藤田豪之輔校註「大鏡」(昭和4年)
凡例
底本: 『大鏡』藤田豪之輔校註 東京大倉廣文堂 発行(昭和4年)
校定大鏡(萩野由之・松井簡治校訂)を含む11種の本を校合して、本文を立てたものです。

漢字の表記を変え、ひらがなを漢字にした箇所が有ります。
語句を他本により修正した箇所が有ります。
和歌の末尾に Wを付けました。
上・中・下の表記は有りませんが、便宜上、〔大鏡 上〕の様に記しました。
発言者がわかりにくい場合は、《 》に入れて記しました。

奥付
大鏡
昭和四年十二月五日印刷
昭和四年十二月十日発行
昭和六年四月十五日訂正再版
(印紙)
金一円十七銭

校註者 藤田豪之輔
発行者 大倉克次
印刷者 川崎佐一
発行所 大倉廣文堂

大鏡
〔大鏡 上〕
  序
 先つ頃、雲林院の菩提講に詣でて侍りしかば、例の人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁二人、嫗といき会ひて、同じ所に居ぬめり。「あはれに、同じ様なるもののさまかな」と見侍りしに、これらうち笑ひ、見かはして言ふやう、
《世継》『年頃、昔の人に対面して、いかで世の中の見聞くことをも聞こえあはせむ、このただ今の入道殿下の御有様をも申しあはせばやと思ふに、あはれにうれしくも会ひ申したるかな。今ぞ心やすく黄泉路もまかるべき。おぼしきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける。かかればこそ、昔の人は物言はまほしくなれば、穴を掘りては言ひ入れ侍りけめとおぼえ侍り。かへすがへすうれしく対面したるかな。さてもいくつにかなり給ひぬる』と言へば、いま一人の翁、
《繁樹》『いくつといふこと、さらに覚え侍らず。ただし、おのれは、故太政のおとど貞信公、蔵人の少将と申しし折の子舎人童、大犬丸ぞかし。ぬしは、その御時の母后の宮の御方の召使、高名の大宅世継とぞ言ひ侍りしかな。されば、ぬしの御年は、おのれにはこよなくまさり給へらむかし。みづからが小童にてありし時、ぬしは二十五六ばかりの男にてこそはいませしか。』と言ふめれば、世継、
 『しかしか、さ侍りしことなり。さてもぬしの御名はいかにぞや』と言ふめれば、
《繁樹》『太政大臣殿にて元服つかまつりし時、「きむぢが姓はなにぞ」と仰せられしかば、「夏山となむ申す」と申ししを、やがて、繁樹となむつけさせ給へりし』など言ふに、いとあさましうなりぬ。
 たれも、少しよろしき者どもは、見おこせ、居寄りなどしけり。年三十ばかりなる侍めきたる者の、せちに近く寄りて、
《侍》『いで、いと興あること言ふ老者たちかな。さらにこそ信ぜられね』と言へば、翁二人見かはしてあざ笑ふ。繁樹と名のるがかたざまに見やりて、
《侍》『「いくつといふこと覚えず」といふめり。この翁どもは覚え賜ぶや』と問へば、
《世継》『さらにもあらず。一百九十歳にぞ、今年はなり侍りぬる。されば、繁樹は百八十におよびてこそ候ふらめど、やさしく申すなり。おのれは水尾の帝のおり御座します年の、正月の望の日生まれて侍れば、十三代に会ひ奉りて侍るなり。けしうは候はぬ年なりな。まことと人思さじ。されど、父が生学生に使はれたいまつりて、「下臈なれども都ほとり」と言ふことなれば、目を見給へて、産衣に書き置きて侍りける、いまだ侍り。丙申の年に侍り』と言ふも、げにと聞こゆ。
 いま一人に、
《侍》『なほ、わ翁の年こそ聞かまほしけれ。生まれけむ年は知りたりや。それにていとやすく数へてむ。』と言ふめれば、
《繁樹》『これは誠の親にも添ひ侍らず、他人のもとに養はれて、十二三まで侍りしかば、はかばかしくも申さず。ただ、
《養父》「我は子うむわきも知らざりしに、主の御使に市へまかりしに、また、私にも銭十貫を持ちて侍りけるに、
母が抱きて、「この児買はん人がな」とひとりごちしを聞きて、見侍りけるに、色白うてにくげも侍らざりければ、さるべきにや、あはれにおぼえて抱きとり侍りけるに、うち笑みてかきつきて侍りけるに、いとどかなしくて、「など、かくうつくしき児を放たむとは思はるるぞ」と問ひ侍りければ、「まろも子を十人まで・・・・・・」。
 にくげもなき児を抱きたる女の、「これ人に放たむとなむ思ふ。子を十人までうみて、これは四十たりの子にて、いとど五月にさへ生まれてむつかしきなり」と言ひ侍りければ、この持ちたる銭にかへてきにしなり。「姓は何とか言ふ」と問ひ侍りければ、「夏山」とは申しける」。さて、十三にてぞ、おほき大殿には参り侍りし』など言ひて、
《世継》『さても、うれしく対面したるかな。仏の御しるしなめり。年頃、ここかしこの説経とののしれど、なにかはとて参らず侍り。かしこく思ひたちて、参り侍りにけるが、うれしきこと』とて、
《世継》『そこに御座するは、その折の女人にやみでますらむ』
と言ふめれば、繁樹がいらへ、『いで、さも侍らず。それははや失せ侍りにしかば、これは、その後あひ添ひて侍るわらべなり。さて閣下はいかが』と言ふめれば、世継がいらへ、『それは侍りし時のなり。今日もろともに参らむと出でたち侍りつれど、わらはやみをして、あたり日に侍りつれば、口惜しくえ参り侍らずなりぬる』と、あはれに言ひ語らひて泣くめれど、涙落つとも見えず。
 かくて講師待つほどに、我も人もひさしくつれづれなるに、この翁どもの言ふやう、
《世継》『いで、さうざうしきに、いざ給へ。昔物語して、このおの御座さふ人々に、「さは、いにしへは、世はかくこそ侍りけれ」と、聞かせ奉らむ』と言ふめれば、いま、一人、
《繁樹》『しかしか、いと興あることなり。いで覚え給へ。時々、さるべきことのさしいらへ、繁樹もうち覚え侍らむかし』と言ひて、言はむ言はむと思へる気色ども、いつしか聞かまほしく、おくゆかしき心地するに、そこらの人多かりしかど、物はかばかしく耳とどむるもあらめど、人目にあらはれて、この侍ぞ、よく聞かむと、あどうつめりし。世継が言ふやう。
『世はいかに興ある物ぞや。さりとも、翁こそ、少々のことは覚え侍らめ。昔さかしき帝の御政の折は、「国のうちに年老いたる翁・嫗やある」と召し尋ねて、いにしへの掟の有様を問はせ給ひてこそ、奏することを聞こし召しあはせて、世の政は行はせ給ひけれ。されば、老いたるは、いとかしこきものに侍り。若き人たち、なあなづりそ。』とて、黒柿の骨九つあるに、黄なる紙張りたる扇をさしかくして、気色だち笑ふほども、さすがにをかし。
《世継》『まめやかに世継が申さむと思ふにことは、ことごとかは。ただ今の入道殿下の御有様の、世にすぐれて御座しますことを、道俗男女の御前にて申さむと思ふが、いとこと多くなりて、あまたの帝王・后、また大臣・公卿の御上をつづくべきなり。そのなかに、幸ひ人に御座します、この御有様申さむと思ふほどに、世の中のことのかくれなくあらはるべきなり。つてに承れば、法華経一部を説き奉らむとてこそ、まづ余教をば説き給ひけれ。それを名づけて五時教とは言ふにこそはあなれ。しかのごとくに、入道殿の御栄えを申さむと思ふほどに、余教の説かるると言ひつべし』など言ふも、わざわざしく、ことごとしく聞こゆれど、「いでやさりとも、なにばかりのことをか」と思ふに、いみじうこそ言ひつづけ侍りしか。
《世継》『世間の摂政・関白と申し、大臣・公卿と聞こゆる、古今の、皆、この入道殿の御有様のやうにこそは御座しますらめとぞ、今様の児どもは思ふらむかし。されども、それさもあらぬことなり。言ひもていけば、同じ種一つ筋にぞ御座しあれど、門別れぬれば、人々の御心用ゐも、また、それにしたがひてことごとになりぬ。この世始まりて後、帝はまづ神の世七代をおき奉りて、神武天皇を始め奉りて、当代まで六十八代にぞならせ給ひにける。すべからくは、神武天皇を始め奉りて、次々の帝の御次第を覚え申すべきなり。しかりと言へども、それはいと聞き耳遠ければ、ただ近きほどより申さむと思ふに侍り。文徳天皇と申す帝御座しましき。その帝よりこなた、今の帝まで十四代にぞならせ給ひにける。世をかぞへ侍れば、その帝、位につかせ給ふ嘉祥三年庚午の年より、今年までは一百七十六年ばかりにやなりぬらむ。かけまくもかしこき君の御名を申すは、かたじけなく候へども』とて、言ひつづけ侍りし。
一 五十五代  文徳天皇  道康
《世継》『文徳天皇と申しける帝は、仁明天皇の御第一の皇子なり。御母、太皇太后宮藤原順子と申しき。その后、左大臣贈正一位太政大臣冬嗣のおとどの御女なり。この帝、天長四年丁末八月に生まれ給ひて、御心あきらかに、よく人をしろしめせり。承和九年壬戌二月二十六日に御元服。同八月四日、東宮にたち給ふ。御年十六。
仁明天皇もと御座する東宮をとりて、この帝を、承和九年八月四日、東宮にたて奉らせ給ひしなり。いかにやすからず思しけむとこそおぼえ侍れ。
嘉祥三年庚午三月二十一日、位につき給ふ。御年二十四。さて世を保たせ給ふこと八年。
 御母后の御年十九にてぞ、この帝をうみ奉り給ふ。嘉祥三年四月に后にたたせ給ふ。御年四十二。斎衡元年甲戌の年、皇太后宮にあがりゐ給ふ。貞観三年辛巳二月二十九日癸酉、御出家して、潅頂などせさせ給へり。同じき六年丙申正月七日、太皇太后宮にあがりゐ給ふ。これを五条の后と申す。伊勢物語に、業平中将の、「よひよひごとにうちも寝ななむ」とよみ給ひけるは、この宮の御ことなり。「春や昔の」なども。
同じことのやうに候ふめる。いかなることにか、二条の后に通ひまされける間のことどもとぞ、承りしを。「春や昔の」なども。五条の后の御家と侍るは、わかぬ御仲にて、その宮に養はれ給へれば、同じ所に御座しけるにや。
一 五十六代  清和天皇  惟仁
 次の帝、清和天皇と申しけり。文徳天皇の第四の皇子なり。御母、皇太后宮明子と申しき。太政大臣良房のおとどの御女なり。この帝、嘉祥三年庚午三月二十五日に、母方の御祖父、おほきおとどの小一条の家にて、父帝の位につかせ給へる、五日といふ日、生まれ給へりけむこそ、いかに折さへはなやかにめでたかりけむとおぼえ侍れ。この帝は、御心いつくしく、御かたちめでたくぞ御座しましける。惟喬の親王の東宮あらそひし給ひけむも、この御こととこそおぼゆれ。やがて生まれ給ふ年の十一月二十五日戊戌、東宮にたち給ひて、天安二年戊寅八月二十七日、御年九つにて位につかせ給ふ。貞観六年正月一日戊子、御元服、御年十五なり。世を保たせ給ふこと十八年。同じ十八年十一月二十九日、染殿院にておりさせ給ふ。元慶三年五月八日、御出家。水尾の帝と申す。この御末ぞかし、今の世に源氏の武者の族は。それもおほやけの御かためとこそはなるめれ。
 御母、二十三にて、この帝をうみ奉り給へり。貞観六年正月七日、皇后宮にあがりゐ給ふ。后の位にて四十一年御座します。染殿の后と申す。その御時の護持僧は智証大師に御座す。
さばかりの仏の護持僧にて御座しけむに、この后の御物の怪のこはかりけるに、など、えやめ奉り給はざりけむ。前の世のことにて御座しましけるにやとこそおぼえ侍れ。
 天安二年戊寅にぞ唐より帰り給ふ。
一 五十七代  陽成院  貞明
 次の帝、陽成天皇と申しき。これ、清和天皇の第一の皇子なり。御母、皇太后宮高子と申しき。権中納言贈正一位太政大臣長良の御女なり。この帝、貞観十年戊子十二月十六日、染殿院にて生まれ給へり。同じき十一月二月一日己丑、御年二つにて東宮にたたせ給ひて、同じき十八年丙申十一月二十九日、位につかせ給ふ。御年九歳。元慶六年壬寅正月二日乙巳〈 坎日也 〉、御元服。御年十五。世をしらせ給ふこと八年。位おりさせ給ひて、二条院にぞ御座しましける。さて六十五年なれば、八十一にてかくれさせ給ふ。御法事の願文には、「釈迦如来の一年の兄」とは作られたるなり。智恵深く思ひよりけむほど、いと興あれど、仏の御年よりは御年高しといふ心の、後世の責めとなむなれるとこそ、人の夢に見えけれ。
 御母后、清和の帝よりは九年の御姉なり。二十七と申しし年、陽成院をばうみ奉り給ふなり。元慶元年正月に后にたたせ給ふ、中宮と申す。御年三十六。同じき六年正月七日、皇太后宮にあがり給ふ。御年四十一。この后の宮の、宮仕ひしそめ給ひけむやうこそおぼつかなけれ。いまだ世ごもりて御座しける時、在中将しのびて率てかくし奉りたりけるを、御せうとの君達、基経の大臣・国経の大納言などの、若く御座しけむほどのことなりけむかし、取り返しに御座したりける折、「つまもこもれりわれもこもれり」とよみ給ひたるは、この御ことなれば、末の世に、「神代のことも」とは申し出で給ひけるぞかし。されば、世の常の御かしづきにては御覧じそめられ給はずや御座しましけむとぞ、おぼえ侍る。もし、離れぬ御仲にて、染殿宮に参り通ひなどし給ひけむほどのことにやとぞ、推しはかられ侍る。およばぬ身に、斯様のことをさへ申すは、いとかたじけなきことなれど、これは皆人の知ろしめしたることなれば。いかなる人かは、この頃、古今・伊勢物語など覚えさせ給はぬはあらむずる。「見もせぬ人の恋しきは」など申すことも、この御なからひのほどとこそは承れ。末の世まで書き置き給ひけむ、おそろしき好き者なりかしな。いかに、昔は、なかなかに気色あることも、をかしきこともありける物』とて、うち笑ふ。気色ことになりて、いとやさしげなり。
《世継》『二条の后と申すは、この御ことなり。
一 五十八代  光孝天皇  時康
 次の帝、光孝天皇と申しき。仁明天皇の第三の皇子なり。御母、贈皇太后宮藤原沢子、贈太政大臣総継の御女なり。この帝、淳和天皇の御時の天長七年庚戌、東五条家にて生まれ給ふ。御親の深草の帝の御時の承和十三年丙辰正月七日、四品し給ふ。御年十七。嘉祥三年正月、中務卿になり給ふ。御年二十一。仁寿元年十一月二十一日、三品にのぼり給ふ。御年二十二。貞観六年正月十六日、上野大守かけさせ給ふ。御年三十五。同じ八年正月十三日、大宰権師にうつりならせ給ふ。同じ十二年二月七日、二品にのぼらせ給ふ。御年四十一。同じ十八年十二月二十六日、式部卿にならせ給ふ。御年四十七。元慶六年正月七日、一品にのぼらせ給ふ。御年五十三。同じ八年正月十三日に大宰師かけ給ひて、二月四日、位につき給ふ。御年五十五。世をしらせ給ふこと四年。小松の帝と申す。この御時に、藤壷の上の御局の黒戸は開きたると聞き侍るは、誠にや。
一 五十九代  宇多天皇  定省
 次の帝、亭子の帝と申しき。これ、小松の天皇の御第三の皇子。御母、皇太后宮班子女王と申しき。二品式部卿贈一品太政大臣仲野の親王の御女なり。この帝、貞観九年丁亥五月五日、生まれさせ給ふ。元慶八年四月十三日、源氏になり給ふ。御年十八。
王侍従など聞こえて、殿上人にて御座しましける時、殿上の御椅子の前にて、業平の中将と相撲とらせ給ひけるほどに、御椅子にうちかけられて高欄折れにけり。その折目今に侍るなり。
仁和三年丁末八月二十六日に春宮にたたせ給ひて、やがて同じ日に位につかせ給ふ。御年二十一。世をしらせ給ふこと十年。寛平元年己酉十一月二十一日己酉の日、賀茂の臨時祭始まること、この御時よりなり。使には右近中将時平なり。昌泰元年戊午四月十日、御出家せさせ給ふ。
この帝、いまだ位につかせ給はざりける時、十一月二十余日のほどに、賀茂の御社の辺に、鷹つかひ、遊びありきけるに、賀茂の明神託宣し給ひけるやう、「この辺に侍る翁どもなり。春は祭多く侍り。冬のいみじくつれづれなるに、祭賜はらむ」と申し給へば、その時に賀茂の明神の仰せらるるとおぼえさせ給ひて、「おのれは力および候はず。おほやけに申させ給ふべきことにこそ候ふなれ」と申させ給へば、「力およばせ給ひぬべきなればこそ申せ。いたく軽々なるふるまひなさせ給ひそ。さ申すやうあり。近くなり侍り」とて、かい消つやうに失せ給ひぬ。いかなることにかと心得ず思し召すほどに、かく位につかせ給へりければ、臨時の祭せさせ給へるぞかし。賀茂の明神の託宣して、「祭せさせ給へ」と申させ給ふ日、酉の日にて侍りければ、やがて霜月のはての酉の日、臨時の祭は侍るぞかし。東遊の歌は、敏之の朝臣のよみけるぞかし。
 ちはやぶる賀茂の社の姫小松よろづ代経とも色は変はらじ W
 これは古今に入りて侍り。人皆知らせ給へることなれども、いみじくよみ給へるぬしかな。今に絶えずひろごらせ給へる御末、帝と申すともいとかくやは御座します。
位につかせ給ひて二年といふに始まれり。使、右近中将時平の朝臣こそはし給ひけれ。
寛平九年七月五日、おりさせ給ふ。昌泰二年己末十月十四日、出家せさせ給ふ。御名、金剛覚と申しき。承平元年七月十九日、失せさせ給ひぬ。御年六十五。
肥前掾橘良利、殿上に候ひける、入道して、修行の御供にも、これのみぞつかうまつりける。されば、熊野にても、日根といふ所にて、「たびねの夢に見えつるは」ともよむぞかし。人々の涙落とすも、ことわりにあはれなることよな。
 この帝の、ただ人になり給ふほどなどおぼつかなし。よくも覚え侍らず。御母、洞院の后と申す。この帝の、源氏にならせ給ふこと、よく知らぬにや、「王侍従」とこそ申しけれ。陽成院の御時、殿上人にて、神社行幸には舞人などせさせ給ひたり。位につかせ給ひて後、陽成院を通りて行幸ありけるに、「当代は家人にはあらずや」とぞ仰せられける。さばかりの家人持たせ給へる帝も、ありがたきことぞかし。
一 六十代  醍醐天皇  敦仁
 次の帝、醍醐天皇と申しき。これ、亭子太上法皇の第一の皇子に御座します。御母、皇太后宮胤子と申しき。内大臣藤原高藤のおとどの御女なり。この帝、仁和元年乙巳正月十八日に生まれ給ふ。寛平五年四月十四日、東宮にたたせ給ふ。御年九歳。同七年正月十九日、十一歳にて御元服。また同じ九年丁巳七月三日、位につかせ給ふ。御年十三。やがて今宵、夜の御殿より、にはかに御かぶり奉りて、さし出で御座しましたりける。「御手づからわざ」と人の申すは、誠にや。さて、世を保たせ給ふこと三十三年。この御時ぞかし、村上か朱雀院かの生まれ御座しましたる御五十日の餅、殿上に出ださせ給へるに、伊衡中将の和歌つかうまつり給へるは」とて、覚ゆめる。
《世継》『ひととせに今宵かぞふる今よりはももとせまでの月影を見む W
とよむぞかし。御返し、帝のし御座しましけむかたじけなさよ。
 いはひつる言霊ならばももとせの後もつきせぬ月をこそ見め W
御集など見給ふるこそ、いとなまめかしう、かくやうの方さへ御座しましける。
一 六十一代  朱雀院  寛明
 次の帝、朱雀院天皇と申しき。これ、醍醐の帝第十一の皇子なり。御母、皇太后宮穏子と申しき。太政大臣基経のおとどの第四の女なり。この帝、延長元年癸未七月二十四日、生まれさせ給ふ。同じ三年十月二十一日、東宮にたたせ給ふ。御年三歳。同じ八年庚寅九月二十二日、位につかせ給ふ。御年八歳。承平七年正月四日、御元服。御年十五。世を保たせ給ふこと十六年なり。
八幡の臨時の祭は、この御時よりあるぞかし。この帝生まれさせ給ひては、御格子も参らず、夜昼灯をともして御帳の内にて三まで生し奉らせ給ひき。北野に怖ぢ申させ給ひてかくありしぞかし。この帝生まれ御座しまさずは、藤氏の栄えいとかうしも御座しまさざらまし。いみじき折節生まれさせ給へりしぞかし。位につかせ給ひて、将門が乱れ出できて、御願にてぞと聞こえ侍りし、この臨時の祭は。その東遊の歌、貫之のぬしの詠みたりし。
 松も生ひまたも影さす石清水行末遠く仕へまつらむ W
一 六十二代  村上天皇  成明
 次の帝、村上天皇と申す。これ、醍醐の帝の第十四の皇子なり。御母、朱雀院の同じ御腹に御座します。この帝、延長四年丙戌六月二日、桂芳坊にて生まれさせ給ふ。天慶三年二月十五日辛亥、御元服。御年十五。同じ七年甲辰四月二十二日、春宮にたたせ給ふ。御年十九。同じ九年丙午四月十三日、位につかせ給ふ。御年二十一。世をしらせ給ふこと二十一年。
 御母后、延喜三年癸亥、前坊をうみ奉らせ給ふ。御年十九。同じ二十年庚辰女御の宣旨下り給ふ。御年三十六。同じ二十三年癸末、朱雀院生まれさせ給ふ。閏四月二十五日、后の宣旨かぶらせ給ふ。御年三十九。やがて、帝うみ奉り給ふ同じ月に、后にもたたせ給ひけるにや。四十二にて、村上は生まれさせ給へり。
后にたち給ふ日は、先坊の御ことを、宮のうちにゆゆしがりて申し出づる人もなかりけるに、かの御乳母子に大輔の君と言ひける女房の、かくよみて出だしける、
 わびぬれば今はとものを思へども心に似ぬは涙なりけり W
また、御法事はてて、人々まかり出づる日も、かくこそよまれたりけれ。
 今はとてみ山を出づる郭公いづれの里に鳴かむとすらむ W
五月のことに侍りけり。げにいかにとおぼゆるふしぶし、末の世まで伝ふるばかりのこと言ひおく人、優に侍りかしな。
前の東宮におくれ奉りて、かぎりなく嘆かせ給ふ同じ年、朱雀院生まれ給ひ、我、后にたたせ給ひけむこそ、さまざま、御嘆き御よろこび、かきまぜたる心地つかうまつれ。世の、大后とこれを申す。
一 六十三代  冷泉院  憲平
 次の帝、冷泉院天皇と申しき。これ、村上天皇の第二の皇子なり。御母、皇后宮安子と申す。右大臣師輔のおとどの第一の御女なり。この帝、天暦四年庚戌五月二十四日、在衡のおとどのいまだ従五位下にて、備前介と聞こえける折の五条の家にて、生まれさせ給へり。同じ年の七月二十三日、東宮にたたせ給ふ。応和三年二月二十八日、御元服。御年十四。康保四年五月二十五日、御年十八にて位につかせ給ふ。世を保たせ給ふこと二年。寛弘八年十月二十四日、御年六十二にて失せさせ御座しましけるを、三条院位につかせ給ふ年にて、大嘗会などの延びけるをぞ、「折節」と、世の人申しける。
一 六十四代  円融院  守平
 次の帝、円融院天皇と申しき。これ村上の帝の第五の皇子なり。御母、冷泉院の同じ腹に御座します。この帝、天徳三年己未三月二日、生まれさせ給ふ。この帝の東宮にたたせ給ふほどは、いと聞きにくく、いみじきことどもこそ侍れな。これは皆人の知ろしめしたることなれば、ことも長し、とどめ侍りなむ。安和二年己巳八月十三日にこそは位につかせ給ひけれ。御年十一にて。さて天禄三年正月三日、御元服、御年十四。世を保たせ給ふこと十五年。
 母后の、御年二十三四にて、うちつづき、この帝、冷泉院とうみ奉り給へる、いとやむごとなき御宿世なり。御母方の祖父は出雲守従五位下藤原経邦と言ひし人なり。末の世には、奏せさせ給ひてこそは、贈三位し給ふとこそは承りしか。いませぬ後なれど、この世の光はいと面目ありかし。中后と申す。この御ことなり。女十の宮うみ奉り給ふたび、かくれさせ給へりし御嘆きこそ、いとかなしく承りしか。村上の御日記御覧じたる人も御座しますらむ。ほのぼの伝へ承るにも、およばぬ心にも、いとあはれにかたじけなく候ふな。そのとどまり御座します女宮こそは、大斎院よ。
一 六十五代  花山院  師貞
 次の帝、花山院天皇と申しき。冷泉院の第一の皇子なり。御母、贈皇后宮懐子と申す。太政大臣伊尹のおとどの第一の御女なり。この帝、安和元年戊辰十月二十六日丙子、母方の御祖父の一条の家にて生まれさせ給ふとあるは、世尊寺のことにや。その日は、冷泉院の御時の大嘗会の御禊あり。同じ二年八月十三日、春宮にたち給ふ。御年二歳。天元五年二月十九日、御元服。御年十五。永観二年八月二十八日、位につかせ給ふ。御年十七。寛和二年丙戌六月二十二日の夜、あさましく候ひしことは、人にも知らせ給はで、みそかに花山寺に御座しまして、御出家入道せさせ給へりしこそ。御年十九。世を保たせ給ふこと二年。その後二十二年御座しましき。
 あはれなることは、おり御座しましける夜は、藤壷の上の御局の子戸より出でさせ給ひけるに、有明の月のいみじく明かかりければ、「顕証にこそありけれ。いかがすべからむ」と仰せられけるを、「さりとて、とまらせ給ふべきやう侍らず。神璽・宝剣わたり給ひぬるには」と、粟田殿のさわがし申し給ひけるは、まだ、帝出でさせ御座しまさざりけるさきに、手づからとりて、春宮の御方にわたし奉り給ひてければ、かへり入らせ給はむことはあるまじく思して、しか申させ給ひけるとぞ。さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月のかほにむら雲のかかりて、すこしくらがりゆきければ、「わが出家は成就するなりけり」と仰せられて、歩み出でさせ給ふほどに、弘徽殿の女御の御文の、日頃破り残して御身を放たず御覧じけるを思し召し出でて、「しばし」とて、取りに入り御座しましけるほどぞかし、粟田殿の、「いかにかくは思し召しならせ御座しましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうできなむ」と、そら泣きし給ひけるは。
 さて、土御門より東ざまに率て出だし参らせ給ふに、晴明が家の前をわたらせ給へば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝王おりさせ給ふと見ゆるは。
天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。参りて奏せむ。車に装束とうせよ」といふ声聞かせ給ひけむ、さりともあはれには思し召しけむかし。「且、式神一人内裏に参れ」と申しければ、目には見えぬ物の、戸をおしあけて、御後をや見参らせけむ、「ただ今、これより過ぎさせ御座しますめり」といらへけりとかや。その家、土御門町口なれば、御道なりけり。
 花山寺に御座しまし着きて、御髪おろさせ給ひて後にぞ、粟田殿は、「まかり出でて、おとどにも、かはらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、かならず参り侍らむ」と申し給ひければ、「朕をば謀るなりけり」とてこそ泣かせ給ひけれ。あはれにかなしきことなりな。日頃、よく、「御弟子にて候はむ」と契りて、すかし申し給ひけむがおそろしさよ。東三条殿は、「もしさることやし給ふ」とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどはかくれて、堤の辺よりぞうち出で参りける。寺などにては、「もし、おして人などやなし奉る」とて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞまもり申しける。
一 六十六代  一条院  懐仁
 次の帝、一条院天皇と申しき。これ、円融院の第一の皇子なり。御母皇后詮子と申しき。これ、太政大臣兼家のおとどの第二の御女なり。この帝、天元三年庚辰六月一日、兼家のおとどの東三条の家にて生まれさせ給ふ。東宮にたち給ふこと、永観二年八月二十八日なり。御年五歳。寛和二年六月二十三日、位につかせ給ふ。御年七歳。永祚二年庚寅正月五日、御元服。御年十一。世を保たせ給ふこと二十五年。御母は、十九にて、この帝をうみ奉り給ふ。東三条の女院とこれを申す。この御母は、摂津守藤原中正の女なり。
一 六十七代  三条院  居貞
 次の帝、三条院と申す。これ、冷泉院の第二の皇子なり。御母、贈皇后宮超子と申しき。太政大臣兼家のおとどの第一の御女なり。この帝、貞元元年丙子正月三日、生まれさせ給ふ。寛和二年七月十六日、東宮にたたせ給ふ。同じ日、御元服。御年十一。寛弘八年六月十三日、位につかせ給ふ。御年三十六。世を保たせ給ふこと五年。
 院にならせ給ひて、御目を御覧ぜざりしこそ、いといみじかりしか。こと人の見奉るには、いささか変はらせ給ふこと御座しまさざりければ、そらごとのやうにぞ御座しましける。御まなこなども、いと清らかに御座しましける。いかなる折にか、時々は御覧ずる時もありけり。「御廉の編諸の見ゆる」なども仰せられて。一品宮ののぼらせ給ひけるに、弁の乳母の御供に候ふが、さし櫛を左にさされたりければ、「あゆよ、など櫛はあしくさしたるぞ」とこそ仰せられけれ。この宮をことのほかにかなしうし奉らせ給うて、御髪のいとをかしげに御座しますを、さぐり申させ給うて、「かくうつくしう御座する御髪を、え見ぬこそ、心憂く口惜しけれ」とて、ほろほろと泣かせ給ひけるこそ、あはれに侍れ。わたらせ給ひたる度には、さるべきものを、かならず奉らせ給ふ。三条院の御券を持て帰りわたらせ給うけるを、入道殿、御覧じて、「かしこく御座しける宮かな。幼き御心に、古反古と思してうち捨てさせ給はで、持てわたらせ給へるよ」と興じ申させ給ひければ、「まさなくも申させ給ふかな」とて、御乳母たちは笑ひ申させ給ける。冷泉院も奉らせ給ひけれど、「昔より帝王の御領にてのみ候ふ所の、いまさらに私の領になり侍らむは、便なきことなり。おほやけものにて候ふべきなり」とて、返し申させ給ひてけり。されば、代々のわたりものにて、朱雀院の同じことに侍るべきにこそ。
 この御目のためには、よろづにつくろひ御座しましけれど、その験あることもなき、いといみじきことなり。もとより御風重く御座しますに、医師どもの、「大小寒の水を御頭に沃させ給へ」と申しければ、凍りふたがりたる水を多くかけさせ給けるに、いといみじくふるひわななかせ給て、御色もたがひ御座しましたりけるなむ、いとあはれにかなしく人々見参らせけるとぞ承りし。御病により、金液丹といふ薬を召したりけるを、「その薬くひたる人は、かく目をなむ病む」など人は申ししかど、桓算供奉の御物の怪にあらはれて申しけるは、「御首に乗りゐて、左右の羽をうちおほひ申したるに、うちはぶき動かす折に、すこし御覧ずるなり」とこそいひ侍りけれ。御位去らせ給しことも、多くは中堂にのぼらせ給はむとなり。さりしかど、のぼらせ給ひて、さらにその験御座しまさざりしこそ、口惜しかりしか。やがておこたり御座しまさずとも、すこしの験はあるべかりしことよ。されば、いとど山の天狗のし奉るとこそ、さまざまに聞こえ侍れ。太奏にも蘢らせ給へりき。さて仏の御前より東の廂に、組入はせられたるなり。
 御鳥帽子せさせ給ひけるは、大入道殿にこそ似奉り給へりけれ。御心ばへいとなつかしう、おいらかに御座しまして、世の人いみじう恋ひ申すめり。「斎宮下らせ給ふ別れの御櫛ささせ給ては、かたみに見返らせ給はぬことを、思ひかけぬに、この院はむかせ給へりしに、あやしとは見奉りし物を」とこそ、入道殿は仰せらるなれ。
一 六十八代   後一条院  敦成
 次の帝、当代。一条院の第二の皇子なり。御母、今の入道殿下の第一の御女なり。皇太后宮彰子と申す。ただ今、たれかはおぼつかなく思し思ふ人の侍らむ。されどまづすべらぎの御ことを申すさまにたがへ侍らぬなり。寛弘五年戊申九月十一日、土御門殿にて生まれさせ給ふ。同じ八年六月十三日、春宮にたたせ給ひき。御年四歳。長和五年正月二十九日、位につかせ給ひき。御年九歳。寛仁二年正月三日、御元服。御年十一。位につかせ給て十年にやならせ給ふらむ。今年、万寿二年乙丑とこそは申すめれ。同じ帝王と申せども、御後見多く頼もしく御座します。御祖父にてただ今の入道殿下、出家せさせ給へれど、世の親、一切衆生を子のごとくはぐくみ思し召す。第一の御舅、ただ今の関白左大臣、一天下をまつりごちて御座します。次の御舅、内大臣・左大将にて御座します。次々の御舅と申すは、大納言春宮の大夫、中宮権大夫、中納言など、さまざまにて御座します。斯様に御座しませば、御後見多く御座します。昔も今も、帝かしこしと申せど、臣下のあまたして傾け奉る時は、傾き給ふ物なり。されば、ただ一天下はわが御後見のかぎりにて御座しませば、いと頼もしくめでたきことなり。昔、一条院の御悩の折、仰せられけるは、「一の親王をなむ春宮とすべけれども、後見申すべき人のなきにより、思ひかけず。されば二宮をばたて奉るなり」と仰せられけるぞ、この当代の御ことよ。げにさることぞかし』
《世継》『帝王の御次第は申さでもありぬべけれど、入道殿下の御栄花もなにによりひらけ給ふぞと思へば、まづ帝・后の御有様を申すなり。植木は根をおほくて、つくろひおほしたてつればこそ、枝も茂りて木の実をもむすべや。しかれば、まづ帝王の御つづきを覚えて、次に大臣のつづきはあかさむとなり』と言へば、大犬丸をとこ、『いでいで、いといみじうめでたしや。ここらのすべらぎの御有様をだに鏡をかけ給へるに、まして大臣などの御ことは、年頃闇に向ひたるに、朝日のうららかにさし出でたるにあへらむ心地もするかな。また、翁が家の女どものもとなる櫛笥鏡の、影見えがたく、とぐわきも知らず、うち挟めて置きたるにならひて、あかく磨ける鏡に向ひて、わが身の顔を見るに、かつは影はづかしく、また、いとめづらしきにも似給へりや。いで興ありのわざや。さらに翁、いま十二十年の命は、今日延びぬる心地し侍り』と、いたく遊戯するを、見聞く人々、をこがましくをかしけれども、言ひつづくることどもおろかならず、おそろしければ、物も言はで、皆聞きゐたり。
 大犬丸をとこ、『いで、聞き給ふや。歌一首つくりて侍り』と言ふめれば、世継、
『いと感あることなり』とて、
 世継『承らむ』と言へば、繁樹、いとやさしげにいひ出づ。
『あきらけに鏡にあへば過ぎにしも今ゆく末のことも見えけり W』と言ふめれば、世継いたく感じて、あまた度誦して、うめきて、返し、
『すべらぎのあともつぎつぎかくれなくあらたに見ゆる古鏡かも W
 今様の葵八花がたの鏡、螺鈿の筥に入れたるに向ひたる心地し給ふや。いでや、それは、さきらめけど、曇りやすくぞあるや。いかにいにしへの古体の鏡は、かね白くて、人手ふれねど、かくぞあかき』など、したり顔に笑ふ顔つき、絵にかかまほしく見ゆ。あやしながら、さすがなる気つきて、をかしく、誠にめづらかになむ。
《世継》『よしなきことよりは、まめやかなることを申しはてむ。よくよく、たれもたれも聞こし召せ。今日の講師の説法は、菩提のためと思し、翁らが説くことをば、日本紀聞くと思すばかりぞかし』と言へば、僧俗、
 『げに説経・説法多く承れど、かく珍しきこと宣ふ人は、さらに御座せぬなり』とて、年老いたる尼・法師ども、額に手をあてて、信をなしつつ聞きゐたり。
《世継》『世継はいとおそろしき翁に侍り。真実の心御座せむ人は、などか恥づかしと思さざらむ。世の中を見知り、うかべたてて持ちて侍る翁なり。目にも見、耳にも聞き集めて侍るよろづのことの中に、ただ今の入道殿下の御有様、古を聞き今を見侍るに、二もなく三もなく、ならびなく、はかりなく御座します。たとへば一乗の法のごとし。御有様のかへすがへすもめでたきなり。世の中の太政大臣・摂政・関白と申せど、始終めでたきことは、え御座しまさぬことなり。法文・聖教の中にもたとへるなるは、「魚の子多かれど、誠の魚となることかたし。菴羅といふ植木あれど、木の実を結ぶことかたし」とこそは説き給へなれ。天下の大臣・公卿の御中に、この宝の君のみこそ、世にめづらかに御座すめれ。今ゆく末も、たれの人かかばかりは御座せむ。いとありがたくこそ侍れや。たれも心をとなへて聞こし召せ。世にあることをば、なにごとをか見残し聞き残し侍らむ。この世継が申すことどもはしも、知り給はぬ人々多く御座すらむとなむ思ひ侍る』と言ふめれば、
 人々『すべてすべて申すべきにも侍らず』とて聞きあへり。
《世継》『世始まりて後、大臣皆御座しけり。されど、左大臣・右大臣・内大臣・太政大臣と申す位、天下になりあつまり給へる、かぞへて皆覚え侍り。世始まりて後今にいたるまで、左大臣三十人、右大臣五十七人、内大臣十二人なり。太政大臣はいにしへの帝の御代に、たはやすくおかせ給はざりけり。あるいは帝の御祖父、あるいは御舅ぞなり給ひける。また、しかのごとく、帝王の御祖父・舅などにて、御後見し給ふ大臣・納言数多く御座す。失せ給ひて後、贈太政大臣などになり給へるたぐひ、あまた御座すめり。さやうのたぐひ七人ばかりや御座すらむ。わざとの太政大臣はなりがたく、少なくぞ御座する。神武天皇より三十七代にあたり給ふ孝得天皇と申す帝の御代にや、八省・百官・左右大臣・内大臣なり始め給へらむ。左大臣には阿倍倉橋麿、右大臣には蘇我山田石川麿、これは、元明天皇の御祖父なり。石川麿の大臣、孝徳天皇位につき給ての元年乙巳、大臣になり、五年己酉、東宮のために殺され給へりとこそは、これはあまりあがりたることなり。内大臣には中臣鎌子の連なり。年号いまだあらざれば、月日申しにくし。また、三十九代にあたり給ふ帝、天智天皇こそは、始めて太政大臣をばなし給けれ。それは、やがてわが御弟の皇子に御座します大友皇子なり。正月に太政大臣になり。同じ年十二月二十五日に位につかせ給ふ。天武天皇と申しき。世をしらせ給ふこと十五年。神武天皇より四十一代にあたり給ふ持統天皇、また、太政大臣に高市皇子をなし給ふ。天武天皇の皇子なり。この二人の太政大臣はやがて帝となり給ふ、高市皇子は大臣ながら失せ給ひにき。その後、太政大臣いとひさしく絶え給へり。ただし、職員令に、「太政大臣にはおぼろけの人はなすべからず。その人なくば、ただにおかるべし」とこそあんなれ。おぼろけの位には侍らぬにや。四十二代にあたり給ふ文武天皇の御時に、年号定りたり。大宝元年といふ。文徳天皇の末の年、斎衡四年丁丑二月十九日、帝の御舅、左大臣従一位藤原良房のおとど、太政大臣になり給ふ。御年五十四。このおとどこそは、始めて摂政もし給へれ。やがてこの殿よりして、今の閑院の大臣まで、太政大臣十一人つづき給へり。ただし、これよりさきの大友皇子・高市皇子くはへて、十三人の太政大臣なり。太政大臣になり給ひぬる人は、失せ給ひて後、かならず諡号と申す物あり。しかれども、大友皇子やがて帝になり給ふ。高市の皇子の御諡号おぼつかなし。また、太政大臣といへど、出家しつれば、諡号なし。されば、この十一人つづかせ給へる太政大臣、二所は出家し給へれば、諡号御座せず。この十一人の太政大臣たちの御次第・有様。始終申し侍らむと思ふなり。流れを汲みて、源を尋ねてこそは、よく侍るべきを、大織冠より始め奉りて申すべけれど、それはあまりあがりて、この聞かせ給はむ人々も、あなづりごとには侍れど、なにごととも思さざらむ物から、こと多くて講師御座しなば、こと醒め侍りなば、口惜し。されば、帝王の御ことも、文徳の御時より申して侍れば、その帝の御祖父の鎌足のおとどより第六にあたり給ふ、世の人は、ふぢさしとこそ申すめれ、その冬嗣の大臣より申し侍らむ。その中に、思ふに、ただ今の入道殿、世にすぐれさせ給へり。
左大臣冬嗣
 このおとどは、内麿のおとどの三郎。御母、正六位上飛鳥部奈止麿の女なり。公卿にて十六年、大臣の位にて六年。田邑の御祖父に御座します。かるがゆゑに、嘉祥三年庚午七月十七日、贈太政大臣になり給へり。閑院の大臣と申す。このおとどは、おほかた男子十一人御座したるなり。されど、くだくだしき女子たちなどのことは、くはしく知り侍らず。ただし、田邑の帝の御母后・贈太政大臣長良・太政大臣良房のおとど・右大臣良相のおとどは、一つ御腹なり。
太政大臣良房   忠仁公
 このおとどは、左大臣冬嗣の二郎なり。天安元年二月十九日、太政大臣になり給ふ。同年四月十九日、従一位、御年五十四。水尾の帝は御孫に御座しませば、即位の年、摂政の詔あり、年官・年爵賜はり給ふ。貞観八年に関白にうつり給ふ。年六十三。失せ給ひて後、御諡号忠仁公と申す。また、白川の大臣・染殿の大臣とも申し伝へたり。ただし、このおとどは、文徳天皇の御舅、太皇太后宮明子の御父、清和天皇の祖父にて、太政大臣・准三宮の位にのぼらせ給ふ。年官・年爵の宣旨下り、摂政・関白などし給ひて、十五年こそは御座しましたれ。おほかた公卿にて三十年、大臣の位にて二十五年ぞ御座する。この殿ぞ、藤氏の始めて太政大臣・摂政し給ふ。めでたき御有様なり。
