P365曾我物語巻第十

S1001N146
 扨(さて)も、仰(おほ)せを承(うけたまは)りて、小平次罷(まか)り出(い)で、御馬屋(おんうまや)の下部(しもべ)、総追(そうつゐ)国光(みつ)、五郎(ごらう)を預(あづ)かり、既(すで)に御馬屋(おんうまや)の柱(はしら)にしばり付(つ)けて、其(そ)の夜、守(まも)り明(あか)しければ、「大将殿より尋(たづ)ね聞(き)こし召(め)さるべき事(こと)有(あ)り。曾我(そが)の五郎(ごらう)つれて参れ」との御(おん)使(つか)ひ有(あ)りければ、小平次、縄(なは)取(と)りにて参(まゐ)りけるを、母方の伯父(をぢ)、伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)、小川(をがは)の三郎(さぶらう)祐定(すけさだ)申(まう)しけるは、「如何(いか)に小平次、侍(さぶらひ)程(ほど)の者(もの)に、縄(なは)付(つ)けず共(とも)、具(ぐ)して参(まゐ)れかし。山賊(ぞく)海賊(ぞく)の族(やから)にもあらざれば、逃(に)げうすべきにもあらず。事(こと)に依(よ)り、人にこそよれ。むげに情(なさけ)無(な)し」と言(い)ひければ、五郎(ごらう)笑(わら)ひて、「誰一言(げん)の情(なさけ)をも残(のこ)す者(もの)の無(な)きに、御分(ごぶん)の芳志(はうし)嬉(うれ)しさよ。さりながら、御分(ごぶん)、時宗に親(した)しき事(こと)は、皆人(みなひと)知(し)れり。斯様(かやう)の身(み)に成(な)りて、親類入(い)るべからず。詮(せん)無(な)き沙汰(さた)して人に聞(き)かれ、方人(かたうど)したと言(い)はれ給(たま)ふな。人の上をよく言(い)ふ者(もの)は無(な)きぞとよ。時致(ときむね)、盗(ぬす)み強盗(がうだう)せざれば、千筋(すぢ)の縄(なは)は付(つ)くとも恥(はぢ)ならず、是(これ)は、父(ちち)の為(ため)に読(よ)み奉(たてまつ)りし法花経の紐(ひも)よ」とて、事(こと)とも思(おも)はざる気色(きしよく)して、御坪(つぼ)の内へぞ引(ひ)き入(い)れられける。「其(そ)の上、敵(かたき)の為(ため)にとらはるる者(もの)、時致(ときむね)一人にも限(かぎ)らず、殷湯(いんたう)は、夏台(かたい)にとらはれ、P366文王(ぶんわう)は、■里(ゆうり)にとらはる。是(これ)、更(さら)に恥辱(ちじよく)にあらず」とて、打(う)ち笑(わら)ひてぞ居(ゐ)たりける。哀(あは)れとは言(い)はぬ者(もの)ぞ無(な)き。五郎(ごらう)、御前(おんまへ)に参(まゐ)りければ、君御覧(ごらん)ぜられて、「是(これ)が曾我(そが)の五郎(ごらう)と言(い)ふ者(もの)か」「某(それがし)が事(こと)候(さうら)ふよ」とて、立(た)ち上(あ)がり、縄(なは)取(と)りを宙(ちう)に引(ひ)きたてければ、警固(けいご)の者(もの)共(ども)、狼籍(らうぜき)也(なり)とて、引(ひ)き据(す)ゑたり。其(そ)の時(とき)、相模(さがみ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)あらうみ四郎(しらう)真光(さねみつ)、伊豆(いづ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)狩野介(かののすけ)宗茂(むねもち)、座敷(ざしき)を立(た)ちて、「申(まう)し上(あ)ぐる事(こと)あらば、急(いそ)ぎ申(まう)し候(さうら)へ」と言(い)ふ。時致(ときむね)聞(き)きて、大(だい)の眼(まなこ)を見(み)出(い)だして、彼(かれ)をはたとにらみて、「見(み)苦(ぐる)しし、人々(ひとびと)、御前(ごぜん)遠(とほ)くは、さも有(あ)りなん、近(ちか)ければ、直(ぢき)に申(まう)すべし。さ様(やう)なれば、問(と)はれて申(まう)す白状(はくじやう)に似(に)たり。問(と)はるるに依(よ)りて、申(まう)すまじき事(こと)を申(まう)すべきにあらず。面々(めんめん)、骨折(ほねをり)にのき候(さうら)へ」とて、あざ笑(わら)つてぞ居(ゐ)たりける。君(きみ)、聞(き)こし召(め)され、「神妙(しんべう)に申(まう)したり。各々(おのおの)のき候(さうら)へ。頼朝(よりとも)、直(じき)に聞(き)くべし」と仰(おほ)せ下(くだ)されけり。扨(さて)、五郎(ごらう)居(ゐ)なほり、顔(かほ)振(ふ)り上(あ)げて、たからかに申(まう)しけるは、「兄(あに)にて候(さうら)ふ十郎(じふらう)が、最後(さいご)に申(まう)し置(お)きて候(さうら)ふ。我(われ)等(ら)が父(ちち)を祐経(すけつね)に打(う)たせ候(さうら)ひしより此(こ)の方(かた)、年月(としつき)狙(ねら)ひ候(さうら)ひし心(こころ)の内(うち)、如何(いか)ばかりとか思(おぼ)し召(め)され候(さうら)ふ。其(そ)れに付(つ)きては、一年君(きみ)御上洛(しやうらく)の時(とき)、酒匂(さかは)の宿(しゆく)よりつき奉(たてまつ)りて、祐経(すけつね)が御供(おんとも)して候(さうら)ひしを、泊々(とまりとまり)にやすらひ、便宜(びんぎ)を窺(うかが)ひ候(さうら)ひしかども、適(かな)はで京(きやう)に上(のぼ)り、四条(しでう)の町(まち)にて、鉄(かね)よき太刀をかひ取(と)り、昨夜(ゆふべ)の夜半(やはん)に、御前(おんまへ)にて本意(ほんい)を遂(と)げ候(さうら)ひぬ。今は、何(なに)を思(おも)ひ残して、命も惜(を)しく候(さうら)ふべき。御恩(ごおん)には、今(いま)一時も、とく首(かうべ)をはねられP367候(さうら)へ」とぞ申(まう)しける。京(きやう)へは上(のぼ)らざりしかども、箱根の別当(べつたう)に契約(けいやく)せし故(ゆゑ)に、太刀の由来(ゆらい)をも隠(かく)し、又は別当(べつたう)の罪科(ざいくわ)もやと思(おも)ひ、斯様(かやう)にぞ申(まう)したりける。君聞(き)こし召(め)され、「此(こ)の太刀の出所、隠(かく)さん為(ため)にこそ申(まう)すらん。更(さら)に別当(べつたう)の科(とが)にあらず。先祖(せんぞ)重代(ぢゆうだい)の太刀(たち)、箱根(はこね)の御山に込(こ)めし由(よし)、予(かね)てより伝(つた)へ聞(き)き、如何(いか)にもして取(と)り出(い)ださばやと思(おも)ひしを、神物(じんもつ)に成(な)る間(あひだ)、力(ちから)及(およ)ばざりつるに、只今(ただいま)、頼朝(よりとも)が手(て)に渡(わた)る事(こと)、偏(ひとへ)に正(しやう)八満大菩薩(だいぼさつ)の御(おん)はからひと覚(おぼ)えたり。斯様(かやう)の事(こと)無(な)くは、如何(いか)にして二度主に成(な)るべき」とて、自(みづか)ら御頂戴(ちやうだい)有(あ)りて、錦(にしき)の袋(ふくろ)に入(い)れ、深(ふか)くをさめ給(たま)ふ、御重宝(ちようほう)の其(そ)の一(ひと)つなり。代々伝(つた)はりけるとかや。やや有(あ)りて、君仰(おほ)せられけるは、「此(こ)の事(こと)、曾我(そが)の父母に知(し)らせけるか」。五郎(ごらう)承(うけたまは)りて、「日本(につぽん)の大将軍の仰(おほ)せとも存(ぞん)じ候(さうら)はぬ物(もの)かな。