現代語訳百人一首現代語訳北原白秋訳百人一首北原白秋校訂小倉百人一首評釈

北原白秋校訂『小倉百人一首評釈』

一天智天皇
秋の田のかりほの庵の苫をあらみ吾が衣手は露に濡れつゝ
〔評釈〕黄金波打つ秋の田を、鳥や獣に荒されぬやうにと、田の畔に仮小屋を立てゝは番をしてゐると、ほんの間に合せの、屋根にして葺いた苫も粗い故に、その隙間からは露が漏つて、わしが袖は濡れに濡れる、それに長々しい秋の夜を唯一人守つてゐるのは、さても/\寂しい事である、ほんとに百姓は難儀なものだ。
と云ふ意で、帝が農民の辛苦をお察しになり、その身の上になつてお詠みになつたのである。この歌は後撰集秋の中に「題しらず、天智天皇御製」として出てゐるが、歌の調子が新しくて天智天皇時代のものではないと云ふ説が今日有力である。
〔句意〕▼かりほの庵=「かりほ」は「かりを」と読み、仮庵の意。「かりほの庵」は重ね言葉で、五日の日などの類。▼苫をあらみ=苫が粗い故にの意。「を」は強める助辞。「み」は故にの意。▼濡れつゝ=始終濡れて居るの意である。
〔作者伝〕
天智天皇は第三十八代の天皇で、御父は舒明天皇、御母は斉明天皇、幼名を葛城皇子又中大兄皇子と申上ぐ。御聡明のほまれ高く、中臣鎌足と共に蘇我氏を亡ぼし、大化の改新に御力を尽され、更に御即位後は近江大津宮に都し、近江令を定めて新政治に御心を用ひ大いに文化を進め給うた不出世の英主である。
文学にも秀で給ひ、群臣に春秋の優劣を問はせ給うた如き趣味の深い御方と拝察する。

二持統天皇
春すぎて夏きにけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山
〔評釈〕あゝもう長閑であつた春も過ぎ去つて、いよ/\今年の夏も来たらしい。あれあのやうに、日影照り渡る天の香具山のあたりには、白い夏の衣が干してあるのが見える。
といふ意で、奈良の禁裡から見渡し給うた景色を、ありのまゝにお詠みになつたものであらう。
この御製は、万葉集に、天皇の御製歌「春過而夏来良之白妙能衣乾有天香来山」とあるのを訓み誤つて、新古今集夏部に「題しらず」として出したものである。
〔句意〕▼来にけらし=来たらしいの意。▼白妙の=「妙」は栲の仮字で、他の色に染まず、真白の意。▼てふ=「と云ふ」の約つたのであるが、此処では原作の「衣乾有」の意に解さねば意味が合はぬ。▼天の香具山=大和国十市郡にあつて、当時の皇居藤原の宮から近くに見える。
〔作者伝〕
天智天皇の第二皇女、第四十代天武天皇の皇后である。天皇をお輔け申して政道の大事に与り天皇崩御後は四十一代の帝として天位に即き給うた御徳極めて高い御方である。
沈深大度にましまし、心を政事に注がせ給ひ、万民はその御仁徳を仰ぎ奉つた。又、文芸にも長ぜさせ給うた事は、御父君によく似させてゐらせられたと伝へられてゐる。

三柿本人麿
あし曳の山鳥の尾のしだり尾のなが/\し夜を独りかもねん
〔評釈〕かうも長い/\夜を、思ふ人は来ず、つひに逢へずに、我身独りで寝ることか、さて/\なんといふわびしい事であらう。
といふ意で、恋の歎き歌である。この歌は拾遺集恋部に「題知らず柿本人麿」として出てゐるが、又万葉集に「寄物陳思」といふ歌の中に入れて「作者未詳」とある。古来人麿の歌として伝へられてゐるが、果して真か疑はしい。
〔句意〕▼あし曳=山の枕詞。▼しだり尾=長く垂れ下つた尾。▼独りかもねん=「独りねんかも」で、即ち独りで寝ることかなあと歎いたのである。
上の句は序詞で、唯長い夜といふことを言ひ表す為に置いたのである。あし曳といふ言葉が既に長い事を思はせ、更に山鳥の尾、しだり尾と長いものを重ねて、下の句に「長々し夜」を如何にも長く思はせたのである。巧みな調子である。
〔参考〕香川景樹は「なが/\し夜」とあるのは古訓の誤で、「ながきなが夜を」と訓まねば語法にあはぬと云つてゐる。
〔作者伝〕
人麿の家系については種々の説があつて詳でない。天智、持統、文武頃の人であつた事は事実で、持統天皇の御代に始めて石見国から都に上り、文武帝の御代に再び石見国に下つて、没したといふ。官位は低かつたらしいが、歌人としての才能が勝れて、新田皇子、高市皇子を始め諸皇子諸皇女と和歌の交りをなし、時には帝に供奉して紀伊、伊勢、近江、筑紫等に遊んで歌を詠んだものである。
後世和歌の聖として尊崇されてゐる。

四山辺赤人
田子の浦に打出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪はふりつゝ
〔評釈〕田子の浦に出て、ふり仰いで見れば、大空高く聳えた富士の嶺に、雪が真白に降っている。
との意で、唯単に景色を歌つたやうに思へるが、作者の一種崇高な感に打たれた極めて力ある雄大な調子を味はねばならぬ。
宗祇の評に「浦の景色、山の景色何ともいはずして、その様ばかりいひのべたる事尤も奇異なり、云々」とあるこの歌は新古今集冬に「題しらず」として出てゐるが、万葉集の「山部宿弥赤人望不尽山歌」と題し
「田児浦従、打出而見者、真白衣、不尽能高嶺爾、雪波零家留」
の改作である。
〔句意〕▼田子の浦=駿河国の名所、三保の入江から浮島の原迄の海岸。▼白妙の=真白にの意。景樹は原作の「真白砂」の「真白」を「しろ」と訓み「妙」を「たへ」と訓み誤つたのだらうと言つてゐる。▼ふりつゝ=「つゝ」は現在つゞけてゐる時の詞であるが、此処はその意でなく軽く言い収めたいひ方である。
〔作者伝〕
日本紀に、顕宗天皇元年に伊予の久米小楯に山部連の姓を賜ひ、天武天皇の十三年に宿弥を賜はつたとある。赤人もその氏であるが系図は不明。拾芥抄には聖武帝の朝に仕へた人とある。万葉集にはその歌が見えてゐるが、万葉以前には見えて居らぬ。古今集序に「山部赤人といふ人あり歌にあやしく妙なり、人丸は赤人の上に立たむ事かたく云々」とある。和歌に巧みであつた事は万葉一流で世に「山柿」と称して和歌の二聖と仰いでゐる。

五猿丸太夫
奥山に紅葉ふみ分けなく鹿の声きく時ぞ秋は悲しき
〔評釈〕秋は何事につけても、物悲しいものであるが、とりわけ山の奥深さに散りしいたそこらの紅葉を踏み分けながら、鹿が鳴く、あの鹿の声を聞く時、一番物悲しい。
といふ意であるが、非常に感傷的な、詩人らしい心持が歌はれ。(ママ)この歌は古今集秋の部に「是貞親王の家の歌合のうた、よみ人しらず」として出てゐる。是貞親王は光孝天皇の第四皇子であるが、果してこの頃猿丸太夫が居たであらうか。古今集の真名序に「大友黒主は、昔の猿丸太夫の次である」と書いてあるが、黒主は光孝帝仁和頃の人であるから、是貞親王の歌合せに太夫がこの歌を作つたとは信じられない。
〔句意〕▼紅葉ふみ分け=聞く人が紅葉をふみ分けるのだといふ説もあるが、鹿が散つた紅葉をふみ分けるの方が妥当である。▼時ぞ=「ぞ」は強めた助辞。
〔作者伝〕
この人は「姓氏録」にも見えず、如何なる人か判然しない。三光淫実澄公の説に「元明天皇の頃の人である」とされてゐるが疑はしい。又聖徳太子の孫弓削王とする説もあるが、これも確でない。
世に猿丸の歌集はあるが、奈良朝のものでなく、後人の偽作とされてゐる。とにかく柿本人麿や山部赤人につづいての歌詠みである。

六中納言家持
かさゝぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
〔評釈〕かうして宮中に宿直してゐるのであるが、宮中の御階の上には、いつの間にか霜が降り置いて真白に見える、あゝもう大分夜も更けたなあ。
といふ意で、霜夜の暁がよくあらはれ、又当時宮廷生活の一端をうかがふ事が出来よう。この歌は新古今集の冬部に「題しらず、大伴家持」として出てゐる。家持の歌集には「夜は更けにけり」とあり、景樹も「夜は更けにけり」でなくてはならぬと云つてゐる。
〔句意〕▼鵲の渡せる橋=宮中の御階を天の河にある橋に譬へて言つたのである。七月七日の夜、鵲が羽を寄せ合せて天の河に橋を架けて、織女を渡すといふ韓土の故事から出たものであるが、鵲の橋は天上にある為、宮中の御階の事に言つたのである。百人一首雑談には「鵲の橋を七夕の事でなく天をさす」とある。百人一首抄には「たゞ天に満ちたやうに暗き夜の空が白く見える」と云つてゐる。佐々木信綱大人は七夕説である。▼置く霜=俗に降った霜の意。
〔作者伝〕
家持は道臣命の裔、従二位大納言大伴旅人の子である。
孝謙天皇の天平年中に越中守、光仁天皇の宝亀年鑑に参議となつたが、缶垣武天皇の延暦元年に事によつて伊豆に流された。後赦され東宮太夫兼陸奥按察鎮守府将軍となり、更に中納言に任ぜられた。父と共に有名な歌人で万葉集二十巻は家持の撰といはれてゐる。
長篇大作をよくし、形式の立派に整うた歌が多い。

七安倍仲麿
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
〔評釈〕大空をはるかに望むと、月が美しく昇つてゐる。あの月こそ自分が嘗て故郷に居て眺めた、奈良の春日の三笠山に出た月であらうか、故郷のことが思はれる。
といふ意で、つく/\と月を眺めて限りない懐郷の情を詠んだ哀れの深い歌である。唐土でこの歌を詠んだ時、仲麿の心持は如何であつたらう。此の歌は古今集覊旅に「もろこしの月を見てよめる」として出てゐる。
〔句意〕▼天の原=天の事で「原」は広い形容につけて云ふ詞。海原などの類。▼ふりさけ=振放で遠い意。此処では遠く見渡すこと。▼春日なる=春日に在るの意。「なる」は「に在る」の約。▼三笠山=奈良の東にある名山で仲麿の幼時よく見なれた処。今の春日山である。▼かも=疑ひつゝ感動する語で「も」はそへた感動詞。
〔作者伝〕
父祖は詳でない。古伝に中務大輔船守の子とあるが疑はしい。新撰姓氏録によると阿部家は大彦命の後とある。
元正天皇霊亀二年に留学生と遣唐して唐に渡つた。学才非凡で玄宗帝に信愛され、官を授けられて、朝衡と改名し御子儀王の友とされた程である。孝謙天皇の天平勝宝二年藤原清河が遣唐大使として赴いた時大使と共に帰国しようとして明州を出発したが、途中風波の為果さず、再び粛宗に仕へて、七十歳を以て彼の地に卒した。

八喜撰法師
わが庵は都の辰巳しかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり
〔評釈〕俺(わし)の住家は都(京都)の西南にある。此処は都に近いから、世を遁れることの出来ぬ憂い処であると人の云ひけなす山であるけれど、自分はこれかうして年久しう住んでゐることよ。
といふ意で、世を遁れて安住の地を見出したものの喜びがあり/\と見える。この歌は古今集雑下に「題しらず」として出てゐる。
紀貫之は古今集の序に「宇治山の僧喜撰は詞歯にしてはじめをはりたしかならず」と評してゐるが、歌の叙法は巧妙とは言へぬ。
〔句意〕▼庵=住家。僧侶の住家は庵室といふ。▼辰巳=東南の意。東西南北を十二支に配し東は卯、南は午で、その間が辰巳にある。▼しかぞ住む=かやうに住んで居るの意。鹿が住むと思つてはならぬ。▼よをうぢ山=「世を憂し」といふ「憂し」を「宇治山」の「宇治」に云ひかけたのであらう。ただ、此処は宇治山と世の人の言ふ山だといふ説もあるが、季吟もやはり「世をうぢ山と人はいふなり。我はこゝにしかすめども世をうく思はぬといふよしなり」といつて初めの説をとつてゐる。
〔作者伝〕
この法師については系譜もなく、時代も分明でない。橘諸兄の子、奈良丸であると云ひ、紀名虎の子ともいふが何れも根拠がない。真淵は「弘仁のころに在りし人にやとおぼゆることあるのみ」と言つてゐる。とにかく世を遁れて宇治山に住んだ一人の僧であつた事は確であらう。六歌仙の一人に加へられてあるが作歌も余り多くはない。元亨釈書には、仙術ををさめ雲に乗つて去つた等といふ滑稽な記事も見えてゐる。

九小野小町
花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながせしまに
〔評釈〕うつら/\とつまらない物思ひをとしてゐるうちに、さかりを眺めようと楽しみにしてゐた花も、長雨のために知らぬ間に色褪せてしまつた。たゞなんとなく我身も、うつら/\してゐる間に、花の姿は過ぎ去つて年を取つてしまつた。
といふ意で、何と月日は早いことよといふ時の過ぎ行く早さに驚き、若き女の老を歎いた述懐の歌である。古今集の春歌下に出てゐる。
〔句意〕▼うつり=うつろふ意で、こゝは色が褪せたり、散つたりする意。それを我が身の老い行く事に通はせたのである。▼けりな=「けり」は過去「な」は嘆息の辞で俗語の「なあ」に同じ。▼徒らに=これといふ事もなく。▼世にふる=世に経るで、雨の降る事と、我身を世に経る事とかけてゐる。本居翁は「男女のかたらひをするを云ふ」と説いてゐる。▼ながめ=「長雨」と、「長目」とをもぢつて言つた詞で、「長目」は物を見つめて茫然と物思ひする事。
〔作者伝〕
父祖は詳かでない。参議篁の孫女と言ひ、或は出羽国司小野良家の二女と云ひ、又仁明帝の頃の人で采女の一人であるとも言はれてゐるが何れも確でない。古今集や後撰集にはその秀でた歌が見えてゐるが、とにかく美人の聞え高く、俗説が相当に伝へられてゐる。六歌仙の一人で、平安朝初期の女流作家として第一流であつた事は争はれぬ。

一〇蝉丸
これやこのゆくも帰るもわかれては知るもしらぬもあふ坂の関
〔評釈〕あの東国へ行く人も、また京へ帰る人も、此処で別れて行くし、又顔を見知つた人も、見知らぬ人も此処で行逢ふといふこれが逢坂の関所である。
といふ意で、人生の会離のはかなさを歌つてゐる。この歌は後撰集雑に「逢坂の関に庵室を作りて住みけるに、行きかふ人を見て」と題してある。作者については諸説があるが、百首異見に「門人位田義比云ふ。この歌は旅行く人のよめりしならん。そこに庵作りて常に住みをる人の、これやこのとはいふべくもあらじといへり、げにさること侍り」とある。蝉丸とあるは疑はしい。
〔句意〕▼これやこの=「これや」は俗言是がかの話に聞いたの意。兼ねて聞いた事を今その物を見るにつけてしみ/\思ふ意。▼わかれては=別れたり逢つたりの意。▼逢坂関=京と大津との間の関所で、古三関の一である。往来の客の逢ふといふ事とかけてある。
〔作者伝〕
その伝、分明でない。旧本今昔物語に「宇多天皇の第八皇子敦賀親王の雑色であつたが、蝉丸とて後に逢坂山に住んだ」とある。盲者で、和歌を善くし、又琵琶に秀でてゐたといふ。しかし「行きかふ人を見て」といふから、矛盾が感ぜられる。とにかく世を捨てゝ逢坂山に住んだものらしい。逢坂山の四の宮を蝉丸の旧蹟とするのは誤である。

一一参議篁
わたの原八十島かけてこぎ出ぬと人にはつげよあまの釣舟
〔評釈〕数知れぬ多くの島々の彼方に向けて、広々とした海原を漕ぎ出していつたといふ事を、どうぞ京の人々に知らせてくれ、其処置くに浮ぶ釣舟どもよ。自分は流人の身で何のたよりも出来ないから。
といふ意で、愛別離苦の悲しみが一首の歌に溢れてゐる。この歌は、古今集覊旅部に「隠岐国に流されける時、船に乗つて出立つとて京なる人の許へ遣しける」といふ涙を誘ふやうな詞がある。
〔句意〕▼わたの原=海原の事。海は船で渡るから、日本紀には「海」の字を「わた」と訓んである。又一説には海上の白波が綿を積んだやうだから、綿積(わたつうみの約)とも云はれてゐる。▼八十島=沢山の島の意。「八十」は数多の意で八百万の神、百尋撰尋等の類。▼かけて=向けての意。▼漕ぎ出ぬ=船を漕いで出た、出帆したの意。▼あまの釣舟=漁夫の釣する舟。「あま」は「海人」と書き漁夫の事である。
〔作者伝〕
篁は参議下野守岑守の長子で文学で名高い小野家に生れた。初め乗馬に熱中して学を怠つてゐた。嵯峨天皇は之を惜しみ給うたので、発奮して大学寮に入り、日夜研学につとめ遂に文名をかゞやかした。後春宮学士となり、更に太宰小弐となつた。承和五年七月遣唐副使として渡唐しようとしたが、大使藤原常嗣と争つて辞し、遣唐使を譏つたといふ事から罪せられて、隠岐へ流された。後許され参議に進み文徳帝の仁寿二年病死した。歌も当代比類のない程技倆があつた。

一二僧正遍昭
天津風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女のすがたしばしとゞめん
〔評釈〕天吹く風よ、今天女が舞ひを終つて帰るであらうが、どうか雲を吹きよせて、その帰り路を塞いでくれ、美しい天女の姿を今暫しこゝに止めて眺めたいから。
といふ意で、禁中の五節の舞姫を天女に譬へて言つたのである。古今集に「五節の舞姫を見て詠める、良岑宗貞」として出てゐる。五節の舞は毎年十一月禁中で行ふ豊明の節会にやる舞で、公卿の少女を選んで舞はせるのである。遍昭が宮中に仕へた頃この舞女の美しさを称し、別れ惜しんで詠んだ歌である。
佐々木信綱も「これは昔吉野の宮に、天女降りて舞ひしより五節の舞姫始めておこれり、といふ説にしたがひ、今まひする舞姫を、直ちに天女と見なして、舞はせたるを、あかずをしみたるなり」と、説いてゐる。
〔句意〕▼天津風=空吹く風。「つ」は助辞。▼乙女=少女の事。処女、未通女とも書く。こゝは舞女の事を天女にかけたのである。▼しばし=少しの間、俗にいふちよつとの意でこゝは惜んだ心が含まれてゐる。
〔作者伝〕
大納言安世の子で、俗名は良岑宗貞、仁明帝の御代左兵衛少将を経て蔵人頭となり常に玉座の左右に侍し、歌の妙と容儀の美とによつて、寵愛を厚くした。天皇崩御後は出家して叡山に入り遍昭と称した。
天台宗の学を修め、徳行のほまれが高く、仁和二年に宮中へ召されに、輦を許されたといふ。又性洒落な人で、戯れた歌を詠んで女に贈つた事も度々あつた。七十六歳で卒した。

