『大正畸人伝』の宮武外骨評

                        

菊池眞一

鳥谷部陽太郎著『大正畸人伝』(大正14年12月5日)に
廃姓外骨
の一章がある。
以下、引用。


   廃姓外骨

    1
 廃姓(旧姓宮武)外骨氏は未曾有の奇智頓才の持主であり、変態知識学者としても実に天下独歩の観がある。それに氏は、又俗世に超然たる気骨稜々の士である。
 外骨氏は今年五十九歳になる。それで"オイサキの短い"事を感じたものか、ひと頃東京朝日新聞で試みた"探してゐるもの"欄に一身上の大問題として、自分の死体買収人を求むる旨発表した事があつた。その一文の如き、如何にも氏の面目を躍如たらしめてゐる。即ち氏はいふ。"亡妻の墓を建てない墳墓廃止論の実行、養女廃嫡のため宮武をやめた廃姓廃家の実行、今は一人身で子供のために計る心配はないが、たゞ自分の肉体をかたづける事に心配して居る。友達は何とかして呉れるだらうとは思ふが、墓を建てられると今の主張に反する。自認稀代のスネモノ、灰にして棄られるのも惜しい気がする。そこで此の死後の肉体を買つて呉れる人を探してゐる。但しそれには条件がつく。仮りに千円(死馬の骨と同額)で買取るとすれば其契約同時に半金五百円を保証金として前払ひに貰ひ、あとの半金は死体と引き換へ(友達の呑料)それで前取りの半金は死体の解剖料と骸骨箱入りの保存料として東大医学部精神病科に前納して置く。半狂堂主人の死体解剖骸骨保存、呉秀三博士と杉田直樹博士が待ちうけて居る筈。オイサキの短い者です。至急申込を要する。"
 随分人を食つた発表ではあるが、然しそれが外骨氏であつて見れば別にいやな気も起らない。

    2
 さて外骨氏には、私は別に面識がある訳でもなく、又氏の著書に特別に親しんだ訳でもない。私は単に、遠方から氏の風格を懐しんでゐるといふに止まる者なので、氏を語る資格に乏しい。
 然し私は、氏に就いて次ぎのやうな貧弱な知識を何時、誰からといふ事なしに授けられてゐる。
 先づ、その外骨といふ奇抜な名に就いてゞある。氏は以前、氏の発行にかゝる雑誌図書の奥付に、著者宮武外骨と署してその下に"これ本名也"と捺印してゐた。かやうに本人の証明を要する程、外骨なる名は奇妙である。だから大抵の人は外骨をば雅号と思つてゐるに違ひない。
 ところで此の珍妙極まる外骨の名の起原はかうである。実は氏の幼名は亀五郎であつたが、氏は、亀は肉を内にし、骨を外にするものと考へた。そこで氏は外骨と改名したのである。
 一体、すべて恁ういつた調子に出来てゐる氏は、夙に平賀源内の人となりを慕うて、一時明治源内と号してゐた事もある。それに氏は九星の七赤男で、源内と其の姓を同じうするので、それをひどく喜んでもゐた。それから氏は、讃岐小野村の産なので、小野村夫と云つてゐた事もある。
 次ぎに、氏の生ひ立ちに就いて、私の知つてゐる所を述べて見やう。
 外骨氏は相当豊な家に生れた。氏は幼児から気を負ひ、人後に付随することを喜ばないで、常に人の意表に出やうと心がけてゐた。だから氏は何時までも僻村に跼蹐してゐる事が出来なかつた。
 氏は二十歳の頃、窃に五百円を懐中して何所といふあてもなく漂泊の旅に出た。その頃は恰度、自転車が輸入されて、人々の注目を引いてゐた。氏も好奇心にかられて此の自転車を買ふ気になり、一生懸命捜してやつと神戸の外人から、大枚三百金を投じて一台購入した。かくて氏は得意満面此の自転車で東海道旅行を試み、遂にその姿を東京に現したのである。そして氏は友達の家に宿つたのだが、此の友も余程呑気な男だつたと見えて、それから此の若い二人は相談して、東京を自転車で乗り廻し、百人の婦人の頰を撫でてやらうといふ事になつた。かくて春爛漫の花の色に埋もれた上野向島辺の人通りの多い所を二人は自転車を飛ばし乍ら婦人の頰を撫で、愈よ百人目といふ時に此の二人の悪戯者はひどい目にあつた。
 その日も二人は得意で向島を乗り廻してゐると、向ふから素敵な美人が来る。よき獲者ござんなれとばかり駆けて行つて頰を撫でると、思きやその傍らに、その美人の良人がゐて、素早く二人を捕へて拳骨の雨を降らしたのである。
 それから外骨氏が東京に居を構へて、滑稽雑誌"頓智"を発行するや、果然大変な評判を得た。が当時は恰度憲法の発布された際だつたので、氏は憲法を諷刺した骸骨の憲法発布式の附録絵を"頓智"に添へた。そのために忌諱に触れて、牢に入れられたが、素より氏に何等不敬の心あつての事ではなかつたので、獄にゐても、別にそれを苦にもしてゐなかつた。氏の獄中の課役は活版の校正係だつた。氏はこれを幸ひとして窃に"鉄窓志林"なる獄中新聞の発刊を計画した。何かせずに居れぬ氏としては誠に恰好の思ひつきである。そこで氏は"鉄窓志林"発刊の趣旨を印刷して囚人中文筆の心得ある連中に配布して投書を集め、自分は主筆となつて獄中新聞を数ヶ月間発行した。が、その中見付けられて、発行停止を命ぜられた。
 獄を出てから、氏は世間を韜晦して、台湾で養鶏事業などやつたが、さうした事業に氏は成功する人ではなかつた。氏は悉く資産を失つて明治三十年頃、七十五銭かを懐中して、大阪に現れた。
 幸ひそこで金主を見付けて、今度は"滑稽新聞"を発行した。そして氏は大阪一流のユスリ新聞や詐偽売薬などに盛んに筆誅を加へた。これが市民にひどく喜ばれた。特に氏が本願寺法主の淫行を暴露して諷刺画まで淹れて書立てたので、市民はひどく喜んだが、然し氏は其ため風俗壊乱罪で屡罰金を命ぜられ又ユスリ刑事の筆誅をやつて、官吏侮辱罪に問はれて社員が拘禁されなどした。
 その後氏は再び東京に現れて益々氏の本領を発揮し、色々の滑稽頓智雑誌図書を発行し続けて来た。そしてすべて氏の文は滑稽駄じやれに終始してゐるやうでるが、然もその中には諷刺もあり、筆誅もある。それに氏の面目は常に権力金力に屈しない点にある。
 氏は近来、その独特の知識欲を満足させ乍ら、学会でも珍重するに価むする文献を続々刊行してゐる。

