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校定 今鏡読本 中
◎〔ふぢなみの上〕第四
 (廿八)藤波 S0401 
よつぎは、入道おほきおとゞの御さかえ申さんとて、その御事こまかに申したれば、そのゝちより申すべけれど、みなかみあらはれぬはながれのおぼつかなければ、まづ入道おとゞの御ありさま、おろ<申し侍べき也。入道前太政大臣みちながのおとゞは、大入道殿の五郎、九条の右のおとゞの御まご也。一条院、三條院、後一條院、三代の關白におはします。五十四の御とし御ぐしおろさせ給ひて、万寿四年十二月四日、六十二にてかくれさせ給ふ。をのこ君、をんなぎみ、あまたおはしましき。をんなぎみ第一のは、上東門院と申して、後一条院、後朱雀院、二代のみかどの御はゝなり。つぎに第二の御むすめは、三条院の中宮妍子と申しき。陽明門院の御母也。第四は後一条院の中宮威子
と申す。二条院と、後三条院の皇后宮との御母なり。第六のきみは、後冷泉院の御母、内侍のかみ嬉子と申しき。これみなたかつかさどのゝ御はらからなり。をとこ君だち、太郎は宇治のおほきおとゞ、つぎは二条殿、またおなじ御はらからなり。堀川の右のおとゞ、閑院の東宮太夫、無動寺のむまのかみ、三條の民部卿、このよところは、たかまつの御はらの君だちなり。この御はらに、女君ふたところおはしき。ひとりは小一条院とて、東宮より院にならせ給へりし、女御にまゐり給へりき。いまひとりは、土御門の右のおとゞのきたのかた也。むかしもいまも、かゝる御さかえはありがたきなるべし。
上東門院は、一条院のきさき、二代のみかどの御母なり。御ありさまさきにこまかに申し侍りぬ。つぎに妍子と申すは、女院とおなじ御はらからにおはします。寛弘元年十一月、内侍のかみになり給ひて、やがて正四位下せさせ給ふ。十二月に三位にあがらせ給ふ。七年正月に二位にのぼり給ひて、同年二月に、三条院東宮と申しし女御にまゐり給ふ、くらゐにつかせ給ひて、寛弘八年八月に、女御の宣旨かうぶり給ふ。長和元年二月十四日、中宮にたち給ふ。みかどくらゐさらせ給ひて、寛仁二年十月十六日、皇后宮にあがり給ふ。万寿四年九月十四日、卅四にて御ぐしおろして、やがてその日
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かくれさせ給ひにき。枇杷殿の皇太后宮と申す。隆家の帥くだり給ひけるに、このみやより、あふぎたまはすとて、
@ すずしさはいきの松ばらまさるともそふるあふぎの風な忘そ W043
この宮の御はらに、三条院のひめみやおはします。そのみや禎子の内親王と申して、治安三年一品の宮と申す。万寿四年三月廿三日、後朱雀院の東宮と申ししとき、まゐらせ給ひき。御とし十五にぞおはしましゝ。みかどくらゐにつかせ給ひて、皇后宮にたゝせ給ふ。のちにあらためて中宮と申しき。みかどの御ついでにかつは申し侍りぬ。後三条院の御母、陽明門院と申、この御事也。この女院の御はらに女宮たちおはしましき。良子内親王とて、長元九年十一月廿八日、伊勢のいつきときこえさせ給へりし、一品にのぼらせ給へりき。つぎのひめ宮は、娟子の親王と申しき。長元九年しも月のころ、かものいつきときこえしほどに、まかりいで給ひけるのち、天喜五年などにやありけむ。なが月のころ、いづこともなくうせ給ひにければ、宮のうちの人、いかにすべしともなくて、あかしくらしける程に、三条わたりなるところにすみ給ふなりけり。はじめは人のあふぎに、ひともじををとこのかきたまへりけるを、女のかきそへさせ給へりければ、
をとこ又みて、ひとつそへ給ふに、たがひにそへたまひけるほどに、うたひとつに、かきはてたまひけるより心かよひて、ゆめかうつゝかなることもいできて、心やあはせ給へりけん。おひいだしたてまつりて、やがてさてすみ給ひけり。をとことがあるべしなんどきこえけれど、人からのしなも、身のざえなどもおはして、世もゆるしきこゆるばかりなりけるにや。もろともに心をあはせ給へればにやありけん。さてこそすみたまひけれ。をとこそのほどは、宰相中將など申しけるとかや。のちには左のおとゞまでなり給へりき。入道おとゞの第四の御むすめ、後一条院の中宮威子と申しき。これもおなじ御はら、たかつかさ殿の御むすめなり。寛弘九年に、内侍のかみになりたまひて、後一条院くらゐの御時、女御にまゐり給ふ。寛仁二年十月に、きさきにたち給ふ。長元九年に、御ぐしおろさせ給ふ。同九月にかくれさせたまひにき。みかどは四月にうせさせ給ひ、きさきは九月にかくれさせ給ひし、いとかなしかりし御ことぞかし。その御はてに、さはる事有りて、江侍従まゐらざりけるを、人のなどまゐらざりしぞと申したりければ、
@ わが身にはかなしきことのつきせねば昨日をはてと思はざりけり W044
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とぞきこえける。このきさきのうみたてまつりたまへるひめみや、章子内親王と申し、二条院と申す。この御事也。後冷泉院東宮におはしましゝ時まゐらせ給ひて、永承元年七月に、中宮にたゝせ給ふ。治暦四年四月に皇后宮にあがらせ給ひき。うちにまゐらせ給ひて、ふぢつぼにおはしましけるに、故中宮の、これにおはしましゝ事など、おもひいだして、出羽弁がなみだつゝみあへざりければ、大貮の三位、
@ しのびねのなみだなかけそかくばかりせばしと思ふころの袂に W045
とよまれ侍りければ、出羽弁、
@ 春の日にかへらざりせばいにしへの袂ながらや朽はてなまし W046