一三陽成院
筑波根のみねより落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる
〔評釈〕つくば山の嶺からしたゝり落ちるわづかな水が、だん/\集つてみなの川といふ川になり、末は深い淵となるやうに、我が恋も初めはほんの少しの思ひであつたのに、積り積つて淵のやうに深いものとなつてしまつた。
といふ意で、遣瀬ない恋の悩み歌である。後撰集恋三に「つり殿のみこにつかはしける」と題して出てゐる。つり殿のみことは光孝天皇の第二皇女、綏子内親王の御事で、つり殿院は天皇の御在所であつたのを後、内親王にお譲りになつたのである。
〔句意〕▼筑波根=常陸国筑波山の事、佐々木信綱は「つくはの「は」はすみてよむべし」と云つてゐる。▼みなの川=筑波山からたえ/\に流れ落ちる川の名。みなの川は水無川の意であるとも言はれてゐる。▼淵=川の水が集つて深くなつてゐる処。
〔作者伝〕
清和天皇の第一皇子で、御母は贈太政大臣長良の女。二条后高子で右大臣藤原起経の妹にあたる。元慶元年正月御即位、御年僅十歳であらせられたから、基経摂政し奉つた。帝は禁中に馬をお飼ひになり、小野清和等をお近づけになつたので朝廷の儀式は乱れた。基経は奸臣を斥けてお諫め申したが、其後御悩にて物ぐるはしくならせ給ひ、帝業に背き給ふ事が度々であつたから、止むなく光孝天皇をお立て申した。天暦三年八十二歳にて崩御遊ばされた。

一四河原左大臣
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑにみだれそめにし我ならなくに
〔評釈〕奥州の信夫郡から出るもぢ摺りの模様の乱れたやうに、自分の心は乱れてゐる。これはいつたい誰の為であらう。みんな君故である。自分がかつてに思ひ乱れたのではない。
といふ意。この歌は古今集恋四に「題しらず」として出てゐるが、第四の句が「みだれんと思ふ」となつてゐるのを伊勢物語に書き誤つたものらしい。百首異見には古今集の方がよいと云つてゐる。
〔句意〕▼みちのく=陸奥国の事。▼しのぶ=信夫郡の事。▼もぢずり=むかし用ひた摺衣の事で、黄土摺、藍摺、垣衣摺、月草摺、萩摺などと云つて、草木を何となく布に摺りつけてあやとした。もぢずりは信夫郡から出る髪を乱した様にしどろもどろに模様を摺りつけた衣を云ふ。こゝは心の乱れたのにたとへた序詞である。▼誰ゆゑに=他人のためにの意。▼我ならなくに=我ではないの意。「なく」は「ぬ」の延音である。
〔作者伝〕
実名源融、嵯峨天皇の第八皇子で、貞観の初正三位、同十四年に左大臣、元慶二年正二位、更に宇多天皇即位後従一位に進み、輦に乗つて宮中に出入を許された。寛平七年七十歳で薨去し正一位を賜ふ。
性、風流を好み豪奢な生活を極めたらしい。河原院は東六条の北鴨河の西にある別業で、此処に住まれた為、河原左大臣といふ。毎日難波から海水二十斛を汲んで来て、塩を焼かせた話は有名である。宇治の平等院はもとその山荘であつた。

一五光孝天皇
君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪はふりつゝ
〔評釈〕そなたに送らうと思つて野辺に出て、若菜をつんでゐると、まだ春浅くて若菜つむ我が袖に淡雪さへ降りかゝつた。かやうに辛苦してつんだ若菜であるから、その心して賞翫したまへ。
といふ意である。古今集春上に「仁和の帝、みこにおはしましける時、人に若菜たまひける御歌」として出てゐるが、
佐々木信綱は「まさしく親王の御身として雪ふる野べに出て、御手づから摘み給へるにはあらざる事論なし。たゞ人に若菜を給へる日しも雪降りけるによりて、かくはよみなし給へるなるべし」と云つてゐる。
〔句意〕▼君がため=そなたの為の意。「君」はもと下から上をさして言ふ詞であるが、親しさのあまりに、我より下のものをも君と云つた。夫が妻を君と云ひ、親の事を君といふの類。▼若菜=芹、土筆、嫁菜などの食用となる春草を云ふ。
〔作者伝〕
仁明天皇の第三皇子で、東六条の小松殿でお生れになつたから小松の帝、又仁和の帝と申し上ぐ。嘉祥三年中務卿となり御年五十歳を以て、陽成天皇に次で天位に即き給うた。
幼時から経史をお好みになり、英明の資を抱かれて給ひ、和歌も相当の御力を有されたやうである。嘗て嘉祥三年に渤海国の使王文矩が、親王を御覧になつて「この皇子至つて貴き相おはしませば天位にのぼり給はん事うたがふべからず」と申し上げた程である。

一六中納言行平
立ちわかれいなばの山の峯に生ふるまつとしきかば今かへりこむ
〔評釈〕今自分はみなとお別れして、因幡へ行くが、あのいなば山に生えてゐる松といふ木の名のやうに、もし我を待ち侘びてゐると聞いたなら、すぐに帰つて来よう。そんなにお嘆きなさるな。
といふ意で、文徳帝の斉衡二年正月行平が、因幡守となつて京を立つ時詠んだ別離の歌である。
古今集別離の部に「題しらず」として離別の巻頭に載せてある。頗る器用に、詠まれ、その調子も立派である。
〔句意〕▼いなばの山の峯に生ふる=いなば山の峯に生えてゐるの意。いなば山は因幡国法美郡稲羽といふ所にあつて、松の多い山である。こゝは「因幡」と「往なば」を通はせてある。古はこの山の麓に役所があつたといふ。▼まつとし=待つてゐるとの意。「松」と「待つ」と通はせて言つてある。「し」は強めた助辞。▼今かへり来む=すぐに帰つて来ようの意。
〔作者伝〕
平城天皇の皇子、阿保親王の御子で、天長三年在原の姓を賜つて人臣に列した。斉衡二年に従四位因幡守に任ぜられた。更に天慶六年に中納言に進み、宇多帝の寛平五年に薨じた。性学を好み、京都に●学院を創立した、外政治上にも治績が多い。歌人としては伝はつた作は多くはないが、人々によく膾炙されてゐる所から見れば名声のあつた事は充分察せられる。嘗て須磨に流された事があるとの説もあるが正史には見えてゐない。

一七在原業平朝臣
千早ふる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くゝるとは
〔評釈〕この龍田川に紅葉の流れてゐる絵を見ると、流れる水をから紅の絞り染めにしてあるが、こんな珍らしいことは、不思議な事の数々あつた神代にも聞いた事がない。
といふ意である。この歌は古今集秋の下に「二条の后の、春宮の御息所と申しける時、御屏風に龍田川に紅葉流れたる絵を描けりけるを題にて詠める」と題して出てゐる。二条后は御名高子と申し清和天皇の后で陽成天皇の御母である。
〔句意〕▼千早ふる=「千早ふる」は神代の枕詞本来はちはやぶる(千盤破)といつて強く荒い意であつたが、変化したものである。▼からくれなゐ=紅色の美しいのをほめて云ふ。こゝは紅葉をさしてゐる。昔は唐から来たもので、唐藍、唐錦などと云ふくつて舶来品を珍重したのである。▼水くゝる=「くくる」は水を絞る事で纐纈即ち今の絞り染にすること。「くゞる」と濁るは誤。
〔作者伝〕
阿保親王第五子で、行平の異母弟である。容貌眉目秀麗、素行放縦で情的生活の華やかさは伊勢物語などに多く書かれてゐる。
熱烈な感情をよく歌にあらはしてゐるがその著想は常に奇警で大胆で模倣を許さぬ天才風の歌人であつた。六歌仙中第一人であらう。官は貞観年中に右近衛中将に、元慶年中は兼相模、美濃権守となつた。陽成帝の元慶四年に五十四歳で薨じた。

一八藤原敏行朝臣
住の江の岸による波よるさへや夢のかよひぢ人めよぐらん
〔評釈〕昼間恋人の所へ通ふのならば、人目をしのぶのが当然であらうが、夜夢の中で通ふ路でさへ人目を避けるやうな夢を見るのは如何した訳だらう。
といふ意で、切なる恋人のわびしさを歎いた哀れ悲しい歌である。
この歌は古今集恋二に「寛平の御時きさいの宮の歌合の歌」とある。誠に流麗な調子のよい歌で秀歌とすべきであらう。寛平は宇多天皇の御時の年号である。
〔句意〕▼住の江=摂津の住吉の浦を云ふ。▼よる波=寄せ来る波の意。▼よるさへ=夜の夢路でさへの意で、夜でさへの意ではない。▼夢のかよひぢ=夜の夢の中で女の許へ通ふ路の意。夢が通ふ路の意ではない。▼人目よぐらん=人目を除けるだらうの意。よぐと濁つてよむ事。
〔作者伝〕
按察使富士麿の子で、太政大臣武智麿の孫、不比等の曽孫にあたる。仁和二年六月従五位上左兵衛権佐から右近衛少将に、後左近衛中将従四位上に進んだ。和歌と能書のほまれの高かつた人で、村上帝が小野道風に古今の妙筆を問はれた時、空海と敏行を以て答へ奉つたといふ。能書の程も察せられよう。惜しい事には二十七歳の壮年を以て卒した。

一九伊勢
難波潟みじかき蘆のふしの間もあはでこの世をすごしてよとや
〔評釈〕難波潟に生えてゐる蘆の節の間はきはめて短いものだが、その節の間のやうな短い時間でも、思ふ人に逢はずに空しく此世を過せよとの御心中ですか。それはあんまり薄情すぎる。
といふ意で、たよりない恋人を恨めしく思つた恋歌である。新古今集恋一に「題しらず」として出てゐる。
〔参考〕宇比麻奈備に「短き蘆のふしの間のごときしばしばかりの逢うこともなきは、わが世をひたすらに恋つゝ過せよとの心にあるらんと切にうらみたるなり」とある。想より調子の巧な歌である。
〔句意〕▼難波潟=摂津の今の大阪附近の海辺で蘆の多く生えてゐる名所。▼みじかき蘆の節の間=蘆の節と節との間の短い事。「みじかき」は蘆が短いのではなく、節の間にかゝる。「間」は一寸の間といふ時間の意をかけてある。▼逢はで=逢はないでの意だが、空しくの意が含まれてゐる。▼この世=「この世」に節を「よ」といふから兼ねたのである。▼過してよとや=過せよとの間心中かの意。
〔作者伝〕
伊勢守藤原継蔭の女で、仁和の頃七条の后に宮仕へしたから、父の官名を用ひて伊勢と云つた。後宇多天皇に愛せられ桂宮を生み奉つたので、伊勢御息所又、伊勢の御と申し上げた。
和歌にも秀で貫之躬恒と並称されてゐる。承平四年皇后宮の五十の賀、同五年陽成上皇七十の賀に和歌を上り、又醍醐帝の皇子の御袴着の祝の屏風に書く歌を上つた事は有名である。しかし晩年は不遇に終つたといはれてゐる。

二〇元良親王
わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はんとぞ思ふ
〔評釈〕二人の秘密な恋が露はれて、大事となつてから、逢はれぬやうになつたので、心を苦しめ思ひ煩つてゐるが、かうして悩んでばかり居ては生きてゐる甲斐もない。どうせ同じ事なら命をすてゝでも逢はうと思ふ。
との意で、恋人が身も魂も投げ出した棄鉢の心持で恋した熱情がよく現はれてゐる。
この歌は後撰集恋五に「事出て来て後に京極の御息所につかはしける」と題して出してゐる。
京極の御息所は時平公の女藤原褒子で、宇多帝の女御である。元良親王がこの女御に逢はれた事が露れて問題になつたのである。拾遺集には「題知らず」として出てゐる。
〔句意〕▼わびぬれば=「侘」は物足らず、さびし悲し等の意で、こゝは逢はれぬのをうらみ悲しむ意。▼今はた同じ=今はもう何事をなしても同じだとの意で棄鉢な心である。▼難波なる=みをつくしての枕詞、難波に澪標があるから。▼みをつくし=「尺寸をしるしたる木を立て置き水の深浅をはかるものなれば水泳津の意なるべし」宇比麻奈備にある。身を尽し=即ち命を終る意に言ひかけたのである。
〔作者伝〕
陽成天皇の第一皇子で元慶元年従四位上となり、次で三位兵部卿、式部卿に進まれた。
親王は歌人として有名なばかりでなく、好色の聞えも高い。親王の歌集を見ると、女との贈答歌が百六十余首も載つて居る。大日本史にさへ「好倭歌其好色」とある。好色の程も察せられよう。天慶六年七月御年五十四歳で薨去になつた。

二一素性法師
今来むといひしばかりに長月の有明の月をまち出でつるかな
〔評釈〕今すぐ来ようと一言いつたばかりに、それを信じて、この九月の末の長い夜を、今来るか/\と待ち侘びたが、約束の人は来ずに、待ちもしない明方の月が出た。ずゐ分待ち更かしたものだなあ。
といふ意である。この歌は古今集恋四に「題しらず」として出てゐる。下句などは短い言葉の中に余情のある歌ひ方である。
〔句意〕▼今来むと=今直ぐに来るとの意。先方の人から言へば「すぐ行く」の意となる。▼いひしばかりに=言つたばかりで、一言あつた為との意。▼長月=陰暦九月の事。▼有明の月=廿日過ぎの月、夜明まで空に残つて居るから有明の月といふ。▼待ち出でつる=待つて居て月が出たの意味暮れ百人一首抄に「二条家にては春夏を待ちくらし又秋の長月の有明まで待ちたるなり」とあるが、今すぐ来るといつた程の人を幾月も待つとは信じられぬ。「出でつる」は「出づる」ではない。
〔作者伝〕
僧正遍昭の出家前の子で、俗名良峯玄利といふ。清和帝に仕へ右近衛将監まで進んだが、後出家して素性と改名し、父の雲林寺や大和の石上の良因院に住んだ。昌泰元年宇多法皇が吉野の宮滝御覧の時召されて御案内申し上げ、又和歌を上つて旅の御心を慰め申した。和歌は巧みで延喜九年に天皇の御前の屏風に歌を書いた事もある。「素性法師集」といふ歌集も出てゐる。

二二文屋康秀
吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ
〔評釈〕山風が吹くと、すぐこんなに秋の草や木が、萎み枯れてしまふから、山風の事をあらしといふのは道理のある事だ。
といふ意で、その景を眼前に見て山風の嵐といふ理を感じたのである。古今集の秋の下に「是貞の親王の家の歌合のうた」として出てゐるが、古今六帖には二の句を「なべての草木の」とあり、古今集序には「野べの草木」とある。作者も「ふむやのあさやす」とある。佐々木信綱も「この歌の作者は康秀にあらず康秀の子朝康なり」と断定してゐる。
〔句意〕▼吹くからに=吹くとその為にの意。▼しをる=木の葉が散り草が萎れて枯れる事。むべ=最もの意。又成る程、道理だ等の心。古書には「宇倍」又「烏米」とも書き、「宜」「応」「諾」にあたる。▼あらし=山から吹き下す風で、こゝは物を荒す意と、山風と書いて嵐といふ事にかけたのである。
〔作者伝〕康秀の系譜は分明でないが、姓氏録に「天武天皇の皇子二品長朝王之後也」とある。元慶五年には縫殿助に任ぜられた。清和陽成頃の人である。
貫之が「ふんやのやすひでは詞たくみにて、そのさま身におはずいはゞ商人のよき絹者着たらんが如し」と評したのは、歌調の卑しい所があるからでせう。しかし三十六歌仙の一人であるから、相当の歌人に違ひない。

二三大江千里
月見れば千ぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど
〔評釈〕秋の月を見ると、色々な悲しみが胸に浮んで、悲しい心持がする。世の人は誰も秋の心にうたれてゐて吾身独りが寂しいのではないのだが。
といふ意で、秋の悲しみが身に迫るやうな心持がする。この歌は古今集秋上に「是定のみこの家の歌合の歌」と題して出てゐる。
改観抄に「千里は儒家で、白氏文集中秀句を題として詠まれたる歌多ししかればこの歌も燕子樓中霜夜月秋来只為一人長といふを翻案したるにや」といつてゐる。如何だらうか。とにかく歌は巧みに出来てゐる。
〔句意〕▼ちゞ=数多い事。「千ぢ」とも書き、「ぢ」は「よそぢ」(四十)「いそぢ」(五十)の「ぢ」にあたり、又「一つ」「二つの」「つ」にあたる。物を数へる詞である。「千々」「千千」と書くは誤。▼わが身ひとつ=自分一人の意で、上の千と下の一と対照させたところは上手な技巧である。
〔作者伝〕その祖は土師氏である、参議大江音人の第二子で文学のほまれの高い家柄に生れた。漢詩や和歌に秀で、古人の詩の句を選んで自分の歌を詠みそへた句題が百二十首もある。外に歌集もあり、和歌にかけては当代一流の名匠といへよう。官は元慶七年備中大丞に任ぜられ、延喜三年兵部大丞に進んだ。

二四菅家
このたびはぬさも取りあへず手向山紅葉の錦神のまに/\
〔評釈〕この度の旅は、朱雀院のお供の旅で取急いで出かけたので、途中で神々に奉る幣も持つて参りませぬ。それで、たゞ今この山の神に手向け奉る幣は、とりあへずこゝに美しく紅葉してゐる紅葉の錦を、幣として置きますが、どうぞ神の御心まかせに幣として御覧下さい。
といふ意で、菅公の神を敬ふ精神と、当時の朝廷の御風がしのばれる。この歌は古今集覊旅部に「朱雀院奈良におはしましける時、手向山にてよみ侍りける」と題して出てゐる。朱雀院は宇多天皇の御事である。
〔句意〕▼このたびは=今度の意に「旅」をかけて用ひたのである。▼ぬさ=神にさゝげる色々の帛の事。絹布を細く刻んで、袋に入れて、途中の神々に捧げて、道中の安全を祈つたのである。▼とりあへず=とりもあはせずで、とる暇もなくの意。▼手向山=奈良にある山、幣を「手向ける」にかけた。▼まに/\=心まかせの意。
〔作者伝〕
菅家とは道真の事。その祖は土師氏で、父是善は参議従三位となつたよい家柄である。
幼時から学を好み、特に文学に秀で、賢明のほまれが高かつた。元慶元年に文章博士、昌泰二年に右大臣に昇り、宇多上皇、醍醐天皇の御信任を篤うしたが、藤原時平の讒によつて筑紫に流された。太宰府で悲しい月日を送り、五十九歳を以て配所で薨じた。詩歌の優れてゐた事は既に皆承知の事であらう。

