牒状あり。本朝希代の勝事たるに依りて、公卿僉議度々に及ぶ。『凡そ大国の請に預る事、本朝の珍事、雅忠が面目也。然りと雖も、渡唐は全く然るべからず。夫医療に効験無くば、本朝の恥辱也。医療に得験有らば、大国の医道此の時に永く絶えぬべし。就中、他国の后死なむ事、本朝の為め何の苦しみか▼P1576(七〇ウ)有るべき』と、帥民部卿経信卿の意見に定め申されければ、「尤も」とて渡さるまじきに成りにけり。其の時、江中納言匡房卿、大宰権帥にて宰府に止住の間、僉議有るに依りて、上覧に及ばずして、私に返答有るべきの由仰せ下されければ、匡房、牒詩に云く
双魚未だ鳳池の波を達せず、〓鵲豈に鶴林の雲に入らんや
とかきて渡されにけり。凡そ此の条、和漢両朝の感歎ありけるとかや。但し、昔し仁徳天皇の第四御子、反正天皇崩御の後、允恭天皇未だ皇子にて御坐し時、久しく篤き疵をなやみ給ひけるを、群臣強ちに勧め申すに依りて、御即位有りけり。本朝の医師、術尽きにければ、其の後、御使を新羅国へ遣はして、彼の国の医師を迎へて御悩を治せさせ御▼P1577(七一オ)坐しけるに、程無くいえにければ、殊に是を賞ぜさせましまして返し送られにけり。是則ち、本朝第一の不覚、異朝無並の嘲〓也。彼の例を聞き及びて、異国よりも典薬頭雅忠をも渡さるべきの由、強ちに申し送られけると聞こえしかども、江中納言の計らひ申さるる旨、左右無かりければ、渡されずして止みにけり。
而るに今、重盛、苟しくも九卿に列し、三台に昇れり。其の運命をはかるに、以て天心にあり。何ぞ天心を察せずして、愚かに医療を労はしくせんや。況や所労若し定業たらば、療治を加ふとも益なからむ。所労若し非業ならば、治療を加へずとも助かる事を得べし。彼の耆婆が医術及ばずして、釈尊涅槃を唱へ給ひき。是則ち、定業の病を癒やさざる事を示さむが為也。治するは仏体也、療するは耆婆也。定業尚ほ医療にたらざる旨、既に明らけし。然れば▼P1578(七一ウ)重盛が身、仏体にあらず、名医又耆婆に及ぶべからず。設ひ四部書を鑑て百療に長ずと云へども、争か有待の依身を救療せむや。設ひ五経の説を詳かにして衆病を癒やすとも、豈に先世の業病を治せむや。若し又彼の治術に依りて存命せば、本朝の医道なきに似たり。若し又効験なくは面謁に所詮なかるべし。就中、重盛三台の崇班に居して専ら万代の政を助け、魚水の契約を結びて将に朝恩の波を練く。本朝鼎臣の外相を以て病床に臥しながら、異朝浮遊の来客にまみえむ事、且つは国の恥辱也、且つは道の陵遅也。設ひ命を亡ずるに及ぶとも、争か国の恥をば顧みざるべき。其の事努々有るべからず候ふ」と宣ひける上は、入道力及び給はず。
此の大臣、保元・平治両度の合戦には、命を捨てて防ぎ戦ひ給ひ▼P1579(七二オ)しかども、天命のおはする程は、矢にも中らず、剣にもかかり給はず。されども、運命限り有る事なれば、八月一日寅時に、臨終正念にして失せ給ひぬるこそ哀れなれ。
中にも北の方の御歎き、つきせずぞ覚えし。此の北の方と申すは、鎌足大臣の孫、参議正三位房前の大将よりは十一代の末葉、参議修理大夫家保の卿の嫡男、右衛門督家成卿の御娘、故中ノ御門の新大納言成親卿の御妹なり。相栖み給ひて後、年久し。君達あまたおはします。いづれもありつき給ひたれば、心安き御事にて過ごし給ひけるに、此の歎き、いつわするべしとも覚えず。山野の蹄、江海の鱗は、皆流転の間の父母、悉く生死の程の親族也。されども、天地の間には夫婦の情昵まじく、宇宙の中には男女の志し深し。同襟の契りは情け多生に亘り、一枕の語らひは昵び曩劫に在り。然るに、▼P1580(七二ウ)玉顔眼を閇ぢて、口に再び言ふこと無し。神魂身を去りて、家に更に返ること無し。千年の松蘿は一旦のすさみに色を変じ、万歳の交談は九泉の流れに袖を朽す。燕二つ羽を並ぶるを見るに付けても、弥よ亡夫の悲しみを増し、雁の雌雄林を翔けるを相見ても、常に寡婦の涙を流す。合裘の昔は千春顔を並べて南苑の花を翫び、別離の今は九野に骸を埋めて北芒の霞に迷ふ。徒然の余りに墳墓に行れば、松風扇て音一声、古人の声は鳴もせず。悲しみ悲しむで旧屋に返れば、領袖滴つて涙だ千行、幽霊の形は見え
ず。織女は猶し七夕の夜を待てば、恃むべし、勇むべし。去雁は又三陽の春を期すれば、見つべし、翫びつべし。但し人界の生は、一たび別れて後、再び会はず。大〓嶺の梅、霞に萎み、金谷薗の桜の▼P1581(七三オ)風に散り、をばすて山のあけぼの、あかしの浦の波の上だにも、余波は惜しき物ぞかし。まして年来すみなれ給ひし御なごり、押しはかられて哀れなり。
〔二十二〕 〔小松殿熊野詣の由来の事〕
抑も、此の大臣の熊野参詣の由来を尋ぬれば、夢故とぞ聞こえし。去んぬる三月三日夜の夢に、大臣、三嶋と思はしき霊験所へ詣で給へば、詣づれば右、下向すれば左手に、法師の頸を切りて、鉄のくさりを以て四方へつなぎたり。大臣、夢心に、「不思議の事哉。加様の精進の処に、かかる殺生なむどは有るまじきかなむど思ひたれば」と思し食して、社の方へ詣で給へば、衣冠正しき人々多く並居給へるに詣でて、「抑も此は何なる人の頸に候ふぞ」と問ひ奉り給ひければ、「此は、源頼朝が此の御前にて千日が間歎き申しし事が余りに不便なれば、汝が父大政入道浄海が頸を切りてつなぎたるぞ」と仰せらるると思し食せば、打ち驚きて夢さめぬ。
爰に源大夫判官季▼P1582(七三ウ)貞御前近く参りて申しけるは、「何事にて候ふやらむ、兼康が上に申し入るべき子細の候ふとて、参りて候ふ」と申しければ、大臣聞き給ひて、「哀れ妹尾は此の夢をみたるごさむなれ」と思し食して、「何事にて有るやらむ」とて、大口計りにてつと出で給へば、妹尾御耳にささやきて、「今かかる夢をみて候ふ」と、内府の御覧じたる夢に一字も違はず申したりければ、さればこそと思し食して、「こは不思議かな。されば平家の世は早末に臨めるにこそ。さても命ながらへて猥しき世をみむ事も口惜しかるべし。今は後世菩提の営みの外は他事やは有るべき」とて、熊野参詣の為に同じき四月廿八日より精進始めて、第五日と申す日、御はげの下に夢にみられし様なる法師の生かうべあり。〓子を立てたれば、大食ひて置くべき様なし。空より鳥の食ひて落すべき方もな▼P1583(七四オ)し。是則ち霊異也とて、今二日の精進をまたずして、同じき五月二日進発して、熊野山御参詣はありしなり。
〔二十三〕 〔小松殿大国にて善を修し給ふ事〕
惣じて此の大臣は、吾が朝の神明仏陀に財を投じ給ふのみに非ず、異朝の仏法にも帰し奉られけり。去んぬる治承二年の春の比、筑前守貞能を召して云ひ合はせられけるは、「重盛存生の時、吾が朝に思ひ出ある程の堂塔をも立てて大善をも修し置かばやと思ふが、入道の栄花、一期の程とみえたり。然れば、一門の栄耀尽きて当家滅びなむ後は、忽ちに山野の塵とならむ事の、兼ねて思ひ遣られて悲しければ、大国にて一善をも修し置きたらば、重盛他界の後までも退転あらじと覚ゆる也。貞能入唐して計らひ沙汰仕れ」と宣ひける。折節、博多の妙典と申しける船頭の上りたりけるを召して、内大臣の知り給ひける奥州気仙ノ郡より年▼P1584(七四ウ)貢に上りたる金を二千三百両、妙典に賜りて宣ひけるは、「此の金、百両をば汝に与ふ。二千二百両をば大唐に渡して、二百両をば生身の御舎利のおはします伊王山の僧徒に与へて、長老禅師の請取を取り進らすべし。残り二千両をば大王に献りて、彼の寺へ供田を寄せて給はるべしと奏せよ」とて、状を書きて妙典に給はりけり。妙典金を給はりて、怱ぎ入唐して、此の由を大王に奏して、送り文を奉る。大王彼の状を叡覧あり。其の状に云はく、
施入し奉る、年来帰依の霊像一鋪、
自筆の一部十巻の法花妙典を彫写し、
墨色に模せんが為の懇志の黄金千裹
夫以るに、弟子則ち分段易往の仙座に日域衰世の軍勇を稟く。▼P1585(七五オ)爰に家門走倨の台に親昵し、歳齢既に旧り、生涯過ぐるを歎く。年に歩りて家に須へ、万障〓の変を抛つ。当朝の試ゐるところ、闘戦年を畳ねて双臣を襲へども、法悦を障げて、恚り目を畳ねて滋茂す。予て憖に夢中の夢、常悟の思ひ頻りに催す。茲に因りて、或は迷色秦衢の資糧に中て、或は声志の丹誠を伝へんが為に、渇仰して所持するところの仏経を伊王山上に施入し、狭量一裹の千金を異朝の座下に投じ奉る。如何せん、武民の嶮愚、当家貧にして、莫大の恣贈乏しきに似たるを。乞ふらくは、予て愁棘之儀を察し、〓送之疎を夭すること勿れとのみ。此の微望によりて、名を永代に刻み、胸短の慮の者、未だ貌の明らかならざる者に於てす。弟子啓する所、件の如し。
治承三年四月日 日本国大将軍平朝臣重盛
とぞ書きたりける。大王随喜に堪へず、「日本の臣下として我が国に志の深き事▼P1586(七五ウ)へし」とて、彼の寺の過去帳に書き入れ、今に至るまで「大日本国武州天守平重盛神座」と、毎日によまれ給ふなるこそゆゆしけれ。実の賢臣にておはしつる人の、末代に相応せで、とく失せ給ひぬる事こそ悲しけれ。
さても入道の歎き、申すも愚也。誠にさこそはおぼしけめ。親の子を思ふ習ひ愚かなるだにも悲し。況や当家の棟梁、当世の賢人にておはせしかば、恩愛の別れと云ひ、家の衰微と云ひ、悲しみても余りあり。されば入道は、「内府が失せぬるは、偏へに運命の末になりぬるにこそ」とて、万づあぢきなく、争も有りなむとぞ思ひなられにけり。
およそ此の大臣、文章うるはしくして、心に忠を存じ、才芸正しくして、詞に徳を兼ねたり。されば、世には良臣失せぬる事を愁へ、家には武略のすたれぬる事を歎く。心あらむ人、誰か嗟歎せざらむ。「彼の唐の▼P1587(七六オ)太宗文皇帝は異朝の賢王也。徳五帝にこえ、明三皇に同じ。されば、唐尭、虞舜、夏の禹、殷の湯、周の文武、漢の文景也と云へども、皆逮ばざるところなり」と、ほめ申す。御宇廿三年、徳の政ごと千万端。君臣父子の道、此の時天下盛也。四海八〓の外までも徳化に帰せずと云ふ事なし。御才五十三と申す貞観廿三年五月廿六日、合風殿にして崩じ給ふ。かかる賢君にておはしませど、天命の限りある事をさとり給はずして、御命を惜しみ給ひけるにや、天竺の梵僧にあはせ給ひて、頻りに療養を加へ給ふ。霊草秘石、神薬として服し給ふといへども、仁山遂に崩れき。未薬に伝はる所、太宗の一失とぞ申す。傍ら異朝上古の明王の叡念を承るにも、本朝末代の良臣の賢さは遥かに猶勝れたり。
〔二十四〕 〔大地震の事〕
▼P1588(七六ウ)十一月七日の申剋には、南風にわかにふきいで、碧天忽にくもれり。万人皆怪しみをなす処に、将軍塚鳴動する事、一時の内に三反也。五畿七道ことごとく肝をつぶし、耳を驚さずと云ふ事なし。後に聞こえけるは、初度の鳴動は、洛中九万余家に皆聞こゆ。第二の鳴動は、大和山城和泉河内摂津難波浦まで聞こえけり。第三の鳴動は、六十六ヶ国に皆聞こえざる所更になし。昔しより度々の鳴動其数多しといへども、一時に三度の鳴動、此ぞ始めなりける。「東は奥州のはて、西は鎮西・九国まで鳴動しける事も先例希也」とぞ、時の人申しける。おびたたしなども申せば中々おろかなり。
同日の戌時には、辰巳の方より地震して、戌亥の方へ指して行く。此も始めには事もなのめ▼P1589(七七オ)なりけるが、次第につよくゆりければ、山は崩れて谷をうめ、岸は破れて水を湛へたり。堂舎・坊舎・山水・木立・築地・はたいた、皇居まで安穏なるは一もなし。山野のきぎす、八声の鳥、貴賎上下の男女皆、「上を下に打ち返さむずるやらん」と、心うし。山河おつるたきつせに、棹さしわづらふ筏しの乗りもさだめぬ心地して、良久しくぞゆられける。
八日早旦に、陰陽頭泰親院、御所へ馳せ参りて申しけるは、「去んぬる夜の戌時の大地震、占文なのめならず。重く見え候ふ。二議の家を出でて専ら一天の君に仕へ奉り、楓葉の文に携はりて更に吉凶の道を占ひしより以来、此程の勝事候はず」と奏しければ、法皇仰せの有りけるは、「天変地夭、常の事なり。然れども今度の地震強ちに泰親が騒ぎ申すは、殊なる勘文のあるか」と御尋ね有りければ、泰親重ねて奏し▼P1590(七七ウ)申して云はく、「当道三貴経の其の一、金貴経の説を案じ候ふに、「年を得て年を出でず、月を得て月を出でず、日を得て日を出でず、時を得て時を出でず」と申し候ふに、是は「日を得て日を出でず」と見えたる占文にて候ふ。仏法・王法、共に傾き、世は只今に失せ候ひなむず。こはいかが仕り候はむずる。以ての外に火急に見え候ふぞや」と申して、やがてはらはらと泣きければ、伝奏の人もあさましく思ひけり。君も叡慮を驚かしおはします。公家にも院中にも御祈り共始め行はれけり。されども、君も臣も、「さしもやは」と思し食しけり。若殿上人なむどは、「けしからぬ陰陽頭が泣き様かな。さしも何事かは有るべき」なむど、申しあはれけるほどに、
〔二十五〕 〔太政入道朝家を恨み奉るべきの由の事〕
十四日、大相国禅門、数千の軍兵を相具して、福原より上り給ふとて、京中なにと聞き別きたる事はなけれども、何なる事の有らむずるやらむとて、高きも▼P1591(七八オ)賎しきもさわぎける程に、入道、朝家を恨み奉るべきの由、披露をなす。上下万人、こはいかにとあきれ迷へり。関白殿も内々聞し食さるる事や有りけむ、御参内ありて、「入道相国入洛の事は、偏に基房を滅ぼすべき結構と承り候ふ。いかなる目をか見候はむずらむ」とて、よに御心細げに奏せさせ給へば、主上も以ての外に叡慮を驚かさせおはします。「大臣のいかなる目をも見られむは、偏に丸が身上にてこそあらめ」とて、御涙ぐませ給ふぞかたじけなき。誠に天下の政は主上摂禄の御計らひにてこそ有るべきに、たとひ其の儀こそなからめ、いかにしつる事共ぞや。天照大神・春日大明神の神慮も測りがたし。
二十六 〔院より入道の許へ静憲法印遣はさるる事〕
十五日、入道朝家を恨み奉るべき由、必定と聞こえければ、法皇、静憲法印を以て御使として、入道の許へ仰せ遺されけるは、「凡そ近年朝庭しづ▼P1592(七八ウ)かならずして、人の心調ほらず。世間落居せぬ有様になり行く事、惣別に付けて歎き思し召さるといへども、さてそこにおはすれば、万事憑み思し食されてこそ有るに、天下を鎮むるまでこそなからめ、事にふれて嗷々なる体にて、剰へ又丸を怨むべしと聞こゆるはいかに。こは何事ぞ。人の中言か。此の条、太だ穏便ならず。何様なる子細にてさやうには思ふなるぞ」と仰せ遣さる。法印、院宣を奉りて渡されけり。
入道出で合はれざりければ、入道の侍、源大夫判官季貞を以て院宣の趣を云ひ入れて、御返事を相待たれけれども、暮に及ぶまで無音なりければ、さればこそと無益に覚えて、季貞を以て罷り返りぬる由を云ひ入れられたりければ、子息左兵衛督知盛を以て、「院宣畏まりて承り候ひぬ。自今以後は、入道においては、院中の宮仕へは思ひ止まり候ひ▼P1593(七九オ)ぬ」とばかりいはれけるが、さすが入道いかが思はれけむ、法印の帰られけるを見給ひて、「やや、法印御房、申すべき事あり」 と宣ひて、中門の廊に出で合ひて宣ひけるは、「先づ故内府が身まかり候ひぬる事、只恩愛の別れの悲しきのみにあらず、当家の運命を量るに、入道随分に悲涙を押さへて罷り過ぎ候ふ。今日とも明日ともしらぬ老の波にのぞみて、かかる歎きにあひ候ふ心の中をば、いかばかりとかは思し食され候ふ。されども、法皇聊も思し食し知りたる御気色にて候はぬ由、漏れ承り候ふ。且は御辺の御心にも御推察候へ。保元以後は乱逆打ち連きて、君安き御心もおはしまし候はざりしに、入道は只大方を執り行ふ計りにてこそ候ひしか、内府こそ正しく手を下し、身を砕きたる者にては候へ。されば、万死に入りて一生を得たる事も度々な
りき。其の外、臨時の御大事、朝▼P1594(七九ウ)夕の政務に至るまで、君の御為に忠を致す事、内府程の功臣は有り難くこそ候ふらめ。
爰を以て昔を思ひ合はせ候ふに、彼の唐の太宗は、魏徴におくれて悲しみの余りに、「昔の殷宗は良弼を夢中に得、今の朕は賢臣を覚めての後に失ふ」と云ふ碑の文を手づから書きて、廟に立ててこそ悲しみ給ひけれ。鬢を切りて薬に灸り、疵を〓りて血を喰ふは、君臣の徳也。目近くは正しく見候ひし事ぞかし。顕頼の民部卿逝去したりしをば、故院殊に御歎きありて、八幡御幸延引し、御遊を止められき。忠定宰相闕国の時、是も故に御歎き深かりしかば、忠定伝へ承りて老の涙を催しき。都て臣下の卒する事をば、代々の君、皆御歎きある事にて候ふぞかし。さればこそ、『父よりもなつかしながら怖しく、母よりも昵じくして怖しきは、君と▼P1595(八○オ)臣との中』とは申し候へ。
其に内府が中陰に、八幡へ御幸有り、御遊ありし上、鳥羽殿にて御会有りき。御歎きの色、一事も是を見ず。且は人目こそ恥かしく候ひしか。縦ひ入道が歎きを哀れませ御しまさずと云ふとも、などか内府が忠を思し召しわするべき。又内府が忠を思し召しわするる御事なりとも、などか入道が歎きをば哀れませおはしまさざるべき。父子共に叡慮に叶はざりけむ事、今に於ては面目を失ふ。是一つ。次に、中納言の闕の候ひしに、二位中将殿の御所望候ひしを入道再三執り申し候ひしに御承引なくて、摂政殿の御子三位の中将をなし奉られ候ひし事はいかに。縦ひ入道非拠を申し行ひ候ふとも、一度はなどか聞こし食し入れられ候はざるべき。申さむや、家嫡と云ひ、位階と云ひ、方々理運左右に及び候はざりしを引き替へられまゐらせ候ひし事は、▼P1596(八○ウ)随分本意無き御計らひかなとこそ存じ候ひしか。是二つ。次に、越前国を重盛に給ひ候ひし時は、子々孫々までとこそ御約束候ひしに、死にはつれば召し返され候ふ事、何の過怠に候ふぞ。是三つ。次に、近習の人々皆以て此の一門を滅すべき由を計らひ候ひけり。是私の計らひにあらず、御許容有りけるに依りてなり。事新しき申し事には候へども、縦ひいか
なる誤り候ふとも、争か七代までは思し食しすてられ候ふべき。其に入道既に七旬に及びて、余命幾くならぬ一期の中にだにも、動もすれば失はれ奉るべき御謀で候ふ。申し候はむや、子孫相継ぎて、一日片時召し仕はれむ事難し。凡そは老いて子を失ふは、枯木の枝なきにてこそ候へ。内府におくるるを以て、運命の末に臨める事、思ひ知られ候ひぬ。天気の趣きあらはなり。縦ひいかやうなる奉公を致すとも、叡慮に応ぜむ▼P1597(八一オ)事よも候はじ。此の上は、幾くならぬ老いの身の心を費して何とはし候ふべきなれば、とてもかくても候ひなむと思ひ成りて候ふなり」なむど、且は腹立し、且は落涙して、かきくどき語られければ、法印、哀れにもおそろしくも覚えて、汗水になられにけり。
「其の時は、誰人なりとも三日の返事にも及びがたかりし事ぞかし。其の上、我が身も近習の身也。成親卿已下はかりし事共は、正しく見聞きし事なれば、我が身も其の人数とや思ひけがさるらむなれば、只今も召し籠めらるる事もや有らむずらむ」と、心中にはとかく案じつづけられけるに、龍の鬚をなで、虎の尾をふむ心地せられけれども、法印もさる人にて、さわがぬ体にて答へられけるは、「誠に度々の御奉公浅からず。一旦恨み申させおはします、其の謂はれ候ふ。但し官位と云ひ俸禄と云ひ、御身に取りては悉く満足す。是既に勲功の▼P1598(八一ウ)莫大なる事を感じ思し食す故とこそ見えて候へ。而るを近臣事をはかり、君御許容ありなむど云ふ事は、偏へに謀臣の凶害と覚え候ふ。耳を信じて目を疑ふは俗の蔽なり。小人の浮言を信じて、朝恩他に異なる君を怨み奉りましまさむ事、冥顕に付けて其の憚り少からず。凡そ天心は蒼々としてはかりがたし。叡慮定めて其の由候ふらむ歟。下として上に逆ふらむ事は、豈に人臣の礼たらむや。能々御思惟候ふべし。不肖の身にて御返報に及び候ふ条、其の恐れ少なからず候へども、此は上に御あやまりなき事を、あしざまに申す人の候ひけるを陳じ開きて、御鬱念
を謝し候ふべく候ふ。貞観政要の裏書に申して候ふぞかし。『仙源澄めりと雖も烏浴流れを濁す』とて、仙宮より出でたる河、仙薬なるが故に、下流を汲む者、命必ず長命也。但し其の河の中間に隠るる山鳥、▼P1599(八二オ)其の流れを沐ぶる時、水忽ちに変じて毒となれり。其の様に、法皇の明徳は仙水たりといへども、執り申す者下流を濁して、あしざまに入道殿に申して候ふと覚え候ふ。ゆめゆめ御恨みあるまじき御事にて候ふ也。其の八幡宮の御幸は哀れなる御事にてこそ候ひしか。其の故は、『あへなくも重盛に後れぬる事、丸一人が歎きのみにあらず。臣下卿相、誰か歎きとせざらむや。金烏西に転じて一天に雲くらく、邪風頻りに戦ひて四海しづかならず』と御定め候ひて、日々夜々の御歎き、今に未だ浅からず。『臨終いかが有りけむ』と御尋ね候ひしかば、或る人、『其の病患は、世の常の所労にては候はざりき。熊野権現に申し請けて給はる悪瘡にて候ひける間、瘡のならひ、臨終正念みだれず二羽合掌の花うるはしくして、十念称名の声たへず、三尊来迎の雲聳きて、九品蓮台に往生すとこそみえて▼P1600(八二ウ)候ひしか』と申して候ひしかば、龍顔に御涙をながさせ給ふのみならず、宮中皆袖
をしぼられ候ひき。当時までも、折に随ひ事に触れては、御歎きの色ところせくこそみえさせ給ひ候へ。さて、院の仰せには、『それこそ何事よりも歎きの中の悦びよ。心肝に銘じてうらやましき物は、只往生極楽の素懐也。丸も熊野に参詣して祈り申したけれども、道の程遥か也。同じ西方の弥陀にておはしませば、八幡宮に参詣して申さばやと思し食す也。且は内府のため、毎日に祈念する念仏読経の廻向も、清浄の霊地にしてこそ金をもならさめ』とて、七日の御参籠候ひき。此則ち内府幽儀の得脱、大相国の御面目、何事か此にすぎ候ふべき。されば御中陰はて候ひなば、怱ぎ御院参候ひて畏りをこそ申させ給はざらめ、御遺恨にや及ぶべき。▼P1601(八三オ)仙桃の水清けれども烏浴流れをにごすと申すたとへ、少しも違ひ候はず」と申されければ、入道、立腹の人の習ひ、心まことに浅くして、袖かき合はせてさめざめとぞ泣き給ひける。
「次に臨時の祭の御事は、此又龍楼鳳闕の御祈祷にては候はざりき。其の故は、過ぎ候ひし比、八幡宮に怪異頻りに示し候ひけるを、別当大に惶れて護法を下しまゐらせて候ひけるに、御詫宣の候ひけるは、
『春風に花の都はちりぬべしさかきのえだのかざしなくては
畿内近国闇となりて九民百黎山野に迷ふべし』と仰せ候ひけるを、法皇大いに驚き思し食されて、諸の臣下卿相、息災延命、洛中上下、五畿七道、国土安穏、天下泰平のために、三日三ヶ夜の御祈祷也。此又貴殿の御祈祷に非ずや。故内府は、大国まで聞こえおはしましし賢臣▼P1602(八三ウ)也。されば、常には『国土安穏、人民快楽』と祈らせ給ひし事なれば、草の影にても、小松殿さこそ悦びましましけめ。此の上、猶々御不審候はば、八幡の別当に御尋ね候ふべし。次に越前国を召され候ひけむ事は、未だ承り及び候はず。公も未だ知ろし食さざるにや。怱ぎ奏聞仕りて、若し子細候はば、追つて申し候ふべし。次に二位中将殿の御所望の事は、入道殿の御子孫にても渡らせ給はず。其の上関白殿の御計らひをば、誰か歎き申すべき。縦ひ又一度は公の御あやまり渡らせ給ふとも、臣以て臣たらずと申す本文も候ふぞかし。詮じ候ふ所、只こざかしき申し状にては候へども、追つて御奏聞有るべく候ふ今は暇申して」とて、立ち給ひにけり。
入道高らかに、「院宣の御使也。各々皆礼儀仕るべし」と宣ひければ、八十余人候ひける人々、一同に皆庭に下りて門送す。法印いとさ▼P1603(八四オ)わがぬ体にて、弓杖三杖ばかり歩み出でて立ち帰り、深く敬崛す。良久しく立ち向かひておはしけるあひだ、「さのみは恐れ候ふ」とて、八十余人、皆縁のきはに立ち帰る時、法印あゆみ出でられにけり。美々しくぞ見えたりける。或る本文に云はく、「君王国を治め、忠臣君を扶く。船能く棹を載せ、棹能く船を遣る」と云へり。此の言思ひ合はせられて哀れ也。「静憲法印、忠臣として能く君を扶け奉り給ひぬる事にこそ。神妙なれ」とて、口々に皆感じあへり。肥後守貞能是を見て、「穴怖しや。入道殿のあれ程に怒り給ひて宣はむには、我等ならば院の御所に有る事無き事、ことよし事申し散らして出でなまし。少もさわがぬ景気にて、返事打ちして立たるる事よ」と、季貞已下の者共是を聞きて、「さればこそ、院中に人々其の数多しと云へども、其の中に僧なれどもえらばれて御使ひにも立つらめ」▼P1604(八四ウ)とぞ、各申しける。
比は十一月十五夜の事也。法印は西八条の南門より出で給へば、明月の光は東山の嶺、松の木の間よりぞ出で相ひ給ける。法印の胸の中なる仏性の月は、三寸の舌のはしにあらはれて、入道殿の心中の闇をてらし、仲冬三五の夜はの月は、光明々として法印の帰車の前後をかかやかす。心の月もくまもなく、深け行く空の皓月の光も明らか也。法印車に乗りてければ、牛飼怱ぎ車をやらむとす。法印宣ひけるは、「草しばらくおさへよ。夜陰のありきは路次狼籍也。迎への者共を待つべし」とて、下簾かかげたり。明月の光は物見よりぞ差し入りける。法印の皃、愛々としてきよげなり。今宵の月のくまなきに、旧詩を思ひ出でて、
酔はずは黔中に争か去り得ん、摩囲山の月正に蒼々たり。
▼P1605(八五オ)誰人か隴外に久く征戎し、何れの処の庭所に新たに別離せん。
と詠じはてざる処に、迎への者共出で来たり。「たれたれ参りたるぞ」と尋ぬれば、金剛左衛門俊行・力士兵衛俊宗、烏黒なる馬に白覆輪の鞍置きて、御綾の直垂の下に糸火威の腹巻、月の光に映じて合浦の玉をみがけるが如し。一夜叉・龍夜叉とて、大の童のみめよきが、重目結の直垂に菊閉して下腹巻に征矢負ひたり。上下のはずにつの入れたる、しげどうの弓をぞ持ちたりける。法師原には金力・上一・上慢・金幢・他聞・角一・夜叉門法師、下僧七人参りたり。此等も皆、黒革威の腹巻に手鉾・なぎなた・太刀なむどさげたり。此の静憲法印は、内典外典の学生、是非分明の才人也。院内の御気色は諸臣肩並ぶる人なし。万人の仰崇する事は、緇素の中には▼P1606(八五ウ)類なし。綺羅誠に神妙にして、従類多く人にすぐれたり。召し仕ふほどの者は、みな十二三才の小童部、法師原に至るまでも、能も賢く、力もつよかりけり。中にも金剛左衛門・力士兵衛尉は、世に聞こえたる大力とぞ聞こえし。
さても法印帰参して、太政入道の御返事の様、委しく奏せられければ、誠に入道の恨み申す所一事として僻事なく、道理至極して思し食されければ、法皇更に仰せられ遣りたる御事もなくして、「こはいかがせむずる。猶々も法印誘へてみよ」とぞ、仰せ事ありける。
二十七 〔入道卿相雲客四十余人解官する事〕
十六日、入道朝家を恨み奉るべき由聞こえけれども、さしもの事やは有るべきと思し食されけるほどに、関白殿御子息、中納言師家を始め奉りて、大政大臣師長公、按察大納言資賢已下の卿相雲客、上下北▼P1607(八六オ)面の輩に至るまで、都合四十二人、官を止めて追ひ籠めらる。其の内、参議皇后宮権大夫蔵人頭兼右近衛督藤原光能卿、大蔵卿右京大夫伊与守高階泰経朝臣、蔵人左少弁兼権大進藤原基親朝臣、已上三官三職共に止めらる。按察大納言資賢卿、中納言中将師家卿、右近衛権少将兼讃岐権守資時朝臣、皇大后宮権少進兼備中守藤原光憲朝臣、已上二官を止めらる。其の中に、関白殿をば大宰帥に遷して筑紫へ流し奉られけるこそあさましけれ。「かかるうきよにはとてもかくても有りなむ」と思し食しける上、御命さへあやふく聞こえければ、鳥羽の古河と云ふ所にて、大原の本覚上人を召して御ぐしおろさせ給ひにけり。御年三十五、世の中盛りとこそ思し食されけれ。「礼義よく知ろし食して、▼P1608(八六ウ)くもりなき鏡にて渡らせ給ひける物を」と、世の惜しみ奉る事なのめならず。出家の上は一等をだにも減ぜらるる事なれば、始めは日向国と聞こえしかども、出家人は本定まりたる国へは
趣かぬ事なれば、備前国ゆばさまと云ふ所にぞ留め奉りける。
大臣流罪の例を尋ぬるに、蘇我左大臣赤兄公、右大臣豊成公、左大臣兼名公、菅原右大臣〈今の北野天神御事也〉、左大臣高明公、内大臣伊周公に至るまで、其の例既に六人なりと云へども、忠仁公・昭宣公より以来、摂政関白の流罪せられ給ふ事、是ぞ始めなりける。故中殿基実公の御子、二位中将殿基通公と申すは、今の近衛入道殿下の御事也。其の時、大政入道の御聟にておはしけるを、一度に内大臣関白になし奉ると聞こゆ。円融院の御宇、天禄三年十一月一▼P1609(八七オ)日、一条摂政伊尹公謙徳公、御年四十九にて俄に失せさせ給ひたりしかば、御弟の堀川関白兼通忠義公、従二位中納言にて渡らせ給ひけるが、大納言を経ずして、御弟の法興院の入道殿大納言大将にて渡らせ給ひけるが、先に越えられさせ給ひけるを、越え返し奉りて、内大臣正二位にあがらせ給ひて、内覧の宣旨を蒙せおはしましたりしをこそ、時の人目を驚かしたる御昇進と申ししに、是は其にも猶超過せり。非参議にて二位中将より宰相大納言大将を経ずして大臣関白に成り給へる例、是や始めなるらむ。されば、大外記、大夫史、執筆の宰相に至るまで、皆あきれたる体也。大方高きも卑しきも、是非に迷はぬは一人もなかりけり。去々
年の夏、成親卿父子、俊寛僧都、北面の下臈共が事に逢ひしをこそ、あさましと君も思し食し、人も思ひしに、▼P1610(八七ウ)是は今一きはの事なり。
されば、「是はなに事故ぞ。穴倉なし。此の関白にならせ給へる二位中将殿の、中納言に成り給ふべきにてありけるを、前の関白殿の御子、三位中将師家とて、八才に成給へりしが、そばより押ちがへて成り給へる故」とぞ申しけれども、「さしもやは有るべき。さらば、関白殿ばかりこそ、かやうの咎にもあたり給はめ。四十余人までの人の事に逢ふべしや。いかさまにも様あるべし」とぞ申しあへりける。天魔外道の、入道の身に入り替はりにけるよとぞみえける。
人の夢にみけるは、讃岐院御幸ありけるに、御共には宇治の左のおとど、為義入道など候ふなり。院の御所へ入御有らむとて、先づ為義を入れられてみせられければ、いそぎ罷り出でて、「此の御所には御行ひまなく候ふ也。其の上、只今も御行法のほどにて候ふ」と申しければ、「さては▼P1611(八八オ)叶はじ」とて還御あるに、為義申しけるは、「さ候はば、清盛が許へ入らせ給へ」と申しければ、それへ御幸なりけるとみたりけるとかや。さればにや、君をもあしく思ひまゐらせ、臣をもなやまし給ふらむ。まことにこの夢思ひ合はせらるる入道の心中也。但し、御共に宇治の左のおとどの候ひ給はむには、太政大臣、憂き御目を御覧ぜさせ給ふべしや。心に入りかはり給はんにも、此の御事計りをば、よきやうにこそ入道も計らはれむずれ。これ計りぞ心得がたき。
人は高きも賎しきも、信は有るべき事なり。法皇は常に御精進にて、御行ひまなきによりて、悪魔も恐れ奉りけり。入道は、若くしては信もありて、保元の合戦の時も 「朝日に向かひてはいくさせじ」とたてられたりけるが、其の後は余りに朝恩にほこりて、信も闕け給へり。富みておごらざる者なしと云ふ事は、此の入道の有さまにてぞ有るべ▼P1612(八八ウ)きと、今こそ思ひ合はせけれ。凡そは人の至りて栄えて心のままなるも、其の孫絶えはてぬべき瑞相なりと心得て、能々慎むべき事なり。
按察大納言資賢卿、同じき子息左少将資時、同孫少将雅賢、已上三人をば、京中を追ひ出ださるべき由、藤大納言実国卿を上卿として、博士判官中原章貞を召して宣下せらる。いづくを定むともなく、都の外へ追はれけるこそ悲しけれ。中有の旅とぞ覚えける。官人来たりて追ひければ、怖しさの余りに物をだにも宣ひおかず、孫子引き具して怱ぎ出で給ふ。北方より始めて、女房侍、をめきさけぶ事おびたたし。三人涙にくれ給ひて、行く先もみえねども、其の夜中に九重の中をまぎれ出でて、八重立つ雲の外へぞ思ひ立たれける。西朱雀より西を指して、大江山生野の道を経つつ、丹波国▼P1613(八九オ)村雲と云ふ所に暫くやすらひ給ひけるが、後には信濃国に落ち留まり給ふとぞ聞こえし。此の卿は、今様朗詠の上手にて、院の近習、当時の寵臣にておはせしかば、法皇も諸事内外無く仰せ合はれける間、入道殊にあたまれけるにや。
二十八 〔師長尾張国へ流され給ふ事 付けたり師長勢田に参り給ふ事〕
太政大臣は、同十七日、都を出で給ひて、尾張国へ流され給ふとぞ聞こえし。此の大臣は、去んぬる保元々年七月、父宇治悪左府の事に逢ひ給ひし時、中納言中将と申して、御歳十九歳にて、同八月、土佐国へ流され給ひたりしが、御兄の右大将隆長朝臣は、帰京をまたず配所にて失せ給ひにき。是は九年を経て、長寛二年六月廿七日、召し返され給ひて、同十月十三日、本位に補して、永万元年八月十七日、正二位に叙せらる。仁安元年十一月五日、前中納言より権大納言に移り給ふ。折節大納言あかざりければ、数の外にぞ▼P1614(八九ウ)加はり給ひける。大納言の六人になる事、是より始まれり。又、前中納言より大納言に移る事、後山科大臣三守公、宇治大納言隆国の外は先例希也とぞ聞こえし。管絃の道に達して、才芸人に勝れて、君も臣も重くし奉り給ひしかば、次第の昇進滞らず、程無く太政大臣にあがらせ給へりしに、「いかなる先世の御宿業にて、又かかるうき目に遇ひ給ふらむ」とぞ申しける。保元の昔は西海土佐国に遷り、治承の今は東関尾張国へ趣き給ふ。本より罪なくして配所の月を見むと云ふ事は、心有るきはの人の願ふ事なれば、大臣敢へて事ともし給はず。
十六日の暁方、山階まで出だし奉る。同十七日の朝、暁ふかく出で給へば、合坂山に積る雪、よもの梢も白くして、有あけの月ほのかなり。哀猿空にをとづ▼P1615(九〇オ)れて、遊子残月に行きけむ寒谷の関、思ひ出でらる。昔延喜第四の宮蝉丸の、琵琶を弾じ和歌を詠じて、嵐の風を凌ぎつつ住み給ひけむ藁屋の、心細く打ち過ぎて、打出浜、粟津原、未だ夜なればみえわかず。抑も天智天皇の御宇、大和国明日香の岡本の宮より当国しがの郡に移りて、大津の宮を作られたりけりと聞くにも、此の程は皇居の跡ぞかしと哀れ也。あけぼのの空になり行けば、せたの唐橋渡る程に、水海遥かに顕はれて、彼の満誓沙弥がひらの山に居て、「漕ぎ行く船」と詠めけむ、あとの白波哀れなり。
野路の宿にもかかりぬれば、かれ野の草に置ける露、日影に解けて旅衣かはくまもなくしほれつつ、篠原東西へ見渡せば、遥かに長き堤みあり。北には郷人栖をしめ、南に池水遠く澄めり。遥かにむかへの岸の水陸には、みどり▼P1616(九〇ウ)深き十八公、白波の色に移りつつ、南山の影をひたさねども、青くして滉瀁たり。洲前にさわぐをしがもの、あしでを書ける心地して、都を出づる旅人の、此の宿にのみ留まりしが、打ち過ぐるのみ多くして、家居も希になり行けり。是を見るに付けても、「かはりゆく世の習ひ、あすかの河の淵瀬にもかぎらざりき」と哀れなり。
鏡の宿にもつきぬれば、「昔翁の給ひ合ひて、『老いやしぬる』と詠めしも、此の山の事なりや」と、借りたくは思へども、むさ寺にとどまりぬ。まばらなる床の冬の嵐、夜ふくるままに身にしみて、都には引き替はりたる心地して、枕に近き鐘の音、暁の空に音信れて、彼の遺愛寺の草の庵りのねざめもかくやと思ひしられ、がまうのの原打ちすぐれば、おいその森の杉村に、四方もかすかにかかる雪、朝立つ袖にはらひあへず。おとにきこえしさめがゐの、▼P1617(九一オ)闇き岩根に出づる水、水辺氷あつくして、実に身にしむ計りなり。九夏三伏の夏の日も、斑〓婦が団雪の扇ぎ、巌泉に代る名所なれば、玄冬素雪の冬の空、月氏雪山の辺なる無熱池を見る心地する。
柏原をもすぎぬれば、美乃国関山にかかりぬ。谷川雪の底に音むせび、嶺嵐松の梢にしぐれて、日影も見へぬ打ち下り道、心細くも超えすぎぬ。不和の関屋の板びさし、年経にけりと見置きつつ、杭瀬川に留まり給ふ。夜ふけ人定まれば、霜月廿日に及ぶころなれど、皆白たへの晴の空、清き河瀬にうつろひて、照る月浪も澄み渡り、二千里の外の故人の心も思ひやり、旅の空いとど哀れに思ひなし、尾張国井戸田の里に着き給ひぬ。彼の唐の太子賓客白楽天、元和十五年の秋、九江郡の司馬に▼P1618(九一ウ)左遷せられて、尋陽の江の口りに馳騁し給ひける、古きよしみを思ひ遣りて、塩干方、塩路遥かに遠見して、常は浪月を臨み、浦風に嘯きつつ、琵琶を弾じ詩歌を詠じて、等閑に日を送り給へり。
或る夜、当国第三の宮、熱田の社に参詣あり。歳経たる森の木の間より、もりくる月の指し入りて、〓の玉垣色をそへ、和光利物の庭に引く、示索の風に乱れ、何事に付けても神さびたる景気なり。有る人云はく、「此の宮と申すは、素盞烏尊是なり。始めは出雲国に宮造りありき。八重立つと云ふ卅一字の詠、此の御時より始まれり。景行天皇御宇、此の砌に跡を垂れ給へり」と云へり。師長、神明法楽の為に琵琶を弾じ給ひけるに、所元より無智の俗なれば、情をしれる人希也。邑老、▼P1619(九二オ)村女、漁人、野叟、頭をうなだれ、耳を峙つと云へども、更に清濁を分かち、呂律をしれる事なし。されども、瓠巴琴を弾ぜしかば魚鱗をどりほとはしり、虞公歌を発せしかば梁塵動きうごく。物の妙なるを極むる、自然に感を催す理にて、満座涙を押さふ。其の声〓々竊々として、又錚々たり。大絃小絃の金桂のあやつり、大珠小珠の玉盤におつるに相似たり。調弾する数曲を尽くし、夜漏深更に及びて、「願はくは今生世俗文字の業」と云ふ朗詠と、「風香調の中に花芳複の薫りを含み、流泉の曲の間に月清明の光明らかなり」と云ふ朗詠とを両三返せられけるに、神明感応に堪へず、宝殿大いに震動す。衆人身の毛竪
ちて、奇異の思ひをなす。大臣は、「平家のかかる悪▼P1620(九二ウ)行を至さざらましかば、今此の瑞相ををがまましやは」と、且は感じ、且は悦び給ひけり。
或る時又、徒然の余りに宮路山に分け入らせ給ふ。比は神無月廿日余りの事なれば、梢まばらにして、落葉路を埋み、白霧山を隔てて、鳥の一声幽か也。山又山を重ぬれば、里を返り見し、とぼそもへだたりぬ。後は松山峨々として、白石の滝水漲り落つ。則ち石上に流泉の便りを得たる勝地なり。苔石面に生ひて、上絃の曲を調べつべし。岩上に唐皮の打敷、紫藤のこうの御琵琶一面、御随身有りけるを、滝に向けて御膝の上にかきすゑ、撥を取り、絃を打ち鳴らし給ふ。四絃弾の中には宮商弾を宗とし、五絃弾の中には玉商弾を先とす。軽く〓へ、慢く撚り抹ひて復挑す。初めは霓▼P1621(九三オ)裳を為し、後には大絃〓々として急雨の如し。小絃竊々として秘語に似たり。第一第二の絃は索々たり。春の鴬間関として、花の底に滑らかなり。第三第四の絃の声は竊々たり。寒泉幽咽して氷の下に難まし。大珠小珠の玉盤に落つる音、金桂のあやつり、鳳凰・鴛鴦の和鳴の声を副ずと云へども、事の体、山神感を垂れ給ふらむと覚えたり。さびしき梢なれども、葱花啄木は暗に玲瓏の響きを送る。其の時、水の底より青黒色の鬼神出現して、膝拍子を打ちて、御琵琶につけてうつくしげなる声にて笙歌せり。何者のし態なる
らむと穴倉なし。曲終はれり。弾を払ひ撥を納め給ふ時、鬼神申して云はく、「吾は此の水の底に多く年月をすごすと云へども、未だかかる目出たき御事をば承らず。此の御悦びには、▼P1622(九三ウ)今三日の内に御帰洛のあらむずるなり」と申しもはてねば、かきけつやふに失せにけり。水神の所行とは一じるし。此の程の事を思し食しつづくるに、「悪縁は則ち善縁とは是なりけり」と思し食し知られけり。其の後、第五日と申ししに、帰洛の奉書を下されき。管絃の音曲を極め、当代までも妙音院大相国と申すは、即ち此の御事也。「妙音菩薩の化し給へるにや」とぞ申しける。
村上聖主、天暦の末の比、神無月の半ば、月影さえて風の音しづかに、夜深け人定まりて、清涼殿に御坐して、水牛の角の撥にて、還城楽の破を調べさせ給ひつつ、御心を澄まさせ給ひけるに、天より影の如くにして飛び来たりて、暫く庭上に休む客あり。聖主是を御覧じて、「何者ぞ」と問ひ給ふ。「吾は是、大唐の琵琶の博士、簾▼P1623(九四オ)承武と申す者なり。天人の果報を得て、虚空に飛行する身にて候ふが、只今ここを罷り過ぎ候ふが、御琵琶の撥音につきまゐらせて参りて候ふなり。いかむとなれば、ていびむに琵琶の三曲を授けし時、一の秘曲をのこせり。三曲とは、大常博士楊真操・流泉・啄木、是なり。流泉に又二曲あり。一には石上流泉、二には上原流泉是なり。恐らくは君に授け奉らむ」と申しければ、聖主殊に感じ給ひて、御坐を退けて御琵琶を指し置き給へば、簾承武是を給はりて、流泉・啄木・養秦蔵の秘曲をぞ尽くしける。主上本の座敷になほり給ひ、彼の曲を引き給ふに、撥音猶勝れたり。秘曲伝へ奉りて後、虚空に飛び上り、雲を分けて上りにけり。帝王是を遥かに叡覧ありて、御衣の袖を御顔に押し当てて感涙をぞ流されける。
此の大臣、帰京の後、御▼P1624(九四ウ)参内ありて琵琶を調べ給ひしかば、月卿雲客耳をうなだれ、堂上堂下目をすまして、何なる秘曲をか弾き給はむずらむと思ひ居たるに、世の常の様なる賀王恩・還城楽を弾かれたりけるに、諸人思はずに成りにけり。而るに、「賀王恩・還城楽」とは「王恩を悦びて、都へ帰り楽しむ」とよめり。昨日は東関の外に遷されて物うきすまひなりけれども、今日は北闕の内に仕へて楽しみ栄へ給へば、此の曲を奏し給ふも理とぞおぼゆる。
此の殿を平家殊に悪み奉りける事は、大唐より難字の文を作りて、公家へ 献りたりけり。是を読む人なかりけるに、此の殿の読まれたりけり。平家の為に悪しかりける故也。先度に文字三つあり。一には 「国」の作り「口」。此をば、「王なき国」とよまれけり。二には国の作の中に分と云ふ字を三つ書きたり。「〓」。此をば、「国乱れて喧」と読まれたり。三は▼P1625(九五オ)身体の身文字を二つ並べて書きたり。「身身」。此をば「したためにやらむぞ」と読まれたり。後の度には、「家中家柱中柱、空中七日有否、海中七日有否」。此の文をも此の殿み給ひて、唇をのべて咲ひて皆読まれたりけれども、承りける人々細かに覚えざりけり。「是は平家の悪行の異国まで聞こえて、国の主を恥しめ奉る文なるべし」とぞ、後には人申しける。
左衛門佐業房は伊豆国へ流さる。備中守光憲は本鳥切られにけり。江大夫判官遠業、「科せらるべき四十二人が内に入りたり」と聞きて、「今はいかにも遁るべきにあらず。誠や、流人前右兵衛佐頼朝こそ、平治の乱逆に父下野守誅課せられ、したしき者共みなみな失はれて、只一人きり残されて、伊豆国蛭嶋に流されておはすなれ。彼の人は未だたのもしき人なり。打ち憑みて下りたらば、若し此の難を遁るる事も▼P1626(九五ウ)や」と思ひて、瓦坂の家を打ち出でて、父子二人稲荷山に籠もりたりけるが、「能々思へば、兵衛佐、当時世にある人にてもなし。されば左右なく入道勘当の我等を請け取る事も有がたし。又、合坂・不破関を超え過ぎむ事もをだしかるべしとも覚えず。其の上、平家の家人国々に充満せり。路頭にして云ふ甲斐なく搦め取られて、生きながら恥をさらさむ事も心うかるべし」と思ひ返して、瓦坂の宿所へ打ち返りて、家に火を指して、焔の中へ走り入りて、父子共に焼け死にけり。時に取りてはゆゆしかりける事共なり。此の外の人々も、逃げ迷ひ、周章て騒ぎあへり。あさましとも云ふはかりなし。
去々年七月、讃岐法皇御追号、宇治の悪左府贈官の事有りしかども、怨霊も猶鎮まり給はぬやらむ。此の世の有様、偏へに天魔の所行と▼P1627(九六オ)ぞ見えし。「凡そ是に限るまじ。猶入道腹すゑかね給へり」とて、残れる人々をぢあひけるほどに、
二十九 〔左少弁行隆の事〕
其の比、左少弁行隆と申す人は、閑院の右大臣冬嗣よりは十二代、故中山中納言顕時卿の長男にておはせしが、二条院の御代に近く召し仕はれて弁に成り給ひし時も、右少弁長方朝臣を越えて左に加はられにけり。五位の正四位し給へりしに、頭要の人を越えなむどしてゆゆしかりしが、二条の院におくれ奉りて時を失へりしかば、仁安元年四月六日、官止められて籠居し給ひしより、永く先途を失ひて、十五年の春秋を送りつつ、夏秋の更衣にも及ばず、朝暮の食も心にかなはずして、悲しみの涙を流し、春の苑には硯を鳴らして花を以て雪と称し、秋の籬には毫を染めて菊を仮りて星と号す。▼P1628(九六ウ)伊賀入道寂念が霊山に籠もり居て、
春きてもとはれざりけり山里を花さきなばとなに思ひけむ
と詠じてながめ居たりし心地して、あかしくらし給ひける程に、十六日さよふくるほどに、太政入道殿よりとて使ひあり。行降さわぎ給へり。「人々あわつめり。我もいかなるべきにか。此の十四五年の間は、何事にも相交はらねば」とはおぼしけれども、「さるに付けても、謀叛なむどに与力するよし、人の讒言やらむ」と、思はぬ事なく覚しけり。「昔村上の御宇、橘ノ直幹が、『後進の勧花を望めば、眼雲路に疲れ、傍人の栄貴に対べば、顔をもて泥砂に低る』と奏しけむは、責めて猶朝庭に仕へ奉り、昇進の遅き事をこそ歎きしに、是は直幹が思ひを離れて三五の星霜を送り、今▼P1629(九七オ)入道に怨まれ奉るべしとは思はねども、当世のありさま、咎無くして罪を蒙れば、いかにとあるべき事やらむ」と、なげきながら、「怱ぎ参るべし」と宣ひたりけれども、牛、車もなし、装束もなし。おぼし煩ひて、弟の前左衛門佐時光と申しける、おはしけり、「かかる事こそあれ」と仰せ送られたりければ、牛車・雑色の装束なむど怱ぎ献り給へりければ、西八条へをののくをののくおはしたれば、入道見参し給ひて宣ひけるは、「故中納言殿したしくおはしましし上、殊に憑み奉りて大小事申し合はせ奉り候ひき。其の御
なごりにておはしませば、おろかに思ひ奉る事なし。御籠居年久しくなりぬる事、歎き存じ候へども、法皇の御計らひなれば、力及ばず候ひき。今は御出仕あるべく候ふ」と宣ひければ、行隆申されけるは、「此の十四五年が間は迷ひ者になりはて候ひて、出仕の法、見苦しげなる▼P1630(九七ウ)者にて、何にすべしとも存ぜず候へども、此の仰せの上は、ともども御計らひに随ひ奉り候ふべし」とて手を合はせ、「今の仰せ、偏へに春日大明神の御計らひと仰ぎ奉り候ふ」とて、出でられぬ。御共の者共、別事なしと思ひて怱ぎ帰る。弟の左衛門佐の許へ人を遣はして、「別事なく、只今なむ帰りて候ふ」と告げられたり。行隆、入道の云ひつる様を語り給ひければ北の方より始めて、皆泣き咲ひして悦びけり。後朝に、源大夫判官季貞が小八葉の車に入道の牛懸けて、牛童装束相具して、百疋・百貫・百石を送られたりける上、「今日、弁になし返し奉るべし」と有りければ、悦びなむどは云ふはかりなし。家中上下、手の舞ひ足の置き所を知らず。余りの事にや、「夢かや」とぞ思ひける。
さて、十七日、右少弁親宗朝臣、追ひ籠められしかば、其の所を右少弁に成し返して、同十八日、五位蔵人になさるるに、▼P1631(九八オ)今年は五十一になり給へば、今更又わかやぎ給ふも哀れなり。
遂にかく花さく秋になりにけり世々にしほれし庭のあさがほ
かくて年月をふるほどに、此の人の御子、東大寺長官中納言宗行卿と申しし人は、此の後四十三年の春秋を経て、承久三年治乱の時、京方為りし間、其の扶に依りて関東へ召し下され、駿河国浮嶋が原にして、断頭罪科の由を聞きて、旅宿の枕の柱に、かくぞ書き付けける。
今日すぐる身をうきしまが原にてぞ遂の道をば聞き定めつる
「昔は南陽県の菊水、下流を汲みて齢を延べ、今は東海道の黄河、西岸に宿りて命を失ふ」と書き給へり。遂に関にして失はれ給ひぬ。今の世までも哀れなる事には申し伝へたり。
▼P1632(九八ウ)三十 〔法皇を鳥羽に押し籠め奉る事〕
廿日、院御所七条殿に、軍兵雲霞の如く四面に打ちかこみたり。二三万騎もや有らむとみゆ。こは何事ぞと、御所中に候ひ合ひたる公卿・殿上人、上下北面の輩、局々の女房までも、さこそあさましくおぼしけめ。心中ただおしはかるべし。「昔、悪右衛門督が三条殿をしたりける様に、火を懸けて人を皆焼き殺さむとする」と云ふ者もありければ、局の女房、上童なむどはをめき叫びて、かちはだしにて物をだにも打ちかづかず、迷ひ出でて倒れふためき、さわぎあへる事、云ふはかりなし。日来の世の有様に、今日軍兵のかこみ様、さにこそとは思し食しけれども、さすがに、忽ちに是程の事あるべしとも思し食しよらざりけるやらむ、法皇もあきれさせ給ひたりけるに、前右大将宗盛公参られたりければ、「こは何事ぞ。▼P1633(九九オ)いかなるべきにてあるぞ。遠き国、眇かの嶋へ放たむとするか。さほど罪深かるべしとは覚えぬ物を。主上かくておはしませば、世の政に口入する計りにてこそあれ。其の事さるべからずは、是より後には天下の事にいろはでこそあらめ。汝さてあれば、思ひ放たじと恃みてあるに、いかにかく心うき目をば見するぞ」と仰せられければ、右大将申されけるは、「さしもの御事は争か候
ふべき。世を鎮め候はむ程、暫く鳥羽殿へ渡しまゐらすべき由を、入道申し候ひつる」と申せば、「ともかくも」と仰せられければ、御車指し寄す。
大将やがて御車寄に候ふ。左衛門佐と申しし女房、出家の後には尼ぜと召されし尼女房一人ぞ、御車の尻に参りける。御物具には、御経箱計りぞ御車には入れられける。法皇は、「さては宗盛もまゐれかし」と思し食したる御気色のあらはに見えさせ▼P1634(九九ウ)給ひければ、「心苦しき御共して、見置きまゐらせばや」とは思はれけれども、入道のけしきに恐れて参られず。其に付けても、法皇は、「兄の内府には事の外に劣りたる者かな」とぞ思し食されける。「理なり。丸は一年かかる目をみるべかりしを、故内府が命に代へて云ひ留めたりしによりてこそ、今までは安穏なりつれ。内府失せぬる上は、諌むる人もなしとて、其の所を得て、憚る所もなく加様にするにこそ。行末こそ更に恃もしからね」とぞ思し食しける。公卿・殿上人の一人も供奉するもなし。北面の下臈二三人と、御力者金行法師計りぞ、「君はいづくへ渡らせ給ふやらむ」と思ひける心うさに、御車の尻に、下臈なれば、かいまぎれてぞまゐりける。其の外の人々は、七条殿より皆ちりぢりに失せにけり。御車の前後左右には、▼P1635(一〇〇オ)三万余騎の軍兵打ち団んで、七条を西へ、朱雀を下りに渡らせ給へば、京中の貴賎上下、し
づのをしづのめに至るまでも、「院の流されさせ給ふ」とののしりて見奉り、武き物のふも涙を流さぬはなかりけり。
鳥羽の北殿へ入らせ給ひにければ、肥前守泰綱と申ける平家の侍、守護し奉る。法皇の御すまひ、只おしはかりまゐらすべし。さるべき人、一人も候はず。尼ぜばかりぞ、ゆるされてまゐりける。只夢の御心地して、長日の御行法、毎日の御勤め、御心ならず退転す。供御まゐらせたりけれども、御覧じも入れず。先立つ物は只御涙ばかりなり。門の内外には武士充満せり。国々より駈り集められたる夷なれば、見馴れたる者もなし。つべたましげなる顔けしき、うとましげなる眼やう、怖しともおろかなり。
大膳▼P1636(一〇〇ウ)大夫業忠が子息、十六歳にて左兵衛尉と申けるが、いかにしてまぎれ参りたりけるやらむ、候ひけるを召して、「今夜、丸は一定失はれぬると覚ゆるなり。いかがせむずる。御湯をめさばやと思し食すはいかに。叶はじや」と仰せ有りければ、今朝より肝魂も身に随はず、をむばく計りにて有りけるに、此の仰せを承れば、いとど消え入る様に覚えて、物もおぼえず悲しかりけれども、狩衣にたまだすき上げて、水を汲み入れて、こしばがきをこぼち、大床のつか柱をわりなむどして、とかくして御湯しいだしたりければ、御行水まゐりて、泣々御行ひぞ有りける。最後の御勤めと思し食されけるこそ悲しけれ。されども別事なく夜はあけにけり。
去んぬる七日の大地震は、かかるあさましき事の有るべかりける前表なり。十六洛叉の底までもこたへて、堅牢▼P1637(一〇一オ)地神も驚動し給ひけるとぞ覚えし。陰陽頭泰親朝臣、馳せ参りて泣々奏聞しけるも理なりけり。彼の泰親朝臣は、晴明五代の跡を稟けて、天文の淵源を究む。上代にもなく、当世にも並ぶ者なし。推条掌を指すが如し。一事も違わず。「さすのみこ」とぞ人申しける。雷落ち懸かりたりけれども、雷火の為に狩衣の袖計りはやけき、身は少しもつつがなかりけり。
三十一 〔静憲法印法皇の御許に詣る事〕¥¥
廿一日、静憲法印は、此度は御使の儀にてはなくて、私に思ひ切りたる気色にて、太政入道の許へ行き向かひて申しけるは、「法皇鳥羽殿に渡らせ給ふが、人一人も付きまゐらせぬよし承り候ふが、心苦しく覚え候ふ。然るべくは御免されを蒙らむ」と泣々申されければ、法印、うるはしき人の事あやまつまじきにて有りければ、ゆるされてけり。手を合はせ悦びて、怱ぎ鳥羽殿へ参られたりければ、御経打ち▼P1638(一〇一ウ)貴くあそばして、御前に人一人も候はざりけり。静憲法印参られたりけるを御覧じて、うれしげに思し食して、「あれはいかに」と仰せ有りもはてず、御経に御涙のはらはらと落ちかかりけるを見まゐらせて、法印も余りに悲しく覚えければ、「何に」ともえ申さで、御前にうつ臥して声も惜しまず泣き給へり。尼ぜも思ひ入りて臥し沈みたりけるが、法印の参られたりけるを見ておきあがりつつ、「昨日の朝、七条殿にて供御まゐりたりし外は、夜部も今朝も御湯をだにも御覧じ入れず。長き夜すがら御寝ならず、御歎きのみ苦しげに渡らせおはしませば、ながらへさせ給はむ事もいかがと覚ゆる心うさよ」とて、さめざめと泣き給ひければ、「いかに供御はまゐらぬにか。此の事更に歎きと思し食
すべからず。平家世を我がままにして、既に▼P1639(一〇二オ)廿余年になりぬ。何事も限りある事なれば、栄耀極まりて宿運つきなむとする上、天魔彼の身に入り代はりて、かやうに悪行を企つと云へども、君誤らせ給ふ事、一つなし。かくて渡らせ給ふとも、天照大神・正八幡宮、君の取り分きて恃みまゐらせ給ふ日吉山王七社、一乗守護の御誓ひ違ふ事なくして、彼の法花八軸に立ちかけりてこそ、護りまゐらせおはしまし候ふらめ。臣下人民の為には倍々仁を行ひ恵みを施し、政務に御私なからじと思し召さば、天下は君の御代になりかへり、悪徒は水の泡と消え失せむ事、只今也」と申されて、供御すすめまゐらせらる。御湯漬少しまゐりたりければ、尼前も少し力付きて、君も聊かなぐさむ御心おはしましけり。
此の左衛門佐と申す女房は、若くより法皇の御母儀待賢門院に候はれけ▼P1640(一〇二ウ)るが、品いみじき人にてはなかりけれども、心さかざかしうして、一生不犯の女房にておはしければ、浄き者なりとて、法皇の御幼稚の御時より近く召し仕はせ給ひけり。臣下も君の御気色によりて 「尼御前」とかしづきよばれけるを、法皇のうやまふ字を略して、御かたことに「尼ぜ」と仰せの有りけるとかや。かかりければ、鳥羽殿へも只一人付きまゐらせられたりけり。
主上高倉院は、臣家の多く滅び失せ、関白殿の事にあはせ給ひたるをだにも、なのめならず歎き思し食しけるに、まして法皇のかやうにおしこめられさせおはしますと聞こし食されしかば、何事も思し食し入らぬさまなり。日を経つつ思し食し沈みて、供御もはかばかしくまゐらず、御寝も打ち解けてならず。常は「御心地なやまし」とて、夜のおとどに入らせおはしませば、后宮を始め奉り、▼P1641(一〇三オ)近く候ふ女房達も、「いかなるべき御事やらむ」と、心苦しくぞ思ひ奉りける。内裏には、法皇の鳥羽殿におしこめられさせ給ひし日より、御神事にて、毎夜に清涼殿の石灰の壇にて大神宮を拝しまゐらせ給ひけり。此の御事を祈り申させおはしましけるにこそ。同じき親子の御間と申しながら、御志の深かりけるこそ哀れに止む事なけれ。「百行中には孝行を以て先とす。明王は孝を以て天下を治む」といへり。されば、「唐尭は老い衰へたる母を尊す。虞舜は愚頑なる父を敬ふ」といへり。漢の高祖帝位に即き給ひて後、父大公を教へ給ひしかば、「天に二つの日なし、地に二つの主なし」とて、弥よ恐れ給ひしに、太上天皇の位を授け給ひき。是皆漢家の明王の行ひ給ふ事なり。彼の賢王聖主の先規を追はせお
はしましけむ、天子の御政こそ目出たけれ。
二条院も▼P1642(一〇三ウ)賢王にて渡らせ給ひけるが、御位に即かせ給ひて後は、「天子に父母なし」と常には仰せられて、法皇の仰せをも用ゐまゐらせ給はざりしかば、本意なき事に思し食したりし故にや、世をもしろしめす事も程なかりき。されば、継体の君にても渡らせ給はず、正しく御譲りを受けさせおはしましたりける御子の六条の院も、御在位纔かに三年、五歳にて御位退かせ給ひて、太上天皇の尊号有りしかども、未だ御元服もなくて、御年十三才にて安元三年七月廿七日に失せさせ給ひにき。只事ならざりし御事なり。
三十二 〔内裏より鳥羽殿へ御書有る事〕
内裏より鳥羽殿へ、忍びて御書有り。「世も閑かならず、君もさやうに渡らせ給はむには、かくて雲居に跡を留めても何にかはすべき。彼の寛平の昔の跡を尋ね、花山の古きよしみを訪ねて、位を去り家を出でて、山林流浪の▼P1643(一〇四オ)行者とも成り候はばや」と申させおはしましたりければ、御返事には「我身には君のさて渡らせ給ふをこそ、たのみにては候へ。さやうに思し食し立ちなむ後、何の憑みか候ふべき。ともかくも、此の身の成りはてむ様を御覧じはてむとこそ思し食され候はめ。努々々有るべからざる御事也。いたく震襟を悩まし給はむ事、還りて心苦しかるべし。さな思し食され候ひそ」なむど、こまごまなぐさめ申させおはしましければ、主上御報書を龍顔にあてて御涙に咽び給ふぞかなしき。院内さへかやうに御物思ひに結ぼほれさせおはしますぞあさましき。貞観政要に云はく、「君は船なり、臣は水。浪を治すれば船よく浮かぶ。水浪を湛ゆれば、船又覆へさる」と云へり。「臣よく君を持つ。臣又君を覆へす」。保元・平治両度の合戦には入道相国君を持ち奉るといへども、安元・治承の今は又、君を覆し▼P1644(一〇四ウ)奉らる。其の事、本文に相応せり。
三十三 〔明雲僧正天台座主に還補の事〕
廿六日、明雲大僧正、天台座主に還補し給ふ。七宮御辞退ありけるに依りてなり。
入道は、かやうにしちらして、「中宮、内裏に渡らせ給ふ。関白殿、我が聟也。方々心安かるべし」とやおぼされけむ、「天下の御政、一すぢに内裏の御計らひたるべし」と申し捨てて、福原へ帰り下られにけり。宗盛公参内して、此の由を奏聞せられけれども、主上は、「院の譲り給ひたる世ならばこそ、世政をも知るべき。只とく執柄に申し合はせて、宗盛計らふべし」と仰せ下されて、敢へて聞し食し入れられず。明けても晩れても法皇の御事をのみ、心苦しくいたはしき御事に思し食しける。
三十四 〔法皇の御棲幽かなる事〕
鳥羽殿には月日の重なるにつけても御歎きはおこたらず。法皇は▼P1645(一〇五オ)城南の離宮に閉ぢられて、冬も半ばすぎぬれば、射山の嵐声いとどはげしく、閑亭の月の影、殊にさびしき御すまひなり。庭には雪降り積もれども、跡ふみつくる人もなし。池には氷のみ閉ぢ重なりて、群居る鳥だにも希也けり。大寺の鐘の声、遺愛寺の聞きを驚かし、四山の雪の色、香呂峯の望みを催す。しづが下す鵜船の篝火は御目の前を過ぎ、旅客の行き通ふ轡の音、御耳に答へて眠りを覚まし奉る。暁の水を切る車の音、遥かに門前に横たはり、夜の霜に寒けき檮の音、幽かに枕に通ひけり。ちまたを過ぎ行く諸人の怱がはしげなる事、憂世を渡る有様思ひ遣られて哀れ也。「宮門を蛮夷の夜昼警衛を勤むるも、先の世に如何なる契りにて今縁を結ぶらむ」と、思し食しつづくるも忝し。凡そ物に触れ▼P1646(一〇五ウ)事に随ひて御心を動かし、御涙を催さずと云ふ事なし。さるままには、折々の御遊覧、所々の御参詣、御賀の儀式の目出たく、今様合はせの興ありし事共、思し食し出でられて、懐旧の御心押へ難し。かくて今年も晩れにけり。
平家物〔語〕 第二本
(花押)
平家物語 四(第二中)
▼P1647(一オ)
一 法皇鳥羽殿にて送月日坐事
二 春宮御譲を受御す事
三 京中に旋風吹事
四 新院厳嶋へ可有御参事
五 入道厳嶋を崇奉由来事
六 新院厳嶋へ御参詣之事
七 新帝御即位之事
八 頼政入道宮に謀叛申勧事 〈付令旨事〉
九 鳥羽殿にイたチ走廻事
十 平家の使宮の御所に押寄事
十一 高倉宮都を落坐事
十二 高倉宮三井寺に入らせ給ふ事
十三 源三位入道三井寺へ参事 〈付競事〉
十四 三井寺より山門南都へ牒状送事
十五 三井寺より六波羅へ寄とする事
十六 大政入道山門を語事 〈付落書事〉
十七 宮蝉折を弥勒に進せ給ふ事
十八 宮南都へ落給ふ事 〈付宇治にて合戦事〉
十九 源三位入道自害事
廿 貞任が歌読し事
▼P1648(一ウ)
廿一 宮被誅給ふ事
廿二 南都大衆摂政殿の御使追帰事
廿三 大将の子息三位に叙る事
廿四 高倉宮の御子達事
廿五 前中書王事 〈付元慎之事
廿六 後三条院の宮事
廿七 法皇の御子之事
廿八 頼政ぬへ射る事 〈付三位に叙せし事〉
廿九 源三位入道謀叛之由来事
卅 都遷事
卅一 実定卿待宵の小侍従に合事
卅二 入道登蓮を扶持給ふ事
卅三 入道に頭共現ジて見る事
卅四 雅頼卿の侍夢見る事
卅五 右兵衛佐謀叛発す事
卅六 燕丹之亡し事
卅七 大政入道院の御所に参給ふ事
卅八 兵衛佐伊豆山に籠る事
▼P1649(二オ)
平家物語第二中
一 〔法皇鳥羽殿にて月日を送り坐す事〕
治承四年正月にも成りぬ。鳥羽殿には元三の間年去り年来たれども、相国も許さず、法皇も怖れさせましましければ、事問ひ参る人もなし。閉ぢ籠められさせ給ひたるぞ悲しき。藤中納言成範卿左京大夫修範兄弟二人ぞ免されて参らせられける。古く物など仰せ合はせられし大宮大相国、三条内大臣、按察大納言、中山中納言など申しし人々も失せられにき。古き人とては、宰相成頼、民部卿親範、左大弁宰相俊経ばかりこそおはせしかども、「此の世の中の成り行く有様を見るに、とてもかうても有りなむ。朝庭に仕へて▼P1650(二ウ)身を扶け、三公九卿に昇りてもなにかはせむ」とて、適余殃を免れ給ひし人々も忽ちに家を出、世を遁れて、或は高野の雲に交はり、大原の別所に居を卜め、或は醍醐の霞に隠れ、仁和寺の閑居に閉ぢ籠りて、一向後生菩提の営みより外は二心無く、行ひすましてぞおはしける。昔商山四皓、竹林の七賢、是豈博覧清徹にして世を遁れたるに非ずや。
中にも成頼卿、此の事共を聞き伝へては、「哀れ、心とうも世を遁れにける者哉。かくて聞くも同じ事なれども、世に立ち交はりて親り見聞かましかば、何計りか心憂からまし。保元平治の乱をこそあさましと思ひしに、世の末になれば、ますますにのみ成り行くめり。此の後、又▼P1651(三オ)いかばかりの事か有らんずらん。雲を別け、土を掘りても入りぬべくこそ覚ゆれ」とぞ宣ひける。世末なれども、ゆゆしかりし人々也。
廿八日に春宮の御袴着御まな(めしぞめなり)きこしめすべしなど、花やかなる事共、世間には〓りけれども、法皇は御耳のよそに聞こし召すぞ哀れなる。
二 〔春宮御譲を受け御す事〕
二月十九日に春宮御譲りを受けさせ給ふ。今年纔に三歳にぞならせ給ふ。いつしかと人思へり。先帝も殊なる御つつがもおはしまさぬに、おしおろし奉らる。是は太政入道、万事思ふさまなるが致す所也。老子経に云はく、「飄風朝をおへず、驟雨は日をおへず」と云へり。飄風とは疾き風也。驟雨とは□□□雨也。言は、▼P1652(三ウ)「疾するものは長ずる事あたはず、頓にするものは久しき事能はず」と云へり。「此の君疾く位に即かせ給ひて、疾く位をや退かせ給はむずらむ」と、人ささやきあへり。即位元服の事、吾が朝に二歳三歳の例なし。仍りて江中納言に漢家の例を問はる。中納言消息を以て申さる。其の状に云はく、「冢宰荷つて以て政を聴く、周の成王是也。大后抱いて以て朝に臨む、晋の穆帝是也。成王三歳にして位に即き、穆帝二歳にして位に即く也」と云々。爰に俊憲勘文を以て鳥羽院に申して云はく、「成王三歳にして即位元服の由、江中納言の申す条、極めたる僻事也。一切所見無し。十二▼P1653(四オ)歳にして元服なり」と云々。大和進士友業、内々此の事を聞き、申しけるは、「俊憲一切さる事なしと申し切る条、尊き万巻の渡書、併ら見尽くしてけりと覚悟せらる。但し、江中納言
の申さるる事、様こそ有らめと閣くべきか」と云々。上詩披緑と云ふ文は、江中納言の一品の書なり。余家に之無し。件の書に、成王三歳にして即位の由、之在り。俊憲、知らざるなりと申さるる、尤も然るべし。史記に「成王幼くして繦〓の中」と云々。是等を見て申さるるか。成王は三歳にして即位、穆帝は二歳にして即位元服也。冢宰は周公旦なり。
或る人、太政入道の小舅、平大納言時忠卿の許へ▼P1654(四ウ)行き向かひて、「京都にこざかしき仁共の集まりて、内々申し候ふなるは、『此の君の御位、余りに早し。いかがわたらせ給はむずらむ』と謗り沙汰仕り候ふなるは」と申しければ、時忠卿腹立して申されけるは、「なにしかは、此の御位をいつしかなりと人思ふべき。竊に先規を伺ひ、遥かに傍例を尋ぬるに、異国には周の成王三歳、晋の穆帝二歳、各繦〓の中につつまれて衣冠を正しくせざりしかども、或いは摂政負ひて位に即き、或は母后抱いて朝に莅むと云へり。就中、後漢の孝煬皇帝は、生まれて百余目の後に践詐ありき。吾が朝には又近衛院二歳、六条院二歳、皆天子の▼P1655(五オ)位を践ぎ、万乗の君と仰がれ給ふ。先蹤、和漢此くの如し。人以て強ちに傾け申すべき様やは有る」とて、平大納言大にしかられければ、其の時の有職の人々は、「あなおそろし、ものいはじ。されば夫はよき例にやは有る」とぞ、つぶやきあはれける。
春宮御譲りを受けさせ給ひにければ、外祖父・外祖母とて、入道夫妻共に三后に准ふる宣旨を被りて、年官年爵を賜りて、上日の者を召し仕はれければ、絵書き花付けたる侍出入して、偏に院宮の如くにぞ有りける。出家入道の後も栄耀は尽きせざりけりと見えたり。出家の人の准三后の宣旨を被る事は、法興院の大入道殿の▼P1656(五ウ)御例也。「其れも一の人の御例准へがたくや」とぞ人申しける。加様に花やかに目出たき事は有りけれども、世中はおだしからず。
三 〔京中に旋風吹く事〕
廿九日申の剋計りに、京に旋風大いに吹きて、一条大宮より初めて東へ十二町、冨小路より初めて南へ六町、中御門より東へ一丁、京極を下りに十二町、四条を西へ八丁、西洞院わたりにて止みぬ。其の間に、殿舎の門々、雑人の家々、築垣、筒井を吹き倒し、吹き散らすありさま、木葉の如し。馬・人・牛・車などを吹き上げて、落ち着く所にて死ぬる者多し。昔も今もためしなき程の物怪とぞ、人々申しあひける。
四 〔新院厳嶋へ御参有るべき事〕
▼P1657(六オ)三月十七日、新院、安芸の一宮厳嶋社へ御幸なるべきにて有りけるが、東大寺・興福寺・山門・三井の大衆京へ打ち入るべき由聞きて、京中騒ぎければ、御幸俄かに思し召し止まらせ給ひにけり。「帝王、位をさらせおはしまして後、諸社の御幸初めには、八幡・賀茂・春日・平野などへ御幸有りてこそ、何れの社へも御幸あれ、いかにして西のはての嶋国にわたらせ給ふ社へ御幸なるやらむ」と、人あやしみ申しければ、又人申しけるは、「白河院は位をさらせ給ひて後、先づ熊野へ御幸有りき。法皇は日吉へ参らせ給ふ。先例此くの如し。既に知りぬ、叡慮に在りと云ふ事を。其の上、御▼P1658(六ウ)心中に深き御願あり。又、夢想の告げも有りなむどぞ仰せ有りける。
此の厳嶋社をば、入道相国頻りに崇め奉られけり。彼の社に内侍とて有りける巫女までも、もてなし愛せられけり。
五 〔入道厳嶋を崇め奉る由来の事〕
入道殊に厳嶋を崇め給ひける由来は、鳥羽院御宇、安芸守たりし時、「彼の国を以て高野の大塔を造進すべし」と院より仰せ下されたりければ、渡部党に遠藤六頼賢と云ひける侍に仰せて、六ヶ年に事終はりて、供養を遂げ畢(を)はんぬ。爾時、首には雪に似たるしらがをいただき、額には四海の波をたたみ、眉には八字の霜を▼P1659(七オ)たれ、腰には梓の弓をはりて鳩杖にすがれる八十有余の老僧あり。平左衛門尉家貞を呼び出だして宣ひけるは、「やや、左衛門殿。御辺の主の安芸守殿は哀れゆゆしき人哉。此の僧見参に入らせ給へ」と宣ひければ、家貞、安芸守に此の由申す。清盛、直人に非ずとや思はれけむ、莚畳をしかせ、装束ただしくして出で逢ひて見参したまふ。此の老僧宣ひけるは、「やや、安芸守殿。此の山の大塔造進の事こそ限り無くうれしけれ。見給ふが如く、日本広しと云へども、密宗を引かへて長日の勤め懈らぬ事は、此の山に過ぐる所無きぞ。但し又、様の有らんずるは▼P1660(七ウ)いかに。越前国気比社は金剛界の神也。北陸道は畜生国にして、荒血の中山が畜生道の口にて有るぞ。されば、気比大菩薩、是を愍み給ひて、敦賀津に跡を垂れて、和光同塵の力をそへ、『我に値遇せ
む者を導く』と云ふ願を立てておはします。其の願既に成就して、気比社は盛りに御坐す。御辺の国務の所、安芸国厳嶋大明神は、胎蔵界の神也。されば、気比厳嶋社は両界の神にておはします。厳嶋の社既に破壊し畢はんぬ。御辺任を申し延べて造進し給へ。造進しつる者ならば、官位一門の繁昌、肩を並ぶる人有るまじきぞ」と宣へば、清盛▼P1661(八オ)「畏りて」と御返事申す。老僧大に悦びて、衣の袖を顔に押し当て、感涙を流して立ち給ひぬ。
安芸守、直人にいまさずと見奉りて、家貞を招き寄せて、「此の老僧の入り給はむ所、見置き奉りて帰れ。僧には見え奉るべからず」と宣ひければ、家貞、老僧の御後ろに付きてかくれかくれ行く程に、三町ばかり行きて後、老僧立ち帰りて宣ひけるは、「やや、平左衛門殿。なかくれそ。我は和殿の見送り給ふをば知りたるぞ。近くよれ。云ふべき事あり」と宣へば、平左衛門力及ばずして、参りて畏りて候ふ処に、老僧宣ひけるは、「御辺の主の安芸殿は、哀れいみじき人哉。厳嶋社造進しつる者ならば、▼P1662(八ウ)官位一門の繁昌、肩を並ぶる人有るまじ。そも一期ぞよ」とて、かきけつ様に失せ給ひぬ。
家貞、此の由を安芸守に申せば、清盛、「さては一期ごさむなれ。子孫相継ぐまじかむなるこそ心うけれ。当山にて後生菩提の祈りの為、善根を修せばや」とて、やがて西曼だら・東万だらとて、二の万だらを書き奉る。東万だらをば、法皇の召し仕はせ給ひける静妙、是を書き奉る。西万だらをば、清盛自筆に書き奉るとて、八葉の九尊をば、我が脳の血を出だして書き奉り、万だら堂を造りて納め進らせけり。
其の後京へ帰り登りて、大師の老僧に現じて仰せらるる旨、具さに奏聞しければ、「厳嶋社▼P1663(九オ)造進すべし」とて、任を延べられて、長任の国務として社を造進し給ふ。三ヶ年の中に百廿間の廻廊、并びに小神小神の鳥居鳥居を立て並べ、御遷宮有りけるに、大明神、内侍に移りて御託宣有りけるは、「汝知れりや否や。一年高野の弘法を以て告げしめき。我が社破壊する間、造進すべき由、仰せ含めき。甲斐々々しく造進したる事、返す返す神妙也。此の悦びに、夕去り剣を与へむずるぞ。朝の御守りと成る者は、節度と云ふ剣を給はる。我与へたらむ剣を持つならば、王の御守りとして司位一門の繁昌、肩を並ぶる人有るまじ。そも一期ぞよ」とて、権現上がらせ給ひにけり。清盛は、▼P1664(九ウ)只大方の物付の詞ぞと思ひて強ち信を致さざりけるに、其の夜の夜半計りに、厳嶋大明神より銀の蛭巻したる小長刀を賜はりて枕に立つると夢に見て、打ち驚き、枕を捜り給へば、覚に銀の蛭巻したる小長刀、枕の壁に有りけり。さてこそ、安芸守、大明神の験変の新なる事を仰せて、信を取り給ひ、敬ひ奉る事怠らず。子息兄弟に至るまで、大臣大将に上り、朝恩に飽き満ち給へり。
かかりければ、上には御同心の由にて、下には明神の御計らひにて、入道謀叛の心も和ぎやすると思し召して、御折請の為に八幡賀茂よりも先に厳嶋へ▼P1665(一〇オ)参らせ給ふとも云へり。是は法皇のいつとなく打ち龍められて渡らせ給ふ御事を歎き思し召しける余りにや。さる程に、山門・南都の大衆も静まりにければ、厳嶋御幸、遂げさせおはしますべしと聞こえけり。
六 〔新院厳嶋へ御参詣の事〕
十八日、兼ねて思し食し儲くる事なれども、日来は御詞にも出ださせ給はざりけるが、俄かに思し食し出づる様にて、其の宵に成りて、前右大将を召して、「明日、便宜にてもあれば、鳥羽殿へ参らばやと思し食すはいかに。相国には知らせずしては悪しかりなむや」と仰せもあへず、御涙の浮かびければ、大将も哀れに思ひ奉りて、「なにかは苦しく候ふべき」▼P1666(一〇ウ)と申されければ、よに悦ばしげにおぼしめして、「さらば、鳥羽殿へ其の気色申せ」と仰せ有りければ、大将怱ぎ申されたり。法皇斜めならず悦び思し食して、余りに思ひつる事なれば、夢に見るやらむとまで思し食されけるぞ悲しき。
十九日、太政入道の西八条の宿所より、未だ夜深く出でさせ給ひ、弥生の十日余りの事なれば、霞にくもる有明の月の光も朧に、雲路を指して帰雁の遠ざかり行く声々も、折から殊に哀れ也。御共の公卿には、五条大納言邦綱、藤大納言実国〈公教息〉、前右大将宗盛、土御門宰相中将通親、四条大納言隆▼P1667(一一オ)房〈隆季息〉、右中弁兼光〈資長息〉、宮内少輔棟範〈範家息〉とぞ聞こえし。御船二十艘と聞こゆ。
鳥羽殿にては門より下りて入らせ給ふ。春景既に晩れなむとして、夏木立にも成りにけり。残花色衰へて、宮鴬音老いたり。故宮の物さびしき気色なれば、門を指し入らせ給ふより、御涙ぞ進みける。去年の正月四日、朝覲の為に七条殿へ御幸なりし事、思し召し出でて、世の中は只皆夢の如くなりけり。諸衛陣を引き、諸卿列に立ち、楽屋に乱声を奏し、院司の公卿参向して幔門を開き、掃部寮莚道を敷き、正しかりし儀式、一つもなし。
成範▼P1668(一一ウ)中納言参り向かひ進らせて、気色申されければ、上皇入らせ給ひにけり。法皇も上皇も、御目を御覧じ合はせて、物をば仰する事無し。只御涙にのみ咽ばせ給ふ。少し指しのきて尼前一人候ひけるも、両所の御有様を見奉りて、うつぶして涙を流す。良暫く有りて、法皇御涙を押し拭はせ給ひて、「さるにても、是はいかなる御宿願有りて、遥々と思し食し立つにか」と申させ給ひければ、上皇、「深く思ひきざす旨候ふ」と計り申させ給ひて、初めの如く御涙の浮かびければ、「哀れ、さればこそ。我が事を祈り申させ給はむとてよ」と御得心有りけるに、いとど悲しく思し召して、▼P1669(一二オ)法皇も御涙に咽ばせ給ふ。御衣の袖も御浄衣の袖も絞る計りにぞみえさせ給ひける。昔今の御事共、互ひに申し通はせ給ふほどに、日を重ね夜を明かすとも尽くすべからず。万づ御余波惜しく思し召して、とみにも立たせ給はず。上皇は御対面の御事を能々悦び申させ給ふ。今年は廿に満たせ給ふ。御物思ひの月日重なりて、少し面やせてわたらせ給ふに付けても、御冠際より始めてあてに美しく、御面影さやかならぬ月影にはえて、いと清げなる御鬢茎、ほこらかに愛敬づきて、御浄衣の袖さへ朝
露にしほれにけるもいとど▼P1670(一二ウ)良たく、故女院に似まゐらせさせ給たれば、昔の御面影思し召し出だされて、哀れにぞ思し食されける。
「今一度見まゐらせずして、いかなる事もやと、心憂く候ひつるに」とて、上皇立たせ給へば、法皇は御余波尽きせず思し召しけれども、日景も高くなれば、「しばし」とも申させ給はず。何となき様にもてなさせ給へども、御涙の双眼にうかばせ給ひて、御袖もしほれければ、しるくぞ見えさせ給ひける。人々も皆袂をかへし、涙を拭はる。上皇は、法皇の離宮の故事、幽閑の寂莫たる御すまゐを、御心苦しく見置きまゐらせ給へば、法皇は▼P1671(一三オ)又、上皇の旅泊の行宮、船の中、浪の上の御有様を、労しく、誠に宗廟の八幡、賀茂を閣き奉りて、都を立ち離れ、八重の塩路を凌ぎつつ、遥々と安芸国まで思し食し立ちけむ御志の深さをば、「争か神明の御納受も無からむ。御願成就疑ひ無し」とぞ覚えし。法皇は閑かに立たせ給ひて、中門連子より、御後の隠れさせ給ふまでのぞき進らせおはします。成範・修範、二人の卿、門まで参り給ひて、御輿の左右に候はれければ、上皇密かに、「人こそ多くあれ、かやうに近く仕り給ふこそ本意なれ。御祈りは申すべし」と仰せ有りければ、各畏りて狩▼P1672(一三ウ)衣の袖を絞りて帰参せられにけり。
南門に御船儲けたりければ、程無く移らせ給ひにけり。御送りの人々は、是より帰り給ひぬ。安芸国まで参る公卿・殿上人は、各浄衣にて参り儲けたり。前右大将の随兵、殊に浄げに出だし立てて、数百騎に及べり。
廿六日に厳嶋に御参着、一日逗留有りて、法花会行はれ、舞楽など有りき。勧賞行はれて、神主佐伯景弘、安芸国司藤原有経、当社別当尊叡、皆官共成りにけり。神慮にも相応し、入道の心も和ぎぬとぞ見えし。さて還幸成りにけり。四月七日、新院厳▼P1673(一四オ)嶋の還御の次に太政入道の福原へ入らせ給ふ。八日、勧賞行はれて、入道の孫右中将資盛従四位上、養子丹波守清邦上五位下に叙す。今日やがて福原を出でさせおはします。寺江に御留まり有りて、九日京へ入らせおはします。御迎への人々は、鳥羽の草津へぞ参られける。公卿には、右大臣公能公御息、右宰相中将実盛一人也。神主始めて大内へ遷幸ありければ、公卿皆それへ参り給ふとて、只一人とぞ聞こえし。其の外、殿上の侍臣五人ぞ参りたりける。厳嶋へ参りつる人々は、船津に留まりて、さがりて京へ入り給ひにけり。
七 〔新帝御即位の事〕
▼P1674(一四ウ)廿二日、新帝御即位あり。御即位は大極殿にて行はるる事なれども、去々年焼けにしかば、後三条院の御即位、治暦四年の例に任せて、官庁にて行はるべきにて有りけるを、右大臣計らひ申させ給ひけるは、「官庁は、凡人に取らば公文所也。大極殿無からむ上は、紫宸殿にて御即位あり」。「康保四年十一月十一日、冷泉院の御即位、紫宸殿にて有りし事は、御邪気に依りて大極殿へ御幸叶はざりし故也。其の例いかが有るべかるらむ。只目近く後三条院の佳例に任せて、太政官庁にて有るべき者を」と申さるる人々おはしけれども、右大臣計らひ申さるる▼P1675(一五オ)旨、左右無かりければ、子細に及ばず。中宮、弘徽殿より仁寿殿へ移らせ給ひて、高御倉へ進らせ給ひける御ありさま、謂ふ方無く目出たし。されども、ひそか事にさまざまのさとしども有りけるとかや。
平家の人々は、宗盛卿は御幸供奉せられぬ。小松大臣の君達は、重盛失せ給ひにしかば、惟盛、資盛、清経など、皆重服にて籠居し給へり。本意無かりし事也。右兵衛督知盛卿、蔵人頭重衡朝臣計りぞ出仕せられたりける。後朝に、蔵人右衛門権佐定長、昨日の御即位の事に違乱無く目出たかりし由、細々と四五枚に書きつづ▼P1676(一五ウ)けて、二位殿へ進らせられたりければ、相国二位殿は咲を含みてぞおはしける。
八 〔頼政入道宮に謀反を申し勧むる事 付けたり令旨の事〕
一院第二の御子、以仁王と申すは、御母は加賀大納言季成卿の御娘とかや。三条高倉の御所に渡らせ給ひければ、高倉の宮とぞ申しける。去んぬる永万元年十二月六日、御年十五と申ししに、皇太后宮の近衛河原の御所にて、忍びて御元服有りしが、御年卅にならせ給ひぬれども、未だ親王の宣旨をだにも蒙らせ給はず。御手跡などうつくしくあそばして、和漢の才秀で給へる仁にておはせしかば、「位にも即かせ▼P1677(一六オ)ましましたらば、末代の賢王とも申すべし」など申す人々有りけれども、此の世には継子にて打ち籠められさせ給ひて、花の下の春の遊には、宸筆下して手づから御製を書き、月の前の秋の宴には、玉笛を吹きて自から雅音を操り、詩歌管絃に御心をなぐさめてぞ過ごさせ給ひける。
四月十四日、夜深け人定まりて、源三位入道頼政、密かに参りて申しけるは、「君は天照太神四十八代の御苗裔、太上法皇第二の皇子也。太子にも立ち、帝位にも即かせ給ふべきに、親王の宣旨をだにも免され給はで、既に三十にならせ給ひぬ。心憂しとは思し食さぬか。▼P1678(一六ウ)平家、栄花既に身に余り、悪行年久しく成りて、只今滅びなむとす。倩ら事の心を案ずるに、物盛りにして衰ふ、月盈ちて〓く。此れ天の道なり、人事に非ず。爰に清盛入道、偏へに武勇の威を振るひて、忽ちに君臣の礼を忘る。万乗尊高の君をも恐れず、三台重任の臣にも憚らず。只愛憎の心に任せて、猥りがはしく断割の刑を取る。悪む所は三族を亡ぼし、好する所は五宗を光らす。思ひを一身の心腑に逞しうす。毀りを万人の脣吻に懸く。天の譴め已に至り、人望早く背く。時を量りて制を立つるは、文の道也。間に乗じて敵を討つは、兵の術也。頼政其の器に非ざるに依りて、其の術に迷へりと雖も、武略家に稟け、兵法身に伝ふ。倩ら六戦の義を顧みて、今必勝の法を案ずるに、己に加へて止むことを得ず、之を応兵と謂ふ。争ひ恨みて▼P1679(一七オ)小なるが故に、勝たずして憤怒とす、之を忿兵と謂ふ。土地を利して
貨宝を求む、之を貪兵と謂ふ。国家の太なるを恃んで民の衆を矜る、之を驕兵と謂ふ。此の類、皆義を背き、礼を背く。必ず敗れ、必ず亡ぶ。乱を救ひ、暴を誅す、之を義兵と謂ふ。此の類、已に道に叶ひ、法に叶ふ。百たび戦ひて、百たび勝つ。上は天意に応じ、下は地利を得。義兵を挙げて逆臣を討ちて、法皇の叡慮を慰め奉り、群臣の怨望を択ばれん事、専ら此の時に在り。日を経べからず。怱ぎ令旨を下されて、早く源氏等を召すべし。就中、相剋相生を考へたるに、平党滅亡すべき機嫌純熟、時を得たり。其の故は、年号治承の二字、共に三水也。中にも承の字を見るに、三水と書けり。方の様にも、宮の御共申して逆徒を退けんずる入▼P1680(一七ウ)道、又水性也。入道静海、右大将宗盛、父子共に火性也。七水を以て、などか両火を消さざるべき」と申しければ、「此の事、身の上の至極、天下の珍事也。偏へに浮言を信じて思慮無きに似たれども、今宣説する所、已に兵法を得て、能く人理を弁へり。文武事異なれども、通達の旨同じ。欺つて益無し。昔、微子殷を去りて周に入り、項伯楚に叛いて漢に帰す。周勃代王を迎へて少帝を黜け、雲光孝宣を尊びて昌邑を廃す。是皆、存亡の符を観て、廃興の事を見る
。いかがせむ」と思し食されけるに、入道重ねて申しけるは、「此の時いかにも御計らひ無くば、いつをか期せさせ給ふべき。とくとく思し食し立つべし。つつみ過ご▼P1681(一八オ)させ給ふとも、遂に安穏にてはてさせ給はむ事、有りがたし。若し左様にも思し召し立たば、入道も七十に余り候ふとも、などかは御共仕らざるべき。悦びを成して参らむずる者こそ多く候へ」とて、申しつづく。
「京都には、出羽判官光信が子、伊賀守光基、出羽蔵人光重、源判官光長、出羽冠者光義。能小野には、為義が子、十郎蔵人義盛。摂津国には、多田蔵人行綱、多田次郎知実、同三郎高頼。大和国には、宇野七郎親治が子、宇野大郎有治、同二郎清治、同三郎義治、同四郎業治。近江国には、山本、柏木、錦古利、佐々木一▼P1682(一八ウ)党。美乃・尾張の両国には、山田二郎重弘、河辺太郎重直、同三郎重房、泉太郎重満、浦野四郎重遠、葦敷二郎重頼、其の子太郎重助、同三郎重隆、木田三郎重長、開田判官代重国、八嶋先生斉時、同八嶋時清。甲斐国には、辺見冠者義清、同太郎清光、武田太郎信義、加々見次郎遠光、安田次郎義定、一条次郎忠頼、板垣次郎兼信、武田兵衛有義、同五郎信頼、小笠原次郎長清。信乃国には、岡田冠者親義が子、岡田太郎重義、平賀冠者盛義、同太郎義延、▼P1683(一九オ)帯刀先生義賢が子、木曽冠者義仲。伊豆国には、兵衛佐頼朝。常陸国には、為義が子、義朝が養子、三郎先生義憲、左竹冠者昌義、同太郎義季。陸奥国には義朝が末子、九郎冠者義経。是等は皆六孫王の苗裔、多田新発満仲が後胤也。大衆をも防き、凶徒をも退け、朝賞に預り、宿望をも遂げし事は、源平両
氏勝劣無かりしかども、当時は雲泥交はりを隔て、主従の礼よりも甚し。纔かに甲斐無き命を生きたれども、国々の民百姓と成りて、所々に隠れ居たり。国には目代に随ひ、庄には預所に仕へ、公事雑役に駈り立てられて、▼P1684(一九ウ)夜も昼も安き事無し。何計りかは心憂く候ふらむ。君思し召し立ちて、令旨をだに下され候はば、皆夜を日に継ぎて打ち上り、平家を滅さむ事、日剋を廻らすべからず。平家を滅ぼして、法皇の打ち籠められて御坐す御心をもやすめ奉らせ給ひなば、孝の至りにてこそ候はめ。神明も必ず恵みを垂れ給ふべし」など、細々と申しければ、
此の事いかが有るべかるらむと、返す返す思し召されけれども、少納言伊長と申しける人は、あこ丸の大納言宗通卿の孫、備後前司季通の子也。目出たき相人にておはしければ、時の人、相少納言とぞ申しける。其の人の、此の宮をば、「位に即き給ふべき相おは▼P1685(二〇オ)します。天下の事、思し召し放つべからず」と申ししかば、「然るべき事にてこそ有らめ」と思し食して、令旨を諸国へ思し召し立ち給ひにけり。彼の令旨に云はく、
下す。東山・東海・北陸・三道諸国の軍兵等の所
早く清盛法師并びに従類叛逆の輩を追討せらるべき事
右、前伊豆守正五位下行源朝臣仲綱、最勝親王の勅宣を奉るに〓はく、清盛法師并びに宗盛等、威勢を以て帝王を滅ぼし、凶徒を起して国家を亡ぼす。百官万民を悩乱して、五畿七道を掠領す。皇院を閉籠し、臣公を流罪す。奸しく官職を奪ひて、恣に超昇を盗む。▼P1686(二〇ウ)之に依りて、巫女は宮室に留まらず、忠臣は仙洞に仕へず。或いは修学の僧徒を誡め、獄舎に囚禁し、或いは叡山の絹米を以て、謀叛の粮に宛つ。時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁ふ。仍りて一院第二の皇子、且は法皇の幽居を休め奉らんが為、且は万民の安堵を思し食すに依りて、昔上宮太子、守屋の逆臣を破滅せしが如く、叛逆の一類を誅して、无何の四海を治むる也。然れば則ち源家の輩、兼ねては三道諸国の武勇の族、宜しく与力を厳命に加へて、誅罰を清盛に致すべし。若し殊功有らんに於いては、御即位の後、宛て行はるべき也。者れば宣に依りて之を行ふ。
治承四年四月 日 伊豆守正五位下源朝臣
▼P1687(二一オ)謹上 前右兵衛佐殿
とぞ下されける。
新宮の十郎を召して、「令旨を持ちて頼朝が許へ下るべし」と仰せ下されければ、「勅勘の身にて候へば叶ひ候ふまじ」と申せば、其の謂はれ有りとて、新宮十郎を蔵人になされて、義盛と名乗りけるを改名して行家と名乗らせけり。仍りて新宮十郎蔵人行家、高倉宮の令旨を給はりて、治承四年四月廿八日に潜かに都を出でにけり。同五月八日、伊豆の北条へ下り着きて、兵衛佐に宮の令旨を献る。
兵衛佐、此の令旨を給はりて、国々の源氏等に施行せらる。其の状に云はく、
最勝親王の勅命を被るに〓はく、東山・東海・北陸道、▼P1688(二一ウ)武勇に堪へん輩を召し具して、令旨を守りて用意を洛陽に致すべし。者れば近国の源氏等、定めて参加し奉らむか。北陸道の勇士等は、勢多の辺に参向せしめて、上洛を相待ちて洛中に供奉せらるべき也。親王の御気色に依りて、執達件の如し。
治承四年五月 日 前右兵衛権佐源朝臣
九 〔鳥羽殿にイタチ走り廻る事〕
一院は、「成親・成経が如く、遠国、遥かの嶋にも放ち遷されんずるやらむ」と思し食しける程に、城南の離宮に閉ぢられて春も過ぎ、夏も半ばに闌けにけり。五月十一.目、法皇、常よりも御心澄み渡りて、いつもの御勤めながら御経をあそばしければ、八巻普賢▼P1689(二二オ)品にかからせ給ひける時、いづくより来けるやらむ、いたち御前に二三返ばかり走り廻りて、ききめき啼きて法皇を守らへ進らせて失せにけり。是を御覧ぜらるるに、弥御心細くて、「禽獣鳥類の中に、善悪先表を示す物多し。彼は悪に象れる先相を示す獣也。此の上に、我が身何なるうき目を見んずらむ。実に遠国遼海へもや放たれむずらむ。願はくは普賢大士、十羅刹女、今生後生助けさせ給へ」と、御涙を浮かべて御祈念有りける程に、とのもんの守光遠、其の時に源蔵人中兼と申しけるが、余りに穴倉く思ひ進らせて、忍びて鳥羽殿へ参り▼P1690(二二ウ)たりければ、御前には人一人も候はず。中兼を召して、「只今かかる事有りつ。何様なる事やらむと、泰親に有のままに 巫仕りて奏すべし」と御定有りて、其の占形を賜はりたりければ、中兼やがて仰せ承りて、都へ馳せ返りて、陰陽頭泰親に是を怱ぎ語りければ、泰親、晴明
相伝の種々の秘書を開きて卜巫して、打ちえみたる気色して申しけるは、「今三ヶ日の中に御悦び」と、奏聞し給ふべき由を申しけり。
中兼、文鳥羽殿へ参りて此の由を奏聞しければ、「一道の者は〓慢無きこそうるはしけれ。何事の吉事か有るべき。我が心をなぐさめむとて、かやうに申すやらむ」と、法皇思し召されける程に、同十五日▼P1691(二三オ)に、鳥羽殿より例の軍兵多く前後左右に打ち囲みて、八条烏丸の御所へ御幸なし奉る。此は右大将宗盛頻りに歎き申されければにやらむ、入道漸く思ひ直りて、かやうに返し入れ奉りけるなり。「理や、此の泰親は晴明五代の跡を受けてしかば、卜巫露も違ふべからず」とぞ思し食されける。去んじ十二日に此の事有りて、幾程も無く両三日の間に還御。申しても申してもいみじかりける卜巫哉。
十 〔平家の使、宮の御所に押し寄せる事〕
同日に、高倉宮の御謀叛の事、顕はれ御す。去んじ四月廿八日に、十郎蔵人行家、高倉宮の令旨を潜かに給はりて、伊豆国へ下りて兵衛佐に奉り、案を書きて義経に見せむとて、其より奥州▼P1692(二三ウ)へ趣きけり。
行家は平治より以来、熊野に居住しければ、新宮に与力する者多かりければ、何と無く其の用意をぞしける。此の事、世に披露有りければ、那智執行権寺主正寺主覚悟法橋(眼ィ)、羅〓羅法橋、鳥居法橋、高房の法橋等申しけるは、「新宮十郎義盛こそ、高倉宮に語らはれ奉りて、平家を討たむとて、源氏共を催さむが為に東国へ下向しける由聞ゆれ。さ様の悪党を熊野に籠めたりけりと平家に聞こえ奉らむ事、甚だ恐れあり。当時、義盛こそ無けれども、新宮を一矢射ばや」とて、那智の衆徒を始めとして、熊野上綱等悉く出で立ちけり。是を聞きて、新宮の▼P1693(二四オ)衆徒等、一味同心して城廓を構へて相待ちけり。本宮の衆徒は思ひ思ひに付きにけり。田辺法橋を大将軍として、那智の衆徒并びに諸上綱等会合して、二千余騎の軍兵を卒して、五月十日、新宮の湊に押し寄せて、平家の方には覚悟を前として責め戦ふ。源氏の方には覚悟を切れとて、梓の真弓の弦たりも無く、三目の鏑の鳴らぬ間も無く、一日一夜ぞ戦ひける。那智衆徒等多く誅たれて、疵を被る者、其の数を知らず。悉くかけちらされて、自らうたれぬ者は只山へのみぞ逃げ入りける。是を見て、新宮の衆徒等申しけるは、「源氏と平家との国諍
ひの軍始めに、神▼P1694(二四ウ)軍に平家は負けて源氏は勝ちぬ」とぞ、一同に悦びあへりける。
其のころ、熊野別当覚応法眼と云ける者をばおほえの法眼とぞ申しける。此は六条判官為義が娘の腹にて有りければ、母方源氏なりけれども、世に随ふ事なれば、平家の祈師と成りたりける故にや、覚応法眼、六波羅へ使者を立てて申しけるは、「新宮十郎義盛こそ、高倉宮に語らはれ進らせて、謀叛起さむとて、源氏催さむが為に東国に下りて候ふなれ。然る間、かの余党等を責めんとして、君に知られぬ宮仕と御方人仕りて、新宮に押し寄せて合戦数剋仕り候ひぬ。而るに寄手多く討たれて、軍に負けて、上綱并びに▼P1695(二五オ)那智衆徒等、山林に交はるべきにて、安堵し難く候ふ。其の由、怱ぎ御尋ね候へ。新宮の衆徒等、義盛に同意の条勿論の上は、余勢を給はりて新宮を責むべき」 由をぞ申しける。
入道相国、是を聞きて大きに驚きて、一門の人々、各周章騒ぎてはせ集まる。池中納言頼盛、中宮亮知盛、蔵人頭重衡、権亮少将維盛、舎弟左少将資盛、右少将清経、左馬頭行盛、薩摩守忠度、侍には飛騨守景家、同大夫判官景綱、摂津判官盛澄、上総太郎判官忠綱、越中前司盛俊、関より東の侍には畠山庄司重能、小山田別当有重、宇津宮弥三郎朝綱、▼P1696(二五ウ)党の者には那須御房左衛門、是等を始めとして、平家の家人従類等、其の数を知らずはせ集まりけり。入道相国、此の人々に向かひて宣ひけるは、「哀れ新宮の十郎めを平治に失ふべかりしを、入道が青道心をして捨て置きたれば、今かかる事を聞くよ。頼朝が事は、池尼御前いかに申し給ふとも、入道宥さずは、争か命を生くべき。安からぬ事哉」とて、怒り給ひけり。後悔先に立たずとは、かやうの事を云ふにや。上総守忠清、入道の御前に進み出でて申しけるは、「源氏の方人は誰にて候ふやらむ」。「高倉宮ぞかし」。「さ候はば、勢の付かぬ先に宮を生け取り進らせて、何れの国へも流罪し奉り候はばや」。「尤も▼P1697(二六オ)然るべし」とぞ宣ひける。
高倉宮御謀叛の御企て有りとて、相構へて生け取り進らせて、土佐の畑へ遷し奉るべき由、議定あり。上卿は三条大納言実房卿、職事は蔵人右少弁行隆とぞ聞こえし。別当平大納言時忠卿、仰せを奉りて検非違使源大夫判官兼綱、出羽判官光長を大将軍として、彼の宮の御所へぞ指し向かはれける。
法皇は、鳥羽殿にて御耳のよそに聞こし食さるれば、「いかがはせむ。是、人の上の事ならず。今更此の御事を親り見奉る事こそ初めて悲しけれ」と、御歎きの色一きは深くぞ思し食されける。
▼P1698(二六ウ)十七日の朝、太政入道の門の前に、札を書きて立てたりけり。「山門の大衆、高倉宮の御語らひを得て、平家の一門を追討の為に京へ打ち入らむとす」と云ふ事也。平家の一門、大きにさわぎて、武士を三条京極の辺へはせ向かはせたりけれども、法師原一人も見ず。跡形無き虚事也。かかりければ、「宮をさて置き奉ればこそ、かやうに虚事をも云ひ出だし、我等も肝をもつぶす事なれ。宮を生け取り奉りて、流罪し奉りぬるものならば、その恐れ有るべからず。怱ぎ以仁宮を土佐国へ配流し奉るべき」由、両将に仰せ含めらる。さても、源大▼P1699(二七オ)夫判官兼綱、出羽判官光長等、三千余騎の軍兵を引率して、三条高倉へ参りて、彼の御所を打ち巻きて、「宮御謀叛の由を奉りて、御迎へに光長、兼綱、参りて候ふ。怱ぎ六波羅へ御幸なるべきにて候ふ」と申し入る。然りと雖も、先立ちて此の由聞こし召されければ、兼ねて失せさせ給ひにけり。
爰に、前左兵衛尉長谷部信連とて、天下第一の甲の者、そばひらみずの猪武者あり。年比、御主居打ちして、朝夕に候ひければ、参るべかりけるが、怱ぎ出でさせおはしましぬれば、御所に見苦しき事なども有らむとて、下り進らせて見廻らむと▼P1700(二七ウ)思ひて、留まりたりけるが、薄青のひとへ狩衣の戸前あげたる着つつ、三尺五寸の太刀脇にはさみて指し出でつつ、さはがぬ体にて光長に向かひて申しけるは、「此の程は、是は御所にては候はぬぞ。とく帰りて、其の由を申さるべし」と云ひけるは、兼綱が申しけるは、「御所は何くにて候ふやらむ。参りて宣下の趣を申すべし」と云ひければ、光長が申しけるは、「子細にや及ぶ。御所を打ち巻きて、求め進らせよ」と下知しければ、信連が云はく、「君はわたらせ給はぬと云ふ上を、かく狼籍なる様やはある。物も覚えぬ田舎検非違使哉」と云ふ程こそあれ、狩衣の▼P1701(二八オ)帯紐引き切りつつ脱ぎ捨てて、下腹巻を著たりけるが、はかまのそば高くはさみ、大太刀をさと抜くとぞみる程に、光長が前へ飛びてかかりければ、金武と云ひける究竟の方べむの有りけるが、打刀を抜き合ひて中にへだたりければ、其をば打ち捨てて御所へ乱れ登りたり
ける郎等十余人が中へ走り入りて、散々に戦ひければ、木葉の風に吹かれて散るが如く、さと庭へおりぬ。電 の如くに程なしと思ひけれど、七八人計りは疵を被りぬ。庭に追ひ散らして、御秘蔵の御笛の御寝所の御枕上に置かれたりけるを取りつつ、腰に▼P1702(二八ウ)指して、小門より走り出でて、「此の向かひへ、宮の入らせ給ひぬるぞ。
にがし進らすな」とて、片織戸の有りけるをふみあけて、尻へついとほりつつ、中垣を飛びこえて、六角面へ出でて、
東を指して行きけれど、打ち留むる者無かりけり。
惣じて此の信連は、弓矢を取りて命を惜しまず、度々高名したりし者也。中にも、二条高倉にて強盗入りて散々に狼籍をす。番衆留めかねてあます所を、三条坊門高倉にて此の信連が六人に行き合ひて、四人やにはに切り臥せ、二人生け取りにして、其の時の勧賞に、今の左兵衛尉に成されし者也。
さても、兼綱・光長▼P1703(二九オ)は、よもすがら御所の内并びに近辺の家々を穴ぐり求め進らせけれども、渡らせ給はず。兼綱が父入道が許へ夢見せたりけるとかや。
十一 〔高倉宮、都を落ち坐します事〕
源三位入道の申し勧めとも平家は知らずして、源大夫判官をしも指し副へられける、不思議也。宮は少しも思し食しよらず、五月雨の晴間の月を御覧じて、御心を澄ましつつおはしましけるに、「『源三位入道の許より御文あり』とて、使、周章たる気色にて走りたり」と申しければ、何事やらむとて急ぎ御覧じければ、「君、世を乱せ給ふべき御企て有りとて、▼P1704(二九ウ)取り進らせに検非違使あまた参りて候ふなるぞ。兼綱も其の内也。一まどなりとも、とくとく立ち忍ばせ給へ。入道も参るべく候ふ。京中はいづくも悪しく候ふなむ。いかにもして、三井寺までだに事故無く渡らせ給ひなば、さりとも」と申したり。是を御覧じて、あさましとも云ふ量り無し。佐大夫宗信と云ふ人を召して、「こはいかがせむずる」と仰せ有りけれども、其もあわてわななくより外、憑もし気なし。信連を召して仰せ有りければ、御本鳥を乱して女房の薄ぎぬをきせまゐらせつつ、一目笠と云ふ物を奉らせて、走り出でさせ給ぬ。御所中の人々も▼P1705(三〇オ)知りまゐらせず。黒丸と云ふ中間、佐大夫宗信計りぞ参りける。宗信、けしかる直垂・小袴きて、唐傘持ちたり。黒丸に袋一つ持たせて、青侍体の者の、女迎へて
行くと見えたり。五月雨の比なれば、雲晴れて月くまなし。溝の広かりけるをしやくと越えさせ給ひたりければ、相ひ奉りたりける人の女房と思へば、「はしたなくもこゆる者哉」と思ひげにて、立ち留まりて怪しげに見まゐらせけるこそ、佐大夫はいとど膝ふるひて歩まれざりけれ。昔、景行天皇の第二御子、小雄皇子、異国を平らげに下り給ひけるにこそ、をとめの形をかりて、賊▼P1706(三〇ウ)の三河上の武智をば滅ぼし給ひたりけれ。などや是は、昔今こそ異ならめ、我が御身を滅ぼし給ひけむ。先世の御宿業を察し奉るこそ哀れなれ。
宮は七・八丁ばかり延びさせ給ひぬらむと覚ゆる程にぞ、検非違使参りたりける。小枝と云ふ秘蔵の御笛有りけり。夜も昼も御身を放ち給はざりけるを忘れさせ給ひたりけるを、口惜しき事に思し食して、立ちも帰らせ給ひぬべく思し召しけれども、云ふに甲斐なし。其に信連が追ひ付き進らせて、近衛東の河原の程にて、「御笛取りてこそ参りたれ」と申しければ、「実かや」 とて、斜めならず悦ばしげに思し召したりければ、腰より抜き出だして進らせたりけり。佐大夫宗信、▼P1707(三一オ)六条宰相家保の御孫、右衛門佐宗保が子也。
「高倉の宮、失せさせ給ひぬ」と云ひけるより、六波羅も京中も走り騒ぎける上に、山の大衆、既に三条京極辺りに下る由、聞えければ、平家の人々、大将已下の軍兵はせこみて騒ぎあはるる事、斜めならず。されども僻事にてぞ有りける。天狗の能く荒れにけるとぞ覚えし。高倉の宮と申すも、法皇の御子にておはしませば、余処の御事に非ず。いつしか軈てかかるあさましき事出でたれば、「只鳥羽殿に閑かにておはしまさで、由無く都へ出でにける哉」とぞ思し召す。「太政入道の嫡子、小松内大臣重盛、去年八月に失せ給ひにしかば、次男▼P1708(三一ウ)前右大将宗盛に、わく方なく世間の事譲りて、入道、福原へ下り給ひたりし手合はせに、大将不覚して宮を逃がしまゐらせたる事、口惜し」とぞ人申しける。
十二 〔高倉宮三井寺に入らせ給ふ事〕
十九日、高倉宮、三井寺に逃げ籠らせ給ふ由、聞えけり。御馬にだにも奉らざりけり。人一両人ぞ御共に候ひける。東山に入らせ給ひて通夜如意山を越えさせ給ひけり。いつ歩ませ(習はせ歟)給ひたる御歩みならねば、夏草のしげみが下の露けさ、さこそ所せく、御足皆損じて、疲れよわらせ給ひつつ、深山の中を心あてにたどり渡らせ給ひければ、白くうつくしき御足は荊の為に▼1709(三二オ)赤くなり、黒く翆りなる御頭は、ささがにの糸に纏はれぬ折しも、時鳥の一声、幽かに聞えければ、御心の中にかくぞ思し食しつづけさせ給ひける。
ほととぎすしらぬ山路に迷ふにはなくぞ我が身のしるべなりける
昔、天武天皇、大伴の王子におそはれて、吉野山へ入らせ給ひけむも、今更思し食し出されて、哀れにぞ思し食されける。
御伴の人々、御手を引かへ、肩に懸け進らせて三井寺へかかぐり着かせ給ひて、「我、平家に責められて遁れ難かりつる間、甲斐無き命の惜しさに衆徒を憑みて来れり。助けてむや」と泣々仰せられければ、▼1710(三二ウ)衆徒蜂起して甲斐甲斐しく御所しつらひ入れ進らせ、様々いたはり奉る。
十三 〔源三位入道三井寺へ参る事 付けたり競の事〕
廿日、源三位入道、同じく子息伊豆守仲綱、源大夫判官兼綱、六条蔵人仲頼、其子蔵人太郎仲光、渡辺党等を相ひ具して、夜に入りて近衛河原の宿所に火を懸けて、三井寺へは参りにけり。源大夫判官兼綱は、入道の甥を養ひて次男に立てたり。之に依りて謀叛の議は兼綱には知らせず、此の時にこそ、兼綱は 「他人はせざりけり。父入道のしわざよ」と思ひけれ。
渡部党の中に競の瀧口は入道の共には漏れにけり。同僚共が申しけるは、「競に▼1711(三三オ)此の事を知らせ候はで、いかさま我等は恨みられ候ひぬ」と申す。伊豆守、宣ひけるは、「吉々苦しかるまじ。宗盛の宿所近ければ、此の事聞きなば悪しかりなむ。知らせずとも、競、さる者なれば参らむずらむ」と宣ふ。競は此の事聞きて、「うたてくも此の事をば知らせ給はぬ者哉。只今参らむと思へども、右大将宗盛の向ひ也。馬よ鞍よとせむ程に、聞こえなば悪しかりなむ」とて、やすらふ。宗盛は下人を呼び給ひて、「向ひの宿所に競は有る歟。見て帰れ」と宣ひければ、程無く帰りて、「其のけもなくて候ふ也」と答ふ。「いかに、猶見よ」とて遺す。又、走り帰りて「同様にて候ふ」と申す。「競召せ」とて召されけり。瀧口、参り▼1712(三三ウ)たりければ、「いかに、三位入道殿は三井寺へと聞くに、己れはゆかぬか」。「さ候ふ。日来は随分人にも超えてこそ候ひつれども、今はかく残し留められぬる上は、追ひて参るに及ばず」と申す。「さらば我に仕へよかし」。競、「さ承りぬ」と申す。宗盛、兼ねてより哀れと思はれける便宜に、折を悦びて 「競に酒飲ませよ」とて、酒取り出だして種々の引出
物したり。中にも黒革威の鎧に、弓箭・大刀共引かれたり。其の上、猶、「遠山」とて秘蔵したる馬に鞍置きて引かれたり。競、かくて有らばやとは思へども、「賢人は二君に仕へず、貞女は両夫に見えず」と云ふ事▼1713(三四オ)なれば、日比の重恩を忘るるに及ばず。宗盛、「競は有るか」。「候ふ」と度々申しながら、夜深け、人鎮まりければ、得たりける鎧着、甲の緒をしめ、馬に打ち乗りて鞭を揚げて三井寺へ馳せ参る。
同僚共に会ひて、「いかに殿原は捨て置きて知らせ給はざりつるぞ」と恨みければ、同じき詞に申しけるは、「知らせむと申しつれども、守殿の『宗盛の宿所の近ければ悪しかりなむ。競、さる者なれば、知らずとも参らむずらむ』と仰せられつれば、力及ばず」と申しければ、競、「さては上にも未だ思し食めし放たせ給はざりけり」と悦び、入道殿・伊豆守の前に参りて、「競こそ以の外の僻事▼1714(三四ウ)して候へ。大将殿の鎧・甲・馬共に取りて参りたり」とて、事の子細語り申して、「人のたばぬ物を取りたらばこそ僻事ならめ」と申しければ、入道・伊豆守を始めとして、上下諸人、一度に「は」と咲ひけり。
十四 〔三井寺より山門・南都へ牒状を送る事〕
さる程に衆徒僉議して山門并びに南都へ牒状を送る。其の状に云はく、
薗城寺牒す 延暦寺の衙
殊に合力を致して当寺の仏法破滅を助けられんと欲ふ状
右、入道静海、恣に皇法を失ひ、又、仏法を滅ぼす。愁歎極まり無き▼1715(三五オ)間、去十五日夜、一院第二皇子、不慮の外に(難を遁れんが為にィ)入寺せしめ給ふ所也。爰に院宣と号して出し奉るべき責め有りと雖も、固辞せしむるの処に、官軍を遣さるべきの旨、其の聞こえ有り。当寺の破滅、将に此の時に当たる。延暦・薗城の両寺は門跡二つに相分かると雖も、学ぶ所は、是、円頓一味の教文に同じき也。縦ふるに鳥の左右の翅の如し。又、車の二輪に似たり。一方闕けむに於ては、争か其の歎き無からんや。てへれば、特に合力を致し、仏法の破滅を助けらるれば、早く年来の遺恨を忘れて、住山の昔に複せん。衆徒の僉議此の如し。仍て牒送件の如し。
▼1716(三五ウ)治承四年五月十七日 小寺主法師成賀
都維那大法師定算
寺主大法師永慶
上座法橋上人忠成
薗城寺牒す 興福寺の衙
殊に合力を蒙りて当寺の仏法破滅を助けられんと請ふ状
右、仏法の殊勝なる事は皇法を守らんが為、皇法又長久なること▼1717(三六オ)は則ち仏法に依る也。然るを頃年より以降、入道前の太政大臣平清盛、恣に国威を楡かにして、朝制を乱り、内に付け外に付け、恨みを成し、歎きを成す間、今月十五日の夜、一院第二の皇子、忽ちに不慮の難を免れんが為に、俄に入寺せしめ給ふ。然るに院宣と号して、当寺を出だし奉るべきの由、責め有りと雖も、出だし奉るにあたはず。衆徒一向に之を惜しみ奉る。彼の禅門、武士を当寺に入れんと欲す。皇法と云ひ、仏法と云ひ、一時に正に破滅せんと欲す。諸衆、盍ぞ愁歎せざらん。昔、唐の恵性天子、軍兵を以て仏法を滅ぼさしめし時、青霊山の衆、合戦を於て之を防ぐ。皇憲、猶ほ斯くの如し。何に況んや謀叛八逆▼1718(三六ウ)の輩に於てをや。誰人か協猜すべきや。就中、南京は例無くて罪無き長者を配流せらる。定めて位田の内、動むらむ。今度に非ずは何れの日か会稽を遂げむ。願はくは衆徒、内に仏法の破滅を助け、外には悪逆の伴類を退けば、同心の至り、本懐に足りぬべし。衆徒の僉議、斯くの如し。仍て牒状件の如し。
治承四年五月十七日
南都よりの返牒に云はく、
興福寺牒す、園城寺の衙
▼1719(三七オ)来牒一紙に載せらるる、清盛入道静海が為に、貴寺の仏法滅せむと欲る由の事
牒す、今月廿日の牒状、同廿一日到来す。披閲の処、悲喜相交なり。如何とならば、互ひに調達の魔障を伏すべし。
抑も、清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥也。祖父正盛、蔵人五位の家に仕へて諸国受領の鞭を執る。大蔵卿為房、賀州刺吏の古へ、検非違所に補し、修理大夫顕季幡磨大守為りし昔、厩別当職に任ず。而るに、親父忠盛朝臣に〓びて、▼1720(三七ウ)昇殿を聴されし時、都鄙の老少、皆蓬壷の瑕瑾を惜しみ、内外の英豪、各馬台の籤文に泣く。忠盛青雲の翅を刷ふと雖も、世民猶白屋の種を軽くす。名を惜しむ青侍、其の家に臨むこと無し。
而るに、去んじ平治元年、太上天皇、一戦の功を感じて不次の賞を授けたまひしより以降、高く相国に昇り、兼ねて兵仗を賜る。男子、或いは台階を忝くし、或いは羽林に列なる。女子、或いは中宮職に備はり、或いは准后の宣を蒙る。群弟庶子、皆辣路に歩み、其の孫、彼の甥、悉く竹符を割く。加之、九州を統領し、百司を進退して、皆奴婢僕従と為。一毛心に違へば、則ち王▼1721(三八オ)侯と云ふと錐も之を擒へ、片言耳に逆ふれば、亦公卿と云ふと雖も之を搦む。是を以て、若(或)は一旦の身命を延べむが為に、若(或)は片時の陵辱を遁れむと欲ひて、万乗の聖主、尚面展の嬌びを成し、重代の家君、還りて膝行の礼を致す。代々相伝の家領を奪ふと雖も、上宰も恐れて舌を巻き、宮々相承の庄園を取ると雖も、権威に憚りて言ふこと無し。勝つに乗る余り、去年の冬十一月、太上皇の陬を追捕し、博陸侯の身を押し流す。叛逆の甚しきこと、誠に古今に絶えたり。
其の時、我等須く賊衆に行き向かふて、其の罪を問ふべき也。然而、或いは神慮を相量り、或いは王言と称するに依りて、欝陶を抑へて光陰を送る間、▼1722(三八ウ)重ねて軍兵を発して、一院第二親王の宮を打ち囲む処に、八幡三所、春日権現、速かに影向を垂れて、仙蹕を〓げ、貴寺に送り附けて新羅の扉に預け奉る。王法尽くべからざる由、明らけし。随ひて又、貴寺身命を捨てて守護し奉る条、含識の類、誰か随喜せざらむ。我等遠域に在りて其の情けを感ずる処に、清盛入道猶凶器を起して貴寺に入らんと欲る由、側に承り及ぶを以て、兼ねて用意を致す。十七日辰刻に大衆を発し、十八日、諸寺に牒送し末寺に下知して、軍士を得て後、案内を達せむと欲る処に、青鳥飛び来り芳緘を投げたり。数日の欝念、一時に解散す。彼の▼1723(三九オ)唐家清涼一山の〓蒭、猶武宗の官兵を返す。況や和国南北両門の衆徒、盍ぞ謀臣の邪類を擺はざらん。能く梁園左右の陣を固めて、宜しく我等が進発の告げを待つべし。者れば、衆議此くの如し。仍りて牒送件の如し。状を察して疑殆を成すこと勿れ。以て牒す。
治承四年五月廿一日
とぞ書きたりける。
其の上、南都には七大寺に牒状を送る。先づ、東大寺へ牒状を送る。其の状に云はく、
興福寺の大衆牒す、東大寺の衙
▼1724(三九ウ)早く末寺末社を駈りて供奉せられ、今明の中に洛陽に発向して、園城寺の将に滅せんとするを救はむと欲る状
牒す。諸宗異なりと雖も、皆一代の聖教より出で、諸寺区なりと雖も、同じく三世の仏像を安んず。なかんづく、園城寺は弥勒如来常住の霊崛也。我等阿僧の流れを受け、慈氏の教文に慣る。貴寺は八宗の教法相並びて之を学す。豈彼の寺を憶はざらんや。而るに、花洛の下、一臣の揖り有り。平治元年以降、四海八〓を押領し、百司六宮を奴婢とす。一毛心に違へば則ち王侯と云ふと雖も以て之を擒へ、片▼1725(四〇オ)言思ひに乖けば則ち上卿たりと雖も以て之を醢にす。是を以て、相伝の家君、還りて膝行の礼を成し、万乗尊重の国王、殆と面展の嬌を致す。遂に超
高指鹿の謀を廻らして、弥よ王法を滅す。剰へ、弗沙飛象の跡を追ひ、将に仏家を失はんとす。即ち今明の間、園城寺を残害せんと欲と云々。未だ発せざる以前に相救はずは、我等独り全うして何の詮有らむや。然れば則ち、不日に兵を調へて京花に向はむと欲。仏法の興廃、只此の締に在り。且は仏神に祈請し、魔軍を降伏すべし。且は末寺庄薗を駈りて供奉せられよ。者れば、宜しく天地の神慮に叶ひ、南北の仏法を保つべきのみ。仍りて粗ら▼1726(四〇ウ)由緒を勒して、牒送件の如し。乞ふや、状を察して遅引せしむること勿かれ。故に牒す。
治承四年五月 日 興福寺大衆等
薬師寺等の牒状、大底東大寺牒状の如し。
治承四年五月十七日に、殿下、大宰帥隆季、前大納言邦綱、別当時忠、新宰相中将通親、新院に参られ、高倉宮の事、議定あり。右中弁兼光朝臣、殿下の仰せを奉りて、御教書を興福寺別当権僧正玄縁、権別当権少僧都蔵俊が許へ遣はされけり。「薗城寺の衆徒、猥しく勅命を背き、▼1727(四一オ)延暦寺、又同心して送牒の由、風聞す。更に同意すべからざる」趣也。
今夕、又、薗城寺の僧綱十人を召さる。前大僧正覚讃、僧正房覚、権僧正覚智、前権僧正公顕、法印実慶、権大僧都行乗、権少僧都真円、法眼覚恵とぞ聞こえし。覚讃、実慶は参らざりけり。各本寺に罷り向かひて、高倉宮を出だし奉るべき由、衆徒に仰せ含むべき由をぞ仰せ下されける。
又、座主明雲僧正を召されて、山門同心すべからざる由を、仰せ下されけり。其の状に云はく、
▼1728(四一ウ)延暦薗城両寺の凶徒、日来計らふ義有る由、風聞せしむと雖も、更に信用無き処、三井の僧侶、既に勅勘の人を招き寄せて寺中に入居し了ぬ。結構の至り、忽ち以て露顕す。争か一寺の奸濫に牽かれ、同じく八虐の罪科を蒙るべけんや。且は実否を尋ね、且は禁遏を加ふべし者れば、院宣に依りて、言上件の如し。
五月十六 日 左少弁行隆
進上天台座主御房
山門には、薗城寺より牒状送りたりけるには同心奉るべき▼1729(四二オ)由、領掌したりける間、宮力付きて思し食されけるに、山門の衆徒心替りするかなど、内々披露しければ、なにとなりなむずるやらむと、御心苦しく思し食されけり。重ねて又山門へ院宣を成し下さる。其の状に云はく、
薗城寺の悪徒謀逆の事
右、日来宥め仰せらるると雖も、尚し勅命を背く。今に於いては、追討使を遣はさるべきなり。一寺の滅亡、歎き思し食すと雖も、万民の煩ひ、黙止すべからざるか。誠に是魔縁の結構、盍ぞ仏境の冥▼1730(四二ウ)助を仰がざらんや。満山の衆徒、一口同音に祈り申さしむべし。兼ねては又逃がれ去るの輩、定めて叡山に向はんか。殊に用心を存じて警衛せしむべき由、三山に告げ廻さしめ給ふべし者れば、新院の御気色に依りて、上達件の如し。
五月廿二 日左少弁行隆
とぞ仰せ下されける。
爰に、山門の衆徒の中に、出羽阿闍梨慶快とて、三塔に聞こえたる学生悪僧ありけるが申しけるは、「抑も薗城寺は智証の建立也。我が山は伝教の草創也。所▼1731(四三オ)学一つにして、宗義同じなりと云へども、本末岐異にして、雲泥交はりを隔つ。而るに、三井の衆徒等恣に飛鳥の両翼に譬へ、推して牛車の二輪に類する条、所行の企て、甚だ以て奇怪なり。恐惶の思ひを以て恭敬の詞を致さば、同心せしむべし。然らざれば、与力すべからざる」由、申しけるとぞ聞こえし。
十五 〔三井寺より六波羅へ寄せんとする事〕
三井寺には、「六波羅に押し寄せて、太政入道を夜討ちにせむ」とぞ僉議しける。「物の用にもあはざらむ老僧達に松明持たせて如意山へ差し登せ、足軽二百余人そろへて白河辺へ指し向けて、家々に火をかけさせ、残らむ者共は岩坂・桜本へ馳せ▼1732(四三ウ)向かひて待たむ程に、白河に火懸けなば、焼亡とて、平家の軍兵共、多くは火の許へこそ馳せむずれ。六波羅に残り留まる者は希なるべし。其の間に押し寄せて、太政入道夜討ちにせむ事、いと安し」とぞ計らひける。
爰に一能房阿闍梨心海と云ふ者あり。年来平家の祈師にて有りけるが、大衆の中に進み出でて申しけるは、「かく申せば平家の方人をすると思し食さるらめども、一つはそれにても候ふべけれども、又争か我が寺の名をも惜しみ、衆徒の威をも思はで侍るべき。当時平家の繁昌するを見るに、吹く風の草を靡かし、降る雨の壌を砕く▼1733(四四オ)に似たり。東夷・南蛮・西戎・北狄、靡き随はざる者やある。蟷螂の斧を以て立車を返し、嬰児の蠡を以て巨海を尽くすと申す事は有れども、軍兵其の数籠り居て候ふ。六波羅を夜討ちにせむ事、いかが有るべかるらむ。云ふ甲斐なき事引き出だしたらば、南都北嶺の嘲り、能々御計らひあるべき也」と、夜を深かさむとや思ひけむ、長僉議をぞしたりける。
乗因房阿闍梨慶宗は、衣の上に打刀前だりにさしなし、かせ杖にかかり、指し顕れて申しけるは、「例証を外に求むべからず。我が寺の本願天武天皇、大伴の皇▼1734(四四ウ)子に襲はれて吉野山へ籠らせ給ひけるに、大和国宇多郡を過ぎさせ給ひけるには、上下わづかに七騎の御勢にて通らせ給ひけれども、終には和泉・紀伊国の勢を召し具して、伊賀・伊勢を経て美乃と尾張の勢とを催して、美乃との近江との境に境河と云ふ所にて、河をへだてて大伴の皇子と戦はせ給ひしに、河、黒血にて流れたり。是よりして彼の河を黒血河と申す。終に大伴皇子を亡ぼし、二度位に即き給ふ。『人倫哀れみをなせば、宮鳥懐ろに入る』と云へり。争か御力を合はせ奉らざらむ。余をば知るべからず、慶宗が門▼1735(四五オ)徒共、漏るべからず。太政入道夜討ちにして進らせよ」と云ひもはてねば、時を作る。
山の手へ向かふ老僧には、一能房阿闍梨心海、乗因房阿闍梨慶宗、乗南房阿闍梨覚勢、経修房阿闍梨、武士には源三位入道頼政を初めとして、物の用に叶ひげもなき老僧五百余人、手々に松明持ちて如意が峯へ登る。足軽二百余人そろへて、白河の側へ遣す。其の外の悪僧には、嶋阿闍梨大輔公、法蓮房伊賀公、角六郎房、六天宮には式部、大夫、能登、加賀、備後、越中、荒土佐、鬼佐渡、日尾定雲、四郎房、五▼1736(四五ウ)重院但馬、円満院大輔、堂衆には筒井浄妙明俊、一来法師、武士には伊豆守仲綱、源大夫判官兼綱、六条蔵人仲頼、其の子蔵人太郎長光、渡部党を先として、七百五十余人、時を作りて出で立つ。
園城寺に宮入れ進らせて後は、堀ほり逆木引きたれば、堀に橋を渡し、さかも木のけさせなどせしほどに、五月の短夜なれば、八音の鳥も鳴き渡り、しののめ次第に明けぞゆく。伊豆守宣ひけるは、「今は叶はじ。引けや」とぞ云はれける。円満院の大輔進み出でて申しけるは、「昔唐国に孟嘗君と云ふ者ありき。孤白の裘と云ふ物を▼1737(四六オ)秘蔵して持てり。
秦の照王、此の事を聞き給ひて、『汝が所持の孤白裘、我に得させよ』と云ひければ、我が身には第一の宝と思ひけれども、是を惜しみては我滅びなむずと思ひて、此の裘を照王に与へ奉る。則ち官庫に納めてけり。此の裘をきつれば、一天四海を眼前に見、七珍万宝を求め出だす宝なり。されば、孟嘗君、三千人の所従に金の沓をはかせて朝夕召し仕ひしも、此の裘の故也。孟嘗君此の事を安からず思ひて、日別の食事を止めて彼の裘の惜しき事を歎き居たりけるに、孟嘗君、心広く賢き者にて様々能ある者を召し仕ひけり。或いは牛馬の吠ゆるまねをし、犬の吠ゆるまねをし、▼1738(四六ウ)或いは鶏の鳴くまねをし、盗みに長ぜる者もあり。其の中に、李不提と云ふ、盗み能くする者あり。『孤白裘を盗み出だして献らむ』と云ひければ、孟嘗君大きに悦びて、李不提を遣す。不提、照王の許に行きて、宝蔵を開きて彼の裘を盗み出だして、孟嘗君に奉る。孟嘗君、此の裘を得て、『照王聞き給ひなば、我を誡めに寄せ給はむずらむ。さらば、未だ天の明けざる先に』とて、子剋計りに秦国を逃げ出だしけるに、彼の函谷関と申すは、鶏の鳴かざる前には関戸を開く事なし。いかがはせむと歎きけるに、三千人の客の中に鶏鳴
と云ふ者、高木の末に登りて、鶏の虚音をしたりければ、其の声▼1739(四七オ)に催されて関路の鶏鳴きければ、『夜曙にけり』とて、関守り戸を開けければ、孟嘗君悦びて事故無く通りにけり。是も敵の謀の能き故也。今も我等が心をはからむとて、鳥のそら音にてもや有るらむ。只寄せよや」とぞ申しける。
伊豆守、「いやいや叶ふまじ。引けや」と宣ひければ、力及ばず引き退く。「是は心海めが長僉議にこそ夜は深けたれ」とて、帰りざまに心海が坊を切り払ふ。心海が同宿共、命を捨てて散々に防き戦ふ。寄手もあまた討たれにけり。心海が同宿八人討たれけり。心海、虎口を遁れて六波羅に馳せ参りて此の由を申す。されども、軍兵その▼1740(四七ウ)数籠りたりければ、少しも騒ぐ事なし。
十六 〔大政入道山門を語らふ事 付けたり落書の事〕
太政入道、忠清を召して宣ひけるは、「南都、延暦寺、三井寺、一つに成りなば、よき大事にてこそ有らんずらめ。いかがせむずる」。忠清申しけるは、「山法師をすかして御覧候へかし」。「然るべし」とて、山の往来に近江米三千石よす。解文の打敷(うちしき)に織延絹三千疋差し副へて、明雲僧正を語らひ奉りて、山門の御坊へ投げ入る。一疋づつの絹にばかされて、日来蜂起の衆徒、変改(へんがい)して、宮の御事を捨て奉りけるこそ悲しけれ。山門の不覚、只此の時にあり。
奈良法師是を聞きて、実語教に作りてぞ咲(わら)ひけ▼1741(四八オ)る。其の詞に云はく、
山高きが故に貴からず、僧有るを以て貴しとす。人肥えたるが故に貴からず、恥有るを以て貴しとす。織延は一旦の財、身滅せざれども即ち破る。恥は是万代の疵、身終はるまで更に失せず。玉瑩き立つれば疵無し、疵無きを頼政とす。貪欲の者は恥無し、恥無きを山僧とす。倉の内の財は朽つること有れども、身の中の欲は朽つること無し。千両の金を積むと雖も、一日の恥には如かず。四大日々に衰へ、三塔夜々に暗し。敢へて書を読むに輩無し。学文の方には跡を削る。眠りを除きて夜討を好み、飢ゑを忍びずして財を損ず。師に遇ふと雖も恐れず、豈(あ)に弟子に向かふとも恥ぢんや。▼1742(四八ウ)四等の船に乗らざれども、海賊の道に理を得。八正の道有りと雖も、十悪なるが故に学せず。無為の都有りと雖も、放逸の為に仕へず。唯畜生に全同なり。即ち木石に異ならず。父母には常に向背し、主君には更に忠無し。園城宮を敬へば、諸人三井を敬ふ。山僧約を変ずれは、国土普く之を悪む。天下叡山を謗り、万人四明を傾くれば、山門悉く滅失すること、宛も霜下花の如し。身を織り延べに代へて、妻子の相節とす。常に安きは罪業也。将来の恥を洗ふべし。故に万代の山僧、先づ此の書を習ふべし。是れ学
文の始め也。身を終ふるまで忘失すること勿(なか)れ。▼1743(四九オ)実語教一巻、是則ち山僧経也。仍りて陀羅尼品に云はく、〓(おん)山法師、はらぐろはらぐろ、よくふかよくふか、はぢなやそはか
とぞ書きたりける。
同じく奈良法師の読みける。
山法師織延絹の薄くして恥をばえこそかくさざりけれ
同じく小法師原の読みける。
山法師味曽かひしほか唐醤かへいじの尻に付きてまはるは
源三位入道かくぞ読みける。
薪こるしづがねりそのみじかきがいふ言の葉の末のあはぬは
山僧の中に、絹にもあたらぬ小僧、此の哥共を聞きて、かくぞ読みける。
▼1744(四九ウ)織延を一きれもえぬ我さへにうす恥をかく数に入る哉
十七 〔宮蝉折(せみをれ)を弥勒に進(まゐ)らせ給ふ事〕
高倉宮の御前に参りて、大衆申しけるは、「山門の衆徒も心替りし候ひぬ。南都よりも御迎へに参ると、今日よ明日よと申せども、未だ見え候はず。寺ばかりにては叶ふまじ。何方へも延びさせおはしますべし」と申す。宮、御心細げにおはします。されども金堂に御入堂あり。此の宮、小枝・蝉折(せみをれ)と云ふ秘蔵の御笛二つあり。蝉折(せみをれ)を弥勒に奉らせ給ふ。
此の御笛は、鳥羽院の御時、奥州より砂金千両奉りたり。鳥羽院、「是は我が朝の重宝のみにあらず、大国の宝にてもある物を」とて、▼1745(五〇オ)時の主上へ進(まゐ)らせ給ひたり。唐土国王、大きに悦ばせ給ひて、御返報とおぼしくて、幹竹(かんちく)(カンちく)を一本献る。其の竹の中に、笛にえらせ給ふべきよを一よ切らせまします。口の穴と節と覚しき所に、生身の蝉の様なる物有りけり。聖主、希代の宝物と思(おぼ)し食(め)されて、三井寺の覚祐僧正に仰せて、護摩壇の上、一七ヶ日加持せさせ給ひて後、笛に雋られたりけり。天下第一の宝物なりける間、おぼろけの御遊には取り出だされず。御賀の有りけるに、高松中納言実平卿、給はりて吹かんとす。御遊の期、未だ遅かりければ、普通の笛の如く思ひなして、膝の下に押しかくし▼1746(五〇ウ)て、其の期に取り出だして吹かんとすれば、笛とがめ思ひて、取りはづして蝉を打ち折りたり。其よりしてこそ、此の御笛をば蝉折(せみをれ)とは名付けしか。
鳥羽院の御物なりけれども、其の御孫の御身として伝へ持たせ給ひたりけるが、いかならむ世までも御身を放たじと思(おぼ)し食(め)されけれども、三井寺を落ちさせ給ふとて、「今生にては拙くして失せなむず。当来には必ず助け給へ」とて、金堂に御座す生身弥勅菩薩に手向け奉りて、奈良へ落ちさせ給ふべきに定まりぬ。小枝と申しし御笛を、最後まで御身を放たれず。哀れなりし御事也。
其の後、或る雲客、日吉社へ詣でて、夜陰に及びて▼1747(五一オ)下向しけるに、三井寺に笛の音のしけるを、暫くやすらひて立ち聞きければ、故高倉の宮の蝉折(せみをれ)と云ひし御笛の音に聞きなして、子細を尋ねければ、金堂執行慶俊阿闍梨、其の比寵愛しける小児の笛吹を持ちたりけるに、時々取り出だして此の笛を吹かせけり。ゆゆしくも聞き知りたる人哉。大衆、此の由を聞きて、「此の笛をいるかせにする事、然るべからず」とて、其の時より始めて一の和尚の箱に納められて、園城寺の宝物の其の一にて今にあり。
十八 〔宮南都へ落ち給ふ事 付けたり宇治にて合戦の事〕
廿三日、高倉宮は、大衆同心せばかくてもおはしますべきに、山門心替りの上は園城寺ばかりにては弱ければ、源三位入道頼政、▼1748(五一ウ)伊豆守仲綱、大夫判官兼綱、渡部党には競、継、与、丁七唱、寺法師には円満院大輔、大加賀、矢切但馬、筒井浄妙明俊等を始めとして、三百余騎にて落ちさせ給ふ。宇治と寺との間にて、六度まで落馬せさせ給ふ。此の程、御寝ならざりける故也。宇治橋三間引きてかいだてにかき、其の間、宮をば平等院に入れ進(まゐ)らせて御寝なし奉る。
平家、此の事を聞きて、軍兵を差し遣して追ひ奉る。大将軍には、左兵衛督知盛、蔵人頭重衡朝臣、権亮少将惟盛朝臣、小松新少将資盛朝臣、中宮亮通盛朝臣、左少将清経朝臣、▼1749(五二オ)左馬頭行盛朝臣 三河守知盛 薩摩守忠度、侍には上総守忠清、同大夫尉忠綱、飛騨守景家、同判官景高、河内守康綱、摂津判官盛経以下、二万余騎とぞ聞こえし。
宇治路より南都へ向ふ宮の御方、三百余騎也。宇治橋引きて平等院に御休み有りけるに、「敵已(すで)に向かひたり」と云ふ程こそあれ、河の向かひに雲霞の勢、地を動もせり。平等院に敵有りと目懸けてければ、河に打ち臨みて時を作る。三位入道も声を合はせたり。平家の方よりは我先にと進みけり。
宮の御方より、筒井の浄妙明俊、褐の鎧直垂に火▼1750(五二ウ)威の鎧着て、五枚甲居頸(ゐくび)に着なして、重藤の弓に廿四指したる高うすべをの矢を後高に負ひなして、三尺五寸のまろまきの太刀をかもめ尻にはきなして、好む薙刀杖につき、橋の上に立ち上がりて申しけるは、「もの其の者に候はねども、宮の御方に筒井の浄妙明俊とて、園遠寺には其の隠れなし。平家の御方に吾と思(おぼ)し召(め)さむ人、進めや見参せむ」とぞ申しける。平家方より、「明俊は能き敵。吾組まん、吾組まん」とて、橋の上へさと上がる。明俊は、つよ弓勢兵、矢つぎ早の手聞(てきき)にて有けり。廿四差たる矢を以て、廿三騎射臥せて、一つは残りて▼1751(五三オ)胡〓にあり。好む薙刀にて十九騎切り臥せて、廿騎に当たる度、甲にからりと打ち当てて折れにければ、河へ投げ捨つるままに、太刀を抜きて、九騎切り臥せて、十騎に当たる度、打(ちやう)と打ち折れ、河に捨つ。憑(たの)む所は腰刀、ひとへに死なむとのみぞ狂ひける。
「浄妙房うたせじ」とて後中院の但馬、金剛院の六天狗、鬼佐渡、備中、能登、加賀、小蔵尊月、尊養、慈行、楽住、金拳の玄永房等、命を惜しまずたたかひけり。橋桁はせばし、そばより通るに及ばず。明俊が後に立ちたりける一来房、「今は暫くやすみ給へ、浄妙房。一来進むで合戦▼1752(五三ウ)せむ」と云ひければ、明俊「尤も然るべし」とて、行桁の上にちとひらみたる所を、「無礼に候ふ」とて、一来法師、兎ばねにぞ越えたりける。是をみて敵も御方も「はねたりはねたり、能(よ)くこえたり」とぞほめたりける。此の一来法師は、普通の人よりは長(た)けひきく、勢少し。肝神の太き事、万人にすぐれたり。さればこそ、甲冑をよろひ、弓箭兵杖を帯しながら、身をかへりみず、あれほどせばき行桁の上にて、大の法師をかけもかけず、兎ばねにはこえたりけれ。太刀の影、天にも有り、地にもあり、雷などのひらめくが如し。切りおとし、切りふせ▼1753(五四オ)らるる者、其の数を知らず。上下万人、目をすましてぞ侍りける。明俊・一来、二人にうたるる者、八十三人也。実に一人当千の兵なり。
「あたら者共うたすな、荒手の軍兵打ち寄せよや、打ち寄せよや」と、源三位入道下知しければ、渡部党には省、連、至、覚、授、与、競、唱、烈、配、早、清、遥などを始めとして、我も我もと声々に一文字名ども名乗りて、卅余騎、馬より飛び下り、橋桁をわたして戦ひけり。明俊は是等を後ろに従へて、弥(いよい)よ力付きて、忠清が三百余騎の勢に向かひて、死生不知にぞ戦ひける。三百余騎とはみえしかど、明俊、一来、▼1754(五四ウ)渡部党、卅余騎の兵共に二百余騎は打たれて、百余騎ばかりは引き退く。其の間に、明俊は平等院の門内へ引きて休む。立つ所の箭は七十余、大事の手は五所也。処々に灸治して、頭からげ浄衣着て、棒杖つき、高念仏申して、南都の方へぞ罷りにける。
円満院の大輔慶秀、矢切の但馬明禅と云ふ者あり。此又武勇の道、人に免されたる者也。慶秀は、白き帷の脇かきたるに、黄なる大口を着、萌黄の腹巻に袖つけたり。明禅は、褐の帷に白き大口を着(キ)、洗ひ革の腹巻に射向の袖をぞ付けたりける。各薙刀をとり、し▼1755(五五オ)ころを傾けて、又ゆき桁をわたしけるを、寄武者共、矢ぶすまを作りて射ければ、射すくめられてわたり得ざりけるに、明禅長刀をふりあげ、水車をまはしければ、矢、長刀にたたかれて四方にちる。春の野に東方の飛びちりたるに異ならず。御方も興に入りてぞほめののしりける。
橋を引きてければ、敵数千騎有りと云へどもわたり得ず。明禅等にふせかれて、合戦、時をぞ移しける。矢切の但馬、円満院の大輔、一来法師、此等三人して、橋桁わたる武者共を残り少く切り落としければ、後々には我渡らむとする兵なし。平等院の前、西▼1756(五五ウ)岸の上、橋の爪に打ち立ちたる宮の御方の軍兵共、「我も我も」と扇をあげて、「わたせや、わたせや」とまねきて、どつと咲(わら)ひけり。「それほど臆病なるものの、大将軍する事やはある。太政入道殿、心おとりし給ひたり。あれほど不覚なる者共を合戦の庭に指し遣す事、うたてありや、うたてありや」と云ひて、舞ひかなづる者もあり、おどりはぬる者もあり。かく咲(わら)ひ、恥ぢしむれども、橋渡らむとする者一人もなし。
円満院の大輔は、進み出でて散々に戦ひけるが、敵あまた打ち取りて、叶はじとや思ひけむ、河のはたを下りにしづしづと落ち行きけるを、敵追ひ懸かりて、「いかにいかに、▼1757(五六オ)かへしあはせよや、かへしあはせよや。きたなくも後をばみする者哉」と申しけれども、聞き入れず落ちて行く。敵間近く責めつけたりければ、絶えずして河の中へ飛び入りにけり。水の底をくぐりて、向かひの岸にあがりて、「いかに、よき冑もぬれて重く成りて、落つべしとも覚えぬぞ。寄せて打てや、殿原」とまねきけれども、大将にもあらねば、よせて討つにも及ばず、目にもかけず。大輔は、「さらば、暇申してよ。寺の方にて見参せむ」と申して、しづしづと三井寺の方へぞ落ち行きける。
平家は橋の中三間引きたるをも知らずして、敵計りに目を懸けて、我先にと渡りければ、▼1758(五六ウ)どしをしに押されて、先陣五百余騎、河に押し入れられて流れけり。火威の鎧のうきぬしづみぬ流れけるは、彼の神名備山の紅葉の、峯の嵐にさそはれて、龍田川の秋のくれなゐ、ゐせきにかかりて流れもやらぬに異ならず。三位入道是を見て、「世を宇治川の橋の下さへ、落ち入りぬれば堪えがたし。況や冥途の三途の河の事こそ思ひ遣らるれ」とて、
思ひやれくらきやみ路の三瀬河瀬々の白浪はらひあへじを
一来法師、にはかに弥陀願力の船に心をかけて
字治河にしづむをみれば弥陀仏ちかひの船ぞいとど恋しき
▼1759(五七オ)河に落ち入りて武者共の流るるを見て、三位入道
伊勢武者は皆火威の冑きて宇治の網代にかかるなりけり
宮の御方に、法輪院の荒土佐鏡〓と云ふ者あり。異名には雷房とぞ申しける。雷は卅六町をひびかす声あり。此の土佐も、卅六町の外にあるものを呼び驚かす大音声あり。「大勢なれば、さだかにはよもきこえじ。木に上りて呼ばはれ」と云ひければ、岸の上の松の木に上りて、一期の大音声、今日を限りとぞ呼ばひたりける。「一切衆生、法界円輪、皆是身命、為第一実とて、生ある者は皆命を惜しむ習ひ▼1760(五七ウ)なれども、奉公忠勤を至す輩は、更に以て身命を惜しむ事有るべからず。況や合戦の庭に敵を目にかけながら、くつばみを押へて馬に鞭うたざる条、大臆病の至す所なり。平家の大将軍、心おとりしたりや、心おとりしたりや。源家の一門ならましかば、今は此の河をわたしてまし。平家は徒に栄花を一天に開きて、臆病を宇治河の畔に現す。禁物好食自在にして、四百四病は無けれども、一人当千の兵にあひぬれば、臆病計りは身にあまりたりけり。やや、平家の公達、聞き給へ。此には源三位入道殿、矢筈を▼1761(五八オ)取りて待ち給ふぞ。源平両家の中に撰ばれて、〓射給ひたりし大将軍ぞや。臆する所尤も道理なり。所以に一来法師太刀をふれば、二万余騎こそ引かへたれ。尾籠(をこ)な
り、見苦し見苦し。思ひ切りて、はふはふも渡すべし」とぞ呼ばはりたる。
左兵衛督知盛、此の事を聞き、「安からぬ事哉。加様に咲はれぬる事こそ後代の恥辱なれ。橋桁を渡ればこそ、無勢なる間、射落とさるれ。大勢を河に打ちひたし、一味同心にして渡せや者共」とそ下知せられける。上総守忠清申しけるは、「此の河の有様を見るに、輙く渡すべしとも覚えず。其の上、此の▼1762(五八ウ)程は五月雨しげくして、河の水かさまさりたり。此の勢を二手に分けて、一手は淀、蹲枝洗ひ、河内路を廻りて、敵の先を切りて、中に取り籠めばや」と申しければ、東国下野国の住人、足利の太郎俊綱が子に、足利又太郎忠綱と云ふ者あり。赤地錦直垂に、火威の鎧に三枚甲居頸(ゐくび)に着なし、滋藤の弓に廿四指したる切符の矢に、足白の太刀に、白葦毛の馬に黄伏輪の鞍置きて乗りたりけるが、多くの武者の中に進み出でて申しけるは、「淀、いも洗ひ、河内路をば、唐土天竺の武士が給はりて寄せんずるか。其も我等こそ責めんずらめ。今▼1763(五九オ)無からむが、其の時出で来べきにも非ず。昔、秩父と足利と中違ひて、父足利、上野国新田入道を語らひて搦め手を廻ししに、新田の入道、敵秩父に船を破られて、『船無ければとて、此に引かへたらむは、弓箭取る甲斐あるまじ。水
に溺れてこそ死ぬとも死なめ』とて、とね河を五百余騎にてさと渡したる事も有るぞかし。されば、此の河、とね河には勝りもせじ、劣りもせじ。渡す人無くは忠綱渡さむ」とて打ち入る。
続く者共は誰々ぞ。家子には、小野寺の禅師太郎、讃岐広綱四郎大夫、へやこの七郎太郎、郎等には大岡安五郎、あねこの▼1764(五九ウ)弥五郎、とねの小次郎、おう方二郎、あきろの四郎、きりうの六郎、田中の惣太を初めとして、三百五十騎には過ぎざりけり。忠綱申しけるは、「加様の大河を渡すには、つよき馬を面に立て、よはき馬を下に立てて、肩を並べ、手を取りくみて渡すべし。其の中に、馬も弱くて流れむをば、弓のはずを指し出だして取り付かせよ。余たが力を一に合はすべし。馬の足のとづかむ程は、手縄をくれて歩ませよ。馬の足浮かば、手縄をすくふて游がせよ。我等渡すと見るならば、敵矢ぶすまを作りて射んずらむ。射るとも手向ひなせそ。射向の袖をかたきに当てて、▼1765(六〇オ)向かひ矢を防かせよ。向かひのはたみむとて、内甲(うちかぶと)のすき間射らるな。さればとてうつぶきすごして、手辺の穴射らるな。馬の頭さがらば、弓のうらはずを投げ懸けて引き上げよ。つよく引きて引きかづくな。馬より落ちんとせば、童すがりに取り付きて、さうづにしとど乗りさがれ。かねにな渡しそ。押し流さるな。すぢかへざまに水の尾に付きて、渡せや渡せや」とて、一騎も流れず、向
かひのはたに、ま一文字にさと着く。
向かひのはたに打ち上がりて、忠綱は、弓杖をつき、左右の鐙踏み張り、鎧づきせさせ、物具の水ぞ下しける。門外近く押し寄せて申しけるは、「遠くは音にも聞け、▼1766(六〇ウ)今はまぢかし、目にも見よ。東国下野国住人、足利の太郎俊綱が子に、足利又太郎忠綱、生年十七歳。童名王法師丸とは、源平知ろし食(め)したる事ぞかし。無官無位の者の、宮に向かひ奉りて弓を引き候ふは、恐れにては候へども、信も冥加も太政入道の御上にて候へば」とて、ざざめかいてぞ係けたりける。
源三位入道頼政は、長絹の直垂に黒革威の鎧を着て、甲をば着ざりけり。馬もわざと黒き馬にぞ乗りたりける。仲綱・兼綱を左右に立て、渡辺党を前後に立てて、今を限りと散々にぞ戦ひける。宮は其の間に延びさせ給ひけり。若干の大勢▼1767(六一オ)せめ重なりける上、頼政入道、矢射尽くし、手負ひて後は、今は叶はじとや思ひけむ、南都の方へぞ落ちにける。伊豆守仲綱も討たれぬ。
源大夫判官兼綱は、父を延ばさむとて、引き返し引き返し戦ひけり。手負ひたりければ、鞭を揚げて落ちられけり。黄なる生衣の直垂に、赤威の鎧きて、白葦毛の馬にぞ乗りたりける。上総太郎判官忠綱、「あれは源大夫判官殿とこそ見奉りつれ。うたてくも後をばみせ給ふ者哉。返させ給へ」とて追ひ懸けたりければ、「宮の御共に参る」とぞ答へける。無下に近く責め寄せたりけれな、今は叶はじとや▼1768(六一ウ)思はれけむ、馬の鼻を引き返して、我身あひともに十一騎、敵の中へをめいて懸けけるに、一人も組む者なし。さとあけてぞ通しける。十文字にかけわりたるを、忠綱が射る矢、兼綱が内甲(うちかぶと)に中(あ)たりぬ。忠綱が小舎人童、二郎丸とて勝れたる大力なりけるが、むずと組みて落ちたりけり。兼綱は下になり、二郎丸は上に成りけるを、兼綱が郎等落ち合ひて、二郎丸が鎧の草摺を引き上げて、上げざまに指してけり。さて、兼綱は山の中へ引き籠もりて、鎧ぬぎすて、腹かい切りて死ににけり。飛騨判官景高が郎等追ひつづいて、▼1769(六二オ)頸をば取りて返りにけり。
十九 〔源三位入道自害の事〕
源三位入道は、源八嗣をまねきて申しけるは、「身は六代の賢君に仕へて、齢八旬の衰老に及ぶ。官位已(すで)に烈祖に越へ、武略等倫に恥ぢず。道の為、家の為、慶びは有れども恨みは無し。偏(ひと)へに天下の為に、今義兵を挙ぐ。命を此の時に亡ぼすと雖も、名を後世に留むべし。是勇士の庶ふ所、武将の幸ひに非ずや。各ふせき矢射て、しづかに自害せさせよ」とぞ申しける。三位入道は右の膝節を射させたりけるが、木津河のはたにて高き岸の有りける隠れにて、鎧ぬぎすて、馬より下りつつ、息づき居たりけるが、▼1770(六二ウ)念仏百返計り唱へて、和哥をぞ一首読まれける。
埋木の花さく事も無かりしにみのなるはてぞ哀れなりける
此の時、哥など読むべしとこそ覚えねども、心に好みし事なれば、加様の折もせられけるこそ哀れなれ。
渡部党に長七唱と云ふ者に、「頸うて」と云はれけれども、生頸を取らむ事、さすがにや覚えけむ、「自害をせさせ給へかし」と申しければ、太刀を腹にさし当てて、うつ臥しに伏したりけり。其の後、頸かい切りて、穴を深く掘りて埋みたりけるを、平家の軍兵追ひ懸りて、ここかしこ穴ぐり求めけるほどに、木津河▼1771(六三オ)のはたにして求め出だして取り畢(を)はんぬ。
宮は御寝もならせ給はず、御喉渇かせ給ひければ、水まゐりたく思(おぼ)し食(め)されけれども、敵軍多く後より参り重なりければ、御ひま無くて過ぎさせ給ひけり。御共に参りける信連、黒丸等に、「ここをばいづくと云ふぞ」と御尋ねわたらせましましければ、「是は井出の里と申す所にて候ふ也。又此の河の事にて候ふ、山城の水なし河と申し候ふぞ」と申しければ、宮、うちうなづかせましまして、かくぞ思(おぼ)し食(め)しつづけさせ給ひける。
山城のゐでのわたりに時雨して水無河に波や立つらん
▼1772(六三ウ)と、うちすさませましまして、にえ野の池を打ち過ぎて、梨間の宿をも通らせ給ひければ、漸く奈良の京も近付きて、光明山へぞかからせ給ひける。
廿 〔貞任が哥読みし事〕
昔も合戦の庭にて加様の哥の名を上ぐる事は多けれども、まのあたり哀傷を催す事は無し。源頼義朝臣、安倍の貞任・宗任を責められし時、奥州信夫の乱れに年を経て、明けぬ晩れぬと諍ひて、十二年までせめ給ふ。
或年の冬の朝に、鎮守府を立ちて秋田城へ移り給ふ。雪は深くふり敷き、道すがらかつふるままの空なれば、射向の袖、矢並つくろふ小▼1773(六四オ)手の上までも、皆白妙に見えわたる。白符の鷹を手に居えたれば、飛羽風に吹きむすばるる雪、都にて見なれし花の宴の舞人、清涼殿の青海波の袂にも劣らずこそみえられけれ。楯を載せて甲とし、楯を浮べて筏として、岸高く峙ちたる衣河城をば、頭をたれ、歯をくひしばりて責め落とし給ひしに、貞任、城の後ろよりくづれおちて逃げけるに、一男八幡太郎義家朝臣、衣河に追ひ下りて責め付けつつ、「やや、きたなくも逃げ出づるもの哉。暫く引へよ」とて、
衣のたちはほころびにけり
▼1774(六四ウ)と云ひ係けたりければ、貞任、少しくつばみを引へ、しころを振り向くる形にて、
年をへしいとの乱れのくるしさに
と申したりければ、義家はげたる矢を指しはづして、帰られにけり。優なる事にぞ、其の比は申しける。
廿一 〔宮誅され給ふ事〕
さても園城寺の衆徒、源三位入道頼政等、皆散々に成りて、一むれにても宮の御共にも参らず、左兵衛尉信連・黒丸ばかりぞ付き参りたりける。信連は浅黄の直垂、小袴に洗革の大荒目の腹巻に膝の口たたかせ、左右の▼1775(六五オ)小手指しつつ、三枚甲居頸(ゐくび)に着なして、滋藤の弓に高うすべ尾の矢負ひ、三尺五寸の太刀はきたり。源三位入道の秘蔵の馬油鹿毛に乗りて、「宮の御共せよ」とて帰りたりけるにぞ乗りたりける。宮を先にたてまゐらせて落ちけるが、敵をめいて責めかかりければ、返し合はせ返し合はせ戦ひけり。光明山の鳥居の前にて、流れ矢の御そば腹に立ちぬ。馬より逆(さかさま)にぞおちさせたまふ。こはいかがせむずると思ひあへず、信連馬より飛び下りて物へ進(まゐ)らせたれども、云ふ甲斐なし。御目も御覧じあけず、物も仰せられず消え入らせ▼1776(六五ウ)給ひにけり。黒丸と二人して御馬にかきのせ進せむとすれども叶はず。さる程に、敵已(すで)に責め係りにけり。
飛騨判官景高、此の御ありさまを見進せて、鞭をさして、「あれあれ」と云へば、郎等落ち合ひて、宮の御頸をかかむとす。信連、弓をすて太刀を抜きて踊り上りて、景高が郎等の甲の鉢をむずと打つ。打たれてうつぶしに伏せぬ。信連申しけるは、「飛騨判官とみるはひが目か。争(いかで)か君のわたらせ給ふと申す。信連かくて居たり。馬に乗りながら事をばおきつるぞ。日本第一の尾籠(をこの)人哉」と▼1777(六六オ)云ひければ、「さないはせそ」とて、郎等七八人、ざとおりあふ。信連少しもさわがず、中へ入りて八方ちと打ちまはる。十余人の者共皆打ちしらまされぬ。ちかづく者無かりけり。「きたなし。寄りてくめ。景高おそろしき歟、景高」とて切り廻るに、はせ組む者こそ無かりけれ。只遠矢にのみ射ける程に、膝の節をかせぎに射貫かれて、片膝を地につけて腰刀を抜きつつ腹巻の引合押切つて、つか口まで腹につきたて、宮の御とのごもりたる御跡に参りて伏し、腸(はらわた)をくり出して死ににけり。宮の御頸は、景高ま▼1778(六六ウ)ゐり、かきまゐらす。此のまぎれに黒丸は走り失せにけり。
治承四年五月廿三日、宇治の河瀬に水咽びて、浅茅が原に露きえぬ。木津河いかなる流れぞや。頼政が党類、皆みぢか夜の夢に同じ。光明山はうらめしき所哉。藩籬の貴種、良き闇に趣かせ給ふ。宿習のかぎりある事を思ひ遣ると云へども、運命の程無き色を歎き悲しぶ。
南都の大衆、末寺を催し庄園を駈りて、其の勢都合三万余人にて宮の御迎へに参りけるが、已(すで)に先陣は泉の木津に着きて、後陣▼1779(六七オ)は興福寺の南大門に未だ有りなど聞こえければ、宮は憑(たの)もしく思(おぼ)し食(め)され、いかにもして奈良の大衆に落ち加はらむとて、駒を早めて打たせましましけるに、今四、五十町をへだてましまして、終に討たれさせ給ひぬるこそ悲しけれ。南都の大衆遅参して、空しく道より帰りける事を山法師聞きて、興福寺の南大門の前に札を立てたりけるとぞ聞こえし。
なら法師くりこ山とてしぶり来ていか物の具をむきとられけり
此れは、山法師、宮に御契約を申して後、変改(へんがい)し▼1780(六七ウ)して平家に語らはれける事を、奈良法師、実語教を作り哥を読みて咲(わら)ひけるを安からず思ひて、加様に咲(わら)ひ返してけるとぞ聞こえし。
抑(そもそ)も以仁の王と申すは、正しき太政法皇の御子ぞかし。位に即き世を知食(め)すとても難かるべきに非ず。其れまでこそましましざらめ。「かかる御事あるべしやは。何なりける先世の御宿業のうたてさぞ」と思ひ奉るも甲斐無かりし事共也。三井寺の悪僧弄びに頼政入道の家の子郎等、泉の木津のわたりにて皆討たれにけり。
佐大夫は、馬よわくて宮の御共にも▼1781(六八オ)参り着かず、後に敵馳せ係りければ、力及ばずして馬を捨て、にえ野の池の南のはたの水の中に入りて、草にて面をかくして、わななき伏せりければ、軍兵共のけ甲にて我先にとはせ行くおそろしさ、なのめならず。「宮は、さりとも今は木津河をば渡りて、奈良坂へもかからせ給ひぬらむと思ひける程に、浄衣きたる死人の頸もなきを舁(か)(カ)きて通りけるをみれば、宮の御むくろ也。御笛、御腰に指されたり。はや討たれさせ給ひにけりと見進せけるに、はひ出でて懐(いだ)(イダ)き付きまゐらせばやと思へども、さすがに走りも出でら▼1782(六八ウ)れず、命は能(よ)く惜しき者哉とぞ覚えける。御笛は御秘蔵の小枝也。『此の笛をば、我死にたらむ時は、必ず棺に入れよ』とまで仰せられける」とぞ、佐大夫は後に人に語りける。佐大夫は夜に入りて池の中よりはひ出でて、はふはふ京へ帰り上りにけり。為方も無かりけるが、正治元年に改名して、伊賀守に成りて、邦輔とぞ名乗りける。
宮より始め奉りて頼政父子三人、上下十余人が首を捧げて、軍兵等都へ帰り入りにけり。ゆゆしくぞみえし。此の宮には人のつねに参り仕ふる人も無かりければ、分明に見知り奉る人無かりけり。「誰か▼1783(六九オ)見知り奉るべし」と尋ねられけるに、「典薬の頭定成朝臣こそ、去年御悩の時、御療治の為に召されて有りしか」と申す人ありければ、「さては」とて、彼の人を召さるべきの由評定あり。此を聞きて、典薬頭、大きに痛み申しける処に、能々見知り奉る女房を尋ね出だされにけり。女房、御首を見奉りてより、ともかうもものはいはで、袖を顔におしあてて臥しまろび泣きをめきければ、一定の御首とぞ人々知られける。此の女房は、年来なれちかづき奉りて、御子などましましければ、疎かならず思(おぼ)し食(め)されける人也。女房も、いかにもして今一目見奉らむと思▼1784(六九ウ)はれける志の深さのあまりに、参りて見奉りたり。中々よしなかりける事哉とぞ覚えし。
御首に疵のましまして、まがふべくも無かりけり。先年、悪瘡の出でさせ給ひて、御命危ふく已(すで)にかぎりに御はしましけるを、定成朝臣勝れたる名医にて有りければ、忠節を至し、めでたくつくろひ奉りて御命の恙ましまさざりき。中々其の時崩御あらば、世の常の習ひにてこそあらむずるに、由無く長らへさせましまして、今かかる災ひに合はせ給ふ事、然るべき先世の御宿業とぞ覚えし。さても彼の典薬頭は生き難き御命を▼1785(七〇オ)生き奉る事、時に取りては耆婆扁昔が如くに人思へり。
廿二 〔南都の大衆、摂政殿の御使を追ひ帰す事〕
廿五日、摂政殿〈基通〉より有官別当忠成を南都へ遣しけり。大衆の蜂起を制せられけるに、衆徒散々に陵礫して、着物をはぎ取りて追ひ下す。勧学院の雑色二人、本鳥を切らる。
又、右衛門権助親雅を御使に遣す処に、木津河辺に大衆来向かひければ、色を失ひて逃げ上られにけり。衆徒の狼藉、斜めならずとぞ聞こえし。
伊豆国の流人、前の兵衛佐頼朝謀叛のために、諸寺諸山の僧徒に祈りを付けられけるには、寺には律浄房を以て祈の師と馮みけり。即ち▼1786(七〇ウ)憑(たの)まれて、八幡に千日籠りて、無言の大般若を読み奉りけるに、七百日に満ずる夜、御宝殿より金の甲を給ひて、「兵衛佐に奉れ」と示現を蒙りて、伊豆国へ使者を下して、此の由を申しける折節、寺に騒動有りと聞こえければ、寺に下りて、此の事に組して、討ち死にしけり。兵衛佐、聞き給ひて、いかに哀れと思ひ給ひけむ、「されば律浄房の為に」とて、伊賀国に山田郷と云ふ所を、園城寺へぞ寄せられける。
大政入道は、忠綱を召して、「宇治河渡したる勧賞には、庄薗・牧か、靭負尉か、検非違使、受領か。乞ふによるべし」と仰せられけ▼1787(七一オ)れば、忠綱申しけるは、「靭負尉、検非違使、受領にも成りたくも候はず。父足利太郎俊綱が、上野国十条郡の大介と、新田庄を屋敷所に申ししが、叶ひ候はで止み候ひにき。同じくは、其れを賜ふべし」とぞ申しける。「安き事也」とて、御教書かきて、給ひにけり。足利が一門の者共、十六人連判を以て申しけるは、「宇治河を渡して候ふ勧賞を、忠綱一人に行はれ候ふ事、歎き入り候ふ。彼の勧賞を、一門の者共十六人に配分せられ候ふべし。然らざれば、君の御大事候はむ時は、忠綱一人は参り候ふとも、自余の者共は、自今以後参り候ふまじ」と▼1788(七一ウ)一日に三度申したりければ、巳の剋に成りたる御教書を、申の剋に召し返されにけり。
晦日、調伏の法行なひ奉る僧共、勧賞蒙りて、官共成られにけり。権少僧都良弘は大僧都に転じ、法眼実海は少僧都に上る。阿闍梨勝遍は律師に任ずとぞ聞こえし。
廿三 〔大将の子息、三位に叙する事〕
大将の子息侍従清宗、今年十二に成り給へるが、三位して三位中将と申す。二階の賞に預かり給ふ間、叔父蔵人頭に居給へる重衡卿より初めて、若干の人々越えられ給ひにけり。「宗盛卿は、此の人の程にては兵衛佐にてこそおはせ▼1789(七二オ)しに、是は上達部に至り給ふこそ、世を執り給へる人の御子と云ひながら、一早くおそろしけれ。一の人の嫡子などこそ、かやうの昇進はし給へ」と、時の人傾きあへり。「父前右大将の、源以光〈高倉宮〉并びに頼政法師已下追討の賞」とぞ、聞書には有りける。皇子にはおはしまさずと云ひなして、源以光と号し奉る。正しき法皇の御子ぞかし。凡人にさへ成し奉るこそ心憂けれ。頼政はゆゆしく申ししかども、遠国までは云ふに及ばず、近国の者も急ぎ打ち上るもなし。語らひつる山門の大衆さへ、心替りしてしかば、云ふ甲斐なし。
「登乗と申す相人あり。『帥の▼1790(七二ウ)内大臣〈通隆御子伊周公〉は流罪の相おはします。宇治殿・二条殿、二所ながら、御命は八十、共に三代の関白』と相し奉りたりしは、たがはざりける者を。此の少納言も目出たき相人とこそ聞えしに、悪く相し奉りたりける」とぞ、人申しける。聖徳太子の、崇峻天皇を、「横死の相おはします」と申させ給ひけるも、馬子の大臣に殺され給ふ。栗田の関白、例ならずおはしけるに、小野宮右大臣実資おはしたりければ、御簾(ミス)ごしに見参し給ひて、久しく世を納め給ふべき由、粟田殿仰せられけるに、風の御簾を吹き上げたりけるに、見たてまつり給ひければ、只今失せ給ふべき人▼1791(七三オ)と見給ひけるに、程なく隠れ給ひにけり。御堂の右馬頭顕信を、「斎院の民部卿、聟に取り給へ」と人々申しければ、「只今出家をしてむずる人をばいかが」と申されける程に、即ち出家し給ひにけり。六条の右大臣、白河院を、「御命はかなく渡らせ給ふべし。頓死の相おはします」と申されたりけり。又、「あさましき事哉。中宮の無下に近くみえさせ給ふ」と北方に歎き申させ給ひけるも、違はざりけり。さも然るべき人は、必ず相人に非ざれども、皆かくこそお
はすれ。
廿四 〔高倉宮の御子達の事〕
此の宮は、御子も腹々にあまたおはしましけり。散々に隠れ迷はせ▼1792(七三ウ)給ひき。世を恐れさせ給ひて、ここかしこにて皆法師に成らせ給ふとぞ聞こえし。伊与守顕章の娘の、八条院に三位殿と申して候ひ給ひけるに、此の宮忍びつつ通はせ給ひける。其の御腹に、若宮・姫宮おはしましけり。三位殿をば、女院殊に召し仕はせ給ひつつ、隔てなき御事にて有りければ、去り難く思(おぼ)し食(め)しけり。此の宮達をも、女院、只御子の如くにて、御衾の下よりおほしたてまつらせ給へり。糸惜しく、悲しき御事にぞ思(おぼ)し食(め)されける。
高倉の宮謀叛の聞えおはしまして、失せさせひ給ぬと聞こし召しけるより、此の宮達までもいかにと思(おぼ)し食(め)しけるより、御心迷ひて、供▼1793(七四オ)御(くご)もまゐらず、只御涙のみせきあへず。御母の三位殿は、肝心もおはしまさず、あきれておはしましける程に、池の中納言頼盛は、女院の御辺にうとからぬ人にておはしけるを御使にて、「高倉宮の若宮のおはしまし候ふなる、出だし奉らるべき」由、前大将、女院へ申し入れられたりければ、思(おぼ)し食(め)し儲けたる御事なれども、いかが仰せらるべしとも思(おぼ)し食(め)しわかず。日比朝夕仕へ奉る中納言もかく申されて参られたる間、怖ろしく思(おぼ)し食(め)して、あらぬ人の様にけうとく思(おぼ)し食(め)されけるこそ、責めての御事と覚えしか。いかなる大事に及ぶとも、出だし奉るべしとも思し食(め)され▼1794(七四ウ)ねば、宮をば御寝所の中に隠し置き奉りて、池中納言に仰せられけるは、「かかる世の周章の聞えしより、此の御所にはおはしまさず。御乳の人などが心少く見進(まゐ)らせて、失せにけるにこそ。いづくともゆくへもしらず」と仰せられけれども、入道憤り深き事なれば、大将も等
閑ならず申されければ、中納言、情かけ奉りがたくて、軍兵共門々に居ゑなどして、はしたなき事がらに成りければ、院中の上下、色を失ひつつ、いとどさはぎあへり。世の世にてあらばこそ、法皇へも申させ給はんずれ。去年の冬よりは打ち籠められおはしまして、心うき御▼1795(七五オ)ありさまなれば、いとどいかにすべしとも思(おぼ)し食(め)さず。
事の有様、叶ふまじとや、少き御心にも思(おぼ)し食(め)されけむ、「是程の御大事に及び候はむ上は、只出ださせ給へ。まかり候はむ」と、宮申させ給ひければ、御母の三位殿は理也、女院を始め奉りて、女房達、老いたるも若きも、声を調へて泣きあひ給へり。女官共、局々の女童部に至るまで、此を聞きて袖を絞らぬは無かりけり。今年は八つに成らせ給へるに、おとなしやかに申させ給けるこそ、有難く哀れなれ。中納言も石木ならねば、打ちしめりて候はれけるに、大将の御許より使頻りにはせ参りて、「いかにいかに」▼1796(七五ウ)と申されければ、それに随ひて中納言もしきりに責め奉る。「少しさもやと聞こし食(め)し出だす事あり、御尋ね有り」とて、年の程同じ様なる少き者を迎へ寄せつつ、「尋ね出だし奉りたり」とて、宮をつひに渡し奉らる。三位殿も女院も、「後れ奉らじ」と歎き悲しみ給ふ事、斜めならず。泣く泣く御頭かき撫で、御顔かいつくろひ、御直衣奉らせなど、出だし奉らせ給ふも、只夢の様にぞ思(おぼ)し食(め)されける。いかに成り給ひなむずらむと思(おぼ)し食(め)されけるぞ悲しき。池中納言、見奉りては、狩衣の袖も絞る計りにて、御車の尻に参りて六波羅へ
渡し奉られにけり。
宮出でさせ給ひける後は、女院も▼1797(七六オ)御母の三位殿も、同じ枕に臥し沈みて、湯水をだにも御喉へも入れられず。「由無かりける人を、此の七八年手ならし奉りて、かかるものを思ふこそ、返す返すも悔しけれ。七八など云へば、さすがに未だ何事も思ひ分くべき程にもわたらせ給はぬに、我が故大事の出で来る事も片腹痛く思(おぼ)し食(め)して、出でさせ給ひぬる有難さの悲しさ」とて、返す返すくどかせ給ふ。大将も見奉り給ひては、涙を押し拭ひ給へば、宮もなにと思(おぼ)し食(め)しけるやらむ、打ち涙ぐませ給ひけるぞ、らうたき。
女院の御懐より養ひ奉りて、歎き思(おぼ)し食(め)さるる心苦しさなど、中納言かきくどき細々と▼1798(七六ウ)申されければ、大将も入道に斜めならず申されける間、後白河院の御子、仁和寺守覚法親王へ渡し奉りて、御出家あり。御名をば道尊と申す。後は東大寺の長者に成らせ給ひけるとかや。
院の御子達、皆御出家ありしに、比の宮の心とく御出家だにもありせば能かりなまし。由無き御元服の有りけるこそ、返す返すも心うけれ。
猶御子はおはしますと聞ゆ。一人は高倉宮の御乳母の夫讃岐前司重季具し奉りて北国へ落ち下り給へりしをば、木曽もてなし奉りて、越中国宮崎と云ふ所に御所を立て、居ゑ奉りつつ御元服ありければ、木曽の▼1799(七七オ)宮とぞ申しける。又は還俗の宮とも申しけり。
廿五 〔前の中書王の事 付けたり元慎の事〕
昔、延喜の帝の第十六の御子兼明親王、村上帝第八御子具平親王とて、二人おはせしをば、前中書王・後中書王とて、賢王聖主の御子にて、才智才芸目出たくわたらせ給ひしかども、王位に即かせ給ふ事は別の御事なれば、さてこそ止み給ひしか。されども、謀叛をや起こし給ひし。
中にも、前中書王と申すは、漢才妙に御坐(おはしま)ししかば、政務の道にも明らかに御坐(おはしま)しければ、源姓を賜はりて、従二位右大臣に成し奉りて、万機の政を助け奉り給ひし程に、冷泉院の▼1800(七七ウ)御宇、此の君のいみじく御坐(おはしま)す事を妬ましくや思ひ給ひけむ、時の関白に謹言せられ給ひて、官位取り返され給ひて、只本の宮原にて御坐(おはしま)しけれども、更に恨みとも思ひ給はず。只岩のかけ路とのみ急がれて、深心閃かならむ事をのみ求め給ふ。遂に亀山の頭に居を卜めて隠居し給ひ、兎裘賦を作りて朝夕詠じ給ひけり。さしも執し思(おぼ)し食(め)し、名を得たる所の景気なれば、御河を尋ぬる流れ、白くして茫々たり。詞海を汲みて心をなぐさめ、万歳を喚ばふ山、青くして蔟々たり。仙宮に入りて老を休む、岩根を通る瀧の音、▼1801(七八オ)嶺にはげしき嵐のみぞ、事問ふ棲と成りにける。碧樹に鶯の鳴く春の朝には、羅幕を撥げて吟じ、候山に猿叫ぶ秋の夜は、玉枕を歌てて閃かに詠ず。歳去り歳来れども、目の光月の光、過ぎ易き事を愁へ、昨日もくれ今日も暮れて、心の闇晴れがたき事をぞ悲しみ給ひける。
或る夕暮に、山風あらあらと吹き下して、雲のけしき常よりも眼留まる空の景気なり。世の憂き時の、かくやは物悲しき事も、痛く覚え給はず。御心の澄むままに琴をかきならし給ひければ、折節山おろしにたぐふ物の音、例よりも澄みのぼりて、▼1802(七八ウ)我から哀れも押さへがたき御袖の上也。調子大食調なりければ、秦王破陣楽と云ふ楽を弾き給ひける程に、いと怖ろしくあさましげなる鬼独り、御前に跪きて聞き居たり。こはいかにと驚き思ひ給ひけれども、さらぬ様に御心を抑へて、御琴を弾き給ふ。良久しくありて、等閑げなる御声にて、「あれは何者ぞ」と問ひ給ひければ、鬼答へて申す様、「我は是、大唐の文士元慎と申しし者にて侍り。詞の花にふけり、思ひの露にぬれて、春を迎へ、秋を送りて侍りし程に、此の世はかなく成り侍りにしかば、狂言綺語の心を留めたりし▼1803(七九オ)罪の報ひにや、今かかるあさましき形を得たり。我が作り置き侍りし詩賦共、唐国にも日本にも多く口ずさみあひて侍り。其の中に、菊の詩に
是は花の中に偏(ひと)へに菊を愛するにはあらず、此の花開け尽くして更に花無ければなり
と作りて侍りしを、人皆、『此の花開けて後』と詠じ侍り。此の世を去りぬる身なれども、思ひそみにし事なれば、猶本意なく侍る也。其の道を得む人に示したくは思へども、さすがにかくと告ぐるまでの人、世に少く侍れば、思ひわびて過ごし侍りつるに、只今かけり侍るが、御琴の音に驚きて、暫くさすらひ侍り。君は▼1804(七九ウ)いみじく目出たき才人にて御坐(おはしま)せば、相構へ相構へ此の本意遂げさせ給へ。菅家、此の詩を序として侍るには、『開け尽くして』と侍り。されば、其はうれしく侍る也」と申せば、親王聞こし食(め)して、「いと安き事にこそ侍るめれ」とて、日比なにとなく御不審に思(おぼ)し食(め)されける事共、問はせ給ひければ、細々に答へ申して、誠にうれしげにて、涙を流し、手を合はせて、かきけつ様に失せにけり。
さてこそ元慎が文章にそめる色も、親王の詩賦に秀で給へる程も、共に顕れて、世人聞き伝へて感涙をぞ流しける。
昔も今もためし有るべしとも覚えぬ事共、あまた有りけり。其の中に、▼1805(八〇オ)殊に不思議なりける事は、亀山にすませ給へども、水の無かりけるを本意無き事に思(おぼ)し召(め)して、此の親王、祭り出ださせ給へり。其の祭文は文粋に見ゆ。之に依りて神の感応ありければ、即ち飛泉涌き出でたり。今の大井河と申すは、彼の水の流なるべし。嵯峨の隠君と申すは、此の宮の御事也。御年三十七にして世を背き給ふべき事を夢に御覧じて、其の年に成りしかば、自ら一乗円頓の真文を書写し、閑かに生死無常の哀傷を観じ給ひて、只仏をのみぞ念じ奉り給ひける。「来りて留まらず、薤隴に晨を払ふ露有り。去りて槿籬に返らず、▼1806(八〇ウ)暮べに投ぐる花無し」と願文をあそばして、遂にかくれさせ給ひぬ。前代にもいと聞かず、未来にも又有り難く哀れなりし御事なり。
廿六 〔後三条院の宮の事〕
後三条院第三皇子、輔仁親王とて御坐(おはしま)しき。目出たき賢人にて坐しければ、春宮御位の後には必ず御弟輔仁の親王を太子に立てまゐらせ給ふべしと、後三条院、白河法皇に申させ給ひければ、慥に御事請有りけり。宮も、当春宮御即位の後は、我が御身御譲りを受けさせ御坐(おはしま)すべき由、思(おぼ)し食(め)されける程に、春宮実仁、永保元年八月十五日、御歳十一と▼1807(八一オ)申ししに、小野宮亭より照陽舎に移らせ給ひて御元服ありし程に、応保二年二月八日、御歳十五にして敢へなく失せ給ひにしかば、後三条院申し置かせ給ひしが如く、三宮太子に立ち給ふべかりしを、其の沙汰無かりけり。承保元年十一月十二日、白河院一宮敦文親王御誕生、今生后腹の第一の皇子にて御坐(おはしま)ししかば、左右無く太子に立ち給へりし間、其の沙汰無くてわたらせ給ひしかども、敦文親王、承暦元年八月六日、御年四歳にして失せ給へり。
同三年七月九日、六条右大臣顕房公御娘の御腹に、堀河院御誕生、▼1808(八一ウ)同年十一月三日、親王の宣旨を下されたりけれども、太子には立ち給はず。此等は三宮の御事、後三条院の御遺言を畏れさせ給ふ故とぞ、古き人は申し侍りし。然りと雖も、応徳三年十一月廿八日御年八歳にして譲りを得させ給ひ、やがて同日、春宮とす。善仁王是也。太子にも立ち給はず、親王にてぞ御位に即かせ給ひける。寛治元年六月二日、陽明門院にて御元服は有りしかども、太子の沙汰にも及ばず。
康和五年正月十六日に鳥羽院御誕生ありしかば、いつしか其の年の八月十七日に太子に立たせ給ひにしか▼1809(八二オ)ば、三宮は思(おぼ)し召(め)し切りて、仁和寺の花薗と云ふ所に籠居せさせ給ひたりけるに、法皇より、「いかに、いつとなくさ様にてはましますにか。時々は京などへも出でさせ給へかし」など、細々と仰せられて、国・庄薗などあまた奉らせ給ひたりける御返事には、「花有り獣有り、心中の友。愁ひ無し歓び無し、世上の情」と申させ給ひたりけり。惣じて詩歌管絃の道に勝れてましましければ、人申しけるは、中々世にも無く官もおはせぬ人は、院内の御事よりも珍しく思ひ奉りて、参り通ふ輩多かりければ、時の人は「三宮の百大夫」とぞ申しける。かかり▼1810(八二ウ)けれども、御即位相違してければ、三宮いかばかり本意なく思(おぼ)し食(め)されけめども、世の乱れやは出で来し。
此の宮の御子、花薗左大臣を白河院の御前にて御元服せさせ進(まゐ)らせて、源氏の姓を賜らせ給ひて、無位より一度に三位しつつ、軈て中将に成し奉られたりけるは、輔仁の親王の御愁ひを休め、且は後三条院の御遺言を恐れさせ給ひける故とかや。一世の源氏、無位より三位し給ひし事は、嵯峨天皇の御子陽院大納言定卿の外は承り及ばず。
冷泉院御位の時、うつつ御心も無く、物狂はしくのみ御坐(おはしま)しければ、▼1811(八三オ)長らへて天下を知ろし食(め)す事いかがと思へりけるに、御弟の染殿の式部卿の宮、西宮の左大臣の御聟にて御坐(おはしま)しけり。よき人にて渡らせ給ふと人思へり。中務少輔橘敏延、僧連茂、千晴などが、「式部卿宮を取り奉りて、東国へ趣きて軍兵を語らひつつ、位に即け奉らむ」と、右近馬場にて夜な夜な議しけるを、多田満仲、此の由を奏聞したりければ、西宮殿は流され給ひにけり。西宮殿は知り給はざりけるを、敏延は「播磨国給はらむ」、連茂は「一度に僧正に成らん」など思ひて、かかる事を思ひ立ちにけり。満仲も語らはれたりけるが、▼1812(八三ウ)つくづく案ずるに、由なしと思ひける上に、西宮にて敏延と満仲と相撲をとりたりけるに、敏延、勝れたりける大力にて有りければ、満仲格子に投げつけられたりけるに、格子やぶれて、満仲が顔破れにけり。満仲いかりて、腰刀を抜きて敏延をつかむとす。敏延、高欄のほこ木を引きはなちて、踊りのきて、「汝我にちかどかば、汝が頭は先に打ち破りてむ」と云ひければ、満仲近づかずして止みにけり。此の意趣ありて、敏延を失はむが為に申
したりとも云へり。
此の事をば、小一条の左大臣師尹の殊に申し沙汰して、西宮左大臣▼1813(八四オ)流して、其のかはりに大臣には小一条の成り給ひたりけるが、幾程もあらで、程なく声の失する病をして、一月あまり有りて失せ給ひにけり。連茂をば、検非違使拷器に寄せて責め問ひければ、連茂涙を流しつつ、「両界の諸尊助け給へ」と申しければ、拷器も笞杖も一時にくだけ破れにけり。
白河院の御子の金子の内親王をば、二条の大宮とぞ申しける。鳥羽院の位に即かせ給ひけるに、御母代にて、皇后宮とて内裏に渡らせ給ひける御方に、永久元年十月の比、落書有りけり。「醍醐の勝覚僧都の童に千寿丸と申す▼1814(八四ウ)が、人の語らひによりて君を犯しまゐらせむとて、常に内裏にたたずみありく」と申しけり。皇后宮の御方より、此の落書を白河院へ進(まゐ)らせさせ給ひたりければ、法皇大きに驚かせ給ひつつ、検非違使盛重に仰せて、此の千寿丸を搦めて問はれければ、「醍醐の仁寛阿闍梨が語らひ也」と申す。彼の仁寛は、是三宮の御持僧なりけり。或いは上童の体にもてなし、或いは内侍の亮をふるまひて、年々よなよな便宜を伺ひけれども、掛けばくも忝なし。なじかは本意も遂ぐべき。いまいましとも云ふばかりなし。
盛重を以て仁寛を尋ねらる。仁寛承伏▼1815(八五オ)申しける上は、法家に仰せ付けて罪名を勘ふる。法家勘状を以て公卿僉議あり。罪斬刑にあたれりけれども、死罪一等を減じて遠流に定めらる。仁寛をば伊豆国へ遣す。千寿丸をば佐渡国へ遣してけり。さしもの重過の者を宥められける事こそ、皇化と覚えてやさしかりける御事なれ。大蔵卿為房、参議して僉議の座に候はれけるが、父母兄弟は死罪に及ぶべからずと申されければ、諸卿、尤も然るべき由一同に申されて、縁座に及ばざりけり。彼の為房卿は、君の為に忠あり、人の為に仁おはしけり。されば、今子▼1816(八五ウ)孫の繁昌し給ふも理なり。此をば非職の輩おほけなき事を思ひ企てたりけり。今の三位入道の思ひ立たれけむは、是には似るべき事ならねども、遂に前途を達せずして、宮を失ひ奉り、我身も滅びぬる事こそ、返す返すもあさましけれ。
廿七 〔法皇の御子の事〕
六条殿と申す女房の御腹に、法皇の御子の御座しけるをば、兵部大夫時行御娘、故建春門院の御子に養ひまゐらせて、七才にて、去んじ安元々年七月五日、座主宮の御坊へ入れ奉りて、釈子に定まらせ給ひたれども、▼1817(八六オ)未だ御出家無かりしが、高倉宮かく成らせ給ひて、御公達まで穴ぐり求められければ、「あな恐ろし」とて、日次の善悪にも及ばず、あはてて御ぐし剃りおろし奉りにけり。今年は十二才にぞ成らせ給ふ。かかる世の乱れなれば、御受戒の沙汰にも及ばず、沙弥にてぞわたらせ給ひける。風吹けは木安からぬ心地して、余所までも苦しかりけり。身の為人の為、由無き事引き出だしたりける頼政哉。
廿八 〔頼政、鵺射る事 付けたり三位に叙せし事禍虫〕
抑(そもそ)も源三位頼政と申すは、摂津守頼光に五代、三河守頼綱の孫、兵庫守仲政が子なり。保元の合▼1818(八六ウ)戦に、御方にて先を懸けたりしかども、させる賞にも預らず。又平治の逆乱にも、親類を捨てて参じたりしかども、恩賞是疎か也。大内守護にて年久しく有りしかども、昇殿をも許されず。年闌け齢傾きて後、述懐の和哥一首読みてこそ、昇殿をば許されけれ。
人しれず大内山の山守りは木がくれてのみ月をみる哉
此の哥に依りて昇殿し、上下の四位にて暫く有りしが、三位を心にかけつつ、
のぼるべきたより無ければ木の本にしゐをひろひて世をわたる哉
▼1819(八七オ)さてこそ三位をばしたりけれ。やがて出家して、源三位入道頼政とて、今年は七十五にぞ成られける。
此の人の一期の高名とおぼしき事には、仁平の比ほひ近衛院御在位の時、主上夜な夜なおびえたまぎらせ給ふ事ありけり。然るべき有験の高僧貴僧に仰せて、大法秘法を修せられけれども、そのしるし無し。御悩は丑の剋ばかりにて有りけるに、東三条の森の方より黒雲一むら立ち来りて、御殿の上に覆へば、主上必ずおびえさせ給ひけり。之に依りて、公卿僉議あり。「去んぬる寛治の比ほひ、堀河の天▼1820(八七ウ)皇御在位の時、然の如く主上おびえさせ給ふ事あり。其の時の将軍義家の朝臣、南殿の大床に候はれけるが、めいげんする事三度の後、高声に『前の陸奥の守源の義家』と高らかに名乗られたりければ、御悩怠らせ給ひけり。然れば先例に任せて、武士に仰せて警固あるべし」とて、源平両家の中を撰ばせられけるに、此の頼政ぞえらび出だされたる。其の時は兵庫頭とぞ申しける。
頼政申されけるは、「昔より朝家に武士を置かるる事、逆叛の者を退け違勅の者を亡さんが為也。目にもみえぬ▼1821(八八オ)変化の者仕れと仰せ下さるる事、未だ承り及ばず」とは申されながら、勅宣なれば、召しに応じて参内す。憑(たの)み切りたる郎等、遠江の国の住人井の早太に、母衣の風切り作いだる矢負はせて、只一人ぞ具したりける。我が身は二重の狩衣に、山鳥の尾を以て作いだりけるとがり矢二、重藤の弓に取り具して、南殿の大床に祗候す。頼政矢を二筋手ばさみける事は、雅頼の卿、その時は未だ左少弁にておはしけるが、「変化の者仕らんずる仁は、頼政ぞ候ふらむ」と申されたる間、一の矢に変化の者を射損じつるもの▼1822(八八ウ)ならば、二の矢には雅頼の弁のしや頸の骨を射んとなり。日来人の申すにたがはず。
御悩は丑の剋計りにて有りけるに、東三条の森の方よりくろ雲一むら立ち来りて、御殿の上にたなびきたり。頼政きつと見上げたれば、雲の中に奇しき物のすがたあり。是を射損ずるものならば、世に有るべしとは思はざりけり。さりながら、矢取りてつがひ、「南無八幡大菩薩」と心中に祈念して、能(よ)く引きてひやうと放つ。手ごたへしてはたと中(あ)たる。「得たりをう」と矢叫びをこそしたりけれ。落つる所を、井の早太つと▼1823(八九オ)より、取りて押へて、つづけさまに九刀ぞ刺したりける。其の後、上下手々に火を燃してみ給へば、頭は猿、むくろは狸、尾はくちなは、手足は虎、なく声ぬえにぞ似たりける。おそろしなどはおろかなり。
主上、御感のあまりに師子王と云ふ御剣を下させ給ふ。宇治の左大臣殿、是を賜はり次ぎて、頼政に賜はんとて、御前のきざはしを半らばかり下りさせ給ふところに、比は卯月十日あまりの事なれば、雲井に郭公二声三声音信れてとほりければ、左大臣殿、
▼1824(八九ウ)郭公名をも雲井にあぐる哉
と仰せられかけたりければ、頼政右のひざをつき、左の袖をひろげて、月をすこしそば目にかけつつ、
弓はり月のいるにまかせて
と仕り、御剣を賜はりてまかり出づ。凡(およ)そ此の頼政は、武芸にもかぎらず、哥道にも勝れたりとぞ、人々感ぜられける。さて、その変化のものをば、うつほ船に入れて流されけるとぞ聞えし。
又、応保の比をひ二条院御在位の時、鵺と云化鳥禁中に鳴きて、しばしば震襟をなやま▼1825(九〇オ)したてまつる。然れば、先例に任せて頼政をぞ召されける。比は五月廿日あまり、まだ宵の事なるに、ぬえただ一声音信れて、二声とも鳴かざりけり。目さすともしらぬ闇にてはあり、姿形もみえ分かねば、矢つぼを何くとも定めがたし。頼政はかりことに、先づ大鏑らを取りてつがひ、鵺の声しつる内裏の上へぞ射上げたる。鵺、鏑の声に驚きて、虚空にしばしぞひひめいたる。二の矢に小かぶら取りてつがひ、ひふつと射切りて、鵺と鏑と並べて前にぞ落としたる。禁中ざざめきあへり。
今度は御衣を下さ▼1826(九〇ウ)せ給ふ。大炊の御門の右大臣殿公良公(頼長公異本)、是を賜はり次ぎて頼政にかづけさせ給ふとて、「昔の養由は雲の外の雁を射き。今の頼政は雨中の鵺を射たり」とぞ感ぜられける。
五月やみ名をあらはせる今夜哉
と仰せられかけたりければ、
たそかれ時も過ぎぬとおもふに
と仕り、御衣をかたにかけて退出せらる。其の時、伊豆国賜はりて、子息仲綱受領になし、我が身三位し、丹波の五箇庄、若狭のとう宮川知行して、さておはすべ▼1827(九一オ)かりし人の、由なき謀叛起こして、宮をも失ひ奉り、我が身も亡び、子息所従に至るまで亡びぬるこそうたてけれ。
さても、件のばけもの、あまた獣の形有りけん、返す返す不思議なり。昔、漢朝に国王ましましき。此の王、あまりに楽しみ誇りて、「わざはひと云ふ物、いかなる物ならむ。哀れ、みばや」と宣ひけり。大臣・公卿、勅宣を奉りて、わざはひと云ふ物を尋ねけるに、大方なし。或る時、天より童子来たりて、其の時の大臣に宣はく、「是ぞわさはひと云ふ物なる。そだててみ給へ」とて、帰りぬ。取りてみれば、小さき虫にてぞ有りける。此の由を帝▼1828(九一ウ)王に奏するに、大きに悦び給ひて、是を自愛せらる。
「何をか食物とする」とて、一切の物を与ふるに、大方食はず。或る時、余りに奇しとて、様々の石金などの類を与へける。其の中に鉄を食しけり。日に随ひて大きに成る事おびたたし。次第に大きに成りて、犬程になり、後には師子などの様に成りても、鉄より外に食ふ物無かりけり。鉄も食ひ尽くして、後には内裏を始めとして、人の家の釘共を吸ひ抜きて食ひける後に、皇居人屋、一つとして全きは無かりけり。誠に天下のわざはひとぞみえける。是の物、日に随ひて大きに成る事、其の期有りげも▼1829(九二オ)なし。「当時だにもあり、後はいかがせむ」とて、国々の夷共を召して是を射させらるる。凡(およ)そ其の身鉄なりければ、箭たつ事なし。剣を以て切りけれども、きれず。己れが好む物なれば、剣をも食ひける間、はてには薪の中に積み籠めて火をさしつつ焼くに、七日七夜燃えたり。今は失せぬと思ひけるに、火の中より鉄を焼きたるが出でたりけるほどに、是がよる所は皆焼け失せにけり。山野に交はるところ煙になりて、所々の火燃え、おびたたしなどは云ふ量りなし。
而る間、此の国に人住みがたかりければ、何ともすべき謀尽きはてて▼1830(九二ウ)ければ、有験の僧を召し集めて、三七日天童の法を行はせられけるに、一七ヶ日に当たりける日、国の境を出でて、すべて其の後は見えず。国王人民、悦びあへる事斜めならず。天童、彼の獣を降伏し給ひけるにや。他国に出でて、山中にて死ににけり。
死にて後、磁石と云ふ石に成りにけり。生きて好みける物なれば、死にて石と成りたれども、尚鉄を取る物と成りたりけるこそおそろしけれ。今の磁石山、是也。
而るに、彼の獣こそ、畜類七つの姿を持ちたりけると承はれ。鼻は象、額と腹とは龍、頸は師子、背(せなカ)はさちほこ、皮は▼1831(九三オ)豹、尾は牛、足は猫にて有りけるとかや。今の代までも獏と申して、絵にかきて人の守りにするは、即ち此の獣なり。今、頼政卿射る所のばけ物も、彼の獏ほどこそ無けれども、不思議なりし異禽なり。
廿九 〔源三位入道頼政謀叛の由来の事〕
抑(そもそ)も今度の謀叛を尋ぬれば、馬故とぞ聞こえし。三位入道の嫡子伊豆守仲綱、年来秘蔵したる名馬あり。鹿毛なる馬の、尾髪あくまでたくましきが、名をば木下とぞ申しける。前右大将宗盛、しきりに所望せらる。伊豆守命にかへて是を惜しく思はれければ、「余りに損じて候ふ時に、▼1832(九三ウ)労らむが為に、此の程田舎へ遣して候ふ。取り寄せて進(まゐ)らすべく候ふ」とて、一首の哥をぞ送りける。
ゆかしくは来てもみよかし木の下のかげをはいかが引きはなつべき世には追従したがる者有りて、「其の馬は、昨日も河原にて水けさせて候ひつる物を。今日も庭乗しつるものを」など申しければ、宗盛猶、「其の馬を賜りて留めんとには候はず。只一目みて、やがて返し奉るべし」と宣ふ。伊豆守父の入道に此の由を申す。入道、「いかに奉らぬ。金を丸めたる馬なりとも、人の所望せられむに惜しむべきか。とくとく」と宣へば、力及ばず、彼の▼1833(九四オ)馬を宗盛の許へ遣す。此の馬の名をば、木下と申しければ、文にも 「木下進(まゐ)らせ候ふ」とこそ書かれけれ。
然りと雖も、初めの度惜しみたるをにくしとや思はれけむ、人の来れば主の名を呼び付けて、「仲綱め取りてつなげ」、「仲綱めに轡はげよ」、「散々にのれ、打て」など宣ふ。伊豆守此の事を聞きて、安からぬ事に思ひて父の入道に申しけるは、「心うき事にこそ候へ。さしも惜しく思ひ候ひし馬を、宗盛が許へ遣して候へば、一門他門酒宴し候ひける座敷にて、『其の仲綱丸に轡はげて引き出だして、打て、張れ』なむど申して、散々に悪口仕り候ふなる。人にかく▼1834(九四ウ)いはれても、世にながらへ、人に向かひて面を並ぶべきか。自害をせばや」と申す。誠に志尽くしがたし。入道、たのみ切りたる嫡子を失ひて、長らへてなににかはせむなれば、此の意趣を思ひて、宮をも勧め奉り、謀叛をも発したりけり。誠に憤りを含むも理也。
されば、競の瀧口に宗盛の引かれたりし遠山をば、園城寺にて尾髪を切りて、「宗盛」と云ふ札をつけ、京の方へ追ひ放つ。極めていさめる馬なれば、京中をはせ行く。人是を見て、「あなあさまし。去んぬる比、大臣殿の許に仲綱と云ふ馬のありしをこそ、あさましと思ひ▼1835(九五オ)しに、今は又、宗盛と云ふ馬の迷ひありくこそ不思議なれ。世の末には、かく見にくき事も有りける」とぞ申しける。人は世にあればとて、云ふまじき事をば慎むべきにや。
是に付けても、小松殿の御事を慕び申さぬ人は無かりけり。或る時、小松内府、内裏へ参り給ひたりけり。夜陰に、面道にて、年来知り給ひたりける女を引かへて物語し給ひけるに、何くより来るとも覚えぬに、大きなる蛇、内府の肩に匍ひ係りたりけるに、少しも驚き給はず。女房怖ぢなむずと思ひ給ひて、御身はたからかし給はでおはしけるほどに、蛇、指貫の股立(ももだち)へ▼1836(九五ウ)はひ入りにけり。其の後、「人や候ふ」と宣ひけれど、人参らず。時の大臣にておはする間、「六位や候ふ」と召されければ、伊豆守仲綱、六位にて候ひけるが参りたりけるに、内府股立(ももだち)を引きあけて、「是は見えらるるか」とて見せられけるに、「見え候ふ」と申されければ、「さらば取られよ」と仰せられければ、伊豆守、蛇の頭を取りて、狩衣の下に引き入れて、女に見せずして出で給ひて、「人や候ふ」と宣ひければ、御坪の召次の参りたりけるに、「是取りて捨てよ」とて差し出だし給ひたりければ、召次色を失ひて逃げ出でにけり。其の後、伊豆守の郎等、渡部党に省の次郎と▼1837(九六オ)云ふ者参りたりけるが、取りて捨てけり。翌日に、小松殿の御許より自筆に御文あそばして、伊豆守の許