 和歌もあそばしけるにこそ。古今にも、あまた侍るめるは。「前のおほいまうち君」とは、この御ことなり。多かる中にも、いかに御心ゆき、めでたくおぼえてあそばしけむと推しはからるるを、御女の染殿の后へるにこそ。
 年経ればよはひは老いぬしかはあれど花をし見れば物思ひもなし W
后を、花にたとへ申させ給へるにこそ。
 かくれ給ひて、白川にをさめ奉る日、素性ぎみのよみ給へりしは、
 血の涙落ちてぞたぎつ白川は君が世までの名にこそありけれ W
皆人知ろしめしたらめど、物を申しはやりぬれば、さぞ侍る。かくいみじき幸ひ人の、子の御座しまさぬこそ口惜しけれ。御兄の長良の中納言、ことのほかに越えられ給ひけむ折、いかばかり辛う思され、また世の人もことのほかに申しけめども、その御末こそ、今に栄え御座しますめれ。ゆく末は、ことのほかにまさり給ひける物を。
一 右大臣良相
 このおとどは、冬嗣のおとどの五郎。御母は、白川の大臣に同じ。大臣の位にて十一年、贈正一位。西三条の大臣と申す。浄蔵定額を御祈の師にて御座す。千手陀羅尼の験徳かぶり給ふ人なり。この大臣の御女子の御ことよく知らず。一人ぞ、水尾の御時の女御。男子は、大納言常行卿と聞こえし。御子二人御座せしも、五位にて典薬助・主殿頭など言ひて、いとあさくてやみ給ひにき。かくばかり末栄え給ひける中納言殿を、やへやへの御弟にて、越え奉り給ひける御あやまちにや、とこそおぼえ侍れ。
一 権中納言従二位左兵衛督長良
 この中納言は、冬嗣のおとどの太郎。母、白川大臣・西三条大臣に同じ。公卿にて十三年。陽成院の御時に、御祖父に御座するがゆゑに、元慶元年正月に贈左大臣正一位、次に、贈太政大臣。枇杷の大臣と申す。この殿の御男子六人御座せし、その中に基経のおとどすぐれ給へり。
一 太政大臣基経  昭宣公
 この大臣は、長良の中納言の三郎に御座す。このおとどの御女、醍醐の御時の后、朱雀院并に御座します。このおとどの御母、贈太政大臣総継の女、贈正一位大夫人乙春なり。陽成院位につかせ給ひて、摂政の宣旨かぶり給ふ。御年四十一。寛平の御時、仁和三年十一月二十一日、関白にならせ給ふ。御年五十六にて失せ給ひて、御諡号、昭宣公と申す。公卿にて二十七年、大臣の位にて二十年、世をしらせ給ふこと十余年かとぞ覚え侍る。世の人、堀河の大臣と申す。
 小松の帝の御母、この大臣の御母、はらからに御座します。さて、児より小松の帝をば親しく見奉らせ給ひけるに、
ことにふれ 迹に御座します。「あはれ君かな」と見奉らせたまひけるが、
良房のおとどの大饗にや、昔は親王たち、かならず大饗につかせ給ふことにて、わたらせ給へるに、雉の足はかならず大饗に盛る物にて侍るを、いかがしけむ、尊者の御前にとり落してけり。陪膳の、皇子の御前のをとりて、まどひて尊者の御前に据うるを、いかが思し召しけむ、御前の大殿油を、やをらかい消たせ給ふ。このおとどは、その折は下臈にて、座の末にて見奉らせ給ふに、「いみじうもせさせ給ふかな」と、いよいよ見めで奉らせ給ひて、陽成院おりさせ給ふべき陣の定に候はせ給ふ。融のおとど、左大臣にてやむごとなくて、位につかせ給はむ御心ふかくて、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らも侍るは」と言ひ出で給へるを、このおとどこそ、「皇胤なれど、姓賜はりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例やある」と申し出で給へれ。さもあることなれと、このおとどの定めによりて、小松の帝は位につかせ給へるなり。帝の御末もはるかに伝はり、おとどの末もともに伝はりつつ後見申し給ふ。さるべく契りおかせ給へる御仲にやとぞおぼえ侍る。
 大臣失せ給ひて、深草の山にをさめ奉る夜、勝延僧都のよみ給ふ、
 うつせみはからを見つつも慰めつ深草の山煙だに立て W
また、上野峯雄と言ひし人のよみたる、
 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け Wなどは、古今に侍ることどもぞかしな。御家は堀河院・閑院とに住ませ給ひしを、堀河院をば、さるべきことの折、はればれしき料にせさせ給ふ。閑院をば、御物忌や、また、うとき人などは参らぬ所にて、さるべくむつましく思す人ばかり御供に候はせて、わたらせ給ふ折も御座しましける。堀河院は地形のいといみじきなり。大饗の折、殿ばらの御車の立ち様などよ。尊者の御車をば東に立て、牛は御橋の平葱柱につなぎ、こと上達部の車をば、河よりは西に立てたるがめでたきをは。「尊者の御車の別に見ゆることは、こと所は見侍らぬ物をや」と見給ふるに、この高陽院殿にこそおされにて侍れ。方四町にて四面に大路ある京中の家は、冷泉院のみとこそ思ひ候ひつれ、世の末になるままに、まさることのみ出でまうで来るなり。この昭宣公のおとどは、陽成院の御舅にて、宇多の帝の御時に、准三宮の位にて年官・年爵をえ給ひ、朱雀院・村上の祖父にて御座します。「世覚えやむごとなし」と申せばおろかなりや。御男子四人御座しましき。太郎左大臣時平、二郎左大臣仲平、四郎太政大臣忠平』と言ふに、繁樹、気色ことになりて、まづうしろの人の顔うち見わたして、『それぞ、いはゆる、この翁が宝の君貞信公に御座します』とて、扇うちつかふ顔もち、ことにをかし。
《世継》『三郎にあたり給ひしは、従三位して宮内卿兼平の君と申して失せ給ひにき。さるは、御母、忠良の式部卿の親王の御女にて、いとやむごとなく御座すべかりしかど。この三人の大臣たちを、世の人、「三平」と申しき。
一 左大臣時平
 この大臣は、基経のおとどの太郎なり。御母、四品弾正尹人康の親王の御女なり。醍醐の帝の御時、このおとど、左大臣の位にて年いと若くて御座します。菅原のおとど、右大臣の位にて御座します。その折、帝御年いと若く御座します。左右の大臣に世の政を行ふべきよし宣旨下さしめ給へりしに、その折、左大臣、御年二十八九ばかりなり。右大臣の御年五十七八にや御座しましけむ。ともに世の政をせしめ給ひし間、右大臣は才世にすぐれめでたく御座しまし、御心おきても、ことのほかにかしこく御座します。左大臣は御年も若く、才もことのほかに劣り給へるにより、右大臣の御おぼえことのほかに御座しましたるに、左大臣やすからず思したるほどに、さるべきにや御座しけむ、右大臣の御ためによからぬこと出できて、昌泰四年正月二十五日、大宰権師になし奉りて、流され給ふ。
 この大臣、子どもあまた御座せしに、女君達は婿とり、男君達は、皆ほどほどにつけて位ども御座せしを、それも皆方々に流され給ひてかなしきに、幼く御座しける男君・女君達慕ひ泣きて御座しければ、「小さきはあへなむ」と、おほやけもゆるさせ給ひしぞかし。帝の御おきて、きはめてあやにくに御座しませば、この御子どもを、同じ方につかはさざりけり。かたがたにいとかなしく思し召して、御前の梅の花を御覧じて、
 東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな W
また、亭子の帝に聞こえさせ給ふ、
 流れゆく我は水宵となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ W
なきことにより、かく罪せられ給ふを、かしこく思し嘆きて、やがて山崎にて出家せしめ給ひて、都遠くなるままに、あはれに心ぼそく思されて、
 君が住む宿の梢をゆくゆくとかくるるまでもかへり見しはや W
また、播磨国に御座しましつきて、明石の駅といふ所に御宿りせしめ給ひて、駅の長のいみじく思へる気色を御覧じて、作らしめ給ふ詩、いとかなし。
 駅長驚クコトナカレ、時ノ変改
 一栄一落、是レ春秋
 かくて筑紫に御座しつきて、物をあはれに心ぼそく思さるる夕、をちかたに所々煙立つを御覧じて、
 夕されば野にも山にも立つ煙なげきよりこそ燃えまさりけれ W
また、雲の浮きてただよふを御覧じて、
 山わかれ飛びゆく雲のかへり来るかげ見る時はなほ頼まれぬ W
さりともと、世を思し召されけるなるべし。
月のあかき夜、
 海ならずたたへる水のそこまでにきよき心は月ぞ照らさむ W
これいとかしこくあそばしたりかし。げに月日こそは照らし給はめとこそはあめれ』誠に、おどろおどろしきことはさるものにて、かくやうの歌や詩などをいとなだらかに、ゆゑゆゑしう言ひつづけまねぶに、見聞く人々、目もあやにあさましく、あはれにもまもりゐたり。物のゆゑ知りたる人なども、むげに近く居寄りて外目せず、見聞く気色どもを見て、いよいよはえて物を繰り出だすやうに言ひつづくるほどぞ、誠に希有なるや。繁樹、涙をのごひつつ興じゐたり。
《世継》『筑紫に御座します所の御門かためて御座します。大弐の居所は遥かなれども、楼の上の瓦などの、心にもあらず御覧じやられけるに、またいと近く観音寺といふ寺のありければ、鐘の声を聞こし召して、作らしめ給へる詩ぞかし、
 都府楼ハ纔ニ瓦ノ色ヲ看ル
 観音寺ハ只鐘ノ声ヲ聴ク
これは、文集の、白居易の遺愛寺ノ鐘ハ欹テテ枕ヲ聴キ、香炉峯ノ雪ハ撥ゲテ簾ヲ看ル」といふ詩に、まさざまに作らしめ給へりとこそ、昔の博士ども申しけれ。また、かの筑紫にて、九月九日菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京に御座しましし時、九月の今宵、内裏にて菊の宴ありしに、このおとどの作らせ給ひける詩を、帝かしこく感じ給ひて、御衣賜はり給へりしを、筑紫に持て下らしめ給へりければ、御覧ずるに、いとどその折思し召し出でて、作らしめ給ひける、
 去年ノ今夜ハ清涼ニ侍リキ
 秋思ノ詩篇ニ独リ腸ヲ断チキ
 恩賜ノ御衣ハ今此ニ在リ
 捧ゲ持チテ毎日余香ヲ拝シタテマツル
この詩、いとかしこく人々感じ申されき。このことどもただちりぢりなるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせ給へりけるを、書きて一巻とせしめ給ひて、後集と名づけられたり。また折々の歌書きおかせ給へりけるを、おのづから世に散り聞こえしなり。世継若う侍りし時、このことのせめてあはれにかなしう侍りしかば、大学の衆どもの、なま不合にいましかりしを、訪ひたづねかたらひとりて、さるべき餌袋・破子やうの物調じて、うち具してまかりつつ、習ひとりて侍りしかど、老の気のはなはだしきことは、皆こそ、忘れ侍りにけれ。これはただ頗る覚え侍るなり』と言へば、聞く人々、『げにげに、いみじき好き者にも物し給ひけるかな。今の人は、さる心ありなむや』など、感じあへり。
《世継》『また、雨の降る日、うちながめ給ひて、
 あめのしたかわけるほどのなければやきてし濡衣ひるよしもなき W
 やがてかしこにて失せ給へる、夜のうちに、この北野にそこらの松を生ほし給ひて、わたり住み給ふをこそは、ただ今の北野の宮と申して、現人神に御座しますめれば、おほやけも行幸せしめ給ふ。いとかしこくあがめ奉り給ふめり。筑紫の御座しまし所は安楽寺と言ひて、おほやけより別当・所司などなさせ給ひて、いとやむごとなし。内裏焼けて度々造らせ給ふに、円融院の御時のことなり、工ども、裏板どもを、いとうるはしく鉋かきてまかり出でつつ、またの朝に参りて見るに、昨日の裏板に物のすすけて見ゆる所のありければ、梯に上りて見るに、夜のうちに、虫の食めるなりけり。その文字は、
 つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは W
とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。かくて、このおとど、筑紫に御座しまして、延喜三年癸亥二月二十五日に失せ給ひしぞかし。御年五十九にて。
 さて後七年ばかりありて、左大臣時平のおとど、延喜九年四月四日失せ給ふ。御年三十九。大臣の位にて十一年ぞ御座しける。本院の大臣と申す。この時平のおとどの御女の女御も失せ給ふ。御孫の春宮も、一男八条の大将保忠卿も失せ給ひにきかし。この大将、八条に住み給へば、内に参り給ふほどいと遥かなるに、いかが思されけむ、冬は餅のいと大きなるをば一つ、小さきをば二つを焼きて、焼き石のやうに、御身にあてて持ち給へりけるに、ぬるくなれば、小さきをば一つづつ、大きなるをば中よりわりて、御車副に投げとらせ給ひける。あまりなる御用意なりかし。その世にも、耳とどまりて人の思ひければこそ、かく言ひ伝へためれ。この殿ぞかし、病づきて、さまざま祈りし給ひ、薬師経の読経、枕上にてせさせ給ふに、「所謂宮毘羅大将」とうちあげたるを、「我を『くびる』とよむなりけり」と思しけり。臆病に、やがて絶え入り給へば、経の文といふ中にも、こはき物の怪にとりこめられ給へる人に、げにあやしくはうちあげて侍りかし。さるべきとはいひながら、物は折ふしの言霊も侍ることなり。
 その御弟の敦忠の中納言も失せ給ひにき。和歌の上手、菅絃の道にもすぐれ給へりき。世にかくれ給ひて後、御遊びある折、博雅三位の、さはることありて参らざる時は、「今日の御遊びとどまりぬ」と、度々召されて参るを見て、ふるき人々は、「世の末こそあはれなれ。敦忠の中納言のいますかりし折は、かかる道に、この三位、おほやけを始め奉りて、世の大事に思ひ侍るべき物とこそ思はざりしか」とぞ宣ひける。
先坊に御息所参り給ふこと、本院のおとどの御女具して三四人なり。本院のは、失せ給ひにき。中将の御息所と聞こえし、後は重明の式部卿の親王の北の方にて、斎宮の女御の御母にて、そも失せ給ひにき。いとやさしく御座せし。先坊を恋ひかなしび奉り給ひ、大輔なむ、夢に見奉りたると聞きて、よみておくり給へる、
 時の間も慰めつらむ君はさは夢にだに見ぬ我ぞかなしき W
御返りごと、大輔、
 恋しさの慰むべくもあらざりき夢のうちにも夢と見しかば W
いま一人の御息所は、玄上の宰相の女にや。その後朝の使、敦忠の中納言、少将にてし給ひける。宮失せ給ひて後、この中納言には会ひ給へるを、かぎりなく思ひながら、いかが見給ひけむ、文範の民部卿の、播磨守にて、殿の家司にて候はるるを、「我は命みじかき族なり。かならず死なむず。その後、君は文範にぞ会ひ給はむ」と宣ひけるを、「あるまじきこと」といらへ給ひければ、「天がけりても見む。よにたがへ給はじ」など宣ひけるが、誠にさていまするぞかし。
 ただ、この君たちの御中には、大納言源昇の卿の御女の腹の顕忠のおとどのみぞ、右大臣までなり給ふ。その位にて六年御座せしかど、少し思すところやありけむ、出でて歩き給ふにも、家内にも、大臣の作法をふるまひ給はず。御歩きの折は、おぼろけにて御前つがひ給はず。まれまれも数少なくて、御車のしりにぞ候ひし。車副四人つがはせ給はざりき。御先も時々ほのかにぞ参りし。盥して御手すますことなかりき。寝殿の日隠の間に棚をして、小桶に小杓して置かれたれば、仕丁、つとめてごとに、湯を持て参りて入れければ、人してもかけさせ給はず、我出で給ひて、御手づからぞすましける。御召物は、うるはしく御器などにも参り据ゑで、ただ御土器にて、台などもなく、折敷などにとり据ゑつつぞ参らせける。
倹約し給ひしに、さるべきことの折の御座と、御判所とにぞ、大臣とは見え給ひし。かくもてなし給ひし故にや、このおとどのみぞ、御族の中に、六十余りまで御座せし。四分一の家にて大饗し給へる人なり。富小路の大臣と申す。
 これよりほかの君達、皆三十余り、四十に過ぎ給はず。そのゆゑは、他のことにあらず、この北野の御嘆きになむあるべき。
顕忠の大臣の御子、重輔の右衛門佐とて御座せしが御子なり、今の三井寺の別当心誉僧都・山階寺の権別当扶公僧都なり。この君達こそは物し給ふめれ。敦忠の中納言の御子あまた御座しける中に、兵衛佐なにがし君とかや申しし、その君出家して往生し給ひにき。その仏の御子なり、石蔵の文慶僧都は。敦忠の御女子は枇杷の大納言の北の方にて御座しきかし。あさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、このおとどの御末は御座せぬなり。さるは、大和魂などは、いみじく御座しましたる物を。
 延喜の、世間の作法したためさせ給ひしかど、過差をばえしづめさせ給はざりしに、この殿、制を破りたる御装束の、ことのほかにめでたきをして、内に参り給ひて、殿上に候はせ給ふを、帝、小蔀より御覧じて、御気色いとあしくならせ給ひて、職事を召して、「世間の過差の制きびしき頃、左のおとどの一の人といひながら、美麗ことのほかにて参れる、便なきことなり。はやくまかり出づべきよし仰せよ」と仰せられければ、承る職事は、「いかなることにか」と怖れ思ひけれど、参りて、わななくわななく、「しかじか」と申しければ、いみじくおどろき、かしこまり承りて、御随身の御先参るも制し給ひて、急ぎまかり出で給へば、御前どもあやしと思ひけり。さて本院の御門一月ばかり鎖させて、御簾の外にも出で給はず、人などの参るにも、「勘当の重ければ」とて、会はせ給はざりしにこそ、世の過差はたひらぎたりしか。内々によく承りしかば、さてばかりぞしづまらむとて、帝と御心あはせさせ給へりけるとぞ。
 物のをかしさをぞえ念ぜさせ給はざりける。笑ひたたせ給ひぬれば、頗ることも乱れけるとか。北野と世をまつりごたせ給ふ間、非道なることを仰せられければ、さすがにやむごとなくて、せちにし給ふことをいかがはと思して、「このおとどのし給ふことなれば、不便なりと見れど、いかがすべからむ」と嘆き給ひけるを、なにがしの史が、「ことにも侍らず。おのれ、かまへてかの御ことをとどめ侍らむ」と申しければ、「いとあるまじきこと。いかにして」など宣はせけるを、「ただ御覧ぜよ」とて、座につきて、こときびしく定めののしり給ふに、この史、文刺に文挟みて、いらなくふるまひて、このおとどに奉るとて、いと高やかに鳴らして侍りけるに、おとど文もえとらず、手わななきて、やがて笑ひて、「今日は術なし。右のおとどにまかせ申す」とだに言ひやり給はざりければ、それにこそ菅原のおとど、御心のままにまつりごち給ひけれ。
 また、北野の、神にならせ給ひて、いとおそろしく神鳴りひらめき、清涼殿に落ちかかりぬと見えけるが、本院の大臣、太刀を抜きさけて、「生きてもわが次にこそ物し給ひしか。今日、神となり給へりとも、この世には、我に所置き給ふべし。いかでかさらではあるべきぞ」とにらみやりて宣ひける。一度はしづまらせ給へりけりとぞ、世の人、申し侍りし。されど、それは、かの大臣のいみじう御座するにはあらず、王威のかぎりなく御座しますによりて、理非を示させ給へるなり。
一 左大臣仲平
 この大臣は、基経のおとどの次郎。御母は、本院の大臣に同じ。大臣の位にて十三年ぞ御座せし。枇杷の大臣と申す。御子持たせ給はず。伊勢集に、
 花薄われこそしたに思ひしかほに出でて人にむすばれにけり W
などよみ給へるは、この人に御座す。貞信公よりは御兄なれども、三十年まで大臣になりおくれ給へりしを、つひになり給へれば、おほきおほいどのの御よろこびの歌、
 おそくとくつひに咲きぬる梅の花たが植ゑおきし種にかあるらむ W
やがてその花をかざして、御対面の日、よろこび給へる。
廂の大饗せさせ給ひけるにも、横さまに据ゑ参らせさせ給ひけるこそ、年頃少しかたはらいたく思されける御心とけて、いかにかたみに心ゆかせ給へりけむと、御あはひめでたけれ。この殿の御心、誠にうるはしく御座しましける。皆人聞き知ろしめしたることなり、申さじ。
このおとどに伊勢の御息所の忘られてよむ歌なり。
 人知れずやみなましかばわびつつも無き名ぞとだに言はまし物を W 
一 太政大臣忠平  貞信公
 この大臣、これ、基経のおとどの四郎君。御母、本院の大臣・枇杷の大臣に同じ。このおとど、延長八年九月二十一日摂政、天慶四年十一月関白の宣旨かぶり給ふ。公卿にて四十二年、大臣にて三十二年、世をしらせ給ふこと二十年。後の御諡号貞信公と名づけ奉る。子一条の太政大臣と申す。朱雀院并びに村上の御舅に御座します。この御子五人。その折は、御位太政大臣にて、御太郎、左大臣にて実頼のおとど、これ、小野宮と申しき。二郎、右大臣師輔のおとど、これを九条殿と申しき。四郎、師氏の大納言と聞こえき。五郎、また左大臣師尹のおとど、子一条殿と申しきかし。これ、四人君達、左右の大臣、納言などにて、さしつづき御座しましし、いみじかりし御栄花ぞかし。女君一所は、先坊の御息所にて御座しましき。
 つねにこの三人の大臣たちの参らせ給ふ料に、小一条の南、勘解由小路には、石畳をぞせられたりしが、まだ侍るぞかし。宗像の明神の御座しませば、洞院・小代の辻子よりおりさせ給ひしに、雨などの降る日の料とぞ承りし。凡その一町は、人まかり歩かざりき。今は、あやしの者も馬・車に乗りつつ、みしみしと歩き侍れば、昔のなごりに、いとかたじけなくこそ見給ふれ。この翁どもは、今もおぼろけにては通り侍らず。今日も参り侍るが、腰のいたく侍りつれば、術なくてぞまかり通りつれど、なほ石畳をばよきてぞまかりつる。南のつらのいとあしき泥をふみこみて候ひつれば、きたなき物も、かくなりて侍るなり』とて、引き出でて見す。
《世継》『「先祖の御物は何もほしけれど、小一条のみなむ要に侍らぬ。人は子うみ死なむが料にこそ家もほしきに、さやうの折、ほかへわたらむ所は、なににかはせむ。また、凡、つねにもたゆみなくおそろし」とこそ、この入道殿は仰せらるなれ。ことわりなりや。この貞信公には、宗像の明神、うつつに、物など申し給ひけり。「我よりは御位高くて居させ給へるなむ、くるしき」と申し給ひければ、いと不便なる御こととて、神の御位申しあげさせ給へるなり。
 この殿、何の御時とは覚え侍らず、思ふに、延喜・朱雀院の御ほどにこそは侍りけめ、宣旨承らせ給ひて、おこなひに陣座ざまに御座します道に、南殿の御帳のうしろのほど通らせ給ふに、物のけはひして、御太刀の石突をとらへたりければ、いとあやしくてさぐらせ給ふに、毛はむくむくと生ひたる手の、爪ながくて刀の刃の様なるに、鬼なりけりと、いとおそろしくおぼえけれど、臆したるさま見えじと念ぜさせ給ひて、「おほやけの勅宣承りて、定に参る人とらふるは何者ぞ。ゆるさずは、あしかりなむ」とて、御太刀をひき抜きて、かれが手をとらへさせ給へりければ、まどひてうち放ちてこそ、丑寅の隅ざまにまかりにけれ。思ふに夜のことなりけむかし。こと殿ばらの御ことよりも、この殿の御こと申すは、かたじけなくもあはれにも侍るかな』とて、音うちかはりて、鼻度々うちかむめり。
《世継》『いかなりけることにか、七月にて生まれさせ給へるとこそ、人申し伝へたれ。天暦三年八月十一日にぞ失せさせ給ひける。正一位に贈せられ給ふ。御年七十一。
太政大臣実頼  清慎公
 このおとどは、忠平のおとどの一男に御座します。小野宮のおとどと申しき。御母、寛平法皇の御女なり。大臣の位にて二十七年、天下執行、摂政・関白し給ひて二十年ばかりや御座しましけむ。御諡号、清慎公なり。
和歌の道にもすぐれ御座しまして、後撰にもあまた入り給へり。おほかた、何事にも有識に、御心うるはしく御座しますことは、世の人の本にぞひかれさせ給ふ。小野宮の南面には、御髻放ちては出で給ふことなかりき。そのゆゑは、稲荷の杉のあらはに見ゆれば、「明神、御覧ずらむに、いかでかなめげにては出でむ」と宣はせて、いみじくつつしませ給ふに、おのづから思し召し忘れぬる折は、御袖をかづきてぞ驚きさわがせ給ひける。
 この大臣の御女子、女御にて失せ給ひにき。村上の御時にや、よくも覚え侍らず。男君は、時平のおとどの御女の腹に、敦敏の少将と聞こえし、父大臣の御先にかくれ給ひにきかし。さていみじう思し嘆くに、東のかたより、失せ給へりとも知らで、馬を奉りたりければ、大臣、
 まだ知らぬ人もありけり東路に我もゆきてぞ住むべかりける W
いとかなしきことなり」とて、目おしのごふに、
《世継》『大臣の御童名をば、うしかひと申しき。されば、その御族は、牛飼を「牛つき」と宣ふなり。
 敦敏の少将の子なり、佐理の大弐、世の手書の上手。任はてて上られけるに、伊予国のまへなるとまりにて、日いみじう荒れ、海のおもてあしくて、風おそろしく吹きなどするを、少しなほりて出でむとし給へば、また同じやうになりぬ。かくのみしつつ日頃過ぐれば、いとあやしく思して、物問ひ給へば、「神の御祟」とのみ言ふに、さるべきこともなし。いかなることにかと、怖れ給ひける夢に見え給ひけるやう、いみじうけだかきさましたる男の御座して、「この日の荒れて、日頃ここに経給ふは、おのれがし侍ることなり。よろづの社に額のかかりたるに、おのれがもとにしもなきがあしければ、かけむと思ふに、なべての手して書かせむがわろく侍れば、われに書かせ奉らむと思ふにより、この折ならではいつかはとて、とどめ奉りたるなり」と宣ふに、「たれとか申す」と問ひ申し給へば、「この浦の三島に侍る翁なり」と宣ふに、夢のうちにもいみじうかしこまり申すと思すに、おどろき給ひて、またさらにもいはず。
さて、伊与へわたり給ふに、多くの日荒れつる日ともなく、うらうらとなりて、そなたざまに追風吹きて、飛ぶがごとくまうで着き給ひぬ。湯度々浴み、いみじう潔斎して、清まはりて、昼の装束して、やがて神の御前にて書き給ふ。神司ども召し出だして打たせなど、よく法のごとくして帰り給ふに、つゆ怖るることなくて、すゑずゑの船にいたるまで、たひらかに上り給ひにき。わがすることを人間にほめ崇むるだに興あることにてこそあれ、まして神の御心にさまでほしく思しけむこそ、いかに御心おごりし給ひけむ。また、おほよそこれにぞ、いとど日本第一の御手のおぼえはとり給へりし。六波羅蜜寺の額も、この大弐の書き給へるなり。されば、かの三島の社の額と、この寺のとは同じ御手に侍り。
 御心ばへぞ、懈怠者、少しは如泥人とも聞こえつべく御座せし。故中関白殿、東三条つくらせ給ひて、御障子に歌絵ども書かせ給ひし色紙形を、この大弐に書かせまし給ひけるを、いたく人さわがしからぬほどに、参りて書かれなばよかりぬべかりけるを、関白殿わたらせ給ひ、上達部・殿上人など、さるべき人々参りつどひて後に、日高く待たれ奉りて参り給ひければ、少し骨なく思し召さるれど、さりとてあるべきことならねば、書きてまかで給ふに、女の装束かづけさせ給ふを、さらでもありぬべく思さるれど、捨つべきことならねば、そこらの人の中をわけ出でられけるなむ、なほ懈怠の失錯なりける。「のどかなる今朝、とくもうち参りて書かれなましかば、かからましやは」とぞ、皆人も思ひ、みづからも思したりける。「むげの、その道、なべての下臈などにこそ、斯様なることはせさせ給はめ」と、殿をも謗り申す人々ありけり。
 その大弐の御女、いとこの懐平の右衛門督の北の方にて御座せし、経任の君の母よ。大弐におとらず、女手書にて御座すめり。大弐の御妹は、法住寺のおとどの北の方にて御座す。その御腹の女君は、花山院の御時の弘徽殿の女御、また、入道中納言の御北の方。また、男子は、今の中宮の大夫斎信の卿とぞ申すめる。
 小野宮の大臣の三郎、敦敏の少将の同じ腹の君、右衛門督までなり給へりし、斎敏とぞ聞こえしかし。その御男君、播磨守尹文の女の腹に三所御座せし。太郎は高遠の君、大弐にて失せ給ひにき。二郎は懐平とて、中納言・右衛門督までなり給へりし。その御男子なり、今の右兵衛督経通の君、また侍従宰相資平の君、今の皇太后宮権大夫にて御座すめる。その斎敏の君の御男子、御祖父の小野宮のおとどの御子にし給ひて、実資とつけ奉り給ひて、いみじうかなしうし給ひき。このおとどの御名の文字なり、「実」文字は』
といふほども、あまり才がりたりや。「童名は、大学丸とぞつけたりける。
『その君こそ、今の小野宮の右大臣と申して、いとやむごとなくて御座すめり。このおとどの、御子なき嘆きをし給ひて、わが御甥の資平の宰相を養ひ給ふめり。末に、宮仕人を思しける腹に出で御座したる男子は、法師にて、内供良円の君とて御座す。また、さぶらひける女房を召しつかひ給ひけるほどに、おのづから生まれ給へりける女君、かくや姫とぞ申しける。この母は頼忠の宰相の乳母子。北の方は、花山院の女御、為平の式部卿の御女。院そむかせ給ひて、道信の中将も懸想し申し給ふに、この殿参り給ひにけるを聞きて、中将の聞こえ給ひしぞかし、
 うれしきはいかばかりかは思ふらむ憂きは身にしむ心地こそすれ W
この女御、殿に候ひ給ひしなり
この女君、千日の講おこなひ給ふ。資家の中納言の上の腹なり。兼頼の中納言の北の方にて失せ給ひにき。おほかた、子かたく御座しましける族にや。これも、中宮の権大夫の上も、継子を養ひ給へる。
この女君を、小野宮の寝殿の東面に帳たてて、いみじうかしづき据ゑ奉り給ふめり。いかなる人か御婿となり給はむとすらむ。
 かの殿は、いみじき隠り徳人にぞ御座します。故小野宮のそこばくの宝物・荘園は、皆この殿にこそはあらめ。殿づくりせられたるさま、いとめでたしや。対・寝殿・渡殿は例のことなり、辰巳の方に三間四面の御堂たてられて、廻廊は皆、供僧の房にせられたり。湯屋に大きなる鼎二つ塗り据ゑられて、煙立たぬ日なし。御堂には、金色の仏多く御座します。供米三十石を、定図におかれて絶ゆることなし。御堂へ参る道は、御前の池よりあなたをはるばると野につくらせ給ひて、時々の花・紅葉を植ゑ給へり。また舟に乗りて池より漕ぎても参る。これよりほかに道なし。
これよりほかの道なきけにや、心やすきけなし。さだめて、三日精進なり。さらずはあへてたひらかに参るべきならず。
住僧にはやむごとなき智者、あるいは持経者・真言師どもなり。これに夏冬の法服を賜び、供料をあて賜びて、わが滅罪生善の祈、また姫君の御息災を祈り給ふ。
この小野宮をあけくれつくらせ給ふこと、日に工の七八人絶ゆることなし。世の中に手斧の音する所は、東大寺とこの宮とこそは侍るなれ。祖父おほいどのの、とりわき給ひししるしは御座する人なり。まこと、この御男子は、今の伯耆守資頼と聞こゆめるは、姫君の御一つ腹にあらず、いづれにかありけむ。
一 太政大臣頼忠  廉義公
 このおとどは、小野宮実頼のおとどの二郎なり。御母、時平の大臣の御女、敦敏の少将の御同じ腹なり。大臣の位にて十九年、関白にて九年、この生きはめさせ給へる人ぞかし。三条よりは北、西洞院より東に住み給ひしかば、三条殿と申す。
この大臣、いみじきことどもしおき給へる人なり。賀茂詣に、検非違使、車のしりに具すること、また馬の上の随身、左右に四人つがはしむることも、この殿のしいで給へり。古は、物節のかぎり、一人づつありて、府生はなくて侍りしなり。一の人御座すなど見ゆること侍らざりけり。必ずかく侍るなりけることなりかし。あまりよろづしたためあまり給ひて、殿のうちに宵にともしたる油を、またのつとめて、侍に油瓶を持たせて、女房の局までめぐりて、残りたるを返し入れて、また、今日の油にくはへてともさせ給ひけり。あまりにうたてあることなりや。
 一条院位につかせ給ひしかば、よそ人にて、関白退かせ給ひにき。ただ、おほきおほいどのと申して、四条の宮にこそは、一つに住ませ給ひしか。それに、この前の師殿は、時の一の人の御孫にて、えもいはずはなやぎ給ひしに、六条殿の御婿にて御座せしかば、つねに西洞院のぼりに歩き給ふを、こと人ならばこと方よりよきても御座すべきを、大后・太政大臣の御座します前を、馬にてわたり給ふ。おほきおほいどのいとやすからず思せども、いかがはせさせ給はむ。なほいかやうにてかとゆかしく思して、中門の北廊の連子よりのぞかせ給へば、いみじうはやる馬にて、御紐おしのけて、雑色二三十人ばかりに、先いと高く御座せて、うち見いれつつ、馬の手綱ひかへて、扇高くつかひて通り給ふを、あさましく思せど、なかなかなることなれば、こと多くも宣はで、ただ、「なさけなげなる男にこそありけれ」とばかりぞ申し給ひける。非常のことなりや。さるは、師中納言殿の上の六条殿の姫君は、母は三条殿の御女に御座すれば、御孫ぞかし。されば、人よりは参りつかまつりだにこそし給ふべかりしか。この頼忠のおとど、一の人にて御座しまししかど、御直衣にて内に参り給ふこと侍らざりき。奏せさせ給ふべきことある折は、布袴にてぞ参り給ふ。さて、殿上に候はせ給ふ。年中行事の御障子のもとにて、さるべき職事蔵人などしてぞ、奏せさせ給ひ、承り給ひける。また、ある折は、鬼間に帝出でしめ給ひて、召しある折ぞ参り給ひし。関白し給へど、よその人に御座しましければにや。
 故中務卿代明の親王の御女の腹に、御女二人・男子一人御座しまして、大姫君は、円融院の御時の女御にて、天元五年三月十一日に后にたち給ひ、中宮と申しき。御年二十六。御子御座せず。四条の宮とぞ申すめりし。いみじき有心者・有識にぞいはれ給ひし。功徳も御祈も如法に行はせ給ひし。毎年の季の御読経なども、つねのこととも思し召したらず、四日がほど、二十人の僧を、房のかぎりめでたくて、かしづき据ゑさせ給ひ、湯あむし、斎などかぎりなく如法に供養せさせ給ひ、御前よりも、とりわきさるべきものども出ださせ給ふ。御みづからも清き御衣奉り、かぎりなくきよまはらせ給ひて、僧に賜ぶものどもは、まづ御前にとり据ゑさせて置かせ給ひて後につかはしける。恵心の僧都の頭陀行せられける折に、京中こぞりて、いみじき御斎を設けつつ参りしに、この宮には、うるはしくかねの御器ども失せ給へりしかば、「かくてあまり見ぐるし」とて、僧都は迄食とどめ給ひてき。
 いま一所の姫君、花山院の御時の女御にて、四条宮に尼にて御座しますめり。
 やがて后・女御の一つ腹の男君、ただ今の按察大納言公任卿と申す。小野宮の御孫なればにや、和歌の道すぐれ給へり。世にはづかしく心にくきおぼえ御座す。その御女、ただ今の内大臣の北の方にて、年頃多くの君達うみつづけ給へりつる、去年の正月に失せ給ひて、大納言よろづを知らず、思し嘆くことかぎりなし。また、男君一人ぞ御座する。左大弁定頼の君、若殿上人の中に、心あり、歌なども上手にて御座すめり。母北の方いとあてに御座すかし。村上の九の宮の御女、多武峯の入道の少将、まちをさ君の御女の腹なり。内大臣殿の上も、この弁の君も、されば御なからひいとやむごとなし。
 この大納言殿、無心のこと一度ぞ宣へるや。御妹の四条の宮の、后にたち給ひて、初めて入内し給ふに、洞院のぼりに御座しませば、東三条の前をわたらせ給ふに、大入道殿も、故女院も胸痛く思し召しけるに、按察大納言は后の御せうとにて、御心地のよく思されけるままに、御馬をひかへて、「この女御は、いつか后にはたち給ふらむ」と、うち見入れて宣へりけるを、殿を始め奉りて、その御族やすからず思しけれど、男宮御座しませば、たけくぞ。よその人々も、「益なくも宣ふかな」と聞き給ふ。一条院、位につき給へば、女御、后にたち給ひて入内し給ふに、大納言殿の、亮につかまつり給へるに、出車より扇をさし出だして、「やや、物申さむ」と、女房の聞こえければ、「何事にか」とて、うち寄り給へるに、進の内侍、顔をさし出でて、「御妹の素腹の后は、いづくにか御座する」と聞こえかけたりけるに、「先年のことを思ひおかれたるなり。自らだにいかがとおぼえつることなれば、道理なり。なくなりぬる身にこそとこそおぼえしか」とこそ宣ひけれ。されど、人柄しよろづによくなり給ひぬれば、ことにふれて捨てられ給はず、かの内侍のとがなるにてやみにき。
 ひととせ、入道殿の大井川に逍遥せさせ給ひしに作文の船・管絃の船・和歌の船と分たせ給ひて、その道にたへたる人々を乗せさせ給ひしに、この大納言の参り給へるを、入道殿、「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき」と宣はすれば、「和歌の船に乗り侍らむ」と宣ひて、よみ給へるぞかし、
  をぐら山あらしの風のさむければもみぢの錦きぬ人ぞなき W
申しうけ給へるかひありてあそばしたりな。御みづからも、宣ふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、名のあがらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の、『いづれにかと思ふ』と宣はせしになむ、われながら心おごりせられし」と宣ふなる。一事のすぐるるだにあるに、かくいづれの道もぬけ出で給ひけむは、いにしへも侍らぬことなり。
 大臣、永祚元年六月二十六日に、失せ給ひて、贈正一位になり給ふ。廉義公とぞ申しける。この大臣の末、かくなり。
一 左大臣師尹
この大臣、忠平のおとどの五郎、小一条の大臣と聞えさせ給ふめり。御母、九条殿に同じ。大臣の位にて三年。左大臣にうつり給ふこと、西宮殿、筑紫へ下り給ふ御替なり。その御ことのみだれは、この小一条の大臣のいひ出で給へるとぞ、世の人聞えし。さて、その年も過さず失せ給ふことをこそ申すめりしか。それも誠にや。
御娘、村上の御時の宣耀殿の女御、かたちをかしげにうつくしう御座しけり。内へ参り給ふとて、御車に奉り給ひければ、わが御身は乗り給ひけれど、御ぐしのすそは、母屋の柱のもとにぞ御座しける。一筋をみちのくにがみに置きたるに、いかにもすき見えずとぞ申し伝へためる。御目のしりの少しさがり給へるが、いとどらうたく御座するを、帝、いとかしこくときめかさせ給ひて、かく仰せられけるとか、
  生きての世死にてののちの後の世もはねをかはせる鳥となりなむ W
御返し、女御、
  秋になることの葉だにもかはらずはわれもかはせる枝となりなむ W
古今うかべ給へりと聞かせ給ひて、帝、こころみに本をかくして、女御には見せさせ給はで、「やまとうたは」とあるを始めにて、まへの句のことばを仰せられつつ、問はせ給ひけるに、いひたがへ給ふこと、詞にても歌にてもなかりけり。かかることなむと、父大臣は聞き給ひて、御装束して、手洗ひなどして、所々に誦経などし、念じ入りてぞ御座しける。帝、箏の琴をめでたくあそばしけるも、御心にいれてをしへなど、かぎりなくときめき給ふに、冷泉院の御母后失せ給ひてこそ、なかなかこよなく覚え劣り給へりとは聞え給ひしか。「故宮のいみじうめざましく、やすらかぬ物に思したりしかば、思ひ出づるに、いとほしく、くやしきなり」とぞ仰せられける。
 この女御の御腹に、八の宮とて男親王一人生れ給へり。御かたちなどは清げに御座しけれど、御心きはめたる白物とぞ、聞き奉りし。世の中のかしこき帝の御ためしに、もろこしには堯・舜の帝と申し、この国には延喜・天暦とこそは申すめれ。延喜とは醍醐の先帝、天暦とは村上の先帝の御ことなり。その帝の御子、小一条の大臣の御孫にて、しかしれ給へりける、いとどあやしきことなりかし。