とぞかへし侍りける。馨子の内親王と申すも、又おなじ御はらにおはします。長元四年に、かものいつきにて同九年にいでさせたまひて、永承六年十一月、後三条院東宮におはしましゝ女御にまゐらせたまひき。御とし廿三、承保元年六月廿二日、皇后宮にたち給ふ。延久五年四月廿一日、御ぐしおろさせ給ひき。院御ぐしおろさせ給ひしおなじ日、やがておなじやうにならせ給ひし、いとあはれに、ちぎり申させ給ひける御すぐせなり。きさきの
くらゐはもとにかはらせ給はず。入道殿の第六の君は、後冷泉院の御母におはします。みかどの御ついでに申し侍りぬ。
 (廿九)梅の匂ひ S0402 
関白前太政大臣よりみちのおとゞは、法成寺入道おほきおとゞの太郎におはします。御母みやたちにおなじ。従一位源倫子と申す。一條の左大臣まさのぶのおとゞの御むすめ也。たかつかさどのと申す。この宇治のおほきおとゞ、大臣の位にて五十一年までおはしましき。後一条院の御をぢにて、御とし廿六にて、寛仁元年三月十六日、攝政にならせ給ふ。その十九日牛車の宣旨かうぶらせ給ひて、やがてその廿二日、大臣三人のかみにつかせ給ふ、宣旨かうぶり給。みかどおとなにならせ給ひぬれば、関白と申しき。後朱雀院くらゐにつかせ給ふにも、猶御をぢにて長元九年四月廿九日さらに関白せさせ給ふ。そのゝち太政大臣にならせ給ふ。御とし七十一とぞきこえ給ひし。治暦三年七月七日、宇治の平等院に行幸有りて、准三后の宣旨かぶり給ふ。むかしの白河のおとゞのごとくに、うとねりなども御随身をたまはらせ給ひき。関白はゆづり給ひて、のかせ給へれど、内覧の職事まゐり、物申すことおなじことなりき。後三条院くらゐ
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につかせ給ひてぞ、としごろの御心よからぬことゞもにて、宇治にこもりゐさせ給ひて、延久四年正月廿九日御ぐしおろさせ給ひて、同六年二月二日八十三にてうせ給ひにき。このおとゞうたなどもよくよませ給ひしにこそ侍るめれ。そのなかに堀川の右のおとゞに、梅の花をりてたてまつり給ふとて、
@ をられけりくれなゐ匂ふ梅の花けさ白妙に雪はふれゝど W047
とよませたまひたる、いとやさしくすゑの世まで、とゞまり侍るめり。このおとゞの御子、太郎にて右大将みちふさと申しし、十八にてうせ給ひにき、御母右兵衛督憲定のむすめなり。まうけの関白、一の人の太郎君にて、あへなくなり給ひにしかば、世もくれふたがりたるけしきなりしぞかし。としもまた廿にだにならせ給はぬに、和哥などをかしくよませ給ひけるさへ、いとあはれに思いでられさせ給ふ。ひとよばかりを七夕のなどよませ給ひたる、後拾遺にいりて侍るめり。
 (三十)伏見の雪の朝 S0403 
大將殿のほかの君だちは、おほとのゝひとつ御はらにおはしましき。おほ殿の御すゑこそは、一の人つがせ給ふめれ。その御ほうにおされて大將殿もとくかくれ給ひにける
にこそ。女君は後朱雀院の中宮に、たてまつり給へりしは、まことの御こにはおはしまさで、式部卿の宮の御こなりしに、まことの御むすめは、四条の宮と申しき。大将のひとつ御はらなり。ふしみのすりのかみ、としつなときこえし人も、ひとつ御はらにおはしき。その御母は贈二位讃岐守としとをと、あひぐし給へりければ、としつなのきみ、御こにておはしけれど、けざやかならぬほどなりければにや。なをとしとをのぬしのこの定にて、たちばなのとしつなとてぞおはせしのちになほ殿の御ことて、藤原になり給ひき。なほしなどきられけるをも、たちばなゝをしとぞ人は申しける。まめやかになりてのち、大殿、宇治大僧正、四条宮などは、おなじ御はらなれど、すりのかみは、げらうにてやみ給ひにしぞかし。かんだちめにだにえなられざりける、猶よのあがりたるにや。からくやおぼしけんとぞ、おぼえはべりし。されどもあふみのかみ有佐といひし人は、後三条院のまことには御こときこえしかど、さぬきのかみ顯綱のこにてこそ、やまれにしか。有佐といふ名も、みかどの御てにて、あふぎにかゝせ給ひて、母の侍従内侍にたまへりける。ほりかはの左のおとゞは、なかつかさのせふありすけがみちにあひて、おりてゐたりつるこそ、いとほしくおぼえつれ。院にたがはずにたてまつりたるさまなどありけるときこえしかば、それはさてこそやまれにしか。このすりのかみ
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は、たちばなをかへられしかば、猶関白の御こなるべし。このすりのかみの、むかしおはりのくにゝ俊綱といひけるひじりにておはしけるを、あつたのやしろのつかさの、ないがしろなることの有りければ、むまれかはりて、そのくにのかみになりて、かの国にくだるまゝに、あつたにまうでゝ、その大宮司とかをかなしくせためられなどしければ、あやまちなきものを、かくつかまつるよと、神に申しけるゆめに、むかしすんがうといひて有りしひじりの法施をとしごろえさせたりしかば、いかにもえとがむまじきとぞみたりける。しかならんために、くにの司のしなに、むまれたまひけるにこそ。さすがむかしのおこなひのちからに、関白の御こにてもおはするなるべし。われもむかし、その物をさめたりきなどいひて、かゞみとりいださせなどせられける、たゞ人にはおはせざるべし。大殿のふしみへおはしましたりけるも、すゞろなる所へはおはしますまじきに、雪のふりたりけるつとめて、としつながいたく伏みふけらかすに、ゝはかにゆきてみんとて、はりまのかみもろのぶといふ人ばかり御ともにて、にはかにわたらせ給ひたりければ、おもひもよらぬことにて、かどをたゝきけれど、むごにあけざりければ、人々いかにとおもひけり。かばかりの雪のあしたに、さらぬ人の家ならんにてだに、かやうのをりふしなどは、そのよういあるべきに、
