増鏡


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校註 増鏡
(序)
二月(きさらぎ)の中の五日は、鶴(つる)の林(はやし)に薪(たきぎ)尽(つ)きにし日なれば、かの如来二伝(にでん)の御かたみのむつまじさに、嵯峨の清涼寺(せいりやうじ)に詣(まう)でて、常在霊鷲山(じやうざいりやうじゆせん)など心のうちに唱(とな)へて、拝(をが)み奉(たてまつ)る。傍(かたはら)に、八十(やそぢ)にもや余(あま)りぬらんと見(み)ゆる尼(あま)ひとり、鳩(はと)の杖(つえ)にかゝりて参(まゐ)れり。とばかりありて、「たけく思(おも)ひたちつれど、いと腰(こし)痛(いた)くて堪(た)へ難(がた)し。今宵(こよひ)は、この局(つぼね)にうち休(やす)みなん。坊へ行(ゆ)きてみあかしの事などいへ」とて、具(ぐ)したる若(わか)き女房の、つき/゛\しき程(ほど)なるをば、返(かへ)しぬめり。
「釈迦牟尼仏(しやかむにぶつ)」とたび/\申(まう)して、夕日(ゆふひ)の花(はな)やかにさし入(い)りたるをうち見やりて、「あはれにも山の端(は)近(ちか)く傾(かたぶ)きぬめる日かげかな。我身の上(うへ)の心地(ここち)こそすれ」とて、寄(よ)りゐたる気色、何(なに)となくなまめかしく、心あらんかしと見ゆれば、近(ちか)く
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寄(よ)りて、「いづくより詣(まう)で給(たま)へるぞ。ありつる人の帰(かへ)り来(こ)ん程(ほど)、御伽(おんとぎ)せんはいかゞ」などいへば、「このわたり近(ちか)く侍れど、年のつもりにや、いと遙(はる)けき心地(ここち)し侍る、あはれになん」といふ。「さても、いくつにか成(なり)給(たま)ふらん」と問(と)へば、「いさ。よくも我ながら思(おも)ひ給(たま)へわかれぬ程になん。百(もゝ)とせにもこよなく余(あま)り侍(はべ)りぬらん。来(こ)し方(かた)行先(ゆくさき)、ためしも有(あ)り難(がた)かりし世の騒(さわ)ぎにも、この御寺ばかりは、恙(つつが)なくおはします。猶(なほ)、やむごとなき如来の御光なりかし」などいふも、古代(こだい)にみやびかなり。
年(とし)の程(ほど)など聞(き)くも、めづらしき心地(ここち)して、かゝる人こそ昔(むかし)物語(ものがたり)もすなれと、思(おも)ひ出(い)でられて、まめやかに語(かた)らひつゝ、「昔(むかし)の事の聞(き)かまほしきまゝに、年のつもりたらん人もがなと思(おも)ひ給(たま)ふるに、嬉(うれ)しきわざかな。少(すこ)しの給(たま)はせよ。おのづから古(ふる)き歌など書(か)き〔置き〕たる物の片(かた)はし見るだに、その世にあへる心地(ここち)するぞかし」といへば、〔うち〕すげみたる口(くち)うちほゝゑみて、「いかでか聞(きこ)えん。若(わか)かりし世に見聞(き)き侍(はべ)りし事は、こゝらの年比(としごろ)に、ぬばたまの夢ばかりだになくおぼほれて、何(なに)のわきまへか侍らん」とはいひながら、けしうはあらず、あへなんと思(おも)へる
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気色なれば、いよ/\いひはやして、「かの雲林院(うんりんゐん)の菩提講(ぼだいかう)に参(まゐ)りあへりし翁(おきな)の言(こと)の葉をこそ、仮名(かんな)の日本紀にはすめれ。又かの世継(よつぎ)が孫(うまご)とかいひし、つくも髪(がみ)の物語(ものがたり)も、人のもてあつかひ草になれるは、御有様(おんありさま)のやうなる人にこそ侍(はべ)りけめ。猶の給(たま)へ」などすかせば、さは心得(う)べかめれど、いよ/\口(くち)すげみがちにて、「そのかみは、げに人の齢(よはひ)も高(たか)く機(き)も強(つよ)かりければ、それに従(したが)ひて、魂(たましゐ)もあきらかにてや、しか聞(きこ)えつくしけむ。あさましき身は、いたづらなる年(とし)のみ積(つ)もれるばかりにて、昨日今日(きのふけふ)といふばかりの事をだに、目(め)も耳(みゝ)もおぼろになりにて侍れば、ましていと怪(あや)しきひが事どもにこそは侍らめ。そもさやうに御覧(らん)じ集(あつ)めけるふる事どもは、いかにぞ」といふ。
「いさ。たゞおろ/\見及(みおよ)びし物どもは、水鏡(みづかゞみ)といふにや。神武天皇の御代より、いとあらゝかにしるせり。その次(つぎ)には、大鏡(かゞみ)、文徳のいにしへより、後一条の御門(みかど)まで侍(はべ)りしにや。又世継(よつぎ)とか、四十帖(でう)の草子(さうし)にぞ、延喜より堀(ほり)川の先帝(せんてい)までは少(すこ)し細(こま)やかなる。又なにがしの大臣(おとど)の書(か)き給(たま)へると聞(き)き侍(はべ)りし今鏡(いまかゞみ)には、後一条より高倉院(たかくらのゐん)までありしなめり。誠(まこと)や、いや世継(よつぎ)は、隆信(たかのぶの)朝臣
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の、後鳥羽院(ごとばのゐん)の御位の御程(おんほど)までをしるしたりとぞ見え侍(はべ)りし。その後(のち)の事なん、いとおぼつかなくなりにける。おぼえ給(たま)へらむ所々までもの給(たま)へ。今宵(こよひ)誰(たれ)も御伽(おんとぎ)せん。かゝる人に会(あ)ひ奉(たてまつ)れるも、しかるべき御契あらん物ぞ」など語(かた)らへば、「そのかみの事は、いみじうたど/\しけれど、誠(まこと)に事(こと)のつゞきを聞(きこ)えざらんもおぼつかなかるべければ、たえ/゛\に少(すこ)しなん。ひが事ども多(おほ)からんかし。そはさし直(なほ)し給(たま)へ。いと傍(かたはら)いたきわざにも侍るべきかな。かの古(ふる)き事(こと)どもには、なぞらへ給(たま)ふまじう〔ぞ〕なん」とて、
愚(おろか)なる心や見(み)えん増鏡(ますかゞみ)古(ふる)き姿(すがた)に立(た)ちは及(およ)ばで
とわなゝかし出(い)でたるもにくからず、いと古代(こだい)なり。「さらば、今(いま)の給(たま)はん事をも、また書(か)きしるして、かの昔(むかし)の面影(おもかげ)にひとしからんとこそはおぼすめれ」といらへて、
今(いま)もまた昔(むかし)を書(か)けば増鏡(ますかゞみ)ふりぬる代々の跡にかさねん
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第一おどろのした
御門(みかど)始(はじ)まり給(たま)ひてより八十二代にあたりて、後鳥羽院(ごとばのゐん)と申(まう)すおはしましき。御諱(おんいみな)は尊成(たかひら)、これは高倉院(たかくらのゐん)第四の御子(みこ)、御母は七条院と申(まう)しき。修理大夫信隆(のぶたか)のぬしのむすめ也。高倉院(たかくらのゐん)御位の御時(おんとき)、后の宮の御方に、兵衛督(ひやうゑのかみ)の君とて仕(つか)うまつられし程(ほど)に、忍(しの)びて御覧(らん)じはなたずや有けん、治承四年七月十五日に生(む)まれさせ給(たま)ふ。その年(とし)の春の比(ころ)、建礼門院后宮(きさいのみや)と聞(きこ)えし御腹(おんはら)の第一の御子(みこ)、安徳天皇 三(みつ)に成(なり)給(たま)ふに位を譲(ゆづ)りて、御門(みかど)はおり給(たま)ひにしかば、平家の一族(ぞう)のみいよ/\時(とき)の花をかざし添(そ)へて、花やかなりし世なれば、掲焉(けちえん)にももてなされ給(たま)はず。又の年(とし)、養和元年正月十四日に、院さへかくれさせ給(たま)ひにしかば、いよ/\位などの御望(のぞ)み
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あるべくもおはしまさざりしを、かの新帝平家の人々にひかされて、遙(はる)かなる西(にし)の海にさすらへ給(たま)ひにし後(のち)、後白河法皇、御孫の宮たちわたし聞(きこ)えて見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ふ時、三の宮を次第のまゝに〔と〕思(おぼ)されけるに、法皇をいといたう嫌(きら)ひ奉(たてまつ)りて、泣(な)き給(たま)ひければ、「あなむつかし」とて、ゐてはなち給(たま)ひて、「四の宮こゝにいませ」との給(たま)ふに、やがて御膝(ひざ)の上に抱(いだ)かれ奉(たてまつ)りて、いとむつましげなる御気色なれば、「これこそ誠(まこと)の孫におはしけれ。故院(こゐん)の児(ちご)おひにも、まみなどおぼえ給(たま)へり。いとらうたし」とて、寿永二年八月二十日、御年四にて位につかせ給(たま)ひけり。内侍所(ないしどころ)・神璽(しんし)・宝剣は、譲位の時必(かなら)ず渡(わた)る事なれど、先帝筑紫(つくし)に率(ゐ)ておはしにければ、こたみ初(はじめ)て三種の神器なくて、めづらしき例(ためし)に成(なり)ぬべし。後にぞ内侍所・しるしの御箱(はこ)ばかり帰(かへり)のぼりにけれど、宝剣は遂(つひ)に、先帝の海に入(い)り給(たま)ふ時(とき)、御身に添(そ)へて沈(しづ)み給(たま)ひけるこそ、いと口惜(くちを)しけれ。かくて此御門(みかど)、元暦(げんりやく)元年七月二十八日御即位、その程(ほど)の事、常(つね)のまゝなるべし。平家の人々、未(いま)だ筑紫(つくし)にたゞよひて、先帝と聞(きこ)ゆるも御兄(このかみ)なれば、かしこに伝(つた)へ聞(き)く人々の心地(ここち)、上下さこそはありけめと思(おも)ひやられて、いとかたじけなし。
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同年の十月二十五日に御禊(ごけい)、十一月十八日〔に〕大嘗会(だいじやうゑ)なり。主基(すき)方の御屏風の歌、兼光の中納言といふ人、丹波国長田村とかやを、
神世よりけふのためとや八束穂(やつかほ)に長田(ながた)の稲(いね)のしなひそめけむ
御門いとおよすけて賢(かしこ)くおはしませば、法皇もいみじううつくしとおぼさる。文治(ぶんぢ)二年十二月一日、御書始(ふみはじ)めせさせ給(たま)ふ。御年七なり。同(おな)じ六年、女御参(まゐ)り給(たま)ふ。月輪(つきのわの)関白殿の御女なり。后立(きさきだち)ありき。後(のち)には宜秋門院(ぎしうもんゐん)と聞(きこ)え給(たま)ひし御事なり。この御腹に、春花門院と聞(きこ)え給(たま)ひし姫君ばかりおはしましき。建久元年正月三日、御年十一にて御元服し給(たま)ふ。
同(おな)じき三年三月十三日に、法皇かくれさせ給(たま)ひにし後(のち)は、御門(みかど)ひとへに世(よ)をしろしめ〔し〕て、四方(よも)の海波(なみ)靜(しづ)かに、吹(ふ)く風(かぜ)も枝を鳴(な)らさず、世治(おさ)まり民安(やす)くして、あまねき御うつくしびの浪、秋津(あきつ)島の外まで流(なが)れ、しげき御恵(めぐ)み、筑波(つくば)山のかげよりも深(ふか)し。よろづの道々(みちみち)に明(あき)らけくおはしませば、国に才(ざえ)ある人多(おほ)く、昔(むかし)に恥(は)ぢぬ御代にぞ有ける。中にも、敷(しき)島の道(みち)なん、すぐれさせ給(たま)ひける。御歌かず知(し)らず人の口(くち)にある中(なか)にも、
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奥山(おくやま)のおどろの下(した)も踏(ふ)みわけて道ある世ぞと人に知(し)らせん
と侍(はべ)るこそ、まつり事大事と思(おぼ)されける程(ほど)しるく聞(き)こえて、いといみじくやむ事なくは侍れ。
建久九年正月十一日、第一の御子(みこ)土御門院 四になり給(たま)ふに、御位譲(ゆづ)り申(まう)させ給(たま)ひて、おり〔ゐ〕給(たま)ふ。御年十九。位におはしますこと十五年なりき。今日明日(けふあす)、二十(はたち)ばかりの御齢(よはひ)にて、いとまだしかるべき御事なれども、よろづ所せき御有様(おんありさま)よりは、中々やすらかに、御幸(ごかう)など御心のまゝならんとにや。世をしろしめす事は今(いま)もかはらねば、いとめでたし。鳥羽殿・白河殿なども修理せさせ給(たま)ひて、常(つね)に渡(わた)り住(す)まはせ給(たま)へど、猶又水無瀬(みなせ)といふ所に、えもいはずおもしろき院づくりして、しば/\通(かよ)ひおはしましつゝ、春秋の花紅葉につけても、御心ゆくかぎり世をひゞかして、遊(あそ)びをのみぞし給(たま)ふ。所がらも、はる/゛\と川にのぞめる眺望、いとおもしろくなむ。元久の比、詩に歌を合(あ)はせられしにも、とりわきてこそは、
見渡(わた)せば山もとかすむ水無瀬(みなせ)川夕は秋と何(なに)思(おも)ひけむ
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かやぶきの廊(らう)・渡殿(わたどの)など、はる/゛\と艶(えん)にをかしうせさせ給(たま)へり。御前の山より滝(たき)落(お)とされたる石のたゝずまひ、苔(こけ)深(ふか)き深山木(みやまぎ)に枝にさしかはしたる庭の小松も、げにげに千世をこめたる霞の洞(ほら)なり。前栽(せんざい)つくろはせ給(たま)へる比、人々あまた召(め)して、御遊(あそ)びなどありける後、定家の中納言、未(いま)だ下臈(げらふ)なりける時に、奉(たてまつ)られける。
ありへけむもとの千年(とせ)にふりもせで我君ちぎる峰の若松
君が代にせきいるゝ庭を行く水の岩こす数は千世も見(み)えけり
今(いま)の御門の御諱(おんいみな)は為仁と申(まう)しき。御母は能円法印といふ人のむすめ、宰相の君とて仕(つか)うまつれる程(ほど)に、この御門生(む)まれさせ給(たま)ひて後には、内大臣通親(みちちか)の御子になり給(たま)ひて、末(すゑ)には承明門院と聞(きこ)えき。かの大臣(おとど)の北方の腹にておはしければ、もとより〔は〕、後(のち)の親(おや)なるに、御幸(おんさいはひ)さへひき出(い)で給(たま)ひしかば、誠(まこと)の御女にかはらず。この御門もやがてかの殿にぞ養(やしな)ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひける。かくて、建久九年三月三日御即位、十月二十七日に御禊、十一月二十二日は例(れい)の大嘗会なり。元久二年正月三日御冠(かうぶり)し給(たま)ひて、いとなまめかしくうつくしげにぞおはします。御本性も、父(ちゝ)御門よりは、少(すこ)しぬるくおはしましけれど、御情(おんなさけ)深(ふか)う、物のあはれ
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など聞(き)こし召(め)しすぐさずぞありける。
今(いま)の摂政は、院の御時の関白基通の大臣(おとゞ)。その後(のち)は後京極殿良経と聞(きこ)え給(たま)ひし、いと久(ひさ)しくおはしき。此大臣(おとゞ)はいみじき歌の聖(ひじり)にて、院の上同(おな)じ御心に、和歌の道(みち)をぞ申(まう)しおこなはせ給(たま)ひける。文治の比、千載集ありしかど、院未(いま)だきびはにおはしまししかばにや、御製も見えざめるを当帝位の御程(おんほど)に、又集(あつ)めさせ給(たま)ふ。土御門の内の大臣(おとど)の二郎君右衛門督通具といふ人をはじめにて、有家の三位・定家の中将・家隆・雅経などにの給(たま)はせて、昔(むかし)より今(いま)までの歌を、ひろく集(あつ)めらる。おの/\奉(たてまつ)れる歌を、院の御前にて、身づからみがき整(とゝの)へさせ給(たま)ふさま、いとめづらしくおもしろし。この時も、さきに聞(きこ)えつる摂政殿、とりもちて行(おこ)なはせ給(たま)ふ。大かた、いにしへ奈良(なら)の御門の御代に、はじめて、左大臣橘朝臣勅をうけたまはりて、万葉集を撰(えら)びしよりこのかた、延喜のひじりの御時の古今集、友則(とものり)・貫之(つらゆき)・躬恒(みつね)・忠岑(たゞみね)。天暦のかしこかりし御代にも、一条摂政殿謙徳公、未(いま)だ蔵人(くらうどの)少将など聞(きこ)えけるころ、和歌所の別当とかやにて、梨壷(なしつぼ)の五人におほせられて、後撰集は集(あつ)められけるとぞ、ひが聞き(ぎゝ)にや侍らん。その後(のち)、拾遺抄は、花山の法皇
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の身づから撰ばせ給(たま)へるとぞ。白川院位の御時は、後拾遺集、通俊(の)治部卿うけたまはる。崇徳院(しゆとくゐん)の詞花集は、顕輔三位えらぶ。又、白川院おりゐさせ給(たま)ひて後(のち)、金葉集かさねて俊頼朝臣におほせて撰(えら)ばせ給(たま)ひしこそ、初(はじ)め奏(そう)したりけるに、輔仁(すけひと)の親王の御なのりを書(か)きたる。わろしとてなほされ、又奉(たてまつ)れるにも、何事(なにごと)とかやありて、三度(たび)奏(そう)して後(のち)こそ納(おさ)まりにけれ。かやうの例(ためし)も、おのづからの事なり。をしなべて〔は〕、撰者のまゝにて侍(はべ)るなれど、こたみは、院の上みづから、和歌(の)浦に降(を)り立(た)ちあさらせ給(たま)へば、誠(まこと)に心ことなるべし。
この撰集よりさきに、千五百番の歌合せさせ給(たま)ひしにも、すぐれたる限(かぎ)りを撰(えら)ばせ給(たま)ひて、その道(みち)の聖(ひじり)たち判じけるに、やがて院も加は(くはゝ)らせ給ながら、猶このなみには立(た)ち及(をよ)び難(がた)しと卑下(ひげ)せさせ給(たま)ひて、判の言(こと)葉をばしるされず、御歌にて優(まさ)り劣(おと)れる心ざしばかりをあらはし給(たま)へり。中々いと艶(えん)に侍(はべ)りけり。上(かみ)のその道を得(え)給(たま)へれば、下もおのづから時(とき)を知(し)る習(ならひ)にや、男(おとこ)も女も、この御世にあたりて、よき歌よみ多(おほ)く聞(きこ)え侍(はべ)りし中に、宮内卿の君といひしは、村上の帝の御後(のち)に、俊房(としふさ)の左の大臣(おとゞ)と聞(きこ)えし人の御末(すゑ)なれば、はやうはあて人なれ
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ど、官(つかさ)あさくてうち続(つゞ)き、四位ばかりにて失(う)せにし人の子也。まだいと若(わか)き齢(よはひ)にて、そこひもなく深(ふか)き心ばへをのみ詠(よ)みしこそ、いと有(あ)り難(がた)く侍(はべ)りけれ。この千五百番の歌合の時、院の上(うへ)のたまふやう、「こたみは、みな世に許(ゆ)りたる古(ふる)き道の者(もの)どもなり。宮内卿はまだしかるべけれども、けしうはあらずとみゆめればなん。かまへてまろが面(おもて)起(おこ)すばかり、よき歌つかうまつれ〔よ〕」とおほせらるゝに、面(おもて)うち赤(あか)めて、涙ぐみて候(さぶら)ひけるけしき、限(かぎ)りなき好(す)きの程(ほど)も、あはれにぞ見(み)えける。さてその御百首の歌(うた)、いづれもとり/゛\なる中に、
薄(うす)く濃(こ)き野辺のみどりの若(わか)草に跡まで見(み)ゆる雪の村消(ぎ)え
草の緑(みどり)の濃(こ)き薄(うす)き色にて、去年(こぞ)のふる雪の遅(おそ)く疾(と)く消(きえ)ける程(ほど)を、おしはかりたる心ばへなど、まだしからん人は、いと思(おも)ひ寄(よ)り難(がた)くや。この人、年(とし)つもるまであらましかば、げにいかばかり、目(め)に見えぬ鬼(おに)神をも動(うご)かしなましに、若(わか)くて失(う)せにし、いといとほしくあたらしくなん。かくて、この度(たび)撰(えら)ばれたるをば、新古今といふなり。元久二年三月二十六日、竟宴(きやうえん)といふ事、春日殿にて行(をこ)なはせ給(たま)ふ。いみじき世(よ)のひゞきなり。かの延喜の
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昔(むかし)おぼしよそへられて、院の御製、
いそのかみ古(ふる)きを今(いま)にならべこし昔(むかし)の跡を又尋(たづ)ねつゝ
摂政殿良経の大臣(おとゞ)、
敷島(しきしまや大和言(こと)の葉海にして拾(ひろ)ひし玉はみがかれにけり
次々、ずん流(なが)るめりしかど、さのみはうるさくてなん。何(なに)となく明暮(あけく)れて、承元二年にもなりぬ。十二月二十五日、二(の)宮御冠(かうぶり)し給(たま)ふ。修明門院の御腹(おんはら)なり。この御子を、院かぎりなくかなしき物に思(おも)ひ聞(きこ)えさせ給(たま)へれば、二(に)なくきよらを尽(つく)し、いつくしうもてかしづき奉(たてまつ)り給事なのめならず。終(つひ)に同(おな)じ四年十一月に、御位につけ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。もとの御門、ことしこそ〔は〕十六にならせ給(たま)へば、未(いま)だ遙(はる)かなるべき御さかりに、かゝるを、いとあかずあはれと思(おぼ)されたり。永治のむかし、鳥羽法皇、崇徳院の御心もゆかぬにおろし聞(きこ)えて、近衛院をすゑ奉(たてまつ)り給(たま)ひし時は、御門(みかど)いみじうしぶらせ給(たま)ひて、その夜になるまで、勅使を度々(たびたび)奉(たてまつ)らせ給(たま)ひつゝ、内侍所・剣璽(けんじ)などをも渡(わた)しかねさせ給(たま)へりしぞかし。さてその御憤(いきどを)りの末(すゑ)にてこそ、保元の乱(みだれ)もひき出(い)で給(たま)へりしを、
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この御門(みかど)は、いとあてにおほどかなる御本性にて、思(おぼ)しむすぼほれぬにはあらねども、気色にも漏(ゝら)し給(たま)はず。世にもいとあえなき事に思(おも)ひ申(まう)しけり。承明門院などは、まいて、いと胸(むね)痛(いた)く思(おぼ)されけり。其年の十二月(しわす)に、太上天皇の尊号あり。新院と聞(きこ)ゆれば、父の御門(みかど)をば、今は本院と申(まう)す。なを、御政事(まつりごと)はかはらず。今(いま)の御門は十四にぞなり給(たま)ふ。御諱(おんいみな)守成と聞(きこ)えしにや。建暦(けんりやく)二年十一月十三日、大嘗会なり。新院の御時(おんとき)も仕(つか)うまつられたりし資実(すけざね)の中納言に、この度(たび)も悠紀(ゆき)方の御屏風の歌めさる。長楽(ながら)山、菅(すが)の根(ね)のながらの山の峯の松吹(ふ)きくる風(かぜ)も万代の声かやうの事は、皆人のしろしめしたらん。こと新(あたら)しく聞(きこ)えなすこそ、老のひが事ならめ。この〔御〕世には、いと掲焉(けちえん)なる事おほく、所々の行幸しげく、好(この)ましきさまなり。建保(けんぽう)二年、春日社に行幸ありしこそ、有(あ)り難(がた)き程(ほど)いどみつくし、おもしろうも侍(はべ)りけれ。さてその又の年(とし)、御百首の御歌よませ給(たま)ひけるに、去年(こそ)の事思(おぼ)しいでて、内の御製、
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春日(かすが)山こぞのやよひの花の香(か)にそめし心は神ぞ知(しる)らん
御心ばへは、新院よりも少(すこ)しかどめひ(い)て、あざやかにぞおはしましける。御才(ざえ)も、やまともろこし兼(か)ねて、いとやむごとなくものし給(たま)ふ。朝夕(あさゆふ)の御いとなみは、和歌の道(みち)にてぞ侍(はべ)りける。末(すゑ)の世に、八雲などいふ物つくらせ給(たま)へるも、この御門の御事なり。摂政殿のひめ君まいり給(たま)ひて、いと花やかにめでたし。この御腹(おんはら)に、建保二年十月十日、一の皇子(みこ)生(む)まれ給(たま)へり。いよ/\物あひたる心地して、世の中ゆすりみちたり。十一月二十一日、やがて親王(みこ)に成(なし)奉(たてまつ)り給(たま)ひて、同(おな)じ二十六日、坊にゐ給(たま)ふ。未(いま)だ御五十日(いか)だにきこしめさぬに、いちはやき御もてなし、めづらかなり。心もとなく思(おぼ)されければなるべし。今(いま)一しほ、世の中めでたく、定(さだ)まりはてぬるさまなめり。新院は、いでやと思(おぼ)さるらんかし。
かくて院の上(うへ)は、ともすれば水無瀬殿(みなせどの)にのみ渡(わた)らせ給(たま)ひて、琴笛(ことふえ)の音につけ、花紅葉の折々(をりをり)にふれて、よろづの遊(あそ)びわざをのみ尽(つ)くしつゝ、御心ゆくさまにて過(す)ごさせ給(たま)ふ。誠(まこと)に万世(よろづよ)もつきすまじき御世(よ)の栄(さか)へ、次々今(いま)よりいと頼(たの)もしげにぞ見えさせ給(たま)ふ。御碁うたせ給(たま)ふついでに、若(わか)き殿上人ども召(め)し
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て、これかれ心のひき/\に、いどみ争(あらそ)はさせ給(たま)へば、あるは小弓・双六(すぐろく)などいふ事まで、思(おも)ひ+に勝負(かちまけ)をさうどきあへるも、いとおかしう御覧じて、様々の興(けう)ある賭物(かけもの)ども取(と)う出(で)させ給とて、なにがしの中将を御使(つか)ひにて、修明門院の御方(かた)へ、「何(なに)にても、男(をのこ)どもにたまはせぬべからん賭物(かけもの)」と申(まう)させ給(たま)ひたるに、とりあへず、小(ちい)さき唐櫃(からびつ)の金(かな)物したるが、いと重(おも)らかなるを、参(まゐ)らせられたり。この御使(つか)ひの上(うへ)人、何(なに)ならんと、いといぶかしくて、片端(かたはし)ほのあけて見るに銭なり。いと心得(え)ずなりて、さと面(おもて)うち赤(あか)みて、あさましと思(おも)へる気色しるきを、院御覧(らん)じおこして、「朝臣こそ、むげに口惜(くちを)しくは有けれ。かばかりの事、知(し)らぬやうやはある。いにしへより、殿上の賭弓(のりゆみ)といふことには、これをこそかけ物にはせしか。されば、今(いま)、かけ物と聞(きこ)えたるに、これをしも出(い)だされたるならむ、いにしへの事知(し)り給(たま)へるこそ、いたきわざなれ」とほほゑみてのたまふに、「さはあしく思けり」と、心地(ここち)騒(さわ)ぎて思(おぼ)ゆべし。
大かた、この院の上(うへ)は、よろづの事にいたり深(ふか)く、御心も花やかに、物にくはしうぞおはしましける。夏の比、水無瀬(みなせ)殿の釣殿(つりどの)に出(い)でさせ給(たま)ひて、氷水(ひみづ)めして、
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水飯(すいはん)やうの物など、若(わか)き上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)どもに賜(たま)はさせて、大御酒(おほみき)参(まゐ)るついでにも、「あはれ、いにしへの紫(むらさき)式部こそはいみじくはありけれ。かの源氏の物語(ものがたり)にも、「近(ちか)き川のあゆ、西(にし)川より奉(たてまつ)れるいしぶしやうの物、御前に〔て〕調(てう)じて」と書(か)けるなむ、すぐれてめでたきぞとよ。たゞ今(いま)さやうの料理(れうり)仕(つか)〔う〕まつりてんや」などのたまふを、秦(はた)のなにがしと〔か〕いふ御随身(みずいじん)、勾欄(かうらん)のもと近(ちか)く候(さぶら)ひけるが、うけ給(たまはり)て、池のみぎはなる篠(さゝ)を少(すこ)し敷(し)きて、白(しろ)き米(よね)を〔水に〕洗(あら)ひて奉(たてまつ)れり。「拾(ひろ)はば消(き)えなん」とにや。これもけしかるわざかな」とて、御衣(ぞ)ぬぎてかづけさせ給(たま)ふ。御かはらけ度々(たびたび)きこしめす。その道(みち)にも、いとはしたなく物し給(たま)ふ。何事(なにごと)もあいぎやうづき、めでたく見えさせ給(たま)ふ御ありさま、千年(ちとせ)を経(ふ)とも飽(あ)く世あるまじかめり。
また、清撰の御歌合とて、限(かぎ)りなくみがかせ給(たま)ひしも、水無瀬(みなせ)殿にての事なりしにや。当座の衆議判なれば、人々の心地(ここち)、いとゞ置(お)き所なかりけむかし。建保二年九月の比、すぐれたる限(かぎ)りぬき出(い)で給(たま)ふめりしかば、いづれか愚(おろか)ならん。中にもいみじかりしことは、第七番に、左、院の御歌、
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明石潟(あかしがた)浦ぢ晴(は)れゆく朝(あさ)なぎに霧にこぎ入(い)るあまのつり舟
とありしに、北面(おもて)の中に、藤原秀能(ひでよし)とて、年比もこの道に許(ゆ)りたるすき物なれば、召(め)し加(くは)へらるゝ事常(つね)の事なれど、やむ事(ごと)なき人々の歌だにも、あるは一首二首三首には過(す)ぎざりしに、この秀能九首まで召(め)されて、しかも院の御かたてにまいれり。さてありつるあまのつり舟(ぶね)の御歌の右に、
ちぎりをきし山の木の葉の下紅葉そめし衣(ころも)に秋風ぞ吹(ふ)く
と詠(よ)めりしは、その身の上(うへ)にとりて、長(なが)き世の面目(めいぼく)、何かはあらん、とぞ聞(きき)侍(はべ)りし。
昔(むかし)の躬恒(みつね)が、御階(はし)のもとに召(め)されて、「弓はりとしもいふ事は」と奏(そう)して、御衣(ぞ)給(たまはり)しをこそ、いみじき事にはいひ伝(つた)ふめれ。又、貫之(つらゆき)が家に、枇杷(びは)の大臣(おとゞ)、魚袋(ぎよたい)の歌の返し、とぶらひにおはしたりしをも、道の高名(かうみやう)とこそ、世継(よつぎ)には書(か)きて侍れ。近(ちか)き頃は、西行法師ぞ北面の者(もの)にて、世にいみじき歌の聖(ひじり)なめりしが、今(いま)の代の秀能(ひでよし)は、ほと/\古(ふる)きにも立(た)ちまさりてや侍らん。この度(たび)の御歌合、大かた、いづれとなくうち
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みだして、勝(すぐ)れたる限(かぎ)りを撰(ゑ)り出(い)でさせ給(たま)ひしかば、各(おのおの)むら/\にぞ侍(はべ)りける。吉水(よしみづ)の僧正〔慈円〕と聞(きこ)えし、又たぐひなき歌の聖(ひじり)にていましき。それだに四首ぞ入(い)り給(たま)ひにける。さのみは事ながければもらしぬ。この僧正、世(よ)にもいと重(おも)く、山の座主にて物し給事も年(とし)久(ひさ)しかりしその程に、やむごとなき高名数知(かずし)らずおはせしかば、あがめられ給さまも、二(に)なく物し給(たま)ひしかど、猶(なほ)、飽(あ)かず思(おぼ)す事やありけん。院に奉(たてまつ)られける長(なが)歌、
さてもいかにわしのみ山の月のかげ鶴(つる)の林(はやし)に入(い)りしより経(へ)にける年をかぞふれば二千年(ふたちとせ)をも過(す)ぎはてて後(のち)のいつゝの百(もゝ)とせになりにけるこそかなしけれあはれ御法(みのり)の水(みづ)のあはの消(き)え行(ゆく)ころになりぬればそれに心を澄(す)ましてぞわが山川にしづみゆく心あらそふ法(のり)の師はわれも+と青柳(あをやぎ)のいとところせくみだれきて花ももみぢも散(ち)りゆけば木ずゑ跡なきみ山辺の道(みち)にまよひて
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過(す)ぎながらひとり心をとゞむるもかひもなぎさの志賀(しが)の浦(うら)跡(あと)垂(た)れましし日吉(よし)のや神のめぐみをたのめども人のねがひをみつかはの流(なが)れもあさくなりぬべしみねの聖(ひじり)のすみかさえこけの下(した)にぞむもれゆくうちはらふべき人もがなあなうの花の世の中(なか)や春の夢路はむなしくて秋の木ずゑをおもふより冬の雪をもたれかとふかくてや今(いま)はあと絶(た)えむと思(おも)ふからにくれはとり怪(あや)しき夜(よる)のわが思(おも)ひ消(き)えぬばかりを頼(たの)みきて猶(なほ)さりともと花の香(か)にしゐ(ひ)て心をつくばやましげきなげきのねをたづねしづむむかしの魂(たま)をとひ救(すく)ふこゝろはふかくしてつとめ行(ゆく)こそあはれなれ深山(みやま)のかねをつく/゛\とわが君が世をおもふにもみねの松かぜ
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のどかにて千世に千(ち)とせをそふる程(ほど)法(のり)のむしろの花のいろ野にも山にもにほいてぞ人をわたさむはしとしてしばし心をやすむべき遂(つひ)にはいかゞあすか川あすより後やわが立(た)ちし杣(そま)のたつきのひゞきよりみねのあさ霧晴(は)れのきてくもらぬ空に立(た)ち帰(かへ)るべき
反歌
さりともとおもふ心ぞなを深(ふか)き絶(た)えで絶(た)え行(ゆく)山川の水
定家の中将、おりふし御前に候(候(さぶら))ひければ、これ返しせよとて、さし給(たま)はする、げに、いと疾く書(か)きて、御覧(らむ)ぜさせけり。
久かたの天地(あめつち)ともにかぎりなき天(あま)つ日つぎをちかひてし神もろともにまもれとて我たつ杣(そま)をいのりつゝむかしの人のしめてける峯の杉むら色かへずいく年々(としどし)をへだつとも八重のしら雲
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ながめやる宮この春をとなりにて御法(のり)の花もおとろへずにほはん物と思(おも)ひをきし末葉(すゑば)の露もさだめなきかやが下葉(したば)にみだれつゝもとの心のそれならぬうきふししげき呉(くれ)竹になく音をたつるうぐひすのふるすは雪にあらしつゝ跡絶(た)えぬべき谷(たに)がくれこりつむなげき椎柴(しゐしば)のしゐ(ひ)てむかしにかへされぬ葛(くず)のうら葉はうらむとも君は三笠(みかさ)の山たかみ雲井の空にまじりつゝ照日(てるひ)を世々(よゝ)に助(たす)けこし星(ほし)の宿(やど)りをふりすててひとり出(い)でにしわしのやまよにもまれなるあととめて深(ふか)き流(なが)れにむすぶてふ法(のり)の清水(しみづ)のそこすみてにごれる世(よ)にもにごりなしぬまの葦間(あしま)に影(かげ)やどす秋の中半(なかば)の月なればなを山の端(は)をゆきめぐり空吹(ふ)くかぜをあふぎてもむなしくなさぬ行(ゆく)すゑをみつの川なみ
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立(た)ちかへり心のやみをはるくべき日吉(よし)の御かげのどかにて君をいのらんよろづよに千代をかさねて松が枝(え)をつばさにならす鶴(つる)の子のゆづるよはひはわかの浦(うら)や今(いま)は玉もをかきつめてためしもなみにみがきをく我道(みち)までも絶(た)えせずば言(こと)の葉ごとのいろ/\に後みむ人も恋(こ)ひざらめかも
反歌
君を祈(いの)る心深(ふか)くば頼(たの)むらん絶(た)えてはさらに山川の水
新院も、のどかにおはしますまゝに〔は〕、御歌をのみ詠(よ)ませ給(たま)へど、よろづの事、もて出(い)でぬ御本性(じやう)にて、人々など集(あつ)めて、わざとあるさまには好(この)ませ給(たま)はず。建保の比、うち/\百首(の)御歌よみ給(たま)へりしを、家隆の三位、又定家の治部卿のもとなどへ、いふかひなき児(ちご)の詠(よ)めるとて、つかはして見(み)せ給(たま)ひしに、いづれもめでたく様々なる中に、懐旧の御歌に、
秋の色を送(おく)り迎(むか)へて雲の上になれにし月も物わすれすな
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とある所に、定家の君おどろきかしこまりて、裏書(うらがき)に、「あさましくはかられ奉(たてまつ)りける事」などしるして、
あかざりし月もさこそは思(おも)ふらめ古(ふる)き涙も忘(わす)られぬ世(よ)を
と奏(そう)せられたり。院もえんありて御覧(らん)ずべし。げにいかゞ御心〔も〕動(うご)かずしもおはしまさむと、その世の事かたじけなくなむ。今(いま)も少(すこ)し、世の中(なか)隔た(へだゝ)れるさまにてのみおはしますこそ、いといとほしき御有様(おんありさま)なめれとぞ。
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校註 増鏡
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第二 新島守(にひしまもり)
たけき武士(もののふ)の起(お)こりを尋(たづ)ぬれば、いにしへ田村、利仁などいひけん将軍どもの事は、耳遠(みみどほ)ければさしおきぬ。そのかみより今(いま)まで、源平(げんぺい)の二流(ふたなが)れぞ、時(とき)により折(をり)に従(したが)ひて、おほやけの御守(まも)りとはなりにける。桓武天皇と聞(きこ)えし御門(みかど)をば、柏原(かしはばら)の御門とも申(まう)しけり。その御子に式部卿の親王(みこ)と聞(きこ)えしより五代の末(すゑ)に、平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)といふ人、維衡(これひら)・維時(これとき)とて、二人(ふたり)の子をもたりけり。間近(まぢか)く栄(さか)へし西八条の清盛の大臣(おとど)は、かの太郎維衡(これひら)より六代の末(すゑ)なりき。その一門(ひとつかど)亡(ほろ)びしかば、この頃(ごろ)は、僅(わづか)にあるかなきかにぞ、さまよふめる。さてかの維時が名残(なごり)は、ひたすらに民と成(な)りて、平四郎時政といふ者(もの)のみぞ、伊豆(いづ)の国北条の郡(こほり)とかやにあ(ン)める。それ
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も維時には六代の末(すゑ)なるべし。
又源氏武者といふも、清和の御門(みかど)、あるは宇多院(うだのゐん)などの御後(おんのち)どもなり。二条院の御時、平治の乱(みだれ)に、伊豆の国(くに)蛭(ひる)が小島へ流(なが)されし兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝は、清和の御門(みかど)より八代の流(なが)れに、六条判官(はうぐわん)為義(ためよし)といひし者(もの)の孫なり。左馬頭(さまのかみ)義朝が三男になむありける。西八条の入道大臣(おとど)、やう>栄花衰(おとろ)へんとて、後白河院(ごしらかはのゐん)をなやまし奉(たてまつ)りしかば、安(やす)からず思(おぼ)ほされて、かの頼朝を召(め)し出(い)でて、軍(いくさ)を起(おこ)し給ひしに、しかるべき時(とき)や至(いた)りけむ、平家の人々は、寿永の秋の木枯(こがら)しに散(ち)りはてて、遂(つひ)にわたつ海(うみ)の底(そこ)のもくづと沈(しづ)みにし後、頼朝いよ>権(けん)をほどこして、さらに君の御後見(おんうしろみ)を仕(つか)うまつる。相模(さがみ)の国鎌倉(かまくら)の里(さと)といふ所に居(を)りながら、世をばたなごころの中に思(おも)ひき。みな人知(し)り給(たま)へることなれば、いまさらに申(まう)すも中々なれど、院の上(うへ)、位につかせ給(たま)ひしはじめより、世のかためと成(な)りて、文治元年四月、二の階(はし)をのぼりしも、八島(やしま)の内の大臣(おとど)宗盛を生捕(いけど)りの賞と聞(きこ)ゆ。建久の初(はじ)めつかた、都にのぼる。その勢(いきほ)ひのいかめしき事、いへばさらなり。道すがら遊(あそ)びものどもまゐる。遠江(とほたふみ)の国(くに)橋本(はしもと)の宿に著(つ)きたるに、例(れい)の遊女、多(おほ)くえもいはず装束(さうぞ)き
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てまゐれり。頼朝うちほほゑみて、
橋本(はしもと)の君になにをか渡(わた)すべき
といへば、梶原(かぢはら)平三影時(かげとき)といふ武士、とりあへず、
ただ杣山(そまやま)のくれであらばや
いとあいだてなしや。馬鞍(むまくら)こんくくり物など運(はこ)び出(い)でてひけば、喜(よろこ)びさわぐ事かぎりなし。
その年(とし)の十一月九日、権大納言になされて、右近大将を兼(かね)たり。十二月(しはす)の一日(ついたち)ごろ、よろこび申(まうし)して、おなじき四日、やがて官(つかさ)をば返(かへ)し奉(たてまつ)る。この時(とき)ぞ、諸国の総追捕使(そうついぶくし)といふ事承(うけたまは)りて、地頭職(ぢとうしき)に、我が家の兵(つはもの)どもをなし集(あつ)めけり。此(この)日本国の衰(おとろ)ふる初(はじ)めは、これよりなるべし。さて東(あづま)に帰(かへ)りくだるころ、上下色々のぬさ多(おほ)かりし中に、年頃も祈(いの)りなどし給ひし吉水(よしみづの)僧正、かの長歌(ながうた)の座主、のたまひつかはしける。
あづまぢのかたに勿来(なこそ)の関の名は君を都に住(す)めとなりけり
御返し、頼朝、
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みやこには君に相坂(あふさか)近(ちか)ければ勿来(なこそ)の関は遠(とほ)きとを知(し)れ
その後(のち)も、又上(のぼ)りて、東大寺の供養に詣(まう)でたりき。〔かくて〕新院の御位のはじめつかた、正治元年正月十一日、東(あづま)にて頭(かしら)おろして、おなじき十三日、年五十三にてかくれにけり。治承四年より天の下(した)に用(もち)ゐられて、二十年(はたとせ)ばかりや過(す)ぎぬらん。
北の方(かた)は、さきに聞(きこ)えつる北条四郎時政が女(むすめ)なり。その腹(はら)に男(をのこ)二人(ふたり)あり。太郎をば頼家といふ。弟(おとうと)をば実朝と聞(きこ)ゆ。大将かくれて後(のち)、兄(あに)はやがてたち継(つ)ぎて、建仁元年六月二十二日従三位、おなじ日、将軍の宣旨を賜(たま)はる。又の年(とし)、左衛門督になさる。かかれども、すこしおちゐぬ心ばへなどありて、やう>兵(つはもの)どもそむきそむきにぞなりにける。時政は遠江守(とほたふみのかみ)といひて、故大将のありし時(とき)より私(わたくし)の後見(うしろみ)なりしを、まいて今(いま)は孫の世なれば、いよ>身重(おも)く勢(いきほ)ひそふ事かぎりなく、うけばりたるさまなり。子〔二人(ふたり)〕あり。太郎は宗時、次郎(じらう)は義時といへり。次郎(じらう)は心もたけく魂(たましひ)まされるものにて、左衛門督をばふさはしからず思(おも)ひて、弟(おとうと)の実朝の君につき従(したが)ひて、思(おも)ひかまふる事などもありけり。督(かみ)は、日にそへて人にもそむけられゆくに、いといみじき病(やまひ)をさへして、建仁三年九月十六日、
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年(とし)二十二にて頭(かしら)おろす。世中(よのなか)残(のこ)りおほく、何事もあたらしかるべき程(ほど)なれば、さこそ口惜(くちを)しかりけめ。幼(をさな)き子の一万といふにぞ、世をば譲(ゆづ)りけれど、うけひく者(もの)なし。入道は、かの病(やまひ)つくろはんとて、鎌倉より伊豆(いづ)の国へ出(い)で湯(ゆ)あびに越(こえ)たりける程(ほど)に、かしこの修善寺といふところにて、遂(つひ)に討(う)たれぬ。一万もやがて失(うしな)はれけり。これは、実朝と義時と、一(ひと)つ心にてたばかりけるなるべし。
さて、今(いま)はひとへに、実朝、故大将の跡(あと)をうけつぎて、官(つかさ)・位(くらゐ)とどこほる事なく、よろづ心のままなり。建保元年二月二十七日、正二位せしは、閑院の内裏つくれる賞とぞ聞(き)き侍(はべ)りし。おなじ六年、権大納言になりて、左大将をかねたり。左馬寮をさへぞつけられける。その年(とし)やがて内大臣になりても、猶(なほ)大将もとのままなり。父(ちち)にもやや立まさりていみじかりき。この大臣(おとど)は、大かた、心ばへうるはしく、たけくもやさしくも、よろづめやすければ、ことわりにも過(す)ぎて、武士(もののふ)のなびき従(したが)ふさまも父にも越(こ)えたり。いかなる時(とき)にかありけむ、
山はさけ海はあせなん世なりとも君に二心わがあらめやも
とぞよみける。
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時政は建保三年にかくれにしかば、義時は跡(あと)をつぎけり。故左衛門督の子にて公暁(くげう)といふ大徳(だいとこ)あり。親(おや)の討(う)たれにし事を、いかでか安(やす)き心あらん。いかならむ時(とき)にかとのみ思(おも)ひわたるに、この内大臣、又右大臣にあがりて、大饗(たいきやう)など、めづらしく東(あづま)にて行(おこ)なふ。京より尊者をはじめ上達部(かんだちめ)・殿上人多(おほ)くとぶらひいましけり。さて、鎌倉(かまくら)に移(うつ)し奉(たてまつ)れる八幡の御社(みやしろ)に、神拝にまうづる、いといかめしきひびきなれば、国々の武士(ぶし)はさらにもいはず、都(みやこ)の人々も扈従(こせう)し〔たり〕けり。たち騒(さわ)ぎののしる者(もの)、見(み)る人も多(おほ)かる中に、かの大徳(だいとこ)、うちまぎれて、女のまねをして、白(しろ)き薄衣(うすぎぬ)ひき折(を)り、大臣(おとど)の車より降(お)るる程を、さしのぞくやうにぞ見えける。あやまたず首(くび)をうちおとしぬ。その程(ほど)のどよみいみじさ、思(おも)ひやりぬべし。かくいふは、承久元年正月二十七日なり。そこらつどひ集(あつ)まれる者(もの)ども、ただあきれたるよりほかの事なし。京にも聞(きこ)しめしおどろく。世中(よのなか)火を消(け)ちたるさまなり。扈従(こせう)に西園寺の宰相中将実氏も下(くだ)り給ひき。さならぬ人々も、泣(な)く>袖をしぼりてぞ上(のぼ)りける。
いまだ子もなければ、たち継(つ)ぐべき人もなし。事しづまりなん程(ほど)とて、故大臣(おとど)の母
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北の方(かた)二位殿政子といふ人、二人(ふたり)の子をも失(うしな)ひて、涙(なみだ)ほす間(ま)もなく、しをれ過(す)ぐすをぞ、将軍に用(もち)ゐける。かくてもさのみはいかがにて、「君だち一所(ひとところ)下(くだ)し聞(きこ)えて、将軍になし奉(たてまつ)らせ給(たま)へ」と、公経の大臣(おとど)に申しのぼせければ、あへなんと思(おぼ)すところに、九条左大臣殿の上(うへ)は、この大臣(おとど)の御女なり。その御腹(おんはら)の若君(わかぎみ)の、二つになり給(たま)ふを、下(くだ)し聞(きこ)えんと、九条殿のたまへば、御孫ならんもおなじことと思(おぼ)して、定(さだ)め給ひぬ。
その年(とし)の六月に、東(あづま)に率(ゐ)て奉(たてまつ)る。七月十九日におはしましつきぬ。むつきのうちの御有さまは、ただ形代(かたしろ)などを祝(いは)ひたらんやうにて、よろづの事、さながら右京権大夫(ごんのだいぶ)義時朝臣心のままなり。されど、一の人の御子の将軍に成(な)り給(たま)へるは、これぞ初(はじ)めなるべき。かの平家の亡(ほろ)ぶべき世の末に、人の夢に、「頼朝が後(のち)は、その御太刀(たち)あづかるべし」と、春日大明神おほせられけるは、この今(いま)の若君(わかぎみ)の御事にこそありけめ。
かくて世(よ)をなびかししたため行(おこ)なふ事も、ほと>古(ふる)きには越(こ)えたり。まめやかにめざましき事も多(おほ)く成(な)りゆくに、院の上(うへ)、忍(しの)びて思(おぼ)したつ事などあるべし。近(ちか)く
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仕(つか)うまつる上達部・殿上人、まいて北面の下臈(げらふ)・西面(にしおもて)などいふも、みなこのかたにほのめきたるは、あけくれ弓矢(ゆみや)兵仗(ひやうぢやう)のいとなみより外(ほか)の事なし。剣(つるぎ)などを御覧じ知(しる)事さへ、いかで習(なら)はせ給(たま)ひたるにか、道の者にもややたちまさりて、かしこくおはしませば、御前にてよきあしきなど定(さだ)めさせ給(たま)ふ。
かやうのまぎれにて、承久も三年になりぬ。四月二十日、御門降(お)りさせ給(たま)ふ。春宮四(よつ)にならせ給(たま)ふに譲(ゆづ)り申(まう)させ給(たま)ふ。近頃(ちかごろ)、みなこの御齢(おんよはひ)にて受禅ありつれば、これもめでたき御行末(ゆくすゑ)ならんかし。おなじき二十三日、院号の定(さだ)めありて、今(いま)降(お)りさせ給(たま)へるを、新院と聞(きこ)ゆれば、御兄(あに)の院をば中の院と申(まう)し、父(ちち)御門をば本院とぞ聞(きこ)えさする。この程(ほど)は、家実の大臣(おとど)〈 普賢寺殿の御子 〉関白にておはしつれど、御譲位の時(とき)、左大臣道家の大臣(おとど)〈 光明峯寺殿(くわうみやうぶじどの) 〉、摂政になり給(たま)ふ。かの東(あづま)の若君(わかぎみ)の御父(ちち)なり。
さても院の思(おぼ)し構(かま)ふる事、忍(しの)ぶとすれど、やう>もれ聞(きこ)えて、東(ひんがし)ざまにも、その心づかひすべかんめり。あづまの代官にて伊賀(いがの)判官光季(みつすゑ)といふ者(もの)あり。かつ>”かれを御勘事(かうじ)の由(よし)おほせらるれば、御方(みかた)に参(まゐ)る兵(つはもの)どもおしよせたるに、逃(の)がるべきやうなくて、腹(はら)切(き)りてけり。まづいとめでたしとぞ、院は思(おぼ)しめし
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ける。
東(あづま)にも、いみじうあわて騒(さわ)ぐ。「さるべくて身の失(う)すべき時(とき)にこそあんなれ」と思(おも)ふ物から、「討手(うつて)の攻(せ)め来(き)たりなん時(とき)に、はかなき様(さま)にてかばねをさらさじ、おほやけと聞(きこ)ゆとも、身づからし給(たま)ふ事ならねば、かつ我身の宿世(しゆくせ)をも見(み)るばかり」と思(おも)ひなりて、弟(おとうと)の時房(ときふさ)と泰時といふ一男と、二人(ふたり)をかしらとして、雲霞のつはものをたなびかせて、都(みやこ)にのぼす。泰時を前(まへ)にすゑていふやう、「おのれをこの度(たび)都(みやこ)に参(まゐ)らする事は、思(おも)ふところ多(おほ)し。本意のごとく清き死をすべし。人に後(うし)ろを見(み)えなんには、親(おや)の顔(かほ)、又見(み)るべからず。今(いま)を限(かぎ)りとおもへ。いやしけれども、義時、君(きみ)の御ために後(うし)ろめたき心やはある。されば、横(よこ)ざまの死をせん事はあるべからず。心をたけく思(おも)へ。おのれうち勝(か)つものならば、二たびこの足柄(あしがら)・箱根山(はこねやま)は越(こ)ゆべし」など、泣(な)く>いひきかす。「まことにしかなり。又親(おや)の顔(かほ)拝(をが)む事もいとあやうし」と思(おも)ひて、泰時も鎧(よろひ)の袖をしぼる。かたみに今(いま)や限(かぎ)りにあはれに心ぼそげなり。
かくてうち出(い)でぬる又の日、思(おも)ひかけぬ程に、泰時ただひとり、鞭(むち)をあげて馳(は)せ
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きたり。父(ちち)、胸(むね)うちさわぎて、「いかに」と問(と)ふに、「いくさのあるべきやう、大かたのおきてなどをば、仰(おほせ)のごとく
その心をえ侍(はべ)りぬ。もし道のほとりにも、はからざるに、かたじけなく鳳輦(ほうれん)を先(さき)だてて、御旗(はた)をあげられ、臨幸(りんかう)の厳重(げんでう)なる事も侍らんに参(まゐ)りあへらば、その時(とき)の進退(しんだい)、いかが侍(はべ)るべからん。この一事をたづね申(まう)さんとて、ひとり馳(は)せ侍(はべ)りき」といふ。義時、とばかりうち案(あん)じて、「かしこくも問(と)へるをのこかな。その事なり。まさに君の御輿(こし)に向(むか)ひて弓を引(ひ)くことは、いかがあらん。さばかりの時(とき)は、かぶとをぬぎ弓の弦(つる)を切(き)りて、ひとへにかしこまりを申(まう)して、身をまかせ奉(たてまつ)るべし。さはあらで、君は都(みやこ)におはしましながら、軍兵を賜(たま)はせば、命を捨(す)てて千人が一人になるまでも戦(たたか)ふべし」と、いひもはてぬに急(いそ)ぎ立(た)ちにけり。
都(みやこ)にも思(おぼ)しまうけつる事なれば、武士(もののふ)ども召(め)しつどへ、宇治・勢多の橋(はし)もひかせて、敵(かたき)を防(ふせ)ぐべき用意(ようい)、心ことなり。公経の大将ひとりのみなむ、御孫のこともさる事にて、北の方、一条の中納言能保(よしやす)といふ人の女(むすめ)なり。其母北の方は、故
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大将のはらからなれば、一かたならず東(あづま)を重(おも)くおぼして、さしいらへもせず、院の御心の軽(かろ)き事と、あぶながり給(たま)ふ。七条院の御ゆかりの殿原、坊門大納言忠信・尾張中将清経(きよつね)・中御門大納言宗家、又修明門院の御はらからの甲斐(かい)の宰相中将範茂など、つぎ>あまた聞(きこ)ゆれど、さのみはしるしがたし。軍(いくさ)に交(ま)じりたつ人々、このほかの上達部にも殿上人にも、あまたありき。
御修法(みしゆほふ)ども数(かず)知(し)らず行(おこ)なはる。やんごとなき顕密の高僧も、かかる時(とき)こそ頼(たの)もしきわざならめ。おの>心を致(いた)して仕(つか)うまつる。御身づからもいみじう念ぜさせ給(たま)ふ。日吉(ひよし)の社に忍(しの)びて詣(まう)でさせ給(たま)へり。大宮の御前に、夜もすがら御念誦(ねんず)し給ひて、御心のうちに、いかめしき願ども立(た)てさせ給(たま)ふ。夜すこし深(ふ)けしづまりて、御社(みやしろ)すごく、燈篭(とうろ)の光(ひかり)かすかなる程(ほど)に、をさなき童(わらは)の臥(ふ)したりけるが、にはかにおびえあがりて、院の御前にただまゐりに走(はし)りまゐりて、託宣(たくせん)しけり。「かたじけなくもかく渡(わた)りおはしまして、愁(うれ)へ給(たま)へば、聞(き)き過(す)ごしがたくは侍れど、一とせの御輿振(みこしぶ)りの時(とき)、情(なさ)けなく防(ふせ)がせ給ひしかば、衆徒おのれを恨(うら)みて、陣のほとりにふり捨(す)て侍(はべ)りしかば、空(むな)しく馬牛のひづめにかかりし事は、いまに怨(うら)めしく思(おも)ひ給(たま)ふるにより、
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この度(たび)の御方人(かたうど)は、え仕(つか)うまつり侍(はべ)るまじ。七社の神殿を、金(こがね)銀(しろがね)にみがきなさんと承(うけたまは)るも、もはら受(う)け侍らぬなり」とののしりて、息(いき)も絶(た)えぬるさまに臥(ふ)しぬ。きこしめす御心地(ここち)、物に似(に)ずあさましう思(おぼ)さるるに、ただ御涙(なみだ)のみぞ出(い)でくる。過(すぎ)にしかた悔(くや)しう取(と)り返(かへ)さまほし。さま>”おこたりかしこまり申(まう)させ給(たま)ふ。山の御輿(こし)防(ふせ)き奉(たてまつ)りけん事、かならずしも身づから思(おぼ)しよるにもあらざりけめど、「責(せ)め一人に」といふらん事にやと、あぢきなし。中院は、あかで位をすべり給ひしより、言(こと)に出(い)でてこそ物し給(たま)はねど、世のいと心やましきままに、かやうの御騒(さわ)ぎにも、ことにまじらせ給(たま)はざ(ン)めり。新院は、おなじ御心にて、よろづ軍(いくさ)の事などもおきておほせられたり。
いつの年(とし)よりも五月雨(さみだれ)晴(は)れ間(ま)なくて、富士川(ふじがは)・天龍など、えもいはずみなぎりさわぎて、いかなる龍馬(りゆうめ)もうち渡(わた)しがたければ、攻(せ)め上(のぼ)る武者(むしや)どもも、あやしくなやめり。かかれども、遂(つひ)に都に近(ちか)づく由(よし)、聞(きこ)ゆれば、君の御武者も出(い)でたつ。其勢(いきほ)ひ、六万余騎とかや。宇治(うぢ)・勢多(せた)へ分(わ)かちつかはす。世の中響(ひび)きののしるさま、言(こと)の葉も及(およ)ばずまねびがたし。あるは、深(ふか)き山へ逃(に)げこもり、遠(とほ)き世界(せかい)に落(お)ちくだり、すべて
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安(やす)げなく騒(さわ)ぎみちたり。「いかがあらん」と君も御心乱(みだ)れて思(おぼ)しまどふ。かねては猛(たけ)く見えし人々も、まことのきはになりぬれば、いと心あわただしく、色を失(うしな)ひたるさまども、頼(たの)もしげなし。六月十日あまりにや、いくばくの戦(たたか)ひだになくて、遂(つひ)にみかたの軍(いくさ)やぶれぬ。荒磯(あらいそ)に高潮(たかしほ)などのさし来(く)るやうにて、泰時と時房(ときふさ)と、乱(みだ)れ入(い)りぬれば、いはんかたなくあきれて、上下ただ物にぞあたりまどふ。
東(あづま)よりいひおこするままに、かの二人(ふたり)の大将軍はからひおきてつつ、保元の例(ためし)にや、院の上、都の外(ほか)に移(うつ)し奉(たてまつ)るべしと聞(きこ)ゆれば、女院・宮々、所々に思(おぼ)しまどふ事さらなり。本院は隠岐(おき)の国におはしますべければ、先(まづ)鳥羽殿へ、網代車(あじろぐるま)のあやしげなるにて、六月六日入(い)らせ給(たま)ふ。今日(けふ)を限(かぎ)りの御ありき、あさましうあはれなり。「物にもがなや」と思(おぼ)さるるもかひなし。その日やがて御髪(みぐし)おろす。御年(とし)四十に一二やあまらせ給(たま)ふらん。まだいとほしかるべき御程(ほど)なり。信実(のぶざね)の朝臣召(め)して、御姿(すがた)うつしかかせらる。七条院へ奉(たてまつ)らせ給(たま)はんとなり。かくて、おなじき十三日に御船(ふね)に奉(たてまつ)りて、給(たま)ふ。遙(はる)かなる浪路をしのぎおはします御心地(ここち)、
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この世のおなじ御身ともおぼされず。いみじう、いかなりける代々の報(むく)ひにかとうらめし。
新院も佐渡国に移(うつ)らせ給(たま)ふ。まことや七月九日、御門(みかど)をもおろし奉(たてまつ)りき。この卯月かとよ、御譲位とてめでたかりしに、夢のやうなり。七十余日にて降(お)り給(たま)へるためしも、これや初(はじ)めなるらん。もろこしにぞ、四十五日とかや位(くらゐ)におはする例(れい)ありけるとぞ、唐(から)の書(ふみ)読(よ)みし人のいひし心地(ここち)する。それもかやうの乱(みだ)れやありけん。さて上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)、それより下(しも)はた残(のこ)るなく、この事にふれにし類(たぐひ)は、重(おも)く軽(かろ)く罪(つみ)にあたるさま、いみじげなり。
中の院は初(はじ)めより知(しろ)しめさぬ事なれば、東(あづま)にもとがめ申(まう)さねど、父(ちち)の院、遙(はる)かにうつらせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらん事、いと恐(おそ)れありと思(おぼ)されて、御心もて、その年閏十月十日、土佐国の幡多(はた)といふ所にわたらせ給ひぬ。去年(こぞ)の二月(きさらぎ)ばかりにや、若宮(わかみや)いでき給(たま)へり。承明門院の御兄(せうと)に、通宗(みちむね)の宰相中将とて、若(わか)くて失(う)せ給ひし人の女(むすめ)の御腹(おんはら)なり。やがて、かの宰相の弟(おとうと)に、通方といふ人の家にとどめ奉(たてまつ)り給ひて、近(ちか)くさぶらひける北面の下臈(げらふ)
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一人、召次(めしつぎ)などばかりぞ、御供(とも)仕(つかうまつ)りける。いとあやしき御手輿(たごし)にて下(くだ)らせ給(たま)ふ。道(みち)すがら雪かきくらし風吹(ふ)き荒(あ)れふぶきして、来(こ)しかた行(ゆ)くさきも見えず、いと堪(た)へがたきに、御袖もいたく氷(こほ)りて、わりなき事多(おほ)かるに、
うき世にはかかれとてこそ生(む)まれけめことわり知(し)らぬ我涙かな
せめて近(ちか)き程(ほど)にと、東(あづま)より奏(そう)したりければ、後には阿波(あは)の国に移(うつ)らせ給ひにき。
さても、このたび世(よ)のありさま、げにいとうたて口惜(くちを)しきわざなり。あるは、父の王を失(うしな)ふためしだに、一万八千人までありけりとこそ、仏も説(と)き給(たま)ひためれ。まして、世下(くだ)りて後、唐土(もろこし)にも日の本(もと)にも、国を争(あらそ)ひて戦(たたか)ひをなす事、数(かぞ)へ尽(つ)くすべからず。それもみな、一ふし二ふしのよせはありけむ。もしは、すぢ異(こと)なる大臣、さらでも、おほやけともなるべききざみの、すこしの違(たが)ひめに、世(よ)に隔(へだ)たりて、その怨(うら)みの末(すゑ)などより、事起(お)こるなりけり。今(いま)のやうに、むげの民と争(あらそ)ひて、君の亡(ほろ)び給(たま)へるためし、この国には、いとあまたも聞(きこ)えざ(ン)めり。されば、承平の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)
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の純友(すみとも)、康和の義親、いづれもみな猛(たけ)かりけれど、宣旨(せんじ)には勝(か)たざりき。保元に崇徳院の世(よ)を乱(みだ)り給ひしだに、故院〈 後白河(ごしらかは) 〉の、御位にてうち勝(か)ち給ひしかば、天照大神(あまてるおほむかみ)も、御裳濯川(みもすそがは)のおなじ流(なが)れと申(まう)しながら、猶、時(とき)の御門をまもり給(たま)はする事は、強(つよ)きな(ン)めりとぞ、古(ふる)き人々も聞(きこ)えし。又、信頼の衛門督(ゑもんのかみ)、おほけなく二条院をおびやかし奉(たてまつ)りしも、遂(つひ)に、空(むな)しきかばねをぞ、道のほとりに捨(す)てられける。かかれば、ふりにし事を思(おも)ふにも、猶さりとも、いかでか上皇今上あまたおはします王城の、いたづらに亡(ほろ)ぶるやうやはあらんと、頼(たの)もしくこそ覚(おぼ)えしに、かくいとあやなきわざの出(い)で来(き)ぬるは、この世ひとつの事にもあらざらめども、迷(まよ)ひの愚(おろ)かなる前(まへ)には、猶(なほ)いとあやしかりし。
四にて位につき給ひて、十五年おはしましき。降(お)り給ひて後も、土佐院十二年・佐渡院十一年、猶(なほ)天(あめ)の下は同(おな)じ事なりしかば、すべて卅八年が程(ほど)、この国のあるじとして、万機の政(まつりごと)を御心ひとつにをさめ、百(もも)の官(つかさ)を従(したが)へ給(たま)へりしその程(ほど)、吹(ふく)風の草木をなびかすよりも優(まさ)れる御ありさまにて、遠(とほ)きをあはれび、近(ちか)きを撫(な)で給(たま)ふ御めぐみ、雨のあしよりもしげければ、津の国(くに)のこやのひま
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なきまつり事をきこしめすにも、難波(なには)の葦(あし)の乱(みだ)れざらん事をおぼしき。藐姑射(はこや)の山の峯の松も、やう>枝をつらねて、千世に八千世をかさね、霞の洞(ほら)の御すまひ、いく春をへても、空行(ゆ)く月日の限(かぎ)り知(し)らずのどけくおはしましぬべかりける世(よ)を、あり>て、よしなき一ふしに、今(いま)はかく花の都をさへたち別(わか)れ、おのがちり>”にさすらへ、磯(いそ)のとま屋(や)に軒(のき)を並(なら)べて、おのづからこととふ者(もの)とては、浦(うら)に釣(つり)するあま小舟(をぶね)、塩(しほ)焼(や)く煙(けぶり)のなびくかたをも、我ふる里(さと)のしるべかとばかり、ながめ過ぐさせ給(たま)ふ御住居(すまひ)どもは、それまでと月日を限(かぎ)りたらんだに、明日(あす)知(し)らぬ世(よ)のうしろめたさに、いと心細(ぼそ)かるべし。まいて、いつをはてとか、めぐりあふべき限(かぎ)りだになく、雲の波(なみ)煙(けぶり)の波のいくへとも知(し)らぬさかひに、代をつくし給(たま)ふべき御さまども、口惜(くちを)しともおろか也。このおはします所は、人離(はな)れ里遠(とほ)き島の中なり。海づらよりは少(すこ)しひき入(い)りて、山かげにかたそへて、大(おほ)きやかなる巌(いはほ)のそばだてるをたよりにて、松の柱(はしら)に葦(あし)ふける廊(らう)など、気色(けしき)ばかり事そぎたり。まことに、「しばの庵(いほり)のただしばし」と、かりそめに見えたる御やどりなれど、さるかたになまめかしくゆゑづきてしなさせ給(たま)へり。水無瀬(みなせ)殿おぼし
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出(い)づるも夢のやうになん。はる>”と見(み)やらるる海の眺望(てうばう)、二千里の外(ほか)も残(のこ)りなき心地(ここち)する、いまさらめきたり。潮風(しほかぜ)のいとこちたく吹(ふ)き来(く)るをきこしめして、
我こそは新島(にひじま)もりよ隠岐(おき)の海の荒(あら)き浪かぜ心して吹(ふ)け
おなじ世に又すみの江の月や見(み)んけふこそよそに隠岐(おき)の島もり
年もかへりぬ。所々浦(うら)々、あはれなる事をのみ思(おぼ)しなげく。佐渡院、明(あけ)くれ御行(おこ)なひをのみし給ひつつ、猶(なほ)、さりともとおぼさる。隠岐(おき)には、浦よりをちのはる>”と霞(かす)みわたれる空をながめ入(い)りて、過(す)ぎにしかた、かきつくし思(おも)ほし出(い)づるに、行方(ゆくへ)なき御涙(なみだ)のみぞとどまらぬ。
うらやましながき日影の春にあひて潮(しほ)汲(く)むあまも袖やほすらん
夏になりて、かやぶきの軒端(のきば)に、五月雨のしづくいと所せきも、御覧(ごらん)じなれぬ御心地(ここち)に、さまかはりてめづらしくおぼさる。
あやめ吹(ふく)かやが軒端(のきば)に風過(す)ぎてしどろに落(お)つる村雨の露
初秋風(かぜ)のたちて、世の中いとど物悲(がな)しく露けさまさるに、いはんかたなくおぼしみだる。
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ふる里を別(わか)れぢにおふるくずの葉の秋はくれども帰る世(よ)もなし
たとしへなくながめしをれさせ給(たま)へる夕暮(ぐ)れに、沖(おき)のかたに、いと小(ちひ)さき木の葉の浮(う)かべると見えて漕(こ)ぎくるを、あまの釣舟(つりぶね)かと御覧(ごらん)ずる程(ほど)に、都(みやこ)よりの御消息(せうそこ)なりけり。すみぞめの御衣、夜の御ふすまなど、都の夜寒(よさむ)に思(おも)ひやり聞(きこ)えさせ給ひて、七条院より参(まゐ)れる御文(ふみ)、ひきあけさせ給(たま)ふより、いといみじく、御胸(むね)もせきあぐる心地(ここち)すれば、ややためらひて見給(たま)ふに、「あさましくも、かくて月日経(へ)にける事。今日(けふ)明日(あす)とも知(し)らぬ命(いのち)の中に、いま一度(ひとたび)、いかで見奉りてしがな。かくながらは、死出(しで)の山路も越(こ)えやるべうも侍らでなん」など、いと多(おほ)く乱(みだ)れ書(か)き給(たま)へるを、御顔(かほ)におしあてて、
たらちねの消(きえ)やらで待(ま)つ露の身を風よりさきにいかでとはまし
八百(やほ)よろづ神もあはれめたらちねの我待(ま)ちえんとたえぬ玉のを
初雁(はつかり)のつばさにつけつつ、ここかしこよりあはれなる御消息(せうそこ)のみつねに奉(たてまつ)るを御覧ずるにつけても、あさましういみじき御涙のもよほしなり。家隆の二位は、新古今の撰者にも召(め)し加(くは)へられ、おほかた、歌の道につけて、むつまじく召(め)し使(つか)ひし人
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なれば、夜ひる恋(こ)ひ聞(きこ)ゆる事かぎりなし。かの伊勢より須磨(すま)に参(まゐ)りけんも、かくやとおぼゆるまで、巻(ま)きかさねて書(か)きつらねまゐらせたる、「和歌所の昔(むかし)のおもかげ、かず>忘(わす)れがたう」など申(まう)して、つらき命(いのち)の今日(けふ)まで侍(はべ)る事の恨(うら)めしき由(よし)など、えもいはずあはれ多くて、
ねざめして聞(き)かぬを聞(き)きてわびしきは荒磯浪(あらいそなみ)の暁のこゑ
とあるを、法皇もいみじと思(おぼ)して、御袖いたくしぼらせ給(たま)ふ。
浪間なき隠岐(おき)の小島のはまびさし久しくなりぬ都へだてて
木枯(こがらし)の隠岐(おき)のそま山吹しをり荒(あら)くしをれて物おもふ頃(ころ)
をり>詠(よ)ませ給(たま)へる御歌どもを書(か)き集(あつ)めて、修明門院へ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。其中に、
水無瀬山(みなせやま)我がふる里(さと)は荒(あ)れぬらむまがきは野(の)らと人もかよはで
かざし折(を)る人もあらばや事とはん隠岐(おき)の深山(みやま)に杉(すぎ)は見(み)ゆれど
限(かぎ)りあればさても堪(た)へける身のうさよ民のわら屋に軒をならべて
かやうのたぐひ、すべて多(おほ)く聞(きこ)ゆれど、さのみは年のつもりにえなん。いま又思(おも)ひ
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出(い)でば、ついで求(もと)めてとて。