その母女御の御せうと、済時の左大将と申しし、長徳元年己未四月二十三日失せ給ひにき、御年五十五.この大将は、父大臣よりも御心ざまわづらはしく、くせぐせしきおぼえまさりて、名聞になどぞ御座せし。御妹の女御殿に、村上の、琴をしへさせ給ひける御前に候ひ給ひて、聞き給ふほどに、おのづから、われもその道の上手に、人にも思はれ給へりしを、おぼろけにて心よくならし給はず、さるべきことの折も、せめてそそのかされて、物一つばかりかきあはせなどし給ひしかば、「あまりけにくし」と、人にもいはれ給ひき。人の奉りたる贄などいふ物は、御前の庭にとりおかせ給ひて、夜は贄殿に納め、昼はまたもとのやうにとり出でつつ置かせなど、また人の奉りかふるまでは置かせ給ひて、とりうごかすことはせさせ給はぬ、あまりやさしきことなりな。人などの参るにも、かくなむと見せ給ふ料なめり。昔人はさることをよきにはしければ、そのままの有様をせさせ給ふとぞ。
かくやうにいみじう心ありて思したりしほどよりは、よしなしごとし給へりとぞ、人にいはれ給ふめりし。御甥の八の宮に大饗せさせ奉り給ひて、上戸に御座すれば、人々酔はしてあそばむなど思して、「さるべき上達部たちとく出づる物ならば、『しばし』など、をかしきさまにとどめさせ給へ」と、よくをしへまうさせ給へりけり。さこそ人がらあやしくしれ給へれど、やむごとなき親王の大事にし給ふことなれば、人々あまた参りたりしも古体なりかし。されど、公事さしあはせたる日なれば、いそぎ出で給ふに、まことさることありつ、と思し出でて、大将の御方をあまたたび見やらせ給ふに、目をくはせ給へば、御おもていと赤くなりて、とみにえうち出でさせ給はず、物も仰せられで、にはかにおびゆるやうに、おどろおどろしくあららかに、人々の上の衣の片袂落ちぬばかり、とりかからせ給ふに、参りと参る上達部は、末の座まで見合せつつ、えしづめずやありけむ、顔けしきかはりつつ、とりあへずことにことをつけつつなむ急ぎ立ちぬ。この入道殿などは、若殿上人にて御座しましけるほどなれば、ことすゑにてよくも御覧ぜざりけり。「ただ人々のほほゑみて出で給ひしをぞ見し」とぞ、この頃、をかしかりしことに語り給ふなる。大将は、「なにせむにかかることをせさせ奉りて、また、しか宣へとも、をしへきこえさせつらむ」と、くやしく思すに、御色も青くなりてぞ御座しける。誠に、親王をば、もとよりさる人と知りまうしたれば、これをしも、謗りまうさず、この殿をぞ、「かかる御心を見る見る、せめてならであるべきことならぬに、かく見ぐるしき御有様を、あまた人に見せきこえ給へること」とぞ、謗りまうしし。いみじき心ある人と世覚え御座せし人の、口惜しき辱号とり給へるよ。
この殿の御北の方にては、枇杷の大納言延光の御女ぞ御座する。女君二所・男君二人ぞ御座せし。女君は、三条院の東宮にて御座しましし折の女御にて、宣耀殿と申して、いと時に御座しましし。男親王四所・女宮二人、生れ給へりしほどに、東宮、位につかせ給ひてまたの年、長和元年四月二十八日、后にたち給ひて、皇后宮と申す。また、いま一所の女君は、父殿失せ給ひにし後、御心わざに、冷泉院の四の親王、師の宮と申す御上にて、二三年ばかり御座せしほどに、宮、和泉式部に思しうつりにしかば、本意なくて、小一条に帰らせ給ひにし後、この頃、聞けば、心えぬ有様の、ことのほかなるにてこそ御座すなれ。
この殿の御おもておこし給ふは、皇后宮に御座しましき。この宮の御腹の一の親王敦明の親王とて、式部卿と申ししほどに、長和五年正月二十九日、三条院おりさせ給へば、この式部卿、東宮にたたせ給ひにき。御年二十三。ただし、道理あることと、皆人思ひまうししほどに、二年ばかりありて、いかが思し召しけむ、宮たちと申しし折、よろづに遊びならはせ給ひて、うるはしき御有様いとくるしく、いかでかからでもあらばや、と思しなられて、皇后宮に、「かくなむ思ひ侍る」と申させ給ふを、「いかでかは、げにさもとは思さむずる。すべてあさましく、あるまじきこと」とのみ諌めまうさせ給ふに、思しあまりて、入道殿に御消息ありければ、参らせ給へるに、御物語こまやかにて、「この位去りて、ただ心やすくてあらむとなむ思ひ侍る」と聞えさせ給ひければ、「さらにさらに承らじ。さは、三条院の御末はたえねと思し召し、おきてさせ給ふか。いとあさましくかなしき御ことなり。かかる御心のつかせ給ふは、ことごとならじ、ただ冷泉院の御物の怪などの思はせ奉るなり。さ思し召すべきぞ」と啓し給ふに、「さらば、ただ本意ある出家にこそはあなれ」と宣はするに、「さまで思し召すことなれば、いかがはともかくも申さむ。内に奏し侍りてを」と申させ給ふ折にぞ、御けしきいとよくならせ給ひにける。
さて、殿、内に参り給ひて、大宮にも申させ給ひければ、いかがは聞かせ給ひけむな。このたびの東宮には式部卿の宮をとこそは思し召すべけれど、一条院の、「はかばかしき御後見なければ、東宮に当代を奉るなり」と仰せられしかば、これも同じことなりと思しさだめて、寛仁元年八月五日こそは、九つにて、三の宮、東宮にたたせ給ひて、
同じ月の二十三日にこそは、壺切といふ太刀は、内より持て参りしか。当代位につかせ給ひしかば、すなはち東宮にも参るべかりしを、しかるべきにやありけむ、とかくさはりて、この年頃、内の納殿に候ひつるぞかし。
寛仁三年八月二十八日、御年十一にて、御元服せさせ給ひしか。前の東宮をば小一条院と申す。今の東宮の御有様、申すかぎりなし。つひのこととは思ひながら、ただいまかくとは思ひかけざりしことなりかし。
小一条院、わが御心と、かく退かせ給へることは、これを始めとす。世始まりて後、東宮の御位とり下げられ給へることは、九代ばかりにやなりぬらむ。中に法師東宮御座しけるこそ、失せ給ひて後に、贈太上天皇と申して、六十余国にいはひすゑられ給へれ。公家にも知ろしめして、官物のはつをさき奉らせ給ふめり。この院のかく思したちぬること、かつは殿下の御報の早く御座しますにおされ給へるなるべし。また多くは元方の民部卿の霊のつかうまつるなり。」といへば、侍、「それもさるべきなり。このほどの御ことどもこそ、ことのほかに変りて侍れ。なにがしは、いとくはしく承ること侍る物を」といへば、世継、「さも侍るらむ。伝はりぬることは、いでいで承らばや。ならひにしことなれば、物のなほ聞かまほしく侍るぞ」といふ。興ありげに思ひたれば、
《侍》「ことの様体は、三条院の御座しましけるかぎりこそあれ、失せさせ給ひにける後は、世の常の東宮のやうにもなく、殿上人参りて、御遊びせさせ給ひや、もてなしかしづきまうす人などもなく、いとつれづれに、まぎるるかたなく思し召されけるままに、心やすかりし御有様のみ恋しく、ほけほけしきまでおぼえさせ給ひけれど、三条院御座しましつるかぎりは、院の殿上人も参りや、御使もしげく参り通ひなどするに、人目もしげく、よろづ慰めさせ給ふを、院失せ御座しましては、世の中の物おそろしく、大路の道かひもいかがとのみわづらはしく、ふるまひにくきにより、宮司などだにも、参りつかまつることもかたくなりゆけば、ましてげすの心はいかがはあらむ、殿守司の下部、朝ぎよめつかうまつることなければ、庭の草もしげりまさりつつ、いとかたじけなき御すみかにてまします。
 まれまれ参りよる人々は、世に聞ゆることとて、「三の宮のかくて御座しますを、心ぐるしく殿も大宮も思ひまうさせ給ふに、『もし、内に男宮も出で御座しましなば、いかがあらむ。さあらぬ先に東宮にたて奉らばや』となむ仰せらるなる。されば、おしてとられさせ給ふべかむなり」などのみ申すを、誠にしもあらざらめど、げにことのさまも、よもとおぼゆまじければにや、聞かせ給ふ御心地は、いとどうきたるやうに思し召されて、ひたぶるにとられむよりは、我とや退きなまし、と思し召すに、また、「高松殿の御匣殿参らせ給ひ、殿、はなやかにもてなし奉らせ給ふべかなり」とも、例のことなれば、世の人のさまざま定め申すを、皇后宮、聞かせ給ひて、いみじう喜ばせ給ふを、東宮は、いとよかるべきことなれど、さだにあらば、いとどわが思ふことえせじ、なほかくてえあるまじく思されて、御母宮に、「しかじかなむ思ふ」と聞えまうさせ給へば、「さらなりや、いといとあるまじき御ことなり。御匣殿の御ことをこそ、まことならば、すすみきこえさせ給はめ。さらにさらに思しよるまじきことなり」と聞えさせ給ひて、御物の怪のするなりと、御祈どもせさせ給へど、さらに思しとどまらぬ御心のうちを、いかでか世の人も聞きけむ、「さてなむ、『御匣殿参らせ奉り給へ』とも聞えさせ給ふべかなる」などいふこと、殿の辺にも聞ゆれば、誠にさも思しゆるぎて宣はせば、いかがすべからむ、など思す。
さて東宮はつひに思し召したちぬ。後に御匣殿の御こともいはむに、なかなかそれはなどかなからむなど、よきかたざまに思しなしけむ、不覚のことなりや。
壺切などのこと、僻事に候ふめり。故三条院たびたび申させ給ひしかども、とかく申しやりて奉らせざりしとこそ聞き侍りしか。されば、故院も、「さむばれ、なくともたてでは」とて、御座しまししなり。しかるべきとは、おのづからのことを申させて。
皇后宮にもかくとも申し給はず、ただ御心のままに、殿に御消息聞えむと思し召すに、むつましうさるべき人も物し給はねば、中宮権大夫殿の御座します四条の坊門と西洞院とは宮近きぞかし、そればかりを、こと人よりはとや思し召しよりけむ、蔵人なにがしを御使にて、「あからさまに参らせ給へ」とあるを、思しもかけぬことなれば、おどろき給ひて、「なにしに召すぞ」と問ひ給へば、「申させ給ふべきことの候ふにこそ」と申すを、この聞ゆることどもにや、と思せど、退かせ給ふことは、さりともよにあらじ、御匣殿の御ことならむ、と思す。いかにもわが心ひとつには、思ふべきことならねば、「おどろきながら参り候ふべきを、大臣に案内申してなむ候ふべき」と申し給ひて、まづ、殿に参り給へり。「東宮より、しかじかなむ仰せられたる」と申し給へば、殿もおどろき給ひて、「何事ならむ」と仰せられながら、大夫殿と同じやうにぞ思しよらせ給ひける。誠に御匣殿の御こと宣はせむを、いなびまうさむも便なし。参り給ひなば、また、さやうにあやしくてはあらせ奉るべきならず。また、さては世の人の申すなるやうに、東宮退かせ給はむの御思ひあるべきならずかし、とは思せど、「しかわざと召さむには、いかでか参らではあらむ。いかにも、宣はせむことを聞くべきなり」と申させ給へば、参らせ給ふほど、日も暮れぬ。
 陣に左大臣殿の御車や、御前どものあるを、なまむつかしと思し召せど、帰らせ給ふべきならねば、殿上に上らせ給ひて、「参りたるよし啓せよ」と、蔵人に宣はすれば、「おほい殿の、御前に候はせ給へば、ただいまはえなむ申し候はぬ」と聞えさするほど、見まはさせ給ふに、庭の草もいと深く、殿上の有様も、東宮の御座しますとは見えず、あさましうかたじけなげなり。おほい殿出で給ひて、かくと啓すれば、朝餉の方に出でさせ給ひて、召しあれば、参り給へり。「いと近く、こち」と仰せられて、「物せらるることもなきに、案内するもはばかり多かれど、大臣に聞ゆべきことのあるを、伝へ物すべき人のなきに、間近きほどなれば、たよりにもと思ひて消息し聞えつる。その旨は、かくて侍るこそは本意あることと思ひ、故院のしおかせ給へることをたがへ奉らむも、かたがたにはばかり思はぬにあらねど、かくてあるなむ、思ひつづくるに、罪深くもおぼゆる。内の御ゆく末はいと遥かに物せさせ給ふ。いつともなくて、はかなき世に命も知りがたし。この有様退きて、心に任せて行ひもし、物詣をもし、やすらかにてなむあらまほしきを、むげに前東宮にてあらむは、見ぐるしかるべくなむ。院号給ひて、年に受領などありてあらまほしきを、いかなるべきことにかと、伝へ聞えられよ」と仰せられければ、かしこまりてまかでさせ給ひぬ。
 その夜はふけにければ、つとめてぞ、殿に参らせ給へるに、内へ参らせ給はむとて、御装束のほどなれば、え申させ給はず。おほかたには御供に参るべき人々、さらぬも、出でさせ給はむに見参せむと、多く参り集りて、さわがしげなれば、御車に奉りに御座しまさむに申さむとて、そのほど、寝殿の隅の間の格子によりかかりてゐさせ給へるを、源民部卿寄り御座して、「などかくては御座します」と聞えさせ給へば、殿には隠しきこゆべきことにもあらねば、「しかじかのことのあるを、人々も候へば、え申さぬなり」と宣はするに、御けしきうち変りて、この殿もおどろき給ふ。「いみじくかしこきことにこそあなれ。ただとく聞かせ奉り給へ。内に参らせ給ひなば、いとど人がちにて、え申させ給はじ」とあれば、げにと思して、御座します方に参り給へれば、さならむと御心得させ給ひて、隅の間に出でさせ給ひて、「春宮に参りたりつるか」と問はせ給へば、よべの御消息くはしく申させ給ふに、さらなりや、おろかに思し召さむやは。おしておろし奉らむこと、はばかり思し召しつるに、かかることの出で来ぬる御よろこびなほつきせず。まづいみじかりける大宮の御宿世かな、と思し召す。
 民部卿殿に申しあはせさせ給へば、「ただとくとくせさせ給ふべきなり。なにか吉日をも問はせ給ふ。少しも延びば、思しかへして、さらでありなむとあらむをば、いかがはせさせ給はむ」と申させ給へば、さることと思して、御暦御覧ずるに、今日あしき日にもあらざりけり。やがて関白殿も参り給へるほどにて、「とくとく」と、そそのかしまうさせ給ふに、「まづいかにも大宮に申してこそは」とて、内に御座しますほどなれば、参らせ給ひて、「かくなむ」と聞かせ奉らせ給へば、まして女の御心はいかが思し召されけむ。それよりぞ、東宮に参らせ給ひて。
 御子どもの殿ばら、また例も御供に参り給ふ上達部・殿上人引き具せさせ給へれば、いとこちたく、ひびきことにて御座しますを、待ちつけ給へる宮の御心地は、さりとも、少しすずろはしく思し召されけむかし。
 心も知らぬ人は、つゆ参りよる人だになきに、昨日、二位中将殿の参り給へりしだにあやしと思ふに、また今日、かくおびただしく、賀茂詣などのやうに、御先の音もおどろおどろしうひびきて参らせ給へるを、いかなることぞとあきるるに、少しよろしきほどのものは、「御匣殿の御こと申させ給ふなめり」と思ふは、さも似つかはしや。むげに思ひやりなき際のものは、またわが心にかかるままに、「内のいかに御座しますぞ」などまで、心さわぎしあへりけるこそ、あさましうゆゆしけれ。母宮だにえ知らせ給はざりけり。かくこの御方に物さわがしきを、いかなることぞとあやしう思して、案内しまうさせ給へど、例の女房の参る道を、かためさせ給ひてけり。
殿には、年頃思し召しつることなどこまかに聞えむと、心強く思し召しつれど、誠になりぬる折は、いかになりぬることぞと、さすがに御心さわがせ給ひぬ。向ひきこえさせ給ひては、かたがたに臆せられ給ひにけるにや。ただ昨日のおなじさまに、なかなか言少なに仰せらるる。御返りは、「さりとも、いかにかくは思し召しよりぬるぞ」などやうに申させ給ひけむかしな。御けしきの心ぐるしさを、かつは見奉らせ給ひて、少しおし拭はせ給ひて、「さらば、今日、吉日なり」とて、院になし奉らせ給ふ。やがてことども始めさせ給ひぬ。よろづのこと定め行はせ給ふ。判官代には、宮司ども・蔵人などかはるべきにあらず。別当には中宮権大夫をなし奉り給へれば、おりて拝しまうさせ給ふ。ことども定まりはてぬれば、出でさせ給ひぬ。
 いとあはれに侍りけることは、殿のまだ候はせ給ひける時、母宮の御方より、いづかたの道より尋ね参りたるにか、あらはに御覧ずるも知らぬけしきにて、いとあやしげなる姿したる女房の、わななくわななく、「いかにかくはせさせ給へるぞ」と、声もかはりて申しつるなむ、「あはれにも、またをかしうも」とこそ仰せられけれ。勅使こそ誰ともたしかにも聞き侍らね。禄など、にはかにて、いかにせられけむ」といへば、
《世継》「殿こそはせさせ給ひけめ。さばかりのことになりて、逗留せさせ給はむやは」
《侍》「火焚屋・陣屋などとりやられけるほどにこそ、え堪へずしのび音泣く人々侍りけれ。まして皇后宮・堀河の女御殿など、さばかり心深く御座します御心どもに、いかばかり思し召しけむとおぼえ侍りし。世の中の人、「女御殿、
  雲居まで立ちのぼるべき煙かと見えし思ひのほかにもあるかな W といふ歌よみ給へり」など申すこそ、さらによもとおぼゆれ。いとさばかりのことに、和歌のすぢ思しよらじかしな。御心のうちには、おのづから後にも、おぼえさせ給ふやうもありけめど、人の聞き伝ふるばかりは、いかがありけむ」といへば、翁、
《世継》「げにそれはさることに侍れど、昔もいみじきことの折、かかることいと多くこそ聞え侍りしか」
とてささめくは、いかなることにか。
《侍》「さて、かくせめおろし奉り給ひては、また御婿にとり奉らせ給ふほど、もてかしづき奉らせ給ふ御有様、誠に御心もなぐさませ給ふばかりこそ聞え侍りしか。おもの参らする折は、台盤所に御座しまして、御台や盤などまで手づから拭はせ給ふ。なにをも召し試みつつなむ参らせ給ひける。御障子口までもて御座しまして、女房に給はせ、殿上に出すほどにも立ちそひて、よかるべきやうにをしへなど、これこそは御本意よと、あはれにぞ。「このきはに、故式部卿の宮の御ことありけり」といふ、そらごとなり。なにゆゑ、あることにもあらなくに、昔のことどもこそ侍れ、御座します人の御こと申す、便なきことなりかし」
《世継》「さて、式部卿の宮と申すは、故一条院の一の皇子に御座します。その宮をば、年頃、帥の宮と申ししを、小一条院、式部卿にて御座しまししが、東宮にたち給ひて、あく所に、帥をば退かせ給ひて、式部卿とは申ししぞかし。その後の度の東宮にもはづれ給ひて、思し嘆きしほどに失せ給ひにし後、またこの小一条院の御さしつぎの二の宮敦儀の親王をこそは、式部卿とは申すめれ。また次の三の宮敦平の親王を、中務の宮と申す。次の四の宮師明の親王と申す。幼くより出家して、仁和寺の僧正のかしづきものにて御座しますめり。この宮たちの御妹の女宮たち二人、一所は、やがて三条院の御時の斎宮にて下らせ給ひにしを、上らせ給ひて後、荒三位道雅の君に名だたせ給ひにければ、三条院も御悩の折、いとあさましきことに思し嘆きて、尼になし給ひて失せ給ひにき。いま一所の女宮まだ御座します。
 小一条の大将の御姫君ぞ、ただいまの皇后宮と申しつるよ。
三条院の御時に、后にたて奉らむと思しける。こちよりては、大納言の女の、后にたつ例なかりければ、御父大納言を贈太政大臣になしてこそは、后にたてさせ給ひてしか。されば皇后宮いとめでたく御座しますめり。御せうと、一人は侍従の入道、いま一所は大蔵卿通任の君こそは御座すめれ。
また、伊予の入道もそれぞかし。
いま一所の女君こそは、いとはなはだしく心憂き御有様にて御座すめれ。父大将のとらせ給へりける処分の領所、近江にありけるを、人にとられければ、すべき様なくて、かばかりになりぬれば、物のはづかしさも知られずや思はれけむ、夜、かちより御堂に参りて、うれへ申し給ひしはとよ。
 殿の御前は、阿弥陀堂の仏の御前に念誦して御座しますに、夜いたくふけにければ、御脇息によりかかりて、少し眠らせ給へるに、犬防のもとに、人のけはひのしければ、あやしと思し召しけるに、女のけはひにて、忍びやかに、「物申し候はむ」と申すを、御僻耳かと思し召すに、あまたたびになりぬれば、まことなりけり、と思し召して、いとあやしくはあれど、「誰そ、あれは」と問はせ給ふに、「しかじかの人の、申すべきこと候ひて、参りたるなり」と申しければ、いといとあさましくは思し召せど、あらく仰せられけむも、さすがにいとほしくて、「何事ぞ」と問はせ給ひければ、「知ろしめしたることに候ふらむ」とて、ことの有様こまかに申し給ふに、いとあはれに思し召して、「さらなり、みな聞きたることなり。いと不便なることにこそ侍るなれ。いま、しかすまじきよし、すみやかにいはせむ。かくいましたること、あるまじきことなり。人してこそいはせ給はめ。とく帰られね」と仰せられければ、「さこそはかへすがへす思ひ給へ候ひつれど、申しつぐべき人のさらに候はねば、さりともあはれとは仰せ言候ひなむ、と思ひ給へて、参り候ひながらも、いみじうつつましう候ひつるに、かく仰せらるる、申しやるかたなくうれしく候ふ」とて、手をすりて泣くけはひに、ゆゆしくも、あはれにも思し召されて、殿も泣かせ給ひにけり。
 出で給ふ途に、南大門に人々ゐたる中を御座しければ、なにがしぬしの引き留められけるこそ、いと無愛のことなりや。後に、殿も聞かせ給ひければ、いみじうむつからせ給ひて、いとひさしく御かしこまりにていましき。さて御うれへの所は、長く論あるまじく、この人の領にてあるべきよし、仰せ下されにければ、もとよりいとしたたかに領じ給ふ、きはめていとよし。「さばかりになりなむには、物の恥しらでありなむ。かしこく申し給へる、いとよきこと」と、口々ほめきこえしこそ、なかなかにおぼえ侍りしか。大門にてとらへたりし人は、式部大夫源政成が父なり。

〔大鏡 中〕

一 右大臣師輔
《世継》「この大臣は、忠平の大臣の二郎君、御母、右大臣源能有の御女、いはゆる、九条殿に御座します。公卿にて二十六年、大臣の位にて十四年ぞ御座しましし。御孫にて、東宮、また、四・五の宮を見おき奉りてかくれ給ひけむは、きはめて口惜しき御ことぞや。御年まだ六十にもたらせ給はねば、ゆく末はるかに、ゆかしきこと多かるべきほどよ」とせめてささやく物から、手を打ちてあふぐ。
《世継》「その殿の御公達十一人、女五六人ぞ、御座しましし。第一の御女、村上の先帝の御時の女御、多くの女御、御息所のなかに、すぐれてめでたく御座しましき。帝も、この女御殿にはいみじう怖ぢまうさせ給ひ、ありがたきことをも奏せさせ給ふことをば、いなびさせ給ふべくもあらざりけり。いはむや自余のことをば申すべきならず。少し御心さがなく、御物怨みなどせさせ給ふやうにぞ、世の人にいはれ御座しましし。帝をもつねにふすべまうさせ給ひて、いかなることのありける折にか、ようさりわたらせ御座しましたりけるを、御格子を叩かせ給ひけれど、あけさせ給はざりければ、叩きわづらはせ給ひて、「女房に、『などあけぬぞ』と問へ」と、なにがしのぬしの、童殿上したるが御供なるに仰せられければ、あきたる所やあると、ここかしこ見たうびけれど、さるべき方は皆たてられて、細殿の口のみあきたるに、人のけはひしければ、寄りてかくとのたうびければ、いらへはともかくもせで、いみじう笑ひければ、参りて、ありつるやうを奏しければ、帝もうち笑はせ給ひて、「例のことななり」と仰せられてぞ、帰りわたらせ御座しましける。この童は、伊賀前司資国が祖父なり。
 藤壷・弘徽殿との上の御局は、ほどもなく近きに、藤壷の方には小一条の女御、弘徽殿にはこの后の上りて御座しましあへるを、いとやすからず、えやしづめがたく御座しましけむ、中隔の壁に穴をあけて、のぞかせ給ひけるに、女御の御かたち、いとうつくしくめでたく御座しましければ、「むべ、ときめくにこそありけれ」と御覧ずるに、いとど心やましくならせ給ひて、穴よりとほるばかりの土器のわれして、打たせ給へりければ、帝御座しますほどにて、こればかりはえたへさせ給はずむつかり御座しまして、「かうやうのことは、女房はせじ。伊尹・兼通・兼家などが、いひもよほして、せさするならむ」と仰せられて、皆、殿上に候はせ給ふほどなりければ、三所ながら、かしこまらせ給へりしかば、その折に、いとどおほきに腹立たせ給ひて、「わたらせ給へ」と申させ給へば、思ふにこのことならむ、と思し召して、わたらせ給はぬを、たびたび、「なほなほ」と御消息ありければ、わたらずは、いとどこそむつからめと、おそろしくいとほしく思し召して、御座しましけるに、「いかでかかることはせさせ給ふぞ。いみじからむさかさまの罪ありとも、この人々をば思しゆるすべきなり。いはむや、まろが方ざまにてかくせさせ給ふは、いとあさましう心憂きことなり。ただいま召し返せ」と申させ給ひければ、「いかでかただいまはゆるさむ。音聞き見ぐるしきことなり」と聞えさせ給ひけるを、「さらにあるべきことならず」と、せめまうさせ給ひければ、「さらば」とて、帰りわたらせ給ふを、「御座しましなば、ただいまもゆるさせ給はじ。ただこなたにてを召せ」とて、御衣をとらへ奉りて、立て奉らせ給はざりければ、いかがはせむと思し召して、この御方へ職事召してぞ、参るべきよしの宣旨下させ給ひける。これのみにもあらず、斯様なることども多く聞え侍りしかは。
 おほかたの御心はいとひろく、人のためなどにも思ひやり御座しまし、あたりあたりに、あるべきほどほど過ぐさせ給はず、御かへりみあり。かたへの女御たちの御ためも、かつは情あり、御みやびをかはさせ給ふに、心よりほかにあまらせ給ひぬる時の御物妬みのかたにや、いかが思し召しけむ。この小一条の女御は、いとかく御かたちのめでたく御座すればにや、御ゆるされにすぎたる折々の出でくるより、かかることもあるにこそ。その道は心ばへにもよらぬことにやな。斯様のことまでは申さじ、いとかたじけなし。
 おほかた、殿上人・女房、さるまじき女官までも、さるべき折のとぶらひせさせ給ひ、いかなる折も、かならず見過し聞き放たせ給はず、御覧じ入れて、かへりみさせ給ひ、まして、御はらからたちをば、さらなりや。御兄をば親のやうに頼みまうさせ給ひ、御弟をば子のごとくにはぐくみ給ひし御心おきてぞや。されば、失せ御座しましたりし、ことわりとはいひながら、田舎世界まで聞きつぎ奉りて、惜しみ悲しびまうししか。帝、よろづの政をば聞えさせ合せてせさせ給ひけるに、人のため嘆きとあるべきことをば直させ給ふ、よろこびとなりぬべきことをばそそのかし申させ給ひ、おのづからおほやけ聞し召してあしかりぬべきことなど人の申すをば、御口より出させ給はず。斯様なる御心おもむけのありがたく御座しませば、御祈ともなりて、ながく栄え御座しますにこそあべかめれ。
 冷泉院・円融院・為平の式部卿の宮と、女宮四人との御母后にて、またならびなく御座しましき。帝・春宮と申し、代代の関白・摂政と申すも、多くは、ただこの九条殿の御一筋なり。男宮たちの御有様は、代々の帝の御ことなれば、かへすがへすまたはいかが申し侍らむ。
この后の御腹には、式部卿の宮こそは、冷泉院の御次に、まづ東宮にもたち給ふべきに、西宮殿の御婿に御座しますによりて、御弟の次の宮にひき越されさせ給へるほどなどのことども、いといみじく侍る。そのゆゑは、式部卿の宮、帝にゐさせ給ひなば、西宮殿の族に世の中うつりて、源氏の御栄えになりぬべければ、御舅たちの魂深く、非道に御弟をば引き越しまうさせ奉らせ給へるぞかし。世の中にも宮のうちにも、殿ばらの思しかまへけるをば、いかでかは知らむ。次第のままにこそはと、式部卿の宮の御ことをば思ひまうしたりしに、にはかに、「若宮の御ぐしかいけづり給へ」など、御乳母たちに仰せられて、大入道殿、御車にうち乗せ奉りて、北の陣よりなむ御座しましけるなどこそ、伝へ承りしか。されば、道理あるべき御方人たちは、いかがは思されけむ。その頃、宮たちあまた御座せしかど、ことしもあれ、威儀の親王をさへせさせ給へりしよ。見奉りける人も、あはれなることにこそ申しけれ。そのほど、西宮殿などの御心地よな、いかが思しけむ。さてぞかし、いとおそろしく悲しき御ことども出できにしは。斯様に申すも、なかなかいとどことおろかなりや。かくやうのことは、人中にて、下臈の申すにいとかたじけなし、とどめ候ひなむ。されどなほ、われながら無愛のものにて、おぼえ候ふにや。
 式部卿の宮、わが御身の口惜しく本意なきを、思しくづほれても御座しまさで、なほ末の世に、花山院の帝は、冷泉院の皇子に御座しませば、御甥ぞかし、その御時に、御女奉り給ひて、御みづからもつねに参りなどし給ひけるこそ、「さらでもありぬべけれ」と、世の人もいみじう謗りまうしけり。さりとても、御継などの御座しまさば、いにしへの御本意のかなふべかりけるとも見ゆべきに、帝、出家し給ひなどせさせ給ひて後、また今の小野宮の右大臣殿の北の方にならせ給へりしよ、いとあやしかりし御ことどもぞかし。その女御殿には、道信の中将の君も御消息聞え給ひけるに、それはさもなくて、かの大臣に具し給ひければ、中将の申し給ふぞかし、「憂きは身にしむ心地こそすれ」とは、今に人の口にのりたる秀歌にて侍めり。
 まこと、この式部卿の宮は、世にあはせ給へるかひある折一度御座しましたるは、御子の日ぞかし。御弟の皇子たちもまだ幼く御座しまして、かの宮おとなに御座しますほどなれば、世覚え・帝の御もてなしもことに思ひまうさせ給ふあまりに、その日こそは、御供の上達部・殿上人などの狩装束・馬鞍まで内裏のうちに召し入れて御覧ずるは、またなきこととこそは承れ。滝口をはなちて、布衣のもの、内に参ることは、かしこき君の御時も、かかることの侍りけるにや。おほかたいみじかりし日の見物ぞかし。物見車、大宮のぼりに所やは侍りしとよ。さばかりのことこそ、この世にはえ候はね。
 殿ばらの、宣ひけるは、大路わたることは常なり。藤壷の上の御局につぶとえもいはぬ打出ども、わざとなくこぼれ出でて、后の宮・内の御前などさしならび、御簾のうちに御座しまして御覧ぜし御前通りしなむ、たふれぬべき心地せし」とこそ宣ひけれ。またそれのみかは、大路にも宮の出車十ばかり引きつづけて立てられたりしは。一町かねてあたりに人もかけらず、滝口・侍の御前どもに選りととのへさせ給へりし、さるべきものの子どもにて、心のままに、今日はわが世よと、人払はせ、きらめきあへりし気色どもなど、よそ人、誠にいみじうこそ見侍りしか」とて、車の衣の色などをさへ語りゐたるぞあさましきや。
《世継》「さて、この御腹に御座しましし、女宮一所こそ、いとはかなく、失せ給ひにしか。」いま一所、入道一品の宮とて三条に御座しましき。失せ給ひて十余年にやならせ給ひぬらむ。うみおき奉らせ給ひしたびの宮こそは、今の斎院に御座しませ。いつきの宮、世に多く御座しませど、これはことにうごきなく、世にひさしくたもち御座します。ただこの御一筋のかく栄え給ふべきとぞ見まうす。昔の斎宮・斎院は、仏経などのことは忌ませ給ひけれど、この宮には仏法をさへあがめ給ひて、朝ごとの御念誦かかせ給はず。近くは、この御寺の今日の講には、さだまりて布施をこそは贈らせ給ふめれ。いととうより神人にならせ給ひて、いかでかかることを思し召しよりけむとおぼえ候ふは。賀茂の祭の日、一条大路に、そこら集りたる人、さながらともに仏とならむと、誓はせ給ひけむこそ、なほあさましく侍れ。さりとてまた、現世の御栄華をととのへさせ給はぬか。御禊より始め三箇日の作法、出車などのめでたさ、おほかた御さまのいと優に、らうらうじく御座しましたるぞ。
今の関白殿、兵衛左にて、御禊に御前せさせ給へりしに、いと幼く御座しませば、例は本院に帰らせ給ひて、人々に禄など給はするを、これは川原より出でさせ給ひしかば、思ひがけぬ御ことにて、さる御心もうけもなかりければ、御前に召しありて、御対面などせさせ給ひて、奉り給へりける小袿をぞ、かづけ奉らせ給へりける。入道殿、聞かせ給ひて、「いとをかしくもし給へるかな。禄なからむもたよりなく、取りにやり給はむもほど経ぬべければ、とりわきたるさまを見せ給ふなめり。えせ者は、え思ひよらじかし」とぞ申させ給ひける。
 この当代や東宮などの、まだ宮たちにて御座しましし時、祭見せ奉らせ給ひし御桟敷の前過ぎさせ給ふほど、殿の御膝に、二所ながらすゑ奉らせ給ひて、「この宮たち見奉らせ給へ」と申させ給へば、御輿の帷より赤色の御扇のつまをさし出で給へりけり。殿を始め奉りて、「なほ心ばせめでたく御座する院なりや。かかるしるしを見せ給はずは、いかでか、見奉り給ふらむとも知らまし」とこそは、感じ奉らせ給ひけれ。院より大宮に聞えさせ給ひける、
  ひかりいづるあふひのかげを見てしより年積みけるもうれしかりけり W
御返し、
  もろかづら二葉ながらも君にかくあふひや神のゆるしなるらむ W
げに賀茂の明神などのうけ奉り給へればこそ、二代までうちつづき栄えさせ給ふらめな。このこと、「いとをかし失せさせ給へり」と、世の人申ししに、前帥のみぞ、「追従ぶかき老ぎつねかな。あな、愛敬な」と申し給ひける。
 まこと、この后の宮の御おととの中の君は、重明の式部卿の宮の北の方にて御座しまししぞかし。その親王は、村上の御はらからに御座します。この宮の上、さるべきことの折は、物見せ奉りにとて、后の迎へ奉り給へば、忍びつつ参り給ふに、帝ほの御覧じて、いとうつくしう御座しましけるを、いと色なる御心ぐせにて、宮に、「かくなむ思ふ」とあながちにせめ申させ給へば、一二度、知らず顔にて、ゆるしまうさせ給ひけり。さて後、御心は通はせ給ひける御けしきなれど、さのみはいかがとや思し召しけむ、后、さらぬことだに、この方ざまは、なだらかにもえつくりあへさせ給はざめる中に、ましてこれはよそのことよりは、心づきなうも思し召すべけれど、御あたりをひろうかへりみ給ふ御心深さに、人の御ため聞きにくくうたてあれば、なだらかに色にも出でず、過させ給ひけるこそ、いとかたじけなうかなしきことなれな。さて后の宮失せさせ御座しまして後に、召しとりて、いみじうときめかさせ給ひて、貞観殿の尚侍とぞ、申ししかし。世になく覚え御座して、こと女御・御息所そねみ給ひしかども、かひなかりけり。これにつけても、「九条殿の御幸ひ」とぞ、人申し」ける。
 また三の君は、西宮殿の北の方にて御座せしを、御子うみて、失せ給ひにしかば、よその人は、君達の御ためあしかりなむとて、また御おととの五にあたらせ給ふ愛宮と申ししにうつらせ給ひにき。四の君はとく失せ給ひにき。六の君、冷泉院の東宮に御座しまししに、参らせ給ひなど、女君たちは、皆かく御座しまさふ。
 男君たちは、十一人の御中に、五人は太政大臣にならせ給へり。それあさましうおどろおどろしき御幸ひなりかし。その御ほかは右兵衛督忠君、また北野の三位遠度、大蔵卿遠量、多武峯の入道少将なり。また法師にては、飯室の権僧正、今の禅林寺の僧正などにこそ御座しますめれ。法師といへども、世の中の一の験者にて、仏のごとくに公私、頼みあふぎまうさぬ人なし。また北野の三位の御子は、尋空律師・朝源律師などなり。また大蔵卿の御子は、粟田殿の北の方、今の左衛門督の母上。この御族、斯様にぞ御座しますなかにも、多武峯の少将、出家し給へりしほどは、いかにあはれにもやさしくもさまざまなることどもの侍りしかは。なかにも、帝の御消息つかはしたりしこそ、おぼろけならず、御心もや乱れ給ひけむと、かたじけなく承りしか。
  みやこより雲のうへまで山の井の横川の水はすみよかるらむ W
御返し、
  九重のうちのみつねにこひしくて雲の八重たつ山はすみ憂し W
始めは、横川に御座して、後に多武峯には住ませ給ひしぞかし。いといみじう侍りしことぞかし。されども、それは九条殿・后の宮など失せさせ御座しまして後のことなり。
 この馬頭殿の御出家こそ、親たちの栄えさせ給ふことの始めをうちすてて、いといとありがたく悲しかりし御ことよ。とうより、さる御心まうけは思しよらせ給ひにけるにや、御はらからの君たちに具し奉りて、正月二七夜のほどに、中堂に登らせ給へりけるに、さらに御行ひもせで、大殿篭りたりければ、殿ばら、暁に、「など、かくては臥し給へる。起きて、念誦もせさせ給へかし」と申させ給ひければ、「いま一度に」と宣ひしを、その折は、思ひもとがめられざりき。「斯様の御有様を思しつづけけるにや」とこそ、この折には、君たち思し出でて申し給ひけれ。さりとて、うち屈しやいかにぞやなどある御けしきもなかりけり。人よりことにほこりかに、心地よげなる人柄にてぞ御座しましける。
 この九条殿は、百鬼夜行にあはせ給へるは。いづれの月といふことは、え承らず、いみじう夜ふけて、内より出で給ふに、大宮より南ざまへ御座しますに、あははの辻のほどにて、御車の簾うち垂れさせ給ひて、「御車牛もかきおろせ、かきおろせ」と、急ぎ仰せられければ、あやしと思へど、かきおろしつ。御随身・御前どもも、いかなることの御座しますぞと、御車のもとに近く参りたれば、御下簾うるはしくひき垂れて、御笏とりて、うつぶさせ給へるけしき、いみじう人にかしこまりまうさせ給へるさまにて御座します。「御車は榻にかくな。ただ随身どもは、轅の左右の軛のもとにいと近く候ひて、先を高く追へ。雑色どもも声絶えさすな。御前ども近くあれ」と仰せられて、尊勝陀羅尼をいみじう読み奉らせ給ふ。牛をば御車の隠れの方にひき立てさせ給へり。さて、時中ばかりありてぞ、御簾あげさせ給ひて、「今は、牛かけてやれ」と仰せられけれど、つゆ御供の人は心えざりけり。後々に、「しかじかのことのありし」など、さるべき人々にこそは、忍びて語り申させ給ひけめど、さるめづらしきことは、おのづから散り侍りけるにこそは。
 元方の民部卿の御孫、儲の君にて御座する頃、帝の御庚申せさせ給ふに、この民部卿参り給へり、さらなり。九条殿、候はせ給ひて、人々あまた候ひ給ひて、攤打たせ給ふついでに、冷泉院の孕まれ御座しましたるほどにて、さらぬだに世の人いかがと思ひまうしたるに、九条殿、「いで、今宵の攤つかうまつらむ」と仰せらるるままに、この孕まれ給へる御子、男に御座しますべくは、調六出で来」とて、打たせ給へりけるに、ただ一度に出でくる物か。ありとある人、目を見かはして、めで感じもてはやし給ひ、御みづからもいみじと思したりけるに、この民部卿の御けしきいとあしうなりて、色もいと青くこそなりたりけれ。さて後に、霊に出でまして、「その夜やがて、胸に釘はうちてき」とこそ宣ひけれ。
 おほかた、この九条殿、いとただ人には御座しまさぬにや、思しよるゆく末のことなども、かなはぬはなくぞ御座しましける。口惜しかりけることは、まだいと若く御座しましける時、「夢に、朱雀門の前に、左右の足を西東の大宮にさしやりて、北向きにて内裏を抱きて立てりとなむ見えつる」と仰せられけるを、御前になまさかしき女房の候ひけるが、「いかに御股痛く御座しましつらむ」と申したりけるに、御夢たがひて、かく子孫は栄えさせ給へど、摂政・関白えし御座しまさずなりにしなり。また御末に思はずなることのうちまじり、帥殿の御ことなども、かれがたがひたる故に侍るめり。「いみじき吉相の夢もあしざまにあはせつればたがふ」と、昔より申し伝へて侍ることなり。荒涼して、心知らざらむ人の前に、夢語りな、この聞かせ給ふ人々、し御座しまされそ。今ゆく末も九条殿の御末のみこそ、とにかくにつけて、ひろごり栄えさせ給はめ。
 いとをかしきことは、かくやむごとなく御座します殿の、貫之のぬしが家に御座しましたりしこそ、なほ和歌はめざましきことなりかしと、おぼえ侍りしか。正月一日つけさせ給ふべき魚袋のそこなはれたりければ、つくろはせ給ふほど、まづ貞信公の御もとに参らせ給ひて、「かうかうのことの侍れば、内に遅く参る」のよしを申させ給ひければ、おほきおとど驚かせ給ひて、年頃持たせ給へりける、取り出でさせ給ひて、やがて、「あえものにも」とて奉らせ給ふを、ことうるはしく松の枝につけさせ給へり。その御かしこまりのよろこびは、御心のおよばぬにしも御座しまさざらめど、なほ貫之に召さむ、と思し召して、わたり御座しましたるを、待ちうけましけむ面目、いかがおろかなるべきな。
  吹く風にこほりとけたる池の魚千代まで松のかげにかくれむ W