いはんや殿のわたり給へるに、かた<”おもはずに思へるに、あけたるものに、おそくあけたるよし、かうづありければ雪をふみ侍らじとて、山をめぐり侍と申しければもとよりあけまうけ、又とりあへずいそぎあけたらむよりも、ねんにけふあるよし、人々いひけるとか。修理のかみさわぎいで、雪御らんじて、御ものがたりなどせさせ給ふほどに、もろのぶかくわたらせ給ひたるに、いでしかるべきあるじなどつかまつれと、もよをしければ、としつな、いまにべとのまゐり侍りなん。と申しければ人にもしられで、わたらせ給ひたれば、にへ殿まゐることあるまじ。日もやう<たけていかでか、御まうけなくてあらんといひければ、殿わらはせ給ひて、たゞせめよなどおほせられけるほどに、いへのつかさなるあきまさといひて光俊有重などいふ学生のおやなりしをのこ、けしきゝこえければ、修理のかみたちいでゝかへりまゐりてあるじして、きこしめさすべきやうはべらざる也。御だいなどのあたらしきも、かく御らんずる山のあなたのくらにおきこめて侍れば、びんなくとりいづべきやうはべらず。あらはにはべるは、みな人のもちひたるよし申しければ、なにのはゞかりかあらん。たゞとりいだせとおほせられければ、さばとてたちいでゝ、とりいだされけるに、色々のかりさうぞくしたり、伏みさぶらひ十人、いろ<のあこめ
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に、いひしらぬそめまぜしたる、かたびら、くゝりかけ、とぢなどしたるざうし、十人ひきつれて、くらのかぎもちたるをのこ、さきにたちてわたるほどに、ゆきにはえて、わざとかねてしたるやうなりけり。さきにあとふみつけたるを、しりにつゞきたるをとこをんなおなじあとをふみてゆきけり。かへさには御だいたかつき、しろがねのてうしなど、ひとつづゝさげてもちたるは、このたびはしりにたちてかへりぬ。かゝるほどに、かんだちめ殿上人、蔵人所の家司職事御随身など、さま<”にまゐりこみたりけるに、このさとかのさと、所々にいひしらぬそなへども、めもあやなりけり。もろのぶいかにかくはにはかにせられ侍ぞ。かねてゆめなどみ侍りけるか。など、たはぶれ申しければ、としつなのきみは、いかでかゝる山ざとに、かやうのこと侍らん。よういなくては侍べきなどぞ申されける。ふしみにては、ときのうたよみどもつどへて、和哥の会たゆるよなかりけり。ふしみの会とて、いくらともなくつもりてなんあなる。おとはの山のけさはかすめる。などよまれたる、いというに侍るかし。かやうにもてけうぜらるゝあまりに、ふけらかしまゐらせられけるにこそ。四条のみやの女房、あまたあそびてくれぬさきにかへり給ひければ、修理のかみ、
@ 都人くるればかへる今よりはふしみの里のなをもたのまじ W048
となむよみ給ひける。白河院、一におもしろき所は、いづこかあるとゝはせ給ひければ、一にはいしだこそ侍れ。つぎにはとおほせられければ、高陽院ぞ候ふらんと申すに、第三に鳥羽ありなんや。とおほせられければ、とば殿は君のかくしなさせ給ひたればこそ侍れ。地形眺望など、いとなき所也。第三には俊綱がふしみや候ふらんとぞ申されける。こと人ならばいと申しにくきことなりかし。高陽院にはあらで、平等院と申す人もあり。ふしみには山みちをつくりて、しかるべきをりふしには、たび人をしたてゝ、とほされければ、さるおもしろきことなかりけり。大僧正まだわかくおはしけるとき、御母贈二位の宇治殿に、僧都の御房の、まだわが房もゝたせ給はで、あひずみにておはしますなるに、房をさだして、たてまつらせ給へかしと申されければ、泰憲の民部卿、あふみのかみなりけるが、まゐりたりけるに、こゝなる小僧の、房をもたざなるに、草庵ひとつむすびて、とらせられなんやとおほせられければ、つくり侍らん。いとやすきことに侍り。やすのりがたちにつかうまつる、いしだと申すいへこそ、てらもちかくて、おはしまさんにも、つれ<”なぐさみぬべき所はさぶらへ。堂なども侍りてひんよき所なりと申しければ、殿はゆゝしきほうありける小僧かな。それはこよなきことにこそあらめとて、
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すゑたてまつり給へりけるとぞ。やすのりの民部卿は、おほとのゝ中将など申して、いはけなくおはしけるに、大将殿などまだよにおはしましけるほどは、とのも人もおもりかに思ひたてまつらるゝこともなかりけるをり、名簿をとりいだして、ゝうつしにたてまつりて、やすのりが名簿えさせ給へらんは、さりともよしあるべき事なり。思ふやうありて、たてまつるなりと申しければ、宇治にまゐらせ給ひて、かくこそつかうまつりたれと、申させ給ひけるにこそ、おぼえはつかせ給ひけれとぞきゝ侍りし。まことにやはべりけん。
 (卅一)雲のかへし S0404 
宇治のおほきおとゞの御むすめは、大殿の一御はらにて、四条の宮になんおはしましける。そのさきに、式部卿のみこの女君をこにしたてまつりて、後朱雀院の御時たてまつらせ給へりしは、こうきでんの中宮〓子と申しき。その御ことはさきに申し侍りぬ。いつしか、みや<うみたてまつりて、あへなくかくれさせ給ひにし、いとかなしく侍りしことぞかし。まことの御むすめならねども、いかにくちをしくおぼしめされけん。秋のあはれいかばかりかはかなしく侍りし。この中宮のうみたてまつり
