宮武外骨著
〔自家〕性的犠牲史
大阪出版社発行


  自序

端唄文句に「言はゞ言はんせ、謗らんせ、人のせぬ事したぢやなし」といふのがある、此文句は本書の自序として最も道切であらう、予は正妻のある時代に権妻を抱えたのでなく、家政と性事を兼ねた一時の賃傭婦であつたが、世間には一夫一婦に満足せず、隠し妻を囲つて淫蕩性を満足せしめる人々が多くあつた。そんな人々は自己の破倫を恥として其蓄妾伝を書かない、明治初期の権妻大流行であつた時代に蓄妾家として著名な代表的人物は左の十数名、中には一時に三妾五妾を囲つてゐたのもある。

  神田孝平、広沢真臣、江藤新平、木戸孝允、大久保利通、井上馨、伊藤博文、
  山県有朋、黒田清隆、榎本武揚、西郷従道、渡辺昇、鳥尾得庵、杉孫七郎、
  高島鞆之助、沖固守、千阪高雅、蜂須賀茂詔、鍋島直大、松平康載、大谷光
  瑩、田中長兵衛、森山茂、岩谷松平

是等の人々をして其自己の蓄妾伝を書かしめたならば、本書以上の面白い読物が出来たであらうに、予が調査した所に拠ると、自己が妾の事を書いた者は高雲外(鋭一)たゞ一人である、二十七歳で死んだ妾ハナの墓碑文を書いて閲歴を叙し

 (漢文)
 嗚呼、浮生ノ夢タル孰カ虚幻ヲ弁ゼン、其悲ミ竟ニ何如ゾヤ、ハナ情婉ニシテ才敏、心気堅耐云々

追悼の文ではあるがノロケの表示に過ぎない、これだけの事すら発表し得ない人々が多かつたのは、要するに妻重ねの罪を隠蔽して、正廉君子らしく、道徳家らしく裝ふたのである、予の本書はそんな虚偽を打破したアカラサマの告白、これをも彼是と非難する者があるとすれば、それこそ「ほんに五月蠅い人の口」と云ふべけれである。
本書は一昨年の記述で、昭和四年九月十六日以降の「関西中央新聞」及「神戸又新日報」に続載されたものをまとめ、それに同年二月「婦人公論」に出した一篇を附録とし、一句一章の改刪をも加へないものである、これを何故単行本にして世間に再び発表するかと云へば、それは後の外骨研究とか外骨伝とかを書く人の参考に資したいからである。
  昭和六年三月二十五日



  目次

権妻物語
 こすのと嬢(上)
 こすのと嬢(下)
 せゝなぎ媛
 龍池の蓮葉
 傾城式の魔女
 撫子とあざみ
 梵妻の逃亡者
 所帯くづしの女
 無料の一夜権妻
 あばずれ者
 芽生へぬ菜根
 性的枯渇の婆
 自炊自活の独居

 我が家の猫いらず騒動
 突発事件の概略
 前妻の死後
 二十六歳の淪落女
 妾としての四ケ年間
 本妻として復帰
 不義行為の発覚
 ゆるして下さいませんか
 死んでおわびを致します
 未練男の愚痴か
 自己慰安の即行
目次終




〔自家〕性的犠牲史 ―予の蓄妾伝―

  本名『権妻物語』

               宮武外骨

種族存続法の要諦たる性本能の衝動を満足せしめる手段は、一夫一婦制を人倫の大道とするが、世間には公娼私娼の存在があり、また蓄妾といふ事実も行なはれる。其蓄妾に娯楽的と実用的との二種あるが、予の蓄妾は一夫一婦制の実用を兼ねた娯楽であつた。俗にいふ「炊き転び」であり「小間ざわり」であり「カリの妻」であつた。
妾を「目掛」又は「手掛」とも云ひ、略して「おめか」又は「おてか」とも云つた。美貌に目を掛けて愛着するから目掛であり、肌に手を掛けて抱擁するから手掛。予の妾には目を掛ける程の美人でないのもあり半年一年手も足も掛けない例外の婆さんもあつた。明治十八年より昭和三年に至るまでの間に取り替へ引変へ雇入れた十六人の妾、性的犠牲の奴隷列僖、いはゆる十人十色で十六人十六色の事実談をサラケ出すのである。むかしは「妾を秘して婢と称す」であツたに恥も外聞も構はず自分で自分の妾ばなし、上方人は「ケツタイな人や、あほかいナ」とけなすであらう。江戸ツ子は「人を馬鹿にしてゐらア、べランメー」ど罵るであらうが、其貶されたり罵られたりする所が、予の特有性格で、唯我独尊の意義ある者と自認する変物、何と評されても、コチヤ構へんのやから、あきまへんやろ。

権妻といふ語は、徳川時代になく、又大正昭和の時代にも行はれない明治初期の特別語である、其語を標題に使ふ理由をこゝに弁じて置かねばならぬ。
大国主命は蓄妾の開祖であると云ふが、そんな神話時代の事は措いて、平安朝時代より足利時代の末期までにも蓄妾は行はれ、豊臣太閤などは一夫多妻主義で妾と称せず、五妻と呼んだ例もあり、徳川時代の制度にも妾を認めて居たが、明治の新政府は、三年末の新律綱領で親族例を定め「妻妾」を同格とした、そこで妾を「二等親」と呼び「権妻」とも称する事になつたのである「権妻」を正妻の副として「正妻権妻」といふ語も行はれたが、此権妻といふ語は副妻の義でなく、「カリの妻」といふ意である。
明治初期の官制に、大書記官、権大書記官。知事、権知事。県令、権令。判事、権判事等の官名があつたに擬したのであるが、此「権」は「カリ」の義で、大阪庁知事に大阪府権知事が附物であつたのでなく、兵庫県権令があれば、兵庫県令は無かつたのである。故に「権妻の権は無妻者が妾をして権りに妻の職を執らしむるの義」と云ふのである。
予の十六妾は本妻のある者が娯楽的に抱える慰み者とは違ひ、本妻の代りに権りの妻。
「権妻の縁は出雲の当座帳」であるから、其当座の「権妻物語」と云ふのを適当と信ずるに因るのである。

予の蓄妾談の前提として、明治初期に於ける権妻大流行の一班を読者に示して置く必要がある。
私通する雇ひ女と見られてゐた妾が、法制上、妻と同格の二等親に成つたので、公然妾をつれて外出することが名誉と認められる風習に変じたのと、明治初期の官吏は、物価の低廉時代に拘はらず、比較的高い月給を取つたので、茶屋遊びでもせねば金の遣ひ途がないと云ふ程で豪遊を極め、其宴席に侍らした芸妓を落籍したり「長官の妾判ニンが女衒をし」で、下僚に命じて探させた美人を妾にするなど、奏任以上の官吏で妾をかゝえない者は恥辱とされるに至り、等外吏までが安い妾を置く事になつた。それにマネル華族、豪商、富農の蓄妾は公然の沙汰として怪しむ者なく、一顕官にして一妻三妾を弄する者あり、一富豪にして一妻五妾を抱える者もあった。

「今之公卿者皆淫佚家也、守一妻不二其愛者寥々如暁星、他皆正妻之外不有権妻必有外妾」

と『鴛枕情話』の著者をして岡焼半分に書かしめ、又

「貴賤上下の隔てなく権妻流行の時には夫々の身分相応な安い囲ひ者もあります、深川福住町廿五番地の増田清右衛門の娘お菊は二十七八の別嬪で、同所蛤町一丁目三番地の魚屋浅野岩吉の囲ひ者に成りましたが、給金は毎日唯の四銭づゝの日掛で貰ふ筈で、去年の九月十四日から取極めた処が、其の後一厘一毛も呉れないとて、一昨十五日其区の分署へ訴へたれば、岩吉をお呼び出しの上、示談をせよとお諭しに成りました、安いもの安いもの」

と明治九年一月十七日発行の「読売新聞」に出てゐるなどで、其流行の一班を察知し得られるが、此権妻の流行は時勢として、供給者の頻出した事も一因と認めねばならぬ。それは士族の娘が芸娼妓に成る事を禁ぜられてゐた明治十年前後、廃藩で扶持に離れた多くの貧乏士族が自分の娘を妾に出して自活の法とした事である。それで英語の妾 CONCUBINE
此「コンキユーバイン」とは貧乏士族が困窮の果、娘に売淫をさせる事である、とコヂツケの洒落が行はれた程である。


   こすのと嬢(上)

「そも堕落の始まりは」と云ふと、甚だ人聞きがよくない「青春の血が湧いて、色のいろはの筆下し……はじめて異性に接触したのは何時頃か」と記せば。何となく文学的であり、又人間並の問題であらう。其人間並は此嬢に先だつこと凡そ二年ほど前であつた。
それでお年齢はと訊かるれば、お答へせずに措けない、御維新前の慶応三年正月生、明治元年より一年前のおぎやア、昭和四年は丁卯の還暦を過ぎた六十三歳、再生外骨としては、マダ三つにしかならぬ赤ン坊である。その赤ン坊が前生の艶事叙述、因果物語にも浮世草紙にもない今昔の色気咄し、珍中の珍として読まざアならぬ堕落偉人の径路。皆さんの訓戒にならぬとしてもお笑ひ草にさるれば結構である。
東京へ三ケ年間の遊学として、讃岐滝宮在の郷里を出発したのが明治十四年の初春であつた。留まること三年、遊学はその字の如く遊学であツて、明治十六年の末に呼び戻された、農業生活に大した学問はいらない、百姓から年貫を取る外は詩でも作つて遊んで居ればよいのだ、と云ふ両親の意見にしたがつて帰郷したのである。
予は実家に居ること約一年、その間新聞雑誌へ投書することを表面のたのしみとしてゐた外、近郷の淫奔娘や売女に関係した事も少くなかツたが、明治十七年十二月末頃、滝宮の茶屋で遊んで居ると、そこへ苧坂松造といふ猟師がやって来て「小旦那さん、一盃頂戴いたしませう」と其席へ列し、去るに臨んで「お帰りがけにチヨツト私の宅へお立ち寄り下さいませ、お話いたしたい事があります」と云ツた。これなん誘惑の魔手……とは後にぞ思ひ知られけるであつた。
抑も此滝宮といふ所は、綾川の鮎滝といふ絶勝の地に接し、丘上に牛頭天皇の宮があるので滝宮と称し、仁和の昔、菅原道真公が、讃岐守として三年在任された当時の庁舍も此滝宮に在つたので、その旧跡も多く存して居る、予の生家は此滝宮を距ること七八町の西である。菅公は在任三ヶ年中当時の臣下。七学士の一人たる儒者有岡牡丹の娘お藤の方といふ美人を妾とし、夜毎に牡丹の宅へ通はせられたが、任期満ちて京へお帰りの際、無情にもお藤の方に永の暇をやつたので、お藤の方は殿恋しの遣る瀬なく賜衣の袖を引切つて松の枝に打ち掛けたと云ふ伝説がある。その有岡牡丹の宅跡に天満天神宮の祠あり、お藤天神と称し、其前にお藤の袖かけ松といふ老樹が今尚存在してゐる、蓄妾二十幾名、到る所に落胤があつたと云ふ菅公の事であるから、此伝説の艶聞も根拠なき誣妄と断定する事は出来ない。