集に書き入れたる、ことわりなりかし。
 いにしへより今にかぎりもなく御座します殿の、ただ冷泉院の御有様のみぞ、いと心憂く口惜しきことにては御座します」といへば、侍、
「されど、ことの例には、まづその御時をこそは引かるめれ」といへば、
《世継》「それは、いかでかはさらでは侍らむ。その帝の出で御座しましたればこそ、この藤氏の殿ばら、今に栄え御座しませ。「さらざらましかば、この頃わづかにわれらも諸大夫ばかりになり出でて、ところどころの御前・雑役につられ歩きなまし」とこそ、入道殿は仰せられければ、源民部卿は、「さるかたちしたるまうちぎみだちの候はましかば、いかに見ぐるしからまし」とぞ、笑ひ申させ給ふなる。かかれば、公私、その御時のことをためしとせさせ給ふ、ことわりなり。御物の怪こはくて、いかがと思し召ししに、大嘗会の御禊にこそ、いとうるはしくて、わたらせ給ひにしか。「それは、人の目にあらはれて、九条殿なむ御後を抱き奉りて、御輿のうちに候はせ給ひける」とぞ、人申しし。げに現にても、いとただ人とは見えさせ給はざりしかば、まして御座しまさぬ後には、さやうに御守にても添ひまうさせ給ひつらむ」
《侍》「さらば、元方卿・桓算供奉をぞ、逐ひのけさせ給ふべきな」。
《世継》「それはまた、しかるべき前の世の御報にこそ御座しましけめ。さるは、御心いとうるはしくて、世の政かしこくせさせ給ひつべかりしかば、世間にいみじうあたらしきことにぞ申すめりし。
 さてまた、今は故九条殿の御子どもの数、この冷泉院・円融院の御母、貞観殿の尚侍、一条摂政、堀河殿、大入道殿、忠君の兵衛督と六人は、武蔵守従五位上経邦の女の腹に御座しまさふ。世の人「女子」といふことは、この御ことにや。おほかた、御腹ことなれど、男君たち五人は太政大臣、三人は摂政し給へり。
一 太政大臣伊尹 謙徳公
 この大臣は、一条摂政と申しき。これ、九条殿の一男に御座します。いみじき御集つくりて、豊景と名のらせ給へり。大臣になり栄え給ひて三年。いと若くて失せ御座しましたることは、九条殿の御遺言をたがへさせ御座しましつる故とぞ人申しける。されどいかでかは、さらでも御座しまさむ。御葬送の沙汰を、むげに略定に書きおかせ給へりければ、「いかでか、いとさは」とて、例の作法に行せ給ふとぞ。それはことわりの御しわざぞかし。ただ、御かたち・身の才、何事もあまりすぐれさせ給へれば、御命のえととのはせ給はざりけるにこそ。
 折々の御和歌などこそめでたく侍れな。春日の使に御座しまして、帰るさに、女のもとに遺はしける、
  暮ればとくゆきて語らむ逢ふことはとをちの里の住み憂かりしも W
御返し、
  逢ふことはとをちの里にほど経しも吉野の山と思ふなりけむ W
助信の少将の、宇佐の使にたたれしに、殿にて、餞に「菊の花のうつろひたる」を題にて、別れの歌よませ給へる、
  さは遠くうつろひぬとかきくの花折りて見るだに飽かぬ心を W
 帝の御舅・東宮の御祖父にて摂政せさせ給へば、世の中はわが御心にかなはぬことなく、過差ことのほかに好ませ給ひて、大饗せさせ給ふに、寝殿の裏板の壁の少し黒かりければ、にはかに御覧じつけて、陸奥紙をつぶと押させ給へりけるがなかなか白く清げに侍りける。思ひよるべきことかはな。御家は今の世尊寺ぞかし。御族の氏寺にておかれたるを、斯様のついでには、立ち入りて見給ふれば、まだその紙の押されて侍るこそ、昔にあへる心地してあはれに見給ふれ。斯様の御栄えを御覧じおきて、御年五十にだなたらで失せさせ給へるあたらしさは、父大臣にもおとらせ給はずこそ、世の人惜しみ奉りしか。
その御男・女君たちあまた御座しましき。女君一人は、冷泉院の御寺の女御にて、花山院の御母、贈皇后宮にならせ給ひにき。次々の女君二人は、法住寺の大臣の北の方にて、うちつづき失せさせ給ひにき。九の君は、冷泉院の御皇子の弾上の宮と申す御上にて御座せしを、その宮失せ給ひて後、尼にていみじう行ひつとめて御座すめり。また、忠君の兵衛督の北の方にて御座せしが、後には、六条の左大臣殿の御子の右大弁の上にて御座しけるは、四の君とこそは。
また、花山院の御妹の女一の宮は失せ給ひにき。女二の宮は冷泉院の御時の斎宮にたたせ給ひて、円融院の御時の女御に参り給へりしほどもなく、内の焼けにしかば、火の宮と世の人つけ奉りき。さて二三度参り給ひて後、ほどもなく失せ給ひにき。この宮に御覧ぜさせむとて、三宝絵はつくれるなり。
 男君たちは、代明の親王の御女の腹に、前少将挙賢・後少将義孝とて、花を折り給ひし君たちの、殿失せ給ひて、三年ばかりありて、天延二年甲戌の年、皰瘡おこりたるに、煩ひ給ひて、前少将は、朝に失せ、後少将は、夕にかくれ給ひにしぞかし。一日がうちに、二人の子をうしなひ給へりし、母北の方の御心地いかなりけむ、いとこそ悲しく承りしか。
 かの後少将は義孝とぞ聞えし。御かたちいとめでたく御座し、年頃きはめたる道心者にぞ御座しける。病重くなるままに、生くべくもおぼえ給はざりければ、母上に申し給ひけるやう、「おのれ死に侍りぬとも、とかく例のやうにせさせ給ふな。しばし法華経誦じ奉らむの本意侍れば、かならず帰りまうで来べし」と宣ひて、方便品を読み奉り給ひてぞ、失せ給ひける。その遺言を、母北の方忘れ給ふべきにはあらねども、物も覚えで御座しければ、思ふに人のし奉りてけるにや、枕がへしなにやと、例の様なる有様どもにしてければ、え帰り給はずなりにけり。後に、母北の方の御夢に見え給へる、
  しかばかり契りし物を渡り川かへるほどには忘るべしやは W
とぞよみ給ひける、いかにくやしく思しけむな。
 さて後、ほど経て、賀縁阿闍梨と申す僧の夢に、この君たち二人御座しけるが、兄、前少将いたう物思へるさまにて、この後少将は、いと心地よげなるさまにて御座しければ、阿闍梨、「君はなど心地よげにて御座する。母上は、君をこそ、兄君よりはいみじう恋ひきこえ給ふめれ」と聞えければ、いとあたはぬさまのけしきにて、
  しぐれとは蓮の花ぞ散りまがふなにふるさとに袖濡らすらむ W
など、うちよみ給ひける。さて後に、小野宮の実資の大臣の御夢に、おもしろき花のかげに御座しけるを、うつつにも語らひ給ひし御中にて、「いかでかくは。いづくにか」とめづらしがり申し給ひければ、その御いらへに、
  昔ハ契リキ、蓬莱宮ノ裏ノ月ニ
  今ハ遊ブ、極楽界ノ中ノ風ニ
昔契蓬莱宮裏月 今遊極楽界中風
とぞ宣ひける。極楽に生れ給へるにぞあなる。斯様にも夢など示い給はずとも、この人の御往生疑ひまうすべきならず。
 世の常の君達などのやうに、内わたりなどにて、おのづから女房と語らひ、はかなきことをだに宣はせざりけるに、いかなる折にかありけむ、細殿に立ち寄り給へれば、例ならずめづらしう物語りきこえさせけるが、やうやう夜中などにもなりやしぬらむと思ふほどに、立ち退き給ふを、いづかたへかとゆかしうて、人をつけ奉りて見せければ、北の陣出で給ふほどより、法華経をいみじう尊く誦じ給ふ。大宮のぼりに御座して、世尊寺へ御座しましつきぬ。なほ見ければ、東の対の端なる紅梅のいみじく盛りに咲きたる下に立たせ給ひて、「滅罪生善、往生極楽」といふ、額を西に向きて、あまたたびつかせ給ひけり。帰りて御有様語りければ、いといとあはれに聞き奉らぬ人なし。
 この翁もその頃大宮なる所に宿りて侍りしかば、御声にこそおどろきていといみじう承りしか。起き出でて見奉りしかば、空は霞みわたりたるに月はいみじうあかくて、御直衣のいと白きに、濃き指貫に、よいほどに御くくりあげて、何色にか、色ある御衣どもの、ゆたちより多くこぼれ出でて侍りし御様体などよ。御顔の色、月影に映えて、いと白く見えさせ給ひしに、鬢茎の掲焉にめでたくこそ、誠に御座しまししか。やがて見つぎ見つぎに御供に参りて、御額つかせ給ひしも見奉り侍りにき。いとかなしうあはれにこそ侍りしか。御供には童一人ぞ候ふめりし。
また、殿上の逍遥侍りし時さらなり、こと人はみな、こころごころに狩装束めでたうせられたりけるに、この殿はいたう待たれ給ひて、白き御衣どもに、香染の御狩衣、薄色の御指貫、いとはなやかならぬあはひにて、さし出で給へりけるこそ、なかなかに心を尽くしたる人よりはいみじう御座しましけれ。常の御ことなれば、法華経、御口につぶやきて、紫檀の数珠の、水精の装束したる、ひき隠して持ち給ひける御用意などの、優にこそ御座しましけれ。おほかた、一生精進を始め給へる、まづありがたきことぞかし。なほなほ同じことのやうにおぼえ侍れど、いみじう見給へ聞きおきつることは、申さまほしう。
 この殿は、御かたちのありがたく、末の世にもさる人や出で御座しましがたからむとまでこそ見給へしか。雪のいみじう降りたりし日、一条の左大臣殿に参らせ給ひて、御前の梅の木に雪のいたう積りたるを折りて、うち振らせ給へりしかば、御上に、はらはらとかかりたりしが、御直衣の裏の花なりければ、かへりていと斑になりて侍りしに、もてはやされさせ給へりし御かたちこそ、いとめでたく御座しまししか。御兄の少将も、いとよく御座しましき。この弟殿はかくあまりにうるはしく御座せしをもどきて、すこし勇幹にあしき人にてぞ御座せし。
 その義孝の少将、桃園の源中納言保光卿の女の御腹にうませ給へりし君ぞかし、今の侍従大納言行成卿、世の手書きとののしり給ふは。この殿の御男子、ただいまの但馬守実経の君・尾張守良経の君二人は、泰清の三位の女の腹なり。嫡腹の少将行経の君なり。女君は、入道殿の御子の、高松腹の権中納言殿の北の方にて御座せし、失せ給ひにきかし。また、今の丹波守経頼の君の北の方にて御座す。また、大姫君御座しますとか。
 この侍従大納言殿こそ、備後介とてまだ地下に御座せし時、蔵人頭になり給へる、例いとめづらしきことよな。その頃は、源民部卿殿は、職事にて御座しますに、上達部になり給ふべければ、一条院、「この次にはまた誰かなるべき」と問はせ給ひければ、「行成なむまかりなるべき人に候ふ」と奏せさせ給ひけるを、「地下の者はいかがあるべからむ」と宣はせければ、「いとやむごとなき者に候ふ。地下など思し召し憚らせ給ふまじ。ゆく末にもおほやけに、何事にもつかうまつらむにたへたる者になむ。斯様なる人を御覧じ分かぬは、世のためあしきことに侍り。善悪をわきまへ御座しませばこそ、人も心遣ひはつかうまつれ。このきはになさせ給はざらむは、いと口惜しきことにこそ候はめ」と申させ給ひければ、道理のこととはいひながら、なり給ひにしぞかし。
 おほかた昔は、前頭の挙によりて、後の頭はなることにて侍りしなり。されば、殿上に、われなるべしなど、思ひ給へりける人は、今宵と聞きて参り給へるに、いづこもととかにさし会ひ給へりけるを、「誰ぞ」と問ひ給ひければ、御名のりし給ひて、「頭になしたびたれば、参りて侍るなり」とあるに、あさましとあきれてこそ、動きもせで立ち給ひたりけれ。げに思ひがけぬことなれば、道理なりや。
この源民部卿かく申しなし給へることを思し知りて、従二位の折かとよ、越えまうし給ひしかど、さらに上に居給はざりき。かの殿出で給ふ日は、われ、病まうし、またともに出で給ふ日は、むかへ座などにぞ居給ひし。さて民部卿正二位の折こそは、もとのやうに下臈になり給ひしか。
 おほかた、この御族の頭争ひに、敵をつき給へば、これもいかが御座すべからむ。みな人知ろしめしたることなれど、朝成の中納言と一条摂政と同じ折の殿上人にて、品のほどこそ、一条殿とひとしからねど、身の才・人覚え、やむごとなき人なりければ、頭になるべき次第いたりたるに、またこの一条殿さらなり、道理の人にて御座しけるを、この朝成の君申し給ひけるやう、「殿はならせ給はずとも、人わろく思ひ申すべきにあらず。後々にも御心にまかせさせ給へり。
おのれは、このたびまかりはづれなば、いみじう辛かるべきことにてなむ侍るべきを、このたび、申させ給はで侍りなむや」と申し給ひければ、「ここにもさ思ふことなり。さらば申さじ」と宣ふを、いとうれしと思はれけるに、いかに思しなりにけることにか、やがて問ひごともなく、なり給ひにければ、かく謀り給ふべしやはと、いみじう心やましと思ひまうされけるに、御中よからぬやうにて過ぎ給ふほどに、この一条院殿のつかまつり人とかやのために、なめきことしたうびたりけるを、「本意なしなどばかりは思ふとも、いかに、ことにふれてわれなどをば、かくなめげにもてなしぞ」と、むつかり給ふと聞きて、「あやまたぬよしも申さむ」とて、参られたりけるに、はやうの人は、われより高き所にまうでては、「こなたへ」となきかぎりは、上にものぼらで、下に立てることになむありけるを、これは六七月のいと暑くたへがたき頃、かくと申させて、今や今やと、中門に立ちて待つほどに、西日もさしかかりて暑くたへがたしとはおろかなり、心地もそこなはれぬべきに、「はやう、この殿は、われをあぶり殺さむと思すにこそありけれ。益なくも参りにけるかな」と思ふに、すべて悪心おこるとは、おろかなり。夜になるほどに、さてあるべきならねば、笏をおさへて立ちければ、はたらと折れけるは。いかばかりの心をおこされにけるにか。さて家に帰りて、「この族ながく絶たむ。もし男子も女子もありとも、はかばかしくてはあらせじ。あはれといふ人もあらば、それをも恨みむ」など誓ひて、失せ給ひにければ、代々の御悪霊とこそはなり給ひたれ。されば、まして、この殿近く御座しませば、いとおそろし。殿の御夢に、南殿の御後、かならず人の参るに通る所よな、そこに人の立ちたるを、誰ぞと見れど、顔は戸の上に隠れたれば、よくも見えず。あやしくて、「誰そ誰そ」と、あまたたび問はれて、「朝成に侍り」といらふるに、夢のうちにもいとおそろしけれど、念じて、「などかくては立ち給ひたるぞ」と問ひ給ひければ、「頭弁の参らるるを待ち侍るなり」といふと見給ひて、おどろきて、「今日は公事ある日なれば、とく参らるらむ。不便なるわざかな」とて、「夢に見え給へることあり。今日は御病まうしなどもして、物忌かたくして、なにか参り給ふ。こまかにはみづから」と書きて急ぎ奉り給へど、ちがひていととく参り給ひにけり。まもりのこはくや御座しけむ、例のやうにはあらで、北の陣より藤壺・後涼殿のはさまより通りて、殿上に参り給へるに、「こはいかに。御消息奉りつるは、御覧ぜざりつるか。かかる夢をなむ見侍りつるは」。手をはたと打ちて、いかにぞと、こまかにも問ひ申させ給はず、また二つ物も宣はで出で給ひにけり。さて御祈などして、しばしは内へも参り給はざりけり。この物の怪の家は、三条よりは北、西洞院よりは西なり。今に一条殿の御族あからさまにも入らぬところなり。
 この大納言殿、よろづにととのひ給へるに、和歌の方や少しおくれ給へりけむ。殿上に歌論義といふこと出できて、その道の人々、いかが問答すべきなど、歌の学問よりほかのこともなきに、この大納言殿は、物も宣はざりければ、いかなることぞとて、なにがしの殿の、「難波津に咲くやこの花冬ごもり、いかに」と聞えさせ給ひければ、とばかり物も宣はで、いみじう思し案ずるさまにもてなして、「え知らず」と答へさせ給へりけるに、人々笑ひて、こと醒め
侍りにけり。
すこしいたらぬことにも、御魂の深く御座して、らうらうじうしなし給ひける御根性にて、帝幼く御座しまして、人々に、「遊び物ども参らせよ」と仰せられければ、さまざま、金・銀など心を尽くして、いかなることをがなと、風流をし出でて、持て参り会ひたるに、この殿は、こまつぶりにむらごの緒つけて奉り給へりければ、「あやしの物のさまや。こはなにぞ」と問はせ給ひければ、「しかじかの物になむ」と申す、「まはして御覧じ御座しませ。興ある物になむ」と申されければ、南殿に出でさせ御座しまして、まはさせ給ふに、いと広き殿のうちに、のこらずくるべき歩けば、いみじう興ぜさせ給ひて、これをのみ、つねに御覧じあそばせ給へば、こと物どもは籠められにけり。
 また、殿上人、扇どもして参らするに、こと人々は、骨に蒔絵をし、あるは、金・銀・沈・紫壇の骨になむ筋を入れ、彫物をし、えもいはぬ紙どもに、人のなべて知らぬ歌や詩や、また六十余国の歌枕に名あがりたる所々などを書きつつ、人人参らするに、例のこの殿は、骨の漆ばかりをかしげに塗りて、黄なる唐紙の下絵ほのかにをかしきほどなるに、表の方には楽府をうるはしく真に書き、裏には御筆とどめて草にめでたく書きて奉り給へりければ、うち返しうち返し御覧じて、御手箱に入れさせ給ひて、いみじき御宝と思し召したりければ、こと扇どもは、ただ御覧じ興ずるばかりにてやみにけり。いずれもいずれも、帝王の御感侍るにますことやはあるべきよな。
 いみじき秀句宣へる人なり。この高陽院殿にて競馬ある日、鼓は、讃岐前司明理ぞ打ち給ひし。一番にはなにがし、二番にはかがしなどいひしかど、その名こそ覚えね。勝つべき方の鼓をあしう打ちさげて、負になりにければ、その随身の、やがて馬の上にて、ない腹を立ちて、見返るままに、「あなわざはひや。かばかりのことをだにしそこなひ給ふよ。かかれば、『明理・行成』と一双にいはれ給ひしかども、一の大納言にて、いとやむごとなくて候はせ給ふに、くさりたる讃岐前司古受領の、鼓打ちそこなひて、立ち給ひたるぞかし」と放言したいまつりけるを、大納言殿聞かせ給ひて、「明理の濫行に、行成が醜名呼ぶべきにあらず。いと辛いことなり」とて、笑はせ給ひければ、人々、「いみじう宣はせたり」とて、興じ奉りて、その頃のいひごとにこそし侍りしか。
また、一条摂政殿の御男子、花山院の御時、帝の御舅にて、義懐の中納言と聞えし、少将たちの同じ腹よ。その御時は、いみじうはなやぎ給ひしに、帝の出家せさせ給ひてしかば、やがて、われも、遅れ奉らじとて、花山まで尋ね参りて、一日をはさめて、法師になり給ひにき。飯室といふ所に、いと尊く行ひてぞかくれ給ひにし。その中納言、文盲にこそ御座せしかど、御心魂いとかしこく、有識に御座しまして、花山院の御時の政は、ただこの殿と惟成の弁として行ひ給ひければ、いといみじかりしぞかし。
 その帝をば、「内劣りの外めでた」とぞ、世の人、申しし。「冬の臨時の祭の、日の暮るる、あしきことなり。辰の時に人々参れ」と、宣旨下させ給ふを、さぞ仰せらるとも、巳・午の時にぞ始まらむなど思ひ給へりけるに、舞人の君達装束賜はりに参り御座さうじたりければ、帝は御装束奉りて、立たせ御座しましたりけるに、この入道殿も舞人にて御座しましければ、この頃、語らせ給ふなるを、伝へて承るなり。あかく大路などわたるがよかるべきにやと思ふに、帝、馬をいみじう興ぜさせ給ひければ、舞人の馬を後涼殿の北の馬道より通させ給ひて、朝餉の壺にひきおろさせ給ひて、殿上人どもを乗せて御覧ずるをだに、あさましう人々思ふに、はては乗らむとさへせさせ給ふに、すべき方もなくて候ひ会ひ給へるほどに、さるべきにや侍りけむ、入道中納言さし出で給へりけるに、帝、御おもていと赤くならせ給ひて、術なげに思し召したり。中納言もいとあさましう見奉り給へど、人々の見るに、制しまうさむも、なかなか見ぐるしければ、もてはやし興じまうし給ふにもてなしつつ、みづから下襲のしりはさみて乗り給ひぬ。さばかりせばき壺に折りまはし、おもしろくあげ給へば、御けしきなほりて、あしきことにはなかりけり、と思し召して、いみじう興ぜさせ給ひけるを、中納言あさましうもあはれにも思さるる御けしきは、同じ御心によからぬことを囃しまうし給ふとは見えず、誰もさぞかしとは見知りきこえさする人もありければこそは、かくも申し伝へたれな。また、「みづから乗り給ふまではあまりなり」といふ人もありけり。
 これならず、ひたぶるに色にはいたくも見えず、ただ御本性のけしからぬさまに見えさせ給へば、いと大事にぞ。されば源民部卿は、「冷泉院の狂ひよりは、花山院の狂ひは術なき物なれ」と申し給ひければ、入道殿は、「いと不便なることをも申さるるかな」と仰せられながら、いといみじう笑はせ給ひけり。
 この義懐の中納言の御出家、惟成の弁の勧めきこえられたりけるとぞ。いみじういたりありける人にて、「いまさらに、よそ人にてまじらひ給はむ見ぐるしかりなむ」と聞えさせければ、げにさもと、いとど思して、なり給ひにしを、もとよりおこし給はぬ道心なれば、いかがと人思ひきこえしかど、落ち居給へる御心の本性なれば、懈怠なく行ひ給ひて、失せ給ひにしぞかし。
 その御子は、ただいまの飯室の僧都、また、絵阿闍梨の君、入道中将成房の君なり。この三人、備中守為雅の女の腹なり。その中将の女は、定経のぬしの妻にてこそは御座すめれ。一条殿の御族は、いかなることにか、御命短くぞ御座しますめる。
花山院の、御出家の本意あり、いみじう行はせ給ひ、修行せさせ給はぬところなし。されば、熊野の道に千里の浜といふところにて、御心地そこなはせ給へれば、浜づらに石のあるを御枕にて、大殿籠りたるに、いと近く海人の塩焼く煙の立ちのぼる心ぼそさ、げにいかにあはれに思されけむな。
  旅の空夜半のけぶりとのぼりなば海人の藻塩火焚くかとや見む W
 かかるほどに、御験いみじうつかせ給ひて、中堂にのぼらせ給へる夜、験競べしけるを、試むと思し召して、御心のうちに念じ御座しましければ、護法つきたる法師、御座します御屏風のつらに引きつけられて、ふつと動きもせず、あまりひさしくなれば、今はとてゆるさせ給ふ折ぞ、つけつる僧どものがり、をどりいぬるを、「はやう院の御護法の引き取るにこそありけれ」と、人々あはれに見奉る。それ、さることに侍り。験も品によることなれば、いみじき行ひ人なりとも、いかでかなずらひまうさむ。前生の御戒力に、また、国王の位をすて給へる出家の御功徳、かぎりなき御ことにこそ御座しますらめ。ゆく末までも、さばかりならせ給ひなむ御心には、懈怠せさせ給ふべきことかはな。それに、いとあやしくならせ給ひにし御心あやまちも、ただ御物の怪のし奉りぬるにこそ侍めりしか。
 なかにも、冷泉院の、南院に御座しましし時、焼亡ありし夜、御とぶらひに参らせ給へりし有様こそ不思議に候ひしか。御親の院は御車にて二条町尻の辻に立たせ給へり。この院は御馬にて、頂に鏡いれたる笠、頭光に奉りて、「いづくにか御座します、いづくにか御座します」と、御手づから人ごとに尋ね申させ給へば、「そこそこになむ」と聞かせ給ひて、御座しましどころへ近く降りさせ給ひぬ。御馬の鞭腕に入れて、御車の前に御袖うち合せて、いみじうつきづきしう居させ給へりしは、さることやは侍りしとよ。それにまた、冷泉院の、御車のうちより、高やかに神楽歌をうたはせ給ひしは、さまざま興あることをも見聞くかなと、おぼえ候ひし。明順のぬしの、「庭火、いと猛なりや」と宣へりけるにこそ、万人えたへず笑ひ給ひにけれ。
 あてまた、花山院の、ひととせ、祭のかへさ御覧ぜし御有様は、誰も見奉り給ひけむな。前の日、こと出させ給へりしたびのことぞかし。さることあらむまたの日は、なほ御歩きなどなくてもあるべきに、いみじき一のものども、高帽頼勢を始めとして、御車のしりに多くうちむれ参りしけしきども、いへばおろかなり。なによりも御数珠のいと興ありしなり。小さき柑子をおほかたの玉には貫かせ給ひて、達磨には大柑子をしたる御数珠、いと長く御指貫に具して出させ給へりしは、さる見物やは候ひしな。紫野にて、人人、御車に目をつけ奉りたりしに、検非違使参りて、昨日、こと出したりし童べ捕ふべし、といふこと出できにける物か。このごろの権大納言殿、まだその折は若く御座しまししほどぞかし、人走らせて、「かうかうのこと候ふ。とく帰らせ給ひね」と申させ給へりしかば、そこら候ひつるものども、蜘蛛の子を風の吹き払ふごとくに逃げぬれば、ただ御車副のかぎりにてやらせて、物見車のうしろの方より御座しまししこそ、さすがにいとほしく、かたじけなくおぼえ御座しまししか。さて検非違使つきや、いといみじう辛う責められ給ひて、太上天皇の御名は下させ給ひてき。かかればこそ、民部卿殿の御いひ言はげにとおぼゆれ。
 さすがに、あそばしたる和歌は、いづれも人の口にのらぬなく、優にこそ承れな。「ほかの月をも見てしがな」などは、この御有様に思し召しよりけることともおぼえず、心ぐるしうこそ候へ。あてまた冷泉院に笋奉らせ給へる折は、
  世の中にふるかひもなきたけのこはわが経む年を奉るなり W
御返し、
  年経ぬる竹のよはひを返してもこの世をながくなさむとぞ思ふ W
「かたじけなく仰せられたり」と、御集に侍るこそあはれに候へ。誠に、さる御心にも、祝ひ申さむと思し召しけるかなしさよ。
 この花山院は、風流者にさへ御座しましけるこそ。御所つくらせ給へりしさまなどよ。
寝殿・対・渡殿などは、つくり会ひ、檜皮葺きあはすることも、この院のし出でさせ給へるなり。昔は別々にて、あはひに樋かけてぞ侍りし。内裏は今にさてこそは侍るめれ。
御車やどりには、板敷を奥には高く、端はさがりて、大きなる妻戸をせさせ給へる、ゆゑは、御車の装束をさながら立てさせ給ひて、おのづからとみのことの折に、とりあへず戸押し開かば、からからと、人も手もふれぬさきに、さし出さむが料と、おもしろく思し召しよりたることぞかし。御調度どもなどの清らさこそ、えもいはず侍りけれ。六の宮の絶えいり給へりし御誦経にせられたりし御硯の箱見給へき。海賦に蓬莱山・手長・足長、金して蒔かせ給へりし、かばかりの箱の漆つき、蒔絵のさま、くちをかれたりし様などのいとめでたかりしなり。
 また、木立つくらせ給へりし折は、「桜の花は優なるに枝ざしのこはごはしく、幹の様などもにくし。梢ばかりを見るなむをかしき」とて中門より外に植ゑさせ給へる、なによりもいみじく思し寄りたりと、人は感じまうしき。また、撫子の種を築地の上にまかせ給へりければ、思ひがけぬ四方に、色々の唐錦をひきかけたるやうに咲きたりしなどを見給へしは、いかにめでたく侍りしかは。
 入道殿、競馬せさせ給ひし日、迎へまうさせ給ひけるに、わたり御座します日の御装は、さらなり、おろかなるべきにあらねど、それにつけても、誠に、御車のさまこそ、世にたぐひなく候ひしか。御沓にいたるまで、ただ、人の見物になるばかりこそ、後には持て歩くと承りしか。
 あて、御絵あそばしたりし、興あり。さは、走り車の輪には、薄墨に塗らせ給ひて、大きさのほど、輻などのしるしには墨をにほはさせ給へりし、げにかくこそ書くべかりけれ。あまりに走る車は、いつかは黒さのほどやは見え侍る。
また、笋の皮を、男の指ごとに入れて、目かかうして、児をおどせば、顔を赤めてゆゆしう怖ぢたるかた、また、徳人・たよりなしの家のうちの作法などかかせ給へりしが、いづれもいづれも、さぞありけむとのみ、あさましうこそ候ひしか。この中に、御覧じたる人もや御座しますらむ。
一 太政大臣兼通忠義公
この大臣、これ、九条殿の次郎君、堀河の関白と聞えさせき。関白し給ふこと、六年。
安和二年正月七日、宰相にならせ給ふ。閏五月二十一日、宮内卿とこそは申ししか。天禄二年閏二月二十九日、中納言にならせ給ひて、大納言をば経で、十一月二十七日、内大臣にならせ給ふ。いとめでたかりしことなり。
弟の東三条殿の中納言に御座しまししに、まだこの殿は宰相にていと辛きことに思したりしに、かくならせ給ひしめでたかりしことなりかし。天延二年正月七日、従二位せさせ給ふ。二月二十八日に太政大臣にならせ給ふ。やがて正二位せさせ給ひ、輦車ゆるさせ給ひて、三月二十六日、関白にならせ給ひにしぞかし。宰相にならせ給ひし年より六年といふにかくならせ給ひにき。天延三年正月七日、一位せさせ給ひてき。貞元二年十一月八日失せさせ給ひにき、御年五十三.同じ二十日、贈正一位の宣旨あり。後の御いみな、忠義公と申しき。この殿、かくめでたく御座しますほどよりは、ひまなくて大将にえなり給はざりしぞ、口惜しかりしや。それ斯様ならんためにこそあれ。さてもありぬべきことなり。ただ思し召せかしな。
御母のことのなきは、一条殿の同じきにや。大入道殿、納言にて御座しますほど、御兄なれど、宰相にて年頃経させ給ひけるを、天禄三年二月に中納言になり給ひて、宮中のこと内覧すべき宣旨承らせ給ひにけり。同じ年十一月に、内大臣にて関白の宣旨かぶらせ給ひてぞ、多くの人越え給ひける。
円融院の御母后、この大臣の妹に御座しますぞかし。この后、村上の御時、康保元年四月二十九日に失せ給ひにしぞかし。この后のいまだ御座しましし時に、この大臣いかが思しけむ、「関白は、次第のままにせさせ給へ」と書かせ奉りて、取り給ひたりける御文を、守のやうに首にかけて、年頃、持ちたりけり。御弟の東三条殿は、冷泉院の御時の蔵人頭にて、この殿よりも先に三位して、中納言にもなり給ひにしに、この殿は、はつかに宰相ばかりにて御座せしかば、世の中すさまじがりて、内にもつねに参り給はねば、帝も、うとく思し召したり。
  その時に、兄の一条の摂政、天禄三年十月に失せ給ひぬるに、この御文を内に持て参り給ひて、御覧ぜさせむと思すほどに、上、鬼の間に御座しますほどなりけり。折よしと思し召すに、御舅たちの中に、うとく御座します人なれば、うち御覧じて入らせ給ひき。さし寄りて、「奏すべきこと」と申し給へば、立ち帰らせ給へるに、この文を引き出でて参らせ給へれば、取りて御覧ずれば、紫の薄様一重に、故宮の御手にて、「関白をば、次第のままにせさせ給へ。ゆめゆめたがへさせ給ふな」と書かせ給へる、御覧ずるままに、いとあはれげに思し召したる御けしきにて、「故宮の御手よな」と仰せられ、御文をば取りて入らせ給ひにけりとこそは。さてかく出で給へるとこそは聞え侍りしか。いと心かしこく思しけることにて、さるべき御宿世とは申しながら、円融院孝養の心深く御座しまして、母宮の御遺言たがへじとて、なし奉らせ給へりける、いとあはれなることなり。
  その時、頼忠の大臣、右大臣にて御座しまししかば、道理のままならば、この大臣のし給ふべきにてありしに、この文にてかくありけるとこそは聞え侍りしか。東三条殿も、この堀河殿よりは上臈にて御座しまししかば、いみじう思し召しよりたることぞかし。
この殿の御着袴に、貞信公の御もとに参り給へる、贈物に添へさせ給ふとて、貫之のぬしに召したりしかば、奉れたりし歌、
  ことに出でで心のうちに知らるるは神のすぢなはぬけるなりけり W
引出物に、琴をせさせ給へるにや。
 御かたちいと清げに、きららかになどぞ御座しましし。堀河院に住ませ給ひしころ、臨時客の日、寝殿の隅の紅梅盛りに咲きたるを、ことはてて内へ参らせ給ひざまに、花の下に立ち寄らせ給ひて、一枝をおし折りて、御挿頭にさして、けしきばかりうち奏でさせ給へりし日などは、いとこそめでたく見えさせ給ひしか。
 この殿には、御夜に召す卯酒の御肴には、ただいま殺したる〓[矢+鳥]をぞ参らせける。持て参りあふべきならねば、宵よりぞまうけておかれける。業遠のぬしのまだ六位にて、始めて参れる夜、御沓櫃のもとに居られたりければ、櫃のうちに、物のほとほとしけるがあやしさに、暗まぎれなれば、やをら細めにあけて見給ひければ、〓[矢+鳥]の雄鳥かがまりをる物か。人のいふことはまことなりけりと、あさましうて、人の寝にける折に、やをら取り出して、懐にさし入れて、冷泉院の山に放ちたりしかば、ほろほろと飛びてこそ去にしか。「し得たりし心地は、いみじかりし物かな。それにぞ、われは幸ひ人なりけりとはおぼえしか」となむ、語られける。殺生は殿ばらの皆せさせ給ふことなれど、これはむげの無益のことなり。
この殿の御女、式部卿の宮元平の親王の御女の御腹の姫君、円融院の御時に参り給ひて、堀河の中宮と申しき。幼く御座しまししほど、いかなりけるにか、例の御親のやうにつねに見奉りなどもし給はざりければ、御心いとかしこう、また御後見などこそは申しすすめけめ、物詣・祈をいみじうせさせ給ひけるとか。稲荷の坂にても、この女ども見奉りけり。いと苦しげにて、御〓[巾+皮]おしやりて、あふがれさせ給ひける御姿つき、指貫の腰ぎはなども、さはいへど、多くの人よりは気高く、なべてならずぞ御座しける。斯様につとめさせ給へるつもりにや、やうやうおとなび給ふままに、これよりおとななる御女も御座しまさねば、さりとて后にたて奉らであるべきならねば、かく参らせ奉らせ給ひて、いとやむごとなく候はせ給ひしぞかし。いま一所の姫君は、尚侍にならせ給へりし、今に御座します。六条の左大臣殿の御子の讃岐守の上にて御座するとかや。
 また、太郎君、長徳二年七月二十一日、右大臣にならせ給ひにき。御年七十八にてや失せ御座しましけむ。失せ給ひて、この五年ばかりにやなりぬらむ。悪霊の左大臣殿と申し伝へたる、いと心憂き御名なりかし。そのゆゑどもみな侍るべし。この御北の方には、村上の先帝の女五の宮、広幡の御息所の御腹ぞかし。その御腹に、男子一人・女二人御座しまししを、男君は重家の少将とて、心ばへ有識に、世覚え重くてまじらひ給ひしほどに、ひさしく御座しますまじかりければにや、出家して失せ給ひにき。女君一所は、一条院の御時の承香殿の女御とて御座せしが、末には、為平の式部卿の宮の御子、源宰相頼定の君の北の方にて、あまたの君達御座すめり。そのほどの御ことどもは、皆人知ろしめしたらむ。その宰相失せ給ひにしかば、尼になりて御座します。いま一所は、今の小一条院の、まだ式部卿の宮と申しし折、婿にとり奉らせ給へりしほどに、春宮にたたせ給へりしをうれしきことに思ししかど、院にならせ給ひにし後は、高松殿の御匣殿にわたらせ給ひて、御心ばかりは通はし給ひながら、通はせ給ふこと絶えにしかば、女御も父大臣も、いみじう思し嘆きしほどに、御病にもなりにけるにや、失せ給ひにき。
いみじきものになりて、父大臣具してこそ、し歩き給ふなれ。院の女御には、つねにつきわづらはせ給ふなり。
その腹に、宮たちあまた所御座します。
また、堀河の関白殿の御二郎、兵部卿有明の親王の御女の腹の君、中宮の御一つ腹には御座せず。これはまた、閑院の大将朝光とぞ申しし。兄の大臣、宰相にて御座しけるほどは、この殿は中納言にてぞ御座しける。ひき越され給ひけるぞめでたく、その頃などすべていみじかりし御世覚えにて、御まじらひのほどなど、ことのほかにきらめき給ひき。胡〓[竹+禄]の水精の筈も、この殿の思ひ寄りし出で給へるなり。何事の行幸にぞや仕まつり給へりしに、この胡〓[竹+禄]負ひ給へりしは、朝日の光に輝き会ひて、さるめでたきことやは侍りし。今は目馴れにたれば、めづらしからず人も思ひて侍るぞ。何事につけても、はなやかにもて出でさせ給へりし殿の、父殿失せ給ひにしかば、世の中おとろへなどして、御病も重くて、大将も辞し給ひてこそ、口惜しかりしか。さて、ただ按察大納言とぞ聞えさせし。和歌などこそ、いとをかしくあそばししか。四十五にて失せ給ひにき。
 北の方には、貞観殿の尚侍の御腹の、重明の式部卿の宮の御中姫君ぞ御座せしかし。その御腹に、男君三人、女君のかかやくごとくなる御座せし、花山院の御時参らせ給ひて、一月ばかりいみじうときめかせ給ひしを、いかにしけることにかありけむ、まう上り給ふこともとどまり、帝もわたらせ給ふこと絶えて、御文だに見えきこえずなりにしかば、一二月候ひわびてこそは、出でさせ給ひにしか。また、さあさましかりしことやはありし。御かたちなどの、世の常ならずをかしげにて、思し嘆くも、見奉り給ふ大納言・御せうとの君たち、いかがは思しけむ。その御一つ腹の男君三所、太郎君は、今の藤中納言朝経の卿に御座すめり。人に重く思はれ給へるめり。次郎・三郎君は、馬頭・少将などにて、みな出家しつつ失せ給ひにき。この馬の入道の御男子なり、今の右京大夫。
この閑院の大将殿は、後にはこの君達の母をばさりて、枇杷の大納言延光の卿の失せ給ひにし後、その上の、年老いて、かたちなどわろく御座しけるにや、ことなること聞え給はざりしをぞ住み給ひし。徳につき給へるとぞ世の人申しし。さて、世覚えもおとり給ひにしぞかし。もとの上、御かたちもいとうつくしく、人のほどもやむごとなく御座しまししかど、不合に御座すとて、かかる今北の方をまうけて、さり給ひにしぞかし。この今の上の御もとには、女房三十人ばかり、裳・唐衣着せて、えもいはずさうぞきて、すゑ並べて、しつらひ有様より始めて、めでたくしたてて、かしづききこゆることかぎりなし。大将歩きて帰り給ふ折は、冬は火おほらかに埋みて、薫物多きにつくりて、伏籠うち置きて、褻に着給ふ御衣をば、暖かにてぞ着せ奉り給ふ。炭櫃に銀の提子二十ばかりを据ゑて、さまざまの薬を置き並べて参り給ふ。また、寝給ふ畳の上筵に、綿入れてぞ敷かせ奉らせ給ふ。寝給ふ時には、大きなる熨斗持ちたる女房三四人ばかり出で来て、かの
大殿籠る筵をば、暖かにのしなでてぞ寝させ奉り給ふ。あまりなる御用意なりしかは。
おほかたのしつらひ・有様、女房の装束などはめでたけれども、この北の方は、練色の衣の綿厚き二つばかりに、白袴うち着てぞ御座しける。年四十余ばかりなる人の、大将には親ばかりにぞ御座しける。色黒くて、額に花がたうち付きて、髪ちぢけたるにぞ御座しける。御かたちのほどを思ひ知りて、さまに会ひたる装束と思しけるにや、誠にその御装束こそ、かたちに合ひて見えけれ。さばかりの人の北の方と申すべくも見えざりけれど、もとの北の方重明の式部卿の宮の姫君、貞観殿の尚侍の御腹、やむごとなき人と申しながら、かたち・有様めでたく御座しけるに、かかる人に思しうつりて、さり奉らせ給ひけむほど思ひ侍るに、ただ徳のありて、かくもてかしづききこゆるに、思ひの御座しけるにや。
やむごとなき人だにこそかくは御座しけれ。あはれ、翁らが心にだに、いみじき宝を降らしてあつかはむといふ人ありとも、年頃の女どもをうち捨ててまからむは、いとほしかりぬべきに、さばかりにやむごとなく御座します人は、不合に御座すといふとも、翁らが宿りのやうに侍らむやは。この今北の方のことにより、世の人にも軽く思はれ、世覚えもおとり給ひにし、いと口惜しきことに侍りや。さばかりのこと思しわかぬやう侍るべしや。あやしの翁らが心におとらせ給はむやは、と思ひ給ふれど、口惜しく思ひ給ふることなりしかば、申すぞや」とて、ほほゑむけしき、はづかしげなり。
《世継》「さばかりの人だにかく御座しましければ、それより次々の人のいかなる振舞もせむ、ことわりなりや。翁らがここらの年頃、あやしの宿りに、わりなき世を念じ過して侍りつるこそ、ありがたくおぼえ侍りつれ」
快くうちすみたりし顔けしきこそいとをかしかりしか。
《世継》「さて、時々、もとの上の御もとへ御座しまさむとて、牛飼・車副などに、「そなたへ車をやれ」とて仰せられけれどさらに聞かざりけれ。この今北の方、侍・雑色・隨身・車副などに、装束物取らすることはさるものにて、日ごとに酒を出して飲ませ遊ばせ、いみじき志どもをしける。その故にや、かくしけるを、それまたいとあやしき御心なりや。雑色・牛飼の心にまかせて、それによりてえ御座しまさざりけむよ。さることやは侍るな。さるは、この大将は、御心ばへもかたちも、人にすぐれてめでたく御座せし人なり。
また、堀河殿の御子、大蔵卿正光と聞えしが御女、源帥の御中の君の御腹のぞかし。今の皇太后宮の御匣殿とて候ひ給ふ、ただいまの左兵衛督の北の方。また、上野前司兼定の君ぞかし。まことや、北面の中納言とかや、世の人の申しし時光の卿、それまた、右京大夫にて御座せし。この大夫の御子ぞかし、今の仁和寺の別当、律師尋清の君。堀河殿の御末、かばかりか。