へ遣はされけるに、「抑(そもそ)も昨日の御振舞、偏(ひと)へに還城楽とこそ見奉り候ひしか。是へ申してこそ進(まゐ)らすべく候へども」とて、黒き馬の太くたくましきに白覆輪の鞍置きて、敦総革かけて、長伏輪の太刀を錦の袋に入れて送られけり。伊豆守の御返事には、「畏りて御馬給はり候ひぬ。誠に参りて給はるべく候ふ処、送り給ひ候ふ事、殊に以て恐れ入り候ふ。仰せ蒙り候ひし時、仰せの如く還城楽の心地仕りてこそ存じ候ひしか」とぞ申されたりける。誠に▼1838(九六ウ)有り難かりける小松殿の御心ばへ哉。「哀れ、御命の長らへて、世の政を助けましまさんには、いかに世間も穏やかに、国土も静かならまし」と、万人惜しみ奉ると云へども甲斐なし。
日来は山門衆徒こそ騒ぎおどろおどろしく聞こえしに、今度は、山には別事無くして、南都の大衆、以外に騒動しければ、入道相国余りに安からぬ事に思はれければ、三井寺・南都の衆徒の張本を召し禁ぜらるべき由、其の沙汰有りけり。南都には深く憤りて、殿下の御使散々に陵礫して、弥(いよい)よ悪行をぞ致しける。
卅 〔都遷りの事〕
▼1839(九七オ)廿九日には都遷り有るべしと、日来ささやきあへりけれども、さしもやはと思ひける程に、「来月三日、先づ福原へ行幸あるべし」と仰せ下されたりければ、上下あきれさはぎあへり。「こはいかなる事ぞ」とて、是非に迷へり。更にうつつとも覚えず。
六月二日、俄に太政入道の年来通ひ給ひつる福原へ行幸あり。都移りとぞ聞こえし。中宮、一院、新院、摂政殿下、公卿、殿上人、皆参り給へり。三日と兼ねては聞こえしが、俄に引き上げらるる間、供奉の上下いとど周章て騒ぎて、取る物も取り敢へず。帝王の少くおはしますには、后こそ同輿には奉るに、是は御乳母の▼1840(九七ウ)平大納言の北方、帥佐(そちのすけ)殿ぞ、参り給ひける。「是は未だ先例無き事也」とぞ、人々あさみ給ひける。
三日、池大納言頼盛の家を皇居と定め奉りて、主上を渡し奉る。四日、頼盛は家の賞を蒙りて、正二位し給ひて、右の大臣の御子、右大将良通越えられ給へり。
一院は、四面ははた板まはしたる所の、口一つ開けたるに御坐(おはしま)して、守護の武士きびしくて、輙く人も参らざりけり。鳥羽殿を出でさせましまししかば、少しくつろぐやらむと思(おぼ)し食(め)ししかども、高倉宮の御車出で来て、又いかにしたるやらむ、かくのみあれば、心憂しとぞ思はれける。「今は只、世の▼1841(九八オ)事も思(おぼ)し食(め)し捨てて、山々寺々をも修行して、彼の花山院のせさせ御坐(おはしま)しけむ様に、御心に任せて御坐(おはしま)さばや」とぞ思(おぼ)し食(め)されける。
抑(そもそ)も代々の御門、遷都の事、先蹤を尋ぬるに、神武天皇と申し奉るは、地神五代の帝、彦波〓武〓〓草葺不合尊の第四の皇子、御母玉依姫、海神大女也。神代十二代後〈辛酉〉歳日向国宮崎の郡にて人王百王の宝祚を継ぎ給ひて、五十九年〈己未〉十月に東征して、豊葦原の中津国に移りつつ、畝火の山を点じて帝都を建て、▼1842(九八ウ)橿原の地斫ひ払て宮室を造り給へり。即ち是を橿原の宮と申す。此の御時、祭主を定め、万の神を祭り奉り、此の国を秋津嶋と名づけしより以来、代々の帝王の御時、都を他所へ遷さるる事、三十度に余り、四十度に及べり。
綏靖天王は、大和国葛城の高岡の宮に坐す。安寧天王は、片塩浮穴の宮に坐す。懿徳天王は、軽の曲峡の宮に坐す。孝昭天王、葛木の上の郡腋の上池心の宮に坐す。孝安天王は、室秋津嶋の宮に坐す。孝霊天皇の黒田廬戸の宮に坐す。孝元天皇は、▼1843(九九オ)軽の境原の宮に坐す。開化天王は、添の郡春日率川の宮に坐す。崇神天王は、磯城の瑞籬の宮に坐す。此の御時、君のみつぎ物を備へ奉り、諸国に池を堀り、船を作り始めけり。垂仁天王は、巻向珠城の宮に坐す。此の御時、始めて菓子の類を植ゑらる。橘等是也。景行天王は、纏向日代の宮に坐す。此の御時、始めて武内の宿禰を大臣に成し奉る。又、国々の民の姓を定めらる。已上、十一代、七百余年は、皆是大和国を卜めて、他国へ都を遷されず。
成務天王元年に、大和国より▼1844(九九ウ)近江国に遷りて、志賀郡に都を立て、六十余年は高穴穂宮に坐す。仲哀天王二年九月に、近江国より長門国に移りて、九年は穴戸豊浦の宮に坐す。天王彼の宮にして崩御なりしかば、后神宮(功歟)皇后代を継がせ給ひて、異国の帥を鎮め給ひて後、筑前国三笠郡にて皇子御誕生あり。掛けまくも忝く、八幡大菩薩と申すは此の御事也。応神天王と申し奉る。神功皇后は猶大和国に帰りて、十市郡磐余稚桜の宮に六十九年坐す。応神天皇は、同国高市郡軽▼1845(一〇〇オ)嶋豊明の宮に四十三年坐す。此の御時、百済国より絹ぬふ女、色々の物の師、博士などを渡す。
又、経典、吉(よ)き馬などを奉る。吉野の国栖も此の時参り始まれり。
仁徳天皇元年に、摂津国難波に遷つて高津宮に坐す。今の天王寺是也。此の御時、氷室始まれり。又、鷹をつかひ、狩なども始まれり。八十七年。履中天皇二年に、又大和国に帰りて、十市郡磐余稚桜の宮に坐して、六年、反正天皇元年に、大和国より河内に遷りて、丹比の郡柴籬宮に坐す。六年。允恭天王四十二年に、河内国より大▼1846(一〇〇ウ)和国に帰りて、遠明日香の宮に坐す。是をなむ名づけて、飛鳥の明日香の里とぞ申しける。三年。安康天皇三年に、大和の国より又近江国に帰りて後、穴穂の宮に坐す。雄略天皇廿一年、近江国より大和国へ帰りて、泊瀬朝倉の宮に坐す。清寧、顕宗、仁賢、武烈四代の帝、同国磐余甕栗、近明日八釣宮、石上広高、泊瀬列城の四つの宮に坐しき。継体天皇五年、山背筒城郡に遷りて十二年、其の後、乙訓郡に栖み給ひて、磐余玉穂の宮に坐す。▼1847(一〇一オ)安閑天皇は同じき国勾金橋の宮に坐す。
宣化天皇元年に、猶大和国に還りて、桧隈廬入野宮に坐す。欽明、敏達、用明、崇峻、推古、舒明、皇極、已上七代の帝は、磯城嶋、磐余語田、池辺列槻、倉橋、額田部小墾田の宮、田村高市織物宮、明日香河原宮に坐して、已上八代、宣化天皇より以来は、当国に坐して、都を他所へ遷されずして一百十年、孝徳天皇天化元年に、摂津国長柄京に遷りて豊崎宮に坐す。此の御時始めて年号▼1848(一〇一ウ)あり。天化・白矩等也。八省百官を定め、国々の境を改む。唐より、文書、宝物、多く渡せり。此の帝、仏経を敬ひ奉り、霊神を軽くし給ふ。丈六のぬゐ仏を供養し、二千余人の僧尼を以て一切経を転読す。其の夜、二千余の燈を宮中に燃す。其の御宇に、鼠多く群れつつ、難波より大和国へ渡る事あり。「是、都遷の先表なり」と申しし程に、その験にや有りけむ、八ヶ年後、斉明天皇二年に大和国へ還りて、岡本の宮に坐す。九年。天▼1849(一〇二オ)智天皇六年に、又近江国に帰りて、志賀郡に都を立て、大津宮に坐す。此の御時、諸国の百姓を定め、民の烟を注し置く。春宮にて御坐(おはしま)しし時、漏剋を作り給へり。内大臣鎌足、始めて藤原の姓を給はる。今の藤氏、此の御末也。五年。天武天皇元
年に、又大和国へ還りて、明日香の岡本の南の宮に坐す。是を清水原の宮と号す。故に、此の天皇を清見原御帝と申しけり。十五年。持統・文武二代の聖朝は、同国藤原の宮に坐す。元明天皇は、和銅二▼1850(一〇二ウ)年に同国平城の宮に選り、元正天皇は、養老元年に氷高平城の宮に遷り、聖武、孝謙、淡路の廃帝、称徳、光仁、五代の帝は、同国奈良の京平城宮に住み給ふ。
而るを、桓武天皇御宇、延暦三年甲子、奈良京春日の里より山城国筒城長岡の京に遷りて、十年坐す。同延暦十二年癸酉正月に、大納言小黒丸、参議左大弁古佐美、大僧都賢〓等を遣す。当国葛野郡宇太村を見せらるるに、三人共に申して云はく、「此の地の為体、左青龍、右▼1851(一〇三オ)白虎、前朱雀、後玄武、四神相応の地也。尤も帝都を定め給はんに、旁た便りあり」と奏しけるに、愛宕郡に御坐(おはしま)す賀茂大明神に告げ申されて、同十三年甲戌十月廿一日辛酉、長岡京より此の平安城へ選り給ひしより以来、都を他所へ遷されずして、帝王三十二代、星霜三百八十八年の春秋を経たり。
昔より国々所々に都を立てしかども、此くの如きの勝地は無し。東方は吉田宮、祇薗天王、巽方は稲荷明神、南方は八幡大菩薩、坤方は松尾明神、西▼1852(一〇三ウ)方は小原野、乾方は北野天神、平野明神、北方は賀茂明神、艮方は忠須宮、日吉山王御坐(おはしま)す。此方をば、鬼鎖門方と名づけて、是を慎む。されば、天竺王舎城の艮の方には霊鷺山あり、震旦には天台山あり、日本王城の艮には比叡山あり。各仏法僧のすみかとして、鎮護国家の契りにて、仏法は王法を守り、王法は仏法を崇め奉り、天王殊に執し思(おぼ)し食(め)されて、「いかにしてか、末代まで此の京を他所へ遷されざる事有るべき」とて、大臣、公卿、諸道博士、才人を召し集めて僉議ありけるに、帝都長▼1853(一〇四オ)久なるべき様とて、土にて八尺の人形を作りて、鉄の甲冑をきせ、同じき弓箭を持ちて、帝自ら御約束ありけるは、「末代に此の京を他所へ遷し、又世を乱らん者あらば、必ず罰を加へ、崇りをなして、長く此の京の守護神と成るべし」とて、東山の嶺に西向きに立てて埋められけり。将軍が塚とて、今にあり。御誓ひ限り有れば、天下に事出で来り、兵革起こらんとては、必ず告げ示して、此の塚鳴動すと云
へり。
「桓武天皇と申すは、即ち平家の嚢祖にて御坐(おはしま)す。既に先祖の聖主の基を開き、代々の御門、此の地を出でさせ御坐(おはしま)す事なし。▼1854(一〇四ウ)然るを、其の御末にて、指したる謂はれ無く、都を他所へ遷さるる事、凡慮に測り難し。偏(ひと)へに神慮穴倉し。就中、此の京をば、平に安き城と名づけて、『平ら安し』と書けり。而るを、左右無く平京を捨てらるる事、直事に非ず。又、主上も上皇も、皆彼の外孫にて御坐(おはしま)す。君も争(いかで)か捨てさせ給ふべき。是、偏(ひと)へに平家の運尽きはてて、夷狄責め上りて、平家都に跡を留めず、山野に交はるべき瑞相なり。只今世は失せなむず」と、歎きあへり。「帝王を押し下し奉りて我が孫を位に即け奉り、王子を討ち奉りて首を斬り、関白を流して我が聟をなし奉り、大臣、公卿、雲客、侍▼1855(一〇五オ)臣、北面の下臈に至るまで、或いは流し、或いは殺し、悪行数を尽くして、残る所は只都遷計り也。さればかやうに狂ふにこそ」とささやきあへり。嵯峨天王の御時、大同五年、都を他所へ遷さむとせさせ給ひしかども、大臣公卿騒ぎ背き申されしかば、遷されずして止みにき。一天の君、万乗の主だにも移し得
給はぬ都を、入道、凡人の身として思ひ企てられけるこそ畏しけれ。「民労すれば、則ち怨み起る。下〓[木+憂]ますれば即政卒」、文。「是則ち、異賊起こりて、朝家の大事出で来たりて、諸人閑かならざるべきやらむ」とぞ歎きける。新都供奉の人の中に、古京の家の柱に書き付けける。
▼1856(一〇五ウ) 百年を四かへりまでに過き来にしおたぎの里のあれやはてなむ
何なる者かしたりけむ、平家の一門の事を札に書きて、入道の門に立てける。
盛が党平の京を迷ひ出ぬ氏絶えはつるこれは初めか
さき出づる花の都をふり捨てて風福原の末ぞあやふき
「誠に目出たき都ぞかし。王城鎮護の社、四方に光を和らげ、霊験殊勝の寺、上下に居を卜め給へり。百姓万民煩ひ無く、五畿七道も便り有り。然るを、是を捨てらるる事、守護の仏神非礼を享け給はじ。四海の藜民憤りを成すべし。恐ろし恐ろし」とぞ▼1857(一〇六オ)申し合ひける。論語と云ふ文に云はく、「人を犯さば乱亡の患へ有り、神を犯さば疾天の禍ひ有り」と云々。
就中、本京より此の京は西方の分也。大将軍酉に在り、方角既に塞がりぬ。されば、勘状共を召されける中に、陰陽博士安部季弘が勘状に云はく、「本条の差す所、大将軍、王相、遠近を嫌はず、同じく忌避すべし。延暦十三年十月廿一日に、長岡京より葛野京に遷都す。今年北の分と為て、王相の方に当たる。之を避けられず。是旧きに寄るに依りて、方忌を論ぜず。次に大将軍の禁忌、猶王相に及ばず。延暦の佳例に就きて遷都せらる、大将軍の方為りと雖も、何か其の憚り有るべけむや」と云へり。是を聞きて、或る▼1858(一〇六ウ)人申しけるは、「延暦の遷都には、御方違へ有りと云へり。永く旧都を捨てられむに於いては、方角の禁忌有るべし。何様にも御方違へは有るべかりける物を。季弘が慶雲寿星とのみ奏する、心得られず」と、人唇を反しけり。
九日は新都事始めして、上卿は左大将実定、宰相右中弁通親、奉行は頭左中弁経房朝臣、蔵人左少弁行降とぞ聞こえし。十五日に新都地点の事、輪田の松原の西の野に宮城の地を定められけるに、「彼の所は高塩来らん時、事の煩ひ有るべし。其の上、五条より下無かるべし」と申しければ、土御門宰相中将通親卿申され▼1859(一〇七オ)けるは、「三重の広路を開きて十二の棟門を立つ。況や、我が朝には、五条まで有らむ、何の不足か有らむ」と申されけれども、行事官共力及ばで帰りにけり。「さらば児屋野にて有るべきか」、「播磨の猪名野にて有るべきか」と、公卿僉議有りて、同十六日、大夫史隆職、実験の為に史生を遣す。午剋ばかりに、俄に又留められにけり。此は安芸一宮、ある女に付きて託宣し給ひける故とぞ聞こえし。地点の事、日々に改定、直事に非ず。明神納受し給はずと云ふ事、掲焉し。
去んぬる十一日の夜、帥大納言隆季卿、福原にして夢を見られけるは、大なる屋の透りたるあり。其の内に隆季坐せり。▼1860(一〇七ウ)庇の房に女房あり。築垣の外にはらはらと哭く声頻り也。我之を問ふに、女房答へて曰く、「此こそは都遷よ。大神宮の受け給はざる事にて候ふぞ」と云へり。即ち驚きて、又寝たり。同様に又見られけり。恐怖して禅門に申されたりけれども、此を信ぜられざりけり。
同廿二日、法勝寺の他の蓮、一茎に二つの花開きたり。辰の剋に見付けて、彼の寺より奏聞す。本朝には舒明以後、此の事無し。其の徴空しからず。
先づ里内裏を造らるべき由、議定有りて、五条大納言邦綱卿、造進せらるべき由、入道計らひ申されければ、六月廿三日〈甲辰〉始めて、八月十日棟上とぞ定められける。論語に云はく、「楚章花の台に起こりて、藜民▼1861(一〇八オ)散ず。秦阿房の殿に興して、天下乱る」とも-文。又、帝範に云はく、「茅茨剪らず、採〓削らず、舟車餝らず、衣服に文無」かりけむ世も有りけむ物を。唐太宗は驪山宮を造りて、民の費を労はりて、終に臨幸無くして、墻に苔むし、瓦に松生ひて止みけむは、相違哉とぞみえし。
さても、故京には、辻毎に堀ほり、逆向木など引き、車も輙く通るべくも無ければ、希に小車などの通るも、道をへちてぞ行きける。程無く田舎に成りにけるこそ、夢の心地してあさましけれ。人々の家々は、鴨河桂河より筏に組みて福原へ下しつつ、空しき跡には浅茅が原、蓬が杣、鳥のふしどと成りて、虫の音のみぞ恨みける。▼1862(一〇八ウ) 適ま残る家々は、門前草深くして、荊蕀道を埋め、庭上に露流れて蓬蒿林を為す。雉兎禽獣の栖、黄菊芝蘭の野辺とぞ成りにける。僅かに残り留まり給へる人とては、皇太后宮の大宮計りぞ御坐(おはしま)しける。
八月十日余りにも成りにければ、新都へ供奉の人々は、聞こゆる名所の月みむとて、思ひ思ひに出でられにけり。或いは光源氏の跡を追ひ、諏磨より明石へ浦伝ひ、或いは淡路の廃帝の住み給ひし絵嶋を尋ぬる人もあり、或いは白浦、吹上、和歌浦、玉津嶋へ行く者もあり。或いは住の江、難波潟、思ひ思ひに趣かれけり。左馬頭行盛は難波の月を詠めて、か▼1863(一〇九オ)くぞ詠じ給ひける。
なにはがた蘆ふく風に月すめば心をくだくおきつしらなみ
卅一 〔実定卿待宵の小侍従に合ふ事〕
後徳大寺の左大将実定卿は、古京の月を詠まんとて、旧都へ上り給ひけり。御妹の皇太后宮の八条の御所へ参り給ひて、月冴え人定まりて門を開けて入り給ひたれば、旧苔道滑らかにして秋草門を閉ぢて、瓦に松生ひ墻につた(衣)滋り、分け入る袖も露けく、あるかなきかの苔の路、指し入る月影計りぞ面替りもせざりける。八月十五夜のくまなきに大宮御琵琶を弾かせ給ひけり。彼の源氏の宇治の巻に、優婆塞の宮の御娘、秋の余波を▼1864(一〇九ウ)惜しみて琵琶を弾じ給ひしに、在明の月の山のはを出でけるを、猶堪へずや覚しけむ、撥してまねき給ひけむもかくや有りけむと、其の夜を思ひ知られけり。
つらきをもうらみぬ我に習ふなようき身をしらぬ人もこそあれと読みたりし待宵小侍従を尋ね出だして、昔今の物語をし給ふ。かの侍従をば、本は阿波局とぞ申しける。高倉院の御位の時、御悩有りて供御もつや<まゐらざりけるに、「哥だにも読みたらば供御はまゐりなむ」と御あやにくありければ、とりあへず、
▼1865(一一〇オ)君か代は二万の里人数そひて今もそなふるみつぎもの哉
と読みて、其の時の勧賞に侍従には成されたりけるとかや。
さてもさよふけ、月も西山に傾けば、嵐の音ものすごうして、草葉の露も所せき。露も涙もあらそひて、すずろに哀れに思ひ給ひければ、実定卿、御心を澄まして腰より「あまの上丸」と云ふ横笛を取り出だし、平調にねとり、古京の有様を今様に作り、歌ひ給ひけり。
古き都を来てみればあさぢがはらとぞなりにける
月の光もさびしくて秋風のみぞ身にはしむ
▼1866(一一〇ウ)と二三反うたひ給ひたりければ、大宮を始め奉り、女房達、心あるも心なきも、各袖をぞぬらしける。
其の夜は終夜、侍従に物語をして、千夜を一夜にと口ずさみ給ふに、未だ別緒依々の恨みを叙べざるに、五更の天に成りぬれば、涼風颯々の声に驚きて、おき別れ給ひぬ。侍従余波を惜しむとおぼしくて、御簾のきはに立ちやすらひ、御車の後ろを見送り奉りければ、大将御車の尻に乗られたりける蔵人を下して、「侍従が名残惜しげにありつる。なにとも云ひ捨てて帰れ」と有りければ、蔵人取りあへぬ事なれば、何なるべ〔し〕とも覚えぬに、折節寺々の鐘の声、八声の鳥の音を聞き、▼1867(一一一オ)「実や、此の女は白河院の御宇、『待宵と帰る朝と』と云ふ題を給はりて、
待宵のふけ行くかねの声きけばあかぬ別れの鳥はものかは
と読みて、『まつよひ』の二字を賜はりて、待宵小侍従とはよばれしぞかし」と、きと思ひ出されて、
物かはときみがいひけむ鳥の音のけさしもいかに(などか)かなしかるらむ
侍従返事に
またばこそふけゆくかねもつらからめあかぬ別れの鳥のねぞうき
と云ひかはして帰り参る。「いかに」と大将問ひ給ひければ、「かく仕りて候ふ」と申しければ、「いしうも仕りたり。さればこそ汝をば遣しつれ」とて、▼1868(一一一ウ)勧賞に所領を賜びてけり。此の事、其の比はやさしき事にぞ申しける。
三十二 〔入道登蓮を扶持し給ふ事〕
太政入道浄海は、福原の岡の御所にて中門の月を詠じておはしければ、其の比のすき(て)者登蓮法師、折節うらなしをはきて中門の前の月を詠じて通りければ、入道、
月の脚をもふみみつる哉
と云ひ懸け給ひたりければ、取もあへず登蓮畏りて、
大空は手かくばかりは無けれども
とぞ申したりける。
抑(そもそ)も此の登蓮を不便にして入道の御内に▼1869(一一二オ)おかれける由来を尋ぬれば、連歌故とぞ聞えし。先年入道熊野参詣の有りけるに、比は二月廿日余りの事なれば、遠山に霞たなびきて、越路に帰る雁金雲居遥かに音信れ、細谷河の水の色藍よりも猶緑にして、まばらなる板屋に苔むして、かうさびたる里あり。なにとなく心すみければ、入道貞能を召して、「此の所はいづくぞ」と尋ね給ひければ、「秋津の里」と申す。入道取りもあへず、
秋津の里に春ぞ来にける
と詠じ給ひければ、嫡子重盛、次男宗盛、侍には越中前司盛俊、▼1870(一一二ウ)上総守など並び居て、付けんとしけれども、時剋はるかに押し移りて、入道、「いかに、おそしおそし」と宣ひけれども、付け申す人無かりけり。爰に熊野方より三十余とみえける修行者の下向しけるが、「此の道の習ひ、上下乞食非人をきらはず候ふ」と申して、
見わたせば切目の山に霞して
と付けたりければ、入道感じ給ひて、「いづくの者ぞ」と尋ね給へば、「元は筑紫安楽寺の者にて候ひしが、近年は近江の阿弥陀寺に住み侍り。登蓮と申す」と云ひければ、入道其より扶持して、所領あまたとらせて不便にし給ひけり。
取り分き大事の者に思はれけ▼1871(一一三オ)る事は、去んぬる保元元年七月、宇治左大臣頼長公、世を乱り給ひし時、安芸守とて御方に勲功ありしかば、幡磨守に移されて彼の国へ下向せらる。即ち当国鎮守あにの宮御神拝有りけるに、在庁人等供奉す。爰に神主申しけるは、「抑(そもそ)も当社明神の感応新たにして、叢伺の露霑ふこと、水の方円の器に随ふが如し。松〓[土+需]の風に請ふこと、月の巨海の流れに浮かぶに似たり。和光同塵の利物は、紫金の晴沙に在るが如し。下種結縁の済生は、万草の時雨を仰ぐに似たり。朝に空しく参りて、夕に熟りて帰る。惣じて国司を始め奉り、貴賎上下の諸人、参詣日夜に懈る事無し。爰に▼1872(一一三ウ)不思議の事あり。上古より未だ付け得ざる連哥の下句あり。国司神拝の始めに先づ御拝見あるは先規也」と申せば、入道折節登蓮をば具し給はず、我が身既に不覚しなむずと思はれければ、「俄かに大事の用を出だして国務に及ばず。京都の重事有る由聞きて早馬到来の事あり。今度は拝に及ばず、やがて下向し侍らむずれば其の時」とて、国府へ帰り、「さるにてもいかなる連歌にや」と尋ね給ひければ、有る社司の申しけるは、
この神の名かあにの宮とは
と申したりければ、急ぎ是を大事と思はれけるにや、▼1873(一一四オ)上洛せられけり。やさしかりし事也。六はらに付きて急ぎ登蓮を召して仰せられけるは、「今度具足し奉らずして不覚に及べり」とて、件の連哥を語られければ、登蓮、打ち吟きて
つくしなるうみの社にとはばやな
と申したり。重ねて急ぎ下向し給へり。社参して、彼の社壇を開き拝見して、入道件の句を付け給へり。神官、国の人々に至るまで感ぜずと云ふ事なし。其の詞未だ終はらざるに、御殿三度振動して、即ち巫女に付きて詫し給▼1874(一一四ウ)へり。「神妙に仕りたり。是あやしの者の句に非ず。我が国の風俗を思ふに、つれづれの余り社参の諸人の心をなぐさめ、我が憂へをも忘れやするとて、自ら云ひ出したりし。上古より未だ付けたる人無し。此の悦びには官位は思ひのままなるべしよ」とて、上り給ひぬ。さればにや、同三年に大宰大弐に成り、平治元年十二月廿七日、右衛門督信頼卿謀叛の時、又御方にて賊徒を討ち平げ、同二年正三位して、打ちつづき宰相、衛府督、検非違使別当、中納言に成る上、丞相の位に至り、内大臣より左右を経ずして太政大臣の極位に▼1875(一一五オ)昇る。是則ち登蓮法師が故とぞ覚えし。
三十三 〔入道に頭共現じて見る事〕
抑(そもそ)も入道殿、更闌け人定まりて、月の光も澄みのぼり、名を得たる夜半の事なれば、心の内も潔く、彼の漢高祖の三尺の剣、坐ながら天下を鎮め、張良が一巻の書、立ちどころに師傅に登る事、我が身の栄花に限りあらばまさらじと覚えて、月の光くまなければ、終夜詠めて居給へるに、坪の内に目一つ付きたる物の、長(た)け一丈二尺ばかりなるもの現れたり。又、傍に、目鼻も無きものの是に二尺ばかり増さりたる物あり。又目三あるものの三尺計り勝りたるあり。かかる物共五六十人並び立てり。▼1876(一一五ウ)入道是を見給ひて、「不思議の事哉。何者なるらむ」と思ひ給へども、少しもさわがぬ体にて、「己れ等は何物ぞ。あたご平野の天狗め等ごさんめれ。なにと浄海をたぶらかすぞ。罷り退き候へ」と有りければ、彼の物共声々に申しけるは、「畏し畏し。一天の君、万乗の主だにもはたらかし給はぬ都を福原へ移すとて、年来住みなれし宿所を皆破られて、朝夕歎き悲む事、劫を経とも忘るべからず。此の本意なさの恨みをば、争(いかで)か見せざるべき」とて、東を指して飛び行きぬ。是と申すは、今度福原下向の事一定たりしかば、然るべき御堂あまた壊ち▼1877(一一六オ)集め、新
都へ移すべき巧み有りけれども、内裏御所などだにもはかばかしく造営無き上は、皆江堀に朽ち失せぬ。之に依りて、適ま残る堂塔も四壁は皆こぼたれぬ。荒神達の所行にや、あさましかりし事共也。
入道猶月を詠めておはすれば、中門の居給へる上に以外に大なる物の踊る音しけり。暫く有りて、坪の内へ飛び下りたり。見給へば、只今切りたる頭の血付きたるが、普通の頭十計り合はせたる程なるが、是のみならず、曝れたる頭共あなたこなたより集まりて、四五十が程並び居たり。面々に〓りけるは、「夫諸行無常は▼1878(一一六ウ)如来の金言と云ながら、六道四生に沈淪して、日夜朝暮の悪念を起こす事、併らあの入道が故也。成親卿が備中の中山の苔に朽ち、俊寛が油黄が嶋の波に流れし事、先業の所感とは知りながら心憂かりし事共なり」と、面々に云ひければ、生頭申しけるは、「夫はされども人を恨み給ふべきに非ず。少し巧み給ふ事共の有りけるごさんめれ。行忠は朝敵にも非ず、旧都を執して新都へ遅く下りたりと云ふ咎に依りて、当国深夜の松西野と云ふ所へ責め下され、故無く頸を刎ねらるる事、哀れと思(おぼ)し食(め)されずや。▼1879(一一七オ)哀れ、げにいつまであの入道をうらめしと、草の陰にて見んずらむ」と云ひければ、入道のろのろしくおどろおどろしく思ひながら答へ給ひけるは、「汝等、官位と云ひ俸禄と云ひ、随分入道が口入にて人となりし者共に非ずや。故無く君を
勧め奉り、入道が一門を失はむとする科、諸天善神の擁護を背くに非ずや。自科を顧みず入道をうらみん事、すべて道理に非ず。速かに罷り出でよ」とて、はたと睨へておはしければ、霜雪などの様に消え失せにけり。月も西山にちかづき、鳥も東林に鳴きければ、入道中門の一間なる所を誘へ給へる所に立ち入りて、休み▼1880(一一七ウ)給はむとし給へば、一間にはばかる程の首、目六つ有りけるが、入道を睨まへて居たりけり。入道腹を立て、「何に己等は、一度ならず二度ならず、浄海をばためみるぞ。一度も汝等にはなぶらるまじき物を」とて、さげ給へりける太刀を半ら計りぬきかけ給へば、次第に消えて失せにけり。恐ろしかりし事共也。
異国にかかる先蹤あり。秦始皇の御代に漢(感歟)陽宮を立て、御宇卅九年九月十三夜の月のくまなかりけるに、主上を始め奉りて、槐門・丞相・亜将・黄門より宮中の月を翫び給ひしに、阿房殿の上にはばかる程の大首の、目は十六ぞ有りける。官▼1881(一一八オ)軍を以て射させければ、南庭に下りて、鳥の卵の様にて消え失せぬ。是は燕丹・秦武陽・荊軻大臣等の頸と云へり。此の後幾程無くて、六十一日と申すに、始皇失せ給ひぬ。此の例を思ふには、入道殿の運、命今幾程あらじとぞささやきける。
太政入道は福原におはしけるが、月日は過ぎ行けども世間は未だ静まらず。胸に手置ける心地して、常に心さわぎ打ちしてぞ有りける。二位殿を始め奉り、さまざまの夢見悪しく、怪異ありければ、神社仏寺に祈りぞ頻りなる。誠に上荒下困、勢ひ久しからず。「宗社の危きこと、綴流の如し」とも云へり。此の世の有様、なにと成りはてむずらむとぞ歎きける。
▼1882(一一八ウ)卅四 〔雅頼卿の侍夢見る事〕
源中納言雅頼卿の家なりける侍、夢に見けるは、「いづくとも其の所は慥かには覚えず、大内裏の内、神祇官などにて有りけるやらむ。衣冠正しくしたる人々並居給ひたりけるが、末座に御坐(おはしま)しける人を呼び奉りて、一座に御坐(おはしま)しける人のゆゆしく気高げなるが宣ひけるは、『日来清盛入道の預かりたりつる御剣をば召し返されむずるにや、速かに召し返さるべし。彼の御剣は、鎌倉の右兵衛佐源頼朝に預けらるべき也』と仰せらる。是は八幡大菩薩也と申す。又座の中の程にて、其も以外に気高く宿老なりける人の宣ひけるは、『其の後は我が孫の其の御剣をば給はらん▼1883(一一九オ)ずる也』と宣ひけるを、是をば『誰そ』と問ひければ、『春日大明神にて御坐(おはしま)す』と申す。先に末座に御坐(おはしま)しける人を、『是は誰人ぞ』と尋ぬれば、『太政入道の方人、安芸厳嶋明神なり』とぞ申しける。思ふ量りも無く、かかる怖しき夢こそみたれ」と云ひたりければ、次第に人々聞き伝へて披露しけり。
太政入道、此の事を聞き給ひて、憤り深くして、蔵人左少弁行隆に仰せて尋ねられければ、雅頼卿は、「さる事承らず」とぞ申されける。彼の夢みたる者は失せにけり。朝敵を討ちに遣す大将軍には、節刀と云ふ御剣を賜る也。太政入道、日来は大将軍として朝敵を退け▼1884(一一九ウ)しかども、今は勅定を背くに依りて、節刀をも召し返されけるにや。
此の夢を、高野宰相入道成頼伝へ聞きて宣ひけるは、「厳嶋の明神は女体とこそ聞け、僻事にや。又春日大明神、『我が孫太刀をば預らむ』と仰せられけるも心得ず。但し、世の末に源平共に子孫尽きて、藤原氏の大将軍に出づべきにや。一の人の御子などの、大将軍として天下を静め給ふべきか」とぞ宣ひける。深き山に籠りにし後には、往生極楽の営みの外は他念をばすまじかりしかども、能き務を聞きては悦び、悪事を聞きては歎き給ひけり。世の成り行かむ有様を兼ねて宣ひけるは、少しもたがはざりけり。
卅五 〔右兵衛佐謀叛発す事〕
▼1885(一二〇オ) 九月二日、東国より早馬着きて申しけるは、「伊豆国流人、前兵衛佐源頼朝、一院の院宣并びに高倉宮令旨ありとて、忽ちに謀叛を企て、去んぬる八月十七日夜、同国住人和泉判官兼隆が屋牧の館へ押し寄せて、兼隆を討ち、館に火を懸けて焼き払ふ。伊豆国住人北条四郎時政・土肥次郎実平を先とし、一類伊豆相模両国の住人等、同心与力して三百余騎の兵を率して、石橋と云ふ所に立て籠る。之に依りて、相模国住人大庭三郎景親を大将軍として、大山田三郎重成、糟尾権守盛久、渋谷庄司重国、足利太郎景行、山内三郎▼1886(一二〇ウ)経俊、海老名源八季宗等、惣て平家に志ある者三千余人、同廿三日、石橋と云ふ所にて数剋合戦して、頼朝散々に打ち落とされて、纔かに六七騎に成りて、兵衛佐は大童に成りて杉山へ入りぬ。三浦介義澄、和田小太郎義盛等、三百余騎にて頼朝の方へ参りけるが、兵衛佐落ちぬと聞きて、丸子河と云ふ所より引き退きけるを畠山次郎重忠五百余騎にて追ひ懸くる程に、同廿四日、相模国鎌倉湯井の小壺と云ふ所にて合戦して、重忠散々に打ち落とされぬ」と申しけり。
後日に聞えけるは、同廿六日、河越太郎重頼、中▼1887(一二一オ)山次郎重実、江戸太郎重長等、数千騎を率して三浦へ寄せたりけり。上総権守広常は兵衛佐に与して、舎弟金田小大夫頼常を先立てたりけるが、渡海に遅々して石橋には行きあはず、義澄等籠りたる三浦衣笠の柵に加はりけり。重頼等押し寄せ、矢合せ計りはしたりけれども、義澄等つよく合戦をせずして落ちにけり」と申しければ、平家の人々は是を聞き給ひて、若き人は興に入りて、「頼朝が出で来よかし。哀れ討手に向はばや」など云へども、少しも物の心を弁へたる人々は、「あは大事出で来ぬ」とてさわぎあへり。畠山庄司重能、大山田別▼1888(一二一ウ)当有重、折節在京したりけるが申しけるは、「何事かは候ふべき。相親しく候へば、北条四郎が一類計りこそ候ふらめ、其の外は誰か付きて輙く朝敵と成り候ふべき」と申しければ、「げにも」と云ふ人もあり、「いさとよ、何があらむずらむ。大事に及びぬ」と云ふ人もあり。寄り合ひ寄り合ひささやきけり。
大政入道宣ひけるは、「昔義朝は信頼に語らはれて朝敵と成りしかば、其の子共一人もいけらるまじかりしを、頼朝が事は、故池尼御前の去り難く歎き申されしに付きて、死罪を申し宥めて遠流に成しにき。重恩を忘れて国家を乱り、我が子孫に向かひて弓を引かんずるは、▼1889(一二二オ)仏神も御ゆるされや有るべき。只今天の責を蒙むずる頼朝なり。あやしの鳥獣も恩を報じ、徳を酬ふとこそ聞け。昔の楊宝は雀を飼ひて環を得、毛宝は亀を放ちて命を助かると云へり。我が子孫に向かひては、頼朝、争(いかで)か七代まで弓を引くべき」とぞ宣ひける。
夫吾が朝の朝敵の始めは、日本磐余彦御宇五十九年〈己未〉歳十月、紀伊国名草郡貴志庄鷹尾村に、一の異禽あり。世の上蜘と云ふ者あり。身短く手足長くして、力人倫に超えたり。人民を損じ、皇化に随はざりしかば、官軍仰せを承りて彼こに行き向ひて、葛の網を結びて▼1890(一二二ウ)終に覆殺す。其より以来、野心を挟みて背朝家を背く者多し。所謂、大山皇子、大山、大伴真鳥(天武天皇討ち給ふ)、守屋大臣、蘇我入鹿(天智天皇討ち給ふ)、山田石川(同)、右大臣豊成(同)、左大臣長守 (聖武天皇討ち給ふ)、太宰小貳広嗣、恵美大臣押勝(高野天皇討ち給ふ)、井上皇后、氷上河継、早良太子、伊与親王 (天城天皇討ち給ふ)、藤原仲成、橘逸勢、文屋宮田、武蔵権守平将門 (平将軍貞盛に討たる)、伊与掾藤原純友(周防伊与両国の官軍に討たる)、安倍頼良(頼義に討たる)、同子息鳥海三郎貞任(同人に討たる)、同舎弟致任(同人に討たる)、対馬守義親、悪左府、悪右衛門督に▼1891(一二三オ)至るまで、都合三十余人也。されども一人として素懐を遂げたる者なし。皆首を獄門に懸けられ、骸を山野にさらす。東夷・南蛮・西戎・北狄、新羅・高麗・百済・鶏旦に至るまで、我が朝
を背く者なし。
当時こそ王威も無下に軽くましませ、宣旨と云ひければ、枯れたる草木も〓花さき、天をかける鳥、地を走る獣も皆随ひ奉りき。彼の晨旦の則天皇后は武明高宗の后也。上林苑の花見の御幸なるべきにて有りしに、林苑の花開かずして其の期を見るに遥かなりければ、皇后、臣下を遣して「花須く連夜に発すべし。暖▼1892(一二三ウ)風の吹くを待つこと莫れ」と、宣旨を下し給ひしかば、花一夜の中に開きて、御幸を遂げぬと見えたり。吾が朝にも近来の事ぞかし。延喜帝の御時、池汀に鵲の居たりけるを帝御覧じて、蔵人を召して、「あの鵲取りて参れ」と仰せ有りければ、蔵人、鵲の居たる所へ歩み寄りければ、鵲羽づくろひして既に立たんとしけるを、「宣旨ぞ。鵲罷り立つな」と云ひたりければ、鵲立たずして取られにけり。やがて御前へ懐(いだ)きて参りたりければ、急ぎ放たれにけり。全く鵲の御用には非ず、王威の程を知食(め)さんがためなり。
▼1893(一二四オ)卅六 〔燕丹の亡びし事〕
我が朝にも限らず、恩を知らざる者の滅びたる例を尋ぬるに、昔唐国に楚の競望が子に燕の太子丹と云ふ者あり。秦始皇と戦ひけるに、太子軍に負けて始皇に囚はれぬ。既に六ヶ年にも成りにけり。燕丹八十に余る老母を見むと思ふ志深かりければ、始皇に暇を乞ふ。始皇嘲きて曰く、「烏頭白く成り、馬に角生ひたらん時、汝帰らむ期と知れ」と曰ひければ、此の詞を聞きて、「さては心憂き事ごさむなれ。我恋しと思ふ母を見ずして是にて徒らに死せむ事」、今更悲しく覚えければ、夜は終夜、昼は終日に、天に仰ぎ地に臥して念じける験に、▼1894(一二四ウ)頭白き烏飛び来たれり。太子是をみて、今は定めて免されんずらむと思ひけるに、「『馬に角生ひたらむ時に免すべし』とこそ云ひしか」とて、猶免さざりけり。燕丹何にすべしとも覚えず、悲しみける詞に云はく、「妙音大士は月氏霊山に詣でて不孝の輩を誡め、孔子・老子は大唐震旦に顕れて忠孝の道を立つ。上梵天帝尺、下堅牢地神までも、孝養の者をば愍み給ふなる物を。冥顕の三宝、憐みを垂れて、馬に角生ひたる異瑞を始皇に見せ給へ」と、明暮懈らず、血の涙を流して祈誓しける験にや、角生ひたる馬、始皇の南庭に出▼1895(一二五オ)現せり
。綸言汗の如くなれば、烏頭馬角の変に驚きて、「燕丹は天道の加護ある者なり」とて、即ち本国へ返し遣す。
始皇猶安からず思ひて、太子本国へ帰る道に先づ官使を遣して、楚橋と云ふ橋にて燕丹を河に落し入るる様に構へてけり。燕丹はかかる支度ありとも知らずして、故郷に帰るうれしさに何心も無く渡りけるに、即ち河に落ち入りぬ。されども、天道加護し給ひけるにや、平地を歩むが如くにてあがりにけり。不思議の事哉と思ひて、水を顧れば、亀共多く集りて、甲を並べて燕丹をぞとほしける。
さて、本国へ帰り▼1896(一二五ウ)たりければ、父母親類皆来集て悦びあへり。燕丹、始皇に囚はれて悲しかりつる事を語りて、互ひに涙を流しけり。「始皇いきどほり深くして、如何にも免されがたかりしを、しかじかの事共有りて免されたり」と語りければ、母悦びて、「さては不思議なる事ごさむなれ。何にしてか、頭白き烏を憐むべき」と思ひければ、せめての事にや、黒烏共に物を報ずるに、後には頭白き烏度々来りけるとかや。是は父母の子を思ふ志の深く切なるが故也。
燕丹、数ヶ年之間始皇に誡め置かれたりし事を安からず思ひて、何にもして始皇帝を滅ぼさん▼1897(一二六オ)とぞ謀りける。此の事いかがして聞こえけむ、始皇怒りて、又燕丹を滅ぼさむとす。即ち燕国へ兵を向くべき由聞こえければ、燕国の人恐ぢ怖れて、悲しみ歎く事限り無し。太子此の事を歎きて、夜昼謀を廻す。
其の比、焚於期と云ひける者は、秦王の為に罪せられて、燕国に逃げ籠もりて居たりけるを、太子愍みて宮近く置きたり。鞠武と云ひける者、是を聞きて太子を諌めて云はく、「吾が国は元より秦国と敵と成る国也。況や焚於期を夷の国へ遣して、西は晋国と一つに成り、南は斉楚の国にも相親しみて、勢を儲けて後、思ひ立ち給へ」と申しければ、▼1898(一二六ウ)太子答へて云はく、「焚於期、秦王の難に逢ひて、身を吾に任せたり。頼もしげ無く追ひ捨てむ事、情け無し。さらぬ事をはからへ」と云ひければ、鞠武又申して云はく、「楚国に田光先生と云ひて、謀賢く武く勇める兵あり。仰せ合はせて聞き給へ」と云ひければ、太子田光を招く。
先生、太子の許へ行きけるに、太子庭に下り向かひ、田光を内に入れて、密かに始皇を滅ぼすべき由を議するに、田光申して云はく、「麒麟と云ふ馬は、若く盛りなる時は一日に千里をかけれども、年老い衰へぬれば駑馬も是より先に立つ。君は我が盛りなりし時を聞き給ひて、かくは宣ふなり。荊軻と▼1899(一二七オ)いみじく賢き兵なれ。彼を召して宣ひ合はせよ」と云ひければ、太子、「さらば、彼の荊軻を語らひて得させよ」と有りければ、即ち領掌して田光座を起ちけるに、太子門まで送りて、「此の事国の大事也。努々もらす事なかれ」と云ふ。田光是を聞きて、即ち荊軻が許に行き、太子の詞を云ひ伝へければ、荊輌、いかにも太子の命に随ふべき由を答ふ。其の時田光が云はく、「我聞く、賢人の世に仕ふる習ひ、人に疑はるるに過ぎたる恥は無し。而るに、太子我を疑ひて『漏らす事勿(なか)れ』と宣ひつ。此の事世に披露する物ならば、我れ疑はれなむず」とて、門なる李の木に頭をつき▼1900(一二七ウ)摧きて失せにけり。
さて、荊軻、太子の許へ行き向かふ。太子席を去りて、跪きて荊軻に語りて云はく、「今汝が来る事、天我を憐むなり。秦王食欲の心深くして、天下の地を皆我が地にせむとし、海内の諸侯王を悉く随へむと思へり。隣国、さならぬ国をも、皆打ち随へぬ。又此国を責めむ事、只今也。秦国の大将軍、当時外国へ向かへる折節也。かかる隙を謀りて始皇を襲はむ事難からじ。願はくは計るべし」と云ひければ、荊軻、太子の敬ふ姿に蕩て云ひけるは、「今度太子の免され給へる事、全く始皇の恩免に非ず。是、併ら神明の御助け也。されば、秦国を敗りて始▼1901(一二八オ)皇を滅ぼさむ事、敢て安し」と答ふ。太子、弥荊軻を貴みて、燕国の大臣に成して、日々にもてなしかしづく。車馬・財宝・美女に至るまで、荊軻が心に任せたり。
さる程に、秦国の将軍、諸の国を敗りて燕国の境まで近付きにければ、太子恐れ惶きて、荊軻を勧めて云はく、「秦の兵、易水を渡りなば、汝を馮みても詮有るまじ。何がすべき」と有りければ、荊軻答へて云はく、「我聞く、『焚於期が首を得させたらむ者には、一万家の里・千斤の金を与ふべし』と、秦皇四海に宣旨を降し給へり。焚於期が首と燕国の差図とをだにも始皇に献る物ならば、始皇悦びて、必ず吾に▼1902(一二八ウ)打ち解けなむず。其の時謀りなん」と云ひければ、又太子云はく、「焚於期、秦国を逃れて身を我に任せたり。誅たむ事情け無し。さならぬ謀を廻らせ」と有りければ、荊軻、太子のかはゆく思へる気色を見て、即ち密かに焚於期に逢ひて云はく、「秦王汝を罪し給へる事、何の世にか忘るべき。父母親類、皆秦王の為に殺されたり。汝か首を、一万家の里・千斤の金に募り給へり。何がすべき」と云ひければ、焚於期天に仰ぎ大息をつき、涙を流して、「我常に此の事を思ふに、骨髄に融つて堪へ難けれども、云ひ合はすべき方無し」と答へければ、荊軻又云はく、「只一言にて燕国の愁へをも慰め、汝が欺きをも▼1903(一二九オ)酬ひん事、何に」とためらひければ、焚於期大きに悦ぶ
事限り無し。其の時、荊軻又云はく、「願はくは汝が首を借せ。秦王に献らん時、皇帝定めて悦びて我に打ち解け給はむ時、左手にては袖を引かへ、右手にて秦王の胸をささむ事、最安し。然れば君が讎をもむくひ、又燕国の愁ひをも止むべし」と云ひければ、焚於期を肱をかがめて、「是こそ日来の願の満ちたるなれ。誠に秦王だにも討ち奉るべきならば、雪の頭を奉らむ事、微塵より猶軽かるべし。かく宣ふ志の程こそ、生々世々にも報じ尽くし難けれ」とて、やがて自ら剣を抜きて、頸を切りて荊軻に与ふ。太子是を聞きて馳せ来たりて▼1904(一二九ウ)泣き悲しみけれども、力及ばず。
此の上は即時に思ひ立つべしとて、始皇を討つべき謀を廻らす。焚於期が頭を箱に入れて封じ籠めたり。太子を免したる悦びに、燕国の差図、国々の券契を相具して、始皇帝に奉る解文、其の上、葱嶺の像を金にて鋳て差図の箱に入れ具して、函の底には〓首の剣とて、一尺八寸なる剣の、千両の金にて造りたるを隠し入れて、荊軻を出だし立つ。又、燕国に秦武陽と云ふ武き兵あり。是も元は秦国の兵にて有りしが、十三にて多くの人を殺して、燕国に籠もりたりけり。怒れる時は七尺の▼1905(一三〇オ)男も殺死し、咲みて向かへば三歳の嬰児も抱かれけり。是を荊軻に相副へて遣はされけり。
荊軻既に秦国に趣くに、太子并びに賓客の心を知る者、衣冠正しくして送りけり。易水と云ふ所にて、余波を惜しみ、酒を飲みけるに、高漸離と云ふ者、筑を撃つ。荊軻歌を作りて云はく、「風蕭々として易水寒、壮士一たび去りて復還らず」と歌ふ。是不吉の詞也。宮商角徴羽の五音の中には、徴の音をぞ調べたりける。其の時、人皆涙を流して哭しあへり。又、羽の音に遷る時、人皆目を怒らかし、頭の髪、空さまへ挙がりにけり。
▼1906(一三〇ウ)さて、荊軻車に乗りて、余波を惜しみて別れ去りぬ。遂に後ろを顧みず。されども、蒼天免し給はねば、なじかは本意を達すべき。此の時、白虹天に立ち渡りて、日輪の中を貫きはてざりけり。太子是を見て、「我が本意遂げ難し」とぞ思はれける。荊軻是を勘ふるに、「始皇は火姓、太子は金性也。夏は、金は相して火に王せり。日輪は火也、白虹は金なれば、火剋金と相剋せる象なり。始皇は一天の主なれば、日輪なるべし。太子は小国の王なれば、白虹なるべし。随ひて、又日輪の中を貫きはてぬこそ怪しけれ。如何有るべかるらむ」と▼1907(一三一オ)思ひけれども、さればとて空しく帰るべき道ならねば、荊軻、秦国に至りぬ。
千両の金、色々の財を以て、秦皇の寵臣蒙嘉と云ふ者に賂いて、秦皇に申して云はく、「燕国、誠に大王の威に怖れて、敢へて君を背き奉る事無し。『願はくは、諸侯王の列に入りて、みつぎ物を備へ、王命を背くべからず』とて、焚於期が首を切りて、燕国の券契を献じ給へり。願はくは、大王、叡覧を経給へ」と申したりければ、秦皇大きに悦びて、節会の儀式を、始皇の内裏感陽宮に調へて、燕の使に見え給ふ。秦国の官軍等、四方の陣を固めたり。皇居のあり▼1908(一三一ウ)さま、心も詞も及ばれず。都の周り、一万八千三百八十里につもれり。内裏をば、地より三里たかくつき上げて、其の上に立てたり。長生殿、不老門あり。金を以て日を作り、銀を以て月を造れり。真珠の砂、瑠璃の砂、金の砂を敷き満てり。四方には、高さ四十里に鉄の築地をつき、殿の上にも同じく鉄の網をぞ張りたりける。是は、冥途の使を入れじとなり。秋はたのむの雁の春は越路に帰るも、飛行自在の障り有りとて、築地には雁門とて鉄の門を開けてぞ通しける。其の中▼1909(一三二オ)に、阿房殿とて、始皇のつねは行幸成りて政道行はせ給ふ殿あり。高さは三十六丈、東西は九丁、南北へ九丁、大床の下は、五丈の幢を立て
たるが、猶及ばぬ程なり。上は瑠璃の瓦を以て葺き、下は金銀を瑩けり。荊軻は燕のさし図を持ち、秦武陽は焚於期が首を持ちて、玉のきざはしをのぼりけるに、余りに内裏のおびたたしきを見て、秦武陽わなわなと振るひければ、臣家是を怪しみて、「武陽、謀叛の心あり。刑人をば君の側らに置かず。君子は刑人に近づかず。▼1910(一三二ウ)刑人に近づくは、則ち死を軽んずる道也」と云へり。荊軻帰りて、「武陽全く謀叛の心無し。其の磧礫を翫びて玉淵を窺はざる者は、曷ぞ驪龍の蟠れる所を知らん。其の弊邑に習ひて上邦を視ざる者は、未だ英雄の宿れる所を知らず」と云ひければ、官軍皆静まりにけり。
さて、堂上に到りて、焚於期が頭を献ぜむとするに、官使出で向かひて請け取りて、叡覧有るべき由仰せければ、荊軻申しけるは、「日来宸襟安からず思(おぼ)し召(め)さるる程の朝敵の首を切りて参りたらむに、争(いかで)か人伝に献るべき。燕国小国なりと云へども、荊軻・武陽共に彼の国第一の臣下なり。直に献らむ事、何の恐れか有るべき」と奏したりければ、「実に日来の▼1911(一三三オ)宿意深かりつる朝敵なり。荊軻が申す所、其の謂はれあり」と思(おぼ)し召(め)して、始皇自ら請け取り給ふべき礼儀にて、荊軻に近づき給ふ。兼ねて焚於期、「死して会稽の恥を雪めむ」と謀りし詞は少しも違はず。
さて、荊軻、頭を地に着けて焚於期が首を奉る。始皇是を見給ひて、深く感じ給ひけり。其の後、又差図・券契入りたる函を開くに、秋の霜、冬の氷の如くなる剣の光り、函の底にかかやきて見えければ、始皇大きに驚きて、早く飛び去らんとし給ふ処に、左手にて御衣の袖を引かへ、右手にて彼の剣を取りて、始皇の御首に指しあてて、「実には、燕太子、此五六年の間、誡め置かれ▼1912(一三三ウ)たりつる恨み探し。其の宿意を顕さんが為に、かくは謀りつる也」とて、既に剣を振らんとしければ、始皇涙を流して宣はく、「我一天の主として、武王の中の大武王なり。昔も今も、朕に肩を並ぶる帝王無し。されども運命限りあれば力及ばず。但し、臨終の障りになる妄念あり。我、九重の中に千人の夫人をもてり。其の中に琴をいみじく弾く夫人あり。花陽夫人と名づく。今一度、其の曲調を聞きて死せむと思ふ。其の間許してむや」と宣ひければ、荊軻思ひけるは、「我小国の臣下として、大王の宣命を直に蒙る事、有難し。かくとらへ奉り▼1913(一三四オ)ぬる上は、何事かは有るべき」と思ひて、少しさしゆるし奉りつる。始皇悦び給ひて、南殿に七尺の屏風を立て、其の内に夫人臨幸有りて、琴を調べ給ふ
。大方、此の后のひき給へる琴の音には、空飛ぶ鳥も地に堕ち、武き武士も怒れる心平ぎけり。況や、今を限りの叡聞に備へ給ふ事なれば、泣く泣く様々の秘曲を奏し給ひけむ、さこそは面白かりけめ。荊軻耳をそばだて、頭を低れて、殆ど日来の害心もたゆみつつ、緩々として聞き居たりければ、后、此の気色をひそかに見給ひてければ、曲調を替へて、「七尺の屏風は踊らば超ゆべし。羅穀の▼1914(一三四ウ)袖は引かば断へぬべし」と云ふ曲を度々引き給ひけり。荊軻・武陽諸共に管絃の道うとかりければ、露此の曲を聞き知らず。秦皇は五音に通じ給へりければ、是を聞き知り給ひて、「恥づかし恥づかし、夫人の身なれども武き心あり。我大王の身にして、敵に引かへられて遁れぬ事こそ心憂けれ」と思ひ給ひて、強盛の心忽ちに起こりて、七尺の屏風を後さまに飛び越え給ふ。荊軻は、始皇の逃げ給ふに驚きて、剣を投げ懸けたりければ、皇帝、銅の柱の三人して懐く程なる、その影へ逃げ給ふ。帝にはあたらずして、銅の柱、半ら計り切れにけ▼1915(一三五オ)り。秦国の習ひ、兵具帯したる者の殿上に昇らぬ法なれば、数万の官軍庭上に有りけれども、救はむとするに甲斐無し。只君の逆臣に犯され給はむ事
をぞ悲しみける。其の時、夏無思と云ふ医師の、侍医と云ふ官にて折節御前に有りけるが、薬袋を玉体投げ懸けたり。皇帝立ち帰りて、我が王冠にさし給へる宝剣を抜きて、荊軻・武陽二人が口を八ざきにさきて、庭上に引き下して課せられけり。やがて燕国へ官軍を差し遣して、燕丹を討ち、国を亡ぼしてけり。又、高漸離は、荊軻と昔親友たりし事▼1916(一三五ウ)をはばかりて、姿をやつし姓名をかへて有りけれども、しならひたる事の捨てがたくて、筑をうちけり。筑とは琴の様なる楽器也。撥にて其の上をうつなり。始皇、「筑をよくうつ者あり」と聞き給ひて、召されて、つねに筑をうたせてきき給ふに、高漸離を見知りたる人有りて、「高漸離也」と申したりければ、能のいみじさに殺すに及ばず。目をつぶして、猶筑をうたせて近づけ給ひければ、漸離、安からず思ひて、剣を以つて、始皇のおはする所をはからひて、うちたりけり。始▼1917(一三六オ)皇、なじかはうたれ給ふべき。還つて漸離を殺されにき。此の
事、『史記』に見えたり。『論語』と申す文に、「始皇のひざを打ちたり。其の所かさに成りて、始皇、死し給へり」と云へり。昔の恩を忘れて、朝威を軽んずる者、忽ちに天の責を蒙りぬ。されば頼朝、旧恩を忘れて、宿望を達せむ事、神明ゆるし給はじと、旧例を考へて、敢へて驚く事無かりけり。
〔卅七〕 四日戊時ばかり、太政入道、輿に乗りて、院御所へ参りて申されけるは、「源為義、義朝は、法皇の御敵にて▼1918(一三六ウ)候ひしを、入道が謀にて、彼等二人より始めて多くの伴類を皆入道が手に懸けて首を刎ね候ひき。頼朝と申し候ふ奴は、江州より尋ね出だして候ひしを、入道が継母池尼と申し候ひし者、彼の頼朝を見候ひて、余りに無漸がり候ひて、『此の冠者、我に預けよ。敵を生けて見よとこそ申せ』と、たりふし申し候ひしかば、『実に源氏の胤を、さのみ断つべきにも非ず。其の上入道、私の敵にも非ず。只君の仰せを重くする故にこそあれ』と存じ候ひて、流罪に申し宥めて、伊豆国へ流し遣はし候ひぬ。其の時十三と▼1919(一三七オ)承り候き。かね付けたる小冠者の、生の直垂、小袴着て候ひしに、入道、事の子細尋ね候ひしかば、『いかが候ひけむ。其の事の起こり、つやつや知らず』と、申し候ふ間、『実にも拙き者にて候へば、よも知り候はじ』と、青道心を成し候ひて、今は『哀れは胸を焼く』と申す譬への様に、定めて聞こし召されても候ふらむ。彼の頼朝が伊豆国にて、はかりなき悪事共を、此の八月に仕りて候ふ之由、承り候ふ。追討の院宣を下さるべき」由を申されけれ
ば、「何事かは有るべき。法皇にこそ申さめ」と、仰せありければ、入道又申されけるは、「主上は未だ少く渡らせ御す。▼1920(一三七ウ)正しき御親に渡らせ給ふに指し越え奉りて、法皇にはなにと申す事候ふべき。惣じて源氏を引き思(おぼ)し食(め)されて、入道を悪ませ給ふと覚え候ふ」と、くねり申されければ、新院、少し咲はせ御坐(おはしま)して、「事新しく誰を馮みて有るにか。宣下の条安し。速に大将軍を注し申せ。誰に仰せ付くべきぞ」と、御定ありければ、「惟盛・忠度・知盛等に仰せ付けらるべし」とぞ申しける。
卅八 〔兵衛佐伊豆山に籠る事〕
前兵衛佐頼朝は、去んぬる永暦元年、義朝が縁坐に依りて、伊豆国へ流罪せられたりけるが、武蔵・相撲・伊▼1921(一三八オ)豆・駿河の武士共、多くは頼朝が父祖重恩の輩也。其の好み忽ちに忘るべきならねば、当時平家の恩顧の者の外、頼朝に心をかよはして、軍を発さば命を棄つべき由しめす者、其の数有りければ、頼朝も又、心に深く思ひきざす事有りて、世のありさまを伺ひてぞ、年月を送りける。
伊豆国住人伊東入道助親法師は、重代の家人なりけれども、平家重恩の者にて、当国には其の勢ひ人に勝れたり。娘四人あり。一人は相撲国の住人三浦介義明が男、義連に相ひ具したり。一人は同国住人土肥次郎実平が男、▼1922(一三八ウ)遠平に相ひ具せり。第三の女、未だ男も無かりければ、兵衛佐、忍びつつ通ひける程に、男子一人出で来にけり。兵衛佐、殊に悦びて最愛す。名をば千鶴とぞ申しける。三歳と申しける年の春、少き者共数た引き具して、乳母に抱かれて前栽の花を折りて遊びけるを、助親法師、大番はてて国に下りける折節、此を見付けて、「此の少き者は誰人ぞ」と、尋ねけれども、乳母、答ふる事無くして逃げ去りにけり。軈て内へ入りて、妻女に問ひければ、答へけるは、「京上りし給ひたる隙に、いつきむすめの、止む事無き殿して、儲け給ひたる少き人なり」▼1923(一三九オ)と云ひければ、助親法師怒りて、「誰人ぞ」と、責め問ひければ、かくしはつべき事にも非ざりければ、「兵衛佐なり」とぞ申しける。助親、申しけるは、「商人・修行者などを男にしたらむは、中々いかがはすべき。源氏の流人、聟に取りたりと聞こえて、平家の御咎めあらむ時は、いかがはすべき」とて、雑
色三人、郎等二人に仰せ付けて、「彼の少き子を呼び出だして、伊豆の松河の奥、しら瀧の底に、ふしづけにせよ」と云ければ、少き心にも事がらけうとくや覚えけむ、泣きもだえて逃げ去らんとしけるを取り留めて、郎等に与へけるこそうたてけれ。みめ事がら▼1924(一三九ウ)清らかにて、さすがなめての者にまがふべくもみえざりければ、雑色、郎等共、いかにとして殺すべしとも覚えず。悲しかりけれども、つよくいなまば、思ふ所有るかとて、中々悪しかりなむずれば、泣く泣く抱き取りて、彼の所にてふしづけにしけるこそ悲しけれ。女をば呼び取りて、当国の住人えまの小次郎をぞ聟に取りける。
兵衛佐、此事共を聞きつつ、いかれる心も武く、歎く心も深くして、助親法師を討たむと思ふ心、千度百度有りけれども、大事を心にかけながら、其の事を遂げずして、「今私の怨を報はむとて、身を亡し、命▼1925(一四〇オ)を失はむ事、愚か也。大きなる怨み有らば、小さき怨みを忘れよ」と、思ひなだめて過ぐしけるに、伊東の九郎助兼、ひそかに兵衛佐に申しけるは、「父の入道、老狂の余り、尾籠(をこ)の事をのみ振る舞ひ侍る上、悪行を企てむと仕る。心の及ぶ所、制止仕れども、思ひの外の事もこそ出で来侍れ。立ち忍ばせ給へ」と、申しければ、兵衛佐は、「うれしくも申したり。是年来の芳志なり。入道に思ひ懸けられては、いづくへかは遁るべき。身にあやまつ事無ければ、又自害をすべきにも非ず。只命に任せてこそはあらめ」とぞ答へられける。野三刑部成綱・足立藤九郎盛長など▼1926(一四〇ウ)に仰せ合はせけるは、「頼朝一人遁れ出でむと思ふ也。ここにて助親法師に故無く命を失はむ事、云ひ甲斐無かるべし。汝等かくてあらば、頼朝な〔し〕と人知るべからず」とて、大鹿毛と云ふ馬に乗り、鬼武と云ふ舎人ばかりを具して、夜半ばかりにぞ出でられける。道すがらも、「南无帰命頂
礼八幡大菩薩、義家朝臣が由緒を捨てられずは、征夷の将軍に至りて、朝家を護り、神祇を崇め奉るべし。其の運至らずは、坂東八ヶ国の押領使と成るべし。其れ猶叶ふべからずは、伊豆一国が主として、助親法師を召し取りて、其の怨を報ひ侍らむ。何れも▼1927(一四一オ)宿運拙くして、神恩に預かるべからずは、本地弥陀にて坐す、速かに命をめして、後世を助け給へ」とぞ折請申されける。盛綱・盛長は、兵衛佐のがれ出で給ひて後は、一筋に敵の打ち入らむずるを相ひ待ちて、名を留むる程の戦ひ、此の時に有りと思ひける程に、夜もやうやう明けにければ、各も出で去りにけり。
其の後、北条四郎時政を相ひ馮みて過ぐし給ひけるに、又彼が娘の有りけるにひそかに通はれけり。時政、京より下りけるが、道にて此の事を聞きて、大きに驚きて、同道したりける、検非違使兼隆をぞ聟に取るべき由、契約してける。国に下り着きければ、▼1928(一四一ウ)知らぬ体にもてなして、彼の娘を取りて、兼隆が許へぞ遣はしける。件の娘、兵衛佐に殊に志深かりければ、兼隆が許に行きたりけるが、白地に立ち出づる様にて、足に任せて、いつくを差すともなく逃げ出でて、終夜伊豆の山へ尋ね行きて、兵衛佐の許へ「かくと」告げたりければ、やがて兵衛佐、伊豆の山へぞ籠りにける。此の事を、時政・兼隆、聞きにければ、各憤りけれども、彼の山は大衆多き所にて、武威にも恐れざりければ、左右無く打ち入りて、奪ひ取るにも及ばずしてぞ過ぎ行きける。
相撲国住人懐嶋の平権守景能、此の事を聞きて、▼P1929(一四二オ)兵衛佐の許に馳せ行きて、給仕しけり。或る夜の夢に、藤九郎盛長、みけるは、兵衛佐、足柄の矢倉の館に尻を懸けて、左の足にては外の浜をふみ、右足にては鬼海が嶋をふみ、左右の脇より日月出でて、光を並ぶ。伊法々師、金の瓶子をいだきて進み出づ。盛綱、銀の折敷に金の盃を居ゑて進み寄る。盛長、銚子を取りて酒をうけて勧めれば、兵衛佐、三度飲むと見て夢覚めにけり。盛長、此の夢の次第を、兵衛佐に語りけるに、景能申しけるは、「最上吉夢也。征夷将軍として、天下を治め給ふべし。日は主上、月は▼P1930(一四二ウ)上皇とこそ伝へ承はれ。今左右の御脇より光を並べ給ふは、是、国主尚将軍の勢につつまれ給ふべし。東はそとの浜、西は鬼海嶋まで帰伏し奉るべし。酒は是、一旦の酔ひを勧めて、終つひに醒めて本心に成る。近くは三月、遠くは三年間に、酔ひの御心さめて、此の夢の告げ、一つとして相ひ違ふ事有るべからず」とぞ申しける。
北条四郎時政は、上には世間に恐れて兼隆を聟に取りたりけれども、兵衛佐の心の勢ひを見てければ、心の中には深く馮みてけり。兵衛佐も又、時政を賢き者にて、謀ある者と見てければ、大事を▼P1931(一四三オ)成さんずる事、時政ならでは其の人なしと、思ひければ、上には恨むる様にもてなしけれども、実に相ひ背く心は無かりけり。
平家物語第二中
▼P1933(一四三ウ)
応永廿七年庚子五月十三日 多聞丸
写本、事の外往復の言、文字の謬り之多し。然りと雖も添削に及ばず、大概之を写し了はんぬ。
七十三丁 (花押)
平家物語 五 〔第二末〕
▼P2001
当巻の内歌十六首之在り。
▼P2003(一オ)
一 兵衛佐頼朝謀叛を発す由来の事
二 文学が道念の由緒の事
三 異朝東婦の節女の事
四 文学院の御所にて事に合ふ事
五 文学伊豆国へ配流せらるる事
六 文学熊野那智の滝に打たるる事
七 文学兵衛佐に相奉る事
八 文学京上して院宣を申し賜はる事
九 佐々木の者共佐殿の許へ参る事
十 屋牧の判官兼隆を夜討にする事
十一 兵衛佐に勢の付く事
十二 兵衛佐国々へ廻文を遣はさるる事
十三 石橋山の合戦の事
十四 小壷坂の合戦の事
十五 衣笠の城の合戦の事
十六 兵衛佐安房国へ落ち給ふ事
十七 土屋三郎と小二郎と行き合ふ事
十八 三浦の人々兵衛佐に尋ね合ひ奉る事
十九 上総介弘経佐殿の許へ参る事
廿 畠山兵衛佐殿へ参る事
▼P2004(一ウ)
廿一 頼朝を追討すべき由官符を下さるる事
廿二 昔将門を追討せらるる事
廿三 惟盛以下東国へ向ふ事
廿四 新院厳嶋へ御幸の事 〈付けたり願文遊ばす事〉
廿五 大政入道院に起請文書かせ奉る事
廿六 法皇夢殿へ渡らせ給ふ事
廿七 平家の人々駿河国より逃げ上る事
廿八 平家の人々京へ上り付く事
廿九 京中に落書する事
卅 平家三井寺を焼き払ふ事
卅一 円恵法親王天王寺の寺務止めらるる事
卅二 園城寺の衆徒僧綱等解官せらるる事
卅三 園城寺の悪僧等を水火の責めに及ぶ事
卅四 邦綱卿内裏を造りて主上を渡し奉る事
卅五 大嘗会延引事 〈付けたり五節の由来の事〉
卅六 山門衆徒都帰の為に奏状を捧ぐる事 〈付けたり都帰り有る事〉
卅七 厳嶋へ奉幣使を立てらるる事
卅八 福田の冠者希義を誅せらるる事
卅九 平家近江国山下柏木等を責め落す事
四十 南都を焼き払ふ事 〈付けたり左少弁行隆の事〉
▼P2005(二オ)
平家物語第二末
一〔兵衛佐頼朝、謀叛を発す由来の事〕 兵衛佐源頼朝は、清和天皇十代の後胤、六条の判官為義が孫、前の下野守義朝が三男也。弓箭累代の家にて、武勇三略の誉れを施す。然るに、去んじ平治元年十二月九日、悪右衛門督信頼卿、謀叛を起こしし刻み、義朝、彼の語らひに与せしによりて、子息頼朝、永暦元年三月に伊豆国北条郡に配流せられて、徒に廿一年の春秋を送り、空しく卅三の年齢を積みて、日来年来も、さてこそ過ごしつるに、「今年、いかにしてかかる謀叛を思ひ企てけるぞ」と、人、怪しみを成す。後日に聞こえけるは、四、五月の程は、高倉の宮の宣旨を賜はりて、持て成されたりける▼P2006(二ウ)ほどに、宮失せさせ給ひて後、一院の院宣を下さるる事有りけり。
其の故は、年来の宿意もさる事にて、高雄の文学が勧めとぞ聞こえし。彼の文学は、在俗の時は、遠藤右近の将監茂遠が子に、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆なりけるが、十八の年、道心を発して、本鳥を切りて、文学房とて高野・粉河の、山々寺々迷ひ歩きけるが、兵衛佐に相ひ奉りて、勧め奉りたりけるとぞ聞こえし。
二 〔文学が道念の由緒の事〕
抑も、文学が道念の由緒を尋ぬれば、女故とぞ聞こえし。在俗の時は、渡辺の遠藤武者盛遠とて、上西門院の武者所にて、久しく龍顔に仕へて飲羽の三威を施し、専ら鳳闕に侍して射〓[周+鳥]の名誉を振るひ▼P2007(三オ)き。
然るを、此の内を罷り出でて後、渡辺の橋供養の時、希代の勝事なりければ、江口・神崎・桂本・向・住吉・天王寺・明石・福原・室・高砂・淀や・河尻・難波方・金屋・片野・石清水・うどの・山崎・鳥羽の里、各歩みを運びつつ、「霞の裏に珠をかけ、長柄の橋の如くにて、朽ちせざれ」とぞ祈りける。
説法、半時に及びて、二つがわらの船、一艘ぞ下りける。下人・冠者原に至るまで、さわさわとしてぞ見えける中に、あじろ輿、二張あり。橋より上一段ばかりの西の岸に属く。やがて、輿に乗りて座敷へ入る。輿の金物・大刀・具足、力者法師に至るまで、つきづきしく有りける間、「何れの座敷へ入るやらむ」と見るほどに、やがて並びの壺へ入る。盛遠、具足に▼P2008(三ウ)ばかされて、「主はいかなる人やらむ」と、ひたすらのぞき居たるに、折節、河風零しくして、難波わたりの葦すだれ、しづまりやらずぞ、あがりける。是より見れば、実に優なる十六、七の女にてぞ有りける。青き黛、緑にして咲める皃ばせ、花に似たり。漢の李夫人、衣通姫、かぎりあらば、是にはすぎじとぞ見えし。盛遠、思ひけるは、「うきみの程も白波の、住めば住まるる事なれど、男とならば是程の、女に枕をならべばや。哀れ、いづくにすきかはと、立つる間もなき人やらむ」としづ心なく悶えつつ、相ひ構へて、「返り入らむ所へ、いづくなりとも見おかむ」と思ひける程に、聴聞の最中に、俄に焼亡と罵る。きとみれば、黒煙数十丁に吹きつづいて、上下の諸人、さわぎあへり。いづくなるらむと立ち出でて、鞭を▼P2009(四オ)打ちて馳せけるに、見聞の者多かりければ、事故なくもみけちぬ。此の間に、法会も又畢はんぬ。盛遠、又思ひ出だして、「有りつる人は何になりつらむ」と、あさましく急(いそ)ぎかへりみれば、屋形ばかりにて人もなし。「なにしに我が身の出でつらむ」と、千度百度歎けども、悔ゆるにかひぞなかりける。其の夜は猶もゆかしさに、座敷に居てぞ、明かしける。
あけはなれぬれば、「さても此の上人は京都あまた見給へる人也。もし知り給ひたる事もや」と、急(いそ)ぎ庵室へ渡りて、物語のついでに、「抑、昨日、御説法の最中に、いかいかの船に、しかしかの輿に乗りて、某が座敷の並びへ入り候ひしは、何なる人やらむ。きよげに候ひし物哉」と申しければ、聖、「彼の人は、故三条のさへきの頭の娘。当時は鳥羽の刑部左衛門が女房也。父の朝に仕へし間は、彼の刑部▼P2010(四ウ)なんどをば、目ざましくこそ思はむずれども、なにもののし態にか、刑部とつれさせたれども、母の尼公の有るも、未だ心よからず」とこそ申せ。其の時、盛遠、思ふ様、「さすが、刑部左衛門が是程の女具足せるこそ心にくけれ。今は彼の仁にしたがひて、本意をこそ遂げずとも、音をも聞き、適形を見たりとも、なぐさみなむ」と思ひけるが、「まてまて、しばし、我が身ゆゆしからねども、上西門院に仕へ奉りて、年久し。其の上、一門の者共の、目ざましく思ふも理也。彼の女房の母に仕へむ」とて、宿所へもかへらず、やがて、三条をさしてぞ上りける。
西東院を上りに、三条よりは南、西東院よりは西に、住みあらして、年久しくなり、築地破れて、軒まばらなる桧皮屋あり。「是なるらむ」と思ひて、立ち入れば、空しく四壁の中を見れば、旧苔封じて▼P2011(五オ)塵を交へ、漸く小さき住ひの辺りを望めば、新草閉ぢて露を帯びたり。折節、門に女あり。まねきよせて、「是は故さへきの頭の殿の御家か。聊か子細あつて申すぞ。此の内に、我、宮仕へを申さばや。吉き様に見参に入れ」と云ひければ、女、「此の由を、申してこそ見候はめ」とて、立ち入りぬ。暫く有りて、「立ち入り給へ。承らむ」と云ふ。盛遠、先づうれしくて、急(いそ)ぎすすめば、中門の妻戸を開く人あり。五十有余なる尼公也。「是へ」と云へど、男、畏まる。「いかにいかに」と度び重ぬれば、盛遠、内へぞ入りける。
家主の云はく、「実に、これに居むと仰せの有るが、思ひもよらぬ事哉。御けしきを見奉るに、尼がはぐくみ奉るべき人ともみえ給はぬ。御心中の程こそ、返す返すも穴倉けれ。何れの辺につくべしともおぼえず。故亡父が存生の間は、身かひがひしからずと云へども、公に▼P2012(五ウ)仕へ奉りしかば、さ様の事も侍りき。今は老尼の旧屋に、おき奉りても、なにかせむ。但し、仰せある事を、いなと云はば、定めて御所存に違ふらむ。それも又ほゐなし。ともども、それの御計らひ」とぞ、宣ひける。
盛遠申しけるは、「我が身幼少より上西門院の武者所へて候ひしが、思はざる外に彼の御所を罷り出でて後、古里なれば田舎に住み侍れども、何事も物うくて、都の事のみ心にかかり、『六原辺に居ばや』と申せども、『上西門院に召し仕はれて年久し。武者所ふるほどの者を仕はじ』と申して、ゆるされず。又、元よりの事なれば、公家をこそ、伺ふべけれども、『さも』と申す仁は、我が心に叶はず。思ひ煩ひて候ふが、此の御事を、あらあらつたへ承りて、御目にもかからばやと、参りて候ふ也」といへば、尼公、からからと▼P2013(六オ)咲ひて申しけるは、「人々の畏れ奉りておき奉らぬ人を、此の朽尼が顧み奉らむ事こそ、返す返すをかしけれ。よしよし、それも苦しからじ。今より、尼を親と憑み給へ。おそれながら、子と仰ぎ奉らむ。故さへきの頭と、朝夕はぐくみいたはりし女子一人あり。父存生の間は、いかならむ高ふるまひをせさせばやとこそ営みしに、彼の父うせて後、思ひの外に、鳥羽の刑部左衛門とかや申す者、相ひつれて候へば、是に付けても、亡夫の事のみ思はれて、万づ目ざましければ、つやつや申しかよはさで罷り過ぎしほどに、いつぞや亡夫が為に形の如く仏事を営みしに、上導の御詞に、『春の花、梢を辞して有為無常の涙を拭ひ、秋の葉、林に飛びて生者必滅の観を催す。三界は幻の如し。誰か常住の思ひを為さむ。六道は夢に似たり。蓋ぞ覚悟の月を尋ねざらむ。▼P2014(六ウ)鸞鳳の鏡の上に双べる影も、芭蕉の形破れざる程、鴛鴦の衾の内に遊び戯るるも、草の露の命消えざる間』と候ひしを聴聞して、身にしみ、理に覚え候ひし間、やがて発心修行をもして、亡夫が後生を助け、又、我が臨終をも祈らばやとこそ思ひしか、それも、さてやみぬ。月日のかさなるに随ひて、此の女子の事、思ひ出でられ、又、幾程つれはつまじき事を思ふにも、なにの心もよわりて、不孝ゆるして候へば、此の程は悦びて通ふ也。凡そは、幾程ならぬ夢の世に、心をたてたりともなにかせむ。さしも契り深くて、朝夕は万歳千秋とこそ祈りしに、さへきの頭にも後れぬ。年月は隔つれども、思ひは更にやすまらず。『翡翠の簾の前には、花の枝、古へを恋ふる色を添へ、冊胡の床の下には、鏡の箱、涙を染むる塵を遺す。坐しても憂へ、臥しても▼P2015(七オ)憂ふ。空しく古人の去る日を思ふ。何の朝、何の夕にか、再び亡夫の帰らむ時に逢はむ。悲み坐すれば、天も暮れ難し。歎き臥すれば、夜も明けず。悲み見れば、倍す悲し。春の山を隔つる霜の影、歎き聞けば、弥よ歎かし。暁の窓に囀る鳥の音、一旦世を背きし憂へ、已に心地の月に闇く、百年諧老の契り、夢路の花に異ならず』。かかる思ひをするみにてあれば、此の女子をも一所におき、つれづれならむ時は、みばや、みえばやとこそ思へども、彼も世間の習ひにて、今は鳥羽に有りつきたる分なれば、不足なし。よしよし、尼五十に余りて、孝子を生みたるにてこそ有らむずれ。此の家なんど申すも、尼、一期の後は、あづけ奉らむ。さても、おはせよかし」と云ふ。
男、此の後は万づ深く取り入りて、明けぬ晩れぬとすぐしつつ、ひたすら女の事のみ深く心にかかりて、さりとも、みではは▼P2016(七ウ)てじと、心深く思へども、適きたる時は、車にて妻戸深く遣り入れば、行くも返りも、忍びて形をだにもみせず。此に付けても愁ふるに、今即ち打ち臥しぬ。明晩歎き悲しめば、家主も是を見て、「何なる事ぞ」とさわぎつつ、医家術道を尽しつつ、神明仏陀に祈る。然れども、つゆもしるしぞ無かりける。
昔、張文成と云ひし人、忍びて則天皇后に相ひ奉りたりけるが、又、思ひよるべき様なかりければ、夜日此を歎きけり。理りや、此の人は、潘安仁には母方のめい、雀季珪には妹にておはしければ、みめ形もよかりけり。夜深け、人定まりて、琴を弾き給ふを聞きて、息絶えなむと思ふほどに有りけるに、心ならず近付けられ奉りて、後、又まみえ奉る事もなければ、心中には、生きたるか死にたるか、夢か覚ともなければ、人しれぬ恋にし▼P2017(八オ)づみて、いもねられぬに、適まどろめば、又孀烏の目をさますも情けなく、実に忍ぶ中は、人目のみしげければ、苦しき世を思ひ煩ひて、まれの玉づさばかりだに、水くきのかへるあと、まれなれば、涙にしづむもの悲しさに、思はじとすれど、思ひわするる時なくて、常にはかくぞ詠じける。「あな憎の病鴉や、半夜に人を驚す。薄媚狂鶏ぞや、三更に暁を唱ふ」。されば、此の心を光行は、
独りぬるやもめがらすはあなにくやまだ夜ぶかきにめをさましつる
彼の張文成は忍びても后にも相ひ奉り、人目をこそ歎きしに、此の武者所は、責めて見ばやと思へども、叶はぬ事をぞ歎きける。かくてつながぬ月日なれば、既に三年になりにけり。
或る時、此の尼公病所に来たりて云はく、「さても御辺の御いたはり、年月あまたかさなれど、其のしるしもなし。▼P2018(八ウ)且は見給ふ様に、明くれはその営みより外は他事なけれども、今は甲斐なく日にそへてのみよわり給へば、ほいなき事はかぎりなし。但し、いかさまにも、ただならぬ心のおはするとおぼゆるはいかに。若き時の習ひなれば、いかなる院宮の宮原の人に心をかけ、歎き給ふとこそ覚ゆれ。今は親子のよしみおろかならず。鳥羽のむすめにもおとらずこそ思ひ奉れ。隔て心なく宣へ」と云へば、盛遠此を聞きて、年比は恋ふる心にせめられて、物をだにもはかばかしく云はざりしが、此の事をさとられて、かべに向かひてぞ咲ひける。尼公「さればこそ」と宣ひて、枕近く立ち寄りて云ひけるは、「さても不覚におはする物哉。云ふ甲斐なくぞおぼしめされ候ふとも、我が身、昔は諸宮諸院を経廻して、好色▼P2019(九オ)遊宴の方々、さりとも多くこそ見知り給ふらめ。此程の事を歎きて、今までしらせず煩ひ給ひける事、さばかりの武者所とも覚えず。大方六波羅の辺なりとも、などか其の心たすけ奉らで有るべき。実にやすかるべき事也」。盛遠是を聞きつつ、「あはれたよりや」と思へども、せめてはよその事ならば、歎きてこそは見えけれども、実に鳥羽の女房の事なれば、とにもかくにも思ひ煩ひてつやつや返事ぞせざりける。重ねて「いかにいかに」とせめければ、延ぶべき方なくて、云はばやと思へども、「よしよし、よその事ならば、恥をもすて、歎くべけれども、いかがはもらさむ」と思ひければ返事もなくて、いきつぎゐたり。重ねて尼公の云はく、「我が身今はすたれものなれども、昔申し承はりし人のみこそおは▼P2020(九ウ)すれ。遠国までは叶はずとも、洛中にてはいづれの御方なりとも、又六はらの人共の姫共なりとも、『かかる歎きする者あり。助け給へ』と申さむに、なじかは叶はで有るべき。我親子の約束申して既に三ヶ年に成りぬ。志の程をも今は見え奉りつらむ。鳥羽の女子にも劣らず心苦しくこそ思ひ奉れ。此程心おかれ奉りて、同宿無益也。尼、人ならねば、其を大事と思ひ奉れとにはあらず。ともどもそれの御計らひ」とぞ宣ける。
盛遠心中に思ひけるは、是程の時、露ばかりも漏らさでは、いつを期すべしともなければ、面に火をば焼けども、し
ぶしぶにこそ申しけれ。「仰せ畏まりて承り候ひぬ。さても一年、渡辺の橋供養の時、説法半ばに及びて、二瓦の船にあじろ輿二張入りて、橋より上一段ばかり▼P2021(一〇オ)の西の岸につき給ひし人を承り候ひしかば、是へ御参と聞こえ候ひしが、其の時御ともなひ候ひし人の、不覚の心に打ちそひて、朝夕わするる事もなし。其のゆくへは誰人にておはしけるやらむと、穴倉なさの余りに尋ね参りて候ひしかども、今まで顕れずして、空しく罷り過ぎ候ひぬ」と、おめおめとぞ語りける。其の時尼公打ち咲ひて云はく、「其の橋供養の時は参りて候ひし也。さて其の女房が心にかかりておぼしめすか。それこそ鳥羽の娘にて候ひしか。いとやすし、いとやすし」とぞ云ひける。「且は面目にてこそあらめ。皆よのつねの習ひ也。若くさいとうなき間は、我身に思ふ事もあり、人に思はるる事もあり。故さへきの頭とつれしも、此の風情にてこそ有りしか。是程やすき事を、今まで心苦しく歎き給ひけむ事▼P2022(一〇オ)こそ、返す返すも不覚なれ。今は兄弟のあはひぞかし。適きたる時も見参し給ひて、恐れながら尼が使ひしても鳥羽の辺へもおはしたらば、上にこそ叶はずとも、さる人おはするとは、などか見奉り又見え奉らざるべき。なにかは若しかるべき。呼びてみせ奉らむ」とて、急(いそ)ぎ文を書きて鳥羽へ遣はす。「けさより違例の心地ゐできて世間もあぢきなし。老いたる若ききらはず、生死無常の習ひなれば、いかが有るべかるらむ。来給へ、見奉らむ」と云ひ遣はす。
鳥羽の女房これを見て周章騒ぎて来たれり。常の居所に急(いそ)ぎ入りて見れば、尼公さきざきよりも心よげにて打ち咲ひて「是へ是へ」と宣へば、「夢か幻か、覚ならぬ気色かな」とみれども、先ず近くよりて居れば、「さこそさわぎ給ひ▼P2023(一一オ)つらめ。不思議にをかしき事の侍れば、語りて咲ひ奉らむとて申してなり」。何事なるらむと聞くほどに、「実に女の身となりては是程の面目いかが有るべき。上西門院の武者所、此の三ヶ年尼に仕はれておはしつるが、煩ひ給ふ事余りに大事におはせしが、尼も心苦しくて朝夕歎きしかども、つゆ其のしるしなし。ことわりにて有りけるぞとよ。余りの心本なさに今日病の様を責め問ふに、取り別け返事もなかりつる程に、事の有様細しく問へば、人を恋ふる病にて有りけるぞとよ。他人にてもなく、女房を心にかけたりけると覚ゆるぞ。何か苦しかるべき。兄弟のあはひにおはすれば、今まで見参し給はぬこそうたてけれ。体ばかりをみえ給へ。人を助くるは尋常の習ひ也」とくどき給へば、女房余りの事にて▼P2024(一一ウ)つゆ其の返事もなし。「いかにいかに」とせむれども、女郎花(をみなへし)のつゆ重げなるけしきにて、とかうの詞もなし。尼公又宣はく、「御気色こそ存外なれ。其にこそ今は鳥羽に思ひ付きて、是の朽尼の申す事は用もなけれども、親となり子となるも前世の契也。彼の人を此の破屋におき奉りても、すでに三年になる。只一人おはする女房にも劣らず糸惜と思ふ也。故殿におくれて後、さる女房は鳥羽にこそ常はおはすれ。これにていかにと、おきて給ふ事もなし。打ちすてられ奉りて、何事も便りなきさまにてこそありしか。而に彼の人、尼を憑み給ひて、九夏三伏の焔天にも扇を以て床をあふぎ、玄冬素雪の寒夜も衾を懐きて是を暖む。かやうに仕はれ給ひて志浅からず。尼には武者所にすぎ給へる子▼P2025(一二オ)なし。それに只今さながら後れ奉らむ事、生涯の恨み也。妻夫となれともいはばこそかたからめ、人の心を助くるは、世間の皆習ひなり。姿計りをもみえよかし。それ叶ふまじくは、今日より後は母有りとも思ひ給ふべからず。又それにおはするとも思ふまじ」と、かきくどきせめければ、「仰せは背き難けれども、此の程も刑部が申し候ふは、『三条には客人おはするなり。かろがろしくかよふべからず。尼御前も我をばさげしめ給ふ聟なれば、有りはてむ事もかたし』と、常に申し候ふ。其の上女の習ひ、一人を憑む外、他の心をもてる、今も昔も人の命を失ふわざ也。殊更に仰せのごとくは兄弟の間なり。とにもかうにも此の事なほも承はらじ」と云ふ。尼公又宣ひけるは、「仰せの如くおとといの間におはすれば、本意を遂げよとも申さばこそ、今まで▼P2026(一二ウ)見参し給はぬこそわろくおはすれ。互いにみえ奉りなば、なにか苦しかるべき。此の人鳥羽なんどへもこえ給はむ時は、兄弟の間なれば適の対面をもし給へかし。其をばよも左衛門もいさかはじ。あらぬ振舞をもし給へとも申さばこそ、まれの対面だにもあらば、此の家にさてこそおはせむずれ。縦ひ尼いかになりたりとも、おとといの有様にて時々かよひ給はんに、なにか苦しかるべき」と、さまざまに宣へば、「さらば見参せむ、よび給へ」としぶしぶに有りければ、急(いそ)ぎ使ひして、「申すべき事あり。これへ入り給へ」といはす。
盛遠うれしさの余りに急(いそ)ぎはひおきて、大息つきてぞきたりける。三年の間の思ひにやせおとろへたれども、さすが其の久しさ、上西門院に有りしかば、なえやかなる直垂のこしつき、又へりぬりのえぼしのきはにいたるまで、なま▼P2027(一三オ)めきてぞ見えける。是を見て尼公はまぎれ出で給ひぬ。而るに此の女房、少しもはばからず盛遠をまぼりて、今や物いふとまてども、其の久しさ、おともせずうつぶき入りてぞ有りける。其の時女房、「さても此の三年の程、是に御渡りとは承り候へども、常には鳥羽に居て候へば、今まで見参し奉らぬ事、かへすがへす心の外に覚え候ふ。すべて心のそらくは候はず。自然の懈怠にてこそ候ふらめ。今はかやうに対面の上は、何事に付けても心安き辺にこそ思ひ奉り候へ。母にて候ふ老公も、ひたすらたのみ奉るよし申し候ふ。此の程も御労はりのよし申され候ひつれども、心中に歎き入りては候ひつれども、未だみえ奉ることもなくて、いかにと申さむことも、何とやらむ候ひつる間、空しく過ぎ候ひぬ」と、こまごまに云へども、返事もせず。
重ねて云はく、「実にかたはらいたき事を、母の尼▼P2028(一三ウ)公の語り申しつるを、有るべからざるよし申し候ひぬ。女の身には是にすぎたる面目やは有るべき。伊勢のいつきの宮は、
きみやこしわれや行きけむおぼつかなしのぶのみだれかぎりしられず K100
とながめ、二条の后は、
むさしのはけふはなやきそ若草のつまもこもれり我もこもれり K101
なんど詠じ給ひしも、此の道の態なり。それもさてこそおはせしかど、今は世の末となりて、二心ある女にすぎたる難はなし。さなきだに刑部が、『めづらしき人もち奉りて』と、朝夕は申す。此の事いかがおぼしめす。いかさまにも御計らひなくては、後よかるべしともおぼえず。女の身にてかやうの事を申せば、時のほどにやがてうとまれ奉らむずれども、実に志おはせば、▼P2029(一四オ)刑部を急(いそ)ぎ討ち給へ。此も前世の契にてこそ有らめ。其の後は、いかにも仰せを背くべからず。母の尼公も、さしもなき者につれたりとて、不孝の者にて候ひしが、東山の上人の教化にこのほどはゆりたれども、底の御心は打ちとけ給はぬ風情也。此に付けても、一宇のすまひとならむはよく候ひなむ」と云ふ。
盛遠おめおめとして居たりけるが、此の事をききて打ち咲ひて後、樊会が如く気色して、「仰せ悦びて承り候ひぬ。我が身いみじからずと云へども、武勇の家に生れて弓箭にたづさはる親しき者、三百余人あり。彼等を大将軍としては、日本の外なる新ら百済なりとも、などかせめでは候ふべき。此程の事は冠者原にしらするに及ばず。我が身計りしてなりともいとやすし」。女房又云はく、「さらば今三日と申さむ日、京より鳥羽へ客人▼P2030(一四ウ)来るべし。日のほど酒宴、夜に入らば管絃連歌有るべし。其の後かへるべし。形部定めて酔はむずらむ。其の夜、伺ひ給へ。刑部がねどころは、酒宴の家を一つ隔てて西にあたりたる屋也。常に東山に出づる月を見むと、東にむけてすめり。広縁の南のはしを指し入りて見給はば、妻戸の口に臥したらむを指し給へ。穴賢、見たがへて不覚すな。我は遥かのおくに臥すべし。相構えて本鳥をさぐり給へ。さらば暇申して。今夜も是に候ひて、何事も申したくは候へども、母の違礼とて遣はしたりつる文を、あしくおきて有りつる。定めて刑部み候ひなば、急(いそ)ぎこゆらむと覚ゆ。いかにも御ぱからひの後は、ともども仰せに随ふべし」とて返りぬ。
遠藤是を聞きて思ふ様、「三年の間、空しき床に向ひて▼P2031(一五オ)独り臥したれば、秋の夜長し。夜長くして、眠る事なし。耿々とほのかなる残りの燈の壁に背くる影、嘯々と閑なる闇の雨の窓を打つ音のみ友となり、春の日遅し。日遅くして独り居れば天もくれぬ。宇(のき)の鴬の百囀を、愁ひあれば聞くことを厭ふ。梁のつばくらめの比び住みをば、ねたましくのみ思ひつつ、三年のほどもすぎしぞかし」。今三日と契りしも、待ちくるしくぞ思ひける。
さても三日と云ふ日は、萌黄の腹巻に左右の小手・すねあて計りに、三尺五寸の大太刀に、ろうさふの小袖をかづきて、やぶれがさにかほをかくし、三条を西へ大宮を南へ行く。長七尺に余りたりければ、行くも返るもあやしがりて見送らぬ者はなかりけり。未だ日たかかりければ、御所の辺りにやすらひて彼こを伺ふに、云ひしにたがはず、京▼P2032(一五ウ)より客人入りぬ。日くれぬれば管絃連歌の後、此の人急(いそ)ぎ返りぬ。さても此の女房、今夜をかぎりの事なれば、三条の尼公の我に後れて歎き給はむ事、又死なばともにと契り深き刑部が事も悲しくて、只眼に遮ぎる物とては尽きせぬ涙計り也。「さればとて、かくてやむべきにもあらず。異国にも悲しき男にかはりて、後生を助けられし女も有りしぞかし」と思ひ切りて、酔ひたる男を懐て奥のつぼにふせて本鳥をみだり、我がたけなるかみを切りおろして女の姿にぞつくりける。其の後我がかみを取り上げて本鳥になす。さて刑部が烏帽子・大刀・刀を妻戸の口に取り渡して、東枕にふしにけり。
今をかぎりと思ふにも忍びの涙せきあへず、漢の李夫人にあら▼P2033(一六オ)ざれば、体を移しても誰かみむ。唐の陽貴妃に異なれば、尋ね問ふべき人もあらじ。只うき目をみむものは三条の母の老尼計りと思ふほどに、向ひの屋の中門の程、「ぎいり」となりけるが、見れば、腹巻に大刀脇にはさみたる大童一人、広縁へつとのぼり、我がうへを飛び越えて奥のつぼへぞ通りける。「あな心憂や。いかになりぬる事やらむ。已にあやまたれぬるやらむ。おきても取りつかばや」とは思へども、暫く有様を見るに、女とやみなしてけむ、立ち返りうつぶくかと思ふほどに、女の頸は前の縁へぞ落ちにける。盛遠打ちおほせぬと悦びて、暇申して返り参らむとて急(いそ)ぎ頸取り三条へかへる。此の頸をば或る田の中に踏み入れて、三条の屋に帰りて高念仏して縁行道す。
しばらく有りて、門戸を叩く。▼P2034(一六ウ)「誰そ」と問へば、「鳥羽より。女房を、只今夜打入りて、殺し奉りた」と申す。盛遠、思様、「下臈の不覚さ。何条さる事は有べきぞ」と思ひて、「何(いか)に物狂しき申し様ぞ。殿の御あやまちか」と云ふ。使者云はく、「さは候はず。一定、女房の御あやまちとこそ仰せ有りつれ」と詳らかならず。さればこそとて、尼公に此の由を告ぐ。「女房の御あやまちとて、鳥羽より使者は候へども、よもさる事は候はじ。殿のあやまちにてぞ候ふらむ」と云へば、尼公あわてさわぎ給ふ。又重ねて使ひあり。「何(いか)に」と問へば、「女房の御あやまち」。又、おしかさねて使者あり。来たるも、又来たるも、人は変はれども、詞は同じ詞也。されどもなほ盛遠用ひず。「下臈ほど不覚のものはあらじ。我がしらざる事ならば、いかに不審ならまし。周章たる者哉」と、心の内には返々もにくがり▼P2035(一七オ)き。
尼公に伴ひて、盛遠も鳥羽へ行きぬ。みれば、此男、頸もなき体、抱きて、「夢かうつつか、此は何なりけるあへなさぞ。いづくへ我を捨て置きて、同じ道へとこそ契りしに。具して行け」とぞ嘆きける。尼公は、是を一目みてよりは、とかうの詞もなく、引きかづきて臥し給ひぬ。盛遠あさましく思ひて、急(いそ)ぎ家を走り出でて、捨てつる頸を尋ぬるに、八月廿日余りの月なれど、折節おぼろにかすみて、いづくとも覚えず。されども、田の中を余りに求めければ、有る深田にて求め得たり。水にてふりすすぎてみれば、此の女房の頸なりけり。急(いそ)ぎ鳥羽に持ちて行き、走り入りて、「御敵人ぐして参りて候ふ。御覧候へ」とて、懐より女房の首を取り出だして、其の身に指し合はせて、「此は盛遠が所行也。一日、此の女房の契り給ひしにばかされて、わ殿の頸を▼P2036(一七ウ)かくと思ひて候へば、かかる不覚をしつる事なれば、我が頸を千きだ百きだにもきざみ給へ。あな心うの有様や。いかなりける事ぞや。是にて切り給へ」とて、腰刀を抜き出だして、左衛門尉に与へて、頸をのべて指し出でたり。
左衛門尉、此の盛遠をみるに、つらきにつけ、うらめしきに付けても、只一刀に指し殺さばやと思ひけるが、倩らくりかへし物を案ずるに、「滔沼々として長き河の水、水無くして暫し留まり、舟々として浮ける世の人、人無くして能く久し。貞松万春の栄え、甘菊千秋の匂ひ、終に朽つる時有り。いかに萎める時無からむ。かかる憂世にまじはればこそ、憂き目をもみれ」とて、其の刀をばなげかへして、「刀は此にも候ふ」とて、己が刀をぬきて、自ら髪を切りてけり。盛遠ふりあふぎみて申しけるは、「生きて物を思はむよりは、只はや切り給へ。自害せむとは思へども、同じくはわ殿の手にかけ▼P2037(一八オ)給へ。それは悦びたるべし」とて、頻りに頸をのべたり。左衛門尉申しけるは、「御辺、誠に城に立て龍もりて、相闘はむとする事ならば、尤も打ち入りてこそ切るべけれども、かくし給はむ上は、縦ひ女房生き帰るべしと申すとも、切り奉るべきにあらず。自害も詮無き事なるべし。其よりは、只なき人の後世を訪ひ、一仏浄土の往生こそ、あらまほしく覚ゆれ。今生後世空しからむ事、永劫沈輪不覚なるべし。倩ら案ずるに、此の女房は観音の垂迹として、吾等が道心を催し給ふと観ずべし」。その時、盛遠立ちて、左衛門入道を戒師とや思ひけむ、七度礼拝して、髪切りてけり。両方に尼・法師になる者、卅余人也。母も墨染の衣、涙の露にしをれつつ、いつかわくべしともみえず。
彼の女、消息細々と書きて、手箱に入れて、形見にとて留め置きたるをみれば、「いとど女の身は罪ふかき▼P2038(一八ウ)事にこそ候ふなるに、うき身ゆゑに、多くの人のうせぬべく候へば、我身一つを失ひ候ひぬる也。殊更に罪深く覚え候ふ事は、母に先立ちまゐらせて、物を思はせまゐらせむきみこそ、心うく候へ。相構へて後世をよく訪ひ給ふべし。仏にだにもなり候ひなば、母をも左衛門殿をも、などか迎ひまゐらせ候はざるべき。万づ何事もこまかに申し置きたく候へども、落つる涙にみづくきのあともみえずして、委しからず。返々身のほどの心うさ、ただおしはからせ給ふべし」とて、
露ふかきあさぢがはらにまよふ身のいとどやみぢに入るぞかなしき K102
母これをみるに、いとど目もくれ心もきえて、もだえこがるる有様、ためし有るべしとも覚えず。冥途にも共に迷ひ、猛火にも共に焼けむ事ならば、いかがはせん。生きて甲斐なき露の身を、むぐらの宿にとどめおきて、恋慕の▼P2039(一九オ)なみだいつかかわかむ。せめての事に、「浄頗梨の鏡にや浮かびてみゆる」とて、歌の返事をよみて、泣く泣く其の歌の傍らにぞかきならべたりける。
やみぢにもともにまよはでよもぎふにひとり露けき身をいかにせん K103
とよみて、其の後は天王寺に参りて、「只はや命をめして、浄土にみちびき給へ。我仏になりて、なき人の生所をも求めつつ、一仏蓮台の上に再び行きあはむ」と祈念することなのめならず。さる程に次の年の十月八日、生年五十五にして、終に往生の素懐を遂げにけり。
形部左衛門尉は、年来の師匠請じて、髪うるはしくそり、三聚浄戒たもちて、法名をば渡あみだ仏とぞ申しける。在俗の時は「渡」と名乗りければ、出家の後も渡の字をぞ呼びける。志は、生死の苦海を渡りて、涅槃の彼岸に属かむ事を▼P2040(一九ウ)観じける心ばへ也。
遠藤武者盛遠入道は、此も盛遠の盛の字を法名として、盛あみだ仏とぞ申ける。うせにし女の舎利を取りて、後苑に墓をして、第三年の内までは、行道念仏して後世を訪ふ事、人にすぐれたり。さればにや、墓の上に蓮花開くと夢にみて、歓喜の涙袖にふれり。
其の後、盛あみだぶ道心おこして、高野にて戒を持ち、熊野にこもり、年を経けり。金剛八葉の峯よりはじめて、熊野・金峯、天王寺、止観・大乗・楞厳院、すべて扶桑一州においては、至らぬ霊地もなかりけり。十八才より出家して、一十三年の間は、持斎持律の行者也。春は霞に迷へども、峯に上りて薪をとり、夏は叢しげけれど、柴の枢に香を焼き、秋は紅葉に身をよせ▼P2041(二〇オ)て、野分の風に袖をひるがへし、冬は蕭索たる寒谷に、月をやどせる水を結びなんどして、山臥、修行者の勤め苦(ねんご)ろなり。振鈴の音は谷を響かし、焼香の煙は峯に消ゆ。彼の商山の翁にはあらねども、蕨を折りて命を支へ、原憲がとぼそにはあらねども、藤衣つづつてはだへをかくせり。三衣一鉢の外には、蓄へたる一財なく、座禅縄床の肩筥には、本尊持経より外に持ちたる物なし。寒地獄の苦しみを今生に見て、後世にのがれんとぞ誓ひける。知法有験の時までも、昔の女の事わすれずして、常には衣の袖をしぼりけるとかや。もしや心をなぐさむるとて、昔の女の形を絵にかきて、本尊と共に、くびにかけて身を放たざりける事こそ▼P2042(二〇ウ)哀れなれ。
かくて在々所々を修行しければ、或る時は東の旅に迷ひて、業平が尋ねわびしあこやの松に宿をかり、或る時は西の海千尋の浪にただよひて、光る源氏の跡を追ひ、陬間(須磨異本)より明石に伝ふ時もあり。偏へに一所不住の行をなして、利益衆生の勤めを専らにす。先代にも少なく、後代も有りがたきほどの木聖にてぞ有りける。「彼の女の縁に遇はずは、争か今度生死の掟を覚るべき。有りがたかるべき善知識なり」とて、弥よ彼の後世をぞ訪ひける。盛あみだぶを改めて、文学とぞ呼ばれける。
三〔異朝東婦の節女の事〕 遠く異朝を尋ぬれば、先昔、唐国に夫を思へる女あり。東婦の節女と是を云ふ。長安の大昌里人の娘なり。階老同穴と契り浅からざりし夫に、▼P2043(二一オ)朝夕伺ふ怨敵あり。此の男も、李陵・張良が態をえて輙からざりければ、有る時、敵、此の節女をとらへて、「汝が夫を我に殺させよ。しからば君に伴ひて、春花明月の詠をもなし、山鳥白雪の興をもまさむ。それ叶ふまじくは、速やかに汝に殺すべし」と云ふ。節女、是を聞きて、「ただかりそめの夜がれをだにも歎くに、此の事夢か覚か。花の下の半日の客、芳志を夕風に残し、月の前の一夜の友、金波を暁雲に惜しむ習ひにてこそあれ、まして夫となり妻となる、此の世一つの事ならず。互ひにみえそめて後、多くの年月を送り、朝夕は千秋万歳とこそ契り深き男を失ひて、汝とすまむ事、いかが有るべからむと覚ゆ。しかれ、たださらば、汝が詞の如く我を失なへ」と云ふ。かたき是を聞きて、「さらば汝が▼P2044(二一ウ)親をも同じく殺すべし。わがみ又親を夫にかへむ事、能々はからへ」と云ふ。節女是を聞きて、親を思ふ悲しさに、「さらば我が謀にて、汝に男を打たせむ。我が夫、楼の上にねたらむを殺せ。夫は東に臥すべし。我は西に臥さむずるなり。東の枕を鉾を以てさせ。男は安く死なむ」とて、ゆるされぬ。さて女、今を限りと思ふにも、夫に別れむ悲しさに、忍の涙せきあへず。夫あやしみて委しく尋ぬれども、更にしらせず。「ただ世の中の有りはつまじきを思ふにも、いとど悲しく」とぞ云ひける。夫哀れと思ひて、もろ共にぞ泣きける。
女今夜を限りの事なれば、雛の巣に復るが如し、何れを東とし何れを西とせむ。犢の乳を失へるに似たり、存るに非ず、已はるに非ず。心を西刹の暁の月に澄ますと雖も、深き恨みを楼上の夕べの雲に残す。更蘭人定まりて鶏人すでに唱へ、鳥鐘響きを送る程に成りて、夫を西になし、我が身▼P2045(二二オ)東枕にふして、敵を相待つ処に、男、節女がちぎりし詞にまかせて、東の枕をさす。女鉾を取りて我頸にあて、夫にかはつて失せぬ。敵、打ちおほせつとて見れば、此の女なり。目もくれ心もきえて、夫にかはつて命を失へる志の深きを思ふに、あやまちを侮る歎き、譬ふる方なし。悲しさの余りに、節女が夫に向かひて、「速かに我が身をいかにもなせ。汝を失はむとて、かかる憂目をみつる」とて、悲しめり。夫此を聞きて、「敵すでに来たるを殺して、いみじかるべきにあらず。只かかる憂世を背きて、女の菩提を祈らむ」とて、本鳥を切り、さまをかへてけり。
日月は隔たれども愁傷の腹わた、猶新た也。時節は移れども、恋の涙、▼P2046(二二ウ)未だ乾かず。三泉何れの方ぞ、青鳥の翅も至ること能はず。中陰誰が家ぞ紫〓[示+鳥](しえん)の蹄も走るに由無し。豈に図りきや、朝に戯れ夕べに戯れし、芳契の情を翻へして、夜も歎き昼も歎く、秋哭の悲しみと成るとは。悲しみて見れば悲しみを増す、庭上の花の主を失へる色。恨みて聞けば恨みを増す、林中の鳥の君を忍ぶ音。分段の理を思はずは、争か悲しみに堪へんや。生死の習ひを知らずは、豈に此の恨みを忍ばんや。来たりて留まらざる〓[くさかんむり【草冠】+興]籠(きようろう)の露に似たる命、去りて帰らず、槿籬の花の如くなる身、歎きてもよしなしとて、各の彼の女の後生をぞ祈りける。
草枕いかに結びし契りにて露の命におきかはるらむ K104▼P2047(二三オ)
四 〔文学院の御所にて事に合ふ事〕 かくて文学、冬の宵から漏らし遅うて愁腸寸々に断え易く、春の天日斜めにして胸火怱々に拭ひ難くして、諸国を流浪してありきけるが、都へ帰り、廻りて高雄の辺にすみけり。道心の後にも、心大きにくせみつつ、普通の人には似ざりけり。
爰に高雄の神護寺と申すは、草創年旧りて、仏閣破壊の体をみるに、明月の外はさし入る人もなし。庭上草深くして、孤狼野干の栖にて、雉兎の遊びに興多し。扉は風に倒れて落葉の下に朽ちすたれ、軒ばは雨にをかされて仏壇更にあらはなり。悲しき哉、仏法僧と云ふ鳥だにも音信ずして、空しき跡のいしずゑはおどろの為にかくされ、痛しき哉、御山隠れのほそ▼P2048(二三ウ)路もつたしげく匍ひかかり、樵夫草女の袂までも露やおくらんと哀れ也。
爰に文学思ひけるは、「宿因多幸にして、出家入道の形をえたり。前業所感にして、仏法値遇の身となれり。無縁の道儀を訪ふは、菩薩の所修の軌則也。破壊の堂舎を修複するは、仏法を再興する根本也。はげみても猶はげむべきは修複修造の善根、行じても猶行ずべきは利益結縁の資粮也」と思ひけるが、「但し自力造営の事は争でか叶ふべきなれば、知識奉加にて神護寺を造らむ」と云ふ大誓願を発しつつ、十方の旦那をすすめありきけるほどに、院の御所法住寺殿へ参りて、御奉加あるべきよし申しけるほどに、折節御遊の程▼P2049(二四オ)にて、奏者も御前へまゐらず、申し入るる人もなかりければ、「御前の無骨」とは思はで、「人のうたてきにてこそあれ」と思ひける故に、天性の不当の者の而も物狂はしきにて有りければ、常の御所の御壷の方へ進み入りて、大音声を放ちて、「大慈大悲の君にてまします。高雄の神護寺に御奉加候へよ」と申しける。大声に調子もはとぞ興さめにけり。
やがて腰より勧進帳を取り出だし、高らかにぞ読みたりける。其の状に云はく、
「勧進僧文学敬ひて白す
殊に貴賤道俗の助成を蒙りて、高雄の霊地に一院を建立し、二世安楽の大利を勤修せしめんと請ふ子細の状
▼P2050(二四ウ)夫真如広大にして、生仏の仮名を施すと雖も、法性随縁の雲厚く覆ひて、十二因縁の峯に聳きしより以降、本有心蓮の月の光幽かにして、未だ三毒四慢の大虚に顕れず。悲しき哉、仏日早く没して、生死流転の衢冥々たり。色に耽り酒に耽る、誰か狂猩跳猿の迷ひを謝せん。徒に人を謗り法を謗る、豈に閻羅獄卒の責を免れんや。
爰に文学、偶俗塵を払ひ法衣を飾ると雖も、悪業猶意に逞しく日夜に造り、善苗又耳に欺いて朝暮に廃る。痛ましき哉、再び三途の火坑に帰り、永く四生の苦輪に廻らんこと。所以に牟尼の憲法千万軸、軸々に仏種の因を明かし、随縁至誠の法、一つとして菩提の彼岸に届らずと云ふこと無し。故に文学、無常の観門に涙を落として、上下親族の結縁を催し、上品の蓮台に心を運びて、等妙覚王の霊場を立てんと也。
抑も高雄は、山堆くして鷲峯山の梢を顕はし、▼P2051(二五オ)谷禅にして商山洞の苔を敷けり。巌泉に咽んで布を曳き、嶺猿叫びて枝に遊ぶ。人里遠くして囂塵無く、咫尺好しくして信心のみ有り。地形勝れたり、尤も仏天を崇むべし。
奉加微しきなりとも、誰か助成せざらむや。風かに聞く、聚砂為仏塔の功徳、忽に仏因を感ず。何に況や一紙半銭の宝財に於てをや。願はくは建立成就して、禁闕鳳暦御願円満し、乃至、都鄙遠近親疎里民、尭舜無為の化を歌ひ、椿葉再会の咲みを開かん。況んや聖霊幽儀前後大小、速やかに一仏菩提の台に遊び、必ず三身満徳の月を翫ばむ。仍つて勧進修行者の趣、蓋し以て斯くの如し。
治承三年三月 日文学敬白」とぞ読みたりける。
其の時の管絃には、妙音院の太政大臣師長公、御琵琶の役也。此の人の御琵琶には、観界の天人も度々天下り給ひたりける上手也。按察大▼P2052(二五ウ)納言資賢卿は、紅葉と云ふ笛をぞ吹き給ひける。源少将雅賢は、鳳管の上手也。
鳳管と申すは、笙の笛の事也。鳳凰の鳴く声を聞きて令公と云ひける人、笙の笛をば作り始めたり。『千字文』と申す文に「鳴鳳樹に在り、白駒場に喰む」とて、「明王の代には必ず鳳凰来りて、庭前の木に栖む」と云ふ本文あり。之に依つて、此の源少将雅賢、常に参りて仕へ奉る。今日は召されて早く参じたりけり。水精の管に黄金の覆輪おきたる笙の笛、黄鐘調にぞ調べたりける。黄鐘調と申すは、心の臓より出づる息の響き也。此の臓の音は、逆に乙の音より高く、甲の音に上る間、脾の臓の土の音に同ず。順に甲の音より乙の音に下る時は、肺の臓の金の音に同ず。故に土の色を黄と名づく。金の色を鐘と名づく。将に知るべし、土と金とは陰陽の義にて、男女相応の儀式也。故に法皇と女院との御前なれば、円満相応の御▼P2053(二六オ)祈りとて黄鐘調にしらべたり。又、黄鐘調は呂の音也。此を名づけて喜悦の音とす。又は、五行の中には火土也。五方の中には南方也。生住異滅の四相の中には住の位也。住の位とは、人の齢にあつる時は、卅已後四十已前の比也。されば、源少将も其の時はさかりすぎて四十一也。法皇の御歳は紅葉の比に移らせ給ひたりけれども、祝ひ奉りて、猶夏の景気に調べたり。
花山中将公高は、時々和琴をかきならして風俗催馬楽をうたひすまし、太政大臣師長は、朗詠目出たくせさせ給ふ。資賢卿の子息資時朝臣、拍子を取る。四位侍従盛定朝臣、今様とりどりに謳ひなんどして、心肝に銘じて面白かりければ、聖衆も袂を飜し、天人も雲に乗り給ふらむとぞ身の毛竪ち▼P2054(二六ウ)て覚えける。されば、上下感涙をおさへて、玉簾錦張霊々たり。
御感に堪へさせ給はずして、法皇も時々は唱歌せさせおはしまし、付歌なんどあそばして、興に入らせ給ひたりけるに、此の文学が勧進帳の音声に調子もそれ、拍子も違ひて、人々皆興さめにければ、法皇忽ちに逆鱗わたらせ給ひて、「こは何者ぞ、奇怪也。北面の輩はなきか、しやそくび突き候へ」と仰せ下されければ、「何事哉(がな)、事に逢ひて高名せむ」と思ひたる者共、其の数多かりければ、我も我もと走り懸かる。
其の中に平判官資行、「左右なく頸を突かむ」とて走り懸かりたりけるを、文学、勧進帳を取り直して、烏帽子を打ち落として、しや胸つきて、のけさまに突きたふしてけり。資行、放本鳥▼P2055(二七オ)にておめおめと大床の上へ逃げ上る。北面の者共、我も我もと走り懸かりければ、文学、懐より、七寸計りなる刀の柄に馬の尾巻きたるが氷なんどの様なるをさらとぬきて、「よりこん者を突かむ」と待ちかけたり。長七尺計りなる大法師のすぐれたる大力の心猛きが、右手には刀を持ちて、左手には勧進帳を捧げて狂ひ廻りければ、左右手に刀を持ちたる様にぞみえける。思ひよらぬ俄事にてはあり、院中騒動す。公卿殿上人、「こはいかに、こはいかに」と立ち騒ぎ給ひければ、御遊の席もそれにけり。
宮内判官公朝、「『搦めよ』と云ふ御気色にてあるぞ。速に罷り出でよ」と云ひけれども、少しもしひず。「只今罷り出でては、いづくにて誰に此の事を申さんぞ。さてあらんずるやうに命を御所の中にて失ふとも、神護寺に庄をよせられざらむには、一切に罷り▼P2056(二七ウ)出づまじきものを」とぞしかりける。
安藤馬大夫右宗が当職の時、武者所に候ひけるが、大刀を取り、走り向かひたり。文学少しもひるまず、悦びてかかる所を、右の肩を頸かけて、大刀のみねにてつよく打ちたりけるに、打たれてちとひるむやうにしける所を、大刀をすてて組みて伏す。文学、いだかれながら右宗がこがひなを突く。つかれながらしめたりけり。其の後ぞ、者共、かしこがほにここかしこより走り出でて、手取り足取りはたらく所をば、かくかく打てどもはれども、少しもいたまず。猶散々の悪口を吐く。門外へ引き出だして、資行が下部にたびてけり。文学、引つぱられて立ちたるが、御所の方をにらみつめて、「奉加をこそし給はざらめ。文学にからき目をみせ給ひつる報答は、思ひ知らせ申さんずるぞ」と躍り上がり躍り上がり、▼P2057(二八オ)三声までぞ罵りける。資行は烏帽子打ち落とされて恥がましくて、暫くは出仕もせざりけり。右宗は御感に預りて、別の功に納まりにけり。当座に一臈を経ずして右馬督に召し仰せられけるこそ弓箭取る者の面目とみえけれ。
文学は獄舎に入れられにけり。されども一切これを大事ともせず。其の比、上西門院の崩御にて、非常の大赦を行はれければ、やがて出だされにけり。しばしは引き籠もりて有るべけれども、猶もへらず元の如くに勧めありきけり。さらば、ただもなくて、「此の世の中は只今に乱れて、君も臣も皆滅びなむずるものを」などさまざまの荒言放ちて、いまいましき事をぞ云ひありきける。無常の讃と云ふ物を作りて、「三界は皆火宅也。王宮も其の難を遁るべからず。十善の王位に▼P2058(二八ウ)誇りたぶとも、黄泉の旅に出でなう後は、牛頭馬頭の杖〓にはさいなまれ給はうずらうは」とて、院の御所を左ざまにはにらみてとほり、右ざまにはにらみてとほりけるあひだ、「猶奇怪なり」と云ふ沙汰有りて、「召し取りて遠流せよ」とて、伊豆の国へぞ流し遣はされける。
五 〔文学、伊豆国へ配流せらる事〕源三位入道の未だ誅たれぬ時なりければ、子息伊豆守仲綱、院宣を奉りて、郎等渡部の省が具して下るべかりけるを、折節、国人近藤七国平が上洛したりけるに具して遣はす。「東海道を船にて下るべし」とて、伊勢国へ将いて下る。放免、両三人付けられたりけるが、申しけるは、「庁の下部の習、かやうの事に付けてこそ、自ら依▼P2059(二九オ)怙もあれ。さやうの事のあればこそ、又芳心も当たり奉る事にてあれ。いかに是程の事に相ひて下り給ふに、然るべき旦越などは持ち給はぬか。国の土産、道の糧料なんどをも乞ひ給へかし。かやうの時よりこそ、互の志もあらはるれ」なんど云ひければ、文学、「人は多く知りたれども、東山にこそ、吉き得意は持ちたれ。文遣はさむ」と申ければ、此等悦びて、紙を求めて得させたりければ、「かかる紙にて、文書きたる事覚えず」とて、投げ返してけり。椙原を尋ねてえさす。其の時、人を呼びて、文をかかす。「文学、高雄の神護寺を修造遂げむと云ふ大願を発して、勧め候ひつるほどに、聞し食しても候ふらむ、かかる悪王の世にしも生まれ相ひて、所願をこそ果たさざらめ、剰へ禁獄せられて、はてには遠流の罪を蒙りて、伊豆国へ流さる。遠路の間也。糧料、▼P2060(二九ウ)如法大切に候ふ。此の使に少々給はり候ふべし」と、云ふが如くに書きて、「立文の表書には、誰へと書くべきぞ」と云ひければ、文学大きに咲ひて、「清水寺の観音房へと書き給へ」とぞ申しける。其の時、下部共、「官人共をあざむくにこそあれ」とて、口々に腹立ちければ、文学、「清水の観音をこそ深くたのみたれ。さなくては誰にかは要事云ふべき」とぞ申しける。
此にも限らず、文学猶此の者共謀りて咲はばやと思ひて、官人多く並み居たる中にて、昼寝をして虚寝言をぞしたりける。「此の程勧進したりつる用途共を人の許に預けたりつるは、文学伊豆へ下りたりとも、其の人の得にもなれかし。佐女牛の鳥居の下に埋め置きたりつる用途共の、徒に朽ち失せなむずる事よ」とて、寝覚めたる景気をぞしたりける。其の時、官人共うれしき事聞き出だし▼P2061(三〇オ)たりと思ひて、目を見合はせて閑所へ立ちのきて、「いざ、さらば掘り出だしてみむ」とて、行き向かひて、先づ左の鳥居の下を三尺計り掘りたりけれども、みえざりけり。「心深き者なれば、浅くはよも埋まじ」とて、一丈計り掘りたりけれども、惣じて何も無かりけり。「さらば、右の鳥居の下にてや有るらむ」 とて、又掘りたりけれども、其れもなにも無かりけり。其の後は、「此の聖に度々謀られにけり。安からず」とて、弥よ
深く誡めけれども、文学少しも痛まず、特に荒言をのみ吐きけり。
さる程に、船押し出だして下りけるに、或る日遠海なるによりて、頓に大風出で来たりて、此の船漂倒せむとす。水手・梶取、しばしは櫓かいを取りて、船をはさみて助けむとしけれども、波風弥よあれまさりければ、櫓かいをすてて、船底に倒れ臥して、声を調へて叫びけり。或いは観音の▼P2062(三〇ウ)名号を唱へ、或いは最後の十念に及ぶ。されども、文学少しも騒ぎたる気色なし。既にかうと覚えける時、文学船の舳に立ち出でて、沖の方を守りて、「龍王やある、龍王やある」と三度呼びて、「いかに此程の大願発したる僧の乗りたる船をば、あやまたむとはするぞ。只今、天の責めを被らむずる龍神共かな。水火雷電はなきか、とくとく此の風しづめ候へ」と高声に罵りて入りぬ。「例の又あの入道が物狂はしさよ」と諸人をこがましく聞き居たる処に、其の験にや有りけむ、又自然に止むべき時にてや有りつらむ、即ち風定まりてけり。其の後は、官人等舌を振るひて、いたく情なく当たる事もせざりけり。いかさまにも様有りける者にこそ。
領送使共文学に問ひて云はく、「抑も当時世間に鳴る、雷をこそ、龍王と知りて候ふに、其の外又大龍王の御坐侯ふ
様に仰せ候ひつるは、何なる事にて候ふぞや」。文学▼P2063(三一オ)答へて云はく、「此等に鳴り候ふ奴原は、大龍王のはき物をだにもえとらぬ小龍共也。其の八大龍王と申すは、法花経の同聞衆也。序品の中に其の名字を明かすに、『難陀龍王・跋難陀龍王・裟伽羅龍王・和修吉龍王・徳叉迦龍王・阿那婆達多龍王・摩那斯龍王・優鉢羅龍王等、各若 干百千眷属と倶なり』と説かれたる、此也。此の龍王達は、各の百千眷属を具して、蒼溟三千の底、八万四千宮の主たり。此の空に鳴りてありき候ふ奴原は、八大龍王の眷属の又従者の又従者也。其の主の八大龍王は、文学を守護せむと申す誓ひあり。況んや小龍等が案内を知り侍らで、聊も煩ひをなす条、有るまじき事にて候ふ也」。
領送使重ねて問ひて云はく、「されば、八大龍王は何なる志にて、文学御房をば守護しまゐらせむと云ふ誓ひは候ひけるやらむ」。文学答へて云はく、「昔仏在世の時、八大龍王参りて仏の御為に白して言はく、『仏徳尊高▼P2064(三一ウ)にして、万徳自在にまします御心に叶はぬ事やおはします』と申しし時、仏答へて言はく、『我能く万徳自在の身を得たりと云へども、心に叶はぬ事二種あり。一つには、我世に久住して、法を説き、常に衆生を利益せばやと思へども、分段生死の習ひなれば、百年が内に涅槃の雲に隠れむ事、命を心に任せぬ愁ひ也。二つには、入涅槃の後、若し善根の衆生有りと云ふとも、魔王の為に障碍せられて、所願成就の者有るべからず。其の善根の衆生を誰に誂ふべしとも思はず。此れ又大きなる歎き也』と宣ひき。時に、八大龍王、座を立ちて、仏を三匝して、正面に来りて、仏の尊顔を贍仰して、三種の大願を発して云はく、『一つには、我願はくは、仏入涅槃の後、孝養報恩の者を守護すべし。二つには、我願はくは、仏入涅槃の後、閑林出家の者を守護すべし。三つには、我願はくは、仏入涅槃の▼P2065(三二オ)後、仏法興隆の者を守護すべし』。
此の願の心を案ずるに、併ら文学が身の上にあり。かやうに文学は心そうそうにして、物狂はしき様には侍れども、父にも母にも子(みなしご)にて候ひし間、親を思ふ志、今になほあさからず。妻に後れて出家入道はすれども、本意は只至孝報恩の道心也。されば、八大龍王の第一の願にこたへて守護せらるべき文学也。第二の願は、閑林出家と候へば、十八の歳出家して、今に猶山林流浪の行人也。などか守護し給はざらむや。況んや、第三の願とは、『仏法興隆の者を守護すべし』と誓ひたれば、当時の文学こそ、仏法興隆の志深くして、和殿原にもにくまれ奉れ、八大龍王は哀れみ給ふらむ物をや。かかる法文聖教を悟りたる故に、小龍等などをば、物の数とも存ぜず候ふ間、『龍王龍王』とも申し▼P2066(三二ウ)侍る也。
さる和殿原也とも、親に孝養する志の深く、入道出家をもして、閑林に閉じ寵り、仏法興隆をもし給はむには、大龍王に守護せられ給ふべし。文学一人をと誓ひたる誓願にはあらず。構へて殿原、親の孝養して、仏法に志を運び給ふべし。今生後生の大きなる幸ひ也。申しても申しても、法皇の邪見こそ、さこそ小国の主と申しながら、けぎたなき人の欲心かな。大国の王はしからず。破戒なれども比丘を敬ひ、無実なれども勧進に入り給ふ事にて侍る也。和殿原もあひそへて、仏法疎略の人共とみるぞ。能々計らひ給へ。いかに道理を責むれども、文学が状を信用し給はぬ事のあさましさに、信をもとらせ奉り、法をも悟らせ給へかしとて、方便の為に小龍等を招きて、風波の難を現じて候ひつるぞ。▼P2067(三三オ)
されば、各皆信伏し給ひて、事の外に切りてつぎたる礼儀共、誠に哀れに侍るめり。龍のさわぎだにもなのめならず、いかにいはんや無常の風もふき、獄卒のせめも来たらむ時には、いさいさ知らず。かやうに申す文学だにも叶ふまじ。日本の主も、よも叶ひ給はじ。無上世尊も入滅したまひき。まして其の外の因位の菩薩、底下の凡夫、和殿原までも叶ふべしともおぼえず。今度文学が悪事して、伊豆国へ遠流せらるる事は、仏の御方便と知り給ふべし。一向に文学が申さむ詞にしたがひて、今日より後は、仏道に心をかけて、来迎の引接を待ち給ふべし。一樹の影に宿るも、前世の契りなければ叶はず。同河の水を汲むことも、永劫の縁と伝へ▼P2068(三三ウ)たり。何に況んや此の如き逆縁也と云へども、数日同船の昵びをや。閑かに聞かるべし。抑も、仏道に心をかくると申すは、内心に常に仏を念ずれば、臨終寿焉の時に至りて、定めて来迎引接し給ふ也。所以に、観音・勢至・阿弥陀如来、無数の聖衆を引き具し給ひて、弘誓の舟に棹さして、廿五有の苦海をわたり、宝蓮台の上に往生して、菩提の彼岸に到り遊ばむ事、誰かは此れをのぞまざらむ。返す返すも憑むべし、能々念じ給ふべし」と、賢き父の愚かなる子を教ふるやうに、同じ船なれば片時も立ち離るる事はなし。臥しても教へ、起きても誘ふ。事に触れ、物に随ひてぞ、教訓しける。
かやうにをりをりに随ひて出離せむ要路を教誡せられて、放▼P2069(三四オ)寃の中に、生年廿三になりける刑部丞懸の明澄と云ひける男、発心して本鳥を切りて、文学が弟子になりにけり。文学是れをみて、「誠に本意也」とて、やがて戒さづけて、在俗の名乗の一字を取り、我が名の片名を取りて、名をば文明とぞ付けたりける。其の外の者共は、文学が詞を聞く時計りは道念の心地に趣きけれども、出家遁世するまでの事はなかりけり。
此の文学は、天狗の法を成就してければ、法師をば男になし、男をば法師になしけるとかや。文学船に乗りける処にて、天に仰ぎて誓ひけるは、「我三宝の知見にこたへて、再び都へ帰りて、本意の如く神護寺を造立供養すべくは、湯水を飲まずとも、下着まで命を全くすべし。▼P2070(三四ウ)我が願成就すまじきならば、今日より七日が内に命終はるべし」と誓ひて、飲食を断ず。くはせけれども口の辺へもよせず。卅一日と云ふに、伊豆国に下り着きにけり。其の間、湯水をだにも飲まず。まして五穀の類は云ふに及ばず。されども色香、少しも衰へず、行打ちして有りければ、文学は昔よりさるいかめしき者にて、身のほどあらはしたりし者ぞかし。当初(そのかみ)道心を発して、本鳥を切りて、高野・粉河、山々寺々修行しありきけるが、
六〔文学那智の瀧に打たるる事〕 或時はだしにて五穀を断ちて熊野へ詣り、三の山の参詣事故なく遂げて、那智の瀧に七日断食にて打たれむと云ふ不敵の願を発しけり。比は十二月の中旬の事なりければ、極寒の最中にて、谷の▼P2071(三五オ)つづらも打ち解けず、松吹く風も身にしみて、堪へ難く悲しき事、既に二三日もなりければ、一身凍(い)て凍(こほ)りて、ひげにはたるひと云ふ者さがりて、からからとなる程なりしかども、はだかにて有りければ、凍りつまりて、僅かに息計りかよへども、後には僅かに通ひつる息も止まりて、すでに此の世にもなき者になりて、那智の瀧壷へぞ倒れ入りける。
瀧の面にて、文学をひたととらへて立てり。又童二人来て、左右の手とおぼしき所を捕らへて、文学が頭より足手の爪さきまで、しとしととなでくだしければ、凍(い)て凍(こほ)りたりつる身も皆とけて、文学人心地付きて生き出でにけり。文学息の下にて、「さても我をとらへてなで給ひつる人は誰にて渡らせ給ひつるぞ」と問ひければ、「未だ知らずや。我は大聖不動明王の御▼P2072(三五ウ)使に、金迦羅・制多伽と云ふ二人の童子の来たるぞ。怖るる心有るべからず。汝、此の瀧に打たれむと云ふ願を発したるが、其の願を果たさずして命終はるを、明王御歎きあつて、『此の瀧けがすな。あの法師よりて助けよ』と仰せられつる間、我等が来たるなり」とて帰り給へば、文学、「不思議の事ごさむなれ。さるにても、いかなる人ぞ世の末の物語にもせむ」と思ひて、立ち還りて見ければ、十四五計りなる、赤頭なる童子二人、雲をわけて上り給ひにけり。
文学思ひけるは、「是れ程に明王の守り給はんには、此の次に今三七日打たれむ」と云ふ願を発して、即ち又打たれけり。其の後、文学が身には水一つもあたらず。まれにもれて当たる水は、温の如し。かかりければ、いくか幾月うたるとも、いたみと思ふべきにあらずとて、思ひの如く三七▼P2076(三六オ)日打たれにけり。遂に宿願を遂げたりし文学なれば、さも有りけむとぞ、聞く人皆怖れあひける。
〔七〕 かくて伊豆国に下り着きて歳月を経けるほどに、北条蛭が嶋の傍に那古耶が崎と云ふ処に那古耶寺とて観音の霊地御します。文学彼の所へ行きて、諸人を勧めて草堂を一宇造りて、毘沙門の像を安置して平家を呪詛しけり。「我ゆるされを蒙らざらむかぎりは、白地にも里へ出でじ」と誓ひて、行ひすましてぞ侍りける。行法薫修の功つもり、大悲誓願の望深し。昼は終日に千手経をよみ、夜は通夜三時の行法おこたらず。人此れを哀みて、折々衣装なんどを送れ▼P2074(三六ウ)ども、請け取る事はまれなり。なにとして時の料なんどもあるべしとは覚へねども、同宿などもあまたあり。
所以に、をちこち人の旅人は炉壇の煙に心をすまし、礒部の海人の梶枕、燈炉の光に夢もむすばず。千鳥・白鴎・喚子鳥、懺法の声に伴ひて、仏法僧ともなりぬべし。海人漁翁のすなどりも随喜の袂に露をそそぎ、東岸西岸の鱗は振鈴の音にうかみぬべし。霊山浄土の聖衆も常には此に影現し、鷲峯鶏足の洞の内も思ひやられて哀れ也。
かかりければ、伊豆国の目代をはじめ国中の上下諸人悉く、信仰の頭を傾けて随喜の趺を運び、帰依の思ひをなして財施の蓄を送る。然りと雖も、文学全く世間を訣ひ憂き▼P2075(三七オ)身を渡らむとする事なかりければ、僅に身命をつぎて飢ゑを除く計りの外は、留めずして返しけり。誠に夫文学が行法の功力に、報恩謝徳の為ならば、悪業煩悩もきえはてて、無始の罪障絶えぬべく、現世安穏の祈りならば、三災七難を遠く退けて、寿福を久しく心に任せつべし。祈精も仏意に相応し、所願も我身に成就すらむと、貴かりける形儀也。
此くのごとく行ひすまして有りければ、彼の御堂に目代等が沙汰として、三十余町の免田を寄せたりけるが、今に有るこそいみじけれ。
此の堂のそばに又温屋を立てて、一万人に浴す。或る時、折烏帽子に紺の小袖二つきて、白き小袴に足駄はきて、黒漆の野太刀脇にかいはさみて杖突きたる男一人来たりて、湯屋の左右を見▼P2076(三七ウ)廻す。文学は目も持てあげず、釜の火たきて居たり。又竹矢籠(たかしこ)かい付けて黒ぬりの弓持ちたる冠者一人来たる。先にきたりつる人の下人とおぼしくて、共にあり。小童部共、「兵衛佐殿こそおはしたれ」と云ひてささやくめり。其の時、「さては聞こゆる人にこそ」と思ひて、やはら顔をもて上げてみければ、彼の人湯にをりぬ。共にある男来たりて、「や、御房、湯の呪願とかやして、人にあむせまゐらせよ」といへば、「かやうの乞食法師、近く参らむも恐れあり。かひげに湯をくみてたべ。ここにて、ともかくも呪願のまねかたせむ」と云ひければ、云ふが如くにして湯を浴びらる。未だ余人はよらず。共の男は、文学がそばに居て火にあたる。
文学忍びやかに、「是は流されておはしますなる兵衛佐殿か」と問ひければ、男にが咲ひて物▼P2077(三八オ)もいはず。文学、「これぞ、此の入道が相伝の主よ」と云ひける時、男申しけるは、「主ならば見知り奉り給ひたるらむに、事あたらしく問ひ給ふ物哉」と云ひければ、文学申しけるは、「そよ、此の殿少くおはしまししほどは宮仕へき。かやうに乞食法師になりて後は、国々迷ひありくほどに、参りよる事もなし。よにおとなしくなられたり。人は名乗りのよかるべきぞ。頼朝と云ふ名の吉きぞ。大将軍の相もおはすめり。君に申して、貴賎上下集る温屋なんどへは出で給ふらめ。人は憶持あるこそよけれ。法師とても、敵にてあらむは難かるべきか。人に頸ばし切られうとて、不覚の人哉」と云ひければ、此の男、「不思議の聖のひた心哉」と思へども、とかく云ふにも及ばずして、「あまり雑人多く候ふに、はや上らせ給へ」と、主を勧めて立つ所に、此の由を主に▼P2078(三八ウ)ささやきたりけるにや、此の男立ち返りて、「里に出でたらむ時には、必ず尋ねておはせよ」と、文学が耳にささやきければ、「そよや殿、下りはてば見参に入らばやと思ひしかども、さすが事しげく推参せむも骨無くて罷り過ぎつるに、今日の便宜に御目にかかりぬる事こそうれしけれ。隙には必ず参るべし。先に申しつるそぞろ事、口より外へもらし給ふな」とぞ云ひける。
其の後兵衛佐ははづかしく覚しければ、彼の温へはおはせず。卅日計り過ぎて、文学里に出でたりつる次に、さらぬ様にて兵衛佐の許へ尋ね来たりて、佐法花経読みて居られたる所へ入れられたりければ、文学手をすりて 「尤も本意に候ふ。貴く候ふ」とて、さめざめと泣く。酒菓子体の物取り出だして勧められて後、「さて御房、今日は閑かに居て、世間の物語▼P2079(三九オ)して遊び給へ。つれづれなるに」と宣ひければ、文学兵衛佐の膝近く居よつて申しけるは、「花は一時、人は一時と申す譬へあり。平家は世の末になりたりとみゆ。大政入道の嫡子小松内大臣こそ、謀も賢く心も強にて、父の跡をも継ぐべき人にておはせしか。小国に相応せぬ人にて、父に先立ちて失せられぬ。其の弟共あまたあれども、右大将宗盛を始めとして有若亡の人共にて、一人として日本国の大将軍に成りぬべき人のみえぬぞや。殿はさすが末たのもしき人にておはする上、高運の相もおはす。大将に成り給ふべき相もあり。されば小松殿に次ぎて、わ殿ぞ、日本国の主と成り給ふべき人にておはしける。今は何事かは有るべきぞや。謀叛発して、日本国の大将軍に成り給へ。父祖の恥をも雪め、君の御鬱をも休▼P2080(三九ウ)め奉り給へ。且は『天の与へを取らざれば、還りて其の咎を受く。事至りて行はざれば、還りて其の殃を受く』と云ふ本文あり。文学はかく賎しげなれども、究竟の相人にて、左の眼は大聖不動明王の御眼也。右の眼は孔雀明王の御目也。人の果報しりて日本国を見通す事は、掌を指すが如し。今も末も少しも違はず。いかさまにも殿をば大果報の人と見申すぞ。とくとく思ひ立ち給へ。いつを期し給ふべきぞ」と、はばかる所もなく、細々と申しければ、佐思はれけるは、「此の聖は心深く怖しき者にて流さるる程の者なれば、かく語らひよりて、もろく相従はば、頼朝が頸を取りて平家に献りて己が罪を遁れむとてはかるやらむ」と思はれければ、佐宣ひけるは、「去る永暦元年の春の比より、池殿の尼御前▼P2081(四〇オ)に命を生けられ奉りて、当国に住して既に廿余年を送りぬ。池殿仰せらるる旨ありしかば、毎日法花経を二部読み奉りて、一部をば池尼御前の御菩提に廻向し奉り、一部をば父母の孝養に廻向する外は、又二つ営む事なし。勅勘の者は日月の光にだにもあたらずとこそ申し伝へたれ。争か此の身にてさ様の事をば思ひ立つべき」と、詞には宣ひけれども、心中には、「南無八幡大菩薩、伊豆筥根両所権現、願はくは神力を与へ給へ。多年の宿望を遂げて且は君臣の御鬱を休め奉り、且は亡夫が素懐を遂げむ」と志深ければ、「弘経・義明已下の兵に契りて隙を伺ふものを」と思はれけれども、文学には打ち解けざりけり。良久しく物語して、文学帰りぬ。
又四五日ありて文学来たりければ、佐出で逢はれたり。「いかに」と宣へば、▼P2082(四〇ウ)文学、懐より、白き布袋の持ちならしたるが、中に物入れたるを取り出だしたりければ、佐「なにやらむ」と怪しく思はれけるに、文学申しけるは、「是こそは殿の父の故下野殿の頭よ。去んじ平治の乱の時、左の獄門のあふちの木にかけられたりしが、程経て後には目も見かけず、木の下に落ちて有りしを、是へ流さるべしと兼ねて聞きたりし時に、年来見奉りたりし本意もあり、又世はやうある物なれば、『自ら殿に参り合ふ事あらば献らむ』とて、獄預りの下部をすかして乞ひ取りて、持経と共に頸に懸けて、人目には吾が親の首を貯へたる様にて、京を流されて出でし時、何にもして世を取らむ人を旦越にして本意を遂げむと思ひし志の深さを、三宝に祈りて声を上ぐ。『我が願成就せよ』と、をめき叫びて物もくは▼P2083(四一オ)で有りしかば、見聞く人は皆、『文学には天狗の付きて物に狂ふか』など申しあひたりき。今は其の願満ちぬ。さればにや、殿世におはして、此の法師をもかへりみ給へ。此の料にこそ、年来貯へ持ちて侍りしか。念仏読経の声は魂魄に聞こえて、滅罪の道となられぬらむ」とて、さめざめと泣きければ、「人の心を引き見む料に何となく云ふかと思ひたれば、まめやかに志の有りける事の哀れさよ。定めて此の世一つの事にてはあらじ」と思はれければ、一定はしらねども、父の頭と聞くよりなつかしく覚えて、直垂の袖をひろげて泣く泣く請ひ取りて、経机の上に並べて、吾が身を打ち覆ひて、「哀れなりける契り哉」とて、涙をぞ浮かべられける。後にこそ謀とも知らせけれ、其の時は実と思はれければ、自ら其の後は打ち解けられにけり。「又」と契りて文学帰りぬ。さて、▼P2084(四一ウ)彼の首を箱に入れて仏前におきて、兵衛佐誓はれけるは、「誠に我が父の首にておはしまさば、頼朝に冥加を授け給へ。頼朝世にあらば、過ぎにし御恥をも雪め奉り、後生をも助け奉らむ」とて、仏経に次ぎては花を供し、香を焼きて供養ぜらる。
其の後、文学又来たりければ、佐対面して、「さてもいかがして勅勘をゆり候ふべき。さなくは何事も思ひ立つべくもなし。いかさまにも道ある事こそ始終もよかるべけれ。さても藤九郎盛長を共にて、三嶋の社へ夜々一千日の日詣をせしに、一千日に満ぜし夜、通夜したりし夜の夢に、三嶋の東の社より猶東へ一町計りへだてて、第三の前に大きなる机木あり。其の王子の所を猶東へ一町計り行きて、又大きなる柞木あり。此の木二本が間▼P2085(四二オ)に鉄の縄を張りて、緋の糸をすがりにして、平家の人々の首をかけ並べたりしとみたれば、何なるべき事やらむ」なんど、まめやかに宣ひければ、「其の事安じたべ。京へ上りて院宣申して献らむ」。「其の身にて、やはか叶ふべき」。文学申しけるは、「院の近習者に前の右衛門督光能卿と云ふ人あり。彼の仁に内々ゆかりありて、年来申し承る事あり。彼の仁の許へ蜜かにまかりて、此の由を申すべし。『物狂はしく、いづちともなく失せたる物哉』とおぼすな。かやうの入道法師は振る舞ひ安き上、『三七日の定に入る事あり。其の間は人にも対面もすまじき由を披露せよ』とて、弟子に申し置きて怱ぎ上るべし」なんど、さまざまに契りて出でぬ。やがて京へ上る。
八〔文学京上シテ院宣申し賜る事〕 其の時院は福原の楼の御所に渡らせ給ひけるに、夜にまぎれて光能卿▼P2086(四二ウ)の許へ行きて、人にも知られず、ある女を以て蜜かに文を遣はしたりければ、光能卿見参し給ひて、「さてもさても夢の様にこそ覚ゆれ。いかにいかに」と問はれければ、文学近く差し寄りて、「薮に目、壁に耳ありと云ふ事、いと忍びて申し合はすべき事ありて、態と人にもしられず、夜にまぎれて参りて候ふ也」と云ひ、ささやきけるは、「伊豆国に候ふ兵衛佐頼朝こそ、院のかくて渡らせ給ふ事をば承り歎きて、『院宣だにも給はりたらば、東八ヶ国の家人相催して京へ打ち上りて、君の御敵平家をばやすく滅して逆鱗をも休め奉り、人々の歎きをもしづめてむ物を』と申し候へば、大名小名一人も随はぬ者なし。此の様を密かに法皇に申させ給へ」と云ひければ、光能卿、「誠に君もかく打ち龍められさせ給ひて、世の務をもしろし▼P2087(四三オ)めさず。我も参議・右兵衛督・皇大后宮の権大夫、三官をみなながら平家に止められて、心うしと思ひ歎き居たり」と思はれければ、「いかさまにも隙を伺ひて御気色を取るべし。かく宣ふも然るべき事にてこそ有らめ。今二三日のほどは是におはせよ」とて、其の夜もあけぬ。次の朝、光能卿院参せらる。夕べに帰りて 「彼の事、然るべき隙なくて、未だ奏せず也」とありけれども、文学猶かたすみにかがまり居たり。次の日参り給ひて、夜深けて出でられたり。御ゆるされや有りけむ、院宣を書きて賜はりたりけるを、文学賜はりて頸に懸けて、夜昼五ヶ日伊豆国へ走り下りて、兵衛佐に献りたりければ、手洗ひ口〓[口+頼](そそ)いで、紐さして院宣を見給ふに、其の状に云はく、
▼P2088(四三ウ)早く清盛入道并びに一類を追討すべき事
右、彼の一類は朝家を忽緒にするのみに非ず、神威を失ひ仏法を亡ぼし、既に仏神の怨敵たり。且つは王法の朝敵たり。仍つて前の右兵衛佐源の頼朝に仰せて、宜しく彼の輩を追討して、早く逆鱗を息め奉るべき状、院宣に依つて執奉件の如し。
治承四年七月六日 前の右兵衛督藤原光能が奉り
前の右兵衛佐殿へ
とぞ書かれたりける。兵衛佐、此の院宣を見給ひて、泣く泣く都の方へ向かひて八幡大菩薩を拝み奉り、当国には伊豆、箱根二所に願を立てて、先づ北条四郎に宣ひ合はせて思ひ立ち給へり。石橋の合戦の時も、白旗の上に此の院宣を横さまに結び付けられたりけるとぞ聞こえし。▼P2089(四四オ)
同じく院宣の異本に云はく、
頃年より以来、平氏皇化を蔑如にして、政道に憚ること無く、仏法を破滅し、朝威を傾けむと欲す。夫吾が朝は神国也。宗廟相並びて、神徳是新た也。故に朝庭開基の後、数千余載の間、帝猷を傾け国家を危むる者、皆以て敗北せずと云ふこと莫し。然れば則ち、且つは神道の冥助に任せ、且つは勅宣の旨趣を守りて、平氏の一類を誅し、朝家の怨敵を退けて、普代弓箭の兵略を継ぎ、累祖奉公の忠勤を抽きんでて、身を立て家を興すべし者(てへ)れば、
院宣此くのごとし。仍つて執達件の如し。
治承四年七月 日 前の右兵衛督 奉判
前の兵衛佐殿云々▼P2090(四四ウ)
九 〔佐々木の者共佐殿の許へ参る事〕 兵衛佐流され給ひて後、二十一年と申すに、此の院宣を給はりて、北条四郎時政を招き寄せて、「平家を追討すべき由の院宣を給はりたるが、当時勢のなきをばいかがはすべき」と宣へば、時政申しけるは、「東八ヶ国の内に、誰か君の御家人ならぬ者は候ふ。上総介八郎広経、平家の御勘当にて、其の子息山城権守能経、京に召し籠められ候ひつるが、此の程逃げ下りて用心して候ふと承る。上総介八郎広経、千葉助経胤、三浦介義明、此の三人を語らはせ給へ。此の三人だにも随ひ付きまゐらせ候ひなば、土肥、岡崎、懐嶋は、本より志思ひ奉る者共で候へば、参り候はんずらむ。若し君をつよく射まゐらせ候はむずるは、畠山庄司次郎重忠、同じく従父兄弟稲毛三郎重成、是等▼P2091(四五オ)が父畠山庄司重能、同じく舎弟小山田別当有重兄弟二人、平家に仕へて京に候へば、つよき敵にて候ふべし。相模国には鎌倉党大庭三郎景親、三代相伝の御家人にて候へども、当時平家の大御恩の者にて候ふ間、君を背き奉るべき者にて候ふ。広経、経胤、義明、是等三人だにも参り候ひなば、日本国は御手の下に思し召すべし。」と申しければ、其の言葉実あつて、其の弁舌有りければ、頼朝深く信じてけり。時政若し天を知る時か、将又兵を得る法か。其の詞、一事として違ふ事なかりけり。昔、晋の文、勃〓[革+是](ほくてい)の言を信じて、以て威を奮つて愕かし、斉の桓、管仲の計を用(もち)ゐて、以て天下を匡しうせりき。今頼朝、時政と合体を同心して、籌を氈帳の中に運らさば、烏合群謀の賊、手を軍門に束ね、勝つことを▼P2092(四五ウ)鳥(辺歟)塞の外に決し、狼戻反逆の徒、首を京都に伝へ、天下平定を遂げて、海内永く一統せり。誠なる哉、「其の人を得て則ち其の国以て興り、其の人を失ひて則ち其の国以て亡ぶ」と言へることは。
兵衛佐宣ひけるは、「院宣を賜りぬる上は、日月を送るに及ばず。やがて今日明日にもといそぎたくは存ずれども、来たる八月十五日以前には、いかにも思ひ立たじと思ふなり。其はいかにといふに、今明謀叛を発して合戦をするならば、諸国に祝はれまします八幡大菩薩の御放生会の為に、定めて違乱となりなむず。然れば彼の放生会以後、しづかに思ひ立つべし」と宣ひければ、時政「尤も然るべし」とて、月日の過ぎ行くを待ち給ひけるほどに、
八月九日、大庭三郎京より下りたりけるが、佐々木の三郎秀▼P2093(四六オ)義をよびて申しけるは、「長田入道、上総守が許へ、『伊豆の兵衛佐殿を、北条四郎・掃部丞引き立て奉りて、謀叛を発さんと支度仕るよし承る。急ぎ召し上げて、隠岐国へ流され候ふべし』と云ふ文を遣したりけるを、上総守取り出だして景親にみせ候ひしかば、『掃部丞はや死に候ひにき。北条四郎はさも候ふらむ』と申したりしかば、『いかさまにも、太政入道殿の福原より上らせ給ひたらむに、見せまゐらせむとて、銘書きて置き候ひき。此の度高倉宮の三井寺に引き龍もらせ給ひて後は、国々の源氏一人もあらすまじ』と候ひしかば、よもただには候はじ」とぞ語りける。秀義あさましと思ひて、急ぎ宿所に帰りて、「景親かかる事をこそ語り申しつれ」と、伊豆へ告げ申さむとしけるに、「三郎は勘当の者也。二郎は▼P2094(四六ウ)いまだ佐殿の見知り給はず。太郎行け」とて、下野の宇都宮に有りける太郎定綱を呼びて、「北条に参りて申すべき様は、『御文は落ち散る事もぞ候ふとて、態と定綱を参らせ候ふ。日ごろ内々御談義候ひし事を、景親もれ聞きたりげに候ふぞ。思し食したたばいそがるべし。さなくはとくして奥州へ越えさせ給へ。是までは藤九郎計りを具して渡らせ給へ。子共を付けて送り申すべし』」とて、遣しけり。
十二日、定綱帰り来たりて、「此の事委しく申して候ひしかば、『頼朝も先立ちて聞きたるなり。召しに遣はさむと思ひつるに、誰して云ふベきとも思ひ煩ひて有りつるに、神妙に来たり。さらばやがて是に居るべし』と、留め給ひつれども、『急ぎ罷り帰りて、弟共をも具し、物具をも取りて参り候はむ』と申ししかば、『さらばよしきたらむ。人にもきかれなむず』と宣ひければ、さまざまの誓言▼P2095(四七オ)を立て候ひしかば、『さらばとく帰りて、十六日には必ず来たれ。汝等を待ち付けて、伊豆の物共を具して兼隆をば討たむずるなり。但し二郎は渋屋庄司が聟にて、子にも劣らず思ひたむなれば、よも与せじ。三郎計りを具せよ』と候ひし」と申しければ、二郎経高是を聞きて申しけるは、「三郎にも四郎にもな告げ給ひそ。それらはいかにも思ひきるまじき者也。兵衛佐殿、さ程の大事を思ひ立ち給ふに、人をば知るべからず、経高におきては善悪参るべし」と申しければ、「さらば」とて、やがて、相模の波多野に有りける三郎盛綱が許へ、使者を走らかす。四郎高綱は近年平家に奉公して有りけるが、兵衛佐謀叛の企て有るよし聞こえければ、浮雲に鞭をあげて東国へ馳せ下りて、太郎が許に隠れ居たりけるが許へも、同じく使▼P2096(四七ウ)者をぞ遣しける。つつむとすれども、景親是を伝へ聞きて、「いかがすべき」と、国中の人々に云ひ合はするよし聞こえけり。
さる程に佐々木の者共兄弟四人馳せ集まりて、夜中に北条へ行きけるに、二郎経高が舅渋屋庄司、人を走らかして経高に申しけるは、「何に人を迷はさむとはするぞ。こと人共は行けども、経高一人は留まるべし」と云ひ遣したりければ、経高申しけるは、「殊人々こそ恩をも得たれば、大事とも思ふらめ。経高はさせる見えたる恩もなければ、更に大事とも思はず。かく云ふに留らずは、妻子をとつていかにもこそはなさむずらめ。思ひ切りて出づる事なれば、全く妻子の事心にかからず。さりとも佐殿世を執り給はば、経高が妻子をば誰かは取りはつべき」と、散々に返答して打ち通りぬ。
▼P2097(四八オ)十 〔屋牧判官兼隆を夜討にする事〕 さる程に十六日にもなりにけり。兵衛佐、北条四郎を召して宣ひけるは、「日来月日の立つをこそ待ちつれば、今夜、平家の家人当国の目代和泉判官兼隆が屋牧の館にあむなるを、よせて夜討ちにせむと思ふなり。もし打ち損じたらば、自害をすべし。討ちおほせたらば、やがて合戦を思ひ立つべし。是を以て頼朝が冥加の有無は、わ人共が運不運をば知るべし。但し、佐々木の者共がさしも約束したりしが、いまだ見えぬこそ本意なけれ」と宣ふ。時政申しけるは、「今夜は当国の鎮守三嶋の大明神の神事にて、当国の中に弓矢を取る事候はず。且は佐々木の者共をも待たせ給へ。吉日にても候ふ、明日にて候ふべし」とて出でにけり。
さる程に、佐々木の兄弟十七日未の時計り、北条へ馳せ付きたりければ、兵衛佐殿は、▼P2098(四八ウ)合はせの小袖に藍摺の小袴き給ひて、烏帽子をして、姫君の二つ計りにやおはしけむ、そばにおきておはしけり。是等が来たる事見給ひて、よにうれしげに思して、「いかに経高は、渋屋が浅からず思ひたむなれば、よも参らじと思ひつるに、いかにして来たるぞ」と宣ひければ、「千人の庄司を、君一人に思ひ替へ参らせ候ふべきに候はず」と申しければ、「さほどに思はむ事は、とかく云ふに及ばず。頼朝が此の事を思ひ立たば、わ人共が世とはしらぬか」と宣ひければ、「只今世を世ならぬ事までは思ひ候はず。ただかほどの大事を思し食し立たむに、今日参り候はでは、いつを期し候ふべきと存ずる計りに候ふ」と申しければ、「頼朝は本は肥えたりしが、此の百余日計り、夜昼此の事を案ずるほどに、やせたるぞ。抑も今日十七日丁酉を吉日に取りて、此の暁、当国の目代▼P2099(四九オ)和泉判官平兼隆を誅せむと思ひつるに、口惜しくも各昨日みえぬによりて、今日はさてやみぬ。明日は精進の日也。十九日は日次あし。廿日まで延びば、還りて景親に襲はれぬと覚ゆるなり」と宣ひければ、定綱申しけるは、「十五日に参るべきにて候ひしほどに、三郎四郎をも待ち候ひし上、折節此のほどの大雨大水に、思はざるほかに一日逗留して候ふ」と申しければ、「あはれ遺恨の事かな。さらば各やすみ給へ」と宣ひければ、侍に出でてやすみけるほどに、日既に入りてくらくなりぬ。しばらくありて、「各物具してこれへ」と有りければ、やがて物具取り付けて参りたりければ、佐宣ひけるは、「是に有りける女を、兼隆が雑色男が妻にして有りけるが、只今是に来たるなり。此の気色をみて、主に語りなば、一定襲はれぬべければ、▼P2100(四九ウ)彼の男をば捕へて置きたるぞ。此の上はただとく今夜よりて打つべし」と宣ひければ、十七日の子の剋計り、北条四郎時政、子息三郎宗時、同じく小四郎義時、佐々木太郎定綱、同じく二郎経高、三郎盛綱、同じく四郎高綱已下、彼是馬の上歩人ともなく、三十余人、四十人計もや有りけむ、屋牧の館へぞ押し寄せける。
門を打ち出でければ、当国の住人加藤次景簾は、下人に太刀計り持たせて、只一騎、御宿直にとて打ち通りけるが、是等が打ち出づるをみて、「いかに何事のあるぞ」とて、やがて打ち通りて内へ入りにけり。此の景廉は、元は伊勢国の住人加藤五景員が二男、加藤太元員が舎弟也。父景員敵に怖れて、伊勢国を逃げ出でて伊豆国に下りて、公藤介茂光が聟に成りて居たり▼P2101(五〇オ)けり。弓矢の道、兄弟いづれも劣らざりけれども、殊に景廉は、くらきりなき甲の者、そばひらみずの猪武者にて有りけるが、いかが思ひけむ、時々兵衛佐に奉公しけるが、其の夜、兵衛佐の許にひそめく事有りと聞きて、何事やらむとて行きたりけるなり。
さて、北条・佐々木の者共は、ひた川原と云ふ所に打ち出でて、北条四郎申しけるは、「屋牧〔へ〕渡る堤の鼻に、和泉判官が一の郎等権守兼行と云ふ者あり。殿原は先づそれをよりて打ち給へ。時政は打ち通りて、奥の判官を攻むべし」とて、案内者を付く。定綱は彼の案内者を先として、後ろへ搦め手に廻る。経高ぞ前より打ち入るる。いまだ搦め手の廻らぬ先に打ち入りて見ければ、元より古兵にて待ちや受けたりけむ、さ知りたりとて散々に▼P2102(五〇ウ)射る。敵は未申に向かひ、経高は丑寅に向ふ。月もあかかりければ、互ひのしわざ隠るる事なし。寄せ合はせて戦ふほどに、経高薄手負ひぬ。さるほどに、高綱後ろより来加はりたりけるに、矢をばぬかせてけり。さて、兼行をば、定綱盛綱押し合はせて打ちおほせつ。判官が館と兼行が家と、間五町計り也。敵打ちおほせて後、やがて奥の屋牧の館へぞ馳せ通りける。兵衛佐は縁に立たれたりけるが、景廉が来たるを見給ひて、「折節神妙なり。景廉は頼朝がとぎに候ふべし」と置かれたり。遥かに夜深けて後、「今夜時政を以て、兼隆を誅ちに遣しつるが、『誅ちおほせたらば、館に火を懸けよ』と云ひつるが、遥かになれども火の見えぬは、誅ち損じたるやらむ」と、独言に宣ひければ、景廉聞きあへず、「さては日本第一の御大事を思し食し立ちける▼P2103(五一オ)に、今まで景廉にしらせさせ給はざりける事の心うさよ」と云ふままに、やがて甲の緒をしめて、つと出でけるを、兵衛佐景廉を召し返して、銀のひるまきしたる小長大刀を手づから取り出だし給ひて、「是にて兼隆が首を貫きて参れ」とて、景廉にたぶ。景廉是を給はりて、走せ向かふ。歩人一人具したりける。 兵衛佐より雑色一人付けられたりけるに、長大刀をば持たせて、判官が館近く走せて見れば、北条は家子郎等多く手負ひ、馬共射させて白みて立ちたる所に、景廉来加はりければ、北条云ひけるは、「敵手ごはくて、已に五六度まで引き退きたるぞ。佐々木の者共は兼行をば打ちて、此の館の後ろへ搦め手に向かひたるなり」と云へば、したたかならむ者に楯突かせて賜べ。一宛てあてて見む」と申しければ、北条が雑色男源藤▼P2104(五一ウ)次と云ひける者に楯つかせて、馬より下りて、弓矢は元より持たざりければ、一人の弓張の矢三筋かなぐり取りて、楯の影より進み出でて、矢面に立ちたる敵三人、三つの矢にて射殺しつ。さて弓をば抛てて、長大刀を茎短かに取り成して、甲の錣を傾けて、打ち払ひて内へつと入り、侍を見れば、高燈台に火白くかきたてたり。其の前に浄衣着たる男の、大長大刀の鞘はづして立ち向かひけるを、加藤次走り違ひて、小長大刀にて弓手の脇をさして、投げ臥せたり。やがて内へ責め入りてみれば、額突の前に火をおこしたり。又火白くかき立てたり。栩唐紙の障子立てたりけるを細目にあけて、大刀の帯取、五六寸計り引き残して、敵是に入りたりと思ひて見出だしたり。加藤次、二つの長大刀を以て障子を差し▼P2105(五二オ)開けてみれば、和泉判官をば住所に付きて八牧判官とぞ申しける、判官、片膝を立てて、太刀を額にあてて、「入らば切らむ」と思ひたりげにて待ち懸けたり。加藤次しころを傾けて入らむとする様にすれば、判官敵を入れじとむずときる所に、上の鴨居に切り付けて、太刀を抜かむとしけるを、貫かせもはてさせずして、しや頸を差し貫きて、投げ伏せて頸をかくを見て、判官が後見の法師、元は山法師に注記と云ふ者にて有りけるが、つとよる所を、二の刀に頸を打ち落としつ。さて主従二人が首を取りて、障子に火吹き付けて、心のすむとしはなけれども、
法花経を一字もよまぬ加藤次が八巻のはてを今みつるかな K105
と打ち詠めてつと出でて、「兼隆をば景廉が討ちたるぞや」と罵りけり。▼P2106(五二ウ)判官が宿所の焼けけるを兵衛佐見給ひて、「兼隆をば一定景廉が討ちつると覚ゆるぞ。門出吉し」と悦び給ひけるほどに、北条使者を立てて、「兼隆を景廉が討ちて候ふなり」と申したりければ、兵衛佐「さればこそ」とぞ宣ひける。景廉は戦功を当時に挙ぐるのみにあらず、専ら名望を後世に残せり。
十一 〔兵衛佐に勢の付く事〕
是を始めとして、伊豆国より兵衛佐に相従ふ輩は、北条四郎時政、子息三郎宗時、同じく小四郎義時、公藤介茂光、子息狩野五郎親光、宇佐美平太、同じく平次、同じく三郎資茂、加藤太光員、同じく舎弟加藤次景廉、藤九郎盛長、天野藤内遠景、同じく六郎、新田四郎忠経、義勝房成尋、掘ノ藤二親家、佐々木太郎定綱、▼P2107(五三オ)同じく二郎経高、同じく三郎盛綱、同じく四郎高綱、七郎武者宣親、中四郎惟重、中八惟平、橘次頼村、鮫嶋四郎宗房、近藤七国平、大見平次宗秀、新藤次俊長、小中太光家、城平太、沢六郎宗家、懐嶋平権守景能、同じく舎弟豊田次郎景俊、筑井次郎義行、同じく八郎義康、土肥次郎実平、同じく子息弥太郎遠平、新開荒次郎実重、土屋三郎宗遠、同じく小次郎義清、孫弥二郎忠光、岡崎四郎義実、佐奈多余一義忠、中村太郎、同じく次郎、飯田五郎、平左右太郎為重、▼P2108(五三ウ)大沼四郎、畠三郎義国、丸五郎信俊、安西三郎明益等を相具して、八月廿日、相摸国土肥へ越えて、時政、宗遠、実平、如きのおとな共を召して、「さて此の上はいかが有るべき」と評定あり。
十二 〔兵衛佐、国々へ廻文を遺はさるる事〕
実平、「先づ国々の御家人の許へ、廻文の候ふべきなり」と申しければ、「尤もさるべし」とて、藤九郎盛長を使にて廻文を遣はさる。先づ相模国の住人、波多野馬允康景を召しけれども、参ぜず。上総介八郎広経、千葉介経胤が許へ、院宣の趣を仰せ遣はしたりければ、「生きて此の事を承る、身の幸にあらずや。忠をあらはし、名を止めむこと、此の時にあり」。昔、魯連、弁言して以て燕を退け、包胥、単辞して以て▼P2109(五四オ)楚を存せりき。盛長已に使節を戦術に全くして、三寸の舌を動かして、、深く二人の心を蕩れければ、経胤等、威勢を興衆に振るひて、八国の兵を屈して、遂に四夷の乱を治めけり。夫れ、「弁士は国の良薬なり。智者は朝の明鏡なり」といへり。此の事、誠なるかなや。しかのみならず、昔の晏嬰、勇を崔抒に発おこし、程嬰、義を趙武に顕せりき。今の経胤等、頼朝の為に忽ちに旧恩を報ふ。遂に新功を立て、誉れを四方に彰し、名を百代に奮へり。かやうに喜び存じければ、左右無く領状申したりければ、各怱ぎ馳せ向はむとしけれども、渡り余た有つて、船筏に煩ひ多かりければ、八月下旬の此ほひまで、力及ばず遅参す。
山内首藤刑部丞俊通が孫、首藤瀧口俊綱が子共、瀧口三郎、同じく四郎を▼P2110(五四ウ)召されければ、良久しく返事もせず。盛長を内へだにも入るる事なくして、はるかに程をへだてて後に盛長に出で合ひて、御使の返事をばせずして、散々の悪口をぞしける。利宗、逆順の分を知らず、利害の用を弁へず、只強大の敵を恐れ、忽ちに真旧の主を背く。口に亡言を吐き、心に誠信なし。頗る勇士の法に非ず。偏へに狂人の体に似たり。四郎申しけるは、「我等が父、保元の乱に六条判官殿の御共を致して合戦し、次に平治の軍に身命をすてて防き戦ひしかば、親子二人終に敵の為に誅たる。而る上は、今、兵衛佐殿の御共して、命を失ふべくや侍るらむ」。三郎是を聞きて、盛長が聞きをも憚らず、舎弟の四郎に申しけるは、「和殿は物に狂ふな。人▼P2111(五五オ)は至りてわびしく成りぬれば、すまじき事をもし、思ひよるまじき事をも思ひよるとは、是体の事を云ふ也。其の故は、兵衛佐殿の当時の寸法にて、平家にたてあひ奉らむとて此の如くの事を引き出だし給ふ事よ。如法富士の山と長くらべ、ねこの額に付きたる物をねずみのねらふに似たり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と高声に申して御返事に及ばず。
さて、三浦介義明が許へ御文持ち向かひたりければ、折節、風気にて臥したりけるが、兵衛佐殿の使ありと聞きて、急ぎおき上がりて、烏帽子おし入れて直垂打ちかけて、盛長に出で向かひて、廻文披見して申しけるは、「故左馬頭殿の御末は皆断えはて給ひぬるかと思ひつるに、義明が世に、其の御末出で来給はむ事、只一身の悦びなり。子孫皆参るべし」とて、召し集めけり。嫡子▼P2112(五五ウ)椙本太郎義宗は、長寛元年の秋の軍に、安房国長狭城を責むとて、大事の手負ひて、三浦に帰りて百日に満たざるに、卅九にて死にけり。二男三浦別当義澄、大多和三郎義尚、佐原十郎義連、孫共には、輪田小太郎義盛、同じく二郎義茂、同じく三郎宗実、多々良三郎、同じく四郎、佐野平太、郎等には、橘五、野藤太、三浦藤平、是等を前に呼びて申しけるは、「昔は卅三年を以て一昔としけり。今は廿一年を以て一昔とす。廿一年過ぎぬれば、淵は瀬となり、瀬は淵になる。平家既に廿余年の間、天下を治む。今は世の末に成りて、悪行日を経て倍増す。滅亡の期、来たるかと見えたり。其の後は、又源氏の繁昌疑ひなし。各早く一味同心にて佐殿の御許に参ずべし。若し、冥▼P2113(五六オ)加おはせずして打死をもし給はば、各又頭を一所に並ぶべし。山賊、海賊をもしたらばこそ瑕瑾ならめ。佐殿、若し果報おはして、世を執り〔給〕はば、己等が中に一人も生き残りたらむ者、世に逢ひて繁昌すべし」と申しければ、各皆「左右に及ばず」とぞ申しける。
十三 〔石橋山合戦の事〕 さる程に、北条・佐々木が一類を初めとして、伊豆・相模、両国の住人同意与力する輩、三百余騎には過ぎざりけり。八月廿三日の夕べに土肥の郷を出でて、早川尻と云ふ所に陣を取る。早川党が申しけるは、「是は戦場には悪しく候ふべし。湯本の方より敵山を超えて後ろを打ち囲み、中に取り籠められ候ひなば、一人も遁るべからず」と申しければ、土肥の方へ引き退きて、こめかみ石橋と云ふ所に陣を取りて、上の山の腰にはかい楯をかき、下の大道をば切り塞ぎて、立て▼P2114(五六ウ)龍もる。
平家の方人、当国の住人大庭三郎景親、武蔵・相模、両国の勢を招きて、同じき廿三日の寅卯の時に襲ひ来たりて、相ひ従ふ輩には、大庭三郎景親・舎弟俣野五郎景尚・長尾新五・新六・八木下ノ五郎・香川五郎以下の鎌倉党、一人も漏れざりけり。此の外、海老名源八権守秀貞・子息荻野五郎・同じく彦太郎・海老名小太郎・川村三郎・原惣四郎・曽我太郎祐信・渋谷庄司重国・山内瀧口三郎・同じく四郎・稲毛三郎重成・久下権守直光・子息熊谷二郎直実・阿佐摩二郎・広瀬太郎・岡部六野太忠澄等を始めとして、棟との者三百余騎、家子郎等惣じて三千余騎にて、石橋城へ押し寄す。▼P2115(五七オ)道々、兵衛佐の方人の家々、一々に焼き払ひて、谷を一つ隔て、海を後ろにあてて陣を取る。
さる程に酉の剋にも成りにけり。稲毛三郎が云ひけるは、「今日は日既にくれぬ。合戦は明日たるべきか」と。大庭三郎が申しけるは、「明日ならば、兵衛佐殿の方へ勢はつき重なるべし。後ろより又三浦の人々来たると聞こゆ。両方を防かむ事、道せばく足立ち悪し。只今佐殿を追ひ落として、明日は一向三浦の人々と勝負を決すべし」とて、三千余騎声を調へて時を作る。兵衛佐の方よりも時の声を合はせて、鏑矢を射ければ、山びここたへて、敵方の大勢にも劣らずぞ聞こえける。
大庭三郎景親、鐙ふみはり弓杖つき、立ち上がりて申しけるは、「抑、近代日本国に光を放ち、肩を並ぶる人もなき、平家の御世を傾け奉り、をかし奉らむと結構▼P2116(五七ウ)するは誰人ぞや」。北条四郎時政、あゆませ出だして申して云はく、「汝は知らずや。我が君は、清和天皇の第六の皇子貞純親王の御子六孫王経基よりは七代の後胤、八幡太郎殿には御彦、兵衛佐殿の御坐す也。恭く太上天皇の院宣を賜りて、御頸にかけ給へり。東八ヶ国の輩、誰人か御家人に非ざるや。馬に乗りながら子細を申す条、甚だ奇怪也。速かに下りて申すべし。さて御共には、北条四郎時政を初めとして、子息三郎宗時、同じく四郎義時、佐々木が一党、土肥、土屋を初めとして、伊豆・相模両国の住人、悉く参りたり。景親又申しけるは、「昔、八幡殿の後三年の軍の御共して、出羽国金沢城を責められし時、十六才にて、先陣かけて右目をいさせて、答の矢を射て、▼P2117(五八オ)其の敵を取りて、名を後代に留めたりし、鎌倉権五郎景正が末葉、大庭三郎景親を大将軍として兄弟親類三千余騎也。御方の勢こそ無下にみえ候へ。争でか敵対せらるべき」。時政重ねて申しけるは、「抑も、景親は景正が末葉と名乗り申す歟。さては子細は知りたりけり。争か三代相伝の君に向かひ奉りて、弓をも引き、矢を放つべき。速かにひきてのき候へ」。景親又申して云はく、「されば主にあらずとは申さず。但し、昔は主、今は敵。弓矢を取るも取らぬも、恩こそ主よ。当時は平家の御恩、山よりも高く、海よりも探し。昔を存じて降人になるべきに非ず」とぞ申しける。
兵衛佐宣ひけるは、「武蔵・相模に聞こゆる者共、皆あんなり。中にも、大庭の三郎と俣野五郎とは、高名の兵と聞き置きたり。誰人にてか組ます▼P2118(五八ウ)べき」。岡崎四郎進み出でて申しけるは、「敵一人に組まぬ者の候ふか。親の身にて申すべきには候はねども、義実が子息の白物冠者義忠めこそ候ふらめ」と申しければ、「さらば」とて、佐奈多与一義忠を召して、「今日の軍の一番仕れ」と宣ひければ、与一、「承りぬ」とて、立ちにけり。与一が郎等佐奈多文三家安を招き寄せて、「佐奈多へ行きて、母にも女房にも申せ。『義忠、今日の軍の先陣を懸くべきよし、兵衛佐殿仰せらるる間、先陣仕るべし。生きて二度帰るべからず。もし兵衛佐、世を打ち取り給はば、二人の子共、佐殿に参りて、岡崎と佐奈多とを継がせて、子共の後見して、義忠が後世を訪ひてたべ』と云ふべし」と申しければ、「殿を二歳の年より今年廿五に成り給ふまで、もり奉りて、只今死なむと宣ふ▼P2119(五九オ)を見すてて、帰るべきにあらず。是程の事をば三郎丸して宣ふべきか」とて、三郎丸を召して、家安、此の由を云ひ含めてぞ遣はしける。
与一、十七騎の勢にて歩ませ出だして申しけるは、「三浦大介義明が舎弟、三浦悪四郎義実が嫡男、佐奈多の与一義忠、生年廿五、源氏の世を執り給ふべき軍の先陣也。我と思はむ輩は出でて組め」とて、懸け出だしたり。平家の軍兵是を聞きて、「佐奈多は吉き敵や。いざうれ俣野、組みて取らむ」とて進む者は、長尾新五・新六・八木下の五郎・荻野五郎・曽我の太郎・渋屋庄司・原四郎・瀧口三郎・稲毛三郎・久下の権守・加佐摩三郎・広瀬大郎・岡部六野太・熊谷次郎を始めとして、宗との者共七十三騎、「我劣らじ」▼P2120(五九ウ)とをめいてかく。弓手は海、妻手は山、暗さはくらし、雨はいにいつて降る、道はせばし。心は先にとはやれども、力及ばぬ道なれば、馬次第にぞ懸けたりける。
佐奈多が郎等文三家安、歩ませ出だして申しけるは、「東八ヶ国の殿原、誰人か君の御家人ならぬや。明日は恥づかしからむずるに、矢一つも射ぬさきに、甲をぬぎて御方へ参れや」と申しければ、渋屋庄司重国、「かく申すは誰人の詞ぞや。家安が申すにや。あたら詞かな。主にはいはせで、人々しく又郎等の」と云ひければ、家安重ねて申しけるは、「人の郎等は人ならぬか。二人の主にあはず、他人の門へ足ふみ入れず。わ殿原こそ現の人よ。秩父の末葉とて口は聞き給へども、一方の大将軍をもせで、大庭三郎が尻舞して迷ひ行くめり。吉き人のきたなき振▼P2121(六〇オ)舞するをぞ人とはいはぬ。矢一筋奉らむ」とて、鶴の本白の黒塗の十三束を吉くひきて射たりければ、甲の手崎に立ちにけり。其の時、敵も御方も、一同にはとぞ咲ひける。
さるほどに、廿三日のたそかれ時にも成りにければ、大庭三郎、舎弟俣野五郎に申しけるは、「俣野殿、構へて佐奈多に組み給へ。景親も落ち合はむずるぞ」。俣野、「余りに暗くて、敵も御方もみえわかばこそ組み候はめ」と云ひければ、大庭、「佐奈多は葦毛なる馬に乗りたりつるが、肩白の鎧にすそ金物打ちて、白きほろを懸けたるぞ。其れをしるしにてかまへて組め」とぞ申しける。「承りぬ」とて、俣野進み出でて申しけるは、「抑佐奈多の与一が爰に有りつるが、みえぬは。はや落ちにけるやらむ」と云へども、佐奈多おともせず。▼P2122(六〇ウ)敵を目近く歩ませよせ、在り所を慥かに聞きおほせて、まがたはらに答へたり。「佐奈多与一義忠ここにあり。かく申すは誰人ぞ」と云ふ声に付きて、「俣野五郎景久なり」と云ひはつれば、やがて押し並べて指しうつぶきて見れば、馬も葦毛なる上に、すそ金物きらめきて見えければ、やがて寄せ合はせて引き組みて、馬よりどうど落ちにけり。
上になり下になり、山の岨(そは)を下りに、大道まで三段計りぞころびたる。今一返しも返したらば、海へ入りてまし。俣野は大力と聞こえたりけれども、いかがしたりけむ、下になる。うつぶしに下り頭に臥したりければ、枕もひきし、あとは高し、おきうおきうとしけれども、佐奈多上に乗り居たりければ、「叶はじ」とや思ひけむ、「大庭三郎が舎弟俣野五郎景久、佐奈多与一に組みたり。つづけ▼P2123(六一オ)やつづけや」と云ひけれども、家安を初めとして、郎等共皆押し隔てられて、連く者もなかりければ、俣野がいとこ長尾新五落ち合ひて、「上や敵、下や敵」と問ひければ、与一は敵の声と聞きなして、「上ぞ景尚。長尾殿か。あやまちすな」。俣野は下にて、「下ぞ景久。長尾殿か。あやまちすな」と云ふ。「上ぞ」「下ぞ」と云ふほどに、頭は一所にあり、暗さはくらし、声はひきし、何とも聞きわかず。「上ぞ景尚、下佐奈多」「上は佐奈多、下は景尚」と互に云ふ。俣野、「不覚の者哉。鎧の金物をさぐれかし」と云ひければ、二人の者共が冑の引合をさぐりけるを、佐奈多さぐられて、右の足をもつて長尾が胸をむずとふむ。新五、ふまれて下りさまに弓長計りぞととばしりて倒れにけり。
其の間に、佐奈多、刀を抜きて、▼P2124(六一ウ)俣野が頸をかくに、きれず。指せども指せどもとほらず。刀をもちあげて雲すきに見れば、さやまきの栗形かけて、さやながらぬけたり。さや尻をくはへて抜かむとする所に、新五が弟新六落ち重なりて、与一が胡〓[竹+録](やなぐひ)のあはひにひたと乗り居て、甲のてへんの穴に手を指し入れて、むずと引きあふのけて、佐奈多が頸をかきければ、水もさはらず切れにけり。やがて俣野を引きおこして、「手や負ひたる」と問ひければ、「頸こそすこししひて覚ゆれ」と云ふを、さぐれば手のぬれければ、敵が刀を取るに、「見よ」とて右手を見れば、鞘尻一寸計りくだけたる刀をぞ持ちたりける。誠につよくさしたりとみえたりけり。其の手をいたみて、俣野は軍もせざりけり。「俣野五郎▼P2125(六二オ)景尚、佐奈多与一打ちたり」と罵りければ、源氏の方には歎きけり、平家の方には悦びけり。
父の岡崎、兵衛佐に、「余一冠者こそ既に討たれ候ひにけれ」と申しければ、兵衛佐は、「あたら兵を討たせたるこそ口惜しけれ。もし頼朝世にあらば、義忠が孝養をば頼朝すべし」とて、あはれげに思はれたり。岡崎は、「十人の子にこそ後れ候はめ。君の世に渡らせ給はむ事こそ願はしく候へ」と申しながら、さすが恩愛の道なれば、鎧の袖をぞぬらしける。
文三家安は、与一が打たれたる所より、尾を一つ隔てて戦ひけるを、稲毛三郎、「主は既に打たれぬ。今はわ君にげよかし」と云ひければ、家安申しけるは、「幼少よりかけ組む事は習ひたれども、逃ぐる事は未だしらず。『佐奈多殿打たれ給ひぬ』と聞きつるより、心こそ弥▼P2126(六二ウ)武く覚ゆれ」とて、分取八人して、打ち死に死にけり。軍は終夜に有りけり。
暁方になりて、兵衛佐の勢、土肥を差して引き退く。佐も後陣にひかへて、「あな心うや。同じく引くとも思ふ矢一つ射て落ちよや。返せや返せや」と宣ひけれども、一騎も返さず、皆落ちぬ。堀口と云ふ所にて、加藤次景廉・佐々木四郎高綱・大多和三郎義尚、三騎落ち残りて、十七度まで返し合はせ、散々に戦ふ。敵は数千有りけれども、道もせばく足立悪しく、一度にも押し寄せず。纔に二三騎づつこそ懸けたりけれ。此の者共敵多く打ち取りて、矢種つきにければ、同じく一度に引き退く。
さるほどに、夜もほのぼのとあけにければ、廿四日の辰の時に上の山へ引かれけるを、荻野五郎末重・同じく子息彦大郎秀光以下、兄弟▼P2127(六三オ)五人、兵衛佐の跡目に付きて追ひ懸かりて、「此の先に落ち給ふは大将軍とこそ見え申せ。いかに源氏の名折に鎧の後をば敵にみせ給ふぞ。きたなしや。返し合はせ給へ」とて、をめいてかく。佐「叶はじ」とや思はれけむ、只一人返し合はせて、矢一つ射られたり。荻野五郎が弓手の草摺に、縫ひさまにぞ立ちたりける。二の矢は鞍の前輪にたつ。次の矢は荻野が子息彦太郎が馬の、左のむながいづくしに立ちにけり。馬はねて乗りたまらず。足を越しておりたちぬ。伊豆国の住人大見平次、返し合はせて佐の前にふさげたり。又武者一騎馳せ来たりて、大見が前に引かへて、「昔物語にも大将軍の御戦ひはなき事にて候ふ。只ここを引かせ給へ」と申しければ、「防矢射る者なければこそ」と宣ひければ、「相模国の住人飯田三郎宗能候ふ」と▼P2128(六三ウ)申して、矢三筋射たりけり。其の間に兵衛佐は椙山へ入り給ひにけり。
残りの人々も道嶮しくて、輙く山へ入るべき様もなかりければ、太刀計りにてぞ山へは入りにける。伊豆国の住人沢六郎宗家もここにて誅たれにけり。同国の住人九藤介茂光は、太り大きなる男にて山へも登らず、歩みもやらず。「延ぶべし」ともおぼえざりければ、子息狩野五郎親光を招き寄せて、「人手にかくな。我が頸打て」と云ひければ、親光、父の首を切らむ事の悲しさ、父を肩に引き懸けて山へ登りけるに、峨々たる山なれば、輙く登るべしともおぼえざりければ、とびにも延びやらず。敵は責め近づきて、既に生け取らるべかりければ、茂光、腹かい切りて死にけり。茂光が娘に、伊豆国の国司為綱が具して儲けたりける、田代冠者信綱、是を▼P2129(六四オ)見て、祖父公藤介が頸を切りて、子息狩野五郎にとらせて山へ入りにけり。北条が嫡子、三郎宗時も、伊東入道祐親法師に打たれにけり。
さて、兵衛佐は山の峯に上りて、臥木の在りけるに尻打ち懸けて居られたりけるに、人々跡を尋ねて少々来たりたりければ、「大庭・曽我なんどは山の案内者なれば、定めて山ふませむずらむ。人多くては中々悪しかりなむ。各是より散々になるべし。我もし世にあらば、必ず尋ね来たるべし。我も又尋ぬべし」と宣ひければ、「我等既に日本国を敵にうけて、いづくの方へまかり候ふとも遁るべしとも覚え候はず。同じくは只一所にてこそは、塵灰にも成り候はめ」と申しければ、「頼朝思ふ様ありてこそかく云ふに、猶しひて落ちぬこそあやしけれ。各存ずる旨の有るか」と重ねて宣ひければ、「此の上は」 とて、思ひ思ひに落ち行きけり。北条四▼P2130(六四ウ)郎時政・同じく子息義時父子二人はそれより山伝ひに甲斐国へぞ趣きける。加藤二景廉と田代冠者信綱とは、伊豆三嶋の宝殿の内に籠りたりけるが、夜ほのぼのとあけければ、宝殿を出でて思ひ思ひにぞ落ち行きける。景廉は兄賀藤太光員に行き合ひて、甲斐国へぞ落ちにける。残る輩は、伊豆・駿河・武蔵・相模の山林へぞ逃げ籠りける。
兵衛佐に付きて山に有りける人とては、土肥二郎・同じく子息弥太郎・甥の新開の荒二郎・土屋三郎・岡崎四郎、已上五人、下臈には土肥二郎が小舎人男七郎丸、兵衛佐具し奉りて、上下只七騎ぞ有りける。土肥が申しけるは、「天喜年中に、故伊与入道殿、貞任を責め給ひし時、纔かに七騎に落ち成りて、一旦は山に籠り▼P2131(六五オ)給ひしかども、遂にその御本意を遂げ給ひにけり。今日の御有様、少しも彼に違はず。尤も吉例とすべし」とぞ申しける。
十四 〔小壷坂合戦の事〕 三浦の人々は、相模河のはた、浜宮の前に陣を取りて、各申しけるは、「石橋の軍は此の夕べまではなかりけり。今は日もくれぬ。暁天の後より寄すべし」とて、ゆらへて有りけるほどに、兵衛佐の方に大沼四郎と云ふ者あり。敵の中をまぎれ出でたりけるが、三浦の人々の陣の前の河鰭に来たりて呼ばはりけるを、「誰そ」と問ひければ、「大沼の四郎也。石橋の軍既に初まり、散々の事共あり。其の次第、参りて申さむとすれば、馬にははなれぬ、夜はふけたり、河の淵瀬もみえわかず。馬をたべ、参りて申さむ」と云ひければ、急ぎ馬をぞ渡しける。大沼が参りて申しけるは、「酉の時に軍初まりて、只今まで火出づる▼P2132(六五ウ)程の合戦す。佐奈多与一既に誅たれぬ。兵衛佐も打たれ給ひたるとこそ、申しあひて候ひつれ。誠に遁れ給ふべき様もなかりつる上に、手を下して戦ひ給ひつれば、一定打たれ給ひつらむ」とぞ申しける。人々是を聞きて、「兵衛佐殿も誅たれ給ひにけり。『大将軍のたしかにまします』と聞かばこそ、百騎が一騎に成らむまでも戦はめ、前には大庭三郎・伊東入道、雲霞の勢にて待ち懸けたり。後には畠山二郎、武蔵の党の者共引き具して、五百余騎にて金江河の鰭に陣を取りてあんなり。中に取り籠められなば、一人も遁るまじ。設ひ一方を打ち破りて通りたりとも、朝敵と成りぬる上は、つひに安穏なるべからず。しかじ、人手に懸からむよりは、各自害をすべし」と云ひければ、義澄が申しけるは、しばし、殿原の自害、余りに▼P2133(六六オ)とよ。かやうの時は、僻事、虚事も多し。兵衛佐殿も一定誅たれてもやおはすらむ、又遁れてもやおはすらむ、其の骸を見申さず。土肥・岡崎は伊豆国の人也。先づ此の人々誅たれて後こそ、大将軍は誅たれ給はむずれ。海辺近ければ、舟に乗り給ひて、安房・上総の方へもや志し給ひぬらむ。又石橋は深山遥かにつづきたれば、それにも龍もりてやおはすらむ。いかさまにも、兵衛佐殿の御首をも見ざらむほどは、自害をせむ事あしかりなむ。さりとも、兵衛佐殿、荒量に誅たれ給はじ者を。設ひ死に給ふとも、敵に物をば思はせ給はむずらむ。いかさまにも、大庭にも畠山にも、一方に向かひてこそ、打ち死に、射死にをもせめ。畠山が勢五百余騎と此の勢三百余騎と押し向かひたらむに、などかはしばしは支へ▼P2134(六六ウ)ざるべき。ここをば懸け破り、三浦に引き籠もりたらむに、日本国の勢一度に寄せたりとも、火出づるほどの戦して、矢種つきば、其の時こそ義澄は自害をもせむずれ」とて、やがて甲の緒しめて、夜半計りに小磯が原を打ち過ぎて、波打際を下りに金江河の尻へ向けてぞ歩ませける。
輪田小太郎義盛が舎弟二郎義茂は、高名のあら兵の大力にて大矢の勢兵なるが申しけるは、「此の道はいつの習ひの道ぞや。上の大道をばなど打ち給はぬぞ。只大道を打ち過ぎさまに、畠山が陣を懸け破りて、強き馬共少々奪ひ取りて行かばや」と云ひければ、兄の義盛、「何条そぞろ事宣ふ殿原かな」と云ひければ、義澄云ひけるは、「畠山、此の程馬飼ひ立てて休み居たり。強き馬取らむとて、還りて弱き馬ばしとられ。馬の足おとは波に▼P2135(六七オ)まぎれてきこゆまじ。くつばみをならべてとほれ若党」と云ひければ、或いはうつぶきて水つきをにぎり、或いはくつわをゆひからげなんどしてぞ通りける。
案の如く、畠山二郎聞き付けて、乳人の半沢の六郎成清を呼びて云ひけるは、「只今三浦の人々の通ると覚ゆるぞ。重忠、此の人々に意趣なしといへども、彼等は一向佐殿の方人也。重忠は父庄司、平家に奉公して当時在京したり。是を一矢射ずして通したらば、大庭・伊東なんどに讒言せられて、一定平家の勘当蒙りぬと覚ゆる也。いざ追ひ懸かりて一矢射む」と云ひければ、成清、「尤も然るべし」とて、馬の腹帯つよくしめて追ひ懸くる。
三浦の人々は、かくともしらで相模川を打ち渡り、腰越・稲村・湯居浜なんど打ち過ぎて、小坪坂を打ち上れば、夜も漸く▼P2136(六七ウ)あけにけり。小太郎義盛が云ひけるは、「是までは別事無く来たり。今は何事かは有るべき。設ひ敵人追ひ来たるとも、足立悪しき所なれば、などか一支へせざるべき。馬をも休め、破子なんどをも行ひ給へかし、殿原」とて、各馬より下り居て後の方を見返りたれば、稲村が崎に武者卅騎計り打ち出でたり。小太郎是をみて、「ここに来たる武者は敵か、又此の具足のさがりたるか」と云ひければ、三浦藤平真光、「此の具足には、さるべき人も候はず。二郎殿計りこそ、鎌倉を上りに打たせ給ひつれ、あれより来たり申すべき者おぼえず」と申しければ、小太郎、「さては敵にこそあんなれ」とて、叔父の別当忠澄に向かひて云ひけるは、「畠山既に追ひ懸かり来たる。殿ははや東路にかかりて、あぶずり究竟の小城なれば、▼P2137(六八オ)かいだてかかせて待ち給へ。義盛は是にて一支へして、若し叶はずはあぶずりに引き懸けて、諸共に戦ふべし」。義澄は「尤もさるべし」とて、あぶずりへ行きけるに、畠山二郎、四百余騎にて赤幡天をかかやかして、湯居浜・いなせ河のはたに陣をとる。
畠山、郎等一人召して、「輪田小太郎の許へ行きて、『重忠こそ来たりて候へ。各に意趣を思ひ奉るべきにあらねども、父庄司・叔父小山田別当、平家の召しによつて、折節六波羅に祗候す。重忠が陣の前を無音に通し奉りなば、平家の勘当蒙らむ事疑ひなし。仍つて是まで参りたり。是へや出でさせ給ふべき、それへや参るべき』と申せ」とて、遣はしけり。使行きて此の由を云ひければ、郎等真光を呼びて、彼の使に相具して返答しけるは、「御使の申状、委しく承り候ふ。仰せ尤も其の謂はれあり。▼P2138(六八ウ)但し、庄司殿と申すは大介の孫聟ぞかし。されば、曽祖父に向かひて争か弓夫を取りて向かはるべき。尤も思惟有るべし」といはせたりければ、重忠重ねていはせけるは、「元より申しつる様に、介殿の御事と云ひ、各の事と申し、全く意趣を思ひ奉らず。只父と叔父との首を継がむが為に、是まで来るばかり也。さらば各三浦へ帰り給へ。重忠も帰らむ」とて、和与して帰る処に、斯様に問答和平するをも未だ聞き定めざる前に、義盛が下人一人、舎弟義茂が許へ馳せ来たりて、「湯居の浜に既に軍始まり候ふ」と云ひければ、義茂是を聞きて、「穴心憂や。太郎殿はいかに」と云ひて、甲の緒を締めて、犬懸坂を馳せ越えて、長江が下にて浜を見下ろしたれば、何とは知らず、直甲四百騎ばかり打つ立ちたり。義茂只八騎にて▼P2139(六九オ)をめいて駆く。畠山是を見て、「あれはいかに。和平の由は虚事にて有りけり。搦手を待たむとて云ひける者を。安からぬ事かな」とて、やがて駆けむとす。去る程に兄の義盛、小坪坂にて是を見て、「爰に下り様に七八騎計りにて馳するは二郎よな。和平の子細も聞き開かず、左右無く駆くると覚ゆるなり。勢も少なし、悪しくして打たれなむず。遠ければ、呼ぶとも聞ゆまじ。いざさらば只駆けむ」とて懸け出しけり。
小太郎義盛、郎等真光に云ひけるは、「楯突く軍は度々したれども、馳せ組む軍はこれこそ初めなれ。何様にあふべきぞ」と云ひければ、真光申しけるは、「今年五十八に罷り成り候ふ。軍に相ふ事十九度、誠に軍の先達、真光に有るべし」とて、「軍にあふは、敵も弓手、我も弓手に逢は▼P2140(六九ウ)むとするなり。打ち解け弓を引くべからず。あきまを心にかけて、振り合はせ振り合はせして、内甲ををしみ、あだやをいじと、矢をはげなから矢をたばひ給ふべし。矢一つ放ちては、次の矢を急ぎ打ちくはせて、敵の内甲を御意にかけ給へ。昔様には馬を射る事はせざりけれども、中比よりは、先しや馬の太腹を射つれば、はね落されて徒立ちになり候ふ。近代は、様もなく押し並べて組みて、中に落ちぬれば、太刀、腰刀にて勝負は候ふ也」とぞ申しける。
さるほどに、あぶずりに引き上げて、かいだてかいて待ちつる三浦の別当義澄、已に合戦初まると見て、小坪坂をおくれ馳せにして押し寄す。道せばくて僅かに二三騎づつ、おつすがひに馳せ来たりければ、遥かにつづきてぞ見えける。畠山の勢、此をみて、「三浦の勢計りに▼P2141(七〇オ)てはあらず。上総・下総の人共も一味になりにけり。大勢に取り籠められては叶ふまじ」とて、おろおろ戦ひて引き退く。
三浦の人々 弥かつに乗りて、追ひさまに散々にいければ、浜の御霊の御前にて、輪田二郎義茂と相模国住人連太郎と、組みて落ちぬ。連は大の男の、人に勝れて長高く骨太也。輪田は勢は少し小さかりけれども、聞こゆる小相撲にて、敵を大亘にかけて、えい声を出だして、浪打際に枕をせさせて打ち臥せて、胸板の上をふまへて、腰刀をぬきて首をかく。是をみて、連が郎等落ち合ひたりけれども、輪田、太刀をぬきて内甲へ打ち入れたりければ、只一打ちに首を打ち落とす。二つの頸を前に並べて、石に尻打ち懸けて、波に足うちすすがせて息つぎゐたる処に、連が子息連二郎馳せ来たりて、輸▼P2142(七〇ウ)田二郎を射る。輪田二郎、射向の袖を振り合はせて、しころを傾けて云ひけるは、「父の敵をば手取りにこそとれ。わ君が弓勢にて、而も遠矢に射るには、義茂が鎧とほらじ物を。人々に打たれぬさきに落ち合へかし。おそろしきか、近くよらぬは。義茂は軍にしつかれたれば、手向かひはすまじ。首をば延べてきらせむずるぞ」とはげまされて、連二郎、太刀をぬきて落ち合ひたり。輪田二郎は甲の鉢をからとうたせて、立ちあがりて、いだきふせて、みしとおさへて腰刀を抽きて首をきる。三つの首を鞍の左右の取付に付けて、連が首をば片手に持ちて帰り来たる。其の日の高名、輪田二郎に極まりたりと、敵も御方も罵りけり。
畠山が方には、律戸四郎・川二郎大夫・秋岡四郎等を初めとして、卅余人▼P2143(七一オ)打たれにけり。手負は数を知らず。三浦が方には、多々良の太郎、同じく二郎と、郎等二人ぞ打たれにける。其の時畠山、我が方の軍兵打たれて、引き退く気色を見て、云ひけるは、「弓矢取る道、爰にて返し合はせずは、各長く弓矢をば小坪坂」にて切り捨つべし」とて、片手矢をはげて、歩ませ出だして申しけるは、「音にも聞き、目にも見給へ。武蔵の国の秩父の余流、畠山ノ庄司重能が二男、庄司次郎重忠、童名氏王丸、生年十七歳。軍に合ふ事今日ぞ初め。我と思はむ人々は出で給へ」とて懸け出でたり。半沢の六郎馳せ来たりて、馬の轡に取り付きて申しけるは、「命を捨つるも様にこそより候へ。させる宿世の敵、親の敵にも非ず。加様の公事に付けたる事に、命を捨つる事候はず。若御意趣有らば後の軍にて▼P2144(七一ウ)有るべし」とて取り留めければ、力及ばず。相模の本馬の宿に引き退く。彼の宿に兵衛佐の方人多く居住したりければ、其の家々に火を懸けて、山下村まで焼き払ふ。三浦の人々は、此の軍の次第を委しく大介義明に語りければ、「各が振舞ひ尤も神妙也。就中義茂が高名、左右に及ばず」とて、大刀一振り取り出だして、孫義茂に取らす。
十五 〔衣笠城合戦の事〕 「敵只今に来たりなむず。急ぎ衣笠城に籠るべし」と云ひければ、義盛申しけるは、「衣笠は口あまたありて、無勢にては叶ひがたかるべし。奴田城こそ、廻りは皆石山にて一方は海なれば、吉き者百人計りだにも候はば、一二万騎寄せたりとも、くるしかるまじき所なれ」と申しければ、大介云ひけるは、「さかしき冠者の云事哉。今は日本国を敵にて打ち死にせむと思はむ▼P2145(七二オ)ずるに、同じくは名所の城にてこそ死にたけれ。先祖の聞ゆる館にて討死してけりとこそ、平家にも聞かれ、申したけれ」と云ひければ、「尤も然るべし」とて、衣笠城に籠りにけり。
上総介弘経が舎弟、金田大夫頼経は、義明が聟なりければ、七十余騎にて馳せ来たりて、同じき城にぞ籠りにける。此の勢相具して四百余騎に及びければ、城中にも過分したり。大介云ひけるは、「若党より初めて、厩の冠者原に至るまで、つよ弓の輩は矢衾を作りて散々に射るべし。又討手に賢からむ者共は、手々になぎなたを持ちて、深田に追ひはめて打つべし。城の西浦の手をば義澄ふせくべし」とぞ下知しける。かく云ふ程に、廿六日辰剋に、武蔵国の住人、江戸大郎・河越太郎、党の者には金子・村山・俣野・〔野〕与・山口・児玉党▼P2146(七二ウ)を初めとして、凡その勢二千余騎にて押し寄せたり。先づ連五郎、父と兄とを小坪にて打たれたる事を安からず思ひける故に、ま先懸けて出で来たる。支度の如く、城中より矢前をそろへて是を射る。一方は石山、二方は深田なれば、寄武者打たれにけり。又、打者冠者原、鼻を並べて出で向かひて戦ひければ、面を向くる者なかりけり。
かかりければ、連が党、少し引き退きけるを、金子の者共入れ替へて、金子十郎・同じく与一、城口へ責め寄せたり。城中より例の矢前をそろへて射けれども、金子少しも退かず、廿一まで立ちたる矢をば折り懸け折り懸けして戦ひけり。其の時、城中より是を感じて、酒肴を一具、家忠が許へ送りて云ひけるは、「殿原の軍の様、誠に面白くみえたり。此の酒めして、力▼P2147(七三オ)付けて、手のきは軍し給へ」と云ひ送りければ、金子返事に申しけるは、「さ承り候ひぬ。能々飲みて、城をば只今に追ひ落とし申すべし」とて、やがて甲の上に萌黄の糸威の腹巻を打ち懸けて、少しもしひず責め寄せければ、大介是をみて若者共に下知しけるは、「あはれ云ふ甲斐なき者共かな。あれを、二三十騎馬の鼻を並べて懸け出だして、武蔵国の者の案内もしらぬを深田に追ひはめて咲へかし」と罵りけれども、「幾程なき勢にて打ち出でむ事も中々悪しかりなむ」とて出でざりければ、大介老々として而も所労の折節なりけるが、白き直垂になえ烏帽子おし入れて、馬にかきのせられて、雑色二人を馬の左右に付けて膝をおさへさせて、太刀計りをはきて敵の中へ打ち出でむとしければ、いとこの左野平太、馳せ▼P2148(七三ウ)来たりて、「介殿には物の付き給ひたるか。打ち出で給ひては何の詮かは有るべき」とて引き留めければ、大介、「己等にこそ物の付きたるとはみれ。軍と云ふは、或る時は懸け出だして敵をも追ひ散らし、或る時は敵にもおはれて引き退きなんどするこそ、目をもさまして面白けれ。いつと云ふ事もなく、草鹿的(さうしかまと)なんど射るやうに軍する事、みもならはず」と云ふままに、鞭をあげて左野平太をぞ打ちたりける。さる程に日もくれぬ。
軍各しつかれて、大介、事の外に心よわげに見えければ、子孫共を呼びて云ひけるは、「今は城中以ての外によわげにみゆ。さればとて各左右なく自害すべからず。兵衛佐殿は荒量に打たれ給ふまじき人ぞ。佐殿の死生を聞き定めむ程は、甲斐なき命を生きて、始終を見はて奉るべし。いかにも安房・上総の方へぞ▼P2149(七四オ)落ち給ひぬらむ。今夜ここを引きて、船に乗りて佐殿の行へを尋ね奉るべし。義明今年已に七十九歳[B 「八十四歳(はちじふしさい)」と傍書]に迫れり。其の上所労の身なり。『義明幾程の命を惜しみて、城の中をば落ちけるぞ』と、後日にいはれむ事も口惜しければ、我をばすてて落ちよ。全く恨み有るべからず。急ぎ佐殿に落ち加はり奉りて、本意を遂ぐべし」と云ひけれども、さればとて、すて置くべきにあらねば、子孫、手輿に大介をかきのせて落ちむとすれば、大介、大きにしかりて輿にも乗らず。されどもとかく誘へ、おしのせて城の中をば落ちにけり。宗との者共は、栗浜の御崎に有りける船共にはいのりはいのり、安房の方へぞ趣きける。大介が輿は、雑色共の舁きたりけるが、敵近く責めかかりければ、輿をもすてて逃げにけり。近く付き仕へける女一人ぞ付きたりける。▼P2150(七四ウ)敵が冠者原追ひかかりて、大介が衣装をはぎければ、「我は三浦の大介と云ふ者なり。かくなせそ」と云ひけれども叶はず。直垂もはがれにけり。さるほどに夜もあけにければ、大介、「あはれ、我はよく云ひつるものを。城中にてこそ死なむと思ひつるに、若き者の云ふに付きて犬死にしてむずる事こそ口惜しけれ。さらば同じくは畠山が手に懸かりて死なばや」と云ひけれども、江戸太郎馳せ来りて、大介が頸をば打ちてけり。「いかにもおとなの云ふ事は様有るべし。元より大介が云ひつる様に、城中にすておきたらば、かほどの恥には及ばざらまし」とぞ人申しける。