当代(たうだい)ならず、いづれの世(よ)にか、継子(けいし)が悪事くはたてんとて、暇(いとま)こひ候(さうら)はんに、「神妙(しんべう)也(なり)、急(いそ)ぎ僻事(ひがこと)して、我(われ)惑(まど)ひ物(もの)になせ」とて、出(い)だし立(た)つる父(ちち)や候(さうら)ふべき、又(また)、母(はは)の慈悲(じひ)は、山野の獣(けだもの)、江河(がうがは)の鱗(うろくづ)までも、子(こ)を思(おも)ふ志(こころざし)の深(ふか)き事(こと)は、父(ちち)には母(はは)はすぐれたりとこそ申(まう)し候(さうら)へ。況(いはん)や、人界(にんがい)に生を受(う)けて、二十(はたち)余(あま)りの子供(こども)が、命死なんとて、母(はは)に知(し)らせ候(さうら)はんに、急(いそ)ぎしにて物(もの)思(おも)はせよと、喜(よろこ)ぶ母(はは)や候(さうら)ふべき。御景迹(けいしやく)」とぞ申(まう)しける。「さて、親(した)しき者(もの)共(ども)には、如何(いか)に」「身貧(ひん)にして、世(よ)に有(あ)る人々(ひとびと)に、かくと申(まう)し候(さうら)はんは、只(ただ)手(て)を捧(ささ)げて、是(これ)をしばらせ、首(くび)を延(の)べて、是(これ)をきれとP368こそ申(まう)し候(さうら)はんずれ。誰(たれ)かは頼(たの)まれ候(さうら)ふべき。愚(おろ)かなる御諚(ごぢやう)候(さうら)ふかな」とぞ申(まう)しける。君(きみ)、実(げ)にもとや思(おぼ)し召(め)しけん、「父母類親(るいしん)に至(いた)るまでも、子細(しさい)無(な)し。又(また)、祐経は、伊豆(いづ)より鎌倉(かまくら)へ、しげく通(かよ)ひしに、道(みち)にては、狙(ねら)はざりつるか」「さん候(ざうらふ)、此(こ)の四五ケ年の間(あひだ)、足柄(あしがら)・箱根・湯本(ゆもと)・国府津(かうづ)・酒匂(さかは)・大磯(おほいそ)・小磯(いそ)・砥上原(とがみがはら)・もろこし・相模河(さがみがは)・懐(ふところ)嶋・八的原(やまとがはら)・腰越(こしごえ)・稲村(いなむら)・由比(ゆひ)の浜(はま)・深沢辺(ふかさはへん)にやすらひ、野路・山路(やまぢ)・宿々(しゆくじゆく)・泊々(とまりとまり)にて狙(ねら)ひしかども、敵のつるる時は、四五十騎、つれざる時(とき)も、二三十騎、我々は、つるる時(とき)は、兄弟(きやうだい)二人、つれざる時(とき)は、只(ただ)一人、思(おも)ひながらも、空(むな)しく今までのび候(さうら)ひぬ」。又(また)、「祐経(すけつね)は、敵(かたき)なれば、限(かぎ)り有(あ)り。何(なに)とて、頼朝(よりとも)がそぞろなる侍(さぶらひ)共(ども)をば、多(おほ)く切(き)りけるぞ」「其(そ)れこそ、理(ことわり)にて候(さうら)へ。御所(ごしよ)中(ぢゆう)に参(まゐ)りて、斯(か)かる狼藉(らうぜき)を仕(つかまつ)る程(ほど)にては、千万騎(ぎ)にて候(さうら)ふとも、余(あま)さじと存(ぞん)ずる所(ところ)に、こざかしく、「敵(かたき)は何処(いづく)に有(あ)るぞ」と尋(たづ)ね候(さうら)ふ間(あひだ)、公(かう)には忠(ちゆう)をつくし、忠(ちゆう)には命(いのち)を捨(す)つる習(なら)ひ、神妙(しんべう)に存(ぞん)じて、「是(これ)に有(あ)り」と申(まう)す声(こゑ)に驚(おどろ)きて、足(あし)のたて所も知(し)らず、逃(に)げ候(さうら)ひし間(あひだ)、罪作(つみつく)りと存(ぞん)じて、おひて切(き)り殺(ころ)すに及(およ)ばず、只(ただ)かうばかりの側太刀(そばだち)、形(かた)の如(ごと)くあてたるまでにて候(さうら)ふ。面傷(おもてきず)はよも候(さうら)はじ。只今(ただいま)召(め)し出(い)だして御覧(ごらん)候(さうら)へ」と申(まう)しければ、やがて、御(おん)使(つか)ひして、聞(き)こし召(め)されけるに、申(まう)す如(ごと)く、面(おもて)の傷(きず)は稀(まれ)なり。面目(めんぼく)無(な)くぞ聞(き)こえける。又(また)、「王藤内(わうとうない)を何(なに)とて打(う)ちける」「恐(おそ)れ入(い)りて候(さうら)へ共(ども)、年頃(としごろ)の傍輩(はうばい)のうたP369れ候(さうら)ふを、見(み)捨(す)てて逃(に)ぐる不覚人(ふかくじん)や候(さうら)ふべき。誠(まこと)にけなげに振舞(ふるま)ひ候(さうら)ひつる物(もの)をや。「人と見(み)て、古郷(こきやう)に帰らざるは、錦(にしき)をきて、夜行(ゆ)くが如(ごと)し」と言(い)ふ古(ふる)き言葉(ことば)をや知(し)りけん、所領(しよりやう)安堵(あんど)の証(しるし)に、本国(ほんごく)へ下(くだ)りしが、祐経に暇(いとま)こはんとて、道より帰(かへ)りての討死(うちじに)、不便(ふびん)なり」とぞ申(まう)しける。此(こ)の言葉(ことば)に依(よ)り、「神妙(しんべう)也(なり)。是(これ)も、頼朝(よりとも)が先途(せんど)に立(た)ちけるよ」とて、「本領(りやう)、子孫(しそん)において子細(しさい)無(な)し」と、御判(はん)重(かさ)ねて下(くだ)されける。是(これ)も、兄(あに)の十郎(じふらう)が屋形(やかた)を出(い)でし時(とき)、「王藤内(わうとうない)が妻子(さいし)、さこそ歎(なげ)かんずらん、無慙(むざん)なり」と、言(い)ひし言葉(ことば)の末(すゑ)にぞ申(まう)しける。偏(ひとへ)に、時宗が情(なさけ)に依(よ)つて、所領(しよりやう)安堵(あんど)す、有(あ)り難(がた)しとぞ感(かん)じける。やや有(あ)りて、「頼朝(よりとも)を敵(かたき)と思(おも)ひけるか」と御(おん)尋(たづ)ね有(あ)りければ、五郎(ごらう)承(うけたまは)りて、「さん候(ざうらふ)、身(み)に思(おも)ひの候(さうら)ひし時は、木(き)も草(かや)も恐(おそ)ろしく、命も惜(を)しく存(ぞん)じ候(さうら)ひしが、敵(かたき)打(う)つての後(のち)は、如何(いか)なる天魔(てんま)疫神(やくじん)なり共(とも)と存(ぞん)じ候(さうら)ふ。まして其(そ)の外(ほか)は、いきたる者(もの)とも思(おも)ひ候(さうら)はず。然(さ)れば、千万人の侍(さぶらひ)よりも、君一人をこそ思(おも)ひ掛(か)け奉(たてまつ)りしかども、御果報(くわほう)めでたき御事(おんこと)に渡(わた)らせ給(たま)へば、御運(ごうん)におされて、斯様(かやう)に罷(まか)り成(な)りて候(さうら)ふ」と申(まう)したりければ、君聞(き)こし召(め)され、「敵(かたき)打(う)つての後(のち)、身(み)をかろく思(おも)ふは理(ことわり)也(なり)。頼朝(よりとも)をば、何(なに)とて敵(かたき)と思(おも)ひけるぞ」「自業(じごふ)自得果(じとくくわ)とは存(ぞん)じ候(さうら)へ共(ども)、伊藤(いとう)入道が謀叛(むほん)に依(よ)り、我(われ)等(ら)長(なが)く奉公(ほうこう)をたやすのみならず、子孫(しそん)の敵(かたき)にては渡(わた)らせ給(たま)はずや。又は、閻魔王(えんまわう)の前にて、「日本(につぽん)の将軍鎌倉(かまくら)殿(どの)を手(て)に掛(か)け奉(たてまつ)りぬ」と申(まう)さば、P370一(いち)の罪(つみ)や許(ゆる)さるべきと、随分(ずいぶん)窺(うかが)ひ申(まう)して候(さうら)ひつれ共(ども)」と申(まう)す。