二五三条右大臣
名にしおはゞ逢坂山のさねかづら人にしられでくるよしもがな
〔評釈〕逢坂山の逢ふといふ字が、その名の通りであるなら、その逢坂山に生えてゐるさねかづらを手にたぐるやうに、人に知られぬやうに、私の方へ忍んで来る仕方もないものだらうか。
といふ意で、或女の許へ送つた歌で、素直に穏健に出来てゐる。そして何となく懐しさがある。この歌は後撰集恋三に「女の許につかはしける」と題して出てゐる。人に知られでの「で」は必ず濁ること。
〔句意〕▼名にしおはゞ=名の通りならばの意。「し」は強めた助辞。▼逢坂山=山城と近江の境にある山で、「逢ふ」といふ詞にかけてある。▼さねかづら=五味子といふ実のなる草。美男かづらとも云ふ。「さね」は「小寝」で寝る事にかけた。「かづら」は蔦かづら等の様に長く延びてゐるから手で綴ることを、人の来るの意にかけたのである。▼くるよしもがな=来る方法もありたいものと願ふ意。
〔作者伝〕
本名は藤原定方、勧修寺家の祖、良門の孫で父は内大臣高藤である。醍醐帝の延長三年に大納言から右大臣に任ぜられその女は入つて宇多帝の女御となつた。承平二年八月六十歳で薨じた。三条に住んだので三条右大臣といつたのである。

二六貞信公
小倉山峰のもみぢ葉心あらば今一度のみゆきまたなむ
〔評釈〕小倉山の峯の紅葉よ、もし心があるならば、もう一度天皇の行幸もある事であらうから、それまでは散らずにお待ちしてゐてくれよ。
との意で、宇多天皇が御幸遊ばされて「今上帝の行幸があつてもよい所だ」と仰せられたのを貞信公がお供の中に居て、帰つてから奏聞いたしませうと言つて、この歌を詠まれたのである。拾遺集の雑秋に「亭子院大井川に御幸ありて行幸もあるべき所なりとおほせ給ふに事のよし奏せんと申して」と題して出てゐる。
〔句意〕▼小倉山=京都の西北大井川のほとり、嵐山に近い所にある紅葉の名所。一説に今の嵐山であるとも言ふ。▼みゆき=上皇のお出ましを御幸と書き、天皇のお出ましを行幸と書くが何れも「みゆき」と訓む。▼またなん=待つて居てくれよとの意。
〔作者伝〕
実名藤原忠平で、太政大臣基経の子である。延喜十四年右大臣に、承平六年に太政大臣に進んだ。天慶四年に摂政となり更に三宮に准ぜられた。小一条に住んだので小一条の太政大臣ともいふ。寛仁な人で政治上も熱心で醍醐朱雀村上の三帝に仕へ、信任が篤かつた。歌人としては別に申す程でもなかつたやうである。

二七中納言兼輔
みかの原わきて流るゝいづみ川いつみきとてか恋しかるらむ
〔評釈〕あの人を何時見たといふこともないのに、どうしてこのやうに恋しいのであらう。つい一度も見た事もない人を恋して心を悩ますことは、我ながら不思議でならない。
といふ意で、自分を咎めながら又思ひ止められぬ恋のあこがれが詠まれてゐる。調子も流麗で、面白い歌である。改観抄に「この歌もよみ人しらずなるを新古今集にあやまりて兼輔卿の歌として入られたるを、今はそれにより給へるなり」と言つてゐる。
〔句意〕▼みかの原=山城相楽郡甕の原の事、昔甕を埋めたので川水が流れ入つて涌いて出るといふ伝説もある。▼泉川=同所で今の木津川の上流。泉は涌いて出るから、わきて流るるにつけたのである。▼いつみきとてか=いつ見た事があつての意。「泉川」の「泉」から言ひかけたのである。「いつ」を「いづ」と濁つてはならぬ。
〔作者伝〕
右中将利基の六男で延喜五年従三位中納言に進んだが、承平三年五十七歳で薨じた。加茂河の堤の下に家があつたので、堤中納言とも言つた。歌人としては相当名のあつた人で、歌集もある。又文章も巧みで堤中納言物語はこの人の作である。紫式部の父為時は兼輔の孫にあたる。

二八源宗于朝臣
山里は冬ぞ淋しさまさりける人めも草もかれぬと思へば
〔評釈〕山里は四季を通じていつでも淋しいものだが、とりわけて冬になると淋しさが増す。草も枯れるし、訪ねて来る人も絶えてしまふ。全く淋しいことだ。
といふ意で、冬の景色の淋しさと共に作者の寂しい心持も現はれてゐる。この歌は古今集冬に「冬の歌とて詠める」として出てゐる。宇比麻奈備や改観抄には「草も」といふのを「草のみでなく草木の意だ」と言つてゐるが、その通りであらう。
〔句意〕▼人め=人目で、人が物を見る事。人目がかれるといへば、見る人がない事で即ちこゝは訪ねて来る人がなくなるの意に用ひたのである。▼と思へば=枯れたからといふ意味に軽くそへた言葉である。歎きの調子を加へたにすぎぬ。古い歌にはかなり用ひられてゐる。
〔作者伝〕
光孝天皇の皇子一品式部卿是忠親王の御子で御父親王は出家して南院宮と申した。
承平二年十月正義四位右京太夫となつたが天慶三年に卒した。歌才もあつたと見え、古今集撰を始め、勅撰集には多くの作が見えてゐる。
大和物語に「宇多の院の花おもしろかりける頃南院の公達これかれ集りて歌よみなどしけるに右京のかみ宇于のよまれるうた「来てみれば心もゆかず故郷は昔ながらの花はちれども」」とある。

二九凡河内躬恒
心あてに折らばやをらむ初霜の置きまどはせる白菊の花
〔評釈〕若し菊を手折らうと思ふなら、たゞ心で推し量つて折るより仕方があるまい。初霜が真白に降つて、どれが白菊の花やらさつぱり見分けがつかないから。
といふ意である。如何にも大霜らしく思はれる。この歌は古今集秋下に「白菊の花をよめる」と題して出てゐるが、大げさに奇抜な形容である。躬恒の特徴であらう。
〔句意〕▼心あてに=おしはかりに。大ていこれだらうと推量する意。▼折らばやおらむ=折つたら折られようかの意で強い疑問ではない。▼おきまどはせる=置き惑はせるで、「おき」は霜の降ること、「まどはせる」は霜と花との見分けのつかぬこと。とにかく大霜である。
〔作者伝〕
古事記や日本紀に、「天津彦根命是凡河内国造等祖也」とあるが、父祖は分明でない。
官は歌などによつて見ると寛平の頃甲斐少目となり、後御厨子所を兼ねたらしい。官の低い人であるが、歌人としては名声が高かつた。古今集を勅撰になつた時も、貫之、忠岑等と撰者を仰せつけられてゐる程で、延喜時代の代表歌人として知られてゐる。

三〇壬生忠岑
有明のつれなく見えし別れより暁ばかりうきものはなし
〔評釈〕有明の月が夜の明けるのも知らぬやうな顔で空にあるやうに、あの女もつれない冷淡な態度をしてゐたので、すげなく別れて帰つたが、それ以来、その悲しかつた別れが思ひ出されて、明け方程いやなものはない様になつた。
といふ意で、思ひの遂げられずに帰る片恋の哀れさが身にしみ渡る様な歌である。
この歌は古今集恋三に「題しらず」として出てゐるが、古今第一の歌といはれてゐる。鳥羽院が古今第一の歌をお尋ねになつた時、定家卿と家隆卿は共にこの歌を書き上げられ、又俊成卿も推選したといふ名誉の歌である。
〔句意〕▼在明の月=こゝではつれなくの枕詞に用ひた。夜が明けてからまだ天に残つて居る月。▼つれなく=無情である。何とも思はぬ事。憐れを見ても何も感ぜぬふりで平気で居ること。▼暁ばかり=暁ほどの意。▼うき=憂きで、辛い又せつないの意。
〔作者伝〕
姓氏録に「天足彦国押内命の後」と云ひ、又壬生部公は崇神天皇の後とあるが果して忠岑の祖であるかは分明でない。初め泉大将藤原定国の随身をしてゐた頃、歌を詠んで愛せられた事もある。又延喜中の禁中歌合に「在明のつれなく…」を詠んで帝の御賞めに預つて昇殿を許され、貫之、躬恒と共に、古今集の撰者を仰せつけられてゐる。大変歌は上手であつた。康保二年九十八歳で没した。

三一坂上是則
朝ぼらけ有明の月と見るまでによし野の里にふれる白雪
〔評釈〕吉野の里へ来て宿つて、明け方に起きて見ると、外は真白であつたが、これは有明の月の光であらうと思つてゐると、それは白雪の降り積つてゐるのであつた。
といふ意で、とりわけ技巧も用ひてないが、雪の降つた朝の景が、絵のやうに目に浮んで来て、感じの強い歌である。この歌は古今集冬に「大和の国にまかりける時、雪の降りけるを見てよめる」と題して出てゐる。
〔句意〕▼朝ぼらけ=夜明の事。夜がほのぼのと明け渡る頃を云ふ。▼有明の月=前に既に説明した故省く。▼見るまでに=見る位に、見るほどにの意。即ち雪の白く輝いてゐるのを、月の光と見るほどの意。
〔作者伝〕
坂上田村麿から四代目の好蔭の子で、醍醐朱雀の二朝に仕へた。初め御書所の役人であつたが、延長二年正月に従五位下となり、加賀介に任ぜられた。
才学に富み、又蹴鞠も巧みで、延長五年に仁寿殿で二百六度まで連足に蹴つて一度も落さなかつたので帝の感賞にあづかつて絹を賜つた事も書に見えてゐる。歌も勅撰集に多く出て居り、後撰集の選者となつた程である。

三二春道列樹
山川に風のかけたるしがらみはながれもあへぬ紅葉なりけり
〔評釈〕この山川にかけ渡した柵がある。よく見ると、それは吹き散らされた紅葉が水の上に溜つて流れ出ることが出来なくなつてゐるのである。あゝ風が持つて来てかけたものだ。
といふ意で、風に吹かれて散つて来た紅葉が多いので流れ切れず、柵のやうになつてゐる様子を風のかけたしがらみと言つたのである。一寸南画のやうな趣がある、古今集秋下に「志賀の山ごえにてよめる」と題して出てゐる。
〔句意〕▼山川=山の中の川の意で「やまがは」と濁つてよむ事。「やまかは」と清むときは「山と川」といふ二つ並べた意味の時である。▼しがらみ=流を防ぐ為に川中に杭を打つて竹柴などをからみつけた垣の事。又川岸の崩れを防ぐためにも作る。こゝは前の意。▼流れもあへぬ=流れることの出来ぬ、又流れも切れぬの意である。
〔作者伝〕
従五位下雅楽頭新名宿弥の長男であるといふ。祖先は宇比麻奈備には大和国の春道村に春道社があるから此処から出た氏だらうといつてゐる。
延喜二十年に文章生から壱岐守に任ぜられ、又出雲守に転じた。
歌はあまり名高くないが、古今集や後撰集には数首見えてゐる。

三三紀友則
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらん
〔評釈〕うらゝかな日の光。穏かで、風もないかうした長閑な春の日に、どうして花はあのやうに落ちついた心もなく、あわたゞしう散るのであらうか。
といふ意で、春に酔つた大宮人の姿が見えるやうである。調子ものんびりとして春の歌としては申し分ないものであらう。古今集春下に「桜の花の散ると見て詠める」と題してある。
〔句意〕▼ひさかた=天、日、月等の枕詞であるが、こゝは光の枕詞でなく太陽の意と解する方がわかりがよい。▼のどけき=長閑な意。▼しづ心なく=静心なくで、静かな落ついた心もなく気ぜはしくの意。▼散るらん=散るのであらうの意。何故にと疑ふ意で想像ではない。
〔作者伝〕
父は宮内権少輔有友といはれてゐる。延喜四年に大内記に進み従五位となつた。歌も巧みで古今集の選者の一人となつたが途中で歿した。貫之や忠岑の悲んだ歌は古今集にある。嘗て歌合に「初雁」を題としたのに友則の歌の上の句「春がすみ」と読み初めた。列席の人々は「秋だのに春がすみとは」と笑つたが、下の句「かすみて去にしかりがねの今ぞ鳴くなる秋霧の上」といふ名歌であつたので笑つた人々は大いに恥ぢ入つたといふ話もある。

三四藤原興風
たれをかも知る人にせん高砂の松も昔の友ならなくに
〔評釈〕自分はひどく年をとつて、昔の友達も今は一人も生き残つてゐない。まあ誰を友として交つたらよからう。せめてあの高砂の松でも友として語りたいが、あの松とても昔ながらの友ではない。
といふ意で、老後に友達のない淋しさを嘆いた歌である。この老人の心には読者も同情するであらう。古今集雑上に「題しらず」として出てゐる。
〔句意〕▼誰をかも=誰をまあと云ふ意で「か」は疑意「も」は歎辞である。▼知る人=知己の義。▼高砂=播磨の国の名所とする地名説と、たゞ山の事とする説があるが、こゝはたゞ山の意に解して置く。▼友ならなくに=友でないからの意。「なく」は「ぬ」の延語で友ならぬにといふところである。
〔作者伝〕
参議浜成の曾孫で、正六位相模掾道成の子である。延喜十四年に下総権大掾に任ぜられて従五位を授けられた。特に逸話も遺つて居ないが拾芥抄によると琴の名手であつたやうである。

三五紀貫之
人はいさこゝろも知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
〔評釈〕なつかしい故郷のやうな思ひのする初瀬へ久しぶりで来て見ると、主人の心は変つたかどうかそれは知らない。だが、こゝに咲く梅の花だけは昔のまゝに匂つてゐる。
といふ意である。久しぶりで宿を借りようと思つて行くと、宿の主人が貫之のあまり久しぶりであることを取次の者に咎めた顔をさせたので、かへつてこちらから主人をうらみ返した歌で、作者の機智が見える。古今集の春上に入れてある。
〔句意〕▼人はいさ「人」は宿の主人をさす「いさ」は「否」で万葉には「不知」としてある。「いざ」と訓むは誤である。▼こゝろも知らず=人の心はどうか知らぬ。即ち人の心は変つたかどうか分らぬの意。▼ふるさと=古郷、即ち初瀬の事。今日の出生地をさす故郷ではなく、第二の故郷などといふそれにあたる。▼昔の香に匂ふ=昔そのまゝの香で咲いてゐるの意。
〔作者伝〕
家系は詳ではないが、父は望之といふ、歌人であつたといふ。延喜中に御書所預であつたが同八年土佐守となり、天暦年中に従五位に進み同九年に歿した。古今集の選者の一人で、万葉抄五巻、新撰和歌集をも選んだ。延喜の歌人では最上で三十六歌仙では人麿を左、貫之を右の第一としてゐる。全く和歌については勝れてゐた。又文章もよくし有名仮名文土佐日記は、彼が土佐守の任満ちて京へ帰る道中記である。明治三十七年に従二位を追贈された。

三六清原深養父
夏の夜はまだ宵ながら明ぬるを雲のいづこに月やどるらん
〔評釈〕夏の夜は短い、まだ宵だと思うてゐるうちにもう明けてしまつたが、今まで見てゐた空の月も見えなくなつた。まだ西へは入つた筈はないが、いつたいどこのどの雲の中に姿を隠したのだらう。
といふ意で、子供らしい感情が見えて童謡の様な気持のする懐しい歌である。この歌は古今集夏に「月の面白かりける夜暁方に詠める」と題して出てゐる。全体の調子も内容もよく合つてすら/\とした歌で、夏の夜の短さを詠んだ多くの歌の中でも又百人一首中でも優秀のものといへよう。
〔句意〕▼宵ながら=宵のままでの意、美しい月を眺めて、宵の心地ですぐ暁になつたといふのである。夏夜の短い様が察せられる。万葉には「初夜」と書いて「よひ」と訓んである。▼雲のいづこに云々=雲のいずれの辺にかくれたのであらう。
〔作者伝〕
元来清原氏は舎人親王の後ではあるが、深養父の家系は分明でない。筑前介房則の子といはれてゐるが、世に知られた人ではない。山城国愛宕郡に小野に深養父の建立した補陀洛寺があつてこゝに住んだらしい。これは平家物語にも見えて居り確であらう。歌の上手であつた事は古今集の外勅撰集には多く出てゐるのを見ても察せられる。

三七文屋朝康
白露に風のふきしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞちりける
〔評釈〕秋の野の草葉の上一面におき渡した白露が、秋風の吹くのにつれてぱら/\と光つて散る。その様は、まるで糸を通してない玉がぱら/\とこぼれるやうである。
といふので珍らしく秋の野を美しく見て歌つたものである。格別傑作でもないが、白露の風のために落ちる景色をあざやかに詠み出して凋落の気分をまぎれさせた所は趣の変つた歌ひ方である。後撰集秋に「延喜の御時歌召しければ」と題して出てゐる。
〔句意〕▼風のふきしく=風が吹き頻ること、即ち頻りに吹き渡ることである。紀に「しく」は重り、又及ぶとあつてこゝは敷くの意ではない。▼つらぬきとめぬ玉=糸を貫いてない玉。大てい玉は糸に通してあるが、露のころ/\してゐるのを糸を通さぬ玉にたとへて言つたのである。
〔作者伝〕
先祖は分明でないが、諸説はかなり多い。文屋康秀の子といひ又光孝天皇の仁和年中の人ともいふ。寛平五年の后宮の歌合や是貞親王の歌合等にも出た事があるやうに記録に見えてゐるが、とにかく貞観から延喜の頃の人で位も低かつた人である。
歌も古今集と後撰集に一首づつあるばかりで多く出てゐない。

三八右近
忘らるゝ身をば思はず誓ひてし人の命のをしくもあるかな
〔評釈〕見捨てられた我身の事は少しも思はないが、いまでも変らないと神仏に誓を立てゝ約束した君が神罰を受けはなさらないかと思ふと、心からその人の命が惜しまれてならない。
といふ意で、自分を忘れて相手を思ふ心を歌つた女らしい可憐な歌である。想像作ではなく実際であるところに同情が涌く。この歌は拾遺集恋四に「題しらず」として出てゐるが、真淵は「女ながらをゝしきまことの心をもちたる歌にて、奈良朝の風あり」と非常に称へ、又他説には「これは忘れられた腹立ちに俗に言ふふてくされに詠める心なり」と評してゐる。
〔句意〕▼わすらるゝ=身分の身を言つたので先方の人に忘れられるの意。▼誓ひてし=神仏に誓ひを立てゝ契つたの意で次の「人」にかゝる。「誓ひでし」と濁るは誤。▼人の命=誓つた男、見棄てた男の生命を云ふ。
〔作者伝〕
交野少将とも云ふ。右近少将季縄の娘で父の官名を用ひて右近と云つた。七条の后穏子に仕へてゐる頃、権中納言敦忠を恋人としてゐたが、後にその男が右近を棄てたのでこの歌「忘らるる」を詠んだといふ。
拾遺集や後撰集や新勅撰集などに合せて十首程の歌が出てゐる。

