円朝の『年始回り』二種

                              菊池眞一


『円朝全集』第十三巻(岩波書店)には、『年始まはり』という短い落語が収録されている。底本は『名家談叢』十七号附録(明治三十年一月二十日)。
 これとは別に『年始廻り』という落語が『商店界』第十七巻第二号(誠文堂新光社。昭和十二年二月一日)に「三遊亭円朝(遺稿)」として掲載されている。(『円朝全集』には収録されていない)

『年始まはり』を【甲】、『年始廻り』を【乙】とする。(本文は後掲)
甲乙は、朝湯で聞いた年始回りの行く先が自分と同じなので怒ったところ、自分を乗せた人力車の車夫だった、という点で同じだが、それ以外はだいぶ異なる。

 以下、相違点を列挙する。

乙は円朝自身が勘違いをして怒るが、甲では円朝は傍観者である。
乙は明治初年の話だが、甲は明治三十年。
乙は柘榴口だが、甲は柘榴口ではない。
乙は川柳一句を引用するが、甲は円朝の俳句二句を掲げる。
乙では円朝以外の客は二人だが、甲は四五人いる。
乙では、同一人物が元日・二日の行程を語るが、甲は、元日の年始先について、洗い場の客と浴槽の中の客とが同じ行程を語る。
乙は年始回り先や食事処を具体的に示すが、甲は地名のみ。
乙は文字にすると千百文字を越えるが、甲は七二〇文字程度で、分量がだいぶ異なる。

 以上の点から、甲乙は全く別物と言ってよいのではないか。話としては、甲より乙のほうがはるかに面白い。

 問題は、乙の成立年代である。乙には、速記者・小野田翠雨の前書きがあるが、「……といつて話されたのを筆記して筐底へ蔵しておいたもの」とあるのみで、円朝が話した年月の記載はない。次の記述が手がかりにならないであろうか。

「向島の……淡島寒月先生、饗庭篁村先生から其角堂」

 淡島寒月・饗庭篁村・其角堂機一の三名が共に向島にいた期間がわかれば、この話の時期が推測できるだろう。
 機一は明治二十年、永機から其角堂を譲り受け、向島に住んでいる。
 淡島寒月は明治二十六年に向島の梵雲庵に転居している。
 饗庭篁村であるが、明治七年、京橋南伝馬町に一戸を構え、明治十九年には根岸に居を移している。明治二十五年四月一日刊『〔東京現住〕著作家案内』(〔 〕内は割書。博盛堂)には、
  ○篁村     饗庭與三郎
   ○住所 北豊島郡西大久保村三百四拾九番地
とある。
 明治二十七年一月十九日刊『有馬筆』奥付には、
  東京府下南葛飾郡寺島村千七百七番地
とある。
 明治三十五年六月二十三日刊『巣林子撰註』奥付には、
  東京市本所区向島小梅町百〇七番地
とある。
 南葛飾郡寺島村も本所区向島小梅町も、今のスカイツリーの北側、所謂向島である。(幸田文は明治三十七年九月一日東京府南葛飾郡寺島村に生まれている)したがって、篁村は明治二十五、六年頃向島に転居したと推測される。向島小梅町に転居したのは明治二十八、九年頃だろうが、それ以前に向島に住んでいる。『近代文学研究叢書21』(昭和39年6月10日。昭和女子大学)によると、篁村は向島に明治四十三年までいたという。
 すると、乙は明治二十七年から三十三年の間のいずれかの正月の話ということになる。
 ここで矛盾に気付く。乙の話の舞台は明治初年、遅くとも「明治十五六年頃迄」、銭湯に柘榴口のあった時期のはずである。しかし、年始廻りの先は明治二十七年から三十三年。舞台設定は明治初年だが、年始廻り先を示す際には最近の体験を述べてしまった、ということか。

 次に問題となるのは、甲乙いずれが先でいずれが後か、ということである。
 甲には、話として不満が残る。柘榴口式でない「温泉風」の銭湯で、洗い場の客が浴槽の中の客の顔を認識できないということがあるだろうか。洗い場の客と浴槽の中の客が同じ話をしているのに、一方には聞こえず他方には聞こえるということがあるだろうか。
 これに比べ、乙は柘榴口なので、浴槽の中にいた円朝が、洗い場で話をしている人の顔がわからないというのは自然である。乙から甲に変更するというのは考えにくい。
 ここからは推測でしかないが、甲が原体験で、怒り出した客はよほどの粗忽者だったのかもしれない。これでは不自然だというので、円朝は、明治初年の柘榴口での話に変えたのだろう。後半の年始先も地名だけでは面白くないので、具体的な人名を列挙したのであろう。こうすることによって、話としては格段に面白くなった。ただし、前後半の時代設定に矛盾を来してしまった。
 このように考えれば、甲が明治三十年一月の話だとすると、乙はそれ以降の改訂版ということになる。円朝が翠雨に語った「これは昨日自分が実地にやつたことで」というのは嘘になってしまうが。
 それでは、乙は明治三十年一月、明治三十一年一月、明治三十二年一月、明治三十三年一月のどの時期だろうか。
 乙の、