此脱線記事が後の伏線記事であるとすれば、予が天満天神様モドキになつて勿体ないが、そこは説明の順序として仕方もあるまい。

却説(さて)、猟師苧坂松造の宅へ立寄つて、用談とは何事であるかと訊くに、松造は声
を低めて

「同じお遊びなさるならば、此滝宮などで、小便臭い女を相手になさるよりは、上等の女をお抱えになつては如何です、幸ひ私の懇意な者が出入して居る高松磨屋町の西村といふ高松藩の士族に、別嬪の娘がありまして今年十七歳、父親は先年亡くなり、母親と兄の三人暮しですが何処かにお世話して下さるお方があれば内々お妾になつてもよいと云ふのであります、私も一度其お娘子に逢つて見ましたが、実に上品なおとなしい綺量よしで三味線も上手、生花の心得もある無類のお娘子でありました。毎月の手当はお心まかせでよいと云ふのです、思召はございませんか」

この甘言に何条心の動かざらんやで、兎も角本人を見た上でと云ふ事になつた、其翌日五里の長途を人力車に乗つて高松へ出かけ、料理屋などでは人目があるとて其娘の宅へ直ぐに行つたのである。かねて通知してあつたと見え、娘は紅白粉の化粧で待ち、酒肴も出て雑談半に娘の一曲をお耳に入れたいと三味線を取り出した、其一曲は上方唄の「こすのと」といふ端唄であつた、今に忘れない

『浮草は思案の外の誘ふ水、恋が浮世か、浮世が恋か、ちよつと聞きたい松の風 問へど答へも山ほとゝぎす……」

其音吐の嫋々艶冶、迦陵頻伽の声もこれに若かじと、心は有頂天外に飛び、其夜はそこに一泊し、翌朝惜しき別れを「さよなら」と待たせて置いた人力車で面白くもない実家へ帰つた。
それより三日とあけず、五里の長途を人力車で通ひつめた、それも昼間では両親の手前を憚らねばならぬので、日没頃よりフラリと家を出て、滝宮より韋駄天の如く車夫を飛ばせ、一時半にて高松に着し、翌朝未明頃に帰り、寝布団にモグリ込みやがて平常の如く起き出て、両親と共に朝食の膳につき、素知らぬ顔で済してゐたが、隠れたるより顕はるゝはなし、イツか母親に看破され、事の次第を白状せねばならなくなつた。
鬼か仏か、親馬鹿チヤンリンの母性愛は、これを如何に処分したか。


   こすのと嬢(下)

「浮草は思案の外の誘ふ水」とは、こすのと嬢現実の境遇を穿つた名句である。東京帰りとは云へ、土臭い農家の冷飯息子、図らぬ縁で枕席を共にせねばならぬ可憐の成り行き、此方は富の圧制で出来た仲とも知らず、愛におぼれて熱くなり「恋が浮世か、浮世が恋か」と有頂天の通ひづめ、それと知つた母親は「お前がそれ程気に入つた女ならば嫁に貰つては如何か」と慈愛至情の有難い言葉、それと云ふも、予が常々、再び東京へ出たいと望んでゐた事の牽制にも成ると見ての計らひ「深山の奥の佗住居、手鍋さげても厭やせぬ」といふカタもあり、予は母の言に従ひ嫁として貰ふ事にした。
予は兄姉妹(けうだい)七人の同胞、四男の末子であるが、幼少の頃より分家として籍を分け同じ村内の宮裏といふ所に土地家屋があり、其家屋を貸家としてあつたのを俄かにあけさせ、不取敢其処で新世帯を持つ事にし、高松の西村家へは五百円の支度金を贈つて、こすのと嬢こと房子を迎へる事にした、当時の五百円は今の四五千円に相当する価格があるので、高価の寝子買として嫉む同胞もあつた。
それで新家庭を作つたが、僅かに一ヶ月と経ぬ内に、其新世帯をつぶす事にした、それは他家へ縁付いてゐる予の妹が「あんな金で買つた寝子を姉様とは呼ばない、一生交際もしない」と親族一同へ触れ廻つたのが気に食はず、新嫁にも済まないので、郷里を去つて東京ヘ二人で駈落ちする内談をきめ、表面は予一人が東京へ上り、房子は高松の実家へ帰らすと云ふ事にした、それで母親の心配は一方でなく、妹の一言が破壊の基であるとして調停に努めたが、強情の妹は初志を翻へさず、予も我儘を通したので、愈々上京と决し、房子は高松へ帰らせたが、予の母は「あれが一人で上京する筈はない、必ず房子をつれて行くに定まつてゐる、二人で行けば生活に困るから、一人で上京させねばならぬ」といつて予が東方の高松より神戸行の汽船に乗ることを許さず、西方の多度津港より出発せよとて、母の弟(予の叔父)を予に付け、四里余の多度津港まで送らせ、神戸行の切符と旅費をイザ乗船といふ間際に波止場で渡され、ブーブーの汽笛を鳴らし、煙を残して発航した、本船を見極め叔父は使命果たせりと安心して母に報告した。
何ぞ知らん、多度津港よりの出船は、神戸直航ばかりでなく、高松へ寄港するのもあるので、予は特にその船を選んで乗り、神戸行の二等切符でも、前提を棄てれば高松で上陸の出来得ることを知らない母と叔父、田舎の人は正直で迂濶だと云はれる一例であらうが、後日叔父は、若輩にウマク歎かれたと口惜しがつたさうである。
それで予は高松に上陸して、前に牒し合せた家より房子をつれ出し、汽船宿に引返して次ぎの発船を待ち、翌朝神戸に着し、さらに横浜行の汽船に乗り(東海道線の汽車は未開通の時代)二日間にて鳥が鳴く吾妻の都に着きにけりであつた。東京へ房子をつれて行くなら金は一切おくらぬぞといふ母の宣告、それで二人は何とかして自活をせねばならぬ始末、先づ京橋の親族方へ落ちつき、身のふり方を相談すると、幸ひにも記帳係と郵便受取所の事務取扱ひをせよと命ぜられ、二人がその家に厄介となること約一年、親族が他へ移転と同時に仕事がなく成り、今度は二人が三田の親族方へ居候といふことになつた、其処で出版事業の手伝など半年ばかりやつてゐるうち、その事業も思はしく行かぬので、何時までも厄介になつても居れず、予は京橋南鍋町の貸二階に住んで、雑誌発行の計画をすることにし、その見込みがつくまでの間、お前はどこかで奉公勤めをしてくれと、房子を新潟県令(知事)であつた永山盛輝といふ人の本邸へ仲働きとして住込ませた、その後時々アイビキもしてゐたが、雑誌発行の事業は金がなくては成立たずクダラヌ編輯物などしてヤツト生活してゐたが、神田駿河台へ移転した後、図らずも国許の母から二十五円の金を送つて呉れたので、その金を銀座の読売新聞社へ「頓智協会雑誌」第一号千部の印刷製本料として払込み、新聞紙上へ出す広告料も無いので、出来上りの冊子を風呂敷に包み、それを下げて、東京市内のあらゆる雑誌店へ預け売りとして托した、それが大当りで元価一冊二銭五厘の物を七銭で卸したのであるから、千部で四十五円の利益、其の金で再版三版の大景気、一ヶ月二十円あれば雇人二三人を置いて楽に生活の出来る時代に、毎月二三百円の収入があるので、良からぬ遊蕩根性が勃発して、妾を置く外、一ヶ月間に二十回以上の吉原行、収入の全額を遣ひ果たしてマダ足りない程の乱行であツた。
其間に房子を引取つてやれば、如何に喜んだであらうかとは後年に思つた事、若気の無法とは云ひながら、棄てゝ顧みなかつた薄情さは、人非人の極みであつたと慚悔に堪へない、房子は温柔貞淑で別居以来浮いた事もなく、只々予の成功を祈つて居たのであるに、予が顧みないので神田警察署へ説諭願ひを出した事もあつた、両人対審の際、房子は「此人が生活に困つて居るのならば、私は何年でも勤め奉公をして居りますが、昨今は妾を置いて贅沢な暮しをしてゐながら、私を棄てゝ振向かないのはヒドイと思ひます、私は棄られたと云つて今更オメオメと国へ帰る面目もありません」と泣き伏した。
其後予は「頓智協会雑誌」の記事で入獄し、禁錮三年と決定した時、房子はそれを口実として高松に帰り、大きな紺屋へ嫁入したと聞いた、予は罪ならぬ罪で繫獄の身になつたと思つて居るが、それにしても、此房子に対する薄情の天罰と見れば、禁錮三年ではヤス過ぎたかも知れない「旧事悔恨多し」であるが、性的関係の旧事で、此房子に対した冷酷一件ほど痛切に悔恨を感ずる事は外にない。


   せゝなぎ媛

「娼妓は一夜妻、妾は揚詰の娼妓なり」といつた人がある、啻に共通性があるのみでなく、妾奉公の果に娼妓と成り、娼妓めがりで妾奉公する者も多い、それで甲の旦那に逐はれた妾は、直ぐに乙の家に入り、乙に棄てらるれば丙に就くことの平気さは、呉客越郎送旧迎新の娼妓に異ならない。
「お妾は売られはぐつた娘なり」で、娼妓になりそこねたのもある、それかあらぬか、予が成金として吉原通ひの外、家に妾をおくことにした東京での筆頭は、神田元柳原町にゐた藤沢ミツといふ十九歳の美人、それは明治二十一年春のことで、神田連雀町の関根屋といふ周旋屋の紹介で入れたのであつた。
当時の妾相場は月手当三円より八円まで、最上等無類飛切といふので十円位であつた、その等級は無論美容の程度、手芸の巧拙等によるのである、それで右の藤沢ミツは上玉の部として月手当七円であつた、然らばその七円ポツキリで済むかと問ふは野暮、衣裳髪飾の料、観劇、料理茶屋行、無心、ねだり等の出費は毎月四五十円を要するのである。
「ワタクシは以前、末松謙澄さんのお家へあがつて居た事もあります、ツイ先日までは伊沢修二さんのお世話に成つてゐましたが都合で」と、当人が誇り気にはなす咄しであつた。
内務省県治局長末松謙澄(後の文部大臣男爵)文部省編輯局長伊沢修二(教育学者として著名の人)の愛妾であつたお古、琴、三絃、生花の心得もあり「いやらしさ妾この頃茶を始め」の稽古もやつたらしい妾法専門仕込みの婀娜者であつた「いゝ面の皮で二親すごす也」この子のお蔭で両親は左団扇の生活をして居たのである。
ズルイといふ性格でなく、下卑た行為のあるでもなく、お世辞のよい愛嬌者であるに、末松にしろ伊沢にしろ、それを永く置かなかつたのは何故であらうかと云ふ疑問が起らざるを得ない処、何等の欠点もない者であれば、半年や一年でイトマを出す筈はない。
斯く観察して考へて見たが、そのイヤに成る原因としての一事に思ひ当つた、それはこゝに公言するを憚らねばならぬ生理的の問題である、予も半年たつかたゝぬ内に、イヤ気がさして解雇する事にした、その宣告を聴いた彼女は、暫らく泣き伏して居たので、予も憫然の感に打たれたが、やがて身を起して、自分の衣裳や手道具を手早く取りまとめて「さよなら、お世話さまになりました」どサツサと出て行つた平気な態度を見て、多くの前例を持つ妾法専門者の常習行動と感じて、前の可哀想が失せて「御縁があつたら又おいで」の挨拶で別れた。
家に入れて同棲しつゝあつた妾を、何等の突発事故なくして放逐することは、如何に冷酷性の男としても、気持のよい事ではない、況んやなきふして「何がお気に入らないのですか」と詰問するに均しい悲哀の表現あるに於てをやである。
彼女が泣き伏した後「お気には入らないでせうが、モウ暫く御辛抱を願はれませんでせうか」とでも哀求さるれば、予は人情として放逐を見合せたであらう、決点と云つても、忍ぶに堪へない事でもなく、世間にあり勝ちの一小事に過ぎないからである。
彼女は予の家を去つて後、十日とたゝぬ内に、今度は教科書屋金港堂の番頭何某の囲ひ女になつて、旦那の何某は彼女の住宅へ通つて居た、予は解雇した後に、幾許かの未練が生じたので、時々たづねて行つたことがあり、彼女も時々あそびに来たこともあつた、予は彼女を解雇して後、直ぐに候補者を物色して、下谷数寄屋町の芸妓を外妾としてその住家へ通ふことにした、それは自分の宅へ入れたり出したりすることの頻繁は、友人や近辺の者に体裁がよくないから、弥々気に入つた永久性の認めが付いた女でなくば入れないと決めたのである、それで彼女は、予が後継者を宅へ入れないのを見、時々寝泊りがけで来ることもあつた。今は一方に旦那のある身が寝泊りがけで来るのは、先方にも未練があるものと見、此方は情夫気取りで涎を垂らしてゐたが、ツマリは小遣銭とりの出稼ぎに過ぎないのであつた。
斯くて明治二十二年の二月末頃まで連続したが、予は前記の「頓智協会雑誌」一件で、明日は東京軽罪裁判所検事局の召喚で出頭せねばならぬ、多分拘留処分でお前にも暫く添(あ)へないだらうと語ると、彼女は愕いた顔色で「何とか方法はないのですか、イツソお逃げなさい」と云ふ、予は「ソンナ卑怯な事はできぬ、行く所まで行かねばならぬ」と、不安の感に打たれつゝ、彼女と共に酒を飲み、来訪の友人に後事を托して寝についた、それで予は未決拘留、不服控訴上告等の期間八ヶ月、禁錮三年、合せて三年八ヶ月、女気なしの獄窓生活をしたが、其寂寞無聊の起臥中にも前の「こすのと嬢」とこの「せゝなぎ媛」の回顧が脳裡を去らなかつた。