「扨(さて)、五郎丸(ごらうまる)には、如何(いか)にしていだかれけるぞ」「其(そ)れは、彼(か)の童(わらは)を女(をんな)と見(み)成(な)し、何事(なにごと)候(さうら)はんと存(ぞん)じて、不慮(ふりよ)に取(と)られて候(さうら)ふ。斯様(かやう)なるべしと存(ぞん)ずる物(もの)ならば、只(ただ)一太刀の勝負(しようぶ)にて候(さうら)はんずる物(もの)をと、後悔(こうくわい)益(えき)無(な)し。是(これ)、偏(ひとへ)に宿運(しゆくうん)のつきぬる故(ゆゑ)也(なり)。実(げ)にや、「羅網(らまう)の鳥は、高(たか)くとばざるを恨(うら)み、呑鉤(どんこう)の魚(うを)は、海を忍ばざるを歎(なげ)く」とは、要覧(えうらん)の言葉(ことば)なるをや、今(いま)こそ思(おも)ひ知(し)られたる。君(きみ)の御佩刀(はかせ)の鉄(かね)の程(ほど)をも見(み)奉(たてまつ)り、時宗がくたり太刀(たち)の刃(やいば)の程(ほど)をもためし候(さうら)はんずる物(もの)を」と、言葉(ことば)をはなちてぞ申(まう)しける。君聞(き)こし召(め)されて、「猛将(まうしやう)勇士(ゆうし)も、運(うん)のつきぬるは」と仰(おほ)せられ、双眼(さうがん)より御涙(なみだ)を流(なが)させ給(たま)ひて、「是(これ)聞(き)き候(さうら)へ。日来(ひごろ)は、更(さら)に思(おも)はぬ事(こと)なれ共(ども)、今、頼朝(よりとも)に問(と)はれて、当座(たうざ)の構(かま)への言葉(ことば)なり。適(かな)はぬまでも、逃(のが)れんとこそ言(い)ふべきに、露程(ほど)も命を惜(を)しまぬ者(もの)かな。世(よ)に有(あ)りなば、思(おも)ひ止(とど)まる事(こと)も有(あ)りぬべし。余(よ)の侍(さぶらひ)、千万人よりも、斯様(かやう)の者(もの)をこそ、一人なりとも召(め)し使(つか)ひたけれ。無慙(むざん)の者(もの)の心(こころ)やな。惜(を)しき武士(ぶし)かな」とて、御袖を御顔(かほ)に押(お)し当(あ)てさせ給(たま)ひければ、御前(ごぜん)祗候(しかう)の侍(さぶらひ)共(ども)、心(こころ)有(あ)るも無(な)きも、涙(なみだ)を流(なが)さぬは無(な)かりける。やや有(あ)りて、君御涙(なみだ)を抑(おさ)へさせ給(たま)ひて、十郎(じふらう)が振舞(ふるま)ひを聞(き)こし召(め)すに、「何(いづ)れを分(わ)けて言(い)ひ難(がた)し。誠(まこと)に打(う)たれたるやらん」と仰(おほ)せられければ、「新田(につた)に御尋(たづ)ね候(さうら)へ。黒鞘巻(くろざやまき)に赤胴作(しやくどうづくり)の太刀、村千鳥(むらちどり)の直垂(ひたたれ)ならば、誠(まこと)にP371候(さうら)ふ」と申(まう)す。「然(さ)らば実検(じつけん)有(あ)るべし」とて、新田(につた)の四郎(しらう)を召(め)されければ、黒鞘巻(くろざやまき)に赤胴作(しやくどうづくり)の太刀、村千鳥(むらちどり)の直垂(ひたたれ)に、首(くび)を包(つつ)みて、童(わらは)に持(も)たせ、五郎(ごらう)が左手(ゆんで)の方(かた)を間(あひ)近(ちか)く、首(くび)を見(み)せてぞ通(とほ)りける。五郎(ごらう)、今までは、思(おも)ふ事(こと)無(な)く、広言(くわうげん)して見(み)えけるが、兄(あに)が首(くび)を一目(ひとめ)見(み)て、肝(きも)魂(たましひ)を失(うしな)ひ、涙(なみだ)にむせぶ有様(ありさま)は、さかりなる朝顔(あさがほ)の、日影(ひかげ)にしをるる如(ごと)くにて、無慙(むざん)と言(い)ふも余(あま)り有(あ)り。やや有(あ)りて申(まう)しける、「羨(うらや)ましくも、先(さき)立(だ)ち給(たま)ふ物(もの)かな。同(おな)じ兄弟(きやうだい)と申(まう)しながら、幼少(えうせう)より、親(おや)の敵に志(こころざし)深(ふか)くして、一所とこそ契りしに、如何(いか)なれば、祐成(すけなり)は、昨夜(ゆふべ)夜半(やはん)に打(う)たれ給(たま)ふに、時宗が心(こころ)ならず、今までながらふる事(こと)の無念(むねん)さよ。誰か此(こ)の世(よ)にながらへはて候(さうら)ふべき。死出(しで)の山にて待(ま)ち給(たま)へ。追(お)つ付(つ)き奉(たてまつ)り、三途(さんづ)の河を、手(て)と手(て)を取(と)り組(く)みて渡り、閻魔(えんま)王宮(わうくう)へは諸(もろ)共(とも)に」と、言(い)ひもはてず、涙(なみだ)にむせびけり。袖(そで)にて顔(かほ)をも抑(おさ)へたけれ共(ども)、高手(たかて)小手(こて)に戒(いまし)められければ、左手(ゆんで)の方(かた)へ傾(かたぶ)き、右手(めて)の方(かた)へうつぶき、こぼるる涙(なみだ)をば、膝(ひざ)に顔(かほ)を持(も)たせ、只(ただ)おめおめとこそ泣(な)き居(ゐ)たり。和田(わだ)・畠山(はたけやま)を始(はじ)めとして、皆(みな)袖をぞ濡(ぬ)らされける。斯(か)かる所(ところ)に、十郎(じふらう)がをり太刀を御侍(さぶらひ)に取(と)り渡(わた)し、「よきぞ、悪(あ)しきぞ」と申(まう)し合(あ)ひけり。中にも、昨夜(ゆふべ)追(お)つたてられて、柴垣(しばがき)破(やぶ)りて逃(に)げたりし新海(しんかい)の荒四郎(あらしらう)真光(さねみつ)、すすみ出(い)でて申(まう)しけるは、「曾我(そが)の者(もの)共(ども)は、敵をば打(う)ちて、高名(かうみやう)はしたれ共(ども)、太刀こそわるき太刀(たち)を持(も)ちたれ。是(これ)程(ほど)の太刀(たち)を持(も)ちて、我(わ)が君(きみ)の御前(ごぜん)P372にて、斯(か)かる大軍しける不思議(ふきぎ)さよ」と言(い)ひければ、時宗聞(き)きて、眼(まなこ)を見(み)出(い)だして、荒四郎(あらしらう)をはたとにらみて、「何処(いづく)を見(み)て、其(そ)れをえせ太刀(だち)とは申(まう)すぞ。只今(ただいま)、御前(ごぜん)にて申(まう)して、無用(むよう)の事(こと)なれども、男(をとこ)のわろき太刀(たち)持(も)ちたるは、恥辱(ちじよく)にて候(さうら)ふ間(あひだ)、申(まう)すなり。其(そ)れこそ、や、殿(との)、よく聞け、平家(へいけ)に聞(き)こえし新(しん)中納言(ぢゆうなごん)の太刀(たち)よ。八嶋(やしま)の合戦(かつせん)に、如何(いかが)しけん、船(せん)中に取(と)り忘(わす)れ給(たま)ひしを、曾我(そが)の太郎取(と)りて、九郎判官(はんぐわん)へ参(まゐ)らせしを、義経(よしつね)、「神妙(しんべう)なり、さりながら、御分(ごぶん)、高名(かうみやう)して、取(と)りたる太刀(たち)なれば、汝(なんぢ)に取(と)らする」とて、賜(たま)はりたる太刀(たち)也(なり)。奥州丸(あうしうまる)と言(い)ふ太刀よ。祐成(すけなり)が元服(げんぶく)せし時(とき)、曾我(そが)殿(どの)のたびたるぞとよ。其(そ)れに付(つ)きては、思(おも)ひの儘(まま)に、敵を打(う)ち取(と)りぬ。兄弟(きやうだい)して切(き)り止(とど)むる者(もの)、一二百人もこそ有(あ)るらん。是(これ)程(ほど)こらへたる太刀を、如何(いか)でかえせ太刀(だち)なるべき」。真光(さねみつ)、猶(なほ)も止(とど)まらで、「既(すで)に太刀(たち)をれぬる上(うへ)は」と言(い)ひければ、五郎(ごらう)、からからと打(う)ち笑(わら)ひ、「人の太刀(たち)わろしと言(い)ふ人、定(さだ)めてよき太刀は持(も)ちぬらん。あのえせ太刀におはれて、小柴垣(しばがき)を破(やぶ)りて逃(に)げしは如何(いか)に。御分(ごぶん)のよき太刀(たち)も、心(こころ)にくからず」と言(い)ひければ、聞(き)く人、皆(みな)汗(あせ)を流(なが)さぬは無(な)かりけり。真光(さねみつ)は、なましひなる事(こと)を言(い)ひ出(い)だし、赤面(せきめん)してぞ立(た)ちにける。是(これ)や、三思(さんし)一言(げん)、思慮(しりよ)有(あ)るべきにや。P373
