延慶本 平家物語 書き下し版(漢字ひらがな交じり)巻六



平家物語 六 〔第三本〕
▼P2237
〔見返し〕 (見返し中央に墨書き)
当巻の内、歌十一首、之在り。
〔目録〕
▼P2239(一オ)
 一 南都の火災に依つて朝拝行はれざる事
 二 南都僧綱等公請を止めらるる事
 三 新院崩御の事 付けたり紅葉を愛し給ふ事
 四 青井と云ふ女、内へ召さるる事 付けたり新院民をあわれみ給ふ事
 五 小督局、内裏へ召さるる事
 六 大政入道の娘、院へ参らする事
 七 木曽義仲成長する事
 八 源氏、尾張国まで責め上る事
 九 行家と平家と美乃国にて合戦の事
 十 武蔵権守義基法師が首渡さるる事
十一 九国の者共、平家を背く事
十二 沼賀入道と河野と合戦の事
十三 大政入道他界の事 付けたり様々の怪異共有る事
十四 大政入道、慈恵僧正の再誕の事
十五 白河院、祈親持経の再誕の事
十六 大政入道経嶋突き給ふ事
十七 大政入道白河院の御子なる事
十八 東海東山へ院宣を下さるる事
十九 秀衡資長等に源氏を追討すべき由の事
 廿 五条大納言邦綱卿死去の事
▼P2240(一ウ)
廿一 法皇、法住寺殿へ御幸成る事
廿二 興福寺の常楽会行はるる事
廿三 十郎蔵人と平家と合戦の事
廿四 行家、大神宮へ願書を進る事
廿五 頼朝と隆義と合戦の事
廿六 城四郎と木曽と合戦の事
廿七 城四郎越後の国の国司に任ずる事
廿八 兵革の祈りに秘法共行はるる事
廿九 大神宮へ鉄の甲冑送らるる事
三十 諒闇に依つて大嘗会延引の事
卅一 皇嘉門院崩御の事
卅二 覚快法親王失せ給ふ事
卅三 院の御所に移徙有る事
▼P2241(二オ)
一〔南都の火災に依つて朝拝行はれざる事〕
 治承五年正月一日改の年立ち帰りたれども、内裏には、東国の兵革、南都の火災に依つて朝拝無し。節会計りは行はれたりけれども、主上御出無し。関白以下藤原氏の公卿一人も参られず。氏寺焼失に依つてなり。只、平家の人々計りを少々参りて執り行はれける。其も、物の音も吹き鳴らさず、舞楽も奏せず。吉野の国栖も参らず。〓[魚+宣](はらか)も奏せず。形の如きの事にてぞ有りける。二日、殿上の淵酔なし。男女打ちひそまつて、禁中の儀式物さびしく朝儀も悉く廃れ、仏法王法共に尽きにけるかとぞ見えし。
二 〔南都僧綱等公請を止めらるる事〕
 五日、南都の僧綱等解官して公請を停止め、▼P2242(二ウ)所職を没収せらるべきの由、宣下せらる。去年、東大寺興福寺を始めとして、堂塔・僧庵皆灰燼と成り、衆徒は若きも老いたるも、或いは討たれ、或いは焼き殺されにき。適残る所は山野に交はりて、跡を留むる者無し。其の上、上綱さへ加様に成りぬれば、南都は併ら失せ終てにけるこそ。但し形の様にても御斎会は行はるべきにて、僧名の沙汰有けるに、南都の僧は公請を止めらるべき由、去んぬる五日、宣下せらる。されば、「一向天台宗の人計りぞ請ぜらるべきか、御斎会を止めらるべきか、又、延引せらるべきか」の由、官外記に問ひて、其の申状を以て諸卿に尋ねらるる処に、「偏へに南都を捨てらるべからざる」由、各申されける間、三論宗の僧、成実已講と申して勧修寺に有ける僧一人請ひて講▼P2243(三オ)師としてぞ、形の如く遂げられける。
 別当権僧正永円も、南都焼けけるを見て、病増して失せ給ひにけり。此の永円は元より情ありける人なれば、郭公の
泣きけるを聞き給ひて、
  聞くたびにめづらしければ郭公いつもはつねの心地こそすれ
と読み給ひてこそ、初音の僧正ともいはれ給ひけれ。かやうに仏法王法共に亡びぬるを悲しみて、終に失せ給ひにけり。
げにも心あらむ人は絶えてながらふべきにあらず。
 昔、彼の東大寺の御ぐし俄かに大地に落ち給へる事あり。天下第一の不思儀也。御門大に驚かせ給ひて小野篁を召して、「汝は神道を得たりと云ふ聞こえあり。此の事、掌を指して勘へ申せ」と云ふ綸言の下されければ、篁畏りて申しけるは、「今年天下に疫癘起こりて、人民命を失はむ事▼P2244(三ウ)百分が一に残るべし」とて、涙を流して悲しみけり。「しかるに、閻浮提第一の大伽藍、兼ねて物怪を示し給へるなり」と申されければ、御門、大に御欺きあつて、時の有験、弘法大師、慈覚大師、智証大師、相応和尚、真誓僧正を召し集めさせ給ひて、南殿に大檀を立てて、七ヶ日般若経を購読せられければ、大仏の御ぐし、夜の程に本身に飛び上りて、威徳親々として、尊容堂々たり。これに依つて天下の夭災も転じ返されたりけるにや、殊につつがも無かりけり。かかる目出き聖跡の、重衡の為に亡ぼされて、上一人より始め奉りて下万民に至るまで、心ある人は歎きにしづみ、又なき命を失ひけるこそ悲しけれ。
 九日、結摩城を責め落として、凶徒三百七十人が首を切る由、飛脚を立てて申し送れり。
▼P2245(四オ)
三 〔新院崩御の事 付けたり紅葉を愛し給ふ事〕
 さる程に新院、日来より御乱れ心地怠らずのみ渡らせ給ひけるが、此の世の中の有様を歎き思し召しけるにや、御悩弥よ重らせ御します。かかりしかば、何の沙汰にも及ばず。一院は何がせむと歎き思し召しける程に、十四日、六波羅の池殿にて終に崩御なりぬ。御年廿七、をしかるべき御命なり。新院の御遺誡に任せて、今夜、即ち東山の麓、清閑寺と云ふ山寺へ送り奉る。御共には、上達部五人、隆季、国綱、実定、通親〈今一人は見えず〉、其外殿上人十人前駈、供奉仕るとぞ聞へし。郡綱卿娘、別当三位殿を始めとして近く召し仕はれける女房三人、御ぐし下してけり。朝の霞にたぐひ、暮の煙と登り給ひぬ。内には五戒を持ちて慈悲を先とし、外には五常を乱らず、礼儀を▼P2246(四ウ)正しくし給ひき。末代の賢王にて渡らせ給ひしかば、万人惜しみ奉る事、一子を失へるより甚し。実国大納言、御笛を教へ奉り御しければ、人知れず哀れに悲しくぞ思はれける。殿上にて彼の御諱の沙汰有るに付けても、高倉何なる大路にて憂名の形見残り、東山何なる嶺にて終の御栖と定むらむと思ふも悲し。
 大方は賢聖の名を揚げ、仁徳の行ひを施し御す事、皆君成人の後、清濁を分かたせ御しての上の事にてこそ有るに、此の君は無下に幼稚に御しし時より性を柔和に受けさせ給ひて、有り難く、哀れなりし御事共こそ多かりしか。其の中に、去る嘉応・承安の比、御在位の始めつかたなりしかば、御年十歳計にや成らせ給ひけむ、紅葉を愛せさせ御して、北陣には山を▼P2247(五オ)突き、紅葉の山と名づけて、櫨、鶏冠木なむどの色うつくしくもみぢしたる枝を折り立てて、終日に叡覧有りけれども、猶飽き足らず思し召しけるにや、或夜、野分のはげしかりけるに、此の紅葉吹きたふして、落葉頗る狼籍也。殿守のとものみやつこ朝雪めせむとて、悉く是をはきすてず。残れる枝散る木の葉かき集めて風すさまじかりける朝なれば、縫殿の陣にて酒を煖めてたべける薪にしてけり。
 近習の蔵人、行幸より先に行きて山を見るに、紅葉一枝も無し。事の次第を尋ぬるに、しかじかと申す。蔵人手を打ち、驚きて、「さしも君の執し思食したりつる物を加様にしつる、浅猿しき事也。知らず、汝等、只今馬部・吉上の▼P2248(五ウ)禁獄にもやせられむずらむ。将又、流罪にもや行はれむずらむ」と、仰せ含む。此等、誠に下臈の不覚の誤りなれば、力及ばず。「何なる目をか見むずらむ」と、あへなく後悔、益無く候。蔵人も何様なる逆鱗か有らむずらむと、胸打ち騒
ぎて居たる処に、御ひるに成りければ、例の、先づ朝政にも及び給はず、夜のをとどを出でもあへさせ給わず、いと疾くかしこへ行幸なりて、紅葉を叡覧あるに、故ら跡形なし。
 「何に」と御尋ね有るに、蔵人奏すべき方なかりければ、恐々有りのままに奏聞す。天気殊に御心よげに打ち咲ひ御して、「『林間に酒を煖めて紅葉を焼く、石上に詩を題して緑苔を払ふ』と云ふ事をば、其れには誰か教へたりけるぞや、艶しく仕りたりける▼P2249(六オ)物哉」とて、帰りて叡感に預りける上は申すに及ばず、敢へて勅勘無かりけり。かかりしかば、あやしのしづのを、しづの妻に至るまで、只此の君の万歳千秋の御宝算をぞ祈り奉りける。されども、人の願も空しく、民の思ひも叶はざりける世の習ひこそ悲しけれ。
四 〔青井と云ふ女、内へ召さるる事 付けたり新院民をあわれみ給ふ事〕
 建礼門院入内の比、安元の始めの比、中宮の御方に候はれける女房の召し仕ひける女童部の中に、あをゐと云ひける女を、思はざる外の事有りて、龍顔に咫尺する事有りて、なにとなき白地の事にてもなくて、夜な夜な是を召されけり。御志浅からず見えければ、主の女房も此を召し仕ふ事なし。還りて主の如く寵きけり。
 此の事、天下に聞へしかば、当時の謡詠有るに云はく、「女を生みて悲酸ぶこと勿かれ、男を生みて▼P2250(六ウ)喜歓ぶこと勿かれ」。又日く、「男は侯に封ぜず、女は妃と作る」。「只今、女御后にも立ち、国母仙院も立ち給ひなむず。いみじかりける幸ひ哉」と申し詈ると聞こし召されて後は、又、敢へて召さるる事なし。御志の尽くるには非ず。只、代の謗りを思食さるる也。されば、常には詠めがちにて、夜のおとどにぞ入らせ給ひける。大殿、此事聞こし召して、「心苦しき御幸にこそあれ。申しなぐさめ進らせむ」とて、御参内有りて、「此の様に叡慮にかからせ給はば、何条御事か候ふべき。件の女房召され候ふべしと覚え候ふ。俗姓尋らるるに及ばず。忠通が猶子に候ふべし」と申させ給ひければ、「いさとよ。大臣の申さるる処もさる事なれども、位を退きて後は、さる事有りと聞けども、正しく在位の時、あこめなむど云ひてすそも▼P2251(七オ)なき物きて、あやしき振舞する程の物、身に近付く事を聞かず。丸が代に始めむ事は後代の謗りたるべし。然るべからず」と仰せ有りければ、法性寺の大殿、御涙を押へて罷り出でさせ給ひにけり。
 其後、なにとなき御幸習の次でに古哥を数た書きすさませ給ひ御しける中に、緑の薄様の殊に匂ひ深きに、此の歌をぞあそばしける。
  しのぶれど色にでにけり吾が恋はものや思ふと人の問ふまで
御心知りの蔵人、此の御手習を取りて、彼の女房に給はらす。あをゐ是を給はりて、懐に引き入れて、「心地例ならず」とて、出でぬ。即ち引きかづきて臥しにけり。煩ふ事卅余日あつて、此を胸の上にあてて、終にはかなく▼P2252(七ウ)成りにけり。いと哀れなりし事なり。入道是を伝へ聞きて、限り無く悦び給ひにけり。「さては今は、中宮の御方に近付かせ給ふらむ」と、常に人に問ひけれども、いとど物憂さのみ増さらせ給へば、近付き御す事もなかりけり。入道興ざめてぞ思はれける。
 主上、是を聞こし食して、御涙に咽びおはします。「君が一日の為に、妾が百年の身を誤つとも、言を癡少なる人家の女に寄せて、慎みて身をもつて軽しく人に許すこと勿かれ」とこそ禁めたれとて、恋慕の御思ひもさる事にて、代の謗りをぞ猶深く歎き思し召しける。彼の唐太宗、鄭仁基が娘を元籌殿に入れむとし給ふ事を、魏徴、「かの女、院に陸代約せり」と禁め申ししに依つて、殿に入るる事を止められけむには、猶増される御心ばせなり。
 又、哀れなりし▼P2253(八オ)事は、御母儀建春門院、隠れさせ給ひたりしかば、なのめならず御歎き有りけり。帝王御暇の程は、朝政を止めらるる習ひにて有りけるが、政止めらるる事、還りて天下の歎き為るに依つて、一日を以て一月にあて、十二日を以て十二月にあてて、十二日過ぎぬれば、御除服ある事なれば、其の日数過ぎて御除服有りけるに、参り会はせ給ひける人々も、殊更この御事色にも出だされず、なにとなきそぞろ事ども申しまぎらかさせ給ひければ、君もさらぬ体にもてなさせ御しながら、御歎きにたへさせ給はぬ御気色、哀れにぞ見えさせ給ひける。高倉中将泰通朝臣参りて、已に御衣召し替(か)へけるに、御帯あてまゐらせけれども、とみにむすびやらせ給(たま)はず。御後ろより結びまゐらせけるに、あ▼P2254(八ウ)たたかなる御涙の手にかかりたりけるに、泰通朝臣堪へられずして、涙を流し給ひけり。是を見奉りける公卿殿上人、各涙を流されけり。かやうに何事に付けても深く思し食し入りたる御有様なりしかば、万人惜しみ奉る事、譬へむ方なし。
 増して、法皇の御歎き、理にも過ぎたり。恩愛の道なれば、何れも愚かならねど、此の事は殊に御志深かりけるが、故女院の御腹にて御しまししかば、位に付き給ひし其の際までも、一つ御所にて朝夕なじみまゐらせ御坐したりしかば、互ひの御志深かりけるにこそ。去々年の冬、鳥羽殿に籠らせ御したりしをも、なのめならず御歎き有りて、御書なむど奉らせ給ひたりし事、剰へ、厳嶋御幸あつて還御の後、何程ならずして崩▼P2255(九オ)御なりぬ。此の如き御事、思し食し出だすもかなし。誠に、貴きも賎しきも、親の子を思ふは、せむ方なき態ぞかし。まして、かかる賢主に後れまゐらせ御坐す御心中こそ、推し量りまゐらすれ。
 されば、昔、白川法皇の堀川院に後れまゐらせて御歎き有りけむも、理と思し食し知られけり。彼の堀川院の御政を承るにこそ、此の君の御有様、違はず似させ御坐したりけれ。此の君に三代の曽祖父ぞかし。優に艶しく、人の思ひ付きまゐらする様なるすぢは、恐らくは延喜天暦の帝もかくしも御しまさずや有りけんとぞ覚えし。
 去んぬる永長元年十二月、或る所へ御方違の行幸なりたりけるに、さらぬだに鶏人暁を唱ふる声々、明王の眠りを驚かす程になりにしかば、いつも御ねざめがちにて、王業▼P2256(九ウ)封じがたき事をとかく思し食しつづけけるに、いとどさゆる霜夜の天季、殊にはげはげしかりければ、打ち解けて御寝もならず。彼の延喜の聖の、「四海の民の何にさむかるらむ」とて、御衣をぬがせ給ひけむ事思し食し出だして、吾が帝徳のいたらぬ事を欺かしく思し食しっつ、御心をひそめかへして御しけるに、遥かに程遠く、女の声にて叫ぶ声あり。供奉の人々はなにと聞とがめられざりけるに、君聞こし召しとがめて、上臥したる蔵人を召して、「番の者や候ふ。只今叫ぶ者は何者ぞ。見て参れと云へ」と、仰せ下さる。蔵人宣旨の趣を仰せ含む。本所々衆怱ぎ走りて見れば、よにあやしげなる下種女の、つくもがみをさばきて泣き居たり。「こは何者ぞ」と問ひければ、「吾が身は内裏に御す佐殿の御▼P2257(一〇オ)方の下部也。我が主、今年正月元日の朝の東宮の御物の役に当たらせ給ひたる間、其の御衣したためむとて、法輪寺と申す所に御宿所の有りつるを人にあきなひて、其のかはりを以て御衣を誘へて以て参りつるほどに、あの山のふもとにて怖ろしげなる者二三人出で来たりて、ばい取りて侍る也。今は御装束も候ひてこそ、御所にも候はせ給ひ候はめ。御屋が候はばこそ、立ちも出でさせ給はめ。日数の延びて候はばこそ、又もしたてさせ給ひ候はめ。又甲斐々々しく立ち寄らせ給ふべき親しき御方も候はず。年の暮には成りぬ。何とすべきとも覚えず、思ひ煩ひける間、為方のなさに此の事を思ひつづくるに、消えも失せなむと思ひ候ふなり」とて、をめき叫ぶ。走り帰りて此の由を奏す。主上、龍顔より御涙を流させ給ひて、「あな無懺や。何なる▼P2258(一〇ウ)者のし態にや有らむ。昔、夏の禹、をかせる者を罪すとて、涙を流し給ひき。臣下の云はく、『をかせる者を罪する、あはれむにたらず』。麦禹の云はく、『尭の民は尭の心を以て心とする故に、人皆直なり。今の世の民は、朕が心を以て心とする故に、姦しき者あり、罪を犯す。豈悲しまざらん哉』と歎き給ひき。今又、丸が心の直ならざる故に、姦しき者朝にありて、法ををかす。此丸が恥也」 とて、歎かせ御坐す。さて、「取られつらん絹の色は何色ぞ」と、問はせさせ御す。「しかじか」と申せば、「暫く此の女帰すべからず」 とて、御書をあそばして、蔵人に、「女院の御方へ持ちてまゐれ」とて、賜はりぬ。怱ぎ馳せ帰りて、土御門東洞院にわたらせ給ひければ、女院にまゐらせたり。「用意の御衣あらば、一重給はらん」との御文にてぞ有りける。十二単を取り出だし、蔵人にぞ給はりける。是を給はり、怱ぎ▼P2259(一一オ)帰りて此の由を奏するに、「彼の女童にとらせよ」 との仰せなりければ、即ち下女にぞ給ひてける。未だ夜深かりければ、「又もぞさるめに合ふ」とて、上はの者で主の女房の局へ送り遣したりけり。我がこしらへたるよりも、事の外に清らかにうつくしくぞ有りける。彼の女房の心中、何計りか有りけむ。
 同じ比、極めて貧しき所衆侍りけり。衆の交はりすべきにて有りけるが、惣じて思ひ立つべき便りもなし。「さりとて、此の事営までも、衆に交はらむ事、人ならず。只かかる身にては、世に有りても何がはせむ。しかじ、出家入道して失せなむ」とぞ思ひなりにける。妻子の事はさる事にて、なにとなう年来馴れ昵びつる衆の余波、せむ方なし。況や日来期したりつる前途後栄をも空しくして、朝夕参り近付きつる宮の▼P2260(一一ウ)内を振り捨てて、山林に流浪せむ事、心細しとも愚か也。「とてもかくても、人の身に貧に過ぎて口惜しき事なかりけり」と思ひつづくるに、前世の戒徳のうすさも今更思ひ知られて、打ちしづまるをりをりは、泣くより外の事なかりけり。
 而るに、此の君、近習の人々なむどに内々仰せの有りけるは、「率土は皆皇民也。遠民何ぞ疎かならむ。近民何ぞ親しからむ。仁を施さばやとこそ思し食すとも、一つの耳、四海の事を聞かず。黄帝は四聡四目の臣にまかせ、舜帝は八元八凱の臣に委すなど云へり。されども、遠きことはさのみ奏する人もなければ、各聞き及ぶ事あらば告げ知らせまゐらせよ」と仰せ置かれたりければ、或る女房、此の所衆の歎く事を聞き及びて奏聞したりければ、▼P2261(一二オ)「あな無懺や」とはかりにて、何と云ふ仰せもなかりけり。
 西京座主良真僧正、御持僧で侍りけるに、仰せ有りけるは、「臨時に御(祈り)有るべし。日時何の法と云ふ事は、遂つて宣下せらるべし。先づ兵衛尉一人召し付け、今度の除目に申しなすべし」と仰す。僧正勅命に任せて、成功の人召しつきて貫首にふる。即ち成されけり。其比の兵衛尉の功は五百疋にて有りしかば、是を座主坊に納め置きて日時宣下を相待たれけれども、日数経ければ、良真よきついでに、「若し思し食し忘れたるか」とて奏せられたりければ、主上仰せの有りけるは、「遠近親疎を論ぜず、民の愁へをばなだめばやとこそ思し召せども、叡聞の及ばぬは定めて多かるらむ。深く恵みを施さばやと思し召す也。而るに、某と云本所の衆あり。家貧しきに依つて衆の交はり叶ひ難き間、既に▼P2262(一二ウ)其の身を失ふべしと聞こし召せども、『明主は人に私するに金石珠玉を以てすること有れども、人に私するに官職事業を以てすること無し』と云ふ事もあれば、何かは若しかるべき。但し、世に披露せむ事憚り在り。只僧正給はす体にもてなすべし。御祈りは長日の御修法に過ぎたる事有るべからず」と仰せ下されければ、僧正とかくの御返事に及ばず、「何の大法秘法も、是に過ぎたる御祈り有るべからず。良真が微力をはげまして勤めたらむ御祈り、なほ百分が一に及ぶべからず」とて、泣く泣く退出す。彼の所の衆を西京の坊に召して、勅命の趣きを具さに仰せ含めて、其の五百疋を給はらせけり。彼が心中、何計りなりけむ。