   龍池の蓮葉

明治の初期に東京の口悪な小新聞記者が、臍の下谷と称せし数寄屋町に居る左褄を「蓮葉芸者」と呼んだ、無論日毎夜毎の風に靡くペラペラ芸者であるが、蓮葉といふは数寄屋町が蓮の名所たる不忍池に接して居るからで、最も適当した語として伝唱された。
さて予は「せゝなぎ媛」を解雇した後、同じ関根屋へ行つてアトガマの注文をした、二三日過ぎると、番頭が来て「今日は四五人集まる筈ですから、お見立に御出張下さいませ」と云ふ、それで、関根屋の二階に上り、其一室で坐布団二枚重ねの上に坐して待つて居ると間の襖を一寸ばかり静かに開けて覗く者がある。覗いて後、腰を低めて入り来り、シナを作つた愛嬌で挨拶をし、一言二言のお世辞を云つて後、階下へ降る。次々と同じ態度で異つた女が上つて挨拶をする。お茶を持つて来るのもあり、茶碗を下げて行くのもある、其数名の女がいづれも襖の間から覗くことは同一型であつた。あとで「アンナに覗くのは、若しイヤな醜男であれば、お目見えせずに、引き下がるツモリなのか」と番頭に訊くと「イヤさうではありません、妾奉公と覚悟をすれば、不具でも老人でもそれに構ひはなしです、あの覗くのは、御相談のきまらない内は、旦那の御住所やお名前を知らせない事にして居ますので、若し以前に妾としての縁があつたお方とか、知り合ひの人なんかであるとキマリが悪いから念のために覗くのです」との説明であつた、それで「あの三人目に上がつて来た女は、言葉といひ様子といひ、普通の妾奉公をする女とは違つて居るが、ありや何者ぢや」と訊けば「あれは先頃まで数寄屋町の芸者でしたが、田舎の客に落籍されてお妾に成り、自宅に居て旦那の来るのを待つ身でありますが、其旦那が上京するのは、一ヶ月に一度か二度なので、あまりに淋しいから、それを承知の上で、内々「呼出し」て下さるお方があれば、世話して呉れといふ玉なので厶います、面白くお遊びになるには、あれも宜しうございませうとのこと。
妾としての方法にも数種ある。お屋敷へあがるのを「抱え」と称し別に妾宅を構へて黒板塀に見越しの松、下女と狆との安楽者。又は、女の宅へ旦那が通ふのを「囲ひ」と呼び、一六とか三八とかの日をきめて旦那が女の宅へ行くか、又は女が旦那の宅へ行くのを「日通ひ」と云ふ。これは女一人が男数名の妾として生活する者に限る、独占的の旦那があるに、内々小遣銭取に稼ぐ妾は「鼠」である、其鼠を呼出して、待合茶屋へ連れて行ツたり、自宅へ連れて来るのを「呼出し」と云ふのである。
吉原にも馴染女があつて繁々通ひ詰めて居る最中、芸妓を妾にするのも異香異味があつて好からうと、右の「鼠」を呼出すことにし化.鼠は湯島天神町三丁目に住する皆川トミ(十九歳)といふ者である。
田舎の旦那が来てゐない時には呼出しでなくて、其宅で酒を飲んだり、寝もしたが、抑も其田舎の旦那といふのは如何な人かと聞き糺して見ると、長野県の県会議員で民権党の志士として名高く、政談演説をもやつた小林営智といふ人、新聞紙上で屢々其名を見た事もあつたので、或時図々しくも、トミ子を紹介人として小林に会見を申込んだ、トミ子もサルモノ、白々しく「私の友達秀子さん(芸妓)のお馴染に宮武外骨さんといふお方があつて、今夜も遊びに来ていらつしやいますが、お目にかゝつて見たいとおつしやるのです、逢つておあげなさい」と旦那の小林に云つたのである。小林は「ウム宮武外骨か、近頃頓智協会雑誌で当てゝ居る男だなア、逢つて見よう」となつて三人鼎坐の宴に接した、小林は四十近い色の黒い頑丈な体格、民権家らしい相貌に見えた、座談中にクスグツタイ事もあつて苦笑したなどは兎も角、斯んなトボケた事をしたのは、予としては空前絶後であるが、此ムクヒとして後年の蓄妾に、反対の馬鹿を見せられた事があつたかも知れない。
斯様な如才のない賢い女であつたので、気に入つて繁々呼出し、或時などは、彼女の朋輩といふ芸妓七八名を連れて王子の海老屋へ上り、一同を客として宴席に就かせ、別に王子の芸妓数名をあげて贅沢な馬鹿遊びをした事もあつた。三年八ヶ月間、モツソウ麦飯の鉄窓生活をするに至つたのは、其埋合せであらう。


       傾城式の魔女

芸妓娼妓、妾の仲介、雇人請宿どいふ周旋屋は、慶庵と呼ばれた江戸時代より現在に致るまで不良営業の部類に属する者、関根屋の番頭も其の例に洩れず、お世辞のよい愛嬌のある若い者であつたが、予のダラシなき淫蕩性に乗じて、マダ前の妾に関係のあるをも構はず「今度いゝのが出ました、如何ですか」と云つて唆(そゝ)りに来ることが度々あつた、同じ明治二十一年の秋頃、其誘惑に応じて一人の女を妾とする事にした、氏名は忘れたが神田佐久間町に住して居た者、これは「囲ひ」の約束で、外に旦那を取つて居ないが「抱え」としてお宅へあがる事は出来す、又宅へお出で下さるのも都合が悪いのですから、御随意にお呼出し下さいと云ふのであつた、それは親類の者に内々で旦那取りをさせる事にしたのですから上げ限りと云ふわけに行かず、又宅へ旦那がおいでの際、親類の者が来合はせるとバレルから不都合だど云ふのである、世間にそんな事情もなきにあらずと甘く見て、二度ばかり呼出しに行つた、次に三四日過ぎた或夜三会目として呼出しに行くと、其女が居ない、何処へ出かけたかと母親に訊けば、寄席へ行つたと云ふ寄席ならば呼びに行つて連れ帰つて来いと命じたが、母親は「伯父に誘はれて行つて居るのですから、迎ひに行けば怪しんで旦那取りの事が発覚します、どうぞ明晩お出直し下さいませ」と云ふ、それで彼女は表面だけ「囲ひ」の給料を取り其実は「日通ひ」同様二三の旦那取りをして、いづれへも内密であると云ふ事が知れたので「フムさうか」の棄言葉で去つた限り、断然呼出しに行かない事にした、其後母親が一二度予の宅へ来て、弁解のためか、旦那にお目にかゝりたいと云つたが、玄関番に追払はせて面会はしなかつた、そんな怪しい女を呼出さなくても外に二三の女があるよとばかり威張つたのである。
独占的の一夜妻でなく、廻し制度の吉原女郎、それを覚悟の上で通ふにも、当夜馴染客が別に来て居ると知れば、幾分悋気の起るが人情である、まして独占の約束で囲つた女が、外に旦那を取つて居ると覚れば、ムカ腹を立てるのも無理ではあるまいが、周旋屋の甘言に乗せられて、そんな女に関係したのが此方のコケで所謂ボロ買の因果であらう。
斯くて二三ヶ月の後、浅草雷門の前を通行する時、前記の女が六十近い親爺に連れられて観音境内へ散歩に行く所らしく、予の顔を見てキマリわる気に顔を赤め小走りに行き過ぎた、それから数日の後、柳田小川町の五十稲荷で又も其女を見かけたが、其時は四十近い男の連れであつた。
「傾城に覆輪かけた御奉公」昔時大名衆へあがつた上妾でも遊女の手管に優る籠絡策を執つたものである、況んや市井に彷徨して、二人三人の旦那を取り、それも廻し部屋の如き公然の制度でなく、発覚を恐るゝ内秘行動であるに於ては、操縦と籠絡に苦心を要する事は、傾城以上であらうと察せられる。

以上は予の入獄前に於ける蓄妾伝ある、此外に「よいか、わるいか、試験した上で採否をきめる」として、大悶着の起つた一件もあつたが、それは一夜妻に過ぎない事で、蓄妾の部には入れられない。
又吉原の馴染女郎が年明で来て居た事もあるが、それは故郷の美濃大垣へ帰らせたので、これも蓄妾とまでは行かなかつた。

斯くて三年八ケ月間の鉄窓生活、絵に描いた女も見なかつた、曾て明治文化研究会の席上で予が獄中談をやつた際、会員の一人が「アナタの様な発展家が三年八ヶ月間、女なしで過ごし得た秘法を窺ひたい」と云ふから、予はその秘法を'露骨に表白して満座の哄笑を博した。