 この大臣、すべて非常の御心ぞ御座しし。かばかり末絶えず栄え御座しましける東三条殿を、ゆゑなきことにより、御官位を取り奉り給へりし、いかに悪事なりしかは。天道もやすからず思し召しけむを。その折の帝、円融院にぞ御座しましし。かかる嘆きのよしを長歌によみて、奉り給へりしかば、帝の御返り、「いなふねの」とこそ仰せられければ、しばしばかりを思し嘆きしぞかし。
堀河殿、はてはわれ失せ給はむとては、関白をば、御いとこの頼忠の大臣にぞ譲り給ひしこそ、世の人いみじき僻事と謗りまうししか」。
この向ひ居る侍のいふやう、
「東三条殿の官など取り奉らせ給ひしほどのことは、ことわりとこそ承りしか。おのれが祖父親は、かの殿の年頃の者にて侍りしかば、こまかに承りしは。この殿たちの兄弟の御中、年頃の官位の劣り優りのほどに、御中あしくて過ぎさせ給ひし間に、堀河殿御病重くならせ給ひて、今はかぎりにて御座しまししほどに、東の方に、先追ふ音のすれば、御前に候ふ人たち、「誰ぞ」などいふほどに、「東三条殿の大将殿参らせ給ふ」と人の申しければ、殿聞かせ給ひて、年頃なからひよからずして過ぎつるに、今はかぎりになりたると聞きて、とぶらひに御座するにこそはとて、御前なる苦しき物取り遣り、大殿籠りたる所ひきつくろひなどして、入れ奉らむとて、待ち給ふに、「早く過ぎて、内へ参らせ給ひぬ」と人の申すに、いとあさましく心憂くて、御前に候ふ人々も、をこがましく思ふらむ。御座したらば、関白など譲ることなど申さむとこそ思ひつるに。かかればこそ、年頃なからひよからで過ぎつれ。あさましくやすからぬことなりとて、かぎりのさまにて臥し給へる人の、「かき起せ」と宣へば、人々、あやしと思ふほどに、「車に装束せよ。御前もよほせ」と仰せらるれば、物のつかせ給へるか、現心もなくて仰せらるるかと、あやしく見奉るほどに、御冠召し寄せて、装束などせさせ給ひて、内へ参らせ給ひて、陣のうちは君達にかかりて、滝口の陣の方より、御前へ参らせ給ひて、昆明池の障子のもとにさし出でさせ給へるに、昼の御座に、東三条の大将、御前に候ひ給ふほどなりけり。
この大将殿は、堀河殿すでに失せさせ給ひぬと聞かせ給ひて、内に関白のこと申さむと思ひ給ひて、この殿の門を通りて、参りて申し奉るほどに、堀河殿の目をつづらかにさし出で給へるに、帝も大将も、いとあさましく思し召す。大将はうち見るままに、立ちて鬼の間の方に御座しましぬ。関白殿御前につい居給ひて、御けしきいとあしくて、「最後の除目行ひに参り給ふるなり」とて、蔵人頭召して、関白には頼忠の大臣、東三条殿の大将を取りて、小一条の済時の中納言を大将になしきこゆる宣旨下して、東三条殿をば治部卿になしきこえて、出でさせ給ひて、ほどなく失せ給ひしぞかし。心意地にて御座せし殿にて、さばかりかぎりに御座せしに、ねたさに内に参りて申させ給ひしほど、こと人すべうもなかりことぞかし。
されば、東三条殿官取り給ふことも、ひたぶるに堀河殿の非常の御心にも侍らず。ことのゆゑは、かくなり。「関白は次第のままに」といふ御文思し召しより、御妹の宮に申して取り給へるも、最後に思すことどもして、失せ給へるほども、思ひ侍るに、心つよくかしこく御座しましける殿なり」。
一 太政大臣為光 恒徳公
《世継》「この大臣は、これ九条殿の御九郎君、大臣の位にて七年、法住寺の大臣と聞えさす。御男子七人・女君五人御座しき。女二所は、佐理の兵部卿の御妹の腹、いま三所は、一条の摂政の御女の腹に御座します。男君たちの御母、皆あかれあかれに御座しましき。女君一所は、花山院の御時の女御、いみじう時に御座せしほどに、失せ給ひにき。いま一所も、入道中納言の北の方にて失せ給ひにき。 男君、太郎は左衛門督と聞えさせし、悪心起して失せ給ひにし有様は、いとあさましかりしことぞかし。人に越えられ、辛いめみることは、さのみこそ御座しあるわざなるを、さるべきにこそはありけめ。同じ宰相に御座すれど、弟殿には人柄・世覚えの劣り給へればにや、中納言あくきはに、われもならむ、など思して、わざと対面し給ひて、「このたびの中納言望みまうし給ふな。ここに申し侍るべきなり」と聞え給ひければ、「いかでか殿の御先にはまかりなり侍らむ。ましてかく仰せられむには、あるべきことならず」と申し給ひければ、御心ゆきて、しか思して、いみじう申し給ふにおよばぬほどにや御座しけむ、入道殿、この弟殿に、「そこは申されぬか」と宣はせければ、「左衛門督の申さるれば、いかがは」と、しぶしぶげに申し給ひけるに、「かの左衛門督はえなられじ。また、そこにさられば、こと人こそはなるべかなれ」とのたまはせければ、「かの左衛門督まかりなるまじくは、由なし。なし賜ぶべきなり」と申し給へば、またかくあらむには、こと人はいかでかとて、なり給ひにしを、いかでわれに向ひて、あるまじきよしを謀りけるぞ、と思すに、いとど悪心を起して、除目のあしたより、手をつよくにぎりて、「斉信・道長にわれははまれぬるぞ」といひいりて、物もつゆ参らで、うつぶしうつぶし給へるほどに、病づきて七日といふに失せ給ひにしは。にぎり給ひたりける指は、あまりつよくて、上にこそ通りて出でて侍りけれ。
 いみじき上戸にてぞ御座せし。この関白殿のひととせの臨時客に、あまり酔ひて、御座に居ながら立ちもあへ給はで、物つき給へりけるにぞ、高名の弘高が書きたる楽府の屏風にかかりて、そこなはれたなる。この中納言になり給へるも、いと世覚えあり、よき人にて御座しき。
 また、権中将道信の君、いみじき和歌の上手にて、心にくき人にいはれ給ひしほどに、失せ給ひにき。また、左衛門督公信の卿・法住寺の僧都の君・阿闍梨良光の君御座す。まこと、一条摂政殿の御女の腹の女君たち、三・四・五の御方。三の御方は、鷹司殿の上とて、尼になりて御座します。四の御方は、入道殿の俗に御座しましし折の御子うみて、失せ給ひにき。五の君は、今の皇太后宮に候はせ給ふ。この大臣の御有様かくなり。
 法住寺をぞ、いといかめしうおきてさせ給へる。摂政・関白せさせ給はぬ人の御しわざにては、いと猛なりかし。この大臣、いとやむごとなく御座しまししかど、御末ほそくぞ。
太政大臣公季 仁義公
この大臣、ただいまの閑院の大臣に御座します。これ、九条殿の十一郎君、母、宮腹に御座します。皇子の御女をぞ、北の方にて御座しましし。その御腹に、女君一所、男君二所、女君は、一条院の御時の弘徽殿の女御、今に御座します。男一人は、三味噌都如源と申しし、失せ給ひにき。いま一所の男君は、ただいまの右衛門督実成の卿にぞ御座する。この殿の御子、播磨守陳政の女の腹に、女二所・男一人御座します。大姫君は、今の中宮権大夫殿の北の方、いま一所は源大納言俊賢の卿、これ民部卿と聞ゆ、その御子のただいまの頭中将顕基の君の御北の方にて御座すめる。男君をば、御祖父の太政大臣殿、子にし奉り給ひて、公成とつけ奉らせ給へるなり。蔵人頭にて、いと覚えことにて御座すめる君になむ。この太政大臣殿の御有様かくなり。帝・后、たたせ給はず。
このおほきおとどの御母上は、延喜の帝の御女、四の宮と聞えさせき。延喜、いみじうときめかせ、思ひ奉らせ給へりき。御裳着の屏風に、公忠の弁、
  ゆきやらで山路くらしつほととぎすいま一声の聞かまほしさに W
とよむは、この宮のなり。貫之などあまたよみて侍りしかど、人にとりては、すぐれてののしられ給ひし歌よ。二代の帝の御妹に御座します。
 さて、内住みして、かしづかれ御座しまししを、九条殿は女房をかたらひて、みそかに参り給へりしぞかし。世の人、便なきことに申し、村上のすべらぎも、やすからぬことに思し召し御座しましけれど、色に出でて、咎め仰せられずなりにしも、この九条殿の御覚えの、かぎりなきによりてなり。まだ、人々うちささめき、上にも聞し召さぬほどに、雨のおどろおどろしう降り、雷鳴りひらめきし日、この宮、内に御座しますに、「殿上の人々、四の宮の御方へ参れ。おそろしう思し召すらむ」と仰せごとあれば、たれも参り給ふに、小野宮の大臣ぞかし、「参らじ。御前のきたなきに」とつぶやき給へば、後にこそ、帝、思し召しあはせけめ。
 さて殿にまかでさせ奉りて、思ひかしづき奉らせ給ふといへば、さらなりや。さるほどに、この太政大臣殿をはらみ奉り給ひて、いみじう物心ぼそくおぼえさせ給ひければ、「まろはさらにあるまじき心地なむする。よし見給へよ」と男君につねに聞えさせ給ひければ、「誠にさも御座します物ならば、片時も後れまうすべきならず。もし心にあらずながらへ候はば、出家かならずし侍りなむ。また二つこと人見るといふことはあるべきにもあらず。天がけりても御覧ぜよ」とぞ申させ給ひける。法師にならせ給はむことはあるまじとや、思し召しけむ、小さき御唐櫃一具に、片つ方は御烏帽子、いま片つ方には襪を、一唐櫃づつ、御手づからつぶと縫ひ入れさせ給へりけるを、殿はさも知らせ給はざりけり。さてつひに失せさせ給ひにしは。されば、この太政大臣殿は、生れさせ給へる日を、やがて御忌日にて御座しますなり。かの縫ひおかせ給ひし御烏帽子・御襪、御覧ずるたびごとに、九条殿しほたれさせ給はぬ折なし。誠に、その後、一人住みにてぞやませ給ひにし。
このうみおき奉り給へりし太政大臣殿をば、御姉の中宮、さらなり、世の常ならぬ御族思ひに御座しませば、養ひ奉らせ給ふ。内にのみ御座しませば、帝もいみじうらうたき物にせさせ給ひて、つねに御前に候はせ給ふ。何事も、宮たちの同じやうに、かしずきもてなしまうさせ給ふに、御膳召す御台のたけばかりをぞ、一寸おとさせ給ひけるを、けぢめに知ることにはせさせ給ひける。昔は、皇子たちも、幼く御座しますほどは、内住みせさせ給ふことはなかりけるに、この若君のかくて候はせ給ふは、「あるまじきこと」と謗りまうせど、かくて生ひたたせ給へれば、なべての殿上人などになずらはせ給ふべきならねど、若う御座しませば、おのづから、御たはぶれなどのほどにも、なみなみにふるまはせ給ひし折は、円融院の帝は、「同じほどの男どもと思ふにや、かからであらばや」などぞうめかせ給ひける。
かかるほどに、御年積らせ給ひて、また御孫の頭中将公成の君を、ことのほかにかなしがり給ひて、内にも、御車のしりに乗せさせ給はぬかぎりは、参らせ給はず。さるべきことの折も、この君、遅くまかり出で給へば、弓場殿に、御先ばかり参らせ給ひて、待ち立たせ給へりければ、見奉り給ふ人、「など、かくては立たせ給へる」と申させ給へば、「いぬ、待ち侍るなり」とぞ仰せられける。無量寿院の金堂供養に、東宮の行啓ある御車に候はせ給ひて、ひとみち、「公成思し召せよ、思し召せよ」と、同じことを啓させ給ひける、「あはれなる物から、をかしくなむありし」とこそ、宮仰せられけれ。繁樹が姪の女の、中務の乳母のもとに侍るが、まうできて語り侍りしなり。
頭中将顕基の君の御若君御座すとかな。五十日をば四条にわたしきこえて、太政大臣殿こそくくめさせ給ひけれ。御舅の右衛門督ぞいだききこえ給へるに、この若君の泣き給へば、「例はかくもむづからぬに、いかなればかからむ」と、右衛門督立ち居なぐさめ給ひければ、「おのづから児はさこそはあれ。ましも、さぞありし」と、太政大臣殿宣はせけるにこそ、さるべき人々参り給へりける、皆ほほゑみ給ひけれ。なかにも四位少将隆国の君は、つねに思ひ出でてこそ、今に笑ひ給ふなれ。斯様にあまり古体にぞ御座しますべき。昔の御童名は、宮雄君とこそは申ししか。
一 太政大臣兼家
この大臣は、九条殿の三郎君、東三条の大臣に御座します。御母は、一条摂政に同じ。冷泉院・円融院の御舅、一条院・三条院の御祖父、東三条の女院・贈皇后宮の御父。公卿にて二十年、大臣の位にて十二年、摂政にて五年、太政大臣にて二年、世をしらせ給ふ、栄えて五年ぞ御座します。出家せさせ給ひてしかば、後の御いみななし。
 内に参らせ給ふには、さらなり、牛車にて北の陣まで入らせ給へば、それよりうちはなにばかりのほどならねど、紐解きて入らせ給ふこそ。されど、それはさてもあり、相撲の折、内・春宮の御座しませば、二人の御前に、なにをもおしやりて、汗とりばかりにて候はせ給ひけるこそ、世にたぐひなくやむごとなきことなれ。
 末には、北の方も御座しまさざりしかば、男住みにて、東三条殿の西の対を清涼殿づくりに、御しつらひより始めて、住ませ給ふなどをぞ、あまりなることに人申すめりし。なほ、ただ人にならせ給ひぬれば、御果報のおよばせ給はぬにや。さやうの御身持ちにひさしうは保たせ給はぬとも、定め申すめりき。
その時は、夢解も巫女も、かしこきものどもの侍りしぞとよ。堀河の摂政のはやり給ひし時に、この東三条殿は御官どもとどめられさせ給ひて、いと辛く御座しましし時に、人の夢に、かの堀河院より、箭をいと多く東ざまに射るを、いかなることぞと見れば、東三条殿に皆落ちぬと見けり。よからず思ひきこえさせ給へる方より御座せ給へば、あしきことかな、と思ひて、殿にも、申しければ、おそれさせ給ひて、夢解に問はせ給ひければ、いみじうよき御夢なり。世の中の、この殿にうつりて、あの殿の人の、さながら参るべきが見えたるなり」と申しけるが、当てざらざりしことかは。
 また、その頃、いとかしこき巫女侍りき。賀茂の若宮のつかせ給ふとて、伏してのみ物を申ししかば、「うち伏しのみこ」とぞ、世の人つけて侍りし。大入道殿に召して、物問はせ給ひけるに、いとかしこく申せば、さしあたりたること、過ぎにし方のことは、皆さいふことなれば、しか思し召しけるに、かなはせ給ふことどもの出でくるままに、後々には、御装束奉り、御冠せさせ給ひて、御膝に枕をせさせてぞ、物は問はせ給ひける。それに一事として、後後のこと申しあやまたざりけり。さやうに近く召し寄するに、いふがひなきほどの物にもあらで、少しおもとほどのきはにてぞありける。
この殿、法興院に御座しますことをぞ、こころよからぬ所と,人は、うけ申さざりしかど、いみじう興ぜさせ給ひて、聞きも入れで、わたらせ給ひて、ほどなく失せさせ御座しましにき。
「東山などのいとほど近く見ゆるが、山里とおぼえて、をかしきなり」とぞ仰せられける。
  御物忌の折は、わたり給はむとて、「御座しましてはいかがある」と、占せさせ給ひて、そのたび、法興院にて病づきて失せ給ひにき。
 「御厩の馬に御随身乗せて、粟田口へつかはししが、あらはにはるばると見ゆる」など、をかしきことに仰せられて、月のあかき夜は、下格子もせで、ながめさせ給ひけるに、目にも見えぬ物の、はらはらと参りわたしければ、候ふ人々は怖ぢさわげど、殿は、つゆおどろかせ給はで、御枕上なる太刀をひき抜かせ給ひて、「月見るとてあげたる格子おろすは、何者のするぞ。いと便なし。もとのやうにあげわたせ。さらずは、あしかりなむ」と仰せられければ、やがて参りわたしなど、おほかた落ち居ぬことども侍りけり。さて、つひに殿ばらの領にもならで、かく御堂にはなさせ給へるなめり。
 この大臣の君達、女君四所・男君五人、御座しましき。女二所・男三所、五所は、摂津守藤原中正のぬしの女の腹に御座します。三条院の御母の贈皇后宮と、女院、大臣三人ぞかし。
 この御母、いかに思しけるにか、いまだ若う御座しける折、二条の大路にいでて、夕占問ひ給ひければ、白髪いみじう白き女のただ一人ゆくが、立ちとまりて、「なにわざし給ふ人ぞ。もし夕占問ひ給ふか。何事なりとも、思さむことかなひて、この大路よりも広くながく栄えさせ給ふべきぞ」と、うち申しかけてぞまかりにける。人にはあらで、さるべきものの示し奉りけるにこそ侍りけめ。
 女君は、女院の后の宮にて御座しましし折の宣旨にて御座しき。また、対の御方と聞こえし御腹の女、大臣いみじうかなしくしきこえさせ給ひて、十一に御座せし折、尚侍になし奉らせ給ひて、内住みせさせ奉らせ給ひし。御かたちいとうつくしうて、御ぐしも十一二のほどに、糸をよりかけたるやうにて、いとめでたく御座しませば、ことわりとて、三条院の東宮にて御元服せさせ給ふ夜の御添臥しに参らせ給ひて、三条院もにくからぬ物に思し召したりき。夏いと暑き日わたらせ給へるに、御前なる氷をとらせ給ひて、「これしばし持ち給ひたれ。まろを思ひ給はば、『今は』といはざらむかぎりは、置き給ふな」とて、持たせきこえさせ給ひて御覧じければ、誠に、かたの黒むまでこそ持ち給ひたりけれ。「さりとも、しばしぞあらむと思ししに、あはれさすぎて、うとましくこそおぼえしか」とぞ、院は仰せられける。
あやしきことは、源宰相頼定の君の通ひ給ふと、世に聞えて、里に出で給ひにきかし。ただならず御座すとさへ、三条院聞かせ給ひて、この入道殿に、「さることのあなるは、誠にやあらむ」と仰せられければ、「まかりて見て参り侍らむ」とて、御座しましたりければ、例ならずあやしく思して、几帳ひき寄せさせ給ひけるを、押しやらせ給へれば、もとはなやかなるかたちに、いみじう化粧じ給へれば、常よりもうつくしう見え給ふ。「春宮に参りたりつるに、しかじか仰せられつれば、見奉りに参りつるなり。そらごとにも御座せむに、しか聞し召され給はむが、いと不便なれば」とて、御胸をひきあけさせ給ひて、乳をひねり給へりければ、御顔にさとはしりかかる物か。ともかくも宣はせで、やがて立たせ給ひぬ。春宮に参り給ひて、「誠に候ひけり」とて、し給ひつる有様を啓せさせ給へれば、さすがに、もと心ぐるしう思し召しならはせ給へる御中なればにや、いとほしげにこそ思し召したりけれ。「尚侍は、殿帰らせ給ひて後に、人やりならぬ御心づから、いみじう泣き給ひけり」とぞ、その折見奉りたる人語り侍りし。春宮に候ひ給ひしほども、宰相は通ひ参り給ふ。ことあまり出でてこそは、宮も聞し召して、「帯刀どもして蹴させやせましと思ひしかど、故大臣のことを、なきかげにもいかがと、いとほしかりしかば、さもせざりし」とこそ仰せられけれ。この御あやまちより、源宰相、三条院の御時は殿上もし給はで、地下の上達部にて御座せしに、この御時にこそは殿上し、検非違使の別当などになりて、失せ給ひにしか。
 いま一つの御腹の大君は、冷泉院の女御にて、三条院・弾正の宮・帥の宮の御母にて、三条院位につかせ給ひしかば、贈皇后宮と申しき。この三人の宮たちを、祖父殿ことのほかにかなしうしまうし給ひき。世の中に少しのことも出でき、雷も鳴り、地震もふるときは、まづ春宮の御方に参らせ給ひて、舅の殿ばら、それならぬ人々などを、「内の御方へは参れ。この御方にはわれ候はむ」とぞ仰せられける。雲形といふ高名の御帯は、三条院にこそは奉らせ給へれ。かこの裏に、「春宮に奉る」と、刀のさきにて、自筆に書かせ給へるなり。この頃は、一品の宮にとこそ承れ。
この春宮の御弟の宮たちは、少し軽々にぞ御座しましし。帥の宮の、祭のかへさ、和泉式部の君とあひ乗らせ給ひて御覧ぜしさまも、いと興ありきやな。御車の口の簾を中より切らせ給ひて、わが御方をば高う上げさせ給ひ、式部が乗りたる方をばおろして、衣ながう出させて、紅の袴に赤き色紙の物忌いとひろきつけて、地とひとしうさげられたりしかば、いかにぞ、物見よりは、それをこそ人見るめりしか。弾正尹の宮の、童に御座しましし時、御かたちのうつくしげさは、はかりも知らず、かかやくとこそは見えさせ給ひしか。御元服おとりのことのほかにせさせ給ひにしをや。
 この宮たちは、御心の少し軽く御座しますこそ、一家の殿ばらうけまうさせ給はざりしかど、さるべきことの折などは、いみじうもてかしづきまうさせ給ひし。帥の宮、一条院の御時の御作文に参らせ給ひしなどには、御前などにさるべき人多くて、いとこそめでたくて参らせ給ふめりしか。御前にて御襪のいたうせめさせ給ひけるに心地もたがひて、いとたへがたう御座しましければ、この入道殿にかくと聞えさせ給ひて、鬼の間に御座しまして、御襪をひき抜き奉らせ給へりければこそ、御心地なほらせ給へりけれ。
 贈后の御一つ腹の、いま一所の姫君は、円融院の御時、梅壷の女御と申して、一の皇子生まれ給へりき。その皇子五つにて春宮にたたせ給ひ、七つにて位につかせ給ひにしかば、御母、女御殿、寛和二年七月五日、后にたたせ給ひて、中宮と申しき。
この帝を一条院と申しき。その母后、入道せさせ給ひて、太上天皇とひとしき位にて、女院と聞えさせき。一天下をあるままにして御座しましし。
この父大臣の御太郎君、女院の御一つ腹の道隆の大臣、内大臣にて関白せさせ給ひき。二郎君、陸奥守倫寧のぬしの女の腹に御座せし君なり。道綱と聞えし。大納言までなりて、右大将かけ給へりき。この母君、きはめたる和歌の上手に御座しければ、この殿の通はせ給ひけるほどのこと、歌など書き集めて、『かげろふの日記』と名づけて、世にひろめ給へり。殿の御座しましたりけるに、門をおそくあけければ、たびたび御消息いひ入れさせ給ふに、女君、
  嘆きつつひとり寝る夜のあくるまはいかにひさしき物とかはしる W
いと興ありと思し召して、
  げにやげに冬の夜ならぬ槙の戸もおそくあくるは苦しかりけり W
されば、その腹の君ぞかし、この道綱の卿の、後には東宮傅になり給ひて傅の殿とぞ申すめりし。いとあつくして、大将をも辞し給ひてき。その殿、今の入道殿の北の政所の御はらからに住み奉らせ給ひて、生れ給へりし君、宰相中将兼経の君よ。父大納言は失せ給ひにき、御年六十六とぞ聞き奉りし。大入道殿の三郎、粟田殿。また、四郎は、外腹の治部少輔の君とて、世のしれものにて、まじらひもせでやみ給ひぬとぞ、聞え侍りし。五郎君、ただいまの入道殿に御座します。女院の御母北の方の御腹の君達三所の御有様、申し侍らむ。昭宣公の御君達、「三平」と聞えさすめりしに、この三所をば、「三道」とや世の人申しけむ、えこそ承らずなりにしか」
とて、ほほゑむ。
一 内大臣道隆
《世継》「この大臣は、これ、東三条の大臣の御一男なり。御母は、女院の御同じ腹なり。関白になり栄えさせ給ひて六年ばかりや御座しけむ、大疫癘の年こそ失せ給ひけれ。されど、その御病にてはあらで、御酒のみだれさせ給ひにしなり。男は、上戸、ひとつの興のことにすれど、過ぎぬるはいと不便なる折侍りや。祭のかへさ御覧ずとて、小一条の大将・閑院の大将と一つ御車にて、紫野に出でさせ給ひぬ。烏のつい居たるかたを瓶につくらせ給ひて、興ある物に思して、ともすれば御酒入れて召す。今日もそれにて参らする、もてはやさせ給ふほどに、やうやう過ぎさせ給ひて後は、御車の後・前の簾皆あげて、三所ながら御髻はなちて御座しましけるは、いとこそ見ぐるしかりけれ。おほかたこの大将殿たちの参り給へる、世の常にて出で給ふをば、いと本意なく口惜しきことに思し召したりけり。物もおぼえず、御装束もひきみだりて、車さし寄せつつ、人にかかれて乗り給ふをぞ、いと興あることにせさせ給ひける。
 ただしこの殿、御酔のほどよりはとくさむることをぞせさせ給ひし。御賀茂詣の日は、社頭にて三度の御かはらけ定まりて参らするわざなるを、その御時には、禰宜・神主も心得て、大かはらけをぞ参らせしに、三度はさらなることにて、七八度など召して、上の社に参りたまふ道にては、やがてのけざまに、しりの方を御枕にて、不覚に大殿篭りぬ。一の大納言にては、この御堂ぞ御座しまししかば、御覧ずるに、夜に入りぬれば、御前の松の光にとほりて見ゆるに、御透影の御座しまさねば、あやしと思し召しけるに、参りつかせ給ひて、御車かきおろしたれど、え知らせ給はず。いかにと思へど、御前どももえおどろかしまうさで、ただ候ひなめるに、入道殿おりさせ給へるに、さてあるべきことならねば、轅の戸ながら、高やかに、「やや」と御扇を鳴らしなどせさせ給へど、さらにおどろき給はねば、近く寄りて、表の御袴の裾を荒らかにひかせ給ふ折ぞ、おどろかせ給ひて、さる御用意はならはせ給へれば、御櫛・笄具し給へりける取り出でて、つくろひなどして、おりさせ給ひけるに、いささかさりげなくて、清らかにてぞ御座しましし。されば、さばかり酔ひなむ人は、その夜は起きあがるべきかは。それに、この殿の御上戸は、よく御座しましける。その御心のなほ終りまでも忘れさせ給はざりけるにや、御病づきて失せ給ひけるとき、西にかき向け奉りて、「念仏申させ給へ」と、人々のすすめ奉りければ、「済時・朝光なむどもや極楽にはあらむずらむ」と仰せられけるこそ、あはれなれ。つねに御心に思しならひたることなればにや。あの、地獄の鼎のはたに頭うちあてて、三宝の御名思ひ出でけむ人の様なることなりや。
 御かたちぞいと清らに御座しましし。帥殿に天下執行の宣旨下し奉りに、この民部卿殿の、頭弁にて参り給へりけるに、御病いたくせめて、御装束もえ奉らざりければ、御直衣にて御簾の外にゐざり出でさせ給ふに、長押をおりわづらはせ給ひて、女装束御手にとりて、かたのやうにかづけさせ給ひしなむ、いとあはれなりし。こと人のいとさばかりなりたらむは、ことやうなるべきを、なほいとかはらかにあてに御座せしかば、「病づきてしもこそかたちはいるべかりけれ、となむ見えし」とこそ、民部卿殿はつねに宣ふなれ。
 その関白殿は腹々に男子・女子あまた御座しましき。今の北の方は、大和守高階成忠のぬしの御女なり。後には高二位とこそいひ侍りしか。さて積善寺の供養の日は、この入道殿の上に候はれしは、いとめだうなりしわざかな。
 その腹に男君三所・女君四所御座しましき。大姫君は、一条院の十一にて御元服せしめ給ひしに、十五にてや参らせ給ひけむ。やがてその年六月一日、后にゐさせ給ふ。
中宮と申しき。
東三条殿の御悩のさかりも過ぐさせ給はで、奉らせ給ひしをぞ、世人、いかにぞや申し侍りし。
 さて関白殿など失せさせ給ひて後に男御子一人・女御子二人うみ奉らせ給へりき。女一の宮は入道の一品の宮とて、三条に御座します。女二の宮は、九つにて失せ給ひにき。男親王、式部卿の宮篤康の親王とこそ申ししか。たびたびの御思ひたがひて、世の中を思し嘆きて失せ給ひにき、御年二十にて。あさましうて病ませ給ひにしかは。冷泉院の宮たちなどのやうに、軽々に御座しまさましかば、いとほしさもよろしくや、世の人思ひまさまし。御才いとかしこう、御心ばへもいとめでたうぞ御座しましし。
 さてまた、この宮の御母后の御さしつぎの中の君は、三条院の東宮と申しし折のしげいさとて、はなやがせ給ひしも、父殿失せ給ひにし後、御年二十二三ばかりにて失せさせ給ひにき。
 三の御方は、冷泉院の四の皇子、帥の宮と申ししをこそは、父殿婿どり奉らせ給へりしも、後には、やがて御中絶えにしかば、末の世は、一条の渡りにいとあやしくて御座するとぞ聞え給ひし。誠にや、御心ばへなどの、いと落ち居ず御座しければ、かつは、宮もうとみきこえさせ給へりけるとかや。客人などの参りたる折は、御簾をいと高やかに押しやりて、御懐をひろげて立ち給へりければ、宮は御おもてうち赤めてなむ御座しましける。候ふ人も、おもての色たがふ心地して、うつぶしてなむ、立たむもはしたに、術なかりける。宮、後には、「見返りたりしままに、動きもせられず、物こそ覚えざりしか」とこそ仰せられけれ。
 また、学生ども召し集めて、作文し遊ばせ給ひけるに、金を二三十両ばかり、屏風の上より投げ出して、人々うち給ひければ、ふさはしからず憎しとは思はれけれど、その座にては饗応しまうしてとり争ひけり。「金賜はりたるはよけれども、さも見ぐるしかりし物かな」とこそ今に申さるなれ。人々文作りて講じなどするに、よしあしいと高やかに定め給ふ折もありけり。二位の新発の御流にて、この御族は、女も皆、才の御座したるなり。
 母上は高内侍ぞかし。されど、殿上えせられざりしかば、行幸・節会などには、南殿にぞ参られし。それはまことしき文者にて、御前の作文には、文奉られしはとよ。少々の男にはまさりてこそ聞え侍りしか。さやうの折、召しありけるにも、台盤所の方よりは参り給はで、弘徽殿の上の御局の方より通りて、二間になむ候ひ給ひけるとこそ承りしか。古体に侍りや。「女のあまりに才かしこきは、物あしき」と、人の申すなるに、この内侍、後にはいといみじう堕落せられにしも、その故とこそはおぼえ侍りしか。さて、その宮の上の御さしつぎの四の君は、御匣殿と申しし。御かたちいとうつくしうて、式部卿の宮の御母代にて御座しまししも、はかなく失せ給ひにき。されば、一つ腹の女君たちかくなり。対の御方と聞えさせし人の御腹にも、女君御座しけるは、今の皇太后宮にこそは候ひ給ふなれ。またも聞え給ふかし。
 男君たちは、太郎君、故伊予守守仁のぬしの女の腹ぞかし、大千代君よな。それは祖父大臣の御子にし奉り給ひて、道頼の六郎君とこそは申ししか。大納言までなり給へりき。父関白殿失せ給ひし年の六月十一日に、うちつづき失せ給ひにき。御年二十五とぞ聞えさせ給ひし。御かたちいと清げに、あまりあたらしきさまして、物より抜け出でたるやうにぞ御座せし。御心ばへこそ、こと御はらからにも似給はずいとよく、また、ざれをかしくも御座せしか。この殿は、こと腹に御座す。皇后宮と一つ腹の男君、法師にて、十あまりのほどに僧都になし奉り給へりし。それも三十六にて失せ給ひにき。いま一所は、小千代君とて、かの外腹の大千代君にはこよなくひき越し、二十一に御座せしとき、内大臣になし奉り給ひて、わが失せ給ひし年、長徳元年のことなり、御病重くなるきはに、内に参り給ひて、「おのれかくまかりなりにて候ふほど、この内大臣伊周の大臣に、百官ならびに天下執行の宣旨賜ぶべき」よし、申し下さしめ給ひて、われは出家せさせ給ひてしかば、この内大臣殿を関白殿とて、世の人集り参りしほどに、粟田殿にわたりにしかば、手に据ゑたる鷹をそらいたらむやうにて嘆かせ給ふ。一家にいみじきことに思しみだりしほどに、その移りつる方も夢のごとくにて失せ給ひにしかば、今の入道殿、その年の五月十一日より世をしろしめししかば、かの殿いとど無徳に御座しまししほどに、またの年、花山院の御こと出できて、御官位とられて、ただ太宰権帥になりて、長徳二年四月二十四日にこそは下り給ひにしか、御年二十三。いかばかりあはれにかなしかりしことぞ。されど、げにかならず斯様のこと、わがおこたりにて流され給ふにしもあらず。よろづのこと身にあまりぬる人の、唐にもこの国にもあるわざにぞ侍るなる。昔は北野の御ことぞかし」などいひて、鼻うちかむほどもあはれに見ゆ。
《世継》「この殿も、御才日本にはあまらせ給へりしかば、かかることも御座しますにこそ侍りしか。
 さて、式部卿の宮の生れさせ給へる御よろこびにこそ召し返させ給ひつれ。さて、大臣になずなふる宣旨かぶらせ給ひて歩き給ひし御有様も、いと落ち居ても覚え侍らざりき。いと見ぐるしきことのみ、いかに聞え侍りし物とて。内に参らせ給ひけるに、北の陣より入らせ給ひて、西ざまに御座しますに、入道殿も候はせ給ふほどなれば、梅壷の東の塀の戸のはさまに、下人どもいと多くゐたるを、この帥殿の御供の人々いみじう払へば、いくべき方のなくて、梅壷の塀のうちにはらはらと入りたるを、これはいかにと、殿御覧ず。あやしと人々見れど、さすがにえともかくもせぬに、なにがしといひし御隋身の、そら知らずして、荒らかにいたく払ひ出せば、また戸ざまに、、いとらうがはしく出づるを、帥殿の御供の人々、このたびはえ払ひあへねば、ふとり給へる人にて、すがやかにもえ歩み退き給はで、登花殿の細殿の小蔀に押し立てられ給ひて、「やや」と仰せられけれど、狭きところに雑人いと多く払はれて、おしかけられまつりぬれば、とみにえ退かで、いとこそ不便に侍りけれ。それはげに御罪にあらねど、ただはなやかなる御歩き・振舞をせさせ給はずは、さやうに軽々しきこと御座しますべきことかはとぞかし。
また、入道殿、御嶽に参らせ給へりし道にて帥殿の方より便なきことあるべしと聞えて、常よりも世をおそれさせ給ひて、たひらかに帰らせ給へるに、かの殿も、「かかること聞えたりけり」と人の申せば、いとかたはらいたく思されながら、さりとてあるべきならねば、参り給へり。道のほどの物語などせさせ給ふに、帥殿いたく臆し給へる御けしきのしるきを、をかしくもまたさすがにいとほしくも思されて、「ひさしく双六つかまつらで、いとさうざうしきに、今日あそばせ」とて、双六のばんを召して、おしのごはせ給ふに、御けしきこよなうなほりて見え給へば、殿を始め奉りて、参り給へる人々、あはれになむ見奉りける。さばかりのことを聞かせ給はむには、少しすさまじくももてなさせ給ふべけれど、入道殿は、あくまで情御座します御本性にて、かならず人のさ思ふらむ事をば、おしかへし、なつかしうもてなさせ給ふなり。この御博奕は、うちたたせ給ひぬれば、二所ながら裸に腰からませ給ひて、夜半・暁まであそばず。「心幼く御座する人にて、便なきこともこそ出でくれ」と、人はうけまうさざりけり。いみじき御賭物どもこそ侍りけれ。帥殿はふるき物どもえもいはぬ、入道殿はあたらしきが興ある、をかしきさまにしなしつつぞ、かたみにとりかはさせ給ひぬれど、斯様のことさへ、帥殿はつねに負け奉らせ給ひてぞ、まかでさせ給ひける。
 かかれど、ただいまは、一の宮の御座しますをたのもしき物に思し、世の人もさはいへど、したには追従し、怖ぢまうしたりしほどに、今の帝・春宮さしつづき生れさせ給ひにしかば、世を思しくづほれて、月頃御病もつかせ給ひて、寛弘七年正月二十九日失せさせ給ひにしぞかし。御年三十七とぞ承りし。かぎりの御病とても、いたう苦しがり給ふこともなかりけり。御しはぶき病にやなど思しけるほどに、重り給ひにければ、修法せむとて、僧召せど、参るもなきに、いかがはせむとて、道雅の君を御使にて、入道殿に申し給へりける。夜いたうふけて、人もしづまりにければ、やがて御格子のもとによりて、うちしはぶき給ふ。「誰そ」と問はせ給へば、御名のり申して、「しかじかのことにて、修法始めむとつかまつれば、阿闍梨にまうでくる人も候はぬを、賜はらむ」と申し給へば、「いと不便なる御ことかな。えこそ承らざりけれ。いかやうなる御心地ぞ。いとたいだいしき御ことにもあるかな」と、いみじうおどろかせ給ひて、「誰を召したるに参らぬぞ」など、くはしく問はせ給ふ。なにがし阿闍梨をこそは奉らせ給ひしか。されど、世の末は人の心も弱くなりにけるにや、「あしく御座します」など申ししかど、元方の大納言のやうにやは聞えさせ給ふな。また、入道殿下のなほすぐれさせ給へる威のいみじきに侍るめり。老の波にいひ過しもぞし侍る」と、けしきだちて、このほどはうちささめく。
《世継》「源大納言重光の卿の御女の腹に、女君二人・男君一人御座せしが、この君たち皆おとなび給ひて女君たちは后がねとかしづき奉り給ひしほどに、さまざま思ししことどもたがひて、かく御病さへ重り給ひにければ、この姫君たちをすゑなめて、泣く泣く宣ひける「年頃、仏・神にいみじうつかうまつりつれば、何事もさりともとこそ頼み侍りつれど、かくいふかひなき死をさへせむことのかなしさ。かく知らましかば、君たちをこそ、われより先に失せ給ひねと、祈り思ふべかりけれ。おのれ死なば、いかなる振舞・有様をし給はむずらむと思ふが悲しく、人笑はれなるべきこと」と、いひつづけて泣かせ給ふ。「あやしき有様をもし給はば、なき世なりとも、かならず恨みきこえむずるぞ」とぞ、母北の方にも、泣く泣く遺言し給ひけるかし。その君たち、大姫君は、高松殿の春宮大夫殿の北の方にて、多くの君達うみつづけて御座すめり。それは、あしかるべきことならず。いま一所は、大宮に参りて、帥殿の御方とて、いとやむごとなくて候ひ給ふめるこそは、思しかけぬ御有様なめれ。あはれなりかし。
男君は、松の君とて、生れ給へりしより、祖父大臣いみじき物に思して、迎へ奉り給ふたびごとに、贈物をせさせ給ふ。御乳母をも饗応し給ひし君ぞかし。この頃三位して御座すめるは。この君を、父大臣、「あなかしこ、わがなからむ世に、あるまじきわざせず、身捨てがたしとて、物覚えぬ名簿うちして、わがおもてふせて、『いでや、さありしかど、かかるぞかし』と、人にいひのたてせさすな。世の中にありわびなむときは、出家すばかりなり」と、泣く泣くいひおかせ給ひけるに、この君、当代の春宮にて御座しましし折の亮になり給ひて、いとめやすきことと見奉りしほどに、春宮亮道雅の君とて、いと覚え御座しきかし。それに、いかがしけむ、位につかせ給ひしきざみに、蔵人頭にもえなり給はずして、坊官の労にて三位ばかりして、中将をだにえかけたまはずなりにしは、いとかなしかりしことぞかし。あさましう思ひかけぬことどもかな。
 この君、故帥中納言惟仲の女に住み給ひて、男一人・女一人うませ給へりしは、法師にて、明尊僧都の御房にこそは御座すめれ。女君は、いかが思ひ給ひけむ、みそかに逃げて、今の皇太后宮にこそ参りて、大和の宣旨とて候ひ給ふなれ。年頃の妻子とやは頼むべかりける。なかなかそれしもこそあなづりて、をこがましくもてなしけれ。あはれ、翁らがわらはべのさやうに侍らましかば、しらががみをも剃り、鼻をもかきおとしはべなまし。よき人と申すものは、いみじかし名の惜しければ、えともかくもし給はぬにこそあめれ。さるは、かの君、さやうにしれ給へる人かは、たましひはわき給ふ君をは。
 帥殿は、この内の生れさせ給へりし七夜に、和歌の序代書かせ給へりしぞ、なかなか心なきことやな。本体は参らせ給ふまじきを、それに、さし出で給ふより、多くの人の目をつけ奉りて、「いかに思すらむ」「なにせむに参り給へるぞ」とのみ、まもられ給ふ。いとはしたなきことにはあらずや。それに、例の入道殿は誠にすさまじからずもてなしきこえさせ給へるかひありて、憎さは、めでたくこそ書かせ給へりけれ。当座の御おもては優にて、それにぞ人々ゆるしまうし給ひける。
この帥殿の御一つ腹の、十七にて中納言になりなどして、世の中のさがなものといはれ給ひし殿の、御童名は阿古君ぞかし。この兄殿の御ののしりにかかりて、出雲権守になりて、但馬にこそは御座せしか。さて、帥殿の帰り給ひし折、この殿も上り給ひて、もとの中納言になりや、また兵部卿などこそは聞えさせしか。それも、いみじうたましひ御座すとぞ、世の人に思はれ給へりし。あまたの人々の下臈になりて、かたがたすさまじう思されながら歩かせ給ふに、御賀茂詣につかうまつり給へるに、むげに下りて御座するがいとほしくて、殿の御車に乗せ奉らせ給ひて、御物語こまやかなるついでに、「ひととせのことは、おのれが申し行ふとぞ、世の中にいひ侍りける。そこにもしかぞ思しけむ。されど、さもなかりしことなり。宣旨ならぬこと、一言にてもくはへて侍らましかば、この御社にかくて参りなましや。天道も見給ふらむ。いとおそろしきこと」とも、まめやかに宣はせしなむ、「なかなかにおもておかむかたなく、術なくおぼえし」とこそ、後に宣ひけれ。それも、この殿に御座すれば、さやうにも仰せらるるぞ。帥殿にはさまでもや聞えさせ給ひける。