校註 増鏡

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第三 藤衣(ふぢごろも)
其の頃(ころ)、いと数(かず)まへられ給(たま)はぬ古宮(ふるみや)おはしけり。守貞(もりさだ)の親王(しんわう)とぞ聞(きこ)えける。高倉院(たかくらのゐん)第三の御子也。隠岐(おき)の法皇の御兄(このかみ)なれば、思(おも)へばやむごとなけれど、昔(むかし)、後白河(ごしらかは)の法皇、安徳院の筑紫へおはしまして後に、見奉らせ給ひける御孫の宮たちえりの時、泣(な)き給(たま)ひしによりて、位にも即(つ)かせ給(たま)はざりしかば、世(よ)の中(なか)物怨(うら)めしきやうにて過(す)ごし給(たま)ふ。さびしく人目(ひとめ)まれなれば、年を経(へ)て荒(あ)れまさりつつ、草深(ふか)く八重むぐらのみさしかためたる宮の中に、いと心細(ぼそ)くながめおはするに、建保の頃、宮(みや)の内(うち)の女房の夢に、冠(かうぶり)したる物あまた参(まゐ)りて、「剣璽(けんじ)を入(い)れ奉(たてまつ)るべきに、各(おのおの)用意(ようい)して候(さぶら)はれよ」といふと見てければ、いと怪(あや)しう
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覚(おぼ)えて、宮に語(かた)り聞(きこ)えけれど、「いかでかさ程(ほど)の事あらん」と、思(おぼ)しもよらで、遂(つひ)に御髪(みぐし)をさへおろし給(たま)ひて、此(こ)の世の御望(のぞ)みは絶(た)ち果てぬる心地(ここち)して物し給(たま)へるに、此(こ)の乱(みだ)れ出(い)で来(き)て、一院の御族(ぞう)は、皆(みな)様々(さまざま)にさすらへ給(たま)ひぬれば、おのづから小(ちひ)さきなど残(のこ)り給(たま)へるも、世にさし放(はな)たれて、さりぬべき君もおはしまさぬにより、東(あづま)よりのおきてにて、彼(か)の入道の親王(みこ)の御子〈 後堀河院の御事 〉の、十になり給ふを、承久三年七月九日、にはかに御位に即(つ)け奉(たてまつ)る。父(ちち)の宮をば太上天皇になし奉(たてまつ)りて、法皇と聞(きこ)ゆ。いとめでたく、横(よこ)さまの御幸(さいは)ひおはしける宮なり。
孫王(そんわう)にて位に即(つ)かせ給へる例(ためし)、光仁天皇より後は絶(た)えて久(ひさ)しかりつるに、珍(めづら)しくめでたし。其の十二月(しはす)一日に御即位(そくゐ)、明くる年(とし)貞応元年正月三日、御元服し給ふ。御諱(いみな)茂仁(もちひと)と申(まう)す。御かたちもなまめかしくあてにぞおはします。御母、基家の中納言の女、北白河院(きたしらかはのゐん)と申しき。家実(いへざね)の大臣(おとど)、又摂政になり返らせ給(たま)ひて、万(よろづ)おきて宣(のたま)ふも、様々(さまざま)に引き返(かへ)したる世なりかし。又の年(とし)五月の頃、法皇かくれさせ給(たま)ひぬれば、天下(てんか)皆(みな)黒(くろ)み渡(わた)りぬ。上(うへ)
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も御服(ぶく)奉(たてまつ)る。きびはなる御程(ほど)に、いといみじうあはれなる御事な(ン)めり。
前(さき)の御門(みかど)は、四にて廃(はい)せられ給(たま)ひて、尊号などの沙汰(さた)だに無し。御母后東一条院も、山里(やまざと)の御住居(すまひ)にて、いと心細(ぼそ)くあはれなる世(よ)を、つきせず思(おぼ)し歎(なげ)く。此(こ)の宮は故摂政殿後京極(ごきやうごく)良経の姫君(ひめぎみ)にて物し給(たま)へば、歌の道(みち)にもいと賢(かしこ)う渡(わた)らせ給(たま)へど、大方(おほかた)奥(おく)深(ふか)うしめやかに重(おも)き御本性(ごほんじやう)にて、はかなき事をも、たやすくもらさせ給(たま)はず。御琴なども、限(かぎ)りなき音を引きとり給(たま)へれど、をさをさかきたてさせ給ふ世(よ)もなく、あまりなるまで埋(う)もれたる御もてなしを、佐渡の院も、限(かぎ)りなき御志の中に、飽(あ)かずなん思(おも)ひ聞(きこ)えさせ給(たま)ひける。彼(か)の遠(とほ)き御別(わか)れの後は、いみじう物をのみ思(おぼ)しくだけつつ、いよいよ沈(しづ)み臥(ふ)しておはしますに、古(ふる)く仕(つか)うまつりける女房の、里に篭(こも)り居(ゐ)たりけるもとより、あはれなる御消息(せうそこ)を聞(きこ)えて、十月一日の頃(ころ)、御衣がへの御衣(ぞ)を奉(たてまつ)りたりける御返事(かへりごと)に、
思(おも)ひ出(い)づるころもはかなし我も人も見(み)しにはあらずたどらるる世(よ)に
又、御手習(なら)ひのついでに、からうじて洩(も)れけるにや、
消(き)えかぬる命ぞつらき同(おな)じ世にあるも頼(たの)みはかけぬ契(ちぎり)を
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さこそは、げに思(おぼ)し乱(みだ)れけめ。おろかなる契(ちぎ)りだに、かかる筋(すぢ)のあはれは浅(あさ)くやは侍(はべ)る。いかばかりの御心の中にて過し給(たま)ふらんと、いと忝(かたじけ)なし。
はかなく明(あ)け暮(く)れて、貞応(ぢやうおう)もうち過(す)ぎ、元仁・嘉禄・安貞(あんてい)などいふ年も程(ほど)なく変(か)はりて、寛喜元年になりぬ。此(こ)の程(ほど)は光明峰寺殿(くわうみやうぶじどの)道家又関白にておはす。此(こ)の御娘(むすめ)女御に参(まゐ)り給ふ。世の中めでたく花(はな)やかなり。これより先(さき)に、三条の太政大臣公房の姫君(ひめぎみ)参(まゐ)り給(たま)ひて后だちあり。いみじう時めき給(たま)ひしを、おしのけて、前の殿〔家実(いへざね)〕の御女、未(いま)だ幼(をさな)くておはする、参(まゐ)り給(たま)ひにき。これはいたく御覚(おぼ)えもなくて、三条の后(きさい)の宮(みや)、浄土寺とかやに引き篭(こも)りて渡(わた)らせ給ふに、御消息(せうそこ)のみ日に千度(せんたび)といふばかり通(かよ)ひなどして、世(よ)の中(なか)すさまじく思(おぼ)されながら、さすがに后だちはありつるを、父(ちち)の殿摂〓(せうろく)変(か)はり給(たま)ひて、今(いま)の峰殿〈 道家、東山殿と申しき 〉、なり返(かへ)り給(たま)ひぬれば、又此(こ)の姫君(ひめぎみ)入内ありて、もとの中宮はまか(ン)で給(たま)ひぬ。珍(めづら)しきが参(まゐ)り給(たま)へばとて、などかかうしもあながちならん。唐土(もろこし)には、三千人なども候(さぶら)ひ給(たま)ひけるとこそ、伝(つた)へ聞(き)くにも、しなじなしからぬ心地(ここち)すれど、いかなるにかあらん。後には各(おのおの)院号(ゐんがう)ありて、三条殿(さんでうどの)の后は安喜門院、中の度(たび)参り給ひ
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し殿の女御は、鷹司院とぞ聞(きこ)えける。今(いま)の女御もやがて后だちあり。藤壺(ふぢつぼ)わたり今(いま)めかしく住(す)みなし給(たま)へり。御はらからの姫君(ひめぎみ)も、かたちよくおはするに、引きこめ難(がた)しとて、内侍のかみになし奉(たてまつ)り給ふ。
同(おな)じき三年七月五日、関白をば御太郎教実の大臣(おとど)に譲(ゆづ)り聞(きこ)え給(たま)ひて、我が御身は大殿(おほとの)とて、后(きさい)の宮(みや)の御親(おや)なれば、思(おも)ひなしもやん事なきに、御子どもさへいみじう栄(さか)え給ふ様(さま)、例(ためし)なき程(ほど)なり。東(あづま)の将軍、山(やま)の座主、三井寺(みゐでら)の長吏、山階寺(やましなでら)の別当、仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)、皆(みな)此(こ)の殿(との)の君達(きんだち)にておはすれば、すべて、天下(てんか)はさながらまじる人少(すく)なう見えたり。いとよそほしく重々(おもおも)しげにて、内の御宿直所(とのゐどころ)などに、常(つね)はうちとけ候(さぶら)ひ給(たま)へば、関白殿、次々(つぎつぎ)の御子どもも大臣などにて、立(た)ち変(か)はり御前に絶(た)えず物し給(たま)ひて、世の政事(まつりごと)など聞(きこ)え給ふ。北の方(かた)は公経の大臣(おとど)の御女なれば、まして世の重(おも)く靡(なび)き奉(たてまつ)る様(さま)、いとやんごとなし。
誠(まこと)や、其の年十一月十一日、阿波(あは)の院かくれさせ給(たま)ひぬ。いとあはれにはかなき御事かな。例(れい)ならず思(おぼ)されければ、御髪(みぐし)おろさせ給(たま)ひにけり。ここら物をのみ思(おぼ)して、今年は三十七にぞならせ給(たま)ひける。今(いま)一度(ひとたび)、都(みやこ)をも御覧(ごらん)ぜ
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ずなりぬる、いみじう悲(かな)しきを、隠岐(おき)の小島(こじま)にも聞(き)こしめし歎(なげ)く。承明門院(しようめいもんゐん)は、様々(さまざま)のうき事を見尽(つく)して、猶(なほ)ながらふる命(いのち)のうとましきに、又かく、同(おな)じ世をだに去(さ)り給(たま)ひぬる御歎(なげ)きの、いはん方(かた)なさに、「など先(さき)立(だ)たぬ」と、口惜(くちを)しう思(おぼ)しこがるる様(さま)、ことわりにも過(す)ぎたり。かしこにて召使(めしつか)ひける御調度(てうど)、何(なに)くれ、はかなき御手箱(てばこ)やうの物を、都(みやこ)へ人の参(まゐ)らせたりける中に、たまさかに通(かよ)ひける隠岐(おき)よりの御文、女院の御消息(せうそこ)などを、一(ひと)つにとりしたためられたる、いみじうあはれにて、御目(め)もきりふたがる心地(ここち)し給ふ。家隆(いへたか)の二位の女、小宰相と聞(きこ)えしは、おのづからけぢかく御覧(ごらん)じなれけるにや、人よりことに思(おも)ひ沈(しづ)みて、御服(ぶく)など黒(くろ)う染(そ)めけり。
うしと見(み)しありし別(わかれ)は藤衣やがて着(き)るべき門出(かどで)なりけり
今年もはかなく暮れて、貞永元年に成りぬ。定家(ていか)の中納言承(うけたまは)りて、撰集の沙汰(さた)ありつるを、此(こ)の程(ほど)御門(みかど)降(お)りさせ給ふべき由(よし)聞(きこ)ゆればにや、いととく十月二日奏(そう)せられける。一年(ひととせ)の内(うち)に奏(そう)せられたる、いとありがたくこそ。新勅撰と聞(きこ)ゆ。「元久に新古今出(い)で来(き)て後(のち)、程(ほど)なく世の中も引きかへぬるに、又新
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の字うち続(つづ)きたる、心よからぬ事」など、ささめく人も侍(はべ)りけるとかや。
さて同(おな)じき四日、降(お)り居(ゐ)させ給ふ。御悩(なや)み重(おも)きによりて也けり。去年(こぞ)の二月、后(きさい)の宮(みや)の御腹(おんはら)に、一の御子出(い)で来(き)給(たま)へりしかば、やがて太子に立(た)たせ給(たま)ひしぞかし。例(れい)の人の口(くち)さがなさは、彼(か)の承久の廃帝(はいたい)の、生(うま)れさせ給ふとひとしく坊に居(ゐ)給(たま)へりしは、いと不用(ふよう)なりしを」などいふめり。上(うへ)は降(お)りさせ給(たま)ひて、其の七日やがて尊号あり。御悩(なや)み猶(なほ)怠(おこた)らず。大方、世(よ)も静(しづ)かならず。此(こ)の三年(みとせ)ばかりは、天変しきり地震(なゐ)ふりなどして、さとししげく、御慎(つつし)みおもきやうなれば、いかがおはしまさむと、御心ども騒(さわ)ぐべし。今上は二歳にぞならせ給(たま)ふ。あさましき程(ほど)の御いはけなさにて、いつくしき十善(じふぜん)の主(あるじ)に定(さだ)まり給ふ事、いとゆゆしきまで、前(さき)の世ゆかしき御有様(ありさま)なり。昔(むかし)、近衛院三歳、六条院二歳にて、位につき給(たま)へりし、いづれもいと心ゆかぬ例(ためし)なり。閑院殿の清涼殿(せいりやうでん)にて、まづ御袴(はかま)奉(たてまつ)る。十二月五日、御即位(そくゐ)はことなく果(は)てぬれば、めでたくて年も変(か)はりぬ。
中宮も御物(もの)の怪(け)に悩(なや)ませ給(たま)ひて、常(つね)はあつしうおはしますを、院はいとど晴(は)れ間(ま)なく
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思(おぼ)し歎(なげ)く。卯月の頃、年号改(あらた)まる。天福といふなるべし。其の同(おな)じ頃、中宮も位去(さ)り給(たま)ひて、藻璧門院(さうへきもんゐん)とぞ聞(きこ)ゆなる。今年(ことし)も又例(れい)ならず悩(なや)ませ給(たま)へば、めでたき御事の数(かず)そはせ給ふべきにこそと、世の中めでたく聞ゆ。祭(まつ)り祓(はら)へ、何(なに)くれとおびたたしく、まだきよりののしる。まして其の程(ほど)近(ちか)くなりては、天(あめ)の下(した)やすき空なく、山々寺々社々、御祈(いの)りひびき騒(さわ)げども、御物(もの)のけこはくて、いみじうあさまし。遂(つひ)に、九月十八日に、かくれさせ給(たま)ひぬ。其の程(ほど)のいみじさ、推(お)し量(はか)りぬべし。今年(ことし)二十五にならせ給ふ。若(わか)く清(きよ)らに美(うつく)しげにて、盛(さか)りなる花の御姿(すがた)、時の間(ま)の露と消(き)え果て給(たま)ひぬる、いはん方(かた)なし。殿・上(うへ)思(おぼ)し惑(まど)ふ様(さま)、悲(かな)しともいへば更(さら)なり。院に候(さぶら)ふ民部卿の典侍(すけ)と聞(きこ)ゆるは、定家(ていか)の中納言の娘(むすめ)なり。此(こ)の宮の御方にも、け近(ぢか)う仕(つか)うまつる人なりけり。限(かぎ)りなく思(おも)ひ沈(しづ)みて、頭(かしら)おろしぬ。いみじうあはれなる事なり。人の問(と)へる御返事(かへりごと)に、
悲(かな)しさはうき世のとがとそむけども只(ただ)恋しさのなぐさめぞなき
当代(たうだい)の御母(はは)后にておはしつれば、天下(てんか)皆(みな)一(ひと)つ墨染(すみぞ)めにやつれぬ。此(こ)の御歎(なげ)き
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に、いよいよ院は沈(しづ)みまさらせ給(たま)ひて、うち絶(た)えて御湯(ゆ)などをだに御覧(ごらん)じいるる事なくて、月日(つきひ)つもらせ給(たま)へば、御修法どもいとこちたく、山々寺々残(のこ)りなく勤(つと)めののしる。医師(くすし)・陰陽師(おんやうじ)、祭(まつ)り・祓(はら)へなど、天(あめ)の下(した)騒(さわ)ぎ満(み)ちたり。又年号変(か)はりぬ。文暦元年といふ。承久の廃帝(はいたい)、十七になり給(たま)へるも、五月二十日に失(う)せ給(たま)ひぬ。いと若(わか)き御程(ほど)に、いといとほしうあたらしき御事なりかし。隠岐(おき)にも、うち続(つづ)きあはれなる事どもを、聞(き)こしめし歎(なげ)くべし。佐渡には、まして心うくあさましと思(おぼ)さる。此(こ)の御さしつぎの宮、猶(なほ)おはしますは、修明門院養(やしな)ひ奉(たてまつ)らせ給ふめり。
かくいひしろふ程(ほど)に、院の御悩(なや)み日々に重(おも)くならせ給(たま)ひて、八月六日、いとあさましうならせ給(たま)ひぬ。世のおもしにておはしますべき事の、かくあへなき御有様(おんありさま)、口惜(くちを)しなど聞(きこ)ゆるもなのめなり。大方(おほかた)、御本性(ごほんじやう)も、なごやかにらうらうじく、御かたちもまほに美(うつく)しうととのほりて、二十(はたち)に三つばかりや余(あま)らせ給(たま)ふらん。若(わか)う盛(さか)りの御程(ほど)に、御才(ざえ)なども、やまと・もろこしたどたどしからず、何事(なにごと)につけても、いとあたらしうおはしませば、世の人の惜(を)しみ聞(きこ)ゆる様(さま)限(かぎ)り無し。只(ただ)くれ惑(まど)へる心地(ここち)どもなり。後堀川院とぞ申(まう)しける。故宮の御果て
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だに過(す)ぎず、又とり重(かさ)ねて、諒闇(りやうあん)の三年(みとせ)までにならん事を、いとまがまがしくゆゆしと、皆人(みなひと)思(おも)ふべし。御契(ちぎ)りの程(ほど)のあはれさも、いとありがたくなむ。御禊(ごけい)・大嘗会(だいじやうゑ)なども、いとど延(の)びぬ。只(ただ)ここもかしこも、高(たか)きも下(くだ)れるも、都も遠(とほ)きも、島々(しまじま)も、涙(なみだ)にうき沈(しづ)みてぞ過し給(たま)ひける。
うち続(つづ)き、かくのみ世の中(なか)騒(さわ)がしく、天変もしきり、いとあはたたしきやうなれば、又年号変(か)はりて、嘉禎(かてい)元年といふ。誠(まこと)や、三月の末(すゑ)つかたより、〔洞院(とうゐん)の〕摂政殿〔教実〕重(おも)くわづらひ給ふ。故院の御位の程(ほど)より、大殿(おほとの)の、御譲(ゆづ)りにて、関白と聞(きこ)えしが、御門幼(をさな)くおはしませば、此(こ)の頃は摂政殿(どの)と申(まう)すなるべし。御かたちも御心ばへもめでたくおはしましつるに、いとあへなく失(う)せ給(たま)ひぬれば、大殿(おほとの)の御歎(なげ)きたとへん方(かた)無し。二十六にぞなり給(たま)ひける。いと悲(かな)しくし給(たま)ふ姫君(ひめぎみ)・若君(わかぎみ)など物し給ふをも、今(いま)は峰殿のみひとへにはぐくみ聞(きこ)え給(たま)ひけり。摂政にも、大殿(おほとの)立(た)ちかへり成(な)り給(たま)ひぬ。かくて三度(みたび)政事(まつりごと)ををさめ給(たま)ひぬるにや。北政所の御父(ちち)は、公経の大臣(おとど)なれば、彼(か)の殿と一(ひと)つにて、世(よ)は弥(いよいよ)御心のままなるべし。今年ぞ御色ども改(あらた)まりぬれば、冬になりて御禊・大嘗会(だいじやうゑ)行(おこな)はる。
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様々(さまざま)めでたくもあはれにも色々(いろいろ)なる都の事どもを、ほのかに伝(つた)へ聞(き)こしめして、隠岐(おき)にはあさましの年(とし)のつもりやと、御齢(おんよはひ)に添(そ)へても、尽(つ)きせぬ御歎(なげ)きぐさのみしげりそふ慰(なぐさ)めには、思(おぼ)しなれにし事とて、敷島(しきしま)の道(みち)にのみぞ御心をのべける。都(みやこ)へも、たよりにつけつつ題を遣(つか)はし、歌を召(め)せば、あはれに忘(わす)れがたく恋ひ聞(きこ)ゆる昔(むかし)の人々、我(われ)も我(われ)もと奉(たてまつ)れるを、つれづれに思(おぼ)さるるあまりに、自(みづか)ら判じて御覧(ごらん)ぜられにけり。家隆(いへたか)の二位も、今(いま)まで生(い)ける思(おも)ひ出(い)でに、これをだにとあはれに忝(かたじけ)なくて、こと人々の歌をも、ここよりぞとり集(あつ)めて参(まゐ)らせける。昔(むかし)の秀能は、ありし乱(みだ)れの後(のち)、頭(かしら)おろして深(ふか)く篭(こも)り居(ゐ)たり。如願(によぐわん)とぞいひける。それも此(こ)の度(たび)の御歌合に召(め)せば、今更(いまさら)に、其のかみの事、さこそは思(おも)ひ出(い)づらめ。例(れい)のかずかずはいかでか。只(ただ)片端(かたはし)をだにとて、左、御製(ぎよせい)、
人心うつり果てぬる花の色(いろ)に昔(むかし)ながらの山の名もうし
右、家隆(いへたか)の二位、
なぞもかく思(おも)ひそめけん桜花山とし高(たか)く成(な)りはつるまで
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秀能、
わたの原八十島(やそしま)かけてしるべせよ遙(はる)かに通(かよ)ふおきの釣り船
山家といふ題にて、また、左、御製(ぎよせい)、
軒端(のきば)あれて誰(たれ)か水無瀬(みなせ)の宿の月すみこしままの色やさびしき
右、家隆(いへたか)、
さびしさはまだ見(み)ぬ島の山里(やまざと)を思(おも)ひやるにもすむ心地(ここち)して
法皇御自(みづか)ら判の言葉(ことば)を書(か)かせ給(たま)へるに、「まだ見(み)ぬ島を思(おも)ひやらんよりは、年久(ひさ)しく住(す)みて思(おも)ひ出(い)でんは、今(いま)少(すこ)し志深(ふか)くや」とて、我が御歌を勝とつけさせ給(たま)へる、いとあはれにやさしき御事な(ン)めり。かやうの〔事、〕はかなし事、又は阿弥陀仏(あみだぼとけ)の御勤(つと)めなどに、まぎらはしてぞおはします。また、御手習のついでに、
我ながらうとみ果てぬる身の上(うへ)に涙ばかりぞ面(おも)がはりせぬ。
故郷(ふるさと)は入(い)りぬる磯(いそ)の草よ只(ただ)夕潮(ゆふしほ)満(み)ちて見らく少(すく)なき
此(こ)の浦に住(す)ませ給(たま)ひて、十九年ばかりにやありけむ、延応元年といふ二月二十二日、六十(むそぢ)にてかくれさせ給(たま)ひぬ。今(いま)一度(ひとたび)都へ帰(かへ)らんの御志深(ふか)かりしかど、遂(つひ)に
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空(むな)しくてやみ給(たま)ひにし事、いと忝(かたじけ)なく、あはれに情(なさ)けなき世(よ)も、今更(いまさら)心うし。近(ちか)き山にて例(れい)の作法(さほふ)になし奉(たてまつ)るも、むげに人少(ずく)なに、心細(ぼそ)き御有様(おんありさま)、いとあはれになん。御骨をば、能茂(よしもち)といひし北面の、入道して御供(とも)に候(さぶら)ひしぞ、首(くび)にかけ奉(たてまつ)りて都に上(のぼ)りける。さて大原の法花堂(ほつけだう)とて、今(いま)も、昔(むかし)の御庄(みさう)の所々(ところどころ)、三昧料(さんまいれう)に寄(よ)せられたるにて、勤(つと)め絶(た)えず。彼(か)の法花堂(ほつけだう)には、修明門院の御沙汰(さた)にて、故院わきて御心とどめたりし水無瀬殿(みなせどの)を渡(わた)されけり。今(いま)はのきはまで持(も)たせ給(たま)ひける桐(きり)の御数珠(ずず)なども、かしこに未(いま)だ侍るこそ、あはれに忝(かたじけ)なく、拝(をが)み奉(たてまつ)るついでのありしか。始(はじ)めは顕徳院と定(さだ)め申(まう)されたりけれど、おはしましし世の御あらましなりけるとて、仁治の頃(ころ)ぞ、後鳥羽院(ごとばのゐん)とは更(さら)に聞(き)こえ直(なほ)されけるとなむ。



校註 増鏡

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第四 三神山
さても、源大納言(だいなごん)通方の預(あづ)かり奉(たてまつ)られし阿波(あは)の院の宮は、おとなび給(たま)ふままに、御心ばへもいときやうざくに、御かたちもいとうるはしく、けだかくやむごとなき御有様(おんありさま)なれば、なべて世の人もいとあたらしき事に思(おも)ひ聞(きこ)えけり。大納言(だいなごん)さへ、暦仁(りやくにん)の頃失(う)せにしかば、いよいよ真心(まごころ)に仕(つか)うまつる人もなく、心細(ぼそ)げにて、何(なに)を待(ま)つとしもなく、かかづらひておはしますも、人わろくあぢきなう思(おぼ)さるべし。御母(はは)は、土御門(つちみかど)の内大臣通親の御子に、宰相中将通宗とて、若(わか)くて失(う)せにし人の御女なり。それさへかくれ給(たま)ひにしかば、宰相のはらからの姫君(ひめぎみ)ぞ、御乳母(めのと)のやうにて、瞿曇弥(けうどんみ)の釈迦仏養(やしな)ひ奉(たてまつ)りけん心地(ここち)して、おはしける。
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二にて父御門には別(わか)れ奉(たてまつ)り給(たま)ひしかば、御面影(おもかげ)だに覚(おぼ)え給(たま)はねど、猶(なほ)此(こ)の世の中(なか)におはすと思(おぼ)されしまでは、おのづからあひ見(み)奉(たてまつ)るやうもやなど、人知(し)れず幼(をさな)き御心(こころ)にかかりて思(おぼ)し渡(わた)りけるに、十二の御年(とし)かとよ、かくれさせ給(たま)ひぬと伝(つた)へ聞(き)き給(たま)ひし後は、いよいよ世のうさを思(おぼ)しくんじつつ、いとまめだちてのみおはしますを、承明門院(しようめいもんゐん)は心苦(ぐる)しう悲(かな)しと見奉(たてまつ)り給(たま)ふ。
はかなく明(あ)け暮(く)れて、仁治二年にもなりにけり。御門は今年(ことし)は十一にて、正月五日、御元服し給ふ。御諱(いみな)秀仁と聞(きこ)ゆ。其の年の十二月に、洞院(とうゐん)の故摂政殿教実の姫君(ひめぎみ)、九に成(な)り給(たま)ふを、祖父(おほぢ)の大殿(おほとの)、御伯父(をぢ)の殿原などゐ立(た)ちて、いとよそほしくあらまほしき様(さま)にひびきて、女御参(まゐ)り給ふ。父(ちち)の殿(との)一人(ひとり)こそ物し給(たま)はねど、大方(おほかた)の、儀式(ぎしき)万(よろづ)飽(あ)かぬことなくめでたし。上もきびはなる御程(ほど)に、女御もまだかく小(ちひ)さうおはすれば、雛遊(ひゐなあそ)びのやうにぞ見えさせ給ひける。天(あめ)の下はさながら大殿(おほとの)の御心のままなれば、いとゆゆしくなん。
土御門(つちみかど)殿(どの)の宮は二十(はたち)にもあまり給(たま)ひぬれど、御冠(かうぶり)の、沙汰(さた)も無し。城興寺(じやうこうじ)の宮僧正真性と聞(きこ)ゆる、御弟子にと語(かた)らひ申しければ、さやうにもと思(おぼ)して、女院
にもほのめかし申(まう)させ給(たま)ひけるを、いとあるまじき事とのみ諌(いさ)め聞(きこ)えさせ給(たま)ふ。其の冬の頃、宮いたう忍(しの)びて、石清水(いはしみづ)の社に詣(まう)でさせ給ひ、御念誦のどかにし給(たま)ひて、少(すこ)しまどろませ給(たま)へるに、神殿の中に、「椿葉(ちんえふ)の影(かげ)二度(ふたたび)改(あらた)まる」と、いとあざやかにけだかき声(こゑ)にて、うち誦(ずん)じ給ふと聞(き)きて、御覧(ごらん)じあげたれば、明(あ)けがたの空澄(す)み渡(わた)れるに、星の光もけざやかにて、いと神さびたり。いかに見(み)えつる御夢ならんと怪(あや)しく思(おぼ)さるれど、人にも宣(のたま)はず。とまれかくまれと、いよいよ御学問(がくもん)をぞせさせ給ふ。
年もかへりぬ。春の初(はじ)めは、おしなべて、程々(ほどほど)につけたる家々(いへいへ)の身の祝など、心行(こころゆき)ほこらしげなるに、正月の五日より、内の上(うへ)例(れい)ならぬ御事にて、七日の節会にも、御帳(みちやう)にもつかせ給(たま)はねば、いとさうざうしく人々思(おぼ)しあへるに、九日の暁、かくれさせ給(たま)ひぬとて、ののしりあへる、いとあさましともいふばかり無し。皆人(みなひと)あきれまどひて、中々涙だに出(い)でこず。女御も未(いま)だ童遊(わらはあそ)びの御様(さま)にて、なに心なくむつれ聞(きこ)えさせ給(たま)へるに、いとうたていみじければ、うちしめり
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くんじてゐ給(たま)へる、いとをさなげにらうたし。大殿(おほとの)の御心の中、思(おも)ひやるべし。御兄(せうと)〈 左大臣忠家 〉の若君(わかぎみ)も殿上し給(たま)へる。只(ただ)御門の同(おな)じ御程(ほど)にて、騒(さわ)がしきまでの御遊(あそ)びのみにて明(あ)かし暮(く)らさせ給(たま)ひけるに、かいひそみて群(むら)がり居(ゐ)つつ、鼻(はな)うちかみ、うち泣(な)く人よりほかは無し。かくのみあさましき御事どものうち続(つづ)きぬるは、いかにも、彼(か)の遠(とほ)き浦々にて沈(しづ)み果(は)てさせ給(たま)ひにし、御歎(なげ)きどものつもりにやとぞ、世の人もささめきける。御悩(なや)みの始(はじ)めも、なべての筋(すぢ)にはあらず、あまりいはけたる御遊(あそ)びより、損(そこな)はれ給(たま)ひにけるとぞ。未(いま)だ御つぎもおはしまさず、又御はらからの宮なども渡(わた)らせ給(たま)はねば、世の中いかに成りゆかんずるにかと、たどりあへる様(さま)なり。
さてしもやはにて、東(あづま)へぞ告(つ)げやりける。将軍は大殿(おほとの)の御子(こ)、今(いま)は大納言(だいなごん)殿(どの)と聞(きこ)ゆ。御後見(おんうしろみ)は、承久に上(のぼ)りたりし泰時の朝臣なり。時房(ときふさ)の朝臣と一所にて、小弓(こゆみ)射(い)させ酒(さか)もりなどして、心とけたる程(ほど)なりけるに、「京よりの走(はし)り馬」といへば、何事(なにごと)ならんと驚(おどろ)きながら、使(つか)ひ召(め)し寄(よ)せて聞(き)くに、いとあさまし。さりとてあるべきならねば、其の席(むしろ)よりやがて神事始(はじ)めて、若宮(わかみや)の社にて、くじをぞとり
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ける。
其の程(ほど)、都には、いとうかびたる事ども、心のひきひきいひしろふ。「佐渡院の宮たちにや」など聞(きこ)えければ、修明門院にも、御心時(とき)めきして、内々(うちうち)其の御用意(ようい)などし給ふ。承明門院(しようめいもんゐん)も、もしやなど、様々(さまざま)御祈(いの)りし給ふ。東(あづま)の使、都(みやこ)に入る由(よし)聞ゆる日は、両女院より白河(しらかは)に人を立(た)てて、いづ方へか参(まゐ)ると、見せられけるぞことわりに、げに今(いま)見ゆべき事なれども、物の心もとなきは、さおぼゆるわざぞかしと、例(れい)の口(くち)すげみてほほゑむ。
日(ひ)ぐらし待(ま)たれて、城介(じやうのすけ)義景(よしかげ)といふ者(もの)、三条河原にうち出(い)でて、「承明門院(しようめいもんゐん)のおはしますなる院はいづくぞ」と、彼(か)の院より立(た)てられたる青侍(あをざぶらひ)の、いと怪(あや)しげなるにしも問(と)ひければ、聞(き)く心地(ここち)、うつつとも覚(おぼ)えず。しかじかと申すままに、土御門(つちみかど)殿(どの)へ参(まゐ)りたれど、門はむぐら強(つよ)くかため、扉(とびら)もさびつき柱根(はしらね)くちて、開(あ)かざりけるを、郎等(らうどう)どもにとかくせさせて、内に参(まゐ)りて見まはせば、庭には草深(ふか)く、青き苔(こけ)のみむして、松風(まつかぜ)より外は、こたふるものなく、人の通(かよ)へる跡(あと)も無し。故通宗宰相中将の御弟(おとと)を子にし給(たま)へりし定通の大臣(おとど)ばかりぞ、何(なに)となく
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おのづからの事もやと思(おも)ひて、なえばめる烏帽子(えぼし)直衣(なほし)にて候(さぶら)ひ給(たま)ひけるが、中門に出(い)でて対面(たいめん)し給ふ。義景(よしかげ)は、切戸(きりど)の脇(わき)にかしこまりてぞ侍(はべ)りける。「阿波(あは)の院の御子、御位に」と、申(まう)し出(い)でぬ。院の中の人々、上下夢の心地(ここち)して、物にぞあたりまどひける。仁治三年正月十九日の事なり。
世の人の心地(ここち)、皆(みな)驚(おどろ)きあわてて、おし返(かへ)しこなたに参(まゐ)り集(つど)ふ馬車の響(ひび)き騒(さわ)ぐ世(よ)のおとなひを、四辻殿にはあさましう中々物思(おぼ)しまさるべし。又の日、やがて御元服せさせ給ふ。ひき入(い)れに、左大臣良実参(まゐ)り給(たま)ふ。理髪、頭弁定嗣仕(つか)うまつりけり。御諱(いみな)邦仁、御年二十三、其の夜やがて冷泉(れいぜい)万里小路(までのこうじ)殿(どの)へ移(うつ)らせ給(たま)ひて、閑院殿より剣璽(けんじ)など渡(わた)さる。践祚の儀式(ぎしき)、いとめづらし。
其の後(のち)こそ、閑院殿には追号の定(さだ)め、御わざの事など沙汰(さた)ありけれ。二十五日、東山の泉湧寺(せんゆうじ)とかやいふほとりにをさめ奉(たてまつ)る。四条院と申(まう)すなるべし。やがて彼(か)の寺に、御庄(みさう)など寄(よ)せて、今(いま)に御菩提(ぼだい)を祈(いの)り奉るも、前(さき)の世の故(ゆゑ)ありけるにや。此(こ)の御門、未(いま)だ物などはかばかしく宣(のたま)はぬ程(ほど)の御齢(おんよはひ)なりける時(とき)、誰(たれ)とかや、「前(さき)の世はいかなる人にておはしましけん」と、只(ただ)何(なに)となく聞(きこ)えたりけるに、
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彼(か)の泉湧寺の開山の聖(ひじり)の名をぞ、たしかに仰せられたりける。又、人の夢にも、此(こ)の御門かくれさせ給(たま)ひて後、彼(か)の上人(しやうにん)、「我(われ)すみやかに成仏すべかりしを、由(よし)なき妄念(まうねん)を起(お)こして、今一度人界(にんがい)の生をうけて、帝王の位に至(いた)りて、かへりて我が寺を助(たす)けんと思(おも)ひしに、はたしてかくなん」とぞ見えける。誠(まこと)に、其の余執(よしう)の通(とほ)りけるしるしにや、御庄どもも寄(よ)りけむとぞ覚(おぼ)え侍る。
さて仁治三年三月十八日〔過(す)ぎて〕御即位(そくゐ)、万(よろづ)あるべき限(かぎ)りめでたくて過(す)ぎもて行(ゆ)く。嘉禎三年よりは、岡の屋の大臣(おとど)兼経、摂政にていませしかば、其のままに、今(いま)の御代の始(はじ)めも関白と聞(きこ)えつれど、三月二十五日、左の大臣(おとど)〈 良実、二条殿の御家の始めなり 〉に渡(わた)りぬ。此(こ)の殿も、光明峰寺殿(くわうみやうぶじどの)の御二郎君なり。神無月(かみなづき)になりぬれば、御禊とて世(よ)の中(なか)ひしめきたつも、思(おも)ひよりし事かはとめでたし。大嘗会(だいじやうゑ)の悠紀方(ゆきがた)の御屏風、三神山(みかみやま)、菅(くわん)宰相(さいしやう)為長仕(つか)まつられける。
いにしへに名をのみ聞(き)きて求(もと)めけん三神の山はこれぞ其の山
主基方(すきがた)、風俗の歌、経光の中納言に召(め)されたり。
末(すゑ)遠(とほ)き千代の影(かげ)こそ久(ひさ)しけれまだ二葉なる岩崎(いはさき)の松
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当代(たうだい)かくめでたくおはしませば、通宗の宰相も左大臣従一位をおくられ給(たま)ふ。御女も后の位をおくり申(まう)されし、いとめでたしや。誠(まこと)や、此(こ)の頃、右大臣と聞(きこ)ゆるは、実氏の大臣(おとど)よ。其の御女、十八に成り給ふを、女御に立て奉(たてまつ)り給ふ。六月三日、入内あり。儀式(ぎしき)有様(ありさま)、二(に)なく清(きよ)らを尽(つ)くされたり。母(はは)北の方は、四条の大納言(だいなごん)隆衡(たかひら)の女なり。女御の君、いとささやかに、愛敬(あいぎやう)づきてめでたく物し給(たま)へば、御覚(おぼ)えいとかひがひしく、万(よろづ)うちあひ、思(おも)ふ様(さま)なる世の気色、飽かぬ事無し。同(おな)じ年八月九日、后に立(た)ち給ふ。其の程(ほど)のめでたさ、いへば更(さら)なり。源大納言(だいなごん)の家に、無品親王(むほんしんわう)とて怪(あや)しう心細(ぼそ)げなりし程(ほど)には、たはぶれにも思(おも)ひより聞(きこ)え給(たま)はざりけんと、めでたきにつけても、人の口(くち)やすからず、さはとかく聞(きこ)ゆべし。



校註 増鏡

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第五 内野(うちの)の雪〔おほうち山とも〕
今(いま)后の御父(ちち)は、先(さき)にも聞(きこ)えつる右大臣=実氏の大臣(おとど)、其の父(ちち)、故公経の=太政大臣(おほきおとど)、其のかみ夢見給(たま)へる事ありて、源氏(げんじ)の中将わらはやみまじなひ給(たま)ひし北山のほとりに、世に知(し)らずゆゆしき御堂(みだう)を建(た)てて、名をば西園寺(さいをんじ)といふめり。此(こ)の所は、伯(はく)の三位(さんみ)資仲の領なりしを、尾張国松枝といふ庄にかへ給(たま)ひてけり。もとは、田畠(はたけ)など多(おほ)くて、ひたぶるに田舎(ゐなか)めきたりしを、更(さら)にうち返しくづして、艶(えん)/なる園(その)に造(つく)りなし、山のたたずまひ木深(こぶか)く、池の心ゆたかに、わたつみをたたへ、峰よりおつる滝のひびきも、げに涙(なみだ)催(もよほ)しぬべく、心ばせ深(ふか)き所(ところ)の様(さま)なり。本堂は西園寺(さいをんじ)、本尊の如来/は誠(まこと)に妙(たへ)なる御姿(すがた)、生身(しやうじん)もかくやと、いつくしう
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あらはされ給(たま)へり。又、善積院(ぜんしやくゐん)は薬師、功徳蔵院は地蔵菩薩にておはす。池のほとりに妙音堂、滝のもとには不動尊。此(こ)の不動(ふどう)は、津の国(くに)より生身の明王、簔笠(みのかさ)うち奉(たてまつ)りて、さし歩(あゆ)みておはしたりき。其の簔笠(みのかさ)は宝蔵(ほうざう)にこめて、三十三年に一度出(い)ださるとぞ承(うけたまは)る。石橋(いしばし)の上には五大堂。成就心院といふは愛染王(あいぜんわう)の座さまさぬ秘法(ひほふ)とり行(おこな)はせらる。供僧(ぐそう)も紅梅の衣、袈裟(けさ)数珠(ずず)の糸まで、同(おな)じ色にて侍るめり。又、法水院(ほすゐん)・化水院(けすゐん)、無量光院とかやとて、来迎(らいがう)の気色、弥陀如来・二十五の菩薩、虚空(こくう)に現じ給(たま)へる御姿(すがた)も侍るめり。北の寝殿(しんでん)にぞ大臣(おとど)は住(す)み給(たま)ふ。めぐれる山の常盤木(ときはぎ)ども、いと旧(ふ)りたるに、なつかしき程(ほど)の若木(わかき)の桜(さくら)など植(う)ゑ渡(わた)すとて、大臣(おとど)うそぶき給(たま)ひけり。
山桜(やまざくら)峰にも尾にも植(う)ゑ置(お)かん見(み)ぬ世の春を人や忍(しの)ぶと
彼(か)の法成寺(ほふじやうじ)をのみこそ、いみじき例(ためし)に世継(よつぎ)もいひた(ン)めれど、これは猶(なほ)山の気色さへ面白(おもしろ)く、都(みやこ)はなれて眺望そひたれば、いはん方(かた)なくめでたし。峰殿の御舅(しうと)、東(あづま)の将軍の御祖父(おほぢ)にて、万(よろづ)世(よ)の中(なか)御心のままに、飽(あ)かぬ事なくゆゆしくなんおはしける。今(いま)の右の大臣(おとど)、をさをさ劣(おと)り給(たま)はず、世の
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おもしにて、いとやんごとなくおはするに、女御さへ御おぼえめでたく、いつしかただならずおはすると聞ゆる、奥ゆかしき御程なるべし。
京には、様々(さまざま)めでたき事のみ多かるに、かの佐渡の島には、御悩と聞えし、程なく九月十二日かくれさせ給ひぬ。世の中の改りしきざみ、もしやなど思しよる事どもありしも、空しう隔たりのみ果てぬる世を、いと心細う聞し召しけるに、そこはかとなく、御悩など重るやうにて、失せ給ひけるとぞ聞えし。四十六にぞならせ給ひける。いと哀なる世の中なるべし。
 かくて年変(か)はりぬれば、寛元元年と聞ゆ。五月二十六日より、最勝講始めて行はる。関白を始め上達部、殿上人残りなく参り給ふ。左右大将 忠家実基 の車、陣に立つるとて、争ひののしりて、いみじう恐(おそ)ろし。右は上首、左は下臈にておはしければ、御前ども、かたみにひしめきて、あさましかりけり。されども相対へて立てて後ぞ、しづまりにける。又の日は、久我の前内大臣通光鳥羽の御家にて、八講し給(たま)ふとて、上達部多(おほ)くかしこに集(つど)ひ給ふ。大臣(おとど)は更にもいはず。堀川の大納言、具実 御子の通忠の大納言、土御門の大納言、顕定 通成の三位の中将、通行の宰相の中将
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など、すべて一門の人々、〓榔毛にておはして、多(おほ)く高欄につき給ふ。ほとほと、内の御八講にも劣らず見えたり。殿上人は、まして数しらず。雅通の大臣(おとど)の書きおき給へるものに、「公務の日なりとも、暇を申して、この八講にあふべし」とかや侍るなるに、誠に、かかるおほやけ事の折ふしも、猶さし合せておはし集(つど)ふ。いとやむごとなきわざな(ン)めり。猶末の代には、いかがあらんといぶかし。二十八日は、内(うち)の最勝講五巻の日にて、又、人々数(かず)を尽して参り給ふ。二十九日には、法性寺の浄光明院にて、普賢寺殿の御忌日の法事あり。この御堂の荘厳のめでたさ限りなし。誠(まこと)の浄土思ひやらるる様(さま)なり。ここもかしこも、この程は、尊き事のみ多(おほ)く、耳ぞ多(おほ)くほしかりける。
 誠(まこと)や、去年より、中宮は、いつしかただならずおはします。六月になりて、その程近ければ、十三社の奉幣勅使立てらる。日頃の御祈(いの)りにうちそへ、世の中ゆすり騒(さわ)ぐ。六月より、七仏薬師、五壇の御修法など始(はじ)まる。中壇は、桜井の宮 後鳥羽院の御子 勤めさせ給ふ。今出川の大臣(おとど)におはしませば、御家の殿ばら絶えず候ひ給ふ。十日の曙(あけぼの)より、その御気色あれば、殿の内立(た)ち騒(さわ)ぐ。白き
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御よそひに改めて、母屋に移(うつ)らせ給ふ。天の下ののしり立(た)ちて、馬車走りちがふ様、いとこちたし。内よりも御使ひなまし。寮の=御馬にて、雨の脚よりもしげく走りきほふ。さらでだにいと暑き頃を、汗におしひたしたる人々の気色(けしき)、いとわりなし。后の宮、いと苦しげにし給ひて、日たけゆくに、色々(いろいろ)の御物(もの)の怪(け)ども名のりいでて、いみじうかしがまし。大臣、北の方、いかさまにと御心惑ひて、思し歎く様(さま)、あはれに悲(かな)し。かやうのきざみは、高きも下れるも、おろかなるやはある。なべて皆かくこそはあれど、げにさしあたりたる世の気色(けしき)をとり具(ぐ)して、いみじう思(おぼ)さるべし。内の御乳母大納言の二位殿おとなおとなしき内侍のすけなど、さるべき限り参り給へり。今日も猶、心もとなくて暮れぬれば、いと恐(おそ)ろしう思(おぼ)す。伊勢のみてぐら使ひなど立てらる。諸社の神馬、所々の御誦経の使、四位五位数を尽(つく)して鞭をあぐる様(さま)、いはずともおしはかるべし。大臣、とりわき、春日の社へ拝して、御馬、宮の御衣など奉らる。
 内には、更衣腹(かういばら)に、若宮二所おはしませど、この事を待ち聞え給ふとて、坊定まり給はぬ程なり。たとひ、平らかにおはしますとも、もし女宮ならばと、まがまがしき
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あらましは、かねて思ふだに、胸つぶれて口惜(くちを)し。かつは、我が御身の宿世、見ゆべききはぞかしと思(おぼ)して、大臣も、いみじう念じ給ふに、未の下(くだ)り、既にことなりぬ。まづ、何にかと、心騒(さわ)ぐに、宮の御兄公相の大納言、「皇子御誕生ぞや」と、いと高らかに宣(のたま)ふを、聞く人々の心地(ここち)、夜の明けたらんやうなり。父大臣(おとど)「誠(まこと)か」と宣(のたま)ふままに、よろこびの御涙ぞおちぬる。哀なる御気色と、見奉る人も、こといみしあへず。公相、公基、実雄、大納言三人、権の大夫実藤、大宮の中納言公持、皆御ゆかりの殿ばら、上(うへ)の衣(きぬ)にて候ひ給ふ。御修法ども、やがて結願すべしとて、僧ども法師ばらまで、したり顔に、汗おしのごひつつ、いそがしげにありくさへぞめでたき。月次の御神事なる上、今日、日(ひ)ついで心やましき事とかやにて、わざと奏し給はねど、御験者桜井の宮の僧正 覚仁法親王 をはじめ奉りて、次々(つぎつぎ)、皆、禄給(たま)ふ。法親王には、宮の御衣・大夫とりて奉り給ふ。宇治の前の僧には、公基の大納権、房意法印には、権の大夫公持
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かづけ給ふ。御馬は、各(おのおの)本坊に送られけり。又の日、月次の祭果てて、御はかし参(まゐ)る。勅使隆良なりき。
 十二日、三夜の儀式、本宮の御沙汰にて、いとめでたし。やがて御湯殿の事あれば、つるうち、五位十人、六位十人ならびたつ。御ふみの博士光兼の朝臣、右衛門の権の佐資定、大外記師光など、寝殿の南おもての庭に立ちて、孝経の天子の章をぞよむ。上達部簀子に候(さぶら)ひ給ふ。朝の御湯果てて皆まかでて後、又、夕の御湯殿の儀式、さきのままにて、果てぬる後、寝殿の東南の間に、白き袖口どもおし出ださる。しろゑの五尺の屏風たてわたして、上達部よりすべて、響どもすゑわたす。公卿の座に、人々二行につき余(あま)る程なり。右大将実基、大夫公相、公基、実雄、以上大納言。中納言に、左衛門の督顕親、権の大夫実藤、公持、侍従の宰相資季、別当公光、左大弁の宰相経光、新宰相定嗣、右兵衛の督有資、新宰相の中将通行などつきたり。その座の末に、紫べりの畳に、殿上人中将実直朝臣を始めて、数しらず参(まゐ)れり。御前のものども、殿上の四位はこぶ。児御子の御衣の案二脚、はしかくしの間にかきたつ。御かはらけ二めぐりの後、大夫公相、朗詠、「嘉辰令月」
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と宣(のたま)へば、有資声くはへらる。又、「昭王」とおし重ねて出(いだ)さる。御声々宿徳(しゆうとく)に、あらまほしうめでたし。かやうにて明けぬ。
 十四日に、五夜の儀式さきの如し。今宵は御遊あり。実基の大将殿 徳大寺 拍子とり給ふ。笙宗基、笛二位の中納言良教、篳篥兼教朝臣、琵琶大夫公相、箏の琴権の大夫実藤、和琴有資、末の拍手も同(おな)じ人なりしにや、安名尊、鳥破、席田、伊勢海、万歳楽、三台急、例の事なり。かずかずめでたし。
 十六日、七夜の御産養、内よりの御沙汰なれば、今少し、儀式ことにていかめし。関白殿、右の大臣(おとど)、右大将、具実 大納言定雅、公相、公基、実雄。中納言には、例の人々、顕親、実藤、公持、資季、公光、経光、定嗣、三位の中将、通成 殿上人頭中将継師より始めて、残るは少(すく)なし。勅使蔵人の侍従宗基、目録もちて参れり。大夫対面し給ひて、白き御衣かづけ給ふ。本宮のものどもにも、内より禄給(たま)ふ。内膳司参(まゐ)りて、うるはしき作法にて、南殿より御膳参(まゐ)る様(さま)、日頃のには似ず、けだかうめでたし。
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その後、御遊(あそ)び始(はじ)まる。人々の所作、さのみは珍しげなくてとどめつ。
 九夜は、承明門院よりの御沙汰なれば、それもいかめしき事どもありしかど、うるさくてなん。ここらの年頃、思(おぼ)しむすぼほれつる女院の御心の中、名残なく胸あきて、めでたく思さるる事限(かぎ)りなし。閑院殿修理せらるる程とて、十五日に、御門、承明門院へ行幸なれば、いとどしげうさへ見奉らせ給ふに、御心ゆく事多(おほ)く、げにいみじき老の御栄(さか)えなりかし。覚子内親王とて、御傍におはしましつる御孫、これも土御門院の姫宮さへ、この二十六日かとよ、院になし奉らせ給へり。正親町の院と聞(きこ)ゆ。上(うへ)の同(おな)じ御腹におはすれば、万(よろづ)定通の大臣事行ひ給ふ。院号の定(さだ)め侍るままに、陣より、上達部、皆ひきつれて、承明門院へ参(まゐ)る。大臣は御簾の内(うち)にて、女房の事どもなど、忍びやかにおきて宣(のたま)ひけり。
その夜、また、兵衛の内侍の御腹の若宮 宗尊親王の御事なり 御五十日の儀式この院にて沙汰あり。后腹の御子程(ほど)こそおはせねど、これも、御門、わたくしものに、いといとほしう
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思(おぼ)す事なれば、御気色(けしき)にしたがひて、上達部、殿上人、いみじう参(まゐ)り集(つど)ふ。関白殿参(まゐ)り給ひて、くくめ奉り給(たま)ふ。陪膳は通成の三位中将、役送は家定朝臣仕うまつりける。人々の勧盃響などはなし。建久に、土御門院の御五十日きこしめしける例とぞ。
 かくて中宮の若宮は、その二十八日に親王の=宣旨あり。さて七月二十八日に、中宮も、今の宮も、内に参(まゐ)り給ふ。例の事なれば、かなたこなたの供奉、上達部、殿上人、数を尽(つく)して、古(ふる)き例(ためし)も、いと稀なる程(ほど)にぞ聞えける。宮は御輿、御子は青糸毛の御車、近衛の大将、検非違使の=別当をはじめて、ゆゆしき人々仕(つか)うまつらる。こよなき見物にてぞ侍りける。後七月二日、内にて皇子の御五十日きこしめす。内蔵寮より事ども調じて参(まゐ)る。御膳の物、屯食、折櫃のもの、何くれ心ことなり。時なりて、上(うへ)こなたに渡らせ給ふ。御供に関白殿、堀川の大納言、具実 大夫、公相 左大将、忠家 関白の御子の三位の中将参(まゐ)り給ふ。上くくめ奉らせ給ふ様(さま)、いといとめでたし。同(おな)じ事のやうなれば、こまかには書かず。
かくて八月十日、すがやかに太子に立ち給ひぬ 後の深草院の御事なり 大臣(おとど)御心おちゐて、
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すずしくめでたう思す、ことわりなり。「大方かのいみじかりし世のひびきに、女御子にておはせましかば、いかにしほしほと、口惜しからまし。いときらきらしうて、さし出で給へりし嬉しさを思ひ出づれば、見奉るごとに涙ぐまれて、かたじけなう覚え給ふ」とぞ、年たくるまで、常は、大臣(おとど)人に宣(のたま)ひける。中頃はさのみしもおはせざりし御家の、近くよりは、ことの外に、世にも重(おも)く、やむごとなう物し給ひつるに、この后の宮参(まゐ)り給ひ、春宮生れさせ給ひなどして、いよいよ栄えまさり給ふ。行末おしはかられて、いとめでたし。父の入道殿さへ御命ながくて、かかる御末ども見給ふも、さこそは御心ゆくらめと、おしはかるもしるく、その年の十月七日かとよ、都を立ちて、熊野にまうで給ふ。作法のゆゆしさ、昔の古(ふる)き御代の御幸どもにも、やや立(た)ち勝る程にぞ侍りし。御子孫ひき具し給ふ。大納言に実雄、御子 公相、御孫公基、前藤大納言とありしは、為家の事にや。坊門前の大納言も、追従に、京出は〓従せられたり。大宮の中納言、公持 左の宰相の中将、実任 右兵衛の督、有資 殿上人は三十余人侍りけり。いといみじかりしことどもなり。 かくて、同(おな)じき十一月十一日は、土御門の院の御十三年とて、おほやけより、
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御法事行はるるもいとめでたし。金原にて御八講あるべければ、承明門院も、かねてより渡らせ給ふ。上達部、殿上人参り集(つど)ふ様(さま)こよなし。
 十二月一日は、石清水の社の行幸あり。当代には初めたる度なれば、万(よろづ)清らを尽(つく)さる。文治建久の例をまねばる。関白殿御馬にて仕うまつり給ふ。滝口十二人、馬ぞへに具し給ふ。色々(いろいろ)の綾錦、目も輝(かがや)くばかり立ち重ねたり。左右の大将 忠家実基 の番長、又心も詞も及ばず、いどみ尽(つく)したり。左大将のは馬にて前行、右大将のは張綱にて、移(うつ)し馬をひかせけるとぞ。左大将は、紅梅の二重織物の半臂下がさね、萌黄の織物の上(うへ)の袴、右大将は、うら山吹の半臂下がさね、左衛門の督は、梅がさねのうき織物の半臂下がさね、浮紋の上(うへ)の袴、殿上人は、花山院の中将通雅の君ばかりぞ、萌黄の上(うへ)の袴、うら山吹の半臂下がさね著給へりける。その外はことなるも見えず。御社にてのかた舞は、例の上達部もたたれけり。笛二位の中納言、拍子左衛門の督(かみ)など勤められけり。かずかずめでたくて、又の日の午の時ばかりにぞ、帰らせ給ひける。
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 同(おな)じ五日、やがて賀茂の社に行幸し給ふ。関白殿、今日も御馬なり。上達部、殿上人、さきにいたく変らず。別当通成いみじうきらめかれたり。けさうじ給へるをぞ、「若き人なれども、検非違使の=別当、白きものつくる事やある」など、古(ふる)き人うちささめきけるとかや。春宮の大夫馬ぞへ八人具し給ひけり。権大納言実雄、土御門大納言顕定、権中納言公親、同=顕親、左衛門の督実藤など、いづれも清らにめでたし。殿上人、中将には実久の朝臣、為氏、実治、経定、顕良、基雅、通雅、通定、定平、実直、師継、雅継、輔通、雅家、雅忠。少将には、隆兼、公直、季実、為教、忠継、輔時、顕方、惟継、公為、資平朝臣、信通など、我劣らじど、華族も下臈も心ばかりはいどみ尽(つく)したり。申の時に、まづ下の宮に行幸、暮れ果てて、上の社にまうでさせ給ふ。賞行はれなどして、還御は明方にぞなりにける。霜いと白きに、たてあかしけざやかにて、舞人の袖かへる程も、いと面白(おもしろ)くぞ侍りける。
この行幸過ぎぬれば、天下の騒(さわ)ぎ、少しのどまりぬべきにやと見えつるに、明くる日 十二月六日 また仁和寺の御室、准后 観音寺にて灌頂し給ふとて、世の中ののしる
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様(さま)、いとけしからぬまで響きあひたり。この御室をば代々、親王こそ伝へ給ふめれど、峰殿世を御心に任せたりし頃より渡り給ひて、母上(ははうへ)の西園寺入道殿の御女に、准后をさへ譲り給ふとか聞えて、いとゆゆしき御人がらなれば、受法の儀式までぞ、世に珍らかなりける。入道殿下まづ渡り給ひて、仏母院におはす。関白殿は御兄なれば、ましておはします。右大臣殿、左大将殿、心ことにて参り給ふ。時なりて、大阿闍梨二品法親王道深輿にて渡(わた)り給ふ。喜多院の南の門より、上達部、殿上人歩み続きて、そこら参り集ふ。吉田の中納言為経、二条の中納言忠高、侍従の宰相、藤宰相、左の宰相の中将、左大弁経光、新宰相、みな列をひき、受者もみぎりにおり立(た)ち給へる、いと若(わか)う美しうて、地蔵菩薩に似給へるを、入道殿いと悲(かな)しと見奉り給ふ。紫の袈裟に、香炉もちて渡(わた)り給へば、もとより並び立てる上達部、皆礼をいたす気色、やむごとなく見ゆ。関白、左大将殿などの御随身ども、えもいはずきらめきて、階のもとにたてあかししろくして、なみ居たる気色(けしき)、めでたく面白(おもしろ)し。伝法の様(さま)は、人見ぬ事なれば知らず。教授は良恵僧正つとめられけり。かくて事果てぬれば、後朝の儀式猶(なほ)いみじ。法親王
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の御布施、被物五重(かさ)ね この内(うち)一つは織物 御法服一具、鈍色一具、包物は絹十疋、綿一つつみ、関白殿とりて奉り給(たま)ふ。次々の衆僧には、大中納言ほどほどに随ふべし。導師の布施、久安、仁安など、又、建暦、寛喜などの度は、別当とりたりけれども、今日はその人参(まゐ)らねば、忠高の中納言とりけり。殿上人は二十余人参(まゐ)る。万(よろづ)の事、人がらと見えて、いとめでたし。かやうの事どもにて、今年もくれぬ。
 又の年寛元二年、東(あづま)の大納言頼経の君、一とせ二歳にて下り給ひし、峰殿の御子ぞかし。悩み給ふ由(よし)聞えしが、御子の六になり給ふに譲りて、都へ御かへりと聞ゆ。若君は、その日、やがて将軍の=宣旨下され、少将になり給ふ。頼嗣と名のり給ふ。泰時朝臣も、をとどし入道して、うまごの時頼の朝臣に世をば譲りしかば、この頃は、天の下の御後見は、此相模守時頼の朝臣仕(つか)うまつる。いみじう賢きものなれば、めでたき聞えのみありて、兵(つはもの)も靡き従ひ、大方(おほかた)、世もしづかに、をさまりすましたり。
 かくて寛元も四年になりぬ。正月二十八日春宮に御位を譲り申させ給ふ。この御門も、また四にぞならせ給ふ。めでたき御例どもなれば、行末も推し量られ給ふ。
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光明峰寺殿御三郎君、左大臣実経の大臣、御年二十四にて摂政し給ふ。いとめでたし。御兄の福光園院殿、もと関白にておはしつる、恨みてしぶしぶにおはしけれど力なし。御はらから三人まで摂〓し給へる例(ためし)、ふるくは謙徳公、忠義公、東三条の大入道殿、その又御子ども中の関白殿、粟田殿、法成寺の入道殿、これふた度なり。近くは法性寺の御子ども、六条殿、松殿、月輪殿、これぞやがて、今の峰殿の御祖父(おほぢ)よ。かやうの事、いとたまたまあれど、粟田殿も、宣旨かうぶり給へりしばかりにて、七日にて失せ給ひにしかば、天下執行し給ふに及ばず。松殿の御子師家の大臣、夢のやうにて、しかも一代にてやみ給ひにき。いづれも御末まではおはせざりしに、この三所の御後のみ、今に絶えず。御流久しき藤なみにて、立ち栄(さか)え給へるこそ、たぐひなきやむごとなさな(ン)めれ。末の世にもありがたくや侍らん。今の摂政殿をば、後には円明寺殿とぞ聞ゆめりし。一条殿の御家のはじめなり。摂政にて二年ばかりおはしき。
女院の御父も、太政大臣になり給ひて、牛車ゆり給ふ。さるべき事といひながら、いとめでたし。その頃、北山の花の盛(さか)りに、院に奏し給(たま)ふ。その花につけ
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て、
 朽ちはつる老木にさける花桜身によそへても今日はかざさん
御返(かへ)しを忘れたるこそ口惜(くちを)しけれ。
かくて御即位御禊も過ぎぬ。大嘗会の頃、信実の朝臣といひし歌よみの女の少将の内侍、大内の女工所に候(さぶら)ふに、雪いみじう日頃(ひごろ)降りて、いかめしう積りたる暁(あかつき)、太政大臣宣(のたま)ひ遣(つか)はしける、
 九重の大内山のいかならん限(かぎ)りも知らずつもる雪かな
御返(かへ)し、少将の内侍、
 九重のうち野の雪に跡つけて遙に千代の道(みち)を見るかな
後嵯峨の院の上(うへ)は、いつしか所々に御幸しげう、御遊(あそ)びなど、めでたく、今めかしき様(さま)に好(この)ませ給ふ。西園寺に、はじめて御幸なりし様(さま)こそ、いと珍らかなる見物にて侍りしか。太政大臣御あるじ申されし様(さま)、いかめしかりき。いはずとも思ひやるべし。御贈物に、代々の御手本奉らるとて、大臣(おとど)、
 伝へきく聖(ひじり)の代々の跡を見て古きを移(うつ)す道ならはなん
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御返し、御製、
 知らざりし昔に今やかへりなんかしこき代々の跡ならひなば
 中宮も位去り給ひて、大宮女院とぞ聞ゆる。安らかに、常は、一(ひと)つ御車などにて、ただ人のやうに、花やかなる事どものみ隙なく、万(よろづ)あらまほしき御有様なり。院の上(うへ)、石清水の社にまうでさせ給ひて、日頃(ひごろ)おはしませば、世の人残りなく仕うまつれり。さるべき事とはいひながら、猶いみじう、御心にも、一年の事思し出でられて、ことにかしこまり聞えさせ給ふべし。御歌あまたあそばして、宝殿にこめさせ給ひし中に、
 石清水木がくれたりしいにしへを思ひ出づればすむ心かな
宝治の頃、神無月二十日あまりなりしにや、紅葉御覧じに、宇治に御幸し給ふ。上達部、殿上人、思ひ思ひ色々(いろいろ)の狩衣、菊紅葉の濃きうすき、縫物、織物、綾錦、すべて世になき清らを尽(つく)し騒(さわ)ぐ。いみじき見物なり。殿上人の船に、楽器をまうけたり。橘の小島に御船さしとめて、物の音ども吹きたてたる程、水の底も耳たてぬべく、
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そぞろ寒き程(ほど)なるに、折知(をりし)り顔(がほ)に、空さへうちしぐれて、まきの山風あらましきに、木の葉どもの、色々(いろいろ)散りまがふ気色(けしき)、いひ知らず面白(おもしろ)し。女房の船(ふね)に、色々(いろいろ)の袖くち、わざとなくこぼれ出(い)でたる、夕日に輝(かかや)きあひて、錦(にしき)を洗(あら)ふ九の江かと見えたり。平等院に、中一日渡(わた)らせ給(たま)ひて、様々(さまざま)の面白(おもしろ)き事ども数(かず)知(し)らず。網代(あじろ)に氷魚(ひを)の夜(よる)もさながらののしり明(あ)かして、帰(かへ)らせ給(たま)ふ。



校註 増鏡

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第六 烟の末々
宝治二年十一月二十日頃(ごろ)、紅葉御覧じがてら、宇治に御幸し給ふ。をかのや殿の摂政の御程なり 上達部、殿上人、思ひ思ひ色々(いろいろ)の狩衣、菊紅葉のこきうすき、縫物、織物あやにしき、かねてより世の営(いとな)みなり。二十一日の朝ぼらけに出でさせ給ふ。御烏帽子直衣、薄色の浮織物の御指貫、網代庇の御車に奉(たてまつ)る。まづ殿上人、下臈より前行す。中将為氏、浮線綾の狩衣、右馬頭房名、基具、菊のから織物、内蔵頭隆行、顕方、白菊の狩衣、皇后宮の権の亮通世、右中弁時継、薄青のかた織物、紫の衣(きぬ)、前の兵衛の佐朝経、赤色の狩衣、衛門の佐親継、二藍の狩衣、成俊、ひはだ、具氏、左兵衛の佐親朝は、結(むす)び狩衣に、菊をおきものにして、紫すそごの指貫、菊を縫ひたり。上達部は、堀川の大納言具実直衣(なほし)、皇后宮の大夫隆親直衣(なほし)、
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花山院の大納言定雅、権大納言実雄、花田の織物の狩衣、から野の衣(きぬ)、土御門の大納言顕定 左衛門の督実藤 うすあを、衛門の督通成 かれ野の織物の狩衣(かりぎぬ)、別当定嗣直衣(なほし)、雑色に野剣を持たせたり。皇后宮の権の大夫師家 萌黄綾の狩衣(かりぎぬ)、浮織物の指貫、紅の衣(きぬ)、土御門の宰相の中将雅家 香の織物の狩衣(かりぎぬ)、御随身、居飼、御厩舎人まで、いかにせんと、色々(いろいろ)を尽(つく)す。院の御車のうしろに、権大納言公相 緋紺の狩衣、紅の衣(きぬ)、白きひとへにて、えもいはぬ様(さま)して仕うまつり給ふ。検非違使北面などまで、思ひ思ひに、いかで珍らしき様(さま)にと好(この)みたるは、ゆゆしき見物にぞ侍りし。衛府の上達部は、狩衣(かりぎぬ)の随身に、弓、胡〓を持たせたり。人だまひ二輛、一の車に、色々(いろいろ)の紅葉を、濃く薄(うす)く、いかなる龍田姫か、かかる色を染め出でけんと珍らかなり。二の車は、菊を出だされたるも、なべての色ならんやは。その外、院の御乳母大納言の二位殿、いとよそほしげにて、諸大夫、侍、清げなる召し具して参(まゐ)り給ふ。宰相の三位殿と聞(きこ)ゆるは、かの若宮の御母、兵衛の内侍殿といひし、
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この頃は三位し給(たま)へり。今一きはめでたくゆゆしげにて、北面の下臈三人、諸大夫二人心ことにひきつくろひたる様(さま)なり。建久に後鳥羽院宇治の御幸の時、修明門院、そのころ、二条の君とて、参り給へりし例を、まねばるるとぞ聞えける。また大納言の典侍とは、藤大納言為家のむすめ、そも別にひきさがりて、いたく用意ことにて参(まゐ)らる。宇治川の東の岸に、御舟まうけられたれば、御車より奉り移(うつ)る程(ほど)、夕つかたになりぬ。御船さし、色々(いろいろ)の狩襖にて、八人づつ、様々(さまざま)なり。基具の中将、院の御はかせもたる、顕朝御〓参(まゐ)らす。平等院の釣殿に、御船寄(よ)せておりさせ給ふ。本堂にて御誦経あり。御導師まかでて後、阿弥陀堂、御経蔵、懺法堂まで、ことごとく御覧じわたす。川の左右の岸に、篝しろくたかせて、鵜飼どもめす。院の御前よりはじめて、御台ども参(まゐ)る。しろがねの(    )錦のうちしきなど、いと清らにまうけられたり。陪膳権大納言公相、役送は殿上人なり。上達部には御台四本、殿上人には二つなり。女房の中にも、色々(いろいろ)様々(さまざま)の風流のくだもの、衝重など、由(よし)ある様(さま)に、
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なまめかしうしなして、もて続きたる、こまかにうつくし。院の上(うへ)、梅壺の放出に入らせ給ふ。摂政殿、左の大臣(おとど)、皆御供に候(さぶら)ひ給ふ。
 又の日の暮つかた、又御船にて、槙の島、梅の島、橘の小島など御覧ぜらる。御遊(あそ)び始(はじ)まる。船の内(うち)に楽器ども設けられたれば、吹きたてたるものの音世に知らず、所がらは、まして面白(おもしろ)う聞ゆるに、水の底にも耳とむるものやと、そぞろ寒き程(ほど)なり。かの優婆塞の宮の、「へだてて見ゆる」と宣(のたま)ひけん、「をちのしら浪」も、艶(えん)なる音を添へたるは、万(よろづ)折(をり)からにや。
 二十三日還御の日ぞ、御贈物ども奉り給ふ。御手本、和琴、御馬二疋参(まゐ)らせらる。院よりも、あるじの大臣(おとど)に御馬奉り給ふ。院の御随身ども、けはひことにて、ほうだうの前の庭にひき出でたれば、衛門佐親朝、親継、二人うけとる。殿おり給ひて拝し給ふ。 岡屋兼経の大臣(おとど)の御事なり その後賞行(おこな)はる。左の大臣一品し給ふべき由(よし)、院の上自(みづか)ら宣(のたま)はすれば、また立ち出でて直衣を奉りながら、拝舞し給ふ。万(よろづ)御心ゆく限(かぎ)り遊びののしらせ給ひて、帰らせ給ふままに、左大臣殿兼平従一位し給ふ。殿の家司季頼四品ゆるさせ給ふ、いとこよなし。寛治
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には、良経正四位下、保元に、月輪殿従下の阿品をぞし給ひける。今の御有様(おんありさま)は、かの古き例(ためし)にも越えたり。いとめでたく面白(おもしろ)し。還御の当日に、女房の装束皆具(かいぐ)、色々(いろいろ)にいと清らなる十具、各(おのおの)平づつみに長櫃にて、大納言の二位の曹司におくらる。又宰相の三位のもとへも別に遣(つか)はされけり。建久には夏なりしかば、一へがさね二十具ありけるを、思し出でけるにや。様々(さまざま)ゆゆしき事どもにて過ぎぬ。
 この御るすの程(ほど)に、二条油小路に火いできて、閑院殿のついがきの内(うち)なれば、内のおもの屋焼けて、神代より伝はれる御釜も、焼け損(そこな)はれけるをぞ、いとあさましき事には申し侍りし。かの釜、昔(むかし)は三つありけるを、一つをば平野、一つをば忌火、一つをば庭火と申しけるを、円融院の御代永観の頃、二つは失せにけり。今(いま)一つ残りたるに、かかる事の出できぬるは、いとよろしからぬわざなりとて、神祇官に尋ねられ、古(ふる)き事ども考へらる。平野といひけるを、陰陽寮に据ゑて、みづのとの祭といふことに用ひけれど、中頃(ごろ)よりかの祭は絶えぬ。忌火といふにては、六月十二月の御神事の御膳をば調じけり。庭火にて、常の御膳をば仕(つか)うまつる。
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かかれば、いとたいだいしき事にて、初めはいもしに仰せらるべきかとも申す。古きを損(そこな)はれたる所ばかりを、猶(なほ)さるべきかとも、色々(いろいろ)に定めかねられたり。入道太政大臣なども、古きをなほさるべしと、申さるとぞ聞えける。
 その頃、宰相の三位の若宮 宗尊親王の御事なり 御書始とて、人々参り集(つど)ひ給ふ。七つにならせ給ふべし。関白殿をはじめ、大臣、上達部残(のこ)りなし。十二月の二十五日なり。文章の博士序奉らる。管絃の具召されて、人々例のごと吹きあはせ給ふ。その後、文台めして、詩の披講ありき。勧盃の儀式、何事も保延の例(ためし)とぞ承りし。
 かくて年明けぬれば、宝治も三年になりぬ。春たちかへる朝(あした)の空の光は、思ひなしさへいみじきを、院、内(うち)の気色、誠にめでたし。摂政殿にも拝礼行(おこな)はる。院の御前は更にもいはず、大宮院にもあり。まづ、冷泉万里小路殿といふは、鷲の尾の大納言隆親の家ぞかし。この頃、院のおはしませば、拝礼に人々参り給ふ。摂政殿、兼経 左大臣、兼平 右大臣、家忠 内大臣、実基 大納言には公相、実雄、顕定、道良、
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中納言に為経、良教、資季、冬忠、実藤、公光、通成、定嗣、宰相に通行、師継、顕朝、殿上人は、両貫首をはじめ数(かず)知らず。常の年々に越えて、この春は参りこみ給へり。人々立ちなみ給へる時、左の大臣は、摂政の御子なれば、引き退きて立ち給へり。右もまた、その同じつらに立たれたるに、内の大臣すすみ出で給へり。それにつぎて、大納言も同じつらなり。良教、公光、師継、顕朝、また退きて立ちたれば、出入して屏風に似たり。この事見にくしと、後まで、様々(さまざま)院の御前に仰(おほ)せられて、摂政殿に尋(たづ)ね申され、沙汰(さた)がましく侍りけるを、貞応元年の例(ためし)などいできて、故野の宮左大臣、今の内の大臣の御親の、右大臣にて退きたるつらに立たれたりけるを、その時の記録など見給はざりけるにやとて、内の大臣の御ふるまひ、心えずとぞ沙汰ありける。院の拝礼果てて、内の小朝拝、節会などに、皆人々困(こう)じ給へるに、又大宮院の拝礼めでたくぞ侍りける。 四日は承明門院へ御幸はじめ、院の御様(さま)の、つきせずめでたく見えさせ給ふを、あく世なう、いみじと見奉らせ給ふ。浮織物の薄色の御指貫、紅の御衣奉(たてまつ)れり。上達部、殿上人、直衣、上(うへ)の衣、思ひ思ひなり。摂政殿も参(まゐ)り給ふ。
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夜に入りて帰らせ給ひぬれば、やがてやがて又、大宮院、内へ御幸はじめ、これも上達部、殿上人、ありつる限り残(のこ)りなし。網代びさしに奉(たてまつ)る。皇后宮の御方の東むきへ御車寄(よ)せて、宮御対面、いとめでたし。上(うへ)は、まだいといわけなき御程にて、かくいつくしき万乗の主にそなはり給へる御有様(おんありさま)を、女院も、いとやむごとなく、かたじけなしと見奉り給ふ。
 皇后宮と聞ゆるは、これも院の御兄(このかみ)にて、位におはしましし時も、御母代など聞えさせ給ひしを、この御門幼く渡(わた)らせ給へば、今は、いとどまして、内にのみおはしまして、去年の八月より、皇后宮と聞(きこ)ゆる、後には、仙華門院と聞えし御事なるべし。
 院の若宮十三にならせ給ふは、公宗の中将といひし人の女の御腹なり。円満院の法親王の御弟子にならせ給ふべしとて、正月二十八日に、その御用意あり。承明門院より渡(わた)り給ふ。院の網代びさしの御車にて、上達部は車、具実の大納言を上首にて六人、殿上人十六人、馬にて、色々(いろいろ)にいとよそほしう、めでたくておはしましぬ。その夜、やがて御ぐしおろして、御法名円助と聞ゆ。いとうつくしげさ、
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仏などの心地(ここち)して、あはれに見え給ふ。院の宮達の御中には、御兄にてものし給へど、御外戚(げさく)の弱(よわ)きは、今も昔もかかるこそ、いといとほしきわざなりけれ。御匣(みくしげ)殿(どの)の御腹の若宮も三にならせ給へる、承明門院にて、御魚味きこしめしなどすべし。これも法親王がねにてこそはものし給はめ。あまたの御中に、この御子は、御かたちすぐれ給へれば、院もいとらうたく思ひ聞えさせ給ひけり。
 かくいふ程に、二月一日の夜、常よりも、九重の宮の内、人ずくなにて、大方(おほかた)、夜も静なるに、子の時ばかりに、閑院殿の二条おもての対より、火いできて、棟もえ落つる程にぞ、始めて見つけたる、あさましともなのめなる。何のたどりもなく、只あわて騒ぎ、我も人も移(うつ)し心なければ、公直の中将の御とのゐに候ひけるが、車の陣なるを召して、皇后宮の御方へ寄す。内の上(うへ)をば、御匣(みくしげ)殿(どの)抱き奉らせ給ひて、宮も奉(たてまつ)る。剣璽ばかりとり具して、門を急ぎ出でさせ給ふ。とばかりありて、権中納言実雄の参り給へりける車に召し移(うつ)りて、春日富の小路に公相の大納言のおはする家に行幸なる。その程(ほど)にぞ、摂政殿をはじめ、前の太政大臣、
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左大臣、内大臣より下残りなく人々参り集(つど)ひ給ふ。院も御車引き出でて見奉らせ給ふ。かかる程(ほど)に、閑院殿より、春日は、方はばかりありとて、院のおはします万里小路殿へ、ひき返(かへ)して行幸あり。夜明け果てて後(のち)、又前の太政大臣 実氏 の冷泉富の小路へ行幸なりて、しばし内裏になりぬ。内の焼くることは、これを始めにもあらず。世あがりての事はさしおきぬ。天徳四年、村上のさばかりめでたかりし御代よりこのかた、既に二十余度になりぬるにや。聖の御代にしも、かかる事は侍りしかど、承元に焼けにし後は、久しく、この四十四年はなかりつるに、去年の冬、御釜焼け損じて、又、かくうち続きぬるを、いとあさましう思(おぼ)す。何よりも、御門の御車に奉りて出でさせ給へるを、いたく例なき事とかやとて、人々かたぶき申す。院も驚き思(おぼ)されて、古(ふる)き事ども広(ひろ)く尋ねられなどすべし。
 院も内も、はひ渡る程(ほど)の近さなれば、御とのゐの人々など、日頃(ひごろ)よりも参り集(つど)ひて、御旅の雲井なれど、なかなか、いと顕証なり。北の対のつまなる紅梅の、いと面白(おもしろ)く咲きたるが、院の御前より御覧じやらるる程(ほど)なれば、雅家の宰相の中将
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して、いと艶になよびたる薄様に書かせ給ひて、院の上、
 色も香も重(かさ)ねてにほへ梅の花九重(ここのへ)になる宿のしるしに
とて、かの梅に結びつけさせらる。御返(かへ)し、弁の内侍うけたまはりて、申すべしと聞き侍りしを、なのめなりといふ事にて、大臣(おとど)、今出川より申されけるとかや。それも忘れ侍りぬるこそ口惜(くちを)しけれ。老はかくうきものにぞ侍るや。
 世の中とかく騒がしとて、年号かはる。三月十八日建長になりぬれど、猶(なほ)火災しづまらで、二十三日、またまた、姉小路室町、唐橋の大納言雅親の家のそばより火いできて、百余町焼(や)けたり。夥しともいふ方なし。
寛元四年の六月にも、恐(おそ)ろしき火侍りしかど、この度は、猶それよりも越えたり。かの雅親の大納言の家ばかり、四方は皆焼けたるに残れる、いといと不思議なりとぞ、見る人ごとにあざみける。暁より出できたる火、夜に入るまで消えず、未の時ばかりに、蓮華王院の御堂に燃えつきければ、俄に、院も御幸なる。御道すがらも、さながら煙を分けさせ給ふ。いとめづらかにあさまし。摂政殿も御車に参(まゐ)り給へり。三十三間の御堂の千体の千手、一時のほのほにたぐひ
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給へば、不動堂、北斗堂も残らず、宝蔵、鎮守ばかりぞ、辛うじてうちけちにける。後白河の院の、さばかり御志深う思(おも)ほし立ちて、長寛二年供養ありし後は、やむごとなき御寺なりつるに、あさましなどいふもおろかなり。又、今熊野の鐘楼、僧坊など、多(おほ)く焼けぬ。つじ風さへ吹きまじり吹きまじり、ほのほの飛ぶこと鳥の如し。またの朝まで燃えけり。その昼つ方、さきの火もえつきて後、双林寺といふわたりに、火いできて、なにがしの姫君の御もと、古(ふる)き昔の跡、皆、けぶりになりぬ。その火消えて後、又、夕つかた岡崎わたりに火いできて、摂政殿の御もと、少々(せうせう)焼けけり。又、承明門院の近き程にも、火いできて、人々参(まゐ)り集(つど)ふ。中御門より二条まで、また、火出できて、十八町焼(や)けぬ。すべて二十三日よりつごもりに及ぶまで、日をへ時をへて、あるは一日に二三度、二むら三むらにわけて燃えあがる。かかる程に、都は既に三分の二焼(や)けぬ。いといと珍らかなりし事なり。ただ事にあらずとて、院の御前に、陰陽師七人召して、御占行はる。重き御つつしみと申せば、御修法どもはじめ、山々にも、御祈(いの)り仕う奉るべき由(よし)、こと更に仰せらる。
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 院の上(うへ)の御有様(おんありさま)の、万(よろづ)にめでたくおはしますを思ふには、何の御つつしみも、なでふ事かあらんとぞ覚え侍る。位おりさせ給ひにし後は、年を経て、春の中に、必ずまづ石清水に七日御こもり、その中に、五部の大乗経供養せさせ給ふ。御下向の後は、やがて賀茂に御幸、平野、北野なども、さだまれる御事なり。寺には嵯峨の清涼寺、法輪、太秦などに御幸ありて、寺司に賞行(おこな)はれ、法師ばらに物かづけ、すべて神を敬ひ仏を尊びさせ給ふこと、来しかたも、行末も、例(ためし)あらじとぞ、世の人申しあひける。
 鳥羽殿も、近頃はいたう荒れて、池も水草がちにうもれたりつるを、いみじう修理し磨(みが)かせ給(たま)ひて、はじめて御幸(みゆき)なりし時(とき)、「池の辺(ほとり)の松」といふ事講ぜられしに、太政大臣(おほきおとど)、序を書(か)き給(たま)へりき。「夫鳥羽、仙洞三五累聖、離宮一百余載」とかや。又、御身のいみじき事には、「蓬の髪霜寒くて七代に伝へたり」と侍りしこそめでたけれ。
祝(いは)ひおく始(はじ)めと今日(けふ)を松が枝の千年(ちとせ)の影(かげ)に澄(す)める池水(いけみづ)
院の御製(ぎよせい)、
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影(かげ)うつす松にも千代の色見えて今日(けふ)すみそむるやどの池水(いけみづ)
大納言(だいなごん)の典侍(すけ)と聞(きこ)えしは、為家(ためいへ)の民部卿の娘(むすめ)なりしにや。
色かへぬ常盤(ときは)の松の影(かげ)添(そ)へて千代に八千代(やちよ)に澄(す)める池水(いけみづ)
ずん流(なが)るめりしかど、例(れい)のうるさければなん。御前の御遊(あそ)び始(はじ)まる程(ほど)、そり橋(はし)のもとに、龍頭鷁首(りようとうげきす)寄(よ)せて、いと面白(おもしろ)く吹(ふ)きあはせたり。かやうの事、常(つね)の御遊(あそ)び、いとしげかりき。
又、太政(おほき)大臣(おとど)の津(つ)の国(くに)吹田(すいた)の山荘にも、いとしばしばおはしまさせて、様々(さまざま)の御遊(あそ)び数(かず)を尽(つく)し、いかにせむともてはやし申(まう)さる。河に臨(のぞ)める家なれば、秋深(ふか)き月の盛(さか)りなどは、ことに艶(えん)ありて、門田(かどだ)の稲(いね)の風(かぜ)に靡(なび)く気色、妻(つま)どふ鹿(しか)の声(こゑ)、衣うつ砧(きぬた)の音、峰の秋風(あきかぜ)、野辺の松虫、とり集(あつ)め、あはれそひたる所(ところ)の様(さま)に、鵜飼(うかひ)などおろさせて、かがり火どもともしたる川のおもて、いと珍(めづら)しうをかしと御覧(ごらん)ず。日頃(ひごろ)おはしまして、人々に十首の歌召(め)されしついでに、院の御製(ぎよせい)、
川舟(かはふね)のさしていづくか我がならぬ旅とはいはじ宿(やど)と定(さだ)めん
と講(かう)じあげたる程(ほど)、主(あるじ)の大臣(おとど)いみじう興(きよう)じ給(たま)ふ。「此(こ)の家の面目(めいぼく)今日(けふ)に
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侍(はべ)る」とぞ宣(のたま)はする。げにさる事と、聞(き)く人皆(みな)誇(ほこ)らしくなん。
降(お)り居(ゐ)給(たま)へる太上天皇など聞(きこ)ゆるは、思(おも)ひやりこそ、大人(おとな)びさだ過(す)ぎ給(たま)へる心地(ここち)すれど、未(いま)だ三十(みそぢ)にだに満(み)たせ給(たま)はねば、万(よろづ)若(わか)う愛敬(あいぎやう)づき、めでたくおはするに、時(とき)のおとなにて重々(おもおも)しかるべき太政大臣(おほきおとど)さへ、何(なに)わざをせんと、御心にかなふべき御事をのみ思(おも)ひまはしつつ、いかで珍(めづら)しからんと、もて騒(さわ)ぎ聞(きこ)え給(たま)へば、いみじうはえばえしき頃(ころ)なり。御門、まして幼(をさな)くおはしませば、はかなき御遊(あそ)びわざより外(ほか)の御営(いとな)み無し。摂政殿さへ若(わか)く物し給(たま)へば、夜(よる)昼(ひる)候(さぶら)ひ給(たま)ひて、女房の中にまじりつつ、乱碁(らんご)・貝(かい)おほひ・手(て)まり・へんつきなどやうの事どもを、思(おも)ひ思(おも)ひにしつつ、日を暮(く)らし給(たま)へば、候(さぶら)ふ人々も、うち解(と)けにくく心づかひすめり。
節会(せちゑ)・臨時(りんじ)の祭(まつ)り、何(なに)くれの公事(くじ)どもを、女房にまねばせて御覧(ごらん)ずれば、太政大臣(おほきおとど)興(きよう)じ申(まう)し給(たま)ひて、ことさら、小(ちひ)さき笏(しやく)など作(つく)らせてあまた奉(たてまつ)り給(たま)へば、上も喜(よろこ)び思(おぼ)す。入道太政大臣(おほきおとど)の御娘(むすめ)大納言(だいなごん)の三位殿といふを関白になさる。按察(あぜち)の典侍隆衡(たかひら)の女・大納言(だいなごん)の典侍・中納言(ちゆうなごんの)典侍・勾当(こうたう)の内侍・弁(べん)の内侍・少将(せうしやう)の内侍、
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かやうの人々、皆(みな)男(をとこ)の官(つかさ)にあてて、其の役(やく)をつとむ。「いとからい事」とて、わびあへるもをかし。中納言の典侍(すけ)を権大納言(だいなごん)実雄の君になさるるに、「したうづはく事、いかにもかなふまじ」とて、曹司(ざうし)に下(お)るるに、上もいみじう笑(わら)はせ給ふ。弁の内侍、葦(あし)の葉に書(か)きて、彼(か)の局(つぼね)にさし置(お)かせける。
津の国(くに)の葦(あし)の下根(したね)のいかなれば波にしをれて乱(みだ)れがほなる
返(かへ)し、
津(つ)の国(くに)の葦(あし)の下根(したね)の乱(みだ)れわび心も波にうきてふる哉
五月五日、所々(ところどころ)より御かぶとの花・薬玉(くすだま)など、色々(いろいろ)に多(おほ)く参(まゐ)れり。朝餉(あさがれひ)にて、人々これかれ引きまさぐりなどするに、三条の大納言(だいなごん)公親の奉(たてまつ)れる、根に露おきたる蓬(よもぎ)の中に、ふかきといふ文字(もじ)を結(むす)びたる、糸(いと)の様(さま)もなよびかに、いと艶(えん)ありて見(み)ゆるを、上も御目(め)とどめて、「何(なに)とまれ、いへかし」と宣(のたま)ふを、人々も、およすけて見奉(たてまつ)るを、弁の内侍、
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あやめ草底(そこ)知(し)ら沼(ぬま)の長(なが)き根(ね)にふかきといふや蓬生(よもぎふ)の露
と、ありつる使(つか)ひ、はや帰(かへ)りにければ、蔵人を召(め)して、殿上より遣(つか)はしけり。御返り、公親、
あやめ草底知(し)ら沼(ぬま)の長(なが)き根(ね)を深き心にいかがくらべん
又其の頃(ころ)、天王寺に院の詣(まう)でさせ給ふついでに、住吉(すみよし)へも御幸(みゆき)あり。「神はうれし」と、後三条院仰(おほ)せられけん例(ためし)、思(おも)ひ出(い)でられ侍(はべ)りき。大宮院も御参(まゐ)りなれば、出車(いだしぐるま)ども、色々(いろいろ)の袖口(そでくち)ども、春秋の花紅葉(はなもみぢ)を、一度(ひとたび)に並(なら)べて見(み)る心地(ここち)して、いと美(うつく)しく、目(め)も輝(かかや)くばかりいどみ尽(つく)されたり。上達部・若(わか)き殿上人などは、例(れい)の狩襖(かりあを)、裾濃(すそご)の袴(はかま)など、珍(めづら)しき姿(すがた)どもを、心々(こころごころ)にうちまぜたり。釣殿(つりどの)の簀子(すのこ)に、人々候(さぶら)ひて、あまた聞(きこ)えしかど、さのみはいかでか。太政大臣実氏、
今日(けふ)やまた更(さら)に千(ち)とせを契(ちぎる)らん昔(むかし)にかへる住吉の松
さても、院の第一の御子(みこ)は、右中弁平の棟範(むねのり)の主(ぬし)の女、四条院に兵衛の内侍とて候(さぶら)ひしが、剣璽(けんじ)につきて渡(わた)り参(まゐ)れりしを、忍(しの)び忍(しの)び御覧(ごらん)じける程(ほど)に、
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其の御腹(おんはら)に出(い)で物し給(たま)へりしかど、当代(たうだい)生(むま)れさせ給(たま)ひにし後(のち)は、おし消(け)たれておはしますに、また建長元年、后腹(きさきばら)に二の宮(みや)さへさし続(つづ)き光(ひか)り出(い)で給(たま)へれば、いよいよ今(いま)は思(おも)ひ絶(た)えぬる御契(ちぎ)りの程(ほど)を、私物(わたくしもの)にいとあはれと思(おも)ひ聞(きこ)えさせ給(たま)ふ。源氏(げんじ)にやなし奉(たてまつ)らましなど思(おぼ)すに、猶(なほ)飽(あ)かねば、只(ただ)御子(みこ)にて、東(あづま)の主(あるじ)になし聞(きこ)えてんと思(おぼ)して、建長四年正月八日、院の御前にて御冠(かうぶり)し給ふ。御門の御元服にもほとほと劣(おと)らず。内蔵寮(くらづかさ)何(なに)くれ、清(きよ)らを尽(つく)し給ふ。やがて三品の位賜(たま)はり給ふ。御年十一なるべし。中務(なかづかさ)の卿宗尊親王(しんわう)と申すめり。
同(おな)じ二月十九日に、都(みやこ)を出(い)で給(たま)ふ。其の日将軍の宣旨(せんじ)冠(かうぶ)り給ふ。かかる例(ためし)は未(いま)だ侍らぬにや。上下、珍(めづら)しく面白(おもしろ)き事にいひ騒(さわ)ぐべし。御迎(むか)へに東(あづま)の武士どもあまた上(のぼ)り、六波羅(ろくはら)よりも名ある者十人、御送(おくり)に下(くだ)る。上達部・殿上人・女房など、あまた参(まゐ)るも、「院中の奉公にひとしかるべし。かしこに候(さぶら)ふとも、限(かぎ)りあらん官(つかさ)冠(かうぶ)りなどは、障(さは)りあるまじ」とぞ仰せられける。何事(なにごと)も、只(ただ)人がらによると見(み)えたり。きはことによそほしげなり。誠(まこと)に大(おほ)やけとなり給(たま)はずば、これよりまさる事、何事(なにごと)かあら
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ん。にぎははしく花やかさは並(なら)ぶ方(かた)無し。院の上も、忍(しの)びて、粟田口のほとりに御車立(た)てて御覧じ送(おく)りけるこそ、あはれに忝(かたじけ)なく侍れ。きびはに美(うつく)しげにて、はるばるとおはしますを、御母の内侍は、あはれに忝(かたじけ)なしと思(おも)ひ聞(きこ)ゆべし。かかれば、もとの将軍頼嗣三位中将は、其の四月に都へ上(のぼ)り給(たま)ひぬ。いとほしげにぞ見(み)え給(たま)ひける。さて、今(いま)下(くだ)り給(たま)へるを、もてあがめ奉(たてまつ)る様(さま)、いはん方(かた)無し。宮の中のしつらひ、御まうけの事など限(かぎ)りあれば、善見天の殊妙の荘厳もかくやとぞ覚えける。かやうにて今年(ことし)は暮(く)れぬ。
明くる年は建長五年なり。正月十三日御門御冠(かうぶり)し給(たま)ふ。御年(とし)十一、御諱(いみな)久仁と申(まう)す。いとあてにおはしませど、あまりささやかにて、又御腰(こし)などの怪(あや)しく渡(わた)らせ給ふぞ、口惜(くちを)しかりける。いはけなかりし御程(ほど)は、猶(なほ)いとあさましうおはしましけるを、閑院の内裏焼(や)けけるまぎれより、うるはしく立(た)たせ給(たま)ひたりければ、内の焼(や)けたるあさましさは何(なに)ならず、此(こ)の御腰(こし)の直(なほ)りたる喜(よろこ)びをのみぞ、上下思(おぼ)しける。
院の上、鳥羽殿におはします頃、神無月(かみなづき)の十日頃、朝覲(てうきん)の行幸し給ふ。世(よ)
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にある限(かぎ)りの上達部(かんだちめ)・殿上人仕(つか)うまつる。色々(いろいろ)の菊紅葉(もみぢ)をこきまぜて、いみじう面白(おもしろ)し。女院もおはしませば、拝し奉(たてまつ)り給ふを、太政大臣(おほきおとど)見(み)奉(たてまつ)り給ふに、喜(よろこ)びの涙ぞ人わろき程(ほど)なる。
例(ためし)なき我が身よいかに年たけてかかるみゆきに今日(けふ)仕(つか)へつる
げに、大方の世につけてだに、めでたくあらまほしき事どもを、我が御末(すゑ)と見給(たま)ふ大臣(おとど)の心地(ここち)、いかばかりなりけむ。
来(こ)し方(かた)も例(ためし)なきまで、高麗(こま)・唐土(もろこし)の綾錦(あやにしき)を立(た)ち重(かさ)ねたり。太政(おほき)大臣(おとど)ばかりぞねび給(たま)へれば、裏表(うらおもて)白(しろ)き綾(あや)の下襲(したがさね)を着(き)給(たま)へるしも、いとめでたくなまめかし。池には、うるはしく唐(から)のよそひしたる御船(みふね)二艘(にそう)漕(こ)ぎ寄(よ)せて、御遊(あそ)び様々(さまざま)の事どもめでたくののしりて、帰(かへ)らせ給(たま)ふひびきのゆゆしさを、女院も御心ゆきてきこしめす。
其の頃(ころ)ほひ、熊野の御幸(みゆき)侍(はべ)りしにも、よき上達部あまた仕(つか)うまつらせ給(たま)ふ。都出(い)でさせ給(たま)ふ日、例(れい)の桟敷(さじき)など、心ことにいどみかはすべし。車は立(た)てぬ事なりしかど、大宮院ばかり、それも出車はなくて、只(ただ)一両にて見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ひしこそ、やん事なさも面白(おもしろ)く侍(はべ)りけれ。弁(べん)の内侍、
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折(を)りかざすなぎの葉風の賢(かしこ)さに一人(ひとり)道ある小車の跡
御幸(みゆき)、熊野の本宮につかせ給(たま)ひて、それより新宮の川舟(かはふね)に奉りてさし渡(わた)す程(ほど)、川のおもて所せきまで続(つづ)きたるも、御覧(ごらん)じなれぬ様(さま)なれば、院(ゐん)の上、
熊野川(くまのがは)瀬(せ)ぎりに渡(わた)す杉舟のへなみに袖のぬれにける哉
其の後(のち)も、又程(ほど)無く御幸(みゆき)ありしかば、女院も参(まゐ)り給(たま)ひけり。皆人(みなひと)しろしめしたらん事、中々にこそ。



