梅若実と円朝

                                         菊池眞一


    (一)梅若実と落語

 初代梅若実は、本業のかたわら、芝居・寄席に頻繁に通った。芝居見物が最も多く、死の二ヶ月ほど前まで足を運んでいる。落語よりは講談・講釈を好んだものらしく、『梅若実日記』における落語関係の記述はさほど多くない。
 芝居見物の記事は明治41年まであるが、講談・講釈は明治28年までで終わっている。落語席へ行ったという記述は明治17年が最後。
 落語家の中では、三遊亭円朝についての記述が最も多い。登場回数は次のとおり。(登場順)

初代土橋亭里う馬   一回
二代目金原野馬之助   一回
初代古今亭志ん生   二回
初代春風亭柳枝   二回
四代目船遊亭扇橋   二回
初代人情亭錦紅   二回
(梅若実は「人形亭錦紅」と書いている)
三代目金原亭馬生   一回
林家延玉   二回
三遊亭円朝  十六回
三代目朝寝坊夢楽(むらく) 四回
三代目麗々亭柳橋   二回
四代目翁屋さん馬   一回
柳亭右竜   一回
初代春風亭柳条   一回


  (二)梅若実と円朝

 最初に円朝の名前が見られるのは、文久元(一八六一)年正月廿六日の記事で、
  夜円朝ヘおもと おつるヲ連参。
とある。(注:「おもと」は妻〈「みね」とも言う〉、「おつる」は子)
 当時、梅若実は34歳、円朝は23歳である。(数え歳)
 文久三(一八六三)年四月十九日には、
  東両国円朝席ヘ参
とある。
 翌元治元(一八六四)年四月十五日にも、
  両国ヘ参円朝ヲ聞
とある。この年一月、円朝は両国垢離場の昼席でトリをとった。(「三遊亭円朝略伝」〈『やまと新聞』明治24年8月22日附録〉による)
 同元治元年六月廿一日には、
  円朝ヘ菓子ヲ遣ス
とある。
 この元治元年から翌慶応元(一八六五)年にかけて、梅若実は時折円朝を聞きに行っている。

  元治元年六月廿四日
  夜円朝ヘ参

  元治元年六月廿五日
  同断(夜円朝ヘ参)

  慶応元年十月十七日
  夜不残円朝ヲ聞ニ参(注:不残とは「一家総出で」という意味。芝居見物は一家総出でたびたび出かけているが、講談・落語では他に例を見ない)

  慶応元年十月十八日
  夜円朝ヘ参

  慶応元年十月十九日
  同(夜円朝ヘ参)

  慶応元年十月廿日
  夜円朝江金百疋遣ス(注:祝儀を贈ったということ。梅若実がかなり入れ込んでいた講釈師・一陽軒如水に対しても、「昼より一陽軒如水ヲ聞ニ参ル。下谷池ノ端松山亭ヘ出ル。金百疋遣ス」〈慶応三年正月七日〉と祝儀を与えている。)

  明治元年正月廿三日
  昼より鉄之丞殿同道円朝ヲ聞ニ参リ夕帰宅

  明治元年三月三日
  円朝ノ席ヘ参

  明治元年五月十二日
  昼より武蔵野席円朝江参リ候処酔狂人有之相仕舞(注:酔っ払いが騒いだか暴れたかしたので、お流れになったということ。丸札を出したのだろうが、翌日以降の記述は見られない)

 寄席での円朝に関する最後の記述は、明治四(一八七一)年九月三日で、
  夜並木亭ノ円朝ヲ聞ニ参ル
とある。

 この他、私邸に招かれた円朝の噺を聞いた、という記述がある。
  明治二十四年六月廿六日
  音羽町三丁目十九番地元司法大臣山田顕義理殿邸ニテ昨年ノ行幸啓ノ記念ノ為祝ニ小集会御催ニ付午後二時ニ罷出ル。鉄之丞 六郎 九郎 喜松 金太郎六人出ル。仕舞 女郎花 金太郎 笠ノ段 九郎 実盛曲切 実 熊坂 鉄之丞 田村 六郎 独吟 高野物狂 喜松 外ニ中ノ嶋ノ琴 利(里)朝ノ三味線 円朝ノ咄シアル。十一時帰宅。