三九参議等
浅茅生の小野の篠原忍ぶれど余りてなどか人の恋しき
〔評釈〕今まで胸の中に包み隠して居たが、思ひあまつて堪へられない程あの人が恋しいのはどうした事であらうか、自分ながら自分の心が疑はしい程である。
といふ自分を疑つた歌で、又止み難い恋の切なさが詠みあらはされてゐる。調子のよい面白い歌である。この歌は後撰集恋一に「人に遣しける」と題して出て居る。為家卿は「この歌毎句、花麗、返々かくこそありたく候へ珍重々々」と称へてゐる。
〔句意〕▼浅茅生=茅のまばらに生えた原。「浅茅」は茅がまばらにあることで「生」は生えてゐる原である。▼篠原=篠の生えてゐる原。こゝは篠を「忍ぶ」に云ひかけたので上の句は忍ぶの序詞である。▼あまりて=思ひがあまつての意。▼などか=どうしてか、何故かの意。
〔作者伝〕
姓は源で、嵯峨天皇の皇子大納言弘の孫で、父は中納言希といつた。天慶元年に参議に任ぜられ、天暦五年正四位下となり七十三歳で薨じた。歌人としては別にこれといふ人ではない。作も極めて少い。いはゞ平凡な一生を送つた人らしい。

四〇平兼盛
忍ぶれど色に出にけり我恋は物や思ふと人のとふまで
〔評釈〕自分の恋は誰にも知られない様にと包み隠して居たが、思ふ心は自然に顔かたちにもあらはれたと見える。何かもの思ひでもあるのかと、人が尋ねる程になつた。
といふ意で、恋を秘め悩んでゐるものゝ心持が歌はれてゐる。忍恋歌として有名で又百人一首中でも秀歌たるを失はぬ作である。この歌は拾遺集恋一に「天徳の御時歌合に」と題して出てゐる。しかし真淵はこの歌は万葉集巻八の「安必意毛波受云々」とあるを改作したものであらうと云つてゐる。或はさうかも知れぬ。
〔句意〕▼忍ぶれど=包み隠してゐるけれどの意。▼色に出にけり=自然に顔色にあらはれたといふ意。▼物や思ふと=物思ひをしてゐるのかとの意。この歌を我が恋は、しのぶれど物や思ふと人の問ふまで色に出にけり。と順序を変へて見るとよく理解される。
〔作者伝〕
光孝天皇の皇子是貞親王の曾孫で、太宰少弐篤行の子である。幼時から学問を好み大学寮に入つて。天元二年には駿河守まで進んだが正暦元年に歿した。歌の外に漢学にも秀で図書頭を勤めた事もある。駿河守として任地に在る時、或女がその夫が他の女の所へ往つて帰らぬと歌を以て訴へたのに、居合せた源重之が歌を以て答へたといふ話もあるが、此頃の官吏はすべて風流であつた。女赤染衛門も有名な歌人である。

四一壬生忠見
恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
〔評釈〕私が恋をしてゐるといふ噂が早くも立つてしまつた。私は人に知られぬやうに心の中で恋し初めたのであつたのに。
といふ意で、恋の浮名の立ちやすいのを驚いて歎いた歌である。この歌は拾遺集恋一に「天暦の御時歌合に」として出てゐる。天暦は村上帝の御代の年号で、実は天徳年中禁中の歌合に、兼盛の「忍ぶれど……」の歌と優劣を競うた時、忠見は右方に兼盛は左方に衣冠を正して着席したが、「忍ぶれど」の歌が勝と聞くや兼盛は喜びのあまり、他の勝負は見ずに拝舞して家に帰つたといふ話のある歌である。共によい歌であるが、少しこの方はひびきがない様に感じられる。
〔句意〕▼すてふ=するといふの意。「てふ」は「といふ」の約。▼まだき=早くもの意。予めといふのが本義で、日本紀には「予」の字をあてゝゐる。▼思ひそめしか=思ひ初めたものをの意。宇比麻奈備に「初めしが」と濁りを訓むべしとあるが、「しか」は「こそ」とあるから用ひたので、やはり清みてよむがよからう。
〔作者伝〕
壬生忠岑の子で、幼名を「多多」と言つて摂津に住んだ。歌が巧みで宮中に召された時、乗物のないので辞退した。帝は戯れに「竹馬に乗つて」と仰せられたので「竹馬はふしかげにしていと弱し今夕かげに乗りてまゐらむ」といふ歌を捧げたといふ。後醍醐帝に召され蔵人所に勧め、天徳二年摂津権大目となつた。忠見は歌を以て出世したが、兼盛と歌を争つて負けて以来悶々として遂に発病して死んでしまつた。又歌のために死を早めたのも不思議である。

四二清原元輔
契りきなかたみに袖をしぼりつゝ末の松山波こさじとは
〔評釈〕あの時、あれほど堅い約束をしたではないか、互いに涙に濡れた袖を絞りながら、あの末の松山を波が越す事のないやうに、二人の心は決して変らないと。それだのに今あなたの心の変つたのはあの約束を忘れたのか、よもや忘れはすまい。
との意で、女の心変りを怨んだ歌である。この歌は後拾遺集恋四に「心かはりてはべりける女に人に代りて」と題して出てゐる。表現法なども「契りきな」と最初にいつて強い調子で面白い。
〔句意〕▼契りきな=約束したがなあの意で、歎息の詞。「きな」は「けりな」の約つたのである。▼かたみに=互にの意。▼袖をしぼりつゝ=涙にぬれること。▼末の松山=陸前国宮城郡の海岸の地名。末の松山は波の越えない山であるから、心の変りせぬことに用ひたのである。下の句は古今集の陸奥の歌に「君をおきてあだし心をわがもたば末の松山浪もこえなん」によつたものであらう。
〔作者伝〕
祖父は深養父、父は下野守顕忠で代々歌の聞えが高いが元輔に至つて一層高くなつた。天暦五年河内権掾に、寛和二年に肥後守となり、永祚二年八十三歳で卒した。
天暦の頃和歌所の寄人をしてゐたが、坂上望城、紀時文、源順、大中臣能宣と共に万葉集の訓点を施し、又後撰集をも撰んだ。世に梨壺の五歌仙といふ。とにかく当代一流の歌人である。有名な清少納言はその娘である。

四三中納言敦忠
あひ見ての後の心にくらぶれは昔は物を思はざりけり
〔評釈〕逢はないまではどうかして逢ひたい、逢つたらこの胸の苦しさもなくなるだらうと悶えてゐたが、あゝして逢つて見ると又一層思ひが増すばかりで、今の悶えに較べて見ると、逢はない昔はこんなには物思ひをしなかつたと思ふ。
といふ意で、逢つて一層思ひの増した恋の苦悶がよく歌はれてゐる。これがまあ人情の自然であらう。宗祇は「かやうな歌をあまりにやすく見はんべらんはほいなきことにこそ侍らめ」と評してゐる。拾遺集恋一に「題しらず」として出てゐる。
〔句意〕▼あひ見ての=逢つて、出会つての意。▼くらぶれば=逢はぬ前の心と、逢つて後の心をくらべるの意。▼昔はものは思はざりけり=昔は物を思はぬといつても差支ないとの意。「昔」は逢はぬ前をさす。「ざりけり」は強めた詞。
〔作者伝〕
左大臣時平の三男であるが実はその母が以前大納言国経に嫁して懐妊した子で時平の実子ではないと伝へられてゐる。延喜十七年に十二歳で昇殿を許され、天慶五年には従二位権中納言にまで昇つた。翌年三十八歳で薨じた。短い一生であつたが、歌人として又楽師として宮中に重んぜられた人である。本院中納言、枇杷中納言などの別名がある。

四四中納言朝忠
あふことの絶えてしなくばなか/\に人をも身をもうらみざらまし
〔評釈〕恋人同志に若し逢ふといふことが絶対になかつたならば、却つて恋人をも、自分の身をも恨む事はないであらうに、なまなかに逢ふといふことがあるので恨むのである。
といふ意で、敦忠の歌とよく似て、人情の自然をつかんでゐる。恋人の悲しい一種の告白である。この歌は拾遺集恋一に「天暦の御時歌合に」として出てゐる。
〔句意〕▼絶えてしなくば=絶対になければの意で、こゝは逢ふことが絶えはてゝと解しては誤。「し」は強めた助辞。なか/\=却つての意。俗に言ふなか/\とは違ふ。▼人をも身をも=他人をも自分をもといふ事。▼恨みざらまし=恨みざらむで恨みはしないであらうの意。
〔作者伝〕
三条右大臣定方の二男で、延喜十七年昇殿を許され、天暦六年参議に進み、応和三年中納言に任ぜられ、康保三年に五十七歳で薨じた。世に三条中納言、土御門中納言とも言ふ。歌についてはこれといふ程の事もないが学問才能にすぐれ、常に笙を好んで吹いた。体格が立派で、丈も高くよく肥つてゐたので相撲取の様に見えたと「宇治拾遺」に書いてある。

四五謙徳公
あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな
〔評釈〕私の事を、可哀いさうだと言つてくれるのはあなたばかりだと思つてゐた、そのあなたに見捨てられた上は、今さらこの私を可哀いさうなどと言つてくれる程の人は世にあらうとも思はれない。あゝ、この身は空しく焦れ死することであらう。あまりにあなたはつれない人だつた。
といふ意である。調子が物哀切れに出来てゐて、薄情な人に対する怨情が心細く述べてある。男のため息が数百年の時をへだてゝ、今猶聞えるやうな気がする。この歌は拾遺集恋五に「物言ひける女の後につれなく侍りて更に逢はず侍りければ」と題して出てゐる。
〔句意〕▼あはれ=愛する時、悲しむ時、歎く時に用ふが此処は悲しく歎くかたちで、不憫のものよとの意である。▼思ほえで=思はれずにの意。▼身のいたづらになる=無駄死すること、こゝは恋死すること。普通の死の意ではない。
〔作者伝〕
藤原伊尹公務くの事で、九条右丞相師輔の長子である。天禄元年に右大臣となり引続き太政大臣となつたが、同三年に四十九歳で薨じた。死後正一位を贈られ謙徳公と諡号を賜つた。彼は幼時から才智があり、眉目は秀麗、其の上和歌も巧みであつた。村上帝の天慶五年頃は和歌所の別当で後撰集について指図役をしたものである。一生を通じて豪奢な生活をし世の中を思ふまゝに日を送つた。

四六曾根好忠
由良のとを渡る舟人かぢをたえ行く方も知らぬ恋の道かな
〔評釈〕あの由良の水門を渡る舟人が楫を失つたやうに、自分も思ふ人に言ひ寄るたよりを失つて、私の恋は何を便りとして行けばよいやら、あてどもない果敢ない恋となつてしまつた。
といふ意で恋路の浮んで行方のないのを歎いた歌で、不安さがよく見えてゐる。新古今集恋一に「題しらず」として出てゐるが、詞の使ひ方も巧みで、棹を失つた舟人が舟のやり様もないさきに自分の恋を譬へた事は非凡の腕である。
〔句意〕▼由良のと=紀淡海峡の由良だと言ひ、又丹後の由良だともいふ。しかし後説が有力である。「と」は「門」の略ですべて舟の横切つて渡る処置くを言ふ。▼かぢを絶え=舟を漕ぐ棹を失ふこと。「を」は「緒」で楫についた緒の絶える事で、この緒がなくては楫は用ひられぬ。従つて舟は何処へ流れて行くかも知れぬ。▼行く方も知らぬ=指して行くべき方を知らぬの意。恋の道の危くて思ふ人に言ひよるべきたよりを失つたのを言つたのである。
〔作者伝〕
曾根連は饒速日命、六世の孫伊香我色雄命の後と姓氏録にある。しかし好忠の父祖は分明でない。官は丹後掾であつたといふ。曾根丹後をつゞけて曾丹後と呼び後寝る曾丹と呼んだのをやがて「そた」といふだらうと歎息した話がある。非常に歌を好み、あまりに凝りすぎて奇行が多かつたので上手であるにも似ず世にあらはれなかつたのは惜しい。後曾丹集が出てからその真価が知れ大いに尊敬されるやうになつた。

四七恵慶法師
八重むぐらしげれる宿のさびしさに人こそ見えね秋は来にけり
〔評釈〕草が、葎が、こんなに茂りに茂つて荒れ果てたこの家は如何にも物寂しく、人の住んでゐる姿とて目につかぬが、それでも秋は相変らずやつて来た。これからも一層寂れてゆくことであらう。
といふ意で、人生の有為転変の歎き人の栄華の淋しさが思はれる。感じの深い一歌である。
この歌は拾遺集秋部に「河原院にて荒れたる宿に秋来るといふ心を人によみ侍る」と題して出てゐる。河原院の邸は非常に広大なものであつたが、この歌を詠む頃は見る影もなく荒れ果てゝ居たのである。
〔句意〕▼八重葎=葎が茂り茂つて生えてゐるを云ふ。葎は草の名。八重葎をたゞ雑草と解く。▼人こそ見えね秋は来にけり=人は見えないが、然し秋は来た。こゝの「人」は昔の人。
〔作者伝〕
その伝は分明でない。花山帝の寛和の頃の人で播磨国の講師であつた。兼盛や、時文や、重文等と交りをしたと記録に見えてゐるから相当の人であつたと思はれる。拾遺集新古今集後拾遺などには相当よい歌が出てゐる。

四八源重之
風をいたみ岩うつ浪のおのれのみ砕けて物を思ふ頃かな
〔評釈〕風が強いから、岩に打ちつける波は、自分だけで砕けて飛んでしまふ。私ははげしい恋の思ひで焦れてゐるが、あの人が何とも思つてくれないので、あの波のやうにひとりで心を砕いて悩むだけである。
といふ遣瀬ない片思ひの恋を歌つたものである。上の句は「くだけて」といふための序詞であるが幾度思ひを運ばせても先方の頑固な冷さを適切にたとへ用ひてかなり技巧のある歌ひ振りである。この歌は詞花集恋上に「冷泉院東宮と申しける時、百首の歌奉りけるによめる」と題して出てゐるが、その実は片恋の心を題として作つたのであらう。
〔句意〕▼風をいたみ=風が強さに、風がひどいからなどの意。「み」は「さに」「よりて」の意であることは前に述べた。▼砕けて=こゝは胸の思ひの様々にくだけ思ひをつくす意。動かぬ巌を恋人に、くだける波を自分にたとへたのである。▼おのれのみ=自分だけの意、「のみ」には恋人の冷淡に頑強な意味を持たせてある。
〔作者伝〕
清和天皇の皇子貞源親王の孫、従五位上侍従兼信の子である。康保四年に左近衛権将監に任ぜられ、長保中陸奥掾となつたが―地で歿した。歌才もあつた人で東宮に百首を献つた事も見えてゐる。陸奥に居る頃、兼盛が「みちのくに安達が原の里塚に鬼こもれりといふはまことか」といふ歌を送つたことがある。女の事をわざと鬼といつたのである。謡曲の「安達原」はこの歌から作つたものである。

四九大中臣能宣朝臣
御垣守衛士の焚く火の夜はもえ昼は消えつゝ物をこそ思へ
〔評釈〕内裏の御門を守る衛士の焚く篝火のやうに、私の胸は夜は情火に燃え、昼は昼で我身も魂も消え入るやうな思ひをする。
といふ意で、熱烈な恋の歌である。真に恋する人の偽らぬ声であらう。この歌は詞花集恋上に「題しらず」として出てゐるが上の句は「燃える」心への序詞で、なか/\上手に喩へを用ひてゐる。
〔句意〕▼御垣守=宮城の御門を守る兵士。こゝでは御門をお守りするの意味で衛士につゞくのである。▼衛士=地方の軍団の中から選ばれて、京師に上り一年間宮門を守る任にあたる兵士をいふ。大宝令に定められてある。▼夜は燃え=夜になると心が燃え立つこと。「夜は燃えて」と読むのはよろしくない。▼昼は消えつゝ=昼は身も魂も消え入る程深く物を思ふことで、昼は思ひが消えて忘れるのではない。
〔作者伝〕
神祇大副祭主頼基の子、初め蔵人所に勤めてゐたが、天禄三年に神祇祭主となり、永観二年正四位に至り、正暦三年に七十一歳で卒した。代々学問の家で、和歌は父と共に勝れ、梨壺の五歌仙の一人として万葉集を訓した。彼が後撰集を撰んだのは三十歳であつたといふ。若かつた時、入道式部卿宮の子の日に召され「千年までかぎれる松も今日よりは君に引かれて万世や経む」と詠んで、ほまれを高くした事がある。その歌才の程も察せられよう。

五〇藤原義孝
君がためをしからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな
〔評釈〕まだ逢はぬうちは、君のためなら、命などはどうでもよい、と思つたが、さていよ/\逢つてかへつて来て見ると、その惜しくなかつた命さへ急に惜しくなつて、いつまでも長らへて、その人に逢つてゐたいものだと思はれて来た。
といふ意味で、人情をよくうがつた歌である。特別の技巧も用ひずして力強く歌つてゐるが、これが恋する人の常であらう。この歌は拾遺集恋二「女の許より帰りてつかはしける」と題して出てゐる。
〔句意〕▼君=女を指していつたのである。▼をしからざりし命さへ=捨てるのを何とも思はなかつた命すらもの意。▼長くもがな=長らへて久しくありたいと願ふ意で、「がな」は希望の意である。
〔作者伝〕
謙徳公の子で容姿の美しい人であつた。右近少将従五位で天延二年に二十一歳の若年で歿した。痘瘡で兄の挙周と同日に死んだといふ。二条院の連歌会で「秋はただ夕まぐれこそたゞならぬ」といふ句が出来たが次の句が出ず皆は困つてゐた。義孝は僅十二歳の少年であつたが横合から「萩のうは風萩のした露」とつけて列席の人々の胆を抜いたといふ。その他仏教に帰依して珠数を手にかけ、口癖のやうに法華経を唱へてゐたといふ。

五一藤原実方朝臣
かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを
〔評釈〕かやうに君を思うて居るといふことだけでも知らせたいが、どうしても打ち明けて口に云ふことが出来ない。ああ、君は知るまい。このやうに燃える思ひをしてゐることを。
との意で、恋人に初めて思ひをうちあけたものである。この歌は後拾遺集恋二に「女に初めてつかはしける」と題して出てゐる。用語の技巧などは上手に出来てゐるが、多分古今六帖に出てゐる伊吹山のさしも草を恋の思ひに譬へて用ひた他人の作歌から印象を受けて作つたものであらう。
〔句意〕▼かくとだに=かやうに君を思うて居るとさへの意。▼えやはいぶきの=言ふことが出来ずの意。「えや」は言ふの意で伊吹にかけさしも草といはんが為に言つたのである。伊吹は伊吹山で下野にあつてさしも草のある所。▼さしも草=蓬で作る艾草の事、灸に用ふ。▼さしも=さうともといふ意。「し」は助辞。▼しらじな=知つて居まいなあの意。▼もゆる思=燃え立つ思ひの事。艾のもゆるに通はせた。
〔作者伝〕
左大臣伊尹の孫で、侍従定時の子であるが叔父の済時の養子となつた。一条帝に仕へて従四位上左近近衛中将まで進んだが彼の歌「桜がり雨は降り来ぬ同じくばぬるとも花のかげに宿らん」といふのを、藤原行成が非難したと聞いて殿上で笏を以て行成の冠を庭へ打ち落した。実方はその非礼によつて陸奥守に貶され彼地で歿した。しかし歌は優れてゐたので崇敬された。今その祠は上加茂に末社として祀られてある。