 この中納言は、斯様にえさりがたきことの折々ばかり歩き給ひて、いといにしへのやうに、まじろひ給ふことはなかりけるに、入道殿の土御門殿にて御遊びあるに、「斯様のことに、権中納言のなきこそ、なほさうざうしけれ」と宣はせて、わざと御消息聞えさせ給ふほど、杯あまたたびになりて、人々みだれ給ひて、紐おしやりて候はるるに、この中納言参り給へれば、うるはしくなりて、居直りなどせられければ、殿、「とく御紐解かせ給へ。ことやぶれ侍りぬべし」と仰せられければ、かしこまりて逗留し給ふを、公信の卿、うしろより、「解き奉らむ」とて寄り給ふに、中納言御けしきあしくなりて、「隆家は不運なる事こそあれ、そこたちに斯様にせらるべき身にもあらず」と、荒らかに宣ふに、人々御けしき変り給へるなかにも、今の民部卿殿は、うはぐみて、人々の御顔をとかく見給ひつつ、こと出できなむず、いみじきわざかなと思したり。入道殿、うち笑はせ給ひて、「今日は、斯様のたはぶれごと侍らでありなむ。道長解き奉らむ」とて寄らせ給ひて、はらはらと解き奉らせ給ふに、「これらこそあるべきことよ」とて、御けしきなほり給ひて、さしおかれつる杯とり給ひてあまたたび召し、常よりも乱れあそばせ給ひけるさまなど、あらまほしく御座しけり。殿もいみじうぞもてはやしきこえさせ給ひける。
さて、式部卿の宮の御ことを、さりともさりともと待ち給ふに、一条院の御悩重らせ給ふきはに、御前に参り給ひて、御気色賜はり給ひければ、「あのことこそ、つひにえせずなりぬれ」と仰せられけるに、「『あはれの人非人や』とこそ申さまほしくこそありしか」とこそ宣ひけれ。さて、まかで給うて、わが御家の日隠の間に尻うちかけて、手をはたはたと打ちゐ給へりける。世の人は、「宮の御ことありて、この殿、御後見もし給はば、天下の政はしたたまりなむ」とぞ、思ひまうしためりしかども、この入道殿の御栄えのわけらるまじかりけるにこそは。
 三条院の大嘗会の御禊に、きらめかせ給へりしさまなどこそ、常よりもことなりしか。人の、このきはは、さりともくづほれ給ひなむ、と思ひたりしところをたがへむと、思したりしなめり。さやうなるところの御座しまししなり。節会・行幸には、掻練襲奉らぬことなるを、単衣を青くてつけさせ給へれば、紅葉襲にてぞ見えける。表の御袴、竜胆の二重織物にて、いとめでたく清らにこそ、きらめかせ給へりしか。
 御目のそこなはれ給ひにしこそ、いといとあたらしかりしか。よろづにつくろはせ給ひしかど、えやませ給はで、御まじらひ絶え給へる頃、大弐の闕出できて、人々望みののしりしに、唐人の目つくろふがあなるに、見せむと思して、「こころみにならばや」と申し給ひければ、三条院の御時にて、またいとほしくや思し召しけむ、二言となくならせ給ひてしぞかし。その御北の方には、伊予守兼資のぬしの女なり。その御腹の女君二所御座せしは、三条院の御子の式部卿の宮の北の方、いま一所は、傅の殿の御子に宰相中将兼経の君、この二所の御婿をとり奉り給ひて、いみじういたはりきこえ給ふめり。
 政よくし給ふとて、筑紫人さながら従ひまうしたりければ、例の大弐、十人ばかりがほどにて、上り給へりとこそ申ししか。
かの国に御座しまししほど、刀伊国の物にはかにこの国を討ち取らむとや思ひけむ、越え来たりけるに、筑紫には、かねて用意もなく、大弐殿、弓矢の本末も知り給はねば、いかがと思しけれど、大和心かしこく御座する人にて、筑後・肥前・肥後、九国の人をおこし給ふをばさることにて、府の内に仕うまつる人をさへおしこりて、戦はせ給ひければ、かやつが方のものども、いと多く死にけるは。さはいへど、家高く御座します故に、いみじかりしこと、平げ給へる殿ぞかし。公家、大臣・大納言にもなさせ給ひぬべかりしかど、御まじらひ絶えにたれば、ただには御座するにこそあめれ。この中に、むねと射返したるものどもしるして、公家に奏せられたりしかば、皆賞せさせ給ひき。種材は壱岐守になされ、その子は大宰監にこそなさせ給へりしか。
 この種材が族は、純友討ちたりしものの筋なり。この純友は、将門同心に語らひて、おそろしきこと企てたるものなり。将門は、「帝を討ちとり奉らむ」といひ、純友は、「関白にならむ」と、同じく心をあはせて、この世界に我と政をし、君となりてすぎむ、といふことを契り会ひて、一人は東国にいくさをととのへ、一人は西国の海に、いくつともなく、大筏を数知らず集めて、筏の上に土をふせて、植木をおほし、よもやまの田をつくり、住みつきて、おほかたおぼろけのいくさに、動ずべうもなくなりゆくを、かしこうかまへて、討ち奉りたるは、いみじきことなりな。それはげに人のかしこきのみにはあらじ、王威の御座しまさむかぎりは、いかでかさることあるべきと思へど。
 さて壱岐・対馬国の人を、いと多く刀伊国にとりていき
たりければ、新羅の帝いくさをおこし給ひて、皆討ち返し給ひてけり。さて使をつけて、たしかにこの島に送り給へりければ、かの国の使には、大弐、金三百両とらせてかへさせ給ひける。このほどのことも、かくいみじうしたため給へるに、入道殿、なほこの帥殿を捨てぬものに思ひきこえさせ給へるなり。さればにや、世にもいとふり捨てがたき覚えにてこそ御座すめれ。御門には、いつかは馬・車の三つ四つ絶ゆる時ある。また、道もさりあへず立つ折もあるぞかし。この殿の御子の男君、ただいまの蔵人少将良頼の君、また、右中弁経輔の君、また式部丞などにて御座すめり。
誠に、世に会ひてはなやぎ給へりし折、この帥殿は花山院とあらがひごとまうさせ給へりしはとよ。いと不思議なりしことぞかし。「わぬしなりとも、わが門はえわたらじ」と仰せられければ、「隆家、などてかわたり侍らざらむ」と申し給ひて、その日と定められぬ。輪つよき御車に、逸物の御車牛かけて、御烏帽子・直衣いとあざやかにさうぞかせ給ひて、葡萄染の織物の御指貫少しゐ出でさせ給ひて、祭のかへさに紫野走らせ給ふ君達のやうに、踏板にいと長やかに踏みしだかせ給ひて、くくりは地にひかれて、簾いと高やかに巻き上げて、雑色五六十人ばかり、声のあるかぎり、ひまなく御先参らせ給ふ。院には、さらなり、えもいはぬ勇幹幹了の法師ばら・大中童子など、あはせて七八十人ばかり、大きなる石・五六尺ばかりなる杖ども持たせさせ給ひて、北・南の御門・築地づらに、小一条の前、洞院の裏うへ、ひまなく立て並めて、御門のうちにも、侍・僧の若やかに力強きかぎり、さるまうけして候ふ。さることをのみ思ひたる上下の、今日にあへるけしきどもは、げにいかがはありけむ。いづ方にも、石・杖ばかりにて、まことしき弓矢まではまうけさせ給はず。中納言殿の、御車、一時ばかり立て給ひて、勘解由小路よりは北に、御門近うまでは、やり寄せ給へりしかど、なほえわたり給はで、帰らせ給ふに、院方にそこらつどひたるものども、ひとつ心に、目をかためまもりまもりて、やりかへし給ふほど、「は」と一度に笑ひたりし声こそ、いとおびたたしかりしか。さる見物やは侍りしとよ。王威はいみじき物なりけり。えわたらせ給はざりつるよ。「無益のことをもいひてけるかな。いみじき辱号とりつる」とてこそ、笑ひ給ひけれ。院は勝ちえさせ給へりけるを、いみじと思したるさまも、ことしもあれ、まことしきことの様なり。
 この帥殿の御はらからといふ君達、数あまた御座すべし。頼親の内蔵頭・周頼の木工頭などいひし人、かたはしよりなくなり給ひて、今は、ただ兵部大輔周家の君ばかり、ほのめき給ふなり。小一条院の御宮たちの御乳母の夫にて、院の格勤して候ひ給ふ、いとかしこし。また、井手の少将とありし君は、出家とか。故関白殿の御心おきていとうるはしく、あてに御座ししかど、御末あやしく、御命も短く御座しますめり。今は、入道一品の宮と、この帥中納言殿とのみこそは、残らせ給へめれ。
一 右大臣道兼
この大臣、これ、大入道殿の御三郎、粟田殿とこそは、聞えさすめりしか。長徳元年乙未五月二日関白の宣旨かうぶらせ給ひて、同じ月の八日失せさせ給ひにき。大臣の位にて五年、関白と申して七日ぞ御座しまししか。この殿ばらの御族に、やがて世をしろしめさぬたぐひ多く御座すれど、またあらじかし、夢のやうにてやみ給へるは。出雲守相如のぬしの御家に、あからさまにわたり給へりし折、宣旨は下りしかば、あるじのよろこびたうびたるさま、おしはかり給へ。狭うて、ことの作法えあるまじとて、たたせ給ふ日ぞ、御よろこびも申させ給ふ。殿の御前は、えもいはぬ物のかぎりすぐられたるに、北の方の二条に帰り給ふ御供人は、よきもあしきも、数知らぬまで、布衣などにてあるもまじりて、殿の出したて奉りて、わたり給ひしほどの、殿のうちの栄え・人のけしきは、ただ思しやれ。あまりにもと見る人もありけり。御心地は少し例ならず思されけれど、おのづからのことにこそは、いまいましく今日の御よろこび申しとどめじと思して、念じて内に参らせ給へるに、いと苦しうならせ給ひにければ、殿上よりはえ出でさせ給はで、御湯殿の馬道の戸口に、御前を召してかかりて、北の陣より出でさせ給ふに、こはいかにと人々見奉る。殿には、常よりもとり経営して待ち奉り給ふに、人にかかりて、御冠もしどけなく、御紐おしのけて、いといみじう苦しげにておりさせ給へるを見奉り給へる御心地、出で給ふつる折にたとしへなし。されど、ただ「さりとも」と、ささめきにこそささめけ、胸はふたがりながら、ここちよ顔をつくりあへり。されば、世にはいとおびたたしくも聞えず。
 今の小野宮の右大臣殿の御よろこびに参り給へりけるを、母屋の御簾をおろして、呼び入れ奉り給へり。臥しながら御対面ありて、「乱れ心地、いとあやしう侍りて、外にはえまかり出でねば、かくて申し侍るなり。年頃、はかなきことにつけても、心のうちによろこび申すことなむ侍りつれど、させることなきほどは、ことごとにもえ申し侍らでなむ過ぎまかりつるを、今はかくまかりなりて侍れば、公私につけて、報じまうすべきになむ。また、大小のことをも申し合せむと思う給へれば、無礼をもえはばからず、かくらうがはしき方に案内まうしつるなり」などこまやかに宣へど、言葉もつづかず、ただおしあてにさばかりなめりと聞きなさるるに、「御息ざしなどいと苦しげなるを、いと不便なるわざかなと思ひしに、風の御簾を吹き上げたりしはさまより見入れしかば、さばかり重き病をうけとり給ひてければ、御色もたがひて、きららかに御座する人ともおぼえず、ことのほかに不覚になり給ひにけりと見えながら、ながかるべきことども宣ひしなむ、あはれなりし」とこそ、後に語り給ひたれ。
この粟田殿の御男君達ぞ三人御座せしが、太郎君は福足君と申ししを、幼き人はさのみこそはと思へど、いとあさましう、まさなう、あしくぞ御座せし。東三条殿の御賀に、この君、舞をせさせ奉らむとて、習はせ給ふほども、あやにくがりすまひ給へど、よろづにをこづり、祈をさへして、教へきこえさするに、その日になりて、いみじうしたて奉り給へるに、舞台の上にのぼり給ひて、物の音調子吹き出づるほどに、「わざはひかな、あれは舞はじ」とて、髭頬ひき乱り、御装束はらはらとひき破り給ふに、粟田殿、御色真青にならせ給ひて、あれかにもあらぬ御けしきなり。ありとある人、「さ思ひつることよ」と見給へど、すべきやうもなきに、御舅の中関白殿のおりて、舞台に上らせ給へば、いひをこづらせ給ふべきか、また憎さにえたへず、追ひおろさせ給ふべきかと、かたがた見侍りしに、この君を御腰のほどに引きつけさせ給ひて、御手づからいみじう舞はせたりしこそ、楽もまさりておもしろく、かの君の御恥もかくれ、その日の興もことのほかにまさりたりけれ。祖父もうれしと思したりけり。父大臣はさらなり、よその人だにこそ、すずろに感じ奉りけれ。斯様に、人のためになさけなさけしきところ御座しましけるに、など御末かれさせ給ひにけむ。この君、人しもこそあれ、蛇れうじ給ひて、その崇りにより、頭に物はれて、失せ給ひにき。
この御弟の次郎君、今の左衛門督兼隆の卿は、大蔵卿の女の腹なり。この左衛門督の君達、男女あまた御座すなり。大姫君は、三条院の三の皇子、敦平の中務の宮に、このきさらぎかとよ、婿どり奉り給へる、いとよき御中にて御座しますめり。また、姫君なる四人御座す。また、粟田殿の三郎、前頭中将兼綱の君。その君の祭の日ととのへ給へりし車こそ、いとをかしかりしか。桧網代といふ物を張りて、的のかたに彩られたりし車の、横ざまのふちを、弓の形にし、縦ぶちを矢の形にせられたりしさまの、興ありしなり。和泉式部の君、歌によまれて侍めりき。
 とをつらの馬ならねども君乗れば車もまとに見ゆる物かな W
 さて、よき御風流と見えしかど、人の口やすからぬ物にて、「賀茂の明神の御矢めおひ給へり」と、いひなしてしかば、いと便なくてやみにき。この君の、頭とられ給ひし、いといみじく侍りしことぞかし。頭になりておどろきよろこび給ふべきならねど、あるべきことにてあるに、「粟田殿、花山院すかしおろし奉り、左衛門督、小一条院すかしおろし奉り給へり。帝・春宮の御あたり近づかでありぬべき族」といふこと出できにしぞ、いと希有に侍りきな。誰も聞し召し知りたることなれど。男君たち、かくなり。
 女君は、故一条院の御乳母の藤三位の腹に出で御座しましたりしを、やがてその御時のくらべやの女御と聞えし。後に、この大蔵卿通任の君の御北の方にて失せ給ひにしかし。御嫡腹に、仏・神に申して孕まれ給へりし君、今の中宮に、二条殿の御方とてこそは候ひ給ふめれ。父殿、女子をほしがり、願をたて給ひしかど、御顔をだにえ見奉り給はずなりにき。斯様にあはれなることどもの、世に侍りしぞかし。
その殿の御北の方、栗田殿の御後は、この堀河殿の御子の左大臣の北の方にてこそは、年頃御座すと、聞き奉りしか。その北の方、九条殿の御子の大蔵卿の君の女ぞかし。されば、この栗田殿の御有様、ことのほかにあへなく御座しましき。さるは、御心いとなさけなくおそろしくて、人にいみじう怖ぢられ給へりし殿の、あやしく末なくてやみ給ひにしなり。
 この殿、父大臣の御忌には、土殿などにもゐさせ給はで、暑きにことつけて、御簾どもあげわたして、御念誦などもし給はず、さるべき人々呼び集めて、後撰・古今ひろげて、興言し、遊びて、つゆ嘆かせ給はざりけり。そのゆゑは、花山院をばわれこそすかしおろし奉りたれ、されば、関白をも譲らせ給ふべきなり、といふ御恨みなりけり。世づかぬ御ことなりや。さまざまよからぬ御ことどもこそきこえしか。傅の殿・この入道殿二所は、如法に孝じ奉り給ひけりとぞ、承りし。



〔大鏡 下〕

一 太政大臣道長 
 この大臣は、法興院の大臣の御五男、御母、従四位上摂津守右京大夫藤原中正朝臣の女なり。その朝臣は従二位中納言山蔭卿の七男なり。この道長のおとどは、今の入道殿下これに御座します。一条院・三条院の御舅、当代・東宮の御祖父にて御座します。この殿、宰相にはなり給はで、ただちに権中納言にならせ給ふ、御年二十三。その年、上東門院生れ給ふ。四月二十七日、従二位し給ふ、御年二十七。関白殿生れ給ふ年なり。長徳元年乙羊四月二十七日、左近大将かけさせ給ふ。
その年の祭の前より、世の中きはめてさわがしきに、またの年、いとどいみじくなりたちにしぞかし。まづは、大臣・公卿多く失せ給へりしに、まして、四位・五位のほどは、数やは知りし。
 まづその年失せ給へる殿ばらの御数、閑院の大納言、三月二十八日、中関白殿、四月十日。これは世の疫に御座しまさず、ただ同じ折のさしあはせたりしことなり。小一条の左大将済時卿は四月二十三日、六条の左大臣殿・粟田の右大臣殿・桃園の中納言保光卿、この三人は五月八日、一度に失せ給ふ。山井の大納言殿、六月十一日ぞかし。またあらじ、あがりての世にも、かく大臣・公卿七八人、二三月のうちにかきはらひ給ふこと。希有なりしわざなり。それもただこの入道殿の御幸ひの、上をきはめ給ふにこそ侍るめれ。かの殿ばら、次第のままにひさしく保ち給はましかば、いとかくしもやは御座しまさまし。
 まづ帥殿の御心もちゐのさまざましく御座しまさば、父大臣の御病のほど、天下執行の宣旨下り給へりしままに、おのづからさてもや御座しまさまし。それにまた、大臣失せ給ひにしかば、いかでか、みどりごの様なる殿の、世の政し給はむとて、粟田殿にわたりにしぞかし。さるべき御次第にて、それまたあるべきことなり。あさましく夢などのやうに、とりあへずならせ給ひにし、これはあるべきことかはな。この今の入道殿、その折、大納言中宮大夫と申して、御年いと若く、ゆく末待ちつけさせ給ふべき御齢のほどに、三十にて、五月十一日に、関白の宣旨承り給うて、栄えそめさせ給ひにしままに、また外ざまへも分かれずなりにしぞかし。いまいまも、さこそは侍るべかむめれ。
この殿は、北の方二所御座します。この宮宮の母上と申すは、土御門の左大臣源雅信のおとどの御女に御座します。雅信のおとどは、亭子の帝の御子、一品式部卿の宮敦実の親王の御子、左大臣時平のおとどの御女の腹に生れ給ひし御子なり。その雅信のおとどの御女を、今の入道殿下の北の政所と申すなり。その御腹に、女君四所・男君二所ぞ御座します。その御有様は、ただいまのことなれば、皆人見奉り給ふらめど、ことばつづけ申さむとなり。
 第一の女君は、一条院の御時に、十二にて、参らせ給ひて、またの年、長保二年庚子二月二十五日、十三にて后にたち給ひて、中宮と申ししほどに、うちつづき男親王二人うみ奉り給へりしこそは、今の帝・東宮に御座しますめれ。二所の御母后、太皇太后宮と申して、天下第一の母にて御座します。
 その御さしつぎの尚侍と申しし、三条院の東宮に御座しまししに、参らせ給うて、宮、位につかせ給ひにしかば、后にたたせ給ひて、中宮と申しき、御年十九。さてまたの年、長和二年癸丑七月二十六日に、女親王生れさせ給へるこそは、三四ばかりにて一品にならせ給ひて、今に御座しませ。この頃は、この御母宮を皇太后宮と申して、枇杷殿に御座します。一品の宮は、三宮に准じて、千戸の御封を得させ給へば、この宮に后二所御座しますがごとくなり。
 また次の女君、これも尚侍にて、今の帝十一歳にて、寛仁二年戊午正月二日、御元服せさせ給ふ、その二月に参り給うて、同じき年の十月十六日に后にゐさせ給ふ。ただいまの中宮と申して、内に御座します。
 また、次の女君、それも尚侍、十五に御座します、今の東宮十三にならせ給ふ年、参らせ給ひて、東宮の女御にて候はせ給ふ。入道せしめ給ひて後のことなれば、今の関白殿の御女と名づけ奉りてこそは参らせ給ひしか。今年は十九にならせ給ふ。妊じ給ひて、七八月にぞ当たらせ給へる。入道殿の御有様見奉るに、かならず男にてぞ御座しまさむ。この翁、さらによも申しあやまち侍らじ」と、扇を高くつかひつついひしこそ、をかしかりしか。
《世継》「女君たちの御有様かくのごとし。男君二所と申すは、今の関白左大臣頼通のおとどと聞えさせて、天下をわがままにまつりごちて御座します。御年二十六にてや内大臣・摂政にならせ給ひけむ。帝およすけさせ給ひにしかば、ただ関白にて御座します。二十余にて納言などになり給ふをぞ、いみじきことにいひしかど、今の世の御有様かく御座しますぞかし。御童名は鶴君なり。いま一所は、ただいまの内大臣にて、左大将かけて、教通のおとどと聞えさす。世の二の人にて御座しますめり。御童名、せや君ぞかし。
かかれば、この北の政所の御栄えきはめさせ給へり。
御女の御幸ひは、あるいは、帝・東宮の御母后にならせ給ひ、あるいは、わが御親一の人にて御座するには、御子生れさせ給はねど、かねて后にみなゐませ給ふめり。女の御幸ひは、后にこそきはめさせ給ふことなめれ。されどそれは、いと所狭きに御座します。いみじきとみのことなれど、おぼろけならねば、えうごかせ給はず。陣屋ゐぬれば、女房たやすく心にもまかせず。かように所狭げなり。
ただ人と申せど、帝・春宮の御祖母にて、准三宮の御位にて、年官、年爵給はらせ給ふ。唐の御車にて、いとたはやすく、御ありきなども、なかなか御身安らかにて、ゆかしく思し召しけることは、世の中の物見、なにの法会やなどある折は、御車にても、桟敷にても、かならず御覧ずめり。内・東宮・宮々と、あかれあかれよそほしくて御座しませど、いづかたにもわたり参らせ給ひてはさしならび御座します。
ただいま三后・東宮の女御・関白左大臣・内大臣の御母・帝・春宮はた申さず、おほよそ世の親にて御座します。入道殿と申すもさらなり、おほかたこの二所ながら、さるべき権者にこそ御座しますめれ。御なからひ四十年ばかりにやならせ給ひぬらむ。あはれにやむごとなき物にかしづき奉らせ給ふ、といへばこそおろかなれ。世の中には、いにしへ・ただいまの国王・大臣、皆藤氏にてこそ御座しますに、この北の政所ぞ、源氏にて御幸ひきはめさせ給ひにたる。一昨年の御賀の有様などこそ、皆人見聞き給ひしことなれど、なほかへすがへすもいみじく侍りし物かな。
また、高松殿の上と申すも、源氏にて御座します。延喜の皇子高明の親王を左大臣になし奉らせ給へりしに、思はざるほかのことによりて、帥にならせ給ひて、いといと心憂かりしことぞかし。その御女に御座します。それを、かの殿、筑紫に御座しましける年、この姫君まだいと幼く御座しましけるを、御舅の十五の宮と申したるも、同じ延喜の皇子に御座します、
女子も御座せざりければ、この君をとり奉りて、養ひかしづき奉りて、もち給へるに、西宮殿も、十五の宮もかくれさせ給ひにし後に、故女院の后に御座しましし折、この姫君を迎へ奉らせ給ひて、東三条殿の東の対に、帳を立てて、壁代をひき、わが御しつらひにいささかおとさせ給はず、しすゑきこえさせ給ひ、女房・侍・家司・下人まで別にあかちあてさせ給ひて、姫宮などの御座しまさせしごとくにかぎりなく、思ひかしづききこえさせ給ひしかば、御せうとの殿ばら、我も我もと、よしばみ申し給ひけれど、后かしこく制しまうさせ給ひて、今の入道殿をぞ許しきこえさせ給ひければ、通ひ奉らせ給ひしほどに、女君二所・男君四人御座しますぞかし。
 女君と申すは、今の小一条院の女御。いま一所は故中務卿具平の親王と申す、村上の帝の七の親王に御座しましき、その御男君三位中将師房の君と申すを、
今の関白殿の上の御はらからなるが故に、関白殿、御子にし奉らせ給ふを、
 入道殿婿どり奉らせ給へり。「あさはかに、心得ぬこと」とこそ、世の人申ししか。殿のうちの人も思したりしかど、入道殿思ひおきてさせ給ふやうありけむかしな。
 男君は、大納言にて春宮大夫頼宗と聞ゆる。御童名、石君。いま一所、これに同じ、大納言中宮権大夫能信と聞ゆる。
いま一所、中納言長家。御童名、小若君。
いま一人は、馬頭にて、顕信とて御座しき。御童名、苔君なり。寛弘九年壬子正月十九日、入道し給ひて、この十余年は、仏のごとくして行はせ給ふ。思ひがけず、あはれなる御ことなり。みづからの菩提を申すべからず、殿の御ためにもまた、法師なる御子の御座しまさぬが口惜しく、こと欠けさせ給へる様なるに、「されば、やがて一度に僧正になし奉らむ」となむ仰せられけるとぞ承るを、いかが侍らむ。うるはしき法服、宮々よりも奉らせ給ひ、殿よりは麻の御衣奉るなるをば、あるまじきことに申させ給ふなるをぞ、いみじく侘びさせ給ひける。
 出でさせ給ひけるには、緋の御衵のあまた候ひけるを、「これがあまた重ねて着たるなむうるさき。綿を一つに入れなして一つばかりを着たらばや。しかせよ」と仰せられければ、「これかれそそき侍らむもうるさきにことを厚くして参らせむ」と申しければ、「それはひさしくもなりなむ。ただとくと思ふぞ」と仰せられければ、思し召すやうこそはと思ひて、あまたを一つにとり入れて参らせたるを奉りてぞ、その夜は出でさせ給ひける。
 されば、御乳母は、「かくて仰せられける物を、なにしにして参らせけむ」と、「例ならずあやしと思はざりけむ心のいたりのなさよ」と、泣きまどひけむこそ、いとことわりにあはれなれ。ことしもそれにさはらせ給はむやうに。かくと聞きつけ給ひては、やがて絶え入りて、なき人のやうにて御座しけるを、「かく聞かせ給はば、いとほしと思して、御心や乱れ給はむ」と、「今さらによしなし。これぞめでたきこと。仏にならせ給はば、我が御ためも、後の世のよく御座せむこそ、つひのこと」と、人々のいひければ、「われは仏にならせ給はむもうれしからず。わが身の後のたすけられ奉らむもおぼえず。ただいまのかなしさよりほかのことなし。殿の上も、御子どもあまた御座しませば、いとよし。ただわれ一人がことぞや」とぞ、伏しまろびまどひける。げにさることなりや。道心なからむ人は、後の世までも知るべきかはな。
 高松殿の御夢にこそ、左の方の御ぐしを、なからより剃り落とさせ給ふと御覧じけるを、かくて後にこそ、これが見えけるなりけりと思ひさだめて、「ちがへさせ、祈などをもすべかりけることを」と仰せられける。
皮堂にて御ぐしおろさせ給ひて、やがてその夜、山へ登らせ給ひけるに、「鴨河渡りしほどのいみじうつめたくおぼえしなむ、少しあはれなりし。今は斯様にてあるべき身ぞかしと思ひながら」とこそ仰せられけれ。
 今の右衛門督ぞ、とくより、この君をば、「出家の相こそ御座すれ」と宣ひて、中宮権大夫殿の上に御消息聞えさせ給ひけれど、「さる相ある人をばいかで」とて、後にこの大夫殿をばとり奉り給へるなり。正月に、内より出で給ひて、この右衛門督、「馬頭の、物見よりさし出でたりつるこそ、むげに出家の相近くなりにて見えつれ。いくつぞ」と宣ひければ、頭中将「十九にこそなり給ふらめ」と申し給ひければ、「さては、今年ぞし給はむ」とありけるに、かくと聞きてこそ、「さればよ」と宣ひけれ。相人ならねど、よき人は、物を見給ふなり。
 入道殿は、「益なし。いたう嘆きてかなし。心乱れせられむも、この人のためにいとほし。法師子のなかりつるに、いかがはせむ。幼くてもなさむと思ひしかども、すまひしかばこそあれ」とて、ただ例の作法の法師の御やうにもてなしきこえ給ひき。受戒には、やがて殿登らせ給ひ、人々我も我もと、御供に参り給ひて、いとよそほしげなりき。威儀僧には、えもいはぬものども選らせ給ひき。御先に、有職・僧網どものやむごとなき候ふ。山の所司・殿の御随身ども、人払ひののしりて、戒壇にのぼらせ給ひけるほどこそ、入道殿はえ見奉らせ給はざりけれ。御みづからは、本意なくかたはらいたしと思したりけり。座主の、手輿に乗りて、白蓋ささせてのぼられけるこそ、あはれ天台座主、戒和尚の一や、とこそ見え給ひけれ。世継が隣に侍る者の、そのきにはに会ひて見奉りけるが、語り侍りしなり。
「春宮大夫・中宮権大夫殿などの、大納言にならせ給ひし折は、さりとも、御耳とまりてきかせ給ふらむ、とおぼえしかど、その大饗の折のことども、大納言の座敷き添へられしほどなど、語り申ししかど、いささか御けしき変らず、念誦うちして、「かうやうのこと、ただしばしのことなり」とうち宣はせしなむ、めでたく優におぼえし」とぞ、通任の君、宣ひける。
この殿の君達、男女あはせ奉りて十二人、数のままにて御座します。男も女も、御官位こそ心にまかせ給へらめ、御心ばへ・人柄どもさへ、いささかかたほにて、もどかれさせ給ふべきも御座しまさず、とりどりに有識にめでたく御座しまさふも、ただことごとならず、入道殿の御幸ひのいふかぎりなく御座しますなめり。先々の殿ばらの君達御座せしかども、皆かくしも思ふさまにやは御座せし。おのづから、男も女もよきあしきまじりてこそ御座しまさふめりしか。この北の政所の二人ながら源氏に御座しませば、末の世の源氏の栄え給ふべきと定め申すなり。かかれば、この二所の御有様、かくのごとし。
ただし、殿の御前は、三十より関白せさせ給ひて、一条院・三条院の御時、世をまつりごち、わが御ままにて御座しまししに、また当代の九歳にて位につかせ給ひにしかば、御年五十一にて摂政せさせ給ふ年、わが御身は太政大臣にならせ給ひて、摂政をば大臣に譲り奉らせ給ひて、御年五十四にならせ給ふに、寛仁三年己未
三月十八日の夜中ばかりより御胸を病ませ給ひて、わざとに御座しまさねど、いかが思し召しけむ、にはかに、二十一日、未の時ばかり、起き居させ給ひて、御冠し、掻練の御下襲に布袴をうるはしくさうずかせ給ひて、御手水召せば、何事にかと、関白殿を始め奉りて殿ばらも思し召す。寝殿の西の渡殿に出でさせ給ひて、南面拝せさせ給ひて、春日の明神にいとま申させ給ふなりけり。慶明僧都・定基律師して、御ぐしおろさせ給ふ。関白殿を始めとして、君達・殿ばらなど、いとあさましく思せど、思したちてにはかにせさせ給ふことなれば、誰も誰もあきれて、え制しまうさせ給はず。あさましとはおろかなり。院源法印、御戒師し給ふ。信恵僧都の袈裟・衣をぞ奉りける。にはかのことにてまうけさせ給はざりけるにや。御名は行観とぞ侍りし。
 かくて後にぞ、内・東宮・宮々たちには、かくと聞えさせ給ひける。聞きつけさせ給へる宮たちの御心ども、あさましく思しさわぐとは、おろかなり。申の時ばかりに、小一条院わたらせ給ひ、御門の外にて、御車かきおろして、引き入れて、中門の外にておりさせ給ひてこそは御座しまししか。寄せてもおりさせ給はで、かしこまりまうさせ給ふほども、いともかたじけなくめでたき御有様なりかし。宮たちも、夜さりこそはわたらせ給ひしか。
 中宮・皇后宮などは、一つ御車にてぞわたらせ給ひし。行啓の有様、にはかにて、例の作法も侍らざりける。同じき年九月二十七日奈良にて御受戒侍りき。かかる御有様につけても、いかにめでたき御有様にことどもの多く侍りしかば、皆人知り給へることどもなれば、こまかには申し侍らじ。
三月二十一日、御出家し給ひつれど、なほまた同じき五月八日、准三宮の位にならせ給ひて、年官・年爵得させ給ふ。帝・東宮の御祖父、三后・関白左大臣・内大臣・あまたの納言の御父にて御座します。世を保たせ給ふこと、かくて三十一年ばかりにやならせ給ひぬらむ。今年は満六十に御座しませば、督の殿の御産の後、御賀あるべしとぞ人申す。いかにまたさまざま御座しまさへて、めでたく侍らむずらむ。おほかたまた世になきことなり、大臣の御女三人、后にてさし並べ奉り給ふこと。
あさましう希有のことなり。唐には、昔三千人の后御座しけれど、それは筋をたづねずしてただかたちありなど聞ゆるを、隣の国まで選び召して、その中に楊貴妃ごときは、あまりときめきすぎて、かなしきことあり。王昭君は父の申すにたがひて胡の国の人となり、上陽人は楊貴妃にそばめられて、帝に見え奉らで、深き窓のうちにて、春のゆき秋の過ぐることをも知らずして、十六にて参りて、六十までありき。斯様なれば、三千人のかひなし。
 わが国には、七の后こそ御座すべけれど、代々に四人ぞたち給ふ。
この入道殿下の御一門よりこそ、太皇太后宮・皇太后宮・中宮、三所出で御座しましたれば、誠に希有希有の御幸ひなり。皇后宮一人のみ、筋わかれ給へりといへども、それそら貞信公の御末に御座しませば、これをよそ人と思ひまうすべきことかは。しかれば、ただ世の中は、この殿の御光ならずといふことなきに、この春こそは失せ給ひにしかば、いとどただ三后のみ御座しますめり。
この殿、ことにふれてあそばせる詩・和歌など、居易・人麿・躬恒・貫之といふとも、え思ひよらざりけむとこそ、おぼえ侍れ。春日の行幸、先の一条院の御時より始まれるぞかしな。それにまた、当代幼く御座しませども、かならずあるべきことにて、始まりたる例になりにたれば、大宮御輿に添ひまうさせ給ひて御座します、めでたしなどはいふも世の常なり。すべらぎの御祖父にて、うち添ひつかうまつらせ給へる殿の御有様・御かたちなど少し世の常にも御座しまさましかば、あかぬことにや。そこらあつまりたる田舎世界の民百姓、これこそは、たしかに見奉りけめ、ただ転輪聖王などはかくやと、光るやうに御座しますに、仏見奉りたらむやうに、額に手を当てて拝みまどふさま、ことわりなり。大宮の、赤色の御扇さし隠して、御肩のほどなどは、少し見えさせ給ひけり。かばかりにならせ給ひぬる人は、つゆの透影もふたぎ、いかがとこそはもて隠し奉るに、ことかぎりあれば、今日はよそほしき御有様も、少しは人の見奉らむも、などかはともや思し召しけむ。殿も宮も、いふよしなく、御心ゆかせ給へりけること、おしはかられ侍れば、殿、大宮に、
  そのかみや祈りおきけむ春日野のおなじ道にもたづねゆくかな W
御返し、 
  曇りなき世の光にや春日野のおなじ道にもたづねゆくらむ W
斯様に申しかはさせ給ふほどに、げにげにと聞えて、めでたく侍りしなかにも、大宮のあそばしたりし、
  三笠山さしてぞ来つるいそのかみ古きみゆきのあとをたづねて W
これこそ、翁らが心およばざるにや。あがりても、かばかりの秀歌え候はじ。その日にとりては、春日の明神もよませ給へりけるとおぼえ侍り。今日かかることどもの栄えあるべきにて、先の一条院の御時にも、大入道殿、行幸申し行はせ給ひけるにやとこそ、心得られ侍れな。
 おほかた、幸ひ御座しまさむ人の、和歌の道おくれ給へらむは、ことの栄えなくや侍らまし。この殿は、折節ごとに、かならず斯様のことを仰せられて、ことをはやさせ給ふなり。ひととせの、北の政所の御賀に、よませ給へりしは、
  ありなれし契りは絶えていまさらに心けがしに千代といふらむ W
 また、この一品の宮の生れ御座しましたりし御産養、大宮のせさせ給へりし夜の御歌は、聞き給へりや。それこそいと興あることを。ただ人は思ひよるべきにも侍らぬ和歌の体なり。
  おと宮の産養をあね宮のし給ふ見るぞうれしかりける Wとかや、承りし」とて、こころよく笑みたり。
《世継》「四条の大納言のかく何事もすぐれ、めでたく御座しますを、大入道殿「いかでかかからむ。うらやましくもあるかな。わが子どもの、影だに踏むべもあらぬこそ口惜しけれ」と申させ給ひければ、中関白殿・粟田殿などは、げにさもとや思すらむと、はづかしげなる御けしきにて、物も宣はぬに、この入道殿は、いと若く御座します御身にて、「影をば踏まで、面をや踏まぬ」とこそ仰せられけれ。まことにこそさ御座しますめれ。内大臣殿をだに、近くてえ見奉り給はぬよ。
さるべき人は、とうより御心魂のたけく、御守もこはきなめりとおぼえ侍るは。花山院の御時に、五月下つ闇に、五月雨も過ぎて、いとおどろおどろしくかきたれ雨の降る夜、帝、さうざうしとや思し召しけむ、殿上に出でさせ御座しまして、遊び御座しましけるに、人々、物語申しなどし給うて、昔おそろしかりけることどもなどに申しなり給へるに、「今宵こそいとむつかしげなる夜なめれ。かく人がちなるだに、けしきおほゆ。まして、物離れたる所などいかならむ。
さあらむ所に一人往なむや」と仰せられけるに、「えまからじ」とのみ申し給ひけるを、入道殿は、「いづくなりともまかりなむ」と申し給ひければ、さるところ御座します帝にて、「いと興あることなり。さらばいけ。道隆は豊楽院、道兼は仁寿殿の塗篭、道長は大極殿へいけ」と仰せられければ、よその君達は、便なきことをも奏してけるかなと思ふ。
 また、承らせ給へる殿ばらは、御けしきかはりて、益なしと思したるに、入道殿は、つゆさる御けしきもなくて、「私の従者をば具し候はじ。この陣の吉上まれ、滝口まれ、一人を、『昭慶門まで送れ』と仰せ言たべ。それよりうちには一人入り侍らむ」と申し給へば、「証なきこと」と仰せらるるに、「げに」とて、御手箱に置かせ給へる小刀まして立ち給ひぬ。いま二所も、苦む苦むおのおの御座さふじぬ。「子四つ」と奏して、かく仰せられ議するほどに、丑にもなりにけむ。「道隆は右衛門の陣より出でよ。道長は承明門より出でよ」と、それをさへ分たせ給へば、しか御座しましあへるに、中関白殿、陣まで念じて御座しましたるに、宴の松原のほどに、その物ともなき声どもの聞ゆるに、術なくて帰り給ふ。粟田殿は、露台の外まで、わななくわななく御座したるに、仁寿殿の東面の砌のほどに、軒とひとしき人のあるやうに見え給ひければ、物もおぼえで、「身の候はばこそ、仰せ言も承らめ」とて、おのおのたち帰り参り給へれば、御扇をたたきて笑はせ給ふに、入道殿はいとひさしく見えさせ給はぬを、いかがと思し召すほどにぞ、いとさりげなくことにもあらずげにて参らせ給へる。「いかにいかに」と問はせたまへば、いとのどやかに、御刀に、削られたる物を取り具して奉らせ給ふに、「こは何ぞ」と仰せらるれば、「ただにて帰り参りて侍らむは、証候ふまじきにより、高御座の南面の柱のもとを削りて候ふなり」と、つれなく申し給ふに、いとあさましく思し召さる。こと殿たちの御けしきは、いかにもなほ直らで、この殿のかくて参り給へるを、帝より始め感じののしられ給へど、うらやましきにや、またいかなるにか、物もいはでぞ候ひ給ひける。なほ、うたがはしく思し召されければ、つとめて、「蔵人して、削り屑をつがはしてみよ」と仰せ言ありければ、持ていきて押しつけて見たうびけるに、つゆたがはざりけり。その削り跡は、いとけざやかにて侍めり。末の世にも、見る人はなほあさましきことにぞ申ししかし。
故女院の御修法して、飯室の権僧正の御座しましし伴僧にて、相人の候ひしを、女房どもの呼びて相ぜられけるついでに、「内大臣殿はいかが御座す」など問ふに、「いとかしこう御座します。天下とる相御座します。中宮大夫殿こそいみじう御座しませ」といふ。また、粟田殿を問ひ奉れば、「それもまた、いとかしこく御座します。大臣の相御座します」。
また、「あはれ中宮大夫殿こそいみじう御座しませ」といふ。
また、権大納言殿を問ひ奉れば、「それも、いとやむごとなく御座します。雷の相なむ御座する」と申しければ、「雷はいかなるぞ」と問ふに、「ひときはは、いと高く鳴れど、後とげのなきなり。されば、御末いかが御座しまさむと見えたり。中宮大夫殿こそ、かぎりなくきはなく御座しませ」と、こと人を問ひ奉るたびには、この入道殿をかならずひき添へ奉りて申す。「いかに御座すれば、かく毎度には聞え給ふぞ」といへば、「第一の相には、虎の子の深き山の峰を渡るがごとくなるを申したるに、いささかもたがはせ給はねばかく申し侍るなり。このたとひは、虎の子のけはしき山の峰を渡るがごとしと申すなり。御かたち・容体は、ただ毘沙門のいき本見奉らむやうに御座します。御相かくのごとしといへば、誰よりもすぐれ給へり」とこそ申しけれ。いみじかりける上手かな。あてたがはせ給へることやは御座しますめる。帥の大臣の大臣までかくすがやかになり給へりしを、「始めよし」とはいひけるなめり。
雷は落ちぬれど、またもあがる物を、星の落ちて石となるにぞたとふべきや。それこそ返りあがることなけれ。
折々につけたる御かたちなどは、げにながき思ひ出でとこそは人申すめれ。なかにも三条院の御時、賀茂行幸の日、雪ことのほかにいたう降りしかば、御単の袖をひき出でて、御扇を高く持たせ給へるに、いと白く降りかかりたれば、「あないみじ」とて、うち払はせ給へりし御もてなしは、いとめでたく御座しましし物かな。上の御衣は黒きに、御単衣は紅のはなやかなるあはひに、雪の色ももてはやされて、えもいはず御座しましし物かな。高名のなにがしといひし御馬、いみじかりし悪馬なり。あはれ、それを奉りしづめたりしはや。三条院も、その日のことをこそ思し召し出で御座しますなれ。御病のうちにも、「賀茂行幸の日の雪こそ、忘れがたけれ」と仰せられけむこそ、あはれに侍れ。
世間の光にて御座します殿の、一年ばかり、物をやすからず思し召したりしよ、いかに天道御覧じけむ。さりながらも、いささか逼気し、御心やは倒させ給へりし。おほやけざまの公事・作法ばかりにはあるべきほどにふるまひ、時たがふことなく勤めさせ給ひて、うちうちには、所も置ききこえさせ給はざりしぞかし。