 講釈・講談に比べれば、落語関連の記述はかなり少ないが、その中でも円朝はぬきんでている。


  (三)晩年の円朝

『円朝全集』別巻二「三遊亭円朝年譜(倉田喜弘)」から、廃業以後、晩年の円朝の噺を抜き出す。

明治26年(1893)55歳
5月22日、廃業を思い留まっていたところ門下の卑語狼繋がますます甚だしくなり、改良の見込みなしと、ついに廃業〈読売・22日〉。

6月17日、「鏡ケ池の由来」、東流斎馬琴三十七回忌追善演芸会、会主は放牛舎桃林、錦輝館〈東朝・17日〉。

6月24-25日、「乳房榎の由来」、円朝発起の東京感化院寄付演芸会、錦輝館〈東朝・22日〉。〈読売・7月1日〉。

6月25日、失明した三遊亭金朝の義援演芸会に出席、浅草須賀町・鷗遊館〈やまと・23日〉。

9月12-13日、「塩原多助一代記」、悲田会慈善演芸会、友楽館改め春風館〈東朝・10日〉。
9月17日、郡司大尉義援演芸会に落語、主催は学園会、木挽町・厚生館〈国会・17日〉。

11月18-19日、「粟田口濡笛竹」、有名会、横浜・港座〈万朝報・17日〉。

11月23日、「花実情話」、世家真小兼名披露慈善演芸会、春風館〈都・23日〉。

11月25-26日、「看病婦おろくの伝」、仏教博愛館病院寄付演芸会、錦輝館〈万朝報・22日〉。


明治27年(1894)56歳

6月24日、「孝子廼誉」、松林伯遊改め二代目若園の改名披露、錦輝館〈万朝報・23日〉。

7月2-3日、実哲会で落語、錦輝館〈開花・1日〉。

8月2-3日、「〔松の操〕美人の生埋」、実哲会演芸会、錦輝館〈東朝・1日〉。

8月14日、「鏡池操松影」上演(初日23日)に先立ち、円生、金馬を連れて三崎座を訪れ、笑燕、蜂升ら出演女優に噺を聞かせる〈中央・15日〉。

11月24日、秋田・山形両県下震災救助慈善大演芸会で落語、春木座〈読売・23日〉。

12月16日、「日本看護婦の始め」、山形県下震災義援演芸会、横浜・蔦座〈東朝・15日〉。


明治28年(1895)57歳
1月17-18日、「粟田口」、小川町五十稲荷再建の奉納演芸、表神保町・新声館〈やまと・17日〉。

4月1日、第二団恤兵献金三遊演芸会に補助、神田・川竹亭〈東朝・3月31日〉。

秋、円朝会で「牡丹燈龍」と小噺「一人酒盛」「雷の卵」を演じる。前席は円遊、円右、円喬、松林伯知らで聴衆は華族や紳商などの家族。発起は条野採菊、大根河岸の三周ら。二回で終わる、日本橋倶楽部〈東朝・33年8月14目、山本笑月『明治世相百話』〉。


明治29年(1896)58歳
5月10日、「西洋人情話」、春錦亭柳桜三年忌追善、錦輝館〈東朝・8日〉。

10月3日、貧児学院寄付演芸会で「名人競」、新戸館〈東朝・1日〉。

10月28日、麻布霞町・鬼子母神堂で「高祖御伝記」を講話(『日宗新報』六一二、18日)。

11月3日、「昔日情話 紅葉の夕栄」、松林若円会主の演芸会、錦輝館〈東朝・10月31日〉。18日、改正増補「日蓮記」、静岡市呉服町・愛共亭、一座は橘之助、武生、円花、竹本叶、竹本大三ら、一週間出演〈中央・18日、報知・19日〉。

12月13日、久しぶりに牛込・和良店亭へ三日間出勤〈時事・13日〉。


明治30年(1897)59歳
3月20-21日、「教話の花」、松林若円の新織講話起演会、本郷・若竹亭と芝・玉の井亭〈時事・20日〉。

6月1日、三代目瀬川如皐十七回忌追福と四代目嗣号披露の会で余興、江東・中村楼〈中央・5月30日〉。

11月8日、麻布霞町・鬼子母神堂の御会式で「御利益ばなし」、12日には鈴ケ森鬼子母神堂で「道徳ばなし」を口演(いずれも『日宗新報』六五一、18日)。

12月1日、両国・立花家へ久々の出勤、マクラ「士族のしる粉屋」に続いて「粟田口」〈都・4日〉。


明治31年(1898)60歳
2月1日、先代円生の生家、葺屋町・大ろじ亭の振興を願って一門と出演、「業平文治」「塩原多助」を演じる〈東朝・2日〉。16日から麹町区青柳亭へ出演〈同・15日〉。