兵衛佐は、土肥の鍛冶屋が入ると云ふ山に籠りておはしけるが、峯にて見遣りければ、伊東入道、土肥に押し寄せて、真平が家を追捕し、焼き払ひけり。真平、山の峯より遥かに▼P2151(七五オ)見下ろして、「土肥に三つの光あり。第一の光は、八幡大菩薩の君を守り奉り給ふ御光なり。次の光は、君御繁昌あつて、一天四海を輝かし給はむずる御光なり。次の小さき光は、真平が君の御恩に依つて放光せむずる光なり」とて、舞ひかなでければ、人皆咲ひけり。
十六〔兵衛佐安房国へ落ち給ふ事〕 さる程に、真平が妻なりける人の許より、使者を遣はして云ひけるは、「三浦の人々は、小坪坂の軍には勝ちて、畠山の人々多く誅たれたりけるが、衣笠城の軍に打ち落とされて、君を尋ね奉りて、安房国の方へ趣きにけり。急ぎ彼の人々に落ち加はり給ふべし」と、申したりければ、真平此の由を聞きて、「さてはうれしき事ごさむなれ」とて、「相ひ構へて今夜の中に海人船に召して、安房国へつかせ給ひて、重ねて弘経・胤経等をも召して、今一度御▼P2152(七五ウ)冥加の程をも御覧候へ」と申しければ、「尤も然るべし」とて、小浦と云ふ所へ出で給ひて、海人船一艘に乗りて、安房国へぞ趣き給ひける。兵衛佐已下の人々、七人ながら皆大童にて、烏帽子きたる人もなかりけり。其の浦に二郎大夫と云ふ者の有りけるに、「烏帽子やある。進らせよ」と宣ひければ、二郎大夫、さる古老の者なりければ、かひがひしく烏帽子十頭進らせたりければ、兵衛佐悦び給ひて、「此の勧賞には、国にても庄にても汝が乞ふに依るべし」とぞ宣ひける。二郎大夫宿所に帰りて、妻子に向かひて申しけるは、「烏帽子一つをだにももたぬ落人にて逃げ迷ふ人の、荒量にも預かりたりつる国庄かな」と申して咲ひけり。
真平、「此の御船、とく出だせ」と云ひければ、子息遠平、「しばらく相ひ待つ事候ふ」と云ひければ、真平、「何▼P2153(七六オ)事を相ひ待つべきぞや。己がしうとの伊東の入道を待ち得て、君をも我をも打たせむとするな。岡崎殿、其の弥太郎めが頸打ち落としてたべ」と云ひければ、岡崎、「さるにても主と父との事を、舅の事に思ひ替へじな、弥太郎」とぞ云ひける。やがて船指し出だしたりければ、案の如くに、伊東入道卅余騎、ひた甲にて、片手矢はげて追ひ来たる。追ひさまにも数百騎にて責め来たる。「賢くぞ、とく御船を出だして」とぞ、人々云ひ合ひける。
十七 〔土屋三郎、小二郎と行き合ふ事〕
さて、北条四郎時政は甲斐国へ趣き、一条・武田・小笠原・安田・板垣・曽禰禅師・那古蔵人、此の人々に告げけるをば、兵衛佐は知り給はで、「此の事を甲斐の人々に知らせばや」とて、「宗遠行け」とて、御文書きて遣はし▼P2154(七六ウ)けり。夜に入りて足柄山を越えけるに、関屋の前に火高く焼きたり。人あまた臥したり。土屋三郎あゆみよりて、足音高くし、しわぶきして罵りけれども、「たそ」ともいはず。土屋三郎思ひけるは、「ね入りたるよしをして、ここをとほして、先に人をおきて、中に取り籠めむとするやらむ」。さればとて、帰るべきにも非ずして、走り通りければ、誠にね入りたりける時にをともせず。
さて人一人行き逢ひたり。あれもおそれてものもいはず。是もをぢておともせず。中一段計りを隔てて、互ひににらまへて、時をうつすほど立ちたりけり。土屋三郎はさる古兵にて有りければ、声を替へて問ひけり。「只今此の山を越え給ふはいかなる人ぞ」と云ひければ、「かく宣ふは又いかなる人ぞ」。「わ殿は誰そ」「わ殿は誰そ」と問ふ程に、互ひに知りたる声に聞きなしつ。「土屋殿のましまし侯ふか」。「宗▼P2155(七七オ)遠ぞかし。小二郎殿か」。「義治候ふ」。土屋は元より子なかりければ、兄岡崎四郎が子を取りて、甥ながら養子にして、平家に仕へて在京したりけるが、此の事を聞きて夜昼下りけるが、然るべき事にや、親に行き逢ひにけり。夜中の事なれば、互ひに顔はみず。声計りを聞きて、手に手を取り組みて、云ひ遣る方もなし。只「いかにいかに」とぞ云ひける。山中へ入りて、木の本に居て、土屋小二郎が申しけるは、「京にて此の事を承りて下り候ひつるが、今日五日は馬乗りたてて、歩行にて下り候ふ下人、一人も追ひ付かず。このひる木瀬川の宿にて承り候ひつれば、『石橋軍に兵衛佐殿も打たれ給ひぬ。土屋・岡崎も打たれたり』と申し候ひつれば、『憖ひに京をば罷り出で候ひぬ。波にも礒にも付かぬ心地して候ひつるが、さるにても土屋の方へまかり▼P2156(七七ウ)て、一定を承り定めむ』とて下り候ひつるが、関屋の程が思ひ遣られて、足占して候ひつるなり」と語りければ、土屋三郎思ひけるは、「弓矢取る者のにくさは、親を打ちては子は世にあり、子を殺しては親世にある習ひなれば、しかも実の親にてもなし。あれは只今まで平家に仕へたり、是は源氏をたのみてあり。首を取りて平家の見参にもや入らむと思ふらむ」と思ひければ、有りのままにも云はざりけり。「打たれたる人とては、わ殿が兄余一殿・北条三郎・沢六郎。公藤介は自害しつ。兵衛佐殿は甲斐へと聞く時に、尋ね奉りて趣く也。いざさらばわ殿も」とて、かい具してつれてゆく。甲斐国へ趣きて、一条二郎が許にてぞ、有りのままには語りける。▼P2157(七八オ)
十八 〔三浦の人々、兵衛佐に尋ね合ひ奉りし事〕三浦の人々は、主には別れぬ、親には後れぬ、あまの船流したる心地して、安房国の北の方、龍が礒にぞ着きにける。しばらくやすらふほどに、遥かのおきに、雲井にきえて、船こそ一艘みえたりけれ。此の人々申しけるは、「あれに見ゆる船こそあやしけれ。是程の大風に、海人船・釣船・あきなひ船なんどにてあらじ。あはれ、兵衛佐殿の御船にてや有るらむ。又敵の船にてや有るらむ」とて、弓絃しめして用心して有りけるに、船は次第に近くなる。誠の兵衛佐の御船なりければ、かさじるしを見付けて、三浦の船よりも笠じるしをぞ合はせける。猶用心して、兵衛佐殿は打板の下に隠し奉りて、それが上に殿原なみ居たり。三浦の人々はいつしか心もとなくて、船をぞ押し合はせける。船押し合はせて、輪田小大郎申しけるは、「いかに佐殿は渡らせ給ふ▼P2158(七八ウ)か」。岡崎申しけるは、「我等も知り進らせぬ時に、尋ね奉りてありくなり」とて、昨日一昨日の軍の物語をぞ初めける。三浦は「大介が云ひし事は」とて、語りて泣く。岡崎は「与一が打たれし事は」とて、語りて泣く。兵衛佐は打板の下にて是を聞き給ひて、「哀れ、世にありて、是等に恩をせばや」とぞ、さまざまに思はれける。
いたく久しく隠れて、是等に恨みられじとて、「頼朝はここにあるは」とて、打板の下より出で給ひたりければ、三浦の人々是を見奉りて、各悦び泣き共しあひけり。和田小大郎が申しけるは、「父もしね、子孫も死なばしね、只今君を見奉りつれば、其に過ぎたる悦びなし。今は本意を遂げむ事疑ひ有るべからず。君、今は只侍共に国々を分かち給ふべし。義盛には侍の別当を給はるべし。上▼P2159(七九オ)総守忠清が、平家より八ヶ国の侍の別当を給はりて、もてなされしが、うらやましく候ひしに」と申しければ、兵衛佐は、「所あて余りに早しとよ」とて、咲ひ給ひけり。其の夜は、兵衛佐、安房国安戸(洲ィ)大明神に参詣して、千反の礼拝を奉りて、
源は同じ流れぞ石清水せきあげ給へ雲の上まで K106
其の夜、御宝殿より気高き御声にて、
千尋まで深くたのみて石清水只せき上げよ雲の上まで K107
兵衛佐は、使者を上総介・千葉介が許へ遣はして、「各急ぎ来たるべし。既に是程の大事を引き出だしつ。此の上は、頼朝を世にあらせむ、世にあらせじは、両人が意也。弘経をば父とたのむ、胤経をば母と▼P2160(七九ウ)思ふべし」とぞ宣ひける。両人共に元より領状したりしかば、胤経三千余騎の軍兵を率して、結城の浦に参会して、即ち兵衛佐殿を相ひ具し奉りて、下総国府に入れ奉りて、もてなし奉りて、胤経申しけるは、「此の河の鰭に大幕百帖計り引き散らし、白旗六七十流れ打ち立て打ち立ておかれ候ふべし。是を見む輩、江戸・葛西の輩、皆参上し候はむずらむ」と申しければ、「尤もさるべし」とて、其の定にせられたりけるほどに、案の如く、是を見る輩、皆悉く参上す。さる程に、程無く六千余騎に成りにけり。
十九〔上総介弘経、佐殿の許へ参る事〕 上総介弘経は、此の次第を聞きて、「我遅参しぬ」と思ひて、当国の内、伊北・伊南・庁南・庁北・准西・准東・畔蒜・堀口・武射・山▼P2161(八〇オ)辺の者共、平家の方人して強る輩をば、押し寄せ押し寄せ是を討ち、随ふ輩をば、是を相ひ具して、一万余騎にて上総の国府へ参会して、此の子細を申しければ、兵衛佐聞き給ひて、真平を使ひにて宣ひけるは、「今まで遅参の条、存外なれども、沙汰の次第、尤も神妙也。速やかに後陣に候ふべき」よしをいはせらる。此の勢を相ひ具して、一万六千余騎に成りにけり。弘経屋形に帰りて、家子郎等に向かひて申しけるは、「此の兵衛佐は、一定の大将軍也。弘経此程の多勢を率して向かひたらむには、悦び感じて急ぎ出で合ひて、耳と口と指し合はせてささやき事、追従事なんどをこそ宣はむずらむと思ひつるに、真平を以て宣ひたりつる、一つにはおほけなく、一つには大くわいな心也。誰人にもよも荒量にはか▼P2162(八〇ウ)られ給はじ。一定本意は遂げ給はむずらむ。昔将門が、八ヶ国を打ち塞ぎて、やがて王城へ責め入らむとしけるに、平家の先祖貞盛朝臣、勅宣を承りて下向したりける時、俵藤太秀郷と云ふ兵、多勢にて将門が許へ行きたりけるに、将門余りに喜びて、けづりける髪をも取り上げずして、白衣なる大童にて、讃岐円座を二つ手に持ちて出でて、一つは俵藤太にしかせ、一つは己れしきて、種々の饗応の事共を云ひければ、秀郷さる賢者にて、『此の人の体、軽き相なり。我が身を平親王と称する程の人の、手づから敷物を以て出で、民にしかせつる条、逆なり。日本国の大将軍とえならじ』とて、やがてするぼひのきにけり。それまでこそ無くとも、せめては御前へ近くめさるべかりつる者を」とぞ云ひける。
さて兵▼P2163(八一オ)衛佐は、武蔵国と下総国との境に、住田川と云ふ河の鰭に陣を取る。武蔵国の住人江戸太郎・葛西三郎等が一類、数を振るひて参上す。兵衛佐は、「彼等は衣笠城にて我を射たりし者には非ずや。大庭・畠山に同意して、凶心を挿みて参りたるか」といはせられたりければ、彼の輩再三陳じ申すによりて、いかにもなしたけれども、当時の勢のほしければ、大将筆が物具計りを召されて、「後陣に候へ」とて、召し具せらる。
又、兵衛佐宣ひけるは、「平家の嫡孫小松少将惟盛を大将軍として、五万余騎にて、上総守忠清を先陣にて、斎藤別当
実盛を東国の案内者として、下るべきよし風聞す。同じくは甲斐・信乃両国、敵の方に成らぬ先に、此の河を渡り、足柄山を後ろにあて、富士川▼P2164(八一ウ)を前にあてて、陣を取らむと思ふなり」と有りければ、「此の義尤も然るべし」とぞ、各同じ申しける。「さらば、江戸太郎、此の程の案内者なり。浮き橋渡して進らすべし」と宣ひければ、江戸は兵衛佐の御気色に入らむと思ひければ、程無く浮き橋を渡して進らせたり。此の橋を打ち渡して、武蔵国豊嶋の上、瀧野川の板橋と云ふ所に陣を取る。其の勢既に十万騎に及べり。八ヶ国の大名、小名、別当、権守、庄司、大夫なんど云ふ様なる一党の者共、我劣らじと、或いは二三十騎、或いは四五十騎、百騎、面々に白旗を指してぞ馳せ集りける。兵衛佐は先当国六所の大明神に詣で給ひて、上矢を抜いて献らる。
二十 〔畠山、兵衛佐へ参る事〕 其の時畠山の二郎、乳母の半沢六郎成清を呼びて云ひけるは、▼P2165(八二オ)「当時の世間の有様、いかやうなるべしとも覚えず。父庄司・叔父小山田の別当、六波羅に祗候の上は、余所に思ふべきにあらねば、三浦の人々と一軍してき。且つは定の子細三浦の人々に云ひ置きぬ。今兵衛佐殿の放光繁昌、直事とも覚えず。平に推参せばやと思ふはいかに」と云ひければ、成清申しけるは、「其の事に候ふ。此の旨を只今申し合はせ奉らむと存じつる也。弓矢を取る習ひ、父子両方に分かるる事は常の事也。且つは又、平家は今の主、佐殿は四代相伝の君也。とかくの儀に及ぶまじ。とくとく御推参有るべし。遅々せば、一定追討使遣はされぬ」と申しければ、五百余騎にて白旗・白き弓袋を指して参りて、見参に入るべきの由をぞ申しける。
兵衛佐宣ひけるは、「汝が父重能、▼P2166(八二ウ)叔父有重、当時平家に仕ふ。就中小坪にて我を射たりし上、頼朝が旗に只同じ様なる旗を指させたり。定めて存ずる旨の有るか」と宣ひければ、重忠申しけるは、「先づ小坪の軍の事は存知の旨、三浦の人々に再三申し置き候ひぬ。其の次第、定めて披露候ふ歟。全く私の意趣に候はず。君の御事を忽緒する事をも存ぜず。次に旗の事は、御前祖八幡殿、武衡・家衡を追討せさせ給ひ候ひし時、重忠が四代の祖父秩父十郎武綱初参して、此の旗を指して御共仕りて先陣をかけて、即ち彼の武衡を追討せられにき。近くは御舎兄悪源太殿、多胡先生殿を大倉の館にて攻められし時の軍に、重忠が父、此の旗を指して、即時に討ち落とし候ひにき。▼P2167(八三オ)源氏の御為、旁重代相伝の御悦び也。仍つて其の名を吉例と申し候ふ。君の今日本国を打ち取らせ御し候ふ御時、吉例の御旗指して参りて候ふ。此の上は御計らひ」とぞ陳じ申しける。
兵衛佐、千葉・土肥なんどに「いかが有るべき」と問はれければ、「畠山、な御勘当候ひそ。畠山だにも打たせ給ひぬる物ならば、武蔵・相模の者共、ゆめゆめ御方へ参るまじ。彼等は畠山をこそ守り候ふらめ」と一同に申しければ、誠に埋りなりと思はれければ、畠山に宣ひけるは、「誠に陳じ申す所の条々、謂はれ無きにあらず。さらば我れ日本国を討ち平らげむほどは、一向先陣を勤むべし。但し頼朝が旗に只同じきがまがふ事の有るに、汝が旗には此の革をすべし」とて、藍革一文をぞ下されける。それより畠山が旗には小文の藍革を▼P2168(八三ウ)一文押したりけり。中々珍しくぞ見えける。
是を聞きて、武蔵・相模の住人等、一人も漏らさず皆馳せ参る。
大庭三郎此の次第を聞きて、叶はじと思ひて、平家の迎へに上りけるが、足柄を越えて藍沢の宿に付きたりけるが、前には甲斐源氏、二万余騎にて駿河国へ越えにけり。兵衛佐の勢、雲霞にて責め集まると聞こえければ、「中に取り龍められては叶はじ」とて、鎧の一の板切り落として、二所権現に献りて、相模国へ引き帰して、おくの山へ逃げ龍もりにけり。 平家は、かやうに内儀するをも知らず、「いかさまにも兵衛佐に勢の付かぬさきに撃手を下すべし」とて、大政入道の孫、小松の内大臣の嫡子惟盛と申しし少将、并びに入道の舎弟、薩摩守忠度とて、熊野より生し立ちて、心猛き仁と聞ゆるを、撰び▼P2169(八四オ)見せらる。又入道の末子にて三川守知度と申す、此の三人を大将軍として、侍には上総守忠清以下、伊藤、斎藤、官あるも官なきも数百人、其の勢三万余騎を向けらる。彼の惟盛は貞盛より九代、正盛よりは五代、入道相国の嫡孫、小松内大臣重盛の嫡男也。平家嫡々の正統也。今凶徒乱を成すによりて大将軍の撰びに当る、ゆゆしかりし事也。
廿一 〔頼朝、追討すべきの由、官符下さるる事〕 十一日、頼朝追討すべきよし、宣下せらる。其の官符の宣に云はく、
「左弁官下す 東海東山道諸国、
早く伊豆国の流人源頼朝并びに与力の輩を追討すべき事
右、大納言兼左近衛大将藤原実定、〔 〕勅を奉りて宣す。伊豆国の流人▼P2170(八四ウ)源頼朝、忽ちに凶党を相語らひて、当国・隣国を虜掠せんと欲す。叛逆の至り、既に常図に絶ゆ。宜しく追討せしむべし。右近衛権少将惟盛、薩摩守同じく忠度、参河守同じく忠度、参河守同じく知度等、兼ねては又、東海東山両道の武勇に堪ふる者、同じく之を追討すべし。其の中に群抜に殊功有る輩は、不次の賞を加ふべし。諸国宜しく承知すべし。宣に依つて之を行ふ。
治承四年九月十六日、左大史小槻宿祢
蔵人頭左中弁藤原経房が奉り」と書かれたり。
昔は、朝敵を討ち平げむとて外土へ向かふ大将軍は、先づ参内して節刀を賜はる。震儀、南殿に出御し、兵衛階下に陣を引き、内弁・外弁の公卿、参列して中儀の節会を行はる。大将軍・副将軍、各礼▼P2171(八五オ)儀をただしくして是を賜はる。されども、承平天慶の前蹤も、年久しくなりて准へがたし。今度は、堀川院の御時、嘉承二年十二月、因幡守正盛が前の対馬守源義親を追討の為に出雲国へ下向せし例とぞ国(聞こ)へし。鈴ばかりは賜はりて、革の袋に入れて、人の頸に懸けさせたりけるとかや。
〔廿二〕〔昔将門を追討せられし事〕 朱雀院の御時、承平年中に、平将門、下総国相馬郡に住して、八ヶ国を押領し、自ら平親王と称して都へ打ち上りけり。帝位を傾け奉らむとする謀反の聞こえ有りければ、花洛の騒ぎなのめならず。これに依つて、天台山には、其の時の貫首、法性房の大僧都尊意を始め奉りて、延暦寺の講堂にて、天慶二年二月に、将門降伏の為に不動を安じ、▼P2172(八五ウ)鎮護国家の法に修する。是のみならず、諸寺諸社の僧侶に仰せて、将門調伏の祈精有りけり。
平家の先祖にて貞盛、其の時無官にて上平太と申ける時、兵の聞こえ有りて、将門追討の宣旨を奉る。例に任せて、節刀を賜はりて、鈴の奏をして、相撲節、之を行はるる時、方の左右、大将の礼儀振舞なる。弓場殿の南の小戸より罷り出でけるに、副大将軍宇治民部卿忠久、大将軍には平貞盛、刑部大輔藤原忠舒、右京亮藤原国幹、大監物平清基、散位源就国、散位源経基等東国へ発向す。下野国の押領使藤原秀郷、国にして相伴ひけり。
貞盛已下、東路に打ち向ひて、遥々と下りける道すがら、猛くやさしき事共有りけり。中にも駿河国清見が関に宿りたり▼P2173(八六オ)けるに、清原滋藤と云ふ者、民部卿に伴ひて、軍監と云ふ官で下りけるが、「漁舟の火の影は寒くして浪を焼く、駅路の鈴の声は夜山を過ぐ」と云ふ唐韻を詠じたりけるが、折から優に聞こえて、民部卿涙を流してぞ行きける。
天慶三年二月十三日に、貞盛以下の官軍、将門が館へ押し寄せたり。将門が余勢、未だ来たり集まらず。先づ四千余騎を率して、下総国幸嶋郡北山に陣をとつて相待つ処に、同じく十四日の未申両剋に合戦をとぐ。爰に将門、順風を得たり。貞盛、風下に立ちたり。暴風枝を鳴らし、地籟塊を運ぶ。将門が南面の楯、前を払ふ。貞盛が北の楯、面に吹き掩ひけれども、貞盛事とせず。両陣乱れ逢ひて、数剋合戦を致す。貞盛が中の陣の兵八十余騎、追ひ靡びかさる。将門が凶徒等、▼P2174(八六ウ)跡目に付きて襲ひ来たる。貞盛以下の官兵等、身命を捨てて禦き戦ふ時、将門甲冑を着し、駿馬に乗りて懸け出でて支へたり。馬は風飛を忘れたり、人は梨老の術を失へり。将門が凶徒等、防き戦ふ事、輙く責め落とし難かりけるに、調伏の祈精酬いて、将門天罰を蒙り、神の鏑暗に中りて、終に誅戮せられけり。
同じく四月廿五日に、下総国より将門が首、都へ献る。大路を渡して、左の獄門の木に懸けらる。譬へば、馬の前の薗、野原に遣り、俎の上の魚、海浦に帰するが如し。将門名を失ひ身を滅ぼす事、武蔵権守興世、常陸介藤原玄茂等が謀悪を致す所なり。徳を貪り君を背く者、鉾を踏む虎の如しと云へり。
将門が伴類等、或いは誅たれ、或いは戦場を逃げ出でて、国々に逃げ籠りたり。将門が舎弟将頼并▼P2175(八七オ)びに常陸介藤原玄茂は相模国にして誅たる。武蔵権守興世は上総国にして首を刎らる。坂上の遂高、藤原玄明は常陸国にして誅戮せらる。此の外の舎弟以下伴類等は、命の捨てがたさには、深山に逃げ籠る。妻子を捨てて、山野に迷ふ輩、数を知らず。鳥に非ねども、空しく四鳥の別れを致し、山に非ずして徒らに三荊の悲しみを懐く。雷電の響きは百里の内には聞こゆ。将門、下総豊田の郡の凶徒、謀叛の聞こえ千里の外に通ず。一生一業、大康の罪業を致し、終に黄泉の道に迷ふらむ。無慙とも愚か也。
時に勧賞行はる。上平太たりし貞盛、忽ちに平将軍と仰せ下さる。其の時、陣座の作法、左大臣実頼小野宮殿、右大臣師輔九条殿、此の外公卿・殿上人座列し給ひたりけるに、九条殿申させ▼P2176(八七ウ)給ひけるは、「大将軍すすむで襲ひ来たりて朝敵を平ぐる事は左右に及ばねども、後陣に副将軍の後に襲ひ来たるを憑もしく思ふによつて、合戦の思ひも弥よ猛なり。而るに、貞盛一人に勧賞を行はるる事、忠久、本意無くや存じ候はむずらむ。大将軍の程の賞こそ候はずとも、少しにおうたる賞や、忠久に行はるべく候ふらむ」と度々申させ給ひけれども、小野宮殿「さのみ勧賞行はれ候はむ事、無下に念なく候ふ」なんど申させ給ひければ、民部卿忠久の賞は遂に行はれざりけり。忠久忽ちに怒りをなして、内裏を罷り出でられけるに、天も響き地もくづるばかりなる大音声を捧て、「小野宮殿の末葉、永く九条殿の御末の婢となし給へ」と罵りて、手をはたと打ちて、左右の手をにぎり給ひける。十の爪二三寸計に、目にみすみす▼P2177(八八オ)なりて、にぎり通したりければ、見るもおびたたし。紅を絞りたるが如し。やがて宿所に帰りて、思ひ死にに死にて、悪霊とぞ成りにける。さればにや、果たして小野宮殿の御末は、今は絶えはてて、自ら有る人も数ならず。九条殿の御末は、今まで摂政絶えさせ給はず。小野宮殿の御末は、皆九条殿の婢にぞ成り給ひにける。朝敵を平ぐる儀式は、上代はかくこそあんなるに、維盛の撃手の使の儀式、先蹤を守らぬに似たり。「なじかは事行ふべき」とぞ時の人申し合ひたりける。
廿三 〔惟盛以下、東国へ向かふ事〕 維盛以下の撃手の使、九月十七日、福原の新都を出でて、同じき十八日、古京に着く。是れより東国へ趣く。甲冑・弓・胡〓[竹+録]・馬の鞍、郎等に至るまで、かかやく計りぞ出で立ちたりければ、見る人幾千万と云ふ事をしらず。▼P2178(八八ウ)権亮少将惟盛は、赤地の錦の直垂に大頸はた袖は紺地の錦にて綺へたり。萌黄匂の糸威の鎧に、連銭葦毛の馬の太く逞しきに、鋳懸地の黄覆輪の鞍置きたり。年廿二、みめ皃勝れたりければ、画に書くとも筆も及ぶべくもみえず。 志浅からざりける女房、忠度の許へ云ひ遣はしける。
東路の草葉をわけむ袖よりもたたぬたもとぞ露けかりける K108
と申したりければ、忠度、
別れ路をなにかなげかむこえて行くせきを昔のあとと思へば K109
と返したりけり。此の人、貞盛が流れなれば、昔将門が討手の使の事をよめるにや。女房の本歌は、大方のなごりはさる事にて、返歌は▼P2179(八九オ)いまいましくぞ覚ゆる。
〔廿四〕〔新院厳嶋へ御幸事 付けたり願文あそばす事〕 同じき九月廿二日、新院又厳嶋へ御幸。去んぬる三月にも御幸ありて、其の験にや、一両月の程に天下鎮まりたる様にみえて、法皇も鳥羽殿より出御などありしに、去んぬる五月、高倉宮の御事より打ち連き、又しづまりもやらず。天変頻りに示し、地夭常にあつて、朝庭穏しからざりしかば、惣じては天下静謐の御祈念、別しては聖体不予の御祈祷の為也。誠に一年に二度の御幸は、神慮争か喜び給はざるべき。御願成就も疑ひなしとぞ覚えし。御共には入道相国右大将宗盛公以下、卿相雲客八人とぞ聞こえし。此の度は、素紙墨字の法花経を書供養せらる。其の外、御手づから金泥にて提婆品をあそばされたり▼P2180(八九ウ)けり。件の願文は、御真文とぞ聞こえし。其の御願文に云はく、
蓋し聞く、法性の山静かにして、十四十五の月高く晴れ、権化の地深くして、一陰一陽の風旁らに扇ぐ。それ伊都岐嶋の社は、称名普聞の場なれば、効験無双の砌也。遙嶺の社壇を廻るなり。自ら大慈の高く峙てるを顕し、巨海の祠宇に及ぶなり。暗に弘誓の深湛を表す。
伏して惟れば、初めは庸昧の身を以て、忝く皇王の位を踏む。今は〓[言+庶]遊を勵郷の訓へに翫ぶ。閑放を射山の居に楽しぶ。而るを、偸かに一心の精誠を抽きんでて、孤嶋の幽埃に詣す。瑞籬の下に冥恩を仰ぐ。懇念を凝らして汗を流しぬ。宝宮の裏に霊託を垂る。其の告げの意に銘ずる有り。就中、怖畏謹慎の期を指すに、専ら季夏初秋の候に当たる。而る間、病痾忽ちに侵し、弥よ神威(感ィ)の空しからざることを思ふ。萍桂頻りに転ず、猶医術の験を施すこと無し。▼P2181(九〇オ)祈祷を求むと雖も、霧露を散じ難し。如かじ、心府の志を抽きんでて、重ねて斗藪の行を企てむと欲す。
漠々たる寒嵐の底に旅泊に臥して、夢を破り、凄々たる微陽の前に、遠路を望みて眼を極む。遂に枌楡の砌に就きて、敬ひて清浄の莚を展べて、書写し奉る、色紙墨字の妙法蓮花経一部、開結二経、般若心経、阿弥陀経各一巻、手づから自ら書写し奉る、金泥の提婆品一巻。時に蒼松蒼柏の蔭、共に善利の種を添へ、潮去り潮来たる響き、暗に梵唄の声に和す。弟子北闕の雲を辞して八日、涼燠の多く廻ること無しと雖も、西海の浪を凌ぐこと二度、深く機縁の浅からざることを知る。
抑も、朝に祈る客、一つに匪ず。暮に賽申しする者千且なり。但し、尊貴の帰敬多しと雖も、院宮の往詣、未だ之を聞かず。禅定法皇、初めて其の儀を胎す。弟子、眇身深く其の志を運らす。彼の嵩高山の月の前に、漢武未だ和光の影を▼P2182(九〇ウ)拝せず。蓬莱嶋の雲の底に、天仙空しく垂跡の塵を隔つ。当社の如きは曽て比類〔無し〕。仰ぎ願はくは大明神、伏して乞ふ一乗経、新たに丹祈を照らして、忽ちに玄応を影し給へ。敬ひて白す。
治承四年九月廿八日 太上天皇 御諱 敬ひて白す
廿五 〔大政入道院に起請文書かせ奉る事〕 御奉幣の後、廻廊に御通夜あり。遥かに夜ふけて、御前に祗候の人々をば皆のけられて、入道并びに宗盛公参りて密かに申されけるは、「東国に兵乱起こりて候ふ。源氏に御同心あらじと御起請文あそばして、入道に給はり候へ。心安く存じて、弥よ宮仕へ申し候ふべし。若し聞こし召され候はずは、此の離島に棄て置き進らせて、罷り帰り候ふべし」と申されければ、上皇少しも騒がせ給はず、打ち咲はせ給ひて、「其の条いと安し。但し、年来何▼P2183(九一オ)事かは、入道はからひ申したる事を背きたる。今初めて二心ある身と思はるらむこそ本意なけれ」と仰せ有りければ、宗盛公、硯紙持ちて参りたり。「さていかにと書く事ぞ」と仰せあり。入道の申すままにあそばして給はる。入道是を拝見して、上皇を拝し奉りて、「今こそたのもしく候へ」とて、前の右大将に見す。「凡そ目出たく候」と申されければ、入道取りて懐に入れて退出す。「人々御前へ御参り候へ」と、常よりも心よげなる気色にて申されける時、邦綱卿参られたり。かたへの人はつやつや其の心をえず。余りにおぼつかなかりけるとかや。
十月五日、還幸。今度は福原の新都より御幸なれば、斗藪の御煩ひなかりけり
廿六 〔法皇夢殿へ渡せ給事〕 十七日、夢殿と云ふ所にあたらしき御所を立てて、日来渡らせ給ひけるが、▼P2184(九一ウ)三条へ渡らせ給ふべきよし、入道相国申しければ、法皇渡らせ給ふ。御輿にてぞ有りける。御共には、左京大夫修範候はれけり。楼の御所とて、いまいましき名ある御所を出でさせ給ひき。世の常の御所へ入らせ給ふぞ目出たき。是も厳島の御幸の験にやとぞ思し召されける。入道、事の外に思ひ直らるるにこそと思し召さる。
廿七 〔平家の人々駿河国より逃上ぐる事〕 平家の討手の使、三万余騎の官軍を率して、国々宿々に日を経て宣旨を読み懸けけれども、兵衛佐の威勢に怖れて、従ひ付く者なかりけり。駿河国清見が関まで下りたりけれども、国々の輩一人も従はず。兵衛佐の勢は日に随ひて馳せ重ると聞こえければ、大将維盛・忠度等、斎藤別当実盛を召して、明日の合戦の事を談議▼P2185(九二オ)せられける次でに、「抑も、頼朝が勢の中に己ほどの弓勢の者何計りか有る」なんど問はれければ、「実盛をだにも弓勢の者と思し召され候ふか。奥さまには、矢づかは十二三束、十四五束を射る者のみこそ多く候へ。弓は二人張の弓をのみ持ちあひて候ふ。冑を二三両なんど重ねて、羽ぶさまで、射貫き候ふ者、実盛おぼえてだにも七八十人も候ふらむ。馬は早走りの進退逸物なる究竟の乗尻共、乗りおほせて、馬の鼻を並べてかけ候ふ。親もしね、主もしね、子も死ね、従者もしね。それを見あつかはむとする事、ゆめゆめ候はず。只死人の上をも乗りこえて、敵に取り付かむとするふて者にて候ふ。何なる又郎等も、一人してつよき馬四五疋づつ乗替に持たぬ者候はず。京武者、西国の者共は、一人手負ひ候ひぬれば、それをかき▼P2186(九二ウ)あつかはむとて七八人は引き退く。馬は、伯楽馬の乗り出で四五丁計りこそ頭持ち上げ候へ、下りつかれて候はむに、東国の荒手の武者に一あてあてられ候ひなば、争か面を向け候ふべき。坂東武者十人、京武者一二百人向られ候ふとも、答ふべしとも覚え候はず。就中に、源氏の勢は、二十万余騎と聞こえ候ふ。御方の勢は、纔かに三万余騎こそ候ふらめ。同じ程に候はむだにも、なほ四分が一にてこそ候へ。彼等は、国々の案内者共にて候ふ。各は国の案内も知り侯はず。追ひ立てられ候ひなば、ゆゆしき御大事にて候ふべし。京よりもさばかり申し候ひし物を。当時、源氏に与力したる人々の交名、粗承り候ふに、敵対すべしとも覚え候はず。『急ぎ御下りありて、武蔵・相模へ入らせ給ひて、両国の勢を具して、▼P2187(九三オ)長井の渡に陣を取りて敵を待たせ給へ』と、再三申し候ひしを、きかせ給はずして、兵衛佐に両国の勢を取られ候ひぬる上は、今度の軍は叶ひ難くぞ候はむずらむ。かく申し候へばとて、実盛落ちて軍をせじと存ずるにては候はず。恐れながら、実盛ばかりぞ軍は仕り候はむずる。されども、右大臣殿の御恩重き身にて候へば、きと暇を給はりて、今一度見参に入りて、怱ぎ帰り参りて討ち死に仕るべし」とて、千騎の勢を引き分けて、京へ帰り上りにけり。
大将軍、聞き憶して、心弱くは思はれけれども、上には、「実盛がなき所にては軍はせぬか。いざさらば、やがて足柄山を打ち越えて、八ヶ国にて軍をせむ」と、大将達ははやられけるを、忠清申しけるは、「八ケ国の兵、皆兵衛佐に従ふよし聞こえ候ふ。伊豆・駿河の者共、▼P2188(九三ウ)参るべきだにも、未だ見え候はず。御勢は三万余騎とは申し候へども、事に合ひぬべき者、二三百人にはよも過ぎ候はじ。左右無く山を打ち越えては、中々あしく候ふべし。只富士川を前にあてて防かせ給ひ候はむに、叶はずは、都へ帰り上らせ給ひて、勢を召して、又こそ御下り候はめ」と申しければ、「大将軍の命を背く事やは有る」といはれけれど、「それも様による事にて候ふ上、福原をたたせ給ひし時、入道殿の仰せに、合戦の次第は忠清が計らひ申さむに随はせ給ふべきよし、正しく仰せ事候ひき。其の事きこしめされ候ひなむ者を」とて、すすまざりければ、一人懸け出づるにも及ばず、手綱をゆらへ、目を見合はせて、敵を相ひ待ちける程に、十月廿二日、兵衛佐八ヶ国の勢を振るひて、足柄を超えて、木瀬川に陣を取りて兵の数を注しけり。侍・郎等・▼P2189(九四オ)乗替相ひ具して、馬の上、十八万五千余騎とぞ注しける。其の上、甲斐源氏には、一条次郎忠〔頼〕を宗として、二万余騎にて兵衛佐に加はる。
平家の勢は、富士の麓に引きあがり、平張打ちてやすみ居たりけるに、兵衛佐使を立てて申されけるは、「親の敵と優曇花とに合ふ事は、惣じて有り難き事にて候ふに、近く御下り候ふなるこそ、悦び存じ候へ。明日は急ぎ見参に入るべし」と、云ひ送られたり。使は雑色新先生と云ふ者也。当色きせたる者八人具して向かひて、平家の人々の陣にて次第に此の由を触れ廻りけるに、人々幔幕打ち上げて居られたりけれども、返事云ふ人もなし。「此の御返事は、いかがし給はむずらむ」と相ひ待つ処に、返事に及ばず、彼の使者を搦めて、一々に頸を切りてけり。兵衛佐是▼P2190(九四ウ)を聞きて、「昔も今も、牒の使の首を切る事、未だ聞き及ばず。平家已に運尽きにけり」と宣ひければ、軍兵弥よ兵衛佐に帰伏したりけり。
さるほどに、兵衛佐には、九郎義経、奥州より来加はりければ、佐、弥よ力付きて、終夜昔今の事共を語りて、互に涙を流す。佐宣ひけるは、「此の廿余年が間、名をば聞きつれども、其の皃を見申さざりつれば、いかがして見参すべきと思ひ給へつるに、最前に馳せ来たり給へば、故頭殿の生き帰り給へるかと覚えて、たのもしく覚え候ふ。彼の項羽は、沛公を以て秦を滅ぼす事を得たりき。今、頼朝次将を得たり。何ぞ平家を誅伐して、亡父が本意を遂げざるべき」と宣ひて後、「抑も此の合戦の事を聞きて、秀衡はいかが申しし」と尋ねられければ、「ゆゆしく感じ申し候ふぞ。新大▼P2191(九五オ)納言已下の近臣を失ひ、三条宮、源三位入道を誅たれし折節、殊には『いかに、兵衛佐殿は聞給はぬやらむ』と、度々申し候ひき。去んぬる承安四年の春の比より、都を出でて奥州へ罷り下りて候ひしに、秀衡昔の好みを忘れず、事にふれて憐れみを至し候ひき。かく参り候ひつるにも、甲冑・弓箭・馬の鞍・郎従に至るまで、併ら出だし立てられて候ふ。しからずは、争か郎等一人をも相具し候ふべき。十余年が程、彼が許に候ひし程の志、いかにして報じ尽くすべしとも覚えず候ふ」とぞ、九郎義経申しける。
廿四日、明日は両方矢合せと定めて、日も晩れにけり。平家の軍兵、源氏の方を見遣りたれば、篝火のみゆる事、野山と云ひ里村と云ひ、雲霞、はれたる空の星の如くなり。東・南・北三方は敵の方也。西一方計りぞ、我が方の勢なり▼P2192(九五ウ)ける。源氏の軍兵、弓の絃打ちし、鎧づきし、どどめき罵りける音に驚きて、富士の沼に群れ居る水鳥ども、羽打ちかはし、立居する声おびたたしかりけり。是を聞きて、敵既によせて時を作るかと思ひて、搦手廻らぬ先にと、取る物も取りあへず、平家の軍兵、我先にと迷ひ落ちにけり。鎧はきたれども、甲をばとらず。矢は負ひたれども、弓をとらず。或いは馬一疋に二三人づつ取り付きて、誰が馬と云ふ事もなく乗らむとす。或いはつなぎたる馬に乗りてあふりければ、くるくると廻る物も有りけり。かやうにあわてさわぎて、一人も残らず、夜中に皆落ちにけり。
さて夜漸く暁方に成りて、源氏の方より廿万六千余騎、声を調へて時を作る事、三ヶ度也。凡そ東八ヶ国ひびかして、山のかせぎ、河の▼P2193(九六オ)鱗に至るまで、肝をけし、心を迷はさずと云ふ事なし。おびたたしなんど云ふも愚かなり。かかりけれども、平家の方には時の声をも合はせず、つやつやおともせざりければ、あやしみを成して、人を遣はして見せければ、屋形大幕をも取らず、鎧・腹巻・大刀・刀・弓箭・小具足まで、いくらと云ふ事もなく捨て置きて、人一人もみえざりけり。兵衛佐、是を聞きて、「此の事、頼朝が高名に非ず。併ら八幡大菩薩の御計らひ也」とて、王城を伏し拝み給ひて、表矢をぬいてぞ献り給ひける。彼の水鳥の中に、山鳩あまた有りけるなんどぞ聞こえし。其の比、海道の遊女共が口遊みに、
富士川の瀬々の岩越す波よりも早くも落つる伊勢平氏哉 K110
廿八 〔平家の人々京へ上り付く事〕 十五日、東国へ下りし惟盛已下の官兵共、今日旧都へ入る。昼は▼P2194(九六ウ)人目に恥ぢて、夜陰れてぞ入りける。三万余騎を率して、下りし時は、「昔より是程の大勢、聞きもし見も及ばず。保元平治の兵革の時、源氏・平氏、我も我もと有りしかども、是が十分が一だにも及ばざりき。あな、おびたたし。誰か面を向くべき。只今打ち靡かしてむず」と見えし程に、矢一筋をも射ず、敵の皃をもみず、鳥の羽音に驚き、兵衛佐の勢多かるらむと聞き臆して逃げ上りたるぞ、無下にうたてき。折節、在京したりける関東の武士少々、惟盛に付きて下りたりけるが、小山四郎朝政以下、多く源氏の方へ付きにければ、弥勢かさなりにけり。旧都の人々、是を聞きて申しけるは、「昔より物の勝負には見逃げと云ふ事、云ひ伝へたりつれども、其だにもうたてきに、是は聞き逃げにこそあむなれ。手▼P2195(九七オ)合はせの討手の使、矢一つをも射ず、逃げ上る、あな、いまいまし。向後もはかばかしかるまじきごさんめれ。一陣破れぬれば、残党固からず」とて、聞く人、弾指をぞしける。
〔廿九 京中に落書する事〕 例の又何なるあどなし者のし態にや有りけむ、平家をば平屋と読み、討手の大将をば権亮と云ひ、都の大将軍は宗盛といへば、是等を取り合はせて歌によみたりけり。
平屋なる宗盛いかに騒ぐらむ柱とたのむすけを落として K111
上総守忠清が富士川に鎧を忘れたりける事を
富士川に鎧は捨てつ墨染の衣只きよ後の世のため K112
忠景はにげの馬にや乗りつらむかけぬに落る上総しりがひ K113
▼P2196(九七ウ)忠清が本名をば、忠景と云ひければ、かくよみたりけるにや。げに鼠毛の馬にや乗りたりけむ。当時、奈良法師こそ平家に讎を結びたりしかば、其の所行にてや有りけむ。入道相国、余りに口惜しがりて、権亮少将をば鬼海の嶋へ流し、忠清をば頸を切らむとぞ宣ひける。忠清、誠に身の咎遁れ難し。いかに陳ずとも甲斐あらじ。いかがせましとためらひけるが、折節、主馬の判官盛国以下、人ずくなにて、かやうの沙汰共有りける所へ、忠清をづをづ伺ひよりて申しけるは、「忠清十八の歳と覚え候ふ。鳥羽殿に盗人の籠もりて候ひしを、寄する者一人も候はざりしに、築地より登り越えて、搦めて候ひしよりこのかた、保元平治の合戦を初めとして、大小の事に一度も君を離れ▼P2197(九八オ)参らせ候はず。又不覚を現はしたる事も候はず。今度東国へ初めて罷り下りて、かかる不覚を仕る事、ただ事とは覚え候はず。よくよく御祈り有るべしと覚え候ふ」と申しければ、入道相国げにもとや思し召されけむ、物も宣はず。忠清勘当に及ばざりけり。
三十 〔平家三井寺を焼き払ふ事〕 去んぬる五月、高倉宮を扶持し奉る事によりて、三井寺責めらるべしと沙汰有りければ、大衆発りて、大津の南北の浦にかいだてをかき、矢倉をかきて防くべき由、結構す。十一月十七日、頭の中将重衡朝臣を大将軍として、一千余騎の軍兵を率して、三井寺へ発向す。衆徒防き戦ふと云へども何事か有るべき、三百余人討たれにけり。残る所の大衆、こらへずして落ちにけり。或いは耆▼P2198(九八ウ)老を引きて高き峯に昇り、或いは是幼稚にして深き谷に入る。かかりければ、重衡朝臣、寺の中に打ち入りて、次第に是を焼き払ふ。南北中の三院の内、焼くる所の堂舎塔廟神社仏閣、本覚院・鶏足坊・常喜院・真如院・桂薗院・尊星王堂・普賢堂・青龍院・大宝院・今熊野の宝殿・同じく拝殿等・護法善神の社壇・教待和尚の本坊〈同じく御殿影像同じく本尊等〉・鐘楼七宇・二階大門〈金剛力士在り〉・八間四面大講堂・三重宝塔一基・阿弥陀堂・同じく宝蔵・山王宝殿・四足一宇・四面の廻廊・五輪院・十二間の大坊・三院各別、灌頂堂各一宇、但し金堂計りは焼けざりけり。其の外、僧房六百余宇、在家千五百余家、地を払ひ畢ぬ。仏像二千余体、▼P2199(九九オ)顕密両宗の章疏、大師の渡し給へる唐本一切経七千余巻、忽ちに灰燼となりぬ。又焼け死ぬる所の雑人、既に千人に及ぶとぞ聞えし。凡そ顕密須臾に滅びて、伽藍実に跡なし。三宝の道場もなければ振鈴の音も聞かず。一花の仏前もなければ闘伽の声も絶えたり。宿老有智の明匠も修学を怠りたり。受法相承の弟子も経教に別れたり。
此の寺と申すは、元は近江のギ大領と申す者の私の寺たりしを、天武天皇に寄進し奉りてより以降、御願と号す。専ら南岳天台の古風を学び、深く青龍玄法の教跡を翫ぶ。数百歳の智水、此の時に永く渇き、大小乗之法輪、此の時に忽ちに止どまりぬ。仏法の経句、人法の最後なり。遠近皆傷嗟す、況や寺門の住侶に於てをや。▼P2200(九九ウ)老少挙りて憂悲す、況や有情の諸人に於てをや。本仏と申すは、彼の天皇の御本尊なりしを、生身の弥勒如来と聞こえ給ひし教待和尚の百六十二年の間、昼夜朝夕懈らず行ひて、智置大師に付属し給ひたりける弥勒とぞ聞こえし。「都吏多天上摩尼宝殿より天降り坐して、遥かに龍花下生の朝を待ち給ふ」と聞きつるに、「こはいかになりぬるやらむ、当寺の恵命も既に尽きはてぬるにや」とぞ見えし。天智・天武・持統三代の御門の御鵜の羽葺湯の水を汲みたりける故に三井寺と号したり。又は大師此の所を伝法灌頂の霊跡として井花水の水を汲む事、慈尊三会の朝を待つ故に三井寺とも申しけり。かくやむごとなき聖跡なれども、事とも云はず、弓▼P2201(一〇〇オ)箭を入れぬる事こそ悲しけれ。
卅一 〔円恵法親王天王寺の寺務止めらるる事〕 廿一日、薗城寺の円恵法親王、天王寺の別当止められ給ふ。彼の宮と申すは後白川院の御子也。院宣に云はく、「薗城寺の悪徒等、朝家を違背して忽ちに謀叛を企つ。仍に門徒の僧綱已下、皆悉く公請を停止して、見任并に〓徳(そうとく)を解却し、兼ねては又、末寺・庄園、及ひ彼の寺の僧等が私領、諸国の宰吏に仰せて、早く収公せしむ。但し寺用に限り有るに於ては、国司の沙汰と為て、寺家の所司に付けて、其の用途に任せて、恒例の仏事を退転せしむること莫れ。無品円恵法親王、宜く所帯の天王寺の検校職を停止せしむべし」とぞ書かれたりける。
卅二 〔薗城寺の衆徒僧綱等、解官せらるる事〕 悪僧には僧正房覚、権僧正覚智、法印権大僧都定恵、▼P2202(一〇〇ウ)能慶、実慶、行乗、権少僧都真円、豪禅、兼智、良智、顕舜、権律師道顕、慶智、覚増、勝成、行智、行舜、已上十七人、見任解却。次に法印公性、行暁、慶実、法眼真勝、道澄、経尊、道俊、弁宗、勝慶、乗智、実印、偏円、漂猷、観忠、法橋良俊、忠祐、良覚、前の大僧正覚讃、前の権僧正公顕、前の権少僧都道任、已上廿人、上に准ふ。次に二会の講師円全、章猷、澄兼、公胤、已上四人、公請を停止す。殊に僧綱十三人、公請を止めらる。官を召し、所領を没官して同じく、
卅三 〔薗城寺の悪僧等を水火の責めに及ぶ事〕 使庁の使を付けて、水火の責め〔に及び〕て、明俊已下の悪僧を召さる。一乗院の房覚少将僧正をば飛騨判官景高朝臣奉る。▼P2203(一〇一オ)桂薗院実慶常陸法印をば上総判官忠綱朝臣奉る。行乗中納言法印をば博士の判官章貞奉る。能慶真如院の法印をば和泉判官仲頼奉る。其円亮僧都をば源大夫判官奉る。覚智美乃僧都をば摂津判官盛澄奉る。勝慶蔵人法橋をば祇薗の博士基康奉る。公顕宰相僧正をば出羽判官光長奉る。覚讃大納言僧正をば斎藤判官友実奉る。乗智明王院の僧正をば新志明基奉る。実印右大臣法眼をば仁府生経広奉る。▼P2204(一〇一ウ)観忠中納言法眼をば能府生兼康奉る。行暁大蔵卿法印をも同兼康承るとぞ聞こえし。
卅四 〔邦綱卿、内裏造りて主上を渡し奉る事〕 十一月廿二日、五条大納言邦綱卿、内裏造り出だして、主上渡らせ給ふ。此の大納言は、大福長者なりける上に、世の大事する人にて、ほどなくきらきらしく造り出だして、めでたかりけり。但し、遷幸の儀式をば世の常ならずぞ聞こえし。内裏の前に札に書きて立てたりけり。
思ひきや花の都を発ちしより風吹く原も危うかりけり K114
卅五 〔大嘗会延引事 付けたり五節の由来の事〕 今年大嘗会行はるべきかと云ふ儀定有りけれども、其の沙汰なし。大嘗会は十月の末に東河に御幸して御禊あり。大▼P2205(一〇二オ)内の北の野に斎壇所を立てて、神服・神供を調ふ。大極殿の前の龍尾道の壇上に廻立殿を立てて御湯をめす。同じき壇に大嘗宮の神膳を備ふ。清暑堂にして神宴あり。御遊あり。大極殿にて大礼行はる。豊楽院にて宴会あり。而るに、此の里内裏の体、大極殿もなければ、大礼行ふべき所もなし。豊楽院もなければ、宴会も行ふべからず。礼儀行はるべき所、つやつやなかりければ、新嘗会にて五節計り行はる。新嘗会の祭をば、猶古京神祇官にて是を行はる。五節と申すは、昔、清見原の御門、吉野宮にて御心をすまして琴を弾かせ給ひしかば、神女天より天降りて、▼P2206(一〇二ウ)
をとめごがをとめさびすも唐玉ををとめさびすも其の唐玉を K115
と五声を嫗ひ給ひて、五度袖を翻す。是を五節の初めとす。
旧都は山門南都程近くて、ともすれば大衆日吉の神輿を振り奉りて下洛し、神人春日の神木を捧げ奉りて上洛す。加様の事もうるさし。新都は山重なり江重なりて、道遠く程隔たれば、輙からじとて、遷都と云ふ事は大政入道計らひ出だされたりけれども、諸寺諸山の訴へ、貴賎上下の歎きなりけるに依つて、
〔卅六〕〔山門の衆徒都帰りの為に奏状を捧ぐる事 付けたり都帰り有る事〕 山門の衆徒三ヶ度まで奏状を捧げて天聴を驚かし奉る。第三度の奏状に云はく、
延暦寺の衆徒等、誠惶誠恐謹言 ▼P2207(一〇三オ)
特に天恩を蒙りて遷都を停止せられむと請ふ子細の状
右、謹みて案内を検(かんが)ふるに(ィ)、釈尊違教を以て国王を付属するは、仏法・王法互ひに護持の故也。就中延暦年中に、桓武天皇・伝教大師、深く契(約ィ)りを結び、聖主は則ち此の都を興して、親り一乗円宗を崇め、大師は又当山を開きて、遠く百王の御願を備ふ。其の後、歳四百廻に及ぶまで、仏日久しく四明の峯に輝き、世三十代を過ぎて、天朝各十善の徳を保ちたまふ。上代の宮城、此くの如くなるは無きものか(無し)。蓋し山路隣を占め、彼是相ひに助くるが故也。而るを今、朝議忽ちに変じて、俄かに遷幸有り。是、惣じては四海の愁へ、別しては一山の歎きなり。
先づ山僧等、峯の嵐閑か也と雖も、花洛を恃んで以て日を送り、谷の雪烈しと雖も、王城を瞻(にな)つて以て夜を継ぐ。若し洛陽遠路を隔て、往還容易(たやす)からずは、豈故山の月を辞して辺鄙の雲に交じらはざらむや。是一つ。
門▼P2208(一〇三ウ)徒の上綱等、各公諸に従ひ、遠く旧居を抛てて後、徳音通じ難く、恩言絶へ易き時、一門の小学等、寧ぞ山門に留まらむや。是二つ。
住山の者の為体、遥かに故郷を去つる輩、帝京を語らひて撫育を蒙り、家王都に在るの類は、近隣を以て便宜と為す。麓若し荒野と変ぜば、峯に豈人跡を留めむや。悲しき哉、数百歳の法燈、今時に忽ちに消え、千万輩の禅侶、此の世に将に滅びなむとす。是三つ。
但し、当寺は鎮護国家の道場、特に一天の固め為り。霊験殊勝の伽藍、又万山の中に秀でたり。所の魔滅、何ぞ必ずしも衆徒の愁歎のみならむ。法の滅亡(淪)、豈朝家の大事に非ず哉。是四つ(ィ)。
況や七社権現の宝前は、是れ万人拝観の霊場也。若し王宮遠くして社壇近からずは、瑞籬の月の前に鳳輦臨み勿く、叢祠の露の▼P2209(一〇四オ)下に鳩集永く絶えむ。若し参詣是疎かに、礼奠例に違はば、只冥応無きのみに非ず、恐らくは又神の恨みを残したまはんか。是五つ(ィ)。
凡そ当都をば是輙く棄つべからざる勝地也。昔聖徳太子の記文に云はく、「王気(ィ)有らむ所に必ず帝城を建てむ」と云々(ィ)。太聖遠く鑑みたまふ、誰か之を忽緒せむ。況んや青龍白虎悉く備へて、朱雀玄武忽に円(無闕)なり。天然として吉き処なり。執せざるべからず。是六つ(ィ)。
彼の月氏の霊山は、王城の東北に則ち攀づ(是ィ)、大聖の遊崛なり。日域の叡岳には、又帝都の丑寅に峙つ、護国の勝地なり。既に天竺の勝境に同じくして、久しく鬼門の凶害を払ふ。地形の奇特、豈惜しまざらむや。是七つ(ィ)。
賀茂・八幡・春日・平野・大原野・松尾・稲荷・祇薗・北野・鞍馬・清水・広隆・仁和寺、此くの如き神社仏寺大聖跡を垂れ、権者地を占め、護国護山(王ィ)▼P2210(一〇四ウ)の崇廟を建てて、勝敵勝軍の霊像を安ず。王城の八方を遶つて、洛中の万人を利す。貴賎帰敬の往来、市を為す。仏神利生の感応、此くの如し。何ぞ霊像の砌を避けて、忽ちに無仏の境に起かむ哉。設ひ新たに精舎を建てて、縦ひ更に神明を請ずとも、世、濁乱に及び、人、権化に非ず。大聖の感降必ずしも之有らじか。是八つ(ィ)。
此等の霊場の中に、或いは多年奉仕して掲焉の利益を蒙り、日夕に歩みを運びて緇素愛惜の所有り。或いは諸家の氏寺の不退の勤行を修し、子胤相続して自ら仏法を興隆する所有り。而るに、憖ひに公務に従ひて、愁へながら捨てて去る。豈に人の善を抑へ、聖の応を止むるに非ずや。是九つ(ィ)。
諸寺の衆徒、各公請に従ふ時、朝には蓬壷に参りて、暮には練若に帰す。宮城遠く移らば往還云何。若し本寺を捨てて、若し王命を背かば、左右怖れ有るに、▼P2211(一〇五オ)進退惟れ谷まれり。是十(ィ)。
昔を憶ふに、国豊かに民厚くして、都を興する傷み無し。今は国乏しく民窮まつて、遷移に煩ひ有り。是を以て、或いは忽ちに親属を別れて旅宿を企つる者有り。或いは纔かに私宅を破れども、運載に堪へざる者有り。悲歎の声、已に天地を動かす。仁恩の至り、豈之を顧みざらむや。若し尚遷都有らば、政清浄の道に背して、天心に違はむ。是十一。
七道諸国の調貢、万物運上の便宜、西に河あつて東に津あり。便に煩ひ無し。若し余所に移らば定めて後悔有らむか。
是十二。
又、大将軍酉に在り。方角既に塞がる。何ぞ陰陽を背きて忽ちに東西を違(迷ィ)へむ。山門の禅徒等、専ら玉体の安穏を思ふ。愚意の及ぶ所、争か諌鼓を鳴らさざる。是十三。
但し、俄かに遷都有る、何事に依るぞや。若し凶徒の乱逆に由つては、兵革既に静かなり。朝庭何ぞ動かむ。若し鬼物の怪異に因つては、三宝に帰して以て夭災を謝すべし。万民を撫して、以て ▼P2212(一〇五ウ)皇徳を資くべし。何ぞ本宮を動かして、態と仏神囲繞の砌を避り、剰へ遠行を企てて、還りて人民悩乱の咎を犯ぜむ。是十四。
抑も、国の怨敵を退け、朝の夭厄を払ふこと、昔従り以来、偏へに山門の営み也。或いは大師祖師の百皇を誓護し、或いは伊王山王の一天を擁護す。或いは恵亮脳を摧き、或いは尊意剣を振るふ。凡そ身を捨てて君に仕る事、我が山に如くは無し。古今の勝験、載りて人口に在り。今何ぞ遷都有りて、此の処を滅ぼしたまはむと欲するや。是十五。
況んや、尭雲舜日の一朝に耀き、天枝帝葉の万代に伝はる。即ち是、九条の右丞相の願力也。豈慈恵大僧正の加持に非ずや。度々の明詔に云はく、「朕は是、九条右丞相の末葉也。何ぞ慈覚大師の門跡に背くべからざる」と云々。今云はく何んぞ前蹤を忘れて本山の滅亡を顧みざらむや。山僧の訴詔、必ずしも理に当たらずと雖も、只所功の労を以て、久しく裁許を蒙り来れり。況んや▼P2213(一〇六オ)鬱望に於いては、独り衆徒の愁へのみに非ず。且は聖朝の奉為(おんため)に、兼ねては又兆民の為なるを哉。是十六。加之(しかのみならず)、今度の事に於いては殊に愚忠を抽きんづ。一門の薗城、(頻りにィ)相招くと雖も、仰ぎて勅宣に従ふ。万人の誹謗、閭巷に充つと雖も、伏して御願を祈り。何ぞ固く勤労を尽くして、還りて此の処を滅ぼさむと欲する。功を運び罰を蒙る、豈然るべけんや。者れば縦ひ別の天感無く、只此の裁許を蒙らむと欲するのみ。当山の存亡、只此の左右に在る故也。是十七。望み請ふらくは、天恩再び叡慮を廻らして、件の遷都を止められば、三千人の衆徒等、胸火忽ちに滅へ、百千万の衆徒、鬱水弥久しからむ。衆徒等悲歎の至りに耐へず。誠惶誠恐謹言。
治承四年七(六ィ) 月 日大衆法師等
之に依つて、廿一日に俄に都返り有るべしと聞こえければ、高きも卑しきも手をすり、▼P2214(一〇六ウ)額をつきて悦びあへり。山門の訴詔は、昔も今も大事も小事も空しからざる事にこそ止事なけれ。云何なる非法非例なれども、聖代も明時も必ず御裁許あり。是程の道理を以て再三かやうに申さむに、横紙を破る入道相国なりとも争か靡かざるべき。廿二日、新院先づ福原を出御あつて、旧都へ御幸なる。大方も常は御不予の上、新都の体、宮室卑質にして城地くだり湿へり。悪気漸く降りて風波弥冷じ。都帰りなくとも、元より旧都へ還幸なるべきにて有りければ、子細に及ばず。
廿六日に主上は五条内裏へ行幸なる。両院は六波羅の池殿へ還幸。平家の人々、太政入道已下、皆帰り上らる。増して他家の人々は一人も留ま▼P2215(一〇七オ)らず。世にもあり、人にもかぞへらるる輩は皆移りたりしかば、家々悉く運び下して、此の五六ヶ月の間に造立してし居ゑつつ、資財雑具を運び寄せたりつるほどに、又物狂はしく都帰りあれば、何の顧みにも及ばず、古京へ還るうれしさに、取る物も取りあへず、資財雑具を運び返すにも及ばず、迷ひ上りたれども、いづくに落ち着きていかにすべしともおぼえず。今更に旅立ちて、西山・東山・賀茂・八幡など片畔に付きて、堂の廻廊や社の拝殿などに立ち留りてぞ然るべき人々もおはし合ひける。とてもかくても人煩はしき事より外はさせる事なし。
兵衛佐謀反の事に依つて、重ねて宣旨を下されて云はく、
伊豆国の流人源頼朝、早く野心を挟みて、忽ちに朝威を軽んじ、人民を劫略して、▼P2216(一〇七ウ)州県を抄掠す。縡希幾に入る間、誅伐を加へむと欲する処に、甲斐国の住人源信義、猥りがはしく雷同を成し、已に月諸を送る。各魚麗鶴翼の陣を結び、旁皇旗電戟の威を耀かす。茲に因つて、赳々の輩、往々起こり募り、逆謀の甚しき、古今未だ聞かず。啻に丁壮の軍旅を苦しむるのみに非ず、兼ねては老弱の転漕を罷むる有り。細民の愚かなる衆庶の賎しき、鳳衙の炳誠を顧みず、自ら梟悪の勧誘に従ふか。此と云ひ彼と云ひ、責めて余り有り。仍つて其の凶党を払はむが為に、追討使を遣す所也。東海・東山・北陸等の道、強弱を論ぜず老少を謂はず、表裏力を勠まし逆賊を討たしむ。就中、美濃国には、勇武伝家の者、弓馬長芸の輩、多く其の聞こえ有り。尤も採用に足る。殊に彼等に仰せて、其の辺境の要害を塞ぎ、通関の防禦に備へしめ、便ち憂国の貞心を励まして、忘▼P2217(一〇八オ)身の構戦を致すべし。兼ねては又、編列の間、卒伍の中、其の雅懐に非ずして、縦ひ凶悪に与すとも、すなはち此の旨を察し、過ちを悔い、善に反らむ。卒土は皆皇民也。普天は悉く王土也。糸綸の旨誰か随順せざらむ。若し夫れ鋭を執りて撓まず、事に臨みて功を立つる者有らば、其の勤節を馬の汗に量り、賜ふに不翅の鴻賞を以てす。宜しく遽適に布告し、詳かに委曲を知ら俾むべし者。
治承四年十一月八日 帥大納言左中弁
とぞ宣下せられける。かかりけれども一切宣下の旨にかかはらず、弥日に随ひて兵衛佐の威に恐れて、東海東山等の諸道の輩皆源氏に随ひにけり。
卅七 〔厳嶋へ奉幣使を立てらるる事〕 十二月一日、兵乱の御祈りに、安芸厳嶋へ奉幣使を立てらる。当▼P2218(一〇八ウ)時近江国の凶賊、道を塞ぐ間、大神宮の御使ひ、進発にあたはざりければ、暫く神祇官にをさめおかる。討手の使ひ、空しく帰り上りて後、東国北国の源氏共、いとど勝つに乗りて、国々の兵多く靡かしつつ、勢は日々に随ひて付きにけり。目近き近江国にも、山本・柏木なんど云ふあぶれ源氏共さへ東国に心を通はして、関を閉ぢて道をかためて人も通さず。
卅八 〔福田冠者希義を誅せらるる事〕 十二月一日、土佐国の流人福田冠者希義を誅伐せらる。彼の希義は、故左馬頭義朝が四男、頼朝には一つ腹の弟也。去んじ永暦元年に当国へ流されて歳月を送りけるほどに、関東に謀叛起こりければ、同意の疑ひによつて、彼の国の住人蓮池二郎清経に仰せて▼P2219(一〇九オ)討たれけるとぞ聞こえし。
同月、伊与国の住人河野大夫越智通清、源氏に通じ平家を背きて国中を管領し、正税・官物を抑留する由聞こえければ、東は美乃国まで源氏に打ちとられぬ。西国さへ又かかれば、平家大きに驚き騒ぎて、阿波民部成良・備後国の住人奴可田入道高信法師に仰せて、是を追討せらる。通清はいかめしく思ひ立ちたりけれども、力を合はする者なかりければ、終に高信法師が手に懸かりて打たれにけり。
卅九 〔平家、近江国山下柏木等を責め落とす事〕 三日、左兵衛督知盛・小松少将資盛・越前三位通盛・左馬頭行盛・薩摩守忠度・左少将清経・筑前守貞能已下の軍兵、東国へ発向。其の勢七千余騎にて下向。山本・柏▼P2220(一〇九ウ)木并びに美乃・尾張の源氏追討の為なり。四日、山本冠者義広・柏木判官代義兼を責め落として、やがて美乃国へ越えて、尾張国まで討ち平らぐる由聞こえければ、太政入道少し気色なほりてぞ見えられける。
四十 〔南都を焼き払ふ事 付けたり左少弁行隆の事〕 又、南都の大衆いかにも鎮まりやらず、弥騒動す。公家よりも御使ひ鋪波に下されて、「されば何事を鬱り申すぞ。存知の旨あらば、いく度も奏聞にこそ及ばめ」など、仰せ下されければ、「別の訴訟に候はず。只清盛入道に逢ひて死に候はむ」とぞ、只一口に申しける。是も直事にあらず。入道相国と申すは、忝くも当今の御外祖父ぞかし。其を少しも憚からず、かやうに申しけるもあさまし。凡そ南都の大衆にも天魔の付きに▼P2221(一一〇オ)けるとぞみえし。
「言葉の洩れ易きは、招禍の媒也。事の慎まざるは、取敗の道也」
と云へり。只今事に会ひなむずとぞ見えし。
其の上、去んぬる五月、高倉宮の御事により三井寺より牒状を遣はしたりし返牒に、平氏の先祖の瑕瑾を筆を尽くして書きたりし事を、安からぬ事に相国思はれたりければ、「是非有るまじ。急ぎ官兵を遣はして南都を責むべし」と云ふ沙汰あり。且々とて、備中国妹尾太郎兼康と云ふ侍を大和国の検非違所に成し、三百余騎の兵を相具せさせて下し遣はす。衆徒一切にしひず、弥蜂起して兼康が許へ押し寄せて散々に打ち散らして、兼康が家子・郎従三十六人が頸を斬りて、猿▼P2222(一一〇ウ)沢の池のはたに懸けたりけり。兼康希有にして逃げ上る。其の後は南都弥騒動す。
又大きなる法師の頭を造りて、「大政入道清盛法師が首也」と銘を書きて、毬打の玉の如くに、あちこち打ち蹴踏みけり。入道是を伝へ聞きて、安からぬ事なりとて、四男頭中将重衡朝臣を大将軍として、三万余騎の軍兵を南都へ差し向けられけり。大衆此の由を聞きて、奈良坂、般若路、二つの道を切り塞ぎて、在々所々に城廓を構へて、老少中年をきらはず、弓箭を帯し、甲冑を鎧ひて待ちかけたり。
十二月廿八日、重衡朝臣南都へ発向。三万余騎を二手に分けて、奈良坂・般若路へ向かふ。大衆、かち立ち・打物にて防き戦ひけれども、▼P2223(一一一オ)三万余騎の軍兵、馬の上にて散々にかけたりければ、二つの城戸口、程なく破られにけり。
其の中に、坂四郎房永覚とて聞こゆる悪僧あり。打物に取りても弓箭とつても、七大寺・十五大寺に肩をならぶる者なし。大力のつよ弓・大矢の矢次早の手ききにて、さげ針もはづさず、百度射けれどもあだ矢なかりけるおそろしき者也。其の長七尺計り也。褐衣の鎧直垂に、萌黄の糸威の腹巻の上に、黒皮威の鎧を重ねて着たり。帽子甲の上に三枚甲を重ねて着たり。三尺五寸の大大刀はきて、二尺九寸の大擲刀をぞ持ちたりける。同宿十二人左右に立て、足軽の法師原卅余人に楯突かせて、手擦門より打ち出でたりけるのみぞ、暫く支へたり▼P2224(一一一ウ)ける。多くの官兵、馬の足を切られて討たれにけり。されども大勢仕込みければ、永覚一人武く思ひけれども甲斐なし。痛手負ひて落ちにけり。
重衡朝臣は、法花寺の鳥居の前に打つ立ちて、次第に南都を焼き払ふ。軍兵の中に、幡磨国福井庄の下司、次郎大夫俊方と云ひける者、楯を破りて続松にして、両方の城を初めとして寺中に打ち入りて、敵の龍りたる堂舎・坊中に火をかけて、是を焼く。恥をも思ひ、名をも惜しむ程の者は、奈良坂にて打ち死に、般若寺にて討たれにけり。行歩に叶へる輩は、吉野・十津河の方へ落ち失せぬ。行歩に叶はぬ老僧、身も合期せぬ修学者・児共・女房・尼公なんどは、山階寺の天井の上に七八百人が程隠れ上る。▼P2225(一一二オ)大仏殿の二階のこしには、一千七百余人逃げ上りにけり。敵を上せじとて階をば引きにけり。師走の月のはてにてはあり、風はげしくて、所々にかかりたる火一つに燃え合ひて、多くの堂舎に吹き移す。興福寺より始めて、東金堂・西金堂・南円堂・七円重の御塔・二階の楼門・鐘楼・経蔵・三面の僧坊・四面の廻廊・元興寺・法花寺・薬師寺まで焼けて後、西風弥つよかりければ、大仏殿へ吹き移す。猛火の燃え近付くに随ひて、逃げ上る所の一千余人の輩、叫喚大叫喚、天を響かし地を動かす。なにとてか一人も助かるべき、皆焼け死ににけり。彼の無間大城の炎の底に罪人共がこがるらむも、是にはすぎじとぞ見えし。千万の骸は七仏の上に燃えかかれり。守護の武士は兵▼P2226(一一二ウ)杖に中りて命を失ひ、修学の高僧は猛火に交りて死ににけり。
悲しき哉、興福寺は淡海公の御願、藤氏一家の氏寺也。元明天皇の御宇、和銅三年〈庚戌〉の歳、建立せられてより以降、星宿五百六十余歳に及べり。東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西金堂におはします自然涌出の観世音、瑠璃を比べし四面の廊、紫檀を交ふる二階の楼、九輪耀きし二基の塔、空しき煙となりにしこそ悲しけれ。東大寺は常在不滅、実報寂光の生身の御仏と思し食し准へて、釈尊初成道の儀式を表し、天平年中に聖武天皇思し食し立ちて、高野天皇・大炊天皇、三代の聖主自ら精舎を建立し、仏像を冶鋳し奉り給ふ。婆羅門僧正・隆▼P2227(一一三オ)尊律師・良弁僧正・行基菩薩・鑑真和尚等の菩薩聖衆達、導師呪願として供養し給ひてより以来、四百七十余歳になる金銅十六丈の毘慮舎那仏、烏瑟の尊容を模したりし尊像も、御頭は焼け落ちて大地にあり。御身は涌き合ひて塚の如し。目の当り見奉る者も目もあてられず、遥かに伝へ聞く人も涙を流さずと云ふ事なし。瑜伽・唯識の両部を始めとして、法文聖教一巻も残らず。吾が朝は申すに及ばず、天竺・振旦にも是程の法滅は争か有るべきなれば、梵釈四王・龍神八部・冥官冥衆に至るまで驚き騒ぎ給ひけむとぞ覚えし。法相擁護の春日の大明神、何なる事をか思し食すらむ、神慮の内も測りがたし。されば春日野の▼P2228(一一三ウ)露の色も替はり、三笠山の嵐の音も怨めるさまにぞ見えける。
今度焼くる所の堂舎、東大寺には、大仏殿・講堂・金堂・四面の廻廊・三面の僧坊・戒壇・尊勝院・安楽院・真言院・薬師堂・東南院・八幡宮・気比の社・気多の社。興福寺には、金堂・講堂・南円堂・東金堂・五重の塔・西金堂・北円堂・四面の廻廊・三面の僧坊・観自在院・西の院・一乗院・大乗院・中の院・松陽院・小院・東北院・橋志院・東相院・観禅院・五大院・北の戒壇・唐院・松の院・伝法院・真言院・円成院・皇嘉門院の御塔・惣宮・一言主の社・龍蔵院・住吉の社・鐘楼・経蔵・大湯屋〈但し釜は焼けず〉・宝蔵▼P2229(一一四オ)十四宇、此の外大小の諸門、寺外の諸堂は、注すに及ばず。然るべき所々は、院の御塔・長者の御塔・四面の廻廊・門楼・一切経蔵・章疏の形木・佐保殿も焼けにけり。此の外、菩提院・龍花院・円坊両三宇・禅定院・新薬師寺・春日の社四所・若宮の社なんどぞ僅かに残りたりける。焼け死ぬる所の雑人、大仏殿にて千七百余人、山階寺にて五百余人、或る御堂には三百余人、或る御堂には二百余人、後日に委しく算ふれば、惣じて一万一千四百余人とぞ聞こえし。軍の庭にて討るる所の大衆七百余人が内、四百余人が首をば都へ上す。其の中に尼公の首も少々ありけるとかや。
廿九日、重衡朝臣、南都を滅ぼして京へ帰り入らる。入道相国一人ぞ鬱り晴れて悦ばれける。夫も▼P2230(一一四ウ)両大伽藍の焼けぬる事をば、心中にはあさましくぞ思はれける。一院・新院・摂政殿下・大臣・公卿を始め奉りて、少しも前後を弁へ物の心ある程の人は、「こはいかにしつる事ぞや。悪僧をこそ失ふとも、さばかりの伽藍共を焼滅すべしや。口惜しき事なり」とぞ、悲しみあひ給ひける。衆徒の首共をば、大路を渡して獄門の木に懸けらるべきにてありけるが、東大寺・興福寺の焼けにけるあさましさに渡すに及ばず。ここかしこの溝や堀にぞ投げ捨てける。穀倉院の南の堀をば奈良の大衆の首にてうめたりなんど沙汰しけり。聖武天皇の書き置かせ給ひける東大寺の碑文に云はく、「吾が寺興複せば、天下も興複せむ。吾が寺衰微せば、天下も衰微せむ」と云々。今灰燼となりぬる上は、国土の▼P2231(一一五オ)滅亡疑ひなし。
其の上、去んぬる十一月十七日に、四教五時の萼、独り盛りなる薗城の梢、三井も尽きぬ。此の十二月廿八日に、三性八識の風、専ら扇ぐ興福の〓[片+戸+甫]、南都も滅びぬ。八宗の流れ異なりと雖も、一如の源、是同じ。本願を尋ぬれば、魚水の契り、是深し。本仏を謂へば、釈迦慈尊の眦(まなか)ひ浅からず。昔日の芳縁、惟馨ばし、当世の値遇、又切也。山階と薗城とは乳水の如し、法相と天台とは兄弟に同じ。茲に因つて、喜び有る時は倶に之を喜び、憂へ有る時は同じく之を憂ふ。山階は、我等が本師釈迦善逝、一化を残して一切の霊地を化し、薗城は、如来補処の弥勒慈尊、三会を期して三有の清濁を利する砌也。而るを両月の中に灰燼となりぬ。一天の歎き何事か是に過ぎむ。一物を掠め一屋を焼く、罪科尚重し。況や南▼P2232(一一五ウ)都薗城数千の堂塔・財宝に於いてをや。一文を謗り、一仏を謗する、破戒是深し。況や法相・天台の数万の仏像・経巻に於いてをや。遠く先蹤を異域に尋ぬれば、会昌天子の犯罪に過ぎたり。近く悪例を本朝に考ふれば、守屋大臣の逆悪に超えたり。極悪の分限量り難し。逆臣の将来、其奈かむ。
抑も我が朝に鎮護国家の道場と号して、朝夕星を載いて、百王無為の御願を祈り奉る四ヶの大寺、是あり。三ヶ寺既に跡なし。適残る叡岳も、行学闘乱の事によつて、雲に臥しぬ〔る〕名のみ有りて、四禅の夜の月暗く、雪に映ずる勤めを抛てて、腰に三尺の秋の霜を横だふ。彼の寺、又無きが如し。さすがに法滅の今日此の比とは思はざりしを、「こはいかなりける事やらむ」と、歎かぬ人も▼P2233(一一六オ)なかりけり。
澄憲法印の『法滅の記』と云ふ文をかかれたる、其の言葉を聞くぞ悲しき。「山階の三面の僧坊には、五色の花再び開けず。春日四所の社壇には、三明の燈更に耀くことなし。仏像経論の焼くる煙には、大梵天王の眼忽ちに晩し。堂塔僧房の燃ゆる音には、堅牢地神の胸をこがすらむ」とぞ覚えける。
左少弁行隆と申す人、先年八幡へ参りて、通夜せられたりける夜の示現に、「東大寺奉行の時は是を持つべし」とて、笏を給はると見て、打ちおどろきみるに、見るに実に笏ありけり。不思議に思ひて、其の筋を取りて下向し給ひたりけれども、「当時何事にかは東大寺造り替へらるる事あらむずる。いかなる事やらむ」▼P2234(一一六ウ)と、心の内に思ひ給ひて、年月を送り給ふ程に、此の焼失せし後、大仏殿造営の沙汰有りける時、弁官の中に彼の行隆撰ばれて、奉行すべきよし仰せ下さる。其の時、行隆宣ひけるは、「勅勘を蒙らずして次第にすすみ昇らましかば、今まで弁官にてはあらざらまし。多くの年を隔てて、今弁官に成り帰りて、奉行の弁に当たる。是も先世の結縁浅からぬにこそ」と悦び給ひて、八幡大菩薩より給はりたりし笏取り出して、大仏造営の事始めの日より持たれたりけるこそありがたけれ。
平家物語第二末
▼P2235(一一七オ)時に応永廿六年〈己亥〉三月廿日、大伝法院の別院十輪院に於いて、悪筆為りと雖も、忝くも御誂へに依つて、之を書写せしめ畢はんぬ。
行識房
執筆 有重
多聞丸
▼P2236(一一七ウ) (花押)
平家物語 六 〔第三本〕
▼P2237
〔見返し〕 (見返し中央に墨書き)
当巻の内、歌十一首、之在り。
〔目録〕
▼P2239(一オ)
一 南都の火災に依つて朝拝行はれざる事
二 南都僧綱等公請を止めらるる事
三 新院崩御の事 付けたり紅葉を愛し給ふ事
四 青井と云ふ女、内へ召さるる事 付けたり新院民をあわれみ給ふ事
五 小督局、内裏へ召さるる事
六 大政入道の娘、院へ参らする事
七 木曽義仲成長する事
八 源氏、尾張国まで責め上る事
九 行家と平家と美乃国にて合戦の事
十 武蔵権守義基法師が首渡さるる事
十一 九国の者共、平家を背く事
十二 沼賀入道と河野と合戦の事
十三 大政入道他界の事 付けたり様々の怪異共有る事
十四 大政入道、慈恵僧正の再誕の事
十五 白河院、祈親持経の再誕の事
十六 大政入道経嶋突き給ふ事
十七 大政入道白河院の御子なる事
十八 東海東山へ院宣を下さるる事
十九 秀衡資長等に源氏を追討すべき由の事
廿 五条大納言邦綱卿死去の事
▼P2240(一ウ)
廿一 法皇、法住寺殿へ御幸成る事
廿二 興福寺の常楽会行はるる事
廿三 十郎蔵人と平家と合戦の事
廿四 行家、大神宮へ願書を進る事
廿五 頼朝と隆義と合戦の事
廿六 城四郎と木曽と合戦の事
廿七 城四郎越後の国の国司に任ずる事
廿八 兵革の祈りに秘法共行はるる事
廿九 大神宮へ鉄の甲冑送らるる事
三十 諒闇に依つて大嘗会延引の事
卅一 皇嘉門院崩御の事
卅二 覚快法親王失せ給ふ事
卅三 院の御所に移徙有る事
▼P2241(二オ)
一〔南都の火災に依つて朝拝行はれざる事〕
治承五年正月一日改の年立ち帰りたれども、内裏には、東国の兵革、南都の火災に依つて朝拝無し。節会計りは行はれたりけれども、主上御出無し。関白以下藤原氏の公卿一人も参られず。氏寺焼失に依つてなり。只、平家の人々計りを少々参りて執り行はれける。其も、物の音も吹き鳴らさず、舞楽も奏せず。吉野の国栖も参らず。〓[魚+宣](はらか)も奏せず。形の如きの事にてぞ有りける。二日、殿上の淵酔なし。男女打ちひそまつて、禁中の儀式物さびしく朝儀も悉く廃れ、仏法王法共に尽きにけるかとぞ見えし。
二 〔南都僧綱等公請を止めらるる事〕
五日、南都の僧綱等解官して公請を停止め、▼P2242(二ウ)所職を没収せらるべきの由、宣下せらる。去年、東大寺興福寺を始めとして、堂塔・僧庵皆灰燼と成り、衆徒は若きも老いたるも、或いは討たれ、或いは焼き殺されにき。適残る所は山野に交はりて、跡を留むる者無し。其の上、上綱さへ加様に成りぬれば、南都は併ら失せ終てにけるこそ。但し形の様にても御斎会は行はるべきにて、僧名の沙汰有けるに、南都の僧は公請を止めらるべき由、去んぬる五日、宣下せらる。されば、「一向天台宗の人計りぞ請ぜらるべきか、御斎会を止めらるべきか、又、延引せらるべきか」の由、官外記に問ひて、其の申状を以て諸卿に尋ねらるる処に、「偏へに南都を捨てらるべからざる」由、各申されける間、三論宗の僧、成実已講と申して勧修寺に有ける僧一人請ひて講▼P2243(三オ)師としてぞ、形の如く遂げられける。
別当権僧正永円も、南都焼けけるを見て、病増して失せ給ひにけり。此の永円は元より情ありける人なれば、郭公の
泣きけるを聞き給ひて、
聞くたびにめづらしければ郭公いつもはつねの心地こそすれ
と読み給ひてこそ、初音の僧正ともいはれ給ひけれ。かやうに仏法王法共に亡びぬるを悲しみて、終に失せ給ひにけり。
げにも心あらむ人は絶えてながらふべきにあらず。
昔、彼の東大寺の御ぐし俄かに大地に落ち給へる事あり。天下第一の不思儀也。御門大に驚かせ給ひて小野篁を召して、「汝は神道を得たりと云ふ聞こえあり。此の事、掌を指して勘へ申せ」と云ふ綸言の下されければ、篁畏りて申しけるは、「今年天下に疫癘起こりて、人民命を失はむ事▼P2244(三ウ)百分が一に残るべし」とて、涙を流して悲しみけり。「しかるに、閻浮提第一の大伽藍、兼ねて物怪を示し給へるなり」と申されければ、御門、大に御欺きあつて、時の有験、弘法大師、慈覚大師、智証大師、相応和尚、真誓僧正を召し集めさせ給ひて、南殿に大檀を立てて、七ヶ日般若経を購読せられければ、大仏の御ぐし、夜の程に本身に飛び上りて、威徳親々として、尊容堂々たり。これに依つて天下の夭災も転じ返されたりけるにや、殊につつがも無かりけり。かかる目出き聖跡の、重衡の為に亡ぼされて、上一人より始め奉りて下万民に至るまで、心ある人は歎きにしづみ、又なき命を失ひけるこそ悲しけれ。
九日、結摩城を責め落として、凶徒三百七十人が首を切る由、飛脚を立てて申し送れり。
▼P2245(四オ)
三 〔新院崩御の事 付けたり紅葉を愛し給ふ事〕
さる程に新院、日来より御乱れ心地怠らずのみ渡らせ給ひけるが、此の世の中の有様を歎き思し召しけるにや、御悩弥よ重らせ御します。かかりしかば、何の沙汰にも及ばず。一院は何がせむと歎き思し召しける程に、十四日、六波羅の池殿にて終に崩御なりぬ。御年廿七、をしかるべき御命なり。新院の御遺誡に任せて、今夜、即ち東山の麓、清閑寺と云ふ山寺へ送り奉る。御共には、上達部五人、隆季、国綱、実定、通親〈今一人は見えず〉、其外殿上人十人前駈、供奉仕るとぞ聞へし。郡綱卿娘、別当三位殿を始めとして近く召し仕はれける女房三人、御ぐし下してけり。朝の霞にたぐひ、暮の煙と登り給ひぬ。内には五戒を持ちて慈悲を先とし、外には五常を乱らず、礼儀を▼P2246(四ウ)正しくし給ひき。末代の賢王にて渡らせ給ひしかば、万人惜しみ奉る事、一子を失へるより甚し。実国大納言、御笛を教へ奉り御しければ、人知れず哀れに悲しくぞ思はれける。殿上にて彼の御諱の沙汰有るに付けても、高倉何なる大路にて憂名の形見残り、東山何なる嶺にて終の御栖と定むらむと思ふも悲し。
大方は賢聖の名を揚げ、仁徳の行ひを施し御す事、皆君成人の後、清濁を分かたせ御しての上の事にてこそ有るに、此の君は無下に幼稚に御しし時より性を柔和に受けさせ給ひて、有り難く、哀れなりし御事共こそ多かりしか。其の中に、去る嘉応・承安の比、御在位の始めつかたなりしかば、御年十歳計にや成らせ給ひけむ、紅葉を愛せさせ御して、北陣には山を▼P2247(五オ)突き、紅葉の山と名づけて、櫨、鶏冠木なむどの色うつくしくもみぢしたる枝を折り立てて、終日に叡覧有りけれども、猶飽き足らず思し召しけるにや、或夜、野分のはげしかりけるに、此の紅葉吹きたふして、落葉頗る狼籍也。殿守のとものみやつこ朝雪めせむとて、悉く是をはきすてず。残れる枝散る木の葉かき集めて風すさまじかりける朝なれば、縫殿の陣にて酒を煖めてたべける薪にしてけり。
近習の蔵人、行幸より先に行きて山を見るに、紅葉一枝も無し。事の次第を尋ぬるに、しかじかと申す。蔵人手を打ち、驚きて、「さしも君の執し思食したりつる物を加様にしつる、浅猿しき事也。知らず、汝等、只今馬部・吉上の▼P2248(五ウ)禁獄にもやせられむずらむ。将又、流罪にもや行はれむずらむ」と、仰せ含む。此等、誠に下臈の不覚の誤りなれば、力及ばず。「何なる目をか見むずらむ」と、あへなく後悔、益無く候。蔵人も何様なる逆鱗か有らむずらむと、胸打ち騒
ぎて居たる処に、御ひるに成りければ、例の、先づ朝政にも及び給はず、夜のをとどを出でもあへさせ給わず、いと疾くかしこへ行幸なりて、紅葉を叡覧あるに、故ら跡形なし。
「何に」と御尋ね有るに、蔵人奏すべき方なかりければ、恐々有りのままに奏聞す。天気殊に御心よげに打ち咲ひ御して、「『林間に酒を煖めて紅葉を焼く、石上に詩を題して緑苔を払ふ』と云ふ事をば、其れには誰か教へたりけるぞや、艶しく仕りたりける▼P2249(六オ)物哉」とて、帰りて叡感に預りける上は申すに及ばず、敢へて勅勘無かりけり。かかりしかば、あやしのしづのを、しづの妻に至るまで、只此の君の万歳千秋の御宝算をぞ祈り奉りける。されども、人の願も空しく、民の思ひも叶はざりける世の習ひこそ悲しけれ。
四 〔青井と云ふ女、内へ召さるる事 付けたり新院民をあわれみ給ふ事〕
建礼門院入内の比、安元の始めの比、中宮の御方に候はれける女房の召し仕ひける女童部の中に、あをゐと云ひける女を、思はざる外の事有りて、龍顔に咫尺する事有りて、なにとなき白地の事にてもなくて、夜な夜な是を召されけり。御志浅からず見えければ、主の女房も此を召し仕ふ事なし。還りて主の如く寵きけり。
此の事、天下に聞へしかば、当時の謡詠有るに云はく、「女を生みて悲酸ぶこと勿かれ、男を生みて▼P2250(六ウ)喜歓ぶこと勿かれ」。又日く、「男は侯に封ぜず、女は妃と作る」。「只今、女御后にも立ち、国母仙院も立ち給ひなむず。いみじかりける幸ひ哉」と申し詈ると聞こし召されて後は、又、敢へて召さるる事なし。御志の尽くるには非ず。只、代の謗りを思食さるる也。されば、常には詠めがちにて、夜のおとどにぞ入らせ給ひける。大殿、此事聞こし召して、「心苦しき御幸にこそあれ。申しなぐさめ進らせむ」とて、御参内有りて、「此の様に叡慮にかからせ給はば、何条御事か候ふべき。件の女房召され候ふべしと覚え候ふ。俗姓尋らるるに及ばず。忠通が猶子に候ふべし」と申させ給ひければ、「いさとよ。大臣の申さるる処もさる事なれども、位を退きて後は、さる事有りと聞けども、正しく在位の時、あこめなむど云ひてすそも▼P2251(七オ)なき物きて、あやしき振舞する程の物、身に近付く事を聞かず。丸が代に始めむ事は後代の謗りたるべし。然るべからず」と仰せ有りければ、法性寺の大殿、御涙を押へて罷り出でさせ給ひにけり。
其後、なにとなき御幸習の次でに古哥を数た書きすさませ給ひ御しける中に、緑の薄様の殊に匂ひ深きに、此の歌をぞあそばしける。
しのぶれど色にでにけり吾が恋はものや思ふと人の問ふまで
御心知りの蔵人、此の御手習を取りて、彼の女房に給はらす。あをゐ是を給はりて、懐に引き入れて、「心地例ならず」とて、出でぬ。即ち引きかづきて臥しにけり。煩ふ事卅余日あつて、此を胸の上にあてて、終にはかなく▼P2252(七ウ)成りにけり。いと哀れなりし事なり。入道是を伝へ聞きて、限り無く悦び給ひにけり。「さては今は、中宮の御方に近付かせ給ふらむ」と、常に人に問ひけれども、いとど物憂さのみ増さらせ給へば、近付き御す事もなかりけり。入道興ざめてぞ思はれける。
主上、是を聞こし食して、御涙に咽びおはします。「君が一日の為に、妾が百年の身を誤つとも、言を癡少なる人家の女に寄せて、慎みて身をもつて軽しく人に許すこと勿かれ」とこそ禁めたれとて、恋慕の御思ひもさる事にて、代の謗りをぞ猶深く歎き思し召しける。彼の唐太宗、鄭仁基が娘を元籌殿に入れむとし給ふ事を、魏徴、「かの女、院に陸代約せり」と禁め申ししに依つて、殿に入るる事を止められけむには、猶増される御心ばせなり。
又、哀れなりし▼P2253(八オ)事は、御母儀建春門院、隠れさせ給ひたりしかば、なのめならず御歎き有りけり。帝王御暇の程は、朝政を止めらるる習ひにて有りけるが、政止めらるる事、還りて天下の歎き為るに依つて、一日を以て一月にあて、十二日を以て十二月にあてて、十二日過ぎぬれば、御除服ある事なれば、其の日数過ぎて御除服有りけるに、参り会はせ給ひける人々も、殊更この御事色にも出だされず、なにとなきそぞろ事ども申しまぎらかさせ給ひければ、君もさらぬ体にもてなさせ御しながら、御歎きにたへさせ給はぬ御気色、哀れにぞ見えさせ給ひける。高倉中将泰通朝臣参りて、已に御衣召し替(か)へけるに、御帯あてまゐらせけれども、とみにむすびやらせ給(たま)はず。御後ろより結びまゐらせけるに、あ▼P2254(八ウ)たたかなる御涙の手にかかりたりけるに、泰通朝臣堪へられずして、涙を流し給ひけり。是を見奉りける公卿殿上人、各涙を流されけり。かやうに何事に付けても深く思し食し入りたる御有様なりしかば、万人惜しみ奉る事、譬へむ方なし。
増して、法皇の御歎き、理にも過ぎたり。恩愛の道なれば、何れも愚かならねど、此の事は殊に御志深かりけるが、故女院の御腹にて御しまししかば、位に付き給ひし其の際までも、一つ御所にて朝夕なじみまゐらせ御坐したりしかば、互ひの御志深かりけるにこそ。去々年の冬、鳥羽殿に籠らせ御したりしをも、なのめならず御歎き有りて、御書なむど奉らせ給ひたりし事、剰へ、厳嶋御幸あつて還御の後、何程ならずして崩▼P2255(九オ)御なりぬ。此の如き御事、思し食し出だすもかなし。誠に、貴きも賎しきも、親の子を思ふは、せむ方なき態ぞかし。まして、かかる賢主に後れまゐらせ御坐す御心中こそ、推し量りまゐらすれ。
されば、昔、白川法皇の堀川院に後れまゐらせて御歎き有りけむも、理と思し食し知られけり。彼の堀川院の御政を承るにこそ、此の君の御有様、違はず似させ御坐したりけれ。此の君に三代の曽祖父ぞかし。優に艶しく、人の思ひ付きまゐらする様なるすぢは、恐らくは延喜天暦の帝もかくしも御しまさずや有りけんとぞ覚えし。
去んぬる永長元年十二月、或る所へ御方違の行幸なりたりけるに、さらぬだに鶏人暁を唱ふる声々、明王の眠りを驚かす程になりにしかば、いつも御ねざめがちにて、王業▼P2256(九ウ)封じがたき事をとかく思し食しつづけけるに、いとどさゆる霜夜の天季、殊にはげはげしかりければ、打ち解けて御寝もならず。彼の延喜の聖の、「四海の民の何にさむかるらむ」とて、御衣をぬがせ給ひけむ事思し食し出だして、吾が帝徳のいたらぬ事を欺かしく思し食しっつ、御心をひそめかへして御しけるに、遥かに程遠く、女の声にて叫ぶ声あり。供奉の人々はなにと聞とがめられざりけるに、君聞こし召しとがめて、上臥したる蔵人を召して、「番の者や候ふ。只今叫ぶ者は何者ぞ。見て参れと云へ」と、仰せ下さる。蔵人宣旨の趣を仰せ含む。本所々衆怱ぎ走りて見れば、よにあやしげなる下種女の、つくもがみをさばきて泣き居たり。「こは何者ぞ」と問ひければ、「吾が身は内裏に御す佐殿の御▼P2257(一〇オ)方の下部也。我が主、今年正月元日の朝の東宮の御物の役に当たらせ給ひたる間、其の御衣したためむとて、法輪寺と申す所に御宿所の有りつるを人にあきなひて、其のかはりを以て御衣を誘へて以て参りつるほどに、あの山のふもとにて怖ろしげなる者二三人出で来たりて、ばい取りて侍る也。今は御装束も候ひてこそ、御所にも候はせ給ひ候はめ。御屋が候はばこそ、立ちも出でさせ給はめ。日数の延びて候はばこそ、又もしたてさせ給ひ候はめ。又甲斐々々しく立ち寄らせ給ふべき親しき御方も候はず。年の暮には成りぬ。何とすべきとも覚えず、思ひ煩ひける間、為方のなさに此の事を思ひつづくるに、消えも失せなむと思ひ候ふなり」とて、をめき叫ぶ。走り帰りて此の由を奏す。主上、龍顔より御涙を流させ給ひて、「あな無懺や。何なる▼P2258(一〇ウ)者のし態にや有らむ。昔、夏の禹、をかせる者を罪すとて、涙を流し給ひき。臣下の云はく、『をかせる者を罪する、あはれむにたらず』。麦禹の云はく、『尭の民は尭の心を以て心とする故に、人皆直なり。今の世の民は、朕が心を以て心とする故に、姦しき者あり、罪を犯す。豈悲しまざらん哉』と歎き給ひき。今又、丸が心の直ならざる故に、姦しき者朝にありて、法ををかす。此丸が恥也」 とて、歎かせ御坐す。さて、「取られつらん絹の色は何色ぞ」と、問はせさせ御す。「しかじか」と申せば、「暫く此の女帰すべからず」 とて、御書をあそばして、蔵人に、「女院の御方へ持ちてまゐれ」とて、賜はりぬ。怱ぎ馳せ帰りて、土御門東洞院にわたらせ給ひければ、女院にまゐらせたり。「用意の御衣あらば、一重給はらん」との御文にてぞ有りける。十二単を取り出だし、蔵人にぞ給はりける。是を給はり、怱ぎ▼P2259(一一オ)帰りて此の由を奏するに、「彼の女童にとらせよ」 との仰せなりければ、即ち下女にぞ給ひてける。未だ夜深かりければ、「又もぞさるめに合ふ」とて、上はの者で主の女房の局へ送り遣したりけり。我がこしらへたるよりも、事の外に清らかにうつくしくぞ有りける。彼の女房の心中、何計りか有りけむ。
同じ比、極めて貧しき所衆侍りけり。衆の交はりすべきにて有りけるが、惣じて思ひ立つべき便りもなし。「さりとて、此の事営までも、衆に交はらむ事、人ならず。只かかる身にては、世に有りても何がはせむ。しかじ、出家入道して失せなむ」とぞ思ひなりにける。妻子の事はさる事にて、なにとなう年来馴れ昵びつる衆の余波、せむ方なし。況や日来期したりつる前途後栄をも空しくして、朝夕参り近付きつる宮の▼P2260(一一ウ)内を振り捨てて、山林に流浪せむ事、心細しとも愚か也。「とてもかくても、人の身に貧に過ぎて口惜しき事なかりけり」と思ひつづくるに、前世の戒徳のうすさも今更思ひ知られて、打ちしづまるをりをりは、泣くより外の事なかりけり。
而るに、此の君、近習の人々なむどに内々仰せの有りけるは、「率土は皆皇民也。遠民何ぞ疎かならむ。近民何ぞ親しからむ。仁を施さばやとこそ思し食すとも、一つの耳、四海の事を聞かず。黄帝は四聡四目の臣にまかせ、舜帝は八元八凱の臣に委すなど云へり。されども、遠きことはさのみ奏する人もなければ、各聞き及ぶ事あらば告げ知らせまゐらせよ」と仰せ置かれたりければ、或る女房、此の所衆の歎く事を聞き及びて奏聞したりければ、▼P2261(一二オ)「あな無懺や」とはかりにて、何と云ふ仰せもなかりけり。
西京座主良真僧正、御持僧で侍りけるに、仰せ有りけるは、「臨時に御(祈り)有るべし。日時何の法と云ふ事は、遂つて宣下せらるべし。先づ兵衛尉一人召し付け、今度の除目に申しなすべし」と仰す。僧正勅命に任せて、成功の人召しつきて貫首にふる。即ち成されけり。其比の兵衛尉の功は五百疋にて有りしかば、是を座主坊に納め置きて日時宣下を相待たれけれども、日数経ければ、良真よきついでに、「若し思し食し忘れたるか」とて奏せられたりければ、主上仰せの有りけるは、「遠近親疎を論ぜず、民の愁へをばなだめばやとこそ思し召せども、叡聞の及ばぬは定めて多かるらむ。深く恵みを施さばやと思し召す也。而るに、某と云本所の衆あり。家貧しきに依つて衆の交はり叶ひ難き間、既に▼P2262(一二ウ)其の身を失ふべしと聞こし召せども、『明主は人に私するに金石珠玉を以てすること有れども、人に私するに官職事業を以てすること無し』と云ふ事もあれば、何かは若しかるべき。但し、世に披露せむ事憚り在り。只僧正給はす体にもてなすべし。御祈りは長日の御修法に過ぎたる事有るべからず」と仰せ下されければ、僧正とかくの御返事に及ばず、「何の大法秘法も、是に過ぎたる御祈り有るべからず。良真が微力をはげまして勤めたらむ御祈り、なほ百分が一に及ぶべからず」とて、泣く泣く退出す。彼の所の衆を西京の坊に召して、勅命の趣きを具さに仰せ含めて、其の五百疋を給はらせけり。彼が心中、何計りなりけむ。
又、金田府生時光と云ふ笙吹と、市和部茂光と云ふ篳篥吹と有りけり。常に寄り合ひて、囲基を打ちて、裏頭楽と唱哥をして心を澄ま▼P2263(一三オ)しけり。二人寄り合ひて囲基だにも打ち立ちぬれば、世間の事、公私に付けて惣じて聞きも入れざりけり。或る時、内裏よりとびの事有りて時光を召しの有りけるに、例の如く一切に耳に聞き入れず。「こは何に。宣旨の御使、とびの御事のまします」と云ひけれども、唱寄打ちしてきかず。家中妻子、所従までも大いに騒ぎ、「何に何に」と云ひけれども、惣じて聞かず。宣旨の御使、あざむきて帰りぬ。此の由有りのままに奏聞す。「何計りの勅定にて有らむずらむ」と思ひけるに、「王位は口惜しき事哉。か程のすき者に伴はざりける事よ。あはれ、すいたりける者の心哉」とて、御涙を流して、敢へて勅勘なかりける上は子細に及ばず。
▼P2264(一三ウ)
五 〔小督局、内裏へ召さるる事〕
其の比、又、内侍督の方に奉公して、小川の殿とて品いしからぬ女房の、齢廿の数に入らざるが、容顔美麗にして、色皃人に勝れ、心の色も情けも深かりけり。されば、見る人思ひを懸け、聞く人心を悩まさずと云ふ事なし。冷泉大納言隆房卿、未だ中将にて御しけるが、彼の女房を見てしより心を移し給ひて艶書を遺しけれども、取りも入れ給はず。さるままには、いとど心もあくがれて、万の仏神に祈り、明けても暮れても臥し沈み、もだえこがれ給ひける程に、多くの年月を送り、数の哥をよみ尽くしなどしければ、情けによわる習ひにて、終にはなびきにけりとぞ聞こえし。志深くして、うれしなど云ふも中々愚か也。
かかりし程に、幾程なくて小督局内へ召されて参り給ひにしかば、隆房▼P2265(一四オ)力及ばずして、あかぬ別れの悲しさは例へむ方もなかりけり。「吉しさらば、かかるためしは有るぞかし」と、心づよくは思へども、尚恋しさはわすられで、いとど歎きぞ深かりける。責めて思ひの余りには、「外ながら見奉る事もやある、詞のすゑにもやかかる」とて、其の事となく毎日に参内し給ひて、小督殿局前、御簾の当たりに近付きて、あなたこなたへ行き通ひ給へども、詞のつてにてもかかり御しまさず。すだれだにもはたらかず。隆房弥よ悲しくて、生きたる心地もせざりけり。「縦ひ相見る事こそかたくとも、などか妙なる詞のつてにも問はれざるべき」と恨みつつ、一首の哥を書きて引き結び、大床を過ぐる様にて、御簾の内へぞ入れ給ふ。
思ひかね心は空にみちのくのちかのしほがまちかきかひなし
▼P2266(一四ウ)かやうに有りけれども、小督局、「吾内裏に召されて参りなむ後、争でか御後ろぐらくかからむふしを見るべき」と、心づよく思ひなして、怱ぎ取り、つぼの内へぞ投げ出だし給ひける。隆房はうらめしく心うくて、人もやみるとつつましければ、怱ぎ取り、かくこそ恩ひつづけし。
玉づさをいまは手にだにとらじとやさこそ心に思ひすつとも
かやうに口すさびて泣く泣く罷り出でにけり。今生には会ひ見む事もかたければ、「今は生きても何かせむ、仏神三宝、願はくは命を召して後生を助けさせ給へ」とぞ、明けても晩れても祈られける。かかる中にも、隆房かくぞよまれける。
恋しなばうかれむ玉よしばしだにわが思ふ人のつまにとどまれ
是は人の神の出でて行くを見る人、頒文をして下がひの妻をむすべば、▼P2267(一五オ)必ず留まると云ふ事あり。其の事を思ひ出だして、かやうに読み給ひけるにや。さすがに定業来たらねば、死する事もなかりけり。
さて、主上は小督局の御志深かりければ、中宮をばすさめまゐらせて、召さるる事まれなりければ、入道大相国、大いに怒り給ひて、「浄海が娘なむどをかやうにすさめさせ給ふべき事やある。めさずとも只まゐらせよ」とて、押しては進らせなむどせられけり。是をぞ、主上、御心よからぬ事に思し食されける。かくて弥よ小督局は御寵愛いやめづらにして、惣じて中宮を思し召さるる事なかりければ、入道弥よ安からず思ひて怒りをなして、「あふひ死なばさてもなくて、小督とかや云ふ者を召さるなるぞ。是を取りて尼になせ」とぞ宣ひける。小督局是を聞きて、「忽ちに身を徒になさむ事由無し」とて、或るくれ程に、君にも▼P2268(一五ウ)知られまゐらせず、人一人にもしらせずして、内裏を忍びて出でつつ、ゆくへも知らず失せにけり。
主上は行方を知ろし食さねば、歎き思し召して、貢御もはかばかしくまゐらず、御寝も打ち解けならず。昼は御政も无くして、御涙にのみ咽ばせ給ひ、夜は南殿に出御ありて、自らさえ行く月にぞ御心をなぐさめ御しましける。彼の唐玄宗皇帝の、陽貴妃を失ひて、方士を使として其のゆくへを尋ねしも、蓬莱宮に至りて玉妃と云ふ額を見てゆくへを尋ねけり。玉妃のすがたを方仕見て、妙なる形見を給はり、王宮へ帰りけり。是は方士もあらばこそ、其の御ゆくへを聞こし召され、只明暮は人目のみ滋き思ひの絶えさせ給はねば、いつもつきせぬ事とては、御涙計り也。かやうに御歎きの色深かりけるを、入道ねたましく▼P2269(一六オ)悪しき事に思ひまゐらせて、御呵嘖の女房美女をも呼び取りて、人一人も付けまゐらせずして、参内し給ふ臣下卿上をもいさめ留め給ひければ、入道の権威に恐れをなして参内し給ふ人もなし。あさましと云ふ計りなし。「小松内府御坐さば、かかる御事はあらましや」なむど、天下の人々、今更歎きあはれけり。
比は八月十日余の事なれば、月はくまなくさえたれど、御涙に陰りつつ、御袖のみぞ時雨ける。さよ深くる程に、「人やある、人やある」と、度々勅定有りければ、月卿雲客一人も参り給はねば、御いらへ申す人もなし。蔵人仲国と申しける諸大夫、只一人参りて候ひけるが、「仲国候ふ」と申したりければ、「是へ参れ」とぞ仰せける。仲国御前へ参りたりければ、「近く参れ。忍びて仰すべき事有り」と仰せ有り▼P2270(一六ウ)ければ、勅定に従ひて目近く参りたりけるに、主上は、御涙の龍顔に流るるを御袂に押し拭はせ給ひ、さらぬ様にもてなさせ給ひて、「やや、仲国、思ひ懸けぬ事なれども、若し小督がゆくへばしや知りたる」とぞ仰せける。仲国深く畏りて、「争でか知りまゐらせ候ふべき。努々知りまゐらせ候はす」と申しければ、「実に争でか知るべき。責めて思ひの余りに、かくは仰せ下しつるなり。実には、『小督は嵯峨の辺に片織戸とかやしたる屋の中に有り』とばかりきかせたる者の有るぞとよ。主が名を知らずとも、尋ねてまゐらせてむや」と仰せ有りければ、仲国、「惣じて嵯峨と計り承りて、立ち寄りて御はせむずる主か名を知り候はでは、争でか尋ねてまゐらせ候ふべき」と申しければ、「げにも」とて、又御涙にぞ咽ばせ給ひける。仲国、見まゐらするに悲しくて、つくづくと嵯峨のわたりを思ひやるに、其比は在家多くもなかりけ▼P2271(一七オ)れば、「たとひ主が名を知らずとも、打ちまはりてみむずるに、小督殿は琴を引き給ひしかば、いかなりとも、此の月のあかさに君の御事思ひ出だしまゐらせて、箏弾き給はぬ事はよもあらじ。内にて弾き給ひし時は、仲国、御笛の役に召されて参りしかば、箏の音よく聞き知りたり。一定尋ね出だしまゐらせてむ物を」と思ひて、「さ候はば、若しやと罷り向かひて尋ねまゐらせて見候はばや。但し、御書なむど候はでは、尋ね会ひまゐらせて候ふとも、御疑ひ候ふべし。御書を給はりて罷り向むかひて見候はむ」と申しければ、主上悦ばしく思し召して、怱ぎ御書をあそばして仰せの有りけるは、「時寮の御馬に乗りて罷り向へ」とぞ仰せける。
仲国、寮の御馬を給はり、明月に鞭を揚げて、そことも知らずぞあくがれ行く。「をしか鳴く此の山里」と詠じける、嵯峨のわたりの秋のくれ、さこそ哀れに覚えけめ。已に▼P2272(一七ウ)さがの辺に馳せ付きぬ。在家毎に見まわれども、怪しき所も無かりけり。中にも片織戸なる屋を見ては、「若し是にや御すらむ」とて駒をとどめて立ち聞けども、琴の音もせざりける間、片織戸の有る所もなき所も、打ちまはり打ちまはり、在家をつくし、二三反まで見まわれども、惣じて箏弾く所なし。仲国思ひ煩ひて、「こはいかがすべき。内をばたのもしげに申して罷り出ぬ。尋ぬる人は御せず。空しく帰り参りたらむは中々心憂かるべければ、是よりいづちへも失せなばや」とまでぞ思ひける。
「若し、月の明るければ、御堂なむどにや参りて御すらむ」と思ひて、堂々拝みめぐれども、其にも怪しき人もなし。責めて思ひの余りに、「程近ければ、法輪の方ざまに参りてもや御すらむ、そなたを尋ねむ」と思ひて、大井川の橋の方へおもむくに、北の方に当たりて、▼P2273(一八オ)亀山の麓近く、松の一村ある中より、嵐の音にたぐへて、箏の音幽かに聞こえけれど、さだかに其と覚えねば、峯の嵐か松風か、尋ぬる人の箏の音か、いづれなるらむ、と怪しくて、そなたをさして行く程に、木蔭へ打ち入りぬ。駒を留めて立ち聞けば、内裏にて常に承りし、小督殿の弾き給ひし爪音也。仲国、胸打ち騒ぎ、云ふ計りなくうれしくて、怱ぎ馬より飛び下りて、「何なる楽を弾き給ふらむ」と閑かに聞きければ、「思ふ男を恋ふ」と云ふ想夫恋をぞ弾かれける。箏の音空にすみ渡り、雲居にひびく心地して、身にしみてぞ覚えける。
箏の音を指南にて分け入りたりければ、荒れたるやどの人もなく、草のみしげく露探し。秋も半ばの事なれば、音々すだく虫の音に、琴の音ぞまがひける。されば君の御事、深く恋ひまひらせられけるにやと、誠に哀れに覚え▼P2274(一八ウ)ければ、腰より横笛を取り出だして、忍びやかにぞ付けたりける。
小督局、笛の音を聞き付けて、あさましとも云ふ計りなし。怱ぎ琴を弾きさして、取りをさめ給ひてけり。仲国も箏の音聞こえずなりければ、笛をも吹きさしてけり。さてしも有るべき事ならねば、兼ねて聞きつる片織戸に立ち寄りて、門をほとほとと打ちたたくに、とがむる人もなし。「こはいかがすべき」と仲国思ひ煩ひて、「内裏よりの御使ひにて候ふ。あけさせ給へ」と高声に申しけれども、なほ答ふる人もなし。良久しくありて、内より人の出づる音しければ、うれしく思ひて待つ処に、鎖をはづして片織戸ほそ目にあけて、十二三計りなる女の、ゆまきに袴きたりけるが、「誰そ」とて出でたり。「内裏よりの御使ひ」と申しければ、立ち帰り小督の殿に語る。「よも内からの御使ひにはあらじ。平家の知りて人を▼P2275(一九オ)遣したるござむめれ」とて、「是は門違ひにてぞ候らむ。内裏より御使なむど給はるべき所にても候はず」といはせたりければ、仲国「かくて問答をせば、門立て、鎖も鍵もかけもぞする。叶はじ」と思ひつつ、返事をばせで、門をむずとおしあけて入りにけり。
妻戸の際の縁に寄りて、「是に小督殿の御局の御渡り候ふ由、内聞こし召され候ひて、『実否を見てまゐらせよ』の御使ひに、仲国が参りて候ふなり」と申しければ、なほさきの女にて、「是にはさ様の事も候はず。門違ひにてぞ候ふらむ」と同じくいはせたりければ、仲国申しけるは、「口惜しくも仰せ事候ふ者哉。内にて御箏あそばされ候ひしには、仲国こそ御笛の役には召され候ひしか。御箏の音、能々聞き知りまゐらせて候ふに、『よも聞きしらじ』など思はれまゐらせ候ひけるこそ、心憂く覚え候へ。只うはの▼P2276(19ウ)空に申すとや思食され候ふらむ。御書の候ふを見参に入れ候はむ」とて御書を取り出だし、彼女して入れたりければ、小督是を取り見給ふに、実の御書なりければ、顔にをしあてて、泣くより外の事なし。
良久しくあつて御返事書きて、女房の装束一重ね取り具して出だされたり。仲国給はつて申しけるは、「御返事給はり候ひぬる上は、余の御使ひにて候はば、怱ぎ罷り出づべきにてこそ候へ。仲国、日来御笛の役に召され候ひつる奉公、争か空しく候ふべき。然るべく候はば、直に仰せを蒙って罷り出で候はばや。何様なる子細にて是までは出でさせ御しまし候ひけるやらむ」と申しければ、其の時、小督局自ら御返事し給ひけるは、「始めより申したかりつれども、世の中のうらめしさ、身の程のはづかしさに、かくとも申さざりつれども、強ちに恨み給へば、去り難くて加様に申す▼P2277(二〇オ)也。世に隠れなき事なれば、定めてそれにも聞き給ひけむ、入道の方ざまに安からぬ事にして、『召し出だして失はるべし』なむど聞へしかば、心憂く悲しくて、げにもさ様の事あらば生き乍ら恥を見むもうたてくて、君にもしらせまゐらせず、人独りにも知られずして、内裏を迷ひ出で候ひし時は、いかならむ淵川に身をなげて、此の世になき者と人に知られむとこそ思ひしかども、人に申し合はせしかば、『渕川に入りて死ぬる者は、吾が身を害する咎により、悪道に落つる』なむど申しし事の怖ろしさに、今まで思ひ煩ひて、水の底にも沈まず、つれなくかくて候へば、定めて君は『隆房に心を通はして隠されたる歟』などもや思し召し候ふらむと、はづかしくこそ候ひつれ。但し是にかくて有らむ事も、只宵計り也。明けなば大原の奥に尋ね入り、今は思ひ立つ事の有りつれば、日来は▼P2278(二〇ウ)箏に手懸くる事もなかりつれども、『宵計りの名残り也、夜もふけぬれば、誰かは聞きもとがむべき』と、憚かる心も無くして、箏を弾きつる程に聞き出だされにけり」とて、涙もかきあへず泣き給へば、仲国も是を聞きて狩衣の袖をぞ絞りける。
良久しく有りて、涙を押さえて申しけるは、「小原へ入らせ御坐して思召し立つと云ふ御事は、御様を替へさせ給ふべきにや。さ様に思し召しなりなば、内の御歎きをば何がせさせ御しますべき。有るべからぬ御事也。只今御迎へに参り候はむずるにて候ふ。是を出でさせ給ふべからず」。「相構へて出だし奉るな」とて、共に相具したる、めぶ吉祥なむどを留めて、彼の宿所を守護せさす。吾身は寮の御馬に打ち乗りて、怱ぎ内裏へ帰り参りたれば、夜もほのぼのと明けにけり。
「今は入御もなりぬらむ。誰してか申すべき」なむど思ひ煩ひて、馬をば右近の▼P2279(二一オ)陣に捨て置きて、給はりたりつる女房の装束をば、はね馬の障子に打ち懸けて、侍従殿のたてじとみを南殿の方へ参り、見参の板あららかにふみならし、南殿の方へ立ちまはれば、主上の御声にて、南面の大床に傾く月を御覧じて、「南に翔り北に嚮ふ、寒温を秋の雁につけがたし。東に出て西に流る、只為方を暁の月に尽す」と打ち詠めさせ給ふ御声、気高く哀れに聞こえければ、君は未だ御寝もならで渡らせ御しましけりと、うれしくて、怱ぎ参りて見まゐらせければ、罷り出でし時のままにて、少しも御はたらきもなくて、未だ宵の御座にぞ渡らせ給ひける。御袂の露けさぞ外よりもなほまさりける。見参の板が鳴りければ、「たそ」と御尋ねあり。「仲国」と申して畏まる。「さて何に」と、きかまほしげに仰せければ、御前に畏みて▼P2280(二一ウ)御返事取り出だしまゐらせたりければ、主上怱ぎ御返事を叡覧有るに、
君ゆゑにしらぬ山路にまよひつつうきねのとこに旅ねをぞする
主上是をあそばして、とかうの宣旨もなかりけり。「さても何にして尋ね出だしたりつるぞ」と仰せ有りければ、「しかじか、箏の音を聞き出だして尋ね参りて候ひつる」と申しければ、「何なる楽をか弾きつる」と御尋ね有りけるに、「想夫恋をあそばしつる」と申しければ、「さては同じ心に思ひけるにこそ」とて、いとど哀れげに思し召したり。「汝牛車沙汰して、具して参りてむや」と仰せければ、「畏りて奉りぬ」とて、罷り出にけり。程無く、牛車、雑色、牛飼清げに出で立ちて、又嵯峨に行き向かふ。小督局取り乗せ奉りて、夜にまぎれて内裏へ参り給ひにけり。主上待ち得させ御坐して、悦び思し召す事なのめならず。▼P2281(二二オ)相棒へて人目をつつまむと、東宮の脇殿へ入れまゐらせて、深く隠し置かせ給ひつつ、夜々召されけるとかや。
かくて何程なかりけるに、顕はれにける事は、小督局内裏を出で給はざりける其のさきより、只ならずなり給ひて、四月計りになり給へる時、かかる事は出で来にけり。召し帰され御して後、御産も近く成りければ、力及び給はず、里へ出で給ひにけり。御産所沙汰し、かいしやくの女房なにくれと尋ねさせ給ふ程に、入道聞き付け給ひにけり。「小督は失せたりと聞きたれば、其の儀は無くて、深く隠し置かれたり」とて、いとど怒り給ひけり。さる程に御産も成りぬ。姫宮にてぞ渡らせ給ひける。
此の宮誕生あつて、百ヶ日過ぎて、小督殿共にして清涼殿のそとの間にして、月をぞ御覧ぜられける。此の事、入道聞きて、「何にも小督があらむには、世の▼P2282(二二ウ)中おだしかるべしとも覚えず」とて、人には仰せ付けずして、自ら是をぞ伺ひける。清涼殿に渡らせ給ふと聞きて、大床あららかにふむで参る。入道と御覧じければ、主上怱ぎ入らせ給ひぬ。小督殿は立ち去る方も無くして、きぬ引きかつぎてふされたり。入道枕に立ちて、「汝は世にも憚からず、入道にも恐れずして、中宮の御心を悩まし奉るこそ不思議なれ」とて引き出だしつつ、自らかみおし切りてぞすててける。
小督局心ならず尼になされて、口惜しとも云ふ計りなし。「哀れ、嵯峨にて思ひ立ちたりし時、大原の奥へも尋ね入りて、吾と様をもかへたらば、心にくくて有るべきに、由無くも再び召し帰されて、恥を見つる悲しさよ」と歎き給へども、甲斐もなし。をしからぬ命なれば、水の底にも入りなむと思ひ立ち給へども、さきにも人の云ひし様に悪道に堕ちむ事、心憂く覚ゆれば、「今生ばかりの事、▼P2283(二三オ)一旦の恥もなにならず。後生は終の栖なれば、浄土をこそ願はめ」とて終に大原の奥に分け入りて、柴の庵を結び、一向念仏し給ひけり。露も怠る事なく明かし暮らし給ひしが、齢八十にて、日来の念仏の功積り、臨終正念にて往生の素懐を遂げ給ふ。此の小督局と申すは、藤中納言成範卿の御娘、坊門の女院の御母儀也。
主上、「吾万乗の主と云ひながら、是程の事、叡慮に任せぬ事こそ口惜しけれ。丸が代に始めて王法の尽きぬる事こそ悲しけれ」と、御歎き有りしよりして、いとど中宮の御方へも行幸もならず、深く思し召し沈ませ給ひけるが御病となり、終にはかなく成らせ給ひにけりとぞ承りし。仁風卒土にかぶらしめ、孝徳外に顕はる。誠に尭、舜、禹、湯、周文武、漠の文景と云ふとも、かくこそは有りけめとぞ▼P2284(二三ウ)覚えし。
されば後白川法皇の、此の君に後れまひらせ給ひて後、仰せ有りけるは、「世を此の君につがせ奉りなば、恐らくは延喜天暦の代にも立ち帰りなましとこそ思ひつるに、かく前立給ひぬる事は、只吾身の微運の尽きぬるのみならず、国の衰弊、民の果報の拙きが至す所也」とぞ歎かせ給ひける。目近くは故院の近衛院に後れまゐらせ給ひたりけむ御有様、挙賢、義孝少将と云へるも、さばかりなりし人の兄弟、一日に失せたりし、又一条摂政伊実、母其の北の方の思ひなどより始めて、後二条関白師実公に後れ給ひて、京極の摂政の思ひなど、かずかずに思し食し知れり。朝綱が澄明に後れて、「悲しみの至りて悲しきは、老いて子に後るるよりも悲しきは莫し。恨みの殊に恨めしきは、少くして親に先だつよりも恨めしきは莫し。老少不定を知ると雖も、猶し前後の相違に迷へり」と泣々書きたりけむも、さこそと思し召し知▼P2285(二四オ)られ、かこつかたなき御涙せきあへず。
永万元年七月に第一の御子、二条院も失せさせ給ひにき。第二の御子高倉宮、治承四年五月に誅たれさせ給ひぬ。現
世後生と憑み奉り給ひつる第四の御子、新院さへかやうに先立ち給ひぬ。今はいとど御心よわくならせ給ひて、何なるべしとも思し召しわかず。老少不定は人間のならひなれども、前後相違は又、生前の御恨みなほ探し。翼鳥、連理の枝と、天に仰ぎ、星を指して、御契り浅からざりし建春門院も、安元二年七月七日、秋風なさけなくして、夜はの露と消えさせ給ひしかば、雲のかけはしかき絶へて、あまの河のあふせをよそに御らむじて、生者必滅、会者定離の理を深く思し食し取りて、年月を隔つれども、昨日今日の御別れのやうに思し食して、御涙も未だかわきもあへず。此の御歎きさへ打ちそひ▼P2286(二四ウ)ぬるぞ申す量りなき。近く召し仕はれし輩、むつまじく思し食しし人々、或は流され、或は誅せられにき。今は何事にか御意をも休めさせ給ふべき。さるままには、一乗妙典の御読誦怠らず、三密行法の御薫修も積れり。今生の妄念思し食しすてて、只来世の御勤めより外、他事おはしまさず。中にも然るべき善知識かなとぞ思し召しける。
天下諒闇になりにしかば、雲上人花の袂を引き替へて、藤の衣になりにけり。昔花山法皇の失せさせ御座したりしに、
兵部命婦その御かなしみにたへずして、「こぞのはるさくらいろにていそぎしをことしはふじのころもをぞきる」とよみ
たりしも、思ひ出でられて哀れ也。興福寺別当権僧正教縁も、伽藍炎上の煙をみて、病付きて程無く失せられにけり。
誠に心有る人の、堪へてながらふべき世ともみえず。
▼P2287(二五オ)法皇の御心中、申すも愚か也。「我十善の余薫に酬ひて、万乗の宝位を忝くす。四代の帝王、思へば子也、孫也。いかなれば万機政務を止められて、年月を送るらむ」なむど、日来御患ひのやすむかたなかりける上、新院の御事さへ打ちそひぬれば、内外につけて思し召ししづませ御します。入道大相国、此の御有様伝へ聞きて、いたく情なく振る舞ひたりし事を怖しとや思はれけむ、
六 〔大政入道の娘、院へ参らする事〕
廿七日、大政入道の乙娘の安芸厳嶋の内侍が腹に、十七に成り給ひけるを、院へ進らせ給ひて、上臈女房あまたぐせさせ、公卿殿上人多く供奉して、女院参りのやうにぞ有りける。かかるに付けても、法皇は、「こはなにごとぞ」と、すさまじくぞ思し食しける。「高倉院隠れさせ給ひて後、僅に十四日にこそ▼P2288(二五ウ)なるに、いつしかかかるべしやは」と、狐めかしく思食しあはれけり。されど後には女御代にて、東の御方とぞ申しける。故院の御時も、二人ながら院へ参らせむとし給ひけるを、門脇宰相、「有るべからざる」由申されければ、思ひ止まり給ひにけり。
女房の中に、鳥飼大納言伊実の娘おはしけり。大宮殿とぞ申しける。一条大納言の御娘をば近衛殿と申しけるも居られけれども、中に大宮殿ぞ御気色はよかりける。御〓[女+夫]の実保・伊輔、二人一度に少将になされにけり。ゆゆしく聞こえしほどに、相模守業房が後家、忍びて参りけるに、姫君出で来給ひにけり。二人の上臈女房も本意なきことにぞ思し召されける。大宮殿は、後には平中納言親宗卿、時々通はれけり。北方にもならずして、思ひ者こそ口惜しけれ。近衛殿は、後は九郎判官義経▼P2289(二六オ)一腹の弟、侍従能成に名立たれけるぞ、うたてく聞こえし。彼の能成、判官世に有りし程は、武者立ちてゆゆしかりしが、判官西国へ落ちし時、紫取染の唐綾の直垂に、赤をどしの鎧に、葦毛なる馬に乗りて、判官の尻に打ちたりしが、大物の浜にて散々と成りける所より、和泉国へ迷ひ行きたりけるが、生取りにて上野国小幡と云ふ所へ流されて、三年有りけるとかや。近衛殿はけがされたる計りにて本意なかりけり。
七 〔木曽義仲成長する事〕
信濃国安曇郡木曽と云ふ所に、故六条判官為義が孫、帯刀先生義賢が次男、木曽冠者義仲と云ふ者、九日、国中の兵従ひ付く事、千余人に及べり。彼の義賢、去んぬる仁平三年夏比より上野国多胡郡に居住したりけるが、秩父次郎大夫重隆が養君になりて、▼P2290(二六ウ)武蔵国比企郡へ通ひけるほどに、当国にも限らず、隣国までも随ひけり。かくて年月をふるほどに、久寿二年八月十六日、故左馬頭義朝が一男悪源太義平が為に、大蔵の館にて義賢・重隆共に討たれにけり。
其の時義仲二歳なりけるを、母泣々相具して信乃国にこえて、木曽仲三兼遠と云ふ者に合ひて、「是養ひて置き給へ。世中はやうある物ぞかし」なむど、打ちたのみ云ひければ、兼遠是を得て「あな糸惜し」と云ひて、木曽の山下と云ふ所でそだてけり。二才より兼遠が懐の中にて人となる。万づ愚かならずぞ有りける。此の児、皃形あしからず、色白く髪多くして、やうやう七才にもなりにけり。小弓なむど翫ぶ有様、誠に末たのもし。人是をみて、「此の児のみめのよさよ。弓射たるはしたなさよ。誠の子か、▼P2291(二七オ)養子か」なむど問ひければ「是は相知る君の父無子を生みて兼遠にたびたりしを、血の中より取り置きて候ふが、父母と申す者なうて中々よく候ふぞ」とぞ答へける。
さて十三と申しける年、男になしてけり。打ちふるまひ、物なむど云ひたる有様、誠に賢げなり。かくて廿年がほどかくし置き、養育す。成長するほどに、武略の心武くして、弓箭の道人に過ぎければ、兼遠、妻に語りけるは、「此の冠者君、少きより手ならして、我も子と思ひ、かれも親と思ひて昵じげなり。朝夕の召物、夏冬の装束許りはわびさせず。法師になりて、実の父母、養ひたる我等が後生をも訪へと思ひしに、心さかざかしかりしかば、故こそ有らめと思ひて男になしたり。誰がをしふとなけれども、弓箭取りたる姿のよさよ。又、細公の骨も有り、力も余の人には過ぎたり。馬にもしたた▼P2292(二七ウ)かに乗り、空を飛ぶ鳥、地を走る獣の矢比なる、射はづす事なし。かち立ち・馬の上、実に天の授けたる態也。酒盛なむどして人もてなし遊ぶ有様もあしからず。さるべからう人の娘がな、云ひ合せむと思ふ。さすがに其も思ふやうなる事はなし。さればとて、無下なる態をばせさせたくもなし。万づたのもしき態かな」とほめたりけるほどに、有る時、此の冠者云ひけるは、「今はいつを期すべしともあらず。身のさかりなる時、京へ上りて、公家の見参にも入りて、先祖の敵平家を討ちて世を取らばや」と云ひければ、兼雅打ち咲ひて、「其の料にこそ、和殿をば是程までは養育し奉りつれ」と云ひてぞ咲ひける。義仲、さまざまの謀を廻らして、平家を引き見むために、忍びて京へ上る。人にまぎれて夜昼隙を伺ひけれども、▼P2293(二八オ)平家の運のさかりなりければ、本意を遂げざりけり。義仲本国へ帰り下りたりけるに、兼雅、「都の物語し給へ」と云ひければ、「京を王城と云ひけるも、よくぞ申しける。西方に高き峯あり、若の事あらば逃げ籠りたらむに、きと恥にあふまじ。六波羅は無下の軍所、西風の北風吹きたらむ時、火をかけたらむに、なにも残るまじとこそみえて候へ。何事も都有る事で候ふぞ」とぞ云ひける。
明晩過ぐるほどに、平家此の事漏れ聞きて、大いに驚きて、仲三兼雅を召して、「義仲養ひ置き、謀叛を起こし、天下を乱るべき企てあるなり。不日に汝が首を刎ぬべけれども、今度ばかりは宥めらるるぞ。詮ずる所、怱ぎ義仲を召し取りて進らすべき」よし、起請をかかせて兼雅を本国へ帰し遣はす。兼雅、起請文をば書きながら、年来の養育空しくならむ事を歎きて、己が命の失せむ事をば顧ず、▼P2294(二八ウ)木曽が世取らむずる謀をのみぞ、明けても晩れても思ひける。
其の後は、世の聞こえを怖れて、当国の大名、根井小矢太滋野幸親と云ふ者に義仲を授く。幸親、是を請け取りて、もてなしかしづきけるほどに、国中に奉りて、「木曽御曹司」とぞ云ひける。父多胡先生義賢が奴で、上野国勇子足利が一族以下、皆木曽に従ひ付きにけり。
さるほどに、伊豆国流人兵衛佐、謀叛を発して、東八ヶ国を管領するよし聞こえければ、義仲も木曽の懸路を強く固めて、信乃国を押領す。彼の所は、信乃国に取りては西南の角、美乃国境なれば、都も近くほども遠からずとて、平家の人々さわぎあへり。「東海道は兵衛佐に打取られぬ。東山道又かかれば、周章するも謂はれあり」とぞ人は申しける。是を聞きて、平家の侍共は、▼P2295(二九オ)「何事か候ふべき。越後国の城太郎資長兄弟、多勢の者也。木曽義仲、信乃国の兵を語らふとも、十分が一にも及ぶべからず。只今に誅ちて献りなむずぞ」と云ひけれども、「東国背くだにも不思議なるに、北国さへかかれば、是只事にあらず」とぞ申しける。
八 〔源氏、尾張国まで責め上る事〕
廿八日、東国の源氏、尾張国まで責め上る由、彼の国の目代早馬を立てて申したりければ、亥時計り、六波椰の辺さわぎあへり。既に都へ打ち入りたるやうに、物運びかくし、東西南北へ持ちさまよふ。馬に鞍置き、腹帯をしめければ、京中さわぎて、「こはいかがせむずる」と、上下迷ひあへり。
畿内より上る所の武士の郎等共、兵粮米の沙汰無く、飢ゑに臨む間、人家に走り入りて、着物食物奪ひ取りければ、一人としてをだしからず。
廿九日、右大将宗盛卿、近▼P2296(二九ウ)国惣官に補せらる。天平三年の例とぞ聞こえし。
九 〔行家と平家と美乃国にて合戦の事〕
十郎蔵人と云ふ源氏、美乃国蒲倉と云ふ所に立て籠りたりけるを、平家、征夷大将軍左衛門督知盛卿、中宮亮通盛朝臣、左少将清経、薩摩守忠度、侍には尾張守貞康、伊勢守景綱以下、三千余騎にて馳せ下りて、上の山より火を放ちたりければ、堪へずして追ひ落されて、当国中原と云ふ処に千余騎勢にて立て籠りたるとぞ聞こえし。平家、近江・美乃・尾張三ヶ国の凶徒、山下・柏木・錦古利、佐々木一族打ち従へてければ、平家の勢五千余騎になりて、尾張墨俣川と云ふ所に着きぬとぞ聞こえし。
二月七日、大臣以下の家々にて、尊勝だらに・不動明王を書供養し奉るべき由、宣▼P2297(三〇オ)下せらる。兵乱の御祈りとぞ聞こえし。其の状に云く、
頃年以来、諸国静まらず、災気荐りに呈はれ、兵革旁た起こる。其の表示の指帰を思ふに、偏へに魔縁の致す所か。仏力を仮るに非ざるよりは、何を以てか人庶を安んぜむ。宜しく神社・仏寺・諸司・諸家及び五畿七道諸国に下知して、不動明王像を顕し、尊勝陀羅尼を写せ。摺写と図写と、体数・遍数とは、只其の力の堪否に任すべし。
其の数の多少を定むること勿かれ。供養を如説に遂げて、厄難を未兆に攘へ、者り。
治承五年二月七日左中弁
又、公家より調伏の法のために丈六の大威徳を一日に造立供養し奉るべきよし、大政入道承りて造立せられたりけり。御導師には房▼P2298(三〇ウ)覚僧正召されけり。已に供養せらるべきにて、房覚礼盤に登りけるが、先づ奏し申しけるは、「是は誰を調伏し候ふべきやらむ」と奏しければ、当座の公卿殿上人より始めて、「こは何事ぞ。事新しや。別の子細の有るかとぞ覚えたる。此の僧は物狂はしき者哉」とささやきあひ給へり。院も思食し煩はせ給ひて、「只違勅の者を調伏すべし」と仰せ下されければ、房覚既に金打ちならして、「新たに造立供養せられ給へり、丈六の大威徳の像」と云ひ出だしたりけるに、仏意もいかがおぼしめしけむ、大威徳の像忽ちにわれ給ひにけり。「達勅の者は平家なり。造立の施主は入道相国なり。実に冥慮測りがたし。末代なれども、仏法は未だ尽きざりけり」と、貴く不思議なりし事共也。
此の外、諸寺の御読経、諸社の奉幣使、▼P2299(三一オ)大法秘法残る所無く行はれけれども、其の験もなし。「源氏只責めに責め上る。なにとしたらば、はかばかしき事の有らむずるか。只、人くるしめなり。神は非例を受け給はわずと云ふ事あり。誤ちは心の外なれば、懺悔すれば転ず。平家の振舞は余りなりつる事なり」と云ひて、僧侶も神主も「いさいさ」とて、各頭をぞ振りあひける。
十 〔武蔵権守義基法師が首渡さるる事}
九日、武蔵権守義基法師が首、并びに同じき子息石河判官代義兼を生取にして、検非違使、七条河原にて武士の手より請け取り、首を獄門の木に係けて、生取をば禁獄せらる。見る者数を知らず、車馬衛衢に充満しておびたたし。諒闇の歳、賊首大路を渡さるる事、希也。されども、康和二年七月十一日、堀川法皇崩御の後、同三年正▼P2300(三一ウ)月廿九日、対馬守源養親が首を渡されたりし例とぞ聞こえし。彼の義基は、故陸奥守義家が孫、五郎兵衛尉義時が子、河内石川郡の住人也。兵衛佐頼朝に同意の間、忽ちに誅戮せらるるこそ無慚なれ。
又、東国の討手、右大将宗盛、「我下らむ」と宣ひければ、「ゆゆしく候ひなむ。君の御下り候はば、誰かは面を向くべき」なむど、上下色代して、各我おとらじと出で立ちて、国々の軍兵を召し集めらる。公卿殿上人して、東夷・北狄追討すべきよしの宣旨を下されければ、各下るべきよし領掌申さる。
十一 〔九国の者共、平家を背く事〕
十三日、宇佐大宮司公通、飛脚を立てて申しけるは、「九国の住人菊地次郎高直、原田四郎大夫種益、緒方三郎伊栄、臼▼P2301(三二オ)杵・経続・松浦党を始めとして、併ら謀叛を企て、大宰府の下知に随はず」と申したりければ、「こはいかなる事ぞ」とて、手を打ちてあさみけり。「東国の謀叛のかぎりと思ひて、西国をば手武者なれば召し上せて合戦せさせむずるやうに憑みたれば、承平の将門・天慶の純友が、一度に東西に乱逆おこしし事に相似たり」とて、大いに騒ぎ給へり。肥後守貞能が申しけるは、「僻事にてぞ候ふらむ。争かしやつばらは我が君をば背きまゐらせ候ふべき。東国北国は君達に任せまゐらせ候ふ。西国は手の下に覚え候ふ。貞能罷り下り候ひて、しづめ候ふべし」と、たのもしげにぞ申しける。
十二 〔沼賀入道と河野と合戦の事〕
十七日、近江・美乃両国の凶徒が首共、七条川原で武士の手より▼P2302(三二ウ)検非違使請け取り、大路を渡して獄門にかく。其の午時計りに、伊与国より飛脚来たりて申しけるは、「当国の住人河野介通清、去年冬より謀叛を発して、当国道後の堺なる高直城に立て籠りたりけるを、備中国住人沼賀入道西寂、彼を誅たむとて、備後のともより千余騎にて河野が館へ押し寄せて、通清を責む。夜昼九日程戦ひけれども、互ひに勝負をも決せざりき。
爰に西寂が甥、沼賀七郎伊重と云ふ者、城の内に責め入りて戦ひける処に、何かがしたりけむ、太刀を打ちひらめける所を、通清、吉きひまと思ひて、馬の頸より足を越して、「えたりをう」とて、沼賀七郎に引き組みたり。伊重しばらくからかひて上下を争ひけれども、力劣りなりければ、生け取られて城内へ押し籠めらるる憂目にぞ合ひた▼P2303(三三オ)りける。
此の処にをりをえて、通清が舎弟、北条三郎通経と云ふ者、勝に乗りて、城内より主従轡をならべて懸け出で戦ひけり。西寂、甥を取られて安からず思ひ、今を限りと思ひ切りて戦ひけるに、通経が郎等を打ち取り、只一人に成りて戦ひけるを、西寂、多勢の中に取り籠めて、通経を手取にして、西寂使者を以ていはせけるは、『城内にも生取候ふらむ。西寂又生取を帯せり。取り替へて、弓箭に付きては互ひに勝負を決すべし』と申したりければ、通清申しけるは、『敵に生け取らるる程の不覚仁をば、生けてなににかはせむ。只切るにすぎたる事なし』とて、使者の見る所にて沼賀七郎伊重を切る。使者帰りて此の由云ひければ、『答ふるに君無し』とて、北条三郎引き出だして切らむとする処に、通経申しけるは、『弓箭取る習ひ、生け取らるる事も常の習ひ也。▼P2304(三三ウ)同じき兄弟の間に、情無きこそ口惜しけれ。一日暇をゆるし給へ。館の案内者也。手引きして通清打ち落とすべし。其の後の死生は、入道殿の計らひ也』と申しければ、西寂ゆるしてけり。其の夜子の剋計りに、北条三郎を案内者として、後の口より押し寄せて、時をはとつくりて、竹林に火をかけ、一時がほど責めければ、城内の兵共、下には煙にむせび、上には敵責めければ、懲へずして、取る物も取りあへず落ちにけり。大将軍河野介通清討たれけり。嫡子川野四郎通信は、川野城を落ちて、石見国へ引きて渡る。奴田入道は、川野介・同じき舎弟川野二郎通家以下、然るべき者共の首卅六取りて京へ上せ、吾が身は安芸の奴田城にぞ籠りける。
爰に通清が養子、出雲房宗賢と云ふ僧あり。▼P2305(三四オ)是は平家忠盛が子也。大力の甲の者也。師以前に他行したりけるが、此を聞き、怱ぎ伊与へ越えて舎弟通信にたづねあひて、西寂を伺ひけるほどに、西寂運のきはむる事は、去んぬる二月一日、室・高砂の遊君共召し集めて、浅海にて船遊びしけるほどに、家子郎等共、磯に下り混りて、西寂只一人残りたりけり。出雲房さらぬやうにて船にのり、ともづなおしきり、西寂をば船ばりにしばり付け、奥を指して漕ぎ出づる。家子郎等は、しばしは入道の漕ぐと心得て目もかけず。次第に奥の方へ遠くなりければ、『あれはいかに、あれはいかに』と申せども、又船もなければ力及ばず、ぬけぬけと取られにけり。出雲房は、夜に入りて、有る渚に船を漕ぎ付けて通信を尋ぬる処に、川野四郎、沼田郷より大勢率して、伯父北条三郎打ち取りて、并びに▼P2306(三四ウ)大子の源三生け取りて、出雲房に行き合ひぬ。二人の敵を生け取りて、各悦びて、高直城に将て返りて、大子をば張付にして、西寂をば鋸を以て七日七夜に頸を切りてけり。之に依つて、当国には新井・武智が一族を始めとして、皆河野に随ひ候ふなり。惣じて四国の住人は、悉く東国に与力仕りたりけり」と申したりければ、入道は何事もかき乱りたる心地して、東国へ討手を向くれば北国起こりて責め上らむとす、西国を鎮めむとすれば私の合戦あり、又、熊野別当田部法印湛増以下、吉野・十津河の悪党等までも花洛を背き、東夷に属する由聞こゆ。「東国・北国已に背きぬ、南海・西海静かならず。逆乱の瑞相頻りにしめし、兵革忽ちに起こり、仏法亡び、又王法無きが如し。吾が朝只今うせなむとす。こは心うき態哉」とて、平家の一門▼P2307(三五オ)ならぬ人も、物の意(こころ)弁(わきま)へたる人は嘆きあへり。
十七日、前右大将宗盛、法皇の御前に参られたり。常よりも心よげなるけしきして、すくすくと参りて候はれければ、法皇にがわらはせ給ひて御覧ぜらる。大将畏りて申されけるは、「入道申し上げよと申し候ひつるは、『世に有らむと仕るは、君の御宮仕への為也。又、二つなき命奪はむと仕る敵をば、今も尋ね沙汰仕るべく候ふ。其に、君も御方人し思召すまじく候ふ。其の外の事は、何事も天下の政、元の如く御計らひ有るべく候ふ』」 とまめやかに申されければ、法皇仰せの有りけるは、「然るべき運命の催すやらむ。此の二、三年、なにとなく世中あぢきなくて、後生の事より外に思はれねば、今は世の政に口入せむとも思はず。只各にこそ計らはせめ。さなきだにも心憂き目をみるに、あな▼P2308(三五ウ)よしな」と仰せ有りければ、宗盛又申しけるは、「いかにかくは仰せ給ふ。はるかに入道は親ながらも、おそろしき者にて候ふ。此の事申しかなへず候はば、『君の御気色の悪しきか、入道をにくませ給ふか』とて、腹立し候ひなむず。只、『さ聞こし召しつ』と仰せ候へかし」と申されければ、「さればこそいへ。いかにもはからへとは」と仰せられて、御経を取らせ給ひてあそばしければ、宗盛少しけしきかはりて、御前を立たれけり。是を承る人々ささやきあはれけるは、「なにとなく世の中そぞろく間、入道さすが恐れ奉り、かく申すなるべし。あな、事も愚かや。天下の事は法皇の御計らひぞかし。なにと御計らひとは申すぞ」とぞ云ひ合ひける。
東国の源氏、謀反の事重ねて申し送るの間、宣旨をくださる。其の詞に云はく、
▼P2309(三六オ)伊豆国流人源頼朝并びに甲斐国住人同じく信義等、偏に狼戻を企て、頻りに烏合を励ます。軽便の賊、党を結び、愚惷の徒ら群を成す。征伐未だ彰れず、漸く旬月を送る。黎民の愁へ、時として休まず。宜しく越後国住人平助長に仰せて、件の輩等を追討すべし。其の功効に随ひて殊賞を加ふべしてへり。
治承五年正月十六 日左少弁
次の日、又重ねて宣旨を下さる。其詞に云はく、
伊豆国流人源頼朝は、父義朝斬刑に行はるるの時、頼朝其の科を同じくすべきに、早く寛宥の仁に依つて、既に死罪の刑を免る。加之、祖父為義、頸を刎ねらると雖も、徒党の所領と云ひ、郎従の田園と云ひ、皆宥め行はるるは仁化の至り也。而るに空しく龍光の旧照を忘れ、猥しく狼戻の新謀を巧む。甲斐国住人源信義▼P2310(三六ウ)以下、国々の源氏皆以て合力し、軽便の賊、党を結び、愚惷の徒、群を成す。暴悪の甚しきこと未だ有らず。此は夫、率土の浜、皆是王地也。普天の下、誰か公民に非ず哉。王事濫きこと無し。天誅定めて加はらむ。而るに、征伐未だ彰はれず。旬月漸く積る。黎民の悲しみ、叡慮に聊無し。宜しく鎮守府将軍藤原秀衡に仰せて、彼の輩等を追討せしむべし。田父野叟の類なりと云ふと雖も、是身を忘れ国を憂ふるの士無からんや。将軍の職掌の為に、敗死の勤節を励まさざらむ哉。其の勲功に随ひて、不次の賞を加ふべしてへり。
治承五年正月十七 日左中弁
同十九日、内大臣宗盛を以て惣官職に補せらる。 宣下の状に云はく、
惣官正二位平朝臣宗盛
▼P2311(三七オ)仰す。天平三年の例に任せて、件の人を以て彼の職に補す。宜しく五畿内并びに伊賀、伊勢、近江、丹波等の国を巡察せしめ、結徒集衆の党を捜り捕へ、勢を仮りて却奪し、老少を取り、貧賎を圧略するの輩、永く盗賊の妖言を禁断すべし。
治承五年正月十九日左少弁行隆
十三 {大政入道他界の事 付けたり様々の怪異共有る事〕
廿七日、前右大将宗盛、数千騎の勢を率して関東へ下り給ふべきにて出で立ち給ひけるほどに、入道大相国、例ならぬ心地の出で来たるよし有りければ、「けしからじ」と云ふ人も有りけり。又、「年来も片時も不例の事おはせざりつる人の、かやうにおはすれば、設ひ、打ち立ちて後、聞き給ひたりとても、御返り有るべし。まして京より是を御覧じ置きながら、見捨て奉りて立ち給ふべきやうなし」と面々に有りければ、留まり給ひにけり。
廿八日には、「太政入道重病を受け給へり」とて、六波▼P2312(三七ウ)羅の辺騒ぎあへり。様々の祈り共始まると聞へしかば、「さみつる事よ」とぞ、高きも賎しきも、ささやき、つつやきける。病付き給ひける日より、水をだにも喉へ入れ給はず。身中熱する事、火燃ゆるが如し。臥し給へる二、三間が中へ入る者、あつさ堪へ難ければ、近く有る者希也。宣ふ事とては、「あたあた」と計り也。少しも直事とおぼえず。二位殿より始めて、公達、親しき人々、いかにすべしともおぼえず。あきれてぞおはしあひける。さるままには、絹・布・糸・綿の類は云ふに及ばず、馬の鞍、甲冑、太刀、刀、弓、胡〓[竹+録]、銀、金、七珍万宝取り出だして、神社、仏寺に献る。大法、秘法、数を尽して修し奉る。陰陽師七人を以て、如法泰山府君を祭らせ、残る所の祈りもなく、至らぬ療治も無かりけれども、次第に重くなりて、すこしも験もなし。然るべき定業とぞみえける。入道は音いかめしき人にておはしけるが、音もわ▼P2313(三八オ)ななき、息もよはく、事の外によはりて、身の膚へ赤き事は、朱を指したる者にことならず。吹き出だす息の末に当たる者は、炎に当たるに似たり。
閏二月二日、二位殿あつさ堪へ難けれども、屏風を隔て、枕近く居寄りて、泣く泣く宣ひけるは、「御病日々に重くなりて、恃み少く見え給ふ。御祈りにおいては心の及ぶ程は尽くし候ひつれども、其の験なし。今は只一すぢに後生の事を願ひ給へ。又おぼしおく事あらば、宣ひ置き給へ」と申されければ、入道くるしげなるこゑにて、息の下に宣ひけるは、「我、平治元年より以来、天下を足の下になびかして、自ら傾むとせし者をば、時日を廻らさず忽に滅ぼしにき。帝祖、太政大臣にいたりて、栄花既に子孫に及べり。一人として背く者なかりしかば、一天四海に肩を並ぶる人や有りし。されども、死と云ふ事、▼P2314(三八ウ)人毎に有るをや。我一人がことならばこそ始めて驚かめ。但し、最後に安からず思ひ置く事あり。流人頼朝が首をみざりつる事こそ口惜しけれ。死出山を安く越ゆべしとも覚へず。入道死して後、報恩追善の営み、努力々々有るべからず。相構へて頼朝が首を切りて、我が墓の上に懸けよ。其をぞ、草の影にても悦ばしくは思はむずる。子息、侍は、深く此の旨を存じて、頼朝追討の志を先とすべし、仏経供養の沙汰に及ぶべからず」とぞ遺言し給ひける。大将より始めて御子孫共まで、並居て聞き給ひけり。いとど罪深く、怖ろしくぞ覚ゆる。
其の日のくれほどに、入道病にせめ伏せられ給ひて、晴明が術、道満が印を結びて祈りけれども験なし。余りの堪へ難きに、比叡山千手院と云ふ所の水を取り下して石の船に入れて、入道其に入りて冷やし給へども、下の水は上に涌き、▼P2315(三九オ)上の水は下へ涌きこぼれけれども、すこしも助かり給ふ心地もし給はざりければ、せめての事にや、板に水を汲み流して、其の上に臥しまろびて冷やし給へども、猶も助かる心地もし給はず。後は帷を水にひやして、二間をへだてて投げ懸け投げ懸けしけれども、程無くはしばしとなりにけり。かかへおさふる人一人もなし。よそにてはとかく云ひ詈りけれども叶はず。後には提に水を入れて胸の上におきければ、程無く湯にぞ涌きにける。
悶絶〓[足+辟]地して、七日と申ししに、終にあつち死に死にけり。馬車馳ちがひ、上下騒ぎ詈り、京中は塵灰にけたてられて、くれにてぞ有りける。禁中仙洞までも閑ならず。一天の君の何なる事おはしまさむも、是程はあらじとぞみへし。おびたたしなむどはなのめならず。今年六十四にぞ成り給ひにける。七、八十までも有る人も有るぞかし。▼P2316(三九ウ)老死にと云ふべきに非ざれども、宿運忽に尽きて、天の責め遁れざれば、立てぬ願、残れる祈りも無かりけれども、仏神も事により、時に随ふ事なれば、惣じて其の験なし。数万騎の軍兵有りしかども、獄卒の責めをば戦ふ事あたはず。一家の公達も多くとも、冥途の使ひをば寃ぐるに及ばず。命にかはり、身にかはらむと契りし者も若干有りしかども、誰かは一人として随ひ付きし。死出山をば只一人こそ越え給ふらめと哀れ也。造り置かれし罪業や身に添ふらむ。摩訶止観には、「冥々として独り行く、誰か是非を訪はむ。所有の財産徒に他の有と為る」と明かし、倶舎論には、「再生して汝盛位を今過ぎぬ。死して遂に将に炎魔王に近づくべし。前路に往かんと欲するに、資粮無し。中間に住まんことを求むるに、所止无し」と申して、炎魔王の使は高貴をもきらはず。魂をうばふ獄卒は、賢愚を▼P2317(四〇オ)えらぶ事なし。楊貴妃、李夫人の妙なりし姿、牛頭馬頭はなさけをのこさず。衣通姫、小野小町が心のやさしかりし。阿妨羅刹は、恥づる事もなかりき。秦の始皇の虎狼の心ありし。梁の武王の勇のたけかりし。頼光、頼信が計り事の賢かりしも、冥途の使ひには叶はざりき。
昔、金峯山の日蔵聖人の無言断食して行ひする間、秘密瑜伽の鈴をにぎりながら、死に入たる事侍りけり。地獄にて延喜の御門に会ひまゐらせたる事ありき。「地獄に来る者、二度閻浮提に帰る事なしといへども、汝はよみ返らすべき者也。我が父、寛平法皇の命をたがへ、無実を以て菅原右大臣を流罪せしつみによりて、地獄に落ちて苦患を受く。必ず我が王子に語りて苦をすくふべし」と仰せ有りければ、畏て承りけるを、▼P2318(四〇ウ)「冥途は罪なきを以て主とす。聖人我を敬ふ事なかれ」と仰せける事こそ悲しけれ。賢王聖主、猶地獄の苦患を免れ給はず。何かに況むや、入道の日比の振舞の体にて思ふに、後世の有さま、さこそはおはしますらめと思ひ遣るこそ糸惜しけれ。「是は只事にあらず。金銅十六丈慮舎那仏を焼き奉り給ひたる伽藍の罰を、立所にかぶり給へるにこそ」と、時の人申しけり。
太政入道失せ給ひし後、天下に不思議の事共謳謌せり。入道失せ給はむとて先七日に当たりける夜半計りに、入道の仕ひ給ひける女房、不思議の夢をぞ見たりける。立ぶち打ちたる八葉の車の内に、炎おびたたしくもえ上りたり。其の中に「無」と云ふ文字を札に書きて立てたりけるを、青鬼と赤鬼と二人、福原の御所、東の四足の門へ引き入れければ、女房夢心地に、「あれは何くよ▼P2319(四一オ)りぞ」と云ふ。鬼神答へて云はく、「日本第一の伽藍、聖武天皇の御願、金銅十六丈の廬舎那仏を焼き奉りたる伽藍の冥罰遁れ難きによつて、太政入道取り入れむずる焔魔大王の御使、火車を将て来たるなり」と云ければ、女房みるも身の毛竪ちて、怖しなむどはなのめならず。「あさまし」と思ひて、女房、「さてあの札はなにぞ」といへば、「永く無間大城の底に入れられむずる召人なるが故に、無と云ふ字をば書きたる也。是、無間地獄の札也」と申すと思ひければ、夢さめてけり。心騒ぎ冷汗たりて、おそろしなむどは愚か也。彼の女房、此の夢みたりけるによつて、病付きて二七日と云ふに死ににけり。
播磨国福井庄の下司、次郎大夫俊方と云ふ者、南都の軍はてて、都へ返りて三ヶ日と云ふに、ほむら身に責むる病付きて死ににけるこそ怖しけれ。正月には高倉院の御事悲▼P2320(四一ウ)しかりしに、纔に中一月を隔てて又此の事有り。世の中の無常、今に始めぬ事なれども、是は殊に哀れ也。
七日、六波羅にて焼き上げて、骨をば円実法印が頸にかけて、福原へ取りて納めてけり。さても其の夜、六波羅の南にあたつて、二三十人計りが音して舞ひ踊る者有りけり。「うれしや水」といふ拍子を取りて、をめき叫びてはやし詈り、「は」と咲ひなむどしけり。高倉院失せさせ給ひて、天下諒闇になりぬ。其の御中陰の内に太政入道失せられぬ。而も今宵六波羅で火葬しける最中、かかる音のしければ、「いかさまにも人のし態にあらず。天狗の所行でぞ有るらむ」と思ひけるほどに、法住寺殿の御所の侍二人、東の釣殿に人を集めて酒盛をしけるほどに、酒に酔ひて舞ひけり。越中前司盛俊、御所の侍左衛門尉基▼P2321(四二オ)家に尋ねければ、「御所の侍二人が結構なり」と申して、彼二人の輩搦め取りて、右大将の許へ相具して参る。事の子細を尋ねられければ、「相知りて候ふ者、あまた来て候ひつるに、酒をすすめ候ひつるほどに、俄に物狂の出で来て、そぞろに舞ひ候ひつるなり」と申しければ、「咎に処するに及ばず」とて、即ち追ひ放たれにけり。「酔狂とは云ひながら、さしもや有るべき。天狗の付きにけるよ」とぞ人申しける。
興福寺の坤の角、一言主明神とて社あり。彼社の前に大なる木〓[木+患]子の木あり。彼の焼亡の火、此の木のうつろに入て、煙立ちけり。大衆の沙汰で、水を汲みて度々入れけれども、煙少しも立ちやまず。水を入れけるたびごとは、煙少し立ち増り、木本近くよるもの咽びければ、むつかしとて、其の後沙汰もせず。七月に及ぶまで消えざりけり。大政入道死に給ひて後、彼の▼P2322(四二ウ)火消えにけり。是も其比の物語にてぞ有りける。
「人のしぬる跡には、あやしの者だにも、ほどほどに随ひて朝暮例時懺法なむどよませて、金打ならすは常の習也。是は供仏施僧の営みにも及ばず、報恩追善の沙汰にも非ざりけり。明けても晩にて、軍、合戦の営より外の他事なかりけり。うたてく心憂かりし事也。「入道一人こそおはせねども、年比日比、さばかり貯へをきたりし七珍万宝は、いづちか行くべき。設ひいかに遺言し給ひたりとも、などかをりをりの仏事孝養せられざるべき」と、人弾指をする事なのめならず。
造り瑩きたりし八条殿、去んぬる六日焼けぬ。人の家の焼くる事は常の事なれども、をりふしかかるもあさまし。なに者の付けたりけるやらむ、放火とぞ聞こえし。何者か云ひ出だしたりけむ、「▼P2323(四三オ)謀叛の輩、八条殿に火を指したり」と聞こえければ、京中は地を打ち返したるが如し。騒ぎ詈る事おびたたし。上下、心をまどはすことひまなし。「実に有らむ事はいかゞせむ。かやうに空しき事、常にさしまじへて騒ぎあへる事の心うさよ。何になりなむずる世やらむ。天狗もあれ、悪霊も強くて、平家の一門、運尽きなむとぞ覚えし。
比の入道の運命漸く傾き立ちし比、家にさまざまの怪異共ありける中に、不思議の事の有りけるは、厩に立てられたりける秘蔵の馬の尾に、鼠の巣をくひて子をうみたりけり。舎人あまた付きて、夜昼なでかふ馬の尾に、一夜の内にすくひ、子をうむ事、返々有難くこそ聞こえしか。入道大に驚きて、陰陽師七人に占はせられければ、各の「重き慎み」とぞ申しける。是によりて、やうやうの御願立てられけり。其の▼P2324(四三ウ)馬は陰陽師泰親ぞ給はりける。黒き馬の額白にてぞ有りける。名をば望月とぞ申しける。相模国住人大庭三郎景親が、東八ヶ国第一の名馬なりとて、献りたりし馬也。此の事、昔も今も不思議にて、ためし有るベしともおぼえぬ事也。昔、天智天皇元年〈壬戌〉四月に、寮の御馬に鼠のすを食ふ事有りけり。其も驚き思召して、御巫など祈られけるにも「御慎み浅からず」と申しけり。されば、彼の御代に奥ぜめなむど云ふ事有りて、世中静かならず。其後幾程もなくて、天皇も崩御なりてけり。
此の外、さまざまの不思議多く有りけり。福原の宿所の、常の御所と名付けられたる坪の中に殖ゑそだて、朝夕愛し給ひける五葉の松の、片時が程に、かれにけり。入道の召仕ひけるかぶろの中に、天狗あまたまじはり▼P2325(四四オ)て、常に田楽の音して、どどめきけり。大方さまざまの不思議共有りけり。
十四 〔大政入道、慈恵僧正の再誕の事〕
抑も、入道、最後の病の有様はうたてくして悪人とこそ思へども、実には慈恵大師の御真なりといへり。何にして慈恵大師の御真と知らむと云へば、摂津国清澄寺と云ふ所あり。村の人は「きよし寺」とも申すなり。彼の寺の住侶、慈真房尊恵と申しけるは、本叡山の学徒、多年法花の持者なりけるが、道心を発し、住山を厭ひて、此の処に住して年を送りければ、人皆此を帰依しけり。
而るに承安二年〈壬辰〉十二月廿二日〈丙辰〉の夜、けうそくによりかかりて、例の如くに法花経を読み奉りけるほどに、丑の剋計りに、夢ともなく覚ともなくて、年十四計りなる男の、▼P2326(四四ウ)浄衣に立烏帽子にて、わらうづはばきしたるが、たてぶみを以て来れり。尊恵、「あれは何くよりの人ぞ」と問ひければ、「炎魔王宮よりの御使也。書状候ふ」とて、其のたてぶみを尊恵にわたす。彼の状に云はく、
〓[口+屈]請 閻浮提大日本国摂津国清澄寺の尊恵慈真房。右、来る廿六日の早且、炎魔羅城大極殿に於いて、十万人の持経者を以て、十万部の法花経を転読せらるべし。宜しく参勤せらるべし。者ば国王の宣に依つて、〓[口+屈]請件の如し。
承安二年〈壬辰〉十二月廿日〈丙辰丑時〉 炎魔庁
と、書かれたりけり。尊恵いなび申すべき事ならねば、領状の請文を書きて奉るとみて、さめにけり。偏に死去の思ひをなして、院主光陽房に▼P2327(四五オ)語る。人皆不思議と思へり。尊恵、口に弥陀の名号を唱へ、心に引接の悲願を念ず。
漸く廿五日の夜陰に及びて、常住の仏前に至り、念仏読経す。既に卯の剋に至りて、眠り切なる故に、返りて住坊に打ち臥す。ここに、浄衣の装束の男二人出来て、「早く参ぜらるべき」よし勧むる間、王宣を辞せむとすれば甚だ其の恐れあり、参詣を企てむとすれば、更に衣鉢なし。此の思ひをなす時、二人の童子・二人の下僧・七宝の大車、自ら坊の前に現ず。法衣自然に身をまとひ、肩にかかる。尊恵大いに悦びて、即時に車にのる。衆僧等西北の方に向かひて空を飛びて、炎魔羅城に至る。
王宮をみるに、家中べう<として、其の内広々たり。其の中に、七宝舒城の大極殿あり。高広厳飾にして、凡夫の登る所にあらず。▼P2328(四五ウ)其の大極殿の四面にして、各の中門の廊あり。各の楼門高く広くして、皆悉く美を尽くし、妙を窮めたり。惣じて、宮殿・楼閣、〓[土+郭]の内に充満して、称計すべからず。而るに、彼の大極殿の四面の中門廊にして、各の十人の冥官あり。十万人の持経者を配分して、各の一面に座に着かしめ終はりて、大極殿の前にして、講師・読師、高座に登り終はりて後、十万人の僧、読経畢はりて後、冥官片方へ立ち分かれて、皆持経者の名どころを記し畢はりて、二部の巻数を炎魔王に奉る。進じ終はりて後、衆僧返りさる。
而る間、尊恵南方の中門に立ちて、遥かに大極殿をみるに、冥官・冥衆、皆悉く炎魔法皇の前に集る時、尊恵、「適の参詣也。炎魔法皇・冥官・冥衆に不断経等を勧進せむ」と思ひて、大▼P2329(四六オ)極殿にいたる。其の間、二人の童子蓋をさし、二人の従僧箱を以て、十人の下僧うしろをひきて、漸く歩み近付く時に、炎魔法王・冥官・冥衆、悉くおり向かひて、内へ入るるに前後を論ず。尊恵再三辞退する時、炎魔法皇、文を頌して云はく、「若し法花経を持てる者は、其の身甚だ清浄なる事、彼の浄瑠璃の如し。衆生皆喜見す。又、きよく明らかなるかがみの、悉く諸ろの色相をみるがごとし。菩薩精進を持ちて、皆世のあらゆる所をみる。而れば即ち、薬王菩薩・勇施菩薩、二人の従僧に変ず。多門天・持国天、二人の童子、十羅刹女、十人の下僧に現じて随遂給仕し給ふ。此の故に、御房の従僧等先づ入り給ふべし」と云々。
其の時、尊恵、来臨をはりて後、炎魔法皇と〔ひ〕て宣はく、「余の▼P2330(四六ウ)僧は皆悉く返り去りぬ。御房来る事、何等ぞや」。尊恵答へて云はく、「後生の在所を承らむが為也」。王のたまはく、「摂津国に往生の地五処あり。清澄寺は其の一也。即ち是、諸仏経行の地、尺迦弥勒の現処也。往生・不往生は、人の信・不信に有り」と云ひ請けて後、冥官に勅して宣はく、「此の御房の作善の文篋、宝蔵にあり。取り出だして、一生中の自行勧他の碑文をみせ奉るべし」。冥官是
を承りて、一人の童子に勅す。童子是を承りて、即ち宝蔵にゆいて、一の文篋を取りて持て参る。冥官篋を開き畢はり
て、先づ一には、ゆづう読経の碑文をみせしむ。勧進以後十ヶ年の間、結衆四千一百人が内、死亡の衆二百三人、其の中に往生の人九人あり。懈怠の衆二千三百十二人なり。此くの如きの人数、年々に減少して、当時の講読▼P2331(四七オ)念仏の衆、一千五百八十五人也。惣じて、十ヶ年の間の読経の部数、減定一百一十万六千七百八十四部、読経二千一百四十万返。二には、信読の法花経三万六千七百五十四部、念仏卅六万七十二へむ、大般若教主品・薩般若品・難信解品・寿量品・功徳品、暗誦都合二万一千二百巻〈別の碑文にあり〉。三には、卒都婆の写経十五部〈各十巻〉、石の写経十五部〈各十巻〉、素紙の写経十八部〈各十巻、碑文にあり〉。四には、千日の不断経六千十二部、日別講経一座〈別の碑文にあり〉。五には、百部の如法経書写の巻の内、自行廿五部勧他六十三部〈各十巻〉、みしやきやふ十二部の内、撃冶鋳写金銅の経一部〈碑文にあり〉。六には、六十巻書写の巻の内、既に写しし〓冊三巻、宮十七巻〈別の碑文にあり〉。又、清澄寺にして発す▼P2332(四七ウ)所の七種の誓願。一には、永代の常燈〈別の碑文にあり〉。二には、永代の不断経〈日別講一座、并びに長講等〉。三には、仏前御帳三間〈別の碑文にあり〉。四には、尺迦・弥陀・弥勒三仏形像〈別の碑文あり〉。五には、金銅の閼伽つき九前〈べちのひもむあり〉。六には、金銅のしやり塔并びに御輿〈別のひもむあり〉。七には、十種の供巻の具、金銅のはな、たまの幡等〈べちのひもむあり〉。
冥官、此くの如く自行を懺悔し、勧他を勘定して、目録碑文をみせしむるとき、尊恵取りて云はく、「抑も、ゆづう読経の衆、諸国に散在して已に十ヶ年を経たり。いかが其の在所を知り、いかが其の懈怠死亡を此くの如く懺悔目録し給ふや」。冥官答へて云はく、「六道衆生の顕密の所作、何事か浄頗梨の鏡にあらはれざる。若し不審に及ばば、浄頗梨の鏡をみ給ふべし」と云々。尊恵、彼の鏡をみるに、悪事は悪事と共に、善事は▼P2333(四八オ)善事と共に、在所皆悉くあらはる。一事以上、かくれ有る事なし。「彼の鏡にあらはるる故に、我等が年来の所作・所行、炎魔法皇・冥官・冥衆、いかが御らむじけむ」と思ひて、悲歎涕泣す。「但し、願はくは、炎魔法王、我等を哀愍して出離生死の方法を教へ、証大菩提の直道を示し給へ」。
此の言をなす時、炎魔法王教化して種々の偈を頒す。時に、冥官筆を染めて一々に是を書く。
妻子王位財眷属 死去無一来相親
常随業鬼繋縛戒 受苦叫喚無辺際
譬如栴陀羅 駈中至屠所 歩々近死地 人命亦如是
此日已過 命即衰減 如少水魚 斯有何楽 ▼P2334(四八ウ)
世皆不牢固 如水沫泡焔 汝等減応当 疾生厭離心
随逐悪人者 獲得無量罪 現世無福来 後生三悪趣
但楽読誦 法花経者 滅罪生善 離諸悪趣
何況永代 不断読誦 能勧所勧 皆当作仏
説如修行 法花経者 終生極楽 証大菩提
何況如説 繋冶金銀 永代不朽 所得功徳
十方諸仏 各以千舌 多劫宣説 不可窮尽
此の偈を書き終はりて、炎魔法王、此の誓言をなす。「我、一切衆生の為めに、勧進の文を書写す。此を見聞する類ひ、誰か発心せざらむや。永く文を持ちて、普く貴賎をすすめ、広く上下を誘へて自願を果たし、遂に他願を成就すべし。▼P2335(四九オ)是、有縁の因縁を引導し、無縁の衆生を教化する方法也」。此くの如く教誡し終はりて後、即ち此の文を付属す。
尊恵、付属を歓喜し、踊躍して此の言をなす。「日本大政入道浄海と申す人、摂津国にわだのみさきを点定して、四面十余丁同じ様に家を作り、千人の持経者を配分して、坊ごとに一面に座につけ、炎魔宮の儀式の如く、十万僧読経説法、丁寧に勤行を致すべき」よし申す時に、随喜肝胆して云はく、「件の入道はただ人にあらず、慈恵僧正の化身、天台の仏法護持の為に日本に再誕せる人也。必ず此の文を以て彼の人にしらすべし」と云ふ。
敬礼慈恵大僧正 天台仏法擁護者▼P2336(四九ウ)
示現最勝将軍身 悪業衆生同利益
又宣はく、「昔土佐の国平山の聖人は、桂の大納言入道也。而るに、今生に出家入道発心修行の故に、極楽に往生すべき人なり。而るに、宿殖徳本を殖ゑたるゆゑに、現世安楽にして、後生には極楽に生まるべき人也。而れば即ち、彼の人々に値遇結縁して往生極楽の素懐を遂ぐべし。此くの如く炎魔法王の教誡をかぶりて、大極殿の南方の中門へ出づる時、官使十人、門外に立ちて、車にのせて前後に従ふ。即ち空を飛びて返り来る。尊意、官使の返り去るをみて、大極殿へ再び帰り入りしとき、炎魔法王・冥官・冥衆、いたり向かひ、内へいりしとき前後を論ぜしに、炎魔王の誦し給ひし所の「若持法花経」の文と、又「如浄明鏡」の文と、二つの文を誦し、心にけうなむ▼P2337(五〇オ)さうの思ひをなして、七日と云ひける正月二日丙寅の戌時によみがへり終はむぬ。尊恵、此の状を以て太政入道に奉り、炎魔王に申しつるが如く、終に宿願を果たしてけり。さてこそ、清盛をば慈恵僧正の再誕なりと人知りけれ。
但し、「清盛権者ならば、権は必ず実を引かむが為に世に出づる事也。悪業を作り、仏法を滅して、実者の為に何のせむか有るべき」と、人ごとに疑ひ思へる不審あり。尺教の中に此の理はりを尺するに、「猪金山をする、風くら虫をます」といへる法門あり。「猪金山をする」といふは、いのしし金の山をうがちては、金あらはれて、山金色の光にあらはる。「風くら虫をます」と云ふは、世間にくらと云ふ虫あり。風ふけばただようてあやふくみゆれども、風に当たるごとに勢大になりまさりて、力ことにつよくなる。権者の利益を施す事、▼P2338(五〇ウ)此の譬に異ならず。一人の為に払あるべき時には、罪を作りても利益をます。善悪共に利益をなす事、機に随ひて不同也。
されば、一代教主の尺迦如来、五種法輪を転じて衆生を利益し給ひしに、九十五種の外道の競ひ発りて、如来の化道を用ゐずして、利益にかからざりし時、提婆達多生まれて、九十五種の外道の長者として三悪十悪等のつみを作りて、如来を諍ひ給ひき。其の罪業に報ひて、生きながら現身に大地われて、無間地獄に堕ちしかば、他の従へる外道共、提婆達多地獄に堕つるをみて皆恐れをののき、邪見の心を改めて、如来に従ひ奉る。其より後にこそ、尺迦の化道、成就せしめ給ひしか。如来の性をば、菩薩なほ是を知らず。権者の化道をば、凡身はかる所にあらず。調達、無間地獄に堕ちて後、尺尊の御弟子を遣して、調▼P2339(五一オ)達を訪ひて宣はく、「無間地獄の苦しみは、いくらほどか堪へ難き」と問ひ給ければ、調達答へて申さく、「無間地獄の苦しみは、第三禅の楽に等しく」とぞ答へ申しける。此の詞を聞くには、地獄の炎の中にても、なほ悪心を改めずして、如来をあざむき奉るかと思へども、如来、霊鷺山にして法花経説き給ひしには、「一仏得道は一乗法花の力也。此の法花経をえし事は、調達を師として、千歳給仕の功によりて習へり」と、昔の因縁を説き給ひき。さてこそ、「調達は只の調達に非ず、権者の調達なりけり。地獄の苦しみも、只の苦しみにはあらず、苦楽不二の旨に達して、第三禅の楽にひとしとは答へたり」と、思ひしられて貴けれ。
されば、清盛も権者なりければ、調達か悪業にたがはず、仏法を滅し、王法を嘲る、其の悪業現身にあらはれて、最後に熱病をうけ、没後に子孫滅し、善を▼P2340(五一ウ)すすめ、悪をこらすためしにやとおぼえたり。
又、善悪は一具の法なれば、尺尊と調達と同種姓にうまれて、善悪の二流を施こす。其の様に、清盛も白河院の御子なり。白河院は、弘法大師の高野山を再興せし、祈親持経聖人の再誕也。上皇は、功徳林をなし、善根徳を兼ねまします。清盛は、功徳も悪業も共に功をかさねて、世の為人の為、利益をなすと覚えたり。彼の達多と尺尊と同種姓の利益にことならず。
かかる人なりければ、神祇を敬ひ、仏法を崇め奉る事も、人に勝れたり。日吉の社へ参られけるにも、一の人の賀茂・春日などへ御詣であらむも是程の事はあらじとぞみえし。殿上人、前駈も上達部なむど遣りつづけなむどしてぞ御しける。日吉社にては、持経者のかぎりえらびて、千僧供養有りけり。有り難く、ゆゆし▼P2341(五二オ)かりし事也。
十五 〔白河院、祈親持経の再誕の事〕
抑も、白河院を祈親持経聖人の再誕と知る事は、臣下卿相、仙洞の御遊宴の砌にて種々の御談義有ける中に、「当時天竺に生身の如来出世して説法利生し給ふと聞き及ばむに、志をすすめ、歩みを運びて参りて聴聞すべしや」と申さるる人有りければ、大臣公卿面々に皆「参ずべし」と申されけるに、江中納言匡房卿、未だ其の比は美作守にて有りけるが申されけるは、「人々は御渡り候ふとも、匡房は渡り候ふまじ」とぞ申されける。其の時、月卿雲客各々疑心をなして、「こはいかに、皆人の渡るべき由仰せらるる処に、匡房一人わたらじと申さるるは、子細いかに」と云ふ。匡房重ねて申して云はく、「本朝日域の間ならば、よのつねの渡▼P2342(五二ウ)海なれば安き方も侍りなむ。天竺晨旦の境は流砂叢嶺の嶮難わたりがたく越えがたき路也。先づ叢嶺と申す山は、西北は雪山につづき東南は海中にそびえたり。此山をさかふて東をば晨旦と云ひ、西をば天竺と名付けたり。彼の山の体たらく、銀漢に臨みて日をくらし、白雪を踏んで天に上る。道の遠さ八百余里、草木もおひず水もなし。多く嶮難ある中に、特に高くそびえたるみねあり。けいはらさいなと名付けたり。雲のうはぎぬもぬぎさけて苔の衣もきぬ山の、岩かどをかかへて三日にこそ超えはつれ。此の峯に上りぬれば、三千世界の広狭は眼の前に明かなり。一閻浮提の遠近は足の下にあつめたり。後ろは流砂と云ふ河あり。昼は猛風吹きたてて砂をとばして雨の如し。夜は夭鬼走り散りて火をともすこと星に似たり。白浪み▼P2343(五三オ)なぎり落ちて岸石をうがち、青淵水まひて木葉をしづむ。深淵を渡ると云ふとも、夭鬼の害のがれがたし。設ひ諸鬼の怖畏を免ると云ふとも水波の漂難避り難し。されば玄奘三蔵も此の境にして六度まで命を失ひ給ひき。然りと雖も、次の受生の時にこそ法をば渡し給ひけれ。末代誰か彼の古跡を渡るべき。而るを今天竺にあらず、晨旦にあらず、我朝高野の御山に目の当り生身の大師入定しておはします。彼の霊地を未だ踏まずして空しく月日を送る身の、十万余里の山海を渡りて霊鷲山の嶮路に赴くべしともおぼえず。本朝の弘法大師、天竺の尺迦如来、共に即身成仏の理証眼の前に現ぜり。
昔嵯峨皇帝、大師を清涼殿に請じ奉りて、四ヶの大乗宗の碩徳を集めて▼P2344(五三ウ)顕密法門の論談を致す事あり。法相宗には源仁、三論宗には道昌、天台宗には円澄、花厳宗には道〓[糸+雍]、各々我宗の目出たきよしをたて申す。先づ法相宗の源仁、『我が宗には三時の教をたてて一代の聖教を判ず。所謂、有・空・中、是也。何れかこれにすぐるべきや』と申す。三論宗には道昌の云はく、『我が宗には二蔵を立てて一代の聖教を収む。所謂、菩薩蔵・声聞蔵、此れ也。いかが是に勝るべきや』と申す。花厳宗の道応の云はく、『我が宗には五教をたてて一切の仏教を教ふ。所謂、小乗教・始教・終教・頓教・円教、是也。いかが此に勝るべきや』と申す。天台宗の円澄の云はく、『我が宗には四教五味をたてて一切の仏教を教ふ。四教と云ふは、所謂、蔵・通・別・円、是なり。五味と云ふは、乳・酪・生・熟・醍醐、是れなり。いかが此には勝るべきや』▼P2345(五四オ)といへり。真言宗の弘法は即身成仏の義をたてて、『一代聖教広しと云へども、いづれかは此に及ぶべきや』と申されたり。
其の時、源仁・円澄・道〓[糸+雍]・道昌、面々に難問を吐きて真言の即身成仏の旨を疑ひ申されけり。中にも賢忍僧都、弘法を難じ奉る詞に云はく、『凡そ一代三時の教文を見るに、皆三劫成仏の文のみありて即身成仏の文なし。何れの聖教の文証によりて即身成仏の義をたてらるるぞや』と。弘法答へて宣はく、『汝が聖教の中には三劫成仏の文のみ有りて即身成仏の文証なし』。賢忍の云はく、『即身成仏の文証あらば、具に出だされて衆会の疑網をはらさるべし』といへり。弘法文証を出して宣はく、『修此三昧者現証仏菩提父母所生身、即証大覚位、唯真言法中、即▼P2346(五四ウ)身成仏故』。是等を始めとして、文証を引き給ふ事、其の数繁多なり。賢忍重ねて云はく、『文証は已に出だされたり。文の如く即身成仏を得たる其の人証、誰人ぞや』。弘法答へて宣はく、『其の人証は、遠くは大日金剛薩〓[土+垂]、近く尋ぬれば我が身即ち是なり』とて、忝く明時の龍顔に向かひ奉りて、手に密印を結び、口に密語を誦し、心に観念を凝らし、身に儀軌を備へしかば、生身の肉団忽ちに転じて紫磨黄金の膚となり、出家のいただきの上に自然に五仏の宝冠を現す。光明蒼天をてらして日輪の光を奪ひ、朝庭頗梨にかかやいて浄土の荘厳を顕はす。其の時皇帝随喜して座をさりて礼をなし、信力身をまげて敬覚して地にふす。諸衆掌を合はせ、▼P2347(五五オ)百僚頭を傾く。誠に南都六宗の賓、地に脆きて此を敬信し、北嶺四明の客、庭に臥して摂足す。遂に四宗帰伏して門葉に交はり、始めて一朝信敬して道流をうく。三密五智の水、四海にみちて塵垢をすすぎ、六大四曼の月、一天に輝きて長夜をてらす。其の後も生身普遍して慈尊の出世をまち、六情かはらずして祈念の法音を聞こし召す。是の故に、現世の利生も憑みあり。後生の引導も疑ひなし。かかる霊地へだにも参らずして、印土嶮岨の境に凌がむと云ふ事は、誠に以て然るべからず」と申す時、上皇是をきこしめし、「誠に目出たき事なり。今まで此を思し食しよらざりけるこそ、返々も愚かなれ。かやうの事は延引しぬればさはる事もあり。やがて明朝御幸▼P2348(五五ウ)有るべし」と勅定有りければ、匡房重ねて申しけるは、「明朝の御幸も余りに卒爾におぼえ候ふ。尺尊霊山の説法の砌りには、十六の大国の王達みゆきせさせ給ひける儀式は、金銀をのべて宝輿をつくり、珠玉をつらねて冠蓋をかざり給ひけり。是れ則ち、難得の思ひをこらし、渇仰の志しを尽くし給ふ作法なり。されば君の御幸も彼に違はせ給ふべからず。高野山をば天竺霊鷲山と観じ、生身の大師は尺迦如来と信ぜさせ給ひて、日数をのべて御幸の儀を引きつくろはせ給ふべくや候ふらむ」と申しければ、「誠に此の義然るべし」とて、日数をのべて臣下卿相、金銀七宝をもちて衣裳馬鞍をかざりてぞ出立せ給ひける。是れぞ高野御幸の始めなる。
かくて上皇、大師の廟堂を拝まむが為に、燈炉を鋳て▼P2349(五六オ)御難行に赴き、公卿以下参会。巳の剋に摂政院参。先づ金翠の桶を献ず。桶の中に金銀を以て橘を作り、かうばしきくだものを収む。寮体一疋、鞍を置きて此を進らす。前駈の族、左大臣・内大臣・大納言・中納言四人・参議五人、并びに侍臣等、皆行路にしたがふ。公卿大臣、くつばみをならべて御車の前にあり。摂政殿は車にめして祗候せらる。権僧正仁戒法印・権大僧都隆明・権少僧都寛祐、且は廟堂の法衣を助けむが為、且は叡慮の護持を致さむが為に、各々閑道をへて共に中花をじす。此の双冠の輩ら、宛も地をかかや
かせり。
上皇、奈良路へかからせ給ひて御登山あり。先づ堂塔御巡礼ありて、やがて奥院に参らせ給ふ。権少僧都寛祐、仰せ▼P2350(五六ウ)によりて御廟堂の戸を開く。其の時、御長持を召し寄せて手づから自ら緒をとかせ給ひつつ、中より燈炉を召し出だし、奥院の本の燈炉の対座に懸けさせ、油を入れ、上皇自らともしびを移させ給ひて、額をつき礼をなし、唱へさせ給ひけるは、「南无帰命頂礼遍照大師、今日已に、二生燈明の宿願、満足し畢はむぬ」と御声をあげて申させ給ふ時にこそ、供奉の人々耳目を驚かし給ひけれ。
只今御拝の御詞に、「二生宿願の燈明」と申させ給ひけるは、深き心あり。
昔、東寺の長者観賢僧正と高野の検校無空律師と相論をなす事ありて、无空律師高野を離山し給ひしかば、住侶悉く退散して荒廃の地となりにけり。人跡たへて六十余年、虎狼の栖となり▼P2351(五七オ)たりしを、延久の比、大和国葛下郷に祈親持経聖人と云ふ人有りけるが、父母の生所を祈り、我が後世を知らむとて長谷寺に参たりけるに、観音の示現によりて、「紀州伊都の南山に臨みて祈るべし」と有りしかば、高野山と心得て、即ち彼の山に詣で給ひ、大師の遺跡を顕さむ発願して、高野山に臨み給ひぬ。
凡そ大師此の山を開きて堂塔を建立し給ひける作法は、大塔と申すは、南天の鉄塔を移して其の長十六丈也。金堂は都率の摩尼殿を顕はして間の数四十九間也。慈尊院より御影堂の北に至るまで百八十町に図居をわる、台蔵界の万陀羅の百八十尊を表したり。御影堂より奥院に至るまで三十七町に別てり、金剛界の万陀羅の三十七尊を顕はせり。大塔▼P2352(五七ウ)金堂より始めて諸堂諸院に至るまで、皆密厳浄土の儀式を移し、花蔵界の作法を顕はせり。是の故に、一度も此の地をふむ者は、界外無漏の功徳を備へて、四重五逆の罪障を滅す。一夜も彼の山に宿る者は、本有万陀羅界会を開きて、三十七尊の尊位につらなる。
而るに今、持経聖人、当山に臨むとき、百八十町のはり道も衆木しげりて迷ひやすし。三十七町の奥の道もむぐらにうづもれて分かち難し。大塔くづれてあともなし。金剛峯寺の露譲々たり。廟院かくれてみえ給はず。奥院の霞み片々たり。聖人信心を運ぶと云へども聖跡にまよひて弁じ難し。故に則ち礼拝をなして深く祈念を致す。「南无帰命頂礼、高祖大師遍照金剛、ねがは▼P2353(五八オ)くは霊瑞をしめして当山の紹隆をいたさしめ給へ」と涙をながし音を上げて敬白せられければ、奥院の木本より霊光虚空にそびいて、峯もこずゑもかがやけり。聖人大いによろこびて、しげき木影をきりはらひ、すずの下道ふみあけて、奥院へぞ参られける。かくて土木をはこむで礼堂をつくり、一基の燈炉をかけて、火打を取りて奥院にむかひて祈念して申さく、「我若し此の山をひらいて広むるところの密教、慈尊三会のあかつきまでたえず長夜をてらすべくは、ただ一打ちにつき給へ。此の燈みをかかげて、慈氏のあかつきに相続すべし」と、発願祈念をこらして打ち給ひしかば、ただ一打ちに火付きにければ、即燈炉の中にともせり。今まで▼P2354(五八ウ)きえぬともしびは、かの発願の燈明なり。聖人燈をかかげしとき、又願を成して宣はく、「我が願、未来際に尽きずして、世々に法燈をかかぐべし。此の度二生に生まれきて、必ず今一基を備ふべし」と発願し給ふ。
是れを以て案ずるに、彼の聖人の誓ひ給ひける二生法燈の願、違はずして、今度上皇の御叡願を承はるに、持経聖人の裏願を思ひあはせられて、誠に貴くぞおぼゆる。是の御詞を承はるにこそ、「昔の持経聖人の誓約に答へて、今国王と生まれ給ひて、当山の法燈をかかげ給ふにこそ」と、心有る人は皆感涙をぞ流されける。
抑も祈親持経と申すは、大和国葛下郡の人なりけり。七歳の時父に後れて、孤露にして貧道也。母儀独りありて一子をはぐくむ。而るに、何なる便りか有りけむ、東大寺の僧に語らひて南都に至る。▼P2355(五九オ)三十頌・百法論、一度請けて再び問はず。誠に将来の法器なるべき人と見えたり。其の後年積りて十三と云ふ年の春、中御門の僧都の許に移住す。桃李の花の枝を含める皃ばせなれば、芝蘭の露葉に副ふ契りも等閑ならず。器は則ち法器なり、花厳・三論の法水を入る。根は又上根なり、瑜伽・唯識の教文を開けり。加之、青龍・白馬の余流を伝へ、恵果・弘法の芳躅を訪ふ。剰へ、又秋津州の流れを酌みて、詞海卅一字の数流を添ふ。志幾嶋の風を扇ぎ、出雲八重垣の遺風を加ふ。年幼少にして才能老いたり。而る間、南京第一の名人、容顔無双の垂髪也。
而るに七歳の時父に後れ、十六にして母に別る。かかる間、師匠に暇を乞ひ、深く孝養の志を運びて出家して、一向法花▼P2356(五九ウ)経を読み習ひて偏に二親の後生菩提を祈る。之に依り、法花を持する身なればとて、自ら持経房と号す。又二親の菩提を祈るが故に、実名を祈親と云ふ。
此くの如く行住坐臥の勤め怠らずして、六十と云ひし時、二親の生所を祈らんが為に長谷寺に参籠す。五更の睡り幾ばくならざるに、観音示現して云はく、「汝法花読誦の功既に積る。定めて父母の生所を見むと思ふらむ。此より西南の方、高野の霊崛にして祈請すべし」と云々。大聖の示現に驚きて高野山に登り、再び彼の山を興して父母の生所を知り、都率の内院に参り給へりし人也。
十六 〔大政入道経嶋突き給ふ事〕
さても太政入道の多くの大善を修せられし中にも、福原の経嶋つかれたりし事こそ、人のし態とはおぼえず不思議なれ。彼の海は泊のなく▼P2357(六〇オ)て、風と波と立ち相ひて通る船のたふれ、乗る人のしぬる事、昔よりたへず。怖しき渡なりと申しければ、入道聞き給ひて、阿波民部成良に仰せて、謀を廻して人を勧めて、去んじ承安三年発巳歳、つきはじめたりしを、次年、風に打ち失はれて、石の面に一切経を書きて船に入れて、いくらと云ふ事もなく沈められにけり。さてこそ、此嶋をば経嶋とは名付られけれ。
「石は世に多き物なり。船は人の財也。さのみ船を積み沈められむこと、国家の費なり。又、さのみ経を書きまゐらせむ事、筆を取る類希也。只往反の船に仰せて、『十の石を取り持ち、彼の所に入るべし。末代までも此の義を背くべからず』と宣旨を申し下さるべし」と、成良以下、計らひ申しければ、誠にさも有りなむとて、其の定に定められけり。はたよりおきへ一里卅六町出でてぞ築き留めたりける。海の深さ卅尋有りけるとかや。「海の深さ、際無き事▼P2358(六〇ウ)なり。是は何く程ならず」とて、突き出だしたりける。漂船の流れたる物などを、風の吹き重ねければ、程なく広く成りにけり。「同じくは陸へつづけたらば吉かりなむ」とぞ、漸く突きつづけける。催しなけれども、心有る人は土を運び、木を殖ゑければ、さまざまの草木生ひつづきたり。又、彼の宣旨に任せて、西国の上下の船ごとに石を入れておく。さまざまの力をそへて次第に広くなる。公私の為に旁便りあり。目にみすみす船共泊る小家なむども出で来、日月星宿の光明々として、蒼海の眺望眇々たり。いへば十余年の構へなれども、松の生ひ付きたる有り様、いづれも有り難し。今すこし歳月重なる物ならば、名高き室・高砂にも劣るべからず。
世をすぐる習ひ、遊女もにくからず、小船の影に居て、四国を見渡せば心細し。遊女二三人来て、「漕ぎ行く船の跡の白波」と歌ふ。▼P2359(六一オ)或屋形内で、「舟中波の上、一生の歓会同じと雖も、和琴緩く調べて潭月に臨み、唐櫓高く推して水煙に入る」など朗詠をす。鼓を鳴らし拍子を打ちて、余波を凌ぐ由を謳ふ。色有る様、人は笛を吹き糸を弾く。此の時は古郷の亭の鬼瓦の事もわすられて、国司以下は中持の底を払ひ、商人下臈はもとでをたふす。後には悔ゆれども、あふにしなれば力なき世の習ひなれば、唐の大王までも聞き給ひて、「日本輪田平親王」と号して、帝王へだにも献じ給ひぬ。希代の宝物共を渡されけるとかや。
十七 〔大政入道白河院の御子なる事〕
古人の申しけるは、此の人の果報、かかりつるこそ理なれ。正しき白河院の御子ぞかし。其の故は、彼の院の御時、祗薗女御と申しける幸人おはしき。彼の女御、中宮に中臈女房にて有りける女を、白河院しのび召さるる事有りけり。或る時、▼P2360(六一ウ)忠盛殿上の番勤めて祗候したりけるに、遥かにさよふけて、殿上の口を人のとほる音のしければ、火のほのぐらき程よりみたりければ、優なる女房にてぞ有りける。忠盛、誰とはしらざりけれども、彼の女房の袖をなにとなくひかへければ、女のいたくもてはなたぬけしきにて立ち留まりて、かくぞ詠じける。
おぼつかなたがそま山の人ぞとよこのくれにひくぬしをしらばや
忠盛、こはいかなる事ぞやと、やさしくおぼえて袖をはづして、
雲間よりただもりきたる月なればおぼろけならでいはじとぞ思ふ
と申して女の袖をはづしつ。女、即ち御前へ参り、此の由を有りのままに申したりければ、「さてこそ忠盛ごさむなれ」とて、やがて忠盛を召して、「いかにおの▼P2361(六二オ)れはまろが許へ参る女をば、殿上口にて引きたりけるぞ」と御尋ね有りければ、忠盛色を失ひて、とかく申すに及ばず、いかなる目をみむずらむと恐れをののきて有りけるに、上皇、打ち咲ひて仰せの有りけるは、「此の女、一首をしたりけるに、聞きあへず返事したりけるこそやさしけれ。さらばとう」と仰せ有りて、別の勅勘なかりければ、其の後ぞ心落ち居て罷り出でにける。是を漏れ聞く人申しけるは、「人は哥をば読むべかりける物かな。此の哥よまずは、いかなる目をかみるべき。此の哥によつて御感に預かる。時に取りて希代の面目なり」。
是のみならず、忠盛備前の任はてて国より上りたりけるに、「明石の浦の月はいかに」と院より御尋ね有りけるに、忠盛御返事に、
有明の月も明石の浦風に波はかりこそよるとみえしか
▼P2362(六二ウ)と申したりければ、院、御感ありて、金葉集にぞ入れさせましましける。
上皇、思し食しけるは、「忠盛が秀哥こそ面白けれ」とて、「心をかけたる女、次でも有らば忠盛に賜ばむ」と、御心にかけて月日を送らせ御しけるほどに、去んぬる永久の比、上皇、若殿上人一両人計り召し具して、俄かに彼の御所へ御幸なりにけり。五月の廿日余りの事なれば、大方の空もいぶせきほどの夜、はるかにさみだれさへかきくれて、なにとなくそぞしき御心地しけるに、常の御所の方に光る物有りけり。頭は銀の針なむどのやうにきらめきて、右の手には槌の様なる物をもち、左の手には光る物をささげて、とばかりあつては、さとひかりひかりしけり。供奉の人々、是をみて、習はぬ心に、さこそ思ひあはれけめ。「疑ひなき鬼なむめり。持ちたる物は、聞こゆ▼P2363(六三オ)る打出の小槌にや。あな怖しや」とて、をののきてぞ候はれける。院もけうとく思し召す。忠盛、北面の下臈に候ひけるを召して、「彼の物、射もとどめ、切りもとどめよ」と仰せ有りければ、忠盛承りて少しも憚る所なく歩み寄りけるが、「さしも猛かるべき者とも思はず、狐狸体の者にてぞ有らむ。射も殺し切りも殺したらば念なかるべし。手取りにして見参に入れむ」と思ひて、此の度光る所を懐かむと、次第に伺ひよる。案の如く、さと光る所をみしとだく。懐かれて此の物騒ぐ。早、人で有りけり。「何者ぞ」と問へば、「承仕法師で候ふ」と答ふ。火をともさせて御覧ずれば、六十計りなる法師の手には、手瓶と云ふ物に油を入れてけり。片手には土器に火を入れて以て、頭には雨にぬれじとて小麦と云ふ物のからを笠の様にひきゆひて、打ちかづきてけり。御堂の承仕が、御幸なりぬと聞きて、御明し進ら▼P2364(六三ウ)せむとて、後戸の方より参れるが、「火やきえたる、みむ」とて、火をふりけるなり。其にかづきたる小麦のから、きらめきて、針のやうに見えけるなり。事のやう一々に鎖はれぬ。「是をあわてて、射も殺し、切りも殺したらましかば、いかにかはゆく、不便ならまし。忠盛が仕り様、思慮深し。弓矢取る者は優なりけり」とて、其の勧賞に任せ、孕める女を忠盛に給はりにけり。忠盛是を給はりて、畏りて罷り出でにけり。
漸く月日重なる程に、男子を生みて養育したてて嫡子とす。清盛即ち是なり。此の子生まれたりける時も、女御めづらしき事に思し召して、「少き児、とくみむ」とて、産の内より、若き女房共いだきて、遊びけり。此の児、昼は音もせで、夜になれば、終夜泣きあかしけり。後には、余所の人までもいもねずして、悪みあへり。女房心▼P2365(六四オ)苦しき事に思ひて、人に取らせむとしける夜、女御の夢に、
夜なきすとただもりたてよこの児はきよくさかふる事もこそあれ
と御覧有りければ、此の故にや、夜泣き俄かに留まりて、ひととなるままに、皃人にすぐれ、心も賢かりけり。清盛となのる。清くさかふると云ふよみあり。彼の女御の夢に、少しもたがはず。不思議なりし事なり。かかりければ、忠盛詞には顕はれては云はざりしかども、偏へに是を重くしけり。院もさすがに思し食しはなたず、生年十二にて左兵衛佐になりて、十一歳の四位兵衛佐と申しけるを、「花族の人なむどこそ、かくはあれ」なむど人の申しければ、「清盛も花族は人に劣らぬ物を」と、鳥羽の院も仰せ有りけるとかや。院も知ろし食したるにや。誠に王胤にておはしければにや。一天四海を掌の中にして、君をも悩まし奉り、臣をも誡められき。▼P2366(六四ウ)始終こそなけれども、遷都までもし給ひけるやらむ。昔もかかるためし有りけり。天智天皇の御時に、孕み給へる女御を、大職冠預り給ふとて、「比の女御産なりたらむ子、女子ならば朕が子にせむ。男子ならば臣が子とすべし」と仰せられけるに、男子を産み給へり。養育し立てて、大職冠の御子とす。即ち淡海公是なり。
又、人の云ひけるは、「此の事僻事にてぞ有るらむ。実に王胤ならば、淡海公の例に任せて、子孫相続きて繁昌すべし。さるまじき人なればこそ、運命も久しからず、子孫もおだしからざるらめ。此の事信用にたらず」と申す人も有りけるとかや。
同じき六日、宗盛、院に奏せられけるは、「入道已に薨じ候ひぬ。天下の御政務、今は御計らひたるべき」よし、申されけるに、院の殿上にて兵乱事定め申さる。
▼P2367(六五オ)
十八 〔東海東山へ院宣を下さるる事〕
二月八日、「東国へは本三位中将重衡を大将軍として遣はさるるべし。鎮西へは貞能下向すべし。伊与国へは召次を下さるべし」と定まりぬ。其の上、兵衛佐頼朝以下、東国・北国の賊徒を追討すべきよし、東海・東山へ院庁の御下文を下さる。其の状に云はく、
右、仰せを奉はるに〓へらく、前の右兵衛佐源頼朝、去んじ永暦元年に辜に坐して、伊豆国に配流せらる。須く身の科を悔いて、永く朝憲に従ふべきの処に、尚し梟悪の心を懐きて旁に狼〓の謀を企つ。或は国宰の使を寃陵し、或は土民の財を侵奪す。東山・東海両国の徒、伊賀・伊勢・飛騨・出羽・陸奥の外、皆其の勧誘の詞に赴きて、悉く布略の中に従ふ。茲に因りて、官軍を差し遣はして、殊に禦き戦はしむる処に、近江・美乃両国の反(外)者即ち敗〓[糸+貴]す。尾張・参川以東の賊、▼P2368(六五ウ)尚以て固守す。抑も、源氏等は皆悉く誅せらるべきの由、風聞有るに依つて、一姓 〔性〕の人々、共に悪心を起こすと云々。此の事尤も虚誕なり。頼政法師に於いては、顕然の罪科に依つて刑罰を加へらるる所なり。其の外の源氏、指せる過怠無し。何故にか誅せむ。各の帝猷を守りて、臣の忠を抽きんづべし。自今以後は、浮説を信ずること莫かれ。兼ねては此の子細を存じて、早く皇化に帰すべし。者れば、仰せを奉りて、下知件の如し。諸国宜しく承知すべし。宣に依つて之を行ふ。敢へて達すべからず。故に以て下す。とぞかかれたりける。
十五日、頭中将重衡・権亮少将維盛、数万騎の軍兵を相具して、東国へ発向す。前後の追討使、美乃国に参会して、一万騎に及べり。「太政入道失せ給ひて、今日、十二日にこそなるに、さこそ遺言ならめ、仏経供養の沙汰にも及ばず、合戦に趣き給ふ事けしからず」とぞ申しあひける。
▼P2369(六六オ)
十九 {秀衡資長等に源氏を追討すべき由の事〕
十九日、越後城太郎平資長と云ふ者あり。是は余五将軍維茂が後胤、奥山太郎永家が孫、城鬼九郎資国が子なり。国中に諍ふ者なかりければ、境の外までも背かざりけり。又、陸奥の郡に藤原秀衡と云ふ者有り。彼は武蔵守秀郷が末葉、修理権大夫経清が孫、権太郎清衡が子なり。出羽・陸奥両国を管領して、肩を並ぶる者なかりければ、隣国までも靡きにけり。彼の二人に仰せて、帰朝・義仲を追討すべきよし、宣旨を申し下さる。去年十二月廿五日除目聞書、今年二月廿三日、到来。資長、当国の守に任ず。
資長、朝恩忝き事を悦びて、義仲追討の為に、同廿四日暁に五千余騎にて打ち立つの処に、雲の上中に音あつて、「日本第一の大伽藍、聖武天皇の御▼P2370(六六ウ)願、東大寺の廬舎那焼きたる太政入道の方人する者、只今召し取らむや」と、詈る音しけり。是を聞きける時より、城太郎、中風に逢ふ。遍身すくみ、手もつやつやはたらかねば、思ふ事を状に書きおかす。舌すくみてふられねば、思ひの如くも云ひおかず。男子三人・女子一人有りけれども、二言の遺言にも及ばず、其の日の酉時計りに死ににけり。怖しなむど云ふばかりなし。同弟城次郎資盛、後には城四郎長茂と改名す。春の程は兄が孝養して、本意を遂げむと思ひけり。
秀衡は、頼朝弟九郎義経、去んじ承安元年の春の比より相ひ憑みて来るを養育して、去んぬる冬、兵衛佐の許へ送り遣はして、「多年の好みを空しくして、今、宣旨なればとて、彼敵対するに及ばず」とて、領状申さざりけり。
▼P2371(六七オ)
二十 〔五条大納言邦綱卿死去の事〕
廿三日には五条大納言邦綱卿失せ給ひぬ。大政入道と契り深く、志浅からざりし人なりし上に、頭中将重衡の舅にておはしければ、殊に甚深なりけり。此の邦綱卿、近衛院の御時は、進士の雑色で御はしけるが、仁平三年六月六日、四条内裏焼亡ありけり。主上、関白亭に行幸なるべきにて有りしが、折節近衛司一人も参りあはず。御輿の沙汰する人無かりければ、南殿に出御有りけれども、思し食しわかずして、あきれて立たせ給ひたりけるに、此の邦綱つと参りて、「かやうの時は腰輿にこそ召され候ふなれ」とて、腰輿を舁き出だして参りたりければ、主上奉りて出御なりぬ。「かく申すは誰そ」と御尋ねありけるに、「進士の雑色邦綱なり」と申したりければ、「下臈なれどもさかざかしき者かな」と思し召して、法▼P2372(六七ウ)住寺殿御対面の時、御感の余りに御物語有りければ、其よりして殿下殊に召し仕ひて、御領あまた給はりなどして候はれけるに、同じき御門の御時、八月十七日、石清水の行幸有りけるにいかがしたりけむ、人長が淀河に落ち入りて、ぬれねずみの如くして、片方に隠れをりて、御神楽に参らざりけるに、邦綱、殿下の御共に候ひけるが、なにとして用意したりけるやらむ、人長が装束を持たせたりけるを取り出だして、「いと神妙には候はねども、人長が装束は候ふ物を」とて、一具進らせたりければ、人長是を着て、御神楽ととのひて行わる。少し遅かりつるよりも、御神楽の音共すみのぼり、舞の袖も拍子に相ひて、いつよりも面白かりけり。物の音身にしみて、面白き事は神も人も同じ心也。伝へ聞く、昔天の岩戸を押し開かれ給ひし神代の事▼P2373(六八オ)までも、かくやとおしはかられてぞおぼえける。時に取りてはゆゆしき高名したりける邦綱也。其のみならず、かやうの行幸の色々の装束用意して、持ちつれさせられたりけり。かやうに思ひかけぬ用意もためし多かりけり。
やがて此の人の先祖、山陰中納言と申す人おはしき。大宰大弐にて鎮西へ下られけるに、道にて継母の誤りのやうにて二才なりける継子を海へ落とし入れてけり。失せにける母の、当初天王寺へ参りけるに、鵜飼亀を取りて殺さむとしけるを、彼の女房薄衣をぬぎて、彼の亀を買ひて、「思ひ知れよ」とて放ちてけり。件の亀、昔の恩を思ひ知りて、甲にのせて浮かび出でて、助けたりける人也。是を如無僧都とぞ申しける。帝王是を聞き給ひて、是を重くせさせ給ひき。
昌泰元年の比、寛平法皇、大井河に御幸有りけるに、此の僧都も▼P2374(六八ウ)候はれけり。月卿雲客袖を連ね、裳のすそをならべて、其の数多かりける中に、和泉大将定国、未だ若き殿上人で供奉せられたりけるが、あらしの山の山おろしはげしかりけるに、烏帽子を大井河に吹き入れられて、為む方無くて、袖にて本鳥を押さへて御はしけるを、僧都の三衣の袋より烏帽子を取り出だして、彼の大将にたびたりければ、見る人耳目を驚かしたりけり。是も時に取りては思ひよらざりける高名也。
又、一条院の御時、平等院僧正行尊は、鳥羽院の御持僧也。或る時御遊の始まりたりけるに、琴をひかれける殿上人、琴の糸きれてひかざりければ、彼の僧正、帖紙の中より絃を一すぢ取り出だして、渡されたりけるとかや。
此の人々は用意も深く智恵も賢かりければ、申すに及ばず。此の邦綱はさしも賢かるべき家に▼P2375(六九オ)てもなきに、度々の高名のみせられけるこそ有り難けれ。大政入道とせめて志の深きにや、同日に病付きて、同月に遂に失せ給ひぬ。哀れなりける契りかなとぞ人申しける。