     3
 外骨氏に就いて以上の如く書いた後、私は偶然、友人の手許にある氏の著"筆禍史"を手にした。するとその著の終りの自跋に、氏は自分の過去を語つてゐた。もちろん、私はその一文を非常な興味をもつて読んだ。そして以上の私の氏に関する知識が、大体間違つてゐなかつた事を確めたと共に、人は文なりの言葉通り、外骨氏自身、自己を語つた此の一文は、ひどく精彩に富んでゐた。それで私は重複を厭はず、次にその跋文の大半を抜萃することにした。実は、私は最初に掲げた外骨氏自身執筆の死体買受人をつのるの一文と、この跋文のみでも、外骨氏その人の面目を十分に知り得ると思つてゐる位で、私の書き加へた部分は、文字通り駄足に過ぎない観がある。

 "予の先祖は備中の穢多であるさうな。予は讃岐の小野といふ村で生れた者であるが、予の先祖は今より五六百年前に、備中から讃岐に移住した者であつたので、当時近所の者共は"他国から移住する奴はロクナ者はない、いづれ穢多か、さもなくば人を殺して逃げて来たのだらう"と云つたさうである。現今讃岐には宮武といふ姓の家が数十軒あるが、他の国には無い、只備中だけにはあると云ふから、或は予の先祖は備中の穢多であつたのかも知れない。だが予は穢多と呼ばれた特殊部落で生れたのではなく、予の実父は庄屋様といふ役をも勤めた立派な農家である。
 その四男の予は一生農家で果てるのを嫌つて、幼少の時に学問修行のためと云つて東京に出た。所謂遊学で、其十四五歳の頃、朝野新聞、近時評論、東京新誌、其外新刊の書籍を読んで見て大いに感じた、凡そ人々の此世に処する途には種々あるが、我輩もどうかして著述家とか云はれる人ほど愉快な者はあるまい、我輩もどうかして成島柳北だの北正明だの服部誠一だのといふ人のやうな身になつて見たい、見たい々々で只毎日新聞雑誌と新刊書ばかりを読んで、一向何等の修養もせず、遂に十八歳の時から、大胆無謀にも筆を執つて、今日まて世の中を渡つて来たのである。
 相当の修養があつての操觚家ならば、謹厳の筆を執るであらうが、根が備中の穢多の子孫らしい予の事であるから、其二十幾年間には、筆のために禍を買つて三度入獄した。満江隔波生花とか何とか云つて、通計四ケ年余の獄中生活をしたのである。又予が筆を執つた事で、署名責任者が入獄した事も三回あり、罰金刑に処せられた事が十五六回、発売禁止印本差押の処分を受けた事が二十回以上もある。世間に長い間記者の職に就いて居る人も多いが、我輩ほど度々筆禍にかゝつた者は、恐らく古今にあるまいと思ふ。其懲性の無いシブトイ所が穢多根性の遺伝かも知れないが、これが若し旧幕府時代であつたならば、遠の昔"町内引廻しの上、獄門に行ふ者なり"の重刑に処せられて、二回三回の筆禍を重ねるほど長生きする事もできなかつたであらうが、明治聖代の難有さには、内務省の注意人物ではあるが、今に壮健で皆様の御愛顧を得て居る。実以て仕合な次第である。云々"
(氏の著"筆禍史"は明治四十四年五月、大阪の雅俗文庫から発行されてゐる。)


 さて此の氏の述べた身の上話と、私の記事と相違してゐる所は、氏の上京のクダリである。勿論氏自身語つてゐる方が本当に違ひない。然し私の書いた氏の少年時の逸話も、氏の飄逸な一面を伝へたものとして見る時、事実の有無は如何にもあれ、氏の面目を語るに相当役立つてゐるとせねばなるまい。
(鳥谷部陽太郎『大正畸人伝』大正14年12月5日)







2016年3月20日公開

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