4月1日、風邪で休んでいたが全快、瀬戸物町・伊勢本へ出勤〈中央・2日〉。16-30日、「塩原多助一代記」、牛込・和良店亭ヘスケで出る〈中央・19日〉。このあと32年2月まで寄席出勤の月が多い。

9月23日、「塩原多助」、中島蒿の風教演芸新作会、神田美土代町・青年会館〈東朝・22日〉。


明治32年(1899)61歳
10月16日、遊三のスケで日本橋・木原亭へ出る、最後の寄席出勤となる〈報知・33年8月12日〉、演目は「牡丹燈籠」〈遺聞〉。


 以上が、『円朝全集』別巻二「三遊亭円朝年譜(倉田喜弘)」から抜き出した、晩年の円朝の噺である。筆者は、これに3件追加したい。
 一つは明治三十年六月二十五日、二つ目は明治三十一年五月二十五日、三つ目は明治三十一年六月十二日である。

 第一。梅若実は、明治三十年に円朝の噺を聞いている。『梅若実日記』明治三十年六月廿五日には、次のようにある。

一三井八郎右衛門方ニテ守之助ノ離盃ノ祝ニ付夕四時より参る。万三郎 竹世 清之 誠出ル。外ニ客ハ三井高生 元之助 得右衛門 英之助 中山勘六何レモ夫婦被参。仕舞 経政 道明寺 実 七騎落 箙 万三郎 自然居士クセ 杜若切 清之 天鼓 岩舟 竹世 合甫猩々 誠 熊野 得右衛門 養老 八郎右衛門 蝉丸 英之助 〔コノ部分三字程空白アリ〕守之助 絃上 得右衛門 円朝参リ噺シ有之。夜十二時ニ済一時ニ帰宅。

 送別会の余興で円朝に噺をさせたというものである。

 第二。大槻如伝張交帖『花の雲』(国会図書館蔵)に、明治三十一年五月二十五日の松の家節披露の広告がある。会主は松廼家露八(幇間)、場所は東両国の井生村楼(貸席)、余興番組の中に、
 福録寿 三遊亭圓朝
とある。
 露八は、
 益御清栄奉賀存候然は来五月廿五日東両国井生村楼上に於いてこの番組の通り松の家節并に余興とも相催候間御賑々敷御尊来奉希候已上
と告知している。

 第三。大槻如伝張交帖『花の雲』(国会図書館蔵)に、明治三十一年六月十二日、日本橋倶楽部での「書画小集」という書画会の広告に、余興として、
    落語
一 一昔笑語  三遊亭圓朝
一 即題新話  柳亭燕枝
とある。
 永井素岳は、
 来ル六月十二日晴雨ヲ問ハス日本橋倶楽部ニ開会致候諸君御尊臨ヲ冀フ
明治三十一年 会主 永井素岳 拝
と告知している。


  (四)『梅若実日記』の落語関係記述

 『梅若実日記』の落語関連記事は次のとおりである。

嘉永二年十月五日
曇天。……夜太平記場ニテりう馬ヲ聞。
(注:初代土橋亭里う馬〈文化元年~嘉永四年六月十四日〉)

嘉永六年六月廿一日
晴天。朝帰宅。浅三郎殿同道ニテ両国席ヘ参リ昔咄シ聞夫ヨリ夕浅草ヘ参リキンフラニテ夕飯致シ夜五ツ時帰宅。今日四ツ目や之おさは被参。

嘉永六年九月廿三日
曇。夜晴。在宅。夕刻浅三郎殿参リ湯嶌天神江楊弓引ニ参ル。夜帰リ三橋亭馬之助ヘ参ル。四時過帰宅。……
(注:二代目金原野馬之助か)

嘉永六年十一月十三日
晴天。……夜吹怒喜志ん生席ヘ参ル。
(注:梅若実は「吹怒喜」「吹奴喜」と書くが、下谷の「吹抜席」。)
(注:初代古今亭志ん生〈文化六年~安政三年十二月二十六日〉)