五二藤原道信朝臣
あけぬれば暮るゝものとは知りながら猶うらめしき朝ぼらけかな
〔評釈〕夜が明ければ又やがて日が暮れて夜になる。夜になれば、又逢はれるといふ事は知つては居るが、それでも矢張り逢うたその夜は、別れぎはの夜あけがうらめしく思はれる。
といふ意で、或程度まで自由が許すくされてもやつぱり心は寸時も離れられぬものであるといふ、恋の未練がしみじみと歌はれてゐる。この歌は拾遺集恋上に「女の許より雪の降り侍りける日帰りて遣しける」と題して出てゐる。これと同じ題で二首あるのだが、一首をとつて百人一首に加へたのである。
〔句意〕▼朝ぼらけ=夜がほのぼのと明け行く頃をいふ。
〔作者伝〕
九条右大臣師輔の孫で、太政大臣為光の子である。後に粟田右大臣道兼の養子となり、官は従四位左中将まで進んだが、正暦五年二十三歳で卒した。
大鏡に「権中将道信君いみじき和歌の上手にて心にくき人にいはれ給ひしほどに承りにき」とある。又孝心も深く、父為光の死後、一年間喪に服し、尚哀傷にたへず、「限あれば今日ぬぎすてつ藤衣果なきものは涙なりけり」と詠じたので、時の人はその孝心の程を感心したといふ。

五三右大将道綱母
なげきつゝひとりぬる夜の明くる間は如何に久しき物とかは知る
〔評釈〕あなたは私の門を明けるのが遅いと、お怒りになるが、毎夜歎きながら、独り寝をして、今か今かと夜の明けるまで待つのは、如何に長く待ち遠いものであるかおわかりですか。
といふ意で、兼家が年若い頃、この女の所へ通つてゐた時分の事、訪ねて行たたが門の開け方が遅かつたといつて待ち遠がつたのに対する返事である。先方の不平に対するこちらの不平であるが、如何にも女らしい歌ひ方でなつかしさがある 
〔句意〕▼なげきつゝ=思ひに焦れ俗に言ふため息をつくといふ事。▼明くる間は=夜の明けることを門を開けることゝ通はせたのである。▼物とかは知る=物と知つて居るか如何だの意。「は」は助辞。
〔作者伝〕
正四位下藤原倫寧の女で、東三条摂政兼家に嫁して道綱を生んだ。和歌にすぐれてゐたことは大鏡にも見えて居る。又文章も上手で、彼の書いた「蜻蛉日記」には兼家が忍んで通ふ頃から、天延二年まで凡そ二十年の事が記してあるが、今日でも文学上佳作として称されてゐる。又非常に美人で天下の三美人の一人とさへ言はれた程である。

五四儀同三司母
わすれじの行末までは難けれど今日をかぎりの命ともがな
〔評釈〕いつまでも末長く忘れまいとの契はうれしく存じますが、それを守ることはなか/\なこと、いつそ今のうれしいお言葉を思ひ出に、今日限りの命として死んでしまひたい。
との意で、恋の未来を危んだ歌である。この歌は新古今集恋三に「中関白通ひそめ侍りし比」と題して出てゐる。中関白とは藤原道隆の事で、年若い頃、この女と恋が成つた時、女が男から一生離れまいとする心から、却つて未来の不安を抱いたのである。これが女の心の普通で、男に対して努力する点であらう。
〔句意〕▼忘れじの=忘れまいとの約束、即ち末長く忘れはすまいとの約束。▼命ともがな=命でありたいとの意。「がな」は希望の助辞。
〔作者伝〕
従三位高階真人成忠の女で、中関白道隆の室である。准大臣伊周公や中宮定子の母である。本名は貴子で高内侍とも云つた。儀同三司とは准大臣の事で、伊周が准大臣の官にあつたから儀同三司母といつた。文章も上手で男勝りの文を書いたものである。

五五大納言公任
滝の音は絶えて久しくなりぬれどなこそながれて猶聞えけれ
〔評釈〕嵯峨上皇の御覧になつた滝の水はかれて、その滝の音の絶えてからは、もうかなり久しくはなるが、評判ばかりは矢張り昔も今も変らずに世に聞えてゐる。
といふ意味くで、上手に言葉を用ひて全体ゆるみなく詠んである。この歌のとり所であらう。これは拾遺集雑上に「大覚寺に人々あまた罷りたりけるに、古き滝を見て詠み侍りける」と題して出てゐる。大覚寺は遍昭寺の西にありて、嵯峨上皇がおいでになる時、滝を作つて御覧になる滝殿をお作らせになつたが、後に水はなくなつて、たゞその跡ばかり残つて居るのを見て詠んだものである。
〔句意〕▼滝=嵯峨上皇が滝を作り滝殿を造らせて御覧になつた滝の事。▼絶えて久しくなりぬれど=滝の水が落ちぬやうになつて、水の音が絶えてから久しくなつたけれ共の意。▼名こそ流れて=名ばかりは世に聞えての意。「流れて」と滝の水に事づけたのである。
〔作者伝〕
三条太政大臣頼忠の長子で、天元三年元服の時、清涼手ので帝が御親しく冠を加へられ直ちに正四位下侍従となされた。進んで長保年間に中納言三位に進まれ、最後に大納言となり、長久二年七十六歳で歿した。和漢の学に通じ歌も巧み、能書の聞えも高かつた。又管絃などの芸にも達してゐた。著書も多く北山鈔、和漢朗詠集、和歌九品、名所和歌集、金玉集等がある。三十六歌仙を撰んだのもこの人である。歌学の道にすぐれた事はこれでも明である。

五六和泉式部
あらざらむこの世の外の想ひ出に今一度の逢ふこともがな
〔評釈〕自分は今、病が重い。もう長くはこの世にはゐない。と思ふと、せめては来世の思ひ出になるやうに、もう一度君にお逢ひすることが出来たらと思ひます。
といふ意で、病中から恋人に送つた歌である。今一度といつた言葉の中には恋人の切な心が現はれて思はず涙する様である。この哀れつぽい熱烈な言ひ方は和泉の特長で、ほんとの詩人としての天分が見られる。百人一首中の秀歌たるを失はぬであらう。この歌は後拾遺集恋三に「心地例ならず侍りける比、人の許に遣しける」と題して出てゐる。
〔句意〕▼あらざらむ=この世に居らぬ後で、死後の事。あらずなむの約である。▼この世の外=後世又来世の事。▼思ひ出=追憶のたね、思ひ出し草の意。▼がな=願望の意。▼今一度=もう一度の意。
〔作者伝〕
歌人越前守大江雅致の女で本名は弁内侍といつた。初め准式部と云つたが、和泉守橘道貞に嫁してから和泉式部といつた。夫の死後は上東門院彰子に仕へ、後藤原保昌に嫁し丹後に下つた。或時夫が狩に出ようと準備して居つた時、鹿の哀れな鳴声を聞いて、夫の狩を止めさせ、その代りに夫の命によつて歌を作つたといふ話は有名である。晩年には尼となり誠心院といふ寺に籠つた。清に富んだ女で、いろ/\の話もある。小式部内侍はその女である。

五七紫式部
廻りあひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな
〔評釈〕久しぶりで、思はずめぐり逢つた友、たしかその人かどうか明かに見分けないうちに、雲に隠れて今夜の月のやうにすつと姿が見えなくなつてしまつた。あゝ、名残惜しいこと。
といふ意で、偶然に友に一寸逢つた事をその夜の月に事寄せて詠んだのである。全体がすら/\と出来て面白い歌である。和泉式部のやうに熱情はないが、のんびりとした所は特色といへよう。この歌は新古今集雑上に「早くより童友達に侍りける人の年頃経て行き違ひたるがほのかにて七月十日頃に競ひて帰り侍りければ」と題してある。
〔句意〕▼廻りあひて=月の廻る事から。久し振りに我が幼年の友に巡り逢つた事。▼見しやそれとも=見たが、それであるかどうか、はつきり顔の見分けのつかぬにの意。見たか見ぬか不明といふ意ではない。▼雲がくれにし=雲に月のかくれた事と、人の去つて見えなくなつた事とを兼ねて言つた。▼夜半の月=たゞ夜の月の意。夜半と書いても必ず夜の中頃に限らぬ。
〔作者伝〕
従五位下藤原為時の女で、藤原宣孝の妻である。初め藤式部といつた。幼時から学問に秀で、兄惟親の史記を読むのを聞いてすぐ暗記したといふ。為時はその才を愛し、男ならと歎いたといふ。夫の死後は身を持して上東門院に仕へた。藤式部とはその時の名である。その著「源氏物語」は文章も上手であり又大作で、今日国文学上に輝いてゐる。その晩年は詳でないが、大弐三位と弁の局はその女で共に才媛の名が高かつた。

五八大弐三位
ありま山猪名の笹原風吹ばいでそよ人を忘れやはする
〔評釈〕あなたこそ却つて私をよそ/\しくして、訪ねて来て下さらないで、私の心を疑はれるのはもつての外です。全くさうですよ、私があなたを忘れることなんかがどうしてありませうか。
といふ意で、いや味を言つた男に対し皮肉に恨み心を歌つたものである。ありふれた様であるが、詞の使ひ方も優美に出来てゐて面白味のある歌である。後拾遺集恋三に「かれがれなる男の覚束なしなど言ひたりけるに詠める」と題して出てゐる。「かれ/\」は淋しく枯れて来て疎遠になつた事。
〔句意〕▼有馬山=摂津有馬郡にある。▼猪名の=同国河辺郡にある。▼風ふけば=次の「そよ」を言ふために、篠に風があたるとそよ/\とするから序詞としたのである。▼いでそよ=いでは「さあ」で誘ひ出す詞。「そよ」は「それよ」或は「さうよ」等の意。▼人=相手の男をいふ。▼忘れやはする=忘れようや、忘れはせぬの意。
〔作者伝〕
父は藤原宣孝母は紫式部である。太宰大弐高階成章に嫁したが後、一条帝の乳母に召され、三位に叙せられたので大弐三位といつた。母と共に文章に達し、狭衣物語四巻を著して文名を博してゐる。和歌もなか/\すぐれてゐた。

五九赤染衛門
やすらはで寝なましものを小夜更けて傾くまでの月を見しかな
〔評釈〕はじめからおいでにならぬと知つたならば、かうも待たずに寝んだものを、来るといつたお言葉を信じて待つてゐるうちに、とう/\夜が更けて、西の山の端にかたむかうとする、あけ方の月をひとりで見ました。
といふ意で、女らしいやさしい心から薄情な男をうらんだ歌であるが、衛門がその姉妹のために代作したのである。
熱烈な怒りを見せず、哀れ深げに言つた所に同情が起りさうで、その技巧上々である。後拾遺集恋二に「中関白少将に侍りける時、同胞なる人に物云ひわたり侍りけり、頼めて来ざりける翌朝女に代つて詠める」とあつて中関白少将とは道隆の事である。同胞=赤染衛門の姉妹。頼めて=約束する事。
〔句意〕▼やすらはで=俗に言ふ「ぐづ/\せずに」の意。▼寝なましものを=寝るのであつたものを。▼かたぶくまでの月=西の山の端に入らうとする月をいふ。
〔作者伝〕
母は初め平兼盛に嫁したが懐妊のまゝ離別して大隅守赤染時用に再婚した。故に衛門はその子ともいふ。衛門は大江匡衡に嫁し、又時の関白道長の北の方倫子にも仕へた。
人となり才思に富んで居て、和歌をよくし、和泉式部と共にその才名を知られたものである。夫の匡衡も名高い学者であつたが、それは妻の内助の功に負ふ所が多かつたといふ。夫の死後は尼となつて一生を送つた。

六〇小式部内侍
大江山いくのゝ道の遠ければまだふみも見ず天の橋立
〔評釈〕丹後の国は、大江山といふけはしい山や生野などといふひろ/\とした野の道を越えて遠い道中ですから、まだ天の橋立へはいつてみません―にかけて、まだ母からの書面はまゐりませぬ。
との意。都で歌合せのあつた時、式部も加はつたが、母が立派な歌人であるから、作つてもらふのだらうと言はれてゐた。中納言定頼が戯れて「歌はどうしましたか、丹後へ人をお遣しになつたか、心配でせう」といつたので、小式部はその袖をとらへてすぐこの歌を詠んだといふ。咄嗟の場合に、かけ詞や縁語を多く用ひ、然も立派な歌を詠んだ手際は老練といはねばならぬ。定頼は赤面した事でせう。
〔句意〕▼大江山、生野=共に丹後路の地名。丹後路の大江山や生野を過ぎて行く遠い所だといふ為に用ひた。▼ふみも見ず=橋を踏み渡らずの意と「母からのふみ」を手にせぬとの意をかけたのである。▼天の橋立=丹後の名所で「ふみ」の縁語である。
〔作者伝〕
和泉守橘道貞の女で、母は和泉式部で前に述べた。幼時から才女のほまれが高く歌も上手であつた。母が名高い歌人であつたので人々は妬んでその作は母の代作だらうとさへ言つた程である。彼が病の重い時、枕辺に母の泣く姿を見て「如何にせむ生くべき方も思ほえず親に先立つ道をしらねば」と詠んだ話は有名である。即詠にたけてゐたが薄命で、年若くしてこの世を去つた。上東門院から賜つた絹に小式部の名のあるのを見て母は大へん悲しんだといふ。

六一伊勢大輔
いにしへの奈良の都の八重桜今日九重ににほひぬるかな
〔評釈〕その昔奈良の都で美しく咲いた八重桜も、再び時を得て、今日この九重の御所で、一層美しい色香を見せて咲きにほつてゐることよ。
といふ意である。詞華集春一に「一条院の御時、奈良の八重桜を人の奉りけるを、その折御前に侍りければ、其花を題にて歌詠めと仰せ事ありければ」と題して出てゐる。非常に高尚な歌ひ方で「八重」といつて「九重」とうけ、「いにしへ」と云つて「今日」とむかへたる等の技巧は非凡の出来栄えである。
百人一首抄に「(上略)かやうの事は、天性の道と平生のたしなみとのいたすところなり」といつて称へてゐる。
〔句意〕▼奈良の都=元明天皇から光仁天皇まで七代七十余年の旧都で仏教が栄え文化の進んだ時代である。▼九重=宮中の事。▼にほふ=色、香、声などに言ふ語で、色々の余光を云つたものである。こゝは色よく咲いたことで、香の意ではない。
〔作者伝〕
大中臣能信の孫で、伊勢の祭主輔親の女である。父の職名を用ひて伊勢大輔と言つた。才名の高い女で和歌も上手で紫式部や、和泉式部、小式部等と名を同じうした。上東門院に仕へたが嘗て関白道長の側に在つた時、桜花を献上したものがあつたので硯を取つて大輔に授けた。すると大輔は即座に「古への奈良の都」と書いたので、道長を始め一同は皆拍手して宮中は鼓動したといふ。後筑前守高階誠順の妻となつたことは宇治拾遺に見えてゐる。

六二清少納言
夜をこめてとりのそらねをはかるともよに逢坂の関はゆるさじ
〔評釈〕昔支那には鶏の鳴き真似に偽られて、函谷関を開けた番人がある、といふ故事はあるけれど、私とあなたと逢ふ逢坂の関の関守はそんな偽事に欺かれて戸を開けたりは致しません。
との意で、行成が偽つて帰つた朝、「昨夜鶏の声にせかれて帰つた」といつて文をよこしたから、女から「函谷関の事でせう」といつてやると又、函谷関ではない逢坂関だというて来た。又それに答へて詠んだ歌である。枕の草紙にはこの事がくはしく書かれてゐるが、この歌は後拾遺集雑に出てゐる。歌の品はすぐれて居るとも思へぬが、如何にも恋に戯れる二人の姿が見え透く様である。
〔句意〕▼夜をこめて=夜深き事、即ち夜のまだ明けぬうちの意。▼鳥のそらね=「そらね」は空言で偽音の事、こゝは鳥の鳴き真似。▼はかるとも=たばかるともの意で、即ち人をだまし偽るともの意。▼よに=何か物事を切に言ふ時に添へる詞。「よもや」といふに同じ。▼ゆるさじ=逢坂の関守は許すまいの意。男女相逢ふ事に用ひた。
〔作者伝〕清原元輔の女で、一条帝の皇后定子に仕へ、崩御の後は御妹三条院の御淑景舎の方に仕へた。学問もあり、才智もすぐれてゐた事はある冬の雪後、皇后定子が女官達に「香炉峰の雪は如何に」と仰せられた時、納言はすぐ立つて前の御簾を捲いた話でも察せられる。彼が随筆枕草紙は実に名文で今日でも国文学の上に光を放つてゐる。古今集には彼の老後は零落して父の旧家に住んだとあるが分明でない。

六三左京大夫道雅
今はたゞ思ひたえなんとばかりを人伝ならでいふよしもがな
〔評釈〕言ひたい事は山ほどあるが、今はもうこの通り逢ふことも出来なくなつた。此上はたゞ一言、悲しいけれど思ひ切りませうといふことだけ、人手を経ずに直接逢つて話す機会があればよいと、そればかりが願はれる。
といふ意である。常子内親王との恋が露れて、帝が二人の間をお離しになつたのを歎いた歌で、やむなき恋を断念しようとしても今一度と思ふ気の毒な男の心が思ひやられる。歌の調子は平凡であるが、精神は強いひゞきを与へる。この歌は後拾遺集恋三に「伊勢斎宮わたりよりのぼりて侍りける人にしのびて通ひ仕る事をおほやけにもきこしめして、まもりつめなどつけさせゐて、しのびにも通はずなりにければよみ侍りける」とある。
〔句意〕▼おもひたえなん=思ひ切つてしまはふとの意。▼人伝ならで=人の伝言でなく、直接会つての意。▼いふよしもがな=云ふ方法もあればよいが、又いふよい折もあればよいがの意。「がな」は願ふ意の助辞。
〔作者伝〕
幼名を松若といひ、儀同三司伊周の子である。長和五年従三位左中将となり、万寿二年には左京権太夫に左遷されたが、天喜二年六十七歳で歿した。道雅と常子内親王とは相思の仲で、伊勢の斎宮から帰つて皇后宮にお住ひなつた頃、御殿が狭いので外の御殿にお住みになり、その間道雅が忍んで通つたので、その噂が広まつて帝のお怒りにふれて二人の間を隔てられてしまつたのである。歌人としては平凡である。

六四権中納言定頼
朝ぼらけ宇治の川霧たえ/\にあらはれ渡る瀬々の網代木
〔評釈〕宇治川の上に立ちこめた朝霧も、ほの/\と夜の明け行くにつれて、次第に霽れて、その途切れになつた霧の絶間から、川の瀬毎に立つてゐる網代木が見え初めて来た。何とも言へぬよい眺めである。
といふ意で、実際の景色を見たまゝ歌に詠んだもので、だんだんあらはれて来る網代木も目に見えるやうで愛誦に価する歌である。この歌は千載集冬に「宇治にまかりて侍りけるときよめる」と題して出てゐる。
〔句意〕▼宇治川=山城にある。琵琶湖から出る勢多川の宇治を通るあたりの意。▼あらはれ渡る=段々に現はれて来る事。▼瀬々=瀬毎にの意。「ぜぜ」でなく「せぜ」と読む。▼網代木=網代の棒杭の事で、河中に何本か立て、その間に簀をあてゝ夜篝火を焚いて氷漁を寄せて捕へるしかけである。
〔作者伝〕
大納言公任の子で、長久二年中納言に任ぜられ、長久三年正二位に叙せられたが同五年に五十二歳で薨じた。容姿頗る美しく、和歌も書も上手であつた。一条帝が大井川へ行幸になつた時「水もなく見えわたるかな大井川、みねの紅葉は雨とふれども」といふ名歌を詠んで、ほまれを高くした事もある。しかし性質がやや惰弱で世のそしりを受ける行が度々あつたといふ。玉に疵の類で惜しい事である。