 又、金田府生時光と云ふ笙吹と、市和部茂光と云ふ篳篥吹と有りけり。常に寄り合ひて、囲基を打ちて、裏頭楽と唱哥をして心を澄ま▼P2263(一三オ)しけり。二人寄り合ひて囲基だにも打ち立ちぬれば、世間の事、公私に付けて惣じて聞きも入れざりけり。或る時、内裏よりとびの事有りて時光を召しの有りけるに、例の如く一切に耳に聞き入れず。「こは何に。宣旨の御使、とびの御事のまします」と云ひけれども、唱寄打ちしてきかず。家中妻子、所従までも大いに騒ぎ、「何に何に」と云ひけれども、惣じて聞かず。宣旨の御使、あざむきて帰りぬ。此の由有りのままに奏聞す。「何計りの勅定にて有らむずらむ」と思ひけるに、「王位は口惜しき事哉。か程のすき者に伴はざりける事よ。あはれ、すいたりける者の心哉」とて、御涙を流して、敢へて勅勘なかりける上は子細に及ばず。
▼P2264(一三ウ)
五 〔小督局、内裏へ召さるる事〕
 其の比、又、内侍督の方に奉公して、小川の殿とて品いしからぬ女房の、齢廿の数に入らざるが、容顔美麗にして、色皃人に勝れ、心の色も情けも深かりけり。されば、見る人思ひを懸け、聞く人心を悩まさずと云ふ事なし。冷泉大納言隆房卿、未だ中将にて御しけるが、彼の女房を見てしより心を移し給ひて艶書を遺しけれども、取りも入れ給はず。さるままには、いとど心もあくがれて、万の仏神に祈り、明けても暮れても臥し沈み、もだえこがれ給ひける程に、多くの年月を送り、数の哥をよみ尽くしなどしければ、情けによわる習ひにて、終にはなびきにけりとぞ聞こえし。志深くして、うれしなど云ふも中々愚か也。
 かかりし程に、幾程なくて小督局内へ召されて参り給ひにしかば、隆房▼P2265(一四オ)力及ばずして、あかぬ別れの悲しさは例へむ方もなかりけり。「吉しさらば、かかるためしは有るぞかし」と、心づよくは思へども、尚恋しさはわすられで、いとど歎きぞ深かりける。責めて思ひの余りには、「外ながら見奉る事もやある、詞のすゑにもやかかる」とて、其の事となく毎日に参内し給ひて、小督殿局前、御簾の当たりに近付きて、あなたこなたへ行き通ひ給へども、詞のつてにてもかかり御しまさず。すだれだにもはたらかず。隆房弥よ悲しくて、生きたる心地もせざりけり。「縦ひ相見る事こそかたくとも、などか妙なる詞のつてにも問はれざるべき」と恨みつつ、一首の哥を書きて引き結び、大床を過ぐる様にて、御簾の内へぞ入れ給ふ。
  思ひかね心は空にみちのくのちかのしほがまちかきかひなし
▼P2266(一四ウ)かやうに有りけれども、小督局、「吾内裏に召されて参りなむ後、争でか御後ろぐらくかからむふしを見るべき」と、心づよく思ひなして、怱ぎ取り、つぼの内へぞ投げ出だし給ひける。隆房はうらめしく心うくて、人もやみるとつつましければ、怱ぎ取り、かくこそ恩ひつづけし。
  玉づさをいまは手にだにとらじとやさこそ心に思ひすつとも
かやうに口すさびて泣く泣く罷り出でにけり。今生には会ひ見む事もかたければ、「今は生きても何かせむ、仏神三宝、願はくは命を召して後生を助けさせ給へ」とぞ、明けても晩れても祈られける。かかる中にも、隆房かくぞよまれける。
  恋しなばうかれむ玉よしばしだにわが思ふ人のつまにとどまれ
是は人の神の出でて行くを見る人、頒文をして下がひの妻をむすべば、▼P2267(一五オ)必ず留まると云ふ事あり。其の事を思ひ出だして、かやうに読み給ひけるにや。さすがに定業来たらねば、死する事もなかりけり。
 さて、主上は小督局の御志深かりければ、中宮をばすさめまゐらせて、召さるる事まれなりければ、入道大相国、大いに怒り給ひて、「浄海が娘なむどをかやうにすさめさせ給ふべき事やある。めさずとも只まゐらせよ」とて、押しては進らせなむどせられけり。是をぞ、主上、御心よからぬ事に思し食されける。かくて弥よ小督局は御寵愛いやめづらにして、惣じて中宮を思し召さるる事なかりければ、入道弥よ安からず思ひて怒りをなして、「あふひ死なばさてもなくて、小督とかや云ふ者を召さるなるぞ。是を取りて尼になせ」とぞ宣ひける。小督局是を聞きて、「忽ちに身を徒になさむ事由無し」とて、或るくれ程に、君にも▼P2268(一五ウ)知られまゐらせず、人一人にもしらせずして、内裏を忍びて出でつつ、ゆくへも知らず失せにけり。
 主上は行方を知ろし食さねば、歎き思し召して、貢御もはかばかしくまゐらず、御寝も打ち解けならず。昼は御政も无くして、御涙にのみ咽ばせ給ひ、夜は南殿に出御ありて、自らさえ行く月にぞ御心をなぐさめ御しましける。彼の唐玄宗皇帝の、陽貴妃を失ひて、方士を使として其のゆくへを尋ねしも、蓬莱宮に至りて玉妃と云ふ額を見てゆくへを尋ねけり。玉妃のすがたを方仕見て、妙なる形見を給はり、王宮へ帰りけり。是は方士もあらばこそ、其の御ゆくへを聞こし召され、只明暮は人目のみ滋き思ひの絶えさせ給はねば、いつもつきせぬ事とては、御涙計り也。かやうに御歎きの色深かりけるを、入道ねたましく▼P2269(一六オ)悪しき事に思ひまゐらせて、御呵嘖の女房美女をも呼び取りて、人一人も付けまゐらせずして、参内し給ふ臣下卿上をもいさめ留め給ひければ、入道の権威に恐れをなして参内し給ふ人もなし。あさましと云ふ計りなし。「小松内府御坐さば、かかる御事はあらましや」なむど、天下の人々、今更歎きあはれけり。
 比は八月十日余の事なれば、月はくまなくさえたれど、御涙に陰りつつ、御袖のみぞ時雨ける。さよ深くる程に、「人やある、人やある」と、度々勅定有りければ、月卿雲客一人も参り給はねば、御いらへ申す人もなし。蔵人仲国と申しける諸大夫、只一人参りて候ひけるが、「仲国候ふ」と申したりければ、「是へ参れ」とぞ仰せける。仲国御前へ参りたりければ、「近く参れ。忍びて仰すべき事有り」と仰せ有り▼P2270(一六ウ)ければ、勅定に従ひて目近く参りたりけるに、主上は、御涙の龍顔に流るるを御袂に押し拭はせ給ひ、さらぬ様にもてなさせ給ひて、「やや、仲国、思ひ懸けぬ事なれども、若し小督がゆくへばしや知りたる」とぞ仰せける。仲国深く畏りて、「争でか知りまゐらせ候ふべき。努々知りまゐらせ候はす」と申しければ、「実に争でか知るべき。責めて思ひの余りに、かくは仰せ下しつるなり。実には、『小督は嵯峨の辺に片織戸とかやしたる屋の中に有り』とばかりきかせたる者の有るぞとよ。主が名を知らずとも、尋ねてまゐらせてむや」と仰せ有りければ、仲国、「惣じて嵯峨と計り承りて、立ち寄りて御はせむずる主か名を知り候はでは、争でか尋ねてまゐらせ候ふべき」と申しければ、「げにも」とて、又御涙にぞ咽ばせ給ひける。仲国、見まゐらするに悲しくて、つくづくと嵯峨のわたりを思ひやるに、其比は在家多くもなかりけ▼P2271(一七オ)れば、「たとひ主が名を知らずとも、打ちまはりてみむずるに、小督殿は琴を引き給ひしかば、いかなりとも、此の月のあかさに君の御事思ひ出だしまゐらせて、箏弾き給はぬ事はよもあらじ。内にて弾き給ひし時は、仲国、御笛の役に召されて参りしかば、箏の音よく聞き知りたり。一定尋ね出だしまゐらせてむ物を」と思ひて、「さ候はば、若しやと罷り向かひて尋ねまゐらせて見候はばや。但し、御書なむど候はでは、尋ね会ひまゐらせて候ふとも、御疑ひ候ふべし。御書を給はりて罷り向むかひて見候はむ」と申しければ、主上悦ばしく思し召して、怱ぎ御書をあそばして仰せの有りけるは、「時寮の御馬に乗りて罷り向へ」とぞ仰せける。
 仲国、寮の御馬を給はり、明月に鞭を揚げて、そことも知らずぞあくがれ行く。「をしか鳴く此の山里」と詠じける、嵯峨のわたりの秋のくれ、さこそ哀れに覚えけめ。已に▼P2272(一七ウ)さがの辺に馳せ付きぬ。在家毎に見まわれども、怪しき所も無かりけり。中にも片織戸なる屋を見ては、「若し是にや御すらむ」とて駒をとどめて立ち聞けども、琴の音もせざりける間、片織戸の有る所もなき所も、打ちまはり打ちまはり、在家をつくし、二三反まで見まわれども、惣じて箏弾く所なし。仲国思ひ煩ひて、「こはいかがすべき。内をばたのもしげに申して罷り出ぬ。尋ぬる人は御せず。空しく帰り参りたらむは中々心憂かるべければ、是よりいづちへも失せなばや」とまでぞ思ひける。
 「若し、月の明るければ、御堂なむどにや参りて御すらむ」と思ひて、堂々拝みめぐれども、其にも怪しき人もなし。責めて思ひの余りに、「程近ければ、法輪の方ざまに参りてもや御すらむ、そなたを尋ねむ」と思ひて、大井川の橋の方へおもむくに、北の方に当たりて、▼P2273(一八オ)亀山の麓近く、松の一村ある中より、嵐の音にたぐへて、箏の音幽かに聞こえけれど、さだかに其と覚えねば、峯の嵐か松風か、尋ぬる人の箏の音か、いづれなるらむ、と怪しくて、そなたをさして行く程に、木蔭へ打ち入りぬ。駒を留めて立ち聞けば、内裏にて常に承りし、小督殿の弾き給ひし爪音也。仲国、胸打ち騒ぎ、云ふ計りなくうれしくて、怱ぎ馬より飛び下りて、「何なる楽を弾き給ふらむ」と閑かに聞きければ、「思ふ男を恋ふ」と云ふ想夫恋をぞ弾かれける。箏の音空にすみ渡り、雲居にひびく心地して、身にしみてぞ覚えける。
 箏の音を指南にて分け入りたりければ、荒れたるやどの人もなく、草のみしげく露探し。秋も半ばの事なれば、音々すだく虫の音に、琴の音ぞまがひける。されば君の御事、深く恋ひまひらせられけるにやと、誠に哀れに覚え▼P2274(一八ウ)ければ、腰より横笛を取り出だして、忍びやかにぞ付けたりける。
 小督局、笛の音を聞き付けて、あさましとも云ふ計りなし。怱ぎ琴を弾きさして、取りをさめ給ひてけり。仲国も箏の音聞こえずなりければ、笛をも吹きさしてけり。さてしも有るべき事ならねば、兼ねて聞きつる片織戸に立ち寄りて、門をほとほとと打ちたたくに、とがむる人もなし。「こはいかがすべき」と仲国思ひ煩ひて、「内裏よりの御使ひにて候ふ。あけさせ給へ」と高声に申しけれども、なほ答ふる人もなし。良久しくありて、内より人の出づる音しければ、うれしく思ひて待つ処に、鎖をはづして片織戸ほそ目にあけて、十二三計りなる女の、ゆまきに袴きたりけるが、「誰そ」とて出でたり。「内裏よりの御使ひ」と申しければ、立ち帰り小督の殿に語る。「よも内からの御使ひにはあらじ。平家の知りて人を▼P2275(一九オ)遣したるござむめれ」とて、「是は門違ひにてぞ候らむ。内裏より御使なむど給はるべき所にても候はず」といはせたりければ、仲国「かくて問答をせば、門立て、鎖も鍵もかけもぞする。叶はじ」と思ひつつ、返事をばせで、門をむずとおしあけて入りにけり。
 妻戸の際の縁に寄りて、「是に小督殿の御局の御渡り候ふ由、内聞こし召され候ひて、『実否を見てまゐらせよ』の御使ひに、仲国が参りて候ふなり」と申しければ、なほさきの女にて、「是にはさ様の事も候はず。門違ひにてぞ候ふらむ」と同じくいはせたりければ、仲国申しけるは、「口惜しくも仰せ事候ふ者哉。内にて御箏あそばされ候ひしには、仲国こそ御笛の役には召され候ひしか。御箏の音、能々聞き知りまゐらせて候ふに、『よも聞きしらじ』など思はれまゐらせ候ひけるこそ、心憂く覚え候へ。只うはの▼P2276(19ウ)空に申すとや思食され候ふらむ。御書の候ふを見参に入れ候はむ」とて御書を取り出だし、彼女して入れたりければ、小督是を取り見給ふに、実の御書なりければ、顔にをしあてて、泣くより外の事なし。
 良久しくあつて御返事書きて、女房の装束一重ね取り具して出だされたり。仲国給はつて申しけるは、「御返事給はり候ひぬる上は、余の御使ひにて候はば、怱ぎ罷り出づべきにてこそ候へ。仲国、日来御笛の役に召され候ひつる奉公、争か空しく候ふべき。然るべく候はば、直に仰せを蒙って罷り出で候はばや。何様なる子細にて是までは出でさせ御しまし候ひけるやらむ」と申しければ、其の時、小督局自ら御返事し給ひけるは、「始めより申したかりつれども、世の中のうらめしさ、身の程のはづかしさに、かくとも申さざりつれども、強ちに恨み給へば、去り難くて加様に申す▼P2277(二〇オ)也。世に隠れなき事なれば、定めてそれにも聞き給ひけむ、入道の方ざまに安からぬ事にして、『召し出だして失はるべし』なむど聞へしかば、心憂く悲しくて、げにもさ様の事あらば生き乍ら恥を見むもうたてくて、君にもしらせまゐらせず、人独りにも知られずして、内裏を迷ひ出で候ひし時は、いかならむ淵川に身をなげて、此の世になき者と人に知られむとこそ思ひしかども、人に申し合はせしかば、『渕川に入りて死ぬる者は、吾が身を害する咎により、悪道に落つる』なむど申しし事の怖ろしさに、今まで思ひ煩ひて、水の底にも沈まず、つれなくかくて候へば、定めて君は『隆房に心を通はして隠されたる歟』などもや思し召し候ふらむと、はづかしくこそ候ひつれ。但し是にかくて有らむ事も、只宵計り也。明けなば大原の奥に尋ね入り、今は思ひ立つ事の有りつれば、日来は▼P2278(二〇ウ)箏に手懸くる事もなかりつれども、『宵計りの名残り也、夜もふけぬれば、誰かは聞きもとがむべき』と、憚かる心も無くして、箏を弾きつる程に聞き出だされにけり」とて、涙もかきあへず泣き給へば、仲国も是を聞きて狩衣の袖をぞ絞りける。
 良久しく有りて、涙を押さえて申しけるは、「小原へ入らせ御坐して思召し立つと云ふ御事は、御様を替へさせ給ふべきにや。さ様に思し召しなりなば、内の御歎きをば何がせさせ御しますべき。有るべからぬ御事也。只今御迎へに参り候はむずるにて候ふ。是を出でさせ給ふべからず」。「相構へて出だし奉るな」とて、共に相具したる、めぶ吉祥なむどを留めて、彼の宿所を守護せさす。吾身は寮の御馬に打ち乗りて、怱ぎ内裏へ帰り参りたれば、夜もほのぼのと明けにけり。
 「今は入御もなりぬらむ。誰してか申すべき」なむど思ひ煩ひて、馬をば右近の▼P2279(二一オ)陣に捨て置きて、給はりたりつる女房の装束をば、はね馬の障子に打ち懸けて、侍従殿のたてじとみを南殿の方へ参り、見参の板あららかにふみならし、南殿の方へ立ちまはれば、主上の御声にて、南面の大床に傾く月を御覧じて、「南に翔り北に嚮ふ、寒温を秋の雁につけがたし。東に出て西に流る、只為方を暁の月に尽す」と打ち詠めさせ給ふ御声、気高く哀れに聞こえければ、君は未だ御寝もならで渡らせ御しましけりと、うれしくて、怱ぎ参りて見まゐらせければ、罷り出でし時のままにて、少しも御はたらきもなくて、未だ宵の御座にぞ渡らせ給ひける。御袂の露けさぞ外よりもなほまさりける。見参の板が鳴りければ、「たそ」と御尋ねあり。「仲国」と申して畏まる。「さて何に」と、きかまほしげに仰せければ、御前に畏みて▼P2280(二一ウ)御返事取り出だしまゐらせたりければ、主上怱ぎ御返事を叡覧有るに、
  君ゆゑにしらぬ山路にまよひつつうきねのとこに旅ねをぞする
主上是をあそばして、とかうの宣旨もなかりけり。「さても何にして尋ね出だしたりつるぞ」と仰せ有りければ、「しかじか、箏の音を聞き出だして尋ね参りて候ひつる」と申しければ、「何なる楽をか弾きつる」と御尋ね有りけるに、「想夫恋をあそばしつる」と申しければ、「さては同じ心に思ひけるにこそ」とて、いとど哀れげに思し召したり。「汝牛車沙汰して、具して参りてむや」と仰せければ、「畏りて奉りぬ」とて、罷り出にけり。程無く、牛車、雑色、牛飼清げに出で立ちて、又嵯峨に行き向かふ。小督局取り乗せ奉りて、夜にまぎれて内裏へ参り給ひにけり。主上待ち得させ御坐して、悦び思し召す事なのめならず。▼P2281(二二オ)相棒へて人目をつつまむと、東宮の脇殿へ入れまゐらせて、深く隠し置かせ給ひつつ、夜々召されけるとかや。
 かくて何程なかりけるに、顕はれにける事は、小督局内裏を出で給はざりける其のさきより、只ならずなり給ひて、四月計りになり給へる時、かかる事は出で来にけり。召し帰され御して後、御産も近く成りければ、力及び給はず、里へ出で給ひにけり。御産所沙汰し、かいしやくの女房なにくれと尋ねさせ給ふ程に、入道聞き付け給ひにけり。「小督は失せたりと聞きたれば、其の儀は無くて、深く隠し置かれたり」とて、いとど怒り給ひけり。さる程に御産も成りぬ。姫宮にてぞ渡らせ給ひける。
 此の宮誕生あつて、百ヶ日過ぎて、小督殿共にして清涼殿のそとの間にして、月をぞ御覧ぜられける。此の事、入道聞きて、「何にも小督があらむには、世の▼P2282(二二ウ)中おだしかるべしとも覚えず」とて、人には仰せ付けずして、自ら是をぞ伺ひける。清涼殿に渡らせ給ふと聞きて、大床あららかにふむで参る。入道と御覧じければ、主上怱ぎ入らせ給ひぬ。小督殿は立ち去る方も無くして、きぬ引きかつぎてふされたり。入道枕に立ちて、「汝は世にも憚からず、入道にも恐れずして、中宮の御心を悩まし奉るこそ不思議なれ」とて引き出だしつつ、自らかみおし切りてぞすててける。
 小督局心ならず尼になされて、口惜しとも云ふ計りなし。「哀れ、嵯峨にて思ひ立ちたりし時、大原の奥へも尋ね入りて、吾と様をもかへたらば、心にくくて有るべきに、由無くも再び召し帰されて、恥を見つる悲しさよ」と歎き給へども、甲斐もなし。をしからぬ命なれば、水の底にも入りなむと思ひ立ち給へども、さきにも人の云ひし様に悪道に堕ちむ事、心憂く覚ゆれば、「今生ばかりの事、▼P2283(二三オ)一旦の恥もなにならず。後生は終の栖なれば、浄土をこそ願はめ」とて終に大原の奥に分け入りて、柴の庵を結び、一向念仏し給ひけり。露も怠る事なく明かし暮らし給ひしが、齢八十にて、日来の念仏の功積り、臨終正念にて往生の素懐を遂げ給ふ。此の小督局と申すは、藤中納言成範卿の御娘、坊門の女院の御母儀也。
 主上、「吾万乗の主と云ひながら、是程の事、叡慮に任せぬ事こそ口惜しけれ。丸が代に始めて王法の尽きぬる事こそ悲しけれ」と、御歎き有りしよりして、いとど中宮の御方へも行幸もならず、深く思し召し沈ませ給ひけるが御病となり、終にはかなく成らせ給ひにけりとぞ承りし。仁風卒土にかぶらしめ、孝徳外に顕はる。誠に尭、舜、禹、湯、周文武、漠の文景と云ふとも、かくこそは有りけめとぞ▼P2284(二三ウ)覚えし。
 されば後白川法皇の、此の君に後れまひらせ給ひて後、仰せ有りけるは、「世を此の君につがせ奉りなば、恐らくは延喜天暦の代にも立ち帰りなましとこそ思ひつるに、かく前立給ひぬる事は、只吾身の微運の尽きぬるのみならず、国の衰弊、民の果報の拙きが至す所也」とぞ歎かせ給ひける。目近くは故院の近衛院に後れまゐらせ給ひたりけむ御有様、挙賢、義孝少将と云へるも、さばかりなりし人の兄弟、一日に失せたりし、又一条摂政伊実、母其の北の方の思ひなどより始めて、後二条関白師実公に後れ給ひて、京極の摂政の思ひなど、かずかずに思し食し知れり。朝綱が澄明に後れて、「悲しみの至りて悲しきは、老いて子に後るるよりも悲しきは莫し。恨みの殊に恨めしきは、少くして親に先だつよりも恨めしきは莫し。老少不定を知ると雖も、猶し前後の相違に迷へり」と泣々書きたりけむも、さこそと思し召し知▼P2285(二四オ)られ、かこつかたなき御涙せきあへず。