給へるひめ宮は、祐子の内親王と申しき。長暦二年四月廿一日むまれ給ふ。長久元年裳きし給ひき。延久四年御ぐしおろし給ふ。のちに二品の宮と申しき。この宮の哥合に、宇治のおほきおとゞの御うた
@ 有明の月だにあれや時鳥たゞひとこゑのゆくかたもみん W049
とよみたまへるなり。大貳三位、
@ 秋ぎりの晴せぬみねにたつ鹿はこゑばかりこそ人にしらるれ W050
とぞよめりける。又〓子の内親王と申すこそは、この中宮うみおき給へる宮におはしませ。寛徳三年三月、かものいつきと申しき。天喜六年御なやみによりていで給ふ。みまさかのごが、ありしむかしのおなじこゑかとよめるは、この宮のいつきのころ侍りて、思いだして侍りけるになん。このみやいつきときこえけるころ、本院のあさがほをみ給ひて、
@ 神がきにかゝるとならばあさがほのゆふかくるまで匂はざらめや W051
と侍るもいとやさしく、宇治殿のまことの御むすめ、四条のみやにおはします。後冷泉院の中宮寛子と申す。永承元年うちへまゐり給ひて、同六年皇后宮にたち給ふ。御とし
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十六、治暦四年四月に、中宮と申す。同十二月に、御ぐしおろさせ給ふ。御とし卅二、天喜四年皇后宮にて、うたあはせせさせ給ふに、堀川の右のおとゞ、雲のかへしのあらしもぞふくなどよみ給此たびなり。また御身にもえさせ給へりけるみちにこそ侍るめれ。女房のまゐらむと申しけるほどに、身まかりけるをきかせ給ひて、
@ くやしくぞきゝならしけるなべてよの哀とばかりいはまし物を W052
とよませたまひけん。いとなさけおほくなん。宇治殿のかぎりにおはしましけるに、おほ殿のおぼしめさん事、おほせられおかせ給へと申させ給ひければ、宇治とみやとゝぞ、おほせられける。宇治とは平等院の御だうの事、宮とは四条宮の御事也。かくて候はんずれば、御堂の事、宮の御事は、おぼつかなくおぼしめすこと、つゆはべるまじきなりとぞよく申させ給ひけるとなん。
 (卅二)白河のわたり S0405 
たかつかさ殿の御はらの、第二の御こにては大二條殿とておはしましゝ、関白太政大臣教通のおとゞと申しき。御堂の君だちの御なかには、第五郎にやおはしけんかし。さはあれども、宇治殿のつぎに、関白もせさせ給ふ。第二の御こにてぞおはしましゝ。
大臣のくらゐにて五十五年おはしましき。治暦四年四月十七日、後冷泉院の御時、あにの宇治殿の御ゆづりによりて、関白にならせ給ひき。七十三の御としにやありけん。みかどほどなくかはりゐさせ給ひて、後三条院の代のはじめの関白、やがて同月の十九日に更にならせ給ひき。延久二年三月に、太政大臣にのぼらせ給ふ。承保二年九月廿五日にぞ、うせさせ給ひにし。御とし八十あにの宇治殿は申すべきならず。このおとゞも世おぼえなど、とり<”になむおはしましゝ。女御きさきなど、たび<たてまつらせ給ふ。家の賞かぶり給ふ事もたび<にて、御ひきいで物、御馬などたてまつり給ふ。きんだちなど、加階せさせ給ひて、もとより一の人にもをとらずなんおはしましゝ。御うしろみにてたぢまのかみ能通といふが、はか<”しきにてうしろみたてまつりければ、御家のうちも、いと心にくきことおほかりけり。いつのことに侍りけるとかや。おほみあそびに、冬のそくたいに半臂をきさせ給へりけるを、かたぬがせ給ふとき宇治殿よりはじめて、したがさねのみしろくみえけるに、このおとゞひとりは、半臂をき給へりければ、御日記にはべるなるは、予ひとり半臂の衣をきたり。衆人はぢたる色ありとぞ侍るなり。かやうなることもぞおほく侍りける、能通のぬし、宇治殿にまゐりて、
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おまへにめされて、まゐるとてしやくもちてまゐらんとて、蔵人所のみづしさぐりて、しやくもおかれぬみづしかな。衣冠にておまへにまゐるものは、とりてこそまゐることにてあるにと、つぶやきければ殿きかせ給ひて、かくつねにはぢしめらるゝなどぞおほせられける。しやくはそくたいにてぞもつ事にて侍を、とのゐさうぞくにも、ことにしたがひ人によるべきにや。けびゐしなどはつねにもち侍るめり。又たかみつとかきこえし人、たれにあひたてまつりたりけるとかや。車よりおりて、ふところがみをたかくたゝみなして、しやくになしてなんとれりけるとぞ、きゝ侍りし。そくたいにも、かんだちめはなちては、殿上にはもちてのぼり給はぬとかや。おほみやの右のおとゞつねすけの大納言、蔵人頭にていさかひ給ひける時、笏しでうち給ひたりけるより、とゞめられ侍とぞきゝ侍りし。御座のおほひかくなり。さほはとりはなちに侍りけるを鳥羽院の位の御ときにや。殿上人のいさかひ給ひて、そのさをゝぬきてうたんとし給ひけるより、うちつけられたるとなんきこえ侍る。もとなき事もかゝるためしにはじまれるなるべし。その御ざと申すは御倚子とて、殿上のおくのざのかみに、たてられ侍るなる。したんにてつくられて侍るなるを、むかしうだのみかど、まだ殿上人におはしまして、なりひらの中将とすまゐ
とらせ給ひて、かうらんうちをらせ給ひけるを、代々さてのみをれながらこそ侍るなるに、ちかきみよにつくしのひごの守になれりける、なにがしとかやいふ人の、蔵人なりける時、したんのきれとのに申して、そのかうらんのをれたる、つくろはんなどせられけるこそ、をこのことに侍りけれ。かの能通のぬしの、しかありけるすゑなればにや。みちのりといひし少納言の大とこも、ちかくはいみじくこそ、世の中したゝむめりしか。このおとゞ左衛門督など申しけるほどにや。白川に花見にわたり給ふとて、小式部内侍にかくとおほせられければ、