廿一 〔法皇、法住寺殿へ御幸成る事〕
廿五日、法皇、法住寺殿へ御幸あり。治承四年の冬の御幸には、武士御車の前後に候ひて、おびたたしくのみぞ有りし。是は、公卿殿上人あまた供奉し、うるはしき儀式、驚蹕のこゑなども、ことごとしきさまなりければ、今更めづらしく目出たくぞ覚えし。鳥羽殿へ御幸有りし事、福原へ遷都のいまはしき名ありし御所の御事までも、思し食し出だされけり。御所共の少々破壊したりければ、「修理して渡し奉らせむ」と、右大将申されけれども、「只とくとく」と仰せ有りて、御幸なりぬ。
此の御所は、応保元年四▼P2376(六九ウ)月十三日、御移徙有りて後、山水木立、方々の御しつらいに至るまで、思し食すさまにせさせ御はしつつ、新日吉、新熊野をも近く祝ひ奉らせ給ひて、年経るままに、此の二三年旅立ちて御はしつれば、御心もうかれ立ちて渡らせ給へば、今一日もとくと思し食しけり。中にも故女院の御方なむど御覧ぜらるるに、峰の松、河の柳、事の外に木高くなりにけるに付けても、彼の南宮より西内へ遷り給ひけむ音の跡思し食し出だすに、大掖の芙蓉、未央の柳、此に対ひて如何でか涙を垂れざる。
廿二 〔興福寺の常楽会行はるる事〕
三月一日、「東大寺、興福寺の僧綱等、本位に復し、寺領等元の如く知行すべき」よし、宣下せらる。「此の上は大会共行はるべし」と僉儀にて、恒例の三会、行はる。十四日舎利会、十五日涅槃会、常の如し。仏力▼P2377(七〇オ)尽きぬるかとみえつるに、法燈の光きえずして行なはるるこそ目出たけれ。
十六日、常楽会也。此の会と申すは、南閻浮提第一の会なりと云ふ。されば日本国の人の、閻魔の庁に参りたむなるには、「興福寺の常楽会は拝みたりしか」と、先ず一番に閻魔大王の問ひ給ふと申し伝へたり。されば、鳥羽院の鳥羽殿を御造立有りて、此の会を移して行はせ給ひけるに、「恐らくは本寺には劣りたり」と云ふ沙汰有りて、其の後は又も行はざりけり。此の寺の下は龍宮城の上にあたりたる故に、楽の拍子も舞の曲節も殊に澄むとかや。されば尾張国より熱田大明神の見物に渡らせ給ふなれば、川南補と云ふ舞をまふ。中門の前で三尺の鯉を切りて酒を飲むやうを舞ふとかや。河南補の包丁、古徳楽の酒盛とぞ是を云ふなるべし。別当僧正良▼P2378(七〇ウ)円の沙汰として、楽人の禄物、常よりも、花を折り月をみて、度かさねられければ、目出たき見物にてぞ有りける。
同七日、鎮西の逆賊等、追討すべきの由、庁の下文を成し下さる。「高直、伊栄等、悉に私威を立て、国務を対捏(押)し、初めて居住の一州を領じ、漸く比隣の傍国に及ぼす。殊に征伐せらるべし。府国相共に同心合力して、彼輩両人并びに同意の族を相禦くべし」とぞ載せられける。治承五年三月十四日、高直の事、猶叛逆の聞こえ有るに依つて、宣旨下さる。其の状に云く、
肥後国住人藤原高直、頃年より以来、恣に武威を振ひ、忽ちに皇化を背く。啻本住の州県のみに非ず、既に傍国の郷土に及ぼす。偏へに狼戻の▼P2379(七一オ)心に住し、かたがた烏合の群を成す。しかのみならず、海路、白波の賊徒を設け、陸地に緑林の党類を結ぶ。庄公を論ぜず、乃貢を奪い取り、蠧害を庶民に致し、蚕食を九国に企つ。都府に及ばんと欲するに依つて、公官并びに国々の軍兵等に防禦せしむる処、度々戦闘の由、大宰府、頻りに以て言上す。仍りて討使を遣はし、征伐せらるべし。其の間、管内勠力して禁遏せしむべきの旨、院庁より差使を以て下知せらるること、先に畢はんぬ。而るに、姦濫いよいよ増し、簇盗未だ依らざると云々。叛逆の至り、責めて余り有り。宜しく前右近衛大将平朝臣に仰せて管内諸国の軍兵を催(権)して、彼の高直并びに同意与力の輩を追討せしむべし、てへり。
とぞ仰せ下されける。然りと雖も、一切宣旨をも用ひず、いよいよ軍勢を催し、自国・他▼P2380(七一ウ)国を語らひて平家を亡ぼして源氏に加はらむと結構するよし、大宰府より告げ申しけり。
廿三 〔十郎蔵人と平家と合戦の事〕
さても二月七日、東国の大勢、相模国鎌倉を立つと聞こゆ。平家騒ぎて、四国九国の武士共を召し集め、東国へ向けらるべかりける程に、西国の勢遅々しける間、源氏の軍兵は美乃尾張まで責め上る。又信乃国帯刀先生義賢が子に木曾冠者義仲、十郎蔵人行家二人、北陸道を塞ぐと聞こゆ。かかりし間、平家いとど行く先狭くぞ思はれける。左衛門佐知盛、頭中将重衡、権亮少将惟盛以下の追討使、去んぬる二月廿八日、美乃国杭瀬河まで下りたりけるが、源氏の大勢尾張まで向かふと聞こえければ、平家の軍兵墨俣河の南の鰭に陣を取る。其の勢二万余騎。今度は▼P2381(七二オ)平家の軍兵も然るべき兵なれば、「先の駿河の軍にはよもにじ」と、さすがに憑もしくぞ思はれける。
三月十一日あけぼのに、東の河原に武者千騎計り馳せ来たる。即ち東のはたに陣を取る。是は兵衛佐には叔父、十郎蔵人行家也。又千騎計り来たる。是は兵衛佐の弟、鳥羽の卿公円全と云ふ僧也。常葉腹の子、九郎一腹一生の兄也。「十郎蔵人に力を付けよ」とて、兵衛佐千騎の勢を付けて差し上せたりける也。十郎蔵人が陣に二町隔てて陣を取る。平家は西の鰭に二万余騎、源氏は東の河原に二千余騎、源平河を隔てて陣を取る。明くる卯の剋には東西の矢合せと聞こゆ。行家と円全と、互ひに先を心に懸けたり。
同じき巳の剋計りに、墨染の衣に檜笠頸に懸けたる乞食法師一人、源氏の陣屋に来たりて経を読みて物を乞ひけるを、「けご▼P2382(七二ウ)見る者にこそあむめれ」とて、是非なく搦めてけり。結ひ付けて置きたりければ、「乞食殺させ給ふ、あら悲しや。飯たべや」なむど申しければ、「にくし。足はさみて問へ」なむど云ひけるを聞きて、此の法師縄を引き切りて、河へさと飛び入りて、およぎて逃げけるを、「あは、さればこそ」とて、人あまた追ひ懸けたり。射ければ、人の射るをりは、水の底へつと入る。射止めば浮き上がる。浮きぬ沈みぬおよぎける程に、平家の方より船に楯をついて河中に押し合はせて、船に取りて入れてもどりにけり。「さればこそ。此の法師は下臈とは見えざりつる物を。哀れ、頸を切らで」と云ひけれども、かなはず。さる程に暫く有りて、此の法師、褐衣の直垂に洗ひ皮の鎧きて、もみ烏帽子引き入れて、鹿毛なる馬に乗りて、河鰭に歩ませ出だして、河越しに申しけるは、「人は高名をしてこそいみじけれ。▼P2383(七三オ)にげて名乗るはをかしけれども、只今取られて河を越えたりつるは、此の法師。かく申すは主馬判官盛国が孫、越中前司盛俊が末子、近江国石山法師に悪土佐全蓮」と名乗りて入りにけり。
卿公は、「平家にけご見えて、一定渡されなむず。十郎蔵人に先を懸けられては、兵衛佐に面を合はすべきか」と思ひければ、明日の矢合せを待ちけるが、余りの心もとなさに、人一人も召し具せず、只一人馬に乗りて、陣上より二町計り歩み上りて、敵の陣の前の岸を歩み上りて、烏森と云ふ所をするりと渡して、敵の前の岸かげにこそ引かへたれ。「十郎蔵人、夜のあけぼのに時を造りて河を渡さむ時、ここより『円全、今日の大将軍』と名乗りて懸けむ」と思ひて、東を向き、今や夜明くると待ち懸けたり。平家の方より夜廻りをせさせけり。敵よひよりや進むらむの心なり。平▼P2384(七三ウ)家の勢十騎計り、続松手ごとにとぼして、河ばたに廻りけるに、岸の影に馬を引き立てたりければ、「なに者ぞ」と問ふ。是を聞きて、円全少しもさわがず、「御方の者。馬の足ひやし候ふ」と答へたり。「御方ならば、甲をぬぎて名乗れ」と云ひければ、馬にひたと乗りて、陸へ打ち上り、「兵衛佐頼朝が弟、鳥羽卿公円全と云ふ者なり」と名乗りて、十騎の者共が中へ打ち入る。さとあけてぞ通しける。円全三騎打ち取りて、二騎に手負はせて、残る五騎に取り籠められて討たれにけり。
十郎蔵人是を知らず、卿公に先すすまれじと思ひて、使者を遣はして、卿公が陣をみするに、「大将軍は見えさせ給はず」と申しければ、「さればこそ」とて、十郎蔵人打つ立ちにけり。千騎の勢を、八百余騎をば陣に置きて、二百余騎相具して、ぬき足に上りて稲葉河の▼P2385(七四オ)瀬をあよばせて、河をさと渡して、平家の陣へぞ懸け入りける。
さる程に、夜もあけ方に成りければ、平家、「敵の多勢にて夜討ちに寄せたる」とさわぎける程に、火を出だして見れば、僅か二百騎計りなり。「無勢にて有りける物を」とて、二万余騎さしむかへたり。十郎蔵人多勢の中に懸け入りて、時をうつすまで戦ふに、大勢に取り籠められて、手取り足取りとられし程に、二百余騎僅かに二騎に打ちなされて、河を東へ引き退く。二騎の内一騎は大将軍とみえたり。赤地の錦の直垂に、小桜を黄にかへしたる鎧に、鹿毛なる馬に黄伏輪の鞍置きてぞ乗りたりける。東の河に付きて、鎧の水はたはたと打ち、あゆばせ行くを、大将とは見けれども、平家左右無くおはざりけり。尾張源氏泉太郎重光、百騎の勢にて昨日より搦手に向かひたりけるが、▼P2386(七四ウ)大手の時の音を聞きて、平家の大勢の中へ馳せ入りたりけり。是も取り籠められて、半分は打たれて、残りは引き退く。大将軍泉太郎も打たれにけり。
十郎蔵人、墨俣の東に小熊と云ふ所に陣を取る。平家は二万余席を五手に分けたり。一番に飛騨守景家大将軍にて、三千余騎にて押し寄せたり。射しらまされて引き退く。二番上総守忠清大将軍にて、三千余騎差し向かひたり。是又射しらまされて引き退く。三番には越中前司盛俊、三千余騎にて差し向かひたり。是もしらみて引き退く。四番には高橋判官高綱、三千余騎にて向かひたり。是もしらみて引き退く。五番には頭中将重衡、権亮少将惟盛、両大将軍にて、八千余騎にて入れ▼P2387(七五オ)替へたり。平家二万余騎を五手に分けて入れ替へ入れ替へ戦ひければ、十郎蔵人、心計りは武く思へども、こらへずして、小熊を引き退きて、柳の津に陣を取る。柳の津をも追ひ落とされて、熱田へ引き退く。熱田にて在家をこぼちて、かいだてを構へて、ここで暫く支へたりけれども、熱田をも追ひ落とされて、三河国矢作の東の岸にかいだてをかいて支へたり。平家やがて矢作追ひ落として、河より西に引かへたり。
額田郡の兵共走り来たりて、源氏に付きて戦ひけれども、叶ふべくも無かりければ、十郎蔵人謀をして、雑色三人旅の体に装束かせて、蓑笠もたせて、平家の方へ向かはす。「平家何にと問はば、『兵衛佐頼朝、東国より大勢、只今矢作に付き候ひつる時に、今落ち候ひつる源氏は、其の勢と一つになり候ひぬらむ』といへ」▼P2388(七五ウ)とて、遣はしけり。案のごとく、平家是等に問ひけるは、「是に落ちつる源氏は何程か延びつる」と問ひければ、をしへのごとくに申しければ、「さては聞こゆる関東の大勢に取り籠められて、何にかせむ」とて、平家取る物も取りあへず引き退く。
同じき廿七日、都へ帰り上りにけり。十郎蔵人乗り替へ共を馳せさせて、「美乃・尾張の者共、平家を一矢をも射ざらむ者、源氏の敵」と申させたりければ、源氏に志ある者共、平家に追ひ懸かりて散々にぞ射ける。平家は答の矢にも及ばず、西を指してぞ走り行きける。十郎蔵人は帥々には負けて走り返り、「『水沢を後ろにする事なかれ』とこそ云ふに、河を後ろにして戦ふ事、尤も僻事なり。今は源氏の謀あしかりけり」とぞ申し合ひける。
廿四 〔行家、大神宮へ願書を進る事〕
さて、三河国の国府より伊勢大神宮へ願書をぞ奉りける。其の願書に云はく、
▼P2389(七六オ)掛けまくも畏き伊勢の度会の伊鈴河上、下津磐根に大宮柱広敷立て、高天原に千木高く知りて、申し定め奉る。天照皇大神の広前に恐々申し給へと申す。正六位上源朝臣行家、去んじ治承の比、最勝親王の勅を蒙るに云へらく、大相国入道去んじ平治元年より以降、不当の高位に登りて、百官万民を随へしむる間、去んじ安元の年に、以て終に指せる勅定を蒙らずして、正二位権大納言藤原朝臣成親并びに同息男等を遠流に処し、同意の輩と称して、院中近習の上下諸人、其の数其の身を殺害せしめ、或いは遠近に配流し、其の後、治承三年の仲冬に、除目に叶はずと称して、関白大臣を配流せしめ、指せる咎無き智臣、前の大相国以下四十余人を罪科に処し、或いは今上聖主の位を奪ひて謀臣の孫に譲り、或いは本新天皇を楼に込めて、已に▼P2390(七六ウ)理政を留む。亦、一院第二の皇子と為て、国の器に当たると称して、同四年五月十五日の夜、俄かに取り籠め奉るべき由風聞して、園城寺に退入し給ふ処に、左少弁行隆を以て恣に漏宣を構へて、或いは天台山に放ちて与力を制し、或いは護国の司に仰せて軍兵を集めて、已に王法を絶ち、仏法を亡ぼさむと擬する処也。早く天武皇帝の旧儀を尋ねて王位を押し取る輩を討ち、上宮太子の古跡を訪ひて仏法破滅の類を亡ぼして、元の如く国政を一院に任せ奉り、諸寺の仏法を繁昌せしめ、諸杜の神事懈怠無く、正法を以て国を治め、万民を誇らしめて一天を鎮めんと許りなり。
爰に行家が先祖を尋ぬれば、昔天国押し開き給ひし御宇の孫、清和天皇の王子貞純の親王七代の孫なり。六孫王より下津方、武弓を励みて朝家を護り奉る。高祖父頼信の朝臣、忠常を搦めて不次の賞を蒙る。曽祖父頼▼P2391(七七オ)義朝臣、康平六年に奥州の逆党を鎮めて後代の規模と為す。祖父義家の朝臣は、寛治年中に、上奏を経ずと雖も、国家の不忠為る武平・家平等を討ちて、威を東夷に振るひ、名を西洛に揚ぐ。親父為義は、天永二年に奈良の大衆の発向を討ち止めて、王城を鎮護す。宝位驚き無く、太上天皇の務夷域に普くして、四海を掌の内に照らし、百司心中に懸けたり。皇事靡きこと無し。而るを、平治元年より此の氏の出仕を止められて後、入道偏へに武威を以て、都城の内には官事を蔑り、洛陽の外には謀宣を放つ。然れば則ち、行家先代を訪へば、天照大神の初めて日本国磐戸を押し開きて、新たに豊葦原の水穂に濫〓(らんしやう)し船ふ。彼の天降りたまへる聖体は、忝く行家三十九代の祖宗也。
而るに、御垂迹より以降、鎮護国家の誓ひ厳重にして冥威隙無き処に、入道神慮を恐れず逆乱を企つ。是愚意の致す所か。遥かに▼P2392(七七ウ)高位に昇ることは、偏へに朝恩の致す所也。又、行家が親父為義朝臣は、彼の大相国の如く、私威に誇りて謀叛を発すに非ず。上皇の仰せに依つて、白河の御所に参り籠りて合戦を致す許り也。而るに今、謀叛の輩と称して、朝庭に仕へざるに依つて、相伝の所従は耳目を塞ぎて随順せず、普代の所領は知行を止めらる。労無きに依つて、独身不肖の行家、彼の入道が万が一にも及ばざる所也。然るに、入道忽ちに謀叛を起こすに依つて、行家朝敵を防かむが為に東国に下向して、頼朝の朝臣と相共に、且は源氏の子孫を誘へ、且は相伝の所従を催して、上洛を企つる所に、案の如く、意に任せて東海東山の諸国、已に令同意せしめ畢はんぬ。是、且は朝威の貴きが致す所、且は神明の然らしむる所、百皇守護の盟ひ、感応せしむる所也。随ひては又、風聞の如きは、大神宮より鏑を放ちたまひき。入道其の身已に没せり。是を見、是を聞きて、上下万人、▼P2393(七八オ)況や宮中の氏人等、何人か霊威に畏れざる、誰人か源家を仰がざらん哉。
抑も、東海諸国の大神宮御領の事、先例に依つて神役を分かたしめ、備進せしむべき由、下知を加ふと雖も、或いは平家に恐れて使者を下さず、或いは使者を下さしむるに奉納備進の所も有り。偏へに神領をば制止を企てず、僅かに兵糧米の催し計り也。早く停止せしむべし。又、院宮より始めて諸家臣下の領等、国々庄々の年貢闕如の事、全く誤らざる所也。数多の軍兵、或いは源家と云ひ平氏と云ひ、或いは大名参り集り、思々の間、不慮の外に済し難きか。中に付きて、国部村侶住人百姓等の愁歎、同じく制止すと雖も、多く其の煩ひ有り。行家同じく哀歓少なからず。撫民の意切なりと雖も、徒らに数月を送る。
爰に行家、王城に帰参して王尊を護り奉り、頼朝に東州の辺堺に於いて、西洛の朝威を耀かす。神明忽ちに納受を垂れて、早く天下を鎮め給ひて、縦ひ平家の兄▼P2394(七八ウ)弟骨肉為りと雖も、国家を護らむ輩に於いては、迎へて神恩を施し給へ。又源氏の子孫累乗なりと云ふとも、反りて二言有る者は、忽ちに冥罰に処せしめ給ふべし。
皇大神、此の状を平らけく怱して、無為無事に上洛を遂げしめ、速かに鎮護国家の衛官を成し給へ。天皇朝庭宝位動くこと無く、源家の大小従類残ること無く、悉く昼夜に守り護り奉り給へと、恐々申し賜へと申し次ぐ状
治承五年五月十九日正六位源朝臣行家
とぞ書かれたりける。
廿五 〔頼朝と隆義と合戦の事〕
四月廿日、兵衛佐頼朝を誅ち奉るべき由、常陸国住人佐竹太郎隆義が許へ院庁御下文をぞ申し下したる。其の故は、隆義が父佐竹三郎昌義、去年の冬、頼朝が為に誅戮の間、定めて宿意深かるらむ▼P2395(七九オ)由来を尋ねて、平家彼の国の守に隆義を以て申し任ず。之に依つて、隆義、頼朝と合戦を致しけれども、物まねと散々と打ち落とされて、隆義、奥州へ逃げ籠もりにけり。
去々年小松内府薨ぜられぬ。今年又、入道相国失せられぬるには、平家の運尽きぬる事顕はれたり。然れば、年来恩顧の輩の外、走り付く者更になし。
さる程に、去年諸国合戦、諸寺諸山の破滅もさる事にて、春夏の炎旱おびたたしく、秋冬大風洪水打ち連き、僅かに東作の勤めを致すと雖も、西収の業無きが如し。かかりければ、天下飢饉して多く餓死に及ぶ。かくて今年も暮れにき。明年はさりとも立ち直る事もやと思ひし程に、今年又疫病さへ打ち副ひて、飢ゑ死に、病み死ぬる者数を知らず。死人砂の如し。されば、事宜しきさましたる人々、体をやつしさまかへつして、能くて有る▼P2396(七九ウ)かとすれば病付きて、打ちふすかとすれば、即ち死す。あしこの軒の下、ここの築地の際、大路の中門の前をいはず、死人の横たはり臥せる事、算の乱れたるが如し。されば車なむども直に通はず、死人の上をぞやりける。臭き香充満して、行きかふ人も輙からず。さるままには、人々の家は片端よりこぼちて市に出し、薪の為に売りけり。其の中に、薄や朱なむど付きたる木の有りけるは、すべき方なき侘人の、率都婆や古き仏像なむどを破りて売買しけるとかや。誠に濁世乱漫の世と云ひながら、口惜しかりし事共也。
六月三日、法皇、薗城寺御幸あり。
廿日、山階寺の金堂、造り始めらる。行事弁官など下すべき由聞こえけり。
廿六 〔城四郎と木曽と合戦の事〕
さる程に、城四郎長茂、当国廿四郡、出羽まで催して、敵に勢の重なるを▼P2397(八〇オ)聞かせむと雑人まじりに駈り集めて、六万余騎とぞ注したる。信渡へ越えむと出で立ちけるが、「先業限りあり、明日を期すべからず」と呼ばはりて、雲の中へ入りにけり。人多く是を聞かざりけれども、長茂即ち時を変へず打立つ。
六万余騎を三手に分かつ。千隈超えには、浜の小平太大将で一万余騎を指し遣はす。殖田超には、浄帳庄司大夫宗親大将にて一万余騎差し遣はす。大手には、城四郎長茂大将として四万余騎を引率して、越後の国府に付きにけり。明日信乃へ超えむとする処に、先陣諍ふは誰々ぞ。笠原平五、尾津平四郎、富部ノ三郎、閑妻ノ六郎、風間ノ橘五、家の子には立河次郎、渋川三郎、久志太郎、冠者将軍、郎等には相津の乗湛房、其の子平新大夫、奥山権守、子息藤▼P2398(八〇ウ)新大夫、坂東別当、黒別当等、我も我もと諍ひければ、城四郎、「御方打ちせさせじ」とて、いづれもいづれもゆるさずして、四万余騎を引き具して、熊坂を打ち越えて、信濃国千隈河横田川原に陣を取る。
木曽、是を聞きて兵を召しけるに、信乃・上野両国より馳せ参ると云へども、其勢二千騎に過ぎざりけり。当国白鳥河原に陣を取る。楯六郎申しけるは、「親忠馳せ向かひて敵の勢見て参らむ」とて、乗り替へ一騎相ひ具して塩尻と云ふ所に馳せ付きて見れば、敵は横田川原、石川さまへ火を懸けて焼き払ふ。是を見て大本堂に馳せよりて馬より下り、八幡宮を伏し拝みて、「商无帰命頂礼、八幡大菩薩。今度の合戦に木曽殿勝ち給はば、十六人の八人女、八人の神子男、所領寄進せむ」とぞ祈り申しける。▼P2399(八一オ)親忠帰り参りてしかじかと申しければ、「敵に八幡焼かせぬ前に打てや者共」とて、引懸け引懸け夜のあけぼのに本堂に馳せ付きて、願書を八幡に納めつつ打立ちけるに、先陣諍ふ輩誰々ぞ。上野には木角六郎、佐井七郎、瀬下四郎、桃井の五郎、信乃には根津次郎、同三郎、海野矢平四郎、小室太郎、注同次郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎、野沢太郎、臼田太郎、平沢次郎、千野太郎、諏波二郎、手塚別当、手塚太郎等ぞ諍ひける。
木曽、人々の恨みおはじとて下知しけるは、「郎等乗り替へをば具すべからず。宗との者共懸けよ」と云ひければ、「此の計らひ然るべし」とて、百騎の勢くつばみを並べて山騎もさがらず千隈河▼P2400(八一ウ)さとわたす。敵の陣を南より北へはたと懸け破りて後ろへつと通りぬ。又取り返して南へ懸け通りけり。城四郎十文字に懸け破られて申しけるは、「是程の小勢に二度まで輙く破られぬるこそ、今度の帥のいかが有らむずらむ」と危ぶみて、笠原の平五を招きて云ひけるは、「無勢に輙く懸けられて候ふ。ここ懸け給へ」と申しければ、笠原平五申しけるは、「頼真今年五十三に罷り成りて候ふ。大小合戦に廿六度合ひぬれども、一度も不覚仕らず。爰に懸けて見参に入れむ」とて、百騎計りの勢を相具して風間をさつと渡りて名乗りけるは、「当国の人々、或いは知人得意にして見参せぬは少なし。他国殿原は音に聞き給ふらむ。笠原頼真、吉き敵ぞ。討ち取つて木曽殿の見参に入れよや、殿原」と詈りて懸け出づる。
是を聞きて高山人々三百余▼P2401(八二オ)騎にて懸け出で、笠原が勢の中へ懸け入りて散々に戦ひけり。両方の兵、目をすます。しばしこらへて東西へさと引きてぞのきにける。高山三百余騎の勢、五十余騎にせめなさる。笠原が百騎の勢、五十七騎は討たれて、残り四十三騎に成りにけり。大将軍の前にて、のけ甲になりて馬より下り、「合戦の様いかが御覧ぜられ候ひつる」と申しければ、城四郎、是を感じて、「御辺の高年今に始めぬ事にて侯ふ。中々余人ならば誉むる所いくらも候ひつ」といはれて、ほむるに増さる詞なれば、すずしげにぞ思ひたる。
木曽が手には、高山の者共残り少なく打たれて、安からず思ひてある所に、佐井七郎五十余騎にて、をめいて千隈河を懸け渡す。火威の鎧に白星の甲の緒をしめて、紅のほろかけて、白あし毛なる馬に白伏輪の鞍置きて▼P2402(八二ウ)乗りたりけり。是を見て、城四郎方より富部三郎、十三騎にて歩み出でたり。富部は赤皮威の鎧に鍬形の甲の緒をしめて、ほろは懸けざりけり。連銭葦毛なる馬に黄伏輪の鞍置きてぞ乗りたりける。
互いにゆんですがはせて、「信乃国の住人、富部三郎家俊」と名乗るを、佐井七郎、はたとにらまへて、「さては和君は弘資にはあたはぬ敵ござむなれ。聞きたるらむ物を。承平、将門討ちて名を揚げし俵藤太秀郷が八代末葉、上野国佐井七郎弘資」と名乗りければ、富部三郎取りあへず、「和君は、『次がな、氏文読まむ』と思ひける者哉。家俊が品をばなにとして嫌ふぞとよ。是にて名乗らずは、『富部三郎は何程の者なれば、横田の軍に佐井七郎に嫌はれて、名乗り帰さで有るぞ』と人の云はんずるに、和君慥かに聞け。鳥羽院の▼P2403(八三オ)御時、北面に候ひし下野右衛門大夫正弘が嫡子、左衛門大夫家弘とて、保元合戦の時、新院の御方に候ひて合戦仕りたりし其の故に、奥州へ流されき。其の子に夫瀬三郎家光、其の子に富部三郎家俊とて、源平の末座に付けどもきらはれず。汝をこそ嫌ひたけれ。まさなき男の詞哉」と云ひもはてず、十三騎の轡を並べて五十騎の中を懸けわって後ろへつと通りにけり。又取り返して堅横に散々に懸けたり。
佐井七郎面をふらず戦ひけり。佐井七郎が五十騎も十三騎は打たれにけり。富部が十三騎も四騎になりにけり。佐井は敵を嫌ひて引かば人に咲はれなむずと思ひて退かず、富部は敵に嫌はれて安からず思ひて、両方郎等共打たれけれども、互いに目を懸けて、弓手と弓手に指し向けてくまむくまむとしけれども、両▼P2404(八三ウ)方ひしめき戦ふ程にあなたこなたの旗指も打たれにけり、やみやみとなりて大将軍どし組みて落つるをも知らざりけり。富部三郎、笠原平五が手にて軍にしつかれたりける上、薄手数負ひたりければ、佐井七郎に頸取られぬ。佐井七郎、此の頸高らかに指し上げて、「富部三郎が頸、打ちたりや」とて引き退く。富部三郎が郎等に、杵淵小源太重光と云ふ死生知らずの兵あり。此の程、主に勘当せられて、越後国の共もせざりけるが、「今度城四郎に属きて御はすなれば、吉からむ敵一騎打ちて、勘当免されむ」と思ひて待ち居たりけるが、軍有りと聞きて怱ぎ馳せ来たりて、「富部殿はいづくにぞ」と問ひければ、「あれは、あそこに只今佐井七郎と戦ひつるこそ」と教へければ、旗をあげて、をめいて馳せいてみれば、敵も御方も死に伏せたり。▼P2405(八四オ)幡指も打たれにけり。
我が主の馬と物具としるくて、そこへ馳せよつて、「上野佐井七郎殿とこそ見奉れ。富部殿の郎等杵淵(臼)小源太重光と申す者也。軍より先に御使に罷りて戦にはづれて候ふぞや。其の御返事申さむ。且うは主君の御顔をも今一度見せ給へ」と申しければ、佐井七郎是を見て、荒手の者に組まれては叶はじとや思ひけむ、御方へ鞭を揚げて逃げけるを、杵淵、一段計先立つ敵を五段内におつつめて押し並べて組みて、どうと落ちぬ。杵淵は聞こゆる大力にて有りければ、佐井七郎を取りて押へて頸かきて、主の頸と取り並べて、「重光こそ参りて候へ。生を隔て給ふとも魂魄と云ふ神のあむなれば、慥に聞き給へ。人の纔言に付き給ひて勘当ありしかども、聞き直し給ふ事も候はむずらむと待ち候ひつるに、かく見なし進らせて候ふ事▼P2406(八四ウ)の悲しさよ。重光御共に候ぜば、御前にてこそ打たれ候ふべきに、後れまゐらせて候ふこそ口惜しけれ。御敵打ちて候。死出山、三途河、安く渡り給へ」とて、二つの本鳥結び合はせつつ、左の手に捧げ、右手には大刀を以て伝馬に打ち乗りてよばひけるは、「敵も御方も是見給へ。佐井七郎に富部三郎討たれ給ひぬ。富部三郎が郎等に杵淵小源太重光が、主の敵討ちて出づるを、留めよ者共」と云ひければ、佐井七郎が家の子、郎等三十騎にて追ひ懸けて中に取り籠めて戦ひけれども、物ともせず、け破りて、後へつと出でにけり。敵連きて責めければ、返し合はせて戦ふ。敵数打ち取りて、人手にかからむよりはとや思ひけむ、大刀を口にさしくぐみて逆さに落ちてつらぬかれてこそ死ににけれ。是を見て惜しまぬ人こそなかりけれ。
城四郎は大勢なりけれ▼P2407(八五オ)ども、皆駈り武者共にて、手勢の者は少なかりけり。木曽は僅かに無勢なりけれども、或いは源氏の末葉、或いは年来思ひ付きたる郎等共なれば、一味同心にて入れ替へ入れ替へ戦ひけり。信乃国源氏に井上九郎光盛とて勇める兵あり。内々木曽に申しけるは、「大手に於いては任せ奉る。搦手に於いては任せ給へ」とあひづを指したりければ、大本堂の前で俄に赤旗を作りて里品党三百余騎を先に立てて懸け出づるを、木曽是を見て怪しみをなし、「あれは何に」と云へば、「光盛が日来の約束違へ奉るまじ。御覧ぜられ候へ」とて、(千)隈河ノ鰭を艮に向かひて、城四郎が後の陣へぞ歩ませける。
木曽、下知しけるは、「井上は、はや懸け出でたり。搦手渡しはてて義仲渡し合はせて懸けむずるぞ。一騎も後るな若党共」とて甲の緒をしめて待つ処に、城四郎は井上が赤旗を見▼P2408(八五ウ)付けて、搦手に遣はしつる津破の庄司家親が勢と心得て、「こなたへなこそ、荒手也。敵に向かへ、荒手なり」と、使を立てて下知する処に、虚きかずして、(千)隈河をさと渡し、敵の陣の前に大きなる堀あり。広さ二丈計也。光盛さしくつろげて堀をこす。向のはたに飛び渡る。連きて渡る者も有り、堀の底に落ち入る者もあり。光盛越えはてねば、赤旗かなぐりすてて白旗をぞ差し上げける。「伊与入道頼義舎弟、をとはの三郎頼遠が子息、隠岐守光明が孫、やてはの次郎長光が末葉、信乃国住人井上九郎光盛、敵をばかふこそたばかれ」とて、三百余騎馬の鼻を並べて北より南へ懸け通る。大手は木曽二千余騎にて南より北へ懸け通る。搦手、大手、取り返し取り返し、七より八より懸けければ、城四郎が多勢、四方へ村雲▼P2409(八六オ)立に懸けられて、立ち合ふ者は討たれにけり。逃ぐる者は大様河にぞ馳せこみける。馬も人も水に漂れて死ににけり。
大将軍城四郎と笠原平五と返し合はせて戦ひけるが、長茂こらへかねて越後へ引き退く。河に流るる馬や人は、陸より落つる人よりも、湊へ前に流れ出でにけり。笠原平五は山にかかりて命生きて申しけるは、「生々世々に伝へも伝ふまじきは、越後武者の方人也。今度大勢にて木曽をば生け取りにしつべかりつる物を。逃げぬる事、運の極めなり」とて、出羽国へぞ落ちにける。
木曽、横田の帥に切り懸くる頸共、五百人也。即ち城四郎跡目に付き、越後府に付きたれば、国の者共皆源氏に順ひにけり。城四郎安堵し難かりければ、会津へ落ちにけり。
北陸道七ヶ国の兵共皆木曽に付きて、従ふ輩誰々ぞ。越後国には稲津新介、斎藤太、▼P2410(八六ウ)平泉寺長吏斎明威儀師、加賀国には林、富樫、井上、津端、能登国には土閑の者共、越中国には野尻、河上、石黒、宮崎、佐美太郎。此等牒状を遣はして、「木曽殿こそ城四郎追ひ落として、越後府に付きて責め上りて御はすなれ。いざや志ある様にて、召されぬさきに参らむ」と云ひければ、「子細なし」とて、打ち連れ参りければ、木曽悦びて信乃馬一疋づつぞたびたりける。さてこそ五万余騎には成りにけれ。「定めて平家の討手下らむずらむ。京近き越前国火打城をこしらへて籠もり候へ」と下知し置きて、吾が身は信乃へ帰りて横田城にぞ居住しにける。
七月十四日に改元あり。養和元年とぞ申しける。八月三日肥後守貞能鎮西へ下向。太宰小弐大蔵種直、謀叛の聞こえあるに依つて、追討の為也。九日官庁にて大仁王会▼P2411(八七オ)行なはる。承平将門が乱逆の時、法性寺座主奉りて行はるるの例とぞ聞こへし。其の時、朝綱の宰相願文を書きて験有りと聞こえしかども、今度はさ様の沙汰も聞こへず。
廿七 〔城四郎越後の国の国司に任ずる事〕
廿五日、除目に城四郎長茂、彼の国の守になさる。同兄城太郎資長、去二月廿五日他界の間、長茂国守に任ず。奥州住人藤原秀衡、彼の国の守に補せらる。「両国共以て頼朝義仲追討の為也」とぞ、聞書には載せられたりける。越後国は木曽押領して、長茂を追討して、国務にも及ばざりけり。
廿八 〔兵革の祈りに秘法共行はるる事〕
廿六日、中宮亮通盛、能登守教経以下北国下向。木曽を追討の事は、城太郎資長に仰せ付けられたりけれども、猶下し遣はす。官兵等、九月▼P2412(八七ウ)九日、越後国にして源氏と合戦、平家終に打ち落とされにけり。かかりければ、廿八日、左馬頭行盛、薩摩守忠度、軍兵数千騎を率して、越後国へ発向す。
兵革の御祈り一品ならず、様々の御願を立てられ、諸社に神領を寄せらる。神官、神人、諸社の宮司、本社末社にて各祈り申すべき由、院より召し仰せられ、諸寺諸社の僧綱、諸社にて調伏の法行はる。天台座主明雲僧正、摂政殿の御奉りにて、根本中堂にて七仏薬師の法行はる。薗城寺の円恵法親王、柳の宰相泰通の奉りにて、金堂にて北斗尊星王法を行はる。仁和寺の守覚法親王は、九条大納言有遠の奉りにて、孔雀経の法行はる。此の外の諸僧、勅宣を奉りて、不動、大元、如意輪の法、普賢延命▼P2413(八八オ)大熾盛光の法に至るまで各肝胆を催きて行はれけり。院の御所に五壇の法を行はる。中壇の大阿閣梨は房覚前大僧正、降三世壇は昌雲権僧正、軍茶利は覚誉権大僧正、大威徳は公顕前大僧正、金剛夜叉は朝憲権僧正等、面々に忠勤を致し、丹誠を抽きんでて行はる。「逆臣争か亡びざらむ」とぞ人申ける。
又日吉社にて、謀叛の輩調伏の為に、五壇の法を始行しけるに、三七日勤行せられけるほどに、初七日の第五日に充たるに、降三世の大阿闍梨覚算法印、大行事の彼岸所にて俄に寝死に死ににけり。神明三宝御納受なしと云ふ事、既に掲焉なり。又朝敵追討の為に仰せを奉りて、十月八日、太元の法を修せらる。宣下の状に云はく、
▼P2414(八八ウ)明年三合の運に当たりて、去春二月の閏有り。各の徴前に発り、簇賊旁起こる。丁壮は軍旅に苦しみ、老弱は転漕に疲る。誠に拒敵の弘願に非ずは、争か憂国の叡情を慰めむ。宜しく小栗栖寺に大元の修法を修せしめ、阿闍梨大法師実厳、融宗に之を仰すべし。堪事、今日より始め七ヶ日夜の間、殊に丹誠を致し、必ず玄応を顕はすべし。其の料物は阿闍梨の支度に依り、諸司に就けて之を受けよてへり。
養和元年十月八 日 右中弁
同十日、左衛門権佐光長、仰せを奉りて、「興福寺、薗城寺の僧侶謀反の罪、繋囚の中に在り。非常の断、人主之を専らとす。須らく厚免すべき処に、件の輩恩蕩に浴して本寺に帰して後、若し悔過の思ひ無く、猶し▼P2415(八九オ)野心を変ぜずは、世の為寺の為、自ら後悔有らんか。戦国の政思慮すべきの由、議奏の人有り。然れども、彼の寺等、不慮の外に空しく灰燼と為る。茲に因りて、蒼天変ぜざれども、明神の崇りあらんか。若し此の議に依らば、彼の寺の僧侶を免さずは、赦の本意に非ざるか。免否の間、叡慮未だ決せず。左大将実定卿に計らひ申さしむべし」と問はれければ、「謀叛の者、死罪一等を減じ、遠流に処すべし。而るに今件の輩、繋囚の中に在り。遠流の罪を免じ、今度赦に会はば、殊に司天の奏に驚き、降霜の疑ひを止めむとす。厚免の粂、叡慮の趣、徳政に相叶ふか」とぞ申されける。さる程に、大法秘法行はれけれども、猶世の中閑かならず。仍て同十三日宣下せらる。其の状に云はく、
源頼朝、同信義、去年より以来、 恣に己威を振るひ、猥しく皇憲を背く。▼P2416(八九ウ)唯東国の州県を虜掠するのみに非ず、既に北陸の土民を劫略せむと欲。黎元の愚、蒭蕘の県、各の勧誘の詞に赴きて、悉く反逆の中に入る。鳳衙の柄誡を顧みず、弥よ狼戻の奸心を挟む。之を訪ふに、古今曽て比類無し。仍て越前守平通盛朝臣、但馬守同経正朝臣等に仰せて、北陸道諸国の軍兵を催し駈りて、彼の頼朝、信義及び与力同意の輩を追討せしむべしてへり。
養和元年十月十三 日 左中弁
同日、房覚僧正を院の御所へ召されて、「熊野山悪徒等、紀伊国にして度々官兵と合戦、剰へ彼山を滅亡せむと企つるよし、其の聞こえあり。怱ぎ登山して相しづむべき」よし、仰せ含められけり。東夷の雲上、南蛮の霞中、西戎の波底、北狄の雪山までも、平▼P2417(九〇オ)氏を背き源氏に従ふ。昔、王莽僣政棄民ありしかば、四夷競ひ起こり、葬を漸台に斬り、身肉臠を分かち、百姓其の舌を切り食ひき。世挙つて平家を悪みすること、王莽にことならず。「人の帰する所は天の与ふる所也。人の叛く所は、天の去る所也」と云へり。
又、朝敵追討の仰せを奉りて、太元の法行はれける小栗栖寺の実厳阿闍梨、御巻数を進らせたりけるに、披見せらるる処に、平家追討の由したりけるこそあさましけれ。子細を尋ねらるる処に申されけるは、「朝敵調伏の由宣下せらるるの間、当世の体を見るに、平家朝敵と見えたり。仍りて専ら平家を調伏す。何の咎有るべき」とぞ申しける。平家此の事を憤りて、「此の僧流罪にや行ふべき。何がすべき」なむど沙汰有りけれども、大小事怱劇にて、な▼P2418(九〇ウ)にとなく止みにけり。さるほどに平家滅びて後、源氏の世と成りにしかば、大きに賀びて子細を奏聞す。法皇も御感あつて、其の勧賞に権律師に成されにけり。
又去十一日、神祇官にて神饗、例幣を廿二社に立てらる。
廿九 〔大神宮へ鉄の甲冑送らるる事〕
十四日、鉄の御甲冑を大神宮へ献らる。昔、承平将門を追討の御祈りに鉄の甲冑を献りたりけるが、去んじ嘉応元年十二月廿一日の炎上の時、焼けにけり。今度も其の例とぞ聞えし。御使は神祇権小副大仲臣定隆、之を勤む。父の祭主も同じく下向す。同十七日、伊勢籬宮院に下着す。申の時計りに、天井より一尺四五寸計りなる蛇、定隆に落ち懸かりて、定隆が左の袖の内へ入りにけり。「怪し」と思ひ▼P2419(九一オ)て袖を振りけれども見えず。「不思議や」とて、さて止みぬ。折節、人々数寄り合ひて酒を飲みけるに、なにとなくして日暮れにけり。さて其の夜、子の時計りに定隆寝入り、即ちよに苦しげにうめきければ、父祭主、「何に何に」と驚かしけれども驚かず。已に息少なく聞こえければ、築垣より外へかき出したりければ、定隆即ち死ににけり。父祭主いみになりぬ。さる程に奉使の中臣、事のかけたりければ、大宮司祐成が沙汰にて、散位従五位在猶以下差し進らせて、次第に御祭りなりにけり。
此の外、臨時の官幣を立て、源氏追討の御祈りありけり。宣命に、「雷電神猶卅六里をひびかす。況や源頼朝、日本国を響かすべきかは」と書くべかりけるを、「源の頼」と書かれたり。宣命の外記奉りてかく例▼P2420(九一ウ)なるに、態とは書きあやまたじ。是然るべき失錯也。「頼」の字をば「たすく」と云ふ読みあり。「源をたすく」とよまれたり。憎も俗も、平家の方人する者、滅びけるこそ怖しけれ。されば、神明も三宝も御納受なしと云ふ事、掲焉也。
卅 〔諒闇に依つて大嘗会延引の事〕
十一月、今年諒闇になりにしかば、大嘗会また行なはれず。天武天皇の御時より始めて、七月以前に御即位あれば、其の年の内に行はるるなれども、無かりしかば、様々の評定あり。五節ばかり形の如く行なはれて、終に行はれず。今年また諒闇なれば、沙汰にも及ばず。
大嘗会延引の例は、平城天皇の御時、大同二年御禊あつて、十一月に大嘗会行ふべかりしを、兵革に依つて、同じき三年十一月御禊あり。十一月に遂げ行なはる。嵯峨▼P2421(九二オ)天皇の御宇、同じき四年、大嘗会あるべかりけるを、平城宮を造らるるによつて延引して、次の年弘仁元年十一月にぞ遂げ行はれける。朱雀院の御時は、承平元年七月十九日、宇多院失せ給ひしかば、延びにけり。三条院の御時、寛治八年十月四日、冷泉院の御事に依つて行はれず。次の年長和元年にぞ遂げ行はれける。
代々、次の年まで延ぶる例は有りと云へども、二ヶ年まで延引の例は未だ聞かず。去年新都にて其の所なかりければ、力及ばず。大極殿、豊楽院は未だ造り出だされねば、三条院の御時の例に任せて、大政官庁にて行はるべかりつるを、天下諒闇に成りぬる上は、とかく子細に及ばず。「二ヶ年まで延引の御事、何なるべき御事やらむ」と、人あやしみ申しけり。
▼P2422(九二ウ)
卅一 〔皇嘉門院崩御の事〕
十二月三日、皇嘉門院失せさせ給ひぬ。御年六十。是は法性寺の禅定殿下の御娘、崇徳院の后にて御ましき。院、讃岐へ遷され御ましし時の御物思ひ、何ばかりなりけむ。思ひ遣るこそ哀れなれ。命は限りあり。思ひには死なぬ習ひなればや、即ち御出家有りて、一向後生菩提の御営みより外は、他の行ひましまさざりければ、院の御菩提のかざりともなりて、吾が御身の得道疑ひ無し。随ひて、兼ねて時覚らせましまして、最後の御有様目出たく、仏前には異香あり。御善知識は、大原来迎院の本浄房堪慶とぞ聞こへし。昔の御なごりとて残り給ひたりつるにとおぼへて哀れなり。
卅二 〔覚快法親王失せ給ふ事〕
同じき六日、戌の時ばかりに、前の座主覚快法親王失せさせ給ひぬ。是は鳥羽院▼P2423(九三オ)の第七宮にて渡らせ給ふ。御年四十八とぞ聞こへし。
〔卅三〕 〔院の御所に移徙有る事〕
十三日、院の御所に移徙あり。公卿十人、殿上人四十人供奉して、うるはしき御粧にてぞ有りける。本渡らせ給ひし法性寺殿の御所をこぼちて、千体の御堂の傍につくりて、女院方々すへならべまひらせて、おぼしめすさまにてぞ渡らせ給ひける。
平家物語第三本
▼P2425(九三ウ)本に云はく、
時に延慶二年〈己酉〉 七月廿五日、紀州那賀郡根来寺石曳院の内禅定院の住坊に於いて、之を書写す。穴賢、外見披覧の儀有るべからざるのみ。
執筆栄厳 〈生年 三十〉
応永廿七年八月廿一日、妙楽院に於いて之を書写す。
権律師融憲
(花押)
B2001
平家物語 七 (第三末)
B2003
▼P2427(一オ)一 踏歌(たふか)の節会の事
二 大伯昂星の事、付けたり楊貴妃失はるる事、并びに役の行者の事
三 日吉社に於いて如法経転読する事、付けたり法皇御幸の事
四 諸社へ俸幣使を立てらるる事付けたり改元の事
五 宗盛大納言に還り成り給ふ事
六 宗盛、従一位に叙せらるる事
七 兵衛佐と木曽と不和に成る事
八 木曽追討の為に軍兵北国に向かふ事
九 火燧が城合戦の事、付けたり斎明が還り忠の事
十 義仲白山へ願書を進らする事、付けたり兼平と盛俊と合戦の事
十一 新八幡の宮願書の事、付けたり倶利迦羅が谷大死の事、并びに死人の中に神宝現るる事
十二 志雄合戦の事
十三 実盛打死する事
十四 雲南濾水の事付けたり折〓(せつぴ)の翁の事
十五 延暦寺において薬師経を読む事
十六 大神宮ヘ御幸成るべき事付けたり広嗣の事并びに玄防僧正の事
十七 木曽都ヘ責め上る事付けたり覚明が由来の事
十八 木曽山門へ牒状を送る事付けたり山門返牒の事
十九 平家山門へ牒状を送る事
廿 肥後守貞能西国鎮めて京上する事
▼P2428(一ウ)廿一 惟盛の北の方の事
廿二 大臣殿女院の御所へ参ぜらるる事
廿三 法皇忍びて鞍馬ヘ御幸の事
廿四 平家都落つる事
廿五 惟盛と妻子と余波を惜しむ事
廿六 頼盛道より返り給ふ事
廿七 近衛殿道より還御なる事
廿八 筑後守貞能都ヘ帰り登る事
廿九 薩摩守道より返りて俊成卿に相給ふ事
三十 行盛の歌を定家卿新勅撰に入るる事
卅一 経正仁和寺の五の宮の御所へ参ずる事付けたり青山と云ふ琵琶の由来の事
卅二 平家福原に一夜宿る事付けたり経盛の事
B2004
卅三 恵美仲麻呂の事付けたり道鏡法師の事
卅四 法皇天台山に登り御坐す事付けたり御入洛の事
卅五 義仲行家に平家を追討すべき由仰せらるる事
卅六 新帝定め奉るべき由評議の事
卅七 京中警固の事義仲注し申す事
B2005
▼P2429(二オ) 平家物語第三末
養和二年〈壬寅〉
正月一日、諒闇に依つて節会行はれず。十六日、踏歌(たふか)の節会もなし。「先帝の御忌月為る上は、永く止めらるべし」とぞ、宗盛計らひ申しける。
一 〔踏歌(たふか)の節会の事} 抑も踏歌(たふか)の節会と申すは、「仁王四十一代の女帝持統天皇の御宇、大化四年〈壬巳〉正月に漢人来たりて之を奏す」といへり。又云はく、「あらず、持統天皇の父、 卅九代の御門、天智天皇の御宇七年〈戊辰〉正月十六日より始まれり」。此の天皇の御宇、諸国より異形の物共をあまた奉りける中に、讃岐国よりは四足の鶏を奉り、鎮西よりは八足の鹿を献ず。爰に鎌足の大臣始めて藤原の姓を賜り、奥州守に任じて、其の比彼の大臣の御▼P2430(二ウ)許へ常〔陸〕国より白雪の雉一羽、一尺二寸の角生ひたる白馬二疋を奉る。鎌足是を扶持して殿上に参る。其の送り文に云はく、「雉の色の白きことは、白沢の潔(いさぎよ)き事を表す。馬の角の長ぜる事は、上寿の政を治む」とぞ書かれたる。彼の雉を馬の角にすゑて、大臣乗りて南庭に遊ぶ。皇沢の寄せ物、何事か之に如かむ哉。天子御感の余り、鎌足を召して金銀等の財宝を下し賜(た)ぶ。是は正月十六日、午の剋の始めなり。其を吉例として、年々の正月十六日毎に、雲の上人参内して馬に乗り、
B2006
引出物を賜はる事ありき。是を踏歌(たふか)の節会と云ふ。団々たる池を掘り、水を堪へ、葉々たる草を殖ゑさせ、雉をなつけさせ給ひき。四季に花さく桜を殖ゑて小馬を遊ばしめ給ひしより以来、志賀の花薗とは名づけたり。▼P2431(三オ)代々の聖主懈(おこた)り給はず。仁王四十二代の節会也。殿上には数百年の嘉例也。「然るを、御忌月に依つて止めらるとは云ひながら、是併ら平家の一門の過分なるしわざ」とぞささやきける。
二 〔大伯昂星の事、付けたり楊貴妃失はるる事、并びに役の行者の事〕 二月廿三日の夜半に、大伯昂星を犯す。是旁(かたがた)以て重変なり。天文要録に云はく、「大伯昂星は、大将軍国の境を失ひ、四夷来りて兵起こる事有り」と云へり。「世(よ)は只今乱れなむず」とて、天下の歎きにてぞ有りける。彼の辰旦国には、玄宗皇帝の御宇に此の天変現じて、七日の内に天下乱れき。其の由来を尋ぬれば、玄宗皇帝、弘農の陽玄〓[王+炎]が女陽貴妃を求め得て、朝夕愛(あい)し給ひき。雪(ゆき)に似(に)たる膚へは、春の花色を恥(は)ぢ、月に閭(さしお)く顔(かほば)せは、金玉光を失へり。春夜苦短ければ日(ひ)高けて起き給へば、此より君▼P2432(三ウ)王早朝(あさまつりごと)したまはず。梨花の薫ずる朝には、連理の契りを深くなし、桂月の明らかなる夕には、同穴の思ひ切也き。遅々たる春日の遅くして暮れ難きにも、愛念の眦(まなか)ひわすられず。肅々たる秋夜の長くして曙け難きにも、恋暮の思ひいとふかし。之に依つて、陽貴妃の兄陽国忠、丞相の位を盗み、愚かに国柄を弄ぶ。
此の事を、安禄山と云ひし人、強ちに妬みて諸卿をかたらひ云ふやう、「帝王出御もなければ紫震殿もさびしく、政道の荒廃は一天下の歎きなり。是偏に他に非ず、陽妃を思し食す故なり。月卿も
B2007
国土の衰へいを歎くべし。雲客も貴賎の愁歎を悲しむべし。此の后をいかにもして失ひ奉るべき」由を謀りき。王城より西方百余里を過ぎ行きて、一つの高楼を造りて、管絃を奏して主上の御幸を勧め▼P2433(四オ)き。神ならぬ身の習ひにて、夫人・皇帝諸共に高楼へ進みたまひき。千乗万騎相共に従ひ送り奉る。是の時、六軍徘徊して、持戦進まざりければ、皆人心を迷はすに、馬嵬の堤の辺にして陽国忠を殺しつ。次に陽貴妃の乗り給へる玉輿をうばひ取りて、遂に殺し奉る。上皇まぬかるまじき事を見て、其の死を見るにたへずして泣々都へ還御なる。位をば粛宗に譲りつつ、春花の庭に散り、秋葉の階に積もるをも見給はず。鳳闕を去りて蜀山に伏し給へり。「悠々たる生死別れて年を経。魂魄曽てこのかた夢にだに入らず」と、朝夕なげき給ひしかば、是を方士(はうじ)の大臣あはれみ奉りて、「我に李少君の術あり。后の在所を尋ね奉らむ」と申しければ、玄宗大きに悦びて其の術を尽くして▼P2434(四ウ)碧落黄泉を求むれども、茫々として未だ見えず。かたはら四虚を尋ぬるに、東海にして蓬莱山を得たり。上に多く楼閣あり。其の門を東に開かれり。玉妃大真院と云ふ額を懸けたり。方士(はうじ)簪(かんざし)を抽きいでて扉を叮く。びむづら結(ゆ)ひたる童女出でて答ふ。方士(はうじ)造次にして物いはず。双髪の童女返り入りぬ。暫くあつて、碧衣の侍女来たりて問ふ。「此の嶋へは、人の通ふ事おぼろけにはあらず。汝は如何なる物ぞ。又いづくより来れるぞ」。方士(はうじ)答へて云はく、「我は是、大唐の御門玄宗皇帝の御使ひ也。申すべき事ありて。まぼろしと申す者也」と云ひければ、其の時侍女云はく、
B2008
「玉妃は只今休み給へり。願はくは暫く待ち給へ」とて、内へ立ち還りぬ。其の時雲海沈々として、▼P2435(五オ)洞天に日晩れぬ。瓊戸重ね闔ぢぬれば、悄然として音無し。方士(はうじ)息をおさへ、足を納めて相待てば、良久しく有りて内へ呼び入れぬ。
玉妃の形を見奉れば、雲の〓(みん)づら半ば偏(みだ)れて、新たなる睡り覚めぬ。花の冠整めず、堂より下り来る風、仙の袂を吹きて飄〓(へうえう)として挙る。猶し霓裳羽衣の舞に似(に)たり。玉の容寂寞として、涙蘭干たり。梨花一枝、春雨を帯ぶ。左右に侍者七八人あり。方士(はうじ)を召して、先づ皇帝の安否を問ふ。次に天宝十四年より以来、今に至るまでの事を問ひ給へば、方士(はうじ)其の間の事共を皆答へ申して、「天王定めて心本無く思し食すらむ。今は御いとまを給はりて罷り帰らむ」と申せば、玉妃自ら金の釵(かんざし)を摘みをりて、「此を玄宗に奉る。昔の事を思し食し出でよ」と宣へば、まぼろし申す様、「其の▼P2436(五ウ)かみ一事も他人に聞かせで契り給ひし事あらば、語り給へ、奏せむ。鈿合金釵は世に多く用ゐる物也。新垣平が詐りを負はむ事、心うかるべし」と申せば、玉妃茫然として退き立ちて、良久しくして云はく、「我、昔、天宝十年七月七日、牽牛織女の相見(まみ)えし夕べ、長生殿の内にして更蘭け人定まりて秘かに心中に誓ふ。『願はくは、世々に夫婦となつて、天にあらば比翼の鳥となり、地に栖まば連理の枝とならむ』と云ひて、互ひに手を執る事ありて、此の事君王のみ独り知れり。此の一念に由つて、又人間に生まれて夫妻とならむ。天となり人となるとも、再び相見て好み旧の如くならむ」と宣へり。方士(はうじ)怱ぎ帰りて此の由を奏するに、御門大きに悲しみて、其の年の四月に遂に
B2009
隠れ給ひぬ。此の事を思ふにも、平家の一門は皆建礼門院の御故に丞相の位をけがし、▼P2437(六オ)国柄の政を掌どる。悪事既に超過せり。行末も今はあやふがる。天変の現じ様、恐ろしとぞ。
御朝にも、廿九代の御門宣化天皇の御代に此の天変ありて、六和(かこの)金村・蘇我稲目なむど云ひし臣下等、面々に巧みをたて、天下を乱り、帝位をうばひし事、廿余年也。皇極天皇の御時は、元年七月に、客星(かくせい)月の中に入ると云ふ天変ありき。逆臣五位に至ると云ふ事なるべし。其の時は役の行者に仰せて七日七夜祈らせ給ひたりければ、兵乱を転じて百日の旱魃にぞなりにける。王位は恙ましまさざりけれども、五穀皆損じて上下飢ゑにのぞみけるとかや。今は役の行者もなければ、誰か此を転ずべき。待池(たいち)の魚(うを)の風情にて、災ひの起こらむ事を今や今やと待ち居たるぞ、こころうき。
抑も、役の行者と申すは、小角の仙人の事也。俗姓は賀茂氏の人也。大和国葛の上の郡茅原の村の所生也。三歳の時より父に後れて、七歳までは▼P2438(六ウ)母の恵みにて成人す。七歳よりは母に孝養す。至孝の志浅からず。仏道修行の思ひ苦(ねんごろ)也。五色の兎に随ひて、葛木山の禅頂に上る。藤の衣に身をやつし、松の碧に命をつぎて、孔雀明王の法を修行すること、卅余年也。只一頭設けたりし烏帽子、皆破れ失せにければ、大童になりて、一生不犯の男聖也。大峯・葛木を通ひて行ひ給ひけるに、道遠しとて、葛木の一言主(ひとことぬし)と云ふ神に、「二上の嶽より神仙へ磐橋を渡せ」と宣ひけるを、「顔のみにくければ」とて、昼は指しもいでで、夜な夜な渡し
B2010
給ふを、行者「遅し」とて、葛にて七かへり縛り給ひてけり。一言主(ひとことぬし)恨みをなして、御門に偽り奏しけるは、「役優婆塞と云ふ者、位を傾けむとす」。御門驚き思し食して、行者を捕へむとし給ふに、行者、孔雀明王の法を修するによつて、空を飛ぶ事、鳥の如く也。則ち母を警められければ、帰り参り給ひけるを、伊豆の大▼P2439(七オ)嶋に流し遣しつ。昼は大嶋に居て、夜は鉢に乗りて駿川の富士の山に上りて行ひ給ふ。一言主(ひとことぬし)重ねて奏し給ふ。「行者を殺し給ふべし」。御門勅使を遣して殺さむとするに、行者、「願はくは、ぬき給ヘる刀をしばし給はらむ」とて、刀を取りて、舌にて三度ねぶりて帰しつ。此をみるに、富士の明神の表文あり。「天王慎むべし。これ凡夫にあらず、大賢聖(だいげんじやう)也。すみやかに供養ずべし」。御門驚きて都に召し返すに、母もろともに茅の葉に乗りて唐土に渡りし人也。男なれども、仏法を修行せしかば僧にもまさりたり。有験の聖人とぞ聞こえし。又は法喜(ほつき)菩薩とも申しき。
三 〔日吉社に於いて如法経転読する事、付けたり法皇御幸事〕 四月四日、前の権少僧都顕真、貴賎上下を勧めて、日吉の社にて如法経一万部を転読する事有りけり。法皇御結縁の為に御幸なりた▼P2440(七ウ)りける程に、何者の云ひ出だしたりけるにや、「山の大衆、法皇を取り奉りて平家を討たむとす」と聞こえければ、平家の人々騒ぎあひて、六波羅へ馳せ集る。京中の貴賎騒ぎ迷へり。軍兵内裏へ馳せ参じて、四方の陣を警固す。
同じき四月十一日、肥後守貞能菊地高直が雲上の城を政むる間、官兵二千余人、高直がために打ち取られにければ、貞能合戦をとどめて城をかたくまぼりて、糧物(らうもつ)の尽くるを相待ち
B2011
ければ、西海運上の米穀、国衙庄薗をいはず、兵糧米のために貞能点定しけり。東国・北国、西海運上の土貢、皆京都に通はざりければ、老少を論ぜず、上下を嫌はず、餓死する者道路に充満せり。群盗放火、連夜に絶えざりければ、貴賎安き心なし。月卿も雲客も、「百里の跡を追ひ、二子の昔を欲ふ」▼P2441(八オ)とぞ申しあはれける。一天の逆乱、四方の合戦に、士卒肝脳を土地に塗れ、民庶骨骸を原野に瀑すこと、勝計すべからず。村南村北に哭泣する声絶えず。「天地開闢より以来、かかる乱れは未だ聞き及ばず」とて、上一人より始めて下万民に至るまで、一人として歎き悲しまずと云ふ事なし。
同じき十五日、本三位中将重衡卿、大将軍として三千余騎の兵を相具して日吉社へ参向す。之に依つて、山上には又、「山門の衆徒源氏に与力して北国へ通ふ由を、平家漏れ聞きて、山門追討の為、平家の軍兵既に東坂本へ責め寄す」と聞こえければ、三塔僉議して、「抑も此の事によつて当山を亡ぼさるる事は、尤も口惜しき事也。若し重衡が為に我が山を亡ぼされば、一山の大衆、身を山林には捨つべし」とて、悉く下りて大宮の門▼P2442(八ウ)楼の前に三塔会合す。かかりしかば、山上洛陽の騒動おびたたしき事、なのめならず。法皇大きに驚かせ御します。供奉の公卿・殿上人、色を失へり。北面の輩の中には黄水をつく者も有りけり。此の上は無益なりとて、怱ぎて遷幸なりぬ。重衡卿、穴穂の辺にて迎へ取り奉りて帰りにけり。実には、大衆の平家を責めむと云ふ事もなし、平家山門を追討せむと云ふ事もなかりけり。
B2012
いづれもいづれも跡形なき無実なり。是偏へに天狗の所行也。かかりければ、御結縁も打ちさましつ。かくのみあらば、御物詣も今は御心に任すまじきやらむと、法皇あぢきなくぞ思し召さるる。
四〔諸社へ俸幣使立てらるる事付けたり改元の事〕 五月廿四日に、臨時に廿二社の奉幣使を立てらる。飢饉疾疫によつてなり。同じき廿七日、改元有り。寿永元年と号す。
五 〔宗盛大納言に還り成り給ふ事〕 ▼P2443(九オ)九月四日、右大将宗盛卿大納言に還任して、十月三日、大臣になり給ふ。大納言の上臈五人越えられ給ひにき。中にも後徳大寺の大納言実定の、一の大納言にて、花族英雄、才覚優長にておはせしが、大将の時と云ひ、今度と云ひ、二度まで越えられ給ひしこそ不便なりしか。
七日、兵杖を賜り給ふ。十三日、賀申し有りき。当家他家の公卿十二人扈従せらる。蔵人頭以下、殿上人十六人前駈す。「我劣(おと)らじ」と、面々にきらめき給ひしかば、目出たき見物にてぞ有りける。東国北国の源氏、蜂の如く起こり合ひて、只今責め上らむとするに、波の立つやらむ、風の吹くやらむ、知らざる体にて、かやうに花やかなる事のみ有るも、云ふ甲斐なくぞ見えし。かくはなやかなる事共は有りけれども、世間はなほしづまらず。南都北嶺の大衆、四▼P2444(九ウ)国九国の住人、熊野金峯山の僧徒、伊勢大神宮の神官宮人に至るまで、悉く平家を背きて源氏に心を通はす。四方に宣旨を下し、諸国へ院宣を下さるといへども、宣旨も院宣も
B2013
皆平家の下知とのみ心得てければ、従ひ付く者一人もなかりけり。
廿一日、大嘗会御禊〈三条が末〉。十一月廿日、大嘗会〈近江・丹波〉、行なはる。かくて年もくれぬ。
寿永二年正月一日、節会以下、常の如し。三日、八条殿の拝礼有り。今朝より俄に沙汰有りけり。鷹司殿の例とかや。内々摂政殿に仰せ合はせられければ、然るべきよし申させ給ひけるにや。建礼門院、六波羅の泉殿に渡らせ給ふ。其の御所にて此の事有り。申し継ぎは、左少将清経朝臣、公卿九人、内大臣宗盛、左衛門督時忠卿、按察使頼盛、平中納言教盛、新中納言▼P2445(一〇オ)知盛、修理大夫経盛、三位侍従清宗、本三位中将重衡、新三位中将維盛、殿上人十三人、蔵人右大弁親宗朝臣、右中将隆房朝臣、修理権大夫信基朝臣、但馬守経正朝臣、右中将資盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、前中宮亮保盛朝臣、左中将清経朝臣、蔵人左衛門権亮親雅朝臣、木公頭範棟、能登守教経、勘解由次官親国、左馬守行盛。八条殿御方に拝礼有るべき由、御せうとの左衛門督の申し行はれたりけり。皇后宮の母后に准へ給ひければ、拝礼なかりけり。「八条殿の拝礼、差し過ぎてぞ覚ゆる。二条の大宮も、上西門院に母儀に准へられけれども、拝礼なかりし物を。東国北国乱れたり。天下静かならず。世既に至極せり。入舞にや」と宰▼P2446(一〇ウ)相入道成頼は申されけるとかや。世を遁れ、深山に籠り居給へども、折節に付けてはかくぞ申されける。人もうるはしき人に思ひ奉りたりけり。
B2014
二月一日、当今始めて朝覲の為に、院の御所、蓮花王院の御所へ御幸あり。鳥羽院六歳にて初めて朝覲の為、行幸有り、其の例也。御忌月なれば此の月に及ぶべし。建礼門院、夜部此の御所へ入らせ給ふ。法皇の御方の御拝の後、女院の御方の御拝有りけりと聞こゆ。新中納言知盛、帛袷敷かれたりけり。女院の御座に敷かれたりければ、平大納言時忠卿見とがめて、新中納言知盛をもつて敷きなほしてけり。
三月廿五日、官兵、今日門出すと聞こゆ。来る四月十七日北国へ発向して、木曽義仲を追討の為也。
六 〔宗盛、従一位に叙せらるる事〕 廿六日、宗盛公従一位に叙せらる。廿七日、内大臣を辞し申さる。されども▼P2447(一一オ)御許されなし。只重任を遁れむが為なり。八条高倉の亭にて此の事有り。平大納言時忠卿、按察大納言頼盛卿、新中納言知盛卿、本三位中将重衡卿、右大弁親宗朝臣ばかりぞおはしける。其の外の人は見えられざりけり。
七 〔兵衛佐、木曽と不和に成る事〕 去んぬる比より、兵衛佐と木曽冠者と不和の事有りて、木曽を討たむとす。其の故は、兵衛佐は先祖の所なればとて、相模国鎌倉に住す。叔父十郎蔵人行家は、大政入道の鹿嶋詣として造り儲けたりける、相模国松田御所にぞ居たりける。所領一所なければ、近隣の在家を追捕し、夜討強盗をして世をすごしけり。或る時行家、兵衛佐の許へ文にて云ひやりたりけるは、「行家は御代官として美乃国墨俣へ向かふ事▼P2448(一一ウ)十一度、八ヶ度は勝ちて、三ヶ度
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は負けぬ。子息を始めとして、家子郎等ども多く打ちとられて、歎き申すはかりなし。国一ヶ所預けたべ。是等が孝養せむ」とぞ書きたりける。兵衛佐のもとより、即ち返事有り。「木曽冠者、信乃上野両国の勢にて北陸道七ヶ国打ち取りて、既に九ケ国が主になりて候ふ。頼朝は六ヶ国こそ打ちしなへて候へ。御辺もいくらの国を打ち取らむとも、御心にてこそ候はめ。さてこそ、院内の見参にも入らせ給ひて、打ち取る国何ヶ国とも注し申されて、給はらせ給はめ。当時、頼朝が支配にて、国庄を人に分け給ふべしと云ふ仰せをもかぶり候はず」と有りければ、行家「兵衛佐をたのみてよに有らむことこそありがたけれ。木曽冠者を恃まむ」とて、千騎の勢にて信乃国へ▼P2449(一二オ)越えにけり。
兵衛佐是を聞きて、「十郎蔵人の云はむ事に付きて、木曽冠者、頼朝を責めむと思ふ心付きてむず。襲はれぬ先に木曽を討たむ」と思ひけるをりふし、甲斐源氏武田五郎信光、兵衛佐に申しけるは、「信乃木曽二郎は、をととし六月に越後の城の四郎長茂を打ち落としてより以来、北陸道を管領して、其の勢雲霞の如し。梟悪の心を挿みて、平家の聟になりて、佐殿を討ち奉らむと謀るよし、承はる。平家を責めむとて京へ打ち上るよしは聞こゆれども、実には、『平家の小松内大臣の女子の十八になり候ふなるを、叔父内大臣の養子にして、木曽を聟に取らむ』とて、内々文ども通はし候ふなるぞ。其の御用意あるべし」と、密かに告げ申したりければ、佐大きに怒りて、「十郎蔵人の語らひに付きて、さる▼P2450(一二ウ)支度もあるらむ」
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とて、やがて北国へ向かはむとしけるを、其の日鎌倉を立ちて、坎日なりければ、「いかがあるべき。明暁にて有るべき者ぞ」と、老〔輩〕諌め申しければ、佐宣ひけるは、「昔頼義朝臣、貞任が小松の館を攻め給ひける時、『今日、往亡日なり。明日合戦すべし』と人々申しければ、武則、先例を勘へて申しけるは、『宋の武帝、敵を討ちし事、往亡日なり。兵の習ひ、敵を得るを以て吉日とす』と申して、やがて小松の館を攻め落としたりけり。いはむや、坎日何の隙(ひま)かあるべき。先規を存ずるに吉例也」とて、打つ立ちけり。
木曽是の由を聞きて、国中の勇士を率して、越後国へ越えて、越後と信乃とのさかひなる関山と云ふ所に陳を取りて、稠しく固めて兵衛佐を待ち懸けたり。兵衛佐は武田五郎を先立▼P2451(一三オ)にて、武蔵上野を打ちとほりて、臼井坂に至りにければ、八ヶ国の勢ども、「我劣らじ」と馳せ重なりて、十万余騎に成りにけり。信乃樟佐川の端(はた)に陣を取る。木曽義仲、此の事を聞きて、「軍は無勢多勢に依らず。大将軍の冥加の有無に依るべし。城四郎長茂は十万余騎と聞こえしかど、義仲二千騎にてけちらかしき。されば、兵衛佐、十万余騎とはきこゆれども、さまでの事はよもあらじ。但し、当時兵衛佐と義仲と中をたがはば、平家の悦びにてあるべし。いとどしく都の人の云ふなるは、『平家皆一門の人々おもひあひてありしかばこそ、おだしうて廿余年も持ちつれ。源氏は親を打ち、子を殺し、どし打ちせむほどに、又平家の世にぞ成らむずらむ』と云ふなれば、▼P2452(一三ウ)当時は兵衛佐と敵対するに及ばず」とて、引き帰して信乃
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へ越えけるが、又いかが思ひけむ、なほ関山にひかへたり。
兵衛佐は木曽引き退く由聞きて、「木曽が引き退かむを、追ひかかりて討つほどの誤りなし。さるにても、使者を立てて、義仲が云はん口をも聞かむ」とて、「頼朝が云はむ詞、すこしも違はず木曽に云ひつべからむ使者をつかはさばや」と宣ひければ、北条四郎申しけるは、「伊豆国の住人天野藤内遠景こそ、さやうの事も心えて口もきき、さかざかしき者にて候へ」と計らひ申しければ、遠景を召して、佐宣ひけるは、「木曽の次郎にあひて云はむやうはよな、『平家内には違勅の族也、外には相伝の敵也。而るに今、頼朝彼等を追討すべき院宣を奉る。豈生涯の天恩にあらずや。且うは君を▼P2453(一四オ)敬ひ奉り、且うは家を思ひ給はば、尤も合力あるべき所也。一族の儀を忘れて平家と同心せらるる由、漏れ承はる間、実否を承らむが為に、是まで参向する所也。十郎蔵人の云はむ事に付きて、頼朝を敵とし給ふか。さもあるべくは、蔵人を是へ帰し給へ』と申さるべし。『帰らじ』と申さば、『御辺は公達あまたおはす也。成人したらむ子息一人、頼朝にたべ。一方の大将軍にもし候はむ。頼朝は成人の子も持ち候はねば、かやうに申し候ふ也。かれをもこれをも子細を宣はば、やがて押し寄せて勝負を決すべし』と、たしかに云ふべし。面にまけていはぬか云ふか、たしかに聞け」とて、足立新三郎清経と云ふ雑色をさしそへて遣はしけり。
天野藤内罷り帰りて、面もふらず、こしもおとさず、兵衛佐の詞の上に▼P2454(一四ウ)おのれが詞を
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さしくはへて、詳かにぞ云ひたりける。木曽是を聞きて、根井・小室の者共を召し集めて、「我が心にて、我が身の上の事は、はからひにくきぞ。是はからへ」と云ひければ、郎等共一同に申しけるは、「日本国は六十余ヶ国と申すを、わづかに廿余ヶ国こそ、源氏は打ち取り給ひたれ。今四十余ヶ国は平家のままにて候ふ。打ちあけたる所もなくて、鎌倉殿と木曽殿と御中違はせ給ひなば、平家の悦びにてこそ候はむずらめ。蔵人殿『かへらじ』と候はば、なにかくるしく候ふべき、清水の御曹司を鎌倉殿へ渡しまゐらせ給へかし」と申しければ、木曽が乳母子今井四郎進み出でて申しけるは、「おそれにて候へども、各々あしく申し給ふ物哉。弓矢を取るならひ、後日を期する事なき者を。ついと▼P2455(一五オ)しては、御中よかるべしとも覚え候はず。多胡先生殿をば、悪源太殿打ちまゐらせてましましせば、『遂に親の敵と思ひ給ふらむ』と、鎌倉殿は思ひ給ふらむ。いかさまにも一度、軍は候はむずらむ物を。只事の次でに御返事したたかに仰せられ返して、一戦して、御冥加の程をも御覧ぜよかし」と云ひければ、木曽是を聞きて、「今井は乳母子也。根井・小室は今参也。乳母子が云はむ事に付きて、是等が云ふ事を用ゐずは、定めて恨みむず。又かれらにすてられなば、あしかりなむ」と思ひて、生年十一歳に成る清水冠者義基をよびよせて、「人の子をわぎみほどまでそだてて、他人の子になすべきにてはあらねども、十郎蔵人は帰らじと宣ふ。わぎみをやらずは、只今兵衛佐と中達ひぬべし。なにかはくるしかる▼P2456(一五ウ)べき。いそぎ佐殿の方へ行け。果報なからむには、
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一所に有りとても叶ふまじ。冥加あらば所々に有りとも、それにもよるまじ。とくとく出で立つべし」と云ひければ、清水冠者心細くは思ひけれども、子細を云ふべき事にあらねば、母や乳母にいとまを乞ひて出で立ちけり。
木曽は、「兵衛佐殿の使ひはたれと云ふ者ぞ」と問ひければ、「伊豆国の住人天野藤内遠景と申す者也」と申しければ、木曽対面して酒すすめ、馬引き、引出物なむどして、「御使心得てよくよく申し給へ。先人はいかが思ひ給ふらむ、義仲におきては全く意趣を存ぜず。ただ平家を滅ぼして先祖の本意を遂げむと思ふ外は、又二心なし。是人の和讒也。但し、十郎蔵人殿こそ、御辺をうらみ奉る事有りとて、信乃へ打ち超えられて候へ。義仲さへすげな▼P2457(一六オ)当たり候はむ事もいかにぞやおぼえて、打ちつれ申して候ふ。若し其の御不審にて候ふか。是又さしも御意趣ふかかるべしと存ぜず。蔵人殿は『帰り参らじ』と宣へば、嫡子の小冠義基、十一歳になるをまゐらせ候ふ。義仲がまゐりて番宿直(ばんとのゐ)を仕ると思ひ給ふべし。是も又、一方へ向かふも、且うは御代官にてこそ候へ。努々(ゆめゆめ)おろかの義を存ぜず。若し御為に二心もあらば。義仲」なむど起請代の文を書きて、清水冠者を兵衛佐の許へ遣はす。清水の冠者同年に成りける海野小太郎重氏うぶごやの大郎行氏と云ひける者をぞ付けたりける。道すがら泣きければ、「いかにかくはわたらせ給ふぞ。をさなけれども、弓矢の家に生まれぬれば、さは候はぬ物を。いかにかくはわたらせ給ふぞ」と申しければ、義基▼P2458(一六ウ)かくぞ云ひける。
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わがきつる道の草葉やかれぬらむあまりこがれて物を思へば
と云ひたりければ、重氏
おもふには道の草葉もよも枯れじなみだの雨のつねにそそげば
武田五郎信光、木曽をあたみ兵衛佐に讒言しける意趣は、「彼の清水冠者を信光が聟にとらむ」と云ひけるを、木曽うけずして、返事に申したりけるは、「同じき源氏とて、かくは宣ふか。娘もちたらば、まゐらせよかし。清水の冠者につがはせむ」と云ひけるぞ、あらかりける。信光是を聞きてやすからず思ひて、いかにもして木曽を失はむと思ひて、兵衛佐に讒したりけるとぞ後には聞こえし。
兵衛佐、木曽が▼P2459(一七オ)返答をききて「尤も本意也。本よりさこそあるべけれ」とて、清水冠者を具して、鎌倉へ引き帰しにけり。木曽信乃へ帰りて、きり者三十人が妻共をよびあつめて申しけるは、「各が夫共の命を、清水冠者一人が命にかへつるはいかに」。妻共手を合はせてよろこびて申しけるは、「あらかたじけなや。かやうにおはします主を、京つくしの方よりも見すて奉りて、『妻をみむ』、『子をみむ』とて帰りたらむ夫に名体合はせば、もる日月のしたにすまじ。杜々の前わたらじ」なむどぞ、口々に申して、起請を書きてのきにける。夫共も是を聞きては面々に手合はせて悦びけり。
八 〔木曽追討の為に軍兵北国へ向かふ事〕 四月十七日、木曽義仲を追討の為に官兵北国に発向して、次に東国へ責め入りて兵衛佐
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頼朝を追討すべきよし聞こえけり。大将軍には、▼P2460(一七ウ)権助三位中将惟盛卿、越前三位通盛卿、薩摩守忠度朝臣、左馬頭行盛朝臣、三河守知度朝臣、但馬守経正朝臣、淡路守清房朝臣、讃岐守維時、刑部大輔広盛。侍大将軍には、越中前司盛俊、同じく子息越中判官盛綱、同じく次郎兵衛盛次、上総守忠清、同じく子息五郎兵衛忠光、七郎兵衛景清、飛騨守景家、同じく子息大夫判官景高、上総判官忠経、河内判官秀国、高橋判官長綱、武蔵三郎左衛門有国已下、受領、検非違使、靭負尉、兵衛尉、有官の輩三百四十余人、大略かずをつくす。
其の外、畿内は、山城、大和、摂津、河内、和泉、紀伊国の兵共、去▼P2461(一八オ)年の冬の比より催し集められけり。東海道には、遠江より東の者共こそまゐらざりけれ、伊賀、伊勢、尾張、参川の者共、少々参りけり。武蔵国の住人、長井の斎藤別当実盛なむども候ひけり。東山道には、近江、美乃、飛騨三ヶ国の兵共、少々参りけり。北陸道には、若狭已北の者共惣じて一人も参ぜず。山陰道には、但馬、丹後、因幡、伯耆、出雲、石見。山陽道、南海道、西海道には、四国の者共は参らざりけれども、幡磨国、美作、備前、備後、安芸、周防、長門、豊前、豊後、筑前、筑後、大隅、薩摩、此の国々の人々も、去年の冬より召し集めらる。「年明けば、馬の草飼に付きて合戦有るべし」と内議有りけれども、春もすぎ夏に成りてぞ打ち立ちける。▼P2462(一八ウ)其の勢十万余騎、大将軍六人、むねとの侍廿余人には過ぎざりけり。先陣、後陣を
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定むる事もなく、思ひ思ひに我先にと進みけり。十万余騎の軍勢を聳きて、洛中を出でられければ、「異国をばしらず、日本我が朝に取りては、何なる者か手向かひをすべき。源氏等なましひなる事し出だして、今度ぞ跡形もなく滅びむずる。あなゆゆしの事や」とぞ、京中の人申しける。
六人の大将軍達は、各一色に装束して打ち出で給へり。蜀江の錦の冑直垂に、金銀の金物色々に打ちくくみたる冑きて、対面の為なれば、甲をばき給はず。大中黒の矢に滋藤の弓もちて、雪(ゆき)よりも白かりける葦毛の馬に、螺鈿の鞍置きて乗り給へり。各聞こえけるは、「合戦の道の出で立ちは、冥途の旅の出で立ち▼P2463(一九オ)也。又再び帰り参りて見参に入らむ事、有りがたし。今朝面々の暇は申したりつれども、今一度最後の暇申さむ」とて、六人馬のくつばみをならべて西八条の南庭に列参し給へり。女房男房、面々各々に、或いはみす・すだれをかかげて之を見、或いはえむ・中門に立ち出でてみ給へり。「彼の記信・張良がはかりことをばしらず、容顔美麗の気色、馬鞍錦繍の神妙は、丹師が筆も及ばじ」とぞ、上下男女褒美せられける。越中前司盛俊已下の侍共は、馬より下りて冑の袖をかきあはせて庭上に気色せり。
此くの如くの次第の礼儀、良久しく敬崛して暇申して打ち出で給ふ処に、白き浄衣に立烏帽子きたる老翁六人、梅のすはえに付けたる巻数を各ささげて、六人の大将軍に▼P2464(一九ウ)奉る。
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門出よしとて、弓をば脇にはさみつつ、各巻数を開きてよみ給ひけるぞ面白き。其の詞に云はく、
「第一には維盛卿。尭雨斜めに灑きて平家国を平らげ、頓河俄かに流れて源氏源を失ふ。厳嶋明神より権亮三位中将殿」とかかれたり。
「第二には通盛卿。平家の庭上に不老門を立て、源氏の蓬〓には毒箭の鏑を放つ。厳嶋明神より越前三位殿」とかかれたり。
「第三には行盛朝臣。東海の栄花は平家の薗に開き、厳嶋の神風は源氏の家を破る。厳嶋明神より左馬頭殿」とかかれたり。
「第四には知度朝臣。平家繁昌して白駒庭に喰み、源氏衰浪の漁翁船を失ふ。厳嶋明神より参川守殿」とかかれたり。
▼P2465(二〇オ)「第五には経正朝臣。日本光を放つことは平家の余風なり。太白星を犯すことは源氏の物怪たるべし。厳嶋明神より但馬守殿へ」とかかれたり。
「第六には清房朝臣。平家は王の如し、源氏能く敬ふ。源氏は鼓に似(に)たり、平家此を打つ。厳嶋明神より淡路守殿」とぞ書きたりける。
六人各馬より下りて、「再拝再拝」と再び拝し給ひけるぞ目出き。馬引き給はむとしけるに、翁は化して失せにけり。此は誠の厳嶋の明神の厳重の御示現、希代の不思議
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也。明神これほど御託宣の有らむ上は、平家繁昌、源氏衰滅の条、疑ひあらじとこそ悦びあへりけるに、後に聞えけるは、彼の厳嶋の神主、平家を祈り奉る志心中に深くして、合戦の門出を祝ひ奉るつくり事にてぞ仕りける。譬へば正月元日▼P2466(二〇ウ)元三に 「長生殿の裏、不老門の前」と祈れども、齢は日にそへて衰へ、命は忽ちにとどまる。「嘉辰令月歓び極りなし」と祝へども、福幸もさまでもなし。思ひ歎きは日々にまさるがごとし。万事は皆春の夜の夢、諸事は悉く前世の果報なるべし。祈れども祈られず、祝へども祝はれぬ我が身也。抑も、第一の維盛の巻数の詞に、初めの二句の心は聞こえたり。第三第四の句に、「頓河俄かに流れて源子源を失ふ」と申す心は、唐土の清涼山の北のふもとに大河俄かに流れたり。此を頓河と名づけけり。釣をたるる翁ありき。其の名を源子と号す。件の俄かに流れ出でたるに驚きて尋ね入りてみければ、変化の者の反化したる河にて跡形もなく失せにけり。彼の河の源のなきがごとくに此の源氏の▼P2467(二一オ)世も源うせぬべしと云ふ呪咀の心を表はして、「源子源を失ふ」と書きたりけるとかや。余の巻数の文章は、詞あらはにして心皆きこえたり。「平氏繁昌、源家滅亡」と祈りしかども、前途とほらずや有らむずらむとぞ覚えし。さる程に平家の大勢既に都を出づ。おびたたしなむどはなのめならず。「此の勢にはなにかは面をむかふべき、只今打ち従へてむ」とぞみえし。
片道給はりてければ、路次持て逢へる物をば、権門勢家の正税官物、神社仏寺の神物
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仏物をも云はず、おしなべて会坂関より是を奪ひ取りければ、狼籍なる事おびたたし。まして、大津、辛崎、三律川尻、真野、高嶋、比良麓、塩津、海津に至るまで、在々所々の▼P2468(二一ウ)家々を次第に追捕す。かかりければ、人民、山野に逃げ隠りて、遥かに是を見遣りつつ、各声をととのへてぞ叫びける。昔よりして、朝敵をしづめむが為に東国北国に下り、西海南海に赴く事、其の例多しといへども、此くの如く人民を費し国土を損ずる事なし。されば、「源氏をこそ滅ぼして、彼の従類を煩はしむべきに、かやうに天下をなやます事は只事に非ず」とぞ申しける。
義仲此の事を聞きて我が身は信乃に有りながら、平泉寺長吏斎明威儀師を大将にて、稲津新介、斎藤太、林、富檻、井上、津鰭、野尻、川上、石黒、宮崎、佐美が一党、落合五郎兼行等を始めとして、五千余騎にて、越前国火燧城をぞ固めける。
火燧元より究▼P2469(二二オ)竟の城也。南は荒血の中山、近江の湖の北のはし、塩津、海津の浜につづき、北はかいづ、柚尾山、木辺、戸倉と一つ也。東はかへる山の麓、こしの白根につづきたり。西は能美、越の海山、弘く打ち廻りて、越地遥かにみえわたる。磐石をそばだて、山高く挙り登りて、四方に峯をつらねたりければ、北陸道第一の城廓也。山を後として山を前にあつ。両岸の間、城廓の前に、西より東へ大河流れ出でたり。大石をかさね、しがらみをかきて水をふせきとどめたり。あなたこなたの谷をふせき、南北の岸
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を湿し、水面遥に見え渡りて、水海の如し。影南山を浸して、青くして蔟々たり。波西日を沈めて、紅にして陰倫たり。かかりければ舟なくしてはたやすく渡すべきやうなかりけり。
九 〔火燧城合戦の事、付けたり斎明が還り忠の事〕 ▼P2470(二二ウ)廿一日、平家の軍兵、火燧城に責め寄せたり。城のありさま、何にして落とすべしともみえざりければ、十万騎の勢、向かへの山に宿して、徒らに日を送りけるほどに、源氏の大将斎明威儀師、平家の勢十万騎に及ぶよしを聞きて、叶ふまじとや思ひけむ、忽ちに変心ありて、我が城をぞ責めける。
或る時、城内より平家の方へ蟇目を射かけたり。あやしと思ひて取りてみれば、蟇目の中に付けたる文あり。是を披きてみれば、城へ寄すべき道の様をぞ書きたりける。「此の川のはたを五丁ばかり上に行きて、川のはたに大きなる椎の木あり。彼の木の本に瀬あり。をそが瀬と云ふ。其の瀬をわたって東へゆけば、ほそぼそとしたる谷あり。谷のまま二三丁ばかりゆけば、道二つにわかれたり。弓▼P2471(二三オ)手なる道は城の前へおりたり。妻手なる道は城の後ろへ通ひたり。此の道を通りて、城の後ろへ押し寄せて、軍の時作り給へ。時の声を聞くものならば、城に火をかけ候はむずるぞ。然らば北へのみぞ落ち候はむずる。其の時大手おし合はせて、中に取り籠めて打ち給へ。又、此の川はせきあげて候へば、川尻へ勢を廻してしがらみをきりおとされ候はば、水はほどなく落ち候ふべし。斎明が一党は五十余人候へば、城の後ろへ一手にて
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落ち候ふべし。敵かとて、くらまぎれにあやまち給ふな。やがて御方へ参り加はり候ふべし」とて、細しく注して、外しやくに付きて親しかりければ、「越中二郎兵衛殿へ」とぞ書きたりける。
平家の軍兵これをみて、「一代聖教の中にも、これほ▼P2472(二三ウ)ど貴き文はあらじかし。彼の平泉寺は叡山の末寺なり。医王山王の御計らひにてや」と、いさみ合ひたり。又、「厳嶋の明神の斎明に御詫宣あるにこそ」とて悦び給ふも理なり。「前漢の蘇武が胡国の戎にとりこめられて、都を恋ふる思ひ切なりき。古郷へ送りける文には、喜悦の至り勝劣あらじ」と、大将軍を始めて、南海西海の輩まで悦びあへる事限りなし。「在昌が詩に、
賓雁に書を繋くれば秋の葉薄し 牡羊に乳を期すれば歳花空し
と書きたるは、蘇武が胡塞のありさまなり。神明のたすけある時には、かやうにこそありけれ。されば再び漢宮の月に帰りて栄花を一天に開けり。彼は雁の足の書、此れは流矢の文、皆以て天神▼P2473(二四オ)地祇の御計らひなり。いそぐべし、いそぐべし」とて、各打ち出でむとす。
但馬頭経正宣ひけるは、「敵をはかることは、山をかくして海を変じ、河を竭して磐を集むるは、弓箭取る者の習ひ也。これもいかなるべきやらむ。各計らひ給へ」とぞ宣ひける。参川守宣ひけるは、「さればとて、かくて有るべきにもあらず。其の上、斎明が状の体、さも有りぬべし。たばかるとも其れによるべからず」とて、よき兵五百余騎を撰びて差し
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遣はしけり。状にかいたる旨にまかせて打ちもてゆけば、河ばたに椎の木あり。又瀬あり。打ち入れてわたせば、あぶみのはたもぬれざりけり。打ち越えてみれば、谷あり、道あり。妻手なる道のまま行けば、案の如く、城の後ろへつと出でたり。又教への如く川▼P2474(二四ウ)尻へ人を遣はして、しがらみをきりおとしてければ、おびたたしくみえけれども、水はほどなく落ちにけり。各甲の緒をしめ、矢なみかいつくろいて勢を待ちととのへて、声をととのへて時を作る。やがて城内より火を出だす。是をみて、「敵すでに打ち入りて火を出すか」とて、城内にこもりたる者ども、あわてさわぎて、我おとらじと木戸口を開きて北へのみぞ迷ひ落ちける。平家の大手おし合はせて、取りこめて戦ひければ、源氏の軍兵かずをしらず打たれにけり。斎明やがて平家の方へ落ち加はりて、「北陸道の案内者、斎明仕らむ」とぞ申しける。火打城追ひ落としてければ、やがて加賀に打ち越えて、越中国砥浪山を越えむとす。木曽▼P2475(二五オ)此の事を聞きて大きに驚き、五万余騎にて打ち出でて、関山を越えて砥浪山へぞ向かひける。又合戦の祈祷にとて、願書を書きて白山へ奉る。彼の状に云はく、
十 〔義仲白山へ願書を進らす事、付けたり兼平と盛俊と合戦の事〕 「敬白。大願を立て申す事。
一 加賀の馬場白山本宮卅講を勤仕し奉るべき事
一 越前の馬場平泉寺卅講を勤仕し奉るべき事
一 美濃の馬場長瀧寺卅講を勤仕し奉るべき事
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右白山妙理権現は、観音薩〓[土+垂]の垂跡、自在吉祥の化現也。三州高嶺の巌窟を卜めて、四海卒土の尊卑を刺す。参詣合掌の輩は二世の悉地を満たし、帰依低頭の類は一生の栄▼P2476(二五ウ)耀に誇る。惣じて鎮護国家の宝社、天下無双の霊神なるものか。而るを近来より以来、平家忽ちに不当の高位に登り、飽くまで非巡の栄爵に誇りて、忝くも十善万乗の聖主を蔑如し、恣に三台九棘の臣下を陵辱し、或は太上法皇の陬を追捕し、或は博陸殿下の身を押へ取る。或は親王の仙居を打ち囲み、或は諸宮の権勢を奪ひ取る。五畿七道、何れの処か之を愁へざる。百官万民、誰の人か之を歎かざる。已に王孫を断たんと欲す。豈朝家の御敵に非ず哉。是一。▼P2477(二六オ)次に南京七寺の仏閣を焼きて、東漸八宗の恵命を断ち、園城三井の法水を尽くして、智証一門の学侶を滅ぼす。其の逆調達にも勝り、其の過波旬にも越えたり。月支の大天の再誕か、日域の守屋重ねて来たれるか。已に仏像経巻を魔滅し、亦堂塔僧房を焼き払ふ。寧ぞ法家の怨敵に非ずや。是二。次に源氏平氏の両家、古より今に至るまで、牛角の如く、天子左右の守護、朝家前後の将軍なり。而るを事に触れ雌雄を決し、陣を伺ひて鉾楯を致す。仍て代々合戦を企て、度々勝負を諍ふ。已に宿世の怨心有り。是私の大なる敵か。是三。茲に因りて忝なく神明の冥助を蒙り、仏法の怨敵を降せんが為に、大願を三州の馬場に立てて、感応を三所権現に仰ぐのみ。就中に先代王敵を伏す。皆仏神の贔屓に由る。此の時謀叛を降せんに、寧ぞ権現の勝利無からむや。
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加之白山の本地観音大士なれば、怖畏急難の中に於いて、能く無畏を施す。縦ひ謀臣の凶徒、呪誼を加へ怨念を致すと雖も、本人の誓約に還着すること、疑ひ無からむ。然れば権現の本誓を還念す。感応踵を廻らすべからず。何に況や我家は先祖より八幡大菩薩の加護を仰ぎ、振威の徳を施す。而るに八幡の本▼P2478(二六ウ)地は、観音の本師阿弥陀なり。白山の御体は、弥陀の脇士観世音なり。師弟力を合はせば、感応潜かに通ぜんものか。況や弥陀に無量寿の号有ます。豈千秋万歳の算を授けざらん哉。観音に薬樹王の身を現ず。寧ぞ不老不死の薬を食せざらんや。本地と云ひ垂跡と云ひ、勝利掲焉なり。公に付け私に付け、素懐を遂げんと欲す。志す所私無く、奉公頂に在り。偏に王敵を降せんが為、専ら天下を摂めんが為、忽に仏法を興さんが為、鎮へに神明を仰がんが為なり。
伝へ聞く、天神に怒り無し、但し不善を嫌ふ。地祇に崇り無し、但し過患を厭ふ。所以に平家王位を奪ふ、是不善の至りか。謀臣仏法を滅す、亦過患の基なり。日月未だ地に墜ちず、星宿猶天に懸かれり。神明神明たらば、此の時験を施し、三宝三宝たらば、此の時威を振ひ給へ。然れば則ち、権現我等の懇誠を照らし、冥には平家の族を罰せしめて、我等権現の加力を蒙りて、顕に謀叛の▼P2479(二七オ)輩を打たんと欲ふ。若し丹祈に酬、感応速やかに通ぜば、上件の大願いよいよ懈怠無くは、果たし遂ぐべきなりてへれば、弥氏の面目を悦びて、新たに社壇の荘厳を添へ、鎮へに道の冥加に誇りて、倍
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仏法の興隆を致さむ。仍りて申し立つ所、件の如し。敬ひて白す。
寿永二年四月廿八日 源義仲敬ひて白す」とぞ書きたりける。
五月二日、六郎光明、富樫太郎等が城廓を二ヶ所を打ち落とし、次第に責め入るよし、官兵国々より早馬を立てて申しければ、都には人々悦び詈りけり。林、富樫が一党追ひ落として、平家は白山の一橋をひきてぞ籠もりける。
十一日、平家十万余騎の兵を三手に分けて、三万余騎をば志雄の手へ向け、差し遣はす。七万余騎をば大手に差し向けて、越中前司盛俊が一党五千余騎引き分けて、加賀国を打ち過ぎ、終▼P2480(二七ウ)夜となみ山を越て、越中国へ入る処に、木曽が乳母子に今井四郎兼平、六千余騎にて待ち儲けて、数剋合戦す。夕に及て盛俊打ち落されぬ。誅たるる者三千余人とぞ聞こえし。盛俊は加賀国に帰りて、一所に集まり居て、軍の談議す。平家十万余騎を二手に分かてり。大手は維盛・通盛・知度・経正・清房・忠度・教経以下七万余騎は、加賀越中のさかひなる砥浪山を打ち越へて、越中国へ向かはむとす。搦手の大将軍は越中前司盛俊、三万余騎にて、能登、加賀、越中三ヶ国の境に志雄坂へ向かふ。木曽義仲は越中国に馳せ越えて、池原、般若野に引かへたり。五万余騎の勢を三手に作る。十郎蔵人行家大将軍にて、楯の六郎親忠・八島四郎行綱・落合五郎兼行▼P2481(二八オ)等を相具して一万騎、志雄坂へ差し遣はす。「今井四郎兼平も一万騎にて、砥浪山の後の搦手に廻るべし。義仲三万余騎にて大手へ向べし」と申しけれ
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ば、宮崎さみの太郎が申しけるは、「黒坂、志雄山をこされなば、何くにてか支ふべき。平家よもすがら山をこゆると承る。黒坂口へ付き給ひて、暫く支へて御覧ぜよ」と申しければ、木曽申しけるは、「大勢は夜中には馳せ合ふまじきぞ。黒坂口へ手を向けばや」と評定す。
北陸道反逆の輩の事、宣旨を下さる。其の状に云はく、
源頼朝、同じく信義等、頃年より以来、猛悪の逆心に任して、狼戻の姦濫を企つ。其の同意与力の輩、東国より北陸に及び、数ヶ国の州県を虜掠し、若干の黎民を劫略す。謀叛の甚しき、和漢に比尠し。仍て▼P2482(二八ウ)前内大臣に仰せて、宜しく北陸道の逆賊を追討せしむべしてへり。
寿永二年五月廿 日 左中弁
六月一日、「平家の大手、既に砥浪山を打ち越えて、黒坂、柳原へ打ち出づ」ときこえければ、木曽申しけるは、「聞くが如くは平家多勢なり。柳原の広みへ打ち出づる物ならば、馳せ合ひの合戦にて有るべし。馳せ合ひの戦は勢の多少による事なれば、大勢の中にかけられて悪しかるべし。敵を山にこめて、日晩れて後、栗柄が谷の巌石に向けて追ひ溶とさばやと思ふ也。義仲先づ怱ぎて、黒坂口に陣を取るべし。敵向かひたりとみば、『此の山、四方巌石なれば、左右なく敵よもよせじ。いざ馬の足休めむ』とて砥浪山の猿の馬場に下り居て休まむずる。其の後へ搦手をまはして、谷へ向けて追ひ懸けよ」と申して、▼P2483(二九オ)先づ旗指一人、つよき馬にのせてはせさす。巳剋計りに黒坂口にはせつく。白旗一流れ、高木に打ち立てて結ひ付けたり。案の如く平家是を見て、「あはや源氏
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の先陣向かひてけるは。敵は案内者也、御方は無案内也。左右なく広みへ打ち出でて、四方より係けたてられて悪しかりなむ。此の山は四方巌石なり。敵よせつともみえず。馬の草飼、水便、共に吉き所ぞ。山をかかせて、馬のひづめもよはりたり、ここに下り居てしばらく休めや」とて、平家砥浪山にぞ下り居にける。源氏の支度にすこしもたがわはず。軍の日を点じて、吉凶をうらなふ男有りけり。彼の男申しけるは、「九月以前には軍利せざるなり。引き退きて後陣をかためよ」と申しけるを、景家邪心に入りて信ぜず、合戦をいそぎけり。▼P2484(二九ウ)これは、肥後守貞能が菊地高直を政め落として、入洛するよし聞こえければ、彼に前立ちて勝負を決して、功を称げむと思ひける故也。義仲、馬三十疋に鞍を置きて、四手を付けて天神地祇に奉りて、盟ひて云はく、「神明もし祈請の趣を納受し給はば、此の馬相引きて、敵の陣の中に入るべし。納受し給はずは、馬皆離散すべし。これをもて今日の軍の進退思ひ定むべし」と心をいたして、祈念して追ひ放ちたりけるに、かの馬一列に群れ引きて、摂津判官盛澄が陣の中へ三十疋ながら入りたりければ、官軍も驚きあへり。義仲深く信受す。さるほどに、安宅の勢、軍に手負たりし石黒の太郎忠直も今日ういだちして、馬にかきのせられて、般若野陣へ参りたりけり。をりしも同国の住人▼P2485(三〇オ)中村三郎忠綱、むくたの荒次郎村高、参り合ひ候ひければ、大将軍木曽宣けるは、「義仲は幼少よりして信乃国に居住して、今日始めて此の山へは向かひたり。而る間、山の案内存知せず。殿原は朝夕すみなれ
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給ひたる所なれば、定めて案内は能々存知せられたるらむ。今度の合戦に、義仲をかたせうかたせじは、併ら殿原の計らひなり。何様に有るべきやらむ」と宣ひければ、面々に申けるは、「さ候ふ。此の国に住して人となれる身共にて候へば、『木の本、萱の本、谷の深きに悪所あり。峯の嶮しきに巌石あり。ここは閑道なれば、いづくの里へ出づる道、彼は大道なれば、某の村へつづきたり。敵は彼の方よりよせこば、我はちがひて何れの方より対ふべし』と存知して候へば、各の案内者仕り候ふべし。此山は砥▼P2486(三〇ウ)浪山の郡の内にて候へば、砥浪山とも申し候ふ。又は黒坂山とも名たり。黒坂に取て三の道候ふ。北黒坂、南黒坂、中黒坂とて候ふ。北には又安楽寺越、南にはかむだごえ、ほら坂ごえとて、路は多く候へども、余の方へは何れの道へも敵向かひたりとも承り候はず。中黒坂の猿の馬場と申す処に陣を取りて候ふなれば、かしこは無下に分内せばき所也。先陣後陣押し合はせてせめむに、無下に安く覚え候ふ」とぞ申しける。
木曽身の勢の定、十三騎にて、先づ中黒坂口へはせ付きぬ。四方をきと見まはせば、北のはづれに当たりて、夏山の峯の緑の木の間より、緋の玉籬ほのみえて、片そぎ造の社あり。前に鳥居ぞ立ちたりける。里の長を召して、「あれをば何の宮と申すぞ。又何なる神を崇め奉りたるぞ」と問ひ給へば、「是は埴生の社と申して、八幡▼P2487(三一オ)宮と申し候ふ」と云ひければ、木曽うれしく思ひて、木曽手書、木曽大夫覚明と云ふ者の有りけるをよびて云ひける
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は、「義仲、幸ひに当国新八幡宮の御宝前に近付き奉りて、合戦を遂げむとす。今度の軍には疑ひなく勝ちぬと覚ゆるぞ。且は後代の為、且は当時の祈りの為に、願書を一筆書きてまゐらせばやと思ふは、いかがあるべき」と云ひければ、覚明「尤も然るべく候ふ也」とて、えびらの中より小硯を取り出して、たたうがみに是を書く。覚明、其の日は褐布の鎧直垂に首丁頭巾して、ふしなはめのよろひに黒つばの征矢負ひて、赤銅造の大刀はいて、塗籠藤の弓脇にはさみて、木曽が前に跪きて書きたりけり。「あはれ、文武二道の達者や」とぞ見えたりける。其の状に云はく、
▼P2488(三一ウ) 十一 〔新八幡宮願書の事、付けたり倶利迦羅谷大死の事、并びに死人の中に神宝現るる事〕 帰命頂礼。八幡大菩薩は、日域朝廷の本主、累代明君の嚢祖なり。宝詐を護らんが為、蒼生を利せんが為、三身の金容を露し、三所の権扉を排く。爰に頃年の間、平相国と云ふ者あり。四海を管領して万民を悩乱せしむ。是れ既に仏法の讎、皇法の敵なり。義仲苟しくも弓馬の家に生れて、箕裘の芸を継ぐ。彼の暴悪を見るに、思慮を顧みること能はず。運を天道に任せ、身を国家に投ぐ。試みに義兵を起して、凶器を退けんと欲す。而るを、開戦両陣を合はすと雖も、士率未だ一塵の勇を得ざる間、区の心〓慨々たる処に、今一陣の旗を揚ぐる戦場に於ひて、忽ちに三所和光の社壇を拝す。機感の純熟既に明らかなり。凶徒の誅戮疑ひ無し。歓喜の涙を降らせて、渇仰肝に染む。就中に曾祖父前の陸奥守義家朝臣、
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身を崇廟の氏族に寄附して、名を八幡大郎と号せしより以降、▼P2489(三二オ)其の門葉たる者の、帰敬せずと云ふこと莫し。義仲其の後胤として、首を傾けて年久し。今此の大功を興す。縦ひ嬰児の〓(かひ)を以て巨海を量り、蟷螂の斧を取りて立車に向ふが如し。然れども君の為、国の為、之を興す。全く身の為に之を興さず。志の至り、神鑑暗に有り。恃もしき哉、悦ばしき哉。伏して願はくは、冥顕威を加へ、霊神力を合はせて、勝つことを一時に決し、讎を四方に退け給へ。丹誠冥慮に応ひ、幽賢加護有るべくは、先づ一つの瑞相を見せしめ給へ。敬ひて白す。
寿永二年六月一日 源義仲敬ひて白す。
とぞ書きたりける。
此の願書に十三騎の表矢を抜きて、雨の降りけるに、蓑きたる男の蓑の下に隠し持たせて、大菩薩の社壇へ献る処に、たのもしき事は、八幡大菩薩、其の二心なき心ざしをや鑑み給ひけむ、霊鳩天より飛び来りて、▼P2490(三二ウ)白旗の上に翩〓[扁+番](へんばん)す。義仲馬より下り、甲をぬぎ、首を地に付けて、是を拝し奉る。平家の軍兵、遥に是を遠見して、身の毛竪てぞ覚えける。
さるほどに、木曽が勢三千余騎にて馳せ来る。「敵に勢のかさ見えなばあしかりなむ」とて、松長、柳原に引き隠す。とばかりありては五千余騎、同じく柳原に引き隠す。とばかりあつては七千余騎、とばかりあつては一万騎、三万余騎の勢は四五度、十度にぞ馳せ付きける。皆柳原
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に引き隠す。平家は砺浪山の口、倶利伽羅が嶽の麓に、松山を後にして、北向きに陣を取る。木曽は黒坂の北の麓、松長、柳原を後にして、南向きに黒坂口に陣を取る。両陣の間、僅かに五六段を隔て、各楯を突き向かへたり。木曽は勢を待ち得ても、合戦をいそがず。平家の方よりもすす▼P2491(三三オ)まず。時の声、三ヶ度、後はしづまり返りてぞ見えける。
しばらくあつて、源氏の陣より勢兵十五騎を楯の面へすすませて、十五騎、上矢の鏑を同音に平家の陣へぞ射入れける。平家すこしも騒がず、十五騎を出だし相はせて、十五の鏑を射返さす。両方十五騎づつ共に楯の面にすすみたり。「勝負を決せむ」とはやりけれども、内より制して招き入れつ。又とばかり有つて、卅騎を出だして射さすれば、卅騎を出だして射返す。五十騎を出だせば五十騎、百騎を出だせば百騎を出だし合ひて、矢を射ちがへさせたるばかりにて、両方勝負に及ばず、各本陣へ引き退く。かくするほどに、辰時より未の剋まで六ヶ度に及ぶ。源氏は搦手の廻るを待ちて日を暮らさむとする謀をばしらずして、平家の▼P2492(三三ウ)あひしらひけるこそはかなけれ。
さるほどに、日もくれがたに成りぬれば、今井四郎兼平、楯六郎親忠、矢嶋四郎、落合五郎を先として、一万余騎の勢にて、平家の陣の後、西の山の上より差し廻して、時をどつと造りたりければ、黒坂口、柳原に引かへたる大手三万余騎、同時に時を作る。前後五万余騎がをめく声、一谷にひびき、峯にひびきて、おびたたしくぞ聞こえける。平家は、
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「北は山、巌石也。夜寒はよもあらじ。夜あけて後ぞ軍はあらむずらむ」とて、ゆだむしたりける所に、俄に時を造りかけたりければ、東西を失ひて周章騒ぐ。後は山深くして嶮しかりつれば、搦手廻りぬべしとは思はざりつる者をや。こはいかがせむずる。前は大手なれば、えすすまず。後へも引き帰さず。龍にあらねば天へものぼら▼P2493(三四オ)ず。日はすでにくれぬ。案内は知らず。力及ばぬ道なれば、東の谷へ向けて様にぞおとしける。さばかりの巌石を、やみの夜に我先にと落としける間、杭に貫かれ、岩に打たれても死ににけり。先におとす者は後は落とす者にふみ殺され、後に落とす者は今おとす者におし殺さる。父おとせば、子もおとす。子落とせば、父もつづく。主おとせば、郎等もおちかさなる。馬には人、人には馬、上や下におち重なりて、倶利迦羅谷一つをば、平家七万余騎にてはせうめてけり。谷の底に大きなるとちの木あり。一つの枝へは廿丈有りけるが、かくるるほどにぞはせうめたりける。徒らにすつる命を、敵にくむでは死なずして、「我おとらじ」とはせ重なりけるこそ無慚なれ。
大将軍三河守知度已下、侍には飛騨判官景高、高橋判官▼P2494(三四ウ)長綱已下、衛府、諸司、並びに有官の輩、百六十人棟との者共二千余人は倶利迦羅が谷にて失せにけり。巌泉血を流し、死骸岡をなせり。されば、倶利迦羅が谷の辺には、箭孔、刀痕、木の本ごとに残り、枯骨谷に満ちて、今の世まで有りとぞ承る。
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木曽、かやうに平家の大勢を攻めおとして、黒坂の手向に弓杖つきて引かへたる所に、平家馳せ重なりてうめたる谷の中より、俄かに火焔燃えあがる。木曽大きに驚きて、郎等を遣はしてこれを見するに、金剣の宮の御神宝にてぞわたらせ給ひける。金剣宮と申すは白山の剣の宮の御事也。木曽むまよりおり、かぶとをぬぎて、三度是を拝し奉りて、「此の軍は、義仲が力の及ぶ所にてはあらざりけり。白山権現の御計らひにして、平家の勢は▼P2495(三五オ)滅びにけるにこそ。剣の宮は何れの方にあたりてわたらせ給ふやらむ。御悦び申さむ」とて、鞍置き馬廿疋に手縄結びて、打ちかけて、白山の方へ追ひ遣はす。「是程の神験を、争かさてあるべき」、とて、加賀国林六郎光明が所領横江庄を、白山権現へ寄進し奉りたりけるが、今にたえず、神領にて伝はりたるとかや。
十二 〔志雄合戦の事〕 同二日、志雄の軍、十郎蔵人行家、負け色になりたりければ、越中前司盛俊、勝に乗りて責め戦ふ。木曽、砥浪山の軍に打ち勝ちて、五万騎の勢にて志雄坂へ馳せ向かひて、安高の湊を渡さむとするに、はしをひかれて、河は深し、わたすに及ばずして、いきつきゐて、鞍置き馬に手縄むすびて、かいがけかいがけ、七八疋追ひ渡す。平家の勢、此を見て、「源氏落ちな▼P2496(三五ウ)むとするにこそ。ここに馬落としたり」と申して、「我とらむ、我とらむ」としけるを、木曽、是をみて、「河はあさかりけり。渡せや、渡せや」と云て、海野、望月、仁科、村山を先として、五百余騎、打ち湿りたり。平家是をみて取る物も取り敢へず落ちにけり。遁るる者はすくなく、多くは河
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へぞ入りにける。志雄の手追ひ落として、やがて加賀国篠原、浪松まで、責め付けたり。平家返し合はせて戦ふといへども、三万余騎大体篠原にて誅たれにけり。備中国住人妹尾太郎兼康、木曽が郎等、加賀国住人倉光六郎成澄が為に生け取られぬ。斉明威儀師も生け取られぬ。
十三 〔実盛打死する事〕 平家の家人、武蔵国住人長井斎藤別当実盛、「遂にのがるまじき命也。いづくにても死なむ命は同じ事」と思ひて、死生不知に戦ひ▼P2497(三六オ)けり。赤地の錦の直垂に黒糸威の鎧をぞ着たりける。木曽が手に、信乃国住人手塚太郎光盛と云ふ者あり。実盛がかくるをみて 「たそや。只一人、残り留りて戦ふこそ、心にくけれ。なのれや、なのれや。かう申すは誰とか思ふ。信乃国諏方郡住人、手塚太郎金判光盛と云ふ者ぞ。吉き敵ぞや」となのりかけたり。実盛、申しけるは、「さる者有りときき置きたり。但し、わぎみをさぐるにはあらず、思ふ様があれば名乗りはすまじ。只頸を打ちて源氏の見参に入れよ。木曽殿は御覧じ知りたるらむ。思ひ切つたれば、一人残り留まりて戦ふぞ。敵は嫌ふまじ。よりこよ手塚」と云ふままに、弓をわきにはさみて歩ませ寄りたり。手塚郎等一人を女手に並べて中にへだたるとぞ見えし。実盛に押し並べて、手塚むずとくむ。実盛「さしつたり」と云ひてさし及びて、▼P2498(三六ウ)手塚が郎等の押付の板をつかみて、左の手にては手縄をかいくり、立ちあがつて「えい」と云ひて引くに、手塚が郎等、引き落とされぬ。実盛押付の板をつかみて、馬の腹に引き付けて、もてさげてもて行く。足は地より一尺計り上りたり。手塚是をみて、はせならべて、実盛が鎧
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の袖につかみ付きて、えごへを出して引くに、鐙をこして先に落ちにけり。実盛も二人を敵にうけたりければ、諸共に引き落とされぬ。さりけれども、手塚が郎等を取つておさへて頸をかくに、手塚、実盛が鎧の草摺を引き上げて、つかもこぶしもとほれとさして、やがて上にのらへて頸をかくに、水もさはらず切れにけり。手塚が郎等、おくればせにはせ来たりけるに、実盛鎧はぎとつてもたせて、木曽が前に来たりて▼P2499(三七オ)申しけるは、「光盛こそかかるくせ者打ちて候へ。なのれと申し候ひつれども、なのり候はで、『木曽殿は御覧じ知りたるらむ』と申して、終になのり候はず。侍かと存じ候へば、錦の直垂を着て候。大将軍かと存じ候へば、継く勢も候はず。京者か、西国さまの御家人かと思ひ候へば、音は坂東音にて候ひつ」と申せば、木曽宣ひけるは、「哀れ、これは武蔵国長井斎藤別当実盛にこそあむなれ。若し其ならば、一年義仲をさなめに見しかば、しらがかすをなりしぞ。今は事の外に白髪にこそなりぬらめ。鬢の髪の黒こそ怪しけれ。樋口は古同僚にて見知りたるらむ。見せよ」とて、樋口の次郎を召してみせらるる。実盛がもとどりを取りて引き上げて只一目みるままに、なみだをはらはらとおと▼P2500(三七ウ)して、「あなむざむや、実盛にて候ふ也」と申せば、木曽「いかにびむひげのくろきは」と云ふに、樋口「さ候へばこそ、子細を申し候はむとし候ふが、心よわくなみだの先こぼれ候ふ也。弓矢とる者は、いささかの事にも詞をば申し置くべき事にて候ひけり。実盛、年来兼光に申し候ひしは、『実盛六十
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に余りて後、軍の陣に向かひたらむには、しらがのはづかしからむずれば、びむひげにすみをぬりて、わかく見えむと思ふ也。其の故は、『これほどの白髪にて、いかほどの栄を思ひて軍をばしけるぞや』と、人の思はんもはづかし。其の上、敵も老武者とて、あなづらむ事も口惜しかるべし。又わかとのばらにあらそひて先をかくるもをとなげなし。小野小町が老苦の歌に、
さはにおふるわかなならねどおのづからとしをつむにも▼P2501(三八オ)そではぬれけり
と云ひけむも理なりけり』と申し候ひしが、たはぶれと思ひて候へば、げにすみをぬりて候ひけるぞや。水を召しよせて、洗はせて御覧候へ」と申せば、「実にさも有るらむ」とて、あらはせてみ給へば、しらがふうきに洗ひなしてけり。さてこそ、一定、長井斎藤別当実盛が頸とも知りにけれ。彼の商山の四皓は、頭上に霜を戴き、速かに高山の奥に隠れ、此の斎藤別当は、白髪に墨を塗りて、永く冥途の旅に趣く。彼は賢才能潔なるが故也。此は武勇の至りて甲なるが故也。昔の許由は、耳を洗ひて名を後代に流す。今の実盛は、髪を濯ぎて涙を万人に催す。
錦の直垂を着たりける事は、実盛京を打つ立ちける日、内大臣に申しけるは、「実盛東国の打手に罷り下りて候ひしに、一矢も▼P2502(三八ウ)射ずして、蒲原よりまかり上りて候ひしが、実感が老いの恥、此の事に候ふと存じ候へば、今度北陸道に罷り下りて候はむには、善悪生きて返り候ふ
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べからず。年はまかりよりて候へども、ま先かけて打ち死に仕り候ふべし。其れに取りて、実盛元は越前国の住人にて候ひしが、近年所領に付きて、武蔵国に居住仕る。事の譬へ候へば、『故郷へは錦の袴を着よ』と申す事の候へば、今度最後の所望には、錦の直垂を御免蒙り候ふべし」と申しければ、内府「左右に及ばず」とて免させられにける間、直垂をばきたりけり。是を聞きて、大名小名皆鎧の袖をぞぬらしける。
伊藤九郎、大庭五郎、ましもの四郎なむども、ここかしこにして打たれにけり。今度、となみ山、志雄坂よりはじめて、雲津、松が崎、金崎、▼P2503(三九オ)浪松超えし色の浜、天の橋立、安高の松原、竹の泊り、所々の戦に、平家の官兵毎度に誅ち落とされて、しかるべき人々も馬をはなれ物具をぬぎ捨てて、或いは東山道にかかり、或いは北陸道にかかる人もあり。思ひ思ひに都へ落ち上る。維盛、通盛希有にして返り上られにけり。去んぬる四月に十万余騎にて下り、今六月に軍に負けて返り上る勢は三万余騎、残る七万余騎は北陸道にて骸を路次にさらしてけり。平家、今度しかるべき侍、大略かずを尽して下されにけるに、かく残り少なく誅たれぬる上は、云ふはかりなし。「流れをつくして漁りする時は、多く魚を得と云へども、明年に魚なし。林を焼きて狩する時は、多く獣を取ると云へども、是も明年に獣なし。後を存▼P2504(三九ウ)じて、壮健のすくやかなるを遣して、少々は官兵を残さるべかりける物を」と申す人もありけり。内大臣、棟と憑まれたりつる弟参川守も誅たれ
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給ひぬ。長縄も返らず。「一所にていかにもならむ」と契り給ひたりつる、乳人子の景高も誅たれぬる上は、大臣殿も心よわくぞ思ひ給ひける。父高家も「景高におくれ候ひぬるうへは、今は身のいとまを給はつて、出家遁世して後生を訪ふべし」とぞ申しける。此の度誅たるる者共の父母妻子等が泣き悲しむ事、限りなし。家々には門戸を閉ぢて声々に念仏を申しあひたりければ、京中はいまいましきことにてぞありける。
十四 〔雲南濾水事、付けたり折臂翁の事〕 昔天宝に兵徴す。駈り向けて、何の処にかやる。五月、万里の雲南に▼P2505(四〇オ)行く。彼の雲南に濾水あり。大軍歩より渡る時、水、湯の如し。未だ戦はざるに、十人が二三は死にぬ。村南村北に哭する声悲し。児は娜嬢に別れ、夫は妻子に別る。前後蛮に征くもの、千万に一人も返らず。新豊懸、彼の雲南の征戦を怖れつつ、歳廿四、夜深け人定まりて後、自ら大石を抱き、臂を鎚ち折りき。弓を引き旗を簸ぐるに、共にたへず、右の臂は肩にあり、左の臂は折れたりと云へども、是よりはじめて雲南に征く事を免かれぬ。しばらく郷土に帰らむ事をえらび、退けらるるといへども、骨砕け筋傷れて、かなしからずと云ふ事なし。されども臂折れてより以来六十年、一支は廃れたりと云へども、一の身はまたし。今に至るまで、かぜふき雨降り陰塞る夜は、天の明くるまで痛みて▼P2506(四〇ウ)睡らず。痛みてねぶらざれども終に悔いず。喜ぶ所は老いの身なり。当初、雲南に征かましかば、彼の櫨水に没して、雲南望郷の鬼と作りて、万人塚の上に哭くこと、幼々とぞあらまし。よはひ八十八、
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首はゆきに似(に)たりと云へども、玄孫に扶けられて、店の前に向かひて行く命ありければ、かかる事にもありけるにや、
一枝ををらずばいかにさくらばなやそぢあまりの春にあはまし
平家、今度、しかるべき侍共、かずをつくして下しつかはす。其の外、諸国よりも駈り向けたる兵、幾千万と云ふ事を知らず。行きて再び帰らず、谷一つを埋めてけり。されば、彼の雲南万里の濾水に違はざりける物をやと哀れ也。
五日、北国の賊徒の事、院の御所にて定めあり。左▼P2507(四一オ)大臣経宗、右大臣兼実、左大将実定、皇后宮大夫実房、堀川大納言忠親、梅小路中納言長方、此の人々召されける。右大臣兼実、堀川大納言忠親は参り給はざりけり。右大臣へは大蔵卿泰経を御使にて御尋ねあり。「只能々御祈りを行はるべき」よしをぞ申されける。左大臣経宗は、「かなはぬまでも門々をかためらるべし」と申されけるぞ、云ふ甲斐なき。右大臣、「東大寺秘法有り。加様の時、行はるべきにや。宗の長老に仰せらるべきか」と申させ給ふに、長方卿、「『軍兵の力、今は叶ふまじきか』と、前内大臣にたづねらるべし。其の後の儀にて有るべきか」とぞ申されける。
十五 〔延暦寺に於いて薬師経読む事〕 十一日に院より延暦寺にて薬師経の千僧の御読経行はる。是▼P2508(四一ウ)も兵革の御祈り也。御布施には手作りの布一端、供米袋一つ。院の別当左中弁兼光朝臣、仰せを承りて、
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催し沙汰有りけり。行事、主典代・庁官、御布施、供米を相具して、西坂本赤山の堂にて是を引くほどに、山の小法師原を以て請け取る間、一人してあまたを取る法師も有り、又手を空しくして取らぬ者も有りけり。然る間、行事官と法師原と事を出だす。主典代・庁官、烏帽子打ち落されて、散々の事にてぞ有りける。はてには主典代を捕めて山へ登りにけり。平家のしとする神事仏事の祈りの、一つとして験はなかりけり。
十六 〔大神宮へ御幸成るべき事、付けたり広副の事、并びに玄防僧正の事〕 同日、蔵人右衛門権佐定長仰せを奉りて、祭主神祇大副大仲臣親俊を殿上のロに召して、「兵革平らかならず。大神宮へ行幸あるべき」▼P2509(四二オ)よし、申させ給ひけり。大神宮と申すは、高天の原より天降りましまししを、垂仁天皇の御宇廿五年と申しし戊申三月に、伊勢国渡会郡五十鈴川の河上、下津磐根に大宮柱広敷き立てて、祝ひ始め奉り給ひしより後、宗廟社稷の神におはしませば、崇敬し奉らせ給ふ事、吾朝六十余州の三千七百五十余社の大小の神祇冥道に勝れてましまししかども、代々の御幸はなかりしに、ならの帝の御時、右大臣不比等の孫、式部卿宇合の御子、右近衛権少将兼大宰の小弐藤原の広嗣と云ふ人おはしき。世上の才人天下の俊者也。其の身に種々の能あり。形体端厳にして強軟自在なれば、朝夕花洛(路)鎮西に往還し、文籍内外に通達して▼P2510(四二ウ)融洞なれば、詩賦居易元慎に恥(は)ぢず。武芸に於いては良将為り。一箭を以て四方を射る。術道に於ては名誉有り。十燈を挑げて一度に消やす。歌舞和雅にして聞く人感涙を流し、
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管絃幽微にして清濁呂律を分かつ。吉備真備に就きて一字千金の師範と仰ぎ、天文宿曜を習ひて陰陽元起の淵底を究む。衆能の中に此の業殊に勝れたり。又、妻室花容にして天下無双の美人なり。見る人心を悩まさずと云ふ事なし。
爰に広嗣、我が身の武勇を憑みて、天平十二年庚辰九月丁亥日、肥前国松浦郡にて一万人の凶賊を相語らひて謀反を企て、帝を傾け奉らんとはかる由聞えければ、大将軍従四位上大野朝臣東人、副将軍従五位上紀朝臣飯麻呂、并びに諸国の軍兵等に勅して一万七千人を東人等に委けて▼P2511(四三オ)差し遣はして、追討せしめんと擬す。其の勢鎮西へ下向す。広嗣、此の事を聞きて一万余騎の凶徒を率して都へきほひ登る。官軍、板橋河の辺に行き合ひぬ。広嗣編木を構へて船と為し、河を渡さむとす。東人等、身命を捨ててふせき戦ひしかば、広嗣海へ追ひはめらる。俄に東風吹きしかば、白浪弥よ荒くして松浦が浦に引き退く。官軍つづきて追ひ懸けしに、王事濫きこと(危ふき事)靡ければ、鵲鳩帆柱之上に来居して、事故なく備前の国府に付きにけり。広嗣遂に橘浦にして、同じき十一月十五日、誅され畢んぬ。此の御祈に同じき十一月乙酉日、始めて伊勢大神宮へ行幸あり。今度も其の例とぞ聞こえし。
抑も、彼の広嗣誅たれ給へる遺体、虚空に登りて電をなす。電光二ヶ日照曜して、宛かも日の光の如し。洛陽外土、其の光見えて、夭亡▼P2512(四三ウ)甚だ多かりき。其の後鎮まりて地に落つ。今の鏡宮の御車也。惣じて其の霊荒れて畏しき事多かりける中に、同じき十八年六月十八日に、大宰府
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の観世音寺を供養せられけるに、玄肪僧正と申しし人、御導師に請ぜられ、腰輿に乗り出でられしに、俄かに空かきくもり、黒雲の中より龍王降りて彼の僧正を取りて天に登りにけり。畏しき事限り無し。如何なる宿業にやと尋ぬれば、昔、彼の広嗣の北の方、都におはせし時、彼の容顔にばかされて、玄肪密かに心を通じ給ひたりし故か。太平後記に云はく、「女は亡国の使なり。人愛すること勿かれ。必ず十の失有り」と云へり。誠なる哉、僧正仮の形にばかされて、遂に女の為に失なはる。こころ憂かりし事共也。此の霊、天下に広く荒れ給ひて、洛陽辺土をきらはず、夭▼P2513(四四オ)亡甚だ滋かりき。かかりければ、公卿僉議ありて、「吉備の大臣の外、誰人か是を鎮めたてまつるべき」とて、真備鎮西へ下向して、邪悪降伏の法を修せしめ給ふ。一字千金の恩を忘れず、広嗣鎮まり給ひにけり。即ち神と崇め奉る。今の松浦明神、是也。
彼の僧正は、吉備大臣と伴ひて入唐をし、法相宗を我が朝へ渡されたりし人也。入唐の時、宋人其の名を難じて云はく、「玄肪と書きては『還りて亡ぶ』と云ふ通音あり。本朝に帰りて事に逢ふべき人也」と申したりけるとかや。彼の難違はず、今かやうに成り給へり。不思議なりし事共也。其の後遥かに日数へて、彼の僧正の頸を南都興福寺の内、西金堂の前におとして、そらに、ばつと咲ふ音しけり。此の寺と申すは、彼の法相宗の寺なるが故也ければにや。是則ち、彼の広嗣が霊の▼P2514(四四ウ)しわざなり」とぞ卜巫ありける。
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昔もかかる兵乱の時、御願を立てらるる事有りけるにや。嵯峨天皇の御時、大同五年庚寅、平城先帝、尚侍がすすめによつて世をみだり給ひしかば、其の御祈りに、始めて帝の第三の皇女、有智内親王を賀茂の斎きに立て奉らせ給ひき。是れ又斎院の初め也。朱雀院の御時、天慶二年乙亥、将門・純友が謀反の時の御願に、八幡の臨時祭初まれりとぞ承る。
十七 〔木曽都ヘ責め上る事付けたり覚明が由来の事〕 木曽、度々の合戦に打ち勝ちて、六月上旬には東山北陸二の道を二手に分け、打ち上る。東山道の先陣は尾張国墨(黒)俣川に付きつ。北陸道の先陣は越前国府に着く。身づからは北陸道を登りけるが、評義して云ひけるは、「抑も、山門の大衆は未だ平家と一つなり。其の上、故に頃(項)年は▼P2515(四五オ)弓箭を松扉の月に耀かし、戈〓[金+延]を蘿洞の雲に蓄ふ。勇敢の凶徒、道路に遮り、往還の諸人怖畏を抱く。然れば則ち、学窓の冬の雪(ゆき)、永く邪見の焔を消し、利剣の秋の霜、頻りに不善の叢に深し。各々西近江を打ち上らむずるに、東坂本の前、小事、なれ、辛崎、三津、川尻なむどよりこそ京へ通り候はむずれ。定めて防き戦ひ候はむずらむ。縦ひ打ち破らしめて登りて候はば、平家こそ仏法とも云はず、寺をも亡ぼし僧を失へ、かやうの悪行を致すに依りて、是を守護の為上る我等が、平家と一つなればとて山門の大衆を亡ぼさむ事、少しも違はず二の舞たるべし。さればとて、又此の事をためらひて、登るべからむ道を逗留するに及ばず。是れこそ安大事なれ。いかがあるべき」と云ひけれ
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ば、大夫房覚明申しけるは、「山門の骨法▼P2516(四五ウ)粗承り候ふに、衆徒三千人、必ずしも一味同心なる事候はず。思ひ思ひ心々也。されば三千人一同に平家と一つなるべしと云ふ事も不定也。牒状を送りて御覧候へ。事の様は返牒に見えぬと覚え候ふ」と云ひければ、「尤も然るべし」とて、牒状を山門へ遣はす。件の牒状、やがて覚明ぞ書きたりける。
彼の覚明は、元は禅門也。勧学院の衆、進土蔵人道康とてありけるが、出家して西乗房信救とぞ申しける。信救、奈良に有りける時、三井寺より牒状を南都へ遣したりける、返牒をば彼の信教ぞ書きたりける。「太政入道浄海、平氏の糟糠、武家の塵芥」と書きたりける事を、入道安からぬ事に思ひて「いかにもして信救を尋ね取りて誅せむ」とはからるるよし聞えければ、南都も都程近ければ、始終叶はじと思ひて▼P2517(四六オ)南都を逃げ出づべきよし思ひけれども、入道、路々にはうべむを置かれたるよし聞えければ、いかさまにも本の形にては叶ふまじと思ひて、漆を湯に涌かしてあびたりければ、〓[月+逢]脹したる白癩のごとくにぞなりにける。かくて南都をま日中に退出しけれども、手かくる者もなかりけり。信救、なほみやこの辺にては取られなむずと思ひて鎌倉へ下りけるに、十郎蔵人行家、平家追討の為に東国より都へ責め上りけるが、墨俣川にて平家と合戦をとぐ。行家散々に打ちおとされて引き退き、三川の国府に付きてありける所に信救行き合ひて行家に付きにけり。誠の癩にあらざりければ、次第に〓[月+逢]脹もなほりて、本の信救になりにけり。行家、三河の国府にて伊勢大神宮
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へ奉りける願書▼P2518(四六ウ)をも信救ぞ書きたりける。信救又木曽を憑みて、改名して木曽大夫覚明とぞ申しける。
山門の牒状、六月十六日に山上に披露す。大講堂の庭に衆徒会合して是を披見す。其の状に云はく、
十八 〔木曽、山門へ牒状を送る事、付けたり山門返牒の事〕源義仲謹言
親王の宣を奉りて平家の逆乱を停止せしめんと欲する事
右平治より以来、平家跨張の間、貴賎手を〓[敬+手]げ、緇素足を戴(載)く。忝く帝位を進止し、恣に諸国を虜掠す。或いは権門勢家を追捕して悉く恥辱に及ばしめ、或いは月卿雲客を搦め取りて其の行方を知らしむること無し。就中、治承三年十一月、法皇の仙居を鳥羽の古宮に移し、博陸の配流を夷夏の西鎮に行ふ。加之、侵さずして咎を蒙り、罪無くして命を失ふ、▼P2519(四七オ)功を積みて国を奪はれ、忠を抽きんでて解官せらるる輩勝計すべからざる者か。然而、衆人道理を言はずして、以て自ら重きに処す。
去んじ治承四年五月中旬に、親王の家を打ち囲み、刹利種を断たんと欲する処に、百皇治天の御運、其の員未だ尽きざるに因りて、本朝守護の神冥、尚し本宮に在るが故に、仙駕を薗城寺に保んじ奉ること、既に畢はんぬ。其の時、義仲が兄に源の仲家、芳恩を忘れ難きに依りて、同じく以て扈従し奉る。翌日に青鳥飛び来り、令旨蜜に通じて、義仲急ぎ参ずべき
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催有り。忝く厳命を奉りて預参を企てんと欲する処に、平家此の事を聞きて、前右大将、義仲の乳母夫仲原の兼遠の身を召し籠む。其の上、重ねて義仲が住所に人を就け、之を伺ひ、路を固めて討ち取らんと欲す。然りと雖も、義仲身命を捨てて逃げ参ず。是れ京上の初也。而るに、怨敵国中に満ちて、郎従相従ふこと無き間、心神山野に迷ひ、東西に▼P2520(四七ウ)往反を覚えず。未だ参洛を致さざる時、御僉儀有りて云はく、「三井寺の体為、地形平均にして敵を禦ぐこと能はず」。仍りて仙佖蹕を南都の故城に進め奉り、合戦を宇治橋の辺に遂げしめんと欲する刻、頼雅の卿父子三人、仲綱兼綱以下、卒爾に打ち立つ。心事相違する間、東国の郎従一人として相順ふ者無しと雖も、家の名を惜しむに依りて、身命を捨て禦き戦ふ庭に、骸を〓[土+龍]門原上の土に埋み、名を鳳凰城都の宮に施し畢はんぬ。哀れなる哉、令旨数度の約、一時に参会し難し。悲しき哉、同門親昵の契、一旦に面謁を隔つ。然者(しかれば)、平家に於いては、公私に付け会稽の恥を散ぜんと欲する者也。是に於いて、幸に令旨を東山東海の武士に下され、雌雄を越後越前の凶党に決せしめて、平家の軍兵等、首を刎ねられ命を終ふる者、幾千万と云ふことを知らず。今、前の兵衛佐源の頼朝、同義仲等、親王の▼P2521(四八オ)宣を奉りてより以後、尾張・参河・遠江・伊豆・駿河・安房・上総・下総・上野・下野・武蔵・相模・常陸・出羽・陸奥・甲斐・信乃・越後・越中・能登・加賀・越前等、惣じて二十三ヶ国、已に打ち随へ畢はんぬ。是を以て、東山遣先陣に於いては、尾張国墨俣の辺に打ち立たしむ。
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北陸道の先陣は、已に越前の国府に着きて平家の悪党を征伐する許り也。然るを、貴山、親王の善政に同心し奉る哉否や。平家の悪逆に与力せしむ哉否や。若し彼の党に与力せしめば、定めて親王の御使を相禦がむ者か。我等不慮に天台の衆徒に対して非分の合戦を企てむ事、甚だ益無からむ者哉。忍辱の衣の上鎮へに甲冑を着し、慈悲の心の中に猥しく合戦を巧まば、僧侶の行儀豈然るべけん哉。速かに平家値遇の僉儀を飜して、源氏安穏の祈祷を修せられば、斯れ則ち、叡山の▼P2522(四八ウ)仏法を仰ぎ、浄行の〓[十十(草冠)+必]蒭を優るる思切なる故也。若し猶承引無くんば、自ら慈覚の門跡を滅ぼし、定めて衆徒の後悔有らむ者か。此くの如く触れ申す事、全く衆徒の武勇に畏るるに非ず。只だ常住の三宝を遵ばむが故也。伝へ聞く、天台の仏法は皇法を護り、王法は仏法を崇む。之に依り、興福・薗城両寺の大衆、親王の御方に与力し奉る故、平家の悪行の為、薗城寺の坊舎より始めて南都七大諸寺に至るまで、堂塔僧坊等一宇も残さず、併しながら焼き払はれ畢はんぬと云々。其の中、東大寺は聖武天皇の御願、吾が朝第一の奇特也。金銅慮遮那の仏像、烏瑟忽ちに花王の本土に帰り、堂閣空しく相海の波涛に〓るH訴(うつた)ふ。嗟呼、八万四千の相好、秋の月四重の雲に隠れ、四十一地の瓔珞、夜の星十悪の風に漂ふ。此の事を聞く毎に、不覚の涙面を洗ひ、随分の歎胸を〓[火+焦]す。専ら在俗▼P2523(四九オ)武士の心なりと雖ども、盍ぞ仏法魔滅の悲しみを思はざらん哉。纔かに仏法破滅せざるは貴山なり。但し、台嶺四明
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の洞、孤静かなるに非ず。薗城三井の流半ば竭ぬ。根本中堂の燈独り輝かず。七大諸寺の光忽ちに消えぬ。三千の僧侶、豈此の愁へを懐かざらむや。一山の衆徒、寧此の事を歎かざらん哉。此の道理を存して令旨に随はるれば、弥十二願王を恭敬し、共に三千浄行に帰依せん。夫八幡大菩薩は三代聖朝の権化、賀茂・平野の明神は二世皇帝の応跡に非ず哉。其の子孫を守る、神慮何の疑ひか有らむ。何に況んや、叡山の衆徒、殊に国家を護持するは、則ち先蹤也。彼の恵亮脳を摧き、尊意剣を振ひて、是くの如く身命を捨て、聖朝安穏の旨を祈り奉らば、勝利人口に有る者哉。或る詔書命に云はく、「朕は是右丞相の末葉なり。何ぞ覚大師の門跡に背かん」。是れ則ち慈恵大僧正修験▼P2524(四九ウ)の致す所也。早く彼の先規を遂げ、上は百皇無為の由を祈り奉り、下は万民豊饒の計を廻らさるれば、七社権現の威光益盛りに、三塔衆徒の願力弥新たならむか。抑も爰に義仲等、不屑の身を以て二十余ヶ国の〓渭を打ち廻る間、或いは神社仏寺の御願と云ひ、或いは権門勢家の庄薗と云ひ、年貢の運上を遂げず。是れ自然の恐惶、申して余り有り。謝して遁れ難し。側かに聞く、七道諸国より所済の年貢、併しながら兵糧米と号して、平家より之を点じ取る。縦ひ弁済の深志有りと雖も、全く領主の依怙為らざる者か。仍りて、密には路頭の通じ難きことを歎き、顕には平家の兵糧を断たんが為也。努々将門純友の類に処すること莫かれ。神は非礼を稟けたまはざれば、忝く心中の精勤を知見せしめ
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給ふのみ。
宜しく是等の趣を以て、内には三千の衆徒に達し、外には九重の費▼P2525(五〇オ)賎に聞かせらるれば、生前の所望也、一期の懇志也。義仲恐惶謹言。
寿永二年六月十 日源義仲申し文
進上 恵光房律師御房
番の所司に読みあげさせて山門三千の衆徒、木曽が牒状を見て僉議区也。或いは平家の方へよる者も有り。或いは源氏の方へよらむと云ふ者も有り。かかりければ心々の僉議区々也けれども、「所詮我等、専ら金輪聖王天長地久を祈り奉る。平家は当代の御外戚、山門に帰敬を致す。されば今に至るまで彼の繁昌を祈りき。されども頃年より以来、平家の悪行過分の間、四夷乱を起こし万人背くによりて討手を諸国へ遣はすといへども、夷族の為に追ひ落とされて度々帰り上り畢はんぬ。是偏へに▼P2526(五〇ウ)仏神擁護を加へて、運命末に望めるに依りて也。源家は近年度々合戦に打ち勝ちて、管外皆以て帰伏す。機感時至り運命已に開けたり。何ぞ当山独り宿運傾きたる平家に同意して、運命盛りなる源氏を背くべきや。此の条、山王七社・伊王善逝の冥慮測り難き哉。就中、今の牒送の趣、道理半ば無きに非ず。須く平家値遇の思ひを改めて、速やかに源氏合力の思ひに任すべき」旨、一同僉議して返牒を送る。
右、六月十日の御書状、同じき十六日に到来、披閲の処に、数日の鬱念一時に解散す。
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故何者れば、夫源家は古より、武弓に携りて朝廷に〔奉り〕、威勢を振ひて王敵を禦く。爰に平家は、朝章に背きて兵乱を起して、皇威を軽んじて謀反を好む。平家を征伐せられずんば、争でか仏法を保たむ哉。而るに、爰に源家、彼の▼P2527(五一オ)類を制伏せらるる間、本寺の千僧供物を追捕し、末社の神輿を侵し損ずるに依りて、衆徒等深く訴詔を懐きて案内を達せんと欲する処、青島飛び来り、幸ひに芳札を投ぐ。今に於いては永く平家安穏の祈祷を飜して、速やかに源家合力の僉議に随ふべき也。是則ち、朝威の陵遅を歎き、仏法の破滅を悲しむ故也。夫、漢家の貞元の暦に、円宗興隆の前、本朝延暦の天、一乗弘宣の後、桓武天皇平安城を興して親り一代五時の仏法を崇敬し、伝教大師天台山を開きて遠く百皇無為の御願を祈り奉りしより以来、金輪を守り玉体を護ること、偏へに三千の丹心に在り。天変を飜し地天を掃ふこと、唯是一山の効験なり。茲に因りて、代々の賢王皆蘿洞の精誠を仰ぎ、世々の重臣悉く台岳の信心を恃む。所謂一条院の御宇、偏へに慈覚大師の門徒の旨、綸旨の言は明白也。▼P2528(五一ウ)九条の右丞相并びに御堂の入道大相国発願の文に云はく、「黄閤の重臣に居りと雖も、願はくは白衣の弟子と為らむ。子々孫々久しく帝皇々居の基を固め、代々世々に永く大師遺弟の道を伝へむ。同じく賢王無為の徳を施さむ」。加之、永治二年鳥羽法皇参叡山の御願文に云はく、「昔は九五の尊位を践ぎ、今は三千の禅徒に烈ならむ」。てへれば、
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倩ら之を思ふに、感涙抑へ難し。静かに之を案ずるに、随喜尤も深し。星霜四百廻、皇徳三十代、天朝久しく十善の位を保ち、徳化普く四海の民に施さむ。国を守り家を守る道場也。公の為、家の為の聖跡也。本寺の千僧供物を運上し、末社の神輿末寺の庄薗を改め造りて、併しながら旧きが如く安堵せしめらるれば、三千の衆徒、掌を合はせて玉体を東海の光に祈り、一山手を揚げて平家を南山の色に移さむ。凶徒首を傾けて来詣し、怨敵手を束ねて▼P2529(五二オ)降を乞はむ。十乗の床の上には鎮へに五日の風を扇ぎ、三密壇の前には遥かに十旬の雨を灌かむ者、衆徒の僉議に依りて執達件の如し。
寿永二年七月 日大衆等
木曽義仲此の返牒を得て大に悦びて、先より語らふ所の悪僧、白井法橋幸明・慈雲房法橋寛覚・三神阿闍梨源慶等を先として登山す。平家は又、是をも知らずして、「興福・薗城両寺の大衆は鬱憤を含める折節也。大師に祈精し、三千衆徒を語らはむ」とて、一門の卿相十余人、同心連署して願書を書きて山上に送る。其の状に云はく、
十九 〔平家、山門に牒状を送る事〕敬白
▼P2530(五二ウ)延暦寺を以て氏寺に准じて帰依し、日吉の社を以て氏社の如くに尊崇して、一向に天台仏法を仰ぐべき事
右当家一族の輩、殊に祈請すること有り。旨趣何んとならば、叡山は、桓武天皇の御宇、伝教大師
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入唐帰朝の後、円頓の教法を斯の処に弘め、舎那の大戒を其の中に伝へてより以来、専ら仏法繁昌の霊崛と為て、久しく鎮護国家の道場に備ふ。方に今、伊豆国の流人前右兵衛佐源ノ頼朝、身の過を悔いず、還りて朝憲を嘲る。加之、奸謀を企てて同心を致す源氏等、義仲・行家以下、党を結びて数有り。隣境遠境を、数国を抄掠す。年貢土貢、万物を押領す。茲に因りて、且は累代勲功の蹤(跡ィ)を追ひ、且は当時弓馬の芸に任せて、速かに賊徒を追討して凶党を降伏すべき由、苟も勅命を銜みて、▼P2531(五三オ)頻りに征伐を企つ。爰に魚驪〔鶴〕翼の陣、官軍利を得ず。皇旗電戟の威、逆類勝つに乗るに似(に)たり。若し仏神の加被に非ずは、争か叛逆の凶乱を鎮めむ。
是を以て、一向に天台の仏法に帰して、不退に日吉の神恩を恃まむのみ。何に況や、忝く臣等が曩祖を憶へば、本願の余裔と謂ひつべし。弥よ崇重すべし、弥よ恭敬すべし。自今以後は、山門に慶び有らば一門の慶びと為、社家に鬱り有らば一家の鬱りと為む。善きに付き悪しきに付きて、喜びと成し、憂へと成さむ。各の子孫に伝へて永く失墜せじ。藤氏は春日の社興福寺を以て氏社氏寺と為て、久しく法相大乗の宗に帰依するが如く、平家は又、日吉社延暦寺を以て氏社氏寺と為て、新たに円実頓悟の教へに値過せん。彼は昔の遺跡也、家の為に栄華を思ふ。是は今の請祈也、君の為に追罰を祈る。
仰ぎ願はくは山王七社、王子眷属、
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東西満山の護法聖▼P2532(五三ウ)衆、十二大願、伊王善逝、日光月光、十二神将、無二の丹誠を照らして、唯一の玄応を垂れたまへ。然れば則ち邪謀逆心の賊、速かに手を軍門に束ね、暴虐残害の徒ら、早く首を京都に伝へよ。我等が苦請を慰めよ。仏神豈捨諸。仍りて当家の公卿等、異口同音に礼を作して、請祈すること件の如し。敬白。
寿永二年七月 日 従三位行右近衛権中将平朝臣資盛
従三位平朝臣通盛
従三位行右近衛権中将兼丹波権守平朝臣維盛
正三位右近衛権中将兼但馬守平朝▼P2533(五四オ)臣重衡
正三位行右衛門督平朝臣清宗
参議正三位行太皇太后官大夫兼修理(征夷大将軍ィ)大夫備前権守平朝臣経盛
従二位行権中納言兼左兵衛督平朝臣知盛
従二位行権中納言平朝臣教盛
正二位行権大納言兼陸奥出羽按察使平朝臣頼盛
前内大臣従一位平朝臣宗盛
近江国佐々木の庄の領家預所得分等を、且は朝家安穏の為、且は入道の菩提を資けんが為に、▼P2534(五四ウ)併ら千僧供料に廻向する所に候ふ也。件の庄、早く寺家の御沙汰と為て
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知行せしめ給ふべく候ふ。恐々謹言
七月十日 平宗盛
謹上 座主僧正御房へとぞ書きたりける。
大衆を語らひし事は、「桓武天皇の御宇、延暦四年七月に、伝教大師当山に登り給ひき。鎮護国家の道場を開き、一乗円宗の教文を弘め給ひしより以来、仏法盛りにして王法を守り奉る事、年久し。而るを東国北国の凶徒等、此の二三年が間、多くの道々を打ち塞ぎ、国には正税官物を奉らず、庄には年貢所当を抑し留め、綸言に随はず、剰へ都へせめ登らんとす。防戦にすでに尽きぬ。神明の御助けに非ずは、争でか悪党を退けむ。仍りて山王大師▼P2535(五五オ)哀れみをたれ給へ」。
是を聞く人々、親しきも疎きも、心有るも心無きも、涙を流さぬはなかりけれども、年来日来の振舞、神慮にも叶はず、人望にも背きはてしかば、力及ばず。「既に源氏同心の返牒を送り、かろがろしく今又其の議を改むるにあたはず」。「誠にさこそは」とて、事の体をばあはれみけれども、許容する衆徒もなかりき。其の中に恵光房律師、「抑も此の願書の趣、神慮なほもてはかりがたし。願はくは権現、其の瑞相を示し給ふべし」とて、山王の御宝前に捧げて三日参籠したりけるに、願書の表紙に一首の哥現じたり。不思議にてぞ侍りける。
たへらかに花さくやども年ふればかたぶくつきとなるぞはかなき
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「此の上は」とて、大衆みな衣の袖をしぼりつつ、平家を祈る人もなし。げにも人にすぐれて栄花を開きたりしかども、ほどなくかたぶく月になりにけり。▼P2536(五五ウ)かかりければ、人の口のにくさは、「あは、面白き事見てむず。源氏は勢もおほく、手もきき、心もたけかんなれば、一定源氏勝ちて平家負けなむず」とて、己が得付き、官の成らむずる様に、面々にささやき悦びけるぞをかしき。
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二十 〔肥後守貞能西国鎮めて京上する事〕 十八日、肥後守貞能、鎮西より上洛す。西国の輩謀反の由聞こえければ、それを鎮めむとて去々年下りたりけるに、菊地、城廓を構へて立て籠もる間、たやすく責め落としがたくしてありけるに、貞能九国の軍兵を催して是を責む。官兵多く打ち落とされて、責め戦ふに力なし。只城を打ちかこみて守る。日数積りければ、城の中、兵糧もつきて、菊地遂に降人になりにけり。貞能九国に兵糧米を宛て催す。庁官一人、西府の使一人、貞能が使一人、其の従類八十余人、権門勢家の庄薗を云はず、責め催す。人民の歎き▼P2537(五六オ)なのめならず。其の積り、十万余石に及べりと聞こえけり。
貞能は、菊地・原田が党類帰伏の間、彼等を相具して今日入洛す。未の剋計りに、八条を東へ、川原を北へ、六波羅の宿所へ着きにけり。其の勢僅かに九百余騎、千騎に足らざりけり。前内大臣宗盛、車を七条が末に立てて見給へり。鎧着る者二百余騎、其の中に前薩摩守親頼、薄青の生衣の御綾の直垂に、赤威の鎧きて、白葦毛なる馬に乗りて、貞能が屋模口に
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打ちたりけり。頭刑部卿憲方が孫、相模守頼憲が子也。勧修寺の嫡子也。させる武勇の家に非ず。「こはいかなる事ぞや」とて、見る人ことにあさみあへり。今日は武士には目もかけず、此の人をぞ見ける。西国は平らげたれども、東国は弥よ勢付て既に都へ打上と聞こえければ、平家は次第に心よはくなりて、▼P2538(五六ウ)防き支ふる力も尽きて、都に跡を留めがたければ、内をも院をも引き具しまゐらせて、一まどなりともたすかりやすると、西国の方へ落ち行き給ふべきに成りにけり。
七月十三日の暁より、なにと云ふ事は聞きわかず、世の中さわぎあへり。魂をけす事なのめならず。大方、「帝都名利の地なれば、鶏鳴きて安き思ひ無し」と云へり。治まれる世だにもなほ此くの如し。いはむや、乱々たる時は理り也。吉野山の奥までも、一天四海の乱れなれば、深き山、遠き国も穏やかならず。「三界無安、猶如火宅、衆苦充満、甚可怖畏」と説き給へば、如来の実語一乗の妙文、なじかは違ふべき。されば、心有る人、「何にもして、今度生死を離れて極楽浄土に生まるべき」とぞ歎きあへりける。
此の暁騒ぎける事は、近江源氏筑前守重貞、近江国八嶋の所領に在りけるに、源氏、近江国に打ち▼P2539(五七オ)入りて在々所々を焼き払ひければ、乗替計り相具して、勢田を廻りて、夜半計りに六波らにはせ登りて、「北国の源氏、すでに近江国へ打ち入りぬ。道々を塞ぎて人を通はさざる」よし申しければ、六波羅・京中さわぎあへり。「重貞、同じ源氏にて、源氏の打ち入るをば喜び
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こそすべきに、いかに平家に追従するやらむ」と人申しければ、「いはれたり。去んじ保元の乱に、鎮西八郎軍に負けて近江国石山寺に居たりけるを搦めて平家に奉りたりける勧賞に、左衛門尉に成りて、平家に諛ひける間、一門に擯出せられたりける故に、源氏にうたれなむずと思ひて、かく振舞ふなり」とぞ人申しける。
かかりければ、新三位中将資盛卿大将軍として、貞能已下、田原北へ向かはむとて、宇治を廻りて近江国へ下向、其夜は▼P2540(五七ウ)宇治に留まる。其の勢二千余騎。又、新中納言知盛卿、本三位中将重衡卿なむど大将にて、勢多より近江国へ下向、其も今夕は山科に宿す。其の勢三千余騎。
さるほどに、源氏、山の大衆と同心して有りしかば、宇治・勢田をば廻らずして、山田・矢馳・堅田・木浜・三津・川尻、所々の渡りに舟をまうけて、湖の東の浦より西浦へおし渡りき。十日、林六郎光明を大将軍として、五百余騎、天台山へきおひ上りて、惣持院を城廓とす。三塔の大衆皆同心して、「只今大嶽を下りて平家を打たむとす」と詈る。凡そ東坂本には源氏の軍兵充満せり。此の上は、新三位中将も宇治より京へ帰り入り、新中納言、本三位中将も、山科より都へ帰り入りぬ。又、東は十郎蔵人行家、伊賀国を廻りて大和国▼P2541(五八オ)奈良法師共にいづ〔み〕の木津に着きぬと聞こゆ。西は足利判官代義清、丹波国に打ち越えて大江山を打ち塞ぐと聞こゆ。南は多田蔵人行綱已下、摂津・河内のあぶれ源氏ども、
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川尻・渡辺を打ち塞ぐと詈りければ、平家の人々、色を失ひてさわぎあへり。
廿一 〔惟盛の北の方の事〕 三位中将惟盛、北方に宣ひけるは、「我が身は人々に相具して都を出づべきにて有るを、何ならむ野の末、山の末へも相具し奉るべきにてこそあれども、少き者共有り。何くに落ち付くべしとも覚えず。源氏ども、道を切りて打ち落とさむとすれば、おだしからむ事もかたし。世になき者と聞きなし給ふとも、あなかしこ、さまなむどやつし給ふなり いかならむ人にもみえ給ひて、少き者どもをもはぐくみ、我が身の後世をも助け給へ。さりとも、などか『あはれ、いとほし』と▼P2542(五八ウ)云ふ人もなかるべき」と宣へば、北方、是を聞き給ひて、袖を顔に押しあてて、ものも宣はず。良久しく有りて宣ひけるは、「年来日来は、志しあさからぬやうにもてなし給ひつれば、我もさこそたのみ奉りつるに、いつより替りける心ぞやと思ふこそ口惜しけれ。前生に契りありければ、我ひとりこそ哀れと思ひ給ふとも、人毎になさけをかくべきにあらず。又人にみえ候ふべしとも思はず。少き者共も、打ち捨てられ奉りては、いかにしてかはあかしくらすべき。誰はぐくみ、誰あはれむべしとて、かやうに留め給ふぞ」とて、涙もかきあへず泣き給へば、三位中将又宣ひけるは、「惟盛は十六、其には十四と申しし年より見そめ奉りて、今年十年になるとこそおぼゆれ。誠にさきの世のちぎりや有りけむ、今までは志あさからずこそ思ひ奉りつれ。▼P2543(五九オ)火の中へ入り、水の底にしづむとも、又限りある別れの道をも、おくれ先立たじとこそ思ひつれども、かかる世に
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なりにければ、せめてのいたはしさの余りにこそ、かくも申せ。かやうに恨み給ふこそ、うちすてて立ち離れ奉らむずる歎きに打ちそへて、弥よ心苦しけれ」とて、泣き給へば、若君姫君の左右におはするも、女房共の前に並み居たるも、此を聞きては音もをしまず泣きあへり。げにことわりと覚えてあはれ也。
此の北の方と申すは、故中御門の新大納言成親卿の御娘なり。容顔世にこえて、心の優なる事も、世のつねには有り難かりければ、なべての人にみせむ事いたはしく思はれて、「女御・后にも」とぞ父母思ひ給ひける。かく聞こえければ、これを聞く人、「あはれ」と思はぬはなかりけり。法皇、此の由聞こし召して、御色にそめる御心にて、忍びて▼P2544(五九ウ)御書有りけれども、是も由なしとて、御返事も申させ給はず。
雲井より吹きくる風のはげしくて涙の露のおちまさるかな
と、口すさび給ひけるこそやさしけれ。父成親卿、法皇の御幸の有る由聞き給ひて、あわて悦び給へども、姫君聞き入れ給はねば、「親の為不孝の人にておはしけるを、今まで父子の義を思ひけるこそくやしけれ。今日より後は父子の契り離れ奉りぬ。彼の方へ人行き通ふべからず」と宣ひければ、上下おそれ奉りて、通ふ人もなし。乳母子に、兵衛佐と申しける女房一人ぞ、わづかにゆるされて通ひける。是に付けても、姫君世の憂き事をぞ、御もとゆひにてすさび給ひける。
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むすびつる情もふかきもとゐにはちぎる心はほどけもやせむ
▼P2545(六〇オ)と書きすさみて、引き結びて捨て給へり。兵衛佐是を見て後にこそ、思ひ有る人とは知りにけれ。「色に出でぬる心の中を争かしるべき」と、やうやうに諌め申されけるは、「女の御身と成らせ給ひては、かやうの御幸をこそ神にも祈り仏にも申してあらまほしき御事にて候へ」と申しければ、姫君御涙をおさへて、「我身につきせぬ思ひの罪深ければ、なにごともよしなきぞとよ」とて、引きかづきて臥し給ひぬ。兵衛佐又申しけるは、「少くより立ち去る方もなくこそ、なれ宮仕へ奉りつるに、かく御心をおかせ給ひけるこそ心うけれ」と、さまざまによもすがらうらみ奉りければ、姫君理にまけて、「ありし殿上淵酔に見初めたりし人の、ひたそら穂にあらはれて云ひし事を聞かざりしかば、此の世ならぬ心の中をしらせたりしかば。いかばかり、▼P2546(六〇ウ)かくと聞かば歎かむずらむと思ひてぞよ」と宣へば、「小松殿こそ申させ給ふとききしか。さては其の御事にや」とて、兵衛佐小松殿へ参りて、しかしかの御事なむ申しければ、三位中将「さる事有りき」とて、忍びて怱ぎ御車を遣はして、迎へ奉りてけり。さて、年比にも成り給ひにければ、若君・姫君まうけ給ひたりける御中なり。若君は十、姫君は八にぞ成り給ひにける。「我をば貞能が五代と付けたりしかば、是をば六代と云はむ」とて、若君をば六代御前とぞ申しける。姫君をば夜叉御前とぞ聞こえし。
二十四日亥の時計りに、忍びて六はらへ行幸なる。例よりも人ずくなにて、事いそがしく、
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人々周章たり。ある北面の下臈法住寺殿へ馳せ参りて、ひそかに法皇に申しけるは、「小山田別当有重とて相親しく候ふ者、是の二三年平家に番勤めて〔候ひ〕▼P2547(六一オ)つるは、『平家の殿原、暁西国へ落ちられ候ふべしとて、もつてのほかにひしめかれ候ひけるが、「具し奉らむとて、既に公家をも迎へ取りまゐらせよ。法皇は程近くわたらせ給へば安し。きと渡しまゐらせよ」とて、人少々まゐり候ひぬ』とたしかに申し候ふぞ。内々其の御心得渡らせ給ふべし」と申しければ、法皇御心よげなる御気色にて、「うれしく告げ申したり。此の事又人にかたるべからず。御計らひあるべし」と仰せの有りけるを、承りもはてず、怱ぎ御所をば罷り出でにけり。
廿二 〔大臣殿女院の御所へ参らるる事〕 其のさよふくる程に、内大臣はうすぬりの烏帽子に、白帷に大口計りにて、ひそかに建礼門院へ参り給ひて申し給ひけるは、「さりともとこそ存じ候ひつれども、此の世の中、今は叶ふまじきにてこそ候ひぬれ。『都にて最後の合戦して、いかにも成らむ』と申さるる人々も候へども、其も然るべしとも覚え候はず。▼P2548(六一ウ)叶はざらむまでも、西国の方へ趣て見候はばやと思ひ給へ候ふ。主上・宮々を具しまゐらせ候はむずれば、さりとも鎮西の輩よも背き候はじ。源氏いみじく都へ入りて候ふとも、誰をか憑み候ふべき。只天に仰ぎて、主なき犬のやうにこそ候はむずれ。与力の奴原も一定心々に成り候ひなむず。其の後は只昔の如くの源氏にてこそ候はむずれば、其の後主上を都へ返し入れまゐらせ候ふべきよし存じ候」と申されければ、女院御涙を流させ給ひて、「あらあさましのあへなさや。ともかくもよきやうにこそ
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はからはめ」と仰せ有りて、御涙にぞむせばせ給ひける。内府又申されけるは、「主上若しの事もこそわたらせ給へ。儲けの君の為に宮をも具しまゐらすべく候ふ。やがて法皇をも具しまゐらせ候ふべし。院内をだにも方人に取りまゐらせ候ひなば、いづくへまかりたり▼P2549(六二オ)とも、世の中はせばかるまじ。源氏の奴原いかに狂ひ候ふとも、誰の方人にてか世を執り候ふべき」なむど、こしかた行末の事共細かに申し給ひけるほどに、夜もあけがたに成りにけり。
廿三 〔法皇忍びて鞍馬へ御幸の事〕 同じき夜半のすぎさまに、法皇ひそかに殿上に出でさせおはしまして、「今夜の番はたそ」と御たづね有り。「左馬頭資時」と申されたりければ、「北面に祗候したらむ者、皆召してまゐらせよ」と御定有り。藤判官信盛・源内左衛門定康等が候ひけるを、資時召してまゐらせたりければ、「や、おのれら。只今きと忍びてあるかばやと思ふぞ。かやうの事の下臈に聞かせつれば、披露する事も有り。各心を一つにして、此の女房輿仕れ」と、法皇仰せの有りければ、「御前を立ちさつてはあしき事もこそ有れ」と思ひて、各畏まりて、やがて御輿を仕る。▼P2550(六二ウ)した簾かけられたり。「西の小門へ」と仰せの有りて、出でさせおはします。
浄衣着たる男一人参りあふ。「是はたそ」と問ひければ、「為末」と名乗る。法皇聞こし召し知らせ給ひて、「やがて御共仕れ」と仰せ有りければ、参りにけり。年来伊勢の氏人為末とて、北面に候ひけるなり。「七条京極を北へ。いそげやいそげや」と仰せありければ、各あせをかきて仕る。為末は、「近き御幸と思ひたれば、遠き所にて有りけるよ」とて、
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知りたる人をたづぬるに、二所まで空し。二条京極にて、白羽なる征矢に黒塗の弓借り得て、浄衣をば高くはさみて走る。是をまたむとやおぼしめされけん、「いそがずとも。くるしき事もこそあれ」と仰せ有り。一条京極にて弓のつるうちす。其の音いかめしく聞こゆ。忠須の明神のふしをがみて、東白むほどに成りにけり。法皇御後ろを御覧ずれば、為末が▼P2551(六三オ)征矢おひながらわきごしにまゐるを、「憑もしき武者かな」と仰せ有りて、わらはせ給ひけり。かくてよのほのぼのとしけるほどに、鞍馬寺へぞ入らせ給ひにける。
廿五日、橘内左衛門秀康と申しける平家の侍は、院にも近く召し仕はれければ、をりふし上臥したりけるが、忍びて人々に合ふべき事有りて、あからさまに宿所に出でたり。なにとなく目のあはざりけるままに、暁方に又返り参りたりければ、常の御所の方に騒ぎささやいて、女房の声にて忍びてうちなきなむどしければ、「あやし」と思ひて聞き居たりければ、「御所のわたらせ給はぬはいづちへやらむ」とてさわぎあへり。秀康、「あさまし」と思ひて、いそぎ六波羅へ馳せ行きたりけるに、大臣殿、いまだ女院の御方より出で給はぬ程なり。やがて女院の▼P2552(六三ウ)御方へ参りて、「かく」と申しければ、大臣殿周章騒ぎ給ひて、ふるひごゑにて、「よもさる事あらじ。僻事にてぞあるらむ」と宣ひながら、怱ぎ法住寺殿へ馳せ参り給ひて尋ね進らせければ、夜昼近く候ふ人々は大旨皆候はれけり。女房達も、丹波局を始めとして、一人もはたらき給はず。大臣殿、「君はいづくにわたらせ給ふぞ」と申されけれども、
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「われこそ知りまゐらせたり」と云ふ人もなし。只各泣きあへり。あさましなむどもおろかなり。
さるほどに夜もあけぬ。「法皇渡らせ給はぬ」と云ふ披露有りければ、上下の諸人はせ参りて、御所中迷ひさわぐ事なのめならず。まして平家の人々は、「家に敵の打ち入りたらむも、事限り有れば、是にはすぎじ」とぞさわぎあひ給ひける。軍兵洛中に充満して有りければ、平家の▼P2553(六四オ)一門ならぬ人々もさわぎ迷はぬはなかりけり。
廿四 〔平家都落つる事〕 日来は法皇の御幸をもなし奉らむと、支度せられたりけれども、わたらせ給はねば、たのむ木の本に雨のたまらぬ心地して、さりとては行幸あるべしとて、主上をすすめ奉りて、鳳輦にたてまつりていでさせ給ふ。未だいとけなき御よはひなれば、何心もなく奉りぬ。神璽・宝剣取り具して、建礼門院同じ輿にたてまつる。内侍所も渡し奉りぬ。「印鎰・時の簡・玄上・鈴鹿に至るまで取り具すべし」と平大納言時忠卿下知せられけれども、人皆周章にければ、取り落とす物多かりけり。昼の御座の御剣も残し留めてけり。御輿出ださせ給ひにければ、前後に候ふ人は、平大納言時忠内蔵頭計りぞ、衣冠ただしくして供奉せられける。▼P2554(六四ウ)其の外の人々は、公卿も近衛司もみつなの佐も、皆鎧を着し給へり。女房は、二位殿をはじめ奉りて、女房輿十二張、馬の上〔の〕女房は数を知らず。七条を西へ、朱雀を南へぞ行幸成りける。「遷都とて俄かにあわたたしく福原へ行幸成りしは、かかる事の有らむずる先表なりけり」 と、今こそ思し食しあはせらるれ。かかるさわぎの中に、何なる者か立てたりけむ、
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六波羅の惣門の前に立札有り。
あづまよりとものおほかぜふきくれば西へかたぶく平屋とぞみる
六波羅の旧館、西八条の蓬屋より始めて、池殿・小松殿已下、人々の宿所三十余所、一度に火を懸けてければ、余炎数十丁に及びて、日の光も見えざりけり。或いは陛下誕生の霊跡、龍楼幼持の青宮、博陸▼P2555(六五オ)輔佐の居所、或いは相府丞相の旧室、三台槐門の故亭、九棘鴛鸞の栖なり。門前繁昌、堂上栄花の砌り、夢の如し、幻の如し。強呉滅びて荊蕀有り、姑蘇台の露壌々たり。暴秦衰へて虎狼無し。咸陽宮の煙片々たりけむ。漢家の三十六宮、楚の項羽のために滅ぼされけむも、是にはすぎじとぞ見へし。無常は春の花、風に随ひて散る。有涯は暮の月、雲に伴ひて隠る。誰か栄花の春の夢の如きことを見て驚かざることを。憶ふべし、命葉の朝の露と与にして零易きことを。蜉蝣の風に戯るる、〓逝の楽しみ幾許ぞ。螻蛄の露を噬む、合殺の声韻を伝ふ。崑〓[門+良]の十二楼の上、仙陬終に空しく、雉蝶一万里の中、洛城固ず。多年の経営、一時に魔滅しぬ。
平相国禅門をば、八条太政大臣と申しき。八条よりは北、坊城よりは西に、方一丁に亭有りし故なり。彼の家は、▼P2556(六五ウ)入道失せられにし夜、焼けにき。大小棟の数五十余に及べり。六波羅殿とて詈る所は、故刑部卿忠盛世に出でし吉き所なり。南門は六条が末、賀茂川一丁を隔つ。元方〔一〕町なりしを、此の相国の時四丁に造作あり。是も屋数百二十余宇に及べり。是のみなら
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ず、北の倉町より初めて、専ら大道を隔てて、辰巳の角の小松殿に至るまで、廿余町に及ぶまで、造営したりし一族親類の殿原、及び郎従眷属の住所に至るまで、細かに是を算ふれば、屋数三千二百余宇、一宇の煙と登りし事、おびたたしなむど云ふはかりなし。
法性寺の院内計りしばし焼けざりければ、仏の御力にて残るかと思ひしほどに、筑後守家貞が奉行にて、故刑部卿忠盛・入道大相国・小松内府已下の墓所共を掘り集めて、彼の堂の正面の間にならべ置きて、仏と共に焼き上げて、骨をば▼P2557(六六オ)頸に懸けて、あたりの土をば川に流して、家貞主従落ちにけり。此の寺は、故大相国、父の孝養の為、多年の間造営して、代々の本尊、木像と云ひ、画像と云ひ、烏瑟をならべ、金容をまじへておはしましつ。荘厳美麗にして、時に取りて並びなし。今夕暁まで、住僧貝を吹き、禅侶磬をならして、貴かりつる有様、須臾の間に長く絶えぬ。されば仏の説き置き給へる畢竟空の理は、即ち是ぞかしと、哀れなりし諸行無常の理かな。
廿五 〔惟盛妻子と余波を惜しむ事〕 権亮三位中将の方への人、参じて申しけるは、「源氏已に都へ打ち入り候ふ。暁より法皇もわたらせ給はずとて、六波羅殿には上下周章騒ぎて、西国へ行幸ならせ給ひ候ふ。大臣殿已下の殿原、我も我もと打立ち給ふに、いかに今までかくてはわたらせ給ふぞ」と申しければ、三位中将は日来思儲けたりつる▼P2558(六六ウ)事なれども、指し当りては「あな心憂や」とおぼして、出で立ち給ふ。「つかのまも離れがたき少き人々を、憑もしき人一人もなき
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に、打ち捨てて出でなむずる事こそかなしけれ」とおぼすに、涙先立ちてせきあへ給はず。北の方もおくれじと出で立ち給ひけれども、「さきにも申しし様に、具し奉りては、人の為、いとほしきぞ。只留まり給ひ候へ」。「いかにかくは宣ふぞ」と涙を流し給へば、様々に誘へ置き給ふほどに、程も経れば、「大臣殿、さらぬだに惟盛をば二心ある者と宣ふなるに、今まで打ち出でねば、いとどさこそ思ひ給ふらめ」とて、なくなく出で給へば、北の方袖をひかへて宣ひけるは、「父もなし、母もなし。都に残り留まりては、いかにせよとて、ふりすてて出で給ふぞ。野の末、山の末までも引き具してこそ、ともかくもみなし給はめ」とて、人目もつつまず泣き悶え給ふを、見すてがたく心苦しくて、「さ▼P2559(六七オ)りとては、いづくにも落ち付かむ所より怱ぎ迎へ取らむずるぞ」と、なぐさめ給ふほどに、新三位中将左中将已下の弟達四五人馳せ来たり給ひて、「行幸は遥かにのびさせ給ひぬ。何なる御遅参にや」と宣へば、弓の筈にて御簾をかきあげて、「是御覧ぜよ殿原」と宣ふ。見給へば、北の方とおぼしくて、うつくしげなる女房の、鎧の押付けの板に顔をあてて、人の見るをもはばからず、恥をもかへりみず、声をもをしまず泣き給ひたり。八つに成り給ふ姫君、十に成り給ふ若君は、鎧の左右の袖に取り付きて、おくれじと、声をととのへて、をめきさけび給ひけり。三位中将宣ひけるは、「軍の前をこそ何にもかけめ。此程のをさなき者共のしたひ候ふを、情なく打ち捨てかねて候ふなり」とて、はらはらと泣き給へば、弟の殿原も皆袂をしぼりて、馬の
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頭を門へむけてぞひか▼P2560(六七ウ)へたる。かくてあるべきならねば、北の方に宣ひけるは、「いづくの浦にも、落ち付きたらむ所より怱ぎむかへ取り奉らむずる事なれば、昔の契をわすれずして、かはらぬ心にて待ち給へ」とて、引きちぎりて立ち給へば、北方は、「年来日来は是れ程情なかるべしとこそ思ひよらざりしか」とて、恥をもかへりみず、すだれの際にまろびふして、声を惜しまずをめき給ふ。若君姫君二人の公達は、縁より下にころびおち、何にもおくれじとしたひて、声をととのへてをめき給ひけり。
斎藤五宗貞、斎藤六宗光とて、長井の斎藤別当実守が子共なり。三位中将の御馬の左右のみづつきに取り付きて、「何くの浦へも御共せむ」と申しければ、三位の中将、「まことに申す様に、汝等をば何くの浦へも相具して、いかならむ有様をも見はてよかしと思へども、見る▼P2561(六八オ)様に、いとけなき少き者共を留め置くが、おぼつかなきぞ。汝等をはなちては心やすき者もなければ、とどまりて少き者共が杖柱ともなれよ」と宣へば、二人の侍申しけるは、「年来日来、御哀れを蒙りて罷り過ぎ候ひしかば、もしの事の候はむ時には、二つなき命を君に進らせ、先にも立ち奉り、死出の山の御共をこそせんと思ひ候ひつるに、とまるべき者と見えられ進らせ候ひつらむ事こそ、口惜しくおぼえ候へ。罷り留り候ひて後、傍輩に面あはすべしとこそおぼえ候はね。何くの浦にも落ち付き給はむ所を見置き進らせてこそは」と申しければ、三位中将重ねて宣ひけるは、「少き者共を留め置くがおぼつかなきぞ。
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誰はぐくみ、誰哀れみすらむと思ふらむとて、打ちすてておくが悲しさに、多くの者の有る中に、汝等が志の有りがたければ、我身をわくるが如くに思ひて、少き者共の伽ともなれと▼P2562(六八ウ)思ひてこそ云ふに、かやうにしたふこそ口惜しけれ」とうらみ給へば、「げにも又、此の御志を破りて、進みて参らむ事も恐れあり」とて、涙をおさへてとどまりぬ。はるかにみおくり奉り、走り付きても参りたく思ひけれども、そもかなはず。二人の侍、声をととのへてをめきさけぶ。中将かく心づよくふりすてては出で給ひたれども、猶前へはすすまず、後ろへのみ引き返す様に、涙にくれて行く先も見え給はず。鎧の袖もしほれければ、弟達の見給ふもさすがつつましくおぼさる。北方は、「年来有りつれども、是ほど情なかるべき人とこそしらざりつれ」とて、ひきかづきて臥し給へば、若君も前に臥しまろびて泣き給ふ。かく打ち捨てられ給ひぬれば、「いかにして片時もあかしくらすべし」ともおぼさず。よのおそろしさも堪へ忍び給ふべき心地も▼P2563(六九オ)し給はず。身一つならばせめてはいかがせむ、少き人々の事をおぼすぞ、弥よ道せばく心うくおぼしける。
廿六 {頼盛道より返し給ふ事〕 頼盛は、仲盛・光盛等引き具して、侍共皆落ち散りて、纔かに其の勢百騎ばかりぞ有りける。鳥羽の南赤井川原に暫くやすらひて、下り居て、大納言よそを見まはして宣ひけるは、「行幸にはおくれぬ、敵は後ろに有り。中空になる心地のするはいかに、殿原。此の度はなどやらむ、物うきぞとよ。只是より京へ帰らむと思ふなり。都て弓矢取る身のうらやましくも無き
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ぞ。されば、故入道にも随ふ様にて随はざりき。左右無く池殿を焼きつるこそくやしけれ。いざさらば、京の方へ。鎧をば用意の為に各きるべし。返す返すも人は世に有らばとて、おごるまじかりける事かな。入道の末、今ばかりにこそあむなれ。いかにもいかにも▼P2564(六九ウ)はかばかしかるまじ。都を迷ひ出でて、いづくをはかりともなく、女房達をさへ引き具して旅立ちぬる心うさよ。いかばかりの事思ひあはるらむ。侍共、皆赤じるし取り捨てよ」と宣ひければ、とかくするほどに未の時ばかりにもなりにけり。「京には、今は源氏打ち入りぬらむ。いづちへか入らせ給ふべき」と侍共申しければ、「いかさまにも京をはなれては、いづちへか行くべき。とくとく」とて、大納言さきに打ちて、馬をはやめて返り給ふ。見る者あやしくぞ思ひける。
九条より朱雀を上りに、八条の女院の御所、仁和寺常磐殿へ参り給ふ。大納言は女院の御乳母子、宰相殿と申す女房に相具せられたりければ、此の御所へ参らるるも理なり。女院より始め奉りて、女房達、侍共、「いかに夢かや」と仰せ有り。大盤廊に鎧ぬぎおきて、鎧直垂ばかりにて、御前近く▼P2565(七〇オ)参り給ひて申されけるは、「世の中の有様、只夢にて候ふなり。池殿に火かけて、心ならず打ち出で候つれども、倩ら案じ候へば、『都に留りて君の見参にも入り、出家入道をも仕りて閑かに候ひて、後生をも助からむ』と存じて、かくなむ参りて候ふなり」と申されければ、女院、三位局を御使にて、「誠に、それもさる事なれども、源氏已に京に入りて、平家を滅ぼすべしと聞こゆ。さらむに取りては、此の内にてはかなひ
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なむや」と仰せ有りければ、頼盛畏りて、「まことにさやうの事にも成り候はば、怱ぎ御所を罷り出で候はむずれば、なじかは御大事に及び候ふべき」と申されければ、女院又、「いかにもよくよく相はからはるべし。但し源氏と詈るは伊豆兵衛佐頼朝ぞかし。それはのぼらぬやらむ。上りたらば、さりとも別の事よもあらじ。かしこくぞ故入道と一心にて▼P2566(七〇ウ)おはせざりける。今は人目もよし。平家のなごりとて世におわしなむず」と仰せ有りければ、頼盛、「世にありと申し候はば、定めて今は何事かは候ふべき。只今落人にてあちこちさまよはむ事の悲しさにこそ、かやうに参りて候へ。仰せの如く、頼朝が方より度々文をたびて候ひしに、故母の池の尼が事を申し出だして、『其の形見と頼盛をば思ふぞ。世に有らむと思ふもその為なり』と毎度に申して候ひしなり。其の文これに持ちて候ふ」とて、中間男
の頸に懸けさせたりける革の文袋より取り出して、見参に入る。同じ手もあり、かはりたる筆もあり。判はいづれもかはらずと御覧あり。されば討手の使の上りしにも、「あな賢、池殿の殿原に向ひて弓をも引くべからず。弥平左衛門宗清に手かくな」と国々の軍兵▼P2567(七一オ)にも、兵衛佐警められけるとかや。
越中次郎兵衛盛次、大臣殿の御前に進み出でて申けるは、「池殿は御留まり候ふにこそ。哀れ、口惜しく覚え候者哉。上にこそ恐れ奉り候へ、侍共の参り候はぬこそ安からず存じ候へ。一矢射懸けて帰り参り候はむ」と申しければ、「中々さなくても有りなむ。年来の重恩をわすれ
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て、いづくにも落ち着かむずる所を見おかずして留まるほどの仁は、源氏とても心ゆるしせじ。さほどの奴原は、ありとてもなにかはせむ。とかく云ふに及ばず」とぞ、大臣殿宣ひける。
抑も頼盛のとどまり給ふ志を尋ぬれば、彼の大納言は忠盛の次男なり。太政入道の弟にておはしましければ、内大臣の為には叔父にて、世にも重くすべき人なりけり。又落ち留まるべき人にもおはせざりけれども、頼盛の母池尼▼P2568(七一ウ)御前は忠盛の最後の御前にて、最後までもぐせられたりけり。平家嫡々相伝して抜丸と云ふ太刀あり。秘蔵の太刀なりけるを、「頼盛にとらせばや」と北方頻りに申されければ、大納言此の太刀を相伝せられけるを、大政入道も心得ず思はれけり。
彼の太刀は、忠盛の父正盛朝臣、夏の事にて有りけるに、此の太刀を枕にたてて昼寝したりけるに、余所にて人の見ければ、小さきとかげの尾の青かりけるが、さらさらと匍ひて、正盛のねたりける方へ向きて匍ひけるほどに、枕に立てたる太刀、人もぬかぬになからばかり、さらと抜けたりけるを見て、此の毒虫恐れたる気色にて、やがて帰りにけり。さて不思議の思ひをなして、正盛がねたりけるを起こして、「しかじか」と云ひければ、誠に太刀▼P2569(七二オ)なからばかり抜けかかりたりけり。不思議なりける事なり。其よりしてぞ此の太刀をば抜丸と名付けて秘蔵せられける。内大臣、此の太刀を所望し給ひけれども、頼盛思はれけるは、「名高き太刀なるを、有りがたくして伝へたる
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上、平治の合戦の時、悪源太義平が郎従、鎌田兵衛正晴が熊手にかけられて、すでに打たれぬべかりしに、此の太刀をもちたりしかばこそ、熊手のくさりを後ろ様にやすくきりおとして、命をたすかるのみにあらず、名を後代にものこししか。此の太刀なかりせば、今までながらへむ事かなふまじ。其の上、大臣殿は嫡々の跡を継ぎて、此の外の当家相伝の物具と云ひ、財宝と云ひ、其の数多く伝へて持ち給へり。頼盛は▼P2570(七二ウ)庶子なるによって、余の重宝等一つも相伝せずして、僅かに此の太刀一つばかりなり」と宣ひて、再三所望有りけれども、遂に奉らずして持ち給ひたりければ、内々、叔父甥の中、心よからずとぞ聞こえし。其の上、打ち出でける門出に、鳩かきたる扇のなかばなるを童のもち来りて、大納言に奉りけるを、右の手に請け取りて、其の童を「何なる人ぞ」と問ひ給ひければ、まぼろしの如くして、かきけつ様に失せにけり。不思議の事かなと思ひ給ひて、彼の扇を開きて見給ひければ、扇も実の扇にはあらずして、白き鳩の羽にてぞ侍りける。心の内に思ひ給ひけるは、「鳩の羽にて造りたる扇、凡夫の境界の態にあらず。偏に是、八幡大菩薩の御示現の扇なるべし。倩ら此の事を案ずるに、頼朝世を打ち取りて、一天を心に▼P2571(七三オ)任せむとて、頼盛を恩賞すべき瑞相にてぞ有るらむ」と思ひ給ひて、俄に思ひ留まり給ひけるとぞ聞こえし。
さるほどに、大臣殿、盛次を召して、「権亮三位中将殿は何に」と問ひ給ひければ、「小松殿の公達も、未だ一所も見えさせ給はず」と申しければ、「さこそ有らむずらめ」とて、よに
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心細げにおぼして、御涙の落ちけるを押しのごひ給ふを、人々見給ひて、鎧の袖をぞぬらされける。新中納言宣ひけるは、「是、日来、皆思儲けたりし事なり。今更驚くべきにあらず。都を出でて未だ一日をだにもすぎぬに、人の心も皆替はりぬ。行末とてもさこそ有らむずらめ。我身一つの事ならねば、すみなれし旧里を出でぬる心うさよとおしはかられ、只都にていかにもなるべかりつる者を」とて、大臣殿の方をつらげに▼P2572(七三ウ)見やり給ひけるこそ、げにと覚えてあはれなれ。
さるほどに、権亮三位中将惟盛、新三位中将資盛、左中将清経已下、兄弟五六人引き具して、淀、羽束、六田川原を打ち過ぎて、関戸の院の程にて追ひ付き給へり。あそこ、ここにて落ち散りて、其の勢三百騎ばかりぞありける。大臣殿、此の人々を見付け給ひて、すこし力付きたる心地し給ひて、「今まで見えさせへ給はざりつれば、おぼつかなかりつるに、うれしくも」と宣ひければ、三位中将は、「少き者共のしたひ候ひつるを、誘へ置き候ひつるほどに、今まで」とて、御涙の落つるを、さなきやうにまぎらかされける有様、哀れにぞ見えける。大臣殿、「又いかに具し奉り給はぬぞ。留め置き奉りては、心苦しくこそおはさむずれ。いかにしてかはすぎあはる▼P2573(七四オ)べき」と宣ひければ、「行く先とても恃もしくも候はず」とて、問ふにつらさと、いとど涙をぞ流されける。池大納言の一類は今や今やと待ちつれども、つひに見え給はず。
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其の外、落ち行く平家は誰々ぞ。
前内大臣宗盛 平大納言時忠 平中納言教盛 新中納言知盛 修理大夫経盛 右衛門督滴宗 本三位中将重衡 権亮三位中将惟盛 越前三位通盛 新三位中将資盛
殿上人には、
内蔵頭信基 皇后宮亮経正 左中将清経 薩摩守忠度 小松少将有盛 左馬守行盛 能登守教経 武蔵守知章 備中守師盛 小松侍従忠房 ▼P2574(七四ウ)若狭守経俊 淡路守清房
僧綱には、
二位僧都全親 法勝寺執行能円 中納言律師忠快
侍、受領、検非違使、衛府、諸司百六十余人、無官の者は数を知らず。此の三ヶ年の間、東国北国の度々の合戦に皆誅たれたるが残る所なり。
廿七 〔近衛殿、道より還御なる事〕 其の時、近衛殿下と申すは、普賢寺内大臣基通の御事也。太政入道の御聟にて平家にしたしみ給ひける上に、法皇西国へ御幸なるべきよし、日来聞えければ、摂政殿も御供奉あるべき御領掌有りければ、内大臣より「行幸すでに成り候ひぬ」と告げ申されたりければ、摂政殿御出ありけるに、法皇の御幸もなかりければ、御心中に思し食し煩はせ給ひけるに、
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白髪の老翁御車の前に現じて、
▼P2575(七五オ)いかにせむふぢの末葉のかれ行くをただ春の日にまかせてぞ見る
是を御覧じて、「されば我がいづる事をば神明の御とがめのあるにや。春の日とは春日の明神とどめさせ給へとにや。いかがすべき」と思ひわづらひ給ひけるに、御共に候ひける進藤左衛門大夫高範が、「法皇の御幸もならせ給はず。平家の人々も多く落ち留まらせ給ひ候ひぬ。此より御還りあるべくや候ふらむ」と申したりければ、「平家の思はむ所いかがあるべかるらむ」と御気色有りけるを、知らずがほにて、やがて御車を仕る。御車の牛飼に、きと目を見あはせたりければ、七条朱雀より御車を遣り帰し、一ずはゑあてたりければ、究竟の牛にてはありけり、飛ぶが如くにして朱雀を上りに還御なりにけり。平家の侍越中次▼P2576(七五ウ)郎兵衛盛次、是を見奉りて、「殿下もすでに落ちさせ給ふにこそ。口惜しく候ふものかな。とどめまゐらせ候はむ」と申すままに、片手矢はげて追ひかかりけるを、高範返し合はせて防ぎけるを、大臣殿見給ひて、「年来の情けを思ひわすれ給ひて落つるほどの人をば、いかにても有りなむ。一門の人々もあまた見え給はず。詮なし」と制し給ひければ、盛次引き返しにけり。摂政殿は、都へ帰らせ給ひて、西林寺と云ふ所に渡らせ給ひて、それより知足院へぞ入らせ給ひける。人是を知らず。「摂政殿は吉野の奥へ」とぞ申しあひたりける。
廿八 〔筑後守貞能都へ帰り登る事〕 「川尻に源氏廻りたり」と聞こえければ、筑後守貞能が馳せ向ひたりけるが、僻事にて有りけれ
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ば帰り上る。此の人々の落ち給ふに行き逢ひにけり。貞能は紺村濃の直垂の、くび、はた袖は紫目結にて替へしたるに、黒皮威のよろひきて、▼P2577(七六オ)大臣殿の御前にて馬より下り、弓脇にはさむで、弾指をして申しけるは、「あな心うや。是はいづちへとてわたらせ給ふぞや。都にてこそ塵灰にもならせ給はめ。西国へ落ちさせ給ひたらば、遁れさせ給ふべきか。又、平らかに落ち付き給ふべしとも覚え候はず。落人とて、あしこここに打ち散らされて、骸を道の頭に曝し給はむ事こそ心うけれ。こはいかにしつる事ぞ。新中納言殿、三位中将殿、とくとく引き帰らせ給へ。けうがる軍仕りて、後代の物語に仕り候はむ。弓矢を取る習ひ、敵に打たるる事、全く恥にあらず。何事も限り有る事なれば、今は平家の御運こそ尽させ給ひぬらめ。さればとて叶はぬ物故に、敵に後ろを見せむ事、うたてく候ふ」と申しければ、新中納言は大臣殿の方をにらまへて、誠に心うげに思ひ給へり。大臣殿宣ひけるは、「貞能はいまだしらぬか。▼P2578(七六ウ)昨日より源氏天台山に登りて、谷々に充満したんなり。此の夜半計りよりは、院もわたらせ給はず。各が身一つならばいかがせむ。女院・二位殿を始め奉りて、女房共あまたあり。忽ちにうき目をみせむ事も無慚なれば、山まどもやと思ふぞかし。且は又、禅門名将の御墓所に詣でて、思ふ程の事をも申し置きて、塵灰ともならむと思ふ也」と宣へば、貞能文申しけるは、「弓矢を取る習ひ、妻子をあはれむ心だにも深く候へば、思ひきられず候ふ。さこそおびたたしく聞こえ候ふとも、源氏忽ちによも責め寄せ候はじ。又、法皇をば、いかにして
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失ひまゐらせてわたらせ給ふぞや。宵よりも参り籠らせ給ひて、目をはなちまゐらせでこそ勧めまゐらせ給ふべく候ひけれ。季康なむどぞ告げ申して候ひつらむ。さりとも女房達の中に知りまゐらせぬ事はよも候はじ。足を▼P2579(七七オ)はさみてこそは、とひたださせ給はめ。季康が妻と申す奴は御内には候はざりけるか。しやつが中言にてぞ候ふらむ。にくさもにくし。貞能においては骸を都にてさらすべし」とて帰り上る。凡そ其の勢二千余騎計りぞ有りける。義仲、是を聞きて申しけるは、「筑後守貞能が最後の軍せむとて帰り上りたんなるこそ哀れなれ。弓矢を取る習ひ、さこそは有るべけれ。相構へて生け取りにせよ」とぞ下知しける。酉時まで、まてどもまてども、大臣殿已下の人々帰り上り給はず。けさ家々をば皆焼きぬ。なににつくべしともなく、法性寺の辺に一宿したりけれども、大臣殿已下の人々一人も帰り給はざりければ、小松殿の御墓の六波羅に有りけるを、「東国の人共が馬の蹄にかけさせむ事、口惜しかるべし」とて、墓掘りおこし、骨ひろひ、頸にかけ、泣々福原へとて▼P2580(七七ウ)落ち行きけり。
貞能城へ帰り入ると聞えける上、「盛次・景清等を大将軍として、残り留まる平家共討たむとて都へ入りぬ」と詈りければ、池大納言色を失ひて騒がれけり。されども源氏は未だ打ち入らず、平家には別れぬ。浪にも付かず、礒にも付かぬ心地して、只八条の院に、「若しの事あらば、助けさせ給へ」と申されけれども、「それもかかる乱れの世なれば、いかがはせさせ給ふべき」と御なげき有りけるも、理に過ぎて哀れ也。平家の方の者やしたりけむ、哥を札に書き
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て、池殿の門の前に立てたりけり。
としごろのひらやをすててはとのはにうきみをかくすいけるかひなし
大納言、この哥にはぢて出仕もし給はず。常には籠居してぞおはしける。
院御所には、「さればこそいかにも事いできなむず」とて、女房達▼P2580(七七ウ)あわてさわぎて、よもすがら物はこびなむどしければ、北面の者共申しけるは、「いたく物さわがしくさわぎ給ふべからず。たとへば、平家の方より院のわたらせ給ふ所を尋ね申さむず〔る〕が、山にわたらせ給ふよし聞こゆれば、其の旨を云ひてむず」とて、各いもねずして其の夜もあけぬれば、貞能、御所へ推し入りて、なにと云ふ事もなく、厩に立てられたりける御馬を、かいえりかいえり引き出だして、即ち御所をば出でにけり。盛次・景清が入洛の事は僻事にてぞ有りける。法皇は仙洞を出でて見えさせ給はず。主上は鳳闕を去りて西国へとて行幸成りぬ。関白殿は吉野奥にこもらせ給ひぬときこゆ。院宮・宮原は八幡・賀茂・嵯峨・大原・北山・東山なむどの片ほとりに付きて逃げ隠れ給へり。平家は零ちたれども、源氏は未だ入り替はらず。此の都は▼P2582(七八ウ)既に主もなく、人もなきさまにぞなりにける。天地開闢より以来、今日かかる事あるべしとは誰かは思ひよりし。聖徳太子の未来記にも今日の事こそゆかしけれ。淀の渡りの辺りにて、船をたづねて乗り給ふ、御心の中こそ悲しけれ。
日来召しおかれたりつる東国者共、宇津宮左衛門尉朝綱・畠山庄司重能・小山田別当
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有重なむど、をりふし在京して大番勤めて有りけるが、鳥羽まで御共して、「何くの浦にも落ち留まらせましまさむ所をみおき進らせむ」と申しければ、大臣殿宣ひけるは、「志は誠に神妙也。さはあれども、汝等が子ども多く源氏に付きて東国にあり。心はひとへに東国へこそ通ふらめ。ぬけがら計り具しては何がはせむ。とくとくかへれ。世にあらば、わするまじきぞ。汝等も尋ね来たれ」と宣ひければ、▼P2583(七九オ)「何くまでも御共してみおき進らせむと思ひけれども、弓矢の道に此程心をおかれ進らせて参りたらば、何事のあらむぞ」とて、とまりにけり。廿余年の好なれば、なごりはをしく思ひけれども、各悦びの涙をおさへて罷り留まりにけり。其の中に、宇津宮左衛門をば貞能が預かりて、日来も事におきて芳心有りけるとかや。源氏の世に成りて後、貞能、宇津宮ヲ恃みて東国へ下りたりければ、昔の恩を忘れず、申し預かりて芳心したりけり。
平家は、或いは礒部の彼のうきまくら、八重塩路に日を経つつ、船に棹さす人もあり。或いは遠きをわけ、嶮しきを凌ぎつつ、馬に鞭打つ人もあり。前途をいづくと定めず、生涯を闘戦の日に期して、思ひ思ひ心々にぞ零ちられける。権亮三位中将の外は、大臣殿を初めとして、棟との人々、北方を引き具し給へども、下ざまの者共は▼P2584(七九ウ)妻子を都に留め置きしかば、各の別れををしみつつ、行くも留まるも互ひに袖をぞしぼりける。ただかりそめのよがれをだにも恨みしに、後会其の期をしらぬ事こそ悲しけれ。相伝譜代の好
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も浅からず。年来日来の恩も争かわするべきなれば、涙をおさへて出でたれども、行く空もなかりき。男山を伏し拝みては、「南無八幡大菩薩、今一度都へ帰し入れ給へ」とぞ泣々申しける。誠に古郷をば一片の煙に隔てて、前途万里の浪をわけ、何くに落ち付き給ふべしともなく、あくがれ零ち給ひけむ心の中ども、さこそは有りけめとおしはかられて哀れ也。