 永万元年七月に第一の御子、二条院も失せさせ給ひにき。第二の御子高倉宮、治承四年五月に誅たれさせ給ひぬ。現
世後生と憑み奉り給ひつる第四の御子、新院さへかやうに先立ち給ひぬ。今はいとど御心よわくならせ給ひて、何なるべしとも思し召しわかず。老少不定は人間のならひなれども、前後相違は又、生前の御恨みなほ探し。翼鳥、連理の枝と、天に仰ぎ、星を指して、御契り浅からざりし建春門院も、安元二年七月七日、秋風なさけなくして、夜はの露と消えさせ給ひしかば、雲のかけはしかき絶へて、あまの河のあふせをよそに御らむじて、生者必滅、会者定離の理を深く思し食し取りて、年月を隔つれども、昨日今日の御別れのやうに思し食して、御涙も未だかわきもあへず。此の御歎きさへ打ちそひ▼P2286(二四ウ)ぬるぞ申す量りなき。近く召し仕はれし輩、むつまじく思し食しし人々、或は流され、或は誅せられにき。今は何事にか御意をも休めさせ給ふべき。さるままには、一乗妙典の御読誦怠らず、三密行法の御薫修も積れり。今生の妄念思し食しすてて、只来世の御勤めより外、他事おはしまさず。中にも然るべき善知識かなとぞ思し召しける。
 天下諒闇になりにしかば、雲上人花の袂を引き替へて、藤の衣になりにけり。昔花山法皇の失せさせ御座したりしに、
兵部命婦その御かなしみにたへずして、「こぞのはるさくらいろにていそぎしをことしはふじのころもをぞきる」とよみ
たりしも、思ひ出でられて哀れ也。興福寺別当権僧正教縁も、伽藍炎上の煙をみて、病付きて程無く失せられにけり。
誠に心有る人の、堪へてながらふべき世ともみえず。
 ▼P2287(二五オ)法皇の御心中、申すも愚か也。「我十善の余薫に酬ひて、万乗の宝位を忝くす。四代の帝王、思へば子也、孫也。いかなれば万機政務を止められて、年月を送るらむ」なむど、日来御患ひのやすむかたなかりける上、新院の御事さへ打ちそひぬれば、内外につけて思し召ししづませ御します。入道大相国、此の御有様伝へ聞きて、いたく情なく振る舞ひたりし事を怖しとや思はれけむ、
六 〔大政入道の娘、院へ参らする事〕
 廿七日、大政入道の乙娘の安芸厳嶋の内侍が腹に、十七に成り給ひけるを、院へ進らせ給ひて、上臈女房あまたぐせさせ、公卿殿上人多く供奉して、女院参りのやうにぞ有りける。かかるに付けても、法皇は、「こはなにごとぞ」と、すさまじくぞ思し食しける。「高倉院隠れさせ給ひて後、僅に十四日にこそ▼P2288(二五ウ)なるに、いつしかかかるべしやは」と、狐めかしく思食しあはれけり。されど後には女御代にて、東の御方とぞ申しける。故院の御時も、二人ながら院へ参らせむとし給ひけるを、門脇宰相、「有るべからざる」由申されければ、思ひ止まり給ひにけり。
 女房の中に、鳥飼大納言伊実の娘おはしけり。大宮殿とぞ申しける。一条大納言の御娘をば近衛殿と申しけるも居られけれども、中に大宮殿ぞ御気色はよかりける。御〓[女+夫]の実保・伊輔、二人一度に少将になされにけり。ゆゆしく聞こえしほどに、相模守業房が後家、忍びて参りけるに、姫君出で来給ひにけり。二人の上臈女房も本意なきことにぞ思し召されける。大宮殿は、後には平中納言親宗卿、時々通はれけり。北方にもならずして、思ひ者こそ口惜しけれ。近衛殿は、後は九郎判官義経▼P2289(二六オ)一腹の弟、侍従能成に名立たれけるぞ、うたてく聞こえし。彼の能成、判官世に有りし程は、武者立ちてゆゆしかりしが、判官西国へ落ちし時、紫取染の唐綾の直垂に、赤をどしの鎧に、葦毛なる馬に乗りて、判官の尻に打ちたりしが、大物の浜にて散々と成りける所より、和泉国へ迷ひ行きたりけるが、生取りにて上野国小幡と云ふ所へ流されて、三年有りけるとかや。近衛殿はけがされたる計りにて本意なかりけり。
七 〔木曽義仲成長する事〕
 信濃国安曇郡木曽と云ふ所に、故六条判官為義が孫、帯刀先生義賢が次男、木曽冠者義仲と云ふ者、九日、国中の兵従ひ付く事、千余人に及べり。彼の義賢、去んぬる仁平三年夏比より上野国多胡郡に居住したりけるが、秩父次郎大夫重隆が養君になりて、▼P2290(二六ウ)武蔵国比企郡へ通ひけるほどに、当国にも限らず、隣国までも随ひけり。かくて年月をふるほどに、久寿二年八月十六日、故左馬頭義朝が一男悪源太義平が為に、大蔵の館にて義賢・重隆共に討たれにけり。
 其の時義仲二歳なりけるを、母泣々相具して信乃国にこえて、木曽仲三兼遠と云ふ者に合ひて、「是養ひて置き給へ。世中はやうある物ぞかし」なむど、打ちたのみ云ひければ、兼遠是を得て「あな糸惜し」と云ひて、木曽の山下と云ふ所でそだてけり。二才より兼遠が懐の中にて人となる。万づ愚かならずぞ有りける。此の児、皃形あしからず、色白く髪多くして、やうやう七才にもなりにけり。小弓なむど翫ぶ有様、誠に末たのもし。人是をみて、「此の児のみめのよさよ。弓射たるはしたなさよ。誠の子か、▼P2291(二七オ)養子か」なむど問ひければ「是は相知る君の父無子を生みて兼遠にたびたりしを、血の中より取り置きて候ふが、父母と申す者なうて中々よく候ふぞ」とぞ答へける。
 さて十三と申しける年、男になしてけり。打ちふるまひ、物なむど云ひたる有様、誠に賢げなり。かくて廿年がほどかくし置き、養育す。成長するほどに、武略の心武くして、弓箭の道人に過ぎければ、兼遠、妻に語りけるは、「此の冠者君、少きより手ならして、我も子と思ひ、かれも親と思ひて昵じげなり。朝夕の召物、夏冬の装束許りはわびさせず。法師になりて、実の父母、養ひたる我等が後生をも訪へと思ひしに、心さかざかしかりしかば、故こそ有らめと思ひて男になしたり。誰がをしふとなけれども、弓箭取りたる姿のよさよ。又、細公の骨も有り、力も余の人には過ぎたり。馬にもしたた▼P2292(二七ウ)かに乗り、空を飛ぶ鳥、地を走る獣の矢比なる、射はづす事なし。かち立ち・馬の上、実に天の授けたる態也。酒盛なむどして人もてなし遊ぶ有様もあしからず。さるべからう人の娘がな、云ひ合せむと思ふ。さすがに其も思ふやうなる事はなし。さればとて、無下なる態をばせさせたくもなし。万づたのもしき態かな」とほめたりけるほどに、有る時、此の冠者云ひけるは、「今はいつを期すべしともあらず。身のさかりなる時、京へ上りて、公家の見参にも入りて、先祖の敵平家を討ちて世を取らばや」と云ひければ、兼雅打ち咲ひて、「其の料にこそ、和殿をば是程までは養育し奉りつれ」と云ひてぞ咲ひける。義仲、さまざまの謀を廻らして、平家を引き見むために、忍びて京へ上る。人にまぎれて夜昼隙を伺ひけれども、▼P2293(二八オ)平家の運のさかりなりければ、本意を遂げざりけり。義仲本国へ帰り下りたりけるに、兼雅、「都の物語し給へ」と云ひければ、「京を王城と云ひけるも、よくぞ申しける。西方に高き峯あり、若の事あらば逃げ籠りたらむに、きと恥にあふまじ。六波羅は無下の軍所、西風の北風吹きたらむ時、火をかけたらむに、なにも残るまじとこそみえて候へ。何事も都有る事で候ふぞ」とぞ云ひける。
 明晩過ぐるほどに、平家此の事漏れ聞きて、大いに驚きて、仲三兼雅を召して、「義仲養ひ置き、謀叛を起こし、天下を乱るべき企てあるなり。不日に汝が首を刎ぬべけれども、今度ばかりは宥めらるるぞ。詮ずる所、怱ぎ義仲を召し取りて進らすべき」よし、起請をかかせて兼雅を本国へ帰し遣はす。兼雅、起請文をば書きながら、年来の養育空しくならむ事を歎きて、己が命の失せむ事をば顧ず、▼P2294(二八ウ)木曽が世取らむずる謀をのみぞ、明けても晩れても思ひける。
 其の後は、世の聞こえを怖れて、当国の大名、根井小矢太滋野幸親と云ふ者に義仲を授く。幸親、是を請け取りて、もてなしかしづきけるほどに、国中に奉りて、「木曽御曹司」とぞ云ひける。父多胡先生義賢が奴で、上野国勇子足利が一族以下、皆木曽に従ひ付きにけり。
 さるほどに、伊豆国流人兵衛佐、謀叛を発して、東八ヶ国を管領するよし聞こえければ、義仲も木曽の懸路を強く固めて、信乃国を押領す。彼の所は、信乃国に取りては西南の角、美乃国境なれば、都も近くほども遠からずとて、平家の人々さわぎあへり。「東海道は兵衛佐に打取られぬ。東山道又かかれば、周章するも謂はれあり」とぞ人は申しける。是を聞きて、平家の侍共は、▼P2295(二九オ)「何事か候ふべき。越後国の城太郎資長兄弟、多勢の者也。木曽義仲、信乃国の兵を語らふとも、十分が一にも及ぶべからず。只今に誅ちて献りなむずぞ」と云ひけれども、「東国背くだにも不思議なるに、北国さへかかれば、是只事にあらず」とぞ申しける。
八 〔源氏、尾張国まで責め上る事〕
 廿八日、東国の源氏、尾張国まで責め上る由、彼の国の目代早馬を立てて申したりければ、亥時計り、六波椰の辺さわぎあへり。既に都へ打ち入りたるやうに、物運びかくし、東西南北へ持ちさまよふ。馬に鞍置き、腹帯をしめければ、京中さわぎて、「こはいかがせむずる」と、上下迷ひあへり。
 畿内より上る所の武士の郎等共、兵粮米の沙汰無く、飢ゑに臨む間、人家に走り入りて、着物食物奪ひ取りければ、一人としてをだしからず。
 廿九日、右大将宗盛卿、近▼P2296(二九ウ)国惣官に補せらる。天平三年の例とぞ聞こえし。
九  〔行家と平家と美乃国にて合戦の事〕
 十郎蔵人と云ふ源氏、美乃国蒲倉と云ふ所に立て籠りたりけるを、平家、征夷大将軍左衛門督知盛卿、中宮亮通盛朝臣、左少将清経、薩摩守忠度、侍には尾張守貞康、伊勢守景綱以下、三千余騎にて馳せ下りて、上の山より火を放ちたりければ、堪へずして追ひ落されて、当国中原と云ふ処に千余騎勢にて立て籠りたるとぞ聞こえし。平家、近江・美乃・尾張三ヶ国の凶徒、山下・柏木・錦古利、佐々木一族打ち従へてければ、平家の勢五千余騎になりて、尾張墨俣川と云ふ所に着きぬとぞ聞こえし。
 二月七日、大臣以下の家々にて、尊勝だらに・不動明王を書供養し奉るべき由、宣▼P2297(三〇オ)下せらる。兵乱の御祈りとぞ聞こえし。其の状に云く、
   頃年以来、諸国静まらず、災気荐りに呈はれ、兵革旁た起こる。其の表示の指帰を思ふに、偏へに魔縁の致す所か。仏力を仮るに非ざるよりは、何を以てか人庶を安んぜむ。宜しく神社・仏寺・諸司・諸家及び五畿七道諸国に下知して、不動明王像を顕し、尊勝陀羅尼を写せ。摺写と図写と、体数・遍数とは、只其の力の堪否に任すべし。
  其の数の多少を定むること勿かれ。供養を如説に遂げて、厄難を未兆に攘へ、者り。
    治承五年二月七日左中弁
 又、公家より調伏の法のために丈六の大威徳を一日に造立供養し奉るべきよし、大政入道承りて造立せられたりけり。御導師には房▼P2298(三〇ウ)覚僧正召されけり。已に供養せらるべきにて、房覚礼盤に登りけるが、先づ奏し申しけるは、「是は誰を調伏し候ふべきやらむ」と奏しければ、当座の公卿殿上人より始めて、「こは何事ぞ。事新しや。別の子細の有るかとぞ覚えたる。此の僧は物狂はしき者哉」とささやきあひ給へり。院も思食し煩はせ給ひて、「只違勅の者を調伏すべし」と仰せ下されければ、房覚既に金打ちならして、「新たに造立供養せられ給へり、丈六の大威徳の像」と云ひ出だしたりけるに、仏意もいかがおぼしめしけむ、大威徳の像忽ちにわれ給ひにけり。「達勅の者は平家なり。造立の施主は入道相国なり。実に冥慮測りがたし。末代なれども、仏法は未だ尽きざりけり」と、貴く不思議なりし事共也。
 此の外、諸寺の御読経、諸社の奉幣使、▼P2299(三一オ)大法秘法残る所無く行はれけれども、其の験もなし。「源氏只責めに責め上る。なにとしたらば、はかばかしき事の有らむずるか。只、人くるしめなり。神は非例を受け給はわずと云ふ事あり。誤ちは心の外なれば、懺悔すれば転ず。平家の振舞は余りなりつる事なり」と云ひて、僧侶も神主も「いさいさ」とて、各頭をぞ振りあひける。
十 〔武蔵権守義基法師が首渡さるる事}
 九日、武蔵権守義基法師が首、并びに同じき子息石河判官代義兼を生取にして、検非違使、七条河原にて武士の手より請け取り、首を獄門の木に係けて、生取をば禁獄せらる。見る者数を知らず、車馬衛衢に充満しておびたたし。諒闇の歳、賊首大路を渡さるる事、希也。されども、康和二年七月十一日、堀川法皇崩御の後、同三年正▼P2300(三一ウ)月廿九日、対馬守源養親が首を渡されたりし例とぞ聞こえし。彼の義基は、故陸奥守義家が孫、五郎兵衛尉義時が子、河内石川郡の住人也。兵衛佐頼朝に同意の間、忽ちに誅戮せらるるこそ無慚なれ。
 又、東国の討手、右大将宗盛、「我下らむ」と宣ひければ、「ゆゆしく候ひなむ。君の御下り候はば、誰かは面を向くべき」なむど、上下色代して、各我おとらじと出で立ちて、国々の軍兵を召し集めらる。公卿殿上人して、東夷・北狄追討すべきよしの宣旨を下されければ、各下るべきよし領掌申さる。
十一 〔九国の者共、平家を背く事〕
 十三日、宇佐大宮司公通、飛脚を立てて申しけるは、「九国の住人菊地次郎高直、原田四郎大夫種益、緒方三郎伊栄、臼▼P2301(三二オ)杵・経続・松浦党を始めとして、併ら謀叛を企て、大宰府の下知に随はず」と申したりければ、「こはいかなる事ぞ」とて、手を打ちてあさみけり。「東国の謀叛のかぎりと思ひて、西国をば手武者なれば召し上せて合戦せさせむずるやうに憑みたれば、承平の将門・天慶の純友が、一度に東西に乱逆おこしし事に相似たり」とて、大いに騒ぎ給へり。肥後守貞能が申しけるは、「僻事にてぞ候ふらむ。争かしやつばらは我が君をば背きまゐらせ候ふべき。東国北国は君達に任せまゐらせ候ふ。西国は手の下に覚え候ふ。貞能罷り下り候ひて、しづめ候ふべし」と、たのもしげにぞ申しける。
十二 〔沼賀入道と河野と合戦の事〕
 十七日、近江・美乃両国の凶徒が首共、七条川原で武士の手より▼P2302(三二ウ)検非違使請け取り、大路を渡して獄門にかく。其の午時計りに、伊与国より飛脚来たりて申しけるは、「当国の住人河野介通清、去年冬より謀叛を発して、当国道後の堺なる高直城に立て籠りたりけるを、備中国住人沼賀入道西寂、彼を誅たむとて、備後のともより千余騎にて河野が館へ押し寄せて、通清を責む。夜昼九日程戦ひけれども、互ひに勝負をも決せざりき。
 爰に西寂が甥、沼賀七郎伊重と云ふ者、城の内に責め入りて戦ひける処に、何かがしたりけむ、太刀を打ちひらめける所を、通清、吉きひまと思ひて、馬の頸より足を越して、「えたりをう」とて、沼賀七郎に引き組みたり。伊重しばらくからかひて上下を争ひけれども、力劣りなりければ、生け取られて城内へ押し籠めらるる憂目にぞ合ひた▼P2303(三三オ)りける。
 此の処にをりをえて、通清が舎弟、北条三郎通経と云ふ者、勝に乗りて、城内より主従轡をならべて懸け出で戦ひけり。西寂、甥を取られて安からず思ひ、今を限りと思ひ切りて戦ひけるに、通経が郎等を打ち取り、只一人に成りて戦ひけるを、西寂、多勢の中に取り籠めて、通経を手取にして、西寂使者を以ていはせけるは、『城内にも生取候ふらむ。西寂又生取を帯せり。取り替へて、弓箭に付きては互ひに勝負を決すべし』と申したりければ、通清申しけるは、『敵に生け取らるる程の不覚仁をば、生けてなににかはせむ。只切るにすぎたる事なし』とて、使者の見る所にて沼賀七郎伊重を切る。使者帰りて此の由云ひければ、『答ふるに君無し』とて、北条三郎引き出だして切らむとする処に、通経申しけるは、『弓箭取る習ひ、生け取らるる事も常の習ひ也。▼P2304(三三ウ)同じき兄弟の間に、情無きこそ口惜しけれ。一日暇をゆるし給へ。館の案内者也。手引きして通清打ち落とすべし。其の後の死生は、入道殿の計らひ也』と申しければ、西寂ゆるしてけり。其の夜子の剋計りに、北条三郎を案内者として、後の口より押し寄せて、時をはとつくりて、竹林に火をかけ、一時がほど責めければ、城内の兵共、下には煙にむせび、上には敵責めければ、懲へずして、取る物も取りあへず落ちにけり。大将軍河野介通清討たれけり。嫡子川野四郎通信は、川野城を落ちて、石見国へ引きて渡る。奴田入道は、川野介・同じき舎弟川野二郎通家以下、然るべき者共の首卅六取りて京へ上せ、吾が身は安芸の奴田城にぞ籠りける。
 爰に通清が養子、出雲房宗賢と云ふ僧あり。▼P2305(三四オ)是は平家忠盛が子也。大力の甲の者也。師以前に他行したりけるが、此を聞き、怱ぎ伊与へ越えて舎弟通信にたづねあひて、西寂を伺ひけるほどに、西寂運のきはむる事は、去んぬる二月一日、室・高砂の遊君共召し集めて、浅海にて船遊びしけるほどに、家子郎等共、磯に下り混りて、西寂只一人残りたりけり。出雲房さらぬやうにて船にのり、ともづなおしきり、西寂をば船ばりにしばり付け、奥を指して漕ぎ出づる。家子郎等は、しばしは入道の漕ぐと心得て目もかけず。次第に奥の方へ遠くなりければ、『あれはいかに、あれはいかに』と申せども、又船もなければ力及ばず、ぬけぬけと取られにけり。出雲房は、夜に入りて、有る渚に船を漕ぎ付けて通信を尋ぬる処に、川野四郎、沼田郷より大勢率して、伯父北条三郎打ち取りて、并びに▼P2306(三四ウ)大子の源三生け取りて、出雲房に行き合ひぬ。二人の敵を生け取りて、各悦びて、高直城に将て返りて、大子をば張付にして、西寂をば鋸を以て七日七夜に頸を切りてけり。之に依つて、当国には新井・武智が一族を始めとして、皆河野に随ひ候ふなり。惣じて四国の住人は、悉く東国に与力仕りたりけり」と申したりければ、入道は何事もかき乱りたる心地して、東国へ討手を向くれば北国起こりて責め上らむとす、西国を鎮めむとすれば私の合戦あり、又、熊野別当田部法印湛増以下、吉野・十津河の悪党等までも花洛を背き、東夷に属する由聞こゆ。「東国・北国已に背きぬ、南海・西海静かならず。逆乱の瑞相頻りにしめし、兵革忽ちに起こり、仏法亡び、又王法無きが如し。吾が朝只今うせなむとす。こは心うき態哉」とて、平家の一門▼P2307(三五オ)ならぬ人も、物の意(こころ)弁(わきま)へたる人は嘆きあへり。
 十七日、前右大将宗盛、法皇の御前に参られたり。常よりも心よげなるけしきして、すくすくと参りて候はれければ、法皇にがわらはせ給ひて御覧ぜらる。大将畏りて申されけるは、「入道申し上げよと申し候ひつるは、『世に有らむと仕るは、君の御宮仕への為也。又、二つなき命奪はむと仕る敵をば、今も尋ね沙汰仕るべく候ふ。其に、君も御方人し思召すまじく候ふ。其の外の事は、何事も天下の政、元の如く御計らひ有るべく候ふ』」 とまめやかに申されければ、法皇仰せの有りけるは、「然るべき運命の催すやらむ。此の二、三年、なにとなく世中あぢきなくて、後生の事より外に思はれねば、今は世の政に口入せむとも思はず。只各にこそ計らはせめ。さなきだにも心憂き目をみるに、あな▼P2308(三五ウ)よしな」と仰せ有りければ、宗盛又申しけるは、「いかにかくは仰せ給ふ。はるかに入道は親ながらも、おそろしき者にて候ふ。此の事申しかなへず候はば、『君の御気色の悪しきか、入道をにくませ給ふか』とて、腹立し候ひなむず。只、『さ聞こし召しつ』と仰せ候へかし」と申されければ、「さればこそいへ。いかにもはからへとは」と仰せられて、御経を取らせ給ひてあそばしければ、宗盛少しけしきかはりて、御前を立たれけり。是を承る人々ささやきあはれけるは、「なにとなく世の中そぞろく間、入道さすが恐れ奉り、かく申すなるべし。あな、事も愚かや。天下の事は法皇の御計らひぞかし。なにと御計らひとは申すぞ」とぞ云ひ合ひける。