「向島が今年の恵方になるから」

という記述が手がかりとなるのではないか。
 恵方とは、歳徳神の在する方位で、その方角に向かって事を行えば万事に吉とされる。

甲・己の年は、東北東やや東
乙・庚の年は、西南西やや西
丙・辛・戊・癸の年は、南南東やや南
丁・壬の年は、北北西やや北

が、それぞれ恵方とされる。(ウィキペディアによる)

『円朝全集』別巻二の「三遊亭円朝年譜」(倉田喜弘)によりつつ、各年の干支と正月時点の円朝の住所を示すと、次のとおりである。

明治三十年  丁酉 芝愛宕下桜川町十三番地(現・港区虎ノ門一丁目)
明治三十一年 戊戌 芝愛宕下桜川町十三番地(現・港区虎ノ門一丁目)
明治三十二年 己亥 神田区佐久間町三丁目三十八番地
明治三十三年 庚子 下谷区車坂町二十五番地(現・台東区上野七丁目・東上野三丁目)

これらの地点と向島とを結んで方角が一番近いのは、明治三十二年(己亥)である。
今までの推測が正しければ、乙(『年始廻り』)は、明治三十二年正月に語られたもの、ということになる。

 それでも疑念は残る。乙に「小石川の高田早苗先生の処」とあるのが不審である。
 「新宿区ゆかりの人物データベース」によると、高田の住所は、
http://www.library.shinjuku.tokyo.jp/jinbutuyukari/detail.php?id=163

明治15年10月~17年
牛込早稲田町【大隈別邸】
明治17年3月~
牛込若松町
明治21年頃
牛込北町
期間不明
市谷砂土原町
期間不明
牛込矢来町4
明治25年頃
牛込中町32
~明治35年3月
牛込矢来町4

となっている。
 『高田早苗の総合的研究』(2002年10月21日。早稲田大学資料センター)の年譜によれば、高田は、明治三十五年三月、東京市小石川区関口町二百番地に転居している。
 『近代文学研究叢書43』(昭和51年7月20日。昭和女子大学近代文化研究所)によると、「小石川関口町の広大な邸宅は大正六年の早稲田騒動の時に手ばなし」とあるので、高田は、明治三十五年三月から大正六年まで小石川区関口町に住んでいたことが確認できる。
 円朝は明治三十三年に没しているので、「小石川の高田早苗先生の処」に年始の挨拶に伺うことはできない。この部分は速記者・小野田翠雨の創作であろうか。

 乙について、もう一つ疑問がある。それは円朝没後三十七年も「筐底」に『年始廻り』の速記をしまったままにしていたことである。前年の昭和十一年は円朝三十七回忌にあたる。それを機に筐底に眠っていた原稿が出てきたのであろうか。小野田翠雨の生没年は不詳だが、老い先長くないことを悟り、置き土産としたのであろうか。掲載誌『商店界』の目次では「商売落語年始廻り」、123頁では「商店落語/年始廻り」となっているが、『年始廻り』は「商売落語」とも「商店落語」ともいえるような内容ではない。
 『年始廻り』は謎の多い作品である。




《資料》

【甲】
年始まはり
三遊亭円朝述
武陽生速記

私は昨年の十二月芝愛宕下桜川町へ越しまして、此春は初湯に入りたいと存じ、ツイ近辺の洗湯に参りまして
  初湯にも洗ひのこすや臍のあか
と云ふのと、
  おし気なくこぼしてはいる初湯かな
と二句やりました。板の間には余り人が居りませぬで、四五人居りました。此湯は昔風の柘榴口ではないけれども、はいる処が一寸薄暗くなつて居ります。板の間に留桶を置いて、洗て居る年輩の人が、御近辺のお心易いお方と見えて言葉をかけ。
 甲「お目出度ございます。
 乙「ハイお目出度ございます。
 甲「昨日は御年頭廻りでございましたか。
 乙「イヤモウ草臥れて……年を寄てはいけませぬ。実にがツかりしました。
 甲「へー御遠方をお歩きでしたか。
 乙「エー初め宅を出まして、それから霊南坂を上て麻布へ出ました、麻布から高輪へ出まして、それから芝へ帰て来て、新橋を渡り、煉瓦通を廻りまして、京橋から日本橋から神田へ出ましてナ。下谷から浅草を廻て、それから貴君、本郷台へかゝりました。それから牛込へ出まして、四谷から麹町を廻て帰て参りまして、イヤモウがツかり致しました。
と話をして居ると、湯の中で
 甲「どうしたい昨日は。
 乙「どうも草臥たツてネーナ。ひどい草臥れやうをしたぜ。
 甲「どうしたエ。
 乙「どうしたツて溜らネーじゃネーか。昨日は年始廻りだ。朝家を出て霊南坂を上て麻布へ出たんだ。麻布から高輪へ出て、それから芝へ帰て来て、新橋を渡り煉瓦通を廻て、神田へ出て下谷から浅草へ出たらう。それから本郷台へ上て。牛込へ出て四谷から麹町へ出て帰て来た。イヤモウがツかりした。
と云ふのを板の間に居る前の人が聞いて。
「誰だ我の真似をするのは。
と云て腹を立ち、其男を引摺り出して打擲たところが、昨日自分の伴れて歩いた車夫でございました。
(完)
(『円朝全集』第十三巻。底本は『名家談叢』十七号附録(明治三十年一月二十日))