   撫子とあざみ

さびしい獄中の独居生活三年八ヶ月後、此娑婆へ帰つて来たのが明治二十五年十一月五日であつた、二百人ほどの出迎人に擁せられて青山の親族方へ落付き、出獄前よりの予定であつた女と婚し、其翌年は男児出産の喜びもあり、大正四年十一月其妻の死亡まで二十四年間の同棲であつたが、予の妻が親族某の妾と喧嘩したのが原因で、一時其妻と離別せねばならぬハメに成つた、それで表面は離別であつても内実は往訪して居たのであるが、家庭に下婢ばかりでは不自由として、一時の権妻を置かねばならぬ事に成つた、そこで明治二十六年の秋頃、雇ひ入れたのが十八ばかりで少々ソバカスのある女、衣裳も比較的多く持つて居るので、今迄何処かへ妾奉公に出た女であることが知れた、されども古風に育つた柔和な女、三ヶ月ほど過ぎても、何等の無心ねだりを云ふでもなく、温順に勤めて居たが、あまりお嬢様風なのが気に入らす、半年たゝぬ内にヒマを出した。
「あどけない様で無心に抜目なし」とは、遊女の心事を穿つた句であるが、豈啻に遊女のみならんやで、蓄妾にも共通する句である。元来が恋と恋との結合でなく経済的の関係であるから、貰へるだけ貰ひ、せびれる丈せびると云ふのが妾として本性である、それで
「妾が夢一櫛二帯三小袖」といふ句もあり、此外親がどうの家族がどうのを口実にして、金を紋り取らうとするのであるが、右の女にはそれが少しもなかつた、それは其性格にも因るのであらうが、主な理由は。愛に乗じての無心合力でなくば成就しないもの、此方には別居の妻に愛を注いで居るので、耽溺の様子がなく寧ろ冷静であつたがため、無心合力を云ふ余地を見出し得なかツたものと見(みえ)る。
次に後継者として来た女は、案外のシタ丶カ者であつた、どうせ妾奉公などに出る女にはロクな者なしで、例外はあるにしても大概は
 一、娘時代に情夫を拵へた者
 一、姦通で離縁された者
 一、幾度嫁に行つても追出された我儘者
 一、芸妓として思はしく行かぬので廃業した者
 一、娼妓勤めがつらかつたので再勤するのがイヤな者
十中の七八までは此格の女である、それで
  お妾は何れ一どら打つて後
とよまれてゐる、良家の処女で妾奉公に出る者はなく、遊惰の両親や貧困約果に強られて出る女でも、一どら打つた後の女でなくば承諾しない筈である。
それで右の女は其の荒んだ倫落の女である事が知れ、尚生理的、イナ病理的にも欠点があつたので直ちに放逐した、いづれも氏名などは記憶に存じない。
斯くて間もなく愛妻ど同棲するに至つたのである、其後日清交戦時代の不景気で編輯物の出版も思はしく行かず、愛妻愛子と共に米一升買の窮况にも陥つたので休戦までの間、親子三人で郷里へ行き両親の厄介に成つた果、父から貰つた金で上京し、地所家屋を買ひ入れて『骨董雑誌』を発行したが、後の『骨董協会雑誌』と共に五六千円ほどの損失で、東京に居るのも面白なく、台湾へ渡り、郷里に帰り、明治三十三年には大阪に出て、一時は石版絵の行商にも廻り、新聞広告の募集にも奔り、活版所の校正掛りに成つた果、大阪市西区京町堀四丁目の福田友吉氏と謀つて『滑稽新聞』を編輯発行し、一時は数萬の財を貯へるに至つたが、浮世絵専門雜誌『此花』を発行したり『不二』新聞『不二』雑誌を発行して失敗に了り、元のスツテンに成ツたので、友人共の寄附金で衆議院議員告発候補者として現はれ、選挙界廓清の演説をやり、其寄附金のお蔭で四ヶ月間、壮烈な生活したのを最終として「夜逃げにあらず昼去りなり」と公告して、大阪より東京へ帰つたのが大正四年九月であつた。然るに其二ヶ月後案外にも二十四年間苦楽を共にした愛妻に先立たれ、又も取り替へ引き代への蓄妾家庭を作ること十数年、何とマア、女円の尽きない男であらうか。


   梵妻の逃亡者

孝道より云へば勿体ない言ひ草ではあるが「妻や子に死なれたのは親の死んだのよりもつらい」と世諺にもある如く、本能的純理上、妻子の死は実に極度の悲哀を感ずるものである、それで予は一人息子に早く死なれて淋しく、日野国明氏の幼女を貰つて養ひ子として三人家庭で楽しく暮らして居たが、大正四年十一月に持病のバセドウ氏病で愛妻が亡くなつた。無限の悲痛哀惜に打たれ、見るもの聞くこと傷心の種ならざるはなく、人生の無常を歎じ、浮世の果敢なさを感じて、凡そ一ヶ月間ほど何事も手に就かず、好きな酒煙草も喫めず、只ボンヤリとして憂愁に暮れるのみであつた、偶ま外出すれば、途中で胸せまり、呼吸も出来ず、路傍にうづくまる事も数回あつたので、医師に診察して貰ふと「病気は少しもありません、健全なものです、死んだ奥様の事ばかりを思ひ続けて居るので、神経が疲れたのです、酒でもあがつて浮々しやんせ、気から病が出るわいな、といふ俗謡もある位ですから、酒を呑み、女遊びにお出かけなさい」と勧告されたので、予は心機一転策として、十数日間毎夜茶屋遊びに行つた、其間数名の芸妓娼妓にも接したので、追々と亡妻の事が脳裏を去るやうに成つた、そこで例の下婢ばかりでは不自由との欲が起り、慰安者としての妾を置く事にした。
在阪当時居候であつた男が本郷菊坂に住して居り、この母親が来て「お妾でなく奥様になすつてもよい女があります、歳は三十二ですが美人で賢い上品な……」と例の媒酌口、逢つて見ると、年増盛りといふ棄て難いところがあるので雇ひ入れる事にした。
悪く云へば人づれのした勝気者であるが、女学校卒業以上の識量があり、応接も巧みで、凛々しく立ち働き、妾としては稀な性格、一家の主婦であつたらしいので、その径路を訊いて見ると、果せるかなであつた。
真宗の寺に生れ十七歳の時、山口県下の僧侶に嫁し、翌年女の子を生み、其の夫が島根県下の某寺へ転住するに従いて行き、十数年同棲して居たが、夫が檀家の後家や娘に手を出すので、焼餅喧嘩の果、家を飛び出して姫路へ行つた事もあり呼び戻されて寺に帰り居ること三年、その後又本夫が女たらしの色魔性を発揮するので、両親が住む横浜在の寺へ逃げて来たもの「再び夫の許へ帰らぬ覚悟ですから、末永く置いて下さいませ」との口上。
それで戸籍は如何かと訊けば、まだ籍はかへしませぬが、僧侶の身ではあり、自己の悪事が曝露するので、重婚の訴へなどを起こすことは絶対にありませぬから御安心なさいませと云ふのであつた。
重婚の告訴はないにしても、他人の妻を妾にして居るのは聊か不安であつたが、気に入つた女であるので、そのまゝに過ごすこと二ヶ月余であつた。
ところが或る日、法衣を着けた立派な僧が予の住宅の玄関へ来て「お家にトクと云ふ女がお世話になつて居るさうで御座いますが、私はトクの本夫で、今般島根から態々上京致しました者、トクを一寸こゝへ」と云ふのであつて、トクは伴はれて外出したと聴いた。
トクは間もなく帰つて来て云ふには「あんなに迎へに来ても断じて帰りませぬから、何時迄も置いて下さい」であつたが、予は「イヤいけない、本夫が此家へ迎へに来た以上は、一日も此家に置けない、早速立去つて貰ひたい、お前もその方が幸福であらう」と告げたので「薄情なお方ですネ」と云つて泣くにも拘はらず放逐断行と決したのであつた。
それで彼女は遂々本夫に連れられて島根に帰り、二年ほど過ぎた後上京の序、予の宅へ来訪した時には、乳呑子を抱いて来て「あれからこんな男の子を生みました」と復帰を喜んで居た、その後島根から五六十円の春本を送つて来たのを買取つた事もあつた。


   所帯くづしの女

梵妻の逃走者を解雇して後数日、ヤハリねやさびしの欲望で後継者を物色する事にした。
往年大阪に居た時、武田尾温泉の川へ魚釣に行き、温泉宿に一泊した、その折の係り女中が、例のすれからしでなく、初々しい様子が見えるので「姉さんは所帯くづしだね!」と云ふと「お察しの通りでございます」と白状した処を聴くと、神戸在で夫婦暮しをして居た者、夫が放埒で会社勤めの給料を悉く遣ひ捨てゝ、自宅へは少しも持つて帰らぬので生活に困り、度々夫婦喧嘩の果、愈よ見切りを附けて里へ逃げ帰り、両人の間に出来た子供を母に預けて、勤め奉公をする事に成り、温泉宿の女中は貰ひが多いと聞いて、此処へ参りましたが、思はしい収入もないとの談であつた。
これに同じ境遇の女が、上野不忍池畔の某料理店に居た、歳は二十六、色の浅黒
い丸顔の女。
  「銚子取る手も何処やらが、初心らしさの忍びづま」
此端唄そつくりであつたが、其茶屋勤めを止め、一時女の懇意な人といふ上野花園町の或家の二階を借りて住ませる事にし、夜間その家へ行つたり、呼び出して我家へ連れて来たり、或は二人で大宮公園へ行つて一泊したり、遠くは伊香保温泉へ行くなど、約二ヶ月間ほど囲つて置いたが、元来予の性質は軽率で、深思遠謀などいふ沈重心がなく、女にかけても近惚近厭の性で、彼の都々一にある「人は鳥渡見て鳥渡惚れするが、我は能く見て能く惚れた」といふ上の句流であるから、気に入れば自宅へ連れて来る予定も、四五十日でいやになり、幾許かの手切金を這って縁を切った。
こゝで一つ断つて置きたい一事がある、若い廿歳前後の時ならば、経済的関係の妾も、若い同士としての楽みもあらうが、廿五六と五十一二との結合では年齢に半数の相違があるので、女は嘘にも惚れたと云つて呉れない、それも若々しい童顔の美男であれば、お半長右衛門の如く、情死でもすると云ふか知らないが、何しろ風釆甚だ揚がらずの禿頭爺であるから「嬉しい縁ぢやないかいな」とか「憎らしい程可愛うて」なといふ艶つぽい御詫宣を承はる事はない、又愛と愛との結合でなく、全く経済的関係の性的奴隷たる妾の口より、そんな甘い言を聴いても此方はそれを信ずる年でもない、信じないと思ふので、相方は嘘にも云はない、此阻隔があるので、双方とも深情の流露する筈がないのである、これ「掛物の様に妾を取りかへる」に至る自然の成り行きと見て、予の軽薄ばかりを責めないやうにして貰ひたい。
又互ひに深情が表はれないのは不自然の結合で、恋愛の本義に反して居るが為めであるが、それにしても需用供給の原則による経済的関係の本旨を無視する「妾根性」が男性をしてイヤ気を起させるモトになることが多い。
妾を筋肉労働者と見れば、雇主は資本家である。其労働の報酬として資本家が生活の安定を得させて居るのであるに、その報酬に満足せずして、勢力以上の金銭を搾取せんとするのは、今の労働階級者が資本家に楯突くのよりも無謀の要求である。
金紗お召を買つて呉れの、帝劇へ連れて行けの、両親へ金を遣つてほしいの、何の彼のと、ノベツに妾根性を発揮されては、小資本家は堪らない、一々それに応じて居れば、自分が没落しなければならぬ破目に陥る、そこで打算上いや気がさして解雇する場合も少ととせずである。
此方の愛に乗じて策を裙幕の間にめぐらす妾根性の発揮、そのネダリ、しぼりあげ、果していづれが軽薄であらうか。