 東国の源氏、謀反の事重ねて申し送るの間、宣旨をくださる。其の詞に云はく、
  ▼P2309(三六オ)伊豆国流人源頼朝并びに甲斐国住人同じく信義等、偏に狼戻を企て、頻りに烏合を励ます。軽便の賊、党を結び、愚惷の徒ら群を成す。征伐未だ彰れず、漸く旬月を送る。黎民の愁へ、時として休まず。宜しく越後国住人平助長に仰せて、件の輩等を追討すべし。其の功効に随ひて殊賞を加ふべしてへり。
    治承五年正月十六 日左少弁
次の日、又重ねて宣旨を下さる。其詞に云はく、
 伊豆国流人源頼朝は、父義朝斬刑に行はるるの時、頼朝其の科を同じくすべきに、早く寛宥の仁に依つて、既に死罪の刑を免る。加之、祖父為義、頸を刎ねらると雖も、徒党の所領と云ひ、郎従の田園と云ひ、皆宥め行はるるは仁化の至り也。而るに空しく龍光の旧照を忘れ、猥しく狼戻の新謀を巧む。甲斐国住人源信義▼P2310(三六ウ)以下、国々の源氏皆以て合力し、軽便の賊、党を結び、愚惷の徒、群を成す。暴悪の甚しきこと未だ有らず。此は夫、率土の浜、皆是王地也。普天の下、誰か公民に非ず哉。王事濫きこと無し。天誅定めて加はらむ。而るに、征伐未だ彰はれず。旬月漸く積る。黎民の悲しみ、叡慮に聊無し。宜しく鎮守府将軍藤原秀衡に仰せて、彼の輩等を追討せしむべし。田父野叟の類なりと云ふと雖も、是身を忘れ国を憂ふるの士無からんや。将軍の職掌の為に、敗死の勤節を励まさざらむ哉。其の勲功に随ひて、不次の賞を加ふべしてへり。
    治承五年正月十七   日左中弁
同十九日、内大臣宗盛を以て惣官職に補せらる。  宣下の状に云はく、
  惣官正二位平朝臣宗盛
 ▼P2311(三七オ)仰す。天平三年の例に任せて、件の人を以て彼の職に補す。宜しく五畿内并びに伊賀、伊勢、近江、丹波等の国を巡察せしめ、結徒集衆の党を捜り捕へ、勢を仮りて却奪し、老少を取り、貧賎を圧略するの輩、永く盗賊の妖言を禁断すべし。
   治承五年正月十九日左少弁行隆
十三 {大政入道他界の事 付けたり様々の怪異共有る事〕
 廿七日、前右大将宗盛、数千騎の勢を率して関東へ下り給ふべきにて出で立ち給ひけるほどに、入道大相国、例ならぬ心地の出で来たるよし有りければ、「けしからじ」と云ふ人も有りけり。又、「年来も片時も不例の事おはせざりつる人の、かやうにおはすれば、設ひ、打ち立ちて後、聞き給ひたりとても、御返り有るべし。まして京より是を御覧じ置きながら、見捨て奉りて立ち給ふべきやうなし」と面々に有りければ、留まり給ひにけり。
 廿八日には、「太政入道重病を受け給へり」とて、六波▼P2312(三七ウ)羅の辺騒ぎあへり。様々の祈り共始まると聞へしかば、「さみつる事よ」とぞ、高きも賎しきも、ささやき、つつやきける。病付き給ひける日より、水をだにも喉へ入れ給はず。身中熱する事、火燃ゆるが如し。臥し給へる二、三間が中へ入る者、あつさ堪へ難ければ、近く有る者希也。宣ふ事とては、「あたあた」と計り也。少しも直事とおぼえず。二位殿より始めて、公達、親しき人々、いかにすべしともおぼえず。あきれてぞおはしあひける。さるままには、絹・布・糸・綿の類は云ふに及ばず、馬の鞍、甲冑、太刀、刀、弓、胡〓[竹+録]、銀、金、七珍万宝取り出だして、神社、仏寺に献る。大法、秘法、数を尽して修し奉る。陰陽師七人を以て、如法泰山府君を祭らせ、残る所の祈りもなく、至らぬ療治も無かりけれども、次第に重くなりて、すこしも験もなし。然るべき定業とぞみえける。入道は音いかめしき人にておはしけるが、音もわ▼P2313(三八オ)ななき、息もよはく、事の外によはりて、身の膚へ赤き事は、朱を指したる者にことならず。吹き出だす息の末に当たる者は、炎に当たるに似たり。
 閏二月二日、二位殿あつさ堪へ難けれども、屏風を隔て、枕近く居寄りて、泣く泣く宣ひけるは、「御病日々に重くなりて、恃み少く見え給ふ。御祈りにおいては心の及ぶ程は尽くし候ひつれども、其の験なし。今は只一すぢに後生の事を願ひ給へ。又おぼしおく事あらば、宣ひ置き給へ」と申されければ、入道くるしげなるこゑにて、息の下に宣ひけるは、「我、平治元年より以来、天下を足の下になびかして、自ら傾むとせし者をば、時日を廻らさず忽に滅ぼしにき。帝祖、太政大臣にいたりて、栄花既に子孫に及べり。一人として背く者なかりしかば、一天四海に肩を並ぶる人や有りし。されども、死と云ふ事、▼P2314(三八ウ)人毎に有るをや。我一人がことならばこそ始めて驚かめ。但し、最後に安からず思ひ置く事あり。流人頼朝が首をみざりつる事こそ口惜しけれ。死出山を安く越ゆべしとも覚へず。入道死して後、報恩追善の営み、努力々々有るべからず。相構へて頼朝が首を切りて、我が墓の上に懸けよ。其をぞ、草の影にても悦ばしくは思はむずる。子息、侍は、深く此の旨を存じて、頼朝追討の志を先とすべし、仏経供養の沙汰に及ぶべからず」とぞ遺言し給ひける。大将より始めて御子孫共まで、並居て聞き給ひけり。いとど罪深く、怖ろしくぞ覚ゆる。
 其の日のくれほどに、入道病にせめ伏せられ給ひて、晴明が術、道満が印を結びて祈りけれども験なし。余りの堪へ難きに、比叡山千手院と云ふ所の水を取り下して石の船に入れて、入道其に入りて冷やし給へども、下の水は上に涌き、▼P2315(三九オ)上の水は下へ涌きこぼれけれども、すこしも助かり給ふ心地もし給はざりければ、せめての事にや、板に水を汲み流して、其の上に臥しまろびて冷やし給へども、猶も助かる心地もし給はず。後は帷を水にひやして、二間をへだてて投げ懸け投げ懸けしけれども、程無くはしばしとなりにけり。かかへおさふる人一人もなし。よそにてはとかく云ひ詈りけれども叶はず。後には提に水を入れて胸の上におきければ、程無く湯にぞ涌きにける。
 悶絶〓[足+辟]地して、七日と申ししに、終にあつち死に死にけり。馬車馳ちがひ、上下騒ぎ詈り、京中は塵灰にけたてられて、くれにてぞ有りける。禁中仙洞までも閑ならず。一天の君の何なる事おはしまさむも、是程はあらじとぞみへし。おびたたしなむどはなのめならず。今年六十四にぞ成り給ひにける。七、八十までも有る人も有るぞかし。▼P2316(三九ウ)老死にと云ふべきに非ざれども、宿運忽に尽きて、天の責め遁れざれば、立てぬ願、残れる祈りも無かりけれども、仏神も事により、時に随ふ事なれば、惣じて其の験なし。数万騎の軍兵有りしかども、獄卒の責めをば戦ふ事あたはず。一家の公達も多くとも、冥途の使ひをば寃ぐるに及ばず。命にかはり、身にかはらむと契りし者も若干有りしかども、誰かは一人として随ひ付きし。死出山をば只一人こそ越え給ふらめと哀れ也。造り置かれし罪業や身に添ふらむ。摩訶止観には、「冥々として独り行く、誰か是非を訪はむ。所有の財産徒に他の有と為る」と明かし、倶舎論には、「再生して汝盛位を今過ぎぬ。死して遂に将に炎魔王に近づくべし。前路に往かんと欲するに、資粮無し。中間に住まんことを求むるに、所止无し」と申して、炎魔王の使は高貴をもきらはず。魂をうばふ獄卒は、賢愚を▼P2317(四〇オ)えらぶ事なし。楊貴妃、李夫人の妙なりし姿、牛頭馬頭はなさけをのこさず。衣通姫、小野小町が心のやさしかりし。阿妨羅刹は、恥づる事もなかりき。秦の始皇の虎狼の心ありし。梁の武王の勇のたけかりし。頼光、頼信が計り事の賢かりしも、冥途の使ひには叶はざりき。
 昔、金峯山の日蔵聖人の無言断食して行ひする間、秘密瑜伽の鈴をにぎりながら、死に入たる事侍りけり。地獄にて延喜の御門に会ひまゐらせたる事ありき。「地獄に来る者、二度閻浮提に帰る事なしといへども、汝はよみ返らすべき者也。我が父、寛平法皇の命をたがへ、無実を以て菅原右大臣を流罪せしつみによりて、地獄に落ちて苦患を受く。必ず我が王子に語りて苦をすくふべし」と仰せ有りければ、畏て承りけるを、▼P2318(四〇ウ)「冥途は罪なきを以て主とす。聖人我を敬ふ事なかれ」と仰せける事こそ悲しけれ。賢王聖主、猶地獄の苦患を免れ給はず。何かに況むや、入道の日比の振舞の体にて思ふに、後世の有さま、さこそはおはしますらめと思ひ遣るこそ糸惜しけれ。「是は只事にあらず。金銅十六丈慮舎那仏を焼き奉り給ひたる伽藍の罰を、立所にかぶり給へるにこそ」と、時の人申しけり。
 太政入道失せ給ひし後、天下に不思議の事共謳謌せり。入道失せ給はむとて先七日に当たりける夜半計りに、入道の仕ひ給ひける女房、不思議の夢をぞ見たりける。立ぶち打ちたる八葉の車の内に、炎おびたたしくもえ上りたり。其の中に「無」と云ふ文字を札に書きて立てたりけるを、青鬼と赤鬼と二人、福原の御所、東の四足の門へ引き入れければ、女房夢心地に、「あれは何くよ▼P2319(四一オ)りぞ」と云ふ。鬼神答へて云はく、「日本第一の伽藍、聖武天皇の御願、金銅十六丈の廬舎那仏を焼き奉りたる伽藍の冥罰遁れ難きによつて、太政入道取り入れむずる焔魔大王の御使、火車を将て来たるなり」と云ければ、女房みるも身の毛竪ちて、怖しなむどはなのめならず。「あさまし」と思ひて、女房、「さてあの札はなにぞ」といへば、「永く無間大城の底に入れられむずる召人なるが故に、無と云ふ字をば書きたる也。是、無間地獄の札也」と申すと思ひければ、夢さめてけり。心騒ぎ冷汗たりて、おそろしなむどは愚か也。彼の女房、此の夢みたりけるによつて、病付きて二七日と云ふに死ににけり。
 播磨国福井庄の下司、次郎大夫俊方と云ふ者、南都の軍はてて、都へ返りて三ヶ日と云ふに、ほむら身に責むる病付きて死ににけるこそ怖しけれ。正月には高倉院の御事悲▼P2320(四一ウ)しかりしに、纔に中一月を隔てて又此の事有り。世の中の無常、今に始めぬ事なれども、是は殊に哀れ也。
 七日、六波羅にて焼き上げて、骨をば円実法印が頸にかけて、福原へ取りて納めてけり。さても其の夜、六波羅の南にあたつて、二三十人計りが音して舞ひ踊る者有りけり。「うれしや水」といふ拍子を取りて、をめき叫びてはやし詈り、「は」と咲ひなむどしけり。高倉院失せさせ給ひて、天下諒闇になりぬ。其の御中陰の内に太政入道失せられぬ。而も今宵六波羅で火葬しける最中、かかる音のしければ、「いかさまにも人のし態にあらず。天狗の所行でぞ有るらむ」と思ひけるほどに、法住寺殿の御所の侍二人、東の釣殿に人を集めて酒盛をしけるほどに、酒に酔ひて舞ひけり。越中前司盛俊、御所の侍左衛門尉基▼P2321(四二オ)家に尋ねければ、「御所の侍二人が結構なり」と申して、彼二人の輩搦め取りて、右大将の許へ相具して参る。事の子細を尋ねられければ、「相知りて候ふ者、あまた来て候ひつるに、酒をすすめ候ひつるほどに、俄に物狂の出で来て、そぞろに舞ひ候ひつるなり」と申しければ、「咎に処するに及ばず」とて、即ち追ひ放たれにけり。「酔狂とは云ひながら、さしもや有るべき。天狗の付きにけるよ」とぞ人申しける。
 興福寺の坤の角、一言主明神とて社あり。彼社の前に大なる木〓[木+患]子の木あり。彼の焼亡の火、此の木のうつろに入て、煙立ちけり。大衆の沙汰で、水を汲みて度々入れけれども、煙少しも立ちやまず。水を入れけるたびごとは、煙少し立ち増り、木本近くよるもの咽びければ、むつかしとて、其の後沙汰もせず。七月に及ぶまで消えざりけり。大政入道死に給ひて後、彼の▼P2322(四二ウ)火消えにけり。是も其比の物語にてぞ有りける。
 「人のしぬる跡には、あやしの者だにも、ほどほどに随ひて朝暮例時懺法なむどよませて、金打ならすは常の習也。是は供仏施僧の営みにも及ばず、報恩追善の沙汰にも非ざりけり。明けても晩にて、軍、合戦の営より外の他事なかりけり。うたてく心憂かりし事也。「入道一人こそおはせねども、年比日比、さばかり貯へをきたりし七珍万宝は、いづちか行くべき。設ひいかに遺言し給ひたりとも、などかをりをりの仏事孝養せられざるべき」と、人弾指をする事なのめならず。
 造り瑩きたりし八条殿、去んぬる六日焼けぬ。人の家の焼くる事は常の事なれども、をりふしかかるもあさまし。なに者の付けたりけるやらむ、放火とぞ聞こえし。何者か云ひ出だしたりけむ、「▼P2323(四三オ)謀叛の輩、八条殿に火を指したり」と聞こえければ、京中は地を打ち返したるが如し。騒ぎ詈る事おびたたし。上下、心をまどはすことひまなし。「実に有らむ事はいかゞせむ。かやうに空しき事、常にさしまじへて騒ぎあへる事の心うさよ。何になりなむずる世やらむ。天狗もあれ、悪霊も強くて、平家の一門、運尽きなむとぞ覚えし。
 比の入道の運命漸く傾き立ちし比、家にさまざまの怪異共ありける中に、不思議の事の有りけるは、厩に立てられたりける秘蔵の馬の尾に、鼠の巣をくひて子をうみたりけり。舎人あまた付きて、夜昼なでかふ馬の尾に、一夜の内にすくひ、子をうむ事、返々有難くこそ聞こえしか。入道大に驚きて、陰陽師七人に占はせられければ、各の「重き慎み」とぞ申しける。是によりて、やうやうの御願立てられけり。其の▼P2324(四三ウ)馬は陰陽師泰親ぞ給はりける。黒き馬の額白にてぞ有りける。名をば望月とぞ申しける。相模国住人大庭三郎景親が、東八ヶ国第一の名馬なりとて、献りたりし馬也。此の事、昔も今も不思議にて、ためし有るベしともおぼえぬ事也。昔、天智天皇元年〈壬戌〉四月に、寮の御馬に鼠のすを食ふ事有りけり。其も驚き思召して、御巫など祈られけるにも「御慎み浅からず」と申しけり。されば、彼の御代に奥ぜめなむど云ふ事有りて、世中静かならず。其後幾程もなくて、天皇も崩御なりてけり。
 此の外、さまざまの不思議多く有りけり。福原の宿所の、常の御所と名付けられたる坪の中に殖ゑそだて、朝夕愛し給ひける五葉の松の、片時が程に、かれにけり。入道の召仕ひけるかぶろの中に、天狗あまたまじはり▼P2325(四四オ)て、常に田楽の音して、どどめきけり。大方さまざまの不思議共有りけり。
十四 〔大政入道、慈恵僧正の再誕の事〕
 抑も、入道、最後の病の有様はうたてくして悪人とこそ思へども、実には慈恵大師の御真なりといへり。何にして慈恵大師の御真と知らむと云へば、摂津国清澄寺と云ふ所あり。村の人は「きよし寺」とも申すなり。彼の寺の住侶、慈真房尊恵と申しけるは、本叡山の学徒、多年法花の持者なりけるが、道心を発し、住山を厭ひて、此の処に住して年を送りければ、人皆此を帰依しけり。
 而るに承安二年〈壬辰〉十二月廿二日〈丙辰〉の夜、けうそくによりかかりて、例の如くに法花経を読み奉りけるほどに、丑の剋計りに、夢ともなく覚ともなくて、年十四計りなる男の、▼P2326(四四ウ)浄衣に立烏帽子にて、わらうづはばきしたるが、たてぶみを以て来れり。尊恵、「あれは何くよりの人ぞ」と問ひければ、「炎魔王宮よりの御使也。書状候ふ」とて、其のたてぶみを尊恵にわたす。彼の状に云はく、
 〓[口+屈]請 閻浮提大日本国摂津国清澄寺の尊恵慈真房。右、来る廿六日の早且、炎魔羅城大極殿に於いて、十万人の持経者を以て、十万部の法花経を転読せらるべし。宜しく参勤せらるべし。者ば国王の宣に依つて、〓[口+屈]請件の如し。
   承安二年〈壬辰〉十二月廿日〈丙辰丑時〉 炎魔庁
と、書かれたりけり。尊恵いなび申すべき事ならねば、領状の請文を書きて奉るとみて、さめにけり。偏に死去の思ひをなして、院主光陽房に▼P2327(四五オ)語る。人皆不思議と思へり。尊恵、口に弥陀の名号を唱へ、心に引接の悲願を念ず。
 漸く廿五日の夜陰に及びて、常住の仏前に至り、念仏読経す。既に卯の剋に至りて、眠り切なる故に、返りて住坊に打ち臥す。ここに、浄衣の装束の男二人出来て、「早く参ぜらるべき」よし勧むる間、王宣を辞せむとすれば甚だ其の恐れあり、参詣を企てむとすれば、更に衣鉢なし。此の思ひをなす時、二人の童子・二人の下僧・七宝の大車、自ら坊の前に現ず。法衣自然に身をまとひ、肩にかかる。尊恵大いに悦びて、即時に車にのる。衆僧等西北の方に向かひて空を飛びて、炎魔羅城に至る。
 王宮をみるに、家中べう<として、其の内広々たり。其の中に、七宝舒城の大極殿あり。高広厳飾にして、凡夫の登る所にあらず。▼P2328(四五ウ)其の大極殿の四面にして、各の中門の廊あり。各の楼門高く広くして、皆悉く美を尽くし、妙を窮めたり。惣じて、宮殿・楼閣、〓[土+郭]の内に充満して、称計すべからず。而るに、彼の大極殿の四面の中門廊にして、各の十人の冥官あり。十万人の持経者を配分して、各の一面に座に着かしめ終はりて、大極殿の前にして、講師・読師、高座に登り終はりて後、十万人の僧、読経畢はりて後、冥官片方へ立ち分かれて、皆持経者の名どころを記し畢はりて、二部の巻数を炎魔王に奉る。進じ終はりて後、衆僧返りさる。
 而る間、尊恵南方の中門に立ちて、遥かに大極殿をみるに、冥官・冥衆、皆悉く炎魔法皇の前に集る時、尊恵、「適の参詣也。炎魔法皇・冥官・冥衆に不断経等を勧進せむ」と思ひて、大▼P2329(四六オ)極殿にいたる。其の間、二人の童子蓋をさし、二人の従僧箱を以て、十人の下僧うしろをひきて、漸く歩み近付く時に、炎魔法王・冥官・冥衆、悉くおり向かひて、内へ入るるに前後を論ず。尊恵再三辞退する時、炎魔法皇、文を頌して云はく、「若し法花経を持てる者は、其の身甚だ清浄なる事、彼の浄瑠璃の如し。衆生皆喜見す。又、きよく明らかなるかがみの、悉く諸ろの色相をみるがごとし。菩薩精進を持ちて、皆世のあらゆる所をみる。而れば即ち、薬王菩薩・勇施菩薩、二人の従僧に変ず。多門天・持国天、二人の童子、十羅刹女、十人の下僧に現じて随遂給仕し給ふ。此の故に、御房の従僧等先づ入り給ふべし」と云々。
 其の時、尊恵、来臨をはりて後、炎魔法皇と〔ひ〕て宣はく、「余の▼P2330(四六ウ)僧は皆悉く返り去りぬ。御房来る事、何等ぞや」。尊恵答へて云はく、「後生の在所を承らむが為也」。王のたまはく、「摂津国に往生の地五処あり。清澄寺は其の一也。即ち是、諸仏経行の地、尺迦弥勒の現処也。往生・不往生は、人の信・不信に有り」と云ひ請けて後、冥官に勅して宣はく、「此の御房の作善の文篋、宝蔵にあり。取り出だして、一生中の自行勧他の碑文をみせ奉るべし」。冥官是
を承りて、一人の童子に勅す。童子是を承りて、即ち宝蔵にゆいて、一の文篋を取りて持て参る。冥官篋を開き畢はり