廿九 〔薩摩守道より返りて俊成卿に相ひ給ふ事〕 其の中、やさしく哀れなりし事は、薩摩守忠度は当世随分の好士也。其の比、皇大后宮大夫俊成卿、勅を奉りて千戟集撰ばるる事有りき。▼P2585(八〇オ)既に行幸の御共に打出でられたりけるが、乗替一騎計り具して、四塚より帰りて、彼の俊成卿の五条京極の宿所の前にひかへて、門たたかせければ、内より「何なる人ぞ」と問ふ。「薩摩守忠度」と名乗りければ、「さては落人にこそ」と聞きて、世のつつましさに返事もせられず、門もあけざりければ、其の時忠度、「別事にては候はず。此の程百首をして候ふを、見参に入れずして外土へ罷り出でむ事の口惜しさに、持て参りて候ふ。なにかはくるしく候ふべき。立ちながら見参し候はばや」と云ひければ、三位あはれとおぼして、わななくわななく出で会ひ給へり。「世しづまり候ひなば、定めて勅撰の功終はり候はむずらむ。身こそかかる有様にまかり成り候ふとも、なからむあとまでも此の道に名をかけむ事、生前の面目たるべし。集撰集の中に、此の巻物の内にさるべき句候はば、思し食し▼P2586(八〇ウ)出だして、一首入られ候ひなむや。且は又、念仏をも御訪ひ候ふべし」 とて、鎧の引合せより百首の巻物を取り出だして、門より内へ投げ入れて、忠度、「今は西海
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の浪にしづむとも、此の世に思ひ置く事候はず。さらば入らせ給へ」とて、涙をのごいて帰りにけり。俊成卿、感涙をおさへて内へ帰り入りて、燈の本にて彼の巻物を見られければ、秀歌共の中に、「古京の花」と云ふ題を。
さざなみやしがのみやこはあれにしをむかしながらの山ざくらかな
「忍ぶ恋」に。
いかにせむみやぎがはらにつむせりのねのみなけどもしる人のなき
其の後いくほどもなくて世しづまりにけり。彼の集を奏せられけるに、忠度、此の道にすきて、道より帰りたりし志あさからず。但し勅勘の人の名を▼P2587(八一オ)入るる事、はばかりある事なればとて、此の二首を「よみ人しらず」とぞ入れられける。さこそかはり行く世にてあらめ、殿上人なむどのよまれたる哥を、「読人しらず」と入れられけるこそ口惜しけれ。
此の薩摩守の、ある宮ばらの女房に物申さむとて、つぼねのうへくちさまにてためらひ給ひけるに、事の外に夜ふけにければ、扇をはらはらとつかひならして、ききしらせ給ひければ、心しりの女房の「のもせにすだくむしのねや」とながめけるを聞きて、扇をつかひやみ給ひにけり。人しづまりぬとおぼしくて、出逢ひたりけるに、「など扇をばつかひ給はざりつるぞ」と問ひけるに、「いさ、『かしかまし』とかやきこえつればよ」と宣ひけるぞ、いとやさしかりける。
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かしかましのもせにすだくむしのねやわれだにものはいはでこそ思へ
▼P2588(八一ウ)と云ふ哥の心なるべし。
三十 〔行盛の歌を定家卿新勅撰に入るる事〕 左馬守行盛も幼少より此の道を好みて、京極中納言の宿所へ、行盛常におはし昵びて、偏へに此の道をのみたしなみけり。定家卿、其の比は少将にておはしけり。さるほどに一門都を落ちし時、日来のなごりををしみて、なにとなくよみおかれたりける哥共を書き集めて、後の思ひ出にもとや思はれけむ、文をこまかにかいて、袖がきにかうぞかかれたりける。
ながれての名だにもとまれゆくみづのあはれはかなきみはきえぬとも
定家の少将、此の哥を見給ひて、感涙を流して、「若し撰集有らば、必ず入れむ」とぞおぼしける。父俊成卿、忠度の哥を「読人不知」と千載集に入れられたりし事を、よに心うく念なき事に覚して、後堀川院の御時、▼P2589(八二オ)新勅撰を撰ばれしとき、「朝敵三代こそ名をあらはす事恐れ有りつれ。今は三代すぎ給ひぬれば、何かはくるしかるべき」とて、「左馬守行盛」と名をあらはして、此の哥を入れられたりしこそ、やさしくあはれにおぼえしか。
卅一 〔平経正仁和寺五宮の御所に参ずる事、付けたり青山と云ふ琵琶の由来の事〕 皇后宮亮経正は、幼少より仁和寺の守覚法親王の御所に候はれしが、昔の好み忘れ難く思はれければ、大物と云ふ所より引き返して、侍二人打ち具して五宮の御所へ参りて、伝奏の人して申し入れけるは、「一門の運尽きぬるによつて、すでに帝都を罷り出で候ふ上は、身
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を西海の浪の底に沈め、骸を山陽の路の頭りに曝し候はむ事、疑ひ有るべからず候ふ。但し、うきよに心の留まり候ふ事は、君を今一度拝見し奉らずして、万里の波路にただ▼P2590(八二ウ)よひ候はむ事こそ、悲しみの中の悲しみにて候へ」と申し入れたりければ、宮は、世(よ)は大きにはばかり思し食されけれども、「又も御覧ぜぬ事もこそあれ」とて、即ち御所へ召され給ふ。経正は、練貫に鶴を縫ひたる鎧直垂に、萌黄の糸威の鎧をぞ着たりける。二人の侍、有教・朝重も鎧着たりけり。経正泣く泣く申しけるは、「経正十一歳と申しし年より此の御所に初参仕りて、朝夕御前を立ち離れまい〔ら〕せず。叙爵仕りて後も、禁裏仙洞の出仕のひまには、「いかにもして此の御所へ参り候はむ」とのみ存じ候ひしかば、一日に二度参ずる日は候ひしかども、不参の日は候はなむしに、今日都を罷り出で候ひて、西鎮の旅泊にただよひ、八重の塩路を漕ぎ隔て候ひなむ後は、帰京其の期を知らず。されば、今一度、君を見奉り候はむと存じ候ひて、機嫌を顧み候はず推▼P2591(八三オ)参仕りて候ふ」と、泣く泣く申して、藤九郎有教に持たせたる御琵琶を取り寄せて、「下し預かりて候ひし青山をば、いかならむ世までも身をはなたじとこそ存じ候ひつれども、かかる名物を海底に沈めむ事の心うく候ひて、持ちて参りて候ふなり」とて、錦の袋に入れながら宮の御前に指し置かる。宮是を御覧じて、御涙にむせませましまして御返事に及ばず。御衣の御袖も絞るばかりなり。
抑も、此の琵琶を青山と申す事は、昔、ていびむと云ひし遊人、大唐へ渡りて、簾承武と云ふ琵琶
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の博士に合ひ、三曲を伝へられしに、青山の緑の梢より天人天降り、廻雪の袖をひるがへす。簾承武、此の瑞相に驚きて、青山とぞ名付けける。其の後、又、村上の天皇の御時、秋の月隈なくて、風の音身にしみて、なにとなく物哀れなる夕暁に、此の御▼P2592(八三ウ)琵琶にして、帝、万秋楽の秘曲を弾かせ給ひしに、更闌け夜静かにして、御撥の音いつもより澄み登りて、身にしみて聞こえけるに、五六帖の秘曲に至りて、天人天降りて廻雪の袖をひるがへし、則ち雲を別けて上りにけり。其の後は、彼の御琵琶を凡人の弾く事無かりければ、代々の帝の御重宝にて有りけるが、次第に伝へて此の宮の御重宝の其の一にて在りけるを、此の経正十七の歳、初冠して宇佐の宮の勅使に下されし時、申し下して、宇佐の神殿にて、黄鐘調にて海青楽を弾かれたりしに、神明の納受し給ひて、天童の形に顕れて、社檀の上にて舞ひ給ふ。経正此の奇瑞を拝して、「神明納受有りけり」とて、楽をば弾き止めて、三曲の其の一、流泉の曲を暫く調べたりければ、ともの宮人心有れば、各狩衣の▼P2593(八四オ)袖をぞ絞りける。聞きも知らねども、村雨とは紛はじ物をと哀れ也。村上の御宇より以降、凡人此の琵琶を弾ずる事は、経正一人ぞ有りける。かかる霊物なりければ、経正身に替へてをしくは思はれけれども、「是御覧の度毎に思し食し出づるつまともなれかし」と思はれければ、御琵琶を進らせ置くとて、
くれたけのもとのかけひはかはらねどなほすみあかぬ宮の中かな
宮、御琵琶を取らせ給ひて、御涙を押さへ御しまして、
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くれたけのもとのかけひはたえはててながるるみづのすゑをしらばや
あかずしてながるる袖の涙をば君がかたみにつつみてぞおく
此の御所に浅からず云ひ契りし人々あまた有りける中に、侍従律師行経▼P2594(八四ウ)と云ひける人、殊に深く思ひ入れられたりけるが、
みなちりぬおい木も小木の山桜おくれさきだつ花ものこらじ
経正泣く泣く、
旅衣よなよな袖をかたしいて思へば遠くわれはゆきなむ
と宣ひて、「今は心に懸かる事候はねば、何になる身のはてまでも、思ひ置く事露候はず」とて、御前を立たれければ、朝夕みなれし人々、鎧の袖に取り付きて、衣の袂をぞ絞られける。「誠に日を重ね夜を重ぬとも、御余波は尽き候ふまじ。行幸は遥かに延びさせ給ひ候ひぬらむ。さらば暇申して」とて、甲の緒をしめて馬に乗る。宮の御所へ参りつる時は、「世をもはばからせ給ふらむ」とつつみつれども、罷り出でける時は赤旗一流れ差させて、南を指して歩ませ行く。▼P2595(八五オ)かく心強くは出でたれども、棲みなれし古郷を今を限りにて打ち出でければ、鎧の袖もしぼるばかりにて、「追ひ付き奉らむ」と鞭を揚げられける心の中こそ哀れなれ。
さて、行幸に追ひ付きまゐらせて、何となく心すみければ、かくぞ思ひ続けける。
みゆきなるすゑもみやことおもへどもなほなぐさまぬ波の上かな
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卅二 〔平家福原に一夜宿る事、付けたり経盛の事〕 平家は、福原の旧里に着きて、一夜をぞ明かしける。各禅門の御墓所に詣でて、「過去聖霊、出離生死、往生極楽、頓証菩提」と祈念して、存生の人にして物を云ふやうに、つくづくとくどき給ふ。石木も何に哀れと思ふらむ。其の中に、薩摩守忠度は、眺望の御所の花をたをり、故入道に廻向して、涙かきあへず、
▼P2596(八五ウ)なき人にたむくる花のしたえだをたをればそでのしほれけるかな
いつかへるべしとも覚えねば、そぞろに涙を流されけり。
平家滅び給ひける中に、人ごとに袖をしぼりける事有りけり。太政入道の弟に修理大夫経盛は、詩歌管絃に長じ給ふ人なり。歌道よりも、紫竹のわざは猶まさり給ひけり。横笛の秘曲を伝へ給ふ事は、上代にもたぐひ少なく、当世にも並ぶ人おはしまさざりけり。一年、法皇の、故堀川院の御為に、法住寺殿にて報恩講経供養を行はれけるに、階下の公卿殿上人、家をただして舞楽を奏し給ひしに、経盛、其の時は東宮の大夫にて御座せしが、左のおもぶえをつかまつりしに、伶人舞曲をつくしたるに及んで、宮中すみわたり、群▼P2597(八六オ)集諸人、各袖をしぼりけり。上皇も、故院の御追善なれば、「今は覩率天上の内院にをさまり給ふらむ」と思食し、龍顔に愛染ところせし。八条左判官忠房は、陵王の秘曲を舞ひつくす。大ひざまづき小ひざまづき、いる日をかへす合掌の手、をはりには、くわうじよのそでをひるがへす。其の家ならぬ人には、各ふえをとどめしに、東宮大夫経盛、
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くわう序の秘曲節を吹き給ひしかば、法皇、叡感たへずや思食しけむ、御前のみすを上げさせ御座し、御衣を脱ぎて打ち出でさせ給ひけるを、経盛給はつてかへつて、階下に着き給ひしかば、男女耳目を驚かして、皆奇異の思ひを成す。此の道にたづさはらざる人は、面をかべにむかへたるもあり。かかりける人な▼P2598(八六ウ)れば、心あるも心なきも、此ををしみ奉る。
八条中納言入道長方の弟に左京大夫能方は、修理大夫に横笛の弟子にて、曲をつたへ給ひしかば、今二節を残して都を落ち給ひしかば、「いかなる博雅の三位は会坂のふもとに夜を重ね、宇治のき府生忠兼は、父をいましめ、五逆罪ををかすぞ」とおもへば、妻子兄弟をふりすてて、同じく都を落ち給ひけるが、福原の眺望の御所にて、甘州には三節の只拍子、倍臚には五節の楽拍子、底をきはめ給ひしかば、龍笛鳳管の曲は、聖衆の座につらなれるかとあやまたれ、霓裳羽衣のよそほひには天人の影向するかとうたがはれ、聞く人、見る人、共になみだをながしけり。能方は、「いかならむ野の▼P2599(八七オ)末、海のあなたまでも御共せむ」と、なごりをしたひ給ひけるを、経盛、「かかる身になり候ひぬる上は、御身をいたづらになし給はむ事、争か侍るべき。若し不思議にて世も立ちなほりて候はば、見参に入るべし。はかなくなりたりと聞食さば、必ず御念仏候ふべし。今生一旦のむつびによつて、来生長久の栖と訪はれまゐらせ候はむ。ゆめゆめ思ひ留まり給へ」と、あな賢制し給ひ
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ければ、名残は惜しく思はれけれども、福原一夜のとまりより、都へ返り給ひけり。
さても入道の造り置き給ひし花見の春の薗の御所、初音尋ぬる山田御所、月見の秋の岡の御所、雪(ゆき)の朝の萱の御所、嶋の御所、馬場殿、泉殿、二階桟敷殿より始めて、五条大納言入道の造進せられたりし▼P2600(八七ウ)里内裏、人々の家々に至るまで、みすもすだれも絶え果てて、格子も妻戸もあぶれおち、いつしか年の三年にいたく荒れにけるも哀れ也。北薗に殖ゑし梅の木は、枝を連ねて栄えたり。南陽県の菊蘂は、主と共にぞ枯れにける。旧苔道を塞ぎ、秋の草門を閉づ。瓦に松生ひ、垣につたしげりて、別け入る袖も露けく、行ききの路も跡絶えぬ。常に音する物とては、松吹く風の音計り、尽きせず指し入る物とては、漏りくる月のみぞ、おもがはりもせざりける。さらぬだに物思ふ秋の空は悲しきに、昨日は轡を東山の東に並べ、今日は纜を西海の西にとく。雲海沈々として、蒼天既に晩れなむとす。孤島に霞峙ちて、月水上に浮かぶ。長松の洞を出づる駒の蹄を早むる人は、嶺猿の声に耳を驚かし、極浦の浪を▼P2601(八八オ)わけて、塩に引かれて行く舟は、半天の雲に泝る。夜深くおきてみれば、秋の始めの廿日余りの月出でて、弓はりにふけゆく空も閑かに、嵐の音もすごくして、草葉にすがる白露も、あだなる命もよそならず。秋の初風立ちしより、漸く夜寒に成りぞ行く。旅寝のとこの草枕、露も涙も諍ひて、そぞろに物こそ悲しけれ。
二位殿も大臣殿も一所に差しつどひて、「さてもいづくにか落ち付かせ給ふべき。故入道相国
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の、かかるべかりける事を兼れて覚られけるにや、此の所を占めて家を立て、船を造り置かれたりける事の哀れさよ」、こし方向後の事共宣ひ通はして、互に涙を流し給ひける程に、夜もほのぼのとあけにけり。「平家の跡とて源氏にみすな」とて、浦の御所より初めて、御所々々に火をかけて、主上、女院を▼P2602(八八ウ)始め奉りて、二位殿、北政所已下の人々、皆御船にめして、万里の海上に浮かび給ひければ、余炎片々として海上赫奕たり。都を出で給ひし程こそなけれども、是も余波は多くて、袂をぞいとどしぼりける。海のたくもの夕煙、尾上の鹿の暁の声、渚によする波の音、袖に宿かる月の影、目に見、耳に触るる事、一つとして涙を催さず、心を傷ましめずと云ふ事なし。
薩摩守忠度、かくぞ詠め給ひける。
はかなしや主は雲井とわかるれどやどは煙と登りぬるかな
左馬守行盛朝臣
ふるさとをやけののはらにかへりみてすゑもけむりの波路をぞゆく
平大納言時忠卿
▼P2603(八九オ)こぎいでてなみとともにはただよへどよるべきうらのなきぞかなしき
同じく北方輔典侍
いそなつむあまよをしへよいづくをか都のかたにみるめとはいふ
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誠に、しばしと思ふ旅だにも、別れは哀れなるぞかし。是は心ならず立ち別れ、都に捨て置く所の妻子もおぼつかなく、住みなれしやども恋しければ、若きも老いたるも、うしろへとのみみかへり、先へはすすまざりけり。
肥後守貞能・飛騨守景家以下の侍共を召し集めて、二位殿は内に、大臣殿は屋形の上にて、泣く泣く宣ひける事こそ哀れなれ。「積善の余慶、家に尽き、積悪の余殃、身に及ぶ故に、神にも放たれ奉り、君にもすてられ奉りて、帝都を迷ひ出で、客路に漂へる上は、今は何の憑みかあるべきなれども、一樹の影に宿るも前▼P2604(八九ウ)世の契り也、一河の流れを渡るも多生の縁、猶探し。何に況んや、汝等は一旦従付の門客にもあらず、累祖相伝の家人也。或は近親の好み、他に異なる末も有り。或は重代の芳恩、これ深き者も有り。家門繁昌の昔は恩潤に依りて私を顧き。楽しみ尽き、悲しみ来た
る。今、何ぞ思慮をはげましてすくはざらむや。其の上、十善帝王、三種の神器を御身に随へておはします。天照大神も吾が君をこそ守りはぐくみ給ふらめ。思へば宿運つよき我等也。速やかに合戦の忠を励まして、逆徒を討ち取りて、徳は昔に越え、名は後代に留めむと思ふ心を一にして、野の末、山の末なりとも、君の落ち留まらせ給はむ所へ送り奉るべし。火の中へ入り、水の底に沈むとも、今は限りの御有り様に見成し奉るべき」よし、宣ひければ、三百余人、御前に列り居たる者共、老いたるも若きも皆涙を流し、袖を▼P2605(九〇オ)しぼりて申しけるは、「心は恩の為に仕はれ、命は義に依りてかろければ、
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命をば速かに相伝の君に献りて、二心あるべからず。あやしの鳥獣だにも、恩を報じ徳を酬ふ志浅からずとこそ承れ。何に申さむや、人として年来の重恩を忘れ奉りて、争でか吾が君をば捨て奉るべき。廿余年、官位と云ひ、俸禄と云ひ、身を立て名を揚ぐる事も、妻子を憐れみ郎従を、一事として君の御恩にあらずと云ふ事なし。就中、弓箭の道に携はる習ひ、二心を存するを以て長生の恥とす。設ひ、日本国の外なる新羅・高麗なりとも、雲のはて海のはてなりとも、おくれ奉るべからず」と異口同音に申しければ、二位殿も大臣殿も悦びにつけても涙に咽びて出で給ふ。
国々の家人の許へ、面々の使を遣はされて、催し集められけり。平家は保元の▼P2606(九〇ウ)春の花と栄えしかど、寿永の秋の〓[十十(くさかんむり)+象]となりはてて、花の都をちりぢりに、月と共にぞ出でにける。八粂の蓬壷、六原の連府等、風塵をあげ、煙雲焔をわけり。龍頭鷁首を海中に浮べて、波の上、行宮閑かならず。磯部の躑躅の紅は袖の露よりさくかと疑ひ、五月の苔のしづくは古郷の檐のしのぶに謬またる。月を浸す湖の深き愁ひに沈み、霜を負へるあしのはの脆き命を悲しむ。洲崎にさはぐ千鳥の声は、暁の恨みをそへ、旅泊にかかる梶のおと、よはに心を傷む。白鷺の遠樹に群れ居るを見ては、夷の旗を靡かすかと疑ひ、夜雁の遼海に鳴くを聞きては、又兵の船を漕ぐかとおどろく。青嵐膚へを破りて、翠黛紅顔の粧ひ漸く衰へ、蒼波に眼を穿ちて、懐土望郷の涙抑へがたし。須磨・明石は名
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を得たる名所なれば、水▼P2607(九一オ)益の船、司天の月を穿つ。菅家、昔鎮西へ遷され給ひし時、一句の詩を詠じて其の志を顕はし、源氏の大将の駅の長に孔子を待ちけむまでも思ひ遣られて、人々感涙押へ難し。幡州室の泊に着きぬれば、遊女つづみを鳴らし、秋の水に棹差して、魚翁釣を垂れ、夕部の湖に浮びぬるもわすれ難くぞ思はれける。風波日を重ね、雲の涛夜を送り、室上、牛間戸、備後の輌、憂き世を出づる心をば、室津の崎に係けながら、思ひに漕がれて行く船は、烟戸関にや留まるらむ。ここをも漕ぎ過ぎ、門司が関、葦屋のおき、金が崎、心の闇に迷ひながら、霧のまぎれに馳せ給ふ。
卿相雲客の朝敵と成りて、都を出でたるためしを聞くに、
卅三 〔恵美仲麻呂の事、付けたり道鏡法師の事〕 昔、恵美の仲麻呂と云ふ人有りけり。贈太政大臣武智麻呂が子に▼P2608(九一ウ)高野女帝の御時、御寵臣にて天下の政を心のままに執り行ひ、世を世とも思はず、驕りて一族親類悉く朝恩に誇れり。帝、御覧ずれば、すぞろに咲しく思し食されて、二文字を加へて恵美仲麻呂と名づく。其を改めて、後には押勝とぞ付けにける。大保大師に至りしかば、恵美大臣とぞ申しし。日を経、年を重ぬるに随ひて、いとど威応重くして、人怖畏する事、今の平家の如し。目出たかりし事也。昔も今も世のおそろしき事は、河内国弓削と云ふ所に、道鏡法師と云ふ者召されて、禁中に候ひけるが、年来、如意輪の法を行ひける験にやありけむ、帝の御寵愛甚しくして、恵美大臣の権勢、事の数ならず押しのけられにけり。法師の
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身にて太政大臣になさる。はては位を譲らむと思し食して、大納言▼P2609(九二オ)和気の清麻呂を御使として、宇佐宮へ申させ給ひたりけるが、宇佐の御詫宣に云はく、「西海のはてに居ながらも、心憂き事を聞くよとて、
西のうみ立つ白波のうへに居てなにすごすらむかりの此の世を」
と、うらみの御返事ありて、御ゆるされなかりければ、力及ばせ給はで、只法皇の位を授けられて、弓削の法皇とぞ申しける。
かかりければ、恵美大臣、弓削の法皇を倩んで、帝を怨み奉る余り、天平宝字八年九月十八日、国家を傾け奉らむと謀る。罪八逆に当りしかば、さばかりの寵臣なりしかども、官停められて、死罪に行はむとし給ひしかば、大臣、兵を集めて防ぎ戦はむとしけれども、坂上苅田丸を大将軍として、官兵多く責め懸けければ、堪へずして、一門引き具して都を出で、▼P2610(九二ウ)東国へ趣きて凶徒を語ひて、猶朝家を打ち取らむと巧みけるを、官兵遮りて、勢多の橋を引きてければ、高嶋へ向かひて、塩津・海津を過ぎて、敦賀中山を越えて、越前国に逃げ下りて、相具したりける輩を、「是は帝王にて渡らせ給ふ。彼は大臣公卿なむど名乗りて、人の心をたむらかしし程に、官兵追ひつづきて責めしかば、船にこみ乗りて逃げけれども、波あらく立ちて既に溺れなむどしければ、船より下りて戦ひしほどに、大臣こらへずして、同十八日、遂に近江国にて誅たれにけり。一族親類、同心合力の輩、首あまた
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都へ持ち参れり。公卿だにも五人首を切られぬ。上古にもかかるあさましき事共ありけるとぞ承る。平家の栄え、目出たかりつる有り様も、又朝敵となつて家々に火かけて、都を落ちぬ▼P2611(九三オ)る事がらも、恵美の大臣に異ならず。「西国へ落ち給ひたりとても、幾日何月かあるべき。只今に滅びなむずる物を」とぞ、人々申しあひける。
卅四 〔法皇、天台山に登り御坐す事 付けたり御入洛の事〕 法皇は、鞍馬寺より、えぶみ坂、薬王坂、ささの峯なむど云ふ嶮しき山を越えさせ給ひて、横川へ登らせましまして、解脱谷の寂場房へぞ入らせ給ひける。本院へ移らせ給ふべきよし、大衆申しければ、東塔へ移らせ給ひて、南谷の円融房へぞ渡らせ給ひける。衆徒も武士も弥よ力付きて、円融房の御所近く候ひけり。明日廿五日、法皇天台山に渡らせ給ふ事、聞こえければ、人々、我先にと馳せ参り給へり。摂政殿、近衛殿、左大臣経宗卿、九条右大臣兼実卿、内大臣左大将実定卿より始め奉りて、大・中納言、参議、非参議、五位、四位、殿上人、上下北面の▼P2612(九三ウ)輩に至るまで、世に人と算へらるる輩、一人ももれず参られたりければ、円融房の堂上・堂下、門内・門外、隙もなかりけり。誠に山門の繁昌、門跡の面目とぞ見えし。
平家は落ちぬ、さのみ山上に渡らせ給ふべきにあらねば、廿八日、御下山。近江国源氏、錦織の冠者義弘、白旗をさして先陣を仕る。前々は平家の一族こそ赤旗・赤じるしにて、供奉せられしに、此の廿余年、絶えて久しかりし源氏の白旗、今日はじめて見る事こそ更にめづらしけれ。
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卿相雲客、勢々として、蓮花王院の御所へ入御なりぬ。
さるほどに、其の日の辰の時計りに、十郎蔵人行家、伊賀国より、宇治木幡を経て京へ入りぬ。未の剋に木曽の冠者義仲、近江国より東坂本を通りて同じく入りぬ。又▼P2613(九四オ)其の外、甲斐・信乃・尾張の源氏共、此の両人に相ひ共なひて入洛す。其の勢六万騎に及べり。入りはてしかば、在々所々を追補し、衣裳をはぎとつて食物をうばひ取りければ、洛中の狼籍なのめならず。
卅五 〔義仲・行家に平家を追討すべきの由、仰せらるる事〕 廿九日、いつしか義仲・行家を院の御所へ召して、別当左衛門督実家卿、頭右中弁兼光を以て、前内大臣以下、平家の一類を追討すべきよし、両将に召し仰す。両人、庭上に跪きて之を承る。行家は、褐衣の鎧直垂に、黒皮威の鎧着て、右方に候ひけり。義仲は、赤地錦の直垂に唐綾威の鎧着て、左方に候ふ。各、宿所候はざる由、申されければ、行家は南殿の萱御所を賜はりて東山を守護す。義仲は大膳大夫信業が六条西洞院の亭を賜りて、洛中を▼P2614(九四ウ)P2614(九四ウ)警固す。此の十余日が先までは、平家こそ朝恩に誇りて源氏を追討せよとの院宣・宣旨こそ下りしに、今は又、かやうに源氏朝恩に誇りて平家を追討せよと院宣を下さる。いつのまに引き替へたる世の有り様ぞと哀れ也。
卅六 〔新帝定め奉るべきの由、評議する事〕 主上は外家の悪徒に取られさせ給ひて、西海へ趣かせ給ふ。尤も不便に思し食す。速やかに帰し入れ奉るべきよし、平大納言時忠卿の許へ院宣を下さると云へども、平家是を用ゐね
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ば、力及ばずして、新主を立て奉るべきよし、院の殿上にて公卿僉儀有り。「主上還御有るべきよし、御心の及ぶほどは仰せられてき。今はとかく御沙汰に及ぶべからず。但し、便宜の君、渡らせ御しまさず。法皇こそ返り殿上せさせおはしまさめ」と申さるる▼P2615(九五オ)人も有り。「返り殿上の例、百王卅六代の皇極天皇、卅八代の斉明天皇、此等は皆女帝也。男帝の返り殿上は先例なし」とぞ申さるる人もあり。「鳥羽院の乙姫宮、八条院御即位有るべきか」と申さるる人もあり。女帝は第十五代の神功皇后より始め奉り、推古、持統、元明、元正。法皇、思し食し煩はせ給ひけり。丹後局、内々申しけるは、「故高倉院の宮、二宮は平家に具せられ給ひ畢はんぬ。其の外、三四の宮のたしかに渡らせ給ひ候ふ。平家の世には世を慎ませ給ひてこそは渡らせ給ひしかども、今は何かは御憚りあるべき」と申されければ、法皇うれしげにおぼしめして、「尤も其の義、さもありぬべし。同じくは吉日に見参すべき」由、仰せあつて、泰親に日次を御尋ねありければ、「来る八月五日」と勘へ申す。「其の▼P2616(九五ウ)議なるべし」とて、事定まらせ給ひにけり。
卅七 〔京中警固の事、義仲注し申す事〕 八月一日、京中保々守護の事、義仲注進の交名に任せて殊に警巡せしめ、柄誡を知らすべきの由、右衛門権佐定長、院宣を奉りて別当実家卿に仰す。出羽判官光能、右衛門尉有綱〈頼政卿孫〉、十郎蔵人行家、高田四郎重家、泉次郎重忠、安田三郎義定、村上太郎信国、葦敷太郎重澄、山本左兵衛尉義恒、甲賀入道成覚、仁科次郎盛家とぞ注し申しける。
B2104
〔奥書〕
平家物語第三下 十二巻の内
▼P2617(九六オ)時に応永廿七年庚子正月廿日、根来寺 別院修学院の住坊に於て書写せしめ畢はんぬ。
権少僧都有淳
王事(わうじ)濫(もろいこと)靡(なし)
P2618(九六ウ)
(花押)
凡例の追加です。
巻七以降、参考としまして、『延慶本平家物語本文篇』(上・下)のページを記しました。B+(上=1・下=2)+ページ(3桁)
平家物語 八(第四)
B2107
P2619(一オ)一 高倉院の第四の宮位に付き給ふべきの由の事
二 平家の一類百八十余人解官せらるる事
三 惟高惟仁の位諍ひの事
四 源氏共勧賞行はるる事
五 平家の人々安楽寺に詣で給ふ事
六 安楽寺の由来の事 付けたり 霊験無双の事
七 平家の人々宇佐の宮へ参り給ふ事
八 宇佐の神官が娘後鳥羽殿へ召さるる事
九 四宮践祚有る事 付けたり 義仲行家に勲功を給はる事
十 平家九国中を追ひ出だすべきの由仰せ下さるる事
十一 伊栄の先祖の事
十二 尾形三郎平家を九国中を追ひ出だす事
十三 左中将清経身を投げ給ふ事
十四 平家九国より讃岐国へ落ち給ふ事
十五 兵衛佐征夷将軍の宣旨を蒙る事
十六 康定関東より帰洛して関東の事語り申す事
十七 文覚を便にて義朝の首取り寄する事
十八 木曽京都にて頑ななる振舞する事
十九 水嶋合戦の事
廿 兼康と木曽と合戦する事
P2620(一ウ)(廿一)室山合戦の事 付けたり 諸寺諸山へ宣旨を成さるる事 付けたり 平家追討の宣旨の事
(廿二)木曽都にて悪行の振舞ひの事 付けたり 知康を木曽が許へ遣はさるる事
(廿三)木曽を滅すべきの由法皇御結構の事
(廿四)木曽怠状を書きて山門へ送る事
(廿五)木曽法住寺殿へ押し寄する事
(廿六)木曽六条川原に出でて首共懸くる事
(廿七)宰相修憲、出家して法皇の御許へ参る事
(廿八)木曽、院の御厩の別当に押し成る事
(廿九)松殿の御子師家摂政に成し給ふ事
(卅) 木曽、公卿殿上人四十九人を解官する事
(卅一)宮内判官公朝、関東へ下る事
(卅二)知康関東へ下る事 付けたり 知康関東にてひふつく事
(卅三) 兵衛佐、山門へ牒状を遣はす事
(卅四) 木曽、八嶋へ内書を送る事
(卅五) 惟盛卿、古京を恋ひ給ふ事
(卅六) 木曽、入道殿下の御教訓に依つて法皇を宥し奉る事
(卅七) 法皇、五条内裏より出でさせ給ひて大善大夫業忠が宿所へ渡らせ給ふ事
B2109
▼P2621(二オ) 平家物語第四
〔一〕 〔高倉院の第四宮位に付き給ふべきの由の事〕 寿永二年八月五日、高倉院の御子、先帝の外三所御坐しけるを、二宮をば儲君にし奉らむが為に、平家取り奉りて西国におはしましけり。三四宮、迎へ奉り、法皇見まゐらせければ、三宮はおびたたしく法皇を面嫌ひまゐらせてむつからせ給ひければ、「疾く疾く」とて入り帰らせ給ひにけり。四宮は法皇の「是へ」と仰せ有りければ、左右無く法皇の御膝の上に渡らせ給ひて、なつかしげに思ひまゐらせ給ひたりけり。「我が末ならざらんには、かかる老法師をば、なにしにかなつかしく思ふべき。此の宮ぞ我が孫なりける」とて、御ぐしをかきなでて、「故院少く御せしに少しも違はず。只今の事の様にこそ覚ゆれ。かかる忘れ形見を留め置き給ひけるを、今まで見ざりける事よ」とて、御涙を流させ給へば、浄土寺二位殿、其の時は丹後殿と申して▼P2622(二ウ)御前に候ひ給ひけるも是を見奉りつつ、「とかうの沙汰にも及ぶべからず。御位は此の宮にてこそ渡らせ給はめ」と申し給ひければ、「さこそ有らめ」とて、定まらせ給ひにけり。後鳥羽院と申すは此の御事也。内々御占のありけるにも、「四宮、子々孫々までも日本国主にて渡らせ給ふべし」とぞ、神祇官・陰陽寮共に占ひ申しける。今年は四歳に成らせ給ふ。
御母は七条の修理大夫信隆卿の御娘にて御しけるが、建礼門院中宮と申しし時、中納言
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の内侍とて上臈女房にて候はせ給ひけるが、忍びつつ内の御方へ召され給ひける程、皇子さしつづき二所出できさせおはしましけるを、修理大夫、平家のあたりをはばかり、中宮の御気色を深く恐れ給ひけるを、八条二位殿、御乳母に付き奉りなむどせられけり。
此の宮をば、法勝寺執行能▼P2623(三オ)円法眼養ひ奉りけるが、西国へ平家に具して落ちられける時、余り周章て、北方をだにも具せられざりければ、宮も京に留まらせ給ひたりけるを、西国より人を返して相具し奉らせて、「怱ぎ下り給へ」 と申されたりければ、北方既に下らんとて、西京なる所まで具し奉り、出でられたりけるを、御乳母の〓[女+夫]の紀伊守範光、ここかしこ尋ね穴ぐり奉りてぞ、留めまゐらせたりける。夫も然るべき御事なれども、範光ゆゆしき奉公とこそ申されけれ。「只今君の御運は開け御座する物を。物に狂ひてかくはおはするか」とて、腹立ちて留めまゐらせたりけるに、其の次の日、院より御尋ねありて、御迎へに参りたりけり。
大蔵卿泰経卿、義仲を召して、内々勧賞の事所存を尋ねければ、「忽ちに賞を蒙るべき由は存ずる所也。但し、行はるるをば争でか辞し申すべき哉」。又、頼▼P2624(三ウ)朝が事を問ふ。「今度、誰か戦功無からむ。已に事を起こしたる者也。賞の事、叡慮有るべきか」。又、行家が事を問ふ。「行家は頼朝に追放せられて義仲が許に来る。叔父為りと雖も、已に猶子為り。義仲に対して賞を行はるべき者に非ず。行家賞を蒙らば、安田三郎義定、同じく行はるべき由、申さしめむも謂はれ無きに非ざるか。能く能く計らひ行はるべし」とぞ申しける。又、内々申しけるは、「今度降人等預けられざる事、其の意を得ず。
B2111
忠清父子出家して、能盛が許にあり。貞頼同じく出家して、行家が許にあり。而るに、知康、貞頼を迎へ取りて種々に饗応す。甚だ然るべからず。凡そ彼の知康は、和讒無双の者也。行家・義仲参上の時は、偏へに郎従と称す。今敵対を成す、尤も奇怪也。就中、書状を義仲の許に給ふに、『謹上木曽冠者』と書けり。▼P2625(四オ)此の条、殊に狼籍也」 とぞ申しける。条々の申状、其の謂はれありてぞ聞こえける。知康が事、已に禍の萌す始め、此の時より起これり。
除目の事、法皇の仰せに依りて行はるべき事、大外記頼慶、例を勘がへて奉りけり。平城、嵯峨、并びに嘉承の詔例等也。又、周公、管蔡を誅して七年、成王の心に非ざるに、准へらるべし」とぞ申したりける。
〔二〕 〔平家一類百八十余人解官せらるる事〕 八月六日、平家一類解官の事、頭弁経房朝臣、法皇の仰せを奉りて外記に仰す。権大納言頼盛、中納言教盛、権中納言知盛、参議修理大夫経盛、右衛門督清宗、左近中将重衡、右近中将維盛、同資盛、内蔵頭信基、皇后宮亮但馬守経正、左近中将時実、薩摩守忠度、右近中将清経、安芸守景弘、左少将有盛、丹波守清邦、▼P2626(四ウ)右兵衛佐為盛、侍従光盛、佐土守仲盛、能登守教経、左馬頭行盛、尾張守時宗、刑部少輔広盛、河内守隆親、筑前守貞経、若狭守経俊、備中守師盛、駿河守景盛、肥後守貞能、武蔵守知章、侍従忠房、阿波守宗親、長門守高俊、越前守親房、土佐守宗実、淡路守清房、上総守忠清、三河守則房、伊豆守時兼、伊勢守時房、備前守時基、越後守
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助職、大宮権大進惟基、常陸介隆義、右馬助政親、大宰少弐大蔵種直、飛騨守景家、左衛門尉忠綱使、右衛門尉季貞使、左衛門尉盛軽使、同尉貞頼使、月卿・雲客・衛府・諸司、都合百八十二人也。去んぬる治承三年に、太政大臣師長公を始めとし▼P2627(五オ)て、群公・卿士・受領・廷尉三十九人、入道相国の命に依りて見任を解却せられ、殿上人十三人仙籍を除かれて、今彼の一族、永く跡を削らるるこそ、世の転変は今更驚くべきに非ざれども、人不慮の事なり。昨日までは、平家の所縁境界に至るまで、人恐るる事虎の如し。今日よりは人を恐るる事鼠の如き也。
同じき七日、上総介忠清法師、并びに男忠綱、法皇より義仲の許へ遣はされけり。「手を束ねて参りたりければ、命をば生けらるべし」と聞こえしに、「義仲内々申す旨あり」と聞こし食しければ、怱ぎ遣はされにけり。「忠清・忠綱は平家の羽翼なり」と、人思へり。降人になりたりとても、助かるべきにあらず。前内大臣西国に落ちられしに、忽ちに引き分かれて都に留まりて、今恥をさらすこそ無慙なれ。
同じき九日、西海道の返報到来す。主上還御、当▼P2628(五ウ)時の如きは叶ひ難き趣なり。女房の返事、是非分明ならず。貞能私の申状には、「秘計を廻らして、追て左右を言上すべし」とぞ申したりける。義仲、高倉宮の御子即位の事、内々泰経卿に申す旨ありければ、同十四日、俊暁僧正をもて義仲に問はれければ、「国主の御事、辺鄙の民として是非
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を申すにあたはず。但し、故高倉宮、法皇の叡慮を休め奉らむが為に御命をうしなはれき。御至孝の趣、天下に其の隠れ無し。争か思し食し知られざらん哉。就中、彼の親王宣をもて源氏等義兵をあげて、すでに大事を成し畢はんぬ。而るに今、受禅の沙汰の時、此の官の御事、偏へに棄て置かせられて議定に及ばざる条、尤も不便の御事也。主上すでに賊徒の為に取り籠められ給へり。彼の御弟、何ぞ強ちに尊崇し奉るべけむ哉。此等の子細、更に▼P2629(六オ)義仲が所存に非ず。軍士等が申状を以て言上する許り也」と申しければ、此の趣を以て人々に問はる。「義仲が状、其の謂はれ無きに非ず」とぞ申されける。
三 〔惟高惟仁の位諍ひの事〕 昔文徳天皇王子、紀原親王惟高、木原親王惟仁とて、兄弟にて御しましけるが、互ひに位を諍はせ給ひけるを、「何れを何れと定め奉るならば、片方御恨み深かるべし。不如、相撲の節を行ひて、勝たせ給ひたらむを位に即け奉るべし」と勅定ありて、紀原親王の御方には、六十人が力持ちたりと聞こえける、名虎の右兵衛佐と云ひける人を出だされけり。
木原の親王の御方より、善男少将とて、なべての力人なりけるをぞ出だされける。かかりけるあひだ、方々の御祈師に其の時有験の高僧を撰ばれけり。紀原親王の御方には柿下の紀僧正以仁。木原親▼P2630(六ウ)王御方には天台山恵亮和尚、是は籠居の由にて調伏し給ひけり。
さても其の日に成りにしかば、名虎と善男と出で合ひて、既に手合はせするかと見る程に、名虎は元より
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大力なりければ、善男少将を提げて投げけるを、見物の人々あはやと思ひけるに、善男一丈計り投げられて、つくとしてぞ立ちたりける。やがて寄せ合はせて、えい声を出だして、時移すまでからかひければ、木原親王の御方より、「既に御方負け候ひなむず」とて、使者を頻波に立てられければ、其の時、恵亮壇所におはしけるが、「こは心憂き事かな」と思ひて、年来持ち給ひたりける智剣にて頭の脳を摧きて、芥子に入れて一もみもみ給ひければ、名虎兵衛佐負けて、善男少将勝ちにければ、木原親王、位に即かせ給ひにけり。清和御門と申すは、即ち彼の親王の▼P2631(七オ)御事也。されば、「帝王の御位と申す事は、とかく凡夫の申さむに依るべからず。神明三宝御計らひなれば、四宮の御事もかかるにこそ」とぞ人申しける。
〔四〕 〔源氏共勧賞行はるる事〕 ▼十日、法皇蓮花王院の御所より南都へ移らせ給ひて後、三条大納言実房、左大弁宰相経房参り給ひて、小除目行はる。木曽冠者義仲、左馬頭になされて越後国を給はり、十郎蔵人行家は、備後守にぞ成されにける。各国を嫌ひ申しければ、十六日の除目に、義仲は伊与国を賜り、行家は備前守に移されぬ。安田三郎義定は遠江守に成されにけり。其の外源氏十人、勲功の賞とて、靭負尉、兵衛尉、受領、検非違使に成されける上、使宣旨を被る者もありけり。此の十余日が先までは、源氏を追討せよとのみ宣旨は下されて、平家こそ▼P2632(七ウ)加様に勧賞にも預かりしに、今は平家を追討せよとて源氏朝恩に誇るこそ、いつしか引き替へたる事ぞと覚えて哀れなれ。情有りける人々は、思ひ連けては袂をぞ
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絞りける。院殿上にて除目行はるる事、未だ昔より先例無し。今度始めとぞ聞こえし。珍しかりける事也。
〔五〕 〔平家の人々安楽寺に詣で給ふ事〕 十七日、平家は露の命を待ち、船に棹指して何くと定めねども、多くの海山隔てて、都に雲居の四方となる。在原業平が染殿の后に名を立ちて、東の方へ流さるとて、角田河の辺にて都鳥に見合ひつつ、
名にしおはばいざ事問はむ都鳥我が思ふ人有りや無しやと
打ち詠めて涙を流しけん事も、かくやと覚えて哀れ也。明け晩れ日数つもりゆけば、心尽くしの筑前国御笠郡大宰府に着き給へり。随ひ奉る▼P2633(八オ)処の兵、菊地の二郎高直、石戸の少卿種直、臼木・戸次・松浦党を始めとして各里内裏造進す。彼の内裏は山中なれば木の丸殿もかくやとぞ覚えし。人々の家々は野の中田中なりければ、麻のさ衣打たねども、遠路の里とも申しつべし。萩の葉向の夕嵐、独り丸寝の床の上、片敷く袖もしほれにけり。一門の人々、安楽寺へ参り、通夜して詩を作り連歌をし給ひて泣き悲しみ給ひける中に、旧都を思ひ出でて、修理大夫経盛、かくぞ詠じ給ひける。
すみなれし古き都の恋ひしさは神も昔をわすれ給はじ
〔六〕 〔安楽寺の由来の事 付けたり 霊験無双の事〕 抑も、安楽寺と申すは、昔、菅原の大臣の思はぬ浪にうきねして、しほれ給ふ御廟也。菅原の大臣と申すは、菅丞相道真、今の北野天神の御事也。流され給ひし由来を尋ぬれば、
B2116
醍醐帝の御宇、菅▼P2634(八ウ)丞相は右大臣にして才覚優長におはせしかば当帝寵愛甚しく、天下の重くし奉る事、降る雨の草木を靡かすが如し。其の比、太政大臣基経の公御子に時平の左大臣と申すは、此事を安からず思し食されて、折節に付けて無実の讒奏あり。遂に讒奏に依つて、昌泰四年辛酉の正月廿五日、大宰権帥に遷されて当国に流され給へり。丞相の御亭の左右に梅桜を殖ゑて常に愛(あい)し給ひしが、此の事を歎きて、梅は毎年花敷けども桜は三年まで花敷かず。御亭を御出の時、此の事を思ひ出でて、かくぞ詠ぜさせ給ひける。
よしさらば去年も今年もさかずして花のかはりに我ぞ散りぬる
首途の時、泣く泣く母御前に暇を申し給ひて、御出家有るべき由申されければ、墨染の衣を大臣に奉り給ふとて、母御前泣く泣く、
▼P2635(九オ)ほどこししむねの乳房を薪にて焼くすみぞめの衣きよきみ
丞相御衣を給はりて、うき事なりとて、泣く泣く山崎にして遂に御出家あり。煙霞遠近の景を賞し、桃李浅深の色を翫び、花鳥風月にのみ心をそめておはせしに、思はぬ外の旅の空、思ひ遣るこそ悲しけれ。
花洛を出でて日数ふれば、我が旧里も遠ざかる。心細く思し食されけるに余りに、北の方の御許へかくぞ申しつかはしける。
君がすむやどのこずゑをゆくゆくと隠るるまでにかへりみるかな
幡州明石に着き給ひたれば、駅の長の哀れに思ひ奉りたる気色を御覧じて、
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駅長驚くこと莫れ、時の変改なり。一たびは栄へ一たびは落ふ、是れ春と秋となり。
さても筑紫に下り着き給ひて物哀れに心細き夕べ、をちかたに煙の立つを御▼P2636(九ウ)覧じて、かくぞ詠じ給ひける。
ゆふぐれは野にも山にもたつ煙思ひよりこそもえはじめけれ
古里の南庭の梅を思し食し出でて、
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ
これに依つて梅坪の梅揺動して抜けて安楽寺に飛び来たる。不思義なりし事也。此梅、御廟の前に今に有り。此の後かくて露の御命春の草葉にすがりつつ、いきの松原に日をふれば、山郭公の音闌けて、秋の半ばも過ぎにけり。さても九月始めの比、去年の今夜の菊の宴に清涼殿に侍りて、叡感の余りにあづかり給ひし御衣を取り出でてをがみ給ふとて、幽思きはまらず、愁腸たえなむとして作らせ給ひける詩とかや。
▼P2637(一〇オ)恩賜の御衣今此に在り。捧げ持ちて終日に余香を拝す。
さりともと世を思し召しけるなるべし。月の明らかなりける夜、
海ならず湛ふる水の淵までに清き心は月ぞてらさん
粛々たる闇き雨の窓を打つ音を聞こし食して、
雨のした乾ける程のなければやきてしぬれぎぬひるよしもなき
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かくて三年を経て、延喜三年癸亥、春の比なやみ給ひしが、二月廿五日、御年五十七にして、遂に隠れさせ給ひぬ。同夜の内に北野に数百本の松生ひたり。末の世に来住し給ふべき故也。菅家薨後、其神霊洛へ来たり給ひて敵を報ず。同じき九年己巳四月四日、生年卅九にして、時平の左大臣も失せ給ひぬ。此の事を恐れて、天皇、詔を下して右近の馬場に崇め奉る。今の▼P2638(一〇ウ)北野天神の御事、是れ也。
惣じて此の御霊あれて世間に不思議の事共ありし中に、村上の御宇天徳の比、度々内裏焼亡あり。之に依りて重ねて一条院を造られしに、番匠共、内板にかなかきて罷り出でて次の朝参りて見るに、昨日の内板に物のすすけて有る所を登りて見れば、夜内に虫のくひたりける文字に云はく、
造るとも又もやけなんすがはらや棟のいたまのあはぬかぎりは
遂に此の内裏も焼けたりけるとなむ。
其の後、一条天皇の御宇正暦年中に、大宰大弐好古帥、鎮西に下向して安楽寺の御廟に参りて通夜をしたりけるに、御廟の内に夜ふけ人定まりて御詠あり。其の詞に云はく、
家門一たび掩ひて幾の風煙ぞ 風月抛てて来りて九十年
▼P2639(一一オ)好古怱ぎ天皇に奏し奉る。仍りて安楽寺に文人を置かれて、毎節日、詩篇を献じ奉る。同時に正一位を贈る。其の勅書をば巨勢為時、之を書く。其の詞に云はく、
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馬〓年深し、蒼煙の松老いたりと雖も、龍光露暖かにして、紫泥の草再び新たなり。
好古鎮西へ下向して安楽寺の御廟に詣でて宣命を読む時、俄かに御廟の前に虚空より書落ちたり。詞に云はく、
忽に朝使に驚きて荊蕀を払ふに、官品高く加はりて拝感成る。
仁恩の邃崛に覃ることを悦ぶと雖も、但し存しても没しても左遷の名を恥づ。
好古是を拝見して怱ぎ此の由を奏聞するに、重ねて贈大政大臣の宣命あり。即ち御廟に詣して宣命を読みあげ奉りて通夜したりければ、▼P2640(一一ウ)好古不思議の夢を見る。御廟より一人の使者を以て、「道風を召せ」とて、淡魔王宮へ遣す。即ち閻魔率ひて衆合地獄に行きて道風を召し出で将て参る。御廟の前に跪きてあり。天神の仰せに宣はく、「汝能書なり。此の宣旨の請文書きてまゐらせよ」。道風畏りて請文を書きて好古に取らす。夢覚めて眼を開きて見るに、夢の如き状相違無く請文あり。驚きあやしむで開き見れば、青紙に赤文字也。・其の詞に云はく、
昨は北闕に惟らるる士と候し 今は西都に恥を雪むる尸と為る
存しての恨み、死しての悦び、我を奈其 今は須らく望み足りぬ、皇基を護りたてまつらむ
不思議なりし事也。件の請文は天下の宝物にて内蔵寮に籠められたり。されば、経盛、昔
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の御事を思ひ出し奉りて、「ふるき都の恋しさは」と詠め▼P2641(一二オ)給ひけるなるべし。「昔は無実の恨みに沈みて天下の霊魂為りき。今は都鄙の崇敬に浮かびて国家を護る神明と成り給へり。十善の帝王、三種の神祇を帯して御します。争でか遷幸の御納受もなかるべき」と、各心強くぞ祈られける。惣じて霊験無双の御事也。誰かは是を忽緒し奉るべき。
されば、今の平家滅び給ひて後、文治の比、伊登藤内鎮西九国の地頭に補せられて下りたりけるに、其の郎従の中に一人の下郎、無法に安楽寺へ乱れ入りて御廟の梅を切りて宿所へ持ち行きて薪とす。其の男、即ち長く死去しぬ。藤内驚きて御廟に詣でておこたりを申し、通夜したりけるに、御殿の内にけ高き御音にて、
情なく切る人つらし春くれば主じわすれぬやどのむめがえ
不思話なりし御事也。昔今の物語して平氏泣く泣く下向し給へり。
▼P2642(一二ウ)仁安三年五月の比、珍光安楽寺の御廟に詣でて件の梅をみて、
これかさはおとにききつる春ごとにあるじを忍ぶやどの梅がえ
待賢門院に侍りける女房、無実を負ひて北野に読みて献りければ、或る女狂ひ出でて其の事顕れにけり。
思ひ出でよなき名のたつはうき事とあら人神となりしむかしを
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大納言禅師と云ひし人、「白金の提を盗みたり」と云ふ無実を継母に云ひ付けられて、北野に籠りて祈るに、二七日に満じけるにしるし無かりければ、歌をよみて献る。
ちはやぶる神にまかせて心みむなき名のたねはおひやいづると
其の時、下女、提を持ち出で来りて、彼の継母の所為顕はれにけり。
菅丞相と▼P2643(一三オ)申すは、従三位左京大夫清公の孫、参議従三位刑部是善の子息也。寛平五年二月十六日、参議従四位下兼左大臣式部権大輔に任ず。同七年十月廿六日、中納言に任ず。十一月十三日、春宮大夫。同八年八月廿八日、民部卿に任ず。同九年六月十九日、権大納言正三位兼右近衛大将。七月十三日、中宮大夫。昌泰二年〈己未〉二月十四日、任右大臣、五十五、紅梅殿大臣と号す。正喜元年〈辛酉〉、右大臣従二位右近衛大将を兼ぬ。正月七日、従二位、同廿五日、大宰権帥に遷されて進発、同三年〈癸亥〉二月廿五日、配所に於いて薨ぜらる〈御年五十七〉。
北野天神御詫宣云、天暦九年〈乙卯〉三月十三日〈酉時〉、近江国比良の宮にて祢宜神良胤が息・太郎丸、七才なる童に、天満天神▼P2644(一三ウ)詫して宣はく、「我云ふべき事あり。良胤等聞け。我が像代を作るめり。笏は我存生に持ちたりし笏を持たしめよ。又我物具共は、未だ此に至りて住せざる始めに、仏舎利三粒、玉帯、真銀造太刀一振、人鏡尺一面あり。老松・富部と云ふ二人の郎従あり。仏舎利は老松に預けしむ。帯・太刀・鏡は
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富部に預けしむ。此れ皆筑紫下向の時も我共に来りし者也。若宮の北に少し高き処に地の下三尺許掘り入れて之を置く。此の二人の奴原は甚だ不調の者共也。然る間、心を許さずして我居たる左右に置けり。云はじと思へども、笏の事に依りて云ふぞ。此の年来は像代も無かりつれば、告げずして有りつるぞ。老松は我に従ひて久しく成りぬる者也。是のみぞ、至る所に松の種をば蒔く。我大臣為りし時、夢に、身に松生じ、即ち折れぬとみしは、流さるべき相なりけり。松は我が像代の物也。我が身に嗔恚を成し、其の嗔恚の▼P2645(一四オ)炎天に満つ。諸雷電・鬼神、皆我が眷属となる。惣じて十万五千人也。我が所行は天下の災難也。天帝尺も任せ給へり。其の故は、『不信の者、世間に多く成りたり。疫癘の事行へ』と宣へば、従類を処に放ち遣して行はしむる、其の事也。不信の者をば、此の諸鬼神に仰せて踏み殺さしむ。悪癘、人の為大切の物にてあり。若しくは、不信の人の為に悪瘡を出ださしめよ。汝等我が為に不信ならば、子々孫々に至るまで吉かるまじきぞ。哀れ加様に云ふ計り哉。世間に佗び悲しむ衆生を何に為て助けむと思ふ程に、我鎮西に流さるる後、偏へに仏天に仰ぎて願ぜし様は、『我が命終の後、我が如く無実の難に遇ひ、又惣じて佗び悲しむ者を救け、又無実に沈み損ぜん者を糺明する身と成らん』と願ぜり。今思ひの如く生じたり。然の如き者を、我救はむずる也。但し我が敵人漸く世に少く成りたり。今少しくあり。其も切に我に帰すれば、暫く許りたるぞ。我が宮を造るこそ神妙なれ。賀茂・八▼P2646(一四ウ)幡・比叡なむども常に来り給へるに便無かりつるに、太好し。我が宮の垣には松を
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開かせよ。白砂地に敷き、我が近辺に殺生すること勿かれ。我在生の時、天台山の仏聖、燈油を止めたる事あり。其の罪甚だ探し。彼の代りに法花三昧堂を建てよ。其は神妙なるべし。又我が宮に詣づる人は『家を離るること三四月』の句と、『雁の足(之)に黏将ては帛を繋けたるかと』と云ふ句とを誦せよ」とて、件の童振り覚めぬ。天暦九年三月十三日、比良宮祢宜神の良胤之を記す。かやうに神徳の新たなる事、勝計すべからざる者也。
七 〔平家の人々宇佐の宮へ参り給ふ事〕
同廿日、主上を始め奉りて女院、北政所、内府以下の一門の人々、宇佐社へぞ詣でられける。拝殿は主上、女院の皇居なり。廻廊は月卿雲客の居所となる。大鳥居は五位・六位の官人等固めたり。庭上には四国九国の兵の、甲冑をよろひ、弓箭を帯して並み居たり。社壇を▼P2647(一五オ)拝すれば、あけの玉垣神さびて、松の緑色かへず。宇都の広前年旧りて、遠霞あとなしやな。和光の影にあたる人、月日をいただくにことならず。利物の風になるるもの雨露のうるほひにさも似(に)/たり。本覚真如の春の花、みしめの内に匂ひ深く、応化随縁の秋の月、杉の梢に光あり。御神馬七疋引かせ給ひて、七ヶ日御参籠あつて、旧都遷幸の事、祈り申されけるに、第三日に当たる夜の夜半に、神殿おびたたしく鳴動して、良久しく有つて御殿の中より気高き御声にて歌あり。
世の中の宇佐には神もなき物を心づくしになに祈るらん
此の後ぞ、大臣殿なにの憑みもよわりはてられける。此を聞き給ひけむ一門の人々もさこそ
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心細く覚されけめ。各袖を絞りつつ泣々還御成りにけり。▼P2648(一五ウ)権現は宗廟社稷の神明なり。「無名負人の命を」の詠を感じ、平家は積悪止善の凶従なり。心尽しに何祈るらんの御歌に預かる、哀れなりし事共なり。
八 〔宇佐の神官が娘後鳥羽殿へ召さるる事〕
抑も、此の権現は和歌を殊にこのみましましける事、顕はれたり。今の四宮、御即位の後は、鳥羽にかよはせ給ひしかば、後鳥羽と号し奉る。その比、宇佐の神官の中にやさしく優なる娘を持ちたり。やがて同じき神官のよめに幼少より約束したり。不思議の者にて、此の女、思ひけるは「我人間界の生を受けて女となるならば、雲上の交はりをもして、男を持たば女御后とも一たびなりともならばや」と思ひ定めて、夜昼権現に祈誓し奉る。而る間、成人したれども約束の男に合はず。父母とかく云へども敢へて是を用ゐず。荒れたる籬に露を見て秋の蘭泣く夕晩にも、枕を並ぶる人も無く、深洞に▼P2649(一六オ)風を聞きて老桧悲しむ五更にも、都の事を思ひ遣る。男、此の事を安からず思ひて、「空事をしけり。上にこそ相ふまじき由を云へどもその本意を我ととげたり」と傍輩にかたりければ、さもあるらむと人皆思へり。女、此の事を聞きて心憂く覚えて、宇佐の拝殿に参りて一首の歌を書きて柱におしたり。
千巌破る鉾のみさきにかけ給へなき名おほする人の命を
権現納受し給ひて、此の男三日の内に失せにけり。此の上は父母も又、総じて人に云ひ合はする事なく
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て過ぎけるに、女何なる便宜か有りけむ、一首の和歌を後鳥羽に奏し奉る。
いかにして富士の高峯に一夜ねて雲の上なる月をながめん
是を聞こし食して一夜召されにけり。されども、やがて御いとまを給はりて罷り▼P2650(一六ウ)出でければ、清水寺に参りて出家して真如と名つきけり。「過去帳に入らむ」と云ひければ、戒師云はく「過去帳と申すは、昔がたりになれる人の入る札なり。現在帳か」と云ひければ、真如、
あづさゆみ遂にはづれぬものなれば無き人数にかねて入るかな
戒師哀れがりて入れにけり。此の和歌によつてその後は過去真如といはる。遂に別の男に合はずして往生を遂ぐと云へり。今生後生の宿願、思ひの如し。併ら権現の歌にめでさせ給ひたるなるべし、
をれちがふみぎはのあしをくもでにてこほりをわたすぬまのうきはし
とよみて、一夜召されたりしに、御情に集に入りし女なり。
九 〔四宮践祚有る事 付けたり 義仲行家に勲功を給ふ事〕
十八日、左大臣経宗、堀河大納言忠親、民部卿成範、皇后官権▼P2651(一七オ)大夫実守、前源中納言雅頼、梅小路中納言長方、源宰相中将通親、右大弁親宗参入せられて、即位の事、并びに剣鏡璽宣命の尊号の事等、議定有りけり。頭弁兼光朝臣、諸道勘文を左大臣に下す。次第に伝へ下されけり。「神鏡の事、偏へに如在の儀を存す。還りてその恐れ有り。暫くその所を定めて帰御を待たるべきか。剣璽の事、本朝において更に例無しと雖も、漢家の跡一つに非ず。
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先づ践祚有りて、帰来を待たるべきか。御剣は儀式を備ふべくは、尤も他剣を用ゐらるべき者をや。即位の事、八月受禅、九月即柁、円融院の例なり。而るに天下静まらざる事率爾なり。十月の例、光仁・寛和なり。二代に依るべくは、十一二月に行はるべし。而るに今年は即位以前、朔旦なり。嘉承には出御無く、不吉の事なり。十月旁(かたがた)宜しかるべきか。治暦の例に什せて、官庁紫宸殿を用ゐらるべきか。旧主尊号の事、もし尊号無くは、天に▼P2652(一七ウ)二主有るに似(に)/たるべし。尤も沙汰卅ろべきか。宣命の事、外記の勘状に任せて、嘉承の例を用ゐらるべき」の由、一同に定め申さる。
同日、平家没官の所領等、源氏の輩に分かち給ふ。惣じて五百余所なり。義仲には百四十余箇所、行家には九十ヶ所なり。行家中しけるは、「相従ふ所の源氏等、更に通籍の郎従にあらず。只戦場に相従ふ計りなり。私に支配の条、彼等恩賞の由を存ぜざらむか。尤も分かち下さるべし」と申しけるを、「此の条、争か悉に功の浅深を知食さるる。義仲相計らひて分かち与ふべし」とぞ申しける。両人の申し状、何も謂はれ無きにあらずぞ聞こえける。
今日、行家・義仲等、院の昇殿を聴さる。本は上北面に候じにけり。「此の条、驚くべきにあらずと雖も、官位・俸禄、已に存ずる如きか。奢れる心は人として皆存せる事なれども、今、勲功と称して日々重畳す。尤も頼朝の所存を思慮すべきか」とぞ、人々申しあはれける。
同▼P2653(一八オ)廿日、法住寺の新御所にて高倉院第四王子践祚あり。春秋四歳、左大臣、内記光輔を召して、「践祚の事、太上法皇の詔の旨を載すべきなり。先帝不慮に脱〓(だつし)の事、又摂政
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の事、同じく載すべし」と仰す。次(第)の事は先例に違はずとも、剣璽なくして践祚の事、漢家には有ると雖も、光武の跡、本朝には更にその例なし。此の時にぞ始まれりける。内侍所は如在の礼をぞ用ゐられける。旧主已に尊号を奉られて、新帝践祚あれども西国には又、三種神器を帯し奉り、宝祚を受け給ひて、今に位に在す。国に二主有るに似(に)/たるか。天に二つの日なし。地に二の主なしとは申せども、異国には加様の例も有るにや。吾が朝には帝王ましまさでは、或いは二年、或いは三年なむど有りけれども、京田舎に二人の帝王まします事は未だ聞かず。世末に成ればかかる事も有りけり。
「叙位除目已下の事、法皇御▼P2654(一八ウ)計らひにて行はれし上は、強ちに急ぎ践祚なくとも何の苦しみかは有るべき。帝位空しき例、本朝には神武七十六年丙子に崩じ、綏靖天皇元年庚辰に即位、一年空し。懿徳天皇廿四年甲子に崩じ、孝昭天皇元年丙寅に即位、一年空し。応神天皇廿一年庚午に崩じ、仁徳天皇元年癸酉に即位、二年空し。継体廿五年辛亥に崩じ、安閑天皇元年甲寅に即位、二年空し。而るに今度の詔に、『皇位一日も曠しくすべからず』と載せらるる事、旁(かたがた)その意を得ず」とぞ、有職の人々難じ申しける。
本の摂政近衛殿、替はり給はず。御前に候ひ給ひて万づ執り行はせ給ふ。平家の御聟にておはしましけれども、西国へも落ちさせ給はぬによつてなり。三宮の御乳母は本意無く口惜しき事に思ひて泣き給ひけれども、甲斐無し。帝王の御位なむどは凡夫のとかく▼P2655(一九オ)思はむに依るべからず。天照大神の御計らひとこそ承はれ。
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四宮こそ既に践祚あむなれと聞こえければ、平家の人々は「三宮をも四宮をも皆取り具し奉るべかりし物を」と申されければ、「さらましかば高倉宮の御子、木曽が具し奉りて上りたるこそ、位に付き給はましか」と申す人有りければ、平大納言、兵部少輔尹明なむど申されけるは、「出家の人の還俗したるは、いかが位には即かむずる」と申しあはれけり。「天武天皇は春宮にて御坐ししが、天智天皇御譲り受けさせ給ふべきにて有りけるに、位に付き給はば大伴王子討ち奉らんと云ふ事を聞き給ひて、御虚病を構へさせ給ひて遁れ申させ給ひけるを、帝強ちに姙め申させ給ひければ、仏殿の南面にして鬢ひげを剃らせ給ひて吉野山へ入らせ給ひたりけるが、伊賀、▼P2656(一九ウ)伊勢、美乃三ヶ国の兵を発し給ひて、大伴皇子を討ち奉りて位に即き給ひにけり。孝謙天皇も位を辞せさせ給ひて尼に成らせ給ひて、御名をば法基尼と申しけれども、又、位に還り即き給へりしかば、唐の則天太宗皇帝の例に任せて出家の人も位に即き給ふ事なれば、木曽が宮、何条事かあらむ」と申して、咲ひあひ給ひけり。
九月二日院より公卿勅使を立てらる。平家追討の御祈りなり。勅使は参議修範卿とぞ聞こへし。太上天皇の伊勢の公卿の勅使を立てらるる事、朱雀、白川、鳥羽三代の蹤跡有りと云へども皆御出家以前なり。御出家以後の例、今度始とぞ承はる。八幡の御放生会も九月十五日にぞ侍りける。此日▼P2657(二〇オ)法皇日吉社へ御幸有り。公卿殿上人束帯にて、うるはしき御幸なり。神馬なむど引かれけり。御車の御共には中納言朝方検非違使なむど
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仕る。
十 〔平家九国中を追ひ出だすべきの由仰せ下さるる事〕
筑紫には内裏既に造りて、大臣殿より始め奉り、館ども造り始めて、少し安堵して思ひ給へりし程に、豊後国は刑部卿三位頼輔の知行にて有りければ、子息頼経、国司代官にて下りけるに、刑部卿三位、云ひ遣はされたりけるは、「平家年来朝家の御敵にてありしが、人民を悩まし悪行年積りて鎮西へ落ち下る。而るに九国の輩、悉く帰伏の条、既に罪科を招く所行なり。須く当国の輩においては、殊更にその旨を存じ、敢へて成敗に随ふべからず。是は全く私の下知に非ず。併ら一院の▼P2658(二〇ウ)宣なり。凡そ当国にも限るべからず、九国二嶋の輩、後勘を顧み、身をまつたくせんと思はむ者は、一味同心して、九国中を迫ひ出だすべし」と云ひ遣はされたりければ、頼経朝臣、此の由当国住人諸方三郎伊栄に下知せらる。伊栄、豊後国より始めて、九国二嶋の弓矢取る輩に申し送りければ、臼木、経、松浦党、平家を背きてけり。其の中、原田四郎大夫種直、菊地二郎高直が一類計りぞ、伊栄が下知にも随はず、平家に付きたりける。その外は皆伊栄が命に随ひけり。
十一 〔伊栄の先祖の事〕
彼の伊栄は怖しき者の末にて、国土をも討ち取らむと、おほけなき心あり。九国二嶋には随はざる者なかりけり。伊栄が先祖を尋ぬれば、豊後国知田の庄と云ふ所に、大丈夫と云ふ者に娘ありけり。柏原の▼P2659(二一オ)御許とぞ云ひける。国中に同じ程なる者、聟に成らむと云ひけるをば用ゐず。我よりかさみたる者の云ふはなかりけり。随分秘蔵の娘にて、後園に尋常
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に屋一宇造りて、わりなき様にしつらひて、此の娘をすまする程に高きも卑しきも男と云ふ物をば通はさず、常はさびしさをのみ思ひて明かし晩らす。或年九月半ら計りに、此の娘、終夜心を澄まして、打ち詠めて臥したりけるに、何くより来たれるとも覚えぬに、尋常なる男の狩衣きたりけるが、此の女房の居たるそばに、たをやかに指し寄りて、様々の物語をしけるに、しばしはつつみけれども、よなよな度重なりければ、此の娘さすが石木ならぬ身なれば、打ち解けてけり。其の後よがれもせず通ひけるを、しばしはかくしけれども、付き仕へける女房、女童部、父母にかくと▼P2660(二一ウ)語りければ、驚き騒ぎて急ぎ娘を呼び出して事の有り様を問ひけるに、女面恥じて云はざりけれども、父母強ちにさいなみければ、親の命を背き難くて、ありのままにぞ語りける。「不思議の事ござむなれ」とて、「さらば彼の人の来たりたらむ時、しるしをして、其の行へを尋ぬべし」と、ねむごろにぞ教へける。或る夜、彼の男来たりけるに、よいのむつ事はてぬれば、やごゑの鳥も鳴き亘り、衣々になる暁に、水色の狩衣の頸上と覚しき所に、しづのをだまきのはしを針に付けてさしてけり。さて夜明けて後、父母にかくと告げたりければ、誠にしづのをだまきをくりはへて、千尋百尋引きはへたり。大丈夫父子三人、男女の家人四五十人計りして、糸の行へを尋ねける程に、当国中に深▼P2661(二二オ)山あり。嫗嶽と云ふ彼の山の奥に苔ふかき巌穴へぞ引き入りたりける。彼の穴の口にて聞きければ、大きに痛み悲しむ声有り。是を聞けるに、皆人身の毛竪てぞ覚えける。父が教へによりて、娘糸を引きかへ
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て、「わらはこそ参りたれ。何事を痛み給ふぞ。見奉らむ」と云はすれば、巌穴の内より大きに怖しげなる声にて、「我は其へよなよな通ひつる者なり。去る夜、思ひの外に頸に疵を被りて其を痛むなり。是まで尋ね来たれる志の深さには、出でて見もし、みえもすべけれども、日来の変化の力既に尽きたり。其の上凡夫の身にあらず。本身は此の山を領じたる大蛇なり。汝に見えなば肝魂もあるべからず」と云ひければ、「何か若しかるべき。よるよるなじみ奉りて久しく成りにしかば、当時の形をかへで見え給へ」と云ひけれども、「見ゆべきならば、初めより▼P2662(二二ウ)こそ見ゆべけれども、汝を不便に思ふ故に見えぬなり。但し汝が胎内に一人の男子を宿せり。構へて安穏にそだつべし。九国二嶋をも領ずる程の者にも、草影にても守らむずるなり」と云ひて、其の後はおともせざりけり。父大夫を始めとして、怖しき事なのめならず。周章騒ぎて各逃げ返りぬ。さても月日重なるままに、此の娘ただならず成りて、漸く満ちにければ、一人の男子を生みてけり。生長するに随ひて、容顔もゆゆしく心様も猛くして、九国に聞こゆる程の大力、何事に付けても人に勝れたる者にてぞ有りける。元服せさせて母方の祖父が片名を付けて、大太とぞ云ひける。足には赤雁おびたたしかりければ、異名には赤雁大太とぞ申しける。又彼の大太には背に蛇の尾の形有り▼P2663(二三オ)けり。これに依り姓をば尾形とぞ申しける。今の伊栄は彼の大太が五代の孫にて、心も武くおそろしき者にてぞありける。院宣を蒙りける上は、興に入りて九国二嶋の武勇の輩を駈り催して、数万騎
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の兵を引率して、大宰府へ発向せんとしければ、九国者共皆平家を背きて、伊栄に従ひ付きにけり。
十二 〔尾形三郎平家を九国中を追ひ出だす事〕
さても平家の人々は、此の一両月は心少し落居して、「今は所をしめ、跡を求めて、内裏をも作り、家々をも造らむ。いかがして源氏を滅ぼして、都へ帰り入るべき」なむど、様々の謀を廻らして、寄り合ひ寄り合ひ評定しける処に、かかる事を聞きては、さこそあさましく思はれけめ、肥後守貞能が申しけるは、「小松殿の公達一両人を具しまゐらせて、勢多く入れ▼P2664(二三ウ)まじ、四五十騎計りにて豊後へこえて、伊栄をこしらへて見候はばや」と申しければ、「尤も然るべし」とて、新三位中将資盛、清経、小松新少将有盛、三人大将にて、六十騎計りにて豊後へ打ち越えて、伊栄をこしらへ宥めければ、「此の事、一院の御宣旨にて候へば、今は力及ばず候ふ。やがて公達をもをおしこめまゐらせたく候へども、大事の中に小事なしと存じ候へば、取り籠めまゐらせずとても、いか計りの御事か候ふべき」と申しければ、貞能面目を失ひて帰りにけり。
やがて緒方小太郎伊久、次男野尻次郎伊村とて二人有りける中に、次男伊村を使ひにて、平家の方へ申したりけるは、「御恩をも蒙りて候ひき。相伝の君にて渡らせ給ふ上、十善帝王渡らせ給▼P2665(二四オ)へば、奉公仕るべき由にて候へども、九国中を追ひ出だし奉るべき由、院宣を下され候ふ間、今は力及び候はず。とくとく出でさせ給ひ候へ」と申したりけれ
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ば、平大納言時忠卿は、ひをくくりのひたたれに蘭袴にて、野尻二郎に出で向かひて宣ひけるは、「我が君は天孫四十九代の正統、人皇八十一代の帝にておはします。太上天皇の后腹の第一の皇子、伊勢大神宮入り替はらせ給へり。御裳濯河の御流れ忝なき上に、神代より伝はれる神璽、宝剣、内侍所おはします。正八幡宮も守り奉り給ふらん。九国人民争でか輙く傾け奉るべき。其の上、当家平将軍貞盛、相馬小次郎将門を追討して東八ヶ国を平げてより以来、故入道太政大臣、右衛門督信頼を誅戮して朝家を鎮めしに至るまで、▼P2666(二四ウ)代々の間、各国家の固めとして帝王の御護り也。就中、鎮西の輩は内暘に召し仕はれて重恩の者共にてあり。夫に頼朝、義仲等、東国北国の凶徒を語らひて、『我討ち勝ちたらば国をも取らせむ、庄をも取らせん』と云ふにすかされて、嗚呼奴原が実と思ひて与力して、官兵に向かひて軍するこそ不便なれ。九国輩、当家の重恩を忘れて鼻豊後が下知に随はむ事、太だ然るべからず。能々相ひ計らふべし」と宣へば、伊村畏りて承る。「父に此の由を申し候ふべし」とて立ち帰りぬ。
父伊栄は縁塗の烏帽子に引柿直垂打ち懸けて、引きかたぬぎて、弓絃指しつぎて居たりける所に、伊村帰り来れり。伊栄、「何に、わぬし。心本なきに、はや物語せよ」と云ひければ、伊村此の由を語りて、「是は所々を▼P2667(二五オ)こそ申し候へ。聞きも知りも候はぬ事共、いくらと云ふ事を知らず仰せられ候ひき。人に問ひ候ひつれば、『此の物仰せられ候ひつる人は、平大納言殿』とぞ申し候ひつる。仰せられ候ひつる事共は、紙
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一二枚にも〓[シ(さんずい)+亘]り候はむずらむ。大方かねぐろなる君達、若殿原は誰とか申し候ふらん、いくらもあつまり居ておはしまし候ふ。軍なむど甲斐々々しくせられぬべしともみえ候はぬ」と云ひければ、伊栄申しけるは、「わ主、能々案ぜよ。帝王と申すは、京に居給ひて宣旨をも四角八方へ下さるれば、草木も靡くべし。此の帝王は源氏に責め落とされて、是までゆられおはしたる。且つは見苦しき事ぞかし。此は院には御孫ぞかし。法皇は正しき御祖父にて、京都にはたらかでおはしませば、其ぞ帝王よ。今は今、昔は昔にてこそあれ。院宣を下さるる上は子細にや及ぶ▼P2668(二五ウ)べき」と申して、やがて博多へ押し寄せて、時を作りたりければ、平家の方には肥後守貞能を大将軍として、菊地、原田が一党を差し向けて防きけれども、三万余騎の大勢責めかかりければ、取る物をも取りあへず太宰府をぞ落ちられける。
彼の憑もしかりし天満天神のしめのあたりを心細く立ち離れ、みづきの戸を出でて、住吉、箱崎、香椎、宗像なむどを伏し拝みて、道の便りの法施立願の旨趣にも、只「主上旧都の遷幸」とのみこそ申されけめども、前業の果たす都なれば、今生の感応空しきに似(に)/たり。折節、秋時雨こそ所せけれ。吹く風は砂をあげ、降る雨は車軸の如し。落つる涙のそそく時、田わきて何れと見えざりけり。彼の玄弉三蔵の流沙葱嶺を凌がれけ▼P2669(二六オ)む苦しみも、是にはいかでかまさるべき。彼は求法の為なれば、来世の憑みもありけん、是は怨讐の為なれば、後世の苦しみを思ひ遣るこそ悲しけれ。葱花鳳輦は名をのみ聞く。あかしの女房輿に奉りて、女院
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ばかりぞ御同輿に召されける。国母采女は涙を流して巌石を凌ぎ給ふ。三公九卿は群寮百司の数々に従ひ奉る事も無し。列を乱し山わらうづに深泥を沓みてぞおはしける。
さて、其の日は葦屋津と云ふ所に留まり給ふ。都より福原へ通ひ給ひし時、聞き給ひし里の名なれば、何れの里よりもなつかしく、更に哀れを催しけり。「鬼海、高麗へも渡りなばや」と覚せども、浪風向かひて叶はねば、山鹿の兵藤次秀遠に伴ひて、山鹿城にぞ籠り給ふ。
さるほどに、九月中旬にも成りにけり。深け行く秋の哀れは何くにもと云ひ乍ら、旅の空は▼P2670(二六ウ)忍び難きに、海辺旅泊珍しくぞ覚えける。海人の苫屋に立つ煙、雲居に升る面影、朝まの風も身にしむに、葦間を別きて伝ふ船、弱り行く虫の声、吹きしほる嵐の音、物に触れ折に随ひ、藻にすむ虫の心地して、我からねをぞなかれける。十三夜は名を得る月なれども、殊に今宵はさやけくて、都の恋しさも強ちなりければ、各一所に指しつどひて詠じ給ひける中に、薩摩守かくぞ詠じける。
月をみし去年の今宵の伴のみや都に我を思ひ出づらむ
修理大夫経盛、是を聞き給ひて、
恋しとよ去年の今宵のよもすがら月見しともの思ひ出られて
平大納言時忠卿、
▼P2671(二七オ)君すめば是も雲居の月なれど猶恋しきはみやこなりけり
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左馬頭行盛、
名にしおふ秋の半ばも過ぎぬべしいつより露の霜に替はらむ
大臣殿、
うちとけてねられざりけり梶枕今宵ぞ月の行くへみむとて
思ひきや、彼の蓬壺の月を此の海上に移して見るべしとは。九重の雲上、ひさかたの花月に交はりし輩、今更に切に思ひ出でられて、声々に口ずさみ給ひけり。さこそは悲しく思し食しけめ。
かくて聊かなぐさむ心地せられける程に、又、緒方三郎、十万余騎にて寄すると聞こえければ、山賀城をも取る物も取りあへず高瀬船に棹さして、終夜、豊前国柳と云ふ所へぞ落ち給ひける。▼P2672(二七ウ)河辺の叢に虫の声々弱りけるを聞き給ひて、大臣殿かくぞ思ひつづけ給ひける。
さりともと思ふ心も虫の音もよわりはてぬる秋のゆふぐれ
彼の所は、地形眺望、少し故ある所也。楊梅桃李引き殖ゑて、九重の景気思ひ出だされければ、是にはさてもなむとぞ思ひあひ給ひける。さて薩摩守忠度なにとなく口ずさみに、
都なるここのへの内恋しくは柳の御所を春よりてみよ
〔十三〕 〔左中将清経身を投げ給ふ事〕
緒方三郎やがて襲ひ来ると聞こえければ、彼の御所にも纔かに七ヶ日ぞ御しましける。御船に召して四国の方へぞ趣かれける。小松内大臣の三男、左中将滑経はいと心苦しく思はれける人を置きて都を出で給ひける時、「西▼P2673(二八オ)海の浪に溺れなば再会其の期を知らず。何なる
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人にみえ給ふとも思ひ出だしては念仏申して後世訪ひてたべ」とて、髪を切りて形見に遺したりけるが、中将都を出で給ひて後は風の便りの音信も無かりければ、女恨みて彼の形見に一首をそへてぞ遣しける。
みるたびに心づくしの神なれば宇佐にぞかへすもとの社へ
実にやさしくあはれなりし事也。清経思はれけるは、「都をば源氏に追ひ落とされ、鎮西をば伊栄に追ひ出だされ、何くへ行かば遂に遁るべきかは」とて、閑かに経よみ、念仏して、海にぞ沈み給ひける。人々惜しみ悲しみ給へども甲斐無し。哀れなりし事也。
十四 〔平家九国より讃岐国へ落ち給ふ事〕
長門国は新中納言国務し給ひければ、目代紀伊民部大夫通助、▼P2674(二八ウ)平家小船共に乗り給へると聞きて、安芸、周防、長門三ヶ国の、ひ物か正木つみたる船三十余艘点定して、平家に献りたりければ、夫に乗りて、讃岐へ越え給ひけり。阿波民部成良は折節、讃岐屋嶋の磯にありけるが、「をきの方に木の葉の如くに船共浮かびて候ふ」と遠見に置きたる者申しければ、成良は、「源氏は未だ都を出でたりとは聞かぬ物を。哀れ、此の公達の九国の者共が、すげなく当たり奉る時に、帰り給ふごさむめれ。敵か御方か、成良向かひて見むずる也。敵ならば定めて成良死なむずらむ。矢一ついよ、人共」と云ひ置きて、小船に乗りてこぎ向かふ。御方の船と見てければ、大臣殿の御船に参りて申しけるは、「さ候へばこそ、『是にわたらせおはしまし候へ』と申し候ひしか。『鎮西の者共、志し思ひまゐらせ候はんは、参り▼P2675(二九オ)候はむずらむ。
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二心あらば留まり候はむずらむ。あしこここへ渡らせ給ひて、者共が背き奉らば、中々悪しく候ひなむ』と、指しも申し候ひし物を。此の屋嶋の浦は、吉き城廓にて候ふなり。只此れに渡らせ給ふべきなり」と申して、入れまゐらす。あやしの民の家を皇居とするに足らざれば、暫くは御船を以て御所とす。大臣殿以下の月卿雲客もしづが伏しどに夜を明かし、海人の苫屋に日を送り、草枕、梶枕、浪に濡れ、露にしほれてぞ明かし暮らし給ひける。かかるすまひは誰かいつかは習ふべきなれば、涙を流してぞ臥し沈み給ひける。成良馳せまはりて、阿波国の住人を始めとして四国の者共靡かして、憑もしき様に振舞ひければ、成良が御気色ぞゆゆしかりける。やがて阿波守に成されにけり。
貞能は九国をも随へず、追ひ出だされてければ、きらもなかりけり。▼P2676(二九ウ)原田大夫種直、筑前守になさる。菊地二郎高直、肥後守に成りたりけれども、伊栄に追ひ出だされたりければ、国務に及ばず、只名計りにて有りける上、心替りしてぞ見えける。何事も成良が計らひ申すに任せられければ、四国の者共彼の心に随はむと振舞ひける中に、伊与の河野四郎通信計り参らざりける。成良が沙汰にて、内裏とて板屋の御所造り給ひけり。
都には法皇御歎きなのめならず。其の故は、三種の神祇外土に御坐す事、月日多く重なりぬれば、追討の使ひを遣はさるるに付けても、異国の宝とも成り、海底の塵ともや成らむずらむと思し食す。世の末に成ると云ひながら、我が目の前に、まのあたりかかる不思議のあるこそ心憂けれ。御禊の大嘗会も既に近く成りむたり。▼P2677(三〇オ)いかがして都へ返し入れ奉らむずると、さまざまの
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御祈り始めらる。人々に仰せ合はせられなむどしければ、「御使ひを下されて、時忠卿に仰せらるべし」と議定ありけり。「誰か使節を勤むべき」と評定有りけるに、時光を下さるべき由、諸卿計らひ申されければ、法皇修理大夫時光を召して、「吾朝の大事、此の事にあり。西国に罷り下りて、子細委しく時忠に仰せ含めよ」と仰せられければ、時光申されけるは、「朝家の御大事、君の仰せ、旁(かたがた)子細を申すべきに候はず。怱ぎ罷り下るべく候ふ。但し罷り下り候ひなば、帰参仕る事有り難く候ふ。其の故は、西国へ趣き候ひし時も、必ず相伴ふべきよし時忠申し候ひしかば『御幸成り候はば、子細に及ばず。然らずは、思ひ寄らず』と心中に存じ候ひしに、君の御幸も候はざりしかば、留まり候ひにき。其の後も罷り下るべき由、度々申し遣はし候へども、縦ひ▼P2678(三〇ウ)「万人の首を超えて、三公に致すべく候ふとも、君を離れ奉りて外土へ趣くべしとは、かけても思ひより候はぬ事なれば、返答にも及び候はで罷り過ぎ候ふ也」と申されたりければ、「さては帰り上る事、実に有り難かるべし」とて下されず。彼の修理大夫時光と申すは、平大納言の北の方、安徳天皇の御乳母、帥典侍の〓[女+夫]にておはしければ、時忠卿したしくて西国よりも左様に申されけるにこそ。「さらば云何せん」とは仰せ有りけれども、今度既にさてやめぬ。
十五 〔兵衛佐征夷将軍の宣旨を蒙る事〕
兵衛佐頼朝は輙く都へ登り難かるべしとて、鎌倉に居ながら征夷将軍の宣旨を蒙る。其の状に云はく、
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左弁官下す。五幾内諸国。
応に源頼朝々臣、五幾内・東海・東山・北陸・山陰・南海・▼P2679(三一オ)西海の征夷の将軍為るべき事
使 〈左史生中原康定/右史生国景家〉
右、左大臣藤原朝臣兼実宣す。勅を奉るに、従四位下行前右兵衛佐源頼朝々臣、征夷将軍為らしむべしてへれば、宜しく承知せしめ、宣に (依りて) これを行ふべし。
寿永二年八月日 左大史小槻宿祢
左大弁藤原朝臣在判
とぞ書かれたりける。御使は庁官左史生中原康定とぞ聞こえし。
十六 〔康定関東より帰洛して関東の事語り申す事〕
同九月四日、鎌倉へ下り着きて、兵衛佐に院宣を奉り、勅定の趣を仰せ含めて、兵衛佐の御返事を取りて、廿七日上洛して院御所の御壺に参りて、関東の有様を委しく申しけり。
「兵衛佐申され候ひしは、『頼朝は▼P2680(三一ウ)勅勘を蒙ると雖も、翻りて御使を奉りて朝敵を退け、武勇の名誉長じたるによつてなり。忝なくも、居ながら征夷将軍の宣旨を蒙る。勅勘の身にて直に宣旨を請け取り奉る事、其の恐れあり。若宮にて請け取り奉るべし』と候ひしかば、康定若宮の社壇へ参向仕り候ひぬ。康定は雑色男に宣旨の袋懸けさせて、家の子五人、郎等十人具して候ひき。若宮と申し候ふは、鶴岡と申す所に八幡を移し奉りて候ふが、地形石清水に相似て候ふ。共に宿院あり。四面の廻廊有り。造道
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十余丁見下したり。『さて宣旨をば誰し〔て〕か請け取り奉るべきぞ』と評定候ひけり。『三浦介義澄にて請け取り奉るべし』と定められ候ひにけり。彼の義澄は、東八ヶ国第一の弓取三浦平太郎為継とて、柏原天皇の御末にて候ふなる上、▼P2681(三二オ)父大介義明、君の為に御命を捨てたる者にてあり。義明が黄泉の冥闇をも照らさむがため也。
義澄は家の子二人、郎等十人具して候ひき。家の子二人、内一人は比企藤四郎能員、一人は和田三郎宗実と申す者にて候ふ。郎等十人をば大名一人づつして出で立ち候ひけり。已上十二人は皆甲、義澄は赤威の冑に甲をばき候はず。弓脇にはさむで、右の膝をつき、左のひざを立てて、宣旨を請け取りまゐらせんと仕る。
宣旨を蘿箱の蓋に康定入れまゐらせ侯ふとて、『抑も御使は誰人にておはし候ふぞ』と尋ね申して候ひしかば、『三浦介』とは名のり候はで、『三浦荒次郎義澄』となのり候ひて、宣旨を請け取りまゐらせて後、良久しく候ひて、蘿箱の蓋には砂金百両入れられて返され候ひぬ。拝殿に紫縁の畳を二帖▼P2682(三二ウ)敷きて、康定を居ゑさせ候ひて、高杯に肴二種して酒をすすめ候ふ。斎院次官親能、位膳に立ちて、五位一人役送を勤め候ふ。肴に馬引かれ候ひしに、大宮の侍の一臈にて候ひし公藤左衛門尉資経一人して是引き候ひぬ。其の日は兵衛佐の館へは請じ候はず。五間なる萱の屋をしつらひて、〓[土+完]飯豊かにして、厚絹二領、小袖十重、長櫃に入れて置き、上品の絹百疋、次の百疋、白布百端、紺藍摺百端、積みて候ひき。馬十三疋送り候ひし中に、三疋には鞍置きて候ひき。明日、佐の館へ向かひて候ひし
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に、内外に侍ひ候ふ。共に十六間にて候ふに、外侍には国々の大名肩を比べ膝をくみて列み居たり。内侍には源氏上座して、末座にはおと郎等共着したり。少し引きのけて紫縁の畳を敷きて、康定▼P2683(三三オ)を居ゑさせ候ひて、良久しく有りて、兵衛佐の命に随ひて康定寝殿へ向かふ。寝殿に高麗の畳一帖しきて、簾を揚げられたり。広庇に紫縁の畳一帖敷きて、康定を居ゑさせ候ひぬ。さて兵衛佐出で合はれたり。布衣に葛袴にて候ひき。容顔悪しからず、皃大きにて少しひきぶとに見え候ふ。皃ばせ優美に、言語分明にして、子細を一時のべたり(たるィ)。『行家・義仲は、頼朝が使にて都へ向かふ。平家は頼朝が威に怖れて京都に跡を留めず、西国へ落ち失せ候ひぬれば、其の跡には、いかなる尼公なりとも、などか打ち入らざるべき。夫に、義仲・行家、己が高名がほに恩賞に預り、剰へ、両人共に国を嫌ひ申し候ふなる条、返す返す奇怪に候ふ。但し、義仲僻事仕り候はば、行家に仰せて打たるべく候ふ。行家僻事仕り候はば、義仲に仰せて打たるべく候ふ。当時も頼朝が書状の表書には、「木曽▼P2684(三三ウ)冠者」「十郎蔵人」と書きて候へども、返事はしてこそ候へ』など申され候ひし程に、折節、聞書到来。兵衛佐是を見て、よに心えずげに思ひて、『秀衡が陸奥守に成され、資職が越後守に成され、忠義が常陸守に成りて候ふとて、頼朝が命に随はず候ふも、本意無き次第に候へば、早く彼等を追討すべき由院宣を下され候ふべし』とこそ申し候ひしか。其の後康定色代仕りて、『故に名傅をして進らすべく候へども、今度は宣旨の御使にて候へば、追つて申し
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候ふべし。舎弟にて候ふ史大夫重能も、同心に申し候ひき』〔と〕申して候ひしかば、『当時、頼朝が身として、争でか各の名傅をば給はり候ふべき。さ候はずとても、疎略の儀候ふまじ』と返答してこそ候ひしか。『都にもおぼつかなく思し食され候ふらむに、やがて罷り立つべ▼P2685(三四オ)き』由申し候ひしかば、『今日計りは逗留あるべし』と申され候ひし間、其の日は宿所へ罷り返りて候ひしに、追ひ様に荷懸駄卅疋送り給ひて候ひき。
次の日、又兵衛佐の館へ向かひて候ひしかば、金つばの太刀に九つ指したる箆矢一腰たびて候ひき。其の上、鎌倉を出で候ひし日よりして鏡の宿まで、宿々に米を五石づつ置きて候ひし間、たくさむに候ひつれば、少々人にたび、宿々にて施行に引きてこそ候ひつれ」と細かに申したりければ、「人に取らせず、己が得にはせで」とぞ法皇仰せ有りて、大きに咲はせ給ひける。
又院宣の請文には、「去んぬる八月七日の院宣、今月四日到来。仰せ下さるる旨、跪きて以て請くる所、件の如し。抑も院宣の旨趣に就きて、倩奸臣の滅亡を思ふに、足偏へに明神の冥罰也。更に頼朝の功力に非ず。勧賞の間の事、只叡念の趣足りぬべし」とぞ載せたりける。▼P2686(三四ウ)礼紙には、「神社仏寺、近年以来、仏性の燈油闕きたるが如し。寺社領等、本の如く本所に返し付けらるべきか。王侯卿相已下の領、平家の輩多く押領すと云々。早く聖日の恩詔を下されて、愁霧の鬱念を払はるべきか。平家の党類か、縦ひ科怠有りと雖も、若し過を悔い、徳に帰せば、忽ちに斬刑に行はるべからざるか」とぞ申したりける。
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十七 〔文覚を便にて義朝の首取り寄する事〕
昔の武蔵権守・平将門以下の朝敵の首、両獄門に納めらる。文覚、「白地に宿し入られたらむ者、輙く争でか左馬頭義朝が首掠め取るべき。偽りて兵衛佐に謀反を申し勧めむ」とて、野沢に捨てたる首を取りて、かく申したりけるによりて、謀反を興す。
石橋の軍には兵衛佐負けたりけれども、次第に勢付きて、所々の軍に打ち勝ちて後、父義朝の▼P2687(三五オ)首、実には未だ獄中に有る由、兵衛佐聞き給ひて、文覚を使にて都へ上せて奏聞をへられけるに、義朝が首をば左獄門の前なるあふちの木にかけたりけるを、京に紺掻にてありける字五郎と申しける者、博士判官兼成に付きて、義朝の首給ひて孝養すべき由申したりければ、兼成内裏に申して免されたりけるを、紺掻うれしと思ひて、件の首を取りて獄門の戌亥の角に墓を築きて埋みたりけるを、堀りおこして見ければ、額に義朝と云ふ銅の銘をぞ打ちたりける。鎌田兵衛正清が首もありけり。
義朝に一階を贈らるべき由、兵衛佐公家へ奏せられければ、即ち贈内大臣に補して、義朝が首べを蒔絵の箱に入れて、錦の袋に裹みて文覚上人の頸に懸けたり。正清が首をば檜の箱に入れて、布袋に裹みて文覚が弟子が▼P2688(三五ウ)頸にかけてぞ下りける。「意合すれば、則ち胡越も昆弟為り、由余・子蔵是なり。合せざれば、則ち骨肉も讎敵為り、朱・象・管・蔡是なり。只志を明とせり。必ずしも親しきを明とせず」とぞ文学は申しける。
文学既に下ると聞こえければ、片瀬川と云ふ所まで大名小名迎へに参りたり。さて上人
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鎌倉へ下り着きにければ、兵衛佐冠帯をただしくして庭上におり向かひ、只今頭殿の入らせ給ふと思ひ准へ給ひて、聖の馬の口を取り、涙を流してぞ首を請け取り給ひたりける。梶原以下の大名小名立ち比びたり。皆袖をぞしぼりける。誠に死して後、会稽の恥を雪めたりと覚えて哀れ也。
十八 〔木曽京都にて頑ななる振舞する事〕
木曽義仲は都の守護にて有りけるが、みめ形きよげにて吉き男▼P2689(三六オ)にて有りけれども、立居の振舞の無骨さ、物なむど云ひたる詞つきの頑なさ、堅固の田舎人にてあさましくをかしかりけり。理や、信乃国木曽の山下と云ふ所に、二歳より廿七年の間隠れ居たりければ、然るべき人に馴れ近付く事もなし。今始めて都人となれそめむに、なじかはをかしからざるべき。
宣ふべき事あつて、猫間中納言光隆卿、木曽が許へおはして、雑色を以て「参りたる由いへ」とも宣たりければ、雑色「猫間中納言殿の是まで参るにこそ候へ。『見参に入れと申せ』と候ふ」と云ひ入れたりければ、木曽が方に今井・樋口・高梨・根井と云ふ四人のきり者有りけり。其の中に根井と云ふ者、木曽に「猫殿の参りてこそ候へと仰せられ候ふ」と云ひたりければ、木曽心得ずげにて、「とはなむぞ。猫の来たとはなにと云ふ事ぞ。猫は人▼P2690(三六ウ)に見参する事か」と云ひて腹立ちける時に、根井又立ち出でて使の雑色に、「猫殿の参りたとは何事ぞ」と云ひ、「御料にしからせ給ふ」と云ひければ、雑色をかしと思ひて、「七条、坊城、三生の辺
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をば北猫間・南猫間と申し候ふ。是は北猫間に渡らせ給ひ候ふ上臈、猫間中納言殿と申しまゐらせ候ふ人にて渡らせ給ひ候ふ。ねずみ取り候ふ猫にては候はぬなり」と細々と云ひたりければ、其の時より心得たりげにて、根井、木曽にくはしく語りたりければ、木曽「さては人ござむなれ。いでさらば見参せむ」とて、中納言を入れ奉りて出で合ひけり。
木曽取り敢へず、「猶殿のまれまれわいたるに、根井物まゐらせよ」と云ひければ、中納言あさましく覚えて、「只今有るべくも無し」と宣ひければ、木曽「何が、け時にわいたに、物まゐらせでは▼P2691(三七オ)有るべき。無塩平茸もありつ。とくとく」と云ひければ、「由無き所へ来たりて、今更に帰らん事もさすがなり。かばかりの事こそなけれ」と思し食して、宣ふべき事もはかばかしく宣はず。万づ興さめてかたづを呑みておはしけるに、いつしかくぼく大きなる合子の、帯引き付けて渋ぬりなるに、黒々として毛立ちたる飯を高く大きに盛り上げて、御菜三種、平茸の汁一つ折敷にすゑて、根井以て来たりて中納言の前にすゑたり。大方とかく云ふ量り無し。木曽が前にも同じさまにしてすゑたり。すゑはつれば、木曽箸を取りておびたたしき様に食ひけれども、中納言は青醒めておはしければ、「何にめさぬぞ。合子を嫌ひ給ふか。あれは義仲が観音講に一月に一度すうる精進合子にて候ふぞ。ただよそへ。無塩平茸汁も有り。猫▼P2692(三七ウ)殿あひ給ふや」と云ひければ、食はでも悪しき事もぞあるとて、食ふまねをせられたりければ、木曽はつるりと食ひて手づから合子もさらも取り重ねて、中納言を打ち見て、「ああ猫殿は天性
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小食にてわしけるや。猫殿今少しかい給へ」とぞ申したる。根井よつて猫間殿の膳をあげて、「猫殿の御殿人や候ふ」と申したりければ、「因幡志と云ふ雑色候ふ」とて参りたりければ、「是は猫殿の御わけぞ。給はれ」とて、とらせたりければ、とかく申すに及ばず、提の下へ投げ入れたりけるとかや。
是のみならず、かやうにをかしき事共ありけり。木曽「官なりたる験もなく、さのみひたたれにてあらむも悪し」とて、布衣に取り装束きて、車に乗りて院へ参られけるが、きならはぬ立烏帽子より始めて、指貫の▼P2693(三八オ)すそまで頑ななる事云ふ量りなし。牛童は平家の内大臣の童を取りたりければ、高名の遣手なりけり。我が主の敵と目ざましく心憂く思ひける上、車にこがみ乗りたる有様、云ふはかりなくをかしかりけり。人形か道祖神かとぞ見えし。鎧打ち着て馬に乗りたるには似(に)/ず、あやふく落ちぬべくぞ覚えける。
牛車は屋嶋の大臣のを押し取りたりけり。牛童も大臣殿の二郎丸、世に随へば取られて仕はれけれども、主の敵なれば、目ざましく思ひて、いと心にも入れざりけり。牛は聞こゆる小あめなり。逸物の此の二三年すゑかうたるが、門出を一ずわへあてたらむに、なじかはとどこほるべき。飛びて出でたりければ、木曽さらのけに車の内にまろびにけり。牛はまりあがつて躍る。こはいかにと木曽あさましく思ひて、起き▼P2694(三八ウ)あがらむとしけれども、なじかは起きらるべき。袖は蝶の羽をひろげたるが如くにて、足を空にささげて、なまり音にて「しばし、やれやれ」
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と云ひけれども、牛童空聞かずして四五丁計りあがかせたりければ、共にありける郎等共走り付きて、「いかに、しばし、御車留めよ」と云ひければ、「御車、牛の鼻の強くて留めかねて候ふ。其の上『しばし、やれやれ』と仰せ候へばこそ仕りて候へ」とぞ陳じたりける。
車留めて後、木曽ほれぼれとして起きあがりたりけれども、猶あぶなう見えければ、牛童よりて、「其に候ふ手形に取り付かせ給へ」と云ひければ、いづくを手形とも知らずげにて見まわしければ、「其れに候ふ穴に取り付かせ給へ」と云ひける折、取り付きて、「あはれ支度や。是はわ牛小舎人の支度か、殿の様か、木の成りか」とぞ云ひける。
▼P2695(三九オ)院の御所に車懸けはづれたりけるに、車の後よりおりむとしければ、「前よりこそ下りさせ給ひ候はめ」と雑色申しければ、「いかがすどほりをばせむずる」と云ひけるぞ、をかしかりける。
〔十九〕 〔水嶋合戦の事〕
平家は讃岐の屋嶋に有りながら、山陽道をぞ打ち取りける。木曽左馬守、此を聞きて、信乃国住人矢田判官代・海野の平四郎行広大将軍として、五千余騎の勢を差し遣はしけり。平家は讃岐の屋嶋にあり。源氏は備中国水嶋が津に引かへたり。源平互ひに海を隔てて支へたり。
去んぬる十月一日、水嶋が津に小船一艘出で来たる。あまぶね・釣船かと見る所に、あまぶね・つりぶねにもあらず、平家方の牒使の船也けり。源氏是を見て、舳綱といてほしあげたる千余▼P2696(三九ウ)艘の船を、をめきさけびて下しけり。平家是を見て、五百余艘の船を二百余艘をかたへ指しうけ、残る三百余艘は百艘づつ手々に別けて、源氏の千余艘の船を一艘も漏らさじ
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と、水嶋が津を指し巻きたり。
源氏の大将は海野平四郎行広、搦手の大将軍矢田判官代、平家大将軍は本三位中将重衡、新三位中将資盛、越前三位通盛、搦手大将軍には新中納言知盛、門脇中納言教盛、次男能登守教経。能登守宣ひけるは、「東国北国の奴原に初めて生け取られて、随ひ仕へむ事をば顧るべからず。各の心を一つにして、命ををしむべからず。軍はかうこそするなれ」とて、五百余艘の船、ともづなを結び合はせて中にはもやいを▼P2697(四〇オ)入れ、上に歩みの板を引き渡したれば、平々としたりけり。船の中、遠きは射る、近きは打物にて勝負をす。熊手にかけて取るも有り、取らるるも有り、組みて落つるもあり、差し違へて居たるもあり、思ひ〔思ひ〕心々に勝負をぞ決しける。巳刻より未の下りまで、隙ありとも見えざりけり。
さりけれども、源氏遂に負軍に成りて、大将軍矢田判官代も討たれにけり。海野平四郎行広は、「今は叶はじ」と思ひて、郎等我身共に鎧武者八人、はし船に乗りて奥の方へこぎ去りける程に、船は少し、浪風ははげしかりけり、踏み沈めて、一人も残らず皆死ににけり。
平家は舟中に各鞍置馬を用意したりければ、五百余艘の船ともづなを切り放ちて、渚に船をよせて、船腹を乗り傾けて、馬をさとおろし、ひ▼P2698(四〇ウ)たと乗りて、教経を先としてをめいて懸け給ひければ、打ちもらされたる源氏の郎等共、取る物も取りあへず、匍々都へ逃げ上る。木曽義仲、是を聞きて安からぬ事に思ひて、夜を日に継ぎて備中国へ馳せ下る。
去んぬる六月、北陸道
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加賀国安高篠原の戦に、備中の〓[女+夫]尾の太郎兼康、平泉寺長吏斎明威儀師生け捕られたりしを、
斎明は六条川原にて切られぬ。
〔廿〕 〔兼康と木曽と合戦する事〕
兼康をば西国へ下らむずる道指南にとて、切らざりけり。兼康は、さる古兵にて、木曽に二心無き様に随ひたり。「去んぬる六月より甲斐なき命を生けられ奉りて候へば、今は其に過ぎたる御恩、何かは候ふべき。自今以後、軍仕り候はむには、まつ前かけて命を君にまゐらせ候はん」 ▼P2699(四一オ)と申して、便りの隙有らば木曽を打たんとぞねらひける。蘇子荊の胡へとらはれ、李少卿が漢朝へ帰らざるが如し。遠く異朝に着ける事、昔の人の悲しめりし所也と云へり。〓[革+韋]の〓[革+冓]、毳の〓[巾+莫]等を以て風雨を禦ぎて、羶き肉、酪の漿、彼等を以ては飢饉を養ふ。夜はいぬる事能はず、日は悲しみの涙を垂れて明かし晩らし、薪取り草切らずと云ふ計り也。何事に付けても、心憂く堪へ難き事限り無かりけれども、二心無く木曽に仕はれけり。心の内には、「何にもして故郷へ帰りて旧主を見奉り、本意を遂げむ」と思ふ心深かりければ、謀にかく振る舞ひけるを、木曽知らざりけり。
義仲、寿永二年十月四日朝、都を出でて幡磨路に懸かりて、今宿と云ふ所に着す。今宿より妹尾を先達にて備中国へ下る。古坂と云ふ所にて、兼康、「いとまを▼P2700(四一ウ)給はりて、先に立ちて、親しき奴原あまた候へば、御馬の草をも儲けさせ候はばや」と申しければ、木曽「尤も然るべし」とて、「さらば義仲は爰に三日逗留すべし」とぞ申しける。兼康、「木曽をばよくすかしおほせ
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つ」とて、子息小太郎兼道、郎等宗俊を相具して下りけり。
兼康をば、加賀国住人倉光五郎と云ふ者、生け取りにして木曽に取らせたり。兼康、倉光に云ひけるは、「や、たまへ、倉光殿。兼康生け取りにし給ひたる勧賞未だ行はれずは、備中妹尾は吉き所ぞ。兼康が本領也。勲功の賞に申し給ひて、下り給へかし。同じくは打ち具し奉らう」と云ひければ、倉光五郎、誠にと思ひて、妹尾を望み申しければ、木曽即ち下文を成してけり。倉光五郎、やがて兼康を先に立てて下りけり。
兼康道にて思ひけるは、「倉光を▼P2701(四二オ)妹尾まで具して下りぬる者ならば、新使とて、国の者共もてなしてむ。又悦びする者もあらば、倉光に勢つきてはいかにも叶はじ」と思ひて、「備前国に別の渡りと云ふ所あり。かかる乱世なれば、所も合期せむ事かたし。兼康先立ちて、所の者にもふれ巡り、親しき者共にも、『かかる人こそ下り給へ』と申して、御儲けをもいとなませ候はむ」と云ひて、彼の所に倉光をばすかし置きて、兼康先立ちにけり。草加部と云ふ所に寄宿して、其の夜倉光夜討にして、兼康は西河三の渡りをして、近隣の者共駈り催してて、福龍寺なわてを堀切る。彼のなわてと申は、遠さ廿余丁なり。北は峨々たる山にて南は南海へつづきたる沼田也。西には岩井の別所とて、寺あり。是等を打ち過ぎて、当国一宮の伏し拝み、佐々が迫にかかりにけり。佐々迫は西方は▼P2702(四二ウ)高山なりければ、上には石弓をはり、木曽を待ち懸けたり。後は津高郷とて、谷口は沼なり。何万騎の敵向かひたりとも、輙く落ち難し。爰に兵共差し置きて、
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我が身計りは、から河の宿に引き籠もる。
「倉光五郎は元よりすくやか立ちて、妹尾太郎を生け取りにするのみにあらず、度々高名したる者の、何にして兼康には云ふ甲斐無く置き出だされて打たれにけるやらむ」と人申しければ、或る兵共申しけるは、「理や。北国の住人ながら、案内者立ちて、ここかしこ穴ぐり行き、昔より馬鼻も向かぬ所へも武士を入れなむどして、木曽殿に悪しき事を勧め奉れば、年来本社の御とがめもや有るらむ、そも知らず。又斎明威儀師が六条川原にて頸を切られしも、倉光が讒言なり。されば末寺の長吏なれば、白山▼P2703(四三オ)権現の御崇りにて、云ふ甲斐無く打たれもやしつらむ」とぞ、申しあひける。
妹尾太郎、「兼康こそ、北陸道の軍に生け取られてありつるが、木曽をすかいて暇えて、平家の御方へまゐれ。木曽は既に舟坂山に着きたり。御方に志思ひ奉らむ者共は兼康に付きて、木曽を一矢射よや」と、山びこ、こだまの如くに詈りて通りければ、妹尾の者共、物の具、馬、鞍、郎等をも持ちたる輩は、平家に付き奉りて屋嶋へ参りぬ。物具持たざる程の物は、妹尾に留まりてありけるが、是を聞きて、或いは柿直垂、小袴につめひぼゆひたる者もあり。或いは布小袖にあづまをりしたる者も有り。狩うつぼに鹿矢四五指してかき負ひ、たかえびらに狩矢五六指してかきつけたる者、あなたこなたより二三百人はしり集まりにけり。夫に物の具したる者七八▼P2704(四三ウ)十人には過ぎざりけり。
妹尾の太郎に夜討に打ち漏らされたる倉光が下人、舟坂山に罷り向かひて木曽に申しけるは、
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「倉光殿こそ夜打に討たれて候へ。妹尾太郎殿は『妹尾へ先立て罷り候ひて、馬草をも尋ね、御儲けをも所の者にせさせ候ふべし。其の程は此の寺におはしませ』と申して、倉光殿をば古堂に置き止め奉りて、『怱ぎ使ひを奉るべし』と申して罷り候ひしが、使ひも候はず」と申しければ、木曽大きに驚きて、「さて夜討の勢はいか程か有りつる」と問へば、「四五十騎には過ぎ候はじ」と云ひければ、「さては兼康女がし態にこそ。さ思ひつる物を。安からぬ物哉」とて、木曽腹を立てて、三百余騎にて今宿を打ち出でて、夜を日に継ぎて馳せ下る。其の晩れ方に三石に付く。其よりして明くる日、藤野に付きて、「倉光、さ▼P2705(四四オ)ては爰にて打たれにけるよ」とて、念仏を申し、そこを打ち過ぎて、別の渡りをして河の郷へ打ち入りにけり。福輪寺の縄手、掘り切りたりければ、河の郷の惣官を尋所にて、北の方烏岳を廻りて、佐々がゐをこそ落としけれ。
妹尾は、「木曽、『今宿に三日の逗留』と云ひしかば」とて、未だ城廓も構へぬに、木曽はと押し寄せたりければ、妹尾思ひ儲けたる事なれども、周章たりけり。さは有りけれども、暫くこらへて支へたり。駈武者共はこらへずして皆落ちぬ。少し恥をも知り、名をも惜しむ程の者、一人も残らず討たれにけり。多くは深田におひはめられて、首をぞ切られにける。
妹尾太郎は矢種いつくして、主従三騎みどり山へ籠もりて、「相構へて屋嶋に伝はらむ」と志したりけるが、妹尾が嫡子小太郎兼通は、父には似(に)/ず肥え太りたる男にて▼P2706(四四ウ)有りければ、歩みもやらず、足はれて山の中に留まりにけり。父は小太郎をも捨てて思ひ切りて落ち行きけるが、恩愛
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の道力及ばざる事なれば、小太郎が事思ふに行きもやられず。郎等宗俊に云ひけるは、「兼康は年来数千騎の敵に向かひて戦ひしかども、四方は晴れてこそ思ひしに、只今行き先の見えぬは、太郎を捨てて行く時に、眼に霧かぶりて行き先見えずと覚ゆるぞ。何くへ行き分かれたりとも、死なば一所でこそ死にたけれ。屋嶋へ参りて、北国の軍に木曽に生け取られて、此の日来朝夕仕へつる事をも申さばやとこそ思ふとも、『妹尾こそ最後に余りにあわてて子を捨てて落ちふためきけれ』と云はむ事も心憂し。其の上又、小太郎も恨みてこそ有るらめと思へば、是より取つて帰して、小太郎と一所にて何にも▼P2707(四五オ)成らばやと思ふはいかに」と云へば、「宗俊もさこそ存じ候へ。怱ぎ帰らせ給ひて、小太郎殿と一所にて、清き御自害候ふべし」と云ければ、「さらば」とて、十余丁馳せ帰りて、小太郎が足やみて臥したる所に走り付きて、「行けども行く空も覚えねば、汝と一所にて死なむと思ひて帰りたるぞ」と云ひければ、小太郎おきあがりて、手を摺りて涙を流す。しか木を指し、矢間をあけ、後には大木を木楯にして、木曽を待ちかけたり。
さる程に、木曽三百余騎にて、妹尾が跡を目に付けて追ひ懸かりて来たる。「兼康が此の山に籠もりたむなるは。いづくに有るやらむ。せこを入れてさがせ」と云ひければ、聞きもあへず「妹尾太郎兼康、爰に有りや」と云ひて、指しつめ指しつめ散々に射る。十三騎に手負はせて、馬九疋射殺す。妹尾矢種射尽くしてければ、腹かき切りて伏せにけり。子▼P2708(四五ウ)息小太郎兼通も散々に戦ひて、敵五人射取りて、同じく自害して臥せにけり。郎等宗俊も敵あまた射とりで、しか木の上より「妹尾殿
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の郎等に、宗俊と云ふかうの者の自害する、見よや」と云ひて、大刀のきさきを口にくくみて、まつ逆さまに落ちて貫かれて死にけり。木曽、妹尾父子が自害の頸取りて、備中国鷺が森へ引き退き、万寿庄に陣を取りて勢をそろへけり。
廿一 〔室山合戦の事 付けたり 諸寺諸山へ宣旨を成さるる事 付けたり 平家追討の宣旨の事〕
さる程に、京の留守に置きたりける樋口の次郎兼光、早馬を立てて申しけるは、「十郎蔵人殿こそ、いたちのなき間に豹ほこるらむ風情、院の切人して、殿を誅ち奉らむと支度せられ候ふなれ」と告げたりければ、木曽大きに驚きて、平家を打ち捨て、夜を日に継ぎて都へ走り登る。十郎▼P2709(四六オ)蔵人は是を聞きて、「木曽に違はむ」とて、十一月二日、三千余騎にて京を出、丹波国へかかりて、幡磨路へぞ下りける。木曽は、摂津へ懸かりて入京。平家は門脇中納言教盛父子、本三位中将重衡を大将軍として、其勢一万余騎、幡磨の室に付く。十郎蔵人、三千余騎にて室坂に行き合ひて合戦す。平家の方には、討手を五手に分かつ。一陣、飛騨三郎左衛門景行、五百騎。二陣、越中次郎兵衛盛次、五百騎。三陣、上総兵衛忠経、五百騎。四陣、伊賀平内左衛門家長、五百騎。五陣の大将軍には新中納言七千余騎にて、室坂に歩ませ向かふ。
十郎蔵人、三千余騎にて出で来たる。一陣の勢、是を防ぐ。暫く支へて弓手のこぐれの中へ落ちにけり。源氏、そこを懸け通りて、二陣の▼P2710(四六ウ)勢に歩ませ向かふ。此の手も防ぐ様にて、女手の林へ落ち下る。そこを落として、三陣の勢に歩ませ向かふ。是もこらへず、北の山の麓へ追ひ落とさる。四陣に寄せ合ひたり。是も叶はず、南の山ぎはへ追ひ落とさる。「すきな
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あらせそ」とて、五陣の大勢に寄せ合ひたり。新中納言の侍に、紀七、紀八、紀九郎とて兄弟三人有りけるが、精兵の手聞なりけるを先として、弓勢をそろへて射させければ、面を向くべき様なくて、行家が勢取り返しければ、平家の軍兵、時を造りて追ひ懸かる。時の声を聞きて、四陣、三障、二陣、一陣の勢、山の峯へ馳せ上りて源氏の勢を待つ処に、四陣を破りなむとす。源氏、四手の勢に向かひて心を一つにして支へたり。行家、「敵にたばかられにけり」と心得て、敵に向かひて弓をも引かず、大刀をもぬかず、▼P2711(四七オ)「行家に付きて爰をとほせや、若党」と云ふままに、弓をわきにはさみ、大刀を肩に懸けて通りにけり。四陣破りてかけ通りぬ。三陣同じく懸け通りぬ。二陣一陣通りはてて、十郎蔵人、後を顧みたりければ、僅かに五十余騎に成りにけり。此の中にも手負あまたあり。大将軍一人ぞ薄手もおはざりける。行家あまの命生きて、摂津へ落ちにけり。平家の勢、後にしこみければ、行家散々に射破られて、幡磨には平家に恐れ、都には木曽に怖れて和泉国へぞ落ちにける。平家は室山・水嶋両度の軍に討ち勝ちてこそ、少し会稽の恥をば雪めけれ。
十一月九日、諸寺諸山の神社仏寺元の如く香花の勤めを致すべき由、宣旨下されけり。彼の状に云はく、
▼P2712(四七ウ)東海、東山道諸国、同じく神社、仏寺、院宮、王臣、諸司、諸家の庄領、彼是の妨げを停止し、旧の如く使を遣はし、宜しく蘋〓[十十(くさかんむり)+繁]の費を領掌せしむべし。香花の勤め、其の事空しく断えて、漸く年序を経たり。加之、
人の怨みの積もる所、天心測り難し。慥かに、綸旨を守り、敢へて稽留すること勿れ。但し、
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尚違濫の所有るは、
前右兵衛佐頼朝に仰せて、厳しく禁制を加へ、速かに遵行せしめよてへり。
寿永二年十一月九日 左中弁
平家の余党、責め落とすべき由、宣旨下さる。其の状に云はく、
平氏の余党、猶其の群を成し、或いは官軍に挑戦し、或いは州県を劫略す。風聞の趣、罪科弥よ重し。備前守源行家に仰せ、山陽、南海両道の驍勇の輩を相率して、宜しく彼の賊徒等を征伐せしむべしてへり。
▼P2713(四八オ)寿永二年十一月十一日 左中弁
廿二 〔木曽都にて悪行の振舞ひの事 付けたり 知康を木曽が許へ遣はさるる事〕
源氏の世に成りたりとも、指せる其のゆかりならざらむ者は、何の悦びか有るべきなれども、人の心のうたてさは、平家の方弱ると聞けば内々悦び、源氏の方つよると聞けば興に入りてぞ悦びあひける。さはあれども、平家西国へ落ち給ひしかば、其の騒ぎに引かれて安き心無し。資財、雑具、東西南北へ運び隠すほどに引き失ふ事数を知らず。穴を堀りて埋みしかば、或いは打ち破れ、或いは朽ち損じてぞ失せにける。あさましとも愚か也。増して北国の夷打ち入りにし後は、八幡、賀茂の領を憚らず、麦田を苅らせて馬に飼ひ、人の倉を打ち破りて物を取る。然るべき大臣・公卿の許なむどこそはばかりけれ、片辺に付きては、武士乱れ入りて少しも穏しき所なく家々を追捕しければ、「今食はむ」とて取り企てたる物をも取り奪はれ、口を空しくしけり。家々には▼P2714(四八ウ)武士有る所もなき所も、門々に白旗立ち並べたり。路を過ぐる者も安き事無し。衣装をはぎとりければ、男も女も見苦しき事にてぞ有りける。「平家の世には、六波羅殿の御一家
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と有りし」と、老ひたるも若きも歎きあへる事なのめならず。木曽、かかる悪事を振る舞ひける事は、加賀国井上次郎師方が教訓に依りてとぞ、後には聞へし。
院の北面に、壱岐判官知康は鼓判官とぞ云ひける。彼を御使にて、狼籍を止むべき由仰せられけれども、木曽、遠国の夷と云ひ乍ら、無下のひたすら物覚えぬあら夷にて、院宣をも事ともせず散々に振る舞ひければ、前入道殿下不便に思し食して内々木曽に仰せられけるは、「『平家の世にはかやうに狼籍なる事やは有りし』なむど、諸人云ひ歎く也。又、在々所々に強盗、窃盗隙無くて、人を殺し火を放つ事、愚かならずと聞こゆ。▼P2715(四九オ)怱ぎ鎮むべし」と仰せられけれども、其の験無し。
院より知康を御使にて「上洛して叛逆の徒を追ひ落したる事は本意也。誠にや、室山より備前守行家が引き退きにける由聞ゆ。尤もおぼつかなし。さては此の間、洛中狼籍にて、諸人の歎き有り。早く鎮むべし」と仰せ有りければ、木曽義仲畏まりて申しけるは、「先づ、行家が引き退き候ひける条、様こそ候ひけめ。さればとて、やはか平家世を執り候ふべき。計らふ旨、侯ふ。騒ぎ思し食すべからず。京都狼籍の事、つやつや知らず候ふ。尋ね沙汰仕るべく候ふ。下人共多く候へば、左様の事も候ふらん。又、義仲が下人に事をよせて、落ち残る平家の家人もや仕り候ふらん。又、京中の古盗人もや仕り候ふらん。目にみえ、耳に聞き候はむには、争でか左様の狼籍せさせ候ふべき。今より後、義仲が下人と名乗りて仕らむ者を捕へて給はるべし。▼P2716(四九ウ)一々に頸切りて、見参に入れ候ふべし」と尋常に申しければ、知康帰り参りて、義仲が申し候ひ
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つる様、細々申し上げたり。「及ぶところ能く申すにこそ」と仰せあり。
木曽、かくきらきらしくは申したりけれども、京都の狼籍猶止まざりければ、又知康を御使にて、「相構へて此の狼籍止めよ。天下泰平とこそ祈る事なるに、乱りがはしき事詮無し」と仰せありければ、木曽此の度は気色あれて目も持ちあげず「わ御使をば誰と云ふぞ」と問ふ。「壱岐判官知康と申すなり」と云ひければ、「や、殿。わ殿を鼓判官と京童部の云ふなるは、万の人に打たれたうか、はられたうか。鼓にてもわせ、銅拍子にてもわせ、義仲が申したる旨を院に申されねばこそ、さやうに『狼籍をする、狼籍をする』と云ふ沙汰有るなれ。道とも覚えず」と云ひて事の外にしかりければ、知康、「さらば帰らむ」と云ひければ、木曽、「そへに。帰らでは▼P2717(五〇オ)何事をし給ふべきぞ」とあららかに云ひければ、知康にがわらひて帰り参りて「義仲嗚呼の者にて候ひけり。向かひざまにかくこそ云はれて候ひつれ。勢を給はりて追討仕り候はばや」とぞ申しける。此の知康は究竟のしててい打ちの上手にてありければ、人「つづみ判官」と申しけるを、木曽聞き伝へてかく申したるけるにや。木曽、かかる荒夷にて院宣をも事ともせずかやうに散々に振る舞ひければ、平家には事の外替へ劣りしてぞ思し食しける。其の比奈良法師、法皇を歌によみまゐらせてぞわらひける。
白さひで赤たなごひに取り替へてかしらに巻ける小入道かな
〔廿三〕 〔木曽を滅すべきの由法皇御結構の事〕
後には山々寺々へ乱れ入りて、堂塔をこぼち、仏像を破り焼きければ、釈尊在世の
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時、提婆が化現もかくやとぞ覚えし。云ふに及ばず、神社にもはばからず狼▼P2718(五〇ウ)籍止まらざりければ、「早く義仲を追討して洛中の狼籍を止むべき」由知康が申し行ひける上、法皇も奇怪に思し食されければ、はかばかしく人に仰せ合はせらるるに及ばず、ひしひしと思し召し立ちて、法住寺殿に城廓を構へて兵共を召し集め、松葉を以て御方の笠注にしたりけり。明雲の天台座主に成り返り給へると、八条宮の寺の長更にて御しけるを、法住寺殿へよびまゐらせ給ひて、「山・三井寺の悪僧共を召して進らせらるべき」由仰せ有りけり。其の外、君に志思ひまゐらせむ者、御方へ参るべきの由仰せられければ、義仲に日来随ひたりける摂津・川内源氏、近江・美乃の狩武者、北陸道の兵共、木曽を背きて我も我もと参り籠りにけり。是のみならず、諸寺諸山の別当、長吏に仰せて兵を召されければ、北面の者共、若殿上人、▼P2719(五一オ)諸大夫なむどは面白き事に思ひて興に入りたりけり。少しも物の心を弁へ、おとなしき人々は、「こは何かに成りぬる世の中ぞ。あさましき事哉。只今天下に大事出で来なむ」とあさみあへり。
知康は御方の大将軍にて、門外に床子に尻かけて、赤地錦の直垂にわき立計りにて、廿四指したる征矢を一筋抜き出してさらりさらりとつまやりて、「哀れ、しれ者の頸の骨を、此の矢を持ちて只今射貫かばや」とぞ詈りける。又、万の大師の御影を書き集めて、御所の四方の陣にひろげ懸けたり。御方の人々の語らひたりける者共は、堀川商人、町の冠者原、飛〓[石+矢]、
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因地、乞食法師原也。合戦の様もいつか習ふべき。風もあらく吹かば倒れぬべくて、逃足をのみ踏みたる者共ぞ、多く参り籠りたりける。物の要に立ちぬべき者はなかり▼P2720(五一ウ)けり。
木曽、是を聞きて申しけるは 「平家謀反を発して君をも君ともし奉らず、人をも損じ、民をも悩ます事年尚し。而るを、義仲命を捨てて責め落して君の御代に成し奉るは、希代の奉公に非ずや。夫に何の科あつてか只今義仲を誅せらるべし。東西の国々塞がりて、京都へ物も上らず持ち来る者はなし。餓飢すべく死ぬべければ、命を生きむが為、兵糧米をも取り、いくらも見ゆる青田をもからせて馬に飼ふは、力及ばぬ事也。さればとて、弓矢とる者は馬を以てこそ軍合戦をもすれ。王城を守護して有らむ者が、馬一疋ずつのらでもいかが有るべき。さりとても、宮原へも打ち入り、大臣家へも乱れ入りて狼籍をもせばこそ奇怪ならめ。片畔に付きて少々入り取りなむどせむをば、院強ちに咎め給ふべきやうやはある。是は鼓めが讒言也。安からぬ者かな。鼓女を打ち破りて▼P2721(五二オ)捨てむ」と云ひければ、「左右に及ばず」 と云ふ者もあり。樋口次郎兼光、今井四郎兼平なむどが申しけるは、「十善帝王に向かひまゐらせて、弓を引き、矢を放たせ給はむ事、いかが有るべく候ふらむ。只誤たせ給はぬ由を何度も申させ給ひて、甲をぬぎ、弓をはづして降人に参らせ給べくや候ふらん」と申しければ、「義仲、年来何度の軍かしつる。北国は信乃の小見会田の軍を始めとして、北陸道には黒坂、塩口、横田川原、安高、篠原、砥波山、西国には備前の福龍寺の縄手、佐々が責まり、
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備中の板倉の城を落とししまで、已上九ヶ度かの軍をしつれども、一度も敵に後を見せず。十善帝王にておはすとても、甲をぬぎ弓をはづしてをめをめと降人に成るべし▼P2722(五二ウ)とは覚えず。鼓女に頸切られなば、悔ゆるに益あるまじ。法皇は無下に思ひしり給はぬ物哉。義仲においては、今度は最後の軍なり」とぞ申しける。木曽かく云ふなりと聞こえければ、知康いとど嗔り急ぎ義仲を追討すべき由をぞ申し行ひける。
廿四 〔木曽怠状を書きて山門へ送る事〕
義仲北国の合戦に、所々にて官兵を打ち落として都へ責め上りしに、ひえ坂本を通らむ時、衆徒輙く通さじとて、越前国府より牒状を書きて、山門へ送りたりしによりて、衆徒木曽に与力してければ、源氏の軍兵、天台山へ登りにけり。其の後、木曽都へ打ち入りて、狼籍なのめならず。山門の領に所も置かざりければ、衆徒契りを変じて、木曽を背くべき由聞こえけり。これに依りて、義仲怱ぎ怠状を書きて山門へ遣はす。其の状に云はく、
▼P2723(五三オ)山上の貴所 義仲謹みて解す
叡山の大衆、忝なく神輿を山上に振り上げ、猥しく城廓を東西に相ひ構へて、更に修学の窓を開かず。偏へに兵仗の営みを専らにすと云々。根元を尋ぬれば、義仲悪心を結構して、山上、坂本を追捕すべきの由風聞す。此の条、極めたる僻事に候ふ。且は満山の三宝、護法聖衆、知見を垂れしめ給ふべし。上洛を企てし日より、冥には伊王山王の冥助を仰ぎ奉り、顕には山上の大衆の与力を憑む。今始めて、何ぞ勿諸を致すべけんや。
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帰依の志有りと雖も、凶悪の思ひ無く候ふ者なり。但し京都に於いて山僧を搦むるの由、其の聞こえ有るの条、尤も恐れ存じ候ふ。山僧と号して猛悪を好むの輩、之在り。仍りて真偽を糺さむがため、粗尋ね承るの間、自然に狼籍出で来たるべく候ふか。▼P2724(五三ウ)全く遍儀を満たすべし。惣じて山上には軍兵を登らしむべきの由を聞く。之に依りて、大衆下絡せらるべきの由、之を承る。偏へに是天魔の結構する所か。相互ひに信用すべからず候ふ。且は此の旨を以て山上に披露せしめ給ふべきの状、件の如し。
十一月十三日 伊与守渡義仲
進上 天台座主御房
とぞ書きたりける。山上には是にも精けず、弥よ蜂起する由聞こえけり。
〔廿五〕 〔木曽法住寺殿へ押し寄する事〕
昔、周の武王、殷の紂王を誅たむとしけるに、冬天に霜塞へて、雪(ゆき)降る事高さ廿丈余りなり。五馬二車に乗れる人、門外に来て、「王を助けて紂を誅つべし」と云ひて去りぬ。又、深雪に車馬の跡▼P2725(五四オ)なし。是れ則ち海神の天の使として来たれるなるべし。然る後、紂を誅つ事を得たり。漢の高祖は、韓信が軍に囲まれて危かりけるに、天俄に霧降りて、闇をなして、高祖遁るる事を得たりき。木曽人倫の為に〓[隹+隹]有り、仏神に憚りを成さず。何に依りてか天助にも預り、人の愍れみも有るべきなれば、法皇の御鬱りも弥よ深く、知康も日に随ひて、「怱ぎ追討せらるべし」とのみ申し行ひけり。
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知康は赤地の錦の鎧直垂に、態と鎧をばきず、甲計りをぞきたりける。四天王の像を絵に書きて甲にはおし、右の手には金剛鈴を振り、左の手には鉾をつきて、法住寺殿の西面の築垣の上に昇りて、事をおきてて時々はまひけり。是を見る者、「知康には天狗付きにけり」とぞ申しける。
木曽が軍の吉例には、陣を立つるには七手に▼P2726(五四ウ)分けて、末は一手二手に行き会ひけり。先づ今井四郎を大将軍として、三百余騎を以て、御所の東、瓦坂の方へぞ廻らしける。残る六手は一になりたる定、一千余騎には過ぎざりけり。
十一月十九日辰時に、木曽義仲既に打ち立つ由聞こえければ、大将軍知康以下、近国の官兵、北面の輩、公卿殿上人、中間、山法師、已上二万余騎、騒ぎ詈りける程に、木曽が方の兵には、仁科次郎盛家、高梨の六郎高直、根井幸親、同男楯六郎親忠、樋口次郎兼光、今井四郎兼平以下者共、一千余騎にて、七条より河原へ打ち出でて、時を作る事三ヶ度、おびたたしくこそ聞こえけれ。やがて西面の際へ責め寄せければ、知康進み出でて申しけるは、「汝等、忝なくも十善帝王に向かひ奉りて、▼P2727(五五オ)弓を引き矢を放たむ事、争か仕るべき。昔は宣旨を読み懸けければ、枯れたる草木も花さき菓なり、水なき池には水湛へ、悪鬼悪神も随ひ奉りけり。末代と云はむからに、東の夷の身にて、争でか公を背き奉るべき。況んや汝等が放つ矢は、還りて己等が身に当たるべし。抜く大刀は身を切るべし。御方より放たむ矢は、征矢、とがり矢をすげずとも、己等が甲冑にはよもたまらじ。速かに引きてのき候へや」と云ひ
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ければ、木曽大きにあざわらひて、「さないはせそ」とて、をめいて懸く。
やがて御所の北の在家に火を懸けてければ、北風はげしく吹きて、猛火御所に吹き掩へり。御所の後ろ、今熊野の東の方より、今井四郎三百余騎にて時を作りて寄せたりければ、参り籠もられたりける公卿殿上人、山々寺々の僧徒、▼P2728(五五ウ)駈武者共、肝神も身に副はず、足手の置き所も知らず。大刀の柄をとらへたれども、指はだかりて拳られず。長刀を逆さまについて、己が足をついきりなむどぞしける。増して弓を引き矢を放つまでは思ひも寄らず。加様の者のみこそ多く参り籠もりたりける。西には大手政め向かふ、北よりは猛火燃え来たる、東の後ろには搦手廻りて待ち懸けたりければ、南の門を開けてぞ人々迷ひ出でられける。西面の八条が末の門をば山法師固めたりけるが、楯六郎懸け破りて入りにければ、築垣の上にて金剛鈴振りつる知康も、何方か失せぬらむ、人より先に落ちにけり。知康落ちにける上は、残り留まりて軍せんとする者なかりけり。名をもをしみ、恥をも知る程の者、皆打ち死にに死にけり。其外ははうはう▼P2729(五六オ)御所を逃げ出でて、かしこここに射伏せられ、切り伏せらる。無慚とも云ふ量り無し。
七条が末は摂津源氏、多田の蔵人、豊嶋冠者、大田大郎等固めたりけるも、七条を西へ落ちにけり。軍以前に在地の者共に、「落ちむ折は打ち伏せよ」と知康下知したりければ、在家人等、家の上に楯をつき、おそひの石を取り集めて待つ処に、御方の落つるを敵の落つると心得て、我おとらじと打ちければ、「是は御方ぞ」「是は院方ぞ」と面々に名乗れども、「院宣にてある
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ぞ。只打ち伏せよ。只打ち伏せよ」と打ちければ、軒下へ馳せより、門内へ逃げ入りて、物具脱ぎ置きて、はうはうぞ落ちにける。
御方にも吉き物少々在りけり。出羽判官光長が其の比伯耆守にてありけると、同じく子息光経が左衛門尉にて使の宣旨を蒙りたると、父子二人▼P2730(五六ウ)打ち死にしてけり。信乃国住人赤塚の判官代父子七人参り籠もりてありけるが、子息三郎判官代計りぞ打ち死にしてける。残る六人落ちにけり。
天台座主明雲僧正は、香染の御衣に、皆水精の御念珠持ち給ひて、殿上の小侍の妻戸を差し出でて、馬に乗らむとし給ひけるが、楯六郎が放つ矢に御腰骨を射させて、犬居に倒れ給ひけるを、兵よつて、やがて御首を取り奉る。寺の長吏円恵法親王は、御輿にて東門より出でさせ給ひけるを、兵馳せつづいて追ひ落とし奉りければ、小家の内へ逃げ入らせ給ひけるを、根井の小野太が射る矢に、左の御耳根をかせぎに射貫かれ給ひて、うつぶしに臥せ給ひけるを、兵よつて、御首を切り奉りてけり。
法皇は御輿に召して、▼P2731(五七オ)南門より出でさせ御しけるを、武士多く懸け責めければ、御力者も命のをしかりければ、御輿を捨てて、はうはう逃げ失せにけり。公卿殿上人も皆立て隔てられて散々に成りて、御共を仕る人無かりけり。豊後少将宗長計りぞ、木蘭地の直垂小袴に〓[糸+舌]り上げて、御共に候はれける。宗長は元よりしたたかなる人にて、法皇に少しも離れ奉らざり
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けり。武士間近く追ひ懸かりて、既に危かりければ、小将立ち向かひて、「是は院の渡らせ給ふぞ。誤ち仕るな」と申されたりければ、武士共馬より下りて畏る。「何者ぞ」と尋ねければ、「信乃国の住人根井小野太、并びに楯六郎親忠が弟八嶋四郎行綱と申す者にて候ふ」と申す。二人参りて、御輿に手あげまゐらせて、五条内裏へ渡し奉りて、守護し奉る。宗長計りぞ御▼P2732(五七ウ)共には候はれける。其の外の人は一人も見ず。大方とかく申す量り更に無し。覚とも覚えず。
主上の御沙汰しまゐらする人もなかりければ、何になるべき様無し。兵共は入り乱れぬ。御所に火懸けたり。七条侍従信清、紀伊守範光、只二人候はれけるが、池にありける御船に乗せ奉り、差しのけたりけれども、流れ矢〓[十十(くさかんむり)+積]き懸くるが如し。信清、「是は内の渡らせ御しますぞ。何にかくは射まゐらするぞ」と申されけれども、猶狼籍なりければ、心うく悲しくて、主上を御船の底に伏しまゐらせて、かかへまゐらせてぞ居たりける。夜に入りて、坊城殿へ渡し奉りて、其より閑院殿へ入らせ給ひにけり。行幸の儀式、只押し量るべし。いまいましとも愚かなり。法住寺殿は、御所より始めて、人々の家々、檐をきしりて造りたりつるも、なじかは一宇も残るべき、皆焼け亡びにけり。
播磨中将▼P2733(五八オ)雅賢は、させる武勇の家にあらねども、武勇の人にておはしければ、面白く思はれければにや、兵仗を帯して参り籠もられたりけり。重目結の直垂に、紺糸威の腹巻をぞ着られたりける。殿上の西面の下侍の妻戸を押し開けて出でられけるを、楯六郎蒐け入り
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て、頸の骨を志して射たりけるが、烏帽子の上を射こすりて、妻戸に矢たちにけり。其の時、「我は幡磨中将と云ふ者にてあるぞ。誤ちすな」と騒がぬ体にて宣ひたりければ、楯六郎馬より飛び下りて、生け取りて我が宿所に誠め置きてけり。
越前守信行と云ふ人在りけり。布衣に下〓[糸+舌]りで在りけるが、共に具したりつる侍も雑色も何か失せにけむ、一人も見えず。二方よりは武士せめ来る、一方よりは黒煙覆へり。いかにすべき様もなうて、大垣の在りけるを超えむ超えむとしける程に、なじかは越えらるべき。後ろより前へ▼P2734(五八ウ)射貫れて、空様に倒れて死にけるこそ無慚なれ。
主水正近業は、大外記頼幸真人が子なり。薄青の狩衣に上〓[糸+舌]りで、葦毛なる馬に乗りて七条川原を西へ馳せけるを、木曽郎等今井四郎馳せ並べて、妻手の脇を射たりければ、馬より逆さまに落ちて死にけり。狩衣の下に腹巻を着たりけるとかや。「明経道博士なり。兵具を帯する事然るべからず」と、人傾け申しけり。
河内守光資が弟、源蔵人仲兼は南門を固めたりけるが、落ちざりけるを、近江源氏錦古利冠者義広が打ち通り様に、「殿原は何を固めて今まではおはするぞ。已に行幸御幸、他所へなるぬる物を」とて、落ちければとて、河内守は上の山に籠もりぬ、源蔵人は南へ向けて落ちにけり。河内国住人、草〓[十十(くさかんむり)+列]の加賀房源秀と云ひける者、葦毛なる馬の極めて口強きに乗りた▼P2735(五九オ)りけるが、源蔵人に押し並べて、「此の馬のあまりはやりて、乗りたまるべしとも覚えず候ふ。
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いかがし候ふべき」と申しければ、「いでさらば、仲兼が馬に乗りかへむ」とて、馬の下尾白かりけるに乗り替えたり。主従八騎打つれて、瓦坂の手向に三十騎計りにて引かへたる中へ、をめいてかけ入りぬ。半時計り戦ひて、八騎が内、加賀房を始めとして、五騎は打たれにけり。蔵人仲兼主従三騎は蒐け破りて通りにけり。加賀房が乗りたりける下尾白き馬、走り出でたりければ、源蔵人の家の子に、信乃二郎頼成と云ふ者は、源秀が乗り替へたるをばしらで、舎人男の有りけるに、「此の馬は、源蔵人の馬と見るは僻事か」。「さ候ふ。はや打たれにけりなれ。さ候へばこそ御馬計りは走り出でて候ふらめ」と云ひければ、「穴心うや。蔵人殿より先に死にてこそ見えむと思ひつるに、いづちへ向かひて▼P2736(五九ウ)懸けつるぞ」。「あの見え候ふ勢の中へこそ」と申しければ、信乃二郎「さごさむなれ」とてをめいて蒐け入りて打ち死にしてけり。さて源蔵人大夫仲兼は、木幡山にて近衛殿の御車にて落ちさせ給ひけるに追ひ付き奉りぬ。「あれは仲兼か」。「さむ侯ふ」。「人も無きに、近く参れ」と仰せ有りければ、宇治まで御共仕りて、夫より川内国へぞ落ちにける。
刑部卿三位は迷ひ出でてにげられけるが、七条川原にて物取に表裏皆はがれにけり。烏帽子さへ落ち失せにければ、十一月十九日の事なれば、河風さこそは寒く、身にもしみ給ひけめ、すごく赤裸にて立たれたりけるに、此の三位の兄に越前法橋章救と云ふ人有りけり。彼の法橋の許に有りける中間法師、「さるにても、軍は何がなりぬらむ」と思ひて、立ち出でたりけるが、
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此の三位の有様を見て、目も▼P2737(六〇オ)あてられず、あさましく思ひて、我が着たる衣を脱ぎて着せ奉りたりければ、衣うつをにほうかぶりて、此の中間法師に相ひ具して、法橋の宿所へおはしけり。彼の宿所は六条油小路にてありければ、六条を西へ、中間法師を先に立てておはしけり。法師も白衣なり。三位の体もをかしかりければ、万人目を立てて、あさましげに思ひて見ければ、「とくとく歩み給へかし」と中間法師思ひけるに、いそぎも歩まれず、「『ここはいづくぞ。あれは誰が家ぞ』なむど、しづしづと問はれたりしこそ、あまりにわびしかりしか」と、後に人に語りけるとかや。 是のみならず、をかしくあさましく心憂き事共多くかたりけり。寒中に一衣をもきたる者をば、上下をいわずはぎとりければ、男も女も皆赤裸にむかれ、心うき事限り無し。僅かに甲斐無き命計り生くる人々も、逃げ▼P2738(六〇ウ)隠れつつ、都の外なる山野にぞ交はりける。
廿六 〔木曽六条川原に出で/て首共懸くる事〕 廿日辰時に、木曽、六条川原に出でて、昨日切る所の首共、竹結ひ渡して取りかけたり。左の一の首には天台座主明雲大僧正の御首、右の一には寺の長吏円恵法親王の御首をぞ懸けたりける。其の外、七重八重にかけ並べたる首、惣て三百四十余人とぞ数へて申しける。是を見ては、天に仰ぎ、地に倒れてをめき叫ぶ者多かりけりり父母妻子なむどにてこそありけめ。無慚とも愚かなり。越前守信行朝臣・近江前司為清・主水正近業なむどが首も此の中にありけり。「法皇は古へにもこりさせ給はず、又かかる云ふ甲斐無き事、引き出ださせ給ひて、万人の
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命を失はせ給ひ、我が御身も禁獄せられさせ給へる事、責めての御罪のふかさ、▼P2739(六一オ)先の世までもうたてく」なむどぞ、貴賎上下、遠近親疎、体をしてぞ申し合ひける。
八条宮の房官に大進法橋行清と云ふ者有りけり。宮打たれさせ給ひぬと聞こえければ、こき墨染の衣に、つぼみ笠きて、六条川原に出でて、懸け並べたる頸どもを見るに、明雲僧正の御頸と宮の御頸とをば、左右の一番にかけたり。行清法橋、是を見奉りて、人目はつつましけれども、余りの心うさに衣袖を顔にあてて、しのびの涙せきあへず。さこそは思ひけめと押しはかられて無慚也。御頸にも取り付き奉らばやと思ひけれども、さすが、そも叶はねば、泣く泣く帰りにけり。其の夜、行清忍びて、彼御頸を盗み取りて、高野へ詣でて、奥の院に納め奉りて、やがて高野に閉ぢ籠りて、宮の御菩提をぞ訪ひ奉りける。
▼P2740(六一ウ)廿七 〔宰相修憲、出家して法皇の御許へ参る事〕
故少納言入道の末子に宰相修憲と云ふ人おはしけり。此の合戦、あさましく心憂く思はれける上、院をも木曽取り奉り、兵稠しく守り奉ると聞きければ、何にしてか今一度みまゐらせむと思はれける余りに、「俗形にてはよもゆるさじ、出家したらむのみぞ入れられむずる」とおぼして、俄かに本鳥切り、五条内裏へ参られたりければ、守護の武士もゆるして、入れ申してけり。さて、法皇の御前へ参りて、「俄かに出家を思ひ立ち候ふ本意、しかじか」なむど申されければ、法皇、聞こし召して、「まめやかの志かな」とて、感涙をぞ流させ御しける。「人多く誅たれたりと聞こし召しつれば、穴倉く思し食しつるにこそ。うれしく思し食す」とて、又御涙を流させ
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給ひければ、宰相入道も墨染の袖、絞り敢へず。良久しくありて、「抑も、今度の軍に誰々か誅たれたる」と問はせましましければ、宰相▼P2741(六二オ)入道、涙を押し拭ひて申されけるは、「八条の宮も見えさせ給はず。山座主明雲僧正も流れ矢に中らせ給ひぬ。信行・為清・近業も誅たれ候ひぬ。能盛・親盛は痛手負ひて万死一生とこそ承り候へ」と申されたりければ、「あな無慚の事共や。明雲は非業の死なむどすべき者にては無き者を。今度、われ、いかにも成るべきに、代はりにけるにこそ」とて、龍顔より御涙を流させ給ひけるこそ忝けれ。
良久しく有りて、法皇仰せの有りけるは、「我国は辺地粟散境と云へども、我先生に十戒の力によりて十善の位に生まれながら、又何なる先世の罪報にて、一度ならず、かかるうき目を見るらむと、国土の人民の思ふらんこそはづかしけれ」とて、又御涙の浮かびければ、宰相入道申されけるは、「龍顔を誤ち奉る事、是言▼P2742(六二ウ)語の及ぶ所に非ず。法体を苦しめ奉るに於いてをや。日月天に輝けり。照らされぬ者誰か有る。神明地を照らし給へり。災害を起こす者誰かあらむ。臣、邪悪を好みて天を慢り奉り、冥道うけ引き給はむや。さりとも宗廟捨て進らせさせ給はじ物を。只神鑑に任せ奉らせ給はずして、知康如きの奴原が奏し申し候ひけるを御許容候ひけるのみこそ、心憂く覚え候へ」とて、墨染の袖しぼりあへず。
廿八 〔木曽、院の御厩の別当に押し成る事〕
木曽は昨日の軍に打ち勝ちて、今日頸係けて六条川原より返して、「今は万事思ふさまなれば、内にならむとも、院に成らむとも我が心也。但、内は小童也。又、院は一日見しかば小法師
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なり。内に成らむとて童にも成りたくもなし。院に成らむとて法師にもいかがならむ。関白にや成らまし」と云ひけ▼P2743(六三オ)れば、今井が申しけるは、「関白には藤原氏ならではえならぬとこそ承り候へ。公は源氏にてわたらせ給ふに」と云ひければ、「さらば判官代にやならまし」と申しければ、今井、「判官代はいたくよき官にては候はぬござむめれ」と申しければ、「院の御厩の別当にならむ」とて、押して御厩の別当にぞ成りにける。
廿九 〔松殿の御子師家摂政に成し給ふ事〕
廿一日、摂政を止め奉りて、松殿の御子、大納言師家とて十三に成り給ひけるを、内大臣に成し奉りて、やがて摂政の詔書を下さる。折節、大臣あかざりければ、後徳大寺の左大臣実定、内大臣にておはしけるを、暫く借りて成り給ひたりければ、「昔は『かるの大臣』と云ふ人ありき。是をば『かるる大臣』と云ふべし」とぞ、時の人申しける。かやうの事をば、大宮の大相国伊通こそ宣ひしに、其人おはせねども、申す人もありけるにや。
P2744(六三ウ)三十 〔木曽、公卿殿上人四十九人を解官する事〕
廿八日に、三条中納言朝方卿以下、文官・武官・諸国受領、都合四十九人を、木曽、解官しけり。其の中に公卿五人とぞ聞こえし。僧には、権少僧都範玄・法勝寺執行安能も所帯を没官せられき。平家は四十二人を解官したりしに、木曽は四十九人を解官す。平家の悪行には猶越えたりけり。
卅一 〔宮内判官公朝、関東へ下る事〕
かかりし程に、北面に候ひける宮内判官公朝、藤左衛門明成二人、夜昼尾張国へ馳せ下る。其の故は、兵衛佐の弟、蒲冠者範頼、九郎冠者義経両人、熱田大宮司の
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許におはすと聞こえければ、木曽が僻事したるを申さむとてなり。此の人々の尾張国まで上られける事は、平家、世を乱りて後は東八ヶ国の年貢、未進ありて、領家・本▼P2745(六四オ)家も誰やらむ、国司・目代もなにやらむ、其の上、道の狼籍もありければ、平家おちて後三ヶ年が未進、皆尋ぬる沙汰ありて、千人の兵共を差し副へて、弟二人を大将として、都へ進らせられけるが、木曽、法住寺殿へよせて、合戦を致し、御所を焼き払ひたりける最中に、東国より大勢上ると聞こえければ、何事やらむとて、今井四郎を差し遣して、鈴鹿・不破関を固めたりと聞こえける間、此の人々、「兵衛佐に申し合はせずして、左右無く木曽が郎等と軍せむ事あしかりなむ」とて、引き退きて、熱田大宮司の許にゐて鎌倉へ使者を立てらる。其の返事を待ち給ひける折節、公朝・時成はせ下りて、此の由を申しければ、九郎、申されけるは、「事の次第、分明ならず。別の使有るべからず。やがて御辺馳せ下りて、申さるべきぞ」と宣ひ▼P2746(六四ウ)ければ、公朝下りけり。
軍逃げに皆失せて、下人一人もなかりければ、生年十五歳になりける宮内所公茂を下人にして下る。夜は公茂を馬にのせ、昼は公朝馬に乗りて、程無く下着して、知康が凶害にて今度の乱を発したる由、申しければ、兵衛佐大きに驚かれけり。「義仲、奇怪ならば、何度も頼朝に仰せてこそ誅たせられ候はめ。左右無く君を申し勧めまゐらせて、合戦せさせまゐらせて、御所焼かせたるこそ、不思議なれ。さ様の者を猶も近く召し仕はせ給はむにおいては、自今以後も僻事出でくべし。知康召し仕はせ給ふべからず」と申されけり。
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卅二 〔知康関東へ下る事 付けたり 知康関東にてひふつく事〕
知康、陳ぜむとて、追ひざまに鎌倉へ下りて、兵衛佐の許へ参りて、見参入らむと伺ひ申しけれども、申し次ぐ者もなかりければ、侍に推参したり▼P2747(六五オ)けるを、兵衛佐、簾中より見出でて、子息左衛門督頼家の未だ少なくおはしけるに、「やや、あの知康は究竟のひふの上手にてあむなるぞ。是にてひふあるべしといへ」とて、砂金十二両、若君に奉りたりければ、若君、是を持ちて、知康に「是にてひふあるべし」と宣ひければ、知康十二両の金を給はりて、「砂金は吾朝の重宝也。暫く争でか玉には取り候ふべき」と申して、懐中するままに、庭より石を三つ取りて、やがて縁をのぼりざまに、目より下にて、数百千のひふを片手にてつき、左右の手にてつき、さまざまに乱舞して、『をう』と云ふ音をあげて、よき一時つきたりければ、簾中より始めて、参り合ひたる大名小名興に入りて、えつぼの会にてぞ有りける。
兵衛佐、「誠に名を得たる者の験は有りけり」とて、其の後、見参せられたりければ、▼P2748(六五ウ)知康、「木曽、都へ責め入りて、在々所々を追補し、大臣公卿に所をも置かず、権門勢家の御領をも憚らず乱れ入りて、狼籍なのめならず。神社仏寺をも怖ぢ奉らず、堂塔をわりたきはてて、院御所法住寺殿に推し寄せて、合戦を致して、八条の宮も誅たれさせ給ひぬ。天台座主明雲僧正も誅たれ給ひぬ」など、有る事無き事くどき立て、細かく申しけれども、兵衛佐、先立ちて心得給ひたりければ、万づ無返事にておはしければ、知康、さををのみすくむで、はふはふにげ上りにけり。知康、さしも鬱り深く、院までも「召し仕はるべからず」と申されたり
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けるに、墓無きひふに目出て、兵衛佐見参せられたりけり。人はいささかの事なりとも、能は有るべき物哉とぞ覚えける。
▼P2749(六六オ)卅三 〔兵衛佐、山門へ牒状を遣はす事〕
さる程に、東国より蒲冠者範頼・九郎義経二人、大将軍として、数万騎の軍兵を差し上せて、木曽を誅つべき由、申されける上、山門へも牒状を遣はす。其の状に云はく、
牒す 延暦寺の衙
且つは七社の神明に告げ、且つは三塔の仏法に祈りて、謀反の賊徒木曽義仲、与力の輩を追討せられんとするの状
牒す。遠く往昔を尋ね、近く近来を思ふに、今に天地開闢より以降、世途の間、仏神の鎮めに依りて天子の治政を護り、天子の敬に依りて仏神の威光を礼す。仏神と云ひ天子と云ひ、互ひに守り奉るの故也。茲に源氏と云ひ平氏と云ひ、以て両氏、公に奉ることは海内の夷敵を鎮めんが為、国▼P2750(六六ウ)土の奸士を討たんが為也。而るに、当家、親父の時、不慮の勧誘に依りて叛逆の勅罪に処す。其の刻み、頼朝、幼稚を宥められ、配流に預かる。然而るを、平氏独り洛陽の棲に歩み、爵賞の位を盗み極む。家繁昌、身富貴して、両箇の朝恩に誇り、偏に皇威を蔑にして、遂に三条の宮を討ち奉る。茲に因りて、頼朝、公の為、世の為、凶徒を討たんが為、相伝の郎従に仰せて、東国の武士を起こす。去んじ治承以後、勲功を励ますの間、山道北陸の余勢を以て、先づ襲はしむる
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の処に、平氏退散して西海に落ち向かふと云々。而るに、義仲等、忽に朝敵の追討を忘れ、先づ勧賞を申し賜り、次に国庄を横領し、程無く平氏の跡を追ひ、専ら意を逆しまにす。去んじ十一月十九日、一院を襲ひ奉りて、御所を焼き払ひ、卿相を追補す。就中、当山の座主并びに御弟子宮、其に列ならしめ給ふと云々。叛逆の甚だしきこと、古今比類無き者也。仍りて▼P2751(六七オ)東国の勢を催して、逆徒を追討すべき也。其の首を獲んこと、疑ひ無しと雖も、且つは仏神に祈請し、且つは大衆与力して、殊に引率せられんと欲す。仍て牒送すること件の如し。以て牒す。
寿永二年十二月廿一日前右兵衛佐渡朝臣」
とぞ書かれたりける。山の衆徒、此の牒状を見て、三塔一同に既に与力してけり。
卅四 〔木曽、八嶋へ内書を送る事〕
平家は又、西国より責め上る。木曽、東西につめられて、為む方無くぞ思ひける。せめての事にや、平家と一つに成りて、関東を責むべき由、思ひ立ちにけり。様々の案を廻して、人に知らすべき事に非らねば、をとなしき郎等なむどに云ひ合はするにも及ばず、「世にもなき人の手能く書くやある」と尋ねければ、東山より或る僧を一人、郎等請じて来れり。木曽、先づ此の僧を一間なる所に呼び入れて、引出物に▼P2752(六七ウ)小袖二領渡して、酒なむど勧めて、隔て無く憑み申すべき由云ひて文をかかす。木曽が云ふにたがはず、此の僧、文をかく。二位殿へは、「みめよき娘やおはする。聟に成り奉らむ。今より後は少しも後めたなく思し給ふべからず。若し空事を申さば、諏訪明神の罰あたるべし」なむどかかせけり。惣じて文二通かかせて、一通は「平家の大臣殿
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へ」とかかす。一通は其の母の「二位殿へ」と書かせて、雑色男を使ひにて西国へ遣はしけり。
此の文を見て、大臣殿は殊に悦び給ひけり。二位殿も「さもや」と思はれたりけるを、新中納言の宣ひけるは、「縦ひ故郷へ帰り上りたりとも、『木曽と一つに成りてこそ』とぞ人は申し候はんずれ。頼朝が思はん所もはづかしく候ふ。弓矢取る家は名こそ惜しく候へ。『君かくて渡らせ御はしませば、甲を抜ぎ、弓をはづして、降人に参るべし』」と返答▼P2753(六八オ)有るべし」とぞ宣ひける。木曽、都へ打ち入りて、在々所々を追捕して、貴賤上下を悩まし、仏物神物を押領して、非法悪行なのめならず。はては院御所法住寺殿に押し寄せ合戦を致し、貴僧高僧をさへ誅ち奉り、公卿殿上人を誡め置き、少しも憚る所なき由を平家聞きて、申されけるは、「君も臣も、山も奈良も、此の一門を背きて源氏の世になしたれども、さもあるか」と、大臣殿より始め奉りて、人々興言せられけり。
卅五 〔惟盛卿、古京を恋ひ給ふ事〕
権亮三位中将は、月日の過ぎ行きけるままには、明けても晩れても故郷の事のみ恋しく覚えて、只借そめの新枕をだにも語らひ給はず、余三兵衛重景、石童丸なむど近く御そばにふせて、北方、若君、姫君の事をのみ宣ひ出だして、「いかなる有様にてか有るらむ。誰あはれみ、誰糸惜しと云ふ▼P2754(六八ウ)らむ。我が身の置き所だにもあらじに、少き者共引き具して、いか計りの事をか思ふらむ。振り捨てて出でし心づよさもさる事にて、怱ぎ迎へ取らむと誘へ置きし事も、程経ば何にうらめしく思ふらむ」なむど宣ひつづけては、涙をのみ流し給ふぞ糸惜しき。北方
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は此の有様を伝へ聞けば、「只いかならむ人をも語らひて、心をもなぐさめ給へかし。さりとても、愚かに思ふべからざる物を」と、其さへ心苦しくおぼして、常は引きかづきて臥し給ふも無慚也。
卅六 〔木曽、入道殿下の御教訓に依つて法皇を宥し奉る事〕
木曽は五条内裏に候ひて、稠しく守りまゐらせける間、公卿殿上人一人も参らず。合戦の日、生虜にしたりし人々をも免さず、猶いましめ置きたりしかば、前の入道殿下、内々木曽に仰せられけるは、「かくは有るまじき事を。僻事ぞ。よくよく思惟あるべし。故清盛は、神明も崇め▼P2755(六九オ)奉り、仏法にも帰し、希代の大善根をもあまた修したりしかばこそ、一天四海を掌中にして、廿余年まで持ちたりしか。大果報の者なりき。上古にも類ひ少く、当代にもためし無し。夫が法皇を悩まし奉りしにより、天の責めを蒙りて、忽ちに滅びにき。子孫又絶えはてぬ。恐れても恐るべし。敬ひても敬ひ奉るべし。只悪行をのみ好みて世を持つ事は少きぞ。宥し奉るべし」と仰せられければ、誡め置きたる人々をも免し、稠しかりつる事共も止めてけり。物の心も知らざる夷なれども、かきくどき細かに仰せられければ、靡き奉りけり。
されども猶本心は失はざりけり。「仏事善事をしたる人の世にあらば、平家こそ百廿年までも保ため。弓矢を取る習ひ、二なき命を奪はむとせむ敵をば、今より後も対向せではよもあらじ。我が腹の居むまでは」と思ふとも、「入道▼P2756(六九ウ)殿をこそ親と憑み申したれ。親方のあらむ事を子として背くべからず」と云ふ。事よげなるぞをかしき。
卅七 〔法皇、五条内裏より出でさせ給ひて大善大夫業忠が宿所へ渡らせ給ふ事〕
十二月十日は、法皇は五条内裏を出でさせ給ひて、大膳大夫業忠が六条西洞院の家
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へ渡らせ給ふ。やがて其の日より、歳末の御懺法始められにけり。
同十三日、木曽除目行ひて、思ふさまに官ども成りにけり。木曽が所行も平家の悪行におとらずこそ聞こえしか。我が身は院の御厩別当に押して成る。左馬頭・伊与守なりし。丹波国を知行して、其の外、畿内近国の庄薗、院宮の御領、又上下の所領をも併ら押し取り、神社仏寺の庄領をも憚らず振る舞ひけり。
前漢・後漢の間に、王莽・劉玄と云ひける者二人、世を執りて十八年、我がままに行ひけるが如く、平▼P2757(七〇オ)家は落ちたれども、源氏はいまだ打ち入らず、其の中間に義仲・行家二人して、京中を己がままにしけるも、何までと覚えて、危くぞ見えける。されどもあぶなながら年も既に晩れにけり。東は近江国、西は摂津国まで塞がりて、君のみつぎ物も奉らず、私の年貢も所当ものぼせず。京中の貴賎上下、小魚のたまり水に集まれるが如くほしあげられて、命も生きがたくぞ見えける。
已下は上本に有るべきか。
木曽、北国の軍に討ち勝ちて、都へ責め上るべきの由聞こえければ、北国の凶徒悉く、源氏に従ひ付きにけり。之に依りて、去る夏の比、白山宮に免し奉る状に云はく、
加賀国白山宮御領の事
七〇ウ
▼P2758(七〇ウ) 右、管石河郡西条の内宮丸保
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四至本券に在り。
右、鎌倉殿の仰せを被りて云はく、諸国は須く宰吏の進止たるべき也。他人の下知に能はざるか。しかるに近年、或いは関路を塞ぎて北陸往反の路を断ち、或いは海辺に就きて東路発向の謀を企つ。是において愚忠を抽きんでむがため、民肩を愍れまんが為に、義兵を進め催して、多く朝敵を誅つ。偏に皇化の然らしむることを仰ぐと雖も、是神明の加護を蒙るに非ずや。而して永く乱行を鎮めんが為、暫く国務を宥行す。但し自由に任せず、院奏を経る所也。治国の
政、霊神を崇むるに如かず。崇神の祭、田地を寄するに過ぐるは無からむ哉。是を以て恐らくは便宜の一保を割き、当国の白山へ免し奉る者也。官物・雑事を停止して、神事の勤行に備へしむ。▼P2759(七一オ)神納受を垂れて、弥よ冥助を施し玉へ。然れば則ち、今日より始めて百年に至るまで、一天の下、安穏泰平、当国の中、抜苦与楽せん。てへれば、有司状を察し、免し奉ること件の如し。
寿永二年五月 日 散位大江朝臣在判
散位橘朝臣々々
勧農使藤原朝臣々々
内舎人藤原々々
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平家物語巻第四 十二巻之内
贈ヲクル
▼P2760(七一ウ)
(花押)
平家物語 九 (第五本)
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P3001(一オ) 一 院の拝礼并びに殿下の拝礼無き事 二 平家八嶋にて年を経る事
三 義仲平家追討の為に西国へ下らむと欲する事 四 義仲征夷将軍為るべき宣下の事
五 樋口次郎河内国にて行家と合戦の事 六 梶原と佐々木と馬所望の事
七 兵衛佐の軍兵等、宇治勢田に付く事 八 義経院御所へ参る事
九 義仲都落つる事 付けたり 義仲討たるる事 十 樋口次郎降人に成る事
十一 師家、摂政を止められ給ふ事 十二 義仲等が頸渡す事
十三 義経鞍馬へ参る事 十四 義経に平家を征伐すべきの由仰せらるる事
十五 平家一谷に城郭を構ふる事 十六 能登守四国の者共討ち平らぐる事
十七 平家福原にて仏事行ふ事 付けたり 除目行ふ事 十八 梶原摂津国勝尾寺焼き払ふ事
十九 法皇平家追討の御祈りのために毘沙門を作り始めらるる事 二十 源氏三草山并びに一谷追ひ落す事
P3002(一ウ)廿一 越中前司盛俊討たるる事 廿二 薩摩守忠度討たれ給ふ事
廿三 本三位中将生け取られ給ふ事 廿四 新中納言落ち給ふ事、付けたり 武蔵守討たれ給ふ事
廿五 敦盛討たれ給ふ事 付けたり 敦盛の頸八嶋へ送る事 廿六 備中守海に沈み給ふ事
廿七 越前三位通盛討たれ給ふ事 廿八 大夫業盛討たれ給ふ事
廿九 平家の人々の頸共取り懸くる事 三十 通盛、北の方に合ひ初むる事、付けたり 同じき北の方の身投げ給ふ事
卅一 平氏の頸共、大路を渡さるる事 卅二 維盛の北の方、平家の頸見せに遣る事
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P3003(二オ) 平家物語第五本
一〔院の拝礼并びに殿下の拝礼無き事〕 元暦元年甲辰正月一日、院は去年十二月十日五条内裏より大膳大夫業忠が六条西洞院の家へ渡らせ給ふ。世間も未だ落居せざる上、御所の体、礼儀行なはるべき所にもあらねば、拝礼もなし。院の拝礼無かりければ、殿下の拝礼も行はれず。内裏には主上渡らせ給へども、例年寅の一点に行はるる四方拝もなし。清涼殿の御簾も上げられず。解陣とて、南殿の御格子三間計りぞ上げられたりける。
〔二〕 〔平家八嶋にて年を経る事〕
平家は讃岐国屋嶋の礒に春を迎へて、年の始めなりけれども、元日元三の儀式こそ事宜しからね。先帝ましませば主上と仰ぎ奉れども、四方もなし。節会も行はれず。氷のためしも奉らず。〓[魚+宣]も奏せず。「世乱れたりし▼P3004(二ウ)かども、都にてはさすがにかくはなかりし物を」と、恋しくぞ思し食されし。青陽の春も来れども、浦吹く風も和かに、日影ものどかになりゆけども、平家の人々は寒苦鳥にことならず。いつとなく氷にとぢこめられたる心地す。東岸西岸の柳、遅速同じからず。南枝北枝の梅、開落既に異なり。花の朝、月の夜、詩を作り歌をよみ、鞠・小弓・扇、さまざまの興ありし事共も思ひ出だして語り合ひて、長き日をいとどくらしかね給へるぞ哀れなる。
〔三〕 〔義仲平家追討の為に西国へ下らむと欲する事〕
十日、伊与守義仲、平家追討の為に西国へ下向すべき由奏聞しけり。仰せられけるは、「我が朝に神代より伝はりたる三種の宝物あり。即ち神璽・宝剣・内侍所、是也。事故無く都へ返し入れ奉れ」と仰せ下されければ、畏まりて罷り出でぬ。已に今日門出すと聞こえしほどに、東国より前兵衛佐頼朝、義▼P3005(三オ)仲追討の為、舎弟蒲冠者範頼・九郎冠者義経、大将として数万騎の軍兵を差し上する由聞こえけり。其の故は、「義仲朝恩に誇りて、上皇を取り奉り、五条内裏に押し籠め進らせて、除目を行ひ、摂禄を改め奉り、人々を解官して、平家の悪行に劣らず朝威を忽緒し奉る」由、頼朝聞かれて、「義仲を差し上せし事は、『仏神をも崇め奉り、王法をも全うし、天下をも鎮め、君をも守り奉るべし』とてこそ上せしに、いつしかさやうの狼籍、奇怪也。既に朝敵となりぬ」とて、怒りをなし、勢を差し上せらる。其の勢すでに先陣は美乃国不破関に着きぬ。後陣、尾張国鳴海潟までつづきたる由聞こえければ、義仲是を聞きて、宇治・勢多二つの道を打ち塞がむが為に、親類・郎従等を分かちて遣す。平家は又、福原▼P3006(三ウ)まで責め上るとののしる。
四 〔義仲征夷将軍為るべき宣下の事〕
十一日、義仲再三申請によりて、なまじひに征夷の大将軍たるべき宣下せらる。
五 〔樋口次郎河内国にて行家と合戦の事〕
同十七日に、備前守行家河内国に住して叛心有る由聞こえければ、義仲彼の行家を追討の為に樋口兼光を差し遺す。其の勢五百余騎なり。同十九日に石河の城に寄せて合戦、蔵人判官家光、兼光が為に射取られにけり。行家軍に敗れて逃げ落ちて、高野にぞ籠りける。生虜三十人、頸切り懸けらるる者七十人とぞ聞こえし。
〔六〕 〔梶原と佐々木と馬所望の事〕
去んぬる十日、木曽冠者義仲を追討の為に上洛すべき東国の武士、若宮権現の鳥居の前、由伊の浜にて勢ぞろへあり。其の中に梶原源太景季、鎌▼P3007(四オ)倉殿に参りて申しけるは、「御秘蔵の御馬とは知りまゐらせて候へども、生喰を給はりて京まで引かせ候はばやと存じ侯ふ。あれよりつよき馬は多く持ちて候へども、河をこぎおよぎ候ふ事、生喰程の事はよも候はじ。相構へて宇治河にて先陣をわたして高名を後代に伝へ候はばやと存じ候ふ」と、高らかにぞ言上したりける。鎌倉殿御心中に、「にくいげしたる者の声やうけしき哉」とぞ思し食されける。さて仰せの有りけるは、「一の御厩に立てたる馬を、人にのする事なし。淵源をわたる器量の馬は、うすずみもよも劣らじ。うすずみを給はり候へ」とて、第二の御馬うすずみをぞ給はりたりける。あをさぎなりけるを、二位殿御覧じて、「あをさぎはうすずみにこそにたりけれ」と仰せられたりけるによりて、うすずみとぞ申しける。梶原源太、「我に過ぎたる御気色よしは、なき▼P3008(四ウ)物を」と思ひて申したりけるに、「声やう皃けしき、にくいげしたる者哉」と御覧じたりけるこそ、案たがひては覚ゆれ。天にをせくぐまり地にぬきあしことは此の体の事なるべし。人更に身をば憑むまじき事也。本意なき事限りなけれども、うすずみを給はりて罷り出でにけり。
其の後、兵共面々に参りて暇申しける中に、平山武者所季重、見参に入りて罷り出でける処に、西御門にて上総介に行き相ひたり。みれば、年来ほしく思ひたりける目糟毛と云ふ名馬を前にひかせたり。平山、「今所望せでは、いつを期すべきぞ。無心をはばからず所望してみむ」と思ひて、「年来日比、あの目糟毛をほしく思ひ候ひつれども、『且つは御秘蔵の御馬也。且は過分の所望恐れあり』と存じ候ひて、未だ言にも出ださず候ひつれども、『合戦の道に罷り出づる習ひは、再び帰るべきにあらず。只今こそ最後』と存じ候へば、心中の妄念を懺悔し侯ふ」とぞ申しける。上総介思ひけるは、▼P3009(五オ)「命にかへて思ふ馬也。親にも子にも主君にも手を放つべしとは思はねども、『合戦の道に罷り出づる習ひは、再び帰るべきにあらず。只今こそ最後と存じ侯へば、心中の忘念を懺悔し候ふ』と云ひつる志の面白さよ。且つは門出の所望也。且つは平山をば、鎌倉殿、侍大将軍に思し食したり。旁以て思ふに、龍馬龍象なりとも惜しむべきに非ず」と思ひて、「いかに平山殿、年来日比思し食しける事を、今まで仰せは候はざりけるぞ。銀金の馬なりとも、いかが御辺にはをしみ奉るべき」とて、鐙ふんばり立ちあがりて、「平山殿の御殿人や、あの目糟毛請け取り候へ」と云ひければ、平山馬より飛び落つるままに、右の手をもつて目糟毛がくつばみをとり、左の手を以ては馬の頭をかきなでかきなでして、「本望成就す。あなうれし、あなうれし」と云ひて、下部に請け取らせて、馬に乗りてけり。上総介は馬に乗りながら打ち立ちて、「面目極まり无し、面目極まり无し」とぞあひしら▼P3010(五ウ)ひける。
黒糟毛なる馬の七寸にあまりたりけるが、折をしり、けはれをふるまふ事、人にはなほまさりたりけり。目糟毛と名づけたる事は、左の目の程にかかりて白き星の有りける故なり。乗尻の程を計らひて、臥木をもこえ、江堀をも飛びける馬也。さて、平山申しけるは、「つくづく世間の相をみるに、直代りはなけれども、大事の空をゆづるは父母二親にしくはなし。上総介殿の芳恩こそ父母二親にもすぐれ給ひたれ。自今以後は、若党共、上総殿に無礼ばし仕るな」とぞ悦びける。
今度の上洛の大将二人の内、一人は蒲御曹司範頼、一人は九郎御曹司義経也。蒲御曹司は足柄にかかり、九郎御曹司は箱根にぞかかり給ひける。九郎御曹司は昔より箱根権現に参詣の志おはしけるあひだ、沐浴潔斎して社壇入堂し給へり。兵庫鎖の太刀一振、別当▼P3011(六オ)して御宝前に捧ぐ。「南無帰命頂礼箱根権現、和光同塵の光にくもりなく義経が所願を成就せしめ給へ。通夜御神楽をもしてまゐらせたく候へども、範頼定めて早く打ち過ぎ候ふらんと存じ候へば」とて、馬に鞭を打ち給ひければ、伊豆府にて蒲御曹司に行き相ひ給へり。府よりは打ちつれて、多勢にてぞ上り給ひける。
佐々木四郎隆綱鎌倉殿に参りたり。「いかに今まで遅かりつるぞ」と宣へば、「老少不定の堺にて候ひし上、合戦の道に向き候事、再び故郷に帰るべしとも存ぜず候ふあひだ、父にて候ひし者の墓所に暇乞ひ候ひつる次に、十三年の追善を引きこして仕り候ひつる間、遅参仕りて候ふ。やがてあれよりこそ打ち出づべく候ひつれども、親の孝養を引きこし候ふ程に、『無常を観じ候ひながら、争でか今一度みもまゐらせ、みえもまゐらせ候はでは候ふべき』と存じ候ひて、参りて候ふ」とて、▼P3012(六ウ)ふしめにぞなりたりける。鎌倉殿も御覧じて、御目に涙をうけさせ給ひけり。さて、仰せに、「合戦の庭にて身命をすつべき趣き、すでに顕れて神妙にこそ覚ゆれ。和殿も日比ほしげに思ひたりつる生喰を曳出物にせばやと思ふが、梶原源太が所望しつるに、をしく思ひてうすずみをとらせたりつるあひだ、路にて和殿を恨みむずらむと覚ゆるはいかがすべき」とぞ仰せられける。佐々木畏まり申しけるは、「梶原が千万の恨みは、さも候はば候へ、一疋の生喰を給はりてこそ、生前の名誉を末代に伝へ、後生の面目を閻王の庁庭にもほどこし候はむずれ。其の上、武士となり候ひて、梶原が恨みをなどか一往陳じ開かでは候ふべき。一切くるしかるまじく候ふ」と言上す。「さらばとらする」とて、生喰をぞ給はりたりける。
此の馬を「生喰」と申しける事は、二三歳の比、あどなかりける時、にくしと思ふ者をくひふせて、▼P3013(七オ)さすがにくひはころさず、生けながら足手などをくひかきけるあひだ、「生喰」と名づけたり。又は、奥州に「能の海」とて、めぐり四十里の池あり。日本国の鷲の集まる池なり。大地獄とて、又大池あり。其の間に、名誉ある人のしぬれば、必ず魂魄定まりて此の他に没すといへり。かくのごときらの池は多しと云へども、魚のみありて船はなし。これによりて、池の辺の魚捕等、一丈計りなる棹に網をはりて、此の馬に乗りて池上の水におよがせて魚をすきけるによりて、「池ずき」と名づけたりともいへり。鹿毛なりけるが、長八寸の馬なりけり。いとほしき者、にくき者、みしりたりける馬也。狩場の時、鹿などに相つきて、岸・礒をくだりに馳する時、乗主だにも落ちぬれば、馬もそこに留まりて、草もくはで主を訪ふ馬なりき。此程の大事の御馬なりけれども、「父が墓に暇乞ひつつ十三年の▼P3014(七ウ)追善をも引きこし、最後の見参にも参りて候ふ」と泣々申したりつる情をも「神妙也」と思し食されける御感のあまりに、さしも秘蔵したまひたる生喰を給はりたりける、佐々木四郎が心の内こそゆゆしけれ。何計りかうれしと思ひけむ。
とへかしななさけは人のためならずうきわれとてもこころやはなき
と云ふ古歌の風情、思ひあはせられて哀れ也。千万の軍兵の中に、父が墓所にて暇を乞ひ、十三年の追善を引きこして仕る情け、親の為とこそ思ひけめども、天神地祇あはれみ給ふゆゑに、鎌倉殿より生喰を給はりぬる事、情けはげに人の為にはあらざりけり。これも又、佐々木源三秀能が平治合戦の時、六波羅へ寄せたりけるが、叶はずして引きけるに、左馬▼P3015(八オ)頭義朝をのばさむとて、五十余騎にて、五条河原、四条橋辺までに返し合はせ返し合はせ戦ひけれども叶はず。平家の軍兵多く責め来たりければ、兄弟五騎になりて、義朝の引きつる方へと志して北山へ向かひけるが、「我が引く方へぞ、敵もおはむずらむ。猶義朝をのばさむ」と思ひて引きかへし、粟田口ヘ向かひける程に、伊藤武者景綱に行き相ひて、一人ものこらず打たれにけり。其の時、鎌倉殿も十二歳にて父の御共におはしければ、「此等の事共を思し食し忘れ給はずして、今生喰を給はりけるか」とぞ申しける。佐々木四郎、究竟の馬には乗りたりけり、生喰をば引かせて、鞭鐙をあはせて打ちける程に、一夜半日が程に、駿河国浮嶋原にて追ひ付きたり。
其の後、梶原、前後の勢を見知らばやと思ひて、馬を一段▼P3016(八ウ)計り打ちのけて、うまずめの松と云ふ松の下に鐙ふむばり立ちあがりて、通る勢共をみる処に、二三百疋もや過ぎぬらむ、されどもうすずみ程の馬こそなかりけれ。「理や、鎌倉殿の御秘蔵の御馬なれば争でか此にはならぶ馬あるべき」と思ふ処に、誰とは知らず、あきよげなる武者一騎、乗替四五騎、馬三疋引かせて鞭を揚げて出で来たり。誰なるらむと目を懸けたる処に、師子や大象もかくや有らむ、麒麟八疋の駒も此にはすぎじと覚えたる(れ)馬、まつ先に引かせて出で来たり。みれば佐々木の四郎隆綱也。引かせたる馬三疋の内に生喰あり。梶原と申すは大悪心の腹悪也。死生不知の切通にて侍りけるあひだ、生喰と云ひつるよりして身より猛火を燃やしける。「弓矢取りの習ひは、必ずしも親の敵、宿世の敵をのみ敵と云ふか。当座の恥こそ親の敵にもまさりたれ。これ程主に▼P3017(九オ)にくまれ奉りたる景季が命、いきてはなにかすべき。口惜しき事し給ひつる鎌倉殿哉。『是みよかし』と思ひがほにてまつ先に引かせたる佐々木に過ぎたる日の敵は有るべからず。木曽の冠者を打たむよりは佐々木を打たむと思ひてぞ、あの馬をば隆綱には給ひつらむ。只一矢に射落として生喰をばここにてこそ給はらめ」と思ひて、矢たばねときて押しくつろげ、もとはずすへはずしめおほせて郎等八騎有りけるに用意せさせて待ち懸けたり。
梶原は諸人ににくまれける間、用心する事ひまもなし。されば人はきざりけれども冑をぞきたりける。火威冑に紅のほろをぞ懸けたりける。廿四差したる黒ほろの矢に滋藤の弓絃打して、さびつきげなる馬の呈しきに白伏輪の鞍を置きて乗りたりけり。郎等八騎、馬の鼻を並べて引かへたりけるか佐々木近付きければ同じさまに▼P3018(九ウ)打ち出でて対面したりけり。「いかに佐々木殿、おくれをばし給ふぞ。あれは生喰とみ候ふはいかに」。「さむ候」と答ふ。「景季が所望申して候ふにたび候はぬに、佐々木殿の給はらせ給ふ条、何体なる子細にて候ふぞや。遺恨の次第哉」といへり。
佐々木思ひけるは、「にくい梶原が言かな。何なる子細にてもあれ、それに綺ふべからず。子息兄弟、所従眷属ばしに物を云ふ様に、放逸なる者の言ひやうかな。しや喉ぶえ射貫きて、只一矢に射落とさばや」とぞ思ひける。已に「矢ぬかむ」と思ひける処に、しばしあつて、「あれは冑きたり。我が身は腹巻をだにもきず。さげ針の上手も定の矢つぼを射そむずる事。其の上鎌倉殿の仰に梶原が恨みむ時はいかがせむずると御心苦しげに御定有りしを、『ともかくも陳じ開き候ふべし』と、物たのもしく申したりつる甲斐もなく、▼P3019(一〇オ)いつしかここにて人をも失ひ我も失はむ事、不覚の次第なるべし。一往陳じてみむ」 と思ひて、「や殿、梶原殿、きき給へ。殿は今度こそ所望申させ給ひたりつらめ。隆綱が去年の春より御気色に任せて折々ごとに申し侍りしが終に給はらず。一昨日親のために最後の仏事仕りし間、昨日の由伊浜の兵具ぞろへにはづれ候ひて遅参して候ひき。さて怱ぎ追ひ付きまゐらせむと心計りはすすめども、貧は諸道の妨げにて、甲斐々々しき馬は候はず。さりとてはと思ひて、御厩の小平次に酒をのませて候へば、下居のしるしの哀しさは、やがて酔ひてね入りて候ひし時、盗み取りてあれにのりてよもすがら馳せてこそ、此程早くは追ひ付きまゐらせては候へ。全く君より給はりたる事候はず。人には名聞なれば給はりたるよしを申さむずる也。心得給へ。今度の合戦に若し存命して候ふとも御▼P3020(一〇ウ)勘当を蒙るべき身にて候へば、あぢきなく覚え候ふ。さやうに御勘当候はむ時、誰か申しゆるして給ふべしとも覚えず候ふ」とて、歎く色をぞしたりける。
梶原思ひけるは、「げに我もぬすむべかりける事をや。つやつや思ひよらずして佐々木にはやぬすまれにけり。あたら馬を終にそらしぬる事こそ念なけれ。あな口惜し、あな口惜し」とぞ思ひける。さて申しけるは、「弓矢取の郎従の、主の馬をぬすみて主の敵討に趣かむ事、何条の御勘当か候ふべき。馬盗人をば、頸をきり、はつけなどにする事也。まして同僚にはしたからぬ事なれども、佐々木殿の盗みはあえ物にもしたし。男子生みたらむ産所には請じ入れまゐらせて引目をも射させまゐらせ、元服袴着の時は横座にすゑまゐらすべき程の盗み哉」とて、打ちつれてぞ咲ひける。「抑も御勘当かぶりたりとも申しゆるすべき▼P3021(一一オ)人もなしと仰せられつるは、景季が聞耳と覚え候ふ。八幡も御知見候へ。勲功の賞にも申しかへ候はむずる也。日比はこれ程は思ひ奉らざりつれども馬を盗み給ふに取りて、あはれ同僚やと思ひ奉る故に、実のせには必ずかはらばやと存ず。憑べよ、憑まれ奉らむ」とぞ契りたりける。
〔七〕 〔兵衛佐の軍兵等、宇治勢田に付く事〕
同き廿日辰剋に東国軍兵六万余騎二手に作りて宇治勢多両方より都へ入る。勢多の手には蒲冠者を大将軍として同く相ひ従ふ輩は、武田太郎信義・加々見太郎遠光・同次郎長清・一条次郎忠頼・板垣三郎兼信、侍大将軍には、稲毛三郎重成・飯谷四郎重朝・土肥次郎実平・小山四郎朝政・同中治五郎宗政・猪俣小平六則綱、小山宇津宮山名里見の者共を始として三万五千余騎には過ぎざりけり。▼P3022(一一ウ)宇治の手には九郎冠者を大将軍として相ひ従ふ人々、安田三郎義定・大内太郎惟義、侍大将軍には畠山庄司次郎重忠・舎弟長野三郎重清・三浦十郎義連・梶原平三景時・嫡子源太景季・熊谷次郎直実・同子息小次郎直家・佐々木四郎高綱・渋谷馬允重助・糟屋藤太有季・ささをの三郎義高・平山武者所季重を始として二万五千余騎、二手の勢六万余騎には過ぎざりけり。
木曽が方には折節都に勢ぞなかりける。乳母子樋口次郎兼光、五百余騎にて十郎蔵人行家を責めむとて、河内国石河と云ふ所へ差し遣はす。今井四郎兼平、五百余騎の勢を相ひ具して、勢多を固めに差し遣はす。方等三郎先生義広・仁科・高梨・小田次郎等▼P3023(一二オ)三百余騎にて宇治を固めに向かひけり。京には力者廿余人を支度して、「若しの事有らば、院を取り奉りて西国へ御幸なし奉らむ」と用意して、上野国住人那波太郎弘澄を始めとして、義仲が勢、百騎には過ぎざりけり。
今井四郎兼平・方等三郎先生義広等、宇治勢多両方の橋をば引きて、向かひの岸には乱杭を打ち、大綱はへ、逆向木をつきて、流しかけて相待つ処に、九郎義経は雲霞の勢を聳きて、「木曽冠者、都にては叶はじとて、平等院に立て籠りたり」と申す者有りけるあひだ、「さらば」とて、伊賀国へめぐりて平等院に押し寄せたりけれども、空事なりける間、「さては」とて入洛せむとする処に、宇治橋をみれば橋もなし。おりしも水かさまさりて底みえず。橋を引きたるのみならず、逆向木ひまもなく大縄小縄引きはへて、鴦鴨なむ▼P3024(一二ウ)どの水鳥も輙く〓[木+舌]り通るべしとはみえざりけり。ゆゆしき大事と立てたりけるあひだ、二万五千騎の軍兵くつばみをならべて引かへたり。河のはた分内せばくして、打ちのぞみたる者四五千騎にはすぎず。二万余騎は、よりつくべき所なき故、只いたづらに引かへたり。河の景気をだにみざれば、渡すべき僉議評定もせず。橋の落ちたる事をも未だしらざる者のみ多くあり。此によつて、水練の者共多くあるらめども、河の面をみざる故に、河へ入らむとする者もなかりけり。
其の時に、九郎御曹司、雑色・歩行走の者共を召し寄せて、「家々の資財雑具一々に取り出ださせて、河鰭の在家を皆焼き払ふべし。分内を広くして二万余騎を皆河鰭に臨ませよ」とぞ下知し給ひける。歩行走の者共、家々に走り廻りて此の由を披露する処に、人一人も▼P3025(一三オ)なかりけり。「さらば」とて、手々に続松を捧げて家々を焼き払ふ事、三百余家也。馬牛なむどをば取り出だすに及ばず、やどやどに置きたりければ、皆死ににけり。其の外も老いたる親の行歩にも叶はぬ、たたみの下にかくし、板の下、壷瓶の底に有りけるも、皆焼け死ににけり。或いは逃げ隠るべき力も无かりけるやさしき女房・姫君なむどや、或いは病床に臥したるあさましげなる者、小者共に至るまで、刹那の間に〓[火+畏]燼とぞなりにける。「風吹けば木やすからず」とは、此の体の事なるべし。広々と焼き払ひたりければ、二万五千余騎、のこる者もなく河鰭に打ちのぞみたり。
九郎御曹司、河の辺近く高矢倉を作らせて、上り給ひて、四方を下知し給ひけり。やたて硯を取り寄せて、「宇治河の先陣と甲者と、次第をあきらかに注して鎌倉殿の見参に入るべし」と。▼P3026(一三ウ)ぬかむとぞ色めき合ひたりける。御曹司、矢倉の上より様々の事を下知し給ひけれども、かしがましくて人更に聞かず。其の時、平等院より大鼓を取り寄せて打たせられければ、二万五千余騎皆しづまりて、御曹司に目を懸けざる者は一人もなかりけり。
其の時、九郎御曹司、大音声を揚げて、「今、此の二万五千余騎の中に、水練・河立・潜きの上手共は、其の数多かるらむ。かかる処にてこそ、群にぬけたる高名もすれ。とくとく、我と思はむ輩は、物具をぬぎ置きて、せぶみをして、河の案内を心み給ふべし。又、彼の岸をみるに、矢はずを取りたる者、四五百騎計りあり。せぶみせむ者を散々に射むずらむと覚ゆるぞ。甲の座につかむと思はむ人々は、馬をばすてて橋桁を渡して、敵の軍兵を追ひ散らして、水練の輩を思ふさまに振る舞はせよ」とぞ、下知し給ひける。
此を聞き、平▼P3027(一四オ)山武者所、馬より飛びて落つるままに橋桁の上に飛び上る。弓杖をつき扇をはらはらとつかひて申しけるは、「二万五千騎の軍兵の中に、橋桁渡る先陣は平山武者所季重と申す小冠者也。抑も当河の為体、′深淵潭々として、大海に浮かべるが如し。下流万々として急々なる事、瀧水に似たり。橋桁幽々としてほそく高き事、碧天に聳く虹かとも疑ひつべし。玄弉三蔵の渡り給ひけむ葱嶺の石橋も、此には争でか過ぎ候ふべき。落ち入らむ事決定也。没して而も失せなむ事、疑ひあるべからず。若しくは猿猴、若しくは鼠猫なむど、さらでは平らかに渡るべしとは存じ候はねども、大将軍の仰せを背くは身命を惜しむに似たり。しかれば、命をば只今九郎御曹司にまゐらせ候ふ。屍をば速かに宇治河の淵瀬の浪に濯き侍るべし」とて、只一人渡る処に、佐々木太郎定綱・渋屋馬允重助・熊谷▼P3028(一四ウ)次郎直実・同子息小次郎直宗等、已上五人ぞつづきて渡りける。矢比近くなりければ、彼の岸の軍兵等、弓をあくまで引かむが為に甲をばきず。数騎の者共ひきとりひきとり放ちける矢かず、天より飛びきたる事なれば入江の葦苅があしをたばねてつくがごとし。身にきたりて中る事、玄冬素雪の晩の時雨、玉ちる霰のふるにぞ似たりける。されども究竟の甲冑共なれば、うらかく矢もなかりけり。
熊谷橋桁を渡さむとする時、子息小次郎、「父の御共申すべし」とてつづきけるを、父熊谷、「汝は今年十六歳也。心はいかに武く思ふとも、真は未だかたまらじ。直実だにも平らかに渡りつかむ事、有りがたし。況や汝は叶ふまじきぞ。大勢のわたさむ時、渡るべし」と云ひければ、小次郎、「千字文に申したる李・杏・梅なむどにこそ、真のかたまる、かたまらぬと申す事は候へ。十歳以後の人の▼P3029(一五オ)身に、真のかたまらぬ事やは候ふべき。若しかたまらざらむにつけ〔て〕も、父をはなれまゐらせむとは存じ侯はず。父こそ、常には風気とて、『目のまふぞ、膝のふるふぞ』とは仰せ候へ。此程の大河、高橋のほそげたを渡り給はむ事、あやふく覚え候ふ。直家がまつ先にわたらせ給へ。若し御目まはせ給はむ時は、とらへまゐらせむ」とぞ申しける。父これをきき、「げにや、われ小次郎、いかなる時やらむ、目もまひ膝もふるふ事のある。我身なればさも有るべし」とて、おへる子に教へられて、熊谷は、十六歳の小次郎が先にぞ渡りける。実の瀬には子に過ぎたる宝こそなかりけれ。死出山、三途河を渡る時も、子より外には誰か後世をば助くべき。親子の情け、憑もしくぞ覚ゆる。
橋桁已になからばかり渡りたりける時よりは、五人ながら皆、目舞ひ膝ふるひて、水はさかさまに流るるやうにぞ覚えける。叶はじとや思ひけむ、各の弓をば手にかけて匍▼P3030(一五ウ)かれ。「さむ候ふ」「さむ候ふ」と、問へば答へ問へば答へして、肝をつぶしはててぞ皆渡りたりける。熊谷が初発心の道心は、此の橋桁よりぞ発り始めたりける。「我れ若し落つれば、小次郎定めて取り留めむとして共に落ちむ事」の心うく思ひける時、他力往生、来迎引接の阿弥陀如来を念じ初め奉りたりけり。摂取不捨の本願、只今こそ、げにたのもしくは覚え侍れ。云ふに甲斐なき小次郎だにこそ、落ちむ所をば取り助けむとて後にはつづきたれ。まして三尊来迎して生死の苦海に沈まむ所を来迎引接し給はむ事、憑みてもなほたのむべけかりけり。平山・佐々木・渋屋・熊谷親子、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と申してぞ、西の岸にはわたりつきたりける。