@ 春のこぬ所はなきをしらかはのわたりにのみや花はさくらん W053
と申したりけるこそ、いとやさしくとゞまりてみえ侍れ。和泉式部とかきたるものも侍れば、はゝのよみて侍るにや。
 (卅三)はちすの露 S0406 
四條の大納言のむすめの御はらに、御こどもおほくおはしましき。太郎にては、山井の大納言のぶいへのきみおはしましき。いとよき人におはしましき。宇治殿は山の井ばかりのこを、えもたぬとぞおほせられける。いかばかりおはしましけるにか。なにごとに
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か侍りけん宇治殿の御ともにおはしけるに、わざとすゑまさんとおぼして、みかへりて、ひさしくものし給ひけるにも、つひにゐたまはざりけるとかやぞきこえ侍りし。いとすゑおはせぬに、つちみかどの右のおとゞのひめぎみをぞやしなひごにて、大殿のきたのまんどころと申しし。二条殿のつぎの御こは、三位侍従信基とておはしましき。また九条の太政のおとゞ、信長とておはせし、それもはか<”しきすゑもおはせぬなるべし。こはたの僧正、ながたにの法印などいふ僧きんだちおはしましき。僧正は小式部の内侍のはらなればにや。うたよみにてこそおはすめりしか。あはずのゝすぐろのすゝきつのぐめば。などいふ哥、撰集にもみえ侍るめり。うせ給ひて後も、上東門院の御ゆめに御らんじける、僧正の御うた、
@ あだにしてきえぬるみとや思ふらんはちすの上の露ぞわがみは W054
とはべりける、浄土に往生し給ふにや。いとたふとき御うたなるべし。法印はあにたちのおなじはらにおはすべし。
 (卅四)小野の御幸 S0407 
大二条殿の女君は、後朱雀院の女御におはせし、院うせさせ給ひて、七八年ばかり
やありけむ。御ぐしおろし給ひて、十余年ばかりすぎて、うせ給ひにき。長久二年に哥合せさせ給へりしに、良暹法師の人にかはりて、
@ みがくれてすだくかはづのもろ聲にさわぎぞ渡るゐでのうき草 W055
とよめる、この哥合のうたなり。兼長の君は、おのがかげをやともとみるらん。とよみ、永成法師はいのちはことのかずならず。とよめる。かやうのよき哥どもおほく侍り。天喜元年御ぐしおろし給ひて、治暦四年にぞうせさせ給ひにし。こうきでんの女御と申しき。おなじ御時内侍のかみ真子と申ししも、よにひさしくおはしき。第二の御むすめにやおはしけん。三君は後冷泉院の女御にまゐりて、きさきにたち給ひて、皇后宮と申しき。のちに皇太后宮にあがりて、承保元年の秋、御ぐしおろし給ひてき。猶きさきの位にて、ひえの山のふもと、をのといふさとにこもりゐさせ給ひて、みやこのほかに、おこなひすまし給へりき。雪おもしろくつもりたるあしたに、白河院にみゆきなどもやあらんと思て、ある殿上人、馬ひかせてまゐり給へりけるに、院いとおもしろき雪かなとおほせられて、雪御覧ぜんとおもほしめしたりけるに、馬ぐしてまゐりたる、いみじくかんぜさせ給ひて、御随身のまゐりたりける、ひとり御ともにて、にはかに御幸有りける
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に、北山のかたざまに、わたらせ給ひければその御随身、ふと思よりて、もしをのゝきさきの、山ずみし給ふなどへや、わたらせ給はんずらんと思ひて、かの宮にまうでつかうまつるものにやはべりけん。にはかにしのびてみゆきのけさ侍る、そなたざまにわたらせ給ふ。もしその御わたりなどへや、侍らんずらんと、つげきこえければかの入道のみや、その御よういありて、法花堂に、三昧僧經しづやかによませさせ給ひて、庭のうへいさゝか人のあとふみなどもせず。うちいで十具ばかり有りけるを、なかよりきりてそで廿いださんよういありけるを、もしいりて御らんずることも侍らん。いとみぐるしくやと、女房申しけれど、きりていだし給ひけるに、すでにわたらせ給ひて、はしかくしのまに、御車たてさせ給ひてかくとやはべりけん。さやうに侍りけるほどに、かざみきたるわらは二人、ひとりはしろがねのてうしに、みきいれてもてまゐり、いま一人はしろがねのをしきに、こがねのさかづきすゑて、大かうし御さかなにて、いだし給へりければ御ともの殿上人、とりてまゐりて、いとめづらしき御よういにはべりけり。かへらせ給ひてのち、かしこくうちを御らんぜで、かへらせ給ひぬなど、ごたち申しければ雪見にわたり給ひて、いり給ふ人やはあるとぞのたまはせける。月と雪ともきこえ
はべり。さて院より御つかひありて、いとこゝろぐるしく、おもひやりたてまつるに、うちいでなどこそよういして、有がたくもたせ給へりけれとて、みのゝくにとかや御庄の券たてまつらせ給へりければまゐりつかうまつる、をとこをんな。これかれのぞみけれど、みゆきつげきこえける随身に、あづけたまひけるとぞきゝ侍りし。そのとねりの名はのぶさだとかや。殿上人はなにがしの弁とかや。たしかにもきゝ侍らざりき。そのをのゝてらなどは猶のこりて三昧おこなふ僧も、まだかすかにはべるなり。きさきまだおはしましけるをり、ゆふだちのそら物おそろしく、なる神おどろ<しかりけるに、御經よみて、ゐさせ給へりけるを、かみおちて、御經などもかみの所ばかりはやけて、もじはのこり、御身には露のこともおはしまさゞりける、いとたふとく、あさましきことゝぞきゝ侍りし。うせ給ひけるときも、いとたふとくて、浄土にまゐり給ふとぞ申し侍りし。大二条殿の君だちかくなり。
 (卅五)薄花桜 S0408 