六五相模
恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなん名こそ惜しけれ
〔評釈〕私はつれない人を恨みあぐんで、悲しい涙に袖は乾くひまもない。私の袖はそのために朽ち果てようとする、その上世間から、この恋のために浮名を立てられ、私の名の朽ちてしまふのはまことに口惜しいことである。
との意で、思ふ恋さへかなはず泣き悲しんでゐる上に浮名を立てられて徒らに人に騒がれるのを悲しんだのである、叶ふ恋なら得意であらうに空評判はつらいものと見える。この歌は後拾遺集恋四に「永承六年内裏の歌合に」と題して出てゐる。歌合に左近少将源経俊と競つて勝つた歌で、負歌は「下もゆるなげきをだにも知らせばやたく火のかげのしるしばかりに」といふのであつた。
〔句意〕▼恨みわび=つれなき人をうらみつくして、恨みあぐむ事。▼ほさぬ袖=常に袖が涙に濡れてゐること。▼恋に朽ちなん=涙のためにわが袖が朽ちるのであるに、▼名こそ惜しけれ=叶はぬ恋に浮名を流し名の朽ちることは口惜しい。
〔作者伝〕
源頼光の子で本名を乙侍従といつた。冷泉院の頃一品宮に仕へたが後、相模守大江公資の妻となつたので相模といつた。夫と共に和歌が上手でその上夫婦間が睦まじかつた話は有名である。八重御抄に「赤染衛門、紫式部、相模上古に恥ぢぬ歌人也」と出てゐる。

六六前大僧正行尊
もろ共にあはれと思へ山桜花より外に知る人もなし
〔評釈〕この奥山で思ひもかけず花の咲いてゐるのを見ると、ほんとに友達にでも逢つた様に思へる。わしがおまへを懐しく思ふ様に、お前も亦私を懐しく思つてくれ山桜よ。この山奥に来ては花より外にお互の心もちを知るものは誰一人としてないのである。
といふ意で、青葉の中に見た遅桜を知己に出会いくつた心地で詠んだ歌である。
花に向つて孤独を同情し、更に自分も孤独の寂寞から花に同情を要求した様、一人旅するものゝ姿が目に浮ぶ。修業のため山に入る僧の心にもかうした自然人の感情がやはり涌くものと見える。この歌は金葉集雑上に「大峯にて思ひかけず桜の咲きたりけるを見てよめる」と題して出てゐる。大峯へ登山するには春を順の峯入り、秋を逆の峯入りといつた。こゝは順の峯入りである。
〔句意〕▼もろともに=相互ひにといふ事。▼あはれ=あゝなつかしいの意。哀れの意ではない。▼山桜=もう青葉の頃唯一本遅桜の咲いてゐるのに向つて言ひかけたのである。
〔作者伝〕
少一条院の孫で、参議源基平の子である。十二歳で出家し、後保安四年に延暦寺の座主となり、天治二年大僧正に任ぜられた名僧である。又法力を有し、嘗て後朱雀帝の后の痼疾を法によつて治し、時の帝の腰疾を治め、越後で一女子を蘇生させた等といふ神妙なところがあつたといふ。歌にも書にも秀で彼の書いた仮名手本は後まで残つて賞せられた。保延元年入寂したが、新古今集以下千載集、詞花、金葉等に歌が出てゐる。

六七周防内侍
春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たん名こそ惜しけれ
〔評釈〕枕になさいと言つては下さいますが、この短い春の夜の、しかもはかない夢ほどのたはぶれ事に、あなたのお肱を手枕にして、立ち甲斐のない浮名の立てられる事は口惜しいことに思ひます。
との意で、内侍が「枕があればよいなあ」といつたのに忠家が「これを枕になさい」と自分の肱を簾の下から差出したので詠んだ歌である。この返歌として忠家は、「契りありて春の夜深き手枕をいかゞかひなき夢になすべき」と詠んだのは面白い。当時宮廷生活の自由で優美であつた様が思はれよう。千載集の雑上に出てゐる。忠家は大納言で俊家卿の父である。
〔句意〕▼春の夜の夢ばかりなる=短い春の夜の夢ほどなといふ意で少しの時間の事。▼かひなく立たん=俗に甲斐がないといふ意。甲斐のない事を、肱即ちかひなと通せて言つたのである。
〔作者伝〕
周防守平継仲の女で後冷泉院の女官となつて内侍の役をつとめたので周防内侍といつた。後拾遺集に、三条院の崩御をいたく悲しまれ「さみだれにあらぬ今日さへ晴れせぬは空も悲しき事や知るらん」と詠んで歎いたと出てゐる。歌にかけては逸話も多く又書にも見えてゐる。彼の家は冷泉堀川の北西の隅にあつたが久しく残つてゐた事が山家集や今昔物語に見えてゐる。

六八三条院
心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな
〔評釈〕かやうに不幸がつゞき、その上病気の為に不自由で心も晴れぬ、長くはこの世に生き長らへられぬであらうが、若し生き長らへたら、定めし只今禁中で見る今夜のこの月の美しさを思ひ出して恋しく思ふことがあるであらう。
の御意で、再び御覧になる事のあるまいと、雲井の月を思ひ置かれ給うた院の御心中を忍び奉れば涙なくては居られませぬ。歌の調子もよくこの御心持にふさはしく御詠みになり給うたと拝誦し奉る。この歌は後拾遺集雑に「例ならずおはしまして、位など去らむと思し召す頃、月あかかりけるを御覧じて」と題して出てゐる。
〔句意〕▼心にもあらで=我が心に思つた事と違うての意で、早くこの世をお去りになるとお考へになつて見えたのが、違うての意。▼うき世=憂き世、▼恋しかるべき=恋しくあるだらうの意。「べき」は予想の意を持つてゐる。▼夜半の月=今夜の此の月をさして仰せ給うたのである。
〔作者伝〕
御諱は居貞、冷泉天皇の第二皇子で一条天皇に次で御即位し給うた。御年三十六歳。在位僅五年で長和五年退位なされた。在位中皇居の炎上が二度もあり、御悩もいよ/\重らせ、その上御眼病も種種御治療遊ばされた甲斐もなく、誠に申すも恐れ多い御不運の御事であらせられた。寛和元年出家し給ひ、同年五月四十二歳で崩御遊ばされた。

六九能因法師
あらし吹く三室の山のもみぢ葉ばは龍田の川の錦なりけり
〔評釈〕嵐に吹き散らされた三室の山の紅葉が、はら/\と川水に舞ひこめば、そのまゝが錦の美々しさで、龍田の川を流れてゆく。
の意である。この歌は後拾遺集秋下に「永承四年内裏の歌合にて」と題して出てゐるが寝る人麿の「龍田川もみぢ葉ながる神まなびの三室の山に時雨ふるらし」とあるのを本歌として詠んだのだらうと言はれてゐる。
〔句意〕▼三室山=大和国高市郡にある山。▼龍田川=これも大和国にある名所であるが三室山とは大分隔つてゐる。
宇比麻奈備に「龍田川は龍田の麓に流れ平群郡で高市郡より遥に西北に当りて、川の流さへ異なれば、三室山のもみぢこれに流るべきにあらず、古へも地理によく考へられざりけるにやおぼつかなし」とある。多分内裏の歌合であるから地理の事よりも歌の調子ばかり考へて晴れの舞台を飾つたものであらう。
〔作者伝〕
俗名橘永●と言つて、橘左大臣諸兄の十代の孫遠江守忠望の子であつたが、伯父肥後守元●の養子となつた。文学を好み、初め文章生となつた。歌人藤原長能について歌を学びその成績も大いに進んだ。或時「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と詠んだが、都に居て詠んだ事にしては面白くないとして、都で炎天に顔をさらし、色黒くして旅から帰つたといつてこの歌を発表したともいふ逸話もある。歌枕、八千島記、玄々集等の著もある。

七〇良暹法師
さびしさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕ぐれ
〔評釈〕あまりもの淋しいので、家を出て、あちこちと眺めて見たが、やつぱり何所も同じやうに蕭条とした秋景色である。なんといふ寂しさの満ちた夕暮であることよ。
といふ意で、絶え難い寂寞の感じが充分あらはれてゐる。殊に「いづくも同じ」といつた処に限りない感じを与へる。秋の淋しさは多く歌に詠まれてゐるが、この歌も決して他の作に劣らぬものである。後拾遺集秋上に「題しらず」と題して出てゐる。
〔句意〕▼さびしさに=秋の夕方淋しくて堪へ難いのでの意。▼宿を立ち出でて=家を出でての意。▼ながむれば=方々を見廻すこと。
〔作者伝〕
父祖は分明でない。祇園の別当で、母は実方の家の女房白菊であるといふ説もある。山城の国大原の里に籠つてゐた頃、熱心に歌を作つたもので、「山里のかひもあるかなほとゝぎすことしもまたで初音きゝつる」と障子に書き附けた事もある。その歌才の程も察せられよう。袋草紙に俊頼朝臣が大原通行中良遷の家の前では下馬して敬意を表して通つたといつてある。当時歌人中に重んぜられる事がわかる。

七一大納言経信
夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろ屋に秋風ぞふく
〔評釈〕夕暮になれば、秋の風が、門前の田に美しく茂つてゐる稲の葉にそよ/\と訪れて、蘆で葺いた田舎家の中までその秋風がさわめいて行く。
といふ意で、如何にも秋の夕方、稲田を渡つて賤家へ吹く秋風の吾が聞えるやうで、一幅の墨絵のやうな感じがする。全体を通して何処にも暗い厭味がなく、すが/\しい調子の歌で百人一首中の秀歌であらう。この歌は金葉集秋に「師賢朝臣の梅津の山里に人々まかりて、山家秋風といふことをよめる」題して出てゐる。梅津の里は山城にある名所で、金葉集中に「梅津の梅は散りやしつらん」などとある。
〔句意〕▼夕されば=夕暮になればの意。▼門田=門前の田の事。しかし門の前ばかりに限らず家の近くの田を云ふ事もある。こゝは家の門の前の意である。▼蘆のまろ屋=田舎の家の事で蘆で葺いた棟の丸い家の事。こゝは賤が家と思へばよい。
〔作者伝〕
権中納言道方の第六子で、永保三年権大納言に、寛治五年正三位大納言に進んだが、嘉保元年に何故か太宰権帥に貶され永徳元年八十二歳で太宰府に薨じた。資性敏捷で又博学多才、よく物事を断ずる明に富んでゐた。和歌も巧みで従来の歌風に一新味を与へた。管絃等も好み多芸の人で、宮中の歌合には必ず判者となつた。時の人は「天下判者」といつて称へた。桂の里に住んだので桂大納言ともいふ。その子基綱、俊綱も名高い歌人である。

七二祐子内親王家紀伊
音に聞く高師の浜のあだ浪はかけじや袖の濡れもこそすれ
〔評釈〕かねてから気の多いお方だといふ世間の噂を聞いてゐますから、何といはれても思ひをかけますまい。若し思ひをかけても、末にはきつとふりすてられて、悲しい恨み涙に袖を濡らすといふ憂目を見なければならないでせうから。
との意である。この歌は金葉集恋下に「堀川院の御時艶書合によめる」と題して出てゐるが、艶書合せは此頃宮中で行はれた遊戯の一種で、男の歌人が恋歌を作つて女官共に配ると、女官も亦之に返歌を作つて送るのである。此の歌もその一で、中納言俊忠に送つたものである。かけ詞や縁語が極めて上手に使はれて、そゞろに当時の優美な生活が思ひ遣られる。
〔句意〕▼音にきく=噂に聞いてゐるの意で、浪の縁語。▼高師の浜=和泉国にある名所。▼あだ浪=あだ人の意。あだ名といつて次に浪といつたのである。▼かけじや=思ひをかけまいの意。▼袖の濡れもこそすれ=袖を悲し涙に濡らすやうな事にならうの意。
〔作者伝〕
葛原親王八代の孫、三位平経方の女で、紀伊守重経の妹である。兄の受領によりて紀伊と呼んだ。後朱雀帝の第四皇女祐子内親王に仕へて内親王家紀伊とも言ひ中宮紀伊とも言つた。紀伊は二字で「き」とよむのであるといふ説があるがやはり「きい」とよむがよい。

七三権中納言匡房
高砂の尾の上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ
〔評釈〕あの高い山の尾に桜が美しく咲いてゐる。こちらの低いはしの山に霞が立つと、あの折角の桜が見えなくなるから、どうぞ霞が立たないで居てくれよ。
といふ意である。自然に向つてのべた美しい歌で少しの厭味もなく軽い調子で歌はれてゐる。この歌は後拾遺集春上に「内のおほいまうちきみの家に、人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、遥に山の桜を望むといふことをよめる」と題して出てゐる。
内のおほいまうちきみといふのは内大臣の事で、即ち師通公をさす。後の三条関白とも云ふ。さけたうべは酒を賜はること。
〔句意〕▼高砂=山の事で普通小高い丘の意に用ふが、こゝは丘でなくて高山をさしてゐる。▼尾の上=山の頂をさす。尾といふのは山の傾斜にそつて高く背の様になつた所をいふ。▼外山=たわ山の約で、こちらのたわんだ低い山の事をいふ。即ち山のふもとの小山。
〔作者伝〕
大江音人の裔で信濃守成衡の子である。寛治八年権中納言、永長二年太宰権帥を兼ね天永年大蔵卿となつて同年七十一歳で薨じた。幼少から才智に勝れ、四歳の時書を学び初めた。八歳で史伝に通じ十一歳で詩歌をよくし神童と称へられた。歌も漢学に比しては劣るが佳作も多く一流の歌人であり、和琴なども巧みで、女官達を驚かしたといふ。しかし自分の才を恃んで、世を憤る風が見えてゐたのは惜しい。

七四源俊頼朝臣
うかりける人を初瀬の山おろしはげしかれとは祈らぬものを
〔評釈〕私につらく当つてゐた人の心が、やはらぐやうにと、初瀬の観音に願をかけて置いたのに、その人の心は、前よりもつらく、初瀬の山おろしのやうにはげしくあたるやうになつた。あゝ、自分はかうひどくなるやうにとは祈らなかつたのに。
といふ意で、恋には神仏も頼みにならぬ事を歎いてゐる。この歌は千載集恋二に「権中納言俊忠の家に、恋十首の歌よみ侍りける時、祈不逢恋といふ心を」と題して出てゐるが、よみ難い心持を短い言葉の中に歌ひ込み得た技巧は、全く歌才の然らしむるところであらう。
〔句意〕▼うかりける人=憂い人の意。憂くありけるの約で、こゝはつれなく当る人をさす。▼初瀬の山おろし=「初瀬」は大和の初瀬の観音。恋を祈つた意。「山おろし」は次のはげしの冠詞と見てもよい。▼はげしかれとは=はげしくあれの約で、つれなさの一層烈しくなれとは。▼祈らぬものを=祈らなかつたのにの意。
〔作者伝〕
大納言経信の第三子で、最初近衛少将に任ぜられ、木工権頭兼右京大夫を経て従四位に進んだ。父経信と共に和歌に秀で、大いに新体を唱へて革新を叫んだ、旧体を唱へる基俊に対立した程である。しかしその改革はやゝ形式の方面に流れた事は惜しい事であつた。穏健な人で宮廷や公卿の歌合には判者役をつとめ、信用も厚かつた。天治の初め勅を奉じて金葉集を撰んだ。その子俊恵法師も亦歌名の高い人である。

七五藤原基俊
契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋も去ぬめり
〔評釈〕お約束になつたお言葉を命にかけてあてにして待つてゐたのに、あゝ、今年の秋もそのかひなくむなしく過ぎてゆくのでせう。
俊基の愛子光覚が維摩会の講師になりたいと願つた時、「自分が生きて居る限りは当にして待つて居よ」といふお言葉であつたので、安心して待つてゐたのに、あはれ今年も亦撰に洩れて講師にもなれず、もう秋も暮れようとしてゐるといふのであつて詠んでゐると、子を愛する親の情が思ひやられ、哀れが感じられる。この歌は千載集雑上に「僧都光覚、維摩会の講師の請を度々洩れたれば、前太政大臣に恨み申しけるを、しめぢが原と侍りけれど、又その年も洩れにければつかはしける」と題して出てゐる。前太政大臣は忠通の事、しめぢが原は、ある歌の中の詞で大丈夫の想にたとへて用ひた。維摩会は維摩経を講ずる会で興福寺で毎年十月十日から一週間行ふ。
〔句意〕▼契りおきし=約束して置いたの意で、「おきし」は露にかゝる縁語。▼させもが露の命=はかなき事をあてにするの意。「させも」はさしも草の略。忠通が「唯頼めさせも草」といつたのをそのまゝ取つたのである。
〔作者伝〕
堀川右大臣頼宗の孫で正二位右大臣俊家の子である。初め従五位左衛門佐であつたが、崇徳帝の保延四年に八十四歳で出家して覚舜といつた。歌文に長じ、古歌を唱へて新体の俊頼に対立した当代の名高い歌人である。しかし性資がやゝ傲慢で人を非難批評を好んで世の評判はよくなかつた。その為か官位も進まなかつた。著書には新歌仙、相模新撰朗詠集などがある。

七六法性寺入道前関白太政大臣
わだの原漕ぎ出でて見れば久方の雲井にまがふ沖つ白浪
〔評釈〕海上遥かに漕ぎ出して見ると、海が果てもなく広々と続いて、大空と一つになつてゐる、沖の白浪も雲のやうに見える。
といふ意で、水天一碧、これ天、これ海の差別のない壮大な海上の景色を詠んだものである。巧緻に富んだこの時代の景色歌としては珍らしく大作で、大まかな叙景である。この歌は詞花集雑下に「新院位におはしましし時、海上眺望といふことをよませたまひけるによめる」と題して出てゐる。新院とは崇徳上皇の御事。
〔句意〕▼わだの原=広々とした海の事。既に前に説明した。▼こぎ出でて=舟を漕ぎ出るの意で舟といはずにその意を含めた。▼久方=雲の枕詞。▼雲井=空の意。万葉では広く空の事とあつて後には雲のおりて居る事にも用ひた。こゝは空の意。▼まがふ=行き違ひ、入り乱れること、一所になる、の意に用ふ。こゝは大海と空との区別のつかぬ意である。
〔作者伝〕
太政大臣忠通の事で、知足院関白忠実の子である。保安三年に右大臣従一位に叙せられ、四代の帝の関白となり二度も摂政になつた。応保二年には出家して法成寺に入り長寛二年六十八歳で薨じた。忠通は寛仁な人で能く人を愛した。文章も詩歌も書も巧みで才智もすぐれてゐた。和歌を特に好まれた事は八雲抄に「歌の道無下にすたりて此道なきが如し、法成寺入道此道を好み、崇徳院の末つかたやう/\又和歌のこと沙汰あり」とある。