て、先づ一には、ゆづう読経の碑文をみせしむ。勧進以後十ヶ年の間、結衆四千一百人が内、死亡の衆二百三人、其の中に往生の人九人あり。懈怠の衆二千三百十二人なり。此くの如きの人数、年々に減少して、当時の講読▼P2331(四七オ)念仏の衆、一千五百八十五人也。惣じて、十ヶ年の間の読経の部数、減定一百一十万六千七百八十四部、読経二千一百四十万返。二には、信読の法花経三万六千七百五十四部、念仏卅六万七十二へむ、大般若教主品・薩般若品・難信解品・寿量品・功徳品、暗誦都合二万一千二百巻〈別の碑文にあり〉。三には、卒都婆の写経十五部〈各十巻〉、石の写経十五部〈各十巻〉、素紙の写経十八部〈各十巻、碑文にあり〉。四には、千日の不断経六千十二部、日別講経一座〈別の碑文にあり〉。五には、百部の如法経書写の巻の内、自行廿五部勧他六十三部〈各十巻〉、みしやきやふ十二部の内、撃冶鋳写金銅の経一部〈碑文にあり〉。六には、六十巻書写の巻の内、既に写しし〓冊三巻、宮十七巻〈別の碑文にあり〉。又、清澄寺にして発す▼P2332(四七ウ)所の七種の誓願。一には、永代の常燈〈別の碑文にあり〉。二には、永代の不断経〈日別講一座、并びに長講等〉。三には、仏前御帳三間〈別の碑文にあり〉。四には、尺迦・弥陀・弥勒三仏形像〈別の碑文あり〉。五には、金銅の閼伽つき九前〈べちのひもむあり〉。六には、金銅のしやり塔并びに御輿〈別のひもむあり〉。七には、十種の供巻の具、金銅のはな、たまの幡等〈べちのひもむあり〉。
 冥官、此くの如く自行を懺悔し、勧他を勘定して、目録碑文をみせしむるとき、尊恵取りて云はく、「抑も、ゆづう読経の衆、諸国に散在して已に十ヶ年を経たり。いかが其の在所を知り、いかが其の懈怠死亡を此くの如く懺悔目録し給ふや」。冥官答へて云はく、「六道衆生の顕密の所作、何事か浄頗梨の鏡にあらはれざる。若し不審に及ばば、浄頗梨の鏡をみ給ふべし」と云々。尊恵、彼の鏡をみるに、悪事は悪事と共に、善事は▼P2333(四八オ)善事と共に、在所皆悉くあらはる。一事以上、かくれ有る事なし。「彼の鏡にあらはるる故に、我等が年来の所作・所行、炎魔法皇・冥官・冥衆、いかが御らむじけむ」と思ひて、悲歎涕泣す。「但し、願はくは、炎魔法王、我等を哀愍して出離生死の方法を教へ、証大菩提の直道を示し給へ」。
 此の言をなす時、炎魔法王教化して種々の偈を頒す。時に、冥官筆を染めて一々に是を書く。
 妻子王位財眷属 死去無一来相親
 常随業鬼繋縛戒 受苦叫喚無辺際
 譬如栴陀羅 駈中至屠所 歩々近死地 人命亦如是
 此日已過  命即衰減  如少水魚  斯有何楽 ▼P2334(四八ウ)
 世皆不牢固 如水沫泡焔 汝等減応当 疾生厭離心
 随逐悪人者 獲得無量罪 現世無福来 後生三悪趣
 但楽読誦  法花経者  滅罪生善  離諸悪趣
 何況永代  不断読誦  能勧所勧  皆当作仏
 説如修行  法花経者  終生極楽  証大菩提
 何況如説  繋冶金銀  永代不朽  所得功徳
 十方諸仏  各以千舌  多劫宣説  不可窮尽
此の偈を書き終はりて、炎魔法王、此の誓言をなす。「我、一切衆生の為めに、勧進の文を書写す。此を見聞する類ひ、誰か発心せざらむや。永く文を持ちて、普く貴賎をすすめ、広く上下を誘へて自願を果たし、遂に他願を成就すべし。▼P2335(四九オ)是、有縁の因縁を引導し、無縁の衆生を教化する方法也」。此くの如く教誡し終はりて後、即ち此の文を付属す。
 尊恵、付属を歓喜し、踊躍して此の言をなす。「日本大政入道浄海と申す人、摂津国にわだのみさきを点定して、四面十余丁同じ様に家を作り、千人の持経者を配分して、坊ごとに一面に座につけ、炎魔宮の儀式の如く、十万僧読経説法、丁寧に勤行を致すべき」よし申す時に、随喜肝胆して云はく、「件の入道はただ人にあらず、慈恵僧正の化身、天台の仏法護持の為に日本に再誕せる人也。必ず此の文を以て彼の人にしらすべし」と云ふ。
 敬礼慈恵大僧正  天台仏法擁護者▼P2336(四九ウ)
 示現最勝将軍身  悪業衆生同利益
 又宣はく、「昔土佐の国平山の聖人は、桂の大納言入道也。而るに、今生に出家入道発心修行の故に、極楽に往生すべき人なり。而るに、宿殖徳本を殖ゑたるゆゑに、現世安楽にして、後生には極楽に生まるべき人也。而れば即ち、彼の人々に値遇結縁して往生極楽の素懐を遂ぐべし。此くの如く炎魔法王の教誡をかぶりて、大極殿の南方の中門へ出づる時、官使十人、門外に立ちて、車にのせて前後に従ふ。即ち空を飛びて返り来る。尊意、官使の返り去るをみて、大極殿へ再び帰り入りしとき、炎魔法王・冥官・冥衆、いたり向かひ、内へいりしとき前後を論ぜしに、炎魔王の誦し給ひし所の「若持法花経」の文と、又「如浄明鏡」の文と、二つの文を誦し、心にけうなむ▼P2337(五〇オ)さうの思ひをなして、七日と云ひける正月二日丙寅の戌時によみがへり終はむぬ。尊恵、此の状を以て太政入道に奉り、炎魔王に申しつるが如く、終に宿願を果たしてけり。さてこそ、清盛をば慈恵僧正の再誕なりと人知りけれ。
 但し、「清盛権者ならば、権は必ず実を引かむが為に世に出づる事也。悪業を作り、仏法を滅して、実者の為に何のせむか有るべき」と、人ごとに疑ひ思へる不審あり。尺教の中に此の理はりを尺するに、「猪金山をする、風くら虫をます」といへる法門あり。「猪金山をする」といふは、いのしし金の山をうがちては、金あらはれて、山金色の光にあらはる。「風くら虫をます」と云ふは、世間にくらと云ふ虫あり。風ふけばただようてあやふくみゆれども、風に当たるごとに勢大になりまさりて、力ことにつよくなる。権者の利益を施す事、▼P2338(五〇ウ)此の譬に異ならず。一人の為に払あるべき時には、罪を作りても利益をます。善悪共に利益をなす事、機に随ひて不同也。
 されば、一代教主の尺迦如来、五種法輪を転じて衆生を利益し給ひしに、九十五種の外道の競ひ発りて、如来の化道を用ゐずして、利益にかからざりし時、提婆達多生まれて、九十五種の外道の長者として三悪十悪等のつみを作りて、如来を諍ひ給ひき。其の罪業に報ひて、生きながら現身に大地われて、無間地獄に堕ちしかば、他の従へる外道共、提婆達多地獄に堕つるをみて皆恐れをののき、邪見の心を改めて、如来に従ひ奉る。其より後にこそ、尺迦の化道、成就せしめ給ひしか。如来の性をば、菩薩なほ是を知らず。権者の化道をば、凡身はかる所にあらず。調達、無間地獄に堕ちて後、尺尊の御弟子を遣して、調▼P2339(五一オ)達を訪ひて宣はく、「無間地獄の苦しみは、いくらほどか堪へ難き」と問ひ給ければ、調達答へて申さく、「無間地獄の苦しみは、第三禅の楽に等しく」とぞ答へ申しける。此の詞を聞くには、地獄の炎の中にても、なほ悪心を改めずして、如来をあざむき奉るかと思へども、如来、霊鷺山にして法花経説き給ひしには、「一仏得道は一乗法花の力也。此の法花経をえし事は、調達を師として、千歳給仕の功によりて習へり」と、昔の因縁を説き給ひき。さてこそ、「調達は只の調達に非ず、権者の調達なりけり。地獄の苦しみも、只の苦しみにはあらず、苦楽不二の旨に達して、第三禅の楽にひとしとは答へたり」と、思ひしられて貴けれ。
 されば、清盛も権者なりければ、調達か悪業にたがはず、仏法を滅し、王法を嘲る、其の悪業現身にあらはれて、最後に熱病をうけ、没後に子孫滅し、善を▼P2340(五一ウ)すすめ、悪をこらすためしにやとおぼえたり。
 又、善悪は一具の法なれば、尺尊と調達と同種姓にうまれて、善悪の二流を施こす。其の様に、清盛も白河院の御子なり。白河院は、弘法大師の高野山を再興せし、祈親持経聖人の再誕也。上皇は、功徳林をなし、善根徳を兼ねまします。清盛は、功徳も悪業も共に功をかさねて、世の為人の為、利益をなすと覚えたり。彼の達多と尺尊と同種姓の利益にことならず。
 かかる人なりければ、神祇を敬ひ、仏法を崇め奉る事も、人に勝れたり。日吉の社へ参られけるにも、一の人の賀茂・春日などへ御詣であらむも是程の事はあらじとぞみえし。殿上人、前駈も上達部なむど遣りつづけなむどしてぞ御しける。日吉社にては、持経者のかぎりえらびて、千僧供養有りけり。有り難く、ゆゆし▼P2341(五二オ)かりし事也。
十五 〔白河院、祈親持経の再誕の事〕
 抑も、白河院を祈親持経聖人の再誕と知る事は、臣下卿相、仙洞の御遊宴の砌にて種々の御談義有ける中に、「当時天竺に生身の如来出世して説法利生し給ふと聞き及ばむに、志をすすめ、歩みを運びて参りて聴聞すべしや」と申さるる人有りければ、大臣公卿面々に皆「参ずべし」と申されけるに、江中納言匡房卿、未だ其の比は美作守にて有りけるが申されけるは、「人々は御渡り候ふとも、匡房は渡り候ふまじ」とぞ申されける。其の時、月卿雲客各々疑心をなして、「こはいかに、皆人の渡るべき由仰せらるる処に、匡房一人わたらじと申さるるは、子細いかに」と云ふ。匡房重ねて申して云はく、「本朝日域の間ならば、よのつねの渡▼P2342(五二ウ)海なれば安き方も侍りなむ。天竺晨旦の境は流砂叢嶺の嶮難わたりがたく越えがたき路也。先づ叢嶺と申す山は、西北は雪山につづき東南は海中にそびえたり。此山をさかふて東をば晨旦と云ひ、西をば天竺と名付けたり。彼の山の体たらく、銀漢に臨みて日をくらし、白雪を踏んで天に上る。道の遠さ八百余里、草木もおひず水もなし。多く嶮難ある中に、特に高くそびえたるみねあり。けいはらさいなと名付けたり。雲のうはぎぬもぬぎさけて苔の衣もきぬ山の、岩かどをかかへて三日にこそ超えはつれ。此の峯に上りぬれば、三千世界の広狭は眼の前に明かなり。一閻浮提の遠近は足の下にあつめたり。後ろは流砂と云ふ河あり。昼は猛風吹きたてて砂をとばして雨の如し。夜は夭鬼走り散りて火をともすこと星に似たり。白浪み▼P2343(五三オ)なぎり落ちて岸石をうがち、青淵水まひて木葉をしづむ。深淵を渡ると云ふとも、夭鬼の害のがれがたし。設ひ諸鬼の怖畏を免ると云ふとも水波の漂難避り難し。されば玄奘三蔵も此の境にして六度まで命を失ひ給ひき。然りと雖も、次の受生の時にこそ法をば渡し給ひけれ。末代誰か彼の古跡を渡るべき。而るを今天竺にあらず、晨旦にあらず、我朝高野の御山に目の当り生身の大師入定しておはします。彼の霊地を未だ踏まずして空しく月日を送る身の、十万余里の山海を渡りて霊鷲山の嶮路に赴くべしともおぼえず。本朝の弘法大師、天竺の尺迦如来、共に即身成仏の理証眼の前に現ぜり。
 昔嵯峨皇帝、大師を清涼殿に請じ奉りて、四ヶの大乗宗の碩徳を集めて▼P2344(五三ウ)顕密法門の論談を致す事あり。法相宗には源仁、三論宗には道昌、天台宗には円澄、花厳宗には道〓[糸+雍]、各々我宗の目出たきよしをたて申す。先づ法相宗の源仁、『我が宗には三時の教をたてて一代の聖教を判ず。所謂、有・空・中、是也。何れかこれにすぐるべきや』と申す。三論宗には道昌の云はく、『我が宗には二蔵を立てて一代の聖教を収む。所謂、菩薩蔵・声聞蔵、此れ也。いかが是に勝るべきや』と申す。花厳宗の道応の云はく、『我が宗には五教をたてて一切の仏教を教ふ。所謂、小乗教・始教・終教・頓教・円教、是也。いかが此に勝るべきや』と申す。天台宗の円澄の云はく、『我が宗には四教五味をたてて一切の仏教を教ふ。四教と云ふは、所謂、蔵・通・別・円、是なり。五味と云ふは、乳・酪・生・熟・醍醐、是れなり。いかが此には勝るべきや』▼P2345(五四オ)といへり。真言宗の弘法は即身成仏の義をたてて、『一代聖教広しと云へども、いづれかは此に及ぶべきや』と申されたり。
 其の時、源仁・円澄・道〓[糸+雍]・道昌、面々に難問を吐きて真言の即身成仏の旨を疑ひ申されけり。中にも賢忍僧都、弘法を難じ奉る詞に云はく、『凡そ一代三時の教文を見るに、皆三劫成仏の文のみありて即身成仏の文なし。何れの聖教の文証によりて即身成仏の義をたてらるるぞや』と。弘法答へて宣はく、『汝が聖教の中には三劫成仏の文のみ有りて即身成仏の文証なし』。賢忍の云はく、『即身成仏の文証あらば、具に出だされて衆会の疑網をはらさるべし』といへり。弘法文証を出して宣はく、『修此三昧者現証仏菩提父母所生身、即証大覚位、唯真言法中、即▼P2346(五四ウ)身成仏故』。是等を始めとして、文証を引き給ふ事、其の数繁多なり。賢忍重ねて云はく、『文証は已に出だされたり。文の如く即身成仏を得たる其の人証、誰人ぞや』。弘法答へて宣はく、『其の人証は、遠くは大日金剛薩〓[土+垂]、近く尋ぬれば我が身即ち是なり』とて、忝く明時の龍顔に向かひ奉りて、手に密印を結び、口に密語を誦し、心に観念を凝らし、身に儀軌を備へしかば、生身の肉団忽ちに転じて紫磨黄金の膚となり、出家のいただきの上に自然に五仏の宝冠を現す。光明蒼天をてらして日輪の光を奪ひ、朝庭頗梨にかかやいて浄土の荘厳を顕はす。其の時皇帝随喜して座をさりて礼をなし、信力身をまげて敬覚して地にふす。諸衆掌を合はせ、▼P2347(五五オ)百僚頭を傾く。誠に南都六宗の賓、地に脆きて此を敬信し、北嶺四明の客、庭に臥して摂足す。遂に四宗帰伏して門葉に交はり、始めて一朝信敬して道流をうく。三密五智の水、四海にみちて塵垢をすすぎ、六大四曼の月、一天に輝きて長夜をてらす。其の後も生身普遍して慈尊の出世をまち、六情かはらずして祈念の法音を聞こし召す。是の故に、現世の利生も憑みあり。後生の引導も疑ひなし。かかる霊地へだにも参らずして、印土嶮岨の境に凌がむと云ふ事は、誠に以て然るべからず」と申す時、上皇是をきこしめし、「誠に目出たき事なり。今まで此を思し食しよらざりけるこそ、返々も愚かなれ。かやうの事は延引しぬればさはる事もあり。やがて明朝御幸▼P2348(五五ウ)有るべし」と勅定有りければ、匡房重ねて申しけるは、「明朝の御幸も余りに卒爾におぼえ候ふ。尺尊霊山の説法の砌りには、十六の大国の王達みゆきせさせ給ひける儀式は、金銀をのべて宝輿をつくり、珠玉をつらねて冠蓋をかざり給ひけり。是れ則ち、難得の思ひをこらし、渇仰の志しを尽くし給ふ作法なり。されば君の御幸も彼に違はせ給ふべからず。高野山をば天竺霊鷲山と観じ、生身の大師は尺迦如来と信ぜさせ給ひて、日数をのべて御幸の儀を引きつくろはせ給ふべくや候ふらむ」と申しければ、「誠に此の義然るべし」とて、日数をのべて臣下卿相、金銀七宝をもちて衣裳馬鞍をかざりてぞ出立せ給ひける。是れぞ高野御幸の始めなる。
 かくて上皇、大師の廟堂を拝まむが為に、燈炉を鋳て▼P2349(五六オ)御難行に赴き、公卿以下参会。巳の剋に摂政院参。先づ金翠の桶を献ず。桶の中に金銀を以て橘を作り、かうばしきくだものを収む。寮体一疋、鞍を置きて此を進らす。前駈の族、左大臣・内大臣・大納言・中納言四人・参議五人、并びに侍臣等、皆行路にしたがふ。公卿大臣、くつばみをならべて御車の前にあり。摂政殿は車にめして祗候せらる。権僧正仁戒法印・権大僧都隆明・権少僧都寛祐、且は廟堂の法衣を助けむが為、且は叡慮の護持を致さむが為に、各々閑道をへて共に中花をじす。此の双冠の輩ら、宛も地をかかや
かせり。
 上皇、奈良路へかからせ給ひて御登山あり。先づ堂塔御巡礼ありて、やがて奥院に参らせ給ふ。権少僧都寛祐、仰せ▼P2350(五六ウ)によりて御廟堂の戸を開く。其の時、御長持を召し寄せて手づから自ら緒をとかせ給ひつつ、中より燈炉を召し出だし、奥院の本の燈炉の対座に懸けさせ、油を入れ、上皇自らともしびを移させ給ひて、額をつき礼をなし、唱へさせ給ひけるは、「南无帰命頂礼遍照大師、今日已に、二生燈明の宿願、満足し畢はむぬ」と御声をあげて申させ給ふ時にこそ、供奉の人々耳目を驚かし給ひけれ。
 只今御拝の御詞に、「二生宿願の燈明」と申させ給ひけるは、深き心あり。
 昔、東寺の長者観賢僧正と高野の検校無空律師と相論をなす事ありて、无空律師高野を離山し給ひしかば、住侶悉く退散して荒廃の地となりにけり。人跡たへて六十余年、虎狼の栖となり▼P2351(五七オ)たりしを、延久の比、大和国葛下郷に祈親持経聖人と云ふ人有りけるが、父母の生所を祈り、我が後世を知らむとて長谷寺に参たりけるに、観音の示現によりて、「紀州伊都の南山に臨みて祈るべし」と有りしかば、高野山と心得て、即ち彼の山に詣で給ひ、大師の遺跡を顕さむ発願して、高野山に臨み給ひぬ。
 凡そ大師此の山を開きて堂塔を建立し給ひける作法は、大塔と申すは、南天の鉄塔を移して其の長十六丈也。金堂は都率の摩尼殿を顕はして間の数四十九間也。慈尊院より御影堂の北に至るまで百八十町に図居をわる、台蔵界の万陀羅の百八十尊を表したり。御影堂より奥院に至るまで三十七町に別てり、金剛界の万陀羅の三十七尊を顕はせり。大塔▼P2352(五七ウ)金堂より始めて諸堂諸院に至るまで、皆密厳浄土の儀式を移し、花蔵界の作法を顕はせり。是の故に、一度も此の地をふむ者は、界外無漏の功徳を備へて、四重五逆の罪障を滅す。一夜も彼の山に宿る者は、本有万陀羅界会を開きて、三十七尊の尊位につらなる。
 而るに今、持経聖人、当山に臨むとき、百八十町のはり道も衆木しげりて迷ひやすし。三十七町の奥の道もむぐらにうづもれて分かち難し。大塔くづれてあともなし。金剛峯寺の露譲々たり。廟院かくれてみえ給はず。奥院の霞み片々たり。聖人信心を運ぶと云へども聖跡にまよひて弁じ難し。故に則ち礼拝をなして深く祈念を致す。「南无帰命頂礼、高祖大師遍照金剛、ねがは▼P2353(五八オ)くは霊瑞をしめして当山の紹隆をいたさしめ給へ」と涙をながし音を上げて敬白せられければ、奥院の木本より霊光虚空にそびいて、峯もこずゑもかがやけり。聖人大いによろこびて、しげき木影をきりはらひ、すずの下道ふみあけて、奥院へぞ参られける。かくて土木をはこむで礼堂をつくり、一基の燈炉をかけて、火打を取りて奥院にむかひて祈念して申さく、「我若し此の山をひらいて広むるところの密教、慈尊三会のあかつきまでたえず長夜をてらすべくは、ただ一打ちにつき給へ。此の燈みをかかげて、慈氏のあかつきに相続すべし」と、発願祈念をこらして打ち給ひしかば、ただ一打ちに火付きにければ、即燈炉の中にともせり。今まで▼P2354(五八ウ)きえぬともしびは、かの発願の燈明なり。聖人燈をかかげしとき、又願を成して宣はく、「我が願、未来際に尽きずして、世々に法燈をかかぐべし。此の度二生に生まれきて、必ず今一基を備ふべし」と発願し給ふ。
 是れを以て案ずるに、彼の聖人の誓ひ給ひける二生法燈の願、違はずして、今度上皇の御叡願を承はるに、持経聖人の裏願を思ひあはせられて、誠に貴くぞおぼゆる。是の御詞を承はるにこそ、「昔の持経聖人の誓約に答へて、今国王と生まれ給ひて、当山の法燈をかかげ給ふにこそ」と、心有る人は皆感涙をぞ流されける。
 抑も祈親持経と申すは、大和国葛下郡の人なりけり。七歳の時父に後れて、孤露にして貧道也。母儀独りありて一子をはぐくむ。而るに、何なる便りか有りけむ、東大寺の僧に語らひて南都に至る。▼P2355(五九オ)三十頌・百法論、一度請けて再び問はず。誠に将来の法器なるべき人と見えたり。其の後年積りて十三と云ふ年の春、中御門の僧都の許に移住す。桃李の花の枝を含める皃ばせなれば、芝蘭の露葉に副ふ契りも等閑ならず。器は則ち法器なり、花厳・三論の法水を入る。根は又上根なり、瑜伽・唯識の教文を開けり。加之、青龍・白馬の余流を伝へ、恵果・弘法の芳躅を訪ふ。剰へ、又秋津州の流れを酌みて、詞海卅一字の数流を添ふ。志幾嶋の風を扇ぎ、出雲八重垣の遺風を加ふ。年幼少にして才能老いたり。而る間、南京第一の名人、容顔無双の垂髪也。