〈梅若実は嘉永六年十二月に結婚している〉

安政元年正月十六日
晴天。……帰リニ〔コノ部分三字程抹消アリ〕四日市柳枝之席江参リ九ツ時前帰宅。
(注:初代春風亭柳枝〈文化十年~慶応四年七月十七日〉。生涯改名しなかった)

安政元年正月廿七日
晴。風。……九半時帰宅。夜扇橋席ヘ参ル。
(注:四代目船遊亭扇橋か〈生没年不詳〉。初代五明楼玉輔の実子。明治元年頃没したという)

安政元年九月朔日丁卯
雨天。……○夜吹奴喜。人形亭錦紅ヘ参ル。……
(注:初代人情亭錦紅か)

安政元年十一月廿四日
晴天。……丸夕銀町江参リ夜帰宅。志ん生席江参。

安政三年正月十三日
晴天。昼より出宅。筋違之伊東花清之席ヘ参リ夕帰宅。夜扇橋之席ヘ参ル。

安政六年正月十七日
晴天。師家九時揃奥御用申合夕刻帰宅。夜吹怒喜ヘ参。馬生。
(注:三代目金原亭馬生〈?~明治六年九月十五日〉。弘化頃襲名)

万延元年二月八日
晴。昼より如水。帰リニ蓮玉庵ヘ参リ極夕帰宅。夜吹奴喜柳枝ヘ参。

文久元年正月廿一日
雨後曇天。在宅。昼吹抜ノ席ヘ参。延玉出ル。
(注:林家延玉〈?~明治七年〉)

文久元年正月廿三日
曇天。昼延玉ノ席ヘ参。在宅。

文久元年正月廿六日
晴天。……夜円朝ヘおもと おつるヲ連参。

文久三年四月十八日
小雨昼後より。昼より出宅。両国ノ象ノ見せ物を見。夫よりむらくノ席ヘ参リ夕帰宅。
(注:安政三年、三代目朝寝坊むらく《丸惣むらく》となった榊原鎌三郎。元治元年には四代目三笑亭可楽《爆弾可楽》となった)

文久三年四月十九日
晴。在宅。東両国円朝席ヘ参。

文久三年五月三日
晴。昼より両国夢楽之席ヘ参リ夕幸ヘ参。夜五半時帰宅。

元治元年四月十五日
晴天。昼前鉄之丞殿ニ金春惣次郎 猪八郎三人遊ビ帰リニ被参。同道致シ出宅。両国ヘ参円朝ヲ聞。夕刻皆々別レ帰宅。

元治元年四月廿九日
曇天。……並木山本新席ニ付柳橋ヲ聞ニ参リ夕帰宅。
(注:三代目麗々亭柳橋〈文政九年~明治二十七年六月八日〉。嘉永四年襲名)

元治元年五月十九日
晴天。同断(在宅)。むらく席ヘ参。渡月亭ヘ寄帰宅。

元治元年五月廿日
晴天。風。在宅。むらく席ヘ参。

元治元年六月朔日庚午
晴天。暑八十度。昼より琴周亭さん馬ヲ聞ニ参。夕帰宅。
(注:四代目翁屋さん馬〈?~明治六年二月三日)〉

元治元年六月二日
晴。在宅。昼より琴周亭ヘ参リ夜鈴木亭ヘ錦紅ヲ聞ニ参。

元治元年六月廿一日
晴天。八十度。……○円朝ヘ菓子ヲ遣ス。

元治元年六月廿四日
晴天。在宅。夜円朝ヘ参。

元治元年六月廿五日
晴天。在宅。同断(夜円朝ヘ参)。

元治元年八月廿五日
風雨。在宅。夜大升亭之柳橋ヲ聞ニ参ル。

慶応元年十月十七日
晴天。……昼より出宅。……六時帰宅。夜不残円朝ヲ聞ニ参。

慶応元年十月十八日
晴天。同断。在宅。夜円朝ヘ参。

慶応元年十月十九日
晴天。 同(夜円朝ヘ参)。

慶応元年十月廿日
晴天。同。夜円朝江金百疋遣ス。

明治元年正月廿三日
晴天。昼より鉄之丞殿同道円朝ヲ聞ニ参リ夕帰宅。……

明治元年三月三日
雨天昼夜。在宅。円朝ノ席ヘ参。……

明治元年五月十二日
昨日より雨止ミ無シ。雨天。昼より武蔵野席円朝江参リ候処酔狂人有之相仕舞。……

明治四年九月三日
晴天。……夜並木亭ノ円朝ヲ聞ニ参ル。

明治十年一月二日
薄晴。十一時前より雪ニナル。夕晴ル。……○夜柳亭右竜ヲ聞ニ参。……
(注:後に三代目柳亭左龍となる。安政二年~大正末年)