七七崇徳院
瀬を早み岩にせかるゝ滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
〔評釈〕流れの早い滝川の水が、岩に堰き止められて両方へ分れて流れるが、又末は相合して流れるそのやうに、私の恋も今は他人の為に一旦別れて居るが、このはげしい思ひは、末にはきつと又より逢はうと思ふ。
との御意で、どこまでもといふ強い恋の情念が歌はれてゐる。この歌は詞花集恋上に「題しらず」として出てゐる。序の思ひつきなどは巧みに出来てゐるがわだかまりのない平調であると思はれる。
〔句意〕▼瀬をはやみ=瀬が早いによつての意、上の二句は「われても末に逢ふ」といふ為の序詞である。▼われても=岩が水中にあるのでそれに衝き当つて砕け左右に分れて流れてもの意で、たとへ人の為に恋を邪魔されて恋人と別れて居てもの内意にたとへたのである。
〔参考〕この歌は久安百首には「行きなやみ岩にせかるゝ谷川の」となつてゐて、百首異見には久安百首の方が正しいといつてゐる。
〔作者伝〕
御諱は顕仁、鳥羽天皇の第一皇子で御母は待賢門院璋子である。条安四年御年五歳で即位し給ひ、在位十八年で鳥羽上皇の御子体仁親王(近衛天皇)に譲位し給うた。保元の乱御出家なされ讃岐にお遷りになり、心ならぬ日を送り給ひ、長寛二年御年四十六で崩御遊ばされた。御境遇を詠み給うた御歌には読者に感動させるものが多い。

七八源兼昌
淡路島通ふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守
〔評釈〕たゞ一夜の旅寝にも、夜は更ける、目はさめる、海を隔てゝ淡路島へ通ふ千鳥の鳴く声が憐れ深く心にしみる。ましてこの須磨の関を守つてゐる番人は、幾夜も幾夜もこの千鳥の声に目を覚して、さぞかし淋しい寝覚めをすることであらう。
といふ意で、人里離れた須磨の関所の番人の夜々千鳥の声をきく詩情哀感を歌つたものである。この歌は、金葉集の冬に「関路千鳥といふことをよめる」と題して出てゐる。中古の想像歌などの多い中にかうした実景を歌つたことは、この歌の生命であらう。
〔句意〕▼幾夜寝覚めぬ=幾晩眼をさましたかといふの意で、「ぬ」は打消のぬでなく、過去のぬでもない。ねざめぬらんの意である。▼須磨の関守=須磨の関所の番人の事で、此処に関所があつたのである。
〔作者伝〕
宇多源氏の系統、美濃守俊輔の第二子である。従五位下皇后宮の大進であつたといふ。伝の分明でない人で従つて当時世にあまり知られなかつたらしい。堀川院次部百首によみ人の中に歌が見えてゐるだけで、他には見えて居らぬ。百人一首中に撰ばれたのもたゞこの一首が秀でてゐたからであらう。

七九左京大夫顕輔
秋風にたなびく雲の絶え間より洩れ出づる月の影のさやけさ
〔評釈〕秋風が吹いて来ると、棚引いてゐる雲が途切れ途切れになるが、その雲の隙間から、洩れ出た月の光の美しく明かな事よ、実に鮮かな月の光である。
との意である。秋の月は明かなものであるが、今まで雲のためにうすぐらかつたその反動で、一層明かに見えるところ、刹那の変化をうまくとらへ得て興味が多い。全体の調子もはつきりとして一読して品の高い感じのする歌である。
作者の著想、敏感、非凡といはねばならぬ。この歌は新古今集秋上に「崇徳院に百首奉りける時」とし題して出てゐる。
〔句意〕▼たなびく=なびくに同じで横さまに漂ふ事である。万葉には軽引と書いてある。▼洩れ出づる月=雲の間から月が現はれて下界を照らす事で、太陽のやうに自身はかくれてゐて光だけ雲間から投げるのではない。月自身があらはれて明るいのである。▼さやけさ=はつきりして明かな事。
〔作者伝〕
正三位修理太夫顕季の子で保延五年に左京太夫となつた。久安四年正二位に進み久寿二年出家した人である。歌は上手で殊に人麿を崇拝し万葉風を好んだ。この頃歌風が技巧に捉はれ純真味を失はうとするのに反対して古風の素朴を主張した。六条家の和歌一流の祖で、その子清輔、顕昭法師、重家、孫の知家、有家等皆すぐれた歌人が出てゐるのはこの人の影響であらう。

八〇待賢門院堀河
ながからむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ
〔評釈〕末長く心変りはせぬやうにと言ひ交したけれど、男の心はどういふものか分りませぬゆゑ、起きて別れたそのあとでは、此の髪の乱れてゐるやうに、今朝はいろ/\心が乱れてゐる。
との意である。疑ひ深く、取越苦労のしがちな女性の真情をうまく詠みあらはして、読者を動かす秀作である。詞もあまり熱情的ではないが、黒髪の乱れを我が心の乱れに譬へた所などは巧妙な、用例で、女性らしさが見えてうれしい。
〔句意〕▼ながからむ心も知らず=「長からむ心」は長持ちせんとする心で、長く女を愛しようとする心。即ち昨夜はじめて男と逢つたが、行末長く私を愛してくれる心があるやらないやら、甚だ覚束ないといふ意。▼黒髪の=黒髪の乱れたやうに。即ち乱れ心を黒髪にたとへたのである。大町桂月は乱れるの序であるといつてゐるが感じが弱くなる。▼乱れて=心がとり乱れての意。▼物をこそ思へ=心配をする意。物を思ふのを強く言つたのである。
〔作者伝〕
神祇伯顕仲の女で、鳥羽院の皇后待賢門院に仕へてゐた。別名堀川の君又兵衛の君と呼ばれ、当時女歌人として聞えが高かつた。父の顕仲も名高い歌人で、その家集もある。その中に堀川の君の夫に別れた事が見えてゐる。即ち「具したる人の失くなりたるを歎くにゆき人のものがたりする」と題し、「云ふ方もなくこそものは悲しけれこは何事と語るなるらむ」と詠んでゐる。しかしその夫は何人であつたか分明でない。

八一後徳大寺左大臣
ほとゝぎす鳴きつる方を眺むればたゞ有明の月ぞ残れる
〔評釈〕ほとゝぎすが珍らしく鳴いたので、すぐ空を仰いで声のした方を眺めると、今鳴いたばかりのほとゝぎすの姿などは何処にも見えないで、たゞ有明の月ばかりが白く暁の空に残つて見える。
といふ意で瞬間の実感をそのまゝ歌つたものである。何となく一読して一種の寂しさが空から涌いて来るやうである。この歌は千載集夏部に「暁聞郭公と云へる心を詠み侍りけるに」と題して出てゐる。が、なか/\興味のある歌である。百人一雑談には「郭公歌の第一なり」と称へてゐる。
類似歌としては金葉集に、「ほとゝぎすあかですぎぬる声によりあとなき空を眺めつるかな」といふものもあるが、後徳寺の歌には及ばぬ。
〔句意〕▼鳴きつる方=鳴いた方の意。▼たゞ=「のみ」又「ばかり」などの意、有明の月のみ。▼有明の月=あけ方の月で、夜が明けてもまだ空に残つてゐる月、既に前に説明した。
〔作者伝〕
藤原実定の事で、父は大炊御門右大臣公能、母は中納言信忠の女である。祖父が徳大寺左大臣実能であつたから後徳大寺と云つた。寿永三年内大臣に、文治二年右大臣に同五年に左大臣に進んだ。其後建久二年出家して如園と改めた。歌が巧みで嘉応二年住吉に於ける歌合に社頭月を題にして、「ふりにけり松ものいはゞとひてまし昔もかくやすみの江の月」とよんだ。判者嘉成も大いに賞し感服したといふことである。

八二道因法師
思ひわびさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり
〔評釈〕長い間恋人のつれないのを歎いて、消え入るやうな思ひをするが、それでも命だけは長らへてゐる。それだのに涙ばかりは堪へられないと見えて、乾く間もなく流れ落ちて来る。
といふ弱い心を持つた男の恋の未練をはかなく哀れに歌つたものである。命は堪へても涙は堪へぬといつたもので、調子は相当に整つてゐるが、強さが足りないのが惜しい。これだけの心持ちがあれば、もつと読者の胸に迫る筈だのに。とにかく恋の悲しみの哀れさはうかゞはれる。これは千載集恋三に「題しらず」として出てゐる。
〔句意〕▼思ひわび=思ひの極り果てた事。即ち恋の物思ひに心を苦しめる事。▼さても=さありてもの約で俗にそれでもといふ意。▼憂きに堪へぬは=辛さに堪へられぬはの意。「絶え」の意ではない。
〔作者伝〕
俗名敦頼、内大臣高藤の裔で、治部清孝の子である。崇徳帝に仕へ従五位上右馬助を勤めたが後、出家して道因と改めた。非常に歌が好きで、七十歳頃迄、毎月住吉に詣で秀歌を得ん事を祈つたと云ふ。歌合の時判者清輔が道因の歌を負けとしたので悲傷して、わざわざ判者の家を訪ねて泣いて恨んだといふ。俊成が千載集を撰んだ時彼の歌を十八首を入れたが、道因が感謝した夢を見て更に二首を加へ二十首入れたといふ。

八三皇大后宮太夫俊成
世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞなくなる
〔評釈〕世の中には憂さ辛さを避ける道もない。せめて山の奥にでも隠遁しようと一途に思つてわけ入つて見たが、こんな山奥にも、鹿が、あゝもの悲しい声で鳴いてゐる。
といふ意である。世の中をきらつて安楽地を山中に求めたが、悲しい鹿の鳴声を聞いて、やつぱり山中にも憂き事があるかと感じた厭世詩人の悲しい歎きが思はれる。全体の調子もゆるみなく調つて、すて難い趣がある。この歌は千載集雑に「述懐百首詠み侍りける時、鹿の歌とて詠める」と題して出てゐる。
〔句意〕▼世の中よ=歎息して呼びかけたのである。▼道こそなけれ=「道」は「道徳」ではなく、自分の世と遁れる道をいふ。世の中の憂いことを遁るべき道がないの意。▼思ひ入る=山の中へ入ることと、一途に思ひ込むこととを通はせて言つた詞。
〔作者伝〕
権中納言俊忠の第三子で、仁安三年正三位、承安二年皇太后宮大夫に任ぜられたが、安元二年六十歳で出家し、元久元年九十一歳で卒した。五条三位とも称す。俊成は藤原基俊を師とし古今集の秘伝を受けた歌人で、二条家の和歌の祖になつた人である。人となり温厚で、よく人の言を容れ判者としての衆望もあり歌評などは世人が之を伝へて珍とした程である、後鳥羽帝に愛せられ仁和帝の御代に御製及鳩杖を賜つたといふ光栄の人である。

八四藤原清輔朝臣
ながらへば又此の頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき
〔評釈〕以前に辛い世だと思つて暮らした時も、今になつて顧みれば慕はしく思はれる。かうして今憂い世だと思つて居るが、まだまだ生き長らへてゐたならば、後には今日の辛いこともなつかしく思はれる事であらう。
との意である。この歌は新古今集雑下に「題しらず」とあるが、当時保元平治の乱の頃であるから作者はこんな歌をよんで世のあさましい様子を歎いたのであらう。少し理窟めいて居るけれど、真面目な真実味のある点にこの歌の特徴があらう。
〔句意〕▼ながらへば=この世に生き長らへたならの意。▼又此頃やしのばれん=過去が今日慕はしく思ふやうに、又憂い世だと思ふ此頃も恋しく懐かしまれようの意。▼「しのぶ」は思ひ出すこと。
〔作者伝〕
京大夫顕輔の子で、堀川鳥羽崇徳の三代に仕へ、官正四位下太皇太后大進兼長門守であつた。歌人としての聞えが高く「続詞花集」を撰んだのも彼で、常に歌道の研究につとめた。又万葉集を好み、作歌を志す人にはまづ万葉の研究をすゝめたといふ。晩年長寿の人を集め、尚歯会を作つて歌を詠んだ事もある。歌論に関する著書も多く、奥義抄、初学抄、一字抄、袋草紙、今撰抄等がある。時人に西行、俊成等と並び称へられた。

八五俊恵法師
夜もすがら物思ふ頃は明けやらで閨のひまさへつれなかりけり
〔評釈〕つれない人を思ひ恨んで、終夜物思ひに沈んでゐると、少しも眠られないので、早く夜が明けてくれゝばよいにと夜明けを待つても、更に明ける様子もなく、閨の板戸の隙間も少しも白んで来ない。閨の隙間でさへ私につれなくあたる。さてもなさけない事だ。
といふ意で、ある女に代つて男の薄情を恨んだ歌である。
千載集恋二に「恋の歌とて詠める」と題して出てゐるが、拾遺集の「冬の夜はいくたびばかり覚寝して物思ふ宿の隙しらむらん」とあるのを本として詠まれたといはれてゐる。
〔句意〕▼夜もすがら=終夜。▼明けやらで=夜が明けずにの意。▼物思ふ頃=つれない人を思ひ煩ふこと。▼閨の隙=寝室の板戸の隙の事。
〔作者伝〕
大納言経信の孫で、俊頼朝臣の子である。歌人としては名高く、鴨長明はその弟子にあたる。歌論を好み批評の言葉は比喩が巧妙で権威を持つてゐた。いはば作歌といふよりも歌学者といふ方がいいかも知れぬ。著書には「無名抄」がある。歌では「みよし野の山かき曇り雨降れば麓の里はうちしぐれつゝ」。「立田山梢まばらなるまゝにふかくも鹿のそよぐなるかな」などは秀作である。

八六西行法師
なげけとて月やは物を思はするかこち顔なる我が涙かな
〔評釈〕人々に物思ひを強ひるやうに、大空の月は輝いてゐるのだらうか、いやさうではないのだ。自分の心に物思ひがあると、空を見てさへ何となう悲しくなつて涙を流すのである。それを月の為に歎くものゝやうに、かこつけがましくこんなにも涙がこぼれて来る。
といふ意で月に対して恋人がしのばれ自然に出る涙を月の為に流すやうにかこつけがましく歌つたのはよく考へたものである。恋するものゝ哀傷の傷が巧みに詠まれてゐる。西行は自然のまゝを歌ふのが特徴であるが、この歌はむしろ彼の特徴でなく、その頃の時代の風に従つた詠み方である。「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」などは自然そのまゝである。
〔句意〕▼月やは物を思はする=月が物思ひをさすのであらうかいやさうではないの意で、「や」は反語。▼かこち顔=かこつけの約で、かこつけがましい様子。即ち涙が月のために流れるやうに月に罪を負はせ顔といふ意。
〔作者伝〕
俗名佐藤義清といつて秀郷九代の孫左衛門尉康清の子である。武勇の名ある家に生れた彼は後鳥羽上皇に仕へて北面の武士となり、兵法にも通じてゐた。又和歌に秀で上皇の神愛を蒙つたが、遁世の念を抱いて保延六年には出家して円位と改め更に西行と改めた。時に二十三歳。一箇の杖、一箇の笠とによつて諸国を行脚し、風景に接しては歌を詠んだ。逸話も多く、釈迦の入滅日に世を終らうと願つて建久元年二月七十三歳で入寂した。山家集は彼の家集である。

八七寂蓮法師
村雨の露もまだ干ぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮
〔評釈〕一頻り降つて往つた村雨に、濡れた槙の葉の露もまだ乾かないうちに、もうその辺には霧がほの白く立ち上つて、秋の夕暮の景色は寂しい事である。
との意でたゞさへ淋しい奥山に晴れたり曇つたり定らぬ秋の夕暮の一入の淋しいしめやかさがしみじみと味はれる歌である。この歌は古今集秋下に「五十首の歌奉りける時」と題して出てゐるが、百人一首中の秀歌として数へることが出来よう。
新古今集に「淋しさはその色としもなかりける槙立山の秋の夕暮」寂蓮。「心なき身にも哀れは知られけり鴫立つ沢の秋の夕ぐれ」西行。「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」定家。を「三夕の話」として有名で、更に「村雨」を加へ四夕の歌として知られてゐる。
〔句意〕▼村雨=一しきり降つて過ぎ行く雨。▼まだ干ぬ=まだ乾かぬの意。▼まきの葉=木を褒めて言うたので、古は檜をさした。こゝは奥山の常緑樹をさしたのである。
〔作者伝〕
俗名定長で、俊成の弟醍醐阿周利の子である。初め俊成の養子となり、従五位下左中弁中務少輔になつた。後俊成の実子定家が生れた為、自分は出家して寂蓮と改めた。才智もあり、歌才にも富んでゐた。有名な顕昭法橋寂蓮を「和歌は易きものなり寂蓮尚ほよくせり」と評すると、寂蓮は「和歌は天下の至難なものなり顕昭の博学猶これを善くせず」といつた話は有名である。定家の著「明月記」に寂蓮の死を惜んだ言葉がある。よい歌人であつた。

八八皇嘉門院別当
難波江のあしのかりねの一夜ゆへ身をつくしてやこひわたるべき
〔評釈〕難波あたりで旅の仮寝に一度逢つたばかりなのに、命のある限り、恋しい思ひをして恋い焦れて暮さねばならない事かなあ、一寸の契りだのにあの人を忘られさうもない。
といふ意で、恋の深秘を一は驚き一は悲しんだ心持が歌はれてある。旅宿で一晩逢つただけで再び逢はれさうもない恋に心を悩ます因果を思ふ心が察せられる。この歌は千載集恋三に「摂政右大臣の時、家の歌合に、旅宿逢恋といへる心を詠める」と題して出てゐる。中味よりも調子に巧みさがあるが、これは時代の歌風で、読者の注意すべき点であらう。
〔句意〕▼難波江の蘆のかりね=難波には蘆があるから、その刈たる根といふことを「仮寝」に通はせ、一夜の序としたのである。▼もと夜=一夜を一節にかけた詞。▼身をつくしてや=死ぬるまで、生命のある限りの意。命をすてゝでも恋ふといふのでなく一生の意である。
〔作者伝〕
皇嘉門院は関白忠通の女聖子の子で母は大納言宗通の女である。崇徳帝の皇后となり、久安六年門院の号を奉られた。その別当であるから、太皇太后亮、俊隆の女であるといつてゐるがその本名は分明でない。

八九式子内親王
玉の緒よ絶なは絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
〔評釈〕我が命よ、絶えるならば早く絶えた方がよい。かうしてこのまゝ生き長らへてゐると、遂には人目を忍ぶ心が弱つて、つゝむ思ひが世間に知れて、浮名を流すやうな事になるかもしれぬ。いつそ今の中に死んだ方がよい。
との意で、か弱い優しい女心がよく一首の中に現はれてゐる。新古今集恋一に「百首の歌の中に忍恋の心を」と題して出てゐる。調子の上に縁語を巧みに用ひた事もやはり当代の歌風から来たものであらう。かなり内容に於ても熱情を見せて、恋を一すぢに危んでゐる苦しさがこもつてゐる。
〔句意〕▼玉の緒=「玉」は「魂」で、「緒」は連ねる意。即ち生命の事。▼絶えなば絶えね=死ぬならいつそ早く死ねの意。絶えるは命の絶えることで堪へではない。絶えなば、ながらへば、よはり、などは皆緒に縁のある語である。▼忍ぶること=忍耐すること、即ち恋を包んで忍ぶこと。▼弱りもぞする=かも知れぬ、もしやと危ぶむ事。
〔作者伝〕
後白河帝の第二皇女で、御母は従三位成子の子である。平治元年賀茂の斎宮にお立ちになり准三宮のお位におなりになつた。建久三年御出家なされ、承如法と申上げた。大炊御門の斎院、菅の斎院、高倉宮と申すは皆この内親王の御事である。和歌が巧みな上に画も上手であつた。定家との恋が深くてこの歌を送つた説もあり、謡曲にまで作られてゐるがそれは無条件で信じられない。