合戦以後、世しづまりて後、熊谷次郎は法然上人に参じて、念仏の法文よく聴聞し、三心具足の行者となりすまして、▼P3031(一六オ)木〓[木+患]子のずずを頸にかけて、毎日千返申しければ、終に引摂し給ひて、九品蓮台にぞ、往生の素懐を遂げたりける。されば、菩提心の発る事も、縁より発る事にてぞ侍りける。
さて、五人の者共渡りはつれば、片手矢はげて敵に向ふ。熊谷次郎扇はらはらと仕りて申しけるは、「汝等は、抑も木曽殿の郎従にてはよもあらじ。一旦の駈武者共にてぞ有るらむ。生ある者は皆命を惜しむ習ひなり。詮無き合戦して大事の命を失はむとするこそ不便なれ。落ちなばはや落ちよかし」とて、兵ど射たりければ、木曽郎等に藤太左衛門兼助と云ふ者、まつさかさまに射おとされにけり。此を始めとして多くの郎等共討たれにけり。
しかるあひだ、河の面々に目をかけて水練の者を射殺さむとする者一人もなし。其のひまに佐々木郎等に鹿嶋与一と云ふ者、天下一の潜の上手なりけるあひだ、冑ぬぎお▼P3032(一六ウ)き裕かくままに、腰には鎌をさし、手には熊手を以て河の底入りにけり。良久しく、水のそこにて、らむぐひ・さかもぎ引きおとし、大縄小縄きり落とす。「あはれ機量や」とぞみえたりける。九郎御曹司、此を御覧じて、「やや佐々木殿、わ殿の郎従鹿嶋の与一は甲の座の一番に付くべし。別功あらむずるぞ。其の由を披露し給へ。今日より改名して、与一とは云ふべからず。日本一と呼ぶべし」とぞ宣ひける。
かかりけれども、すすみいでて渡さむとする者一人もなし。「いかがすべき、水の落足をや待つべき」なむど申す処に、畠山の庄司次郎重忠、生年廿一になりけるが、紅の直垂に赤威冑に大中黒の矢に塗込藤の弓取りなほして、黒き馬に黄伏輪の鞍置きてぞ乗りたりける。河のはたに打ち臨みて、遥かの岸をにらまへ申しけるは、「鎌倉殿も、定めて宇治・勢多の橋は引かむずらむと御沙▼P3033(一七オ)汰ありし所ぞかし。知食さぬ海河が俄かに出で来たらばこそ、引かへて評定も候はめ。水上は近江の水海なれば、比良の高根の雪げの水、まつともまつともよも尽きじ。上野国に大河二つあり。北山より流れたるは利根河と名づけ、西山より流れたるは安加妻河と名づけたり。渋河と云ふ所より、二つの河一つになりて、下野国へ流れたり。昔、在中将の、むれゐて『いざこととはむみやこどり』となむよみたりける角田河と申すは、此の河の事也。坂東太郎とて、関東第一の大河也。されども、去んぬる治承元年三月の比、春雨幽々として山の雪水渺々と有りけるに、宇治河を足利又太郎俊綱は生年十七歳にて先陣をわたしたりき。十七歳の小冠だにも渡したりけるぞかし。
又太郎とても鬼神にてはよもあらじ、凡夫にてこそ有らめと思ひて、重忠も大洪水の時、たびたび彼の角田河を渡したること▼P3034(一七ウ)侍りき。況や此の河をみるに、彼の角田河ほどはよもあらじ。水の心見わたすに、馬の足たたぬ所、五反計りにはよもすぎじ。らむぐひ逆向木は切り落としぬ、水上・水中さはり有るべし。熊谷・平山ふせき矢射るめり。今何の恐れか有るべき。臆心更に有るべからず、渡せや殿原」とて、河のはたへぞ打ちのぞみたりける。伴沢六郎成清、本田次郎近経以下の郎等五百余騎、くつばみをならべてすすみけり。
其の時、二万五千余騎の軍兵、我も我もとすすみける中に、梶原源太景季と佐々木四郎高綱と相互にきみあへる者共にて、我さきに渡さむと打ちのぞみける処に、佐々木、「誠や、生喰をば、ここにのらむとてこそ引かせたりつるに、忘れてむげる事の口惜しさよ」と思ひて、乗り移りけるまに、源太三反計りすすみてけり。
「あなゆゆしの事や、生喰を給はりながら後陣はたしたらむ事の面▼P3035(一八オ)目なさよ。いかがすべき」と思ひて、「や、梶原殿、宇治河は上はのろくてそこはやし。底に縄なむども有らむと、馬の腹帯の以外にのびてみえ候ふぞ。もしそこづなにもかかり、石にもけつまづかむ時、鞍ふみかへして河中にて不覚し給うて、人に咲はれ給ふな。引きてみ給へ」とぞ云ひたりける。梶原誠にさも有らむと思ひて、左右の鐙をふみすかして引きてみれば、はるかにのびたりけり。梶原悦びて思ひければ、「京都はしらず関東の武士は、人に不覚をせさせ、我は甲わざをせむとこそするに、今の佐々木殿が芳恩こそ謝しがたくは覚ゆれ」とて、はるびをといてぞしめ〔た〕りける。手縄をゆがみにすてられて、馬はつきあしにこそなりにけれ。佐々木は「こここそよきひまよ」とはせぬけてつと先立ちたり。近江国住人にて河の案内はよく知りたり、関東第一の名馬生喰には乗りたりけり、畠山にも梶原にもすすむで、ま先にぞ▼P3036(一八ウ)渡したりける。梶原此をみて、「きたなし、わぎみにはだしぬかるまじきものを」とて、さと河へぞ打ち入れける。
此を初めとして、二万五千余騎、我も我もと打ち入れたり。馬筏ぞつくりて渡しければ、河の水ながれもやらず、うはては更に大海とぞ変じける。佐々木四郎先陣係けて申しけるは、「人をばしらず、高綱が郎従等、能々心に用意せよ。事もなのめに思ひて不覚すな。つよき馬をばおもてに立てよ、よはき馬をばしたになせ。敵はいるとも、河中にて答の矢いむとて不覚すな。射向の袖を顔にあてて、しころをちとかたむけよ。いたく傾けて凹反いさすな。若者共、鞍の後にのりさがつて、馬の頸を軽くせよ。逸物なればとて、馬に心ゆるして、常には鞭のかけをして、馬をきびしく驚かせ。遠くは弓をさしちがへ、近くはたがへに手を取りて、馬にカを加ふべし。人の馬しづみげならば、其の尾を取りて引きあげよ。▼P3037(一九オ)大石あらば、したてをめぐれ。うはてにかかつて馬たふすな。底づなあらば、馬の頸を下りにむけよ。らむぐひあらば、逆向木ありと思ふべし。波にはのらむと手綱をすくへ、いたくすくひて引きかづくな。渡せや渡せや、つよくのれ。鐙ふむばれ、立ちあがれ」とて、ま十文字にさつと打ちわたしたり。
渡しはてければ、箙のほう〔だ〕て打ちたたき、紅の扇ひらき仕りて、「音にも聞くらむ、目にもみよ。佐々木の四郎高綱、宇治河先陣渡したりや」とぞ名乗りける。生喰は、河の深くなるままに、すすみ出づる事一はやし。水は澄も未だぬらさざるに、この白浪はまりあがりて、むながひしほでてかかりけり。況や、みとこになりてをよぎけるときは、鵝鴨鴛鴦にことならず。鞍爪までもしづまざりければ、舟に棹さす心地して、袴のくくりもぬらさざりけり。六反計り先立ちて、向の岸に▼P3038(一九ウ)さとのぼる。つづく郎従一人もながれざりけり。佐々木は独言に、「あないかめしや」とぞ云ひたりける。石岸の上高き処に打あがつて、二万五千余騎、我も我もとおよがせけるを、「ああ面白」とて、扇はらはらとつかひ、はるばるとみくだして居たりける。
畠山は、先陣やかくると思ひて、先づ一番に打ち出でたりけるが、二万余騎の軍兵に力を加へ、意趣を起こさしめむため、「此より遥かに大いなる坂東太郎・角田河をだにも渡したりしぞかし、況や此程の小河を誰の輩か渡さざるべき」など、人に心をつけむとしける程に、佐々木四郎にぞ渡しにける。畠山同じく渡しけり。二万五千騎の兵共にせかれて、したてをわたしける。雑人は股膝にぞ水は立ちける自らはづるる水には、なにもたまらずおし流されけり。
木曽が手に山田次郎が郎等、黒皮威の腹巻きて、三枚甲に左右の小▼P3039(二〇オ)手に大太刀はきて中黒の征矢負ひたるが、面に立ちて、能く引きて放つ矢、河中にて畠山が馬の額に立ちにけり。射られて馬よはりてみえければ、鐙を越えて下り立ちたり。水は甲の星を洗ひて通りける。水も早く、鎧も重けれど、畠山すこしもたゆまず渡して行く。
爰に武蔵国住人大櫛彦次郎季次と云ふ兵あり。畠山より五反計り上手を渡しけるが、馬よはりて河中より馬にはなれて流れけるが、弓長計りより下に、甲の鉢より見たりければ、大櫛、畠山には兼ねてより目を係けたりけるが、水中になりて見失ひて有りけるが、只今見付けて怱ぎ流れよりて、甲の鉢にぞ取り付きたりける。畠山、是をも知らずして渡しけるが、「などやらむ、甲の重きは。水かさの増さるか、我が身のよはるか」と、振り仰ぎて見たりければ、褐衣の直垂に洗革の鎧きて、黒つばの矢負ひたる兵なり。其の時畠山、「甲に取り付きたるは何なる▼P3040(二〇ウ)者ぞ」。取りあへず、「大櫛次郎孝次にて候ふ」。畠山、「いしくも取り付きたり」と宣ひければ、季次、「すでに河尻をこそ見て候ひつれ」。畠山、向かひのはた近く成りて、乱杭に上りて申しけるは、「やうれ、大櫛、今は三弓長計りぞ有らむ。水のした二丈計りにはよもすぎじ。是より向かうへは投げこさむは何に」。大櫛、「ともかくも御計らひにてこそ候はめ」と申しければ、畠山、大櫛を弓手のかひなにのせて投げ越したり。大櫛、足をかがめて弓杖をつきてぞ立ちたりける。大櫛、甲の緒をしめ、弓取りなほして、奇怪の言をぞつかひける。「河へ打ち入るる事は、畠山一番也。向かひの岸へ着く事は、武蔵国の住人大櫛彦次郎季次、ま先也」とぞ名乗りける。此を聞きて、敵も御方も一同に、「は」とぞ咲ひける。「弓矢取る者の心づかひは、かうこそ有るべけれ」とぞ、各申しける。
向かひの方より三百余騎矢さきを調へて、引き取り引き取り射させけれども、二万五▼P3041(二一オ)千余騎の大勢責めかかりければ、宇治の手破れて都の方へぞ落ち行きける。九郎義経は敵の跡を目につけて、都の方へぞ責め入りける。
勢多をば稲毛三郎・榛谷四郎が計らひにて、たなかみの貢御を渡して追ひ落とす。さて、今井四郎兼平・三郎先生等、防ぎ戦ひけれども、無勢なりければ、散々に係けちらされて、同じく京へ帰り行く。
さて、宇治・勢多渡りたる日記、鎌倉へ進らせたりければ、宇治河の先陣は、近江国住人佐々木四郎高綱とぞ付けられたりける。義経は馬次第に京へ入る。
木曽は宿所に帰りて、松殿の姫君を取りて置きたりける。別れを惜しみて振り捨てがたさに打ち出でざりければ、木曽が仕ひける今参、越後中太家光が申しけるは、「雲霞の如く大勢已に近付きたり。いかにかくておはしますぞ」といへども打ち立たず。義仲、おともせざりければ、家光、「世中は今はかう」とて、「終に遁るべき▼P3042(二一ウ)に非ず」とて、腹かき切りて臥しにけり。木曽、是をみて、「義仲勧めむとて、家光いしうも自害したる物哉」とて、やがて打ち出でにけり。
義仲、先使者を院御所へ奉りて申しけるは、「東国の凶徒、已に責め来たる。怱ぎ醍醐の辺へ御幸有るべし」と申したりければ、「更に此の御所をば御出有るべからず」と仰せ遣られけり。爰に、義仲、赤地錦の直垂に紅の衣を重ねて、石打の胡〓[竹+録]に紫威の冑を着て、随兵六十余騎を率ゐて、院の御所へ馳せ参る。剣をぬきかけ、目を嗔かして、砌の下に立てり。御輿を寄す。臨幸有るべきの由を申す。上下色を失ひ、貴賎魂をけす。公卿には、花山院大納言兼雅・民部卿成範・修理大夫親信・宰相中将定能、殿上人には、実教・成経・家俊・宗長、祗候したりけるが、各皆藁沓を着して、御共に参ぜむとて、庭上に下り立たれたり。▼P3043(二二オ)人々、涙に咽びて、東西を失ひ給へり。叡慮、只おしはかり奉るべし。
義仲が郎等、一人馳せ来たりて申しけるは、「敵、已に最勝光院柳原まで近付く」と申しければ、指して申す旨も無き臨幸の事を抛ちて、門下にして騎馬す。東を差して馳せ行きて、河原に出づ。六条河原にして、根井行親・楯六郎親忠、二百余騎にて、義仲に行き逢ひぬ。院中の上下、手をにぎり、立てぬ願もなかりけるしるしにや。其の後、怱ぎ門々をさされけり。河原をみれば、東国の武士ひまを諍ひて充ち満ちたり。義仲申しけるは「合戦今日を限りとす。身をも顧み命を惜しまむ人々は、ここにて落つべし。戦場に臨みて逃げ走りて東国の輩に欺かれむ事、生前の恥也」と申せば、行親、親忠等を始めとして申しけるは「人生まれて誰は死を遁れむ。老いて死ぬるは兵は恨み也。就中、其の恩を食みて其の死を去らざるは又兵の法也」と云ひて、退く▼P3044(二二ウ)者なし。
畠山次郎重忠五百余騎にて引かへたり。義仲馬の頭を八文字に立てよせて、声を揚げて鞭を打ちて係け入れば、重忠が随兵中をあけて、入り組み入りちがへ、弓手にあひ、めてにあひ戦ふ。義仲うらへとほれば、二河の左衛門尉頼致を始めとして三十六騎打ち取られ、河越小太郎重房三百余騎にて引かへたり。義仲馬の頭を雁行みださず、立て下し係け入れば、重房が兵外をかこみ、内をつつむでをりふさげて戦ふ。義仲うらへ係け通れば、楯六郎親忠を始めとして十六騎は討たれぬ。佐々木四郎高綱二百余騎にて引かへたり。義仲、馬の足を一面に立て並べて、敵を弓手に係け背けて、前輪にかかり、甲をひらめ、馬を馳せ並べてうらへぬくれば、高梨の兵衛忠直を始めとして十八騎打ち取られぬ。梶原平▼P3045(二三オ)三景時、三百余騎にて引かへたり。義仲馬の足を一所に立て重ねて敵をさきに係けあましてうらへ係けとほれば、淡路の冠者宗弘を始めとして十五騎打ち取られぬ。渋屋庄司重国二百余騎にて引かへたり。義仲、馬の足を立て乱して思ひ思ひに係け入る。重国が随兵おしかこみてひまを諍ひ、つめよせて、をりかけをりかけ戦ふ。義仲うらへとほれば、根井行親を始めとして廿三騎は打ち取られぬ。
爰に源九郎義経、此を見て、三百余騎馬の足をつめならべ、かさなり入れば、敵両方へあひわれけるを、四方に懸け乱り駈け立て、矢前をととのへて射取りければ、義仲が軍忽ちに敗れて、六条より西を指して馳け行く。義仲、忽ち三軍の士を威し、万囲の陣を敗ると雖も、義経又必勝の術を廻らし、強太の兵を退く。義仲左右の眉の上を共に鉢付の板に射付けられて、矢二筋相▼P3046(二三ウ)係けて、院御所へ帰参せむとしけるを、少将成経、門を閉ぢて鎖を指したりければ、再び三たび門を押しけるを、源九郎義経・梶原平三景時・渋屋の庄司重国已下十一騎、鞭を打ちて轡をならべ矢前をそろへて射ければ、義仲堪えずして落ちにけり。義経は木曽と見てければ「義仲もらすな若党、木曽にがすな者共」と下知して、院の御所へ馳せ参る。義経が郎等馳せつづきて義仲を追ひけり。
P09166
〔八〕 〔義経院御所へ参る事〕
大膳大夫業忠が、御所の東の築垣に上りて四方を見まはして居たるに、「六条西洞院より、武士御所をさして馳せ参る」由申しければ、法皇大きにさわがせおはします。「義仲が又帰り参るにこそ。今度ぞ君も臣も世の失するはてよ」とて、肝心もうせ、「こはいかがせむ」と怖ぢあへる処に、業忠よくよく▼P3047(二四オ)見給ひて、「義仲が余党にては候はざりけり。笠じるし替はりて見え候ふ。只今馳せ参りて候ふなるは、東国の兵と覚え候ふ」と申す程に、義経門のきは近く打ちよりて、馬より飛び下りて、業忠に向かひて申しけるは、「鎌倉右兵衛頼朝が舎弟、九郎義経と申す者こそ参りて候へ。見参に入れさせ給へ」と申しければ、業忠余りのうれしさに築垣より怱ぎ下りけるが、腰をぞつき損じたりける。いたさはうれしさにまぎれて、匍ふ匍ふ参りて奏聞しければ、御安堵してぞ思し召されける。上下大きに悦びて、怱ぎ門をぞ開かれける。
九郎義経は、赤地の錦の直垂に、紅すそごの鎧に、鍬形打ちたる甲をば持たせて着ず。石打の征矢おひ、金作りの大刀をぞはいたりける。紙を弘さ一寸計りにきりて、弓のとり打ち所に「南无崇▼P3048(二四ウ)廟八幡大菩薩」と書きて、左巻にぞまいたりける。此ぞ今度の大将軍のしるしにて有りける。義経を始めとして六人ぞ有りける。残る五人の内、一人は武蔵国の住人、秩父の末葉、畠山庄司次郎重忠。白き唐綾の鎧直垂に、射向けの袖には紺地の錦をいろへたるに、紫すそごの鎧に、大中黒の征矢の焼絵したるを負ひたりけり。一人は同国の住人、河越太郎重頼。重目結の鎧直垂に、射向けの袖に赤地の錦をいろへたるに、黒糸威の鎧に、大切ふの征矢のうはやに安摩の面はきたるを負ひたりけり。一人は相模国の住人、渋谷庄司重国。褐衣の鎧直垂の菊とぢしたるに、大荒目の洗皮の鎧に、香摺尾の征矢負ひたり。一人は相模国の住人、梶原源太景季。蝶▼P3049(二五オ)目結の鎧直垂に、薄紅の鎧きて、つま白の征矢負ひたり。一人は近江国の住人、佐々木四郎高綱。萌黄にほひの鎧直垂に、赤威の鎧に、金作りの大刀、小中黒の征矢負ひたり。重忠より始めて、次第に名乗り申しけり。六人の兵、皆甲をば郎等にもたせて、直垂も思ひ思ひ色々にかはりたりけれども、弓は皆塗りごめ藤にてぞ有りける。
五人は中門の外、御車宿りの前に立ちならびたり。義経は中門の大床へ打ちよせて立ちたり。公卿殿上人、大床に立ち出でて目をすまさる。法皇御感の余りに、中門の連子より叡覧ありて、「ゆゆしげなる奴原かな」とぞ仰せありける。大膳大夫業忠仰せを承りて、軍の次第を召し問はる。義経申しけるは、「義仲謀反の由、頼朝承り候ひて、大きに驚きて、舎弟蒲冠者範頼、并びに義経を▼P3050(二五ウ)始めとして、宗との侍三十人を差し上せ候ふ。其の勢六万余騎、二手に分けて、宇治瀬多両方より罷り入り候ふ。範頼は勢多より参り候ふが、未だ見えず候ふ。義経は宇治の手を追ひ落して、怱ぎ馳せ参りて候ふ。義仲は河原を上りに落ち候ひつるを、郎等共あまた追はせ候ひつれば、今は定めて討ち候ひぬらむ」と事もなげにぞ申しける。仰せ下されけるは、「義仲が余党なむど参りて狼籍仕る事もこそあれ。義経はかくて御所の守護よくよく仕れ」と仰せ下されければ、「畏りて承り候ふ」とて門々を固めけり。兵共馳せ参りて一万騎計りに成りにけり。六条殿の四方に打ち囲みて候ひけるあひだ、法皇たのもしくぞ思し食されける。人々も安堵してけり。
其の後、三十騎計り馳せ来りて、六条河原の東の河ばたに引かへ▼P3051(二六オ)たり。其の中に武者二騎すすみけり。一人は塩屋五郎是弘、勅旨河原権三郎有則也。塩屋申しけるは、「後陣の勢をや待つべき」。勅旨河原申しけるは、「一陣破れぬれば、残党全からず。只係けよ」とぞ申しける。さるほどに、おつつきおつつきの勢、三万騎の大勢、都へ乱れ入りぬ。
〔九〕 〔義仲都落つる事 付けたり 義仲討たるる事〕 木曽は、「若しの事あらば、院取り進らせて西国へ御幸成し進らせむ」と、力者廿余人そろへて置きたりけれども、院の御所には九郎義経参り籠りて守護し進らせければ、取り奉るべき様もなかりけり。義仲「今はかう」と思ひ切りて、数万騎の勢の中へをめいて係け入りて戦ひけり。打たれなむとする事度々に及べりと云へども、係け破り係け破りとほりけり。「かかるべしとだに知りたりせば、今井を勢多へやらざらまし物を。幼少竹馬の昔より『若しの事あらば、手を取りくみて▼P3052(二六ウ)一所にて死なむ』とこそ契りし物を。所々に臥さむ事こそ口惜しかるべけれ。今井がゆくへを見ばや」とて河原を上りに係くるほどに、大勢追ひてかかれば、六条川原と三条川原との間にて、取り返し取り返し五六度まで係け靡かして、終に三条川原を係け破りて、東国の方へぞ落ちにける。去年の秋、北国の大将軍として上りしには、五万余騎なりしかども、今粟〔田〕口に打ち出でて関山へかかりしかば、其の勢僅かに主従七騎に成りにけり。まして中有の旅の空、思ひ遣られて哀れ也。
七騎が中の一騎は鞆絵と云へる美女也。紫皮のけちやうのひたたれに、萌黄の腹巻に、重藤の弓にうすべうの矢を負ひ白葦毛なる馬の太く呈しきに、小さき舳絵すりたる貝鞍置きてぞ乗りたりける。木曽は幼少より同じき様にそだちて、うでおし・頸引▼P3053(二七オ)なむど云ふ力態、係け組みてしけるに、少しも劣らざりける。かかりしかば、木曽身近くつかはれけり。爰に誰とは知らず、武者二人追ひかかる。鞆絵馬引かへて待つ処に、左右よりつとよる。其の時左右の手を差し出して、二人が鎧のわたがみを取りて、左右の脇にかいはさみて、一しめしめて捨てたりければ、二人ながら頭をもじけて死にけり。女なれども究竟の甲の者、強弓精兵、矢つぎ早の手ききなり。軍ごとに身を放たず具せられけり。齢三十計也。童部を仕ふ様に朝夕仕へけり。
木曽は龍花を越えて北国へ趣くとも聞えけり。又、中坂にかかりて丹波国へ落つるとも云ひけるが、さはなくて乳母子の今井が行くへを尋ねむとて、勢多の方へ行きけるが、打出の浜にて行き合ひぬ。今井は五百余騎の勢にて有りけるが、▼P3054(二七ウ)勢多にて皆係け散らされて、幡を巻かせて三十騎にて京へ入りけるが、木曽今井の四郎と見てければ、互ひに一町計りよりそれと目をかけて、小馬を早めてより合ひぬ。轡を並べて、木曽と今井と手を取りくみて悦びけり。
木曽宣ひければ、「去年栗柄が谷を落してより以降、敵に後ろをみせず。兵衛佐の思はむ事もあり。都にて九郎と打ち死にせむと思ひつるが、汝と一所にてともかうも成りなむと思ひて是まできつる也」と云へば、今井は涙を流して申しけるは、「仰せの如く、敵に後を見すべきには候はず。勢多にて何にも成るべきにて候ひつるが、御行くへのおぼつかなさに、是まで参りて候ふ也。主従の契くちせず候ふなり」とて、涙を流して悦びけり。木曽が旗指は射殺されてなかりけり。木曽宣ひけるは、「汝が旗、指し上げてみよ。若し▼P3055(二八オ)勢やつく」と宣ひければ、今井高き所に打ち上りて、今井が幡を指し上げたりければ、勢多より落つる者と京より落つる者ともなく、五百余騎ぞ馳せ参る。木曽是をみて悦びて、「此の勢にて、などか今一度、火出づるほどの軍せざるべき。哀れ、死ぬとも吉からむ敵に打ち向かひて死なばや」とぞ宣ひける。
さるほどに、「爰に出で来たるは誰が勢やらむ」と宣へば、「あれは甲斐の一条殿の手とこそ承はれ」。「勢いかほど有るらむ」と問ひ給へば、「六千余騎とこそ承はれ」と申しければ、「敵もよし、勢も多し。いざや係けむ」とて木曽は赤地の錦の直垂に、うす金と云ふ唐綾をどしの鎧に、白星の甲きて、廿四指したる切文の矢に、塗りごめ膝の弓に、金作りの大刀はいて、白葦毛の馬に黄伏輪の鞍置きて、厚ぶさの鞦かけてぞ乗りたりける。まつ先に歩ませ向かひて名乗りけるは、「清和天皇▼P3056(二八ウ)十代の末葉、六条判官為義が孫、帯刀先生義賢が次男、木曽冠者、今は左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源の義仲。あれは甲斐の一条の次郎殿とこそ聞け。義仲打ち取りて頼朝に見せて悦ばせよや」とて、をめいて中へ係け入りて、十文にぞ戦ひける。一条次郎是を聞きて、「名乗る敵を打てや者ども、くめや若党」とて、六千余騎が中に取り籠めて一時計りぞ戦ひける。
木曽散々に係け散らして、敵あまた打ち取りていでたれば、其の勢三百余騎にぞ成りにける。鞆絵が見えざりければ、「打たれにけるにこそ。あな無慚やな」と沙汰する処に、鞆絵出で来たり。近付くを見れば、矢二つ三つ射残して、大刀うちゆがみ、血うち付きて、うちかづきて出で来たり。「いかに」と人々問ひければ、「敵あまた打ちたり。打ち死にせむと▼P3057(二九オ)思ひつるが、君の是に渡らせ御坐す由承りて、打ち破りて怱ぎ馳せ参りて候ふ」とぞ申しける。木曽是を聞きて、「いしくもしつる物哉」とて、返す返すほめられけり。
さて、勢多の方へ行くほどに、「相模国の住人本馬の五郎」と名乗りて、追ひて係かる。取りて返してよくひいて兵ど射たり。本馬が馬のむながひづくしに羽ぶさまでぞ射こみたる。馬逆さまにまろびけり。本馬は落ち立ちて大刀を抜く。木曽「馬がつまづいて射損じぬる。やすからず」とぞ宣ひける。
勢多の方へ行くほどに、土肥次郎実平、三百余騎にて行き合ひたり。中に取り籠められて半時計りたたかひて、さつと破りていでたれば、百余騎にぞ成りにける。なほ勢多の方へ行くほどに、佐原十郎義連、五百余騎にて行き合ひたり。係け入りて散々に戦ひて、さつと破りて出でたれば、五十余騎に成りにけり。其の後、十騎、二十騎、五十▼P3058(二九ウ)騎、百騎、所々にて行き合ひ行き合ひ戦ふほどに、粟津の辺に成りにければ、主従五騎にぞ成りにける。手塚別当、同甥手塚太郎、今井四郎兼平、多胡次郎家包也。鞆絵は落ちやしぬらむ、打たれ〔や〕しぬらむ、行方を知らずなりにけり。猶勢多へ行くほどに、手塚の太郎は落ちにけり。手塚の別当は打たれぬ。
多胡の次郎家包は係けいでて、「上野国住人多胡次郎家包と云ふ者ぞ。よき敵ぞや。家包打ちて勲の賞に預れ」と申して、散々に係けければ、「鎌倉殿の仰せらるる家包ござむなれ。『木曽義仲が手に上野国住人多胡次郎家包と云ふ者付きたり。相構へて生取りにせよ』と仰せられたるぞ。誠に多胡次郎家包ならば軍を止め給へ。助け奉らむ」と申しけるを、「何条さる事の有るべきぞ」と申して、「今はかう」と戦ひけれども、終には生け取られにけり。今▼P3059(三〇オ)井と主従二騎にぞ成りにける。
木曽、今井に押し並べて、「去年北国の軍に向かひて、栗柄が城を出でしをりには五万余騎にて有りし物を、今は只二騎になれる事の哀れさよ。まして中有の旅の空、思ひ遣られて哀れ也。南无阿みだ仏、南无阿みだ仏」と申して、勢多の方へぞあゆませける。「さていかに。例ならず義仲が鎧の重くなるは、いかがせむ」。今井涙を流して、「仰せの如く、誠に哀れに覚ゆる。未だ御身もつかれても見えさせ給はず。御馬も未だよわり候はず。何故にか、今始めて一両の御きせながをば重くは思し召され候ふべき。只御方に勢の候はぬ時に、憶してばしぞ思し食され候ふらむ。兼平一人をば、余武者千騎と思し召せ。あの松原、五町計りにはよもすぎ候はじ。松原へ入らせおはしませ。矢、七つ八つ射残して候へば、しばらく防き矢仕りて、御自害なりとも心閑かにせさせ進らせて、御共仕らむ」とて、▼P3060(三〇ウ)大津の東の川原、粟津の松をさしてぞ馳せける。大勢、未だ追ひ付かず。
勢多の方より、荒手の者共卅騎計りにて出で来たり。今井申しけるは、「君は松の中へ入らせ給へ。兼平は此の敵に打ち向かひて、しなばしに、しなずは返り参らむ。兼平が行くへを御覧じはててに御自害せさせ給へ」とぞ申しける。木曽宣ひけるは、「都にて打ち死にすべかりつるに、爰まできつるは、汝と一所にて死なむと思ひてなり。纔に二騎に成りて、所々に臥さむ事こそ口惜しかるべけれ」とて、馬の鼻を並べて同じく係からむとし給ひければ、木曽が馬の轡に取り付きて申しけるは、「年来日来何なる高名をしつれども、最後の時に不覚しつれば、長き代の疵にて候ふぞ。人の乗り替へ、云ふ甲斐なき奴原に打ち落とされて、『木曽殿は某が下人に打たれ給ふ』など、いはれさせ給はむ事こそ口惜しけれ。只松の中へとくとく入り給へ」と▼P3061(三一オ)申しければ、理とや思ひ給ひけむ、彼の松の下と申しけるは、道より南へ三町計り入りたる所也。其れを守りて後ろ合はせに馳せ行く。
爰に相模国の住人、石田小太郎為久と云ふ者、追ひ係かり奉りて、「大将軍とこそ見奉り候へ。まさなしや、源氏の名をりに。返し給へ」と云ひければ、木曽、射残したる矢の一つあるを取りて、つがひておしもぢりて、馬の三づしの上より兵どいる。石田が馬の太腹をのずくなに射たてたりければ、石田、ま逆に落ちにけり。木曽はかうと思ひて馳せ行く。比は正月廿一日の事なれば、粟津の下の横なわての、馬の頭もうづもるるほどの深田に薄氷のはりたりけるを、馳せ渡りければ、なじかはたまるべき、馬のむながひづくし、ふとはらまで馳せ入りたり。馬もよはりてはたらかず。主もつかれて身もひかず。「さりとも今井はつづくらむ」と思ひて後ろを見返りたりけるを、相模国住人▼P3062(三一ウ)石田小太郎為久、よくひいて兵どいたりければ、木曽が内甲を矢さきみえてぞ射出だしたりける。しばしもたまらず、まかうを馬の頭にあててうつぶしに臥したりけるを、石田の郎等二人、馬より飛び下り、俗衣をかき、深田に下りて木曽が頸をばかきてけり。
今井は歩ませいでて、敵に打ち向かひて、「聞きけむ物を、今はみよ。木曽殿には乳母子、信乃国の住人木曽仲三権守兼遠が四男、今井四郎中原兼平、年は三十二。さる者有りとは、鎌倉殿も知ろし食したるらむぞ。打ち取りて見参に入れや、人共」とて、をめいて中へぞ係け入りける。聞こゆる大力の甲の物、強弓精兵なりければ、敵憶して、さと引きてぞのきにける。さるほどに、勢多の方より武者三十騎計り馳せ来たる。兼平待ちうけて、箙に残る八筋の矢にて八騎射▼P3063(三二オ)落として、其の後大刀を抜きてをめいてかくるに、面を合はする敵ぞなかりける。「押し並べてくめや、殿原。をしひらいて射取れや、人々」と係かり廻りけれども、只ひそらひて、遠矢には雨のふる様に射けれども、鐙よければうらかかず、あきまを射せねば手もをはず。「木曽打たれぬ」と聞きて馳せ来たり、「吾がきみを打ち奉る人は誰人ぞや。其の名を聞かばや」と詈りけれども、名乗る者なかりけり。「軍しても今はなににかせむ」とて、「日本第一の甲の者の、主の御共に自害する。八ヶ国の殿原、見習ひ給へ」とて、高き所に打ちあがり、大刀を抜きてきさきを口にくわへて、馬より逆に落ちて、つらぬかれてぞ死ににける。大刀のきさき、二尺計り後ろへぞいでにける。今井自害して後ぞ、粟津の軍は留まりける。
〔十〕 〔樋口次郎降人に成る事〕
樋口次郎兼光は、「十郎蔵人行家誅つべし」とて、五百余騎の勢にて▼P3064(三二ウ)河内国へ下りたりけるが、十郎蔵人をば打ちにがして、兼光、女共生け取りにして京へ上りけるが、淀の大渡の辺にて「木曽殿打たれぬ」と聞きければ、生け取り共皆免して、「命惜しと思はむ人々は、是よりとくとく落ち給へ」と云ひければ、五百余騎の者共、思ひ思ひに落ちにけり。残る者、僅かに五十騎計りぞ有りける。鳥羽の秋山の程にては、二十騎計りに成りにけり。
爰に小玉党に、庄三郎、庄四郎とて兄弟ありけり。三郎は九郎御曹司に付き奉りたりけり。四郎は木曽殿にありけるが、樋口が手に付きて上ると聞こえければ、兄の三郎、使者を立てて四郎に云ひけるは、「誰を誰とか思ひ奉るべき。木曽殿打たれ給ひぬ。九郎御曹司へ参り給へかし。さるべくは、其の様を申し上げ候はむ」と云ひつかはしたりければ、四郎申しけるは、「兄弟の習、今に始めぬ事にて候へば、悦び入りて承り候ひぬ。善▼P3065(三三オ)悪参り候ふべし」とぞ返答したりける。兄三郎、「さればこそ」と相待ちけれども、みえざりけり。重ねて使を遣はしたりければ、四郎申しけるは、「誠に両度の御使然るべく侯ふ。尤も参るべきにてこそ候へども、且は御辺の御為にも面目なき御事なり。弓矢を取る習ひ、二心あるをして今生の恥とす。昨日までは木曽殿の御恩を蒙りて二なき命を奉らむと思ひて、今又打たれ給ひて後、幾程なき命をたばはむとて本主の御敵、九郎御曹司へ参らむ事口惜しく候へば、御定然るべく候へども、えこそ参り候ふまじけれ。此の御悦びには、まつ先係けて打ち死にして、名を後代に上げ、三郎殿の面目をほどこし奉るべし」と申したりければ、三郎力及ばず、「さては四郎さる者なれば、『詞たがへじ』とて、まつ先に出で来なむず。人手にはかくまじ。善悪打ち取りて、御曹司の見参に入るべし。弓矢取る者のしるし是」と▼P3066(三三ウ)思ひて、待ち係けたり。案の如く庄四郎、打輪の旗指して、まつ先にすすみて出で来たり。是をみて庄三郎、「あはや、四郎は出で来るは」とて、とかうの子細に及ばず、押し並べてくむで落ちたり。しばしはからひけるが、兄弟同じほどの力にて有りける間、互ひにひつくみて臥したりけるを、三郎は多勢にて有りければ、郎等あまた落ち合ひて四郎を手取に取りてけり。判官殿に進らせたりければ、「庄三郎神妙に仕りたり。此の勧賞には、四郎が命を助くる也」と宣ひければ、四郎申しけるは、「命を給はり候ふ忠には、今より以後、軍の候はむには、まつ先係けて君に命を進らすべし」とぞ申したりける。皆人是を感じけり。
さるほどに樋口次郎兼光、造路を上りに四塚へむけて歩ませけり。「兼光京へ入る」と聞こえければ、九郎義経の郎等共、「我も我も」と七粂朱雀四塚へ馳せ▼P3067(三四オ)向かひて合戦す。樋口が甥、信濃武者に千野太郎光弘三十騎計にて先陣にすすむ。武者に行き向かひてすすみ出でて申しけるは、「いづれか甲斐の一条殿の御手にて渡らせ給ひ候ふらむ。かく申すは信濃国住人、すわの上の宮の千野大夫光家が嫡子、千野太郎光弘と申す者」と云ひけるを、筑前国住人、原の十郎高綱進み出でて申しけるは「や、殿、必ず一条殿の御手のかぎりに軍はするか。誰にてもあれ、向かふ敵とこそ軍はすれ。近く寄り合ひ給へ。互ひの手なみ、見たり見えたりせむ」とぞ申しける。千野太郎、「左右に及ばず」とて、弓手にすらひて二段許寄り合ひて、十二束よくひいて、兵ど射る。「高綱」と云ふ口を射通して、鉢付の板に射付けたり。馬にもたまらず落ちむとする所を、千野太郎押し並べて、弓手の脇にかいはさみて、腰刀にて頸をかき切▼P3068(三四ウ)つて大刀のさきにさしつらぬき、「敵も御方も此を見給へ。向かふ者をかうこそ習はせ。敵を嫌ふにあらねども、一条殿御手を尋ぬる事は、光弘が弟、千野七郎が一条殿の御手にある間、彼が見む前にて打ち死にせむと思ふ。其の故は、信濃に男子二人もちたるが、幼なき者にて候ふ也。成人して、『我が父は軍にこそ死にたむなれ。光弘最後の時、よくてや死につらむ、悪しくてや死にけむ』とおぼつかなく思はむも不便なれば、子共に慥に語らせむ料に、一条殿の御手をば尋ねらるる也」と申して、大刀のさきにつらぬきたる頸をばなげすてて、大刀を額にあてて大勢の中に馳せ入り、散々に戦ひて、究竟の敵十三騎切り伏せて、終に自害してこそ死ににけれ。其弟の千野七郎も係け出でて、樋口が勢に打ち向かひて、敵二人に手負はせて打ち死にしてむげり。
さるほどに、「千野太郎打たれぬ」と▼P3069(三五オ)聞きて、樋口次郎歩ませ出だして申しけるは、「音にも聞け、今は目にも見給へ、殿原。信濃国住人、木曽仲三権守兼遠が二男、木曽の左馬頭殿御乳母樋口次郎兼光。打ち取りて鎌倉殿の見参に入れ」とて、をめいて係くる処に、児玉党打輪の旗ささせて、卅騎計りにて出で来たつて申しけるは、樋口は児玉党の聟にて有りければ、「や、殿、樋口殿。人の一家ひろき中へ入ると云ふは、かかる時の為也。軍をとどめ給へ。和殿をば御曹司に申して助けうずるぞ」と云ひて、樋口を中に取り籠めて、大宮を上りに具して、判官の宿所へ入る。九郎義経に申しければ、「義経が計らひに叶ふまじ。院御所へ申せ」とて、樋口を相具して奏聞す。「其の期過ぎたれば、大将軍にてもなし。末の奴原を切るに及ばず。九郎冠者に預けよ」とて、義経に預け置かる。
▼P3070(三五ウ)〔十一〕 〔師家、摂政を止められ給ふ事〕
廿二日、新摂政師家を止め奉りて、本の摂政基通成り返らせ給へり。僅かに六十日と云ふに留められ給へり。ほどのなさ、見はてぬ夢とぞ覚えたる。粟田関白道兼と申すは、内大臣道隆の御子、正暦元年四月廿七日関白に成り給ひて、御拝賀の後只七ヶ日こそおはしまししか。かかるためしもあるぞかし。是は六十日が間に除目も二ヶ度行ひ給ひしかば、思ひでおはしまさぬには非ず。一日も摂禄を〓[黒+賣]し、万機の政を執り行ひ給ひけむこそやさしけれ。
〔十二〕 〔義仲等が頸渡す事〕
廿六日、伊与守義仲が首を渡さる。法皇御車を六条東洞院にたてて御覧ぜらる。九郎義経、六条川原にて検非違使の手へ渡す。是を請け取りて、東洞院の大路を渡して、左の獄門のあふちの木にかく。首四つあり。伊与守義仲、郎等には、信濃国住人高梨六郎忠直、根井滋野幸▼P3071(三六オ)親、今井四郎中原兼平也。樋口兼光は降人なりしを、渡して禁獄せらる。是はさせる其の者にても無し、死罪に行はるべきにてはなけれども、法住寺殿へ寄せて合戦しける時、御所の然るべき女房を取り奉りて、衣装をはぎ取り、兼光が宿所に五六日まで籠め置き奉りたりける故に、彼の女房、かたへの女房達を語らひて、「兼光切らせ給はずは、身を桂川・淀川になげ、深山へ入り、御所を罷り出でなむ」と口々に申しければ、「力及ばず」とて、同じき廿七日に五条西朱雀にて引き出だして、樋口次郎兼光が首を刎ねられぬ。彼の兼光は降人なるに依つて、昨日大路を渡して禁獄せらる。されども 「義仲が四天王の其の一也。死罪を宥められば、虎を養なふ愁ひ有るべし」とて、殊に沙汰ありて切られにけり。
伝へ聞く、虎狼の国衰へて、諸将蜂の如く競ひ起こりしに、沛公先づ咸陽宮に▼P3072(三六ウ)入ると云へども、項羽が後にき〔た〕らむ事を恐れて、金銀珠玉をも掠めず、扉、馬、美人をも犯す事なかりき。只徒らに函谷の関を守りて、項羽が命に随ひき。而して後、謀を翠帳の中に廻らして、勝つ事を千里外に決す。漸々に敵軍を滅ぼして、終に天下を保つ事を得たり。義仲も先づ都へ入ると云へども、其を慎しみて頼朝が下知を待たましかば、沛公が謀には劣らざらまし物をと哀れ也。義仲、悪事を好みて天命に従はず。剰へ法皇を褊し奉りて叛逆に及ぶ。積悪の余殃身に積りて、首を京都に伝ふ。前業のつたなき事をはかられて無慚也。何なる者かしたりけむ、札に書きて立てたりけり。
宇治川を水づけにしてかきわたる木曽の御れうは九郎判官
田畠のつくりものみなかりくひて木曽の御れうはたえはてにけり
▼P3073(三七オ)名にたかき木曽の御れうはこぽれにきよしなかなかに犬にくれなむ
木曽が世に有りし時は、「木曽の御料」と云ひてしかば、草木も靡きてこそ有りしに、いつしか天下の口遊に及べり。はかなき世の習ひと云ひながら、とがむべき人もなし。日来振る舞ひし不善不当、自業自得果の理なれば、とかく申すに及ばず。
十三 〔義経鞍馬へ参る事〕
九郎義経上洛して、「怱ぎ鞍馬へ参りて、師の東光坊に見参して、祈請をも申し付けむ」と思はれけるに、当時此の乱れ打ちつづきてひまなし。思ひながら、さて〔過ぎ〕られにけり。木曽も打たれぬ、京中にも定まりて後、伊勢三郎義盛、渋谷馬允重助、左藤三郎、同四郎以下、郎等十余騎にて鞍馬へ参りて、夜に入れば御堂に入堂して、終夜昔申しし本意遂げたる由を申されて、ちとまどろみ給ひたるに、御宝殿の内より八十有余の老僧出で給ひて、▼P3074(三七ウ)汝に是をとらせむとて置きたるぞ」とて、白さやまきを給はると見て、打ち驚きて傍を見給へば、夢に示し給ひたる鞘巻也。弥よたのもしく思ひて感涙を流しつつ、師の坊に返りて、「かくなむ」と申されけり。東光房是を見て、「誠に毘沙門の放ち思し食さざりけるにや」とぞ申されける。義経、「しばらく候ひて、心閑に申すべき事候へども、京都もおぼつかなし。又こそ候はめ」とて下向せられけり。
其より貴船へ参られたりけり。社殿、昔にかはりたる事はなけれども、古みし草木どもはるかに生ひしげりて、神さびたるありさま、哀れにおぼえて、しばらく念誦せられけるほどに、神主いかが思ひけむ、白羽のかぶら矢一つ取り出して、「聊か夢想の告げ候ふ」とて奉れば、義経畏まりて給はりて出でられにけり。さてこそ屋嶋へ渡り給ひし時、大風に船共あやふくみえしかば、此の矢を白旗のさを▼P3075(三八オ)にぞゆひ付けられける。
十四 〔義経に平家を征伐すべきの由仰せらるる事〕
廿九日、九郎義経いつしか平家征伐の為に西国へ下向。義経を、院の御所六条殿へ召して仰せの有りけるは、「吾が朝に神代より伝はりたる三つの御宝あり。即ち神璽・宝剣・内侍所、是也。相構へて相構へて、事故無く都へ返し入れ奉れ」とぞ仰せられける。義経畏まりて罷り出でぬ。
〔十五〕〔平家一谷に城郭を構ふる事〕
平家は幡摩国室山、備中国水嶋、両度の合戦に打ち勝ちて、山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国の住人等悉く従へ、軍兵十万余騎に及ペり。「木曽打たれぬ」と聞こえければ、平家、讃岐屋嶋をこぎ出でつつ、摂津国と幡摩との堺なる、難波一谷と云ふ所にぞ故籠りける。去る正月より、ここは究竟の城なりとて、城郭を構へて、先陣は生田の杜、湊河、▼P3076(三八ウ)福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石までつづき、海上には数千艘の舟を浮べて、浦々嶋々に充満したり。一谷は、口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人もすこしも通ふべき様なかりけり。誠にゆゆしき城也。赤旗其の数を知らず立て並べたりければ、春風に吹かれて天に飜り、火焔の立ちあがるが如し。誠におびたたし表も即しぬべくぞ見えける。
平家に年来祗候の伊賀、伊勢、近国の死に残りたる輩、北国、南海よりぬけぬけに付きける輩、幡摩国には津田四郎高基、美作国には江見入道、豊田権守、備前国には難波次郎経遠、同三郎経房、備中国には石賀入道、建部太郎、新見郷司、備後国には奴可入道、伯耆国には小鴨介基康、村尾海▼P3077(三九オ)六成盛、日野郡司義行、出雲国には円屋大夫、多久七郎、浅山、木須幾、身白が一党、冨田の押領使、横田兵衛惟澄、安芸国には源五兵衛頼房、周房国には石国源太維道、野介太郎有知、冨田介高綱、石見国には安主大夫、横川郡司、長門国には郡東郡司季平、郡西大夫良親、原宗入道武通、鎮西輩には菊地次郎高直、原田大夫種直、松浦太郎重俊、郡司権守直平、佐伯三郎維康、坂三郎惟良、左原太郎種益、山鹿兵藤次秀遠、板屋兵衛種遠、阿波民部成良が計らひにて、伊与川野四郎通信が余党の外は、大略皆参りにけり。昔項羽が鴻門に向かふが如し。なにかは是を攻め落とさむと見えける。
▼P3078(三九ウ)十六 〔能登守四国の者共討ち平らぐる事〕
さる程に、讃岐国在庁已下の家人等、平家摂津国へ渡り給ひて後、心を源氏に通はして、「次で有らば源氏の方へ参らむ」と思ひけるが、「今日まで平家に奉公して只参らむは、源氏に打たれなむず」とて、「平家に矢一つ射係け奉りて、其を面にせむ」と思ひて、十三艘の船に二千余人乗りて、備前国へ押し渡りけるが、門脇中納言敦盛父子三人、五百余騎にて備前の下居郡におはしますと聞きて、「かしこへ押し寄せて、打つべきの由を支度す」と聞こえければ、越前三位通盛・能登守教経、此の事を聞きて、「にくき奴原かな。昨日まで我等が馬の草かりたる奴原の二心仕らむこそ奇怪なれ。其の義ならば一人もあますな」とて、彼等が立て籠もりたる所へ押し寄せて戦ふ。彼等は「人目計りに矢一つ射む」とこそ思ひけるに、能登▼P3079(四〇オ)守大きに怒りてせめければ、在庁等こらへずして都の方へおもむきけるが、暫く息継がむとて、淡路国福浦と云ふ所に付きにけり。彼の国に、掃部冠者、淡路冠者とて源氏二人あり。此等は六条判官為義が孫共也。掃部冠者は掃部頼仲が子息、淡路冠者は同四郎左衛門尉頼賢が子也。淡路国住人等皆此の両人に付きにけり。讃岐国在庁も此の二人を大将と憑みてけり。是を聞きて、通盛・教経淡路へ渡りて、一日一夜戦ひけるほどに、掃部冠者も淡路冠者も打たれにけり。能登守は在庁已下百三十二人が首切りて、交名書き副へて福原へ献る。中納言は福原へ返り給ひにけり。
通盛・教経二人は、伊与河野四郎通信せめむとて、二手に分けて押し渡る。三位は阿波小郡花薗と云ふ所に着き給ふ。▼P3080(四〇ウ)能登守はさぬきの屋嶋の御所に着き給ひけり。通信此の事を聞きて、安芸の奴田太郎も源氏に心ざし有るよし聞きてければ、奴田太郎と一つに成りて奴田尻へ渡りて、今日備後の簑嶋と云ふ所に留まる。次の日蓑嶋を出でて奴田城へ着きにけり。平家やがて追ひかかりて、一日一夜戦ひけるほどに、矢種射つくしたりければ、奴田太郎、甲をぬぎ弓をはづして降人に参りにけり。河野四郎通信は郎等皆打ち取られて、僅かに主従七騎にて細縄手を浜へ向かひて落ちけるを、能登守の侍に平八為員と云ふ者、取りてはげてよくひきて射たりければ、六騎は射落としてけり。六騎が内三騎は目の前にて死にけり。残る三人が内一人は、讃岐国七郎為兼と云ふ者也。命にかへて思ふ郎等なりければ、河野▼P3081(四一オ)肩に引き係けて、小船に乗りて伊与国へ落ちにけり。教経、河野をば打ちにがしたりけれども、大将軍奴田太郎生け取りにして、福原もおぼつかなしとて、福原へ帰り給ひにけり。
淡路国住人阿万六郎宗益、此も源氏に志ありて都へ上りけり。教経是を聞きて、小船十三艘に百五十余人乗りて追ひてかかる。西宮のおきにて追ひ付きたり。阿万六郎河尻へは入られず、矢一つも射ずして、紀伊の地をさして落ちにけり。
紀伊国住人薗部兵衛重茂と云ふ者あり。是も源氏に志ありけるが、「淡路阿万六郎こそ源氏に志ありて京へ上るなるが、和泉国ふけい田川と云ふ所に付きたむなれ」と聞きて、一つに成りてありけるを、教経紀伊の地へ押し渡りて散々に打ちちらして、末の者三十六人が首切りて福原へ奉つる。又備前▼P3082(四一ウ)国の今木城に、河野四郎通信、豊後国住人緒方三郎伊能、海田兵衛宗近、臼杵次郎惟高等、一つに成りて籠もりたるよし聞こえければ、能登守二千余騎の勢にて今木城へ押し寄せて、一日一夜戦ひて、城内こらへずして城負けにければ、鎮西の者共、伊栄を始めとして、豊後の地へ落ちにけり。川野は例の事なれば、四国の方へ落ちにけり。能登守、今木城せめ落として、福原もおぼつかなしとて返り給ひにければ、能登守の所々の高名、大臣殿以下の人々、感じあひ給へり。能登守申されけるは、「やがて四国九国へも押し渡りて、彼等をせめ落として進らすべく候ひつれども、京より源氏の勢向かふと承りて、おぼつかなさに参りて候ふ」と申されけり。あはれ大将軍やとぞみへし。
▼P3083(四二オ)〔十七〕 〔平家福原にて仏事行ふ事 付けたり 除目行ふ事〕
二月四日、平家は福原にて、故太政入道の忌日とて、形の如く仏事行はれけり。過ぎ行く月日はしらねども、手を折り是を算ふれば、去年の今年に廻りきて、うかりし春にも成りにけり。世の世にてあらましかば、起立塔婆、供仏施僧の営みも、さすが耳目を驚かす事までこそ有るべきに、形の如きのいとなみ哀れ也。只男君達指しつどひて悲しみ給ひけるこそ悲しけれ。すでに都へ帰り入るべき由聞こえければ、残り留まる門客落ち下りて、勢いとど付きにけり。「三種神祇を帯して、君かくて渡らせ給へば、是こそ都なれ」とて、叙位除目、憎も俗も官成されけり。門脇中納言教盛卿をば正二位大納言に召し仰せられければ、教盛はかくぞ申されける。
今日までもあればあるとやおもふらむゆめのうちにもゆめをみるかな
大外記中原師▼P3084(四二ウ)直が子、周房介師澄は大外記に成りにけり。兵部少輔尹明は五位蔵人になされて、蔵人の少輔とぞ申しける。昔将門が東八ヶ国を打ち靡かして、下総国相馬郡に都を立てて、我が身を平親王と称して、百官を成したりけるが、暦博士計りこそなかりけれ。是は其には似るべきにあらず。古郷をこそ出でさせ給ひたれども、万乗の位に備はり給へり。内侍所ましませば、叙位除目行はれけるも僻事ならず。
権亮三位中将は、年隔たり日重なるに随ひて、古郷に留め置きし人々の事のみ穴倉無く恋しくぞ思はれける。商人の便りなどに自ら文なむどの通ふにも、北の方は、「相ひ構へて迎へ取り給へ。少なき者共もなのめならず恋しがり奉る。つきせぬ歎きにながらふべくもなし」なむど、細々とかきつづけ給へるを▼P3085(四三オ)見給ふに付けても、「あはれ、迎へ取り奉りて一所にてともかくもならば、思ふ事あらじ」と、思ひ立ち給ふ事ひまなけれども、人の為いとほしければ、思ひ忍びて日を送る。さるままには余三〔兵〕衛、石童丸なむどを常にあと枕に置き給ひて、暁けても晩れても、只此の事をのみ宣ひて、臥し沈み給へば、三位中将の有様を人々見給ひて、「池の大納言の様に、頼朝に心を通はして二心有り」とて、大臣殿も打ちとけ給はねば、「ゆめゆめさは無き物を」とて、いとどあぢきなくぞおぼしめされける。「愛執増長、一切煩悩」の文を思ふには、「穢土を厭ふにいさみなし。閻浮愛執のきづなこはければ、浄土を欣ふに倦し。宿執開発の身なれば、今生には妻子を念ふ心、合戦に向かふ思ひに身を苦しめて、来生には修羅道に落ちむ事疑ひなし。只一門に知られずして、都へ忍びて上りて、妻子をも見、妄念をも払ひて、▼P3086(四三ウ)閑かに臨終せむより外の享有るべからず」と思ひなられにければ、何事も思ひ入れ給はず、臥し沈み給ふぞ哀れなる。
二位僧都全真は、梶井宮の年来の御同宿也ければ、風の便りの御文遣はされけるに、「旅の空の有様思ひ遣るこそ心苦しけれ。都も未だしづまらず」なむど、こまごまとあそばして、
人しれずそなたを忍ぶこころをばかたぶく月にたぐへてぞやる
十八 〔梶原摂津国勝尾寺焼き払ふ事〕
元暦元年二月四日、梶原一谷へ向かひけるに、民共勝尾寺に物を隠すよし、ほの聞きて、兵の襲ひ責めしかば、老いたるも若きもにげかくれき。三衣一鉢をうばふのみにあらず、忽ちに火を放ちにければ、堂舎・仏閣悉く春の霞となり、仏像・経巻併しながら夜の雲とのぼりぬ。咸陽宮の煙の片々たりしも、仏閣にあらねば其の咎なほかろく、祗薗寺のほの▼P3087(四四オ)をの炎々たりしも、人のくはだてならねば其の罪おもからじ。然るを、今ほろぼす所は、仏閣・僧坊六十八宇、経論・章疏九千余巻、仏像・道具・資財・雑物、すべて算数の及ぶ処にあらず。罪すでに五逆罪よりもおもし。当果豈地獄のくるしみをまぬがれむや。
薬師三尊は、おのづからほのほをのがれ、千手観音は、むなしく煙となり給へり。目もくれ心もきえて、なきかなしむ者多し。されども、頂上仏の金銅の阿弥陀、御身に納めたりし金銅の観音と、灰の中よりもとめ奉る。百済国よ
〔十九〕 〔法皇平家追討の御祈りのために毘沙門を作り始めらるる事〕
同七日、法皇は八条烏丸御所にして、平氏追討の御祈りに、五丈の毘沙▼P3088(四四ウ)門天像を作り始めらる。先づ御衣木を安置す。二丈五尺なり。南を以て上となす。法印院尊大仏師たり。権僧正定遍加持す。御衣木西に向かへり。法皇鈍色の付衣をめされて砌下の御座に着御あり。高麗縁の畳一帖を地上に敷きて御座とす。御仏作り始めて後、北に向かひて立ち奉りて、法皇三度御拝ありけり。
〔二十〕 〔源氏三草山并びに一谷追ひ落す事〕
さる程に、源氏二手に構へて福原へ寄せむとしけるが、「四日は仏事を妨げむ事罪深かるべし。五日西ふたがる。六日悪日なり」とて、七日の卯時に東西の木戸口の矢合と定む。
大手大将軍蒲冠者範頼は、四日京を立ち、摂津国幡摩路より一谷へ向かふ。相従ふ輩は、武田太郎信義、加々見太郎遠光、同次郎長清、一条次郎忠頼、▼P3089(四五オ)板垣三郎兼信、武田兵衛有義、伊沢五郎信光、侍大将軍には、梶原平三景時、嫡子源太景季、同平次景高、千葉介経胤、同太郎胤時、同小太郎成胤、相馬小次郎師経、同五郎胤道、同六郎胤頗、武石三郎胤盛、大須賀四郎胤信、山田太郎重澄、山名小二郎義行、渋谷三郎重国、同馬允重助、佐貫四郎大夫弘綱、村上次郎判官基国、小野寺太郎道綱、庄太郎家長、庄四郎忠家、同五郎弘方、塩屋五郎是弘、勅旨川原権三郎有則、中村小三郎時経、川原太郎高直、同次郎盛直、秩父武者四郎行綱、久下二郎重光、小代八郎行平、海老名太郎、同三郎、同四郎、同五郎、中条藤次家長、安保二郎実光、品河二郎清経、▼P3090(四五ウ)曽我太郎助信、中村太郎等を始めとして五万六千余騎、六日酉剋に摂津生田森に付きにけり。
搦手大将軍九郎義経は、同日京を出でて、三草山を越えて丹波路より向かふ。相従ふ輩は、安田三郎義定、田代冠者信綱、大内太郎惟義、斎院次官親能、佐原十郎義連、侍大将軍には、畠山庄司次郎重忠、弟長野三郎重清、従父兄弟稲毛三郎重成、土肥次郎実平、嫡子弥太郎遠平、山名三郎義範、同四郎重朝、同五郎行重、判三六郎成滑、和田小太郎義盛、天野次郎直常、糟屋藤太有季、川越太郎重頼、同小太郎重房、平山武者所季重、平佐古太郎為重、能谷次郎直実、子息小二郎直家、佐々木▼P3091(四六オ)四郎高綱、小川小次郎助義、大川戸太郎広行、諸岳兵衛重経、原三郎清益、金子十郎家忠、同余一家貞、猪俣小平六則綱、渡柳弥権太清忠、別府次郎義行、長井太郎義兼、源八広綱、椎名小次郎有胤、奥州佐藤三郎継倍、同四郎忠信、伊勢三郎能盛、多々良五郎義春、同六郎光義、片岡太郎経春、筒井次郎義行、葦名太郎清高、蓮間太郎忠俊、同五郎国長、岡部太郎忠澄、同三郎忠康、枝源三、能井太郎、武蔵房弁慶なんどを始めとして一万余騎、丹波路にかかりて、三草山の山口に、其日の戌時計りに馳せ付きたり。
九郎義経は、赤地錦の直垂に、黄返したる鎧きて、宿鴇毛なる馬の太く尾かみあくまで呈しきが、名をばあま▼P3092(四六ウ)雲と云ふにぞ乗りたりける。東国第一の名馬也。二日路を一日にぞ打ちたりける。三草山は山中三里也。平家是を聞きて、三草山の西の山口を、大将軍は、新三位中将資盛、同少将有盛、備中守師盛、侍には、平内兵衛清家、江見太郎清平を先として、七千余騎にて三草山へぞ向かひける。東の山口には九郎義経、土肥次郎実平を大将軍として、一万余騎にて引かへたり。
九郎義経、土肥次郎に云ひけるは、「今日の軍、夜打ちにやすべき、あけてやすべき」と云ひけるに、土肥にはいはせで、伊豆国住人田代冠者信綱すすみ出でて申しけるは、「此程の山を落とさむには、只謀を先とす。『雪は野原をうづめども、老いたる馬ぞ道をしる、一陣破れぬれば残党全からず』といへり。平家はよも今夜は用心候はじ。夜討能く候ひぬと▼P3093(四七オ)覚え候ふ。平家の勢七千余騎と承る。御方は一万余騎也。遥かの利にて侯ふべし。信綱ま先任らん」と申しければ、土肥、「田代殿、いしう申させ給ひて候ふ。実平もかうこそ存じ候へ」とぞ申しける。
田代冠者と申すは、伊豆国司為綱と申しけるが在国の時、工藤介茂光が娘を思ひて生みたりける子なり。為綱は任はてて上りけれども、信綱は母方の祖父工藤介茂光に預けて、伊豆国にてそだてられたりけるが、生年十一歳の年、流人兵衛佐の見参に入りて宮仕へけり。弓矢取りて勝れたりける上、ゆゆしき甲の者にてぞ有りける。石橋合戦の時、伊東入道祐親法師を射散らして、御方をのばしたりし兵也。かかりければ、兵衛佐、「九郎が副将軍に成り給へ」とて、差し副へられたる武者也。俗姓を尋ぬれば、後三条第三皇子望人の▼P3094(四七ウ)親王の五代の孫なりとぞ聞こえし。「さらば夜討にすべし」とて、其の夜の丑剋計りに、一万余騎にて、三草山の西の山口固めたる平家の陣へ押し寄せたり。
平家の先陣は、おのづから少々用心しけれども、後陣は「今日軍有〔らじ〕。明日の軍にてぞ有らむずらむ」とて、「軍にもねぶたきは大事の物ぞ、今夜よく寝て軍せん」とて、或は甲をぬいで枕にし、或は箙をとき、鎧の袖をたたみて枕として臥せたりける所へ押し寄せて、時を作りて、しばしもためず、やがてけちらして通りければ、弓を取る者は矢を取らず、矢を取る者は弓を取らず、或はつなげる馬に乗り、或は逆に乗りてむちをうつ人もあり、軍せむとする者は一人もなくて、我先にとにげまどひければ、一騎も打たれで皆通りぬ。
新三位中将は、追ひちらされたる事を面目無く思はれければにや、福原へも返り給はで、▼P3095(四八オ)小馬の林より小舟に乗り、福浦の渡をして、淡路の由良へ付き給ふ。舎弟備中守師盛・平内兵衛清家、あくる五日、大臣殿に参りて、「三草山は、去る夜の夜中計りに、源氏の軍兵に散々に追ひ散らされ候ひぬ。猶山へ手を向けらるべくや候ふらむ」と申されたりければ、大臣殿大に驚き給ひて、東西の木戸口へ重ねて勢をつかはさる。
さて、安芸の馬助能康を御使にて、能登守の許へ云ひ遺されけるは、「三草山の手、已に落とされて候ふなり。一谷へは、貞能・家長を差し遣はされ候ひぬれば、さりとも〔と〕覚え候ふ。生田へは、新中納言向かはれ候ひぬれば、それ又心安く候ふ。山の手には、盛俊むかへとて候へば、山は一大事の所にて有る由承り候へば、重ねて勢を差し副へばやと存じ候ふが、いづれの殿原も『山へは向かはじ』と申され候ふ。いかがし候ふべき。さりとては、御辺向かはせ給へと存じ候」と宣ひたりければ、▼P3096(四八ウ)能登守申されけるは、「軍と申すは、面々に我一人が大事と思ひて、同心に候ふこそ能く候へ。『其の手へは叶はじ、其の人向へ』、『あの手へ向かはじ』なむど候はんには、軍に勝つ事候ふまじ。行末もはかばかしかるべしとも覚え候はず。されば、人の上の大事と各思し召さるべきかや。但し、幾度も、強からむ方へは教経を差し遣はされ候へ。命のかよはむ限りは、身をばたばひ候ふまじ」とて、やがて能康が見る所にて打ち立ちて、物具ひしひしとして向かはれけり。甲斐々々しくぞみえられける。程無く三草山へ馳せ付きて、越中前司盛俊が陣の前に仮屋を打ちて待ち係けたり。
さるほどに五日もくれにけり。源氏の勢、崑陽野に陣を取り、遠火をたきたり。平家生田より見渡せば、深け行くままに晴れたる空の星を見るが如く也。平家の方にも 「向火たけ」とて、生田森に形の如くたい▼P3097(四九オ)たりけり。
其の夜は、越前三位通盛は、能登守の仮屋に物具抜ぎ置きて、女を迎へて臥し給へり。能登守是を見て申されけるは、「何にかやうに打ちとけては渡らせ給ふぞ。此の手は敵強くて教経向かへと候ひつれば、向かひて候ふ。誠に強かるべき所と見えて候ふ。軍の習ひ、弓をもちたれども矢をはげずは遅かるべし。敵只今押し寄せて候はむ時は、鎧をきば甲をきず、弓を取りて矢をとらずこそ候はんずらめ。まして物具ぬぎ置かれ候ひては、何の用にか合はせ給ふべき」と、再三申されければ、心ならず、わくらばのいもせのならひなれば、まだむつ事もつきざるに、よひのまぎれに引き離れて、女をかへし給ふ。後に思し食し合はせられけるは、其こそ最後の見終なれ。哀れなりし別れのほどこそ、思ひ遣られて悲しけれ。
「軍は七日卯の時に矢合はせ有るべし」と定めらる。「義経が勢の中に、奥州佐藤三郎兵▼P3098(四九ウ)衛継信・同四郎兵衛忠信・枝源三・熊井太郎・源八広綱・伊勢三郎能盛・武蔵房弁慶・熊谷次郎直美・子息小次郎直家・平山武者所季重・片岡八郎為春、其勢七千余騎は義経に付け。残り三千余騎は、土肥次郎・田代冠者両人大将軍として、山の手を破り給へ。我が身は三草山を打ちめぐりて、鵯越へ向ふべし」とて歩ませけり。義経、申されけるは、「抑、此の山は悪所にてあむなる者を。馬おとして誤ちすな。誰か、此の山の案内知りたる」と仰せられければ、武蔵国住人、川越小太郎重房、すすみ出でて、弓取りなほして申しけるは、「重房こそ此の山の案内は知りて候へ。御免を蒙り、先陣仕るべし」と申しければ、父重頼、取りもあへず打ち咲ひて、「幼少よりして武蔵相模に居住して、足柄より西はみず。今始めて▼P3099(五〇オ)西国の初下りに此の山に入りて、『案内者せむ』と申さるるこそ誠とも覚えね。山にまよはじと思はむ人は用ゐばこそあらめ」と云ひければ、重房、重ねて申しけるは、「『紫塵の嬾き蕨は人手を拳る。碧玉の寒き蘆は錐嚢を脱す』といへり。心すきたる哥人の、吉野・龍田にわけ入りて、花や紅葉を尋ぬるに、花は峯のこずゑ面白く、紅葉は谷川の岸の岩根色深し。敵の籠れる後ろと思ひなれて、城を構へたる山なれば、さこそ有るらめと思ひ成して、甲の者こそ案内者よ。さてこそ重房、先係けむと申しつれ」と云ひければ、人々是を聞きて、「理りかな。面白し」と音々に感じてぞ歩ませける。
かくは勇みに詈りけれども、誠に山の案内知りたる兵一人もなし。何れの谷へ落ちて、何れの峯へ越ゆべしともしらざりければ、三草山の夜討ちの時、生け取りあまたせられたりけるを、切るべき者をば忽ちにきられぬ、国々の駈武者のけしか▼P3100(五〇ウ)る奴原をば、木の本にゆひつけなむどして通りけるに、「生け取りの中に尋ね聞きたき事もこそあれ」とて、一人召し具せられたりけるを召し出だして、尋ねられければ、申しけるは、「此の山は鵯越と申して、さがしき山にて候ふ。所々に落とし穴をほり、馬をも人をも通ふべくも候はず。少しもふみはづしたらば落とさむとて、底にひしを殖ゑて候ふとぞ承り候ふ」と申したりければ、「抑も、和君は平家の祗候人か。又国々の駈武者か」と問はれければ、「平家の家人にても候はず。駈武者にても候はず。播磨国安田庄の下司、多賀菅六久利と申す者にて候ふが、去んぬる比、先祖相伝の所領を、故無く、平家の侍、越中前司盛俊と申す者に押領せられ候ひて、此の二三年の間、訴へ申し候へども、訴詔達せずして罷り過ぎ候ふ。所領は取られ候ひぬ。きずなき死、し候はむよりは、同じくは弓矢を取りて軍にこそ死に候はめと▼P3101(五一オ)存じ候ひて、此の手に付きて候ふ」と申しければ、「さては平家の祗候人にてはあらざりけり。誠に此の山の案内者、久利にすぎじ」とて、「今はゆるすべし」とて、誡めをゆるされて、先に立ててぞおはしける。
比はきさらぎの六日の事なれば、よひながら傾く月を打ち守り、四方をただして行くほどに、青山は苦深くして、残りの雪は始めの花かとあやまたれ、岩まの氷とけざれば、細谷川瀬おとたえ、白雲高くそびえて、下らむとすれば谷深し。深山道たえて、杉の雪まで消えやらず。岸の細路、幽か也。木々の梢も滋ければ、友まよはせる所もあり。只こと問ふ者とては、遠山にさけぶ猿の音、谷の鴬こゑなければ、また冬かと疑はる。松根に依りて腰をすらねども、千年の翠、手にみてり。梅花を折りて頭にささねども、二月の雪、衣に落つ。月も高嶺に隠れぬ▼P3102(五一ウ)れば、山深くして道みえず。心計りははやれども、夢に道行く心地して、馬に任せて打つ程に、敵の城の後ろなる鵯越を上りにける。管六、東を指して申しけるは、「あれに見え候ふ所は大物の浜、難波浦、崑陽野、打出。あし屋の里と申すはあのあたりにて候ふ也。南は淡路嶋、西は明石浦、汀につづきて候ふ。火の見え候ふも、幡摩・摂津二ヶ国の堺、両国の内には第一の谷にて候ふ間、一の谷と申し候ふなり。さがしくは見え候へども、小石まじりの白砂にて、御馬はよも損じ候はじ。一の檀こそ大事の所にて候へ。巌高くそびえ臥して、馬の足立つべしともみえ候はず。少しもふみはづして、まろび入り候ひなむ馬は、骨を摧かずと云ふ事候ふまじ。東西の木戸の上、東の岡をば壇の浦とて、海路遥に見渡して、眺望面白く候ふ。望海楼をうかべつべし。西の岡をば高松原とて、▼P3103(五二オ)春の塩風、秋の嵐の音、殊に冷まじき所にて候ふ也。大将軍、むねとの侍近く召して、各屋形を並べ作り、其の外の兵は東西の木戸口に二重に屋形を並べて候ふ也。弓矢取る身の習ひ、恥ぢがましく候ふ間、室山・水嶋の軍に度々命をすてて、合戦仕りて候へども、思ひ知り給はぬが口惜しく候へば、今日始めてはがね顕はし候はむずる」とぞ申しける。九郎義経は空もみえぬ深山の道を、いづくとも知らずあゆませつつ、峨々たる山を打ち出で、漫々たる海上を見渡して、渚々の篝火、海人の苫屋の藻塩火かと面白くぞ思はれける。感に絶え給はず、「兵杖の具足をば態ととらせぬぞよ。是にて敵招きて打ち物奪ひ取りて、高名せよ。勲功は取り申すべし」とて、皆紅の日出だしたる扇をぞ、多賀菅六にはたびてける。未だ夜深かりければ、暫ここにて人馬の息をぞ息めける。
かかりける所に、年▼P3104(五二ウ)五十計りなる男、かきの袴にくくりゆひて、赤かりける犬二疋、先に立てて、九郎義経の陣の前をぞ通りける。枝の源三を以て是を召す。翁、御前に参りて畏まる。「汝は何なる者、なにがしと云ふ者なれば、此の夜中にか程のみ山を通るぞ」と御尋ねあり。「本は此の山のすそに、相川と云ふ里の者にて候ひしが、此の十四年、此の山に籠り、狩を仕る。斧柄の妾と申す者にて候」。「さては汝、山の案内は知りて有るらむ。平家の引かへて御はします城の上へ落とす道有らば、有りのままに申せ」。此のをきな、申すやう、「幼少の当初より、老体の今に至るまで、度世を助からむが為に、此の山林に交はりて狩を仕る。至らぬ木の本も無く、下らぬ谷は無けれども、平家のおはします城の上へ落とす路は無く候ふ」と申す。「さて、鹿などの通ふ事は無きか」と御尋ね有り。「池の氷うち解けて、夕陽東にま▼P3105(五三オ)はり、のどけき春に成り候ひぬれば、舟波のみ山の鹿が幡摩の野山へ渡り、紅葉谷にちりしきて、こずゑあらはに成り候へば、こぐらき木の本を尋ね、幡摩の鹿が舟波へ通ふ時は此の山を越え候ふ」と申す。「さては鹿は通ふごさむなれ。鹿の通ふ程の道、馬の通はぬ事あるべからず。古き馬場にて有りけり。さて此の山を鵯越と云ふは、いかに」と御尋ね有り。翁申して云はく、「伝へ承り候ふは、天智天皇、摂津国ながえの西の宮にすませおはしましし時、あまた小鳥を召されけるに、武庫山満願寺の峯にて鵯を取り給ふ。御使は大友の公家と云ひける人也。鵯をさげ、此の坂を越えたりけるに依りて、鵯越とは名付く。又、当時見候へば、春の霞の深くして、み山のこぐらき時は、南山にすまふ鵯の北の山へ渡りて、栖をかけ、子をうみ、秋の霧はれて、こずゑあらはに成り候へば、おくも▼P3106(五三ウ)雪に畏れて、北なる鵯が南へわたる時は、此の山をこゆ。さて、鵯越とは申し候ふ。平家のおはする城の上から、十四五丁ぞ候ふらむ。五丈計りは落とすと云へども、其より下へは馬も人もよもかよひ候はじ。思し食し留まり給ひ候へ」と申して、かきけつやうにうせにけり。いとど心細くぞ思されける。
大手の勢は宵の程は崑陽野に陣を取り、しころを並べて居たりけるが、三草の手に向かひたる越前三位・能登守の陣の火、湊川より打ち上りて、北岡に火を立てけるを、大手の兵是を見て、「九郎御曹司、既に近付き給へり。打てや打てや」とて、我先に係けむと、五万余騎、手々に続松を捧げて怱ぎける所に火を放ちければ、汀に連きて万燈会の如し。生田森までつづきたり。海上光り渡りて、身の毛いよだちて、おびたたし。源氏平氏の陣の火の立たぬ所ぞなかりける。
熊谷▼P3107(五四オ)次郎は、子息小次郎直家に申しけるは、「此の大勢に具して山を落とさむには高名不覚も有るまじ。其の上、明日の軍は打ちこみにて、誰先と云ふ事あるまじ。今度の合戦に一方の前を係けたりと兵衛佐殿にきかれ奉らむと思ふぞ。其故は、兵衛佐殿、然るべき者をば、一間なる所によび入れて、『今度の軍には汝一人を恃むぞ。親にも子にも云ふべからず。軍においては忠を尽くして頼朝をうらみよ』とぞ宣ひける。直実にも、かく仰せられし事を承りて、一方の前をば心にかく。いざうれ小次郎、西方より幡磨路へおりて一谷の先せむ。卯の時の矢合はせなれば、只今は寅の始めにてぞ有るらむ」とて、打ち出でむとしけるが、「あはれ平山は先を心にかけたると見る物を。平山は先にや此の山を出でぬらむ」と思ひて、人を遺して平山が在所を見せけるに、使返りて申しけるは、「平山殿の御方には、只今馬のはみ物して、たいげに候ふも、御ぬしはまゐりて▼P3108(五四ウ)候ひげにて、御物具めし候ふかと覚えて、御鎧の草摺の音のかすかに聞こえ候ふ。御乗馬とおぼしくて、鞍置きて轡計りはづして、舎人引かへて候ふ。物具めし候ふが、平山殿の御音と覚しくて、『八幡大菩薩も御覧ぜよ。今日の軍のまつ先せむずる物を』と宣ふ」と申しければ、熊谷、さればこそと思ひて、小二郎直家、旗指し共に三騎相具して、幡磨路の渚に心をかけて打ち出でむとする所に、武者こそ五六騎出で来たれ。「只今ここに出で来たるはなむ者ぞ。名乗り候へ」と云ひけるこゑを聞きて、九郎御曹司の御音と聞きて、直実申しけるは、「是は直実にて候ふ。君の御出と承り候ひて、御共に参り候はむとて候ふ」とぞ申しける。後に申しけるは、「御曹司の御音を其の時聞きたりしは、百千の鉾さきを身にあてられたらむも是にはすぎじと、おそろしかりし」とぞ申しける。「義経は、『其より先に係くる者や▼P3109(五五オ)ある、又、敵や襲ひ来たるらむ』と思ひて、夜廻りしけるなり。いしう参りたり」と宣ひて、引き返す所に、共する様にて、ぬきあしにこそ歩ませたれ。
「そも渚へいづる道の案内を知らぬをば、いかがすべき。なまじひに出でば、出でぬ山に迷ひて、咲はれて恥ぢがましかるべし」と申しければ、小二郎申しけるは、「武蔵にて人の申し候ひしは、『山に迷はぬ事は安き事にて候ふなり。山沢を下にだにまかり候へば、いかさまにも人里へまかる』とこそ申し候ひしか。其の定に山沢を尋ねて、下らせ給へ」と申しければ、「さもありなむ」とて、山沢の有りけるを指南にて下りけるほどに、思の如くに幡磨路の渚に打ち出でて、七日の卯の剋計りに一谷の西の木戸口へ寄せてみれば、城郭の構へ様、誠におびたたし。陸には山の麓まで大木を切り伏せて、其の影に数万騎の勢、並み居たり。渚には山の麓より海の遠浅まで、大石をたたみて乱杭を打ち、大船数を知らず立て置きたり。其の影に▼P3110(五五ウ)数万疋の馬共、十重廿重に引き立てたり。其の後ろには赤旗数を知らず立て並べて、矢倉の下にも雲霞の兵並み居たり。海には数千艘の儲船うちたりければ、輙く破るべしとも見えざりけり。
熊谷次郎直実、褐衣の鎧直垂に、紺村濃の鎧に紅のほろかけて、権太栗毛と云ふ馬に黒鞍置きてぞ乗りたりける。大中黒の矢の二十四指したる、頭高に負ひなし、二所藤の弓の極めてにぎり太にて、つよげなるをぞ持ちたりける。子息小二郎直家は、おもだかを所々にすりたる直垂に、ふしなはめの鎧に、それも紅のほろかけて、妻黒の矢、頭高に負ひ成して、滋膝の弓を以て、鹿毛なる馬に黒鞍置きてぞ乗りたりける。旗指しは秋野摺りたる直垂に洗川の鎧に三枚甲をきて、黒鴾毛なる馬の、名をば白浪と云ふ逸物にぞ乗りたりける。此馬は陸奥▼P3111(五六オ)栗原姉葉と云ふ所に白浪と云ふ牧あり。
是より出で来たりける上、尾がみの白かりければ、白浪とぞ付けたりける。
熊谷父子二騎、木戸口近く攻め寄せて、「武蔵国住人熊谷次郎直実、嫡子直家生年十六歳、伝へても聞くらむ者を。我と思はむ人々、楯の面へ係け出でよ」と申して、父子、轡を並べて馳せ廻りけれども、出で合ふ者なかりけり。只遠矢に散々にぞ射ける。熊谷が馬の太腹を射させて、駻ね落とされて、しころを傾け弓杖をつき、城内をにらまへて、「去年の冬、相模国を立ちしより、命をば兵衛佐殿に奉り、名をば後代に留むべし。平家の侍ども、落ち合へや、落ち合へや」と大音声を放ちて勇みけれども、落ち合ふ者なかりけり。「室山・水嶋、二ヶ度の合戦に高名したりと云ふなる二郎兵衛・悪七兵衛・上総五郎兵衛はなきか。高名も敵に依りてこそすらめ。能登▼P3112(五六ウ)守殿守殿はおはせぬか。あな無慚の殿原や。係け出でてくめや、係け出でてくめや」と云ひけれども、係け出づる者なかりけり。良久しく待てども敵落ち合はず。木戸の上の高屋倉より、雨の如くに射ける矢は、甲のしころを傾けて、鎧の袖を振り合はせ振り合はせぞ射させける。熊谷、子息直家に云ひけるは、「敵寄ればとてさはぐな。鎧の射向けの袖を甲のまつかうにあてよ。あきまををしめ、ゆり合はせゆり合はせして、常に鎧づきせよ。はたらかで立ちて鎧に裏かかすな」とぞ云ひける。
さるほどに、夜もほのぼのと明けければ、熊谷、又申しけるは、「平山は九郎御曹司の御共にて、山をばよも落とさじ。浜の手にこそ心をば係けつれ。あはれ今はつづくらむ物を」と父子云ひ合ひて、立ちたりける処に、云ひもはてねば、はまの方より平山の武者所、はた指し相ひ具して、二騎出で来たり。平山は三重目結ひの直垂に、赤革威しの冑に、三枚甲に薄紅のほろか▼P3113(五七オ)けて、目糟毛と云ふ馬にぞ乗りたりける。旗指しは黒糸威しの鎧に、三枚甲をぞきたりける。熊谷、平山をみて、「あれは平山殿のおはするか」と問ひければ、季重の名乗りて、木戸口へせめよりければ、「さればこそ」とぞ申しける。平山、申しけるは、「季重も今はとうによすべかりつるを、成田五郎にすかされて、今まで和殿にさがりたるぞ。成田が云ひつるは、『先を係くると云ふは、大勢を後ろにあててこそ係くる事なれ。只一騎係け入りたらば、百に一つ、命生きたりとも誰をか証人に立つべき。後陣の勢を待て』と云ふ時に、げにもと思ひて、しばらく引かへて待つ所に、やがて成田前をのぶる間、『この君は季重を置きだすや。其の義ならば馬の尻にはつくまじき物を。わ君が馬はよわき物』と云ひて、弓手にすらせて一鞭あててあゆませつれば、二三段計りさがりつるとぞみつる。今十四五町ばかりはさがりつらむ。心は▼P3114(五七ウ)たけく思ふとも、馬弱くてさきを係くる事は叶ふまじき物を。熊谷殿の馬と季重が馬とは、あはれ逸物や」とぞ褒めたりける。
かく云ふほどに、城には矢倉を二重に構へて、上には平家の侍、下には郎等、国々の兵並み居、高き岸に添へて屋形を打ちてぞ、大将軍は居られたりける。口ーつを開けたれば、いづくより係け入るべしともみえざりけり。其の後、城の内より、「いざ終夜悪口しつる熊谷生け捕りにせむ」とて、越中二郎兵衛盛次、上総五郎兵衛忠光、同悪七兵衛景清、飛騨三郎左衛門景経、後藤内兵衛定綱以下、究竟のはやりをのこの若者共廿三騎、木戸口の逆木を開けて、轡を並べて、をめいて係け出でたり。越中二郎兵衛盛次、真つ先係けて出できたり。好む装束なれば、紺村濃の直垂に、黒糸威の鎧に、白星の▼P3115(五八オ)甲に、白葦毛の馬にぞ乗りたりける。熊谷に押し並べて組まんずるやうにはしけれども、熊谷すこしも退かず、父子あひもすかさず立ちたりけり。越中次郎兵衛、一段ばかりへだてて、「わ君に相ひて命をば捨つまじきぞ。大将軍にこそ組まんずれ」と云ひければ、「きたなしや、きたなしや、組めや、組めや」とぞ申しける。越中次郎兵衛が引かへたるを、わろしとや思ひけむ、悪七兵衛景清、二郎兵衛を馬手になして係けけるを、「や殿、七郎兵衛殿。君の御大事、是に限るまじ。あれほどの不敵がたいにあうて、命失ひて詮なしや、殿」と云ひければ、制せられて悪七兵衛も係けざりけり。廿三騎の者共も、熊谷父子も係けざりけり。互ひに詞戦ひばかりなり。
平山をば、其の時までは誰とも知らず、熊谷が郎等・乗替かと平家の方には思ひて、目係くる者も無かりけり。木戸口を開けたりけるを悦びて、「遠き人は音にも聞くらむ、近くは目にも▼P3116(五八ウ)見よ。武蔵国住人西党の中に平山武者所季重、今日の軍の真つ先也」と名乗りて、城の中へ係け入りぬ。是を見て城内の雲霞の勢さわぎあへり。高矢倉より、「其の男に組めや、組めや。引き落とせや」と、口々に詈りけれども、平山が乗りたる馬は究竟の馬也、城中の者共の乗りたる、船にたて、礒にたてたる馬なれば、やせつかれて、一あてあてたればたふれぬべければ、近付かざりけり。二十三騎の者共は熊谷を打ちすてて、平山が後ろへぞ攻めてかかりける。平山、幡指を射取られて、其の敵をば平山討ちてけり。其の頸取りて取付につく。熊谷父子は、廿三騎が後ろに続いて係け入りぬ。廿三騎者共は平山をも取りこめず、熊谷が後ろにあるをいぶせさに、城中へ係け入りて、熊谷・平山をとざまに成してぞ戦ひける。熊谷子息小次郎直家生年▼P3117(五九オ)十六歳、軍は今日ぞ始めなるとて、楯の際に攻め寄せて戦ひけるが、小ひぢを射させて引き退く。平山は旗指射殺されたりけれども、木戸口を開きたれば、平山は先に係け入りぬ。さてこそ平山一陣、熊谷二陣に成されにけれ。熊谷平山一陣二陣の諍ひとはここなりけり。
さるほどに、西の渚より成田五郎三十騎ばかりにて馳せ来たる。其れに打ち続き、また五六十騎出で来たる。熊谷是を見て、「誰人にておはするぞ」と問ひければ、「信濃国村上次郎判官代基国」と名乗りて、をめいてかく。是を始めとして、秩父、足利、武 〔田〕、吉田、三浦、鎌倉、小沢、横山、児玉、猪俣、野与、山口の党の者共、我おとらじと係け入りて、源平両家、白旗、赤旗相交りたるこそ面白けれ。龍田山の秋暮れ、たなびく雲に異ならず。互ひに乱れ合ひてをめき叫ぶ音、山を響かし、馬の馳せちがふ▼P3118(五九ウ)おと、雷のごとし。組みて落つる者もあり、落ち重なる者もあり。源氏も平氏も、いづれこそひま有りとも見えざりけれ。熊谷、平山「馬の足をもやすめ、我が身の息をもつがむ」とて、引き退く折は、ほろをかなぐりおとし、我が身の息をついでければ、又ほろをかけてをめいて係け入る。ここにて平家の軍兵残り少なく打たれにけり。一谷の北の小竹原の緑の葉もなく、あけにぞ成りにける。草木も又人馬の肉とぞ見へし。
源氏の搦め手一万騎なりけるが、七千余騎は九郎義経に付きて三草山に向かひぬ。三千余騎は幡摩路の渚にそうて、一谷へぞ寄せたりける。平家は摂津国生田森を一の木戸口として、堀をほり、逆木を引き、東には堀に橋を引き渡して、口一つあけたり。北の山より際までは桓楯をかいて、矢間をあけて待ち係けたり。
浜の手よりは、蒲冠者▼P3119(六〇オ)範頼大将軍として、三千余騎にて押し寄せたり。御曹司申されけるは、「大勢を待ち付けて軍はせよ。小勢にて先にすすむで不覚すな」と宣へば、梶原承りて、「若党共いたくすすむな。『大勢待ち付けて軍はせよ』と御定なり」と申しければ、梶原子息平次景高、手縄を引かへて父景時に申しけるは、
「むかしよりとりつたへたるあづさゆみひかでは人のかへるものかは
と申させ給へ」と云ひて、真つ先に進みけり。白旗其の数を知らず指し上げたり。白鷺の羽を並べたるがごとし。
我も我もと先陣を心ざす兵多く有りける中に、武蔵国住人和私に河原太郎高直、同じく次郎盛直、兄弟二騎馳せ来たりて、馬より飛び下りて、生田杜の城戸口へ攻め寄せて、つらぬきをはきて、逆木を上り越えて城中へ入りけるを、城中より備中国の住人、真鍋の四郎五郎とて▼P3120(六〇ウ)兄弟有りけるが、四郎は一谷に置かれたり、五郎助光は究竟の弓の上手、精兵の手間なりけるを、木戸口にえらび置かれたりけるが、川原太郎が逆木上りこえけるを見て、さしあらはれてよく引きて射たりければ、弓手の草摺のはづれを射させて、ひざすくみて、弓杖にかかりて立ちたりけるを、弟の河原次郎見て、つとよりて、兄を肩に引き係けて返る所を、助光又よくひいて二の矢を射たりけるに、次郎が馬手のひざぶしを射させて、兄と一つ枕倒れにけり。真鍋が下人落ち合ひて、取りて押さへて河原兄弟二人が頸を取りて入りにけり。
梶原平三是を見て、「口惜しき殿原かな。つづいて入らねばこそ、川原兄弟をば打たせつれ。あたら者を」と云ひて、五百余騎にて推し寄せてをめいて係け入りければ、新中納言父子、本三位中将重衡、二千余騎にて▼P3121(六一オ)梶原を中に取りこめて戦ひけれども、一時ばかり戦ひけるに、ちともしらけざりけるが、さすが無勢なりければ、梶原係けたてられて引き退きけるが、郎等共に「源太が見えぬは何に」と問へば、「源太殿は大勢の中に取り籠められて戦ひ給ひつれば、打たれてもやおはしますらむ」と申しければ、梶原聞きもあへず、「あな心憂や。源太打たせて、景時一人もし生き残りたらば、何事かあるべき」と云ひて、取りて返して、「相模国の住人、鎌倉権五郎景政が末葉、梶原平三景時、一人当千の者ぞや。誰か面を向くべき」と云ひて、をめいて係け入りたりければ、名乗りに恐れて、城中の者共さつと引きて退きにけり。源太未だ打たれずして、敵三騎が中に取り籠められて、大童になりて、いはかげに後ろをあててまくらに、今を限りに戦ふ。梶原係け入りて、「景時ここに有り」と云ひて、源太を後にして、我が身は矢面にふさがりて、散々に射はらひて、▼P3122(六一ウ)源太に息つがせて、「いざうれ源太」とて、係け破りて出でにけり。源太・景時が一谷の二度の係けとは是なり。
梶原源太景季、係くる時は旗をささげほろをかけ、引く時は、いつのほどにまくらむ、はたをまきほろをぬいて、度々入れ替へ入れ替へ戦ひけり。武芸の道にもゆゆしき者なりける中に、やさしき事は、片岡の桜のいまだ青葉なるを一枝折りて、箙に差し具して、敵の中にてしばし戦ひて引きければ、桜が風に吹かれてさと散りにけり。敵も御方も是を感じける所に、城中より齢三十計りなる男の、褐衣の直垂に洗皮の鎧着て、馬にはのらで、弓脇にはさみて、すすみいでて申しけるは、「本三位中将殿の御使にて候ふ。『桜かざさせ給ひて候ふに、申せ』とて候ふ。
こちなくもみゆるものかはさくらがり」
▼P3123(六二オ)と申しはてねば、源太馬より飛び下りて、「暫く御返事申し候はむ」とて、
いけどりとらむためとおもへば
とぞ申したりける。
九郎義経は、一谷の上、鉢伏、蟻の戸と云ふ所へ打ち上がりて見ければ、軍は盛りと見えたり。下を見下ろせば、或いは十丈計りの谷もあり、或いは二十丈計りの巌もあり、人も馬もすこしも通ふべき様なし。ここに別府小太郎すすみいでて申しけるは、「先度田代殿御一見の如くに、老馬が道を知るべきにて候ふ。其の故いかにと申し候ふに、伊予殿、八幡殿、奥の十三年の合戦の時、出羽の金沢の城にて七騎に打ち成され、すでに御自害候ふべかりけるに、駿川国の住人大相大夫光任、老いたりける馬を鉢伏のたうげから下す。此の馬、二十余丈の瀧を落として、迎ひの尾へ付く。其の時、七騎つづいてがけを下り、其の後に五万騎に成りて、貞任等を御追発の候ひける」▼P3124(六二ウ)とこそ承り候へ。かかる御計らひや有るべく候ふらむ」と申したりければ、「尤も然るべし」とて、老馬を御尋ねありけるに、武蔵房弁慶相構へたることなれば、二疋の馬を奉る。一疋は葦毛、一疋は鹿毛なり。鹿毛は奥の国の住人岡八郎が進らせたれば、「岡の嶋」と申す。是は三十一歳になりにける馬なり。いかけぢのくらに、きに返へしたる轡をはげたり〈これは平家のかさじるしなり〉。葦毛は石橋の合戦に打たれし、岡前の悪四郎能実が子に、さなだの与一能定が乗りたる馬也。よに入りていさめば、「ゆふがほ」と名付く。是は二十八歳なり。白鞍置きて、かがみ轡をはげたり〈此は源氏のかさじるしなり〉。二疋を源平両家のかさじるしとて、鵯越より落とす。
此の馬、岩を伝ひて落としけるに、坂の中に牡鹿の三つ臥したりけるが、馬に驚きて、さきに落として行く。馬も鹿も共に落として行く。夜半に上の山より岩をくづして▼P3125(六三オ)落としけり。平家、「すはや、敵寄するは」とて、各々馬に乗り、甲のををしめて、矢はずを取りて相待つ処に、敵にはあらで、大鹿三つ、平大納言のやかたの前へ落ちたり。平家の人々申しけるは、「里に有らむ鹿も、人におはれて山深くこそ入るべきに、此の鹿の是へ落ちたるこそ怪しけれ。『敵軍野に臥す時は、飛ぶ鳥行を乱す』と云ふ事の有る物を。あはれ、上の山より敵寄するにこそ」とて、あわて騒ぎける処に、伊予国の住人武智武者所清章と云ふ者、二つをば射て取りてけり。今一つをば逃してけり。此の鹿、海を指して落としけるを、女房達の召したる船ばたをたたいてければ、本の山へかへる。まれいの三郎とどめてけり。「心ならぬかりしたり」とて咲ふ所に、つづきて馬二疋ぞ落としにける。かげは何とかしたりけむ、死して落ちたり。葦毛は尻足をしき、前足をのべて、岩に伝ひて落としけるほどに、事故なく城の内へ落ち立てて、御方に向かひて、たから▼P3126(六三ウ)かに二音三音ぞいななきける。
源氏の兵、其の時色直りて、人々、我先に落とさむとする処に、三浦の一門に佐原十郎義連、すすみいでて申しけるは、「人も乗らぬ馬だにも落とし侯ふ。義連落として見参に入らむ」とて、威しまぜの鎧に、栗毛の馬に乗りて、幡一流れ指し上げて、まつ逆さまに落とす。五丈計りぞ落としたりける。底をみたれば、猶五丈計りぞ有りける。御方へ向かひて申しけるは、「是より下へは、いかに思ふとも叶ふまじ。思ひ止まり給へ」と申す。「三草より是まで、はるばると下りたれば、打ち上らむとすともかなふまじ。下へ落としても死なむず。とても死なば、敵の陣の前にてこそ死なめ」とて、手綱をくれ、まつ逆さまに落とされけり。畠山申されけるは、「我が秩父にて、鳥をもー羽、狐をも一つ立てたる時は、かほどの巌石をば馬場とこそ思ひ候へ。必ず馬にまかすべきに非ず」とて、馬の左右の前足をみしと取りて引き立てて、鎧の上にかき負ひて、かちにてまつ前に事故なくこそ落とされけれ。
是につづきて、佐原▼P3127(六四オ)十郎義連、「実に、三浦にて朝夕狩りするに、是より嶮しき所をも落とせばこそ落とすらめ。いざや若党」とて、一門引き具して、和田小太郎義盛、同次郎義茂、同三郎宗実、同四郎義胤、葦名太郎清際、多々良五郎義治、郎等には、物部橘六、あま太郎、三浦藤平、佐野平太、是等を始めとして、義経前後左右に立ち並びて、手綱かいくり鐙踏み張り目を塞ぎて、馬に任せて落としければ、義経、「よかめるは。落とせや、若党」とて、先に落としければ、落ち滞りたる七千余騎も我劣らじと皆落とす。畠山は赤威の鎧にうすべをの矢を負ひて、黒馬の三日月と付けたりけり。一騎も損ぜず城の仮屋の前にぞ落ち付きたる。
落とし呆つれば白旗卅流れ、さつと差させて、平家の数万騎の中へ乱れ入りて、時をどつと作りたりければ、我が方も皆敵に見えければ、胆心も身にそはず、あわて迷ふ事なのめならず。馬より引き落とし、射落とさねども、落ちふためき、上になり▼P3128(六四ウ)下になりしけるほどに、城の後ろの仮屋に火を係けたりければ、西の風はげしく吹きて、猛火城の上へ吹き覆ひける上は、煙にむせびて目も見えず。取る物も取りあへず、只海へのみぞ馳せ入りける。助け船あまた有りけれども、船に着くは少なく、海に沈むは多かりけり。所々にて高名せられたりし能登守、いかが思はれけむ、平三武者が薄雲と云ふ馬に乗りて、陬磨の関へ落ち給ひて、それより船にて淡路の岩屋へぞ落ち給ひにける。
廿一 〔越中前司盛俊討たるる事〕
越中前司盛俊は、「とてものがるべき道ならねば」とて、一引きも引かで残り留まりて戦ひけり。盛俊、猪俣小平六則綱と寄せ合はせて、組みて馬より落ちにけり。盛俊は聞こえたる大力の甲の者なりけり。人には三十人が力持ちたりとは聞こえたりけれども、内々は七十人しておろしける大船を、一人してやすやすとあげつおろしつしけり。小平六も鹿の角の一の草かりをもぎなむどする者にてありければ、普通には強かりけれども、下に押しつめら▼P3129(六五オ)れて、盛俊が片わきにはさみてすこしもはたらかさず。鎧武者の大男の、しかも大力なるが、取りておさへたりければ、刀を抜くにも及ばず。すでに頸をかかむとしけるに、甲の者のしるしには、平六が申しけるは、「や殿、和殿はたそ。敵を打つ法には、交名慥かに名乗らせて打ちたればこそ勲功にも預かれ、名乗らぬ首をばいくら取りたりとも、物の用に立つまじき物を。我が名乗りつるをば聞き給ひつるか」と問ひければ、「よくも知らず」と答ふ。「さらば名乗りて聞かせ奉らむ」と云ふ。「我は武蔵国住人猪俣小平六則綱とて、名誉の者にて、兵衛佐殿までも知り給ひたるぞ。和殿の軍は落軍になれば、平家の打ち勝ち給はむ事有り難し。されば則綱を打ちて何がはし給ふべき。主の世におはせばこそ、勧賞勲功にも預からめ。殿原は落人ぞ。則綱を命を生け給ひたらば、兵衛佐殿に申し、和殿の親しき人共の有らむかぎりは何十人もあれ、助け申さむずるはいかに。和殿は▼P3130(六五ウ)誰と云ふ人ぞ」。「これは平家の侍、越中前司盛俊とて、昔は平家の一門にて有りしが、近比より侍に成りたる也」。「さては和殿は聞こゆる人ごさむなれ」と云ひければ、「さぞかし。盛俊は子共あまたあり。女子男子の間に廿余人候ふ。さらば助け給へよ。一定か」と云へば、「子細に及ばず。争でか我を助けたらむ人をば助け申さざるべき。八幡大菩薩の罰当たり候はむ。争でか空事申すべき」と云ひければ、うれしさの余りに、「さらば助けむ」とて、頸をかくに及ばず。抜きたる刀を指しておきなほりて、前は深田、後ろは水たまりたりける中に塚の有りけるに、盛俊は鎧のたかひぼ解きて、二人の者共尻打ちかけて、いきつぎ居たり。
さるほどに、猪俣党に人見四郎と云ふ者、黒糸威の鎧に川原毛なる馬に乗りて、浜の方より出で来る。盛俊、小平六には目もかけで、人見の四郎に目かけて、「爰に来る武者は何者ぞ」と云ひて、あやしげに思ひたり。近平六すこしもさわがず、▼P3131(六六オ)「あれは則綱が母方の従父兄弟、人見四郎と云ふ者也。おぼつかなく思ひ給ふべからず」と云ひけれども、猶人見四郎に目をかけて、猪俣には打ちとけて後ろをさしまかせて居たり。則綱、「人見四郎を待ち付けて討ちたらば、『二人してこそ討ちたれ』といはむず」と思ひて、人見四郎が近付かぬ先に、則綱が足をつよくふみて、諸手を以て盛俊を後ろより前へつよくつきたりければ、盛俊まつ逆さまに深田の水の底に肩までつきひてたり。足は上にあり、おきむおきむとしけるを、則綱ひたのりに乗りかかりて、取りて押さへておこしもたてで、腰刀を抜きて、つかもこぶしも通れとつよく指して、やがて頸をかい切りて、大刀のさきに指し貫きて高く指して、「聞こゆる平家の侍、越中前司盛俊が頸ぞや。正しく則綱討ちたり。後の証人に立ち給へや、殿原」とぞ申しける。彼の刀は薩摩国世代の住人、浪の平五が打ちたりける「ふたしとろ」と云ふ刀に、つかには桑に竹を合せたりける▼P3132(六六ウ)刀とぞ聞こえし。
かかる処に人見の四郎馳せ来りて、「此の頸をばひとりて勧賞に行はればや」と思ひければ、此の頸をばひけり。則綱は一人なり、人見は多勢なり、力無くばはれければ、片耳をかききりて取りてけり。頸の実検の所にて、人見四郎、「盛俊が頸」とて指し出だしたりければ、則綱すすみ出でて、「あの頸は則綱が取りて候ふ」と申す。「人見は眼の前に頸を持ちたり。『則綱取りたり』と申す事不審也。子細何に」と御尋ねあり。則綱申しけるは、「あの頸には左の耳よも候はじ。其の故は則綱が取りて候ひしを、人見多勢にてばひとり候ひし間、則綱は一人にて候ふ、力無く取られ候ひし間、左の耳を取りて持ちて候ふ」と申して、耳を指し出してけり。実に頸には左耳なかりけり。則綱が指し合せてみれば、同じ耳にて有りけり。「さて則綱取りてけり」 とて、則綱が頸にぞ定まりける。
又猪俣党に、藤田小三郎大夫深入りして戦ひけるが、▼P3133(六七オ)姉が子にて武蔵国住人、江戸四郎と云ふ十七になる若者、藤田を敵と思ひて、よく引きて遠矢に射たりければ、母方の伯父が振り仰げて物見むとする頸の骨をぞ射たりける。射られて馬より傾きける所を、阿波民部大夫成良が甥に、桜葉外記大夫良遠が郎等落ち合ひて打ちてけり。
かやうに思ひ思ひに戦ひけるほどに、源氏に村上判官代基国、平家の仮屋に火をかけたりければ、西の風はげしくて黒煙東へ吹き覆ひて、東の大手生田森固めたる軍兵是を見て、「今は何にも叶ふまじき」とて、船に乗らむとて汀に向かひて落ちけれども、余りに多くこみ乗りたりければ、目の前に大船二艘にへ入りたり。「さて然るべき人々をばのせ申すべし。つぎつぎの人をば乗すべからず」とて、船によりつく者をば大刀長刀にてなぎければ、手打ちきらるる者もあり、膝打ちながるる者も有り。かくはせられけれども、敵に合ひて死なむとはせざりけり。▼P3134(六七ウ)何にもして船に乗らむとぞしける。御方打ちにぞ多う打たれにける。先帝を始め進らせて、女院、北政所、二位殿以下女房達、大臣殿、御子右衛門督、然るべき人々は、兼ねて御船に召して、海に浮び給ひにけり。
廿二 〔薩摩守忠度討たれ給ふ事〕
一谷のみぎはに西へさして武者一騎落ち行きけり。齢四十計りなる人のひげ黒也。黒皮威の鎧きて、射残したりとおぼしくて、えびらに大中黒の矢四つ五つ残りたり。白葦毛なる馬に遠雁しげく打ちたる鞍置きて、小ぶさの鞦かけてぞ乗りたりける。葦屋を指して下りに落ちけるを、武蔵国住人岡部六矢田忠澄と云ふ者馳せつづきて、「ここに只一騎落ち行くは誰人ぞ。敵か、御方か。名乗り給へ」と云ひかけければ、「御方ぞ」と答へたり。忠澄馳せ並べて、さしうつぶいて内甲をみければ、うすがね付けたり。「源氏の大将軍にはかね付けたる人はおはせぬ者を。きた▼P3135(六八オ)なくも敵に後ろをばみせ給ふ物かな」と云ひければ、其の時忠度、「御方と云はば云はせよかし」とて、六矢田に押し並べて組みて、馬二疋が間に落ちにけり。忠度落ちさまに三刀まで指したりけり。一の刀には手がいをつき、二の刀にはくけゐをつき、三の刀には甲の内へつき入れたりければ、ほほをつきつらぬいて、六矢田が後ろへ刀三寸計りぞ出でたりける。六矢田が郎等落ち合ひて、打刀を以て忠度の弓手の小がひなをかけず切りおとす。されども忠度すこしもひるまず、めてのかひなにて六矢田をのせて三ひろばかり投げられたり。忠澄おきあがりて忠度に組む。うへに乗りゐて取りて押さへて、「誰人ぞ。名乗り給ふべし」と。「己に合ひて一度も名乗るまじきぞ。己が見知らぬこそ人ならね。さりながらもよき敵ぞ。定めて勧賞に預からむずらむぞ」と云ひければ、六矢田が郎等落ち重なりて、忠度の鎧のくさずりを引き上げて是をさす。忠澄刀を抜きて指すかとみえければ、▼P3136(六八ウ)頸は前にぞ落ちにける。
忠澄頸を大刀のさきに指し貫きて、「『名乗れ』といへども名乗らず。是はたが頸ぞ」と云ひて、人にみすれば、「あれこそ太政入道の末弟、薩摩守忠度と云ひし歌人の御首よ」と云ひけるにこそ、始めてさとも知りたりけれ。忠澄、兵衛佐殿見参に入りて、勲功に薩摩守の年来知行の所五か所ありけるを、忠澄に給ひてけり。
橘馬允公長が弟橘五、備前四郎、妹尾余三三騎つれて、赤じるしかなぐりすてて、西を指して落ち行く。讃岐三郎、大田四郎、なわの太郎追ひかかりて、我劣らじと面々に引き組みて、馬よりどうど落ちて、上になり下になる。大田四郎が郎等左前と云ふ者追ひつきて、妹尾余三をば討ちてけり。左前、三郎が郎等十七騎つれて、備前四郎をば討ちけり。なわの太郎は橘五に組みて有りけるを、大田四郎引き返して、なわを上に成して、橘五をば▼P3137(六九オ)ささせて後に頸を切るに、水もさはらず切れにけり。此の間に山鹿の兵藤三が落ちけるを、土肥二郎が郎等つづいて追ひてかかる。兵藤三取りて返して、敵二騎打ち取りて五騎に手負はせて打死する。彼の郎等五騎をば大川小太郎広行、胤の太郎二人して射落として、頸を取る。武蔵房弁慶も敵七騎打ち取りて名を後代に留めけり。
廿三 〔本三位中将生け取られ給ふ事〕
本三位中将重衡は生田森の大将軍にておはしけるが、国々の駈武者なりけれども、其の勢三千余騎計りもや有りけむ、城中落ちにければ、皆係けへだてられて四方へ落ち失せぬ。少し恥をも知り、名をも惜しむ程の者は皆討たれにけり。走付の奴原は、或いは海へ入り、或いは山に籠もる。其も生くるは少なし、死ぬるは多くぞ有ける。中将其の日は褐衣の直垂に、白糸にて村千鳥をぬひたるに、紫すそごの鎧に、童子鹿毛とて兄の大臣殿より得たりける馬に乗られたり。花やかに優にぞ見えられける。中将、▼P3138(六九ウ)「若しの事有らば乗替にせむ」とて、年来秘蔵して持たれたりける夜目なしつきげと云ふ馬に、一所にて死なむと契り深かりける後藤兵衛尉盛長と云ふ侍を乗せて、身を放たず近く打たせたり。御方にはおしへだてられぬ、助け船もこぎ出でにければ、西を指してぞ歩ませける。経嶋を打ち過ぎて湊川を打ち渡り、かるも川、小馬林を弓手に見なし、蓮の池をばめてになして、いたやど、陬磨関を打ち過ぎて、明石の浦を渚に付けて落ちられたり。
源氏の軍兵乗替二騎相具して、中将に目を係けて追ひかけたり。中将の乗り給へる童子鹿毛は早走りの逸物なりければ、但馳せ延びられける間、景時今は叶はじとや思ひけむ、若しや〔と〕追ひさまに遠矢に射係けたりければ、童子鹿毛が草頭の上に立ちにけり。馬には矢立ちて後は、鞭鐙を合はせ給へどもはたらかず。盛長是を見て思ひけるは、「我身重くて鎧はきたり、後ろに敵▼P3139(七〇オ)攻め来る。此の馬召されなば叶ふまじ。甲斐なき命こそ大切なれ」と思ひて、鎧の射向の袖なる赤じるしかなぐりすてて、鞭をあげてひらむで逃ぐ。中将是を見給ひて「あな心うや。何に盛長よ、年来はさやは契りし。我をばすてて何くへ落つぞや。其の馬参らせよや、参らせよや」と音を上げて宣へども、一目も見返らず、「よしなし、よしなし」 と云ひて、弥鞭を上げて落ちにけり。中将力及ばずして海へ打ち入れられたりけれども、馬弱りてはたらかねば、馬より飛び下りて水際におり立ちて、刀を抜き鎧の引き合はせおしきり、たかひぼはづし、小具足ちぎりすてて鎧をぬぎすてられけるは、自害をせむとにや、海へ入らむずるにやと思ひ煩はれたる体にて立たれたり。敵後ろにせめかかりければ、自害すべきひまもなし。そこしも遠浅なりければ、海へも飛び入り給はず。
さるほどに景時はせつづきて馬より飛び下りて、乗替にもたせたる小長刀を取りて、十文字に持ちて畏りて▼P3140(七〇ウ)申しけるは、「景時こそ君の渡らせ給ふとみ進らせて、御迎へに参りて候へ。御乗替の逃げ候ひつるこそ無下に見苦しく覚え候へ。いかにあれ体に候ふ侍をば召し仕はせ給ひけるやらむ」と申しもはてもず、「とくとく御馬に召し候へ」とて、我が乗りたる馬に取りて押し乗せ奉りて、縄にて鞍の前輪にしめ付けて、我が身は乗替に乗りて、先に立ちてぞまかりける。さばかりの大将軍の生け取られにけるこそ口惜しかりける。重衡、後に宣ひけるは、「其の時景時に詞を懸けられたりしは、縦へば三百の鉾を以て一時に胸を指されけむも、是にはまさらじと覚えたりし」とぞ宣ひける。
盛長は息長き逸物に乗りたりければ、馳せのびて命計りは生きにけり。後には熊野法師に尾中法橋と申しける僧の後家の尼が後見してぞ有りける。彼の尼訴詔有りて、後白川法皇の伝奏し給ひける人の許へ参りたりけるに、盛長共したりけり。人是を見て申しけるは、「三位中将のさばかり糸惜しくし給ひ▼P3141(七一オ)しに、一所にて何にもならで、さしもの名人にて有りし者の思ひがけぬ尼公の尻前に立ちて、はれふるまひするこそ無慚なれ」と申して、爪はじきをして目を付けて見ければ、盛長さすが物はゆげに思ひてかくれけるぞ、あまりににくかりける。
廿四 〔新中納言落ち給ふ事、付けたり武蔵守討たれ給ふ事〕
新中納言知盛卿は武蔵国の国司にておはしければ、小玉党見知りたりけるにや、武者一騎馳せ来り、「大将軍に申し候ふ。御後ろを御覧候へ。今はなにを御戦ひ候ふやらむ」と申したりければ、中納言後ろを返り見給へば、黒煙吹き覆ひたり。「大手はすでに破れにけり」と宣ひもあへず、我先にと浜へ向けて馳せ給ふ。船共は皆おきへむけてこぎ出でにけり。あきれてぞおはしける。打輪の旗ささせたりけるは児玉党にや有りけむ、三騎をめいてかかるを、新中納言の侍に監物太郎頼賢とて、究竟の弓の上手にて有りけるが、よくひいて射たり。あやまたず旗指ま逆さまに射落としてけり。残りの二騎すこ▼P3142(七一ウ)しもしらまずをめいてかかりけるを、中納言の御子武蔵守知章、中にへだたりて組みて落ちにけり。取りておさへて首をかき給ひけるを、敵が童落ち合ひて、武蔵守をば指してけり。監物太郎落ち重なりて童が頸をば取りてけり。頼賢もひざのふしをいさせて、腹かききりてうせにけり。
此の間に中納言は延び給ひぬ。井上とて究竟の馬に乗り給ひたりければ、海上二十余町をおよぎて船に付き給ひにけり。船も所無くて、馬立つべくもなかりければ、中納言せがひに乗り移りて、馬の頸をいそへ引き向けて一鞭あて給ひたりければ、馬およぎかへるを見て、「敵の物になしなむず。射殺し給へ」と阿波民部成良申しければ、「敵の物になるとも我が命を生けられたる馬をば争でか射殺すべき」とぞ宣ひける。馬なぎさにおよぎ上がりて、しをしをとして、畜生なれども年来のよしみ忘れがたくや思ひけむ、船の方を見送りて、三度までいななき足をかきけるこそ▼P3143(七二オ)むざむなれ。 九郎義経此の馬を取りて、院へ参らせられたりければ、「名高き馬なり」とて、一の御厩に立てられたりけり。黒馬の太く逞しきにてぞ有りける。中納言、武蔵の国務の時、川越と云ふ所より信乃の井上の小二郎と云ふ者が奉りたりければ、名をば川越黒とも付けられたり。又、井上とも申しけり。中納言此の馬を余りに秘蔵し給ひて、馬の祈りに小博士と陰陽師とに、月に一度泰山府君を祭らせられけり。「其の故にや、今度の軍に此の馬に助けられて、御命も延び給ひ、馬の命も生きたりける」とぞ人申しける。
廿五 〔敦盛討たれ給ふ事 付けたり 敦盛の頸八嶋へ送る事〕
赤地の錦の鎧直垂に、赤威の鎧に白星の甲着て、重藤の弓に切符矢負ひて、金作りの太刀はいて、さびつきげの馬に黄伏輪の鞍置きて、厚房の鞦懸けて乗りたりける武者一人、中納言につづいて打ち入れておよがせたり。一町計りおよがせて、うきぬしづみぬただよひたり。熊谷二郎直実、渚に打ち立ちて此をみて、「あれは大将軍とこそ▼P3144(七二ウ)み進らせ候へ。まさなうも候ふ御後すがたかな。返し合はせ給へや」とよばひければ、いかが思ひ給ひけむ、汀へむけてぞおよがせける。馬の足立つほどになりければ、弓矢をなげすてて、太刀を抜きて額にあてて、をめいてはせあがりたり。熊谷待ちうけたる事なれば、上げもたてず、馬の上にて引き組みて浪打ぎはへ落ちにけり。上になり下になり、三はなれ四はなれくみたりけれども、つひに熊谷上になりぬ。左右の膝を以て鎧の左右の袖をむずとおさへたりければ、少しもはたらかず。
熊谷腰刀をぬいて内甲をかかむとてみたれば、十五六計りなる若人の、色白くみめうつくしくして、薄気装してかね黒也。鮮娟たる両髪は秋の蝉の羽を並べ、宛転たる双峨は遠山の色にまがへりなむど云ふも、かくやと覚えて哀れ也。「あな糸惜しや」と心弱く覚えて、「抑も君は誰人の御子にて渡らせ給ふぞ」と問ふに、只「とくきれ」と答へたり。直実又申しけるは、「君を雑人の中に置き進らせ候はむ事の▼P3145(七三オ)いたはしさに、御名を備さに承りて必ず御孝養申すべし。其の故は、兵衛佐殿の仰せに、『能き敵打ちて進らせたらむ者には千町の御恩有るべし』と候ひき。彼の所領、即ち君より給はりたりと存じ候ふべし。是は武蔵国住人熊谷二郎直実と申す者にて候ふ」と申しければ、「いつのなじみいつの対面ともなきに、是程に思ふらむこそ難有けれ。又、名乗りても討たれなむず、なのらでもうたれむず。とても討たるべき身なれば、又かやうに云ふも疎ならず」と思はれければ、「我は太政入道の弟、修理の大夫経盛の末子、大夫敦盛とて、生年十六歳になるぞ。早切れ」とぞ宣ひける。熊谷弥よ哀れに覚えて「直美が子息小二郎直家も十六ぞかし。さては吾が子と同年にておはしけり。かく命をすて軍をするも、直家が末の代の事を思ふが故也。我が子を思ふやうにこそ、人の親も思ひ給ふらめ。此の殿一人打たずとも、兵衛佐殿、勝ち給ふべき軍によも負け給はじ。打ちたりとても、負け給ふべくはそれにもよるべからず」▼P3146(七三ウ)なむど思ひ煩ひけるほどに、前にも後にも組みて落つる者もあり、頸を取る者もあり。
さるほどに、土肥二郎実平、三十騎計りにて出で来たり。「土肥が見るに此の殿を助けたらば、『熊谷手取にしたる敵をゆるしてけり』と、兵衛佐殿に帰り聞かれ奉らむ事、口惜しかるべし」と思ひければ、「君を只今助け進らせて候ふとも、終にのがれ給ふべからず。御孝養は、直実よく仕り候ふべし」とて、目を塞ぎて頸をかきてけり。
熊谷、泣く泣く此の殿を見れば、漢竹の篳篥の色なつかしきを、紫檀の家に入れて錦の袋に入れながら、鎧の引合に指されたり。此の篳篥をば、月影とぞ付けられたりける。又少き巻物を差し具したり。是を見れば、「楊梅桃李の春の朝にも成りぬれば、つまに囀る鶯の、野辺になまめく忍音や、野径の霞あらはれて、そともの桜いか計り、重ねさくらむやへ桜。九夏三伏の夏の天に成りぬれば、藤浪いとふ郭公、代々の語らひをりをへて、忍ぶる恋の心地こそすれ。黄菊芝蘭の秋のくれ▼P3147(七四オ)にも成りぬれば、壁にすだくきりぎりす、尾の上の鹿、龍田の紅葉哀れ也。玄冬素雪の冬の暮にも成りぬれば、谷の小川の通路も、皆白妙に見え渡る。名残惜しかりし故京の木々の見捨てて出でしやどなれば、一谷の苔と下に埋もれむ」とぞかかれたる。「修理大夫経盛の末子大夫敦盛」とぞかかれたる。
直実余りに哀れに覚えて、敦盛の頸を彼の直垂につつみて、篳篥と巻物とを取り具して、「御孝養候ふべし」とて、状を書きそへて、屋嶋へ送り奉る。釣舟の有りけるに、雑色一人水手二人して奉る。平家屋嶋へ付き給ひける十三日の酉の剋計りに追ひ付き、「御船に申すべき事候ふ」と申したりければ、平家の舟より「何事ぞ」と問ふ。「源氏の御方に候ふ熊谷が使」と申す。是を聞きて、船内さわぎあへり。熊谷が使の舟も平家の船に近付かず、四五段計りにゆらへたり。新中納言、家長を召して、「あれほどの小舟に、如何なる樊会・張良が乗りたり▼P3148(七四ウ)とも、何事か有るべき。家長見て参れ」と宣へば、家長郎等二人に腹巻きせて、吾が身は木蘭地に色々の糸にて師子にぼうたむぬいたるひたたれに、わきに小具足計りにて、はし舟に乗りてこぎ向かひたり。子細を問ふ。「熊谷方より、修理大夫殿の御方へ御文候ふ」と申して、立文を持ちたり。新中納言此の文を取りて、「熊谷が私文の候ふなる」とて、修理大夫殿へ奉る。大夫殿、此の文を見給ふに、御子の敦盛の御首なり。母北の方、是を見給ひて、舟中に有りとある上下泣き悲しむ事、実にと覚えて哀れ也。「熊谷はひたすらの荒夷にこそ有らめと思ふ程、情有りて敦盛が首を送りたる心の中こそ哀れなれ」とて、熊谷が状を見給ふに、謹言。不慮に此の君に参会し奉りし間、皇王の公践を得、秦皇の燕丹に遇ふ恚りを挿みて、直ちに勝負を決せんと欲する剋、俄に怨敵の思ひを亡じて、還りて武威の勇みを投ぐ。▼P3149(七五オ)剰さへ、守護を加へ奉る処に、大勢襲ひ来る。時に始めて源氏を射ると雖も、彼は多勢、是は無勢也。樊会還りて養由が芸を慎しむ。爰に直実、適生を弓馬の家に受けて、幸に武勇を日域に耀し、謀を洛城に廻らし、旗を靡かし、敵を冤る事、天下無双の名を得たりと雖も、蚊虻群がりて雷をなし、蟷踉集まりて車を覆す事有るが如し。憖に弓を引き矢を放ちて、空しく命を東方の軍に奪はれ、徒らに名を西海の波に沈むこと、自他の科にして家の面目に非ず。而る間、此の君の御素意を仰ぎ奉る処に、御命を直実に給はりて、御菩提を訪ひ奉るべき由、仰せ下さるるに依りて、落涙を押へ乍ら、図らざるに御首を給はり畢はんぬ。恨めしき哉、拙き哉、此の君と直実と悪縁を結び奉つる事。歎かはしき哉、悲しき哉、宿運深く厚くして、怨敵の害を為す。然りと雖も、翻して此の逆縁に非ずは、争でか互に生死の木縄を切りて、一つ蓮の実と成らむ。然れば則ち、偏へに閑居の地形を卜めて、併ら御菩提を祈り奉るべし。直▼P3150(七五ウ)実が申す所の真偽、後聞に其の隠れ無く候ふか。此の趣を以て洩らし御披露有るべく候ふ。恐惶謹言。
二月八日 直実
進上 平内左衛門尉殿へ
とぞ書きたりける。
修理大夫殿返状に云はく、
敦盛并びに遺物等、給はり畢はんぬ。此の事、花洛の故郷を出でて、西海の浪の上に漂ひしより以来、今更驚くべきに非ず。戦場に臨みし上は、何ぞ再び返る事を思はん哉。盛者必衰は無常の理、会者定離は穢土の習ひ。然れども、親と成り子と成るも先世の契り浅からず、釈尊・羅雲、楽天の裏を受く、一子の別に非ず。応身権化、猶以て此くの如し。何に況や、凡夫を乎。歎かはしき哉、恋しき哉。去んじ七日、打ち立ちし朝より今に至るまで、其の面▼P3151(七六オ)影、未だ身を離れず。燕来たりて語らへども其の音を聞かず、帰雁の翅を並べて空に音信れども其の面影を見ず。生死遥かにして行方に迷ふ。今一度、其の由緒の聞かまほしきに依りて、天を仰ぎて地に伏して、心肝を摧きて是を祈請し奉る。偏へに神明の納受を仰ぎて、仏陀の感応を待つ処に、七日の内に是を見る。猶仏天の与ふる処に非ず乎。然れば則ち、内には信力心を催し、外には感涙袖を洗す。仍りて生まれ来れるに劣らず、蘇活に是同じ。抑も貴辺の芳恩に非ずは、如何是を相見る事を得む。一門の風塵、皆以て是を捨つ。況や、怨敵に於いてを哉。和漢の両国を訪ひ、古今代々を顧るに、未だ其の例を聞かず。恩深高にして、須弥頗る下し、蒼海還りて浅し。進みて酬ひんと欲すれば、過去遠々たり。退きて報ひむと欲すれば、未来漸々たる者か。万端多しと雖も、筆紙に尽くし難し。謹言。
二月十四日左衛門尉平家長 奉り
熊谷二郎殿の御返事
とぞかかれたりける。
是よりしてぞ、熊谷は発心の心をば▼P3152(七六ウ)おこしける。法然上人に相ひ奉りて、出家して法名蓮性とぞ申しける。高野の蓮花谷に住して、敦盛の後世をぞ訪ひける。有り難かりける善知識かなとぞ、人申しける。
廿六 〔備中守海に沈み給ふ事〕
小松殿の末御子備中守師盛は、小船に乗りて、なぎさにそひて、助け船と志して落ち給ひけるに、薩摩守の郎等に豊嶋九郎真治とて、究竟の甲の者、大力にて有りけるが、岸の上に立ちて、「あれは備中守殿の渡らせ給ひ候ふと見進らせ候ふは、僻事にて候ふか。是は薩摩守殿の御内に豊嶋九郎と申す者にて候ふ。守殿には後れ進らせ候ひぬ、助けさせ給ひ候へ」と申したりければ、年来ほしと思はれける真治也、「此の船よせて、あれ乗せよ」と宣へば、「御舟は少く候ふ。いかにしてか乗せ候ふべき」と侍共申しけるを、「只乗せよや、乗せよや」と宣ひければ、力及ばでよせてけり。真治、大の男の鎧きて高岸より怱ぎ飛び乗りければ、舟ばたに飛びかかりて、踏み傾けて、乗り直さむ乗り直さむ▼P3153(七七オ)としけるほどに、踏み返して、一人も残らず皆海へ入りにけり。
是をみて、川越小太郎重頼が郎等十郎大夫、八騎馳せ来たりて、熊手に係けて是等を取り上げて頸を切る。擲刀持ちたる男の、師盛の頚を切らむとて、よりて申しけるは、「かね付けさせ給ひて候ふは、平家の一門にておはしまし候ふごさむめれ。名乗らせ給へ」。師盛宣ひけるは「己に逢ひて名乗るまじきぞ。後に人に問へ」とて、名乗り給はず。長刀にて頸を切るに、悪しく打ちて、おとがひをどうに付けたり。頸を取りて人にみするに、「小松殿の末の御子、備中守師盛」と申しければ「吉き人にこそ」とて、又立ち還りて、おとがひを取りて頸につけてぞ渡しける。勲功に、師盛の知行の跡、備中国をぞ給はりてける。
廿七 〔越前三位通盛討たれ給ふ事〕
門脇中納言教盛の嫡子越前三位通盛は、一谷破られにければ礒へ打ち出で給ひたりけれども、船なかりければ、只一騎渚にそひて、東へ向けて歩ませ給ふ。湊河の下にて▼P3154(七七ウ)近江国住人佐々木源三盛綱七騎追ひてかかる。三位取つて返して、主人と覚しき者に目かけて馳せ向かひけるを、佐々木が郎等、三位の甲に熊手を投げ懸けて、「えい」と云ひて引かへたり。三位の甲切れにけり。押し並べて引き組みてどうど落つ。上に成り下に成り、一時計り取りころびけるを、佐々木が郎等、落ち重なりたりけれども、凡そ輪宝なむどの如くにて、将基倒しをする様にまろびにければ、あたり近く人よらず。盛綱下になる。三位刀を抜きて佐々木が頸をさされけれども切れず。佐々木が郎等、三位の鎧の引き合はせより大刀を左右へ指しちがへて、うつほにくりなしてければ、三位よはり給ひたりけるを、頸を取る。佐々木が頸は、なから計りぞ切れたりける。佐々木おきあがりて、三位の頸、右の手にさげて、弓杖つきて、ふところよりたたう紙を取り出だして、頸の血をのごふ。あけに成りてぞみえける。三位の軍兵、あまた其の数有りけれども、▼P3155(七八オ)一谷にてかけへだてられて、散々になりにければ、宮太滝口時貞と云ふ侍、三位の跡を尋ねて追ひて参りけれども追ひつかず。三位打たれ給ひて後、追ひ付きたりけれども、頸はなし。むくろをみるに、もえぎにほひの鎧の引き合はせに、秘蔵して持ち給ひたりける笛を指されたり。此の笛を取りて、三位の御馬のはなれて有りける取りて乗り、泣く泣く馳せ返りにけり。
廿八 〔大夫業盛討たれ給ふ事〕
爰に常陸国住人、比気四郎五郎と云ふ兵あり。四郎、弟の五郎に申しけるは、「今日、一定吉き敵に組みつと覚え候ふ。過ぎぬる夜、夢見の吉かりつるぞ」と申しもはてねば、兵二人出で来たり。一人は大童なりけるを、比気の四郎馳せ並びて、かみを取りて鞍の前輪に押し付けて、首をかいきりて指し上げたり。一人は萌黄匂の鎧きて、鹿毛なる馬に乗りて落ちけるを、比気五郎吉き敵と目をかけて、押し並べて組みて落ちぬ。渚ぎはに古き井の有りけるを、中に二人組みて臥せたり。五郎は下に敵は上に有りけれども、井の中はせばし、落ちはさまつて、互ひに▼P3156(七八ウ)何ともせざりけり。兄四郎馳せ廻りて見れども、弟五郎も見えざりけり。井の有りけるを、馳り寄りてみれば、中に兵二人あり。「比気の五郎はここに有るか」。かすかなる音にて「安重」と名乗りければ、馬より飛び下りて敵が首をかく。十六七計りなる若人の、うすがねをぞ付けたりける。是は門脇中納言の子息、蔵人大夫業盛にてぞおはしける。哀れとも云ふばかりなし。
新中納言、大臣殿に申されけるは、「武蔵守にもおくれ候ひぬ。頼賢も討たれ候ひぬ。今は心細くこそ覚え候へ。家長もよも生き候はじ。只一人持ちたりつる子の、父を助けむとて敵に組むを見ながら、親の身にて引きも返さざり〔つる〕こそ、『命はよくをしき物にて候ひけり』と、身ながらもうたてく覚え候へ。人のいかに思ふらむ」とて泣き給ければ、大臣殿も宣ひけるは、「武蔵守は手もきき心も甲にて、吉き大将軍にておはしつる者を。あら惜しや。あたら者かな」とて、御子の▼P3157(七九オ)右衛門督のおはするを見給ひて、「今年は同年にて、十七ぞかし」とて、涙ぐ〔み〕給へるぞ糸惜しき。是を見奉る人々も、皆鎧の袖をぞぬらしける。家長は伊賀の平内左衛門、是は新中納言一二の者なりければ、「命にもかはり、一所にて何にも成らむ」と、契り深かりける者共也。
廿九 〔平家の人々の頸共取り懸くる事〕
然るべき人々の首、竹結ひ渡して取りかけたり。千二百余人とぞ注しける。大将軍には越前三位通盛、薩摩守忠度、但馬守経正、若狭守経俊、武蔵守知章、備中守師盛、蔵人大夫業盛、大夫敦盛、已上八人、侍には越中前司盛俊、筑前守家貞、討たれにけり。惣じて大将軍と覚しき人、十人とぞ聞こえし。但し敦盛の頸はなかりけり。
或いは利剣をふくみて地に倒れぬ。或いは流失に当りて命を失ふ類ひ、麻を散ぜるが▼P3158(七九ウ)如し。水におぼれ山に隠るる輩幾計ぞ、其の数を知らず。主上、女院、内大臣、平大納言以下の人々、北方、御船に召して目の当り御覧ぜられけり。何ばかりの事をか思し食しけむ。御心中おしはかられて哀れ也。翠帳紅閨の万事の礼法異なるのみに非ず。「船の中、浪の上、一生の悲しみ、喩へむ方もあらじ物を」と思ひ遣られて哀れ也。父は船にありて子は礒に打たれ、婦は船に有れば夫は渚に臥す。友をすて主をすてても、片時の命を惜しむ。兄をすて弟を忘れても、しばしの身をたばふ。潮の中の魚の沫にいきつくが如し。龍頭の羊の笹楽を怖るるに似たり。
主上を始め奉り、むねとの人々は御船に召して、思ひ思ひ心々に出で給ふ。船路の習ひの哀れさは、塩に引れて行くほどに、葦屋の里を馳せすぎて、紀伊地へ趣く船もあり。便りの風を待ち得ず▼P3159(八〇オ)して、浪に漂ふ舟もあり。光る源氏にあらねども、陬磨より明石を尋ねつつ、浦伝ひ行く舟もあり。すぐに四国へ渡る舟もあり。鳴戸のおきを漕ぎ渡り、未だ一谷のおきに漂ふ舟もあり。かかりしかば、嶋々浦々は多けれども、互ひに死生を知りがたし。
国を靡かす事も十三ヶ国、勢の付き従ふ事も十万余騎に及べり。都へも一日路也。さりともと思ひし一谷も落されにければ、各心細くぞ思はれける。さても今度打たれぬる人々の北方、さまをかへてこき墨染に成りつつ、念仏申して後生訪ひ給ふぞ糸惜しき。本三位中将重衡の北方、大納言亮殿計りこそ、内の御乳母なればとて、大臣殿制し申されければ、さまをもやつし給はざりけれ。
三十 〔通盛、北の方に合ひ初むる事、付けたり 同じき北の方の身投げ給ふ事〕
越前三位通盛の北方は、屋嶋の大臣殿の御娘也。御年十二にぞ成り▼P3160(八〇ウ)給ひける。八条女院養ひ進らせて、通盛聟に取らせ給ひたりけれども、未だ少くおはしければ、近付き給ふ事もなかりけり。頭刑部卿憲方の御娘、上西門院の御所に小宰相殿の局とておはしけり。皃形人に勝れて心に情深く、天下第一の美人の聞えおはしければ、見る人聞く人、哀れと思はぬはなかりけり。越前三位其時は中宮助といはれき。
此の小宰相の局の少くおはせし時より、一つ御所にすみながら、哀れみまほしく思ひ給ひけれども、さも無くて過ぎ給ひけるほどに、一年上西門院所々の名所の花御覧ぜられけるに、小宰相殿も参り給ひ、中宮亮も供奉せられけり。大宮を上りに二条を西へ行啓なる。四方の山辺も霞こめ、百囀の鶯も折りもよほせる物なれや。亀山のすそより出づる大井川、水上きよき早き瀬、井関のほども▼P3161(八一オ)おとたえず。梅津の里に匂ふ風、そもむつましきゆかりかな。月も桂の里にすむ。げにおもかげは身にぞそふ。雲居のよそに打ちすさみ、大内山もすぎぬれば、東吹く風にたよりして、主を尋ぬる梅の匂ひ、一夜にしげる松の枝ありし昔を忍びかね、袖よりあまる涙をば、思ひ煩ふ草枕の、露よりしげき心地して、天満天神のおはします、右近の馬場の行啓也。
此の時に、小宰相は十四の年より女院の御車にぞ参られける。諸衛の女房達は車より下りて遊び給けるに、此の小宰相殿はみえ給はざりければ、女院「小宰相殿は」と御尋ねあり。車より出で給ふが、人やみると覚しくて、下り煩ひ給ひける景気は、秋の夜の月、おばすて山を住みうかれ、春の花、吉野の峯にほころぶかと、あたりもかかやくばかり也。花を一房折りつつ、扇に取りそへて立たれ▼P3162(八一ウ)たり。折りしも嵐木末にさえければ、散り懸かる花に任せて優にぞみえける。
通盛此を一目み給ひしより、人しれず病と成りにけり。色に出でてたえず人に問ひければ、年来優に聞き給ひし小宰相殿是也。今一しほぞ増さりけり。日々に副へては重く成り給ひて、臥し沈みておはしけり。「神もゆるす御事ならば、みたらし河にふしも沈まばや」とのみ思はれけれども、それも叶はず御事なれば、ただあけくれは此の人の事より外は他事なくぞ思はれける。六条の局と云ふ乳母の有りけるが、「此の御いたはり、『くるしからじ』とは仰せ候へども、日に随ひて御有様よはげに見えさせ給ふ。御心苦し」と申しければ、「指して大事もなき物を」とて、打ちとけ給はず。六条あやしと思へども、其の心をしらず。
有る時又六条、「わらはにかくさせ給ふ、何事にて候ふぞ。今こそ思ひ知られて候へ。御心を置かせ給ひ候はば、御内も住みうくなむ」と、やうやう▼P3163(八二オ)にうらみて、「さてもゆゆしき医師の候ふなる、召され候へかし」と申しければ、三位日ごろは思ひなぐさむ方もなくて忍びつれども、今は限りと思ひければ、「『心に思ふ事云はねば罪深し』と云ふ時に、右近の馬場の花みの行啓の有りしに、小宰相局を一目見てしより、病となりたりしなり。耆婆偏鵲が薬も是を療ずる術もなし。晴明道満が術道もかなふまじ。若し彼のゆかりに知りたる人や有る。此の事を知らせばやと思ふぞとよ」。六条さればこそと思ひて、「宰相殿の御乳母の子に、小野の侍従と申す女房をこそ知りて候へ」。三位悦びて、「さらば知らせよ」と宣へば、侍従に「かく」と申したりければ、「万づ身にたへ候はむ事をば承り候ばやと思ひてこそ候へども、これは叶ふまじく候ふ。此の君の七歳の御年より、女院の御懐を離れ進らせ給はず。御寝所よりそだて進らせましまして、今年は十四にならせ給ふ。此の事▼P3164(八二ウ)人に知らせ給ふなよ」と云ひければ、六条還りて此の由を申しければ、「さては叶ふまじきにこそ」とて臥し沈む。万死一生とみえ給ふ。六条申しけるは、「男は心強きこそ憑しく候へ。御命だに渡らせ給はば、などかさてしも候ふべき。御文をあそばして給ひ候へ。侍従にとらせ候はむ」と云ひければ、「さらば」とて文をかきて六条にたびてけり。六条此の文を侍従にとらせたりければ、ゆゆしく心得ずげに思ひて、暫く物もいはざりけるが、此の文を返し奉るも情なしとや思ひけむ、「申してこそ見候はめ」とて、宰相殿に奉る。宰相殿皃打ち赤らめて「こは何事ぞや。人やみつらむ。あさましや」とて、御すの内へ入れ給ふ。かくと知らせ始め給ひて後は、三年まで、玉章数のみつもりけれども、取りも入れ給はず。されども三位是になぐさみて、露の命消えやり給はず。
三年もすぎぬれば、ちつかを立てしにしきぎ、立ちながらやくちぬらむ。「つれなき人こそ善知識なれ」とて、明日は▼P3165(八三オ)戒の師請じて出家し、高野粉河にも入りこもり給はむとぞ出で立ち給ひける。六条余りに悲しく思ひて、侍従に「かく」と泣く泣く申したりければ、侍従おどろきて、「年来はなにとなく等閑の御事にやと思ひて候へば、さやうに御身をいたづらに成し給ふ御事ならば、こまやかに申してみ候はむ」とて、侍従、宰相殿に申しけるは、中宮、「亮殿こそ御身ゆゑに明日は出家して高野粉河にも閉ぢこもらむとし給ふなれ。人を助くるは、みなよのつねの習ひにてこそ候へ」と申しけれども、「偽りにてぞ有るらむ」とて、露なびきげもおはせず。侍従帰りて「なほも心づよげにおはするぞ。御内へまゐらせ給はむ時、こまかに御文をあそばして、車の内へなげ入れ給へ」と云ひければ、中宮亮悦びて、「三年の思ひにたえずして、今は思ひ切り、世を遁れて高野粉河にもこもるべき」なんど細かに文をかき給ひて、便宜を伺はれけるほどに、或る時、小宰▼P3166(八三ウ)相殿、御所へ参り給ひけるに、ひそかに人に云ひ合はせて、青侍を以て、御文、車の内へなげ入れさせて使はかへりにけり。
小宰相殿、「是はいかなる人のつてぞや」とて、車の内にて忍びさわぎ給へども、御共の者共も「しらず」と申しければ、大路にすてむもさすがなり、車におかむもつつましくて、思ひ煩ひけるほどに、御所もちかく成りにければ、いかにすべき様もなくて、袴の腰に挟みて御車より下り給ひにけり。をりしも御遊のほどなりければ、やがて御前へ参り給ひて、なにとなく遊ばれけるほどに、此の文を落とし給ひてけり。女院の御目にしも御覧じ出でて、御懐に引き入れさせましまして、女房達を召し集めさせ給ひて、「やさしき物をこそ求めたれ。人々これ御らんぜよ」とて、取り出でさせ給ひたりければ、此の御文なりけり。女房達、「我も知らず」「我も知らず」とのみ神仏にかけて申されければ、小宰相殿、かほけしきかはりて、▼P3167(八四オ)涙のうくほどにぞみえられける。小宰相殿の落とし給ひてけりと、負せ給ひにけり。女院、文をひらきて御らんぜらるるに、妓燼の煙なつかしく、蘭麝の匂ひふかくして、筆のたてどもなべてならず、優に由ありてぞ書かれたりける。
我が恋は細谷川のまろきばしふみかへされてぬるる袖かな
ふみかへす谷のうきはしうき代ぞと思ひ知りてもぬるる袖かな
「つれなき御心もなかなか今はうれしくてなむ」とかきたり。
女院、仰せの有りけるは、「是は、あはぬをうらみたる文にこそ。いかに思ひなるべき人やらむ。中宮亮の申すとは、ほのかに聞きしかども細かにはしらず。あまりに人の心づよきも身のとがとなるなるものを。このよには、まのあたりあをき鬼となりて、身をいたづらになし、ひとり行くみちに行き合ひて情なき事をかたり、後の世までのさはりとなりて、世々に身をはな▼P3168(八四ウ)れぬとこそきけ。人をも鬼になしてもなにかはせむ。懸念無量劫とかやも罪深し。昔小野小町と云ひける者は、色皃人に勝れて情も深かりければ、見る人聞く人肝をはたらかし心をいたましめぬはなかりき。されども、その道には心つよき名取りたりけるにや、人の思ひのやうやうつもりては、風を防く便りもなく、雨をもらさぬわざもなし。やどにくもらぬ月星を涙にやどし、人の惜しむ物を乞ひ、野辺の若菜をつみて命をつみけるには、青鬼のみこそ床をばならべけれ。とくとくなびき給ふべし。終に人にみえ給はむには、あの人共の云はむ事をば、争でか聞きすて給ふべき。此の人と云ふに、太政入道の甥なり。品もいやしからず。平家繁昌のをりふしなり。当時は誰か此の一門をさくべき。此の文の返事は我せむ」とて、御すずり召し寄せて、
▼P3169(八五オ)只たのめ細谷川のまろきばしふみかへしては落ちざらむやは
谷水の下に流れてまろきばしふみみて後ぞくやしかりける
かくあそばして返されぬ。御ひさうの御車、御牛かけて、小宰相殿を三位の許へ送られにけり。
仙宮の玉妃、天地を兼ねて契りや深かりけむ。心やゆかしくいさぎよからましの心にて、切なる事のみぞおほかりける。世の常の夫の思はぬをうち歎きて悔やむ事なんどこそあれ、是は常に物思ひがほにて雲上宮中の御遊も倦んじ思ひ給ひけるにや、やさしかりしなからひなり。かくてなれそめ給ひて年来にもなりにければ、互ひに御志浅からず思はれたりければ、父母したしき人々にも離れて是までおはしたりけるにや。
漢の武帝、上林苑に御幸あり。慎夫人と云へる女御、傍らにおはす。袁〓[央+皿]よつて、夫人の座をしりぞけけり。▼P3170(八五ウ)公の御気色かはり、夫人いかれる色あり。袁〓[央+皿]が云はく、「公は后おはします。夫人、妾なり。妾は君と床を一にする事なし。昔の人〓がためしを思ひ知り給へ」と云ひければ、夫人、此の事を覚り得給ひて、還つて喜び、袁〓[央+皿]が賢き心を悦び給ひて、金三十斤を給ひけるとかや。越前三位、此の事を思ひ知り給ひたるにや、小宰相殿は妾にておはしければ一舟には住み給はず、別の御船におき奉りて、時々通ひ給ひて、三年が間波の上に浮かび給ひけるこそ哀れなれ。
越前三位仕ひ給ひける宮太滝口時員と云ふ侍馳せ来りて、北の方に申しけるは、「三位殿は湊川の尻にて佐々木源三盛綱と組んで打たれ給ひぬ。やがて討死をもし、自害をも仕りて、後世の御共すべきにて候ひつれども、『我がいかにも成りなむ後は、命を捨てずして、相構へて御ゆくへを見継ぎ奉れ』と、兼ねて能く能く▼P3171(八六オ)仰せおかれて候ふ也。御詞を違へじと存じ候ひて、つれなく参りて候ふ」と泣く泣く申しければ、北の方、是を聞き給ひて、しばしは物も宣はず、引きかづき臥し給ひぬ。一定討たれ給ひぬとは聞き給へども、「若し僻事もやあるらむ、生きて帰らるる事もや」と、只二三日の旅に出でたる人を待つ心地して、したまたれけるこそはかなけれ。
さるほどに、日数も重なりて四五日にもなりにければ、若しやの恃みも弱りはてて、弥思ひぞまさりける。乳母子なりける女房の只一人付きたりけるに、十三日、夜ふけ人定まりて、北の方、泣く泣く宣ひけるは、「あはれ、此の人の、あす打ち出でむとては、世の中の心細き事共を終夜云ひつづけて涙を流ししかば、いかにかくは云ふやらむと、心さわぎし覚えしかども、『必ずかかるべしとは思はざりしに、限りにて有りける事の悲しさよ。我いかになりなむ後、いかなる有りさま有らむずらむと思▼P3172(八六ウ)ふも心苦し。世の習ひなれば、さてしもあらじ。いかなる人に見えむずらむと、それも心うし』なむど云ひし時に、ただならずなりたる事を、其の夜始めてしらせたりしかば、なのめならず悦び、『通盛すでに卅に成りなむずるに、未だ子と云ふ者のなかりつるに、初めて子と云ふ者有らむずらむ事のうれしさよ。あはれ、同じくは男の子にてあれかし。さるに付けても、かくいつとなき船の中、波上のすまひなれば、身々とならむ時、通盛いかがせむずらむ』と、只今有らむずらむやうに歎き給ひし物を、はかなかりけるかね事かな。軍はいつもの事なれば、それをかぎり最後とは思はずありし。六日の暁を限りとしりせば、後の世にとも契りてまし。誠やらむ、女は身々となる時、十に九は死ぬるなれば、かくて恥がましき目を見て、ともかくもならむ事も口惜し。若し此の世を忍び過ぐしてながらへても有らば、心に任せぬ世の習ひなれば、不思議に▼P3173(八七オ)て思はぬ外の事も有るぞかし。心ならずさる事も有らば、草の影にて見む事もはづかしければ、此の世にながらへてもなにかはせむ。まどろめば夢にみえ、さむれば面影にたつぞとよ。されば、此の次でに底のみくづとも思ひ入りて、死出の山・三途の川とかやも同じ道にとのみ思ふが、それにひとり残り留りて歎かんこともいたはしく、古里に聞き給ひて悲しみ給はむ事こそ罪深けれども、思はざる外の事も有るぞかし。若しさも有らむ時は、わらはが装束をば、何ならむ僧にもとらせて衣にせさせて、後生をも問ひ、無き人の菩提をも助け給へ。書き置きたる文共をば、都へとづけ給へよ」など、こしかた向未の事共までかきくどき宣ひければ、「日来は泣くより外の事なくて、物をだにも宣はざりつるに、かやうにこまごまとくどき給ふこそあやしけれ。げに千尋の▼P3174(八七ウ)底までも思ひ入り給はむずるやらむ」と、胸打ち騒ぎて北の方に申しけるは、「今はいかに思し召すとも甲斐あるまじ。初めて驚き思し食すべきにもあらず。其の上、御身一人の事にてもなし。薩摩守殿、但馬守殿、若狭守殿、備中守殿、北の方達も御歎き何れもおろかならず。されども、方々御さまを替へて後生をこそ訪ひ進らさせ給へども、御身を投ぐる人もなし。必ず同じき道にと思し食すとも、生まれ替はらせ給ひなむ後は、六道四生の間に何なる苦の道へか趣かせ給ひぬらむ。行き逢ひまゐらせさせ給はむ事も有りがたし。いかにもして平らかに身々とならせ給ひて、少き人をもそだて奉りて、なき人の御形見とも見まゐらせさせ給へかし。なほあきたらず思し食さば、御さまも替へさせ給ひて、いかならむ山寺にも閉ぢ籠らせ給ひて、閑かに仏の御名をも唱へて、故殿の▼P3175(八八オ)御菩提をも訪ひまゐらせ、我が御身の後生をも助からせ給はむに過ぎたる善知識は、争でか候ふべき。其の上、都に渡らせ給ふ人々の御事などをば、誰にゆづり、いかにならせ給へとて、かくは思し食し立つにか。わらはも老いたる親にも立ち離れ、幼き子もも振り捨てて、只一人付きまゐらせたる甲斐も候はず、うき目をみせむと思し食すらむこそ口惜しけれ」などかきくどき、さまざまになぐさめ申しければ、「『懐妊の身となりては、死をさる事遠からず』など云ふなれば、かやうに浪の上にてあかしくらせば、思ひかけぬ波風に逢ひて、心ならず身を徒らになすためしも有るぞかし。縦ひ今度を思ひ延べたりとも、此の者をそだてて打みむをりをりは、昔の人のみこひしくて、思ひの数はまさるとも、わするる時はよもあらじ。今はなかなかに、見そめみえそめし雲の上のよはの契りさへくやしくて、▼P3176(八八ウ)彼の源氏の大将の朧月夜の内侍のかみ紅徽殿のほそ殿も、我が身の上とおぼゆるぞ」と、ひそかに宣ひければ、「此の四五日ははかばかしく湯水をだにも見入れ給はぬ人の、かやうにこまごまと宣へば、げに思ひ立ち給ふ事もや」とて、「大方はげにもこそは思し食すらめなれば、いかならむ海川の底へ入らせ給ふとも、おくれまゐらすまじきぞ。かまへてうき目みせさせ給ふなよ」と涙もかきあへず申しければ、「此の事さとられて妨げられなむず」とやおぼしけむ、「是は、それの身の上に思ひなしてもおしはかり給へ。別れの道の悲しさ、大方世のうらめしさに『身をも投げばや』と云ふ事は世の常の事ぞかし。さればとて、げには争でか思ひもたつべき。又適人界の生を受けたる者に、月日の光をだにも見せずして失はむ事もかはゆくも有るぞかし。縦ひ何なる事を思ひ立つとも、▼P3177(八九オ)争でかはそこにしられでは有るべき。心安く思ひ給へ」と宣ひて、三位の筆にて書き給ひたりける猿衣の有りけるを取り出だして、あはれなる所をよみて、忍び忍びに念仏を申し給ひければ、「げにも思ひ延べ給ふにこそ」と心安く覚えて、御そばに有りながら、ちとまどろみたりけるひまに、やはら舟のはたに立ち給ひたれば、漫々たる海上なれば、月おぼろにかすみわたりて、いづくを西とはわかねども、月のいるさを山のはに向ひて、掌を合はせて念仏を申し給ひける心の中にも、「さすがに只今を限りとは都にはよもしらじ。風のたよりもがな、かくとしらせむ」と思ひみだれ給ふに付けても、おきの白洲に鳴く千鳥、とわたる海の梶枕、かすかにきこゆるえいや音、いづれもあはれに聞こえけり。
さて念仏百返計り唱へて、「南無西方極楽世界、大慈大悲阿弥陀如来、本願あやま▼P3178(八九ウ)たせ給はず、浄土に導き給ひて、あかで別れしいもせの中、一連の身となし給へ」とて、千尋の底へ入り給ひぬ。一谷より屋嶋へこぎもどる夜半計りの事なれば、人皆ね入りにけり。梶取一人見付け奉りて、「こはいかに。女房の海へ入り給ひぬ」と詈りければ、乳母子の女房打ち驚きて、「あは此の女房のし給ひぬるよな」と心うくて、傍ら求むれども人もなかりければ、「あれや、あれや」とさわぎあわてけれども、阿波の鳴戸の塩ざかひ、満塩引塩早くして、浮けば沈み沈めば流るるうしほにて、立つ波引く浪打ち懸けて、鴨の上毛もうづもれぬ。心に舟をもまかせねば、をりしも月はおぼろなり。衣も白し、波も白かりければしらみあひて、しばしは浮き上がり給へども、みわくる方もなかりければ、とみにも取り上げ奉らず、遥かにほどへて、とかくしてかづき上げ奉りたりけれども、此の▼P3179(九〇オ)世にもなき人に成り給ひにけり。
白き袴に練緯の二衣引きまとひて、髪より始めてしほしほとして、僅に息ばかりちと通ひ給ひけれども、目も見あけ給はず。瞿麦の露にそぼぬれたる様にて、死にたる人なれども、ね入りたる人のやうにて、らうたくぞ見え給ひける。乳母子の女房、手に手を取りくみ、皃に皃をあてて泣く泣く申しけるは、「子をも親をもふりすてて、是まで付き奉りたる志をも知り給はず、いかに心うき目をば見せ給ふぞ。げにおぼしめしたたば、波の底へも引き具してこそ入り給はめ。片時立ち離れ奉らむとも思はざりつる者をや。今一度、物一言宣ひて聞かせ給へ」ともだえこがれけれども、なじかは一言の返事にも及ぶべき。僅に通ひ給ひつる息も止まりて事切れはててければ、見る人袖をぞ絞りける。
さるほどに、朧に清める月影も雲井に傾き、▼P3180(九〇ウ)かすめる空も明けゆけば、「さてしも有るべき事ならず」 とて、故三位の鎧の一両残りたりけるを、「浮きもぞ上る」とておし巻きて、又海へ返し入れてけり。乳母子の女房、つづきて飛び入らむとしけるを、人集まりて取り留めければ、船底に臥しまろびてをめき叫ぶ事なのめならず。悲しみの余りに自からかみを切りおとしてければ、門脇中納言の子息に中納言律師忠快とておはしけるが、剃りて戒持たせられてけり。
三位、此の女房の十四の歳より見そめ給ひて、今年は十九にぞなられける。片時もはなれ給はじとは思ひ給ひけれども、大臣殿の御聟にておはしければ、其の方ざまの人々には知らせじとて、軍兵の乗りたる船にやどしおき給ひて、時々見参せられけり。三草山の仮屋にて見参せられたりけるも此の女房の事なりけり。中納言も、憑み▼P3181(九一オ)切り給へる嫡子越前三位、又乙子のなのめならず悲しかり給ひつる大夫業盛も討たれ給ひにければ、方々歎き入られたりけるに、此の北方さへかく成り給ひぬる哀れさ、いとほしさに、常は泣き臥してぞおはしける。御心の内、さこそは悲しかりけめと、おしはかられていとほし。
薩摩守・但馬守の北方もおはしけれども、歎きに沈みながら、さてこそおはしけれ。昔も今も、夫におくるる人多けれども、さまなどかふるは世の常の事也。忽ちに身を投ぐるまでの事は、ためし少なくぞ覚ゆる。見る人も聞く人も涙を流さずと云ふ事なし。されば、「忠臣は二君に仕へず、貞女は両夫に嫁がず」と云へり。誠なるかな。
権助三位中将、此の有様を見給ひて、「かやうにひとり明かし晩らさば、なぐさむ方もなけれども、賢くぞ此の人を留め置きてける。我も引き具したりせば、終にはかかる事に▼P3182(九一ウ)こそあらまし」など、せめての事には思ひつづけられ給ひけり。
七日、九郎義経一谷に押し寄せて、卯の剋に矢合せして巳の剋に平家を責め落して、棟との人々の首、同じき十日、京へ入る。平氏の首共あまた京へ入ると詈りあひたりければ、平家のゆかりの人々、京に残り留まりたる、肝心を迷はして、「誰なるらむ」と思ひあはれけるぞ糸惜しき。
其の中に、権亮三位中将惟盛の北方、遍照寺の奥、小倉山の麓大学寺と云ふ所に忍びてすみ給ひけるも、風吹く日は、「今日もや此の人の船に乗りたるらむ」と肝をけし、今日軍と聞こゆれば、「此の人はうたれもやしつらむ」と思ひつるに、「さては、此の首共の中にはよもはづれじ」と覚すにも、只泣くより外の事ぞなかりける。三位中将と云ふ人、生け取りにせられて上ると聞き給ひければ、少き者共の恋しさに忍びがたし。「『いかがして此の▼P3183(九二オ)世にて相見むずらむ』と返々云ひたりしかば、『同じ都の内に入りたらば』など思ひて、態と取られて上るやらむ」とさへ、一方ならず思ひ乱れて臥し沈み給へば、若君・姫君も同じ枕に泣き臥し給へり。「首共の中にもおはせず。三位中将と申すは、本三位中将の御事なり」と人なぐさめけれども、猶誠とも思ひ給はで、おきもあがり給はず。若君は、「父の御事にてはあらぬと申すぞ、御湯づけなれ。我も食はむ」と、をとなしく宣へば、それに付けても哀れにて、「今度はづれたりとも、終にいかが聞きなさむずらむと思へば、なぐさむ心地もせぬぞ」と宣へば、若君心の中にもげにもとやおぼされけむ、又はらはらと泣き給へば、御前なる女房共涙をぞ流しける。
卅一 〔平氏の頸共、大路を渡さるる事〕
十三日、大夫判官仲頼以下の検非違使、六条川原に出で合ひて、平▼P3184(九二ウ)氏の首を武士の手より請け取りて、東洞院の大路を北へ渡されて、左の獄門の木に懸けたり。越前三位通盛・前薩摩守忠度・前但馬守経正・前武蔵守知章・前備中守師盛、大夫業盛・大夫敦盛、此の人々二人は未だ無官にておはしければ、大夫とぞ申しける。但し敦盛の首はなかりけり。越中前司盛俊が首も渡されけり。鳳闕に趺を踏みし昔は、怖じ恐るる輩多かりき。街衢に首を渡さるる今は、哀み憐まぬ者少なし。愛楽忽に変ず。是を見む人、実に深き心を得べき者哉。
首共、各々大路を渡して獄門の木に懸けらるべきよし、範頼・義経共に申しければ、法皇思し食し煩はせ給ひて、蔵人右衛門権佐定長を御使として、太政大臣・右大臣・内大臣・堀川大納言等に召し問はる。五人公卿、各の申し給ひけるは、「先朝御時、此の輩、▼P3185(九三オ)戚里の臣として久しく朝家に仕はれき。就中卿相の首大路を渡して獄門に懸けらるる事、未だ其の例なし。其の上は範頼・義経等が申状、強ちに許容あるべからず」と申されければ、渡さるまじきにて有りけるを、「父義朝が首大路を渡して獄門に懸けられにけり。父の恥を雪めむが為、君の仰せを重くするに依りて、命を惜しまず合戦仕るに、申し請ふ所御免なくば、自今以後、何の勇み有りてか朝敵を追討すべき」と義経殊に支へ申しければ、渡されて懸けられにけり。見る人涙を流さぬはなかりけり。**
卅二 〔維盛の北の方、平家の頸見せに遣る事〕
権亮三位中将の北の方は、今度一谷にて、平家残り少なく打たれ給ひぬと聞き給ひければ、「いかにも此の人はのがれじ物を」と思ひ給ひける余りに、斎藤五宗貞・斎藤六宗光とて兄弟ありける侍を召して、「己等は、無官の者と▼P3186(九三ウ)て、はれの共をばせざりしかば、いたく人にはしられじと覚ゆるぞ。首其の渡さるなる中に、此の人の首も有るかと見て参れ」。「承り候ひぬ」とて、さまをやつし行きて見れば、我が主の首はなけれども、有さま目もあてられず。つつめども涙もれいでければ、人のあやしげに見るもおそろしくて、程無く帰り参りて申しけるは、「小松殿の君達には、備中守殿計りぞ渡らせ給ひ候ひつる。其の外は誰々」と申しければ、北方聞き給ひて、「さればとて、すこしも人の上とは覚えぬぞや」とて、泣き給ひければ、斎藤五申しけるは、「雑色とおぼしき男の四五人物見候ひつるかげにて見候ひつれば、それらが申し候ひつるは、『小松殿の公達は今度は三草山を固めておはしけるが、一谷落ちにければ、新三位中将殿・左中将殿二所は船に乗りて讃岐の地へ着き給ひにけり。此の備中守殿は、いかにして兄弟の御中を▼P3187(九四オ)離れて打たれ給ひにけるやらむ』と申し候ひつれば、『さて権亮三位中将殿はいかに』と尋ね候ひつれば、『其の殿は、軍以前に御所労とて御船にて淡路の地へ着き給ひにけりとこそ承れ』と申し候ひつる」と申しければ、北の方宣ひけるは、「あな心づよの人の心や。所労あらば、かうこそあれとなどか告げざるべき。軍にあはぬほどの所労なれば、大事にこそ有るらめ。思ひ歎きのつもりにや、病の付きにけるこそ。都を出でてより、我が身のわびしきと云ふ事をば一度もいはず。『只少き者共こそ心苦しけれ。終には一所にこそすませうずれ』とのみなぐさめしかば、さこそ憑みたるに、さては身の煩ひけるにこそ。皆人も具すればこそ具したるらめ。野の末、山の末までも一所に有らば、互ひに心苦しさもなぐさむべきに、かやうにのみなく悲しさよ」とて泣き給へば、「何の御病ぞとこそ聞かましか」と若君宣ひける▼P3188(九四ウ)ぞいとほしき。
「いかがして人をもつかはして慥かに聞かまし」とおぼしけれども、打ち解け、たれに宣ひ合はすべしとも覚え給はねば、かきくらす心地して又涙もかきあへず泣き給へり。中将も通ふ御心なりければ、「都にいかにおぼつかなく思ふらむ。首共の中にもなければ、水底に入りにけるとこそ思ふらめ。風の便りは有れども、忍びてすむ所を人に見せむもさすがなれば、うとからぬ者にてこそ、一くだりの文をもやらめ」とおぼして、へだてなく思はれける侍を一人ひそかに出で立たせてぞ上せ給ひける。「今日までは露の命も消えやらず。少き人々何事かあるらむ」など細々と書き給ひて、おくに、
いづくともしらぬなぎさのもしほぐさかきおくあとをかたみとはみよ
と書き給へり。心中には思ひ立ち給ふ事もあれば、是計りにてぞ有るらむずらむと▼P3189(九五オ)おぼしけるに、涙にくれてえつづけあへ給はねども、「世になき者となりなば、形見ともせよかし」とて、若君・姫君の御許へも、御文献り給ふ。「こぞよりみねば、恋しさも云ふはかりなし。いかにをとなしく、見忘るるほどになりぬらむ。怱ぎ迎へ取りてあそばせむずるぞ。心細くな思ひそ」など、憑もしげに細々とかき給ふに付けても、「終にいかに聞きなして、いかなる事を思はれむずらむ」とおぼすぞ悲しき。
〔奥書〕
平家物語第五本 十二巻の内
P3191(九五ウ) 時に延慶二年己酉卯月十日。根来寺の内禅定院の住坊に於いて、之を書写す。狂言綺語の誤たりと雖も、修因感果の道理を観ぜんが為なり。あな賢あな賢、外見有るべからず。
(花押)
平家物語 十(第五末)
B2295
▼P3193(一オ)
一 重衡卿大路を渡さるる事 二 重衡卿賜院宣を賜り、西国へ使ひを下さるる事
三 宗盛院宣の請文申す事 四 重衡卿、内裏より女房を迎ふる事
五 重衡卿、法然上人に相ひ奉る事 六 重衡卿を実平が許より義経の許へ渡す事
七 公家より関東へ仰せらるる条々の事 八 重衡卿関東へ下り給ふ事
九 重衡卿、千手前と酒盛の事 十 惟盛卿高野詣での事
十一 惟盛卿高野巡礼の事 十二 観賢僧正勅使に立ち給ひし事
十三 時頼入道道念由来の事付けたり永観律師の事 十四 惟盛出家し給ふ事
十五 惟盛粉河へ詣で給ふ事 十六 惟盛熊野詣手の事付けたり湯浅宗光が惟盛に相奉る事
十七 熊野権現霊威無双の事 十八 那智籠りの山臥、惟盛を見知り奉る事
十九 惟盛身投げし給ふ事 廿 重衡卿鎌倉に移り給ふ事
▼P3194(一ウ)
廿一 兵衛佐四位の上下し給ふ事 廿二 崇徳院を神と崇め奉る事
廿三 池大納言関東へ下り給ふ事 廿四 池大納言鎌倉に付き給ふ事
廿五 池大納言帰洛の事 廿六 平家の人と池大納言と合戦する事
廿七 惟盛の北方歎き給ふ事 廿八 平家屋嶋にて歎き居る事
廿九 新帝御即位の事 三十 義経範頼官成る事
三十一 参河守平家の討手に向かふ事付けたり備前小嶋合戦の事 三十二 平家屋嶋に落ち留まる事
B2296
三十三 御禊の行幸の事 三十四 大嘗会、遂げ行はるる事
三十五 兵衛佐院へ条々申し上げ給ふ事
B2297
▼P3195(二オ)平家物語第五末
一 〔重衡卿大路を渡さるる事〕
二月十四日、本三位中将重衡をば、六条を東へ渡されけり。上下万人是を見て、「何なる罪の報いぞや。哀れ、此の人は、入道殿にも二位殿にもおぼえの子にておはせしかば、一家の君達も重き人に思ひ奉りし物を。院へも内へも参り給ひぬれば、老いたるも若きもところをおき、詞を係け奉りき。口をかしき事など云ひ置き給ひて、人にも忍ばれ給ひし物を。南都を滅ぼし給ひぬる罪の報いにや」とぞ申しあへりける。
さて、河原まで渡して、蔵人右衛門権佐定長、法皇の仰せを奉りて、故中御門の中納言家成卿の八条堀川の堂にて、重衡卿を召し問はる。土肥二郎実平、木蘭地の直垂に下腹巻を着て、郎等三十人許りに鎧きせて来たれり。三位中将は、紺村濃の直垂に、練緯の二つ小▼P3196(二ウ)袖着給へば、蔵人右衛門権佐は赤衣に笏持たれたり。「昔はかくは覚えざりし物を。冥途にて冥官にあへる罪人の心地もかくや有らむ」と、おそろしくぞ思はれける。院宣の趣条々仰せ含む。「詮ずる所内侍所を都へ返し入れ奉らば、西国へ帰し遣さん」とぞ有りける。重衡卿の申されけるは、「今はかかる身に罷り成りて候へば、親しき者共に面を合はすべしとも覚え候はず。又今一度見んと思ふ者も候ふまじ。若し、母の二位なんどや無慚とも思ひ候はむ。其の外の者は情を係くべき者有るべしとも覚え候はず。三種の宝物は神代より伝はりて、人皇の今に至るまでも、しばらくも帝王の御身をはなたるる事候はず。先帝と共に都へ入らせ給はば、尤も然るべく候ふべし。さ候はざらむには、内侍所計りを入れ奉る事は、有るべしとも覚え候はず。さりながらも仰せ下さるる旨かたじけなければ、私の使ひにて申し試み候ふべし」とて、前左衛門尉平重▼P3197(三オ)国を下し遣はすべき由を申さる。此の重国は平左衛門とて、重衡重代相伝の家人なり。平家の人々は何れもと云ひながら、此の三位中将は殊に誇り勇むる人なりしに、なのめならず心うげに思ひて目も見あげず。只涙をのみ流して、御返事もえしやらず。蔵人佐も石木ならねば、赤衣の袖をぞぬらしける。
二 〔重衡卿賜院宣を賜り、西国へ使ひを下さるる事〕
十五日、重衡卿の使ひ左衛門尉重国、院宣を帯して西国へ下る。彼の院宣に云はく、
一人の聖帝、北闕九禁の台を出でて九州に遷幸し、三種の神祗、南海西海の濤に浮びて数年を経御します事、尤も朝家の御歎き、又亡国の基ゐ也。彼の重衡卿は、東大寺を焼失せし逆臣也。頼朝申し請くる旨に任せて、須らく死罪に行はるべしと雖も、独り親類を別れて已に生虜たり。籠鳥雲を恋ふる思ひ、遥かに▼P3198(三ウ)千里の南海に浮び、帰雁の友を失ふ情、定めて九重の中運に通ぜし歟。然れば則ち三種の神器を帰し入れ奉らんに至りては、彼の卿を寛宥せらるべき者也。者れば、院宣斯くの如し、仍りて執達件の如し。
元暦元年二月十四日 大膳大夫大江業忠奉り
平大納言殿へ
とぞ書かれたりける。
三位中将も、内大臣并びに平大納言の許へ、院宣の趣申し給ふ。二位殿へは御文細々と書きて奉り給へり。「今一度御覧ぜむと思食さば、内侍所の御事を大臣殿へ能々申させ給ひ候へ。さなくては此の世にて見参に入るべしとも覚え候はず」なむどぞ有りける。北方の大納言典侍殿へも御文奉りたく思はれけれども、私の文をばゆるされざりければ、詞にて、「此の六日を必ず限りとも思ひ候はず。申し承りし事のはかなさ、憑しき▼P3199(四オ)人もなくて、いつとなく旅の空に明かし晩し給ふこそ心苦しけれ。心の中も身の有様も只押し量り給へ」と宣ひもあへず、涙に咽び給へば、重国も涙を流しけり。預りて守護しける武士も、袖をぞぬらしける。
十六日に猶重衡を召し問はる。重国、屋嶋へ下り着きて院宣奉り、并びに重衡卿の宣ひける様に前内大臣に申しければ、時忠卿を初めとして一門の月卿雲客寄り合ひて、勅答の趣を僉議せらる。重国、三位中将の御文を二位殿に奉りたりければ、二位殿見給ひてさめざめと泣かれて、文を顔に押し当てて、人々の並び居られたる所の障子をあけて、内大臣の前にたふれ臥して、泣々宣ひけるは、「三位の中将が京より云ひおこせたる事の無慚さよ。げにも心の中にいかばかりのことをか思ひ居たるらむ。只我に思ひゆるして内侍所を都へ返し入れ奉り給へ」と宣ひければ、人々あさましと思ひあはれたり。内大臣宣ひけるは、「誠に宗▼P3200(四ウ)盛もさこそは存じ候へども、さすが世のききも云ふ甲斐なく、且は頼朝が思はむ事もはづかしく候へば、左右無く内侍所を返し入れ進らせむ事叶ふまじ。帝王の世をたもたせ給ふ事は、内侍所の御故也。子の悲しきも様にこそより候へ。中将一人に余の子共、親しき人々をば、さて思食し替へさせ給ふか」と宣ひければ、二位殿又宣ひけるは、「故入道に後れて、片時命生きて有るべしとも思はざりしかども、主上かくいつとなく旅立たせ給ひたる心苦しさと、又君達をも世にあらせばやと思ふ志の深さにこそ、今までながらへても有りつれ。中将一谷にて生け取りにせられぬと聞きしより、肝神も身にそはず。いかにして此の世にて今一度相見るべかるらむと思へども、夢にだにも見えねば、いとど胸せきあげて、湯水をも喉へ入れられず。此の文を見て後は、弥よ思ひ遣る方もなし。中将世になき事と聞かば、我も同じ道に消えなむずれば、再び物を▼P3201(五オ)思はぬ先に、只我を先に失ひ給へ」とをめき叫ばれければ、げにもさこそ思ひ給ふらめと哀れに覚へて、人々も涙を流して、各ふし目になられければ、涙をおさへて立ち給ひぬ。
さて、重国を召して、時忠卿院宣の御請文をたぶ。二位殿は泣々中将の返事書き給ひけるが、涙にくれて筆の立所おぼえ給はねども、志をしるべにて細々と書き給ひて、重国に給りてけり。北方大納言典侍殿は只泣より外の事なくて、つやつや返事もの給はず。さこそは思ひ給ふらめと押し量られていとほし。重国も狩衣の袂を絞り、涙を押へて、御前を立ちにけり。廿七日、重衡の西国へ下し遣はしたりし平三左衛門尉重国帰り上りて、前内大臣の進らせられける院宣の御返事を、蔵人左衛門権佐定長の宿所へ参りて献りたりければ、定長朝臣院へ参りて奏聞す。其の状に云はく、
三 〔宗盛院宣の請文申す事〕
▼P3202(五ウ)今月十四日の院宣、同じき廿四日、讃岐の国屋嶋の浦に到来。謹みて以て請くる所、件の如し。是に就きて彼を案ずるに、通盛以下当家の数輩、摂津国一谷に於いて已に誅せられ畢はんぬ。何ぞ重衡一人寛宥の院宣を悦ぶべき哉。
我が君は、故高倉院の御譲りを受けましまし、御在位既に四ヶ年、其の御失ち無しと雖も、東夷北狄、党を結び群を成して入洛の間、且は幼帝母后の御情殊に深きに依りて、且は外舅外家の志浅からざるに依りて、暫く西国に遷幸有りと雖も、旧都に還幸無からんに於いては、三種の神器、争でか玉体を放たるべけん哉。
夫臣は君を以て忠を為し、君は臣を以て体と為す。君安ければ則ち臣安し。君上に愁ふれば臣下に労しくす。臣内に楽しまざれば、体外に悦ぶこと無し。爰に平将軍貞盛、相馬の小次郎将門を追討せしめ、東八ヶ国を鎮めしより以降、子々孫々に続きて、朝敵謀臣を追討し、代々世々に伝へて、禁闕朝家を守り奉る。▼P3203(六オ)然る間、亡父故入道相国、保元平治両度の合戦の時、勅命を重うして、愚命を軽うす。偏に君の奉為にして、身の為に非ず。世の為にして命を顧みず。
就中彼の頼朝は、父義朝が謀叛の時、頻りに誅罰すべきの由、故相国に仰せ下さるると雖も、禅門慈悲憐愍の余りを以て、流罪を申し宥むる所也。而るを昔の高恩を忘れ、今の芳志を顧みず、忽ちに流人の身を以て、猥りに凶党の列に連る。愚意の至り、思慮の〓[イ+誤]り也。尤も神兵天罪を招き、斯れ廃跡沈滅を好む者歟。日月未だ地に堕ちず、天下を照らして其明らかなり。明王は一人と為て其の法を枉らず。一旦の情を以て、其の徳を蔽さず。君亡父数度の奉公を思し食し忘れ給はずは、早く西国に御幸有るべし。然らずは、四国九国を始めと為て、都の西の国々の輩、雲の如く集り、雨の如く遍くして、異賊を靡かさむ事、疑ひ有るべからず。其の時主上を相具し奉り、三種の神器を帯して、▼P3204(六ウ)行幸の還御を成し奉るべきのみ。若し会稽の恥を雪めずは、人王八十一代の御宇、浪に牽かれ風に随ひて、新羅・高麗・百済・鶏旦に零ち行き御すべし。終に異国の財と成るべきか。
此等の趣を以て然るべき様に洩らし奏聞せしめ給ふべし。宗盛頓首謹みて言上す。
元暦元年二月廿八日前内大臣平宗盛請文
とぞ書かれたりける。
四 〔重衡卿、内裏より女房を迎ふる事〕
三月一日、未の時計り、本三位中将の侍、木公右馬允信時と申す者あり。八条院に兼参して有りければ、三位中将の共に西国へは下らざりけれども、中将生け取られて都へ上り給ひたる由、信時伝へ聞きて、預かりたりける武士、土肥二郎が許へ行き向かひて申しけるは、「三位中将殿の是に御渡り候ふやらむ。年来の主君にて渡▼P3205(七オ)らせ給ひ候ふが、させる弓矢取る者にても候はねば、軍合戦の御共はえ仕り候はず。只はきのごふ事計り仕り候ひき。西国へも仕りたく候ひしかども、八条院へ兼参の身にて候ひし時に、兼ねても知り候はで、西国への御共も仕り候はず。一昨日大路にて見まゐらせ候ひしが、哀れに悲しく覚え候ふ。然るべくは御ゆるされを蒙りて、近く参りて今一度最後の見参に罷り入り候はばや。指せる腰刀をも指して候はばこそ、僻事仕り候はめ」と泣く泣く申しければ、「げにもさこそは思ふらめ。守護の者あまたあり。入れたりとても何計りの事をかし出だすべき」とてゆるしてけり。
さて信時、事の由を申し入れたりければ、中将悦び給ひて、昔今の物語し給ひて、御涙せきあへず。信暗も中将を見奉りて、伴に涙をぞ流しける。中将宣ひけるは、「去んぬる比、西国へ院宣下りしかば、二位殿のおはすればと、憑もしく待ちつれども、其事▼P3206(七ウ)既に空し。今に於いては、切らるる事必定也。但し最後の妄念となりぬべき事あり。都を出でし時も、汝が無かりし時に、其の左右も聞かざりき。抑も、汝して時々文遣りし人は未だ内裏にとや聞く」 と宣ひければ、信時 「さこそ承り候へ」と申しければ、「彼の人の許へ文を遣らばやと思へども、誰して遣るべしとも覚えず。信時持ちて行きなむや」とて、御文を書きて預けらる。武士に宣ひけるは、「知りたる女房の許へ文を遣らばやと思ふはかなはじや」と宣へば、「何か苦しく候ふべき。但し、御文を賜りて見進らせん」と申しければ、見せらる。一首の歌にてぞ有りける。此の御文を見奉りては、物歩(武士歟)も哀れにぞ思ひける。
信時、内裏に参りたりけるが、未だあかかりければ、其の辺近き小屋に立ち入りて、晩るるほどに彼の女房の局に立ち寄りて聞きければ、此の女房の声にて、「人にもすぐれて世おぼえもあり、志もなのめならず有りしかば、情けをかけぬ人も▼P3207(八オ)無かりしに、人しもこそあれ、三位の中将の生きながら取られて、みやこの大路を渡さるる事の悲しさよ。人は皆『奈良を焼きたる罪の報いにや』と云ふ也。げにもさやらむとおぼゆ。是にて中将の宣ひしには、『我が心にも発らず、焼けとも云はざりしかども、多勢なりしかば、心ならず火を出だしたれば、多くの伽藍滅び給ひぬ。末の露、本のしづくなれば、誠に我が罪にこそならむずらめ』と云ひしが、げにもさとおぼゆるぞや」とて、さめざめと泣き給ひければ、「あな糸惜し。さては女房も同じ御心にて歎き給ひけり」と哀れに覚えて、立ち寄りて遣戸を打ち叩き、「物申さん」と云へば、女房出でて、「何方より」と問へば、「三位中将殿より」と申せば、先々は人にもみえ給はぬ女房の怱ぎ出で給ひて、「如何に如何に」と問ひ給へば、「御文候ふ」とて指し上げたり。開きて怱ぎ見給へば、「何ならむ野山の末、海河の底までも、甲斐なき命だにあらば、申す▼P3208(八ウ)事も有りなむとこそ思ひしに、夫も叶はず。生きながら取られて、恥をさらす事の心憂さ、此の世一つの事にはあらじ。先世の宿業にてこそ有らめと思へば、人をも恨むべからず。此の世に有らむ事も今日と明日と計り也。如何にしてか、今一度、相見奉らむ」と、哀れなる事共つきせず書き給ひて、
なみだ河うき名を流す身なれども今一しほの合瀬ともがな
女房此の文を見給ふに、涙にむせびて、引きかづきて臥し給へり。良久しくありて、おきあがり、使ひのいつとなげに、つくづくと待ち居たるも心なければ、細かに御返事を書きて、「いづくの浦はにもおはしまさば、自ら申す事こそかたくとも、露の命、草葉に消えやらずながらへてあらば、風の便りにはとこそ思ひつるに、さては今日を限りにておはすらむこそ悲しけれ。さもあらば我が身とて▼P3209(九オ)ながらへむ事も有りがたし。何にしてか今一度、見奉るべき」と書き給ひて、
君ゆゑにわれもうき名を流せども底のみくづと共にならばや
信時、御返事を給はりて返り参りたれば、三位中将是をみて、二三日はなぐさむ心地し給ひけり。
中将、土肥二郎に、「一日の文の主を是へ呼びて見参せばやと思ふは叶はじや」と宣ひければ、「げにも女房にて渡らせ給はむには、なにかくるしく候ふべき」と申せば、中将悦び給ひて、信時に乗物をからせて、怱ぎ車を内裏局へ遣はしけり。女房、畏しくは思ひ給ひけれども、志の切なるに依りて、怱ぎおはしけり。只先立つ物は涙計り也。
中将のおはする方へ、信時、車を差し寄せたれば、中将車寄に出で向かひて、「なおりさせ給ひそ。武士共の▼P3210(九ウ)見るが恥づかしきに」とて、我身は顕はに居て、車の簾を打ち纏きて、手に手を取り組みて、互ひに御涙堰敢ず。袖のしがらみせきかねて、夜を重ね日を重ぬとも、猶あきだらずぞ思ひ給ひける。良久しくありて、中将宣ひけるは、「西国へ向かひし時も隙の無かりしかば、思ひながら何事も申しおかず。合戦の日も矢に中りて死なば、又も音信申さで、年来申し契りし事共も皆浮言にて、さてやはてむずらんと思ひつるに、生きながらとられて大路を渡されける事は、人に再び見参すべき事にて侍りける物を」と、云ひもあへず泣かれければ、女房も共に涙に咽びて、詞も出だされざり。
▼P3211(一〇オ)「此の比は、夜深けぬれば大路の狼籍にあんなるに、しづまらぬ先に、とくとく参らせ給へ。来む世には必ず一蓮に」とて、立ち偃かんとし給ひける時、雪の様なる御膚へに械めの付きたりけるを女房見給ひて、いとど消え入る心地ぞせられける。夜も深けければ、車を差し出ださんとするに、袖をひかへて、「命あらば、又も見奉らむ。うれしくこそ。世に無き者と聞き給はば、後世訪ひ給へ」と宣ひて、中将、
逢ふ事も露の命も諸共に今夜計りや限りなるらむ
女房、
かぎりとて立ち別れなば露の身の君より先に消えぬべき哉
▼P3212(一〇ウ)「契りあらば来む世に」と宣ひて、内裏へ帰し奉る。女房は引きかづきて臥し沈み給へり。御前なる女房達も、「理なり」とて、皆袖をぞしぼりける。其後は内裏へは参り給はず、里にぞ住み給ひける。責めての事と覚えて、押し量られて哀れ也。
五 〔重衡卿、法然上人に相ひ奉る事〕
三位中将は、九郎義経の方へ 「出家をせばや」と宣ひければ、「我は叶はじ」とて、院へ申されたりければ、法皇仰せの有りけるは、「関東へ下して頼朝に見せてこそ、入道に成さんとも法師になさむとも計らはせめ。争か是にて左右無く形を傷すべき」と仰せ下されければ、中将に此の由を申す。三位▼P3213(一一オ)力及び給はず、土肥次郎に宣ひけるは、「我世に候ひし時、年来憑みて候ひし聖人のおはするを請じ奉りて、今一度見参し奉り、臨終の作法をも尋ね、後世を誂へ置き候はばや」と宣ひければ、「上人は誰人にて御渡り候ふやらむ」。「黒谷の法然上人」とぞ仰せられける。
「安く候ふ」とて、請じ奉りたりければ、三位、上人に向かひ奉り、涙を流し、掌を合はせて泣く泣く申されけるは、「重衡が後生をいかがし候ふべき。身の身にて候ひし時は、出仕にまぎれ、世務にほだされて、楽しみ隙無く栄花に誇り、〓[小(りっしんべん)+喬]慢の心のみ深くして、当来の昇沈を顧みず。運尽き世乱れてより以来、是に諍ひ彼れに戦ひ、人を亡し身を助けむと営み、悪業朝暮に遮りて、▼P3214(一一ウ)善心惣じて発らず。就中、南都炎上の事、王宣と云ひ父命と申し、世に随ふ道、遁
れ難くして、衆徒の悪行を鎮めんが為に罷り向かひて候ひし程に、不慮に伽藍滅亡に及びし事、力及ばざる次第にて候へども、大将軍を勤め候ひし上は、責め一人に帰すとかや申す事なれば、重衡が罪業に成り候ひぬと覚え候ふ。且は加様に人しれず此彼に恥を曝し候ふも、併ら其の報いとのみこそ思ひ知られ候へば、頭を剃り戒持ちなんどして、偏へに仏道を修行したく候へども、かかる身に罷り成り候ふ上は、心に意を任せ候はず。今日明日とも知らぬ身にて候へば、旦暮期し難く候ふ。何なる行を修して、一業助かるべしとも覚え候はず。心憂くこそ候へ。倩ら一生の所行を思ひ▼P3215(一二オ)知り、屡先世の業因を案じ連け候ふに、罪業は須弥よりも高く、善業は微塵計りも蓄へ候はず。かくて空しく命終はり候ひなば、火血刀の苦果、敢へて疑ひ候ふまじ。願はくは、慈悲を施し、(兼ねては)憐れみを垂れ給ひて、かかる悪人の後生助かるべき方法候はば、示し給はり候はばや」と申されたりければ、上人涙に咽びて、しばしは物も宣はず。
良久しく有りて、「誠に受け難き人身を受けて空しく三途に還り御坐さむ事は、悲しみても猶悲しかるべし。然れば、今穢土を厭ひ浄土を傾ひ、悪心を翻し善心を発し給はむ事は、三世諸仏も定めて随喜し給ふらむ。出離の道、区なりと雖も、末法濁乱の機には称名を以て勝れたりと為。土を九品に分けて、行を六字に縮めて、十悪五逆も廻向すれば往生す、『十悪五逆、▼P3216(一二ウ)罪滅往生』と釈するが故に。一念十念も心を致せば正因となる、『一念弥陀仏、即滅無量罪』と説くが故。『専称名号至西方』と釈して、専ら名号を称すれば西方に至る。『念々称名常懺悔』と述べて、念々に御名を唱ふれば懺悔する也と教へたり。『利剣即是弥陀号』、恃めば魔縁近付かず。『一声称念罪皆除』、念ずれば罪皆除こると見えたり。浄土宗の至要、略を存ずるに、大略是を肝心と為。但し、往生の得不得は信心の有無に依る。只深く信じて、努々疑ひを生し給ふべからず。若し深く此の教へを信じて、行住坐臥、時所諸縁を簡はず、三業四儀において心念口称を忘れずして、命終を期と為て此の苦域の界を出でて、彼の不退の土に往生し給はむ事、何の▼P3217(一三オ)疑ひか有らむ」と教化し給ひければ、中将うれしく省して随喜の涙を流して、「此の次に戒を持たばやと存じ候ふが、出家仕らずしては叶ひ候はじや」と宣ひければ、「出家せぬ人も戒を持つ事、常の事なり」とて、頂に髪剃を充てて剃るまねをして、十戒を授け奉りて、「若し今日の中に殊なる御事候はずして過ごさせ御さば、今の功徳莫太の御事」と宣ひければ、三位返す返す悦び給ひて、「大罪を犯す身ながらも、二度上人に相奉りて、二つの法を受持し候ひぬる事、来世の要路也」と宣ひて、御布施と省しくて、都に如何にして残し留め給ひたりけるやらむ、双紙鏡の一合有りけるを、木公右馬允、尋ね出だして奉る。「是を御身近く置かせ給ひて、御覧ぜむ▼P3218(一三ウ)度毎に念仏申させ給ひて、後世を訪ひてたび候へ」と申させ給ひたりければ、上人是を給はりて、懐に入れ給ひ、「何に」と云ふ事をば宣はず、只涙に咽びて、泣く泣く出で給ひけるこそ哀れなれ。
六 〔重衡卿を実平が許より義経の許へ渡す事〕
同二日、本三位中将重衡卿をば、土肥次郎実平が許より九郎義経の宿所へ渡し奉る。此の三位中将を土肥次郎が守護しける事は、梶原は大手滞冠者の方の侍大将軍也。九郎申しけるは、「義経が上の山より落とさずは、東西の城戸口破れ難し。生取も死取も義経が見参にこそ入るべきに、物の用にも立たぬ蒲殿が見参に入るる事こそ心得ね。三位中将を是へ渡し給へ。給はらずは、参りて給はらん」と▼P3219(一四オ)宣ひければ、土肥・梶原云ひ合はせて、土肥が許へ渡したりければ、其の後鎮まりにけり。
居ゑ申すべき所、家の後の方に造りて待たれけり。未時許りに、下簾懸けたる女房車にて、庭中に遣り入れたり。武士共、実平を先として、卅騎計りあり。九郎義経は、木蘭地の直垂に下腹巻着て、妻戸より下り向かひて「門差せ」と下知す。中将手づから簾を巻き上げて居られたり。九郎、袖掻き合はせて、御裏無参らせて、「あな〓[火+炎]の雑人や」と申して、中将を先に立てて具し奉りて入る。中将は白直垂をぞ着られたりける。九郎申しけるは、「内へ入らせ給ひて、御装束脱がせ給ひ、御休息有れ」▼P3220(一四ウ)と申す。四壺の所を清気に拵ふたり。中将内に居られたり。九郎〓[木+延]に候ひて申しけるは、「哀れ、口惜しく渡らせ給ひける御命哉。何なる事をか思し食すらんと、御心中押し量り進らせて候ふ。いかが御計らひ候はむ」と申しければ、中将は扇を仕りて、「いかにも」とぞ有りける。夜々は一間なる所に籠め奉りて、外より係金を懸けて、火を燃して武士共守り申しけり。
同五日、主馬入道盛国、同じき子供を、九郎義経召し取りて誡め置く。
七 〔公家より関東へ仰せらるる条々の事〕
平家は西国にも安堵し難くして既に亡びなんとす。これに依りて、公家より兵衛佐の許へ仰せらるる条々
平家所知の事
一、文書紛失并びに義仲行家等に給ふの事
▼P3221(一五オ)右、子細目録に載せ畢はんぬ
一、 庄領惣数の事
右、彼の一族知行の庄領数百ヶ所に及ぶ由、世間に風聞す。而るに、院宮并びに摂録家の庄園、或いは私に芳恩の知行之在り。或いは所従等慇懃を致す輩に之を預くるの事、此くの如き所々は全く御進止に非ず。是本所の左右なり。仍りて惣数に注し入るる計りなり。又院御領の庄々等、近年逆乱の間、限り有る相伝の預所・本主等愁歎せしむるによりて、少々これを返し給ふ。之に依りて之を除く。或いは損亡の事、由緒無きに非ざる間、少々是を沙汰し給ふ。
一、諸国家領等の事
▼P3222(一五ウ)右、一門の人々、数ヶ国務の間、或いは田数を増さんがため一旦の家領とする由、之有りと雖も、指したる文書無く、又相伝無し。仍りて得替の時、領司争でか其の愁歎無からんや。開発荒野の文書を帯する所々の外、国に帰附せらるれば、善政たる歟。
一、相伝の家領の事
右、文書紛失の間、空に注し付けられず。且つ大概この中に候ふ歟。
一、 東国領の事
右、御存知ある旨、之に残され畢はんぬ。他の国々未だ補せず。又以て前に同じ。今に於いては、領知せしめ給ふべし。縦ひ平家知行の地に非ずと雖も、東国御領山内庄以下便宜の御領、申請せらるるに随ひて御下文有るべし。御年▼P3223(一六オ)貢においては進済せしめ給ふべし。
以前の条々、仰せの旨斯くの如し、仍りて執達件の如し。
元暦元年〈甲辰〉三月七日 前大蔵卿 奉
前右兵衛佐殿へ
とぞ注し申されける。同日板垣三郎兼信・土肥次郎実平、数千騎の軍兵を率して平家追討のために西国へ下向す。
八 〔重衡卿関東へ下り給ふ事〕
十日、法皇九郎御曹司に仰せ有りけるは、「重衡をば、関東より前兵衛佐頼朝、申し請くる旨有り。下し遺すべき」由仰せ有りければ、梶原平三景時、奉りて、中将を具足し奉りて関東へぞ下りける。夜のほのぼのとしける時、夏毛の行騰に鼠毛な▼P3224(一六ウ)る馬に乗せ奉りて、白布をよりて鞍に引き廻して、外より見えぬ様に前輪にしめ付けて、竹笠の最大きなるを着せ申したりけり。藍摺の直垂着たる男、馬の口を取る。前陣に武士卅騎計り打ちて、後陣に又卅騎計り打ちたる中に打ち具せられたりければ、余所には何とも見え分かず。梶原平三景時を初めとして、後陣は百騎計りぞ有りける。久々目路より下り給へば、六波羅の辺にて夜曙けにけり。此の当りに平家の造営したりし家々、皆焼け失せて、有りし所とも見えず。中にも小松殿とて名高く見えし所も、築地・門計りは有りてあさましくこそ。中将人しれず見廻られけ▼P3225(一七オ)れば、此の内には犬・烏の引きしろふ音しけり。「哀れ、世に有りし時、争か加様の事有らん」とぞおぼしける。山の嶺に打ち上りて都を返り見給ひけむ心中こそ悲しけれ。
是より東地指して下られけるこそ悲しけれ。耿々たる露の駅に、思ひを千里の雲に馳せ、眇々たる風の宿り、心を幾重の波に任せつつ、霞を隔て霧を凌ぎ、立ち別るれば旅の空、雲居の余所にや成りぬらむ。四宮川原に懸かりては、爰は延喜の第四の宮、蝉丸と云ひし人、仲秋三五の晩べ、晴明たりし月の夜、「世の中は兎ても角ても」と詠めつつ、琵琶の三曲を弾かれしに、博雅の三位と云ひし人、三年が程、雨の降る夜もふらぬ夜も、風の吹く▼P3226(一七ウ)日もふかぬ日も、夜な夜な歩みを運びつつ、横笛にて終に秘曲を移しけむ、藁屋の床のさびしさを、思ひ入りてぞ通はれける。会坂越えて打出の浜、浜より遥かを見亘せば、蒼波眇々として恨みの心綿々たり。塩ならぬ海に峙てる、石山詣での心地して、山田に懸かればにほの渡り、矢馳を怱ぐ渡守、長柄の山を余所に見て、粟津の原を後にし、勢多の唐橋野路の末、時雨て痛く守山の、篠分く袖も塩折れつつ、古郷を返り見給へば、雲を隔つる合坂山、越地を傍向き見給へば、霞を重ぬる荒血山、東路遥かに見亘せば、霞に陰る鏡山、面影のみや貽すらむ。生礒の森の下草に、▼P3227(一八オ)滋見に小馬を留めつつ、今宵は此に借り枕、草引き結び旅寝せむ。深けぬる歟、人をとがむる麓の里の犬神や、高根平野を余所に見て、磨針山を打ち越えて、小野の古路踏み別けて、裾野を廻れば伊吹山、心を友とし有らねども、荒れて中々やさしきは、不破の関屋の板廂、余りに〓[イ+宇]のまばらなればや、月も時雨もたまりえず。小馬打ち渡す杭瀬河、雨はふらねど笠縫の郷にやしばし〓[足+并]らはむ。契をば結ぶの森のうらやましくも立ち比び、枝指し替す二木を、危く渡す浮橋の、葦賀を越ゆる朝開、早や赤池にや成りぬらん。雲晴れ行けば春の日も、熱田八剣逸早き恵を深く▼P3228(一八ウ)憑めども、何と鳴海の塩干潟、渡りに袖や朽ちぬらむ。二村山を過ぎぬれば、又国越ゆる堺川、在原の業平が、「唐衣被つつ訓れにし」と詠めける、三河なる八橋、蜘蛛手に物や思ふらむ。遠江浜名の橋の夕塩に差されて上る海人小船、こがれて物や息ふらむ。池田宿へも付きにけり。彼の宿の長者娘に、侍従と云へる遊君あり。中将の御殿居に参りたりけるが、暁帰るとて、殊に心俊きたる女なれば、かくぞ申して出でにける。
東路や半臥の小屋のいぶせさに如何に古郷恋しかるらん
中将の返事
古里も恋しくもなし旅の空いづくも終の棲ならねば
▼P3229(一九オ)中将、池田の宿を出でぬれば、更夜の中山、宇津の山、清見が関をも打ち越えて、富士のすそへも付きにけり。北には青山峨々として、松吹く風も冷々たり。南には蒼海漫々として、岸打つ波も茫々たり。春も末に成ぬれば、遠山の花をば残りの雪歟と疑はる。日数漸く積り行けば、廿六日の夕晩には、中将、伊豆の国府へぞ付き給ふ。
折節、兵衛佐殿は伊豆に狩しておはしければ、梶原、事の由申し入れたりければ、門外にてよそほひ有り。左右の御手を胸の内に収め申してけり。門柱二本引き立てて、未だ棟も上げず、扉も立てず。大垣も跡計りは見えて広々と有り。内を見入らるれば、南▼P3230(一九ウ)面に三間四面の新しき板葺の寝殿に簾懸けたり。妻合東前に五間四面の屋三あり。人々多く並み居たり。西の方に東向きに五間四面の片早あり。梶原平三先に立ちて、中将入らる。片早の内、西の座には、小文の畳三帖敷きて、東の座には紫縁の畳を五帖敷かれたり。中将は西の座の小文の畳に東向きに居られ、景時は北より第二の間の〓[木+延]に居たり。見る人、数を知らず。暫く有りて、寝殿の母屋の西の間の左の簾を一枚、僧の浄衣着たるが出で来たりて巻き上げて、僧は北の間の〓[木+延]に居たりけり。
鎌倉殿、比企の藤四郎能貞を御使にて申されけるは、「左右無く見参に入るべく候へども、此の程、焼野を狩りて候へば、ほ▼P3231(二〇オ)こり多くかかりて候ひし間、いかけ仕りて見参に入るべく候ふ。加様に御下向こそ神妙に候へ。但し父の恥を雪め、君の御鬱りを休め奉らんと思ひ立ち候ひし上は、平家を亡ぼし奉ん事は案の内にて候ひしかども、目の当り見参すべしとこそ思ひ寄り候はざりしか。今は大臣殿にも見参し候ひぬとこそ覚え候へ。抑も南都を焼き給ひし事は、太政入道殿の仰せにて候ひしか、期に臨みたる御計らひにて候ひけるか。以外の罪業にこそ」と申されければ、三位中将是を聞き給ひて涙を拭ひ、「昔より源平両家、朝家の御守りにて、帝王の宮仕へを仕る。近来源氏の運傾かれ候ひし事、今更事新しく申すべきに非ず。人皆知れる事にて候ふ。其の勧賞を初めと▼P3232(二〇ウ)して、平家世中を平ぐる間、一天の君の御外戚として、一族の昇進八十余人、廿ヶ年之間、楽しみ栄え、申す量り無し。今又運尽きぬれば、重衡召人にて参る。此の勧賞にて稔え給はむ事、疑ひ無し。其れに取りて、『帝王の御敵を討ちたる者は七代まで朝恩失せず』と申す事、極めたる僻事也。目の当り、故入道は、法皇の御為には、申せば愚也、御命に代はり奉る事も度々也。されども僅かに其の身一代の幸にて、子息(孫歟)加様に罷り成るべしや。一門運尽きて都を迷ひ出で候ひし後は、骸を山野にさらし、名を後代に留めんとこそ存じ候ひしか、是まで参るべしとは存ぜざりき。此も先世の宿業にこそ。殷の紂は夏の桀に囚▼P3233(二一オ)はれ、文王は〓里に籠めらると云ふ文有り。上古又此くの如し。況や末代に於てをや。全く恥に非ず。御芳恩には利く頸を召さるべし」とぞ宣ひける。
景時已下の大名小名、御前に並み居たりけるが、「此の中将殿はいたいけしたる口聞哉」と、各讃め奉りて、皆涙をぞ流しける。「此の人は名を流したる大将軍也、左右無く切り奉るべからず。南都大衆申す旨有らむ」と、兵衛佐宣ひて、「宗茂是へ」と有りければ、〓[木+延]なる僧召し付く。東〓[木+延]より年四十計りもや有るらんと省しき男の白直垂着たるが、佐の前に〓[木+延]を押へて膝を屈めて立てり。佐宣ひけるは、「あの三位中将殿預り進らせて、能く能くもてなし労り奉れ。懈怠にて我恨むな」と宣ひて、手づから簾を引き▼P3234(二一ウ)おろして立たれにけり。宗茂本の侍に帰りて、友共に云ひ合はせて、寝殿の前に腰敬して、西屋なる景時とささやき事して、「さらば今は出でさせ給へ」と申しければ、中将立ち出で給ひて、今日よりは伊豆国住人鹿野介宗茂が手にぞ渡り給ひける。「冥途にて、罪人の七日々々に獄卒の手に渡るらんもかくこそ有るらめ。如何なる情無き者にてか有らむずらん」と覚ゆるぞ悲しき。守護し奉る武士共も稠しからず、夜は〓[木+延]に居、昼は庭にぞ候ひける。
九 〔重衡卿、千手前と酒盛の事〕
兵衛佐殿より「情け無く当たり奉るべからず。湯殿して労り奉れ」とて、湯殿へ入れ奉る。年廿許りなる女房の白綾の小袖着たるが、湯殿の戸を引き開けて参る。中将「あれは如何に」と仰せられ▼P3235(二二オ)ければ、「兵衛佐殿より御呵嘖に参れと候」と申ければ、鹿野介近く候ひけるが、「なにとかくな申されそ。早く参り給へ」と云ひければ、女房内へ入りぬ。其の後、年十六七計りなる美女、紫の小袖着て、手箱の蓋に櫛入れて持ちて参りたり。中将御いかけして上り給ひにけり。此の女房、「『何事も思食し候はむ事は仰せられ候へ』と兵衛佐殿の仰せ候ひつる」と申しければ、三位中将、「何事をかは。明日頸切らるる事もや有らむずらん」と申されければ、女房、此の由を兵衛佐殿に申す。「頼朝が私の敵にあらず。争でか左右無く切り奉るべき」とぞ申されける。中将、鹿野介に「只今の女房はいたひ▼P3236(二二ウ)けしたる物かな。何なる者ぞ。名をばなにと云ふぞ」と問はれければ、「手越宿の君の長者が娘、千手と申す者にて候ふ。心立て痛気したる者にて候ふ間、兵衛佐殿の御前に此五六ヶ年召仕はれ進らせて候ふなり」とぞ申しける。
其の夜は雨打ち降りたりけるに、鹿野介、家子郎等引き具して、酒持ちて参りたり。千手の前も琵琶、琴持ちて参る。三位は〓[イ+寄]り臥し給ひたりけるが、起き直りておはす。酒を勧め奉るに盃七分に請け給ふ。鹿野介申しけるは、「兵衛佐殿より『能々もてなし進らせよ』と云ふ仰せ蒙りて候ふ間、旅所にて候へども、千手前何事にてもー声申して進らせよ」と申しければ、▼P3237(二三オ)「羅綺の重衣たる、情け無きことを機婦に妬み、管絃の長曲にある、終へざる事を伶人に嗔る」と云ふ朗詠をしたり。三位中将仰せられけるは、「重衡、今生は罪業に依りて三宝に捨てられ奉りぬ。罪業軽みぬべき事ならば、〓[女+高]き奉らむ」と申されければ、千手の前、「十悪と雖も猶引接す」と云ふ朗詠をして、「極楽へ参らん人は皆」と云ふ今様三反、歌ひ澄まいたり。其の時三位、盃を傾け給ふ。千手琴を取りて、五常楽の急を引き澄ます。中将は琵琶を取りて掻き鳴らさる。女しばしは琴を付けけれども、後には拍子あはで弾き止みぬ。夜深行くままに、中将閑かに心を澄まして廻骨をぞ弾かれける。中将、「今生の楽しみとこそ観ずべけれ。何事▼P3238(二三ウ)にても今一度承らん」と仰せられければ、千手前、「一樹の影に宿り、一河の流れを汲むも、多生の縁猶深し」と云ふ事をかぞへすまいたりければ、三位心を澄まして「燈暗うしては数行虞氏の涙、夜深けては四面楚歌の声」と云ふ朗詠をぞし給ひける。是を聞きて人々申しけるは、「西国にて如何にも成り給ふべき人の一門を離れて、人しもこそあれ、生け取られ給ひて見馴れぬ軍兵に伴ひて下り給ひつらむ道通、如何心細く思ひ給ひつらん。雪山の鳥の『今日や明日や』と鳴くらむも又、蜉蝣のあだなる露命思ひ合はせられ給ふらんと哀れなり」と申して、鹿野介以下、聞く人涙をぞ流しける。中将、鹿野介に「各今は帰り給へ。夢みん」と仰せられて▼P3239(二四オ)枕を西にぞ傾け給ひける。八音の鳥も鳴き渡り、衣々になる暁、千手もいとま申して帰りにけり。