 @〔犬房(いぬばう)が事(こと)〕S1002N147
 此処(ここ)に、祐経(すけつね)が嫡子(ちやくし)犬房(いぬばう)とて、九つになりける童(わらは)有(あ)り。御前(ごぜん)然(さ)らぬ切(き)り者(もの)にてぞ有(あ)りける。傍(かたはら)にて、父(ちち)が事(こと)をよくよく聞(き)き、さめざめと泣(な)き居(ゐ)たりしが、思(おも)ひやかねけん、走(はし)りかかり、五郎(ごらう)が顔(かほ)を二(ふた)つ三(み)つ扇(あふぎ)にてぞ打(う)ちたりける。時宗打(う)ち笑(わら)ひ、「己(おのれ)は、祐経が嫡子(ちやくし)犬房(いぬばう)な。其(そ)の年(とし)の程(ほど)にて、よくこそ思(おも)ひ寄(よ)りたれ。打(う)てや打(う)てや、打(う)つべし打(う)つべし、犬房(いぬばう)よ。我々(われわれ)も、幼少(えうせう)にして、汝(なんぢ)が親(おや)に、父(ちち)を打(う)たせぬ。年頃(としごろ)の思(おも)ひ、如何(いか)ばかりぞや。今更(いまさら)思(おも)ひ知(し)られたり。古(いにしへ)を思(おも)へば、打(う)つ杖(つゑ)をいたまずして、弱(よわ)る親(おや)の力(ちから)を歎(なげ)きし志(こころざし)、五郎(ごらう)が今に知(し)られたり」。打(う)たるる杖(つゑ)をばいたまずして、主(ぬし)が心(こころ)を思(おも)ひ遣(や)る五郎(ごらう)が心(こころ)ぞ哀(あは)れなる。「珍(めづら)しからぬ事(こと)なれども、果報(くわほう)程(ほど)勝劣(しようれつ)有(あ)る物(もの)は無(な)し。我々(われわれ)、祐経(すけつね)を思(おも)ひ掛(か)けて、此(こ)の二十余年(よねん)の春秋を送(おく)りしに、汝(なんぢ)は、いみじき生(う)まれ性(じやう)にて、昨夜(ゆふべ)打(う)ちたる親(おや)の敵(かたき)を、只今(ただいま)心(こころ)の儘(まま)にする事(こと)の羨(うらや)ましさよ。其(そ)れに付(つ)きても、前生(ぜんじやう)の宿業(しゆくごふ)こそつたなけれ。現在(げんざい)の果(くわ)を以(もつ)て、未来(みらい)を知(し)る事(こと)なれば、来世(らいせ)又(また)如何(いか)ならん、阿弥陀仏」とぞ申(まう)しける。犬房(いぬばう)は、猶(なほ)も打(う)たんとよりけるを、「まさなしや、のき給(たま)へ」と、縄(なは)取(と)りの者(もの)共(ども)言(い)ひけれども、聞(き)かざりけり。御寮(れう)御覧(ごらん)ぜられて、「犬房(いぬばう)のき候(さうら)へ。猶(なほ)物問(と)はん」と仰(おほ)せられけれP374ば、其(そ)の時のきにけり。是(これ)や、禽鳥(きんてう)百(もも)をかぞふると雖(いへど)も、一鶴(くわく)にしかず、数星(すせい)相(あひ)連(つら)なると雖(いへど)も、一月(げつ)にしかず、君(きみ)の御(おん)言葉(ことば)一(ひと)つにてぞのきにける。
 @〔五郎(ごらう)が切(き)らるる事(こと)〕S1003
 君仰(おほ)せられけるは、「汝(なんぢ)が申(まう)す所(ところ)、一々(いちいち)に聞(き)き開(ひら)きぬ。然(さ)れば、死罪(しざい)をなだめて、召(め)し使(つか)ふべけれ共(ども)、傍輩(はうばい)是(これ)をそねみ、自今(じこん)以後、狼藉(らうぜき)たゆべからず。其(そ)の上(うへ)、祐経が類親(るいしん)多(おほ)ければ、其(そ)の意趣(いしゆ)逃(のが)れ難(がた)し。然(しか)れば、向後(きやうかう)の為(ため)に、汝(なんぢ)を誅(ちゆう)すべし。恨(うら)みを残(のこ)すべからず。母(はは)が事(こと)をぞ思(おも)ひ置(お)くらん、如何(いか)にも不便(ふびん)にあたるべし。心(こころ)安(やす)く思(おも)へ」とて、御硯(すずり)を召(め)し寄(よ)せ、「曾我(そが)の別所(べつしよ)二百余町を、彼(かれ)等(ら)兄弟(きやうだい)が追善(ついぜん)の為(ため)に、頼朝(よりとも)一期(いちご)、母(はは)一期(いちご)」と自筆(じひつ)に御判(はん)を下(くだ)され、五郎(ごらう)に頂(いただ)かせ、母(はは)が方(かた)へぞ送(おく)られける。実(げ)にや、心(こころ)のたけさ、情(なさけ)の深(ふか)き事(こと)、人にすぐるるに依(よ)り、屍(かばね)の上(うへ)の御恩(ごおん)有(あ)り難(がたし)と感(かん)じける。是(これ)や、文選(もんぜん)の言葉(ことば)に、「晋(しん)の文王(ぶんわう)は、其(そ)の仇(あた)を親(した)しみて、諸侯(しよこう)を悟(さと)り、斉(せい)の桓公(くわんこう)は、其(そ)の仇(あた)を用(もち)ひて、天下(てんが)をただす」とは、今の御世(よ)に知(し)られたり。五郎(ごらう)、詳(くは)しく承(うけたまは)りて、「首(くび)を召(め)されんにおいては、逃(のが)るる所有(あ)るべからず。暫(しばら)くもなだめられ申(まう)さん事(こと)、深(ふか)き愁(うれ)へと存(ぞん)ずべし。母(はは)が事(こと)は、忝(かたじけな)くP375仰(おほ)せ下(くだ)され候(さうら)へ共(ども)、故郷(こきやう)を出(い)でし日よりも、一筋(ひとすぢ)に思(おも)ひ切(き)り候(さうら)ひぬ。御恩(ごおん)に、今(いま)一時もとく、首(くび)を召(め)され候(さうら)へ。兄(あに)が遅(おそ)しと待(ま)ち候(さうら)ふべし。急(いそ)ぎ追(お)ひ付(つ)き候(さうら)はん」とすすみければ、力(ちから)無(な)く、御馬屋(おんうまや)の小平次に仰(おほ)せ付(つ)けられ、切(き)らるべかりしを、犬房(いぬばう)が、「親(おや)の敵(かたき)にて候(さうら)ふ」とて、ひらに申(まう)し受(う)けければ、渡(わた)されにけり。口惜(くちを)しかりし次第(しだい)也(なり)。祐経(すけつね)が弟(おとと)に、伊豆(いづ)の二郎(じらう)祐兼(すけかね)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。五郎(ごらう)を受(う)け取(と)りて、出(い)でにけり。時致(ときむね)、東西(とうざい)を見(み)渡(わた)し、「某(それがし)が姿(すがた)を見(み)ん人々(ひとびと)は、如何(いか)にをこがましく思(おも)ふらん。さりながら、親(おや)の為(ため)に捨(す)つる命、天衆(てんじゆ)地類(ぢるい)も納受(なふじゆ)し給(たま)ふべし。付(つ)けたる縄(なは)は、孝行(かうかう)の善(ぜん)の綱(つな)ぞ。各々(おのおの)結縁(けちえん)にて掛(か)け候(さうら)へ」と申(まう)しければ、実(げ)にもと言(い)はぬ人ぞ無(な)き。其(そ)の後、五郎(ごらう)を浜(はま)すかにつれて、松崎(まつがさき)と言(い)ふ所(ところ)の岩間(いはま)に引(ひ)きすゑ、切(き)らんとす。時宗見(み)帰(かへ)り申(まう)しけるは、「構(かま)へてよく切(き)り候(さうら)へ。