   無料の一夜権妻

明治十二三年の頃、権妻大流行の末期に、東京の慶庵(周旋屋)仲間で「チラシ」と称するタチのよくない客があつた、その「チラシ」とは俗に喰ひ散らし、飲み散らし等云ふに同じく、妾奉公に出んとする女を喰ひ散らすの義である。
其手段は、慶庵で見た女を、気に入つたと云つて、慶庵の二階で同衾して後、金を少しも渡さずして逃げ去る者、名刺の肩書や住所氏名は全くの虚偽で、談判も出来ない性交詐欺師であつた、それが昨日は浅草の慶庵、今日は芝の慶庵、明日は赤坂、明後日は深川といふやうに変幻出没したが、そのため給金の金額を支払はない内は同衾しない事になつた。
又慶庵と女本人との承諾の上、一円或は二円の枕席料を払つて同衾し、気に入れば妾にするが、然らざれば一回限りといふ約束、その約束はホンの口上だけで、気に入らないと云つて斥け、次から次へと慶庵を廻つて、妾奉公に出んとする女を喰ひ散らす男をも「チラシ」ど呼んだのである。
此前者は「無料の一夜権妻」であるが、予はそんなタチの悪いケチ臭い性交詐欺の「チラシ」仲間ではなく、事の始末が無料と成り、一夜権妻と成つた珍談をザツクバランに表白するのである。
前回の「所帯くづしの女」と縁を切つた後、大正六年十一月の頃であつた、神田元佐久間町の男女紹介業者が何処で聴いたのか、予の宅へ来て「今度広島から初めて出京した親子づれの美人があります、勝気らしいシツカリした中肉中背の二十二歳で、妾奉公は初めてと云ふ近頃稀な美人でありますが思召は如何でせう」といふに釣られて、早速行つて見ると、成程美人であり、又地方からポツト出といふ素朴らしい所も見えるので、早速決定した、例の近惚といふばかりでなく、予の妾としては、前例のない美人であり、挙止は卑俗ならず、清艶淡雅の尤物と感じたのである。それで月手当は先方の云ふがまゝの二十五円、紹介業者の周旋料は双方より二割といふので予は其の全額を渡し、女を連れての帰途、池の端の料亭で夕食を共にし、陶酔の上機嫌で宅に帰り寝に就いた、其の翌朝昨日附いて居た母親が予の宅へ来て、不思議な御縁でお世話に成るとの礼を述べ、さて「住家はどういふ様にして下さいますか」との問ひ、予は「どうもかうもない、此宅に居て呉れゝばよいのである」と答へると、それでは話が違ふと云ふ、イヤ違ふ筈はないと云ふ事になつた。
それでよく聴き糺して見ると、右の両人は広島者であるが、親族や家庭に混乱が起つたので、娘の夫を見棄てゝ母子二人が家を逃げ出し、広い東京へ行けば何とか方法は付くであらうと、アテもなく上京したのであるが、来て見ると、如何に娘が美人であつても、素性も知れぬ母親付きの娘をオイソレと貰ふ良家もなく、貰ひたいと望む者はロクでなしばかり、さりとて何時迄も宿屋に泊つて居られないので、当惑の果、いつそ一時妾奉公と云ふ事に決心して、前記の紹介業者へあたつて見ると、恰度幸ひ良い口がある。表面の給料は二十円位だが、妾宅を置いて囲つて置き、贅沢は仕放題、其費用は旦那の方で一切持つと云ふので、親子が二人で楽に暮らせるものと思ひ、昨日お目にかゝつたのです、娘一人がお宅にといふ事ならば、御免を蒙ります、私は此娘と別居するやうならば、広島から東京へは出て来ませんと云ふ。
それで小さい家でもよいから妾宅を拵へて貰へぬかと念を押され、そんな事は此方の生活状態が許さぬと断つたので然らばとて前の周旋屋へ厳談に行つた末、昨日渡した金を全額返し、早々娘を連れて去つた、予は狐に化かされた様な感じがし、又夢ではないかとも思つたが、現実の証拠があり、只々茫然たるばかりであつた、上野の森の鴉が阿呆々々と鳴いたであらうが、それすら耳に入らなかつた、金を全額返したのは、一夜淫売と認められるのを恐れたのか、たくんだ詐歎でないといふ証明のためであつたのか、それは判然しないが、去る時に此方から遣つた包金も手に触れなかつた。
これは悪周旋屋に欺かれたのであるが、それにしても此方は無料の一夜権妻、前記の「チラシ」でないだけに、回顧の珍談として皆様へも表白の出来得るのをセメテもの気休めとする。


   あばずれ者

いかに色餓鬼でも、呆れ果てるほど、前後に例のないアバズレ女にひツかゝつた、それは大正八年の夏頃、上野広小路の富士屋といふ周旋屋が連れて来た女、年は二十六七のオキヤン、面は牡丹餅の類で美人といふ程ではなかつた、向島辺の瞹眛茶屋で淫売をやつて居たらしい者、其自慢話が可笑しい。
「本郷元町二丁目の福田といふのは、いつも諸新聞に結婚媒介の広告を出して居ますが、其広告に釣られて来る客が見合ひをさせて呉れろと云ふ場合に、相手が無いと毎度私を呼びに来るのです、それでチヨイと見合をすると一円呉れました、見合料は二円なので、半分は福田が取るのです」と云ふ。
「さうか、見合をしても先方の気に入らない時はそれでよからうが、若し、気に入つたとして縁談を進められた時にはどうするのか」と訊ねれば「その場合には支度金を多く吹きかけるのです、大概の者はそれに驚いて引き下りますよ、万一其支度金を出すと云ふ事になれば、勤めて居る旦那からヒマを貰つて其方へ行くつもりでした」と語る。
何処かの妾に成つて居て、其間に小遣取りをやつて居たシタヽカ者である事が知れた。
そんなアバズレ者であるから、初めて来た日から昼夜無心の言ひづめで、金を呉れの、着物を拵へて呉れのどネダリの外なしであつたが、此方がそれに応じないと、無断で簞笥から衣服を取出し、男物を女物に仕立直すなど始末におへぬシヤアツクであつた、予の家へ来て半ヶ月ほど過ぎた或日「いつ迄も妾ではつまりませんから、奥様にして下さい、奥様にして下さらないのならば、何処かへお嫁に行きますよ」と云ふ「お嫁に行ける所があれば、いつでも行くがよろしい、お前の自由意志を束縛はしない」と宣言すると「それぢやア、今日見合ひをして来ます」と出かけたのが、前の福田といふ媒介業者方、其夜帰つて来て云ふには「八王子在のお寺の坊さんと見合をしましたが、幸ひ坊さんの気に入つて、嫁にすると云ふ事に成り、三百円の支度金を出して呉れる筈です。其金を貰つてお嫁に参りますから、それ迄の間此お内に置いて下さい」との事。
それが事実か否かを糺して見ると、事実であるらしいのみか、既に其の日坊主と共に料理屋へ行つた形跡もあり、懐中を検査すると手付金五十円貰つてゐる実証もあつたので、其図々しさに呆れて翌朝放逐したが、彼女は頼るべき親族もない堕落者で、予の家を出て浅草の宿屋に泊り、残金二百五十円を貰つて嫁入の支度を調へ、前言の如く八王子在の寺へ住み込んだ、其後他より聴く所によると、三ヶ月間ばかり坊主と同棲してゐたが、坊主が寺の財産を濫費してゐた事が発覚して、坊主と共に寺を追放され、坊主が傘一本になつたので縁を切り、昨今は東京へ帰つてきて、後釜を探してゐるとの事であつた。
これに懲りて「老人の連として来る若い女にロクな者なしである、今度は三十五六歳以上の落付いた者があれば寄越して呉れ」と頼んで置いたところ、同じ富士屋から御注文通りの女といふのを連れて来た、年齢は四十近い奥様風の女であつたが、有夫姦通のために放逐されたらしい口吻もあつた越後人、下女を腮で使ふ外、横の物を縦にもせぬといふ無情者で、朝から酒を呑んで寝てばかり居るダラケ者、其上、中婆でありながら、「妾奉公に来て立働くには及ばない、金を絞り取れるだけ絞るのが目的である」と蔭で下女に本音を吐いたと云ふのを聴いては、嫌気が起らざるを得なかつた。


   芽生へぬ菜根

周旋屋の暖簾を平気でもぐるやうな妾法専門者に堅実な女があらう筈はない、けれども複雑な社会相の一として例外なきに非ず、だが其例外を掘出す事の至難を知つたので、今後は周旋屋の手を経ない不幸不遇の女を探がす事に決定して、二三ヶ月間淋しく日を暮らして居たが、近所の萩原といふ家の主婦が来て「函館で永く所帯を持つて居た二十八の女ですが、夫婦別れをして今度東京へ帰り、私の親族なので先頃から私の内へ来て居ります。お気に召すかどうか、当分の間でもお置き下さいませんか」と云ふ、其萩原の主婦は堅い人であり、条件も無いので早速来て貰つた、丸顔で色の浅黒い勝気者、妾法専門の倫落者とは違ふので、気に入らぬ点もなく、三四ヶ月間平和に暮らして居たが、函館に居た時産んだ八ツと五ツの子を前夫が送り付けて来たので、連子つきでは困るとなつて縁を切つた、其後其女は裁縫職人の家へ小供をつれて嫁入りする事になつたが、毎日夫婦喧嘩をして居りますと聴いた事もあつた。
其女が去つた後、隠し妻として居た者が二人あり、いづれも二十歳未満の若い女であつたが、二人とも其後正式の人妻と成つて現在もマジメに生活して居るから茲に記述する事を憚らねばならぬ。
予が大正四年九月に大阪より東京へ帰つて尻を据えたのが上野桜木町の十七番地である、其十七番地より二十二番地へ移転して後二年の大正九年四月頃、前住家の持主であつた西垣某女といふ未亡人が来て「私が郷里に居た若い頃よりの友達で電気技師へ嫁して居た女が、昨年夫に死なれたので一生寡婦として暮らす時勢でもないから、何処か係累の少い家へ再婚したい、年寄りの学校教師でもよいと云つて来てゐます、アナタのおうちには昨今お妾さんも見えないやうですが其女を奧様としてお貰ひになつては如何です、美人で年は三十七八ですが、健気な堅い女です。今迄も子供が出来なかつたのですから、今後子供が生れる心配はなし、お嬢様(予の養女)の世話も充分にするでせうから、お貰ひなさいませんか、さうなれば私も御近所に友達が出来て楽しみに成ります」との言葉であつた。
抑も此西垣未亡人といふのは、丹波の山奥に於ける豪農の奥様、夫に先立たれて残された一人息子を帝国大学へ入学させるにつき、監督旁々東京へ出て来て一家を持ち、近所へ数軒の貸家を建てゝ学費の補足にし、息子は卒業して法学士に成り(今は大阪で弁護士)当時は男妾を置いて安楽生活をして居たのである、其奥様が前の如き媒介口、何条心の動かざらんやで、早速見合をする事に進み、丹波より其女を呼び寄せ、西垣氏の座敷で親子二人で会見する事になつた。
其時娘が云ふには「世間に花嫁花婿の見合といふ事はありますが、お父さんは花婿でなくハゲ婿さんですネー」と笑はれたが、さて見合をすると、あまり美人でもなく、又三十七八といふ年齢にも見えず、いくら若くふんでも四十七八の婆さんらしいので、予期には反したが、今迄の妾に懲りたので、家政婦としてマジメにやつて呉れゝばよいと定めて、娘の意見を訊けば「今迄のやうに妾根性の女ばかりが来て、自分の着物を拵へるのみで、私の世話をして呉れない者では困りますから、アノお方なら良いでせう、お婆さんだと云つても、死んだお母さんが生きて居れば、アノ位のお婆さんでありませんか、我慢してお貰ひなさい」との言葉であつたので、それに決定した。
当年五十五歳の予、再婚の配偶者が五十に近いとすれば、夫婦として不釣合の年齢ではない、シカモ妾でなく奥様として貰つた女であつたのだから、これを蓄妾に加へるのは不当であるかも知れないが、予は本妻としての感が少しも起らなかつた、其第一は性的問題たる夫婦としての愛情が絶無であつた事、第二は年齢の嘘がバレル為か否か、入籍をしない事、手紙の往復を絶対秘密にする事、二年以上の同棲中相談らしい交渉が一度もなかつた事等、予は妻と認めず妾とも認めず、仝く雇ひ婆さんに過ぎない状態であつたが、世間体は奥様であつたのだから、セメテ蓄妻伝の一に加へて、其不平と、イキサツを並べたいのである、それが予の「廃姓」を唱へた一原因であるから、後の外骨研究者には、見遁すべからざる資料であらう。