千手、兵衛佐の持仏堂に念誦しておはしける処に参りたりければ、「千手には面白き仲人はしたる物かな」とぞ、兵衛佐は宣ひける。大膳太夫広元、其時は因幡守と申しけるが、広庇に執筆して候ひけるに、兵衛佐仰せられけるは、「平家は弓矢の方より外は嗜む事は無き歟と思ひたるに、三位終夜琵琶の事柄口ずさみ、優なる物かな」とぞ音赤ける。広元筆を閣きて、「平家は代々相伝の才人、此の人は当世無双の歌人にて候ふ。彼の一門を花に喩へ候ひしには、此の殿をば牡丹の花に例へてこそ候ひしか」とぞ申しける。又▼P3240(二四ウ)佐殿宣ひけるは、「三位の『燈暗うしては数行虞氏の涙』と云ふ朗詠をし給ひつるは、何なる事にて有るやらん」と。広元申しけるは、「あれは昔、大国に楚の項羽と申しける帝、虞氏と申すみめよき后を寵愛せられ候ひけり。漢の高祖と申す敵、項羽を襲ひ候ひけるに、馬の一日に千里を飛ぶに乗りて此の虞氏と倶に去らんとしけるに、馬いかが思ひけむ、足を調へてはたらかざりければ、項羽涙を流して、『我が威勢既に尽きたり。今は遁るべき方なし。敵の襲はむは事の員ならず。此の虞氏に別れなむ事こそ悲しけれ』とて、終夜歎き候ひける程に、燈の闇く成るままに心細くて、虞氏涙を流す。夜深くるままに、四面に時を作り候ひけるなり。▼P3241(二五オ)是を橘相公が、『燈暗うしては数行虞氏の涙、夜深けては四面楚歌の声』とは作りて候ふなり。
又、佐殿、千手に問ひ給ひけるは、「中将終夜琵琶を弾き給ひつるは、何と云ふ楽にて有りけるぞ」と宣ひければ、「初めは五常楽、次に皇〓[鹿+章]の急にて候ひしが、後には廻骨と云ふ楽にて候ふ」と申す。広元是を聞きて、「彼の廻骨をば、文字には『かばねを廻す』と書きて候ふ。大国には葬送の時、必ず用ゐる楽なり。而るに中将、今生の栄花尽きて、只今誅せられ給ひなむずる事を思ひ給ひて、彼の異朝の例を尋ねて葬送の楽を弾かれけるこそ哀れなれ」と申しければ、
佐殿を始め奉りて、聞く人涙をぞ流しける。
去んぬる十八日、在々所々の武士の狼籍を止むべき由、宣旨を下さるべき旨、蔵人右衛門権佐定▼P3242(二五ウ)長宣旨を承りて、頭左中弁光雅朝臣に仰す。同廿七日に諸国兵糧米の責めを止むべき由、定長同じく頭弁に仰す。
さても中将は、御子の一人もおはせぬ事を歎き給ひしかば、二位殿も本意無き事に思ひ、北方大納言佐殿も斜めならず歎き給ひけり。神明仏陀にも祈請し給ひき。「賢くぞ御子の無かりける。有りせば何に心苦しからまし」と、責めての事には思はれけり。
十 〔惟盛卿高野詣での事〕
其の比、権佐三位中将は、讃岐の屋嶋に御坐しけるが、都には乙和山の遅桜、北は開けば南は散り、垂氷も今は解け終てて、〓[イ+宇]の信夫も萌へぬらんと、常には都の事のみぞ恋しくは思はれける。此の浦のすまひ、浪の上の有様、早晩を期すべきならねば、是も三▼P3243(二六オ)月十日、侍には余三兵衛重景、近習者には石童と云ひし童、舎人には武里と云ひし男、此等三人を召し具して、更闌け人定まりて、忍びつつ屋嶋の館を出で給ふ。阿波国伊吹浦より鳴戸の澳を漕ぎ渡り、白浦、吹上、和歌浦、玉津嶋の明神、目前国懸の社をば、只其れとのみ伏し拝み、紀伊国由良湊と云ふ所へ付き給ふ。是れよりして、「高山の林にも入り、深谷の沢にも伝ひつつ、古郷へ上りて恋しき人をも今一度見ん」と思食しけるが、様を傷し給へども、猶人には紛ふべくもなし。本三位中将の生け取られて、京田舎人の口に乗るだにも心憂きに、我さへ憂き名を流して、差しも賢におはせし父の▼P3244(二六ウ)首に血をあやさむ事口惜しくて、千度百般心は進み給ひけれども、恋と恥とを比ぶれば、恥は猶も悲しくて、泣々高野山へ詣り給ひ、人をぞ尋ね給ひける。
抑も人と申すは、三条斉藤左衛門太夫茂頼が子息、斉藤滝口時頼とて、小松殿の若侍にて有りけるが、道心を発して俄かに出家して、此の五六ヶ年此の御山に住す。鶏冠月宮に挿みて、縁覚の念宇に積り、柳糸露塵に宛たりぬ、墨子の悲しみ庭に繁し。物に触れて観念を催し、勤め澄まして有りけるに、尋ね相ひ給へり。時頼入道見奉りて、夢か覚かとあきれ迷ひ、涙に咽びて物も申さず。三位も涙を押へて御詞も出だし給はず。
時頼入道良久しく有りて申しけるは、▼P3245(二七オ)「屋嶋をば如何にして渡らせ給ひたるぞ。実に覚とも覚へず」と申して泣き居たり。中将宣ひけるは、「都にて如何にも成るべかりし身の、人並々に西国へ落ち下りたりつれども、肝心も身に側はず、旧里に留め置きし者共の事より外に、心に懸かる事もなく、世の中あぢきなくて年月を経しかば、大臣殿も『池大納言の様に存ずる旨の有らむ』とのみ宣ひて、打ち解け給はねば、最心も留まらずあくがれ出でて、是まで迷ひ来たれり。古里へ如何にもして尋ね入り、替はらぬ形をも今一度見えたかりつれども、重衡卿の生け取られて、京鎌倉嬲はるるだにも心憂きに、此の身さへ恥をさらして父の骸に血をあやさむ事うたてければ、是に▼P3246(二七ウ)て出家をし、水の底にも入りなむと思ふぞ。但し、熊野山へ詣でんと思ふ志有り」と宣ひもあえず泣き給ふ。
時頼入道申しけるは、「実に夢幻の世の中、とてもかくても候ひなむ。長き夜の闇こそ心苦しく候へ。今はかかる世の中なれば、都の事をも思食し切るべし。分段輪廻の郷に出づる物、必ず生滅の恨みを得、妄想如幻の家に会ふ族ら、定めて別離の悲しみを有るらむ。彼の沙羅林の春の霞を尋ぬれば、万徳の月隠れて一化の縁永く尽き、是の歓喜園の秋風を聞けば、五衰の露消えて千歳の楽しみ是れ空し。況んや人間電泡の質をや。況んや閻浮短命の州をや。之に依り、老ひたるも去り若きも去る、去りては多く六趣の苦域を廻り、貴きも逝き賎しきも逝く、逝きては併しながら▼P3247(二八オ)三途の嶮岨に沈む。三界廿五の迺、誰人か此の苦を免れん。五虫千八百の類、何処にか其の愁へを離れたるや。尤も厭ふべき浮き世の中にて候ふなり」とぞ申しける。
十一 〔惟盛卿高野巡礼の事〕
其の後、滝口入道先達して、堂塔巡礼し給ふ。三鈷の松、大塔より始めて詣で給ふに、或いは秘密修行の所もあり、或いは即身頓悟の崛も有り、或いは説法集会の庭もあり、或いは習学鑚仰の窓もあり。五相成身の月は八乗の峯に住み、胎金両部の曼荼羅は四十九院に充ち満てり。振鈴の声々音信れて、伽陵頻にも劣らず。加様の所々を修行して、蓮花院(谷歟)へ詣でつつ、伝法院より奥の院へ詣で給ひ、大師の御廟を▼P3248(二八ウ)拝み給ふに、涙も更に留まらず。
抑も彼の高野山と申すは、帝城を去りて二百里、郷里を離れて人声無し。晴嵐梢を鳴らさずして、夕日の影も閑かなり。
夫れ我が祖師の大師は、法界摩尼の楼閣を辞して慈悲の門を出で、当国伊都の南山に止まりて、利生の道に入り給へり。内外典の軸、軸々に珠を瑩き、大小乗の文、文々に鏡を磨けり。委しく吾が朝の風儀を尋ね、広く四海の流例を訪ふに、唯六七宗の法燈を〓げて、光を朝野に赫かし、僅かに三四五の教乗を立てて、轅を東西に旋らす。我が国の道照和尚の唐に入りし、顕宗を白馬寺に窺ひ、異朝の恵慈法師の朝に来たりし、妙法を斑鳩の宮に弘む。皆五時の教文を学して、未だ五瓶の智水を汲まず。
▼P3249(二九オ)大師は仏に号発願を至して、金剛一乗の深教を祈請し、夢の中に告げを蒙りて、遮那七軸の秘典を感得す。之に依りて、桓武天皇の御宇、延暦二十三年に、詔命を奉りて漢に入り給へり。耽羅・留求の虎性に憚らず、漁渤滄海の鯨腹に畏れず。実に暴雨帆を穿ちて、〓[爿+戈]風柁を折りしかば、浪に随ひて昇沈し、風に任せて南北す。海中に裔々として、一日の楽しみ無く、波上に掣々として、二月有余なり。只だ天水の碧色をのみ見て、未だ山渓の白霧を見ず。此くの如き難を凌ぎて、仲秋に衡州に着き、大呂に長安に至りぬ。勅に依りて西明寺に留住し、師を尋ねて東塔院に往詣す。幸ひに恵果内供に逢ひて、灌頂の師主と仰ぎ、深く両部の大法を学して▼P3250(二九ウ)諸尊瑜伽を伝ふ。三千七百里の鯢海を超え過ぎて、虚往実帰の慶びを懐しむ。二百六十部の像教を請来して、白浪蒼波の路を渡る。三〓[月+古]を紫雲の中に投げて、兼ねて密法相応の勝地を点じ、孤舟を蒼溟の上に航して、正しく密教瑜伽の貝葉を開く。平城の聖代に〓海を凌ぎて本朝に帰り、嵯峨の明暗に鳳詔を蒙りて馬台に弘む。されば大師の御詞には、
纜を波上に解きし当初は、鑞き刀を執りて厳に向かへるが如し。
勅を天下に被る只今は、利剣を振るひて旗を靡かすに似たり 文。之に依りて、大日内証の余曜は広く一朝に曜き、遍照外用の遺塵は普く吾が朝に盛んなり。粟散辺土の境、始めて四種曼▼P3251(三〇オ)荼の蘂を翫び、葦原の中つ州の郷、終に五相観念の月に馴る。
法相三論の侶、常に自心成道の旨を聞き、花厳天台の族、適即身頓悟の教へを〓ふ。但し、法身説法の談、入我々入の観に至りては、南都北嶺の名匠、朝庭に集まりて孤疑を致し、四教五時之学徒、天闕に合つて敵対を作す。爰に大師、波迷方の律を示さんが為、聖の邪執の凍を解かんが為に、忝く清涼の鸞殿に倍へて、明時の龍顔に対ひ奉り、手に秘印を結び、口に密語を誦し、心に観念を凝し、身に軌儀を備へ給ひしかば、面門俄かに開けて、遍照黄金の色体と成り、眉山忽ちに顕れて、大日白毫の光明を放つ。威徳具足して光り朗らかなり。銀漢の秋月、曇り有ることを怨む。相好身に備はりて色鮮やかなり。金谷の春花、▼P3252(三〇ウ)匂ひ無きことを愧〓[女+鬼]づ。南方に向かひて坐を動かさず、当座成覚の効験を示し、夷隅に誕して身を変へず、現身作仏の教力を彰はす。是を以つて、帝王席を去り、皇后衣を刷ふ。諸宗掌を合はせ、百寮頭を傾く。寔に南都六宗の賓、地に跪きて稽頼し、北嶺四明の客、庭に俯して接足せしより以来、成仏遅速の立波には、道雄・道昌口を閉ぢ、法身色声の難答には、源仁・円澄舌を巻く。四宗帰伏して門葉に〓[竹+造]り、一朝信仰して道流を稟く。甚深なるかな、秘密教、凡体を以て仏体を成す。最上なるかな、神通乗、生身を以つて法身を成す。六大無碍の故には、生界を仏界と隔てず、四曼不離の故には、凡身を聖身と分かつこと無し。寔に是迷悟不二の瑜伽なり。寧んぞ生身即一の秘方に非ずや。今此の所と申▼P3253(三一オ)すは、異朝より投げらるるも、三〓[月+古]の光を尋ねて、草創し給へる処なり。彼の三〓[月+古]の松とは、三鈷落ち留まり給ひし松なり。
大師漸く六十二の春秋を重ね、数は四十一の夏臈を積みて、承和二年三月廿一日の暁に、血肉の身を改めずして、金剛の定に入り、生死の質を変へずして、石巌の窟に坐し玉へり。顔色昔の如く、容儀今に在す。待に慈氏出世の暁を期し、約するに逸多出生の日を限る。羅漢の禅儀を牛角山に納めて、龍花の朝露を望むに〓[イ+牟]しく、迦葉の定室を鶏足の洞に構へて、翅頭の春風を期するに似たり。凡そ西天東土、境は異なりと雖も、坐禅入定の礼儀是同じ。されども彼は則ち顕教一心の浅定滅尽にして、灰炭に帰す。此は又秘蔵三密の深禅堅固にして、動転無し。只だ慈悲を一窓の▼P3254(三一ウ)雲に施すのみに非ず、亦利益を万邦の霞に被らしむ。
延喜の聖主、醍醐の明帝の行李には、石崛霧霽るるに当たりて衣裳を刷ひ、治安の禅定大相国の斗薮には、廟堂〓[木+長]を仆すに驚きて、奇瑞を感ず。唱定歳旧りたりと雖も、効験日に是新なり。鐘谷の応疑ひ無く、水月の感恃み有り。惣じて三密五智の水は四海に満ちて塵垢を洗ひ、六大四曼の月は、一天に耀きて長夜を照す砌なり。
慈尊院より大塔にいたる迄百八十町、胎蔵界の曼荼羅百八十尊の図絵を表す。大塔の庭より、奥院に至るまで三十七町、金剛界の曼陀羅三十七尊に当る心地なり。大塔金堂より始めて、諸堂諸院に至るまで、皆密厳世界の儀式を移し、又花蔵世界の作法を顕せり。山は峨々として高く聳へ、眇々として▼P3255(三二オ)際も無し。花の色は僅に林霧の底に綻び、鐘の音は幽かに尾上の霜に響く。嵐に紛ふ振鈴、雲居に見る香の煙、取々にぞや覚ゆる。
十二 〔観賢僧正勅使に立ち給ひし事〕
抑も延喜の御門の御時、御夢想の告げ有りて、桧皮色の御装束を当山へ送らせ給ひしに、般若寺の僧正観賢、勅使を賜りて、奥院へ詣でて、御帳を押し開きて、御装束を替へ進らせむとし給ひけるに、霧深く立ち渡りて、大師の御姿見えさせ給はず。御弟子にて石山の内供淳祐と云ふ人おはしき。則ち其の故と省しくて、深く涙を流しつつ、「我生まれてより以来、未だ禁戒を犯さず。何に依りてか大師の御体見えさせ給はざるらん」と、五体を地に投げて、発露涕泣し給ひしかば、忽ちに霧晴れて、秋月の山の端に出づるが如くして、御形顕れ▼レP3256(三二ウ)御はしけり。各随喜の涙に香染の御衣を絞りあへさせ給はず。即ち御装束進らせ替へ奉りて、御髪の五尺二寸に生ひ展びさせ御したりけるを、剃り奉りてけり。内供は御膝を探り進らせさせ給ひたりけり。其の御移り香失せずして、石山の聖教の箱に未だ残りたりとかや。
御入定は仁明天皇の御宇、承和二年の事なれば、過ぎにし方も三百歳、星霜年久しくなれり。猶行末も五十六億七千万歳の後、慈尊の出世、三会の暁を待ち給ふらんこそ遥かなれ。「哀れ、惟盛が身の雪山の鳥の鳴くらむ様に、今日や明日やと思ふ物を」と宣ひて、涙ぐみ給ふぞ哀れなる。浪を焼く塩風にくろみ、尽きせぬ物思ひに衰へて、其の形とは▼P3257(三三オ)見え給はねども、尚人にはまがふべくもなし。如何なる怨敵なりとも、などか哀れを懸けざるべき。
其の夜は入道が庵室に帰りて、来方行末の物語し給ひて、泣くより外の事なし。出家は明くるを待ち、替はらぬ形も今計りなり。御心の中、押し量られて哀れなり。此の庵室と申すは、年来住み荒らしたりければ、軒には信夫生ひ滋り、庭には櫁の花がら積りたり。至極甚深の床の上には、真理の玉を磨き、後夜晨朝の鐘の音には、生死の眠りを覚ます。四暗が住みし商山、秦の七賢が竹林も、かくや有りけんと覚えたり。彼の滝口、朝に使へし時は、布衣に立烏帽子清気なりし者の、未だ三十余りの齢なれども、老僧姿にやせくろみ、黒き衣に同じ袈裟、ひま▼P3258(三三ウ)なくくれる数珠までも、思ひ入りたる其の気色、うらやましさや増りけむ、のがれぬべくは、かくてもあらまほしくぞ思はれける。人間八苦、眠の前に顕はれ、天上の五衰も加様にやと哀れなり。
十三 〔時頼入道道念由来の事付けたり永観律師の事〕
抑も滝口が道念の由緒を尋ぬれば、女故とぞ聞こえし。建礼門院の御中に、借裳、横笛とて二人の曹仕あり。借裳と云ひし女をば越中次郎兵衛思ひけり。横笛をば時頼忍びて通ひけり。
彼等が二親申しけるは、「我々存命の時、何なる便り付かずして、宮仕へ人に身を成して有るに、甲斐無き振る舞ひする」と云ひければ、盛俊は思ひ留まりぬ。時頼は志し浅からざりければ、つつむに堪へぬ事なれば、自然として顕はれぬ。茂頼此の事聞き付けて▼P3259(三四オ)様々に諌めけれども、いさめにも拘はらず、「此の世幾程も有るまじき所なり。設ひ長命なりとも、七八十にはよも過ぎじ。栄花有りとても、廿年には過ぐべからず。楽しければとて、悪からむ女に相ひ具しては何かはせむ。親の諌めを背かば、不孝の罪業遁れ難し。之に依りて女を捨てむとすれば、神に係けて契りし昵言も皆詐りと成りぬべし。されば楽天の詞には、『人木石に非ざれば皆情け有り。傾城の色に相はぎらむには如かじ』と宣へり。今此事を思ふにも、身を山林の間に宿し、命を仏陀に仕へ奉りて、「設我得仏、十方衆生、至仏信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚」の文を憑みて、しかじ、出家をせばや」とぞ思ひける。
十月二日、殊に取り装束して、小松殿より内裏へ▼P3260(三四ウ)参り、殊更に人々に対面して、今日を限りの出仕なれば、龍顔を拝み奉らむ事も此を限りと思へば、〓ろに涙をぞ流しける。其の夜は横笛が許に留まりにけり。今夜を限りの契りなれば、さこそは悲しく思ひけめ、行く末来し方の事共思ひ連けて、そぞろに涙ぐみければ、横笛危しみて、「何故かくはいたく塩折れ給へるぞ」とあやしみながら、「いつとなき言の葉には、出仕をのみ物憂き事に思ひ給へる事なれば、さその一夜を」と思ひけれども、五更の天の夢覚めて、八音の鳥も頻りに鳴く。有繋がに人目もつつましければ、時頼は三条の宿所へも行かず、嵯峨に年来憑み奉る聖あり、彼こに行きて聖を尋ね出でて、「出家の志有りて詣りたり」と申しければ、聖人▼P3261(三五オ)答へて云はく、「御出家こそ何にもあらまほしき事にて候へば、是よりも勧め申し度う候へども、御齢も未ださほど御事に非ず。都よりも定めて御とがめ候ひぬと覚え候へば、進退極りてこそ候へ」と申せば、時頼申しけるは、「齢さまでの仰せこそ有るべしとも覚え候はね。此の世の中の習ひは老少不定の堺にて候ふ物をや。老いたるが去り、若きが留まり候はむには、父母に先立つ子候ひなむや。朝は翠の皃ばせを百年とかき梯れども、夕には竹馬の鞭を捨て、よもぎが本に送り置く。只道の側の土と成り、年々に草のみ滋るめり。都よりも何故にかとがめ候ふべき。とうとう」と申しけれども、「理はさる事にて候へども」とて、猶憚りて剃らず。其の時滝口聖を恨み、▼P3262(三五ウ)「さては聖人は菩薩の行を立てて、一切衆生を導き給ふ事候ひなむや。是程の事を御憚り有りては、いかがはせさせ給ふべき」とて、自ら本鳥を押し切りければ、聖人力及ばずして、髪をそり戒を持たせけり。生年廿五にして本鳥を切り出家して、西山嵯峨の釈迦堂の辺、法輪寺の内、往生院と云ふ処に閉ぢ籠りて、行ひ澄まして居りけり。
積笛此をば知らず、絶えぬる夜半を恨みて、「何なる淵川にも身を投げばや」と思ひける程に、或る人申しけるは、「斎藤滝口時頼こそ、去る三日、嵯峨にて出家したりと聞け」と申しければ、横笛此事を聞きて、泣く泣く彼こへ尋ね行き、比は神無月中の六日の事なれば、嵐に響く鐘の音、深け行くままに心澄み、涙に濡るる袖▼P3263(三六オ)の上に、木葉の積るも払ひ敢へず。梅津里に吹く風も、春にあらねば身にしみ、桂の郷の月影は雲居遥かに澄み昇る。亀山や、すそより出づる大井川、いとど哀れぞ増さりける。往生院に尋ね入りて、庵室の側に至りしかば、庭には蓬生ひ滋り、跡踏み付けたる事もなく、軒には信夫匍ひ係り、四壁幽かに見えたりけり。憂き節繁き竹柱、近く立ち寄りて聞けば、折節入道古歌をぞ詠じける。
世を厭ひ浄土を傾ふ墨染の有繋がにぬるる袖の上哉
横笛之を聞きて、
恨敷や早晩か忘れむ涙河袖のしがらみ朽ちははつとも
女申しけるは、「今まで御出家を知らせさせ給はぬ事の心憂さよ。如何▼P3264(三六ウ)なる時、虎臥す野辺へも、蓬が杣までも、おくれじと契り給ひしぞかし。いつの間に替りける御心ぞや。昔の好み忘れ難くて、是まで尋ね参りたり。縦ひ一宇のすまひこそ叶はねども、谷をも隔て峯をも連ねて、互ひに善縁とも成り、一つ蓮の身とも成らむ」と云ひもあえず泣きければ、滝口入道、破り無く思ひし女の音と聞くに、胸騒ぎ、書き暮らし心地して、馳り出で、見ばやと思へども、「さては仏に成りなむや。生死の紀綱にこそ」と心強く思ひて、弥よ返事もせざりけり。横笛、「是まで尋ね奉りたる甲斐も無く、うたてくも閉ぢ籠り給へる御心づよさかな。人はげにさも無かりける物故に、吾が身一つにかきくれて、思ふ心は何計り、女の身程に心憂き物はなし。今生の対面せむも今▼P3265(三七オ)計り、責めては御音計りをも聞かせさせ給へ」と云ひければ、滝口申しけるは、「誰故にかかる道にも思ひ入るぞとよ。今世の対面有るべからず。契り有らば、一蓮の上にと祈り給へ」と計りにて、出で合ふ事ぞ無かりける。女是を聞きて、恨みの涙せきあえず、押さふる袖も露けくて、自ら髪を押し切りて、庵室の窓に投げ懸くとて、
剃るまでは浦見し物をあづさ弓誠の道にいるぞうれしき
時頼是を聞きて、
そるとてもなにかうらみむあづさ弓引き留むべき心ならねば
横笛は出家して、東山清岸寺と云ふ所に行ひ澄まして居たりけるが、彼の所は都近くして、知るもしらぬも押し並めて、問ふ事しげき▼P3266(三七ウ)宿なれば、とがむる事も右流左くて、何れの山の辺りにもと、あくがれ行きける程に、桂河の辺りにて、「如何なる男なれば、吾故にかかる道にも思ひ入るぞ。いかなる女なれば、浮世にながらへ、心に物を思ふらむ。
恋しなば世のはかなきに云ひなして無き跡までも人に知らすな
とて、此川に身を投げて失せにけり。
入道は往生院に有りけるが、彼所は青岸の傍らに聳えたる高山なり。彼こにして過ぎ来し都を顧みれば、霞の下には燈の影幽かに見え、折節に付けては問ひ来たる人もしげくして、坐禅の床も閑かならず、念誦の心も乱れければ、山崎宝寺に移りて、「寂寞人無くして、固く空生の室を閉ぢ、箪孤▼P3267(三八オ)意に任せて、自ら三楽の翁に伴ふ」と観じて、行ひ澄まして居たりけるが、横笛が事を聞きて、「都近くすまひして、加様に心憂き事を聞くに付けても、傾道の障りとも成りぬべし。我が身こそあらめ、年荘りなりつる女をさへ、世に無き者と成しつる事よ」とて、南都東大寺の永観律師の旧き庵室を尋ねて行きにけり。
抑も永観律師と申すは、年来念仏の志深くして、名利を思はず、世を捨てたる如くなりけれども、さすが君にも仕へ奉り、知る人をも忘れざりければ、故らに深山の奥を、求め給ふ事も無かりけり。東山禅林寺と云ふ所に籠り居て、人に物を借してなむ、月日を送る謀にぞし給ひける。春秋に付けて、うるさかるべけれども、是を見掟つる人も無し。借す時も納むる時も、持ち来▼P3268(三八ウ)れる人の心に任せて沙汰せさせければ、中々仏の物ぞとて、聊かも不法ならざりけり。「禅林春の朝には、花の色自ら観念を増し、孤山の秋の暮れには、風の音纔かに知識と為す」と観じ給ひて、明かし暮らし給ひけり。
白河院の御宇、此の律師を東大寺の別当に補し給ふに、聞く人耳目を驚かし、「よも請け取り給はじ」と云ひし程に、思ひの外に成り給ひにけり。弟子共、親類、末寺、庄園を諍ひけれども、一所も人に預けずに、伽藍の修造に寄せ給ふ。程無く両三年の内に造営の事終はりしかば、軈て辞退申すに、君又とかうの仰せ無くて、他人を別当に成し給ふ。能々人の心を合はせたる態の様なりければ、時の人申しけるは、「『寺なむどの破壊したる事をば、此の人ならでは心安く沙汰すべき人無し』と思食して、仰せ付けられたりけるを、▼P3269(三九オ)律師も心得て請け取り給ひにけり」。此の庵室と申すは、其の比住み給ひける所なり。此の上人も思ひよりして、発心し給ひたりけるやらむ、
呉竹の本はあふよもしげかりき末こそ節は遠ざかりゆけ
と読みたりし人なり。此の庵室も猶心に叶はざりければ、いかならむ深山の奥にもとぞ思ひける。便り有りて、大師入定の聖跡、秘密伝法の霊場、紀州伊都の南山に登りて、始めて清浄心院に住しけるが、後には蓮花谷梨子坊にぞ居たりける。一門の人は此の事を聞きて、「高野山の聖人」とぞ申しける。されば、菩薩の得無生忍、猶古郷にては神通を顕し難し。何に況や発心は止ん事なけれども、不退の位に至らねば、事に触れて乱れ易し。古郷に住み知人に交はりては、争でか一念の妄心を▼P3270(三九ウ)起こさざらむ。されば香の煙にふすぼりて、五十計りに見ゆるに付けても、不断長日の勤めも絶えざりけりと覚えたり。
十四 〔惟盛出家し給ふ事〕
さて、戒師請じ、出家せむとし給ふ。中将、余三兵衛・石童丸に宣ひけるは、「我こそかかる道狭く遁れ難き身なれども、己等は如何なる有様をすとも、なじかはながらへざるべき。如何にも成りなむ後を見はてて、都へ帰り命を助かり、少き者共をも顧よ」と宣へば、二人の者共はらはらと泣きて、口惜しげに思ひたり。重景、申しけるは、「父景康、平治の合戦の時、故殿の御共にて、義朝の郎等、鎌田兵衛正清に組みて、悪源太義平に打たれ候ひぬ。其の年、重景二歳也。母には七歳にて後れ候ひぬ。哀れ、糸惜しと申す者も▼P3271(四〇オ)候はざりしを、『景康は我が命に替はりたりし者なれば』とて、殊に御哀れみ候ひて、御前より生衣立てられ進らせて、九つと申しし年、君の御冠服候ひしに、同夜本鳥を取り上げられ進らせて、『盛の字は家の字なれば五代に継がす。重の字を松王丸に賜ぶ』とて、重景とは付けさせ給ひて、童名を松王と仰せ候ひしも、『此の家を小松と云へば祝ひて付くる也』と仰せ候ひき。御冠服の歳より、取り分き君の御方に候ひて、一日片時も立ち離れ進らせずして、今年は既に十九年に罷り成る。故大臣殿、世を早くせさせ給ひし時も、此の世の事思食し捨てて、一事も仰せ置かるる事無かりしか共、『重景、少将殿に宮仕へ能くして、御心に違ふな』と計りこそ、最後の御詞にて候ひしか。東方▼P3272(四〇ウ)朔が一万歳を経し、其の形を替へずして残り留まらず。西王母が有り様も其の名計りぞ留めける。君の神にも仏にも成り給ひなむ後、何なる楽しみ栄へ有りとも、世に有るべしとこそ覚え候はね」とて、即ち本鳥押し切りて、時頼入道に剃られけり。石童丸も髪を本結際より切りにけり。是も八つより仕へ奉り、みめ形なだらかに心様優なる者なりければ、糸惜しくし給ふ事、重景にも劣らざりければ、加様に志深く思ひ奉りけり。今年は十八にぞ成りにける。
此等が先立ちて剃らるるを見給ひて、中将御涙せきあへず、「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」と三度唱へて、已に剃られ給ひけり。「北方に替はらぬ形を今一度見え奉りて、かくも成らば思ふ事あらじ」と思食すぞ▼P3273(四一オ)罪深き。中将も重景も同年にて、廿七にてぞおはしける。
武里を召して宣ひけるは、「吾は都へは帰るべからず。今一度、何事も云ひ遣らばやと思へども、今は世に無き者と聞かば、思ひに堪へで、様をも替へ、体をも弊さむ事も不便也。少き者共の小賢しく歎かむ事も糸惜し。遂に隠れ有るまじけれども、いつしか知らせじと思ふぞ。迎へ取らんと誘へ置きし事も終に空しく成りぬ。如何計りつらく思ふらむ。心中をば知らず、恨みも多かるらむ」とて、御涙せきあへず。「只是より屋嶋へ帰りて、三位中将・新少将にも有り様を申せ。侍共も如何に不審に思ふらむ。誰々にもかくと知らせずして、何に恨むらむと思ふこそ侘しけれ。抑も、唐皮と云ふ鎧、小烏と云ふ太刀は、当家嫡々相伝して、我までは既に▼P3274(四一ウ)八代也。其の冑・太刀をば、貞能が許に預け置きたり。取りて三位中将に奉れ。若し不思議にて世にも御坐さば、後には六代に賜ぶべし。左中将清経も海中に沈み、備中守師盛も一谷にて打たれぬ。惟盛さへ又かく成りぬ。如何計り便無く思すらむ。遂に遁るべきならねば思ひ立ちぬと申せ」とて、御涙又せきあへず。
十五 〔惟盛粉河へ詣で給ふ事〕
「是より熊野へ参らむ」と宣へば、時頼入道御共して、山臥の形にて出で給ふ。入道申しけるは、「順道にて候ふ上、無双の霊地、粉河の生身観音に御詣で候ふべし。当山の大師は法懐大徳が欣求安養の志有りて、師弟両人の住所を祈りしに、『師は霊峯に留まりて、覚山に登るべし。汝は粉河に住して苦海を渡るべし』と示し、日吉山王は石▼P3275(四二オ)崇上人三菩提を求めしかば、『吾が朝の補陀落山に往きて、仏国の不退転地を期すべし』と宣へり。殊更御志候ふ。熊野権現は、公舜法印、電泡の郷を厭ひ申しし時、『垂跡の光は朗らかなれども、来迎引接は本地の称ひ也。粉河の生身の観音に祈り申せ』と御示現を蒙り、則ち彼寺に詣でつつ、百日の参籠を始め、毎日法花の肝心を講讃して、『願はくは往生の得不を示し給へ』と祈りしに、『法花即我身、我亦極楽主、汝讃嘆於我、我来迎於汝』と云ふ四句の偈文を蒙りて、往生を遂ぐと見えたり。来世の引接を祈り御坐さむに疑ひ有るべからず」と申しければ、即ち時頼を御先達と為て、其の日は粉河へ詣で給ふ。
先づ大門を指し入りて、最初出現の霊崛、御池を拝し給へば、童男・大伴の影像、▼P3276(四二ウ)御堂の左右に立て給へり。前には朱雀開けて万里の波漫々たり。遥かに海岸孤絶の新月を迎ふ。後には玄武峙ちて千年の緑蒼々たり。遠く耆闍崛山の旧風を移せり。梧桐の花開きては鳳凰もや住みぬらむ。竹〓[竹+均]林閑か也、白氏の霊もや通ふらむ。
かくて放光瑞相の勝地、根本精舎へ詣で給ひ、庭上を見れば藤原宗永が四五朶の山の八重桜を狩猟の時求め得て、霊夢に依りて献ぜし桜も既に開き散れり。是を見給ひて、中将かくなむ。
つねになき浮世の中にさき初めてとまらぬ花や吾が身なるらむ
抑も、当寺は光仁天皇御宇、宝亀元年に大伴孔子古と云ひし人、建立の所也。伏して縁起文を開きたるに曰はく、
昔、大伴孔子古と▼P3277(四三オ)云ふ人あり。糜鹿を遂ふを以て業とし、久しく造仏和南の心願を発して、星宿を積むと雖も未だ遂げず。神樹の瑞光を帯びたる、御衣木に切れて、一体の要に充つ。童子の好手と称する、編戸の柴を閉ぢて、七日の約を成す。一声に驚て一夢を破る。忽ちに払暁の先路に赴くに、霊木有りて霊童は無し。新たに満月の尊容を現ず。檀度の仁、独り信仰を致して、叢聚の人、未だ参詣するを得ず。
爰に、河内の佐太夫の家中に愛子有り。一度固疾に嬰りて、万方すれども止まず。童男行きて云ふ。「即ち陀羅尼を誦ずれば、声に応へて平復す」。父母親族、諸の布施を贈る。頭を揺りて辞去す。只一の帯を執りて、以て再会を期す。山を行りて数里を歴、白水の色を見出だす。流れに泝りて孤庵を得たり。粉河の詞を思ひ▼P3278(四三ウ)出だす。大悲者の姿、宛かも〓[番+β(おおざと)]陽の金を瑩けるが如し。施無畏の御手に往日の帯を掛け給へり。
草創年旧りて風火に侵さるる事もなく、常燈の滅へざる奇特、精舎の〓[元+リ]蒼みたる有り様を拝見するに、浄信弥よ増して、感涙押へ難し。惣じて我が朝の勝事也。千手千眼の生身は風猛山に跡を垂れ、一草一木の萌芽は仏種ならずと云ふ事なし。希異也。又奇異也。大悲也。極めたる大悲也。
殊更、内陣の作法は参詣の侶は足を翹つ。菩薩の底沙を瞻仰するに異ならず。入来の彙は黙然たり。身子の龍女を信受するに相同じ。読経は声を呑む。悉地を心の中に祈る。念誦は口を噤む、願望を胸の底に蔵せり。是偏へに合掌の〓[夕+寅]みを成して、高声の儀を停むる者也。
石壇に潮満てり。補陀落山の波、▼P3279(四四オ)御法に和する音すなり。梵閣に燈有り。五百余歳の今までも風にぞ知られざりける。されば花山の法皇は、忝く御幸して、
昔より風に知られぬ燈の光に晴るる長き夜の夢
と遊ばされけむ。常燈を拝し給ふにも、無始の罪障も消えぬらんとぞ思はれける。三十三反の礼拝事畢はりて、「南無帰命頂礼、自然涌出の千光眼、慙愧懺悔、六根罪障、過現所犯、一時消滅」とぞ聞こえし。其の後、社壇を拝すれば、瓊宮陽に輝きて和光の光赫奕たり。松〓[土+需]露を垂れて霊洞の苔攸揚たり。
中にも地主丹生明神は、天照大神の妹、月読の尊の御事也。本覚の真位を論ずれば、則ち花蔵の月に登り、応化の垂跡を仰げば、又▼P3280叢祠の露に交はる。去ぬる延暦三年甲子三月十六日に、大伴の山見、御詫宣に依り、彼の岩松山より風猛山に遷し崇め奉る。件の夜、山見、祝ひ申しの有りけるに、権現、詫して宣はく、
曽て昨鬼門の石上に住し、伽藍の怨魔を伏す。
今よりは仏戸の樹下に移り、薩〓[土+垂]の仏法を護らむ、と云々。
伏して案ずれば、神は則ち霊験無双の六廟祠、垂跡を飜して本地を遮那覚海の浦に顧みる。仏は又自然応来の千光眼、宝亀を閣きて、遠寿を補陀落界の塵に算ふ。寔に是、本迹異なりと雖も、不思議は一つ也。 抑も、当寺の為体、東を望めば則ち石松山と号せる一つの霊山峙てり。鶴は君子の樹に住んで吾が君の徳を囀り、風は太夫の枝に摂まりて▼P3281(四五オ)政代の恵みを顕す。西を顧みれば又樢尾廟有り。巫女の花房斜めにて、山下照らす岩樢、夕紅に色はえて、夜遊の人ぞ目に立てる。前には則ち吉野河、岩波早く流れつつ、霞敷く春の朝には、青根が峯にさく花を、散りかも来たると待つ程に、夜の間の風のさそひきて、井関に波の文を織り、後には又葛木山の秋風も吹き下ろせば、すそ野の原の糸萩に、露の玉貫く操枝も、錦を裁ちぞ重ねたる。
其より忍戒大徳建立の地、薬師堂へぞ参られける。此の御堂と申すは当寺領荒見村、虚巌山実宝寺の本仏、薬師如来にて御坐す。然るを彼の実宝寺と申ししも、堂塔軒をきしりて、祗薗の▼P3282(四五ウ)風流に異ならず。一水遠く見下ろして、悟真寺にぞ似たりける。されども天魔の所行にや、一夜の内に荒れにしかば、香花供ずる人もなし。さればにや、大同三年戊子春の比、当寺住侶忍戒、夢想の告に依り、彼の尊像を此の御堂に迎へて安んず。昔の寺号を呼びて、今の精舎に名づけたり。之に依りて、此の御堂を実宝寺と名づけ奉る。
抑も、此の如来と申すは、浄瑠璃世界の教主、像法転時の願主也。故に教主尺尊は伊王善逝の形を造りて、療病院の導師とし、伝教大師は一削三礼の像を瑩きて、止観院の本尊とす。是を以て、「七千夜叉の鎮護には、妻子安穏の憑みを繋け、十二大願の真偈には、惟盛菩提の台を祈る」と伏し拝みて、泣く泣く下向し給ひけり。P3283(四六オ)
十六〔惟盛熊野詣手の事付けたり湯浅宗光が惟盛に相奉る事〕
山東と云ふ所へ出で給ひて、藤代の王子に詣で給ふ。抑も、当所権現は熊野権現の御子、若一王子と是を申す。「和光の月は四海に浮び、利生の雲は一天に覆ふ」と伏し拝みて、漸々奥へぞ指し給ふ。
切目も既に過ぎぬれば、千里の浜の南なる、岩代の王子の前にして、狩装束したる者、七八騎が程、行き合ひたり。既に搦め取られなむずと思ひ切りて、各「自害せん」と腰の刀に手を懸けて、差し聚ひつつ立ち給へば、此等馬より飛び下りて、深く平みて通りけり。「見知りたる者にこそ、誰なるらむ」と思食し、いとど足早にぞ過ぎ給ふ。湯浅権守入道宗重が子、兵衛尉宗光也。郎等共、「此の山臥は誰人にて御坐すぞ」と問ひければ、「是こそ小松大臣殿の御子、権佐三位中将殿よ。屋嶋より如何にして▼P3284(四六ウ)是まで伝ひ給ひけるにか。近く参りて見参にも入り進らせたく存じつれども、『憚りもぞ思食す』とて、罷り過ぎぬ。あな、あさましの御有様や。かく見成し奉るべしとこそ覚えね」とて、さめざめと泣きければ、郎等も皆袖をぞしぼりける。
漸々づつ指し給へども、日数経れば、岩田川にも懸かりぬ。去んじ治承参詣の時、惟盛の着給へりし浄衣の諒闇の色に成りたりしを、貞能が見認めし事、今更思し召し出でて、いとど袖をぞぬらされける。「此の川を渡るには、悪業煩悩無始の罪障も皆悉く消ゆなる物を」と憑敷くぞ思はれける。相ひ構へて、本宮にかかぐり付き給ひて、証誠殿の御前につい居給ひしより、父の大臣の、「命を召して後世を助け給へ」と申し給ひけむ事、思し食し出でて、「かかるべか▼P3285(四七オ)りける事を覚え給ひけるにこそと哀れ也。
十七 〔熊野権現霊威無双の事〕
抑も熊野権現は月氏日域の霊神也。法身光を和げ、応化塵に同じくしてより以来、済度の船を艤して纜を紀州の浜に解き、利生の駕を促して跡を当山の嶺に留む。威徳世に周し、王氏誠を同じくす。利益国に普く、遠近歩を運ぶ。
中にも証誠大菩薩は、三部の中には蓮花部の尊、五智の中には妙観察智、宝蔵比丘の弘誓に酬ひて安養九品の浄刹を儲け、無上念王の本懐に任せて繋念一称の群類を導き給ふ。是を以て、光明菩薩の生所には願ひて弥陀の尊像を造立し、目連尊者の掌の内には好みて此の尊の形体を図絵す。是の故に、月蓋長者が窓の前には除病の色像を現じ、五通菩薩の樹の上りには来迎の聖容を顕す。▼P3286(四七ウ)又、元寿三尺の像を瑩きしかば、亡親忽ちに往生を得、道如丈六の尊を造りしか
ば三途皆解脱を得。
又、当山の為体、高き峯、砌に峙つ、利生の省き積りて山と成り、広き川、岸を迫む、群類を彼岸に渡すに似たり。されば大悲擁護の霞は熊野山に聳き、霊験無双の神は音無川に跡を垂る。一乗修行の岸には感応の月隈も無く、六根懺悔の庭には妄想の露消え易し。不取正覚の文、特に一称名号の徳に限り、来迎引接の願、忽ちに十悪五逆の人を嫌はず。
「何に況んや、惟盛五逆未だ犯さず、称念自ら積もる。浄土に望み有り、往生何ぞ疑はむ」と、伏し拝み給ひける心中にも、「古里に残し留めし妻子安穏」と祈り給ひけるこそ、浮世を厭ひ実の道に入りても、妄執は尽きせずと覚しけるこそ悲しけれ。
本宮を▼P3287(四八オ)出でて苔路を指しつつ、雲取・紫金の峯と云ふはげしき山を越えて、那智山へ詣り給ふ。惣じて社壇の有様、心も詞も及ばれず。玉殿檐を並べて、七宝の〓[王+當]空に映ず。錦帳扉を交ふ、百錬の鏡日に耀く。宝塔雲に挿むは、殆ど霊山の涌出に望む歟と覚え、草蘆苔を結ぶは、宛かも仙洞の巌室に入るに似たり。観音の霊像は岩の上にたたずみ、法花読誦の音は霞の下に幽かなり。
十八 〔那智籠りの山臥、惟盛を見知り奉る事〕
那智籠りの山臥の中に、此の道者を見進らせて、人目も知らず泣くありけり。諸の山臥是を見て、「あなけしからず。何故にさ程は泣き給ふぞ」と問ひければ、此の山臥申しけるは、「あれに御坐す道者をば、各は見知り給へりや。あれこそ小松の大臣殿の御嫡子、権亮三位中将殿よ。▼P3288(四八ウ)あな糸惜しや。あの殿、四位の小将と聞こえ給ひし安元二年の春比、法皇法住寺殿にて五十の御賀の有りし時、父の大臣は内大臣の左大将にて左の座に着座、伯父宗盛の右大将は右の着座せられき。其の時は、越前三位通盛卿は頭の中将、本三位中将重衡卿は蔵人頭、此の人々を始めとして、一門の卿相雲客、今日を晴と声花に引き修ひて、青海波の垣代に立ち給へりし中より、あの殿、青海波を舞ひ出でられたりし有様、嵐にたぐふ花の匂、天も耀くばかりなりし事の、只今の様に覚ゆるぞとよ。『今両三年の内に、大臣の大将に疑ひあらじ』と申しあへりしに、かく見成し奉るべしとは思ひやは寄りし。遷れば易る代の習ひと云ひながら、あな哀れの御有様や」▼P3289(四九オ)とて、袖を顔にあてければ、此を聞く人、皆袂をぞ絞りける。此の山臥と申すは越中前司盛俊が伯父なりけるとぞ聞こえし。
巡礼既に事終はりしかば、新宮へ伝ひ、神倉に詣でては、尽浄虚融の蘂を折りては、柏城の庭に奠る。妻子恋慕の涙を流しては、〓[竹+瑞]籬の砌に跪く。伏して神明の効験を尋ぬれば、和光同塵の利物は、松〓[土+需]の月明らかにして、紫金の晴沙有るが如し。威光古今に被らしむ。下種結線の済生は、叢祠の露溽かにして、万草の時雨を仰ぐに似たり。神風遠近に扇ぐ。青山後に峙ちて、蓬莱の三壺を写せり、劉晨が七世の孫に逢ひしに似たり。蒼海前に横へて、往来の一葉有り、帳転の百万里に泝るかと省ゆ。加之、松風瑟々として、常楽我浄の琴を調べ、浪音滔々として苦空無我の法を唱ふ。▼P3290(四九ウ)是と云ひ彼と云ひ、憑しからずと云ふ事なし。
十九 〔惟盛身投げし給ふ事〕
三つの御山の御参詣、事終はりしかば、又那智山の麓、浜宮と申す王子の御前に帰りて、一葉の船に棹して、万里の澳へ漕ぎ出で給ふ。遥かに漕ぎ出でて、山成嶋と云ふ所へ漕ぎ寄せて、松木を削りて中将の名籍を書き付けらる。「平家太政入道静海の孫、内大臣重盛の嫡男、権亮三位中将惟盛、生年廿七歳。合戦の最中に讃岐屋嶋の館を出でて、熊野山に参詣せしむ。元暦元年三月廿八日、那智の澳において海に入り終はんぬ」と書き付け給ひて、又漕ぎ出で給ひぬ。思ひ切り給へる事なれども、今はに成れば、心細く悲しくぞ思はれける。
比は三月廿八日の事なれば、春も既に暮れんとす。海上もそこはかと▼P3291(五〇オ)もなく霞み亘りて、澳の釣船の浪の底に入る様にするも我が身の上とぞ思はれける。帰雁の空に音信れて通ふにも、都へ言付せまほしく、入日の影の大海の原に赤み渡りたるも迎への雲の色かと疑はれ、蘇武が胡国の恨みまで、思ひ残せるくまもなし。何となく来し方、向後の事の憂かりし面影、つらかりし言の集までも今の様にぞ覚しける。或いは龍顔に近付き奉りて春の花を見、或は旧院に夙夜して秋月を翫び、或は明石の礒の波の上に浮寝して唐櫓の音に夢を残し、或は屋嶋の浦の海人の苫屋に片敷く袖に月を宿し見し事までも、思ひ出でられずと云ふ事なし。「是は抑も何事ぞ。猶妄執の紀綱にこそ」と思ひ▼思P3292(五〇ウ)飜して、正しく西に向かひ、念仏申し給ふ心中にも、「既に只今を限れば、争でか知るべきなれば、風の便の言付も今や今やと待たんずらむ。終には隠れ有るまじければ、此の世に無き者と聞きて幾計り歎かむずらむ」と思ひ連けられ給へば、主従念仏を止め合掌を乱して聖に向かひて宣ひけるは、「哀れ、人の身に妻子と云ふ者は持つまじかりける者哉。此の世にて物を思はするのみに非ず、後世菩提の障りと成りける事の悲しさよ。親しき人々にも知らせで屋嶋の館を出でしも、『若し都へや上りて、今一度見もし見えもせばや』とてこそ迷ひ出でて有りしかども、本三位中将の生け取られて京鎌倉恥をさらすだにあるに、我さへ捕へ搦められむ事もうたてければ、思し念じて加様に髪▼P3293(五一オ)を下してし上は、今更妄念有るべしとも覚えざりしに、本宮証誠殿の御前にて夜終後世菩提の事を申ししに、少き者其の事思ひ出だされて、『吾が身こそかく成りぬとも、妻子平安に守り給へ』と申されき。且は神慮も恥かしくこそ覚えしが、只今最後の一念なれば又何事をか思ひ増すべきに、『如何に聞きて悶絶こがれむずらむ』と思ひ出ださるるぞや。是をほだしと云ひ、是を紀綱と名付けけるも、今こそ思ひ合はせらるれ。思ふ事を心に貽すは罪深かむなれば、懺悔する也」と宣ひければ、聖も哀れに覚えけれども、「我さへ心弱くしては叶はじ」と思ひて涙を押し拭ひ、さらぬ体にもてなして、「誠にさこそは思食され候ふらめ。高きも卑しきも、恩愛の▼P3294(五一ウ)道は力及ばぬ事也。中にも夫妻は一夜の契りを結ぶだにも五百生の宿縁とこそ申せば、此の世一つの御契りにも非ず。かく思食さるるも理なれども、生者必滅・会者定離は人界の定まれる習ひ、六道の常の理なりければ、さらぬ別れのみならず、心に任せぬ世の有様、末の露本のしづくの様有れば、設ひ遅速の不同は有るとも、後れ先立つ御別れ、遂に無くてしもや候ふべき。彼の驪山宮の秋の夕べの契りも、終には心を摧く端と成り、甘泉殿の生前の恩も、終はり無きにしも非ず。松子・梅生も生涯に恨み有り。等覚・十地も生死の掟に随ふ。設ひ百年の齢を持ち給ふとも、此の御恨みは遁れ給ふまじ。又、長生の楽に誇り給ふ共、前後相違の御歎きは、只同じ御事と▼P3295(五二オ)思食さるべし。第六天の魔王と云ふ外道は、欲界の六天を我が物と鎮めて、此の内の衆生の生死を離るる事を惜しみて、諸の方便を廻らして、或は妻と成り、或は夫と成りて是を障ふ。三世諸仏は一切衆生を悉く吾が御子の如くに思食して、極楽浄土の不退の地に勧め入れんとし給ふに、人の身に妻子と云ふ者が、無始曠劫より以降、永く仏種を断じて生死を離れしめざる紀綱なるが故に、仏の重く誡め給ふは即ち是也。
御心弱く思食さるべからず。伊与入道は俘困貞任・宗任を攻め落とさんとて、十二年が間に人の頸を斬る事一万五千人、山野の獣、江河の鱗、其の命を絶やす事幾千万と云ふ事を知らざれども、終蔦の時、一念の菩提心を発ししに依りて、往生の素懐を遂げたりと▼P3296(五二ウ)こそ往生伝には見えて候へ。又或る経には、『一念発起菩提心、勝於造立百千塔』とも説かれたり。御先祖平将軍貞盛、将門を追討し給ひて東八ヶ国を鎮め給ひしより以降、代々相継ぎて朝家の御固めにて、君までは嫡々九代に当たり給へば、君こそ日本国の大将軍にて渡らせ給ふべけれども、故大臣殿世を早くせさせ給ひしかば力及ばず。されば其の御末にてこそおはしませば、強ちに御罪業重かるべしとも覚えず。
就中、出家の功徳は莫太なれば、前世の罪業悉く滅し給ひぬらむ。『百千歳の間百羅漢を供養するも、一目出家の功徳には及ばず』、『設ひ人有りて、七宝の塔を建てん事高さ三十三天に至るとも、出家の功徳には及ばじ』と説けり。『一子出家、七世父母皆得▼P3297(五三オ)成仏』とも申したり。『一日の出家、万劫の罪を滅す』とも見えたり。指しも罪深かりし頼義も、心の強きが故に往生を遂ぐ。指せる御罪業おはしまさざらむに、などか浄土へ詣で給はざるべき。
其の上、当山権現は本地阿弥陀如来に坐ます。初め無三悪趣の願より、終はり得三法忍の願に至るまで、一々の誓願、衆生化度の願ならずと云ふ事なし。中にも第十八の願には、『設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚』と演べられたれば、一念十念恃みあり。小阿弥陀経には、『成仏以来於今十劫』とも説きて、『正覚ならじ』と誓ひ給ひし仏の、既に正覚を成じて十劫を経給へり。
されば、聊かも本願に疑ひをなさず、無二の懇念を至▼P3298(五三ウ)して、若しくは十反、若しくは一反、唱へ給ふ物ならば、弥陀如来、八十万億那由他恒河沙の御身を縮て、丈六八尺の御形にて、廿五の菩薩を引き具し奉りて、妓楽歌詠して、只今極楽の東門を出で給ひて来迎し給はむずれば、御身は蒼海の底に沈むと思食すとも、紫雲の上に登り給ふべし。来迎引接は彼の仏の願なれば、努々疑ひ思食すべからず。
成仏得脱して悟りを開き給ひなば、裟婆の故郷に立ち帰りて、去り難く思食さるる人々をも導き、悲しく思召さん人をも見奉る事、還来穢国度人天の本願、なじかは疑ふべき。待我閻浮同行人の誓約、少しも謬るべからず」とて、頻りに輪を打ち鳴らし、隙無く勧め奉りければ、然るべき善知識と喜びて、忽ちに妄念を飜して、西に向かひ手を叉ひて▼P3299(五四オ)高声念仏三百余反唱へ澄まして即ち海へぞ入り給ふ。余三兵衛入道・石童丸も同じく御名を唱へつつ、連きて海へ入りにけり。
武里も悲しみの余りに堪へず、海へ入らむとしけるを、「如何に御遺言をば違へ奉るぞ。下臈こそ猶口惜しけれ」とて、聖泣々取り留めければ、船底に臥し躅びて、鳴き叫ぶ心の中こそ無慚なれ。悉達太子の王宮を出でて檀徳山へ入り給ひし時、舎匿舎人が捨てられ奉りてもだえこがれけむも、是には過ぎじとぞ見えし。時頼入道も余りの悲しさに墨染めの袖絞り敢へず。船を押し廻らして、「浮きや上り給ふ」と見けれども、三人ながら深く沈みて見え給はず。いつしか阿弥陀経六巻計り転読して、「過去聖霊、出離生死、往生極楽」と廻向しけるぞ哀れなる。さる程に、夕▼P3300(五四ウ)陽西に傾きて、海上も聞く成りければ、余波は惜しく思へども、さてしも有るべきならねば、空しき船を差し帰さんとす。熊野のなだに満ち来る潮の塩堺、戸渡る船のかいのしづく、聖が袖に伝ふ涙、諍ひかねてぞ流れける。
時頼入道は高野へ帰り登り、武里は宣ひしが如く屋嶋へ帰り下りて、弟の新三位中将に有りの任に申せば、「あな心憂や。何なる事也とも、などかは資盛には知らせ給はぬぞや。吾が憑み奉りづる程は思ひ給はざりける口惜しさよ。一所にていかにも成らんとこそ契り申ししか」とて涙もかきあへず泣き給ふ。「『池大納言の様に、頼朝に心を通はして、京へ上り給ひにけり』と、大臣殿も心得給ひて、資盛をも心を置きて打ち解け給はざりつるに、さては身を投げ給ひにける事の悲しさよ。さるにても云ひ置き給ふ事は無かりし歟」と問ひ給へば、武里涙を押さへて申しけるは、「京へは、あな賢、上るべからず。直に屋嶋へ参りて、有りつる様を委しく申せ。▼P3301(五五オ)一所にて如何にも成らんとこそ思ひしかども、都に留め置きし者共の事、余りに恋しく穴倉くて、有る空も無かりしかば、若し自ら伝ひ上りて、今一度見もやすると思ひて、あくがれ出でたりしかども、叶ふべくも無かりしかば、かくなむ罷り成りぬ。備中守も打たれ給ひぬ。惟盛もかく成れば、いとど如何便り無く思ひ給はむずらんと、心苦しくこそ」と申しければ、「今は我が身とてもながらふべしとも覚えず」と宣ひもあへず、さめざめとぞ泣き給ふ。故三位中将に優敷く似給ひたりければ、見奉るに付けても、いとど悲しくぞ思ひける。
二十 〔重衡卿鎌倉に移り給ふ事〕
廿七日、伊豆国府より本三位中将相具し奉りて、狩野介宗茂鎌倉に付く。猶も宗茂守護し奉るべきの由、申さる。宿所へ具し奉りて、様々労り奉る。是に付けても、先立つ物は只御涙計り也。
明くる日、いつしか兵衛佐の許▼P3302(五五ウ)よりとて、中持の蓋に、三蝶の浅黄の直垂、生の小袖、小裏の袴、白帷、昼扇、檀紙一束入れて、下種女に戴かせて、使に千手参りて、三位中将に申す。中将打ち見給ひて、ともかくも物も宣はず。千手、「思はずに思ひて、物も仰せ候はず」と申しければ、佐は打ち咲ひてぞおはしける。
廿一 〔兵衛佐四位の上下し給ふ事〕
同じき廿八日、鎌倉の前兵衛佐頼朝、四位の上下し給ふ。元は従下の五位なりしに、五階を越え給へるぞ優敷き。伊与守源義仲追討の勧賞とぞ聞こえし。
廿二 〔崇徳院を神と崇め奉る事〕
四月十五日、崇徳院を神と崇め奉る。昔合戦の有りし大炊殿の跡に、社を建てて遷宮有り。賀茂祭より以前なれども、院の御沙汰にて、公家には知ろし食さずとぞ聞こえし。去んぬる正月比より造営せられけり。民部卿成範卿、式部権少輔範季奉行しけり。成範卿は信西入道が息為るに依りて、憚られ▼P3303(五六オ)けり。法皇震筆告文あり。参議式部大輔俊経卿ぞ草しける。権大納言兼雅卿、紀伊守範光、勅使為り。御廟の御正体には御鏡を用ゐられけり。彼の御鏡は、先日御遺物を兵衛佐局に尋ねられければ、此の御鏡を奉りたりけり。八角の大鏡、元より金銅に普賢の像を鋳付け奉られ、今度平文
の箱に納め奉らる。
又、故宇治左大臣の廟、同じく東の方に在り。卿大夫の廟、或いは主有り、或いは主无し。今度は主无し。
権大納言拝殿に着し、再拝畢はりて告文を披かる。又再拝有りて、俗別当神祇大副と安部兼友朝臣に下し給ふ。後に朝臣祝申して、前庭にして之を焼きけり。玄長を以て別当と為す〈故孝長卿の子〉。慶縁を以て権別当と為す〈故西行法師の子)。遷宮の有様、事に於て厳重にぞ侍りける。
同じき廿六日、一条次郎忠頼誅たれけり。酒礼を儲けて謀りて、宮藤次資▼P3304(五六ウ)経に仰せて、瀧口朝次等之を抱きけり。忠頼敢へて所為無かりけり。郎等数た剣を抜きて〓[木+延]上に走り昇りけるを搦め取らんとしける程に、疵を被る者多かりけり。忽ちに三人誅たれぬ。其の外は皆生け取られにけり。安田三郎義定は、忠頼が父、武田の信義を追討の為に、甲斐国へぞ趣きにける。
廿三 〔池大納言関東へ下り給ふ事〕
五月三日、池大納言関東へ下り給ふ。「頼朝、世に候はむ限りは、如何にも宮仕へは仕り候ふべし。故尼御前の御恩をば、大納言殿に報ひ奉るべき也」と、八幡大菩薩に係け奉りて、誓言を以て度々申されければ、落ち残り給ひしかども、「兵衛佐こそかく思ひ給ふとも、木曽も十郎蔵人もいかがせむずらん」と、肝を失ひ、魂を消すより外の事なし。されども鎌倉より、「故尼御前を見奉ると思ひて、利々見参せん」と宣ければ、下り給ひにけり。
弥平左衛門尉宗清と申す、相伝第一の者也▼P3305(五七オ)けるが、相伴ひ奉らざりければ、大納言「如何に」と宣ひければ、宗清申しけるは、「今度の御共仕らじと存じ候ふ。君かくて渡らせ給へども、御一家の殿原のかく成らせ給ふ御幸の心憂く覚えて、未だ安堵しても覚えず候ふなり。心中をも落とし居ゑて、遂に参るべく候ふ」と申しければ、大納言辛々敷く恥づかしくて宣ひけるは、「一門を引き別れて残り留まる事は、我が身ながらも『いみじ』とは思はねども、命も惜しく世も捨てがたければ、憖に留まりにき。其の上は又下らざるべきに非ず。遥かの旅に趣くに、争でか見送らざるべき。余執尽きず思はば、などか落ち留まりし時、さも云はざりしぞ。大小事、汝にこそは云ひ合ひしか」と宣へば、宗清居直りて申しけるは、「人の身に命計り惜しき物やは候ふ。又身をば捨つれども、世をば捨てずと申したり。御留まりあれとには候はず。又兵衛佐も、流罪せられし時、故尼御前の仰せにて、篠原の宿ま▼P3306(五七ウ)で送りて候ひき。其の事未だ忘れずと承る。之に付けても、御共に下らば、引出物饗容せられむずらんと覚え候ふ。其れに就けても心憂かるべく候ふ。西国におはします殿原、若しは侍共の聞き候はむ事、恥づか敷くこそ覚え候へ。此の度は罷り留まるべく候ふ。君は落ち留まらせ給ひて、かくて渡らせ給ふ程にては、争でか御下り無くては候ふべき。遥かに旅立たせ給へ。穴倉くは思ひ奉れども、敵をも責めに御下り候はば、一陣にこそ候ふべけれども、是は参ぜずとも御事闕くまじ。佐殿尋ね申され候はば、『労る事の候ふ』と仰せ有るべし」と申しければ、心有る侍共は是を聞きて皆涙をぞ流しける。
廿四 〔池大納言鎌倉に付き給ふ事〕
十六日、池大納言鎌倉へ下り付き給ひたりければ、兵衛佐怱ぎ見参し給ひて、先づ「宗清は候ふ歟」と尋ね申されければ、「痛はる事候ふ。罷り下らず」と宣ひければ、返す返す本意無げに思ひ給ひて、「如何に、何事の労り候ふぞ。昔宗清が許に候ひしに、事に触れて哀れみ▼P3307(五八オ)有り難く候ひし事の忘れ難く覚え候ひて、恋しく候へば、怱ぎ見たく候ひて、一定御共には参るらむと思ひつるに、口惜しく侯ふ」とて、本意なげに思ひて、「猶も意趣の候へばこそ」と宣ふ。所領賜らんとて、下し文数たなし儲けて、馬、鞍、諸の引出物なむどたばんとし給ひければ、然るべき大名共馬引かむとてしけるに、下らざりければ、上下本意なき事にぞ思ひける。
廿五 〔池大納言帰洛の事〕
同じき六月一日、源九郎義経、身の暇を申さず、偸かに関東に下向。梶原景時が為、讒を負ひて、謝せんが為也とぞ聞こえし。九国の輩、大略平家に同意の間、官兵利することを得ざるの由、実平言上したりけるに、義経忽ちに追討の事抛ちて下向しければ、人皆傾き相へり。
同じき三日、前の斎院次官親能〈前明経博士広季の子、頼朝朝臣専一の者也〉、双林寺にして前美能守義広を搦め取るの間、両方疵を被る者多し。義仲に同意して、去る正月の合戦の後、跡を晦ましし所を捜り、遂に搦め取られけり。此の義広は、故六条判官為義が末子也。今親能が為に取らるる、口惜しかりし事也。
▼P3308(五八ウ)六月五日、池大納言、関東より帰り上る。佐は「暫くかくて御坐せかし」と宣ひけれども、「京都にも穴倉く思ふらむ」とて、怱ぎ上り給ひければ、大納言に成し帰し奉るべきの由、院へ申しける上、本の庄薗私領、一所も相違有るまじき由、下し文を奉りて、猶所知共数た得給ふ。馬、鞍、長持、羽、金なむど多く奉り給へり。兵衛佐かくもてなし給ひければ、大名小名我も我もときらめきけり。馬も二三百疋に及べり。命の生きたるのみに非ず、得付きてぞ登りける。
廿六 〔平家の人と池大納言と合戦する事〕
爰に、伊賀・伊勢両国の住人、平家重代の家人共此の事を聞きて、「一門を引き離れて都に留まり給ふだにも心憂さに、剰へ今日此の比関東へ下向して、頼朝に伴ひ給ふ事尓るべからず。いざ一矢射て西国の君達に物語申して咲はん」と議りて、貞能が兄、平田入道を大将軍として、五百余騎にて近江国篠原の辺りに打ち出でて待ち係けたり。大納言の御共の武士、千余人なりける上、近き程の源氏口此の事を聞きて、我先にと馳せ向かひて、数剋▼P3309(五九オ)合戦す。両方命を失ふ者二百余人也。然れども両国の住人散々に打ち落とされて、蜘蛛の子を散らす如くにして、剰りの命生きて、希有にして落ちにけり。平家普代相伝の家人たる上、弓矢取る身の習ひにて、責めての好みを忘れぬ事は哀れなれども、責めての事にや、思ひ立つこそ忝けれ。
廿七 〔惟盛の北方歎き給ふ事〕
七月四日、権亮三位中将の北の方は、「自ら言付けも絶えぬ。程経れば如何に」と穴倉く覚す。「月に一度なむど必ず音信るる物を」と待ち給へども、春過ぎ夏闌けぬ。秋の始めに成りて、「三位中将は今は屋嶋にはおはせぬ物を」と云ふ人有り。「さて如何に成り給ひにけるぞ」とあさましく覚えて、心憂し共愚か也。責めて思ひの余りに兎角して屋嶋へ人を奉り給ひたり。是も怱ぎ立ち帰らず。秋も半ば過ぎて帰り来たれば、「如何に御返事は」と怱ぎ尋ね給へば、「『過ぎぬる三月十日に屋嶋を出でて、▼P3310(五九ウ)高野へ詣で給ひたりけるが、彼の山にて御ぐし下して、軈て熊野へ伝はりつつ、那智の浜にて身を投げ給ひにけり』と、御共したりける舎人武里が申しし」と申せば、北の方、「さればこそ。奇しかりづる物を」と計り宣ひて、伏しまろびてをめき叫び給ふも理也。鸞鳳の鏡に影を並べて、多年階老の語らひ止まること無く、鴛鴦の衾に枕を合はせて、数月同穴の契り是深し。連理の枝は若し離るる享有り共、彼は我より外に憑む所無く、比翼の鳥は自ら遠離る事有りとも、我は彼より外に昵ぶる方もなし。東閣に嵐冷しき暁には涙を流して、一生の早く過ぎむ事を愁へ、西楼に月の閑かなる夕べには肝砕きして、百年の速やかに近付かむ事を悲しみ給ひしに、今かく聞き成し給ひけむ心中、押し量られて哀れ也。
若君姫君も音々に泣き悲しみ給へり。若君のめのとの女房泣々申しけるは、「今更驚き思し食すべからず。日比思ひ儲け▼P3311(六〇オ)つる事ぞかし。唐の太宗の栄耀を万春の花に開き、遂に無常の風に随ひ、漢の明帝の寿福を千秋の月に期せし、虚しく必滅の雲に隠れぬ。四大の構へたる体、風前の燈よりも危ふく、五陰の成せる身、波上の月よりもはかなし。厳粧金屋は夢の中のもてなし、翠帳紅閨は眼の前のしつらひ也。本三位中将の様に生け取られて都へ帰り上り給ひ、又弓矢の前に係けて命を失ひ給はば、何計りかは悲しかるべきに、高野山にて御ぐし下し、粉河、熊野へ参りて、後世の事能々申し、那智の浜にて念仏申し、臨終正念にて終はり給ひけり。心安くこそ思食すべけれ。いたうな歎き給ひそ。今は如何ならむ岩の迫にても、少くおはします人々を生し立て奉らむと覚し召せ」となぐさめ申しけれども、思し忍び給ふべくも見え給はず。さまをも傷し、身をも投げ給ひぬべくぞ覚えし。
「惟盛高野山に詣でて出家し、▼P3312(六〇ウ)那智の浜にて身を投げ給ひけり」と頼朝聞き給ひて、「隔て無く打ち憑み来たられたりせば、命計りは生け奉りてまし物を。小松内府の事、愚かに思はず。池尼御前の使として、頼朝を流罪に申し定め給ひしは、偏へに彼の人の恩なりき。争でか其の恩を忘るべきなれば、彼の人の子息共を愚かに思はず。増して出家なむどをせられなむ上は、沙汰にも及ばず」とぞ宣ひける。
廿八 〔平家屋嶋にて歎き居る事〕
平家は屋嶋に帰り給ひて後も、「関東より荒手二万余騎、京に付きて、既に責め下る」と聞こゆ。又、「九国の者共、緒方三郎を初めとして、臼木・経続・松浦党二千余騎の勢にて渡らむとす」とも云へり。彼を聞き是を聞くにも、只耳を驚かし心を消すより外の事なし。一門の人々も一谷にて七八人まで討たれて、憑みたりつる侍共、半ば過ぎて失はれて、力尽き終てぬ。阿波民部成▼P3313(六一オ)良が兄弟、四国の輩を語らひて、さりともと云ふ計りをぞ、高き山、深き海とも憑まれける。女房達は、女院・二位殿を始め奉り、指し聚ひて只泣くより外の事ぞ無かりける。
廿五日にも成りにけり。「去年の今日は、都を出でしぞかし。程無く廻り来にけり」と思ふも哀れ也。あさましく周章てたりし事共、宣ひ出でて、泣きぬ咲ひぬし給ひけり。荻の上風も漸く冷じく、萩の下露も滋し。稲葉打戦ぎ、木葉且つ散り、物思はざるだにも、秋に成り行く旅の空は物憂きに、増して此の春より後は、越前三位の北の方の如く、身を海の底に沈むまでこそ無けれども、明けても晩れても臥し沈み、物をぞ思ひ給ひける。
廿九 〔新帝御即位の事〕
廿八日、新帝御即位有り。大極殿も未だ造らねば、太政官の庁にてぞ行はれける。是は後三条院、治暦四年七月の例なり。神璽・宝剣御坐▼P3314(六一ウ)さずして御即位有る事、神武天皇より以来八十二代、是ぞ始めなりける。
卅 〔義経範頼官成る事〕
八月六日、九郎義経は一谷合戦の勧賞に、左衛門尉に成さる。即ち使の宣旨を蒙りて、九郎判官とぞ申しける。
九月十八日、義経は五位尉に留まりて、大夫判官とぞ申しける。蒲冠者範頼、参河守にぞ成されける。
卅一 〔参河守平家の討手に向かふ事 付けたり備前小嶋合戦の事〕
同廿一日、参河守範頼大将軍として軍兵数万騎、又西国へ平家追討の為に発向したりけれども、怱ぎ屋嶋へも責め寄せず、西国にやすらひて、室・高砂の遊君・遊女を召し集め、遊び戯れてのみ月日を送りけり。国を費し民を煩すより外の事なし。東国の大名小名多かりけれども、大将軍の下知に随ふ事なれば力及ばず。
平家は左馬頭行盛・飛騨守景家を大将軍として、一万余艘にて備前国小嶋に着きたりけり。▼P3315(六二オ)源氏の大将軍参河守は、船より上がりて、備前・備中両国の堺西河尻、藤戸の渡と云ふ所に陣を取る。彼の渡は海の面、陸より近くて、五丁計り隔たりけるに、平家の方より海の底には菱を植ゑ、蜘蛛手を結ひて、陸には軍兵を居ゑたり。船をば皆、嶋に引き付けたりければ、陸より渡すべき様もなし。土肥次郎・梶原源太を初めとして、源氏の軍兵多かりけれども力及ばず。平家の方より源氏の方へ「渡せや、渡せや」とぞ招きける。
九月廿五日夜半計りに、佐々木三郎盛綱、只一騎打ち出で、彼の浦人を語らひて、差したりける白鞆巻を取らせて、「此の渡りに浅みは無きか。有りの任に教へよ。教へたらば、此ならず悦はすべし」と約束しければ、浦人申しけるは、「此の渡りに瀬は二つ候ふが、月頭には東が瀬に成り候ふ。是をば大根川と申す。月尻には西が瀬に成り候ふ。是をば藤戸の渡と申し候ふ。当時は西が瀬に成り候ふぞ。▼P3316(六二ウ)東西二の瀬の間、遠さ中二町計りぞ候ふらむ。瀬の幅二段計り候ふ。其の内、馬の足たたぬ所、二三段にはよも過ぎ候はじ」と申しければ、「さては其の浅さ深さをば争でか知るべき」と問ひければ、「浅き所は波の立合、高く立ち候ふぞ」と申しければ、「さらば瀬踏みして見せよ」と云ひて、彼の浦人を先に立てて渡りけるに、股・腰に立つ所も有り。深き所ぞ、髪をぬらす程なる所、中二段計りぞ有りける。さて、「是より嶋の方は皆浅く候ふぞ」と教へて帰りにけり。
明くる廿六日辰の剋に、平家の方より又扇を上げて「渡せや、渡せや」とて源氏を招く。思ひ儲けたる事なれば、佐々木三郎盛綱、黄生の直垂に黒糸威の鎧に黒馬に乗りて、家子郎等相具して、廿二騎にて、「盛綱瀬踏み仕らむ」とて、ざつと渡しけり。参河守・土肥次郎是を見て、「馬にて海を渡す様やは有る」と諌むれども、盛綱▼P3317(六三オ)耳にも聞き入れず渡しけり。馬の草脇・〓[革+ 引]尽に立つ所も有り、馬の游ぐ所、中程に只二段計りに見えければ、源氏の軍兵是を見て、「我も、我も」と渡しけり。
佐々木三郎以下、敵の前に渡し付きて、上野国住人和見八郎と、平家郎等讃岐国住人加江の源次と組みたりけるに、和見八郎まろびにけり。和見が従父兄弟に小林三郎重高と云ふ者、加江の源次に組みたりけり。組みながら二人海へ入りにけり。小林が郎等に岩田源太、主は海へ入りぬ、連きて入るべき様も無かりければ、弓のはずをとらへて、沫の立つ所へ差し入れて探りければ、者こそ取り付きたれ。引き上げて見れば、敵が腰につかみ付きたり。主をば取り上げて、敵をば船のせがひに押し当てて、頸をかい切りて取りにけり。平家是を見て、船共押し出だしけり。源氏は船無ければ、追ひても行かず、遠央に射けれども、勝負を決せず。▼P3318(六三ウ)力及ばず、本の陣へぞ帰りける。昔より馬にて海を渡す事ためし無かりけるに、佐々木三郎初めて渡しけり。時に取りては、ゆゆしき高名にてぞ有りける。平家は小嶋の軍に打ち負け、屋嶋へ漕ぎ帰る。源氏は陸へ上がりて休みけり。
屋嶋には大臣殿を大将軍として、城〓[土+ 郭]を構へて待ち懸けたり。新中納言知盛は、長門国彦嶋に城を構へて御坐す。ここをば地体は引嶋とぞ申しける。源氏此の事聞きて、備前・備中・備後・安芸・周防を馳せ超えて、長門国にぞ付きにける。長門の国府には、三つの名所ぞ有りける。浜の御所・黒戸の御所・表箭の御所とて、三つ有りき。三河守、名所名所を見むとて、今宵は是に引かへたり。誠に蒼海漫々として礒越す浪の音すごく、深夜に明々として波濤に影▼P3319(六四オ)をぞ浮かべたる。何れも面白からずと云ふ事なし。曙けて引嶋を責めんとせられけるが、門司・赤間の案内知らでは叶はじとて、豊後の地へ渡りて、緒方三郎伊栄を先として、引嶋を責めんとて先づ使を遣はさる。緒方三郎、「尤もさこそ候ふべけれ」とて、五百余艘の迎へ船を奉る。三河守は是に乗りて、豊後の地へぞ渡られける。
卅二 〔平家屋嶋に落ち留まる事〕
十月、又冬にも成りぬ。屋嶋には浦吹く風もはげしくして、礒越す浪も高ければ、兵の責め来る事も無し。船の行き通ふも希也。空かき陰り、雪打ち降りつつ日数経れば、いとど消え入る心地ぞせられける。氷水面に封じて瑩かざるに百練の鏡を翫び、雪林頭に黙して折らざるに三余の花を見る。落葉亦落葉、鷓鴣の背上の紅 幾か残れる、時雨又時雨、上陽窮人の袂豈乾かん▼P3320(六四ウ)や。籬の中の庭の面、寒けき蘆の乾葉まで、冬のさびしさ云ひ知らずぞ思はれける。新中納言かくぞ思ひ連け給ひける。
住み馴れし都の方は余所ながら袖に波越す礒の松風
卅三 〔御禊の行幸の事)
廿三日、都には御禊の行幸あり。同じき廿五日、豊御衣浄せさせ給ひて、節下は後徳大寺の左大臣、其の時は内大臣の左大将にて御坐せしが、勤め給ひけり。去々年先帝の御禊の行幸には、平家の内大臣節下にておはせしが、節下の幄に付きて、前に龍の幡立てて罷り給へりし事、当りを払ひて見えし物を、冠際、袖の懸り、表袴の裾までに勝れて見え給へりき。其の外も彼の一門の人々、三位中将達已下の近衛の佐、御綱に候はれしには、又立ち比ぶ人も無かりき。九郎判官、其の日は本陣に供奉した▼P3321(六五オ)りき。木曽なむどには似ず、是は事の外に京馴れては見えしかど、平家の中に撰び捨てられし人にだにも及ばず、劣りてぞ見えける。
卅四 〔大嘗会、遂げ行はるる事〕
十一月十八日には大嘗会遂げ行はる。去んぬる治承四年より以来、諸国七道の人民、平家の為に滅ぼされ、源氏の為に悩まされて、住宅を捨て山林に交はり、春は東作の思ひを忘れ、秋は西収の営みにも及ばず。されば公のみつぎ物も奉らず。如何にして加様の大礼をも行はるべきなれども、さて又有るべきならねば形の如くぞ遂げられける。
十二月廿日比まで、参河守範頼は西国にやすらひて、し出だしたる事無くて、年も既に暮れにけり。平家都を落ちて、西海の浪上に漂ひ給へども、死生未だ定まらず。東国北国は静かに成りたれども、都の上下、諸国の住民等、是非に迷ひけるこそ不便なれ。
P3322(六五ウ)卅五 〔兵衛佐院へ条々申し上げ給ふ事〕
兵衛佐より院へ申されける状に云はく
源頼朝謹みて奏聞条々の事
一、朝務以下除目等の事
右、先規を守り、殊に徳政を施すべし。但し、諸国受領等、尤も御沙汰有るべく候ふ歟。東国・北国両道の国々、謀叛の輩を追討する間、土民无きが如し。今よりは、浪人等に帰住の旧里を安堵せしむべく候ふ。然れば、来る秋の時、国司に仰せられ、吏務を行なはれむは宜しかるべく候ふ。
一、平家追討の事
右、畿内近国、源氏平家と号し、弓箭に携はる輩、并びに住人等、早く義経の下知に任せて引率すべき由仰せ下さるべく候ふ。海路意に任せずと雖も、▼P3323(六六オ)殊に怱ぎ追討すべき由、義経に仰せ付けらるべく候ふなり。勲功の賞に於いては、其の後、頼朝計らひ申し上ぐべく候ふ。
一、 諸社の事
我が朝は神国なり。往古の神領相違なし。其の外、今度初めて又各々新加せらるべき歟。就中、去んぬる比、鹿嶋大明神御上洛の由、風聞出来の後、賊徒追討、神戮空しからざる者歟。兼ねては又、若し諸社破壊顛倒の事有らば、終功の程、受領の功に召し付けらるべく候ふ。その後、裁許せらるべく候ふ。
一、恒例神事の事
式日を守り懈怠無く勤行すべき由、尋ね沙汰せらるべく候ふ。
一、仏寺の事
▼P3324(六六ウ)諸山御領、恒例の勤めの如く退転すべからず。近年の如くんば、僧家皆武勇を存じ、仏法を忘るる間、行徳を同じからず、閉枢を先とし候ふ。尤も禁制せらるべく候ふ。自今以後に於いては、頼朝の沙汰として、僧家の武具に於いては、法に任せて奪ひ取り、朝敵を追討せん官兵等に与へ給ふべき由、思ひ給へ候ふ所也。以前の条々、言上件の如し。
とぞ書かれたりける。
平家物語第五末
一交し了はんぬ
(花押)
平家物語 十一(第六本)
B2365
P3325(一オ)
一 判官平家追討の為に西国へ下る事 二 大神宮等へ奉幣使を立てらるる事
三 判官と梶原と逆櫓立て論の事 四 判官勝浦に付きて合戦する事
五 伊勢三郎、近藤六を召し取る事 六 判官金仙寺の講衆追ひ散らす事
七 判官、八嶋へ遣はす京の使縛り付くる事 八 八嶋に押し寄せ合戦する事
九 余一助高扇射る事 十 盛次と能盛と詞戦ひの事
十一 源氏に勢付く事、付けたり平家八嶋を追ひ落とさるる事 十二 能盛内左衛門を生け虜る事
十三 住吉大明神の事、付けたり神宮皇后宮の事 十四 平家長門国檀浦に付く事
十五 檀浦合戦の事 付けたり平家滅ぶる事 十六 平家の男女多く生け虜らるる事
十七 安徳天皇の事 付けたり生け虜り共京へ上る事 十八 内侍所、神璽、官庁へ入御の事
十九 霊剣等の事 二十 二宮京へ帰り入らせ給ふ事
P3326(一ウ)
廿一 平氏の生虜共入洛の事 廿二 建礼門院門吉田へ入らせ給ふ事
廿三 頼朝従二位し給ふ事 廿四 内侍所温明殿へ入らせ給ふ事
廿五 内侍所由来の事 廿六 時忠卿判官を聟に取る事
廿七 建礼門院御出家の事 廿八 重衡卿の北方の事
廿九 大臣殿若君に見参の事 三十 大臣殿父子関東へ下り給ふ事
卅一 判官女院に能く当たり奉る事 卅二 頼朝判官に心置き給ふ事
卅三 兵衛佐大臣殿に問答する事 卅四 大臣殿父子并びに重衡卿京へ帰り上らせらるる事 付けたり宗盛等切らるる事
卅五 重衡卿日野北方の許に行く事 卅六 重衡卿切らるる事
卅七 北方重衡の教養し給ふ事 卅八 宗盛父子の首渡され懸けらるる事
卅九 経正の北の方出家の事 付けたり身を投げ給ふ事
B2367
P3327(二オ) 平家物語第六本
一 〔判官平家追討の為に西国へ下る事〕
元暦二年正月十日、九郎大夫判官義経、平家追討のために西国へ下向す。先づ院御所へ参りて、大蔵卿泰経朝臣を以て申しけるは、「平家は宿報尽きて神明仏天にも棄てられ奉りて、都を出で、浪の上に漂ふ。零人を、此の三ヶ年の間、今まで討ち落とさずして、多くの国々塞ぎたる事は、心憂き事にて候へば、今度は人をば知るべからず、義経におきては、平氏を責め落とさずは永く王城に帰るべからず。鬼界・高麗・天竺・振旦までも、義経命有る程は責むべき」由を申す。ゆゆしくぞ聞こえし。法皇聞こし召して御感あつて、「義経が度々の忠、感じ思し召すに余りあり。早く朝敵を追討して逆鱗を休め奉れ」とぞ▼P3328(二ウ)仰せられける。
義経、院御所を罷り出でて打ち立ちける所にても、国々の源氏並びに大名小名にも、院にて申しつるが如く、「少しも後足をも踏み、命をも惜しみ給はん人々は、是より鎌倉へ下り給へ。義経は、鎌倉殿の御代官にて勅宣を奉りたれば、かくは申すぞ。陸は馬の足の及ばむほど、海はろかいの立たむ所まで責めむずる也。夫を無益也、命を大切、妻子を悲しと思はむ人々は、とくとく帰られよ。悪気みえて義経に讒言せられ給ふな」と、見廻してぞ申しける。
屋嶋には、隙行く駒の足早くして、正月も立ちぬ、二月にもなりぬ。春は花にあくがるる昔を思ひ出だして日をくらし、秋は吹きかはる風の音、夜寒によはる虫の音に明かしくらしつつ、船の中、波の上、指して何れを思ひ定むる方なけれ▼P3329(三オ)ども、かやうに春秋を送り迎へ、三年にも成りぬ。「東国の軍兵来る」と聞こえければ、「又いかが有らむずらん」とて、国母を始め奉り、北政所、女房達、賎しきしづのめ・しづのをに至るまで、頭指しつどひて、只泣くより外の事ぞなき。
内大臣宣ひけるは、「都を出でて三年の程、浦伝ひ嶋伝ひして明かし晩すは事の数ならず。人道世を譲りて福原へおはしし手合に、高倉宮を取り逃がし奉りたりしほど、心憂かりし事こそ無かりしか」と宣ひければ、新中納言貰ひけるは、「都を出でし日より、少しも足引くべしとは思はざりき。東国北国の奴原も、随分重恩をこそ蒙りたりしかども、恩を忘れ契を変じて、皆頼朝に語らはれて、西国とてもさこそ有らむずらめと思ひしかば、只郁にて打ち▼P3330(三ウ)死にもして、館に火を係けて塵灰ともならんと思ひしを、我身一つの事ならねば、人並々に心弱くあくがれ出でて、かかる塵日をみるこそ」とて、涙ぐみ給ふ。げにもと覚えて哀れ也。
十三日、九郎大夫判官は淀を立ちて渡辺へ向かふ。相従ふ輩は、
伊豆守信綱 佐土守重行 遠江守義定
斉院次官親能 大内冠者惟義 畠山庄司次郎重忠
土肥次郎実平 土屋三郎宗遠 後藤兵衛実基
子息新兵衛基清 小川小次郎資能 河越太郎重頼
子息小太郎重房 三浦新介義澄 同男平六義村
三浦十郎義連 和田小太郎義盛 同次郎義茂
P3331(四オ) 同三郎宗実 同四郎義胤 大多和次郎義成
多々良五郎義春 佐々木四郎高綱 梶原平三景時
同源太景季 同平次景高 同三郎景義
比良佐古太郎為重・伊勢三郎能盛 椎名六郎胤平
渋谷庄司重国 子息馬允重助 横山太郎時兼
金子十郎家忠 同余一家貞 金平六則綱
大河戸太郎 同三郎 中条藤次家長
熊谷次郎直実 子息小次郎直家 平山武者所季重
小川太郎重成 片岡八郎為春 原三郎清益
庄三郎 同五郎 美尾野四郎
P3332(四ウ) 同藤七 二宇次郎 木曽仲次
武蔵房弁慶なむどを初めとして其の勢五万余騎。
参川守範頼は、神崎へ向かひて長門国へ渡らんとす。相従ふ輩は、
足利蔵人義兼 北条小四郎義時 武田兵衛有義
B2370
千葉介常胤 八田四郎武者朝家 子息太郎朝重
葛西三郎清重 小山小四郎朝政 同中沼五郎家政
佐々木三郎盛縄 比企藤内朝家 同藤四郎能員
安西三郎景益 同小次郎時景 宮藤左衛門資経
同三郎資茂 天野藤内遠景 大胡太郎実秀
小栗十郎重成 伊佐小次郎朝正 一品房昌寛
P3333(五オ)
土佐房昌俊以下其勢三万余騎。
二 〔大神宮等へ奉幣使を立てらるる事〕
十四日、伊勢大神宮・石清水・賀茂に、院より奉幣使を立てらる。平家追討并びに三種神器、事故なく都へ返し入らせ給ふべきよしを祈り申さる。上卿は、堀川の大納言忠親卿也。神祇官人、諸社の社司、本宮本社にて調伏法を行ふべきよし、同じく仰せ下さる。
参河守・大夫判官已下の追討使、日来渡辺・神崎両所にて船ぞろへしけるが、今日既に纜を解きて西国へ下るべしと聞こゆ。
十五日、範頼は神崎を出でて、山陽道より長門国へ趣く。海上に船の浮かべる事、幾千万と云ふ事なし。大海に充満したり。
11042
三 〔判官と梶原と逆櫓立て論の事〕
義経は南海道を経て四国へ渡らんとて、大物浜にて、淀江内▼P3334(五ウ)忠利と云ふ者を案内者にて、船ぞろへして軍の談義しけるに、梶原平三景峙、「此の御舟共に逆櫓を立て候はばや」と申しければ、判官「逆櫓とはなんぞ」と宣へば、「船の舳の方に向かひて、又櫓を立て候ふ也。其の故は、陸の軍は、早走りの逸物の曲進退なる馬に乗りて、蒐けむと思へばかけ、引かむと思へば引く。弓手へも妻手へもまはれ、安き事にて候ふ。船軍は、おしはやめ候ひつる後は、押しもどすはゆゆしき大事にて候へば、舳の方にも櫓を立てて、敵つよらば舳なる櫓を以て押しもどし、敵よはらば本の如く艫の櫓を以て押し候ふべし」と申しければ、判官大いに咲ひて宣ひけるは、「軍と云ふは、『面を返さじ、後をみせじ、一引きも引かじ』と人ごとに思ひたる上に、大将軍後に引かへて『係けよ、責めよ』と勧むるだにも、時により折に随ひて、引き退くは軍兵の習ひ也。▼P3335(六オ)まして、兼ねてより逃げ支度をしたらむには、なにかよかるべき」と宣ひければ、梶原重ねて申しけるは、「軍の習ひ、身を全くして敵を亡ぼすをもつて、謀よき大将軍とは申す也。向かふ敵を皆打ち取りて、命の失するを顧みず、当たりを破る兵をば、猪武者とて、あぶなき事にて候ふ」。判官、「いさ猪の事は知らず、やうもなく義経は敵に打ち勝ちたるぞ心地はよき。弓矢取る者の習ひ、後代の名も惜しく、かたへの目も恥づかしければ、一引きも引かじと思ふすら、指し当たりては、時に臨みて後をみする習ひあり。詮は、立てたからん船には、逆櫓とかや千帳万帳も立てよかし。義経は一帳も立つまじ。名字をだにも聞きたからず。抑も又、立ててよからむずるか、畠山殿いかに」と問ひ給ければ、和田小太郎、平山の武者所、熊▼P3336(六ウ)谷次郎、佐々木四郎、渋谷庄司、金子十郎、究竟の者共六十余人並み居たるに、畠山進み出でて申しけるは、「此れ承れ、侍共。大将軍の仰せは今一重面白く候ふ物哉。誠に弓矢取る者の習ひ、一引きも引かじとは人ごとに思ひ候ふ。又、引き候ふまじ。後代の名も惜しく、かたへの目も恥づかしく候ふ。恥が先をば係くる習ひ也。梶原殿が支度の過ぎて申し候ふにこそ候める。な、との、梶原殿」と申しければ、若者共は片方に寄り合ひて、目引き鼻引き咲ひけり。梶原、「由なき事申し出だして」と思ひて、赤面してぞ有りける。
判官宣ひけるは、「抑も梶原が義経を猪にたとへつるこそ奇怪なれ。若党はなきか。景時取りて引き落とせ」と宣へば、伊勢三郎能盛・武蔵房弁慶・片岡八郎為春▼P3337(七オ)など云ふ者共、判官の前に進み出でて、折り塞ぎて、只今取りて引き張るべき気色になりたれば、梶原申しけるは、「軍の談義評定の時、軍兵等心々に存ずる所一義を申すは、兵の常の習ひ也。何にもして平家を亡ぼすべき謀をこそ申したるに、還りて鎌倉殿の御為不忠の御事にこそ候へ。但し、主は一人とこそ思ひたるに、又有りける不思議さよ」とて、腰刀に手打ちかけて、打ちしさりて居たりけり。梶原が嫡男源太景季、次男平次景高、三男三郎景茂、兄弟三人進み出でたり。判官弥よ腹を立て、なぎなたを取りて向かふ処に、三浦別当義澄、是をみて判官を懐き止む。梶原をば、畠山庄司次郎重忠、懐きたり。源太をば、土肥次郎実平、懐きたり。▼P3338(七ウ)三郎をば、多々良五郎義春、懐きて引き居ゑたり。殿原各申しけるは、「御方軍せさせ給ひて平家に聞こえ候はむ事、詮无き御事なり。又、鎌倉殿の聞こし食され候はむ事、其の恐れ少なからず。設ひ日来の御意趣候ふとも、此の御大事を前にあてて、返す返すしからず。何に況はんや、当座の言失聞こし召しとがむるに与はず」と、面々に制し申しければ、判官も由なしとや思ひ給けん、しづまり給ひにけり。此をこそ、梶原が深き遺恨とは思ひけれ。
判官、「敵に会ひて軍せむと思はむ人々は義経に付けや」と云ひければ、畠山を初めとして、一人当千の棟との者共六十余人、判官に付きにけり。梶原は、なほ 鬱りを含みて、「判官の手に付きて軍せじ」とて、参川守に付きて長門国へぞ渡りにける。
四 〔判官勝浦に付きて合戦する事〕
▼P3339(八オ)同十六日、北風俄かに吹きければ、判官の船を初めとして、兵船共南をさしてはせける程に、俄かに又南風はげしく吹きて、船七八十艘、渚に吹き上げられて、散々に打ち破れたり。破舟共修理せむとて、今日は留まりぬ。風やなほると待つほどに、三ヶ日まで風なほらず。三日と云ふ寅の剋計りに村雨そそきて、南風しづまりて、北風又はげしかりけり。
判官、「風は既になほりたり。とくとく此の舟共、出だせ」と宣ひければ、水手梶取共申しけるは、「此れ程の大風には争でか出だし候ふべき。風すこしよはり候はば、やがて出だし候ふべし」。判官「向かひたる風に出だせと云はばこそ、義経が僻事にてもあらめ。是程の追ひ手の風に出ださざるべき様やある。其の上、日よりもよく、海上も静かならば、『今日こそ源氏渡らめ』とて平家用心をもし、勢をもそろへて▼P3340(八ウ)待たむ所へ渡り付きては、是程の小勢にては争でか渡るべき。『かかる大風にはよも渡らじ。船も通はじ』なむど思ひて、平家思ひ寄らざる所へするりと渡りてこそ、敵をば打たむずれ。『火に入るも業、水に溺るるも業』と云ふ事のあるぞ。とうとう此の船出だせ。出ださぬ物ならば、一々に射殺し切り殺せ』とののしり給ひければ、伊勢三郎能盛片手矢はげて走り廻りて、水車梶取共を射殺さむとしければ、『なにとしても同じ死ござむなれ。さらば出だして、はせ死にに死ねや』とて、二月十八日寅の時計りに、判官の船を出だす。
百五十艘の船の内、只五艘出だして走らかす。残りの船は皆留まりにけり。一番、判官の船。二番、畠山。三番、土肥次郎。四番、伊勢三郎。五番、佐々木四郎。已上五艘ぞ出だしたりけり。『余の船にはかがり火とぼすべからず。義経が▼P3341(九オ)船ばかりにとぼすべし。是を本船として走らかせ。敵に船の数しらすな』とて、大物の浜より帆引き係けて、南へ向けて走らかす。判官の船には究竟の梶取共乗りたりけり。其の中の梶取においては、四国九国の間には四国を以って先とす。中には土佐国を以つて最とす。当国一宮の梶取、赤次郎大夫を召し具されけり。大物の浦より三日に走る所を、只二時に阿波国蜂間尼子の浦にぞ付きにける。船五艘に兵五十余人、馬五十疋ぞ乗りたりけり。
汀より五六丁計り上がりて、阿波民部大夫成良が叔父、桜間外記の大夫良遠と云ふ者、大将軍にて、三百余騎が赤旗、卅流れ計り捧げて打ち立ちたり。判官、是をみて、「ここに敵は有るなるは。物の具せよや、殿原。▼P3342(九ウ)浪にゆられ風に吹かれて立ちすくみたる馬、左右無く下ろしてあやまちすな。息より追ひおろせ。船に付けておよがせよ。馬の足とづかば船より鞍はおけ。其の間に鎧具足は取り付けて、船より馬の足とづかば浪の上にて弓引くな。射向けの袖をまかうに当てて汀へ馳せ寄せよ。敵よすればとて騒ぐべからず。今日の矢一筋は敵百人と思ふべし。あなかしこ、あだや射るな」とぞ下如しける。礒五六丁より息にて馬共追ひ下ろし、船引き付け引き付け游がせたり。馬の足とづきければ船より馬に乗り移り、五十余騎の兵共、射向けの袖をまかうにあてて、汀へさつと馳せ上がりたり。
判官、まさきに歩ませ出でて、「音にも聞け、今は目にもみるらむ。清和天皇より十代の孫、鎌倉の前右兵衛佐源頼朝が舎弟、九郎大夫判▼P3343(一〇オ)官義経なり。大将軍は誰れ人ぞ。名乗れ名乗れ」と責めけれども、外記大夫義遠、有りけれども音もせず。三百余騎くつばみを並べて、をめいてかく。判官、是をみて、「きやつばらは然るべき者にては無かりけり。一々に頸切り懸けて軍神に祭れや」とて、五十余騎の兵者共、平家の三百余騎の中ヘ叫びて蒐け入りければ、中をあけてぞ通しける。源氏の軍兵取り返して、立さま横さまに散々に係けたりければ、三百余騎の兵共、一こらへもせず四方ヘ退散す。強る者をば頸を切り、弱る者をば生け取りにしければ、大将軍外記の大夫も生け虜られにけり。
判官、軍に打ち勝ちて、悦びの時作りて、「抑も、此の浦を何くと云ふぞ」と問はれければ、浦の長、次郎大夫と云ふ者申けるは、「勝浦と申し候ふ」。判官宣ひけるは、「義経がP3344(一〇ウ)只今軍に勝ちたればとて色代に申すか」。「其の儀にては候はず。是は仁和寺の御室御領、五ヶ庄の内にて候ふ。文字『勝浦』と書きて候ふなるを、下臈は申しやすきに付けて、『かつら』と申し候ふ」と申したりければ、判官、「義経が軍の門出に、勝浦と云ふ処に着きて、先づ軍に勝ちたるうれしさよ。末も憑し。な、殿原」とぞ宣ひける。
五 〔伊勢三郎、近藤六を召し取る事〕
さて是より屋嶋へ向かはむとする処に、武者百騎計りにて歩み向かひたり。判官、是をみて、「こはいかに。旗もささず、笠じるしもなし。源氏の軍兵にてもなし、平家の軍兵ともみえず。何者ぞ。能盛、馳せ向ひて尋ねよ」と宣ひければ、伊勢三郎、十五騎にて行き向かひて、何とかしたりけむ、齢四十計りなる男の黒革威の鎧きたるを、甲をぬがせて、弓をはづ▼P3345(一一オ)させて具して参りたり。判官、「汝はなに者ぞ。源氏の軍兵か。平氏の御方か」と問はれければ、「源氏平氏の軍兵にても候はず。当国の住人、坂西の近藤六親家と申す者にて候ふ。当時、日本国の乱れにて安堵しがたく候ふの間、参り候ふ。淑氏にても渡らせ給へ。平氏にても渡らせ給へ。世を討ち取らせ給ひて、我が国の主とならせ給はむ人を主と憑み進らせ候ふべし」と申しければ、「尤も然るべし。さらば当国の案内者、仕るべし。さるにても大将軍の物の具をば脱がせよ」とて、物の具ぬがせて召し具したり。
判官、親家に問はれけるは、「抑も、屋嶋に当時、勢いかほど有りなむ」。「千騎計りにはよも過ぎ候はじ。九国の住人等、臼杵・経続・松浦党、緒方三郎まで皆平家を背き奉りて候ふ間、能登守殿、小松殿の君達を大▼P3346(一一ウ)将軍として、所々へ打手に指し向けられて候ふ。其の上、阿波讃岐の浦々嶋々に四五十騎、七八十騎、百騎二百騎づつ分け置かれて候ふ間、今日明日は勢も候はぬよし承り候ふ」と申しければ、「さては吉き隙ごさむなれ。屋嶋よりこなたに平家の家人は無きか」。「此より一里計り罷り候ひて、新八幡と申す宮候ふ。其よりあなた、勝の宮と申す所に、阿波民部大夫が子息、田内左衛門成直と申す者ぞ、三千余騎にて陣を取りて候ふなり」と申しければ、判官「よかんなるは。打てや、殿原」とて、畠山庄司次郎重忠・和田小太郎義盛・佐々木四郎高綱・平山武者季重・熊谷次郎直実・奥州佐藤三郎兵衛継信・同舎弟佐藤四郎忠信、究竟の兵者、已上七騎、早走りの進退▼P3347(一二オ)なるに乗りて歩ませつあがかせつ、屋嶋の館へぞ馳せ行きける。
六 〔判官金仙寺の講衆追ひ散らす事〕
中山の道より、一丁計り入りたる竹の内に、栗守后の御願、金仙寺と云ふ堂あり。彼の堂にて、在地人等集まりて、毎月十八日に観音講を初めて行ひけるが、大饗盛り備へて、既に行はむとて、どどめきけるを、判官聞き給ひて、「ここにこそ敵は有んなれ」とて、時を作りて、はつと押し寄せたりければ、在地人等百姓太郎共、時の音を聞きて、取る物も取りあへず、山の奥、谷の底へ逃げ隠れにけり。
判官、堂に馳せ入り見給へば、饗膳いくらもすゑならべたり。大きなる桶に酒入れて置きたり。「我れ等が儲けはしたりけるぞや。はや殿原、講の座に着き給へや」とて、判官、横座に着かれたれば、伊勢三郎、怱ぎよつて、ゆゆしげなる饗膳、判官の前に居ゑたり。人々▼P3348(一二ウ)はせつかれたりければ、我劣らじと行ひけり。飯酒共によく行ひて後、判官「すでに行ひつ。争でか式よまで有るべき。講式よめ、殿原」と宣ひければ、武蔵房「承りぬ」とて、黒革綴の大荒目の鎧に小具足して、黒つばの失おひ、太刀はきながら、甲をぬいで仏前へよつてみれば、すすけたる巻物一巻あり。観音講式なり。弁慶、大きなる音を上げて、堂響く計り高声に読みたり。よみ終はりて後、「吉く読みたり。読みすまいたり。但し、講師御房のすがたこそ怖ろしけれ」とて、判官咲はれければ、人々も、はと咲ひけり。さて、彼の講衆等を召して、太刀袋より沙金三十両を取り出ださせて、給はりたりければ、彼等悦び申して、「哀れ、月毎にかかる悦びにあはばや」とぞ申しける。
七 〔判官、八嶋へ遣はす京の使縛り付くる事〕
▼P3349(一三オ)彼の堂より三丁計り打ち出でたりける所にて、貲直垂に立烏帽子きたる下種男の、京より下るとおぼしくて、立文一つ持ちて、判官の先に行きけるを、判官、彼の男を呼び留めて、「いづくよりいづくへ行く人ぞ」と問ひ給ひければ、此の男、判官ともしらで、国人かと思ひて、「是は京より屋嶋御所へ参り候ふなり」と云ひければ、判官、「是も屋嶋の御所へ参るが、道の案内も知らず」。「さらばつれ申さん」。京よりは何なる人の御許よりぞ」と重ねて問ひ給へば、六条摂政殿の北の政所の御文にて、屋嶋に渡らせ給ふ大臣殿へ申させ給ふべき事候ひて、進らせさせ給ふ御使にて候ふなり」と申せば、「其の御文には何事を仰せられたるやらむ」。「別の子細にて候はず。『源氏九郎判官、既に都を立ち候ふ。此の波風しづまり候ひなば、一定、渡り候ひぬと覚え候ふ。御▼P3350(一三ウ)用意候ふべし』と申させ給ふ御文にて候ふ」と有りのままに申したりければ、判官「其の文進らせよ」と宣ふままに、文引きちぎりて水に投げ入れて、男をば「無慚げに命をば、な殺しそ」とて、山の中なる木に縛り付けて通りにけり。
さて其の日は、阿波国板東・板西打ち過ぎて、阿波と讃岐の境なる中山のこなたの山口に陣を取る。
八 〔八嶋に押し寄せ合戦する事〕
次の日は、引田浦・丹生社・高松郷打ち過ぎて、屋嶋の城へ押し寄せたり。屋嶋には阿波民部大夫成良が子息、田内左衛門成直を大将軍として、三千余騎にて、河野四郎通信を責めに伊与喜多郡の城へ向かひたりけるが、河野をば討ち逃して、河野が伯父福浦新三郎以下の輦、百六十余人が首を取りて、屋嶋へ献りたりけるを、▼P3351(一四オ)内裏には首の実検かなはじとて、大臣殿御所にて実検有りけり。
大臣殿は小博士清基を召して、御使にて能登守殿の方へ仰せられたりけるは、「源九郎義経、既に阿波の蜂間・尼子浦に着きたる由、聞こえ候ふ。さる者にて候ふなれば、定めて終夜中山をば越え候ひぬらんと覚え候ふ。御用意あるべし」とぞ有りける。
さる程に夜のあけぼのに、塩干潟一つへだてて、むれ・高松と云ふ処に焼亡あり。「あはや焼亡よ」と云ひもはてねば、成良申しけるは、「今の焼亡はあやまちにては候はじ。源氏の勢、既に近付きて所々に火係けて焼き払ふと覚え候ふ。定めて大勢にてぞ候ふらん。いかさまにも怱ぎ此の御所を出でさせ給ひて、御舟にめされ候ふべし」と申しければ、「尤もさるべし」とて、先帝を初め進らせて、女院・北政所・大臣殿以下の人々、屋嶋の▼P3352(一四ウ)御所の惣門の渚より、御船にめす。
去年の春、一谷にて打ち漏らされし人々、平中納言教盛・新中納言知盛・修理大夫経盛・新三位中将資盛・讃岐中将時実・小松新小将有盛・同侍従忠房・能登守教経、此の人々は皆船に乗り給ふ。大臣殿父子は一つ御船に乗り給へり。右衛門督も鎧きて打立たむとせられけるを、大臣殿、大きにせいし給ひて、手を取りて、例の女房達の中におはしけるぞ憑もしげなく、大将軍がらもしたまはざる。残りの人々も、是を見給ひて、なぎさなぎさによせおいたる儲け舟共に我先にと諍ひ乗りて、或いは七八丁計り、或いは一丁計り、息へ指し出だしてぞおはしける。
御舟にめされつる惣門の前の渚に、武者七騎馳せ来たる。舟々より是を見て、「あはや、敵よせたり」と▼P3353(一五オ)詈るめり。一番に進みける武者をみれば、赤地錦の直垂に紫すそごの鎧に、鍬形打ちたる白星の甲に濃紅の布呂懸けて、廿四指したる小中黒の矢に金作りの太刀はいて、滋藤の弓のま中取りて、黒馬の太く呈しきに白覆輪の鞍置き乗りて、打ち出でたり。判官、船の方をまぼらへて、「一院の御使、鎌倉兵衛佐頼朝が舎弟、九郎大夫判官源義経」と名乗り係けて、波打際に馬の太腹むながひづくしまで打ちひてて、大将軍に目を係けて、「返せや返せや」とぞ叫び係けたりける。大臣殿、判官が名乗り係くるを聞き給ひて、「此の武者は聞こゆる九郎にて有りけるぞや。僅かに七騎にて有りける物を。分散りにも足らざりけり。今暫くもありせば、打ちてし物を。能登殿、上がりて軍し給へ」と宣ひければ、能登殿「承り▼P3354(一五ウ)候ひぬ」とて、三十余艘にて、船の舳にかいだてかきて、「おせや、こげや」とて押し寄せたり。
判官船に向かひて戦ひけり。畠山庄司次郎重忠進み出でて申しけるは、「音にも聞け。今は目にも見るらん。武蔵国住人秩父の流れ、畠山庄司次郎重忠と云ふ者ぞ。我と思はん者は出でて押し並べて組めや」と申して、をめいて係く。同国住人熊谷次郎直実、同国住人平山武者季重、一人は奥州佐藤三郎兵衛継信、同舎弟佐藤四郎兵衛忠信、一人は相模国住人三浦和田小太郎義盛、一人は近江国住人佐々木四郎高綱、七騎の者共、我も我もと名乗り係けて、船に向かひて歩ませ出でて、追物射に散々に射る。平家も、舳・屋形に掻楯かきて、是も散々に▼P3355(一六オ)射る。七騎の人々、馬の足をも休め、我が身の息をも継がむとては渚に寄せ、置いたる船の隠れに馳せ寄つて、しばし息をも休めてければ、また馳せ出だして名乗り係けて散々に射る。
判官矢面に立ちて我一人と責め戦ひければ、奥州住人佐藤三郎兵衛、同舎弟四郎兵衛、後藤兵衛実基、同子息新兵衛基清等、大将軍を打たせじとて、判官の面に立ち戦ひけり。此にて常陸国住人鹿嶋六郎宗綱、行方余一を始めとして、棟人の者共四十余人打たれにけり。能登守は小船に乗りてするりと指し寄せて、指しつめ指しつめ射させて引き退く。次に片岡兵衛経俊、胸板の余りを射させて同じく引き退く。次に河村三郎能高、内甲を射させて、矢と共に落ちにけり。
其の時奥▼P3356(一六ウ)州の佐藤三郎兵衛継信は、黒革綴の鎧に黒つばの征矢おうて、黒〓[年+島]毛なる馬に乗りて蒐け出でたりけるが、頸の骨を射させて、ま逆に落ちにけり。能登殿の童に菊王丸とて、大力の早者にて有りけるが、元は能登守の兄、越前の三位の召し仕ひけるが、三位湊川にて打たれ給ひて、能登守に付きたりけり。萌黄の腹巻に左右の小手指して、三枚甲の緒をしめて、太刀をぬき、船より飛び下りて、佐藤三郎兵衛が頸を取らんとて打ちかかる所を、弟佐藤四郎兵衛、よりはあはで立ち留まりて、よつ引いて射る箭に、菊王丸が腹巻の引合をつと射ぬく。一足も引かず、うつぶしに倒れにけり。能登守是を見て、太刀をぬきて船より飛び下りて、童がか▼P3357(一七オ)いなをむずと取りて、船へ投げ入れ給ひければ、童は船の内にて死にけり。
佐藤三郎兵衛継信は、僅かに目許りはたらきけるを、肩に引きかけて判官のおはする所へ来る。判官、継信が枕上に近よつて、「義経はここに有るぞ。何事か思ひ置く事ある。一所にてとこそ契りたりしに、汝を先に立つるこそ口惜しけれ。義経若しいき残りたらば、後世をばいかにも訪はんずるぞ。心安く思へ」と宣ひければ、継信よに苦しげにて気吹き出だして、「弓矢を取る男の、敵の矢に中りて死ぬる事は、存じ儲けたる事に候ふ。全く恨みと存じ候はず。但し奥州より付き進せ候ひつるに、君の平家を責め落とし給ひて、日本国を手ににぎらせ給ひ、今はかうと思し食し候はんを見進らせて候はば、いかにうれしく候はん。今は夫のみぞ心に係り▼P3358(一七ウ)て覚え候へ」と申しければ、判官聞き給ひて、涙を浮かべて、「誠にさこそ思ふらめ」と宣ひけるほどに、継信はやがて息たえにけり。
奥州より判官上り給ひける時、秀衡が献りたりける、貞信が「をき墨の朱」と申す黒馬の、すこしちひさかりけるが、名をば「薄墨」と申して、早走りの逸物也。一の谷をも此の馬にて落とし、軍ごとに此の馬に乗りて、一度も不覚し給はざりければ、「吉例」とも名付けられたり。判官の五位の尉に成り給ひける時も、此の馬に乗り給へりければ、余りに秘蔵して「大夫黒」とも名付けられたり。身もはなたじと思ひ給ひけれども、佐藤三郎兵衛が悲しくおぼされたりける余りに、此の馬に黄覆輪の鞍を置きて、近き所より僧を請じて、「志計りはいかにとおぼせども、かかる軍場なれば力及ばず。▼P3359(一八オ)ここにて一日経を書きて、佐藤三郎兵衛が後生能々訪ひ給へ」と宣ひければ、是を見聞ける兵共、皆涙を流して、「此の殿の為には命を捨つる事情しからず」とぞ各の申し合ひける。
さるほどに勝浦にて戦ひつる淑氏の軍兵共、おくればせに馳せて追ひ付きたり。足利蔵人義兼、北条四郎時政、武田兵衛有義、酒井平次経秀、三浦介義澄、同十郎義連、土屋三郎宗遠、稲毛三郎重成、同四郎重朝、同五郎行重、葛西三郎清重、小山四郎朝政、中沼五郎宗政、宇津宮四郎武者朝重、佐々木三郎盛綱、安西三郎明益、同小太郎明景、比企藤内朝家、▼P3360(一八ウ)同四郎能員、大多和三郎義成、大胡太郎実秀、小栗十郎重成、伊佐小次郎朝正、一品房昌寛、土佐房昌春等を始めとして、四十余人にて馳せ加はる。
此の外の武者七騎馳せ来たる。判官、「何者ぞ」と問はれければ、「故八幡太郎殿乳人子に雲上の後藤内範朝が三代の孫、藤次兵衛尉範忠と申す者也。年来は山林に逃げ隠れて有りけるが、源氏の方つよると聞きて走り参りたりけり」。判官いとど力付きて、昔の好み思ひ遣られて、哀れにぞ思はれける。
塩干潟の塩、未だひぬほどなれば、馬のからすがしら、太腹なんどに立ちけるに、馬人けちらされて霞に交はりて見えければ、平家の大勢にも劣らずぞみえける。判官、此の物共を先として、平家の軍兵に指し向かひて▼P3361(一九オ)数剋戦はせけるほどに、平家の軍兵引き退きて、しばしためらひけるところに、
九〔余一助高扇射る事〕
平家の方より船一艘進み来たる。師船かと見るほどに、兵一人も乗らざりけり。渚近く押し寄せて、一丁余りにゆられたり。暫く有りて、船中より齢廿計りもや有るらんとおぼして、女房の柳裏に紅の袴きたるが、皆紅の扇の月出だしたるをはさみて、船の舳に立てて、是を射よとおぼしくて、源氏の方を招きて、持ちたる扇に指をさして、扇をせがひに立てて、入りにけり。源氏の軍兵、是をみて、「誰を以てか、いさすべき」と評定有りけるに、後藤兵衛実基が申しけるは、「此の勢の中には、少し小兵にてこそ候へども、下野国住人那須▼P3362(一九ウ)太郎資宗が子息、那須余一資高こそ候ふらめ。それこそ係取を三度に二つ射て取る者にて候へ」と申しければ、「さらば召せ」とて、余一を召す。判官「あの扇仕れ」と宣ひければ、資高辞するに及ばず、「承り候ひぬ」とて、渚の方へぞ歩ませける。
余一は褐衣の鎧直垂に、紫すそごの鎧に、大切文の矢に二所籐の弓持ちて、黒〓[年+鳥]毛なる馬に白覆輪の鞍置きてぞ乗りたりける。海の面一段計り歩み出だして、馬のむながひづくしまで打ちひてて、中七段計りにて馬ひかへて見れば、比は二月の中の十日の事なれば、余寒猶はげしき上、けさより北風吹きあれて、海上静かならず。波はいとど立ちまさる。船は浮きぬ沈みぬ漂へば、立てたる扇ひらめいて、座にもたまらずくるめきけり。いづくを何に射るべしとも、射つぼ更に覚えねば、余▼P3363(二〇オ)一目をふさぎ心を静めて祈念す。「願はくは西海の鎮守宇佐八幡大菩薩、殊には氏うぶすな日光権現、宇津宮大明神、今一度本国へ迎へさせ給ふべきならば、弓夫に立ちそひ守り給へ。若し此の矢を射はづしぬる物ならば、永く本国へ返るべからず。腹かいきりて此の海に入りて、毒龍の眷属と成るべし」と祈念して、目を見あげて見ければ、風少し静まりて、扇座席に静まりたり。此に余一、心少しいさばしくして、心の中に案じけるは、「さすがに物の射にく〔き〕は、夏山の峯、緑の木の間より、ほのかに見ゆる小鳥を殺さで射るこそ大事なれ。是は波の上の扇なればたやすかるべしとも、息の船には、主上、建礼門院を始め奉りて、二位殿、北政所、月卿雲客、屋形を並べて目をすまして是をみる。▼P3364(二〇ウ)汀の源氏は九郎大夫判官を初めとして、東国北国の大名小名、小馬を静め、肩を並べて見物す。彼を見、此を案ずるに、何れも晴れならずと云ふ事なし」。されば怯猿の芸を施しける養由、飛雁の声を射ける更〓も、胸しぬべくぞおぼえける。
余一鏑取りてはげて、十二束二伏をよつ引いて、しばしかためて兵ど射たり。浦ひびけと海の面を遠鳴りして、五六段を射渡し、扇の蚊目はたといて、二つにさつとぞさけにける。一つは海に入り七波にゆらる。一つは一丈計り空へ上がる。折節嵐吹きて他にもおとさず、そらに吹き上げて舞ひ遊ぶ。平家の方には是を見て、船ばたを叩き、船屋形を叩き感じけり。源氏の方には前つ輪を叩き、えびらを叩きてどどめきけり。夕日にかかやきて波の上に落ちけるは、秋の嵐に龍田川に紅葉の▼P3365(二一オ)ちりしくかとぞ覚えける。敵も御方も是を見て、一同にあつとぞ云ひ合ひける。
余り感に絶えざるにや、平家の船の中より、年五十余りなる武者の、黒革威の鎧きて大擲刀持ちたるが、扇立つるせがひの上にて舞ひけり。源氏の方より是をみて、「あれを射よ」と云ひけるに、或いは又、「若し射はづいつる物ならば、先に扇を射たりつる事も気味有るまじ。ないそ」と云ふ者もあり。「只とく射よ」と云ふ者もあり。余一、 「射よ」と云ふ時には矢をさしはげ、「な射そ」と云ふをりは矢をさしはづしけるほどに、「ないそ」と云ふ者は少なく、「只射よ」と云ふ者は多かりければ、余一、今度は中指を取りて番へて、又よつ引いて射たりければ、舞ひける武者の内甲を、後ろヘつと射出だしたりければ、男はしばしもたまらず、ま逆さまに海へがぶと入りにける。其度は船中▼P3366(二一ウ)はにがり、おともせず。源氏の方には「あ、いたりいたり」と云ふ者もあり、又「情無く射たり」と云ふ者もあり。
平家の方より弓矢一人、楯つき一人、打ち物持ちたる者三人、小船に乗りて陸に押し寄せて、船より飛び下りて楯をつき向かひて、「寄せよや寄せよや」とぞ招きける。判官是を見て、「若者共、係け出でてけちらせや」と宣ひければ、武蔵国住人丹生屋十郎、同四郎、上野国住人みをのやの四郎、信乃国住人木曽仲太、弥中太、五騎をめいて馳せ向かふ。平家の方より、十五束のぬりのに、鷲羽、鷹羽、鶴本白、破合はせにはいだりける矢を以て射たりけるに、丹生屋十郎が馬の草別を羽ぶさまで射貫かれて、馬は屏風を返す如くに、のけざまに倒れにけり。十郎は足をこして女手の方へ落ち立ちぬ。平家方▼P3367(二二オ)より打ち物持ちたる者、十郎に寄り合ひたり。十郎いかが思ひけん、かいふいて逃ぐる処を、追ひかかりて十郎が甲のしころにかなぐりつく。身命を捨て、さしうつぶきて引きたりければ、甲の緒をふつと引きちぎりて取られにけり。十郎逃げ延びて、馬の影に息つぎ居たり。敵長刀をつかへて扇開きつかふて、「今日近来京童部までも沙汰すなる、平家の御方に越中前司盛俊が次男、上総悪七兵衛景清」と名乗りて、船にぞ乗りにける。平家の方には、是にぞ少し心地なほりて思ひける。
平家の方より二百余騎、楯廿枚もたせて、岡に上がりて散々に戦ふ。源氏、始めは百四五十騎計り有りけるが、ここかしこより二三十騎、四五十騎づつ馳せ集まりにければ、其の勢三百余騎に成りにけり。
判官勝に乗りて、馬の太腹まで▼P3368(二二ウ)海へ打ち入れて責め付けたり。船より熊手を以て判官の甲に係けんとするを、判官は弓をば左の脇に挟みて、右手にては太刀を抜きて、熊手を打ちのけ打ちのけするほどに、いかがしたりけん、弓をとりはづして海へ落とし入れたりけるを、敵熊手にて係けう係けうとするをばしらず、馬の下腹に乗り下がりて、指しうつぶきて、此弓をとらんとらんとしけれども、波にゆられて取られざりければ、岡より是を見て「其御弓捨てさせ給へや。あれはいかにいかに」と音々に詈りけれども聞き給はず。とかくして鞭にてかきよせて、遂に弓を取りて上がり給ひたりければ、兵、口々に申しけるは、「銀金を丸めて作りたる弓なりとも、争でか御命には替へさせ給ふべき。あな浅狼の御心のつれなさや」と申しければ、判官、「や、殿原、義経が弓と云はば、三人ばり五人ばりにてもあらばこそ、聞こゆる源▼P3369(二三オ)氏大将軍の弓のつよさと云ひ沙汰せられて、義経が面目にてもあらめ。それだにも、『義経こそ平家の郎等共に責め付けられて、絶えずして弓を落としたりつるを取りたる。此みよや。弓のよはさ、すがたのおろかさよ』なんど云ひて、披露せん事の口惜しさと云ひ、又鎌倉に聞き給ひて、『無下なりける者よ』と思ひ給はんも心うかるべければ、命にかへて取りたりつるなり」と宣へば、人々是を聞きて、「あな怖しの御心中や」と申して、舌を振りて感じあへり。
其の日は一日戦ひくらして、源氏は夜に入りて、当国の中、芝山、むれ、たかまつと云ふ毛無山に陣を取る。平家は、御所は焼かれぬ、何くに留まるべしともなければ、焼け内裏の前に陣をとる。中三十余丁を隔てたり。源氏は軍にしつかれて、兵共、物具脱ぎ捨てて休みけり。平家其の夜よせて、源氏を▼P3370(二三ウ)夜討ちにせば、なにも有るまじかりけるに、越中次郎兵衛盛次と美作国住人江見太郎時直と先陣を諍ひけるほどに、其の夜も明けにけり。源氏の勢の中には、伊勢三郎能盛計りぞ、「夜討ともぞよする」とて、鎧、小具足取り付けて、弓杖あそこここに立て、終夜立ち明かしたりける。
寅剋許に判官宣ひけるは、「しばしと思ひつるに、軍にはよくつかれにける物哉。いざ殿原、よせむ」とて、六十余騎、甲の緒しめて、平家の陣へ押し寄せて時を作る。平家も周章たりけれども、音を合せてけり。
十 〔盛次と能盛と詞戦ひの事〕
越中次郎兵衛盛次、進み出でて申しけるは、「抑も、源氏の方より昨日名乗り給ふとは聞きしかども、海上遥かに隔たりて、浪にまぎれて慥かにも聞きわかず。今日の大将軍誰そや。名乗れ」と申しければ、伊勢三郎能盛歩み出でて▼P3371(二四オ)申しけるは、「あら、事も愚かや。汝は知らずや。吾が君は、清和天皇よりは十代の御孫、八幡太郎義家朝臣には四代、鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿にて渡らせ給ふぞかし」。盛次聞きあへず申しけるは、「誠にさる事有るらん。鞍馬へ月詣せし三条の橘次と云ひし金商人が蓑笠糧料せおうて、陸奥へ具して下りたりし童名舎那王と云ひし者の事ごさんなれ」。能盛又申しけるは、「かう申すは、越中国砥並山の軍に、山へ追ひ入れられて、からき命生きて、乞食して京へ上りたりける者な。掛けまくも忝く舌の和かなるままに、判官殿の御事な申されそ。いとど冥加尽きなんず。甲斐なき命の惜しからんずれば、助けさせ給へとこそ申さんずらめ」。盛次又いはせもはてず、「若くより君の御恩にて衣食に乏しからず。なにとてか我が身乞▼P3372(二四ウ)食すべき。あはれ、盛次が武蔵国を賜りて下りたりしには、東国の大名小名、党も高家も、はひひざまづいてこそ有りしか。汝は盗みをして妻子を養ひけるとこそ聞きしか。夫はえあらがはじ物を」と云ひければ、金子十郎家忠進み出でて、「殿原雑言無益也。我も人も劣らじ負けじと、空事云ひ付けてそゞろ事云はんには、誰かは劣るべき。口の聞きたらんにはよるまじき物を。さらば打ち出でよかし。去年の春、一谷にて、武蔵、相模の殿原の手なみは見けん物を」と申せば、同じき弟の与一が立ち並びたりけるが、よく引きて放ちたりける矢、盛次が鎧の胸板にしたたかに当たりたりければ、盛次矢風負ひて音もせず。其の後、敵も御方も一同にはと咲ひて、詞戦は留まりにけり。
東国の輩、九郎判官を始めとして、身▼P3373(二五オ)々の讎を云はれて安からずと思ひて、我先を係けんと進みけれども、平家方にも、越中次郎兵衛盛次、上総五郎兵衛忠光、同悪七兵衛景清、飛騨三郎左衛門景経、同四郎兵衛景俊、後藤内貞綱以下のはやりをの若者共、命を惜しまず防き戦ひける上、能登守の矢前に廻る者、一人も命生くるは無かりけり。されば時を移しける程に、源氏の軍兵多く打たれにけり。さる程に夜も明けにけり。
十一 〔源氏に勢付く事、付けたり平家八嶋を追ひ落とさるる事〕
夜明けにければ、風止みぬ。風止みければ浦々嶋々に吹き付けられたる源氏共、船漕ぎ来たりて判官に付きけり。又熊野別当堪増は、鎌倉兵衛佐の外戚の姨母聟にて有りけるが、源氏の軍兵四国へ渡る由を聞きて思ひけるは、「此の事余所に聞きて有るべき身にあらず。但し、今日までも平▼P3374(二五ウ)家の祈りをする者が、いつしか源氏に加はらん事、世の謗りもさる事にて、神慮も又量らひ難し。しかじ只神に任せ奉らむ」とて、若王子の御前に参りて孔子を取りて、白鶏・赤鶏を合はせて、勝負に随ひていづちへも付くべしと思ひ定めて、鳥合をしてみるに、白鳥勝ちにけり。「さては源氏の打ち勝つにて有るごさむなれ」とて、三百余艘の兵船を率ゐて、紀伊国田部湊より漕ぎ来りて源氏に加はる。河野四郎通信も、千余騎の軍兵を率ゐて、伊与国より馳せ来りて同じく源氏に加はりにけり。かかりければ、九郎判官いとど力付きて、荒手の兵入れ替へ入れ替へ戦ひければ、平家遂に責め落とされて、第二日の巳剋には屋嶋を漕ぎ出でて、塩に引かれ風に随ひて、いづくを指して行くともなくゆられ行くこそ悲し▼P3375(二六オ)けれ。判官は軍に打ち勝ちて、三ヶ日屋嶋に逗留して、四国の勢をぞ招きける。
十二 〔能盛内左衛門を生け虜る事〕
判官、伊勢三郎義盛を召して、「阿波民部成良が嫡子田内左衛門成直が大将軍として、三千余騎にて伊与国へ押し渡りて、河野を責めに寄せけると聞く。能盛罷り向かひて、成直召し具して参れ」と宣ひければ、能盛「承り候ひぬ。御旗を給ふべし」とて、旗一流れ申し請けて、僅に十五騎の勢にて馳せ向かふ。「あれほどの大勢にて、田内左衛門が三千余騎の勢をばいかにして生け取りにせむぞ、誠しからず」と者共咲ひあへり。成直は河野館に押し寄せて責めけれども、河野先立ちて落ちにければ、家子郎等あまた生け取りにして、館に火係けて屋嶋へ参り▼P3376(二六ウ)ける道にて、能盛行き合ひたり。白旗・赤旗のあひだ二丁計りにぞ近付きける。赤旗引かへたりければ、白旗も又引かへたり。能盛、使者を立てて申しけるは、「あれは阿波民部大夫成良の嫡子、田内左衛門成直のおはするとみ申すは僻事か。且は聞きもし給ふらん。鎌倉の兵衛佐殿の御弟、九郎大夫判官殿、院宣を蒙らせ給ひて、西国の討手の大将軍に向かはせ給へり。かう申すは伊勢三郎能盛と云ふ者也。一昨日十九日、阿波勝浦にて、和殿の父民部大夫も降人に参りぬ。又叔父の桜間の外記大夫も生け取りにて、能盛が預りて糸惜しくして置きたり。昨日、屋嶋の御所落とされて、内裏焼き払ひて、大臣殿父子生け取られ給ひぬ。能登殿は自害せられつ。小松殿の君達以下、或いは討ち死に、或いは海▼P3377(二七オ)に入り給ひぬ。余党僅かに有りつるは、志度浦にて皆討たれぬ。和君も今一度、父にもみえ、父の生きたる皃をもみ、故郷へも帰らんと思はば、降人に参りて、能盛に付き給へ。判官殿に申して、命計りは生け申さん。かく申すを用ゐずは、通し申すまじきぞ」といはせたりければ、田内左衛門是を聞きて、「此の事粗聞きつるに違はず。一日の命の惜しきも、父の行へを知らむとなり。況や、軍においてをや。平家既に生け取られ給ひにけり。父又降人に成りにける上は、成直誰に向かひて軍をすべき」と思ひて、「さらば降人に参るにてこそ候はめ」とて甲をぬぎ、弓をはづして、郎従にもたす。大将軍かくすれば、家の子郎等も甲をぬぐ。能盛すかしおほせつと思ひて、成直を先に立てて、判官の許へゐて参る。「神妙なり」とて、成直が物具を召して、其の▼P3378(二七ウ)身をば能盛に預けられぬ。残りの兵共是を見て、「これは国々の駈武者にて候ふ。誰を誰とか思ひ進らせ候ふべき。只草木の風に靡くが如くにて候ふべし。我が国の主たらんを、君と仰ぎ奉るべし」と口々に申しければ、「さらばさにこそあんなれ」とて、皆召し具せらる。能盛、僅かに十五騎の勢にて、成直が三千余騎を生虜にして参りけるこそゆゆしけれ。
民部大夫成良は、田内左衛門生虜にせられぬと聞きければ、浦々嶋々泊々に着きたれども、肝心も身にそはで、我が子の行へぞ悲しかりける。四国の輩も此を見て、所々の軍にもすすまざりけり。平家方には、民部大夫成良を副将軍と憑まれたりけれども、四国の輩進まざりければ、漸くうしろ次第にすきて、危くぞみえられける。成良も此の三ヶ年の間、平家に忠を尽くし▼P3379(二八オ)て、度々の軍にも父子共に命を惜しまず戦ひけるが、事の有り様叶ふまじと思ひける上、田内左衛門生虜られにける間、忽ちに九郎判官に心を通はして阿波国へ渡してければ、当国の住人皆源氏に随ひにけり。人の心は無慚の物也。是れも平家の運の尽きぬる故也。
判官は、二月十九日勝浦の戦、廿日屋嶋軍、廿一日志度の戦に討ち勝ちてければ、四国の兵半ばに過ぎて付き従ひにけり。「先づ事の瑞相こそ不思議なれ。源氏は阿波国勝浦につき、軍に勝ち、平家は白鳥、丹生社をすぎ、長門国引嶋に付く。何が有るべかるらん。おぼつかな。平家の行く末、いかにもいかにもはかばかしからじ」なんど、人の口、昔も今もさまざまなりけるほどに、引嶋をも漕ぎ出でて、浦伝ひ嶋伝ひして、筑前国▼P3380(二八ウ)筥崎の津に着き給ひぬ。九国の輩もさながら源氏に心を通はして、筥崎の津へ寄すべしと聞こえければ、筥崎の津をも出で給ひぬ。何くを定めて落ち着き給ふべしともなければ、海上に漂ひて、涙と共に落ち給ひけるこそ無慚なれ。
十三 〔住吉大明神の事、付けたり神宮皇后宮の事〕
三月十九日、住吉神主長盛、院に参りて申しけるは、「去る十六日子剋に、第三の神殿より鏑矢の声出でて、西を指して行きぬ」と奏聞しければ、法皇大いに悦び思し召して、御剣以下、色々幣帛并びに種々神宝を神主長盛に付けて献ぜらる。
昔、神功皇后新羅を責め給ひし時、伊勢大神宮二人の荒みさきを差し副へ奉る。かの二人の御神、御船の艫舳に立ちて守り給ひければ、即ち新羅を誅ち平げて帰り給へり。一神は、摂津国住吉▼P3381(二九オ)郡に留まり給ふ。即ち住吉大明神と申す。此の明神は治まれる世を守らんが為に武梁の塵に交はりて、齢白髪に傾かせ給へる老人の翁にてぞ渡らせ給ひける。一神は、信乃国諏方郡に御宮造も神さびて、行合の間の霜を厭ひ給ふ、崇め奉る。即ち諏方大明神と申す是也。昔、開成王子の金泥の大般若経を書写し給ひしに、西天竺白路池の水を汲みて書かせ給ひしも、此の明神とぞ承る。御体は一丈九尺の赤き鬼神にて渡らせ給ふとかや。されば昔の征伐の事を忘れ給はず、朝の怨敵を滅ぼし給ふべきにやと、法皇憑しくぞ思し召されける。
神功皇后と申すは開化天皇の曽孫、仲哀天皇の后也。仲哀の御敵を討たんが為に、辛亥歳十月二日、懐妊の御姿十月と申しけるに、異国を責めんとて、筑紫の博▼P3382(二九ウ)多津に御幸なりて、御船ぞろへ有りける時、皇子既に生まれ給はんとて動き給ひければ、皇后宣はく、「生まれ給ひて日域の主として位を保ち給ふべき君ならば、異国を討ちて後、生まれ給へ。只今生まれ給ひなば、忽ちに海中の鱗の食と成り給ふべし」と、胎内の皇子に向かひ奉りて宣命を含め給ひしかば、皇子静まり給ひて、うみが月をぞ延べ給ふ。時に皇后、士の体に成り給ひて、御妹の豊姫を具し奉りて、父釈迦羅龍王の御手より、干珠・満珠と云ふ二つの宝珠を得給ひて、跡礒等に振り取らせ、異国へ渡り給ひて、三韓とて新羅・高麗・百済三ヶ国を誅ち靡かし給ひて、同十一月廿八日博多津に還御なつて、十二月二日に皇子誕生成りにけり。其の峙より彼の所をば産の宮とぞ名付けける。仲哀の御敵を討たせ給ひて、皇子誕生の後、代を▼P3383(三〇オ)治め給ふ事六十九年と申しし己丑歳、御歳百一にして崩御成りにけり。彼の皇子と申すは応神天皇にて渡らせ給ふ。今の八幡大菩薩と申すは即ち是也。
十四 〔平家長門国檀浦に付く事〕
平家、屋嶋を落ちぬと聞こえければ、「定めて長門国へぞ着かんずらん」とて、参川守範頼は、相従ふ所の棟との軍兵卅余人を相具して、安芸・周防を靡かして、長門の地にて待ち懸けたり。緒方三郎惟栄は、九国の者共駈り具して、数千艘の船を浮かべて、唐地をぞ塞ぎける。平家は、屋嶋をば落とされぬ、九国へは入れられず、寄る方なくてあくがれて、長門国檀浦、門司関にて、浪上に漂ひ、船中にて日を送る。白鴎の群れ居るを見ては、夷の旗を上ぐるかと疑はれ、いさりの火の影を見ても、▼P3384(三〇ウ)夜討の寄するかと驚きて、各「今は思ひ切りて、檀浦の波ときえ、門司関に名を留めむ」とぞ申されける。新中納言知盛宣ひけるは、「あやしの鳥獣も恩を報じ、徳を報ずる志しあむなり。度々の軍に、九郎一人に責め落とされぬるこそ安からね。今は運命尽きぬれば、軍に勝つべしとは思はず。何にもして、九郎一人を取りて海に入れよ。唐船からくりしつらひて、然るべき人々をば唐船に乗せたる気色して、大臣殿以下宗との人々は、二百余艘の兵船に乗りて、唐船を押しかこめて指し浮かめて待つ物ならば、『定めて彼の唐船にぞ大将軍は乗りたるらん』と、九郎進み寄らん所を、後より押し巻きて中に取り籠めて、なじかは九郎一人討たざるべき」と宣ひければ、「此の議尤も然るべし」とて、其の定にぞ支度しける。▼P3385(三一オ)源氏は、阿波国勝浦に付きて軍に打ち勝ちて、平家の跡目に係けて、長門国赤間関、興津辺津と云ふ所に着きにけり。平家の陣を去る事、三十余丁ぞ有りける。
十五 〔檀浦合戦の事 付けたり平家滅ぶる事〕
▼三月廿四日、源氏義経を大将軍として、軍兵数万騎、三千余艘にて夜のあけぼのに檀浦へぞ寄せたりける。平家も待ち懸けたる事なれば、矢合して戦ふ。源平両氏に相従ふ輩十万余騎なりければ、玄甲雲をなし、流失雨の如し。互ひに時を作る声おびたたし。上は非相天までも聞こえ、下は海底龍宮までも驚くらんとぞ覚えし。
新中納言知盛、船の舳に立ち出でて宣ひけるは、「軍は今日ぞ限り。各少しも退く心あるべからず。天竺、震旦、日本我朝にもな▼P3386(三一ウ)らびなき名将勇士と云へども、運命の尽きぬる上は、今も昔も力及ばぬ事なれども、名こそ惜しけれ。穴賢、東国の奴原に熟しくて見ゆな。いつの料に命を惜しむべきぞ。何にもして九郎冠者を取りて海に入れよ。今は夫のみぞ思ふ事」と宣ひければ、越中次郎兵衛盛次近く候ひけるが、「侍共、此の仰せ承り候へや」と下知しければ、悪七兵衛景清が申しけるは、「中坂東の者共は馬の上にてぞ口は聞き候へども、船軍なんどはいつかなれ候ふべき。魚の木に昇りたるにてこそ候はんずれ。一々に取りて海に漬け候ひなんず」。盛次が申しけるは、「九郎は誅手に上ると承りて、縁にふれて九郎が有様を委しく尋ね候ひしかば、九郎は色白き男の長ひききが、むかばの殊に指し出でて、しるかんなるが、きと見知る▼P3387(三二オ)まじき事は、身をやつして尋常なる鎧なむども着ざんなり。昨日きる鎧をば今日はきず、朝夕着る鎧をば日中には着替ふなり。直垂、鎧の毛を常に着替ふなる時に、遠矢にも射らるまじかんなるぞ。構へて組め」とぞ申しける。景清申しけるは、「九郎は心こそ武くとも、其の小冠者、何事のあらんぞ。片脇に挟みて海へ入れなん物を」とぞ申しける。伊賀平内左衛門家長が申しけるは、「世は不思議の事故。金商人が所従の源氏の大将軍して、君に向かひ奉りて、弓を引き矢を放つ事よ。御運の尽きさせ給ふと云ひながら、心憂く安からぬ事哉」とて、はらはらとぞ泣きける。
新中納言はかく下知し給ひて、大臣殿の御前へおはして、「今日の軍には御方の兵共、以外に事がらよ▼P3388(三二ウ)げに見え候ふ。但し成良こそ心替はりしたると覚え候へ。きやつを打ち候はばや」と宣ひければ、大臣殿、「そも一定を聞き定めてこそ。若し僻事にてもあらば、不便の事にて候ふべし」とて、詳かにも宣はざりければ、新中納言は「あはれ、あはれ」と度々宣ひて、成良を召す。木蘭地の直垂に洗革の鎧着て、御前に跪きて候ひぬ。大臣殿、「何に成良、先々の様に軍のおきてはせぬぞ。四国の者共に『軍よくせよかし』と云へかし。己は臆したるか、今日こそ悪くみゆれ」と宣ひければ、「なじかは臆し候ふべき」と申して立ちにけり。「哀れ、さらばしや頸を切らばや」と知盛思ひ給へども、大臣殿免し給はねば力及ばず。
平家は七百余艘の兵船を四手に作る。山鹿平藤次秀遠が一党、二百余艘にて一陣に漕ぎ▼P3389(三三オ)向かふ。阿波民部成良を先として、四国の者共百余艘にて二陣に漕ぎ続く。平家の公達、三百余艘にて三陣に引かへたり。九国の住人菊池・原田が一党、百余艘にて四陣に支へたり。一陣に漕ぎ向かへたる秀遠が一党、筑紫武者の精兵をそろえて舟の舳に立てて、舳を並べて矢さきを調へて散々に射させければ、源氏の軍兵、射白まされて兵船を指し退けければ、「御方勝ちぬ」とて、攻鼓を打ちて詈りける程に、源氏、つよ弓精兵の矢継早の手全共をそろへて射させける中に、山鶏の羽を以てはぎたりけるが、本巻の上一寸計り置きて、「三浦平太郎義盛」と漆にて書きたりけるぞ、物にもつよくたち、あだ矢も無かりける。さては然かるべき矢無かりけり。
平家是を▼P3390(三三ウ)みて、大矢皆止めて、伊与国新井四郎家長を以て射させたり。手ぞ少しあばらなりけれども、四国の内には第一と聞こえたり。三浦平太郎が射たりける遠矢に、今三段計り射増さりたりけり。其の後源氏も平氏も遠矢は止みにけり。三浦平太郎、遠矢を射劣りたりとや思ひけん、あきま算の手呈にて有りければ、小船に乗りて漕ぎ廻りて、面に立つ者を指しつめ指しつめ射伏せけり。都て矢先にまわる者、射取らずと云ふ事なし。
斎院次官親能は矢面に立ちて詈り懸けて、散々に戦ひけり。平家方より誰とは知らず、武者一人立ち出でて、「親能は右筆の道計りぞ知りたるらん。弓矢の方をば知らじ物を」と申したりければ、敵も御方も一同に「は」とぞ咲ひたりける。親能申しけるは、「文武の二道は即ち定恵の二法な▼P3391(三四オ)るべし。文独り仁義の礼を知るとも、武また逆徳を静めずは争か国土を改むべき。一つも闢けてはあるべからず。鳥の二の翅の如しと云へり。親能は文武二道の達者也。所見なし」とぞ申しける。是を聞きもあへず、「いさとよ、詞にはにずや有るらん。手なみをみばや」とぞ云ひける。親能申しけるは、「幼少の昔より長大の今に至るまで、顕に五常をたしなみ、内に武勇を懸けたりき。尾籠がましげなるしれ者に手なみ見せむ」とて兵ど射る。あやまたず頸の骨射させ、どうど倒る。面目もなき事なれば、平氏の方には音もせず。御方は一同にほめたりけり。是を始めとして、源氏の軍兵、我劣らじと責め戦ふ。
平家は舟を二三重にこしらへたり。唐船には軍兵共を乗せて、大臣殿以下、▼P3392(三四ウ)然るべき人々は兵船に召して、唐船には大将軍乗り給へる由をして、唐船を責めさせて源氏を中に取り籠めて討たんとはかり給ひたりけるを、阿波民部成良、忽ちに心替はりして返忠してんげれば、四国の軍兵百余艘進み戦はず、船を指し退く。平家怪しみをなす所に、成良申しけるは、「唐船には大将軍は乗り給はず、兵船に召したるぞや。兵船を責め給へ」とて、民部大夫が一類、四国の者共指し合せて後より平家の大将軍の船をぞ責めたりける。平家の軍兵周章乱れぬ。「哀れ、新中納言は能く宣ひつる物を」と、大臣殿後悔し給へども甲斐なし。
源氏の者共いとど力付きて、平家の船に漕ぎ寄す。乗り移り乗り移り責めけり。かかりければ、平家の船の水手・梶取、櫓を捨てかいをすてて、船をなほすに及ばず、射▼P3393(三五オ)伏せられ切り伏せられて船底にあり。剣のひらめく事、田面の雷光の如し。虚空を流失の飛ぶ事は、時雨の雨にぞ似たりける。源氏は刀俎の如くにて、平家は魚肉に異ならず。
かく散々と成りにけれども、新中納言は少しも周章たる気色もし給はず。女院、北政所なむどの御船に参り給ひたりければ、女房達音々に「いかにいかに」と、あわてふためき問ひ給ひければ、「今はとかく申すに及ばず。軍は今はかう候ふ。夷共舟に乱れ入り候ひぬ。只今東のめづらしき男共、御覧候はんずるこそ浦山敷く候へ。御所の御船にも見苦しき物候はば、能々取り捨てさせ給へ」とて、打ち咲ひ給へば、「かほどの義に成りたるに、のどかげなる気色にて何条の戯れ事を宣ふぞ」とて、音を調へてをめき叫び給へり。
さる程に、源氏の大将軍九郎判官、源氏よはくみへて平家かつにのる、心うく覚えて、八幡大菩薩を▼P3394(三五ウ)拝し奉り給ふ。其時判官の船のへの上に、俄に天より白雲くだる。近付くをみれば白はたなり。落ち付きては、いるかと云ふ魚になりて、海の面にうけり。源氏是をみて、甲をぬぎ信をいたし、八幡大菩薩を拝し奉りけり。是しかしながら大菩薩の変化也。
かかるほどに、彼のいるかを始めとして、軍の最中に〓と云ふ魚一むれ喰みて、平家の舟に向かひて来たり。大臣殿、小博士清基を召して、「あれは何なるべきぞ。勘へ申せ」と仰せ給ひければ、清基申しけるは、「此〓喰み返り候はば、源氏の方に疑ひあり。喰み通り候はば、君の御方危ふく候ふべし」と勘へ申しけるに、此〓少しも喰み返らず、平家の船の下を通りにければ、清基、「今はかう候ふぞ」とぞ申しける。此を聞き給ひける人々の御心の内、押し量られて哀れ也。さこそは浅猿くも心憂くも覚しあはれけめ。
新中納言は一門の▼P3395(三六オ)人々、侍共の最後の戦ひせられけるを見給ひて、「殿原や、侍共に禁せて、とくとく自害し給へ。敵に取られて憂名流し給ふな」とぞ宣ひける。
二位殿は「今はかう」と思はれければ、ねりばかまのそば高く挟みて、先帝を負ひ奉り、帯にて我御身に結ひ合はせ奉りて、宝剣をば腰にさし、神璽をば脇にはさみて、鈍色の二衣打かづきて、今は限りの船ばたにぞ臨ませ給ひける。
先帝、今年は八に成らせ給ひけるが、折しも其日は山鳩色の御衣を召されたりければ、海の上を照らしてみえさせ給ひけり。御年の程よりもねびさせ給ひて、御皃うつくしく、黒くゆらゆらとして御肩にすぎて、御背にふさふさとかからせたまへり。二位殿かくしたためて、船ばたに臨まれければ、あきれたる御気色にて、「此はいづちへ行かむずるぞ」と仰せ有りければ、「君は知食さずや、穢土は心憂き▼P3396(三六ウ)所にて夷共が御舟へ矢を進らせ候ふ。ときに極楽とて、よに目出たき所へ具し進らせ候ふぞよ」とて、王城の方を伏し拝み給ひて、くだかれけるこそ哀れなれ。「南無帰命頂礼、天照大神、正八幡宮、慥かに聞こし食せ。吾が君十善の戒行限り御坐せば、我国の主と生まれさせ給ひたれども、未だ幼くおはしませば、善悪の政を行ひ給はず。何の御罪に依つてか、百王鎮護の御誓ひに漏れさせ給ふべき。今かかる御事に成らせ給ひぬる事、しかしながら我等が累葉一門、万人を軽しめ、朝家を忽緒し奉り、雅意に任せて自ら昇進に驕りし故也。願はくは今生世俗の垂迹、三摩耶の神明達、賞罰新たにおはしまさば、設ひ今世には此の誡めに沈むとも、来世には大日遍照弥陀如来、大悲方便廻らして必ず引接し玉へ。
今ぞしるみもすそ川の流れには浪の下にも都ありとは
▼P3397(三七オ)と詠じ給ひて、最後の十念唱へつつ、波の底へぞ入られにける。
是を見奉り給ひて、国母建礼門院を始め奉りて、先帝の御乳母・帥典侍、大納言典侍以下の女房達、声を調へてをめき叫び給ひければ、軍よばひにも劣らざりけり。悲しき哉、無常の暴風、花の皃を散らし奉り、恨めしき哉、分段のはげしき波、玉体を沈め奉る事を。殿をば「長生」と名づけて長き栖と定め、門をば「不老」と号して老いせぬ門と祝ひき。河漢の星を宝算に喩へ、海浜の砂を治世によそへ奉りしかども、雲上の龍降りて海底の鱗と成り給ひにける、御身のはてこそ悲しけれ。十善帝王の御果報、申すも更に愚か也。大梵高台の閣の上、釈提喜見の宮の中、古は槐門棘路に連なりて九族を営まれ、今は船中波底に御命を一時に失ひ給ふぞ哀れなる。二位殿は深く沈みて見え給はず。
女院は御焼石と御硯▼P3398(三七ウ)箱とを左右の御袖に入れさせ給ひて、海に入らせ給ひにけるを、渡辺源五右馬允番が子に源兵衛尉昵と云ふ者、怱ぎ踊り入りてかづき上げ奉りたりけるを、父源五右馬允番、熊手を以て御ぐしをからまきて、船へ引き上げ奉りにけり。比は三月の末の事なれば、藤重の十二単をぞ召されける。翡翠の御ぐしより始めて、玉体ぬれぬ所も無かりけり。
帥佐殿も「後れ奉らじ」と飛び入り給ひけるを、御袴と衣のすそとを船ばたに射付けられて、沈み給はざりけるを、是も昵が取り上げ奉りてけり。女院は取り上られさせ給ひて、しほしほとして渡らせ給ひけるを、昵、よろひ唐櫃の中より白き小袖一重取り出だして進らせて、「御祚を此に召し替へられ候ふべし」と申して、「君は女院にて渡らせおはしまし候ふか」▼P3399(三八オ)と申したりければ、御詞をば出ださせ給はで、二度うつぶかせ給ひたりけるにぞ、女院とは知り進らせたりける。女院は昵が船に入らせ給ひたる由、申したりければ「御所の御舟へ渡し進らせよ」とて、渡し奉りて守護し奉る。近衛殿北政所も飛び入らせ給はんとし給ひけるを、兵共参りて取り留め奉る。判官、伊勢三郎能盛を召して、「海には大事の人々の入り給ひたんなるぞ。『取り上げ奉りたらん人々には狼籍仕るな』と下知せよ」と宣ひければ、能盛小船に乗りて此の由をふれまはる。
さる程に、兵共御船に乱れ入りぬ。兵、内侍所の渡らせ給ふ御舟に乗り移りて、御唐櫃の鎖ねぢ破りて、取り出だし奉らむとて、御箱のからげ緒切りて、蓋をあけなんとしければ、忽ち目もくれ鼻血垂りけり。平大納言の近く候ひ給ひけるが、「あれは、▼P3400(三八ウ)内侍所とて、神にて渡らせ給ふぞ。凡夫の見進らすべきにてはなきぞ。遠くのき候へ」と宣ひければ、兵捨て奉り、はうはうのきにけり。判官是を見給ひて、平大納言に仰せて、元の如く御唐櫃に納め奉りにけり。世の末なれども、かく霊験のおはしますこそ目出たけれ。
平中納言教盛、修理大夫経盛二人は、敵の船に乗り移りけるを打ち払ひて立たれたりけるが、「主上既に海ヘ入らせ給ひぬ」と詈りければ、「いざ御共せむ」とて、鎧の上に碇を置きて、手を取り組みて海ヘ入れられにけり。小松内大臣の御公達はあしこここにて失せ給ひぬ。今三人おはしつるが、末の御子、丹波侍従忠房は、屋嶋の軍よりいづちか落ち給ひけん、行方を知らず。新三位中将資盛は、敵に取り籠められける所にて、自害して失せ給ひぬ。弟小将有P3401(三九オ)盛、人々海ヘ入り給ふを見給ひて、つづきて海ヘ入れられにけり。
大臣殿父子は、御命惜しげにて、海へも入り得給はず。船のともへにあちこち違ひ行き給けるを、侍共余りのにくさに、心を合はせて通様に逆さまにつき入れ奉る。子息右衛門督は父のつき入れられ給ふを見給ひて、やがて海ヘ入りにけり。皆人は重き鎧の上に、重き物を負ひたり懐きたりして入ればこそ沈みけれ、是は父子共にすはだにて、而も究竟の水練にておはしければ、大臣殿沈みもやらせ給はず。右衛門督は、「父沈み給はば清宗も沈まむ。父助かり給はば我も助からん」と思ひて、波に浮びておはしけり。大臣殿は、「此の子死なば我も死なん。生きば共に生きん」と思し召して、互ひに目を見合せて、沈みやり給はず、游ぎありき給ひけるを、伊勢三郎能盛船を押しよせて、先づ右衛門督を熊手▼P3402(三九ウ)に係けて引き上げ奉りけるを、大臣殿見給ひける上は、いとど心細くて沈みもやり給はず。能盛が船ばたへ游ぎよつて、取り上げられ給ひにけり。
大臣殿取られ給ふを、御乳人子の飛騨三郎左衛門景経が見て、「何者なれば君をば取り奉るぞ」と云ひて、打ちて懸りけるを、伊勢三郎が童、中に隔たりて戦ひける程に、甲の鉢をしたたかに打たれて、甲落ちにけり。二の刀に首を打ち落としつ。能盛既に打たるべかりけるを、堀弥太郎、寄り合はで立ち留まりて射たりけるに、内甲に中りてひるみける所を、弥太郎弓を捨てて懐きたりけり。上になり下になりしける程に、弥太郎が郎等、景経が鎧の草摺を引き上げて指したりければ、内甲も痛手にてよわりたりける上に、かくさされてはたらかざりければ、頸をかいてけり。▼P3403(四〇オ)大臣殿取り上げられて、目の前にて景経がかく成るを見給ひけり。何計りの事をか思し食しけむと無慚也。
能登守は、今はかうと思ひ給ひければ、敵責め係かりけれども、少しも飜らず戦ひ給ふ。矢比に廻る者をば悉く射伏せ、近付く者をば寄り合ひつつ、引つさげて海へ投げ入れければ、面を向くる者無かりけり。新中納言宣ひけるは、「能登殿、いたく罪な作り給ひそ。しやつばらけしかる者共とこそみれ。詮無しとよ。さりとて吉き敵かは」と宣ひければ、能登殿は大童に成りて、「我生け取りにせられて、鎌倉へ下らんと云ふ志あり′。寄り合へや者共、とれや者共」とて、判官の船に乗り移られにけり。
判官さる人にて、心得て、鎧を着替へ、身をやつして、尋常なる鎧もき給はず。あちちがひ、こちちがひ、つまる事無かりけるが、いかがし▼P3404(四〇ウ)たりけむ、追ひつめられて、今はかうと思ひ、小なぎなた脇に挟むでつい鎧ひ、いかがせんと思はれける処に、小船一艘通りけるが、中二丈計り有りけるに飛び移り給ひければ、能登殿是をみて、判官の鎧のしざりの袖をつかまへて引き給ひけれども、引きちぎりて隣の船に飛び付きて、なぎなたをま手に取りなほして、「力こそ強くとも、早態は義経には及び給はぬな」と云ひて、あざ咲ひて立たれたり。能登守力及ばず、こなたの船に留まりにけり。
能登守、今日を限りと戦はる。判官の郎等に安芸太郎光実と云ふ者あり。此は安芸国住人にてもなし、安芸守の子にてもなし、阿波国住人、安き大領と云ふ者が子也。大力の甲の者、三十人が力持ちたりと聞こゆる死生不知の兵也。郎等二人、同じ力と聞こゆ。「我等三人組みた▼P3405(四一オ)らんに、何なる鬼神にも組みまけじ物を。いざうれ能登殿に組まむ」とて、三人しころを傾けて打ち係かりけるを、能登守、先に進む男のしや膝の節をけ給ひたりければ、海に逆さまに入りにけり。残る二人しころをかたぶけて、つと寄りけるを、左右の脇にかひはさみて、暫くしめて見給ふに、手当て叶ふまじとや思はれけん、少しのび上がりて、「さらば、いざうれ」とて、海へつと入られにけり。
新中納言是を見給ひて、「哀れ、由無き事しつる者哉。きやつばらは、けしかる者共にこそあむめれ。見るべき程の事はみつ。今はかうごさんなれ」とて立たれたりけるに、「中納言の御命にも替はり奉らむ」と云ひ契りし侍五六人ありける中に、伊賀平内左衛門家長、「大臣殿も右衛門督殿も既に取られさせ給ひぬ」と▼P3406(四一ウ)申して、つと近く寄りたりければ、「あな心室や、何に家長」と宣ひければ、「日来の御約束たがへ進らせ侯ふまじ」とて、中納言に鎧二両きせ奉り、我身も二両きて、手に手を取り組みて、一度に海に入りにけり。侍六人同じくつづきて入りにけり。
海上に赤旗赤じるし、ちぎりてすて、かなぐりすてて、蒙を嵐の吹き散らしたるが如し。海水血に変じて、渚に寄する白波も、薄紅にぞ似たりける。空しき舟、風に随ひて、何くを指すともなく、ゆられ行くぞ無慚なる。
十六 〔平家の男女多く生け虜らるる事〕
九郎判官は、赤地錦の直垂に、紫すそごの鎧、前に置きて、金作りの太刀、膝の下に置きて、生け取りの男女の交名注させて居給ひたり。あはれ大将軍やとぞ見えける。日の入る程に船共渚に漕ぎ寄す。▼P3407(四二オ)海際には兵船間なく引き並べて、夷共乗りをるめり。陸には楯をつきて、列なり居たる弓のほこ、竹林を見るが如し。其の中に生虜の女房達をば、屋形を作りて籠めすゑたり。詈る声絶ゆる事無く、我も人も云ふ事をば聞き別かず。
元暦二年の春の暮、何なる年月なれば、一人海中に沈み給ひ、百官波上に浮かぶらん。一門の名将は千万の軍俗に囚はれ、国母采女は東夷西戎の手に懸かりて、各故郷へ帰られけん、心の中こそ悲しけれ。買臣が故郷には錦袴をきぬ事を歎き、照君が旧里には再び帰らん事を喜ぶ。思ひ合はせられて哀れ也。
生虜には、前内大臣公宗盛公、子息右衛門督清宗、平大納言時忠、子息讃岐中将時実、蔵頭信基、▼P3408(四二ウ)兵部小輔尹明、僧綱には二位僧都全親、中納言僧都印弘、法勝寺執行能円、熊野別当行明、中納言律師忠快、経誦房阿闍梨祐円、侍には藤内在衛門信康、橘内左衛門秀康、有官無官の者三十八人とぞ聞こえし。源大夫判官季貞、摂津判官盛澄、阿波民部大夫成良、是等は首を延べて降人に参る。女房には建礼門院、北政所を始め奉りて、帥典侍、大納言典侍、冷泉殿、人々の北方、上臈、中臈惣じて廿三人也。一目も見馴れざるあらけなき者武の手にかかりて都へ帰り給ひしは、王照君が夷の手に渡されて、胡国へ行きけん悲しみも、此には過ぎじとぞ覚えし。船底に臥し沈みて、声を調へて、をめき叫び給ふも、理とぞ覚ゆ▼P3409(四三オ)る。されども二位殿の外は、身を投げ、海に入り給ふ人もなし。
十七 〔安徳天皇の事 付けたり生け虜り共京へ上る事〕
抑此の帝をば安徳天皇と申す。受禅の日、様々の怪異在りけり。昼の御座の御茵の縁に犬のけがしをし、夜の御殿の御帳の内に山鳩入り籠もり、御即位の日、高御座の後に女房頓に絶入、御禊の日、百千の帳の前に夫男上り居り。御在位三ヶ年の間、天変地妖打連きて、諸社諸寺より怪を奏する事頻り也。春夏は早魃、洪水、秋冬は大風、蝗損。五月留まること無くして、冷風起こり、青苗枯れ乾き、黄麦秀でず。九月霜を降らして、秋早く寒し。万草萎え傾き、禾穂熟せず。されば天下の人民餓死に及び、纔かに命計り生くる者も、譜代相伝の所を捨て、境を越え、家を失ひて、山野に交はり海渚に騁ふ。▼P3410(四三ウ)浪人衢に倒れ臥し、愁ひの声郷に満てり。道々関々には山賊、浦々嶋々には海賊、東国北国の謀叛騒動、天行時行、飢饉疫癘、大兵乱、大焼亡、三災七難、一つとして残る事無かりき。貞観の旱、永祚の風、上代にも有りけれども、此の御代程の事は未だ無しとぞ聞こえし。「秦の始皇は荘嚢王が子にあらず、呂不韋が子なりしかども、天下を持つ事三十八年ありき」と云ひければ、或る人又申しけるは、「異国には多く此くの如し。重花と申しし帝は民間より出でたりき。高祖も大公が子なりしかども、位に即き備はりき。吾が朝には人臣の子として位に践く事、未だ無しとぞ承る。此は正しき御裳濯川の御流、かかるべしや」とぞ人申しける。
四月三日巳の剋計りに、九郎大夫判官、使を院へ▼P3411(四四オ)進らせて申しけるは、「去んぬる三月廿四日、長門国門司関にて平家を攻め落として、大将軍前内大臣宗盛以下生虜にして、三種の神器事故なく都へ帰り入らせ給ふべし」 と申したりければ、上下悦びあへり。御使は源八広綱とぞ聞こえし。広綱を御坪に召して、合戦の次第悉く御尋ねあり。御感の余りに左衛門尉に召し仰せらるる。猶御不審の間、五日、北面の下臈、藤判官信盛を西国へ下し遣はさる。宿所へも返らず、鞭を上げて馳せ下りにけり。
十二日、宝剣の事祈り申されむが為、宇佐の宮へ願書を奉らる。其の状に云はく、
敬白所願の事
右宝剣は、吾が朝の重宝三種の其の一也。神代より聖代まで、▼P3412(四四ウ)位を継ぐ主之を伝へ、基を守る君之を持つ。爰に去んじ寿永年中に、奸臣前の内相府、洛陽を出でて海西に赴く日、三種の宝物、先の帝、后妃、偸かに〓[舟+余]〓[舟+皇]に奉り、遥かに波濤に浮遊す。而るに度々の追討、前途を遂げずして空しく帰り、国の乱行、後悔を顧みずして尤も甚し。仍りて今年二月十五日に、忝くも綸言を奉り、試みに征伐を企つ。是れ武威を憑むに非ず、只神明に任せ奉る。然る間、去んじ三月廿四日を以て、長州門司之関の外に於て、謀叛奸臣の党類を討つ。冥鑑に依りて然らしむるに、思慮違ふ
こと无きを知りぬ。闕けたる所は、只彼の神剣也。仍りて海人を以て之を捜し尋ね観るに、此の事人力を以て励むべきに非ず。誠に知る、神道に祈り、待たしむべしと。伝へ聞く、宇佐の宮の霊神は、大菩薩の別宮、百王守護の誓願有ますを以て、何ぞ我が朝の宝物を守らざらんや。一心懇篤の祈念を専らにして、豈に神の尚饗を垂れざらんや。是の如く欣求し、願ひの如く伝〓[矢+旁]せば、宣旨を申し下さしめ、神位を寄進せしむべし。吾が心元より神に赴く。又、▼P3413(四五オ)諸を捨てて敬ひ白す。
元暦二年四月十二日 従五位下行右衛門権小副源朝臣 敬白
申の尅戦場より舟津へ帰り付かしめ給ふ。安芸先司貴弘朝臣〈厳嶋神主〉を召して、仰せられて云はく、「長門・周防・安芸等の梅人を以て彼の宝剣を尋ね捜るべき」由、仰せられ畢んぬ。又、海人に命じて云はく、「汝等卑賤の者たりと雖も、争でか此の事を思ひ知らざらん哉。若し捜し出だす輩は、唯今世の恩賞に思ふのみに非ず、又当生の善因に非ず哉。早く十ヶ日の間に景弘の下知に任せて、之を捜し奉るべし」。仍りて十ヶ日の舎卅、之を賜り畢はんぬ。申の二点纜を解き、門司を出ださしむ。終夜悦びを楊ぐ。
十六日、九郎判官、生虜の人々相具して上りけるが、幡磨国明石浦に宿りけるに、名を得たる浦なれば、夜の深行くままに月くまなく、秋の空にも劣らざりけり。女房達指つどひて忍び音に▼P3414(四五ウ)て泣きつつ、鼻打ちかみなんどしける中に、帥典侍つくづくと詠め給ひて、
ながむればぬるるたもとに宿りけり月よ雲井の物語せよ
雲の上にみしにかはらぬ月かげはすむに付けても物ぞ悲しき
是を聞き給ひて、大納言典侍、
我らこそ明石の浦にたびねせめおなじ水にもやどる月かな
昔、北野天神の、時平の大臣の讒に依りて、大宰府に移り給ふとて、此の所に留まり給ひたりけるに、
名にしおふ明石の浦の月なれど都より猶くもる袖かな
と詠め給ひける御心内も、かくやと覚えて哀れ也。されどもそれは御身一つの恨みなり。此はさしもむつまじかりし人々は、底のみくづと成りはてぬ。故▼P3415(四六オ)郷へ帰りたりとても、空しき跡のみ涙に咽ばむ事も心憂し。只ここにていかにもなりなばやとぞ思し食しける。さるままには、「月よ雲居の物語せよ」と、取りかへし取りかへし口ずさみ給ひけり。「げにさこそは昔も恋しく、物も悲しく思ひ給ふらめ」と、折しも哀れに聞こえければ、九郎判官は東夷なれども、優に艶ある心して、物めでしける人なれば、身にしみて哀れとぞ思はれける。実に物を思はずして都へ上らんそら、海の上の旅、船の内のすまひは物うかるべし。漁舟の火の影を燈にたのみ、玉の台とすまひし海人の苫屋もすみまうく、渚を洗ふ浪の音も、折から殊に哀れ也。都も近くなるままに、うかりし波の上の古里、雲居のよそになりはてて、そこはかともみえわかず。新中納言の今はの時、たはぶれて宣ひ▼P3416(四六ウ)し事さへ思ひ出でられて、悲しからずと云ふ事なし。さるままには甲斐無き御涙のみ、つきせざりけり。
十八 〔内侍所、神璽、官庁へ入御の事〕
廿四日、内侍所・神璽、鳥羽に着かせ給ひたりければ、勘解由小路中納言経房・高倉宰相中将泰通・権右弁兼忠・蔵人左衛門権佐親雅・榎並中将公時・但馬小将範能、御迎に参らる。御其の武士に、九郎大夫判官義経・石川判官代義兼・伊豆蔵人大夫頼兼・同左衛門尉有綱とぞ聞こえし。子剋に先づ太政官庁へ入らせ給ひぬ。内侍所・神璽の御箱の返り入らせ給ふ事は目出たけれども、宝剣は失せにけり。神璽は海上に浮かびたりけるを、常陸国住人片岡太郎経春、取り上げ奉りたりけるとぞ聞こえし。
十九 〔霊剣等の事〕
▼P3417(四七オ)神代より伝はりたりける霊剣三つあり。所謂草薙・天蝿斫剣・取柄剣、是也。取柄剣は、大和国磯上布留社に籠め奉らる。天蝿斫剣と申すは、本名は羽々斬剣と申しけるとかや。此剣の刃の上に居る蝿、自ら斫れずと云ふ事なし。故に利剣と号す。爾より蝿斫とは名づけられたり。此の剣は尾張国熱田社に有り。草薙剣は大内に安ぜらる。代々の帝の御守也。
昔、素盞烏尊、出雲国へ流され給ひたりノけるに、其の国の簸河上の山に至り給ふに、哭泣する音絶えず。音に付きて尋ね行きて見給ふに、一人の老翁、一人の老嫗あり。中に小女を置きてかき撫でなく。尊、「汝等は何なる事を歎きて泣くぞ」と問ひ給ひければ、老翁答へて云はく、「我は昔、此の国神門郡にありし長者也。今は国津神と▼P3418(四七ウ)成りて年久し。其の名を脚摩乳と云ふ。妻をば手摩乳と号す。此の小女は即ち我が女子也。奇稲姫と名づく。又は曽波姫とも申す。此の山の奥に八岐羽々と云ふ大蛇あり。年々に人を飲み、親を飲まるる者は子悲しみ、子を飲まるる者は親悲しむ。故に村南村北に哭する音絶えず。我に八人の女ありき。年々に飲まれて、只此の女一人残れり。今又飲まれなん」と云ひて、始めの如く又哭く。尊哀れと思し食して、「此の女を我に奉らば、其の難を休むべし」と宣ひければ、老翁老嫗泣く泣く悦びて、手を合はせて尊を礼み奉りて、彼の女を尊に奉りぬ。
尊、立ちながら彼の女を湯津の爪櫛に取りなして、御髻にさし給ひて、奇稲姫の形を作り給ひて、錦の装束をきせて、大蛇の栖みける岡の上に八坂と云ふ所に立てて、八船に醍醐を湛へて、其の影を酒船に▼P3419(四八オ)移して、八の口に当てて待ち給ふに、即ち大蛇来たれり。尾頭共に八つ有り。眼は日月の光の如くして天を耀かし、背には霊草異木生ひ滋りて、山岳を見るに似たり。八の頭、八の尾、八の岳、八の谷に這ひ渡り、酒の香をかぎ、酒の船に移れる影をみて、女を飲まんと飲む程に、残り少なくすひほして、酔ひ臥したり。其の時、尊帯き給へる取柄剣を抜き給ひて大蛇を寸々に切り給ふ。一の尾に至りて切れず、剣の刃少し折れたり。柏構へて即ち其の尾を割きて見給へば、尾の中に一の剣あり。是神剣也。尊是を取りて、「我何が私に安んぜむ」とて、天照大神に献じ給ふ。天照大神是を得給ひて、「此の剣は我高天原に有りし峙、今の近江国伊吹山の上にて落したりし剣也。是天宮御宝なり」とて、豊葦原の中津国の主とて、天孫を▼P3420(四八ウ)降し奉り給ひし時、此の剣を御鏡に副へて献り給ひけり。爾より以来、代々の帝の御守として、大内に崇め奉られたり。此の剣大蛇の尾の中に有りける時、黒雲常に覆へり。故に天叢雲剣と名づく。彼の大蛇と申すは、今の伊吹大明神是也。
湯津爪櫛と云ふ事は、昔如何なる人にてか有りけん、夜、鬼に追はれて遁げ去るべき方無かりけるに、懐より爪櫛と云ふ物を取り出だして、鬼神に投げ懸けたりければ、鬼神怖れて失せにけり。かかる由緒有りける事なればにや、素盞烏尊も少女を湯津爪櫛に取りなし給ひけるなるべし。
尊、其の後、同国素鵞里に宮造りし給ひける時、其の所には色の雲常に聳きければ、尊御覧じて、かくぞ詠じ給ひける。
▼P3421(四九オ)八雲立つ出雲八重垣つまごめて八重垣造る苑の八重垣を
此ぞ大和歌の卅一字の始めなる。国を出雲と号するも其の放とぞ承はる。
彼の尊と申すは、出雲国杵築大社是也。
第十代帝崇神天皇の御宇六年、神剣の霊威に怖れて、天照大神、豊鋤入姫命に授け奉りて、大和国笠縫村磯城ひぼろきに遷し奉り給ひたりしかども、猶霊威に怖れ給ひて、天照大神返し副へ奉り給ふ。彼の御時、石凝姫と天目一筒の二神の苗裔にて、剣を鋳替へて御守りとし給ふ。霊威本の剣に相劣らず。今の宝剣即ち是也。
草薙剣は崇神天皇より景行天皇に至り給ふまで三代は、天照大神の社檀に崇め置かれたりけるを、巻向日代の朝の御宇四十年、東夷叛逆の間、関▼P3422(四九ウ)ヨリより東静かならず。之により、時の帝景行天皇第二の皇子日本武尊の、御心も武く御力も人に勝れておはしましければ、此皇子を大将軍として、官軍を相具して平げられしに、同年の冬十月に出で給ひて、伊勢大神宮へ詣で給ひて、いつきの宮大和姫命をして、天皇の命に随ひて、東征に趣く由を申し給ひたりければ、「慎みて怠る事なかれ」とて、崇神天皇の御時、内裏より移し置かれたりける天叢雲剣を献り給ふ。
日本武尊是を給はりて東国へ趣き給ふに、駿河国浮嶋原にて、其の国の凶徒等申けるは、「此の野には鹿多く候ふ。狩して遊び給へ」と申しければ、尊野に出でて遊び給ひけるに、草深くして弓のはずを隠す計り也。凶徒共野に火を放ちて尊を焼き殺し奉らんとしけ▼P3423(五〇オ)るに、皇子のはき給へる天叢雲剣を抜きて、草を薙ぎ給ひたりければ、剣はむけの草三十余町薙ぎ伏せて、火止まりにけり。又尊の方より火を出だし給ひたりければ、夷賊の方へ吹き掩ひて、凶徒多く焼け死にけり。其より此の所をば焼つろと云ふ。天叢雲剣をば是よりして草薙の剣と名づく。
日本武尊、是より奥へ入り給ひて、国々の凶徒を誅ち平げ、所々の惣神を鎮めて、同四十二年〈癸巳〉十月に都へ上り給ひける程に、伊吹山にて山神の気毒に逢ひて、御悩重かりければ、生虜の夷共をば伊勢大神宮へ献り給ふ。我彦を都へ献り給ひて天皇に奏し給ふ。尊は尾張国へ還り給ひて、御器所と云ふ所にて薨じ給ふ。即ち白鳥となりて西を指して飛び去り給ひぬ。讃岐国白鳥明神▼P3424(五〇ウ)と申すは此の御事也。御廟は御墓塚とて今にあり。草薙剣は尾張国熱田社に納められぬ。
鋳改めらるる剣は内裏に安んぜられて、霊威一早く御座しける程に、天智天皇位に即かせ給ひて七年と申すに、新羅の沙門道行、此の剣を盗み取りて、我が国の宝とせむと思ひて、密かに船に隠して本国へ行きける程に、風荒く浪動きて、忽ちに海底へ沈まむとす。是霊剣の崇りなりとて、即ち罪を謝して前途を遂げず。天武天皇朱鳥元年に本国へ持ち帰りて、元の如く大内に返し奉りてけり。
是のみならず、陽成院狂病にをかされましまして、宝剣を抜かせ給へりけるに、夜のおとどひらひらとして、電光に異ならず。帝怖れさせ給ひて投げ捨てさせ給ひたりければ、自らはたとなりて、鞘にさされさせ▼P3425(五一オ)給ひにけり。
上古中古までは、かくのみ渡らせ給ひけるに、設ひ平家取りて都の外へ出だして、二位殿腰に指して沈み給ふとも、上古ならましかばなじかは失すべき。末代こそ心憂けれとて、水練に長ぜる者を召してかづき求むれども、見え給はず。天神地神に幣帛を捧げて祈り、霊仏霊社に僧侶を籠めて、大法秘法残る所無く行なはれけれども、験なし。龍神是を取りて龍宮に納めてければ、遂に失せにけるこそ浅猿しけれ。かかりければ、時の有識の人々申合ひけるは、「八幡大菩薩、百王鎮護の御誓ひ浅からず、石清水の御流れ尽きせざる上に、天照大神、月読の尊、明らかなる光未だ地に落ち給はず。末代尭季なりと云へども、さすが帝運の極まれる程の御事はあらじかし」と申し合はれければ、▼P3426(五一ウ)或る儒士の申しけるは、「昔出雲国にして、素盞烏尊に切られ奉りたりし大蛇、霊剣を惜しむ執心深くして、八の頭、八の尾を標示として、人王八十代の後、八歳の帝と成りて、霊剣を取り返して海底に入りたけり」とぞ申しける。九重の淵底の龍神の宝と成にければ、再び人間に帰らざるも理とこそ覚えけれ。
二十 〔二宮京へ帰り入らせ給ふ事〕
二宮今夜京へ入らせ給ふ。院より御迎へに御車進らせらる。七条侍従信清御共に候はれけり。御母儀の渡らせ御します七条坊城なる所へぞ入らせ給ひける。是は当帝の御一腹の御兄にて渡らせ給ひけるを、若しの事もあらば儲けの君にとて、二位殿さかざかしく具しまひらせられたりけるなり。「若し渡らせ御せば、此の宮こそ位に即かせ御しなまし。夫も然るべき御事な▼P3427(五二オ)れども、猶も四宮の御運の目出たく渡らせ給ふ故」とぞ時の人申しける。御心ならぬ旅の空に出でさせ給ひて、浪の上に三年を過ぎさせ給ひければ、御母儀も、御乳人の持明院の宰相も、何かなる事に聞き成し給はむずらんと、穴倉く恋しく思し食されけるに、安穏に帰り入らせ給ひたりければ、是を見奉りては、人々悦び泣きどもせられけり。今年七歳に成らせ給ふとぞ聞こえし。
廿一 〔平氏の生虜共入洛の事〕
同じき廿六日、前内大臣宗盛以下の平氏の生虜共、京へ入らる。八葉の車に乗せ奉りて、前後のすだれをあげ、左右の物見を開く。内大臣は浄衣を着給へり。御子の右衛門督清宗、年十七、白直垂着て、車の尻に乗り給へり。季貞・盛澄、馬にて御共にあり。平大納言、同じく遣りつづく。子息讃岐中将時実、同車して渡さるべき▼P3428(五二ウ)にて有りけるが、現所労なりければ、渡さず。蔵頭信基は疵を被りたりければ、閑道よりぞ入りにける。軍兵前後左右に打ち囲みて、幾千万と云ふ事を知らず、雲霞の如し。内大臣は四方見廻して、いたく思ひ沈みたる気色はおはせず。さしも花やかに清げなりし人の、非ぬ者にやせ衰へ給へるぞ哀れなる。右衛門督はうつぶしにて目もみ上げ給はず。深く思ひ入り給へる気色なり。
是を見奉る人共、貴賎上下、都の内にも限らず、遠国近国山々寺々より、老いたるも若きも来たり集まりて、鳥羽の南門、作道、四塚につづきて、人は顧る事をえず、車は巡らす事をえず。仏の御智恵なりとも争でか是をかぞへ尽くし給ふべきとぞ聞こえし。去る治承養和の飢饉東国北国の合戦に、人は▼P3429(五三オ)皆死に失せたると思ひしに、猶残り多かりけりとぞ覚えし。都を落ち給ひて中一年、無下に程近き事なれば、目出たかりし事共も忘れられず。今日の有様、夢幻、別きかねたり。されば物の心なき、あやしのしづの男、しづの妻に至るまで、涙を流し、袖を絞らぬは無かりけり。まして、近付く詞のつてにも懸かりけん人、何計りの事をか思ひけん。年比重恩を蒙りて、親祖父の時より伝はりたる輩も、身のすて離さに、多く源氏に付きたりしかども、昔の好みは忽ちにわするべきに非ず。何計りかは悲しかりけむ、推し量られて無漸なり。されば袖を顔に覆ひて、目も見揚げぬ者共もありけるとかや。
今日大臣の車遣りたりける牛童は、木曽が院参の時、車遣りて出家したりし弥次▼P3430(五三ウ)郎丸が弟の、小三郎丸なりけり。西国にては仮りに男に成りて有りけるが、今一度大臣殿の御車仕らんと思ふ志深かりければ、鳥羽にて九郎判官の前に進み出でて申しけるは、「舎人牛童なんど申す者は、下臈のはてにて、心有るべき者にては候はねども、年来生し立てられ進らせて、其の御志浅からず。さも然るべく候はば、大臣殿の最後の御車を仕り候はばやと存じ候ふ」と、泣く泣く申したりければ、判官さる人にて哀れがりて、「なにかは若しかるべき」とて免してけり。手を合はせて悦びて、殊に尋常に取り装束きて、大臣殿の御車をぞ遣りたりける。道すがらも、此に遣り留まりては涙を流し、彼に遣り留まりては袖を絞りければ、見る人哀れみて皆袂をぞうるほしける。
法皇も六条東洞院に御車を立てて御覧ぜらる。公卿▼P3431(五四オ)殿上人、車立て並べたり。法皇はさしも昵まじく召し仕はれければ、御心弱く、哀れにぞ思し食されける。御共に候はれける人々も、只夢かとのみぞ思ひあはれける。「『如何にしてあの人に目をも見懸けられ、一言のつてにもかからん』とこそ思ひしに、今日かく見成すべしとは、少しも思ひ寄らざりし事ぞかし」とぞ申しあはれける。一年せ大臣に成り給ひて、拝賀せられし時の公卿には、花山院大納言兼雅卿を初めとして、十二人遣りつづけ、中納言も四人、三位中将も二一人にておはしき。殿上人には、蔵人頭右大弁親宗以下十六人、並駈し給ひき。公卿も殿上人も、今日を晴れときらめき給ひしかば、目出たき見物にてこそ有りしか。やがて此の平大納言も、其の時は左衛門督とておはしき。院御所を始めとして、参り▼P3432(五四ウ)給ふ所ごとに御前へ召され給ひて、御引出物を給はり、もてなされ給ひし儀式の有様、目出たかりし事ぞかし。かかるべしとは誰か思ひよりし。今日は月卿雲客の前徐に従へるも一人も見えず。生虜られたる侍一両人、馬にしめつけられて渡さる。
大路を渡されて、大臣殿父子をば九郎判官の宿所、六条堀川なる所にぞ居ゑ奉られける。物まゐらせたりけれども、御箸も立て給はず。互ひに物は宣ねども、父子目を見合はせ給ひて、隙無く涙をぞ流されける。夜深け人しづまれども、装束をもくつろげ給はず。御袖を片敷きて臥し給へり。右衛門督も近くね給ひたりけるを、折節雨打ち降りて夜寒なりけるに、大臣殿御袖を打ち着せ給ひけるを、源八兵衛、隈井太郎、江田源三なんど云ふ、預り守護し奉り▼P3433(五五オ)ける者共、是を見奉り、「穴糸惜しや。あれ見給へや。高きも賎しきも親子の煩悩計り無慚なるものこそなけれ」とて、武き物武なれども涙をぞ流しける。
倩ら以れば、春の花は地に落ちて生者必滅の理を示せども、未だ飛花落葉の観をなさず。秋の蒙の空にちる、会者定離の相を表すれども、尚し生死流転の道をばのがれず。愚かなる哉、五欲の餌を貪る〓[走+羽]は、未だ三界の樊籠を出でず。悲しき哉、三毒の剣を答る鱗は、なほ四生の苦海に沈む。日々につづまる命、小水の魚のひれふるに似たり。歩々に衰ふる齢ひ、屠所の羊を足を早むるに同じ。無常転変のはかなさを閑かに思ひとくこそ、涙も更にとどまらね。平家の栄花已につき、一門亡びはてて、元暦二年四月廿六日に平家の生捕共、大路を渡しけり。心ある者は、高きも賎しきも、「盛者必衰の理、眼に遮りて哀れなり。さしも花やかなりし御事共ぞかし」とぞささやき相ひける。
▼P3434(五五ウ)廿二 〔建礼門院門吉田へ入らせ給ふ事〕
さても女院は、西国の浪の上、船の中の御すまひ、跡なき御事になりはてさせまし/\しかば、都へ上らせまし/\て、東山の麓、吉田の辺りなる所にぞ立ち入らせ給ひける。中納言法橋慶恵と申しける、奈良法師の坊なりけり。栖み荒して年久しくなりにければ、庭には草深く、軒にはつたしげりつつ、簾絶え、閏あらはにて、雨風たまるべくもなし。花は色々に匂へども、主とて風をいとふ人もなければ、心のままにぞ散りける。月はよな/\もりくれども、詠むる人もなければ、恨みを暁の雲にのこさず。金谷に花を詠めし客、南楼に月を翫びし人、今こそ思し召ししられしか。垣に苔深く庭に蓬しげりて、雉兎の栖となりにけり。昔は玉の台を螢き、錦の帳に纏されてこそ明し闇し給ひしに、今は有りと有りし人々は皆別れはてて、浅猿しげなる朽坊に只一人落ち着き給へる御心の中、何計りなりけん。道の程伴ひ奉りし女房達も皆、是より散々に成りにければ、御心細さにいとど消え▼P3435(五六オ)入るやうにぞ思し召されける。誰哀れみ奉るべしとも見えず。魚の陸に上りたるが如し。鳥の巣を離れたるよりも猶悲し。うかりし浪の上、船の中の御すまひ、今は恋しくぞ思し召しける。「同じ底のみくづと成るべかりしを。身の責めての罪の報をや残し留むる」など思し召せども、甲斐ぞなき。「天上の五衰の悲しみは、人間にも有りける物を」と思し召されて哀れなり。いづくも旅の空は物哀れにて、もらぬ岩屋だにもなほ露けき習ひなれば、御涙ぞ先立ちける。それに付けても昔今の事思し召しのこす事なきままには、
なげきこしみちのつゆにもまさりけりふるさとこふるそでのなみだは
と、王昭君が胡国に旅立ちて歌ひけんも理なりとて、更に人の上とも思し召さざりけり。蒼波路遠し、思ひを西海千里の空に寄せ、亡屋苔探し、涙を東山一亭の月に落とさせ給ふぞ哀れなる。折にふれ時に随ひて、哀れを催し心を傷めずと云ふ事なし。風に任せ浪にゆられて、▼P3436(五六ウ)浦伝ひつつ日を送らせ給ひし昔は、「三千世界は眼前に尽きぬ」と、都良香竹生嶋に詣でて、湖上の漫々たるに向かひつつ詠めて、暫く次の句を案じけるに、御帳の内よりけ高き御音にて、「十二因縁は心中に空し」と明神の付けさせ給ひけるにこそ、感応忽ちに顕はして、身の毛もいよだちて、感涙押さへがたく覚えけれ。此は海漫々として、眼雲路に疲るれば、三界広しと云へども安き所もなく、神明仏陀の恵みもなければ、哀れと云ふ人もなし。曙けても晩れても肝をけし、心を尽くすより外の事なし。さてしもいつしか深山隠れの喚子鳥音信れければ、かくまで思し召し出でさせ給ひけり。
たにふかきいほりは人目ばかりにてげには心のすまぬなりけり
廿三 〔頼朝従二位し給ふ事〕
廿七日、前右兵衛佐頼朝従二位し給ふ。前内大臣宗盛以下を追討の勧賞とぞ聞こえし。越階とて二階をするこそゆゆしけれ。朝恩にて有るに、是は、元▼P3437(五七オ)正下の四位なれば、既に三階なり。先例なき事なり。
廿四 〔内侍所温明殿へ入らせ給ふ事〕
今夜内侍所、大政官庁より温明殿へ入らせ給ふ。行幸なりて三ヶ夜の臨時の御神楽あり。長久元年九月、永暦元年四月の例とぞ聞こえし。右近将監多好方、別勅を奉りて、家に伝はりたる「弓立」「宮人」と云ふ神楽の秘曲を仕りて、勧賞を蒙るこそやさしけれ。此の哥は、好方が祖父、八条判官資方と申しける舞人の外は、未だ我が朝に知れる者なし。彼の資方は堀川院に授け奉りて、子息の親方には伝へずして失せにけり。内侍所の御神楽行はれけるに、主上御すの内にて拍子を取らせ給ひつつ、子の親方には教へさせ給ひにけり。希代の面目、昔より未だ承り及ばず。父に習ひたらんは尋常の事也。賎しき孤子にて、かかる面目を施しけるこそ目出たけれ。「道を断たじと思し食めされたる御恵、忝き▼P3438(五七ウ)御事哉」と、世人感涙をぞ流しける。今の好方は、親方が子にて伝はりたりける也。
廿五 〔内侍所由来の事〕
内侍所と申すは、天照大神の天磐戸に御はしましし時、「如何にもして我御形を移し留めん」とて、鋳給へる御鏡也。一つ鋳給ひたりけるが、「是悪し」とて用ゐずして、紀伊国日前国懸と祝ひ奉る。文一つ鋳給へり。是をば、「我が子孫、此の鏡を見て、我を見るが如くに思ひ給へ。同殿に祝ひ、床を一つにし給へ」とて、御子の天の忍穂耳の尊に授け奉り給ひたりけるが、次第に伝はりて人代に及び、第九代の帝開化天王の御時までは、内侍所と帝とは一つ御殿に御坐しけるが、第十代の帝崇神天皇の御宇に及びて、霊威に怖れ奉りて、別の御殿に祝ひ奉らる。近来よりは温明殿にぞ御坐しける。
遷都遷幸の後、百六十年を経て、邑上天皇の御宇、▼P3439(五八オ)天徳四年九月廿三日の子の時に、内裏中裹、初めて焼亡在りけり。火は左衛門陣より出でたりければ、内侍所御坐す温明殿も程近かりける上、如法夜半の事なりければ、内侍も女官も参りあはずして、賢所をも出だし奉らず。小野宮殿怱ぎ参らせ給ひて、「内侍所既に焼させ給ぬ。世は今はかうにこそ有りけれ」と思食して、御涙を流させ給ひける程に、南殿の桜木の梢に懸からせ給ひたりけり。光明赫奕として、朝日の山の葉より出でたるが如し。世は未だ失せざりけりと思食されけるにや、悦びの御涙かきあへさせ給はず。右の御膝を地につき、左の御袖をひろげて申し給ひけるは、「昔天照大神百皇を守らんと云ふ御誓ひ有りけり。其御誓ひあらたまり給はずは、神鏡、実頼が袖に宿らせ給へ」と、申させ給ひける▼P3440(五八ウ)御詞も未だ終はらざりけるに、桜の梢より御袖に飛び入らせ給ひにけり。やがて御袖に裹み奉りて、御先進らせて、主上の御在所、太政官の朝所へぞ渡し奉らせ給ひける。此の世には、請け奉らむと思ひ寄るべき人も誰かは有るべき。又御鏡も入らせ給ふまじ。上古こそ目出たけれと承るに付けても、身の毛竪つ。
廿六 〔時忠卿判官を聟に取る事〕
平大納言時忠、讃岐中将父子は、九郎判官の宿所近くおはしけり。大納言は心武き人にておはしければ、今は世のかく成りぬる上は、とてもかくてもとこそ覚すべきに、猶も命の惜しく思はれけるやらん、御子の中将に宣ひけるは、「いかがせむずる。散らすまじき大事の革籠を一合、判官に取られたるぞとよ。此の文だにも鎌倉へ見えなば、人も多く▼P3441(五九オ)損じなんず。我が身も生けらるまじ」と歎かれければ、中将宣ひけるは、「判官は大方も情けある者にて候ふなると承る。まして女房なむどの打ち絶え歎く事をば何なる大事をももてはなたれぬと申すめり。何かは苦しく候ふべき。したしくならせ給へかし。さらばなどか露の情けをも懸け奉らざるべき」と申しければ、大納言、「我が世に有りし時は、娘共をば皆、女御・后にとこそ思ひしか。なみなみなる人にみせむとはかけて思はざりき」とて、はらはらと泣き給へば、中将も涙を拭ひて、「今は其の事仰せらるるに及ばず」とて、「当時の北の方、帥典侍殿の御腹に、今年十八に成り給へる姫君の斜めならず厳しくさかりなるがおはしけるを」と、中将はおぼしけれども、大納言尚も其れをばいたはしき事に思はれたりければ、先の北の▼P3442(五九ウ)方の御腹に廿二に成り給へる姫君をぞ判官にはみせられける。年ぞ少しおとなしくおはしけれども、清げにほこらかに手うつくしくかき、色有る花やかなる人にておはしければ、判官去り難く思はれて、本の上、川越太郎重頼が娘は有りけれども、是をば別の方尋常に拵へてすゑ奉りて、もてなされけり。中将のはからひ少しも違はず、大方の情けもさる事にて、大納言の御事斜めならず憐れみ申されけり。彼の皮籠、封もとかず、大納言の許へ返し奉られけり。大納言悦び給ひて、壺の中にて怱ぎ焼き捨てられにけり。如何なる文共にてか有りけん、穴倉なし。
廿七 〔建礼門院御出家の事〕
五月一日、建礼門院は「憂世を厭ひ、菩提の道を尋ぬるならば此のくろかみを▼P3443(六〇オ)付けてもなににかはせん」と思し召して、御ぐしおろさせ給ふ。御戒の師には長楽寺の阿称房上人印西を参らせられける。御布施には先帝の御直衣とぞ聞こえし。上人是を給はりてなにと云ふ詞も出ださねども涙に咽び給ひて墨染の袖をぞ絞られける。御志のほど哀れに悲しくて、此の御直衣をもちて幡を裁ち縫ひ給ひて、長楽寺の常行堂に係けられたりけり。同じき追善と云ひながら莫大の御善根なり。「縦ひ蒼海の底に沈み御すとも、此の功徳に依りて、修羅道の苦患を免れ御しまして、安養の浄刹に御往生疑ひなし」と憑もしくぞ思し召されける。
聖人此の御布施をみて、「出家は足れ解脱の梯橙、証果の初門也。尸羅は是れ三毒の酔を醒ます妙良薬也。是を以て、一日の持戒の功徳は有為の苦海を出でて无為の楽所に▼P3444(六〇ウ)至る物也」と、戒を授け奉りて、菩提心の貴き事を讃め奉る。世間の不定をみるごとに、弥よ分段の悲しき事を悟る。東閣に嵐さびしき暮には、涙を千行に流して一生の晩れぬる事を悲しみ、西楼に月静かなる暁は、肝を万端に砕きて二世の空しからん事を歎く。沈旦蘭麝の匂ひに身を交ふる、閑かに思ひ吉く案ずれば、誠に水沫泡焔の如し。宮殿楼閣の栖に居所を卜むる、譬へをとり物に寄すれば電光朝露に似たり。加之、高臣大位は足手に乱るる登、栄花重職は草葉にすがる露也。玉廉錦の茵、夢の中のもてなし、翠帳紅閨は眼前のしつらひ。しかれば妻子珍宝を相ひ具して行く人もなく、朋友知識は留め置きて独りのみさる。
爰を以て、悉達太子の王宮誕生の儲の君たりし、錦帳紫震の床を振り捨てて旦特の雲に身を▼P3445(六一オ)やつし、寛和聖主の射山紡陽の瑰〓[竹+銀]にあたりし、厳粧金屋の窓を遁れて海の礒屋に悩まし給ひき。彼をきき是をみるに、「誰に譲りてか歎かざらむ。何つを期してか勤めざらん」と深く思し召し取りて、真実報恩の道に趣き、解脱幄柏の衣を染め御す、実に善知識は大因縁也。何事かこれにしかむ。
就中に吾が君の御遷化、其の臨終の行儀をきき、其の最後の念相を思ふに一眼早く閉じ、黄譲永く隔たりぬ。旧臣旧女の情、其の想ひ豈浅からむや。千行万端の愁、更に休む時无し。三尊来迎の道場に望めば香煙のみ空に聳えて公は何くんか去りまします。花顔忍辱の御衣をみ奉るだにも十善の御姿眼に遮りて涙紅也。適ま柔和の御音を聞くだにも一旦の別離耳に留りて▼P3446(六一ウ)魂を消す。伏して以れば、昔鳩那羅太子十二因縁の聞法の涙、良薬と成りて盲目の眼を開き、今の禅定比丘尼の一実无作の随喜の涙、法水と成りて煩悩の垢をすすがざらんや。願くは今日の持戒の功徳に依りて一門一族三界の苦域を出でて九品の蓮台に託せしめ給へとなり。賢愚異なりといへども皆以て法身常住の妙体也。其の中に一人往生あらば皆共に仏道を成ぜん。重ねて請ふ、今生の芳縁に依りて来世の善友となり、三僧祇を経ずして必ず一仏土に生ずべし。
さても御直衣は先帝海へ入らせ給ひし其の期まで奉りたりしかば、御移香も尽きず、御形見にとて西国より持たせ給ひたりけり。何ならん世までも御身を放たじと思し食されけれども、御布施に成りぬべき物なかりける上、彼の御▼P3447(六二オ)菩提の為にとて泣く泣く取り出ださせ給ひけるぞ悲しき。
女院御年十五にて内へ参り給ひしかば、やがて女御の宣旨下されて十六にて后妃の位に備はり、君王の傍に候はせ給ひて朝には朝政を勧め奉り、夜は夜を専らにし給ふ。廿二にて皇子御誕生有りき。皇子いつしか太子に立たせ給ふ。春宮位に即き給ひにしかば、廿五にて院号ありて建礼門院と申しき。入道の御娘の上、天下の国母にてましまししかば、世の重くし奉る事斜めならず。今年は廿九にぞ成らせ給ひける。桃李の御粧ひ猶濃かに、芙蓉の御皃未だ衰へさせ給はねども、今は翡翠の御釵付けても何かはせむなれば、泣く泣く剃り落させ給ひけり。紅顔の春の花の匂おとろへ、面貌の秋の月光りくもれるが如し。冷泉院二宮・三条院一品宮も未だ御年若くて〓[小(りっしんべん)+喬]曇弥波提比丘尼の跡を追ひて仏道を求め給ひけり。法花経の六の巻の初めには、「我少出家得阿耨▼P3448(六二ウ)たら」と仰せられたり。されば、「年少の拙家は使をえぬさきに来れる人、年老いての出家は使をえて後に来たる人」と譬へたり。しかれば女院も未だ御年若くて御出家ある事は、弥よ後世の御車は憑もしくぞ覚ゆる。上代もためしなきにもあらず。まして此の御有りさまには、いかでか思し召したたざるべき。今更驚くべき御事にあらず。
憂き世をいとひ、実の道に入らせ給へども、御歎きはやすまらせ給ふ事なし。人々の今はかぎりとて海に入り給ひし有様、先帝の御面影、いかならん世にか思し食し忘れさせ給ふべき。露の命何に係けてか今まで消えやらざるらんと思し食しつづけさせ給ひては、御涙のみせきあへず。五月の短夜なれども明かしかねつつ、自ら打ちまどろませ紛ふ御事もなければ、昔の事を夢にだにも御覧ぜず。耿々たる残の燈の▼P3449(六三オ)壁に背ける影かすかに、蕭々たる暗き雨の窓を打つ音閑かなり。上陽人の上陽宮に閉ざされたりけんさびしさも、限りあれば是には過ぎざりけんとぞ思し食し知らるる。昔を慕ふ妻となれとてや、本の主の移し殖ゑたりけん、軒近き花橘の風なつかしく香をりける折しも、時鳥の程近く音信ければ、御涙を推し拭はせ給ひて、御硯の蓋にかくぞ書きすさませ給ひける。
郭公花橘のかをとめて鳴くは昔の人やこひしき
廿八 〔重衡卿の北方の事〕
本三位中将重衡卿の北方は故五条大納言邦綱卿の御娘、先帝の御乳母にて、大納言典侍殿とぞ申しける。重衡卿一谷にて生虜にせられて都へ帰り上り給ひにしかば、北方旅の空に▼P3450(六三ウ)憑もしき人もなくて明かし闇し給ひけるが、先帝檀浦にて失せさせ給ひにしかば、夷に取られて西国より上りて、姉の大夫三位の局に同宿して、日野と云ふ処におはしけるが、三位中将、露の命草葉の末にかかりて消えやらずと聞き給ひければ、何にもして今一度みもしみえもせばやと思はれけれども叶はず。只泣くより外のなぐさめぞ無かりける。
其の外の女房達、生虜にせられて都へ帰りて、若きも老いたるも皆体をかへ形をやつして、有るにも非ぬ有様にて、思ひもかけぬ谷の底、岩の迫に明かし晩らし給ふ。昔栖み給ひし宿も煙と昇りにしかば、空しき跡のみ残りて滋き野辺となりつつ、見馴れたりし人の問ひ来るもなし。仙家より帰り来りて七世の孫に会ひたりけんも、かくや▼P3451(六四オ)有りけんとぞ覚えし。
今は国々も静まりて、人の往還も煩ひなし。都も穏しければ、「九郎判官計りの人こそなけれ」とて、京中の者共手をすり悦びあへり。「鎌倉二位殿は、何事かし出だしたる高名ある。是は法皇の御気色もよし。只此の人の世にてあれかし」なんど、京中には沙汰ある由を、二位殿聞き給ひて宣ひけるは、「こはいかに。頼朝が謀を廻らし兵をも差し上すればこそ、平家をも滅ぼしたれ。九郎計りは、争でか世をも鎮むべき。かく人の云ふに誇りて世を我がままに思ひたるにこそ。下りても定めて過分の事共計らはんずらん。人こそ多けれ、いつしか平大納言の聟になりて大納言もちあつかふらんも請けられず。又世にも恐れず、大納言聟に取るもいはれなし」なんどぞ宣ひける。
▼P3452(六四ウ)廿九 〔大臣殿若君に見参の事〕
抑も、生虜三十人の内、五歳の童と注されたりしは、大臣殿の乙子の若君也。北方、此の若君を産み置き給ひて七日と云ひしに失せ給ひにけり。北方、限りになられたりける時、宣ひけるは、「我はかなく成りぬる物ならば、人は年若くおはすれば、いかならん人にも馴れ給ひて子をもうみ給ふとも、此の子をば悪まで、我を見ると思し召して、前にてそだて給へ」と宣ひければ、「右衛門督には世を譲り、此の子には副将軍をせさせむずれば、名をば副将と付けて糸惜しくせんずるぞ。心安く思ひ給へ」と大臣殿宣ひければ、北方よにうれしげに思ひ給ひて、「今は思ひ置く事なし。死出山をも安く越えなん」とて、七日と云ひけるにはかなく成り給ひにけり。かく云ひおきし事なればとて、乳母の方へも遣り給はず、朝夕前にてそだて給ひ▼P3453(六五オ)けり。人と成り給ふままに、大臣殿に似給ひて、みめうつくしく、心ざまもわりなかりけり。類ひ無く思し召して三歳に成り給ひにければ、冠賜はりて名をば能宗とぞ申しける。「清宗は大将軍、能宗は副将軍」と、常は愛せられて、西国の旅にても夜昼立ち離れ給はざりけるが、檀浦にて軍敗れにし後は、若君も副ひ給はず。
若君をば九郎判官の小舅川越小太郎重房が預りたりけるを、彼が宿所にすゑ奉りて、乳母一人、呵責の女房一人ぞ付きたりける。二人女房若君を中にすゑ奉りて、明けても晩れても、「終に何に成らんずらむ」と泣き悲しみあへり。大臣殿も斜めならず恋しくおぼしけれども、え見え給はざりければ、とにかくに只御涙のみぞ乾くまも無かりける。
さる程に、九郎判官大臣殿以下▼P3454(六五ウ)生虜ども相ひ具して暁関東へ下るべしと聞こえければ、さては近付きにけるこそ、悲しくおぼえて九郎判官の許へ宣ひけるは、「此の身としてをめたる申し事なれども、明日関東へと聞けば申す也。生虜の内に五歳の童と注されてあむなる小童は未だ生きて候ふやらん。恩愛の道思ひ切れぬ事にて恋しく候ふ。今生にて今一度みばや」と宣ひたりければ、「さる事候ふやらむ」とて川越小太郎方より尋ね出だして、乳母懐きて渡りたり。
若君久しく大臣殿を見給はで、うれしげに思ひて、怱ぎ乳母の手よりくづれ下りて大臣殿の御膝の上に居給へり。御ぐしかきなでて、大臣殿今更に御涙を流し給ふ。右衛門督も乳母の女房守護の武士も石木ならねば、此を見て皆袖をぞぬら▼P3455(六六オ)しける。若君も人々の顔を見廻して、あさましげにおぼして、顔打ち赤めて涙ぐみ給ふぞ糸惜しき。やや久しく有りて大臣殿宣ひけるは、「此の子が母なりし者の、此の子を産むとて難産して失せにき。子をば平に生みて、『形見に御覧ぜよ。是より後何なる君達設けたりとも、思ひおとさで糸惜しくし給へ』と申ししが不便なりしかば、なぐさめむとて、『右衛門督には大将軍せさせむずれば、是には副将軍をせさせむずるぞ』とて、其の時『副将』と名を付けたりしかば、よにうれしげに思ひて、さしも大事に、やみしもの其の名を呼びなんどしてあいせしかば、七日と云ひしに遂にはかなく成りにき。此の子をみるたびに、あれが母が事の思ひ出だされて、只今の様に覚えて不覚の涙のこぼ▼P3456(六六ウ)るるなり」とて、又さめざめと泣き給ひければ、武士ども是を聞きて、いとど袖をぞぬらしける。日もすでにくれにければ、「とくとく帰れ。うれしくも見ゆ」と宣ひけれども、若君御浄衣の袖にひしと取り付きて放れ給はねば、大臣殿は物も宣はず。御涙に咽び給へるぞ哀れなる。右衛門督、「今夜は是に見苦しき事のあらんずるぞ。帰りて明日参れ」と宣ひければ、若君猶御袖を放ち給はざりけれども、夜もいたくふけにければ、乳母若君を抱き取り奉りて泣く泣く出でにけり。
「日来の恋しさは事の数ならず有りけり」とぞ大臣殿は宣ひける。
三十 〔大臣殿父子関東へ下り給ふ事〕
七日暁、九郎判官は、平氏の生虜ども相具して、六条堀川の宿所を打ち出でて鎌倉へ下らる。右衛門督清宗・源大▼P3457(六七オ)夫判官季貞・章清・盛澄なむども下るとぞ聞えし。大臣殿武士どもを呼び給ひて、「此の少き者は母もなき者ぞ。殿原構へて不便にし給へ」と宣ひもあへず、御涙すすみけり。
若君は川越小太郎が具し奉りて桂川にふしづけにすべしとて、ぐし奉る。悲しなどは愚か也。乳人、呵責の女房までも、「いかに成り給はんまでもみはて奉らむ」とて、とどめけれども付き奉る。若公を輿にのせ奉りければ、「此はいづくへぞ」と宣ひて、輿にものらじとすまひ給へば、武士、「父御前の御許へぞ」とすかしければ、悦びて乗り給ひけるこそ糸惜しき。女房をも「輿にのれ」と云ひけれどものらず。涙をおさへておくれじと輿の尻に走りけり。武士申しけるは「心苦しくな思し召しそ。我等も暁は罷り下らむずれば、さのみ少き人をとほとほとぐし奉り候ふべきならねば、鳥羽なる僧房にやどし置き奉るべし」と云ひけれども、女房はとかく返事もなくて、只泣くより外の事なし。
▼P3458(六七ウ)すでに桂川も近く成りければ、「女房達とくとく今は御返りあれ」と云ひけれどもきかず。さりとては、さてあるべきにあらねば、片淵の有りける所にて輿よりだき出だしければ、若君、乳人の女房をみ給ひて、我が身もさめざめと泣き給ひて、「父御前はいづくにおはしますぞ」とて、世間をみまはし給ふぞ糸惜しき。すでに籠に石を入れつつしたためて、若公をこに入れ奉らむとすれば、「これはさればなにぞとよ。すごしたる事もなき物を。あらかなしや」とて入らじとすまひ給ひけるぞ、目もあてられぬ有様なる。武士も涙をながし、「哀れ、よしなき事哉」とぞ申しあひける。まして、乳人、呵嘖の女房の心中、押しはかるぞ譬へん方なき。「なにしに此まで来たりて目の前にみつらん」とて、是ずりをしてもだえこがる。かくしたためて水へ投げ入れにければ二人の女房つづきて入りけるを、武士どもこれをとりとどむ。しばしばかりありて武士取りあげたりければ、なにとてかは▼P3459(六八オ)いくべき。はや此の世にもなき人なり。
空しきからだを此の女房いだきて奈良の法花寺と云ふ処にて骨をばほりうづみつつ、彼の尼寺に、乳人の女房したしき人有りければ、やがて二人ながら尼になりつつ、一向此の若ぎみの後生菩提をぞ、曙けても晩れても折りける。かやうにして殺してけるを、人臣殿是を知り給はずして「いとほしくせよ」と宣ひけるこそ哀れなれ。されば武士ども目を見合はせて鎧の袖をぞぬらしける。
大臣殿は都を出で給ひて、会坂の関にかかり給ひて、東地を今日ぞ始めてふみそむると、はるばる思ひ遣り給ける御心の内こそ悲しけれ。昔、此の関の辺りに蝉丸と云ひける世棄人、わらやの床を結びて、常は琵琶を弾じて、心をすまして詩歌を詠じて懐を述べけり。彼の蝉丸は、延喜▼P3460(六八ウ)第四の皇子にておはしける故に、此の関のあなたをば四宮川原と名づけたるとかや。東三条院、石山へ御幸成りて還御ありけるに、関の清水を過ぎさせ給ふとて、
あまたたび行き相坂の関水を今日を限の影ぞかなしき
とあそばされける。是も何なりける御心の内なりけん、我身のみにやとおぼしつづけ給ひて、関山打ち過ぎ、打出の浜に出で給ひぬれば、粟津原と聞き給ひけるにも、昔天智天皇の御宇、大和国明香の岡本の宮より近江国志賀郡に移らせ給ひて、大津宮ぞ〔つくられ〕ける所ごさんなれとおぼし出で給ひて、勢田の唐橋打ち渡り、湖上はるかに見亘して、野路篠原をも打ち▼P3461(六九オ)過ぎ、鏡の宿にも至りぬれば、昔七の翁の老を厭ひて読みける歌の中に、
鏡山いざ立ちよりて見て行かん年経たる身は老いやしたると
小野すりはりをも打ち越え、醒貝と云ふ所を通り給へば、蔭暗き木下の岩根より流れ出づる水、冷しきまですみ渡りて、いさぎよく見るに付けても、御心細からずと云ふ事なし。