人(ひと)もこそ見(み)るに、悪(あ)しく切(き)り給(たま)ひ候(さうら)はば、悪霊(あくりやう)と成(な)りて、七代まで取(と)るべし」と言(い)ひければ、祐兼(すけかね)聞(き)きて、誠(まこと)に切(き)り損(そん)じなば、如何(いか)なる悪霊(りやう)にも成(な)るべしと思(おも)ひしより、膝(ひざ)振(ふ)るひ、太刀の打(う)ち共(ども)覚(おぼ)えざりける所(ところ)に、筑紫(つくし)の仲太(なかた)と申(まう)しけるは、御家人(ごけにん)訴訟(そしよう)の事(こと)有(あ)りて、左衛門(さゑもん)の尉(じよう)につきけるが、訴訟(そしよう)適(かな)ふべき頃(ころ)、祐経(すけつね)打(う)たれければ、是(これ)等(ら)が所為(しよい)とや思(おも)ひけん、わざと太刀にては切(き)らで、苦痛(くつう)をさせん為(ため)に、にぶき刀(かたな)にて、かき首(くび)にこそしたりけれ。さしたる親類・知音(ちいん)にあらざる者(もの)も、別(わか)れを惜(を)しみ、名残(なごり)を悲(かな)しまずと言(い)ふ事(こと)無(な)し。然(しか)るに、P376勇士(ゆうし)のいたつて猛(たけ)きは、破(やぶ)り館(たち)落(お)とし、軍(いくさ)の先(さき)をかくる故(ゆゑ)に、敵(てき)の為(ため)に取(と)らるると雖(いへど)も、芸(げい)を感(かん)じ、身(み)を助(たす)け、情(なさけ)をかくるは、先規(せんぎ)なり。伝(つた)へ聞(き)く、紀信(きしん)が軍車(ぐんしや)に乗(の)りしも、武意(ぶい)を感(かん)じ、楚王(そわう)、将(しやう)になさんと言(い)ひしかども、自(みづか)ら死(し)をのぞみ、沛公(はいこう)、軍(いくさ)を破(やぶ)り、片時(かたとき)もいきん事(こと)を悲(かな)しみて、戦場(せんぢやう)の石(いし)に、脳(なづき)を砕(くだ)きて失(う)せにき。よつて、勇士(ゆうし)、敵(てき)の為(ため)に、命(いのち)を暫(しばら)くも又(また)失(う)せざるは、古今(こきん)の例(れい)なり。然(しか)れば、五郎(ごらう)も、宵(よひ)にや失(う)せんと思(おも)ひけん、覚束無(おぼつかな)し。
 @〔伊豆(いづ)の二郎(じらう)が流(なが)されし事(こと)〕S1004N149
 扨(さて)も、悪事千里を走(はし)る習(なら)ひにて、伊豆(いづ)の二郎(じらう)未練(みれん)なりと、鎌倉(かまくら)中(ぢゆう)に披露(ひろう)有(あ)りければ、秩父(ちちぶ)の重忠(しげただ)、御前(ごぜん)にて此(こ)の事(こと)を聞(き)き、「曾我(そが)の五郎(ごらう)をば、重忠(しげただ)賜(たま)はりて、重代(ぢゆうだい)のかうひらにて、誅(ちゆう)し候(さうら)ふべきを、不覚(ふかく)第一(だいいち)の伊豆(いづ)の二郎(じらう)に下(くだ)し賜(たま)はりて、かはゆき次第(しだい)と承(うけたまは)り、口惜(くちを)しさよ」と申(まう)されければ、君聞(き)こし召(め)し、「斯様(かやう)の不覚人(ふかくじん)にて有(あ)るべくは、誰にても仰(おほ)せ付(つ)けらるべき物(もの)を」とて、伊豆(いづ)の二郎(じらう)は、御不審(ふしん)をかうふり、奥州(あうしう)外浜(そとのはま)へ流(なが)されしが、幾程(いくほど)無(な)くて、悪(あ)しき病(やまひ)を受(う)けて、当(たう)年の九月に二十七歳(さい)にして失(う)せにけり。これ偏(ひとへ)に、五郎(ごらう)が憤(いきどほ)りむくふ所(ところ)にやと、口びるを返(かへ)さぬは無(な)かりP377けり。時致(ときむね)は、五月に切(き)られければ、祐兼(すけかね)は、九月に失(う)せにけり。不思議(ふしぎ)なる例(ためし)、因果(いんぐわ)歴然(れきぜん)とぞ見(み)えける。
 @〔鬼王(おにわう)・道三郎(だうざぶらう)が曾我(そが)へ帰(かへ)りし事(こと)〕S1005N150
 此処(ここ)に、此(こ)の人々(ひとびと)の二人の郎等(らうどう)、鬼王(おにわう)・道三郎(だうざぶらう)は、富士の裾野(すその)井出(ゐで)の屋形(やかた)より、次第(しだい)の形見(かたみ)を取(と)り、曾我(そが)の里へぞ急(いそ)ぎける。然(さ)れども、惜(を)しみし名残(なごり)なれば、心(こころ)は後(あと)にぞ止(とど)まりける。実(げ)にや、幼少(えうせう)より取(と)り育(そだ)て奉(たてまつ)り、世(よ)にも出(い)で給(たま)はば、我々ならでは、誰か有(あ)るべきと、人も思(おも)ひ、我(われ)も又(また)頼(たの)もしかりつるに、斯様(かやう)に成(な)り行(ゆ)き給(たま)ひしかば、したひあくがれしも適(かな)はで、泣(な)く泣(な)く曾我(そが)へぞ帰(かへ)りける。思(おも)ひの余(あま)りに、道(みち)の辺(ほとり)にしばしやすらひ、富士野(ふじの)の空(そら)を顧(かへり)みしかば、松明(たいまつ)多(おほ)く走(はし)り、只(ただ)万燈会(まんどうゑ)の如(ごと)し。今(いま)こそ事(こと)出(い)で来(き)ぬると見(み)えければ、我(わ)が君(きみ)の御命(おんいのち)、如何(いかが)渡(わた)らせ給(たま)ふらんと、心(こころ)許(もと)無(な)さ限(かぎ)り無(な)し。只(ただ)二人坐(ま)しませば、大勢(おほぜい)に取(と)り込(こ)められ、如何(いか)に隙(ひま)無(な)く坐(ま)しますらん、今は御身(おんみ)も疲(つか)れ給(たま)ふらんと思(おも)へば、走(はし)り帰(かへ)りて、御最後(さいご)見(み)奉(たてまつ)らまほしきも、隔(へだ)たりぬれば、適(かな)はず、只(ただ)泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞ無(な)き。暫(しばら)く有(あ)りて、たい松の数も、次第(しだい)に少(すく)なく成(な)り、火(ひ)の光(ひかり)も、うすく成(な)り行(ゆ)けP378ば、君(きみ)の御命(おんいのち)もかくやと、火(ひ)の光(ひかり)も、名残(なごり)惜(を)しく思(おも)ひければ、道の辺(べ)に倒(たふ)れ伏(ふ)し、声も惜(を)しまず泣(な)き居(ゐ)たり。馬も、生(しやう)有(あ)る者(もの)なれば、人々(ひとびと)の別(わか)れをや惜(を)しみけん、富士野(ふじの)の空(そら)を顧(かへり)みて、二三度(さんど)までぞいばへける。扨(さて)有(あ)るべきにあらざれば、をちこちのたづきも知(し)らぬ山中に、覚束無(おぼつかな)きは、富士野(ふじの)なり。泣(な)く泣(な)く空(むな)しき駒(こま)の口を引(ひ)き、古里(ふるさと)へとは急(いそ)げども、行(ゆ)きも遣(や)られぬ山道の、末(すゑ)もさだかに見(み)えわかず。此処(ここ)に、人の使(つか)ひと思(おぼ)しくて、文(ふみ)持(も)ちたる者(もの)、後(あと)より急(いそ)ぎ来(き)たる。道三郎(だうざぶらう)、袖をひかへて、「出(い)での御屋形(やかた)には、今宵(こよひ)、何事(なにごと)の有(あ)りければ、松明(たいまつ)の数(かず)の見(み)え候(さうら)ひつる」と問(と)ひければ、「然(さ)ればこそとよ。知(し)り給(たま)はずや。曾我(そが)の十郎・五郎(ごらう)殿(どの)と言(い)ふ人、兄弟(きやうだい)して、一族(いちぞく)の工藤(くどう)左衛門(さゑもん)の尉(じよう)殿(どの)を、親(おや)の敵(かたき)とて打(う)ち給(たま)ひぬ。