   性的枯渇の婆

女性の中には、四十二三歳頃の月経閉止期を過ぎると、漸次性欲が減退して、終には異性に接触する事をイヤがるに至る者が稀にある、予は其の稀者に逢着したのであつた、三十七八の美人といふ媒介口とは違ひ、事実は五十近いお婆さんであつた、俗にいふ茶呑友達としては適当であらうが、精力の衰へぬ予の配遇者としてはアマリに不釣合であつた。
茲に細叙する事は憚らねばならぬが、要は、予の寝室を去り、娘の部屋へ移つた、予は媒介者に義理立として、それをも忍び、凡そ二ヶ年半ほどツメタイ同棲を継続して居た、それで予は内々遊里通ひをもした。
他からは奥様と呼ばれてゐても、事実は夫婦らしい所がなく、互ひに空閨を守ることが半年余であつた。
それで、其奥様の日常行為は如何であるかと云ふに、自分が老後の身を托する者として、娘の世話をすることは親切であつた、又世の去就と浮沈は図られないものと見てか、予の家に来て以来の二ヶ年余、毎日活花の練習に出かけ、其熱心で一級の免許状をも貰ひ、何時でも花の師匠として生活し得る程度に達したと云つてゐた。
「如何にすべきか」といふ予の煩悶は久しい間であつた、性的枯渇者として離縁するのも気の毒であり、又予の人間生活としての欲求をも阻止し得られないので、終に独断的ではあるが、不快な家庭を破壊する事に決心した。
それは、養女の独り娘が高等女学校を卒業したので、婿を取らねばならぬが、家に財産がないとロクな婿は来ない、イヤ財産をあてにして入り来る婿もロクな者でない、されば娘のためにも婿を迎へるよりは、他へ嫁入りさせた方が幸福であらうと考へ、又養女養子の無意義である事にも気付いたので、娘を廃嫡として他家へ遣る事にし、吉野博士に嫁入口の媒介を頼んだところ、それなら絶好の所がある、帝大出の法学士で今大阪の住友に勤めて居る何某、秀才で温良、実家は上州足利の資産家云々、見合も交際も済み、いよいよ大正十年十一月五日東京上野精養軒で結婚式を挙げた上、大阪へ連れて行く事になつた。
ひとり娘を唯一のタヨリにして居た婆さんの驚愕と憤怒は尋常でなかつたらしい、予に対して「ワタシをどうするツモリか」との談判、予は
「居たければ居てよろしい、私は私一代で廃家にする、宮武外骨には子孫なしの証明として今後は廃姓外骨と唱へる」
と答へたので「そんな所には居ない」と云つて、娘がマダ結婚しない内に去つてしまつた。
そこで、予は自己の出版著書に廃姓広告といふ長文を出して

これを冷静に考へて見ると、人類が各々「名」といふ符号を付けて居る事は、相互に便宜であり必要であるが「姓」とか「氏」とかは無くて好いものである、抑も種族といふ観念が生じたのは、利己排他がモトで、此思想から職闘が起るのであり、家系を重んずるといふ観念から差別心が出来るのである、されば苟くも新思想を以て世間に立たうとする者は、其伝統的因襲に囚はれないで、断然、断乎、此姓氏を廃すべしである。
然し今の新思想家諸子が姓名を廢棄すると否とは諸子の自由であらうが、斯く唱道する予は「隗より始む」の例で、今後「宮武」といふ姓を用ゐない事にした云々。

と大層らしい文句を並べたが、其内情は右の如く婆さん追放策に出た事であつた、それで、廃姓の宣伝はしたが、現行の法制上、戸籍には「宮武」とあり諸官省でも宮武の姓を書き、現に此権妻物語にも「宮武外骨」と署名されるなど、不徹底至極であるが、近頃は廃姓を止めて再生外骨と称して居る、其の色気の失せない戯語を冠して居る所が予の生命であらう。


   自炊自給の独居

一代限りの廃家と決定したので、お婆さんは怒つて去り、独り娘は喜んで嫁に行つた、残るは下女一人であつたが、女気なしの家に居るのはいやですし、国からも帰つて来いと云ひますからとて、下女は娘が結婚した翌日郷里の越後へ帰つて了つた、そこで昼間は通勤者が二人来たが、夕刻より朝の九時頃までは予一人である、書生時代の下宿屋生活でも隣室には人が居たに、広い一家に只一人といふ淋しい珍境遇となつた、臨時の派出婦といふのを頼めば来るが、それもウルサイ、いつそ一人生活の方が気楽でよいかも知れない、物事は成るやうにしかならぬ、其成り行きにまかす外はあるまいと、あわてもせず、自炊自給をやってゐた、朝起きて顔を洗ひ、小鍋でツブシ麦を入れた飯をたき、汁を煮、漬物を出し、買置きの乾物をあぶつてユツクリ食事を済ませ、客へ出す茶の湯を沸かして置き、二食主義で夕方には出入の肴屋や八百屋から持つて来た物で晩食の仕度をし、独酌独酔の好い機嫌で寝に就き、膝吉を枹いて睡るだけが淋しいのみで、呑気に暮らして居た。
来客に対しては、例のザツクバランに内情を告げ、茶を呑みたければ、自分で入れてお呑みなさいとやつて居たので、それではお困りだらうから、誰かお手伝ひに寄越しませうと云つて呉れた二三の友人もあつたが、自分一人の事は自分一人でやります、と力んでそれを拒絶し、自炊自給を続けること二十四五日であつた、通勤者の来ない休日に外出せねばならぬ事があると、門の途に錠をおろして出かける事もあつた。(下略)

此独居無聊の所へ舞ひ込んで来た女が、予として前例のない「恥さらし事件」の起つた魔女である。その顚末は昭和四年三月の「婦人公論」に出た「我が家の猫いらず騒励」と題する予の自記に詳記した、同誌記者の附言に「この畸人外骨先生が自ら恥さらし事件と称して茲に発表される事件は、決して世の中に稀有な問題ではありません。然しながら外骨先生のこの問題に対する態度と解決とは世の常のそれとは大なる相違があります。それは単なる奇行として興味の目を以て見るに止るものでなく、愛欲痴情の渦中に悩むモダンメンにも訓へるところ鮮くないであらうと信じます」と評された程のものだから、少し重複の所があるに拘はらず、其全文を自家性的犠牲史の附録として左に載せることゝした。



   我が家の猫いらず騒動

「長生きすれば恥多し」とは人生を道破した至言であるか否かは疑問としても、予は長生きのために予として前例のない恥さらし事件が起つた。其事件の顚末記を公表して世人の参考に供したい。自ら恥さらしと認める事件を自ら筆して天下に暴露するのは痴か狂かと嘲罵或は冷笑する人もあらうが、元来予は半痴半狂堂主人と自称するスネ者、其嘲罵も冷笑も甘んじて受ける。然しながら予一身の恥さらし事件であつても、単なる恥さらしに止まる記述ではなく、これを道徳的に見れば性的生活の懺悔録であり、これを文学的に見れば小説戯作の好資料であり、これを社会的に見れば現代制度の犠牲史であり、これを宗教的に見れば悪因悪果の悲惨記である。故に多数の読者をして幾許かの興味を覚えしめ、何等かの利益を得せしめれば、予一身の恥さらし位は顧慮するに足りない、否これが寧ろ長生きの娑婆塞ぎに対する報償の義務であらうと信ずる。


   突発事件の概略

一家庭としての大騒動、生来未曾有の醜珍事として六十二歳の予が当惑した「恥さらし」事件の概略は、当日予が夫妻双方の親族及び知友二十数名に発した左のハガキ文によつて諒せられたい、此事件の詐らざる顚末記が本篇の要旨である。

略啓、小生が新妻と称せしマチとの同棲は七星霜でありましたが近来日を追つて我儘増長し遂には二ヶ月程前より松井といふ男と密通して居たのを一昨夜小生が其現場を押へ昨朝離縁を申渡して媒妁人方へ引き取らせましたが、同女は前非悔悟と称し「死んでおわびをする」とて多量の猫いらず(燐薬)を服用したのを浜野病院へ送つて応急の手当を加へた効もなく終に今朝四時半頃死んださうであります。
小生は更に近日新家庭を作りますから御安心下さい
  昭和三年十一月十九日

此郵便ハガキを出した前後、予は忿恨、沈痛、慚愧、悲哀、煩悶、顧慮等に加へて前途の方針、心身の影響などを考へて、感慨無量脳裏混雑であつた。茲にはそれを整理して順序よく配列するツモリである。

   前妻の死後

世間では予を淫蕩者と誤認して居るやうである。それは職業的操觚者として雑誌の販売策上、下劣な色情記事を多く載せた事があり、又著者に猥褻研究の発表が多くあるなどに因るのであらうが、事実は寧ろ正反対の謹厳であつた。青年時代の乱行は別として、帯妻後は淫蕩と目さるべき行為はなかつた。俗にいふ「口(くち)淫乱者」の誹りは免れまいが、それも虚偽排斥の本旨で、両性問題を公然平気に談論するがためであらう(自らは学究的態度のマジメな者と信じて居る)性欲衝動の強弱は人格問題でなく、体質関係の自然現象である。本能的精力旺盛を罪悪と見る人があるとすれば、それは生物学的知識のない者に外ならない。淫蕩とは妻に空閨を守らせ置いて己れは他の異性と遊戯的性交を遂げる事である。病蓐幾年の妻に隠して外に妾を置くなどは淫蕩行為と認めない。
さて予が同棲二十四年の妻に死なれたのは大正四年十一月二十一日であつた、最愛唯一の妻は三十五六歳の頃から「バセドー氏病」といふ不治の症に罹つて、四十五歳で果てたのであるが、其後予は雑誌「スコブル」の紙上に「羨ましい夫婦の同行、上野公園散歩の男女観」と題して掲出した文中