校註 増鏡

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第七 おりゐる雲
春過(す)ぎ夏たけ、年去(さ)り年(とし)きたれば、康元元年にもなりにけり。太政大臣(おほきおとど)の第二の御娘(むすめ)、〈 東二条院公子 〉女御に参(まゐ)り給ふ。女院の御はらからなれば、過(す)ぐし給(たま)へる程(ほど)なれど、かかる例(ためし)はあまた侍るべし。十二月十七日、豊の明(あ)かりの頃(ころ)なれば、内わたり花やかなるに、いとどうち添(そ)へて今(いま)めかしうめでたく、其の日御消息(せうそこ)を聞(きこ)え給(たま)ふ。
夕暮にまつぞ久(ひさ)しき千年(ちとせ)までかはらぬ色の今日(けふ)の例(ためし)を
関白書(か)かせ給(たま)ひけり。紅(くれなゐ)のにほひの箔(はく)もなき、八重に重(かさ)ねたるを、結(むす)びて包(つつ)まれたり。時成(な)りぬとて人々まう上(のぼ)りあつまる。女御の君、裏(うら)濃(こ)き蘇芳(すはう)七・濃(こ)き一重(ひとへ)・蘇芳(すはう)の表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の唐衣(からぎぬ)・濃(こ)き袴(はかま)奉(たてまつ)れり。准后添(そ)ひて参(まゐ)り給ふ。
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皆(みな)紅(くれなゐ)の八・萌黄(もえぎ)の表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の唐衣(からぎぬ)き給ふ。出車十両、皆(みな)二人づつ乗(の)るべし。一の車、左に一条殿太政(おほき)大臣(おとど)の娘(むすめ)、右に二条殿公俊(きんとし)の大納言(だいなごん)の女、二の左按察君隆衡(たかひら)〔の大納言(だいなごん)〕の女、右に中納言の君実任(さねたふ)の娘(むすめ)、三の左に民部卿殿、右別当殿、其の次々(つぎつぎ)くだくだしければとどめつ。御童(わらは)・下仕(しもづか)へ・御はした・御雑仕(ざふし)・御ひすましなどいふ物まで、かたちよきをえりととのへられたる、いみじう見所(みどころ)あるべし。御兄(せうと)の殿原、右大臣公相・内大臣公基参(まゐ)り給ふ。限(かぎ)りなくよそほしげなり。院の御子にさへし奉(たてまつ)らせ給(たま)へれば、
いよいよいつかれ給ふ様(さま)、いはん方(かた)無し。侍賢門院の、白河院の御子とて、鳥羽院に参(まゐ)り給(たま)へりし例(ためし)にやとぞ、心あてには覚(おぼ)え侍(はべ)りし。院の一(ひと)つ御腹(おんはら)の姫君、此(こ)の頃(ごろ)皇后宮とて、其の御方(かた)の内侍ぞ、御使(つか)ひに参(まゐ)る。まう上(のぼ)り給ふ程(ほど)も、女御はいとはづかしく、似(に)げなき事に思(おぼ)したれば、とみにはえ動(うご)かれ給(たま)はぬを、人々そそのかし申し給ふ。御太刀(たち)一条殿、御木丁按察殿、御火(ひ)とり中納言持(も)たれたり。上(うへ)は十四になり給ふに、女御は二十五にておはしける。
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御門、きびはなる御程(ほど)を、中々、あなづらはしきかたに思(おも)ひなし聞(きこ)え給(たま)ひぬべかりつるに、いとざれて、つつましげならず聞(きこ)えかかり給ふを、准后は美(うつく)しと見(み)奉(たてまつ)らせ給ふ。御衾(ふすま)は、紅(くれなゐ)のうち八四方(やつよほう)なるに、上(かみ)にはうはざしの組(くみ)あり。糸(いと)の色など、清(きよ)らにめでたし。例(れい)の事なれば、准后奉(たてまつ)り給ふ。太政(おほき)大臣(おとど)も、三日が程(ほど)は候(さぶら)ひ給ふ。上達部(かんだちめ)に勧盃(けんぱい)あり。
二十三日、又御消息(せうそこ)参(まゐ)る。御使(つか)ひ頭(とう)の中将通世、こたみも殿書(か)かせ給ふめり。此(こ)の頃、殿(との)と聞(きこ)ゆるは、太政大臣兼平の大臣(おとど)、岡(おか)の屋殿(やどの)の御弟(おとうと)ぞかし。後(のち)には照念院〔殿〕と申しけり。御手勝(すぐ)れてめでたく書(か)かせ給(たま)ひしよ。鷹司殿(たかつかさどの)の御家の始(はじ)めなるべし。
朝日(あさひ)影(かげ)今日(けふ)よりしるき雲の上の空にぞ千代の色も見(み)えける
御返し、太政大臣(おほきおとど)聞(きこ)え給ふ。
朝日(あさひ)影(かげ)あらはれそむる雲の上に行すゑ遠(とほ)き契をぞしる
女の装束(しやうぞく)、細長(ほそなが)添(そ)へてかづけ給ふ。
今日(けふ)はじめて、内(うち)の上(うへ)、女御の御方(かた)に渡(わた)らせ給ふ。御供(とも)に関白殿・右大臣
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公相・内大臣公基・四条の大納言(だいなごん)隆親・権大納言(だいなごん)実相良教通成・左大将基平など、おしなべたらぬ人々参(まゐ)り給ふ。餅(もちひ)の使(つか)ひ、頭中将隆顕仕(つか)うまつる。太政大臣(おほきおとど)、夜の御殿(おとど)よりとりいれ給ふ。御心の中のいはひ、いかばかりかとおしはからる。人々の禄(ろく)、紅梅(こうばい)のにほひ・萌黄(もえぎ)の表着(うはぎ)・葡萄染(えびぞ)めの唐衣(からぎぬ)・袿(うちき)・細長(ほそなが)・こしざしなど、しなじなに従(したが)ひて、けぢめあるべし。
かくて今年(ことし)は暮れぬ。正月、いつしか后に立(た)ち給ふ。只人(ただひと)の御女の、かく后・国母にて立(た)ち続(つづ)き候(さぶら)ひ給(たま)へる、例(ためし)稀(まれ)にやあらん。大臣(おとど)の御栄(さか)えな(ン)めり。御子二人(ふたり)大臣にておはす。公相・公基とて、大将にも左右(さう)に並(なら)びておはせしぞかし。これも、例(ためし)いとあまたは聞(きこ)えぬ事なるべし。我(わ)が御身太政大臣にて、二人(ふたり)の大将を引き具(ぐ)して、最勝講なりしかとよ、参(まゐ)り給(たま)へりし御勢(いきほ)ひのめでたさは、めづらかなる程(ほど)にぞ侍(はべ)りし。后・国母の御親(おや)、御門の御祖父(おほぢ)にて、誠(まこと)に其の器物(うつはもの)に足(た)りぬと見え給(たま)へり。昔(むかし)後鳥羽院(ごとばのゐん)に候(さぶら)ひし下野(しもつけ)の君は、さる世のふるき人にて、大臣(おとど)に聞えける。
藤波(ふぢなみ)の影(かげ)さしならぶ三笠山(みかさやま)人にこえたる梢とぞ見(み)る
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返し、大臣(おとど)、
思(おも)ひやれ三笠(みかさ)の山の藤の花咲(さ)きならべつつ見(み)つる心を
かかる御家の栄(さか)えを、自(みづか)らもやんごとなしと思(おぼ)しつづけてよみ給(たま)ひける。
春雨は四方の草木をわかねどもしげきめぐみは我が身也けり
正嘉元年の春の頃より、承明門院(しようめいもんゐん)御悩(なや)み重(おも)らせ給(たま)へば、院もいみじう驚(おどろ)かせ給(たま)ひて、御修法何(なに)かと聞えつれど、遂(つひ)に七月五日、御年八十七にてかくれさせ給(たま)ひぬ。ことわりの御年の程(ほど)なれど、昔(むかし)の御名残(なごり)とあはれにいとほしう、いたづき奉(たてまつ)らせ給(たま)ひつるに、あへなくて、御法事など懇(ねんご)ろにおきて宣(のたま)はする、いとめでたき御身なりかし。明(あ)くる年八月七日、二の皇子(みこ)〈 亀山の院 〉坊にゐ給(たま)ひぬ。御年十なり。万(よろづ)定(さだ)まりぬる世(よ)の中(なか)、めでたく心のどかに思(おぼ)さるべし。
其のまたの年、正嘉三年三月二十日なりしにや、高野御幸こそ、又来し方(かた)行(ゆ)くすゑも例(ためし)あらじと見ゆるまで、世の営(いとな)み、天(あめ)の下(した)の騒(さわ)ぎには侍(はべ)りしか。関白殿・左右大臣・内大臣・左右(さう)の大将・検非違使(けんびゐし)の別当を始(はじ)めて、残(のこ)るは少(すく)なし。馬・鞍、随身(ずいじん)・舎人(とねり)・雑色・童(わらは)の、髪(かみ)・かたち・たけ・姿(すがた)まで、かたほなるなくえりととのへ、
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心を尽(つ)くしたるよそほひども、かずかずは筆にも及(およ)び難(がた)し。かかる色もありけりと、珍(めづら)しく驚(おどろ)かるる程(ほど)になん。銀(しろかね)・黄金(こがね)を延(の)べ、二重(ふたへ)三重(みへ)の織物(おりもの)・縫物、唐(から)・大和(やまと)の綾錦(あやにしき)、紅梅(こうばゐ)の直衣(なほし)、桜(さくら)の唐(から)の木の紋(もん)・裾濃(すそご)・浮線綾(ふせんれう)、色々(いろいろ)様々(さまざま)なりし上(うへ)の衣・狩衣(かりぎぬ)、思(おも)ひ思(おも)ひの衣を出(い)だせり。いかなる龍田姫(たつたひめ)の錦(にしき)も、かかる類(たぐひ)はありがたくこそ見(み)え侍(はべ)りけれ。かたみに語(かた)らふ人はあらざりけめど、同(おな)じ紋(もん)も色も侍らざりけるぞ、不思議(ふしぎ)なる。あまりに染(そ)め尽(つく)して、某(なにがし)の中将とかや、紺村濃(こんむらご)の指貫(さしぬき)をさへぞ着(き)たりける。それしもめづらかにて、いやしくも見(み)え侍らざりけるとかや。院の御様(さま)かたち、所がらはいとど光(ひかり)を添(そ)へて、めでたく見(み)え給ふ。後土御門(ごつちみかど)の内大臣定通の御子の顕定の大納言(だいなごん)、大将望(のぞ)み給(たま)ひしを、院もさりぬべくおほせられければ、除目(ぢもく)の夜、殿(との)の内(うち)の者どもも心づかひして、侍るを心もとなく思(おも)ひあへるに、引きたがへて、先(さき)に聞(きこ)えつる公基の大臣(おとど)におはせしやらん、なり給(たま)へりしかば、怨(うら)みに堪(た)えず、頭(かしら)おろして、此(こ)の高野に篭(こも)り居(ゐ)給(たま)へるを、いとほしくあへ無しと思(おぼ)されければ、今日(けふ)の御幸(みゆき)のついでに、彼(か)の室(むろ)を尋(たづ)ねさせ給(たま)ひて、御対面(たいめん)あるべく仰(おほ)せられ遣(つか)はし
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たるに、昨日までおはしけるが、夜の間(ま)に、彼(か)の庵(いほり)をかきはらひ、跡(あと)もなくしなして、〔いと〕清(きよ)げに、白(しろ)き砂(すなご)ばかりを、ことさらに散(ち)らしたりと見(み)えて、人も無し。我が身は桂(かつら)の葉室の山庄へ逃(に)げ上(のぼ)り給(たま)ひにけり。その由(よし)奏(そう)しければ、「今更(いまさら)に見(み)えじとなり、いとからい心かな」とぞ、宣(のたま)はせける。
かくのみ所々(ところどころ)に御幸(みゆき)しげう、御心ゆく事隙(ひま)なくて、いささかも思(おぼ)し結(むす)ぼるる事もなく、めでたき御有様(おんありさま)なれば、仕(つか)うまつる人々までも、思(おも)ふ事なき世なり。吉田(よしだ)の院にても、常(つね)は御歌合などし給ふ。鳥羽殿には、いと久(ひさ)しくおはします折(をり)のみあり。春の頃、御幸ありしには、御門も御鞠(まり)に立(た)たせ給(たま)へり。二条の関白良実上鞠(あげまり)し給(たま)ひき。内(うち)の女房など召(め)して、池の御船(ふね)に乗(の)せて、物の音ども吹(ふ)きあはせ、様々(さまざま)の風流(ふりう)の破子(わりご)・引出物など、こちたき事どももしげかりき。又嵯峨(さが)の亀山(かめやま)のふもと、大井川(おほゐがは)の北(きた)の岸(きし)にあたりて、ゆゆしき院をぞ造(つく)らせ給(たま)へる。小倉の山(やま)の梢、戸無瀬(となせ)の滝(たき)も、さながら御垣(みかき)の内(うち)に見(み)えて、わざとつくろはぬ前栽(せんざい)も、おのづから情(なさ)けを加(くは)へたる所がら、いみじき絵師(ゑし)といふとも、筆及(およ)び難(がた)し。寝殿(しんでん)のならびに、乾(いぬゐ)にあたりて、西に薬草院、東(ひんがし)に
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如来寿量院などいふもあり。橘大后の昔(むかし)建(た)てられたりし壇林寺といひし、今(いま)は破壊(はゑ)して礎(いしずゑ)ばかりになりたれば、其の跡に浄金剛院といふ御堂を建(た)てさせ給(たま)へるに、道観上人を長老になされて、浄土宗を置(お)かる。天王寺の金堂うつさせ給(たま)ひて、多宝院とかや建(た)てられたり。川に臨(のぞ)みて桟敷(さじき)殿(どの)造(つく)らる。大多勝院(だいたしようゐん)と聞(きこ)ゆるは、寝殿(しんでん)の続(つづ)き、御持仏すゑ奉(たてまつ)らせ給(たま)へり。かやうの引き離(はな)れたる道は、廊(らう)・渡殿(わたどの)・そり橋(はし)などを遙(はる)かにして、すべていかめしう三葉(みつば)四葉(よつば)に磨(みが)きたてられたる、いとめでたし。
正元元年三月五日、西園寺(さいをんじ)の花ざかりに、大宮院、一切経供養せさせ給ふ。年頃(としごろ)思(おぼ)しおきてけるをも、いたくしろしめさぬに、女の御願にて、いと賢(かしこ)く、ありがたき御事なれば、院も同(おな)じ御心にゐ立(た)ち宣(のたま)ふ。楽屋(がくや)の者ども、地下も殿上も、なべてならぬをえりととのへらる。其の日になりて行幸あり。春宮も同(おな)じく行啓(ぎやうげい)なる。大臣・上達部、皆(みな)上(うへ)の衣(きぬ)にて、左右(さう)にわかれて、御階(はし)の間の勾欄(かうらん)に著(つ)き給ふ。法会の儀式(ぎしき)、いみじくめでたき事ども、まねび難(がた)し。
又の日、御前の御遊(あそ)び始(はじ)まる。御門〈 後深草院 〉御琵琶(びは)、春宮御笛、まだいと小(ちひ)さき
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御程(ほど)に、びむづら結(ゆ)ひて、御かたちまほに美(うつく)しげにて、吹(ふ)きたて給(たま)へる音の、雲井を響(ひび)かして、あまり恐(おそ)ろしき程(ほど)なれば、天(あま)つ乙女もかくやと覚(おぼ)えて、太政大臣(おほきおとど)〔実氏〕、事忌(ことい)みも〔え〕し給(たま)はず、目(め)おしのごひつつためらひかね給(たま)へるを、ことわりに、老しらへる大臣・上達部など、皆(みな)御袖どもうるほひ渡(わた)りぬ。女院の御心の内(うち)、ましておき所なく思(おぼ)さるらんかし。前(さき)の世に、いかばかり功徳(くどく)の御身にて、かく思(おぼ)す様(さま)にめでたき御栄(さか)えを見給ふらんと、思(おも)ひやり聞(きこ)ゆるも、ゆゆしきまでぞ侍(はべ)りし。御遊(あそ)び果てて後(のち)、文台めさる。院の御製(ぎよせい)、
色々(いろいろ)に枝をつらねて咲(さ)きにけり花も我が世も今盛(さか)りかも
あたりをはらひて、きはなくめでたく聞(き)こえけるに、主(あるじ)の大臣(おとど)、歌さへぞ、かけあひて侍(はべ)りしや。
色々(いろいろ)にさかへて匂(にほ)へ桜花我君々(きみぎみ)の千代のかざしに
末(すゑ)まで多(おほ)かりしかど、例(れい)のさのみはにて、とどめつ。いかめしうひびきて帰(かへ)らせ給(たま)ひぬる又の朝、無量光院の〔花の〕もとにて、大臣(おとど)、昨日(きのふ)の名残思(おぼ)し出(い)づるもいみじうて、
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此(こ)の春ぞ心の色はひらけぬる六十(むそぢ)あまりの花は見(み)しかど
其の年(とし)の八月二十八日、春宮十一にて御元服し給ふ。御諱(いみな)恒仁(つねひと)と聞(きこ)ゆ。世(よ)の中(なか)に様々(やうやう)ほのめき聞ゆる事あれば、御門は飽(あ)かず心細(ぼそ)う思(おぼ)されて、夜居(よゐ)の間(ま)の静(しづ)かなる御物語(おんものがたり)のついでに、内侍所の御拝の数(かず)をかぞへられければ、五千七十四日なりけるを承(うけたまは)りて、弁(べん)の内侍、
千代といへば五(いつ)つ重(かさ)ねて七十(ななそぢ)に余(あま)る日数(ひかず)を神は忘(わす)れじ
かくて、十一月二十六日、おり居(ゐ)させ給ふ夜、空の気色さへあはれに、雨うちそそぎて、物悲(がな)しく見(み)えければ、伊勢の御(ご)が、「あひも思(おも)はぬももしきを」といひけんふる事さへ、今(いま)の心地(ここち)して、心細(ぼそ)くおぼゆ。上も思(おぼ)しまうけ給(たま)へれど、剣璽(けんじ)の出(い)でさせ給ふ程(ほど)、常(つね)の御幸(みゆき)に御身を離(はな)れざりつるならひ、十三年の御名残、引きわかるるは、猶(なほ)いとあはれに、忍(しの)びがたき御気色(けしき)を、悲(かな)しと見(み)奉(たてまつ)りて、弁(べん)の内侍、
今(いま)はとており居(ゐ)る雲のしぐるれば心の内(うち)ぞかき暗(くら)しける



校註 増鏡

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〔ますかがみ中〕
第八 山のもみぢ葉
正元元年十一月二十六日、譲位(じやうゐ)の儀式常のごとし。十二月二十八日御即位(そくゐ)。万(よろづ)めでたく、あるべき限(かぎ)りにて、年もかへりぬ。おりゐの御門は、十二月(しはす)の二日、太上天皇の尊号ありて新院と聞(きこ)ゆ。本院と常は一(ひと)つに渡(わた)らせ給(たま)ひて、御遊(あそ)びしげう心やりて、中々いとのどやかにめやすき御有様(おんありさま)に、思(おぼ)しなぐさむやうなり。中宮も、院号(ゐんがう)の後は、東二条院と聞(きこ)ゆ。二条富小路(とみのこうぢ)にぞ渡(わた)らせ給ふ。太政大臣(おほきおとど)も入道し給(たま)ひぬ。常盤井とて、大炊御門(おほひのみかど)京極(きやうごく)なる所にぞ、折々(をりをり)住(す)み給ふ。此(こ)の入道殿の御弟(おとと)に、其の頃、右大臣実雄と聞(きこ)ゆる、姫君(ひめぎみ)あまた持(も)ち給(たま)へる中に、すぐれたるをらうたき物に思(おぼ)しかしづく。今上の女御代に出(い)で給(たま)ふべきを、やがて其のついで、文応元年、入内あるべく思(おぼ)しおきてたり。院にも
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御気色賜(たま)はり給ふ。入道殿の御孫の姫君(ひめぎみ)も、参(まゐ)り給ふべき聞(きこ)えはあれど、さしもやはと、おし立(た)ち給ふ。いとたけき御心なるべし。
此(こ)の姫君(ひめぎみ)、御兄(せうと)あまたものし給(たま)ふ中(なか)の兄(このかみ)にて、中納言公宗と聞(きこ)ゆる、いかなる御心かありけむ、したたく煙(けぶり)にくゆりわび給ふぞ、いとほしかりける。さるは、いとあるまじき事と思(おも)ひはなつにしも、従(したが)はぬ心の苦(くる)しさを、起(お)き臥(ふ)し葦(あし)のねなきがちにて、御いそぎの近(ちか)づくにつけても、我彼(か)の気色にてのみほれ過(すぐ)し給(たま)ふを、大臣(おとど)は又いかさまにかと苦(くる)しう思(おぼ)す。初秋風(はつあきかぜ)気色だちて、艶(えん)なる夕暮に、大臣(おとど)渡(わた)り給(たま)ひて見給(たま)へば、姫君(ひめぎみ)、うす色に女郎花(をみなへし)など引き重(かさ)ねて、木丁に少(すこ)しはづれてゐ給(たま)へる様(さま)かたち、常よりもいふ由(よし)なく、あてに匂(にほ)ひ満(み)ちて、らうたく見(み)え給ふ。御髪(みぐし)いとこちたく、五重(いつへ)の扇(あふぎ)とかやを広(ひろ)げたらん様(さま)して、少(すこ)し色なるかたにぞ見(み)え給(たま)へど、筋(すぢ)こまやかに、額(ひたい)より裾(すそ)までまがふ筋(すぢ)なく美(うつく)し。只人(ただひと)には、げに惜(を)しかりぬべき人がらにぞおはする。木丁おしやりて、わざとなく拍子(ひやうし)うちならして、御箏(こと)弾(ひ)かせ奉(たてまつ)り給ふ。折(をり)しも中納言参(まゐ)り給(たま)へり。「こち」と宣(のたま)へば、うちかしこまりて、御簾(みす)の内(うち)に候(さぶら)ひ
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給ふ様(さま)かたち、此(こ)の君しもぞ又いとめでたく、あくまでしめやかに、心の底(そこ)ゆかしう、そぞろに心づかひせらるるやうにて、こまやかになまめかしう、すみたる様(さま)して、あてに美(うつく)し。いとどもてしづめて、騒(さわ)ぐ御胸(むね)を念(ねん)じつつ、用意(ようい)を加(くは)へ給(たま)へり。笛少(すこ)し吹(ふ)きなどし給(たま)へば、雲井にすみ上(のぼ)りて、いと面白(おもしろ)し。御箏(こと)の音のほのかにらうたげなる、かきあはせの程(ほど)、中々聞(き)きもとめられず、涙浮(う)きぬべきを、つれなくもてなし給ふ。撫子(なでしこ)の露もさながらきらめきたる小袿(こうちき)に、御髪(みぐし)はこぼれかかりて、少(すこ)し傾(かたぶ)きかかり給(たま)へる傍(かたはら)め、まめやかに、光(ひかり)をはなつとは、かかるをやと見(み)え給ふ。よろしきをだに、人の親(おや)はいかがは見なす。ましてかく類(たぐひ)なき御有様(おんありさま)どもな(ン)めれば、よに知(し)らぬ心の闇(やみ)にまよひ給ふも、ことわりなるべし。
十月二十二日、参(まゐ)り給(たま)ふ儀式(ぎしき)、これもいとめでたし。出車十両、一の車の左は大宮殿二位の中将基輔(もとすけ)の女、〔三位の中将実平の女〕とぞ聞(きこ)えし。二の左は春日、三位の中将実平の女。右は新大納言(だいなごん)、此(こ)の新大納言(だいなごん)は、為家(ためいへ)の大納言(だいなごん)の女とかや聞(き)こえしにや。それより下(しも)は、〔まして〕くだくだしければむつかし。御雑仕(ざふし)、青柳(あをやぎ)・梅が枝(え)・高砂(たかさご)・貫川(ぬきがは)といひし。此(こ)の
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貫川(ぬきがは)を、御門忍(しの)びて御覧(ごらん)じて、姫宮(ひめみや)一所(ひとところ)出(い)で物し給(たま)ひき。其の姫宮(ひめみや)は、末(すゑ)に近衛の関白〈 家基 〉の北政所になり給(たま)ひにき。万(よろづ)の事よりも、女御の御様(さま)かたちのめでたくおはしませば、上も思(おも)ほしつきにたり。女御は十六にぞなり給ふ。御門は十二の御年なれど、いと大人(おとな)しくおよすけ給(たま)へれば、めやすき御程(ほど)なりけり。彼(か)の下(した)くゆる心地(ここち)にも、いと嬉(うれ)しき物から、心は心として、胸(むね)のみ苦(くる)しきさまなれば、忍(しの)びはつべき心地(ここち)し給(たま)はぬぞ、遂(つひ)にいかになり給(たま)はんと、いとほしき。程(ほど)もなく后立(きさきだ)ちありしかば、大臣(おとど)、心ゆきて思(おぼ)さるる事限(かぎ)り無し。
西園寺(さいをんじ)の女御も、さし続(つづ)きて参(まゐ)り給ふを、いかさまならんと御胸(むね)つぶれて思(おぼ)せど、さしもあらず。これも九にぞなり給(たま)ひける。冷泉(れいぜい)の大臣(おとど)公相(きんすけ)の御女なり。大宮院の御子にし給(たま)ふとぞ聞(きこ)えし。いづれも離(はな)れぬ御中に、いどみきしろひ給(たま)ふ程(ほど)、〔いと〕聞(き)きにくき事もあるべし。宮仕(づか)へのならひ、かかるこそ昔(むかし)人は面白(おもしろ)くはえある事にし給(たま)ひけれど、今(いま)の世の人の御心どもは、あまりすくよかにて、みやびをかはす事のおはせぬなるべし。これも后(きさき)に立(た)ち給(たま)へば、もとの中宮はあがりて、皇后宮とぞ聞(きこ)え給ふ。今(いま)の后(きさき)は遊(あそ)びにのみ心入れ給(たま)ひて、しめやかに
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も見え奉(たてまつ)らせ給(たま)はねば、御覚(おぼ)え劣(おと)りざまに聞(きこ)ゆるを、思(おも)はずなる事に、世(よ)の人もいひさたしたり。父(ちち)大臣(おとど)も、心やましく思(おぼ)せど、さりともねび行(ゆ)き給(たま)はばと、只今(ただいま)は怨(うら)み所(どころ)なく思(おぼ)しのどめ給ふ。
かくて、弘長三年二月(きさらぎ)の頃、大方(おほかた)の世の気色もうららかに霞(かす)み渡(わた)るに、春風ぬるく吹きて、亀山(かめやま)殿(どの)の御前の桜(さくら)ほころびそむる気色、常(つね)よりもことなれば、行幸あるべく思(おぼ)しおきつ。関白二条殿良実(よしざね)、此(こ)の三年(みとせ)ばかり又返(かへ)りなり給(たま)へば、御随身(みずいじん)ども花を折(を)りて、行幸よりも先(さき)に参(まゐ)りまうけ給ふ。其のほかの上達部(かんだちめ)も、例のきらきらしき限(かぎ)り、残(のこ)るは少(すく)なし。新院も両女院も渡(わた)らせ給ふ。御前の汀(みぎは)に船ども浮(う)かべて、をかしき様(さま)なる童(わらは)、四位の若(わか)き程(ほど)乗(の)せて、花の木かげより漕(こ)ぎ出(い)でたる程(ほど)、二(に)なく面白(おもしろ)し。舞楽(ぶがく)様々(さまざま)曲など手を尽(つく)されけり。御遊の後、人々歌奉(たてまつ)る。「花契遐年」といふ題なりしにや。内の上の御製(ぎよせい)、
尋(たづ)ね来てあかぬ心にまかせなば千とせや花のかげに過(す)ごさん
かやうのかたまでも、いとめでたくおはしますとぞ、古(ふる)き人々申すめりし。かへら
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せ給(たま)ふ日、御贈(おく)り物ども、いと様々(さまざま)なる中に、延喜の御手本を、鴬のゐたる梅の造(つく)り枝につけ奉(たてまつ)らせ給ふとて、院の上(うへ)〈 後嵯峨 〉
梅が枝(え)に代々の昔(むかし)の春かけてかはらず来(き)居(ゐ)る鴬(うぐひす)の声
御返しを忘(わす)れたるこそ、老のつもり、うたて口惜(くちを)しけれ。
其の年にや、五月の頃、本院、亀山(かめやま)殿(どの)にて如法経書(か)かせ給ふ。いとありがたくめでたき御事ならんかし。後白河院(ごしらかはのゐん)こそかかる御事はせさせ給(たま)ひけれ。それも御髪(みぐし)おろして後(のち)の事なり〔けり〕。いとかく思(おぼ)し立(た)たせ給(たま)へる、いみじき御願なるべし。さるは、あまた度(たび)侍(はべ)りしぞかし。男(をとこ)は、花山院の中納言師継(もろつぐ)一人候(さぶら)ひ給(たま)ひける。やんごとなき顕密の学士どもを召(め)しけり。昔(むかし)、上東門院も行(おこな)はせ給(たま)ひたりし例(ためし)にや、大宮院、同(おな)じく書(か)かせおはしますとぞ承(うけたまは)りし。十種供養果てて後(のち)は、浄金剛院へ御自(みづか)ら納(をさ)めさせ給(たま)へば、関白・大臣・上達部歩(あゆ)み続(つづ)きて御供(とも)仕(つか)うまつられけるも、様々(さまざま)珍(めづら)しく面白(おもしろ)くなん。
其の年(とし)九月十三夜、亀山(かめやま)殿(どの)の桟敷(さじき)殿(どの)にて、御歌合せさせ給ふ。かやうの事は、白河殿にても鳥羽殿にても、いとしげかりしかど、いかでかさのみはにて、皆(みな)もらし
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ぬ。此(こ)の度(たび)は、心ことに磨(みが)かせ給ふ。右は関白殿にて歌ども撰(え)りととのへらる。左は院の御前にて御覧(ごらん)ぜられける。此(こ)の程(ほど)殿と申すは、円明寺殿〈 又一条殿と申す 〉の御事なり。新院の御位の初(はじ)めつかた、摂政にていませしが、又此(こ)の一年(ひととせ)ばかり、かへりならせ給(たま)へり。前(さき)の関白殿は、院の御方に候(さぶら)はせ給ふ。其の外(ほか)すぐれたる限(かぎ)り。右は関白殿・今出川(いまでがは)の太政大臣(おほきおとど)・皇后宮の御父(ちち)の左大臣殿より下(しも)、皆(みな)此(こ)の道の上手(じやうず)どもなり。左は大殿(おほとの)よりかずだてつくりて、風流(ふりう)の州浜(すはま)、沈(ぢん)にて作(つく)れる上(うへ)に、白金の舟(ふね)二に、色々(いろいろ)の色紙(しきし)を書(か)き重(かさ)ねてつまれたり。数も沈(ぢん)にて作(つく)りて舟(ふね)に入(い)れらる。左右(さう)の読師、一度(いちど)に御前に参(まゐ)りてよみあぐ。左具氏(ともうぢ)の中将、右行家なり。山紅葉、本院の御製(ぎよせい)、
外(よそ)よりは時雨もいかが染(そ)めざらん我が植(う)ゑて見(み)る山のもみぢ葉(ば)
遂(つひ)に、左御勝(か)ちの数(かず)まさりぬ。披講果てて夜深(ふ)け行(ゆ)く程(ほど)に、御遊(あそ)び始(はじ)まる。笛は花山院の中納言長雅・茂道の中将、笙は公秋(きんあき)の中将にておはせしにや。篳篥(ひちりき)は忠輔(ただすけ)の中将、琵琶は太政大臣(おほきおとど)〈 公相 〉、具氏(ともうぢ)の中将も弾(ひ)き給(たま)ひけるとぞ。御簾(みす)の内(うち)にも御箏(こと)どもかきあはせらる。東(ひんがし)の御方(かた)と聞(きこ)えしは、新院の若宮(わかみや)の御母君にや。刑部卿の君
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もひかれけり。楽のひまひまに、太政大臣(おほきおとど)・土御門(つちみかど)の大納言(だいなごん)通成など朗詠し給ふ。忠輔(ただすけ)・公顕(きんあき)、声(こゑ)加(くは)へたる程(ほど)面白(おもしろ)し。河浪も深(ふ)けゆくままにすごう、月は氷をしける心地(ここち)するに、嵐の山の紅葉、夜の錦(にしき)とは誰かいひけん、吹(ふ)きおろす松風(まつかぜ)にたぐひて、御前の簀子(すのこ)にて、御酒(みき)参(まゐ)るかはらけの中(うち)などに散(ち)りかかる、わざと艶(えん)なることのつまにもしつべし。若(わか)き人々は、身にしむばかり思(おも)へり。うち乱(みだ)れたる様(さま)に、各(おのおの)御かはらけどもあまた度(たび)下(くだ)る。明(あ)け行(ゆ)く空も名残多(おほ)かるべし。
誠(まこと)や、此(こ)の年頃、前内大臣〈 基家 〉、為家(ためいへ)の大納言(だいなごん)入道・侍従二位行家・光俊の弁(べん)の入道など、承(うけたまは)りて、撰歌の沙汰(さた)ありつる、只(ただ)今日(けふ)明日(あす)ひろまるべしと聞(きこ)ゆる、面白(おもしろ)うめでたし。彼(か)の元久の例(ためし)とて、一院自(みづか)ら磨(みが)かせ給(たま)へば、心ことに、光そひたる玉どもにぞ侍るべき。年月(としつき)に添(そ)へては、いよいよ、外(ほか)ざまに分(わ)くる方なく、栄(さか)えのみまさらせ給ふ御有様(おんありさま)のいみじきに、此(こ)の集の序にも、「やまと島根(しまね)はこれ我が世なり、春風に徳を仰(あふ)がんと願(ねが)ひ、和歌の浦も又我が国也、秋の月に道をあきらめん」とかや書(か)かせ給(たま)へりける、げにぞめでたきや。
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金葉集ならでは、御子(みこ)の御名のあらはれぬも侍らねど、此(こ)の度(たび)は、彼(か)の東(あづま)の中務(なかづかさ)の宮の御名(な)のりぞ書(か)かれ給(たま)はざりける、いとやんごとなし。新古今の時ありしかばにや、竟宴(きやうえん)といふ事行(おこな)はせ給ふ、いと面白(おもしろ)かりき。此(こ)の集をば、続古今(しよくこきん)と申(まう)すなり。



校註 増鏡

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第九 北野の雪
 文永も三年になりぬ。卯月に、蓮華王院の供養に御幸あり。一の院は、あか色の上(うへ)の御ぞ、新院は、青色の御袍奉(たてまつ)れり。女院 大宮 の御車に、平准后も参(まゐ)り給ふ。人だまひ三輛は、綿入れる五つぎぬなり。御車の尻に仕(つか)うまつられたる上臈だつ人のにや。あはせの五つぎぬ、藤のうはぎ、袖口出(いだ)さる。御幸には、上達部は、皇后宮の大夫師継を上首にて十人、殿上人十二人、御随身ども、藤、山吹をつけたり。居飼、御厩舎人まで、世になくきらめきたり。常の見物に過ぎたるべし。行幸は、当日の午の時ばかりなるに、諸司百官残(のこ)るなし。左右の大臣、薄色、蘇芳などなり。右大将通雅、花橘の下襲、権中納言公藤、同じ色、左大将家経、蘇芳の下襲、萌黄の上の袴、侍従の中納言為氏、権中納言通基、左衛門の督通頼、
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衣笠の宰相の中将経平、これらは、皆蘇芳の下がさね、萌黄の上の袴なり。別当高定、宰相の中将通持、三位の中将実兼、右衛門の督師親、殿上人には、頭中将具氏、忠秀、この人々は、松重の下がさね、藤の上(うへ)のはかま、同(おな)じ色なる、念なしとぞ沙汰(さた)ありける。具氏は、花橘の下がさねを著給へりしと、申す人も侍りしは、いづれか誠(まこと)なりけん。近衛の将曹二十四人、とりどり色々(いろいろ)に織り尽したる、めでたかりけり。関白殿御事にて参り給ふ。まづ女院の御車東の廂の北の妻戸へ、左右大臣寄(よ)せらる。院司の大納言通成、事の由(よし)を奏せられて、楽屋の乱声など、常の如し。御寺の儀式、ありし法勝寺にかはらず。御導師は聖基僧正、御方々の引出物ども、いとゆゆしう、法師ばらのたけとひとしき程に、積み重ねたり。万歳楽、地久など、賞仰せらる。人々の禄、関白殿には、織物の袿(うちき)一重(かさ)ね、蔵人頭とりて奉(たてまつ)る。大臣には綾の袿(うちき)、納言は平絹なり。御門新院、御対面の儀式など、定めて男の記録に侍らんかし。御願文の清書は経朝の三位、
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料紙は紫の色紙、額は、かの建て始められし長寛に、教長書きたりけるが、焼けざりければ、この度も、それをぞ用ひられける。
 かくて、少し人々の心のどかに、うちしづまりて思さるるに、東に、何事にか、煩しき事出できにたりとて、将軍 宗尊親王 七月八日、俄なるやうにて、御上(のぼ)りありけり。かねては、始めて御上(のぼ)りあらん時の儀式など、二(に)なくめでたかるべき由(よし)をのみ聞きしに、思ひかけぬ程に、いとあやしき御有様にて、御上(のぼ)りあり。御下(くだ)りの折(をり)、六波羅の北の方に建てられたりし檜皮屋に、落ちつかせおはしましぬ。この頃、東に世の中おきてはからふ主(ぬし)は、相模の守時宗と、左京の権の大夫政村朝臣なり。時宗といふは、時頼朝臣の嫡子、政村とは、ありし義時の四郎なり。京の南六波羅は、陸奥の守時茂、式部の大輔時輔とぞ聞ゆる。
中務の御子の御上(のぼ)りの代(か)はりに、かの御子の三つになり給ふ若君達、近衛殿の姫君の御腹ぞかし。七月二十七日に、将軍の宣旨蒙らせ給ひて、やがて四品し給ふ。経任の中納言を御使にて、東へ下されなどして、苦しからぬ御事になりぬとて、十月ばかりに、故承明門院の御跡、土御門万里の小路殿へ御移ろひありて後
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ぞ、院の上(うへ)、御母准后なども参り、始めて御対面あり。さるべき人々も、参り仕うまつりなどして、世の常の御有様にはなりにけれど、建長四年、御年十一にて御下りありし後、今まで十五年が程(ほど)、賑ははしく、いみじうもて崇められさせ給ひて、ゆゆしかりつる御住居にひきかへて、物淋しく心細うなど、思さるる折々もありけるにや、
 虎とのみもてなされしは昔(むかし)にて今(いま)は鼠のあなう世の中
又、雪のいみじう降りたる朝(あした)、右近の馬場の方御覧じにおはしまして、よませ給ひける、
 猶(なほ)頼(たの)む北野の雪の朝ぼらけ跡なきことにうづもるる身は
など聞えき。大方、この御子の、歌の聖(ひじり)にておはします事、皆人の口に侍るべし。「枯野の眞葛霜とけて」なども、人ごとに、めでののしる御歌なるべし。されば、世を乱らんなど、思ひよりけるもののふの、このみこの御歌すぐれてよませ給ふを、夜(よる)昼(ひる)、いとむつまじく仕(つか)うまつりける程(ほど)に、おのづから、同じこころなるものなど多(おほ)くなりて、宮のみ気色(けしき)あるやうに、いひなしけるとか
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や。
 又の年二月には、亀山殿の浄金剛院にて、十五日、涅槃の儀式を移(うつ)し行はせ給ふ。それより五日の御八講に、人々才(ざえ)賢き限りを選び召しけり。大殿にも西八条にて、故東山殿の御ために、八講行はせ給ふ。関白殿 二条殿 も、光明峰寺にて、結縁灌頂とり行はる。鷹司殿には、昔の御北の方の十三年の法事とて、大宮殿にていかめしき事ども営(いとな)ませ給ふ。中に絵像の阿弥陀、余五将軍の臨終仏なりけるを、恵心の僧都伝へられたりけるを、持たせ給ひて、供養し給ふ。常の御様(さま)には変(か)はり給ひて、化仏の御光など、めでたくおはしましけり。ここもかしこも、尊き事のみ耳に満(み)ちて、劫濁とはいひ難(がた)し。安嘉門院も、御法事行(おこな)はる。男も法師もいとまなく、あかれあかれ参り仕うまつらる。仏法の盛とぞ見えたる。その頃、殿の大将、内大臣になり給ひぬ。節会はつるままに、大饗行はる。尊者には、新大納言為氏参られけり。御遊など、例の事ども面白(おもしろ)くなん。今出川の中納言実兼も、琵琶弾き給ふ。春の曙(あけぼの)の艶なるに、物の音もてはやさるべし。その頃、又、東二条院熊野へ御参(まゐ)り、めでたかりし事どもも、
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あまりになれば、さのみはにて漏しつ。
 かくて、四月二十三日より、院の上は、又、亀山殿にて御如法経あそばす。女院も書かせおはしましけり。五月二十三日、十種供養の御経二部、浄土の三部経も書かせ給へり。斎会の御有様(おんありさま)は、いつよりも猶(なほ)いみじ。時なりて寝殿の御しつらひ、浄土の荘厳も、かばかりにこそと見えて、玉の幡、瑠璃の天蓋、天に光を輝(かがや)かし、金銀の飾(かざ)り、地を照せる様(さま)、筆も及び難(がた)し。上達部左右につき給ふ。左大臣基平、内大臣家経、大納言は良教、資季、通成、師継、通雅。中納言は公藤、長雅、通教、経俊。宰相は時継、資平、宗雅、雅言、具氏など候(さぶら)はる。盤渉調の調子を吹きて、天童二人、玉の幡を捧(ささ)げて、伝供ども次第に奉る程(ほど)、鳥向楽を吹き出したり。中島に楽屋は飾(かざ)られたれば、橋の上を、楽人つらねて参る程、院の上も出でさせ給ひて、伝供に立ち加(くは)はらせおはします御様(さま)いとかたじけなくめでたし。関白殿、太政大臣、左大臣、内大臣、皆伝供に従はせ給ふ。宗明楽、秋風楽を奏して、繰り返したる程、面白(おもしろ)き事、身の毛もたつばかりなり。御前の御遊には、笙は公藤、通頼、房名、宗雅、笛は長雅、師親、相保、篳篥
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は実成朝臣、光顕、御琵琶は、新院、今出川の中納言実兼、富の小路の三位公成、箏は大納言の二位殿、院の上この頃、又なき御めしうど、故入道相国の御女とぞ聞えし。又刑部卿 中宮の御母 、少納言、新兵衛、男には、良教の大納言などぞひかれける。勝れたる上手どもの、手を尽し給ひけんは、弥勒菩薩も、いかばかりゑみを含み給ひけん。御経一部は、北野の社へ御奉納あり。今一部と三部経は、八幡へ御幸ありて、籠め奉らせ給ふ。女院の書かせおはしましたるは、横川にぞ籠められける。かく同(おな)じ御心に、仏法の御営(いとな)みも、やむごとなくのみおはしますこそ、聖武天皇、光明皇后の御例(ためし)にやと、ありがたく承りしか。
 今年、五月雨、常よりも晴間なくて、伊勢の宮河も岸をひたして、斎宮の御参(まゐ)りも御船なり。祭主も別の船にて、御供仕うまつる。道すがら、歌うたひ、糸竹の調(しら)べなどして、面白(おもしろ)く遊び暮(く)らす。御下(くだ)りの後、四とせになりぬ。古き例にまかせて、准后の宣旨参(まゐ)る。御使に中院の少将為定朝臣下りて、事の由(よし)申す。殿上に召して、裳、唐衣禄給(たま)ふ。舞踏して後(のち)、都の物語など、さるべきおとなだつ人々に、少し聞えかはす。艶なる心地(ここち)して、ただの宮ばらならば、
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はかなし事なども聞えぬべけれど、かうがうしく、けどほき御有様なれば、すくよかにてまかでぬ。
 その年九月の頃、左の大臣 近衛殿 の日野山庄へ、一の院、新院、大宮院御幸あり。世になき清(きよ)らを尽(つく)さる。銀金の御皿ども、螺鈿の御台、うち敷、見なれぬ程の事どもなり。院の御分、御小直衣皆具、夜の御衾、白御太刀、御馬二疋、唐綾、魚綾などにて、二階つくられて、御草子箱、御硯は、世々を経て重き宝の石なり。管絃の御厨子、楽器、色々(いろいろ)の綾錦などにて、造りて置(お)かる。女院の御かた、新院の御分なども同じやうなり。大納言の二位殿にも、装束、まもりの筥まで、いとなまめかしう、清らなるものどもありける。上達部、殿上人にも、馬牛ひかる。銀のかたみを五つ組ませて、松茸入れらる。山へ皆入らせおはしまして、御覧の後、御かはらけ幾返となくきこしめせば、人々も酔ひ乱(みだ)れ、様々(さまざま)にて過ぎぬ。
 その同(おな)じ頃、安嘉門院、丹後の天の橋立御覧じにとておはします。それより
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但馬の城崎のいでゆめしに、下らせ給ふ。為家の大納言、光成の三位など、御供仕(つか)うまつらる。この女院の御有様(おんありさま)ぞ、又、いといみじう、来しかた行く末の例(ためし)にもなりぬべく、万(よろづ)の事、御心のままに、好(この)ましくものし給ひける。童舞、白拍子、田楽などいふこと好(この)ませ給ひて、古への郁芳門院にも、やや勝りてぞおはします。候(さぶら)ふ人々も、常にうちとけず、衣の色あざやかに、はなばなと、今めかしき院の内なり。又、安養寿院といひて、山の峰なる御堂には、常にたてこもらせ給ひて、御観法などあるには、人の参る事もたやすくなし。鳴子をかけて引かせ給ひてぞ、おのづから、人をも召しける。
 又、その頃にや、秋の雨、日頃ふりて、いと所せかりしに、たまたま雲間見えて、空の気色(けしき)物すごき程に、一の院、新院、大宮院、東二条院など、皆一つ御方におはします。御前に太政大臣公相、常磐井の入道殿実氏も候ひ給(たま)ふ。前の左の大臣実雄、久我大納言雅忠など、うとからぬ人々ばかりにて、大御酒参(まゐ)る。あまた下りながれて、上下、少しうち乱れ給へるに、太政大臣、本院の御盃を賜はり給ひて、持ちながら、とばかりやすらひて、「公相、官位共に極め侍りぬ。中宮 今出川院 さて
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おはしませば、もし、皇子降誕もあらば、家門の栄華衰ふべからず、実兼も、けしうは侍らぬ男(をのこ)なり。うしろめたくも思ひ侍らぬに、一つの憂(うれ)へ、心の底になん侍る」と申し給へば、人々、「何事にか」とおぼつかなく思(おぼ)す。左の大臣(おとど)実雄は、中宮の御事かく宣(のたま)ふを、いでやと、耳にとまりて、うち思さるらんかし。一の院、「何事にか」と宣(のたま)ふに、しばしありて、「入道相国に、いかにも先立ちぬべき心地(ここち)なんし侍る。『恨の至りて恨めしきは、盛(さか)りにて親に先だつ恨み、悲の至りて悲しきは、老いて、子に後るるには過ぎず』とこそ、澄明におくれたる願文にも、かきて侍りしか」など申し給ひて、うちしほたれ給へば、皆、いとあはれに聞き思(おぼ)す。入道殿は、まして、墨染の御袖ぬらし給ひける、ことわりなりかし。
 また、その頃大風ふきて、人々の家々、損(そこな)はれ失する事数知らぬ中に、明堂殿もまろびぬ。この内には、木にて人形をつくりて、宮殿を金にてつくりて、入れたる宝あり。眼をあてては見ぬものなり。おのづからも誤りて見つる人は、目のつぶれけるぞ恐(おそ)ろしき。陰陽寮の守護神の社もまろびぬ。山の文殊楼、稲荷の中の宮なども、吹き損ひて、すべて、来しかた行く末も例(ためし)ありがたき
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風なり。西国の方には、人の家を、さながら吹きあぐれば、内なる人は、塵のやうに落ちて、死に失せなどしけるぞ、珍らかなる。あまりにかくおびただしき風なれば、御占行はれけるにも、「重き人の御つつしみ、軽からぬ」など奏しけり。果してその頃、西園寺の太政大臣 公相 なやましくし給ふとて、山々寺々、修法、読経、祭祓など、かしがましくひびきののしりつれど、それもかひなくて、十月十二日失せ給ひぬ。入道殿を始め、思(おぼ)し歎く人々数(かず)知らず。中宮も、御服にて出で給ひぬ。北の方は、徳大寺の太政大臣 実基 の御女なれど、この御腹には、更に御子もなし。中宮をも、少納言とて、召し使ふ、女房の生み聞えたれど、北の方の御子になして、男公達(をとこきんだち)も、腹々にあまたおはすれど、いづれをも北の方の御子になされけり。この大臣、入道殿よりは、少し情けおくれ、いちはやくなどおはしければ、心のそこには、さのみ嘆く人もなかりけるとかや。御わざの夜、御棺(ごくわん)に入れ給へる御かしらを、人の盗み取りけるぞ珍らかなる。御顔の下(しも)短かにて、中半(なかば)程(ほど)に、御目のおはしましければ、外法(げほふ)とかやまつるに、かかる生首(なまかうべ)のいることにて、なにがしの聖(ひじり)とかや、東山のほとりなりける人、取りてけるとて、後(のち)に、沙汰(さた)がましく
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聞えき。中宮の御事などを、深く思(おぼ)さるめりしかば、いとほしくあたらしきわざにぞ、世の人も思ひ申しける。ありし一ことを思しいでつつ、誰(たれ)もあはれに悲(かな)しくて、女院の御方々もそれをのみ宣(のたま)はせけり。
 皇后宮は、日にそへて、御覚(おぼ)えめでたくなり給ひぬ。姫宮・若宮など出(い)で物(もの)し給ひしかど、やがて失(う)せ給へるを、御門(みかど)をはじめ奉りて、たれもたれも思(おぼ)し嘆きつるに、今年又その御気色(けしき)あれば、いかがと思(おぼ)し騒ぎつつ、山々寺々に御祈りこちたくののしる。こたみだに、げに又うちはづしては、いかさまにせん」と、大臣(おとど)・母北の方も安き寝(い)も寝(ね)給はず、思し惑(まど)ふこと限りなし。程近くなり給ひぬとて、土御門殿(つちみかどどの)の、承明門院の御跡へ移らせ給ふ。世の中ひびきて、天下の人高きも下れるも、つかさある程のは参りこみてひしめきたつに、殿の内の人々は、まして、心も心ならず、あわたたし。大臣(おとど)、限りなき願(ぐわん)どもをたて給ひ、賀茂の社(やしろ)にも、かの御調度(てうど)どもの中に、すぐれて御宝(たから)と思さるる御手箱に、后(きさい)の宮自(みづか)ら書かせ給へる願文(ぐわんぶみ)入れて、神殿にこめられけり。それには、「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」とかや侍りけるとぞ承りし、誠(まこと)にや侍りけん。
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かくいふは、文永四年十二月一日なり。例の御物(もの)の怪(け)ども現れて、叫びとよむ様(さま)いと恐(おそ)ろし。されども、御祈のしるしにや、えもいはず、めでたき玉の男御子生れ給ひぬ。その程(ほど)の儀式、いはずとも推しはかるべし。上(うへ)も、限りなき御志にそへて、いよいよ思(おぼ)す様(さま)に、嬉しと聞し召す。大臣も、今ぞ御胸あきて、心おちゐ給ひける。新院の若宮も、この殿の御孫ながら、それは、東二条院の御心の中おしはかられ、大方(おほかた)も又、うけばりやむごとなき方にはあらねば、万(よろづ)聞し召しけつ様(さま)なりつれど、この今宮をば、本院も、大宮院も、きはことに、もてはやしかしづき奉らせ給ふ。これも中宮の御ため、いとほしからぬにはあらねど、いかでかさのみはあらんと、西園寺ざまにぞ、一方ならず思(おぼ)しむすぼほれ、すさまじう聞き給ひける。
 その頃近衛の左大臣殿へ、摂〓渡(わた)りぬ。二十二にぞなり給ふ。いとめでたき様(さま)なり。岡の屋殿の御太郎君ぞかし。御悦申に、両院より御馬ひかる。大宮院琴、東二条院は御笛など、贈物ども、いつものことなるべし。西谷殿とも申し、深心院の関白とも申しき。