 而るに七歳の時父に後れ、十六にして母に別る。かかる間、師匠に暇を乞ひ、深く孝養の志を運びて出家して、一向法花▼P2356(五九ウ)経を読み習ひて偏に二親の後生菩提を祈る。之に依り、法花を持する身なればとて、自ら持経房と号す。又二親の菩提を祈るが故に、実名を祈親と云ふ。
 此くの如く行住坐臥の勤め怠らずして、六十と云ひし時、二親の生所を祈らんが為に長谷寺に参籠す。五更の睡り幾ばくならざるに、観音示現して云はく、「汝法花読誦の功既に積る。定めて父母の生所を見むと思ふらむ。此より西南の方、高野の霊崛にして祈請すべし」と云々。大聖の示現に驚きて高野山に登り、再び彼の山を興して父母の生所を知り、都率の内院に参り給へりし人也。
十六 〔大政入道経嶋突き給ふ事〕
 さても太政入道の多くの大善を修せられし中にも、福原の経嶋つかれたりし事こそ、人のし態とはおぼえず不思議なれ。彼の海は泊のなく▼P2357(六〇オ)て、風と波と立ち相ひて通る船のたふれ、乗る人のしぬる事、昔よりたへず。怖しき渡なりと申しければ、入道聞き給ひて、阿波民部成良に仰せて、謀を廻して人を勧めて、去んじ承安三年発巳歳、つきはじめたりしを、次年、風に打ち失はれて、石の面に一切経を書きて船に入れて、いくらと云ふ事もなく沈められにけり。さてこそ、此嶋をば経嶋とは名付られけれ。
 「石は世に多き物なり。船は人の財也。さのみ船を積み沈められむこと、国家の費なり。又、さのみ経を書きまゐらせむ事、筆を取る類希也。只往反の船に仰せて、『十の石を取り持ち、彼の所に入るべし。末代までも此の義を背くべからず』と宣旨を申し下さるべし」と、成良以下、計らひ申しければ、誠にさも有りなむとて、其の定に定められけり。はたよりおきへ一里卅六町出でてぞ築き留めたりける。海の深さ卅尋有りけるとかや。「海の深さ、際無き事▼P2358(六〇ウ)なり。是は何く程ならず」とて、突き出だしたりける。漂船の流れたる物などを、風の吹き重ねければ、程なく広く成りにけり。「同じくは陸へつづけたらば吉かりなむ」とぞ、漸く突きつづけける。催しなけれども、心有る人は土を運び、木を殖ゑければ、さまざまの草木生ひつづきたり。又、彼の宣旨に任せて、西国の上下の船ごとに石を入れておく。さまざまの力をそへて次第に広くなる。公私の為に旁便りあり。目にみすみす船共泊る小家なむども出で来、日月星宿の光明々として、蒼海の眺望眇々たり。いへば十余年の構へなれども、松の生ひ付きたる有り様、いづれも有り難し。今すこし歳月重なる物ならば、名高き室・高砂にも劣るべからず。
 世をすぐる習ひ、遊女もにくからず、小船の影に居て、四国を見渡せば心細し。遊女二三人来て、「漕ぎ行く船の跡の白波」と歌ふ。▼P2359(六一オ)或屋形内で、「舟中波の上、一生の歓会同じと雖も、和琴緩く調べて潭月に臨み、唐櫓高く推して水煙に入る」など朗詠をす。鼓を鳴らし拍子を打ちて、余波を凌ぐ由を謳ふ。色有る様、人は笛を吹き糸を弾く。此の時は古郷の亭の鬼瓦の事もわすられて、国司以下は中持の底を払ひ、商人下臈はもとでをたふす。後には悔ゆれども、あふにしなれば力なき世の習ひなれば、唐の大王までも聞き給ひて、「日本輪田平親王」と号して、帝王へだにも献じ給ひぬ。希代の宝物共を渡されけるとかや。
十七 〔大政入道白河院の御子なる事〕
 古人の申しけるは、此の人の果報、かかりつるこそ理なれ。正しき白河院の御子ぞかし。其の故は、彼の院の御時、祗薗女御と申しける幸人おはしき。彼の女御、中宮に中臈女房にて有りける女を、白河院しのび召さるる事有りけり。或る時、▼P2360(六一ウ)忠盛殿上の番勤めて祗候したりけるに、遥かにさよふけて、殿上の口を人のとほる音のしければ、火のほのぐらき程よりみたりければ、優なる女房にてぞ有りける。忠盛、誰とはしらざりけれども、彼の女房の袖をなにとなくひかへければ、女のいたくもてはなたぬけしきにて立ち留まりて、かくぞ詠じける。
  おぼつかなたがそま山の人ぞとよこのくれにひくぬしをしらばや
忠盛、こはいかなる事ぞやと、やさしくおぼえて袖をはづして、
  雲間よりただもりきたる月なればおぼろけならでいはじとぞ思ふ
と申して女の袖をはづしつ。女、即ち御前へ参り、此の由を有りのままに申したりければ、「さてこそ忠盛ごさむなれ」とて、やがて忠盛を召して、「いかにおの▼P2361(六二オ)れはまろが許へ参る女をば、殿上口にて引きたりけるぞ」と御尋ね有りければ、忠盛色を失ひて、とかく申すに及ばず、いかなる目をみむずらむと恐れをののきて有りけるに、上皇、打ち咲ひて仰せの有りけるは、「此の女、一首をしたりけるに、聞きあへず返事したりけるこそやさしけれ。さらばとう」と仰せ有りて、別の勅勘なかりければ、其の後ぞ心落ち居て罷り出でにける。是を漏れ聞く人申しけるは、「人は哥をば読むべかりける物かな。此の哥よまずは、いかなる目をかみるべき。此の哥によつて御感に預かる。時に取りて希代の面目なり」。
 是のみならず、忠盛備前の任はてて国より上りたりけるに、「明石の浦の月はいかに」と院より御尋ね有りけるに、忠盛御返事に、
  有明の月も明石の浦風に波はかりこそよるとみえしか
▼P2362(六二ウ)と申したりければ、院、御感ありて、金葉集にぞ入れさせましましける。
 上皇、思し食しけるは、「忠盛が秀哥こそ面白けれ」とて、「心をかけたる女、次でも有らば忠盛に賜ばむ」と、御心にかけて月日を送らせ御しけるほどに、去んぬる永久の比、上皇、若殿上人一両人計り召し具して、俄かに彼の御所へ御幸なりにけり。五月の廿日余りの事なれば、大方の空もいぶせきほどの夜、はるかにさみだれさへかきくれて、なにとなくそぞしき御心地しけるに、常の御所の方に光る物有りけり。頭は銀の針なむどのやうにきらめきて、右の手には槌の様なる物をもち、左の手には光る物をささげて、とばかりあつては、さとひかりひかりしけり。供奉の人々、是をみて、習はぬ心に、さこそ思ひあはれけめ。「疑ひなき鬼なむめり。持ちたる物は、聞こゆ▼P2363(六三オ)る打出の小槌にや。あな怖しや」とて、をののきてぞ候はれける。院もけうとく思し召す。忠盛、北面の下臈に候ひけるを召して、「彼の物、射もとどめ、切りもとどめよ」と仰せ有りければ、忠盛承りて少しも憚る所なく歩み寄りけるが、「さしも猛かるべき者とも思はず、狐狸体の者にてぞ有らむ。射も殺し切りも殺したらば念なかるべし。手取りにして見参に入れむ」と思ひて、此の度光る所を懐かむと、次第に伺ひよる。案の如く、さと光る所をみしとだく。懐かれて此の物騒ぐ。早、人で有りけり。「何者ぞ」と問へば、「承仕法師で候ふ」と答ふ。火をともさせて御覧ずれば、六十計りなる法師の手には、手瓶と云ふ物に油を入れてけり。片手には土器に火を入れて以て、頭には雨にぬれじとて小麦と云ふ物のからを笠の様にひきゆひて、打ちかづきてけり。御堂の承仕が、御幸なりぬと聞きて、御明し進ら▼P2364(六三ウ)せむとて、後戸の方より参れるが、「火やきえたる、みむ」とて、火をふりけるなり。其にかづきたる小麦のから、きらめきて、針のやうに見えけるなり。事のやう一々に鎖はれぬ。「是をあわてて、射も殺し、切りも殺したらましかば、いかにかはゆく、不便ならまし。忠盛が仕り様、思慮深し。弓矢取る者は優なりけり」とて、其の勧賞に任せ、孕める女を忠盛に給はりにけり。忠盛是を給はりて、畏りて罷り出でにけり。
 漸く月日重なる程に、男子を生みて養育したてて嫡子とす。清盛即ち是なり。此の子生まれたりける時も、女御めづらしき事に思し召して、「少き児、とくみむ」とて、産の内より、若き女房共いだきて、遊びけり。此の児、昼は音もせで、夜になれば、終夜泣きあかしけり。後には、余所の人までもいもねずして、悪みあへり。女房心▼P2365(六四オ)苦しき事に思ひて、人に取らせむとしける夜、女御の夢に、
  夜なきすとただもりたてよこの児はきよくさかふる事もこそあれ
と御覧有りければ、此の故にや、夜泣き俄かに留まりて、ひととなるままに、皃人にすぐれ、心も賢かりけり。清盛となのる。清くさかふると云ふよみあり。彼の女御の夢に、少しもたがはず。不思議なりし事なり。かかりければ、忠盛詞には顕はれては云はざりしかども、偏へに是を重くしけり。院もさすがに思し食しはなたず、生年十二にて左兵衛佐になりて、十一歳の四位兵衛佐と申しけるを、「花族の人なむどこそ、かくはあれ」なむど人の申しければ、「清盛も花族は人に劣らぬ物を」と、鳥羽の院も仰せ有りけるとかや。院も知ろし食したるにや。誠に王胤にておはしければにや。一天四海を掌の中にして、君をも悩まし奉り、臣をも誡められき。▼P2366(六四ウ)始終こそなけれども、遷都までもし給ひけるやらむ。昔もかかるためし有りけり。天智天皇の御時に、孕み給へる女御を、大職冠預り給ふとて、「比の女御産なりたらむ子、女子ならば朕が子にせむ。男子ならば臣が子とすべし」と仰せられけるに、男子を産み給へり。養育し立てて、大職冠の御子とす。即ち淡海公是なり。
 又、人の云ひけるは、「此の事僻事にてぞ有るらむ。実に王胤ならば、淡海公の例に任せて、子孫相続きて繁昌すべし。さるまじき人なればこそ、運命も久しからず、子孫もおだしからざるらめ。此の事信用にたらず」と申す人も有りけるとかや。
 同じき六日、宗盛、院に奏せられけるは、「入道已に薨じ候ひぬ。天下の御政務、今は御計らひたるべき」よし、申されけるに、院の殿上にて兵乱事定め申さる。
▼P2367(六五オ)
十八 〔東海東山へ院宣を下さるる事〕
 二月八日、「東国へは本三位中将重衡を大将軍として遣はさるるべし。鎮西へは貞能下向すべし。伊与国へは召次を下さるべし」と定まりぬ。其の上、兵衛佐頼朝以下、東国・北国の賊徒を追討すべきよし、東海・東山へ院庁の御下文を下さる。其の状に云はく、
 右、仰せを奉はるに〓へらく、前の右兵衛佐源頼朝、去んじ永暦元年に辜に坐して、伊豆国に配流せらる。須く身の科を悔いて、永く朝憲に従ふべきの処に、尚し梟悪の心を懐きて旁に狼〓の謀を企つ。或は国宰の使を寃陵し、或は土民の財を侵奪す。東山・東海両国の徒、伊賀・伊勢・飛騨・出羽・陸奥の外、皆其の勧誘の詞に赴きて、悉く布略の中に従ふ。茲に因りて、官軍を差し遣はして、殊に禦き戦はしむる処に、近江・美乃両国の反(外)者即ち敗〓[糸+貴]す。尾張・参川以東の賊、▼P2368(六五ウ)尚以て固守す。抑も、源氏等は皆悉く誅せらるべきの由、風聞有るに依つて、一姓 〔性〕の人々、共に悪心を起こすと云々。此の事尤も虚誕なり。頼政法師に於いては、顕然の罪科に依つて刑罰を加へらるる所なり。其の外の源氏、指せる過怠無し。何故にか誅せむ。各の帝猷を守りて、臣の忠を抽きんづべし。自今以後は、浮説を信ずること莫かれ。兼ねては此の子細を存じて、早く皇化に帰すべし。者れば、仰せを奉りて、下知件の如し。諸国宜しく承知すべし。宣に依つて之を行ふ。敢へて達すべからず。故に以て下す。とぞかかれたりける。
 十五日、頭中将重衡・権亮少将維盛、数万騎の軍兵を相具して、東国へ発向す。前後の追討使、美乃国に参会して、一万騎に及べり。「太政入道失せ給ひて、今日、十二日にこそなるに、さこそ遺言ならめ、仏経供養の沙汰にも及ばず、合戦に趣き給ふ事けしからず」とぞ申しあひける。
▼P2369(六六オ)
十九 {秀衡資長等に源氏を追討すべき由の事〕
 十九日、越後城太郎平資長と云ふ者あり。是は余五将軍維茂が後胤、奥山太郎永家が孫、城鬼九郎資国が子なり。国中に諍ふ者なかりければ、境の外までも背かざりけり。又、陸奥の郡に藤原秀衡と云ふ者有り。彼は武蔵守秀郷が末葉、修理権大夫経清が孫、権太郎清衡が子なり。出羽・陸奥両国を管領して、肩を並ぶる者なかりければ、隣国までも靡きにけり。彼の二人に仰せて、帰朝・義仲を追討すべきよし、宣旨を申し下さる。去年十二月廿五日除目聞書、今年二月廿三日、到来。資長、当国の守に任ず。
 資長、朝恩忝き事を悦びて、義仲追討の為に、同廿四日暁に五千余騎にて打ち立つの処に、雲の上中に音あつて、「日本第一の大伽藍、聖武天皇の御▼P2370(六六ウ)願、東大寺の廬舎那焼きたる太政入道の方人する者、只今召し取らむや」と、詈る音しけり。是を聞きける時より、城太郎、中風に逢ふ。遍身すくみ、手もつやつやはたらかねば、思ふ事を状に書きおかす。舌すくみてふられねば、思ひの如くも云ひおかず。男子三人・女子一人有りけれども、二言の遺言にも及ばず、其の日の酉時計りに死ににけり。怖しなむど云ふばかりなし。同弟城次郎資盛、後には城四郎長茂と改名す。春の程は兄が孝養して、本意を遂げむと思ひけり。
 秀衡は、頼朝弟九郎義経、去んじ承安元年の春の比より相ひ憑みて来るを養育して、去んぬる冬、兵衛佐の許へ送り遣はして、「多年の好みを空しくして、今、宣旨なればとて、彼敵対するに及ばず」とて、領状申さざりけり。
▼P2371(六七オ)
二十 〔五条大納言邦綱卿死去の事〕
 廿三日には五条大納言邦綱卿失せ給ひぬ。大政入道と契り深く、志浅からざりし人なりし上に、頭中将重衡の舅にておはしければ、殊に甚深なりけり。此の邦綱卿、近衛院の御時は、進士の雑色で御はしけるが、仁平三年六月六日、四条内裏焼亡ありけり。主上、関白亭に行幸なるべきにて有りしが、折節近衛司一人も参りあはず。御輿の沙汰する人無かりければ、南殿に出御有りけれども、思し食しわかずして、あきれて立たせ給ひたりけるに、此の邦綱つと参りて、「かやうの時は腰輿にこそ召され候ふなれ」とて、腰輿を舁き出だして参りたりければ、主上奉りて出御なりぬ。「かく申すは誰そ」と御尋ねありけるに、「進士の雑色邦綱なり」と申したりければ、「下臈なれどもさかざかしき者かな」と思し召して、法▼P2372(六七ウ)住寺殿御対面の時、御感の余りに御物語有りければ、其よりして殿下殊に召し仕ひて、御領あまた給はりなどして候はれけるに、同じき御門の御時、八月十七日、石清水の行幸有りけるにいかがしたりけむ、人長が淀河に落ち入りて、ぬれねずみの如くして、片方に隠れをりて、御神楽に参らざりけるに、邦綱、殿下の御共に候ひけるが、なにとして用意したりけるやらむ、人長が装束を持たせたりけるを取り出だして、「いと神妙には候はねども、人長が装束は候ふ物を」とて、一具進らせたりければ、人長是を着て、御神楽ととのひて行わる。少し遅かりつるよりも、御神楽の音共すみのぼり、舞の袖も拍子に相ひて、いつよりも面白かりけり。物の音身にしみて、面白き事は神も人も同じ心也。伝へ聞く、昔天の岩戸を押し開かれ給ひし神代の事▼P2373(六八オ)までも、かくやとおしはかられてぞおぼえける。時に取りてはゆゆしき高名したりける邦綱也。其のみならず、かやうの行幸の色々の装束用意して、持ちつれさせられたりけり。かやうに思ひかけぬ用意もためし多かりけり。
 やがて此の人の先祖、山陰中納言と申す人おはしき。大宰大弐にて鎮西へ下られけるに、道にて継母の誤りのやうにて二才なりける継子を海へ落とし入れてけり。失せにける母の、当初天王寺へ参りけるに、鵜飼亀を取りて殺さむとしけるを、彼の女房薄衣をぬぎて、彼の亀を買ひて、「思ひ知れよ」とて放ちてけり。件の亀、昔の恩を思ひ知りて、甲にのせて浮かび出でて、助けたりける人也。是を如無僧都とぞ申しける。帝王是を聞き給ひて、是を重くせさせ給ひき。
 昌泰元年の比、寛平法皇、大井河に御幸有りけるに、此の僧都も▼P2374(六八ウ)候はれけり。月卿雲客袖を連ね、裳のすそをならべて、其の数多かりける中に、和泉大将定国、未だ若き殿上人で供奉せられたりけるが、あらしの山の山おろしはげしかりけるに、烏帽子を大井河に吹き入れられて、為む方無くて、袖にて本鳥を押さへて御はしけるを、僧都の三衣の袋より烏帽子を取り出だして、彼の大将にたびたりければ、見る人耳目を驚かしたりけり。是も時に取りては思ひよらざりける高名也。
 又、一条院の御時、平等院僧正行尊は、鳥羽院の御持僧也。或る時御遊の始まりたりけるに、琴をひかれける殿上人、琴の糸きれてひかざりければ、彼の僧正、帖紙の中より絃を一すぢ取り出だして、渡されたりけるとかや。
 此の人々は用意も深く智恵も賢かりければ、申すに及ばず。此の邦綱はさしも賢かるべき家に▼P2375(六九オ)てもなきに、度々の高名のみせられけるこそ有り難けれ。大政入道とせめて志の深きにや、同日に病付きて、同月に遂に失せ給ひぬ。哀れなりける契りかなとぞ人申しける。
廿一 〔法皇、法住寺殿へ御幸成る事〕
 廿五日、法皇、法住寺殿へ御幸あり。治承四年の冬の御幸には、武士御車の前後に候ひて、おびたたしくのみぞ有りし。是は、公卿殿上人あまた供奉し、うるはしき儀式、驚蹕のこゑなども、ことごとしきさまなりければ、今更めづらしく目出たくぞ覚えし。鳥羽殿へ御幸有りし事、福原へ遷都のいまはしき名ありし御所の御事までも、思し食し出だされけり。御所共の少々破壊したりければ、「修理して渡し奉らせむ」と、右大将申されけれども、「只とくとく」と仰せ有りて、御幸なりぬ。
 此の御所は、応保元年四▼P2376(六九ウ)月十三日、御移徙有りて後、山水木立、方々の御しつらいに至るまで、思し食すさまにせさせ御はしつつ、新日吉、新熊野をも近く祝ひ奉らせ給ひて、年経るままに、此の二三年旅立ちて御はしつれば、御心もうかれ立ちて渡らせ給へば、今一日もとくと思し食しけり。中にも故女院の御方なむど御覧ぜらるるに、峰の松、河の柳、事の外に木高くなりにけるに付けても、彼の南宮より西内へ遷り給ひけむ音の跡思し食し出だすに、大掖の芙蓉、未央の柳、此に対ひて如何でか涙を垂れざる。
廿二 〔興福寺の常楽会行はるる事〕
 三月一日、「東大寺、興福寺の僧綱等、本位に復し、寺領等元の如く知行すべき」よし、宣下せらる。「此の上は大会共行はるべし」と僉儀にて、恒例の三会、行はる。十四日舎利会、十五日涅槃会、常の如し。仏力▼P2377(七〇オ)尽きぬるかとみえつるに、法燈の光きえずして行なはるるこそ目出たけれ。
 十六日、常楽会也。此の会と申すは、南閻浮提第一の会なりと云ふ。されば日本国の人の、閻魔の庁に参りたむなるには、「興福寺の常楽会は拝みたりしか」と、先ず一番に閻魔大王の問ひ給ふと申し伝へたり。されば、鳥羽院の鳥羽殿を御造立有りて、此の会を移して行はせ給ひけるに、「恐らくは本寺には劣りたり」と云ふ沙汰有りて、其の後は又も行はざりけり。此の寺の下は龍宮城の上にあたりたる故に、楽の拍子も舞の曲節も殊に澄むとかや。されば尾張国より熱田大明神の見物に渡らせ給ふなれば、川南補と云ふ舞をまふ。中門の前で三尺の鯉を切りて酒を飲むやうを舞ふとかや。河南補の包丁、古徳楽の酒盛とぞ是を云ふなるべし。別当僧正良▼P2378(七〇ウ)円の沙汰として、楽人の禄物、常よりも、花を折り月をみて、度かさねられければ、目出たき見物にてぞ有りける。