剰(あまつさ)へ、御所(ごしよ)の内まで切(き)り入(い)りて、日本国(につぽんごく)の侍(さぶらひ)共(ども)の、切(き)られぬ者(もの)は候(さうら)はず、手負(ておひ)・死人(しにん)二三百人も候(さうら)ふらん。然(さ)れども、兄(あに)の十郎(じふらう)は、夜半(やはん)に討死(うちじに)し給(たま)ひぬ。弟(おとと)の五郎(ごらう)殿(どの)は、暁(あかつき)に及(およ)び、生捕(いけど)られ給(たま)ひき。此(こ)の人々の振舞(ふるま)ひは、天魔(てんま)・鬼神(きじん)のあれたるにや、斯(か)かるおびたたしき事(こと)こそ候(さうら)はざりつれ。斯様(かやう)の事(こと)を、大磯(おほいそ)の虎御前(とらごぜん)の妹(いもうと)、黄瀬川(きせがは)の亀鶴(かめづる)御前(ごぜん)より、大磯(おほいそ)へ告(つ)げさせ給(たま)ふ御(おん)使(つか)ひなり」とて、走(はし)り通(とほ)りけり。二人の物(もの)共(ども)聞(き)きて、し損(そん)じ給(たま)ふべしとは思(おも)はねども、一期(いちご)の大事(だいじ)なれば、心(こころ)許(もと)無(な)く思(おも)ひ奉(たてまつ)りしに、何事(なにごと)無(な)く本意(ほんい)を遂(と)げ給(たま)ひぬるよと、歎(なげ)きの中(なか)の喜(よろこ)びにて、次第(しだい)の形見(かたみ)P379を面々(めんめん)に奉(たてまつ)り、
 @〔同(おな)じく彼(か)の者(もの)共(ども)遁世(とんせい)の事(こと)〕S1006N151
 我(わ)が家(いへ)にも帰(かへ)らず、高野山(かうやさん)に尋(たづ)ね上(のぼ)り、共(とも)に髻(もとどり)切(き)り、墨染(すみぞめ)の衣(ころも)の色(いろ)に心(こころ)をなし、一筋(ひとすぢ)に此(こ)の人々(ひとびと)の後生(ごしやう)菩提(ぼだい)を弔(とぶら)ひけるぞ有(あ)り難(がた)き。
 @〔曾我(そが)にて追善(ついぜん)の事(こと)〕S1007N152
 さても、母(はは)、子供(こども)の返(かへ)したる小袖(こそで)を取(と)り、各々(おのおの)顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて、其(そ)の儘(まま)倒(たふ)れ伏(ふ)し、消(き)え入(い)りにけり。女房(にようばう)達(たち)、やうやう介錯(かいしやく)し、薬(くすり)など口にそそき、養生(やうじやう)しければ、わづかに目(め)計(ばかり)持(も)ち上(あ)げ給(たま)ひけり。せめての事(こと)に、文を開(ひら)きて読(よ)まんとすれ共(ども)、目(め)もくれ、心(こころ)も心(こころ)ならねば、文字(もじ)も更(さら)に見(み)えわかず。「恨(うら)めしや、童(わらは)を」とばかり言(い)ひて、胸(むね)に引(ひ)き当(あ)て、また打(う)ち伏(ふ)しぬ。やや有(あ)りて、息(いき)の下(した)にてくどきけるは、「誠(まこと)に凡夫(ぼんぶ)の身ほどはかなき事(こと)は無(な)し。此(こ)の小袖(こそで)をこひ、長(なが)き世(よ)までの形見(かたみ)と思(おも)ひて、時折節(をりふし)こそ有(あ)るに、二人つれて来(き)たりこひける者(もの)を知(し)らずして、返(かへ)せといひP380けむ悔(くや)しさよ。五郎(ごらう)も、限(かぎ)りと思(おも)ひてや、此(こ)の度、強(つよ)く言(い)ひけるぞや。幾程(いくほど)無(な)き物(もの)故(ゆゑ)に、不孝(ふけう)して、年頃(としごろ)添(そ)はざりける、悲(かな)しさよ。猶(なほ)も、心(こころ)強(づよ)く許(ゆる)さざりせば、一目(ひとめ)も見(み)ざらまし。久(ひさ)しく添(そ)はざりしに、珍(めづら)しくも、頼(たの)もしくも覚(おぼ)えし物(もの)を、せめて三日とも打(う)ち添(そ)はで、名残(なごり)惜(を)しさよ。なつかしかりつる面影(おもかげ)を、何(いつ)の世(よ)にかは相(あひ)見(み)ん」とて、声(こゑ)を惜(を)しまず泣(な)き居(ゐ)たり。如何(いか)なる賎(しづ)の男(を)、賎(しづ)の女(め)に至(いた)るまで、涙(なみだ)を流(なが)さぬは無(な)かりけり。二宮(にのみや)の女房(にようばう)を始(はじ)めとして、親(した)しき人々(ひとびと)馳(は)せ集(あつ)まりて、泣(な)き悲(かな)しむ事(こと)、なのめならず。思(おも)ひの余(あま)りに、母(はは)は、十郎(じふらう)が居(ゐ)たりける所(ところ)に倒(たふ)れ入(い)り、「此処(ここ)に住(す)みし物(もの)を」と計(ばかり)にて、うかり伏(ふ)しぬ。傍(かたはら)に書(か)きたる筆(ふで)のすさみを見(み)れば、「一切(いつさい)有為法(うゐほふ)、如夢幻泡影(によむげんはうやう)、如露亦如電(によろやくによでん)、応作如是観(おうさによぜくわん)」とぞ書(か)きたりける。我(わ)が身(み)を有(あ)りとも思(おも)はぬ口(くち)ずさみ、見(み)るに涙(なみだ)も止(とど)まらず。此(こ)の押板(おしいた)には、古今(こきん)・万葉(まんえふ)を始(はじ)めとして、源氏(げんじ)・伊勢物語(いせものがたり)に至(いた)るまで、数(かず)の草子(さうし)をつみたれども、今(いま)より後の慰(なぐさ)みには、誰かは是(これ)を見(み)るべきと、見(み)るに思(おも)ひぞ勝(まさ)りける。文(ふみ)をば、二宮(にのみや)の女房(にようばう)ぞ、泣(な)く泣(な)く読(よ)み連(つら)ねける。聞(き)くに付(つ)けても、心(こころ)は心(こころ)とも覚(おぼ)えず。「人の習(なら)ひ、神や仏(ほとけ)に参(まゐ)りては、命(いのち)を長(なが)く福幸(ふくさいはひ)をこそ祈(いの)るに、此(こ)の者(もの)共(ども)は、只(ただ)明(あ)け暮(く)れしに失(う)せんとのみ申(まう)しければ、此(こ)の度逃(のが)れたりとも、遂(つひ)に添(そ)ひはつまじきぞや。其(そ)れに付(つ)けても、箱王(はこわう)を年頃(としごろ)不孝(ふけう)して、添(そ)はざりし事(こと)の悔(くや)しさよ。其(そ)れP381は、草の陰(かげ)にても聞(き)け、誠(まこと)には不孝(ふけう)せず。例(たと)へば、法師(ほふし)になさんとせし事(こと)の適(かな)はぬに、不孝(ふけう)と言(い)ひしを、ついで無(な)くして、何(なに)と無(な)く、月日(つきひ)を重(かさ)ねしばかりなり。小袖(こそで)直垂(ひたたれ)をきせし事(こと)も、日頃(ひごろ)に変(か)はらざりしを、二宮(にのみや)の女房(にようばう)のきする様(やう)にてとらせしを、誠と思(おも)ひ、童(わらは)をば、つらき者(もの)にや思(おも)ひけん。よし、中々(なかなか)に今は歎(なげ)きの便(たよ)り也(なり)。打(う)ち添(そ)ひなるる身(み)なりせば、いよいよ名残(なごり)も惜(を)しかるべし。かくても、我(わ)が身(み)、何(なに)にかはながらへはてん、憂(う)き命、有(あ)るもあられぬ例(ためし)かな」と、悶(もだ)え焦(こ)がれける。曾我(そが)の太郎も、幼(をさな)き時より育(そだ)てて、わり無(な)き事(こと)なれば、実子(じつし)にも劣(おと)らず、心(こころ)様(ざま)、又(また)さかしかりしかば、梅兄竹弟(ばいきやうちくてい)の思(おも)ひをなし、朝夕(あさゆふ)愚(おろ)かならざりしかども、所領(しよりやう)ひろからざれば、一所(いつしよ)をわくる事(こと)も無(な)し。