むかしは世もあがりて、うちつゞきすぐれ給へるは申すべきならず。又とりわきたる御のうなどはつぎのことにて、ちかき世の関白には、大殿とてをぢの大二条殿のつぎに、一の人
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におはしましゝぞ、御みめもよく、御心ばへもすゑさかえさせ給ふことも、すぐれておはしましゝか。その御名は、もろざねとぞきこえさせ給ひし。宇治のおほきおとゞの、第二の御子におはしましき。御母贈従二位藤原の祇子と申しき。四条の宮とひとつ御はら也。大臣の位にて四十二年おはしましき。承保二年九月、内覧の宣旨かぶり給ひて十月三日氏の長者にならせ給ふ。十五日に関白にならせ給ひき。御とし三十四、白河院の御時なり。大将はのかせたまひて、御随身猶たまはらせ給ひて、手車の宣旨かぶらせ給ふ。承暦四年十月に、太政大臣のかみにつらなり給ふべき宣旨ありき。堀川院くらゐにつかせ給ひし日摂政にならせ給ふ。同四年うとねり随身たまはり給ふ。寛治二年十二月に、太政大臣になり給ふ。同四年摂政の御名はかはりて、関白と申ししかども、猶つかさめしなどのことは、おなじことなりき。嘉保元年三月関白のかせ給ひても、御随身はもとのやうにつかはせ給ひき。同三年正月なかのへのてぐるまの宣旨ありき。康和三年正月廿九日、御ぐしおろさせ給ふ。二月十三日、宇治にてうせさせ給ふ。御とし六十におはしましき。大殿と申し、又のちのうぢの入道殿とも、又京極殿とも申すなるべし。寛治八年、高陽院にて哥合せさせ給ひし時の哥よみども、
昔にもはぢぬ御あそびなるべし。ちくぜんのごのうすはなさくらの哥、まさふさの中納言の、白雲とみゆるにしるし、といふ哥にまけ侍りしを殿より、
@ しら雲はたちかくせどもくれなゐのうすはなざくら心にぞしむ W056
とおほせられたりしかば、ちくぜんのごの御かへしたてまつるに、
@ 白雲はさもたゝばたてくれなゐの今一しほを君しそむれば W057
と申したりし、いとやさしくこそ侍りしか。御心ばへなどのなつかしく、おはしましけるにこそ。御まり御らんぜさせ給ひけるに、もりながあはぢのかみといひしを、ことのほかにほめさせ給ひけるほどに、しなのゝかみゆきつなも、心にはをとらず思て、うらやましくねたくおもひけるに、御あしすまさせ給ひけるに、つみたてまつるやうにたび<しければいかにかくはとおほせられければ、まりもみしらぬはぎのといひつゝ、あらひまゐらするを、ゆきつなもよしとぞおほせられける。御かへりごとに、こそ<となでたてまつりける、もとのさるがうなれども、ものこちなきしうには、さもえまさじかしとおぼえて、またもりながのぬし、花ざかりにまりもたせて、うちへまかりけるに、ゆきつなさそひにやりたりければ御ものいみにこもりて、人もなければけふはえまゐらじと、返事しけるをきゝつけさせ
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給ひて、たゞいけとて、うすいろのさしぬきのはりたる、かうのそめぬのなど、をさめ殿よりとりいださせて、にはかにぬはせて、御まり花のえだにつけてみまやの御馬に、うつしおきて、いだしたてゝつかはしければけふこそこのついでに、女にみえめとおもひて、日ごろはあはぬ女の家のさじきに馬うちよせて、かたらふほどに、御馬にはかにはねおとして、まへのほりけにうちいれてけり。かしらくだりのこる所なく、つちかたにあみたりけるを、女いへにいれて、あらひあげて、いとほしさにこそあひにけれ。御馬はしりてみまやにたちにけり。あやしくきこしめしけるほどに、ゐかひおひつきてかくと申しければいかにあさましく、をかしくおぼしめしけん。さてしばしは、えさしいでもせざりけるとぞ、きこえ侍りし。
 (卅六)波の上の杯 S0409 
この大殿のすゑ、ひろくおはしますさまは、をのこ君だち、よにしらずおほくおはしまして、をとこ僧も、あまたおはしますに、御むすめぞおはしまさぬ。六条の右のおとゞの御むすめを、殿の御子とて、白河院の東宮と申しし時より、みやすどころにたてまつり給へりし、賢子の中宮とて、堀川院の御母なり。宮々おほくうみたてまつり給へりき。その
御ことはみかどの御ついでに申し侍りぬ。さて一の人つがせ給ふ。太郎におはしましゝ、のちの二条の関白おとゞの御ながれこそ、いまもつがせ給ふめれ。その御名は関白内大臣師通と申しき。御母は土御門の右のおとゞもろふさと申しし御むすめを、山井の大納言のぶいへと申ししが、こにしたてまつり給へりし御はらなり。永保三年正月廿六日内大臣になり給ふ。御とし廿一、嘉保元年三月九日関白にならせ給ふ。御とし卅三、その三年正月、従一位にのぼらせ給ふ。左大臣のかみにつらなるべき宣旨かうぶり給ふ。承徳三年六月廿八日、御とし卅八にて、うせさせ給ひにき。大臣のくらゐにて十七年おはしましき。このおとゞ、御心ばへたけく、すがたも御のうも、すぐれてなんおはしましける。御即位などにや侍りけん。匡房の中納言、この殿の御ありさまをほめたてまつりて、あはれこれをもろこしの人にみせ侍らばや。一の人とてさしいだしたてまつりたらんに、いかにほめきこえんなどぞまのあたり申しける。玄上といふびはをひき給ひければ、おほきなるびはの、ちりばかりにぞみえ侍りける。てなどもよくかゝせ給ひけり。うまごの殿などばかりは、おはしまさずやあらん。てかきにおはしましきとぞ、さだのぶのきみは人にかたられける。三月三日曲水宴といふことは、六条殿