校註 増鏡

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第十 あすか川
隙(ひま)行(ゆ)く駒(こま)の足(あし)にまかせて、文永も五年に成りぬ。正月二十日、本院のおはします富(とみ)の小路殿にて、今上の若宮(わかみや)、御五十日(いか)聞(き)こし召(め)す。いみじう清(きよ)らを尽(つ)くさるべし。今年(ことし)正月に閏(うるう)有(あ)り。後の二十日余(あま)りの程(ほど)に、冷泉院(れいぜいゐん)にて舞御覧有(あ)り。明(あ)けむ年(とし)、一院、五十(いそぢ)に満(み)たせ給(たま)ふべければ、御賀あるべしとて、今(いま)より世の急(いそ)ぎに聞(き)こゆ。楽所(がくしよ)始(はじ)めの儀式(ぎしき)は、内裏にてぞ有(あ)りける。試楽、二十三日と聞(き)こえしを、雨ふりて、明(あ)くる日つとめて、人々(ひとびと)参(まゐ)り集(つど)ふ。新院はかねてより渡(わた)らせ給(たま)へり。寝殿(しんでん)の御階(はし)の間に、一院の御座(おまし)設(まう)けたり。其(そ)の西(にし)によりて、新院の御座を設く。東(ひんがし)は大宮院・東二条院、皆(みな)白(しろ)き御袴(はかま)に、二御衣(ふたつおんぞ)奉(たてまつ)れり。聖護院の法親王・
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円満院など参(まゐ)り給(たま)ふ。土御門(つちみかど)の中務(なかづかさ)の宮(みや)も参(まゐ)り給(たま)ふ。上達部・殿上人、数多(あまた)御供(とも)し給(たま)へり。仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)・梶井(かぢゐ)の法親王なども、すべて残(のこ)り無(な)く集(つど)ひ給(たま)ふ。月花門院・花山院の准后などは、大宮院のおはします御座に御几帳(きちやう)押(お)しのけて渡(わた)らせ給(たま)ふ。寝殿(しんでん)の第四の間に、袖口(そでくち)共(ども)心異(こと)にて押(お)し出(い)ださる。大納言(だいなごん)の二位殿・南の御方など、やむごとなき上臈(じやうらふ)は、院のおはします御簾(みす)の中(なか)に、引(ひ)きさがりて候(さぶら)ひ給(たま)ふ。いづれも、白(しろ)き袴(はかま)に二衣(ふたつぎぬ)なり。東(ひんがし)のすみの一間は、大宮院・月花門院の女房共(ども)参(まゐ)り集(つど)ふ。西(にし)の二間には、新准后候(さぶら)ひ給(たま)ふ。御前の簀子(すのこ)には、関白殿を始(はじ)めて、右大臣〔基忠〕・内大臣〔家経〕・兵部卿隆親・二条の大納言(だいなごん)良教・源大納言(だいなごん)通成・花山院の大納言(だいなごん)師継・右大将通雅・権大納言(だいなごん)基具・一条の中納言公藤・花山院の中納言長雅・左衛門督通頼・中宮権大夫隆顕・大炊御門(おほひのみかど)の中納言信嗣・前(さき)の源宰相(さいしやう)有資・衣笠宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)経平・左大弁の宰相(さいしやう)経俊・新宰相の中将(ちゆうじやう)具氏(ともうぢ)・別当公孝(きんたか)・堀川(ほりかは)の三位中将(ちゆうじやう)具守・富小路三位中将(ちゆうじやう)公雄、皆(みな)御階(みはし)の東(ひんがし)に著(つ)き給(たま)ふ。西の第二の間より、又、前(さき)の左大臣実雄・二条の大納言(だいなごん)経輔(つねすけ)・前(さき)の源大納言(だいなごん)雅家(まさいへ)・中宮大夫雅忠・藤大納言(だいなごん)為氏(ためうじ)・皇后宮大夫定実・四条の大納言隆行・帥(そち)の中納言経任、此(こ)の外(ほか)
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の上達部、西東の中門の廊(らう)、それより下(しも)ざま、透渡(すきわた)殿(どの)・打橋(うちはし)などまで著(つ)きあまれり。皆(みな)、直衣(なほし)に色々(いろいろ)の衣重(かさ)ね給(たま)へり。時なりて、舞人(まひびと)共(ども)参(まゐ)る。実冬の中将(ちゆうじやう)、唐織物(からおりもの)の桜(さくら)の狩衣(かりぎぬ)、紫の濃(こ)き薄(うす)きにて桜を織(お)れり。赤地(あかぢ)の錦の表着(うはぎ)・紅の匂(にほひ)の三衣(みつぎぬ)・同(おな)じ単(ひとへ)・しじらの薄色(うすいろ)の指貫(さしぬき)、人よりは少(すこ)しねびたりしも、あな清(きよ)げと見(み)えたり。大炊御門(おほひのみかど)中将(ちゆうじやう)冬輔(すけ)と言(い)ひしにや、装束(さうぞく)先(さき)のに変(か)はらず。狩衣(かりぎぬ)はから織物(おりもの)なりき。花山院の中将(ちゆうじやう)家長(いゑなが)、右大将の御子、魚綾(ぎよれう)の山吹(やまぶき)の狩衣(かりぎぬ)、柳桜(さくら)を縫(ぬ)ひ物にしたり。紅の打衣(うちぎぬ)を輝(かかや)くばかりだみ返(かへ)して、萌黄(もえぎ)の匂(にほひ)の三衣(みつぎぬ)・紅の三重(みへ)の単(ひとへ)、浮織物(うきおりもの)の紫の指貫(さしぬき)に、桜を縫(ぬ)ひ物にしたる、珍(めづら)しく美(うつく)しく見(み)ゆ。花山院の少将忠季(ただすゑ)は師継(もろつぐ)の御子也、桜の結(むす)び狩衣(かりぎぬ)、白(しろ)き糸(いと)にて水を隙(ひま)無(な)く結(むす)びたる上(うへ)に、桜柳を、それも結(むす)びてつけたる、なまめかしく艶(えん)なり。赤地(あかぢ)の錦(にしき)の表着(うはぎ)、金(かね)の文(もん)をおく。紅の二衣(ふたつぎぬ)・同(おな)じ単(ひとへ)・紫の指貫(さしぬき)、これも柳桜を縫(ぬ)ひ物に色々(いろいろ)の糸(いと)にてしたり。中宮の権亮少将公重(きんしげ)実藤(さねふぢ)の大納言(だいなごん)の子、唐織物(からおりもの)の桜萌黄(さくらもえぎ)の狩衣(かりぎぬ)・紅の打衣(うちぎぬ)・紫の匂(にほひ)の三衣(みつぎぬ)・紅の単(ひとへ)、指貫(さしぬき)例(れい)の紫に桜を白(しろ)く縫(ぬ)ひたり。
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堀川(ほりかは)の少将基俊(もととし)基具(もととも)の大納言(だいなごん)の子、唐織物(からおりもの)、裏山吹(うらやまぶき)、三重(みへ)の狩衣(かりぎぬ)、柳だすきを青(あを)く織(お)れる中(なか)に桜を色々(いろいろ)に織(お)れり。萌黄(もえぎ)の打衣(うちぎぬ)、桜(さくら)をだみつけにして、輪(わ)違(ちが)へを細(ほそ)く金(かね)の文(もん)にして、色々(いろいろ)の玉をつく。匂(にほひ)つつじの三衣(みつぎぬ)、紅(くれなゐ)の三重(みへ)の単(ひとへ)、これも箔(はく)ちらす。二条の中将(ちゆうじやう)経良良教(よしのり)の大納言(だいなごん)の御子也、これも唐織物(からおりもの)の桜萌黄(さくらもえぎ)・紅の衣・同(おな)じひとへなり。皇后宮権亮(ごんのすけ)中将(ちゆうじやう)実守、これも同(おな)じ色(いろ)の樺桜(かばざくら)の三衣(みつぎぬ)・紅梅(こうばい)の〔匂(にほひ)の〕三重(みへ)の単(ひとへ)、右馬頭隆良(たかよし)隆親(たかちか)の子にや、緑苔(ろくたい)の赤色(あかいろ)の狩衣(かりぎぬ)、玉のくくりを入(い)れ、青(あを)き魚綾(ぎよれう)の表着(うはぎ)・紅梅の三衣(みつぎぬ)・同(おな)じ二重(ふたへ)の単(ひとへ)・薄色(うすいろ)の指貫(さしぬき)、少将実継(さねつぐ)、松がさねの狩衣(かりぎぬ)・紅(くれなゐ)の打衣(うちぎぬ)・紫(むらさき)の二衣(ふたつぎぬ)、これも色々(いろいろ)の縫(ぬ)ひ物・おき物など、いとこまかになまめかしくなしたり。陵王(りようわう)の童(わらは)に、四条の大納言(だいなごん)の子、装束(しやうぞく)常(つね)の儘(まま)なれど、紫の緑苔(ろくたい)の半尻(はんじり)、金(かね)の文(もん)、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の狩衣(かりぎぬ)、青(あを)き魚綾(ぎよれう)の袴(はかま)、笏木(しやくぎ)のみなゑり骨(ぼね)、紅の紙(かみ)にはりて持(も)ちたる用意(ようい)気色、いみじくもてつけて、めでたく見(み)え侍りけり。笛茂通(もちみち)・隆康(たかやす)、笙(しやう)は公秋(あき)・宗実、篳篥(ひちりき)は兼行(かねゆき)、太鼓(たいこ)は教実(のりざね)、鞨鼓(かこ)はあきなり、三の鼓(つづみ)はのりより、
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左万歳楽(まんざいらく)、右地久、陵王(りようわう)、輪台(りんだい)、青海波(せいがいは)、太平楽(たいへいらく)、入綾(いりあや)、実冬いみじく舞ひすまされたり。右落蹲(らくそん)、左春鴬囀(しゆんあうてん)、右古鳥蘇(ことりそ)、後参(ごさん)、賀殿(かてん)の入綾(いりあや)も実冬舞(ま)ひ給(たま)ひしにや。暮(く)れかかる程(ほど)にて、何(なに)のあやめも見(み)えずなりにき。御たかだか宮達(たち)、あかれ給(たま)ひぬ。
同(おな)じ二月十七日に、又、新院富(とみ)の小路殿にて舞御覧。其(そ)の朝(あした)、大宮院先(ま)づ忍(しの)びて渡(わた)らせ給(たま)ふ。一院の御幸(みゆき)は、日たけてなる。冷泉(れいぜい)殿(どの)より只(ただ)はひ渡(わた)る程(ほど)なれば、楽人・舞人(まひびと)、今日(けふ)の装束(しやうぞく)にて、上達部など皆(みな)歩(あゆ)み続(つづ)く。庇(ひさし)の御車にて、御随身(みずいじん)十二人、花を折(を)り錦を立(た)ち重(かさ)ねて、声々(こゑごゑ)、御さき花(はな)やかに追(お)ひ罵(ののし)りて、近(ちか)く候(さぶら)ひつる、二(に)無(な)く面白(おもしろ)し。新院は、御烏帽子(えぼし)直衣(なほし)・御袴(はかま)際(きは)にて、中門にて待(ま)ち聞(き)こえさせ給(たま)ひつる程(ほど)、いと艶(えん)にめでたし。御車中門に寄(よ)せて、関白殿、御佩刀(はかせ)取(と)りて、御匣(みくしげ)殿(どの)に伝(つた)へ給(たま)ふ。二重(ふたへ)織物(おりもの)の萌黄(もえぎ)の御几帳(きちやう)のかたびらを出(い)だされて、色々(いろいろ)の平文(ひやうもん)の衣共(ども)、物の具(ぐ)は無(な)くて押(お)し出(い)ださる。今日(けふ)は正親町の院も御堂の隅(すみ)の間より御覧ぜらる。
大臣・上達部(かんだちめ)、有(あ)りしに変(か)はらず。猶(なほ)参(まゐ)り加(くは)はる人は多(おほ)けれど、洩(も)れたるは無し。
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実冬、今日(けふ)は、花田(はなだ)うら山吹(やまぶき)の狩衣(かりぎぬ)、二重(ふたへ)うち萌黄(もえぎ)など、思(おも)ひ思(おも)ひ心々(こころごころ)に、前(さき)には皆(みな)引(ひ)きかへて、様々(さまざま)尽(つ)くしたり。基俊(もととし)の少将、此(こ)の度(たび)は、桜萌黄(もえぎ)の五重の狩衣(かりぎぬ)・紅の匂(にほひ)の五衣(いつつぎぬ)、打衣(うちぎぬ)は〔やりつき、〕山吹(やまぶき)の匂(にほひ)、浮織物(うきおりもの)の三重(みへ)のひとへ・紫(むらさき)の綾(あや)の指貫(さしぬき)、中(なか)に勝(すぐ)れてけうらに見(み)え給(たま)へり。此(こ)の度(たび)は、多(おほ)く緑苔(ろくたい)の衣を着(き)たり。万歳楽を吹(ふ)きて楽人・舞人(まひびと)参(まゐ)る。池の汀(みぎは)に桙(ほこ)を立(た)つ。春鴬囀・古鳥蘇(ことりそ)・後参(ごさん)・輪台(りんだい)・青海波・落蹲(らくそん)など有(あ)り。日暮(ひぐ)らし面白(おもしろ)く罵(ののし)りて、帰(かへ)らせ給(たま)ふ程(ほど)に、赤地(あかぢ)の錦の袋(ふくろ)に御琵琶入(い)れて奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。刑部卿の君、御簾(みす)の中(なか)より出(い)ださる。右大将取(と)りて、院の御前に気色ばみ給(たま)ふ。胡飲酒(こんじゆ)の舞は、実俊の中将(ちゆうじやう)とかねては聞(き)こえしを、父(ちち)大臣(おとど)の事(こと)にとどまりにしかば、近衛殿(このゑどの)の前(さき)の関白殿の御子三位中将(ちゆうじやう)と聞(き)こゆる、未(いま)だ童(わらは)にて舞ひ給(たま)ふ。別(べつ)して、此(こ)の試楽より先(さき)なりしにや、内々白河殿にて試(こころ)み有(あ)りしに、父(ちち)の殿も御簾(みす)の内(うち)にて見給(たま)ふ。若君(わかぎみ)いと美(うつく)しう舞(ま)ひ給(たま)へば、院めでさせ給(たま)ひて、舞の師忠茂(ただもち)、禄(ろく)賜(たま)はりなどしけり。
かやうに聞(き)こゆる程(ほど)に、蒙古(むくり)の軍(いくさ)と言(い)ふ事起(お)こりて、御賀止(とど)まりぬ。人々(ひとびと)口惜(を)しく、
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本意(ほい)無しと思(おぼ)すこと限(かぎ)り無し。何事(なにごと)もうちさましたるやうにて、御修法(みしゆほふ)や何(なに)やと、公家・武家、只(ただ)此(こ)の騒(さわ)ぎなり。されども、程(ほど)無(な)く鎮(しづ)まりて、いとめでたし。
かくて、今上の若宮(わかみや)、六月二十六日親王(しんわう)の宣旨(せんじ)有(あ)りて、同(おな)じき八月二十五日、坊にゐ給(たま)ひぬ。かく花やかなるにつけても、入道殿はあさましく思(おぼ)さる。故大臣(おとど)の先(さき)だち給(たま)ひし歎(なげ)きに沈(しづ)みてのみ物(もの)し給(たま)へど、「かかる世の気色(けしき)を、賢(かしこ)く見給(たま)はぬよ」と思(おぼ)しなぐさむ。中宮は、御服(ぶく)の後(のち)も参(まゐ)り給(たま)はず。万(よろづ)引(ひ)きかへ、物怨(うら)めしげなる世の中(なか)なり。
一院は、御本意(ほい)をとげ給はん事(こと)をやうやう思(おぼ)す。其(そ)の年の九月十三夜、白河殿にて月御覧ずるに、上達部・殿上人、例の多(おほ)く参(まゐ)り集(つど)ふ。御歌合(あはせ)有(あ)りしかば、内の女房共(ども)召(め)されて、色々(いろいろ)の引(ひ)き物、源氏(げんじ)五十四帖の心、様々(さまざま)の風流(ふりう)にして、上達部・殿上人までも分(わ)かち賜(たま)はす。院の御製(ぎよせい)、
我(われ)のみや影も変(か)はらんあすか川同(おな)じふち瀬に月はすむとも
かねてより袖も時雨て墨染(すみぞ)めの夕べ色ます峰の紅葉葉
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此(こ)の御歌にてぞ、御本意(ほい)の事思(おぼ)し定(さだ)めけりと、皆人(みなひと)、袖をしぼりて、声(こゑ)も変(か)はりけり。あはれにこそ。民部卿入道為家(ためいへ)、判(はん)ぜさせられけるにも、「身をせめ心をくだきて、かきやる方(かた)も侍らず」とかや奏(そう)しけり。
かくて神無月(かみなづき)の五日、亀山(かめやま)殿(どの)へ御幸(みゆき)なる。今日(けふ)を限(かぎ)りの御旅(たび)なれば、心異(こと)に整(ととの)へさせ給(たま)ふ。新院も例(れい)のおはします。大宮・東二条院、一(ひと)つ御車にて、同(おな)じく渡(わた)らせ給(たま)ふ。大宮女院は白菊の御衣(ぞ)、東二条院は青紅葉(あをもみぢ)の八、菊の御小袿(こうちき)奉(たてまつ)る。先(ま)づ、北野(きたの)・平野の社(やしろ)へ御参(まゐ)りあれば、御随身(みずいじん)共(ども)花を折(を)り尽(つ)くし、今日(けふ)を限(かぎ)りと、様(さま)あしきまで装束(さうぞ)きあへり。両社(りやうしや)にて、馬上(あ)げさせられけり。神もいかに名残多(おほ)く見給(たま)ひけん。空さへうち時雨て、木の葉さそふ嵐(あらし)も折知(をりし)り顔(がほ)に物悲(がな)しう、涙争(あらそ)ふ心地(ここち)し給(たま)ふ人々(ひとびと)多(おほ)かるべし。中務(なかづかさ)の御子(こ)、「今日(けふ)の袂さぞしぐるらん」と宣(のたま)ひし御返(かへ)し、中将(ちゆうじやう)、
袖ぬらす今日(けふ)をいつかと思(おも)ふにも時雨てつらき神無月(かみなづき)かな
やがて其(そ)の夜御髪(みぐし)おろし給ひぬ。御戒(かい)の師には、青蓮院(しやうれんゐん)の法親王参(まゐ)り給(たま)ふ。其(そ)の頃やがて、御逆修(ぎやくしゆ)始(はじ)めさせ給(たま)へば、其(そ)の程(ほど)、女院色々(いろいろ)の
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御捧持(ほうもつ)共(ども)奉(たてまつ)り給(たま)ふ。今(いま)は弥(いよいよ)法の道をのみもてなさせ給(たま)ひつつ、ある時(とき)は止観(しくわん)の談義(だんぎ)、ある時(とき)は真言(しんごん)の深(ふか)き沙汰(さた)・浄土の宗旨などをも尋(たづ)ねさせ給(たま)ひつつ、万(よろづ)に御心(おんこころ)通(かよ)ひ暗(くら)からず物(もの)し給(たま)へば、何事(なにごと)も、前(さき)の世より賢(かしこ)くおはしましける程(ほど)あらはれて、今(いま)行末(ゆくすゑ)も、げに頼(たの)もしく、めでたき御有様(おんありさま)なり。
かくて今年(ことし)も暮(く)れぬ。又の年(とし)三月(やよひ)の一日(ついたち)、月花門院、俄(にはか)に隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。法皇も女院も、限(かぎ)り無(な)く思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひつるに、いとあさまし。さるは誠(まこと)にや有(あ)らん、又、人違(たが)へにや、とかく聞(き)こゆる御事(こと)共(ども)ぞ、いと口惜(くちを)しき。四辻の彦仁(ひこひと)の中将(ちゆうじやう)、忍(しの)びて参(まゐ)り給(たま)ひけるを、基顕(もとあき)の中将(ちゆうじやう)、彼(か)の御まねをして、又参(まゐ)り加(くは)はりける程(ほど)に、あさましき御事(こと)さへ有(あ)りて、それ故(ゆゑ)隠(かく)れさせ給(たま)へるなど、ささめく人も侍(はべ)りけり。猶(なほ)さまでは有(あ)らじと思(おも)ひ給(たま)ふれど、いかが有(あ)りけん。
法皇は、又文永七年神無月(かみなづき)の頃(ころ)、御手づから書(か)かせ給(たま)へる法華経一部、供養せさせ給(たま)ふ。御八講(はかう)、名高(だか)く才(ざえ)勝(すぐ)れて賢(かしこ)き僧共(ども)を召(め)しけり。世の中(なか)の人残(のこ)り無(な)く仕(つかうまつ)る。新院かねてより渡(わた)り給(たま)へり。さるべき御事(こと)とは申(まう)しながら、何(なに)につけても、御心(おんこころ)ばへのうるはしくなつかしうおはしまして、院の思(おぼ)いたる
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筋(すぢ)の事(こと)は、必(かなら)ず同(おな)じ御心(おんこころ)に仕(つかうまつ)り、いささかも、いでやとうち思(おぼ)さるる一ふしも無(な)く物(もの)し給(たま)ふを、法皇もいと美(うつく)しう忝(かたじけな)しと思(おぼ)されけり。第二日の夜に入(い)りて行幸もなる。五の巻の日の御捧物(ほうもつ)共(ども)参(まゐ)り集(つど)ふ。様々(さまざま)学(まね)び尽(つ)くし難(がた)し。内の御捧物は、紙屋紙(かみやがみ)に黄金(かね)を包(つつ)みて、柳箱(やないばこ)にすゑて、頭弁(とうのべん)ぞ持(も)ちたる。つぎに新院・女院達(たち)、宮々御方々(かたがた)、皆(みな)そなたざまの宮司(みやづかさ)・殿上人などもて続(つづ)きたり。関白・大臣など座につき給(たま)ふ。大中納言・参議・四位五位などは、自(みづか)らの捧物を持(も)ちて渡(わた)る。各(おのおの)心々(こころごころ)にいどみ尽(つ)くして、様々(さまざま)をかしき中(なか)に、兵部卿隆親は、糸鞋(しがい)をはきて、鳩(はと)の杖(つゑ)をつきて出(い)でたり。此(こ)の杖(つえ)をやがて捧物にとなりけり。銀(しろかね)にてひた打(う)ちにして、先(さき)は黄金(こがね)にて鳩(はと)をすゑたりけり。結願(けちぐわん)の日は、舞楽(ぶがく)などいみじく面白(おもしろ)くて過(す)ぎぬ。又の年正月に、忍(しの)びて新院と御方(かた)わかちの事し給(たま)ふ。初(はじ)めは法皇御負(ま)けなれば、御勝(か)ちむかひに、上達部皆(みな)五節(ごせち)のまねをして、色々(いろいろ)の衣あつづまにて、「思(おも)ひの津(つ)に船(ふね)のよれかし」とはやして参(まゐ)る。新院引(ひ)きつくろひて渡(わた)り給(たま)ふ。御酒(みき)
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いく返(かへ)りと無(な)く聞(き)こし召(め)さる。一番(ひとつがひ)づつの御引出物、伊勢物語の心とぞ聞(き)こえし。かねの地盤(ぢばん)に、銀(しろかね)の伏篭(ふせご)に、たき物くゆらかして、「山(やま)は富士(ふじ)の嶺(ね)いつと無(な)く」と、又、銀(しろかね)の船(ふね)に麝香(ざかう)の臍(へそ)にて、蓑(みの)着(き)たる男(をとこ)つくりて、「いざ言(こと)問(と)はむ都鳥(みやこどり)」など、様々(さまざま)いとなまめかしくをかしくせられけり。わざとことごとしき様(さま)には有(あ)らざりけり。こたみは、新院よりこそ仙人のまねをして、「梵王(ぼんなう)は鵝(くひ)にのる。杯(さかづき)は花にのる」とかやはやして、法皇の御迎(むか)ひに参(まゐ)る。上達部の大人(おとな)び給(たま)へるなどは、少(すこ)し軽々(きやうきやう)にや見(み)えけんと推(お)し量(はか)らる。此(こ)の度(たび)は、源氏(げんじ)の物語(ものがたり)の心にや有(あ)りけむ、唐(から)めいたる箱(はこ)に、金剛子(こんがうし)の数珠(ずず)入(い)れて、五葉の枝につけたり。又、斎院よりの黒方(くろばう)、梅の散(ち)り過(す)ぎたる枝につけなど、これもいとささやかなる事共(ども)になむ有(あ)りける。男(をとこ)・女房、乱(みだ)りがはしく強(し)ひ交(か)はして、御箏(こと)共(ども)召(め)し、拍子(ひやうし)うち鳴(な)らしなどして明(あ)けぬ。
かやうの事(こと)にのみ心やりて明(あ)かし暮(く)らさせ給(たま)ふ程(ほど)に、又の年(とし)の秋になりぬ。東二条院、日頃(ひごろ)只(ただ)にもおはしまさざりつるが、其(そ)の御気色有(あ)りとて、世の中(なか)騒(さわ)ぐ。院の中(なか)にてせさせ給(たま)へば、いよいよ人参(まゐ)り集(つど)ふ。大法(だいほふ)・秘法(ひほふ)、残(のこ)り無(な)く行(おこな)は
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る。七仏薬師・五壇(ごだん)の御修法(みしゆほふ)・普賢延命(ふげんえんめい)・金剛童子(こんがうどうじ)・如法(によほふ)愛染(あいぜん)など、すべて数(かず)知(し)らず。御験者(げんじや)には、常住院(じやうぢゆうゐん)の僧正参(まゐ)り給(たま)ふ。八月二十日宵(よひ)の事(こと)なり。既(すで)にかと見(み)えさせ給(たま)ひつつも、二日・三日になりぬれば、ある限(かぎ)り物覚(おぼ)ゆる人も無し。いと苦(くる)しげにし給(たま)へば、仁和寺(にんわじ)の御室の、如法(によほふ)愛染(あいぜん)の大阿闍梨(だいあざり)にて候(さぶら)ひ給(たま)ふを、御枕上(まくらがみ)に近(ちか)く入(い)れ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、「いと弱(よわ)う見(み)え侍(はべ)るは、いかなるべきにか」と、院も添(そ)ひおはしまして、扱(あつか)ひ聞(き)こえ給(たま)ふ様(さま)、おろかならねば、あはれと見奉(たてまつ)り給(たま)ひて、「さりとも、けしうはおはしまさじ。定業(ぢやうごふ)の亦能転(やくのうてん)は、菩薩(ぼさつ)の誓(ちか)ひなり。今更(いまさら)妄語(まうご)有(あ)らじ」とて、御心(おんこころ)を致(いた)して念(ねん)じ給(たま)ふに、験者の僧正も「一持(いちぢ)秘密(ひみつ)」とて、念珠(ねんず)押(お)しもみたる程(ほど)、げに頼(たの)もしく聞(き)こゆ。御誦経(ずきやう)の物共(ども)、運(はこ)び出(い)で、女房の衣など、こちたきまで押(お)し出(い)だせば、奉行(ぶぎやう)取(と)りて、殿上人、北面の上下、あかれあかれに分(わ)かち遣(つか)はす。そこらの上達部は、階(はし)の間の左右(さう)に著(つ)きて、王子誕生(たんじやう)を待(ま)つ気色なり。陰陽師(おんやうじ)・巫女(かんなぎ)立(た)ちこみて、千度(せんたび)の御祓(はら)ひつとむ。御随身(みずいじん)・北面の下臈(げらふ)などは、神馬(じんめ)をぞ引(ひ)くめる。院拝(はい)し給(たま)ひて、二十一社に奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。すべて上下・内外罵(ののし)り満(み)ちたるに、御気色只(ただ)弱(よわ)りに弱(よわ)らせ給(たま)へば、今(いま)一しほ心惑(まど)ひし
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て、さと時雨渡(わた)る袖の上(うへ)も、いとゆゆし。院もかき暗(くら)し悲(かな)しく思(おぼ)されて、御心(おんこころ)の中(なか)には、石清水(いはしみづ)の方(かた)を念じ給(たま)ひつつ、御手をとらへて泣(な)き給(たま)ふに、候(さぶら)ふ限(かぎ)りの人、皆(みな)え心強(づよ)からず。いみじき願共(ども)を立(た)てさせ給(たま)ふしるしにや、七仏の阿闍梨(あざり)参(まゐ)りて、「見者(けんじや)歓喜(くわんぎ)」とうち上(あ)げたる程(ほど)に、辛(から)うじて生(む)まれ給(たま)ひぬ。何(なに)と言(い)ふも聞(き)こえぬは、姫宮(ひめみや)なりけりと、いと口惜(くちを)しけれど、むげに無(な)き人と見(み)え給(たま)へるに、平(たひら)かにおはするを喜(よろこ)びにて、いかがはせむと思(おぼ)しなぐさむ。人々(ひとびと)の禄(ろく)など常(つね)のごとし。法皇も、中々、いたはしくやんごとなき事(こと)に思(おぼ)して、いみじくもてはやし奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。いでやと口惜(くちを)しく思(おも)へる人々(ひとびと)多(おほ)かり。かかるにしも、実雄(さねを)の大臣(おとど)の御宿世(しゆくせ)あらはれて、かたつ方(かた)には、心おち居(ゐ)給(たま)ふも、世の習(なら)ひなれば、理(ことわり)なるべし。五夜・七夜など、異(こと)に花(はな)やかなる事共(ども)にて、過(す)ぎもて行(ゆ)く。
其(そ)の頃(ころ)ほひより、法皇時々御悩(なや)み有(あ)り。世の大事(だいじ)なれば、御修法(みしゆほふ)共(ども)いかめしく始(はじ)まる。何(なに)くれと騒(さわ)ぎあひたれど、怠(おこた)らせ給(たま)はで、年(とし)もかへりぬ。正月(むつき)の始(はじ)めも、院の内(うち)かいしめりて、いみじく物思(おも)ひ歎(なげ)きあへり。十七日、亀山(かめやま)殿(どの)へ御幸
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なる。これや限(かぎ)りと、上下心細(ぼそ)し。法皇は御輿(こし)なり。両女院は例の一(ひと)つ御車に奉(たてまつ)る。尻(しり)に御匣(みくしげ)殿(どの)候(さぶら)ひ給(たま)ふ。道にて参(まゐ)るべき御煎(せん)じ物を、胤成(たねなり)・師成(もろなり)と言(い)ふ医師(くすし)共(ども)、御前にてしたためて、銀(しろかね)の水瓶(みづがめ)に入(い)れて、隆良(たかよし)の中納言承(うけたまは)りて、北面の信友(のぶとも)と言(い)ふに持(も)たせたりけるを、内野の程(ほど)にて、参(まゐ)らせんとて召(め)したるに、此(こ)の瓶(かめ)に露程(ほど)も無し。いと珍(めづら)かなるわざなり。さ程(ほど)の大事(だいじ)の物を、悪(あ)しく持(も)ちて、うちこぼすやうは、いかでか有(あ)らん。法皇も、いとど御臆病(おくびやう)そひて、心細(ぼそ)く思(おぼ)されけり。新院は、大井川(おほゐがは)の方におはしまして、隙(ひま)無(な)く、男(をとこ)・女房、上下と無(な)く、「今(いま)の程(ほど)いかにいかに」と聞(き)こえさせ給(たま)ふ御使(つか)ひの、行き帰(かへ)る程(ほど)を、猶(なほ)いぶせがらせ給(たま)ふに、正月(むつき)も立(た)ちぬ。いかさまにおはしますべきにかと、誰(たれ)も誰(たれ)も思(おぼ)し惑ふ事限(かぎ)り無し。かねてより、かやうの為(ため)と思(おぼ)しおきてける寿量院へ、二月七日渡(わた)り給(たま)ふ。ここへは、おぼろけの人は参(まゐ)らず。南松院の僧正、浄金剛院の長老覚道上人などのみ、御前にて、法の道ならでは宣(のたま)ふ事(こと)も無し。六波羅(ろくはら)北南、御訪(とぶら)ひに参(まゐ)れり。西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)実兼(さねかぬ)、例の奏し給(たま)ふ。
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十一日、行幸有(あ)り。中(なか)一日渡(わた)らせ給(たま)へば、泣(な)く泣(な)く万(よろづ)の事(こと)を聞(き)こえ置(お)かせ給(たま)ふ。新院も御対面(たいめん)有(あ)り。御門は、御本上(ほんじやう)いと花やかに賢(かしこ)く、御才(ざへ)なども昔(むかし)に恥(は)ぢず、何事(なにごと)も整(ととの)ほりてめでたくおはします。世を治(をさ)めさせ給(たま)はん事(こと)も、後(うし)ろめたからず思(おぼ)せば、聞(き)こえ給(たま)ふ筋(すぢ)異(こと)なるべし。十七日の朝(あした)より、御気色変(か)はるとて、善智識(ぜんぢしき)召(め)さる。経海(けいかい)僧正・往生院(わうじやうゐん)の聖(ひじり)など参(まゐ)りて、ゆゆしき事共(ども)聞(き)こえ知(し)らすべし。遂(つひ)に、其(そ)の日の酉(とり)の時に、御年五十三にて隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。後嵯峨院とぞ申(まう)すめる。今年(ことし)は文永九年なり。院の中(なか)くれふたがりて、闇(やみ)に迷(まよ)ふ心地(ここち)すべし。十八日に薬草院に送(おく)り奉(たてまつ)り給(たま)ふ。仁和寺(にんわじ)の御室・円満院・聖護院・菩堤院・青蓮院(しやうれんゐん)、皆(みな)御供(とも)仕(つかまつ)らせ給(たま)ふ。内より頭(とう)の中将(ちゆうじやう)、御使(つか)ひに参(まゐ)る。三十年が程(ほど)、世をしたためさせ給(たま)ひつるに、少(すこ)しの誤(あやま)り無(な)く、思(おぼ)す儘(まま)にて、新院・御門・春宮、動(うご)き無(な)く、又外(ほか)ざまに分(わ)かるべき事(こと)も無(な)ければ、思(おぼ)しおくべき一ふしも無し。無(な)き御跡まで、人の靡(なび)き仕(つかうまつ)れる様(さま)、来(き)し方(かた)も例(ためし)無(な)き程(ほど)なり。
二十三日、御初七日に、大宮院御髪(みぐし)おろさる。其(そ)の程(ほど)、いみじく悲(かな)しき事多(おほ)かり。
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天(あめ)の下(した)、押(お)しなべて黒(くろ)み渡(わた)りぬ。万(よろづ)しめやかにあはれなる世の気色に、心あるも心無(な)きも、涙催(もよほ)さぬは無し。院・内の御歎(なげ)きはさる事(こと)にて、朝夕(あさゆふ)むつましく仕(つかうまつ)りし人々(ひとびと)の、思(おも)ひ沈(しづ)みあへる様(さま)、理(ことわり)にも過(す)ぎたり。其(そ)の中(なか)に、経任の中納言は、人より異(こと)に御覚(おぼ)え有(あ)りき。年も若(わか)からねば、定(さだ)めて頭(かしら)おろしなんと、皆人(みなひと)思(おも)へるに、なよらかなる狩衣(かりぎぬ)にて、御骨(こつ)の御壺(つぼ)持(も)ち参(まゐ)らせて参(まゐ)れるを、思(おも)ひの外(ほか)にもと、見る人思(おも)へり。権中納言公雄と聞(き)こゆるは、皇后宮の御兄(せうと)なり。早(はや)うより、故院いみじくらうたがらせ給(たま)ひて、夜(よる)昼(ひる)御傍(かたはら)去(さ)らず候(さぶら)ひて、明(あ)け暮(く)れ仕(つかうまつ)らせ給(たま)ひしかば、限(かぎ)りある道にもおくらかし給(たま)へる事(こと)を、若(わか)き程(ほど)に、やる方(かた)無(な)く悲(かな)しと思(おも)ひ入(い)り給(たま)へり。西の対(たい)の前(まへ)なる紅梅の、いと美(うつく)しきを折りて、具氏(ともうぢ)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)、彼(か)の中納言に消息(せうそこ)聞(き)こゆ。
梅の花春は春(はる)にも有(あ)らぬ世(よ)をいつと知(し)りてか咲(さ)き匂(にほ)ふらん 
返(かへ)し、
心有(あ)らばころもうき世の梅の花折(をり)忘(わす)れずば匂(にほ)はざらまし 
「夜さり、対面(たいめん)に、何事(なにごと)も聞(き)こえん」と言(い)へるを、此(こ)の中将(ちゆうじやう)も、故院の御いとほしみの人
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にて、同(おな)じ心なる友に覚(おぼ)えければ、いとあはれにて、悲(かな)しき事(こと)も語(かた)り合(あ)はせんと、日ぐらし待(ま)ち居(ゐ)たるに、遂(つひ)に見(み)えず。怪(あや)しと思(おも)ふに、はや其(そ)の夜頭(かしら)おろしてけり。齢(よはひ)も盛(さか)りに、今(いま)も皇后宮の御兄(せうと)、春宮の御伯父(をぢ)なれば、世覚(おぼ)え劣(おと)るべくも有(あ)らず。思(おも)ひなしも頼(たの)もしく、誇(ほこ)りかなるべき身にて、かくて捨(す)てはつる程(ほど)、いみじくあはれなれば、皆人(みなひと)、いとほしう悲(かな)しき事(こと)に言(い)ひあつかふめり。経任の中納言にはこよなき心ばへにや。父(ちち)大臣(おとど)も、院の御事(こと)を尽(つ)きせず歎(なげ)き給(たま)ふにうち添(そ)へて、いみじと思(おぼ)す。
公宗の中納言も、甲斐(かひ)無(な)き物思(おも)ひのつもりにや、はかなくなり給(たま)ひぬ。又此(こ)の中納言さへかく物(もの)し給(たま)ひぬるを、様々(さまざま)につけて心細(ぼそ)く思(おぼ)すに、いく程(ほど)無(な)く皇后宮さへ又(また)失(う)せ給(たま)ひぬ。いよいよ臥(ふ)し沈(しづ)みてのみおはする程(ほど)に、いと弱(よわ)う成(な)りまさり給(たま)ふ。春宮の御代をもえ待(ま)ち出(い)づまじきな(ン)めりと、あはれに心細(ぼそ)う思(おぼ)し続(つづ)けて、
はかなくもおふの浦(うら)なし君が代にならばと身をも頼(たの)みける哉 
歎(なげ)きにたへず、遂(つひ)に失(う)せ給(たま)ひにけり。物思(おも)ひには、げに命も尽(つ)くるわざなりけり。
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あはれに悲(かな)しと言(い)ひつつも、とまらぬ月日(つきひ)なれば、故院の御日数(ひかず)も程(ほど)なう過(す)ぎ給(たま)ひぬ。世の中(なか)は、新院かくておはしませば、法皇の御代(か)はりに引(ひ)きうつして、さぞ有(あ)らんと世の人も思(おも)ひ聞(き)こえけるに、当代(たうだい)の御一(ひと)つ筋(すぢ)にてあるべき様(さま)の御おきてなりけり。長講堂領(ちやうがうだうりやう)、又播磨(はりま)の国、尾張(をはり)の熱田(あつた)の社などをぞ、御処分(そぶん)有(あ)りける。いづれの年なりしにか、新院、六条殿に渡(わた)らせ給(たま)ひし頃(ころ)、祇園(ぎをん)の神輿互(たがひ)の行幸有(あ)りし時(とき)、御対面(たいめん)のやうを、故院へ尋(たづ)ね申(まう)されたりしにも、「我(われ)とひとしかるべき御事(こと)なれば、朝覲(てうきん)になぞらへらるべし」と申(まう)されけり。一(ひと)つ腹(はら)の御兄(このかみ)にてもおはします。方々(かたがた)理(ことわり)なるべき世(よ)を、思(おも)ひの外(ほか)にもと、思(おも)ふ人々(ひとびと)も多(おほ)かるべし。「いでや位におはしますにつきて、差(さ)しあたりの御政事(まつりごと)などは理(ことわり)なり。新院にも若宮(わかみや)おはしませば、行(ゆ)く末(すゑ)の一(ひと)ふしは、などかは」など、言(い)ひしろふ。かかれば、いつしか、院がた・内がたと、人の心々(こころごころ)も引(ひ)き別(わか)るるやうに、うちつけ事共(ども)出(い)で来(き)けり。人一人(ひとり)おはしまさぬあとは、いみじき物にぞ有(あ)りける。朝(てう)の御まもりとて、田村の将軍より伝(つた)はり参(まゐ)りける御佩刀(はかし)などをも、彼(か)の御気色のしかおはしましけるにや、御隠(かく)れの後(のち)、やがて内裏へ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしか
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ば、それなどをぞ、女院の恨(うら)めしき御事(こと)には、院も思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひける。さてしもやはなれば、此(こ)の由(よし)をも関の東(ひがし)へぞ宣(のたま)ひ遣(つか)はしける。内には、花山院の太政大臣(おほきおとど)、後院(ごゐん)の別当になされて、世(よ)の中(なか)自(みづか)らしたためさせ給(たま)ふ。もとよりいと花やかに、今(いま)めかしき所(ところ)おはする君にて、万(よろづ)かどかどしうなん。皇后宮隠(かく)れさせ給(たま)ひにし後は、尽(つ)きせぬ御歎(なげ)きさめがたうて、所(ところ)せき御有様(おんありさま)もよだけう、いかで本意(ほい)をも遂(と)げてばやなど〔まで〕思(おぼ)されけり。故院の御果(は)ても過(す)ぎさせ給(たま)へば、世の中(なか)、色改(あらた)まりて、花やかに、人々(ひとびと)の御歎(なげ)きの色も薄(うす)らぎ行(ゆ)くしも、あはれなる習(なら)ひなりかし。
其(そ)の夏、春宮例にもおはしまさで日頃(ひごろ)ふれば、内の上(うへ)、御胸(むね)つぶれて、御修法(みしゆほふ)や何(なに)やと騒(さわ)がせ給(たま)ふ。和気(わけ)・丹波(たんば)の医師(くすし)氏成・春成(はるなり)共(ども)、夜(よる)昼(ひる)候(さぶら)ひて、御薬(くすり)の事、色々(いろいろ)に仕(つかうまつ)れど、只(ただ)同(おな)じ様(さま)にのみおはす。いかなるべき御事(こと)にかと、いとあさましうて、上(うへ)も、つと此(こ)の御方に渡(わた)らせ給(たま)ひて見奉(たてまつ)らせ給(たま)ふに、御目(め)の内(うち)、大方(おほかた)、御身の色なども、事(こと)の外(ほか)に黄に見(み)えければ、いと怪(あや)しうて、御大壺(つぼ)を召(め)し寄(よ)せて御覧ぜらる。紙(かみ)をひたして見(み)せらるるに、いみじう濃(こ)く出(い)でたる黄皮(きはだ)
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の色なり。いとあさましく、などかばかりの事(こと)を知(し)り聞(き)こえざらんとて、御気色あしければ、医師(くすし)共(ども)、いたう畏(かしこ)まり、色を失(うしな)ふ。かばかりになりては、御灸(やいと)無(な)くては、まがまがしき御こと出(い)で来(く)べしと、各(おのおの)驚(おどろ)き騒(さわ)ぐ。未(いま)だ例無(な)き事(こと)は、いかがあるべきと、定(さだ)め兼(か)ねらる。位にては、只(ただ)一度(ひとたび)例(ためし)有(あ)りけり。春宮にては、未(いま)ださる例無(な)かりけれど、いかがはせむとて、思(おぼ)し定(さだ)む。七にならせ給(たま)へば、さらでだに心苦(ぐる)しき御程(ほど)なるに、まめやかにいみじと思(おぼ)す。医師(くすし)と大夫定実君一人(ひとり)召(め)し入(い)れて、又、人も参(まゐ)らず。御門(みかど)の御前(まへ)にて、五所ぞせさせ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひける。御乳母(めのと)共(ども)、いと悲(かな)しと思(おも)ひて、いぶかしうすれど、をさをさ許(ゆる)させ給(たま)はず。宮いと熱(あつ)くむつかしう思(おぼ)せど、大夫につと抱(いだ)かれ給(たま)ひて、上(うへ)の御手をとらへ、万(よろづ)に慰(なぐさ)め聞(き)こえさせ給(たま)ふ御気色の、あはれに忝(かたじけな)さを、幼(をさな)き御心(おんこころ)に思(おぼ)し知(し)るにや、いとおとなしく念(ねん)じ給(たま)ふ。かくて後(のち)、程(ほど)無(な)く怠(おこた)らせ給(たま)ひぬれば、めでたく御心(おんこころ)おち居(ゐ)給(たま)ひぬ。
大方(おほかた)、今年(ことし)は地震(なゐ)しげくふり、世の中(なか)騒(さわ)がしきやうなれば、つつしみ思(おぼ)されて、十月十五日(じふごにち)より、円満院の二品親王(しんわう)、内に候(さぶら)ひ給(たま)ひて、尊星王(そんしやうわう)の御修法(みしゆほふ)勤(つと)め給(たま)ふ
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に、二十日の宵(よひ)、二の対(たい)より火出(い)で来(き)たり。あさましとも言(い)はむ方(かた)無し。上下立(た)ち騒(さわ)ぎ罵(ののし)る様(さま)、思(おも)ひやるべし。大宮院も内におはしましける頃(ころ)にて、急(いそ)ぎ出(い)でさせ給(たま)ふ。御車の棟木(むねき)にも、既(すで)に火燃(も)え尽(つ)きけるを、又差(さ)し寄(よ)せて、春宮奉(たてまつ)らせけり。其(そ)の夜しも、勾当(こうたう)の内侍里(さと)へ出(い)でたりければ、塗篭(ぬりごめ)の鍵(かぎ)をさへ求(もと)め失(うしな)ひて、いみじき大事(だいじ)なりけるを、上(うへ)聞(き)こし召(め)して、荒(あら)らかに踏(ふ)ませ給(たま)ひたりければ、さばかり強(つよ)き戸、まろびて開(あ)きたりけるぞ恐(おそ)ろしき。さ無(な)くば、いとゆゆしきこと共(ども)ぞあるべかりける。故院の御処分(そうぶん)の入(い)りたる御小唐櫃(こからびつ)、何(なに)くれの御宝(たから)、こと故(ゆゑ)無(な)く取(と)り出(い)だされぬ。それだにも、あまり騒(さわ)ぎて、御勘文(かもん)・御産衣(うぶぎぬ)などの入(い)りたる物は焼(や)けにけり。上(うへ)は、腰輿(ようよ)にて、押小路(おしこうぢ)殿(どの)へ行幸なりぬ。法親王は、「修法(しゆほふ)の強(つよ)き故(ゆゑ)に、かかる事(こと)はあるなり」とぞ宣(のたま)はせける。此(こ)の四月に、御わたまし有(あ)りつるに、いく程(ほど)なうかかるは、げにいみじきわざなれど、昔(むかし)も、三条院、位の御時かとよ、大内造(つく)り立(た)てられて、御わたましの夜こそ、やがて火出(い)で来(き)て焼(や)けにし事(こと)もあれば、これより重(おも)き大事(だいじ)もあるべかりけるに、夜変(か)はりたらんはいかがはせん。
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かくて今年(ことし)も暮(く)れぬ。上(うへ)は、いよいよ世(よ)の中(なか)の〔心〕あわたたしう思(おぼ)されて、おり居(ゐ)なんの御心(おんこころ)遣(づかひ)すめり。位におはしましては、十五年ばかりにやなりぬらん。未(いま)だ三十(みそぢ)にも遙(はる)かに足(た)らぬ程(ほど)の御齢(おんよはひ)なれば、今(いま)ぞ盛(さか)りに、若(わか)う清(きよ)らかなる御程(ほど)な(ン)める。



校註 増鏡

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第十一 草枕(くさまくら)
文永十一年正月二十六日、春宮に位譲(ゆづ)り申(まう)させ給(たま)ふ。二十五日夜、先(ま)づ、内侍所(ないしどころ)・剣璽(けんじ)引(ひ)き具(ぐ)して、押小路殿へ行幸なりて、又の日、ことさらに二条内裏へ渡(わた)されけり。九条(くでう)の摂政殿〈 忠家 〉参(まゐ)り給(たま)ひて、蔵人召(め)して、禁色(きんじき)仰(おほ)せらる。上(うへ)は八にならせ給(たま)へば、いと小(ちひ)さく美(うつく)しげにて、びんづらゆひて、御引直衣(ひきなほし)・打御衣(うちおんぞ)・はり袴(ばかま)奉(たてまつ)れる御気色、おとなおとなしうめでたく御座(おは)するを、花山院の内大臣、扶持(ふち)し申(まう)さるるを、故皇后宮の御兄(せうと)公守(きんもり)の君などは、あはれに見給(たま)ひつつ、故大臣(おとど)・宮などの御座(おは)せましかばと思(おぼ)し出(い)づ。殿上に人々(ひとびと)多(おほ)く参(まゐ)り集(あつ)まり給(たま)ひて、御もの参(まゐ)る。其(そ)の後上達部の拝(はい)有(あ)り。女房は朝餉(あさがれひ)より末(すゑ)まで、内大臣公親の女
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を始(はじ)めにて、三十余人(よにん)並(な)み居(ゐ)たり。いづれと無(な)くとりどりにきよげなり。二十八日よりぞ、内侍所の御拝(はい)始(はじ)められける。
かくて新院、二月七日御幸(ごかう)始(はじ)めせさせ給(たま)ふ。大宮院の御座(おは)します中御門京極(きやうごく)実俊(さねとし)の中将(ちゆうじやう)の家へなる。御直衣(なほし)、唐庇(からびさし)の御車、上達部・殿上人残(のこ)り無(な)く、上(うへ)の衣にて仕(つかうまつ)らる。同(おな)じ十日、やがて菊(きく)の網代庇(あじろびさし)の御車奉(たてまつ)りはじむ。此(こ)の度(たび)は、御烏帽子(えぼし)・直衣(なほし)、院へ参(まゐ)り給(たま)ふ。同二十日、布衣の御幸始(はじ)め、北白河殿へ入(い)らせ給(たま)ふ。八葉の御車、萌黄(もえぎ)の御狩衣(かりぎぬ)・山吹(やまぶき)の二御衣(ふたつおんぞ)・紅の御単(ひとへ)・薄色(うすいろ)の織物(おりもの)の御指貫(さしぬき)奉(たてまつ)る。
本院は、故院の御第三年の事思(おぼ)し入(い)りて、正月(むつき)の末(すゑ)つ方(かた)より、六条殿の長講堂にて、あはれに尊(たふと)く行(おこな)はせ給(たま)ふ。御指(ゆび)の血(ち)を出(い)だして、御手づから法華経など書(か)かせ給(たま)ふ。衆僧も十余人(よにん)が程(ほど)召(め)しおきて、懺法(せんぼふ)など読(よ)ませらる。御掟(おきて)の思(おも)はずなりしつらさをも、思(おぼ)し知(し)らぬには有(あ)らねど、それもさるべきにこそは有(あ)らめと、いよいよ御心(おんこころ)を致(いた)して、懇(ねんご)ろに孝(けう)じ申(まう)させ給(たま)ふ様(さま)、いとあはれ也。
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新院もいかめしう御仏事(ぶつじ)嵯峨(さが)殿(どの)にて行(おこな)はる。三月二十六日は御即位(そくゐ)、めでたくて過(す)ぎもて行(ゆ)く。十月二十二日御禊なり。十九日〔より〕官(くわん)の庁へ行幸有(あ)り。女御代、花山院より出(い)ださる。糸毛(いとげ)の車、寝殿(しんでん)の階(はし)の間(ま)に、左大臣殿・大納言(だいなごん)長雅寄(よ)せらる。みな紅の五衣、同(おな)じき単(ひとへ)、車の尻(しり)より出(い)ださる。十一月十九日、又官(くわん)の庁へ行幸、二十日より五節(ごせち)始(はじ)まるべく聞(き)こえしを、蒙古(むくり)起(お)こるとてとまりぬ。二十二日、大嘗会(だいじやうゑ)、廻立殿(くわいりふでん)の行幸、節会ばかり行(おこな)はれて、清暑堂の御神楽も無し。
新院は、世を知(し)ろし召(め)す事変(か)はらねば、万(よろづ)御心(おんこころ)の儘(まま)に、日頃(ひごろ)ゆかしく思(おぼ)しめされし所々(ところどころ)、いつしか御幸しげう、花(はな)やかにて過(す)ぐさせ給(たま)ふ。いと有(あ)らまほしげなり。本院は、猶(なほ)いと怪(あや)しかりける御身の宿世(すくせ)を、人の思(おも)ふらん事(こと)もすさまじう思(おぼ)しむすぼほれて、世を背(そむ)かんの設(まう)けにて、尊号をも返(かへ)し奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、兵仗(ひやうぢやう)をも止(とど)めむとて、御随身(みずいじん)共(ども)召(め)して、禄かづけ、暇(いとま)賜(たま)はする程(ほど)、いと心細(ぼそ)しと思(おも)ひあへり。大方(おほかた)の有様(ありさま)、うち思(おも)ひめぐらすもいと忍(しの)び難(がた)き事多(おほ)くて、内外の、人々(ひとびと)、袖共(ども)うるほひ渡(わた)る。院もいとあはれなる御気色にて、心強(づよ)からず。今年(ことし)三十三にぞ御座(おは)します。故院の、四十九にて御髪(みぐし)おろし
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給(たま)ひしをだに、さこそは誰(たれ)も誰(たれ)も惜(を)しみ聞(き)こえしか。東(ひんがし)の御方(かた)も、後(おく)れ聞(き)こえじと御心(おんこころ)遣(づかひ)し給(たま)ふ。さならぬ女房・上達部の中(なか)にも、とりわきむつましう仕(つかまつ)る人、三、四人(さんよにん)ばかり、御供(とも)仕(つかまつ)るべき用意(ようい)すめれば、程々(ほどほど)につけて、私(わたくし)も物心細(ぼそ)う思(おも)ひ歎(なげ)く家々(いへいへ)あるべし。かかる事共(ども)、東(あづま)にも聞(き)こえ驚(おどろ)きて、例の陣の定(さだ)めなどやうに、これ彼(かれ)数多(あまた)、武士共(ども)、寄(よ)り合(あ)ひ寄(よ)り合(あ)ひ評定しけり。
此(こ)の頃は、有(あ)りし時頼の朝臣の子、時宗、相模守と言(い)ふぞ、世の中(なか)計(はか)らふ主(ぬし)なりける。故時頼の朝臣は、康元元年(ぐわんねん)に頭(かしら)おろして後、忍(しの)びて諸国(しよこく)を修行(しゆぎやう)し歩(あり)きけり。それも国々の有様(ありさま)、人の愁(うれ)へなど、くはしくあなぐり見(み)聞(き)かんの謀(はかりこと)にて有(あ)りける。怪(あや)しの宿(やど)りに立(た)ち寄(よ)りては、其(そ)の家主(いへぬし)が有様(ありさま)を問(と)ひ聞(き)き、理(ことわり)ある愁(うれ)へなどの埋(うづ)もれたるを聞(き)きひらきては、「我(われ)は怪(あや)しき身なれど、昔(むかし)、よろしき主(しゆう)を、持(も)ち奉(たてまつ)りし、未(いま)だ世にや御座(おは)すると、消息(せうそこ)奉(たてまつ)らん。持(も)て詣(まう)でて聞(き)こえ給(たま)へ」など言(い)へば、「なでう事無(な)き修行者(しゆぎやうじや)の、何(なに)ばかりかは」とは思(おも)ひながら、言(い)ひ合(あ)はせて、其(そ)の文を持(も)ちて東(あづま)へ行(ゆ)きて、しかじかと教(をし)へし
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儘(まま)に言(い)ひて見(み)れば、入道殿(どの)の御消息(せうそこ)なりけり。「あなかまあなかま」とて、ながく愁(うれ)へ無(な)きやうに、計(はか)らひつ。仏神などの現(あら)はれ給(たま)へるかとて、皆(みな)額(ぬか)をつきて悦(よろこ)びけり。かやうの事、すべて数(かず)知(し)らず有(あ)りし程(ほど)に、国々(くにぐに)も心遣(づかひ)をのみしけり。最明寺の入道とぞ言(い)ひける。
その子なればにや、今(いま)の時宗の朝臣もいとめでたき物にて、「本院のかく世を思(おぼ)し捨(す)てんずる、いと忝(かたじけな)くあはれなる御事(こと)なり。故院の御掟(おきて)は、やうこそ有(あ)らめなれど、そこらの御兄(このかみ)にて、させる御誤(あやまり)も御座(おは)しまさざらん、いかでかは、たちまちに、名残(なごり)無(な)くは物(もの)し給(たま)ふべき。いと怠々(たいだい)しきわざなり」とて、新院へも奏(そう)し、かなたこなた宥(なだ)め申(まう)して、東(ひんがし)の御方(かた)の若宮(わかみや)を坊に立て奉(たてまつ)りぬ。十一月五日、節会(せちゑ)行(おこな)はれて、いとめでたし。かかれば、少(すこ)し御心(おんこころ)慰(なぐさ)めて、此(こ)の際(きは)は、しひて背(そむ)かせ給(たま)ふべき御道心にも有(あ)らねば、思(おぼ)しとまりぬ。これぞあるべき事(こと)と、あいなう世の人も思(おも)ひ言(い)ふべし。御門(みかど)よりは、今(いま)二ばかりの御兄(このかみ)なり。儲(まう)けの君、御年勝(まさ)れる例(ためし)、遠(とほ)き昔(むかし)はさておきぬ、近頃(ちかごろ)は三条院・小一条院・高倉院(たかくらのゐん)などや御座(おは)しましけん。高倉院の御末(すゑ)ぞ今(いま)もかく栄(さか)え
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させ御座(おは)しませば、賢(かしこ)き例(ためし)な(ン)めり。古(いにしへ)の天智天皇と天武天皇とは、同(おな)じ御腹(おんはら)の御はらからなり。其(そ)の御末(すゑ)、しばしばうち変(か)はりうち変(か)はり世(よ)を知(し)ろし召(め)しし例(ためし)などをも、思(おも)ひや出(い)でけむ。御二流(ふたなが)れにて、位にも御座(おは)しまさなむと思(おも)ひ申(まう)しけり。新院は、御心(おんこころ)行(ゆ)くとしも無(な)くや有(あ)りけめど、大方の人目(ひとめ)には、御中(なか)いとよくなりて、御消息(せうそこ)も常(つね)にかよひ、上達部(かんだちめ)なども、かなたこなた参(まゐ)り仕(つかうまつ)れば、大宮院も目(め)安(やす)く思(おぼ)さるべし。
誠(まこと)や、文永の初(はじ)めつ方(かた)下(くだ)り給(たま)ひし斎宮は、後嵯峨院の更衣腹(かういばら)の宮ぞかし。院隠(かく)れさせ給(たま)ひて後、御服(ぶく)にており給(たま)へれど、猶(なほ)御暇(いとま)ゆりざりければ、三年(みとせ)まで伊勢に御座(おは)しまししが、此(こ)の秋の末(すゑ)つ方(かた)御上(のぼ)りにて、仁和寺(にんわじ)に衣笠(きぬがさ)と言(い)ふ所に住(す)み給(たま)ふ。月花門院の御つぎには、いとらうたく思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)へりし昔(むかし)の御心(おんこころ)おきてを、あはれに思(おぼ)し出(い)でて、大宮院、いと懇(ねんご)ろに訪(とぶら)ひ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。亀山殿に御座(おは)します。十月ばかり、斎宮をも渡(わた)し奉(たてまつ)り給(たま)はんと、本院にも入(い)らせ給(たま)ふべき由(よし)御消息(せうそこ)あれば、珍(めづら)しくて御幸有(あ)り。其(そ)の夜は、女院の御前にて、昔(むかし)今(いま)の御物語(ものがたり)など、のどやかに聞(き)こえ給(たま)ふ。又の日夕(ゆふ)づけて、衣笠殿
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へ御迎(むか)ひに、忍(しの)びたる様(さま)にて、殿上人一二人、御車二(ふた)つばかり奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。寝殿(しんでん)の南面(おもて)に、御褥(しとね)共(ども)引(ひ)きつくろひて、御対面(たいめん)有(あ)り。とばかりして、院の御方(かた)へ御消息(せうそこ)聞(き)こえ給(たま)へれば、やがて渡(わた)り給(たま)ふ。女房に、御佩刀(はかし)持(も)たせて、御簾(みす)の内(うち)に入(い)り給(たま)ふ。女院は香(かう)の薄(うす)にほひの御衣(ころも)、香染(かうぞ)めなど奉(たてまつ)れば、斎宮、紅梅(こうばゐ)の匂(にほひ)に、葡萄染(えびぞ)めの御小袿(こうちき)なり。御髪(みぐし)いとめでたく盛(さか)りにて二十に一、二や余(あま)り給(たま)ふらんと見(み)ゆ。花と言(い)はば、霞(かすみ)の間(ま)のかば桜(ざくら)も猶(なほ)匂(にほ)ひ劣(おと)りぬべく、言(い)ひ知(し)らずあてに美(うつく)しう、あたりも薫(かを)る御様(さま)して、珍(めづら)かに見(み)えさせ給(たま)ふ。院は、われもかう乱(みだ)れ織(お)りたる枯野の御狩衣(かりぎぬ)、薄色(うすいろ)の御衣(おんぞ)、紫苑色(しをんいろ)の御指貫(さしぬき)、なつかしき程(ほど)なるを、いたくたきしめて、えならず薫(かを)り満(み)ちて渡(わた)り給(たま)へり。上臈(じやうらふ)だつ女房、紫(むらさき)の匂(にほひ)五に、裳(も)ばかり引(ひ)きかけて、宮の御車に参(まゐ)り給(たま)へり。神世の御物語(おんものがたり)など良(よ)き程(ほど)にて、故院の今(いま)はの頃(ころ)の御事(こと)など、あはれに懐(なつ)かしく聞(き)こえ給(たま)へば、御いらへも慎(つつ)ましげなる物から、いぶせからぬ程(ほど)に、ほのかに物うち宣(のたま)へる御様(さま)なども、いとらうたげなり。をかしき様(さま)なる御酒(みき)・御果物(くだもの)・強飯(こはいひ)などにて今宵(こよひ)は果(は)てぬ。
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院も我(わ)が御方(かた)に帰(かへ)りて、うちやすませ給(たま)へれど、まどろまれ給(たま)はず。有(あ)りつる御面影(おもかげ)、心にかかりて覚(おぼ)え給(たま)ふぞいとわりなき。「差(さ)しはへて聞(き)こえんも、人聞(ぎ)きよろしかるまじ。いかがはせん」と思(おぼ)し乱(みだ)る。御はらからと言(い)へど、年月(としつき)よそにて生(お)ひ立(た)ち給(たま)へれば、うとうとしく習(なら)ひ給(たま)へる儘(まま)に、慎(つつ)ましき御思(おも)ひも薄(うす)くや有(あ)りけん、猶(なほ)ひたぶるにいぶせくてやみなんは、あかず口惜(くちを)しと思(おぼ)す。けしからぬ御本性(ごほんじやう)なりや。某(なにがし)の大納言(だいなごん)の女、御身近(ちか)く召(め)し使(つか)ふ人、彼(か)の斎宮にも、さるべき縁(ゆかり)有(あ)りてむつましく参(まゐ)りなるるを、召(め)し寄(よ)せて、「馴(な)れ馴(な)れしきまでは思(おも)ひよらず。只(ただ)少(すこ)しけ近(ぢか)き程(ほど)にて、思(おも)ふ心の片端(かたはし)を聞(き)こえん。かく折(をり)良(よ)き事(こと)もいと難(かた)かるべし」と切(せち)にまめだちて宣(のたま)へば、いかがたばかりけむ、夢うつつとも無(な)く近(ちか)づき聞(き)こえさせ給(たま)へれば、いと心憂(う)しと思(おぼ)せど、あえかに消(き)え惑(まど)ひなどはし給(たま)はず。らうたくなよなよとして、あはれなる御けはひなり。鳥もしばしば驚(おどろ)かすに、心あわたたしう、さすがに人の御名のいとほしければ、夜深(ぶか)く紛(まぎ)れいで給(たま)ひぬ。日たくる程(ほど)に大殿篭(おほとのごも)り起(お)きて、御文(ふみ)奉(たてまつ)り給(たま)ふ。うはべは、只(ただ)大方(おほかた)なるやうにて、「ならはぬ御旅寝(たびね)もいかに」など
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やうに、すくよかに見せて、中(なか)に小(ちひ)さく、
夢とだにさだかにも無(な)きかり臥(ぶ)しの草の枕(まくら)に露ぞこぼるる 
いとつれなき御気色の、聞(き)こえん方(かた)なさに」とぞあ(ン)める。悩(なや)ましとて、御覧(ごらん)じも入(い)れず。しひて聞(き)こえんもうたてあれば、「なだらかにもてかくして、おこたらせ給(たま)へ」など、聞(き)こえしらすべし。
さて御方々(かたがた)御台(だい)など参(まゐ)りて、昼(ひる)つ方(かた)又御対面(たいめん)共(ども)有(あ)り。宮はいと恥(は)づかしうわりなく思(おぼ)されて、「いかで見(み)え奉(たてまつ)らんずらん」と思(おぼ)し休(やす)らへど、女院などの御気色のいとなつかしきに、聞え返(かへ)さひ給(たま)ふべきやうも無(な)ければ、只(ただ)おほどかにて御座(おは)す。今日(けふ)は、院の御経営(けいめい)にて、善勝寺(ぜんしようじ)の大納言(だいなごん)隆顕、桧破子(ひわりご)やうの物、色々(いろいろ)にいと清(きよ)らに調(てう)じて参(まゐ)らせたり。三めぐりばかりは、各(おのおの)別(べち)に参(まゐ)る。其(そ)の後(のち)「余(あま)りあいなう侍れば忝(かたじけな)けれど、昔(むかし)ざまに思(おぼ)しなずらへ、許(ゆる)させ給(たま)ひてんや」と、御気色(けしき)とり給(たま)へば、女院の御土器(かはらけ)を斎宮参(まゐ)る。其(そ)の後(のち)、院聞(き)こし召(め)す。御几帳(きちやう)ばかりを隔(へだ)てて、長押(なげし)の下(しも)へ、西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)実兼、善勝寺(ぜんしようじ)の大納言(だいなごん)隆顕召(め)さる。簀子(すのこ)に、長輔(ながすけ)・為方・兼行(かねゆき)・
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資行(すけゆき)など候(さぶら)ふ。数多(あまた)度(たび)流(なが)れ下(くだ)りて、人々(ひとびと)そぼれがちなり。「故院の御事(こと)の後(のち)は、かやうの事(こと)もかき絶(た)えて侍(はべ)りつるに、今宵(こよひ)は珍(めづら)しくなん。心とけて遊(あそ)ばせ給(たま)へ」など、うち乱(みだ)れ聞(き)こえ給(たま)へば、女房召(め)して、御箏(こと)共(ども)かき合(あ)はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺(さいをんじ)もひき給(たま)ふ。兼行(かねゆき)篳篥(ひちりき)、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしも面白(おもしろ)し。こたみは、先(ま)づ斎宮の御前に、院自(みづか)ら御銚子(てうし)を取(と)りて聞(き)こえ給(たま)ふに、宮いと苦(くる)しう思(おぼ)されて、とみにもえ動(うご)き給(たま)はねば、女院「此(こ)の御土器(かはらけ)の、いと心もと無(な)く見(み)え侍(はべ)るめるに、こゆるぎの磯(いそ)ならぬ御さかなやあるべからん」と宣(のたま)へば、「売炭(ばいたん)の翁(おきな)はあはれなり。おのが衣は薄(うす)けれど」と言(い)ふ今様(いまやう)をうたはせ給(たま)ふ。御声(こゑ)いと面白(おもしろ)し。宮聞(き)こし召(め)して後(のち)、女院御杯(さかづき)をとり給(たま)ふとて、「天子には父母無しと申(まう)すなれど、十善(じふぜん)の床(ゆか)をふみ給(たま)ふも、いやしき身の宮仕(みやづか)へなりき。一言(ひとこと)報(むく)ひ給(たま)ふべうや」と宣(のたま)へば、「さうなる御事(こと)なりや」と、人々(ひとびと)目(め)をくはせつつ忍(しの)びてつきしろふ。「御前(おまへ)の池なる亀岡(かめをか)に、鶴(つる)こそ群(む)れ居(ゐ)て遊(あそ)ぶなれ」とうたひ給(たま)ふ。其(そ)の後(のち)、院聞(き)こし召(め)す。善勝寺(ぜんしようじ)「せれうの里」を出(い)だす。人々(ひとびと)声(こゑ)加(くは)へなどして、らうがはしき程(ほど)になりぬ。かくて
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いたう深(ふ)けぬれば、女院も我(わ)が御方(かた)に入(い)らせ給(たま)ひぬ。かくて其(そ)の儘(まま)のおましながら、かりそめなるやうにてより臥(ふ)し給(たま)へば、人々(ひとびと)も少(すこ)し退(しりぞ)きて、苦(くる)しかりつる名残(なごり)に程(ほど)無(な)く寝(ね)入(い)りぬ。
明日(あす)は宮も御帰(かへ)りと聞(き)こゆれば、今宵ばかりの草枕(くさまくら)、猶(なほ)結(むす)ばまほしき御心(おんこころ)の鎮(しづ)め難(がた)くて、いとささやかに御座(おは)する人の、御衣(ぞ)など、さる心して、なよらかなるを、まぎらはしすべしつつ、忍(しの)びやかにふるまひ給(たま)へば、驚(おどろ)く人も無し。何(なに)やかやと、なつかしう語(かた)らひ聞(き)こえ給(たま)ふに、靡(なび)くとは無(な)けれども、只(ただ)いみじうおほどかに、やはらかなる御様(さま)して、思(おぼ)しほれたる御気色を、よそなりつる程(ほど)の御心(おんこころ)惑(まど)ひまでは無(な)けれど、らうたくいとほしと思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)ひけり。長(なが)き夜なれど、深(ふ)けにしかばにや、程(ほど)なう明(あ)けぬる夢の名残は、いとあかぬ心地(ここち)しながら、きぬぎぬになり給(たま)ふ程(ほど)、女宮も心苦(ぐる)しげにぞ見(み)え給(たま)ひける。其(そ)の後(のち)も、折々(をりをり)は聞(き)こえ動(うご)かし給(たま)へど、差(さ)しはへてあるべき御事(こと)ならねば、いと間遠(まどほ)にのみなん。「まくる習(なら)ひ」までは有(あ)らずや御座(おは)しましけん。あさましとのみ尽(つ)きせず思(おぼ)し渡(わた)るに、西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)、忍(しの)びて参(まゐ)り給(たま)ひけるを、人がらもまめまめしく、
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いと懇(ねんご)ろに思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)へれば、御母代(ははしろ)の人なども、いかがはせんにて、やうやう頼(たの)みかはし給(たま)へば、ある夕つ方(かた)、「内よりまかでんついでに、又(また)必(かなら)ず参(まゐ)りこん」と頼(たの)め聞(き)こえ給(たま)へりければ、其(そ)の心(こころ)して誰(たれ)も待(ま)ち給(たま)ふ程(ほど)に、二条の師忠の大臣(おとど)、いと忍(しの)びて歩(あり)き給(たま)ふ道(みち)に、彼(か)の大納言(だいなごん)、扈従(こせう)など数多(あまた)して、いときらきらしげにて行(ゆ)きあひ給(たま)へれば、むつかしと思(おぼ)して、此(こ)の斎宮の御門(みかど)あきたりけるに、女宮の御もとなれば、ことごとしかるべき事(こと)も無しと思(おぼ)して、しばし、彼(か)の大納言の車やり過してんに出(い)でんよと思(おぼ)して、門(かど)の下(した)にやり寄(よ)せて、大臣(おとど)、烏帽子(えぼし)直衣(なほし)のなよらかなるにて降(お)り給(たま)ひぬ。内(うち)には、大納言(だいなごん)の参(まゐ)り給(たま)へると思(おぼ)して、例は、忍(しの)びたる事(こと)なれば、門(もん)の内(うち)へ車を引(ひ)き入(い)れて、対(たい)のつまより降(お)りて参(まゐ)り給(たま)ふに、門より降(お)り給(たま)ひぬ。怪(あや)しとは思(おも)ひながら、たそかれ時(どき)のたどたどしき程(ほど)、何(なに)のあやめも見(み)えわかで、妻戸(つまど)をはづして人の気色見(み)ゆれば、何(なに)と無(な)くいぶかしき心地(ここち)し給(たま)ひて、中門の廊に上(のぼ)り給(たま)へれば、例(れい)のなれたる事(こと)にて、をかしき程(ほど)の童(わらは)女房歩(あゆ)み出(い)でて、気色ばかりを聞(き)こゆるを、大臣(おとど)は覚(おぼ)え無(な)き物から、をかしと思(おぼ)して、尻(しり)につきて入(い)り給(たま)ふ程(ほど)に、宮も待(ま)ち
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聞(き)こえ給(たま)ふと思(おぼ)しくて、御几帳(きちやう)にかくれて、なに心無(な)くうち向(むか)ひ聞(き)こえ給(たま)へるに、大臣(おとど)もこはいかにとは思(おぼ)せど、何(なに)くれとつきづきしう、日頃(ひごろ)の志(こころざし)有(あ)りつる由(よし)聞(き)こえなし給(たま)ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思(おも)ひ加(くは)はり給(たま)ひにけり。大納言(だいなごん)は、此(こ)の宮をさして、かく参(まゐ)り給(たま)ひけるに、例(れい)ならず、男(をとこ)の車より降(お)るる気色見(み)えければ、あるやう有(あ)らんと思(おぼ)して、「御随身(みずいじん)一人、其(そ)の渡(わた)りに、さりげなくてをあれ」とて、止(とど)めて帰(かへ)り給(たま)ひにけり。男君(をとこぎみ)は、いと思(おも)ひの外(ほか)に心起(お)こらぬ御旅寝(たびね)なれど、人の御気色を見給(たま)ふも、有(あ)りつる大納言の車など思(おぼ)し合(あ)はせて、「いかにも此(こ)の宮にやうあるな(ン)めり」と心得(こころえ)給(たま)ふに、「いと好(す)き好(ず)きしきわざなり。由(よし)なし」と思(おぼ)せば、深(ふ)かさで出(い)で給(たま)ひにけり。彼(か)の残(のこ)し置(お)き給(たま)へりし随身(ずいじん)、此(こ)の様(やう)よく見(み)てければ、しかじかと聞(き)こえけるに、いと心憂(う)しと覚(おぼ)えて、「日頃(ひごろ)もかかるにこそは有(あ)りけめ」。いとをこがましう、「彼(か)の大臣(おとど)の心の中(うち)もいかにぞや」と、数々(かずかず)思(おぼ)し乱(みだ)れて、かき絶(た)え久(ひさ)しく訪(おとづ)れ給(たま)はぬをも、此(こ)の宮には、かう残(のこ)り無(な)く見(み)あらはされけんとも知(し)ろし召(め)さねば、怪(あや)しながら過(す)ぎもて行(ゆ)く程(ほど)に、只(ただ)ならぬ御気色にさへ悩(なや)み給(たま)ふをも、大納言(だいなごん)殿は一筋(すぢ)にしも思(おぼ)さ
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れねば、いと心やましう思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)ひけるぞわりなき。然(さ)れども、さすが思(おぼ)しわく事(こと)や有(あ)りけむ、其(そ)の御程(ほど)の事共(ども)も、いと懇(ねんご)ろに訪(とぶら)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひけり。異(こと)御腹(おんはら)の姫宮(ひめみや)をさへ、御子になどし給(たま)ふ。御処分(そぶん)も有(あ)りけるとぞ。いく程(ほど)無(な)くて、弘安七年二月十五日(じふごにち)に、宮隠(かく)れさせ給(たま)ひにしをも、大納言(だいなごん)殿(どの)、いみじう歎(なげ)き給(たま)ひけるとや。誠(まこと)や、新院には、一とせ、近衛殿(このゑ)の大殿の姫君(ひめぎみ)、女御に参(まゐ)り給(たま)ひにしぞかし。女御と聞(き)こえつるを、此(こ)の程(ほど)院号(ゐんがう)有(あ)り、新陽明門院(しんやうめいもんゐん)とぞ聞(き)こゆめる。建治二年の冬の頃(ころ)、近衛殿(このゑどの)にて若宮(わかみや)生(む)まれさせ給(たま)ひしかば、めでたくきらきらしうて、三夜(さんや)・五夜・七夜・九夜など、いかめしく聞(き)こえて、御子(こ)もやがて親王(しんわう)の宣旨(せんじ)など有(あ)りき。