明治十七年四月廿七日
晴。……夜席ヘ参リ春風亭柳条ヲ聞。
(注:初代春風亭柳条〈弘化二年~明治二十九年十一月十二日〉。明治十五、六年頃襲名)

明治二十四年六月廿六日
曇。薄晴。夕五時比より雨。夜曇リ。又雨。七十二度。音羽町三丁目十九番地元司法大臣山田顕義理殿邸ニテ昨年ノ行幸啓ノ記念ノ為祝ニ小集会御催ニ付午後二時ニ罷出ル。鉄之丞 六郎 九郎 喜松 金太郎六人出ル。仕舞 女郎花 金太郎 笠ノ段 九郎 実盛曲切 実 熊坂 鉄之丞 田村 六郎 独吟 高野物狂 喜松 外ニ中ノ嶋ノ琴 利(里)朝ノ三味線 円朝ノ咄シアル。十一時帰宅。……

明治三十年六月廿五日
曇。夕大雷。……
一三井八郎右衛門方ニテ守之助ノ離盃ノ祝ニ付夕四時より参る。万三郎 竹世 清之 誠出ル。外ニ客ハ三井高生 元之助 得右衛門 英之助 中山勘六何レモ夫婦被参。仕舞 経政 道明寺 実 七騎落 箙 万三郎 自然居士クセ 杜若切 清之 天鼓 岩舟 竹世 合甫猩々 誠 熊野 得右衛門 養老 八郎右衛門 蝉丸 英之助 〔コノ部分三字程空白アリ〕守之助 絃上 得右衛門 円朝参リ噺シ有之。夜十二時ニ済一時ニ帰宅。


  (五)今までの研究

 これまで、『梅若実日記』における円朝の記述を指摘した論文は見当たらない。氣多恵子「初代梅若実の余暇」(『楽劇学』第十四号。2007年3月25日)は、
  講釈師一陽軒如水
という一章を設けているが、落語については、

 このように多種多様な娯楽を提供する浅草であるが、なかでもさまざまに興行していた芸能は、初代実の興味を引きつけてやまない。その内訳は講釈の聴聞と芝居見物が圧倒的に多い。その他にも浄瑠璃および人形芝居、落語、その他の見世物(写し絵、曲独楽、手品、操り人形など)を見たり聞いたりしているが、その回数は多くないのである。

とするのみである。


 初代梅若実と円朝との関係については、二代目梅若実の『梅若実聞書』に、次のように述べられている。

 私は能が一番好きでございますので、能の他に何の趣味も持ちませんし持ちたいとも思いませんが、父は芝居などもなかなか好きでして、寄席などもしじゅう聞きに行っておりました。円朝がひいきで毎晩のように通いますので、しまいには木戸御免になった程でした。宅にいい喝食の面がございますが、それは円朝から貰いましたもので、自分が持っていても何にもならないからと言って父にくれたものでございます。そういう人達とも時々は付き合っておりましたのでなかなか話も好きで面白うございました。私などそういう父にくらべたら至って無趣味なつまらない男でございます。
                         (白洲正子著作集第一巻〈昭和五十九年〉所収『梅若実聞書』による)

 二代目は明治十一年生まれ。彼が物心ついた頃には、初代の『梅若実日記』における落語席行きの記述は見られなくなっている。初代が寄席での円朝を聞いた記録は、明治四年九月三日が最後である。初代が全てを日記に記載したわけではなかったのか、あるいは二代目の記憶違いか。





※引用は、八木書店『梅若実日記』全七巻(2002・2003年)による。
※落語家の考証には、延広真治・山本進両先生、大矢一哉氏の御教示を賜った。

2016年5月26日稿
2016年5月29日公開
2016年5月30日訂正増補
2016年5月31日増補改訂
2016年6月1日増補改訂
2016年6月2日増補改訂
2016年6月3日増補改訂
2016年6月7日訂正
2016年12月6日増補改訂


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