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にて、この殿せさせ給ふときこえ侍りき。から人のみぎはになみゐて、あうむのさかづきうかべて、もゝの花の宴とてすることを、東三条にて、御堂のおとゞせさせ給ひき。そのふるきあとを尋ねさせ給ふなるべし。このたびの詩の序は孝言といひしぞかきける。ときゝ侍りし。四十にだにたらせたまはぬを、しかるべき御よはひなり。かぎりある御いのちと申しながら、御にきみのほど、人の申し侍りしは、つねの事と申しながら、山の大衆のおどろ<しく申しけるもむづかしく、世の中心よからぬつもりにやありけんとも申し侍りき。
 (卅七)宇治の川瀬 S0410 
後の二条殿の御つぎには、ちかくふけ殿とておはしましゝ、入道おとゞおほぢの大殿、御こにしまさせ給ふときこえ給ひき。御母は大宮の右のおとゞの御むすめなり。このおとゞの御名はたゞざねとぞきこえ給ひし。康和元年閏九月廿八日、内覧の宣旨かぶり給ひき。御とし廿二、同二年七月十七日、右大臣にならせたまひき。大将も猶かけさせ給へりき。天永三年十二月十四日、太政大臣になり給ひき。はじめは宇治のかはせなみしづかにて、白河の水へだてなくおはしましゝかば、ふけ殿つくり
給ひて、院わたらせ給ひけるに、宇治川にあそびのふね、うたうたひて、なみにうかびなどして、いとおもしろくあそばせ給ひけり。盛定といひしをとこ、うたうたひ、その時こうたうなどいひしふねにのりぐして、うたつかうまつりけるとかや。そのたび人々に、哥よませさせ給はざりけるをぞ、くちをしくなど申す人もありける。かやうの所にわたらせ給ひて、なにとなき御あそびも、ふるきあとにもにぬ御心なるべし。かやうにてすぎさせ給ひしに、保安元年十一月十二日にやありけん。夜をこめて院よりとて堀川のおとゞにはかにまゐり給へと御つかひありて、おとゞ内覧とゞむべきよしを、おほせくだし給ひけり。白川院うせさせ給ひて、鳥羽院世しらせ給ひし時にぞふけよりいでさせ給ひし。待賢門院をさなくおはしましゝを、白川院やしなひたてまつり給ひて、鳥羽院くらゐにおはしましゝ、女御にたてまつり給ふほどに、入道おほきおとゞの御むすめ、女御にたてまつらんと、せさせ給ふときこゆるによりて、関白うちとめ申させ給ふとぞきこえ侍りし。白川院の御よに、きさきみやす所などかくれさせ給ひて、さるかた<”もおはせざりしに、白川殿ときこえ給ふ人おはしましき。その人待賢門院をば、やしなひたてまつりたまひて院も御むすめとて、もてなしきこえさせ給ひし也。その白川殿
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あさましき御すぐせおはしける人なるべし。宣旨などはくだされざりけれども、世の人はぎをんの女御とぞ申すめりし。もとよりかの院の、うちのつぼねわたりにおはしけるを、はつかに御らんじつけさせ給ひて三千の寵愛、ひとりのみなりけり。たゞ人にはおはせざるべし。かもの女御と世にはいひてうれしきいはひをとて、あねおとうとのちにつゞきて、きこえしかば、それはかのやしろのつかさ、重助かむすめどもにて、女房にまゐりたりしかば、御めちかゝりしを、これははつかに御らんじつけられて、それがやうにはなくてこれはことのほかに、おもきさまにきこえ給ひき。かの御さたにて、その女院もならびなくおはしましき。代々の國母にておはしましければことわりとは申しながら、いかばかりかはさかえさせ給ひし。をさなくては白河院の御ふところに御あしさしいれて、ひるも御とのごもりたれば、殿などまゐらせ給ひたるにも、こゝにすぢなきことのはべりて、えみづから申さずなど、いらへてぞおはしましける。おとなにならせたまひても、たぐひなくきこえ侍りき。白川院かくれさせ給ひてこそほいのごとく殿のひめ君たてまつり給ひて、女御の宣旨かぶり給ふ。皇后宮にたち給ひてのちは、院号聞えさせ給ひて、高陽院と申しき。院のゝちまゐり給へるが、女御の宣旨
はこれやはじめて侍りけん。きさきの宮のはじめつかたも、宇治の御幸ありて、皇后宮ひきつゞきていらせ給ひしうるはしき行けいのやうには侍らで、みなかり衣にふりうなどして、女房の車いろ<にもみぢのにほひいだして、ざうしなどもみなくるまにのりてなん侍りし。さき<”白川院の御時は、ざうしはみな馬にのりて、すきかさたゝのかさなどきて、いくらともなくこそつゞきて侍りしか。これ女車にて、これぞはじめて侍りし。きさきの宮には、かぶりにてこそつねは人々候を、これはほういになされてなん侍りし。此のふけのおとゞは、御みめもふとりきよらかに、御こゑいとうつくしくて、としおいさせ給ふまで、ほそくきよらにおはしましき。らうゑいなどえならず、せさせ給ふ。又さうのことは、すべてならびなくおはしましき。うたはさまでもきこえさせ給はざりしに、宇治にこもりゐさせ給へりしときぞ、
@ さほがはのながれたえせぬ身なれ共うきせにあひてしづみぬる哉 W058
とよませ給ひけるとかや。ふみのさたなどは、つねにせさせ給ふともきこえざりしかども天台止観とかいふふみをぞ、皇覚とかいひて、すぎうの法橋といひしに、本書ばかりはつたへさせ給ひてけり。日ごとにまゐりて候ひければ、まぎらはしき日も、よふけ