其(そ)の上(うへ)、御勘当(かんだう)の人々(ひとびと)の末(すゑ)なれば、清(きよ)げならんも恐(おそ)れ有(あ)り。きよくほく幸(さいは)ひに、各々(おのおの)かるる事(こと)もこそと、思(おも)ひし事(こと)も夢(ゆめ)ぞかし。今更(いまさら)後悔(こうくわい)、益(えき)無(な)しとぞ歎(なげ)きける。母(はは)は、日(ひ)の暮(く)れ、夜(よ)の明(あ)くるに従(したが)ひて、いよいよ思(おも)ひぞ勝(まさ)りける。「惜(を)しからざりし憂(う)き身(み)なれども、彼(かれ)等(ら)が行方(ゆくへ)、もしやと思(おも)ふ故(ゆゑ)にこそ、つらき命(いのち)も惜(を)しかりつれ。今は、浄土(じやうど)にて生(う)まれ合(あ)ひ、今(いま)一度(ひとたび)見(み)ん」とて、湯水(ゆみづ)をたち、伏(ふ)し鎮(しづ)みければ、露命も危(あや)ふくぞ見(み)えし。親(した)しき人々(ひとびと)集(あつ)まりて、「浮(う)き世(よ)の習(なら)ひ、御身(おんみ)一(ひと)つの歎(なげ)きにあらず。さしも、繁昌(はんじやう)し給(たま)ひし平家(へいけ)の公達(きんだち)も、一度(いちど)に十二十人、目(め)の前(まへ)にて海中(かいちゆう)P382に沈(しづ)み、九泉(きうせん)に携(たづさ)はり給(たま)ひし憂(う)き別(わか)れ共(ども)、日数(ひかず)積(つ)もり、年月(としつき)隔(へだ)たりぬれば、さてのみこそ過(す)ぎ候(さうら)ひしか。今の世(よ)にも、或(ある)いは父母におくれ、或(ある)いは夫妻(ふさい)に別(わか)れ、又は親子(おやこ)兄弟(きやうだい)に離(はな)れ、歎(なげ)く者(もの)のみこそ多(おほ)く候(さうら)へ共(ども)、忽(たちま)ち命を捨(す)つる者無(な)し。誠(まこと)に御子(こ)の為(ため)、御身(おんみ)を捨(す)て給(たま)はん事(こと)、逆様(さかさま)なる罪(つみ)の深(ふか)さ、如何(いか)計(ばかり)と思(おぼ)し召(め)す。泣(な)く涙(なみだ)も、猛火(みやうくわ)と成(な)りて、子(こ)に掛(か)かるとこそ聞(き)きけれ、まして、子(こ)の為(ため)に、正(せう)命を失(うしな)ひ給(たま)はん事(こと)、罪業(ざいごふ)の程(ほど)を知(し)らず。如何(いか)にも身(み)をまたくして、後生(ごしやう)菩提(ぼだい)を問(と)ひ給(たま)へ」と、様々(さまざま)に申(まう)しければ、わづかに湯水(ゆみづ)ばかりぞ聞(き)き入(い)れ給(たま)ひける。さて有(あ)るべきならねば、僧(そう)達(たち)を遣(や)り奉(たてまつ)り、成等正覚(じやうどうしやうがく)、頓証(とんしよう)菩提(ぼだい)とぞ取(と)りをさめける。母(はは)、猶(なほ)訪(とぶら)はるべき身(み)の、逆様(さかさま)なる事(こと)に歎(なげ)き悲(かな)しみける。実(げ)にや、世(よ)の中の定(さだ)め無(な)き、涙(なみだ)の種(たね)とぞなりにける。箱根(はこね)の別当(べつたう)も、此(こ)の事(こと)を聞(き)き、急(いそ)ぎ曾我(そが)に下(くだ)り、諸(もろ)共(とも)に歎(なげ)き給(たま)ふ。「箱王(はこわう)が出(い)でし時(とき)の面影(おもかげ)、愚老(ぐらう)が涙(なみだ)の袖に止(とど)まり、師弟(してい)親子(おやこ)の別(わか)れ、変(か)はるべきにあらず」とて、さめざめと泣(な)き給(たま)ふ。其(そ)の後、持仏堂(ぢぶつだう)に参(まゐ)り、彼(か)の菩提(ぼだい)を弔(とぶら)ひ給(たま)ひけり。七日(なぬか)七日(なぬか)、四十九日まで、怠(おこた)らぬ追善(ついぜん)有(あ)り。誠(まこと)に弥陀(みだ)の誓願(せいぐわん)は、十悪(じふあく)五逆(ごぎやく)の大罪(ざい)をも、一念(いちねん)十念(ねん)の力(ちから)を以(もつ)て、来迎(らいかう)引接(いんぜふ)し給(たま)ふべき他力(たりき)の本願(ほんぐわん)、頼(たの)もしかりけり。此(こ)の人々(ひとびと)は、父(ちち)の為(ため)に身(み)を捨(す)てける志(こころざし)無(な)ければ、罪(つみ)にして、しかも罪(つみ)にあらず、其(そ)の上(うへ)、在世(ざいせ)の時も、仁義(じんぎ)を乱(みだ)さP383ざりしかば、後の世(よ)までも、悪道には堕罪(だざい)せられじと、頼(たの)もしく覚(おぼ)えける。
 @〔禅師(ぜんじ)法師(ほふし)が自害(じがい)の事(こと)〕S1008N153
 又(また)、此(こ)の人々(ひとびと)の弟(おとと)に、御房(おんばう)とて、十八に成(な)る法師(ほふし)有(あ)り。故(こ)河津(かはづ)三郎(さぶらう)が忌(いみ)の内(うち)に生(う)まれたる子(こ)也(なり)。母(はは)、思(おも)ひの余(あま)りに、捨(す)てんとせしを、叔父(をぢ)伊藤(いとう)九郎養(やう)じて、越後(ゑちご)の国(くに)国上(くがみ)と言(い)ふ山寺に上(のぼ)せ、伊東(いとう)の禅師(ぜんじ)とぞ言(い)ひける。九郎、平家(へいけ)へ参(まゐ)りて後(のち)、親(した)しきに依(よ)り、源(みなもと)の義信(よしのぶ)が子(こ)と号(かう)して、折節(をりふし)、武蔵(むさし)の国(くに)に有(あ)りけるを、頼朝(よりとも)、聞(き)こし召(め)し、義信(よしのぶ)に仰(おほ)せ付(つ)けて、召(め)されければ、力(ちから)無(な)く、家(いへ)の子郎等(らうどう)数十人(すじふにん)下(くだ)されし事(こと)、不便(ふびん)なりし次第(しだい)也(なり)。大方、兄弟(きやうだい)とは申(まう)しながら、乳(ち)の内(うち)より他人(たにん)に養(やう)ぜられ、しかも、出家(しゆつけ)の身(み)なり。是(これ)も、只(ただ)普通(ふつう)の儀(ぎ)なりせば、彼(かれ)等(ら)まで御尋(たづ)ね有(あ)るまじきを、兄(あに)共(ども)の世(よ)に越(こ)え、名(な)を万天(ばんてん)に上(あ)げし故(ゆゑ)ぞかし。義信(よしのぶ)の使(つか)ひは、彼(か)の本坊(ほんばう)に来(き)たりて、斯様(かやう)の次第(しだい)を言(い)ふ。禅師(ぜんじ)聞(き)きて、「心(こころ)憂(う)や、弓矢(ゆみや)取(と)りの子(こ)が、我(わ)が家(いへ)を捨(す)てて、他(た)の親(おや)につく事(こと)は、努々(ゆめゆめ)有(あ)るまじき事(こと)也(なり)。斯様(かやう)の罪過(ざいくわ)は、其(そ)の源(みなもと)をただされけるをや。同(おな)じ死する命、兄弟(きやうだい)三人、一(ひと)つ枕に討死(うちじに)せば、如何(いかが)人目(ひとめ)もうれからまし」。今更(いまさら)後悔(こうくわい)すれども適(かな)はず、仏前に参(まゐ)り、御経開(ひら)き読(よ)まんとすれども、文字(もじ)も見(み)えざりければ、まきをさめ、P384数珠(じゆず)をさらさらと押(お)し揉(も)み、「南無(なむ)平等(びやうどう)大慧(ゑ)、一乗(いちじよう)妙典(めうでん)、願(ねが)はくは、法華(ほつけ)読誦(どくじゆ)の功力(くりき)に依(よ)り、刹那(せつな)の妄執(まうしう)を消滅(せうめつ)し、安楽(あんらく)世界(せかい)に向(む)かへ取(と)り給(たま)へ」と祈誓(きせい)して、剣(けん)を抜(ぬ)き、左手(ゆんで)の脇(わき)につきたて、右手(めて)へ引(ひ)きまはさんとする所(ところ)を、同宿(どうじゆく)早(はや)く見(み)付(つ)けて、「是(これ)は如何(いか)に」と、取(と)り付(つ)き抑(おさ)へければ、「のき候(さうら)へ。