九〇殷富門院大輔
見せばやな雄島の蜑の袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず
〔評釈〕いつも海の水に濡れてゐる松島の雄島の漁夫の袖でさへ色が変らないのに、自分の袖は苦しい恋ゆゑに涙でぬらす、こんなにも色が染つてしまつた。このやうに涙で色の変つた袖を是非あのつれない人に見せて上げたいものだ。
といふ意で尽きぬ恨みが歌つてある。この歌は千載集恋四に「歌合し侍りける時恋の歌として詠める」として出てゐるが、後拾遺集に「松島や雄島が磯にあさりせし蜒の袖こそかくは濡れしか」といふ歌が作者に印象を与へてゐるのであらう。やゝ誇張にすぐる感があつて却つて同情をそぐのは惜しい。やはり此頃の歌風の一である。
〔句意〕▼見せばやな=見せたいものだの意で「ばや」は願ふ意。「な」は感歎の辞。▼雄島=陸前の松島地方の雄島の磯の事。▼濡れにぞ濡れし=濡れた上に濡れたとの意。▼色はかはらず=漁夫の袖はいくら海水に濡れても色は変らぬが、自分の袖は血の涙に赤く染つたとの意。
〔作者伝〕
殷富門院は御名亮子と申し、後白河帝の第一皇女で成子内親王の姉君である。安徳、後鳥羽の両帝の准母におはしまして、順徳帝の御養母とならせられ文治三年門院の号を奉られたお方である。大輔はこの門院に仕へた女官の事で、祖父は後白河院の判官代行憲で、父は従五位下信成である。信成に二人の女があつて姉は殷富門院の播磨といひ妹は殷富門院大輔といつたのである。

九一後京極摂政前太政大臣
きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣片しき一人かも寝む
〔評釈〕今夜のやうな、きりぎりすが鳴いて寒い霜の降る晩に、冷たさうな蓆の上に帯も解かず着物を片方敷いて独寝をする事かなあ、さてもわびしい事である。
との意で、秋の末になるときりぎりすが床の下へ来て鳴くものであるが、その心淋しい然も寒い夜の一人寝を悲しんだ歌である。この歌は新古今集秋下に「百首の歌奉りし時」と題して出てゐる。調子は飾り気が少く古風味のある歌ひ方で全体よく引しまつてゐる。
〔句意〕▼なくや=「や」はたゞ鳴くと言ふ意に加へた歎声である。夕づく日さすや岡べ等の類。▼さむしろ=蓆の事、「さ」は付辞でたゞ蓆の事を霜夜とあるから、寒いといふ連想のために「さ」と添へ用ひたのである。▼衣片しき=丸寝の事、即ち衣を着換へず独寝する事で、丸寝の時は一方の衣を下に敷くから言つたのである。▼かも寝む=寝るのかなあの意で、「か」は疑、「も」は詠歎の辞である。
〔作者伝〕
藤原良経の事で、後法性寺兼実公の子で祖父は法性寺忠通である。建久六年内大臣に、元久元年従一位太政大臣に進んだ。非常に博学多才で諸芸にも通じ、殊に書と歌道に秀でてゐた。後鳥羽上皇は常に歌道に於て良経を重んじ給うた。建久元年土御門天皇が彼の邸に行幸の事があつたが、公はその準備に忙殺された。或夜何物かの為に天井から槍にて刺されて死んだ。しかし賊は不明に終つた。彼は新古今集撰の監督をして歌道の功績も多い。その家集は「月清集」といふ。

九二二条院讃岐
わが袖は汐干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし
〔評釈〕恋人のつれなさを独り忍んで悲しんでゐる私の袖は、恰度汐干の時も現はれない沖の石のやうに、人には少しも知れないが、涙で乾く間とてはない。
といふ意で、片恋に悩んでゐる女心の悲しさを水中に没してゐて人目にあらはれない岩にたとへた歌である。調子もしつくりしてゐるが、極めて鮮明な比喩が却つて非凡と見られよう。千載集恋二に「寄石恋といへる心を」と題して出てゐる。この歌が当時有名で作者を沖の石讃岐といつた程である。
〔句意〕▼汐干=ひき汐の事。▼沖の石=沖に在る石の濡れ隠れて人に知れないのと、自分の涙に袖が濡れて乾く間のないのを先方が知らぬとに通はせたのである。
百首異見に「若狭国遠敷郡八代浦から、七八町ばかり沖なる海底に大石あり、昔より沖の石といひて、尤も舟人の舟腹をかゝれん事をおそれて漕ぎさくるわたり、今も土人沖の石と常に言ひなれたり(中略)、作者これを言へるならん云々」とある。
〔作者伝〕
讃岐は二条院に仕へた官女で、源三位頼政の女である。父が歌を好くしたのでその才をうけこの道に巧みであつた。有名な式部内親王と共に雅経や家隆に比した程で誉が高かつたのである。
二条院は後白河院第一皇子で御母は大炊御内中納言経実の女である。御諱は守仁と申上ぐ。

九三鎌倉右大臣
世の中は常にもがもな渚こぐ海士の小舟の綱手かなしも
〔評釈〕浜辺を漕いで居るあの海士の小舟の、綱手を引く様子はまことに何ともいへぬ面白い景色であるが、世の中はいつまでも変らずに生きられて光明だとよいがなあ。
といふ意で世の無常感が人間の奥深いところから呼び叫ばれてゐる歌である。この歌は新勅撰集羈旅の部に「題しらず」として出てゐるが、健実に古い調べをとつた歌ひ方で、技巧に苦心した新古今集時代の中に異彩を放つ素朴さを見せてゐる。さすが名歌人実朝の歌であると思はれる。
〔句意〕▼常にもがもな=「常」は永久不変の意。「がも」は「がな」に同じで願の意。「な」は歎辞、万葉には冀の字があてゝある。こゝは即ち長く生きて居て度々此処へ来て遊びたいなの意である。▼綱手=舟につけて引く綱の事。▼かなしも=面白いとほめて哀れを感ずる意で、「も」は歎辞万葉では●怜と書いてある。
〔作者伝〕
頼朝の二男実朝の事で、母は尼将軍政子、幼名千幡と云つた。建仁三年十二歳で従五位下征夷大将軍となり、承久元年右大臣拝賀の礼を行つた時兄頼家の子公暁に暗殺されて世を終つた。時年二十八歳。資性温雅で文学の嗜み深く殊に歌道は定家を師として学び優れた歌人となつた。その家集は金槐集といつて名高い。彼は北条を悪み皇室を敬つたことは「山は裂け海はあせなむ世なりとも君に二心我あらめやも」と詠んだ古今の名歌を以ても察せられる。

九四参議雅経
みよし野の山の秋風小夜更けてふるさと寒く衣うつなり
〔評釈〕吉野の山の秋風がさやり/\と寂しく吹いて、夜も更け、四辺も静かになつたが、この旧都であつた吉野の里人の夜寒をわびて衣を打つ音が、身にしみじみと聞えて来る。
といふ意である。昔は吉野には吉野離宮といつて皇居のあつた所で、帝の行幸も時々あつたが、今はさびれて行幸もなくなつてしまつたから故郷といつて詠んだのである。この歌は新古今集秋下に「擣衣のこゝろを」と題して出てゐるが一説に紀友則の「みよし野の山の白雪積るらし故郷寒くなりまさるなり」といふのを本歌としたのであらうといはれてゐる。とにかくよい歌である。
〔句意〕▼みよし野=「み」はそへた語。▼小夜更けて=夜が更けての意。宵の間は陽気が残つてゐるが、夜が更けるにつれて淋しさの増すを言つた。▼ふるさと=吉野は昔離宮のあつた所であるから古い都の意。▼衣うつ=布の織物を肌ざはりよく又丈夫にするために水にぬらして打つ事をいふ。
〔作者伝〕
刑部卿藤原頼経朝臣の子で建永の頃越前加賀介となり左近衛少将を経て、承久二年従三位参議に進んだが、同三年に薨じた。雅経は歌が巧みで、新古今集の撰者五人中の一人に挙げられ、その家を飛鳥井家と称して世に知られた。俊成の門人であつたが自ら一派を立てたのである。又蹴鞠も巧みで兄宗長と共にその名をかゞやかしたものである。

九五前大僧正慈円
おほけなくうき世の民に蔽ふかな我立つ杣に墨染の袖
〔評釈〕私は天台宗の本山、比叡山延暦寺に住んで、この狭い墨染の袖で世の中の人達を蔽つて、多くの人々が安全であるやうに祈祷してゐるのであるが、何分にも法徳のつたない愚僧の身分であるから、まことにその重任に堪へかねる事である。
との意である。大きな慈悲心を歌つたところは僧侶として当然のやうであるが、その精神は実に尊いものである。この歌は千載集雑中に「題しらず」として出てゐるが、伝教大師の歌に「大空をおほふばかりの袖もがな春咲く花を風にまかせじ」とあるのに印象を受けたのであらう。
〔句意〕▼おほけなく=負け気、大気なくで勿体ない、又身分不相応の意。▼うき世の民=世の中の民の意。▼おほふかな=袖を蔽ひかけることで民の憂ひを救ふ事。法華経の「以法衣覆之」から出たのである。▼我が立つ杣=比叡山の事。開祖伝教大師の歌「(上略)三菩提のほとけたち我立杣に冥加あらせ給へ」から出たのである。▼墨染の袖=僧衣の事、「墨」は「住」といひかけたのである。
〔作者伝〕
法性寺入道関白忠通公の子。延暦寺の座主覚快法親王の弟子となり養和元年に慈円といつた。又吉永和尚とも云はれた。建暦二年に権僧正となり、後四度比叡山の座主となり、嘉禄元年七十一歳で入寂した。高貴の家柄に生れ乍ら常に賎民を思ひ憐んだ。学を好み歌も巧みで、後鳥羽上皇は「慈円僧正歌は大やう西行法師が風体なりすぐれたる歌いづれの上手にもおとらねどかくめづらしきさまを好まれたり」と仰せられた程である。

九六入道前大政大臣
花さそふあらしの庭の雪ならでふりゆくものは我身なりけり
〔評釈〕嵐が花を誘つて吹き散らす庭は、恰度雪が降るやうに見えるが、ふるものはその実、あの花の雪ではなくて、段々年をとつて古びて行くわが身である。
といふ意で、落花を見てわが身の老をなげいた歌である。この歌は新勅撰集雑一に「落花を詠み侍りける」と題して出てゐる。比喩などは余り妙ではないがしかし作者の心持は充分うかゞはれて誰しも感ずる無常感の程察せられる。
宇比麻奈備にこの歌を評して「契沖はあらしの庭とある向、少し後の連歌めきて聞ゆるにやといへり、実にさることなり。定家卿はかゝることをこのみて『山陰や嵐の庭のさゝ枕』ともよまれしなり」といつてゐる。
〔句意〕▼花さそふ=風の為に花の散るを嵐が花を誘つて行くといつた。▼ふりゆく=古び行くこと。花の雪の「降り」に年の「古り」を言ひかけたのである。
〔作者伝〕
西園寺公経の事で、坊城内大臣実宗の次男で母は中納言基家の娘である。承元の頃左近衛中将蔵人頭となり後貞応元年太政大臣に進んだ。嘉禄年中北山に西園寺を建てたので後この家の称号となつたのでこの人は家祖である。宏壮な事は当時比べものがなかつたといふ。公徳は寛喜三年出家して法名を覚空といつたが時人は北山殿とも称した。寛元二年七十四歳で薨去した。

九七権中納言定家
来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつゝ
〔評釈〕待つても来ない人を、今来るか/\と待つので、淡路の国の松帆の浦の夕凪の頃、海士の焼く塩の、火に焦るゝやうに、我が身も恋ひ焦れて熱い思ひをするが苦しい事である。
との意で恋人を待つ時の心の苦しい様子を歌つたものである。この歌は新勅撰恋三に「建保六年内裏の歌合に」と題して出てゐるが、本は万葉巻六にある長歌を印象として詠んだのである。その割に古歌の趣が出て居らぬが、名高い歌人であるだけに、かけ詞や縁語の多い中にまどはず、明らかに考へを現はしてゐる。
〔句意〕▼松帆の浦=淡路の名所、こぬ人を「待つ」と「松」に云ひかけたのである。▼夕なぎ=人を待つ時刻にとつたので夕方風の吹き止むのをいふ。万葉集に夕和とある。▼藻塩=塩の事。藻を刈り集めてそれに塩水を汲みかけ、日に乾かし塩分を濃くし滴つた水を煮て塩を作ること。▼身も焦れつゝ=我身の熱い思ひに苦しむのをいつたので、塩の焦れるのにたとへてある。
〔作者伝〕
名歌人五条三位俊成の子で初名は光季といひ次で季光と改め、更に定家と改めた。安貞元年正二位、貞永元年権中納言に任ぜられ帯剣を許されたが、後出家して明静と改め仁治二年八十歳で薨じた。歌道は当代第一で後鳥羽帝は小御所に召して常に和歌を判ぜしめた。新古今集撰者の一人で堀河帝の命によつて新勅撰和歌集をも撰んだ。家集を「拾遺愚草」、日記を「明月記」といひ、其他詠歌院、未来記、桐大鉢等の名著がある。小倉黄門、京極黄門、京極中納言は皆この人の別名である。

九八従二位家隆
風そよぐ楢の小川の夕ぐれはみそぎぞ夏のしるしなりける
〔評釈〕楢の葉が涼しく風にそよ/\とする夕暮の景色を見てゐると、もうすつかり秋が来たやうな心地がするが、ただかうして御禊をしてゐるのをみるとまだ夏である。
といふ意であつさりした美しい叙景歌である。この歌は新勅撰夏部に「寛喜元年女御入内の御屏風に」と題して出てゐるが、女御とは後堀河天皇の皇后とならせられ、後、藻壁門院と申し上げたお方である。調子全体がすら/\として品の高い詠み振りである。
改観抄に「六帖のみそぎするならの小川の川風に祈りぞわたる下に絶えじと。後拾遺集に頼綱、夏山に楢の葉そよぐ夕暮はことしの秋のこゝちこそすれとあると同じ意で云々」といつてゐる。多分これ等が本歌であらう。
〔句意〕▼風そよぐ=風の楢の葉に吹くとそよ/\として涼しいといふ事。▼ならの小川=山城の葛野郡にある地名。▼みそぎ=俗に名越の祓といつて、六月晦日に人々が川辺に行つて万の罪を祓ふ事をいふ。名越は夏越の義である。
〔作者伝〕
中納言光隆の子で、元久三年宮内卿、文暦二年従二位、嘉禎三年病を得て出家し仏性と称したが、同年八十歳で薨じた。
歌は俊成に就て学び新しい考へを持つてゐた。良経が後鳥羽院の歌の師として薦め「斯の人当世の人麿」であると言上した程である。新古今和歌集の撰者に列し又上皇の隠岐へ還幸後歌を奉つて御心を慰め奉つた。全く当代の大家である。彼の詠歌六万といはれてゐる。その家集に「壬二集」がある。子孫に後継者のないのは惜しい事である。

九九後鳥羽院
人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふ故に物思ふ身は
〔評釈〕多くの人を惜しく思ふものもあれば、恨めしく思ふものもある。皇室の威光が衰へて、天下の政治は心にまかせぬ事ばかりで、そんなことを如何様に思ふとも甲斐のない事ではあるが、いろいろこの世のことを思つて、朕は悶えてゐる。
との御意で心中に燃えるやうな悲憤の涙が流れてゐる御歌である。続後撰集に「題知らず」と題して出てゐる。百首異見に「この歌を詠み給ひしは建暦二年春にて御齢三十三と申し奉る時なり。当時の御製に『うき世厭ふ思ひは年ぞつもりぬる、ふじの烟の夕ぐれの空』ともながめ給へり。続後撰集に、『夏山のしげみにはえる青つゞらくるゝや憂世我身一つに』など見えてさしも叡慮をわづらはせ給ひしかの大御代のさまかけまくもかなしきまでくみ知られ奉りぬ」とある。
〔句意〕▼人もをし=人を惜しいといふ義で、愛らしいとの心である。▼人もうらめし=前と反対、悪らしい事。▼あぢきなく=詮がない、言ふ甲斐もないの意。
〔作者伝〕
高倉天皇の第四皇子で御諱尊成と申し奉る。四歳にて即位、在位十五年で譲位し院にて政をとり、北条氏討滅を御企て、失敗し、承久の乱となり遂に三年に隠岐に遷され給うた。延応元年御年六十歳で行宮に崩じ給ふ。帝は聡敏なる上に諸芸に通じ、殊に歌道に長じ譲位後も度々歌合を行はせられ、和歌史上に光彩をそへ給うた。今「奥山のおどろが下もふみわけて道ある世ぞと人に知らせむ」又「我こそは新島守りよ…」等を拝誦して当時の大御心の中を拝察して恐懼に堪へない思ひがする。

一〇〇順徳院
百敷や古き軒端のしのぶにも猶あまりある昔なりけり
〔評釈〕内裏の御殿の古くなつて、軒にはしのぶ草が生えるやうになり、皇威の衰へた世であるから、その昔の盛んであつた御代が思ひ出されるにつけても、如何に思つても思ひつくせない程、昔が慕はしいことである。
との御意で後鳥羽上皇の御歌と併せ拝誦すると更に深い感慨が涌く。この御製は新後撰集雑に「題しらず」として出てゐるが、当時御皇室の御衰微を御歎息の余り、強い歌調に詠ませられた御製で国氏の精神に強くひゞき渡る事である。
〔句意〕▼百敷や=内裏の事。百の石でかたくせる城といふ義で、古は大宮の冠詞として用ひたが、後は宮城の事として用ひた。▼古き軒端=内裏の御殿の古く衰へた事に言つた。▼しのぶ=古い軒端に成長する垣衣草の事から皇居の衰微を述べたか「忍ぶ」心に通はせてある。▼なほあまりある=如何に思つてもなほ飽き足らずといふ事で栄えた昔が思はれるの意。
〔作者伝〕
後鳥羽天皇の第三皇子で、御諱守成と申し奉り、正治四年に御年十四歳で即位、承久三年二十五歳で譲位なされた。承久の乱後佐渡に遷され給ひ仁治三年御年四十二歳にて配所に崩御遊ばされた。天資英邁、学を好ませ、又和歌にも秀で給うた。御撰数種中「八雲御抄」は歌道の宝典として貴ばれ「禁秘抄」は朝家の重宝とせられ、「紫禁和歌集」は天皇の御製集である。「おしなべて民の草葉におく露もめぐみありとや秋風の吹く」などはよく人の知る所である。


(以下、奥付)
令女界 第九巻 第一号附録
昭和四年十二月十日印刷納本
昭和五年 一月一日発行
編集兼発行者 藤村耕一
印刷者    大橋光吉
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