【乙】
商店落語
年始廻り
   三遊亭円朝(遺稿)

明治年代に於ける話術の大家で一世の人気を集めた名人円朝の新作人情噺と落語は可なり沢山あるが、大抵は新聞雑誌に発表され、また『円朝新作集』にもも網羅されてゐるが、本篇は私が円朝の家へ年始に往つた時に、『これは昨日自分が実地にやつたことでそれその儘が落語になりますよ』といつて話されたのを筆記して筐底へ蔵しておいたもので、短篇ものだが、話しぶりが如何にも上品で、円朝の面影が偲ばれるし、まだどこへも掲載したことがないから本誌へ寄稿することにした。
(小野田翠雨記)

 エヽこれは自分が実地に致しましたことで、それが落語になりますからおかしうございます。一月三日のことでございます。朝湯に参つて、ざくろ口をくゞつて、好い気持に湯につかつてをりました。
 今のお若い方は御存知ございませんが、明治初年までは、湯屋の浴槽(ゆぶね)が今のやうに四方ぱつぱらいで、浴槽に這いりながら浴場(ながし)が見えるといふのは、これは温泉風といつて、温泉場で始めたことで、それが衛生上に宜しいといふので、東京の湯屋でもみんな唯今のやうに温泉風になりましたが、明治十五六年頃迄は浴槽がすつかり四方とも板で囲つてありまして、入口はざくろ口といつて、これもかゞんで這入らなければなりません。浴槽につかるのは丁度穴の中へ這入るやうでした。そのかはり湯は冷めません。湯気が濛々とたつて暖かくてまことに好い気持ですが、逆上(のぼせ)ますし、洗場の人の顔も見えなければ、声もはつきり聴えません。
 川柳に
  あつ湯好き枝珊瑚樹のやうになり
と、ある通りで、江戸から東京へかけて銭湯の湯は慨して熱いもので朝湯は特別に熱うございます。穴のやうな真暗な湯槽(ゆぶね)で熱い湯へ這入りますから身体が真赤になつて枝珊瑚樹のやうになります。
 私が参つた時は先きに一人知らぬ人が洗場(ながし)で洗つてゐました。私が浴槽の中へ這入つた時に後からまた一人ガラリと戸を開けて這入つて来ましたが、先きにゐた人と懇意と見えて、私が浴槽の中で聴くともなしにきゝますと、
『オイオイ、景気が宜いな、もう年始廻りは済んだかい』『ウム、済んだよ』
 割合に大声ですから聴えました。
『何処(どこ)と何処へ往つたね』
『元日は浅草鳥越の大槻如電先生のお宅から、牛込へ廻つて、昼飯は上野の鳥八十で食つて、小石川の高田早苗先生の処から福地桜痴先生、それから駿河台の漢学者で重野成斎先生、それから日本橋へ来て寄席を五六軒廻つて、談洲楼燕枝の家へ往つて、築地の団十郎と菊五郎と芝翫のところへ往つて、夕食(ゆふめし)は新橋の花月で食つて帰つたよ』
『ウーム、それは豪気だ』
『二日は向島が今年の恵方になるから一つ向島の学者方を廻はらうと、淡島寒月先生、饗庭篁村先生から其角堂へ参つて、白髯へ参詣して、奥の八百松で昼飯を食つて、あれから本所へ来て亀井戸へ廻つて、深川へ寄つて、八幡様と不動様へ参詣して、平清で晩飯を食つて帰つて来たよ』
『大変景気が好くて羨ましいな』
 浴槽の中で聴いて居りました私はムツとしました。
『これは可怪(おか)しい。俺の年始廻りそつくりだぞ、俺の廻つた通りだ。人を馬鹿にしやがつて、俺の廻つた通りを言つてゐやがる』
と、気早の私、前後の考へもなく、突如(いきなり)、浴槽から飛び出して、
『ヤイ、何だつて、俺の年始廻りをそつくり言つてゐやがるんだ。この野郎、人を馬鹿にしやがつて……』
とよく見ますと、何んのことだ、私の車夫でありました。(完)
(『商店界』第十七巻第二号。昭和十二年二月一日)


(注記)
藤沢衛彦『変態浴場史』(昭和二年九月二十九日)は、明治初期の銭湯について次のように記している。

明治十年、銭湯風呂屋が、温泉風呂の制に倣つて、屋上に湯気抜を装置の制に改める迄、銭湯風呂の構造は、東京に於ては江戸時代の遺風の継承で、維新後漸次の改良を加へたといふものゝ、要するに柘榴口の旧式なものに過ぎなかつた。(七十六頁)
警視庁は、明治十二年を期して、柘榴口式浴場を禁止した。(九十二頁)


2017年1月10日公開

菊池眞一

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