 帥殿の、南院にて人々集めて弓あそばししに、この殿わたらせ給へれば、思ひがけずあやしと、中関白殿思し驚きて、いみじう饗応しまうさせ給うて、下藤に御座しませど、前にたて奉りて、まづ射させ奉らせ給ひけるに、帥殿、矢数いま二つ劣り給ひぬ。中関白殿、また御前に候ふ人々も、「いま二度延べさせ給へ」と申して、延べさせ給ひけるを、やすからず思しなりて、「さらば、延べさせ給へ」と仰せられて、また射させ給ふとて、仰せらるるやう、「道長が家より帝・后たち給ふべき物ならば、この矢あたれ」と仰せらるるに、同じ物を中心にはあたる物かは。次に、帥殿射給ふに、いみじう臆し給ひて、御手もわななく故にや、的のあたりにだに近くよらず、無辺世界を射給へるに、関白殿、色青くなりぬ。また、入道殿射給ふとて、「摂政・関白すべき物ならば、この矢あたれ」と仰せらるるに、始めの同じやうに、的の破るばかり、同じところに射させ給ひつ。饗応し、もてはやしきこえさせ給ひつる興もさめて、こと苦うなりぬ。父大臣、帥殿に、「なにか射る。な射そ、な射そ」と制し給ひて、ことさめにけり。
入道殿、矢もどして、やがて出でさせ給ひぬ。その折は左京大夫とぞ申しし。弓をいみじう射させ給ひしなり。また、いみじう好ませ給ひしなり。
今日に見ゆべきことならねど、人の御さまの、いひ出で給ふことのおもむきより、かたへは臆せられ給ふなむめり。
 また、故女院の御石山詣に、この殿は御馬にて、帥殿は車にて参り給ふに、さはることありて、粟田口より帰り給ふとて、院の御車のもとに参り給ひて、案内申し給ふに、御車もとどめたれば、轅をおさへて立ち給へるに、入道殿は、御馬をおしかへして、帥殿の御項のもとに、いと近ううち寄せさせ給ひて、「とく仕うまつれ。日の暮れぬるに」と仰せられければ、あやしく思されて見返り給へれど、おどろきたる御けしきもなく、とみにも退かせ給はで、「日暮れぬ。とくとく」とそそのかせ給ふを、いみじうやすからず思せど、いかがはせさせ給はむ、やはら立ち退かせ給ひにけり。父大臣にも申し給ひければ、「大臣軽むる人のよき様なし」と宣はせける。
 三月巳の日の祓に、やがて造遥し給ふとて、帥殿、河原にさるべき人々あまた具して出でさせ給へり。平張どもあまたうちわたしたる御座し所に、入道殿も出でさせ給へる、御車を近くやれば、「便なきこと。かくなせそ。やりのけよ」と仰せられけるを、なにがし丸といひし御車副の、「何事宣ふ殿にかあらむ。かくきこし給へれば、この殿は不運には御座するぞかし。わざはひや、わざはひや」とて、いたく御車牛をうちて、いま少し平張のもと近くこそ、つかうまつり寄せたりけれ。「辛うもこの男にいはれぬるかな」とぞ仰せられける。さて、その御車副をば、いみじうらうたくせさせ給ひ、御かへりみありしは。斯様のことにて、この殿たちの御中いとあしかりき。
女院は、入道殿をとりわき奉らせ給ひて、いみじう思ひまうさせ給へりしかば、帥殿はうとうとしくもてなさせ給へりけり。帝、皇后宮をねんごろにときめかさせ給ふゆかりに、帥殿はあけくれ御前に候はせ給ひて、入道殿をばさらにも申さず、女院をもよからず、ことにふれて申させ給ふを、おのづから心得やせさせ給ひけむ、いと本意なきことに思し召しける、ことわりなりな。入道殿の世をしらせ給はむことを、帝いみじうしぶらせ給ひけり。皇后宮、父大臣御座しまさで、世の中をひきかはらせ給はむことを、いと心ぐるしう思し召して、粟田殿にも、とみにやは宣旨下させ給ひし。されど、女院の道理のままの御ことを思し召し、また帥殿をばよからず思ひきこえさせ給うければ、入道殿の御ことを、いみじうしぶらせ給ひけれど、「いかでかくは思し召し仰せらるるぞ。大臣越えられたることだに、いといとほしく侍りしに、父大臣のあながちにし侍りしことなれば、いなびさせ給はずなりにしこそ侍れ。粟田の大臣にはせさせ給ひて、これにしも侍らざらむは、いとほしさよりも、御ためなむ、いと便なく、世の人もいひなし侍らむ」など、いみじう奏せさせ給ひければ、むつかしうや思し召しけむ、後にはわたらせ給はざりけり。されば、上の御局にのぼらせ給ひて、「こなたへ」とは申させ給はで、我、夜の御殿に入らせ給ひて、泣く泣く申させ給ふ。その日は、入道殿は上の御局に候はせ給ふ。いとひさしく出でさせ給はねば、御胸つぶれさせ給ひけるほどに、とばかりありて、戸をおしあけて出でさせ給ひける、御顔は赤み濡れつやめかせ給ひながら、御口はこころよく笑ませ給ひて、「あはや、宣旨下りぬ」とこそ申させ給ひけれ。いささかのことだに、この世ならず侍るなれば、いはむや、かばかりの御有様は、人の、ともかくも思しおかむによらせ給ふべきにもあらねども、いかでかは院をおろかに思ひまうさせ給はまし。そのなかにも、道理すぎてこそは報じ奉り仕うまつらせ給ひしか。御骨をさへこそはかけさせ給へりしか。
 中関白殿・粟田殿うちつづき失せさせ給ひて、入道殿に世のうつりしほどは、さも胸つぶれて、きよきよとおぼえ侍りしわざかな。いとあがりての世は知り侍らず、翁物覚えての後は、かかること候はぬ物をや。今の世となりては、一の人の、貞信公・小野宮殿をはなち奉りて、十年と御座することの、近くは侍らねば、この入道殿もいかがと思ひまうし侍りしに、いとかかる運におされて、御兄たちはとりもあへずほろび給ひにしにこそ御座すめれ。それもまた、さるべくあるやうあることを、皆世はかかるなむめりとぞ人々思し召すとて、有様を少しまた申すべきなり。
  藤原氏物語
世の中の帝、神代七代をばさるものにて、神武天皇より始め奉りて、三十七代にあたり給ふ孝徳天皇の御代よりこそは、さまざまの大臣定まり給へなれ。ただしこの御時、中臣鎌子の連と申して、内大臣になり始め給ふ。その大臣は常陸国にて生れ給へりければ、三十九代にあたり給へる帝、天智天皇と申す、その帝の御時こそこの鎌足のおとどの御姓、藤原とあらたまり給ひたる。されば世の中の藤氏の始めには内大臣鎌足のおとどをし奉る。その末々より多くの帝・后・大臣・公卿さまざまになり出で給へり。
 ただし、この鎌足のおとどを、この天智天皇いとかしこくときめかし思して、わが女御一人をこの大臣に譲らしめ給ひつ。その女御ただにもあらず、孕み給ひにければ、帝の思し召し宣ひけるやう、この女御の孕める子、男ならば臣が子とせむ、女ならば朕が子とせむと思して、かの大臣に仰せられけるやう、「男ならば大臣の子とせよ。女ならば朕が子にせむ」と契らしめ給へりけるに、この御子、男にて生れ給へりければ、内大臣の御子とし給ふ。この大臣は、もとより男一人・女一人をぞ、持ち奉り給へりける。この御腹に、さしつづき女二人・男二人生れ給ひぬ。その姫君、天智天皇の皇子、大友皇子と申ししが、太政大臣の位にて、次にはやがて同じ年のうちに帝となり給ひて、天武天皇と申しける帝の女御にて、二所ながらさしつづき御座しけり。
 大臣のもとの太郎君をば、中臣意美麿とて、宰相までなり給へり。天智天皇の御子の孕まれ給へりし、右大臣までなり給ひて、藤原不比等のおとどとて御座しけり。失せ給ひて後、贈太政大臣になり給へり。鎌足のおとどの三郎は宇合とぞ申しける。四郎は麿と申しき。この男君たち、皆宰相ばかりまでぞなり給へる。かくて鎌足のおとどは、天智天皇の御時、藤原の姓賜はり給ひし年ぞ、失せさせ給ひける。内大臣の位にて、二十五年ぞ御座しましける。太政大臣になり給はねど、藤氏の出で始めのやむごとなきによりて、失せさせ給へる後の御いみな、淡海公と申しけり」
 この繁樹がいふやう、「大織冠をば、いかでか淡海公と申さむ。大織冠は大臣の位にて二十五年、御年五十六にてなむかくれ御座しましける。ぬしののたぶことも、天の川をかき流すやうに侍れど、折々かかる僻事のまじりたる。されども、誰かまた、かうは語らむな。仏在世の浄名居士とおぼえ給ふ物かな」といへば、世継がいはく、
「昔、唐国に、孔子と申す物知り、宣ひけるやう侍り。
「智者は千のおもひはかり、かならず一つあやまちあり」とあれば、世継、年百歳に多くあまり、二百歳にたらぬほどにて、かくまでは問はず語り申すは、昔の人にも劣らざりけるにやあらむ、となむおぼゆる」といへば、繁樹、「しかしか。誠に申すべき方なくこそ興あり、おもしろくおぼえ侍れ」とて、かつは涙をおしのごひなむ感ずる、誠にいひてもあまりにぞおぼゆるや。
《世継》「御子の右大臣不比等のおとど、実は天智天皇の御子なり。されど、鎌足のおとどの二郎になり給へり。この不比等のおとどの御名より始め、なべてならず御座しましけり。「ならびひとしからず」とつけられ給へる名にてぞ、この文字は侍りける。この不比等のおとどの御男君たち二人ぞ御座しける。太郎は武智麿と聞えて、左大臣までなり給へり。二郎は房前と申して、宰相までなり給へり。この不比等のおとどの御女二人御座しけり。一所は、聖武天皇の御母后、光明皇后と申しける。いま一所の御女は、聖武天皇の女御にて、女親王をぞうみ奉り給へりける。女御子を、聖武天皇、女帝にすゑ奉り給ひてけり。この女帝をば、高野の女帝と申しけり。二度位につかせ給ひたりける。
 さて、不比等のおとどの男子二人、また御弟二人とを、四家となづけて、皆門わかち給へりけり。その武智麿をば南家となづけ、二郎房前をば北家となづけ、御はらからの宇合の式部卿をば式家となづけ、その弟の麿をば京家となづけ給ひて、これを、藤氏の四家とはなづけられたるなりけり。この四家よりあまたのさまざまの国王・大臣・公卿多く出で給ひて栄え御座します。しかあれど、北家の末、今に枝ひろごり給へり。その御つづきを、また一筋に申すべきなり。絶えにたる方をば申さじ。人ならぬほどのものどもは、その御末にもや侍らむ。
この鎌足のおとどよりの次々、今の関白殿まで十三代にやならせ給ひぬらむ。その次第を聞し召せ。藤氏と申せば、ただ藤原をばさいふなりとぞ、人は思さるらむ。さはあれど、本末知ることは、いとありがたきことなり。
 一、内大臣鎌足のおとど、藤氏の姓賜はり給ひての年の十月十六日に失せさせ給ひぬ、御年五十六。大臣の位にて二十五年。この姓の出でくるを聞きて、紀氏の人のいひける、「藤かかりぬる木は枯れぬる物なり。いまぞ紀氏は失せなむずる」とぞ宣ひけるに、誠にこそしか侍れ。この鎌足のおとどの病づき給へるに、昔この国に仏法ひろまらず、僧などたはやすく侍らずやありけむ、聖徳太子伝へ給ふといへども、この頃だに、生れたる児も法華経を読むと申せど、まだ読まぬも侍るぞかし、百済国よりわたりたりける尼して、維摩経供養じ給へりけるに、御心地ひとたびにおこたりて侍りければ、その経をいみじき物にし給ひけるままに、維摩会は侍るなり。
 一、鎌足のおとどの二郎、左大臣正二位不比等、大臣の位にて十三年。贈太政大臣にならせ給へり。元明天皇・元正天皇の御時二代。
 一、不比等のおとどの二郎、房前、宰相にて二十年。大炊天皇の御時、天平宝字四年庚子八月七日、贈太政大臣になり給ふ。元正天皇・聖武天皇二代。
 一、房前のおとどの四男、真楯の大納言、称徳天皇の御時、天平神護二年三月十六日、失せ給ひぬ、御年五十二。贈太政大臣。公卿にて七年。
 一、真楯の大納言の御二郎、右大臣従二位左近大将内麿のおとど、御年五十七。公卿にて二十年、大臣の位にて七年。
贈従一位左大臣。桓武天皇・平城天皇二代に会ひ給へり。
 一、内麿のおとどの御三郎、冬嗣のおとどは、左大臣までなり給へり。贈太政大臣。この殿より次、さまざまあかしたればこまかに申さじ。
鎌足の御代より栄えひろごり給へる、御末々やうやう失せ給ひて、この冬嗣のほどは無下に心ぼそくなり給へりし。その時は、源氏のみぞ、さまざま大臣・公卿にて御座せし。それに、この大臣なむ南円堂を建てて、丈六の不空羂索観音を据ゑ奉り給ふ。
さて、やがて不空羂索経一千巻供養じ給へり。今にその経ありつつ、藤氏の人々とりて守りにし会ひ給へり。その仏経の力にこそ侍るめれ、また栄えて、帝の御後見今に絶えず、末々せさせ給ふめるは。その供養の日ぞかし、こと姓の上達部あまた、日のうちに失せ給ひにければ、誠にや、人々申すめり。
一、冬嗣のおとどの御太郎、長良の中納言は、贈太政大臣。
一、長良のおとどの御三郎、基経のおとどは、太政大臣までなり給へり。
一、基経のおとどの御四郎、忠平のおとどは、太政大臣までなり給へり。
一、忠平のおとどの御二郎、師輔のおとどは、右大臣までなり給へり。
一、師輔のおとどの御三郎、兼家のおとど、太政大臣まで。
一、兼家のおとどの御五郎、道長のおとど、太政大臣まで。
一、道長のおとどの御太郎、ただいまの関白左大臣頼通のおとど、これに御座します。
 この殿の御子の、今まで御座しまさざりつるこそ、いと不便に侍りつるを、この若君の生れ給ひつる、いとかしこきことなり。母は申さぬことなれど、これはいとやむごとなくさへ御座するこそ。故左兵衛督は、人柄こそ、いとしも思はれ給はざりしかど、もとの貴人に御座するに、また、かく世をひびかす御孫の出で御座しましたる、なき後にもいとよし。七夜のことは、入道殿せさせ給へるに、つかはしける歌、
年を経て待ちつる松の若枝にうれしくあへる春のみどりご W
帝・東宮をはなち奉りては、これこそ孫の長とて、やがて御童名を長君とつけ奉らせ給ふ。この四家の君たち、昔も今もあまた御座しますなかに、道絶えずすぐれ給へるは、かくなり。
その鎌足のおとど生まれ給へるは、常陸国なれば、かしこに鹿島といふ所に、氏の御神を住ましめ奉り給ひて、その御代より今にいたるまで、あたらしき帝・后・大臣たち給ふ折は、幣の使かならずたつ。帝、奈良に御座しましし時に、鹿島遠しとて、大和国三笠山にふり奉りて、春日明神となづけ奉りて、今に藤氏の御氏神にて、公家、男・女使たてさせ給ひ、后の宮・氏の大臣・公卿、皆、この明神に仕うまつり給ひて、二月・十一月上の申の日、御祭にてなむ、さまざまの使たちののしる。帝、この京に遷らしめ給ひては、また近くふり奉りて、大原野と申す。
二月の初卯の日・霜月の初子の日と定めて、年に二度の御祭あり。また同じく公家の使たつ。藤氏の殿ばら、皆、この御神に御幣・十列奉り給ふ。なほし近くとて、またふり奉りて、吉田と申して御座しますめり。この吉田の明神は、山陰の中納言のふり奉り給へるぞかし。御祭の日、四月下の子・十一月下の申の日とを定めて、「わが御族に、帝・后の宮たち給ふ物ならば、公祭になさむ」と誓ひ奉り給へれば、一条院の御時より、公祭にはなりたるなり。
また、鎌足のおとどの御氏寺、大和国多武峯に造らしめ給ひて、そこに御骨を納め奉りて、今に三昧行ひ奉り給ふ。不比等のおとどは、山階寺を建立せしめ給へり。それにより、かの寺に藤氏を祈りまうすに、この寺ならびに多武峯・春日・大原野・吉田に、例にたがひ、あやしきこと出できぬれば、御寺の僧・禰宜等など公家に奏し申して、その時に、藤氏の長者殿占はしめ給ふに、御慎みあるべきは、年のあたり給ふ殿ばらたちの御もとに、御物忌を書きて、一の所より配らしめ給ふ。おほよそ、かの寺より始まりて、年に二三度、会を行はる。正月八日より十四日まで、八省にて、奈良方の僧を講師とて、御斎会行はしむ。公家より始め、藤氏の殿ばら、皆加供し給ふ。
 また、三月十七日より始めて、薬師寺にて最勝会七日、また山階寺にて十月十日より維摩会七日。皆これらのたびに、勅使下向して衾つかはす。藤氏の殿ばらより五位まで奉り給ふ。南京の法師、三会講師しつれば、已講と名づけて、その次第をつくりて、律師、僧綱になる。かかれば、かの御寺、いかめしうやむごとなき所なり。いみじき非道のことも、山階寺にかかりぬれば、またともかくも、人物いはず、「山階道理」とつけて、おきつ。かかれば、藤氏の御有様たぐひなくめでたし。
  同じことの様なれども、またつづきを申すべきなり。后の宮の御父・帝の御祖父となり給へるたぐひをこそは、あかし申さめ」とて、
 「一、内大臣鎌足のおとどの御女二人、やがて皆天武天皇に奉り給へりけり。男・女親王たち御座しましけれど、帝・春宮たたせ給はざめり。
 一、贈太政大臣不比等のおとどの御女二所、一人の御女は、文武天皇の御時の女御、親王生れ給へり。それを聖武天皇と申す。御母をば光明皇后と申しき。いま一人の御女は、やがて御甥の聖武天皇に奉りて、女親王うみ奉り給へるを、女帝にたて奉り給へるなり。高野の女帝と申す、これなり。四十六代にあたり給ふ。それおり給へるに、また帝一人を隔て奉りて、また四十八代にかへりゐ給へるなり。母后を贈皇后と申す。しかれば不比等のおとどの御女、二人ながら后にましますめれど、高野の女帝の御母后は、贈后と申したるにて、御座しまさぬ世に、后の宮にゐ給へると見えたり。かるが故に、不比等のおとどは、光明皇后、また贈后の父、聖武天皇ならびに高野の女帝の御祖父。或本にまた、「高野の女帝の母后、生き給へる世に后にたち給ひて、その御名を光明皇后と申す」とあり。聖武の御母も、御座します世に、后となり給ひて、贈后と見え給はず。
一、贈太政大臣冬嗣のおとどは、太皇太后順子の御父、文徳天皇の御祖父。
一、太政大臣良房のおとどは、皇太后宮明子の御父、清和天皇の御祖父。
一、贈太政大臣長良のおとどは、皇太后高子の御父、陽成院の御祖父。
一、贈太政大臣総継のおとどは、贈皇太后沢子の御父、光孝天皇の御祖父。
一、内大臣高藤のおとどは、皇太后胤子の御父、醍醐天皇の御祖父。
一、太政大臣基経のおとどは、皇后宮穏子の御父、朱雀・村上二代の御祖父。
一、右大臣師輔のおとどは、皇后安子の御父、冷泉院ならびに円融院の御祖父。
一、太政大臣伊尹のおとどは、贈皇后懐子の御父、花山院の御祖父。
一、太政大臣兼家のおとどは、皇太后宮詮子、また贈后超子の御父、一条院・三条院の御祖父。
一、太政大臣道長のおとどは、太皇太后宮彰子・皇太后宮妍子・中宮威子・東宮の御息所の御父、当代ならびに春宮の御祖父に御座します。ここらの御中に、后三人並べすゑて見奉らせ給ふことは、入道殿下よりほかに聞えさせ給はざんめり。関白左大臣・内大臣・大納言二人・中納言の御親にて御座します。さりや、聞し召しあつめよ。日本国には唯一無二に御座します。
まづは、造らしめ給へる御堂などの有様、鎌足のおとどの多武峯・不比等のおとどの山階寺・基経のおとどの極楽寺・忠平のおとどの法性寺・九条殿の楞厳院・天のみかどの造り給へる東大寺も、仏ばかりこそは大きに御座すめれど、なほこの無量寿院には並び給はず。まして、こと御寺御寺はいふべきならず。大安寺は、兜率天の一院を天竺の祇園精舎にうつし造り、天竺の祇園精舎を唐の西明寺にうつし造り、唐の西明寺の一院を、この国の帝は、大安寺にうつさしめ給へるなり。しかあれども、ただいまはなほこの無量寿院まさり給へり。南京のそこばくの多かる寺ども、なほあたり給ふなし。恒徳公の法住寺いと猛なれど、なほこの無量寿院すぐれ給へり。難波の天王寺など、聖徳太子の御心に入れ造り給へれど、なほこの無量寿院まさり給へり。奈良は七大寺・十五大寺など見くらぶるに、なほこの無量寿院いとめでたく、極楽浄土のこの世にあらはれけると見えたり。かるが故に、この無量寿院も、思ふに、思し召し願ずること侍りけむ。浄妙寺は、東三条の大臣の、大臣になり給ひて、御慶びに木幡に参り給へりし御供に、入道殿具し奉らせ給ひて御覧ずるに、多くの先祖の御骨御座するに、鐘の声聞き給はぬ、いと憂きことなり、わが身思ふさまになりたらば、三昧堂建てむと、御心のうちに思し召し企てたりける、とこそ承れ。
 昔も、かかりけること多く侍りけるなかに、極楽寺・法性寺ぞいみじく侍るや。御年なんどもおとなびさせ給はぬにだにも思し召しよるらむほど、なべてならずおぼえ侍るに、いづれの御時とはたしかにえ聞き侍らず、ただ深草の御ほどにやなどぞ思ひやり侍る。芹河の行幸せしめ給ひけるに、昭宣公童殿上にて仕うまつらせ給へりけるに、帝、琴をあそばしける。この琴弾く人は、別の爪つくりて、指にさし入れてぞ、弾くことにて侍りし。さて持たせ給ひたりけるを、落し御座しまして、大事に思し召しけれど、またつくらせ給ふべきやうもなかりければ、さるべきにてぞ思し召しよりけむ、おとなしき人々にも仰せられずて、幼く御座します君にしも、「求めて参れ」と仰せられければ、御馬をうち返して御座しましけれど、いづくをはかりともいかでかは尋ねさせ給はむ。見つけて参らせざらむことのいといみじく思し召しければ、これ求め出でたらむ所には一伽藍を建てむと、願じ思して、求め給ひけるに、出できたる所ぞかし、極楽寺は。幼き御心に、いかでか思し召しよらせ給ひけむ。さるべきにて御爪も落ち、幼く御座します人にも仰せられけるにこそは侍りけめ。
 さて、やむごとなくならせ給ひて、御堂建てさせに御座します御車に、貞信公はいと小さくて具し奉り給へりけるに、法性寺の前わたり給ふとて、「父こそ。こここそ、よき堂所なむめれ。ここに建てさせ給へかし」と聞えさせ給ひけるに、いかに見てかくいふらむと思して、さし出でて御覧ずれば、誠にいとよく見えければ、幼き目にいかでかく見つらむ、さるべきにこそあらめと、思し召して、「げにいとよき所なめり。汝が堂を建てよ。われはしかじかのことのありしかば、そこに建てむずるぞ」と申させ給ひける。さて法性寺は建てさせ給ひしなり」。
《繁樹》「また、九条殿の飯室のことなどはいかにぞ。横川の大僧正、御房にのぼらせ給ひし御供には、繁樹参りて侍りき」
《世継》「斯様のことども聞き見給ふれど、なほ、この入道殿、世にすぐれ抜け出でさせ給へり。天地にうけられさせ給へるは、この殿こそは御座しませ。何事も行はせ給ふ折に、いみじき大風吹き、長雨降れども、まづ二三日かねて、空晴れ、土乾くめり。かかれば、あるいは聖徳太子の生れ給へると申し、あるいは弘法大師の仏法興隆のために生れ給へるとも申すめり。げにそれは、翁らがさがな目にも、ただ人とは見えさせ給はざめり。なほ権者にこそ御座しますべかめれとなむ、仰ぎ見奉る。
かかれば、この御世の楽しきことかぎりなし。そのゆゑは、昔は、殿ばら・宮ばらの馬飼・牛飼、なにの御霊会・祭の料とて、銭・紙・米など乞ひののしりて、野山の草をだにやは刈らせし。仕丁・おものもち出できて、人の物取り奪ふこと絶えにたり。また、里の刀禰・村の行事出できて、火祭やなにやと煩はしく責めしこと、今は聞えず。かばかり安穏泰平なる時には会ひなむやと思ふは。翁らがいやしき宿りも、帯・紐を解き、門をだに鎖さで、安らかに偃したれば、年も若え、命も延びたるぞかし。まづは、北野・賀茂河原に作りたる、まめ・ささげ・うり・なすびといふ物、この中頃は、さらに術なかりし物をや。この年頃は、いとこそたのしけれ。人の取らぬをばさるものにて、馬・牛だにぞ食まぬ。されば、ただまかせ捨てつつ置きたるぞかし。かくたのしき弥勒の世にこそ会ひて侍れや」といふめれば、いま一人の翁、
《繁樹》「ただいまは、この御堂の夫を頻に召すことこそは、人は堪へがたげに申すめれ。それはさは聞き給はぬか」
といふめれば、世継、
 「しかしか、そのことぞある。二三日まぜに召すぞかし。されどそれ、参るにあしからず。ゆゑは、極楽浄土のあらたにあらはれ出で給ふべきために召すなり、と思ひ侍れば、いかで、力堪へば、参りて仕うまつらむ。ゆく末に、この御堂の草木となりにしかなとこそ思ひ侍れ。されば、物の心知りたらむ人は、望みても参るべきなり。されば、翁ら、またあらじ、一度欠かず奉り侍るなり。さて参りたれば、あしきことやはある。飯・酒しげく賜び、持ちて参る果物をさへ恵み賜び、つねに仕うまつるものは、衣裳をさへこそ宛て行はしめ給へ。されば、参る下人も、いみじういそがしがりてぞ、すすみつどふめる」といへば、
《繁樹》「しか、それさることに侍り。ただし翁らが思ひ得て侍るやうは、いとたのもしきなり。翁いまだ世に侍るに、衣裳破れ、むつかしき目見侍らず。また、飯・酒乏しき目見侍らず。もしこのことどもの術なからむ時は、紙三枚をぞ求むべき。ゆゑは、入道殿下の御前に申文を奉るべきなり。その文に作るべきやうは、「翁、故太政大臣貞信公殿下の御時の小舎人童なり。それ多くの年積りて、術なくなりて侍り。閤下の君、末の家の子に御座しませば、同じ君と頼み仰ぎ奉る。物少し恵み賜はらむ」と申さむには、少々の物は賜ばじやはと思へば、それは案の物にて、倉に置きたるごとくになむ思ひ侍る」といへば、世継、「それはげにさることなり。家貧しくならむ折は御寺に申文を奉らしめむとなむ、卑しきわらはべとうち語らひ侍る」と、同じ心にいひかはす。
 世継、「さてもさても、うれしう対面したるかな。年頃の袋の口あけ、綻びを裁ち侍りぬること。さても、このののしる無量寿院には、いくたび参りて拝み奉り給ひつ」といへば、
《繁樹》「おのれは大御堂の供養の年の会の日は、人いみじう払ふべかなりと聞きしかば、試楽といふこと、三日かねてせしめ給ひしになむ、参りて侍りし」といへば、世継、「おのれば、たびたび参り侍り。供養の日の有様のめでたさは、さらにもあらずや。またの日、今日は御仏など近うて拝み奉らむ、物ども取りおかれぬ先にと思ひて、参りて侍りしに、宮たちの諸堂拝み奉らせ給ひし、見まうし侍りしこそ、かかることにあはむとて、今まで生きたるなりけりとおぼえ侍りしか。物覚えて後、さることをこそまだ見侍らね。御輦車に四所奉りたりしぞかし。口に大宮・皇太后宮、御袖ばかりをいささかさし出ださせ給ひて侍りしに、枇杷殿の宮の御ぐしの、地にいと長く引かれさせ給ひて、出でさせ給へりしは、いとめづらかなりしことかな。しりの方には、中宮・督の殿奉りて、ただ御身ばかり御車に御座しますやうにて、御衣どもは皆ながら出でて、それも地までこそ引かれ侍りしか。一品の宮も中に奉りたりけるにや、御衣どもは、なにがしぬしの持ちたうび、御車のしりにぞ候はれし。単の御衣ばかりを奉りて御座しましけるなめり。御車には、まうちぎみたち引かれて、しりには関白殿を始め奉り、殿ばら、さらぬ上達部・殿上人、御直衣にて歩みつづかせ給へりし、いで、あないみじや。
 中宮権大夫殿のみぞ、堅固の御物忌にて参らせ給はざりし。さていみじく口惜しがらせ給ひける。中宮の御装束は、権大夫殿せさせ給へりし、いと清らにてこそ見え侍りしか。
「供養の日、啓すべきことありて、御座します所に参りて、五所居並ばせ給へりしを見奉りしかば、中宮の御衣の優に見えしはわがしたればにや」とこそ、大夫殿仰せられけれ。かく口ばかりさかしだち侍れど、下臈のつたなきことは、いづれの御衣も、ほど経ぬれば、色どものつぶと忘れ侍りにけるよ。ことにめでたくせさせ給へりければにや、下は紅薄物の御単衣重にや、御表着よくも覚え侍らず。萩の織物の三重襲の御唐衣に、秋の野を縫物にし、絵にもかかれたるにやとぞ、目もとどろきて見給へし。
 こと宮々のも、殿ばらの調じて奉らせ給へりけるとぞ、人申しし。大宮は、二重織物折り重ねられて侍りし。皇太后宮は、そうじて唐装束。督の殿のは、殿こそせさせ給へりしか。こと御方々のも、絵かきなどせられたり、と聞かせ給て、にはかに薄押しなどせられたりければ、入道殿、御覧じて、「よき呪師の装束かな」とて、笑ひまうさせ給ひけり。
 殿は、まづ御堂御堂あけつつ待ちまうさせ給ふ。南大門のほどにて見まししだに、笑ましくおぼえ侍りしに、御堂の渡殿の物のはさまより、一品の宮の弁の乳母、いま一人は、それも一品の宮の大輔の乳母・中将の乳母とかや、三人とぞ承りし、御車よりおりさせ給ひて、ゐざりつづかせ給へるを見奉りたるぞかし。
 おそろしさにわななかれしかど、今日、さばかりのことはありなむやと思ひて、見参らするに、などてかはとは申しながら、いづれと聞えさすべきにもなく、とりどりにめでたく御座しまさふ。大宮、御ぐし御衣の裾にあまらせ給へり。中宮は、たけに少しあまらせ給へり。皇太后宮は、御衣に一尺ばかりあまらせ給へる御裾、扇のやうにぞ。督の殿、御たけに七八寸あまらせ給へり。御扇少しのけてさし隠させ給ひける。一品の宮は、殿の御前、「なにか居させ給ふ。立たせ給へ」とて、長押おりのぼらせ給ふ御手をとらへつつ、助けまうさせ給ふ。あまりなることは、目ももどろく心地なむし給ひける。あらはならずひきふたぎなど、つくろはせ給ひけるほどに、御覧じつけられたる物かは。「あないみじ。宮仕へに宿世の尽くる日なりけり」と、生ける心地もせで、三人ながら候ひ給ひけるほどに、「宮たち見奉りつるか。いかが御座しましつる。この老法師の女たちには、けしうはあらず御座しまさふな。なあなづられそよ」と、うち笑みて仰せられかけて、いたうもふたがせ給はで御座しましたりしなむ、生き出でたる心地して、うれしなどはいふべきやうもなく、かたみに見れば、顔はそこら化粧じたりつれど、草の葉の色のやうにて、また赤くなりなど、さまざま汗水になりて見かはしたり。「さらぬ人だに、あざれたるもの覗きは、いと便なきことにするを、せめてめでたう思し召しければ、御よろこびに堪へで、さはれと思し召しつるにこそと思ひなすも、心驕りなむする」と、宣ひいまさうじける。
 斯様のことどもを見給ふるままには、いとどもこの世の栄花の御栄えのみおぼえて、染着の心のいとどますますにおこりつつ、道心つくべくも侍らぬに、河内国そこそこに住むなにがしの聖人は、庵より出づることもせられねど、後世の責めを思へばとて、のぼり参られたりけるに、関白殿参らせ給ひて、雑人どもを払ひののしるに、これこそは一の人に御座すめれと見奉るに、入道殿の御前に居させ給へば、なほまさらせ給ふなりけりと見奉るほどに、また行幸なりて、乱声し、待ちうけ奉らせ給ふさま、御輿の入らせ給ふほどなど、見奉りつる殿たちの、かしこまりまうさせ給へば、なほ国王こそ日本第一のことなりけれと思ふに、おり御座しまして、阿弥陀堂の中尊の御前につい居させ給ひて、拝みまうさせ給ひしに、「なほなほ仏こそ上なく御座しましけれと、この会の庭にかしこう結縁しまうして、道心なむいとど熟し侍りぬる」とこそ申され侍りしか。かたはらに居られたりしなりや、まこと、忘れ侍りにけり。
 世の中の人の申すやう、「大宮の入道せしめ給ひて、太上天皇の御位にならせ給ひて、女院となむ申すべき。この御寺に戒壇たてられて、御受戒あるべかなれば、世の中の尼ども参りて受くべかむなり」とて、よろこびをこそすなれ。この世継が女ども、かかることを伝へ聞きて、申すやう、「おのれを、その折にだに、白髪の裾そぎてむとなむ。なにか制する」と語らひ侍れば、「なにせむにか制せむ。ただし、さらむ後には、若からむ女のわらはべ求めて得さすばかりぞ」といひ侍れば、「わが姪なる女一人あり。それを今よりいひ語らはむ。いとさし離れたらむも、情なきこともぞある」と申せば、「それあるまじきことなり。近くも遠くも、身のためにおろかならむ人を、いまさらに寄すべきかは」となむ語らひ侍る。やうやう裳・袈裟などのまうけに、よき絹一二疋求めまうけ侍る」
などいひて、さすがにいかにぞや、物あはれげなるけしきの出できたるは、女どもにそむかれむことの心ぼそきにやとぞ見え侍りし。
《世継》「さて、今年こそ天変頻にし、世の妖言などよからず聞え侍るめれ。督の殿のかく懐妊せしめ給ふ、院の女御殿の常の御悩のなかにも、今年となりては、ひまなく御座しますなるなどこそ、おそろしう承れ。いでや、かうやうのことをうちつづけ申せば、昔のことこそただいまのやうにおぼえ侍れ」
見かはして、繁樹がいふやう、
「いであはれ、」かくさまざまにめでたきことども、あはれにもそこら多く見聞き侍れど、なほ、わが宝の君に後れ奉りたりしやうに、物のかなしく思う給へらるる折こそ侍らね。八月十日あまりのことに候ひしかば、折さへこそあはれに、「時しもあれ」とおぼえ侍りし物かな」とて、鼻たびたびかみて、えもいひやらず、いみじと思ひたるさま、誠にその折もかくこそと見えたり。
「一日片時生きて世にめぐらふべき心地もし侍らざりしかど、かくまで候ふは、いよいよひろごり栄え御座しますを見奉り、よろこびまうさせむとに侍めり。さて、またの年五月二十四日こそは、冷泉院は誕生せしめ給へりしか。それにつけていとこそ口惜しく、折のうれしさは、はかりも御座しまさざりしか」
などいへば、世継も、
「しか、しか」とこころよく思へるさまおろかならず。
《世継》「朱雀院・村上などのうちつづき生れ御座しまししは、またいかが」などいふほど、あまりに恐ろしくぞ。
 また、「世継が思ふことこそ侍れ。便なきことなれど、明日とも知らぬ身にて侍れば、ただ申してむ。この一品の宮の御有様のゆかしくおぼえさせ給ふにこそ、また命惜しく侍れ。そのゆゑは、生れ御座しまさむとて、いとかしこき夢想見給へしなり。さおぼえ侍りしことは、故女院・この大宮など孕まれさせ給はむとて見えし、ただ同じさまなる夢に侍りしなり。それにて、よろづおしはかられさせ給ふ御有様なり。皇太后宮にいかで啓せしめむと思ひ侍れど、その宮の辺の人に、え会ひ侍らぬが口惜しさに、ここら集り給へる中に、もし御座しましやすらむと思う給へて、かつはかく申し侍るぞ。ゆく末にも、よくいひける物かなと、思しあはすることも侍りなむ」といひし折こそ、
《記者》「ここにあり」とて、さし出でまほしかりしか。
拾遺 〔一 太政大臣道長雑々物語〕
 いといとあさましくめづらかに、尽きもせず、二人語らひしに、この侍、「いといと興あることをも承るかな。さても、物の覚え始めは何事ぞや。それこそ、まづ聞かまほしけれ。語られよ」といへば、世継、「六七歳より見聞き侍りしことは、いとよく覚え侍れど、そのこととなきは、証のなければ、用ゐる人も候はじ。九つに侍りし時の大事を申し侍らむ。
 小松の帝の、親王にて御座しましし時の御所は、皆人知りて侍り。おのが親の候ひし所、大炊御門よりは北、町尻よりは西にぞ侍りし。されば、宮の傍にて、つねに参りて遊び侍りしかば、いと閑散にてこそ御座しまししか。二月の三日、初午といへど、甲午の最吉日、常よりも世こぞりて、稲荷詣にののしりしかば、父の詣で侍りし供にしたひ参りて、さは申せど、幼きほどにて、坂のこはきを登り侍りしかば、困じて、えその日のうちに還向つかまつらざりしかば、父がやがて、その御社の禰宜大夫が後見つかうまつりて、いとうるさくて候ひし宿りにまかりて、一夜は宿りして、またの日帰り侍りしに、東洞院よりのぼりにまかるに、大炊御門より西ざまに、人々のさざと走れば、あやしくて見候ひしかば、わが家のほどにしも、いと暗うなるまで人立ちこみて見ゆるに、いとどおどろかれて、焼亡かと思ひて、上を見あぐれば、煙も立たず。さは、大きなる追捕かなど、かたがたに心もなきまでまどひまかりしかば、小野宮のほどにて、上達部の御車や、鞍置きたる馬ども、冠・表の衣着たる人々などの見え侍りしに、心得ずあやしくて、「何事ぞ、何事ぞ」と、人ごとに問ひ候ひしかば、「式部卿の宮、帝にゐさせ給ふとて、大殿を始め奉りて、皆人参り給ふなり」とて、急ぎまかりしなどぞ、物覚えたることにて見給へし。
 また、七つばかりにや、元慶二年ばかりにや侍りけむ、式部卿の宮の侍従と申ししぞ、寛平の天皇、つねに狩を好ませ御座しまして、十一月の二十余日のほどにや、鷹狩に、式部卿の宮より出で御座しましし御供に走り参りて侍りし。賀茂の堤のそこそこなる所に、侍従殿、鷹使はせ給ひて、いみじう興に入らせ給へるほどに、俄に霧たち、世間もかい暗がりて侍りしに、東西もおぼえず、暮の往ぬるにやとおぼえて、藪の中に倒れ伏して、わななきまどひ候ふほど、時中や侍りけむ。後に承れば、賀茂の明神のあらはれ御座しまして、侍従殿に物申させ御座しますほどなりけり。そのことは、皆世に申しおかれて侍るなればなかなか申さじ。知ろしめしたらむ、あはそかに申すべきに侍らず。
 さて後六年ばかりありてや、賀茂の臨時の祭始まり侍りけむ。位につかせ御座しましし年とぞ覚え侍る。その日、酉の日にて侍れば、やがて霜月の果ての酉の日にては侍るぞ。
始めたる東遊の歌、敏行の中将ぞかし。
  ちはやぶる賀茂の社の姫小松よろづ代までも色はかはらじ W
古今に入りて侍り。皆人知ろしめしたることなれど、いみじうよみ給へるぬしかな。今に絶えずひろごらせ給へる御末とか。帝と申せど、かくしもやは御座します。
八幡の臨時の祭、朱雀院の御時よりぞかし。朱雀院生れさせ給ひて三年は、御座します殿の御格子も参らず、夜昼火をともして、御帳のうちにておほしたてたて参らせ給ふ、北野に怖ぢまうさせ給ひて。天暦の帝は、いとさも守り奉らせ給はず。いみじき折節に生れ御座しましたりしぞかし。朱雀院生れ御座しまさずは、藤氏の御栄え、いとかくしも侍らざらまし。さて位につかせ給ひて、将門が乱出できて、その御願にてとぞ承りし。その東遊の歌、貫之のぬしぞかし。
  松もおひまたも苔むす石清水ゆく末とほくつかへまつらむ W
集にも書きて侍るぞかし」といへば、繁樹、
「この翁も、あのぬしの申されつるがごとく、くだくだしきことは申さじ。同じことの様なれど、寛平・延喜などの御譲位のほどのことなどは、いとかしこく忘れず覚え侍るをや。伊勢の君の、弘徴殿の壁に書きつけたうべりし歌こそは、そのかみに、あはれなることと人申ししか。
  別るれど会ひも思はぬももしきを見ざらむことやなにかかなしき W
 法皇の御返し、
  身ひとつのあらぬばかりをおしなべてゆきかへりてもなどか見ざらむ W」といへば、かたはらなる人、
「法皇の書かせ給へりけるを、延喜の、後に御覧じつけて、かたはらに書きつけさせ給へるとも承るは、いづれかまことならむ」。
《繁樹》「同じ帝と申せど、その御時に生れ会ひて候ひけるは、あやしの民の竃まで、やむごとなくこそ。大小寒のころほひ、いみじう雪降り、冴えたる夜は、「諸国の民百姓いかに寒からむ」とて、御衣をこそ、夜の御殿より投げ出し御座しましければ、おのれまでも、恵みあはれびられ奉りて侍る身と、面立たしくこそは。
 されば、その世に見給へしことは、なほ末までもいみじきことと覚え侍るぞ。人々聞し召せ。この座にて申すは、はばかりあることなれど、かつは、若く候ひしほど、いみじと身にしみて思う給へし罪も、今に失せ侍らじ。今日この伽藍にて、懺悔つかうまつりてむとなり。
 六条の式部卿の宮と申ししは、延喜の帝の一つ腹の御はら
からに御座します。野の行幸せさせ給ひしに、この宮供奉せしめ給へりけれど、京のほど遅参せさせ給ひて、桂の里にぞ参りあはせ給へりしかば、御輿とどめて、先立て奉らせ給ひしに、なにがしといひし犬飼の、大の前足を二つながら肩に引き越して、深き河の瀬渡りしこそ、行幸に仕うまつり給へる人々、さながら興じ給はぬなく、帝も、労ありげに思し召したる御けしきにてこそ、見え御座しまししか。
 さて山口入らせ給ひしほどに、しらせうといひし御鷹の、鳥をとりながら、御輿の鳳の上に飛び参りて居て候ひし、やうやう日は山の端に入りがたに、光のいみじうさして、山の紅葉、錦をはりたるやうに、鷹の色はいと白く、雉は紺青のやうにて、羽うちひろげて居て候ひしほどは、誠に雪少しうち散りて、折節とり集めて、さることやは候ひしとよ。身にしむばかり思う給へしかば、いかに罪得侍りけむ」とて、弾指はたはたとす。
《繁樹》「おほかた、延喜の帝、つねに笑みてぞ御座しましける。そのゆゑは、「まめだちたる人には、物いひにくし。うちとけたるけしきにつきてなむ、人は物はいひよき。されば、大小こと聞かむがためなり」とぞ仰せ言ありける。それさることなり。けにくき顔には、物いひふれにくき物なり。