 同七日、鎮西の逆賊等、追討すべきの由、庁の下文を成し下さる。「高直、伊栄等、悉に私威を立て、国務を対捏(押)し、初めて居住の一州を領じ、漸く比隣の傍国に及ぼす。殊に征伐せらるべし。府国相共に同心合力して、彼輩両人并びに同意の族を相禦くべし」とぞ載せられける。治承五年三月十四日、高直の事、猶叛逆の聞こえ有るに依つて、宣旨下さる。其の状に云く、
 肥後国住人藤原高直、頃年より以来、恣に武威を振ひ、忽ちに皇化を背く。啻本住の州県のみに非ず、既に傍国の郷土に及ぼす。偏へに狼戻の▼P2379(七一オ)心に住し、かたがた烏合の群を成す。しかのみならず、海路、白波の賊徒を設け、陸地に緑林の党類を結ぶ。庄公を論ぜず、乃貢を奪い取り、蠧害を庶民に致し、蚕食を九国に企つ。都府に及ばんと欲するに依つて、公官并びに国々の軍兵等に防禦せしむる処、度々戦闘の由、大宰府、頻りに以て言上す。仍りて討使を遣はし、征伐せらるべし。其の間、管内勠力して禁遏せしむべきの旨、院庁より差使を以て下知せらるること、先に畢はんぬ。而るに、姦濫いよいよ増し、簇盗未だ依らざると云々。叛逆の至り、責めて余り有り。宜しく前右近衛大将平朝臣に仰せて管内諸国の軍兵を催(権)して、彼の高直并びに同意与力の輩を追討せしむべし、てへり。
とぞ仰せ下されける。然りと雖も、一切宣旨をも用ひず、いよいよ軍勢を催し、自国・他▼P2380(七一ウ)国を語らひて平家を亡ぼして源氏に加はらむと結構するよし、大宰府より告げ申しけり。
廿三 〔十郎蔵人と平家と合戦の事〕
 さても二月七日、東国の大勢、相模国鎌倉を立つと聞こゆ。平家騒ぎて、四国九国の武士共を召し集め、東国へ向けらるべかりける程に、西国の勢遅々しける間、源氏の軍兵は美乃尾張まで責め上る。又信乃国帯刀先生義賢が子に木曾冠者義仲、十郎蔵人行家二人、北陸道を塞ぐと聞こゆ。かかりし間、平家いとど行く先狭くぞ思はれける。左衛門佐知盛、頭中将重衡、権亮少将惟盛以下の追討使、去んぬる二月廿八日、美乃国杭瀬河まで下りたりけるが、源氏の大勢尾張まで向かふと聞こえければ、平家の軍兵墨俣河の南の鰭に陣を取る。其の勢二万余騎。今度は▼P2381(七二オ)平家の軍兵も然るべき兵なれば、「先の駿河の軍にはよもにじ」と、さすがに憑もしくぞ思はれける。
 三月十一日あけぼのに、東の河原に武者千騎計り馳せ来たる。即ち東のはたに陣を取る。是は兵衛佐には叔父、十郎蔵人行家也。又千騎計り来たる。是は兵衛佐の弟、鳥羽の卿公円全と云ふ僧也。常葉腹の子、九郎一腹一生の兄也。「十郎蔵人に力を付けよ」とて、兵衛佐千騎の勢を付けて差し上せたりける也。十郎蔵人が陣に二町隔てて陣を取る。平家は西の鰭に二万余騎、源氏は東の河原に二千余騎、源平河を隔てて陣を取る。明くる卯の剋には東西の矢合せと聞こゆ。行家と円全と、互ひに先を心に懸けたり。
 同じき巳の剋計りに、墨染の衣に檜笠頸に懸けたる乞食法師一人、源氏の陣屋に来たりて経を読みて物を乞ひけるを、「けご▼P2382(七二ウ)見る者にこそあむめれ」とて、是非なく搦めてけり。結ひ付けて置きたりければ、「乞食殺させ給ふ、あら悲しや。飯たべや」なむど申しければ、「にくし。足はさみて問へ」なむど云ひけるを聞きて、此の法師縄を引き切りて、河へさと飛び入りて、およぎて逃げけるを、「あは、さればこそ」とて、人あまた追ひ懸けたり。射ければ、人の射るをりは、水の底へつと入る。射止めば浮き上がる。浮きぬ沈みぬおよぎける程に、平家の方より船に楯をついて河中に押し合はせて、船に取りて入れてもどりにけり。「さればこそ。此の法師は下臈とは見えざりつる物を。哀れ、頸を切らで」と云ひけれども、かなはず。さる程に暫く有りて、此の法師、褐衣の直垂に洗ひ皮の鎧きて、もみ烏帽子引き入れて、鹿毛なる馬に乗りて、河鰭に歩ませ出だして、河越しに申しけるは、「人は高名をしてこそいみじけれ。▼P2383(七三オ)にげて名乗るはをかしけれども、只今取られて河を越えたりつるは、此の法師。かく申すは主馬判官盛国が孫、越中前司盛俊が末子、近江国石山法師に悪土佐全蓮」と名乗りて入りにけり。
 卿公は、「平家にけご見えて、一定渡されなむず。十郎蔵人に先を懸けられては、兵衛佐に面を合はすべきか」と思ひければ、明日の矢合せを待ちけるが、余りの心もとなさに、人一人も召し具せず、只一人馬に乗りて、陣上より二町計り歩み上りて、敵の陣の前の岸を歩み上りて、烏森と云ふ所をするりと渡して、敵の前の岸かげにこそ引かへたれ。「十郎蔵人、夜のあけぼのに時を造りて河を渡さむ時、ここより『円全、今日の大将軍』と名乗りて懸けむ」と思ひて、東を向き、今や夜明くると待ち懸けたり。平家の方より夜廻りをせさせけり。敵よひよりや進むらむの心なり。平▼P2384(七三ウ)家の勢十騎計り、続松手ごとにとぼして、河ばたに廻りけるに、岸の影に馬を引き立てたりければ、「なに者ぞ」と問ふ。是を聞きて、円全少しもさわがず、「御方の者。馬の足ひやし候ふ」と答へたり。「御方ならば、甲をぬぎて名乗れ」と云ひければ、馬にひたと乗りて、陸へ打ち上り、「兵衛佐頼朝が弟、鳥羽卿公円全と云ふ者なり」と名乗りて、十騎の者共が中へ打ち入る。さとあけてぞ通しける。円全三騎打ち取りて、二騎に手負はせて、残る五騎に取り籠められて討たれにけり。
 十郎蔵人是を知らず、卿公に先すすまれじと思ひて、使者を遣はして、卿公が陣をみするに、「大将軍は見えさせ給はず」と申しければ、「さればこそ」とて、十郎蔵人打つ立ちにけり。千騎の勢を、八百余騎をば陣に置きて、二百余騎相具して、ぬき足に上りて稲葉河の▼P2385(七四オ)瀬をあよばせて、河をさと渡して、平家の陣へぞ懸け入りける。
 さる程に、夜もあけ方に成りければ、平家、「敵の多勢にて夜討ちに寄せたる」とさわぎける程に、火を出だして見れば、僅か二百騎計りなり。「無勢にて有りける物を」とて、二万余騎さしむかへたり。十郎蔵人多勢の中に懸け入りて、時をうつすまで戦ふに、大勢に取り籠められて、手取り足取りとられし程に、二百余騎僅かに二騎に打ちなされて、河を東へ引き退く。二騎の内一騎は大将軍とみえたり。赤地の錦の直垂に、小桜を黄にかへしたる鎧に、鹿毛なる馬に黄伏輪の鞍置きてぞ乗りたりける。東の河に付きて、鎧の水はたはたと打ち、あゆばせ行くを、大将とは見けれども、平家左右無くおはざりけり。尾張源氏泉太郎重光、百騎の勢にて昨日より搦手に向かひたりけるが、▼P2386(七四ウ)大手の時の音を聞きて、平家の大勢の中へ馳せ入りたりけり。是も取り籠められて、半分は打たれて、残りは引き退く。大将軍泉太郎も打たれにけり。
 十郎蔵人、墨俣の東に小熊と云ふ所に陣を取る。平家は二万余席を五手に分けたり。一番に飛騨守景家大将軍にて、三千余騎にて押し寄せたり。射しらまされて引き退く。二番上総守忠清大将軍にて、三千余騎差し向かひたり。是又射しらまされて引き退く。三番には越中前司盛俊、三千余騎にて差し向かひたり。是もしらみて引き退く。四番には高橋判官高綱、三千余騎にて向かひたり。是もしらみて引き退く。五番には頭中将重衡、権亮少将惟盛、両大将軍にて、八千余騎にて入れ▼P2387(七五オ)替へたり。平家二万余騎を五手に分けて入れ替へ入れ替へ戦ひければ、十郎蔵人、心計りは武く思へども、こらへずして、小熊を引き退きて、柳の津に陣を取る。柳の津をも追ひ落とされて、熱田へ引き退く。熱田にて在家をこぼちて、かいだてを構へて、ここで暫く支へたりけれども、熱田をも追ひ落とされて、三河国矢作の東の岸にかいだてをかいて支へたり。平家やがて矢作追ひ落として、河より西に引かへたり。
 額田郡の兵共走り来たりて、源氏に付きて戦ひけれども、叶ふべくも無かりければ、十郎蔵人謀をして、雑色三人旅の体に装束かせて、蓑笠もたせて、平家の方へ向かはす。「平家何にと問はば、『兵衛佐頼朝、東国より大勢、只今矢作に付き候ひつる時に、今落ち候ひつる源氏は、其の勢と一つになり候ひぬらむ』といへ」▼P2388(七五ウ)とて、遣はしけり。案のごとく、平家是等に問ひけるは、「是に落ちつる源氏は何程か延びつる」と問ひければ、をしへのごとくに申しければ、「さては聞こゆる関東の大勢に取り籠められて、何にかせむ」とて、平家取る物も取りあへず引き退く。
 同じき廿七日、都へ帰り上りにけり。十郎蔵人乗り替へ共を馳せさせて、「美乃・尾張の者共、平家を一矢をも射ざらむ者、源氏の敵」と申させたりければ、源氏に志ある者共、平家に追ひ懸かりて散々にぞ射ける。平家は答の矢にも及ばず、西を指してぞ走り行きける。十郎蔵人は帥々には負けて走り返り、「『水沢を後ろにする事なかれ』とこそ云ふに、河を後ろにして戦ふ事、尤も僻事なり。今は源氏の謀あしかりけり」とぞ申し合ひける。
廿四 〔行家、大神宮へ願書を進る事〕
 さて、三河国の国府より伊勢大神宮へ願書をぞ奉りける。其の願書に云はく、
  ▼P2389(七六オ)掛けまくも畏き伊勢の度会の伊鈴河上、下津磐根に大宮柱広敷立て、高天原に千木高く知りて、申し定め奉る。天照皇大神の広前に恐々申し給へと申す。正六位上源朝臣行家、去んじ治承の比、最勝親王の勅を蒙るに云へらく、大相国入道去んじ平治元年より以降、不当の高位に登りて、百官万民を随へしむる間、去んじ安元の年に、以て終に指せる勅定を蒙らずして、正二位権大納言藤原朝臣成親并びに同息男等を遠流に処し、同意の輩と称して、院中近習の上下諸人、其の数其の身を殺害せしめ、或いは遠近に配流し、其の後、治承三年の仲冬に、除目に叶はずと称して、関白大臣を配流せしめ、指せる咎無き智臣、前の大相国以下四十余人を罪科に処し、或いは今上聖主の位を奪ひて謀臣の孫に譲り、或いは本新天皇を楼に込めて、已に▼P2390(七六ウ)理政を留む。亦、一院第二の皇子と為て、国の器に当たると称して、同四年五月十五日の夜、俄かに取り籠め奉るべき由風聞して、園城寺に退入し給ふ処に、左少弁行隆を以て恣に漏宣を構へて、或いは天台山に放ちて与力を制し、或いは護国の司に仰せて軍兵を集めて、已に王法を絶ち、仏法を亡ぼさむと擬する処也。早く天武皇帝の旧儀を尋ねて王位を押し取る輩を討ち、上宮太子の古跡を訪ひて仏法破滅の類を亡ぼして、元の如く国政を一院に任せ奉り、諸寺の仏法を繁昌せしめ、諸杜の神事懈怠無く、正法を以て国を治め、万民を誇らしめて一天を鎮めんと許りなり。
 爰に行家が先祖を尋ぬれば、昔天国押し開き給ひし御宇の孫、清和天皇の王子貞純の親王七代の孫なり。六孫王より下津方、武弓を励みて朝家を護り奉る。高祖父頼信の朝臣、忠常を搦めて不次の賞を蒙る。曽祖父頼▼P2391(七七オ)義朝臣、康平六年に奥州の逆党を鎮めて後代の規模と為す。祖父義家の朝臣は、寛治年中に、上奏を経ずと雖も、国家の不忠為る武平・家平等を討ちて、威を東夷に振るひ、名を西洛に揚ぐ。親父為義は、天永二年に奈良の大衆の発向を討ち止めて、王城を鎮護す。宝位驚き無く、太上天皇の務夷域に普くして、四海を掌の内に照らし、百司心中に懸けたり。皇事靡きこと無し。而るを、平治元年より此の氏の出仕を止められて後、入道偏へに武威を以て、都城の内には官事を蔑り、洛陽の外には謀宣を放つ。然れば則ち、行家先代を訪へば、天照大神の初めて日本国磐戸を押し開きて、新たに豊葦原の水穂に濫〓(らんしやう)し船ふ。彼の天降りたまへる聖体は、忝く行家三十九代の祖宗也。
 而るに、御垂迹より以降、鎮護国家の誓ひ厳重にして冥威隙無き処に、入道神慮を恐れず逆乱を企つ。是愚意の致す所か。遥かに▼P2392(七七ウ)高位に昇ることは、偏へに朝恩の致す所也。又、行家が親父為義朝臣は、彼の大相国の如く、私威に誇りて謀叛を発すに非ず。上皇の仰せに依つて、白河の御所に参り籠りて合戦を致す許り也。而るに今、謀叛の輩と称して、朝庭に仕へざるに依つて、相伝の所従は耳目を塞ぎて随順せず、普代の所領は知行を止めらる。労無きに依つて、独身不肖の行家、彼の入道が万が一にも及ばざる所也。然るに、入道忽ちに謀叛を起こすに依つて、行家朝敵を防かむが為に東国に下向して、頼朝の朝臣と相共に、且は源氏の子孫を誘へ、且は相伝の所従を催して、上洛を企つる所に、案の如く、意に任せて東海東山の諸国、已に令同意せしめ畢はんぬ。是、且は朝威の貴きが致す所、且は神明の然らしむる所、百皇守護の盟ひ、感応せしむる所也。随ひては又、風聞の如きは、大神宮より鏑を放ちたまひき。入道其の身已に没せり。是を見、是を聞きて、上下万人、▼P2393(七八オ)況や宮中の氏人等、何人か霊威に畏れざる、誰人か源家を仰がざらん哉。
 抑も、東海諸国の大神宮御領の事、先例に依つて神役を分かたしめ、備進せしむべき由、下知を加ふと雖も、或いは平家に恐れて使者を下さず、或いは使者を下さしむるに奉納備進の所も有り。偏へに神領をば制止を企てず、僅かに兵糧米の催し計り也。早く停止せしむべし。又、院宮より始めて諸家臣下の領等、国々庄々の年貢闕如の事、全く誤らざる所也。数多の軍兵、或いは源家と云ひ平氏と云ひ、或いは大名参り集り、思々の間、不慮の外に済し難きか。中に付きて、国部村侶住人百姓等の愁歎、同じく制止すと雖も、多く其の煩ひ有り。行家同じく哀歓少なからず。撫民の意切なりと雖も、徒らに数月を送る。
 爰に行家、王城に帰参して王尊を護り奉り、頼朝に東州の辺堺に於いて、西洛の朝威を耀かす。神明忽ちに納受を垂れて、早く天下を鎮め給ひて、縦ひ平家の兄▼P2394(七八ウ)弟骨肉為りと雖も、国家を護らむ輩に於いては、迎へて神恩を施し給へ。又源氏の子孫累乗なりと云ふとも、反りて二言有る者は、忽ちに冥罰に処せしめ給ふべし。
 皇大神、此の状を平らけく怱して、無為無事に上洛を遂げしめ、速かに鎮護国家の衛官を成し給へ。天皇朝庭宝位動くこと無く、源家の大小従類残ること無く、悉く昼夜に守り護り奉り給へと、恐々申し賜へと申し次ぐ状
   治承五年五月十九日正六位源朝臣行家
とぞ書かれたりける。
廿五 〔頼朝と隆義と合戦の事〕
 四月廿日、兵衛佐頼朝を誅ち奉るべき由、常陸国住人佐竹太郎隆義が許へ院庁御下文をぞ申し下したる。其の故は、隆義が父佐竹三郎昌義、去年の冬、頼朝が為に誅戮の間、定めて宿意深かるらむ▼P2395(七九オ)由来を尋ねて、平家彼の国の守に隆義を以て申し任ず。之に依つて、隆義、頼朝と合戦を致しけれども、物まねと散々と打ち落とされて、隆義、奥州へ逃げ籠もりにけり。
 去々年小松内府薨ぜられぬ。今年又、入道相国失せられぬるには、平家の運尽きぬる事顕はれたり。然れば、年来恩顧の輩の外、走り付く者更になし。
 さる程に、去年諸国合戦、諸寺諸山の破滅もさる事にて、春夏の炎旱おびたたしく、秋冬大風洪水打ち連き、僅かに東作の勤めを致すと雖も、西収の業無きが如し。かかりければ、天下飢饉して多く餓死に及ぶ。かくて今年も暮れにき。明年はさりとも立ち直る事もやと思ひし程に、今年又疫病さへ打ち副ひて、飢ゑ死に、病み死ぬる者数を知らず。死人砂の如し。されば、事宜しきさましたる人々、体をやつしさまかへつして、能くて有る▼P2396(七九ウ)かとすれば病付きて、打ちふすかとすれば、即ち死す。あしこの軒の下、ここの築地の際、大路の中門の前をいはず、死人の横たはり臥せる事、算の乱れたるが如し。されば車なむども直に通はず、死人の上をぞやりける。臭き香充満して、行きかふ人も輙からず。さるままには、人々の家は片端よりこぼちて市に出し、薪の為に売りけり。其の中に、薄や朱なむど付きたる木の有りけるは、すべき方なき侘人の、率都婆や古き仏像なむどを破りて売買しけるとかや。誠に濁世乱漫の世と云ひながら、口惜しかりし事共也。
 六月三日、法皇、薗城寺御幸あり。
 廿日、山階寺の金堂、造り始めらる。行事弁官など下すべき由聞こえけり。
廿六 〔城四郎と木曽と合戦の事〕
 さる程に、城四郎長茂、当国廿四郡、出羽まで催して、敵に勢の重なるを▼P2397(八〇オ)聞かせむと雑人まじりに駈り集めて、六万余騎とぞ注したる。信渡へ越えむと出で立ちけるが、「先業限りあり、明日を期すべからず」と呼ばはりて、雲の中へ入りにけり。人多く是を聞かざりけれども、長茂即ち時を変へず打立つ。
 六万余騎を三手に分かつ。千隈超えには、浜の小平太大将で一万余騎を指し遣はす。殖田超には、浄帳庄司大夫宗親大将にて一万余騎差し遣はす。大手には、城四郎長茂大将として四万余騎を引率して、越後の国府に付きにけり。明日信乃へ超えむとする処に、先陣諍ふは誰々ぞ。笠原平五、尾津平四郎、富部ノ三郎、閑妻ノ六郎、風間ノ橘五、家の子には立河次郎、渋川三郎、久志太郎、冠者将軍、郎等には相津の乗湛房、其の子平新大夫、奥山権守、子息藤▼P2398(八〇ウ)新大夫、坂東別当、黒別当等、我も我もと諍ひければ、城四郎、「御方打ちせさせじ」とて、いづれもいづれもゆるさずして、四万余騎を引き具して、熊坂を打ち越えて、信濃国千隈河横田川原に陣を取る。
 木曽、是を聞きて兵を召しけるに、信乃・上野両国より馳せ参ると云へども、其勢二千騎に過ぎざりけり。当国白鳥河原に陣を取る。楯六郎申しけるは、「親忠馳せ向かひて敵の勢見て参らむ」とて、乗り替へ一騎相ひ具して塩尻と云ふ所に馳せ付きて見れば、敵は横田川原、石川さまへ火を懸けて焼き払ふ。是を見て大本堂に馳せよりて馬より下り、八幡宮を伏し拝みて、「商无帰命頂礼、八幡大菩薩。今度の合戦に木曽殿勝ち給はば、十六人の八人女、八人の神子男、所領寄進せむ」とぞ祈り申しける。▼P2399(八一オ)親忠帰り参りてしかじかと申しければ、「敵に八幡焼かせぬ前に打てや者共」とて、引懸け引懸け夜のあけぼのに本堂に馳せ付きて、願書を八幡に納めつつ打立ちけるに、先陣諍ふ輩誰々ぞ。上野には木角六郎、佐井七郎、瀬下四郎、桃井の五郎、信乃には根津次郎、同三郎、海野矢平四郎、小室太郎、注同次郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎、野沢太郎、臼田太郎、平沢次郎、千野太郎、諏波二郎、手塚別当、手塚太郎等ぞ諍ひける。
 木曽、人々の恨みおはじとて下知しけるは、「郎等乗り替へをば具すべからず。宗との者共懸けよ」と云ひければ、「此の計らひ然るべし」とて、百騎の勢くつばみを並べて山騎もさがらず千隈河▼P2400(八一ウ)さとわたす。敵の陣を南より北へはたと懸け破りて後ろへつと通りぬ。又取り返して南へ懸け通りけり。城四郎十文字に懸け破られて申しけるは、「是程の小勢に二度まで輙く破られぬるこそ、今度の帥のいかが有らむずらむ」と危ぶみて、笠原の平五を招きて云ひけるは、「無勢に輙く懸けられて候ふ。ここ懸け給へ」と申しければ、笠原平五申しけるは、「頼真今年五十三に罷り成りて候ふ。大小合戦に廿六度合ひぬれども、一度も不覚仕らず。爰に懸けて見参に入れむ」とて、百騎計りの勢を相具して風間をさつと渡りて名乗りけるは、「当国の人々、或いは知人得意にして見参せぬは少なし。他国殿原は音に聞き給ふらむ。笠原頼真、吉き敵ぞ。討ち取つて木曽殿の見参に入れよや、殿原」と詈りて懸け出づる。