まさなしや。人手(ひとで)にかからんより、清(きよ)き自害(じがい)して見(み)せ申(まう)さん。一(ひと)つは、同朋(どうぼう)達(たち)の思(おぼ)し召(め)さるる所。空(むな)しく鎌倉(かまくら)へ取(と)られん事(こと)は、寺中(じちゆう)坊中(ばうちゆう)の名(な)をり、はなし給(たま)へ」と怒(いか)りけれ共(ども)、大勢(おほぜい)なれば、いよいよ弱(よわ)りはてにけり。人々(ひとびと)は、数多(あまた)有(あ)り、働(はたら)かさず、自害(じがい)を半(はん)にぞしたりける、無念(むねん)と言(い)ふも愚(おろ)かなり。御(おん)使(つか)ひは、庭上(ていしやう)に充満(じゆうまん)して攻(せ)めければ、力(ちから)及(およ)ばず、上意(じやうい)黙(もだ)し難(がた)くして、渡(わた)されにけり。口惜(くちを)しかりし次第(しだい)なり。御(おん)使(つか)ひ受(う)け取(と)り、輿(こし)に乗(の)せて、鎌倉(かまくら)へこそ上りけれ。君聞(き)こし召(め)されて、御前(ごぜん)へ召(め)されければ、かかれて参(まゐ)りけり。君御覧(ごらん)ぜられて、「わ僧(そう)は、河津(かはづ)が子(こ)か」と、御(おん)尋(たづ)ね有(あ)りければ、禅師(ぜんじ)は、前後(ぜんご)も知(し)らざりけるが、君(きみ)の仰(おほ)せを聞(き)き、両(りやう)の手(て)をおして、おき上(あ)がらんと志(こころざ)しけれ共(ども)、適(かな)はで、頭(かしら)を持(も)ち上(あ)げ、「さん候(ざうらふ)、伊東(いとう)が為(ため)には、孫(まご)候(さうら)ふ」と申(まう)す。さて、「兄(あに)共(ども)が、敵(かたき)打(う)ちけるをば知(し)らざりけるか」「おほそれながら、将軍(しやうぐん)の仰(おほ)せとも存(ぞん)じ候(さうら)はず。一腹(いつぷく)一生(いつしやう)の兄(あに)共(ども)が、親(おや)の敵(かたき)打(う)つとて知(し)らせ候(さうら)はんに、黒衣(こくえ)にて候(さうら)ふとも、同意(どうい)せぬ畜生(ちくしやう)や候(さうら)ふべき。御推量(すいりやう)も候(さうら)へ」とぞ申(まう)し上げたりける。「汝(なんぢ)が眼(まな)ざしP385を見(み)るに、頼朝に意趣(いしゆ)有(あ)りと見(み)えたり。事(こと)を尋(たづ)ねん為(ため)に召(め)しつるに、楚忽(そこつ)の自害(じがい)、所存の外(ほか)也(なり)」「楚忽(そこつ)とは、如何(いか)でか承(うけたまは)り候(さうら)ふ。既(すで)に御(おん)使(つか)ひ賜(たま)はりて、召(め)し取(と)れとの御諚(ごぢやう)を承(うけたまは)りて、其(そ)の用心(ようじん)仕(つかまつ)らぬ事(こと)や候(さうら)ふべき。哀(あは)れ、兄共(ども)が知(し)らせて候(さうら)はば、二人の者(もの)をば、祐経(すけつね)に押(お)し向(む)け、愚僧(ぐそう)は、一人にて候(さうら)ふとも、君(きみ)を一太刀窺(うかが)ひ奉(たてまつ)りて、後生(ごしやう)の訴(うつた)へに仕(つかまつ)るべきか」とて、御前(ごぜん)をにらみ、言葉(ことば)をはなちてぞ申(まう)しける。君聞(き)こし召(め)して、「頼朝(よりとも)には、何(なに)の宿意(しゆくい)有(あ)りけるぞ」「我(われ)等(ら)先祖(せんぞ)の敵、又は兄弟(きやうだい)の敵にて候(さうら)はぬか。果報(くわほう)の勝劣(しようれつ)程(ほど)、憂(う)き物(もの)は候(さうら)はず。只(ただ)御威勢(いせい)におされて、斯様(かやう)に罷(まか)り成(な)りて候(さうら)ふ。おほそれながら、身(み)が身(み)にて候(さうら)はば、源平(げんぺい)両氏(りやうじ)、何(いづ)れ甲乙(かうおつ)候(さうら)ふべき」と申(まう)しければ、君(きみ)、暫(しばら)く物(もの)をも仰(おほ)せられず、やや有(あ)りて、猶(なほ)も心(こころ)を見(み)んと思(おぼ)し召(め)しけん、「其(そ)の手(て)にても、いきてんや。さも思(おも)はば、助(たす)くべき」由(よし)仰(おほ)せ下(くだ)されければ、禅師(ぜんじ)承(うけたまは)りて、からからと打(う)ち笑(わら)ひ、「よくよく人共(とも)思(おぼ)し召(め)され候(さうら)はざりける。御(おん)助(たす)け有(あ)る程(ほど)ならば、如何(いか)で、是(これ)まで召(め)さるべき。もしさもとや申(まう)す、聞(き)こし召(め)されん為(ため)か。まさなや、人に依(よ)りてこそ、然様(さやう)の御(おん)言葉(ことば)は候(さうら)ふべけれ。口惜(くちを)しき仰(おほ)せかな」とぞ申(まう)しける。御寮(れう)聞(き)こし召(め)し、此(こ)の法師(ほふし)も、兄(あに)には劣(おと)らざりけり。助(たす)け置(お)きなば又(また)大事(だいじ)を起(お)こすべき者(もの)也(なり)。よくぞ召(め)し寄(よ)せたりけると思(おぼ)しける。禅師(ぜんじ)、重(かさ)ねて申(まう)しけるは、「とても助(たす)かるまじき身(み)、刹那(せつな)のながらへも苦(くる)しく候(さうら)ふ。急(いそ)ぎ首(くび)を召(め)さP386れ候(さうら)へ」と、しきりに申(まう)しければ、生年(しやうねん)十八にして、遂(つひ)に切(き)られにけり。無慙(むざん)なりし次第(しだい)なり。君(きみ)、此(こ)の者(もの)の気色(けしき)を御覧(ごらん)じて、「剛(かう)なる者(もの)の孫(そん)は、剛(かう)なり。哀(あは)れ、彼(かれ)等(ら)に世(よ)の常(つね)の恩(おん)をあたへ、召(め)し使(つか)はば、思(おも)ひ止(とど)まる事(こと)も有(あ)りなまし。弓矢(ゆみや)取(と)る者(もの)は、誰(たれ)劣(おと)るべきにはあらねども、か程(ほど)の勇士(ゆうし)、天下(てんが)にあらじ」と仰(おほ)せも敢(あ)へず、御涙(おんなみだ)をこぼさせ給(たま)ひしかば、御前(おんまへ)祗候(しかう)の侍(さぶらひ)共(ども)、袖(そで)を濡(ぬ)らさぬ無(な)かりけり。
 @〔京(きやう)の小二郎(こじらう)が死(しする)事(こと)〕S1009N155
 又(また)、此(こ)の人々(ひとびと)に語(かた)らはれ、同意(どうい)せざりし一腹(いつぷく)の兄(あに)、京(きやう)の小二郎(こじらう)も、同(おな)じ八月に、鎌倉(かまくら)殿(どの)の御一門(いちもん)、相模守(さがみのかみ)の侍(さぶらひ)に、ゆらの三郎(さぶらう)が謀叛(むほん)起(お)こして出(い)でけるを、止(とど)めんとて、由比(ゆひ)の浜(はま)にて、大事(だいじ)の傷(きず)を蒙(かうぶ)り、曾我(そが)に帰(かへ)り、五日をへて、死にけり。同(おな)じくは、さんぬる五月に、兄弟(きやうだい)共(ども)と一所に死(し)にたらんは、如何(いかが)よかるべきとぞ申(まう)し合(あ)ひける。
 @〔三浦(みうら)の与一(よいち)が出家(しゆつけ)の事(こと)〕S1010N156
P387 三浦(みうら)の与一(よいち)も、与(くみ)せざりしが、幾程(いくほど)無(な)くして、御勘当(かんだう)を蒙(かうぶ)り、出家(しゆつけ)してげり。人は只(ただ)不孝(ふかう)の道(みち)をば、正(ただ)しくすベき事(こと)や。