マダ死にはすまいと思つて居たに、突然心臓麻痺でコトギレになつた。夕食を同じ膳でたべた其夜の九時頃、立会の医師三人に「モーダメです。お諦めなさい」と云はれた時には、サスガ平常剛愎我慢で通して居た予も、云ひ知れぬ一種無限の感に打たれ、人生悲哀の極といふ実験もした。去る者は日々に疎しとは云ふが、それより後も思ひ続けて酒も煙草も喫めぬ神経衰弱に成つた(中略)
こゝで世間の有妻諸君に一言したい事がある、それは予の妻が生きて居た時、寓居から出て公園内を通行中、彼方此方に散らつく男女夫婦の同行者を見受けると「ナンダ、そんなスベタ女を連れて嬉しがつて居るのは」とか、或は其女が美人であると「あの奴は仕合せ者ぢや、然し素性は何者か知れぬ」などいつも、嘲弄の眼で見て居たが、さて己が妻を亡くして後は其感が異つて来た、如何に狆クシヤでも、貧民でも、老人でも、夫婦と見える男女が寄りつ離れつ、園内をブラついて居るのを見ると、それが羨ましくてたまらない、「あんなスベタでもよい、夫婦としての愛情を持つた女と散歩して見たい、つまらぬ事でも云つて笑つて見たい」と亡き妻を偲ぶの情に堪へなくなつて、暫しボンヤリと佇立む事もある。気を取直して宅へ帰つて来ても、妻の如き真情の慰安を与へて呉れる女は無い。人生、妻に先だゝれた程不幸な男はあるまいと思ふ(下略)

斯くて予は神経衰弱のため途中歩行の際、胸がつまつて呼吸も出来ず、暫く路傍でうづくまる事が数回あつたので、医師に診察して貰ふと、病気は少しもありません、健全なものです、死んだ奥様の事ばかりを思ひ続けて居るので神経が疲れたのです、酒でもあがツて浮々しやんせ気から病が出るわいなといふ俗謡もある位ですから.酒を呑み女遊びにもお出かけなさい」と勧告されたので、予は心機一転策として十数日間毎夜茶屋遊びに行つた、それで亡妻の事も追々脳裏を去るやうに成つたが、其後家政上の必要を兼ねて妾を置く事にした、それより約四年間、取り変へ引き代への妾に苦しめられた。老人のお伽たる事を承知で来る打算的の若い妾であるから、殆どロクな者なしであつた。最後に近所の家作持たる女主人西垣氏の媒介で、其郷友といふ女を入れた。電気技師の未亡人で歳は三十七八の美人といふ仲人口とは違ひ、事実は五十に近いお婆さん、俗にいふ茶呑み友達と称すべき枯渇者で、予の配偶者としてアマリに不適当であつたが、媒介者に義理立としてそれをも忍び、凡そ二ヶ年半程いやいやの同棲を継続した後、不快な家庭を自ら破壊すべく独断的に一人娘を吉野博士夫妻の媒酌で他へ嫁せしめ、予は廃姓を唱へて一代限りの廃家と決定したので、右のお婆さんはそれを不服として去つて了つた。


   二十六歳の淪落女

お婆さんは去り、一人娘は嫁に行き女気なしの家は御免と女中は郷里へ帰り、残つたのは予一人である。書生時代の下宿屋生活でも隣室には人が居た、広い一家にタヾ一人生活、生来未曾有の珍境遇者となつたが、物事は成るやうにしか成らぬ、その成行にまかす外はあるまいと、あわてもせず、悠々閑々と二十四五日の間自炊自給でやつて居た、それではお困りでせうから、誰かをお手伝ひに寄越しませうと云つてくれた二三の友人もあつたが、自分一人のことは自分一人でやるとリキンデそれを拒絶した。其頃著述の助手が一人と出版書の発送事務員が一人いづれも日々の通勤であつた。その一人、中央大学の苦学生たる水島某といふ者が予に告げるには

「お一人では御不自由でせうと先日来心配して居りましたが幸ひお世話してもよい女ができました。その女は私が先年来知つて居る者で、以前は茶屋生活をした者でございますが、近年はマジメな生活に入りたいとて、製本屋の職工にも成り、女髪結の稽古にも通ひ、内務省の弁当屋にも勤めましたが、いづれも思ふにまかせぬので、近来は学生連の共同下宿所で炊事賄をして居ます、それも学生が減じて一人の食費すら出ない状態で、途方にくれて居るのを察し、昨夜私が本人に向ひ、斯く斯くの所へ行つて辛抱する気はないかと尋ねますと、先様が入れて下さるのならば一生でも勤めませうとの答へでありました、美人といふ程ではありませんが、性質は賢く愚図々々嫌ひの勝ち気で裁縫も上手にでき、英語も少々心得、今年二十六歳であります」

予はこれに対して某に

「一家に婆々らしい者が居ると陰気でこまる、今後は若い女をと思つて居たのであるから、年頃はそれでよいが、五十六に二十六、あまりの相違であるに、一生居てもよいとは訝しい口上である、それは何故かネ」

某は考へて答へるいとふでなく、無造作に

「其御疑念は御尤であります、然し其女は先日上山様(文学士で予の知人であり右の某を予に紹介して事務員たらしめた人である)が媒妁で某家の後妻として見合までしたのですが、前妻の子が三四人あると聴き、其セツが容易でないと云つて止めました、其女は先年来不姙症になつて居るので、小供を欲しい家へはゆけず、後妻として子の多い家では辛抱ができず、謂はゞ気楽な家なら老人でも財産がなくても構はないといふ意見です、それなら何等の係累はなく、小供も望まず子孫の心配をするにも及ばない天下無類の家であると諄々(くどくど)説いたので、そんな家なら死ぬまで居てもよいといふ事になつたのであります、兎も角思召に叶ふか否か今夜連れて参りますから。直接おはなし下さいませ」

と云つて連れて来たのが大正十一年十一月四日の夜であつた。そこで其女(小清水マチ)と対話した末「来て貰ひたい」「参りませう」と決定して翌々六日の夜輿入となつたのであるが、其時其女が予に「アナタは昨日まで盗賊であつた者でも今日より改心して良民に帰りたいと云へば、御世話なさるお方ださうですが、ワタクシは吉原で一ヶ年半程娼妓稼業をして居た者でございます、それを某呉服屋の番頭に落籍されまして、暫く神田淡路町に囲はれの身でありましたが、事情があつて先年離別(実は此時までも毎月一二回はアヒビキをして居たのである事を後に知つた)いたしまして、それ以来今日まで他の男に接した事はありませんが娼妓であつたといふ事に愛憎をおつかしになりますか如何です」との自白と詰問にはヒヤリとしたが、若い女が老人のお伽に甘んずるまでの覚悟をするには、自己の欠点汚点を自覚した上の決心でなくばならぬ。尋常無垢の女には出来ない問題である。それも数万の金を積んで一族郎党を救恤し、華美の妾宅でも構へてやると云ふのであれば、所謂富の圧制で牽引する事も出来やうが、孤独生活のシカモ風釆の揚がらない禿爺頭(はげあたま)の配偶者に完全理想の若い女が来る筈はない、さりとて遊女の果とは忸怩たらざるを得なかつたが、思ひ反せば、自分の気に入つた売笑婦を招き入れたと見てもよい、先年取り変へ引き代へ雇ひ入れた妾の中には、向島辺の茶屋に居たらしい女もあった、先夫の外に肌を触れた男のない堅実の女だと云つても、性的の枯渇者であれば、木石に均しい不興である。本能の満足は対手の経歴如何に因るものでない、今の自白と詰問には人を食つた凄味もあるが要は観察の明を有する慧眼の女と見ればよいと、涎を垂らさぬまでの近惚、これが今回の禍因とは「後にぞ思ひ知られける」であつた。


   妾としての四ヶ年間

恋愛といふ本能は種の存続が目的で性交が手段であり、家庭をつくると云ふ事も生殖が本位で生活が方法である。然れども進化した我々人類は生殖が目的でなく娯楽を目的とするに到つた。特に予の如き廃姓を唱へて一代廃家を主張する身には、生殖を目的とする妻妾の必要はないのである。それが妾を入れるのは、家政婦としての勤務を托する外、自巳の錯誤本能たる性の満足を得んが為めである。そこで妾として入り来る女も生殖が目的でなく自己の生活が目的である。語を換へて云へば、一方は遊戯的、一方は経済的で結合した非条理不自然の家庭が出来上るのである。
其妾たる者が馴れるに従つて我儘の増長するのは無理ならぬ事である。生活の安定外に種々の欲念が生じて、虚栄的服装、娯楽的遊芸、旅行、観覧、あらゆる逸楽を求めて止まないのも、元来が愛と愛との結合でなく、性的奴隷に甘んじて居る其報償を要求するものと見て、予は彼が為すまゝに放任すること四ヶ年余であつた。それにも拘はらず、彼は郷里の実父扶養料と称して少からぬ金を持去つた上「おヒマを下さい」とて大正十五年(昭和元年)三月の末、予の家を出て上山某氏の宅へ去つて了つた。
これは相当の衣服も出来、小遣銭もあるので、今度は妾奉公でなく、何処かへ嫁入りしたい気が起つた為めであつたらしいが、世間はさう思ふ様にゆかず、偶ま二三の縁談があつてもいづれも係累煩瑣の多い家庭ばかりなので、従来の如き我儘生活の不可能を察した彼れは予の家より出た事を後悔して居たやうであつた。


   本妻として復帰

四ヶ年間同棲して唯一の慰安者であつたものが、何等の理由なくして去つたのであり、此方は彼れの欲求を満足させて、其放縦生活を許して居た位であるから、彼れに愛着して居た事は確実であるが、さりとてヒマをくれと云ふを抑留すれば倍々(ますます)我儘が増長して制御し得られない事になるだらうと懸念し、其云ふがまゝ去るに任せたのであつた。其消息を知つて居る彼れは、上山氏夫妻を仲介者として「イヤで去つたのではありません、近辺の者に何時迄もアレはメカケだと云はれるのがツラかつたのです、本妻として戸籍を入れて下さるのならば帰りたいのです」との交渉であつた。
未練のある所へ此交渉を受けたので「従来の如きメカケ根性を去つて、一家の主婦らしく働くのならば帰つて来い」との返答でハナシは早速まとまり、翌四月二十九日を黄道吉日とし、彼れの心機をも一転せしめる方法として旧形式の如く、簞笥鏡台等の道具は白昼人夫に担ぎ込ましめ、黄昏頃、媒妁人と共に花嫁としての盛装を着け、角隠しをも被せての練り込み、其夜は親族知人を招いて盛宴を張り、芽出度芽出度の狂言を演じたのであつた、翌朝近隣では「昨夜宮武さんのうちに御婚礼があつたやうですが、若いお嫁さんを貰ふやうな若旦那があつたのですか」との評判「イヤ前のお妾さんが、奥様として帰つて来たのですよ」と笑はせて宣伝の目的を達したのである。
斯くの如く愛妾は愛妻に変じたのであるが、それは表面ばかりで、事実は旧の如き我儘で妾根性が失せなかつた、毎月五十円百円の衣服を新調し、挿花の稽古、料理の稽古、義太夫の稽古とて家事は一切女中に任せたまゝ午前よりの外出、果ては長唄の師匠を毎日自宅に通はせての練習、其間、演劇活動写真等の見物に出かける事は例になつて居た。
素性の正しからぬ女に耽溺して、其放縦性を増長せしめた罪は本夫にある、一家に不祥の騒動が起り「恥さらし事件」が起るのは当然の帰結で、所謂自業自得と評するより外はないと、知人に云はれて居るだらうと今更慚愧に堪へない。
さりながら、予が彼女に執着した原因は、其容貌姿態に惚れたのでなく、其気質性格に惚れたのでもない、七年間女性らしいヤサシイ言葉を聴かされた事もなかつたのみか、何か気に入らぬ事があると、フクレ顔をして一日も二日も無言で居るやうな反抗態度に出られた事が月に一二回はあつたに拘らず、予が常に彼を愛撫して棄てなかつた理由は、茲に公言を憚るべき一事の為めであつた。それを除外しての批難は常識に囚はれた平凡攻撃と見る。