美乃国不破関にもかかりぬれば、細谷川の水の音ものすごく音信て、嵐梢にはげしくて、日影も見えぬ木下道に、関屋軒の板庇、年経にけりと覚えて、杭瀬川をも打ち渡り、下津・萱津をも打ち過ぎて、尾張国熱田宮にも着かれにけり。此の明神は昔景行天皇の御代に、此の▼P3462(六九ウ)砌にあと垂れ給へり。一条院御宇、大江匡衡と云ふ博士、長保の末に当国守にて下りけるに、大般若経書写して、此の宮にて供養を遂げける願文に、「我願既満、任限亦足、欲帰故郷、其期不幾」と書きたりけん事まで思ひ連けられ給ひて、鳴海方にも懸かりぬれば、礒部の波袖をぬらし、友無し千鳥音信わたりて二村山をも打ち過ぎ、参川国八橋渡り給ふに、在原の業平が杜若の歌を読みたりけるに、皆人干飯の上に涙を落としける所にこそと思ひ合はせられ給ふにも、尽きせぬ物は御涙計り也。
矢矯宿、宮路山をも打ち過ぎ〔越え)て、赤坂の宿と聞こえ給へば、大江定基が此の宿の巫女の故に世を過れ、家を出でけんも、わりなかりけるため▼P3463(七〇オ)しかなと思食しめされて、高志山をも打ち越え、遠江の橋本の宿にも付き給ひにけり。此の所は眺望四方にすぐれたり。南には海湖有り、〔北には〕漁浪に浮かぶ湖水あり。人家岸に列なれり。洲崎には松きびしく生ひつづきて、嵐に枝咽ぶ松のひびき、波の音、何れもわきがたし。つくづくと詠め給ふ程に、夕陽西に傾きぬれば、池田の宿に着き給ひぬ。
明けにければ、池田宿をも立ち給ひて、天龍の渡をし給へば、「水まされば船覆す」と聞き給ふに付けても、「彼の巫峡の水、我が命の危きためしにや」と思ひつづけ給ひて、佐野中山にかかりて見給へば、南は野山、谷より嶺に移る。雲路に分け入る心地して、菊河をも打ち過ぎ、大井川を渡り給ひけるに、紅葉乱れて流れけん、龍田川もおぼし出でて哀れなり。宇津山をも打ち過ぎ、清見▼P3464(七〇ウ)関にも打ち出で給ひぬ。「昔、朱雀院御宇、将門追討の為に、宇治民部卿忠文、奥州へ下りける時、此の関に留まりて唐歌を詠じけるところにこそ」と、哀れにおぼえて、多胡浦にて富士の高根を見給へり。時しらぬ雪なれども、皆白妙にみえ亘りて、浮嶋原にも至りぬ。南には蒼海漫々たるを望み、北には翠嶺の峨々たるを顧みる。いづくよりも心すみて、山の緑り影をひたし、礒の浪耳にみてり。葦苅小舟所々に棹さして、群居る鳥もそぞろに物さわがしく、孤嶋に眼遮り、遠帆(空)に列なりて、眺望何れも取々也。原には塩屋の煙り絶々に立ち昇り、〔浦吹く〕風松の梢にはげしく、昔此の山海上に浮かびて、蓬莱の三嶋の如くに有りけるによりて、此の原をば浮嶋原と名付けたり▼P3465(七一オ)けるとかや。
千本松原をも打ち過ぎ、伊豆国三嶋の社にも着き給ひぬ。此の社は、伊与国三嶋大明神を移し奉ると聞き給ふにも、能因法師、伊与守実綱が命によりて、哥よみて奉りたりけるに、炎旱の天より雨俄かに降りて、枯れたる稲葉忽ちに緑に成りたりける、荒人神の御遺りなれば、ゆふだすきかけても末たのもしくおぼして、筥根山をも歎き越えて、湯本宿に着き給ひぬれば、谷川漲り流れて、岩瀬の波に咽ぶおと、源氏の物語に、「涙催す瀧の音かな」と云へる事さへおぼ 九郎判官は、事にふれて情探き人にて、道すがらもいたはりなぐさめ申されければ、大臣殿、「何にもして、宗盛父子が命申し請け給へ。法師に成りて、▼P3466(七一ウ)心閑かに念仏申して後生助からん」と宣ひければ、「御命計りは、さりともとこそ存じ候へ。定めて奥の方へぞ流し奉られ候はんずらん。義経が勲功の賞には、両所の御命を申し請け候ふべし」と、憑もしげに申されければ、大臣殿よにうれしげにおぼして、さるに付けても御涙を流し給ふ。「何なるあくろ、つがろ、つぼの石ぶみ、夷が栖なる千嶋なりとも、甲斐なき命だにもあらば」と思ひ給ふぞ、せめての事とおぼえて糸惜しき。国々関々打ち過ぎ打ち過ぎ、漸く日数も積もりければ、都にて聞きし大礒、小礒、唐原、とがみが原、腰越、稲村、打ち過ぎて、鎌倉にも入り給ひぬ。
卅一 〔判官女院に能く当たり奉る事〕
女院は思し食しわくかたなく、いつとなく臥し沈みて渡らせ給ふ。世の聞こえを恐れて、自ら事のつてにだにも申し入るる人無かりけり。判官はあやしの▼P3467(七二オ)人のためまでも情を当たりける人なれば、まして女院の御事をば、なのめならず心苦しき車に思ひ奉りて、御衣共さまざまに調へ進らせられ、女房の装束も献られけり。是を御覧ぜらるるに付けても、只夢かとのみぞ思し食されける。合戦の時檀浦にて夷共が取りたりける物の中にも、御物とおぼしき物をば皆尋ね出して進らせられけり。其の中に先帝の朝夕御手ならされたりける御遊びの具共あり。御手習ひしすさませ給ひたる反古、御手箱の底に有りけるを御覧じ出させ給ひて、御皃に押しあてて、忍びもあへさせ給はず、をめき叫ばせ給ひけるこそ悲しけれ。恩愛の道なれば、とても疎かなるまじけれども、雲井遥かにて時々見奉る事なりせば、かほどはおぼえざらまし。三年がほど一船の内にて朝▼P3468(七二ウ)夕手ならし奉りて、糸惜し悲しなんどはなのめならず。「御年の程よりもおとなしく、御皃も御心ばへも勝れておはしましつる物を」と、さまざまくどかせ給ふぞ糸惜しき。
卅二 〔頼朝判官に心置き給ふ事〕
十七日、大臣殿父子鎌倉に下り着き給ひぬ。判官、二位殿に見参したりけり。「生虜共、相具して下りたらんに、二位殿何計りか軍の事共尋ね、感じ悦び給はん」と判官思はれけるに、いと打ち解けたる気色もなくて、詞ずくなにて、「苦しくおはすらん。とくとくやすみ給へ」とて、二位殿立ち給へば、判官思はずに存ぜられける。次の朝、使者にて、「存ずる旨あり。しばらく金洗沢の辺に宿し給ひて、大臣殿此に留むるべき」よしありければ、判官「こはいかに」と思はれけれども、▼P3469(七三オ)「様こそ有るらめ」とて、即ち彼の所に宿しけり。「九郎をば、おそろしき者なり。打ちとくべき者にあらず。但し頼朝が運の有らん程は何事か有るべき」と内々宣ひて、十八日まで金洗沢に置き給ひて、其の後は遂に鎌倉へ入れられず。
卅三 〔兵衛佐大臣殿に問答する事〕
さて、「大臣殿をば是へ」とありければ、二位殿のおはしける所の座をへだてて、向かひなる座にすゑ解りて、二位殿廉中より見出だして、比企藤内能員をして宣ひけるは、「『平家の人々を、別に私の意趣思ひ奉るべき事なし。其の上、池の尼御前、いかに申し給ふとも、入道殿免し給はずは争でか命生くべき。頼朝が流罪に定まりし事は、入道殿の御恩也。されば、廿余年までは、さてこそ罷り過ぎしかども、朝敵に成り給ひて、追▼P3470(七三ウ)討すべき宣旨を奉りし上は、王土にはらまれて、詔命を背き奉るべきに非ざれば、力及ばず。かやうに見参しつるこそ本意なれ。又生きむ〔と〕や思食召す、死なんとや思召す』と申せ」と宣ひければ、能員、此の由を申さむとて、大臣殿の御前へ参りたりけるに、居直り畏りて聞き給ひけるこそうたてけれ。右衛門督、宣ひけるは、「『源平両家、初めて朝家に召し仕はれてより以来、源氏の狼籍をば平氏を以て鎮め、平氏の狼籍をば源氏を以て鎮めらる。互ひに午角の如くにて候ひき。今日は人の上、明日は身の上と思し食して、御芳恩には、只とく頸を切らるべし』と申せよ」とぞ宣ひける。
国々の大名小名並居たり。其中に京の者もあり、平家の家人たりし者もあり。皆爪はじきをして申しけるは、「されば、▼P3471(七四オ)畏りたらば、命の生き給はんずるかや。西国にて何にも成り給ふべき人の、是までさまよひ給ふこそ埋りなりけれ」とぞ口々に申しける。或いは、又、涙を流して、「『猛虎深山に在れば、百獣震ひ恐づ。反りて檻牢の中に在れば、尾を揺りて食を求む』と云へり。猛き虎も、深き山に有るときは、諸の獣、怖ぢおそる。人をも外き者に思へども、取られておりなんどにこめられぬる後には、人に向かひて食を求めて尾をふる。猛き大将軍なれども、かやうに成りぬれば、心もかはる事なれば、大臣殿もかくおはするにこそ」と申す人もありけり。
卅四 〔大臣殿父子并びに重衡卿京へ帰り上らせらるる事 付けたり宗盛等切らるる事〕
同じき廿七日に改元ありて、文治元年とぞ申しける。大臣以上の人の首を刎ぬる事、天下の御煩ひ、国土の歎きなれば、左右無く首を▼P3472(七四ウ)刎ねらるるに及ばず。大きなる魚に刀を副へて、大臣殿父子おはする中に置かれたり。是は「若し自害をやし給ふ」との謀也。今や今やと待てども待てども、自害し給はず。思ひ寄りたる気色だにもおはせざりければ、力及ばず。
大臣殿をば讃岐権守末国と改名して、又九郎判官に請け取らせて、六月九日、大臣殿父子、本三位中将、京へ帰り上らせらる。「是にて何にも成らむずるやらん」と思はれけるに、又都へ立ち帰り給へば、心得ずとぞ思はれける。右衛門督計りぞよく心得られたりける。「京にて頸切りて渡さんずる料に」と思はれける。大臣殿は、今少しも日数の経るをぞうれしき事に思はれける。道すがらも、ここにてやここにてやと、肝心を消し給ひけれども、国々宿々を過ぎ行く程に、尾張国鳴海と云ふ所にも成りにけり。▼P3473(七五オ)此の南は野間内海とて、義朝が誅せられし所にてあんなれば、ここにてぞ一定」とおぼしけるに、そこをも過ぎぬ。さてこそ大臣殿、少し憑もしき心出で来たる。御子の右衛門督に、「今は命生きなんずるやらむ」と、宣ひけるぞはかなき。右衛門督は、「なじかは生きらるべき。かくあつき比なれば、頸の損ぜぬやうに計らひて、京近くなりて斬られんずる」とおぼしけれども、大臣殿いとど心細く思ひ給はんずる事のいたはしさに、ものは宣はず、只「他念なく念仏にて候ふべし」とて、我身も隙無く念仏をぞ申されける。さるほどに都もやうやう近くなりて、近江国篠原の宿にも着き給ひにけり。
昨日までは大臣殿も右衛門督殿も一所におはせしを、今朝より引き分けてすゑ奉りければ、「さては今日を限り▼P3474(七五ウ)であるにこそ」と悲しくおぼえて、「髪をそらばや」と思ひ給ひけれども、ゆるされなければ、力及び給はず。「付けながら戒を持たむ」 とて、小原より本覚房湛敬と云ふ上人を請じ給ひて、持ち給ひける。上人最後の御事を勧め申されけるに、大臣殿御涙もせきあへ給はず。「さて右衛門督はいづくに有るやらん。手に手を取り、組みても死に、頸は落ちたりとも、一つ莚に伏さんとこそ思ひつれ。生きながら別れぬる事の悲しさよ。此の十七年は一日も離れざりつる物を。水の底にも沈まで、うき名を流すもあれ故に」と、さめざめと泣き給ひければ、上人申しけるは、「今はかく思食召すまじき御事也。最後の御有様を見奉り、見え進らせ給はんも、互に御心の中悲しかるべし。生を受けさせ給ひしより楽しみ栄え、昔も今も類▼P3475(七六オ)なし。御門の御外戚にて、丞相位に至り給へり。今生の御栄花一事も残る所なかりき。今又かかる御事も皆前世の御宿業なり。人をも世をも恨みおぼしめすべからず。三十八年を過ごし給ひつるも、思し食しつづけよ、一夜の夢の如し。是より後は又七八十年の御齢を持たせ給ふとも幾程か有るべき。『我心自空、罪福無主、観身無心、法不住法』とて、善も悪も皆空也と観ずるが、仏の御心には相応の事なれば、何事も有りとは思召すべからず。今は只一心不乱に浄土へ詣らむと思し召さるべし。更に余念おはすべからず」と申して、戒授け奉りて、念仏勧め申しければ、忽に忘心を止めて、正しく西に向かひ、掌を合はせて、高声に念仏百余返申し給ふ。橘馬▼P3476(七六ウ)允公長が子に橘三郎公忠、太刀を引きそばめて、大臣の左方より後へまはりければ、大臣殿しり目に見給ひて、念仏を留めて、「右衛門督もすでにか」と仰せられけることばの未だ終らざりけるに、御首は落ちにけり。斬りて後、公忠も上人も涙にぞ咽びける。武きもののふなれども、争でか哀れと思はざるべき。況や、公長父子は平家重代相伝の家人、新中納言の御許に朝夕祗候の侍なり。「人の世にあらんと思ふこそうたてけれ」とぞ、人申しける。
其の後、右衛門督にも、上人先の如く戒授け奉りて、念仏勧め申しければ、「大臣殿の最後の御有様はいかがおはしつる」と問ひ給ひけるこそ哀れなれ。「目出たくおはしまし候ひつる」と上人宣ひければ、涙を流して、よにうれしげにおぼして、▼P3477(七七オ)「今はとくとく」と宣ひければ、堀弥三郎斬りにけり。首をば九郎判官、相具して京へ上りぬ。身をば公長が沙汰にて一つ穴に埋みにけり。さしも「片時も離れじ」と宣ひければ、かくしてけり。
卅五 〔重衡卿日野北方の許に行く事〕
「本三位中将をば、南都の大衆の中に出して、頸を切りて奈良坂に係くべし」とて、源三位入道子息蔵人大夫頼兼が奉りにて具して上らる。「京へは入れ奉るべからず」とて、醍醐路をすぢかへに南都へおはしけるに、さすがに故郷も恋しくて、遥かに都を見亘して涙ぐみて、木幡山の手向へ打ち出でむとし給へる所にて、三位中将、守護の武士に宣ひけるは、「月来日来、情けを係けつる志、うれしとも云ひ尽くし難し。同じくは最後の恩を蒙るべき事一つあり。年来相ひ具したりし者、日野の西、大門▼P3478(七七ウ)に有りときく。今一度、替はらぬ体をもみえばやと思ふはいかに。我は一人の子もなし。何事に付けても此の世に思ひ置くべき事は一つもなきに、此の事の心にかかりて、よみぢも安く行くべしとも覚えず」と、泣く泣く宣ひければ、武士共もさすが石木ならねば、各涙を流して、「なにかは苦しく候べき」とて、免し奉りてけり。中将なのめならず喜び給ひて、大夫三位の局の許へ尋ねおはしけり。
彼の大夫三位と申すは、故五条大納言邦綱卿の御娘、大納言典侍殿には姉也。平家都を出で給ひし時、人々の館は皆焼かれにしかば、西国より帰り給ふにも、立ち入り給ふべき所もなければ、彼の宿所へ落ち着きて、忍びておはしける所へ尋ね入り給ひて、「大納言佐殿は是におはしますか。三位中将重衡と申す者こそ参りて候へ。此の妻にて立ち乍ら見参せ▼P3479(七八オ)ん」といはせたりければ、北の方は少しも覚とも思ひ給はず、夢の心地して、若しやとて、怱ぎ出でてみすごしに見給へば、浄衣きたる男のやせ黒みたるが、〓[木+延]により居〔給ひたりけるを、そ〕とみなし給ひける。「いかにや夢か覚か、是へ入り給へかし」と宣ひける御音を聞き給ふより、中将涙をはらはらと落として、袖を皃にぞあてられける。北の方も目もくれ心も消えはてて、物も宣ひあへ給はず。良久しくありて、中将〓[木+延]よりみすうちかづきて、なにと云ふ詞をば出だし給はねども、北の方に御目を見合はせ給ひて、はらはらと涙を流されければ、北の方もうつぶしに伏して物も宣はず。互ひの御心中、さこそは悲しかりけめ。北の方涙を押さへて、「何様にも是へ入らせ給へ」と宣ひければ、中将内へ入られにけり。北の方怱ぎ立ち給ひて、御料を水にあらひて勧めけれども、胸も喉も塞がりて、見入れ給ふ▼P3480(七八ウ)べき心地もし給はず。「せめての志の切なる事計りを見え給はん」とて、水計りをぞすすめ入れ給ひける。
中将泣く泣く宣ひけるは、「こぞの春何にも成るべかりし身の、せめての罪の報いにや、生きながら取られて、京田舎恥をさらして、はてには奈良の大衆の中に出だして切らるべしとてまかるを、命のあらん事も只今を限れり。此の世にて今一度見奉らむと思ひつるより外は、又二つ思ふ事無かりつ。今は思ひおくべき事なし。よみぢも安く罷りなんず。人に勝れて罪深くこそ有らんずらめども、後世問ふべき者もおぼえず。何なる御有様にておはすとも忘れ給ふな。出家をもしたらば、かたみに髪をも進らせ候ひけれども、夫もゆるされぬぞ」とて、袖を顔に押しあて給ふ。北の方も日来の思ひ歎きは事の数ならざりけり。堪へ忍ぶべき心地もし給はず。「軍は常の事なれば、必ずしも去年の二月六▼P3481(七九オ)日を限りとも思はざりしかども、別れ奉りにしかば、越前の三位の北の方のやうに、水の底へ入るべかりしに、先帝の御事も心苦しく思ひ進らせて有りし上に、正しく此の世におはせぬとも聞かざりしかば、命有らば今一度見奉る事もやと、今日までは憑む方も有りつるに、今を限りにておはすらん事の悲しさよ」とて、中将の上に皃をあてて涙に咽び給ふ。昔今の事共、宣ひ通はすに付けては、思ひは深く成りまされども、なぐさむ心地はし給はず。夜を重ね、日を送り給ふとも、余波はつきせずぞおぼしける。
「武士共のいつとなく待ち居たるらんも、心なし。うれしくも見奉りぬ。さらば罷りなんよ」 とて立ち給へば、北の方叶はぬ物故に、中将の袂に取り付きて、「こはいかにや。今夜計りは留まり給へかし。武士もなどか一夜の暇ゆるさざらん。五年十年にて帰り給はんずる道とも▼P3482(七九ウ)思はず」とて、肝心も身にそはぬ体にぞみえられける。よにしほれてみえ給ふに、「是に召し替へよ」とて、合はせの小袖、白帷取り出だして奉り給ひければ、中将、「うれしくも」とて、
「ぬぎかふる衣もいまはなにかせん是を限りの信物ともへば」
と打ち詠め給ひて、道すがら着給ひたりける、ねりぬきの小袖にぬぎ替へ給へば、北の方是を取りて、最後の形見と覚しくて、御かほに押しあててぞもだえこがれ給ひける。中将は、「いかにも遁るべき道にあらねば」とて、心づよく引きちぎりて立ち給ふ。北の方〓[木+延]の際に臥しまろびて叫び給ふ。三位中将庭まで出でられたりけるが、又立ち帰り給ひて、御すだれのきわへ立ち寄りて、「日来思ひ設けたりつるぞかし。今更歎き給ふべからず。契り有らば後の世にも又生まれ合ふ事も有りなん。必ず一蓮と▼P3483(八〇オ)祈り給へ」とて出で給ひにけり。北の方此を見聞き給ひて、恥をも顧み給はず、御簾のきはにまろびて出で給ひて、もだえこがれ給ふ、御音の遥かに門外まで聞こえければ、馬をもえすすめ給はず。ひかへひかへ涙に咽ばれければ、武士共も鎧の袖をぞ湿らしける。
中将は石金丸と云ふ舎人一人ぞ具し給ひたりける。中将鎌倉へ下らるる時、八条院より「最後の有様みよ」とて、伊豆国まで付けさせ給ひたりけり。木公馬允時信と云ふ侍を北の方召して、「中将は木津河、奈良坂の程にてぞ切られ給はんずらん。頸をば奈良の大衆請け取りて、奈良坂に懸くべしと聞こゆ。跡を隠すべき者の無きこそうたてけれ。さりとては誰にか云ふべき。行きて最後の恥をかくせかし。むくろをば野にこそ捨てんずらめ。夫れをばいかにしてかき返せ。教養せん」とて、地蔵冠者と云ふ中間一人、十力法師と云ふ力者一人とを付けられにけり。三人の者共▼P3484(八〇ウ)涙にくれて行先もみえねども、中将の御馬の左右に取り付きて、泣く泣く付きたりける。北の方は走り出しておはしぬべくおぼしけれども、さすがに物のおぼえ給ひけるやらん、引きかづきて臥し給ひぬ。くるるほどにおき上がりて、法戒寺に有りける上人を請じ奉りて、御ぐしおろし給ひてけり。
卅六 〔重衡卿切らるる事〕
本三位中将重衡卿、南都へ下ると聞こえければ、衆徒僉議して云はく、「此の垂衡卿を請け取りて、東大寺興福寺の大垣三度廻して後、堀頸にやすべき、鋸にてや切るべき」なんど、さまざまに議しけるに、宿老の僉議には、「此の重衡の卿と云ふは、去んぬる治承の合戦に法花寺の鳥居の前に打ち立ちて、南都を滅したりし大将軍也。其時衆徒の力にて、打ちも伏せ射も止めて搦め取りたらば、尤も左様にもしてなぶり殺すべし。夫れに武士に搦められて、年月を経て▼P3485(八一オ)後、武士の手より請け取りて、我が高名がほに堀頸にもし、鋸にても切らむ事、気味有るべからず。且つは又僧徒の行に然るべからず。只何にも武士が手にて切りたらば、頸をば請け取りて、伽藍の御敵なれば、奈良坂に係くべし」と僉議一同なりければ、「尤も然るべし」とて、衆徒の中より使者を立てて、「重衡卿をば般若路より内へ入れずして、何くにても切るべし。伽藍の怨敵なれば、首をば請け取るべし」と申したりければ、武士是を聞きて、三位中将を木津川のはたに引き居ゑて切らんとす。
中将、今は限りと思はれければ、信時を招きて、「此の辺に仏ましましなんや」と宣ふ。信時走り廻りて、或る堂より阿弥陀の三尊を尋ね出だし奉りて来ければ、中将悦びて川原に東西に堀り立て奉りて、中将の浄衣の袖の左右のくくりを解きて、仏の御手に▼P3486(八一ウ)結び付けて、五色の糸に思ひ准へて、「達多が五逆罪、還りて天王如来の記別に預かる。是れ則ち仏の御誓ひの空しからざる故也。然らば重衡が年来の逆罪を飜して、必ず安養の浄土へ引導し給へ。弥陀如来に四十八の願まします。第十八の願には『我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずんば、正覚を取らじ』と誓ひあり。重衡が只今の十念を以て、本誓誤たせ給はず、早や引接し給へ」とて、十念高声に唱へ給ひける、其の御声の未だ終らざるに、御頸は前に落ちにけり。信時首を地に付けて叫ぶ。是を見る人、千万と云ふ事を知らず、皆涙を流さぬは無かりけり。
卅七 〔北方重衡の教養し給ふ事〕
さてしも有るべきならねば、信時以下の者共、中将の空しき骸を輿にかきて、日野へぞ返りにける。北の方車寄せに走り出でて、首も無き人に取り付き▼P3487(八二オ)て、音も惜しまず、をめき叫び給ふぞ無慚なる。「年来は今一度相ひ見し事のはは事の数ならず。中々に一谷にていかにも成り給ひたりせば、今日は日数も経れば、歎きもうすからまし。花やかなりし体にておはしつるに、夕の風は何なれば紅深くはならるらん。只同じ道に」と、もだえこがれ給へども、答ふる物も無かりけり。夜に入りて、薪に積み籠め奉りて、よはの煙と成して後、骨を拾ひ墓をつき、卒都婆立てて、骨をば高野へ送り給ひにけり。哀れなりし事共也。
中将の首をば南都の衆徒の中へ送りたりければ、大衆請け取りて、東大寺興福寺の大垣を三度引廻して、法花寺の鳥居の前にて鉾に貫きて、高く指し上げて人に見せて、般若寺の大卒都婆に釘付にぞしたりける。首は七日が程は▼P3488(八二ウ)有りけるを、北の方、春乗房上人に乞ひ請け給ひて、高野山へ送り給ひてけり。北の方の心の中、押し量られて無慚也。
彼の春乗房上人と申すは、右馬大夫季重が孫、右衛門大夫季能が子也。上醍醐の法師也。東大寺造営の勧進の上人にて、情けおはしければ、三位中将の首をも北の方へ奉りにけり。権者にておはしければ、慈悲も深くおはしけるにや。
卅八 〔宗盛父子の首渡され懸けらるる事〕
廿三日、宗盛父子の首を、検非違使、三条川原に出で向かひて、武士の手より請け取りて、大路を渡して、左の獄門の木に懸けけり。法皇、三条東の洞院に御車を立てて御覧あり。西国より帰りては、生きながら七条を東へ渡し、東国より上りては、死して後三条を西へ渡さる。生きての恥、死しての恥、何れも劣らずぞみえける。三位以上の人の首を獄門の木に懸くる事、先例▼P3489(八三オ)なし。信頼卿さばかりの罪を犯したりしかば、首を刎ねられたりしかども、獄門には懸けられず。無慚なりし事共也。
卅九 〔経正の北の方出家の事 付けたり身を投げ給ふ事〕
故修理大夫経盛が嫡男、皇后宮亮経正の北の方は左大臣伊通の御孫、鳥飼大納言の御娘とかや。其の腹に六つになる若君おはしけり。仁和寺の奥なる所に忍びておはしけり。武士、尋ね出だして、今日、六条川原にて首をきる。母上も付きておはしたり。天に仰ぎ地に伏して、もだえこがれけれども、なじかは甲斐あるべき。若君、遂に切られにけり。少ければにや、首をば大路をも渡さず、獄門にも懸けられず。川原に切り捨てたりけるを、右の膝の上に置きて、をめき叫びけるが、後には息も絶えて音もせず。
折節、小原の堪敬上人、此程多かる死骸見て、無常を▼P3490(八三ウ)も観ぜんと覚して、六条河原を下りに通り給ひけるが、此の人を見給ひて、立ち留まりて宣ひけるは、「今は何に思し召すとも甲斐あるまじ。只、体をかへ、念仏をも申して、後生を訪ひ給へ。いざ、させ給へ、大原へ」とて、若君の骸をば共なりける法師原に持たせて、大原の来迎院に送り置きつ。母上は軈て出家せられにけり。
首をば母上が懐に入れて、天王寺に詣でて、百日無言にて念仏申されけるが、此の懐なる首、日数の積るままには、あたりもくさかりければ、人、「髑髏尼」とぞ申しける。さて、百日に満じける日、渡辺川に行きて、西に向かひて手をあざへ、高声念仏、千返計り申して、身を投げ給ひにけり。哀れに無懺の事なり。
女院は吉田にも仮りに立ち入らせ給ふと思し召しけれども、五月もたち、六月半ばに成りに▼P3491(八四オ)けり。今日までながらへさせ給ふべくも思し召さざりしかども、御命は限りありければ、さびしく幽かなる御有様にてぞ明かし暮らさせ給ひける。「大臣殿父子・本三位中将、都へ帰り入る」と聞かせ給ひければ、実しからずは思し召しけれども、「若し露の命計りもや」など思し召しける程に、都近き篠原と云ふ所にて大臣殿父子切られ給ひて、御首渡され、獄門に懸けられたりし事、重衡卿の日野へよられたりし事、最後の有様なんどまで、人参りて、細かに語り申しければ、今更に消え入る様に思し召さるるも理り也。都近くて、か様の事、きき給ふに付きては、御物思ひ、弥よ怠る時なし。「露の命、風を待たむ程も、深山の奥にも入りなばや」と思し食されけれども、さるべき便りも無かりけり。
▼P3492(八四ウ)平家物語第六本
本に云はく
時に延慶三年〈庚戌〉正月廿七日〈子剋〉、紀州那賀郡根来寺禅定院の住坊に於いて、之を書写し畢はんぬ。聊かも
外見有るべからざるのみ。
執筆栄厳 〈生年三十一〉
応永廿六〈屠維・陬〓[此+言]〉 林鐘十七日 之を書く。
(花押)
平家物語 十二 (第六末)
B2454▼P3493
見返し
当巻の内、歌十八首、之在り。
B2455▼P3495(一オ)
一 大地振おびたたしき事 二 天台山七宝の塔婆の事
三 建礼門院吉田に御坐す事 東大寺供養の事
四 源氏六人に勧賞行はるる事 五 平家の生虜共流さるる事
六 平大納言時忠の事 七 建礼門院小原へ移り給ふ事
阿波民部并びに中納言忠快の事 八 判官と二位殿と不快の事
九 土佐房昌俊判官の許へ寄する事 十 参河守範頼、誅せられ給ふ事
十一 原田大夫高直、誅せらるる事 十二 九郎判官都を落つる事
十三 義経追討すべきの由院宣下さる事 十四 諸国に守護地頭を置かるる事
十五 吉田大納言経房卿の事 十六 平家の子孫多く失はるる事
十七 六代御前召し取らるる事 十八 六代御前関東へ下り給ふ事
▼P3496(一ウ)
十九 六代御前免され給ふ事 廿 六代御前大学寺へおはする事
廿一 斎藤五長谷寺へ尋ね行く事 廿二 十郎蔵人行家搦めらるる事、付けたり人々解官せらるる事
廿三 六代御前高野熊野へ詣で給ふ事 廿四 建礼門院の事
廿五 法皇小原へ御幸成る事 廿六 建礼門院法性寺にて終はり給ふ事
廿七 頼朝右大将に成り給ふ事 廿八 薩摩平六家長誅たるる事
廿九 越中次郎兵衛盛次誅さるる事 三十 上総悪七兵衛景清干死にの事
B2456
卅一 伊賀大夫知忠誅たるる事 卅二 小松侍従忠房誅せられ給ふ事
卅三 土佐守宗実死に給ふ事 卅四 阿波守宗親道心を発す事
卅五 肥後守貞能観音の利生に預る事 卅六 文学流罪せらるる事 付けたり 文学死去する事、隠岐院の事
卅七 六代御前誅たれ給ふ事 卅八 法皇崩御の事
卅九 右大将頼朝果報日出たき事
B2457
▼P3497(二オ)
平家物語第六末
一 〔大地振おびたたしき事〕
文治元年七月に平氏残り無く滅びて、西国静まりぬ。国は国司に隋ひ、庄は領家の進退也。上下安堵して思ひし程に、九日午時計りに大地振おびたたしくして良久し。畏しなむどもなのめならず。赤懸の内、白川の辺、六勝寺、九重塔より始めて、或いは傾き倒れ、或いは破れ崩る。在々所々の神社、仏閣、皇居、人家、一宇も全きは無し。鳴る声は雷の如く、揚がる塵は煙に同じ。天闇くして日の光も見えず。地響きて巌谷に躅び入れり。老少共に魂をけし、鳥獣も悉く心を迷はす。「こは何にしつる事ぞ」と、をめき叫ぶ。打ち殺さるる者もあり、圧し損ぜらるる者もあり。近国・遠国も又此くの如し。山崩れて▼P3498(二ウ)河を埋づみ、海漂ひて礒を浸す。洪水漲り来らば、岡に登りても助かりなん、猛火燃え近付かば、河を隔てても去りぬべし。只悲しかりけるは大地振なりけり。鳥に非ざれば空をも翔らず、龍に非ざれば雲にも入らず。心憂しともおろかなり。
主上は鳳輦にたてまつりて、池の汀に渡らせ給ふ。法皇は其程、今熊野に御籠り有りけるが、折しも御花まゐらせさせ給ひけるに、屋共多く振り倒し、人あまた打ち殺されて触穢さへ出来にければ、六条殿へ還御成りにけり。天文博士共、馳せ参りて騒ぎ申す。占文軽からず。今夜は南庭に幄を立てて、主上渡らせ給ふ。諸宮・諸院の御所共、皆倒れにける上、猶隙無く振るひければ、或いは御車に召し、或いは御輿に奉りてぞ渡らせ給ひける。種々の御評定、様々の御祈り始まる。「今夜の▼P3499(三オ)子丑の時には大地打ち返すべしと御占有り」なんど云ひて、上下、家の中に居たるは一人もなし。遣戸、障子を立てて、只外にのみぞ有りける。天響き、地の動ずる度には、「只今ぞ死ぬる」とて、手を取り組みて高念仏を唱へければ、所々の声々おびたたし。百年に一年足らぬつくもがみ共も、「未だかかる事覚えず」とぞ申しける。「世の滅するなむど云ふ事は、経論・聖教の説相を案ずるに、さすが今日明日とは思はざりつる物を」とて、をとな共も泣きければ、少き者共も是を聞きて、をめき叫ぷ声々、おびたたし。
文徳天皇の御宇、斉衡三年三月、前朱雀院御時、天慶元年四月に、かかる地振ありけり。天慶には、主上御殿を去りて、常寧殿の前に五丈の幄を立てて渡らせ給ひけり。四月十五日より八月に至るまで隙無く振りければ、▼P3500(三ウ)上下家の中に安堵せざりけりとぞ承る。されども其は見ぬ事なれば如何有りけん、今度の事は、是より後も類有るべしとも覚えず。平家の怨霊にて世中の失すべき由、申しあへり。十善帝王は都を責め落とされて、御身を海中に沈め、大臣・公卿は大路を渡されて、首を獄門に懸けられぬ。異国には其の例もや有らむ、本朝には未だ聞かざる事也。是程ならぬ事だにも、怨霊は昔も今も怖しき事なれば、「世も未だしづまらず、云何があらむずらむ」とぞ怖ぢあひける。
二 〔天台山七宝の塔婆の事〕
抑も、今度の大地震の間に天台山に不思議の事あり。
惣持院の七宝の塔婆に仏舎利を安置し奉りけるを、円融院の御宇、貞元二年に雷落ちて、此の御舎利を取り奉りて、雲を分けてあがりけるを、修験の聞こえ▼P3501(四オ)世に有りければ、浄安律師と申しし人、是を御覧じて、「彼の御舎利を取り留め奉れ」とて、十二神将の呪を満てらる。丑の時の番の神、照頭羅大将走り出でて、雷電神を取りて伏せて、仏舎利を奪ひ返し奉りぬ。雷、猶腹を立てて、塔婆に立てられたる馬瑙の扉を取りて上りけるを、衆徒一同に、「同じくは、あの扉をも取り留め給へ」と申しければ、「末代の世となりて、此の龍、必ず来たりて、彼の扉に此の舎利を取り替へ奉らむずるなり。夫、我が世の事に非ず」とて、遂に扉をば止め給はず。
其の後、二百余歳を隔てて、今度の大地震の間に此の龍落ちて、過ぎにし貞元の比、取りて昇りにし馬瑙の扉を以ちて来りて、七宝の塔婆に立てて、舎利をば取りて昇りぬ。
衆徒、大きに歎きて云はく、「昔の浄安律師の宣ひ置くる事、少しも違はず。末代をかがみて▼P3502(四ウ)示し給ひける事こそ貴けれ。我等が世には浄安の如く取り留め奉るべき人も無し。末代こそ心憂けれ。即ち知りぬ、法滅の期、至りにけりと云ふ事を」。衆徒、僉議して、「此の御舎利を取り奉る事は、近江の水海の龍神共のし態にてぞ有るらむ。本の如く返し納め奉らずは、龍神調伏の法を始むべし」と僉議しける。夜の夢に、水海の龍神共、多く集まりて申す。「此の御舎利を取り奉る事は、全く我等が態に非ず。伊勢の海に侍る龍の宿執あるに依りて、是を取り奉れり。吾等が誤らざる事を愁ひ申す」と、衆徒の夢にぞ見たりける。
彼の宿執と申すは、伝教大師、桓武天皇の御宇、延暦廿三年に渡唐して、天台山の行満大師に会ひ奉りて、秘密を伝ヘ、仏舎利を相承して、我朝へ帰り給ひしに漢▼P3503(五オ)家・本朝の境にて、龍神来りて、此の御舎利を留め奉らむとす。然りと雖も、宿執、未だ薄きに依り、其上、伝教の行力に恐れ奉りて、遂に留め奉る事叶はず。我が朝へ渡されて、叡山に安置し奉る。其の後、今、四百余歳の春秋を送れり。遂に彼の宿執の為に取られぬ。口惜しかりし事共なり。
三 〔建礼門院吉田に御坐す事〕
建礼門院は吉田に渡らせ給ひけるが、九日の地振に築地も崩れ、荒れたる宿も傾きて、人住ませ給ふべき御有様にもみえず。「地、打ち返すべし」なむど聞し食しければ、惜しませ給ふべき御身にはなけれども、「只尋常にて消え入りなばや」とぞ思し召されける。折り知り皃に、いつしか、虫の声々恨むるも哀れなり。
(四) 〔東大寺供養の事〕
八月一日、東大寺開眼の事、宣旨を下さる。其の状に云はく、
五ウ こと おほ
▼P3504(五ウ)東大寺焼亡して漸く六ヶ年を経たり。蘆舎那大仏像、殊に巧匠に課せて、旧きを守りて鎔鋳す。梵宇撥白の功、
未だ本寺に甫めずと雖も、満月の相、已に成らむと欲す。仍りて、来たる八月廿八日、先づ開眼し奉るべし。宜しく、京畿七道諸国をして、廿五日より九月三日に至るまで殺生を禁断し、会日に至りては国分二寺に於いて各斎会を開かしむべし。其の供養の料、例に依りて之を充つ。大宰府観音寺に於いても之を修せよ。兼ねて会集の道俗をして、共に蘆舎那の仏号を称讃せしむべし。其の趣、一に貞観三年三月廿一日の符の如し。者。
元暦二年八月一日 左中弁
同廿七日、法皇南都へ御幸あり。公卿には花山院大納言兼雅、堤中納言朝方、中山中納言頼実、衣笠中納言定能、吉▼P3505(六オ)田中納言経房、民部卿成範、藤宰相親信、平宰相親宗、大蔵卿泰経。殿上人には雅賢朝臣已下、皆浄衣を着して供奉せられけり。伊予守義経、同じく浄衣を着して御後に候す。随兵六十騎を相ひ具す。
同廿八日、大仏開眼あり。亥の剋に法皇臨幸ありけり。左大臣経宗、権大納言宗家卿已下、参入せられけり。開眼師、僧正定遍。呪願、僧正信円。導師、大僧都覚憲なり。
同晦日、弁暁、権少僧都に仰せられけり。開眼師定遍僧正の賞譲とぞ聞えし。いみじかりける事共なり。
四(五) 〔源氏六人に勧賞行はるる事〕
去る程に、八月十四日の除目に、源氏六人、一度に受蘭になさる。勲功の賞也。志多三郎先生義憲は伊豆守に任ず。大内冠者惟義は▼P3506(六ウ)相模守に任ず。上総太郎義兼は上総介に任ず。加々美次郎遮光は信濃守に任ず。兵衛尉義賢は越後守に仕ず。伊与守義経は大夫尉を兼ぬることぞ聞こえし。
鎌倉の源二位、宣ひけるは、「義経は伊予国一ヶ国を賜りて、院の御厩の別当に成りて、京都守護して候ふべし」とて、鎌倉より侍十人を付けらる。義経、思ひけるは、「一朝の大事と思ひつる親の敵を討ちつれば、夫に過ぎたる喜びなし。但し度々の合戦に命を捨てて、已に大功をなす。世の乱れを鎖めぬれば、関より東は云ふに及ばず、京より西をば、さ
りとも預からむずらむとこそ思ひつるに、纔かに伊与国と没官の所二十ヶ所と当たり付きたるこそ本意無けれ。さりとも京都にも鎌倉にも思し召し計らふ旨も有らむずらむ」と思ひて過ごしける程に、十人付きたる侍共も内々▼P3507(七オ)心を合せてければ、とかく云ひつつ鎌倉へ逃げ下りにけり。武蔵房弁慶、片岡八郎為春、江田源三、熊井太郎、常陸房快賢なむどぞ、未だ判官には付き奉りたりける。判官、是等に宣ひけるは、「さりとも鎌倉にも相ひ計はるる旨、有らむずらむ。且は西国に恩をせむずるぞ。あなかしこ、我に離るな」と宣ひける程に、鎌倉より、判官打たるべしと云ふ聞こえあり。
〔五〕(六) 〔平家の生虜共流さるる事〕
九月廿三日、平家余党の生虜共、各配所へ遣はさる。平大納言時忠卿をば、追立の官人、信盛奉はりて、能登固へ遣はす。今日、都を出で給ひて、近江国志賀幸崎を打ち過ぎて、堅田と云ふ浦にて、「ここは何くぞ」と網人に問ひ給へば、「是は堅田と申す所にて候ふ」と云ひければ、かくぞ思ひつづけ給ひける。
▼P3508(七ウ)返りこむ事は堅田に引く網の目にもたまらぬ涙なりけり子息讃岐中将時実をば、公朝奉はりて、周防国へ遣はす。内蔵頭信基をば、章貞奉はりて、備後国へ遣はす。兵部少輔尹明をば、牽貞同じく奉はりて、出雲国へ遣はす。熊野別当行明法眼をば、職景奉はりて、安芸国へ遣はす。法勝寺執行能円法眼をば、経広同じく奉はりて、備中国へ遣はす。中納言僧都印弘をば、久世奉はりて阿波国へ遣はす。中納言律師忠快をば、武蔵国へ遣はすとぞ聞こえし。
六(七) 〔平大納言時忠の事〕
時忠卿都を出ださるとて、女院へ申されたりけるは、「今は有甲斐なき身にて候へども、同じくは一つ都の内にて、御所の御車をも申し承らむ、とこそ思ひ候ひつれども、責め重く遁るべき方なくして、今日既に都を罷り出で候ひぬ。▼P3509(八オ)いとど何なる御有様にてか渡らせ給はむずらむと思ひ遣りまひらせ候ふこそ、行く空も覚え候ふまじけれ」と、細かに申されたりければ、「さては遠国へ趣き給ふごさむなれ。今は此の人計りこそ昔の遺りにてありつるに」と思し召せば、いとどかきくらす御心地してぞ思し召されける。
彼の時忠卿と申すは、出羽前守知信が孫、兵部権大輔時信が子也。故建春門院の御〓[女+夫]にておはせしかば、高倉の上皇には御外戚也。昔楊貴妃が幸の時、楊国忠が栄えしが如し。八条の二位殿も〓[女+夫]にて御はせしかば、入道には小舅也。世の覚え、時のきら目出たかりき。されば顕官顕職心の如し、思ひの如し。程無く経上がりて、正二位大納言に至り給へり。申し合はせられければ、時の人「平関白」とぞ申しける。検非違使の別当にも▼P3510(八ウ)三度までなられたりき。未だ先例無き事也。今暫くも平家の世なりせば、大臣疑ひ有るまじ。庁務の時も様々の事共張行して、強盗廿人が右手切られなむどしけり。昔悪別当経成と云ひける人こそ、強盗の頸切りたりけれ。此の時忠卿、事に触れて心猛き人にておはしけり。西国におはせし時、院より、「帝王都へ入れ奉れ。三種の神祇返し入れ奉れ」と仰せ遣はす。院宣持ちて下りたりける御壷の召次花方が頬に、「浪方」と云ふ火印を指して、「汝をするには非ず」とぞ宣ひける。されば誰を申されけるぞ。院を申されけるか。故女院の御ゆかりなれば、宥めらるべかりしかども、加様の事共思し召し忘れさせ給はねば、法皇の御気色心よからずして、流され給ひけるも此の故とぞ聞こえし。九郎判▼P3511(九オ)官に親しく成り給ひにしかば、其の好みもおろかならず。流罪をも申し宥むとせられけれども、法皇も御気色もあしく、鎌倉のゆるされもなかりけり。此の人合戦の先をこそかけねども、籌策を帷帳の中に運らす事は、此の大納言のし態なりければ、理とぞ覚ゆる。年闌け齢傾きて、妻子にも別れ、見送る人も無くして、眇なる能登国まで下向せられけむ心の中こそ悲しけれ。押しはかられて糸惜し。日比は西海の波の上に漂ひて、今は又北国の雪の下に閉ぢられけむこそ無漸なれ。北の方帥典侍殿は何事も深く思ひ入れたる人にて、いつもすまじき別れかはと思ひなぐさめ給ひつつ、心づよくぞもてなし給ひける。其の腹に尾張侍従時宗とて、十四に成り給ふ若冠おはしけり。なのめならず糸惜しみ▼P3512(九ウ)給ひけるに、是を見置きて、いつ返るべしともしらぬ遠国へ趣く事の心うさ、歎き悲しみ給へども甲斐無し。時宗も今は限りの別れを惜しみて、涙に咽び給ひけり。
七(八) 〔建礼門院小原へ移り給ふ事〕
其の比女院は、都も猶閑かなるまじき由聞こし食して、いかなるべしとも思し召しわかず、尽きせぬ御物思ひに秋の哀れを打ち副へて、夜も漸く長く成りければ、いとど御ねざめがちにて、万づ思し食し残す御事もなく、「ここは都近くて振舞ひにくし。哀れ、いづちも哉」と、あくがれ思し召しけるに、付き進らせたりける尼女房の便りにて、「是より北山の奥に小原瀬料の里、寂光院とて、然るべき所をこそ尋ね出だして候へ。夫へ御渡りあつて行はせおはしませ」と申しければ、「我が所願成就しぬるにや」と、悦ばせおはしまして、怱ぎ▼P3513(一〇オ)出で立たせましましけり。御輿共は冷泉の大納言隆房卿の北の方ぞ沙汰し進らせられける。是は女院の御妹にてましましければなり。大方も常にはこまやかに訪ひ申されければ、いとうしと思し召し、「此の人々のはぐくみにて、うき世にあるべしとこそ思し召し寄らざりしか」とて、女院御涙を流させ給ひけり。御輿指し寄せたりけれども、とみにも移らせおはしまさず。此もさすがに夏の始めより秋の末つかたまで、すませおはしましたる所なれば、御余波をしくて、御袖もしほる計りに見えさせ給ひければ、庭に並居たりける使が者共も、さすが石木ならねば、各袖をぞぬらしける。さればとて留まらせ給ふべきにあらねば、御輿にめしつつ、泣く泣く入らせ給ひけり。
いと人通ひたりとも、立す河原路にかからせ給ひて、切堤、下松▼P3514(一〇ウ)打ち過ぎ、はるばると別け入らせ給ひけり。日も既に暮れかかる野寺の鐘の入合の音すごく、いつしか御心すごく聞こし召す。漸く小原の里に近付かせおはしまして、御覧ずれば、草野谷の東西の山の麓、北の奥に、御堂ほのかに見えたり。傍にあやしげなる坊もあり。年経にけりと覚えて、いたく荒れたり。苔むしたる石の色、いとさびたる所なり。谷川より落ちたる水の音、我が聞きなしにや、御心すごくぞ思し食す。緑蘿の垣、紅葉の山、絵に書くとも筆も及び難し。木に刻む巧もあらじかし。折しも空かき曇り打ち時雨れ、木々の木の葉も乱れつつ、妻叫ぶ鹿の音信れて、虫の声々よはりにけり。
さても其の夜は御堂に参らせ給ひて、「南無西方極楽教主阿弥陀如来、我が君先帝聖霊并びに悲母幽儀、兼ねては親類の霊等、一仏浄▼P3515(一一オ)土へ引導し給へ」と申させおはしまして、伏し拝ませ給ひけるが、軈て仏の御前に絶入し給ひたりけり。尼女房達かかへ進らせて、「日来の御歎きの積りにこそ」とて哀れ也。良久しく有りて、御心地直らせ給ひたりけるに、「何なる御事にや」と申しければ、女院答へさせましましけるは、「日比も先帝の御事忘るる隙無けれども、只今殊更に御面影の、ひしと身に副はせ給ひたる様に覚えつるによ」とぞ仰せられける。
其の夜明けての日よりは御庵室に住ませましましけり。御送り者共も哀れに見置き進らせて、涙に咽び返りけり。さすがに世をば過れさせ給ひたりけれども、御命は捨てがたき習ひにて、はかなき露の御身を草の庵にやどして、明けぬ暮れぬと過ごさせ給ひければ、御耳に常に触れけるは、しづのおが斧のをと、御目に遮る物とては、嵐に乱れて散る木の葉、梢まばらに▼P3516(一一ウ)成るままに、さびしさのみぞ増りける。佇ば漏り来る月影は、自然の燈にもちいられ、松を払ふ風の音、琴の音にあやまたる。山家寂漠として、音信れ来たる人も無かりければ、万づ思し召しつづけては、御涙せきあへさせ給はざりけるに、散り敷く木の葉のそよぎけるを聞こし食すも、「古へ馴れし都人の問ひ来たるにや。誰ならむ」と御覧じければ、古郷人にはあらずして、妻恋ふ鹿ぞ通りける。山深き御住居今更思し食し知られて、かくぞ詠めさせ給ひける。
里とほみ誰が問ひ来らむならの葉のそよぐは鹿の渡るなりけり
法皇は女院の未だ都に渡らせ給ひける時も、御心苦しき事に思し食されけれども、「鎌倉の源二位の聞き思はん事も悪しく候ひなむ」と、人申されける間、さてのみぞ過ごさせ給ひける。
(九) 〔阿波民部并びに中納言忠快の事〕
京都にも関東にも生虜共、切らるべきはきら▼P3517(一二オ)れ、流さるべきは流さる。阿波民部大夫成良をば鎌倉へ召し下され、「切らるべき歟、宥めらるべき歟」と評定せられけるに、「先祖相伝の主を帰りちうして、滅したる不当仁をば争でか宥むべき」と口々に申しければ、既に切るべきに定まりたりける間、成良様々の悪口をしければ、さらばにくしとて、かごに入れて中に提げて、下に火を焼きてあぶり殺す。無懺なんどは云ふ計りなし。
門脇中納言の御子に、中納言律師忠快と申しけるをば、鎌倉へ召し下して武蔵に預け置かれたりけるを、是をば僧なれば宥めらるべき由思ひ給ひけるが、能々思ふに、「惣じて平家の一門には、門脇中納言の子共に過ぎて恐ろしき者はなし。越前三位より始めて、能登守と云ひ、大夫業盛と云ひ、何れも何れも愚かなるはなし。されば僧なりとも思ひ許すべからず」とて、「とくとく切るべし」と仰せられたりけるに、已に明日夜半計りきるべきに、御長八尺計りおはしましける大日の、白き御杖の御長と等しきが、末はふたまたなるをもつて、▼P3518(一二ウ)源二位の頸を打どつかへて、片方の御足にては胸をふまへさせ給ひて、「何に汝は忠快が頸をば切らむとはするぞ。忠快が頸を切るは即ち我が頸を切るにこそ。忠快が頸を切る程ならば、只今汝をばつき殺さむずるぞ」と仰せ有りて、打どつかへて渡らせ給ひければ、手を合はせて、「助けさせ給ひ候へ。忠快をば宥し候はん」と申されければ、指しはづしてのかせ給ふと御覧じて、打ち驚き給ひたりければ、身より汗かかせ給ふ。くるしき事限りなし。
夢中に様々の怠状の有りけるが、余所までおびたたしく聞こえければ、北方を始め奉りて、御前の女房達、「何に何に」と騒ぎあへり。暫し御気づきて、「あな浅猿し。こはいかがせむずる。忠快をば、明日切るべきにてあれば、夜明けはてば切らむずらん。夜の中にもや切らむずらん。何がはして切らぬ先に馳せ付くべき。当番衆に誰か候ふ。我を我と思はむ者は、怱ぎ武蔵へ馳せて、中納言律師を助くべし。忠快をば豊嶋が許に預け置きたるぞ。先に馳せ付きて、忠快相具して▼P3519(一三オ)参りたらん者にはゆゆしき勧賞有るべし」と仰せければ、当番衆我も我もと鞭を打ちて武蔵の豊嶋へ馳せたりけり。げにも預りの者、忠快をば夜曙けなば切り奉らむとて、暁に成りければ、出立たせ奉り、物まいらせなんどして、夜明けければ、御輿指し寄せて乗せ奉らむとしける処に、御使三人馳せ付けて、「中納言律師御房、相ぐし進らせて鎌倉へ参らるべし」とぞ申しける。是に付けても忠快は、「いとど何なる目に合はむずるやらん」と悲しくぞ覚しける。先に馳せ付きたりける者は三人有りけるが、百町づつの御恩をぞ蒙りける。
相具し奉りて鎌倉へ参りたりければ、持仏堂へ入れ奉りて、源二位いかけし給ひて、怱ぎ対面有りて、「抑も御房は何ひて候ふ。本尊をば何れを崇めまひらせられ候ふ哉の宗を学したる事も候はず。必ず何れの本尊を崇めまゐらする事も候はず」と申されければ、「偏頗にな仰せられ候ひそ。如何様にも御房は▼P3520(一三ウ)仏法に通じ給へる人にて渡らせ給ふと覚え候ふ。只有りのままに仰せ候へ」と仰せられければ、「密宗をこそ心の及ぶ所は学して候へ。共に取りては大日を本尊と崇め奉る候ふ」と仰せられければ、「さ候へばこそ少しも疑ふ心候はず」 とて、夢想の様細々と語り給ひて、「御房に過ぎ給ひたる仏渡らせ給ひ候はず。御房に過ぎたる祈りの師渡らせ給ふまじ。頼朝にも御意趣思し食すべからず。今生後生憑みまゐらせ候はん。是に住ませ給はんとも、京へ上らせ給はんとも、御心に任せまゐらせ候ふ」と仰せられければ、「其の儀にて候はば、本住み馴れたる処にて候へば、京へ上らむとこそ思ひ候へ」と仰せられければ、「とくとく上らせ給へ」とて、究竟の所領七八所奉りて、京へ送り奉られけり。小河の法眼とて平家の信物にてぞおはしける。
八 (十) 〔判官と二位殿と不快の事〕
十月十三日、九郎判官義経、関東二位殿を背くべき由聞こえければ、▼P3521(一四オ)かしこここにささやきあへり。「同じき兄弟と云ひながら、殊に親子の契り浅からず。平家、朝家を軽んじて、帝王の御敵と成りし勢、設ひ十六の大国の軍を催して責むとも傾けがたく、五百の中国の兵を集めて敗るとも、危くは見えざりしを、去年の正月に彼の代管として都へ打ち上りて、先づ木曽義仲を追討せしより、度々平氏を責め落とすとて、必死の剣を遁れて、今年の春残り少なく滅ぼして、四海をすまし一天を鎮めて、勲功比類無き処、何なる子細有るか、いつしか懸かる聞こえ有らむ」と人思へり。
此の事は、去んじ春、渡辺、神崎両所にて舟ぞろ〔へ〕の時、舟共に逆櫓を立てむ、たてじと、梶原と判官と口論せし時、梶原が判官にいはれたりし事を、梶原安からぬ事に思ひて、事の次毎には、「判官殿はおそろ敷人也。君の御敵に▼P3522(一四ウ)一定成り給ふべし。打ち解けさせ給ふべからず」と申しければ、「頼朝も、さ思へり」と宣ひて、常には隙もあらば、判官を打たるべき謀をぞ心に懸け給ひける。
判官も「始終よかるまじ」と思ひ給ひければ、頼朝を追討すべき由宣旨を下さるべき旨、大蔵卿泰経を以て、後白河院に判官申されたりければ、十六日、右大弁光雅朝臣、院宣を奉りて、従二位源朝臣頼朝卿を追討すべき由、院宣を下さる。上卿は左大臣経宗とぞ聞こえし。京都の固めにて、申す所黙止しがたき上、義経心様情けあり、人の為都の為よかりければ、上一人より始め奉り、下万人に至るまで、くみしたりけり。さればにや、事とどこほらず鳳含の詔を下さる。かかりければ、落ちて関東へ行く者もあり、又止まりて判官に付く者もありけり。此の間何なる事かあらむずらむとて、京中の貴賤▼P3523(一五オ)上下、なにとなく周章迷へり。
九 (十一) 〔土佐房昌俊判官の許へ寄する事〕
二位殿梶原を召して、「九郎を金洗沢に止め置きて、鎌倉へ入れずして、『京の守護に候へ』とて、追ひ上せしをば、遺恨とぞ思ふらむ。されば、『ひまもあらば頼朝を討たばや』と、心にかけたるらむ。大名をも上せ、然るべき者をも上する物ならば、九郎さる者にて、用心をもし逃げ隠るる事もこそあれ。誰をか上すべき」。「昌俊を上すべし」 とて、土佐房を召して、「和僧上りて、九郎を夜打ちにせよ」とて、元暦二年九月廿九日、土佐房鎌倉を立ちて上洛して、佐女牛町に宿所を取りて宿す。
次の日も判官の許へ参らざりければ、十月十一日、使を立てて土佐房を召すに、「やがて参るべし」とて惣てみえず。又此の度は武蔵房を使にて遣はす。只今事に合ふべき体に出で立ちてまかりけり。褐衣の▼P3524(一五ウ)直垂に、黒糸威の大腹巻に、すちやう頭巾して、一尺三寸の大刀指しほこらかして、三尺計なる大長刀もたせてまかりけり。旧山法師にて荒強者なりければ、別の子細もなく、やがて居たりける所は押入る。折節昌俊、家子郎等共あまた前に置きて酒盛りしけり。左右無く行きたりけれども、所もなく郎等共有りければ、「いづくにか居るべき。郎等共の座にはゐるべからず」と思ひて、昌俊は鎌倉殿の侍也、我は判官殿の侍也、昌俊が上に居かかりて申しけるは、「いかが、和僧は召されずとも参るべきに、召しの有るを背きて参らぬは、存ずる旨のあればこそ参らざるらめ。其の左右ききに来たれり」とにらみつめて申しければ、酒盛りも打ちさまして、家子郎等も青醒めたり。昌俊も甲者なりけれども、まさる甲者に合ひぬれば、をめをめとなりて、「只今参▼P3525(一六オ)らむとしつるなり。即ち『やがて参るべし。何事の存ずる旨か候ふべき』と申し給へ」と云ひければ、弁慶は、「和僧をぐして参るべし」。かへらず。昌俊思ひけるは、「謀る事聞こえにけり。行き向かひたらんに命いけられむ事有るまじ。ここにて弁慶と勝負をせばや」と思ひけるが、「まてまてしばし。同じく命を失ふならば、判官殿に相ひてこそ命をもすてめ。ふてがたいにし相ひては益あらじ」と思ひなりて、「さらばやがて参るべし」とて、弁慶と打ちつれて判官の許へ行きぬ。
判官、昌俊をみ給ひて宣ひけるは、「いかに。二位殿よりは御文はなきか」。「指したる事も候はねば、御文は候はず。御詞にて、『申せ』と候ひしは、『当時まで都に別の子細候はぬ事は、さておはします故と存じ候ふ。猶も能く能く守護せられ候ふべしと申せ』とこそ仰せ事候ひしか」。判官、「よもさはあらじ。和僧は義経打ちに上りたる御使なり。『然るべき大名をも▼P3526(一六ウ)差し上せば、義経用心をもし、逃げ隠れもぞせむずる。密かに和僧上りて、夜打ちにせよ』とてぞ上せられたるらむな。日本国を打ち鎮むる事は、木曽と義経とが謀也。夫に景時めが讒訴に付き給ひて、鎌倉へも入れられず、対面をだにもし給はで、追ひ帰されし事はいかに」。昌俊大いに驚きて、「何故にか、さる御事候ふべき。聊か宿願候ひて、七大寺詣の為に罷り上りて候ふ。努々々其の儀候はず。善悪御免を蒙りて、起請文を仕るに、進らせ候ふべし」と申しければ、「必ず書けとは思はねども、書かむともかかじとも、和僧が心ごさむなれ」と判官宣へば、昌俊一旦の害を遁れむが為、居ながら熊野牛玉尋ねよせて、起請文七枚書きて、一枚をば当座に焼きて呑みて、今六枚をば社々に之をおす。土佐房起請は書きて呑みたれども、「今夜打たでは叶はじ」と思ひて、やがて其の夜大番衆に▼P3527(一七オ)つれて、夜打ちの支度をぞしける。
判官は其の比、礒の禅師が娘、閑と云ふ白拍子を思はれけり。判官、閑に宣ひけるは、「何なる事の有らむずるやらむ、心騒ぎのするぞとよ。昌俊めが夜打ちに寄すと覚ゆるぞ」。閑、「大路は塵灰にけたてられて、武者にて候ふ也。是より仰せ付けられざらむには、大番の者共、是程さわぎあふべしとも覚えず。一定、昼の起請法師めがし態にてぞ候ふらむ」なむどぞ云ひける。
平家大政入道の、かぶろと名付けて、かみを肩のまはりにそぎて、十四五六七計りなる童部を二三百人召し仕ひ給ひけるを、判官、童二人取りて仕ひ給ひけり。彼の童を使にて、「土佐房が宿所見て参れ」とて遣はさる。待てども待てども見えざりければ、判官仕はれける中間女を召して、「年来の寝夫を尋ぬる様にて、土佐房が宿所見て参れ」とて遣はす。此の女やがて立ち還りて、「土佐房の宿所の小門の前に、人▼P3528(一七ウ)二人切り殺されて候ふは、一定是の御使と覚え候ふ。其の上、上佐房は『暁、大仏へ参り候ふべし』とて、大庭に幕引きて候ふ。其の内に鞍置馬共四五十疋引き立てて、鎧物具したる者共、手縄にぎり、鞍に手打ち係けて、只今既に乗らむとし候ふ」と申しもはてねば、後ろより時を造りて、判官の宿所六条堀川へ押し寄せたり。判官是を聞き給ひて、「さればこそ、土佐房めが寄するは。何事のあらむぞ」とて、少もさわがず。閑、「物をばあなづらぬ事にて候ふぞ」とて、鎧を取りて判官に投げ懸けたり。
其の比判官は灸治をしみだしたりけれども、鎧取りて打ちきて、大刀引つさげて出でられたり。いつの程にか置きたりけむ、舎人男、馬に鞍置きて〓[木+延]の際に引き立てたり。判官、此の馬にひたと乗りて、「門あけよや」と云ひて打ち出でたり。「日本国に義経を夜打ちにもし、昼打ちにもすべき者は覚え▼P3529(一八オ)ぬ物を」と云ひて、只一人かけ出でらるれば、敵の中をさつとあけて通す。判官取つて返して、立てざま、横ざま、散々にかけたりければ、木の葉の風に散るが如くに四方へかけ散らされて、或は鞍馬の奥、貴布祢の奥、僧正が谷なむどへぞ逃げ籠りける。熊井大郎は内甲を射させて其の夜死にけり。源八兵衛弘綱は膝の節を射させたりけれども、未だ死なざりけり。
土佐房は龍花越えに北山を差して落ちけるが、二手三手にて追ひ懸かりければ、先を切られてのびやらず。小原へかへりて、薬王坂を越えて、鞍馬の奥、僧正が谷にぞ籠りにける。判官、元より鞍馬にてそだたれたりければ、鞍馬の大衆、昔の好みを思ひ知りて、土佐房を搦めて判官に献る。判官の前に引つ立てたり。褐衣の直垂、小袴をぞ着たりける。判官、「何に和僧は、義経誅つまじと云ふ起請を書きて▼P3530(一八ウ)焼きて呑みたる者が、舌も引き入れず、義経を誅たむとする時に、神罰立ち所に蒙りたりな」と宣へば、今はかうと思ひければ、詞もたばはず、「有る事に書きて候へばこそ、うてて候ふらめ」と散々に悪口しけり。判官腹を立て、「土佐房めがしやつら打て」とて打たせらる。土佐房、「いかにも打たせ給へ。少しも痛からず候ふ。其の故は、昌俊が打たるるにては候はず。是偏へに鎌倉殿の討たれさせ給ふにて候へば、此の代には、殿の御頸を鎌倉殿の打ち返しまゐらせさせ給はむずれば、只同じ事候ふ」と申しければ、判官打ち咲ひて、「汝が志の程こそゆゆしけれ。さこそは有るべけれ。命や惜しき。二位殿へ参れかし」と宣ひければ、昌俊申しけるは、「取り替へなき命を鎌倉殿に進らせて、鎌倉を立ちしより、生きて返るべしとも存じ候はず。夜部君を打ち奉らむとて参りて候ひつれども、運尽きぬるに依りて、▼P3531(一九オ)え打ち進らせずして、かく搦め召され候ひぬ。今更命を申し替ふべきに候はず。御芳恩には、とく頸を召せ」とぞ申しける。人是を感じけり。「さらば切れ」とて、六条川原へ引き出だして切らむとするに、伐らむと云ふ者一人もなかりけり。京者中に、中務丞知国と云ふ者ありけるが、申し請けて伐りてけり。
判官には、二位殿より安立新三郎清経と云ふ雑色を一人付けられたりけり。「下臈なれども吉き者ぞ。若しの事あらば旗指しに憑め」とて付けられたり。誠には、「判官僻事をもし、謀反をも発しげならば告げよ」とて、検見に付けられたりけるが、土佐房が討たるるを見て、其の暁、鎌倉へ馳せ下りて、二位殿に此の由申しければ、「九郎は頼朝が敵には、よくなりおほせたりな。此の事今はいかにつつむとも叶ふまじ」とて、討手をぞ上せられける。
十 (十二) 〔参河守範頼、誅せられ給ふ事〕
▼P3532(一九ウ)鎌倉殿の弟三川守範頼を大将軍にて、六万余騎にて上せらる。三川守小具足計りにて熊王丸と云ふ童に冑もたせて、二位殿に対面し給ふ。二位殿宣ひけるは、「和殿も九郎が様に二の舞し給ふな」と宣ひければ、三川守小具足脱ぎ置きて、「争でかその儀候ふべき。起請仕るべし」とて逗留し給ひて、一日に十枚づつ、千枚の起謂を百日の間に書きて、二位殿に奉り給ひたりけれども用ゐ給はず。終に三川守も討たれ給ひにけり。大将軍にて上り給ふべき三川守は討たれ給ひぬ、その後、北条四郎時政、三万余騎にて都へ上る。
十一(十三) 〔原田大夫高直、誅せらるる事〕
十一月一日肥後国住人原田大夫高直、この三ヶ年間、平家に付て軍の功有りしかども、若し命計りや生けらると参りたりしかども、終に今日切られにけり。
十二 (十四) 〔九郎判官都を落つる事〕
同二日、判官院御所に参て、大蔵卿泰経の朝臣を以て申しけるは、「義経、兵衛▼P3533(二〇オ)佐が代官として、君の御敵平家を追討仕り候ぬ。父義朝が会稽の恥を雪め、四海を澄まし、日本国を手に挙りて候ふは、希代の奉公に候はずや。しかるに義経指したる咎も候はねども、郎等共が讒に付きて、義経を討たむが為に、北条四郎時政と申し候ふ家人、三万余騎にて罷り登る由聞こえ候ふ。しからば東国へ罷り向かひ候ひて、日来の軍功をも、又誤り無き事の子細をも、頼朝に申すべく候へども、指せる朝敵にも候はねば、罷り下り候はず。京都に候ひて、時政を待ち付け候ひて、いかにも成るべく候へども、君の御為、人の為、其の煩ひ有るべく候へば、西国へ罷り下り候はばやと存じ候ふ。庁の御下文を給はり
候ひなむや。豊後国住人伊澄・伊栄等に始終見放たず、心を一つにして力を合はすべきの由、仰せ下さるべく候ふ。且つは度々の軍功、争でか思し食し捨てられ候ふべき。最後の所望、この事に候ふ」と申しければ、法皇思し食し煩わせ給ひて、大蔵卿泰経朝臣を以て▼P3534(二〇ウ)近衛殿下へ仰せ合はせられ、殿下より蔵人右衛門佐定長を御使にて大政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・堀川大納言等に仰せ合はす。各々一同に申されけるは、「義経洛中にて合戦せば、朝家の御大事たるべし。逆臣京都を罷り出づるは、おだしき事にてこそ候はめ。その上義経が心ざま世の為人の為、万づ情深く候ひつ。只たび下され候へ」と申されければ、義経が申請が如くに成し下さる。緒方・臼杵・経続・松浦党以下の鎮西の輩、義経を以て大将とすべきよし、庁御下文を成し下されにけり。
義経畏りて賜りて、三日、事の由を申し入れて、京中に少しも煩ひをいたさず、卯時計りに洛中を出でにけり。備前守行家・惟澄・惟栄が一族、相ひ伴ふ。彼れこれ凡そその勢、僅に五百余騎ぞ有りける。関東に志ある在京の武士・近国の源氏等、迫つ懸けて射けれども、事ともせず。散々にかけ▼P3535(二一オ)ちらして川尻までは着きにけり。大物浦にて船に乗りて鬼海・高麗・新羅・百済までも、落ち行かむと思ひけれども、平家の怨霊や強かりけむ、折しも西風はげしくて、大物浜・住吉浜なんどに打ち上げられて、船を出だすに及ばざりければ、摂津国の源氏豊嶋冠者を始めとして、太田・石川の若者共、雲霞にて追つ懸けて、当国の小溝と云ふ所にて戦ひければ、伴ひたる伊栄・行家を始として臼杵・経続心替はりして引き別れにければ、与力の輩皆ちりぢりに成りにけり。京より具したりける女房共も、皆捨て置きたりければ、砂の上、松の下に袖を片敷袴ふみしだきて泣き臥したりけるを、その辺の者共、憐みて都へぞ送りける。其中にいかがしたりけむ、礒の禅師が娘に閑と云ふ白拍子ばかりぞ、判官に付きて見えざりける。
義経は僅かに三十▼P3536(二一ウ)余騎の勢にて吉野山に籠りにける。彼の山大雪の中なれば、おぼろけには人かよふべくもなし。京より相ぐしたりし女房共も、皆大物の浜にて捨て置きつ。礒の禅師が娘に閑と云ひし計りぞ、ぐしたりける。彼の大雪の中へ行くべきやうなかりければ、判官閑に宣ひけるは、「いづくへもぐし奉りたけれども、かかる雪の中なれば、女房の身にては叶ふまじ。我が身も通るべしとも覚えねば、自害をせむずるなり。これよりとくとく都ヘ行くべし」と宜ひければ、閑泣く泣く申しけるは、「いかに成り給はむ所までも、我が命のあらむかぎりはぐし給へ。すてられ奉りて堪へ忍ぶべしとも覚へず」とて泣きければ、「誰もさこそは思へども、かかる大雪なり。力及ばず。命あらば尋ね給へ、我も尋ねむ」とて金銀のたぐひとらせて、郎等にぐせさせて送りにけり。郎等この宝をとらむとて、打ち捨て▼P3537(二二オ)失せにければ、吉野の蔵王堂へたどり参りたりけるを、吉野法師哀れみて京へ送りけり。さて判官をば吉野法師押し寄せて打たむとしけるを、左藤四郎兵衛忠信と申す者戦ひて判官をば。
十三 (十五) 〔義経追討すべきの由院宣下さる事)
十二月六日、美乃・近江両国の源氏等、義経・行家を追罰の為に西国へ下る。山陽・南海・西海三道の国々の輩、彼の両人を召し取りて献ずべきの由、院宣を下さる。その状に云はく、
前傭前守源行家・前伊与守同義経等、野心を挟み、遂に西海に趣く。しかるに摂津国において解纜の間、忽ちに逆風の難に逢ふ。誠にこれ一天の譴なり。漂没の聞こえ、その説有りと雖も、値令の実、猶疑ひ無きに非ず。早く従二位源朝臣に仰せて、不日に在所を尋ね捜し、其の身を捉へ搦めしむべしてへり。
▼P3538(二二ウ) 文治元年十二月六日 右中弁
十月十六日には、義経が申請に依りて、頼朝を追罰すべきの由、院宣を下され、今月六日は、頼朝が申すに依り、義経を追罰すべきの由、院宣を下されけん、世間の不定こそ哀れなれ。朝に成して夕に変ずとは、かくの如きの事を云ふべきにや。
十四 (十六) 〔諸国に守護地頭を置かるる事〕
同七日、関東源二位の代官、北条四郎時正上洛して、諸国に守護を置き、庄園に地頭を成すべきの由申す。其の上庄領国領を云はず、段別に兵粮米を充て行ふ。「帝王の怨敵を罰ちつる者は、半国を給はる」と云ふ事は、無量義経に見えたり。此の経の十功徳品に、「譬如健人 為王除怨 怨既滅已 王大歓喜 賞賜半国」と云ふ文あり。此の文の如くならば、申す所其の謂はれ無きに非ざれども、吾が国には未だ其の例なし。「是は過分の申状也。▼P3539(二三オ)御許容有り難し」とは思し食せども、源二位の申さるる所、去り難く思し食されければ、御免有りけるにや、諸国に守護地頭職をおかれけり。
十五 (十七) 〔吉田大納言経房卿の事〕
吉田大納言経房卿と申す人おはしき。其の比は、勘解由小路の藤中納言とぞ申しける。うるはしき人と聞き給ひて、源二位奏聞せられけるは、自今以後は藤中納言を以て天下の大小事を申し入るべきの由申されたりけるとかや。平家の時も大事をば此の人に申し合はせられき。法皇を鳥羽殿に押籠め進らせて後、院別当を置かるるの時は、八条中納言長方卿と此の経房卿と二人をぞ別当には成されたりける。今源氏の世に成りても、かくたのまれ給ひにけるこそ有り難けれ。三台以下、参議、前官、当職四十三人の中に撰ばれ給ひけるこそゆゆしけれ。平家にむすぼほれたりし人々も、源氏のつよりし後は、或は御文を遣はし、或は御▼P3540(二三ウ)使を下して、さまざまにこそ昵び給ひしかども、此の卿はさやうに諛ひ給へる事おはせられざりけるとぞ聞こえし。
是のみならず、後白河院、建久二年の冬の比より、御不予の御事有り、と聞こえし程に、同三年正月の末、二月に成りしかば、今は憑み少なき御事に思し食してさまざまの事共仰せ置かれし中に、御後の奉行すべきよしは、彼の大納言奉られき。執事にて花山院内府おはしき。近臣にて左大弁宰相定長候はる。「此の人々の申し沙汰せられむに、なじかはおろかなるべき。思し食し入りて仰せ置かるる事の忝さ」とて、涙を流し給けるとぞ聞こえし。時に取りてはゆゆしき面目にてぞおはしける。
十二歳と申しける時、父権右中弁光房朝臣に後れ給ひて、孤子にて憐れむ人もなくておはしけれども、若きより賢者の聞こえおはしければ、次第の昇進滞らず、三事の顕要を兼帯し、▼P3541(二四オ)夕郎貫首を経て、参議、左大弁、中納言、大軍帥、遂に正二位大納言に至り給へり。人をば越ゆれども人には越えられ給はず。目近き世まで君も重く思し食し、人も恐れ憚り奉りき。人の善悪は錐を袋に入れたるが如しといへり。実に隠れ無き者をや。
十六 (十八) 〔平家の子孫多く失はるる事〕
「さても平家の一族と云ふ者をば一人も漏らさず皆失ふべし。平家は一門広かりしかば、定めて子細多かるらむ。能々尋ね穴ぐりて、腹の内をも求むべし。無沙汰にて末の世の我が子共の敵となすな」と、源二位北条に返々仰せ含められてければ、家人郎従等に仰せて、手を分けて是を尋ねける上、「平家の公達尋ね出だしたらむ人には、国庄にても、若しは訴詔にても、所望にても、勧賞におきては乞ふによるべし」と札に書きて辻々に立てたりければ、京中者共、元より案内は知りたりけり、▼P3542(二四ウ)勧賞蒙らむとて、我も我もと尋ね求めけるぞうたてき。かかりければ多く尋ね出だして、七十人に及べり。平家の子孫ならぬ者をもあまた召し取りけるとかや。少しもおとなしきをば、首を切り、さし殺す。無下に少きをば、圧し殺し、水に沈め、穴を堀りて、埋みなむどぞしける。乳母の歎き、母の悲しみ、いか計りなりけむ。押し量られて無慚也。北条も子孫多く持ちたりけれども、世に随へば力及ばず。
十七 (十九) 〔六代御前召し取らるる事〕
其の中に、「権亮三位中将惟盛卿の子息に、六代御前と云ふ若君有む也。平家の嫡々にておはする上、年もおとなしかむなる者を。争でか是を尋ね出ださむ」と北条思ひ居たりける程に、人の所従のうたてさは、主の世に有る程は随へども、主迷ひ者に成りぬれば、還りて敵になるらん風情して、惟盛の北の方の忍びておはしける所に仕へける女、忍びて北条が宿所六はらに行き向かひて申しけるは、「遍▼P3543(二五オ)照寺の奥、小倉山の麓、菖蒲沢の北、大覚寺と云ふ山寺の僧房にこそ、権亮三位中将殿の若君姫君は、此の二三年忍びて栖み給へ」と云ひければ、北条、日来聞きたかりつるに、うれしと思ひて、此の女をば捕へて誡め置きて、心得たる郎等を一人女の体になして、彼の所を窺ひ見せければ、大覚寺の北のはてに奥深なる僧坊あり。女房共少き人々あまた、ゆゆしく忍びたる体にてすみたるけしきなり。籬の間より見ければ、ゑのこの外へ走り出でたるを取らむとて、十一二計りなる若君の、なのめならずうつくしきが、ねりぬきの小袖きて走り出でたりければ、内よりおとなしき女房出でて、「あなあさまし。かかる草深き御すまひも、たれゆゑとか思し食す。今四五日待たせ給へと申せば、聞かせ給はで。人もこそ見れ、入らせ給へ」とて、怱ぎ呼び入れにけり。
「実に▼P3544(二五ウ)是ぞそなるらむ」と思ひて、怱ぎ帰りて、「かく」と云ひければ、次の日、北条三百余騎にて彼の所へ行き向かひて、四方を打ちかこみて、妻戸の間へ輿を差し寄せて、人を入れて、「是に権亮三位中将殿の若君渡らせ給ふ由を承りて、鎌倉殿の御代官北条四郎時政と申す者御迎へに参りたり。怱ぎ渡し奉らせ給へ」といはせければ、母上を始め奉りて、つやつやうつつとも覚え給はず。家中の上下声を揚げてをめき叫ぶ。
さる程に、斎藤五兄弟二人、色を失ひて申しけるは、我等既に七重八重におしまきて、まぎれ出でさせ給ふべき隙候はず」とて、涙を流すめり。女房共は、余りのあさましさに物をだにも云はず。目を見合はせて泣き合ひたり。母上は若君を懐き奉り給ひて、「只我を先に失へかし」ともだえこがれ給ふ。御めのとの女房も、前に倒れ臥して共にをめき叫ぶ。日来は▼P3545(二六オ)物をだにも高くいはで忍びて居給ひたりけれども、有りと有りける者は、声を調へて泣き悲しむも理也。北条又申しけるは、「郎等共をも進らすべく候ひつれども、田舎の者共は無骨の事もぞ候ふとて、時政が参りて候ふ也。ゆめゆめ別の御事候ふまじ。世も未だ閑ならず候へば、しどけなき御事もや候はむずらむと存じ候ひて、渡し進らせ候ふ計り也。御輿よせて候ふ。とくとく奉り候へ」と申しければ、斎藤五、「是は日来思ひ儲けつる御事也。驚き思し食さるべきにあらず。今までさなかりつるこそ不思議にて候へ。とくとく渡し進らせさせ給へ。叶はぬ物故、あわて騒ぎ給ふも見苦しく候ふ」と申しけれども、母上かかへ奉りて、放ち御坐さねば、若君宣ひけるは、「父の御故に命を失はむ事、歎かせ給ひそ」と母上をなぐさめ給へば、是を聞き給ひて、母上も乳母もいとど声も▼P3546(二六ウ)惜しまず泣かれけり。武き兵共も、子孫は多く持ちたれば、哀れと思はぬはなかりけり。北条も石木ならねば、心苦しくや思ひけむ、涙を流してしほたれたり。
情け無く押し入りて取るにも及ばず、つくづくと待ち居ける程に、日も既に晩れかかりければ、「さても遁るべき道にも非ず。武士共のいつとなく待ち居たるも意無し」とて、若君の御ぐし高くゆひ、御顔かひつくろひ、直垂奉らせなむどして出だし奉りければ、更にうつつとも覚えず、夢かとぞ人々思はれける。母上は引きかづきて臥しぬ。消え入り給ふにやと見えしに、若君既に出で給へば、只今は限りぞかしと思し召さるる御心の内、いかにすべしとも覚え給はず。責めての事に、手箱より黒き念珠の少きを取り出だして、「何にもならむまでは、是にて念仏申して、極楽へ詣れよ」とて若君に献り▼P3547(二七オ)給へば、母には、「只今離れまひらせなむず。何くにも父のおはしまさむ所へぞ参りたき」と宣ひけるにぞいとど哀れに思しける。今年は十二にこそなり給へども、十四五計りにみえて、なのめならずうつくしくて、故三位中将に少しも違ひ給はねば、「あな悲しや。あれを失ひてむずる事の悲しさよ」とおぼすに、目も晩れ心も消えて、夢の心地ぞせられける。
既に輿に乗り給ひければ、妹の夜叉御前、なごりををしみ給ひて、「兄御前はいづちへぞや。母御前ともつれ給はで只独りはいかに。我も行かむ。母も乗り給へ」とて、走り出で給ひけるを、女房泣く泣く取り留めてけり。若君既に出で給へば、母上、乳母、天に仰ぎ地に臥してもだえこがるる事なのめならず。斎藤兄弟は涙にくれて行先もみえねども、泣く泣く輿の左右に付きてぞ走りける。郎等共乗りたりける馬を▼P3548(二七ウ)下して、「是に乗れ」と北条申しけれども、「主の世におはしまして、いはればこそうれしからめ」と思ひて、度々云ひけれども、終に乗らざりけり。若君は、妹の姫君のしたひて泣き給ひつる事、母上北方なむどのもだえこがれつる心苦しさなむどおぼしつづけて、御袖もしぼる計り也。
是程の少き人独り取りに来たる兵の多きもけしからず。日来平家の子孫共尋ね集めては、或いは首を切り、指し殺し、或いは水に沈め、土に埋むなむど、母上聞き置き給ひければ、「哀れ、我が子をばいかにしてかは失はむずらむ。是はおとなしければ首をぞ切らむずらむ。いたしとや思はむずらむ。怖ろしとや思はむずらむ。何なりける契り、いかなりける罪の報ひにて、かかるうきめをみるらむ。観音こそさりとも助け給はむずらむと深く恃み奉り▼P3549(二八オ)つるに、遂に取られたる事の悲しさよ。世には乳母なむどの本に預けておき、時々見る人の子共も有るぞかし。其だにも恩愛の道は悲しきに、是は生みおとして後は、今に至るまで、一日片時身を放たる事もなし。朝夕二人の中におほし立てて、明けても晩れても見るにあきたらず。持つまじき物を持ちたる様に覚えて、糸惜し悲しと思ふは愚か也。此の三年せは、今や今やと夜昼肝心をけして明かし晩らしつれども、只今俄かに出で来たる不思議なむどの様にさへ覚ゆるぞや。『こよひにもや失ひてむずらむ』と心中にはなのめならず思ひながら、遁れがたき事と思ひて、我をなぐさめむとて、いたくなげかぬさまにもてなして出でつる面影、生々世々にも忘るべしとも覚えず。遂には世にあるまじき者なれども、責めては▼P3550(二八ウ)今一度いかがして見るべき」と、音も惜しまず泣きもだえ給ふも、げに理と覚えて、よその袂もしほれけり。日のくるるままには、いとど書き闇す心地して、忍びがたくおぼさる。日くるれば、若君姫君左右にふせて思ひなぐさみつるに、人はあれども一人はなし。衾も床もすずろに広くおぼされて、長き夜な夜な露まどろみ給はねば、夢にだにも見給はず。されども限り有る夜も漸くあけにけり。
さてもいかが成りぬらむと、しづ心なくおぼつかなく覚しける程に、斎藤六、六波羅より帰り参れり。心地を迷はし、怱ぎ「何に」と問ひ給へり。「只今までは別の御事候はず。御文候ふ」とて、懐より取り出だしたり。見給へば、「夜の程もいかに心苦しく思し召すらむ。今までは何事も候はぬぞ。いつしか誰々も恋しく▼P3551(二九オ)こそ候へ」とおとなしく書き給へり。母上此の文を御顔に押し当てて、引きかづきて臥し給ひぬ。実に何計りかは思し召すらむ。斎藤六申けるは、「『いかにあれにおぼつかなくおぼしめすらむ。其れのみぞ心苦しき』と仰せられ候ひて、夜部も物もまひらず。終夜ら御とのごもりも入らず。けさも物まゐりたりつれども、御手をもかけさせ給はず。御詞には、『わびてあると申せ』と仰せ候ひつる」と申しければ、「左様に終夜ねも入らず夜部もけさも物もくはぬ程に思ひたるに、心安く思はせむとて、かく云ひおこしたる事のおとなしさよ。哀れ、高きも卑しきも、男子計り心づよき着こそなかりけれ」とて、せめての事には文を懐に引き入れて、又倒れ臥し給ひぬ。「程ふれば時の程もおぼつかなく思ひ進らせ候ふに、怱ぎ▼P3552(二九ウ)帰り参りてむ」と申しければ、母上おき上がり給ひて、昨日より流るる涙に御目もくれて、筆の立所もそこはかと無けれども、只思ふ心計りをこまごまと書き給ひて、斎藤六にたび給へば、やがて走り帰りにけり。若君は返事細かに見給ひて、涙にぞ咽び給ひける。
御乳母の女房は、責めての思ひの余りに、夜を待ちあかして、六波羅の方へ尋ね行きける程に、道に四十計りなる尼の、近くさまかへたりと覚えて、未だかねなむども落とさざりけるが、深く物思ひたる気色にて、涙を流して逢ひたりけるに、「物思ふ人は世にも又有りける物を」と思ひて、「血の中より生し奉りたりつる若君を、昨日武士に取られて、悲しき余りに迷ひありくなり。それには何事を歎き給ふぞ」と問ひければ、「我も九つになり給ひつる養君を、此の四五日北条とかや▼P3553(三〇オ)申す源氏の郎等に取られて、足に任せて迷ひ行く也。身につみて糸惜しくこそ思ひ奉れ。誠や、此の奥に高雄と云ふ山寺にこそ、文学房とかや申して聖のおはするが、『上臈の君達の皃よからむ尋ねて弟子にせむ』と宣ふなれ。鎌倉にもゆゆしき大事の人にし給ふなるぞ。若しやと、其へ尋ねおはして申してみむ」とて、彼の尼を具して高雄の山に尋ね入りて、聖の坊の辺にたたずみければ、聖見逢ひて、「あれは何なる人々ぞ、女人を入れざる所へ」と云ひければ、二人の者共近く歩みよりて、「血の中より生し立て、今年は十二に成り給ひつる若君を、昨日武士に取られて候ふぞや。いかにもして乞ひ請けさせ給ひて、御弟子にせさせ給へや」と云ひもあへず、聖の前に臥しまろびて、手をすり声を上げてをめき叫ぶ有り様、実にあさからぬ歎きと覚えたり。
聖さる▼P3554(三〇ウ)人にて、無慚に覚えければ、事の次第を委しく尋ねけり。女房おき直りて泣く泣く申しけるは、「平家の小松三位中将殿の北の方の、親しくおはします人の御子を取りて、少きより養ひ奉りつるを、三位中将殿の実の御子とや、子細知らぬ人の申したりけむ、昨日武士共来りて取りて、六波羅へとて罷りにき。何かが成り給はむずらむ」と云ひもあへず、さめざめと泣く。聖、「少き人を取りけむ武士をば誰とか云ひし」と問ひければ、「北条四郎とこそ申し候ひつれ」と云ひければ、「さては北条ならば安き事ごさむなれ。やがて行き向ひて尋ね見む」とて、ひら足駄はきながら出でにけり。
此の事を憑むべきにはあらねども、思ひ遣る方なかりつるに、聖の詞にいささかなぐさむ心地して、其より怱ぎ大覚寺へ帰り、母上にかくと申しければ、「暁より見えざりつれば、身ばし投げに▼P3555(三一オ)出でにけるやらむとさへ覚えて、我が身とも堪へてながらふべしとも思はねば、水の底にも入りなばやと思ひ立ちてあるが、猶も心のあるやらむ、此の姫君の事を思ふに、今までやすらひつるぞ」とて、又声を立てて泣き給ふ。「聖の申しつる様、しかしか候ふ」なむど細かに語りければ、母上手をすりて、「哀れ、仏の御助けにて乞ひ請けて、責めては今一度みせよかし」とて、つきせぬ御涙せきあへず。
さある程に、文学北条が許へ走り付きて、事の次第を尋ねければ、北条申しけるは、「二位殿の仰せられ候ひしは、『平家の子孫多く京中に隠れて有りと聞こゆ。男子におきては能く能く尋ね求めて悉く失ふべし。中にも権助三位中将の男子、中御門大納言の娘の腹に有りと聞こゆ。平家嫡々の正統也。必ず求め出して失ふべし』と候ひしを、末々の少き人々はあまた尋ね出したりつれども、此の▼P3555(三一オ)若君はいかにも在所を知らざりつれば、尋ねかねて、力及ばず罷り下らむとしつる程に、思わぬ外、一昨日聞き出して、迎へ取り奉りたるが、なのめならず皃形もうつくしく、心ざまわりなく糸惜しくて、未だともかくもせで置き奉りたり」と申しければ、文学「さては其の君は何くにぞ。いで見奉らむ」と云ふ。北条、「すは見奉り給へ」とて、そばの障子を引きあけたりければ、若君は二重織物の直垂着給ひて、黒き小さき念珠を怱ぎ懐へ引き入れ給ひけるぞ糸惜しき。「世の末にいかなる敵になるとも、いかが是をば失ふべき」とぞ思ひける。かぶし、もとゆひぎはより始めて、袖のかかり袴のすそまで、たをやかにうつくしくて、此の世の人とも見え給はず。今夜打ちとけね給はざりけりと覚しくて、少し面やせて立ち給へるに付けても、いと心苦しく▼P3557(三二オ)いたはしくぞみえ給ひける。聖を打ち見て、何とか覚しけむ、顔打ち赤めて涙ぐみ給ふも糸惜し。怖しげなる木聖なれども、涙を流しけり。斎藤兄弟も御前に居て、若君の顔を打ち見て、さめざめと泣き居たり。北条も石木をつらねぬ身なれば、共に涙を流しけり。
良しばらく有りて、文学北条に申しけるは、「此の若君を見奉るが、前の世にいかなる契りの有りけるやらむ、余りに糸惜しく覚ゆれば、暁鎌倉へ下りて申し請けばやと存ずる也。今廿日暇をゆるして待ち給へ。聖が鎌倉殿に忠を尽し、功を入れ奉りたりし事は、皆見聞き給ひし事なれば、今更に申すに及ばざる事なれども、放下野殿の首を頸にかけて献りしより、千五百里の道を遠しとも思はず。かて糧料の支度にも及ばず。足柄筥根を胯にはさみて▼P3558(三二ウ)七日八日におり上り、聖が流人の身として、摂津経嶋、楼の御所に参りて、右兵衛督光能朝臣を以て申し入れて、院の御気色を伺ひて、院宣を申し給はりて、或る時は富士川・大井川にて飢に臨みて命を失はむとする事もあり。或る時は宇津の山・高志の山にて山賊に合ひて、神をけす事も度々也。契りを深くして命を浅くす。かやうにせし時は、『我世に有らば、何なる事なりとも、一期の程は聖が云ふ事をば達ふまじ』とこそ宣ひしか。鎌倉殿、受領神託き給はず、皆の契りを忘れ給はずは、などか此の児一人をば預け給はざるべき。廿日が程を待ち給へ。夜を昼になして、やがて下りて申し請くべし」とて、聖出でにければ、二人の侍共是を更にうつつとも覚えず。「余りに思ふ事なれば、仏の来りて宣ふやらむ」とさへ思ひて、三度伏し拝みて、▼P3559(三三オ)悦びの涙をぞ流しける。
此の度は斎藤五怱ぎ大覚寺へ行きて、聖の申しつる様を有のままに申しければ、母上を始め奉りて、悦ぶ事なのめならず。聖とほり様に若君の乳母の女房に尋ね合ひて申しけるは、「先世に聖が命を生けられ奉りたりけるやらむ、若君を見奉るが余りに糸惜しく覚ゆれば、暁鎌倉へ下りて申し請け奉らむずるぞ。若し御許されあらば、聖が坊に置き奉り給へ」と申しければ、乳母手を合はせ、悦ぶ事限り無し。「命を生け奉り給ひなむ上は、事もおろかや。只ともかくも聖の御計らひにこそ」とて、うれしきに付けても、又涙にぞ咽びける。鎌倉のゆるされは知らねども、聖の詞もたのもしき上、先づ廿日が命は延びぬるにこそと、母上も乳母も心少し落ち居にけり。是直事に非ず、偏に長谷寺観音の御助けに▼P3560(三三ウ)てあれば、始終もたのもしく覚えて、今日より日を算へて、聖の帰り上るをぞ待たれける。夜の明け、日の晩るるも、心もとなく思ひけり。
明けぬ晩れぬとするほどに、廿日もすぎぬ。日数の積るに付けては、「いかにしてける事ぞや」と、今更にもだえこがる。北条思ひけるは、「聖は廿日とこそ云ひしに、いかにして今日までみえぬやらむ。御ゆるされのなきにこそ。誠に道理也。此の若君、末々の人にてもなし。平家嫡々の正胤にて、年も既に十余歳の人なれば、争でかゆるさるべき。何様にも京にて年をくらすべきにあらず。下りなむ」とて、既にひしめきければ、二人の者共あさましく心憂く覚えて、手を捧げ心を摧けども、聖も上らず、使ひをだにも上せねば、思ひ遣る方もなく、若君を打ち見奉りては、▼P3561(三四オ)只泣くより外の事もなし。若君も指が心細げにおぼしたり。既に暁に成りにければ、二人ながら大覚寺へ行きて、「聖も今までおともせず、さればとて京都にて年をくらすべきにあらねばとて、北条既に暁立つべきにて候ふ。鎌倉へも下り付かず、道にて失ひ奉らむずるこそ。北条より始めて家子郎等共も、若君を見奉りて、そぞろに涙を流し候ふめり。遂にいかに見成しまゐらせてむずらむ」とて、二人の者共袖を皃に押し当ててをめき叫ぶ。是を聞き給ふに、母上も乳母も、いかにすべしとも覚え給はず。母上、「二人の者共、さて己等はいかが思ふ」と聞き給へば、「いかならむ所までも付きまゐらせて、切られさせ給ひたらば、御むくろをも取り納め奉りて後は、やがて頭をおろし、山林にも交はりて、後生を訪ひま▼P3562(三四ウ)ゐらせ候ふべし」と申しければ、母上手を合はせて喜び給ふ中にも、「我等こそ若君には訪はれむずる身と思ひしに、露の命きえやらで、あの為とて仏に申さむ事こそ逆なれ」とて、涙に咽び給ふ。げにと覚えて哀也。聖のたのもしげに申して下りにし後は、少したのもしかりつるに、既に暁に成りぬれば、若しやと覚しつる憑みもよはりはてて、頭を指しつどへて泣くより外の事もなし。
日も晩れ夜も深けぬれば、いとど消え入る心地し給ひて、しばしまどろみ給ひたりけるが、程なく驚きて、母上、乳母の女房に泣く泣く語り給ひけるは、「只今ちと寝入りたりつる夢に、此の児白き馬に乗りて来りつるが、『余りに恋しく覚えつれば、時の程いとまをも乞ひて、参りたるぞ』とて、傍らに居てさめざめと泣くと見えつるぞや。程無くさめぬる事よ」と宣ひもあへず泣き給ふ。乳母の▼P3563(三五オ)女房も是を聞きて、共に涙を流す。是を聞き、よその袂までもぬれぬはなかりけり。
十八 (二十) 〔六代御前関東へ下り給ふ事〕
十二月十六日、北条若君を具し奉り、まだ夜の中に六波羅を立ちにけり。斎藤五、斎藤六、若君の最後の所までと思ひつつ、泣く泣く共にぞ下りける。住み馴れし都をば雲井のよそになしはてて、片時も立ち離れじと覚しける、母上・乳母をも振り捨てて、去り難き人々にも別れて、見なれぬ兵に具せられて、今は限りの東地へ趣き給ふ心の内、さこそは覚しけめと押し量らる。道すがら駒を早むる人あれば、「我が頸を打たむずるやらむ」と心を尽くし、傍らにささやく者あれば、「只今か」と肝をけす。「相坂か四宮川原か」と思へども、大津の浜にも成りにけり。「粟津か野路か」と疑へども、今日の日もはや晩れにけり。▼P3564(三五ウ)昨日「一定」、と思ひしに、其の日も空しく晩れ過ぎて、鏡の宿に着きぬれば、「明日はすぎじ」と思へども、其の日も又晩れにけり。何にいぶきの峯に生ふる、さしも思ひのしげるらむ、あふさかのはかなき様と思へども、美濃の国不破の関屋も打ち過ぎて、尾張の国にも成りぬれば、何に鳴海の塩引潟、涙も浪も諸共に、袖に懸かりてぞ通られける。参川の八橋打ち渡り、遠江の国浜名の橋をも過ぎぬれば、駿河の国千本の松原と云ふ所にも成りにけり。
北条ここに下り居て、切り手には狩野の公藤三親俊と云ふ者を定めて、敷皮しきて、若君を居ゑ奉りて、北条二人の者共を呼び放ちて申しけるは、「今は鎌倉も既に近く成りたり。各是より帰り上り給へ。是より奥はなにかおぼつかなく思はるべき」と云へば、二人の者共思ひけるは、「若君をばここにて失ひ奉らむずるよ」と、▼P3565(三六オ)胸せき、物も覚えず。「此の三ヶ年の間、夜昼付き奉りて、一日片時はなれ奉らず。いかにも成りはて給はむを見はて奉らむとてこそ、是までも参りたれ」と申して、涙もせきあへず泣く。
北条も石木ならねば、涙をおしのごひて若君に申しけるは、「是までも下りて候ひつれども、今日までは聖もみえ候はず、使ひをだにも上せ候はねば、力及び候はず。鎌倉と申すは、今一日路二日路に過ぎず候ふ。足柄山をも越ゆべく候へども、聖筥根越えにてもやと、猶おぼつかなくてこそ、ここには逗留して候へ。さのみ日数を経て具し奉り、山を越え候はむ事、鎌倉殿の聞き給はむ事其の恐れ候へば、近江の内にて失ひまゐらせて候ふよしを申し候ふべし。日来浅からず思ひ奉り候ふ志の程は、見えまゐらせ候ひぬ。今は先世の御事と思し食され候ひて、▼P3566(三六ウ)世をも人をも神をも仏をも恨み奉る御心無くして、閑かに御念仏候べし。一業所感の衆生にてましましければ、争でか遁れさせ給ふべき」と申しければ、若君此の御返事とおぼしくて、二度打ちうなづき給ひける心の内こそ悲しけれ。
さて若君西に向ひて、今を限りの念仏の御音も乱れてぞ聞こえける。北条又申しけるは、「『平家の公達尋ね取りたらば、暫くも置くべからず。怱ぎ失ひ奉れ』と、度々仰せを奉りて候ひしかども、此の若君の御事は聖去り難く申され候ひしかば、今までは相待てども、約束の日数も過ぎて久しく成りぬ。されば御免しの無きにこそ。日来なじみ奉りて、いかにし奉り候べしとも覚えず」とて、北条涙を流しけり。家の子郎等も皆袖をぞぬらしける。若君、二人の▼P3567(三七オ)者に宣ひけるは、「母の御許へ御文まゐらせたけれども、筆の立てども覚えねば、詞にて『道の程別の事なく鎌倉に送り置きつ』と申すべし」とて、涙を流し給へば、二人の者共申しけるは、「君に後れまゐらせて、安穏に都まで上り着くべしとも覚え候はず。道にてこそ何にも成り候はむずらめ」とて、前に臥しまろびて、をめき叫びければ、若君又宣ひけるは、「構へて参り付け。宮仕へ能々すべし。我なければとて、母の御事少しも日来に替りて、おろかに思ひ奉るな」なむど、おとなしく宣ひけるぞ糸惜しき。日も晩れにければ、「さりとてはとくとく」と勧めけれども、親俊以下の家の子郎等も涙のみ流して、辞しはりて、「力及ばず」とのみ申しければ、「さては、さはいかなるべきぞ」と、北条思ひ煩ひけり。
十九 (二十一) 〔六代御前免され給ふ事〕
斎藤五は、余りの事にて、きも心も身にそはず思ひけれども、若君を▼P3568(三七ウ)まぼらへたり。斎藤六は、若し聖や上るとて、遥かに見亘して居たりける程に、墨染の衣袴きたる僧の葦毛なる馬に乗りて、文袋頸にかけたるが、鞭を揚げて馳せ上るを、何かなる者なるらむと見る程に、高雄の聖の弟子なりけり。怱ぎ馳せよりて、馬より飛び下りて「若君ゆりさせ給ひたり。あしこに逢ひたりつる者ども、物語にするを聞けば『千本の松原にこそ、武士の二三百騎が程下り居て、よにうつくしかりつる若君を引きすゑて、首切らむずる気色にて有りつるや。いかなる人の御子なるらむ。糸惜しや。今は切りもやしつらむ』と云ひつる時に、『哀、この御事ごさむなれ』と思ひて『武士をば誰とか聞きつる』と問へば、『北条殿とかや申しつる』と答へつる時に、若しあやまちもやせさせ▼P3569(三八オ)給ふとて、『今一足も先づ馳せよ』と、聖の仰せられつる時に、先にはせて候ふ」と云ひける程に、聖もはせ付きにけり。「いでいで二位殿の御文」とて、文袋より取り出したり。北条怱ぎ取りてみれば、御自筆なり。「小松三位中将惟盛の子息、十二歳になるを尋ね出だされたむなる、未だおかれたらば、高雄の聖に預け置かるべし。さり難く申し請けらるるによ〔つ〕て、聖に免し申すところなり」とぞ書かれたりける。高くはよまねども「神妙、神妙」とて打ち置きければ、げにゆり給ひにけり。「余りに糸惜しく見奉りつるに」とて、家子郎等面々に悦びあへり。これを見聞く二人の者どもが心の中いかばかりなりけむ。
聖高声に申しけるは、「この若君は平家嫡々正統なる上、父の三位中将は初度の討手の大将なり。されば方々宥められ難きの由、再三宣ひつれども、『聖が▼P3570(三八ウ)心を破りては、二位殿争でか冥加もおはすべき。若しこの事聞き給はずは、やがて大魔縁と成りて恨み申さむずる』なむど、からかひ奉りつる程に、今日まで有りつれば、心本無くこそ思ひ給ひつらめ」なむど、たからかに打ち咲ひける気色、傍若無人にこそみえけれ。
北条申しけるは、「『二十日が程待つべし』とこそ宣ひしに、その日数も過ぎしかば、御免されの無きよと心得て下りつるに、かしこく。あやまち仕るらむに」とて、鞍置きたる馬二疋引き出して、二人の者どもにとらす。日来の情、有り難かりつる事どもなむど思ひつづけて涙ぐみければ、若君も物こそ宣はねども、余波を惜しげに思し食して泣き給へば、北条も涙をぞ流しける。「一日も送り進らすべけれども、怱ぎ申すべき大事どもあ▼P3571(三九オ)り」とて、北条は下りにけり。
若君はこれより聖に相ひ具して帰り上らる。今片時だにもおそかりせば失ひ奉るべきにて有りつるに、蘇生給ひにけるこそ有り難けれ。二人の者どももうつつとも覚えず。聖は若君を前に立てて夜昼怱ぎ上る。日数も積もれば、文治元年の年の晩にて有りければ、尾張国熱田社にてぞ年はこえにける。明くる正月五日は文学が里坊、二条猪隈の宿所へぞ上り着きにける。
二十 (二十二) 〔六代御前大学寺へおはする事〕
文学京へ上り着きたれば、若君やがて大覚寺へおはすべきにて有りけれども、旅のつかれをも安めむとて、夜に入りて大覚寺へおはしける。若君み給へば、たて納めて人もなし。近き程の人に問はばやと思へども、人も閑まりてさよもふけて、とがむる犬の音澄む程になりにけり。昔手なれし飼ひしゑのこ、▼P3572(三九ウ)まがきのひまより走り出で、尾を振りてなつかしげにて向かひたりければ、「我を見わすれぬ物は己ばかりこそ残りたりけれ。母御前、めのとの女房、妹の姫君いづくにぞ。我下りし時、思ひに堪へずして、身なむどを投げ給ひにけるやらむ。また平家のゆかりとて、武士の取りてむげるか」なむど心うくて、問はましき程に思はれけれども、なじかは答ふべきなれば、思ひながらさてやみぬ。いづくへおはすべきならねば、こよ〔ひ〕はここに留まりて、主無き宿に独り居て、つくづくとありし道すがらの事ども思ひつづけ給ふ。「かひなき命の惜しか〔り〕つるも、帰り上りたるうれしさも、この人々を今一度見奉り、見え奉らむが為にこそ有りつるに、こはいづくへぞや。ただ有りし松原にていかにもならで、再び物を思ふこそ悲しけれ」 と覚すぞ糸惜しき。
夜も漸くあけにければ、猶そのあたりを▼P3573(四〇オ)こまかにたづねければ、或る人、「いさとよ、過ぎにし頃、奈良の大仏へ詣で給ひて、やがて長谷寺へ詣で給ひにけるなむどぞ、ほの承はりし」と、詳かならず云ひければ、さも有らむとて、斎藤五怱ぎ長谷寺へ詣でぬ。若君は聖に具して、泣く泣く高雄へおはしにけり。
廿一(二十三) 〔斎藤五長谷寺へ尋ね行く事〕
斎藤五、長谷寺に詣で着きて寺中を尋ねけれども、尋ね逢はざりければ、あさましと思ひて、御堂通夜して終夜人の声々を聞くに、礼堂に屏風立てたる内に、女房声にて観音経を読みて、「別れにし人に、此の世にて今一度合はせ給へ」と、泣く泣く申すを聞けば、乳母の女房の音也。斎藤五、うれしと思ひて屏風の際へ立ち寄りて、「若君は還り上らせ給ひて候ふぞ」と、忍びやかに申したりければ、母上、御乳母、「いかにやいかにや」と、宣ひやりたる方もなし。うれしきに付け▼P3574(四〇ウ)ても、二人の人々、又涙をぞ流されける。若君都を出で給ひにける日より、此の寺に籠り給ひて、夜昼御堂に臥し沈みて、血の涙を流して祈り申し給ひける験にや、大慈大悲の御誓ひ、罪あるも罪なきも助け給ふ事なれば、昔も今もかかるためし多かりけり。法花の普門品に云はく、「設復有人、若有罪、若無罪、跼械枷鎖、検繋其身、称観世音菩薩名者、皆悉断壊、即得解脱」と云へり。末代と云ひながら、不思議の利生と覚えたり。観音に暇申して、泣く泣く怱ぎ出で給ひたれば、若君やがておはしたり。見奉り給ふに付けても、猶うつつとも覚え給はず。日来月来おぼしし事共、細々と語り給ふにも、尽きせぬ物は只御涙計り也。暫くかくて副ひ奉りたくおぼしけれども、「世の▼P3575(四一オ)聞こえしもつつまし。又聖の思はむ事もあれば」とて、怱ぎ立ち帰り、高雄へ登り給ひにけり。聖なのめならずかしづき奉りて、二人の侍をも憐れみ、母上の大覚寺のすまゐの幽かなるをも訪ひ奉りけるこそやさしけれ。
十二月十七日、源二位の申状に任せて、大蔵卿泰経、右馬権頭経仲、越後守隆経、侍従能成、少内記信康、解官せられけり。上卿は左大臣経宗、職事は頭弁光雅朝臣なりけり。大蔵卿父子三人解官せられける事は、義経彼の卿を以て毎事奏聞しける故とぞ聞こえし。能盛は義経が同母弟、信康は義経が執筆也。又、左馬権頭業忠、兵庫頭範綱、大夫尉知康、同尉信盛、左衛門尉時定、同尉信頁等、其の刑を加へんが為に関東より召し下すとぞ聞こえし。
同晦日、▼P3576(四一ウ)解官并びに流人の宣旨を下されけり。参議親宗右大弁光雅、刑部卿頼経、左馬権頭業忠、大夫隆職、兵庫頭範綱、左衛門尉知康、同尉信盛、同尉信貞、同時盛、解官せられけり。光雅朝臣と降職とは、官符を下されける故とぞ聞こえし。泰経卿は伊豆、頼経朝臣は安房へ配流の由、宣下せられけり。君を威し、臣を僣つこと、平将に異ならず。時政已に天下の権を執りて、弘く衆人の心を惣ぶれば、諸公卿、大きに紫綬を座右に連ね、翠榻を門下に並べけり。
去んぬる廿七日、議奏に預かるべき人々の交名を、源二位、関東より注進す。右大臣兼実、内大臣実定、三条大納言実房、中御門大納言宗家、堀川大納言忠親、権中納言実家、源中納言通親、藤中納言▼P3577(四二オ)経房、藤宰相雅長、左大弁宰相兼光なり。今度、源二位注進状に入れる人は其の威を振るひ、入らざる人は其の勢を失ふ。世の重んじ、人の帰すること、平将に万倍せり。是人の成すに非ず、天の与ふる所也。右大臣に内覧の宣旨を下さるべきの由、同じく申されたりければ、法皇より、「政務雅より其の器に足らざれど、人に譲るべくも无き間、自然に口入す。此不意のことなり。与るに今頼朝卿有り」〔とぞ〕申しける。
廿二 (二十四) 〔十郎蔵人行家搦めらるる事、付けたり人々解官せらるる事〕
さても鎌倉より、使、鏡の宿に馳せ向かひて、北条に申しけるは、「十郎蔵人行家、志多三郎先生義憲、河内国に隠れこもりたる由、其の聞こえあり。道より馳せ帰りて、怱ぎ誅ちて献るべし」とありけれども、「我が身は大事の召人具して是まで下りたるに、還り上るべきにあらず」▼P3578(四二ウ)とて、北条が甥に北条平六時定とて、都の守護に置きたりけるが、門送りに宿まで打ち送りたりけるに、彼の人を誅ちて奉るべきよし申し付けければ、平六京へ馳せ帰りて、郎等大源次宗安と云ふ者の有りけるを召して、「いかがはすべき。彼の人々の在所を知りたらばこそ、搦めもせめ」と云ひければ、宗安尋ね伺ひける程に、「十郎蔵人の在所知りたり」と云ふ寺法師を尋ね出だしたり。即ち彼の僧を召して尋ねけるに、「我は知らず、彼の人知りたり」と云ひければ、「さらば彼の僧の有らむ所へ引導せよ」とて、件の僧を先に立てて、よせて搦めんとするに、彼の僧申しけるは、「何故に搦めらるべきぞ。『十郎蔵人が在所知りたむ也、さらば教へよ』とこそいはめ、搦めらるべき様や有る」と云ひければ、「知る程なれば同意したるらむとて搦む也。いづくへ行くべきぞ」。「天王寺なる処にこそ有らめ。人を▼P3579(四三オ)指し副へよ。下りて教へん」と云ひければ、兵共を指し副へて下しけり。信乃国の住人笠原十郎国久、同国住人桑原の二郎、井上の九郎、常陸国の住人岩下太郎、同次郎、下妻六郎、伊賀の国の住人服部平六等を始めとして、都合卅余騎にて下しけり。
十郎蔵人は、窪津学頭兼春と云ふ伶人か許、秦六・秦七、此等両三人が許に行き通ひて有りけるを、二手に分けて押し寄せたり。此の事をや漏れ聞きたりけん、彼をば落ちにけり。兼春が娘二人あり。二人ながら行家が思ひ者にて通ひけり。是等を捕へて問ひけれど、「我も知らず」「我も知らず」とぞ云ひける。「げにも、世を怖れて落つる程の者が、在所を女に知らする事はあらじ」と、二人の女を召し取りて京へ上る。
又或る者、滋へ上る北条の平六に値ひて、「某が許にこそ、此の四五日、あやしばみたる人は忍びて立ち宿りて候へ。一定十郎蔵人殿にて渡らせ給ふと覚え候ふ」と▼P3580(四三ウ)申しければ、平六喜びて、「何なる人ぞ」と問ひけれは、「和泉国八木郷住人、八木の郷司と申す者也」と云ひければ、折節人はなし、云何せんずると思ひて、又大源次宗安をよびて、「何哉、己がみやだてたりし山僧は有るか、召して参れ」とて、宗安を遣す。是は西塔法師に常陸房昌命と云ふ者也。昌命軈て来たりければ、平六出で合ひて、「十郎蔵人のおはする所を、今朝人の告げたるぞ。御房下りて打ち給ひて、鎌倉殿の見参に入れ給へ」とて、家子郎等を指し副へて天王寺へ下して、人もなかりければ、やがて大源次を始めとして、中間・雑色ともなく廿余人付けたりければ、具して下る。天王寺より帰り上る勢は内路を上る。昌命は江口の方を下りければ、道には行き合はざりけり。
行家は天王寺を逃げ出でて、熊野の方へ▼P3581(四四オ)落ちけるが、歩行にては有りけり、一人具したる侍は足をやみて延びやらざりければ、彼の八木の郷司が許に立ち入りたりけるを、家主の男告げたりけるなり。昌命鞭を上げて彼の所へ馳せよりて、人を入れてみするに、彼の家にもなかりければ、込籠を打ち破り、板敷を放ちて天井をこぼちてさがしけれども、見えざりければ、昌命力およばず、大路へ立ち出でてみれば、百姓の妻と覚しき下種女の通りけるを捕へて、「是に此の程あやしばみたる旅人のあむなるは、いづくの家に有るぞ。申さずはしや頸を打ち切りてすてむずるぞ」とて、大刀のつかに手をかけければ、女怖ろしさの余りに、さがし給ひつる家の隣に大きなる家の有りけるを指して、「あれにこそ主従の者、いかなる人やらん、忍びて候ふとは聞き候へ」と云ひければ、昌命やがて▼P3582(四四ウ)押し寄せて打ち入りて見れば、四十計りなる俗の、褐衣の直垂小袴きて、紅梅の檀紙にて口裹みたる唐瓶子取りまかなひ、銚子〓[金+是]げ取りおきて、肴菓なむど取りちらして、既に行はむとする所に、昌命が打ち入るを見るままに、彼の男、後の方へ北を差して逃げければ、昌命「あますまじきぞ」とて、太刀を抜きて追ひてかかる。
十郎蔵人は内に居たりけるが、是を見て、「あの僧、やれ、其はあらぬ者ぞ。行家を尋ぬるか。行家は爰に有るぞ。返れ返れ」といはれければ、昌命声に付きて馳せ帰る。昌命は太刀打ち付けたる黒革綴の腹巻に、左右の小手指して、三枚甲きて、三尺五寸ある太刀をぞはきたりける。行家は白直垂小袴に、打烏帽子にえぼしあげして、右の手に太刀を抜き、左手に金作の▼P3583(四五オ)太刀のつばもなきを抜きて、額にあてて、ぬりごめの前にて待ち懸けたり。彼の太刀のつばは熊野権現へ誦経に献ぜられたりけるとかや。昌命馬より飛び下りて、「あの太刀なげられ候へや」と云ひければ、行家大きにあざわらう声、家の内ひびきわたる。童部の瓶の中に頭を指し入れて咲ふに似たり。昌命少しもはばからず寄せ合はせたり。昌明三尺五寸の太刀にて、もろ手打ちに打ちければ、行家は三尺一寸の太刀をもて、右の手にて丁と合はせて、左の手にては金作の太刀を取り延べて、物具のあきまをささむとすれば、昌明さされじとをどりのく。昌命又つと寄せて大太刀にてきれば、行家ははたと合はせて、又左手にてささむとすれば、をどりのく。昌明しばしささへ▼P3584(四五ウ)けれども、しらまず打ち合はすれば、行家こらへず、ぬり籠の内へしりへざまに逃げ入りければ、昌命もつづきて入る所を、小太刀にて左の股をぬひさまにぞ突きたりける。昌命さされて、「きたなくも引かせ給ふ物哉。出でさせ給へ。勝負仕らむ」と申せば、「さらばわ僧そこを出でよ」と云ひければ、昌命「承りぬ」とて、太刀を額にあてて後ざまへつとをどりのけば、行家つづきて出でて丁と切れば、昌命又むずと合はせける程に、いかがしたりけむ、太刀と太刀と切り組みたり。昌命太刀を捨てて「えたり、をう」と組みたりければ、いづれもおとらぬしたたか人にて、上に成り、下に成り、つかみ合へども、勝負なかりけるに、北条の平六が付けたりける大源次宗安、大きなる石を取りて、▼P3585(四六オ)十郎蔵人の額をつよく打ちて、打ち破りてければ、蔵人緋に成りて、「己は下臈なれ。あらさつなの振舞かな。弓矢取る者は太刀、刀にてこそ勝負はすれ。どこなる者のつぶてを以て敵を打つ様やはある」と云ひければ、昌命、「不覚なる者共かな。足をゆへかし」と云ひければ、宗安よりて昌命が足をこして、行家の足をゆいたりければ、蔵人少しもはたらかず。
さて引き起こしたりければ、蔵人息をしづめて、「抑わ僧は山憎か、寺法師か。又鎌倉よりの使か、平六が使か」。「鎌倉殿の御使、西塔北谷法師、常陸房昌命と申す者也」と云ひければ、「さて、わ僧は行家に使はれむと云ひし者か」。「さ候ふ」。「手なみはいかが思ふ」と云はれければ、昌明、「山上にて多の悪僧共と打ち合ひて候ひつれども、走り▼P3586(四六ウ)向には、殿の御太刀打程にはしたなき敵に合ひ候はず。就中左の御手にて差させ給ひつるが、余りにいぶせく、こらへがたくこそ候ひつれ。さて昌命が手当たりをばいかが思し召しつるJと申しければ、「夫ほつつむかへに取られなむ上は、とかく云ふに及ばず」とぞ云はれける。「太刀みむ」とて、二人の太刀を取りよせて見ければ、四十二所切れたり。昌命、「さて、一定殿は鎌倉殿をば打ち奉らむと思し食されて候ひしか」と云ひければ、「是程に成りなん上は、思ひたりしとも、思はじとも、并も詮なし。とく首を切りて兵衛佐に見せよ」と宣ひければ、昌命さすが哀れに覚えて、糒をあらはせてすすめければ、水を呑み給はむとて、引きよせられたりけるに、額のきずより血のさつとこぼれかかりたりければ、捨てられにけり。▼P3587(四七オ)昌命是を取りて食ひて、今夜は江口の長者が許に留まりぬ。
終夜京へ使を走らかしたりければ、あくる日の午時ばかりに、北条平六五十騎計りにて、幡ささせて赤位川原に行き会ひぬ。「都の内へは入るべからず」と云ふ院宣にて有りければ、ここにて首を刎ねてけり。首を損ぜじとて、脳を出だして、頸の中に塩をこみてぞ持たせける。
此の人の兄志多三郎先生義憲は、醍醐山に籠りたるよし聞こえければ、服部平大案内者にて山をふませけるに、山伝ひに伊賀の国へぞ移りける。既に敵近付きければ、次第に物具抜ぎ捨てて大刀をもすてて、ある谷の奥に行きて、合の小袖に大口計にて、腹かい切りて臥しにけり。即ち平六首を取りてけり。
昌命、十郎▼P3588(四七ウ)蔵人の首を持たせて鎌倉へ下りたりければ、「神妙也」と感じ給ひければ、「いかなる勧賞にか預からむずらむ」と人々申しけるに、勧賞には預からずして、下総国葛西と云ふ所へ流されにけり。諸人「こはいかなる事ぞや」と驚き申しけれども、其の心を知らず。二年と申すに、「行家誅ちたりし僧は下総国へ流しつかはされにき。未だあるか。召せ」とて、召し返して、鎌倉殿の宣ひけるは、「いかにわ僧、わびしと思ひつらむな。下臈の身にて大将たる者を誅ちつるは、冥加のなき時に、和僧の冥加の為に流し遣はしたりつる也」とて、勧賞には摂津土室庄、但馬国に太田庄、二ヶ所をぞ給はりたりける。是昌命が面目にあらずや。
▼P3589(四八オ)二月七日、右大臣殿月輪殿摂録せさせ給ふべきよし、源二位取り申さると聞こえし程に、内覧の宣旨の下りたりしを、「昌泰の比ほひ、北野天神、本院の大臣相並びて内覧の事有りし外、幼主の御時ならびて内覧の例なし」と、右の大臣仰せられければ、次年の三月十三日、摂録の詔書くだりき。前の日、院より右少弁定長を御使にて、右大臣殿摂録の事、頼朝卿猶取り申す由、近衛院普賢寺殿へ申させ給ひたりければ、忽ちに門さしにけり。御分の丹波国辞し申させ給ひつつ籠らせ御坐してけり。右大臣殿えらばれましましき。近衛殿はしばしなれども、平家の為にむすぼほれて御座ししかば、理事重かりければ、「力及ばず」と仰せられけるとぞ。右の大臣はかうさびて九条に御座▼P3590(四八ウ)けるが、保元平治より此方、世のみだれ打ちつづきて、人の損ずる事ひまなきを、朝夕歎き思し召しける陰信空しからず、陽報忽ちに顕れにけるやらむ、かかる御悦び有りけり。甲斐甲斐しくみだれたる世を治め、すたれたる事をおこし給ひけり。
二月十日、左府経宗の使者、筑後介兼能、関東より帰洛す。此は義経が申し給ふ官符の事に、臣客を遁るといへども、猶怖畏せられて、謝し遣はされたりければ、謀反の輩に仰せて、頼朝を誅せらるべき由風聞の間、恐々し給ふ処、今不審を散ずる由返答せられける間、左府安堵の思ひを成されけり。
廿三 (二十五) 〔六代御前高野熊野へ詣で給ふ事〕
権亮三位中将の子息六代御前は、年の積るに随ひて、皃形心様、立居の振舞まで勝れておはしければ、文学聖人は空おそろしくぞ▼P3591(四九オ)覚えける。鎌倉殿も常には穴倉げに宣ひて、「惟盛が子は頼朝が様に、朝敵をも打ちて、親の恥をも雪めつべき者か。頼朝を昔相し給ひし様にいかが見給ふ」と宣ひければ、文学申しけるは、「是はそこはかとなき不覚者也。聖が候はむ程は努々穴倉く思ひ給ふべからず」と申しければ、「如何様にも見留むる所一つあ〔つ〕てこそ、世をも打ち取りたらば、方人にもせむとてこそ、頻りに乞ひ取り給ひつらん。但し頼朝が一期、何なる者なりとも争でか傾くべき。子孫の末は知らず」と宣ひけるこそ怖ろしけれ。若君の母は、「〓々出家して、高雄法師におはすべし」と、若君を勧められけれども、文学惜しみ奉りて、急かにも剃り奉らず。
かくて十六と申しし文治五年の弥生の末に、若君聖に暇乞ひ給ひて、山臥の体になりて、斉藤五、斉藤六に負懸けさせて、高野山へ詣で給ふ。父の善知識したりし滝口入道に尋ね値ひて、父の御行末、遺言なんど委しく聞き給ひて、▼P3592(四九ウ)且は彼の跡もゆかしとて、熊野へぞ参られける。本宮証誠殿の御前にて、祖父小松内大臣、父惟盛の御事、今更に思ひ出だされつつ、すぞろに涙をもよほし給ひけり。
軈新宮へ詣で給ひて、是より南智山へ伝はりつつ、立ち帰り浜宮王子の御前にて、跡もなく験もなき海上をぞ遥々詠め給ひける。「父惟盛、いづくのほどに、いかに沈み給ひけむ」と、渚によする小波にも問はまほしくぞ思はれける。終日に泣き晩して、さても有るべき事ならねば、石を重ねて塔をくみ砂に仏の御形を書き給ひて、僧を請じて開眼し、念仏行道して、「過去先考幽霊、出離得脱増進仏道」と廻向して宣ひけるは、「弥陀は無上念王と申ししとき、宝海梵志の勧めによ〔つ〕て空王仏を拝し、出家の形を現じて法蔵比丘と申しき。『其の劫の間修して、極楽浄土▼P3593(五〇オ)を設けて、一切衆生を迎へずといはば、正覚をとらじ』とちかひ給へり。六万の諸仏も、同じく広長の舌をいだして、証誠し給へり。而るをあみだ仏と成り給ひて、極重要人無他方便の誓願たがへず、過去聖霊九品の台へ迎へ給ふ。何に況はむや出家菩提心の功徳おはせざらむや。出家の功徳、経には、『無量罪あり。出家無量の功徳をう』といへり。此の故に善財童子の菩提心をおこししをば、弥勒大士、師子の座よりおりて、光明を放ちて拝み給ひけり。『是則ち童子の貴きにはあらず、菩提心の貴きが故也』と宣ひけり。宝積経には、『菩提心の功徳、若し色あらば、虚空に満ちてぞ有らまし』と云ひ、彼をおもひ是を思ひあはするに付けては、さりとも悪世には輪廻し給はじものを。我身又是程訪ひ奉る。争でか仏も▼P3594(五〇ウ)哀れと思し召さざるべき。草の影にもうれしくこそ思ひ給ふらめ」など、涙にむせびての給へば、「あみだ仏も忽ちに影向し給ふらむ」と、身の毛竪ちて哀れ也。
さてもあるべきならねば、礒打つ浪にいとまをこひ、なくなくかへり給ひつつ、「よき次でに同じくは諸国一見せむ」と思はれければ、山々寺々修行し給ひて京へ上り、其の後高雄にて出家し給ひて、三位禅師とぞ申しける。母上は是を見給ひて、「世の世であらましかば、今はふるき上達部、近衛司、すきびたひの冠にてぞ有らまし」と宣ひけるこそ、余りの事とは覚えしか。
廿四 (二十六) 〔建礼門院の事〕
人間有為の楽は、風痛はしき春の花、一期不定の栄は、波に宿れる秋の月、滋りて見ゆる夏木立、梢さびしき冬の空、水流常に満たず、月▼P3595(五一オ)満ちぬればかくとかや。
抑建礼門院と申すは、後白川法皇の太子高倉院后、入道前大政大臣清盛の御娘、安徳天皇の御母也。十五才にして后妃の位に備はり、十六才にして女御の宣旨を下し、廿二にして皇子御誕生有りしかば、いつしか春宮位に立ち給ふべき天子なりしかども、位定まらせ給ひしかば、一天四海を掌に拳り、万人卿相普く国母と仰ぎ奉るのみに非ず、九重の裏、清涼紫震の床を並べ、后妃采女にかしづかれ給ひき。然りといへども一族の卿相漸く滅びて、御年廿九にて、あへなく御飾を下させ給ひて、大原の奥、瀬料里、寂光院と云ふ所に、墨染に御身をやつし、今は一筋に無常悪業の浮雲を厭ひて、極楽往生の頓証を願ひ、空しく過ぎ行く月日を送り迎へてぞおはしける。
▼P3596(五一ウ)廿五 (二十七) 〔法皇小原へ御幸成る事〕
さある程に文治二年にも成りぬ。正月余寒猶はげしくて、残雪も未だ消えざるに、二月もすぎ三月も漸く晩れにけり。日景のどかに成り行けば、野辺の千草も緑深く、夏にも既に成りぬれば、小祭も打ち過ぎて、卯月の半ばにも成りぬれば、法皇は「『煙立つ思ひならねど人しれずわびては富士のねをのみぞなく』と.朝夕詠じける、清原探養父が建てたりし補陀落寺、をがませ給ふべし」と披露して、夜を籠めて寂光院へ忍びの御幸あり。御共には当関白殿・閑院大政大臣・徳大寺左大臣・後徳大寺左大将実定・右大将実能・花山院大納言兼雅・按察大納言泰通・山井大納言実雅・冷泉大納言隆房・侍従大納言成通・桂大納言雅頼・堀川大納言通亮・▼P3597(五二オ)花薗中納言公氏・土御門宰相通親・梅津三位中将盛方・唐橋三位・岡の屋源三位佐親、殿上人には柳原左馬頭重雅・吉田右大弁親季・伏見左大弁重広・右兵衛佐時景、北面には川内守長実・石川判官代・高倉左衛門尉とぞ聞こえし。あじろ輿に裏簾懸けたり。
彼の寺に詣でて礼ませ給ふに、御堂の甍、廻廊のつづき、門内門外の有様、誠にあらまほしき風情也。本尊を拝し奉り給ふに、阿弥陀の三尊より始めて諸仏菩薩像光を耀かし、仏檀仏前之の飾り、差し入らせ給ふより何と無く御心を澄まさせおはします。極楽浄土の荘厳もかくやと覚えたり。彼の大光には九品曼陀羅を書き奉り、一見一拝の輩、罪業深重也とも弥陀の悲願に答へて無始の罪▼P3598(五二ウ)障も忽ちに消滅して誰か往生を遂げざるべきとたのもしくぞ御覧ぜられける。又浄るりの有様を書きたるとおぼしくて、十二神将、七千夜叉神、其の外、天人聖衆等の影向したる景気を書きたり。衆病悉除心身安楽の誓もたのもしく思食されける。左右局の聴聞所とおぼしき障子には、或ひは四季に随ひ折に触れたる無常観念の様を筆を尽くして書きたり。誠に情も深く、憂世を厭ふべき有様、思食し知られけり。或ひは六道四生三途八難の苦患の様を書きたり。延喜の聖主の地獄に堕ちさせ給ひて、金峯山の日蔵上人に向かはせ給ひて、
いふならくならくの底におちぬれば刹利も首陀もかはらざりけり
▼P3599(五三オ)と炎の中にして悲しませ給ひけむもかくやと哀にぞ思食されける。是に付けても、穢土を厭ひ浄土を願はせ給ふべき御心のみぞ深かりける。御堂を出でさせ給ひて四方を御覧ずるに、後ろの山は松杉緑に生ひしげり、雲居に遊ぶ群鶴も千年の契を結びて棲をとらむと覚えたり。庭の別には春霞に匂を施す楊梅数を尽くして殖ゑ並ぶ。古巣を出づる谷の鴬も官囀して木伝ふらんと覚えたり。山の副へ水の流、閑居の地をしめたりと見えたり。何事に付きても御心を止められずと云ふ事なし。
其より、をしをの山を越えて小原奥へ御幸なる。別け入る山の道すがら秋の比にもあらねども、草葉の露に袖ぬれてしぼらぬ袂ぞなかりける。峯の嵐吹きすさび、谷の水の石間をくぐる音、いづれも御心すごからずと云ふ事なし。女院の御庵▼P3600(五三ウ)室近く成る由聞し食すとも、緑衣の監使宮門を守るもなければ、心のままに荒れたる間垣は滋野辺よりも露深し。庭の若草滋りつつ岸の青柳色深く、松に懸かれる藤並、木末に一房残れる花、君の御幸を待ち進らせけるかと覚えて哀れ也。法皇かくぞ思し召されける。
池水に岸の青柳ちりしきて波の花こそさかりなりけれ
山時鳥の初音をば、此の里人のみやなれて聞くらむと思し召し知られけり。彼の寺の有様を御覧ずるに、西の山際に一の草堂あり。即ち寂光院是也。北の山際に一の庵室あり。女院の御棲にやと御覧ぜらる。香煙細く昇りて片々として消え安く、深窓幽かに閉ぢて消然として人もなし。比は卯月半ばの事なれば、夏草のしげみが末を別け過ぎ旧苔▼P3601(五四オ)払ふべき人も無し。人跡絶えたる程も思ひ知られて哀也。散り残る山桜、嶺に連なる岩樢、池汀の藤並、梢に懸かる時鳥、苔深くむす岩の色、落ちたぎりたる水の音、指が、ゆゑび由ありてぞ御覧ぜられける。緑蘿の垣、翠黛の山、絵に書くとも筆も及ぶべくも見えざりけり。四方に長山連なりて、僅かに言問ふ物とては、巴峡の猿の一叫、妻木こる〓の音ばかり也。樵歌牧笛の声、竹煙松霧の色、かかる閑居の棲を忍びて過ごさせ給ふも法皇哀れと御覧ぜらる。庭には忍ぶ交りの萱草生ひしげりて鳥の伏とぞ見えける。「瓢箪屡ば空し、草顔淵の巷に滋し」と云ひつべし。柴の編戸、竹のすい垣も荒れはてて、「黎〓深く鎖ざせり、雨原憲が枢を潤す」とも云ひつべし。
法皇、女院を待ちまゐらせさせ給ふ程に、あな▼P3602(五四ウ)たこなたへ立た住み御覧ぜられければ、いささ村竹風そよぎ、いささ小川に浪立ちて、妻を語らふ山烏、ねぐら定むる鶏、凡て耳にふれ目にまがへるもの、音々に哀れを催し、心を傷ましめずと云ふ事なし。合坂の蝉丸の、
世の中はとてもかくても有りぬべし宮もわら屋もはてしなければ
と詠じけるも埋と思し食し知られけり。昔、実之・能隆とて二人の大将ありけるが、実之が、
朝に紅顔有りて世路に誇るとも、暮、白骨と成りて郊原に朽ちぬ
年々歳々花相似たりとも、歳々年々人同じからず
と詠じけむも誠にさる事やらむと覚えて此の庵を御覧ぜらるるに、▼P3603(五五オ)僅に架三間の柴のとぼそなり。松の柱、竹の締戸、椙の葉葺もいとまばらにて、檐には忍計りぞしげりける。時雨も露も置く霜も、月光も諍ひて、たまるべしとも見えざりけり。
さて、内の有様を御覧ずれば、一間をば仏所にしつらひて、三尺の立像の御身は泥仏来迎の三尊、東向に安置し奉り、花香を備へ奉る。仏前には浄土の三部経を置かせ給へり。観无量寿経をば、半巻計りはあそばし残したりと見ゆ。仏の左方には普賢の絵像を懸け奉りて、御前なる紫檀の机には八軸の妙文、并びに廿八品の惣尺を置かせ給へり。右の方には善導の御影を懸けて、九帖の御書、並びに往生要集已下の諸経の要文を置かれたり。昔の蘭麝の匂ひを引き替へて、今は不断香の煙を薫じける。東の壁には古りたる▼P3604(五五ウ)琴・琵琶立てられたり。管絃哥舞の菩薩の来迎を思し食し出でつつ、御心の澄ませ給ふ折々の御手懸草にやと覚えたり。又、御勤めの隙の御心なぐさめとおぼしくて、古今・万葉、其の外、狂言綺語の類、取り散らされたり。折々の御手すさみと覚えて障子には諸経要文様々の詩哥なむど書き散らされたり。「諸行無常、是生滅法、生滅々已、寂滅為楽」の四句の文、一切の行は是れ皆無常也。無常の虎声は耳に近くとも世路の〓[走+多]りに聞こえず。雪山の鳥は夜々鳴けども、栖を出でぬれば亡れ、又羊の歩み近付きて親に先立つ子、子に先立つ親、妻に別るる男、夫に後るる妻、命は水の沫、老少不定の世也。朝の花は夕の風にさそはれ、宵の朗月は暁の雲に隠れぬ。山陰の頻の庵、御すまひ▼P3605(五六オ)おぼしめししられて、人しれず御涙せきあへさせ給はず。
極重悪人 無他方便 唯称弥陀 得生極楽
謗法闡提 廻心皆往 十悪五逆 罪滅得生観経心
一切業障海 皆従妄想生 若欲懺悔者 端坐思実相
若有重業障 無生浄土因 乗弥陀願力 必生安楽国
法身体遍諸衆生 客塵煩悩為覆蔵 不知我身有如来 流転生死無出期
又、参川守定基法師が清涼山に住みける時詠じける、
笙歌遥聞孤雲上 聖衆来迎落日前
草庵無人扶病臥 香爐有火向西眠
加様の詩要文共を四季紙形に書きて押されたり。又、浄土の法文と▼P3606(五六ウ)おぼしくて御双紙あまた取り散らされたり。大和絵書かれたる紙屏風に、女院の御手とおぼしくて、古き哥どもを書かれたり。
雲の上に風に楽の音すなり人に問はばや空耳かそも
乾く間もなき墨染の体かなこはたらちめの袖のしづくか
消ゆ方の香の煙のいつまでと立ち廻るべき此の世ならねば
思ひきやみ山の奥にすまひして雲居の月を外にみむとは
北の山際にあかだなつられたり。樒入れたる花がたみ、霰玉散る閼伽の折敷に懸け副へられたり。さて仏の御傍の障子を引きあけて御覧ぜられければ、女院の御寝所とおぼしくて御棹に懸けられたりける物とては、白き小袖のあやしげなるに、あさの御衣に紙の帯ばかり也。敷きならされ▼P3607(五七オ)たるたたみの上に.敷皮引き返して置かれたり。古へは漢宮裏内の后、御謌などの境節に付けつつ、本朝漢土の妙なる宝物、其の外色々の御衣ども、匂ひを調へて沈麝を薫じ給ひし御有様ぞかしと各見給ふにも哀れ也。昔は四季に随ひ、折に触れて春は南殿の桜を御心にかけさせ給ひて、
古のならの都の八重ざくら今日九重に移りつるかな
夏は清涼の台に昇りて夜の端き事を残し、冷じき御遊ありつつ、
打ちしめり菖蒲ぞ薫る時鳥鳴くや五月の雨の夕晩
秋は九重の月を夜終御覧じて、
久方の月の桂も秋はなほ紅葉すればやてりまされらん
▼P3608(五七ウ)冬は右近の馬場の白雪に嘯きて先づさく花かと悦ばせ給ひて、
待つ人も今は来らばいかがせむふままく惜しき庭のしらゆき
御信には玄象・無名と云ふ琵琶、青葉・釘打と云ふ笛、雲和・法花寺と云ふ笙、黒筒・神明と云ふ三鈷、秋風・螺鈿と云ふ瑟、唐草・落花形と云ふおび、露池と云ふ硯、壺切と云ふ剣など置かれ、其の外、紅紫両色の色々の御衣どもを数を尽くして懸けらる。内侍・命婦なむど云ふ司どもも輙く参らざりき。こは浅猿き御住居かなと思し召されて、「由無くも此の御有様を見奉りつる物哉」と、忍びかねさせ給へる御気色也。人住むべしとも見えざりけれども、「人や有る」と御尋ね有りければ、奥の方よりかすかに「老いたる尼の一人候ふ」と答へて参り▼P3609(五八オ)たりければ、「女院はいづくへ渡らせ給ひたる」と仰せられければ、「此の後ろの山へ御花摘に入らせ給ひぬ」と申す。法皇あきれさせ給へる御気色にて哀れに思し食されつつ、「昔より世を捨つるためし多けれども、御花なりとも争でか自らは摘ませ給ふべき。されば花摘みて奉るべき人だにも付き奉らぬか」と仰せられて、御涙ぐませ給ひければ、尼申しけるは「実に仰せはさる事にて候へども、『心地観経』には『欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因』とて、『過去の因を知らむと思はば現在の果を見よ、未来の果を知らむと思はば現在の因を見よ』と説かれて候ふなれば、切利天上の億千歳の楽、大梵王宮の深禅定の栄を傾はせ給ふとも、御行無くしては争でか候ふべき。生死無常の習ひ、一仏浄土に往▼P3610(五八ウ)生の望みを懸けさせ給ふにも、なにの勤めの力をか憑ませ給ふべき。釈迦如来は中天竺の主、浄飯大王の御子也。伽耶城を厭ひて檀徳山に籠り、高嶺に薪をこり、深谷に水をむすび、難行苦行の力によりて、遂に成等正覚成り給ひき。凡そ、生有る者必ず滅し、始め有る者終はりあり。楽しみ尽きては悲しみ来たるためしあり。前世に戒善戒行薄くおはしけるにや、今かかる御身にならせ給へり。然れば来生の宿業を兼ねて悟り給ひて捨身の行を修して御すにこそ。さればなにか御痛み候ふべき」と申す。
此の尼の有様を細かに御覧ぜらるるに、下には垢付きよごれたる小袖に、上には紙絹と云ふ物をぞ着たりける。「けしき事がらにも似ず、由有る者の詞哉」と▼P3611(五九オ)思し食されて、「已れはいかなる者ぞ」と仰せ有りければ、尼さめざめと打ち泣きて、問ふにつらさの涙せきあへざりければ、暫く物も申さず。「いかにいかに」と仰せ再三に及びければ、涙を押さへて「加様に申すに付けてはばかり候へども、一年平治の逆乱の時、悪右衛門督信頼に失はれにし少納言入道子に、弁入道貞憲と申しし者候ひし。娘に阿波弁内侍と申し候ひしは尼が事にて候ふ」と申しければ、法皇驚き思し召されて、「さては此の尼は紀伊二位が孫ごさむなれ。彼の二位と申すは法皇御乳母也。されば殊に御身近く召し仕はれ奉りしかば幾年せを経とも、争でか御覧じわするべきなれども、有りしにもあらず替はりはてたりければ御らむじわすれけるも埋也。年も僅かに廿八九の者也。
法皇より初め奉りて、各御目を▼P3612(五九ウ)御覧じ合はせて涙を流させ給ひける程に、良久しく有りて、後ろの片山の嶮しきより、こき墨染の衣きたる尼二人、下り降る。「何なる者なるらん」と御覧ぜられけるに、一人は樒に樢・藤の花、摘み入れたる花籠、ひぢに懸けたり。是ぞ女院に渡らせ給ひける。一人は妻木に蕨折り具して持ちたり。是は大宮大政大臣伊通卿御子息、鳥飼中納言伊実娘、先帝御乳母大納言典侍と云ふ人也。女院は、かくとも争でか思し食しよらせ給ふべきなれば、何心もなく法皇に御日を御覧じ合はせて、こはいかにと思召して、あきれたる御さまなり。「十念の柴の戸ぼそには摂取の光明を期し、一念の窓の前には聖衆の来迎をこそ待りつるに、思ひの外に法皇の御幸なりける▼P3613(六〇オ)よ」と思召さるるより、「哀れ只人に知られず、何方へも消え失せぬべかりし身の、人並々に憂世にながらへて、かかる有様を目の当たり見奉りぬるこそあさましけれ」と思し召されけれども、さすが霜雪ならぬ御身なれば、時の間にも消えうせさせ給はず、こは云何なりける事ぞや、と只夢の心地して、あきれ立たせ給ひたり。折節、山時鳥の一声、松の木末に音信れければ、女院かくぞ思し召しつづけける。
いざさらば涙くらべむ時鳥我も尽きせぬ憂きねをぞなく
又、思し食し返しけるは、「こは何事ぞ、今はかく思ふべき身にあらず。猶も此の世に執心のあればこそ、かくは覚すらめ。さては仏の道を傾ひてむや」と思し食して、御衣の袖も裾も草葉の露にしほれ返りたる御さまにて入らせ給ひに▼P3614(六〇ウ)けり。法皇かくと申し給ひたりければ、有りつる御衣の上に紙の御衾を引き懸けて、別の間なる御円座しかせ給ひて、誠に面はゆげなる御気色にて、御顔打ち赤らめて渡らせ給ひける御有様を御らむずるに、昔の花の皃もやつれはてて、麻の衣にまつはされおはします御有様、有りしにもあらぬ御すがたなれども、指すが又、なべての人にはまがふべくもみえさせ給はず。
法皇も女院も御涙に咽ばせ給ひて、互ひに、一詞も仰せ出だされず。良久しく有りて、法皇泣く泣く仰せの有りけるは、「さても、こはあさましき御すまひかな。昔より憂世を捨つるためし多く侍れども、かやうの御有様ほ未だ承り及ばず。盛者必衰の理にて、天人五衰の日にあへるらむも、此の世にて見るべきに非ず。かかるためしを目の当り見奉りつるこそ中々くやしけれ」とて、▼P3615(六一オ)御衣の袖もしぼる計り也ければ、御共の公卿殿上人も冠を地に付け、各涙もせきあへず、余りに絶えざる人々は閑所忍ばれけるとかや。女院は尽きせぬ御涙、関敢へさせ給はず。御袂を絞らせ給ひけれども、かくも物も申させ給はず。御衣の袖より漏れ出づる御涙、よその袖までも所せく程也。
法皇申させ給ひけるは、「人間の八苦、下界草露のためしは、有るに付けても歎き深く、無きに付けても愁ひ切也。何事に付けても昔を思し食し出で、何計りの事をか思召すらむ、かくともつやつや知り奉らずして、今まで見まゐらせざりける事、何計りの御恨みをか残させ給ひつらむと、あさましくこそ。さても誰事問ひまゐらする人にて候ふぞ」と仰せられければ、「世に立ち交はり人並なる有様をこそ、昔も今も申し昵ぶる習ひも候へ。かかる憂身に▼P3616(六一ウ)成りぬる上は、風のつて、よそながらだにも問ひ来たる人も候はず。さても世が世にて有りし程は、『いかにもして知らればや、問はればや』と思へりし人々も、雲居のよそに思ひたてへだてられて候へば、数々ならぬ身のうさをのみ思ひ知りて恨みをなす事も候はず。其の中に信隆の北方計り、折々に随ひて思ひわするる事もなく、常々はおとづれ来り候ふ。さても有りしには、彼が省みを受くべしとは、懸けても思ひよらざりし物を」とて、又、初めの如くさめざめと涙を流させ給ふ。「今はなにとか思食さるべきに候はねども、彼の北方の事をば御覧じ放ちたるまじきに候ふ。其の外は事問ふ人も候はず」と、申させ給へば、「六条の摂政の方よりは申す旨は候はぬにや」と、申させ給へば、「夫も今は絶え間がちにこそ」と、仰せられて、法皇も▼P3617(六二オ)女院も供奉の人々も袂をしぼりてぞ渡らせ給ひける。
女院、御涙を押さへて申させ給ひけるは、「かかる身に罷り成る事、一旦の欺きは申すに及ばねども、一つには来生不退の悦びあり。其の故は、我五障三従の身を受けながら、已に釈迦の遺弟に烈なり、悲願証明を憑みて三時に六根を懺悔し、一筋に今生の名利を思ひ捨て、九品の台を願ひ、一門の菩提を祈る。されば、一念の窓を開きて三尊の来迎を期し、三途のとぼそを閉ぢて出離の妙果を願ふ。是只一門別離の期に非ざるや。されば然るべき善縁善知識とこそ思ひ侍れ。
昔龍顔に近付き奉りし、四季境節に付けて、楽しみ栄えしままには、長生不死の齢を願ひ、蓬莱不死の薬を求めても久しからむ事を▼P3618(六二ウ)思ひ、かかる拙き事をのみ心に懸け侍りて、彼の苦を知らず。今は心に叶ひ侍らばやと思ひし龍顔にもおくれ奉り、糸惜し悲しと思ひ奉りし天子にも別れ、父もなく母もなき、つたなき身になりぬる上は、なじかは人をも恨み、世をも歎かしく思ひ侍るべき。其の中にも、此の度生死を離るべき事、思ひ定めてこそ候へ。其の故は、此の身は下界に住みながら六道を経歴したる身に侍れば、歎くべきにも非ず。其に付ても弥穢土を厭ふ志のみ日に随ひて進み候ふにや」と申させ給へば、法皇、「是こそ不審に覚え候へ。大唐の玄弉三蔵は覚の内に仏法をみ、吾が朝の日蔵上人は蔵王権現の御教へにて六道を見たりと云ふ事をば、伝へてこそ承りしか。又天に登り、海に入りし四梵士、年を延べ、月を▼P3619(六三オ)返しける魯連も、此の身ながら六道を見ざるとこそ申し侍れ。増して穢悪五障の女人の御身として六道を御覧ぜられけるこそ、まめやかに心得ず覚え候へ」と仰せられければ、女院打ち咲はせ給ひて、「実にさる事にて候へども、暫く身に当たれる苦楽のさまざまなるに付けて、六道の様を申し侍るべし。『地獄非地獄、我心有地獄、極楽非極楽、我心有極楽』と申す。只地獄も極楽も我心の内に傭はる事とこそ承り候へ」と申させ給へば、法皇、「十戒を十善と申しけるは、此の埋を申しけるにや」と仰せられて、弥哀れ打ち副へてぞ思食しける。
女院、「六道と申し候ふ鮮は、昔社宮にかしづかれ、万機の政を心のままに行ひて、楽しみ栄えは有りしかども、愁ひ歎きはなかりき。流泉啄木の調べは、転妙法輪の響きも是▼P3620(六三ウ)にはなじかは過ぐべきと覚え候ひき。されば、玄冬の寒き朝には衣を温かくして風を禦き、盛夏の熱き暮には泉に向ひて心を冷やさしめ、珍膳のこき味、朝な夕なに備へずと云ふ事なし。紅葉の妙なる色、夜昼の飾りとす。一門の繁昌は堂上花の如し。万民の群参は門前に市をなす。極楽浄土の荘厳もかくやと覚えき。乏しき事の無きままに、苦なる所を忘れて願ふ事無し。只明けても晩れても楽しみ栄え比ひ無かりし事は、善見城の勝妙楽、中間禅の高台の閣、大欲天上の五妙の快楽も、争でか是には過ぎむと覚えき。是をば暫く天上の楽しみと思ひ准らへ侍りき。
次に、夏来たれども装束を代ふる事なければ、集熱大集熱の苦の如し。又、冬来たれども衾を重ぬる事▼P3621(六四オ)なければ、紅連大紅連の氷に閉ぢられたるが如し。
さる程に寿永の秋の始、七月の末つかたに、木曽の冠者義仲と云ふ者に都を追ひ落とされて、高倉の上皇にも別れ奉り、八条大相国、来し方を顧れば、空しき煙のみ立ち昇り、行く末を思ひ遣れば、悲しみの涙のみくれて、方角も覚えず。何れか南北、何れか海山とも見えず。終夜ら落ち行き侍りし程に、四塚とかや申す所にて、我も我もと志ある由にて行幸に供奉せられし月卿雲客も、淀の津とかやにて船に乗り侍りし時、只音計りにて各立ち離れしを、船底にて伝に聞き侍りしかば、快楽無窮の天人の五衰、相現の悲しみとは是にやと覚えて、されば『天上欲退時、心生大苦悩、地獄衆苦患、十六不及一』と説かれたるも此の理にや。
▼P3622(六四ウ)人間の事は、此の度人界に生を受けたれば、愛別離苦・怨増会苦、只我が身一つに思知られたりしかば、四苦八苦一つとして遁るる所有るべからず。其の秋の末、九月にも成りしかば、古へは雲上にて共に見し月を、今は西海の浪の上にて独り詠めし楼台を出でて、四国の方に漂ふ。されば宮中の古へは、敗軍を靡かしし臣家たりし人々の、今は配所の逆臣たりし事、哀れに覚え侍りて、十月の比、備中国水嶋・幡磨国室山なむどの軍に勝ちしかば、人の色少しなほりて見えし程に、摂津一谷とかや云ふ所にて、一門多く滅びし後は、月卿雲客、各冠直衣をば甲冑にきかへ、扇をば弓箭に持ちかへ、束帯の形を忽ちに鉄を延べて身をつつみ、時の獣の皮を以て手足にまとひ、いつ習ひしともなき▼P3623(六五オ)甲の鉢を枕とし、鎧の袖をしとねとす。只明けても晩れても軍よばひの音のみ絶えず。花洛に住みし時には、詩歌管絃なむどをこそ夜昼持て遊びし人々の、今はねても覚めても敵を寃げ、命を助けむ謀の外、心に懸け、営む態なし。
一谷を落とされし後は、妻は夫に別れ、夫は妻に離る。親は子を失ひをめき叫び、子は親を失ひて泣き悲しむ音、船中に充満せり。自ら助け有りしかば、若しや助かると各のこみのりて海上に浮べば、浪風はげしくして、やすらふべき方なし。仏神の冥助、龍神の加護に非ずば、一日片時も命を延べ、身を助くべき様なし。
されば、淡路の瀬戸押渡りて、鳴戸隠れゆく船も有り。明石の奥に懸かりて、四国へ趣く船もあり。又いづくを指すともなく▼P3624(六五ウ)波に漂ふ船もあり。一しななみず思ひ思ひ心々に有りしかば、奥に釣する船を見ては、敵のよするかと怖ぢ恐れ、礒に群れ居る白鷺を見ては、敵の向かふ旗かと驚き騒ぐ。いさりの火のほのめく影を見ても、源氏の近付くにやと、肝を失ひ魂をけす。摂津難波の事も覚えず。世を浦海の嶋伝ひして、讃岐の屋嶋とかやに付きて、此の嶋を吉き城とて暫く此の浦にやすらひしかども」指すが、あやしの民の家を皇居と定めむに及ばずとて、暫くの程は御船を御所とせしかば、内大臣より始めて月卿も雲客もしづがふせやに夜をかさね、海人の苫屋に日を送り、梶枕波に打たれ、つゆにしほれて明かし晩らしし程に、なにとかしたりけむ、人の心▼P3625(六六オ)忽ちに替はりつつ、心に叶はぬ者をば討たむ殺さむとせし有様、修羅の闘諍、一日三時の愁あり。天鼓自然鳴の声のみ絶えずして、明くるも晩るるも腹のみ立ち、是偏へに修羅道もかくやと覚え侍りき。
次、成良が沙汰にて形の如く板屋造りて、主上を渡し奉り、人々も葦の円屋共いとなみて、住み給ひし程に、九月も半ばに成りて、ふけ行く秋の哀れいづくもと申しながら、旅の空いとど忍ぶ方もなくよわりゆく虫のこゑ、吹きしをる風の音、時に触れ折に随ひて、悲しからずと云ふ事なし。物を思はざる人そら哀れを残すべし。況はむや、行くへもしらぬ波路にまよふ習ひ、歎き悲しまずと云ふ事なし。無常の虎の音、片時も身を離るる事なく、断命の▼P3626(六六ウ)敵の声、日を送りて絶ゆる事なし。又十月に成りしかば、浦吹風もはげしく、礒こす波も高ければ、さすが兵の責め来たるもなく、行きかふ船も希也。空書き曇り、雪打ちふりつつ日数ふれば、いとど消え入る心地して、常は涙に咽びて、忙然として前後を知らず。是は人間の八苦にやと思ひ侍りき。
「次に東国の兵已に責め来たるよし申ししかば、又俄にあわてさわぎ、取る物も取りあへず、船にかこみ乗りて屋嶋を出でて、いづくを指すともなく、塩に引かれ、風にしたひて、昔有りけむ白居易の様に、海上に浮かびて、ゆられ行きしかば、朝夕の物も心に叶はず、哀れいとほしと云ひし人もなし。此の嶋に行かむとすれば、兵共集まり来たりて殺し失はむ事をはかる。彼の▼P3627(六七オ)岸に付かむとすれば、敵並び居て、捕らへ搦むる事を悦ぶ。国郡多しと雖も跡を止むべき所なく、山野広しと云へども休まむとするに便りなし。奉膳水療に非ざれば供御を備ふる人もなし。みつぎものなかりしかば、其の比官も希也。無量の苦有りと云へども、飢饉の憂ひを先とす。徳叉戸羅城の餓鬼の、大海の七度変じて山となるまで、飲食の名字を聞かず。又、師子国の餓鬼の、五百生が間、食を得難くして、子をうやし、或いは自らが脳を摧きてなやみ、或いは子を生みて食とす。されば『我夜生五子、随生皆自食、昼生五亦然、雖尽而無飽』と立つる文も埋り也。自から供御を備へむとする時は水なし。大海広しと云へども潮なればたてまつらず。▼P3628(六七ウ)『衆流海に入れども飲まむとすれば猛火也』と立つる文も埋り也。とてもかくても、露の命なににすがるべき便りなし。是を思ふに、餓鬼道もかくやと覚え侍りき。
又、とかくゆられあるきし程に、筑前国大宰府とかやにて、菊地・原田・松浦党なむど云ふ者共、靡き奉りて、内裏造るべしなむど云ひしかば、心少し落居して、人々も身をいこのへ、心を延べて侍る程に、宣旨とかやとて、刑部卿三位頼輔に仰せて、豊後国住人緒方三郎惟栄とかや申す者が承りとて、三千余騎の勢にて向かふべき由聞こえしかば、俄に又主上の玉の御輿を捨て置き、公卿殿上人より女房達に至るまで、袴のそばをはさみて、甲冑をよろひ、▼P3629(六八オ)弓箭を帯して、こはいかにしつる事ぞやと、肝心も身にそはず、三公九卿には群客百司の数々に随ひ奉る事もなく、つらを乱りし山わらうづに深泥を踏みてぞあゆまれける。平大納言時忠卿と門脇宰相教盛と二人計りぞ、直衣に矢負ひて供奉せられたりし。陸より夜中に筥崎津とかやに行きし程に、折節、降る雨いとはげしく、吹く風も砂を上ぐる計り也。自鷺の遠樹に群れ居るを見ては夷の旗を靡かすかとあやしみ、夜雁の遼海に鳴くを聞きては兵の船をこぐかと驚く。青嵐膚を破り、白波魂を消す。翠黛紅顔の粧ひ、漸く衰へ、蒼波に眼うげて、懐土望郷の涙弁へがたし。
寿永二年三月二十四日、長門国檀浦門司▼P3630(六八ウ)赤間の関とかや申す所にて、数万の軍襲ひ来たりしに、俄に悪風吹き来たりて、浮雲厚く聳きしかば、兵共弓箭の本末を失へりき。命運尽きにしかば、人のカ及び難かりき。されば着かむと思ふ方へも着かず。東夷南蛮の兵の如し。鴦掘摩羅と云ひし外道の仏を打ち奉らむとしけるも、又化影国王の人を殺しけむも、みぬ事なれば是程にはあらじと覚えき。
既に兵共御船に乱れ乗りて、軍は今は限りとなりしかば、一門の月卿雲客以下、然るべき人々、貴賎上下を嫌はず、手を取り組み、目を見合はせて、各底のみくづと成りしかば、自から残り留まりし人々も眼も前に命断たれ捕らへ縛らる。是を見ては、高きも卑しきもをめき叫びし音、上は悲想▼P3631(六九オ)天も響き、下は龍宮城も驚くらむとおびたたし。此の有り様を見聞くに、肝を消し神を迷はせず云ふ事なし。されば男も女も船底に顛れ臥し、悶絶〓[足+辟]地して、一人として人心地したる者なし。神鏡も御経箱も打ちかけられて、打ち破られし有り様を見るに、地獄の衆生の獄卒に向かひて、手をすり、降をこひ、『暫が暇を得させよ』と悲しむなれば、『非異人作悪、異人受苦報、自得果、衆生皆如是』と答へて、弥よ情け無く呵嘖すらむも、かくやと覚えき。又、牛頭馬頭が器杖を取るよりも怖しかりき。かかりしかば、神に祈るも験なく、国を語らふも叶はざりき。
戒賢論師は凡夫なりと云へども、玄弉三蔵の師也。阿闍世王は直人にあらず、霊山の聴▼P3632(六九ウ)衆也。然れども、加様の苦しみをば遁れ給はざりけるにや。昔の普明王は班足王にとられて九百九十九王を誅たるべき数に入り給ひたりけるに、『吾々沙門供養の願あり。抂げて暫の暇をえさせよ』と申して、八偈の文を誦しければ、即ちゆるして帰りけるとかや。さしもの悪王すら情け有りと申し伝へたり。是は少しも情けを残さず、哀れむ事無かりき。されば地獄の苦しみもかくやと覚え侍りき。
是等を思ひ列ね候へば、後生のみならず、今生にも六道の苦患はありけるにや。今一つの道、其までは申し及ばず」と申させ給ひければ、御涙を流させ給ひて、「誠に加様に委しく仰せらるる時こそ、六道の有り様、げにと思ひ知られ侍れ。今一つの道は何事にか。是程承る程にては憚り思し▼P3633(七〇オ)召すべきに非ず。同じくは承らばや」と申させ給ひければ、「家を出で、かかる憂き身と成りぬる上は、何事にか慎しみ侍るべき。今こそ申さずとも、後生にて浄頗梨の鏡に移され、倶生神の札を糺さむ時は何の隠れか侍るべき。天竺の術婆迦は后の宮に契りをなして、はかなき夢地を恨む。阿育大王の子、倶那羅太子は継母蓮花夫人に思ひを懸けられ、うき名を流し、震旦の則天皇后は長文成に逢ひて遊仙崛を得給へり。我が朝の奈良帝の御娘孝嫌女帝、恵美大臣に犯され、文徳天王の染殿の后は紺青鬼にをかされ、亭子の院の女御、京極御息所は時平の大臣の女也、日吉に詣で給ひけるに、志賀寺聖人、心を懸け奉りて今生の行業を譲り奉りしかば、哀れを懸け給ひて御手を▼P3634(七〇ウ)たび、『実の道の指南せよ』とすさませ給ひき。在原業平は五条亘りのあばら屋に、『月やあらぬ』と打ちながめ、源氏の女三宮は又柏木の右衛門督にまよひて、香をる大将を産み給へり。『いかが岩根の松は答へむ』と源氏の云ひけむもはづかしや。狭衣の大将は、『聞きつつも涙にくもる』と打ちながめ、天竺・晨旦・我が朝、高きも賎しきも女の有り様程、心憂き事候はず。『燈に入る夏の虫、はかなき契りに命を失ひ、妻を恋ふる秋の鹿、山野の猷、江河の鱗、草村にすだく虫までも、はかなき契りに命を失ふ』と承る。されば涅槃経には、『諸有三千界、男子諸煩悩、合集為一人、女人為業障』と説き給へり。大論には、『不嫌貴賎、但欲是堕』と説かれたり。都を▼P3635(七一オ)出でて後は、いつとなく宗盛・知盛一船を棲として、日を重ね月を送りしかば、人の口のさがなさは、何とやらん、聞きにくき名を立てしかば、畜生道をも経る様に侍りき。大方は一旦快楽の栄花に誇りて、永劫無窮の苦報をも覚えず、出離生死の謀をも知らず。只明けても晩れてもはか無き思ひにのみほだされて過し侍りき。是豈愚痴闇鈍の畜生道に迷ふるに非ずや」なむど、御涙を流して申させ給ひければ、法皇弥よ御涙に咽ばせ給ひて、昔を思ひ出ださせ給ふにも、御欺の色の深さの程も思し召し知られけり。「同じ御歎きと申しながら、一方ならず、いかばかりの御事をのみ思し召すらむと、御心中思ひ遣りまゐらする▼P3636(七一ウ)こそ、心苦しく侍れ」と申させ給ひければ、女院は、「何事も先世の宿業にて候へば、強ちに歎くべからず。うせぬべかりし檀浦とかやにて、母にもおくれ、天子にも別れ奉りき。親を思ひ子を哀れむ事、あやしの山野の獣、江河の鱗に至るまで浅からざる事にこそ。さればいやしきしづのをなれども、老いたる母を思ふ故に土を掘りて子を埋む類ひも有りけるにや。又心なき野辺の雉、そらねを思ふ故に野火の為に身をほろぼすとかや。増して人間界の歎き、親に後れ子に別るる程の悲歎やは侍るべき。されども思ひ歎きには露の命も消えざりけるにや。今日までながらへ侍るに付けても、身ながらもつれなかりける有様哉と、▼P3637(七二オ)口惜しくもはづかしくも侍べり。されば釈尊入滅の時、迦葉尊者一鉢を捨てて叫び給ひし声、三千世界に響き、橋梵波提は思ひに絶えずして、水となりて消えにき。智恵勇猛なる羅漢すら、非滅還滅の理を知り乍ら、当座に別れしに堪へざりき。況や是は凡夫也、愚癡也、無智也。別れも世の常なる別れに似ず。歎きも一品なる歎きに非ず。
兵共御船に乗り移り、夷共乱れ懸かり、今は限りと成りしかば、二位殿、『昔より賢人は骨をば埋むとも名をば流せと云へり。此の天子をば、我懐き奉りて海に入らむ』とて、先帝を帯にて我が身にゆひ合はせ進せて、鈍色の二つ衣引きまとひ、神璽を脇にはさみ、宝剣をば腰に指して、既に船ばたに望まれしに、先帝何心もなくほれぼれと▼P3638(七二ウ)あきれ給へる気色にて、御ぐしの肩の渡りにゆらゆら房々と懸かりて、行く末遥かの緑の御すがた、花の皃ばせ譬へむ方なく、望月の山の葉より出づる心地して、うつくしかりし御有様を空しく見成し奉りて、一日片時も世にながらふべしとも覚えず侍りしかば、『共に底のみくづと成らむ』と取り付き奉りしを、二位殿、『人の罪をば、親の留まり子の残りて訪はぬかぎりは、苦患遁れざむなる物を。されば我が身こそ今は空しく成るとも、残り留まりて、などか先帝の御菩提をも我等が菅患をも訪ひ給はざるべき』とて、引き放ちて出で給ひしかば、『いづくへ行くべきぞ』と先帝仰せられしかば、『浄土へ具し進らすべし』とて、先づ伊勢大神宮の方を伏し拝み奉り給ひて、西に向ひて▼P3639(七三オ)『流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者、南無西方極楽教主阿弥陀仏』と十念高声に唱へ給ひて、『設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚、光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨の御誓ひたがへ給はず、必ず引摂を垂れ給へ』と、唱へもあへ給はず、海に飛び入り給ひし音計りぞ、かすかに船底に聞こえしかども、消えはて絶え入りにし心の内なれば、夢に夢みる心地して、貞にも覚え侍らざりき。世々生々にも其の面影争でか忘れ侍るべき。
誠に振旦・高麗には賢をえらび智を尊びて、其の氏ならねども天子の位を践むとかや。我が朝には御裳濯川の御流れの外は、此の国を治め給はず。然るに、先帝は神武▼P3640(七三ウ)八十代の正統を受けて、十善万機の位を践み給ひながら、齢未だ幼少にましまししかば、天下を自ら治むる事もなし。何の罪に依りてか、忽ちに百皇鎮護の御誓ひに漏れ給ひぬるにや。是即ち我等が一門、只官位俸禄身に余り、国家を煩はすのみにあらず、天子を蔑如し奉り、神明仏陀を滅ぼし、悪業所感の故也。加之、古事を訪ひ候ふに、安康天皇は允恭天皇の御子也、眉輪王に御身を滅ぼされ、崇峻天皇は欽明の太子也、馬子大臣の為に誅せられ給ひき。されども御骨をば皆此の土にこそ留め給ひしか。其の上、御年も闌けてこそおはしけめ。是は御歳も未だ幼く、僅かに八歳也。此の国に跡をも骨をも留め給はず。悲しき哉。只甲斐無き▼P3641(七四オ)女の身に後世の苦しみを思ひ遣り奉り、六道四生、三途八難の業をだに祓ひ奉らむと、夜昼怠る時なく訪ひ候へども、無明悪業の雲厚くして、出離生死の闇、未だ晴るる方を知らず。とてもかくても絶えず身にそふ物とては、只悲しみの涙計り、寤めても寐ても祈念する事とては、『一念弥陀仏、即滅無量罪、現受無比楽、後生清浄土、西方弥陀、信心影像、一念十念、当得往生』、是等の御誓ひの外は心に懸けたのめる方侍らず。貧女が一燈を捧げて仏を供養し奉りけむも、今こそ思ひ知られ侍れ。さりとも三世諸仏もなどか納受し給はざるべきとこそ、憑もしく覚え侍れ。其の中にも道心さめがたく侍るは、国母の▼P3642(七四ウ)衰へたるにまされるは候はざりけるにや。
さるにても、過ぎにし比、不思儀の夢を見たる事候ひき。宗盛・知盛を始めとして、受領・検非違使共が並み居て候ひける所を、門戸を固く閉ぢて、『是は龍宮城』と申して、『此の所に入りぬる者は、二度帰る事無し』と申ししを、『苦患は無きか』と問ひ侍りしに、新中納言立ち出でて、『一日三時の患へあり。助けてたべ』と申すと覚えて、さめて打ちおどろかれ侍りき。されば、海に入りぬる者は、必ず龍王の眷属となると心得て候ふ。『訪はれむとてこそ、夢にもみえ侍らめ』と思へば、法花経をよみ、弥陀の宝号を唱へて訪ひ候へば、さりとも一業はなどか免れざらむと、憑もしくこそ侍れ。されば、是にまされる菩提の勤めあらじとこそ覚え侍れ。
昔、▼P3643(七五オ)右大臣の都を出でさせ給ひて西海に趣き給ふとて、都の跡を思し出だして、
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ
「去年の今夜は清涼に侍り。秋思の詩篇、独り腸を断つ」と詠ぜらる。王照君が王宮を出でて胡国に趣きて、十九年まで歎きけむも、我身にてこそ思ひ知られ侍れ。捨てがたかりし都へ再び立ち帰りたれども、昔の様に覚えず。七世の里に帰りけむ人もかくや便り無く侍りけむ。弓削の以言が伊与国より帰りて、都のいたく荒れにけるを見て、
青杉の昔見るに猶花麗し、白首の今帰るに蓋ぞ黍籬とならむ
と書きたりけむも理と覚えて、既に浦嶋が子の箱の様に、明晩は悔しく覚え侍りて、先帝の面影、片時も立ち離るる事の無きに付けても、唐帝の▼P3644(七五ウ)陽貴妃を尋ね、漢王の李夫人の形を甘泉殿に写し置きけむも理と覚えて侍りき」なむど、来方行末の事共、さまざまにかきくどかせ給ひ、泣く泣く申させ給ひければ、法皇を始め奉り、供奉の人々、是を聞き給ひて、涙を流しつつ、昔、釈迦如来の霊山浄土にて法を説き、伝教・智証の四明・園城にして経釈せられけむも、是程にやは哀れに貴かりけむと、各思しあはれけり。
女院は、「今日はなにとなき事共申しなぐさみ侍りぬ。是まで申しつづけ候へば、『様をかへ、世を遁れたらむからに、いつしかけしからぬ口の聞きざまよ』とは思食され候ふらめども、物をはぢつつむも様にこそより候へ、かかる有待の身の危さは、菩提のさまたげに成ると承れば、辱をわすれて申し候ふ也。其に付けても、▼P3645(七六オ)今日の御幸こそ、然るべき善知職とうれしく候へ。日を送り夜を重ぬとも申し尽くすべからず。既に日くれ侍りぬ。とくとく還御なるべき」よし、申させ給ふ。
御物語も漸く過ぎしかば、寂光院の入合の鐘、今日も晩れぬと打ちしられ、夕陽西に傾きて、夜もふけぬべかりしかば、法皇御余波は尽きせず思食されけれども、御涙を押さへて還御成りにけり。露おかねども袂をぬらし、時雨せねども打ちしをれ、泣く泣く還御成りけり。来迎院のさびしさ、瀬料里の細路、忘れ難く、哀れに心細くぞ思食されける。
女院は庭上まで出でさせましまして、遥かに見送り奉らる。昔を思食し出だしける御涙の色、深くぞ見えさせ給ひける。良僧正の、
末の露本のしづくや世中の後れ前立つためしなるらむ
▼P3646(七六ウ)と詠めけむも、誠に理と思召し知られけり。法皇も道すがら御涙に咽ばせ給ひて、哀れ尽きせず思食されければ、御かへりみがちにぞ思召されける。還御も漸く延びさせ給ひしかば、女院は持仏堂に入らせ給ひて、念仏高声に申させ給ひて、「聖霊決定生極楽、上品蓮台成正覚、菩提行願不退転、引導三有及法界、天子聖霊成等正覚、一門革霊出離生死、悲願必ずあやまち給はず、日来の念仏読経の功力に依りて、一々に成仏得道の縁と導き給へ」と、泣く泣く祈念せさせ給ひて、御涙に咽ばせ給ひけるこそ哀れなれ。法皇の御幸を御らむぜらるるに付けても、昔を思し出だしつつ悲しませ給へる御有様、さこそ思召すらめと、よその袂までも▼P3647(七七オ)朽ちぬべくぞ覚えし。其の後朝に立ち出でましまして御覧じければ、御庵室の柱に、
古へはくまなき月と思ひしに光りおとろふみ山辺のさと
「我が身の御事よ」と思食し入りて、「誰人のし態にや」と、理とぞ思食されける。御袖かはくまぞなかりける。徳大寺の左大将実定卿のかかれたりけるとかや。
昔世を治め給ひし時には、東に向かはせ給ひて、「南無伊勢大神宮、正八幡宮、御眦を比べて、天子宝算、千秋万歳」と祈り、今世を遁れさせ給へる勤めには、西に向かはせ給ひて、「南無西方極楽教主阿弥陀仏、観音・勢至、願はくは、狂言綺語の誤りを翻して、六道四生、三途八難の苦患を祓ひて、九品の台に▼P3648(七七ウ)迎へ給へ」と申させ給ふ御祈念の程こそ、返す返すも哀れなれ。寿永(元暦歟)二年は何なる年ぞや、天子翠体悉く西海波下に流れけむ。三月下旬は何なる月ぞや、月卿雲客併ら関路の湖底に朽ちにけむ。昔を思ひ、今を顧るに、悲しみをそへ、哀れを催ほさずとふ事なし。
廿六 (二十八) 〔建礼門院法性寺にて終はり給ふ事〕
女院は法皇還御の後、さすが都のみ恋しく思食されて、日来思食し入れさせ給ひたりつる寂光院の御すまひもかれがれに思食しなりて、何なりける御便りにか有りけむ、法性寺なる所にかすかなる御有様にて住ませ給ひける程に、承久三年、後鳥羽院の御合戦に、都も閑かならず、院を始め奉りて、御子の院々宮々も東夷の手に懸かりて国々へ流されさせ給ふを聞食すに付けても、先帝を始め奉りて、一門一々▼P3649(七八オ)都を落ちて西海の浪の上に漂ひて、終に海底に沈み給ひし事共、只今の様に思食し出だされて、弥よ御歎きつきせず。「何なる罪の報いにて、かかる憂世に生まれ合ひて、うき事をのみ見聞くらん。寂光院にあらましかば、よそ聞かましか。指すが是程目の当りは見聞かざらまし」とさへ思食すぞ、責めての事と覚えて哀れなる。是に付けても、朝夕の御行法怠らず。御年六十八と申しし貞応二年の春の晩に、紫雲空にたなびき、音楽雲に聞こえて、臨終正念にして往生の素懐を遂げさせ給ひにけり。御骨をば、東山鷲尾と云ふ所に納め奉りけるとぞ聞こえし。今生の御恨みは一旦の事也。善知織は是莫大の因縁と覚えて、目出たくぞ聞こえし。昔の如く后妃の位にて渡らせ給はましかば、女性の御身と▼P3650(七八ウ)して、争でかは彼の法性の常楽を証ぜさせ給ふべきと哀れ也。「源平の相論出で来たりて、災に合はせましましけるは、偏へに往生極楽の霊瑞にて有りける物を」とぞ人申し合ひける。されば、日来は自利々他の行業、廻向の功力、冥途に到りて、御一類も共に離苦得楽疑ひ有らじ者哉。
廿七(二九) 〔頼朝右大将に成り給ふ事〕
源二位は、建久元年十一月七日上洛せられて、同じき九日、正二位大納言に任ぜらる。同じき小一月四日、大納言右大将に拝任、即ち両職を辞して、同じき十六日、関東へ下向せられぬ。
同じき三年三月十三日、法皇隠れさせ給ひぬ。
廿八 (三十) 〔薩摩平六家長誅たるる事〕
同六年三月十三日、東大寺大仏供養有りけるに、随兵の▼P3651(七九オ)為に二位殿上洛せられ、三月十二日、南都へ着き給ひて、次朝十三日辰剋に、東大寺へ参詣せられける。「南大門の東の脇に大衆集会したる中に、あやしき者のみえつる、召して参れ」と宣ひければ、即ち、梶原走り向かひて、引き張りて参りたり。ひげをそ〔つ〕て、かみをそらぬ者なりけり。子細を尋ねられければ、「か程に成りぬる上は、論じ申すに及ばず候ふ。運尽き給ひぬる平家の方人仕るによりて、かく罷り成り候ひぬ。是は平家に祗候して候ひし、薩摩平六家長と申す者にて候ふ。若し便宜候はば存じて、伺ひまゐらせ候ひつるなり」と迫状しければ、「志の程神妙なり」と感じ給ひけり。供養の後、都へ帰り給ひて、ひそかに切られにけり。
廿九 (三十一) 〔越中次郎兵衛盛次誅さるる事〕
越中次郎兵衛盛次は、都にも安堵せずして、但馬国に落ち行きて、▼P3652(七九ウ)気比権守道弘が許に隠れ居たりけり。人是を知らず。道弘が娘の有りけるに、盛次忍びて通ひけり。されども、針袋をとほす風情にて、隠れなかりけり。盛次忍びて京へ上りて、年来知りたりける女の許へぞ通ひける。或る夜、彼の女、「さてもいづくにおはするぞ。かやうに情をかけ給へば、露おろかの儀なし」とねむごろに云ひければ、「我は但馬国気比権守道弘と云ふ者が許に有る也。あなかしこ、人に披露すな」とぞ語りける。
さる程に、鎌倉殿より、「越中次郎兵衛盛次、搦めても誅ちても進らせたらむ者には勧賞有るべし」と披露有りけり。彼の女には又、年来の寝夫ありけり。此の夫、有る夜のねざめに、「盛次を搦めても誅ちても進らせたらむ者には▼P3653(八〇オ)勧賞行はるべきよし、鎌倉殿より披露あり。哀れ、いづくにか有らむ。搦めて勧賞を蒙らばや」と云ひければ、人の心のうたてさは、ま男にや移りけむ、此の女、「わらはこそ知りたれ」と申しければ、男悦びて、様々の引出物をして、すかし問ひければ、女有りのままに語りたりけり。即ち鎌倉殿に此の由を申したりければ、やがて道弘に仰せて搦めて献るべきよし、仰せらる。
折節、建久八年比、道弘大番の為に在京して有りけるが、我が身は下らずして、道弘が妹聟朝倉大夫持ちて候ひしが、「今は運つきて、かやうに搦め召され候ふ上は、力及び候はず。とくとく首をめせ」とぞ申しける。二位殿打ちうなづき、「哀れ、是等を助け置きて召し仕はばや」と思ひ給ひけれども、「平家の侍の中には一二の▼P3654(八〇ウ)者也。虎を養ふ愁へ有り」とて、終に盛次は伐たれにけり。
三十(三十二) 〔上総悪七兵衛景清干死にの事〕
上総惡七兵衛景清は、降人に参りたりけるを、和田左衛門尉義盛に預けらる。昔平家の時に振る舞ひし様に、ややもすれば義盛を思ひ蔑りて、盃も前に取り、〓[木+延]より馬に下り乗りなむどしければ、義盛もてあつかひて、「景滑が義盛をば余りに蔑り候ふに、他人に預けたび候へ」と申したりければ、八田四郎知家に預けられにけり。後には法師になりて常陸国に有りけるが、東大寺供養三月十三日と聞こゆ、先立ちて七日以前より飲食を断ちて、湯水をも喉へも入れず、供養の日、終に死ににけり。
卅一(三十三) 〔伊賀大夫知忠誅たるる事〕
六代御前宥され給ひて後、十二年と申しし建久七年七月十▼P3655(八一オ)日申剋に、「法性寺一橋辺に謀叛者立て籠りたり」とて、二位殿の妹聟、一条の二位入道の侍、後藤左衛門基清、子息新兵衛基綱、五十余騎計りにて馳せ向かひて搦め取らむとしければ、彼の所、後には大竹しげりて、前には高岸にて橋を引きたり。外より借橋を亘して打ち入りてみれば、隠れ籠りたりける者共、待ち請けて散々に戦ひけるが、大勢猶馳せ重なりければ、こらへずして打ち死にする者もあり、自害する者もあり、自害半ばにしかけたる者もあり。又、後より堀を越えて落つる者もあり。
大将軍は故新中納言の御子、三歳にて叙爵して、伊賀大夫知忠とて、紀伊次郎兵衛為範入道が養君にしたりける年廿計りなる人なりけり。▼P3656(八一ウ)年比は伊賀国の山寺におはしけるが、年もをとなしく成りて、地頭守護もあやしみぬべかりければ、建久七年の秋の比ほひより、法性寺の一の橋の辺に忍びておはしけるに、平家の侍共、僅かに甲斐なき命計り生きて有りけるが、此の知忠を大将にて、少々立て籠もりたりけり。越中の次郎兵衛盛次、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、飛騨四郎兵衛景俊等也。手のきは軍して、城の中みだれにければ、後の竹原より逃げにけり。是等は西国にて軍やぶれければ、平家の人々海へ入り給ひし時、共に入りたりけれども、究竟の水練にてありければ、海の底をづぶにはひて、地へ付きて迷ひありきけるほどに、伊賀大夫の▼P3657(八二オ)許へ尋ね行きて有りけるに、つよくせめければ、叶はずして逃げにけり。甲者はよくにぐるとは、かやうの事を申すべきなり。平家の家人の中には宗との侍、一人当千の者共にて、門司関にても、是等にこそ人は多く討たれしか。
為範は、養君の自害したるを膝の上に引き係けて、腹かい切つてうつぶしに伏したりけり。其の子共三人、兵衛二郎、同三郎、同四郎とて有りけるも、同じく自害して左右に伏したり。哀れなりし事也。**
其の比、管絃するとて寄り合ひ寄り合ひ、夜は遊びて暁はかへりかへりしけるを、在地の者共あやしみて、二位入道に告げ申して討たせたりけるとかや。彼の所は平家相国禅門、吉き城廓也とて、城に構へむとてしめおかれたりし▼P3658(八二ウ)所也。後藤左衛門、首共取り集めて二位入道に見せ奉りたりければ、若人の首にては有りけり、一定知忠の首とも知り給はず、此の人の母は、治郎卿殿とて、七粂の女院に祗候の女房なりけるを、迎へよせられて、「一定知忠の頸か」とみせられければ、女房宣ひけるは、「七歳と申ししに、為範に預け置きて、我が身は故中納言に具せられて西国へ罷りし後は、生きたりとも死にたりとも、其の行へをしらず。まして相見るまでは思ひもよらず。慥かにそとは覚えねども、故中納言の顔ざしの思ひ出ださるる。さにこそ」と宣ひて泣き給ふ。さてこそ一定とは知られにけれ。今更の事共、思ひ出だし給ひけむ心の中こそ哀れなれ。
▼P3659(八三オ)卅二 (三十四) 〔小松侍従忠房誅せられ給ふ事〕
小松殿子息六人おはせしも、此こ彼こにて失はれける中に、丹後侍従忠房は、屋嶋の軍より落ちて行方を知らざりつるが、紀伊国住人湯浅権守宗重が許に隠れ居られたりけり。是を聞きて、和泉・紀伊国・摂津国・河内・大和・山城・伊賀・伊勢、近国の平家の家人共、一人二人来り加はりける程に、五百余人籠もりたり。二位殿、此の由を聞き給ひて、熊野別当堪増法眼に仰せて、三ヶ月が間に責め戦ふ事八ヶ度也。
湯浅には究竟の城あり。岡村の城・岩野河城・岩村の城とて三所あり。彼の城に究竟の者共立て籠もりたり。此の外、又瀞浅が家子郎等数を知らず。中にも、湯浅が甥神崎尾藤太・舎弟尾藤次、聟に藤並十郎、其の養子に▼P3660(八三ウ)泉源三兄弟、岩殿二郎宗賢など云ふ一人当千の兵共、立て籠もりたるあひだ、輙く責め落としがたし。湛増たのみ切りたる侍、須々木五郎左衛門と云ふ者、人にもすぐれてすすみ出でて戦ひけるを、湯浅が甥尾藤太、大鏑矢の十五束あるをあくまで放つ矢に、五郎左衛門尉が鎧の押付の板を、主をこめて射通したり。是をみて打手の兵共すすみたたかはず。惣じて三月の間に合戦数度に及ぶ。かかりければ、熊野法師多く手負て郎等あまた誅たれにけり。
堪増、「責め戦ふに、今は官兵力つきて候。国をも四、五ヶ国寄せらるべし」と申したりければ、二位殿仰せられけるは、「官兵の云ふ甲斐なきにこそあむなれ。▼P3661(八四オ)何さまにも始終は争でかこらふべきなれば、勢をも上すべきにてはあれども、謀を廻らしてよすべきなり。山海を能く守護して盗人を鎮めよ。固く守護せば、兵糧米尽きて一人二人落ちむ程に、一人も有るまじきぞ」と仰せらる。之に依りて守護きびしかりければ、案の如く兵糧米尽きて、思ひ思ひに皆落ち失せにけり。
二位殿仰せられけるは、「小松殿の公達、降人にならむをば宥め申すべし。立ち合はむ人々をば誅すべし。平治の乱の時、頼朝が死罪に定まりし事をば、池尼御前の使として、小松殿、大政入道に能き様に申されしによりてこそ、流罪にも定まりたりしか。されば、小松殿の公達の事、疎かとも思はず」とぞ宣ひける。忠房、湯浅ノ宗重が責め落とされて、降人に成りて鎌倉へ▼P3662(八四ウ)下り給ひたりければ、二位殿対面し給ひて、「都近き片畔に形の如き事なりとも思ひ知らせ奉らむずるぞ」と、「上洛有るべし」と宣ひけるに付きて、上られける程に、近江国勢多と云ふ所にて、たばかりて切りてけり。賢かりける謀也。
卅三 (三十五) 〔土佐守宗実死に給ふ事〕
又小松殿の末子に、土佐守宗実と云ふ人おはしけり。三歳よりして、大炊御門左大臣経宗、取り奉りて、養ひ奉りて異姓他人になして、弓矢の道をもたしなまず、只文筆をのみ教へ給ひて、朝家に仕へ給ひて、今年は十八に成り給ひけるを、鎌倉よりは尋ねは無かりけれども、猶世間に恐れて、昔の好みを忘れて追ひ出だされければ、行く方無くして、大仏の聖春乗上人の許におはして、本鳥を切りて、「是▼P3663(八五オ)剃り下ろしてたび候へ」と宣ひければ、上人、「誰にておはするぞ」と問はれければ、「是は故小松内府が末子にて候ひけるを、三歳より大炊御門左府、猶子にして今まで候ひつるを、世間に怖れて追ひ出だして候ふ時に、かみをそりて御弟子に成りて後世をも助かり候はばやとて、平に参りて候ふ也。あしかるべしと思し食され候はば、鎌倉へ此の由を申させ給ひて、其の左右に随はせ給へかし」と宣ひければ、上人、憐れみ給ひて、東大寺油蔵と云ふ所にすゑ奉りて、怱ぎ鎌倉へ使を立てて二位殿に申されたりければ、「強ちに罪深かるべき人に非ず。其の上、出家入道してければ、さ様にて其に置き給へ」と申されたりければ、上人なのめならず悦びて置き奉りたり。
後には高野山蓮華谷と云ふ所に住して、▼P3664(八五ウ)生蓮坊とて、近くまでおはしけるを、此の伊賀大夫の事出でて、猶あしかりなむとて、土佐入道生〔蓮〕坊をば鎌倉へ呼び下され(けされ)ければ、入道、出で給ひける日より飲食を断ちて、十三日と申すに、足柄山を越えて関本と云ふ処にて終に失せ給ひぬ。哀れなりし事典也。
卅四(三十六) 〔阿波守宗親道心を発す事〕
阿波守宗親とて、八嶋大臣殿の末子おはしけり。誠には養子にておはしけり。花園左大臣殿の御末とかや。此も平家ほろびて後、出家し給ひて、信戒房とて、仏性房と申す聖、相共に高野に籠もり居て、年々久しく行ひ給ひけり。
其の後、大仏の聖の唐へ渡りけるたよりにつきて渡る。彼の国に年来有りて行ひ給ひける有様、世の常の事にはあらず。偏に身命を惜しまず。或る時は出家坐禅とて、同行▼P3665(八六オ)三人ぐして深き山に入りて、草引き結ぶ程の閑窓だになくて、偏に雨露に身を任せつつ、四、五十日と行ひ給ひければ、今二人は堪へずして、すてて帰りにけり。其の後に又此の国へ帰りて、「都のほとりは事にふれてすみうし」とて、大臣殿の 「あくろ・つがろなりとも、ゆりだにしては」と宜ひけむかた、其の名さへむつまじくて、常にはえびすがすむあくろ、つがろ、つぼのいしぶみなど云ふ方のみに住まれ給ひけるとかや。
妹あまたおはしける中に、天王寺に理円房とてすみ給ふは、建礼門院に六条殿とて候ひ給ひし女房也。彼の聖の有様、山林に迷ひありきて跡もとどめずなどばかりは、ほのかにきこゆれども、近比は対面などせらるるたよりもなければ、いきてやおはすらん、しらず、ひたすら▼P3666(八六ウ)昔語りにて過ぎ給ひけるに、此の三、四年、神崎と申す処に、思ひよらぬ程に、世にすずしげなる人あり。童部余た尻に立ちて、物狂とて咲ひののしる。そのさまを見れば、人にもあらず、痩せ黒みたる法師の、紙衣の汚きが、わらわらとやれたるがうへに、あさの衣のここかしこ結ひ集めたるをわづかにかけつつ、片方やぶれ失ひたるひがさをきたり。「穴糸惜し。こはなに物のさまぞ」と思ふ程に、年来穴倉く心にかかれる信戒房也。是をみ給ふに、目もくれて、哀れに悲しき事限り無し。
目近くみむ事もかはゆきさまなれば、ふるき物共ぬぎすて、湯なむどあらせ奉りて後、閑かに年来のいぶせさも語られけり。「今は年も高くなり給ひたり。行ふべき程に勤めて過ぎ給ひにき。何くにものどかにしづまりて▼P3667(八七オ)念仏など申して居給へ」と、ねむごろにいさめて、山里にいほりひとつむすびて、小法師一人沙汰し付けて、其の用意など彼の妹の沙汰し送られければ、しぶしぶながら月日をすごし給ひけるほどに、或る時、河内の広河と云ふ所に住む聖とかや、尋ね来たりけり。これに対面して、終夜ら物語せられけるを、此の小法師、物をへだててききければ、「かくてもなほ後世必ずしうべしとも覚えず。事にふれて障りあり。只本有りしやうに、いづくともなく迷ひ歩きて、いささかも心をけがさじと思ひて」など有りければ、「あやし」と思ひけれども、忽ちに有るべき事とも思はで過ぐる程に、其の後四、五日有りて、何くともなく失せられにけり。
小法師、心有りける者にや、悲しく覚えて、泣く泣く尋ねありきけれども、いづくをはかりともなし。▼P3668(八七ウ)「有りし夜の物語の中に、『丹波の方へ』とかや、詞のさき計り程にきこえし物を」と思ひて、志の余りに、いづくともなく尋ね行きければ、あなうと云ふ所にて、希有にして尋ね合ひ奉りにけり。聖、おぼえずあきれたる気色にて、「何にして来たるぞ」といはれければ、「日比もさるべきにてこそ仕りつらめ。何なる有様にても、御共に候はむと思ひ侍る 志 深くて」など、泣く泣くきこゆ。「志はいと有り難く哀れ也。しかはあれども、いかにもいかにも叶ふまじき」 よし宣へば、猶もしひてもきこえば、心にも達ひぬべき様なれば、泣く泣く帰りにける。
後は、居所も定めず、雲風に跡を任せて、更に行へも知らず。いと貴く、末世には有り難き程の无極の道心者也。此の人計りぞ迷ひありきて、平家の後世共訪はれける。
卅五 (三十七) 〔肥後守貞能観音の利生に預る事〕
▼P3669(八八オ)西国の合戦の時、平家重代相伝の所従、大略滅び失せぬと思ひしに、いかにして漏れにけるやらむ、肥後守貞能も打ち洩らされて、紀伊国なる所にかくれ居たりけるが、年来清水の観音を信じ奉りて、功を入れまゐらせけるが、今は程も遠し、世間もおそろしく覚えて、参る事も叶はざりければ、等身の千手を造り奉りて、朝夕に恭敬礼拝し奉る。さる程に、此の貞能かくれ居て有りと云ふ聞こえ出で来て、鎌倉へ召し下されけるに、「此の本尊をかくて置き奉らむよりは、同じくは清水へ送り置きまゐらせむと思ふなり」とて、送り置きまゐらせてけり。
さて、貞能は鎌倉へ下りたりければ、湯井のはまへ出だして頸をきらるるに、都の方へ向かひて、「南无千手千眼大慈大悲観自在大聖、後世助け給へ」と三度伏し拝みて、▼P3670(八八ウ)さらばとくして頸を延べければ、きらむとするに、大刀俄かにをれてけり。
されども、何と思ひわく事なくて、又別の大刀を以てきるに、又先の如くをれにけり。貞能も不思議に覚えけり。其の峙、切り手も奉行もあやしみて故を問ふに、「何事も侍らず。我年来清水の観音を憑み奉りて、年久し。即ち只今も『後生助け給へ』と申す計り也。其の外は何事もなし」と申せば、「さては疑ひなき観音の御計らひにてこそ」とて、「此の次第を鎌倉殿へ申さではいかが」とて、使を怱ぎまゐらせけり。鎌倉の右大将は、其の折りしも、少しよりふしてねぶり給ひたりけるに、夢の中に老僧来たりて云はく、「貞能をば、今はゆるし給へ。我かはらむ」と云ふを、「汝、何人ぞ」と尋ねられければ、「是は都の方、清水より来たりて侍る也。彼の貞能は、少くより我に志深くて、▼P3671(八九オ)不便に存じ候ふ。我已にかはりぬるなり」と宣ふと思ひて、打ち驚き給ひぬ。疑ひなき観音の御計らひと思ひ給ふに、身の毛竪ちて、怱ぎ此をとどめに湯井のほまへ人を遣し給ひける程に、浜より使走り付きて、事の次第を細かく申すに、「返々不思議の事也」とて、貞能死罪をゆるされければ、宇津宮が預りてもてなし、大事にしけり。彼の宇津宮、平家に召し籠められたりしを、貞能申し請けてゆるしたりけり。其の恩を忘れずして、今かく大事にしけり。恩をわすれぬ宇津宮を、聞き及ぶ人、感ぜずと云ふ事なし。人にはよくあたりおくべき事也。
件の貞能が本噂の清水へ送りまゐらせたりけるが、新しき御仏なれば落ち給ふべくもなきに、俄かに御ぐしの落ちたりけるを、「不思議哉」とて、能々なほしまゐらす▼P3672(八九ウ)るに、又やがて二度まで落ちさせ給ひたりけれども、寺僧も何とも思ひわかず。其の夜、彼の僧の夢に、有る僧来たりて、「我が頸の落つるをば、何とか思ふ。貞能が頸を切らるるに代はりてきられつる」と云ふとみて、夢覚めて人々に語りけり。実に観音経に「刀尋段々壊」と云へる文、此の事にやと思ひ合はせられけり。後に聞こえけるは、やがて此の貞能がきられける同日同時に、御ぐしも落ちさせおはしましけり。御頸に刀目二所おはしけり。今に其のあとは御すとぞ承る。返々不思議の事也。此のみならず、現仏にて御座しければ、利生かぶる人も多し。「清水には現仏あまた御座す」と申すは、即ち此の御仏、其の中也。鎌倉の大将、此の事を聞き給ひて、観音を深く信じ給ひけり。貞能も、「仏の▼P3673(九〇オ)御哀れみの者なれば」とて、事にふれて訪ひ給ひけり。貞能も、召し下されし時は、さるべきには非ねども、本尊もうらめしく思ひまゐらする心も有りしに、今は弥よ信心をいたす。隠れ居たりし時は、波の立ち、風の吹くもおそろしく覚えて、安き心なかりしに、今は中々心中もひろびろと覚えければ、とても観音の御方便、計り事ましまして、後生におきては疑ひあらじと憑もしくぞ覚えける。
人々申しけるは、「平家の末々の公達だにも、謀叛を起こし給ひて御大事に及ぶ。まして、高雄文学上人の申し預り給ひし六代御前は、平家の嫡々也。祖父小松内大臣殿は、世の中の傾かむずる事を兼ねて知り給ひて、熊野権現に申し給ひて世を早くし、父三位中将殿は、軍の最中に閑かに物詣でし給ひて、身を海底に▼P3674(九〇ウ)投げ給ふ。かかる人々の子孫なれば、頭は剃るとも、心の猛き事はよも失ひ給はじ。哀れ、とく失はれで」と申しけれども、二位殿免し給はねば力及ばず過ごしけるほどに、二位殿も、「かく云ふ也」と聞き給ひては、「文学が生きてあらむ程はさて有りなむ」とぞ思ひ給ひける。
卅六 (三十八) 〔文学流罪せらるる事 付けたり 文学死去する事、隠岐院の事〕
文学上人は、元より怖しき心したる者にて、当今は御遊にのみ御心を入れさせ給ひて、世の御政をも知らせ給はず、九条殿御籠居の後は卿局のままにてあれば、人の愁歎も通らず、後高倉院をば其の比は二宮と申しけり、「二宮こそ御学問もおこたらせ給はず、正理を先としておはしませ」とて、位に即けまゐらせて世の政行はせまゐらせむと計りけれども、鎌倉の大将おはせしかぎりは叶はざり▼P3675(九一オ)けり。此の皇、芸能二つを並ぶるに、文章に疎にして、弓馬に長じ給へり。国の老父、ひそかに、文を左にし武を右にする帝徳の闕けたるを憂ふる事は、彼の呉王剣客を好みしかば天下きずを蒙る者多し、楚王細腰を好みしかば宮中に飢ゑて死する人多かりき。疵と飢とは世の厭ふ所なれども、上の好むに下の随ふ故に、国々のあやふからむ事を悲しむなりけり。
源二位昇進かかはらず、大納言右大将まで成り給ひにけり。右大将おはせし程は、「計り行はせまゐらせむ」と思ひけれども叶はざりける。正治元年正月十三日、右大将頼朝隠れ給ひて後、此の事を尚はかりけるが、世に聞こえて、文学忽ちに院勘を蒙りて二月六日、二条猪熊の宿所に、検非違使余たつきて、召し取りて佐渡国へぞ流されける。鎌▼P3676(九一ウ)倉より、左衛門督殿、頻りに取り申させ給ひければ、即ち召し返されにけり。高雄に安堵せさせられけるに、「高雄の庄二所召されたりけるを、帰し付けられて安堵せむ」と申しければ、今年計りは当たり給ふ人に知らせて、明年より付けむずるぞ」と仰せければ、「こはいかに。頼朝の世に付けられたる庄を、文学を召し返さるる程にては、一所も返さるまじき様やは有る。彼の庄返し付けられぬ程ならば、文学は安堵すまじき物を」と云ふ。当今は御及杖を好ませ給ひければ、文学、「及杖冠者」とぞ申しける。公家より鎌倉へ此の由仰せければ、「さやうに公家の御為に悪しく候はむずる者をば、力及び候はず。ともかくも御計らひ」と離たれければ、此の度は隠岐国へぞ遣しける。「安からぬ事哉。此の及杖冠者にかくせらるる事よ。目あらむ者はたしかにみよ、耳あらむ者は▼P3677(九二オ)たしかにきけ。我にかやうにからき目みすれば、只今に我が前へ迎へ取らむずるぞ」と、はがみをしてぞ申しける。かくて幾程もなくて死にける時、弟子の二人有りけるに、「我が首をば、都へもて上りて、高雄におけよ。都見えむ高からん所におけ。都を守りて傾けむ」とぞ遺言しける。されば、ひそかにもて上りて高雄に墓をばしてけり。
其後十一年と申しけるに、とがの尾の明恵上人の許に文学房出で来たる。日中の行しておはしける御後許りに来たりて、「御房は渡らせ給ひ候ふか」。「誰そ」と宣へば、「文学也」と答ふ。「御房は死に給ひたると聞くに」と宣ひければ、「死には死にて候へども、申すべき事候ひて、参つて候ふ。この及杖冠者につらう当たられて候ふあひだ、当たり返さむと存じ候ふが、此の十一年の間、仏神の御ゆるしの候はねばカ及ばで候ひつるが、余りに申し▼P3678(九二ウ)候へば、やうやう御ゆるしの候ふ際、謀叛を発さむとしつるに、廻文を出ださむとし候ふが、紙の候はぬ。紙や候ふ、たばせ給へ」。「紙もなき物をや」と宣ひければ、「ああ、紙は候ふぞ。只たび候へ」と申して失せにけり。御弟子達を召して、「かかる事こそ有りつれ。御房達が許に紙やある」。「一日の御布施の紙の百帖候ひし、五十帖はめされ候ひぬ。今五十帖候ふ」と申しければ、「さては、それをみてぞ云ふらん」とて、彼が墓にてぞ焼き上げける。其の後、四五日ありて、又日中の行しておはしける後計りに来たりて、「御房は渡らせ給ひ候か」。「誰そ」と宣へば、「文学候ふ」とて、「一日、紙給はり候ひて、廻文出だして、謀叛を発して滅ぼさむとし候ふに、公家より定めて、『公家安穏、関東損亡の行せよ』と仰せ候はむずらむ。相構へてさやうの行ばしせさせ給ひ候ふな。『関東安穏、公家損亡』と祈らせ給ひ候へ。さ候はず、御房の障碍神」と▼P3679(九三オ)申して失せにけり。隠岐院の御謀反は、文学が霊とぞ聞こえし。
卅七 (三十九) 〔六代御前誅たれ給ふ事〕
其の後、六代御前は、打ち絶え高雄にもおはせず、山々寺々修行して、父の後生菩提を訪ひ給ひけるが、文学流罪せられたるよし伝へ聞き給ひて、高雄へ帰り給たりけるを、安藤右衛門大夫資兼に仰せて、同年二月五日、二条猪熊の文学聖人の宿所に押し寄せて、六代御前を召し取りて、関東へ下し奉る。駿河国住人、岡部三郎大夫好康、承りて、千本の松原にて伐られけり。十二歳にて、北条四郎時政の手にかかりて、駿河国千本の松原にてきられ給ふべかりし人の、今年廿六まで命生き給ひて、終に千本の松原にてきられ給ひぬるも、先世の宿報と覚えてあはれなり。此より平家の子孫は絶えはて給ひにけり。
卅八 (四十) 〔法皇崩御の事〕
建久三年三月十三日法皇遂に崩御。御年六十六、後年高運の▼P3680(九三ウ)君也。御賀、御逆修、高野詣、御登山、勝地・名所の叡覧をきはめ、験仏・霊社の臨幸を尽くし、四明には大乗戒を受け、三井には密教を習ひ、東大寺には聖武創草の跡をとめて、金銅の霊像御手を下に開眼し給ふ。叡心に背きし青葉は風の前にちりはて、朝章を乱しし白波はうたかたと消えしかど、分段の耿の霧、玉体ををかして、無常の春の風、花の姿をさそひき。往生極楽は朝夕の御のぞみなりければ、臨終正念みだれず。瑜伽振鈴の響きは其の夜をかぎり、一乗暗誦の御声は其の暁に終はりき。普天かきくらし、卒土露しげし。草木愁へたる色あり、況や覇陵の松においてをや。鳥雀哀しべる音あり、況や洞庭の鶴においてをや。大宮人は、桜色にそめし袂を、をしなべて卯花を松にさきかかるふぢの衣にたちかへて、慈悲のめぐみ一天の下をはぐ▼P3681(九四オ)くみ、平等の仁四海の外に流しき。**
卅九 (四十一) 〔右大将頼朝果報日出たき事〕
抑も、征夷将軍前右大将、惣じて目出たかりける人也。西海の白波を平らげ、奥州の緑林をなびかして後、錦の袴をきて入洛し、羽林大将軍に任じ、拝賀の儀式、希代の壮観也き。仏法を興し、王法を継ぎ、一族の奢れるをしづめ、万民の愁へを宥め、不忠の者を退け、奉公の者を賞し、敢へて親疎をわかず、全く遠近をへだてず、ゆゆしかりし事共也。
此の大将、十二にて母におくれ、十三にて父にはなれて、伊豆国蛭が嶋へ流され給ひし時は、かくいみじく果報目出たかるべき人とは誰かは思ひし。我が身にも思ひ知り給ふべからず。人の報は、兼ねて善悪を定むべき事有るまじき事にや。「『何事のおはせむぞ』と思ひ給ひてこそ、清盛公もゆるし置き奉り、池尼御前もいかに糸惜しく▼P3682(九四ウ)思ひ奉り給ふとも、我が子孫にはよも思ひかへ給はじ。人をは思ひ侮るまじき物也」とぞ、時人申し沙汰しける。
平家物語第六末
(花押)