 さて、「われいかで、七月.九月に死にせじ。相撲の節・九日の節のとまらむが口惜しきに」と仰せられけれど、九月に失せさせ給ひて、九日の節はそれよりとどまりたるなり。その日、左衛門の陣の前にて御鷹ども放たれしは、あはれなりし物かな。とみにこそ飛び退かざりしか。
 公忠の弁をば、おほかたの世にとりても、やむごとなき物に思し召したりし中にも、鷹のかたざまには、いみじう興ぜさせ給ひしなり。日々に政を勤め給ひて、馬をいづこにぞや立て給うて、こと果つるままにこそ、中山へはいませしか。官のつかさの弁の曹司の壁には、その殿の鷹の物はいまだ付きて侍らむ。久世の鳥・交野の鳥の味ひ、参り知りたりき。「かたへはそらごとを宣ふぞ。こころみたいまつらむ」とて、みそかに二所の鳥をつくりまぜて、しるしをつけて、人の参りたりければ、いささかとりたがへず、「これは久世の、これは交野のなり」とこそ参り知りたりけれ。かかれば、「ひたぶるの鷹飼にて候ふものの、殿上に候ふこそ見ぐるしけれ」と、延喜に奏しまうす人の御座しければ、「公事をおろそかにし、狩をのみせばこそは罪はあらめ、一度政をもかかで、公事をよろづ勤めて後に、ともかくもあらむは、なんでふことかあらむ」とこそ仰せられけれ。
いでまた、いみじく侍りしことは、やがて同じ君の、大井河の行幸に、富小路の御息所の御腹の親王、七歳にて舞せさせ給へりしばかりのことこそ侍らざりしか。万人しほたれぬ人侍らざりき。あまり御かたちの光るやうにし給ひしかば、山の神めでて、取り奉り給ひてしぞかし。
 その御時に、いとおもしろきことども多く侍りきや。おほかた申し尽くすべきならず。まづ申すべきことをも、ただ覚ゆることにしたがひて、しどけなく申さむ。
法皇の、ところどころの修行しあそばせ給うて、宮滝御覧ぜしほどこそいといみじう侍りしか。その折、菅原のおとどのあそばしたりし和歌、
  水ひきの白糸はへて織るはたは旅のころもにたちやかさねむ W
大井の御幸も侍りしぞかし。さてまた、「みゆきありぬべき所」と申させ給ふ、ことのよし秦せむとて、小一条のおほいまうちぎみぞかし、
  小倉山紅葉の色もこころあらばいまひとたびのみゆきまたなむ W
あはれ優にも候ひしかな。さて行幸に、あまたの題ありて、やまと歌つかうまつりし中に、「猿叫峡」、躬恒、
  わびしらにましらななきそあしひきの山のかひある今日にやはあらぬ W
その日の序代は、やがて貫之のぬしこそはつかうまつり給ひしか。
さてまた、朱雀院も優に御座しますとこそはいはれさせ給ひしかども、将門が乱など出できて、怖れ過ごさせ御座しまししほどに、やがてかはらせ給ひにしぞかし。そのほどのことこそ、いとあやしう侍りけれ。母后の御もとに行幸せさせ給へりしを、「かかる御有様の思ふやうにめでたくうれしきこと」など秦せさせ給ひて、「いまは、東宮ぞかくて見きこえまほしき」と申させ給ひけるを、心もとなく急ぎ思し召しけることにこそありけれとて、ほどもなく譲りきこえさせ給ひけるに、后の宮は、「さも思ひても申さざりしことを。ただゆく末のことをこそ思ひしか」とて、いみじう嘆かせ給ひけり。
 さて、おりさせ給ひて後、人々の嘆きけるを御覧じて、院より后の宮に聞えさせ給へりし、国譲りの日、
  日のひかり出でそふ今日のしぐるるはいづれの方の山辺なるらむ W
后の宮の御返し、
  白雲のおりゐる方やしぐるらむおなじみ山のゆかりながらに W
などぞ聞え侍りし。院は数月、綾綺殿にこそ御座しまししか。後は少し悔い思し召すことありて、位にかへりつかせ給ふべき御祈などせさせ給ひけりとあるは、誠にや。御心いとなまめかしうも御座しましし。御心地おもくならせ給ひて、太皇太后宮の幼く御座しますを見奉らせ給ひて、いみじうしほたれ御座しましけり。
  くれ竹のわが世はことになりぬともねは絶えせずぞなほなかるべき W
誠にこそかなしくあはれに承りしか。
 村上の帝、はた申すべきならず。「なつかしうなまめきたる方は、延喜にはまさりまうさせ給へり」とこそ、人申すめりしか。「われをば人はいかがいふ」など、人に問はせ給ひけるに、「『ゆるになむ御座します』と、世には申す」と奏しければ、「さてはほむるなんなり。王のきびしうなりなば、世の人いかが堪へむ」とこそ仰せられけれ。
 いとをかしうあはれに侍りしことは、この天暦の御時に、清涼殿の御前の梅の木の枯れたりしかば、求めさせ給ひしに、なにがしぬしの蔵人にていますがりし時、承りて、「若き者どもはえ見知らじ。きむぢ求めよ」と宣ひしかば、一京まかり歩きしかども、侍らざりしに、西京のそこそこなる家に、色濃く咲きたる木の、様体うつくしきが侍りしを、掘りとりしかば、家あるじの、「木にこれ結ひつけて持て参れ」といはせ給ひしかば、あるやうこそはとて、持て参りて候ひしを、「なにぞ」とて御覧じければ、女の手にて書きて侍りける。
 勅なればいともかしこしうぐひすの宿はと問はばいかが答へむ W
とありけるに、あやしく思し召して、「何者の家ぞ」とたづねさせ給ひければ、貫之のぬしの御女の住む所なりけり。「遺恨のわざをもしたりけるかな」とて、あまえ御座しましける。繁樹今生の辱号は、これや侍りけむ。さるは、「思ふ様なる木持て参りたり」とて、衣かづけられたりしも、辛くなりにき」とて、こまやかに笑ふ。
 繁樹、また、「いとせちにやさしく思ひ給へしことは、この同じ御時のことなり。承香殿の女御と申ししは、斎宮の女御よ。「帝ひさしくわたらせ給はざりける秋の夕暮に、琴をいとめでたく弾き給ひければ、急ぎわたらせ給ひて、御かたはらに御座しましけれど、人やあるとも思したらで、せめて弾き給ふを、聞し召せば、
  秋の日のあやしきほどの夕暮に荻吹く風のおとぞきこゆる W
と弾きたりしほどこそせちなりしか」と御集に侍るこそ、いみじう候へ」といふは、あまりかたじけなしやな。
ある人、「城外やし給へりし」といへば、
《繁樹》「遠国にはまからず。和泉国にこそ、貫之のぬしの御任に下りて侍りしか。「ありとほしをば思ふべしやは」と、よまれしたびの供にも候ひき。雨の降りしさま」など語りしこそ、古草子にあるを見るは、ほど経たる心地し侍りしに、昔に会ひにたる心地して、をかしかりしか。
 この侍もいみじう興じて、
「繁樹が女どもこそ、いま少しこまやかなることどもは語られめ」といへば、
《妻》「われは京人にも侍らず、高き宮仕へなどもし侍らず。若くより、この翁に添ひ候ひにしかば、はかばかしきことをも見給へぬ物をは」といらふれば、
《侍》「いづれの国の人ぞ」と問ふ。
《妻》「陸奥国安積の沼にぞ侍りし」といへば、
《侍》「いかで京には来しぞ」と問へば、
《妻》「その人とは、え知り奉らず、歌よみ給ひし北の方御座せし守の御任にぞ、上り侍りし」といふに、中務の君にこそと聞くもをかしくなりぬ。
《侍》「いといたきことかな。北の方をば誰とか聞えし。よみ給ひけむ歌は覚ゆや」といへば、
《妻》「その方に心も得で、覚え侍らず。ただ上り給ひしに、逢坂の関に御座して、よみ給へりし歌こそ、ところどころ覚え侍れ」とて、
  都には待つらむ物を逢坂の関まで来ぬと告げややらまし W
など、たどたどしげに語るさま、誠に男にたとしへなし。繁樹、
 「この人をば人と覚えずかとよ。さやうの方は覚ゆらむ物ぞ。世間だましひはしも、いとかしこく侍るをとり所にて、え去りがたく思ひ給ふるなり」といふに、世継、
 「いで、この翁の女人こそ、いとかしこく物は覚え侍れ。いまひとめぐりがこのかみに候へば、見給へぬほどのことなども、あれは知りて侍るめり。染殿の后の宮の洗しに侍りけり。母も上の刀自にて仕うまつりければ、幼くより参り通ひて、忠仁公をも見奉りけり。童部がたちのほどの、いと物ぎたなうも候はざりけるにや、やむごとなき君達も御覧じいれて、兼輔の中納言・良岑衆樹の宰相の御文なども持ちて侍るめり。中納言はみちのくにがみに書かれ、宰相のは胡桃色にてぞ侍るめる。
 この宰相ぞかし、五十までさせることなく、おぼやけに捨てられたるやうにていますがりけるが、八幡に参りたうび たるに、雨いみじう降る石清水の坂登りわづらひつつ参り給へるに、御前の橘の木の少し枯れて侍りけるに立ち寄りて、
  ちはやぶる神の御前の橘ももろきもともに老いにけるかな W
とよみ給へば、神聞き、あはれびさせ給ひて、橘も栄え、宰相も思ひかけず頭になり給ふとこそは承りしか」といへば、侍、
「賀茂の御前にとかや、はるかの世の物語にわらはべ申し侍るめるは」といらふれば、
《世継》「さもや侍りけむ。ほど経て僻事も申し侍らむ。宰相をば見たいまつりしかど、人となりてこそ尋ね承れ」といらふ。侍、
「そはさなり。その宰相は、五十六にて宰相になり、左近中将かけていませしか」
《世継》「その折はなにともおぼえ侍らざりしかど、この頃思ひ出で侍れば、見ぐるしかりけることかなと思ひ侍る」この侍、
「いかでさる有識をば、ものげなきわかうどにてはとりこめられしぞ」と問へば、
《世継》「さればこそ。さやうに好き惚き候ひしものの、心にもあらず、世継が家にはまうで来よりては、恥にして、いかばかりのいさかひ侍りしかど、さばかりにこかけそめて、あからめせさせ侍りなむや。さるほどに、ゐつき候ひては、翁をまた一夜もほかめせさせ侍らぬをや」と、ほほゑみたる口つき、いとをこがまし。
《世継》「また、この女どもも、世継も、しかるべきにて侍りけるぞ。かの女、二百歳ばかりになりにて侍り。兼輔の中納言・衆樹の宰相も、今まであとかばねだにいませず、いかがし侍らまし。世継も、今様の若き女ども、さらに語らはれ侍らじ」といへば、
《繁樹》「かかる命長の生きあはず侍らましかば、いとあしく侍らまし」とて、こころよく笑ふ。げにと聞えてをかしくもあり、語るも現のことともおぼえず。
《世継》「あはれ、今日具して侍らましかば、女房たちの御耳に、いま少しとどまることどもは、聞かせ給へてまし。私の頼む人にては、兵衛内侍の御親をぞし侍りしかば、内侍のもとへは、時々まかるめりき」といふに、「とは誰にか」といふ人ありければ、
《世継》「いで、この高名の琵琶ひき。相撲の節に玄上賜はりて、御前にて「青海波」つかうまつられたりしは、いみじかりし物かな。博雅の三位などだにおぼろけにはえ鳴らし給はざりけるに、これは承明門まで聞え侍りしかば、左の楽屋にまかりて、承りしぞかし。
 斯様に物のはえ、うべうべしきことどもも、天暦の御時までなり。冷泉院の御世になりてこそ、さはいへども、世は暗れふたがりたる心地せし物かな。世のおとろふることも、その御時よりなり。小野宮殿も、一の人と申せど、よそ人にならせ給ひて、若くはなやかなる御舅たちにまかせ奉らせ給ひ、また帝は申すべきならず。
 あはれに候ひけることは、村上失せ御座しまして、またの年、小野宮に人々参り給ひて、いと臨時客などはなけれど、「嘉辰令月しなどうち誦ぜさせ給ふついでに、一条の左大臣・六条殿など拍子とりて、「席田」うち出でさせ給ひけるに、「あはれ、先帝の御座しまさましかば」とて、御笏もうち置きつつ、あるじ殿を始め奉りて、事忌もせさせ給はず、上の御衣どもの袖濡れさせ給ひにけり。さることなりや。何事も、聞き知り見分く人のあるはかひあり、なきはいと口惜しきわざなり。今日かかることども申すも、わ殿の聞きわかせ給へば、いとどいま少しも申さまほしきなり」といへば、侍もあまえたりき。
《世継》「藤氏の御ことをのみ申し侍るに、源氏の御こともめづらしう申し侍らむ。この一条殿・六条の左大臣殿たちは、六条の一品式部卿の宮の御子どもに御座しまさふ。寛平の御孫なりとばかりは申しながら、人の御有様、有識に御座しまして、いづれをも村上の帝ときめかしまうさせ給ひしに、いま少し六条殿をば愛しまうさせ給へりけり。兄殿は、いとあまりうるはしく、公事よりほかのこと、他分には申させ給はで、ゆるぎたる所の御座しまさざりしなり。弟殿は、みそかごとは無才にぞ御座しまししかど、若らかに愛敬づき、なつかしき方はまさらせ給ひしかばなめりとぞ、人申しし。父宮は出家せさせ給ひて、仁和寺に御座しまししかば、六条殿、修理大夫にて御座しまししほどなれば、仁和寺へ参らせ給ふゆき帰りの道を、一度は、東の大宮より上らせ給ひて、一条より西ざまに御座しまし、また一度は、西の大宮より下らせ給ひて、二条より東ざまなどに過ぎさせ給ひつつ、内裏を御覧じて、破れたる所あれば、修理せさせ給ひけり。いと手ききたる御心ばへなりな。
 また、一条殿の仰せられけるは、「親王たちのなかにて、世の案内も知らず、たづきなかりしかば・さるべき公事の折は、人より先に参り、こと果てても、最末にまかり出でなどして、見習ひしなり」とぞ宣はせける。八幡の放生会には・御馬奉らせ給ひしを・御使などにも浄衣を給はせ、御みずからも清まらせ給ひしかばにや、御前近き木に山鳩のかならず居て、ひき出づる折に飛び立ちければ、かひありと、よろこび興ぜさせ給ひけり。御心いとうるはしく御座します人の、信をいたさせ給ひしかば、大菩薩のうけまうさせ給へりけるにこそ。ひととせの旱の御祈にこそ、東三条殿の御賀茂詣せさせ給ひしには、この一条殿も参らせ給ひき。大臣にならせ給ひぬれば、さる例なけれども、天下の大事なりとて、御出立ちの所には御座しまさで、わが御殿の前わたらせ給ひしほどに、引き出でて具しまうさせ給ひしなり。この生には御数珠とらせ給ふことはなくて、ただ毎日、「南無八幡大菩薩、南無金峯山金剛蔵王、南無大般若波羅蜜多心経」と、冬の御扇を数にとりて、一百遍づつぞ念じ申させ給ひける。それよりほかの御勤せさせ給はず。四条の大后の宮に、かくなむと申す人のありければ、聞かせ給ひて、「なつかしからぬ御本尊かな」とぞ仰せられける。
 この殿こそ、「荒田に生ふる」をば、なべてのやうには謡ひ変へさせ給ひけれ。一条院の御時、臨時の祭の御前のこと果てて、上達部たちの物見に出で給ひしに、外記の隅のほど過ぎさせ給ふとて、わざとはなく、口ずさみのやうに謡はせ給ひしが、なかなか優におぼえ侍りし。「富草の花、手に摘みいれて、宮へ参らむ」のほどを、例には変りたるやうに承りしかば、遠きほどに、老の僻耳にこそはと思ひ給へしを、この按察大納言殿もしか宣はせける。
「殿上人にてありしかば、遠くて、よくも聞かざりき。変りたりしやうの、めづらしう、さまかはりておぼえしは、あの殿の御ことなりしかばにや。またも聞かまほしかりしかども、さもなくてやみにしこそ、今に口惜しくおぼゆれ」とこそ宣ふなれ。
 このおほい殿たちの御弟の大納言、優に御座しましき。おほかた六条の宮の御子どもの、皆めでたく御座しまさひしなり。御法師子は、広沢の僧正・勧修寺の僧正二所こそは御座しまししか。おほかたそのほどには、かたがたにつけつつ、いみじき人々の御座しましし物をや」といへば、「この頃もさやうの人は御座しまさずやはある」と、侍のいへば、
《世継》「この四人の大納言たちよな。斉信・公任・行成・俊賢など申す君達は、またさらなり。
さてまた、多くの見物し侍りし中にも、花山院の御時の石清水の臨時の祭、円融院の御覧ぜしばかり、興あること候はざりき。その折の蔵人頭にては、今の小野宮の右大臣殿ぞ御座しましし。御前のこと果てけるままに、院はつれづれに御座しますらむかしと思し召して、参らせ給へりければ、さるべき人も候ひ給はざりけり。蔵人・判官代ばかりして、いといとさうざうしげにて御座します。かく参らせ給へるを、いと時よう思し召したる御けしきを、いとあはれに心ぐるしう見参らせさせ給ひて、「物御覧ぜよ」など、御けしき賜はらせ給へば、「にはかにはいかがあるべからむ」と仰せられけるを、「かくて実資候へば、また、殿上に候ふ男どもばかりにてあへ侍りなむ」とそそのかし申させ給ふ。御厩の御馬ども召して、候ひしかぎり、御前仕まつり、頭中将は束帯ながら参り給ふ。堀河院なれば、ほど近く出でさせ給ふに、物見車ども二条大宮の辻に立ちかたまりて見るに、布衣・衣冠なる御前したる車の、いみじく人払ひ、なべてならぬ勢なる来れば、誰ばかりならむとあやしく思ひあへるに、頭中将、下襲の尻はさみて、移置きたる馬に乗りて御座するに、院の御座しますなりけりと見て、車どもも、徒人も、てまどひし立ち騒ぎて、いと物さわがし。二条よりは少し北によりて、冷泉院の築地づらに、御車立てつ。御前どもおりて候ひ並み給ふほどに、内より見物しに、引きつづき出で給ふ上達部たちの見給ふに、大路のいみじうののしれば、あやしくて、「何事ぞ」と問はせ給ふに、「院の御座しますなり」と申しけるを、よにあらじと思すに、「頭中将も御座します」 といふにぞ、まことなりけりとおぼえつつ、御車よりいそぎおりつつ、皆参り給ひし。大臣二人は、左右の御車の筒うち押へて立たせ給へり。東三条殿・一条の左大臣殿よ。さて納言以下は、轅のこなたかなたに候ひ給ふ。なかなかうるはしからむ、ことの作法よりも、めでたく侍りし物かな。舞人・陪従は皆乗りてわたるに、時中の源大納言の、いまだ大蔵卿と申しし折ぞ、使にて御座せし、御車の前近く立ちとどまりて、「求子」を袖のけしきばかりつかまつり給ひて、つい居給ひしままに、御はた袖を顔におしあてて候ひ給ひしかば、香なる御扇をさし出させ給ひて、「はやう」とかかせ給ひしかばこそ、少しおし拭ひて立ち給ひしか。すべてさばかり優なることまた候ひなむや。
げにあはれなることのさまなれば、人々も御けしきかはり、院の御前にも、少し涙ぐみ御座しましけりとぞ、後に承りし。神泉の丑寅の角の垣のうちにて見給へしなり。
 また、若く侍りし折も、仏法うとくて、世ののしる大法会ならぬには、まかりあふこともなかりしに、まして年積りては、動きがたく候ひしかども、参河の入道の入唐の馬のはなむけの講師、清照法橋のせられし日こそ、まかりたりしか。さばかり道心なき物の、始めて心起ることこそ候はざりしか。まづは神分の心経・表白のたうびて、鐘打ち給へりしに、そこばくあつまりたりし万人、さとこそ泣きて侍りしか。それは道理のことなり。
 また、清範律師の、犬のために法事しける人の講師に請ぜられていくを、清照法橋、同じほどの説法者なれば、いかがすると聞きに、頭つつみて、誰ともなくて聴聞しければ、「ただいまや、過去聖霊は蓮台の上にてひよと吠え給ふらむ」と宣ひければ、「さればよ。こと人、かく思ひよりなましや。なほ、斯様のたましひあることは、すぐれたる御房ぞかし」とこそほめ給ひけれ。誠に承りしに、をかしうこそ候ひしか。これはまた、聴聞衆ども、さざと笑ひてまかりにき。いと軽々なる往生人なりや。また、無下のよしなしごとに侍れど、人のかどかどしく、たましひあることの興ありて、優におぼえ侍りしかばなり。
 法成寺の五大堂供養は、師走には侍らずやな。きはめて寒かりし頃、百僧なりしかば、御堂の北の庇にこそは、題名僧の座はせられたりしか。その料にその御堂の庇はいれられたるなり。わざとの僧膳はせさせ給はで、湯漬ばかり給ふ。行事二人に、五十人づつ分たせ給ひて、僧の座せられたる御堂の南面に、鼎を立てて、湯をたぎらかしつつ、御物を入れて、いみじう熱くて参らせ渡したるを、思ふにぬるくこそはあらめと、僧たち思ひて、ざふざふと参りたるに、はしたなききはに熱かりければ、北風はいとつめたきに、さばかりにはあらで、いとよく参りたる御房たちもいまさうじけり。後に、「北向きの座にて、いかに寒かりけむ」など、殿の問はせ給ひければ、「しかじか候ひしかば、こよなく暖まりて、寒さも忘れ侍りにき」と申されければ、行事たちをいとよしと思し召されたりけり。ぬるくて参りたりとも、別の勘当などあるべきにはあらねど、殿を始め奉りて、人にほめられ、ゆく末にも、「さこそありけれ」といはれたうばむは、ただなるよりはあしからず、よきことぞかし。
 いでまた、故女院の御賀に、この関白殿、「陵王」、春宮大夫殿、「納蘇利」舞はせ給へりしめでたさはいかにぞ。「陵王」はいと気高くあてに舞はせ給ひて、御禄賜はらせ給ひて、舞ひすてて、知らぬさまにて入らせ給ひぬる御うつくしさ、めでたさに、並ぶことあらじ、と見参らするに、「納蘇利」のいとかしこく、また、かくこそはありけめと見えて舞はせ給ふに、御禄を、これはいとしたたかに御肩にひきかけさせ給ひて、いまひとかへり、えもいはず舞はせ給へりし興は、またかかるべかりけるわざかな、とこそおぼえ侍りしか。御師の、「陵王」はかならず御禄は捨てさせ給ひてむぞ、同じさまにせさせ給はむ、目馴れたるべければ、さまかへさせ奉りたるなりけり。心ばせまされりとこそはいはれ侍りしか。女院かうぶり賜はせば、大夫殿をいみじくかなしがりまさせ給へばとぞ。「陵王」の御師は賜はらでいと辛かりけり。それにこそ、北の政所少しむつからせ給ひけれ。さて後にこそ賜はすめりしか。かたのやうに舞かせ給ふともあしかるべき御年のほどにも御座しまさず、わろしと人の申すべきにも侍らざりしに、誠にこそ、二所ながら、この世の人とは見えさせ給はで、天童などの降り来たるとこそ見えさせ給ひしか。
 また、この大宮の大原野の行啓はいみじう侍りし。ことに雨の降りしこそいと口惜しく侍りしことよ。舞人には、たれたれ、それそれの君達などかぞへて、一の舞には、関白殿の君とこそはせさせ給ひしか。試楽の日、掻練襲の御下襲に、黒半臂奉りたりしは、めづらしく候ひし物かな。闕腋に人の着給へりしを、いまだ見侍らざりしかば。行啓には、入道殿、それがしといふ御馬に奉りて、御随身四人と、らんもんにあげさせ給へりしは、軽々しかりしわざかな。公忠が少し控へつつ、所おきまうししを、制せさせ給ひしかば、なほ少し怖りましてこそありしか。かしこく京のほどは雨も降らざりしぞかし。閑院の太政大臣殿の、西の七条より帰らせ給ひしをこそ、入道殿いみじう恨みまうさせ給ひけれ。堀河の左大臣殿は、御社までつかまつらせ給ひて、御引出物御馬あり。枇杷殿の宮・中宮とは、金造の御車にて、まうちぎみたちの、やむごとなきかぎり選らせ給へる御前具しまうさせ給へりき。御車のしりには、皇后宮の御乳母、維経のぬしの御母、中宮の御乳母、兼安・実任のぬしの御母、おのおのこそ候はれけれ。殿の君達のまだ男にならせ給はぬ、童にて皆仕うまつらせ給へりき。
 また、ついでなきことには侍れど、怪と人の申すことどもの、させることなくてやみにしは、前の一条院の御即位の日、大極殿の御装束すとて人々あつまりたるに、高御座のうちに、髪つきたるものの頭の、血うちつきたるを見つけたりける、あさましく、いかがすべきと行事思ひあつかひて、かばかりのことを隠すべきかとて、大入道殿に、「かかることなむ候ふ」と、なにがしのぬしして申させけるを、いと眠たげなる御けしきにもてなさせ給ひて、物も仰せられねば、もし聞し召さぬにやとて、また御けしき賜はれど、うち眠らせ給ひて、なほ御いらへなし。いとあやしく、さまで大殿籠り入りたりとは見えさせ給はぬに、いかなればかくては御座しますぞと思ひて、とばかり御前に候ふにぞ、うちおどろかせ給ふさまにて、「御装束は果てぬるにや」と仰せらるるに、聞かせ給はぬやうにてあらむと、思し召しけるにこそと心得て、立ちたうびける。げにかばかりの祝の御こと、また今日になりてとまらむも、いまいましきに、やをらひき隠してあるべかりけることを、心肝なく申すかなと、いかに思し召しつらむと、後にぞ、かの殿もいみじう悔い給ひける。さることなりかしな。されば、なでふことかは御座します、よきことにこそありけれ。
 また、大宮のいまだ幼く御座しましける時、北の政所具し奉らせ給ひて、春日に参らせ給ひけるに、御前の物どもの参らせすゑたりけるを、俄に辻風の吹き纒ひて、東大寺の大仏殿の御前に落したりけるを、春日の御前なる物の源氏の氏寺に取られたるはよからぬことにや。これをも、その折、世の人申ししかど、ながく御末つがせ給ふは吉相にこそはありけれ、とぞおぼえ侍るな。夢も現も、「これはよきこと」と人申せど、させることなくてやむやう侍り。また、斯様に怪だちて見給へきこゆることも、かくよきことも候ふな。
まことは、世の中にいくそばくあはれにもめでたくも興ありて、承り見給へ集めたることの、数知らず積りて侍る翁どもとか、人々思し召す。やむごとなくも、また下りても、間近き御簾・簾のうちばかりや、おぼつかなさ残りて侍らむ。それなりとも、各宮・殿ばら・次々の人の御あたりに、人のうち聞くばかりのことは、女房・わらはべ申し伝へぬやうやは侍る。されば、それも、不意に伝へ承らずしも候はず。されど、それをばなにとかは語りまうさむずる。ただ世にとりて、人の御耳とどめさせ給ひぬべかりし昔のことばかりを、かく語りまうすだにいとをこがましげに御覧じおこする人も御座すめり。今日は、ただ殿のめづらしう興ありげに思して、あどをよくうたせ給ふにはやされ奉りて、かばかりも口あけそめて侍れば、なかなか残り多く、またまた申すべきことは、期もなく侍るを、もし誠に聞し召しはてまほしくは、駄一疋を給はせよ。はひ乗りて参り侍らむ。
 かつまた、御宿りに参りて、殿の御才学のほども承らまほしう思ひ給ふるやうは、いまだ年頃、かばかりもさしいらへし給ふ人に対面賜はらぬに、時々くはへさせ給ふ御ことばの、見奉るは、翁らが玄孫のほどにこそはとおぼえさせ給ふに、この知ろしめしげなることども、思ふに古き御日記などを御覧ずるならむかしと心にくく。下臈はさばかりの才はいかでか侍らむ。ただ見聞き給へしことを心に思ひおきて、かくさかしがり申すにこそあれ。まこと人に会ひ奉りては、思し咎め給ふことも侍らむと、はづかしう御座しませば、老の学問にも承りあかさまほしうこそ侍れ」といへば、繁樹もただ、「かうなり、かうなり。さらむ折は、かならず告げ給ふべきなり。杖にかかりても、かならず参り会ひまうし侍らむ」と、うなづきあはす。
《世継》「ただし、さまでのわきまへ御座せぬ若き人々は、そら物語する翁かなと思すもあらむ。わが心におぼえて、一言にても、むなしきことくははりて侍らば、この御寺の三宝、今日の座の戒和尚に請ぜられ給ふ仏・菩薩を証とし奉らむ。なかにも、若うより、十戒のなかに、妄語をばたもちて侍る身なればこそ、かく命をば保たれて候へ。今日、この御寺のむねとそれを授け給ふ講の庭にしも参りて、あやまちまうすべきならず。おほかた、世の始まりは、人の寿は八万歳なり。それがやうやう減じもていきて、百歳になる時、仏は出で御座しますなり。されど、生死の定めなきよしを人に示し給ふとて、なほいま二十年を約めて八十と申しし年、入滅せさせ給ひにき。その年より今年まで、一千九百七十三年にぞなり侍りぬる。釈迦如来滅し給ふを期にて、八十には侍れど、仏、人の命を不定なりと見せさせ給ふにや、この頃も、九十・百の人、おのづから聞え侍るめれど、この翁どもの寿は希なること、「甚深甚深希有希有なり」とは、これを申すべきなり。
 いと昔は、かばかりの人侍らず。神武天皇を始め奉りて、二十余代までの間に、十代ばかりがほどは、百歳・百余歳までたもち給へる帝も御座しましたれど、末代には、けやけき寿もちて侍る翁なりかし。かかれば、前生にも戒を受けたもちて候ひけると思ひ給ふれば、この生にも破らでまかりかへらむと思ひ給ふるなり。今日、この御堂に影向し給ふらむ神明・冥道たちも聞し召せ」とうちいひて、したり顔に、扇うちつかひつつ、見かはしたるけしき、ことわりに、何事よりも、公私うらやましくこそ侍りしか。
《繁樹》「さてもさても、繁樹が年かぞへさせ給へ。ただなる折は、年を知り侍らぬが口惜しきに」 といへば、侍、「いでいで」とて、
《侍》「十三にておほき大殿に参りき」と宣へば、十ばかりにて、陽成院のおりさせ給ふ年はいますがりけるにこそ。
それにて推し思ふに、あの世継のぬしには、いま十余年が弟にこそあむめれば、百七十には少しあまり、八十にもおよばれにたるべし」など、手を折りかぞへて、
《侍》「いとかばかりの御年どもをば、相人などに相せられやせし」と問へば、
《繁樹》「さる人にも見え侍らざりき。ただ狛人のもとに、二人つれてまかりたりしかば、「二人長命」と申ししかど、いとかばかりまで候ふべしとは、思ひかけ候ふべきことか。ことごと問はむ、と思ひ給へしほどに、昭宣公の君達三人御座しまして、え申さずなりにき。それぞかし、時平のおとどをば、「御かたちすぐれ、心だましひすぐれ賢うて、日本にはあまらせ給へり。日本のかためと用ゐむにあまらせ給へり」と相しまうししは。枇杷殿をば、「あまり御心うるはしくすなほにて、へつらひ飾りたる小国にはおはぬ御相なり」と申す。貞信公をば、「あはれ、日本国のかためや。ながく世をつぎ門ひらくこと、ただこの殿」と申したれば、「われを、あるが中に、才なく心諂曲なりと、かくいふ、はづかしきこと」と仰せられけるは。
 されど、その儀にたがはせ給はず、門をひらき、栄花をひらかせ給へば、なほいみじかりけりと思ひ侍りて、またまかりたりしに、小野宮殿御座しまししかば、え申さずなりにき。ことさらにあやしき姿をつくりて、下臈の中に遠く居させ給へりしを、多かりし人の中より、のびあがり見奉りて、指をさして物を申ししかば、何事ならむと思ひ給へりしを、後に承りしかば、「貴臣よ」と申しけるなりけり。さるは、いと若く御座しますほどなりしかな。いみじきあざれごとどもに侍れど、誠にこれは徳至りたる翁どもにて候ふ。などか人のゆるさせ給はざらむ。また、拙き下臈のさることもありけるはと聞し召せ。
亭主院の、河尻に御座しまししに、白女といふ遊女召して、御覧じなどせさせ給ひて、「はるかに遠く候ふよし、歌につかうまつれ」と仰せ言ありければ、よみて奉りし、
 浜千鳥飛びゆくかぎりありければ雲立つ山をあはとこそ見れ W
いといみじうめでさせ給ひて、物かづけさせ給ひき。「命だに心にかなふ物ならば」も、この白女が歌なり。
 また、鳥飼院に御座しましたるに、例の遊女どもあまた参りたる中に、大江玉淵が女の、声よくかたちをかしげなれば、あはれがらせ給ひて、うへに召しあげて、「玉淵はいと労ありて、歌などいとよくよみき。この『とりかひ』といふ題を、人々のよむに、同じ心につかうまつりたらば、誠の玉淵が子とは思し召さむ」と仰せ給ふを承りて、すなはち、
  ふかみどりかひある春にあふ時はかすみならねどたちのぼりけり W」
など、めでたがりて、帝より始め奉りて、物かづけ給ふほどのこと、南院の七郎君にうしろむべきことなど仰せられけるほどなど、くはしくぞ語る。
《繁樹》「延喜の御時に、古今抄せられし折、貫之はさらなり、忠岑や躬恒などは、御書所に召されて候ひけるほどに、四月二日なりしかば、まだ忍音の頃にて、いみじく興じ御座します。貴之召し出でて、歌つかうまつらしめ給へり。
  こと夏はいかが鳴きけむほととぎすこの宵ばかりあやしきぞなき W
それをだに、けやけきことに思ひ給へしに、同じ御時、御遊びありし夜、御前の御階のもとに躬恒を召して、「月を弓張といふ心はなにの心ぞ。これがよしつかうまつれ」と仰せ言ありしかば、
  照る月を弓はりとしもいふことは山辺をさしていればなりけり W
と申したるを、いみじう感ぜさせ給ひて、大袿給ひて、肩にうちかくるままに、
  白雲のこのかたにしもおりゐるは天つ風こそ吹き手きぬらし W
いみじかりし物かな。さばかりの者に、近う召しよせて、勅禄給はすべきことならねど、謗りまうす人のなきも、君の重く御座しまし、また躬恒が和歌の道にゆるされたるとこそ、思ひ給へしか。かの遊女どもの、歌よみ、感賜はるは、さぞ侍る。院にならせ給ひ、都離れたる所なれば」と優にこそ、あまりにおよすけたれ。
 この侍問ふ、「円融院の紫野の子の日の日、曾禰好忠いかに侍りけることぞ」といへば、
《繁樹》「それそれ、いと興に侍りしことなり。さばかりのことに上下をえらばず、和歌を賞せさせ給はむに、げに入らまほしきことに侍れど、かくろへにて、優なる歌をよみ出さむだに、いと無礼に侍るべき。ことに、座に、ただつきにつきたりし、あさましく侍りしことぞかし。小野宮殿・閑院の大将殿などぞかし、「引き立てよ、引き立てよ」と、おきてさせ給ひしは。躬恒が別禄賜はるに、たとしへなき歌よみなりかし。歌いみじくとも、折節・きりめを見て、つかうまつるべきなり。けしうはあらぬ歌よみなれど、辛う劣りにしことぞかし」といふ。
 侍、こまやかにうち笑みて、「いにしへのいみじきことどもの侍りけむは知らず。なにがしもの覚えて後、不思議なりしことは、三条院の大嘗会の御禊の出車、大宮・皇太后宮より奉らせ給へりしぞありしや。大宮の一の車の口の眉に、香嚢かけられて、空薫物たかれたりしかば、二条の大路のつぶと煙満ちたりしさまこそめでたく、今にさばかりの見物またなし」などいへば、世継、
「しかしか、いかばかり御心に入れて、いどみせさせ給へりしかは。それに、女房の御心のおほけなさは、さばかりのことを、簾おろしてわたりたうびにしはとよ。あさましかりしことぞかしな。ものけ賜はる口に乗るべしと思はれけるが、しりに押し下され給へりけるとこそは承りしか。げに女房の辛きことにせらるれども、主の思し召さむところも知らず、男はえしかあるまじくこそ侍れ。
 おほかた、その宮には、心おぞましき人の御座するにや。一品の宮の御裳着に、入道殿より、玉を貫き、岩を立て、水を遣り、えもいはず調ぜさせ給へる裳・唐衣を、「まづ奉らせ給ひて、なかにも、とりわき思し召さむ人に給はせよ」と申させ給へりけるを、さりともと思ひ給へりける女房の、賜はらで、やがてそれ嘆きの病つきて、七日といふに失せ給ひにけるを、などいとさまで覚え給ひけむ。罪ふかく、まして、いかに物妬みの心ふかくいましけむ」などいふに、あさましく、いかでかくよろづのこと、御簾のうちまで聞くらむとおそろしく。
 斯様なる女・翁なんどの古言するは、いとうるさく、聞かまうきやうにこそおぼゆるに、これはただ昔にたち返り会ひたる心地して、またまたもいへかし、さしいらへごと・問はまほしきこと多く、心もとなきに、「講師御座しにたり」と、立ち騒ぎののしりしほどに、かきさましてしかば、いと口惜しく、こと果てなむに、人つけて、家はいづこぞと、見せむと思ひしも、講のなからばかりがほどに、そのこととなく、とよみとて、かいののしり出で来て、居こめたりつる人も、皆くづれ出づるほどにまぎれて、いづれともなく見まぎらはしてし口惜しさこそ。何事よりも、かの夢の聞かまほしさに、居所も尋ねさせむとし侍りしかども、ひとりびとりをだに、え見つけずなりにしよ。
 まことまこと、帝の、母后の御もとに行幸せさせ給ひて、御輿寄することは、深草の御時よりありけることとこそ。それがさきは、降りて乗らせ給ひけるが、后の宮、「行幸の有様見奉らむ。ただ寄せて奉れ」と申させ給ひければ、そのたび、さて御座しましけるより、今は寄せて乗らせ給ふとぞ。
 後日物語
 皇后宮大夫殿書きつがはれたる夢なり。
 この年頃聞けば、百日・千日の講行はぬ家々なし。老いたるも若きも、後の世の勤めをのみ思しまうすめるに、一日の講も行はず、ただつらつらといたづらに起き臥してのみ侍る罪ふかさに、ある所の千日の講、卯の時になむ行ふと聞きて参りたりけるに、人々、所もなく、車もかちの人もありけむ。やや待てど講師見えず。人々のいふを聞けば、「今日の講は、夕つ方ぞあらむ」などいふに、帰らむも罪得がましく思ふに、百歳ばかりにやあらむと見ゆる翁の居たるかたはらに、法師の同じほどに見ゆる、人の中を分けてきて、この翁に、
《僧》「いとかしこく見奉りつけて、あながちに参りつるなり。そもそも御前は、ひととせ世継の菩提講にて物語し給ひし、あながちに居寄りて、あどうち給ひしと見奉るは、老法師の僻目か」
といへば、男、
「さもや侍りけむ」といふ。
《僧》「これはいで、興ありて。その世継には、またや会ひ給へりし」といへば、
《翁》「後三条院生れさせ給ひてなむ、会ひて侍りし」といへば、「さてさていかなることか申されけむ。そのかみごろも、耳もおよばず承り思う給へし。その後さまざま興あることも侍るを、聞かせ給ひけむ。誠に今の世
のこと、とりそへて宣はせよ。あはれ、幾歳にななり給ひ侍りぬらむ」といへば、
《翁》「二の舞の翁にてこそは侍らめ。さはあれど、聞かむと思し召さば、すこぶる申し侍らむ。まづ、その年、万寿二年乙の丑の年、今年己の亥の年とや申す。八十三年にこそ、なりにて侍りけれ。いでや、なにばかり見聞きたることの情も侍らず。かの世継の申されしことも、耳にとどまるやうにも侍らざりき」といへば、法師、
 「いでいで、さりとも八十三年の功徳の林とは、今日の講を申すべきなめり。今も昔もしかぞ侍りし。二の舞の翁、
物まねびの翁、僧らが申さむことを、正教になずらへて、誰も聞し召せ」といへば、翁、
 「聞し召し所も侍るまじけれど、かくせちにすすめ給へば、今はのきざみに、痴のものに笑はれ奉るべきにこそ。見聞き侍りしは、後一条院、長元九年四月十七日失せさせ給へる。天下をしろしめすこと、二十一年。そのほど、いらなく悲しきこと多く侍りき。中宮はやがて思し召し嘆きて、同じ年の九月六日失せさせ給ひにし。上東門院思し召し嘆きしかど、これにも後れ奉らせ給ひて、一品の宮・前斎院をこそは、かしづき奉らせ給ひしか。院の御葬送の夜ぞかし、常陸国の百姓とかや、
  かけまくもかしこぎ君が雲のうへに煙かからむ物とやは見し W
 五月ばかり、郭公を聞し召して、女院、
   一言を君に告げなむほととぎすこのさみだれは闇にまどふと W
この御思ひに、源中納言顕基の君出家し給ひて後、女院に申し給へりし、
   身を捨てて宿を出でにし身なれどもなほ恋しきは昔なりけり W
御返し、
   時の間も恋しきことのなぐさまば世はふたたびもそむかれなまし W
その時は、斯様なること多く聞え侍りしかど、数々申すべきならず。
後朱雀院位につかせ給うて、さはいへど、はなやかにめでたく世にもてなされて、しばしこそあれ、一の宮の方にゐさせ給ふ一品の宮、后にたたせ給ふ。後三条院生れさせ給ひにしかば、さればこそ、昔の夢はむなしかりけりや。「なからむ末伝へさせ給ふべき君に御座します」とぞ、世継申されし。今后、弘徽殿に御座しまし、春宮、梅壷に御座しまして、先帝の一品の宮、春宮に参らせ給ひて、藤壷に御座しまして、女院入らせ給ひて、ひとつにおほし奉らせ給へる宮たち、いづれともおぼつかなからず見奉らせ給ふめでたさに、故院の御座しまさぬ嘆き、尽きせず思し召したりけり。
関白殿に養ひ奉らせ給ひし、故式部卿の宮の姫君、内に参らせ給ひて、弘徽殿に御座しますべしとて、かねて后の宮出でさせ給ひしこそ、いかに安からず思し召すらむと、世の人、悩みまうししか。明日まかでさせ給はむとて、上にのぼらせ給ひて、帝いかが申させ給ひけむ、宮、
  今はただ雲居の月をながめつつめぐりあふべきほども知られず W
この宮に女宮二所御座します。斎宮・斎院にゐさせ給うて、いとつれづれに、宮たち恋しく、世もすさまじく思し召すに、五月五日に、内より、
  もろともにかけし菖蒲のねを絶えてさらにこひぢにまどふ頃かな W
御返し、
  かたがたにひき別れつつあやめ草あらぬねをやはかけむと思ひし W
殿の御もてなし、かたはらいたくわづらはしくて、ひさしく入らせ給はず。されど、この宮御座しますこそは、たのもしきことなれど、今の宮に男皇子うみ奉り給ひてば、うたがひなき儲の君と思し召したる、ことわりなり。よき女房多く、出羽・少将・小弁・小侍従などいひて、手書き・歌よみなど、はなやかにていみじうて、候はせ給ふ」
  ― 終 ―