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てなど思いださせ給ひつゝ、としをわたりてぞよみはてさせ給ひける。真言もこのみさたせさせ給ひけるときこえき。としよらせ給ひては、御あしのかなはせ給はざりしかば、わらふだにのりてひかれ給ひ、又御こしなどにてぞ院にもまゐり給ひける。御ぐしおろさせ給ひて、ならにても、山にても、御ずかひせさせ給ひき。御名は圓理とぞきこえさせ給ひし。いづれのたびも、院の御ともにぞ御受戒せさせ給ひける。御子のひだりのおとゞのことおはせしゆかりに、ならにおはしましゝが、宇治殿へはいらせ給はで、おはしましゝを、法性寺殿に、御せうそくありければとく京のかたへいらせ給へと、御かへりごと申させ給ひければよろこび給ひて、としごろの御なかもなほらせ給ひて、はりまとてときめかせ給ひし人の、みやこのきたに、雲林院か。知足院かに侍るなるだうにぞおはして、うせさせ給ひにし。そのはりまとかきこえし人は、よにたぐひなき、さいはひ人になむおはすめり。白川殿に、たゞおなじさまなるはじめにやおはしけん。のちには女院の、はしたものなどいふことになり、つぎに女房になりなどしておはすとぞ、きこえられし。いまにかしこき人にて、法性寺殿の、三井寺の僧都の君、やしなひまして、むかしにかはらぬありさまにてなん、きこえ侍るなる。かの白川殿とて、祇園におはせしは
ゆかりまでさりがたく、院におぼしめされておはせしに、はじめつかた、平氏のまさもりといひし、まゐりつかうまつりければをきのかみなどいひけるも、のちにはしかるべき國々のつかさなど、なりたりけれど、猶下北面の人にてありけれど、その子よりぞ院の殿上人にて、四位五位のまひ人などしけれども、内の殿上は、えせざりけるに五節たてまつりけるとし、受領いまひとり、ためもりためなりなどいひしが、ちゝなりし殿上ゆるされたりしかば、忠盛、
@ おもひきや雲ゐの月をよそにみて心のやみに迷ふべしとは W059
とぞきこえし。その殿上ゆるされたりしは、院の御めのとご、知綱といひしがうまごなれば、いとほしみあるべきうへに、ちかくつかはせ給ふ女房の、心ばへなどおぼしめしゆるされたるものにてありしが、こなどあまたうみたりければ殿上せさせんとおぼしめしながら弁近衛すけなどにもあらで、たちまちに殿上せんも、いかゞとおぼしめして、うさの使につかはしけるを、鳥羽院の新院と申して、おはしましゝほどに、長輔ときこえし兵衛佐をつかはさんと、申させ給ひければかの御方に申させ給ふことさりがたくて、さらば為忠は、ことしの五節をたてまつれとてぞ殿上はゆるさ
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れける。あまりふとれりしかばにや、口かわくやまひして、十年ばかりこもりゐながら、四位の正下までのぼりしも、三条烏丸殿つくりたりしたびはをとこゝそこもりたれども、をんなのみやづかへをすれば、加階はゆるしたぶとおほせらるとて、顕頼の中納言は、大原うとくおぼゆとぞ、よろこびいふとて、たはぶれられける。左京のかみ顕輔のいはれけるは太夫の大工なるべし。二条のおほみやつくりてもかゝいし、そのみだうつくりても、又院の御所つくりても加階すと、いはれけるときこえしにあはせて、木工権頭をぞ、かけづかさにしたりし。貫之かつかさなればとて、なりたりけるとかや。その人まだをさなきほどなりけるに、白河の法皇の、六位の殿上したりけるに、それがしとめしけるを、人のめしつぎければ藤原の、異姓になるは、あしきことなりとて、もとの姓になるべきよし、おほせられけるも猶むかしの、御いとほしみの、のこりけるとぞきこえし。ためあきらといひし人も、本はためのりといひけるを、白河院のためあきらとめしたりけるより、かはりたるとかや。おほぢの高大貳は、なりのりといひしかども、このころそのすゑは、むねあきらなどいへるは、めしけるよりあらたまりたるとかや。白川院ははかなきこともおほせらるゝことの、かくぞとゞまりける。又御心のさとくおはしまし
て、時のほどにおもほしさだめけるは、しなのゝかみこれあきらといひしが、式部丞の蔵人なりし時、女房のつぼねのまへにゐて、ものなど申しけるに、殿まゐらせ給ふとて、庭におりてゐければ女房まゐりて、関白のまいり候ふなど申しければ関白ならばさきこそをはめ。をこのものはあにのともつながまゐるを、いふにこそあらめと、おほせられけるに、はゝきのかみのまゐられたりけるとぞ、女房かたられける。かの雲ゐの月よめりし忠盛は、中々に院かくれさせ給ひてのちにぞいつしか殿上ゆるされたりし。そのとき、殿上のすゞりのはこに、かきつけられたりけるうたありけりときこえしは、みなもとなのるくものうへはなにさへのぼるなりけりとかや。わすれておぼえはべらず。やましろといせと、みなもとゝたひらとを、たいしたるやうにぞきこえし。おなじおりに殿上したりける人のことなるべし。その平氏のこども二人ならびて蔵人になりなどせしも、平氏のおほきおとゞは、白川院の御時は、非蔵人などいひて、院の六位の殿上したりしかども、うるはしくはなさせ給はで、かうぶり給はりて、兵衛佐になりたりしも、蔵人は、なほかたきことゝきこえはべりき。さてまたかのうさつかひにくだられし、兵衛佐はありかたときこえし人のむこなりしが、心ざしやなかりけん。はなれにしかば、いとくちをしくて、なほ御きそくにて、
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ふたゝびまで、とりよせたりしかども、えすみはてざりしかば、よにうたにさへうたひてありしを、院の御めのとごの、帥のこなれども、ふたゝびまで、とこさりたるあやまりにや。くにのつかさなりしをもとらせ給ひて、ふるさとのせうとに、あまのはしだてもわたりにしは、かの宮内卿へいしの、むこになれりしいとほしみの、のこれるなるべし。そのふるさとに、すみわたる人ときこえしも、よの中によめるうたなど、きこえ侍りき。哥はわすれておぼえ侍らず。