校註 増鏡

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第十二 老のなみ
建治三年正月三日、内の上(うへ)御冠(かうぶり)し給(たま)ふ。十一にぞならせ給(たま)ふらんかし。御諱(いみな)、世仁と聞(き)こゆ。引(ひ)きいれは関白太政大臣〔照念院〕殿兼平、理髪(りはつ)頭(とう)の中将(ちゆうじやう)基顕、御総角(あげまき)大炊御門(おほひのみかど)大納言(だいなごん)信嗣の君仕(つかうまつ)られけり。御遊(あそ)び始(はじ)まる。琵琶玄象(げんしやう)今出川(いまでがは)の大納言(だいなごん)実兼、和琴鈴鹿(すずか)信嗣大納言(だいなごん)、箏(しやう)の琴(こと)殿の大納言(だいなごん)兼忠の君にて御座(おは)せしなんめり。屯食(とんじき)・禄(ろく)などの事、常(つね)の如(ごと)し。
二十二日、朝覲の行幸、亀山殿へなりしかば、上達部・殿上人、例(れい)の色々(いろいろ)のえり、下襲(したがさね)・織物(おりもの)・打物(うちもの)、めでたくゆゆしかりき。御前(おまへ)の大井河に、龍頭鷁首(りゆうとうげきしゆ)浮(う)かべらる。夜に入(い)りて、鵜飼(うかひ)共(ども)召(め)して、かがり火ともして乗(の)せらる。御前の御遊(あそ)び・
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地下(ぢげ)の舞など、様々(さまざま)の面白(おもしろ)き事共(ども)、例の事(こと)なれば、うるさくて、さのみもえ書(か)かず。同(おな)じ三月二十六日、石清水(いはしみづ)の社へ行幸、四月十九日、賀茂の社へ行幸、いづれもめでたかりき。人々(ひとびと)定(さだ)めて記しおき給(たま)へらんと、譲(ゆづ)りてとめ侍(はべ)りぬ。春宮の御元服、八月と聞(き)こえしを、奈良(なら)の興福寺の火の事(こと)により、延(の)びて十二月十九日にぞせさせ給(たま)ひける。十六日に、先(ま)づ内裏へ行啓(ぎやうげい)なる。清涼殿(せいりやうでん)の東(ひんがし)の廂(ひさし)に倚子(いし)を立(た)てらる。御門も倚子につかせ給(たま)ふ。引(ひ)きいれは左大臣師忠、理髪(りはつ)春宮の権大夫具守勤(つと)めらる。御諱(いみな)煕仁(ひろひと)と申しき。持明院殿より、女房、二(に)無(な)く清(きよ)らにし立(た)てて、十二人参(まゐ)る。東(ひんがし)の御方も院の御車にて、殿上人・北面・召次(めしつぎ)など、いと美々(びび)しうて参(まゐ)り給(たま)へり。御門(みかど)・春宮、いづれもいと美(うつく)しき御有様(ありさま)な(ン)めり。新院は、つきせず、皇后宮の御座(おは)しまさましかばとのみ、しほたれがちに、思(おぼ)し忘(わす)るる世無(な)き御心(おんこころ)や慰(なぐさ)むと、これ彼(かれ)参(まゐ)らすれど、をさをさなずらへなるも無し。新陽明門院(しんやうめいもんゐん)も、初(はじ)めは御覚(おぼ)えあるやうなりしかど、次第(しだい)にかれがれなる御事(こと)にて、御一人(ひとり)寝(ね)がちなり。故皇后宮の御(おん)はらからの中(なか)の君も、御面影(おもかげ)や通(かよ)ひたらんと、なつかしさに、忍(しの)びて懇(ねんご)ろに宣(のたま)ひしかば、参(まゐ)らせ奉(たてまつ)り給(たま)へれど、いとしも無(な)く
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て、姫宮(ひめみや)一所(ひとところ)ばかり取(と)り出(い)で給(たま)へりし儘(まま)にてやみにき。姫宮(ひめみや)をば、大宮院の御傍(かたはら)にぞ、かしづき聞(き)こえ給(たま)ふ。
かくて弘安元年(ぐわんねん)になりぬ。十月ばかり、又(また)二条内裏に火出(い)で来(き)て、いみじうあさまし。万里小路(までのこうじ)殿(どの)は、有(あ)りし火の後又(また)造(つく)られて、今年(ことし)の八月に御わたまし有(あ)りて、新院住(す)ませ給(たま)へれど、内裏焼(や)けぬれば、此(こ)の院又(また)内裏に成りぬ。うち続(つづ)き火のしげさいと恐(おそ)ろし。
其(そ)の頃、大宮院いと久(ひさ)しく悩(なや)ませ給(たま)へば、本院も新院も常(つね)に渡(わた)り給(たま)ひて、夜なども御座(おは)しませば、異(こと)御腹(おんはら)の法親王、姫宮(ひめみや)達(たち)なども、絶(た)えず御訪(とぶら)ひに詣(まう)でさせ給(たま)ふ中(なか)に、故院の位の御時(とき)、勾当(こうたう)の内侍と言(い)ひしが腹に出(い)で物(もの)し給(たま)へりし姫宮(ひめみや)、後(のち)には五条院と聞(き)こえし、未(いま)だ宮の御程(ほど)なりしにや、いと盛(さか)りに美(うつく)しげにて、切(せつ)に隠(かく)れ奉(たてまつ)り給(たま)ふを、新院あながちに御心(おんこころ)にかけて、うかがひ聞(き)こえ給(たま)ふ程(ほど)に、此(こ)の御悩(なや)みの頃、いかが有(あ)りけん、いみじう思(おも)ひの外(ほか)にあさましと思(おぼ)し歎(なげ)く。彼(か)の草枕よりは誠(まこと)しう、にがにがしき御事(こと)にて、姫宮(ひめみや)まで出(い)で来(き)させ給(たま)ひにき。限(かぎ)り無(な)く人目(ひとめ)をつつむ事(こと)なれば、怪(あや)しう、誰(た)が御腹(おんはら)と言(い)ふ事(こと)
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も無(な)くて、院の御乳母(めのと)の按察(あぜち)の二位、里(さと)に渡(わた)し奉(たてまつ)り給(たま)へり。幼(をさな)き御心(おんこころ)にも、いかが心得(え)給(たま)ひけん、「宮の御母君をば誰(たれ)とか申(まう)す」と人の問(と)ひ聞(き)こゆれば、「言(い)はぬ事」とのみぞ、いらへさせ給(たま)ひける。御心(おんこころ)のあくがるる儘(まま)に、御覧(ごらん)じ過(すぐ)す人無(な)く、乱(みだ)りがはしきまで、たはれさせ給(たま)ふ程(ほど)に、腹々の宮達(たち)、数(かず)知(し)らず出(い)で来(き)給(たま)ふ。大方(おほかた)、十三の御年(おんとし)より、宮は出(い)で来(き)そめさせ給(たま)ひしが、年々(としどし)に多(おほ)くのみなり給(たま)へば、いとらうがはしきまでぞあるべき。故皇后宮の御雑仕(ざふし)にて、貫川(ぬきがは)と言(い)ひし、御霊(りやう)とかや聞(き)こゆる社の御子(みこ)にてぞ有(あ)りける。先(さき)にも聞(き)こえしやうに、位の御程(ほど)に度々(たびたび)召(め)されて、姫宮(ひめみや)生(む)まれ給(たま)へりしを、それも御乳母(めのと)の按察(あぜち)の二位殿の里に、彼(か)の五条院の御腹(おんはら)のと二所(ふたところ)、同(おな)じ御かしづき草にて御座(おは)せし程(ほど)に、近衛殿(このゑどの)へ参(まゐ)らせ給(たま)へれば、殿はもと御座(おは)せし北政所をもすさめ給(たま)ひて、此(こ)の宮を類(たぐひ)無(な)く思(おも)ひ聞(き)こえさせ給(たま)ふ程(ほど)に、かひがひしく若君(わかぎみ)〈 左大臣経平 〉出(い)で来(き)給(たま)へるをも、いみじうかしづきいたはり給(たま)ひて、前(さき)の北政所の御腹(おんはら)の太郎君、中将(ちゆうじやう)ばかりにて物(もの)し給(たま)ふをも、よくせずは、押(お)しのけつべうもてなし奉(たてまつ)り給(たま)ひけるを、新院聞(き)かせ給(たま)ひて、いといとほしき事(こと)なり。これは未(いま)だ稚児(ちご)なり。ちと大人(おとな)しうなり給(たま)へるをば、
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いかでか引(ひ)き違(たが)ふるやうは有(あ)らん」と宣(のたま)はせて、其(そ)の弟君(おとうとぎみ)は、遂(つひ)に御家も保(たも)たせ給(たま)はざりしなり。又、北白河殿の女院に、大納言(だいなごん)の君とて候(さぶら)ひし人の曹司(ざうし)に、下野(しもつけ)と言(い)ひし物は、田楽とかや言(い)ふ事する怪(あや)しの法師(ほふし)の、名をば玄駒(げんく)と言(い)ふが娘(むすめ)なりき。彼(か)の女院は、新院の御母代(ははしろ)にて、常(つね)に御幸もなりにしかば、おのづから御覧(ごらん)じそめけるにや、事(こと)の外(ほか)に時(とき)めき出(い)でて、此(こ)の院に召(め)し渡(わた)されて、花山院の太政(おほき)大臣(おとど)の御子になされ、廊の御方(かた)とぞつけさせ給(たま)ふ。其(そ)の御腹にも宮生(む)まれ給(たま)ひぬ。大宮(おほみや)の女院に讚岐とて候(さぶら)ひしは、西園寺(さいをんじ)の御家の者(もの)景房(かげふさ)と言(い)ひしが娘(むすめ)なりしを、いみじう思(おぼ)いて、これも召(め)し取(と)りて、西園寺(さいをんじ)の大臣(おとど)の御子になして、二品の加階(かかい)賜(たま)はる。これも若君(わかぎみ)生(む)まれ給(たま)ひにき。帥(そち)の中納言為経の娘(むすめ)の帥(そち)の典侍(すけ)殿(どの)と言(い)ひしが御腹(おんはら)にも、宮たち数多(あまた)生(む)まれ給(たま)ふ。九条(くでう)殿(どの)の北政所、又梨本(なしもと)・青蓮院(しやうれんゐん)の法親王など大納言(だいなごん)の典侍(すけ)の御腹(おんはら)、昭慶門院(せうけいもんゐん)は中納言の典侍(すけ)、十楽院(じふらくゐん)の慈道法親王は帥(そち)の典侍(すけ)殿(どの)の腹(はら)、かやうにすべて多(おほ)く物(もの)し給(たま)ふ。昔(むかし)の嵯峨天皇こそ、八十余人(よにん)まで御子もち給(たま)へりけると、承(うけたまは)り伝(つた)へたるにも、ほとほと劣(おと)り給(たま)ふまじか(ン)めり。
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内には中々女御・更衣も候(さぶら)ひ給(たま)はず。いとさうざうしき雲の上(うへ)なり。西園寺(さいをんじ)より女御参(まゐ)り給(たま)ふべしと聞(き)こえながら、いかなるにか、すがすがとも思(おぼ)し立(た)たぬは、思(おも)ふ心御座(おは)するな(ン)めりとぞ、世の人もささめきける。新院の御位の時(とき)参(まゐ)り給(たま)へりし西園寺(さいをんじ)の中宮は、院号(ゐんがう)有(あ)りて、今出川(いまでがは)の院と聞(き)こゆなり。彼(か)の御覚(おぼ)えなどのいと口惜(くちを)しかりしより、此(こ)の院の御方様(かたざま)をつらく思(おも)ひ聞(き)こえ給(たま)ふな(ン)めりなどぞ、言(い)ひなす人も侍(はべ)りけるとぞ。
三月(やよひ)の末(すゑ)つ方(かた)、持明院殿の花盛(はなざか)りに、新院渡(わた)り給(たま)ふ。鞠(まり)のかかり御覧(ごらん)ぜんとなりければ、御前の花は木末(こずゑ)も庭も盛(さか)りなるに、外(よそ)の桜(さくら)をさへ召(め)して、散(ち)らし添(そ)へられたり。いと深(ふか)う積(つも)りたる花の白雪、跡つけがたう見(み)ゆ。上達部・殿上人、いと多(おほ)く参(まゐ)り集(あつ)まり、御随身(みずいじん)・北面の下臈(げらふ)など、いみじうきらめきて候(さぶら)ひあへり。わざとならぬ袖口(そでくち)共(ども)押(お)し出(い)だされて、心異(こと)に引(ひ)きつくろはる。寝殿(しんでん)の母屋(もや)に、御座(おまし)対座(たいざ)に設(まう)けられたるを、新院入(い)らせ給(たま)ひて、「故院の御時、定(さだ)め置(お)かれし上(うへ)は、今更(いまさら)にやは」とて、長押(なげし)の下(しも)へ引(ひ)き下(さ)げさせ給(たま)ふ程(ほど)に、本院は出で給(たま)ひて、「朱雀院の行幸には、主(あるじ)の座をこそ直(なほ)され侍(はべ)りけるに、今日(けふ)の御幸(みゆき)には、御座(ござ)を
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おろさるる、いとことやうに侍り」など聞(き)こえ給(たま)ふ程(ほど)、いと面白(おもしろ)し。むべむべしき御物語(おんものがたり)は少(すこ)しにて、花の興(きよう)に移(うつ)りぬ。御土器(かはらけ)など良(よ)き程(ほど)の後、春宮〈 伏見院 〉御座(おは)しまして、かかりの下(した)に皆(みな)立(た)ち出(い)で給(たま)ふ。両院・春宮立(た)たせ給(たま)ふ。半(なか)ば過る程(ほど)に、客人(まらうど)の院上(のぼ)り給(たま)ひて、御襪(したうづ)など直(なほ)さるる程(ほど)に、女房別当(べつたう)の君、又上臈(じやうらふ)だつ久我の太政(おほき)大臣(おとど)の孫とかや、樺桜(かばざくら)の七・紅のうち衣・山吹(やまぶき)の表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の唐衣(からぎぬ)・すずしの袴(はかま)にて、銀(しろかね)の盃(つき)、柳箱(やないばこ)にすゑて、同(おな)じひさげにて、柿(かき)ひたし参(まゐ)らすれば、はかなき御たはぶれなど宣(のたま)ふ。暮(く)れかかる程(ほど)、風少(すこ)しうち吹(ふ)きて、花も乱(みだ)りがはしく散(ち)りまがふに、御鞠(まり)数(かず)多(おほ)く上(あ)がる。人々(ひとびと)の心地(ここち)いと艶(えん)なり。故(ゆゑ)ある木蔭(こかげ)に立(た)ち休(やす)らひ給(たま)へる院の御かたち、いと清(きよ)らにめでたし。春宮もいと若(わか)う美(うつく)しげにて、濃(こ)き紫の浮(う)き織物(おりもの)の御指貫(さしぬき)、なよびかに、気色ばかり引(ひ)き上(あ)げ給(たま)へれば、花のいと白(しろ)く散(ち)りかかりて、文(もん)のやうに見(み)えたるもをかし。御覧(ごらん)じ上(あ)げて、一枝押(お)し折(を)り給(たま)へる程(ほど)、絵(ゑ)にかかまほしき夕(ゆふ)ばえ共(ども)なり。其(そ)の後(のち)も、御酒(みき)など、らうがはしきまで聞(き)こし召(め)しさうどきつつ、夜(よ)深(ふ)けて帰(かへ)らせ給(たま)ふ。
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六条殿の長講堂も、焼(や)けにしを造(つく)られて、其(そ)の頃、御わたましし給(たま)ふ。卯月(うづき)の初(はじ)めつ方(かた)より、院の上(うへ)、庇(ひさし)の御車にて、上達部・殿上人・御随身(みずいじん)、えも言(い)はず清(きよ)らなり。女院の御車に、姫宮(ひめみや)も奉(たてまつ)る。出車(いだしぐるま)数多(あまた)、皆(みな)白(しろ)きあはせの五衣(いつつぎぬ)・濃(こ)き袴(はかま)・同(おな)じ単(ひとへ)にて、三日過(す)ぎてぞ、色々(いろいろ)の衣共(ども)、藤・躑躅(つつじ)・撫子(なでしこ)など着(き)かへられける。しばし此(こ)の院に渡(わた)らせ給(たま)へば、人々(ひとびと)絶(た)えず参(まゐ)り集(つど)ふ。西園寺(さいをんじ)の殿ばらなども、日ごとに参(まゐ)り給(たま)ふ。御壺(つぼ)わかたせ給(たま)ひて、前栽合(あ)はせ有(あ)りしにも、をかしう珍(めづら)しき事共(ども)多(おほ)かりき。某(なにがし)の朝臣の、槙(まき)の島の気色を造(つく)りて侍りけるを、平(へい)大納言(だいなごん)経親、未(いま)だ下臈(げらふ)にて、兵衛佐など言(い)ひける程(ほど)にや、其(そ)の宇治川(うぢがは)の橋(はし)を盗(ぬす)みて、我(わ)がつくろひたる方(かた)に渡(わた)して侍(はべ)りける、いと恐(おそ)ろしく心賢(かしこ)くぞ侍(はべ)りける。
例の五月の供花、やがてうち続(つづ)きければ、女院達(たち)宮々など、夜の御時に閼伽(あか)奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、御堂のかをり、名香(みやうかう)の香も、外(ほか)には多(おほ)く勝(まさ)りて、いとしみ深(ふか)うなまめかしう面白(おもしろ)し。大方(おほかた)、いづれも年に二度(ふたたび)は昔(むかし)よりの事(こと)にて、いみじう経営(けいめい)し給(たま)へば、世の人の靡(なび)き仕(つかうまつ)る様(さま)限(かぎ)り無し。日に二度(たび)院
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の出(い)で居(ゐ)させ給(たま)ふに、関白・大臣以下、やむごとなき人々(ひとびと)絶(た)えず候(さぶら)ひ給(たま)ふ。大中納言・二位三位・非参議・四位五位などは、まして数(かず)知(し)らず。すべて前(さき)の司、道々の人々(ひとびと)、道なども参(まゐ)る事(こと)なれば、時ならぬ院の御前とも無(な)く、いみじう花(はな)やかに面白(おもしろ)う尊(たふと)し。昔の後二条の関白師通と聞(き)こえしは、「おりゐの御門(みかど)の門に、車の立(た)つべき事(こと)なし」と、そしり給(たま)ひけるに、今(いま)の世(よ)を見給(たま)はばと思(おも)ひ出(い)でらる。九月の供花には、新院さへ渡(わた)り物(もの)し給(たま)へば、いよいよ女房の袖口(そでくち)心異(こと)に用意(ようい)加(くは)へ給(たま)ふ。
御花はつれば、両院一(ひと)つ御車にて、伏見殿へ御幸なる。秋山の気色御覧(ごらん)ぜさせんとなりけり。上達部・殿上人、かなたこなた押(お)し合(あ)はせて、色々(いろいろ)の狩衣姿(かりぎぬすがた)、菊紅葉こき交(ま)ぜてうちむれたる、見所(みどころ)多(おほ)かるべし。野山の気色(けしき)色づき渡(わた)るに、伏見山(ふしみやま)、田の面(も)に続(つづ)く宇治の川浪、遙々(はるばる)と見(み)渡(わた)されたる程(ほど)、いと艶(えん)なるを、若(わか)き人々(ひとびと)などは、身にしむばかり思(おも)へり。鷹司殿の大殿も参(まゐ)り給(たま)ふべしと聞(き)こえけるを、御物忌(い)みとてとまり給(たま)へれば、五葉の枝につけて奏(そう)せられける。
伏見山(ふしみやま)幾万代も枝添(そ)へてさかへん松の末(すゑ)ぞ久(ひさ)しき W
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御返(かへ)し、
栄(さか)ゆべき程(ほど)ぞ久(ひさ)しき伏見山(ふしみやま)おひそふ松の枝をつらねて W
又の日は、伏見(ふしみ)の津(つ)に出(い)でさせ給(たま)ひて、鵜舟御覧(ごらん)じ、白拍子御船(みふね)に召(め)し入(い)れて、歌うたはせなどせさせ給(たま)ふ。二、三日御座(おは)しませば、両院の家司(けいし)共(ども)、我(われ)劣(おと)らじといかめしき事共(ども)調(てう)じて参(まゐ)らせあへる中(なか)に、楊桃(やまもも)の二位兼行(かねゆき)、桧破子(ひわりご)共(ども)の、心ばせ有(あ)りて仕(つかうまつ)れるに、雲雀(ひばり)と言(い)ふ小鳥(ことり)を荻の枝につけたり。源氏(げんじ)の松風(まつかぜ)の巻(まき)を思(おも)へるにや有(あ)りけん。為兼(ためかぬ)の朝臣を召(め)して、本院「彼(かれ)はいかが見る」と仰(おほ)せらるれば、「いと心得(え)侍らず」とぞ申(まう)してける。誠(まこと)に、定家(ていか)の中納言入道が書(か)きて侍(はべ)る源氏(げんじ)の本には、荻とは見(み)え侍らぬとぞ承(うけたまは)りし。かやうに御中(なか)いとよくて、はかなき御遊(あそ)びわざなども、いどましき様(さま)に聞(き)こえかはし給(たま)ふを、目(め)安(やす)き事(こと)に、なべて世の人も思(おも)ひ申(まう)しけり。ある時は、御小弓射(い)させ給(たま)ひて、「御負(ま)けわざには、院の内(うち)に候(さぶら)ふ限(かぎ)りの女房を見せさせ給(たま)へ」と、新院宣(のたま)ひければ、童(わらは)の鞠(まり)蹴(け)たる由(よし)を作(つく)りなして、女房共(ども)に水干(すいかん)着(き)せて出(い)だされたる事(こと)も侍(はべ)りけり。新院の御賭物(おんのりもの)
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には、亀山殿にも、五節(ごせち)のまねに、舞姫(まひひめ)・童(わらは)・下仕(しもづか)へまでになされけり。上達部、直衣(なほし)に衣出(い)だして、露台(ろだい)の乱舞(らんぶ)・御前の召(め)し・北の陣(ぢん)・推参(すいさん)まで尽(つ)くされ侍(はべ)り〔ける〕とぞ承(うけたまは)りし。此(こ)の御代にも、又勅撰の沙汰(さた)、一昨年(をととし)ばかりより侍(はべ)りし、為氏(ためうじ)の大納言(だいなごん)撰(えら)ばれつる、此(こ)の十二月(しはす)にぞ奏(そう)せられける。続拾遺集と聞(き)こゆ。「たましひある様(さま)にはいたく侍らざめれど、艶(えん)には見(み)ゆる」と、時の人々(ひとびと)申し侍(はべ)りけり。続古今(しよくこきん)の引(ひ)きうつし、おぼろけの事(こと)は、立(た)ちならび難(がた)くぞ侍るべき。
かくて年(とし)も変(か)はりぬ。其(そ)の頃、新陽明門院(しんやうめいもんゐん)、又只(ただ)ならず御座(おは)しますと聞えし、五月ばかり、御気色あれば、珍(めづら)しう思(おぼ)す。内々(ないない)、殿にてせさせ給(たま)へば、天(あめ)の下(した)の人々(ひとびと)参(まゐ)り集(つど)ふ。前(さき)の度(たび)、生(む)まれさせ給(たま)へる若宮(わかみや)は、隠(かく)れさせ給(たま)ひにしを、新院本意(ほい)無しと思(おぼ)されけるに、又かく物(もの)し給(たま)へば、めでたう思(おも)ふ様(さま)なる御事(こと)も有(あ)らばと、今(いま)より思(おぼ)しかしづくに、いとかひがひしう若宮(わかみや)生(む)まれさせ給(たま)へれば、限(かぎ)り無(な)く思(おぼ)さる。八月、御子(みこ)の御歩(あり)きぞめとて、万里小路(までのこうじ)殿に渡(わた)らせ給(たま)ふ。唐庇(からびさし)の御車に、後嵯峨院の更衣腹(かういばら)の姫宮(ひめみや)、聖護院の法親王の一(ひと)つ御腹(おんはら)とかや、御母代(ははしろ)にて添(そ)ひ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。又、三条の内大臣公親の御女、内の上の御乳母(めのと)なり
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しも、めでたき御肖物(あえもの)とて、御車にて、二人(ふたり)乗(の)り給(たま)ふ。女院は、院の上(うへ)一(ひと)つ御車に、菊(きく)の網代(あじろ)の庇(ひさし)に奉(たてまつ)る。宮の御車にやり続(つづ)けて、よそほしくめでたき御事(こと)なり。其(そ)の頃、倹約(けんやく)行(おこな)はるとかや聞(き)こえし程(ほど)にて、下簾(したすだれ)短(みじか)くなされ、小金物(こかなもの)抜(ぬ)かれけり。物見(み)車共(ども)のも、召次(めしつぎ)寄(よ)りて切(き)りなどしけるをぞ、「時しもや、かかるめでたき御事(こと)の折(をり)ふし」など、つぶやく人も有(あ)りけるとかや。此(こ)の宮も親王(しんわう)の宣旨(せんじ)有(あ)りて、いとめでたく聞(き)こえし程(ほど)に、明(あ)くる年九月、又隠(かく)れさせ給(たま)ひにし、いと口惜(くちを)しかりし御事(こと)なり。
弘安も四年になりぬ。夏頃、後嵯峨院の姫宮(ひめみや)、隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。後堀川院の御女にて神仙門院と聞(き)こえし女院の御腹(おんはら)なれば、故院もいとおろかならずかしづき奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけり。御かたちも類(たぐひ)無(な)く美(うつく)しう御座(おは)しまして、「人の国より女の本(ほん)を尋(たづ)ねんには、此(こ)の宮の似絵(にせゑ)をやらん」などぞ、父(ちち)の御門(みかど)仰(おほ)せられける。御乳母(めのと)隆行の家に御座(おは)しましける程(ほど)に、御乳母子(めのとご)隆康(たかやす)、忍(しの)びて参(まゐ)りける故(ゆゑ)に、あさましき御事(こと)さへ出(い)で来(き)て、これも御うみながしにて、俄(にはか)に失(う)せさせ給(たま)ひけりとぞ聞(き)こえし。
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其(そ)の頃、蒙古(もうこ)起(お)こるとかや言(い)ひて、世の中(なか)騒(さわ)ぎ立(た)ちぬ。色々(いろいろ)様々(さまざま)に恐(おそ)ろしう聞(き)こゆれば、「本院・新院は東(あづま)へ御下(くだ)りあるべし。内・春宮は京に渡(わた)らせ給(たま)ひて、東(あづま)の武士共(ども)上(のぼ)り候(さぶら)ふべし」など沙汰(さた)有(あ)りて、山々寺々、御祈(いの)り、数(かず)知(し)らず。伊勢の勅使に、経任(つねたふ)の大納言(だいなごん)参(まゐ)る。新院も八幡(やはた)へ御幸なりて、西大寺の長老召(め)されて、真読(しんどく)の大般若供養せられ、大神宮へ御願に、「我(わ)が御代にしもかかる乱(みだ)れ出(い)で来(き)て、誠(まこと)に此(こ)の日本の損(そこ)なはるべくは、御命を召(め)すべき」由(よし)、御手(て)づから書(か)かせ給(たま)ひけるを、大宮院、「いとあさましき事(こと)なり」と、猶(なほ)諌(いさ)め聞(き)こえさせ給(たま)ふぞ、理(ことわり)にあはれなる。東(あづま)にも、言(い)ひ知(し)らぬ祈(いの)り共(ども)こちたく罵(ののし)る。故院の御代にも、御賀の試楽の頃(ころ)、かかる大事有(あ)りしかど、程(ほど)無(な)くこそ鎮(しづ)まりにしを、此(こ)の度(たび)は、いとにがにがしう、牒状(てふじやう)とかや持(も)ちて参(まゐ)れる人など有(あ)りて、わづらはしう聞(き)こゆれば、上下思(おも)ひ惑(まど)ふ事限(かぎ)り無し。然(さ)れども、七月一日、おびたたしき大風吹(ふ)きて、異国の舟六万艘、兵(つはもの)乗(の)りて筑紫(つくし)へよりたる、皆(みな)吹(ふ)き破(わ)られぬれば、或は水に沈(しづ)み、おのづから残(のこ)れるも、泣(な)く泣(な)く本国へ帰(かへ)りにけり。石清水(いはしみづ)の社にて、大般若供養説法いみじかりける刻限(こくげん)に、晴(は)れたる空に、黒雲(くろくも)一村、
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俄(にはか)に見(み)えてたなびく。彼(か)の雲の中(なか)より、白き羽にてはぎたる鏑矢(かぶらや)の大なる、西をさして飛(と)び出(い)でて、鳴(な)る音おびたたしかりければ、彼処(かしこ)には、大風の吹(ふ)きくると兵(つはもの)の耳(みみ)には聞(き)こえて、浪荒(あら)くたち海の上(うへ)あさましくなりて、皆(みな)沈(しづ)みにけるとぞ。猶(なほ)我(わ)が国に神の御座(おは)します事、験(あらた)に侍(はべ)りけるにこそ。さて為氏(ためうじ)の大納言(だいなごん)、伊勢の勅使にて上(のぼ)る道(みち)より申(まう)しおくりける。
勅をして祈(いの)るしるしの神風に寄(よ)せくる浪ぞかつくだけつる W
かくて静(しづ)まりぬれば、京にも東(あづま)にも、御心(おんこころ)共(ども)おち居(ゐ)て、めでたさ限(かぎ)り無し。彼(か)の異国の御門(みかど)、心憂(う)しと思(おぼ)して、湯水をも召(め)さず、「我(われ)いかにもして、此(こ)の度(たび)日本の帝王に生(む)まれて、彼(か)の国を滅(ほろ)ぼす身とならん」とぞ誓(ちか)ひて死に給(たま)ひけるとぞ、聞(き)き侍(はべ)りし、誠(まこと)にや有(あ)りけむ。
同(おな)じ六年正月六日、日吉(ひよし)の社の訴訟(そせう)勅裁無しとて、御輿は都へ入(い)らせ給(たま)ふ。六波羅(ろくはら)の武士共(ども)、気色ばかり防(ふせ)き奉(たてまつ)りけれど、まめやかには、神に向(む)かひ奉(たてまつ)りて弓射(い)る者(もの)無(な)ければ、紫宸殿・清涼殿(せいりやうでん)などに振(ふ)り捨(す)て参(まゐ)らせて、山法師(やまほふし)は上(のぼ)り
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ぬ。御門は急(いそ)ぎ対屋に出でさせ給(たま)ひて、腰輿(えうよ)にて近衛殿(このゑどの)へ行幸なる。殿上人共(ども)柏挟(かしはばさ)みして仕(つかうまつ)りけり。七日の節会も、まほには行(おこな)はれず。それより三条坊門(ばうもん)万里小路(までのこうじ)の通成の大臣(おとど)の家へ行幸なりて、しばし内裏になりし時、万里小路(までのこうじ)おもての四足は建(た)てられ侍(はべ)りき。かかりし程(ほど)に、此(こ)の家に、石清水(いはしみづ)の若宮(わかみや)をいはひ参(まゐ)らせたる神御座(おは)しますに、狐(きつね)多(おほ)く侍(はべ)りけるを、滝口の某(なにがし)とかや、過(あやま)ちたりける御とがめにて、万(よろづ)わづらはしく、かうがうしき事共(ども)有(あ)りければ、万里小路(までのこうじ)殿(どの)へかへらせ給(たま)ひにき。
此(こ)の御門(みかど)は、ねび給(たま)ふ儘(まま)に、いと賢(かしこ)く、御才(ざえ)なども勝(すぐ)れさせ給(たま)へれば、なべて世の人も目出(めでた)き事(こと)に思(おも)ひ聞(き)こゆ。はかばかしき女御・后なども候(さぶら)ひ給(たま)はで、いと徒然(つれづれ)なるに、新陽明門院(しんやうめいもんゐん)の御方に、堀川(ほりかは)の大納言(だいなごん)の御女、東(ひんがし)の御方とて候(さぶら)ひ給(たま)ふを、忍(しの)び忍(しの)び御覧じける程(ほど)に、弘安八年二月ばかり、若宮(わかみや)出(い)で物(もの)し給(たま)へり。いとやむごとなき御宿世(しゆくせ)なるべし。
今年(ことし)、北山の准后、九十に満(み)ち給(たま)へば、御賀の事、大宮院思(おぼ)しいそぐ。世の大事(だいじ)にて、
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天(あめ)の下(した)かしがましく響(ひび)きあひたり。かく罵(ののし)るは、安元の御賀に青海波(せいがいは)舞ひたりし隆房(たかふさ)の大納言(だいなごん)の孫(うまご)な(ン)めり。鷲(わし)の尾(を)の大納言(だいなごん)隆衡(たかひら)の娘(むすめ)ぞかし。大宮院・東二条院の御母なれば、両院の御祖母、太政大臣(おほきおとど)の北(きた)の方(かた)にて、天(あめ)の下(した)皆(みな)此(こ)の匂(にほひ)ならぬ人は無し。いとやむごとなかりける御幸(さいはひ)なり。昔(むかし)、御堂殿(みだうどの)の北(きた)の方(かた)鷹司(たかつかさ)殿(どの)と聞(き)こえしにも劣(おと)り給(たま)はず。大方(おほかた)、此(こ)の大宮院の御宿世(すくせ)、いと有(あ)り難(がた)く御座(おは)します。すべて古(いにしへ)より今(いま)まで、后・国母多(おほ)く過(す)ぎ給(たま)ひぬれど、かくばかり取(と)り集(あつ)めいみじき例(ためし)は、未(いま)だ聞(き)き及(およ)び侍らず。御位の初(はじ)めより選(えら)ばれ参(まゐ)り給(たま)ひて、争(あらそ)ひきしろふ人も無(な)く、三千の寵愛(てうあい)一人(ひとり)にをさめ給(たま)ふ。両院うち続(つづ)き出(い)で物(もの)し給(たま)へりし、いづれも平(たひら)かに、思(おも)ひの如(ごと)く、二代の国母にて、今(いま)は既(すで)に御孫の位をさへ見給(たま)ふまで、いささかも御心(おんこころ)にあはず思(おぼ)し結(むす)ぼるる一ふしも無(な)く、めでたく御座(おは)します様(さま)、来(き)し方(かた)も類(たぐひ)無(な)く、行末(ゆくすゑ)にもまれにや有(あ)らん。古(いにしへ)の基経の大臣(おとど)の御女、延喜の御代の大后宮(おほきさいのみや)、朱雀・村上二代の国母にて御座(おは)せしも、初(はじ)め出(い)で来(き)給(たま)ひて殊(こと)に悲(かな)しうし給(たま)ひし前坊に後(おく)れ聞え給(たま)ひて、御命の内(うち)は、絶(た)えぬ御歎(なげ)き尽(つ)きせざりき。九条(くでう)の大臣(おとど)師輔の御女、
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天暦の后にて御座(おは)せし、冷泉(れいぜい)・円融、両代の御母なりしかど、めでたき御代をも見奉(たてまつ)り給(たま)はず、御門にも先(さき)だち給(たま)ひて失(う)せ給(たま)ひにき。御堂の御女上東門院、後一条・後朱雀の御母にて、御孫後冷泉(ごれいぜい)・後三条まで見奉(たてまつ)り給(たま)ひしかども、皆(みな)先(さき)立(だ)たせ給(たま)ひしかば、逆様(さかさま)の御歎(なげ)き絶(た)ゆる世(よ)無(な)く、御命余(あま)り長(なが)くて中々人目(ひとめ)を恥(は)づる思(おも)ひ深(ふか)く御座(おは)しましき。これも皆(みな)一の人にて、世の親(おや)と成り給(たま)へりしだに、やうをかへて様々(さまざま)の御身の愁(うれ)ひは有(あ)りき。只人(ただひと)には、大納言(だいなごん)公実(きんざね)の御娘(むすめ)こそ、待賢門院とて、崇徳・後白河(ごしらかは)の御母にて御座(おは)せしかど、それも後白河(ごしらかは)の御世をば御覧(ごらん)ぜず、讚岐(さぬき)の院の御末(すゑ)も御座(おは)しまさず。然(さ)れば、今(いま)のやうに、只人(ただひと)の御身にて、三代国のおもしといつかれ、両院とこしなへに仰(あふ)ぎ捧(ささ)げ奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、前(さき)の世もいかばかりの功徳御座(おは)しまし、此(こ)の世にも、春日大明神を初(はじ)め、万(よろづ)の神明仏陀の擁護あつく物(もの)し給(たま)ふにこそと、有(あ)り難(がた)くぞ推(お)し量(はか)られ給(たま)ふ。
かくて御賀は二月三十日頃(ごろ)なり。本院・新院・東二条院・遊義門院未(いま)だ姫宮(ひめみや)と申す、皆(みな)予(かね)てより北山に渡(わた)らせ給(たま)ふ。新陽明門院(しんやうめいもんゐん)も新院の一(ひと)つの御車にて御座(おは)します。
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二十九日の夜、先(ま)づ行幸有(あ)り。歌づかさ楽を奏す。院司左衛門督公衡(きんひら)、事(こと)の由(よし)申して後、中門に寄(よ)せらる。其(そ)の後、春宮行啓(ぎやうげい)、門よりおりさせ給(たま)ふ。傅の大臣(おとど)二条殿、御車に参(まゐ)り給(たま)へり。其(そ)の日に成(な)りぬれば、寝殿(しんでん)の東面(ひがしおもて)の母屋(もや)・廂(ひさし)まで取(と)り払(はら)ひて、釈迦如来の絵像(ゑざう)かけ奉(たてまつ)る。道場の飾(かざ)り、誠(まこと)の浄土の荘厳もかくこそと、めでたく清(きよ)らを尽(つ)くされたり。御経の箱(はこ)二合、金泥(こんでい)の寿命経九十巻・法華経入(い)れらる。名香(みやうかう)、柳の織物(おりもの)に藤を縫(ぬ)いたるに包(つつ)みて、御経の机(つくゑ)に寄(よ)せかく。御簾(みす)の中(なか)に、西の一間に繧繝(うげん)二帖、唐錦(からにしき)の褥(しとね)しきて、内の上の御座(ござ)とす。同(おな)じ御座(ござ)の北に、大文の高麗(かうらい)一帖敷(し)きて、春宮渡(わた)らせ給(たま)ふ。西の廂(ひさし)に、これも屏風を添(そ)へて、繧繝(うげん)二帖、錦(にしき)の褥(しとね)に、准后ゐ給(たま)へり。同(おな)じ廂(ひさし)に、東二条院渡(わた)らせ給(たま)ふ。遙々(はるばる)と、纐纈(かうけち)の几帳(きちやう)のかたびら出(い)だして、色々(いろいろ)の袖口(そでくち)共(ども)、御方々(かたがた)けぢめ別(わか)れて押(お)し出(い)でたる程(ほど)、龍田姫(たつたひめ)もかかる錦(にしき)の色はいかでかはと、いみじう好(この)ましげなり。事(こと)なりぬるにや、両院・御門・春宮・大宮院・東二条院・今出川(いまでがは)の院・春宮の大夫などうち続(つづ)き、誦経(ずきやう)の鐘の響(ひび)きも、耳驚(おどろ)くばかり所(ところ)せう聞(き)こゆ。衆僧集会(しふゑ)の鐘うちて後、上達部御前の座につく。階より東(ひんがし)に、関白〔兼平公〕・
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左大臣〔師忠公〕・内大臣〔家基公〕・花山院の大納言(だいなごん)長雅・源大納言(だいなごん)通頼・大炊御門(おほひのみかど)大納言(だいなごん)信嗣・右大将通基・春宮の大夫実兼・左大将公守(きんもり)・三条の中納言実重・花山院の中納言家教・右衛門督公衡(きんひら)など候(さぶら)ひ給(たま)ふ。階より西(にし)に、四条の前(さき)の大納言(だいなごん)隆親・春宮の権大夫具守・権中納言実冬〈 宗冬 〉・四条の宰相(さいしやう)隆保・右衛門の督為世など、祗候(しこう)せられたり。内の上、御引直衣(ひきなほし)・すずしの御袴(はかま)、本院御烏帽子(えぼし)直衣(なほし)・青鈍(あをにび)の御指貫(さしぬき)、新院、御直衣(なほし)・綾(あや)の指貫(さしぬき)、春宮、桜の御直衣(なほし)・霰(あられ)に〓(くわん)の紋、紫(むらさき)の御指貫(さしぬき)、言(い)ひ知(し)らずなまめかしう見(み)え給(たま)ふ。今日は皆(みな)御簾(みす)の中(なか)に御座(おは)します。大宮女院、白き綾(あや)の三御衣(みつおんぞ)、東二条院、唐織物(からおりもの)の桜の八(やつ)・紅梅のひねりあはせの御単(ひとへ)・かば桜の御小袿(こうちき)奉れり。姫宮(ひめみや)、紅の匂(にほひ)十・紅梅の御小袿(こうちき)・萌黄(もえぎ)の御単(ひとへ)・赤色(あかいろ)の御唐衣(からぎぬ)・生絹(すずし)の御袴(はかま)奉(たてまつ)れる、常(つね)よりも異(こと)に美(うつく)しうぞ見(み)え給(たま)ふ。御座(おは)しますらんと思(おも)ほす間の辺(ほとり)に、内の上、常に御目(おま)じり只(ただ)ならず、御心(おんこころ)遣(づかひ)して御目(め)止(とど)め給(たま)ふ。楽人・舞人(まひびと)、鳥向楽(てうかうらく)を奏す。鶏婁(けいろう)を先(さき)だてて、乱声(らんじやう)、左右(さう)桙(ほこ)を振(ふ)る。其(そ)の後、壱越調(いちこつてう)の調子を吹(ふ)きて、楽人・舞人(まひびと)、衆僧集会(しふゑ)の所に向(むか)ひて、安楽塩(あんらくえん)を吹(ふ)く。衆僧、左右(さう)に分(わ)かれて参(まゐ)る。階(はし)の間より昇りて座につく。講師、法印憲実。
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読師、僧正守助。導師、高座に上(のぼ)りぬれば、堂童子(だうどうじ)、花篭(けこ)をわかつ。杖とりの使、公敦(きんあつ)の朝臣、杖(つえ)を退(しりぞ)けて舞を奏する程(ほど)、気色ばかりうちそそぎたる春の雨、青柳の糸(いと)に玉ぬくかと見(み)えたり。一の舞、久資(ひさすけ)と言(い)ふ者、少(すこ)しねびていとよしよししう、面(おも)もち足踏(あしぶ)みかみさびて面白し。万歳楽(まんざいらく)・賀殿(かてん)・陵王(りようわう)、右、地久(ちきう)・延喜楽(えんぎらく)・納曾利(なつそり)。久忠二の物にて、勅禄の手と言(い)ふ事仕(つかうまつ)る時、右の大臣(おとど)座を立(た)ちて賞仰(おほ)せらるれば、承(うけたまは)りて拝し奉(たてまつ)る程(ほど)、いと艶(えん)なり。久助(ひさすけ)・正秋(まさあき)など言(い)ふ物共(ども)も、賞承(うけたまは)りて、笛を持(も)ちながら起(お)き伏(ふ)し拝する様(さま)も、つきづきしう故(ゆゑ)有(あ)りて見(み)ゆ。講讚の言葉(ことば)めでたういみじ。今(いま)の世には富楼那(ふるな)尊者(そんじや)の如(ごと)く言(い)はるる者(もの)なれば、心止(とど)めて人々(ひとびと)聞(き)き給(たま)ふに、涙止(とど)め難(がた)き事共(ども)言(い)ひ続(つづ)く。高座果(は)てて後、楽人、酒胡子(しゆこし)を奏す。其(そ)の程(ほど)に僧の禄(ろく)を給(たま)ふ。頭(とう)の中将(ちゆうじやう)公敦より始(はじ)めて、思(おも)ひ思(おも)ひの姿(すがた)にて禄(ろく)を取(と)る。あるは闕腋(わきあけ)に平胡〓(ひらやなぐひ)、縫腋(もとをし)の袍に革総の剣など、心々(こころごころ)なり。俊定・経継などは、巡方(じゆんぱう)の帯をさしたり。衆僧まか(ン)づる程(ほど)に、廻忽(くわいこつ)・長慶子(ちやうげいし)奏して、楽人・舞人(まひびと)も退(しりぞ)きぬる後、大宮院・准后の御台参(まゐ)る。
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陪膳(はいぜん)権中納言、役送は実時・実冬・実躬・信輔・俊光など仕(つかうまつ)る。
かくて、又の日は三月(やよひ)の一日(ついたち)なり。寝殿(しんでん)のよそひ昨日の儘(まま)なり。舞台・楽屋ばかりを取(と)りのけて、母屋(もや)の四方に壁代(かべしろ)をかく。両院・内の上の御簾(みす)の役(やく)、関白候(さぶら)ひ給(たま)ふ。春宮のは、傅遅(おそ)く参(まゐ)り給(たま)へば、大夫実兼勤(つと)め給(たま)ふ。内の上(うへ)、今日は例の御直衣(なほし)・紅のうちたる綿(わた)厚(あつ)き御衣(おんぞ)・織物(おりもの)の御指貫(さしぬき)、いとめでたき御匂(にほひ)なり。本院、かた織物(おりもの)の薄色(うすいろ)の御指貫(さしぬき)・少(すこ)し薄(うす)らかなる御直衣(なほし)、新院、雲に鶴(つる)の浮織物(うきおりもの)の御直衣(なほし)・同(おな)じ御指貫(さしぬき)・紅の今(いま)少(すこ)し色変(か)はれるを奉(たてまつ)れり。有(あ)らまほしき程(ほど)にねび整(ととの)ほり、しうとくに、ものものしき御様(さま)かたち、あなきよげ、今(いま)ぞ盛(さか)りに見(み)え給(たま)ふ。春宮は色濃(こ)き御直衣(なほし)・浮線綾(ふせんれう)の御指貫(さしぬき)・紅のうちたるあはせを奉(たてまつ)れり。とりどりにめでたく清(きよ)らに御座(おは)します御かたち共(ども)の、いづれと無(な)くあな美(うつく)しと、うち見奉(たてまつ)る人の心地(ここち)さへ、そぞろにゑまし。大宮院などは、まして何事(なにごと)をかは思(おぼ)さるらむと推(お)し量(はか)られ給(たま)ふ。かなたこなたの御随身(みずいじん)共(ども)、近(ちか)く候(さぶら)ひつるを、院出(い)でさせ給(たま)ひぬれば、退(しぞ)きて、御階(はし)の西に並(な)み居(ゐ)たる装束共(ども)、色々(いろいろ)の花をつけ、高麗(こま)・唐土(もろこし)の綾錦(あやにしき)、黄金(こがね)・銀(しろかね)を延(の)べたる
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様(さま)、いと余(あま)りうたてある程(ほど)にぞ見(み)ゆる。
今日は、内・春宮・両院、御膳参(まゐ)る。陪膳(はいぜん)花山院の大納言(だいなごん)〔長雅〕、役送四条の宰相・三条の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)、本院の陪膳大炊御門(おほひのみかど)大納言(だいなごん)信嗣、新院のは春宮の大夫など勤(つと)めらる。其(そ)の後、御遊(あそ)び始(はじ)まる。内の上(うへ)御笛、柯亭と言(い)ふ物とかや。御箱(はこ)に入(い)れたるを、忠世持(も)ちて参(まゐ)れるを、関白取(と)りて御前に奉(たてまつ)らる。春宮、御琵琶〈 牧場 〉、宮権亮(みやのごんのすけ)親定持(も)ちて参(まゐ)りたるを、大夫御前に置(お)かる。上達部の笛の箱(はこ)別に有(あ)り。笛兵部卿良教・花山院の大納言(だいなごん)〈 長雅 〉、笙(しやう)源大納言(だいなごん)通頼・左衛門督、篳篥兼行(かねゆき)の朝臣、琵琶春宮の大夫、琴洞院(とうゐん)の左大将、三位の中将(ちゆうじやう)実泰(さねやす)、和琴大炊御門(おほひのみかど)大納言(だいなごん)、拍子徳大寺中納言公孝(きんたか)、末(すゑ)拍子実冬、皆(みな)人々(ひとびと)、直衣(なほし)に色々(いろいろ)の衣(きぬ)を出(い)だす。例(れい)の安名尊・席田(むしろだ)・鳥破急(とりのはきふ)・律(りつ)青柳・万歳楽・三台急(さんだいのきふ)。御遊(あそ)び果(は)てぬれば、殿上の五位共(ども)参(まゐ)りて、管絃の具をわかつ。御方々(かたがた)、冠(かうぶ)り賜(たま)はり給(たま)ふ。道々(みちみち)の師共(ども)、加階(かかい)賜(たま)はる。其(そ)の後、和歌の披講始(はじ)まる。為道の朝臣、縫腋(もとをし)の袍に、壺(つぼ)負(お)いて、弓に懐紙を取(と)り具(ぐ)して、上達部の座の前を通(とほ)りて、階(はし)の間より入(い)りて、文台の上(うへ)におく。其(そ)の外の殿上人共(ども)の歌は、一(ひと)つ
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に取(と)り集(あつ)めて、信輔一度(いちど)に文台におく。文台の東に円座をしきて、春宮披講の程(ほど)渡らせ給(たま)ふ。内宴など言(い)ふ事(こと)にぞかくは有(あ)りけると、古(ふる)き例(ためし)も面白(おもしろ)くこそ。上達部皆(みな)色々(いろいろ)の衣を出(い)だす。右大将〔通基〕、魚綾(ぎよれう)の山吹(やまぶき)の衣(きぬ)着(き)給(たま)へり。笏に歌をもち具(ぐ)し給(たま)ふ。内の上(うへ)の御歌は殿ぞ書(か)き給(たま)ひける。
行末(ゆくすゑ)を猶(なほ)ながき世とちぎる哉弥生(やよひ)にうつる今日(けふ)の春日に W
新院の御製(ぎよせい)は内大臣書(か)き給(たま)ふ。
ももいろと今(いま)や鳴(な)くらん鴬も九(ここの)かへりの君が春へて W
春宮のは、左大将に書(か)かせらる。
限(かぎ)り無(な)き齢(よはひ)は未(いま)だ九十(ここのそぢ)猶(なほ)千代遠(とほ)き春にもある哉 W製(せい)に応(おう)ずと、上文字載(の)せられたるも、内宴の例(ためし)とかや。次々(つぎつぎ)、例の多(おほ)けれど、むつかしくてもらしつ。春宮の大夫こそ、いとうけばりてめでたく侍(はべ)りしか。
代々の跡に猶(なほ)立(た)ち上(のぼ)る老の浪よりけん年は今日(けふ)の為(ため)かも W
其(そ)の後(のち)、東向(ひんがしむき)の鞠(まり)のかかりある方へ渡(わた)らせ給(たま)ふ。御方々(かたがた)の女房、色々(いろいろ)の衣(きぬ)、昨日(きのふ)には引(ひ)きかへて、珍(めづら)しき袖口(そでくち)を思々(おもひおもひ)に押(お)し出(い)でたり。紫(むらさき)の匂(にほひ)・山吹(やまぶき)・
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青鈍(あをにび)・かうじ・紅梅・桜萌黄(さくらもえぎ)などは女院の御あかれ、内の御方は、内侍(ないし)のすけよりしも、皆(みな)松がさね・白格子(しろがうし)・うら山吹(やまぶき)、院の御方(かた)、葡萄染(えびぞ)めに白筋(すぢ)・樺桜(かばざくら)の青筋(あをすぢ)、春宮の女房、上(うへ)紫格子(むらさきがうし)・柳(やなぎ)など、様々(さまざま)に目(め)もあやなる清(きよ)らを尽(つ)くされたり。同(おな)じ文(もん)も色もまじらず、心々(こころごころ)に変(か)はりて、いみじうぞ侍(はべ)りける。後嵯峨院、蓮花王院御幸有(あ)りし時、両貫首同(おな)じやうに、藤の下がさね・山吹(やまぶき)の上(うへ)の袴(はかま)なりしをば、いと念無(な)き事(こと)に世の人も言(い)ひ侍(はべ)りしにや。御方々の女房共(ども)、八十余人(よにん)押(お)しこみて候(さぶら)はるる、いづれとも無(な)く目(め)うつりして、いみじうかたちも気色も目(め)安(やす)くもてつけたり。後鳥羽院(ごとばのゐん)建仁の例(ためし)とて、新院御上鞠(あげまり)三足(みあし)ばかり立(た)たせ給(たま)ひて、落(お)とされぬ。内の上(うへ)、御直衣(なほし)・紺地(こんぢ)の御袴(はかま)、始(はじ)めは御草鞋(さうかい)を奉(たてまつ)りけれど、後には御沓、片足(かたあし)がはりの御襪(したうづ)、藍白地竹(あゐしらぢだけ)・紫白地桐(きり)の文(もん)、紫革(むらさきかは)の御結緒(ゆひを)也。春宮、御直衣(なほし)・紫の御指貫(さしぬき)・同(おな)じ色革(いろかは)の御襪(したうづ)、新院、織物(おりもの)の御直衣(なほし)・御指貫(さしぬき)・文(もん)無(な)き紫(むらさき)の御襪(したうづ)、関白殿文(もん)無(な)きふすべ革(かは)、内の大臣(おとど)紫革(むらさきかは)に菊をぬいたり。藤大納言(だいなごん)為氏(ためうじ)無文(むもん)のふすべ革(かは)、其(そ)の外色々(いろいろ)の錦革(にしきかは)・藍革(あゐかは)・藍白地(あゐしらぢ)、各(おのおの)けぢめわかるべし。為兼(ためかぬ)紫革(むらさきかは)、為道は藍白地(あゐしらぢ)なりけり。為兼(ためかぬ)と
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は、為氏(ためうじ)の大納言(だいなごん)の弟(おとと)兵衛督(ひやうゑのかみ)為教と言(い)ひしが子なり。為道は大納言(だいなごん)の孫(うまご)、為世の太郎なり。離(はな)れぬ中(なか)にて、いといたくいどみかはしたり。内の上(うへ)は、白骨(しらほね)の御扇、左の御手に持(も)たせ給(たま)ひて、花のいみじく面白(おもしろ)き木蔭(こかげ)に立(た)ち休(やす)らひ給(たま)へる御かたち、いとゆゆしきまで清(きよ)らに見(み)え給(たま)ふ。飽(あ)かず名残多(おほ)く思(おぼ)さるれど、春の司召(つかさめ)し・御燈など言(い)ふ事共(ども)あれば、行幸は今宵かへらせ給(たま)ふ。御贈(おく)り物に御本参(まゐ)る。
明くる日、午(うま)の時ばかり、寝殿(しんでん)より西園寺(さいをんじ)まで筵道(えんだう)しきて、両院御烏帽子(えぼし)直衣(なほし)、春宮御括(くく)り上(あ)げて堂々拝(をが)ませ給(たま)ふ。左衛門督、新院の御はかせ持(も)たせ給(たま)へり。権亮(ごんのすけ)親定、春宮の御はかせ持(も)たれけり。妙音堂に御参(まゐ)りあるに、遅(おそ)き桜(さくら)一本ほころびそめて、今日の御幸を待(ま)ち顔(がほ)なり。仏の御前(まへ)に、かりそめの御座(おまし)ながら、皆(みな)渡(わた)らせ給(たま)ふ。廂(ひさし)に上達部つきて、御遊の具召(め)す。笛花山院の大納言(だいなごん)、笙(しやう)左衛門督、篳篥兼行(かねゆき)、春宮御琵琶、大夫笙(しやう)、大鼓(たいこ)具顕(ともあき)、鞨鼓範藤(のりふぢ)、盤渉調(ばんしきてう)に調(しら)べ整(ととの)へて、採桑老(さいさうらう)・蘇合(そがふ)・白柱(はくちゆう)・千秋楽(せんしゆうらく)など、いみじう面白(おもしろ)し。うるはしき事(こと)よりも中々艶(えん)なり。兼行(かねゆき)、「花は上苑に明なり」と、うち出(い)だしたるに、いとど物の音
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もてはやされて、えも言(い)はず聞(き)こゆ。具顕(ともあき)・範藤など「羅綺(らき)の重衣(ちようい)」と、二返(かへ)りばかり言(い)へるに、「情(なさ)け無(な)き事(こと)を機婦にねたみ」と本院加(くは)へ給(たま)へば、新院、御声(こゑ)たすけ給(たま)ふ程(ほど)、そぞろ寒きまで艶(えん)なり。帰(かへ)らせ給(たま)ひても、又、昨日の花の蔭(かげ)にて、舞御覧(ごらん)ぜられつつ、それよりやがて御船(みふね)に奉りて押(お)し出(い)でたれば、遙(はる)かなる海づらに漕(こ)ぎ離(はな)れたらん心地(ここち)して、いとをかし。小(ちひ)さき舟(ふね)に上達部乗(の)りて、はしにつけられたり。飽(あ)かざりつる妙音堂の調子をうつされて、有(あ)りつる同(おな)じ人々(ひとびと)仕(つかうまつ)る。春宮又御琵琶。箏(しやう)の琴(こと)は右衛門督と言(い)ふ女房、御舟(ふね)に参(まゐ)れるにひかせらる。舟の中(うち)の調(しら)べはいと艶(えん)なり。蘇合の五帖・輪台・青海波・竹林楽・越殿楽(ゑてんらく)など、いく返(かへ)りとも無(な)く面白(おもしろ)し。兼行(かねゆき)「山(やま)又山(やま)」などうち誦(ず)したるに、「変態(へんたい)繽紛(ひんぷん)たり」と両院遊(あそ)ばしたるに、水の底(そこ)も怪(あや)しきまで、身の毛(け)立(た)ちぬべく聞(き)こゆ。中島に御舟(ふね)差(さ)しとめて見(み)れば、旧苔(きうたい)年ふりたる松の枝(え)差(さ)しかはせる岩(いは)のたたずまひ、いと暗(くら)がりたるに、池の水、心のどかに見(み)えて、名も知(し)らぬ小鳥(ことり)共(ども)乱(みだ)れ飛(と)ぶ気色、何(なに)と無(な)くをかし。遠(とほ)きさかひに臨(のぞ)める心地(ここち)するに、めぐれる山(やま)の滝つ岩ね、遙(はる)かにかすみて見(み)渡(わた)さるる程(ほど)、仙人の洞(ほら)もかくやとぞ覚(おぼ)ゆる。
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「二千里の外(ほか)の心地(ここち)こそすれ」など宣(のたま)ひて、新院、
雲の浪煙(けぶり)のなみをわけてけり
誰(たれ)にか有(あ)らん、女房の中(なか)より、
行末(ゆくすゑ)遠(とほ)き君が御代とて W
春宮の大夫、
昔(むかし)にも猶(なほ)立(た)ち越(こ)ゆるみつぎもの
具顕(ともあき)の中将(ちゆうじやう)、
曇(くも)らぬ影(かげ)も神のまにまに W
春宮、九十(ここのそぢ)に猶(なほ)も重(かさ)ぬる老のなみ
本院、
たちゐ苦(くる)しき世の習(なら)ひ哉 W
暮(く)れはつる程(ほど)に、釣殿(つりどの)へ御舟(ふね)寄(よ)せて、降(お)りさせ給(たま)ひぬ。春宮、今夜(こよひ)帰(かへ)らせ給(たま)へば、御贈(おく)り物に、和琴(わごん)一つ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。誠(まこと)や、准后にも恵果(けいくわ)和尚の三衣(みつぎぬ)、紺地(こんぢ)
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の錦(にしき)に包(つつ)みて、銀(しろかね)の箱(はこ)に入(い)れて参(まゐ)らせらる。いづれも大宮院の御沙汰(さた)なり。掃部寮(かもんれう)、火しげうともして、うち群(む)れつつゐたる様(さま)も、なまめかしうみやびかなり。ここ彼処(かしこ)には、此(こ)の御賀の事共(ども)書(か)きつけしるす人のみぞ多(おほ)か(ン)めれば、片端(かたはし)だに、いとかたくなならんとあさまし。
何(なに)と無(な)く過(す)ぎ行(ゆ)く程(ほど)に、弘安も十年になりぬ。此(こ)の御門(みかど)、位に即(つ)かせ給(たま)ひて、十三年ばかりにや成りぬらん。本院、待(ま)ち遠(どほ)に思(おぼ)さるらんと、いとほしく推(お)し量(はか)り奉(たてまつ)るにや、例の東(あづま)より奏する事あるべし。新院の御方様(かたざま)には、心(こころ)細(ぼそ)う聞(き)こし召(め)し悩(なや)むべし。去年(こぞ)の春、御乳母(めのと)の按察(あぜち)の二位殿失(う)せにしかば、一めぐりの仏事(ぶつじ)に亀山殿へ御座(おは)しまして、いかめしう八講行(おこな)はせ給(たま)ふ日、雪いたう降(ふ)りければ、九条(くでう)の三位隆博、桧扇(ひあふぎ)のつまを折(を)りて、
跡とめてとはるる御代の光(ひかり)をや雪の内(うち)にも思(おも)ひいづらん W
女房の中(なか)に聞(き)こえたるを、院御覧じて、返(かへ)しに宣(のたま)ふ。
無(な)き人の重(かさ)ねし罪(つみ)も消(き)えねとて雪の中(なか)にも跡を問(とふ)かな W
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万(よろづ)飽(あ)かず思(おぼ)さるる程(ほど)なれど、其(そ)の年(とし)の十月にをり居(ゐ)させ給(たま)ふ。もとの上(うへ)は二十一にぞならせ給(たま)ひける。御本性(ごほんじやう)もいとうるはしく、のどめたる様(さま)に思(おぼ)して、すくよかに、御才(ざえ)も賢(かしこ)うめでたう御座(おは)しませば、御政事(まつりごと)共(ども)やうやう譲(ゆづ)りや聞(き)こえましなど思(おぼ)されつるに、いとあへ無(な)く移(うつ)ろひぬる世を、すげなく新院は思(おぼ)さるべし。春宮、位に即(つ)き給(たま)ひぬれば、天(あめ)の下(した)本院に推(お)し移(うつ)りぬ。世の中(なか)押(お)し別(わか)れて、人の心共(ども)も、かかる際(きは)にぞあらはれける。今(いま)の御門も、故山階(やましな)の大臣(おとど)の御孫にて渡(わた)らせ給(たま)へば、彼(か)の殿ばらのみぞ、いづ方(かた)にもすさめぬ人にて御座(おは)しける。



校註 増鏡

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〔ますかがみ下〕
第十三 今日の日影
正応元年(ぐわんねん)三月十五日(じふごにち)、官庁(くわんちやう)にて御即位(そくゐ)有(あ)り。此(こ)の程(ほど)は、香園院(かうをんゐん)の左の大臣(おとど)師忠(もろただ)関白にて御座(おは)しき。其(そ)の後(のち)、近衛殿(このゑどの)家基(いへもと)、又九条(くでう)の左大臣忠教(ただのり)、其(そ)の後(のち)、又近衛殿(このゑどの)かへりなり給(たま)ひき。猶(なほ)後(のち)に、歓喜園院(くわんきをんゐん)など、いとしげう変(か)はり給(たま)ふ。おりゐの御門を、今(いま)は新院と聞(き)こゆれば、太上天皇三人(みたり)世に御座(おは)します頃なり。いと珍(めづら)しく侍(はべ)るにや。御門(みかど)の御母三位し給(たま)ふ。其(そ)の御はらからの姫君(ひめぎみ)、御傍(かたはら)に候(さぶら)ひ給(たま)ふを、上(うへ)いと忍(しの)びたる御むつびあるべし。東二条院の御例(ためし)にやなどささめく人もあれど、さばかりうけばりては、えしもや御座(おは)せざらむ。三位殿御兄(せうと)の公守(きんもり)の大納言(だいなごん)の姫君(ひめぎみ)も、幼(をさな)くよりかしづきて候(さぶら)ひ給(たま)ふ。それもよそならぬ御契なるべし。此(こ)の君をぞ、父(ちち)の殿(との)も、いとうるはしき様(さま)にても、参(まゐ)らせまほしう
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思(おぼ)しつれど、西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)実兼の姫君(ひめぎみ)、いつしか参(まゐ)り給(たま)へば、きしろふべきにも有(あ)らず。其(そ)の年(とし)六月二日入内有(あ)り。其(そ)の夜先(ま)づ御裳着(もぎ)し給(たま)ふ。前(さき)の御代にもあらましは聞(き)こえしかど、いかなるにか、さも御座(おは)せざりしに、いつしかかうも有(あ)りけるは、猶(なほ)、思(おぼ)す心有(あ)りけるな(ン)めりとぞ、うちつけにひがひがしう言(い)ひなす人も侍(はべ)りける。此(こ)の姫君(ひめぎみ)の母(はは)北(きた)の方(かた)は、三条坊門(ばうもん)通成(みちなり)の内(うち)の大臣(おとど)の女なり。候(さぶら)ふ人々(ひとびと)も、押(お)しなべたらぬ限(かぎ)りえり整(ととの)へ、いみじう清(きよ)らに思(おぼ)しいそぐ。万(よろづ)、人の心も昨日に今日(けふ)は勝(まさ)りのみ行(ゆ)くめれば、いやめづらに好(この)ましうめでたし。大方(おほかた)大宮(おほみや)の院の御参(まゐ)りの例(れい)を思(おぼ)しなずらふべし。院の御子(こ)にこれも又なり給(たま)ふとて、東二条院御腰(こし)結(ゆ)はせ給(たま)ひて、時なりぬれば、唐庇(からびさし)の御車に奉(たてまつ)りて、上達部(かんだちめ)十人・殿上人十余人(よにん)・本所の前駆(ぜんくう)二十人、つい松(まつ)ともして、御車の左右(さう)に候(さぶら)ふ。出車(いだしぐるま)十両、一の左に母北(きた)の方(かた)の御妹(いもうと)一条殿、右に二条殿、実顕(さねあき)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)の女を、大納言(だいなごん)子にし給(たま)ふとぞ聞(き)こえし。二(に)の車の左に久我大納言(だいなごん)雅忠(まさただ)の女、三条とつき給(たま)ふを、いとからい事(こと)に歎(なげ)き給(たま)へど、皆人先(さき)だちてつき給(たま)へれば、あきたる儘(まま)とぞ慰(なぐさ)められ給(たま)ひける。右に近衛殿(このゑどの)、
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源大納言(だいなごん)雅家(まさいへ)の女なり。三の左には大納言(だいなごん)の君、室町(むろまち)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)公重(きんしげ)の女、右に新大納言(だいなごん)、同(おな)じき三位兼行(かねゆき)とかやの女。四の左には宰相(さいしやう)の君、坊門(ばうもん)の三位基輔(もとすけ)の女、右は治部卿兼倫(かねとも)の三位の女也。それより下(しも)は例(れい)のむつかしくてなん。多(おほ)くは本所の家司(けいし)、何(なに)くれが娘(むすめ)共(ども)なるべし。童(わらは)・下仕(しもづか)へ・雑仕(ざふし)・はした物に至(いた)るまで、髪(かみ)かたち目(め)安(やす)く親(おや)うち具(ぐ)し、少(すこ)しもかたほなる無(な)く整(ととの)へられたり。
其(そ)の暮(く)れつ方(かた)、頭(とう)の中将(ちゆうじやう)為兼(ためかぬ)の朝臣、御消息(せうそこ)もて参(まゐ)れり。内の上(うへ)、自(みづか)ら遊(あそ)ばしけり。
雲の上(うへ)に千代をめぐらん初(はじ)めとて今日(けふ)の日影(ひかげ)もかくや久(ひさ)しき W
紅(くれなゐ)の薄様(うすやう)に、同(おな)じ薄様(うすやう)をもて包(つつ)まれたんめり。関白殿、「包(つつ)むやう知(し)らず」とかや宣(のたま)ひけるとて、花山に心得(え)たると聞(き)かせ給(たま)ひければ、遣(つか)はして包(つつ)ませられけるとぞ承(うけたまは)りしと語(かた)るに、又此(こ)の具(ぐ)したる女、「いつぞやは、御使(つか)ひ、実教の中将(ちゆうじやう)とこそは語(かた)り給(たま)ひしか」と言(い)ふ。女御のよそひは、蘇芳(すはう)のはり一重(ひとへ)がさね・濃(こ)きうらのひへぎ・濃(こ)き蘇芳(すはう)の御表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の御唐衣(からぎぬ)・濃(こ)き御袴(はかま)・地(ぢ)ずりの御裳(も)奉(たてまつ)る。
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女房のよそひ、押(お)しなべて皆(みな)蘇芳(すはう)のはり一重(ひとへ)がさね・紅(くれなゐ)のひへぎ・濃(こ)き袴(はかま)・蘇芳(すはう)の表着(うはぎ)・青朽葉(あをくちば)の唐衣(からぎぬ)・薄色(うすいろ)の裳(も)・三重(みへ)だすき、上下同(おな)じ様(さま)也。参(まゐ)り給(たま)ひぬれば、蔵人左衛門権佐俊光(としみつ)承(うけたまは)りて、手車(てぐるま)の宣旨(せんじ)有(あ)り。殿上人参(まゐ)りて御車引(ひ)き入(い)れ、御兄(せうと)の中納言公衡(きんひら)、別当兼(か)ね給(たま)へり。上(うへ)の御甥(をひ)の左衛門督通重(みちしげ)、御兄(せうと)になずらうる由(よし)聞(き)こゆれば、御屏風・御几帳(きちやう)立(た)てらる。昼(ひ)の御座(ござ)へ御車よせらる。御衾(ふすま)、二位殿参(まゐ)らせ給(たま)ふ。御台(だい)参(まゐ)りて、やがて夜(よる)の御殿(おとど)へまう上(のぼ)り給(たま)ふ。此(こ)の御衾(ふすま)は、京極院(きやうごくゐん)のめでたかりし例(れい)とかや聞(き)こえて、公守(きんもり)の大納言(だいなごん)、沙汰(さた)し申(まう)されけるとかや承(うけたまは)りしは、誠(まこと)にや侍(はべ)りけん。三(さん)が夜(や)の餅(もちひ)も、やがて彼(か)の大納言(だいなごん)沙汰(さた)し申(まう)さる。内の上(うへ)の、夜の御殿(おとど)へ召(め)して入(い)らせ給(たま)へる御草鞋(さうかい)をば、二位殿取(と)りて出(い)でさせ給(たま)ひて、大納言(だいなごん)殿(どの)と二人(ふたり)の御中(なか)に抱(いだ)きて寝(ね)給(たま)ふと聞(き)こえし。さきざきもさる事(こと)にてこそは侍(はべ)りけめ。
八日、御所あらはしとて、上(うへ)渡(わた)らせ給(たま)へば、袖口(そでくち)共(ども)心異(こと)にて、わざとなく押(お)し出(い)ださ
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る。今日(けふ)は、各(おのおの)紅(くれなゐ)の一重(ひとへ)がさね・青朽葉(あをくちば)の表着(うはぎ)・二藍(ふたあゐ)の唐衣(からぎぬ)なり。大納言(だいなごん)殿(どの)も候(さぶら)はせ給(たま)ふ。上(うへ)も御台(だい)参(まゐ)る。二位殿御陪膳(はいぜん)、女御のは一条殿仕(つかうまつ)り給(たま)ふ。女御の君は、蘇芳(すはう)のはり一重(ひとへ)がさね・紅(くれなゐ)のひへぎ・青朽葉(あをくちば)の表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の唐衣(からぎぬ)二重(ふたへ)織物(おりもの)・唐(から)の薄物(うすもの)の御裳(も)・濃(こ)き綾(あや)の御袴(はかま)、御髪(みぐし)いとうるはしくて盛(さか)りにねび整(ととの)ほり給(たま)へる、いと見所(みどころ)多(おほ)くめでたし。御共(とも)に参(まゐ)り給(たま)へる人々(ひとびと)、右大臣・内大臣・大納言(だいなごん)の左大将(さだいしやう)・花山院の中納言・権大夫・殿上人共(ども)、数多(あまた)此処(ここ)彼処(かしこ)の打橋(うちはし)・渡殿(わたどの)などに、気色(けしき)ばみつつ群(む)れ居(ゐ)たるも、艶(えん)なる心地(ここち)すべし。上達部(かんだちめ)の勧盃(けんぱい)果(は)てて後、内の御方(かた)の御乳母(めのと)を始(はじ)めて、内侍・女官(にようくわん)共(ども)、かなへ殿まで禄(ろく)賜(たま)はる。十日の夕つ方(かた)、下大所の御覧(ごらん)有(あ)り。台盤所(だいばんどころ)の北の御壺(つぼ)へ参(まゐ)る。同(おな)じそばの間(ま)にて、内の御方(かた)御覧(ごらん)ぜらる。やがて東(ひがし)面(おもて)より女御も御覧(ごらん)ず。二位殿・一条殿・二条殿を始(はじ)めて、上臈(じやうらふ)だつ人々(ひとびと)、数多(あまた)候(さぶら)ひ給(たま)ふ。御簾(みす)の外(と)にも、上達部(かんだちめ)数多(あまた)候(さぶら)はる。いとはればれし。十四日、又内の上(うへ)入(い)らせ給(たま)ひて、こなたにて初(はじ)めて御酒(みき)聞(き)こし召(め)せば、南面(みなみおもて)へ出(い)でさせ給(たま)ふ。女御、蘇芳(すはう)の御一重(ひとへ)がさね・萩の経青(たてあを)
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の御表着(うはぎ)・朽葉(くちば)の御小袿(こうちき)、皆(みな)二重(ふたへ)織物(おりもの)、綾(あや)の織物(おりもの)、生絹(すずし)の御袴(はかま)、御紋(もん)竹立涌(たけたてわけ)を織(お)る。上(うへ)は、御引直衣(ひきなほし)・生絹(すずし)の御袴(はかま)、櫑子(らいし)参(まゐ)る。御陪膳(はいぜん)は一条殿、今日(けふ)よりはうちとけたる心地(ここち)にて、女房共(ども)色々(いろいろ)の一重(ひとへ)がさね・唐衣(からぎぬ)、様々(さまざま)珍(めづら)しき色共(ども)を尽(つ)くして、生絹(すずし)の袴(はかま)に着(き)かへたる、今(いま)少(すこ)し見所(みどころ)そひて、なつかしき様(さま)也。得選(とくせん)、櫑子(らいし)をもて参(まゐ)る。次第(しだい)に取(と)りつぎて参(まゐ)らす。金(かね)の御ごき・銀(しろがね)の片口(かたくち)の御銚子(てうし)、一条殿御陪膳(はいぜん)、其(そ)の後(のち)、女御殿(どの)も御銚子(てうし)に手かけさせ給(たま)ふ事侍(はべ)りけり。今宵(こよひ)二位殿、今出川(いまでがは)へまか(ン)で給(たま)ひて、手車(てぐるま)の宣旨(せんじ)ゆり給(たま)ふ。御送(おく)りには御子の公衡(きんひら)の中納言。御甥(をひ)の通重(みちしげ)の左衛門(さゑもん)の督(かみ)など、殿上人共(ども)数多(あまた)也。縫殿(ぬひどの)の陣(ぢん)より出(い)で給(たま)ふ気色(けしき)、いとよそほし。誠(まこと)や、御入内の夜の御使(つか)ひ、勾当(こうたう)の内侍参(まゐ)れりし禄(ろく)に、表着(うはぎ)・唐衣(からぎぬ)を賜(たま)はる。御消息(せうそこ)の御使(つか)ひに参(まゐ)られし上(うへ)の人も、女の装束(しやうぞく)かづきながら帰(かへ)り参(まゐ)りて、殿上の口(くち)に落(お)とし捨(す)つ。殿もりづかさぞ取(と)る習(なら)ひなりける。後朝(こうてう)の御使(つか)ひには、公実(きんざね)の中将(ちゆうじやう)なりし。公衡(きんひら)の中納言対面(たいめん)して、勧盃(けんぱい)の後(のち)、これも女の装束(しやうぞく)かづけらる。
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かくて八月二十日、后に立ち給(たま)ふ。予(かね)てより今出川(いまでがは)の御家(いへ)へまか(ン)で給(たま)ひて、節会(せちゑ)の儀式(ぎしき)、引(ひ)き移(うつ)し待(ま)ちとり給(たま)ふ様(さま)、いとめでたく、今更(いまさら)ならぬ事(こと)なれど、父の殿も遂(つひ)の御位(くらゐ)はさこそなれど、只今(ただいま)差(さ)しあたりては、未(いま)だ浅(あさ)く御座(おは)するに、すがやかに后妃(こうひ)の位(くらゐ)に定(さだ)まり給(たま)ふこと、限(かぎ)り無(な)き御世の覚(おぼ)えと、めでたく見(み)ゆ。大宮院・本院・東二条院、皆(みな)渡(わた)り御座(おは)しまして、見奉(たてまつ)り給(たま)ふさへぞやむごとなき。今日(けふ)は、紅(くれなゐ)のはり一重(ひとへ)がさね・ひへぎ・女郎花(をみなへし)の表着(うはぎ)・二藍(ふたあゐ)の唐衣(からぎぬ)・薄色(うすいろ)の裳(も)、すべて二十人、同(おな)じ色のよそひ也。此(こ)の外(ほか)、威儀(ゐぎ)の女房八人、白(しろ)きはり一重(ひとへ)がさね、濃(こ)きひへぎ、同(おな)じ袴(はかま)、女郎花(をみなへし)の衣にて候(さぶら)ふ。いづれと無(な)く、かたち共(ども)きよげに目(め)安(やす)し。
其(そ)の年(とし)の十一月八日ぞ、后(きさい)の宮(みや)の御父(ちち)、右大将になり給(たま)ひぬる。同(おな)じ二十五日、正(しやう)二位し給(たま)ふ。此(こ)の程(ほど)は、大嘗会(だいじやうゑ)・五節(ごせち)など罵(ののし)る。前(さき)の御世に引(ひ)きかへて、中宮・皇后宮・院達(たち)、あかれあかれ多(おほ)く御座(おは)しませば、殿上人共(ども)推参(すいさん)の所多(おほ)く、頭(かしら)痛(いた)きまでめぐり歩(あり)く。其(そ)の年(とし)の十二月に、御門(みかど)の御母三位殿、院号(ゐんがう)有(あ)り。朝に准后の宣旨(せんじ)有(あ)りて、同(おな)じき日の夕べに玄輝門院(げんきもんゐん)と申(まう)す。めでたく
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いみじかりき。
年(とし)返(かへ)りて、正応も二年になりぬ。万(よろづ)めでたき事共(ども)多(おほ)くて、三月二十三日、鳥羽殿へ朝覲(てうきん)の行幸なる。本院は、予(かね)てより鳥羽(とば)殿(どの)に御座(おは)しまして、池の水草(みくさ)かきはらい、いみじう磨(みが)かれて、例(れい)のことごとしき唐(から)の御船(みふね)うかべられて、二十四日に舞楽(まひがく)有(あ)りき。二十六日にぞ返らせ給(たま)ひける。さても、去年(こぞ)の三月三日かとよ、経氏(つねうじ)の宰相の女の御腹(おんはら)に、若宮(わかみや)出(い)で来(き)させ給(たま)へりしを、太子に立(た)て奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。いと賢(かしこ)き御宿世(しゆくせ)也。中宮の御子にぞなし奉(たてまつ)らせ給(たま)ひける。同(おな)じうは、誠(まこと)にて御座(おは)せましかばとぞ、大将殿など思(おぼ)しけんかし。おりゐの御門(みかど)も、御子数多(あまた)御座(おは)しませば、坊になど思(おぼ)しけるを、引(ひ)きよぎぬる、いと本意(ほい)無し。十月二十五日、一院の御所にて、真魚(まな)聞(き)こし召(め)す。いとめでたき事共(ども)、罵(ののし)り過(す)ぎもて行(ゆ)く。
同(おな)じき三年三月四日五日の頃(ころ)、紫宸殿(ししんでん)の獅子(しし)・狛犬(こまいぬ)、中(なか)よりわれたる、驚(おどろ)き思(おぼ)して御占(うら)あるに、「血(ち)流(なが)るべし」とかや申(まう)しければ、いかなる事(こと)のあるべきにかと、誰(たれ)も誰(たれ)も思(おぼ)し騒(さわ)ぐに、其(そ)の
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九日の夜、右衛門(うゑもん)の陣より、恐(おそ)ろしげなる武士(もののふ)三、四人(さんよにん)、馬に乗(の)りながら九重(ここのへ)の中(なか)へ馳(は)せ入(い)りて、上(うへ)に昇(のぼ)りて、女嬬(によず)が局(つぼね)の口(くち)に立(た)ちて、「やや」と言(い)ふ物を見(み)上(あ)げたれば、丈(たけ)高(たか)く恐(おそ)ろしげなる男(をとこ)の、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の鎧(よろひ)直垂(ひたたれ)に、緋(ひ)をどしの鎧(よろひ)着(き)て、只(ただ)赤鬼(あかおに)などのやうなるつらつきにて、「御門(みかど)はいづくに御よるぞ」と問(と)ふ。「夜(よる)の御殿(おとど)に」といらふれば、「いづくぞ」と又問(と)ふ。「南殿(なんでん)より東(ひんがし)北のすみ」と教(をし)うれば、南(みなみ)ざまへ歩(あゆ)み行(ゆ)く間(ま)に、女嬬(によず)、内(うち)より参(まゐ)りて、権大納言(だいなごん)の典侍(すけ)殿(どの)・新内侍殿などに語(かた)る。上(うへ)は、中宮の御方に渡(わた)らせ給(たま)ひければ、対(たい)の屋(や)へ忍(しの)びて逃(に)げさせ給(たま)ひて、春日殿(どの)へ、女房のやうにて、いと怪(あや)しき様(さま)をつくりて、入(い)らせ給(たま)ふ。内侍、剣璽(けんじ)を取(と)りて出(い)づ。女嬬(によず)は玄象(げんしやう)・鈴鹿(すずか)取(と)りて逃(に)げけり。春宮をば、中宮の御方(かた)の按察(あぜち)殿(どの)抱(いだ)き参(まゐ)らせて、常盤井(ときはゐ)殿(どの)へかちにて逃(に)ぐ。其(そ)の程(ほど)の心の中(うち)共(ども)言(い)はん方無し。此(こ)の男(をとこ)をば、浅原(あさはら)の某(なにがし)とか言(い)ひけり。からくして、夜の御殿(おとど)へ尋(たづ)ね参(まゐ)りたれども、大方(おほかた)人も無し。中宮の御方(かた)の侍(さぶらひ)の長(をさ)景政(かげまさ)と言(い)ふ物、名乗(なの)り参(まゐ)りて、いみじく戦(たたか)い防(ふせ)きければ、疵(きず)冠(かうぶ)りなどしてひしめく。かかる程(ほど)に、二条京極(きやうごく)の篝屋(かがりや)備後(びんご)の守(かみ)とかや、五十余騎(よき)にて馳(は)せ参りて時(とき)をつくるに、合(あ)はする
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声(こゑ)、僅(わづ)かに聞(き)こえければ、心安(やす)くして内に参(まゐ)る。御殿共(ども)の格子(かうし)引(ひ)きかなぐりて乱(みだ)れ入(い)るに、適(かな)はじと思ひて、夜の御殿(おとど)の御褥(しとね)の上(うへ)にて、浅原(あさはら)自害(じがい)しぬ。太郎なりける男(をのこ)は、南殿(なんでん)の御帳(みちやう)の内(うち)にて自害(じがい)しぬ。弟(おとと)の八郎と言(い)ひて十九になりけるは、大床子(だいしやうじ)の足(あし)の下(した)にふして、寄(よ)る者(もの)の足(あし)を斬(き)り斬(き)りしけれども、さすが、数多(あまた)して搦(から)めんとすれば、適(かな)はで自害(じがい)すとて、腸(はらわた)をば皆(みな)繰(く)り出(い)だして、手(て)にぞ持(も)たりける。其(そ)の儘(まま)ながら、いづれをも六波羅(ろくはら)へかき続(つづ)けて出(い)だしけり。ほのぼのと明(あ)くる程(ほど)に、内・春宮、御車にて忍(しの)びて帰(かへ)らせ給(たま)ひて、昼(ひる)つ方(かた)ぞ、又(また)更(さら)に春日(かすが)殿(どの)へなる。大方、雲の上(うへ)けがれぬれば、いかがにて、中宮の昼(ひ)の御座(ござ)へ腰輿(ようよ)寄(よ)せて、兵衛の陣より出(い)でさせ給(たま)ふ。春宮は糸毛(いとげ)の御車にて、又常盤井(ときはゐ)殿(どの)へ渡(わた)らせ給(たま)ふ。中宮も春日殿(どの)へ行啓(ぎやうげい)なる。世の中(なか)ゆすり騒(さわ)ぐ様(さま)、ことの葉も無し。
此(こ)の事、次第(しだい)に六波羅(ろくはら)にて尋(たづ)ね沙汰(さた)する程(ほど)に、三条の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)実盛(さねもり)も召(め)しとられぬ。三条の家に伝(つた)はりて、鯰尾(なまづを)とかや言(い)ふ刀(かたな)の有(あ)りけるを、此(こ)の中将(ちゆうじやう)、日頃(ひごろ)持(も)たれたりけるにて、彼(か)の浅原(あさはら)自害(じがい)したるなど言(い)ふこと共(ども)出(い)で来(き)て、中(なか)の院(ゐん)
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も知(し)ろし召(め)したるなど言(い)ふ聞(き)こえ有(あ)りて、心憂(う)くいみじきやうに言(い)ひあつかふ、いとあさまし。中宮の御兄(せうと)権大納言公衡(きんひら)、一院の御前(まへ)にて、「此(こ)の事(こと)は、猶(なほ)、禅林寺(ぜんりんじ)殿(どの)の御心(おんこころ)合(あ)はせたるなるべし。後嵯峨院の御処分(そぶん)を引(ひ)き違(たが)へ、東(あづま)よりかく当代(たうだい)をも据(す)ゑ奉(たてまつ)り、世を知(し)ろし召(め)さする事(こと)を、心よからず思(おぼ)すによりて、世を傾(かたぶ)け給(たま)はんの御本意(ほんい)なり。さてなだらかにも御座(おは)しまさば、勝(まさ)る事(こと)や出(い)で詣(まう)でこん。院を先(ま)づ六波羅(ろくはら)に移(うつ)し奉(たてまつ)らるべきにこそ」など、彼(か)の承久の例(ためし)も引(ひ)き出(い)でつべく申し給(たま)へば、いといとほしうあさましと思(おぼ)して、「いかでか、さまでは有(あ)らん。実(じち)ならぬ事(こと)をも、人はよく言(い)ひなす物也かし。故(こ)院の無(な)き御影(かげ)にも、思(おぼ)さん事(こと)こそいみじけれ」と涙ぐみて宣(のたま)ふを、心弱(よわ)く御座(おは)しますかなと、見奉(たてまつ)り給(たま)ひて、猶(なほ)内(うち)よりの仰(おほ)せなど、きびしき事共(ども)聞(き)こゆれば、中(なか)の院(ゐん)も新院も思(おぼ)し驚(おどろ)く。いとあわたたしきやうになりぬれば、いかがはせんにて、知(し)ろし召(め)さぬ由(よし)誓(ちか)ひたる御消息(せうそこ)など、東(あづま)へ遣(つか)はされて後ぞ、事(こと)鎮(しづ)まりにける。
さて九月(ながつき)の初(はじ)めつ方(かた)、中(なか)の院(ゐん)は御髪(みぐし)おろさせ給(たま)ふ。いとあはれなる事(こと)共(ども)多(おほ)かる
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べし。禅林寺(ぜんりんじ)殿(どの)にて、やがて御如法経(によほふきやう)など書(か)かせ給(たま)ふ。一院の世の中(なか)恨(うら)み思(おぼ)されし時、既(すで)にと聞(き)こえしは、さも御座(おは)しまさで、かくすがやかにせさせ給(たま)ひぬる、いと定(さだ)め無し。しばしは禅僧にならせ給(たま)ふとて、緑衫(ろうそう)の御衣に掛絡(くわら)と言(い)ふ袈裟(けさ)かけさせ給(たま)へり。四十一にぞ物(もの)し給(たま)ひける。御法名(ほふみやう)金剛覚(こんがうかく)と申(まう)すなり。新陽明門院(しんやうめいもんゐん)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、色々(いろいろ)御召人(めしうど)共(ども)、廊(らう)の御方(かた)・讚岐(さぬき)の二位殿など、さびしき院に残(のこ)りて、あるは様(さま)かへ、あるは里(さと)へまか(ン)でなど、様々(さまざま)散(ち)り散(ぢ)りになる程(ほど)、いと心(こころ)細(ぼそ)し。
中務(なかづかさ)の宮の御娘(むすめ)は、もとよりいとあざやかならぬ御覚(おぼ)えなりしかば、世を捨(す)てさせ給(たま)ふ際(きは)とても、取(と)りわきたる御名残(なごり)も無(な)かるべし。禅林寺(ぜんりんじ)の上(うへ)の院の、人はなれたる方(かた)に据(す)ゑ聞(き)こえさせ給(たま)へれば、異(こと)にふれて、いと寂(さび)しく心(こころ)細(ぼそ)き御有様(おんありさま)なるを、おのづから言(こと)とひ聞(き)こゆる人も無し。源氏(げんじ)の末の君に、中将(ちゆうじやう)〔ばかり〕なる人、院に親(した)しく仕(つかうまつ)りなれて、家もやがて其(そ)の渡(わた)りにあれば、程(ほど)近(ちか)き儘(まま)に、折々(をりをり)此(こ)の宮の御宿直(とのゐ)など心にかけて仕(つかまつ)るを、候(さぶら)ふ人々(ひとびと)もいと有(あ)り難(がた)くもと思(おも)ふ。宮の御方(かた)は、此(こ)の頃(ごろ)いみじき御盛(さか)りの程(ほど)
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にて、まほに美(うつく)しう御座(おは)しますを、あたらしう見奉(たてまつ)りはやす人の無(な)き事(こと)と思(おも)ひあへり。七月ばかり、風あららかに吹(ふ)き、稲妻(いなづま)けしからずひらめきて、神鳴(な)り騒(さわ)ぐ、常(つね)よりも恐(おそ)ろしき夜、はかばかしき人も無(な)ければ、上下いとあわたたしく、心(こころ)細(ぼそ)う思(おぼ)し惑(まど)ふ。法皇は、亀山(かめやま)殿(どの)に過(す)ぎにし頃(ころ)より御座(おは)しませば、近(ちか)きあたりにだに人のけはひも聞(き)こえず。あはれなる程(ほど)の御有様(おんありさま)にて、墨(すみ)をすりたらむやうなる空の気色(けしき)のうとましげなるを、ながめさせ給(たま)ひなどするに、例(れい)の中将(ちゆうじやう)、そぼち参(まゐ)りて、侍(さぶらひ)めく物一、二人、弓など持(も)たせて、「御宿直(とのゐ)仕(つかうまつ)り侍るべし。某(なにがし)も、侍(さぶらひ)の方(かた)に侍(はんべ)らん」など申すにぞ、いささか頼(たの)もしくて、人々(ひとびと)なぐさめ給(たま)ふ。御座(おは)します母屋(もや)にあたれる廂(ひさし)の勾欄(かうらん)に押(お)しかかりて、香染(かうぞ)めのなよらかなる狩衣(かりぎぬ)に、薄色(うすいろ)の指貫(さしぬき)うちふくだめる気色(けしき)にて、しめじめと物語(ものがたり)しつつ、いたう深(ふ)け行(ゆ)くまで、つくづくと候(さぶら)ひ給(たま)へば、御簾(みす)の中(なか)にも心遣(づかひ)して、はかなきいらへなど聞(き)こゆ。暁(あかつき)がたになりぬれば、御几帳(きちやう)引(ひ)き寄(よ)せて、御殿(との)ごもりぬる傍(かたはら)に、いと馴(な)れ顔(がほ)に添(そ)ひふす男(をとこ)有(あ)り。夢かやと思(おぼ)して御覧(ごらん)じ上(あ)げたれば、「年月(としつき)、思ひ聞(き)こえつる様(さま)、おほけなくあるまじき事(こと)と思(おも)ひかへさひ、ここら
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忍ぶるに余(あま)りぬる程(ほど)、只(ただ)少(すこ)し、かくて胸(むね)をだに休(やす)め侍らんばかり」など、いみじげに聞(き)こゆるは、早(はや)う有(あ)りつる中将(ちゆうじやう)なりけり。いとうたて、心憂(う)のわざやと思(おぼ)すに、御涙もこぼれぬ。近(ちか)き手(て)あたり御もてなしのなよびかさなど、まして思ひ沈(しづ)むべうも無(な)ければ、いといとほしう、ゆくりなき事(こと)とは思ひながら、残(のこ)りなうなりぬ。身のうさの限(かぎ)りなうもあるかなと、前(さき)の世もうらめしう、言(い)ふ甲斐(かひ)無(な)き事(こと)を思(おぼ)し続(つづ)けて、よよと泣(な)き給(たま)ふ様(さま)、いよいよらうたし。見(み)るとしも無(な)き夢のただぢをうち驚(おどろ)かす鐘(かね)の声(こゑ)・鳥の音も、人遣(や)りならぬ心づくしに、え出(い)でやらず。
起(お)き別(わか)れ行(ゆ)く空も無(な)き道芝(みちしば)の露より先(さき)に我(われ)や消(け)なまし W
出(い)でがてに休(やす)らいたる面影(おもかげ)も、何(なに)の御目(め)とまるふしも無し。さばかりいみじかりし院の御目(め)うつりに、こよなの契(ちぎり)の程(ほど)やと、思(おぼ)し知(し)らるるもつらければ、いらへもし給(たま)はず。あさましうも心憂(う)くも、様々(さまざま)思(おぼ)し乱(みだ)るるに、御心地(ここち)もまめやかに損(そこ)なはれぬべし。按察(あぜち)の君と言(い)ふ人、語(かた)らひとられけるな(ン)めり。忍(しの)びて御消息(せうそこ)しげう聞(き)こゆるをも、いとうたて、心づきなう思(おぼ)されながら、さてしも果(は)てぬ
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習(なら)ひにや、いと又あはれなる事(こと)さへ物(もの)し給(たま)ひけり。かかるにつけても、此(こ)の世一(ひと)つには有(あ)らざりける御契の程(ほど)、浅(あさ)からず推(お)し量(はか)らる。中将(ちゆうじやう)もよとともにあくがれ勝(まさ)りて、夢の通(かよ)ひ路(ぢ)、足(あし)も休(やす)めず成(な)り行(ゆ)く。此(こ)の御気色もやうやうしるき程(ほど)になり給(たま)へば、空恐(おそ)ろしとて、忍(しの)びて御乳母(めのと)だつ人の家など言(い)ひなして、白河(しらかは)わたり、かごやかにをかしき所用意(ようい)して、率(ゐ)て渡(わた)し奉(たてまつ)りつつ、猶(なほ)自(みづか)らは、さすがに世のつつましければ、忍(しの)びつつぞ御宿直(とのゐ)しける。そこにてこそ御子も生(う)み給(たま)ひけれ。此(こ)の中将(ちゆうじやう)、才(ざへ)賢(かしこ)くて、末の世には、事(こと)の外(ほか)にもてなされて、先(ま)づ一品(いつぽん)して、しばし御座(おは)せし頃(ころ)、御百首(ひやくしゆ)の歌に、
位山(くらゐやま)上(のぼ)り果(は)てても峰(みね)におふる松に心を猶(なほ)残(のこ)すかな W
さて遂(つひ)に内大臣まで上(のぼ)られき。さて元応の頃(ころ)かとよ、百首歌(ひやくしゆうた)奉(たてまつ)りし中(なか)に、
集(あつ)めこし窓(まど)の蛍(ほたる)の光もて思(おも)ひしよりも身をてらすかな W
と詠(よ)まれ侍(はべ)りき。有房(ありふさ)と聞(き)こえしが、若(わか)くての世の異(こと)なるべし。
新陽明門院(しんやうめいもんゐん)も、禅林寺(ぜんりんじ)殿(どの)のしもの放(はな)ち出(い)でに、徒然(つれづれ)として御座(おは)します程(ほど)に、松殿宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)兼嗣(かねつぐ)、いかがしたりけん、常(つね)に参(まゐ)り給(たま)ひし程(ほど)に、果(は)てには、
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其(そ)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)の御子に、世を逃(のが)れたる人有(あ)りき。其(そ)の御房に思(おぼ)しうつりて、限(かぎ)り無(な)く思(おぼ)したりし程(ほど)に、御子をさへ生(う)み給(たま)ひき。其(そ)の姫君(ひめぎみ)は、始(はじ)めは富(とみ)の小路の中納言秀雄(ひでを)の北(きた)の方(かた)にて御座(おは)せしが、後には歓喜園院(くわんきをんゐん)の摂政と聞(き)こえし末の御子に、基教(もとのり)の三位中将(ちゆうじやう)と聞(き)こえし上(うへ)になりて、失(う)せ給(たま)ふまで御座(おは)しき。故女院いとほしくし給(たま)ひしかば、御処分(そうぶん)など、いといと猛(まう)に有(あ)りき。「さのみかかる御事共(ども)をさへ聞(き)こゆるこそ、物言(い)ひさが無(な)き罪(つみ)去(さ)り所無(な)けれど、よしや昔(むかし)もさる事有(あ)りけりと、此(こ)の頃(ごろ)の人の御有様(おんありさま)も、おのづから軽(かろ)き事有(あ)らば、思(おも)ひ許(ゆる)さるる例(ためし)にもなりてん物ぞと思へば、遠(とほ)き人の御事(こと)は、今(いま)は何(なに)の苦(くる)しからんぞとて、少(すこ)しづつ申(まう)すなり」と、うち笑(わら)ふもはしたなし。「いづら。此(こ)の頃(ごろ)は、誰(たれ)か悪(あ)しく御座(おは)する」と問(と)へば、「いないなそれは空恐(おそ)ろし」とて、頭(かしら)をふるもさすがをかし。