 是を聞きて高山人々三百余▼P2401(八二オ)騎にて懸け出で、笠原が勢の中へ懸け入りて散々に戦ひけり。両方の兵、目をすます。しばしこらへて東西へさと引きてぞのきにける。高山三百余騎の勢、五十余騎にせめなさる。笠原が百騎の勢、五十七騎は討たれて、残り四十三騎に成りにけり。大将軍の前にて、のけ甲になりて馬より下り、「合戦の様いかが御覧ぜられ候ひつる」と申しければ、城四郎、是を感じて、「御辺の高年今に始めぬ事にて侯ふ。中々余人ならば誉むる所いくらも候ひつ」といはれて、ほむるに増さる詞なれば、すずしげにぞ思ひたる。
 木曽が手には、高山の者共残り少なく打たれて、安からず思ひてある所に、佐井七郎五十余騎にて、をめいて千隈河を懸け渡す。火威の鎧に白星の甲の緒をしめて、紅のほろかけて、白あし毛なる馬に白伏輪の鞍置きて▼P2402(八二ウ)乗りたりけり。是を見て、城四郎方より富部三郎、十三騎にて歩み出でたり。富部は赤皮威の鎧に鍬形の甲の緒をしめて、ほろは懸けざりけり。連銭葦毛なる馬に黄伏輪の鞍置きてぞ乗りたりける。
 互いにゆんですがはせて、「信乃国の住人、富部三郎家俊」と名乗るを、佐井七郎、はたとにらまへて、「さては和君は弘資にはあたはぬ敵ござむなれ。聞きたるらむ物を。承平、将門討ちて名を揚げし俵藤太秀郷が八代末葉、上野国佐井七郎弘資」と名乗りければ、富部三郎取りあへず、「和君は、『次がな、氏文読まむ』と思ひける者哉。家俊が品をばなにとして嫌ふぞとよ。是にて名乗らずは、『富部三郎は何程の者なれば、横田の軍に佐井七郎に嫌はれて、名乗り帰さで有るぞ』と人の云はんずるに、和君慥かに聞け。鳥羽院の▼P2403(八三オ)御時、北面に候ひし下野右衛門大夫正弘が嫡子、左衛門大夫家弘とて、保元合戦の時、新院の御方に候ひて合戦仕りたりし其の故に、奥州へ流されき。其の子に夫瀬三郎家光、其の子に富部三郎家俊とて、源平の末座に付けどもきらはれず。汝をこそ嫌ひたけれ。まさなき男の詞哉」と云ひもはてず、十三騎の轡を並べて五十騎の中を懸けわって後ろへつと通りにけり。又取り返して堅横に散々に懸けたり。
 佐井七郎面をふらず戦ひけり。佐井七郎が五十騎も十三騎は打たれにけり。富部が十三騎も四騎になりにけり。佐井は敵を嫌ひて引かば人に咲はれなむずと思ひて退かず、富部は敵に嫌はれて安からず思ひて、両方郎等共打たれけれども、互いに目を懸けて、弓手と弓手に指し向けてくまむくまむとしけれども、両▼P2404(八三ウ)方ひしめき戦ふ程にあなたこなたの旗指も打たれにけり、やみやみとなりて大将軍どし組みて落つるをも知らざりけり。富部三郎、笠原平五が手にて軍にしつかれたりける上、薄手数負ひたりければ、佐井七郎に頸取られぬ。佐井七郎、此の頸高らかに指し上げて、「富部三郎が頸、打ちたりや」とて引き退く。富部三郎が郎等に、杵淵小源太重光と云ふ死生知らずの兵あり。此の程、主に勘当せられて、越後国の共もせざりけるが、「今度城四郎に属きて御はすなれば、吉からむ敵一騎打ちて、勘当免されむ」と思ひて待ち居たりけるが、軍有りと聞きて怱ぎ馳せ来たりて、「富部殿はいづくにぞ」と問ひければ、「あれは、あそこに只今佐井七郎と戦ひつるこそ」と教へければ、旗をあげて、をめいて馳せいてみれば、敵も御方も死に伏せたり。▼P2405(八四オ)幡指も打たれにけり。
 我が主の馬と物具としるくて、そこへ馳せよつて、「上野佐井七郎殿とこそ見奉れ。富部殿の郎等杵淵(臼)小源太重光と申す者也。軍より先に御使に罷りて戦にはづれて候ふぞや。其の御返事申さむ。且うは主君の御顔をも今一度見せ給へ」と申しければ、佐井七郎是を見て、荒手の者に組まれては叶はじとや思ひけむ、御方へ鞭を揚げて逃げけるを、杵淵、一段計先立つ敵を五段内におつつめて押し並べて組みて、どうと落ちぬ。杵淵は聞こゆる大力にて有りければ、佐井七郎を取りて押へて頸かきて、主の頸と取り並べて、「重光こそ参りて候へ。生を隔て給ふとも魂魄と云ふ神のあむなれば、慥に聞き給へ。人の纔言に付き給ひて勘当ありしかども、聞き直し給ふ事も候はむずらむと待ち候ひつるに、かく見なし進らせて候ふ事▼P2406(八四ウ)の悲しさよ。重光御共に候ぜば、御前にてこそ打たれ候ふべきに、後れまゐらせて候ふこそ口惜しけれ。御敵打ちて候。死出山、三途河、安く渡り給へ」とて、二つの本鳥結び合はせつつ、左の手に捧げ、右手には大刀を以て伝馬に打ち乗りてよばひけるは、「敵も御方も是見給へ。佐井七郎に富部三郎討たれ給ひぬ。富部三郎が郎等に杵淵小源太重光が、主の敵討ちて出づるを、留めよ者共」と云ひければ、佐井七郎が家の子、郎等三十騎にて追ひ懸けて中に取り籠めて戦ひけれども、物ともせず、け破りて、後へつと出でにけり。敵連きて責めければ、返し合はせて戦ふ。敵数打ち取りて、人手にかからむよりはとや思ひけむ、大刀を口にさしくぐみて逆さに落ちてつらぬかれてこそ死ににけれ。是を見て惜しまぬ人こそなかりけれ。
 城四郎は大勢なりけれ▼P2407(八五オ)ども、皆駈り武者共にて、手勢の者は少なかりけり。木曽は僅かに無勢なりけれども、或いは源氏の末葉、或いは年来思ひ付きたる郎等共なれば、一味同心にて入れ替へ入れ替へ戦ひけり。信乃国源氏に井上九郎光盛とて勇める兵あり。内々木曽に申しけるは、「大手に於いては任せ奉る。搦手に於いては任せ給へ」とあひづを指したりければ、大本堂の前で俄に赤旗を作りて里品党三百余騎を先に立てて懸け出づるを、木曽是を見て怪しみをなし、「あれは何に」と云へば、「光盛が日来の約束違へ奉るまじ。御覧ぜられ候へ」とて、(千)隈河ノ鰭を艮に向かひて、城四郎が後の陣へぞ歩ませける。
 木曽、下知しけるは、「井上は、はや懸け出でたり。搦手渡しはてて義仲渡し合はせて懸けむずるぞ。一騎も後るな若党共」とて甲の緒をしめて待つ処に、城四郎は井上が赤旗を見▼P2408(八五ウ)付けて、搦手に遣はしつる津破の庄司家親が勢と心得て、「こなたへなこそ、荒手也。敵に向かへ、荒手なり」と、使を立てて下知する処に、虚きかずして、(千)隈河をさと渡し、敵の陣の前に大きなる堀あり。広さ二丈計也。光盛さしくつろげて堀をこす。向のはたに飛び渡る。連きて渡る者も有り、堀の底に落ち入る者もあり。光盛越えはてねば、赤旗かなぐりすてて白旗をぞ差し上げける。「伊与入道頼義舎弟、をとはの三郎頼遠が子息、隠岐守光明が孫、やてはの次郎長光が末葉、信乃国住人井上九郎光盛、敵をばかふこそたばかれ」とて、三百余騎馬の鼻を並べて北より南へ懸け通る。大手は木曽二千余騎にて南より北へ懸け通る。搦手、大手、取り返し取り返し、七より八より懸けければ、城四郎が多勢、四方へ村雲▼P2409(八六オ)立に懸けられて、立ち合ふ者は討たれにけり。逃ぐる者は大様河にぞ馳せこみける。馬も人も水に漂れて死ににけり。
 大将軍城四郎と笠原平五と返し合はせて戦ひけるが、長茂こらへかねて越後へ引き退く。河に流るる馬や人は、陸より落つる人よりも、湊へ前に流れ出でにけり。笠原平五は山にかかりて命生きて申しけるは、「生々世々に伝へも伝ふまじきは、越後武者の方人也。今度大勢にて木曽をば生け取りにしつべかりつる物を。逃げぬる事、運の極めなり」とて、出羽国へぞ落ちにける。
 木曽、横田の帥に切り懸くる頸共、五百人也。即ち城四郎跡目に付き、越後府に付きたれば、国の者共皆源氏に順ひにけり。城四郎安堵し難かりければ、会津へ落ちにけり。
 北陸道七ヶ国の兵共皆木曽に付きて、従ふ輩誰々ぞ。越後国には稲津新介、斎藤太、▼P2410(八六ウ)平泉寺長吏斎明威儀師、加賀国には林、富樫、井上、津端、能登国には土閑の者共、越中国には野尻、河上、石黒、宮崎、佐美太郎。此等牒状を遣はして、「木曽殿こそ城四郎追ひ落として、越後府に付きて責め上りて御はすなれ。いざや志ある様にて、召されぬさきに参らむ」と云ひければ、「子細なし」とて、打ち連れ参りければ、木曽悦びて信乃馬一疋づつぞたびたりける。さてこそ五万余騎には成りにけれ。「定めて平家の討手下らむずらむ。京近き越前国火打城をこしらへて籠もり候へ」と下知し置きて、吾が身は信乃へ帰りて横田城にぞ居住しにける。
 七月十四日に改元あり。養和元年とぞ申しける。八月三日肥後守貞能鎮西へ下向。太宰小弐大蔵種直、謀叛の聞こえあるに依つて、追討の為也。九日官庁にて大仁王会▼P2411(八七オ)行なはる。承平将門が乱逆の時、法性寺座主奉りて行はるるの例とぞ聞こへし。其の時、朝綱の宰相願文を書きて験有りと聞こえしかども、今度はさ様の沙汰も聞こへず。
廿七 〔城四郎越後の国の国司に任ずる事〕
 廿五日、除目に城四郎長茂、彼の国の守になさる。同兄城太郎資長、去二月廿五日他界の間、長茂国守に任ず。奥州住人藤原秀衡、彼の国の守に補せらる。「両国共以て頼朝義仲追討の為也」とぞ、聞書には載せられたりける。越後国は木曽押領して、長茂を追討して、国務にも及ばざりけり。
廿八 〔兵革の祈りに秘法共行はるる事〕
 廿六日、中宮亮通盛、能登守教経以下北国下向。木曽を追討の事は、城太郎資長に仰せ付けられたりけれども、猶下し遣はす。官兵等、九月▼P2412(八七ウ)九日、越後国にして源氏と合戦、平家終に打ち落とされにけり。かかりければ、廿八日、左馬頭行盛、薩摩守忠度、軍兵数千騎を率して、越後国へ発向す。
 兵革の御祈り一品ならず、様々の御願を立てられ、諸社に神領を寄せらる。神官、神人、諸社の宮司、本社末社にて各祈り申すべき由、院より召し仰せられ、諸寺諸社の僧綱、諸社にて調伏の法行はる。天台座主明雲僧正、摂政殿の御奉りにて、根本中堂にて七仏薬師の法行はる。薗城寺の円恵法親王、柳の宰相泰通の奉りにて、金堂にて北斗尊星王法を行はる。仁和寺の守覚法親王は、九条大納言有遠の奉りにて、孔雀経の法行はる。此の外の諸僧、勅宣を奉りて、不動、大元、如意輪の法、普賢延命▼P2413(八八オ)大熾盛光の法に至るまで各肝胆を催きて行はれけり。院の御所に五壇の法を行はる。中壇の大阿閣梨は房覚前大僧正、降三世壇は昌雲権僧正、軍茶利は覚誉権大僧正、大威徳は公顕前大僧正、金剛夜叉は朝憲権僧正等、面々に忠勤を致し、丹誠を抽きんでて行はる。「逆臣争か亡びざらむ」とぞ人申ける。
 又日吉社にて、謀叛の輩調伏の為に、五壇の法を始行しけるに、三七日勤行せられけるほどに、初七日の第五日に充たるに、降三世の大阿闍梨覚算法印、大行事の彼岸所にて俄に寝死に死ににけり。神明三宝御納受なしと云ふ事、既に掲焉なり。又朝敵追討の為に仰せを奉りて、十月八日、太元の法を修せらる。宣下の状に云はく、
 ▼P2414(八八ウ)明年三合の運に当たりて、去春二月の閏有り。各の徴前に発り、簇賊旁起こる。丁壮は軍旅に苦しみ、老弱は転漕に疲る。誠に拒敵の弘願に非ずは、争か憂国の叡情を慰めむ。宜しく小栗栖寺に大元の修法を修せしめ、阿闍梨大法師実厳、融宗に之を仰すべし。堪事、今日より始め七ヶ日夜の間、殊に丹誠を致し、必ず玄応を顕はすべし。其の料物は阿闍梨の支度に依り、諸司に就けて之を受けよてへり。
    養和元年十月八  日          右中弁
 同十日、左衛門権佐光長、仰せを奉りて、「興福寺、薗城寺の僧侶謀反の罪、繋囚の中に在り。非常の断、人主之を専らとす。須らく厚免すべき処に、件の輩恩蕩に浴して本寺に帰して後、若し悔過の思ひ無く、猶し▼P2415(八九オ)野心を変ぜずは、世の為寺の為、自ら後悔有らんか。戦国の政思慮すべきの由、議奏の人有り。然れども、彼の寺等、不慮の外に空しく灰燼と為る。茲に因りて、蒼天変ぜざれども、明神の崇りあらんか。若し此の議に依らば、彼の寺の僧侶を免さずは、赦の本意に非ざるか。免否の間、叡慮未だ決せず。左大将実定卿に計らひ申さしむべし」と問はれければ、「謀叛の者、死罪一等を減じ、遠流に処すべし。而るに今件の輩、繋囚の中に在り。遠流の罪を免じ、今度赦に会はば、殊に司天の奏に驚き、降霜の疑ひを止めむとす。厚免の粂、叡慮の趣、徳政に相叶ふか」とぞ申されける。さる程に、大法秘法行はれけれども、猶世の中閑かならず。仍て同十三日宣下せらる。其の状に云はく、
  源頼朝、同信義、去年より以来、 恣に己威を振るひ、猥しく皇憲を背く。▼P2416(八九ウ)唯東国の州県を虜掠するのみに非ず、既に北陸の土民を劫略せむと欲。黎元の愚、蒭蕘の県、各の勧誘の詞に赴きて、悉く反逆の中に入る。鳳衙の柄誡を顧みず、弥よ狼戻の奸心を挟む。之を訪ふに、古今曽て比類無し。仍て越前守平通盛朝臣、但馬守同経正朝臣等に仰せて、北陸道諸国の軍兵を催し駈りて、彼の頼朝、信義及び与力同意の輩を追討せしむべしてへり。
   養和元年十月十三  日                 左中弁
 同日、房覚僧正を院の御所へ召されて、「熊野山悪徒等、紀伊国にして度々官兵と合戦、剰へ彼山を滅亡せむと企つるよし、其の聞こえあり。怱ぎ登山して相しづむべき」よし、仰せ含められけり。東夷の雲上、南蛮の霞中、西戎の波底、北狄の雪山までも、平▼P2417(九〇オ)氏を背き源氏に従ふ。昔、王莽僣政棄民ありしかば、四夷競ひ起こり、葬を漸台に斬り、身肉臠を分かち、百姓其の舌を切り食ひき。世挙つて平家を悪みすること、王莽にことならず。「人の帰する所は天の与ふる所也。人の叛く所は、天の去る所也」と云へり。
 又、朝敵追討の仰せを奉りて、太元の法行はれける小栗栖寺の実厳阿闍梨、御巻数を進らせたりけるに、披見せらるる処に、平家追討の由したりけるこそあさましけれ。子細を尋ねらるる処に申されけるは、「朝敵調伏の由宣下せらるるの間、当世の体を見るに、平家朝敵と見えたり。仍りて専ら平家を調伏す。何の咎有るべき」とぞ申しける。平家此の事を憤りて、「此の僧流罪にや行ふべき。何がすべき」なむど沙汰有りけれども、大小事怱劇にて、な▼P2418(九〇ウ)にとなく止みにけり。さるほどに平家滅びて後、源氏の世と成りにしかば、大きに賀びて子細を奏聞す。法皇も御感あつて、其の勧賞に権律師に成されにけり。
 又去十一日、神祇官にて神饗、例幣を廿二社に立てらる。
廿九 〔大神宮へ鉄の甲冑送らるる事〕
 十四日、鉄の御甲冑を大神宮へ献らる。昔、承平将門を追討の御祈りに鉄の甲冑を献りたりけるが、去んじ嘉応元年十二月廿一日の炎上の時、焼けにけり。今度も其の例とぞ聞えし。御使は神祇権小副大仲臣定隆、之を勤む。父の祭主も同じく下向す。同十七日、伊勢籬宮院に下着す。申の時計りに、天井より一尺四五寸計りなる蛇、定隆に落ち懸かりて、定隆が左の袖の内へ入りにけり。「怪し」と思ひ▼P2419(九一オ)て袖を振りけれども見えず。「不思議や」とて、さて止みぬ。折節、人々数寄り合ひて酒を飲みけるに、なにとなくして日暮れにけり。さて其の夜、子の時計りに定隆寝入り、即ちよに苦しげにうめきければ、父祭主、「何に何に」と驚かしけれども驚かず。已に息少なく聞こえければ、築垣より外へかき出したりければ、定隆即ち死ににけり。父祭主いみになりぬ。さる程に奉使の中臣、事のかけたりければ、大宮司祐成が沙汰にて、散位従五位在猶以下差し進らせて、次第に御祭りなりにけり。
 此の外、臨時の官幣を立て、源氏追討の御祈りありけり。宣命に、「雷電神猶卅六里をひびかす。況や源頼朝、日本国を響かすべきかは」と書くべかりけるを、「源の頼」と書かれたり。宣命の外記奉りてかく例▼P2420(九一ウ)なるに、態とは書きあやまたじ。是然るべき失錯也。「頼」の字をば「たすく」と云ふ読みあり。「源をたすく」とよまれたり。憎も俗も、平家の方人する者、滅びけるこそ怖しけれ。されば、神明も三宝も御納受なしと云ふ事、掲焉也。
卅 〔諒闇に依つて大嘗会延引の事〕
 十一月、今年諒闇になりにしかば、大嘗会また行なはれず。天武天皇の御時より始めて、七月以前に御即位あれば、其の年の内に行はるるなれども、無かりしかば、様々の評定あり。五節ばかり形の如く行なはれて、終に行はれず。今年また諒闇なれば、沙汰にも及ばず。
 大嘗会延引の例は、平城天皇の御時、大同二年御禊あつて、十一月に大嘗会行ふべかりしを、兵革に依つて、同じき三年十一月御禊あり。十一月に遂げ行なはる。嵯峨▼P2421(九二オ)天皇の御宇、同じき四年、大嘗会あるべかりけるを、平城宮を造らるるによつて延引して、次の年弘仁元年十一月にぞ遂げ行はれける。朱雀院の御時は、承平元年七月十九日、宇多院失せ給ひしかば、延びにけり。三条院の御時、寛治八年十月四日、冷泉院の御事に依つて行はれず。次の年長和元年にぞ遂げ行はれける。
 代々、次の年まで延ぶる例は有りと云へども、二ヶ年まで延引の例は未だ聞かず。去年新都にて其の所なかりければ、力及ばず。大極殿、豊楽院は未だ造り出だされねば、三条院の御時の例に任せて、大政官庁にて行はるべかりつるを、天下諒闇に成りぬる上は、とかく子細に及ばず。「二ヶ年まで延引の御事、何なるべき御事やらむ」と、人あやしみ申しけり。
▼P2422(九二ウ)
卅一 〔皇嘉門院崩御の事〕
 十二月三日、皇嘉門院失せさせ給ひぬ。御年六十。是は法性寺の禅定殿下の御娘、崇徳院の后にて御ましき。院、讃岐へ遷され御ましし時の御物思ひ、何ばかりなりけむ。思ひ遣るこそ哀れなれ。命は限りあり。思ひには死なぬ習ひなればや、即ち御出家有りて、一向後生菩提の御営みより外は、他の行ひましまさざりければ、院の御菩提のかざりともなりて、吾が御身の得道疑ひ無し。随ひて、兼ねて時覚らせましまして、最後の御有様目出たく、仏前には異香あり。御善知識は、大原来迎院の本浄房堪慶とぞ聞こへし。昔の御なごりとて残り給ひたりつるにとおぼへて哀れなり。
卅二 〔覚快法親王失せ給ふ事〕
 同じき六日、戌の時ばかりに、前の座主覚快法親王失せさせ給ひぬ。是は鳥羽院▼P2423(九三オ)の第七宮にて渡らせ給ふ。御年四十八とぞ聞こへし。
〔卅三〕 〔院の御所に移徙有る事〕
 十三日、院の御所に移徙あり。公卿十人、殿上人四十人供奉して、うるはしき御粧にてぞ有りける。本渡らせ給ひし法性寺殿の御所をこぼちて、千体の御堂の傍につくりて、女院方々すへならべまひらせて、おぼしめすさまにてぞ渡らせ給ひける。
 平家物語第三本
▼P2425(九三ウ)本に云はく、
   時に延慶二年〈己酉〉 七月廿五日、紀州那賀郡根来寺石曳院の内禅定院の住坊に於いて、之を書写す。穴賢、外見披覧の儀有るべからざるのみ。
                      執筆栄厳 〈生年 三十〉
   応永廿七年八月廿一日、妙楽院に於いて之を書写す。
                   権律師融憲
                                    (花押)