   不義行為の発覚

我国に「七人の子をなすとも女に心をゆるすな」といふ古諺があり、又「己れの子であると云ふことは、其小供を我子であると信用することに依て決定する」と独逸文豪ゲーテが云つた。古今内外に奸通の多い事を証するに足れりである。
マチ女は戸籍上予の妻であるが、事実は妾であつた、奸通に妻妾の別はないが、法律上告訴の効があるのは妻の奸通に限る。予は入籍当初に「妻となれば奸通の際に刑を受けねばならぬが承知か」と云へば「充分承知であります」と答へたが予は其奸通を念頭に置かなかつた。逸楽放縦を許してあるから「マサカ」と思つたからである。故に警告もせず注意もしなかつた。然るに予が昭和三年十一月十七日午後八時半頃、微恙のため昼間より階上の一室に臥して居た寝床を出て階段を下り便所に行つた。其際居間を覗けば電燈の皎々たるのみで唯一人も居ない。
モツトモ書生と女中は、近所の者に誘はれて酉の市の見物に出かけて不在の事は知つて居たが、マチ女が見えない、ハテ変だと隣室の襖を開ければマチ女は他室へ去り、早く帰つた筈の松井といふ男が暗所に腹痛がするとて臥して居る。事実はこれだけしか見ない。
両人は強弁を重ねて容易に白状しなかつたが、マチ女が終に「恐れ入りました」の服罪で事実は明白となつた。
茲に至つた始末を彼れ等及び数人の言と予が知る所によつて略記すると、マチ女は四五年間三味線の練習をしたので、知合ひの若い男女数名に手ほどきの教授をして居たのである。松井某は其門弟の一人であつた、マチ女に対する長唄の師匠(女)も来るので、夫は洋行不在中の池端某といふ女も加はつて長唄を習つて居た、松井某と池端某とは毎夕を顔合せるので懇意に成り無妻の松井某と池端某との媒合をマチ女が頼まれ、予の放行不在中サビシイを名として両人を予の宅へ宿泊せしめた事が二三回あつた、それは昭和三年九月下旬の事であつたが、其両人の不義媾曳を自ら仲介しながら、それをケナルク感じて自らが松井某を誘引するに至つたのである。こゝに於て所謂三角関係と成つたので、散歩にも買物にも三人で出かけ、三人相抱擁の写真までも撮つて居る。それが十一月の上旬池端某女は夫が洋行より帰つたので媾曳も不可能となつて口を拭ひ、松井某はマチ女をのみネラフことになつた結果が右の暴露である。


   ゆるして下さいませんか

マチ女は一切を白状をした後「誠にスマナイ事をいたしました、一時魔がさしたのがモトで悪い事をいたしたのは申訳がありません、告訴なさいますか」と云ふ、予は「イヤ告訴はせぬ、それはお前と私とは年が大きに違ふからである。六十二の老人に連添つて居る三十二の女が、二十六の若い男と通じたがるのは当然の事だと云つて、告訴をすれば世間の同情を失ふよ」マチ「それならばドーなさいますか」予「放逐の外なしだ、明朝仲人たる上山氏へ挨拶してそれから何処へでも行くがよい」と強硬に言渡したがマチは「許して下さいませんか……今後は……」と云つて泣き俯した。予は「お前が私の知らぬ男と密会したのならば、ゆるしてもやるが、松井は私が使つてゐる男で、毎日顔を向ひ合せて居るではないか。私は私の凡情で今後彼れの顔を見るに忍びない、内済にしてお前だけをゆるすワケには行かぬと云ひ切つた。

右の松井某は、大正十五年二月、友人小野秀雄氏の紹介で来訪し、明年(昭和二年)の帝大卒業論文に「明治初期の新聞に現はれたる小説」といふのを提出するツモリですが、参考として古い東京絵入新聞と読売新聞を見たいのです、見せて下さいませんかとの事が最初の縁で、其後屢々来ることに成つた。酒を呑ませたり観劇に連れて行くなど愛して居るうち、卒業して文学士となつた昭和二年の四月、其希望に応じて帝大内の明治新聞雑誌文庫に予の助手として入れたのであつた、爾来毎月物的保護をも加へて居たのであるが、小説の筋を事実に行ふやうな背徳行為を敢てするシレモノであつた。其後聞く所によると、大学卒業の以前より小田原や東京で非倫不義の色魔的醜事を重ねて居た者であるさうな。此事件の暴露後、先輩や同朋に排斥されて日本に居られなく成り、外国へ行くと称して何処かへ高飛びしたさうである。対手が無名の人であれば評判も高くなるまいが、何しろ変人奇人で有名な男のカヽアを盗んだ問題であるだけ、それからそれへと喧伝されて、日本に居られなくなつたのは彼れの不利であつた。支那に居るとの風説もあるが、フランスへでも行つたとすれば、今頃は皿洗ひをやつて居るだろう。


   死んでおわびを致します

翌朝放逐したのであつたが、午前十一時頃、上山夫妻と共にやつて来た、内済を一縷の望みとしての同行であつたらしいが、死の決心はして居たものと見え、交渉断絶と知るや、便所に入つて多量の「猫いらず」を服用した。離縁した上は此家の者ではない。此処で介抱は許さないぞと云つたので、上山両人はマチを拉して自動車に同乗し、上野桜木町の浜野病院へ行つた。
「死ぬ覚悟で呑んだ薬です、死なして下さい」とて医師の手当に応ぜず、口を箝して拒むこと約半時間、大男三四人がかりの力も女一人の決意には敵し難く、突き飛ばされ蹴飛ばされた末、大学病院へ送りて新式の開口機を使用する外はないと決定した時、然らばとて初めて薬水を嚥下し、それより一斗内外の薬水を呑吐しとたので、今は腹中に何物も存しないが、手遅れのため胃中に浸入した燐毒が多いであらうから生死は不明であるとの報告に接した。予は忿恨懊悩の止まない興奮の際「生かすには及ばない、死んだ方が彼れのためにも、コチラのためにも幸福である」と叫んだ。
斯くて大苦悶の果、翌朝四時半頃絶命したさうである。彼れの懐中に郷里の妹へ宛てた遺書があつて、それに「わたくしは悪人でありました、死んでおわびを致します」と書いてあつた。彼れが生存欲を棄てゝ死の覚悟をするに到つたのは、スマナイといふ道徳的自責ばかりでなく、前途の悲観もあつたらしいが、死は罪障一切の消滅、此上多くを云ふに忍びない。
彼れの屍体は翌朝荼毘に付して、其遺骨を郷里から来た親族数名に渡した、今は相州秦野の冷たい土中に埋まつて居る。


   未練男の愚痴か

彼れが「ゆるして下さいませんか」といつた時、ゆるしてやれば、彼れの態度は謝罪の表示として、従来と変つた柔順に成り、且つ倹素を守り放縦も減じたであらうに、対手の関係上、寛容の処置をとる事が出来なかつたのを遺憾とする、内済にしなかつた事が、彼れをして死の決心をなさしめた主因であるとすれば、自ら手を下さずして彼を殺したとも云ひ得る。国家の法律上では半年か一年の懲役に過ぎない者に、冷酷の死刑を加へたやうなものであつた。何たる無情惨虐の事であらう。罪の悔悟者に対する処分としてはアマリに峻厳であり偏狭であつた。彼れは予とタトヘ経済的関係に過ぎなかつたものとしても、七ヶ年の長い間、年のちがふ老人の配偶者として甘んじて居てくれた情誼を追思すれば、彼れの死は実に可哀想である。シカモ人生最大の慰安者であつたばかりでなく、七ヶ年間には薪水の労を執つてくれた事もあり、衣服調度のセワをしてくれた事もあり、大正十二年九月の大震災時には、共に玄米飯をたべて野宿した事もある。特に忘れられないのは病臥の際の看護であつた。イヤナ顔もせず毎日糞尿のシマツをしてくれた事などは、普通の雇人には出来ない親切であつたと認めて居る。斯かる情人を再び帰らぬ冥土へ追放したのは呉々も無残であつた。我一個の料見で如何様にも為し得たものを、一時の忿怒に駆られて、アタラ彼の死を早めたのは我一生の不覚であり失態であつたと後悔の外はない。これを未練男の愚痴と笑ふ人もあらうが、それにしても、平凡寺和尚よりは「一度墓参りでもしてやりなさい」との伝言が来た、これも一切の罪は死を以て帳消しにせよ、右の旧誼を思ひやりて線香の一本でも手向けてやれとの本旨であらうと思へば、人間情味の共通と見て暗涙にむせばざるを得なかつた。


   自己慰安の即行

煩悶排除策、心機一転策、且つはテレ隠しの必要上、性的生活の必要上、家政整理の必要上、予は真の妻たる後継者の物色を急いだ、マチ女を放逐した朝よりそれに専心没頭したのであつたが、予として最も幸福な縁談が首尾よく成立したのでる。そこで友人数十名を招いて報告宴を開いた。其招待文句

先月十九日不貞女マチ毒死後交渉三日にして縁談整ひ小生は八年以来の相識水野和子と先月二十四日箱根温泉に於て結婚いたし我家ばかりに春は来にけりの悦に入つて居ます就ては来る八日午後五時より湯島天神魚十楼に於て其経過報告旁々ノロケ披露のため粗酒献上いたしますから是非御来会下さい
   昭和三年十二月二日            再 生 外 骨

此招待状によつて天魔子といふ親友から左の如き新川柳の妙句が来た。

  待つてたと云はぬばかりに早いこと
  外骨は三日ヤモメの元祖なり

宴会の席上では、和子と相識の間であつた由来を説き、前の如き売笑婦上りなどでなく、去月予の宅から出かけて某子爵との縁談の見合に行き、先方の懇望にも拘らず拒絶した事もある者など、ノロケ披露もしたが、要は自己慰安の悲哀劇に過ぎないのであつた。
それから縁談当初に和子の要求条件の一つであつた転居問題の実行、本郷区向岡弥生町二番地から帝大南門に近い同区龍岡町十五番地へ移転した通知にも

    幸運再生児の迎春
禍変じて福とやら、小生は箱根魁春楼上に於ける新婚後、間もなく新婦と共に左の理想的新居に転じて新年を迎へ、倍旧の元気を以て早々新著に着手して居ます(これはテレ隠しの自慰表示ばかりでなく再生新展の予報)云々

と回春を衒つた文句を入れた、これも外骨式であらう。芽出度芽出度。





昭和六年四月一日印刷
昭和六年四月五日発行

自家性的犠牲史
定価 壱圓

著作者  宮武外骨
発行人  大阪市南区上本町二丁目二三
     島屋昌温
印刷所  大阪市南区上本町二丁目一二
     大阪出版社印刷部

発行所  大阪市南区上本町二丁目
     大阪出版社
     電話長東二九七五番
     振替大阪五八二六七番
     大阪市南区上本町二丁目
     滑稽新聞社
     電話長東五四七一番
     振替大阪五一〇五三番




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菊池眞一