校註 増鏡

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第十四 つげの小櫛
さても、石清水(いはしみづ)の流(なが)れをわけて、関(せき)の東(ひんがし)にも、若宮(わかみや)と聞(き)こゆる社(やしろ)御座(おは)しますに、八月十五日(じふごにち)、都(みやこ)の放生会(はうじやうゑ)を学(まね)びて行(おこな)ふ。其(そ)の有様(ありさま)、誠(まこと)にめでたし。将軍も詣(まう)で給(たま)ふ。位ある兵(つはもの)・諸国(しよこく)の受領(ずりやう)共(ども)など、色々(いろいろ)の狩衣(かりぎぬ)、思(おも)ひ思(おも)ひの衣重(かさ)ねて出(い)で立(た)ちたり。赤橋(あかはし)と言(い)ふ所に、将軍御車(くるま)止(とど)めて降(お)り給(たま)ふ。上達部(かんだちめ)は、上(うへ)の衣なるも有(あ)り。殿上人などいと多(おほ)く仕(つかうまつ)れり。此(こ)の将軍は、中務(なかづかさ)の宮の御子なり。此(こ)の頃(ごろ)権中納言にて、右大将かね給(たま)へれば、御随身(みずいじん)共(ども)、花を折(を)らせてさうぞきあへる様(さま)、都(みやこ)めきて面白(おもしろ)し。法会の有様(ありさま)も、本社に変(か)はらず。舞楽(ぶがく)・田楽(でんがく)・獅子(しし)がしら・流鏑馬(やぶさめ)など、様々(さまざま)所にしつけたる事共(ども)
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面白(おもしろ)し。十六日にも、猶(なほ)かやうの事(こと)なり。桟敷(さじき)共(ども)いかめしく造(つく)り並(なら)べて、色々(いろいろ)の幔幕(まんまく)など引(ひ)き続(つづ)けて、将軍の御桟敷(さじき)の前(まへ)には、相模(さがみ)の守(かみ)を初(はじ)め、そこらの武士(ぶし)共(ども)並(な)み居(ゐ)たる気色(けしき)、様(さま)変(か)はりて、好(この)ましううけばりたる、心地(ここち)よげに、所につけては又無(な)く見(み)えたり。
其(そ)の後(のち)、いく程(ほど)無(な)く、鎌倉(かまくら)より騒(さわ)がしきこと出(い)で来(き)て、皆人(みなひと)肝(きも)をつぶし、つぶし、ささめくと言(い)ふ程(ほど)こそあれ、将軍都(みやこ)へ流(なが)され給(たま)ふとぞ聞(き)こゆる。珍(めづら)しき言(こと)の葉なりかし。近(ちか)く仕(つかうまつ)る男(をとこ)女、いと心(こころ)細(ぼそ)く思(おも)ひ歎(なげ)く。たとへば、御位などの変(か)はる気色(けしき)に異(こと)ならず。さて上(のぼ)らせ給(たま)ふ有様(ありさま)、いと怪(あや)しげなる網代(あじろ)の御輿(みこし)を逆様(さかさま)に寄(よ)せて、乗(の)せ奉(たてまつ)るも、げにいとまがまがしき事(こと)の様(さま)也。うちまかせては、都(みやこ)へ御上(のぼ)りこそ、いと面白(おもしろ)くめでたかるべきわざなれど、かく怪(あや)しきは珍(めづら)か也。御母御息所(みやすどころ)は、近衛殿(このゑ)の大殿と聞(き)こえし御女也。父(ちち)御子(みこ)の、将軍にて御座(おは)しましし時の御息所(みやすどころ)也。先(さき)に聞(き)こえつる禅林寺(ぜんりんじ)殿(どの)の宮の御方(かた)も、同(おな)じ御腹(おんはら)なるべし。文永三年より今年(ことし)まで二十四年、将軍にて、天下(てんか) のかためといつかれ給(たま)へれば、日の本の兵(つはもの)を従(したが)へてぞ御座(おは)しましつるに、今日(けふ)は彼(かれ)らにくつ返(がへ)さ
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れて、かくいとあさましき御有様(おんありさま)にて上(のぼ)り給(たま)ふ。いといとほしうあはれなり。道すがらも思(おぼ)し乱(みだ)るるにや、御たたう紙(がみ)の音(おと)しげうもれ聞(き)こゆるに、猛(たけ)き武士(もののふ)も涙落(お)としけり。
さて、此(こ)の代(か)はりには、一院の御子(みこ)、御母は三条の内大臣公親の娘(むすめ)、御匣(みくしげ)殿(どの)とて候(さぶら)ひ給(たま)ひし御腹(おんはら)也。当代(たうだい)の御はらからにて、今(いま)少(すこ)し寄(よ)せ重(おも)くやむごとなき御有様(おんありさま)なれば、只(ただ)受禅の心地(ここち)ぞしける。もとの将軍御座(おは)せし宮をば造(つく)り改(あらた)めて、いみじう磨(みが)きなす。兵(つはもの)の勝(すぐ)れたる七人、御迎(むか)へに上(のぼ)る中(なか)に、飯沼(いひぬま)の判官(はうぐはん)と言(い)ふ者、前(さき)の将軍上(のぼ)り給(たま)ひし道(みち)もまがまがしければ、あとをも越(こ)えじとて、足柄山(あしがらやま)をよぎて上(のぼ)るなどぞ、余(あま)りなる事(こと)にや。御子(みこ)は十月三日御元服し給(たま)ひて、久明の親王(しんわう)と聞(き)こゆめり。同(おな)じき十日、院よりやがて六波羅(ろくはら)の北方、さきざきも宮の渡(わた)り給(たま)ひし所へ御座(おは)して、それよりぞ東(あづま)に赴(おもむ)かせ給(たま)ふ。同(おな)じ二十五日、鎌倉(かまくら)へ著(つ)かせ給(たま)ふにも、御関迎(せきむか)へとて、ゆゆしき武士共(ども)うちつれて参(まゐ)る。宮は菊(きく)のとれんじの御輿(こし)に御簾(すだれ)上(あ)げて、御覧(ごらん)じならはぬ夷(えびす)共(ども)のうち囲(かこ)み奉(たてまつ)れる、頼(たの)もしく見(み)給(たま)ふ。しのぶを乱(みだ)れ織(お)りたる萌黄(もよぎ)の御狩衣(かりぎぬ)・紅(くれなゐ)の御衣(ぞ)・
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濃(こ)き紫(むらさき)の指貫(さしぬき)奉(たてまつ)りて、いと細(ほそ)やかになまめかし。飯沼(いひぬま)の判官(はうぐわん)、とくさの狩衣(かりぎぬ)、青毛(あをげ)の馬に、金(こがね)の金物(かなもの)の鞍(くら)置(お)きて、随兵(ずいびやう)いかめしく召(め)し具(ぐ)して、御輿(こし)の際(きは)にうちたり。都(みやこ)にたとへば、行幸にしかるべき大臣などの仕(つかうまつ)り給(たま)へるによそへぬべし。三日が程(ほど)は、椀飯(わうばん)と言(い)ふ事、又馬(うま)御覧(ごらん)、何(なに)くれといかめしきこと共(ども)、鎌倉(かまくら)うちの経営(けいめい)也。宮の中(うち)の飾(かざ)り御調度(てうど)などは更(さら)にも言(い)はず、帝釈(たいしやく)の宮殿(くうでん)もかくやと、七宝(しちぽう)を集(あつ)めて磨(みが)きたる様(さま)、目(め)も輝(かかや)く心地(ここち)す。いと有(あ)らまほしき御有様(おんありさま)なるべし。関(せき)の東(ひんがし)を都(みやこ)の外(ほか)とて、おとしむべくも有(あ)らざりけり。都に御座(おは)しますなま宮達(たち)の、より所無(な)くただよはしげなるには、こよなく勝(まさ)りて、めでたくにぎははしく見(み)えたり。時宗の朝臣と言(い)ひしも、又頭(かしら)おろして、法光寺の入道とて、いと尊(たふと)く行(おこな)ひて、世にもいろはず、太郎貞時(さだとき)、相模(さがみ)の守と言(い)ふにぞ、万(よろづ)言(い)ひつけける。さても上(のぼ)り給(たま)ひにし前(さき)の大将殿は、嵯峨(さが)の辺(ほとり)に御髪(おぐし)おろし、いとかすかにさびしくてぞ御座(おは)しける。
かくて年(とし)変(か)はりぬ。その年(とし)二月(きさらぎ)の頃(ころ)、一院御髪(みぐし)おろし給(たま)ふ。年月(としつき)の御本意(ほい)なれど、たゆたい過(す)ぐし給(たま)ひけるに、禅林寺(ぜんりんじ)殿(どの)、去年(こぞ)の秋思(おぼ)し立(た)ちにしに、いとど
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驚(をどろ)かさせ給(たま)ひぬるにや有(あ)りけん。二月十一日、亀山殿にて、いむ事受(う)けさせ給(たま)ふ。四十八にぞならせ給(たま)ふ。御法名(ほふみやう)素実と申す也。
正月(むつき)の一日(ついたち)、節会(せつゑ)など果(は)てて、夕つ方(かた)、内の上(うへ)、皇后宮の御方へ渡(わた)らせ給(たま)へれば、宮は〔中(なか)〕濃(こ)き紅梅(こうばい)の十二の御衣(ぞ)に、同(おな)じ色の御単(ひとへ)・紅(くれなゐ)のうちたる・萌黄(もえぎ)の御表着(うはぎ)・葡萄染(えびぞ)めの御小袿(こうちき)・花山吹(はなやまぶき)の御唐衣(からぎぬ)、唐(から)の薄物(うすもの)の御裳(も)気色(けしき)ばかり引(ひ)きかけて、御髪(みぐし)ぞ少(すこ)し薄(うす)らぎ給(たま)へれど、いとなよびかに美(うつく)しげにて、常(つね)よりも異(こと)に匂(にほ)ひ加(くは)はりて見(み)え給(たま)ふ。御前(まへ)に御匣(みくしげ)殿(どの)、花山院の内大臣師継(もろつぐ)の女、二藍(ふたあゐ)の七に紅(くれなゐ)の単(ひとへ)・紅梅(こうばい)の表着(うはぎ)・赤色(あかいろ)の唐衣(からぎぬ)・地摺(ぢずり)の裳(も)、髪(かみ)うるはしく上(あ)げて候(さぶら)ひ給(たま)ふ。かんざし・やうだい、これもけしうは有(あ)らず見(み)ゆ。あたらしき年(とし)の御喜(よろこ)びなど少(すこ)し聞(き)こえ給(たま)ひて、例(れい)の只(ただ)ならぬ御事共(ども)うちささめきがちにて、これより公守(きんもり)の大納言(だいなごん)の女の曹司(ざうし)差(さ)しのぞかせ給(たま)へば、いとささやかにて、衣がちにて、花桜(はなざくら)のあはひ匂(にほ)はしきに、山吹(やまぶき)の表着(うはぎ)、裳(も)引(ひ)きかけて、より臥(ふ)し給(たま)へる、あてにらうたし。こまやかにうち語(かた)らひ聞(き)こえ給(たま)ふ。玄輝門院(げんきもんゐん)の御そばにかしづき〔聞(き)こえ〕給(たま)ひし習(なら)ひにや、押(お)しなべての上宮仕(うへみやづか)への様(さま)よりは、思ひ上(あ)がれる気色(けしき)なり。今(いま)一所の御曹司(ざうし)も近(ちか)き程(ほど)
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なれば、そなたざまに歩(あゆ)み御座(おは)して、いと心静(しづか)ならねど、此(こ)の君をば、押(お)しなべての際(きは)ならず思(おぼ)すめり。此(こ)の御腹(おんはら)に、御子(みこ)達(たち)数多(あまた)御座(おは)しましき。かくめぐらせ給(たま)ふ程(ほど)に、いたく深(ふ)けてぞ、中宮上(のぼ)らせ給(たま)ふ。此(こ)の御代にも、いみじき行幸ども、ゆゆしき事多(おほ)かりしかど、年(とし)のつもりに何事(なにごと)もさだかならず、月日(つきひ)などおぼろに侍れば、中々聞(き)こえず。
程(ほど)無(な)く明(あ)けくれて、永仁も六年になりぬ。七月二十二日、春宮に御位譲(ゆづ)りて、降(お)り給(たま)ひぬ。霜月になりて、五節(ごせち)の頃(ころ)、去年(こぞ)を思(おぼ)し出(い)でて、其(そ)の折(をり)に関白にて御座(おは)せし兼忠(かねただ)の大臣(おとど)に、櫛(くし)遣(つか)はすとて、新院、
おとめ子(ご)がさすや小櫛(をぐし)の其(そ)のかみをともになれにし時ぞ忘(わす)れぬ W
御返(かへ)り、歓喜園(くわんきをん)の前の摂政殿、
いとど又こぞの今宵(こよひ)ぞ忍(しの)ばるるつげの小櫛(をぐし)を見(み)るにつけても W
堀川(ほりかは)の具守の大臣(おとど)の女の御腹(おんはら)に、前(さき)の新院の若宮(わかみや)生(む)まれ給(たま)へりし、六月二十七日、御元服(げんぶく)し給(たま)ひて、八月十日春宮に立(た)ち給(たま)ひぬ。御諱(いみな)邦治(くにはる)と聞(き)こゆ。これも、内(うち)よりは御年(おんとし)三勝(まさ)り給(たま)へり。今(いま)の御門(みかど)は十一になり給(たま)ふ。御諱(いみな)胤仁(たねひと)と聞(き)こゆ。
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あてになまめかしう御座(おは)します。中宮の御腹(おんはら)には、大方(おほかた)、宮も物(もの)し給(たま)はねば、此(こ)の御門をぞ、御子にし奉(たてまつ)らせ給(たま)ひける。譲位(じやうゐ)の後は、中宮もおりさせ給(たま)ひて、永福門院と聞(き)こゆめり。皇后宮も此(こ)の頃(ごろ)は遊義門院と申(まう)す。法皇の御傍(かたはら)に御座(おは)しましつるを、中(なか)の院(ゐん)、いかなる便(たよ)りにか、ほのかに見奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、いと忍(しの)び難(がた)く思(おぼ)されければ、とかくたばかりて、盗(ぬす)み奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、冷泉(れいぜい)万里小路(までのこうじ)殿(どの)に御座(おは)します。又(また)無(な)く思ひ聞(き)こえさせ給(たま)へる事限(かぎ)り無し。
正安二年正月三日、御門、御元服し給(たま)ふ。今年(ことし)十三にならせ給(たま)へば、御行末(ゆくすゑ)遙(はる)かなる程(ほど)也。又の年正月(むつき)の頃、内侍所の御しめのおり給(たま)へるは、いかなるべき事(こと)にかなど、忍(しの)びささめく程(ほど)こそあれ、東(あづま)よりの御使(つか)ひ上(のぼ)るとて、世の中(なか)騒(さわ)ぎて、禅林寺(ぜんりんじ)殿(どの)見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ふ世にとや、正月二十一日、春宮御位に即(つ)かせ給(たま)ひぬ。おりゐの御門(みかど)御年(おんとし)十四にて、太上天皇の尊号(そんがう)有(あ)り。いときびはにいたはしき御事(こと)なるべし。僅(わづ)かに三年(みとせ)にて降(お)りさせ給(たま)へれば、何事(なにごと)のはえも無し。此(こ)の春は、春日(かすが)の社に行幸などあるべしとて、世の中(なか)まだきより面白(おもしろ)き事(こと)に言(い)ひあへりつるも、かいしめりていとさうざうし。さて此(こ)の君を新院と申(まう)せば、父の院をば、
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中(なか)の院(ゐん)と聞(き)こゆ。御門の御父(ちち)は一(いち)の院と申(まう)す。法皇も此(こ)の頃(ごろ)は一所(ひとつところ)に御座(おは)しますな(ン)めり。一(いち)の院、世の政事(まつりごと)聞(き)こし召(め)せば、天(あめ)の下(した)の人、又押(お)し返(かへ)し、一方(ひとかた)に靡(なび)きたる程(ほど)も、さも目(め)の前(まへ)に移(うつ)ろひ変(か)はる世の中(なか)かなと、あぢきなし。土御門(つちみかど)の前(さき)の内の大臣(おとど)定実、六月に太政大臣になり給(たま)ふ、いとめでたし。故(こ)大納言(だいなごん)入道顕定(あきさだ)の、本意(ほい)無(な)かりし御面(おもて)おこし給(たま)へる、いとゆゆし。院の御覚(おぼ)えの人なる上(うへ)、才(ざえ)も賢(かしこ)く御座(おは)すれば、世に用(もち)いられ給(たま)へり。御子の大納言(だいなごん)雅房(まさふさ)・中納言親定(ちかさだ)とて、いづれも才(ざえ)ある人にて御座(おは)しき。
持明院(ぢみやうゐん)殿(どの)には、世の中(なか)すさまじく思(おぼ)されて、伏見殿に篭(こも)り御座(おは)しますべく宣(のたま)へれど、二の御子(みこ)坊に定(さだ)まり給(たま)へば、又めでたくて、なだらかにて御座(おは)しますべし。先(さき)に聞(き)こえつる御母女院の御はらからの姫君(ひめぎみ)、顕親門院(けんしんもんゐん)と聞(き)こえし御腹(おんはら)也。八月十五日(じふごにち)、先(ま)づ親王(しんわう)になし奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、同二十四日に春宮に立(た)ち給(たま)ひぬ。
かくて新帝は十七になり給(たま)へば、いと盛(さか)りに美(うつく)しう、御心(おんこころ)ばへもあてにけだかうすみたる様(さま)して、しめやかに御座(おは)します。三月二十四日御即位(そくゐ)、此(こ)の行幸の時、花山院の三位中将(ちゆうじやう)家定(いへさだ)、御剣(けん)の役(やく)を勤(つと)め給(たま)ふとて、逆様(さかさま)に内侍(ないし)
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に渡(わた)されけるを、今出川(いまでがは)の大臣(おとど)御覧(ごらん)じとがめて、出仕止(とど)めらるべき由(よし)申(まう)されしかど、鷹司の大殿、「中々沙汰(さた)がましくてあしかりなん。只(ただ)音(おと)無(な)くこそ」と申し止(とど)め給(たま)へりしこそ、情(なさ)け深(ふか)く侍(はべ)りしか。後(のち)に思へば、げにあさましき事(こと)のしるしにや侍(はべ)りけん。十月二十八日御禊(ごけい)、此(こ)の度(たび)の女御代にも、堀川(ほりかは)の大臣(おとど)の姫君(ひめぎみ)いで給(たま)へり。今(いま)の上(うへ)も、源氏(げんじ)の御腹(おんはら)にて物(もの)し給(たま)ふ。いと珍(めづら)しくやむごとなし。然(さ)れど、うけばりたる様(さま)には御座(おは)せぬぞ、心もとなか(ン)める。又の年(とし)は乾元元年(ぐわんねん)、六月十六日亀山院へ行幸有(あ)り。法皇いと珍(めづら)しく美(うつく)しと見奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。暁(あかつき)かへらせ給(たま)ひぬる後(のち)、法皇より内に聞(き)こえさせ給(たま)ふ。
したはるる名残(なごり)に堪(た)えず月を見(み)れば雲の上(うへ)にぞ影はなりぬる W
御返(かへ)し、内の上(うへ)、
君はよし千年(ちとせ)のよはひたもてれば相(あひ)見(み)ん事(こと)の数(かず)も知(し)られず W
一院は、忠継(ただつぐ)の宰相の女の中納言の典侍(すけ)殿(どの)と言(い)ふ腹(はら)にも、男(をとこ)女御子(みこ)達(たち)数多(あまた)物(もの)し給(たま)ふ中(なか)にも、勝(すぐ)れ給(たま)へる内親王を、いと悲(かな)しき物にかしづき聞(き)こえさせ給(たま)ふ。此(こ)の御世にも、又、為世の大納言(だいなごん)承(うけたまは)りて撰集(せんじゆ)有(あ)り。新後撰集と聞(き)こゆ。
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嘉元元年(ぐわんねん)披露(ひろう)せらる。
かくて、又の年(とし)春の頃(ころ)より、東二条院、御悩(なや)み日々(ひび)におもり給(たま)ひて、今(いま)はと見(み)えさせ給(たま)へば、伏見殿へ出(い)でさせ給(たま)ひて、遂(つひ)に失(う)せさせ給(たま)ひぬ。七十にあまらせ給(たま)へば、理(ことわり)の御事(こと)なり。法皇も其(そ)の御歎(なげ)きの後(のち)、をさをさ物聞(き)こし召(め)さず〔など〕有(あ)りしを始(はじ)めにて、うち続(つづ)き心よからず、御わらはやみなど聞(き)こゆる程(ほど)に、七月十六日、二条富(とみ)の小路(こうぢ)殿にて、隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。六十二にぞならせ給(たま)ひける。いとあはれに悲(かな)しき事とも、言(い)へば更(さら)也。御孫(まご)の春宮も一(ひと)つに御座(おは)しましつれば、急(いそ)ぎて外(ほか)へ行啓(ぎやうげい)なりぬ。御修法(みしゆほふ)の壇(だん)共(ども)こぼこぼと毀(こぼ)ちて、くづれ出(い)づる法師(ほふし)ばらの気色(けしき)まで、今(いま)を限(かぎ)りと、とぢめはつる世の有様(ありさま)、いと悲(かな)し。宵(よひ)過(す)ぐる程(ほど)に、六波羅(ろくはら)の貞顕(さだあき)・憲時(のりとき)二人(ふたり)、御訪(とぶら)ひに参(まゐ)れり。京極(きやうごく)おもての門の前(まへ)に、床子(しやうじ)に尻(しり)かけて候(さぶら)ふ。従(したが)ふ物共(ども)左右(さう)に並(な)み居(ゐ)たる様(さま)、いとよそほしげ也。
又の日、夜に入(い)りて、深草(ふかくさ)殿(どの)へ率(ゐ)て渡(わた)し奉(たてまつ)る。御車差(さ)し寄(よ)せて、御棺(くわん)乗(の)せ奉(たてまつ)る程(ほど)、内(うち)とよみあひたる、いと理(ことわり)に、心をさむる人も無し。院の御前(まへ)・宮達(たち)など、
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藁履(わらぐつ)とかや言(い)ふ物奉(たてまつ)りて、門まで御送(おく)り仕(つかうまつ)らせ給(たま)ひて、とみにえ上(のぼ)らせ給(たま)はず、御直衣(なほし)の袖を押(お)しあてて、遙(はる)かに程(ほど)へてぞ、御車に奉(たてまつ)りて、伏見殿への御送(おく)りもせさせ給(たま)ひける。院の中(うち)ゆゆしきまで泣(な)きあへり。後深草院とぞ聞(き)こゆめる。御日数(ひかず)の程(ほど)は、伏見殿に宮達(たち)・遊義門院など御座(おは)します。秋さへ深(ふか)く成(な)り行(ゆ)く儘(まま)に、夜とともの御涙(なみだ)、干(ひ)る間(ま)無(な)く思(おぼ)し惑(まど)ふ。遊義門院、
物をのみ思ひ寝覚(ねざ)めにつくづくと見(み)るも悲(かな)しき燈(とも)し火の色(いろ) W
春きてしかすみの衣ほさぬまに心もくるる秋ぎりの空 W
年(とし)返(かへ)りぬれば、嘉元も三年になりぬ。万里小路(までのこうじ)殿(どの)の法皇、又御悩(なや)みとて、亀山殿へ移(うつ)らせ給(たま)ふ。色々(いろいろ)に、御修法(みしゆほふ)や何(なに)くれ御祈(いの)り共(ども)、こちたくせさせ給(たま)へるもしるし無(な)くて、九月十五日(じふごにち)の曙(あけぼの)に遂(つひ)に隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。去年(こぞ)・今年(ことし)の世のさがなさ、うち続(つづ)きたる人々(ひとびと)の御歎(なげ)き共(ども)、言(い)はん方(かた)無し。世を背(そむ)かせ給(たま)ひにし初(はじ)めつ方(かた)は、いと際(きは)だけう聖(ひじり)だちて、女房など御前(まへ)にだに参(まゐ)らぬ事(こと)なりしかど、後には有(あ)りしより猶(なほ)たはれさせ給(たま)ひし程(ほど)に、永福門院の御さしつぎの姫君(ひめぎみ)、はや御盛(さか)りも過(す)ぐる程(ほど)なりしを、此(こ)の法皇に参(まゐ)らせ〔奉(たてまつ)らせ〕給(たま)へりし
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が、かひがひしく「水の白波」に若(わか)やがせ給(たま)ひて、やがて院号(ゐんがう)有(あ)りしかば、昭訓門院と聞(き)こえつる、其(そ)の御腹(おんはら)に、一昨年(をととし)ばかり、若宮(わかみや)生(む)まれ給(たま)へるを、限(かぎ)り無(な)く悲(かな)しき物に思(おぼ)されつるに、今(いま)少(すこ)しだに見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)はずなりぬるを、いみじう思(おぼ)されけり。
さてしも有(あ)らぬ習(なら)ひなれば、同(おな)じ十七日に、御わざのことせさせ給(たま)ふ。理(ことわり)と言(い)ひながら、いといかめしう人々(ひとびと)仕(つかうまつ)り給(たま)ふ。網代庇(あじろびさし)の御車、前(さき)の右大臣殿寄(よ)せさせ給(たま)ふ。烏帽子(えぼし)直衣(なほし)袴(はかま)際(きは)にて参(まゐ)り給(たま)ふ。院の上(うへ)も庭におりさせ給(たま)ふ。〔法親王達(たち)三人、〕山(やま)の座主・聖護院(しやうごゐん)、十楽院(じふらくゐん)、三人の法親王たちなどは、わらうづをぞ奉(たてまつ)りて、上の山(やま)まで御供(とも)せさせ給(たま)ふ。上達部には、前(さき)の右大臣(おとど)公衡(きんひら)・西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)公顕(きんあき)・万里小路(までのこうじ)大納言(だいなごん)師重(もろしげ)・源中納言有房(ありふさ)・三条の前(さき)の中納言実躬・宗氏(むねうぢ)の二位・重経(しげつね)の二位・為雄(ためを)の宰相・経守(つねもり)・為行・親氏など也。殿上人は頼俊(よりとし)の朝臣・忠氏(ただうぢ)・為藤・国房(くにふさ)・経世(つねよ)・泰忠(やすただ)・光忠(みつただ)、皆(みな)、狩衣(かりぎぬ)の袖をしぼりしぼり参(まゐ)る気色(けしき)さへ、あはれを添(そ)へたり。院も御供(とも)にひきさがりて参(まゐ)り給(たま)ふ。花山院の権大納言(だいなごん)・西園寺(さいをんじ)の中納言・土御門(つちみかど)の大納言(だいなごん)、御子親実(ちかざね)の少将、御太刀(たち)持(も)ちて御供(とも)せられたり。よそほしかりつる御有様(おんありさま)
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も、いと程(ほど)無(な)く、只(ただ)今の間(ま)の煙(けぶり)にて上(のぼ)り給(たま)ひぬれば、誰(たれ)も誰(たれ)も夢の心地(ここち)して、ほのぼのと明(あ)け行(ゆ)く程(ほど)に、各(おのおの)まか(ン)で給(たま)ふ。三条の大納言(だいなごん)入道公実(きんざね)・万里小路(までのこうじ)大納言(だいなごん)師重(もろしげ)などは、とりわき御志(こころざし)深(ふか)くて、御荼毘(だび)の果(は)つるまで、墨染(すみぞ)めの袖を顔(かほ)に押(お)しあてつつ候(さぶら)ひ給(たま)ふ。予(かね)てより山道つくられて、木草きり払(はら)ひなどせられつれど、露けさぞ分(わ)けん方(かた)無(な)き。涙の雨の添(そ)ふなるべし。内よりの御使(つか)ひに、始(はじ)め長親(ながちか)の朝臣、雅行(まさゆき)・有忠(ありただ)の朝臣など、三度(みたび)参(まゐ)る。古(ふる)き例(れい)なるべし。
同(おな)じき二十六日、院の上(うへ)、御素服(そふく)奉(たてまつ)る。御座(おは)します殿(でん)には、黒(くろ)き糸にてあみたる簾(すだれ)をかけらる。浅黄(あさぎ)べりの御座(ござ)に、上(うへ)の御衣(ぞ)は黒(くろ)く、上(うへ)の御袴(はかま)は、裏(うら)柑子色(かんじいろ)、御下襲(したがさね)も黒(くろ)し。同(おな)じひへぎ、浅黄(あさぎ)の御桧扇(ひあふぎ)、御台(だい)参(まゐ)るも皆(みな)黒(くろ)き御調度(てうど)共(ども)なり。此(こ)の御ついでに、御方々(かたがた)も御素服(そふく)奉(たてまつ)る。〔人数、〕昭訓門院(せうきんもんゐん)、昭慶門院(せうけいもんゐん)〔は御娘(むすめ)〕、近衛殿(このゑどの)の北政所、関白殿の北政所、良助(りやうじよ)法親王、覚雲(かくうん)、順助(じゆんじよ)、慈道(じだう)、性恵(しやうゑ)、益性、行仁(ぎやうにん)、性融(しやうゆう)法親王達(たち)、上達部(かんだちめ)も、御山(おやま)の御供(とも)し給(たま)ふ人々(ひとびと)皆(みな)もれず。院の二の御子の御母も、近頃(ちかごろ)は法皇めし取(と)りて、いと時(とき)めかせて、准后(じゆんこう)など聞(き)こえつれば、思ひ歎(なげ)き給(たま)ふべし。昭訓門院は、やがて御髪(みぐし)おろし給(たま)ふ。法皇は五十七にぞならせ給(たま)ひ
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ける。御骨(こつ)も、此(こ)の院に法華堂(ほつけだう)を建(た)ててをさめ給(たま)へば、亀山の院とぞ申すべか(ン)める。禅林寺(ぜんりんじ)殿(どの)をば、御座(おは)しましし時より禅院になされき。南禅院と言(い)ふはこれな(ン)めり。
院の二の御子(みこ)の御母、忠継(ただつぐ)の宰相の娘(むすめ)、今(いま)は准后(じゆんこう)と聞(き)こゆる御腹(おんはら)に御座(おは)します。此(こ)の頃(ころ)帥宮(そちのみや)と聞(き)こゆるを、法皇とりわき御傍(かたはら)去(さ)らず馴(な)らはし奉(たてまつ)り給(たま)ひて、いみじうらうたがり聞(き)こえさせ給(たま)ひしかば、人より異(こと)に思(おぼ)し歎(なげ)くべし。頃(ころ)さへ時雨がちなる空の気色(けしき)に、山(やま)の木の葉も涙争(あらそ)ふ心地(ここち)して、いと悲(かな)し。所がらしもいとどあはれを添(そ)へたり。川浪の響(ひび)き、戸無瀬(となせ)の滝(たき)の音(おと)までも、取(と)り集(あつ)めたる御心(おんこころ)の中(うち)共(ども)なり。御日数(ひかず)の程(ほど)は、帥(そち)の宮一(ひと)つ御腹(おんはら)の内親王なども、此(こ)の院に御座(おは)します程(ほど)、徒然(つれづれ)なる儘(まま)に、はかなし事(ごと)など聞(き)こえかはして、花紅葉(はなもみぢ)につけても、むつましく馴(な)れ聞(き)こえ給(たま)ふべし。
帥(そち)の御子(みこ)は、大多勝院(だいたしようゐん)の西(にし)の廂(ひさし)に渡(わた)らせ給(たま)ふ。御前(まへ)の松の木にはひかかれる蔦(つた)の、紅葉(もみぢ)の、いたう染(そ)めこがしたるを取(と)りて、九月三十日の夕つ方(かた)、昭訓門院の御方(かた)へ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。
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あすよりの時雨もまたで染(そ)めてけり袖の涙や蔦(つた)の紅葉葉(もみぢば) W
木(こ)の葉よりもろき御涙は、ましていとどせき兼(か)ね給(たま)へりし。御返(かへ)し、
よもは皆(みな)涙の色に染(そ)めてけり空にはぬれぬ秋の紅葉葉(もみぢば) W
あはれに見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ひつつ、名残(なごり)もいみじくながめられて、勾欄(かうらん)に押(お)しかかり給(たま)へる夕(ゆふ)ばえの御かたち、いとめでたし。有(あ)りつる紅葉(もみぢ)を、西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)公顕(きんあき)の宿所所(とのゐどころ)へ遣(つか)はす。
雨と降(ふ)る涙の色やこれならん袖より外(ほか)に染(そ)むる紅葉葉(もみぢば) W
女院の御兄(せうと)なれば、しめやかなる御山ずみの心苦(ぐる)しさに、候(さぶら)ひ給(たま)ふなりけり。御返事(かへりごと)、
いくしほか涙の色の染(そ)めつらん今日(けふ)を限(かぎ)りの秋の紅葉葉(もみぢば) W
時雨はしたなく、風あららかに吹(ふ)きて暮(く)れぬれば、宮、内に入(い)り給(たま)ひて、御殿油(とのあぶら)近(ちか)く召(め)して、昼(ひる)御覧(ごらん)じさしたる御経(きやう)など読(よ)み給(たま)ふ程(ほど)に、若(わか)殿上人共(ども)うち連(つ)れて、こなたの御宿直(とのゐ)に参(まゐ)れり。昼(ひる)の蔦(つた)の葉の散(ち)りぼいたるを、人々(ひとびと)見(み)るに、宮、「それに各(おのおの)歌書(か)きて」と宣(のたま)へば、中将(ちゆうじやう)為藤の朝臣、
P235
紅葉葉(もみぢば)になく音(ね)は絶(た)えず空蝉(うつせみ)のからくれなゐも涙とや見(み)ん W
清忠(きよただ)の朝臣、
山姫(やまひめ)の涙の色も此(こ)の頃(ごろ)はわきてや染(そ)むる蔦(つた)の紅葉葉(もみぢば) W
光忠(みつただ)の朝臣、
世の中(なか)の歎(なげ)きの色を知(し)らねばや去年(こぞ)に変(か)はらぬ蔦(つた)の紅葉葉(もみぢば) W
これらを取(と)り集(あつ)めて、北殿(きたどの)の内親王の御方(かた)へ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひければ、
さすが猶(なほ)色は木(こ)の葉に残(のこ)りけりかたみも悲(かな)し秋の別(わか)れ路(ぢ) W
雨うちそそきて、けはひあはれなる夜、いたう深(ふ)けて、帥(そち)の宮、例(れい)の北殿(きたどの)へ参(まゐ)り給(たま)へれば、姫宮(ひめみや)も御殿(との)ごもりぬ。候(さぶら)ふ人々(ひとびと)も皆(みな)静(しづ)まりぬるにや、格子(かうし)などたたかせ給(たま)へど、開くる人も無(な)ければ、空(むな)しく帰(かへ)らせ給(たま)ふとて、書(か)きて挿(さしはさ)ませ給(たま)ふ。
おのづから眺(なが)めやすらむとばかりにあくがれ来(き)つる有明(ありあけ)の月 W
御返(かへ)し、又の日、
徒(いたづら)に待(ま)つ宵(よひ)すぎし村雨は思(おも)ひぞたえし有明(ありあけ)の月 W
P236
月日(つきひ)程(ほど)無(な)く移(うつ)り〔過(す)ぎ〕ぬれば、院も宮々も、各(おのおの)ちりぢりにあかれ給(たま)ふ程(ほど)、今(いま)少(すこ)し物悲(がな)しさ勝(まさ)る御心(おんこころ)のうち共(ども)は尽(つ)きせねど、世の習(なら)ひなれば、さのみしもはいかが。昭慶門院(せうけいもんゐん)は、数多(あまた)の宮達(たち)の御中(なか)に、勝(すぐ)れて悲(かな)しき物に思ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひしかば、御処分(そうぶん)などもいとこちたし。大井川(おほゐがは)に向(む)かいて、離(はな)れたる院のあるをぞ奉(たてまつ)らせ給(たま)へれば、そこに御座(おは)しましし程(ほど)に、川端殿(かはばたどの)の女院など、人は申し侍(はべ)りし。彼(か)の所は臨川寺(りんせんじ)とぞ言(い)ふめる。都(みやこ)にも土御門(つちみかど)室町(むろまち)に有(あ)りし院、いづれも此(こ)の頃(ごろ)は寺になりて侍るめりとぞ。めでたくこそあはれなれ。



校註 増鏡

P237
第十五 浦千鳥(うらちどり)
院の上(うへ)は、御位に御座(おは)せし程(ほど)は、中々さるべき女御・更衣(かうい)も候(さぶら)ひ給(たま)はざりしかど、降(お)りさせ給(たま)ひて後(のち)は、御心(おんこころ)の儘(まま)にいとよく紛(まぎ)れさせ給(たま)ふ程(ほど)に、此(こ)の程(ほど)は、いどみ顔(がほ)なる御方々(かたがた)数(かず)そひ給(たま)ひぬれど、猶(なほ)遊義門院の御志(こころざし)に立(た)ちならび給(たま)ふ人はをさをさ無し。中務(なかづかさ)の宮の御女も、押(お)しなべたらぬ様(さま)にもてなし聞(き)こえ給(たま)ふ。勝(すぐ)れたる御覚(おぼ)えには有(あ)らねど、御姉(あね)宮の、故(こ)院に渡(わた)らせ給(たま)ひしよりは、いと重々(おもおも)しう思(おぼ)しかしづきて、後には院号(ゐんがう)有(あ)りて、永嘉門院(えいかもんゐん)と申し侍(はべ)りし御事(こと)也。又(また)一条の摂政殿(せつしやうどの)の姫君(ひめぎみ)も、当代(たうだい)堀川(ほりかは)の大臣(おとど)の家(いへ)に渡(わた)らせ給(たま)ひし頃(ころ)、上臈(じやうらふ)に十六にて参(まゐ)り給(たま)ひて、はじめつ方(かた)は、基俊(もととし)の大納言(だいなごん)、うとからぬ御中(なか)にて
P238
御座(おは)せしかど、彼(か)の大納言(だいなごん)の東下(あづまくだ)りの後(のち)、院に参(まゐ)り給(たま)ひし程(ほど)に、事(こと)の外にめでたくて、内侍のかみになり給(たま)へる、昔(むかし)覚(おぼ)えて面白(おもしろ)し。加階(かかい)し給(たま)へりし朝(あした)、院より、
其(そ)のかみに頼(たの)めし事(こと)の変(か)はらねばなべて昔(むかし)の世にやかへらん W
御返(かへ)し、内侍のかみの君。〓子(たまこ)〔とぞ聞(き)こゆめりし。〕
契(ちぎ)りこし心の末(すゑ)は知(し)らねども此(こ)の一言(ひとこと)や変(か)はらざるらむ W
露霜重(かさ)なりて、程(ほど)無(な)く徳治二年にもなりぬ。遊義門院、そこはかとなく御悩(なや)みと聞(き)こえしかば、院の思(おぼ)し騒(さわ)ぐ事限(かぎ)り無(な)し。万(よろづ)に御祈(いの)り・祭(まつ)り・祓(はら)ひと罵(ののし)りしかど、甲斐(かひ)無(な)き御事(こと)にて、いとあさましくあへ無し。院もそれ故(ゆゑ)御髪(みぐし)=おろして、ひたぶるに聖(ひじり)にぞならせ給(たま)ひぬる。其(そ)の程(ほど)、様々(さまざま)のあはれ思ひやるべし。悲(かな)しきこと共(ども)多(おほ)かりしかど、皆(みな)もらしつ。
明(あ)くる年(とし)の春、八幡(やはた)の御幸の御帰(かへ)りざまに、東寺に三七日御座(おは)しまして、御潅頂(くわんぢやう)の御加行(けぎやう)とぞ聞(き)こゆる。仁和寺(にんわじ)の禅助(ぜんじよ)僧正を御師範(しはん)にて、彼(か)の寛平(くわんぺい)の昔(むかし)を思(おぼ)すらん、密宗(みつしう)をぞ学(がく)せさせ給(たま)ひける。六月には亀山殿にて御如法経書(か)かせ給(たま)ふ。
P239
御髪(みぐし)=おろし¥給(たま)ひて後(のち)は、大方(おほかた)、女房は仕(つかうまつ)らず。男、番(ばん)におりて、御台(だい)なども参(まゐ)らせ、万(よろづ)に仕(つかうまつ)る。いつも御持斎(ぢさい)にて御座(おは)します。いと有(あ)り難(がた)き善知識(ぜんぢしき)にてぞ、故(こ)女院は御座(おは)しましける。嵯峨(さが)の今林(いまばやし)殿(どの)にて、御仏事(ぶつじ)なども、日々に怠(おこた)らずせさせ給(たま)ふ。此(こ)の今林(いまばやし)は、北山の准后(じゆんこう)の御座(おは)せし跡(あと)なり。遊義門院の御髪(みぐし)にて、梵字(ぼんじ)縫(ぬ)はせ給(たま)へり。彼(か)の御手(て)のうらに、法華経一字三礼(さんらい)に書(か)かせ給(たま)ひて、摂取院(せつしゆゐん)にて供養(くやう)せらる。大覚寺(だいかくじ)の¥覚守(かくしう)僧正の御導師なり。故女院の御骨(こつ)も、今林(いまばやし)に法華堂(ほつけだう)建てられて、置(お)き奉(たてまつ)らせ給(たま)へれば、月ごとの二十四日には必(かなら)ず御幸有(あ)りけり。思(おぼ)し入(い)りたる程(ほど)、いみじかりき。
かくて八月の初(はじ)めつ方(かた)より、内の上(うへ)例(れい)ならず御座(おは)しますとて、様々(さまざま)の御修法(みしゆほふ)、五壇(ごだん)・薬師・愛染(あいぜん)、色々(いろいろ)の秘法(ひほふ)共(ども)、諸社の奉幣(ほうへい)神馬(じんめ)、何(なに)かと罵(ののし)り騒(さわ)ぎつれど、むげに不覚(ふかく)にならせ給(たま)ひて、二十三日御気色(けしき)変(か)はるとて、世の響(ひび)き言(い)はん方(かた)無(な)く、馬・車走(はし)り違(ちが)ひ、所も無(な)きまで人々(ひとびと)は参(まゐ)りこみたれど、いと甲斐(かひ)無(な)く、二十五日子(ね)の時ばかりに、果(は)てさせ給(たま)ひぬ。火の消(き)えぬる様(さま)にて、かきくれたる雲の上(うへ)の気色(けしき)、言(い)はずとも推(お)し量(はか)られなん。誠(まこと)や、中宮は、
P240
徳大寺の公孝(きんたか)の=太政(おほき)大臣(おとど)の御女ぞかし。珍(めづら)しく、かの御家(いへ)にかかる事(こと)のいたく無(な)かりつるに、御覚(おぼ)えもめでたくて候(さぶら)ひ給(たま)へるに、あさましとも言(い)はん方(かた)無し。二十八日にまか(ン)で給(たま)ふ。先帝の御わざの沙汰(さた)有(あ)り。院号(ゐんがう)有(あ)りて後二条院とぞ聞(き)こゆる。堀川(ほりかは)の右大将具守(とももり)、御車寄(よ)せらる。心の中(うち)いかばかりか御座(おは)しけん。大将になり給(たま)へるも、此(こ)の御門の、西花門院(せいくわもんゐん)むつましうも仕(つかうまつ)り給(たま)へるに、いとほしき御事(こと)也。御素服(そふく)を着(き)給(たま)はざりしをぞ、思(おも)はずなる事(こと)に世の人も言(い)ひ沙汰(さた)しける。内侍のかんの君も様(さま)変(か)はり給(たま)ふ。中宮も院号(ゐんがう)有(あ)りて、長楽門院(ちやうらくもんゐん)と聞(き)こゆ。万(よろづ)あはれなる事(こと)のみ、書(か)き尽(つ)くし難(がた)し。
春宮は正親町殿(おほぎまちどの)へ行啓(ぎやうげい)なりて、剣璽(けんじ)渡(わた)さる。八月二十五日践祚(せんそ)なり。十二にぞならせ給(たま)ふ。夢の内(うち)の心地しつつも、程(ほど)無(な)く過(す)ぎうつる御日数(ひかず)さへ果(は)てぬれば、尽(つ)きせぬあはれさむる世無(な)けれど、人々(ひとびと)もおのが散(ち)り散(ぢ)りになる程(ほど)、今(いま)一しほ堪(た)えがたげ也。持明院(ぢみやうゐん)殿(どの)には、いつしかめでたき事共(ども)のみぞ聞(き)こゆる。大覚寺(だいかくじ)殿(どの)には、遊義門院の御事(こと)にうち添(そ)へて、御涙のひる世(よ)無(な)く思(おぼ)さるべし。帥(そち)の御子(みこ)の御事(こと)を、東(あづま)へ宣(のたま)ひ遣(つか)はしたる、「相違(さうい)無し」とて、九月十九日、立太子(りつたいし)
P241
の=節会(せちゑ)有(あ)りて、坊(ばう)にゐ給(たま)ひぬ。今(いま)はと世をとぢむる心地(ここち)しつる人々(ひとびと)、少(すこ)し慰(なぐさ)みぬべし。其(そ)の年(とし)十月、大なりつるを、保元の例(れい)とかやとて、十一月一日(ついたち)に宣下(せんげ)せられたり。あたらしき御代にあたりて、月日(つきひ)さへ改(あらた)まりにけり。十一月十六日御即位(そくゐ)¥あり。摂政は¥後照念院(ごせうねんゐん)殿(どの)=冬平、今日(けふ)は御悦申(よろこびまうし)有(あ)りて、やがて行幸に参(まゐ)り給(たま)ふ。あるべき限(かぎ)りのこと共(ども)、古(ふる)きに変(か)はらで、めでたく過(す)ぎ行(ゆ)きぬ。
延慶(えんきやう)二年十月二十一日御禊、同(おな)じ二十四日、大嘗会(だいじやうゑ)、応長元年(ぐわんねん)正月三日、御年(おんとし)十五にて御冠(かうぶり)し給(たま)ふ。御諱(いみな)富仁(とみひと)と聞(き)こゆ。引(ひ)き入(い)れには〔関白〕殿、理髪(りはつ)家平(いへひら)仕(つかうまつ)り給(たま)ふ。南殿(なんでん)の儀式(ぎしき)果(は)てて、御よそひ改(あらた)めて、更(さら)に出(い)でさせ給(たま)ふ。清涼殿(せいりやうでん)にて御遊(あそ)び始(はじ)まる。摂政殿箏(こと)、ふしみと言(い)ふ名物、右大将=公顕(きんあき)琵琶玄上(げんじやう)、土御門(つちみかど)の大納言(だいなごん)冬時笙(しやう)きさぎえ、和琴(わごん)大炊御門(おほひのみかど)中納言冬氏(ふゆうぢ)、笛は西園寺(さいをんじ)の中納言兼季、別当季衡(すゑひら)〔も〕笙(しやう)の笛(ふえ)吹(ふ)き給(たま)ひけり。篳篥(ひちりき)公守(きんもり)の朝臣、拍子(ひやうし)有時(ありとき)、めでたく様々(さまざま)面白(おもしろ)くて明(あ)けぬ。五日には後宴(ごえん)とて、今(いま)少(すこ)しなつかしう面白(おもしろ)き事共(ども)有(あ)りき。此(こ)の御門(みかど)をば、新院の御子になし奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしかば、朝覲(てうきん)の行幸の御拝(はい)なども、此(こ)の御前にてぞ有(あ)りける。広義門院(くわうぎもんゐん)も、同(おな)じく国母の御心地(ここち)にて、万(よろづ)めでたかりき。
P242
院の上(うへ)、さばかり和歌の道(みち)に御名高(たか)く、いみじく御座(おは)しませば、いかばかりかと思(おぼ)されしかども、正応に撰者(せんじや)共(ども)の事故(ゆゑ)に、わづらひ共(ども)有(あ)りて、撰集も無(な)かりしかば、いとど口惜(くちを)しう思(おぼ)されて、
我(わ)が世には集(あつ)めぬ和歌(わか)の浦千鳥(うらちどり)むなしき名をやあとに残(のこ)さむ W
など詠(よ)ませ御座(おは)したりしを、今(いま)だにと急(いそ)ぎ立(た)たせ給(たま)ひて、為兼(ためかぬ)の大納言(だいなごん)承(うけたまは)りて、万葉よりこなたの歌共(ども)集(あつ)められき。正和元年(ぐわんねん)三月二十八日奏(そう)せらる。玉葉集とぞ言(い)ふなる。此(こ)の為兼(ためかぬ)の大納言(だいなごん)は、為氏(ためうじ)の大納言(だいなごん)の弟(おとと)に為教(ためのり)の右兵衛督(うひやうゑのかみ)と言(い)ひしが子也。限(かぎ)り無(な)き院の御覚(おぼ)えの人にて、かく撰者(せんじや)にも定(さだ)まりにけり。そねむ人々(ひとびと)多(おほ)かりしかど、さはらんやは。此(こ)の院の上(うへ)、好(この)み詠(よ)ませ給(たま)ふ御歌(うた)の姿(すがた)は、前(さき)の藤大納言(だいなごん)為世の心地(ここち)には、変(か)はりてなん有(あ)りける。御手(て)もいとめでたく、昔(むかし)の行成(かうぜい)の大納言(だいなごん)にも勝(まさ)り給(たま)へるなど、時の人申(まう)しけり。やさしうも強(つよ)うも書(か)かせ御座(おは)しましけるとかや。
正和も二年(ふたとせ)になりぬ。今年(ことし)御本意(ほい)とげなんと思(おぼ)さる。長月(ながつき)の暮(く)れつ方(かた)、賀茂(かも)に忍(しの)びて御篭(こも)りの程(ほど)、をかしき様(さま)のこと共(ども)侍(はべ)りけり。近(ちか)く候(さぶら)ふ女房共(ども)
P243
も、うちしほたれつつ、つごもりがたの空の気色(けしき)、いと物あはれなるに、御製(ぎよせい)、
長月(ながつき)や木の葉も未(いま)だつれなきに時雨ぬ袖の色や変(か)はらん W
又(また)、
我(わ)が身こそ有(あ)らずなるとも秋の暮惜(を)しむ心はいつも変(か)はらじ W
人々(ひとびと)も、さと時雨渡(わた)り、袖の上(うへ)、今日(けふ)を限(かぎ)りの秋の名残(なごり)よりも忍(しの)び難(がた)し。大納言(だいなごん)〔の三位〕為子、〔撰者(せんじや)のはらからなり。〕
一筋(すぢ)に暮(く)れ行(ゆ)く秋を惜(を)しまばや有(あ)らぬ名残(なごり)を思(おも)ひ添(そ)へずて W
又誰にか、
いかにしたひいかに惜(を)しまん年々の秋には勝(まさ)る秋の名残(なごり)を W
十月十五日(じふごにち)、伏見殿へ御幸¥あり。限(かぎ)りの旅(たび)と思(おぼ)せば、えも言(い)はず引(ひ)きつくろはる。庇(ひさし)の御車也。上達部(かんだちめ)・殿上人、数(かず)知(し)らず仕(つかうまつ)り給(たま)ふ。
世の政事(まつりごと)なども、新院に譲(ゆづ)り奉(たてまつ)らせ給(たま)ひにしかば、御心(おんこころ)静(しづ)かにのみ思(おぼ)されて、伏見殿がちにのみぞ御座(おは)しましし程(ほど)に、そこはかと−なく御悩(なや)み月日(つきひ)へて、文保元年(ぐわんねん)九月三日、
P244
隠(かく)れさせ給(たま)ひにき。伏見院と申しき。御母(はは)玄輝門院(げんきもんゐん)、永福門院などの御歎(なげ)き思(おも)ひやるべし。御門(みかど)は御軽服(きやうぶく)の儀(ぎ)なれば、天(あめ)の下(した)色も変(か)はらず。此(こ)の院(ゐん)、姫君(ひめぎみ)数多(あまた)御座(おは)しまししかど、院号(ゐんがう)は章義門院(しやうぎもんゐん)・延命門院(ゑんめいもんゐん)ばかりにて御座(おは)します。二条富小路の昔(むかし)の院のあとに、東(あづま)より造(つく)りて奉(たてまつ)る内裏(だいり)、此(こ)の頃(ごろ)御わたまし有(あ)りしなど、いといと面白(おもしろ)かりき。近(ちか)き事(こと)は、皆(みな)¥人々(ひとびと)御覧(ごらん)ぜしかば、中々にて止(とど)めつ。



校註 増鏡

P245
第十六 秋のみ山
文保二年二月二十六日、御門(みかど)降(お)り居(ゐ)させ給(たま)ふ。春宮は既(すで)に、三十(みそぢ)に満(み)たせ給(たま)へば、待(ま)ち遠(どほ)なりつるに、めでたく思(おぼ)さるべし。法皇、都(みやこ)に出(い)でさせ給(たま)ひて、世の中(なか)知(し)ろし召(め)さる。亀山殿はさる事(こと)にて、近頃(ちかごろ)は、大覚寺(だいかくじ)の辺(ほとり)に御堂(みだう)建(た)てて篭(こも)り御座(おは)しましつつ、いよいよ密教(みつけう)の深(ふか)き心ばへをのみ勤(つと)め学(まな)ばせ給(たま)へば、おのづからも京に出(い)でさせ給(たま)ふ事無(な)く、又(また)参(まゐ)り通(かよ)ふ人もまれなるやうにて、神(かう)さびたりつるを、引(ひ)きかへ事(こと)しげき世(よ)に、行(おこな)ひも懈怠(けだい)し給(たま)へば、むつかしく思(おぼ)さる。三月二十九日御即位(そくゐ)也。行幸の当日(たうじつ)に、左大将内経(うちつね)・花山院の右大将家定(いへさだ)、行列(ぎやうれち)を争(あらそ)ひて、随身(ずいじん)共(ども)わわしく罵(ののし)れば、御輿(こし)を押(お)さへて、職事(しきじ)奏(さう)し下(くだ)しなどすめり。
P246
左大将の御父君(ちちぎみ)は、内実の大臣(おとど)と聞(き)こえし。嘉元の頃(ころ)、俄(にはか)に隠(かく)れ給(たま)ひにしかば、摂〓(せうろく)もしあへ給(たま)はざりしにより、今(いま)は只人(ただひと)にてこそいますべければとて、かく争(あらそ)ふとぞ聞(き)こえし。十月二十七日大嘗会(だいじやうゑ)、清暑堂(せいしよだう)の御神楽(みかぐら)の拍子(ひやうし)の為(ため)に、綾(あや)の小路(こうぢ)の宰相(さいしやう)有時と言(い)ふ人、大内へ参(まゐ)り侍(はべ)るとて、車より降(お)りられける程(ほど)に、いとすくよかなる田舎(ゐなか)侍(ざぶらひ)めく物、太刀を抜(ぬ)きて走(はし)り寄(よ)る儘(まま)に、あや無(な)く討(う)ちてけり。さばかり立(た)ちこみたる人の中(なか)にて、いと珍(めづら)かにあさまし。さて拍子(ひやうし)俄(にはか)に異人(ことひと)承(うけたまは)る。大事(だいじ)共(ども)果(は)てて後(のち)、尋(たづ)ね沙汰(さた)ある程(ほど)に、紙屋川(かいかは)の三位顕香(あきか)と言(い)ふ人の、此(こ)の拍子(ひやうし)をいどみて、我(われ)こそつとむべけれと思(おも)ひければ、かかる事(こと)をせさせけり。道(みち)に好(す)ける程(ほど)はやさしけれども、いとむくつけし。さて彼(か)の三位は流(なが)されぬ。
かくて今年(ことし)は暮(く)れぬ。誠(まこと)や、こたみの春宮には、後二条院の一の御子(みこ)定(さだ)まり給(たま)ひぬれば、御門(みかど)坊にて御座(おは)しましし時の儘(まま)に、冷泉(れいぜい)万里小路(までのこうじ)殿(どの)の寝殿(しんでん)に移(うつ)り住(す)ませ給(たま)へるに、二月(きさらぎ)の頃、軒の桜盛(さか)りにをかしき夕(ゆふ)ばえを御覧(ごらん)じて、内に奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。彼(か)の花につけて、
P247
なれにける花は心や移(うつ)すらん同(おな)じ軒端(のきば)の春にあへども W
御返(かへ)しは、南殿(なんでん)の桜(さくら)に差(さ)しかへ給(たま)ふ。
花はげに思(おも)ひ出(い)づらん春をへてあかぬ色香(いろか)に染(そ)めし心を W
おりゐの御門(みかど)は、御兄(このかみ)の本院と一(ひと)つ持明院(ぢみやうゐん)殿(どの)に住(す)ませ給(たま)ふ。もとより御子の由(よし)にて御座(おは)しませば、まいて、一(ひと)つ院の内(うち)にて、いささかも隔(へだ)て無(な)く聞(き)こえさせ給(たま)ふ。いと思ふやうなる御有様(おんありさま)也。さるべき御中(なか)と言(い)へども、昔(むかし)も今(いま)も御腹(おんはら)など変(か)はりぬるは、いかにぞや、そばそばしき事(こと)もうちまじり、くせある習(なら)ひにこそあるを、此(こ)の院の御あはひ、まめやかに思(おも)ほしかはしたる、いと有(あ)りがたうめでたし。本院は、広義門院(くわうぎもんゐん)の御腹(おんはら)の一の御子(みこ)を、此(こ)の度(たび)の坊にやと思(おぼ)されしかど、引(ひ)き過(す)ぎぬれば、いと遙(はる)けかるべき世にこそと、さうざうしく思(おぼ)さるべし。御歌合のついでなりしにや、
色々(いろいろ)に都(みやこ)は春の時(とき)にあへど我(わ)がすむ山(やま)は花も開(ひら)けず W
大覚寺(だいかくじ)殿(どの)には、引(ひ)きかへ、馬(うま)・車(くるま)の立(た)ち混(こ)みたるを御覧(ごらん)じて、法皇詠(よ)ませ給(たま)ひける。
我(われ)住(す)めば寂(さび)しくも無し山里(やまざと)もあさまつりごと怠(おこた)らずして W
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今(いま)の上(うへ)は、早(はや)うより、西園寺(さいをんじ)の入道大臣(おとど)実兼の末の御女、兼季の大納言(だいなごん)の一(ひと)つ御腹(おんはら)に物(もの)し給(たま)ふを、忍(しの)びて盗(ぬす)み御覧(ごらん)じて、わく方(かた)無(な)き御思ひ、年(とし)に添(そ)へてやむごとなう御座(おは)しつれば、いつしか女御の宣旨(せんじ)など聞(き)こえしが、程(ほど)も無(な)く、やがて八月に后だちあれば、入道殿も、齢(よはひ)の末(すゑ)にいと賢(かしこ)くめでたしと思(おぼ)す。北山にまか(ン)で給(たま)へる頃(ころ)、行幸有(あ)りき。八月十五日(じふごにち)の夜、名をえたる月も異(こと)に光を添(そ)へたり。所がら折(をり)から面白(おもしろ)く、めでたきこと共(ども)花(はな)やかなるに、御姉(あね)の永福門院より、今(いま)の后の御方(かた)へ、御消息(せうそこ)聞(き)こえ給(たま)ふ。
今宵(こよひ)しも雲井の月も光そふ秋のみ山(やま)を思(おも)ひこそやれ W
御返(かへ)しは、「まろ聞(き)こえん」と宣(のたま)はせて、内の上、
昔(むかし)見(み)し秋のみ山(やま)の月影を思(おも)ひ出(い)でてや思ひやるらん W
御門(みかど)の同(おな)じ御腹(おんはら)の前(さき)の斎宮も、皇后宮に立(た)たせ給(たま)ふ。御母准后も院号(ゐんがう)有(あ)りて、談天門院(だんてんもんゐん)とぞ聞(き)こゆめる。万(よろづ)花(はな)やかにめでたき事共(ども)しげう聞(き)こゆ。内には、万里小路(までのこうじ)大納言(だいなごん)入道師重(もろしげ)と言(い)ひしが娘(むすめ)、大納言(だいなごん)の典侍(すけ)とて、いみじう時(とき)めく人あるを、堀川(ほりかは)の春宮の権大夫具親(ともちか)の君、いと忍(しの)びて見(み)そめられけるにや、彼(か)の
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女、かき消(け)ち失(う)せぬとて、求(もと)め尋(たづ)ねさせ給(たま)ふ。二三日こそあれ、程(ほど)無(な)く其(そ)の人とあらはれぬれば、上(うへ)いとめざましく憎(にく)しと思(おぼ)す。やむごとなき際(きは)には有(あ)らねど、御覚(おぼ)えの時なれば、きびしく咎(とが)めさせ給(たま)ひて、げに須磨(すま)の浦へも遣(つか)はさまほしきまで思(おぼ)されけれども、さすがにて、官(つかさ)皆(みな)止(とど)めて、いみじう勘(かう)ぜさせ給(たま)へば、畏(かしこ)まりて、岩倉(いはくら)の山庄に篭(こも)り居(ゐ)ぬ。花の盛(さか)りに面白(おもしろ)きをながめて、
うき事(こと)も花にはしばし忘(わす)られて春の心(こころ)ぞ昔(むかし)なりける W
典侍(すけ)の君は返(かへ)り参(まゐ)れるを、つらしと思(おぼ)す物から、「うきに紛(まぎ)れぬ恋(こひ)しさ」とや、いよいよらうたがらせ給(たま)ふを、さしも有(あ)らず正身(さうじみ)は猶(なほ)好(す)き心ぞ絶(た)えず有(あ)りけんかし。
たえはつる契(ちぎり)を一人(ひとり)忘(わす)れぬも憂(う)きも我(わ)が身の心なりけり W
とて、一人(ひとり)ごたれける。末(すゑ)ざまには、公泰(きんやす)の大納言(だいなごん)、未(いま)だ若(わか)う御座(おは)せし頃(ころ)、御心(おんこころ)と許(ゆる)して給(たま)はせければ、思(おも)ひかはして住(す)まれし程(ほど)に、彼処(かしこ)にて失(う)せにき。御門(みかど)の御母女院、十一月失(う)せ給(たま)ひにしかば、内の上(うへ)御服(ぶく)奉(たてまつ)る。天(あめ)の下(した)一(ひと)つ
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に染(そ)め渡(わた)して、葦(あし)簾(すだれ)とか、いとまがまがしき物共(ども)かけ渡(わた)したるも、あはれにいみじくぞ見(み)ゆる。五節(ごせち)もとまりぬ。若(わか)き人々(ひとびと)などさうざうしく思(おも)へり。当代(たうだい)も又(また)敷島(しきしま)の道をもてなさせ給(たま)へば、いつしかと勅撰の事(こと)仰(おほ)せらる。前(さき)の藤大納言(だいなごん)為世承(うけたまは)る。玉葉のねたかりしふしも、今(いま)ぞ胸(むね)あきぬらんかし。此(こ)の大納言(だいなごん)の娘(むすめ)、権大納言(だいなごん)の君とて、坊の御時(とき)限(かぎ)り無(な)く思(おぼ)されたりし御腹(おんはら)に、一の御子(みこ)・女三の御子(みこ)・法親王など、数多(あまた)物(もの)し給(たま)ふ。彼(か)の大納言(だいなごん)の君は、早(はや)う隠(かく)れにしかば、此(こ)の頃(ころ)三位贈(おく)らせ給(たま)ふ。贈(ぞう)従三位為子とて、集にもやさしき歌多(おほ)く侍るべし。さて大納言(だいなごん)は、人々(ひとびと)に歌(うた)すすめて、玉津島の社に詣(まう)でられけり。大臣・上達部(かんだちめ)より始(はじ)めて、歌詠(よ)むと思(おも)へる限(かぎ)り、此(こ)の大納言(だいなごん)の風を伝(つた)へたるは、もるる者(もの)無し。子共(ども)孫(まご)共(ども)など、勢(いきほ)ひ異(こと)に響(ひび)きて下(くだ)る。先(ま)づ住吉(すみよし)へ詣(まう)で、逍遙(せうえう)しつつ罵(ののし)りて、九月にぞ玉津島へ詣(まう)でける。歌共(ども)の中(なか)に、大納言(だいなごん)為世、
今(いま)ぞ知(し)る昔(むかし)にかへる我(わ)が道(みち)の誠(まこと)を神も守(まも)りけりとは W
かくて、元応二年四月十九日、勅撰(ちよくせん)は奏(そう)せられけり。続千載(しよくせんざい)と言(い)ふなり。新後撰集
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と同(おな)じ撰者(せんじや)の事(こと)なれば、多(おほ)くは彼(か)の集に変(か)はらざるべし。為藤の中納言、父(ちち)よりは少(すこ)し思(おも)ふ所加(くは)へたる主(ぬし)にて、今(いま)少(すこ)し、此(こ)の度(たび)は心憎(にく)き様(さま)也などぞ、時の人々(ひとびと)沙汰(さた)しける。
院にも内にも、朝政(あさまつりごと)のひまひまには、御歌合のみしげう聞(き)こえし中(なか)に、元亨元年(ぐわんねん)八月十五夜(じふごや)かとよ、常(つね)より異(こと)に月面白(おもしろ)かりしに、上(うへ)、萩(はぎ)の戸に出(い)でさせ給(たま)ひて、異(こと)なる御遊(あそ)びなども有(あ)らまほしげなる夜なれど、春日の御榊(さかき)、うつし殿に御座(おは)します頃(ころ)にて、糸竹(しちく)の調(しら)べは折(をり)あしければ、例(れい)の只(ただ)内々(うちうち)御歌合あるべしとて、侍従の中納言為藤召(め)されて、俄(にはか)に題奉(たてまつ)る。殿上に候(さぶら)ふ限(かぎ)り、左右(さう)同(おな)じ程(ほど)の歌詠(よ)みをえらせ給(たま)ふ。左、内の上(うへ)・春宮の大夫公賢(きんかた)・左衛門督公敏(きんとし)・侍従中納言為藤・中宮権大夫師賢・宰相(さいしやう)維継・昭訓門院の春日為世女、右は藤大納言(だいなごん)為世・富小路大納言(だいなごん)実教・洞院(とうゐん)の中納言季雄(すゑを)・公修(きんなか)・宰相(さいしやう)実任(さねたふ)・少将内侍為佐女・忠定の朝臣・為冬、忠守など言(い)ふ医師(くすし)も、此(こ)の道の好(す)き物なりとて、召(め)し加(くは)へらる。衛士のたく火も月の名だてにやとて、安福殿(あんぷくでん)へ渡(わた)らせ給(たま)ふ。忠定の中将(ちゆうじやう)、昼(ひ)の御座(ござ)の御佩刀(はかし)を取(と)りて参(まゐ)る。殿上のかみの戸を出(い)でさせ給(たま)ひて、無名門
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より右近(うこん)の陣の前(まへ)を過(す)ぎさせ給(たま)へば、遣水(やりみづ)に月のうつれる、いと面白(おもしろ)し。安福殿(あんぷくでん)の釣(つり)殿(どの)に床子(しやうじ)立(た)てて、東面(ひがしおもて)に御座(おは)します。上達部は簀子(すのこ)の勾欄(かうらん)に背中(せなか)押(お)しあてつつ、殿上人は庭に候(さぶら)ひあへるもいと艶(えん)也。池の御船(みふね)差(さ)し寄(よ)せて、左右(さう)の講師(かうし)隆資(たかすけ)・為冬乗(の)せらる。御酒(みき)など参(まゐ)る様(さま)も、うるはしき事(こと)よりは、艶(えん)になまめかし。人々(ひとびと)の歌いたく気色(けしき)ばみて、とみにも奉(たてまつ)らず、いと心もと無し。照(て)る月波も、曇(くも)り無(な)き池の鏡(かがみ)に、言(い)はねどしるき秋のなかば、げにいと異(こと)なる空の気色(けしき)に、月も傾(かたぶ)きぬ。明(あ)けがた近(ちか)うなりにけり。上(うへ)の御製(ぎよせい)、
鐘(かね)の音(おと)もかたぶく月にかこたれて惜(を)しと思ふ夜(よ)は今宵(こよひ)也けり W
と講(かう)じ上(あ)げたる程(ほど)、景陽(けいやう)の鐘(かね)も響(ひび)きを添(そ)へたる、折(をり)からいみじうなん。いづれもけしうは有(あ)らぬ歌共(ども)多(おほ)く聞(き)こえしかど、御製(ぎよせい)の鐘(かね)の音(おと)に勝(まさ)れるは無(な)かりしにや。
かくて今年(ことし)も又暮(く)れぬ。明(あ)くる春元亨二正月三日、朝覲(てうきん)の行幸あり。法皇は御弟(おとうと)の式部卿(しきぶきやう)の親王(みこ)の御家大炊御門(おほひのみかど)京極(きやうごく)常盤井(ときはゐ)殿(どの)と言(い)ふにぞ御座(おは)します。内裏(だいり)は二条万里(まで)の小路(こうぢ)
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なれば、陣の中(なか)にて、大臣以下かちより仕(つかうまつ)らる。関白内経・太政大臣通雄・左大臣実泰(さねやす)・左大将兼季・右大将冬教・中宮大夫実衡(さねひら)、中納言には具親(ともちか)・公敏(きんとし)・為藤・顕実(あきざね)・経定、宰相には実任(さねたふ)・冬定・公明(きんあきら)・光忠、中将(ちゆうじやう)は公泰・資朝(すけとも)、殿上人は頭(とう)の中将(ちゆうじやう)為定・修理大夫冬方を始(はじ)めて、残(のこ)るは少(すく)なし。此(こ)の院も、池のすまひ、山の木立(こだち)、もとより由(よし)あるさまなるに、時ならぬ花の木末(こずゑ)さへ造(つく)り添(そ)へられたれば、春の盛(さか)りに変(か)はらず咲(さ)きこぼれたるに、雪さへいみじく降(ふ)りて、残(のこ)る常盤木(ときはぎ)も無し。州崎(すさき)に立(た)てる鶴(つる)の気色(けしき)も、千代をこめたる霞の洞(ほら)は、誠(まこと)に仙人の宮もかくやと見(み)えたり。
京極(きやうごく)表(おもて)の棟門(むねもん)に御輿(こし)を抑(おさ)へて、院司(ゐんし)事(こと)の由(よし)を奏(そう)す。乱声(らんじやう)の後、中門に御輿(こし)を寄(よ)す。中門の下より出(い)づるやり水(みづ)に、小(ちひ)さく渡(わた)されたる反橋(そりはし)の左右(さう)に、両大将跪(ひざまづ)く。剣璽(けんじ)は権(ごん)の亮(すけ)宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)公泰勤(つと)められしにや。関白、公卿(くぎやう)の座の妻戸(つまど)の御簾(みす)をもたげて入(い)り奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。とばかり有(あ)りて、寝殿(しんでん)の母屋(もや)の御簾(みす)皆(みな)上(あ)げ渡(わた)して、法皇出(い)でさせ給(たま)へり。香染(かうぞ)めの御衣、同(おな)じ色の御袈裟(けさ)なり。御袈裟(けさ)の箱(はこ)を御そばに置(お)かる。内(うち)の上(うへ)、公卿(くぎやう)の座より勾欄(かうらん)を経(へ)給(たま)ふ。御供(とも)に関白
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候(さぶら)ひ給(たま)ふ。階(はし)の間(ま)より出(い)で給(たま)ひて、廂(ひさし)に御座(おまし)奉(たてまつ)りたれば、御拝し給(たま)ふ程(ほど)、西東(にしひんがし)の中門の廊に、上達部(かんだちめ)多(おほ)く打(う)ち重(かさ)なりて見(み)遣(や)り奉(たてまつ)る中(なか)に、内の御乳母(めのと)の吉田の前(さき)の大納言(だいなごん)定房(さだふさ)、まみいたう時雨たるぞあはれに見(み)ゆる。其(そ)のかみの事(こと)など思(おも)ひ出(い)づるに、めでたき喜(よろこ)びの涙ならんかし。御拝(はい)終(をは)りぬれば、又もとの道を経(へ)給(たま)ひて、公卿(くぎやう)の座に入(い)らせ給(たま)ひぬ。法皇も内(うち)に入(い)り給(たま)ひて、しばし有(あ)りて、左右(さう)の楽屋の調子(てうし)整(ととの)ほりて後(のち)、又御門(みかど)入(い)らせ給(たま)ふ。法皇も同(おな)じ間(ま)の内(うち)に、御褥(しとね)ばかりにて御座(おは)します。末(すゑ)の廂(ひさし)に、内(うち)より参(まゐ)れる女房共(ども)候(さぶら)ふ。一(ひと)つ車に小大納言(せうだいなごん)君〈 師重、娘 〉、「うきも我(わ)が身の」と詠(よ)みし人の妹(いもうと)なり。帥典侍(そちのすけ)資茂王女、讚岐(さぬき)・こいまとかや。二の左に新兵衛、中宮内侍、後に准后(じゆんこう)と聞(き)こえにき。しりには夏びき・いはねを。三の車に少将内侍・尾張(をはり)の内侍、しりに青柳(あをやぎ)・今参(いままゐ)りなど聞(き)こゆ。上達部、御前(まへ)の座に著(つ)きて後(のち)、御台(だい)参(まゐ)る。役送(やくそう)公泰宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)、陪膳(はいぜん)右大将兼季、其(そ)の程(ほど)、舞人(まひびと)跪(ひざまづ)く。地下の舞(まひ)は目(め)なれたる事(こと)なれど、折(をり)からにや、今日(けふ)は異(こと)に面(おも)もち足(あし)ぶみもめでたく見(み)ゆ。法皇の御覚(おぼ)えにて、寿王(ずわう)と言(い)ふ人、松殿の某(なにがし)とかやが子也。落蹲(らくそん)など舞(ま)ふと聞(き)きしかど、夜も深(ふ)け雪も事(こと)にかき暗(くら)し
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て、何(なに)のあやめも見(み)えざりき。其(そ)の後(のち)御前(まへ)の御遊(あそ)び始(はじ)まる。頭(とう)の太夫冬方、御箱(はこ)の蓋(ふた)に御笛入(い)れて持(も)ちて参(まゐ)る。関白取(と)りて御前(まへ)に参(まゐ)らせ給(たま)ふ。右大将も笛、中宮大夫琵琶、大宮(おほみや)大納言(だいなごん)笙(しやう)、春宮の大夫笙(しやう)、右宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)は和琴(わごん)、光忠宰相篳篥(ひちりき)、兼高(かねたか)も吹(ふ)きしにや。拍子(ひやうし)は左大臣、すゑは冬忠(ふゆただ)の宰相なり。深(ふ)け行(ゆ)く儘(まま)に、上(うへ)の御笛(ふえ)の音(ね)すみ上(のぼ)りて、いみじくさえたり。左の大臣(おとど)の安名尊(あなたふと)・伊勢の海(うみ)、限(かぎ)り無(な)くめでたく聞(き)こゆ。こと共(ども)果(は)てぬれば、御贈(おく)り物参(まゐ)る。錦(にしき)の袋(ふくろ)に入(い)れたる御笛(ふえ)、箱(はこ)の蓋(ふた)に据(す)ゑらる。左大臣取(と)り次(つ)ぎて関白に奉(たてまつ)る。御前(まへ)に御覧(ごらん)ぜさせて、冬方を召(め)して賜(たま)はす。次に唐(から)の赤地(あかぢ)の錦(にしき)の袋(ふくろ)に御琵琶入(い)れて参(まゐ)る。其(そ)の後(のち)、御馬(うま)、殿上人口(くち)を取(と)りて、御前(まへ)に引(ひ)き出(い)でたり。ほのぼのと明(あ)くる程(ほど)にぞ帰(かへ)らせ給(たま)ひぬる。
法皇は、ややもすれば、大覚寺(だいかくじ)殿(どの)にのみ篭(こも)らせ御座(おは)します。人々(ひとびと)、世の中(なか)の事(こと)共(ども)奏(そう)しに参(まゐ)り集(つど)ふ。今(いま)は一筋(すぢ)に御行(おこな)ひにのみ御心(おんこころ)入(い)れ給(たま)へるに、いとうるさく思(おぼ)せば、其(そ)の夏(なつ)の頃(ころ)、定房の大納言(だいなごん)、東(あづま)へ遣(つか)はさる。御門(みかど)に天(あめ)の下(した)の事、譲(ゆづ)り申(まう)さむの御消息(せうそこ)なるべし。大方(おほかた)は、いとあさましう成(な)り果(は)てたる世にこそあ(ン)
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めれ。かばかりの事(こと)は、父(ちち)御門(みかど)の御心(おんこころ)にいと安(やす)く任(まか)せぬべき物をと、めざましけれど、昨日今日(けふ)始(はじ)まりたるにも有(あ)らず、承久よりこなたは、かくのみ成(な)りもてきにければな(ン)めり。内に近(ちか)く候(さぶら)ふ上達部(かんだちめ)などの、なま腹(はら)ぎたなき、我(わ)が思ふ事(こと)のとどこほりなどするを、猶(なほ)法皇をうれはしげに思ひ奉(たてまつ)りて、此(こ)の事いかで東(あづま)より許(ゆる)し申すわざもがなと、祈(いの)りなどをさへぞしける。かくて、大納言(だいなごん)程(ほど)無(な)く帰(かへ)り上(のぼ)りぬ。御心(おんこころ)の儘(まま)なるべく奏(そう)したりとて、院の文殿、議定所(ぎぢやうしよ)にうつされ、評定衆(ひやうぢやうしゆ)など、少々(せうせう)変(か)はるも有(あ)り。さて世をしたためさせ給(たま)ふ事、いと賢(かしこ)うあきらかに御座(おは)しませば、昔(むかし)に恥(は)ぢずいとめでたし。御才(ざえ)もいとはしたなう物(もの)し給(たま)へば、万(よろづ)の事曇(くも)りなかんめり。三史(さんし)五経の御論議(ろんぎ)なども隙(ひま)無し。
六月(みなづき)の頃、中殿の作文(さくもん)せさせ給(たま)ふ。題は式部(しきぶ)の大輔藤範奉(たてまつ)る。久しかるべきは賢人(けんじん)の徳(とく)とかや聞(き)こえしにや。女の学(まね)ぶべき事(こと)ならねばもらしつ。上達部(かんだちめ)・殿上人三十人(にん)参(まゐ)れり。関白殿房実ばかり直衣(なほし)にて御几帳の後(うし)ろに候(さぶら)はせ給(たま)ふ。上(うへ)は御引直衣(ひきなほし)、御琵琶(びは)玄上(げんしやう)ひかせ給(たま)ふ。右大将実衡(さねひら)琵琶(びは)、春宮の大夫〈 公賢(きんかた) 〉箏(こと)、権大納言(だいなごん)親房笙(しやう)、権中納言氏忠和琴(わごん)、左(ひだり)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)公泰笙(しやう)〔のふゑ、〕右衛門督嗣家(つぎいへ)笛、右(みぎ)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)光忠
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篳篥(ひちりき)、拍子(ひやうし)は例(れい)の左の大臣(おとど)実泰(さねやす)、末(すゑ)は冬定なりしにや。上(うへ)の御琵琶(びは)の音(ね)、言(い)ひ知(し)らずめでたし。右大将はなどにか有(あ)らん、心とけてもかき立(た)てられざりき。御遊(あそ)び果(は)てての後、文台(ぶんだい)召(め)さる。蔵人内記俊基(としもと)、人々(ひとびと)の文(ふみ)を取(と)り集(あつ)めて、一度(いちど)に文台(ぶんだい)の上(うへ)に置(お)く。披講(ひかう)の終(を)はる程(ほど)に、短(みじ)か夜もほのぼのと明(あ)け果(は)てぬ。御製(ぎよせい)を左の大臣(おとど)〈 実泰(さねやす) 〉返々(かへすがへす)誦(じゆ)して、うるはしく朗詠(らうゑい)にせらる。声(こゑ)いと美(うつく)し。折(をり)ふし郭公の一声(こゑ)名乗(なの)り捨(す)てて過(す)ぎたるは、いみじく艶(えん)也。かやうの誠(まこと)しき事(こと)は、予(かね)て人も心遣(づかひ)すれば、あやまち無(な)かるべし。時に臨(のぞ)みて、俄(にはか)に難(かた)き題(だい)を賜(たま)はせて、内々(うちうち)唐歌(からうた)を作(つく)らせ歌を詠(よ)ませて、賢(かしこ)く愚(おろ)かなると御覧(ごらん)じわくに、いとからい事多(おほ)く、心ゆるび無(な)き世なり。
其(そ)の七月七日、乞巧奠(きかうでん)、いつの年(とし)よりも御心(おんこころ)止(とど)めて、予(かね)てより人々(ひとびと)に歌共(ども)召(め)され、ものの音(ね)共(ども)も試(こころ)みさせ給(たま)ふ。其(そ)の夜は、例(れい)の玄象(げんしやう)ひかせ給(たま)ふ。人々(ひとびと)の所作、有(あ)りし作文(さくもん)に変(か)はらず。笛(ふえ)・篳篥(ひちりき)などは、殿上人共(ども)、鳴板(なるいた)の程(ほど)に候(さぶら)ひて仕(つかうまつ)る。中宮も上(うへ)の御局(つぼね)にまう上(のぼ)ら
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せ給(たま)ふ。御簾(みす)の内(うち)にも琴(こと)・琵琶(びは)数多(あまた)有(あ)りき。播磨(はりま)の守(かみ)永定(ながさだ)の女、今(いま)は左大臣の北(きた)の方(かた)にて三位殿と言(い)ふも、箏(こと)ひかれけり。宮の御方(かた)の播磨(はりま)の内侍も、同(おな)じく琴(こと)ひきけるとかや。琵琶(びは)は権大納言(だいなごん)の三位殿師藤大納言(だいなごん)の女、いみじき上手(じやうず)に御座(おは)すれば、めでたう面白(おもしろ)し。蘇香(そかう)・万秋楽(まんじうらく)、残(のこ)る手(て)無(な)くいく返(かへ)りと無(な)く尽(つ)くされたり。明(あ)け方(がた)は、身にしむばかり若(わか)き人々(ひとびと)めであへり。さらでだに、秋の初風は、げにそぞろ寒(さむ)き習(なら)ひを、理(ことわり)にや。御遊(あそ)び果(は)てて文台召(め)さる。此(こ)の度(たび)は和歌の披講(ひかう)なれば、其(そ)の道の人々(ひとびと)、藤大納言(だいなごん)為世、子共(ども)孫(うまご)共(ども)引(ひ)き連(つ)れて候(さぶら)へば、上(うへ)の御製(ぎよせい)、
笛竹(ふえたけ)の声(こゑ)も雲井に聞(き)こゆらし今宵(こよひ)手むくる秋の調(しら)べは W
ずんながるめりしかど、いづれも只(ただ)天(あま)の川、鵲(かささぎ)の橋(はし)より外は、珍(めづら)しきふしは聞(き)こえず。誠(まこと)や、実教の大納言(だいなごん)なりしにや、
同(おな)じくは空まで送(おく)れ焚(た)き物(もの)の匂(にほひ)をさそふ庭の秋風 W
げにえならぬ名香(みやうかう)の香(か)共(ども)ぞ、めでたくかうばしかりし。
花も紅葉も散(ち)り果(は)てて、雪つもる日数(ひかず)の程(ほど)なさに、又年(とし)変(か)はりて正中元年(ぐわんねん)と
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言(い)ふ。三月(やよひ)の二十日余(あま)り、石清水(いはしみづ)の社に行幸し給(たま)ふ。上達部(かんだちめ)・殿上人いみじき清(きよ)らをつくせり。関白殿〔房実〕は御車也。右大将実衡(さねひら)、松がさねの下襲(したがさね)、鶴(つる)の丸(まろ)を織(お)る。蘇芳(すはう)の固紋(かたもん)の衣(きぬ)。左大将経忠(つねただ)、桜萌黄(さくらもえぎ)の二重(ふたへ)織物(おりもの)の御下襲(したがさね)桜(さくら)に蝶(てふ)を色々(いろいろ)に織(お)る。花山吹(はなやまぶき)の上(うへ)の袴(はかま)・紅(くれなゐ)のうちたる御衣(ぞ)、人より異(こと)にめでたく見(み)え給(たま)ふ。御かたちも、匂(にほひ)やかにけだかき様(さま)して、誠(まこと)に、一の人とはかかるをこそは聞(き)こえめと、あかぬ事(こと)無(な)く見(み)え給(たま)ふ。土御門(つちみかど)の中納言顕実(あきざね)、花桜(はなざくら)の下襲(したがさね)なりき。花山院の中納言経定などぞ、上臈(じやうらふ)の若(わか)き上達部(かんだちめ)にて、いかにも珍(めづら)しからんと、世(よ)の人も思(おも)へりしかど、家のやうとかや何(なに)とかやとて、只(ただ)いつもの儘(まま)也。公泰宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)剣璽(けんじ)の役(やく)勤(つと)めらる。桜萌黄(さくらもえぎ)の上(うへ)の袴(はかま)・樺桜(かばざくら)の下襲(したがさね)・山吹(やまぶき)の浮織物(うきおりもの)の衣(きぬ)・紅(くれなゐ)のうちたる単(ひとへ)を重(かさ)ねられたり。白(しろ)くまろく肥(こ)えたる人の、眉(まゆ)いとふとくて、おひかけのはづれ、あなきよげと頼(たの)もしくぞ見(み)えられし。頭亮(とうのすけ)藤房、樺桜(かばざくら)の下襲(したがさね)・蘇芳(すはう)の浮織物(うきおりもの)の衣(きぬ)、弟(おとうと)の職事(しきじ)季房(すゑふさ)も、山吹(やまぶき)の下襲(したがさね)・紅(くれなゐ)の衣。衛府のすけ共(ども)は、うちこみたれば見(み)も別(わか)れず。別当左兵衛督(さひやうゑのかみ)資朝(すけとも)、はしり下部(しもべ)とかや言(い)ふ物八人に、地
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は皆(みな)銀(しろかね)を延(の)べたるにやと見(み)ゆるに、鶴(つる)の丸を黄(き)に磨(みが)きたる、好(この)ましうきよげ也。
舞人(まひびと)にも、良(よ)き家の子共(ども)を選(えら)び整(ととの)へられたり。一(いち)の左に、中(なか)の院(ゐん)の前の大納言(だいなごん)道顕の子通冬少将、まだいとちいさきに、童(わらは)なども同(おな)じ程(ほど)なるを、好(この)み整(ととの)へて、いと清(きよ)らにいみじうし立(た)てて、秦(はた)の久俊(ひさとし)と言(い)ふ御随身(みずいじん)をぞ具(ぐ)せられたる。右に久我の少将通宣、いたく過(す)ぐしたる程(ほど)にて、ひげがちに、ねび給(たま)へるかたちして、ちいさきに立(た)ち並(なら)ばれたる、いとたとしへ無(な)くぞ見(み)えし。それより次々(つぎつぎ)は、むつかしさに忘(わす)れぬ。大将の随身(ずいじん)共(ども)こそ、昔(むかし)の事(こと)はげには見(み)ねば知(し)らず、いとゆゆしく、誠(まこと)に花を折(を)るとはこれにやと、めでたう面白(おもしろ)かりし。左大将殿の随身(ずいじん)は、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の色も文(もん)も目(め)なれぬ様(さま)に好(この)ましきを、情(なさ)け無(な)きまでさながらだみて、ませに山吹(やまぶき)を、銀(しろかね)にてうち物にして、ひしとつけたり。花の色、重(かさ)なりなどまで、こまかに美(うつく)し。露を水晶(すいしやう)の玉にておきたる、朝日(あさひ)の輝(かかや)きて、すべていみじうぞ見(み)ゆる。西園寺(さいをんじ)の随身(ずいじん)も、同(おな)じ錦(にしき)なれど、松を結(むす)びて、鶴(つる)の丸(まる)を白と黄(き)とにうちてつけたる、山吹(やまぶき)よりは匂無(な)く見(み)ゆ。
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様々(さまざま)の神宝(しんぽう)・神馬(じんめ)・御てぐらなど、夜もすがら罵(ののし)りあかして、又の日の暮(く)れつ方(かた)返らせ給(たま)ひぬ。
同(おな)じ卯月十七日、賀茂の社に行幸なる。上達部(かんだちめ)など多(おほ)くは先(さき)に同(おな)じ。衣がへの下襲(したがさね)共(ども)、けぢめ無(な)くすずしげ也。別当の下部(しもべ)、此(こ)の度(たび)は十二人、かちんに雉(きじ)の尾(を)を白(しろ)ううち違(ちが)へてつけたる、これも掲焉(けちえん)に好(この)ましげ也。明くる日は祭(まつり)なれば、神館(かんだち)のかた、うち続(つづ)き花やかに面白(おもしろ)し。今日(けふ)の使(つか)ひは、徳大寺中将(ちゆうじやう)公清也。春宮の大夫公賢(きんかた)の聟(むこ)にて御座(おは)すればにや、左大臣の大炊御門(おほひのみかど)富小路の御家よりぞ出(い)で立(た)たれける。人がらと言(い)ひ、万(よろづ)めでたく見(み)ゆ。萌黄(もえぎ)の下襲(したがさね)、御家の紋(もん)のもかうを色々(いろいろ)に織(お)りたりしにや。近頃(ちかごろ)の使(つか)ひには似(に)ず、いといみじくきらめき給(たま)へり。中宮の使(つか)ひは亮(すけ)の藤房なり。此(こ)の頃(ごろ)、時にあひたる物なれば、いときよげに劣(おと)らぬ様(さま)也。
其(そ)の二十七日に任大臣の節会(せちゑ)行(おこな)はる。左大将経忠、右大臣にならせ給(たま)ふ。内大臣冬教、左にうつり給(たま)へば、右大将実衡(さねひら)内大臣になさる。又の日やがて右大臣殿、大饗(たいきやう)行(おこな)ひ給(たま)へば、尊者(そんじや)には内大臣参(まゐ)り給(たま)ふ。近衛殿(このゑどの)、此(こ)の頃(ごろ)は御悩(なや)みがち
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にてのみ臥(ふ)し給(たま)へれど、今日(けふ)の御悦に珍(めづら)しく出(い)で居(ゐ)させ給(たま)へり。法皇は、今(いま)は大覚寺(だいかくじ)殿(どの)にのみ御座(おは)しませば、大炊御門(おほひのみかど)の式部卿(しきぶきやう)の親王(みこ)の御家を、内大臣殿申し受(う)けて、同(おな)じ日大饗(たいきやう)し給(たま)ふ。尊者(そんじや)には右の大臣(おとど)、やがて我(わ)が御家の大饗(たいきやう)はつる儘(まま)に、引(ひ)き連(つ)れて渡(わた)り給(たま)へり。主(あるじ)も客人(まれびと)も、大将兼(か)ね給(たま)へれば、随身(ずいじん)共(ども)えならず経営(けいめい)して、かたみに気色(けしき)取(と)りかはしたる、いと面白(おもしろ)し。主(あるじ)の大臣(おとど)琵琶、右衛門督兼高(かねたか)篳篥(ひちりき)、隆資(たかすけ)の朝臣笙(しやう)、室町(むろまち)三位中将(ちゆうじやう)公春琴(こと)、教宗(のりむね)の朝臣笛、有頼宰相拍子(ひやうし)取(と)りて、遊(あそ)び暮(く)らし給(たま)ふ。御前(まへ)の物共(ども)など、常(つね)の作法(さほふ)に事(こと)を添(そ)へて、こまかに清(きよ)ら也。
其(そ)の後(のち)いく程(ほど)無(な)く、右大臣殿の御父君(ちちぎみ)前(さき)の関白殿家平(いへひら)、御悩(なや)み重(おも)くなり給(たま)ひて、御髪(みぐし)おろさる。俄(にはか)の事(こと)なれば、殿の内(うち)の人々(ひとびと)いみじう思(おも)ひ騒(さわ)ぎまどへり。此(こ)の殿(との)若(わか)く御座(おは)します頃(ころ)は、女にもむつましく御座(おは)しまして、此(こ)の右大臣殿なども出(い)で来(き)給(たま)ひける。中頃よりは、男(をとこ)をのみ御傍(かたはら)に臥(ふ)せ給(たま)ひて、法師(ほふし)のちごのやうに語(かた)らひ給(たま)ひつつ、ひと渡(わた)りづつ、いと花(はな)やかに時(とき)めかし給(たま)ふ事、けしからざりき。左兵衛督(さひやうゑのかみ)忠朝(ただとも)と言(い)ふ人も、限(かぎ)り無(な)く御覚(おぼ)えにて、七八年が程(ほど)、いと
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めでたかりし。時過(す)ぎて其(そ)の後(のち)は、成定と言(い)ふ諸大夫(しよだいぶ)いみじかりき。此(こ)の頃は又(また)、隠岐(おき)の守(かみ)頼基(よりもと)と言(い)ふもの、童(わらは)なりし程(ほど)より、いたくまとはし給(たま)ひて、昨日今日(けふ)までの御召人(めしうど)なれば、御髪(みぐし)おろすにも、やがて御供(とも)仕(つかうまつ)りけり。病おもらせ給(たま)ふ程(ほど)も、夜(よる)昼(ひる)御傍(かたはら)はなたず遣(つか)はせ給(たま)ふ。既(すで)に限(かぎ)りになり給(たま)へる時(とき)、此(こ)の入道も御後(うし)ろに候(さぶら)ふに、よりかかりながら、きと御覧(ごらん)じ返(かへ)して、「あはれ、諸共(もろとも)に出(い)で行(ゆ)く道ならば、嬉(うれ)しかりなん」と、宣(のたま)ひも果(は)てぬに、御息(いき)とまりぬ。右大臣殿も御前に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。かくいみじき御気色(けしき)にて果(は)て給(たま)ひぬるを、心憂(う)しと思(おぼ)されけり。さて其(そ)の後(のち)、彼(か)の頼基(よりもと)入道も病(やまひ)づきて、あと枕(まくら)も知(し)らずまどいながら、常(つね)は人に畏(かしこ)まる気色(けしき)にて、衣引(ひ)きかけなどしつつ、「やがて参(まゐ)り侍(はべ)る参(まゐ)り侍(はべ)る」と一人(ひとり)ごちつつ、程(ほど)無(な)く失(う)せぬ。粟田(あはた)の関白の隠(かく)れ給(たま)ひにし後(のち)、「夢見(み)ず」と、歎(なげ)きし者(もの)の心地(ここち)ぞする。故殿のさばかり思(おぼ)されたりしかば、めし取(と)りたるな(ン)めりとぞ、いみじがりあへりし。



校註 増鏡

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第十七 春の別(わか)れ
卯月の末つ方(かた)より、法皇御悩(なや)み重(おも)くならせ給(たま)へば、天(あめ)の下(した)の騒(さわ)ぎ思(おも)ひやるべし。御門(みかど)もいみじく思(おぼ)し歎(なげ)き、御修法(みしゆほふ)共(ども)、いとこちたく、又々始(はじ)め加(くは)へさせ給(たま)へど、しるしも無(な)くて日々に重(おも)らせ給(たま)へば、夜(よる)昼(ひる)と無(な)く「いかにいかに」と訪(とぶら)ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。若(わか)き上達部(かんだちめ)などは、直衣(なほし)に柏(かしは)ばさみして、夜中暁(あかつき)と無(な)く、遙(はる)けき嵯峨野(さがの)を、寮(れう)の御馬(うま)にて馳(は)せ歩(あり)き給(たま)ふめり。今(いま)はむげに頼(たの)み無(な)き由(よし)聞(き)こゆれば、大覚寺(だいかくじ)殿(どの)へ行幸、有(あ)りしこと思(おぼ)し出(い)づ。万(よろづ)の事共(ども)聞(き)こえさせ給(たま)ふ。上(うへ)の一(ひとつ)御腹(おんはら)の二品法親王性円と聞(き)こゆるを、いと悲(かな)しき物に思ひ聞(き)こえさせ給(たま)ひて、此(こ)の大覚寺(だいかくじ)に、そこらの御庄(みさう)・御牧(みまき)などを寄(よ)せ給(たま)ふ。法(ほふ)の主(あるじ)として御座(おは)しますべく思(おぼ)しおきてけり。さやうの事(こと)など、見給(たま)へざらんあと、後(うし)ろめたから
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ぬ様(さま)などぞ聞(き)こえさせ給(たま)ひける。
其(そ)の後(のち)、御孫(うまご)の春宮行啓(ぎやうげい)有(あ)り。世を知(し)ろし召(め)さむ時の御心(おんこころ)遣(づかひ)など、今(いま)少(すこ)し、こまやかに聞(き)こえ知(し)らせ給(たま)ふ。宮は先帝(せんだい)の御代(か)はりにも、いかで心の限(かぎ)り仕(つかうまつ)らんと、あらまし思(おぼ)されつるに、あかず口惜(くちを)しうて、いたうしほたれさせ給(たま)ふ。御門(みかど)の御なからひ、うはべはいとよけれども、まめやかならぬを、いと心苦(ぐる)しと思(おぼ)さるれど、言(こと)に出(い)で給(たま)ふべきならねば、只(ただ)大方(おほかた)につけて、世にあるべきこと共(ども)、又此(こ)の頃少(すこ)し世に恨(うら)みあるやうなる人々(ひとびと)の、我(わ)が御心(おんこころ)にはあはれと思(おぼ)さるるなど数多(あまた)あるをぞ、御心(おんこころ)の儘(まま)なる世にもなりなん時は、必(かなら)ず御用意(ようい)あるべくなど、聞(き)こえ給(たま)ひける。中御門の大納言(だいなごん)経継(つねつぐ)・六条の中納言有忠・右衛門督教定・左衛門佐俊顕など聞(き)こえし人々(ひとびと)の事(こと)にや有(あ)りけん。さて其(そ)の夜はとまり給(たま)へるも知(し)ろし召(め)さで、夜(よ)うち深(ふ)けて、少(すこ)し驚(おどろ)かせ給(たま)ひて、「春宮はいつ返(かへ)り給(たま)ひぬるぞ」と宣(のたま)ふに、うち声(こわ)づくりて、近(ちか)く参(まゐ)り給(たま)へれば、「未(いま)だ御座(おは)しましけるな」とて、いとらうたしと思(おぼ)されたる御気色(けしき)あはれ也。大方(おほかた)の気色(けしき)、院の内(うち)のかいしめりたる有様(ありさま)など、万(よろづ)思(おぼ)しめぐらすに、
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いと悲(かな)しきこと多(おほ)かれば、宮、うち泣(な)き給(たま)ひぬ。心(こころ)細(ぼそ)ういみじとのみ思(おぼ)さるるに、正中元年(ぐわんねん)六月二十五日、遂(つひ)に隠(かく)れさせ給(たま)ひぬ。御年(おんとし)五十八にぞならせ給(たま)ひける。後宇多院と申(まう)すなるべし。御門又御服(ぶく)奉(たてまつ)る。あけくれ懇(ねんご)ろに孝(けう)じ奉(たてまつ)り給ふ様(さま)、いと忝(かたじけな)し。御女の皇后宮と聞(き)こえし、今(いま)は達智門院と申すも、まいて一所(ひとところ)をのみ頼(たの)み聞(き)こえさせ給(たま)へるに、心(こころ)細(ぼそ)ういみじと思(おぼ)し歎(なげ)くこと限(かぎ)り無し。昔(むかし)の内侍のかんの殿、近頃(ちかごろ)院号(ゐんがう)有(あ)りて万秋門院と聞(き)こゆるも、故(こ)院の御影(かげ)にてのみ過(す)ぐし給(たま)へれば、より所無(な)くあはれげ也。御四十九日は八月十日余(あま)りの程(ほど)なれば、世の気色(けしき)何(なに)と無(な)くあはれ多(おほ)かるに、女院・宮達(たち)の御心(おんこころ)の中(うち)共(ども)、朝霧(あさぎり)よりも晴(は)れ間(ま)無し。十五夜の月さへかき曇(くも)れるに、故(こ)院の御位の時に、宰相(さいしやう)の典侍(すけ)とて候(さぶら)ひしは、雅有(まさあり)の宰相の女也。其(そ)の世の古(ふる)き友(とも)なれば、同(おな)じ心ならんと思(おぼ)しやるもむつましくて、万秋門院より宣(のたま)ひ遣(つか)はす。
あふぎ見(み)し月も隠(かく)るる秋なれば理(ことわり)知(し)れと曇(くも)る空かな W
いとあはれに悲(かな)しと見(み)奉(たてまつ)りて、御返(かへ)し、宰相(さいしやう)の典侍(すけ)、
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光無(な)き世は理(ことわり)の秋の月涙添(そ)へてや猶(なほ)曇(くも)るらむ W
永嘉門院(えいかもんゐん)・西花門院(せいくわもんゐん)など、いづれも思(おぼ)し歎(なげ)く人々(ひとびと)多(おほ)かり。春宮もいと恋しくあはれとのみ思ひ聞(き)こえ給ふ儘(まま)に、御法事(ほふじ)をぞまめやかに勤(つと)めさせ給(たま)ひける。大覚寺(だいかくじ)にては、性円法親王取(と)り持(も)ちて行(おこな)はせ給(たま)ふ。御門・春宮の御法事(ほふじ)は、亀山殿の大多勝院(だいたしようゐん)にて勤(つと)めらる。
あはれあはれと言(い)ひつつも、過(す)ぎやすき月日(つきひ)のみ移(うつ)り変(か)はりて、年もかへりぬ。一昨年(をととし)ばかりより、又重(かさ)ねて撰集(せんじゆ)のこと仰(おほ)せられしを、為世の大納言(だいなごん)、二度(ふたたび)になりぬればにや、為藤の中納言に譲(ゆづ)りしを、いく程(ほど)無(な)く彼(か)の中納言悩(なや)みて失(う)せぬ。いといとほしうあはれなり。故為道の朝臣の失(う)せにし、只(ただ)年月(としつき)ふれど、絶(た)えぬ恨(うら)みなるに、又かく取(と)り重(かさ)ねたる歎(なげ)き、大納言(だいなごん)の心の中(うち)言(い)はん方(かた)無し。春宮よりしばしば訪(とぶら)はせ給(たま)ふ御消息(せうそこ)のついでに、
後(おく)れゐる鶴(つる)の心もいかばかり先(さき)だつ和歌(わか)のうらみなるらん W
御返(かへ)し、大納言(だいなごん)為世、
思(おも)へ只(ただ)和歌(わか)の浦(うら)には後(おく)れ居(ゐ)て老いたるたづの歎(なげ)く心を W
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世に歌詠(よ)むと思(おぼ)しき人の、あはれがり歎(なげ)かぬは無し。「せめて勅撰の事撰(えら)びはつるまで、などかは」とぞ、一族(ひとぞう)の歎(なげ)き、いとほしげ也。故為道の中将(ちゆうじやう)の二郎為定と言(い)ふを、故中納言とりわき子にして、何事(なにごと)も言(い)ひつけしかば、撰歌(せんか)の事(こと)もうけつぎて、沙汰(さた)すべきなどぞ聞(き)こゆる。大納言(だいなごん)は、末の子為冬少将と言(い)ふをいたくらうたがりて、此(こ)の紛(まぎ)れに引(ひ)きや越(こ)さましと思(おも)へる気色(けしき)有(あ)りとて、為定もうらみ歎(なげ)きて、山伏(やまぶし)姿(すがた)に出(い)で立(た)ちて、修行(しゆぎやう)に出(い)で失(う)せぬるなど言(い)ひ沙汰すれば、人々(ひとびと)いとほしうあはれになどもてあつかへど、さすが求(もと)め出(い)だして、もとのやうにおだしく定(さだ)まりぬとなん。
其(そ)の頃、長月(ながつき)ばかり、まだしののめの程(ほど)に、世の中(なか)いみじく騒(さわ)ぎ罵(ののし)る。何事(なにごと)にかと聞(き)けば、美濃(みの)の国の兵(つはもの)にて、土岐(とき)の十郎とかや、又多治見(たぢみ)の蔵人(くらうど)など言(い)ふ者共(ども)忍(しの)び上(のぼ)りて、四条わたりに立(た)ちやどりたる事有(あ)りて、人に隠(かく)れて居(を)りけるを、早(はや)う又告(つ)げ知(し)らする物有(あ)りければ、俄(にはか)に其(そ)の所へ六波羅(ろくはら)より押(お)し寄(よ)せて、搦(から)め捕(と)る也けり。あらはれぬとや思ひけん、彼(か)の物共(ども)は、やがて腹(はら)切(き)りつ。又、別当資朝(すけとも)・蔵人の内記俊基(としもと)、同(おな)じやうに武家へ捕(と)られて、きびしく尋(たづ)ねとひ、
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まもり騒(さわ)ぐ。事(こと)の起(お)こりは、御門世を乱(みだ)り給(たま)はんとて、彼(か)の武士(もののふ)共(ども)を召(め)したる也とぞ、言(い)ひあつかふめる。さて、其(そ)の宣旨(せんじ)なしたる人々(ひとびと)とて、此(こ)の二人(ふたり)をも東(あづま)へ下(くだ)して、いましむべしとぞ聞(き)こゆる。いかさまなる事(こと)の出(い)で来(く)べきにかと、いと恐(おそ)ろしくむつかし。「故(こ)院御座(おは)しましし程(ほど)は、世(よ)ものどかにめでたかりしを、いつしか、かやうの事(こと)共(ども)出(い)で来(き)ぬるよ」と、人の口(くち)安(やす)からざるべし。正応にも、浅原(あさはら)と言(い)ひし騒(さわ)ぎは、後嵯峨院の御処分(そうぶん)を、東(あづま)より引(ひ)き違(たが)へし御恨(うら)みとこそは聞(き)こえしか。今(いま)も其(そ)の御憤(いきどほ)りの名残(なごり)なるべし。過(す)ぎにし頃、資朝(すけとも)も山伏(やまぶし)のまねびして、柿(かき)の衣(ころも)にあやゐ笠(がさ)と言(い)ふ物着(き)て、東(あづま)の方(かた)へ忍(しの)びて下(くだ)れりしは、少(すこ)しは怪(あや)しかりし事(こと)也。早(はや)うかかること共(ども)につけて、あなたざまにも、宣旨(せんじ)を受(う)くる者(もの)の有(あ)りけるなめり。俊基も紀伊国へ湯浴(ゆあみ)に下(くだ)るなど言(い)ひなして、田舎(ゐなか)歩(あり)きしげかりしも、今(いま)ぞ皆人(みなひと)思(おも)ひ合(あ)はせける。
さる儘(まま)には、言(い)ひ知(し)らず聞(き)こゆること共(ども)あれば、まだきに、いと口惜(くちを)しう思(おぼ)されて、此(こ)の事(こと)を、先(ま)づおだしく止(や)めむと思(おぼ)せば、彼(か)の正応に有(あ)りしやうなる誓(ちか)ひの御消息(せうそこ)を遣(つか)はす。宣房(のぶふさ)の中納言、御使(つか)ひにて東(あづま)に下(くだ)る。大方(おほかた)、古(ふる)き御世より
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仕(つか)へきて、年(とし)もたけたる上(うへ)、此(こ)の頃(ころ)は、天(あめ)の下にいさぎよくむべむべしき人に思(おも)はれたる頃なれば、此(こ)の事更(さら)に御門(みかど)の知(し)ろし召(め)さぬ由(よし)など、けざやかに言(い)ひなすに、荒(あら)き夷(えびす)共(ども)の心にも、いと忝(かたじけな)き事(こと)となごみて、無為(ぶい)なるべく奏(そう)しけり。此(こ)の御使(つか)ひの賞(しやう)にや、宣房(のぶふさ)、大納言(だいなごん)になされぬ。いといみじき幸(さいは)ひ也。親(おや)は三位ばかりにて入道してき。子(こ)共(ども)などさへいときよげにて、数多(あまた)あ(ン)めり。然(さ)れば、おほやけは知(し)ろし召(め)されぬにても、彼(か)の人々(ひとびと)は逃(のが)るべき方(かた)無しとて、別当は佐渡(さど)の国へ流(なが)されぬ。俊基は、いかにして逃(のが)れぬるにか、都(みやこ)へ返(かへ)りぬれど、有(あ)りしやうには出(い)で仕(つか)へず、篭(こも)り居(ゐ)たる由(よし)なり。かやうにて、事(こと)無(な)く静(しづ)まりぬれば、いとめでたけれど、上(うへ)の御心(おんこころ)の中(うち)は、猶(なほ)安(やす)からず、いかならむ時とのみ思(おも)ほし渡(わた)るべし。
月日(つきひ)程(ほど)無(な)く移(うつ)り行(ゆ)きて、嘉暦元年(ぐわんねん)になりぬ。三月(やよひ)の初(はじ)めつ方(かた)より、春宮例(れい)ならず御座(おは)しまして、日々に重(おも)らせ給(たま)ふ。様々(さまざま)の御修法(みしゆほふ)共(ども)始(はじ)め、御祈(いの)り、何(なに)やかやと、伊勢にも御使奉(たてまつ)らせ給(たま)へど、甲斐(かひ)無(な)くて、三月二十日、遂(つひ)にいとあさましくならせ給(たま)ひぬ。宮の内(うち)、火を消(け)ちたる心地(ここち)して、惑(まど)ひあへり。御乳母(めのと)
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の対(たい)の君と言(い)ふ人、夜(よる)昼(ひる)御傍(かたはら)去(さ)らず候(さぶら)ひなれたるに、いみじき心惑(まど)ひ、誠(まこと)にをさめがたげなり。限(かぎ)りと見(み)え給ふ御顔(かほ)に差(さ)し寄(よ)りて、「かく残(のこ)りなき身を御覧(ごらん)じ捨(す)てては、え御座(おは)しましやらじ。今(いま)一度(ひとたび)、御声(こゑ)なりとも聞(き)かせ〔させ〕給(たま)ひて、いづ方(かた)へも御供(とも)に率(ゐ)て御座(おは)しましてよ」と、声(こゑ)も惜(を)しまず泣(な)き入(い)り給(たま)へる様(さま)、いとあはれ也。すべて、宮の内(うち)とよみ悲(かな)しぶ様(さま)、言(い)はん方(かた)無し。永嘉門院(えいかもんゐん)は御子も御座(おは)しまさねば、年月(としつき)此(こ)の宮を故院聞(き)こえつけさせ給(たま)ひしかば、今(いま)も一(ひと)つ院に御座(おは)します。御息所(みやすどころ)にも、やがて、故院の姫宮(ひめみや)を女院の御傍(かたはら)にかしづき聞(き)こえ給(たま)ひしを、合(あ)はせ奉(たてまつ)り給(たま)へれば、又なき様(さま)に思(おぼ)しかはして過(す)ぐさせ給(たま)へるなど、いみじう沈(しづ)み入(い)り給(たま)へり。
さてあるべきならねば、常(つね)の行啓(ぎやうげい)の様(さま)にて、先帝(せんだい)の御座(おは)しましし北白河殿へぞ入(い)れ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひぬる。土用(どよう)の程(ほど)にて、しばし彼処(かしこ)に御座(おは)しますさへいと悲(かな)し。院号(ゐんがう)などの沙汰(さた)もあるべくこそ。然(さ)れど、御座(おは)しましし時に、其(そ)の事(こと)は由(よし)無(な)かるべく仰(おほ)せられ置(お)きしかば、内よりも聞(き)こし召(め)しすぐしけり。昼(ひ)の御座(ござ)のよそひ取(と)り毀(こぼ)ち、火(ひ)たき屋(や)などかき払(はら)ふ程(ほど)、猶(なほ)うつつとも覚(おぼ)えず。堀川(ほりかは)の女御
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の、「見(み)えし思ひの」など宣(のたま)ひけんは、此(こ)の世ながら御心(おんこころ)との御あかれなれば、羨(うらや)ましくさへ覚(おぼ)ゆ。差(さ)しあたりてのあはれはさておきて、先帝(せんだい)の御位(くらゐ)ながら失(う)せ給(たま)へりしだにあるを、又かく、半(なか)ばなるやうにて、あさましければ、世の人の思はん事(こと)も心憂(う)く、一方(ひとかた)ならぬ歎(なげ)きに添(そ)へたる憂(うれ)へ、言(い)はん方(かた)無し。大方、我(わ)が身を限(かぎ)り果(は)てぬると思(おも)ふ人のみ多(おほ)かりき。
有忠(ありただ)の中納言、先坊(せんばう)の御使(つか)ひにて東(あづま)に下(くだ)りにし、いつしかと思(おも)ふ様(さま)ならん事(こと)をのみ待(ま)ち聞(き)こえつる、践祚(せんそ)の御使(つか)ひの都(みやこ)に参(まゐ)らんと同(おな)じやうに上(のぼ)らんとて、未(いま)だ彼処(かしこ)にも乗(の)せられつるに、かくあやなき事(こと)の出(い)で来(き)ぬれば、いみじとも更(さら)なり。三月三十日(つごもり)、やがて彼処(かしこ)にて頭(かしら)おろす。心のうちさこそはと悲(かな)し。
大方(おほかた)の春の別(わか)れの外(ほか)に又我(わ)が世つきぬる今日(けふ)のくれかな W
都(みやこ)にも、前(さき)の大納言(だいなごん)経継・四条の三位隆久・山の井の少将敦季(あつすゑ)・五辻少将長俊(ながとし)・公風(きんかぜ)の少将・左衛門佐俊顕(としあき)など、皆(みな)頭(かしら)おろしぬ。女房には、御息所(みやすどころ)の御方(かた)・対(たい)の君・帥君(そちのきみ)・兵衛督(ひやうゑのかみ)・内侍の君など、すべて男(をとこ)女、三十余人(よにん)様(さま)変(か)はりてけり。やむごとなき君の御時も、かくばかりの事(こと)はいと有(あ)り難(がた)きを、仏などの現(あら)はれ給(たま)ひ
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て、ことさらに迷(まよ)ひ深(ふか)き衆生を導(みちび)き給(たま)ふかとまで見(み)えたり。御本上(ほんじやう)のいとなごやかに御座(おは)しまししかば、近(ちか)う仕(つかうまつ)る限(かぎ)りの人は、年頃(としごろ)の御名残(なごり)を思(おも)ふもいと忍(しの)び難(がた)き上(うへ)、大方(おほかた)の世にも差(さ)し放(はな)たれて、身をえう無(な)き物に思(おも)ひ捨(す)つる類(たぐひ)など、様々(さまざま)につけて、厭(いと)ひ背(そむ)くなるべし。若宮(わかみや)三所、姫宮(ひめみや)なども御座(おは)しましけり。御息所(みやすどころ)の御腹(おんはら)には有(あ)らねど、いづれをも今(いま)は昔(むかし)の御形見(かたみ)とあはれに見奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。卯月の末つ方(かた)、夏木立(なつこだち)心よげに茂(しげ)り渡(わた)れるも、羨(うらや)ましくながめさせ給(たま)ふ。暁(あかつき)がた、ほととぎすの鳴(な)き渡(わた)るも、「いかに知(し)りてか」と、御涙の催(もよほ)しなり。
諸共(もろとも)に聞(き)かまし物を郭公枕(まくら)並(なら)べし昔(むかし)なりせば W
誠(まこと)や、例(れい)の先(さき)に聞(き)こゆべき事(こと)を、時違(たが)へ侍(はべ)りにけり。兵衛督(ひやうゑのかみ)為定、故中納言のあとを受(う)けて撰(えら)びつる撰集の事、正中二年十二月の頃(ころ)、先(ま)づ四季を奏(そう)する由(よし)聞(き)こえし残(のこ)り、此(こ)の程(ほど)世にひろまれる、いと面白(おもしろ)し。御門(みかど)、事(こと)の外(ほか)にめでさせ給(たま)ひて、続後拾遺とぞ言(い)ふなる。中宮大夫師賢(もろかた)承(うけたまは)りて、此(こ)の度(たび)の集のいみじき由(よし)、様々(さまざま)仰(おほ)せ遣(つか)はしたるに、御返(かへ)しに、為定、
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今(いま)ぞ知(し)る集(あつ)むる玉(たま)の数々(かずかず)に身を照(て)らすべき光有(あ)りとは W
御返(かへ)し、内の御製(ぎよせい)
数々(かずかず)に集(あつ)むる玉の曇(くも)らねばこれも我(わ)が世の光(ひかり)とぞなる W
此(こ)の大夫は、もとより中(なか)良(よ)きどちにて、常(つね)に消息(せうそこ)など遣(つか)はすに、かく世にほめらるるをいとよしと思(おも)ひて、兵衛督(ひやうゑのかみ)のもとへ言(い)ひやる。
和歌(わか)の浦(うら)の浪(なみ)も昔(むかし)に帰(かへ)りぬと人より先(さき)に聞(き)くぞ嬉(うれ)しき W
返(かへ)し、
和歌(わか)の浦や昔(むかし)にかへる波ぞともかよふ心に先(ま)づぞ聞(き)くらむ W
此(こ)の為定のはらから、中宮に宣旨(せんじ)にて候(さぶら)ふも、上(うへ)、例(れい)の時めかし給(たま)ひて、若宮(わかみや)出(い)で物(もの)し給(たま)へり。其(そ)の宮の御乳母(めのと)は、師賢大納言(だいなごん)承(うけたまは)りて、いみじうかしづき奉(たてまつ)らる。又宮の内侍の御腹(おんはら)にも、次々(つぎつぎ)、いと数多(あまた)御座(おは)します。一の御子(みこ)は、藤大納言(だいなごん)の御腹(おんはら)、吉田の大納言(だいなごん)定房の家に渡(わた)らせ給(たま)ふ。二の御子(みこ)も、いときらきらしうて、源大納言(だいなごん)親房の御預(あづ)かりなり。かく様々(さまざま)に御座(おは)しますを、此(こ)の度(たび)いかで坊にと思(おぼ)しつれど、予(かね)てより、催(もよほ)し仰(おほ)せられし
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事(こと)なれば、東(あづま)より人参(まゐ)りて、本院の一の宮を定(さだ)め申しつ。いとけやけく聞(き)こし召(め)せど、いかがはせむにて、七月二十四日に、皇太子の節会(せちゑ)行(おこな)はる。陣の座より引(ひ)き渡(わた)して、持明院(ぢみやうゐん)殿(どの)に人々(ひとびと)参(まゐ)る。院の殿上にて禄(ろく)など賜(たま)はる。常(つね)の事(こと)なれど、俄(にはか)にいとめでたし。
八月になりて、陽徳門院(やうとくもんゐん)の土御門(つちみかど)東(ひんがし)の洞院(とうゐん)殿(どの)へ行啓(ぎやうげい)始(はじ)め有(あ)り。先坊の宮は鷹司(たかつかさ)なれば、間近(まぢか)き程(ほど)に、世のおとなひ聞(き)こし召(め)す入道(にふだう)の宮・女院などの御心(おんこころ)の中(うち)、今更(いまさら)にいと悲(かな)し。本院・新院一(ひと)つ御車に奉(たてまつ)りて、先(さき)立(だ)ちて入(い)らせ給(たま)ふ。行啓(ぎやうげい)は東(ひんがし)の洞院(とうゐん)おもての棟門(むねもん)に御車止(とど)めて、中門まで筵道(えんだう)をしきて歩(あゆ)み入(い)らせ給(たま)ふ。御びんづら結(ゆ)いて、いときびはに美(うつく)しげ也。十四ばかりにや御座(おは)しますらん。宮司(みやづかさ)共(ども)、院の殿上人など多(おほ)く仕(つかうまつ)れり。花開(ひら)けたる心地(ここち)共(ども)すべし。あはれなる世の習(なら)ひなりかし。
かくて今年(ことし)も暮(く)れぬれば、嘉暦も二年に成りぬ。一の宮御冠(かうぶり)し給(たま)ひて、中務(なかづかさ)の卿(かみ)尊良(たかよし)の親王(しんわう)と聞(き)こゆ。去年(こぞ)より内に御宿直所(とのゐどころ)して渡(わた)らせ給(たま)ふ。正月(むつき)の十六日の節会(せちゑ)に珍(めづら)しく出(い)で給(たま)ふ。御門(みかど)も、徳治の頃、帥(そち)にて、七日の節に出(い)で
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させ給(たま)へりし例(ためし)、思(おぼ)し出(い)づるにや。大方(おほかた)、古(ふる)くは、皆(みな)さこそ有(あ)りけれど、近頃(ちかごろ)は、いたくかやうには無(な)かりつるを、御子達(たち)、御冠(かうぶり)の後は、いづれも昔(むかし)覚(おぼ)えて、さるべき折々(をりをり)出(い)で仕(つか)へさせ給(たま)ふめり。今日(けふ)の節会(せちゑ)は、常(つね)より異(こと)に引(ひ)きつくろはるるなるべし。親王(みこ)は蘇芳(すはう)の上(うへ)のきぬ奉(たてまつ)れり。左大臣冬教・右大臣経忠・内大臣基嗣・右大将公賢(きんかた)・権大納言(だいなごん)顕実(あきざね)・藤中納言実任(さねたふ)・別当光経・三条の中納言実忠・左衛門督公泰・権中納言藤房、宰相には惟継(これつぐ)・親賢(ちかかた)・為定・冬信(ふゆのぶ)・国資など参(まゐ)れり。二の宮は西園寺(さいをんじ)の宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)実俊の女の御腹(おんはら)也。帥(そち)の親王(みこ)世良の親王(しんわう)と聞(き)こゆ。照慶門院(せうけいもんゐん)、とりわき養(やしな)ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。此(こ)の宮は、御乳母(めのと)源大納言(だいなごん)親房也。それも内々(うちうち)、上(うへ)の御衣(ぞ)にて、御門(みかど)南殿(なんでん)へ出(い)でさせ給(たま)へば、御供(とも)に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。又常盤井(ときはゐ)の式部卿(しきぶきやう)の宮は、亀山院の御子なれば、当代(たうだい)といと懇(ねんご)ろなる御中(なか)にて、此(こ)の御子達(たち)と同(おな)じやうに、常(つね)はうちつれ御宿直(とのゐ)などせさせ給(たま)ふ。今日(けふ)も御参(まゐ)り有(あ)りて、御子(みこ)達(たち)歩(あゆ)み続(つづ)かせ給(たま)へる、いと面白(おもしろ)し。若(わか)き女房などは、心遣(づかひ)異(こと)なる頃(ころ)ならんかし。
二月(きさらぎ)になれば、やうやう故(こ)宮の御一めぐりの事共(ども)、永嘉門院(えいかもんゐん)には営(いとな)ま
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せ給(たま)ふも、あはれつきせず。鷹司(たかつかさ)の大殿も失(う)せ給(たま)ひぬ。此(こ)の頃(ごろ)の世には、いと重(おも)くやむごとなく物(もの)し給(たま)へるに、いとあたらし。北政所は中(なか)の院(ゐん)の内の大臣(おとど)通重(みちしげ)の御はらからなり。それも様(さま)変(か)はり給(たま)ひぬ。近頃(ちかごろ)、良(よ)き人々(ひとびと)多(おほ)く失(う)せ給(たま)ひぬるこそ、〔いと〕口惜(くちを)しけれ。



校註 増鏡

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第十八 むら時雨
竹の園生(そのふ)は茂(しげ)けれど、秋の宮の御腹(おんはら)には、只(ただ)一品(いつぽん)内親王ばかり物(もの)し給(たま)ふを、いとあかず思(おも)ほし渡(わた)るに、此(こ)の頃(ごろ)珍(めづら)しき御悩(なや)みの由(よし)聞(き)こゆれば、いとめでたく有(あ)らまほしき御ことなるべきにやと、上(うへ)もいみじく思(おぼ)されて、予(かね)てより御修法(みしゆほふ)共(ども)こちたく始(はじ)めらる。まして、其(そ)の程(ほど)近(ちか)くならせ給(たま)ひぬれば、式部卿(しきぶきやう)の宮の常盤井殿(ときはゐどの)へ出(い)でさせ給(たま)ひて、上(うへ)も二、三日隔(へだ)てず思(おも)ひ御座(おは)します。陣の内(うち)なれば、上達部(かんだちめ)・殿上人、夜(よる)昼(ひる)と無(な)く袴(はかま)のそば取(と)りて参(まゐ)り違(ちが)ふ。御兄(せうと)の兼季の大臣(おとど)も、絶(た)えず候(さぶら)ひ給(たま)ふ。いみじき世の騒(さわ)ぎなり。故入道殿、今(いま)しばし御座(おは)せましかばと、思(おぼ)し出(い)づる人々(ひとびと)多(おほ)かり。山・三井寺(みゐでら)・山階寺(やましなでら)・仁和寺(にんわじ)、
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すべて大法(だいほふ)・秘法(ひほふ)・祭(まつ)り・祓(はら)へ、数(かず)を尽(つ)くして罵(ののし)る様(さま)、いと頼(たの)もし。七仏薬師(やくし)の法(ほふ)は、青蓮院(しやうれんゐん)の二品法親王慈道(じだう)勤(つと)めさせ給(たま)ふ。金剛童子(こんがうどうじ)、常住院(じやうぢゆうゐん)の道昭(だうせう)僧正、如意輪の法、道意(だうい)僧正、五壇(ごだん)の御修法(みしゆほふ)の中壇(ちゆうだん)は、座主(ざす)の法親王行(おこな)はせ給(たま)ふ。如法(によほふ)仏眼〔の法〕は、昭訓門院(せうきんもんゐん)の御志(こころざし)にて、慈勝(じせう)僧正承(うけたまは)り行(おこな)ふ。一字金輪(きんりん)は、浄経(じやうきやう)僧正、如法(によほふ)尊勝は桓守(くわんしう)僧正、愛染王(あいぜんわう)は賢助僧正、六字法は聖尋僧正、准胝法(じゆんでいほふ)は達智門院の御沙汰にて信耀(しんえう)僧正つとめらる。其(そ)の外、猶(なほ)本坊にて様々(さまざま)の法共(ども)行(おこな)はせらる。六月ばかりいみじう暑(あつ)き程(ほど)に、壇(だん)共(ども)軒(のき)をきしりて、護摩(ごま)の煙満(み)ち満(み)ちたる様(さま)、いとおどろおどろしきまでけぶたし。社々の神馬(じんめ)は更(さら)にも言(い)はず、医師(くすし)・陰陽師(おんやうじ)・巫(かんなぎ)共(ども)立(た)ち騒(さわ)ぎ、世のひびく様(さま)、めでたくゆゆしきにも、もし皇子(わうじ)にて御座(おは)しまさざらん折(をり)、いかにと思(おも)ふだに、胸(むね)つぶるるに、いかなる御事(こと)にか、怪(あや)しう、さるべき程(ほど)もうち過(す)ぎ行(ゆけ)ば、猶(なほ)しばしはさこそあれなど、待(ま)ち聞(き)こゆれど、更(さら)につれなくて、十七八、二十、三十月にも余(あま)らせ給(たま)ふまで、ともかくも御座(おは)しまさねば、今(いま)はそらごとのやうにぞなりぬる。大方、上下の人の心地(ここち)、あさましとも言(い)ふべき際(きは)ならず。御産屋(うぶや)の儀式(ぎしき)、あるべきこと共(ども)など、こちたき
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まで催(もよほ)し置(お)かれ、よろしき家の子共(ども)、二親(ふたおや)うち具(ぐ)したる選(えら)ばれしかど、ここらの月頃(ごろ)には、あるは服(ぶく)になり、其(そ)の主(ぬし)も病(やまひ)して頭(かしら)おろしなど、すべて万(よろづ)あへなく珍(めづら)かなれば、言(い)はん方(かた)無し。
前坊(ぜんばう)のはじめつ方(かた)、中(なか)の院(ゐん)の内(うち)の大臣(おとど)通重(みちしげ)の御娘(むすめ)参(まゐ)り給(たま)ひて、十八月にて若宮(わかみや)生(む)まれ給(たま)へりしかど、やがて御子(みこ)も母御息所(みやすどころ)も失(う)せ給(たま)ひにしかば、いみじうあさましき事(こと)に言(い)ひ騒(さわ)ぎし程(ほど)に、又其(そ)の後、此(こ)のとまり給(たま)へる入道の宮参(まゐ)り給(たま)へりしも、十七月ばかりにや、只(ただ)ならず御座(おは)しまして、既(すで)に御気色(けしき)有(あ)りとて、宮の中(なか)立(た)ち騒(さわ)ぐ程(ほど)に、只(ただ)ゆくゆくと水のみ出(い)でさせ給(たま)ひて、昔(むかし)の弘徽殿(こきでん)の女御の、太秦(うづまさ)に有(あ)りけんやうにてやみき。折(をり)ふし、賀茂(かも)の祭(まつり)の頃(ころ)にて、春宮(とうぐう)の使もとどまりなどして、さやうの折々(をりをり)、人の口(くち)さがなさ、せめても、先坊の御方様(かたざま)の事(こと)を、おとしめざまに言(い)ひ悩(なや)ましし人々(ひとびと)も、此(こ)の頃(ごろ)ぞ、又かく勝(まさ)る例(ためし)も有(あ)りけりと、はしたなく思ひ合(あ)はせける。さのみやは、さてしも御座(おは)しますべきならねば、内へ返(かへ)り入(い)らせ給(たま)ふにも、いとあさましう珍(めづら)かなる事(こと)を、思(おぼ)し歎(なげ)くべし。御修法(みしゆほふ)共(ども)も、有(あ)りしばかりこそ無(な)けれど、猶(なほ)少(すこ)しづつは絶(た)えず、
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いつを限(かぎ)りにかと見(み)えたり。其(そ)の頃(ころ)、左の大臣(おとど)実泰(さねやす)も失(う)せ給(たま)ひぬ。世の中(なか)いみじく歎(なげ)きあへり。
かくて元徳元年(ぐわんねん)にもなりぬ。今年(ことし)はいかなるにか、しはぶきやみ流行(はや)りて、人多(おほ)く失(う)せ給ふ中(なか)に、伏見院の御母玄輝門院(げんきもんゐん)、前坊(ぜんばう)の御母代(ははしろ)の永嘉門院(えいかもんゐん)、近衛殿(このゑ)の大北政所など、やんごとなき限(かぎ)り、うち続(つづ)き隠(かく)れ給(たま)ひぬれば、此処(ここ)彼処(かしこ)の御法事(ほふじ)しげくて、いとあはれなり。かやうの事共(ども)にて、今年(ことし)も又暮(く)れぬ。明くる春の頃、内には中殿にて和歌(わか)の披講(ひかう)有(あ)り。序(じよ)は源大納言(だいなごん)親房書(か)かれけり。予(かね)てよりいみじう書(か)かせ給(たま)へば、人々(ひとびと)心遣(づかひ)すべし。題は「花(はな)に万春(ばんしゆん)を契(ちぎる)」とぞ聞(き)こえし。
御製(ぎよせい)、
時知(し)らず花も常盤(ときは)の色に咲(さ)け我(わ)が九重(ここのへ)の万世(よろづよ)の春 W
中務(なかづかさ)の卿(かみ)尊良(たかよし)の親王(しんわう)、
のどかなる雲井(くもゐ)の花の色にこそ万世(よろづよ)ふべき春は見(み)えけれ W
帥(そち)の御子(みこ)世良、
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百敷(ももしき)の御垣(みかき)の桜咲(さ)きにけり万世(よろづよ)までの春のかざしに W
次々(つぎつぎ)多(おほ)かれども、むつかし。
三月(やよひ)の頃(ころ)、春日(かすが)の社(やしろ)に行幸(ぎやうがう)し給(たま)ふ。例(れい)のいみじき見物(みもの)なれば、桟敷(さじき)共(ども)えも言(い)はずいどみ尽(つ)くしたり。其(そ)の後(のち)、日吉(ひよし)の社にも参(まゐ)らせ給(たま)ひき。今年(ことし)も人多(おほ)くにわか病(や)みして死(し)ぬる中(なか)に、帥(そち)の御子(みこ)重(おも)く悩(なや)ませ給(たま)ひて、いとあへ無(な)く失(う)せ給(たま)ひぬ。内の上(うへ)、思(おぼ)し歎(なげ)く事おろかならず。一の御子(みこ)よりも御才(ざえ)などもいと賢(かしこ)く、万(よろづ)きやうざくに物(もの)し給(たま)へれば、今(いま)より記録所(きろくじよ)へも御供(とも)に出(い)でさせ給(たま)ふ。議定(ぎぢやう)など言(い)ふ事(こと)にも参(まゐ)り給(たま)ふべしと聞(き)こえつるに、いとあさまし。御乳母(めのと)の源大納言(だいなごん)親房(ちかふさ)、我(わ)が世尽(つ)きぬる心地(ここち)して、取(と)りあへず頭(かしら)おろしぬ。此(こ)の人のかく世を捨(す)てぬるを、親王(しんわう)の御事(こと)にうち添(そ)へて、方々(かたがた)いみじく、御門(みかど)も口惜(くちを)しく思(おぼ)し歎(なげ)く。世にもいとあたらしく惜(を)しみあへり。
同(おな)じ年(とし)の冬の頃、平野北野(きたの)両社(りやうしや)に一度(ひとたび)に行幸なり。勧修寺(くわんじうじ)の殿ばら、昔(むかし)より近衛司(このゑづかさ)などにはならぬ事(こと)にて有(あ)りつれど、内の御乳母(めのと)吉田の大納言(だいなごん)定房、過(す)ぎにし頃(ころ)従一位して、いと珍(めづら)しくめでたければ、今(いま)は上臈(じやうらふ)とひとしきにや、幼(をさな)き
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子の宗房と言(い)ふも少将になさる。色ゆりなどして、此(こ)の平野の行幸(ぎやうがう)の舞人(まひびと)に参(まゐ)る。土御門(つちみかど)の大納言(だいなごん)顕実(あきざね)の子に、通房の中将(ちゆうじやう)、堀川(ほりかは)の大納言(だいなごん)具親(ともちか)の子の具雅(ともまさ)の中将(ちゆうじやう)など、皆(みな)良(よ)き君達(きんだち)舞人(まひびと)にさされて、いづれも清(きよ)らに美(うつく)しう出(い)で立(た)ちて仕(つかうまつ)られたり。其(そ)の外(ほか)は、くだくだしければ、例(れい)の止(とど)めつ。かやうのめでたき紛(まぎ)れにて過(す)ぎもて行(ゆ)く。
又の年の春、三月(やよひ)の初(はじ)めつ方(かた)、花御覧(ごらん)じに北山に行幸(ぎやうがう)なる。常(つね)よりも異(こと)に面白(おもしろ)かるべい度(たび)なれば、彼(か)の殿にも心遣(づかひ)し給(たま)ふ。先(ま)づ中宮行啓(ぎやうげい)、又の日行幸(ぎやうがう)、前(さき)の右の大臣(おとど)兼季参(まゐ)り給(たま)ひて、楽所(がくしよ)の事(こと)などおきて宣(のたま)ふ。康保の花の宴(えん)の例(ためし)など聞(き)こえしにや。北殿(きたどの)の桟敷(さじき)にて、内々(うちうち)試楽(しがく)めきて、家房の朝臣舞(ま)はせらる。御簾(みす)の内(うち)に大納言(だいなごん)二位殿、播磨(はりま)の内侍など、琴(こと)かき合(あ)はせて、いと面白(おもしろ)し。六日の辰(たつ)の時(とき)に事(こと)始(はじ)まる。寝殿(しんでん)の階(はし)の間(ま)に御褥(しとね)参(まゐ)りて、内の上(うへ)御座(おは)します。第二の間(ま)に后(きさい)の宮(みや)、其(そ)の次(つぎ)永福門院・昭訓門院も渡(わた)らせ給(たま)ひけるにや。階(はし)の東(ひんがし)に、二条の前(さき)の殿(との)道平・堀川(ほりかは)の大納言(だいなごん)具親(ともちか)・春宮の大夫公宗・侍従中納言公明(きんあきら)・御子(みこ)左(ひだり)中納言為定・中宮権大夫公泰(きんやす)など候(さぶら)はる。右大臣(おとど)兼季
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琵琶、春宮の権大夫冬信(ふゆのぶ)笛、源中納言具行笙(しやう)、治部卿篳篥(ひちりき)、琴は室町(むろまち)の宰相公春、琵琶は薗(その)の宰相(さいしやう)基成など聞(き)こえしにや。「其(そ)の日のこと見給(たま)へねば、さだかには無し。幼(をさな)きわらはべなどの、しどけなく、語(かた)りし儘(まま)也。此(こ)の内(うち)に御覧(ごらん)じたる人も御座(おは)すらむ。承(うけたまは)らまほしくこそ侍れ」と言(い)ふ。御簾(みす)の内(うち)にも、大納言(だいなごん)二位殿琵琶、播磨(はりま)の内侍(ないし)箏(こと)、女蔵人(によくらうど)高砂(たかさご)と言(い)ふも、琴(こと)ひくとぞ聞(き)こえし。誠(まこと)にや有(あ)りけむ。中務(なかづかさ)の宮も参(まゐ)り給(たま)へり。兵仗賜(たま)はり給(たま)ひて、御直衣(なほし)に太刀(たち)はき給(たま)へり。御随身(みずいじん)共(ども)、いと清(きよ)らにさうぞきて、所得(え)たる様(さま)也。万歳楽より納蘇利(なつそり)まで十五帖手(て)を尽(つ)くしたる、いと見所(みどころ)多(おほ)し。青海波(せいがいは)を地下(ぢげ)ばかりにてやみぬるぞ、あかぬ心地(ここち)しける。暮(く)れかかる程(ほど)、花の木の間(ま)に夕日花(はな)やかにうつろひて、山(やま)の鳥の声(こゑ)惜(を)しまぬ程(ほど)に、陵王(りようわう)の輝(かかや)きて出(い)でたるは、えも言(い)はず面白(おもしろ)し。其(そ)の程(ほど)、上(うへ)も御引直衣(ひきなほし)にて、倚子(いし)に著(つ)かせ給(たま)ひて、御笛(ふえ)吹(ふ)かせ給(たま)ふ。常(つね)より異(こと)に雲井をひびかす様(さま)也。宰相(さいしやう)の中将(ちゆうじやう)顕家(あきいへ)、陵王(りようわう)の入綾(いりあや)をいみじう尽(つ)くしてまか(ン)づるを、召(め)し返(かへ)して、前(さき)の関白殿御衣(ぞ)取(と)りてかづけ給(たま)ふ。紅梅(こうばい)の表着(うはぎ)・二藍(ふたあゐ)の衣(きぬ)なり。左の肩(かた)にかけていささか一曲舞(ま)ひて
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まか(ン)でぬ。右の大臣(おとど)大鼓(たいこ)打(う)ち給(たま)ふ。其(そ)の後、源中納言具行採桑老(さいしやうらう)を舞(ま)ふ。これも紅(くれなゐ)のうちたる、かづけ給(たま)ふ。
又の日は、無量光院(むりやうくわうゐん)の前(まへ)の花の木蔭(こかげ)に、上達部(かんだちめ)立(た)ち続(つづ)き給(たま)ふ。廂(ひさし)に倚子(いし)立(た)てて、上(うへ)は御座(おは)します。御遊始(はじ)まる。拍子に治部卿参(まゐ)る。上(うへ)も桜人(さくらびと)うたはせ給(たま)ふ。御声(こゑ)いと若(わか)く花(はな)やかにめでたし。去年(こぞ)の秋の頃(ころ)かとよ、資親(すけちか)の中納言に、此(こ)の曲は受(う)けさせ給(たま)ひて、賞(しやう)に正二位許(ゆる)させ給(たま)ひしも、今日(けふ)の為(ため)とにや有(あ)りけんと、いと艶(えん)也。ものの音(ね)共(ども)整(ととの)ほりて、いみじうめでたし。其(そ)の後(のち)歌共(ども)召(め)さる。花を結(むす)びて文台(ぶんだい)にせられたるは、保安の例(ためし)とぞ言(い)ふめりし。春宮の大夫公宗序書(か)かれけり。
海内艾安之世、城北花開之春、我(わ)が君震臨(しんりん)を此(こ)の所(ところ)に促(うなが)し、調楽厥(そ)の中(なか)に懸(かか)れり、重(かさ)ねて六義(りくぎ)の言葉(ことば)を課(くわ)し、屡(しばしば)数柯(すうか)の濃花(のうくわ)を賞(しやう)す、奉梢出雲(いづも)の昔(むかし)の雲(くも)再(ふたた)び懸(かか)れるかと疑(うたが)ひ、満庭廻雪(くわいせつ)の昨日(きのふ)の雪(ゆき)の猶(なほ)残(のこ)れるかと省(かへり)みる、小風情(せうふぜい)と言(い)へども憖露詠(ろえい)に瀝(れき)す、其(そ)の詞(ことば)に曰(いは)く、
時をえて御幸(みゆき)甲斐(かひ)ある庭の面に花も盛(さか)りの色や久(ひさ)しき W
御製(ぎよせい)、
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代々の御幸(みゆき)のあとと思(おも)へば W
兄(このかみ)忘(わす)れ侍る。後にも見(み)出(い)だしてとぞ。中務(なかづかさ)の御子(みこ)、
代々をへて絶(た)えじとぞ思(おも)ふ此(こ)の宿(やど)の花に御幸(みゆき)の跡(あと)を重(かさ)ねて W
誰(たれ)も誰(たれ)も、此(こ)の筋(すぢ)にのみ惑(まど)はされて、花の御幸(みゆき)の外は、珍(めづら)しきふしも無(な)ければ、さのみもしるし難(がた)し。万(よろづ)あかず名残(なごり)多(おほ)かれど、さのみはにて、九日に返(かへ)らせ給(たま)ひぬ。
其(そ)の夏の頃(ころ)、御門(みかど)例(れい)ならず御座(おは)しまして、御薬(くすり)の事(こと)など聞(き)こゆ。いと重(おも)くのみならせ給(たま)ふとて、世の中(なか)あわてたる様(さま)なり。時しもあれや、彼(か)の一年(ひととせ)捕(と)られたりし俊基(としもと)を、又(また)いかに聞(き)こゆる事(こと)の出(い)で来(き)たるにか、搦(から)めとらんとしければ、内(うち)へ逃(に)げて参(まゐ)るを、追(お)ひ騒(さわ)ぎて、陣の辺(ほとり)まで武士(もののふ)共(ども)うちこみ罵(ののし)れば、こは何事(なにごと)と聞(き)きわくまでも無し。いと物騒(さわ)がしく肝(きも)つぶれて、ある限(かぎ)り惑(まど)ひあへり。上(うへ)も物覚(おぼ)え給(たま)はぬ御有様(おんありさま)にて、おほとのごもれるに、かかる由(よし)奏(そう)すれば、いみじう思(おぼ)さる。遂(つひ)に、又の日、六波羅(ろくはら)へ遣(つか)はしたれば、東(あづま)へ率(ゐ)て下(くだ)りぬ。上(うへ)は御悩(なや)み怠(おこた)らせ給(たま)ひて、いとど安(やす)からず思(おぼ)すこと勝(まさ)れ
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り。日頃(ひごろ)も御心(おんこころ)にかけさせ給(たま)へる事(こと)なれば、すみやかに此(こ)のあらましとげてんと、ひたぶるに思(おぼ)し立(た)ちて、忍(しの)びて此処(ここ)彼処(かしこ)に、其(そ)の用意(ようい)すべし。
后(きさい)の宮(みや)の御腹(おんはら)の一品(いつぽん)内親王、御占(うら)に合(あ)はせ給(たま)ひて、去年(こぞ)の冬頃(ごろ)より、御きよまはり有(あ)りつる、今日(けふ)明日(あす)、斎宮にゐ給(たま)ふ。八月二十日、先(ま)づ川原へ出(い)でさせ給(たま)ひて、やがて野(の)の宮(みや)に入(い)らせ給(たま)ふ。其(そ)の程(ほど)の事共(ども)、いみじう清(きよ)ら也。
此(こ)の御急(いそ)ぎ過(す)ぎぬれば、先(ま)づ六波羅(ろくはら)を御かうじあるべしとて、予(かね)てより宣旨(せんじ)に従(したが)へりし兵(つはもの)共(ども)を忍(しの)びて召(め)す。源中納言具行、取(と)り持(も)ちて事(こと)行(おこな)ひけり。昔(むかし)、亀山院(かめやまゐん)に、御子(みこ)など生(う)み奉(たてまつ)りて候(さぶら)ひし女房、此(こ)の頃(ごろ)は、后(きさい)の宮(みや)の御方(かた)にて、民部卿三位と聞(き)こゆる御腹(おんはら)に、当代(たうだい)の御子(みこ)も出(い)で物(もの)し給(たま)へりし、山(やま)の前(さき)の座主にて、今(いま)は大塔(だいたふ)の二品法親王尊雲(そんうん)と聞(き)こゆる、いかで習(なら)はせ給(たま)ひけるにか、弓ひく道(みち)にも猛(たけ)く、大方(おほかた)御本性(ほんじやう)はやりかに御座(おは)して、此(こ)の事(こと)をも同(おな)じ御心(おんこころ)におきて宣(のたま)ふ。又、中務(なかづかさ)の御子(みこ)の一(ひと)つ御腹(おんはら)に、妙法院の法親王尊澄と聞(き)こゆるは、今(いま)の座主にて物(もの)し給(たま)へば、方々(かたがた)、比叡(ひえ)の山(やま)の衆徒(しゆと)も、御門(みかど)の御軍(いくさ)に加(くは)はるべき由(よし)奏(そう)しけり。
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つつむとすれど、こと広(ひろ)くなりにければ、武家(ぶけ)にもはやうもれ聞(き)こえて、さにこそあ(ン)なれと用意(ようい)す。先(ま)づ九重(ここのへ)をきびしく固(かた)め申すべしなど定(さだ)めけり。かく言(い)ふは、元弘元年(ぐわんねん)八月二十四日也。雑務(ざふむ)の日なれば、記録所(きろくじよ)に御座(おは)しまして、人の争(あらそ)ひ愁(うれ)ふる事共(ども)を行(おこな)ひ暮(く)らさせ給(たま)ひて、人々(ひとびと)もまか(ン)で、君も本殿にしばしうち休(やす)ませ給(たま)へるに、「今夜(こよひ)既(すで)に武士共(ども)競(きほ)ひ参(まゐ)るべし」と、忍(しの)びて奏(そう)する人有(あ)りければ、取(と)りあへず雲の上を出(い)でさせ給(たま)ふ。中宮の御方(かた)へ渡(わた)らせ給(たま)ひても、しめやかにも有(あ)らず、いとあわたたし。予(かね)て思(おぼ)し設(まう)けぬには有(あ)らねども、事(こと)の逆様(さかさま)なるやうになりぬれば、万(よろづ)うきうきと、我(われ)も人もあきれゐたり。内侍所・神璽(しんし)・宝剣(ほうけん)ばかりをぞ、忍びて率(ゐ)て渡(わた)らせ給(たま)ふ。上(うへ)はなよらかなる御直衣(なほし)奉(たてまつ)り、北の対(たい)よりやつれたる女車の様(さま)にて、忍(しの)び出(い)でさせ給(たま)ふ。彼(か)の二条院の昔もかくやと思(おも)ひ出(い)でらる。
日頃(ひごろ)の御本意(ほんい)には、先(ま)づ六波羅(ろくはら)を攻(せ)められん紛(まぎ)れに、山へ行幸有(あ)りて、彼処(かしこ)へ兵(つはもの)共(ども)を召(め)して、山(やま)の衆徒(しゆと)をも相(あひ)具(ぐ)し、君の御かためとせらるべしと定(さだ)められければ、彼(か)の法親王達(たち)も其(そ)の御心(おんこころ)して、坂本(さかもと)に待(ま)ち聞(き)こえ給(たま)ひけれど、今(いま)はかやうに
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こと違(たが)いぬれば、あへなしとて、俄(にはか)に道(みち)をかへて、奈良(なら)の京へぞおもむかせ給(たま)ふ。中務(なかづかさ)の宮も、御馬(うま)にて追(お)いて参(まゐ)り給(たま)ふ。九条(くでう)わたりまで御車にて、それより、御門(みかど)もかりの御衣(ぞ)にやつれさせ給(たま)ひて、御馬に奉(たてまつ)る程(ほど)、こはいかにしつる事(こと)ぞと、夢(ゆめ)の心地(ここち)して思(おぼ)さる。御供(とも)に按察(あぜち)の大納言(だいなごん)公敏(きんとし)・万里小路(までのこうじ)の中納言藤房・源中納言具行・四条の中納言隆資(たかすけ)など参(まゐ)れり。
いづれも怪(あや)しき姿(すがた)にまぎらはして、暗(くら)き道(みち)をたどり御座(おは)する程(ほど)、げに「闇(やみ)のうつつ」の心地(ここち)して、我(われ)にも有(あ)らぬ様(さま)也。丑(うし)三ばかりに、木幡山(こはたやま)過(す)ぎさせ給(たま)ふ。いとむくつけし。木津と言(い)ふ渡(わた)りに御馬(うま)とめて、東南院の僧正のもとへ御消息(せうそこ)遣(つか)はす。それより御輿(こし)を参(まゐ)らせたるに奉(たてまつ)りて、奈良(なら)へ御座(おは)しまし著(つ)きぬ。ここに中(なか)一日有(あ)りて、二十七日、和束(わづか)の鷲峰山(じゆぶうせん)へ行幸有(あ)りけれども、そこもさるべくや無(な)かりけん、笠置寺(かさぎでら)と言(い)ふ山寺へ入(い)らせ給(たま)ひぬ。所の様(さま)、容易(たやす)く人の通(かよ)ひぬべきやうも無(な)く、よろしかるべしとて、木(き)の丸(まる)殿(どの)の構(かま)へを始(はじ)めらる。これよりぞ人々(ひとびと)少(すこ)し心地(ここち)取(と)り静(しづ)めて、近(ちか)き国々(くにぐに)の兵(つはもの)共(ども)召(め)し遣(つか)はす。
さて都(みやこ)には、二十四日の夜、六波羅(ろくはら)より常陸(ひたち)の守(かみ)時知(ときとも)馳(は)せ参(まゐ)りて、百敷(ももしき)の中(なか)を
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あさり騒(さわ)ぐ。其(そ)の程(ほど)、人の曹司(ざうし)などに、おのづから落(お)ち残(のこ)りたる女房(にようばう)の心地(ここち)、言(い)はん方(かた)無し。御座(おは)します殿を見(み)れば、近(ちか)き御厨子(づし)・御調度(てうど)共(ども)、何(なに)くれ、すずりなども、さながらうち散(ち)りて、只今(ただいま)まで御座(おは)しましけるあとと見(み)えながら、宮人などだに一人も無し。女房の曹司(ざうし)曹司(ざうし)より、樋洗(ひすま)しめく女(め)の童(わらは)など、我(われ)先(さき)にと走(はし)り出(い)で、調度(てうど)共(ども)運(はこ)び騒(さわ)ぎ、くづれ出(い)づる気色(けしき)共(ども)、いとあさましく、目(め)もあやなり。錦(にしき)の几帳(きちやう)の内(うち)にいつかれましましつる后(きさい)の宮(みや)も、何(なに)の儀式(ぎしき)も無(な)く、忍(しの)びてあわて出(い)でさせ給(たま)ひぬれば、あたりあたりかきはらい、時の間(ま)にいとあさましく、御簾(みす)几帳(きちやう)など、踏(ふ)みしだき引(ひ)き落(お)として、火の影(かげ)もせず。ここも彼処(かしこ)も暗(くら)がりて、うち荒(あ)れたる心地(ここち)す。今朝(けさ)まで、九重(ここのへ)の深(ふか)き宮の内(うち)に出(い)で入(い)り仕(つか)へつる男(をとこ)女、一人(ひとり)とまらず、えも言(い)はぬ武士(もののふ)共(ども)うち散(ち)り、あらあらしげなるけはひに、続松(ついまつ)高(たか)く捧(ささ)げて、細(ほそ)殿(どの)・渡殿(わたどの)、何(なに)くれ、まかげさして、あさりたる気色(けしき)、けうとくあさまし。世は憂(う)き物にこそと、時の間(ま)に、げに、心有(あ)らむ人は、やがて修行(しゆぎやう)の門出(かどい)でにもなりぬべくぞ覚(おぼ)ゆる。中宮は、忍(しの)びて野の宮殿(どの)の傍(かたはら)にぞ御座(おは)しまし著(つ)きにける。宣房(のぶふさ)の大納言(だいなごん)の二郎季房(すゑふさ)の宰相ばかり、御とのゐに候(さぶら)ふ。
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二十五日の曙(あけぼの)に、武士(ぶし)共(ども)満(み)ち満(み)ちて、御門(みかど)の親(した)しく召(め)し使(つか)ひし人々(ひとびと)の家々(いへいへ)へ押(お)し入(い)り押(お)し入(い)り捕(と)りもて行(ゆ)く様(さま)、獄卒(ごくそつ)とかやのあらはれたるかと、いと恐(おそ)ろし。万里小路(までのこうじ)の大納言(だいなごん)宣房(のぶふさ)・侍従中納言公明(きんあきら)・別当実世・平(へい)宰相(ざいしやう)成輔(なりすけ)、一度(いちど)に皆六波羅(ろくはら)へ率(ゐ)て行きぬ。かやうの事(こと)を見(み)るに、いとど肝(きも)心も失(う)せて、おのづから取(と)り残(のこ)されたる人も、心と皆(みな)かきけち行(ゆ)き隠(かく)るる程(ほど)に、主(ぬし)無(な)き宿(やど)のみぞ多(おほ)かる。坂本(さかもと)には行幸を待(ま)ち聞(き)こえ給(たま)ひけるに、引(ひ)き違(たが)へ南(みなみ)ざまへ御座(おは)しましぬれば、其(そ)の由(よし)衆徒(しゆと)に聞(き)かれなばあしかりぬべし。又とまれかくまれ、誠(まこと)の御座(おは)しまし所を、左右(さう)なく武家へ知(し)らせじのたばかりにや有(あ)りけん、花山院の大納言(だいなごん)師賢(もろかた)を山(やま)へ遣(つか)はして、忍(しの)びて御門(みかど)の御座(おは)します由(よし)にもてないて、彼(か)の両法親王、こと行(おこな)ひ給(たま)ひつつ、六波羅(ろくはら)の兵(つはもの)共(ども)の囲(かこ)みを防(ふせ)かせ給(たま)ふ。其(そ)の日は、大納言(だいなごん)も、大塔(だいたふ)の前(さき)の座主の宮も、うるはしき武士(もののふ)姿(すがた)に出(い)で立(た)たせ給(たま)ふ。卯(う)の花をどしの鎧(よろひ)に鍬形(くはがた)の兜(かぶと)奉(たてまつ)り、大矢(おほや)負(お)いてぞ御座(おは)する。妙法院の宮は、生絹(すずし)の御衣の下(した)に、萠黄(もえぎ)の御腹巻(はらまき)とかや着(き)給(たま)へり。大納言(だいなごん)は、唐(から)の香染(かうぞ)めの薄物(うすもの)の狩衣(かりぎぬ)に、けちえん
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に赤(あか)き腹巻(はらまき)をすかして、さすがに蒔絵(まきゑ)の細太刀(ほそたち)をぞはき給(たま)ひける。
六波羅(ろくはら)より、御門(みかど)ここに御座(おは)しますと心得(え)て、武士(ぶし)共(ども)多(おほ)く参(まゐ)り囲(かこ)む。山法師(やまほふし)も戦(たたか)ひなどして、海東(かいとう)とかや言(い)ふ兵(つはもの)討(う)たれにけり。「事(こと)の初(はじ)めに、東(ひがし)失(う)せぬる、めでたし」などぞ言(い)ふめる。かかれども、御門(みかど)笠置(かさぎ)に御座(おは)します由(よし)、程(ほど)無(な)く聞(き)こえぬれば、計(はか)られ奉(たてまつ)りにけるとて、山(やま)の衆徒(しゆと)もせうせう心がはりしぬ。宮々も逃(に)げ出(い)で給(たま)ひて笠置(かさぎ)へぞ詣(まう)で給(たま)ひける。大納言(だいなごん)は都(みやこ)へ紛(まぎ)れ御座(おは)すとて、夜深(ぶか)く志賀(しが)の浦(うら)を過(す)ぎ給(たま)ふに、有明(ありあけ)の月くま無(な)く澄(す)み渡(わた)りて、寄(よ)せ返(かへ)る波(なみ)の音(おと)もさびしきに、松吹(ふ)く風の身にしみたるさへ、取(と)り集(あつ)め心(こころ)細(ぼそ)し。
思ふこと無(な)くてぞ見(み)ましほのぼのと有明(ありあけ)の月の志賀(しが)の浦波(うらなみ) W
其(そ)の後(のち)、辛(から)うじてぞ、笠置(かさぎ)へはたどり参(まゐ)られける。
かやうの事共(ども)も、例(れい)の早馬(はやむま)にて東(あづま)へ告(つ)げ遣(や)りぬ。只今(ただいま)の将軍は、昔(むかし)式部卿(しきぶきやう)久明親王(しんわう)とて下(くだ)り給(たま)へりし将軍の御子也。守邦(もりくに)の親王(しんわう)とぞ聞(き)こゆる。相模(さがみ)の守(かみ)高時(たかとき)と言(い)ふは、病(やまひ)によりて、未(いま)だ若(わか)けれど、一年(ひととせ)入道して、今(いま)は世の大事(だいじ)共(ども)いろはねど、鎌倉(かまくら)の主(ぬし)にてはあ(ン)めり。心ばへなどもいかにぞや、うつつ
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無(な)くて、朝夕(あさゆふ)好(この)む事(こと)とては、犬(いぬ)くひ・田楽(でんがく)などをぞ愛(あい)しける。これは最勝園寺(さいしようゑんじ)入道貞時(さだとき)と言(い)ひしが子なれば、承久の義時よりは八代にあたれり。此(こ)の頃(ころ)、私(わたくし)の後見(うしろみ)には、長崎(ながさき)入道円基(ゑんき)とか言(い)ふ物有(あ)り。世の中(なか)の大小事、只(ただ)皆(みな)此(こ)の円基(ゑんき)が心の儘(まま)なれば、都(みやこ)の大事(だいじ)、かばかりになりぬるをも、彼(か)の入道のみぞ取(と)り持(も)ちて、おきて計(はか)らひける。重(おも)き武士(ぶし)共(ども)多(おほ)く上(のぼ)すべしと聞(き)こゆ。大方(おほかた)、京も鎌倉(かまくら)も、騒(さわ)ぎ罵(ののし)る様(さま)、けしからず。承久の昔(むかし)もかくやと、今更(さら)に思ひやらる。持明院殿(どの)には、春宮御座(おは)しませば、思ひの外(ほか)にめでたかるべき事(こと)なれど、今日(けふ)明日(あす)は、未(いま)だ軍(いくさ)の紛(まぎ)れにて、何(なに)の沙汰(さた)も無し。御宿直(とのゐ)の物の、うべうべしきも無(な)くて、離(はな)れ御座(おは)しますも、あぶなき心地(ここち)すればにや、せめても六波羅(ろくはら)近(ちか)くとて、六条殿(どの)へ、本院・新院・春宮引(ひ)き続(つづ)きて移(うつ)らせ給(たま)ひぬれど、日に添(そ)へて、天(あめ)の下(した)騒(さわ)ぎ満(み)ち、恐(おそ)ろしき事(こと)のみ聞(き)こゆれば、猶(なほ)これも危(あや)ふしとて、六波羅(ろくはら)の北に、代々の将軍の御料(れう)とて造(つく)りおける桧皮屋(ひはだや)一(ひと)つあるに、両院・春宮入(い)らせ給(たま)ふ。大方(おほかた)は、いと物(もの)しきやうなれど、よろしき時こそあれ、かばかりの際(きは)には、何(なに)の儀式(ぎしき)も無(な)かるべし。
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笠置(かさぎ)殿(どの)には、大和・河内・伊賀(いが)・伊勢などより、兵(つはもの)共(ども)参(まゐ)り集(つど)ふ中(なか)に、事(こと)の始(はじ)めより頼(たの)み思(おぼ)されたりし楠(くす)の木兵衛正成(まさしげ)と言(い)ふ物有(あ)り。心猛(たけ)くすくよかなる物にて、河内国に、おのが館(たち)のあたりをいかめしくしたためて、此(こ)の御座(おは)します所、もし危(あや)ふからん折(をり)は、行幸をもなし聞(き)こえんなど、用意(ようい)しけり。東(あづま)の夷(えびす)共(ども)、やうやう攻(せ)め上(のぼ)る由(よし)聞(き)こゆ。もとより京にある武士(ぶし)共(ども)も、我(われ)先(さき)にと競(きほ)ひ参(まゐ)る。木(き)の丸(まる)殿(どの)には、さこそ言(い)へ、むねむねしき物無し。いかに成(な)り行(ゆ)くべきにかと、いと心(こころ)細(ぼそ)く思(おぼ)し乱(みだ)る。我(わ)が御心(おんこころ)もての事(こと)なれば、かこつかた無(な)けれど、故郷(ふるさと)の空もあはれに思(おぼ)し出(い)でらる。秋も深(ふか)く成(な)り行(ゆ)く儘(まま)に、山(やま)の木の葉のうちしぐれ、谷(たに)の嵐の訪(おとづ)るるも、あたの競(きほ)ふかと、肝(きも)を消(け)す消(け)す御住居(すまひ)、いつしか御身をかへたる御心地(ここち)し給(たま)ふもあぢきなし。
憂(う)かりける身を秋風にさそはれて思(おも)はぬ山(やま)の紅葉をぞ見(み)る W
既(すで)に、東(あづま)の武士(ぶし)共(ども)、雲霞(かすみ)の勢(いきほ)ひをたなびかし上(のぼ)る由(よし)聞(き)こゆれば、笠置(かさぎ)にもいみじう思(おぼ)し騒(さわ)ぐ。もとよりいと険(けは)しき山(やま)の〔深(ふか)き〕つづらをりを、えも言(い)はず木戸(きど)・逆茂木(さかもぎ)・石弓(いしゆみ)など言(い)ふ事共(ども)したためらる。さりとも、容易(たやす)くは破(やぶ)れ
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じと頼(たの)ませ給(たま)へるに、後(うし)ろの山(やま)より、御敵(かたき)共(ども)くづれ参(まゐ)りて、木戸(きど)共(ども)焼(や)き払(はら)ひ、御座(おは)しますあたり近(ちか)く、既(すで)に煙もかかりければ、今(いま)はいかがせんにて、怪(あや)しき御姿(すがた)にやつれて、たどり出(い)でさせ給(たま)ふ。座主の法親王〔尊澄(そんてう)〕、御手(て)をひき奉(たてまつ)り給(たま)へるも、いとはかなげなる御有様(おんありさま)也。中務(なかづかさ)の御子(みこ)・大塔(だいたふ)の宮などは、予(かね)てよりここを出(い)でさせ給(たま)ひて、楠(くす)の木が館(たち)に御座(おは)しましけり。行幸もそなたざまにやと思(おぼ)し志(こころざ)して、藤房・具行両中納言、師賢(もろかた)の大納言(だいなごん)入道、手(て)を取(と)りかはして、炎(ほのほ)の中(なか)を免(まぬが)れ出(い)づる程(ほど)の心地(ここち)共(ども)、夢(ゆめ)とだに思(おも)ひも別(わか)れず、いとあさまし。少(すこ)し延(の)びさせ給(たま)ひてぞ、御馬(うま)尋(たづ)ね出(い)でて、君ばかり奉(たてまつ)りぬれど、ならはぬ山路(やまぢ)に御心地(ここち)も損(そこ)なはれて、誠(まこと)に危(あや)ふく見(み)えさせ給(たま)へば、高間(たかま)の山(やま)と言(い)ふ渡(わた)りに、しばし御心地(ここち)をためらふ所に、山城(やましろ)の国の民(たみ)にて、深栖(ふかす)の五郎入道とか言(い)ふ物、参(まゐ)りかかりて、案内(あんない)聞(き)こえたるしも、いとめざましう口惜(くちを)し。上達部(かんだちめ)、思ひやるかた無(な)くて、只(ただ)目(め)を見(み)かはして、いかさまにせんとあきれたるに、東(あづま)より上(のぼ)れる大将軍(たいしやうぐん)にて、陸奥国(みちのくに)の守(かみ)貞直(さだなう)と言(い)ふ物、大勢(おほぜい)にて参(まゐ)れり。今(いま)は只(ただ)、ともかくも宣(のたま)はすべきやう無(な)ければ、遂(つひ)に甲斐(かひ)無(な)くて、敵(かたき)の為(ため)に御身をまかせ
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ぬる様(さま)也。
やがて宇治(うぢ)に行幸(みゆき)あるべき由(よし)奏(そう)すれば、御心(おんこころ)にも有(あ)らで、ひかされ御座(おは)します程(ほど)に、心憂(う)しと言(い)ふも斜(なのめ)なり。具行・藤房・忠顕(ただあき)の少将など、やがておのが手(て)の物共(ども)に従(したが)へさせつ。大納言(だいなごん)入道、御馬(うま)のしりに走(はし)り後(おく)れて、此処(ここ)彼処(かしこ)の岩(いは)かげ、木のもとに休む(やす)みつつ、とかくためらふ程(ほど)に、それも見(み)つけられて捕(と)られぬ。君をば宇治(うぢ)へ入(い)れ奉(たてまつ)りて、先(ま)づ事(こと)の由(よし)六波羅(ろくはら)へ聞(き)こゆる程(ほど)に、一(ひとひ)、二日(ふつか)御逗留(とうりう)有(あ)り。かく言(い)ふは九月三十日なれば、空の気色(けしき)さへ時雨がちに、涙催(もよほ)し顔(がほ)なり。平等院(びやうどうゐん)の紅葉(もみぢ)御覧(ごらん)じやらるるも、かからぬ御幸(みゆき)ならばと、あへなし。後冷泉院(ごれいぜいゐん)かとよ、ここに行幸し給(たま)ひて、三、四日(さんよつか)御座(おは)しましける、其(そ)の世の人の心地(ここち)、上下何事(なにごと)かはと、羨(うらや)ましくあはれに思(おぼ)さる。
十月三日、都(みやこ)へ入(い)らせ給(たま)ふも、思ひしに変(か)はりて、いとすさまじげなる武士(もののふ)共(ども)、衛府(ゑふ)のすけの心地(ここち)して、御輿(こし)近(ちか)くうち囲(かこ)みたり。鳳輦(ほうれん)には有(あ)らぬ網代輿(あじろごし)の怪(あや)しきにぞ奉(たてまつ)れ
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る。六波羅(ろくはら)の北(きた)なる桧皮屋(ひはだや)には、もとより両院・春宮御座(おは)しませば、南(みなみ)の板屋(いたや)のいと怪(あや)しきに、御しつらひなどして御座(おは)しまさするも、いとほしう忝(かたじけな)し。間近(まぢか)き程(ほど)に、万(よろづ)聞(き)こし召(め)し御覧(ごらん)じふるることごとにつけても、いかでか御心(おんこころ)動(うご)かぬやうは有(あ)らん、口惜(くちを)しう思(おぼ)し乱(みだ)る。ならはぬ御宿(やど)りに、時雨の音(おと)さへはしたなくて、
まだなれぬ板屋(いたや)の軒のむら時雨音(おと)を聞(き)くにもぬるる袖かな W
中務(なかづかさ)の宮は、正成(まさしげ)がもとに御座(おは)しましつれど、御門(みかど)のかくならせ給(たま)ひぬれば、今(いま)は甲斐(かひ)無しとて、それも都(みやこ)へ入(い)らせ給(たま)ひて、佐佐木(ささき)の判官(はうぐわん)時信(ときのぶ)と言(い)ふ物の家(いへ)に渡(わた)らせ給(たま)ひぬ。徒然(つれづれ)と、物思(おぼ)し乱(みだ)るるより外(ほか)の事無し。
世のうさを空にも知(し)るや神無月(かみなづき)理(ことわり)すぎて降(ふ)る時雨かな W
此(こ)の御子は、藤大納言(だいなごん)為世の御孫(うまご)にて物(もの)し給(たま)へば、彼(か)の家に常(つね)は住(す)み給(たま)ひし程(ほど)に、大納言(だいなごん)末の女、大納言(だいなごん)の典侍(すけ)と聞(き)こゆるに御覧(ごらん)じ付(つ)きて、其(そ)の御腹(おんはら)に姫宮(ひめみや)など出(い)で来(き)給(たま)へり。又、中宮の御匣(みくしげ)殿(どの)は、宮の御兄(せうと)の右の大臣(おとど)公顕(きんあき)と聞(き)こえし御娘(むすめ)也。其(そ)の御腹(おんはら)にも男(をとこ)御子(みこ)など御座(おは)します。思(おも)ふ儘(まま)なる世をも待(ま)ち出(い)で
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給(たま)はばと、誰(たれ)も行末(ゆくすゑ)頼(たの)もしく思ひ聞(き)こえつるに、かく思ひの外(ほか)にあさましき事(こと)の出(い)で来(き)ぬるを、深(ふか)う思ひ歎(なげ)く人々(ひとびと)数(かず)知(し)らず。御匣(みくしげ)殿(どの)は失(う)せ給(たま)ひしかば、此(こ)の頃(ごろ)は、只(ただ)此(こ)の典侍(すけ)の君をのみ又(また)無(な)き物に思(おぼ)ほしかはしつるに、吹(ふ)きかふ風も間近(まぢか)き程(ほど)には御座(おは)すれど、御対面(たいめん)は思(おも)ひもよらず、おぼつかなさの慰(なぐさ)むばかりなる御消息(せうそこ)などだに、通(かよ)ふ事(こと)も適(かな)はぬ御有様(おんありさま)を、あはれにいぶせう思(おぼ)し結(むす)ぼほれたり。一(ひと)つ御腹(おんはら)の座主の法親王も、長井の高広(たかひろ)とかや言(い)ふ物、預(あづ)かり奉(たてまつ)りぬ。御門遠(とほ)く移(うつ)らせ給(たま)はん程(ほど)、此(こ)の御子(みこ)達(たち)も、おのが散(ち)り散(ぢ)りになり給(たま)ふべしなど聞(き)こえけり。
春宮は世をつつしみて、六波羅(ろくはら)に渡(わた)らせ給(たま)ふ。先帝はあたの為(ため)に、同(おな)じ御やどり、葦垣(あしがき)ばかりを隔(へだ)てにて、御座(おは)しませば、主(ぬし)無(な)き院の内(うち)、いとさびしくて、衛士(ゑじ)のたく火も影(かげ)だに見(み)えず。内(うち)には、いつしか怪(け)しかる物など住(す)み着(つ)きて、ある時(とき)は、紅(くれなゐ)の袴(はかま)長(なが)やかに踏(ふ)みたれて、火ともしたる女、見(み)る儘(まま)に、丈(たけ)は軒(のき)とひとしくなりて、後にはかき消(け)ち失(う)するも有(あ)り。又いみじう光を放(はな)ちて、髪(かみ)を前(まへ)に乱(みだ)しかけたる童(わらは)なども見(み)えけり。鬼(おに)殿(どの)などはかくや有(あ)りけんと恐(おそ)ろし。
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人住(す)まで年(とし)経(へ)荒(あ)れぬる所などにこそ、かかる事(こと)もおのづから有(あ)りけれ。僅(わづ)かに一月二月の中(うち)に、かかるべきには有(あ)らぬを、これ彼(かれ)いと怪(あや)しきわざなるべし。
さて例(れい)の東(あづま)より御使(つか)ひのぼれり。代々の例(ためし)とかやとて、秋田(あいた)の城(じやう)の介(すけ)高景(たかかげ)、二階堂(にかいだう)の出羽の入道道雲(だううん)とかや言(い)ふ物ぞ参(まゐ)れる。西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)公宗卿に事(こと)の由(よし)申して、春宮御位に即(つ)き給(たま)ふ。さるべき御事(こと)と言(い)ひながら、今日(けふ)明日(あす)とは見(み)えざりつるに、いとめでたし。さて六波羅(ろくはら)より、此(こ)の度(たび)は世の常(つね)の行啓(ぎやうげい)の儀式(ぎしき)にて、持明院殿へ入(い)らせ給(たま)ふ。両院も引(ひ)きつくろひたる御幸の由(よし)なり。ひしめき立(た)ちぬる世の音(おと)なひを聞(き)こし召(め)す先帝(せんてい)の御心地(ここち)、たとしへ無(な)くねたく人悪(わろ)し。もとの内裏(だいり)へ新帝移(うつ)らせ給(たま)ふ。上達部(かんだちめ)残(のこ)り無(な)く仕(つかうまつ)らる。院も常盤井(ときはゐ)殿(どの)へ御座(おは)しまいて、世の政事(まつりごと)聞(き)こし召(め)せば、後宇多院の昔(むかし)思(おも)ひ出(い)でられてあはれ也。
いつしか十月十二日綸旨(りんじ)下されて、前の御代の人々(ひとびと)大中納言・宰相すべて十人、宣房(のぶふさ)・公明(きんあきら)・藤房・具行・隆資(たかすけ)・実世・実治・季房(すゑふさ)・隆重(たかしげ)・忠顕(ただあき)、官(つかさ)止(や)めらるる由(よし)聞(き)こゆるも、昨日まで時の花と見(み)えし人々(ひとびと)、つかの間(ま)の夢かとあはれ也。かかる
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につけては、一(ひとつ)御族(ぞう)のみ、今(いま)はわく方(かた)無(な)く定(さだ)まり給(たま)ふべきかと、世の人も思ひ聞(き)こゆる程(ほど)に、亀山院の御流(なが)れ絶(た)ゆべきには有(あ)らずとにや、先坊(せんばう)の一の宮を太子に立(た)てまつらる。御乳母(めのと)の雅藤(まさふぢ)の宰相の法性寺の家(いへ)に渡(わた)らせ給(たま)へるを、土御門(つちみかど)高倉(たかくら)の先坊の御跡(あと)へ入(い)れ奉(たてまつ)りて、十一月八日坊に定(さだ)まり給(たま)ふ。今(いま)は思(おも)ひの絶(た)えぬる心地(ここち)しつるに、いとめでたし。松が浦島(うらしま)に年(とし)経(へ)給(たま)ひぬる入道の宮も、御親(おや)の心地(ここち)にて御座(おは)しますべければ、太上天皇になずらへて崇明門院(しゆめいもんゐん)と聞(き)こゆ。万(よろづ)斧(おの)の柄(え)朽(く)ちにし昔(むかし)を改(あらた)めたる宮の内(うち)也。有(あ)りし後、おのが様々(さまざま)まか(ン)で散(ち)りにし古(ふる)女房(にようばう)・上達部(かんだちめ)・殿上人など、世の中(なか)屈(くん)じいたくて、此処(ここ)彼処(かしこ)に篭(こも)り居(ゐ)たりしも、いつしかと参(まゐ)り集(つど)ふ様(さま)、谷の鴬(うぐひす)の春待(ま)ちつけたる心地(ここち)して、いと頼(たの)もしげ也。傅には久我右の大臣(おとど)長通(ながみち)、大夫には中(なか)の院(ゐん)の大納言(だいなごん)通顕(みちあき)なり給(たま)ふ。なべて世に年頃(としごろ)埋(うづ)もれたりし人々(ひとびと)、いつしか、官位(つかさくらゐ)様々(さまざま)に、思(おも)ふ儘(まま)なる気色(けしき)共(ども)、目(め)の前(まへ)に移(うつ)り変(か)はる世の有様(ありさま)、今更(いまさら)ならねど、いとしるく掲焉(けちえん)なるもあぢきなし。かくて年(とし)も暮(く)れぬ。



校註 増鏡

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第十九 久米(くめ)の佐良山(さらやま)
元弘二年の春にもなりぬ。あたらしき御代の年(とし)の始(はじ)めには、思ひなしさへ、花(はな)やかなり。上(うへ)も若(わか)う清(きよ)らに御座(おは)しませば、万(よろづ)めでたく、百敷(ももしき)の内(うち)、何事(なにごと)も変(か)はらず。さるべき公事(くじ)の折々(をりをり)、さらでも、院・内(うち)同(おな)じ陣の内(うち)なれば、一(ひと)つに立(た)ち込(こ)みたる馬(うま)車、隙(ひま)無(な)くにぎはしけれど、見(み)し世の人は一人(ひとり)もまじろはず、参(まゐ)りまか(ン)づる顔(かほ)のみぞ変(か)はれる。
先帝(せんてい)は、未(いま)だ六波羅(ろくはら)に御座(おは)します。二月(きさらぎ)の頃(ころ)、空の気色(けしき)のどやかに霞(かす)み渡(わた)りて、ゆるらかに吹(ふ)く春風に、軒の梅なつかしく香(かを)りきて、鴬(うぐひす)の声(こゑ)うららかなるも、うれはしき御心地(ここち)には、物憂(う)かる音(ね)にのみ聞(き)こし召(め)しなさる。ことやうなれ
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ど、〔彼(か)の〕上陽人(じやうやうじん)の宮の中(うち)思(おも)ひよそへらる。長(なが)き日影(ひかげ)もいとど暮(く)らし難(がた)き御慰(なぐさ)めにとや聞(き)こえ給(たま)ひけん、中宮より御琵琶(びは)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふついでに、いささかなるもののはしに、
思(おも)ひやれ塵(ちり)のみつもる四の緒に払(はら)ひもあへずかかるなみだを W
げにと思(おぼ)し召(め)しやるに、いと悲(かな)しくて、玉水の流(なが)るるやうになん。御返(かへ)し、
かき立(た)てし音(ね)をたち果(は)てて君恋(こ)ふる涙の玉の緒(を)とぞなりける W
彼(か)の承久の例(ためし)にとや、東(あづま)より御使には、長井の右馬の助(すけ)高冬(たかふゆ)と言(い)ふ者(もの)なるべし。これは、頼朝(よりとも)の大将の時より、鎌倉(かまくら)に重(おも)き武士(もののふ)にて、未(いま)だ若(わか)けれども、かかる大事(だいじ)にも上(のぼ)せけるとぞ申(まう)しける。遂(つひ)に隠岐(おき)の国(くに)へ移(うつ)し奉(たてまつ)るべしとて、三月(やよひ)の初(はじ)めの七日に、都(みやこ)を出(い)でさせ給(たま)ふ。今(いま)はと聞(き)こし召(め)す御心(おんこころ)惑(まど)ひ共(ども)、言(い)へば更(さら)也。所々(ところどころ)の歎(なげ)き、近(ちか)う仕(つか)まつりし人々(ひとびと)の心地(ここち)共(ども)、おき所無(な)く悲(かな)し。御門(みかど)も限(かぎ)り無(な)く御心(おんこころ)悩(なや)むべし。いとかうしも人に見(み)えじと、かつは思(おぼ)し沈(しづ)むれど、あやにくにすすみ出(い)づる御涙(なみだ)を、もてかくしつつ御座(おは)します。ふりにし事(こと)を思(おぼ)し出(い)づるにも、立(た)ち返(かへ)り又(また)世(よ)を安(やす)く思(おぼ)さん事(こと)のいとかたければ、万(よろづ)
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今(いま)をとぢめにこそと、思(おぼ)しめぐらすに、人(ひと)遣(や)りならず、口惜(くちを)しき契(ちぎ)り加(くは)はりける前の世のみぞ、つきせずうらめしき。
遂(つひ)にかく沈(しづ)みはつべき報(むく)ひ有(あ)らば上(うへ)無(な)き身とは何(なに)生(む)まれけん W
巳(み)の時(とき)ばかりに出(い)でさせ給(たま)ふ。網代(あじろ)の御車に、御前(ぜん)共(ども)などは、故院の御世より仕(つかうまつ)りなれにし物共(ども)、ある限(かぎ)り参(まゐ)れり。御車寄(よ)せに西園寺(さいをんじ)の中納言公重(きんしげ)候(さぶら)ひ給(たま)ふ。上(うへ)は、御冠(かうぶり)に世(よ)の常(つね)の御直衣(なほし)・指貫(さしぬき)・白綾(あや)の御衣(ぞ)一重(かさ)ね奉(たてまつ)れり。去年(こぞ)の今日(けふ)は、北山にて花の宴(えん)せさせ給(たま)ひしも、あはれに思(おぼ)し出(い)でられて、其(そ)の日の事、かきつらね恋しく思(おぼ)さる。人々(ひとびと)の禄(ろく)にこそは賜(たま)はせしを、今日(けふ)は御旅衣(たびごろも)にたちかふるも、あはれに定(さだ)め無(な)き世の習(なら)ひ、今更(いまさら)心憂(う)し。御車に奉(たてまつ)るとて、日頃(ひごろ)御座(おは)しましつる傍(かたはら)の障子(さうじ)に、書(か)きつけさせ給(たま)ふ。
いさ知(し)らず猶(なほ)憂(う)き方(かた)の又も有(あ)らば此(こ)の宿(やど)とても忍(しの)ばれやせん W
御供(とも)には、内侍(ないし)の三位殿・大納言(だいなごん)の君・小宰相など、男(をとこ)には、行房の中将(ちゆうじやう)・忠顕の少将ばかり仕(つかうまつ)る。おのがじし、都(みやこ)の名残(なごり)共(ども)言(い)ひ尽(つ)くし難(がた)し。六波羅(ろくはら)よりの御送(おく)りの武士(ぶし)、さならでも名(な)ある兵(つはもの)共(ども)、千葉の介(すけ)貞胤(さだたね)を始(はじ)めとし
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て、覚(おぼ)え異(こと)なる限(かぎ)り、十人選(えら)びて奉(たてまつ)る。色々(いろいろ)の綾錦(あやにしき)の水干(すいかん)・直垂(ひたたれ)など言(い)ふもの、様々(さまざま)に織(お)り尽(つ)くし染(そ)め尽(つ)くして、いみじき清(きよ)らを好(この)み整(ととの)へたれば、かくてしも、世に珍(めづら)しき見物(みもの)なり。六波羅(ろくはら)より、七条を西(にし)へ、大宮(おほみや)を南(みなみ)へ折(を)れて、東寺の門の前(まへ)に御車抑(おさ)へらる。とばかり御念誦(ねんじゆ)あるべし。物見(み)車所せき程(ほど)なり。よろしき女房も壺装束(つぼさうぞく)などして、かちの物共(ども)もうちまじれり。若(わか)きも、老いたるも、尼(あま)法師(ほふし)、怪(あや)しき山賎(やまがつ)まで立(た)ち込(こ)みたる様(さま)、竹の林(はやし)に異(こと)ならず。各(おのおの)目(め)押(お)しのごひ、鼻(はな)すすりあへる気色(けしき)共(ども)、げに、うき世のきはめは、今(いま)に尽(つ)くしつる心地(ここち)ぞする。崇徳院の讚岐(さぬき)に御座(おは)しましけん程(ほど)の有様(ありさま)、後鳥羽院(ごとばのゐん)の隠岐(おき)に移(うつ)らせ給(たま)ひけむ時なども、さこそは有(あ)りけめなれど、つてにのみ聞(き)きて、見(み)ねば知(し)らず。これを始(はじ)めたる心地ぞする。日頃(ひごろ)は、何(なに)の御匂(にほひ)にも触(ふ)れず、数ならぬ人、及(およ)ばぬ身までも、今日(けふ)の御別のあはれさ、なべておき所なげにぞ惑(まど)ひあへるかし。
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君も御簾(すだれ)少(すこ)しかき遣(や)りて、此(こ)のも彼(か)のも御覧(ごらん)じ渡(わた)しつつ、御目とまらぬ草木もあるまじか(ン)めり。岩木(いはき)ならねば、武士(もののふ)の鎧(よろひ)の袖共(ども)も、しほとけげにぞ見(み)ゆる。都(みやこ)の木末(こずゑ)を隠(かく)るるまで御覧(ごらん)じ送(おく)るも、猶(なほ)夢かと覚(おぼ)ゆ。鳥羽殿に御座(おは)しまし著(つ)きて、御よそひ改(あらた)め、破子(わりご)など参(まゐ)らせけれど、気色ばかりにて参(まゐ)らづ。これより御輿(こし)に奉(たてまつ)れば、とどまるべき御前(ぜん)共(ども)の、空(むな)しき御車を、泣(な)く泣(な)くやりかへるとて、くれ惑(まど)ひたる気色(けしき)、いと堪(た)えがたげ也。
かくて、君は遙(はる)かに赴(おもむ)かせ給(たま)ふ。淀(よど)の渡(わた)りにて、昔(むかし)八幡(やはた)の行幸有(あ)りし時、橋渡(はしわた)しの使(つか)ひなりし佐々木(ささき)の佐渡の判官(はうぐわん)と言(い)ふ物、今(いま)は入道して、今日(けふ)の御送(おく)り仕(つかまつ)れるに、其(そ)の世の事思(おぼ)し出(い)でられて、いと忍(しの)びがたさに賜(たま)はせける。
しるべする道(みち)こそ有(あ)らずなりぬとも淀(よど)の渡(わた)りは忘(わす)れしもせじ W
又の日は、中務(なかづかさ)の御子(みこ)、土佐国へ御座(おは)します。御供(とも)に為明の中将(ちゆうじやう)参(まゐ)る。日頃(ひごろ)、かく怪(あや)しき御宿(やど)りに物(もの)し給(たま)ふを、忝(かたじけな)く思ひ聞(き)こえつるに、遙(はる)かなる世界(せかい)にさへ居(ゐ)て御座(おは)しませば、ましていかさまなるわざをして御覧(ごらん)ぜさせんと、主(あるじ)時信、経営(けいめい)し騒(さわ)ぐ。宮既(すで)に立(た)たせ給(たま)ふとて、瓶(かめ)にさしたる花を折(を)らせ給(たま)ひ
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て、
花は猶(なほ)とまる主(あるじ)に語(かた)らへよ我(われ)こそ旅(たび)に立(た)ちわかるとも W
同(おな)じ日、やがて妙法院の座主尊澄法親王も、讚岐(さぬき)の国へ御座(おは)します。
先帝は今日(けふ)津(つ)の国(くに)昆陽野(こやの)の宿(しゆく)と言(い)ふ所に著(つ)かせ給(たま)ひて、夕づく夜(よ)ほのかにをかしきを、ながめ御座(おは)します。
命あればこやの軒ばの月も見(み)つ又いかならん行末(ゆくすゑ)の空 W
昆陽野(こやの)より出(い)でさせ給(たま)ひて、武庫川(むこがは)・神崎(かんざき)・難波(なには)、住吉(すみよし)など過(す)ぎさせ給ふとて、御心(おんこころ)の内(うち)に思(おぼ)す筋(すぢ)あるべし。広田(ひろた)の宮の渡(わた)りにても、御輿(こし)止(とど)めて、拝(をが)み奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。葦屋(あしや)の里、雀(すずめ)の松原・布引(ぬのひき)の滝(たき)など御覧(ごらん)じやらるるも、古(ふる)き御幸(みゆき)共(ども)思(おぼ)し出(い)でらる。生田(いくた)の森をば訪(と)はで過(す)ぎさせ給(たま)ひぬめり。湊川(みなとがは)の宿(しゆく)に著(つ)かせ給(たま)へるに、中務(なかづかさ)の宮は、こやの宿(しゆく)に御座(おは)します程(ほど)、間近(まぢか)く聞(き)き奉(たてまつ)らせ給(たま)ふも、いみじうあはれに悲(かな)し。宮、
いとせめてうき人遣(や)りの道(みち)ながら同(おな)じとまりと聞(き)くぞ嬉(うれ)しき W
福原(ふくはら)の島(しま)より、宮は御舟に奉(たてまつ)る。御門(みかど)は、和田(わだ)の岬(みさき)・刈藻川(かるもがは)をうち渡(わた)し
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て、須磨(すま)の関(せき)にかからせ給(たま)ふ。彼(か)の行平の中納言、「関(せき)吹(ふ)きこゆる」と言(い)ひけんは、浦(うら)よりをちなるべし。あはれに御覧(ごらん)じ渡(わた)さる。源氏(げんじ)の大将の、「泣(な)く音(ね)にまがふ」と宣(のたま)ひけん浦波(うらなみ)、今(いま)もげに御袖にかかる心地(ここち)するも、様々(さまざま)御涙の催(もよほ)し也。播磨(はりま)の国へ著(つ)かせ給(たま)ひて、塩屋(しほや)・垂水(たるみ)と言(い)ふ所をかしきを、問(と)はせ給(たま)へば、「さなん」と奏(そう)するに、「名を聞(き)くよりからき道(みち)にこそ」と宣(のたま)はせて、差(さ)しのぞかせ給(たま)へる御様(さま)かたち、ふり難(がた)くなまめかし。けぢかき限(かぎ)りは、あはれにめでたうもと思ひ聞(き)こゆべし。
大倉谷と言(い)ふ所少(すこ)し過(す)ぐる程(ほど)にぞ、人丸の塚(つか)は有(あ)りける。明石(あかし)の浦を過(す)ぎさせ給(たま)ふに、「島(しま)がくれ行(ゆ)く舟」共(ども)、ほのかに見(み)えてあはれ也。
水の泡(あは)の消(きえ)てうき世を渡(わた)る身の羨(うらや)ましきは海士(あま)の釣舟(つりぶね) W
野中の清水(しみづ)・ふたみの浦(うら)・高砂(たかさご)の松など、名ある所々(ところどころ)御覧(ごらん)じ渡(わた)さるるも、かからぬ御幸(みゆき)ならば、をかしうも有(あ)りぬべけれど、万(よろづ)かき暗(くら)す御乱(みだ)り心地(ここち)に、御目(め)とまらぬも、我(われ)ながらいたう屈(くん)じにけるかなと思(おぼ)さる。いと高(たか)き山(やま)の峰(みね)に、花面白(おもしろ)く咲(さ)き続(つづ)きて、白雲をわけ行(ゆ)く心地(ここち)するも艶(えん)なるに、都(みやこ)の
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事数々(かずかず)思(おぼ)し出(い)でらる。
花は猶(なほ)うき世もわかず咲きてけり都(みやこ)も今(いま)や盛(さか)りなるらむ W
あと見(み)ゆる道(みち)のしをりの桜花此(こ)の山人の情(なさ)けをぞ知(し)る W
十二日に、加古河(かこがは)の宿(しゆく)と言(い)ふ所に御座(おは)します程(ほど)に、妙法院の宮、讚岐(さぬき)へ渡(わた)らせ給(たま)ふとて、同(おな)じ道(みち)、少(すこ)し違(ちが)ひたれど、此(こ)の川の東(ひんがし)、野口(のぐち)と言(い)ふ所(ところ)まで参(まゐ)り給(たま)へる由(よし)奏(そう)せさせ給(たま)へば、いとあはれに相(あひ)見(み)まほしう思(おぼ)さるれど、御送(おく)りの兵(つはもの)共(ども)許(ゆる)し聞(き)こえねば、宮むなしく帰(かへ)らせ給(たま)ふ御心(おんこころ)の中(うち)、堪(た)へ難(がた)く乱(みだ)れ勝(まさ)るべし。更(さら)なる事(こと)なれど、かばかりの事(こと)だに、御心(おんこころ)にまかせずなりぬる世の中(なか)、いへばえに、つらく恨(うら)めしからぬ人無し。
十七日、美作(みまさか)の国に御座(おは)しまし著(つ)きぬ。御心地(ここち)悩(なや)ましくて、此(こ)の国に二、三日休(やす)らはせ給(たま)ふ程(ほど)、かりそめの御宿(やど)りなれば、もの深(ふか)からで、候(さぶら)ふ限(かぎ)りの武士(もののふ)共(ども)、おのづからけぢかく見奉(たてまつ)るを、あはれにめでたしと思(おも)ひ聞(き)こゆ。君も思(おも)ほし続(つづ)くる事有(あ)りて、
あはれとは汝(なれ)も見るらん我(わ)が民と思ふ心(こころ)は今(いま)も変(か)はらず W
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御座(おは)しますに続(つづ)きたる軒のつまより、煙の立(た)ち来(く)れば、「庵(いほり)にたける」とうち誦(じゆん)ぜさせ給(たま)へるも艶(えん)なり。
よそにのみ思ひぞやりし思(おも)ひきや民(たみ)のかまどをかくて見(み)んとは W
二十一日、雲清寺と言(い)ふ所にて、いと面白(おもしろ)き花を折(を)りて、忠顕少将奏(そう)しける。
変(か)はらぬを形見(かたみ)となして咲く花の都(みやこ)は猶(なほ)も忍(しの)ばれにける W
御返(かへ)し、
色も香も変(か)はらぬしもぞ憂(う)かりける都(みやこ)の外(ほか)の花の木末(こずゑ)は W
又、小山(をやま)の五郎とか言(い)ふ武士(ぶし)に、同(おな)じ花をやるとて、少将、
うき旅(たび)と思ひは果(は)てじ一枝の花の情(なさ)けのかかる折(をり)には W
かくて猶(なほ)御座(おは)しませば、来(こ)し方(かた)はそこはかとなく霞(かす)み渡(わた)りて、「あはれに遠(とほ)くも来(き)にけるかな」と、日数(ひかず)に添(そ)へて、都(みやこ)のいとど隔(へだ)たりはつるも、心(こころ)細(ぼそ)う思(おぼ)さる。ほのかに咲(さ)きそむと見(み)えし花の木末(こずゑ)さへ、日数(ひかず)も山(やま)も重(かさ)なるに添(そ)へて、うつろひ勝(まさ)りつつ、上(のぼ)り下(くだ)るつづらをりに、いと白(しろ)く散(ち)りつもりて、むら消(ぎ)えたる雪の
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心地(ここち)す。
花の春又(また)見(み)ん事(こと)のかたきかな同(おな)じ道(みち)をば行(ゆ)きかへるとも W
いとかたしとは思(おぼ)す物から、なほさりとも平(たひら)かにだに有(あ)らば、おのづから御本意(ほんい)とぐるやうも有(あ)りなんなど、御心(おんこころ)もて慰(なぐさ)め思(おぼ)すもはかなし。久米(くめ)の佐良山(さらやま)と言(い)ふ所越(こ)えさせ給(たま)ふとて、
聞(き)きおきし久米(くめ)の佐良山(さらやま)越(こ)えゆかん道(みち)とは予(かね)て思ひやはせし W
逢坂(あふさか)と言(い)ふは、東路(あづまぢ)ならでも有(あ)りけりと聞(き)こし召(め)して、
立(た)ちかへり越(こ)え行(ゆ)く関と思(おも)はばや都(みやこ)に聞(き)きし逢坂(あふさか)の山 W
三日月(みかづき)の中山にて、昔(むかし)後鳥羽院(ごとばのゐん)の仰(おほ)せられけん事思(おぼ)し出(い)づるさへ、げに憂(う)かりける例(ためし)なり。
伝(つた)へ聞(き)く昔(むかし)がたりぞうかりける其(そ)の名ふりぬる三日月(みかづき)の森 W
御道(みち)半(なか)ばになりぬれば、御送(おく)りの物共(ども)、上下、都(みやこ)出(い)でしよりも猶(なほ)花(はな)やかに、今(いま)めかしう装束(さうぞ)きかへたり。大方(おほかた)は、怪(あや)しう様(さま)異(こと)なる御幸なれど、道(みち)すがらの御設(まう)け、国々(くにぐに)に心遣(づかひ)したる気色(けしき)などは、かうざまの御歩(あり)きと
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は見(み)えず、いとやむごとなくなん。さは言(い)へど、今(いま)まで国の主(あるじ)にて、世をもいみじう治(をさ)めさせ給(たま)へりつる名残(なごり)にや有(あ)らん、いと懇(ねんご)ろにのみ仕(つかうまつ)れり。古(いにしへ)の御幸(みゆき)共(ども)には、かうは有(あ)らざりけりとぞ、古(ふる)き事知(し)れる人々(ひとびと)言(い)ひ侍(はべ)りける。四月一日の頃(ころ)、百敷(ももしき)の宮の中(うち)思(おぼ)し出(い)でられて、
さもこそは月日(つきひ)も知(し)らぬ我(われ)ならめ衣がへせし今日(けふ)にやは有(あ)らぬ W
出雲(いづも)の国やすぎの津と言(い)ふ所より、御舟に奉(たてまつ)る。大舟二十四艘(そう)、小舟共(ども)は、〔はしに〕数(かず)も知(し)らず続(つづ)きたり。遙(はる)かに押(お)し出(い)だす程(ほど)、今(いま)一かすみ心(こころ)細(ぼそ)うあはれにて、誠(まこと)に「二千里の外(ほか)」の心地(ここち)するも、今更(いまさら)めきたり。彼(か)の島(しま)に御座(おは)しまし著(つ)きぬ。昔(むかし)の御跡(あと)は、それとばかりのしるしだに無(な)く、人のすみかも稀(まれ)に、おのづから海士(あま)の塩(しほ)やく里(さと)ばかり遙(はる)かにて、いとあはれなるを御覧(ごらん)ずるにも、御身の上(うへ)は差(さ)し置(お)かれて、先(ま)づ彼(か)の古(いにしへ)の事(こと)思(おぼ)し出(い)づ。かかる所に世を尽(つ)くし給(たま)ひけん御心(おんこころ)の内(うち)、いかばかりなりけんと、あはれに忝(かたじけな)く思(おぼ)さるるにも、今(いま)はた、更(さら)にかくさすらへぬるも、何(なに)により思ひ立(た)ちし事(こと)ぞ、彼(か)の御心(おんこころ)の末(すゑ)や果(は)たし遂(と)ぐると思ひし故(ゆゑ)也。苔(こけ)の下にもあはれと思(おぼ)さるらんかしと、万(よろづ)にかき集(あつ)めつきせずなん。海(うみ)づら
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よりは少(すこ)し入(い)りたる国分寺と言(い)ふ寺(てら)を、よろしき様(さま)に取(と)り払(はら)いて、御座(おは)しまし所に定(さだ)む。今(いま)はさは、かくてあるべき御身ぞかしと、思(おぼ)し静(しづ)まる程(ほど)、猶(なほ)夢の心地(ここち)して、言(い)はん方(かた)無し。そこら参(まゐ)りし兵(つはもの)共(ども)もまか(ン)づれば、かいしめりのどやかになりぬる、いとど心(こころ)細(ぼそ)し。昔(むかし)こそ、受領(ずりやう)共(ども)も、任の程(ほど)其(そ)の国をしたため行(おこな)ひしか。此(こ)の頃(ごろ)は只(ただ)名ばかりにて、いづくにも守護(しゆご)と言(い)ふ物の、目代よりはおぞましきを据(す)ゑたれば、武家(ぶけ)のなびきにてのみ、おほやけざまの事(こと)は、万(よろづ)おろそかにぞしける。葛城(かつらぎ)の大君(おほきみ)を、陸奥国(みちのくに)へ遣(つか)はしたりけんも、かくやとあはれ也。
中務(なかづかさ)の御子(みこ)も、土佐に御座(おは)しまし著(つ)きて、御送(おく)りの武士に賜(たま)はせける。
思ひきや恨(うら)めしかりし武士(もののふ)の名残(なごり)を今日(けふ)は慕(した)ふべしとは W
かやうの類(たぐひ)、数多(あまた)聞(き)こえしかど、何(なに)かはさのみ。皆人(みなひと)もゆかしからず思(おぼ)さるらんとてなん。
都(みやこ)には、三月二十二日御即位(そくゐ)の行幸なれば、世の中(なか)めでたく罵(ののし)る。本院・新院一(ひと)つに奉(たてまつ)りて、待賢門(たいけんもん)の辺(ほとり)に御車立(た)てて見(み)奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。万(よろづ)ある
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べき様(さま)に、整(ととの)ほりてめでたし。
誠(まこと)や、中宮は其(そ)の儘(まま)に御ぐしもたぐる時も無(な)く、沈(しづ)み給(たま)へる御有様(おんありさま)、いと理(ことわり)に、遠(とほ)き御別の悲(かな)しさにうち添(そ)へて、御胸(むね)の安(やす)き間(ま)も無(な)く思(おぼ)しこがる。后の位(くらゐ)も止(とど)められ給(たま)ひて、院号(ゐんがう)の定(さだ)めなど、人の上(うへ)のやうにほのかに聞(き)こし召(め)すも、嬉(うれ)しからぬ世也。礼成門院(れいしやうもんゐん)とかや申す也。年月(としつき)は、御身の人わらへなる様(さま)にて、天下(てんか)の騒(さわ)がれなりしをこそ思(おぼ)し歎(なげ)き、御門(みかど)も苦(くる)しき異(こと)に思(おぼ)し宣(のたま)はせけるに、今(いま)は中々其(そ)の筋(すぢ)の事(こと)は、かけても思(おぼ)さず、様々(さまざま)なりし御修法(みしゆほふ)の壇(だん)共(ども)も、あとかた無(な)く毀(こぼ)ち果(は)てて、かきさましぬ。ひたすらに、只(ただ)かかる世の憂(う)さをのみ思(おぼ)し惑(まど)ふに、日頃経(ふ)れど、御湯(ゆ)なども絶(た)えて御覧(ごらん)じ入(い)れねば、そこはかとなく、いとど損(そこ)なはれ勝(まさ)りて、ながらふべくも見(み)え給(たま)はず。隠岐(おき)よりは、たまさかの御消息(せうそこ)などの通(かよ)ふばかりにて、おぼつか無(な)くいぶせき事多(おほ)く積(つ)もり行(ゆ)くも、いつをあふせの限(かぎ)りとも無(な)く、定(さだ)め無(な)き世に、やがてかくてやとぢめんとすらんと、かたみにいみじう思(おぼ)さる。
彼処(かしこ)に参(まゐ)り給(たま)へる内侍(ないし)の三位の御腹(おんはら)にも、御子(みこ)達(たち)数多(あまた)御座(おは)します。いづれ
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も未(いま)だいはけなき御程(ほど)にはあれど、物思(おぼ)し知(し)りて、いみじう恋(こ)ひ聞(き)こえ給(たま)ひつつ、折々(をりをり)は忍(しの)びてうち泣(な)きなどし給(たま)ふ。幼(をさな)う物(もの)し給(たま)へば、遠(とほ)き国までは移(うつ)し奉(たてまつ)らねど、もとの御後見(おんうしろみ)をば改(あらた)めて、西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)公宗の家にぞ渡(わた)し奉(たてまつ)る。八になり給(たま)ふぞ御兄(このかみ)ならんかし。北山に御座(おは)する程(ほど)、夕暮の空いと心すごう、山風あららかに吹(ふ)きて、常(つね)よりも物悲(がな)しく思(おぼ)されければ、
庭松緑老秋風冷薗竹葉繁(しげうして)白雪埋(うづ)む
つくづくとながめ暮(く)らして入相(いりあひ)の鐘(かね)の音(おと)にも君ぞ恋しき W
幼(をさな)き御心(おんこころ)にも、はかなくうちひそみ給(たま)へる、いとあはれなり。ここも彼処(かしこ)も尽(つ)きせず思(おぼ)し歎(なげ)く様(さま)、言(い)はずとも皆(みな)推(お)し量(はか)るべし。
宮の宣旨(せんじ)も、いたう時(とき)めきて、三位してき。其(そ)の御腹(おんはら)の若宮(わかみや)は、花山院の大納言(だいなごん)師賢(もろかた)の御乳母(めのと)にて、事(こと)の外(ほか)にかしづかれ給(たま)ひしも、此(こ)の頃(ごろ)は、引(ひ)き忍(しの)びて御座(おは)します。母君も世の憂(う)さに堪(た)えず、様(さま)かへて、心深(ふか)くうち行(おこな)ひつつ、涙ばかりを友(とも)にて、明(あ)かし暮(く)らすに、おば北(きた)の方(かた)さへ失(う)せたりと聞(き)きて、時々言(い)ひかはしてけるなま女房のもとより、程(ほど)経(へ)て後(のち)なりければ、
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うきに又重(かさ)ぬる夢を聞(き)きながら驚(おどろ)かさでも歎(なげ)き来(こ)しかな W
返(かへ)し、宣旨(せんじ)の三位殿、
うきに又(また)重(かさ)なる夢を聞(き)きながら驚(おどろ)かさではなど歎(なげ)きけん W
此(こ)の兄(せうと)の為定の中納言も、前(さき)の御世には、覚(おぼ)え花(はな)やかにて、いと時なりしに引(ひ)き返(かへ)、しめやかに徒然(つれづれ)と篭(こも)り居(ゐ)たれば、祖父(おほぢ)の大納言(だいなごん)為世、度々(たびたび)院の御気色(けしき)賜(たま)はられけれど、いとふようなれば、心もとなう思ひわびて、春宮の大夫通顕の君して、重(かさ)ねて奏(そう)しける。
和歌(わか)の浦(うら)に八十(やそぢ)余(あま)りの夜の鶴(つる)子(こ)を思ふ声(こゑ)のなどか聞(き)こえぬ W
大夫は、うけばりたる伝奏(でんそう)などにてはいませざりけれど、此(こ)の大納言(だいなごん)、歌の弟子にて、去(さ)り難(がた)き上(うへ)、事(こと)の様(さま)も故(ゆゑ)あるわざなれば、直衣(なほし)の懐(ふところ)に引(ひ)き入(い)れて参(まゐ)り給(たま)へりけるに、院の上(うへ)のどやかに出(い)で居(ゐ)させ給(たま)ひて、世の御物語(おんものがたり)など仰(おほ)せらる。折(をり)よくて、思(おも)ひ歎(なげ)く様(さま)など、懇(ねんご)ろに語(かた)り申して、有(あ)りつる文引(ひ)き出(い)でつつ、御気色(けしき)とり給(たま)ふ。大方(おほかた)、いとなごやかに御座(おは)します君の、まいて何(なに)ばかり罪(つみ)ある人ならねば、勘(かう)じ思(おぼ)すまでは無(な)けれど、いささかも武家より
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とり申(まう)さぬ事(こと)を、御心(おんこころ)にまかせ給(たま)はぬにより、かくとどこほるなるべし。「いと不便(ふびん)にこそ」と宣(のたま)はせて、やがて御返(かへ)し、
雲の上(うへ)に聞(き)こえざらめや和歌(わか)の浦に老いぬる鶴の子を思ふ声(こゑ) W
今年(ことし)は祭(まつり)の御幸あるべければ、珍(めづら)しさに、人々(ひとびと)常(つね)よりも物見(み)車心遣(づかひ)して、予(かね)てより桟敷(さじき)などもいみじう造(つく)れり。使共(ども)も、いかで人に勝(まさ)らむと、かたみにいどみかはすべし。本院・新院・広義門院(くわうぎもんゐん)・一品(いつぽん)の宮(みや)も忍びて入(い)らせ給(たま)ふなどぞ聞(き)こえし。御車寄(よ)せには、菊亭(きくてい)の右の大臣(おとど)の御子実尹(さねまさ)の中納言参(まゐ)り給(たま)へり。殿上人も、良(よ)き家の君達(きんだち)共(ども)、色ゆりたる限(かぎ)り、いと清(きよ)らに好(この)ましう出(い)で立(た)ち仕(つかうまつ)れり。御随身(みずいじん)なども、花を折(を)れる様(さま)也。出(い)だし車に、色々(いろいろ)の藤・躑躅(つつじ)・卯(う)の花(はな)・なでしこ・かきつばたなど、様々(さまざま)の袖口(そでくち)こぼれ出(い)でたる、いと艶(えん)になまめかし。
祭(まつり)など過(す)ぎて、世の中(なか)のどやかになりぬる程(ほど)に、先帝(せんてい)の御供(とも)なりし上達部(かんだちめ)共(ども)、罪(つみ)重(おも)き限(かぎ)り、遠き国々へ遣(つか)はしけり。洞院(とうゐん)の按察(あぜち)の大納言(だいなごん)公敏(きんとし)、頭(かしら)おろして忍(しの)び過(す)ぐされつるも、猶(なほ)ゆり難(がた)きにや、小山の判官(はうぐわん)秀朝(ひでとも)とかや言(い)ふ物具(ぐ)して、下野国
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へと聞(き)こゆ。
花山院の大納言(だいなごん)師賢は、千葉介貞胤(さだたね)後(うし)ろみて、下総国(しもつふさのくに)に下(くだ)る。五月十日余(あま)りに都(みやこ)出(い)でられけり。思(おも)ひかけざりし有様(ありさま)共(ども)、いみじとも更(さら)也。
わかるとも何(なに)か歎(なげ)かん君住(す)までうき故郷(ふるさと)となれる都(みやこ)を W
北(きた)の方(かた)は花山院の入道右の大臣(おとど)家定の御女なり。其(そ)の腹(はら)にも、又異腹(ことはら)にも、君達(きんだち)数多(あまた)御座(おは)すれど、それまでは流(なが)されず。上(うへ)のいみじう思ひ歎(なげ)き給(たま)へる様(さま)、あはれに悲(かな)しけれど、今(いま)は限(かぎ)りの対面(たいめん)だにも許(ゆる)されねば、はるくるかた無(な)く口惜(くちを)しく、万(よろづ)に思(おも)ひめぐらされて、いと人悪(わろ)し。
今(いま)はとて命を限(かぎ)る別(わか)れ路(ぢ)は後(のち)の世ならでいつを頼(たの)まん W
源中納言具行も同(おな)じ頃(ころ)東(あづま)へ率(ゐ)て行(ゆ)く。数多(あまた)の中(なか)に取(と)りわきて重(おも)かるべく聞(き)こゆるは、様(さま)異(こと)なる罪(つみ)に当(あ)たるべきにや有(あ)らん。内に候(さぶら)ひし勾当(こうたう)の内侍は、経朝(つねとも)の三位(さんみ)の女也き。早(はや)うより、御門(みかど)むつましく思(おぼ)し召(め)して、姫宮(ひめみや)などとうで奉(たてまつ)りしを、其(そ)の後(のち)、此(こ)の中納言未(いま)だ下臈(げらふ)なりし時より許(ゆる)し賜(たま)はせて、此(こ)の年頃(としごろ)、二(ふた)つ無(な)き物に思ひかはして過(す)ぐしつるに、かく様々(さまざま)につけて
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あさましき世を、なべてにやは。日に添(そ)へて歎(なげ)き沈(しづ)みながらも、同(おな)じ都(みやこ)に有(あ)りと聞(き)く程(ほど)は、吹(ふ)きかふ風の便(たよ)りにも、さすが言(こと)問(と)ふ慰(なぐさ)めも有(あ)りつるを、遂(つひ)にさるべき事(こと)とは、人の上(うへ)を見(み)聞(き)くにつけても、思(おも)ひ設(まう)けながら、猶(なほ)今(いま)はと聞(き)く心地(ここち)、たとへん方(かた)無し。此(こ)の春、君の都(みやこ)別(わか)れ給(たま)ひしに、そこら尽(つ)きぬと思ひし涙も、げに残(のこ)り有(あ)りけりと、今一しほ身も流(なが)れ出(い)でぬべく覚(おぼ)ゆ。中納言は、「ものにもがなや」とくやしうはしたなき事(こと)のみぞ、そこには、千々(ちぢ)にくだくめれど、めめしう人に見(み)えじと思ひ返(かへ)しつつ、つれなく作(つく)りて、思ひ入(い)りぬる様(さま)也。去年(こぞ)の冬頃(ごろ)、数多(あまた)聞(き)こえし歌の中(なか)に、
ながらへて身は徒(いたづら)に初霜(はつしも)のおくかた知(し)らぬ世にもふるかな W
今(いま)ははやいかになりぬる憂(う)き身ぞと同(おな)じ世(よ)にだにとふ人も無し W
佐々木の佐渡の判官入道伴(ともな)ひてぞ下(くだ)りける。逢坂(あふさか)の関にて、
返(かへ)るべき時し無(な)ければこれや此(こ)の行(ゆ)くを限(かぎ)りの逢坂(あふさか)の関(せき) W
柏原(かしはばら)と言(い)ふ所にしばし休(やす)らいて、預(あづ)かりの入道、先(ま)づ東(あづま)へ人を遣(つか)はしたる返事(かへりごと)待(ま)つなるべし。其(そ)の程(ほど)、物語(ものがたり)など情(なさ)け情(なさ)けしううち言(い)ひかはして、「何事(なにごと)
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もしかるべき前(さき)の世の報(むく)ひに侍るべし。御身一つにしも有(あ)らぬ身なれば、まして甲斐(かひ)無(な)きわざにこそ。かく猛(たけ)き家(いへ)に生(む)まれて、弓矢(ゆみや)取(と)るわざにかかづらひ侍るのみ、うきものに侍(はべ)りけれ」など、まほならねどほのめかすに、心得(え)果(は)てられぬ。隠岐(おき)の御送(おく)りをも仕(つかまつ)りし者(もの)なれば、御道(みち)すがらの事(こと)など語(かた)り出(い)でて、「忝(かたじけな)ういみじうも侍(はべ)りしかな。まして、朝夕(あさゆふ)近(ちか)う仕(つかうまつ)り馴(な)れ給(たま)ひけん御心(おんこころ)共(ども)、さながらなん推(お)し量(はか)り聞(き)こえさせ侍(はべ)りし。何事(なにごと)も昔(むかし)に及(およ)び、めでたう御座(おは)しましし御事(こと)にて、世下(くだ)り時衰(おとろ)へぬる末には、余(あま)りたる御有様(おんありさま)にや、かくも御座(おは)しますらんとさへ、せめては思ひ給(たま)へよらるる」など、大方(おほかた)の世につけても、げにと覚(おぼ)ゆる節々(ふしぶし)加(くは)へて、のどやかに言(い)ひをるけはひ、おのが程(ほど)には過(す)ぎにたる、御酒(みき)など、所につけてことそぎあらあらしけれど、さる方(かた)にしなして、良(よ)き程(ほど)にて、下(くだ)しつる東(あづま)よりの使(つか)ひ、帰(かへ)り来(き)たる気色(けしき)、しるけれど、ことさらに言(い)ひ出(い)づる事(こと)も無し。いかならむと胸(むね)うちつぶれて覚(おぼ)ゆるも、かつはいと心弱(よわ)しかし。いづくの島守(しまもり)となれらん人もあぢきなく、誰(たれ)も千年(ちとせ)の松ならぬ世に、中々心づくしこそ勝(まさ)らめ。遂(つひ)に逃(のが)るまじき道は、とてもかくても同(おな)じ事、其(そ)の際(きは)
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の心乱(みだ)れ無(な)くだに有(あ)らば、すずしき方(かた)にも赴(おもむ)きなんと思ふ心は心として、都(みやこ)の方(かた)も恋しうあはれに、さすがなる事(こと)ぞ多(おほ)かりける。
万(よろづ)につけて、事(こと)の気色(けしき)を見(み)るに、行末(ゆくすゑ)遠(とほ)くはあるまじかんめりと悟(さと)りぬ。預(あづ)かりがほのめかししも、情(なさ)け有(あ)りて思(おも)ひ知(し)らすれば、同(おな)じうはと思ひて、又の日「頭(かしら)おろさんとなん思(おも)ふ」と言(い)へば、「いとあはれなる事(こと)にこそ。東(あづま)の聞(き)こえやいかがと思(おも)ひ給(たま)ふれど、なんでう事(こと)かは」とて、許(ゆる)しつ。かく言(い)ふは、六月(みなづき)の十九日也。彼(か)の事(こと)は今日(けふ)な(ン)めりと、気色(けしき)見(み)知(し)りぬ。思ひ設(まう)けながらも、猶(なほ)例(ためし)無(な)かりける報(むく)ひの程(ほど)、いかが浅(あさ)くは覚(おぼ)えん。
消(き)えかかる露の命の果(は)ては見つさても東(あづま)の末(すゑ)ぞゆかしき W
猶(なほ)も、思ふ心のあるな(ン)めりと、憎(にく)き口(くち)つきなりかし。其(そ)の日の暮(く)れつ方(かた)、遂(つひ)にそこにて失(うしな)はれにけり。今(いま)はの際(きは)も、さこそ心の中(うち)は有(あ)りけめど、いたく人悪(わろ)うも無(な)く、あるべき事(こと)とも思(おも)へる様(さま)になん見(み)えける。内侍の待(ま)ち聞(き)く心地(ここち)、いかばかりかは有(あ)りけん。やがて様(さま)かへて、近江(あふみ)の国高島(たかしま)と言(い)ふ渡(わた)りに、昔(むかし)の縁(ゆかり)の人々(ひとびと)尊(たふと)く行(おこな)ひて住(す)む寺にぞ、立(た)ち入(い)りぬる。
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万里小路(までのこうじ)の中納言藤房は、常陸(ひたち)の国に遣(つか)はさる。父の大納言(だいなごん)、母(はは)おもとなど、老の末に引(ひ)きわかるる心地(ここち)共(ども)、言(い)へば更(さら)也。身にかへても止(とど)めまほしう思へど甲斐(かひ)無し。弟(おとうと)の季房(すゑふさ)の宰相も、頭(かしら)おろしたりしかど、猶(なほ)下野(しもつけ)の国へ流(なが)さる。平(へい)宰相(ざいしやう)成輔(なりすけ)は東(あづま)へと聞(き)こえしかど、それも駿河(するが)の国とかやにて失(うしな)はれける。
又元亨の乱(みだれ)の初(はじ)めに流(なが)されし資朝(すけとも)の中納言をも、未(いま)だ佐渡の島に沈(しづ)みつるを、此(こ)の程(ほど)のついでに、彼処(かしこ)にて失(うしな)ふべき由(よし)、預(あづ)かりの武士(ぶし)に仰(おほ)せければ、此(こ)の由(よし)を知(し)らせけるに、思(おも)ひ設(まう)けたる由(よし)言(い)ひて、都(みやこ)に止(とど)めける子のもとに、あはれなる文書(か)きて、預(あづ)けけり。既(すで)に斬(き)られける時の頌(じゆ)とぞ聞(き)き侍(はべ)りし。
四大本(もと)主(しゆ)無(な)く五蘊本来空
頭(かしら)をもつて白刃(はくじん)に傾(かたぶ)くれば但夏風(なつかぜ)を鑚(き)るが如(ごと)し
いとあはれにぞ侍(はべ)りける。
俊基(としもと)も同(おな)じやうにぞ聞(き)こえし。かくのみ、皆(みな)様々(さまざま)に罪(つみ)にあたり、遠(とほ)き世界(せかい)に放(はな)ち捨(す)てらるる、各(おのおの)思ひ歎(なげ)け共(ども)、筆(ふで)にも及(およ)び難(がた)し。大塔(だいたふ)の尊雲(そんうん)法親王
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ばかりは、虎(とら)の口(くち)を逃(のが)れたる御様(さま)にて、此処(ここ)彼処(かしこ)さすらへ御座(おは)しますも、安(やす)き空無(な)く、いかで過(す)ぐし果(は)つべき御身ならんと、心苦(ぐる)しく見(み)えたり。
隠岐(おき)の小島(こじま)には、月日(つきひ)ふる儘(まま)に、いと忍(しの)びがたう思(おぼ)さるる事(こと)のみぞ数そひける。いかばかりの怠(おこた)りにて、かかる憂目(うきめ)を見(み)るらんと、前(さき)の世のみつらく思(おぼ)し知(し)らるるにも、いかで其(そ)の事(こと)をも報(むく)ひてんと思(おぼ)して、うちたへて御忌(いも)ひにて、朝夕(あさゆふ)勤(つと)め行(おこな)はせ給(たま)ふ。法(ほふ)の験(しるし)をも試(こころ)みがてらと、かつは思(おぼ)すなるべし。自(みづか)ら護摩(ごま)などもたかせ給(たま)ふに、いと頼(たの)もしき事(こと)、夢(ゆめ)にも〔うつつにも〕多(おほ)くなん有(あ)りける。徒然(つれづれ)に思(おぼ)さるる折々(をりをり)は、廊(らう)めく所に立(た)ち出(い)でさせ給(たま)ひて、遙(はる)かに浦(うら)の方(かた)を御覧(ごらん)じやるに、海士(あま)の釣舟(つりぶね)ほのかに見(み)えて、秋の木の葉の浮(う)かべる心地するも、あはれに、「いづくをさしてか」と思(おぼ)さる。
志(こころざ)す方(かた)を問(と)はばや浪の上(うへ)に浮(う)きてただよふ海士(あま)の釣舟(つりぶね) W
「浦漕(こ)ぐ船のかぢをたえ」とうち誦(じゆ)して、御涙のこぼるるを、何(なに)と無(な)くまぎらはし給(たま)へる、言(い)ふ由(よし)無(な)く心深(ふか)げ也。ねび給(たま)ひにたれど、なまめかしうをかしき御様(さま)なれば、所については、ましてやんごとなきあたらしさを、自(みづか)らいと
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忝(かたじけな)しと思(おぼ)さる。
京には、十月になりて、御禊(けい)・大嘗会(だいじやうゑ)などの急(いそ)ぎに、天(あめ)の下(した)物騒(さわ)がしう、内蔵寮(くらづかさ)・内匠寮(たくみづかさ)・うち殿・染(そめ)殿(どの)、何(なに)くれの道々(みちみち)につけて、かしがましう響(ひび)きあひたるも、かたつ方(かた)は涙の催(もよほ)し也。悠紀(ゆうき)・主基(しゆき)の御屏風の歌、人々(ひとびと)に召(め)さる。書(か)くべき者(もの)の無(な)ければ、彼処(かしこ)へ参(まゐ)れる行房中将(ちゆうじやう)をや召(め)し返(かへ)されましなど、定(さだ)め兼(か)ね給(たま)ふを、まだきに伝(つた)へ聞(き)こし召(め)しければ、宵(よひ)の間(ま)の静(しづ)かなるに、御前(まへ)に異(こと)に人も無(な)く、此(こ)の朝臣ばかり候(さぶら)ひて、昔今(むかしいま)の御物語(おんものがたり)宣(のたま)ふついでに、「都(みやこ)に言(い)ふなる事(こと)は、いかが有(あ)らんとすらん。さも有(あ)らば、いとこそ羨(うらや)ましからめ」と、うち仰(おほ)せられて、火をつくづくとながめさせ給(たま)へる御まみの、忍(しの)ぶとすれど、いたう時雨させ給(たま)へるを見(み)奉(たてまつ)るに、中将(ちゆうじやう)も心強(づよ)からず、いと悲(かな)し。「いかばかりの道(みち)ならば、かかる御有様(おんありさま)を見(み)おき聞(き)こえながら、憂(う)き故郷(ふるさと)にはいかで帰(かへ)らん」と思ふも、え聞(き)こえやらず。後夜の御行(おこな)ひに、さながら御座(おは)しませば、潮風(しほかぜ)いと高(たか)う吹(ふ)き来(く)る、霰(あられ)の音(おと)さへ堪(た)え難(がた)く聞(き)こえて、いみじう寒(さむ)き夜(よ)の氷をうちたたきて、閼伽(あか)奉(たてまつ)るも、山寺の小法師(こほふし)ばらなどの心地(ここち)ぞするや。少将、此(こ)の中将(ちゆうじやう)など、
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しきみ折(を)りて参(まゐ)れるも、いつ習(なら)ひてかと、あはれに御覧(ごらん)ぜらる。「今(いま)一度(ひとたび)、いかで世を御心(おんこころ)にまかするわざもがな」と、人の心のけぢめわかるるにつけても、深(ふか)う思(おぼ)し勝(まさ)る事(こと)のみ数知(し)らず。
都(みやこ)には、十月二十五日御禊(けい)の行幸也。女御代には大炊御門(おほひのみかど)大納言(だいなごん)冬信(ふゆのぶ)の女出(い)ださると聞(き)こゆ。十一月十一日より五節(ごせち)始(はじ)まる。前の御代には、談天門院(だつてんもんゐん)の御忌月にて、とまりにしかば、さうざうしかりしに、珍(めづら)しくて、若(わか)き上人(うへびと)共(ども)など、心異(こと)に思(おも)へり。隠岐(おき)の御門(みかど)の御乳母(めのと)なりし吉田の一品(いつぽん)定房(さだふさ)も、当代(たうだい)に仕(つか)へて、五節(ごせち)など奉(たてまつ)る心の中(うち)ぞあはれに推(お)し量(はか)らるる。宣房(のぶふさ)の大納言(だいなごん)も、さるべき雑務(ざふむ)の事(こと)などには、出(い)で仕(つか)へけり。春宮の大夫は内大臣になりて、大嘗会(だいじやうゑ)の時も、高御座(たかみくら)の行幸に、前行とかや〔何とかや〕言(い)ふ事(こと)など勤(つと)め給(たま)ふ。右の大臣(おとど)兼季も太政大臣になりて、清暑堂(せいしよだう)の御神楽に、琵琶(びは)仕(つかうまつ)りなど聞(き)こえて、万(よろづ)めでたく有(あ)らまほしくて、年(とし)も暮(く)れぬ。
誠(まこと)や、此(こ)の卯月の頃より、年(とし)の名変(か)はりしぞかし。正慶とぞ言(い)ふなる。大塔(だいたふ)の法親王・楠(くす)の木の正成(まさしげ)などは、猶(なほ)同(おな)じ心にて、世を傾(かたぶ)けん謀(はかりこと)をのみめぐらす
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べし。正成(まさしげ)は、金剛山(こんがうさん)千早(ちはや)と言(い)ふ所に、いかめしき城(じやう)をこしらへて、えも言(い)はず猛(たけ)き物共(ども)多(おほ)く篭(こも)り居(ゐ)たり。さて大塔(だいたふ)の宮の令旨(りやうじ)とて、国々の兵(つはもの)を語(かた)らひければ、世に怨(うら)みある物など、此処(ここ)彼処(かしこ)に隠(かく)ろへばみてをる限(かぎ)りは、集(あつ)まり集(つど)ひけり。宮は熊野(くまの)にも御座(おは)しましけるが、大峰を伝(つた)ひて、忍(しの)び忍(しの)び吉野にも高野にも御座(おは)しまし通(かよ)ひつつ、さりぬべき隈々(くまぐま)にはよく紛(まぎ)れ物(もの)し給(たま)ひて、猛(たけ)き御有様(おんありさま)をのみあらはし給(たま)へば、いと賢(かしこ)き大将軍にていますべしとて、つき従(したが)ひ聞(き)こゆる物、いと多(おほ)く成(な)り行(ゆ)きければ、六波羅(ろくはら)にも東(あづま)にも、いと安(やす)からぬ事(こと)と、もて騒(さわ)ぎて、猶(なほ)彼(か)の千早(ちはや)を攻(せ)めくづすべしと言(い)へば、兵(つはもの)など上(のぼ)り重(かさ)なると聞(き)こゆ。正成(まさしげ)は、聖徳太子の御堂(みだう)の前(まへ)を軍(いくさ)の園(その)にして、出(い)であひ駆(か)けひき、寄(よ)せつ返(かへ)しつ、潮(しほ)の満(み)ち引(ひ)く如(ごと)くにて、年(とし)は只(ただ)暮(く)れに暮(く)れ果(は)てぬれば、春になりて、事(こと)共(ども)あるべしなど言(い)ひしろふも、いとむつかしう、心ゆるび無(な)き世の有様(ありさま)なり。
さても日野の大納言(だいなごん)俊光(としみつ)と言(い)ひしは、文保の頃、はじめて大納言(だいなごん)になりにしを、いみじき事(こと)に時の人言(い)ひ騒(さわ)ぐめりしに、其(そ)の子、此(こ)の頃(ごろ)、院の執権(しつけん)にて資名と言(い)ふ。
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又大納言(だいなごん)になりぬ。めでたく度(たび)をさへ重(かさ)ねぬる、いといみじか(ン)めり。前の御代にも、定房一品(いつぽん)して、宣房(のぶふさ)大納言(だいなごん)になされなどせしをば、かうざまにぞ人思(おも)ひ言(い)ふめりし。
内には女御も未(いま)だ候(さぶら)ひ給(たま)はぬに、西園寺(さいをんじ)の故内大臣殿の姫君(ひめぎみ)、広義門院の御傍(かたはら)に、今(いま)御方(かた)とかや聞(き)こえて、かしづかれ給(たま)ふを、参(まゐ)らせ奉(たてまつ)り給(たま)へれば、これや后がねと、世の人もまだきにめでたく思(おも)へれど、いかなるにか、御覚(おぼ)えいとあざやかならぬぞ口惜(くちを)しき。三条の前(さき)の大納言(だいなごん)公秀の女、三条とて候(さぶら)はるる御腹(おんはら)にぞ、宮々数多(あまた)出(い)で物(もの)し給(たま)ひぬる、遂(つひ)の儲(まう)けの君にてこそ御座(おは)しますめれ。



校註 増鏡

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第二十 月草の花
彼(か)の島(しま)には、春来(き)ても、猶(なほ)浦風(うらかぜ)さえて波あらく、渚(なぎさ)の氷(こほり)も解(と)け難(がた)き世の気色(けしき)に、いとど思(おぼ)し結(むす)ぼるる事つきせず。かすかに心(こころ)細(ぼそ)き御住居(すまひ)に、年(とし)さへ隔(へだ)たりぬるよと、あさましく思(おぼ)さる。候(さぶら)ふ人々(ひとびと)も、しばしこそあれ、いみじく屈(くん)じにたり。今年(ことし)は正慶二年と言(い)ふ。閏(うるう)二月有(あ)り。後の二月(きさらぎ)の初(はじ)めつ方(かた)より、取(と)りわきて密教の秘法(ひほふ)を試(こころ)みさせ給(たま)へば、夜も大殿(おほとの)ごもらぬ日数(ひかず)へて、さすがに、いたう困(こう)じ給(たま)ひにけり。心ならずまどろませ給(たま)へる暁(あかつき)がた、夢(ゆめ)うつつともわかぬ程(ほど)に、後宇多院、有(あ)りしながらの御面影(おもかげ)さやかに見(み)え給(たま)ひて、聞(き)こえ知(し)らせ給ふ事多(おほ)かりけり。うち驚(おどろ)きて、夢(ゆめ)なりけりと、思(おぼ)す程(ほど)、言(い)はん方(かた)無(な)く名残(なごり)
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悲(かな)し。御涙もせきあへず、「さめざらましを」と思(おぼ)すも甲斐(かひ)無し。源氏(げんじ)の大将、須磨(すま)の浦にて、父御門見(み)奉(たてまつ)りけん夢の心地(ここち)し給(たま)ふも、いとあはれに頼(たの)もしう、いよいよ御心(おんこころ)強(づよ)さ勝(まさ)りて、彼(か)の新発意(しぼち)が御迎(むか)へのやうなる釣舟(つりぶね)も、便(たよ)り出(い)で来(き)なんやと、待(ま)たるる心地(ここち)し給(たま)ふに、大塔(だいたふ)の宮よりも、海人(あまびと)の便(たよ)りにつけて、聞(き)こえ給ふ事絶(た)えず。
都(みやこ)にも猶(なほ)世の中(なか)静(しづ)まり兼(か)ねたる様(さま)に聞(き)こゆれば、万(よろづ)に思(おぼ)しなぐさめて、関守(せきもり)のうち寝(ね)る隙(ひま)をのみうかがい給(たま)ふに、しかるべき時の至(いた)れるにや、御垣守(みかきもり)に候(さぶら)ふ兵(つはもの)共(ども)も、御気色をほの心得(え)て、靡(なび)き仕(つかうまつ)らんと思ふ心つきにければ、さるべき限(かぎ)り語(かた)らひ合(あ)はせて、同(おな)じ月の二十四日の曙(あけぼの)に、いみじくたばかりて、隠(かく)ろへ率(ゐ)て奉(たてまつ)る。いと怪(あや)しげなる海士(あま)の釣舟(つりぶね)の様(さま)に見せて、夜深(ぶか)き空の暗(くら)き紛(まぎ)れに押(お)し出(い)だす。折(をり)しも、霧(きり)いみじう降(ふ)りて、行先(さき)も見(み)えず。いかさまならんとあやうけれど、御心(おんこころ)を静(しづ)めて念じ給(たま)ふに、思(おも)ふ方(かた)の風さへ吹(ふ)きすすみて、其(そ)の日(ひ)の申(さる)の時に、出雲国に著(つ)かせ給(たま)ひぬ。ここにてぞ、人々(ひとびと)心地(ここち)鎮(しづ)めける。
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同(おな)じ二十五日、伯耆(ははき)の国稲津(いなづ)の浦と言(い)ふ所へ移(うつ)らせ給(たま)へり。此(こ)の国に、名和(なわ)の又太郎長年(ながとし)と言(い)ひて、怪(あや)しき民なれど、いと猛(まう)に富(と)めるが、類(るい)広(ひろ)く、心もさかさかしく、むねむねしき物有(あ)り。彼(かれ)がもとへ宣旨(せんじ)を遣(つか)はしたるに、いと忝(かたじけな)しと思ひて、取(と)りあへず、五百余騎(よき)の勢(いきほ)ひにて、御迎(むか)へに参(まゐ)れり。又の日、賀茂(かも)の社(やしろ)と言(い)ふ所に立(た)ち入(い)らせ給(たま)ふ。都(みやこ)の御社(やしろ)思(おぼ)し出(い)でられて、いと頼(たの)もし。それより船上寺(ふなのうへでら)と言(い)ふ所へ御座(おは)しまさせて、九重(ここのへ)の宮になずらふ。これよりぞ、国々の兵(つはもの)共(ども)に、御敵(かたき)を滅(ほろ)ぼすべき由(よし)の宣旨(せんじ)遣(つか)はしける。比叡(ひえ)の山(やま)へも上(のぼ)せられけり。
かくて、隠岐(おき)には、出(い)でさせ給(たま)ひにし昼(ひる)つ方(かた)より騒(さわ)ぎあひて、隠岐(おき)の前(さき)の守(かみ)追(お)いて参(まゐ)る由(よし)聞(き)こゆれば、いとむくつけく思(おぼ)されつれど、ここにも其(そ)の心して、いみじう戦(たたか)いければ、引(ひ)き返(かへ)しにけり。京にも東(あづま)にも、驚(おどろ)き騒(さわ)ぐ様(さま)思ひやるべし。正成(まさしげ)が城(じやう)の囲(かこ)みに、そこらの武士(ぶし)共(ども)、彼処(かしこ)に集(つど)ひをるに、かかる事(こと)さへ添(そ)ひにたれば、いよいよ東(あづま)よりも上(のぼ)り集(つど)ふめり。
三月にもなりぬ。十日余(あま)りの程(ほど)、俄(にはか)に世の中(なか)いみじう罵(ののし)る。何(なに)ぞと
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聞(き)けば、播磨(はりま)の国より、赤松の某(なにがし)入道円心とかや言(い)ふ物、先帝の勅に従(したが)ひて攻(せ)め来(く)るなりとて、都(みやこ)の中(うち)あわて惑(まど)ふ。例(れい)の六波羅(ろくはら)へ行幸なり、両院も御幸とて、上下立(た)ち騒(さわ)ぐ。馬(うま)車(くるま)走(はし)り違(ちが)ひ、武士(ぶし)共(ども)のうち込(こ)み罵(ののし)りたる様(さま)、いと恐(おそ)ろし。然(さ)れど六波羅(ろくはら)の軍(いくさ)強(つよ)くて、其(そ)の夜は、彼(か)の物共(ども)引(ひ)き返(かへ)しぬとて、少(すこ)し静(しづ)まれるやうなれど、かやうに言(い)ひ立(た)ちぬれば、猶(なほ)心ゆるび無(な)きにや、其(そ)の儘(まま)院も御門(みかど)も御座(おは)しませば、春宮も離(はな)れ給(たま)へる、よろしからぬ事(こと)とて、二十六日六波羅(ろくはら)へ行啓(ぎやうげい)なる。内の大臣(おとど)御車に参(まゐ)り給(たま)ふ。傅は久我の右の大臣(おとど)にいますれど、大方(おほかた)の儀式(ぎしき)ばかりにて、万(よろづ)、此(こ)の内大臣、御後見(おんうしろみ)仕(つかまつ)り給(たま)へば、未(いま)だきびはなる御程(ほど)を後(うし)ろめたがりて、宿直(とのゐ)にもやがて候(さぶら)ひ給(たま)ふ。御修法(みしゆほふ)の為(ため)に、法親王達(たち)も候(さぶら)はせ給(たま)へり。ここも彼処(かしこ)も軍(いくさ)とのみ聞(き)こえて、日数(ひかず)ふるに、院よりの仰(おほ)せとて、上達部(かんだちめ)・殿上人までも、程々(ほどほど)に従(したが)ひて兵(つはもの)をめせば、弓(ゆみ)ひく道もおぼおぼしき若侍(わかさぶらひ)などをさへぞ奉(たてまつ)りける。げに臂(ひぢ)も折(を)りぬべき世の中(なか)也。かやうに言(い)ひしろふ程(ほど)に、三月(やよひ)も暮(く)れぬ。
四月(うづき)十日余(あま)り、又東(あづま)より武士(もののふ)多(おほ)く上(のぼ)る中(なか)に、一昨年(をととし)笠置(かさぎ)へ向(む)かいたり
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し足利(あしかが)の治部(ぢぶ)の大輔源高氏(たかうぢ)上(のぼ)れり。院にも頼(たの)もしく聞(き)こし召(め)して、彼(か)の伯耆(ははき)の船上へ向(む)かふべき由(よし)、院宣賜(たま)はせけり。東(あづま)を立(た)ちし時も、後(うし)ろめたく二心(ふたごころ)あるまじき由(よし)、おろかならず誓言文(ちかごとぶみ)を書(か)きてけれども、底(そこ)の心やいかが有(あ)らむ、とかく聞(き)こゆる筋(すぢ)も有(あ)りけり。此(こ)の高氏(たかうぢ)は、古(いにしへ)の頼義(らいぎ)の朝臣(あそん)の名残(なごり)なりければ、もとのねざしはやむごとなき武士(ぶし)なれど、承久より此(こ)の方(かた)、頭(かしら)差(さ)し出(い)だす源氏(げんじ)も無(な)くて、埋(うづ)もれ過(す)ぐしながら、類(るい)広(ひろ)く勢(いきほ)ひ四方(よも)に満(み)ちて、国々に心寄(よ)せの物多(おほ)かれば、かやうに国の危(あや)ふき折(をり)を得(え)て、思(おも)ひ立(た)つ道(みち)もや有(あ)らんなど、したにささめくもしるくぞ見(み)えし。
伯耆(ははき)の国へ向(む)かふべしと言(い)ひなして、先(ま)づ西山(にしやま)大原わたりに一(ひと)泊(とま)りして、五月七日、ほのぼのと明(あ)くる程(ほど)より、大宮(おほみや)の木戸(きど)共(ども)を押(お)し開(ひら)きて、二条よりしも、七条の大路を東(ひんがし)ざまに、七手(て)に分(わ)かれて、旗(はた)を差(さ)し続(つづ)けて、六波羅(ろくはら)をさして雲霞の如(ごと)くたなびき入(い)るに、更(さら)に面(おもて)を向(むか)ふる物無し。此(こ)の治部(ぢぶ)の大輔、早(はや)うより先帝の勅(ちよく)を承(うけたまは)りてければ、逆様(さかさま)に都(みやこ)を滅(ほろ)ぼさむとする也けり。時(とき)つくるとかや言(い)ふ声は、雷(いかづち)の落(お)ちかかるやうに、地の底(そこ)も響(ひび)き、梵天(ぼんてん)の宮の中(なか)も聞(き)き驚(おどろ)き
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給(たま)ふらんと思(おも)ふばかり、とよみあひたる様(さま)、来(き)し方(かた)行(ゆ)く先(さき)くれて、物覚(おぼ)ゆる人も無し。御門(みかど)・春宮・院の上(うへ)・宮達(たち)など、まして一人(ひとり)さかしきも御座(おは)しまさず。糸竹(いとたけ)の調(しら)べをのみ聞(き)こし召(め)しならいたる御心(おんこころ)共(ども)に、珍(めづら)かにうとましければ、只(ただ)あきれ給(たま)へり。武士(ぶし)共(ども)半(なか)ばを分(わ)けて、金剛山(こんがうさん)へ向(む)かひたれば、さならぬ残(のこ)り、都(みやこ)にある限(かぎ)りは戦(たたか)ひをなす。今(いま)を限(かぎ)りの軍(いくさ)なれば、手(て)を尽(つ)くして罵(ののし)る程(ほど)、学(まね)びやらんかた無し。雨のあしよりもしげく走(はし)り違(ちが)ふ矢にあたりて、目(め)の前(まへ)に死(し)を受(う)くる物数(かず)を知(し)らず。一日一夜いりもみとよみあかすに、両六波羅(ろくはら)にも、残(のこ)る手(て)無(な)く防(ふせ)きつれど、遂(つひ)に陣の内(うち)破(やぶ)られて、今(いま)はかくと見(み)えたり。日頃(ひごろ)候(さぶら)ひ篭(こも)り給(たま)へる上達部(かんだちめ)・殿上人なども、今日(けふ)と思ひ設(まう)けたらんだに、君の御座(おは)しまさん限(かぎ)りは、いかでまか(ン)でも散(ち)らん。まして、予(かね)てよりかく構(かま)へけるをも知(し)ろし召(め)さで、昨日かとよ、当代(たうだい)の宣旨(せんじ)を賜(たま)はりし物の、かくうら返(がへ)りぬれば、誰(たれ)か思(おも)ひよらん。すべて上下と無(な)く一(ひと)つに立(た)ち込(こ)みて、あわて惑(まど)ひたり。
日暮(ぐ)らし、八幡(やはた)・山崎(やまざき)・竹田・宇治(うぢ)・勢多(せた)・深草(ふかくさ)・法性寺など、燃(も)え上(あ)がる煙(けぶり)共(ども)、
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四方の空に満(み)ち満(み)ちて、日の光(ひかり)も見(み)えず。墨(すみ)をすりたるやうにて暮(く)れぬ。ここにも火かかりて、いとあさましければ、いみじう固(かた)めたりつる後(うし)ろの陣(ぢん)を辛(から)うじて破(やぶ)りて、それより免(まぬが)れ出(い)でさせ給ふ御心地(ここち)共(ども)、夢路(ゆめぢ)をたどるやうなり。内の上(うへ)も、いと怪(あや)しき御姿(すがた)にことさらやつし奉(たてまつ)る、いとまがまがし。両院も、御手(て)を取(と)りかはすと言(い)ふばかりにて、人に助(たす)けられつつ出(い)でさせ給(たま)ふ。上達部(かんだちめ)・大臣達(たち)は、袴(はかま)のそば取(と)りて、冠(かうぶり)などの落(お)ち行(ゆ)くも知(し)らず、空を歩(あゆ)む心地(ここち)して、あるは川原を西(にし)へ東(ひんがし)へ、様々(さまざま)散(ち)り散(ぢ)りになり給(たま)ふ。両六波羅(ろくはら)仲時(なかとき)・時益(ときます)、東(ひんがし)をさして東(あづま)へと心がけて落(お)ちければ、御幸も同(おな)じ様(さま)になし奉(たてまつ)りけり。西園寺(さいをんじ)の大納言(だいなごん)公宗は、北山へ御座(おは)しにけり。右衛門督経顕(つねあき)・左兵衛督(さひやうゑのかみ)隆蔭(たかかげ)・資明(すけあきら)の宰相などは、御幸の御共に参(まゐ)らる。按察(あぜち)の大納言(だいなごん)資名は、足(あし)を損(そこ)なひて、東山(ひんがしやま)わたりにとまりぬなど言(い)ひしは、いかが有(あ)りけん。内大臣殿は、御子の別当通冬を伴(ともな)ひ給(たま)ひて、八日の曙(あけぼの)の未(いま)だ暗(くら)き程(ほど)に、我(わ)が御家の三条坊門(ばうもん)万里小路(までのこうじ)に御座(おは)しまし著(つ)きたるに、歩(あゆ)み入(い)り給(たま)ふ程(ほど)も心もと無(な)くて、北(きた)の方(かた)、門(かど)へ走(はし)り出(い)でて、平(たひら)かに帰(かへ)り御座(おは)したると思ふ嬉(うれ)しさに、急(いそ)ぎて見(み)れば、大臣(おとど)は御直衣(なほし)に指貫(さしぬき)
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引(ひ)き上(あ)げ給(たま)へば、しるく見(み)え給(たま)ふ。別当は、道(みち)の程(ほど)のわりなきに、折烏帽子(をりえぼし)に布直垂(ぬのひたたれ)と言(い)ふ物うち着(き)て、細(ほそ)やかに若(わか)き人の、御前(ぜん)共(ども)に紛(まぎ)れたれば、とみにも見(み)えず。火などもわざとなれば、暗(くら)き程(ほど)のあやめ別(わか)れぬに、早(はや)ういかにもなり給(たま)へるにやと、心地(ここち)惑(まど)ひて、「御方(かた)はいかにいかに」と、声(こゑ)もわななきて聞(き)こえける、いと理(ことわり)に、いみじうあはれ也。
さて御幸は近江(あふみ)の国に御座(おは)します程(ほど)に、伊吹(いぶき)と言(い)ふ辺(ほとり)にて、某(なにがし)の宮とかや、法師(ほふし)にていましけるが、先帝の御心(おんこころ)寄(よ)せにて、かやうの方(かた)もほの心得(え)侍(はべ)りけるにや、待(ま)ち受(う)けて矢を放(はな)ち給(たま)ふ。又京よりも追手(おひて)かかるなど聞(き)こえければ、六波羅(ろくはら)の北と言(い)ひし仲時(なかとき)、内・春宮・両院具(ぐ)し奉(たてまつ)り、番馬(ばんば)と言(い)ふ所の山(やま)の内(うち)に入(い)れ奉(たてまつ)りぬ。手(て)の物共(ども)も猶(なほ)残(のこ)りて従(したが)ひ付(つ)きけれども、戦(たたか)ひも適(かな)はずや有(あ)りけん、遂(つひ)に此(こ)の山(やま)にて腹(はら)切(き)りにけり。同(おな)じき南(みなみ)時益(ときます)と言(い)ひしは、これまでも参(まゐ)らず、守山の辺にて失(う)せにけりとぞ聞(き)こえし。あや無(な)くいみじき事(こと)の様(さま)也。御所々(ところどころ)の御供(とも)には、俊実(としざね)の大納言(だいなごん)・経顕の中納言・頼定(よりさだ)の中納言・資名の大納言(だいなごん)・資明の宰相・隆蔭(たかかげ)などぞ残(のこ)り候(さぶら)ひける。俊実(としざね)・資名・頼定(よりさだ)などは、やがてそこ
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にて髻(もとどり)切(き)りてけり。一院は、帰(かへ)り入(い)らせ給ふ。御門(みかど)に御文(ふみ)を奉(たてまつ)り給(たま)ひて、「面々(めんめん)に御出家あるべし」などまで申(まう)させけれども、思(おも)ひもよらぬ由(よし)を、かたく申(まう)させ給(たま)ひけるとかやとぞ聞(き)こえし。
伯耆(ははき)の御所へは、人々(ひとびと)参(まゐ)り集(つど)ふ。上達部(かんだちめ)・殿上人数(かず)知(し)らず。さる程(ほど)に、東(あづま)にも予(かね)て心得(え)けるにや、尊氏の末(すゑ)の一族(ひとぞう)なる新田(につた)の小四郎義貞(よしさだ)と言(い)ふ物、今(いま)の尊氏の子四になりけるを大将軍にして、武蔵国より軍(いくさ)を起(お)こしけり。此(こ)の頃(ころ)の東(あづま)の将軍は、守邦(もりくに)の親王(しんわう)にて御座(おは)します。御後見(おんうしろみ)仕(つかまつ)る高時(たかとき)入道・貞顕(さだあき)入道・城介(じやうすけ)入道円明・長崎(ながさき)入道円喜(ゑんき)など言(い)ふ物共(ども)、驚(おどろ)き騒(さわ)ぎて、高時(たかとき)の入道の弟(おとと)に四郎左近大夫泰家(やすいへ)と言(い)ひし、今(いま)は入道したるをぞ、大将に下(くだ)しける。五月十四日、鎌倉(かまくら)を立(た)ちて向(む)かふ。其(そ)の勢(せい)十万余騎(よき)、高時(たかとき)入道の一族(ひとぞう)、附(つ)き従(したが)ふ物そこら満(み)ち広(ひろ)ごりて、鎌倉(かまくら)始(はじ)まりし頼朝(よりとも)の世、時政(ときまさ)より今(いま)に至(いた)るまで、多(おほ)くの年月(としつき)をつめり。僅(わづ)かなる新田(につた)など言(い)ふ国人に、容易(たやす)くいかでかは滅(ほろ)ぼさるべきと覚(おぼ)えしに、程(ほど)無(な)く十五日(じふごにち)に、敵(かたき)既(すで)に鎌倉(かまくら)に近(ちか)づく由(よし)聞(き)こえて、家々(いへいへ)を毀(こぼ)ち騒(さわ)ぎ罵(ののし)る。世の既(すで)に滅(め)するにやと覚(おぼ)えしとぞ、人は語(かた)り侍(はべ)りし。四郎左近大夫入道、
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軍(いくさ)にうち負(ま)けけるにや、従(したが)ふ武士(ぶし)共(ども)、残(のこ)り無(な)く新田(につた)が方(かた)へ附(つ)きぬれば、えさらぬ物共(ども)ばかり五、六百騎(き)にて、十六日の夜に入(い)りて、鎌倉(かまくら)へ引(ひ)きかへる。僅(わづ)かに中(なか)一日にて、かくなりぬる事、夢(ゆめ)かとぞ覚(おぼ)えし。かくて日々の軍(いくさ)にうち負(ま)けければ、同(おな)じ二十二日、高時(たかとき)以下、腹(はら)切(き)りて失(う)せにけり。
さて都(みやこ)には、伯耆(ははき)よりの還御とて、世の中(なか)ひしめく。先(ま)づ東寺へ入(い)らせ給(たま)ひて、事(こと)共(ども)定(さだ)めらる。二条の前の大臣(おとど)道平召(め)し有(あ)りて参(まゐ)り給(たま)へり。こたみ内裏へ入らせ給(たま)ふべき儀、重祚などにてあるべけれども、璽(しるし)の箱(はこ)を御身に添(そ)へられたれば、只(ただ)遠(とほ)き行幸の還御の儀式(ぎしき)にてあるべき由(よし)定(さだ)めらる。関白を置(お)かるまじければ、二条の大臣(おとど)、氏の長者(ちやうじや)を宣下(せんげ)せられて、都(みやこ)の事、管領(くわんれい)あるべき由(よし)、承(うけたまは)る。天(あめ)の下(した)只(ただ)此(こ)の御計(はか)らひなるべしとて、此(こ)の一(ひと)つあたり喜(よろこ)びあへり。六月六日、東寺より、常(つね)の行幸の様(さま)にて、内裏へぞ入(い)らせ給(たま)ひける。めでたしとも、言(こと)の葉無し。「去年の春いみじかりしはや」と思(おも)ひ出(い)づるも、たとしへ無く、今(いま)も御供(とも)の武士共(ども)、有(あ)りしよりは、猶(なほ)、幾重(いくへ)とも無(な)くうち囲(かこ)み奉(たてまつ)れるは、いとむくつけき様(さま)なれど、こたみは、うとましくも見(み)えず。頼(たの)もしくて、めでたき御まもり
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かなと覚(おぼ)ゆるも、うちつけ目(め)なるべし。世の習(なら)ひ、時につけて移(うつ)る心なれば、皆(みな)さぞあるらし。
先陣は二条富(とみ)の小路の内裏(だいり)に著(つ)かせ給(たま)ひぬれど、後陣の兵(つはもの)は、猶(なほ)、東寺の門まで続(つづ)きひかへたりしとぞ聞(き)こえしは、誠(まこと)にや有(あ)りけん。正成(まさしげ)も仕(つかうまつ)れり。彼(か)の那波の又太郎は、伯耆(ははき)の守(かみ)になりて、それも衛府(ゑふ)の物共(ども)にうちまじりたる、珍(めづら)しく様(さま)変(か)はりて、ゆすりみちたる世の気色(けしき)、「かくも有(あ)りけるを、などあさましくは歎(なげ)かせ奉(たてまつ)りたりけるにか」と、めでたきにつけても、猶(なほ)前(さき)の世のみゆかし。車などたち続(つづ)きたる様(さま)、有(あ)りし御下(くだ)りにはこよなく勝(まさ)れり。物見(み)ける人の中(なか)に、
昔(むかし)だに沈(しづ)むうらみを隠岐(おき)の海(うみ)に波立(た)ち返(かへ)る今(いま)ぞ賢(かしこ)き W
昔(むかし)の事(こと)など思ひあはすにや有(あ)りけん。
金剛山(こんがうさん)なりし東(あづま)の武士(ぶし)共(ども)も、さながら頭(かうべ)を垂(た)れて参(まゐ)り競(きほ)ふ様(さま)、漢(かん)の初(はじ)めもかくやと見(み)えたり。礼成門院も又中宮と聞(き)こえさす。六日の夜、やがて内裏へ入(い)らせ給(たま)ふ。いにし年(とし)御髪(みぐし)おろしにき。御悩(なや)み猶(なほ)怠(おこた)らねば、いつしか五壇(ごだん)
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の御修法(みしゆほふ)始(はじ)めらる。八日より議定行(おこな)はせ給(たま)ふ。昔(むかし)の人々(ひとびと)残(のこ)り無(な)く参(まゐ)り集(つど)ふ。
十三日、大塔(だいたふ)の法親王、都(みやこ)に入(い)り給(たま)ふ。此(こ)の月頃(つきごろ)に、御髪(みぐし)おほして、えも言(い)はず清(きよ)らかなる男(をとこ)になり給(たま)へり。唐(から)の赤地(あかぢ)の錦(にしき)の御鎧(よろひ)直垂(ひたたれ)と言(い)ふ物奉(たてまつ)りて、御馬(うま)にて渡(わた)り給(たま)へば、御供(とも)にゆゆしげなる武士(もののふ)共(ども)うち囲(かこ)みて、御門(みかど)の御供(とも)なりしにも、程々(ほとほと)劣(おと)るまじか(ン)めなり。すみやかに将軍(しやうぐん)の宣旨(せんじ)を冠(かうぶ)り給(たま)ひぬ。流(なが)されし人々(ひとびと)、程(ほど)無(な)く競(きほ)ひ上(のぼ)る様(さま)、枯(か)れにし木草の春にあへる心地(ここち)す。其(そ)の中(なか)に、季房(すゑふさ)の宰相(さいしやう)入道のみぞ、預(あづ)かりなりける物の、情(なさ)け無(な)き心ばへや有(あ)りけん、東(あづま)のひしめきの紛(まぎ)れに失(うしな)いてければ、兄(あに)の中納言藤房は返(かへ)り上(のぼ)れるにつけても、父の大納言(だいなごん)、母の尼上(あまうへ)など歎(なげ)きつきせず、胸(むね)あかぬ心地(ここち)してけり。四条の中納言隆資(たかすけ)と言(い)ふも、頭(かしら)おろしたりし、又髪(かみ)おほしぬ。もとより塵(ちり)を出(い)づるには有(あ)らず、敵(かたき)の為(ため)に身を隠(かく)さんとて、かりそめに剃(そ)りしばかりなれば、今(いま)はた更(さら)に眉(まゆ)を開(ひら)く時になりて、男(をとこ)になれらん、何(なに)のはばかりか有(あ)らむとぞ、同(おな)じ心なるどち言(い)ひ合(あ)はせける。天台座主にていませし法親王だにかく御座(おは)しませば、
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まいてとぞ。誰(たれ)にか有(あ)りけん、其(そ)の頃(ころ)聞(き)きし。
すみぞめの色をもかへつ月草(つきくさ)の移(うつ)れば変(か)はる花(はな)のころもに W

校註 増鏡 終